トップ 近現代史の復習

 ①(戦前・明治) ②(戦前・大・昭) ③(戦前・朝鮮) 

④(戦前・中国)⑤(戦前・台湾) ⑥(戦前・ロシア)⑦(戦前・米英蘭) 

⑧(戦後・占領下) ⑨(戦後・独立後) ⑩(現代)


近現代史の復習⑥(戦前ロシア)


1 明治維新から敗戦までの国内情勢

 1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新) 1.2 天皇親政から立憲君主制へ

 1.3 大正デモクラシーの思潮 1.4 昭和維新から大東亜戦争へ

2 明治維新から敗戦までの対外情勢

 2.1 対朝鮮半島情勢 2.2 対中国大陸情勢 2.3 対台湾情勢  2.4 対ロシア情勢 

 2.5 対米英蘭情勢

3 敗戦と対日占領統治

 3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印 3.2 GHQの対日占領政策 

 3.3 WGIPによる精神構造の変革 3.4 日本国憲法の制定 3.5 占領下の教育改革 

 3.6 GHQ対日占領統治の影響

4 主権回復と戦後体制脱却の動き

 4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース 4.2 対日講和と主権回復 

 4.3 憲法改正 4.4 教育改革

5 現代

 5.1 いわゆる戦後レジューム 5.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)

 5.3 日本人としての誇りを取り戻すために 5.4 愚者の楽園からの脱却を!

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(戦前・ロシア)です。


2 明治維新から敗戦までの対外情勢


2.1 対朝鮮半島情勢

(1)征韓論/(2)江華島事件/(3)壬午事変/(4)甲申事変 

 /(5)甲午農民戦争(東学党の乱)/(6)乙未事変/(7)韓国保護国化・韓国併合

 /(8)三・一独立運動/(9)韓国併合での主要な施策

 /(10)日韓基本条約による諸問題の清算/(11)条約締結後も繰り返される対日請求 

 /(12)竹島問題 

2.2 対中国大陸情勢 

(1)日清戦争/(2)北清事変(義和団の乱)/(3)青島の戦い/(4)膠州湾租借地

 /(5)対華21カ条要求/(6)五・四運動/(7)万県事件/(8)南京事件/(9)山東出兵

 /(10)済南事件/(11)満州事変/(12)華北分離作戦/(13)北支事変

 /(14)通州事件/(15)第2次上海事変/(16)南京攻略戦・(参考)南京事件論争

 /(17)徐州会戦・(参考)黄河決壊事件/(18)武漢作戦/(19)広東作戦

 /(20)大陸打通作戦/(21)敗戦後の復員事情/(22)小山克事件/(23)通化事件

 /(24)根本中将の撤退作戦/(25)戦後中国の論点/(26)尖閣諸島問題

2.3 対台湾情勢  

(1)台湾の歴史/(2)日本統治時代の台湾/(3)台湾抗日運動

 /(4)主要な日台間事件・事案/(5)戦前の主要な施策

 /(6)戦後に秘匿されてきた主要事案

2.4 対ロシア情勢

(1)幕末・明治維新から日露戦争まで /(2)日露戦争/ (3)シベリア出兵

 / (4)尼港事件/(5)ノモンハン事件 /(6)ソ連対日宣戦布告/ (7)シベリア抑留

 /(8)北方領土/(9)戦後ロシア(旧ソ連)の論点

2.5 対米英蘭情勢

(1)第二次世界大戦の概要/(2)大東亜戦争の背景/(3)ABCD対日包囲網

 /(4)仏印進駐/(5)宣戦布告と開戦/(6)日本軍の攻勢/(7)戦局の転換期

 /(8)連合軍の反攻/(9)戦争末期/(10)大東亜戦争の終戦

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(2.4)です。


2.4 対ロシア情勢


(1)幕末・明治維新から日露戦争まで (2)日露戦争 (3)シベリア出兵 (4)尼港事件 (5)ノモンハン事件 (6)ソ連対日宣戦布告 (7)シベリア抑留 (8)北方領土 (9)戦後ロシア(旧ソ連)の論点


(1)幕末・明治維新から日露戦争まで


(引用:Wikipedia)

1)グレート・ゲーム

・「グレート・ゲーム」は、19世紀から20世紀にかけての、英露両国による、主としてアフガニスタン争奪抗争から生まれた言葉で、一進一退の経緯を辿った両者の攻防をチェス盤上のゲームに見立てたものである。 

 

    

     国際連合によるアジアの地域の分類         中央アジアのいくつかの定義。

        (中央アジアは紫)            狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義

 

・実際の英露抗争は、ユーラシア大陸国際政治史の別方面、極東においてより激しく争われた。中央アジアにおける英露抗争に連関する極東国際政治史には、大英帝国・ロシア帝国(のちにソビエト連邦)に加えて日本・アメリカ合衆国・中国や多数の周辺諸国がプレーヤーとして参加しており、途中からは米ソ両超大国の争いへ継承され、現代においても多数のプレーヤーが参加するという経緯を辿った。

 

   

日露戦争開戦時の戦力比較(引用:Wikipedia)

 

・極東方面での諸国間の抗争はグレート・ゲームの盛衰と切り離せなかった。

・このゲームは、世界の一体化が進行するなか、帝国主義時代の空白域となっていた中央アジアに対し、先鞭をつけて緩衝国化することが英露双方の重大な関心事となったことで始まり、その舞台はコーカサスからチベットにおよぶ広大な地域におよんだ。

・一般的には、1800年代初頭に始まり、1907年の英露協商協定をもって終結したとされる。

 

2)第 I 期 

・第 I 期のグレート・ゲームは、一般にほぼ1813年から1907年の英露協商までの期間を指し、狭義には、グレート・ゲームとは専らこの時期の英露によるアフガニスタンを巡る抗争を指す。

・この時期の英露抗争は中央アジアからインド洋を目指すロシアの南下と、インドの征服事業を進めた英国との間で争奪ポイントとなったアフガニスタンにおいて争われた。

・同時に、香港・上海に拠点を得て海上から清朝を侵食した英国と、シベリアに鉄道を敷設して満洲から清朝を侵食し始めたロシアとの競争が、中国・朝鮮・日本といった現地の各勢力を巻き込んで争われた極東において進行していた。

・3番目の抗争地点として、チベットが浮上する可能性があった。中央アジア・新疆(東トルキスタン)・モンゴル経由でチベットを目指したロシアと、ネパールを駒としてチベットに侵攻したイギリスの間で抗争が発生する気配があったが、チベット自体の利用価値が低く英国はそれ以上の関与を放棄し、英露協商においてチベットへの清朝の宗主権を英露が尊重する事で抗争は終結した。

・その後、1913年にロシア勢力下で中国 (中華民国) からの独立を目指したモンゴルとチベットの間でチベット・モンゴル相互承認条約 (蒙蔵条約) が締結されたが、ロシア・ソ連ともに中国との関係をより重視していたため、それ以上のチベットへの関与は為されず、第II期になるとソ連は中国のチベット再征服を支援した。 

 

    

1911年に建国されたモンゴル国の国旗  チベット・モンゴル相互承認条約      チベット国の国旗

(引用:Wikipedia)

 

・第I期の抗争が頂点に達したのは日露戦争当時であり、この戦争はロシアの国内体制を動揺させてロシア第一革命を惹起し、双方は英露協商によってゲームを一時中断した。

 

2.1)アフガン 

 

   

(左)当時のアフガン情勢描いた風刺漫画(1878年) アフガンのシール・アリー王を、その「お友達」である

(ロシア)とライオン(イギリス)が虎視眈々と狙っている。(右)アフガニスタン地図(引用:Wikipedia)

 

・19世紀初めにイギリス領インド帝国と、帝政ロシアの外延部を隔てる境界線が2000マイルにわたって引かれていた。その多くは地図上に引かれたものではなかった。ブハラ、ヒヴァ、メルブ遺跡、タシュケントという都市は、事実上外部からはどちらのものか分からなかった。 

・帝政ロシアの拡張は、インド亜大陸を占領し優勢を誇るイギリスと衝突する脅威になったので、中央アジア全体で両大帝国は探検、情報活動、帝国主義的外交の微妙なゲームを行った。紛争は常に脅威となったが、両国が直接戦争を行うことにならなかった。この活動の中心はアフガニスタンにあった。 

・イギリスは、ロシアの拡張が大英帝国の「王冠の宝石」と呼ばれていたイギリス領インド帝国を破壊する脅威になると恐れていた。ツァーリの軍が、あるハーンの領地を侵略し始めたので、イギリスはアフガニスタンがロシアのインド侵攻の拠点になることを恐れた。 

 

2.1.1)第一次アングロ・アフガニスタン戦争 

 

ガンダマクで最後の攻撃を受ける英軍の生き残り。ウィリアム・バーンズ・ウォーレン画

(引用:Wikipedia) 

 

・1838年にイギリスは第一次アングロ・アフガニスタン戦争を始め、シュジャー・シャーの下で傀儡政権を打ち立てようとした。しかし、その統治期間は短命に終わり、英軍の支援が無ければ続かなかった。1842年までに暴徒がカーブルの通りでイギリス人を襲撃していて、イギリスの駐屯部隊は、通行の安全を保証されてカーブルからの撤退に同意した。 

・イギリスには不幸なことに、この保証は反故にされた。撤退するイギリス軍の縦隊は、約4,500人の軍人と女性や子供を含めて12,000人がいた。非情な攻撃の連続で、数十人を除いて全員が、インドへの撤退中に殺害された。 

・イギリスはカーブルからの屈辱的な撤退の後、アフガニスタンへの野心を抑えていた。1857年のインド大反乱の後、イギリスの政権はいずれもアフガニスタンを緩衝国と見なしていた。 

・しかし、ロシアは1865年までにアフガニスタンに向けて着実に南進を続け、タシュケントが正式に併合された。サマルカンドは3年後にロシア帝国領になり、ブハラの独立は、事実上同年の平和条約で失われた。ロシアの支配は、今やアムダリヤ川の北岸まで拡大していた。 

 

     

      アムダリヤ川(引用:Wikipedia)      パンジ川の流域(引用:Wikipedia) 

 

2.1.2)第二次アングロ・アフガニスタン戦争 

・ロシアが1878年にカーブルに在外公館を置いたことで再び緊張が高まった。イギリスはアフガニスタンを統治するシール・アリーが、イギリスの在外公館を受け入れるよう要求した。 

・公館は設置できず、その報復として4万の軍が国境に送られ、第二次アングロ・アフガニスタン戦争が始まった。この第二次戦争はイギリスにとって殆ど第一次の戦争と同じく悲惨なものであった。シール・アリーの打倒には成功したものの、各地で部族の反乱が相次ぎ、損害が拡大した。 

・イギリスは1879年、王への即位の条件としてムハンマド・ヤアクーブにガンダマク条約を結ばせ、アフガニスタンを保護国化した。次いで即位したアブドゥッラフマーン・ハーンにもこれを認めさせると、イギリスは1881年までにカーブルから撤退した。

 

         

(左)アフガニスタンのモハマッド・ヤーカブ・カーン(中央)と英国のサー・ピア・ルイス・ナポレオン・キャバニャリ  (中) デュアランドライン(上記の赤と黒(地図を参照))は、アフガニスタンと英領インド帝国の国境を形成(右)アブドゥッラフマーン・ハーン (引用:Wikipedia) 

 

・ハーンは自分の地位を強化する一方でイギリスにアフガニスタンの外交政策を維持させることを了承した。何とか非情な手法で国内の暴徒を鎮圧し、中央集権に移行させることができた。 

・1884年、ロシアのアムダリヤ川北部、メルブ遺跡のオアシスへの侵攻に起因して、新たな危機が生じた。ロシアは全部嘗ての支配者の領域だと主張し、Panjdeh(パンジェ紛争)のオアシスを巡ってアフガニスタンと戦った。両強国の戦争の瀬戸際でイギリスはロシアが領有することを受け入れることを決定した。 

 

      

   スルタン・サンジャルの霊廟    メルブの位置図      メルヴに残る「エルク・カラ」の遺構

 (引用:Wikipedia) 

 

・アフガニスタンの頭越しに英露国境画定委員会は双方が譲歩して更に領域を手に入れることは放棄したが、Panjdehの問題は残った。アフガニスタンは広大な領域、特にPanjdeh周辺を失ってアムダリヤ川を北の国境線とする合意が形成された。 

 

2.2)極東

 

事件当時の生麦村(引用:Wikipedia) 

 

・一方、極東ではイギリスの撒いた種が着実に成長していた。 かつてイギリス東インド会社を通商から締め出し、ライバルのオランダ東インド会社に欧州との交易を独占させた徳川幕府が支配するこの国を、イギリスを出し抜いた米国が開国させた頃、イギリスは日本も中国同様の強圧的手段で言いなりにできると考えていた。 

 

      

    イギリス東インド会社  VOCアムステルダム本社のロゴ    オランダ東インド会社の旗

(引用:Wikipedia) 

 

・しかし、この考えが間違っていたことにイギリスは間もなく気付かされる。きっかけは大名行列を横切ったイギリス人達が殺傷された生麦事件だった。その報復のために差し向けた7隻の軍艦が薩英戦争で予想外の大損害を受けたのだった。 

 

       

   『生麦之発殺』(早川松山画)(引用:Wikipedia)        薩英戦争(引用:Wikipedia)

 

(左)明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは島津久光と小松帯刀のみ。

当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。     (左)祇園之洲・新波戸砲台の絵巻物 

・これ以降、フランスに傾斜する幕府にかわる友好勢力としてイギリスは薩摩藩に新鋭兵器を提供し、徳川幕府を転覆させる事に成功する。この関係は薩摩藩とその友藩が日本の支配権を確立すると一層深まり、イギリスは極東の日本に近代海軍を建設する大事業に関与して行く。 

日本海軍兵学校生徒館(引用:Wikipedia) 

 

・イギリスは植民地で幾多の現地人による軍隊を組織し、その征服事業の手足として用いてきたが、装備を持ち込んで訓練を与えれば、それなりの形になった軍隊が出来上がる。また日本人も自力で近代軍らしきものを作り出す事には成功していた。 

・しかし海軍、それもロシアの有する海軍  (イギリスの基準からすれば “ 沿岸警備隊 ” 程度だったとはいえ…)  と拮抗できるだけの海軍を、日本に自力で保有させるには、近代的な鉱工業と造船技術に加え、最低でも数十年の外洋での経験が必要だと思われた。 

・イギリスの目的は、1880年頃に計画され始めたシベリア鉄道が完成を迎える20世紀までに、この鉄道が軍事的空白地帯である満洲と朝鮮に流し込むであろう大量の兵士と軍需物資を、日本が撃退できるだけの戦力を準備させる事にあった。 

 

草創期の日本陸軍将校(引用:Wikipedia) 

 

・日本の新しい政府を構成した武士達は、もともとが攘夷論を信奉していたのであり、その目的を達成するために世界でも例を見ない急速な欧化政策と欧州崇拝ともいうべき信仰に取り憑かれていた。 

・強固な国防体制を築く事だけを政治的目標とし、そのために民生を犠牲にしても構わなかったし、驚くべき事に国民もそれを支持していた。 

・イギリスが彼らに協力する事で、その方向をロシアとの対決に誘導するのは簡単な事だった。なによりロシアから見れば、日本の近代的軍備はロシアとの一戦のために準備されているようにしか見えないのだから、ロシアの取り得る選択肢は日本を懐柔するか、まだ貧弱な軍備しか持たない内に叩くか、そのどちらかしかない。 

・イギリスにとって幸いだったのは、日本人が欧州諸国から最良の相手を選んで学ぶ賢明さを有していた事で、1865年に幕府がロシアに派遣した留学生は公式に失敗だったと見なされるなど、多くの点で欧州の中で後進的地位にあったロシアから日本人が積極的になにかを学びたいと望む事はなく、ロシアが日本に与えられる餌は何もなかった。 

 

ビゴーの風刺画: 1887年: 朝鮮という魚を釣ろうと競う日本と清国、

漁夫の利を得ようと様子見のロシア(引用:Wikipedia)

 

・日本が最初に行った軍事的冒険は、朝鮮の宗主権を巡っての清朝最強の軍である北洋軍・北洋艦隊への挑戦だった。既に日本陸軍は台湾・朝鮮に小規模な出兵を繰り返しており、イギリスが育成した日本海軍は北洋艦隊を首尾よく黄海に葬って見せ、戦費に相当する賠償金と台湾島を清国からせしめた。 

・この戦争でイギリスが日本に対して行った支援は、治外法権を撤廃した日英通商航海条約の締結だけだった。かくして英露間のゲームに、曲がりなりにも独立国である清国と、日本・清国・ロシアいずれかの属領と認識されていた満洲・朝鮮を巡る、新興国家である日本の生死をかけた戦い、という新しい盤面とプレーヤーが加わった。 

 

西太后(引用:Wikipedia)

 

・やがて西太后の強権統治で緩慢な死を迎えつつあった清朝が、断末魔のような義和団の乱で重要な主権の多くを喪失すると、満洲の覇権は義和団の乱で火事場泥棒のように振舞ったロシア軍に握られ、日本が清国から得ていた朝鮮での優位性は風前の灯となった。 

・ロシアを強気にさせていたのは1901年に開通したシベリア鉄道と露清密約であり、ロシアは日本に対して外交的な無条件降伏を迫っていた。 

・日本がロシアに屈すれば、その次に来るのは長城線を越えたコサック騎兵達が、北京・天津を一蹴し、イギリスが握る上海まで一挙に南下して来る、という展開であろう。 

・熊は獲物を前にしても、動くと決めるまでは慎重だが、動き始めるとその動きは素早く、相当の犠牲を払わなければ止められない。その事は、ゲームの相手であるイギリスが一番良く理解していた。 

・ここでイギリスが日本に与えた支援は再び条約だけであった。イギリスも植民地経済が産み出す富の限界にぶつかり、一方で近代戦の質的変化により気軽に手を出した南アでの征服戦争で国庫が傾くほどの支出を強いられるようになった事態に、世界帝国という商法の黄昏を感じ取っていた。

・実際のところ既にイギリスは、世界規模でのゲーム当事者としては体力の限界を迎えつつあり、その座を虎視眈々と狙っているのが新大陸の灰色熊だった。 

・しかし、日本はイギリスが栄光ある孤立を放棄してまで極東の小国に与えてくれた日英同盟を、国を挙げての悲願だった “ 列強 ” の座に加えてもらえる招待状と考え、自ら膨大な額の外債を発行し、ロシアとの戦争準備を独力で進めた。・そしてこの債権を大量に引き受けたのは、旧大陸での “大熊 vs 猿” の戦争を大衆紙の扇情的な報道でエンタテイメントとして楽しんでいた米国社会だった。 

・ロシアにはアジア人全体に対する予断(中央アジアでの経験則)があった。開戦前に日本の軍事力を視察したロシア軍の将官達は、本国に対して適切な警告を送っていたが、ロシア政府にも軍にも、そのような急速な軍事的発展を遂げる “アジア人” 国家の存在が信じられなかった。 

・一方の日本には、旅順要塞の防御力への予断(日清戦争での成功体験)があった。ロシアは旅順にセヴァストポリ並みの要塞を建設し、他ならぬイギリス人がボーア戦争で陣地防衛用に使用した機関銃と鉄条網を、ロシア人らしい嗅覚で導入していたが、日本軍にはこれを突破できる装備も知識もなかった。 

陥落後の旅順港(引用:Wikipedia) 

 

・実際に開戦してみると、予断が小さい方が正確な戦争準備を行っていた。日本は苦戦しつつもロシアの旅順艦隊を封じ込め、英国の提供した情報でバルチック艦隊を迎撃し葬る事に成功した。

・ロシアには緒戦での敗北を取り返すだけの戦力が残っていたが、革命運動の勃発がその投入を困難にした。 

 

2.3)終結 

・ロシアは欧州の国家として初めてアジア人の国家に敗れるという屈辱を味わったが、犠牲は最小限に喰い止められた。しかし、このショックがロシアの対外進出への積極性を失わせた。 

・萎縮したロシアが選択した1907年の英露協商は、ペルシア・アフガニスタン・チベットにおける英露の角逐を終了させ、第I期グレート・ゲームの終焉をもたらした。 

・ロシアはイギリスがアフガニスタンの体制を変更しないと保証する限り、イギリスが統治することを受け入れた。 

・ロシアはアフガニスタンとの全ての政治関係が、イギリスを通じて構築されることに合意した。 

・イギリスは現行の国境を維持し、アフガニスタンにロシア領域に侵攻させないよう積極的に行動することを受け入れた。 

・極東におけるロシアの勢力拡張は、すでに日本によって頓挫させられており、その関心はバルカン半島へ向けられていた。 

・イギリスにとって危険な敵は、欧州においてイギリスと軍拡競争を続け、オスマン帝国と結んで中東への進出を図るドイツ帝国であり、ロシア・フランスとの協調には、より多くの利益が見出されていた。 

 

3)第II期 

・第II期のグレート・ゲームは、1917年の2番目のロシア革命から第二次世界大戦の勃発による英露協調までであるが、ユーラシア大陸国際政治史から見ると、1917年のロシア革命からベトナム戦争の終結までの長い期間が背景として視野に捉えるべき期間である。 

・第二次世界大戦を挟んで英国がプレーヤーを降りて米国がその座を占めた。ロシアがソ連に変わり、中央アジアではそれほど激しい抗争が発生しない時期が続いたが、極東においては英国の地位簒奪を狙う米国の介入と、当初は英国が用意した駒に過ぎなかった日本が勝手に暴走し始めた事によって、激しい変動が続いた。 

・ゲームの駒からプレーヤーになった日本にとって、英国の衰退が決定的となる1930年代まで、ユーラシア大陸における英露対立は外交政策策定における大前提だったが、その思考を固定化してしまったために、ソ連の出現米国の台頭により複雑になってゆく状況に適合できないまま、東南アジアの英領植民地奪取という ” 反則行為 ” によって、英国がゲームを続けられなくなるきっかけを作ってしまい、日本自らは英国に替わってゲームに参加した米国によって、” 出場停止 ” 処分となってしまった。 

・また、この時期は帝国主義という商法が終焉を迎えた時期、および米ソ超大国の抗争の時期と重なり、中国・朝鮮・東南アジア・南アジアで激戦が続いた。 

 

  

      サラエボ事件     米国からロシアに帰還したトロツキー イングランドの風刺雑誌※

 

※年代不詳の挿絵:『我々が完全に理解し合えないのなら、私(獅子・イギリス)は、君(熊・ソ連)がそこで小さな遊び友達(猫・ペルシア)としていることと同じことをしたいと思うだろう。』(引用:Wikipedia) 

・アフガンと極東への進出をイギリスに阻まれたロシアは、その進出の捌け口をバルカン半島に求め、衰退したオスマン帝国を再度侵食し始めるが、その手段としてロシア自らが煽った汎スラヴ主義機運に便乗してセルビア人がサラエボ事件を引き起こした。 

・これをきっかけに、スラブ人の盟主として第一次世界大戦に巻き込まれたロシアは、その負荷に耐えられず、1917年のロシア革命ロマノフ王朝はあっけなく崩壊してしまう。

・パリのブティックやアントワープの宝飾品細工師達は、世界で一番の金持ちだった上客からの発注が、全てキャンセルされて二度と復活しない事に嘆息したが、イギリス政府にとっても当惑する事態の発生だった。 

・新たに発足したボルシェヴィキ政権は既存の協定・債務を全て無効と宣言したばかりか、テロで英国王ジョージ5世の従兄弟であるニコライ2世の一家を皆殺しにし、外務委員となったトロツキーがロシア外務省に保存されていた機密文書の束を調べ上げ、共有されていた外交上の秘密を、修飾していたプロトコルを知性の刃で剥ぎ落としながら遠慮の無い毒舌に塗して暴露し始めた。

 

        Russian Imperial Family 1913.jpg

       ニコライ2世(引用:Wikipedia)    ロマノフ王朝の処刑(引用:Wikipedia) 

 

・このような異質な敵の出現はイギリス人にとってインド大反乱以来 “ 文明 ” の普及で久しく味わう事のなかった恐怖であり、しかも敵は未開の野蛮国ではなく、理性と科学に基づいて革命を指導したと主張しているタタール人とユダヤ人 (― グルジア人はこの時点では挙がらない ― )のコンビに支配された欧州の大国だった。 

・その結果、第 I I 期のグレート・ゲームが始まった。1919年の第三次イギリス・アフガニスタン戦争は、時の支配者ハビーブッラー・ハーン暗殺により勃発した。

・息子で王位継承者のアマーヌッラー・ハーンは、完全な独立を宣言し、イギリス領インド帝国の北の国境を攻撃した。

 

         

          ハビーブッラー・ハーン         アマーヌッラー・ハーン

(引用:Wikipedia) 

 

・軍事的な成果は殆どなかったが、膠着状態は1919年のラワルピンディー条約で決着できた。アフガニスタンは再び自主的な外交ができるようになった。 

・1921年5月、アフガニスタンとロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、友好条約に調印した。ソ連はアマヌッラーに現金、技術、軍備の形で援助を与えた。 

・アフガニスタンにおけるイギリスの影響は衰えたが、アフガニスタンとロシアの関係は、多くのアフガニスタン人が、メルブ遺跡やPanjdehの編入を願いながら、曖昧なままだった。ソ連はこの点についてはアマヌッラーの考えるよりも多くを友好条約から引き出そうとしていた。 

・イギリスは、アマーヌッラーが自分達の影響範囲を逸脱することを恐れ、そしてアフガニスタン政府の政策がデュラン線の両側でパシュトゥン語を話す人々全てを支配しようとしていると考え、この条約に応答する形で小規模な制裁を課し、外交上の侮蔑を行った。 

・1923年、アマーヌッラーはその称号をアミールからパドシャー(王)と変え、さらにソ連から逃亡したムスリムと英領インドから亡命したインド人民族主義者を受け入れることで、イギリスに応えた。 

・しかし、アマーヌッラーの改革計画は、迅速に十分軍を強化するには不十分で、1928年に圧力を受けて退位し、王位を継承した兄イナーヤトゥッラー・シャーも3日で退位した。

・この危機から台頭したのは、ムハンマド・ナーディル国王であり、1929年から1933年まで統治した。 

 

        

        イナーヤトゥッラー・シャー     ムハンマド・ナーディル・シャー

 (引用:Wikipedia) 

 

・ソ連とイギリスは、優勢に状況を進めたが、イギリスがアフガニスタンに4万人の職業軍人による軍を創設する一方で、それは1930年から1931年にウズベク人の暴徒と合意を図るよう援助した。 

・第二次世界大戦が始まるとイギリスとソ連の関係は一時的に提携関係が見られた。1940年両政府はアフガニスタンに、ドイツの非外交組織を追い出すよう圧力をかけ、そうした団体は、両国の情報組織により壊滅した。初めのうちは抵抗を受けた。ソ連とイギリスが協力する時代に入ると、両強国間のグレート・ゲームは小休止した。 

 

4)ロシア軍艦対馬占領事件 

・幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。 

 

4.1)経過

4.1.1)ロシア軍艦の進出 

・文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬島に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。 

・ロシア艦隊の太平洋司令官であったリハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶。 

・しかし、海事省大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった。 

・ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。 

・3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。 

 

4.1.2)対馬藩との交渉 

・対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。 

・宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。 

・またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。 

・ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。 

・4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内1名は舌を噛み切って自殺した。

・ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船。さらに翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。 

・宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。紛争を避けるため藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。・また、宗氏の所領の肥前田代では代官平田平八が手兵を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示した。

 

5)幕府の対応

・長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を議したが有効な手は打てなかった。 

・幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させる。また外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせた。

 

小栗忠順(引用:Wikipedia) 

 

・文久元年5月7日、目附溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順は、5月10日、艦長ビリリョフと会見した。この第一回の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答。 

・5月14日、第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。5月18日、第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は、約束を破る事になったら私を射殺して構わないと言い切ったが、5月20日には対馬を離れ江戸に向かった。 

・江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。 

・5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。 

・しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。

 

6)イギリスの介入 

 

        

         ラザフォード・オールコック       サー・ジェームズ・ホープ

 (Wikipedia) 

 

・7月9日、イギリス公使オールコックイギリス海軍中将ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。 

・7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかしこのときオールコックも対馬占領を本国政府に提案していた。 

また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。ロシア領事ゴシケーヴィチはイギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861919日)、ポサドニック号は対馬から退去した。 

・9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。 

・ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、イギリスに先を超され対馬を租借されるのを恐れていたとされる。


(2)日露戦争


(引用:Wikipedia)

戦場となった地域の俯瞰図(Wikipedia)

1)戦争の背景

1.1)戦争目的と動機 

・大日本帝国にとっては、三国干渉および義和団の乱後満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障を目的とした戦争であり、ロシア帝国にとっては、遼東半島の旅順、大連租借権等の確保と満洲および朝鮮における自国権益の維持・拡大を目的とした戦争であった。 

 

1.2)朝鮮半島をめぐる日露対立 

・大韓帝国は清との冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。 

・ロシアは、高宗を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。 

・当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。 

・明治37年2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第1次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。 

・大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。 

・一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。 

・戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。 

 

1.3)日英同盟 

・ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。 

・ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。

・これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。 

・近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。

・朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。

・世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。 

・ところがロシアは日清戦争終了後、清に圧力をかけ、露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を押し進めていった。

・また、シベリア鉄道及びその支線である東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。 

・とりわけ、1900年にロシアは清で発生した義和団の乱の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置き、満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。 

ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年に長年墨守していた孤立政策を捨て、日本との同盟に踏み切った。

・当時世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていたイギリスが初めて同盟を締結したということと、アジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。 

 

1.4)政府内の開戦論争 

・日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見(七博士建白事件)(※)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。 

 

※七博士意見書

・七博士意見書とは、日露戦争開戦直前の明治36年6月10日付で当時の内閣総理大臣桂太郎・外務大臣小村壽太郎らに提出された意見書。東京帝国大学教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、学習院教授中村進午の7人によって書かれた。 

・6月11日におそらく作者のリークにより東京日日新聞に一部が掲載され、6月24日には東京朝日新聞4面に全文掲載された。内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「バイカル湖まで侵攻しろ」と主戦論を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫ったものであり、世論の反響も大きかった。

・この意見書を読んだ伊藤博文が「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べたと言われている。同書を渡された桂太郎は「政策のことまではいいが、軍事のことまで言うか」と困惑した。 

・なお、戸水は日露戦争末期に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張したため、文部大臣久保田譲は明治38年8月に文官分限令を適用して休職処分とした。

・ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出したため、久保田は東京帝国大学総長の山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。

・このため、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。このため、翌年1月に戸水の復帰が認められた(「戸水事件」)。 

 

・1903年4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。 

・桂は後に、この会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発した。

・日本が2国以上と戦う時は、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。 

 

1.5)開戦時の戦力比較 

 

歩兵

騎兵

砲撃支援部隊

工兵・広報支援部隊

予備部隊

ロシア

66万人

13万人

16万人

44千人

400万人

日 本

13万人

1万人

15千人

15千人

46万人

 

1.6)直前交渉

 ・1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。 

・しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。

・さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。 

 

          

   エヴゲーニイ・アレクセーエフ   アレクセイ・クロパトキン     セルゲイ・ウィッテ

 (引用:Wikipedia) 

 

・ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(後の10月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。 

・ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。 

・日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。 

・そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

 

      

    小村寿太郎      ロマン・ローゼン男爵 ウラジーミル・ラムスドルフ   栗野慎一郎

(引用:Wikipedia) 

 

2)日露戦争の経過 

日露戦争の経過(Wikipedia)

 

2.1)開戦時の両軍の基本戦略

2.1.1)日本側 

・第1艦隊と第2艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第3艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。 

・その後陸軍が第1軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第2軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。 

・さらにこれらに第3軍、第4軍を加えた4個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。 

・海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。 

・軍令機関が陸海軍並列対等となった初めての戦争である。 

2.1.2)ロシア側  

・日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。

・迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。 

・太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。 

 

    

仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)  鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第1軍部隊   

(引用:Wikipedia)

 

2.2)開戦時の戦闘 

・日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。 

・同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。 

・瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。 

・2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。 

・ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。 

・4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。 

・一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。 

・これに対し日本海軍は第3艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第2艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。 

・この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。 

2.5)黄海海戦・遼陽会戦 

・黒木為楨大将率いる日本陸軍の第1軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。 

・続いて奥保鞏大将率いる第2軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第2軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。 

・第2軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。

・旅順艦隊攻撃はうまくいかなかったため、日本海軍は陸軍に旅順要塞攻略を要請、これを受け乃木希典大将率いる第3軍が旅順攻略に当たることになった。 

・8月7日には海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。 

・これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。 

・ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第2艦隊に蔚山沖で捕捉された。 

・第2艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。

 

・旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第3軍は要塞に対し第1回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。

・8月末、日本の第1軍、第2軍および野津道貫大将率いる第4軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第2軍が南側から正面攻撃をかけ、第1軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。 

・ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。・こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。 

・10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。 

 

2.6)旅順攻略 

 

    

旅順水師営で降伏したステッセル将軍(中央右)    旅順要塞への28サンチ砲の砲撃

(引用:Wikipedia) 

 

・第3軍は旅順への攻撃を続行中であった。10月26日からの第2回総攻撃も戦果は有ったものの失敗と判断された。しかしながら8月~10月まで黄海海戦を挟んで続いた港内への砲撃で旅順艦隊の壊滅には成功していた。・11月26日からの第3回総攻撃も苦戦に陥るが激戦のすえ、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。 

・その後も第3軍は攻略を続行し、翌1905年1月1日にはロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将を降伏させた。旅順艦隊は艦艇をすぐさま使用できないように全て自沈させた。

・沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導のもと、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。

・一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。

・2月には第3軍が戦線に到着した。 

 

2.7)奉天会戦 

・日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第3軍と第2軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。

・ロシア軍は予備を投入し、第3軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。

・3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。

・この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。

・一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。 

 

2.8)日本海海戦 

 

     

          児玉源太郎      日本海海戦時の三笠艦橋における東郷平八郎

(引用:Wikipedia) 

 

・バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、連合艦隊は喪失艦が水雷艇3隻という連合艦隊の一方的な圧勝に終わった。 

・世界のマスコミの予想に反する結果は列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。この結果、日本側の制海権が確定し、ロシア側も和平に向けて動き出した。

 

2.9)樺太攻略 

・日本軍は和平交渉の進むなか1905年7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。 

 

3)ポーツマス講和へ 

・ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、戦争継続が困難な情勢となっていた。

・日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。両国は8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。 

・陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。・一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。ロシアは、なお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。

・日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村寿太郎は米大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を依頼して講和に持ち込んだ。 

・日露戦争を終結させたポーツマス条約の内容は以下の通りである。

①ロシアは日本の韓国においての政治・軍事・経済の優先権を認める。

②)清領内の旅順、大連の租借権及び、長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡する。

③北緯50度以南の樺太(すなわち南樺太)とその付属の諸島を譲渡する。

④オホーツク海、ベーリング海の漁業権を日本に認める。 

・しかし賠償金は全く取れなかったため、国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。

・後の大東亜戦争時に比べると反戦的な主張も比較的許容されており、萬朝報によった堺利彦・片山潜らの反戦運動や、キリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。 

・日露戦争における日本の勝利は白色人種大国に対する有色人種小国の勝利であり、世界史上の意義も大きかった。

・第1次エチオピア戦争でエチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。

・そのため、日露戦争における日本の勝利は有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利と言える。

・日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入した。戦費のほとんどは戦時国債によって調達された。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達した。 

 

3.1)樺太攻略 

・日本軍は和平交渉の進むなか1905年7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。 

 

  

   第1軍司令官黒木為楨  奉天会戦後に点呼をとる日本軍1師団

           (引用:Wikipedia)    第一軍に同行する観戦武官ハミルトンおよびホフマン 

 

4)影響

4.1)日本

・ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本はロシアの脅威から逃れ安全保障を達成した。

・さらに朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満洲鉄道の獲得など満洲における権益を得ることとなった。

・またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。 

・こうして、日本は最大の目標は達成した。しかし講和条約の内容は、賠償金を取れないなど国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。

・その結果、戒厳令が敷かれるにまでに至り、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。 

・これはロシア側へいかなる弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くは戦争をしている国力の実情を知らされず、目先の勝利によってロシアが簡単に屈服させられたように錯覚した反動から来ているものである。 

・この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。 

・日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある。

・終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している。 

・また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えて、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。

・だが、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非を巡って有名な2個師団増設問題が発生することになった。 

・日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。 

・なお、賠償金が取れなかったことから、大日本帝国はジェイコブ・シフのクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争で最も儲けた」シフは、ロシア帝国のポグロム( 反ユダヤ主義 ) への報復が融資の動機といわれ、後にレーニンやトロツキーにも資金援助をした。 

 

4.2)ロシア 

・不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を期に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。

・南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。

・このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリアとの対立を招き、第1次世界大戦の引き金となった。

・また、日露戦争の敗戦による民衆の生活苦から、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第1革命が誘発され、ロシア革命とその結果の王政打倒、社会主義政権(ソビエト連邦)成立の原因となる。 

 

4.3)西欧 

・イギリスは日露戦争の勝利により日本への評価を改めており、1905年8月12日に日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。

・日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。

・既に締結されていた英仏協商と併せて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。

・こうしてイギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大してゆく。 

 

4.5)アメリカ

ポーツマスにおける日露両政府代表団(引用:Wikipedia) 

 

・アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満州でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。

・これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフであった。この協定は小村外相の反対によりすぐさま破棄された。 

・日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。

・大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞したが、彼の対日感情はポーツマス講和への協力以降、急速に悪化してゆく。 

・日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京の米国公使館などが襲撃の対象となったことで、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論の高まりと共に、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が沸き起こる一因となる。 

・これら日米関係の急速な悪化により、第2回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、日米戦争に巻き込まれることを畏れ始めた。 

 

4.6)清朝 

・日露戦争の戦場であった満洲は清朝の主権下にあった。満洲族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。

・開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルピンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。 

・さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東3省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。

・しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。 

・終戦後は、日本は当初唱えていた満洲に於ける列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。

・こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。

・ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東3省の人口は743万4千人から1783万6千人まで増加している。 

・さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。

・また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。 

・また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満州国を建国した。

・第2次世界大戦で日本が敗れて満州国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。 

・中華人民共和国が満洲を完全に掌握したのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。

・現代中国の高校歴史教科書では日露戦争について、ロシアあるいは日本の近代化過程の一部として触れられているものの、詳しく言及はしない(清朝の領土で起きた点を中心に記述するのが多い)。 

 

4.7)大韓帝国 

・開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していたが、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会(※)の党是は韓国の自主独立であった。

 

※一進会

・一進会とは、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した当時最大の政治結社。韓国では一般に親日団体とみなされる。

・宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも韓国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。

・中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。 

・日本と韓国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。

・当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人。

・一説には実数は4000人未満にすぎなかったとの見解もあるが、日露戦争をロシアに代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力し、日本の武器弾薬を北方へ輸送するために京義鉄道敷設工事をしたが、その工事に参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州へ軍需品を運搬するの業務に動員された会員は11万5000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている。 

・日韓併合の目的を達成した一進会は、その後、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として15万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したが、一進会を率いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けた。

・合邦善後策として桂首相に資金150万円を懇請したところ、千万円でも差し支えなしと答えられ、活動に猛進した。

  

・戦争後、朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国は様々な権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。明治43年の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は日本に併合され、滅亡した。 


(3)シベリア出兵(大正7年8月~)(1918年~1922年)


(引用:Wikipedia)

1)出兵の背景 

・シベリア出兵とは、1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。

・日本は兵力7万3000人(総数)、4億3859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3333人から5000人の死者を出し撤退した。 

・第1次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。 

・戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね、経済は破綻した。

・1917年2月に2月革命、11月にはレーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命である10月革命が起き、1918年に帝国は崩壊した。

・ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。

・このため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。 

・連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。

・すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。 

・日本政府のシベリア出兵に対する態度は、出兵という点では一致していた。しかし積極的な出兵論と消極的なそれの2つが存在し対立していた。

・積極的な出兵論とは、イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場である。これが参謀本部および外相本野一郎ならびに内相後藤新平達の出兵論である。

・対して、これと比較するとやや消極的な出兵論すなわち対米協定の出兵論が、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに立憲政友会総裁の原敬達によって唱えられた。対米協定にもとづく妥協案が形成され、出兵に踏み切った。

・そこで寺内首相は同地域において日本の息のかかった傀儡政権を樹立する事を参謀本部第2部長中島正武少将に命じた。 

 

※【レオナード・ハンフリーズ】:当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦争後に失った利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのである。 

 

2)出兵の経過 

・アメリカは1918年の夏に出兵を決定した。上記のようにアメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれにあわせて出兵を決定し、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。

・連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は日本やアメリカの軍隊であった。 

・1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は単独で駐留を続行した。

・日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たるパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻した。 

・シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よりも数十倍多い兵士を派遣した。

・各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。 

   

(左写真)1918年、ブラゴヴェシチェンスクに入城する日本軍と日の丸を振って出迎える市民などを描いた作品。空からは航空隊により布告文が撒かれた。『救露討獨遠征軍画報』より。

(右写真)「我軍空中及水陸挟撃し西伯利の敵軍を掃討す」。国民を奮起させるためのプロパガンダ版画。

『救露討獨遠征軍画報』より(1919年2月1日に描かれたもの)(引用:Wikipedia) 

 

3)パルチザン(ゲリラ)戦争 

・1919年1月から、労働者・農民などで組織されたパルチザンによる遊撃戦に苦戦。次第に交通の要所を確保するのが精一杯の状態に陥った。日本軍はパルチザンが潜む村落の掃討を行なった。

・1919年2月中旬、歩兵第12旅団長山田四郎少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発している。 

 第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし。

・またウラジヴォストーク派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛の電報「別電159号」には次のように記されている。

「最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく我軍隊にして其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如き状態は到底之を容すべからざるものと認め全黒竜州人に対し左の通り通告す。一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし」 

・同年1月アムール州「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起し、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まった。

・日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため撤兵、村は一時赤軍パルチザンにより解放された。しかし「守備隊長マエダ大尉(前田多仲大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。

・さらに「ソハチノ」という近隣の村に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った。 

・同年2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、女子供を含めた無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った」とし、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある。 

・また同年3月22日にはイワノフカ村「過激派大討伐」を敢行(イワノフカ事件)(※)。同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わなかった。そこでロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行った。

・しかしこうした抑圧政策は村民を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより深く浸透させる結果となり、この情勢を察知した日本軍「討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパルチザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊第三大隊は同月26日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる。 

 

※イワノフカ事件

・イワノフカ事件は、1919年3月22日にシベリア出兵中の日本軍が抗日パルチザンに対する掃討作戦の過程でアムール州ブラゴベシチェンスク郊外のイワノフカ村において多数の民間人を殺害した事件。

・白衛軍は都市部こそ掌握したものの、農村はソビエト寄りで武装解除の要求にも応じなかった。白衛軍に従わないイワノフカ村に対し右派エスエル党に所属する反革命指導者のアタマン・ガーモフは日本軍に応援を頼んだ。

・もともと戦争の意味が曖昧で戦意も低かった上に軽視していた敵軍による戦友の戦死が相次いでいた日本軍は厳寒の中で疲労困憊して神経過敏に陥り、「暴徒」と「良民」も区別せずに「村落焼棄」の方針が打ち出された。

・1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長ノ指令ニ基キ」次のような通告を発している。

『第一、日本軍及ビ露人ニ敵対スル過激派軍ハ付近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装イ変幻常ナキヲ以テ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ』

・アムール州で日本軍により焼き討ちを蒙った村落は他にもあるが、もっとも大規模で残虐な被害を受けたのがイワノフカ村であった。 その事があって以来、村民の大部分は極度に日本軍を恨み、パルチザン軍13個中隊を編成する結果となった。一方、山田旅団長は、「赤衛軍ニ援助ヲ与エ若ハ日本軍ニ敵対セントスル村落ハ尽ク『イワノフカ』ト同一運命ニ遭遇スヘキヲ覚悟スヘシ」と威嚇を繰り返した。

・共同通信の報道によれば、日本軍は制圧の過程で女性や子どもら、1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含む、257人を銃などで殺害、36人を小屋に閉じ込め焼き殺したという。

・1994年、シベリア抑留者の慰霊碑を建てようと現地を訪れた全国抑留者補償協議会の会長は、村長にこう問われた。「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」。翌年、日露共同の慰霊碑ができた。それ以来、ロシアのイワノフカ村では毎年、犠牲者の追悼式典が行われている。

・一方、日本では多くの人、特に若い人はこの事件の存在さえ知らないと現地紙は報道している。 

・アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団(師団長大井成元中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派大討伐」作戦を敢行。しかしパルチザンに対する作戦は失敗した。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。ウラジヴォストーク派遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には、

 ※本村が日本軍に包囲されたのは3月22日午前10時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ2時間程の間に約200発の砲弾が飛来して5、6軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは15名の村民が1棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。殺された者が当村に籍ある者のみで216名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が130戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計750万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約500名老人のみ生き残って扶養者の無い者が8戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である。

とある。 

・翌年2月同州にソヴィエト権力が復活すると同村において州都ブラゴヴェシチェンスクの某新聞社が再度調査を行なった。結果、死者総数は291名(内中国人6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。 

・こうした作戦が招いた惨禍の中、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク政権は赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、1920年に崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。 

 

4)尼港事件(細部・後述) 

・大正9年3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率い、ロシア人、朝鮮人、中国人4000名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)が黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)及び日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6000人を虐殺した上、町を焼き払った。

・この事件を契機として、日本軍はシベリア出兵後も1925年に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北樺太(サガレン州)を保障占領した。 

 

5)シベリアからの撤兵

・日本では、寺内内閣のときにロシア革命への干渉戦争として始められたシベリア出兵であったが、1921年のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。

・会議のなかで、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。

・こののち内閣総理大臣となった加藤は6月23日1922年の閣議で、この年の10月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。


(4)尼港事件


 (引用:Wikipedia)

1)概要 

 

   

(左)廃墟となったニコラエフスク(尼港)(右)虐殺事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真。

中央の白衣の人物が虐殺の中心人物・トリャピーツィン。左の女性は宣伝部指導者、

次いで参謀長を務めたキャシコ。その隣、左端の椅子に座った人物が副司令のラプタ。

背後には日本人から略奪した屏風が見え、撮影時期は1920年4月と推定されている。(引用:Wikipedia) 

 

・尼港事件とは、ロシア内戦中の大正9年3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件である。 

・港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。 

・殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。

・建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌市の護国神社にも殉難碑がある。

 

2)事件の背景

2.1)シベリア出兵の混迷

 

   

(左)ウスリースク(ロシア極東)で赤軍に殺害されたチェコ軍団将兵(1918年)

(右)シベリア出兵中の連合軍によるパレード。

アメリカ・フランス・大英帝国・日本国など各国の国旗が掲げられている(1918年)(引用:Wikipedia)

 

・大正7年8月に始まった日本のシベリア出兵は、アメリカ合衆国の呼びかけによる共同出兵であり、当初はアメリカの提議に従って「チェコ軍団救援」を目的とし、「ロシア内政不干渉」を謳ったものだった。

・しかし、チェコ軍団は赤軍と戦闘状態にあり、ボリシェヴィキ政権とは敵対していたので、ロシア内戦への干渉なくして救援は不可能であり、そもそもアメリカの提議自体に大きな矛盾があった。 

・つまりシベリア出兵の前提は、対独戦の一環としてのものであったが、1918年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、チェコスロバキアも独立を果たして、前提が崩れた。

・そのため、連合国側、主に英仏は、反ボルシェヴィキを鮮明にし、日本もそれに同調して、反革命派によるロシア統一をめざしていたが、反革命派のコルチャーク政権(オムスク政権とも)は1年ほどしか続かず、1919年末に崩壊した。 

・1920年1月9日、アメリカが単独撤兵を通告してきたが、これは日本の出兵にとって大きな転換点となった。

・この1月から2月にかけ、革命派の勢力はニコリスク、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクの反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した。

・1月17日付、陸軍大臣の指示により、日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した。 

 

2.2)尼港住人と白軍 

 

   

(引用:Wikipedia)

 

・1850年にニコラエフスク港は建設され、ロシアの極東開港場としては最古のものである。ロシア官憲は港発展策としてユダヤ人にロシア人と同様に土地家屋の私有権を与えたことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた。 

・ロシア革命の進展により、ニコラエフスクは治安が悪くなり白昼でも強盗が行われており少しでも金を持っていそうな人はピストルで射殺されたり、銀行も金品を強奪されることから、イギリス、アメリカ、日本の銀行に依頼して預金替がされたり、島田商会が預金依頼されるほどであった。

・漁業を営んでいたユダヤ人の資産家たちは革命によって購買組合や労働者に業を奪われるようになりウラジオストクに逃れるものも少なくなかった。 

・1918年には、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立していた。しかし赤軍は、サハリン州(当時、ニコラエフスクはサハリン州に含まれていた)全体で300人ほどの少数にすぎず、日本軍の上陸によって追われ、やがてロシア海軍提督コルチャークによるコルチャーク政権に代わった。 

・「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んだ」という資料も、ソ連側にはあり、日本側も「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願した」と記している。・ニコラエフスクとその周辺では、白衛軍系の守備隊が治安維持にあたっていた。1919年の夏には将校以下350人ほどの人数がおり、日本軍と協力していた。

  

2.3)尼港在住の日本人と駐留日本軍 

 

1918年9月、尼港に到着した日本海軍陸戦隊(Wikipedia) 

 

・ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、1896年に島田元太郎が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた。ロシア革命による経済混乱期には自らの肖像入り商品券を流通させるほどの信用が築かれていた。 

・ニコラエフスクにおける漁業を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などをのぞき漁業関係者は撤退した。

・しかし海産物の交易は続き、第1次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するまで、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数が多かったため領事館が設けられていた。 

・事件の一年前、大正8年1月の調査によれば、ニコラエフスクの人口は12,248人で、そのうち日本人は291人だった。大正8年6月調査(1920年6月16日の外務省公表)では、日本人は領事以下353人(男169人、女184人)となっている。職業の主な内訳は商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった。

・日本人で唯一ニコラエフスク市商業会議所の議員であった島田元太郎は別格として、他に大きな商店を営む日本人としては、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙吉、菓子パン製造業の百合野熊次郎などがいた。

・なお、1918年1月調査の日本人数は499人であり、男女比はほぼ半々であった。職業についている女性としては、娼妓90人、家事被雇人(家政婦や乳母、女中として雇われている者)61人が主であり、残り100人の女性には既婚者が多いのではないかと思われる。 

・日本軍のニコラエフスク駐留は、1918年9月、海軍陸戦隊の上陸にはじまった。同月のうちに、陸戦隊は、陸軍第12師団の一部と交代し、1919年5月、第14師団の部隊が交代した。また海軍は、航行可能な夏期にはニコラエフスクを根拠に沿岸警備を行っていたため、無線電信隊を常駐させていた。 

 

アムール川の河口の港湾都市がニコラエフスク。(引用:Wikipedia) 

 

・中国艦隊は日本海から間宮海峡を抜けてアムール川へ侵出した。

・ニコラエフスクに住む中国人は、1919年1月の調査でおよそ2,314人であり、うち女性は15人にすぎず、男性の単身者が圧倒的に多かった。

・市内には、ある程度裕福な商人などもいて、中国人居留民会を組織していた。この自治会は、秩序を乱す者を市外へ追放したりもしていて、ロシア人指導者層から信頼を得ていた。 

・1919年9月、中華民国海軍の艦隊がアムール川に姿を現した。江享、利綏、利棲、利川の砲艦4隻(利川は運送船ともいわれる)である。

・これは、ロシア内戦の混乱の中で、シベリア河川の航行権を拡張しようとする中国の試みだったが、コルチャーク政権はロシア政権の弱体化につけこむ行為として航行を認めなかった。

・ハバロフスクに向けて航行する中国艦隊は、白軍のアタマン・カルムイコフの砲撃を受けてニコラエフスクへ引き返し、やむなく越冬することになった。 

・中国艦隊のニコラエフスク入港までには、紆余曲折があった。入港直前の8月には内満州において日中両軍が衝突する寛城子事件が起きていた。当時、日本は北京政府と日華共同防敵軍事協定を結んでおり、中国は連合国の一員として、巡洋艦海容をウラジオストクに派遣していた。

・北京政府は、ロシア側が日本の艦船のアムール川航行を黙認しているにもかかわらず、中国船の航行を認めないことはアイグン条約に反するとして交渉していたが、ロシア側は認めず、中国側は、日本がロシアにそうさせているのではないか、と疑っていた。 

・北京政府は、日、米、英、仏各国に、ロシア側との仲介を依頼したが、アメリカをのぞく各国の反応は冷淡であり、中国側は、日本がこの問題のイニシャティブをとっているとの確信を強めた。

・一方、ウラジオストクの日本全権は、この問題に日本が関係する意志がないことを中国側に明言し、中国艦隊のニコラエフスクでの越冬について、コルチャーク政権にとりなした。 

・しかし、中国の新聞は日本の航行妨害を書き立てているとして、10月1日、北京の小幡酉吉公使は、北京政府に抗議している。

・日本の航行妨害については、当時から中国の新聞記事になっていただけに、現在の中国でも事実として受けとめられ、極端な場合は、日本軍が中国艦隊を砲撃した、というような話になっていたりもする。 

・ニコラエフスクの華僑商業会議所は、食料の提供などで艦隊を援助していた。中国艦隊には、領事・張文換が乗り込んでおり、ニコラエフスク当局は砲艦の乗組員こそ歓迎しなかったものの領事の歓迎会は催した。また日本領事も歓迎会を開いて交流を持ち、パルチザンが街に迫るまでの関係は悪いものではなかった。 

・しかし、パルチザン部隊には数百人規模で中国人が加わっていた。1920年6月19日に中国領事は会談した津野一輔少将に中国人の過激派は300人であると説明している。事件後に尼港から脱出できたアメリカ人マキエフは600名であるとし、参謀本部編『西伯利出兵史』は900名としている。

・これについて『ニコラエフスクの破壊 』の著者のロシア人ジャーナリスト・グートマンは「最下層階級の者達であって、社会的不適合者」とし、「中国人商人達は同胞パルチザンを疎んでいた」という。 

・一方、原暉之は、市内で編入された者ばかりではなく、「尼港周辺の鉱山労働者が加わっていたのではないか」としている。ニコラエフスク進軍に先だち、中国人パルチザンは赤軍宣伝部指導者のニーナ・レベジェワからロシア女性の引き渡しを受けることを約束され証文を交わしていたが、後日、中国領事の抗議によって反故にされることとなる。 

 

2.4)パルチザンの進軍 

・1919年11月、ハバロフスク地方アナスタシエフカ村で、沿アムール地方パルチザン部隊指揮官協議会が催された。この会において、ソビエト権力復活のために、アムール川下流地帯にパルチザン部隊を派遣することが検討され、指揮官にはヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンが任命された。

・トリャピーツィン率いる部隊は、2ヵ月あまり諸村をめぐって人員を募り、1月半ばにアムール河口のニコラエフスクを包囲したときには、4000人以上の部隊にふくれあがっていたという。人数が多数にのぼったについては、強制動員されたという証言もある。 

 

2.5)朝鮮人パルチザン

シペリアで朝鮮人への朝鮮共産革命を指導した李東輝(引用:Wikipedia) 

 

・1919年1月、ニコラエフスクに住む朝鮮人(日本国籍)は916人で、日本人の3倍ほどだった。当時、朝鮮人の国籍は日本であり、材木商や牧畜業を営む日本商店に雇われた朝鮮人などもいた。しかし、ロシア国籍を持った高麗人もいて、それを加えるともっと多かったと思われる。 

・赤軍パルチザンに占領された後のニコラエフスクにおいて、朝鮮人過激派(パルチザン)は、中国政府の調べでは1,000名であった。アメリカ人マキエフも1,000名であるとしている。参謀本部編『西伯利出兵史』は400-500名としている。

・朝鮮人過激派は掠奪した軍服を着用していた。朝鮮人パルチザンが、中国人のそれと違っていたのは、抗日独立運動の一環としてパルチザン部隊に加わる者が多数いたことである。

・ウラジオストクにいた朝鮮独立運動指導者李東輝が、ウラジーミル・レーニンから資金援助を受け、赤軍と協力する方針が示されていた。 

・グートマンによれば、ニコラエフスクの朝鮮人は近郊で農業を営む者が多く、市内では富家の使用人がほとんどで、商人はごく少なかった。「ボルシェヴィキに入ることに無関心」だったが、トリャピーツィンが朝鮮独立への赤軍の援助を確約したことで、市内の韓人会は部隊を組織し、パルチザンの傘下に入ると忠実な手先となり、監獄の監視、死刑執行などを確実に行ったが、軍規は厳格で、挑発、没収、略奪には参加しなかった。 

原暉之(※)によれば、グートマンが述べている「軍規が厳格な朝鮮人部隊」とは、韓人会書記のワシリー朴を中心として、パルチザン進駐後にニコラエフスク市内で編成された100名ほどの第2中隊である。外部から来た朴イリア率いる第1中隊(サハリン部隊の名で知られる)は、横暴で士気が低かった

 (※)原暉之

原 暉之(1942年9月30日 - )は、日本の歴史学者、北海道大学名誉教授、専門はロシア極東史で、 

単著として、次の著作がある。

・『シベリア出兵――革命と干渉 1917-1922』(筑摩書房、1989年)

・『インディギルカ号の悲劇――1930年代のロシア極東』(筑摩書房、1993年)

・『ウラジオストク物語――ロシアとアジアが交わる街』(三省堂、1998年) 

 

3)事件の経過 

3.1)包囲される尼港 

・1919年11月、コルチャーク政権が崩壊したことによって、白軍は求心力をなくし、勢力を弱めていた。ニコラエフスクにおいても、近郊の村々が次々に占領されていたが、白軍の反撃はことごとく失敗に終わった。

・白軍司令部は、日本軍の支援なくしてパルチザンに対することができなくなったことを悟ったが、1920年1月には極東の指令本部があったウラジオストクでも政変が起こり、そこで日本軍が白軍を支持しなかったことが手伝い、日本軍との関係も微妙なものになっていた。

・市内においても、港湾労働者などを中心に、パルチザンの到来を待つ人々も増えてきていた。 

 

3.1.1)パルチザンの攻勢

・冬期(11月から5月)のニコラエフスクは、港が氷に閉ざされ、陸路のみとなる。ニコラエフスクに駐屯していた第14師団の主力は、ハバロフスクにいたが、その間は、氷結したアムール川の氷上通行があるのみだった。

・しかも、パルチザンが横行するようになった1919年の末ころから、それも不可能に近くなっていた。

・1919年10月、ハバロフスク・ニコラエフスク間のロシアの電線をパルチザンが遮断し、街と外部との連絡は、日本海軍の無線電信に頼るのみになっていた。

・1920年1月、ニコラエフスクに駐留していた日本陸軍は、石川正雅少佐以下、水戸歩兵第2連隊第3大隊のおよそ300名に、通信、衛生、憲兵、野戦郵便局員を加えて、330余名だった。海軍は、石川光儀少佐、三宅駸吾少佐以下40数名だったので、総計370余名である。 

・白軍の弱体化により、ニコラエフスク市内の治安維持は、白軍司令官メドベーデフ大佐を前面に出しながらも、実質的には日本軍が担うことになり、1月10日には、夜間外出禁止令などが布告され、戒厳に近い状態となった。

・1月23日、300人ほどのパルチザン部隊が、氷結したアムール川の対岸から、ニコラエフスクを襲撃してきたが、ロシアの旧式野砲を修理して用意していた日本軍が、砲撃を加えたために、すぐに退散した。

・翌24日と26日には、三宅海軍少佐と石田虎松副領事より、海軍軍令部長および外務大臣に対し、陸戦隊の派遣を求める無線連絡があり、ニコラエフスク救援隊派遣の検討がはじまった。

 

3.1.2)トリャピーツィンの使者

・この24日、トリャピーツィンの使者オルロフが日本軍守備隊を訪れて、ニコラエフスクの明け渡しを申し入れたが、守備隊長は「このパルチザンは強盗団である」という認識から、白軍の求めに応じて、白軍探偵局へオルロフを引き渡した。白軍は、引き取った使者オルロフを殺してしまった。

 

・実はオルロフは、実際に山賊をしていたという証言もある。虐殺から生きのびた市民E.I.ワシレフスキイ(課税評価人)が、1920年7月の宣誓証言で、こう言っている。「オルロフは、1918年のボルシェビキ委員のベベーニンとスレポフとともに逃亡し、逮捕処刑されるまで、山賊をやっていた」

・オルロフの処刑について、スモリャークが述べるソ連側の言い分では、「白軍は使者を残虐に責め殺した」ということである。 

・一方、白軍将校の中で奇跡的に虐殺をまぬがれたグリゴリエフ中佐は、次のように証言している。

・「パルチザンが町に入った後、彼らは軍使オルロフの死体を発見した。トリャピーツィンの命令で、ロシア人および日本人医師からなる委員会が組織され、オルロフの死体を検視した。そして、銃痕以外には、なにも傷がないことが確認された。(両耳は鳥につつかれていたが、それは死後に起ったことである)私は、このことを委員会の一員だったポブロフ医師から聞いた」 

・リューリ兄弟商会の社員だったYa.G.ドビソフにも、同じような証言がある。

・「トリャピーツィンによって公開された情報は、実際の事実とは一致しなかった。『我らの軍使オルロフは、拷問によって殺され、このことは国際調査団によって確認された』という彼の主張は全くのデタラメであった。反対に、ロシア人と日本人の医師からなる調査団は、オルロフの死体を検査し、数ヶ所の銃弾の痕以外は、他に傷がないことを照明した。私は、ボブロフが、調査団のロシア人医師の一人であったことを覚えている。トリャピーツィンは、この結論に大変不機嫌であった。そして、検査の報告を公表しなかった」 

・木材工場主のI.R.ベルマントもこう証言する。

・「トリャピーツィンは町に入市するとすぐ、ロシア人と日本人の医師、住民の代表からなる合同委員会を任命した。委員会は、数発の弾痕以外、オルロフの遺体には、何らの傷あとも、拷問のあとも認められない、と断定した。このことは、委員会のメンバーだった、ユダヤ人住民代表のデルザベットとボブロフ医師に聞いた。トリャピーツィンは以前から、オルロフは拷問によって殺された、と触れ回っていたが。委員会によってその結論が出たにもかかわらず、同じ事を言い続けた」 

 

3.1.3)チヌイラフ要塞と日本海軍無線電信所への攻撃 

 

ニコラエフスク救援に向かった戦艦三笠。堅氷に阻まれ救援は失敗した(引用:Wikipedia) 

 

・ニコラエフスクの町の入り口は、町から10キロあまり離れた丘陵地帯にあり、町を一望できるチヌイラフ要塞によって守られていて、その近在には、日本海軍の無線電信所があった。すでに白軍にはチヌイラフ要塞にまわす兵力がなくなり、日本軍が守備を引き受けていた。 

・1月28日、パルチザンの斥候8名がチヌイラフ要塞に姿を現し、戦いは始まった。翌29日、小競り合いがあり、チヌイラフ要塞とニコラエフスクの間の電線がパルチザンによって切断された。

・2月4日になって、ブラゴエシチェンスクにいた第14師団長白水淡中将からニコラエフスク守備隊へ、「パルチザン側から日本軍を攻撃してこないかぎり、自ら進んで攻撃をすることはやめよ」という新方針の無線連絡があった。要塞守備隊の人数が少なかったところへ、この指示が来て、翌5日には要塞を明け渡した。 

・2月7日、要塞を占領したパルチザンは、海軍無線電信所を砲撃してきて、電信室が破壊された。やむなく陸海の守備隊はニコラエフスクへ引き上げることに決したが、その際の戦闘で、陸軍兵2名が死亡し、榊原機関大尉は下腹部貫通銃創の重傷を負い(後日死亡)、陸海各1名が軽傷を負った。これにより、ニコラエフスクと外界との連絡網はすべて絶たれた。 

・最後の無線連絡で、事態を知った陸軍当局は、ニコラエフスクへの増援を検討したが、各地で不穏な情勢が続いていたため、ウラジオストク、ハバロフスクともに兵員の余力が無く、可能になり次第、本土から増援部隊を送ることとした。

・2月13日、北海道の第7師団より増援部隊を編成する手続きをとった。一方、海軍は、北樺太(北サハリン)のアレクサンドロフスクからも不穏な情報が入っていたことから、三笠と見島(砕氷船)を視察に出したが、ニコラエフスクの方は堅氷に閉ざされて、艦船の近接、上陸は不可能だった。結局、陸軍の増援は延期された。 

 

3.2)尼港の開城 

・ニコラエフスク開城の条件は、日ソで見解が食い違っている。開城の条件は、次項で述べる日本軍決起の原因にも深くかかわってくるので、ここで、開城の経緯とともに子細に双方の主張をまとめる。

 

3.2.1)尼港開城の経緯

・チヌイラフ要塞を占領したパルチザンは、ニコラエフスクに砲撃を加えたが、それほどの被害はもたらさなかった。2月21日、砲撃は止まり、トリャピーツィンは再び使者を派遣して、「我々に町を引き渡さなければ、砲撃で破壊する」という手紙を、日本軍守備隊に届けた。 

・同じ21日、トリャピーツィンは、ハバロフスクの日本軍無線電信所宛にも、「ニコラエフスクの日本軍は通信手段を失っているので、われわれの無線電信仲介によって、そちらが戦闘停止を指示してもらいたい」と打診していた。

・この報を受けて、陸軍当局は、ウラジオストクの派遣軍に「ニコラエフスクにおける衝突は、パルチザンの攻撃に始まっているのだから、わが日本の守備隊は正当防衛をしているにすぎず、以降、日本軍と居留民に損害が出たならば、その責任はパルチザン側にある。パルチザンは攻撃を中止し、日本の守備隊が無線電信を使えるようにして、守備隊長石川少佐と、ハバロフスクの山田旅団長が直接連絡できるようにしてくれ」とパルチザンに回答するよう、指示した。 

・ニコラエフスクのロシア人指導者、市長と市参事会、地方議会の代表たちは、日本軍宛のトリャピーツィンの手紙を検討し、市民の命の安全と町の繁栄の保持を条件に、赤軍との交渉をはじめることを決めた。

・5日以来、外部とのすべての通信が遮断されていたため、他の都市の状況を知る手段もなく、それが知りたかったこともあって、ロマロフスキイ市議会議長、カルペンコ市長、ネムチノフ大尉が使者となり、トリャピーツィンが本営をかまえていたチヌイラフ要塞に向かった。 

・トリャピーツィンは彼らを使者と認め、およそ以下のような条件を提示した。

①白軍は武器と装備を日本軍に引き渡す。

②軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場にとどまる。

③)ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される。

④赤軍入城までの市の防衛責任は、日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ。 

・市の指導者たちは、これを受け入れる方向で動いたが、白軍は「赤軍はかならず裏切って、合意はやぶられる」と主張し、開城を受け入れなかったので、最終的な判断は、日本軍にゆだねられた。

・2月23日、パルチザンの無線を通して、白水師団長から守備隊長の石川少佐宛に、「パルチザン部隊が日本の居留民に害を加えたり、日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず、平和的解決に努めよ」との指令が届いた。

・石川少佐は海軍と相談し、24日から停戦に入り、28日、パルチザン部隊と講和開城の合意が成立した。

 

3.2.2)尼港開城の条件

・尼港開城にあたって、日本軍とパルチザンの間でかわされた合意条項に関して、双方の見解を比較する。

・まず日本側だが、『西伯利出兵史要』は「日露(パルチザン)両軍が治安を維持すること。裁判なくして市民を銃殺しないこと。ほしいままに市民を捕縛したり、略奪したりしないこと」が合意事項であったようだとし、『西伯利出兵 憲兵史』は「ニコラエフスク市内においては反革命派を検束しないこと。規定数以上のパルチザンを市内に入れないこと」だったのだろうとする。 

・一方、スモリャークが述べるソ連側の見解では、一応、日本側は交渉の席で、「人格と住居の完全な不可侵、白軍や官吏、政府機関職員を含む全市民の財産の不可侵。過去の完全な免責。新政権と同一の見解に立たない白軍の全将校と兵士は、日本軍司令部の保護下におかれ、航行が再開され次第、その護衛の下に自由に外国に出国する権利をもち、また出国にいたるまでの期間軍服を着用する権利を保持する」という保障を求めたが、パルチザン側はこれを認めなかった、としている。 

・原暉之もまた、ソ連側文献を根拠に、日本側からは「砲を日本軍にわたすこと。入市するパルチザンの数を制限すること。新政権と意見のあわない将兵は日本軍と日本領事館の保護を受け、解氷とともに出国する権利を保障されること」といった条件が出されたが、パルチザン側はこれをつっぱね、日本軍が折れて合意に達した、とする。

・これに関して、事件直後の宣誓証言から、引用する。 

◆グリゴリエフ中佐

「私は、町の引渡しに関する赤軍との交渉が、どのように始まったのか正確には知らない。秘密裏に行われていたからである。その後、我々(白軍司令部)の代表数人も参加した。これらの代表者は、ムルガボフ少尉とネムチノフ大尉である。これら軍の代表者に、町の代表者たちが加わった。町の代表者は、市長カルペンコ、市議会議長コマロフスキイ、ゼムストヴォ(地方自治会)の議長シェルコブニコフ であった。交渉が終ると、メドベーデフ大佐は会合を召集し、白水中将の宣言によって、日本軍は赤軍との交渉を始め、町を引渡すことを決定し、しかも引渡しの条件もすでに決定している、と文書を読み上げて、我々に伝えた。全部は憶い出せないが、最も重要なポイントは次のようなものであった。ロシア軍(白軍)部隊は、個々人の免責は保障される、そして、アムール河の航行が可能となったら、町を自由に離れることも許可される。日本軍は武器を保持するが、ロシア軍は赤軍が町に入る前に、武器と装備を日本軍に引き渡す。また、町の住民は、一切の免責と平和を保障される」 

◆E.I.ワシレフスキイ

「町を引渡すときの条件は、以下のようなものであった。日本軍は武器を保持する。ロシア軍(白軍)部隊は、パルチザン入市以前に日本軍によって武装解除され、全ての町の警備は一時的に日本軍によって代行される。ロシア軍のその後の処遇については、ソビエト政府の法律によって決定される。市民は、その自由を制限されることはない。この最後の項目は、希望的な表現になっていた」

◆S.I.バルナシェフ

「誰もが、『流血が起らない限り、日本軍は、権力の移譲に反対しない』という白水中将の声明に驚いた。日本軍は、休戦に合意した。一方ロシア軍(白軍)は、武装解除を要求された。合意によれば、ロシア軍派遣隊は、パルチザンの到着前に日本軍に武器を引き渡すこと、そして市内の治安維持活動も日本軍に引き継がれることになっていた。パルチザンとの戦闘に参加した者に対しては、全員の罪の免除が保障されていた」

◆V.N.クワソフ(女子学生)「降伏に関して、その条件案が話し合われました。それによると、逮捕されるのは諜報機関のメドベーデフ大佐と参謀長スレズキンだけとなっていました。全ての市民とその資産は、無傷で保全されることになっていました。この降伏に関する条件が、町中に張り出されました」

◆I.R.ベルマント

「合意では、日本軍は、日本人居留民ならびにロシア人を含む一般住民の、護衛権を保持することになっていた。その他の合意条件は、次の通りであった。パルチザンの到着以前にロシア軍(白軍)は武器を日本軍に引渡すこと、日本軍は武器の保有権を有すること、パトロールを継続できること、日本人所有の建物の護衛権を保持すること」 

 

3.2.3)ブラゴヴェシチェンスクの場合 

 

右下赤点がブラゴヴェシチェンスク(2007年のロシア地図)(Wikipedia) 

 

・ちなみに、ニコラエフスク開城交渉に先立つ2月5日、アムール川を遡った内陸部にあるブラゴヴェシチェンスクにおいても、政変が起こっていた。 

・赤軍が政権をとるにおよんで、白軍などは家族とともに日本軍に保護を求めてきたが、ここでは白水師団長が自ら赤軍側と交渉し、「一般人民の生命財産の安全を保障し、市内の安寧秩序を確保すること。市内にこれ以上の武装勢力を入れないこと」などを求めて、ついに呑ませ、白軍の軍人も助けた。 

・日本軍は政治的中立は守るけれども、治安維持に責任を持っている以上、ロシア人の生命、財産の安全にも口をはさむ、という姿勢だったのである。なお、ブラゴヴェシチェンスクでは1900年に清国人3,000人がロシア軍によって虐殺されるアムール川事件(※)が起きている。 

 

中国東北部とロシア極東部の国境地図。(引用:Wikipedia)

ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南にある赤い色の地域が「江東六十四屯」  

 

※アムール川(黒竜江)事件

 明治33年、義和団の乱が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。

 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵 約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に 清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。

 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。

これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、ナポレオン・ボナパルトをも征した世界最大最強のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。弁士が憤激し、聴衆も同調して床を踏み鳴らした。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。 

 

3.2.4)開城合意の波紋

・2月27日、ニコライエフスクの市民代表団と赤軍の間で、開城合意文書が調印された。同日夕刻、市のホールで報告会が開催され、代表団の1人、市議会議長のコマロフスキイが、開城にあたっての条件に関して市民に報告した。

・代表団のメンバーは、メンシェビキおよび社会革命党だったが、このとき、政治的に相容れないはずのボルシェヴィキ革命の勝利を、心から歓迎していた。 

・白軍のメドベーデフ大佐は、合意文書調印の夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、自宅に帰って自決した。参謀長スレズキンと、諜報機関の将校2人も、メドベーデフ大佐に習って命を絶った。・グートマンは、「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」としている。

 

3.3)日本軍決起の要因 

・パルチザンのニコラエフスク入城は2月28日正午に行われた。日本軍の決起は、3月12日未明に始まった。この項では、その間の状況とともに、決起に至った要因の研究状況をまとめる。 

 

3.3.1)赤軍支配下の尼港

・ニコラエフスクに入城したパルチザン部隊は、資産家の自宅や公共施設、アパートなどを接収し、分宿した。

・入城セレモニーの後、トリャピーツィンは、赤軍司令部によって、自身がニコラエフスク管区赤軍の司令官に任命されたことを宣言し、本部はノーベリ商会の館に置くことと、赤軍の人事を発表した。

・参謀長はナウモフ。レホフとニーナ・レベデワ・パウロウナ・キャシコが本部宣伝部門指導者。チェーカー3人、軍事革命裁判所メンバー5人、などである。 

・続いて、全公共機関には監視員が派遣され、印刷所が接収されて、町の新聞はすべて発行禁止となった。

・またすべての職場で労働組合を組織することが命令され、組合員に加入しなかったり、受け入れられなかった者は、「人民の敵として抹殺される」と発表された。

・同時に、チェーカーとパルチザン部隊の活動が始まり、公共機関、ビジネス界で重要な地位にある市民たちの資産没収、逮捕が発令された。 

・ソ連側文献によれば、2月29日、ニコラエフスクにおいて第1回州革命執行委員会が開催され、ロシア人が所有する大企業、銀行、共同組合を国有化し、ロシア人所有の小企業と外国人所有の大企業を監査して、必要な場合は徴発することが決められた。

・また組合員となった市民の労働に対しては、現物支給を行い、配給制が計画されていた。 

・最初の逮捕者は、400人を超えたといわれる。白軍の将校にはじまり、ついで白軍兵士や出入り商人、企業家、資産家、立憲民主党員、公務員、知識人、聖職者、個人的にパルチザンの恨みを買っていた者など、女性も年少の者も区別無く投獄され、拷問にあい、処刑された者も多数にのぼった。 

・銀行や企業、産業、商業の国有化が開始され、投獄された人々の資産は没収された。徴発委員会が組織され、個人宅に押し入って金銭、貴金属類などを奪ったが、それに名を借りて、個人的な略奪も横行した。逮捕者の数は増え続け、ニコラエフスクの住人は、パニックに陥っていた。

 

3.3.2)決起についての日ソの見解

・1920年6月30日、日本外務省公表の『尼港事件ニ関する件』によれば、ニコラエフスクにいた中国領事や惨殺を逃れたロシア人たちの話、新聞情報を総合して、日本軍決起の要因は次のようなものだった。

・「日本軍はパルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないこと、としていたが、パルチザンは約束を破って惨殺した。またパルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。3月11日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌12日正午と通告されたので、自衛上、決起した」 

・「西白利出兵 憲兵史」も、事件直後の外務省見解と基調は変わらず、決起にいたった状態を次のように述べている。

・「開城の合意条項において、ニコラエフスク市内では白軍であっても検束しない、ということになっていたにもかかわらず、入城するや否や、ほしいままに白軍、有産者を捕縛、陵辱、略奪し、日本軍に保護を願ってくる者が多数にのぼった。そこで、守備隊長の石川少佐は石田虎松領事と相談して、3月10日、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告したが、かえってトリャピーツィンは、日本軍に武器弾薬全部の貸与方を要求して、翌12正午までの回答を迫った」。 

・事件により、400名近い日本軍守備隊は全滅したにもかかわらず、ある程度、戦闘状況などがわかったについては、ニコラエフスクの廃墟から、香田1等兵の日記などが発見されたためである。原暉之は、香田日記の表現が、「武器弾薬ノ借受ヲ要求」となっていることから、トリャピーツィンが日本軍に武装解除を迫ったという日本側の見解に疑問をはさみ、次に述べるソ連側の言い分に理解を示す。 

・ソ連側、スモリャークの論文では、事件に関係した赤軍の1人、オフチーンニコフの回想録により、「赤軍と日本軍の関係は友好的なものであった。しかしながら、これは日本側が赤軍を欺いていたのである」とし、「日本軍は講和条約の条件を破り、突然攻撃してきた」と結論づけられている。

・これは、日本軍決起鎮圧直後に、トリャピーツィンがニーナ・レベデワ(ナウモフの死により参謀長になっていた)と連名で、各地に打電した声明文に基づいた回想と思われる。 

・トリャピーツィンは、日本軍との友好関係を、次のように宣伝していた。

・「日本軍将校達は、頻繁に我々の本部を訪れて、仕事をする以外に、友人であるかのように議論に加わったり、ソビエト政府に対する賛同を表明したり、自分達をボルシェヴィキと呼んでみたり、赤いリボンを服に着けたりしていた。彼らは、武器の供給であるとか、その他可能なあらゆる方法で、赤軍を援助すると約束した。しかし、後に明らかになるように、それは、計画していた裏切り行為を隠蔽するために、彼らが被った仮面に過ぎなかった」 

・これについて、虐殺を生き延びたE.I.ワシレフスキイは、1920年7月に、こう宣誓証言をしている。・「パルチザン本部への、日本軍の攻撃は、3月12日の午前2時か3時ごろに始まった。その攻撃の前に、日本軍の武装解除の通告に関する件と、パルチザン本部に来た日本軍の人たちに行った、赤いネクタイにピンを付けさせるような件による侮辱と、一連の挑発的な行動によって意図的にパルチザン達が、情報を流しているとの噂が、広まっていた」 

・アメリカ人マキエフは赤軍はニコラエフスク市街に侵入後、旧ロシア軍人、官吏等2,500名を捕縛し、そのうち200名を惨殺するなどの暴虐を行ったため、日本守備隊長が抗議を申込むと赤軍は却て日本軍の武装解除を要求し、日本守備隊長がこれを拒絶しついに日本軍と赤軍との間に戦闘が開始されたと証言している。

 

3.3.3)宣誓証言に見る決起の要因

・事件生存者による1920年の宣誓証言から、日本軍決起の要因に関する部分を次に引用する。 

◆Ya.G.ドビソフ

「噂によれば、日本軍は、武器引渡勧告に対して、それを議論するために軍事会議を開かなければならない、旨を回答した。3月11日の夜に、参謀長ナウモフは石川を呼び、鋭い語気で、『交渉は、もう時間切れだ。もし、明日の11時までに武器を引渡さない時は、こちらも必要な処置を取る』と、彼に言った。私はこの話を、パルチザン本部で聞いた」 

◆G.B.ワチュイシビリ(グルジア人)

「3月10日に、日本軍は、『引渡しの条件の下では、ボルシェビキは何人をも逮捕することはできない。赤軍の処刑による“人々の抹殺”のような暴力行為が行われた場合には、日本軍は、それに対して行動を起こすであろう』と、書かれたビラを配った(同様のものが、赤軍が町に入る以前にも、配布されていた)。にもかかわらず、逮捕は続き、その数は日増しに増えていった。3月11日の晩に、赤軍は、反革命による犠牲者の葬儀を、翌12日に開催するので出席するようにとの招待と、その日の昼までに、保有する武器を引渡すようにとの勧告を、日本軍司令部に通達した」 

◆V.N.クワソフ

「3月12日午前2時、私たちは、大砲、機関銃、ライフルの音で目を覚ましました。そして、眠れぬ一夜を過ごしました。翌朝、日本軍が、赤軍の武装放棄要求を拒否して、攻撃を開始したことがわかりました」 

◆I.R.ベルマント

「3月11日午後5時、島田鉄工所の管理者で日本人の森氏が、電話をかけてきた。すぐに来てくれ、という。行ってみると、彼は、龍岡氏から今聞いたばかりだという話をした。軍関係者によると、トリャピーツィンが日本軍に対し、武器および機関銃を3月12日正午までに放棄せよ、と要求してきたと言う。私は尋ねた、『どうなるのだろうか?』『私の考えでは、日本軍司令部が武器を放棄するはずがない。その先どうなるかは、私にも見当がつかない』と、彼は言った」 

◆『ニコラエフスクの破壊 』の著者グートマンは、上のような証言を含む調査報告書をもとに、「日本軍本部は、血に飢えた人々に接収された町の中で、ボルシェビキの残虐な行為に対して、不平を言い、住民を困難な状況での避けがたい死から救うことを喜んでしようとする唯一の人間的な公共機関であった」とし、およそ次に要約するようなことを述べている。

「赤軍が開城合意条項を裏切り、文化教養のある層を殺戮している中で、ロシア人はひそかに日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちではないかと不安を訴えた。日本軍は、毎日のように、合意遵守の必要を赤軍本部に訴え、略奪、殺人、拘束に抗議したが、無視され続けた。そこで、『日本軍と赤軍との合意条件の下では、市民の殺人、逮捕、資産の略奪は許されない』というビラを刷って配ったが、パルチザンによって破棄された。日本軍将校が、トリャピーツィン本人に抗議したときには、『内政問題なのであなた方には関係がない』と言い捨てた。しかし、トリャピーツィンにとって日本軍は邪魔だったので、挑発して片付けてしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけた」 

◆『ニコラエフスクの破壊 』の米訳者エラ・リューリ・ウイスエルも、次のように述べている。

「ソビエト政府は、残酷な結末となった日本軍守備隊によるパルチザン部隊攻撃が、トリャピーツィンの挑発行為によって誘発されたものであることを絶対に容認しなかった。ソビエト側の文献では、ニコラエフスク占領は、英雄的パルチザンによる誉れ高い偉業として言及されている」 

 

4)戦闘と虐殺 

 

   

市街外れに日本軍兵営、中央に島田商会、アムール川沿いに日本領事館、第二陸軍病院分院(日本軍)、

川面には中国艦隊が描かれている。(引用:Wikipedia) 

 

・日本軍決起にともなって、日本人居留民のほぼ全員が惨殺された。しかしソ連側文献は、「居留民の死は決起した日本軍にあり、パルチザン側にはない」という見解をとっている。

・原暉之はこのソ連側の見解を受け、参謀本部編『西伯利出兵史』の「戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったような書き方」に疑問を呈している。

・この項では、決起後の日本軍の戦闘を追うとともに、居留民虐殺の状況についてまとめる。 

 

4.1)戦闘の経過

4.1.1)日本軍戦闘序列

・ニコラエフスクにおける日本軍の兵力概数と配置は、以下のようだった。

所属

兵力

所在

指揮官

陸軍守備隊

290

日本軍兵営

石川正雅少佐

陸軍憲兵隊

15

アムール河畔の宿営

 

海軍無線電信隊

40

日本領事館

石川光儀少佐、三宅駸吾少佐

在郷軍人など

70

各所に散在

 

 

4.1.1)赤軍本部襲撃

・計画は、およそ以下のようなものであったのではないか、と推測されている。 

・陸軍部隊のうち、水上大尉率いる90人ほどが赤軍本部とその護衛部隊(ノーベリ商会と市民倶楽部)を襲撃。石川陸軍少佐は、60人ほどを率いて、赤軍本部付近の掃討をなしつつ北方から赤軍本部を攻撃する。・後藤大尉率いる90名ほどについては、監獄を襲って、赤軍に捕らえられていた白軍や市民を解放しようとしていたのではないか、とされる。 

・海軍部隊は、半分が赤軍本部の襲撃に参加し、半分は領事館の警備に残った。

 ・日本軍は3月12日未明、赤軍本部を襲った。

・参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。 

・しかし、クンストアルベルト商会を宿舎としていた赤軍副司令ラプタは、攻撃の圏外にいて、ただちに分宿したパルチザン部隊に連絡をとり、指揮をとった。

・市街戦となり、数に劣る日本軍は劣勢となっていった。市街戦は、ほぼ2日間続いた。 

・島田商会は、赤軍本部に近かったこともあり、ここに立てこもった部隊もいたとされる。石川陸軍少佐がまず倒れ、12日夕刻、配下の生存者13名は、3等主計の指揮のもと、兵営に帰り着いた。 

・水上大尉も、部下の過半数を失い、ある家屋にたてこもって闘っていた。同日、負傷兵3名がスヤマ歯科医のもとに身を寄せたが、パルチザンは大家のアヴシャロモフ一家を追い出すと家に火を付け爆弾を投げ込んだ。外に飛び出した日本兵は殺害され、歯科医は爆弾で首を吹き飛ばされ、夫人は焼死した。

 

4.1.2)中国海軍による日本軍兵営への艦砲射撃 

 

(引用:Wikipedia) 

 

・3月14日早朝、パルチザン部隊は、日本領事館を包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲とガトリング砲で攻撃した。 

・グートマンは、包囲突撃に参加したパルチザンの、次のような話を紹介している。

・「石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得をはじめたが、一斉射撃が浴びせられ、領事は血まみれで倒れた」

・しかし一方でグートマンは、生き延びた領事館の使用人が、「領事は妻と子供を射殺し、火を放って自殺した」と語ったとも記している。 

・領事館の隣人・カンディンスカヤ夫人は、ボルシェビキからの保護を求めて領事館に駆け込んだところが、領事は「領事館の日本人は死を覚悟している。あなたが生存を望むなら早くお逃げなさい」と言い、また領事夫人は、子供に晴れ着を着せながら泣いていた、といった証言を行っていることから、結局、グートマンは、領事と夫人は最初から死を覚悟していたのだろう、と結論づけ、しかし、領事館の火災については、パルチザン部隊が投げた手榴弾によるものだった、としている。 

・当初、日本に伝えられた話では「石田領事は三宅少佐と差し違えて死んだ」ということだったが、石田領事などの遺骨を日本へ持ち帰った和田砲兵大尉によれば、「三宅少佐は領事館に押し寄せた敵に最後の戦いを挑んで、銃弾に倒れた」ということである。

・ともかく、領事館は炎につつまれ、領事館を守護していた海軍無線電信隊は、石川少佐、三宅少佐以下、全員戦死。石田領事とその妻子、領事館にいた在留邦人も、すべて死亡した。 

・グートマンは、このとき、「凍結した港内にいた中国砲艦は、日本領事館の方向から突進してきた日本軍兵士と日本人居留民に発砲し、人々は、パルチザンと中国人の十字砲火の中で、全員死亡した」としている。

・これについて、グートマンと同じ生き延びたロシア人からの聞き取り調査を資料としたと思われる石塚教二の『アムールのささやき 』は、「憲兵隊と合流していた後藤隊の残存者たちが、領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたところ、砲艦は居留民に発砲したので、後藤隊は砲艦に突進して全滅した」と解釈している。

・井竿富雄山口県立大学教授も中国軍は助けを求める在留邦人を撃ったとしている。 

・なお、グートマンは、日本軍の戦闘について、こう書いている。「明らかに、日本軍は、無用な血を流すことを意図してはいなかった。あらゆる可能性の中で、日本軍が目標としたものは、単にパルチザンの武装解除であった。 

・このことは、日本軍に取り囲まれた建物のパルチザンの多くが、殺されていなかったのみならず、傷ついてさえもいなかったという事実がこれを説明している。 

・パルチザンによる報告では、日本軍は、単に彼らの武器を持ち去り、彼らを自由にさせた。

・9人の医助手が、巡回裁判所の反対側の建物で逮捕された後、解放された。

・建物に駆け込んだ時、日本軍兵士たちは、単にそこに武器があるかを質問したのみで、否定的な返事を受け取ると、彼らはロシア人を害することもなく立ち去った」 

 

4.1.3)日本軍武装解除

・領事館が焼け落ちた後、生き残った日本兵は、守衛のため兵営に残っていた者、帰り着いた者をあわせて、およそ80人あまりだった。女性を含む民間人も13人ほどが兵営に逃れてきていて、ともにたてこもっていた。また、アムール河畔の第二陸軍病院分院に、分院長内田1等軍医以下8人、患者18人がいた。 

・香田日記によれば「数門の砲および中国砲艦より砲撃を受け、兵舎の破壊は凄惨をきわめた」ということで、大隊本部は破壊されたが、中隊兵営に立てこもった100人ほどは、河本中尉の指揮下、四昼夜の籠城戦に耐えていた。 

・ところが3月17日夕刻、突然、パルチザン側から、ハバロフスクの山田旅団長、杉野領事の名入りの電報を提示された。この電報は、ハバロフスクの革命軍司令官ブルガルコフと外交部長ゲイツマンが、山田旅団長と杉野領事に対し、「ニコラエフスクで戦闘が起こっているので、おたがい戦闘中止に尽力しようではないか」ともちかけ、評議の上、4人の連名で、日本軍とトリャピーツィン双方に、中止を勧告したものだった。 

・3月18日、河本中尉は「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と述べて、戦闘を中止した。

・ニコラエフスクでの日本軍最高級者になっていた内田一等軍医が、武装解除を決め、民間人をも含めて兵営に立てこもっていた全員、そして軍医以下の衛生部員もみな、監獄に収容され、衣服も奪われ、過酷な労役を課された。 

・3月31日にニコラエフスクを脱出しアレクサンドロフスク・サハリンスキーに逃れてきたアメリカ人マキエフの当時の証言では拘禁された日本人の待遇は日々冷酷を極めつつあり、その惨虐行為は外部に対し極力秘匿されていたが今や1人も生残るものはないであろうと語っている。

 

4.2)日本人虐殺

4.2.1)グートマンによる総括

・グートマンによれば、パルチザンが最初に襲った日本人居留民は、花街の娼妓たちだった。

・「残酷な獣の手で見つけ出された不幸な婦人に降りかかった災難については、話す言葉もない。泣きながら、後生だからと婦人は、拷問者と殺人者に容赦を嘆願し、膝を落とした。

 しかし、誰も恐ろしい運命から救うことはできなかった。別の婦人は、かろうじて着物を着て通りを駆け出し、その場でパルチザンに銃剣で突かれた。通りは、血の海と化し、婦人の死体が散乱した」 

・また、即座に殺されなかった女性と子供についても、運命は過酷だった。

・「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた」 

 

4.2.2)『出兵史』に対する原暉之の疑念

・パルチザンによる日本居留民の虐殺について、『西伯利出兵史要』は、次のように述べている。

・「敵は、わが軍の攻撃を撃退するや、直ちに市内の日本居留門を襲ってその全部を虐殺し、その家産を奪った。屈強の男だけというならまだしもの事、なんら抵抗力なき老若婦女もことごとく虐殺せられたのである。

・はなはだしきに至っては、小児なぞ投げ殺されたものもあるとの事で、その残忍凶悪ほとんど類を見ないのである。かくて彼らの魔手をのがれ幸に兵営に遁るるを得たものは400有余名の居留民中わずかに13名にすぎないのである」 

・これに対して原暉之は、「たしかに三月の戦闘時点で尼港日本人居留民の一部が略奪されたり殺されたりしたことは否定できない」としながら、全体としては、軍隊と行動をともにしての戦死と敗戦の過程での集団自決が多かったのではないか、と憶測する。 

・原が、その根拠としているのは、主に以下の三点である。

①まず、現地入りした外務省の花岡止朗書記官の、6月22日付け内田外相宛報告に、「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」と書かれていること。

②次に、救援隊の多門大佐が、ニコラエフスクを脱出してサハリンに現れたアメリカ人毛皮商人から、「脱出するとき、知り合いの日本人を誘ったが断られた。日本人はみな一団となって日本軍とともに抵抗する決心をして、知り合いの日本人も島田商店に立てこもった。憲兵隊の宿営も全焼したが、居留民も兵士と共に火中に身を投じた」というような話を聞き、5月6日付で参謀本部に報告していること。

③最後は、領事館の二人の海軍大佐が自決したともいわれ、また石田領事が妻子を道連れに自決したのではないかと推測されること、である。 

・原暉之が理解を見せるソ連側言い分の基本には、日本軍決起の要因と同じく、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ連名の宣伝電文がある。

・「日本軍の主力部隊は、日本領事館、兵舎、守衛隊本部に集結された。さらに、本隊から切り離されてしまった兵士達は、日本人が居住していた全ての家屋で籠城した。日本人居留民の全員が武装し、攻撃に参加していた」と、彼らは各地に打電していたのである。 

・トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、仲間割れによって処刑されるが、そのときの人民裁判の罪状に、日本人居留民の虐殺は含まれていない。 

 

4.2.3)生き残った人々の証言 

 

アムール河岸に打ち上げられた虐殺死体(引用:Wikipedia) 

 

・原暉之の疑念に関して、パルチザンと生き残ったニコラエフスクの人々の宣誓証言を引用する。 

◆P.Ya.ウォロビエフ(パルチザン)

「トリャピーツィンの裁判には、私は副議長として参加したが、次の事実が確かめられた。トリャピーツィンへの奉仕活動の中で、委員となるためには、少なくとも18人の人間を殺さなければならなかった。(中略)裁判で、トリャピーツィンが何故、そして何の罪で日本人居留民は殺されたのか、と尋ねられた時、彼は、『あなた達はもっとよく知るべきだ。あなた達が殺人を行ったのだ』と、答えた。そして私の、『しかし、あなたはその結果に対する命令を発しなかったか?』という質問に対して、『いいえ』と、答えた。しかしその間に、例外なく全ての日本人居留民を殺すこととの命令の書かれた、ウスチ・アムグン連隊司令官へ宛てに出された、トリャピーツィンとニーナの署名のある文書が存在した」 

◆S.D.ストロッド(学生)

「日本軍の攻撃の間に、女子供も慈悲のかけらもなく殺された。近所の人が、日本人女性2人と、子供2人がアムール河の方へ連れて行かれるのを見た、と言っていた。(中略)3月16日に、アムール河岸に放置されている死体の中に、兄がいないかと、探しに行った。死体の数は大変な数であった。最初の山には30体が積み上げられており、その多くは日本人の男女であった。1体だけロシア人の死体が混じっていた」 

◆Ya.G.ドビソフ

「私は後に、『お前が日本軍に隠れ家を提供したから、やつらはそこから発砲してきた』という口実で、多くのロシア人が、パルチザンによって殺されたことを知った。また彼らは、平和的な日本人居留民の家に押入り、金目の物を要求した後、彼らを殺した。日本人居留民は、攻撃に参加していなかったばかりでなく、攻撃があることさえ知らされていなかった。もし、日本軍司令部が居留民に、これから起こることを警告したり、武器を与えたりしていたら、後に起こったようなことは起こらなかったであろう。その場合には、おそらく、パルチザン達は持ちこたえられなかったであろう。監獄と民兵営舎に収容されていた800人を超える囚人が、解放されていたに違いないからである。しかしあいにく、女子供を含めて、日本人居留民はすでに全員殺されていた。私自身、多くの囚人がどこかに連れ去られるのを見た。その後、銃声と打撃音、悲鳴が聞こえてきた」 

◆A.P.アフシャルモフ(学生)

「日本人居留民は、日本軍による攻撃を、全く誰も知らされていなかった。それどころか、予測すらしていなかった。日本人の歯科医嵩山は、隣の叔父の家に住んでいた。パルチザンが我が家に来て、日本人が住んでいないか尋ねた。誰もいないと答えた。すると、隣の叔父の家へ行った。そして、ことは起った。叔父の家から銃声が聞こえた。パルチザン達は、叔父家族に外に出るように命令し、手榴弾を投げ込んだ。手榴弾3発が爆発した後、彼らは家の回りに干し草を置き、それに灯油をかけて、家に火をつけた。私は、この様子をずっと、窓越しに見ていた。家に火が放たれると、歯科医とその妻の側に、逃げ込んでいた3人の負傷兵がいたことがわかった。その3人の日本人は、炎の中を飛び出して来て、射殺された。歯科医は、爆発で吹き飛ばされて首がなかった。彼の妻は、焼死した。リューリ家の門のところで、日本人乳母の死体を見かけた。中国人パルチザンは、日本軍兵士の死体をあざけりながら、銃の台尻で、頭蓋骨を砕いていた」 

◆E.I.ワシレフスキイ

「日本領事とその家族は殺され、領事館は焼け落ちた。この攻撃に関与したしないに関わらず、女子供を含め、全ての日本人居留民が虐殺された。人々は、ベッドからたたき起こされて殺された。日本人の時計修理工も、自宅のすぐ近くで、同じように殺された。日本人居留民の行動をみていると、我々ロシア人と同様に、まさに寝耳に水、という様子であった。この未明の攻撃に関して、彼らは何も知らされていなかった、としか思えなかった」 

◆S.I.パルナシェフ

「日本人居留民の中に、この攻撃に関して、未決定の段階での情報を与えられたものは、いく人かはいたかもしれないが、大多数の日本人は、全く知らされていなかった。多くの人達が、その時までに義勇隊から動員が解除されていた。日本人居留民は、女性や子供を含めて、寝ていたベッドから掴み出されて、あるいはその場で、あるいは通りに連れ出されて、殺された。監獄に連れて行かれ、殺された者も大勢いた」 

◆N.K.ズエフ(学生)

「日本軍の攻撃中の3月12日か13日か(おそらく12日)朝10時に、パルチザンがラマキンの家に入って行った。そこには、6人の日本人が住んでいた。彼らは軍人ではなく、ただの職人であったが、全員が剣で斬り殺された。午後4時頃に、彼らの内、2人の男女が意識を取り戻した。指を切り落とされ、血まみれのまま何とか我々のフェンスにたどり着き、助けを求めて我が家に駆け込んできた。数人のパルチザンが、我が家の一階に住んでいた。そして、日本人が内側にたどり着く前に、銃を持って飛び出して行った。日本人は、膝を着いて叫んだ。『殺さないでくれ。何でも話すから』 しかし、この願いは無駄だった。パルチザンは、女を撃ったが、あまりに頭に近づけて回転銃を撃ったため、髪の中に額の部分が陥没した。それから、男を撃った。死体は、裏庭に3日間放置された。夕方、パルチザンの一人の中国人が、日本人のズボンを脱がしていたが、古くて擦り切れているのを見て、投げ捨てた」 

◆G.B.ワチュイシビリ

「3月12日の午前2時、日本軍の攻撃が始まった。日本人居留民はこの攻撃には参加しておらず、その計画さえも知らされていなかった。それにもかかわらず、パルチザンは、日本人居留民に突進し、彼らをベッドから引き摺り出し、外に連れ出し、資産を略奪している間に、有無を言わせず殺した。日本人の床屋と時計修理工とその子供は、私の家の通りを挟んだ向かい側に住んでいた。8時頃、彼らは家から追い立てられ、私の家の前を連行されて行った。12歳から14歳の4人の子供が、逃げようとした。中国人パルチザンが、後を追いかけ、4人とも射殺した。私の家から、川口乾物店まではそう遠くはなかった。3月12日の夜、中国人、朝鮮人パルチザンが、川口商店のドアを壊して、店を略奪し、住んでいた4人の事務員を殺した」 

◆I.R.ベルマント

「私は、日本人の一般住民が、攻撃に関しては何も知らなかったことを事実として知っている。日本人の女性達が、パルチザンに向けて発砲した、などというのは、全くの事実無根である。パルチザン達から聞いたのだが、朝鮮人と中国人パルチザンは女、子供もかまわず、狂ったように日本人を殺した、もっともロシア人の中にも、50歩100歩の輩もいたが、という。多くのパルチザンが、自分の戦果を自慢し合っていた。しかし、そうすることに憤りを感じているパルチザンが大勢いたことも、事実である」

◆A.リューリ(エラの祖母)

「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」 

◆I.I.ミハイリク(会計係)

「日本人居留民は、日本軍の攻撃には参画していなかった。これは、知っているパルチザンから聞いたのだが、他にも彼らが逮捕した日本人についても話してくれた。例えば、床屋の森とパン屋の百合野は、寝ていたベッドから裸のまま連行された。森は、『何故、私たちを殺すのか? 私たちは敵じゃない。ロシア人市民がそうであるように、もう長い間、あなた達と一緒に暮らしているし、一緒に仕事もしている』と言って、何とか助けてくれと懇願した。しかし、何の効果もなく、彼らは殺された。女、子供でさえも殺された。私は、腕に子供を抱えた女性達が、通りを連れて行かれるのを目撃した、彼女たちは、足を取られては、雪の上で転んでいた。そのたびに、早く立て、と銃尾で小突かれていた。彼女たちは、民兵隊の営舎に連行されて行った」  

 

4.3)ロシア人虐殺

・日本軍の決起に至るまで、赤軍が投獄した人々の処刑は、一応、赤軍裁判の手続きを経て行われていた。しかし、3月12日未明から14日の夜中の12時まで、3昼夜の間、裁判、審理なしで、一般住民の処刑が許されていたことが、残された書類でわかる。

・その書類と同時に、8日付けで、監獄の向かいの家に、死刑執行にあたった赤軍第1中隊の宿泊願いが出されていることから、グートマンは、「赤軍は、日本軍決起を挑発し、同時に手続きなしの市民殺戮を企てていたのではないか」と推測している。 

・日本人居留民の虐殺が始まると同時に、町の監獄と軍の留置所では、投獄されていた人々の惨殺がはじまった。監獄にいた160人のうち、生き残ったのは4人のみである。

・パルチザンは、銃弾を節約するために、囚人を裸にし、手を縛り、裏庭に連れ出して斧の背で頭を打ち、銃剣で突き、剣で斬った。

・死体は、町のゴミ捨て場に捨てられるか、アムール川の氷の中に投げ込まれた。街中で、一般の人々の家に押し入った場合は、銃殺した。資産家の妻から坑夫の娘まで、女性にも容赦がなかった。 

・3月12日から16日までの5日間で、殺された日本人とロシア人の数は、1500人にのぼった。

・ロシア人のうち、600人は、企業家や知識人層として、町の誇りとなり、もっとも尊敬されていた人々だった。 

・続いて引き起こされる大量殺戮前の3月31日にニコラエフスクを脱出したアメリカ人マキエフは過激派がロシア人も日本人も関係なく掠奪惨殺を行い罪なき婦女子を銃剣で蜂の巣のごとく刺殺するのを目撃している。 

 

5)中国艦艇による砲撃問題

5.1)事件当時の判断

・中国艦隊が日本軍を砲撃した件については、6月に日本軍の救援隊がニコラエフスク入りした直後、香田一等兵の日記ではっきりと確かめられ、生き延びたロシア人の証言も多数あって、調査が進められた。

・6月8日、中国海軍吉黒江防司令王崇文海軍少将は石坂善次郎陸軍少将を訪れ配下の砲艦3隻はいまだ尼港にあるため確認は取れていないが調査を行っているので真偽は判明するであろうと答えている。 

・香田一等兵の日記が記した中国砲艦の砲撃は、「日本軍の兵営攻撃」と「後藤隊の残存者が砲撃によって全滅させられたようだ」という二点である。

・これに対して、中国側の資料としては、砲艦利捷の副官だった陣抜の回顧談を記述した『ニコラエフスクの回想』が残っているが、関与は認めながら、直接的な砲撃ではなく「パルチザン部隊に砲を貸し出した」ということになっている。 

・陣抜の回顧談によれば、以下のようなことになる。

・「中国艦隊は幾度も日本軍に行く手をはばまれ、白軍と日本軍に好意を持ってはいなかった。ニコラエフスクにパルチザンが進駐してくると、すばらしい軍隊だと感動し、友好関係を持った。12日夜、ニーナ・レベデワから日本領事館を攻撃するために大砲2門を借りたいと申し出があって、陣世栄艦長が江亨艦の3インチ舷側砲1門と利川艦のガトリング砲1門を貸し、側砲の鋼鉄弾と榴散弾それぞれ3発、ガトリング砲の砲弾15発を与えた」 

・日本政府は、北京政府に共同調査を申し入れ、9月、両国の委員がニコラエフスクにおいて中国艦隊の関与を確かめた。調査内容は公表されなかったが、当時の新聞報道によれば、日中間には、砲艦の乗員が上陸していたかどうか、直接的荷担か間接的荷担かで、事実認識にくいちがいがあったとみられる。

・10月26日、この共同調査の結果に基づき、小幡公使は北京政府に以下の和解案を示した。

①中国政府が遺憾の意を表すこと

②中国砲艦の艦長が日本軍司令部に遺憾の意を表すこと

③関係将校下士卒の処罰

④中国艦の砲撃によって死亡した日本人遺族に慰謝料を支払うこと 

・北京政府は、このうちの1と4に難色を示した。しかし年末に至って、中華民国政府は、共同調査報告書の字句修正(陸上交戦を武器貸与に変更)と、報告書と公文書の非公開を条件に、全項目を受諾し、三万元の慰謝料を払うこととなった。 

・陳世栄艦長は「解任して永久に叙任せず」という処分を受けたが、李良才(陳季良)と名を改めて再び任務につき、文虎勳章を授与され将官に昇進すると第1艦隊司令などの重職を任され没後は上将を追贈された。

・また、共同調査の報告書が「武器貸与」に修正されたことから、現代の中国では関与は直接的なものではなく、間接的なものであった、と認識されている。 

 

5.2)事件後の総括

・デロ・ロッシ新聞編集長アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマンが事件を総括した『ニコラエフスクの破壊 』では、中国砲艦とパルチザンは領事館から逃れてきた日本兵と避難民に対して砲撃を行い、その十字砲火によって全滅させたとしている。 

・中国砲艦利捷の副官・陣抜の回顧談では、パルチザン部隊は日本領事館砲撃を目的に中国軍から艦載砲とガトリング砲を借り受け、使用法を教授されて、領事館砲撃を実行したとしている。 

・また、石塚教二の『アムールのささやき』では、パルチザンは領事館と日本軍兵営を砲撃したとしており、後藤大尉隊については領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたが砲艦が居留民に発砲したため、後藤隊は砲艦に突進して全滅したとしている。

・2009年に発表された井竿富雄山口県立大学教授の論文『尼港事件と日本社会、一九二〇年』でも中国軍の軍艦は助けを求める在留邦人を撃ったとしている。 

・中国評論新聞網(2010年8月27日付)は陳世英が江享の艦載砲を紅軍に貸与し、この砲撃により日本領事館などが炎上したとしている。現在、中国共産党機関紙人民日報の国際情報紙「環球時報」は、日本政府の要求を受諾した当時の中華民国政府を軟弱無能であるとしている。 

 

6)大量殺戮と焦土化 

・グートマンによれば、トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。

 

6.1)大量虐殺と破壊

 

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書(引用:Wikipedia)

「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

 

・ニコラエフスクでは、日本軍決起に続く市民虐殺の後、一時、手続きのない殺人は行われなくなっていた。3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催された。

・大会では、ハバロフスクにおける革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、トリャピーツインの独裁的な革命体制が確立されようとしていた。

・配給制度が推し進められ、挑発は日常茶飯事となり、恣意的な逮捕、投獄は続いた。 

・そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツインを批判し、ブードリンは逮捕された。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑にはならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。 

・ニコラエフスクの惨事を知った日本軍は、赤軍との妥協的な態度を捨てた。4月4日、ウラジオストクにおいて、日本軍の歩哨が射撃を受けたことをきっかけに日本軍は軍事行動を起こし、赤軍に武装解除を求め、ウラジオストクの赤軍はこれを受け入れた。

・ハバロフスクでは戦闘が起こったが、4月6日には日本軍が勝利をおさめ、赤軍は武装解除された。 

・4月29日になって、日本はウラジオストク臨時政府と、以下のような条件で講和した。

・「ロシアの武装団体はどのような政治団体に属するものであっても日本軍駐屯地およびウスリー鉄道幹線ならびにスーチャン支線から30キロ以内には侵入できない。また、この圏内のロシア艦船、兵器、爆弾その他の軍需材料、兵営、武器製造所など、すべて日本軍が押収する」。 

・日本軍が赤軍を武装解除した4月6日、ちょうど極東共和国が樹立され、ソビエト・ロシアの了承のもと、ロシア東部、シベリア一帯が独立した民主国家を名乗って、日本を含む連合国側に承認を求めた。・ソビエト・ロシアとの間の緩衝国家となり、日本に撤兵を呑ませようとしていたのである。極東共和国のこの目的からしても、赤軍の武装解除は、受け入れを拒否する問題ではなかった。 

・ニコラエフスクには、4月20日ころから、ハバロフスクにおける日本軍と赤軍との戦闘の噂が届きはじめた。やがて、ハバロフスクの赤軍は武装解除されたこと、解氷とともに日本軍は確実にニコラエフスクへ至ることなど、詳しいことが伝わった。

・赤軍の武装解除、極東共和国の樹立は、トリャピーツインには思惑外であり、ただちに、全権が執行委員会から革命委員会に移され、非常態勢がとられた。 

・最初に行われたことは、アムール川の日本船の航行を妨害するため、障害物を置くことである。バージを航路に沈めるため、女子供までがかり出され、重労働に従った。

・また、資金もつきていて、トリャピーツインは新ソビエト紙幣を刷った。中国商人はこれを受け取ろうとはせず、必要物資を調達するためには、金塊で支払うしかなかった。

・しかし、貯金が封鎖され、全紙幣の廃止、新ソビエト紙幣へ交換するための期限設定が布告されると、逮捕を怖れた人々は、争って交換した。交換された旧紙幣は、革命委員に分配された。 

・女性たちは強姦された。朝鮮人部隊の中隊長はある漁業経営者の娘を強姦すると翌日には音楽会で歌うことを強制した。その後、この少女と幼子も含めた家族全員はバージからアムール川に突き落とされた。また、女性教諭も強姦され、多くの少女達は恐怖の下でパルチザンと同棲することを強制された。 

・革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツインとニーナ・レベデワは、「パルチザンとその家族をアムグン川上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼きつくす」という提案をし、了承された。

・それは秘密にされていたが、噂が流れ出した。5月20日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民がみな、全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴ(マヴォ)へ移動した。 

・この直後、21日の夜から、逮捕と処刑がはじまった。日本軍決起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が投獄され、次々に処刑された。

・80歳の老人から1歳の子供、弁護士や銀行家から郵便局員や無線局員、ユダヤ人は名指しで狙われていたが、ポーランド人やイギリス人も、無差別に殺された。21日から24日までの間に、3,000人が殺されたのではないか、と言われている。 

 

シベリア上空を飛ぶ日本軍機『救露討獨遠征軍画報』より(1919年2月1日に描かれたもの)

(引用:Wikipedia) 

 

・5月24日、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名、合計122名が、アムール河岸に連れ出されて虐殺され、さらには、病院に収容されていた傷病日本兵17名も、ことごとく殺された。

・日本の救援隊は、生存者の生命の安全を確保するために、交渉する用意はあったが相手がつかまらず、意志を伝えようと、海軍の飛行機を使ってびらをまいた。

・目的は果たせなかったが、元気づけられた人もいた。

・父、姉、弟を殺された女子学生V.N.クワソワは、こう語っている。

・「5月29日、日本軍の飛行機が飛んできて、市民を元気づける内容の、宣伝ビラを散布していきました」 

・住人は、街から逃げ出して、近郊の村やタイガへ隠れたが、赤軍は武装探索隊を出して殺害してまわった。殺戮は10日間続き、ケルビへの移動がはじまった。町を離れるには通行証が必要で、もらえなかった人々は、殺される運命にあった。

・町の破壊は、28日にはじまった。最初に川向こうの漁場に火がつけられ、30日には製材所が焼かれ、31日には、町中が炎につつまれた。

・その間にも、虐殺は行われた。建物に閉じ込めたまま焼き殺し、バージに乗せて集団で川に沈めた。最終的に、何千人が殺されたのか、正確な数は不明である。 

・ニコラエフスクを破壊した理由について、パルチザンだったP.Ya.ウォロビエフは、次のように証言している。

・「町を破壊した理由は、形成される政府の可能性を妨げることにあった。もし、町に住民が残っていれば、彼らの多くは日本軍の保護の下で、政府を作り上げることは確かである。しかし、もし町に誰もいなければ、日本軍は冬期に滞在することができずに、去ってしまうだろう」 

・事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名とされている。民間人については、領事館が消失して書類がなく、後日、政府が全国の町村役場に照会して調査したが、つかみきれず、さらに多いのではないか、とも考えられている。 

・この無差別な殺戮から逃れることができた人々の中には、個人的に中国人の家にかくまわれたり、中国の砲艦で脱出させてもらったりした場合が多くあった。日本人も、中国人にかくまわれた16人の子女が、中国の砲艦によってマゴへ逃れ、かろうじて命拾いをした。ニコラエフスク市内にいて助かった邦人は、単身自力で市外へ逃れ出た毛皮商人が一人いたことをのぞいて、これがすべてである。 

 

6.2)救援部隊の出動 

 

    

救援隊を指揮した多門二郎大佐(写真は陸軍中将時) 第三艦隊司令長官野間口兼雄中将

(引用:Wikipedia) 

 

・ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘中止要請をした手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めた。それに応じてトリャピーツィンは、電報を打った。

・さらに後日、参謀長ニーナ・レベデワと連名で、モスクワをはじめ、イルクーツク、チタ、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、アレクサンドロフスク、ペトロパブロフスクなど、各地へ、長文の声明文を打電したが、内容の骨子は、最初のものと似たものだった。 

・長文の声明の冒頭は、「ニコラエフスク管区赤軍本部は、ここに、ニコラエフスク・ナ・アムーレにおける日本軍による攻撃という血なまぐさい事件を、全ての者に報告する。さらに、事件の詳細および事件に先立つ諸事情についても、情報提供する。それによって、我々との平和協定締結後に、ソビエト赤軍に対し背信的攻撃を加えた、日本軍の裏切り行為と犯罪の本性が、明確に暴露されるであろう」というもので、さらに、「日本人居留民の全員が武装し」、「兵舎に立てこもった130名の日本軍が白旗を揚げて武器を放棄したので捕虜として捕らえた」以外は、「武器を取った日本人のほとんどが戦死した」とあった。

・ちなみに、赤軍側の死者は50名、負傷者は100名以上としている。 

・最初に、トリャピーツィンの電文の現物に接したのは、ペトロパブロフスクの塩田領事館事務代理で、3月18日、「電文を見たところ、ニコラエフスクで戦闘があり、在留民およそ700名が殺され、100名が負傷し、司令部、領事館、その他邦人家屋はすべて焼き払われたのではないか」と、内田外務大臣に打電した。

・21日には、トリャピーツィンの電文がウラジオストクの新聞に載り、それを見た海軍第5戦隊司令官より海軍省へも、ニコラエフスクにて異常事態発生の連絡があった。 

・その後、当局が各方面から情報を集め、早急な救援隊の派遣が決定された。まずは、すでに2月、第7師団より編成されていた増援隊を、アレクサンドロフスクへ派遣して、解氷を待つこととした。

・この部隊は、多門二郎大佐率いる歩兵1大隊、砲、工兵各1中隊、無線電信隊1隊で、主に北海道で編成されていた。4月16日、多門隊は、小樽を出発し、軍艦三笠と見島の援護のもと、22日にアレクサンドロフスクへ上陸した。 

・当局はさらなる情報収集を行ない、多門隊のみでは兵力不足だと認定した。第7師団からの歩兵1連隊を基幹とし、多門隊も含めて、津野一輔少将の下、北部沿海州派遣隊が編成された。

・多門隊は、5月13日にデカストリに上陸し、津野隊は、5月下旬に小樽を発した。津野隊とともに、海軍第3艦隊の主力(司令長官野間口兼雄中将)と第3水雷戦隊(司令官桑島少将)が、直接、ニコラエフスクへ向かった。 

・一方、ハバロフスクの第14師団は、できるかぎりの兵力を集め、国分中佐の指揮下、海軍臨時派遣隊(中村少将指揮)の砲艦3隻の護衛を受け、5月14日にハバロフスクを出て、アムール川を下った。

・途中、ラプタの指揮するおよそ200の赤軍部隊を破り、25日、多門隊と合流して、ニコラエフスクをめざした。多門隊のニコラエフスク進入は、6月3日だったが、すでにそのときニコラエフスクは、遺体が散乱する焦土となっていた。 

 

6.3)トリャピーツィンの処刑

・ニコラエフスクを焦土にしたトリャピーツィン一行が、ケルビ(ニコラエフスクから96キロ)に到着するまでに、人数は相当に少なくなっていた。

・強制動員されていた農民たちは、逃げ出して村に帰り、日本軍の報復を怖れた中国人や朝鮮人たちも、タイガへと逃れた者が多かった。 

・6月3日にニコラエフスクを占領した日本軍は、トリャピーツィン一行を捕らえるつもりではあったが、アムール川からアムグン川にかけて、日本軍が跡を追えないようにバージなどの障害物が沈められていて、すぐに航路を使うことは不可能であり、またタイガに逃げ散ったパルチザンを捕まえることも難しかった。

・その間、ニコラエフスクからの避難民が、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストク、日本に現れ、事件の全容が外部に知られはじめた。 

・ソビエト政権系のジャーナリズムは、当初、トリャピーツィンの言い分をそのままに、赤軍の正義と日本軍の裏切りを言い立てていたが、労働者が大半である数千人の市民の虐殺と街の破壊を、日本軍の責任にできるわけもなく、ボルシェヴィキは困惑せざるをえなかった。

・危機感を持ったハバロフスクのソビエト代表団は、6月の終わりにアムグン地域に出向き、反トリャピーツィングループと接触した。 

・反トリャピーツィングループを指導していたのは、殺されたブードリンと友人だった砲手アンドレーエフである。協力者には、朝鮮人第2中隊を率いていたワシリー朴がいた。

・ソビエト代表団と接触したことによって、アンドレーエフは行動を起こした。

・ケルビのパルチザン本部は、アムグン川に停泊する蒸気船の中にあったが、7月3日の夜、本部で眠るトリャピーツィンとニーナ・レベデワが逮捕され、続いて指導部全員が捕らえられた。

・9日、人民裁判が行われ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ以下7名が銃殺となった。 

・裁判の中でトリャピーツィンは、「もし自分がニコラエフスクで行った全てのことのために裁かれるのならば、その時の同志や自分を裏切って裁判に渡し、逮捕した人々も含めて一緒に裁かれるべきだ」と述べた。

・判決文におけるトリャピーツィンの主な罪状は、5月22日から6月2日までのニコラエフスク大殺戮を許容したこと、さらに7月4日まで、サハリン州諸村でも虐殺命令を発していたこと、ブードリンなど数名の仲間の共産主義者を射殺したこと、であって、日本人の虐殺については、まったく触れられていない。

・同時に、「ニコラエフスク管区赤軍司令官として在職中、ソビエト政治の方針に従わず、職権者を圧迫し、ロシア共和国政府のもとで活動していた労働者間の共産主義に対する信頼を傷つけた」ことを罪状に上げ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、ソビエト政権への反逆者であったと、位置づけている。 

 

7)北樺太進駐 

・日本政府は、7月3日に以下のようなことを官報告知した。

・「今年の3月12日から5月末まで、ニコライエフスクにおいて、日本軍、領事館員および在留民およそ700名、老幼男女の別なく虐殺されたが、しかし現在、シベリアには交渉すべき政府がない。

・将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州内の必要と認められる地点を占領するつもりである」「必要と認められる地点」とは、北樺太であり、宣言と同時にサガレン州派遣軍が編成され、児島中将の指揮下、8月上旬アレクサンドロフスクに上陸し、駐屯した。

 

8)日本における事件の波紋 

8.1)政治的な反響 

・尼港事件に関して、日本国内で大々的に報道されるようになったのは、6月、救援隊が現地入りし、凄惨な全容が明らかになってからである。 

・すぐに議会で取り上げられ、野党憲政会の激しい政府批判がはじまった。この年5月の衆議院選挙で、与党立憲政友会は圧勝していたが、野党側の言い分では、「与党は尼港事件を隠して解散、総選挙に踏み切った」というのである。

・原首相が「惨劇が起こったのは不可抗力だった」と言ったとの報道があり、「責任逃れではないのか」と追及された。

・「治安維持に十分な兵力を置いていないにもかかわらず、居留民の引揚げを考慮しなかったのは不注意だ」というところから、ついには、「チェコ軍団の救援目的は達したにもかかわらず、なんのために兵を残したのか。過激派の勢力をそぐこともできなければ、日本人居留民の生命財産を守ることもできなかったではないか」と、シベリア出兵そのものへの批判になった。 

・この年、7月号の中央公論には、尼港事件に関して、二つの論評が出ている。

・吉野作造は、「真の責任者は明白に政府、殊に軍事当局者にある」としながら、野党が事件を利用して、内閣の倒壊を企てていることへの批判に重点を置いている。

・三宅雪嶺もやはり、「反対党がなにかといへば総辞職を迫るのも褒めた事ではない」としているが、こちらは、政府側が責任を負うことを言明しないでおいて、「権力争奪に利用するな」とばかりいうのは誤っていると、政府側に点が辛い。 

・田中義一陸軍大臣に対しても責任問題が追及されると、田中は陸軍大臣として陸軍について全責任があるが尼港事件については陸軍に過失はないと答えたため激しく糾弾され、1920年8月には進退伺を行うこととなった。

・その後、田中義一は国務大臣としての責任をとり「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞した。そして、占領宣言をした北樺太をのぞけば、シベリア出兵は撤退の方向にむかう、という大方針は変わらなかったのである。 

・帝国海軍は十分な砕氷艦を持たなかったために、在留邦人を見殺しにする結果となったことを受け、事件翌年には砕氷艦大泊を進水させている。 

 

8.2)社会的な反響 

・井竿富雄は、政治の場で出てきた不可抗力論は、社会的には見殺しとして受けとめられた、という。

・新聞社が特派員を派遣して、領事とその家族、居留民、武装解除された日本軍部隊が惨殺された状況、そして、そうなるに至った事情を、こと細かく報道したのである。

・悲惨な状況が伝わるにつれ、どうしてそんなことが起こってしまったのか、陸軍ならびに政府のシベリア出兵の方針に、問題があったのではないかという疑念が満ちてくる。 

・1920年の秋に9,000部刷られた五百木良三のパンフレットは、以下のように慨嘆する。

・「日本軍は中立を保つという政策がやむをえなかったのだとすれば、兵力を増強しておくべきだった。それを怠って、突然、方針を一転し、赤軍と妥協せよと命じたために、昨日まで友軍だった白軍が残忍きわまる虐殺の下に全滅し、これを見ながら日本軍はなにもできず、見殺しにするしかなかった。たちまち順番は自分たちの上にまわってきて、白軍と同じ運命に突き落とされた。そして、悪戦苦闘の末に生き残った百余人の勇士が、最後の一戦に死に花を咲かそうとした時、またしても停戦命令である。痛恨を忍んで命令に従った結果、武器を奪われ牢獄に入れられ、あらゆる屈辱を加えられた末が、一同生きながらに焚き殺されたという始末。なんというみじめな運命であろう」。 

・あまりに残酷な事件であったため別々の馬で両足を引き裂いて殺害されたなどの話が昭和になっても多く伝えられることとなった。

・石田虎松領事の遺児である石田芳子はたまたま尼港にいなかったため難を逃れることができた。芳子が『敵を討ってください』という詩を発表すると、全国各地で開かれる追悼集会で引っ張りだことなった。 

・日本軍犠牲者の遺族の声には、次のようなものがあった。

・「派遣しておいて孤立無援に陥らせ、新聞報道のような残虐なことに至った当局の処置は、合点がいかず、残念でたまらない」「名誉の戦死ではない。全く徒死だ」「堂々と戦ったのではなく、無惨に殺されたのは遺憾だ」 

・こういった不満は、政府や軍への批判にほかならず、遺族の割り切れない思いは報いられることなく、むしろ警戒された。 

・三宅駸吾海軍少佐の兄である三宅驥一博士は、「この大事件は政党政派を超越した世界的な人道問題ではないか。私は、ルシタニア号の沈没とベルギーの中立侵害で、留学して世話になったドイツが嫌いになった。今回の尼港事件は、ルシタニア号事件以上の大問題だ。これに対して冷淡な政府と国民とは、人道に対して無感覚になっている人種だと笑われても仕方があるまい。弟だからいうのではない。救援の方法はあったのに、政府が怠って、いまになって不可抗力とは何事だ」と憤慨して同情を集めた。

 

8.3)北樺太占領と救恤金 

・白系ロシア人のグートマンは、日本の北樺太占領に領土欲を見て、「ロシア国民は侵略を受け入れることは決してない」と非難している。

・この北樺太占領に関しては、撤兵反対論者で、対外強硬論者といわれる五百木良三も、「サガレン(サハリン)占領のごときは大道商人のそれにも比すべき最もケチ臭い現金取引きで、あらずもがなのことだ」と反対し、『国辱記』で尼港事件を詳報した溝口白羊も、「人道の名を借りて侵略を行う連中といっしょにされることはお断りだ」とし、「尼港事件への寄付金には応じない富豪が、サガレンの漁業、林業、鉱業の利権獲得に夢中になっている」と批判する。 

・1922年に尼港事件被害者とオホーツク事件被害者のための露国政変及西比利亞事変ノ為損害ヲ被リタル者ノ救恤ニ関スル法律が施行され救恤金が支払われた。

・しかし、救恤金額が少ないことや申請が出来なかったものなどがいたため、尼港事件時に内地にいたため難を逃れることができた島田商会の島田元太郎は、東京に事務所を設け全国の被害者の中心となって再度の救恤金運動を行い続けた。 

・1925年、日本はソビエト・ロシアと国交を回復し、保障占領していた北樺太を返還した。しかしその交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされ、北樺太のオハ油田を中心とする石油長期利権と引きかえに、賠償は求めないことになった。

・1925年12月には救恤金の再給付を求める請願書が島田元太郎等によって提出されたことなどから、日本政府は、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない」としながらも、救恤金という形で、遺族を慰撫した。

 

8.4)慰霊碑・納骨堂の建立 

 

尼港殉難者記念碑(茨城県水戸市堀原)。1922年3月建立。(引用:Wikipedia)

 

・事件が大々的に報道された6月以降、各地で法要、招魂祭が催され、また、遺族や婦人団体、在郷軍人団体、宗教家などが現地を訪れて、慰霊につとめた。 

・北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。大正13年になって、小樽市民の総意で軍部に請願し、遭難者の遺灰払い下げの運動を起こした。

・ニコラエフスクで焼却された遺骨は、アレクサンドロフスクの慰霊碑に保管されていたが、これを小樽で永久保存しようということになったのである。 

・軍からの許可が出て、市民に迎えられた遺骨は、市内浄応寺で保管された。昭和12年になって、市内の素封家・藤山要吉が私財をなげうち、市民に呼びかけて、手宮の丘に慰霊碑や納骨堂を建てた。戦前には、毎年、尼港記念日の5月24日に法要が行われていた。第2次大戦後、小樽に進駐してきたアメリカの進駐軍から、「破壊せよ」と命令があったが、小樽市民はこれを拒んで、守り通した。 

・尼港事件の民間人殉難者には、熊本県天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する

・明治28年、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。

・小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている。こちらは、毎年3月12日に慰霊祭が行われ、昭和45年には50年祭が盛大に催された。 

・全員が犠牲となった第14師団尼港守備隊の出身地、茨城県水戸の堀原、もと練兵場のあった場所にも、尼港殉難者記念碑が建っている。戦前は、毎年かかさず慰霊祭が行われていたが、戦後は行われなくなり、碑のいわれを知る市民もほとんどいなくなっている。 

・その他、札幌の護国神社境内にも尼港殉難碑があるが、これは、昭和2年、救援隊の兵士達が旧丸山村界川に建立したもので、戦後、現在地に移された。 

 

9)南京事件 

・1927年の南京事件の際にも日本領事館は襲撃され、領事一家以下、在留邦人、日本軍将兵等が殺傷された。

・この事件の際には、海軍陸戦隊の荒木亀男大尉は「反抗は徒らに避難民全部を尼港事件同様の虐殺に陥らしむるだけだから、一切手向いせず、暴徒のなすがままにせよ」と命令し、陸戦隊員は中国人の暴行に反抗しなかった。 

・このため領事館内では駐在武官の根本博少佐、領事館警察木村署長を始め多くが重傷を負い、婦女子も丸裸にされ金品・衣服などすべてを奪われ領事館内は木端微塵となったものの邦人虐殺事件に発展しなかったが、荒木大尉は事件後に責任を取り自決を図った。 

・1945年のソ連対日参戦の際には北支那方面軍兼駐蒙軍司令官となった根本博は大本営の武装解除命令を拒否し殺到するソ連軍と戦い抜き4万人の在留邦人の脱出を成功させた。


(5)ノモンハン事件(昭和14年5月~同年9月)


 (引用:Wikipedia)

1)概要

・ノモンハン事件は、昭和14年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件である。

 ・満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。

・当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。

・以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河戦争」と称している。 

・この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンという名称は、清朝が1734年に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボーの一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。

・このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。 

・いっぽうソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である。

 

2)経緯 

・清朝が1734年に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、昭和7年に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。 

・昭和14年にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。5月の第1次ノモンハン事件と7月から8月の第2次ノモンハン事件にわかれ、第二次でさらに局面の変転がある。 

・第1次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。 

・第2次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。

・このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。

・その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日に日本軍をソ連が主張する国境線内から後退させた。 

・一方、ハンダガヤ付近では、日本軍が8月末から攻撃に出て、9月8日と9月9日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させた。9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうちノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。 

・停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれた。植田謙吉関東軍司令官は責任を問われ辞職した。

・また、この事件の実質的な責任者である関東軍の作戦参謀の多くは、転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職に就き、対英米戦の主張者となった。 

 

3)開戦の背景

3.1)国境紛争

・モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界を為してきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張したのに対し、1932年に成立した満洲国はハルハ河をもって境界線として主張した。

・満洲国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。 

・本事件の係争地となった領域がはじめて具体的に行政区画されたのは、清代、雍正年間のことである。

・従前、この地はダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くチェチェン・ハン部の左翼前旗および中右翼旗など、ハルハ系の諸集団の牧地であった。

・1730年代、清朝が新附のモンゴル系、ツングース系の諸集団を旧バルガ、新バルガのふたつのホショー(旗)に組織し、隣接するホロンバイル草原に配置した。

・雍正十二年(1734年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものである。 

・本事件の名称の由来となったノモンハンは、左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教の僧侶としての位階の呼称に由来し、チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつなどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。 

・モンゴルは、1911年の辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世を君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部プラスダリガンガ・ドルベト即ち外蒙古)のみを確保するにとどまり、モンゴルの南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまることとなった。

・バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。 

・その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権の成立、1924年の人民共和国への政体変更などがあったが、これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中におさめた中華民国歴代政権との間では、ハルハの東端と新バルガの境界について、問題が生ずることはなかった。 

・ところが旧東三省と東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ河を主張、本事件の戦場域は、「国境紛争の係争地」となった。

・モンゴルと満洲国の国境画定交渉は断続的に行われたが、1935年(昭和10年)以降途絶した。 

 

3.2)満ソ国境紛争処理要綱 

・昭和13年に起こった張鼓峰事件(※)は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。

・この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。 

・「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、昭和14年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。

・この要領を東京大本営は黙認し、政府は関知しなかった。 

 

※張鼓峰事件

張鼓峰事件とは、昭和13年7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。実質的には日本軍とソ連軍の戦闘であった。ソ連側は、これをハサン湖事件(ハーサン湖事件)と呼んだ。

◇背景

張鼓峰地図(Wikipedia) 

・張鼓峰は満州国領が日本国朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解であった。

・いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。 

◇戦闘の経過  

 

  

  擬装して進撃するソ連軍戦車隊    撃破されたソ連軍戦車      ソ連軍機による地上爆撃

(引用:Wikipedia) 

・1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。ソ連軍がこの時期に大攻勢に出た背景は色々と取り沙汰されてはいるが、はっきりした結論は得られていない。 

・現在、有力な説として、事件の一ヵ月前、ゲンリフ・リュシコフ(ソ連秘密警察幹部)が満州国に亡命したことの副産物だったのではないか、といわれている。ソ連の内務人民委員部所管下の国境警備隊が名誉挽回をめざした、というのである。 

・以下に戦闘の経緯を詳述する。

7月12日、ソ連軍は張鼓峰に侵入、占領し、峰一帯に陣地を構築し、13日、これを監視中の松島伍長を不法に殺害した。

・日本政府は15日、西代理大使を通してソ連政府に至急撤兵を要求し、満洲国も14日に同様の抗議をおこなった。しかしソ連側は、現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わった。

・現地では、18日、軍使をもって、煙秋警備司令官に撤兵を要求したが、なんら回答はなかった。ソ連軍は29日、峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとして日本守備隊に撃退された。

・30日夜半から31日にかけて、張鼓峰および沙草峰付近に大挙してソ連軍が来襲してきたが、これに対して日本側守備隊は反撃を加え被占領地を奪回して満洲国領土を回復した。

・しかし、ソ連側はさらに兵力を増強し、執拗に侵攻を企て、朝鮮の古城、甑山などを砲撃した。

・さらに8月1日からは航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、さらに編隊を組んで朝鮮の洪儀、慶興、甑山、古城などを爆撃した。

・これに対して、日本側はソ連軍の猛攻に損害を受けつつも奮戦し、なんとか国境線を確保した。結果的にはソ連軍も大きな損害を被ることとなった。

・重光葵とマクシム・リトヴィノフの会談によって8月11日になってモスクワで停戦が合意された。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦が決まった。 

◇停戦

・停戦合意における協定は次の通りである。

 ソ連沿海州時間(UTC+10)11日正午、双方戦闘行為を中止する

日ソ両軍は、ソ連沿海州時間11日午前零時現在の線を維持する。実行方法は現地における双方軍隊代表者間において協議する。現地では、11日午後8時ごろ、日本軍代表長勇大佐がソ連極東軍参謀長シュテルン大将と張鼓峰方面のソ連軍陣地内において会見し、停戦が実現した。 

・翌12日の午後9時30分、文書をもって次のような現地協定覚書を交換した。

1)張鼓峰稜線北部における現状につき、さしあたり両国政府に報告すること。

2)日ソ両軍指揮官は、軍事行動停止に関し、両国政府の決定により、今後張鼓峰付近においてはいかなる事件も発せざるため、万全の処置を取ることを保証す。

3)1938年8月12日午後8時より、日ソ両軍は張鼓峰稜線北部において、日ソ両軍主力を稜線より80m以上の線に後退せしむべし。 

・かくて、現地調査の結果、ソ連軍は日本軍が張鼓峰頂上を確保していることを確認し、協定通り双方部隊の後退を完了した。これをもって戦闘状態は終熄した。 

◇結果と影響

・この激しい紛争で日本側は戦死526名、負傷者914名の損害を出した。

・この事件は、第1次世界大戦の激戦をほとんど経験しなかった日本にとって、日露戦争後では初めての欧米列強との本格的な戦闘であった。

・日本軍は日露戦争とシベリア出兵の経験から、ロシアの軍隊を過小評価していたが、ノモンハン事件と共に高度に機械化された赤軍の実力を痛感する結果となった。

・しかし、当時支那事変(日中戦争)の真っ只中であった日本陸軍にとっては、貧弱な中国国民党軍が主敵であったため、あまり積極的に機械化を進めようとしなかった。

・そのため、後のノモンハン事件、太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて、機械化が進んだ欧米列強に苦戦を強いられることとなった。 

・戦後の戦史研究では、ノモンハン事件と同じく張鼓峰事件も日本側の一方的な大敗であるというのが定説であったが、冷戦終結後になって公開されたソ連側の資料によればソ連軍も戦死792名、負傷者2,752名という日本側を上回る損害を出していたことが明らかになり、指揮していたヴァシーリー・ブリュヘル将軍も無能として粛清されていた。

・これにより、張鼓峰事件が日本の一方的敗北という見方は改められることとなった。 

・ブリュヘルは、国境紛争の拡大に反対の立場をとり、当初、自国国境警備隊による国境侵犯の事実を確かめ、責任者の処罰を要求していた。

・そのため、戦闘が本格化してもソ連側の兵力集中ははかどらず、スターリンの怒りを買って粛清された、ということが近年わかってきている。 

・なお、この戦闘に加わった歩兵第75連隊の連隊長はインパール作戦での抗命で知られる佐藤幸徳大佐であった。

 

4)停戦後の国境画定交渉 

・一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。 

・だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。

・停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の画定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。 

・交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。 

・対立の対象となった地域のうちおよそ8割の、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって画定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した残る2割ほどの南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで画定した。


(6)ソ連対日宣戦布告(昭和20年8月)


 (引用:Wikipedia)

1)概要

 ・ソ連対日宣戦布告とは、1945年8月にソビエト連邦が日本に対して行った宣戦布告を言う。

 ・この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されている。これにより、日ソ中立条約は完全に破棄された。

・ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、日本軍と各地で戦闘になった。

・既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍にこれを防ぐ手段は無く、原爆投下に続き日本にとどめを刺した。 

・布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。

・事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとしたが領事館の電話は回線が切られており奇襲を伝える手段は残されていなかった。 

・なお、ソ連の宣戦布告に対する日本側の措置であるが、本来対ソ宣戦を決定すべき最高戦争指導会議がポツダム宣言受諾問題で紛糾していたため、対ソ宣戦問題を討議する余裕が無く、結局日本側からの対ソ宣戦は行われなかった。

・よって、日本側の対ソ戦闘は、国家としての意思決定された戦闘ではなく、ソ連軍の攻撃に直面する現場での防衛行動という色合いが強い。

・ソ連軍の攻撃は9日午前零時を以って開始されている。 

 

2)内容

・ソ連対日宣戦布告においては、ソ連対日参戦の旨とその理由として、次の4点が述べられた。

1)日本政府が7月26日の米英中による3国宣言(ポツダム宣言)を拒否したことで、日本が提案していた和平調停の基礎は完全に失われたこと。

2)日本の宣言無視を受けて、連合国は、ソ連に、日本の侵略に対する連合国の戦争に参戦して世界平和の回復に貢献することを提案したこと。

3)ソ連政府は連合国に対する義務に従って右提案を受諾し、7月26日の3国宣言にソ連も参加することを決め、各国人民をこれ以上の犠牲と苦難から救い、日本人を無条件降伏後の危険と破壊から救うためにソ連は対日参戦に踏み切ること。

4)以上の理由からソ連政府は8月9日から日本と戦争状態に入るべきこと。 

 

3)背景

3.1)連合国 

・この宣戦布告が発表された背景には、連合国間の政治的な駆け引きが影響している。

・1945年になってから連合国はドイツの戦後処理と日本の本土攻略に焦点を当てていた。

・この討議のため、2月にヤルタ会談が開催され、ソ連参戦が議論された。

・当時日本と太平洋戦争を遂行していた米国政府は、ソ連と連携して日本を攻略することを考えており、ソ連の参戦を「外モンゴルの現状維持」「満州におけるソ連の権益を回復」「大連港を国際化」「南樺太の奪還」「千島併合」の五項目要求をのちに蒋介石の了解を得るという条件で認め、英国も加えた秘密合意に達した。 

・また、5月のポツダム予備会談において、ソ連のスターリンは、極東ソ連軍が8月中に攻勢作戦を発動すること、満州国領域における中国の主権を尊重すること、朝鮮半島を米ソ英中が信託統治すること、などの旨を表明した。

・さらに対日処理については、無条件降伏と徹底的な軍備撤廃、ソ連軍による日本占領を主張し、米国に戦略物資の支援を要求した。 

・米国統合参謀本部は、ソ連が戦争の決着がついた所に便乗してくるとの見方を強めていた。

・一方、米国大統領ルーズベルトは、完成寸前の原爆製造についてヤルタ会談ではソ連に対して一言も言及せず、もしスターリンが便乗的な侵略を満州及び日本国北方で開始しても日本本土に対する原爆投下で十分その意図を挫くことができると考えていた。 

・またソ連側の火事場的泥棒ともいえる米国に対しての戦略物資支援の要求には半ば呆れた。

・1945年7月16日、米国は世界で初めて原爆実験を実施して成功する。

・こうして満州とソ連国境でそんな双方の思惑を外に徐々にその不穏なソ連軍の動きは対日参戦が開始される1945年8月9日に向けて増していく。 

 

3.2)日本 

・日本においては小磯国昭内閣が和平工作を推進し、危機的な状況を主に外交交渉によって打開しようと模索していた。

・小磯内閣は発足当初、戦争の完遂と同時に対ソ戦争回避を目標として対外政策を進めた。そのため、小磯内閣は戦争遂行とともにソ連との国交を好転させ、和平工作を進めることに努力した。 

・しかしソ連は既に日本に対する侵略準備の兆しを見せており、1944年にスターリンは革命記念日の演説において日本を侵略国と発言し、また7月から8月及び11月から12月に各2回の国境地区における不法行為が発生している。

・また1945年4月6日にソ連は日ソ中立条約を延長しないことを一方的に決定して日本に通告した。

・その理由として「情勢が締結当時と一変し、今日本はソ連の敵国ドイツと組して、ソ連の盟友米英と交戦しており、このような状態において日ソ中立条約の意義は失われた」と述べられた。

・日本はヤルタの秘密協定の合意を知らず、ソ連の侵略意図を知ることができなかった。

・当時の政府及び軍関係者はソ連の対日参戦の意思をこの時点で認識できなかった。同条約の効力は、1946年4月25日に失われる予定であった。 

 

3.3)日ソ交渉 

・日ソ中立条約の不延長通告の後も、日本は、ソ連を仲介者する連合国との和平工作を行っていた。

・新たに成立した鈴木貫太郎内閣は、発足してから戦争を終結に導くため首脳部の懇談会を持ち、「国体保持」「国土保衛」に戦争目的とした。

・しかし、連合国は「無条件降伏」を主張してくるため、これを受諾することはできず、外交においては和平工作を推進し、軍事面では外交交渉を少しでも有利に進めるために、最低限国体保持を包括する和平へ導くため戦争を継続することが決定された。 

・この政策は木戸内府が試案を起草し、試案において現在の日本の状況が危機的であり、和平の外交交渉が早急に必要であると論じた。

・そして当時中立条約を締結していたソ連を介し、米英と最低限の条件で名誉ある講和を実現し、海外の部隊は撤退、軍事力も国防に必要な最低限に縮小することが述べられている。この試案は1945年6月9日に天皇及び首相、陸海軍などと協議し、実行に移すことが決まった。 

・ただし、この政策には当初から反対もあった。東郷外相はソ連の対日政策はすでに挑戦的なものへと移行しており、実現する可能性は低いとして対ソ和平交渉政策に同意していない。しかし鈴木首相は、可能性を模索する意味で対ソ交渉政策を進めていた。 

 

4)戦闘状況 

・8月9日以降満州国や日本領樺太にソ連軍が軍事侵攻した当時関東軍は南方へ兵力の過半数を引き抜かれていたが満州居留邦人15万名、在郷軍人25万名を根こそぎ動員、さらに中国戦線から4個歩兵師団を戻してなんとか74万人の兵員を調達した。

・関東軍特種演習により集めた戦車200輌、航空機200機、火砲1,000門も健在であった。しかし兵員の半数以上は訓練不足(航空部隊のほとんどが戦闘未経験者)、日ソ中立条約破棄を想定していなかった関東軍首脳部の混乱、物資不足(砲弾は約1200発ほどで、また小銃が行き渡らない兵士だけでも10万名以上)のため事実上の戦力は30万名程度だったといわれている。 

・大本営は本土決戦準備を優先し、関東軍に対して増援を送らないことを決定していた。それに比べて極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー率いるソ連軍は兵員1,577,725人と火砲・迫撃砲26,137門、戦車・自走砲5,556両、航空機3,446機という圧倒的な装備を擁して満州国に侵攻を開始し関東軍の陣地、要塞を次々と攻略した。

・関東軍は事前の防衛要綱に則り、随時後退しながらの持久戦を決定する。関東軍は朝鮮半島北部付近への集結を目指していた。

・一部の部隊は避難民撤退の時間的猶予を稼ぐために固守し、全滅した部隊も存在した。日本軍の歩兵は地雷や爆薬で対戦車戦闘を行ったが、ソ連戦車の榴弾や機銃、航空攻撃で掃討されてしまった。

・関東軍のわずかな航空部隊は最終手段として特攻も試みたが、ソ連軍航空部隊に迎撃をされ多くは失敗した。 

・ソ連軍の侵攻は日本人居住民にとっては恐怖以外の何物でもなく、居留民は中国及び満州南部、朝鮮へと随時避難した。

・しかし、傀儡国家満州国の下で日本人の抑圧に喘いでいた中国人や朝鮮人などにとっては、『解放』であったため支持を受けた。

・最終的には満州国軍からもソ連側への離反が相次ぎ、日本側防衛線は完全に崩壊し、満州国から朝鮮北部までソ連軍が制圧した。 

・関東軍はゲリラ戦に戦法を変更し、兵力を朝鮮南部一帯に集中させて本土からの増援部隊を待ったが玉音放送を迎え、大本営から戦闘停止命令を受け、戦闘行動を中止しソ連軍に降伏した。

・ただし、一部地域においては、劣悪な通信事情のため、8月後半まで戦闘が続けられた。 

・北海道北部までの獲得をもくろんだスターリンの命令により、ソ連軍は終戦後も8月末まで侵攻を続け樺太を占領した。

・8月18日以降新たに千島列島でも戦闘が開始され、アメリカ政府からの抗議を受けながらも降伏文書調印後の9月4日まで 侵攻を止めなかった。

・この結果、ソ連は最終目標である北海道こそ占領できなかったが、千島列島と南樺太および歯舞諸島、色丹島の占領を成功させた。


(7)シベリア抑留


(引用:Wikipedia)

1)概要

・戦闘において満州国や南樺太などで捕虜となった旧日本軍将兵や在満州民間人、満蒙開拓移民団(※)など、約65万人の軍人・軍属が連行されシベリアの強制収容所に抑留された(ポツダム宣言違反)彼らは、過酷な環境下で強制労働に従事させられ、6万人を超える死者を出した。

・抑留された捕虜の総数については一説には200万人以上(ワレンチン・アルハンゲリスキーの著作およびダグラス・マッカーサー元帥の統計より)ともいわれている。

 

※満蒙開拓移民団

 満蒙開拓移民は、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。

1931年の満州事変以降に日本からの満州国への移民が本格化。1936年、広田内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進した。同時に、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出された。

 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。加藤完治が移住責任者となり、満州拓殖公社が業務を担っていた。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。

 

 ・シベリア抑留は、第2次世界大戦(太平洋戦争)でソ連軍が侵攻・占領した満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)において、終戦後武装解除し投降した日本軍捕虜及びソ連軍が逮捕した日本人(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)らを、ソ連が主にシベリアやモンゴルに労働力として移送隔離し、多数の人的被害を被らせた枢軸国側人の抑留と奴隷的強制労働に対する日本側の呼称。 

・一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国などソ連の勢力圏全域に送り込まれていた。

・厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。 

・このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言、レーニンに背くものであった。

・ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した。

 

2)背景 

・旧ロシア帝国時代から囚人の強制労働が行われてきたが、ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人の労働力が注目され、囚人による過酷な強制労働がより行われるようになった。

・また当時のソ連では重労働を伴う分野での労働力不足が深刻であり、むしろ労働力確保を目的として囚人を確保する側面もあった。 

・スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。

・初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海矯正労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56%が死亡した。 

・スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた。

・スターリンは捕虜を労働力としてしか見ておらず、人道的な扱いは望むべくもなかった。第2次世界大戦勃発後、ソ連が獲得した外国人捕虜は当然のごとく強制労働の対象となった。 

・また、ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。 

・ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。

・ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている。

・これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。

・特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった。

 

3)経緯

3.1)ソ連軍侵攻と停戦 

・第2次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。

・8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。

・樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。 

・これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順の租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた。 

・日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。

・8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。 

・満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった。 

 

3.2)抑留の決定 

・スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。

・スターリンの抑留方針決定をめぐってはさまざまな説が唱えられている。 

 

3.2.1)関東軍密約説

・8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の經營に協力させ、そのほかは逐次内地に歸還させてほしい。歸還までは極力貴軍の經營に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。 

・この報告書は関東軍参謀草地貞吾の証言によると、草地が山田司令官と秦彦三郎関東軍総参謀長の決済を受けてソ連側に提出したものとされる。

・また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土着セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依頼スルヲ可トス」」という内容の「関東軍方面停戰状況二關スル實視報告」がソ連側に提出された。

・ただし作成者とされる朝枝繁春大本営参謀はこの文書は偽造されたものであると主張している。 

・またソ連との停戦交渉時、瀬島龍三が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が、斎藤六郎・全国抑留者補償協議会会長、保阪正康らにより主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。

・瀬島はフジテレビ出版から上梓した『日本の証言』で、停戦協定の際のヴァシレフスキーと秦総参謀長には上記の密約を結ぶ権限がなかったことを用いながら反論している。 

 

3.2.2)北海道代償説

・8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。

・理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。 

・しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい。

 

 4)移送 

・占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。

・また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。

・日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。 

・9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。

・彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。 

・抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。

・一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある。

・モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている。 

・一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在で言うモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方などのヨーロッパ-ロシア、などにも送り込まれていた。

・現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。 

 

5)収容所での生活 

・シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した(犠牲者数に関しては後述)。 

・一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。

・「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。

・共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。 

・抑留中に起きた事件としてはこの他に「暁に祈る」事件(※1)、ハバロフスク裁判(※2)がある。

 

※1「暁に祈る」事件

・「暁に祈る」事件は、ソ連軍によるシベリア抑留の収容所において、日本人捕虜の間で起きたとされるリンチ事件。リンチの指示を行ったとされる人物が、日本への帰国後に逮捕・起訴されて有罪判決を受けたが、本人は冤罪であると主張していた。事件が起きた部隊の名称から「吉村隊事件」とも呼ばれる。

・モンゴル人民共和国・ウランバートル収容所において、ソ連軍から日本人捕虜の隊長に任じられた池田重善元曹長(収容所内では「吉村久佳」の変名を名乗っていた)が、労働のノルマを果たせなかった隊員にリンチを加え、多数の隊員を死亡させていたとされる。 

・この「暁に祈る」とは、そこで加えられた、裸で一晩中木に縛り付けられるリンチに対して隊員らによって付けられた名で、縛り付けられて瀕死状態の隊員が明け方になるころ首がうなだれ、「暁に祈る」ように見えたことによるものとされる。 

・この事件は昭和24年3月に朝日新聞がスクープとして掲載したことがきっかけで知られることになり、元隊員2名が報道直後に「吉村隊長」こと池田元曹長を告発する。

・これらを受けて、池田と元隊員数名が4月に参議院の「在外同胞引揚問題に関する特別委員会」に証人喚問された。7月に池田は東京地検に任意出頭して逮捕、起訴された。 

・元捕虜の証言などにより池田は遺棄致死と逮捕・監禁により有罪(懲役3年)となったが、亡くなる昭和63年まで無罪を主張していた。実際には池田がモンゴル側の指示を超えて過酷な処罰をしたことは少なからずあったものの、私刑で隊員を死なせたことはなかったという。 

・上記の池田の刑事裁判では残虐なリンチがあったとは認定されなかった。

・事件を最初にスクープした朝日新聞の報道は長い間訂正されず、他の雑誌・単行本にも載って広まった。池田は朝日新聞の報道に関して(明確な告訴等は行わなかったが)、著書『活字の私刑台』(1986年)の中で報道被害であることを強く主張している。 

・弁護士やジャーナリストの手で再調査が行われ、「無実の可能性が高い」という結果をとりまとめて再審請求を行う予定だったが、調査結果の発表を予定していた年に池田が死亡し、かなわなかった。

・その後、朝日新聞の記事そのものが誤報ではないかとの指摘もあり、朝日新聞が事実関係の検証を開始。朝日新聞は検証記事を掲載し、平成3年にリンチがなかったとした。 

・ただ本件に関する誤報のそもそものスタートが朝日新聞の記事であったことについては、あまり触れられていなかった。  

 

※2ハバロフスク裁判

・ハバロフスク裁判とは、第2次世界大戦後の1949年12月25日から12月30日にかけてソ連のハバロフスクの士官会館で6日間行われた旧日本軍に対する軍事裁判の通称。主にソ連への進攻計画としての関特演、日本の対ソ攻撃、731部隊などが裁かれた。 

◆被告人

・山田乙三(関東軍司令官・大将)・梶塚隆二(関東軍軍医部長・軍医中将)・高橋隆篤(関東軍獣医部長・獣医中将)・佐藤俊二(関東軍第5軍軍医部長・軍医少将)・川島清(第4部/細菌製造部部長・軍医少将)・柄沢十三夫(第4部細菌製造課課長・軍医少佐)・西俊英(教育部長兼孫呉支部長・軍医中佐)・尾上正男(731部隊海林/牡丹江支部長・軍医少佐)・平桜全作(100部隊研究員・獣医中尉)・三友一男(100部隊隊員・軍曹)・菊地則光(731部隊海林/牡丹江支部支部衛生兵・上等兵)・久留島祐司(731部隊林口支部衛生兵・実験手) 

◆731部隊

・旧陸軍の研究機関で正式名称は関東軍防疫給水部本部(通称号)である満州第731部隊の略。

・満州に拠点をおいて、兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。 

◆100部隊

旧陸軍の軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊で、正式な名称は関東軍軍馬防疫廠。防疫対策のみならず、敵国の軍用動物や家畜を標的とした攻撃用の生物兵器(細菌兵器)の開発をも進めていたとも言われる。731部隊とは、密接な協力体制にあったと言う。 

 

6)日本側の対応 

・昭和20年11月になって、日本政府は、関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。

・昭和21年5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。 

・当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという。 

・左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。 

・日ソ共同宣言をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。 

 

7)帰国 

・昭和22年から日ソが国交回復する昭和31年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者達もいた。 

・しかしさまざまな事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動(※)に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国せずにソ連に残留して帰化した例、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した例もある。 

 

※民主運動

・民主運動とは、ソ連によるシベリア抑留時に発生した、旧日本軍人及び民間人などによる一連の思想運動。反対派を「反動」や「前職者」として認定し、吊し上げを行った。 

・リーダー格は日本しんぶん(*)編集部と、日本共産党関係者(多くは後に離党及び除名)、ソ連国家保安委員会に胡麻を擦る一部の人間たちであった。

・彼らは、「アクチフ」や「アクチィブ」、「アクティブ・メジャー」、「民主委員」「民主メンバー」などと呼ばれた。 

・帰還後、「民主委員」の殆どは転向し、謝罪をしたり、一切の政治活動から手を引いた。中には正反対の主義を掲げる自由民主党に転じた者もいる。

 この運動の壮絶さから、多くの抑留者は運動について語ろうとはせず、大半が未だ沈黙を保っている。 

(*)日本しんぶん

・ソ連によるシベリア抑留時に発行された日本人向け新聞。第1号は、昭和20年9月15日で、各地で随時日本人の編集委員を募集していたという。

・昭和21年中頃までは政治宣伝的な記事の少ない新聞で、天皇批判などは少なかったが、昭和22年頃になると一転、強烈な日本批判とソ連への賛美、日本共産党の礼賛、皇室廃止などを掲げる政治新聞に変わった。

・昭和22年当時、日本人収容所で民主運動が盛んな時期であったことから、『日本しんぶん』が民主運動と連動して、一連のキャンペーンを張ったと見る歴史家も多い。

・編集長は大場三郎で、これはソ連秘密警察・対日部署のイワン・コワレンコ中佐(当時)の偽名であった。

・日本しんぶんを批判すると、場合によっては、一般収容所から数段階厳しい矯正労働収容所に送致された。 

・一方、兵卒や下士官を中心に、抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数おり、占領軍による昭和25年からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている。

・しかし、多くは帰国後も共産主義に固執しつづけたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。

・しかし、日本の公安警察は “ 共産主義の脅威 ” を理由に1990年代後半まで彼等を監視下においた。 

・冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。

・厚生労働省では、2003年より遺族の希望に応じて遺骨のDNA型鑑定が行うこととしており、2010年までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡されている。

 

8)犠牲者数 

・日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している。従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。

・近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。

・アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。 

 

9)賃金未払い問題 

・国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦規約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた。

・この規定に基づき、捕虜は帰国時に証明書を持ち帰れば、国から賃金を受け取ることができた。 

・日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。

・しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府は賃金や給養費の所属国負担が慣習として定着していないと主張していたため、賃金は支払われなかった。

・1992年12月以後、ロシア政府は旧抑留者の申請に対して労働証明書を発行するようになり、1994年からは正式に日本政府に送付するようになった。未払い賃金については複数の訴訟が行われているが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。

・シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。 

 

10)国家賠償訴訟 

・シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された。 

 

11)シベリア特措法 

・旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年5月20日に参院総務委員会で佐藤泰介委員長により提案され、全会一致で参院本会議への提出を決めた。5月21日に本会議で可決し今国会で成立する運びとなる。

・法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される。

・同法案は、第174国会最終日の6月16日に衆議院総務委員会で可決の後、衆議院本会議で可決成立し、同日付けで法律第45号として公布、施行された。

 

12)現地慰霊碑 

・厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている。 

●ロシア:エラブガ(2000年)クラスノヤルスク (2000年)チェルノゴルスク(2001年)ニジニ・タギル(2001年)ケメロボ(2006年)ノボシビルスク(2007年)ビイスク(2007年)オレンブルグ(2008年)アルチョーム(2010年)

●ウズベキスタン共和国:タシケント(2003年)

●グルジア共和国:トビリシ(2010年) 

 

13)経験した著名人

・相沢英之-大蔵事務次官、元自民党衆院議員。経企庁長官などを歴任。

・宇野宗佑-第75代内閣総理大臣(抑留記『ダモイ・トウキョウ』を執筆)

・山口信夫-元旭化成会長、元日本商工会議所会頭

・吉田正-作曲家(『異国の丘』を作曲)


(8)北方4島問題(概要)


以下作業中(2021.4.23) 

(引用:Wikipedia)

1)北方四島は、歴史的にも条約上も日本領

・北方四島がわが国固有の領土であることは、歴史的に明らかなことである。北方領土は、歴史的に、一度も外国の領土になったことがないわが国固有の領土であり、また、国際的諸取決めからみても、わが国に帰属すべき領土であることは疑う余地もない。

・幕末の1854年2月7日に、日本はロシアを「日露和親条約」を結び、千島列島は択捉島とウルップ島の間を国境とし、樺太は両国民混住の地と決められた。

・明治維新後、わが国は、1875年に、千島列島をロシアから譲り受ける代わりに、樺太全島の権利を放棄する「千島樺太交換条約」を結んだ。この条約では、譲り受ける千島列島として、シュムシュ島からウルップ島迄の18の島があげられています。

・その中に国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島は入っておらず、これらの島々が日本領であることを物語っている。北方4島は、福岡県の面積にほぼ等しい総面積を持っており、千島列島とともに世界三大漁場の一つであり、豊かな資源に恵まれている。

・こうしたわが国固有の領土である北方四島が、大戦後、現在もなお、ロシアの不法占拠の下に置かれている。北方四島の返還を一日も早く実現することは、まさに国家の主権にかかわる重大な課題である。

・ソ連の行為は、連合国の第2次大戦の処理方針である「領土不拡大の原則」に反している。

・連合国は、「領土不拡大の原則」を度々宣言しており、昭和16年の英米共同宣言(大西洋憲章)や、昭和18年、アメリカ・中華民国・イギリスの指導者が集まって協定を発表したカイロ宣言もそうであった。

・カイロ宣言では、「われわれは、日本の侵略をやめさせるために戦争をしているのであって、自国の領土を拡大する意図はない。日本が、暴力(戦争)でとった領土は返される」と述べている。

・カイロ宣言は首脳たちの署名がなく、宣言というに値しないものであるが、そこに示された「領土不拡大の原則」は、日本が受諾して降伏のきっかけとなったポツダム宣言のなかに引き継がれている。

・この原則に照らすならば、わが国固有の領土である北方領土の放棄を求められる筋合いはなく、またそのような法的効果を持つ国際的な取り決めも存在しない。

 

2)ヤルタ密約とスターリンの野望

・ソ連が北方領土の領有を主張する最も有力な根拠としているのが、ヤルタ協定である。この協定は、昭和20年2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン元帥が、クリミヤ半島にある保養地ヤルタに集まって取り決めた秘密協定で、その内容は、「ソ連が、日本に対する戦争に参加すること。日本の敗戦において、樺太の南部とこれに隣接するいっさいの諸島はソ連に返還され、千島列島はソ連に引き渡される」というものであった。

・しかし、ヤルタ協定は、米英ソ三国間の密約にすぎず、わが国が批准した国際条約ではなく、わが国はそれに拘束される国際法的な根拠は何もない。

・ヤルタ協定の当事国である米国は、昭和31年、「ヤルタ協定はただそれを署名した国の首脳が共通の目的を述べたにすぎない」と認め、「その当事国によるいかなる最終的決定をなすものではなく、また領土を移転するいかなる法律的な効果を持つものではない」という見解を明らかにしている。

・平成9年10月に米国立公文書館で「米ソ密約地図」が発見され、それによると、米ソ両国が対日戦における軍事行動の範囲を定めた秘密合意では、千島列島のソ連軍占領地域を北千島四島に限定、北方領土を含む残りの千島中・南部は米軍の占領地域と指定しており、ソ連軍の全千島占領は、米ソの密約に反して行われた事実が、明らかになった。

・北方四島の占拠は、米との合意を破ったソ連の膨張主義的軍事行動だったのである。

・スターリンのねらいは、全千島だけではなく、北海道を武力制圧することにあり、米軍がこれを察知し、すばやく対処したために、すんでのところで北海道は守られ、北方四島だけで収まったというわけである。

 

3)北方領土返還運動と交渉の遅滞

・北方領土返還動は、終戦の年、安藤根室町長がマッカーサーに直訴したことに始まり、以後、返還要求の声は全国に広まり、各地で様々な団体による返還運動が展開されている。返還を求める署名は約7千万人にも上っています。

・日本はサンフランシスコ講和条約で、多くの国と講和条約を結び戦後処理を行い、日本は千島列島、樺太の一部の権利、権原、請求権を放棄した。

・この時、わが国は千島列島に対する領有権を放棄したが、わが国の政府は、同条約による「千島列島」には、日露和親条約で国境を定めた択捉島以南の南千島は含まれないとしている。

・この択捉島以南の南千島が、日本固有の北方領土である。

・一方、北方領土を除く千島列島、つまりわが国が放棄した北千島については、講和条約に帰属先が明記されていない。ソ連は講和条約に署名していないので、南樺太および北千島の領有権は「未定」であるというのが、わが国の政府の立場である。

・講和条約締結後、アメリカは、北方四島は常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本の主権下にあるものとして認められなければならない旨の公式見解を明らかにして、日本の立場を一貫して支持している。

・わが国は、北方領土の返還を求めて交渉を続けてきましたが、旧ソ連及びロシアは、日本との間に領土問題は存在しない、といって問題そのものを認めない姿勢を続けた。ようやく平成5年、エリツィン大統領が訪日した際、北方四島の帰属問題を「法と正義の原則に基づいて解決する」と確認した「東京宣言」が宣言された。宣言では、北方四島の島名を列挙して、領土問題はその帰属に関する問題と位置づけられた。

・しかし、その後もいっこうに進展は見られない。北方領土問題が解決していないため、わが国は、今もロシアとは正式な平和条約を結んでいない。南樺太および北千島の領有権は「未定」のままで、日本の戦後は終わっていないのである。

・わが国の政党の中で、日本共産党は、全千島列島の返還を唱えており、同党によると、日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時のスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にあり、ヤルタ会談を根拠とした千島列島の併合は、「領土不拡大」の原則を蹂躙するものである。

・そして、サンフランシスコ講話条約の「千島放棄条項」を見直し、択捉島以北を含む全千島列島について「返還されるべき正当な根拠を持った日本の領土」としてロシアと交渉すべきとしている。

・この論理で言うならば、南樺太も対象に含まねばならない。わが国の政府は、ソ連は講和条約に署名していないので、南樺太および北千島の領有権は「未定」であるという立場である。

・ソ連及びその法的継承者であるロシアとの交渉は、北方4島に限定して行われてきており、今から対象を広げることは、交渉を難しくする。

・北方4島は日本の「固有の領土」としてわが国に返還してもらい、そのうえで帰属が「未定」の南樺太・北千島は別途交渉するのがよいと思われる。 

・今日北方四島では、ただ同然の価格で私有化が進められているといわれている。他国の領土を不法占拠して返さないどころか、住み着いた者で分けてしまおう、というのであろう。

・そのため、日本政府は領土問題交渉で、ロシア中央政府、サハリン州行政府だけでなく、民間の土地所有者にも配慮しなければならなくなっている。

 

4)ねばり強い返還交渉を

・わが国は、2月7日を北方領土の日としている。北方四島がわが国固有の領土であることを日露両国が初めて確認した日露通好条約の調印された日を記念して、昭和56年に定められたものである。

・日露両国間の最大の懸案は北方領土問題であり、この問題が解決されなければ、両国間に、真に友好的な関係は生まれないであろう。わが国は北方四島の主権がわが国にあることを機会あるごとに主張しつつ、ねばり強く領土問題の解決をはかっていく必要がある。

・それは、単に北方四島という領土を回復するということだけでなく、わが国が独立主権国家として、侵害されている主権を回復するという意味がある。

・今日の韓国・中国の日本に対する法外な領土の主張は、北方領土に対する日本の弱腰の姿勢を見て、強引に主張・行動すれば、日本は言いなりになる、という認識をもって迫っているものと思われる。

・わが国は北方四島の主権がわが国にあることを機会あるごとに主張しつつ、ねばり強くロシアとの領土問題の解決をはかっていくべきであろう。

・そのことが、竹島・尖閣諸島を巡る問題においても、主権国家としてのあり方を明確にしていくことになると思われる。


(9ー1)戦後ロシア(旧ソ連)の論点(ミトロヒン文書)


(引用:Wikipedia)

〇概要 

(引用:amazon.co.jp)

・ミトロヒン文書は、1992年に旧ソビエト連邦からイギリスに亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)の幹部要員であったワシリー・ミトロヒンが密かにソ連から持ち出した機密文書のことである。

・25,000ページにわたる膨大な文書はMI6の協力を得てイギリスに持ち出され、ケンブリッジ大学のインテリジェンス歴史研究家であるクリストファー・アンドリューも分析に参加し、「Mitrokhin Archives I」「Mitrokhin Archives II」という書籍にまとめられ出版されている。その中では旧ソ連KGBが西側諸国に対して行っていた諜報活動が細かに記載されている。

 

1) 日本に対する諜報活動

・日本に対する諜報活動は2005年に出版されたMitrokhin Archives II[2]に「JAPAN」としてまとめられている。

・同文書には朝日新聞など大手新聞社を使っての日本国内の世論誘導は「極めて容易であった」とされている。

 

1.1)政界等に対する工作

・その中でKGBは日本社会党、日本共産党また外務省へ直接的支援を行ってきたことが記されている。

・他にこの文書内で「日本社会党以外でKGBに関与した政治家の中で、最も有力なのは石田博英(暗号名「HOOVER」)であった。」とされている。 

 

1.2)大手メディアに対する工作

1.2.1 )新聞社等スパイによる世論工作

・ミトロヒン文書によると、『日本人は世界で最も熱心に新聞を読む国民性』とされており、『中央部はセンター日本社会党の機関誌で発表するよりも、主要新聞で発表する方がインパクトが大きいと考えていた』とされている。

・そのため、日本の大手主要新聞への諜報活動が世論工作に利用された。

・冷戦のさなかの1970年代、KGBは日本の大手新聞社内部にも工作員を潜入させていたことが記されている。 

・文書内で少なくとも5人は名前が挙がっている。

 1. 朝日新聞の社員、暗号名「BLYUM」

 2. 読売新聞の社員、暗号名「SEMYON」

 3. 産経新聞の社員、暗号名「KARL(またはKARLOV)」

 4. 東京新聞の社員、暗号名「FUDZIE」

 5. 日本の主要紙(社名不詳)の政治部の上席記者、暗号名「ODEKI」 

・中でも朝日新聞社の「BLYUM」については「日本の最大手の新聞(実際は第2位)、朝日新聞にはKGBが大きな影響力を持っている」としるされている。 

「1972年の秋までには、東京の「LINE PR」(内部諜報組織)の駐在員は 31 人のエージェントを抱え、24件の秘密保持契約を締結していた。特に日本人には世界で最も熱心に新聞を読む国民性があり、KGBが偽の統計情報等を新聞に流すことにより、中央部はソビエトの政治的リーダーシップに対する印象を植え付けようとした。」とあり、日本の主要メディアに数十人クラスの工作員を抱えていたことが記されている。 

・工作員となった新聞社員のミッションは『日本国民のソ連に対する国民意識を肯定化しよう』とするものであった。例えば、日本の漁船が拿捕され、人質が解放されるとき、それが明白に不当な拿捕であったのにもかかわらず朝日新聞は「ソ連は本日、ソビエト領海違反の疑いで拘束された日本人漁師49人全員を解放する、と発表した」と肯定的な報道をさせた、とされている。 

・朝日新聞だけでなく保守系と目される産経新聞にもその工作は及んでいた。

「最も重要であったのは、保守系の日刊紙、産経新聞の編集局次長で顧問であった山根卓二(暗号名「KANT」)である。レフチェンコ氏によると、山根氏は巧みに反ソビエトや反中国のナショナリズムに対して親ソビエト思想を隠しながら、東京の駐在員に対して強い影響を与えるエージェントであった。」 

 

1.2.2)一般人の工作員化

・上記のような大手メディアの工作員は一般人である。それを工作員化する方法については

「メディアに属するKGBのエージェントの殆どは、主に動機が金目当てだったであろう。」

と記されている。

・またその他に、ソ連訪問中にKGBに罠にかけられて工作員になる者もいた。読売新聞社の「SEMYON」はモスクワ訪問中に『不名誉な資料に基づいて採用された。それは闇市場での通貨両替と、不道徳な行動(ハニートラップ)であった』と書かれている。 

 

2)関連文献

・『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』山内智恵子、江崎道朗監修、ワニブックス、2020年 

 

3)関連項目

 ペルソナ・ノン・グラータベノナレフチェンコ事件安保闘争プロパガンダ

 メリタ・ノーウッド - ミトロヒン文書によりKGBのスパイであったことが曝露された人物


(9ー1)戦後ロシア(旧ソ連)の論点(ベノナ文書)


 (引用:Wikipedia)

1)概要 

(引用:amazon.co.jp) 

 

・ベノナないしベノナ・プロジェクト(VENONA, Venona project)は、1943年から1980年まで37年間の長期にわたって、アメリカ合衆国陸軍情報部(通称アーリントンホール、後のNSA/アメリカ国家安全保障局)とイギリスの情報機関が協力して行ったソ連と米国内に多数存在したソ連スパイとの間で有線電信により交信された多数の暗号電文を解読する極秘プロジェクトの名称である。ヴェノナと表記したり、解読されたファイル群をベノナ文書、もしくはベノナファイルと呼称する事もある。 

・後年解読された暗号電文を元に様々な研究が行われた結果、1930年代から第二次大戦後の1940年代末までに米国国内の政府機関、諜報機関、軍関係、民間組織などに数百人単位のソ連のスパイ、スパイグループ及びスパイネットワークが存在し、当時の米国政府の政策や意思決定をソ連有利に歪め、世論などがこれらの様々な工作活動によって多大な影響を受けていた可能性があることが明らかになった。 

・本作戦開始以来、半世紀以上に渡って極めて高度な機密として秘匿されてきたが、米ソ冷戦の終結、1991年のソビエト連邦の崩壊などの状況の変化を受け、1995年7月にこれらソビエトスパイの暗号解読文書の一部が公開され、さらなる公開で約3000に上る解読文書が公開された。

・現在、これら解読文書の多くは米国CIAやNSAのホームページにて公開されている。

・また後年、研究家達によってミトロヒン文書とのすり合わせ検証が行われた。

・先立っては「JADE」、「BRIDE」、「DRUG」という名が使用されていた。 

 

2)詳細

 ・ソ連が一般に採用していた暗号法は、元の文の単語や文字を数字に変換するとともに暗号文解読のための鍵 (ワンタイムパッド法の場合には本文と同じ量になる)を付加する方法であった。

・正しい使用法をすれば、ワンタイムパッド法で暗号化された文は決して解読できないことが理論的に知られている。

・しかし、ソ連関係者の一部が暗号化に際して誤りを犯し、一度使用した鍵を再利用してしまった(一度使用した鍵をただちに廃棄するのがワンタイムパッド法の原則である)

・これにより、膨大な通信文の一部、又は文書の一部分に限られたが解読が可能になった。

・第二次世界大戦末期の1945年5月に、アメリカ軍情報部がドイツのザクセンおよびシュレースヴィヒでソ連の暗号書を発見した。

・これはドイツ軍がフィンランドのソ連領事館を制圧した際に、半分焼け焦げた暗号書を発見しドイツへ送られたものだった。

・1944年末フィンランド将校から別の暗号書もアメリカに送られたがOffice of Strategic Servicesがソ連に返還した。

・これがアメリカで活躍するソ連国家保安委員会(当時は内務人民委員部、NKVD)のスパイ網で使用されているものと関連があることがわかった。 

 

 

 KGBの紋章(諜報の象徴として剣が、防諜の象徴として盾があしらわれている)(引用:Wikipedia)

 

・また1942年初頭に、ソ連NKVD通信センターは、使い捨て暗号表(ワンタイムパッド)を35,000ページ複製し2組の暗号表を作った。これにより同一暗号で暗号化された通信文が2つあることになった。そのため、アメリカ国家安全保障局(NSA)のメレディス・ガードナーほかの解読者は暗号を破ることができた。 

 

               

        NSA本部(引用:Wikipedia)        メレディス・ガードナー(引用:Wikipedia)  

 

・解読は極秘であったが、秘密情報部(SIS) のアメリカ駐在連絡代表キム・フィルビーがソ連に情報を流したため、ソ連は解読が実施されていることを知っていた。しかし当時フィルビーはSIS長官候補であったため、彼を温存するためにこの情報を利用しなかったという。 

              

        ロンドンにあるSIS Building     キム・フィルビーを顕彰するソ連切手(1990年発行)

(引用:Wikipedia)

3)暗号突破

・暗号突破時に判明したこと。

①アメリカの元共産党員であったE・ベントリーとW・チェンバースの二人は、1948年のアメリカ下院非米活動委員会において、ソ連のNKVD(「内務人民委員部」。KGBの前身)の在米責任者であるボリス・ブコフ大佐が、アメリカ政府内にソ連の諜報活動網を構築していたことを指摘した。

 ②その内容と、当時財務次官補の要職にあったハリー・ホワイト(太平洋戦争のハルノートを草稿した人物)が「Jurist(ジュリスト)」「Richard(リチャード)」というコードネームを持つソ連のスパイであった事実が、ファイルの解読で確認された。 

 

4)解読で判明したこと

①ソ連に乗っ取られていた組織

・1930年代~1940年代の米国政府機関、米国内の民間シンクタンク、民間平和団体、宗教関連団体、出版社などが事実上ソ連に乗っ取られていた事が判明。第二次大戦時の米国の政策決定の多くをソ連の意図に基づいて歪められていた可能性が浮き彫りになる。 

・米国政府機関内部にはウエアグループ、パーログループ、シルバーマスターグループ(ヘンリー・モーゲンソウ財務長官(当時)の周辺を固めていた財務官僚中心のグループで事実上モーゲンソウ財務長官の意思決定に大きく関わっていた)、OSS、司法関係を含む多くの主要官庁及び軍組織に多数のスパイとスパイグループ及びスパイネットワークが存在し、米国政府の様々な機密情報がソ連に筒抜けになっていた。 

・これら数百名単位のスパイ及びスパイグループは機密情報をソ連に流していただけではなく、米国政府の政策決定に大きな影響を与えるいわゆる影響力工作を行って、米国の政策や戦争の推移がソ連に有利になるようにモスクワから米国を操っていた可能性がある事がわかった。 

・民間ではIPR、いわゆる太平洋問題調査会が1930年代からソ連コミンテルン系のスパイと蒋介石配下の中国系スパイ等によって乗っ取られ、パシフィック・アフェアーズ等の雑誌を通じたプロパガンダによって米国政府関係者などに ” 好戦的な日本観 ” を植え付け、中国大陸における日本の行動を非難して米国世論を対日戦へと誘導した。 

YMCAや複数の平和運動団体もこれに同調して批判的対日世論を盛り上げたが、これらの動きの背後にはソ連コミンテルン及び中国共産党系のスパイの活動が大きく関わっていた事がわかった。 

 

②原爆スパイ問題 ローゼンバーグ事件とクラウス・フックス 

 

          

   逮捕されたローゼンバーグ夫妻     ロスアラモス国立研究所     クラウス・フックス

                       (引用:Wikipedia)    (同左でのIDバッジの写真) 

 

・米国が巨額の費用と大量の科学者、技術者を動員して製造に成功した原子爆弾の製造方法がスパイによってソ連に流出、わずか数年でソ連は核爆弾の製造に成功、核保有国となり後に数十年続く米ソ冷戦の発端になる。 

・1950年ドイツ出身のユダヤ人、ローゼンバーグ夫妻がマンハッタン計画で生み出された核兵器の製造方法に関する機密情報をソ連に漏洩した容疑で逮捕され、第二次世界大戦後のアメリカでスパイ事件「ローゼンバーグ事件」とされた。ローゼンバーグ夫妻は1953年に死刑執行された。

・後に公開されたヴェノナ文書群の解析で、ローゼンバーグ夫妻と妻エセルの実弟、デビッド・グリーングラスはそれぞれコードネームが割り振られていたソ連のスパイであったことが確認された(下記コードネーム一覧表参照)。 

・ヴェノナの解読は、原子力関連スパイ、クラウス・フックスの暴露においても重要だった。

・最初のメッセージの中には、CHARLESとRESTのコードネームで参照されていた、マンハッタンプロジェクトの科学者からの情報が解読されたものもある。

・1945年4月10日、モスクワからニューヨークへのメッセージの1つは、チャールズが提供した情報を「大きな価値を持っている」としている。

 

③ アルジャー・ヒスおよびハリー・デクスター・ホワイト 

 

           

 下院非米活動委員会で証言するアルジャー・ヒス / ブレトン・ウッズ協定でのハリー・ホワイト(左)ケインズ と

(引用:Wikipedia) 

・政府の秘密に関するモイニハン委員会によると、アルジャー・ヒスハリー・デクスター・ホワイトの共謀は、ベノナによって証明されている。

・モイニハンは「国務省のアルジャー・ヒスの共謀は証明されているようだ」と語った。

・モイニハン上院議員は、ソヴィエトのスパイとして身元を確認したことについての確信を表明した。内容は「ヒスはソ連の代理人であり、モスクワにとって最も重要だと思われる」というものである。

 

④アイバー・モンタギュー 

・Ivor Goldsmid Samuel Montagu 1904-1984。GRUのスパイ。コードネームはIntelligentsiaとNobility。国際卓球連盟創設者、会長(1926-67)、2代スウェイスリング男爵ルイス・モンタギューの息子、ヒッチコック映画のプロデューサー。MI6でミンスミート作戦(「存在しなかった男」作戦)を指揮したユエン・モンタギューは兄である。 

 

⑤ヴェノナファイルに登場する暗号名主要人物〔実名/暗号名〕)

・ フランクリン・ルーズベルト第32代米合衆国大統領/キャプテン(船長)

・ヘンリー・モーゲンソウ 米財務長官/ネイボッブ(太守、成金)

・ウィンストン・チャーチル英首相/ボア(猪)

・シャルル・ド・ゴール自由フランス代表、仏大統領/ラス

・ウィリアム・ドノバン米OSS局長/アナウンサー

・原爆/バルーン

・KGB/ビッグハウス

・アメリカ共産党/カンパニー 

 

⑥ソ連のスパイ及び協力者一覧(主要人物〔実名/カバーネーム/経歴など〕)

ネイサン・グレゴリー・シルバーマスター/ロベルト/財務省、軍需生産委員会 訴追されず  財務省の財務官僚を中心とした”シルバーマスターグループ”のリーダーでヘンリー・モーゲンソウ財務長官の政策決定に大きく関与、第二次大戦を前後して事実上米国の経済政策をコントロールしていたスパイグループの中心人物である 

ハリー・デクスター・ホワイト/ジュリスト もしくは リチャード/財務次官補 IMF理事長 1941年11月対日圧迫外交における最後通牒・「ハル・ノート」の原案を起草 1948年自殺 

・ アルジャー・ヒス/アリス/国務長官上級補佐官、カーネギー国際平和財団理事長 

ハリー・ホプキンス/“役に立つまぬけ”/大統領顧問、ルーズベルトの旧友 1946年病 

 

5)年表

暗号文の一つには、原爆に関するものが含まれていた。

以下はNSAのVENONA Chronologyによる。

・1943年2月1日-ジーン・グラベルがアーリントンホールにてVENONA作戦を始める。

・1943年11月-リチャード・ハーロック中尉が初めてソ連の外交暗号の弱点を発見する。

 フランク・ルイスがこれをさらに広げる。

・1943年-VENONA作戦が拡大。F.クーデルト大佐、ウィリアム・B・S・スミス少佐が責任者となる。

・1944年11月-KGBの暗号を、セシル・フィリップス、ジュヌビヌーブ・フェインステイン、

 ルシール・キャンベルが初めて破る。

 ・1945年-ソ連大使館員イゴーリ・グゼンコが亡命。エリザベス・ベントリーと

 ウィテカー・チェンバースが、FBIにソ連のアメリカにおける諜報活動を通報。

・1945年5月-アメリカ軍情報部がドイツのザクセンおよびシュレースヴィヒでソ連の暗号書を発見。

・1946年7月-12月-メレディス・ガードナーがKGBの暗号書の復元を開始した。

 解読されたいくつかの

・1947年8月30日メレディス・ガードナーが、暗号文に含まれるKGBスパイの偽名についての研究を行う。

・1947年9月-G-2のカーター・W・クラーク大佐がFBIのS・ウェルズレイ・レイノルズに

 アーリントンホールにおけるKGB暗号解読に成果があったことを報告する。

・1948年10月19-20日-FBI本部のロバート・J・ランファイアがメレディス・ガードナーと

 接触を始め、多数の諜報活動の捜査が始まる。

・1948年-1951年-VENONAの調査により、ジョン・ダワー、アルジャー・ヒス、

 クラウス・フックス、ハリー・ゴールド、ディビット・グリーングラス、セオドア・ホール、

 ウィリアム・パール、ローゼンバーグ夫妻、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン、

 キム・フィルビー、ハリー・ホワイト、フランツ・レオポルド・ノイマン

 など多くの主要KGBエージェントが特定される。

・1952年-1953年-初期のKGB暗号を解読。GRU文書が解読された。その後の20年間に多くの

 スパイが特定された。

・1953年-CIAが公式にVENONAを報告し、防諜活動に協力を始めた。

・1960年-イギリスがGRU文書の解読を開始。

・1960年-1980年-数百もの暗号文が初めて解読される。初期に解読されたものも再解読される。

・1980年10月1日-VENONA終了

・1995年7月-VENONA FILEの一部が初めて公開される。

※図書紹介:『ヴェノナ――解読されたソ連の暗号とスパイ活動』

目 次

序 章 「ヴェノナ」への道 / 第1章 「ヴェノナ」と冷戦 / 第2章 暗号解読

第3章 アメリカ共産党の地下組織 / ゴロス=ベントリー・ネットワーク

第5章 ルーズベルトに喰い込んだソ連のスパイたち / 第6章 ソ連軍情報部の対米スパイ活動

第7章 アメリカ政府機関別に見るソ連スパイの浸透 / 第8条 「同胞」たち

第9章 アメリカ大陸における反スターリン分子の追跡 / 第10章 産業スパイ・原爆スパイ

第10章 ソ連の諜報活動とアメリカの歴史(結論) / 参考人名簿 

◇表表紙コメント:封印されてきた歴史の真実  近現代史の歴史の書き換えを迫る第一級の史料 

    第二次世界大戦時、アメリカはソ連の諜報活動に操られていた!

 ◆江崎道朗氏推薦! 「ヴェノナ文書によって、第二次世界大戦だけでなく、対日占領政策と

            現行憲法制定、そして朝鮮戦争に至る近現代史の見直しが迫られている」 

◇裏表紙コメント:中西輝政氏が注目する4つのポイント

 1)「暗号解読」に対するアメリカなどの主要国の国家的執念

 2)ソ連暗号通信から明らかになった事実の驚くような中身

 3)なぜ冷戦が始まったのか、という大問題に「ヴェノナ」が関係

 4)重大な世界史的秘密が長期間、隠されてきたことへの驚き 

 ※「ヴェノナ文書」とは、アメリカとイギリスの情報機関が、1940~1944年のソ連の暗号を解読

  したもので、1995年のアメリカの情報公開法によって一斉公開された。


(10) 今後の課題(北方領土問題の細部)


  (引用:WIKIPEDIA)

 (引用:外務省HP 

 

 北方領土問題は、北海道根室半島の沖合にあり、現在ロシア連邦が実効支配している択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島々、すなわち北方領土に対して、日本が返還を求めている領土問題である。 

 歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島 1. 色丹村、2.泊村、3. 留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6. 蘂取村

 (引用:Wikipedia)

1)概要 

・日本国政府は、ロシア連邦が自国領土だとして占領・実効支配している北方領土について、不法占拠された日本固有の領土だとして、返還を求めている。 

・1945年(昭和20年)8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定し翌15日に玉音放送によって国民に降伏を告知、自発的戦闘行動を停止した後の1945年8月28日から9月5日にかけて、赤軍(ソ連軍)が当時まだ有効であった日ソ中立条約を一方的に破棄して北方領土に上陸し占領した(※)

 

(※)赤軍は米国の協力により艦船・武器の提供や上陸訓練などの指導を受けていた。 

 

・侵攻に際し、米ソ合同作戦「プロジェクト・フラ」により米国で建造された軍艦や米軍に習熟訓練を受けたソ連兵たちも参加した。 

・その後、北方領土は現在に至るまでソビエト社会主義共和国連邦および、それを継承したロシア連邦が実効支配を継続している。日本国政府は北方領土は日本固有の領土だとして領有権を主張しているものの、一切の施政権は及んでおらず、日本はその返還を求めている。 

千島列島の呼称について、日本国政府は「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後・択捉)両島は含まれない」色丹島および歯舞諸島は北海道の一部を構成する(属島)とする。ソビエト連邦あるいは現ロシア連邦はサンフランシスコ平和条約に調印していない。 

・ソビエト連邦(現ロシア連邦)では、色丹・歯舞を合わせて小クリル列島、占守島から国後島までを大クリル列島、小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と呼んでいる。 

・これらの4つの島が主張されている。合わせて北方地域と呼ばれる。

・択捉島      3186.64㎢ 7,500人(2003年)

・国後島      1489.27㎢ 7,000人(2007年)

・色丹島      255㎢   2,100人

・歯舞群島の島々  99.94㎢   117人 

 

2)北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで) 

・北方領土問題が発生するまでの歴史的経緯、概要は次のとおりです。 

 

2.1)第2次世界大戦までの時期

〇日魯通好条約(1855年) 

 

 (引用:外務省HP 

 

 日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。 

 

樺太千島交換条約(1875年)  

 (引用:外務省HP 

 日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。 

 

ポーツマス条約(1905年) 

 

 (引用:外務省HP

 日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。 

 

2.2)第二次世界大戦と領土問題の発生 

大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則 

 1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。  また、1943年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から日本は追い出されなければならないと宣言しました。ただし、北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみても明白です。 

 

ポツダム宣言(1945年8月受諾) 

 ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約(注)を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同8月28日から9月5日までの間に、北方四島を不法占領しました(なお、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。

 

(注)日ソ中立条約(1941年4月)

 同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで有効)。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長されることを規定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告。 

 

サンフランシスコ平和条約(1951年9月)  

 

 (引用:外務省HP 

 日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。

 

3)北方領土関係史 

 

    

       領土開発1875年から1945年:          千島列島における国境線の変遷

       1875年: 樺太・千島交換条約           (1945年は旧ソ連の実効支配線)

       1905年: ポーツマス条約

       1945年:第二次世界大戦の終わり         (引用:Wikipedia) 

 

・この地図は、松前藩が江戸幕府に提出したものを基礎としており、提出された原本は残っていないが、松前藩は1635年に樺太調査を行っており、地図はそれに基づいて作られたものと言われている。 

・択捉島についていえば、アイヌが先住していて、1661年に伊勢国の七郎兵衛らの船が漂流している。 

・1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。 

・また、最上徳内が徳川幕府の派遣した探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中に正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている(ただし正教はロシア人・ロシア国民以外にも信仰されているものであり〈例:ギリシャ正教会、ブルガリア正教会、日本正教会〉正教徒であることイコールロシア人ではない) 

●1854年(嘉永7年)

千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅 作)

●1855年

日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。

●1869年

・蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし

五郡を置いた。 

●1875年

・日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「クリル群島」を日本領、日本とロシアの

共同統治としながらも、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領とした。

 この条約はフランス語が正文であり、これに基づいて日本語訳が作られたが、この翻訳

は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、得撫島以北が千島列島であるとの

 解釈がなされたことがある。

・条約締結後、当時の行政区分で「千島国」と定められていた国後島・択捉島に、得撫島

以北を編入し、国後島から占守島までが千島国になった。 

●(1904年 - 1905年 日露戦争。ポーツマス条約により南樺太が日本に割譲された)

●(1917年-1918年 ロシア革命)

●(1918年-1922年 シベリア出兵)

●(1931年 満州事変勃発)

●(1937年 日中戦争勃発) 

●1940年

・11月25日、モロトフが駐ソ連ドイツ大使を呼び出し、ドイツ外相フォン・リッベントロップの提案に従って、日独伊三国同盟を「日独伊ソ四国同盟」とする事にソ連政府として同意した。締結にあたって解決すべき条件があり、その中に北サハリンにおける日本の石炭・石油採掘権の放棄という項目があった。

・この同盟案はドイツがソ連に奇襲攻撃をかけたため消滅した。 

●1941年4月日ソ中立条約を締結。 

 

     

    (左)日本国及ソヴイエト連邦間中立条約    (右)日ソ中立条約に署名する松岡洋右外相。

         (引用:Wikipedia)          その後ろは、スターリンとソ連外相モロトフ。 

 

・開戦前、アメリカ大統領ルーズベルトはヨシフ・スターリンに、日本軍がソ連沿海州を攻撃するという情報を届けた。これに関連し、ソ連極東地域にアメリカ空軍基地建設許可、アラスカ経由での航空機輸送を提案した。

・だがゾルゲなどの諜報機関から日本が対米開戦ハワイ奇襲を決意したことを知るスターリンは相手にせず、米軍爆撃機基地建設を拒絶した。 

●1942年

・6月17日、新任アメリカ大使スタンリー将軍がルーズベルトの親書をスターリンに手渡した。ルーズベルトは再び日本軍のソ連侵攻に言及し、極東に米軍基地建設を求めた。

・スターリンは、独ソ戦の激戦が続く間、日本との関係を悪化させないと特命全権大使に言明した。 

1943年

・10月 モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)

・スターリンの通訳によれば、10月30日に開催されたクレムリンのエカテリーナ広間晩餐会で、スターリンは隣に座るハル国務長官に対し、ドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた。ただし、耳打ちという形で告げられ、当分の間秘密とされた。

続いて11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この会談でルーズベルトとチャーチルは、1944年の5月までにヨーロッパで第二次戦線を開くことを約束した。その見返りにスターリンは、ドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきり約束し、そのためにいかなる「要望」を提出するかは、後で明らかにすると言明した。

テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するために戦争をしていること、日本の無条件降伏を目指すことが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。

 

    

(左)カイロ会談における蔣介石・ルーズベルト・チャーチル(1943年11月25日)

(引用:Wikipedia)    (右)米軍機から台湾にばら撒かれたカイロ宣言の内容を示すビラ

 

●1944年

・12月14日、スターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して南樺太や千島列島などの領有を要求する。これがのちにヤルタ協定に盛り込まれることとなる。 

●1945年1月 - 8月 戦時下の国際情勢 

リヴァディア宮殿で会談に臨む(前列左から)チャーチル、ルーズベルト、スターリン

(引用:Wikipedia 

・2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談ヤルタ会談。ここで、戦勝国間で、戦勝権益の世界分割が話し合われた。大日本帝国を早期に敗北に追い込むため、ナチス・ドイツ降伏(ヨーロッパ戦勝記念日)の3ヶ月後に、ソ連対日参戦する見返りとして、日本の降伏後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした極東密約を結んだ(ヤルタ協定) 

・4月5日、ソビエト社会主義共和国連邦が日ソ中立条約の失効を日本側へ通告。日ソ中立条約は、規約により締約更新の1年前に通告しなければ、自動更新されることになっており、このソビエトの通告により、1946年4月25日に失効することになった(※)。日本側は翌年の期間満了後に失効と捉えたが、後にソ連側は破棄の通告としている。 

 

(※)1945年4月5日の通告により日ソ中立条約が即時に失効したのか条約の規定にある5年目の更改日46年4月25日まで有効だったのかについては定説はない。極東国際軍事裁判判決では「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」とソ連側の行為を合法的なものと規定している。詳しくは日ソ中立条約参照。

 

・7月17日 - 8月2日、ポツダム会談においてソ連は、アメリカと他の連合国に対して、日ソ中立条約の残存期間中であることを理由として、ソ連に対日参戦を求める内容の明文化を要求。 

●1945年8月 ソ連による対日宣戦布告

・8月8日、モスクワ時間の午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連の外務大臣から対日宣戦布告を受けた日本の駐ソ連日本大使はモスクワから日本国外務省へ打電するが、モスクワ中央電信局の妨害により日本国内へ宣戦布告の情報伝達がされない状況下で、モスクワ時間の午後6時(日本時間:翌日零時)からソ連軍は攻撃のための進軍を開始した。 

・8月9日、日本時間の午前4時、ソ連や米国などの放送局から情報を入手した日本の外務省が、ソ連の参戦を把握し、国外公館へ情報を伝達。当日は午前11時に日本の長崎市へ原子爆弾が投下されるなど過酷な状況でもあった。 

・8月10日日本時間の午前11時15分、ソ連のマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問、公式な宣戦布告の文書が日本側へ届けられた。日本側から公式な対ソ宣戦は行われていないことからも、日本側はソ連軍の攻撃に直面する現場の防衛行動としている。 

・8月10日、午後10時、ソ連は赤軍の第2極東戦線第16軍に向けて「8月11日に樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を行うが、ソ連側の各兵科部隊は準備不足から任務に至らず。 

●1945年8月 停戦とその後の侵攻

・8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、日本側は連合国にポツダム宣言受諾を通告。 

・8月15日、日本国内では敗戦を告げる玉音放送が流された。ソ連は北千島への作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。 

・8月16日、日本領南樺太へソ連が侵攻。この際、米ソ合同作戦「プロジェクト・フラ」により米国で建造された軍艦や米軍に習熟訓練を受けたソ連兵も参加し、この後の侵攻でも使われた。 

・8月16日、日本の大本営から即時停戦命令が出たため、日本側の関東軍総司令部が停戦と降伏を決定。 

・8月18日、ソ連による千島列島への侵攻と占領。 

・8月23日、スターリンは「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下し、これにより主にシベリアなどへ労働力としてソ連各地へ移送・隔離されシベリア抑留問題となる。 

・8月28日から9月1日までに、ソ連軍は北方領土の択捉・国後・色丹島を占領した。 

・9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板において、日本側が連合国と降伏文書を締結、これにより停戦となる。同文書では、連合国側として連合国最高司令官とソ連を含む各国代表も署名を行い、国際的に停戦が確認された。 

・既に8月22日に千島諸島の日本軍は戦闘停止していたが、連合国からの指令「一般命令第一号」で千島諸島の日本軍「ソヴィエト」極東軍最高司令官降伏すべきこととされた。 

・9月3日から5日にかけてソ連軍は歯舞群島を占領した。 

●1946年 - 1949年

・1946年1月29日、GHQ指令第677号により、千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止され(※)、千島はソビエトの行政管轄区域となった。

(※) なお、同指令第6項には「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」とある。

・1946年2月2日、ソ連邦最高会議が、千島列島(クリル諸島)の領域を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言する(ソ連邦最高会議1946年2月2日付命令)。1945年8月当時、北緯50度以南の南樺太島南部に住んでいた日本人は約40万人だったが、ソ連の占領下で生活することになった日本人は、技術者を中心として多くがそのまま職場にとどまらざるを得なかった。南樺太では、日本から米の供給が途絶えたことから、ソ連は旧満州国から大豆、北朝鮮から米を移入し、日本人への配給にあてる一方、北朝鮮から林業などの朝鮮人労働者も送られるようになった。 

・1946年2月11日、ヤルタ会談における極東密約(ヤルタ協定)が公開された。

北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。1946年12月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)とソ連との間で捕虜となっていた日本国民の引き上げ(「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」)が合意され、 

・1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した(※)

 (※)外務省の公式見解北方領土問題に関するQ&A(平成22年2月1日)「 戦前、北方四島には、約1万7千人の日本人が住んでいましたが、その全員が、1948年までに強制的に日本本土に引き揚げさせられました。」

●1951年

サンフランシスコ講和条約で、日本は南樺太と千島列島を放棄する。平和条約国会で、政府はヤルタ協定のいう千島列島の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している 。この説明は1956年2月に取り消された。 

●1956年 戦後の両国間交渉 日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)

・日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした 

・米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと国務省の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。 

・しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉南千島として言及しているところに注意を喚起するとの回答があった。 

平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島の「譲渡」で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。 

日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係が回復。日本とソ連は1956年12月7日、日ソ共同宣言の批准書を交換し、日ソ共同宣言は同日発効した。 

●1957年

・ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった(※) 

(※)なお貝殻島は国連海洋法条約で言うところの低潮高地であり、島ではないため、同条約によると領海や排他的経済水域を有しない。

●1960年

・岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行ったことに対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。 

●1962年3月9日

・日本の衆議院本会議において沖縄・小笠原施政権回復決議とともに、北方領土回復決議が採択される。 

●1964年7月10日

・毛沢東中国共産党主席が中国を訪問していた日本社会党訪中団に対し、ソビエト連邦について「とにかく自分の領内に入れることのできるところは、残らず自分の領内に入れようというのです。」などとしたうえで、「われわれはまだ彼らとの間に、決算が終わって(原文ママ)いないのです。ところで、皆さんの千島列島についてですが、われわれにとって、それは別に問題ではありません。皆さんに返還すべきだと思います。」と述べ、北方領土問題に関し日本を支持する考えを示す。 

●1970年11月11日

・オコニシニコフ在日ソ連臨時代理大使が日本の森外務事務次官に対し、北方領土に関する対日口頭声明を行う。これに対し同年11月17日に、日本の森外務事務次官がオコニシニコフ在日ソ連臨時代理大使に対し、先の声明に対する回答を口頭で行う(対ソ回答)。 

●1972年

・大平正芳外相が北方領土問題の国際司法裁判所への付託を提案したが、ソ連のアンドレイ・グロムイコ外相が拒否する。 

●1973年

・田中・ブレジネフ会談。第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明) 

●1981年

・北方領土の日設定。毎年2月7日を北方領土の日とする。 

●1991年

・ソビエト連邦は解体、ロシア連邦として独立し、領土問題を引き継ぐ。 

●1993年10月

・細川護煕首相とエリツィン大統領が会談し、北方四島の島名を列挙した上で北方領土問題をその帰属に関する問題を解決した上で平和条約を早期に締結するとして日露共同文書が発表された。(東京宣言) 

●2010年7月

・中国共産党胡錦濤総書記の働きかけもあり、ロシアは日本が第二次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を「終戦記念日」に制定した。 

・11月1日:ドミートリー・メドヴェージェフ大統領は、北方領土の国後島を訪問。「ロシアの領土を訪問」したとしている。 

・11月1日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補は記者会見の席上で、ロシアのドミートリー・メドヴェージェフ大統領が国後島を訪問したことに関し「北方領土に関して、アメリカは日本を支持している」と述べる。 

・11月2日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補は記者会見の席上で、「アメリカは北方領土に対する日本の主権を認めている」としたうえで、北方領土に日米安全保障条約が適用されるかについて、「現在は日本の施政下にないため、第5条は適用されない」と述べる。 

●2011年

・2月11日:ロシアのラブロフ外相は日露外相会談を受けた記者会見で、北方領土の開発に「中国や韓国など(第三国)の投資を歓迎する」と述べる。 

・5月24日:竹島の領有権確保を目指す「独島領土守護対策特別委員会」の韓国議員3人が国後島を訪問。この訪問予定を知った日本政府は遺憾の意を示していたが、「韓国国会議員の行動にあれこれと言ってくるのは失礼な態度だ」とし、訪問目的を「日本との領有権問題がある地域の支配・管理状況の視察」とした。 

●2019年

・5月11日:北方領土へのビザなし交流訪問団に同行していた当時日本維新の会所属の丸山穂高議員が国後島の宿舎で酒に酔い、元島民の団長に「戦争で北方領土を取り返す」というような趣旨の不適切な発言をしていたことが報道され、日ロ関係悪化が懸念されている。 

・6月22日:大阪で開催されるG20とそれに合わせ29日に行われる日露首脳会談に先駆けて、ロシアのプーチン大統領は国営放送のインタビューに「北方領土を日本に引き渡す計画はない」と答えた。 

●2020年7月4日

・改正憲法の施行に伴い、北方領土交渉は事実上完全無効化。これは、改正憲法にロシア領土の割譲の禁止が記載され明文規定化されたためで、これに先立って7月2日に国後島に「憲法改正記念碑」が建立された。 

・プーチン大統領は、「このテーマ(南クリルが完全なロシア領であるという事)が特に重要なロシアのある地域の住民が、鉄筋コンクリートで記念碑を設置した。記念碑は『改正憲法は鉄筋コンクリートのように堅固であるべきだ』との提案に沿ったものだ」とコメントした

 

4)解説 

・1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。この時、南樺太・千島の日本軍赤軍極東戦線に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となった。 

・1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。この条約にソ連は調印していないため、ソ連との国交回復は、1956年日ソ共同宣言により行われた。この時、日ソ間で領土の帰属に関して合意が得られなかった。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明共同コミュニケがあるが、平和条約締結領土問題での合意に至っていない。 

・1941年4月、日ソ間で、日ソ中立条約が締結された。その2ヵ月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。日本政府は、御前会議において、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を策定、独ソ戦が日本に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は関東軍特種演習(関特演)を実施、ソ連侵攻の準備を整えた。しかし、日本政府の思惑とは異なって、独ソ戦は膠着し、日本のソ連侵攻の機会は得られなかった。 

・ソ連はスターリングラード攻防戦クルスク戦車戦以降、独ソ戦を有利に展開するようになる。こうした中、1943年11月、テヘラン会談が米・英・ソ三国首脳により開かれ、当面の戦争、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権に置かれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このときの合意は、1945年2月のヤルタ協定に引き継がれた。 

・当時アメリカは米国人の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だった。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国民には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、戦後世界の勢力バランスを考慮したスターリンは米国の参戦要求を了承した。 当初ポツダム宣言への連名は、日本と交戦状態に無いソ連は除外されていたが、ソ連は参戦後、ポツダム宣言に参加した。その後、アメリカ主導で作成されたサンフランシスコ講和条約においても、既にソ連が占領している南樺太や千島をヤルタ会談での取り決め通り日本に放棄させる内容となっている。 

・1945年ドイツ敗北の3ヵ月後、ソ連は米・英との合意にしたがって対日宣戦布告。翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。満州の日本軍は、蒋介石の国民党軍ではなく、赤軍に対し降伏すると取り決められていた。 翌年3月12日、蒋介石の駐留要請を断って、赤軍は、瀋陽から撤退を開始し、5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。一方、南樺太では、8月11日、中立条約を侵犯し、日本に侵攻した赤軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。 

・1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に入った。千島・南樺太はソ連の占領地区とされた。1946年1月29日、GHQ指令第677号により、南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止され、同2月2日に併合措置(ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。サハリン島南部及びクリル諸島の領域を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言。これはヤルタ協定に基づくものの条約によらない一方的行政行為(一方的宣言)であり当該領域についての最終帰属に関する問題が発生する。1946年2月11日に米国とともにヤルタ密約の存在について公表。 

千島列島に関する条文案は紆余曲折(※)を経て、1951年9月にサンフランシスコ講和条約が締結され1952年に発効されたことにより、日本は独立を回復したものの、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄することとなった。条約締結に先立つ1946年末から、日本は米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。この中の2冊は千島に関する事項であることが知られている。このような経緯があって、千島列島の範囲が、日本に不利なように定義されなかったが、同時に、日本に有利なように定められることもなかった。 

 

(※)千島列島に関する条文案

*1947年3月草案 - 「日本国はここにカムチャッカ半島と北海道の間に連なる千島列島に対する全主権をソビエト連邦に割譲する。」

*1947年7月草案 - 「(第一条)日本の領土範囲は、1894年1月1日現在のそれとするが、第三条及び五条で定めた修正を施すものとする。(略)その範囲には、主要四島である本州、九州、四国、北海道、並びに瀬戸内海の諸島、千島列島内の国後及び択捉、琉球諸島(略)を含むすべての沖合小諸島が入るものとする」「(第三条)日本国はここに、1875年の条約によりロシアから日本に割譲されたウルップからシュムシュまでを含んだ全ての諸島から成る、択捉海峡の北東にある全ての千島列島に対する全主権を、ソビエト連邦に割譲する。」

*1947年8月草案 - 「日本国はここに、1875年の条約によりロシアから日本に割譲されたウルップからシュムシュまでを含んだ択捉海峡北東の島々から成る千島列島に対する全主権をソビエト連邦に割譲する。」

*1948年1月草案 - 「日本国はここに、千島列島に対する全主権をソビエト社会主義共和国連邦に割譲する。」「(注として、)全千島ないしは千島南端部(国後及び択捉)、歯舞及び色丹の日本による保持に向けた条項を9草案中に設けるかどうかはいまだ検討中である。法的には、日本による歯舞、色丹保持の立場のほうが、千島南端部分保持の立場よりも強いと考えられる」

*1949年9月及び10月草案 - 「日本の領土的範囲は、四主要島である本州、九州、四国及び北海道、並びに瀬戸内海の島々、佐渡、隠岐列島、択捉、国後、歯舞諸島、色丹、対馬、五島列島、北緯29度以北の琉球諸島、及び孀婦岩までの伊豆諸島を含む、すべての隣接小諸島から成る。」「(10月草案の注)注一、もしソ連が調印しないなら、条約は、第三条に記載された領土を日本が割譲するという条項を含むべきではなく、これらの領土の地位は現条約の当事国を含む関係国により後に決定されるとの規定を設けるべきだえる、というのが合衆国の立場である。」

*1949年11月草案 - 「(注として、)択捉。国後、及び小千島(歯舞と色丹)の日本における保持を、合衆国が提案すべきか否かという決定は今だ最終的になされていない。現時点での考え方は合衆国はこの問題を提起すべきではないが、もし日本によって提起されたなら、我々は同情的態度を示すかもしれないということである。ソ連が千島列島を信託統治制度の下に置くように合衆国が提案した方がよいかどうか、という問題もまだ考察されるべきである。」

*1949年12月草案 - 「(第三条)日本の領土は、四主要島である本州、九州、四国、北海道(略)並びに瀬戸内海の島々、対馬、竹島、隠岐諸島、(瑠役)及び歯舞諸島と色丹を含む、全ての隣接小諸島からなる。」「(第五条)日本国はここに千島列島に対する全主権をソビエト社会主義共和国連邦に割譲する。」

*1951年3月草案 - 「日本はソビエト社会主義共和国連邦に対し、南樺太とそれに隣接する全ての諸島を変換し、二カ国間協定、或は本条約第十七条に従った司法的決定により定義される千島列島を引き渡す。」

*1951年5月草案 - 「日本国は千島列島及び、日本がかつて主権を行使した南樺太と近隣諸島をソビエト社会主義共和国連邦に割譲する。」

*1951年6月草案 - 「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに隣接した諸島に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する。」 

 

・1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権限及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない」とする決議を行った。この米上院の決議の趣旨は、サンフランシスコ講和条約第25条として明示的に盛り込まれている。米国上院のこの決議(※)はサンフランシスコ条約批准にさいする解釈宣言であり有効である。但し外交交渉そのものの権限は大統領府にあり議会にあるわけでは無いので、当条約を批准した以降に大統領府がおこなう別の外交交渉を直接拘束する訳ではない。また他の参加・批准国を直接拘束するものではない(他の批准国はサンフランシスコ講和条約により直接的に拘束されている)。 

 

(※)米国の条約批准は上院の専権であり下院は参加しない。詳しくは批准を参照。

 

・ソ連はサンフランシスコ講和条約への調印を拒否したため、国交回復は1956年日ソ共同宣言まで持ち越された。このとき、日ソ間では歯舞群島・色丹島の「譲渡」で合意しようとする機運が生まれたが、日本側が択捉島・国後島を含む四島一括返還を主張したため交渉は頓挫した。結果、現在もロシアとの平和条約締結に向けて交渉が行われているが、領土問題に関する具体的な成果は得られていない。 

・日本政府は1997年に在ハバロフスク総領事館サハリン出張駐在官事務所を開所し、2001年にはサハリン州ユジノサハリンスクに総領事館を設置した。総領事館の設置に際してはロシア政府と交換公文や往復書簡を交わしロシアの同意を得ており、総領事の配置にもアグレマンを得ているが、日本政府としては南樺太の最終的な帰属先は未定であるとの立場であり、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとしている。鈴木宗男は南樺太についての政府解釈は難しいだろうと指摘したうえで北方領土の帰属は日本であると確認をしている。近藤昭一は総領事館設置を既成事実として南樺太の帰属問題を解釈する危うさを指摘し、日本がロシアに対して依然南樺太の領有権を主張し得るとする説や、日本が領有権を主張し得ないと同様に対日平和条約の当事国でないソ連もこの条約に基づいて南樺太・千島列島の領有権を主張できないとする説に言及する。 

 

4.1)カイロ宣言

〇和訳原文(抜粋)

三大同盟國ハ日本國ノ侵掠ヲ制止シ且之ヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ淸國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ

〇現代文

三大同盟国(米・英・中)は、日本の侵略を制止し、日本を罰するために戦争をしている。右の同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。また、領土拡張の考えがあるわけではない。

右同盟国の目的は、日本国より1914年第一次世界大戦の開始以後において、日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖諸島のような日本国が国民より盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。

〇解説

・1943年、太平洋戦争中に米・英・中がカイロで首脳会談をおこなった。この時のカイロ宣言では、日本の侵略を制止し、日本を罰し、1914年の第一次世界大戦以後日本が奪取した太平洋上の領土を奪還することや、満州・台湾を中国に返還することを目的としている。

・また、米・英・中には領土拡張の考えがないとしている。カイロ宣言は、米・英・中の宣言であるため、ソ連と関係した南樺太や千島列島は、同宣言の奪還の直接対象とはなっていない。

 

4.2)ポツダム宣言

〇和訳原文(抜粋)

ポツダム宣言 八

「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

〇現代文

「カイロ」宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限られなければならない

〇解説

・ポツダム宣言ではカイロ宣言を履行されなければならないとしている。カイロ宣言では南樺太・千島には言及されておらず、ポツダム宣言でも千島列島・南樺太に関する言及は無い。ただし、四国よりも大きい樺太が諸小島に含まれるとも解釈できない。宣言ではソ連への千島・南樺太の譲与にも言及がない。

 

4.3)ソ連の対日参戦

※詳細はソ連対日参戦参照。

・8月 8日 ソ連、対日宣戦布告

・8月10日 ポツダム宣言の受諾を連合国へ伝達

・8月11日 ソ連、中立条約を侵犯し、南樺太に侵攻 

・8月14日 ポツダム宣言の受諾を決定。在スイス加瀬公使、在スウェーデン岡本公使を通

 じ、米・英・ソ・中に、ポツダム宣言の無条件受諾を通告する。

・8月15日 日本国民に向けて玉音放送 

・8月18日~8月31日 ソ連、カムチャツカ半島方面から千島列島に侵入する(占守島の戦)。

 以後、得撫島以北の北千島を占領。

・8月25日 南樺太を占領

・8月28日~9月 1日 択捉・国後・色丹島を占領 

・9月 2日 日本、連合国への降伏文書に調印(一般命令第一号発令。本命令により、南樺太

 と千島列島の日本軍は赤軍極東戦線最高司令官に降伏することが義務付けられた)。

・9月 3日~9月 5日 赤軍が歯舞群島を占領 

●南樺太と千島列島のソ連軍占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」にしたがって行われた。トルーマンの「一般命令第一号」原案では、千島列島の日本軍がソ連に降伏すると記載されてなかったため、スターリンは、ヤルタ協定に基づき、赤軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。トルーマンはスターリンの要求を受け入れた。

 しかし、同時にスターリンが要求した、北海道東北部の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。他方、米国側はソ連に対し、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるよう要求したが、スターリンに拒否された。 

●翌1946年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、琉球・千島・歯舞群島・色丹島・南樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。

 その直後、ソ連は占領地を自国の領土に編入している。サンフランシスコ平和条約に調印していないソ連が占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。

 

4.4)サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)

「日本国との平和条約」も参照

第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)

日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

・日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、アメリカ全権のダレスは歯舞群島は千島に含まないとするのが合衆国の見解とし、連合国内で合意をみない旧日本領土の最終処分については22条に基づいて国際司法裁判所に付託することができるとした。 日本全権の吉田は、南樺太および千島列島は日本が侵略によって奪取したとのソ連全権の主張は承諾できない、としたうえでソ連による北方占領地の収容を非難する根拠として日露和親条約千島樺太交換条約での平和的な国境の画定を指摘し、南樺太と千島列島のソビエトによる収容が一方的であると非難し、かつ歯舞・色丹については「日本の本土たる北海道の一部を構成する」と、国後・択捉については「日本領であることについて、帝政ロシアも何ら異議をはさまなかった」とそれぞれ説明している。

 ・国内では、サンフランシスコ講和条約締結前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が、同条約締結直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)。 この答弁がされていた当時は条約を成立させて主権を回復することが最優先課題であり、占領下にあって実際上政府に答弁の自由が制限されていた。この説明は国内的に1956年2月に森下國雄外務政務次官によって正式に取り消された。

・その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としており、1956年頃から国後・択捉を指すものとして使われてきた「南千島」という用語が使われなくなり、その代わりに「北方領土」という用語が使われ始めた。日本政府は1964年に国後・択捉に対する「南千島」という旧来の呼称に代え、四島を返還要求地域として一括する「北方領土」という用語を使用することを決定した。 

・この条約では日本が放棄した旧領土の帰属先については意図的に除外されており、ソビエト全権のグロムイコはこの英米案からなる講和条約案を非難している。これはすでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による角逐(朝鮮戦争、あるいは封じ込め政策)の緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためで、ソビエトは米国による西南諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での実効支配についても非難している。 

・また、第二条(c)のほかに、北方領土問題に関する条文として、第二十五条と第二十六条が存在する。

・現在、サンフランシスコ講和条約においては以下の条文を適用することによりロシア(旧ソ連)による南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有は否定されているというのが、この条約を批准した日本など46カ国の立場である。

第七章 最終条項 第二十五条 (和訳原文)

この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

・つまり、ロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印・批准していないのでこの条約上の連合国には該当せず、当該条約はそのような国に対していかなる権利、権原又は利益も与えられてはおらず、すなわち、日本が放棄した千島列島や南樺太をロシアが領有することは認めないということである。 

・さらに、日本がこの条約に違反した場合の罰則も規定されている。 

第二十六条 (和訳原文)

日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。

 

・アメリカは、日本がソ連との間で色丹・歯舞の二島「譲渡」で妥協しようとした際、上記の条文を根拠として、沖縄の返還に難色を示した。

 

4.5)日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言

日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十一号) 9

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。 

・1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日、態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はこれで、平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は、国後・択捉も含めた北方四島全てが日本領であるとの意向を示したため、交渉は行き詰まった。 

・1956年7月、重光葵外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで、日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。しかし、当時、保守合同直後の与党には、派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日に重光外相はロンドンで行ったアメリカのダレス国務長官との会談の席上、ダレスに択捉島、国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求される。この中でダレスは「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と述べたとされる。ダレスの沖縄の米国領有の根拠はサンフランシスコ平和条約第26条の「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」を適用するものとされた。なお、この会談の記録は外務省に保管されており、鈴木宗男が2006年2月に、松本の書籍の内容が事実であるかどうかを政府に質問したが、政府は今後の交渉に支障を来たす恐れがあるとして、明確な回答を一切避けた。保守党内部の反鳩山勢力の思惑や米ソ冷戦下の米国の干渉などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。 

・1956年、かねて日ソ関係正常化を政策目標に掲げていた鳩山一郎首相は局面を打開すべく自ら訪ソしようと考えた。領土問題を棚上げにして戦争状態の終了と、いわゆるシベリア抑留未帰還者問題を解決する国交回復方式(アデナウアー方式)に倣うものとし、この場合、国交回復後も領土問題に関する交渉を継続する旨の約束をソ連から取り付けることが重要だった。鳩山訪ソに先立ち松本俊一が訪ソし1956年9月29日グロムイコ第一外務次官との間で「領土問題をも含む平和条約締結交渉」の継続を合意する書簡を取り交わした。

・同10月12日に鳩山首相が訪ソ、ブルガーニン首相らと会談。実質的交渉は河野一郎農相とフルシチョフ党第一書記との間で行われた。日本側は歯舞色丹の「譲渡」と国後択捉の継続協議を共同宣言に盛り込むよう主張したが、フルシチョフは歯舞色丹は書いてよいが、その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない、歯舞色丹で領土問題は解決する旨主張した。18日午後の会談で、河野が提示した案文に対しフルシチョフは平和条約締結交渉の継続を意味する「領土問題を含む」との字句を削除したいと述べ、河野はソ連側からの案文をそのまま採用したものだとして抗弁、河野は総理と相談するとして辞し、同日中にフルシチョフを再訪し字句削除の受け入れを伝えた。ただし日本側は「松本・グロムイコ書簡」を公表することで説明をつける考えであり、ソ連側の了解を得て公表された。 

 

4.6)領土問題の交渉過程

・1956年日ソ共同宣言では歯舞、色丹平和条約締結後に日本に引き渡す取り決めを結ぶ。日ソ共同宣言の締約によりソ連の賛同を得て日本は国際連合に加盟を果たすことになるが、平和条約交渉における領土問題の取り扱いについて日ソ間で直ちに認識の違いが露呈してくることとなる。1960年、日米安全保障条約の改正によりソ連は領土問題の解決交渉を打ち切り、領土問題は日本側の捏造でしかなく、当初から領土問題が存在しないことを表明(日本政府ならびに外務省は、ソ連は領土問題は解決済みと捉えている、としている)。日本もソ連との間では、まず北方領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。 

・1973年10月に田中角栄首相とブレジネフ共産党書記長との会談を経て、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する」との日ソ共同声明が出された。

・日本政府はこの共同声明において田中・ブレジネフ会談においてブレジネフ共産党書記長から領土問題が未解決であることの言質を得たと認識しているが、日ソの共同文書には領土問題は明記されなかった。 

・1991年4月にゴルバチョフ大統領が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。1992年3月に東京の外相会談で、ロシア側が北方領土問題において歯舞・色丹を引き渡す交渉と国後・択捉の地位に関する交渉を同時並行で行った上で平和条約を締結することを含めた秘密提案を行ったものの、四島返還の保証はなかったことで日本側は同意しなかった。

・1993年10月、日露首脳が会談をし、日露首脳は北方四島の帰属問題について両国間で作成された文書や法と正義の原則に基づき解決することで平和条約を早期に締結するよう交渉を続けることを日露共同文書で明記した東京宣言が発表された。

・1997年11月のクラスノヤルスク合意では、東京宣言に基づいて2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすことで日露首脳が合意した。 

・1998年4月、日露首脳会談で日本側は「択捉島とウルップ島の間に、国境線を引くことを平和条約で合意し、政府間合意までの間はロシアの四島施政権を合法と認める案」を非公式に提案(川奈提案)。

・1998年11月、日露首脳会談でロシア側は「国境線確定を先送りして平和友好協力条約を先に結び、別途条約で国境線に関する条約を結ぶ案」が非公式に提案された(モスクワ提案)

・2001年3月、日露首脳会談で日ソ共同宣言が平和条約交渉の基本となる法的文書であることを確認し、1993年の東京宣言に基づいて北方四島の帰属問題の解決に向けた交渉を促進することを明記した文書に両首脳が合意した(イルクーツク声明) 

・日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞・色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。 

・2005年11月21日の未明に、訪日したプーチン大統領と小泉純一郎首相(当時)の間で日露首脳会談が行われた。これによって領土問題の解決を期待する声もあったが、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨を発表したのみに留まり、具体的な進展は何も得られなかった。

・また、ロシア側も、原油価格の高騰による成長で、ソビエト崩壊直後のような経済支援や投資促進のカードを必要としなくなりつつあり、またラトビア、エストニアなどソ連併合時に国境を変更させられた両国との国境問題とも絡み合い、北方領土問題の解決を複雑にしている。 

・2009年2月18日サハリンでロシアのメドヴェージェフ大統領と日本の麻生太郎総理大臣が会談し、領土問題を「新たな、独創的で、型にはまらないアプローチ」の下、我々の世代で帰属の問題の最終的な解決につながるよう作業を加速すべく追加的な指示を出すことで一致した。

・2020年12月、プーチンは領土割譲呼び掛けなどの行為を処罰する刑法改正案に署名しこの条項は8日付けで発効した。最高刑は10年の懲役。 

 

4.7)北方領土に関する日露の枠組み

・戦後になると、北方領土を実効支配したソ連が、周辺海域で操業する日本の漁船を領海侵犯等の理由で取り締まるようになった。 

・日本政府は上述のトラブルを避けて、北方四島の海域で日本の漁船が操業できるようにするための協定が日ロ(日ソ)の間で締結されるようになった。 

・1963年に発効した「日ソ貝殻島昆布採取協定」(日ロ貝殻島昆布採取協定)は民間協定という形で、歯舞群島の貝殻島付近において、日本の漁業者が昆布漁をできるようにする取り決めで、北海道水産会という民間団体とソ連(ロシア)の関係当局とが毎年話し合って収穫できる昆布の量を決め、採取権料をソ連(ロシア)側に支払って漁を行う内容になっている。 

・日ソが200海里漁業水域を設定したことに伴い、それぞれ相手国200海里水域内で行う漁業についての交渉が行われ、1978年に日ソ漁業暫定協定ソ日漁業暫定協定が同年12月に締結され、発効された。1985年に発効した日ソ地先沖合漁業協定(日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の両国の地先沖合における漁業の分野の相互の関係に関する協定)は、日ソ漁業暫定協定とソ日漁業暫定協定の一本化し、両国政府が自国の二百海里水域における他方の国の漁船による漁獲を許可することのほか、相手国の漁船のための漁獲割り当て量等の操業条件の決定の方法、許可証の発給、漁船の取り締まり、漁業委員会の設置等について規定されている。有効期間は3年間とし、その後はいずれか一方が終了通告を行わない限り、1年ずつ自動的に延長される。日本側は水域の資源管理という名目で、協力費をソ連(ロシア)側に支払っている。 

・これらの協定は、1991年12月以降、国家としてソ連を引き継いだロシア連邦との間で引き続き有効である。 

・1998年には、北方四島の12海里水域(領海)における日本漁船の安全操業の枠組みを定める「日本国政府とロシア連邦政府との間の海洋生物資源についての操業の分野における協力の若干の事項に関する協定」(北方四島周辺水域における日本漁船の操業枠組み協定)が発効された。

・北方四島周辺の12海里水域(領海)で日本の漁業者が漁をできるようにする取り決めであり、毎年協議が行われ、操業条件が話し合われる。

・この協定には違法操業に対する取締りの規定はない。有効期間は3年間とし、その後はいずれか一方が終了通告を行わない限り、1年ずつ自動的に延長される。日本側は水域の資源管理という名目で、協力費をロシア側に支払っている。 

・2015年6月にロシアで排他的経済水域内でのサケ・マスの流し網漁を全面的に禁止する法案を可決し、2016年から施行されたが、北方領土におけるロシアの排他的経済水域内の漁業において流し網漁に依存する日本漁船に大きな影響が出ると見られている。 

北洋漁業も参照 

・1964年から、元島民及びその親族による北方領土にある先祖の墓所への参拝が人道的観点から断続的に実施されている。当初は簡単な証明書で渡航出来ていたが、ソ連側から旅券の携行を強く要求されたため1976年に一旦中断。

 

墓参の様子。水晶島・秋味場(あきあじば)の墓地にて2008年8月撮影。(引用:Wikipedia)

 

・10年後の1986年に口上書が交換され、再び簡単な証明書での墓参が実現した。また、日本国民の北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者に対するビザなし渡航が1991年の日ソ首脳会談で提案され、1992年4月から実施されている。 

・1991年12月のソ連崩壊に伴って、ロシアを含む旧ソ連諸国と日本とで1993年に「支援委員会の設置に関する協定」が締結・発効された。支援委員会は旧ソ連諸国の市場経済への移行を促進するメカニズムとして設置され、ロシアが実効支配する北方四島においては市場経済への移行を促進するためとして北方四島の診療所や発電所や緊急避難所兼宿泊施設に支出された。2002年の鈴木宗男事件発覚により、支援委員会の不透明さが問題視されて廃止された。 

・また、日本政府は北方四島の地区病院への医療器具や薬品の提供、北方四島の医師・看護師等の研修受け入れ、北方四島の患者の北海道の病院受け入れ(※)という形で北方四島へ医療支援をしている。 

 

(※)名越健郎「北方領土の謎」(海竜社)145頁によると、北方四島の患者について日本の関係者の言葉として「三週間程度で治療が済み、再発しない疾患に限る。領土問題の環境整備に繋がり得る家庭の子弟が望ましい」としている。

 

5)北方領土の現状

5.1)日本の行政区分下の北方領土

・北方領土四島には色丹村・泊村・留夜別村・留別村・紗那村・蘂取村・歯舞村の7村が地方自治体として存在していた。1959年に歯舞村が根室市と合併したため、歯舞村であった地域は現在、根室市に属している。

 

 

留別村を本籍地とした運転免許証。(引用:Wikipedia)

 

・1983年4月1日では「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(昭和57年8月)第11条により日本国民の誰でも本籍を置くことが可能となっている。これは上記6村が元来北海道根室支庁に属する自治体であったため、各村自治体が実効的な存在を喪失して以降も上位の地方自治組織が機能しているためである。現在この手続きは根室市役所が行っている。なお、樺太や北千島に関しては、すでに樺太庁や北千島関連役所が消滅していることに加え、帰属が未確定であることを日本政府及び外務省が公認しているため、このような措置は行われていない(※)。1982年3月31日までは、歯舞村を除く6村については本籍を置くことができなかった。 

 

(※)1945年までに樺太に本籍を置いていた戸籍は第二次世界大戦で大部分が喪失しているが、6村(遠淵村・知床村・富内村・元泊村・内路村・散江村)の戸籍簿については一部が外務省外地整理室に保管されており、戸籍の写しを交付している。旧樺太の本籍に関する戸籍簿は厳密には戸籍法上に規定する戸籍簿ではないが、便宜的に通常の戸籍請求手続に準じた扱いとなっている。

 

〔日本側の行政区分の一覧〕 

 

 

北方地域とは、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島及び内閣総理大臣が定めるその他の北方の地域。いわゆる北方領土のこと。 

北方地域は、いわゆる北方領土のことで、「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(昭和57年法律第87号)2条1項では「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島」とされ、「内閣府設置法第四条第一項第十三号に規定する北方地域の範囲を定める政令」(昭和34年政令第33号)では「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島及び内閣総理大臣が定めるその他の北方の地域」とされる。

・この地域は、日本の都道府県の区分としては北海道の一部とされ、根室振興局(旧・根室支庁)の所管区域である。市町村の区分としては、色丹郡色丹村、国後郡泊村、同留夜別村、択捉郡留別村、紗那郡紗那村、蘂取郡蘂取村および根室市の一部とされている。

・なお、戦前において北方領土とは、樺太、千島列島、北海道などを指し、南方領土(沖縄や小笠原諸島など)に対する形で北の領土という意味で用いられていた。 

・なお、現在、北方地域については日本の実効支配が及んでいない状況にあるため、国勢調査の対象地域から除外されている(国勢調査施行規則第1条第1号) 

〔北方地域の行政〕 

・北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律11条には、北方地域の村の長の権限に属する事務に関する定めがある。同条によれば、歯舞群島を除く北方地域に本籍を有する者についての戸籍事務等および北方地域の村の長の権限に属する事務は、当分の間、法務大臣・総務大臣・北海道知事等が北方領土隣接地域の市又は町の長のうちから指名した者が管掌するされ、実際には根室市長が指名されている。

・なお、「北方領土隣接地域」とは、「北海道根室市(歯舞群島の区域を除く。)、野付郡別海町、標津郡中標津町、同郡標津町及び目梨郡羅臼町の区域」をいう(同法2条2項) 

●北方地域に本籍を有する者についての住民基本台帳法第九条第二項の規定による通知及び同法第三章に規定する戸籍の附票に関する事務を管理する者の指名(昭和58年3月1日法務省、自治省告示第1号) 

●北方地域に本籍を有する者についての戸籍事務管掌者の指名(昭和58年3月1日法務省告示第63号) 

〔関連法令〕

●北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律

●北方地域旧漁業権者等に対する特別措置に関する法律 

〇周辺海域 

・海上保安庁が開示している「日本の領海等概念図」では、北方領土四島全てが領海に含まれている。 

・日本小型船舶検査機構が提供する航行区域の水域図では北方領土四島周辺にも、小型漁船であれば船舶検査が不要となる12海里のラインが示されており、東沸湖などの湖には二級小型船舶操縦士を取得すれば航行可能な平水区域の設定も確認できる。 

 

5.2)ロシアの行政区分下の北方領土

・現在、ロシアの施政権が行使されている状態にある北方四島は、ロシアの行政区分ではサハリン州に属している。国後、択捉、色丹島の現人口は合計約1万7000人で、これはソ連侵攻時に住んでいた日本人とほぼ同規模という。歯舞群島にはロシア国境警備隊のみが駐屯している。 ロシアは2014年択捉島にイトゥルップ空港を整備、2017年色丹島に経済特区を設置するなど、実効支配を強めている。 

・サハリン州は開発が遅れたために、カニやウニなどの魚介類を始め、ラッコやシマフクロウなど、北海道本島を始めとした周辺地域では絶滅あるいはその危険性が高い生物の一種の「聖域」状態となっている。ロシア政府は北方領土を含む千島一帯をクリリスキー自然保護区に指定して、禁猟区・禁漁区を設定するなど、日本の環境保護行政以上の規制措置が取られている。だが、ソ連崩壊後には密猟などが後を絶たず、一部の海産物は日本国内に密輸で流れているという説もある。 

・現在、一部の環境保護団体の間には北方領土を含む千島一帯の世界遺産登録を求める主張があり、また日本の環境保護行政は水産関係団体や開発業者に対して甘すぎるため、領土返還後には貴重な生態系が破壊される恐れがあるとして返還を危惧する人達もいる。一方、日本国内にも領土問題とは一線を画して、北方領土の対岸で先に世界遺産に登録されている知床とともに、日露両国が共同で一つの世界遺産地域を作っていくべきである、という声もある。だが、世界遺産に登録された状態の北方領土が返還された場合、旧島民の持つ土地所有権や漁業権をどうするのかについて不透明であるために、何らかの特別法制定が必要となる可能性がある。 

・北方四島交流事業を除くと、日本人が北方四島を問題なく訪問するには、ロシアの査証を取得して訪問しなければならない。

・ロシアの査証取得後、稚内港または新千歳空港、あるいは函館空港からサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで北方四島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。 

この方法はロシアの行政権に服する行為であり、ロシアの北方四島領有を認めるとして、日本国政府が1989年(平成元年)以来自粛を要請している。しかし自粛要請に法的強制力は存在しないため、北方四島のロシア企業との取引・技術支援や開発のため、多くの日本人ビジネスマンや技術者がロシアの査証を取得し、北方四島に渡航している。日本国政府としては、この方法での北方四島への渡航者に対して特別な対応や懲罰はしていない。

 〔ロシア側の行政区分の一覧〕 

 

5.3)ロシアの北方領土の意義

・ロシア側が北方領土を固有の領土とし、領土問題を否定する理由については、以下の要因があげられる。 

・日本政府ならびに外務省は、ロシア連邦国内の一般国民レベルでは、北方領土問題の存在自体があまり知られておらず、これを踏まえてロシア政府ならびに識者が、ロシアの北方四島領有は国民によって支持されていると主張している、と述べている。

・だが、実際にはロシア国内の学校では、ロシアの北方四島領有は第二次世界大戦の結果承認された正当な物であり、北方四島はロシア固有の領土であると教えている。

・このため、ロシア国内にて、北方領土問題は日本政府の一方的な主張に過ぎず、正当性の無い物である、という認識が一般化している。 

・またオホーツク海には潜水艦発射弾道ミサイル搭載型潜水艦(SSBN)が配備されており、ロシアの核抑止力維持のため戦略的に重要な位置づけにある。

・地政学的または軍事的見解に因れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ロシアは旧ソ連時代にオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこからアメリカ軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海にアメリカ海軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。

・国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

 ロシア連邦運輸省のエゴーロフは連邦最高総局のレポートのなかで、南クリル諸島の海域が凍結しない海峡として太平洋への自由航行のために重要であると報告している(※)

 

(※)運輸省「サハリン管区」連邦総局長?M.エゴロフは、報告書のなかで次のような強い警告を発している。日本の領土要求に譲歩した場合、ロシアはフリザ海峡とエカチェリーナ海峡(それぞれ択捉海峡と国後水道)という凍結することのない海を失うことになる。つまりそれはロシアが太平洋へと自由に抜ける出口を失うということである。日本が通行に金銭的な対価を求めるか、通行そのものに制限を設けることは間違いない。 

 

・北方領土には、石油に換算しておよそ3億6千万トンと推定される石油や天然ガス、世界の年間産出量の半分近い量の生産が見込まれるレニウムなど手付かずの豊富な地下資源が眠っており、水産資源においても世界3大漁場の内の1つに上げられるほど豊富である。

・ロシアの天然資源・環境省によると、これら北方領土周辺の資源価値は2兆5000億ドルに上ると推計されており、これらの資源を巡る問題もまた北方領土の日本への返還を困難なものとしている。 

・サンフランシスコ講和条約に対しても、ロシア側の主張は日本側のものとはかなり食い違っている。当時のソ連側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中華民国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れ、1945年9月2日に降伏文書にも調印した。日本が降伏文書に調印する9月2日までは日本とソ連の間でまだ戦争は続いていたというのがロシアの立場であり、降伏文書調印以前の占領は合法であるという立場である(※)

 

(※)ただし歯舞群島の占領は9月3日以降であり、この論理によっては正当化できない。

 

・日露の間は平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。・さらに、サンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島が含まれているのはもちろんのこと、色丹島・歯舞群島のいわゆる小クリル列島もまた含まれるとしている。・そして、敗戦国である日本が領有権を主張している北方四島は第二次世界大戦の結果、戦勝国であるソ連が獲得した正当な領土であるため、日露間に領土問題は存在しないとしている。 

・ロシアはかねてから、日露平和条約締結により、北方二島「譲渡」に応じる、としている。が、日露平和条約締結には、日米安全保障条約の破棄ならびに米軍を始めとする全外国軍隊の日本からの撤退が第一条件となっており、二島「譲渡」は平和条約締結後、順を追って行うとしている。これは暗黙の了解ではなく、ソ連時代に度々公言されていたことである。そして日米安保問題に抵触していることから、アメリカが日露間に領土問題は存在する、として返還を要求するようになっている。これについては近年、ロシア国内にて「日本に南クリルが譲渡されれば、米軍基地が設置される」と懸念する意見が上がっている。このため、ロシアは米軍に対して、返還後の北方四島への米軍基地設置をしない事を要求しており、米軍も基地設置をしない事を明らかにしている。 

・以前の日本側には「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があり、鈴木宗男失脚以後の日本の外務省の基本戦略は、北方諸島への援助を打ち切って困窮させるという、返還の世論を引き出そうとする「北風政策」であるが、問題は経済的に困窮しているかどうかといったレベルの事項ではない。

・事実、プーチン大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアは、2015年を目標年次とする「クリル開発計画」を策定し、国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出した。結果、二島にあたる色丹島・歯舞群島はかつては無人島になっていたが、近年になって移住者及び定住者の存在が確認されており、ロシア側の主張する二島「譲渡」論も困難な状況となっていった。 

・近年では、ロシア政府は、「北方領土」という領土問題自体が存在しない、といういわゆる領土問題非存在論にシフトしつつあり、2010年11月には二島「譲渡」論ならびにその根拠となっている日ソ共同宣言を疑問視する見解が外相から出されている。

・2018年には、ロシア国内世論に於いて「南クリル(北方領土)はロシアの領土である」という意見が多数を占めるようになっている。

・このため、「南クリルの帰属を巡り日本に交渉の必要性が無い事を理解させるべきだ」「既に解決済みなので四島一括返還はおろか二島譲渡にも応じてはならない」と、島の引き渡しを完全に否定する意見がロシア国内にて支配的になっており、択捉・国後両島のロシア人住民による抗議活動が頻繁に起こっている。

・ロシア社会において日本に対する認知度は高まってきているものの、いずれも文化的なものや経済的なものに限られており、その認識にしてもそれほど深いものではない。

・また、「文化交流と領土問題解決は別問題」として、日本が領土問題ならびにロシア政府に対して大きな誤解をしている、という認識が広まっている。

・サハリン州では、当然日本に対する関心が深いが、現状の国境を承認することを前提として交流を深めようとするものである。

 

5.4)日本の北方領土の意義

 "北方四島は外国の領土になったことがない日本固有の領土であり、ソ連の対日参戦により占領され不法占拠が続けられている状態であり、この問題が存在するため戦後60年以上を経たにもかかわらず日露間で平和条約が締結されていない"、とするのが日本政府の見解である。内閣府では「固有の領土である北方四島の返還を一日も早く実現するという、まさに国家の主権にかかわる重大な課題」としている。根室・釧路の漁民はソビエト・ロシアの一方的主張にもとづく海域警備行動により銃撃を受け死傷者を出している。 

 

5.5)北方領土問題についてのロシアの姿勢

〇2000年以降のロシアの北方領土問題への対応 

・2006年8月16日 - 第31吉進丸事件。 

・2010年2月9日 - ロシア外務省が「北方領土返還大会」に不快感を表明。 

・2010年7月 - ロシア軍の択捉島における大規模軍事演習。 

・2010年7月 - ロシア議会でロシア対日戦勝記念日法案の成立。 

・2010年11月1日 - ロシアの大統領ドミトリー・メドベージェフが、国家元首として初めて国後島訪問。 

・2011年5月 - 副首相 セルゲイ・イワノフが択捉島を訪問。 

・2011年5月 - 3人の韓国国会議員の国後島訪問。 

・2011年9月11日 - 安全保障会議書記ニコライ・パトルシェフが、国後島と歯舞群島の水晶島を訪問。 

・2012年1月26日 - 外相セルゲイ・ラブロフ、インタビューで「"北方領土は第二次大戦の結果、法的根拠に基づきロシア領となった"という現実を認めるよう日本に要求する」と発言し、強硬な態度を示した。2016年5月31日にも同様の発言をした。 

・2016年11月22日 - 日露首脳会談に先立ち新型対艦ミサイルを配備。 

・2016年12月15日 - 安倍晋三首相とウラジーミル・プーチン大統領が長門市で会談し北方領土での共同経済活動に向けた協議の開始を合意。 

・2017年2月8日 - ロシアのメドベージェフ首相が2017年2月8日に署名した政府令によれば、  歯舞群島の秋勇留島近くと色丹島近くの5つ島には、第2次大戦の日本の降伏文書にソ連代表として署名したデレビヤンコ将軍、旧日本軍との戦いで知られるソ連のグネチコ将軍、ロシアサハリン州元知事ファルフトジノフ氏、ソ連の外交官グロムイコ氏、ソ連艦隊の女性船長シェチニナ氏の名前がつけられた。。 

・2017年2月22日 - 年内に5000人規模の新師団をクリル諸島に配備する計画を発表。 

・2018年9月10日-両首脳は,北方四島における共同経済活動について,5件のプロジェクト候補の実施に向けた「ロードマップ」を承認した。

 ア 海産物の共同増養殖:ウニを含め複数の魚種を対象とし,ウニ以外の魚種についても

  議論を継続。

 イ 温室野菜栽培:いちごの品種及び実施場所を特定。

 ウ 島の特性に応じたツアーの開発:パッケージツアーを策定。

 エ 風力発電の導入:風況調査の場所を確定。

 オ ゴミの減容対策:ゴミ減容のパイロット・プロジェクトの実施場所を確定。

  安倍総理から,こうした協力を積み重ねていくこととともに更なる改善を働きかけ,

プーチン大統領と,手続の簡素化を続けることで一致した。

〇択捉島のロシア空港建設

 

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ヤースヌイ空港と散布山(引用:Wikipedia)

 

・2014年、択捉島の中央部に民間空港としてヤースヌイ空港が開港した。滑走路の全長は約2,300メートルで、サハリン・ユジノサハリンスクとの間で定期便が運航されている。一方空軍は旧日本軍が建設した空港を使用している。 

・2018年1月30日、メドベージェフ首相は、ロシア空軍がヤースヌイ空港を基地としても使用する軍民共用化を許可する政令に署名した。

〇国後島、択捉島におけるロシアによるミサイル及び師団の配備 

・2016年11月22日、ロシア海軍太平洋艦隊機関紙『ヴォエバヤ・ヴァーフタ』は、択捉島に3K96 リドゥートに代わる対艦ミサイルP-800地上発射型「バスチオン」を配備したこと、及び従来対艦ミサイル配備のなかった国後島にKh-35地対艦ミサイル型3K60バルの移送がなされたことを明らかにした。

・2017年2月22日には、セルゲイ・ショイグ国防相により、クリル諸島に同年内に5000人規模の師団が新たに配備される計画になっていることが明らかにされ、日本政府側から懸念が出された。

〇択捉島、国後島、色丹島における中国企業による高速ネット網の整備

・2019年2月26日、ロシアの国営通信会社ロステレコムはサハリンと択捉島、国後島、色丹島を結ぶ高速インターネット網が開通したと発表した。 

・海底の光ファイバーケーブルは中国のファーウェイが敷設しており、2018年6月に着工した際は日本政府はこれに抗議して菅義偉官房長官は「ロシアと中国に外交ルートを通じて抗議した。中国に抗議したのは、工事に中国企業が参加してるからだ」と述べた。

 

6)解決策 

・当事国が領土の帰属問題について合意することが困難な際、国連機関である国際司法裁判所を利用することができる。しかし国際司法裁判所の制度によれば、付託するためには紛争当事国両国の同意が必要であり、仮に日本が提訴した場合、ロシアが国際司法裁判所への付託に同意しない限り審議は開始されない。 

・過去の北方領土問題関連の国際司法裁判所をめぐる外相間交渉については上記「北方領土関係史」の1972年の箇所を参照のこと。 個別交渉の場合、ソビエト・ロシアはサンフランシスコ講和条約に参加していないため、北方領土問題解決には、ロシアの同意が不可欠となっている。これに対して下記各項目のような提案や交渉が行われてきた。 

 

6.1)四島返還論 

・日本の政府が公式に主張する解決策である。「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後択捉)両島は含まれないというのが政府の見解」である。

・日露和親条約から樺太・千島交換条約を経過して、ソビエトによる軍事占領に至るまでは北方四島は一度も外国の領土となったことはなく、日露間の平和的な外交交渉により締約された国境線である。 

カイロ宣言(※)の趣旨においてこの四島を「占領」状態ではなく「併合」宣言したことは信義に対する著しい不誠実であり、ポツダム宣言に明示されている放棄すべき領域がカイロ宣言を指定している以上、「千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始」以前からの領土である千島列島、あるいは少なくともソビエトの署名がないサンフランシスコ講和条約に立脚したとしても「一度も外国の領土になったことのない」日本固有の領土である北方四島をソビエトが併合宣言したことは承認できない、とする。 

 

(※)カイロ宣言

「右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス」「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」

・連合国は、第二次大戦の処理方針として大西洋憲章やカイロ宣言で領土不拡大の原則を宣言しており、ポツダム宣言にもこの原則は引き継がれている。この原則に照らすならば、日本固有の領土である北方領土の放棄を求められる筋合いはなく、またそのような法的効果を持つ国際的取決めも存在しない。 

・日本は「北方四島に対する我が国の主権が確認されることを条件として、実際の返還の時期、態様については、柔軟に対応する」「北方領土に現在居住しているロシア人住民については、その人権、利益及び希望は、北方領土返還後も十分に尊重していく」とする四島返還論を主張している。 

 

6.2)二島譲渡論 

・日ソ共同宣言に基づき、宣言通りに平和条約を締結後に歯舞群島・色丹島を「引き渡す」ことによって、領土問題を終結するとするのが「唯一の法的根拠がある」解決策だとする。ロシア側は、"この解決策は「返還」にはあたらず、「善意に基づく譲渡」に該当する"との立場を取っている。 

・ロシア側の根拠は、"日本は既にサンフランシスコ講和条約によって、北方四島を含む千島列島の領有権を放棄しているため、旧ソビエトの領有宣言により、北方領土の領土権はすでにロシアにある"というものである。サンフランシスコ講和条約の第2条(c)で日本は千島列島を放棄している。ロシア側はこの千島列島の定義には北方四島が含まれるとする。その根拠として日本が署名した樺太・千島交換条約のフランス語の原文が示される。この認識の上で、"両国の平和条約締結および、ロシアの千島列島に対する領土権を国際法上で明確に確立するという国益のためならば、平和条約を締結後に歯舞・色丹の二島を日本側に「引き渡し」てもよい"とするのがロシア側の立場である。また"この立場は日ソ共同宣言で日ロの両国が確認しているので、これから遊離することはあり得ないだけでなく、四島「返還」を求める日本は不誠実である"とロシア側は主張している。 

・実際に当時の全権委員の松本俊一の回想録『モスクワにかける虹』や、原貴美恵による研究においても、日ソ共同宣言がこの解決策を意識したものであったと述べられている。

・しかし領土に関する国会の情勢は、GHQによる占領下の国会論議においてすでに、沖縄や小笠原などを含め、のちの民社党議員を中心とした日本社会党や日本共産党などの野党議員がこの問題を軸に、現実的外交(※1)を標榜し右顧左眄する吉田内閣から以降の政権党(自由党)を糾弾する構図であり(※2)、左派・右派議員あるいは朝野(与野党)を問わない活動家による四島返還を主張する機運が高まり、四島返還要求が日本の国策になった。

 

(※1) この時期においては平和条約は未締結であり休戦状態にすぎず、自主独立国として国連への参加がかなうどころか、GHQすなわち実質的な米国による軍事占領が規定事実として永続化する可能性さえあった。

(※2)詳しくは無条件降伏の項参照

 

・またアメリカ側は、国務長官ダレスがロンドンにおける重光外相との会談のなかで国後択捉に関して忠告を与え、仮に残り二島の返還を放棄するなら米国としても沖縄を米国領として併合することになるとの主旨のメッセージを日本側に伝え二島譲渡を念頭にした鳩山外交は内外からの圧力により挫折することになり、日ソ共同宣言と引き換えに承認された国際連合への加盟を花道に鳩山内閣は総辞職となった。 

・なお、旧ソビエトはサンフランシスコ講和条約に署名しておらず、同条約からの利益をえることは25条により拒否されている(先述)。結果として、日本はロシアとは未だに平和条約を締結していない。さらに、サンフランシスコ講和条約ならびに日ソ共同宣言では日本が放棄した千島列島および南樺太がどの国に帰属するのかは明記されておらず、不明のままである。これに対してロシアはサハリン州を設置し、千島列島および南樺太の領有を主張しているが、国際法上は法的根拠が無いとされている。 

・ロシア側は、"日本の領有権そのものがすでに消滅しており、両国の平和条約の締結における条件は日ソ共同宣言で確認済みであり、この合意を破棄した日本に問題の根源がある"と見なしており、現在では後述の日本の領土返還主張全面放棄がよりよい解決策であるとの見解を示すようになっている。これに対して、日本側は"北方領土の全ての「領有権」を主張する立場"を取っており、両国の交渉は平行線をたどる状況にある。 

 

6.3)四島内を対象にした議論・言及

・ロシア側は日本がすでに北方領土の領有権を放棄していると見なしており、平和条約締結後にその見返りとしてロシア領である二島を「引き渡す」という案以外を認めていない。

・よってこれらの妥協案は、基本的に日本が国際法上未だに領有権を保持しているという前提に立った上で日本国内で議論されている論である。以下はその主なものである。 

*二島先行(段階的)返還:日ソ共同宣言に基づき、歯舞群島・色丹島を「譲渡」することによって平和条約を締結するが、さらに日本側はその後に残りの二島の返還の交渉を続けるとするもの。ロシア側は、日本の領土権はサンフランシスコ条約によって破棄されているとみなしており、二島は返還でなく平和条約の締結の見返りとしての「譲渡」とみなしている点が問題である。 

*三島返還論:国後島を日本領、択捉島をロシア領とすることで双方が妥協 

*共同統治論:択捉・国後の両島を日露で共同統治 

*面積2等分論:歯舞、色丹、国後の3島に加え、択捉の25%を日本に返還させ、択捉の75%をロシア側に譲渡 

・平和条約を締結した後に歯舞・色丹の両島を日本に「譲渡」することはロシアと日本の両国が認めている。ただし、ロシア側は既に領土問題は国際法上では解決済みとの立場をとる。日本側は平和条約締結後も残りの領土返還を要求すると主張しているので、これに対して、ロシア側にどれだけの譲歩を引き出すか、あるいは引き出すこと自体が可能なのかが、ほかの案での問題となる。つまり、残りの択捉・国後の両島への対応が争点となる一方で、両国の国際法上の認識そのものが争点となっている。

〇二島返還論

・日本側においては主に「二島先行返還論」または「2+2方式」と称される案を指す。これは、日ソ共同宣言で日本への引き渡しが確認されている歯舞・色丹の二島を、ひとまず日本側に返還させ、残った択捉・国後の両島については、両国の継続協議とする案である。「二島先行返還論」の支持者としては政治家の鈴木宗男や外交官の東郷和彦がいる。

・一方ロシア側における二島「譲渡」論とはこれとは異なり、主に歯舞・色丹の「譲渡」のみでこの問題を幕引きさせようとする案のことであり、現在のロシア政府の公式見解である。

〇三島返還論

別名を「フィフティ・フィフティ」と言い、中国とロシアが係争地の解決に用いた方式である。この方式では、領土紛争における過去の経緯は全く無視し、問題となっている領域を当事国で半分ずつ分割する。これを北方領土に形式的に当てはめると、国後島が日本領、択捉島上に国境線が引かれる、三島返還論に近い状態になる。 

・岩下明裕(政治学者)はこの案を称揚しているが、もともとこの方式は、戦争により獲得した領土ではなく、単に国境をはさんだ2国のフロンティアがぶつかって明確な国境線が決め難かったケースに用いられたもので、北方領土問題には適用し難く、四島返還論に比べ実現する可能性が高いかどうかは不明瞭である。 

・三島返還論に言及した政治家には、鳩山由紀夫、河野太郎、森喜朗らがいる。鳩山の「三島返還論」は、2007年2月にロシアのミハイル・フラトコフ首相(当時)が訪日した際、音羽御殿での雑談の中で飛び出したものである。しかし鳩山は、2009年2月の日露首脳会談で、麻生太郎首相が「面積二等分論」に言及したことに、「国是である4島返還論からの逸脱」と激しく批判しており、主張を変えている。 

〇共同統治論

・「コンドミニウム」とも呼ばれ、近現代史上にいくつかの例がある。成功例として代表的なものにはアンドラがあり、失敗例には樺太やニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)がある。具体案としては、例えば、かつてのアンドラのように、日露両国に択捉・国後の両島への潜在主権を認めながらも、住民に広い自治権を与えることで自治地域とすることが考えられる。もし日露両政府が島の施政権を直に行使すれば、日露の公権力の混在から、樺太雑居地(1867-1875)のような混乱を招く可能性が指摘されている。このため、住民に自治権を認め、両政府が施政権を任せることで、そうした混乱を防ぐことが必要になる。また、両島を国際連合の信託統治地域とし、日露両国が施政権者となる方法も可能である。この場合は施政権の分担が問題となる。 

・共同統治論の日本側にとってのメリットとしては、難解な択捉・国後の領有問題を棚上げすることで、日本の漁民が両島の周辺で漁業を営めるようになることや、ロシア政府にも行政コストの負担を求められることなどが挙げられる。ロシア側にとってのメリットは、日本から官民を問わず投資や援助が期待でき、また、この地域における貿易の拡大も望めることである。共同統治論には、エリツィンや鳩山由紀夫、プリマコフ、ロシュコフ駐日ロシア大使(当時)、富田武(政治学者)らが言及している。法律的見地からも、日本国憲法前文2項、ロシア連邦憲法9条2項に合致する。

〇面積2等分論

・「歯舞群島、色丹島、国後島のすべてを足しても、鳥取県と同等の面積を持つ択捉島の半分に満たないこと」から浮上した案。国後など3島に択捉の西部の旧留別村を加えれば半分の面積になる。仮に実現すれば、日本とロシアの国境線が択捉島上に引かれることとなるため、日本においては1945年以来となる「陸上の国境」が復活することになる。

・麻生太郎外務大臣が2006年12月13日の衆議院外務委員会での前原誠司・民主党前代表の質問で明らかにしている。麻生はその前年の2005年に解決を見た中露国境紛争を念頭に解決策として述べているが、中露間の国境問題はウスリー川をはさんだ中州の帰属をめぐる論争であること、同問題は中国側の人口増加に危機感を持ったロシア側が大きく譲歩した側面を持つこと、北方領土問題が旧ソ連側の日ソ中立条約の一方的蹂躙である経緯を度外視した発言であり、前原とのやり取りでは中露国境問題で最終争点となっていた大ウスリー島と、既に解決が成されているダマンスキー島を取り違え答弁している。 

・麻生は安倍内閣発足直後の報道各社のインタビューに「2島でも、4島でもない道を日露トップが決断すべき」と発言しており、この発言は世論の反応を見定めるアドバルーン発言の可能性が強い。現実にその直後、外務省との関係が深い福田康夫元官房長官が麻生案を激しく批判しており、この案が外務省主導ではなく、官邸も一部容認であることを窺わせる。福田は2006年7月に自民党総裁選から撤退して以降、公の場ではほとんど発言していない。2007年8月に外務大臣に再登板した町村信孝は麻生案を「論外だ!」と激しく批判。同領土問題の原則を、従来通り「4島返還」での問題の解決に当たることを強調した。麻生は2009年2月に樺太で行われた日露首脳会談でもこの案を遠まわしに示している。更に同年4月17日、谷内正太郎・元外務事務次官が麻生を後押しするかのように毎日新聞の取材で同案に言及。だが、世論の反発が強まると谷内は一転して発言を否定。翌・5月21日の参議院・予算委員会の参考人質疑においても自身の発言について否定している。一方、二島先行返還が持論の佐藤優は、谷内の面積二等分案には返還後の同領土について日米安保の不適用条項が盛り込まれている点に着目、同案に一定の理解を示している。 

 

6.4)千島列島全島返還論 

・"北千島を含めた千島列島全体が日本固有の領土であり、日本に返還されるべき"と主張する勢力も存在する。日本共産党は、"千島・樺太交換条約は平和裏に締約されており、この樺太・千島交換条約を根拠に、得撫島以北を含めた全千島の返還を要求できる"という、千島列島全島返還の立場をとっている。

スターリン時代の旧ソ連は、第二次世界大戦の時期に、バルト三国の併合、中国東北部の権益確保、千島列島の併合をおこないました。これは「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を乱暴にふみにじるものでした。このなかで、いまだにこの無法が正されていないのは、千島列島だけになっています。ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」やサンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提にせず、スターリンの領土拡張主義を正すという正義の旗を正面から掲げて交渉にのぞむことが、何より大切であることを強調したいのであります。

(2005年2月7日 日本共産党委員長 志位和夫)

日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時におけるスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。スターリンは、ヤルタ会談(1945年2月)でソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、この秘密の取り決めを根拠に、日本の歴史的領土である千島列島(国後、択捉(えとろふ)から、占守(しゅむしゅ)までの全千島列島)を併合した。これは「カイロ宣言」(1943年11月)などに明記され、自らも認めた「領土不拡大」という戦後処理の大原則を蹂躙するものだった。しかもソ連は、千島列島には含まれない北海道の一部である歯舞群島と色丹島まで占領した。第2次世界大戦終結時に強行された、「領土不拡大」という大原則を破った戦後処理の不公正を正すことこそ、日ロ領土問題解決の根本にすえられなければならない。

(2010年11月9日 日本共産党委員長 志位和夫)

・なお、日本共産党の北方領土を含む千島列島問題に関する姿勢は一貫しておらず、全千島列島をソ連領としたり、歯舞・色丹の二島の返還を主張していた時期(※)もあった。 

・民間では、千島及び歯舞諸島返還懇請同盟(現在の北方領土返還要求運動都道府県民会議)が千島全島および歯舞群島の返還を求めていたが、後に国後、択捉、色丹及び歯舞群島のみの返還に主張が変化した。 

 

(※)日本共産党の千島列島問題に関する姿勢

*1949年12月23日「アカハタ」 - 「吉田内閣の千島・樺太返還運動はソ連の反駁を招く」と指摘した。

*1949年12月30日「アカハタ」 - 野坂参三は「南樺太・千島の帰属問題」が吉田全権のいう南樺太・千島の日本帰属を「軍国主義の再版」と指摘した。

*1956年8月7日「アカハタ」 - 「日ソ交渉で日本が領土問題を持ち出す根拠はない」と指摘した。

*1956年8月8日「アカハタ」 - 「歯舞・色丹が北海道の一部ではないという日本政府の主張は明らかに矛盾する」と指摘した。

*1956年8月31日「日本共産党主催日ソ国交回復促進演説会の宮本顕治演説」 — 「(8月2日の日本共産党中央委員会の声明で)日本政府が千島を放棄していることは重大であり、この立場を確認して、千島列島は南千島に入らないとの政府の主張は根拠はない」と指摘した。

*1959年 - 訪ソ後に宮本顕治は2島の日本返還に同意。

*1962年3月11日「アカハタ」 - 衆議院本会議において北方領土回復決議が採決される際に日本共産党は反対票を投じ、その理由について「領土問題はヤルタ協定、カイロ宣言、ポツダム宣言等の国際協定で解決済みであり、国連憲章もまたそれを確認している」「実現不可能な不法な領土要求をソ連に突きつけ、対ソ報復主義を煽って日ソ共同宣言を破棄し、平和条約の締結を不可能にするもの」と指摘した。

 

6.5)日本の全面放棄論 

・四島に対する日本の領土返還主張を日本政府が全面放棄し、ロシアの支配及び領有を、現実としてだけでなく、法的にも正当なものとして承認し、その上で四島に対して日本が経済開発などで進出していく解決法である。これは領土問題は存在しないとするロシアの立場とも一致する上、交渉が進展しないがために日本側からも全面放棄論が出てきている。 

・半面、この解決法は1956年の日ソ共同宣言の「平和条約締結後に歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」「日ソ間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続する」とする条文を完全に否定している。これについては、かつて日本は「日ソ共同宣言の存在自体を否定している」として、反対の立場をとっていたが、最近はそのような態度は見せなくなりつつある。ロシアは「日ソ共同宣言はあくまでもソ連によって出されたものであり、ソ連が存在しない現在では全くの無効である」として、日本の領土返還主張の全面放棄こそが最善策であるとの見解を示している。 

 

6.6)ロシア側からの返還論 

・ロシアからも、四島返還論及び二島譲渡論が提案されたことがある。これは『主権無き領土返還』と呼ばれるもので、北方四島または歯舞・色丹二島を日本領と認定する代わりに、主権は引き続きロシアの主権下に置くものとする。これについて日本は、無意味にして実行不可能な提案は受け入れられないとして拒絶しており、ロシアも直ちに提案を撤回している。

6.7)ロシア人による返還に関しての提言

ロシア側にも北方領土を返還するべきだと主張する者がいる。

ボリス・スラヴィンスキーは「共同宣言は、1993年に調印できると思われる平和条約の締結を条件として、日本に色丹島と歯舞諸島を返還するというソ連の態度を確認している。そのあとで道理にかなった順序で国後島と択捉島を日本に返還すべきである。」と述べた[112]。

・グローバリゼーション問題研究所のミハイル・デリャーギンは、ロシア側が北方領土を返還した場合について言及したことがある。

・ノーベル文学賞作家であるアレクサンドル・ソルジェニーツィンは著書『廃墟のなかのロシア』の中で、「ロシア人のものである何十という広大な州を(ソビエト連邦の崩壊時に)ウクライナやカザフスタンに惜しげもなく譲渡」する一方で「エセ愛国主義」から日本に領土を返還する事を拒んでいるロシア連邦政府を批判し、これらの島がロシアに帰属していた事は一度も無かった事を指摘、さらに日露戦争やシベリア出兵という日本側からの「侮辱」への報復といった予想されるロシア人からの反論に対しては、ソ連が5年期限の日ソ中立条約を一方的に破棄した事が「いっさい(日本に対する)侮辱には当たらないとでもいうのだろうか」と述べ、「国土の狭い日本が領土の返還要求を行っているのは日本にとり国家の威信をかけた大問題だからである」として日本側の主張を擁護。「21世紀においてロシアが西にも南にも友人を見つけられないとすれば、日露の善隣関係・友好関係は充分に実現可能である」とし、日本への北方領土返還を主張した。

・2010年11月15日、ロシアのベドモスチ紙は、台頭する中国に日本と協力して対抗するための第一歩として、歯舞群島・色丹島の引き渡しあるいは共同統治が必要であるとした。なお、ソビエト連邦の崩壊後の日露両国は、日ソ共同宣言に明記されている「平和条約締結後の歯舞群島・色丹島の日本への引き渡し」を再確認しており、国後・択捉両島の取り扱いが領土問題における焦点となっている。 

・映画監督アレクサンドル・ソクーロフは、2011年12月にサンクトペテルブルクの日本総領事館で旭日小綬章を受けた際、「北方領土は日本に返還すべきだ」「ロシアは日本から学ぶべきことがたくさんある」「日本人に、かつて彼らのものだったすばらしい土地を返す必要がある」と述べた。 

 

6.8)当事者以外による提言 

・2005年、ヨーロッパ議会は、「北方領土は日本に返還されるべき」との提言を出した。2005年7月7日付けの「EUと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、ヨーロッパ議会は「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本・韓国間の竹島問題や日本・中国並びに台湾(中華民国)間の尖閣諸島問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている。ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。 

7) その他 

・ソ連で第4代最高指導者を務めたニキータ・フルシチョフは、晩年に記した回想記の中で、平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引渡しに合意したのは、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的、経済的に価値が無く、これらを引き換えに日本から得られる友好関係は極めて大きいと考えており、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」、「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と後悔の念を述べ、「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘した。この文章はフルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されていたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって、1989年になってはじめてその内容が公開された。 


(追記:2020.10.13/修正2020.11.2/修正2020.11.5/追加2020.11.25/項目整理:2021.4.23)