このホームページは、転勤族としての転居先の名所旧跡巡りの記憶をたどり、主として故郷出身の英雄として伝承されている第26代継体天皇の御生誕から崩御に至るまでの各地の伝承に残る史跡を 1⃣「継体天皇ゆかりの史跡めぐり」として作成したものです。
その後、奈良、福岡での勤務中に訪れた古代史関係史跡めぐりを通じて 2⃣「古代史の謎」に興味を持ち、主としてWebサイトから関係資料を抜粋したものです。
また、知人からの遺贈となった論文 3⃣「古代史の虚構」(抜粋)の紹介をしています。
前述の論文に触れた際、4⃣「古代史の謎に係る文献」についても関係資料を探してみたところです。
5⃣「近現代史の復習」では、戦後教育ではあまり触れられていなかった近現代史についてボランティア活動において収集した資料をまとめたものです。
最後の 6⃣「歴史散歩への誘い」は、これまでに訪れたところを中心に紹介しています。
なお、このホームページの内容は、歴史についての素人が、私的好奇心からWebサイトのWikipedia等から引用したものであり、学問的な検証を踏まえているものではありませんのでご了承下さい。
〔2022.11.26追記〕
「末永く此の国の守神に成らん」
足羽神社(福井県福井市)
●継体天皇は応神天皇五世皇孫で、近江国高嶋郷三尾野という所でお生まれになり、御名を男大迹王といわれました。御父は彦主人王、御母は振姫といわれ越前国坂中井の娘でした。
男大迹王が3歳の時、御父が亡くなられたので、御母に従い越前に戻り高向(現・丸岡町高椋)でお育ちになり、その御容姿は威風堂々として大変徳の高い御方に成長されました。
●その頃の越前の国は沼地同然で、人が住むには限られた土地しかない国でしたので、男大迹王は大変心を痛められ、足羽山に土地をト(ぼく)して御社殿(現足羽神社)を建て、大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀って神前に祈願し、地の理を調べて現在の九頭竜・足羽・日野の三大川を造られ、三国に水門(みなと)を開き諸水を海に流されて越前平野が出来ました。これが福井の大治水伝説になっています。
これにより、農業が盛んになったばかりでなく川を利用して舟で荷を運べるようになりました。また、道を作り人々の住居を定め、耕種、養蚕、採石、製紙、その他諸産業興隆の道を教えられ、田畑が開け、五穀も良く実り、海川交易も栄えて、人家繁栄の土地となり、天皇は昔より越前開闢の御祖神(みおやがみ)と称え崇め尊ばれてきました。
●時同じ頃、第25代武烈天皇が崩御され、皇統を継ぐ御方が居られなかったので、諸大臣が相談し大連大伴金村等が鳳駕(天皇の乗り物)を備えて、幾度となく男大迹王を高向郷に御迎えに参りました。時に御年58歳、遂にその願いを受け入れられ、河内国樟葉宮にて第26代天皇に御即位されました。
●この時、男大迹王は越前の国を離れるに当たり、この地を慕い、また後に残す人々のことを思うあまりに、「末永く此の国の守神に成らん」と、自らの御生霊を此の宮に鎮め、御子・馬來田皇女を斎主として後を託されました。
皇女は天皇の御霊を中央に、大宮地之霊を左右に配祀し、阿須波(あすは)の神名により、足羽宮と称え奉ることになさいました。現在の福井、足羽等の地名も御神名により名付けられる事になります。
●天皇の即位当時、天下万民は泰平に慣れ遊惰に流されていたので、先ず初めに「勧業之詔」を発して、農耕・養蚕を勧め贅沢を戒めました。次に内政を整え、筑紫国造磐井の反乱を治め、国外に於いては任那を助け三韓跋扈を防ぐことに勤めました。これらが御在位25年間の御事績です。
天皇は御年82歳で山城国余玉穂宮にて崩御され、摂津国藍野陵に葬り奉られました。
継体天皇ゆかりの史跡
◎関連史跡 ① 父方の里 (滋賀県高島市)
第26代継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王と云われています。450年(日本書紀)、近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市)で誕生されました。
●田中王塚古墳 (彦主人王の陵墓参考地)
●水尾神社 (振媛を祀った神社)
●三重生神社(彦主人王と振姫を祀った神社)
●鴨稲荷山古墳 (継体天皇擁立豪族の墓)
◎関連史跡 ② 母方の里(福井県坂井市)
継体天皇の幼い時に父(彦主人王)を亡くされたため、母(振姫)の故郷である越前国高向(現在の福井県坂井市)で育てられ、男大迹王として5世紀末の越前地方を統治したとされています。
●高向宮跡・高向神社 (継体天皇生母の出身地) ●六呂瀬山古墳群/松岡古墳群 (振姫の祖先・一族の墓)
●姫王の碑 (振姫の亡くなられた地にある碑)
◎関連史跡 ③ 潜龍の地(福井県越前市)
味真野郷(粟田部)(福井県越前市)には、男大迹王(継体天皇)が潜龍されておられた頃の治水事業や神社創建、皇子誕生等の伝承が残されています。
●岡太神社 (粟田部・大滝)
●謡曲「花匡」の風景 (味真野神社・薄墨桜)
●薄墨桜伝承地(粟田部・根尾谷)
●目子媛街道 (越前と尾張の道)
◎関連史跡 ④ 治水伝説
男大迹王(継体天皇)の時代は、現在の福井平野は大きな湖や沼があり、そこへ九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいたといわれ、男大迹王(継体天皇)が三国に水門を開いて平野の水を海に流すと、広大な福井平野が現れたという伝説が残っています。この功績に感謝して、坂井市三国町の三國神社では継体大王を祀っています。
●治水伝説に係る史跡 (足羽神社・三国神社)
●越の三川の今昔 (九頭龍川・足羽川・日野川)
◎関連史跡 ⑤ 使者謁見の地(福井県坂井市)
506年に第25代武烈天皇が後嗣を定めずに崩御されたため、当初、大和朝廷の重臣は丹波国にいた仲哀天皇5世の孫である倭彦王を抜擢したが、迎えの軍勢を恐れて行方不明となったため、次に越前にいた男大迹王にお迎えが出され、王は大和朝廷の情勢を把握されてから翌507年58歳にして河内国樟葉宮において即位され、手白香皇女を皇后とされた。
●てんのう堂 (朝廷の使者を迎えたとされる宮跡)
●横山神社 (継体天皇の本拠地?)
●横山古墳群 (継体天皇時代に栄えた豪族の墓)
◎関連史跡 ⑥ 皇居の変遷
継体天皇は樟葉宮にて即位した後、筒城宮、弟国宮と移り最後に磐余玉穂宮に遷宮しました。大和入りまでに20年近くかかったため、「なぜヤマトの地で即位しなかったのか。」、「ヤマトに入るまで20年もかかったのは何故か」ということが謎として議論の対象になってきました。
●樟葉宮 (伝承地:交野天満宮)(大阪市枚方市楠葉) ●筒城宮 (伝承地:同志社大学構内)(京田辺町)
●弟国宮 (伝承地:乙訓寺)(京都府長岡京市)
●磐余玉穂宮 (伝承地:磐余地方)(奈良県桜井市)
◎関連史跡 ⑦ 磐井の乱(福岡県八女市)
527年に筑紫君磐井による反乱が勃発、翌528年、物部麁鹿火によって鎮圧されました。
●岩戸山古墳 (筑紫君磐井の墓)
●岩戸山歴史文化交流館 (筑紫君磐井に焦点)
◎関連史跡 ⑧ 2つの古墳 (茨木市・高槻市 )
継体天皇は、531年(日本書紀)に崩御されたとされていますが、陵は宮内庁により大阪府茨木市にある三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)に治定されています。しかし、築造時期は5世紀の中頃とみられるため、大阪府高槻市の今城塚古墳が6世紀前半の築造と考えられることから、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっています。
●太田茶臼山古墳 (宮内庁治定)
●今城塚古墳 (国の史跡)
●新池埴輪制作遺跡 (両古墳の埴輪制作)
◎関連史跡⑨図書紹介
●謎の大王継体天皇
●継体天皇異聞
□ 継体天皇関連系図
●継体天皇の系譜
(1)『古事記・日本書紀』&『釈日本紀』の記述
(2)継体天皇の系譜について
●継体天皇関連の系図
(1)第15代応神~第26代継体 (2)継体天皇出自系図 (3)継体天皇の妃と皇子・皇女 (4)妃の出自等 (5)第24代仁賢~第37代斉明
●継体天皇出自考(おとくに)
(1)はじめに (2)継体天皇出自関連系図
(3)系図解説・論考 (4)総合的論考
(5)余談 (6)参考文献
●継体天皇の出自(福井県史)
(1)越前か近江か (2)継体天皇の父系
(3)息長氏の性格 (4)気比大神
(5)継体天皇の母系 (6)三尾氏と三国氏
(7)三国の意義 (8)二つの三尾氏
(9)皇親か否か
継体天皇に関わる謎
●和風諡号:男大迹天皇(おおどのすめらみこと)又 太彦尊(ひこふとのみこと)、袁本杼命(をおどのみこと)
●推定御生誕:『古事記』(485年) 『日本書紀』(450年)
●推定崩御年:『古事記』(527年) 『日本書紀』(531年)又は(534年)
注:継体天皇の尊称は、「継体大王」とされている場合が多いですが、このサイトでは、主として出典の尊称に合わせています。
《謎2》〔古事記・日本書紀での継体天皇の出身地?〕
継体天皇の出自(越前か近江か?)
『日本書紀』は、継体天皇の出身地を越前と伝える。しかし『古事記』は、「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天の下を授け奉りき」と記し、近江の出身と表現している。この食違いについて、まず考察しなければならない。
『日本書紀』も継体天皇(男大迹王)をやはり近江の生まれと記している。オホトの父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだと書かれている。
しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。したがって継体天皇は、幼少時から迎えられて天下の主となる成年期まで越前で育ったわけであり、越前を主な地盤とみてよいことになる。
一方、用字的にみてほぼ推古朝の成立とみられ、『日本書紀』に劣らず古い史料と考えられる『上宮記』(『釈日本紀』所引)は『日本書紀』とほぼ同様の説話を伝えている。母の布利比弥命は、三国坂井県・多加牟久村の出身となっており、これも『日本書紀』と大体一致する。したがってオホトの母系を越前にあるとする所伝は、ほぼ信頼してよいものと考えられる。
すなわちオホトは近江の生まれであるが、母の郷里である越前で幼時から成年期に達し、中央に進出したのも越前からであった。したがって『古事記』『日本書紀』の表現の差は、重点の置き方の相違にほかならないであろう。(出典:福井県史HP)
引用:Wikipedia
〔記事の共通点〕
共通点はおおよそ次の通りである。
・武烈天皇が崩御し、天皇の跡継ぎが居なくなった。
・継体天皇は、遠くの地方(畿外の北東部)からやってきた。
・継体天皇は、遠い傍系の血筋である(応神の五世孫)。
・応神天皇から継体天皇までの系譜は不明である(※1)。
・手白香皇女と婚姻関係を結んだ(※2)。
※1:系譜
・『日本書紀』は、父親の彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫としている。しかし、その系譜については何も記していない。
・『古事記』は、継体を「品太天皇(応神)五世之孫」と伝えているが、同様にそれ以外の系譜は全く不明である。
・『釈日本紀』に逸文を残す『上宮記』の系譜では、「凡牟都和希王(応神天皇)─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子 ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)」とされ、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』では、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀の系譜とは、たがいに異なる内容になっているが、記紀では、系譜が全く記されておらず、不明な状態となっている。
※2:婚姻関係
・『日本書紀』、『古事記』ともに、旧王家の皇女、手白香皇女を娶ったと記している。 先代天皇と血縁が非常に遠い継体天皇は、先代天皇の同母姉である手白香皇女を皇后にすることにより、入り婿という形で正統性を獲得した。 そのため、継体天皇は大和に入る以前、複数の妃をもち、沢山の子(安閑天皇・宣化天皇他)がいたにもかかわらず、手白香皇女との皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)が正式な継承者となった。
・『古事記』は、「合於手白髮命、授奉天下也」(手白髪命を娶らせて、天下を授けた。)とあるが、他の天皇の記事は、「小長谷若雀命(武烈天皇)、坐長谷之列木宮、治天下」「白髮大倭根子命(清寧天皇)、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也」 など「天下を治めた」という表現になっており、「天下を授けた」という表現を使っているのは、継体天皇に対してのみである。
〔記事の相違点〕
●武烈天皇について
・『日本書紀』では武烈は悪行が数多く詳細に記され、暴君として書かれ、継体は立派な名君として書かれている。
・『古事記』では武烈の悪行の記事は無く、武烈が行政を行なった記事なども無い。
●系図について
・『日本書紀』には継体の詳しい系図は記されていないものの、黛弘道が指摘しているように、『日本書紀』には天皇の系図一巻が添えられていたため、編纂者が天皇の系図を知らなかったということはあり得ない。
・『古事記』には継体の系図は記されていないため、編纂者が継体の系図を認知していたかは不明である。
●出身地について
・『日本書紀』(※3)では生誕地は近江だが、幼い頃に父親の彦主人王が亡くなったので、母親の振媛の実家である越前で育ち、所在も越前である。
・『古事記』(※4)では生誕地、所在は近江である(越前は出てこない)。
●後継候補者について
・『日本書紀』では継体天皇よりも有力な候補者、第14代仲哀天皇の五世孫、倭彦王が登場するが、迎えに来た軍隊を見て、逃げ出して行方不明になる。
・『古事記』では倭彦王自体の記事も、他の候補者の記事も無い。
●天皇即位について
・『日本書紀』では、最初は天皇の即位を拒否し、諸豪族や河内馬飼首荒籠が何度も説得し、止む無く即位に応じている。
・『古事記』では、即位を拒否した記事も河内馬飼首荒籠の記事も無い。
●宮の位置
・『日本書紀』では樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮の4箇所が記されている。
・『古事記』では磐余玉穂宮で天下を治めたという記事のみ。
●磐井の乱について
・『日本書紀』では、新羅が筑紫の磐井に賄賂を贈り、大和朝廷に反旗を翻している。
・『古事記』では、磐井が天皇の命に従わないので殺した。
●誕生年、崩年、崩年齢の違い
・『日本書紀』では、生年は450年、崩年は531年、宝算は82歳とされる。
・『古事記』では、生年は485年、崩年は527年、宝算は43歳とされる。
※3:出身地 越前国(日本書紀)
「男大迹天皇(おおどのすめらみこと)(またの名は彦太尊)は、誉太(ほむだの)天皇の五世の孫、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子(みこ)なり。母(いろは)を振媛と曰(もお)す。
振媛は活目(いくめの)天皇の七世の孫なり。天皇の父、振媛が顔容姝妙(かおきらぎら)しくして、甚だ媺色(うるわしきいろ)ありということを聞きて、近江國の高嶋郡の三尾の別業(なりどころ)より、使を遣して、三国の坂中井に聘(むか)へて、納(めしい)れて妃としたまう。
遂に天皇を産む。天皇幼年(みとしわか)くして、父(かぞ)の王薨(う)せましぬ。(そこで母は天皇を連れて前出の御国野近くである高向(たかむこ)という所に帰って、そこで養育した)。 天皇、壮大(おとこざかり)にして、士(ひと)を愛で賢を礼(いやま)ひたまいて、意豁如(みこころゆたか)にまします。」
※4:出身地 近江国(古事記)
「(武烈天皇)既に崩(かむあが)りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王(みこ)なかりき。故、品太天皇(ほんだのすめらみこと)(応神天皇)の五世(いつつぎ)の孫(ひこ)、哀本杼命(おおどのみこと)を近淡海国より上り座さしめて、手白髪命(たしらかのみこと)に合わせて、天のしたを授け奉りき。(略)伊波礼の玉穂宮に坐(ま)しまして、天の下治(しら)しめしき」
令和5年10月2日修正&追記
天皇系図(15代~26代) 継体天皇出自 継体天皇の妃・皇子・皇女 天皇天王系図(26代~37代)
継体天皇に係る系図(拡大図)(系譜解説)
最近、YouTubeをサーチしていた際に、横浜市在住の八岐遠呂智氏(古代史研究家)がUPしているWebサイト「邪馬台国」(https://www.xhimiko.com)において、「邪馬台国・越前説」を展開しておられるのを見つけました。
八岐氏はご自分でも、現在、この説の支持者は自分一人とされていますが、私は、これまでの転勤先の歴史散歩の経験から納得できるところもあり、また、継体天皇に関連した考古史跡の概要が簡潔に説明されていると思いますので、紹介したいと思います。たくさんの動画をアップされていますので、興味のある動画をご覧ください。
京田辺市における継体天皇ゆかりの伝承地を訪ねて
(1500年前、京田辺市は日本の首都だった?)
京田辺市観光ボランティアガイド協会
https://kankou-kyotanabe.jp/wp-content/uploads/2021/04/keitai_tennou.pdf
このHPは、継体天皇の誕生から皇妃の出身地等、宮の変遷地の状況等を体系的に説明しています。
目 次
はじめに:京田辺市の位置 地名の変更 筒城宮と継体天皇
第1章
日本書紀の記録①②③④⑤⑥ 継体天皇攘夷反対派賛成派
継体天皇が造営した宮(樟葉宮・筒城宮・乙訓宮・磐余玉穂宮)
〔第1章は、継体天皇の誕生から京田辺市に「筒城宮」を遷都するまでの背景を紹介
している。特に天皇に即位後、大和に入るまでの「宮」の変遷について説明している。〕
第2章
継体天皇と妃達(目子媛・稚子媛・広媛・麻積娘子・関媛・倭媛・夷媛・広媛・手白香皇女)
〔第2章は、継体天皇の皇妃について、その結婚の意義を説明し、その後、京田辺市に
「筒城宮」に置いた理由とその「宮」がどのあたりにあったかを説明している。〕
第3章
京田辺市の地理的条件(甘南備山・平安京の基点・巨椋池・大和政権の水上&陸上交通)
京田辺市の歴史的条件(息長氏との関わり①②)
〔第3章は京田辺市の地理的、歴史的条件に付いて説明している。〕
第4章
筒城宮の候補地(細部項目略) 堀切古墳群
〔第4章は「筒城宮」の候補地について説明している。〕
第5章
京田辺市の古墳・史跡(細部項目略) その他の伝説(細部項目略) おわりに
〔第5章は、京田辺市の古墳群と史跡、伝説について説明している。
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継体天皇のふるさとを訪ねる
交野古文化同好会
https://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/keitaitenno/index.html
このHPは、交野古文化同好会バスツア「継体天皇のふるさとを訪ねる」として、主として継体天皇の生誕地(滋賀県高島市)を紹介しています。
継体天皇関連遺跡(高島歴史民俗資料館・天皇橋・胞衣塚・彦主人王陵墓参考地・田中古墳群・安産もたれ石・三重生神社)
令和6年11月9日追記
古事記・日本書紀等の記述には、いくつか古代遺跡や神社縁起等と整合の取れない古代史の謎があるように思います。このページでは、これまでの古代遺跡見学やWEbサイトでの神社縁起等を通じて、主として邪馬台国論争を踏まえ、主として古代における権力構造の推移を想像し、最終的には継体天皇時代のいわゆる「磐井の乱」前後の北九州の権力構造について自分なりの考えを纏めようとしたものです。
所詮、古代史については、全くの素人ですので、論理一環しないところがありますが、歴史散歩を楽しむ一助として、主としてWebサイトのWikipediaや同好者ホームぺージ等を参考にさせていただいたものです。参考にしたWebサイト等は、極力紹介させていただいていますが、漏れている場合もあるかと思いますがご容赦下さい。
■古代史の謎①(全般)
1)古代史の謎に関するWebサイト
2)古代史の謎へのスタンス
■古代史の謎②(邪馬台国論争)
1)邪馬台国論争
2)邪馬台国畿内説
3)邪馬台国九州説
4)邪馬台国東遷説
5)邪馬台国四国説
6)フィクションにおける邪馬台国
■古代史の謎③(第1次邪馬台国?)
1)伊都国の歴史散歩
2)壱岐の歴史散歩
3)対馬の歴史散歩
■古代史の謎④(第2次邪馬台国?)
1)豊国の歴史散歩
2)豊前の歴史散歩
3)豊後の歴史散歩
4)邪馬台国九州説(中津・宇佐説)
■古代史の謎⑤(第3次邪馬台国?)
1)日向国の歴史散歩
2)大隅国の歴史散歩
3)薩摩国の歴史散歩
■古代史の謎⑥(九州王朝説)
1)九州王朝説
2)倭国の歴史散歩
■古代史の謎⑦(古代遺跡)
1)古代の集落遺跡(環濠集落・高地性集落)2)古代の山城(朝鮮式山城・神籠石)
3)古代古墳(装飾古墳)
4)青銅祭器の分布と祭祀の地域性
■古代史の謎⑧(古代伝承)
1)古代海人族
2)列島に漂着した三つの「大族」
3)景行天皇の伝承
4)九州王朝と筑後遷宮(玉垂命と九州王朝の都)
■古代史の謎⑨(神社と祭神)
1)日本の神話と神々
2)日本の神社と祭神
3)図書紹介
■古代史の謎⑩(神仏習合と修験道)
1)神道の概要
2)神仏習合思想
3)神仏習合の種類
4)修験道
5)主な霊山・社寺等
■古代史の謎⑪(近現代の宗教政策)
1)近代の神道について
2)現代の神道について
3)靖国神社問題
10年ほど前に知人(故YA氏)から贈られた論文「古代史の虚構~万葉からの告発」をもとに、「継体天皇の謎」に迫れないかとの思いから、論文を見直しているところです。
ただ、古代史の定説と大きく異なること及び万葉集の素養が無いこと等から、論文の理解に苦慮しているところです。 しかし、このページ(YA論文)の作成を通じて、古代史の謎の理解に少し近づけたように感じているところです。
なお、故YA氏は、私に配布してくれたコピー版で、この論文を多くの人に理解して欲しいとの希望を述べていましたので、このホームページでは、故YA論文の項目別に要約又は全文を掲載しています。
(但し、この論文を正確に理解していない部分もあり、今後、逐次、修正していきたいと思っています。)
作業中
古代史の虚構(YA論文)をこのホームページに追加している過程で、中国や半島及び列島の史料に関心を持ち、Webサーフィンをしていたところ、中国(支那)や半島(朝鮮)、列島(日本)の文献(原文&読み下し)を紹介しているホームページ『古代史獺祭』『古代史レポート』等を発見しました。この文献の抜粋を中心に、私なりの古代史の謎の解明に繋がればと思っているところです。
現在、このページを作成中ですが、これ等の文献を見ていると、古代における倭国・倭の五王等は、九州に勢力を持つ支配集団との認識が深まっているところです。
●正史
・中国の正史以外の重要な歴史書 ・二十四史
● 倭・倭人関連の中国文献
・『論衡』・『山海経』・『漢書』・『後漢書』
・『魏志』倭人伝・『晋書』・『宋書』
・『南斉書』・『梁書』・『北史』倭国伝
・『南史』倭国伝 ・『隋書』・『旧唐書』
・『新唐書』
●参考WEbサイト
●好太王碑文
・碑文の解釈・関連三韓征伐
●三国史記
・高句麗本紀・百済本紀・新羅本紀・列伝
●三国遺事
●百済三書
・高麗・李氏朝鮮時代 ・高麗史(世家)
・朝鮮王朝実録(作業中)
・正史・時代ごとの歴史書・風土記・偽書とされている歴史書
●古史古伝
・古史古伝の概要・古史古伝の参考・先代旧事本紀・ウエツフミ・ホツマツタエ・松野連系図
●古事記
・古事記(要旨)・古事記(内容)
・継体天皇紀
●日本書紀
・日本書紀(要旨)・日本書紀(内容)
・継体天皇記
●継体天皇の謎
・日本書紀に書かれた磐井の乱
・継体天皇と「磐井の乱」の真実
・継体・欽明朝の内乱
・王朝交替説・播磨王朝・越前王朝
ボランティア活動の一環として担当した調査研究に於いて個人的に収集した資料を基に、近現代史の復習をしてみました。
戦後の日本は、いわゆる「戦後レジューム」の根源と言われる「WGIP:ウォ-・ギルト・インフォメーション・プログラム」により、前の戦争に対する罪悪感を認識する国民が多くなり、日本に対する自信や誇りを失っているように思われます。
この近現代史の復習を通じて、戦後の学校教育やマスメディア等で植え付けられた諸外国に対する「罪悪感」から日本人としての「自信と誇り」を取り戻すためには、今一度、日本の近現代史をとりまく国内外の情勢等を復習してみることが大事なことではないかと反省しているところです。
1 明治維新から敗戦までの国内情勢
1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新)
1.2 天皇親政から立憲君主制へ
1.3 大正デモクラシーの思潮
1.4 昭和維新から大東亜戦争へ
2 明治維新から敗戦までの対外情勢
2.1 対朝鮮半島情勢
2.2 対中国大陸情勢
2.3 対台湾情勢
2.4 対ロシア情勢
2.5 対米英蘭情勢
3 敗戦と対日占領統治
3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印 3.2 GHQの対日占領政策
3.3 WGIPによる精神構造の変革
3.4 日本国憲法の制定
3.5 占領下の教育改革
3.6 GHQ対日占領統治の影響
4 主権回復と戦後体制脱却の動き
4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース 4.2 対日講和と主権回復
4.3 憲法改正
4.4 教育改革
5 現代
5.1 いわゆる戦後レジューム
5.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)
5.3 日本人としての誇りを取り戻すために 5.4 愚者の楽園からの脱却を!
まとめ 防衛意識の現状と戦後レジュームからの脱却
1 防衛意識の現状
2 戦後レジュームの実態
3自虐史観と個人優先の戦後教育
4 忠誠義務不在の言論空間
5 戦後レジュームからの脱却
(現在、逐次作業中)
転勤族で勤務先での名所旧跡巡りを通じての経緯を踏まえて、今後訪れたい名所旧跡を含め「歴史散歩への誘い」のページを作成していこうと思います。
このページを作成して痛感したことは、明治維新に行われた神仏分離政策により神仏習合が排斥されたことにより、神社と寺社との関係や修験道についての知識がなかったことでした。
現在も、各地の山岳信仰の霊山と云われるところには、神仏習合や修験道のなごりが残されています。神仏習合や修験道のことを知って各地の名所旧跡巡りをすれば、歴史散歩も更に楽しいものになると思います。
1 古代遺跡
(1)三内丸山遺跡
(2)亀ヶ岡遺跡
(3)オセドウ遺跡
(4)日本中央の碑
2 津軽の荒吐神伝承
(1)洗磯崎神社
(2)アラハバキ神の発生
(3)謎の神アラハバキ
3 中世の十三湊
(1)安東氏発祥の地(藤崎)
(2)中世十三湊の発展
(3)中世十三湊の衰退
4 みちのく南部800年
(1)南部藩の盛衰
(2)盛岡南部藩の盛衰
(3)八戸南部藩の盛衰
(4)遠野南部藩の盛衰
(5)七戸南部藩の盛衰
5 津軽一族の興亡
(1)津軽の拠点の変遷
(2)津軽氏の台頭(津軽為信)
(3)弘前城
●前九年の役
●前九年の役古戦場
・鬼切部城跡・阿久利川事件・黄海の戦い・厨川柵
●後三年の役
●後三年の役古戦場
・金沢柵
●京都観光最強スポット(リンクのみ)
●古代と現代を繋ぐ丹後の伝承
・伝説・伝承に彩られる丹後半島 ・浦島伝説・羽衣伝説
●古代豪族・海部氏の伝承
・籠神社・海部氏系図
●神功皇后伝説:・五色塚古墳・海神社
●アメノヒボコ伝説:・天日槍(天之日矛)
出石神社
1 わかやま観光
2 神武東征神話
(1)古事記における東征ルート
(2)神武東征の経過(古事記)
(3)神武東征の経過(日本書紀)
(4)神武東征の諸説
(5)神武東征の神々
3 紀伊山地の霊場と参詣道
(1)熊野古道
(2)紀伊山地の霊場と参詣道 登録資産
(3)熊野信仰(熊野権現)
(4)熊野三山の概要
(5)熊野三山検校
(6)熊野別当
(7)熊野三山本願所の成立
4 熊野三山の社寺
(1)熊野本宮大社
(2)熊野速玉神社
(3)熊野那智大社
(4)青岸渡寺
(5)神倉神社
●滋賀県の観光
●邪馬台国近畿説(伊勢遺跡)
・邪馬台国近畿説とは・野洲川下流域の弥生遺跡・卑弥呼が眠る里(伊勢遺跡)・多賀大社・勝部神社・邪馬台国畿内説(参考)
●エリア別名所旧跡
・大津エリアの名所旧跡(琵琶湖疎水・三井寺)
・湖南エリアの名所旧跡(草津宿)・甲賀エリアの名所旧跡’(信楽の里)
・東近江エリアの名所旧跡(安土城)・湖東エリアの名所旧跡(彦根城)
・湖北エリアの名所旧跡(賤ヶ岳古戦場)・湖西エリアの名所旧跡(継体天皇父方の里・川嶋酒造㈱)
1⃣ 謎多き継体天皇の伝承
*継体天皇①父方の里:高島市の史跡を訪問した際の写真を追加(令和4年10月1日)
2⃣ 古代史の謎
*古代史の謎⑨神社と祭神:諸国一宮以下の神社・祭神/図書紹介(神社に隠された大和朝廷統一の秘密)を追加(令和3年3月16日)/諸国一宮の概要を追加(令和4年1月26日)/全国の神社と祭神をアップデート(令和4年3月24日)
*古代史の謎⑩神仏習合と修験道:図書紹介「神仏習合現象の始まり」を追加(令和3年11月5日)
*古代史の謎⑨神社と祭神:(参考)神社等の種類を追加(令和6年3月8日)
3⃣ 古代史の虚構
*「古代史の虚構」⑨(その8):別表「九州年号」別図「松野連氏考」を分離(令和3年7月7日)
4⃣ 古代史の謎に係る文献
*作業中(令和6年8月2日)
5⃣ 近現代史の復習
*近現代史の復習⑪「まとめ」:産経新聞正論「戦後レジュームからの脱却、最後の機会」(令和4年8月11日掲載)を追記(画像コピー)(令和6年1月16日)
6⃣ 歴史散歩への誘いj
*「歴史散歩への誘い」(地区別):県別に分離掲載作業中です。(令和3年1月30日現在)
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最終更新:令和6年11月9日