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古代史の謎に係る文献(列島)


ここでは、古代史の謎に係る文献(半島)についてWebサイト等から抜粋したいと思います。


掲載内容


1 日本の歴史書(全般)

(1)正史 (2)時代ごとの歴史書 (3)風土記 (4)偽書とされている歴史書

 

2 古史古伝

(1)古史古伝の概要 (2)古史古伝の参考(日本超古代史が明かす神々の謎)

(3)先代旧事本紀 (4)ウエツフミ (5)ホツマツタエ (6)松野連系図

 

3 古事記

(1)古事記(要旨) (2)古事記(内容) (3)継体天皇紀

 

4 日本書紀

(1)日本書紀(要旨) (2)日本書紀(内容) (3)神功皇后紀 (4)継体天皇記

 

5 続日本紀

(1)続日本紀(要旨) (2)続日本紀(内容)  

 

6 継体天皇の謎

(1)継体天皇の出自 (2)磐井の乱 (3)古事記に書かれた磐井の乱

(4)日本書紀に書かれた磐井の乱 (5)筑後国風土既 (6)継体天皇と「磐井の乱」の真実 

(7)継体・欽明朝の内乱 (8)王朝交替説 (9)播磨王朝・越前王朝


1 日本の歴史書(全般)


(1)正史


(引用:Wikipedia) 

1)正史とは

  正史(特に後述する「断代史」の形式をとる正史)は、その名から「正しい歴史」の略と考えられることがあるが、実際には事実と異なることも記載されている。

 

 理由は、正史とは一つの王朝が滅びた後、次代の王朝に仕える人々が著すためである。現在進行形の王朝は自らに都合のいい事を書くから信用できない、という考え方からこのような方法が取られたわけだが、このせいで最後の君主が実際以上に悪く書かれる傾向にある、といった弊害もある。

 

 また正史をまとめるに当たり、前王朝の史官が残した記録も参考にするので、その時点で既に前王朝にとって都合の悪い所が消されていたり、粉飾されていたりする場合もあり得る。

 

  以上のことから正史とはあくまで「王朝が正当と認めた歴史書」という程の意味であり、信頼性の高い史料であるとは言えるが、歴史事実を引き出すには歴史学の手法にのっとり厳密な史料批判を経て行う必要があることに変わりはない。 

 

2)日本の正史

  日本では7世紀前半にまとめられた「帝紀」「旧辞」が国家による歴史書編纂の始まりである。その後、漢文による正史の体裁で8世紀前半に編年体で『日本書紀』が成立した。それ以後続けて編年体の正史が作られたが、『続日本紀』以後は、編年体を基本としながらも人物の薨去記事に簡単な伝記を付載する「国史体」とよばれる独自のスタイルが確立した。

 

 これらは六国史と呼ばれているが、901年に撰された『日本三代実録』(858年から887年までの30年間の歴史書)を最後に、朝廷による正史編纂事業は行われても完成をみることはなくなった。

 

 未完で終わったものとして「新国史」があり、その草稿の逸文が残っている。明治維新後にも正史編纂事業が進められ、漢文体の大日本編年史が企画されたものの、その編纂方針をめぐる対立や、編纂の中心となっていた久米邦武の筆禍事件により中止され、代わりに大日本史料が編纂されることとなった。 

 

●六国史

   日本書紀 続日本紀 日本後紀 続日本後紀 日本文徳天皇実録 日本三代実録

 

●未完

新国史(続三代実録)

本朝世紀 - 鳥羽上皇が六国史を継ぐ国史として作らせた史書。未完。 

 

3)武家政権による史書

吾妻鏡 - 鎌倉幕府の編年体・日記体裁の史書。

本朝通鑑 (1670) - 林家が編纂した江戸幕府による編年体の通史。神代から後陽成天皇の代まで。

後鑑 (1853) - 江戸幕府による室町幕府の史書。

朝野旧聞裒藁 (1842) - 江戸幕府による徳川氏創業史。

徳川実紀 (1844) - 江戸幕府による初代徳川家康から第10代徳川家治までの時代を扱った実録集。正式名は『御実紀』。 

 

4)大日本帝国による史書

 ・大日本史料 - 明治天皇の御沙汰書を端として、帝国大学文科大学史料編纂掛(東京大学史料編纂所)により編纂開始。終戦後も編纂が続けられており、六国史以降の史料をまとめている。

 

5)明治維新後宮内庁内部の事業

 ・孝明天皇 ・明治天皇紀 ・大正天皇実録 ・昭和天皇実録 

 

6)日本の正史以外の重要な歴史書

古事記 - 『日本書紀』に先んじると序文に謳われている史書。

類聚国史 - 菅原道真撰、六国史の類書。

日本紀略 - 六国史の抜粋だが、散逸した巻の概要や政治的に改竄された箇所の原文を含み貴重。

大日本史 - 水戸藩で編纂された紀伝体史書。 


(2)時代ごとの歴史書


(引用:Wikipedia) (時代ごと五十音順)

1)飛鳥時代の歴史書

 臣連伴造国造百八十部并公民等本記 旧辞 国記 上宮記 帝紀 天皇記 

 

2)奈良時代の歴史書 

 古事記 高橋氏文 天書 藤氏家伝 日本書紀 風土記 

 

3)平安時代の歴史書

  海部氏系図 今鏡 栄花物語 奥州後三年記 大鏡 皇代記 参天台五台山記 

 史記延久点 続日本紀 続日本後紀 新国史 先代旧事本紀 中外抄 恒貞親王伝

 天台南山無動寺建立和尚伝 東大寺要録 入唐求法巡礼行記 日本紀略 日本後紀

 日本三代実録 日本書紀私記 日本文徳天皇実録 富家語 扶桑略記 本朝月令

 本朝世紀 類聚国史 

 

4)鎌倉時代の歴史書

 吾妻鏡 一代要記 弥世継 鎌倉遺文 鎌倉年代記 唐鏡 愚管抄 元亨釈書

 建治三年記 皇代記 古今目録抄 五代帝王物語 釈日本紀 常楽記 中世太子伝

 伝光録 東大寺続要録 百錬抄 武家年代記 水鏡 六代勝事記 

 

5)室町時代の歴史書

  一代要記 奥州後三年記 太田道灌状 花営三代記 勝山記鎌倉大草紙 鎌倉大日記

 建武記 皇代記 皇代暦 常楽記 神皇正統記 善隣国宝記 続神皇正統記 

 大日本国一宮記 椿葉記 難太平記 梅松論 武家年代記 保暦間記 増鏡

 瑜伽伝灯鈔 予章記 

 

6)江戸時代の歴史書

  会津藩家世実紀 明智軍記 明智物語 赤穂義人録 阿波志 井伊家伝記 以貴小伝

 異称日本伝 和泉志 因幡志 因幡民談記 今昔操年代記 遺老説伝 牛窪記

 江戸二色 絵本太閤記 延宝伝燈録 桜雲記 奥南落穂集 奥南旧指録 太田和泉守記

 大友興廃記 恩栄録 学問源流 加沢記 華頂要略 鹿角由来集 蒲池物語 

 川角太閤記 河内志 寛永諸家系図伝 漢学紀源 寛政重修諸家譜 吉備温故秘録

 嬉遊笑覧 球陽 馭戒慨言く 熊野年代記 黒田家譜 群書類従 系胤譜考

 系図纂要 芸藩通志 皇朝史略 古画備考 五畿内志 古史成文古史通 古史伝

 壺陽録 讃岐国大日記 三翁昔話 内史略 参考諸家系図 三国名勝図会 山陵志

 地下家伝 実録本 士林泝カイ 信長公記信府統記 新編会津風土記 新編鎌倉志

 新編相模国風土記稿 新編武蔵風土記稿 新羅之記録 駿府政事録 靖献遺言

 西讃府史 勢州軍記 制度通 清良記関原日記 摂津志 摂陽群談 前々太平記

 仙台鹿の子 先代旧事本紀大成経 続史愚抄 続善隣国宝記 大かうさまくんきのうち

 太閤素生記 大勢三転考 大日本史 大日本地誌大系大日本野史 太平記評判秘伝理尽鈔

 伊達治家記録 立入左京亮入道隆佐記 断家譜 丹治峯均筆記 中山世鑑 中山世譜

 中朝事実 朝野旧聞ホウ藁 通航一覧 津軽一統志て 鉄炮記 当代記 土芥寇讎記

 徳川実紀 読史余論 那須記 南山巡狩録 南朝公卿補任 南藤蔓綿録 南部根元記

 南方紀伝 二天記 日本逸史 日本王代一覧 日本外史 後鑑 閥閲録 播磨鑑

 藩翰譜 兵法先師伝記 武家事紀 武家名目抄 武公伝 武将感状記 武徳編年集成 

 豊後国志 兵法大祖武州玄信公伝来 甫庵信長記 宝翰類聚 伯耆民諺記 保建大記

 北条五代記 房総治乱記 本庄家系譜本朝画史 本朝高僧伝 本朝通鑑 本藩人物誌

 真木家文書 三河後風土記 三河物語 美濃国諸旧記 宮本小兵衛先祖附め 名将言行録

 盛岡藩郷村仮名付帳 守貞謾稿 山城志 大和志 祐清私記 蘭学事始 律令要約

 和年契 

 

7)戦前の歴史書

 浅井氏家譜大成 開国五十年史 旧幕府 国史眼 国史大辞典 (明治時代) 続再夢紀事

 大日本史 大日本編年史 徳川十五代史 南紀徳川史 日本開化小史 日本史記

 復古記 日本古代法典 防長回天史 名将言行録 新選組顛末記 房総叢書 防長回天史

 琉球の五偉人 近世日本国民史 東京市史稿 日本資本主義発達史講座 幕末百話

 房総叢書 明治天皇紀

 

《戦前の日本史叢書の一覧》

・『大日本時代史』全9巻(早稲田大学出版部、1907-1908)

・『訂正増補大日本時代史』全12巻(早稲田大学出版部、1915)

・『日本時代史』全14巻(早稲田大学出版部、1926-1927)

  1915年版に吉田東伍『倒叙日本史』の明治史に関する部分を2巻に分けたものを追加

・『倒叙日本史』全10巻、吉田東伍(早稲田大学出版部、1913-1914)

・『国民の日本史』全12巻(早稲田大学出版部、1922-1923)

・『国民の日本史』全14巻(早稲田大学出版部、1931-1932)明治時代史2冊加え再版

・『国史講習録』全20巻(国史講習会、1924-1925)

・『綜合日本史大系』全12巻(内外書籍、1926-1934)

・『大日本史講義』全18巻(雄山閣、1928-1930)

・『国史講義』全21巻(受験講座刊行会、1930-1931)

・『岩波講座日本歴史』全13巻(岩波書店、1933-1935)

・『日本歴史教程』2巻(白揚社、1936-1937)

・『日本歴史教程』2巻(人民社、1947)再版

・『日本歴史全書』全22巻(三笠書房、1939-1941)

・『新講大日本史』全20巻(雄山閣、1939-1943)出典 

 

8)戦後の歴史書

 岩波講座世界歴史 岩波講座日本歴史 鎌倉遺文 教育社歴史新書 近世日本国民史

 近代日本思想大系 国史大辞典 (昭和時代)古代史疑 昭和天皇実録 史料纂集 清張通史

 戦史叢書 大東亜戦争への道 大日本古記録 大日本古文書 太平洋戦争への道と 

 東京市史稿 日露戦争 もうひとつの「物語」 日本近代思想大系 日本思想大系

 日本城郭大系 日本人のための国史叢書 日本歴史叢書 日本歴史地名大系

 歴史文化セレクション 


(3)風土記


(引用:Wikipedia)

1)風土記とは

   風土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。  

 

2)古風土記

  奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

 

 『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。

 

 ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。

 

 なお、記すべき内容として下記の五つが挙げられている。

 ① 郡郷の名(好字を用いて)

 ② 産物

 ③ 土地の肥沃の状態   

 ④ 地名の起源 

 ⑤ 伝えられている旧聞異事

 

  写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』『肥前国風土記』『常陸国風土記』『豊後国風土記』が一部欠損して残る。

 

 その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。 

 

3)各国の風土記

  太字は写本として現存するもの。 ※は逸文として他の書物に残っているもの。 

 無印は逸文であるか疑わしいものしか残っていないか、未発見のもの。

・畿内:山城国風土記※ 大和国風土記 摂津国風土記※ 河内国風土記 和泉国風土記

 

・東海道:伊賀国風土記 伊勢国風土記※ 志摩国風土記 尾張国風土記※ 参河国風土記

 遠江国風土記 駿河国風土記 伊豆国風土記 甲斐国風土記 相模国風土記

 下総国風土記 上総国風土記 常陸国風土記

 

・東山道:近江国風土記 美濃国風土記 飛騨国風土記 信濃国風土記 陸奥国風土記※

 

・北陸道:若狭国風土記 越前国風土記 越後国風土記※ 佐渡国風土記 

 

・山陰道:丹後国風土記※ 丹波国風土記 但馬国風土記 因幡国風土記 伯耆国風土記※

 出雲国風土記 石見国風土記 

 

・山陽道:播磨国風土記 美作国風土記 備前国風土記 備中国風土記※ 備後国風土記※

 

・南海道:紀伊国風土記 淡路国風土記 阿波国風土記※ 讃岐国風土記 伊予国風土記※

 土佐国風土記※

 

・西海道:筑前国風土記※ 筑後国風土記※ 豊前国風土記※ 豊後国風土記

 肥前国風土記 肥後国風土記※ 日向国風土記※ 大隅国風土記※ 薩摩国風土記

 壱岐国風土記※ 対馬国風土記 

 

4)古風土記以外の風土記

 遠江國風土記傳 三河後風土記 東北後風土記 斐太後風土記 新編武蔵風土記

 新編相模風土記 新編会津風土記 今日の風土記 等が挙げられる。 


(4)偽書とされている歴史書



〔参考図書紹介〕

(引用:山川出版社HP

〇『偽書が揺るがせた日本史』(原田実著 山川出版社 2020年3月刊)

 

 (引用:山川出版HP)

●解説

 教科書にも載せられ、私たちの「常識」の一部を形作ってきた書物・文書のなかにも「偽書」と判明したものもある。そこで、古代以降、「偽書」と呼ばれる書物に秘められた奥深さを検討し、日本史におけるもうひとつの「真実」を探る。

 

●目次

はじめに

Ⅰ ―― 時代への欲求が生み出した偽書

第1章 古代日本の「偽書?」弾圧事件――「正史」とはなにか?

第2章 「名言」として伝わる身近な偽書――「東照宮御遺訓」ほか

第3章 偽書づくりの巨人・沢田源内――『和論語』ほか

第4章 現在も普及している古典に潜む偽書疑惑――『三教指帰』「慶安御触書」ほか

第5章 地域の観光資源として利用された偽書――『武功夜話』『東日流外三郡志』

第6章 郷土史教材として活用された稀代の偽書群――『椿井文書』

第7章 狙い目となった神代の空白期――「超古代史」誕生の土壌

第8章 「超古代史」「古史古伝」ブームと言葉の定義

第9章 伊勢神宮から生まれた偽書――『先代旧事本紀大成経』

第10章 歌道と関わりのある偽書――「鵜鷺系偽書」「ヲシテ文献」

第11章 文学作品の偽作――「『誘惑女神』事件」ほか

第12章 引用された架空の文献――「中世日本紀」ほか

第13章 「口伝」を装った歴史の偽造――「易断史料」「江戸しぐさ」ほか

第14章 中世と近世以降の偽書の違い

 

Ⅱ ―― 偽書と陰謀論

第15章 偽書に力を加える「陰謀論」の存在

第16章 戦前の弾圧事件に付きまとう陰謀論――『竹内文献』「九鬼文書」ほか

第17章 弾圧されたから残った? 偽書――「中山文庫」事件

第18章 「壁の中」から偽書が生まれる理由――「偽古文尚書」『東日流外三郡志』

第19章 日本にも上陸した史上最悪の偽書――『シオンの議定書』

第20章 米中に利用された日本の「世界征服計画」――「田中上奏文」

第21章 青年将校たちを煽動したクーデター指南書――『南淵書』

第22章 名士が集まった昭和の偽書顕彰運動――『富士宮下文書』

第23章 戦後の古代史ブームとともに再評価――『富士宮下文書』

第24章 オウム真理教の教義は偽書の寄せ集めだった

第25章 現代の偽書、フェイクニュース

 

Ⅲ ―― 歴史資料として偽書をどう扱うか

第26章 偽書研究の嚆矢となった二人の研究者

第27章 偽書を研究対象にさせた歴史学のパラダイム転換

第28章 偽書研究の画期となった一九九〇年代

第29章 学際的偽書研究の勃興

第30章 偽書は体制批判に使えるか? 


2 古史古伝


(1)古史古伝の概要


(引用:Wikipedia)

 古史古伝(こしこでん)とは、古代史の主要な史料(日本の場合なら『古事記』や『日本書紀』など)とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称。種類が多い。また超古代文献・超古代文書ともいう。

 

 なお、古史古伝は今のところ、いずれも学界の主流からは偽書とみなされている。

  日本の武功夜話『百輪中旧記』などのように中世以後の歴史を記した偽書もあるが、古代の特に古い時代無関係な文献は古史古伝とは呼ばれない。 

 

1)概論

   古史古伝は、

 ① 写本自体が私有され非公開である、などの理由で史料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い。

 

超古代文明について言及されている。

 

③ 日本のものの場合、漢字の伝来以前に日本にあったという主張がある神代文字で綴られている。

 

④ 日本のものの場合、上代特殊仮名遣に対応してない(奈良時代以前の日本語は母音が8個あったが、5母音の表記体系である)

 

⑤  成立したとされる年代より後(特に近代以降)用語表記法が使用されている。

等々の理由で古代史研究における歴史学的な価値は非常に低く、古代からの伝来である可能性もまず無いと考えられている。

 

 しかし、古史古伝は種類が多く1〜5の特徴もすべての古史古伝に共通しているわけではなく、それらの諸点についての度合いは各書ごとに様々である。

 

 日本のものの場合、江戸時代成立とみられる文献もあり、それらには江戸時代的な特徴はあるが近代以後の用語などは当然存在しない。

 

 ただし、いずれの「古史古伝」においても「偽書である『古史古伝』ではなく、真書である」と主張する人々はかつて存在したか、もしくは現存している。

 

 現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、文献の作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。文献そのものに史料的価値が認められなくとも、「それらの文献(偽書)をいつ、だれが、どのような背景・目的で作成したのか」を研究することは、古代史の研究とは言えないにしても、じゅうぶん学問的な行為といえる。

 

 古史古伝を含む偽史の作成は、それが作成される社会と時代における時代精神を反映している。原田実(後述)はオウム真理教が偽史運動から登場した事を指摘している。実際に教祖の麻原彰晃は、古史古伝に登場する金属ヒヒイロカネの記事をオカルト雑誌に発表した事がある。 

 

2)名称由来

  第2次世界大戦前には「神代史」「太古史」など言われ、戦後(1970年代頃まで)には吾郷清彦(後述)「超古代文書」と呼んでいた。また同じ頃、武田崇元(後述)「偽書」「偽史」「偽典」などといっていたが、「偽書」「偽典」は用語としてすでに確立した別の定義が存在しており紛らわしいので、やがて「偽史」という言い方に統一されていった。

 

 「古史古伝」という言い方は、吾郷清彦が著書『古事記以前の書』(大陸書房、1972年)で最初に提唱したもので、この段階では「古典四書」「古伝三書」「古史三書」とされていたが、著書『日本超古代秘史資料』(新人物往来社、1976年)では、「古典四書」「古伝四書」「古史四書」「異録四書」に発展した。

 

 初期の頃の吾郷清彦は「超古代文書」という言い方を好み、「古史古伝」とは言わなかった。あくまで分類上の用語として「古伝四書」とか「古史四書」といっていたにすぎない。1980年代以降、佐治芳彦がこれをくっつけて「古史古伝」と言い出したのが始まりである。

 

 下記の分類は前述の『日本超古代秘史資料』を基本としているが、その後、他の文献写本が発見されるに従って吾郷清彦自身によって徐々に改訂が繰り返され増殖していった。その分として若干の補足を加えてある。 

 

3)吾郷清彦による分類

3.1)古典四書

・『古事記』

『日本書紀』

『先代旧事本紀』(旧事紀)

『古語拾遺』

 

 『古語拾遺』を除いて「古典三書」ともいう。この「古典四書」(または古典三書)という分類は、異端としての超古代文書に対して正統な神典としての比較対象のための便宜的な分類であり、「古典四書」はいわゆる超古代文書(古史古伝)ではなく、通常の「神典」から代表的・基本的な四書を出したもので、実質は「神典」の言い替えにすぎない。(神典の範囲をどう定めるかは古来諸説があるがこの四書に加えて『万葉集』『古風土記』『新撰姓氏録』などをも含むことが多い)。

 

 しかし『先代旧事本紀』については若干の説明が必要である。『先代旧事本紀』は江戸時代以来、偽書であるとの評価が一般的であり、当然、吾郷清彦も最初からそれを認識していた。しかしまた同時に、通説と同様に、その価値を全面否定はせず、記紀に次ぐ重要な「神典」とみなされてきた事実には変わりない、と(記紀ほどではないが)評価もしていたのである。

 

 同様に『天書』(『天書紀』ともいう)『日本総国風土記』・『前々太平記』の三書を異端古代史書として古史古伝と同様に扱おうとする説田中勝也など)もあるが、このうち『天書』は古史古伝の類とはいえず、他の二書も超古代文書というほどの内容をもっているわけではない。

 

 これらは古典四書の周辺的な類書であり、古史古伝の同類とみなされかねない異端古代史書とはいえても、超古代文書だとか古史古伝そのものに入れるのは相当な無理がある。

 

 『先代旧事本紀』または『天書』と似たような位置にある史書として『住吉大社神代記』がある。天平年間成立とされているが平安時代中期頃の偽書と考えられる。今のところこれを古史古伝扱いする議論は出現してないようである。

 

 『神道五部書』は、奈良時代以前の成立とされているが鎌倉時代の偽書と考えられている。『神道五部書』は直接には古史古伝ではないが、そのうちの『倭姫命世紀』『神祇譜伝図記』に神代の治世の年代が記されており、これが古史古伝の幾つかにあるウガヤフキアエズ王朝と同質の発想があるという指摘がある。

 

 通常の古代史書が、解釈によって古史古伝と同様の内容があるとされる事もある。吉田大洋は『古事記』がシュメール語で読めると主張したが、その解釈には超古代史的な内容もある。高橋良典は『新撰姓氏録』を超古代史書として解釈している。これらは吉田大洋高橋良典の解釈説の内容が超古代史なのであって、本文そのものが超古代史なわけではない。

 

3.2)古伝四書

・『ウエツフミ』(大友文書、大友文献ともいう) 

・『ホツマツタヱ』(※漢字ではなくカナ書きするのが吾郷の流儀)

・『ミカサフミ』

・『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)

 

 「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。

 

 また、『フトマニ』という書がある。この『フトマニ』は普通名詞の太占(ふとまに)と紛らわしいので吾郷清彦は『カンヲシデモトウラツタヱ』(神璽基兆伝)と名付けた。

 

 『フトマニ』『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』の三書は世界観を同じくする同一体系内の一連の書であり「ホツマ系文書」ということができる。一部の肯定派の研究者からは「ヲシテ文献」と一括してよばれる。

 

 また、カタカムナに関係する『神名比備軌』(かむなひびき)『間之統示』(まのすべし)という漢字文献も「カタカムナ系の文献」として一括できるが、これらカタカムナを含むカタカムナ系の諸文献は「歴史書」ではない。「超古代文書=古史古伝」は、このように歴史書以外をも含む幅広い概念である。

 

3.3)古史四書

・『九鬼神伝精史』(いわゆる「九鬼文書」。『天津鞴韜秘文』は九鬼文書群の一部である)

・『竹内太古史』(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)

・『富士高天原朝史』(いわゆる「富士谷文書」、「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)

・「物部秘史」(いわゆる「物部文書」)

 

 「物部秘史』を除いて「古史三書」ともいう。「古史四書」は神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれたもの。やはり内容による分類ではない。

 

 上記のタイトル(九鬼神伝精史・竹内太古史・富士高天原朝史・物部秘史)は吾郷清彦が独自に名付けたものである。

 

 九鬼文書と富士文書は複数の書物の集合体であって全体のタイトルがなかったことによる。

 

 竹内文書、大友文書、富士文書を三大奇書ともいう。

 

3.4)異録四書

・『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)。いわゆる「和田家文書」の一つ。

・『但馬故事記』(「但馬国司文書」とも。但馬故事記は本来は但馬国司文書の中の代表的な書物の名)

・『忍日伝天孫記』(おしひのつたえてんそんき)

・『神道原典』(しんとうげんてん)

 

 『神道原典』を除いて「異録三書」ともいう。「異録四書」は古伝四書や古史四書に含まれないものをひとまとめにしたもので、いわゆる「その他」の枠であり、古伝四書・古史四書のように四書全体に通じる共通の特徴があるわけではない。

 

 『忍日伝天孫記』と『神道原典』は古文書・古文献ではなく、前者は自動書記、後者は霊界往来による霊感の書である。

 

 このように吾郷清彦「古史古伝」(超古代文書)という概念は「古代から伝わった書物」という意味だけでなく、「自動書記などの霊感によって超古代の情報をもたらす現代の書」まで含む幅広い概念である。

 

 吾郷は上記の他にも、超古代文書として『異称日本伝』・『神伝上代天皇紀』・「春日文書」を取り上げているが、このうち『異称日本伝』は松下見林による江戸時代の有名な著作であり、超古代文献とはいえないものであることは、後述の『香山宝巻』と同様である。また「春日文書」は言霊(ことだま)関係の文献であり歴史書ではないが、古史古伝には歴史書以外も含みうるのは、上述のカタカムナの場合と同じである。 

 

4)吾郷清彦による分類の発展

4.1)東亜四書

・『契丹古伝』(『神頌叙伝』ともいう)

・『桓檀古記

・『香山宝巻』

・『宝巻変文類』

 

  吾郷清彦は「新しき世界へ」誌(日本CI協会刊)に寄稿した際「東亜四書」という項目を追加している。構想段階では『香山宝巻』『宝巻変文類』がなく『竹書紀年』『穆天子伝』だったが、この両書を古史古伝だというのは無理があり、後の著作では『竹書紀年』『穆天子伝』をはずし『香山宝巻』『宝巻変文類』を入れた形で発表されている。

 

 しかし『香山宝巻』『宝巻変文類』は世間的には有名ではなかったが専門家の世界ではもとから知られたものであり、超古代史文書に入れるのは異論もある。

 

 ほかに東アジアに関連するものとして山海経』『封神演義をあげる論者もいるが、『山海経』は古来有名な古典であり、一方『封神演義』は小説であり、いくら内容が面白いからといってもこの両書を古史古伝というのは無理がある。

 

  それよりも『契丹古伝』や『桓檀古記』とならぶべき超古代文書といえば『南淵書』があげられる。また『桓檀古記』は『揆園史話』や『檀奇古史』などの同系の書物とともに「檀君系文献群」として一括してよぶことができる。

 

4.2)泰西四書

・『ウラ・リンダの書(『オエラリンダ年代記』ともいう)

OAHSPE: A New Bible(オアフスペ、オアースプ等いろいろに読まれる。1882年出版。)

・『モルモン経

・「アカーシャ年代記(「アカシックレコード」ともいう)

 

  他にジェームズ・チャーチワードが実在を主張した「ナーカル碑文」、ヘレナ・P・ブラヴァツキーが実在を主張したドゥジャーンの書エメラルド・タブレットトートの書等がある。またネクロノミコンは当初から小説の中の存在として発表されたが、実在と信じる人にとっては超古代文書の一種である。

 

 『OAHSPE』はアメリカ人の歯医者John Ballou Newbroughが自動書記で書いたとされており、「アカーシャ年代記」は不可視界の存在であるとされ、どちらも古文書ではない。

  他にアメリカ人リバイ・ドーリングがアカシックレコードを読んで書いたというキリストの前半生の物語宝瓶宮福音書(1908年)も古史古伝に入れられている。

 

4.3)地方四書

・『甲斐古蹟考』

 

・「阿蘇幣立神社文書(「高天原動乱の秘録」ともいう)

 

・『美しの杜物語』(研究者の間では『大御食神社神代文字社伝記』とよばれることが多い。また『美杜神字録』ともいう。『美しの杜物語』は吾郷の命名である。)

 

・『真清探當證』(ますみたんとうしょう)

 『美しの杜物語』は神代文字で書かれており定義からいえば「古伝四書」の方に入れてもよさそうではあるが、吾郷はその件については特にふれていない。

 

 『美しの杜物語』のように地方色豊かなものとして原田実はさらに『伊未自由来記』(いみじ・ゆらいき)『肯搆泉達録』(かんかんせんだつろく)守矢家文書松野連系図をあげている。

 

4.4)秘匿四書

・「阿部文書」(「安部文書」)

・「斎部文書」

・「清原文書」

・「久米文書」

 

 上記の四書は未確認文献である。これらは神代文字を伝えているとか竹内文献と共通する内容があるとかウガヤフキアヘズ朝についての記述があるとか、戦前には様々な噂が広がっていた。

 

 阿部文献については、三浦一郎は『九鬼文書の研究』の中で、また宇佐美景堂は『命根石物語』の中で、ともに豊後の阿部家に伝わる古代文字文献について述べており、戦前からの研究者である山根キクや大野一郎らは神武以前の天皇名などを伝えている個所があると主張していた。が、現在のところ何も見つかっていない。

 

 残りの三書「斎部文書」「清原文書」「久米文書」も噂の域をでず詳細不明であり、実在しない可能性が高い。

 

 これらの他にもなお「大伴文書」なるものが存在することが判明している。 

 

5)一覧 本項ででてきた書物のタイトル一覧。五十音順。

5.1)古史古伝

「アカーシャ年代記」/「阿蘇幣立神社文書」/「阿部文献」/『異称日本伝』/『伊未自由来記』/「斎部文書」/『ウエツフミ』/『ウラ・リンダの書』/「エメラルド・タブレット」/『OAHSPE』/「大伴文献」/『美しの杜物語』/『忍日伝天孫記』/『甲斐古蹟考』/「春日文書」/『カタカムナのウタヒ』/『神名比備軌』/『間之統示』/『肯搆泉達録』/『契丹古伝』/「清原文書」/「九鬼神伝精史」(九鬼文書)「久米文書」/『香山宝巻』/『神伝上代天皇紀』/『神道原典』/「竹内太古史」(竹内文献) 「天津教文書」(磯原文書)/『但馬故事記』(但馬国司文書)/『檀奇古史』/『桓檀古記』/『揆園史話』/『東日流外三郡誌』(和田家文書)/「トートの書」/『ドゥジャーンの書』/「ナーカル碑文(聖なる霊感の書)/『南淵書』/「富士高天原朝史」(宮下文書)『宝巻変文類』/『宝瓶宮福音書』/『ホツマツタヱ『ミカサフミ』/『カンオシデモトウラツタヱ』/『真清探當證』/「松野連系図」/「物部秘史」(物部文書)「守矢家文書」/『モルモン経』

 

5.2)神典

『古事記』/『古語拾遺』/『新撰姓氏録』/『先代旧事本紀』(十巻本)/『日本書紀』/『古風土記』/『万葉集』/『住吉大社神代記』

 

5.3)それ以外

『山海経』/『前々太平記』/『天書』(『天書紀』)/・『神道五部書』/『竹書紀年』/『日本総国風土記』/『穆天子伝』/『封神演義』 

 

6)古史古伝関係著者等(引用:Wikipedia)

6.1)吾郷 清彦

〇概要

 超古代文献研究家、古神道研究家。島根県大田市出身。本名は吾郷哲夫(あごう てつお)。旧姓は三谷。吾郷家には養子として入った。本職は電気技師であったが、定年退職後、在職中より取り組んでいた「日本の超古代史」「日本の神代文字」「古神道」の研究に専念。その研究歴は70年におよぶ。

 

 1972年の著書 『古事記以前の書』 (大陸書房) で古史古伝という言い方を提唱した(これはやや不正確である。詳細は古史古伝の項を参照)

 

〇経歴

 島根県邇摩郡宅野村立宅野小学校、旧制大田中学、旧満州の旅順工科大学電気工学科卒業後、満州電業の電気技師として、奉天市(現在は瀋陽市)などの火力発電所に勤務。日本の敗戦により帰国し、島根県および三重県にて新制中学・新制高校の教員を数年勤めた後、1952(昭和27)年から島根県営の水力発電所の建設と稼動に中心的役割を果たす。

 

〇主要著作

「ウエツフミのコリツテ」/「ウエツフミ要録」上、下巻/「古事記以前の書」/「日本神代文字」(「日本神代文字研究原典」の原題)/「日本超古代秘史資料」(「日本古代秘史研究原典」の原題)/「超古代神字・太占総覧」/「有機的全神論」/「日本神学の幾何学的把握」/「九鬼神伝全書」/

「古代近江王朝の全貌」/「全訳ホツマツタエ」/「竹内文書・但馬古事記」/など、他多数。

 

6.2)武田崇元

〇概要

 日本の出版事業家、神道霊学研究家、超常現象研究家。本名は武田洋一。武田益尚、武内裕、有賀龍太などの筆名を持つ。1980年代のオカルト・ブームの火付け役であり、学研発行のオカルト雑誌『ムー』には、南山宏と共に1979年の創刊時からの顧問として非常に強い影響力を持った。

 

 『竹内文書』『東日流外三郡誌』など古史古伝文献の刊行者としても知られる。

 

6.3)原田実

〇概要・略歴

 歴史研究家・文明史家・作家。広島市中区出身。修道高等学校を経て、1983年(昭和58年)に龍谷大学文学部仏教学科卒業(文学士)。1984年(昭和59年)から3年半、オカルト系出版社八幡書店に勤務、古史古伝・霊学書籍の広告を担当した。また、伊集院卿のペンネームで雑誌『ムー』に記事を執筆。

 

 その後広島大学研究生を経て、1991年(平成3年) - 1993年(平成5年)に昭和薬科大学文化史研究室にて、古田武彦の下で助手を務める(最初の1年は事務助手(副手))

 

 1995年(平成7年)パシフィック・ウエスタン大学博士課程修了(Ph.D.)。なお、パシフィック・ウエスタン大学は非認可の学校で判決によって閉鎖された(ディプロマミル)。『ゼンボウ』1996(平成8年)9月号には、史学博士とある。

 

 元「市民の古代研究会」代表(2001年(平成13年)-2002年(平成14年))。と学会およびASIOSの会員でもある。『トンデモ本の逆襲』(1996年刊行)のあとがきには「自分の著作を送ってきた読者」の一人として書名『幻想の津軽王国』と共に紹介されているため、その後の入会と思われがちだが[誰によって?]実際の入会は1994年(平成6年)である。雑誌『ゼンボウ(全貌社刊)』、『正論』、『新潮45』、『季刊邪馬台国』などに寄稿している。また、シャーロキアンでもある。

 

〇著書

●単著:

・『幻想の超古代史 『竹内文献』と神代史論の源流』批評社

・『日本王権と穆王伝承 西域神仏譚の日本的受容』批評社

・『もう一つの「高天原」 古代近江文化圏試論』批評社

 

・『黄金伝説と仏陀伝 聖伝に隠された東西交流』人文書院

・『優曇華花咲く邪馬台国 倭人伝では邪馬台国は解けない』批評社

・『怪獣のいる精神史 フランケンシュタインからゴジラまで』風塵社

 

・『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌』の迷宮』批評社

・『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌』の迷宮』批評社

・『幻想の古代王朝 ヤマト朝廷以前の「日本」史』批評社

 

・  円谷プロダクション監修『ウルトラマン幻想譜 M78星雲の原点を探る』風塵社

・  森野達弥画、原田実文『怪物幻想画集』風塵社

・『幻想の荒覇吐(アラハバキ)秘史 『東日流外三郡誌』の泥濘』批評社

 

・『幻想の多元的古代 万世一系イデオロギーの超克』批評社

・『邪馬台国浪漫譚 平塚川添遺跡とあさくら路』甘木朝倉広域観光協会監修、梓書院

『古事記』異端の神々』1、ビイング・ネット・プレス〈太古日本の封印された神々〉

 

・『古史古伝』異端の神々』2、ビイング・ネット・プレス〈太古日本の封印された神々〉

・『原田実の日本霊能史講座』原田実講師、杉並春男聞き手、楽工社〈と学会レポート〉

・『図説神代文字入門 読める書ける使える』ビイング・ネット・プレス

 

・『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』文芸社

・『トンデモ日本史の真相 史跡お宝編』文芸社〈文芸社文庫 は1-1〉

・『トンデモ日本史の真相 人物伝承編』文芸社〈文芸社文庫 は1-2〉

 

・『日本化け物史講座』楽工社

・『トンデモ偽史の世界』楽工社

・『日本の神々をサブカル世界に大追跡 古代史ブーム・データブック』ビイング・ネット・プレス

 

・『日本トンデモ人物伝』文芸社

・『もののけの正体 怪談はこうして生まれた』新潮社〈新潮新書 381〉

・『つくられる古代史 重大な発見でも、なぜ新聞・テレビは報道しないのか』新人物往来社

 

・『オカルト「超」入門』星海社〈星海社新書 17〉

・『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』星海社〈星海社新書 52〉

・『江戸しぐさの終焉』星海社〈星海社新書 77〉

 

●共著・編著・共篇著

『日本史が危ない! 偽書『東日流外三郡誌』の正体』原正壽編著、安本美典共著、全貌社

・『津軽発『東日流外三郡誌』騒動 東北人が解く偽書問題の真相』原田実編、三上強二監修、批評社

 

・  森瀬繚・日暮雅通・北原尚彦・平山雄一共著『シャーロック・ホームズ・イレギュラーズ 未公表事件カタログ』森瀬繚・クロノスケープ編、日暮雅通監修、エンターブレイン

 

・『「古史古伝」と「偽書」の謎を読む 危険な歴史書』『歴史読本』編集部/編、新人物往来社

・「古史古伝論争」とは何だったのか、原田実

 

・「古史古伝」の出現と近代日本の迷走――特別座談会――、田中聡・長山靖生・原田実

・「但馬故事記」五つの謎、原田実/宋美玄 ほか「第4章-教育」『各分野の専門家が伝える 子供を守るために知っておきたいこと』メタモル出版

 

●監修:オフィステイクオー『偽史と奇書が描くトンデモ日本史』原田実 監修、実業之日本社〈じっぴコンパクト新書 308〉

 

6.4)吉田大洋(Wikipedia未掲載)

 

6.5)佐治芳彦(Wikipedia未掲載)

 

6.6)高橋良典(Wikipedia未掲載)


(2)古史古伝の参考『日本超古代史が明かす神々の謎』


 次の書籍が、古史古伝の主なものの概要と関連性について既述されていますので、その目次等を紹介します。

 

『日本超古代史が明かす神々の謎』「古史古伝が告げる日本創成の真相」

鳥居 礼著:日本文芸社(平成9年6月25日)

はじめに

・超古代文献に見られる〈共鳴現象〉

・「ホツマタヱ」の〈全国性〉とほかの文献の〈ローカル性〉

・超古代文献『ホメロス』の叙事詩を信じつづけたシュリーマン

・従来の歴史観を覆す縄文時代の流通ネットワーク

 

第1章 創造神の事跡を伝える膨大な”記録集” 

1『ホツマタヱ(秀真伝)』ー神代文字で五七調につづられた『記紀』以前の伝承(項目抜粋)

・超古代の高い精神文明と天君の存在を明かす

・『ホツマタヱ』は他の文献を全て包括する

・宇宙創成を再現する「御柱巡り」

・『記紀』に欠けている伝承を記す『ホツマタヱ』

・アマテル神(天照大神)は太陽の霊気をいただいた男神

 

先代旧事本紀大成経宇宙創成から文化論まで含む壮大な文献集(項目抜粋)

・『先代旧事本紀大成経』と『先代旧事本紀』

・『先代旧事本紀大成経』にだけに出てくる謎の創造神「天祖」

・『記紀』からは消えてしまった宇宙創成の記録

・「天祖」は日本人の祖先信仰の根源である

・神宮を奪われた伊雑宮の神官たちの嘆き

 

第2章 超古代史マニアを魅了する多様な視点

3『竹内文献』古今東西を網羅した? ワールドワイドな記述(項目抜粋)

・  越中富山は超古代には世界の中心だった

・『竹内文献』に新時代の地名が出てくる不思議

・『竹内文献』のルーツは「武内宿禰の文」だった

・「根の国(北陸地方)」は超古代の聖地だった

・モーゼが来日して「表十戒」「裏十戒」「真十戒」を天皇にささげた

 

4『上記』(ウエツフミ) - 「新豊国文字」でつづられた神代の百科全書(項目抜粋)

・『上記』の原型は常陸の国に伝わる「新治の文」

・『上記』でのイザナギ・イザナミの天降り

・『上記』と『ホツマタヱ』によるニニギノミコトの全国巡幸コース

・平安初期に成立した片仮名の影響を受けている「豊国文字」

・オオナムチとスクナヒコナが広めた古代医術

 

5『富士文献(『宮下文書』) - 中国神仙思想の影響が強い神々渡来説(項目抜粋)

・秦の始皇帝に仕えた徐福が編纂したとされる『富士文献』

・日本の神々は蓬莱山で発生し大陸を支配した

・孝霊天皇は自ら富士山に上っ歌を詠んだ

・中国の仙境とは日本のことだった

・『竹取物語』のかぐや姫の壺と『ホツマタヱ』の壺

 

九鬼文献古神道派と新興仏教派対立の生々しい記録(項目抜粋)

・アメノコヤネノミコト(天児屋根命)につながる名門九鬼家の系譜

・仏教受容をめぐる中臣・物部の確執と怨念

・初期仏教徒が熊野三山を本拠地とした深い理由

・超古代の歴史を今に伝える那智神社の「火祭り」

・アメノミナカヌシノ神は人類の始祖だった

 

第3章 地方色がにじみ出る超個性派文献 

7『東日流外三郡史アラハバキ族結成までの凄絶な超古代津軽史(項目抜粋)

・古代東北王朝を描く『東日流外三郡史

・アソベ族、ツボケ族の連合した津軽アラハバキ王国の形成

・江戸期の史書とは思えない東日流外三郡史』の近代性

・『記紀』の誤伝承がナガスネヒコ亡命説を生んだ

・謎の遮光器土偶とアラハバキ神の正体

 

8『物部文献十種の神宝を用いた癒しの法を伝える(項目抜粋)

・創造主神「神皇太祖大神」を七柱とする『物部文献』

・秋田物部家に伝わる十種の神宝は死者を甦らせる

・病気治しや子授けの秘宝を伝える『物部文献』

・「物部」とは八十村を統治する県主の役職名

・物部氏の遠縁とされるニギハヤヒは飛鳥治君の養子だった

 

9『カタカムナ科学者を惹きつけた直観の物理学(項目抜粋)

・六甲山の謎の老人が伝えた超古代文献

・ほかの文献にはない表記法ー「カタカムナ」の「ウタイ」

・近代物理学の世界を超古代社会に投影

・原子の運動を思わせるカタカムナ文字の宇宙性

 

10『水穂伝(みずほのつたえ)古神道に通じる美意識の世界(項目抜粋)

・底本は「フトマニの御霊」と「稲荷古伝」

・『ホツマタヱ』と一致する『水穂伝』の内容

・古神道に通じる髙い美意識で編纂された『水穂伝』

・日本の「武」は宇宙の理を悟り神人合一

・宇宙人体の両眼を「日月」とする『水穂伝』の世界性

(出典:『日本超古代史が明かす神々の謎』)

2020.9.26追記


(3)先代旧事本紀


(3-1)先代旧事本紀の概要


(引用:Wikipedia)

 『先代旧事本紀』(先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』、『旧事本紀』ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。著者は不明だが、「天孫本紀」尾張氏物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。

 

 蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文研究資料として用いられている。 

 

1 )成立時期

 本書の実際の成立年代については推古朝以後の『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、延喜の頃矢田部公望が元慶の日本紀講筵における惟良高尚らの議論について先代旧事本紀を引用して意見を述べていること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年 - 938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は博士・藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年 - 906年)には存在したと推定され、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定されている。

 

 また、868年に編纂された『令集解』に『先代旧事本紀』からの引用があるとして、『先代旧事本紀』の成立時期を807年 - 868年とみる説がある。

 

《まず『先代旧事本紀』の成立時期であるが……巻七『天皇本紀』の神武即位の記述中に、『古語拾遺』の中ほどに見える神武東征の文を承けた箇所がある……そこで『古語拾遺』の末尾にいう「大同二年(803)が上限となる。下限は、巻三「天神本紀」ならびに巻七「天皇本紀」に見える十種の神宝の祝詞を『令集解』が引いていることから求められる。『令集解』の成立期は……瀧川政次郎先生により、弘仁格式を引くも貞観格式は引かずと考証された結果、貞観十年(868)と推定された(『定本令集解釈義』解題、昭和六年、内外書籍)。その年次をもって本書の成立下限とすべきである」》ー 嵐義人(『先代旧事本紀』の成立・撰者・編纂意図」『歴史読本2008年11月号』、新人物往来社)

 

 また『令集解』に引用される、穴太内人の著『穴記』(弘仁(810年 - 823年)天長(824 - 833年)年間に成立か。)に『先代旧事本紀』からの引用があるとして成立時期を807年 - 833年とみる説がある。ただし、『穴記』の成立年代は弘仁4年(813)以後ということのみが特定できるにとどまるため、推定の根拠としては有効ではないともいわれる。 

 

2) 編纂者

●興原敏久

 編纂者の有力な候補としては、平安時代初期の明法博士である興原敏久が挙げられる。これは江戸時代の国学者・御巫清直(1812 - 1894年)の説で、興原敏久は物部氏系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっている。

 

 編纂者については、興原敏久説の他に、石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。

 

●物部氏

 佐伯有清は「著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族か。」とする。

 

●矢田部公望

 御巫清直は序文は矢田部公望が904年 - 936年に作ったものとする。安本美典は『先代旧事本紀』の本文は興原敏久が『日本書紀』の推古天皇の条に記された史書史料の残存したものに、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章、物部氏系の史料なども加えて整え、その後、矢田部公望が「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、矢田部氏関係の情報などを加えて現在の『先代旧事本紀』が成立したと推定している。

  

3)評価

 序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に今井有順、徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らに偽書の疑いがかけられていたが、近年の研究により後世付け足された序文以外の価値は再評価されている。鎌田純一は「しかしその一方で新井白石はこれを信頼しているし、その後の水戸藩でも栗田寛などは「国造本紀」、あるいは物部氏の伝記といったところを非常に重視しています……ですから完全に偽書扱いされてしまうのは、江戸時代というよりも、むしろ明治からあとのことでしょう」と述べている。

 

3.1)偽書説

●今井有順

 「推古朝以後の記述が見られる」

 

●徳川光圀

 「聖徳太子の撰といいながら、天皇諡号を記している。天皇諡号は淡海三船が撰したものである。……応仁の乱以後に卜部氏が勝手に作った偽書」

 

●多田義俊

 『旧事記偽書明証考』(1731年)で偽書説を主張。

 

●伊勢貞丈

 『旧事本紀剥偽』(1778年)を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している。

 

●本居宣長

 『古事記伝』巻一において、「"舊事本紀と名づけたる、十巻の書あり、此は後ノ人の偽り輯(アツ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子命(シャウトクノミコノミコト)ノ撰び給し、眞(マコト)の紀(フミ)には非ず"……"但し三の巻の内、饒速日命の天より降り坐ス時の事と、五の巻尾張連物部連の世次と、十の巻の國造本紀と云フ物と、是等は何ノ書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし、"こうした記事は古い文書の記事を採用して書き綴った記録であり、後世にほしいままに造作した捏造の物語ではない。本居宣長はこう推定している」

 

●栗田寛

 『国造本紀考』(文久元年、1861年)のなかで徳川光圀が「後人の贋書」とし、信用できないと述べたと記録している。

 

3.1.1)ノンフィクションライター藤原明の偽書説

 藤原明(ノンフィクションライター)は『旧事紀』は聖徳太子勅撰として、承平6年(936年)日本紀講(『日本書紀』講)の席で矢田部公望によって突如持ち出された書物であり、その後、本書は『日本書紀』の原典ともいうべき地位を獲得したが、矢田部公望が物部氏の権威付けのために創作した書物である可能性が高く(矢田部公望は物部氏であり、当時の朝廷内では、対立する氏族との権力争いがあったと指摘している)、実際に創作したのは別の人物の可能性もあるが、物部氏か矢田部公望に近い筋の者であろうと推定して、本書は偽書であるとしている。(藤原明『日本の偽書』 文藝春秋 2004年)

 

3.1.2)偽書説の経緯

 序文には推古28年(620年)に推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著し推古30年(622年)完成したものとある。

 

 時に小治田豊浦宮に御宇し豊御食炊屋姫天皇即位し二十八年歳次庚辰春三月の甲午朔戊戌に、摂政めたまふ上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊命す。大臣蘇我馬子宿祢等、勅を奉りて撰び定む……時に、三十年歳次壬午春二月の朔巳丑是なり — 『先代旧事本紀』序文

 

  このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。

 

3.1.2.1)江戸時代の偽書説の発生

 しかし、推古朝以後の『古語拾遺』と酷似した箇所があり、『古語拾遺』が『先代旧事本紀』を引用したのではなく『先代旧事本紀』が『古語拾遺』を引用したと考えられたため、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになる。

 

・『古語拾遺』

「又令天富命率齋部諸氏作種種神寶鏡玉矛盾木綿麻等櫛明玉命之孫造御祈玉(古語美保伎玉言祈祷也)」 

 

・『先代旧事本紀』

「複天留(富)命率齋部諸氏作種々神寶鏡玉矛盾木綿摩(麻)等 複櫛明玉命孫造新玉 古語美保代(伎)玉是謂新(祈)」 

 御巫清直も『先代旧事本紀析疑』にて推古朝以降の記載を指摘している。

 

・『先代旧事本紀』

「此連公難波朝御世授(※1)…此連公五本淡海朝御世爲(※2)…浄御原朝御世(※3)

(※1)難波朝(孝徳朝)は推古朝の後  

(※2)淡海朝(天智朝)は推古朝の後  

(※3)浄御原朝(天武朝)は推古朝の後

 

・『先代旧事本紀』「謂摂津職初爲京師柏原帝代改職爲国……諾羅朝御世和同五年」

 

3.1.2.2)江戸時代の偽書・『先代旧事本紀大成経』事件

 江戸時代・延宝年間に著された偽書・『先代旧事本紀大成経』の影響で、その発想の元に使用された『先代旧事本紀』への評価も下がった。『先代旧事本紀大成経』は僧侶・潮音と伊勢神宮別宮の祠官が著述したもので、伊勢神宮・幕府を巻き込む大事件となり著者2名は流罪となった。 神官47名が伊勢志摩国から追放となり禁書とされたが版木は残り、三十一巻本・七十二巻本・三十巻本として伝わっている。

 

3.2)研究者による再評価

 御巫清直は著書『先代旧事本紀析疑』にて「序文が悪いのであり、それを除けばどこにも偽作と見なすべき理由はない」と見なし、1947年飯田季治は『標注先代旧事本紀』の解題で偽書説を批判し、1958年G.W.ロビンソンは『旧事本紀攷』にて「『日本書紀』が部分的には『先代旧事本紀』を材料にしたとする説」を著した。

 

 1962年鎌田純一の『先代旧事本紀の研究 研究の部』・『校本の部』は「研究対象としての『先代旧事本紀』の復権は、鎌田の著作なしにはあり得ないことであった」と評価されている。鎌田純一は、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったとして、本文偽書ではないと論じた。

 

 鎌田は序文に関して、奈良・平安初期の他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること、延喜4年(904年)の日本紀講筵の際に『古事記』と『先代旧事本紀』はどちらが古いかという話題が出ていること(当時すでに序文が存在していたならそもそもそのような問いは成立しない)、鎌倉時代中期の『神皇系図』という書物の名を記していることを指摘し、序文の成立年代を鎌倉時代以降とした。

 

 すなわち、9世紀頃に作られた本来の『先代旧事本紀』には製作者や製作時期などを偽る要素は無かったということである。2001年の上田正昭との対談では、序文が付け加えられたのは「古代末期か中世初期」と述べている。

 

3.2.1)偽書説への反証

  近年上田正昭、鎌田純一、嵐義人、古相正美他の研究者によって偽作は後から付け足された序文のみだと考えられている。

 

「囲み記事・・・承平六年(936年)朱雀天皇(在位:930-946)のときの講筵では、矢田部公望が講義をしているのですが、そこで『古事記』と『旧事本紀』とどちらが先に成立したのかということについて語っています。

 矢田部公望は「先師の説に曰く」として、醍醐天皇在位:897-930)のときに講義をした藤原春海は、『古事記』の方が先で『旧事本紀』の方があとだと言っていたと述べています。そしてそのうえで、自分は、『旧事本紀』の方が先で『古事記』の方があとだと思うと自らの考えを言っているのです。

 こういうことが書かれているということは、藤原春海、矢田部公望のときには、まだ序文が付いていなかったと考えられます。もしも序文が付いていたのなら、「序文にこう書いてあるではないか」と論じるはずなのですが、そういうことを一切論じていない。したがって、この当時は序文はなく、序文はその後の時代に付け加えられたものだと考えられるのです。

 それに國學院におられた岩橋小弥太先生も言っておられますが、序文がいかにも稚拙だということです。文章になっていない。—  鎌田純一・・・囲み記事」

 

・弘仁3年(812年)日本紀講筵にて「天皇敕阿禮使習帝王本記及先代舊事」と日本紀私記に記録されている。

 

・904年延喜の日本紀講筵においての藤原春海の議論が936年承平の日本紀講筵にて引用されている。

 

・904年藤原春海は延喜の日本紀講筵にて日本最初の史書を『古事記』と唱えている(「師説。以古事記爲始」)と936年承平の日本紀講筵にて矢田部公望により引用されている(延喜の日本紀講筵では公望は補佐役の尚復だった)。

 

「囲み記事・・・問。本朝之史以何書爲始乎。師説。先師之説。以古事記爲始。而今案。上宮太子所撰先代舊事本紀十卷   — 矢田部公望・・・囲み記事」

 

・936年承平の日本紀講筵にて矢田部公望は聖徳太子撰の『先代舊事本紀』が最古(「而今案。上宮太子所撰先代舊事本紀十卷」)と説いたと『日本紀私記』・『釈日本紀』にて記録されている。

 

・『延喜公望私記』にて矢田部公望が『先代旧事本紀』第三の「湯津楓木」を引用してその前の元慶の日本紀講筵(878年)にて惟良高尚が神代紀「湯津杜木」の「杜」は「桂」の誤りではないかと問うて博士がそれを否定した箇所について惟良大夫を支持したと『釈日本紀』巻8にあるので、延喜の日本紀講筵(904年)の時期に公望は『先代旧事本紀』を読んでいる。

 

・『先代旧事本紀』の序文には完成年推古30年(622年)が明記されている。

 

以上の点から904年延喜の日本紀講筵の際には先代旧事本紀に序文は無く、その間に序文が添えられたとする学者たちがいる。

 

3.3)資料価値

 本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。

 

 巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。

 

青木和夫は巻五の「天孫本紀」は尾張氏,物部氏の古来の伝承であり、巻十の「国造本紀」も古い資料によっているとする。

 

新野直吉は「国造本紀」について「畿内大倭から多鳥(たね)までの大化前代の地方官豪族である国造(くにのみやつこ)名を掲げ、その系譜と任命設置時を示している。後世の国造である律令国造の名や国司名も混入しているが、他に例のないまとまった国造関係史料なので、独自の価値を持ち古代史研究の史料となっている。」とする。

 

佐伯有清は『鎌田純一著『先代旧事本紀の研究』全二巻(1960、62・吉川弘文館)』を参考文献にあげて「天孫本紀」「国造本紀」は史料として重要とする。

 

上田正昭は「私もまたおりあるごとに『先代旧事本紀』はたんなる「偽書」ではなく、貴重な古典である所以について言及してきた」、『先代旧事本紀』には注目すべき内容が多々あると述べている。

 

鎌田純一は今も宮中で大嘗祭・新嘗祭前日に行われる鎮魂祭での御玉緒糸結びの儀、宇気槽を衝く儀、御衣振動の儀において『先代旧事本紀』に記されている十種神宝に関する唱え言葉を唱えることからも重要な資料であると記している。饒速日尊の降臨した「河内国河上哮峯」伝承地は、住吉大社の社伝『住吉大社神代記』の「膽駒神南備本紀」にて神南備である生駒山の北限を饒速日山と記載してあることから、大阪府交野市磐船神社近辺と推定している。

 

渡邉卓は「平安時代には既に成立していたことは間違いない……偽書説を経ることにより、かえって本文に残された古伝の価値が指摘されたのであった」と評価している。

 

・心理学者の安本美典は物部氏の伝承や国造関係の情報は貴重であり、推古朝遺文(推古天皇の時代に書かれたとされる文章)のような古い文字の使い方があり相当古い資料も含まれている可能性があるとする。

 

・大和岩雄の饒速日尊の降臨した「河内国河上哮峯」伝承地について、河内国交野郡は交野物部の本貫地であること、「天神本紀」の天物部二十五部・肩野物部の肩野は交野であること、饒速日尊の六世孫・伊香色雄命の子・多弁宿禰が交野連の祖先と記載されていること、饒速日尊の十三世孫・物部の目の大連の子の物部臣竹連公が交野の連らの祖先であるとも記載されていることから哮峯は河内国讃良郡西田原・磐船山(饒速日山)説等から1713年貝原益軒 『南遊紀行』、1789年平沢元愷「漫遊文草」、1801年秋里籬島河内名所図会にも書かれた北河内磐船説が南河内説よりも有利との推定を支持している。

 

・法学者の蓮沼啓介は「天神本紀」、「天孫本紀」、「国造本紀」に資料価値を認めつつも、これらの巻にも「後世に加筆した疑わしい記事が混じっている。」として、批判的に扱うべきであるとする。

 

4)影響

 本書は序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したものとあるため、中世の神道家などに尊重された。

 

 鎌倉時代の僧・慈遍は、『先代旧事本紀』を神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、度会神道に影響を与えた。

 

 室町時代、吉田兼倶が創始した吉田神道でも『先代旧事本紀』を重視し、記紀および『先代旧事本紀』を「三部の本書」としている。

 

 『先代旧事本紀大成経』(延宝版(潮音本、七十二巻本))、およびその異本である『鷦鷯(ささき、さざき)伝本先代旧事本紀大成経(大成経鷦鷯伝)(三十一巻本、寛文10年(1670年)刊)、『白河本旧事紀』(伯家伝、三十巻本)などはすべて『先代旧事本紀』を基にして江戸時代に創作されたと言われ、後に多数現れる偽書群「古史古伝」の成立にも影響を与えた。 

 

5)構成

・神皇系図 1巻 :現在、欠けて伝わらない。

・第  1巻「神代本紀」「神代系紀」「陰陽本紀」:天地開闢、イザナギ神話。

・第  2巻「神祇本紀」:ウケイ神話、スサノオ追放。

・第  3巻「天神本紀」:ニギハヤヒ神話、出雲の国譲り。

・第  4巻「地祇本紀(一云、地神本紀)」:出雲神話。

・第  5巻「天孫本紀(一云、皇孫本紀)」:物部氏、尾張氏の系譜。

・第  6巻「皇孫本紀(一云、天孫本紀)」:日向三代、神武東征。

・第  7巻「天皇本紀」:神武天皇から神功皇后まで。

・第  8巻「神皇本紀」:応神天皇から武烈天皇まで。

・第  9巻「帝皇本紀」:継体天皇から推古天皇まで。

・第10巻「国造本紀」:国造家135氏の祖先伝承。 

 

6)刊行本

・『旧事紀』溝口駒造 改造文庫 1943年

・『舊事紀訓解』上・下 三重貞亮著 明世堂 1944年

・『標註 舊事紀校本』 飯田季治校訂 瑞穂出版 1947年

・『先代舊事本紀の研究』 <校本の部>・<研究の部> 鎌田純一著 吉川弘文館 1960年

・『先代舊事本紀 訓註』 大野七三編著 意富之舎、新人物往来社 1989年 ISBN 4404016115

・『先代旧事本紀 訓註』 大野七三校訂編集 批評社 2001年 ISBN 4826503253


(3-2)先代旧事本紀 第9巻 帝皇本紀 継体天皇


(出典:(原文)私本 先代舊事本紀 、(現代語訳)『先代旧事本紀』の現代語訳(HISASHI)

 

◆◆◆ 巻第九 帝皇本紀 継体天皇 ◆◆◆

 (原文)諱-男大跡天皇,更名彥太尊者,譽田天皇五世孫,彥主人王之子也。母曰-振媛,活目天皇七世之孫也。天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色,自近江國高嶋郡三尾之別業,遣使聘于三國坂名井,納以為妃,遂產天皇。

 

(現代語訳)諱は男大迹天皇(おほどのすめらみこと)である。またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)である。誉田天皇(ほむたのすめらみこと=応神天皇)の五世の孫の彦主王(ひこうしのおおきみ)の子である。母は、振媛(ふりひめ)と云う。振媛は活目天皇(いくめのすめらみこと=仁徳天皇)の七世の孫である。天皇の父は振媛の容姿が大変麗しいと聞いて、お生みの国の高嶋郡(たかしまのこおち)の三尾の別荘より使いを遣わして三国の坂名井(さかない)に呼び召して妃とした。そして、天皇を生んだ。 

 

(原文)天皇幼年,父王薨。振媛迺歎曰:「妾今遠離桑梓,安得膝養?余歸寧高向,高向者,越前國邑名。奉養天皇。」天皇壯大,愛士禮賢,意豁如也。

 

(現代語訳)天皇が幼い時に父王が薨去され振媛は嘆いて「私は今、遠く実家より離れて、どうして養っていけるだろうか。高向[高向は越前国の邑の名前]に還って天皇を養う。」と言った。天皇は壮年になり士を愛し、賢く、心は豊かであった。 

 

(原文)小泊瀨天皇八年冬十二月,己亥,崩。元無男女,可絕繼嗣。

 

(現代語訳)小泊瀬天皇八年冬十二月 小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと=武烈天皇)は崩御された。天皇に子供が無く跡継ぎが途絶えた。

 

(原文)大伴金村大連議曰:「方今絕無繼嗣,天下何所繫心?自古迄今,禍由斯起!今足仲彥天皇五世孫-倭彥王,在丹波國桑田郡。請試設兵仗,夾衛乘輿,就而奉迎,立為人主!」大臣、大連等,一皆隨焉,奉迎如計。

 

(現代語訳)大伴金村大連(おおとものかねむらのおおむらじ)は諮って「今、跡継ぎが無く継がれる方がいない。天下の何処に心を寄せれば良いのだろうか。古より今に至るまで、禍はこの様な事から起こる。今、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと=仲哀天皇)の五世の孫の倭彦王(やまとひこのおおきみ)が丹波の国の桑田郡(くわたのこおり)におられる。試しに儀仗兵をもうけて御輿を守り迎え奉って欲しい。そして、立てて天皇になってもらおう」と言った。大臣・大連らは皆賛成した。迎えに奉る計画の通りにした。 

 

(原文)於是,倭彥王遙望迎兵,愕然失色,仍遁山壑,不知所詣。

 

(現代語訳)倭彦王は遥かに迎えの儀仗兵を見て、驚き色を失って、山に隠れた。居られる所は誰も知らなかった。 

 

(原文)元年歲次丁亥春正月,辛酉朔甲子,大伴金村大連更籌議曰:「男大跡王,性慈仁孝順,可承天緒;冀慇懃勸進,紹隆帝業矣!」物部麤鹿火大連、許勢男人大臣等僉曰:「妙簡孫,賢者唯男大跡王矣!」

 

(現代語訳)元年正月四日 大伴金村大連はさらに諮って「男大迹王の性格は恵み深く孝心が篤い、天皇にふさわしい方と思う。慇懃にお勧めして、帝業を継いで頂こう」と言った。物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)は許勢男人大臣(こせのおひとのおおおみ)等を見て「子孫を調べて見ると、賢者は男大迹王だけである。」と言った。 

 

(原文)丙寅,遣臣連等,持節以備法駕,奉迎三國。夾衛兵仗,肅整容儀,警蹕前驅,奄然而至。於是,男大跡天皇晏然自若,踞坐胡床。齊列陪臣,既如帝坐。持節使等由是敬憚,傾心委命,冀盡忠誠。然天皇意裏尚疑,久而不就。

 

(現代語訳)六日 臣・連等を遣わし節を持たせ輿を備えて三国へ迎え奉った。警備の儀仗兵は威儀を正して装いを整え、さきがけの者が御前に至った。男大迹天皇は泰然自若として、御座にお座りになられ、陪臣を整列させ帝の様であった。節を持った使い等は之により、畏まり心を傾け命を委ね忠誠に励もうと思った。しかし、天皇は心の中で尚疑う気持ちが晴れず、すぐには帝位に就かれなかった。 

 

(原文)適知河內馬飼首荒籠,密奉遣使,具述大臣、大連等所以奉迎本意。留二日三夜遂發,乃喟然而歎曰:「懿哉,馬飼首!汝若無遣使來告,殆取嗤於天下!世云:『勿諭貴賤,唯重其心。』蓋謂荒籠乎!」及至踐祚,厚加寵待也。

 

(現代語訳)偶々、知っている河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が、密かに使いを遣わして、大臣・大連等の迎え奉る所の本音を申し上げた。使いは二日三夜留まって出発した。この事を褒めて「よきかな。馬飼首は。汝がもし使いを遣わして告げていなければ、天下の者に笑われたことだろう。世に言う貴賎を論ずるは、ただ、その心を重きとなす。これは、荒籠の事を言うのだ」と言われた。践祚されるに及び、篤く寵愛され待遇を良くされた。 

 

(原文)甲申,天皇行至樟葉宮。

 

(現代語訳)二十四日 天皇は樟葉宮(くずはのみや)に行かれた。 

 

(原文)二月,辛卯朔甲午,大伴金村大連乃跪上天子鏡、劍璽符再拜。 男大跡天皇謝曰:「子民治國,重事也。寡人不才,不足稱。願請迴慮擇賢者,寡人不敢當。」大伴大連伏地固請。男大跡天皇西向讓者三,南向讓者再。大伴大連等皆曰:「伏計之,大王子民冶國,最宜稱!臣等為宗廟社稷,計不敢忽。幸籍眾願,乞垂聽納矣!」男大跡天皇曰:「大臣、大連、將、相、諸臣,咸推寡人,不敢乖之。乖,原本作承,據書紀改之。」乃受璽符也。

 是日,即天皇位。尊皇妃,立為-皇太夫人媛也。

 

(現代語訳)二月四日 大伴金村大連は跪いて、天子の鏡・剣を添えて奉って再拝した。男大迹天皇は辞退されて「民は子であり、国を治める事は重いことである。私は、不才にして適うところが足らない。願わくは知恵をめぐらして、賢者を選ぶ事を請う。私は、それに当たらない」と言った。大伴大連は地に伏し固く請うたが、男大迹天皇は西を向いて譲られる事、三度。南に向いて譲られること再び。大伴大連等は皆「伏してこれを考えますに、大王が民を子とし、国を治めるのが最もかなうと判断します。臣等は宗廟社稷の為に考える事は疎かにしません。どうか衆の願いにより天皇の位に付かれる事を願います」と言った。男大迹天皇は「大臣・大連・将・相・諸臣が悉く私を推す。あえてこれを受けずや」

と言い、璽を受けられた。 そして、この日、天皇位に上られた。皇妃を尊んで皇太夫人媛とした。 

 

(原文)庚子,大伴大連奏請曰:「臣聞,前王之宰世也,非維城之固,無以鎮其乾坤;非掖庭之親,無以繼其趺萼。是故,白髮天皇無嗣,遣臣祖父大伴大連室屋,每州安置三種白髮部,以留後世之名。日本紀云,言三種者:一白髮部舍人,二白髮部供膳,三白髮部靱負也。嗟夫,可不愴歟!請納手白香皇女,立為皇后,復遣神祇伯等,敬祭神祇,求天皇息,允答民望!」天皇曰:「可矣。」

 

(現代語訳)十日 大伴大連は奏し請い「臣は前王が世を治めて日嗣の御子がいなければ、国は治まりません。また、内宮が睦まじくなければ天業が続く事はありません。ゆえに白髪天皇(しらかのすめらみこと)は跡継ぎがありませんでした。臣の祖父の大伴大連室屋(おおとものおおむらじむろや)が使いをして、国ごとに三種の白髪部(しらかべ)を置き、それによって後世に名を伝えようとしました。なんと痛ましいことでしょう。手白香皇女(たしらかのひめみこ)を召して立てて皇后として下さい。また、神祇伯(かむつかさのかみ)を遣わして、神祇を敬い祀り、天皇の皇子を求める事は、民の望みに答える事です。」と言った。天皇は「よろしい」と言われた。 

 

(原文)三月,庚申朔,詔曰:「神祇不可乏主,宇宙不可無君。天生黎庶,樹以元首,使司助養,令全性命。大連憂朕無息,披誠款,以國家,世世盡忠,豈唯朕歟?宜備禮儀,奉迎手白香皇女!」

 

(現代語訳)三月一日 詔をして「神祇を祀らないことは天下に君が居ない事である。天より民が生まれ、国を建てるのに元首を持ってし、助け養う事を司り、生命を全うさせる事である。大連は朕に皇子が無い事を憂え、誠実に国家及び世に忠節を尽くす。決して自分の世を心配しているわけでは無い。装いを整え、手白香皇女を迎え奉れ」と言った。 

 

(原文)甲子,立皇后-手白香皇女,脩教于內,遂生一男。  謂,天國排開廣庭尊,即嫡子也。而幼年於二兄治後,有其天下矣。兄,廣國排武金日尊,次,武小廣國押盾尊。

 

(現代語訳)五日 手白香皇女を立てて皇后とし、内の政を行った。一男が誕生した。天国排開廣庭尊(あめくにおしひらきひろにはのみこと)と云い、嫡子である。しかも幼年である事により、二人の兄を後見にして天下を治めさせた。兄、廣国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)、次に武小廣国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)である。 

 

(原文)癸酉,納八妃。納八妃,雖有先後,而此曰癸酉納者,據即天位,占擇良日,初拜後宮,為文。他皆效此矣。

 

(現代語訳)十四日 八人の妃を入れられた。[八人の妃を入れられたのは前後があるが、この日入れたのは、天位に就いてよき日を占い、初めて後宮を定められたので、記録をした]

 

(原文)元妃,尾張連草香女,曰-目子媛,生二子矣。

  兄,勾大兄皇子。謂-廣國排武金日尊。次,檜隈高田皇子。謂-武小廣國押盾尊。

 次妃,三尾角折君妹,曰-稚子媛,生一男一女。

  大郎皇子與出雲皇女。

 次,坂田大跨王女-廣媛。生三女。

  神前皇女。次,茨田皇女。次,馬來田皇女。

 次,息長真手王女-麻績娘子,生一女。荳角皇女。伊勢太神齋祠。

 次,茨田連小望女,曰-關媛,生三女。

  茨田大娘皇女。次,白坂活日姬皇女。次,小野稚娘皇女。

 次,三尾君堅槭女,曰-倭媛,生二男二女。

  第一,大娘子皇女。次,椀子皇子。次,耳皇子。次,赤姬皇女。

 次,和珥臣河內女,曰-荑媛,生一男二女。

  第一,稚綾姬皇女。次,圓姬皇女。次,厚皇子。次,根王女,曰-廣媛。生二男。

  兄,菟皇子。次,中皇子。

 

(現代語訳)妃は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘で目子媛(めのこひめ)と云う。二児を生んだ。兄は勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)廣国排武金日尊と云う。次に檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)武小廣国押盾尊と云う。

 

 次の妃は三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹で稚子媛(わくごひめ)と云う。一男一女を生んだ。大郎皇子(おおいらつこのみこ)出雲皇女(いずものひめみこ)である。

 

 次の妃は坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘の廣媛(ひとひめ)である。三女を生んだ。神前皇女(かむさきのみめみこ)、次に茨田皇女(まむたのひめみこ)、次に馬来目皇女(うまくめのひめみこ)で有る。

 

 次の妃は息長眞手王(おきながのまてのおおきみ)の娘の麻績娘子(おみのいらつこ)である。一女を生んだ。荳角皇女(ささげのひめみこ)である。伊勢大神斎祠。

 

 次の妃は茨田連小望(まむたのむらじおもち)の娘の関媛(せきひめ)と云う。三女を生んだ。茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)、次に白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)、次に小野稚娘皇女(おのわかいらつめのひめみこ)である。

 

 次の妃は三尾君堅楲(みおのきみかたひ)の娘の倭媛(やまとひめ)と云う。二男二女を生んだ。大娘子皇女(おおいたつめのひめみこ)、次に椀子皇子(まりこのみこ)、次に耳皇子(みみのみこ)、次に赤姫皇女(あかひめのひめみこ)である。

 

 次の妃は和珥臣河内(わにのおみのかわち)の娘の荑媛(はえひめ)と云う。一男二女を生んだ。稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)、次に圓姫皇女(つぶらひめのひめみこ)、次に厚皇子(あつのみこ)

 

 次の妃は根王(ねのおおきみ)の娘の廣媛(ひろひめ)である。二男を生んだ。菟皇子(うさぎのみこ)、次に中皇子(なかのみこ)である。 

 

(原文)二年冬十月,辛亥朔癸丑,葬小泊瀨稚鷦鷯天皇于傍丘磐坏丘陵。五年冬十月,都遷山背,謂-筒城宮。八年春正月,詔曰:「勾大兄皇子宜處春宮,助朕施仁,翼吾補闕之矣。」詔曰二字,原本無。二十五年春二月,天皇病苦。丁未,崩于磐余玉穗宮。年八十二。冬十二月,丙申朔庚子,葬于藍野陵。

 

(現代語訳)二年冬十月三日 小泊瀬若鷦鷯天皇(おはつせのわかささぎのすめらみこと=武烈天皇)を傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのみささぎ)に葬る。五年冬十月 都を山背に遷す。筒城宮(つつきのみや)と言う。八年春正月 勾大兄皇子に春宮(みこのみや)に就き朕を助けて恵みを施し、朕を助けて欠けた所を補えと宜された。二十五年春二月 天皇は病に苦しまれた。七日 磐余の玉穂宮(たまほのみや)で崩御された。年八十二歳であった。冬十二月五日 藍野陵(あいののみささぎ)に葬られた。  

 

(原文)天皇所生,八男十二女。明上文,更亦勿記。

子,天國排開廣庭尊。兄,勾大兄廣國排武金日尊。次,檜隈高田武小廣國押盾尊。

次,大郎皇子。次,出雲皇女。次,神前皇女。次,茨田皇女。次,馬來田皇女。

次,荳角皇女。伊勢太神齋祠。次,茨田大郎娘皇女。次,白坂活日姬皇女。

次,小野稚郎皇女。次,大娘子皇女。次,椀子皇子。三國公祖。次,耳皇子。

次,赤姬皇女。次,稚綾姬皇女。次,圓媛皇女。次,厚皇子。次,菟皇子。酒人公祖。

次,中皇子。坂田公祖。

 

 (現代語訳)天皇が生んだ子は八男十二女であった。名は上の文に明らかで有るが、更にまた記す。

勾大兄廣国排武金日尊(まがりのおおえひろくにおしたけかなひのみこと), 次に檜隈高田武小廣国押盾尊ひのくまのたかたのたけおひろくにおしたてのみこと), 次に大郎皇子(おおいらつこのみこ), 次に出雲皇女(いずものひめみこ), 次に神前皇女(かむさきのひめみこ), 次に茨田皇女(まむたのひめみこ), 次に馬来目皇女(うまくめのひめみこ), 次に荳角皇女(ささげのひめみこ)[伊勢大神斎祠(いせのおおかみのいわいまつる)], 次に茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ), 次に白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ), 次に小野稚娘皇女(おのわかいらつめのひめみこ), 次に大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ), 次に椀子皇子(まりこのみこ)[三国公(みくにのきみ)の先祖], 次に耳皇子(みみのみこ), 次に赤姫皇女(あかひめのひめみこ), 次に稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ), 次に圓姫皇女(つぶらひめのひめみこ), 次に厚皇子(あつのみこ), 次に菟皇子(うさぎのみこ)[酒人公(さかひとのきみ)の先祖], 次に中皇子(なかのみこ)[坂田公(さかたのきみ)の先祖]


(3-3)先代旧事本紀 巻第十 国造本紀 伊吉島造(壱岐国造)


伊吉島造(いきのしまのみやつこ)

 磐余玉穂の帝[継体天皇]の御世に石井(いわい)に従う者と新羅の海人を討ち、天津水凝(あまつみずこり)の後、上毛布直(かみつけふのあたい)を造とする。


(4)ウエツフミ


 (引用:Wikipedia)

『上記』(うえつふみ)は、いわゆる古史古伝と呼ばれる文書の一つであり、一般に偽書とされる。ウガヤフキアエズ王朝を含む古代日本の「歴史」などが豊国文字で書かれている。 

 

) 概要

  1837年(天保8年)豊後国(現在の大分県)で発見された。『上紀』『上津文』『上つ文』『ウエツフミ』とも書き、『大友文献』『大友文書』などともいう。神代文字の一種である豊国文字で記されている。

 

 『上記』の序文には、1223年(貞応2年)に源頼朝の落胤とも伝えられている豊後国守護の大友能直が、『新はりの記』『高千穂宮司家文』等の古文書をもとに編纂したとあるが、一般に史実とはみなされていない。

 

  内容は、ウガヤフキアエズ王朝に始まる神武天皇以前の歴史や、天文学、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術、民話、民俗等についての記事を含む博物誌的なものである。

 

 例えば『上記』によると、神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代であり、中国に農業や文字を伝えたのは日本であり、日本では精密な独自の太陽暦があったことなどが記されている。 

 

2)写本

  現存する『上記』の写本には、宗像本系大友本系との2つの系列がある。 

 

 宗像本とは、豊後国大野郡土師村(現在の大分県豊後大野市大野地区)の宗像家に伝えられていた古文書を、国学者幸松葉枝尺(さちまつ はえさか)が筆写したものである。

 

  大友本とは、豊後国海部郡臼杵福良村(現在の大分県臼杵市福良)旧家大友家に伝わっていた写本である。

 

2.1)宗像本系

  19世紀初頭、宗像神社の宮司の一族を称する大野郡土師村の庄屋宗像良蔵が、「神のふみ」として伝わる特殊仮名で書かれた古文書の鑑定を、岡藩を訪れていた京都吉田神学館の玉田永教に依頼したが、偽書と断じられた。

 

  良蔵の死後の1831年(天保2年)に、この古文書は府内の国学者・幸松葉枝尺の手に渡り、解読が進められた。幸松は、1848年(嘉永元年)に文字を普通仮名に改めた写本を完成するとともに、1872年(明治5年)には原書の特殊仮名のままの写本を完成させた(宗像本)。良蔵の妻の実家に保管されていた原本は、1873年(明治6年)に洪水で流され消失した。宗像本は、現在橋爪家に所蔵されているため、橋爪本とも呼ばれる。

 

 1935年(昭和10年)に、神代文化研究会から刊行された『上記』は、野津町の安藤一馬が「宗像本」を書写した「安藤本」を底本とするものである。

 

2.2)大友本系

   1873年(明治6年)に、『上記』の写本が臼杵の旧家大友家に秘蔵されていることが分かり(大友本)、旧臼杵藩の国学者春藤倚松が1875年(明治8年)に大友本の臨写(底本に用紙を重ね書写すること)を完成させた(春藤本)。大友本は現在大分県立図書館に保存されている。また、春藤本は2006年(平成18年)臼杵市に寄贈され、臼杵市登録文化財に登録されている (※1)

(※1) 臼杵市登録有形文化財

 

3) 研究

  1874年(明治7年)、幸松は写本の複写本1部を大分県令を通じて明治政府に献本。教部省の意向で根本真苗・吉良義風が共同で『上記』の翻訳作業を行い、1875年(明治8年)『上記』及び『上記直訳』41冊を発表すると、続けざまに、井上頼圀が『上津文辨義』、後藤碩田が『上記考』を発表した。田近陽一郎が『高千穂古文字伝』1876年(明治9年)を著し、吉良義風は1877年(明治10年)に『上記直訳』を基に『上記鈔訳』を著している。

 

 教部省主導ということからも伺えるように軍人や政治家の国粋主義宣伝の材料にされてしまい、また原本が学会ではまったく認知されていない神代文字で書かれていたことから、一般の学会ではほとんど無視された。

 

 また、内務省も幸松の献本を筆写し、『うへ津婦美』41冊を完成させた。このうち3冊は別に筆写され『上記副本』として残された。『上記』、『うへ津婦美(上つ文)』、『上記直訳』及び『上記鈔訳』は、内閣文庫に保管された後、中央省庁再編に伴い国立公文書館に移管され、現在は同館で公開されている。また『上記鈔訳』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧する事も可能である。 

 

4)三角寛とサンカ伝承との関係

  『上記』サンカの伝承との関係がしばしば指摘され、時にはサンカ伝承の盗作であると言われることもある。

 

  その理由は『上記』で使われている豊国文字がサンカ文字とよく似ていることと、下総国のサンカの伝承に「大友能直がサンカを1600人も殺し、昔から伝わっていた書物を奪った」というものがあることによる。ただし、この伝承もサンカ文字もともに三角寛以外に紹介した者がおらず、学術的な検証はできていない。

 

 また、三角寛は『上記』の発見場所と同じ大分県出身であり、『上記』には三角寛だけが紹介したサンカ文字とよく似ている文字が使用されている(※2)。加えて、三角は薬草について造詣が深かったといわれているが、三角が紹介している薬草は『上記』に登場する薬草とかなりの部分で一致するなど、三角一人を介して『上記』とサンカが結合する構造になっている。

(※2)サンカ文学と『上記』『源泉の思考: 谷川健一対談集』冨山房インターナショナル, 2008 

 

5)多元史観の影響

  多元的古代史観を提唱する者の中には、『上記』の研究をする者が少なくない。古田武彦と小松左京の間で述べられたのがきっかけである。 

 

●参考Webサイト  

※「ウエツフミ」の理解の参考となるWebサイト:『ウガヤフキアエズ王朝実在論』 


(5)ホツマツタエ


(引用:Wikipedia)

 『ホツマツタヱ』は、「ヲシテ」なる「文字」(いわゆる「神代文字」の一つである)を使っているいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。学会、学界、学者からは偽書とされ、一般的にも学会同様に認識されている一方で、『古事記』『日本書紀』の原書であると根強く考える者も一部に存在する。

 

 五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)・10700行余で構成された、肯定派の研究者によれば記紀の「原書」であるという、いわゆる「古史古伝」のひとつである。

 

 その成立時期は、記紀との内容比較から『古事記』『日本書紀』よりも古いという主張もあるが、写本の出現時期などからは少なく見積もった場合、江戸時代中期までしか遡れない。『春日山紀』(安永8年、1779)の存在による。『春日山紀』は、江戸時代当時の木版活版での印刷出版物である。岩波書店版『国書総目録』に記載あり)。 

 

1) 概要

  『ホツマツタヱ』の成立時期は不詳であるが、安永8年版と安永9年版の二種類の版本が『春日山紀』にある。『春日山紀』には、『ホツマツタヱ』の40アヤの各所からの引用文がヲシテ文字の原文で縦横に掲載されている。

 

 文献全体の包括的な史料批判は、池田満によって『定本ホツマツタヱ』(展望社)が上梓されて、『古事記』『日本書紀』との原文内容比較がなされている。

 

 また、『日本書紀』『古事記』との、内容比較においてどう判断してゆくかは、『ホツマツタヱを読み解く』(池田満、展望社)によって公表されている。また、『ホツマツタヱ』などの内容についての総合的な解説は『ホツマ辞典』(池田満、展望社)によって、年表や、系図も付録されて詳しく公表されている。

 

 『ホツマツタヱ』には、複数の写本が現存している。幾つかの写本では「ホツマツタへ」「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」「秀真政伝紀」とも表記されている。

 『ホツマツタヱ』と同様の文字による古文書である『ミカサフミ』(「三笠紀」)『フトマニ』(「太占」)も発見されている。

 

 この3書に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。更に『よみがえる日本語-ことばのみなもと「ヲシテ」』(池田 満・青木 純雄・平岡 憲人 明治書院)『よみがえる日本語II-助詞のみなもと「ヲシテ」』(池田 満・青木 純雄・斯波 克幸)の出版を受けて、さらにその勢いは増しつつある。

 

  諸写本の微妙な文字の違いの校異の表記、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カクのフミ(フトマニなど)』の総合的な研究とその本来のあるべき姿への復権が進められつつある。 

 

2)ホツマツタエの文字と類似文献

  ヲシテ(ホツマ文字)は1音1字の文字である。母音要素(母態)子音要素(父相)の組み合わせで成り立っている。48文字基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。文字について詳しくは、『ヲシテ』を参照のこと。

 

  同時代のヲシテ(ホツマ文字)で書かれた文献には、伊勢神宮初代の神臣(クニナツ)オオカシマ命が記した『ミカサフミ』、アマテルカミ(記紀にいう、天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』などが発見されている。 

 

3)ホツマツタエの意味

3.1従来説 (和仁估安聡説)

  漢訳すると『秀真』となる。『ツタヱ』は『伝え・言い伝え』であり、『ホツマツタヱ』は、『まことの中のまことの言い伝え (真の中の真の言い伝え) 』の意味である。『正式の伝記・正式の歴史書・正史』という意味となる。

 

3.2)新説 (ヲシテ言語学説)

  『ホ』はそれぞれの名家に伝承されていた文書を示すとすし、あえて漢訳するとしたら『文』が適切であるとする。『ツ』は名家に伝承されていた複数の文書を集めるイメージになっており、あえて漢訳するとしたら『集』が適切であるとする。『マ』は集めた文書を平たく受止めたうえで、一つの筋に纏めて次に進めるというイメージになっている。現代語でいうと『編集』である。あえて漢訳すれば、『纏』が適切であるとする。

 

 いくつもの名家に伝わった文書を集めて、編集して、一つの文書に結実させてゆくプロセス。そのプロセスを『ホツマ』と命名しているとし、『ホツマツタヱ』はこうしたプロセスを経て纏められた文書群を後世に伝えたものであるとする。あえて漢訳すると、『文集纏伝』となる。この説はヲシテ文字の形に込められている意味やイメージを研究した結果導き出されたものであるとされる。 

 

4)ホツマツタエの内容

 

あわうた

(小笠原長弘写本ハツアヤより)。

全編がこのようなヲシテによる長歌で記述される。ヲシテの右にあるのは、伝承中に付加されたふりがな。

 

 『ホツマツタヱ』は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして初代人皇のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のヲシロワケ(景行天皇)の56年までを記述している。

 

 1アヤから28アヤまでが前編「クシミカタマ」の編集、29アヤから40アヤは後編「オホタタネコ」(大田田根子)の編著による。

 

  皇室の祖先が8代アマカミアマテルカミ(天照大神)初代アマカミクニトコタチまで遡る。

 

 『ホツマツタヱ』では、上記の歴史の他、ワカウタ(和歌)の成立、アワ歌という48音の基本音を表すウタおよび「縄文哲学」の詳しい記述、皇室の成立と歴史、結婚の法、イミナの意味、ミソキの方法、正しい食事の法、マクラ言葉(枕詞)の意味、刑罰の法、国の乱れの原因、国の意味、統治理念、ヲシテという文字のなりたち、ミクサタカラ(三種の神器)(タマ・カカミ・ツルキ)の成立と意味、トノヲシテと呼ばれる当時の憲法、国号の変遷、乗馬の法、各地の馬の品種、トリヰ(鳥居)の意味、自然神の祭祀、大宇宙とヒトの関係、暦の法、ヤマトウチ(神武東遷)の背景、天皇即位の儀式の変遷、ツツウタの意味、葬儀の法などが述べられている。

 

 また、歴代の天皇のイミナ(実名)と陵墓、伊勢神宮他主要な神社の創建のいわれ、ヤマトコトハ(大和言葉)の語源なども述べられている。

 

 真書であれば、日本の国の創建と古代日本の文明を明らかにする書物ということになるが、その根拠は乏しい。真書としての根拠の提示に、池田満は、『定本ホツマツタヱ』(松本善之助 監修、池田満 著、展望社)、および、『ホツマツタヱを読み解く』(池田満 著、展望社)『ホツマ辞典』(池田満、展望社)などを出版して世に問うている。

 

 「縄文哲学」の言葉は、池田満の命名による。また大田田根子命は崇神天皇と同世代の人物であり、景行天皇までの歴史を編纂したという内容には矛盾がある。

 

5)完本として公開されている写本

 5.1)和仁估安聡本(やすとし本)

・40アヤの全巻あり

滋賀県高島市、藤樹記念館にて保管 ・漢訳文付本 ・写本自序;安永4年(1775)

・1992年発見

 

★『和仁估安聡本ホツマツタヱ』(わにこやすとしほん ほつまつたえ)として印影版が市販された。

 現在につたわり公開されている写本すべての親本。

 21アヤがカタカナ表記。28-41(4行)カタカナ表記

 

5.2)小笠原長弘本(ながひろ本)

・40アヤの全巻あり

・宇和島市、小笠原家所蔵 ・写本時代、明治33年頃/1900頃 

・1967年発見

 

★『覆刻版ホツマツタへ』として市販された。抜け行の多い写本。特殊ヲシテ表記が少ない。

・古い濁音表記が少ない。数詞ヲシテ(数詞ハネ)の表記が少ない。

・13アヤで8行、16アヤで8行の抜け個所あり。

 

5.3)小笠原長武本(ながたけ本)

・40アヤの全巻あり

・16アヤまで:池田満保管 、17~40アヤ:宇和島市、小笠原家所蔵 

・写本時代、明治期;1868〜1921

 

★数詞ヲシテの表記が多い。13アヤで8行の抜け個所あり。

 

5.4)内閣文庫所蔵本(小笠原長武写本)

・40アヤの全巻あり

・国立公文書館、所蔵 ・写本時代、明治期;1868〜1921 ・国立公文書館で閲覧できる。

★小笠原長武本と同等。数詞ヲシテの表記が多い。13アヤで8行の抜け個所あり。

 

6)目録

・和仁估安聡本(やすとし本)

・ホツマツタヱの目録「ヲシテをカナに直したもの(と漢訳文)

・古い時代の、ヲシテ文献の成立時代には、アヤの番号での呼び名は「ふそむのあやに」(ホ0-18)の用例がある事から、アヤ番号は用いられていた事が判る。

 だが、「アのヒマキ」などの区分は、ヲシテ時代においておこなわれていたのかどうかは、根拠がない。

 

6.1)アのヒマキ(天の巻)

・コトノベのアヤ(序)

・キツのナとホムシさるアヤ(1.東西の名と穂虫去るアヤ)

・アメナナヨトコミキのアヤ(2.天七代、床御酒のアヤ)

・ヒヒメミオうむトノのアヤ(3.一姫三男生む殿のアヤ)

・ヒノカミのミズミナのアヤ(4.日の神の瑞御名のアヤ)

・ワカのマクラコトハのアヤ(5.和歌の枕言葉のアヤ)

 

・ヒノカミソフキサキのアヤ(6.日の神十二后のアヤ)

・ノコシフミサガをたつアヤ(7.遺し文サガお絶つアヤ)

・タマがえしハタレうつアヤ(8.魂返しハタレ撃つアヤ)

・ヤクモウチコトつくるアヤ(9.ヤクモ撃ち琴つくるアヤ)

・カシマたちツリタイのアヤ(10.鹿島断ちツリタイのアヤ)

 

・ミクサゆつりみうけのアヤ(11.三種神器譲り、御受けのアヤ)

・アキツヒメアマカツのアヤ(12.アキツ姫、天が児のアヤ)

・ワカヒコイセススカのアヤ(13.ワカ彦、伊勢、鈴鹿のアヤ)

・ヨツギのるノトコトのアヤ(14.世継ぎ告る祝詞のアヤ)

・ミケヨロツなりそめのアヤ(15.御食、万、生成のアヤ)

・はらみつつしむヲビのアヤ(16.胎み慎しむ帯のアヤ)

 

6.2)ワのヒマキ(地の巻)

・カンカガミヤタのナのアヤ(17.神鏡八咫の名のアヤ)

・ヲノコロとまじなふのアヤ(18.オノコロとまじなふのアヤ)

・ノリノリヒトヌキマのアヤ(19.ノリノリヒトヌキマのアヤ)

 

・スメミマゴトクサゑるアヤ(20.皇御孫十種神宝得るアヤ)

・ニハリミヤノリさたむアヤ(21.宮造り法の制定のアヤ)

・ヲキツヒコヒミツのハラヒ(22.オキツヒコ火水のアヤ)

 

・ミハさためツルキナのアヤ(23.御衣定め剱名のアヤ)

・コヱクニハラミヤマのアヤ(24.コヱ国ハラミ山のアヤ)

・ヒコミコトチをゑるのアヤ(25.ヒコ命鉤を得るのアヤ)

 

・ウカヤアヲイカツラのアヤ(26.ウガヤ葵桂のアヤ)

・ミオヤカミフナタマのアヤ(27.御祖神船魂のアヤ)

・キミトミノコシノリのアヤ(28.君臣遺し法のアヤ)

 

6.3)ヤのヒマキ(人の巻)

・タケヒトヤマトうちのアヤ(29.神武大和討ちのアヤ)

・アマキミミヤコトリのアヤ(30.天君、都鳥のアヤ)

・ナヲリカミミワカミのアヤ(31.ナオリ神ミワ神のアヤ)

 

・フジとアワウミミズのアヤ(32.富士と淡海瑞のアヤ)

・カミあがめヱヤミたすアヤ(33.神崇め疫病治すアヤ)

・ミマキのミヨミマナのアヤ(34.ミマキの御世任那のアヤ)

 

・ヒボコきたるスマイのアヤ(35.ヒボコ来る角力のアヤ)

・ヤマトヒメカミしつむアヤ(36.ヤマト姫、神鎮むアヤ)

・トリあわせタチバナのアヤ(37.鶏合せ、橘のアヤ)

 

・ヒシロノヨクマソうつアヤ(38.ヒシロの世、クマソ撃つアヤ)

・ホツマうちツズウタのアヤ(39.ホツマ撃ち、つず歌のアヤ)

・アツタカミヨをいなむアヤ(40.アツタ神、世をいなむアヤ) 

 

〇「ホツマツタエ」のWebサイト紹介

  このWebサイトは、日本翻訳センターが「ホツマツタエ」の現代語訳と英訳、仏訳を紹介するページです。「ホツマツタエ」を理解するのに適していると思いますので、リンクを張ることにします。

 ※「ホツマツタエ」のホームページ目次  


(6)松野連系図


(引用:参考Webサイト)

〇 松野連系譜(姫姓)

 日本の古代豪族。『中興系図』によると呉王夫差の後裔。夫差の子・が日本に渡って帰化人となり、筑紫国に至って、肥後国菊池郡に住んだという。

 

 さらにその子孫・松野連(まつの むらじ)が、筑紫国夜須郡松野に住して、姫姓から松野姓に変えたのが始まりという伝承がある。北部九州に同氏を祖とする氏族の家系が複数存在する。

 

 この系図には、『魏志』倭人伝に出てくる卑弥呼や『宋書』に出てくる倭の五王と解釈される人物が含まれているとされている。

 

 

(出典:久留米地名研究会「淀姫」) 

〇参考Webサイト

●おとくに松野連氏考

●ひもろぎ逍遥松野連系図と符合した日本武尊の戦い


3 古事記


(1)古事記(要旨)


(引用:Wikipedia)

 古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、一般に現存する日本最古の歴史書であるとされる。その序によれば、和銅5年(712年)太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。上・中・下の3巻。内容は天地開闢 (日本神話)から推古天皇の記事を記述する。

 

 8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近現代においては記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある。

 

 六国史のうち和銅5年を含む『続日本紀』に『古事記』への言及がないことなどから、『古事記』の成立時期・過程については、序が語る通りではないとする疑問も呈されている。  

 

1)概要

  『古事記』の原本は現存せず、幾つかの写本が伝わる。成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めと推定される。内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載される。また、数多くの歌謡を含む。なお、『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である。

 

 『古事記』は『日本書紀』とともに後世では「記紀」と総称される。内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、

 

(原文)「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」

 

(訓読文)「帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」

と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。

 

 史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。 ただし、あくまでも神話の世界の話であることや日本における皇室の正統性を想起させる内容であることから、近現代においてはイデオロギーのための議論のもととして利用されることもあったが、『古事記』に記述されていることが真実であっても、脚色を含んだものであったとしても、原典をあたる手段もないので証明の手立てがないと言わざるを得ない。

 

  また『日本書紀』における『続日本紀』のような『古事記』の存在を直接証明する物証もなく、稗田阿礼の実在性の低さ、序文の不自然さからも『古事記』偽書説(後述)も唱えられている。

 

 『古事記』は歴史書であるとともに文学的な価値も非常に高く評価され、また日本神話を伝える神典の一つとして、神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。『古事記』に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている。

 

 一方文化的な側面は『日本書紀』よりも強く、創作物や伝承等で度々引用されるなど、世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。

 

2)編纂の経緯

  中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)(いっしのへん、おっしのへん)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。

 

 天智天皇は白村江の戦いで唐・新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。その時点で既に諸家の『帝紀』『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。

 

 壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼『帝紀』『本辭』(『旧辞』)などの文献を「誦習」させた。

  その後、元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し、『古事記』を完成させた。 

 

3)成立

  成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって、「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。

 

4)書名

 書名は『古事記』とされているが、作成当時においては古い書物を示す一般名詞であったことから、正式名ではないといわれる。また、書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのかは定かではない。読みは「フルコトブミ」との説もあったが、現在は一般に音読みで「コジキ」と呼ばれる。 

 

5)帝紀と旧辞

 『古事記』は『帝紀』的部分『旧辞』的部分とから成る。

 

 『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名、治世年数、崩年干支・寿命、陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

 

 『旧辞』は、宮廷内の物語皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

 

 なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝記』『旧辞』改訂・編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している。 

 

6)表記

  本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡は全て一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣の研究対象となっている。

 

 また一字一音表記のうち、一部の神名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している。

 

7)歌謡

 『古事記』は物語中心に書かれているが、それだけでなく多くの歌謡も挿入されている。これらの歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。

 

 有名な歌として、須佐之男命が櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。 

 

8)構成

 上つ巻(序・神話)中つ巻(初代から十五代天皇まで) ・下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の3巻より成っている。

 

9)写本

 現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統」「卜部本系統」に分かれる。

 

●伊勢本系統

 現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の南朝(建徳2年)/北朝(応安4年:1371年)から翌、南朝(文中元年)/北朝(応安5年:1372年)にかけて真福寺の僧・賢瑜によって写された真福寺本『古事記』三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。南朝(弘和元年)/北朝(永徳元年:1381年・写)、道祥本(上巻のみ。応永31年:1424年・写)、春瑜本(上巻のみ。応永33年:1426年・写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。

 

●卜部本系統

 伊勢本系統を除く写本は全て卜部本系統に属する。祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町時代後期写)である。 

 

10)受容・研究史

 ・朝廷では平安時代、『日本書紀』について大学寮の学者が公卿に解説する日本紀講筵(日本紀講、講書)が行われ、『古事記』は参考文献として使われた。古語を伝える書として重視されることもあれば、矢田部公望のように編年体でないことで低く評価したうえで『先代旧事本紀』の方がより古い史書であると主張する講師もいた。

 

・鎌倉時代には、朝廷でも披見できる人が少ない秘本扱いで、特に中巻は近衛家伝来の書を収めた鴨院御文庫にしかないと言われていた。そうした中、弘長3年(1263年)に右近衛大将藤原通雅が「不慮」に中巻を手に入れた。神祇官の卜部兼文(卜部兼方の父)は文永5年(1268年)に通雅から、文永10年(1273年)には鷹司兼平から中巻を借りて書写した。

 

・弘安4年(1281年)には藤原氏一条家が卜部家から借りた『古事記』を書写して自家伝来本と校合し、翌年さらに伊勢神宮祭主の大中臣定世が一条家から借りて書写した。孫の大中臣親忠が伊勢神宮外宮禰宜の度会家行(伊勢神道の大成者)に貸して写本が2部つくられた。これが、伊勢神宮と密接な関わりがあった真福寺に伝わる『古事記』最古の写本の元になったと推測される。渡会家行は自著『類聚神祇本源』に『古事記』を引用した。

 

・室町時代後期の神道家・吉田兼倶も、『日本書紀』を最上としつつも、『先代旧事本紀』と『古事記』を「三部の本書」と呼んで重視した。

 

・江戸時代初期の寛永21年(1644年)に京都で印刷による刊本『古事記』(いわゆる「寛永古事記」)が出版され、研究が盛んになった。出口延佳が『鼇頭(ごうとう)古事記』を貞享4年(1687年)に刊行したほか、『大日本史』につながる修史事業を始めた徳川光圀(水戸藩主)にも影響を与えた。

 

・江戸時代に隆盛する国学でも重視され、荷田春満は『古事記箚記(さっき)』、賀茂真淵は『古事記頭書(とうしょ)』を著した。そして京都遊学中に寛永版古事記を入手した本居宣長は、賀茂真淵との「松坂の一夜」でも『古事記』の重要性を説かれて本格的な研究に取り組み、全44巻の註釈書『古事記傳』を寛政10年(1798年)に完成させた。これは『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。

 

・第二次世界大戦後は、倉野憲司や武田祐吉、西郷信綱、西宮一民、神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。特に倉野憲司による岩波文庫版は、初版(1963年(昭和38年))刊行以来、重版の通算は約100万部に達している。20世紀後半になり、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。成立論の代表としては津田左右吉や石母田正があり、作品論の代表としては、吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。 

 

11)偽書説

  『古事記』には、近世(江戸時代)以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義、中沢見明、筏勲、松本雅明、大和岩雄、大島隼人、三浦佑之、宝賀寿男らは、『古事記』成立が公の史書に記載がないことや、序文の不自然さなどへ疑問を提示し、偽書説を唱えている。

 

  偽書説には主に二通りあり、序文のみが偽書とする説と、本文も偽書とする説に分かれる。以下に概要を記す。

 

●序文偽書説

・序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において語られる『古事記』の成立事情を証する外部の有力な証拠がないことなどから序文の正当性に疑義を指摘する。また稗田阿礼の実在性が非常に低いことや、編纂の勅命が出された年号の記載がないこと、官位の記載や成立までの記載が杜撰なことから偽書の可能性を指摘している。

 

●本文書説

・本文偽書説では、『古事記』には『日本書紀』より新しい神話の内容や、延喜式に見えない神社が含まれているとして、より時代の下る平安時代初期ころ、または鎌倉時代の成立とみなす。

 

本文偽書説(創作説&加筆説)

 ・この説には後世に序文・本文の「創作」したとする説と、『日本書紀』同様の古い史料に途中途中「加筆」し続けたものとする説がある。

 

また『新撰姓氏録』でも『古事記』本文に登場する系譜伝承が引用されていないなど、その成立に不審な点が多々ある。

 

・この内、本文偽書説の「創作」説は上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。また、真書説を決定付ける確実な証拠も存在しない。上代特殊仮名遣の中でも、『万葉集』『日本書紀』では既に消失している2種類の「モ」の表記上の区別が、『古事記』には残存するからで、このことは少なくとも本文を「創作」とする偽書説を否定する重要な論拠である。

 

・また「偽書」とは著者や執筆時期などの来歴を偽った書物を指し、『古事記』の場合、その来歴の記載がある序文が偽りなら『古事記』全てを偽書とみなすのに問題はない。ただし、これは『古事記』の神話的・史料的の価値を全て否定するものではない。なお序文には上代特殊仮名遣は一切使われていない。

 

●序文偽書説の論拠

 序文偽書説の論拠に、稗田阿礼の実在性が低く、太安萬侶のような姓の記載がないことが国史として不自然であること、官位のない低級身分の人間を舎人として登用したとは考えられないこと、編纂の勅令が下された年の記載がないこと、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」と異なる表記になっていることがあった。

 

●太安万侶の墓誌銘 &木簡

 ところが、1979年(昭和54年)1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに(原文)「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。

 

しかし、偽書説においては太安萬侶の表記の異同が問題ではなく、安萬侶自身が『古事記』編纂に関与したことが何ら証明されていないことが問題とされる。

 

・また、平城京跡から出土した、太安万侶の墓誌銘を含む木簡の解析により、『古事記』成立当時には、既に『古事記』で使用される書き言葉は一般的に使用されていたと判明した。

 

 それにより序文中の(読み下し文)「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。」は序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で書いたのではないかと指摘されている。


(2)古事記(内容)


(引用:Wikipedia) 

1)目次

〇序

 古伝承とその意義 ・天武天皇と『古事記』の企画 ・太安万侶の『古事記』撰録

 

〇上巻

*天地開闢 天地(あめつち)の創成、天地の初め

 

*特別な天つ神と神世七代

 

*伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)

・オノゴロ島・二神の結婚・二神の国生み・二神の神生み・火神迦具土神・黄泉の国・禊祓と三貴子

 

*天照大神と須佐之男命(すさのおのみこと)

・天照大神と須佐之男命の誓約・須佐之男命の神逐・天岩戸・大気都比売神・八岐大蛇・須佐之男命の神裔

 

*大国主神(おおくにぬしのかみ)

・因幡の白兎・八十神の迫害・根の国訪問・八千矛神の妻問い物語・大国主神の神裔

・少名毘古那神と御諸山の神 大年神の神裔

 

*葦原中国平定

・天菩比神と天若日子・阿遅志貴高日子根神 

 

*建御雷神と事代主神と建御名方神

・大国主の国譲り

 

*邇邇芸命(ににぎのみこと)

 

*火遠理命(ほおりのみこと)

・海幸彦と山幸彦・海神宮訪問・火照命の服従・鵜葦草不合命の誕生

 

〇中巻

*神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)神武天皇

・神武東征・布都御魂と八咫烏・五瀬命・熊野より大和へ・久米歌・伊須気余理比売・当芸志美美命の反逆

 

*神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと)綏靖天皇

 

*師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)安寧天皇

 

*大倭日子鍬友命(おおやまとひこすきとものみこと)懿徳天皇

 

*御真津日子可恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)孝昭天皇

 

*大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)孝安天皇

 

*大倭根子日子賦斗迩命(おおやまとねこひこふとにのみこと)孝霊天皇

 

*大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)孝元天皇

 

*若倭根子日子毘々命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)開化天皇

 

*御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)崇神天皇

・后妃と御子・三輪山の大物主神・建波邇安王の反逆・初国知らしし天皇

 

*伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)垂仁天皇

・后妃と御子・沙本毘古と沙本毘売・本牟田智和気王・円野比売・時じくの香の木の実

 

*大帯日子於斯呂和気天皇(おおたらしひこおおしろわけのすめらみこと)景行天皇

后妃と御子・倭建命の熊襲征伐・出雲建討伐・倭建命の東国征討・美夜受比売・思国歌・八尋白智鳥 ・倭建命の子孫

 

*若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)成務天皇

 

*帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇

・后妃と御子・神功皇后の神がかり・皇后の新羅遠征・香坂王と忍熊王の反逆・気比大神・酒楽の歌 

 

*品陀和気命(はんだわけのみこと)応神天皇 

・后妃と御子・大山守命と大雀命・矢河枝比売・長髪比売・国栖の歌・百済の朝貢

・大山守命の反逆・天之日矛の渡来・秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫・天皇の子孫

 

〇下巻

*大雀命(おおさざきのみこと)仁徳天皇

・后妃と御子・吉備の黒日売・八田若郎女と石之日売・速総別王と女鳥王・雁の卵・枯野という船

 

*伊邪本若気王(いざほわけのみこ)履中天皇

・墨江中王の反逆・水歯別王と曾婆可理

 

*水歯別命(みずはわけのみこと)反正天皇

 

*男浅津間若子宿迩王(おさつまわくごのすくねのみこ)允恭天皇

・后妃と御子・氏姓の制定・軽太子と軽大郎女

 

*穴穂御子(あなほのみこ)安康天皇

・大日下王と根臣・目弱王の変・眉輪王の変・市辺之忍歯王

 

*大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)雄略天皇

・后妃と御子・若日下部王・赤猪子・吉野宮・葛城の一言主大神・袁努比売・三重の采女

 

*白髪大倭根子命(しらかのおおやまと)清寧天皇

・志自牟の新室楽・歌垣

 

*石巣別命(いわすわけのみこと)顕宗天皇

・置目老女 ・御陵の土

 

*意富迩王(おおけのみこ)仁賢天皇

 

*小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと)武烈天皇

 

*袁本矛命(おほどのみこと)継体天皇

 

*広国押建金日王(ひろくにおしたけかなひのみこ)安閑天皇

 

*建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)宣化天皇

 

*天国押波琉岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこ)欽明天皇

 

*沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)敏達天皇

 

*橘豊日王(たちばなのとよひのみこ)用明天皇

 

*長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)崇峻天皇

 

*豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)推古天皇  

 

2)本文の概要

2.1)序を併せたり 撰者である太朝臣安万侶が天子に奏上する形式に倣った序文である。

● 序第1段  稽古照今(古を稽へて、今に照らす)

 ここでは『古事記』の内容の要点を天地開闢から挙げ、さらに、それぞれの御代の事跡は異なるが政治についての記載にはほぼ誤りはなかったと述べている。

 

(原文)臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形

 

(読み下し)臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ。

 

(原文)雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典敎於欲絶 

 

(読み下し)…歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、文質同じくあらずと雖も、古を稽(かむが)へて風猷を既に頽れたるに縄(ただ)し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふことなし。

 

● 序第2段  『古事記』撰録の発端

  ここでは、まず、天武天皇の事跡を厳かに述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して、『帝記』『旧辞』を誦習させたが、結局文章に残せなかった経緯を記している。

 

(原文)於是天皇詔之 朕聞諸家之所齎 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭

 

(読み下し)…ここに天皇(天武)(の)りたまひしく「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたらす帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。時に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき。

 

●序第3段 『古事記』の成立

  ここでは、元明天皇の世となって、詔により安万侶が稗田阿禮の誦習を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。経緯では言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。

 

(原文)於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難

 

(読み下し)…ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。

 

(原文)大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首 和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶

 

(読み下し)…大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。故、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、品蛇御世(ほむだのみよ)以前を中巻となし、大雀皇帝(おほさぎのみかど)以下、小治田大宮(をはりだのおほみや)以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。 

 

2.2)上巻(かみつまき)

●概要

 天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫降臨を経てイワレヒコ(神武天皇)の誕生までを記す。いわゆる「日本神話」である。

 

 天地開闢の後に七代の神が交代し、その最後にイザナギイザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで、山の神、海の神など様々な神を産んだ。

 

 こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまい、出雲国と伯耆国の堺にある比婆山(現・島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わる。

 

 イザナギは黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗ったときに天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗ったときに月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗ったときに須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。その後、最初に生んだ淡路島の幽宮で過ごした。これら三神は三貴子と呼ばれ、神々の中で重要な位置を占めるのだが、月読命に関してはその誕生後の記述が一切ない。

 

 スサノオノミコトは乱暴者なため、姉のアマテラスに反逆を疑われる。そこで、アマテラスとスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約(うけい)を行い五男三女神が誕生する。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って暴れてしまい、そのためアマテラスは天岩屋戸に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で外に出すことに成功する。一方、スサノオノミコトは神々の審判により高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。

 

 ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなってヤマタノオロチ退治を行なう。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神が登場する。大国主の稲羽の素兎(因幡の白兎)や求婚と受難の話が続き(大国主の神話)、スクナヒコナとともに国作りを進めたことが記される。

 

 国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。子の建御名方神は、承諾せず抵抗するが、後に受諾する。

 

 葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂に降臨させる。次に、ニニギの子供の山幸彦海幸彦の説話となり、浦島太郎のルーツともいわれる海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、孫の神武天皇が誕生して上巻は終わる。

 

●上巻に出てくる主な神々

★別天(ことあま)つ神五柱(いつはしら)独神(ひとりがみ)

・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 独神、天原の中心の神

・高御産巣日神(たかみむすび) - 独神、生成力の神格化、天津神の守護

・神産巣日神(かみむすび) - 独神、生成力の神格化、国津神の守護

・宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢ) - 独神

・天之常立神(あめのとこたちのかみ) - 独神

 

★神世七代(かみよななよ)

・国之常立神(くにのとこたち) - 独神、国土の根源神

・豐雲野神(とよくもの) - 独神

・宇比地邇神(うひぢに)・妹須比智邇神(すひぢに)

・角杙神(つのぐひ)・妹活杙神(いくぐひ)

・意富斗能地神(おほとのぢ)・妹大斗乃辨神(おほとのべ)

・於母蛇流神(おもだる)・妹阿夜詞志古泥神(あやかしこね)

・伊邪那岐神・伊邪那美神 - 男女の神、夫婦・兄妹

 

★三貴子(みはしらのうずのみこ)

・天照大御神 - イザナギが左の目を洗ったとき生まれた。

・月読命(つくよみのみこと) - イザナギが右の目を洗ったとき生まれた。

・須佐之男命 - イザナギが鼻を洗ったとき生まれた。

 

・宗像三女神 - 天照大御神と須佐之男命の誓約で生まれた三女神。

・天之忍穂耳命 - 天照大御神と須佐之男命の誓約で生まれた五男神の一柱。

・大国主神 - 須佐之男命の六代経た孫で娘婿、因幡の白兎神話、国造の後に天孫に国を譲る。

 

・邇邇芸命 - 天照大御神の孫、天孫降臨

・火遠理命 - 邇邇芸命の子、海幸山幸神話

・鵜葺草葺不合命 

 

2.3) 中巻(なかつまき)

  初代神武天皇から15代応神天皇までを記す。2代から9代までは欠史八代と呼ばれ、系譜などの記述のみで、説話などは記載がない。そのため、この八代は後世に追加された架空の存在であるという説があるが、実在説も存在する。

 

 なお、神武東征に始まり、ヤマトタケルや神功皇后について記す。「神武天皇」などの各天皇の漢風諡号は『古事記』編纂当時は定められていないため、国風諡号のみで記されている。各天皇陵の現在の比定地については「天皇陵#一覧」も参照。

 

●中巻に出てくる主な人物

★ 1代神武天皇

 神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)、畝火の白檮原宮(かしはらのみや)(奈良県畝傍山東南の地)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき。一百三十七歳で没。御陵(みはか)は畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり(奈良県橿原市)

 

 2代綏靖天皇

 神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)、葛城の高岡宮(奈良県御所市)に坐してまして、天の下治らしめしき。四十五歳で没。御陵は衝田(つきだの)岡にあり(奈良県橿原市)

 

 3代安寧天皇

 師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみのみこと)、片鹽の浮穴宮(奈良県大和高田市)に坐してまして、天の下治らしめしき。四十九歳で没。御陵は畝傍山の御陰(みほと)にあり(奈良県橿原市)

 

 4代懿徳天皇

 大倭日子鉏友命(おほやまとひこすきとものみこと)、軽の境岡宮(奈良県橿原市)に坐してまして、天の下治らしめしき。四十五歳で没。御陵は畝傍山の真名子(まなご)谷の上にあり(奈良県橿原市)

 

 5代孝昭天皇

 御眞津日子訶惠志泥命(みまつひこかゑしねのみこと)、葛城の掖上宮(奈良県御所市)に坐してまして、天の下治らしめしき。九十三歳で没。御陵は掖上(わきがみ)の博多(はかた)山の上にあり(奈良県御所市)

 

 6代孝安天皇

 大倭帯日子國押人命(おほやまとたらしひこくにおしびとのみこと)、葛城の室の秋津島(奈良県御所市)に坐してまして、天の下治らしめしき。一百二十三歳で没。御陵は玉手(たまで)の岡の上にあり(奈良県御所市)

 

 7代孝霊天皇

 大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとこのみこと)、黒田の庵戸宮(廬戸宮)(奈良県田原本町)に坐してまして、天の下治らしめしき。一百六歳で没。御陵は片岡の馬坂の上にあり(奈良県王寺町)

 

 8代孝元天皇

 大倭根子日子國玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのもこと)、軽の境原宮(奈良県橿原市)に坐してまして、天の下治らしめしき。五十七歳で没。御陵は剣池の中の岡の上にあり(奈良県橿原市)

 

 9代開化天皇

 若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)、春日の伊邪河宮(いざかはのみや)(奈良市)に坐してまして、天の下治らしめしき。六十三歳で没。御陵は伊邪(いざ)河の坂の上にあり(奈良市)

 

 10代崇神天皇

 御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)、師木(しき)の水垣宮(みずがきのみや)(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめしき。一百六十八歳で没。戊寅の十二月に崩りましき。御陵は山邊(やまのべ)の道の勾(まがり)の岡の上にあり(奈良県天理市)

 

★11代垂仁天皇

 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、師木の玉垣宮(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめしき。一百五十三歳で没。御陵は菅原の御立野の中にあり(奈良市)

 

 12代景行天皇

 大帯日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)、纏向(まきむく)の日代宮(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめしき。一百三十七歳で没。御陵は山邊の道の上にあり(奈良県天理市)

 

 倭建命(やまとたけるのみこと)

 能煩野(のぼの)(三重県鈴鹿郡)に至りまし、歌ひ竟(を)ふる即ち崩りましき。御陵を作る。ここに八尋白智鳥(やひろしろちどり)に化りて、天に翔りて濱に向きて飛び行でましき。………河内国の志磯(しき)に留まりましき。故、其地に御陵を作りて鎮まり坐さしめき。すなわちその御陵を号けて、白鳥の御陵と謂う。

 

 13代成務天皇

 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)(滋賀県大津市)に坐してまして、天の下治らしめしき。九十五歳で没。乙卯の年の三月十五日に崩りましき。御陵は沙紀の多他那美(たたなみ)にあり(奈良県奈良市)

 

 14代仲哀天皇

 帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、穴門(あなど)(山口県下関市長府)、また筑紫の詞志比宮(かしひのみや)(福岡市香椎)に坐してまして、天の下治らしめしき。九十五歳で没。壬戌の年の六月十一日に崩りましき。御陵は河内の恵賀の長江(ながえ)にあり(大阪府南河内郡)

 

 神功皇后

 息長帯日(比)売命(おきながたらしひめのみこと)。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狭城の楯列の稜に葬りまつりき(奈良市)

 

 15代応神天皇

 品蛇和氣命(ほむだわけのみこと)、軽島の明宮(あきらのみや)(奈良県橿原市)に坐してまして、天の下治らしめしき。一百三十歳で没。甲午の年の九月九日に崩りましき。御陵は川内(かふち)の恵賀の裳伏(もふし)の岡にあり(大阪府南河内郡)。 

 

2.4)下巻しもつまき)

 仁賢天皇から推古天皇までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述ので具体的な著述が少ない。これは、当時においては時代が近く自明のことなので書かれなかったなどといわれる。

 

●下巻に出てくる主な人物

 16代仁徳天皇

 大雀命(おほさざきのみこと)、難波の高津宮に坐(ま)(大阪市)してまして、天の下治(し)らしめしき。八十三歳で没。丁卯の年の八月十五日に崩りましき。御陵は毛受(もず)の耳原(みみはら)にあり(大阪府堺市)

 

 17代履中天皇 

 伊邪本和氣命(いざほわけのみこと)、伊波禮(いはれ)の若櫻宮(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめしき。六十四歳で没。壬申の年の正月三日に崩りましき。御陵は毛受にあり(大阪府堺市)

 

 18代反正天皇 

 水歯別命(みづはわけのみこと)、多治比(たじひ)の柴垣宮に坐してまして、天の下治らしめしき(大阪府南河内郡)。六十歳で没。丁丑の年の七月崩りましき。御陵は毛受野(もずの)にあり。

 

 19代允恭天皇

 男淺津間若子宿禰命(をあさづまわくごのすくねのみこと)、遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)(奈良県明日香村)に坐してまして、天の下治らしめしき。七十八歳で没。甲午の年の正月十五日に崩りましき。御陵は河内の恵賀の長枝(ながえ)にあり(大阪府南河内郡)

 

 20代安康天皇

 穴穂御命(あなほのみこと)、石上(いそのかみ)の穴穂宮(あなほのみや)(奈良県天理市)に坐してまして、天の下治らしめしき。五十六歳で没。御陵は菅原の伏見の岡にあり(奈良市)

 

 21代雄略天皇

 大長谷若健命(おほはつせわかたけのみこと)、長谷(はつせ)の朝倉宮(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめしき。一百二十四歳で没。己巳の年の八月九日に崩りましき。御陵は河内の多治比の高鸇(たかわし)にあり(大阪府南河内郡)

 

 22代清寧天皇

 白髪大倭根子命(しらにのおほやまとねこのみこと)、伊波禮(いはれ)の甕栗宮(みかくりのみや)(奈良県橿原市)に坐してまして、天の下治らしめしき。没年、御年の記載なし。

 

 23代顕宗天皇

 袁祁之石巣別命(をけのいはすわけのみこと)、近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)(大阪府南河内郡)に坐してまして、天の下治らしめすこと八歳なりき。三十八歳で没。御陵は片岡の石坏(いはつき)の岡の上にあり(奈良県香芝市)

 

 24代仁賢天皇

 袁祁命(おけのみこと)、石上の廣高宮(奈良県天理市か)に坐してまして、天の下治らしめしき。没年、御年の記載なし。

 

 25代武烈天皇

 小長谷若雀命(おはつせのわかささのみこと)、長谷の列木宮(なみきのみや)(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめすこと八歳なりき。没年記載なし。御陵は片岡の石坏のおかにあり。

 

 26代継体天皇

 哀本柕(おほとのみこと)、伊波禮の玉穂宮(たまほのみや)(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめしき。四十三歳丁未の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり(大阪府三島郡)

 

 27代安閑天皇

 広国押建金目命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、勾(まがり)の金箸宮(かなはしのみや)(奈良県橿原市)に坐してまして、天の下治らしめしき。乙卯の年の三月十三に崩りましき。御陵は河内の古市(ふるち)の高屋村にあり(大阪府南河内郡)

 

 28代宣化天皇

 建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみことのみこと)、檜垌(ひのくま)の廬入野宮(いほりののみや)(奈良県明日香村)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県明日香村)。没年、御年の記載なし。

 

 29代欽明天皇

 天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、師木島(しきしま)の大宮(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。没年、御年の記載なし。

 

 30代敏達天皇

 沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)、他田宮(をさだのみや)(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめすこと、十四歳なりき。甲辰の年の四月六日に崩りましき。御陵は川内の科長(しなが)にあり(大阪府南河内郡)

 

 31代用明天皇

 橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)、池邊宮(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめすこと、三歳なりき。丁未の年の四月十五日に崩りましき。御陵は石寸(いはれ)の掖上(いけのうえ)にありしを、後に科長の中の稜に遷しき(大阪府南河内郡)

 

 32代崇峻天皇

 長谷部若雀命(はつせべのわかささぎのみこと)、倉橋の柴垣宮(しばかきのみや)(奈良県桜井市)に坐してまして、天の下治らしめおと、四歳なりき。壬子の年の十一月十三日に崩りましき。御陵は倉椅の岡の上にあり(奈良県桜井市)

 

 33代推古天皇

 豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、小治田宮(をわりたのみや)(奈良県明日香村)に坐してまして、天の下治らしめすこと、三十七歳なりき。壬子の年の十一月十三日に崩りましき。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長の大き稜に遷しき(大阪府南河内郡)。 


(3)古事記 下巻 継体天皇紀


                                  (引用:古代史獺祭

 (原文)(継体天皇)

 品太王五世孫 袁本杼命坐伊波禮之玉穗宮 治天下也 天皇 娶三尾君等祖 名若比賣 生御子 大郎子 次出雲郎女【二柱】 又娶尾張連等之祖凡連之妹 目子郎女生御子 廣國押建金日命 次建小廣國押楯命【二柱】 又娶意富祁天皇之御子 手白髮命【是大后也】生御子 天國押波流岐廣庭命【波流岐三字以音 一柱】 又娶息長眞手王之女 麻組郎女生御子 佐佐宜郎女【一柱】 又娶坂田大股王之女 黑比賣 生御子 神前郎女 次茨田郎女 次馬來田郎女【三柱】 股娶茨田連小望之女關比賣生御子茨田大郎女 次白坂活日郎女 次野郎女 亦名長目比賣【三柱】 又娶三尾君加多夫之妹 倭比賣 生御子 大郎女 次丸高王 次耳上王 次赤比賣郎女【四柱】 又娶阿倍之波延比賣 生御子 若屋郎女 次都夫良郎女 次阿豆王【三柱】 此天皇之御子等并十九王【男七 女十二】

 此之中天國押波流岐廣庭命者 治天下 次廣國押建金日命治天下 次建小廣國押楯命治天下 次佐佐宜王者拜伊勢神宮也 此之御世 竺紫君石井不從天皇之命而 多无禮 故遣物部荒甲之大連 大伴之金村連二人而 殺石井也 天皇御年肆拾參歳【丁未年四月九日崩也】 御陵者三嶋之藍御陵也

 

( 読み下し)(継体天皇)

  品太(ほむだ)の王の五世(いつつぎ)の孫(うまご)、袁本杼(をほど)の命、伊波禮(いはれ)の玉穗(たまほ)の宮に坐しまして天の下治しめしき。

  天皇 三尾の君等の祖、名は若比賣を娶りて生みし御子は、大の郎子。 次に出雲の郎女【二柱】。 また尾張の連(むらじ)等の祖、凡(おほし)の連の妹、目の子の郎女を娶りて、生みし御子は、廣國押建金日(ひろくにおしたけかなひ)の命。 次に建小廣國押楯(たけおひろくにおしたて)の命【二柱】。 また意富祁(おほけ)の天皇の御子、手白髮の命【是は大后なり】を娶りて生みし御子は、天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろにわ)の命【波(は)(る)(き)の三字は音を以ちてす。一柱】。 また息長(おきなが)の眞手(まて)の王の女(むすめ)麻組(おくみ)の郎女を娶りて生みし御子は、佐佐宜(ささげ)の郎女【一柱】。 また坂田の大股(おおまた)の王の女(むすめ)黑比賣を娶りて生みし御子は、神前(かむさき)の郎女。 次に茨田(うまらた)の郎女。 次に馬來田(うまぐた)の郎女【三柱】。 また茨田の連、小望(おもち)の女(むすめ)關比賣(せきひめ)を娶りて生みし御子は茨田の大郎女。 次に白坂の活日(いくひ)の郎女。 次に野の郎女、またの名は長目比賣(ながめひめ)【三柱】。 また三尾の君、加多夫(かたぶ)の妹、倭比賣(やまとひめ)を娶りて生みし御子は、大郎女。 次に丸高(まろたか)の王 。 次に耳(みみ)の王。 次に赤比賣の郎女【四柱】。 また阿倍(あべ)波延比賣(はえひめ)娶りて生みし御子は、若屋(わかや)の郎女。 次に都夫良(つぶら)の郎女。 次に阿豆(あづ)の王【三柱】。 此の天皇の御子等は并せて十九(とおあまりここのはしら)の王【男(おとこ)七はしら。女(おみな)十二(とおあまりふた)はしら】

  此の中に天國押波流岐廣庭の命(あめくにおしはるきひろにわ)は天の下治しめしき。 次に廣國押建金日の命(ひろくにおしたけかなひ)、天の下治しめしき。 次に建小廣國押楯の命(たけおひろくにおしたて)、天の下治しめしき。 次に佐佐宜(ささげ)の王は伊勢の神の宮を拜(おろが)みき。

 

  此の御世に竺紫(つくし)の君、石井(いわい)、天皇の命(みことのり)に從わずて、多(さわ)に禮(あや)(な)し。 故、物部(もののべ)の荒甲(あらかい)の大連(おおむらじ)・大伴(おおとも)の金村(かなむら)の連の二人を遣して、石井(いわい)を殺しき。

 

 天皇の御年は肆拾參歳(よそあまりみとせ)【丁未(ひのとひつじ)の年の四月(うづき)九日(ここのか)に崩(かむざ)りき】。 御陵(みささぎ)三嶋(みしま)藍陵(あいのみささぎ)なり。 


4 日本書紀


(1)日本書紀(要旨)


 (引用:Wikipedia)

 『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

1) 成立過程

1.1)日本書紀成立の経緯

  『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載が一切ない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。

 

 『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、

「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」

とある。その意味は、「以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」ということである。(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)

 

  また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇川島皇子以下12人に対して、「帝紀」「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。

 

1.2)記紀編纂の要因

  乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)中大兄皇子(天智天皇)蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 献上されたことが事実であったとしても、天智天皇は白村江の戦いにて唐と新羅連合に敗北しており、記紀編纂の余裕はなかったと推測される。

 

 既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

 

 なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原史料の1つであったとする説を出している。

 

 なお、『続日本紀』和銅7年(714年)2月戊戌条に記された詔によって紀清人三宅藤麻呂が「国史」の撰に加わったとする記事が存在しているが、『続日本紀』文中に登場するもう一つの「国史」登場記事である延暦9年(790年)7月辛巳条に記された「国史」が『日本書紀』を指し、かつ『続日本紀』前半部分の編纂の中心人物であった菅野真道本人に関する内容であることから、菅野真道が「国史」=『日本書紀』という認識で『続日本紀』を編纂していたと捉え、紀・三宅の両名が舎人親王の下で『日本書紀』の編纂に参加したことを示す記事であると考えられている。

 

1.3)書名

 もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。

●『日本紀』とする説

  この説を支持する根拠は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と記載があることを重視する点である。中国では紀伝体の史書「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。

 

 この用法にならったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持しているといわれる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。

 

●『日本書紀』とする説

 この説を支持する根拠は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する点である。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。

 

 初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738年)の成立とされる。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』にて見られる体裁のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。

 

 そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書における体裁をあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。神田喜一郎は書名を本来『日本書』であったとする。『日本書』という題名の下に小字で「紀」としるし、これが『日本書』の「紀」であることを表示したが、伝写を経る間に『日本書紀』となってしまったとする。

 

●第三の説

  2011年、塚口義信が「『日本書紀』と『日本紀』の関係について-同一史書説の再検討-」(『続日本紀研究』392号)において、これまでになかった第三の説を発表した。

 

 塚口は『続日本紀』の養老4年5月癸酉条の従前の解釈において「紀卅卷系圖一卷」に登場する系圖一卷は紀卅卷に附属されていたものとしているが、実はこの解釈以外に紀に系圖が附属されていたとする根拠はないとした上で、『弘仁私記』序や『本朝書籍目録』にも「日本書紀三十巻」「帝王系図一巻」と分けて記載されており、舎人親王が献上したのは『日本書紀』三十巻と別の書物であった系圖(『帝王系図』)の2種類の書物で、親王が修したとされる『日本紀』とはこの両書を合わせた総称であるとした。

 

 塚口説は総称である『日本紀』とその一部を構成する『日本書紀』の名前が類似しているという問題点はあるものの、残存する史料に基づいて『日本紀』と『日本書紀』が同じ書物を指すことを否定した見解と言える。

 

 なお、平安時代初期には『続日本紀』と対比させる意味で、『前日本紀』と称している事例もある(『日本後紀』延暦16年2月乙巳条所引同日付詔)

 

●書名の読み

 読みは?書名は上記に挙げる説を述べたが、読みについても、「にほんしょき」なのか「にっぽんしょき」なのか、証拠となる書籍が発掘されていない為今でも答えは出されていない。当時、「やまと」と訓読されることもあった「日本」という語を、どのように音読していたかは不明であり、また、奈良・平安時代の文献に「日ほん」という記述があっても、濁音も半濁音もなかった当時の仮名遣いからは推測ができないからである。

 

 主な例として、岩橋小弥太は著書『日本の国号』(吉川弘文館、ISBN 4642077413)のなかで「にっぽんしょき」の説を主張している。現在では出版社における編集部の判断で「にほんしょき」として記述および出版されているが、前述したように答えが出ていない以上、これが結論となったわけではない。

 

 なお、一部には『日本紀』と『日本書紀』を全く別の書と考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されているのがその根拠である。

 

1.4)原資料

 『日本書紀』の資料は、記事内容の典拠となった史料と、修辞の典拠となった漢籍類にわけられ、さらに、史料には以下のようなものが含まれると考えられている。

・帝紀・旧辞・古事記・諸氏に伝えられた先祖の記録・地方に伝えられた物語

・政府の記録・個人の手記・寺院の縁起・日本国外の記録

 

 その他『日本書紀』によれば、推古天皇28年に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年の乙巳の変でともに焼失した。

 

 『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている。

 

 また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにした上で記述された文章が書かれているが、写本を作成する前に紛失されてしまったためいずれの書も現存しない。

 

・『日本旧記』・『高麗沙門道顯日本世記』・『伊吉連博徳書』・『難波吉士男人書』

・『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』・『譜第』・『晋起居注』 

 

2) 編纂方針

 『日本書紀』の編纂は当時の天皇によって作成を命じられた国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。

 

2.1)文体・用語

 『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。

 

 その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明・崇峻紀までである。残る巻第二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後古代史の画期があったと推測されている。

 

文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果

・実録的部分:巻第1・巻第2(神代)、巻第28・29・30(天武・持統紀)

・その一α群:巻第3(神武紀)~巻第13(允恭・安康紀)+ 巻第22・23(推古・舒明紀)

・その二β群:巻第14(雄略紀)~巻第21(用明・崇峻紀)+巻第24(皇極紀)~巻第27(天智紀)

 

2.2)文法および音韻による分類

  『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名において、中国語に見られるような清音と濁音を区別しないなどの音韻上の特徴を有する箇所があること、日本の常識的習俗の知識を欠く注釈部分など、様々な点からα群巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)β群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文α群中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している。

 

 またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。

 

 『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため宣化天皇3年(538年)と推定されている)仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。

 

 このように、『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。

 

2.3)紀年・暦年の構成

2.3.1) 那珂通世の紀年論

 古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。

 

 三善清行による「革命勘文」で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年二十一元1260年一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想によるという。

 

  この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。この那珂による紀年論は、定説となっている。

 

 日本書紀の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論で、様々な説がある。

 

2.3.2)日付の捏造

 小川清彦の暦学研究によれば、『日本書紀』は完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、干支による紀年で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいて、その記事が月の何日に当たるかを計算できる。

 

 小川清彦は中国の元嘉暦儀鳳暦の2つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという点が根拠である。

 

 元嘉暦が古く、儀鳳暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい儀鳳暦を古い時代に、古い元嘉暦を新しい時代に採用している。これは、二組で撰述したためと推測され、また日本書紀における日付が後代の捏造であることの証拠である。詳細は「小川清彦 (天文学者)#『日本書紀』の日付の捏造」を参照

 

 神功紀・応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2巡、120年繰り下げると『三国史記』と年次が一致する。したがって、このあたりで年次は120年古くに設定されているとされる。しかし、これも百済三書の一つである『百済記』を参考にした記事だけに該当するもので、前後の日本伝承による記事には必ずしも適用されないし、神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。

 

2.3.3)古事記の崩御年干支

 一方、『古事記』は年次を持たないが分注の形で15人の天皇について崩御年干支と崩御月が記され、第10代崇神天皇と第18代反正天皇を除く13人は崩御日も記されている。崇神天皇、第13代成務天皇~第19代允恭天皇、第21代雄略天皇、第26代継体天皇の10人は『日本書紀』の崩御年の干支と一致しないが、

・第27代 - 安閑天皇(乙卯、安閑天皇2年〈535年〉)

・第31代 - 用明天皇(丁未、用明天皇2年〈587年〉)

・第32代 - 崇峻天皇(壬子、崇峻天皇5年〈592年〉)

・第33代 - 推古天皇(戊子、推古天皇36年〈628年〉)

 は一致する。なお、第30代敏達天皇は1年の相違がある。

 

2.4)本文と一書(あるふみ)

  本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている箇所が多く見られる。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては東アジアにおいて画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。

 

 ただし、『釈日本紀』の開題部分には「一書一説」の引用を「裴松之三国志注の例なり」と記されており、晋の陳寿が著した『三国志』に対して(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けた形式のものが日本に伝来され、『日本書紀』のモデルになった可能性はある。

 なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。

 

  この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。

 

2.5)分注の存在

  『日本書紀』には訓読や書名をあげての文献引用など、本文とは別に分注(分註)と呼ばれる割注記事がみられる。かつては分注は後世の創作とする説も存在したが、今日では『日本書紀』成立当初から存在していたと考えられている。

 

 また、前述の「一書に曰く」も平安期の写本の断簡の中には分注と同じ体裁で書かれており、原本では分注の一部であった可能性がある。成立当初からの分注の存在は『日本書紀』独自の形式であるが、前述の『三国志』の裴松之による注のように中国の歴史書において後世の人物が本文に注を付けてさらに後々に伝えられる例は存在しており、『日本書紀』の編者がこうした注の付いた中国の歴史書の影響を受けた可能性がある。

 

2.6)系図一巻

 続日本紀にある日本書紀の完成記事には「紀卅卷系圖一卷」とあり、成立時の日本書紀には現在伝えられている三十巻の他に系図一巻が存在したと考えられている。日本書紀の「紀卅卷」が現在までほぼ完全に伝わっているのに対して系図は全く伝わっていない。弘仁私記にはこの系図について、「図書寮にも民間にも見えない」としてすでに失われたかのような記述があるが、鎌倉時代に存在する書物を集めた記録では「舎人親王撰 帝王系図一巻」とあり、このころまでは存在したとも考えられる。

 

 「新撰姓氏録」には「日本紀合」という記述が散見されるが、現存の「日本書紀」に該当する記述が存在しない。これは失われた系図部分と照合したものであると考えられている。

 

 この「系図一巻」の内容については様々に推測されている。例えば日本書紀では初出の人物の系譜を記すのが通例なのに、系譜の記されない人物が若干存在するが、これらについては系図に記載があるために省略されたと考えられている。

 

 また、記紀ともに現存の本文には見えない応神天皇から継体天皇に至る系譜についてもこの失われた「系図1巻」は書かれていた可能性を指摘する説がある。

 

 また、前述のように系図を『日本書紀』とは別の書物とし、両書を合わせて『日本紀』と呼んだとする塚口義信の見解もある(書名を参照)。

 

2.7)太歳(大歳)記事

 『日本書紀』には各天皇の即位の年の末尾に「この年太歳(大歳)」としてその年の干支を記した記事があり、「太歳(大歳)記事」と呼ばれている。日本書紀が参考にした中国の史書にも「続日本紀」などのこれ以後の日本の史書にもこのような記事は無く、この記事の意義および目的は不明である。

 

 ほとんどの天皇については即位元年の末尾にこの大歳記事があるが、以下のようにいくつか例外が存在する。このような例外が存在する理由については諸説があり、中には皇統譜が書き換えられた痕跡ではないかとする見解もあるが、広い賛同は得ていない。神武天皇については東征を始めた年にあり、即位元年にはない。

 

・綏靖天皇については即位前紀の神武天皇崩御の年と自身の即位元年にある。

・神功皇后については摂政元年、摂政三九年、摂政六九年にある。

・継体天皇については元年と二五年にある。

・天武天皇については元年にはなく二年にある。

 

詳細は太歳を参照 詳細は太歳紀年法を参照 

 

3)諱と諡

 天皇の名には、天皇在世中の名である(いみな)と、没後に奉られる(おくりな)とがある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762年)〜同8年(764年)淡海三船により神武天皇から持統天皇までの41代(弘文天皇を除き神功皇后を含む)、及び元明天皇・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名はまたは和風諡号であらわされている。

 

 15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、おおむね、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、サザキなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。 

 

4)書紀講筵と書紀古訓

 『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中にて時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。

 

 開講から終講までに数年を要する長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に七年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。

 

 以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。

 

●養老五年(721年):博士は太安万侶。私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。

 

●弘仁四年(813年):博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。

 

●承和六年(839年):博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。

 

●元慶二年(878年):博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。

 

●延喜四年(904年):博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。

 

●承平六年(936年): 博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。

 

●康保二年(965年): 博士は橘仲遠。私記は現存しない。

 なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。これらは上記年次私記のいずれかに由来すると思われるが、特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。

 

 ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存在する。しかし、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政〜鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。

 

5)竟宴和歌

 元慶の講筵から、終講の際に竟宴が行なわれ、「日本書紀」に因む和歌が詠まれた。歌題は、神、王、英雄、貴族などであった。元慶、延喜、承平の講筵の竟宴和歌が「日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)(943年(天慶6年)成立)に編纂された。

 

6)記述の信頼性

 日本書紀は史料批判上の見地から信憑性に疑問符がつく記述をいくつか含んでいる、以下はその例を示す。

 

6.1)後代における日付の捏造

 日本書紀に記載されている日付は、後代の捏造であることを小川清彦が示した(日本書紀#日付の捏造、小川清彦 (天文学者)#『日本書紀』の日付の捏造)

 

6.2)大化の改新の詔の内容の書き換え

 1967年12月に藤原京の北面外濠から発見された「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡により、『日本書紀』の大化の改新の詔の文書が奈良時代に書き替えられたものであることが判明している。

 

6.3)『隋書』、『晋書』との対応

 中国の史書『晋書』武帝紀には、266年(西晋 : 泰始2年)に倭国の関係記事があり、安帝紀には5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたと記載がある。

 

 しかし、この間は中国の史書に記述がなく、朝鮮や日本の史書と考古学的文字記録しかないことから、「謎の4世紀」と呼ばれている(4世紀後半以前の皇室の成立過程についてはヤマト王権の項を参照)

 

 倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、千葉県稲荷台1号古墳出土の鉄剣銘文、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。

 しかし、当時、朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。また『隋書』卷八十一・列傳第四十六 東夷には次のようにある。

 

(原文)無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字

 

(訳) 文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬わば、百済に於いて仏経を求得し、    初めて文字あり。

 

6.4)稲荷山古墳鉄剣銘文との対応

 稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。

 

 発見された金錯銘鉄剣の銘文からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命は武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。

 

6.5)『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連

 聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。

 

 仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀ごろの成立と考えられている。

 

 『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。

 

 なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという記述がある。

 

6.6)百済三書との対応

 現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。

 

 百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。

 

 百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。

 

 三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。

 

 また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)「貴国」と呼称する記述がある。

 

 山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている。

 

 現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある。

 

6.7)高句麗の建国について 

 『日本書紀』は天智天皇7年(668年)の高句麗滅亡の記事で、この滅亡は仲牟王(東明聖王)が高句麗を建国してからちょうど700年目であったと記している。

 

 建国の年は紀元前32年となり、『三国史記』東明聖王本紀が記す紀元前37年と5年の差がある。

 

 『新唐書』高麗伝、『唐会要』高句麗、『三国史記』宝蔵王本紀は漢代の建国から滅亡まで900年と記している。また『三国史記』新羅本紀で文武王10年(670年)、安勝を高句麗王に封じた冊命書では太祖の中牟王から800年とする。

 

7)現存本

 現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本巻第十ならびにその僚巻に相当する巻第一の断簡)写本は古本系統卜部家系統の本に分類される。(この他に「伊勢系」を分けて考える説もある)

 

 神代巻(巻第一・巻第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている。

 

 以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。

 

7.1)古本系統

●佐佐木本

 9世紀写 第1巻断簡 - 四天王寺本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背には空海の漢詩を集めた『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)(真済編)が記されている。訓点なし。個人蔵。

 

四天王寺本

 9世紀写 巻第一断簡 - 佐佐木本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。四天王寺蔵。

 

猪熊本

 9世紀写 巻第一断簡 - 佐佐木本・四天王寺本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。個人蔵。

 

田中本

 9世紀写 巻第十 - 佐佐木本・四天王寺本・猪熊本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。奈良国立博物館蔵。岩崎本 10〜11世紀写 巻第二十二・二十四 - 訓点付きのものとしては最古。本文の声点は六声体系。図書寮本と比較すると、本文・訓点ともに相違は大きい。京都国立博物館蔵。

 

前田本

 11世紀写 巻第十一・十四・十七・二十 - 訓点は図書寮本と同系統であるが、多少古態を存する。声点は四声体系。前田育徳会蔵。

 

図書寮本(書陵部本)

 12世紀写 巻第十・十二〜十七・二十一〜二十四 - 訓点あり(第10巻を除く)。第14巻と第17巻は前田本と、巻第二十二〜二十四は北野本と、それぞれ同系統。声点は四声体系。宮内庁書陵部蔵。

 

北野本

 第1類…巻第二十二〜二十七(平安末期写) - 訓点あり。鎌倉末〜南北朝期に神祇伯であった白川伯王家・資継王の所蔵本が、室町中期に吉田家系の卜部兼永の所有となったもの。北野天満宮蔵。

 

鴨脚本(嘉禎本)

  1236年(嘉禎2年)写 巻第二 - 訓点あり。京都・賀茂御祖神社の社家・鴨脚(いちょう)氏旧蔵本。本文・訓点とも大江家系か。國學院大學蔵。

 

7.2)卜部家本系統

●卜部兼方本(弘安本)

 弘安9年(1286年)写 巻第一・二 - 訓点あり。平野家系の卜部兼方の書写。大江家点との比較を丹念に記す。声点は四声体系。京都国立博物館蔵。

 

卜部兼夏本(乾元本)

 嘉元元年(1303年)写 巻第一・二 - 訓点あり。吉田家系の卜部兼夏の書写。『弘仁私記』(書紀古訓と書紀講筵にて後述)その他の私記を多数引用。声点は四声体系。天理大学附属天理図書館蔵。

 

熱田本

 1375〜7年写 巻第一〜十・十二〜十五 - 訓点あり。熱田神宮蔵。

 

図書寮本(書陵部本)

 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)写 巻第二 - 訓点あり。北畠親房旧蔵本。宮内庁書陵部蔵。

 

北野本

 第2類…巻第二十八〜三十(平安末〜鎌倉初期写)、第3類…巻第一・四・五・七〜十・十二・十三・十五・十七〜二十一(南北朝写)、第4類…巻第三・六・十一(室町後期写)、第5類…巻第十六(幕末写) - 訓点あり(第1巻を除く)。第2・3類は第1類同様白川伯王家・資継王の旧蔵本。資継王が加点しているため、本文とは異なり訓点は伯家点系である。北野天満宮蔵。

 

卜部兼右本

 天文9年(1540年)写 巻第三〜三十 - 大永5年(1525年)に吉田家前当主の卜部兼満が家に火を放って出奔した際に卜部家伝来の本も焼失したため、若くしてその後を継いだ兼右が、以前に卜部家本を書写していた三条西実隆の本を書写させてもらい、更に一条家の本(一条兼良写、卜部兼煕証)で校合して証本としたもの。当初は全巻揃っていたが、神代巻2巻は再度失われた。人代巻28巻を完備したものとしては最古に位置する。 

 

8)刊行本

●岩波書店〈日本古典文学大系〉「日本書紀」〈上・下〉

・新装版1993年(平成5年)。初版:上巻1967年(昭和42年)、下巻1965年(昭和40年)

・校注者:坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋

・原文、注釈、書き下し文を収める。

 

岩波文庫「日本書紀」全5巻

・1994年(平成6年)- 1995年(平成7年)、ワイド版岩波文庫、2003年(平成15年)

・「日本古典文学大系本」を改訂。原文、書き下し文、注釈を収める。

・旧文庫版は、黒板勝美校訂(全3巻)、1928年(昭和3年)- 1932年(昭和7年)

・改訂版で重版(復刊1988年(昭和63年))。2004年(平成16年)一穂社でオンデマンド版が出版。

 

●講談社学術文庫「全現代語訳 日本書紀」〈上・下〉

・訳者:宇治谷孟。現代語訳のみ収める、最も重版した刊行本。

・初版は1988年(昭和63年)、元版:創芸出版〈上・下〉、1986年(昭和61年)

 

●小学館「日本書紀」〈新編 日本古典文学全集〉第2・3・4巻

・1994年(平成6年)- 1998年(平成10年)

・訳注者:小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守

・原文、書き下し文、注釈、現代語訳を収める。

・改訂版『日本の古典を読む② 日本書紀 上』小学館、2007年

  小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守

・改訂版『日本の古典を読む③ 日本書紀 下・風土記』小学館、2007年

  小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守・植垣節也

 

●中央公論新社〈中公文庫〉「日本書紀」〈上・下〉 

・2020年(令和2年)

・現代語全訳。監訳:井上光貞、訳は笹山晴生、佐伯有清、川副武胤。

・元版は、中央公論社(上・下)、1987年(昭和62年)原文、注釈、索引、現代語訳を収める。

・他に 中公クラシックス 全3冊、2003年(平成15年)- 2004年(平成16年)

 

●吉川弘文館『新訂増補 國史大系 第1巻 日本書紀』〈上・下〉

・黒板勝美編、原文のみ(校訂担当は、丸山二郎・土井弘・井上薫)

・元版は 1951年(昭和26年)- 1952年(昭和27年)。普及版は 1981年(昭和56年)- 1982年(昭和57年)

・復刊 1998年(平成10年)、2002年(平成14年)ほか。2007年(平成19年) オンデマンド (OD) 版。

 

9)日本書紀の注釈書 

・神書聞塵 ・神代巻口訣 ・日本書紀纂疏 ・日本書紀神代巻抄 ・日本書紀聞書

・日本書紀通証 ・日本書紀伝(『日本書紀私伝』岡熊臣著) 


(2)日本書紀(内容)


目 次

 卷第一

●神代上(かみのよのかみのまき)

・第一段 天地開闢と神々 天地のはじめ及び神々の化成した話

・第二段 世界起源神話の続き

・第三段 男女の神が八柱、神世七代(かみのよななよ)

・第四段 国産みの話

・第五段 黄泉の国、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話(神産み)

・第六段 アマテラスとスサノオの誓約 イザナギが崩御し、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行く。アマテラスはスサノオと誓約し、互いに相手の持ち物から五男三女神を産む。

・第七段 天の岩戸 スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。スサノオは罪を償った上で放たれる。(岩戸隠れ)

・第八段 八岐大蛇 スサノオが出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。スサノオがクシナダヒメを救うためヤマタノオロチを殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。姫と結婚し、オオナムチを産み、スサノオは根の国に行った。大己貴神(おおあなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)

 

卷第二

神代下(かみのよのしものまき)

・第九段 葦原中国の平定、オオナムチ父子の国譲り、ニニギの降臨、サルタヒコの導き、

  ヒコホホデミらの誕生。(葦原中国平定・天孫降臨)

・第十段、山幸彦と海幸彦の話

・第十一段 神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)誕生

 ※卷第三より以降の漢風諡号は、『日本書紀』成立時にはなく、その後の人が付け加えたものと推定されている。

 

〇 卷第三

 (かむやまといはれびこのすめらみこと)

神日本磐余彦天皇 神武天皇 

・東征出発・五瀬命の死・八咫烏・兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)  ・長髄彦と金鵄(きんし)・宮殿造営 ・橿原即位

 

〇 卷第四

 (かむぬなかはみみのすめらみこと)

神渟名川耳天皇 綏靖天皇 

 (しきつひこたまてみのすめらみこと)

●磯城津彦玉手看天皇 安寧天皇

 (おほやまとひこすきとものすめらみこと)

●大日本彦耜友天皇 懿徳天皇

 (みまつひこかえしねのすめらみこと)

●観松彦香殖稲天皇 孝昭天皇

 (やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

●日本足彦国押人天皇 孝安天皇

 (おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)

●大日本根子彦太瓊天皇 孝霊天皇

 (おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)

●大日本根子彦国牽天皇 孝元天皇

 (わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)

●稚日本根子彦大日日天皇 開化天皇

 

〇 卷第五 

 (みまきいりびこいにゑのすめらみこと)

●間城入彦五十塑殖天皇)崇神天皇

・天皇即位大物主大神を祀る ・四道将軍 ・御肇国天皇の称号 ・神宝

 

〇 卷第六

 (いくめいりびこいさちのすめらみこと)

活目入彦五十狭茅天皇 垂仁天皇

・即位 ・任那、新羅抗争の始まり ・狭穂彦王の謀反 ・角力の元祖 ・鳥取の姓 

・伊勢の祭祀 ・野見宿禰と埴輪石上神宮 ・天日槍と神宝 ・田道間守

 

〇 卷第七

 (おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)

大足彦忍代別天皇 景行天皇

・天皇即位 ・諸賊、土蜘蛛 ・熊襲征伐 ・日本武尊出動 ・日本武尊の再征 ・弟橘媛

・日本武尊病没 ・稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)成務天皇 ・天皇即位と国、県の制

 

〇 卷第八 

 (たらしなかつひこのすめらみこと)

●足仲彦天皇 仲哀天皇

・天皇即位 ・熊襲征伐に神功皇后同行 ・神の啓示

 

〇 卷第九 

 (おきながたらしひめのみこと)

●気長足姫尊 神功皇后 

・神功皇后の熊襲征伐 ・新羅出兵 ・麛坂王、忍熊王の策謀 ・誉田別皇子・百済、新羅の朝貢 ・新羅再征

 

〇 卷第十 

 (ほむだのすめらみこと)

●誉田天皇 応神天皇

・天皇の誕生と即位 ・武内宿禰に弟の讒言 ・髪長媛と大鷦鷯尊 ・弓月君、阿直岐、王仁 ・兄媛の歎き ・武庫の船火災

 

〇 卷第十一 

 (おほさざきのすめらみこと)

●大鷦鷯天皇 仁徳天皇 

・菟道稚郎子の謙譲とその死 ・仁徳天皇の即位 ・民の竈の煙 ・池堤の構築 

・天皇と皇后の不仲・八田皇女の立后・鷹甘部(たかかいべ)の定め新羅、蝦夷などとの抗争

 

〇 卷第十二 

 (いざほわけのすめらみこと)

●去来穂別天皇 履中天皇 

・仲皇子(なかつみこ)黒媛を犯す ・磐余の稚桜宮(わかさくらのみや) 

・瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)反正天皇

 

〇 卷第十三 

 (をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)

●雄朝津間稚子宿禰天皇 允恭天皇 

・即位の躊躇 ・闘鶏(つげ)の国造り ・氏、姓を糾す殯(もがり)の玉田宿禰と最古の地震記録 

・衣通郎姫(そとおしのいらつめ) ・阿波の大真珠 ・木梨軽皇子と妹 

・穴穂天皇(あなほのすめらみこと)安康天皇 ・木梨軽皇子の死 ・大草香皇子の災厄

 

〇 卷第十四 

 (おほはつせのわかたけるのすめらみこと)

●大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

・眉輪王の父の仇 ・市辺押磐皇子を謀殺 ・即位と諸妃 ・吉野の猟と宍人部の貢上 

・葛城の一事主 ・嶋王(武寧王)誕生 ・少子部 ・吉備臣たち 

・今来(いまき)の才伎(てひと) ・高麗軍の撃破新羅討伐 ・月夜の埴輪馬

・鳥養部(とりかいべ)、韋那部(いなべ) ・根使王(ねのおみ)の科(とが) ・秦のうずまさ 

・朝日郎 ・高麗、百済を降す ・天皇の遺言

 

〇 巻第十五 

 (しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

●白髪武広国押稚日本根子 清寧天皇

・星川皇子の叛 ・天皇の即位と億計(おけ)、弘計(をけ)の発見 ・飯豊皇女

 (をけのすめらみこと)

●弘計天皇 顕宗天皇 

・弘計、億計兄弟の苦難 ・二皇子身分を明かす ・皇位の譲り合い ・計王の即位

・老婆置目の功績 ・復讐の思い ・任那、高麗との通交

 (おけのすめらみこと)

●億計天皇 仁賢天皇

・億計天皇の即位 ・日鷹吉士高麗に使す

 

〇 卷第十六 

 (おはつせのわかさざきのすめらみこと)

●小泊瀬稚鷦鷯天皇 武烈天皇

・影媛(かげひめ)と鮪(しび) ・武烈天皇の暴虐

 

〇 卷第十七 

 (おほどのすめらみこと)

●男大迹天皇 継体天皇

・継体天皇の擁立・任那四県の割譲・己汶(こもん)帯沙(たさ)をめぐる争い・磐井の反乱

・近江毛野の派遣 ・近江毛野の死 ・継体天皇の崩御

 

〇 卷第十八 

 (ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)

●広国押武金日天皇 安閑天皇

・天皇即位と屯倉(みやけ)の設置大河内味張の後悔 ・武蔵国造の争い及び屯倉

 (たけをひろくにおしたてのすめらみこと)

● 武小広国押盾天皇 宣化天皇

 ・那津(筑紫)官家(みやけ)の整備

 

 卷第十九 

 (あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)

●天国排開広庭天皇 欽明天皇

・秦大津父(はたのおおつち)・大伴金村の失脚・聖明王(せいめいおう)・任那(みまな)復興の協議

・任那日本府の官人忌避・任那復興の計画・日本への救援要請・仏教公伝・聖明王の戦死

・任那の滅亡調伊企儺の妻大葉子・難船の高麗使人

 

〇 卷第二十 

 (ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)

●渟中倉太珠敷天皇 敏達天皇

・烏羽(からすば)の表 ・吉備海部直難波の処罰 ・日羅の進言 ・蘇我馬子の崇仏

・物部守屋の排仏

 

 卷第二十一 

 (たちばなのとよひのすめらみこと)

●橘豊日天皇 用明天皇

・用明即位 ・三輪逆の死 ・天皇病む

 (はつせべのすめらみこと)

●泊瀬部天皇 崇峻天皇

・穴穂部皇子の死 ・物部守屋敗北と捕鳥部万 ・法興寺の創建 ・天皇暗殺

 

〇 卷第二十二 

 (とよみけかしきやひめのすめらみこと)

●豊御食炊屋姫天皇 推古天皇

・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)・聖徳太子の摂政・新羅征伐 地震で舎屋倒壊、地震の神の祭

・冠位十二階の制定と憲法十七条・名工鞍作鳥・遣隋使・菟田野(うだの)の薬猟(くすりがり

・太子と飢人 ・聖徳太子の死 ・新羅征伐の再開 ・寺院僧尼の統制

・蘇我馬子の葛城県(かずらきのあがた)の要請とその死 ・天皇崩御

 

〇 卷第二十三 

 (おきながたらしひひぬかのすめらみこと)

●長足日広額天皇 舒明天皇

・皇嗣問題難航 ・山背大兄王の抗議 ・境部摩理勢(さかいべのまりせ)の最期 

・天皇の即位 ・遣唐使 ・災異多発

 

〇 卷第二十四 

 (あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)

●天豊財重日足姫天皇 皇極天皇

・皇后即位 ・百済と高句麗の政変 ・異変頻発 ・上宮大娘(かみつみやのいらつめ)の怒り

・蘇我入鹿、斑鳩急襲 ・中大兄皇子と中臣鎌子 ・謡歌流行 ・秦河勝と常世の神

・蘇我蝦夷、入鹿の滅亡

 

〇 卷第二十五 

 (あめよろづとよひのすめらみこと)

●天万豊日天皇 孝徳天皇

・皇位の互譲・新政権の発足・東国国司の派遣・鐘匱及び男女の法・古人大兄皇子の死

・大化の改新の詔・鐘匱の反応・朝集使・厚葬と旧俗の廃止・品部(しなじなのとものお)の廃止 ・新冠位制 ・蘇我倉山田麻呂 ・白雉の出現 ・皇太子、飛鳥に移る

 

〇 卷第二十六 

 (あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)

●天豊財重日足姫天皇 斉明天皇

・斎明天皇重祚 ・岡本宮造営阿倍比羅夫の遠征 ・有馬皇子の変 ・伊吉博徳の書

・安倍臣と粛慎(みしはせ) ・百済滅亡と遺臣 ・西征と天皇崩御

 

〇 卷第二十七 

 (あめみことひらかすわけのすめらみこと)

●天命開別天皇 天智天皇

・救援軍渡海 ・白村江の戦い ・冠位の増設 ・西海防備 ・近江遷都と天智天皇の即位

・藤原鎌足の死 ・大友皇子(おおとものみこ)太政大臣に ・天智天皇崩御

 

〇 卷第二十八 

 (あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのかみのまき)

●天渟中原瀛真人天皇 天武天皇 上

・大海人皇子(おおあまのみこ)吉野入り ・挙兵決意 ・東国への出発 ・近江朝廷の対応

・大伴吹負の奇計 ・大津京陥落 ・大和の戦場 ・大海人皇子の大和回復

 

〇 卷第二十九 

 (あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのしものまき)

●天渟中原瀛真人天皇 天武天皇 下

・天武天皇即位 ・広瀬、竜田の神祭り ・論功行賞と東漢氏 ・十市皇女の突然の薨去

・筑紫大地震 ・吉野の会盟 ・律令編纂と帝紀の記録 ・銀の停止と銅銭使用の令

・服装その他の改定 ・彗星の出現 ・八色の姓と新冠位制

・諸国大地震と伊予温泉停止、土佐の田畑海没 ・天皇の発病と崩御

 

〇 卷第三十 

 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)

●高天原広野姫天皇 持統天皇

・皇后称制・大津皇子の変・殯(もがり)の宮、国忌・天武天皇の葬送・草壁皇子の死

・浄御原令の施行・持統天皇の即位・朝服礼儀の制・捕虜大伴部博麻(おおともべのはかま)の帰還

・食封(へひと)の加増 ・藤原宮造営 ・大三輪高市麻呂の諫言(かんげん)と伊勢行幸

・班田大夫(たたまいのまえつきみ)の派遣 ・益須(やす)の醴(こさけ)の泉 ・金光明経 

・藤原宮に遷る ・天皇譲位 


(3)日本書紀 巻第九 神功皇后


(引用:「なぜ『日本書紀』は古代史を偽装したのか」(関裕二著 実業之日本社)

 

1)神功皇后に関わる日本書紀の記述

●神功皇后摂政39年(239)の是年の条

 

(読み下し)魏志に云はく、明帝(めいてい)の景初(けいしょ)の3年の6月、倭の女王、大夫難升米(たいふなしめ)等を遣(つかは)して、郡(こおり)に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求めて朝献(てうけん)す。太守鄧夏(たいしゅとうか)、吏(り)を遣(つかは)して将(ゐ)て送りて、京都(けいと)に詣(いた)らしむ

 

●神功皇后摂政46年(246)・・・百済の肖古王(しょうこおう)

肖古王(百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)

 

●神功皇后摂政55年(255)・・・同上の死亡記事

 『三国史記』・・・近肖古王(きんしょうこおう)・・西暦375年没

近肖古王:百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)、中国・日本の史書に初めて名の現れる百済王

 

●神功皇后摂政66年(266)の是年の条・・・晋(しん)の『起居注』の記事を引用

(読み下し)是年(ことし)、晋(しん)の武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の2年(266)なり。晋(しん)の起居(ききょ)の注(ちゅう)に云(い)はく、武帝の泰初の2年の10月に、倭の女王、訳(をさ)を重(かさ)ねて貢献(こうけん)せしむといふ

 

※「起居注」は、中国で、天子の側近にいて、その言行を記録すること。また、その官職や記録された文書。  

 

2)邪馬台国&卑弥呼の隠蔽?

●神功皇后摂政39年(239)&神功皇后摂政66年(266)の条

・『日本書紀』は邪馬台国の事情を知っていて、だからこそ神功皇后を邪馬台国の時代だったかもしれないと暗示を残しつつ、そうではなかったとしらを切ったことになる。

 

●神功皇后摂政46年(246)&神功皇后摂政55年(255)の条

・邪馬台国の卑弥呼が2世紀末から3世紀半ばの人、かたや近肖古王は4世紀の人で、2人の間には接点はない。それにもかかわらず『日本書紀』は時代の差に無頓着で、2人を並べて見せているのである。しかも、その「時差」は干支二運(かんしにうん)(十干と十二支の組み合わせで一巡が60年。それが2回めぐったということ)丁度120年というから、これは『日本書紀』の意図的な記述であり、時代の異なる神功皇后と邪馬台国の記事を、矛盾が生まれることを承知の上で並記してしまったということになる。


(4)日本書紀 巻第十七 継体天皇紀


                           (引用:日本書紀について

男大迹天皇 繼體天皇

男大迹天皇 更名彥太尊、譽田天皇五世孫、彥主人王之子也、母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井 中、此云那、納以爲妃、遂産天皇。

天皇幼年、父王薨。振媛廼歎曰「妾、今遠離桑梓、安能得膝養。余歸寧高向 高向者、越前國邑名 奉養天皇。」天皇壯大、愛士禮賢、意豁如也。天皇年五十七歲、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩、元無男女、可絶繼嗣。

 

(※倭彥王奉迎)

壬子、大伴金村大連議曰「方今絶無繼嗣、天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。今、足仲彥天皇五世孫倭彥王、在丹波國桑田郡。請、試設兵仗、夾衞乘輿、就而奉迎、立爲人主。」大臣大連等一皆隨焉、奉迎如計。於是、倭彥王、遙望迎兵、懼然失色、仍遁山壑、不知所詣。

 

(※男大迹王奉迎・樟葉宮即位)

元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰「男大迹王、性慈仁孝順、可承天緖。冀慇懃勸進、紹隆帝業。」物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰「妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。」丙寅、遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三國。夾衞兵仗、肅整容儀、警蹕前駈、奄然而至。於是、男大迹天皇、晏然自若、踞坐胡床、齊列陪臣、既如帝坐。持節使等、由是敬憚、傾心委命、冀盡忠誠。

然天皇、意裏尚疑、久而不就。適知河內馬飼首荒籠、密奉遣使、具述大臣大連等所以奉迎本意。留二日三夜、遂發、乃喟然而歎曰「懿哉、馬飼首。汝若無遣使來告、殆取蚩於天下。世云、勿論貴賤、但重其心。蓋荒籠之謂乎。」及至踐祚、厚加荒籠寵待。甲申、天皇行至樟葉宮。二月辛卯朔甲午、大伴金村大連、乃跪、上天子鏡劒璽符、再拜。男大迹天皇謝曰「子民治國、重事也。寡人不才不足以稱。願請、𢌞慮擇賢者。寡人不敢當。」大伴大連、伏地固請。男大迹天皇、西向讓者三、南向讓者再。大伴大連等皆曰「臣伏計之、大王、子民治國、最宜稱。臣等、爲宗廟社稷、計不敢忽。幸藉衆願、乞垂聽納。」男大迹天皇曰「大臣・大連・將相・諸臣、咸推寡人、寡人敢不乖。」乃受璽符、是日、卽天皇位。以大伴金村大連爲大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。是以、大臣大連等各依職位焉。

 

(※手白香皇女立皇后)

庚子、大伴大連奏請曰「臣聞、前王之宰世也、非維城之固、無以鎭其乾坤。非掖庭之親、無以繼其趺萼。是故、白髮天皇、無嗣、遣臣祖父大伴大連室屋毎州安置三種白髮部 言三種者、一白髮部舍人、二白髮部供膳、三白髮部靫負也、以留後世之名。嗟夫、可不愴歟。請、立手白香皇女、納爲皇后、遣神祗伯等、敬祭神祗、求天皇息、允答民望。」天皇曰、可矣。

 

(※欽明天皇生誕・安閑・宣化天皇後即位)

三月庚申朔、詔曰「神祗不可乏主、宇宙不可無君。天生黎庶、樹以元首、使司助養、令全性命。大連、憂朕無息、被誠款以國家、世々盡忠、豈唯朕日歟。宜備禮儀奉迎手白香皇女。」甲子、立皇后手白香皇女、修教于內、遂生一男、是爲天國排開廣庭尊。開、此云波羅企。是嫡子而幼年、於二兄治後、有其天下。二兄者、廣國排武金日尊與武小廣國押盾尊也、見下文。

 

(※殖産奨励)

戊辰、詔曰「朕聞、土有當年而不耕者則天下或受其飢矣、女有當年而不績者天下或受其寒矣、故、帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。況厥百寮曁于萬族、廢棄農績而至殷富者乎。有司、普告天下令識朕懷。」

 

(※納八妃・皇子・皇女)

癸酉、納八妃。納八妃、雖有先後而此曰癸酉納者、據卽天位、占擇良日初拜後宮、爲文。他皆效此。元妃、尾張連草香女曰目子媛 更名色部、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄皇子是爲廣國排武金日尊、其二曰檜隈高田皇子是爲武小廣國排盾尊。次妃、三尾角折君妹曰稚子媛、生大郎皇子與出雲皇女。次、坂田大跨王女曰廣媛、生三女、長曰神前皇女、仲曰茨田皇女、少曰馬來田皇女。次、息長眞手王女曰麻績娘子、生荳角皇女 荳角、此云娑佐礙、是侍伊勢大神祠。次、茨田連小望女 或曰妹 曰關媛、生三女、長曰茨田大娘皇女、仲曰白坂活日姬皇女、少曰小野稚郎皇女 更名長石姬。次、三尾君堅楲女曰倭媛、生二男二女、其一曰大娘子皇女、其二曰椀子皇子、是三國公之先也、其三曰耳皇子、其四曰赤姬皇女。次、和珥臣河內女曰荑媛、生一男二女、其一曰稚綾姬皇女、其二曰圓娘皇女、其三曰厚皇子。次、根王女曰廣媛、生二男、長曰兔皇子、是酒人公之先也、少曰中皇子、是坂田公之先也。是年也、太歲丁亥。

 

(※武烈天皇葬儀・百済通交)

二年冬十月辛亥朔癸丑、葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵。十二月、南海中耽羅人、初通百濟國。

三年春二月、遣使于百濟。百濟本記云「久羅麻致支彌、從日本來。」未詳也。括出在任那日本縣邑百濟百姓浮逃絶貫三四世者、並遷百濟附貫也。

 

(※遷都筒城)

五年冬十月、遷都山背筒城

(※任那國四縣割譲要請)

六年夏四月辛酉朔丙寅、遣穗積臣押山、使於百濟。仍賜筑紫國馬卌匹。冬十二月、百濟遣使貢調、別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰「此四縣、近連百濟、遠隔日本、旦暮易通、鶏犬難別。今賜百濟合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危、況爲異場、幾年能守。」大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。廼以物部大連麁鹿火、宛宣勅使。

(※任那國四縣割譲論議

物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客、其妻固要曰「夫住吉大神、初以海表金銀之國高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故、大后息長足姬尊與大臣武內宿禰、毎國初置官家爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉、縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。」大連、報曰「教示合理、恐背天勅。」其妻切諫云「稱疾、莫宣。」大連依諫。由是、改使而宣勅、付賜物、幷制旨、依表賜任那四縣。大兄皇子、前有緣事、不關賜國、晩知宣勅、驚悔欲改、令曰「自胎中之帝置官家之國、輕隨蕃乞、輙爾賜乎。」乃遣日鷹吉士、改宣百濟客。使者答啓「父天皇、圖計便宜、勅賜既畢。子皇子、豈違帝勅、妄改而令、必是虛也。縱是實者、持杖大頭打孰與持杖小頭打、痛乎。」遂罷。於是、或有流言曰「大伴大連與哆唎國守穗積臣押山、受百濟之賂矣。」 

七年夏六月、百濟遣姐彌文貴將軍・洲利卽爾將軍、副穗積臣押山 百濟本記云、委意斯移麻岐彌 貢五經博士段楊爾、別奏云「伴跛國、略奪臣國己汶之地。伏願、天恩判還本屬。」秋八月癸未朔戊申、百濟太子淳陀、薨。 

九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女。於是、月夜淸談、不覺天曉。斐然之藻、忽形於言、乃口唱曰、

野絁磨倶儞 都磨々祁哿泥底 播屢比能 哿須我能倶儞々 倶婆絁謎鳴 阿利等枳々底 與慮志謎鳴 阿利等枳々底 莽紀佐倶 避能伊陀圖鳴 飫斯毗羅枳 倭例以梨魔志 阿都圖唎 都麼怒唎絁底 魔倶囉圖唎 都麼怒唎絁底 伊慕我堤鳴 倭例儞魔柯斯毎 倭我堤嗚麼 伊慕儞魔柯絁毎 麼左棄逗囉 多々企阿藏播梨 矢泪矩矢慮 于魔伊禰矢度儞 儞播都等唎 柯稽播儺倶儺梨 奴都等利 枳蟻矢播等余武 婆絁稽矩謨 伊麻娜以幡孺底 阿開儞啓梨倭蟻慕 

妃和唱曰、

莒母唎矩能 簸覩細能哿波庾 那峨例倶屢 駄開能 以矩美娜開余嚢開 謨等陛嗚麼 莒等儞都倶唎 須衞陛嗚麼 府曳儞都倶唎 府企儺須 美母慮我紆陪儞 能朋梨陀致 倭我彌細麼 都奴娑播符 以簸例能伊聞能 美那矢駄府 紆嗚謨 紆陪儞堤々那皚矩 野須美矢々 倭我於朋枳美能 於魔細屢 娑佐羅能美於寐能 武須彌陀例 駄例夜矢比等母 紆陪儞泥堤那皚矩 

冬十一月辛亥朔乙卯、於朝庭、引列百濟姐彌文貴將軍・斯羅汶得至・安羅辛已奚及賁巴委佐・伴跛既殿奚及竹汶至等、奉宣恩勅、以己汶・帶沙賜百濟國。是月、伴跛國、遣戢支獻珍寶、乞己汶之地、而終不賜。 

十二月辛巳朔戊子、詔曰「朕承天緖、獲保宗廟、兢々業々。間者、天下安靜、海內淸平、屢致豐年、頻使饒國。懿哉、摩呂古、示朕心於八方。盛哉、勾大兄、光吾風於萬國。日本邕々、名擅天下、秋津赫々、譽重王畿。所寶惟賢、爲善最樂、聖化憑茲遠扇、玄功藉此長懸、寔汝之力。宜處春宮、助朕於仁、翼吾補闕。」 

八年春正月、太子妃春日皇女、晨朝晏出、有異於常。太子意疑、入殿而見、妃臥床涕泣、惋痛不能自勝。太子怪問曰「今旦涕泣、有何恨乎。」妃曰、「非餘事也。唯妾所悲者、飛天之鳥、爲愛養兒樹巓作樔、其愛深矣。伏地之蟲、爲護衞子土中作窟、其護厚焉。乃至於人、豈得无慮。無嗣之恨、方鍾太子、妾名隨絶。」於是、太子感痛而奏天皇、詔曰「朕子麻呂古、汝妃之詞深稱於理。安得空爾無答慰乎。宜賜匝布屯倉表妃名於萬代。」 

三月、伴跛、築城於子呑・帶沙而連滿奚、置烽候邸閣、以備日本。復、築城於爾列比・麻須比而絙麻且奚・推封、聚士卒兵器、以逼新羅。駈略子女、剥掠村邑、凶勢所加、罕有遺類、夫暴虐奢侈、惱害侵凌、誅殺尤多、不可詳載。 

九年春二月甲戌朔丁丑、百濟使者文貴將軍等、請罷。仍勅、副物部連闕名遣罷歸之。百濟本記云、物部至至連。是月、到于沙都嶋、傳聞、伴跛人懷恨銜毒・恃强縱虐。故、物部連、率舟師五百、直詣帶沙江。文貴將軍、自新羅去。夏四月、物部連、於帶沙江停住六日、伴跛、興師往伐、逼脱衣裳、劫掠所齎、盡燒帷幕。物部連等、怖畏逃遁、僅存身命、泊汶慕羅。汶慕羅、嶋名也。

十年夏五月、百濟遣前部木刕不麻甲背、迎勞物部連等於己汶而引導入國。群臣各出衣裳・斧鐵・帛布、助加國物、積置朝庭。慰問慇懃、賞祿優節。秋九月、百濟遺州利卽次將軍、副物部連來、謝賜己汶之地、別貢五經博士漢高安茂、請代博士段楊爾。依請代之。戊寅、百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多、副高麗使安定等、來朝結好。十二年春三月丙辰朔甲子、遷都弟國。

 

(※武寧薨・明卽位)

十七年夏五月、百濟國王武寧薨。十八年春正月、百濟太子明卽位。

 

(※遷都磐余玉穗)

廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗。一本云、七年也

 

(※筑紫國造磐井、陰謨叛逆)

廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣率衆六萬、欲往任那爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年、恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍。

 

(※将軍適任者諮問)

於是、磐井、掩據火豐二國、勿使修職、外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」遂戰而不受、驕而自矜。是以、毛野臣乃見防遏、中途淹滯。天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。 

 

(※長門以東と筑紫以西の分割統治)

秋八月辛卯朔、詔曰「咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。」物部麁鹿火大連再拜言「嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、敗德反道、侮嫚自賢。在昔道臣爰及室屋、助帝而罰・拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。」詔曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重詔曰「大將、民之司命。社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天皇親操斧鉞、授大連曰「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」

 

(※御井戦闘と糟屋屯倉献上)

廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接、決機兩陣之間、不避萬死之地、遂斬磐井、果定疆場。十二月、筑紫君葛子、恐坐父誅、獻糟屋屯倉、求贖死罪。 

廿三年春三月、百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰「夫朝貢使者、恆避嶋曲謂海中嶋曲 崎岸也。俗云、美佐祁 毎苦風波。因茲、濕所齎、全壞无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。」是以、押山臣爲請聞奏。

是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百濟王。於是、加羅王謂勅使云「此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。」勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。

別遣錄史、果賜扶余。由是、加羅、結儻新羅、生怨日本。加羅王、娶新羅王女、遂有兒息。新羅、初送女時、幷遣百人爲女從、受而散置諸懸令着新羅衣冠。阿利斯等、嗔其變服、遣使徵還。新羅、大羞、翻欲還女曰「前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。」加羅己富利知伽 未詳 報云「配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。」遂於所經、拔刀伽・古跛・布那牟羅三城、亦拔北境五城。

是月、遣近江毛野臣使于安羅、勅勸新羅更建南加羅・喙己呑。百濟遣將軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵等、往赴安羅、式聽詔勅。新羅、恐破蕃國官家、不遣大人而遣夫智奈麻禮・奚奈麻禮等、往赴安羅、式聽詔勅。於是、安羅、新起高堂、引昇勅使、國主隨後昇階、國內大人、預昇堂者一二。百濟使將軍君等在於堂下、凡數月再三、謨謀乎堂上。將軍君等、恨在庭焉。 

夏四月壬午朔戊子、任那王己能末多干岐、來朝言己能末多者、蓋阿利斯等也、啓大伴大連金村曰「夫海表諸蕃、自胎中天皇置內官家、不棄本土、因封其地、良有以也。今新羅、違元所賜封限、數越境以來侵。請、奏天皇、救助臣國。」大伴大連、依乞奏聞。

是月、遣使送己能末多干岐、幷詔在任那近江毛野臣「推問所奏、和解相疑。」於是、毛野臣、次于熊川一本云、次于任那久斯牟羅 召集新羅・百濟二國之王。新羅王佐利遲、遣久遲布禮 一本云、久禮爾師知于奈師磨里、百濟、遣恩率彌騰利、赴集毛野臣所、而二王不自來參。

毛野臣大怒、責問二國使云「以小事大、天之道也。一本云「大木端者、以大木續之。小木端者、以小木續之。何故二國之王、不躬來集受天皇勅、輕遣使乎。今縱汝王自來聞勅、吾不肯勅、必追逐退。」久遲布禮・恩率彌縢利、心懷怖畏、各歸召王。由是、新羅、改遣其上臣伊叱夫禮智干岐 新羅、以大臣爲上臣。一本云、伊叱夫禮知奈末 率衆三千、來請聽勅。毛野臣、遙見兵仗圍繞衆數千人、自熊川入任那己叱己利城。伊叱夫禮智干岐、次于多々羅原、不敬歸待三月、頻請聞勅。終不肯宣。 

伊叱夫禮智所將士卒等、於聚落乞食、相過毛野臣傔人河內馬飼首御狩。御狩、入隱他門、待乞者過、捲手遙擊。乞者見云「謹待三月、佇聞勅旨、尚不肯宣。惱聽勅使、乃知欺誑誅戮上臣矣。」乃以所見、具述上臣。上臣抄掠四村、金官・背伐・安多・委陀、是爲四村。一本云、多多羅・須那羅・和多・費智爲四村也。盡將人物、入其本國。或曰「多々羅等四村之所掠者、毛野臣之過也。」秋九月、巨勢男人大臣薨。

廿四年春二月丁未朔、詔曰「自磐余彥之帝・水間城之王、皆頼博物之臣・明哲之佐。故、道臣陳謨而神日本以盛、大彥申略而膽瓊殖用隆。及乎繼體之君、欲立中興之功者、曷嘗不頼賢哲之謨謀乎。爰降小泊瀬天皇之王天下、幸承前聖、隆平日久、俗漸蔽而不寤、政浸衰而不改。但須其人各以類進、有大略者不問其所短、有高才者不非其所失。故、獲奉宗廟、不危社稷、由是觀之、豈非明佐。朕承帝業、於今廿四年、天下淸泰、內外無虞、土地膏腴、穀稼有實。竊恐、元々由斯生俗・藉此成驕。故、令人舉廉節、宣揚大道、流通鴻化。能官之事、自古爲難。爰曁朕身、豈不愼歟。」

秋九月、任那使奏云「毛野臣、遂於久斯牟羅起造舍宅、淹留二歲 一本云三歲者、連去來歲數也、懶聽政焉。爰以日本人與任那人頻以兒息、諍訟難決、元無能判。毛野臣、樂置誓湯曰、實者不爛、虛者必爛。是以、投湯爛死者衆。又、殺吉備韓子那多利・斯布利 大日本人娶蕃女所生、爲韓子也、恆惱人民、終無和解。」 

於是、天皇聞其行狀、遣人徵入。而不肯來。顧以河內母樹馬飼首御狩奉詣於京而奏曰「臣、未成勅旨。還入京鄕、勞往虛歸、慙恧安措。伏願、陛下、待成國命入朝謝罪。」奉使之後、更自謨曰「其調吉士、亦是皇華之使。若先吾取歸、依實奏聞、吾之罪過必應重矣。」乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城。於是、阿利斯等、知其細碎爲事・不務所期、頻勸歸朝、尚不聽還。 

由是、悉知行迹、心生飜背、乃遣久禮斯己母使于新羅請兵、奴須久利使于百濟請兵。毛野臣、聞百濟兵來、迎討 背評背評地名、亦名能備己富里也、傷死者半。百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁而共新羅圍城、責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。毛野臣、嬰城自固、勢不可擒。於是、二國圖度便地、淹留弦晦、筑城而還、號曰久禮牟羅城。還時觸路、拔騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳五城。

冬十月、調吉士至自任那、奏言「毛野臣、爲人傲恨、不閑治體、竟無和解、擾亂加羅、倜儻任意而思不防患。」故、遣目頰子、徵召。目頰子、未詳也。是歲、毛野臣、被召到于對馬、逢疾而死。送葬、尋河而入近江。其妻歌曰、

「比攞哿駄喩 輔曳輔枳能朋樓 阿苻美能野 愷那能倭倶吾伊 輔曳符枳能朋樓」

目頰子、初到任那時、在彼鄕家等、贈歌曰、

「柯羅屨儞嗚 以柯儞輔居等所 梅豆羅古枳駄樓 武哿左屨樓 以祇能和駄唎嗚 梅豆羅古枳駄樓」

 

(※継体天皇崩御・御陵)

廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。  


5 続日本紀


(1)続日本紀(要旨)


 (引用:Wikipedia)

 『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成した。

 

 文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代基本史料である。編年体、漢文記である。略称は続紀(しょっき)

 

〇 編纂

・編纂は、前半部と後半部で異なる事情を持つ。 

 

前半ははじめ、文武天皇元年(697年)から天平宝字元年(757年)孝謙天皇の治世までを扱う30巻の構想として作られた。笹山晴生は淳仁天皇の時代の藤原仲麻呂(恵美押勝)政権下で編纂され、恵美押勝の乱の影響で不十分な曹案に終わったと推定している。

 

 光仁天皇が、この曹案の修正を石川名足、淡海三船、当麻永嗣に命じたが、彼らは天平宝字元年紀を紛失した上、未完成に終わった(この年の前後には政争絡みの事件も多かったため、執筆者間で意見をまとめることが出来ずに紛失ということにしたとする説もある)桓武天皇の命により編纂を菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄が引き継ぎ、全20巻とした。 

 

後半は当初、天平宝字2年(758年)からおそらく宝亀8年(777年)淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂された。石川名足、上毛野大川が詔によって編集した20巻を、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人が14巻に縮め、延暦13年(794年)にいったん完成した。菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄は、さらに6巻、すなわち桓武天皇の治世のうち延暦10年(791年)までを加え、全20巻とした。

 

 以上あわせて40巻の編纂が成ったのは、延暦16年(797年)であった。 


(2)続日本紀(内容)


(引用:Wikipedia))

『続日本紀』目次 (主要事項)

 (あめのまむねとよおおじのすめらみこと)

〇 天之眞宋豊祖父天皇(第四十二代)文武天皇

●卷第一 文武紀一 丁酉年八月より庚子年十二月まで

●卷第二 文武紀二 大宝元年正月より大宝二年十二月まで

●卷第三 文武紀三 大宝三年正月より慶雲四年六月まで

 ・持統天皇譲位。軽皇子、文武天皇即位。

 ・役小角を伊豆島に流す。 

 ・藤原不比等ら律令を選定。

 ・山上憶良ら遣唐使に。大宝律令完成。この年、聖武天皇、藤原光明子誕生。

 ・持統上皇崩御

  (やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)

 

〇 日本根子天津御代豊國成姫天皇(第四十三代)元明天皇

●卷第四 元明紀一 慶雲四年七月より和銅二年十二月まで

●卷第五 元明紀二 和銅三年正月より和銅五年十二月まで

●卷第六 元明紀三 和銅六年正月より霊亀元年八月まで

・文武天皇崩。

・武蔵国が和銅を献ず。和銅と改元。和同開珎発行。

・陸奥、越後の蝦夷。

・平城京遷都。山階寺を平城に移し、興福寺と改称。

・蓄銭叙位法を定める。

・丹後、大隈、美作三国を置く。国、郡、郷名に好字を選ばせる。『風土記』の編纂を命ずる。

・首皇子(後の聖武天皇)立太子。

 (やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)

 

〇 日本根子高瑞浄足姫天皇(第四十四代)元正天皇

●卷第七 元正紀一 霊亀元年九月より養老元年十二月まで

●卷第八 元正紀二 養老二年正月より養老五年十二月まで

●卷第九 元正紀三 聖武紀一 養老六年正月より神亀三年十二月まで

・元明天皇譲位。氷高内親王(後の元正天皇)即位。

・この年、光明子が皇太子妃になる。駿河など七国の高麗人千七百九十九人を武蔵国に移し、高麗郡を置く。

・行基ら僧尼の活動を非難する詔がでる。この年、不比等ら養老律令を撰修した。

・能登、安房、石城、石背四か国を置く。

・大伴旅人、大将軍として隼人を討つことを命ぜられる。『日本書紀』完成。藤原不比等死去。

・元明上皇崩。

・三世一身法施行。太安万侶死去。

 (あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)

 

〇 天璽国押開豊桜彦天皇(第四十五代)聖武天皇

●卷第十 聖武紀二 神亀四年正月より天平二年十二月まで

●卷十一 聖武紀三 天平三年正月より天平六年十二月まで

●卷十二 聖武紀四 天平七年正月より天平九年十二月まで

●卷十三 聖武紀五 天平十年正月より天平十二年十二月まで

●卷十四 聖武紀六 天平十三年正月より天平十四年十二月まで

●卷十五 聖武紀七 天平十五年正月より天平十六年十二月まで

●卷十六 聖武紀八 天平十七年正月より天平十八年十二月まで

●卷十七 聖武紀九 孝謙紀一 天平十九年正月より天平勝宝元年十二月まで

・元正天皇譲位。首皇子聖武天皇即位。蝦夷反乱し、藤原宇合討つ。多賀城なる。

・光明子基王を生む。

・基王死去。

・長屋王の変。長屋王自殺。光明子、光明皇后となる。

・大伴旅人死去。

・橘三千代(光明の母)死去。

・吉備真備ら帰国。舎人親王(『日本書紀』編纂の主催者)死去。葛城王を橘諸兄と改名。

・藤原四兄弟次々と死去。天然痘大流行。

・安倍内親王立太子。橘諸兄右大臣なる。

・聖武天皇、光明皇后が智識寺の盧舎那仏を拝する。大宰小弐、藤原広嗣が挙兵する。広嗣斬殺される。恭仁京遷都の詔。

・国分寺建立の詔

・大宰府を廃止する。紫香楽に離京を造る。

・墾田永年私財法制定。聖武天皇、大仏建造を発願。恭仁京の造営中止。

・難波宮を皇都とする。

・行基を大僧正とする。都を平城京に復す。大宰府復活。奈良で大仏の建造着手。

・難波宮で聖武天皇の容態危篤。

・恭仁宮の大極殿を山背国分寺に施入。

・元正上皇崩。

・行基没。陸奥国初めて黄金産出、献上。天平感宝と改元。

 (ほうじしょうとくこうけんこうてい)

〇 宝字称徳孝謙皇帝(第四十六代)孝謙天皇

●巻十八 孝謙紀二 天平勝宝二年正月より天平勝宝四年十二月まで

●卷十九 孝謙紀三 天平勝宝五年正月より天平勝宝八年十二月まで

●卷二十 孝謙紀四 天平宝字元年正月より天平宝字二年七月まで

・聖武天皇譲位。阿部皇太子即位(孝謙天皇)。天平勝宝と改元。大仏鋳造終わる。

・懐風藻(わが国最初の漢詩集)成る。

・東大寺大仏開眼供養。

・唐僧鑑真が大伴古麻呂の船で日本着。藤原宮子崩。

・東大寺戒壇院成る。

・橘諸兄左大臣を辞任。聖武上皇崩。遺詔により道祖王立太子。

・橘諸兄没。道祖王皇太子の位を失う。大炊王立太子、藤原仲麻呂の専制に対し、諸兄の子奈良麻呂ら決起するが敗れ、処刑者多数。

・淡路廃帝(あわじはいたい)(第四十七代)淳仁天皇

●卷二十一 淳仁紀一 天平宝字二年八月より天平宝字二年十二月まで

●卷二十二 淳仁紀二 天平宝字三年正月より天平宝字四年六月まで

●卷二十三 淳仁紀三 天平宝字四年七月より天平宝字五年十二月まで

●卷二十四 淳仁紀四 天平宝字六年正月より天平宝字七年十二月まで

●卷二十五 淳仁紀五 天平宝字八年正月より十二月まで

・孝謙天皇譲位、大炊王即位(淳仁天皇)、藤原仲麻呂に恵美押勝の姓を賜う。小野田守帰国し、唐の安禄山の乱を報告。

・唐招提寺建立。新羅の攻撃を準備。

・藤原仲麻呂、大師に任ぜられる。光明皇太后崩。

・近江保良宮を北京とする。

・孝謙上皇と淳仁天皇不和となる。孝謙出家。多賀城、秋田城など整備。全国的に飢饉、疾病。

・藤原良継らの仲麻呂打倒計画挫折。鑑真没。道鏡少僧都に任じられる。

 

〇 孝謙天皇重祚 (第四十八代)称徳天皇 

●卷二十六 称徳紀一 天平神護元年正月より十二月まで

●卷二十七 称徳紀二 天平神護二年正月より十二月まで

●卷二十八 称徳紀三 神護景雲元年正月より十二月まで

●卷二十九 称徳紀四 神護景雲二年正月より神護景雲三年六月まで

●卷三十 称徳紀五 神護景雲三年七月より宝亀元年九月まで

・藤原仲麻呂(押勝)、道鏡の排除を企てるが敗死。道鏡大臣禅師となる。淳仁天皇を淡路に流し、孝謙上皇重祚する。

・墾田永年私財法停止。淳仁天皇、幽閉所脱走を図り死亡。道鏡太政大臣となる。

・道鏡、法王となる。

・法王宮職を設ける。

・筑前大台城が完成。

・県犬飼姉女ら、称徳女帝を呪詛したこと発覚、遠流。

  (あめむねたかつぎのすめらみこと)

 

〇 天宗高紹天皇(第四十九代)光仁天皇

●卷三十一 光仁紀一 宝亀元年十月より宝亀二年十二月まで

●卷三十二 光仁紀二 宝亀三年正月より宝亀四年十二月まで

●卷三十三 光仁紀三 宝亀五年正月より宝亀六年十二月まで

●卷三十四 光仁紀四 宝亀七年正月より宝亀八年十二月まで

●卷三十五 光仁紀五 宝亀九年正月より宝亀十年十二月まで

●卷三十六 光仁紀六 桓武紀一 宝亀十年正月より天応元年十二月まで

・百万塔を諸寺に分配する。称徳天皇崩。白壁王(光仁天皇)が皇太子となる。道鏡を下野国に左遷。この年阿倍仲麻呂が唐で客死。

・井上内親王が皇后になる。

・他戸親王が皇太子になる。左大臣藤原永手没。藤原良継が内臣となる。

・井上内親王が謀反を企んだことにより、皇后の地位から追われる。他戸皇太子が廃される。

・山部親王が皇太子になる。良弁没。

・蝦夷が桃生城を攻め、その西郭を破る。

・佐伯今毛人らを遣唐使に任命。吉備真備没。

・出羽国の志波村の蝦夷が立ち上がる。陸奥国の胆沢の蝦夷も立ち上がる。

・藤原良継が内大臣になる。藤原良継没。

・藤原魚名が内臣ついで忠臣になる。

・藤原百川没。この頃、藤原清河が唐で客死。

・覚繁城の築城を計画。伊治比麻呂が反乱を起こし、按察使を殺害し、多賀城を占領して放火した。

 

 (やまとねこみすまるいよよてらすのみこと)

〇 日本根子皇統弥照尊(第五十代)桓武天皇

●卷三十七 桓武紀二 延暦元年正月より延暦二年十二月まで

●卷三十八 桓武紀三 延暦三年正月より延暦四年十二月まで

●卷三十九 桓武紀四 延暦五年正月より延暦七年十二月まで

●卷四十 桓武紀五 延暦八年正月より延暦十年十二月まで

・光仁天皇が譲位。山部皇太子が即位し、早良親王は皇太子になる。光仁太上天皇崩。

・氷上川継の謀反事件が起きる。宮司整理のため、造宮省、銭鋳司などを廃止した。

・長岡京の予定地を視察。長岡京に遷都。

・淡海三船没。大伴宿邇家没。藤原種継暗殺。皇太子早良親王を廃す。

・蝦夷との交易禁止。この年、最澄延暦寺を創建。

・三関を廃止した。

・刪定律令施行。畿内の班田使任命。


6 継体天皇の謎


(1)継体天皇の出自


(引用:Wikipedia)

1)概略

 継体天皇(450年?〈允恭天皇39年〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)は、日本の第26代天皇(在位:507年3月3日?〈継体天皇元年2月4日〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)

 

 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。漢風諡号「継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。

 

 『記紀』によれば、15代応神天皇5世孫であり越前国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火などの推戴(すいたい)を受けて即位したとされる。

 

 戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯が議論の対象になった。その中で、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。

 

 一方で、傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声もあって、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論がある。 

 

2)生涯

 『記紀』は共に継体天皇応神天皇の5世の子孫と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛の故郷である越前国高向(たかむく)(現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。

 

 『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。

 

 やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。即位19年後の526年にして初めて大倭後の大和国)に入り、都を定めた。翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、しかし新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している。

 

 対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば継体6年(513年)に百済から任那の四県の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した。

 

 531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。崩年に関しては『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は43歳、『日本書紀』では没年齢は82歳。

  

3)生没年

※小見出しはnoriokakyouが加筆

●推定生年

 『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。

 

●推定没年

 『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。

 

●『日本書紀』の注釈

 『日本書紀』では、注釈として『百済本記』(散逸)の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」を引用して政変で継体以下が殺害された可能性を示唆しており、このことから継体の本来の後継者であった安閑・宣化と、即位後に世子とされた欽明との間に争いが起こったとする説がある。

 

 ただし「天皇」とは誰を指すのか不明であり、本来百済のことを書く歴史書の記述にどれほどの信頼を置いてよいかという疑問もある。

 

●『上宮聖徳法王帝説』&『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』の記述

 『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)によると、「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されているが、『書紀』の年記によればこの年は宣化天皇3年(538年)であり、欽明朝に戊午年は存在しない。しかし仮に継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たることとなり、あるいはこの仮説を裏づける傍証となりうる。

●今城塚古墳の石棺

 また、真の継体陵と目される今城塚古墳には三種類の石棺が埋葬されていたと推測されている。一方で、この辛亥の年とは531年ではなく60年前の471年とする説もある。『記紀』によれば干支の一回り昔の辛亥の年には20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、混乱に乗じた21代雄略天皇が兄八釣白彦皇子や従兄弟市辺押磐皇子を殺して大王位に即いている。

●編纂者の解釈

 「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞情報のみを持っていた『百済本記』の編纂者が誤って531年のことと解釈し、『日本書紀』の編纂者も安康にまつわる話であることに気づかずに(「天皇」は安康、「太子」は後継者と目していた従兄弟の市辺押磐皇子、「皇子」はまま子の眉輪王か)継体に当てはめたとも考えられる。  

 

4)出自を巡る議論

※小見出しはnoriokakyouが加筆

●即位事情の議論

 既述の通り、『記紀』によれば先代の武烈天皇に後嗣がなかったため越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ即位したとされる。『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来るが(右図参照)、この特異な即位事情を巡っては種々の議論がある。

 

●越前王朝説

 『記紀』の記述を信用するならば、継体を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。しかし戦後に天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体はそれまでの大王家とは血縁関係のない新王朝の始祖であるとする説が提唱されるようになった。代表的な研究者である水野祐によればいわゆる万世一系は否定され、出自不明の26代継体天皇から新たな王朝が始まったことになり、この新王朝は継体の出身地から「越前王朝」と歴史学上呼称される。

 

●息長氏説

 一方で、その出自を近江国坂田郡を本拠とする息長氏に求める説もあり、その根拠としては息長氏が応神天皇の孫の意富富杼王を祖とする皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)で、後の天武朝には八色の姓の最高位を賜るなど朝廷から格別な待遇を受けた氏族であり、継体自身も妃の一人を息長氏から迎えていることなどがあげられる。いずれにしても決め手となるような史料はなく、継体の出自に関しては結論は出ていない。

 

●武力制圧説

 また、即位から大和に宮を定めるまで何故か19年もの時間がかかっていることも不可解で、そのため即位に反抗する勢力を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出た。継体が宮を構えたのはいずれも河川交通の要衝の地で、大伴氏など継体の即位を後押ししたとみられる豪族の土地も多く、それら支援豪族の力を借りながら漸進的に支配地域を広げていったようにも窺える。

 しかし大伴氏などは大和盆地に勢力を持っており、継体が宮を築くまで大和にまったく政治力を行使できなかったとは考えづらく、もしも反乱による武力闘争があったのであれば、大和遷都の翌年に起こった筑紫君磐井の乱のように『記紀』に記されていないのは不自然である。

 

●交通路の掌握

 一方で、継体が育ったとされる越前、生まれた土地とされる近江、宮があったとされる山城・河内、陵墓が設けられた摂津は日本海−琵琶湖−宇治川−淀川−瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付いており、継体が地方豪族ながら大王位を継げた背景にはこうした交通路を掌握して強大な政治力・経済力を維持していたことにあるとし、本拠地を離れて大和入りする動機が弱いために敢えて大和に入らなかったとする見方もある。

 

●反対勢力の葛城氏

 水谷千秋は武力闘争までには至らなかったものの継体の即位に反対する勢力は存在したとし、その中心となった氏族を葛城氏と推測している。その根拠としては、葛城氏は武烈までの仁徳天皇の王統と密接な関係があったこと、以降の時代に目立った活動が見られないこと、6世紀後半には拠点であった北葛城地方が大王家の領有となっていることを挙げている。さらに大和入りの後に安閑・宣化が蘇我氏の勢力圏に宮を造営していることから、葛城氏の支流とみられる蘇我氏は宗家と距離を置いて継体の即位を支援し、この時の働きが後の飛鳥朝における興盛のきっかけとなったとしている。

 

●北部・中部九州の自立気配

 また、考古学的な調査からもヤマト王権に従順ではなかったと窺える北部・中部の九州の首長達が中央の混乱に乗じて自立をする気配を見せ、そうした傾向に対する危機感が反目を繰り返していた中央豪族達を結束させ、継体の大和入りを実現させたとしている。大和入りの翌年に勃発した磐井の乱は、継体の下に新たに編成されたヤマト王権の試金石となり、この鎮圧に成功したことによって継体は自らの政権の礎を確固なものとしたと推測している。

 

●各地域国家の連合

 近年では、5世紀の大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説もある。継体以前のヤマト王権は各地域国家の連合で、王統は一つに固定されていなかったという意味であり、武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から選出されたとしている。

 

●傍系王族説

 既述の通り、近年では継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。すなわち『上宮記』逸文が載っている『釈日本紀』には「上宮記曰一伝」という記述があるが『上宮記』の作者は別史料を引用しており、それにはさらに古い資料に基づいた系譜が載っていたとされていることを根拠とする。

 

●世界最長の王朝

・仮に継体新王朝説を採用した場合でも、現皇室は1500年の歴史を持ち、現存する王朝の中では世界最長である。それ以前の系譜は参考ないしは別系とするなどして「実在と系譜が明らかな期間に限っても」という条件下においてもこのように定義・認定されることから、皇室の歴史を讃える際などに、継体天皇の名前が引き合いに出されることが多い。


(2)磐井の乱


(引用:Wikipedia)

  磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。

 

 磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。

 

 なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。 

 

 1)経緯

 真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。

 

・527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

 

・磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

 

・528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

 

・乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)としており、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。

 

2)意義

 磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎藤間生大門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト王権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。

 

 これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎三品彰英らから出された。ただしそれらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったことと、乱の意義に着目した研究が続けられた結果、磐井の乱古代史重要事件と位置づける見方が通説となった。

 

 1970年代半ばになると、継体期前後国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明山尾幸久吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。

 

 1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する見方は必ずしも一致していない。

 

 一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が判明するに従って、九州広域にわたって栄えていた特有の文化圏と磐井の乱とを関連づけるようになった。すなわち磐井の乱までのヤマト王権とは強い中央集権体制であったのか、それとも各地豪族の連合的政権であったのか、についての議論がなされている。 

 

3)参考文献

・吉村武彦:『継体・欽明朝と「内乱」』「古代史の基礎知識」所載、角川選書、2005年

・倉本一宏:『大和王権の成立と展開』「新体系日本史1 国家史」所載、山川出版社、2006年

 

・鬼頭清明:『大王と有力豪族 - 磐井の戦争とは - 』「週刊朝日百科 日本の歴史41 邪馬台国と大王の時代」所載、朝日新聞社、1987年

 

・篠川賢:『磐井の乱』「日本古代史研究事典」所載、東京堂出版、1995年

・水谷千秋:『謎の大王 継体天皇』、文藝春秋、2001年 

4)外部リンク

八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷 


(3)古事記に書かれた磐井の乱


作業中


(4)日本書紀に書かれた磐井の乱


(出典が解らないので、当該Webサイトへリンクしています。、参考までに、既述に関連するサイト(青太字で表記)へのリンクと、主要史跡の位置図を追加しました。)

 この筑紫君磐井が起こしたという「磐井の乱」について『日本書紀』に書かれた話を現代 語で読んでみよう。

 

1)『日本書紀』の現代語訳

 朝鮮半島の南部にある任那 (み ま な) の一部が新羅に奪われた。このため継体 21 年(527)継体天皇近江毛 野(け なの)新羅攻撃を命じた。それを受けて毛野臣は 6 万の兵を率いて奪還に向か った。この頃、筑紫国造磐井は朝廷に反逆しようと機会を狙っていた。それを知った新羅は 磐井にワイロを送り、毛野臣軍を防ぐように勧めた。

 

 磐井は火国(佐賀・熊本)豊国(福岡東部・大分)に勢力を伸ばし、朝廷の命令に従わ なかった。対外的には、海路を断って高麗、百済、新羅、任那からの毎年の朝貢船を自国に 誘導し、対内的には毛野臣の軍勢を遮って無礼な言葉で、 「今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は同じ伴部として肩を寄せ、肘をすり合わ せて同じ釜の飯を食った仲ではないか。どうしてにわかに使者となったお前に従えるか」 と言って戦い、命令を受け入れなかった。磐井は驕り高ぶっていた。毛野臣は前進できずに 滞留した。

 

 継体天皇は大伴大連金村物部大連麁鹿火 、そして許勢大臣男人らに言われた。 「筑紫の磐井が背いて、西の田舎の国を所有している。誰か将軍となって成敗する者は?」 大伴大連らが皆そろって、 「まっすぐで勇敢で軍事に心得があるのは、麁鹿火の右に出る者はいません」 と申し上げると、天皇は「よかろう」と言われた。

 

 秋 8 月 1 日に帝は「大連よ、例の磐井が従わない。そなたが行って討て」と命じられた。 物部麁鹿火大連は拝して申し上げた。 「そもそも磐井は西の田舎のずるくて悪賢いやつです。川が道を阻んでいるのを当てにし て仕えず、山が高いのを利用して乱を起こしています。徳分がなく、道に背いています。あ などっておごり高ぶり、自分は賢いと思っています。昔から、大伴家の祖道臣( おやのみちのおみ) から室屋(むろや)まで、帝を守って戦って来られました。民を苦しみから救う事は、大伴家も私も同じです。 天が助ける事を行うのは、私めが重要視する所です。謹 し んでお受けします」と申し上げた。

 

 天皇は 「優れた将軍が 戦 いくさ をするのは、民に恩恵を施して、思いやって治める事と同じだ。攻めて は川が決壊するように破壊力があり、戦えば風のように敵をなぎ倒すものだ」と言われ、続 けて「大将軍は民の命だ。国や家が滅びないのは、そのお蔭だ。務めよ。謹んで天罰を行え」 と言われた。 帝はみずから大将の印のマサカリを大連に授け、 「長門(ながと)(山口県)から東は私が取ろう。筑紫より西の方はそなたが治めよ。賞罰を行って 政 まつりごと をせよ。いちいち奏上せずともよい」と言われた。

 

 継体 22 年(528)の冬、11 月 11 日、大将軍、物部大連麁鹿火は自ら、賊軍の長の磐井と 筑紫の御井郡で交戦した。軍旗や軍鼓が向き合い、砂ぼこりが入り乱れた。この戦いがす べてを決する事が分かっているので、両陣営は決死の戦いをした。物部麁鹿火はついに磐井 を斬って、境を定めた。 12 月、筑紫君葛子(くずこ)は父の罪に連座して殺される事を恐れて糟屋屯倉を献上し、死罪を逃 れるように願い出た。

 

 以上が『日本書紀』に書かれた内容である。この時、継体天皇は 79 歳だった。磐井につ いては、天皇に反逆し、新羅のワイロを受け取って毛野臣の軍勢を遮るような横暴な田舎の 賊長として描かれている。『筑後国風土記』逸文にも皇化に従わず、豪強、暴虐で、生前に 墓を造ったと記す。 実際はどうだったのだろうか。勝者の一方的な見解だけで歴史を捉えることはできまい。

 

2)福岡の各地に残る磐井の伝承

 「磐井の乱」を捉えるには数少ない史料しかないが、この頃の話が福岡や佐賀には断片的 に残っている。これらを総合すると、次のような状況が伺える。

 

 磐井はそれより半世紀前に起こった筑紫の大洪水の治水工事を行っていた。磐井の拠点 となる磐井城は久留米市御井町にあり、磐井はその南の明星山(下図参照)に山城を築いた。磐井という 名は山城を堅固にするために岩を大量に運ばせた事から付いたという。

 

 肥前の拠点として武雄市に砦を造り、磐井の丘(下図参照)と呼ばれた。そこは今、磐井八幡宮となっ ている。また、鳥栖市の朝日山(下図参照)は葛子の砦という話があり、今は宮地嶽神社(下図参照)が鎮座している。 磐井の乱後、数年経って磐井の残党が決起して反乱を起こしたが、再び制圧された話もあ る。

 

 磐井の姓が不明だが、「福岡県神社誌概論」には「阿倍磐井」と書かれている。すなわち 磐井は阿倍姓だったことになる。

 

 磐井の子には葛子がいるが、その葛子の子供に勝村と勝頼がいて、福津市宮地嶽神社の祭 神となっている。その姓は阿部である。この神社にはさらに古い時代、阿部高麿、助麿がい て、豊浦宮(とゆらの)(下関市忌 宮 いみのみや 神社の地)で新羅の塵輪 (じんりん) と戦って討ち死にしている。

 

 また、葛子の子にもう一人、有名な鞍橋君(くらじのきみ) がいる。鞍橋君は百済王子と共に新羅と戦い、 百済王子を助けたことが『日本書紀』に書かれていている。ところが、いずれも姓が書かれ ていないために磐井と鞍橋君が一族であることが分からないようになっていた。

 

 これらは、磐井一族が新羅寄りではなく、百済と親交があった一族であることを示してい る。『日本書紀』が意図的に姓を消し、新羅寄りに見せかけ、真実から目を逸らせようとし ていることが伺える。

 

3)日本書紀内容の問題

 書紀の内容にも問題がいくつか見られる。

(1) 継体天皇が麁鹿火に分割統治の話をしている。山口県から東を天皇、筑紫から西 を麁鹿火に与える、となっているが、そこに中間の豊前が出てこない。

 

(2) 磐井が「筑紫国造」なのに、葛子が「筑紫君」に昇格している。

 

(3) 毛野臣が近江から 6 万の軍勢で進発した。この数は不問にしても、九州には軍船 に乗って来たはずで、食糧と水が確保できれば、毛野臣軍は磐井の力を借りずと も、自力で渡海できたはずである。

 

(4) 『古事記』によると、継体天皇527 年 4 月 9 日に 43 歳で崩御している。これ は磐井の乱の前となる。(日本書紀:531年又は534 )

 

(5) 磐井の死地について『日本書紀』は御井郡とし、『風土記』は豊前国の上 膳 (かみつみけ) 県と する。

 

  以上、簡単だが、問題点の一部を挙げてみた。『日本書紀』に描かれた「磐井の乱」はま だまだ検討を要することが分かる。地元の伝承の掘り起こすことで、更に具体的な歴史が描 かれるのではないかと思われる。

 

磐井城(福岡県久留米市:明星山)の位置図

磐井の丘(磐井八幡宮)(佐賀県武雄市)

葛子の砦(宮地嶽神社)(佐賀県鳥栖市:朝日山公園)


(5)筑後国風土記(逸文)


作業中

(引用:磐井の乱の再検討

〇引用文献:磐井の乱の再検討 pdf 著者 荊木美行(※)

(※)著者紹介:日本の歴史学者。皇學館大学研究開発推進センター副センター長・教授。和歌山県和歌山市出身。専門は日本古代史。古代法制史・律令官制の研究をテーマとし、他に記紀研究、また最近は『風土記』の学史的研究も多く著す。文章表現に関する著述もある。

※この(5)項は、前述引用文献から抜粋して記述しています。

 

〈要旨〉

  継体天皇朝に勃発した磐井の乱については、『古事記』『日本書紀』や『筑後国風土記』逸文に記述があるほか、『国造本紀』にもにもわずかながら記載されるなど、六世紀前半の事件としては関聯史料に恵まれている。

 

 とくに、『古事記』は、武烈天皇以下推古天皇に至るまでの部分は、政治的事件にふれた記述はほとんどない。そうしたなか、継体天皇段にみえる磐井の乱は異例の言及といってよい。

 

 小論は、これまでの研究の蓄積を踏まえながら、これら諸史料の相互の関聯性や信憑性について再考したものである。卑見によれば、この乱に関する史料としては、『古事記』の記録の内容が、本来の素朴な伝承としてもっとも信頼がおけると思う。

 

 『日本書紀』は乱の詳細を記録するが、その勃発を当時の朝鮮半島情勢と結びつけて説明する点などに疑問が残る。

 

 また、風土記の記載は、磐井の墓とみられる岩戸山古墳に関する貴重な記録ではあるが、八世紀前半に採訪されたもので、そこにみえる伝承もどこまで二百年前の実情を伝えたものかは疑わしい点もある。ただ、こうした伝承は、風土記の撰者の創作などではなく、あくまで現地で採録されたものであろう。

 

はじめに

(略)(引用文献参照)

1)『日本書紀』と磐井の乱

〔小見出し〕継体天皇紀にみえる磐井の動向/乱の勃発は527年か/磐井の立場/筑紫は「地域国家」か/『藝文類聚』の影響

〔内容〕 (引用文献参照)

 

2)『古事記』の記載をめぐって

〔小見出し〕 『古事記』の石井

〔内容〕  (引用文献参照)

 

3)『筑後国風土記』逸文の再検討

〔小見出し〕風土記の語るもの/磐井の墓と岩戸山古墳/岩戸山古墳その後/別区と裁判風景/『丹後国風土記』のケース

 

3.1)風土記の語るもの

〔 風土記逸文について〕

 『筑後国風土記』逸文には、磐井の墓とそれにかかわって乱の経緯とにふれた古老言い伝えを記載している。記紀にみえる重要な事件が風土記にも語られる例は、顕宗・仁賢天皇の逃避譚などがあるが、それほど多いわけではなく、その意味で、磐井に関する『筑後国風土記』逸文は貴重である。

 

 この記事は、『釈日本紀』巻十三に「筑後国風土記曰」として引用される『筑後国風土記』の逸文である。

 

〔九州地方の古風土記のグループ〕

 九州地方の古風土記には二つの種類の風土記が存する。

 

 現存『豊後国風土記』『肥前国風土記』を含むグループを甲類、逸文のみが知られる別のグループを乙類と称している。

 

 それぞれのグループで書式や文体に統一性がみられ、おそらく甲乙ともに、各地から提出されたものを大宰府において調整したのであろう。とくに、乙類については、『釈日本紀』に三箇所、「筑紫風土記曰」として引用される逸文が存在することから、あるいは「筑紫風土記」という総称を以て呼ばれたのかもしれない。

 

〔甲・乙グループの成立〕

 甲類は『日本書紀』を参照していることから、その成立は『日本書紀』の完成した養老4年(720)以降のことで、これとのかかわりからいえば、乙類は、和銅6年(716)にいわゆる風土記撰進の通達が出てから、比較的はやい時期に撰進されたのではないかと野推測が成り立つ。

 

 「筑紫風土記の名を負った風土記が各国別々の名を負った風土記よりも古い」(坂本太郎氏)ことから、九州地方において風土記が2度編纂されたことは、動かし難い事実である。

 

〔『筑後国風土記』逸文「筑紫国造磐井」条〕 

(原文)(引用文献参照)

(読み下し文)(引用文献参照)

 

3.2)磐井の墓と岩戸山古墳(引用文献参照)

 前述逸文は、磐井の墓についての描写と、それにかかわる伝承を載せているが、森浩一氏は「今日の考古学者が一つの古墳の概説を書いても、これほど見事には書けないと思うほど要点を洩らしていない」と絶賛している。

 

3.3)岩戸山古墳その後

 八女古墳群では、岩戸山古墳以降も、6世紀末ごろまで乗場古墳や鶴見山古墳が築造されている。特に乗場古墳は葛子の墓に比定されている。これらの後続古墳は、岩戸山古墳にくらべるといずれも小規模であり、磐井の叛乱ののち、筑紫君一族の勢力が衰退したとする考えがある。

 

 しかし、こうした考えはあたらない。なぜなら、後期古墳における規模の縮小は全国的な傾向だからである。したがって、これらの古墳の規模は筑紫一族の勢力の衰退とは無関係で、むしろ、乱の鎮圧後も、在地の政治集団としての勢力の衰退はなかったと考えるべきである。

 

 ただ、磐井の乱後の直後に、葛子による糟屋屯倉の献上があり、その後も安閑天皇紀5月9日条によれば、筑紫・豊国・火国に盛んに屯倉が設置されたというから、この記事の通りだとすれば、ヤマト政権の九州支配は、ピンポイント的ではあるが、確実に浸透していったといえよう。

 

3.3)別区と裁判風景

 略(引用文献参照)

 

3.4)『丹後国風土記』のケース

 略(引用文献参照)

 

おわりに ーヤマト政権と磐井ー

〇磐井の乱はなぜおきたのか

*磐井が、ヤマト政権ないしはその支配に対して、何らかの不満を抱いていたことは確かであろう。そして、それが継体天皇朝に顕在化したのであろう。

 

*日本書紀の記述では、新羅が賄賂を贈って毛野の軍を防遏するよう仕向けたとあり、いわば磐井を焚きつけたという書きぶりである。一般的な背景として、ヤマト政権の朝鮮半島出兵があったとする考えは頭から否定はできない。

 

〇継体天皇朝のヤマト政権

〔大和政治集団の弱体化〕

*5世紀五世紀後半の雄略天皇朝以降は、吉備や筑紫で大規模な叛乱が蜂起している。大和政権は、それらの鎮圧に成功したわけだから、その意味では、叛乱の平定を梃子に、地方の政治集団に対する影響力を強めていったと評価できる。しかしながら、べつな観点からすれば、こうした叛乱が勃発する背景には、ヤマト政権の機軸である大和の政治集団の弱体化があったといえる。

 

〔皇位継承をめぐる骨肉の争い〕

*周知のように、五世紀のなかごろから六世紀前半にかけては、皇室内部で皇位継承をめぐる骨肉の争いが、絶え間なくつづいた時代であった。仁徳天皇ののち、母の皇子があいついで即位してからは履中・反正・允恭という同母の皇子があいついで即位してからは、兄弟による皇位継承が定着する。しかし、これが、皇位をめぐる争いに拍車をかける原因となった。履中天皇は、即位前に同母弟の住吉仲皇子を殺害しているし、允恭天皇も同母兄の木梨軽皇子を自害に追い込んでいる。しかし、もっとも残虐なふるまいをしたのは雄略天皇である。

 

〔雄略天皇による兄弟の排斥〕

*同母兄八釣白彦皇子、同母兄境合黒彦皇子、従兄弟眉輪王、市辺押磐皇子、御馬皇子を殺害

 

*殺された市辺押磐皇子の子で、播磨国に身を隠していた億計王(顕宗天皇)・弘計王(仁賢天皇)兄弟の即位

 

*仁賢天皇の子の武烈天皇にも皇子が無く、ついに仁徳天皇の皇統は途絶えてしまう。

 

〔日本書紀の編纂〕

 『日本書紀』は、天武天皇十年(六八一)に勅命によって編纂が開始され、持統・文武・元明天皇三朝を経て、元正天皇朝の養老四年(720)に完成したが、編纂に関与した歴代天皇は、すべて継体天皇を直接の始祖とする皇統に属する。彼らは、断絶した皇統の最後に出た武烈天皇をことさら悪者に仕立てることで、つぎに登極した継体天皇を際立たせようとしたのであろう。しかし、みかたをかえると、こうした記述も当時、ヤマト政権が危機に瀕していたことを、編者自身が強く認識していたことを物語っている。

 

〔継体天皇即位直前のヤマト政権〕

*即位後も20年間大和入りを果たせなかったというから、その後の政権の基盤も盤石ではなかったであろう。磐井の無礼な振る舞いも、こうしたヤマト政権の衰微と無関係だったとは思えない。ヤマト政権の弱体化や内紛を熟知していた磐井が、ヤマト政権を侮る態度に出たこととしても不思議ではないのである。

 

〔磐井の乱後〕

 しかし、結局は、ヤマト政権が磐井を押さえ込んだ。これは、強固な権力基盤をもつ継体天皇を迎え、さらにはその大和入りも実現したことで息を吹き返したからであろう。手強い磐井の軍を鎮圧できたのは偶然ではなく、天皇の擁立に成功し、権力基盤を再編・強化し得たことのあらわれだと言われる。

 

〔屯倉の増設〕

磐井を殺害したことで、実力のちがいをまざまざと見せつけたヤマト政権は、以後地方支配を強化していく。安閑天皇紀にみえる屯倉の増設や、国造の任命などは、そうした事情を雄弁に物語っている。特に、安閑天皇朝に設置されたという二十六の屯倉のなかには、磐井の勢力圏であった筑紫・豊・火の三国に点在する八つの屯倉がふくまれていることは、磐井誅滅が地方支配を確立していくうえで大きなエポックであったことを如実に示している。

 

〇今後の課題

小論の整理

①乱の発端を、磐井が近江毛野軍の渡海を阻んだことにあるとする『日本書紀』の説明は信憑性に乏しい。

 

②近江毛野の任那派兵にまったくふれていない『古事記』の記述のごときものが、事実の伝承に近いものであったと考えられる。したがって、乱の勃発年も不明である。

 

③磐井討伐の原因が、彼のヤマト政権に対する不服従にあったことは間違いないとしても、具体的にはなにがきっかけで、ヤマト政権が磐井征討に乗り出したのかは不明とするほかない。ただし、磐井の「无礼」「不偃皇風」は当時弱体化の一途を辿っていたヤマト政権への侮りに起因する可能性が大きい。

 

④北部九州で強大な勢力を誇った磐井が敗れたのは、畿内とその周辺に強固なネットワークと勢力基盤を有した継体天皇の擁立に成功したことによるところが大きい。

 

⑤風土記の伝える伝承も、八世紀初頭に採訪されたものであることを考慮すると、磐井の乱の実相を記録したものとはいえない。ただし、伝承自体は、現地において採訪されたものであり、断じて風土記編者の創作ではない。

 

⑥乱の直接の原因などによくわからない点はあるものの、乱後にヤマト政権の地方支配が滲透していくことは確実で、その意味で、磐井の乱は大きな事件であったと評価できる。

 

 わずかな史料でからではあるが、ヤマト政権の求心力が衰えた時期に、中央に対して反抗的な態度で臨む筑紫政権の首長の磐井が、体勢の立て直しに成功した継体天皇によって掣肘されたことは、事実として認めてよいであろう。


(6)継体天皇と「磐井の乱」の真実


次の文献が、継体天皇の謎に近づけそうなので、抜粋したいと思います。 

《『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独(消えた古代王朝)》(P91~114)

(古代史に真実を求めて 古田史学第23集)古田史学の会編 明石書店 2020.3.30初版

継体と「磐井の乱」の真実   正木 裕 著

項 目

一 多くの謎を抱える「書紀」の継体と「磐井の乱」記事

1、「書紀」に記す「磐井の乱」

2、『古事記』「風土記」の「磐井の乱」

3、「磐井の乱」の記事には矛盾や不可解なことが多い

4、継体の崩御と安閑即位に「空白」が生じている

5、「百済本紀」記事に関する古田武彦氏の論証

 

二 磐井は倭王武を継ぐ倭国の大王だった

1、「書紀」記事が示す「磐井」は倭国(九州王朝)の大王

2、磐井による「毛野臣の渡海妨害」は「造作」

 

三 「毛野臣」と入れ替えられた「磐井」

1、新羅討伐は「倭王武」を継ぐ磐井の事績

2、「磐井の悪行」は「毛野臣の悪行・悪政」

3、「加羅擾乱」と毛野臣の悪政・悪行

4、「毛野臣の謀反」の内容も記されていた

 

四 改変された「物部麁鹿火への磐井討伐令」

1、継体の「麁鹿火への磐井討伐令」と「麁鹿火」の奏上

2、530年の半島への「目煩子(めずらこ)」派遣

 

五 大伴金村の新羅討伐

1、狭手彦の派遣と目煩子の派遣

2、筑紫の国政を執った「磐」とは

 

六 継体と麁鹿火の「支配地分割案」の真実

 

七 磐井の死とは

1、古田武彦氏の見解

2、磐井の死の様々な可能性

 

八 「筑後国風土記」の「磐井の乱」

 

九 継体紀と「磐井の乱」に隠された大和朝廷の意図


この書籍は、著作権法上の制限が課せられていますので、書籍の紹介と項目だけにとどめます。


(7)継体・欽明朝の内乱


(引用:Wikipedia)

1)継体・欽明朝の内乱

  ・ 継体・欽明朝の内乱は、仮説上の内乱。当時の歴史を記録した文献資料において不自然な点が存在することから、6世紀前半の継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したという仮定に基づく。

 発生した年を『日本書紀』で継体天皇が崩御したとされている辛亥の年(西暦531年)と具体的に定めて、辛亥の変(しんがいのへん)と呼ぶ説もある。

 

2)概要

 『日本書紀』によれば、継体天皇の崩の年次について、『百済本記』の説を採用して辛亥の年(531年)とする一方で、異説として甲寅の年(534年)とする説も載せている。甲寅の年は次の安閑天皇が即位した年とされ、これは通常継体天皇の没後、2年間の空位があったと解釈されている。

 

 ところが、ここにいくつかの疑問点が浮上する。

『百済本記』の辛亥の年の記事は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」(※1)

 

『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇即位した年が辛亥の年(531年)とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。

 

『古事記』では継体天皇丁未の年(527年)崩御したことになっている。

 こうした矛盾を解釈する方法については、明治時代に紀年論が注目されて以来議論の対象となった。

 

 まず最初に登場した説は継体天皇崩御丁未の年(527年)欽明天皇即位辛亥の年(531年)として間の4年間に安閑天皇・宣化天皇の在位を想定する説である。この説では『古事記』・『日本書紀』ともに安閑天皇の崩御乙卯の年(535年)と一致していることと矛盾が生じる(勿論、これを正確な史料に基づく年次と取るか、同一の出典が誤っていたと取るかで議論の余地が生じる)

 

 昭和時代に入って喜田貞吉『百済本記』が示した辛亥の年(531年)に重大な政治危機が発生し、その結果として継体天皇の没後に地方豪族出身の尾張目子媛を母に持つ安閑-宣化系 (※2) 、仁賢天皇の皇女である手白香皇女を母に持つ欽明系 (※3) に大和朝廷(ヤマト王権)が分裂したとする「二朝並立」の考えを示した。

 

 この考え方は第二次世界大戦後に林屋辰三郎によって継承され、林屋はそこから一歩進めて継体天皇末期に朝鮮半島情勢を巡る対立を巡る混乱(磐井の乱など)が発生し、天皇の崩御後に「二朝並立」とそれに伴う全国的な内乱が発生したとする説を唱えた。『日本書紀』はこの事実を隠すためにあたかも異母兄弟間で年齢順に即位したように記述を行ったというのである。

 

 だが、『百済本記』は現存しておらず、その記述に関する検証が困難である。更に同書が百済に関する史書であるため、倭国(日本)関係の記事を全面的に信用することに疑問があるとする見方もある。

 

 そもそも辛亥の年に天皇が崩御したのが事実であるとしてもそれが誰を指すのか明確ではないのである(安閑天皇の崩御の年を誤りとすれば、辛亥の年に宣化天皇が崩御して欽明天皇が即位したという考えも成立する)

 

 このため、「二朝並立」や内乱のような事態は発生せず、この時期の皇位継承については継体の崩御後にその後継者(安閑・宣化)が短期間(数年間)で崩御して結果的に継体→安閑→宣化→欽明という流れになったとする『日本書紀』の記述を採用すべきであるという見方を採る学説も有力である。

 

 更に「二朝並立」を支持する学者の中でも必ずしも林屋の説を全面的に支持されているわけではない。

 

 例えば、林屋は欽明天皇の背後に天皇と婚姻関係があった蘇我氏がおり、安閑・宣化天皇の背後にはこの時期に衰退した大伴氏がいたと解釈するが、背後関係を反対に捉える説をはじめ、継体天皇とその後継者を支持する地方豪族と前皇統の血をひく欽明天皇を担いで巻き返しを図るヤマト豪族との対立 (※4) とみる説、臣姓を持つ豪族と連姓を持つ豪族の間の対立とみる説などがある。

 

 継体天皇から欽明天皇の時代にかけては、仏教公伝や屯倉の設置、帝紀・旧辞の編纂、和風諡号の導入、武蔵国造の乱など、その後の倭国(日本)の歴史に関わる重大な事件が相次いだとされており、「二朝並立」や内乱発生の有無がそれらの事件の解釈にも少なからぬ影響を与えるとみられている。

 

3) 脚注

※1: 「又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」

 

※2: 宣化天皇は安閑天皇の同母弟。

 

※3: 欽明天皇は安閑・宣化天皇の異母弟。ただし、母方を通じて武烈天皇で断絶したそれ以前の皇統の血を引いていることになり、当然母親の格式も高い。

 

※4: 継体天皇は遠い皇孫でありながら近江・越前を根拠として、武烈天皇崩御後の混乱の後に実力で皇位に就いた。『日本書紀』には平穏な即位が謳われているが、実際には大和入りに20年もかかっていることから即位に反発する勢力も存在して政情不安を抱えていたとみられている。

 

●参考文献

・直木孝次郎「継体・欽明朝の内乱」(『国史大辞典 5』(吉川弘文館、1985年)

・川口勝康「継体・欽明朝の内乱」『日本史大事典 2』(平凡社、1993年)

・大平聡「継体・欽明朝の内乱」『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年)

 

●関連項目

 ・王朝交替説 


(8)王朝交替説


 (引用:Wikipedia)

 王朝交替説は、日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説

 

 1)概要

 第二次世界大戦前まで支配的であった万世一系という概念に対する批判・懐疑から生まれたもので、1952年に水野祐が唱えた三王朝交替説がその最初のものでありかつ代表的なものである。

 

 ただし、それに先立つ昭和23年に江上波夫が発表した騎馬民族征服王朝説も広い意味で王朝交替説であり、崇神天皇を起点とする皇統に着目している点など水野祐の説が江上波夫の説の影響を受けていることを指摘する学者もいる。のち水野自身、自説をネオ狩猟騎馬民族説と呼んでいる。

 

 また、古代天皇非実在論に基づいている点は津田左右吉の影響を受けており、九州国家の王であった仁徳天皇が畿内を征服して王朝を開いたという説は邪馬台国九州説の発展に他ならず、戦前の抑圧された古代史研究から開放された自由な発想により様々な説を自由に組み合わせてできた学説であるといえる。

 

 水野の三王朝交替説はその後様々な研究者により補強あるいは批判がなされていくが、現在では万世一系を否定する学者でも水野の唱えるように全く異なる血統による劇的な王権の交替があったと考えるものは多くない。水野のいう「王朝」の拠点が時代により移動していることも政治の中心地が移動しただけで往々にして見られる例であり、必ずしも劇的な権力の交替とは結びつかないとされている。

 

 また、近年では、ある特定の血統が大王(天皇)位を独占的に継承する「王朝」が確立するのは継体・欽明朝以降のことで、それ以前は数代の大王が血縁関係にあっても「王朝」と呼べる形態になっていなかったとする見解が主流になっている。 

 

2) 水野祐の「三王朝交替説」

 昭和初期(戦前)、津田左右吉は記紀が皇室の日本統治の正当性を高めるために高度な政治的な理由で編纂されたとの意見を表現し、有罪判決を受けた。

 

 戦後になって記紀批判が行えるようになり、昭和29年(1954年)水野祐『増訂日本古代王朝史論序説』を発表。この著書で水野は、古事記の記載(天皇の没した年の干支や天皇の和風諡号など)を分析した結果、崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てたが、これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であった。

 

 水野は、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。そして、15代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開した。

 

 仮説では、記紀の天皇の代数の表記に合わせると、第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝の興廃があったとされる。崇神王朝仁徳王朝継体王朝の3王朝が存在し、現天皇は継体王朝の末裔とされている。

 

 水野祐の学説は当時の学界で注目はされたが賛同者は少なく、その後水野の学説を批判的に発展させた学説が古代史学の学界で発表された。井上光貞の著書『日本国家の起源』(1960年、岩波新書)を皮切りに、直木孝次郎岡田精司上田正昭などによって学説が発表され、王朝交替説は学界で大きくクローズアップされるようになった。

 

 古代史の学説を整理した鈴木靖民も王朝交替論は「古代史研究で戦後最大の学説」と著書『古代国家史研究の歩み』で評価している。また、王朝交替説に対して全面的に批判を展開した前之園亮一も著書『古代王朝交替説批判』のなかで、万世一系の否定に果たした意義を評価している。 

 

 2.1)3つの王朝について

 崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在した可能性は上記で記したとおりだが、それらについて詳しく述べる。

 

2.1.1) 崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)

 崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよばれている。水野祐は古王朝と呼称した。

 

 この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれることもある。この名称はこの時期に限られており、後代に贈られた和風諡号とは考えられない。

 

 崇神天皇の名はミマキイリヒコイニエ、垂仁天皇の名はイクメイリヒコイサチである。他にも崇神天皇の子でトヨキイリヒコ・トヨキイリヒメなどがいる。ただし、崇神・垂仁天皇らの実在性には疑問視する人も多い。 

 

 古墳の編年などから大型古墳はその時代の盟主(大王)の墳墓である可能性が高いことなどから推測すると、古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測する研究者もいる)行燈山古墳(崇神陵に比定)メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことがわかる。

 

 さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げた大古墳のある地域と重なっていることを考え合わせると、崇神天皇に始まる政権はこの地域を中心に成立したと推測でき、三輪政権と呼ぶことができる。

 

 日本古代国家の形成という視点から三輪政権は、初期大和政権と捉えることができる。この政権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半と推測されている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。

 

 政権の性格は、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」卑弥呼を女王とする邪馬台国の呪術的政権ではなく、宗教的性格は残しながらもより権力的な政権であったと考えられている。

 

2.1.2)応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)

 応神王朝は天皇の宮と御陵が河内 (当時、律令制以前の為、律令制以後の河内国以外の摂津国、和泉国の範囲を含んでいた) に多いことから河内王朝ともよばれている。

 

 この王朝に属する天皇や皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。

 

 河内王朝は上記の王朝交替論のなかでも大きな位置を占める。その理由は、前後の二つの王朝を結ぶ位置に河内王朝が存在するからである。水野祐は中王朝と呼称し、一般に初期大和政権第2次大和政権などと呼ばれる王朝である。 

 

 なお、応神天皇を架空の天皇とする見解もある。応神天皇の出生が伝説的であることから、応神天皇と仁徳天皇は本来同一の人格であったものが三輪王朝河内王朝を結びつけるために二つに分離されて応神天皇が作り出されたとする説で、この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。水野祐も仁徳王朝としている。

 

 河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王が10回にわたり遣使したとの記述があり、倭の五王が河内王朝の大王と推測されることから王朝全体の実在の可能性は高い。ただし、倭の五王の比定は諸説ある。

 

 また、大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、応神天皇は難波の大隅宮に、仁徳天皇は難波の高津宮に、反正天皇は丹比(大阪府松原市)柴垣に、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどから、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことは間違いない。

 

 この河内王朝説を批判する門脇禎二によると河内平野の開発は新王朝の樹立などではなく、初期大和政権の河内地方への進出であったとする。

 

 また、河内王朝説でも直木孝次郎、岡田精司による、瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説や、上田正昭による三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野、井上の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説とがある。

 

2.1.3)継体王朝(近江王朝)

 継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。

 

 また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和にはいったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の息長氏は大王家に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統王位継承資格者であって、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。

 

 なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い (※)。ただし、継体天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また血統の点でも前の大王家の皇女(手白香皇女)を妻として入り婿の形で皇位を継承していることなどから、これを新王朝として区別できるかどうかは疑問とする考え方もある。

 

(※)平安時代の平将門が桓武天皇の5代の末裔であるため、継体天皇の即位は血縁からいえば、平将門が天皇に即位するに等しい行為となる。 

 

3)岡田英弘の倭国論・王朝交代説・日本の建国についての見解

 東洋史学者の岡田英弘は、東洋史学者としての立場から中国・日本の史料を解釈することを標榜し、「日本の建国」に先立つ日本列島の歩みを次のように区分した。

 

中国 (秦・漢時代)地方史構成していた時期。日本列島に散在した倭人の「諸国」とは華僑たちが居住する交易の拠点であり、北九州の「奴国」邪馬台国などの倭王たちは、中国の都合で設置された、倭人の「諸国」の「アムフィクテュオニア」(※)の盟主にすぎず、国家といえるような実態は日本列島にはまだ存在しなかった。

 

※「アムフィクテュオニア」:武器銅鐸青銅の祭器を埋める祭場の姿水に願い、地に祈る呪的文様祭祀同盟 アムフィクテュオニア祭祀王(対比:太陽のシンボルコラム 卑弥呼の鬼道)

 

② 中国の分裂 (三国時代・南北朝時代) に乗じて中国周辺の各地域に独自の政権が成立していく一環として、近畿地方を拠点とする政権が成立した時期。この時期、近畿地方を支配圏として倭国が成立、日本列島の各地や朝鮮半島の南部の諸国を服属させ、その支配者は中国の政権 (三国の魏や南北朝の宋など) から「倭王」の称号を受けた (倭の五王その他)。

 

③ 中国の再統一にともなう国際情勢の激変にともない、日本列島の倭国とその他の諸国がそれぞれの組織を解消して統一国家「日本」を建国。

 

 中国で統一王朝が成立 (隋および唐) し、中国による近隣諸国への攻撃、併合 (突厥・高句麗・百済) がすすみ、日本列島が国際的に孤立するという緊張の中、668年~670年、倭国とその他の諸国は従来の組織を解消、ひとりの君主を中心とする統一国家としての組織を形成し、国号を「日本」、君主を「天皇」と号し、これを「日本の建国」とする。

 

 岡田は、720年に成立した日本書紀について、

「日本の建国事業の一環として編纂され、壬申の乱で兄の子弘文天皇より皇位を奪った天武天皇の子孫である現政権の都合を反映した史料」

と位置づける。

 

 日本書紀にみえる歴代の天皇たちについては、神武天皇より応神天皇までは、創作された架空の存在とし、当時の近畿地方の人々に「最初の倭王」と認識されていたのが「河内王朝」の創始者である (でい、日本書紀でいう仁徳天皇) とし、その後播磨王朝越前王朝が次々に交代したとする。

 

 また、日本書紀が、現皇室系譜を直接には「越前王朝の祖」継体天皇にさかのぼらせている点について、隋書の記述(※)を根拠として、日本書紀には日本書紀の成立直前の倭国の王統について極めて大きな作為があること、また、舒明天皇とそれ以前の皇統の間でも「王朝の交代」があった可能性を指摘している。

 

(※)日本書紀が推古女帝・摂政聖徳太子の治世とする時期、隋の使節は妃や太子のいる男王と会見したと記録している。 

 

● 岡田英弘の王朝交代説

・河内王朝 ・播磨王朝 ・越前王朝 ・舒明天皇以降の「日本建国の王朝」 

 

4)鳥越憲三郎の説

4.1)葛城王朝説

 鳥越憲三郎が唱えた説で、三王朝交替説では実在を否定されている神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。詳細は欠史八代の「葛城王朝説」を参照。

 

 河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。

 

 仁徳天皇葛城襲津彦(そつひこ)の娘磐之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭3天皇を産んでいる。

 

 また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押磐皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢2天皇を産んでいる。

 

 さらに、雄略天皇葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。 


(9)播磨王朝・越前王朝


                        (引用:Wikipedia)

1)播磨王朝  

 播磨王朝は、岡田英弘が提唱した日本古代史の時期区分の学説。奈良県の飛鳥地方に本拠地を置いた倭国の王朝。播磨で「発見」された顕宗天皇・仁賢天皇の兄弟と、顕宗天皇の子武烈天皇の三代から成る。

 

2)越前王朝説

 越前王朝は、岡田英弘の提唱した日本古代史の学説。河内王朝播磨王朝に続く倭国の王朝継体天皇を初代とし、今上天皇まで至る現皇室の直接の祖とされる。

 

 ただし、『日本書紀』が推古天皇の治世(摂政聖徳太子)とする時期を描写する中国資料『隋書』は、倭国を訪問した隋使裴世清が、「オホキミと号し、妃や太子がいる男王と会見した」と記録している。

 

 そこで、推古天皇、聖徳太子の実在に疑念を持ち、「推古天皇と舒明天皇の間に、もうひとつ皇統の断絶があるのではないか」と岡田は指摘している。


作成開始:令和2年6月30日                   最終更新:令和6年5月23日