《その1》1 はじめに
2 人麿羈旅歌の定説解釈への疑問
3 定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向
《その2》4 解釈の鍵を成す地名と慣用句
5 人麿が天の地九州で見たもの・人麿の運命と九州王朝の終焉
《その3》6 応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと
《その4》7 九州王朝は二元統治体制
8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと
《その5》9 難波(津)と過近江荒都の歌
《その6》10 天智天皇とは
11 天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り
《その7》 12 古代通史粗筋
13 おわりに
後書き
《その8》別表「九州年号」/別図「松野連氏考」
本ページの内容
1 YA論文
(1)作成の主旨
(2)YA論文の概要
2 万葉集
(1)万葉集の概要
(2)『甦る万葉集 天智天皇暗殺の歌』
(3)新元号の由来にもなった万葉集
(4)万葉集(索引:巻第一~巻第二十)
3 日本列島代表王朝の推移(出雲王朝以降)
このページは、私の大学同期生 Y . Atsumi 君が、平成20年(2008)8月に亡くなる前、古代史に関心を持つ知人(私も含め。)に配布した論文「我が国古代史の虚構~万葉からの告発」(コピー配布分)から抜粋したものです。
この論文を受け取った時、A 4版 418ページの大作であり、その内容も古代史の通説と大きく異にしていることから、私にとっては、彼の主張が良く理解できないでいました。
彼からこの論文の感想を求められた際、「万葉集等についてはこれまで関心を持って読んだことはないので、この論文の内容についての理解は難しいけれども、『安曇磯良』(※1)等が出てきているので、良く読んでみたい」と答え、これに対して、彼からは「『安曇磯良』を知っているのか!」との反応があったのが印象的でした。
(※1)『安曇磯良』については、福岡県春日市在住時、志賀海神社を訪れたさい、日本国歌「君が代」にちなむ神事に絡んでいるという程度の認識でした。
彼は、論文コピーの前書きで「本文を読む前に」を追記し、この論文を「古田史学の会編『古代に真実を求めて』古田史学論集第七集」(明石書店)に研究論文(p 127~p 144掲載)(※2)「人麿の羈旅八首・下筑紫国二首について」(副題:古田氏『壬申の乱』(〈増補〉人麿原歌」批判)として世に問う機会を得たけれど、期待した反応を得られなかったとしていました。
(※2)研究論文の構成(項目)
はじめに
一 「ヤマト」とは
二 「十首」の作歌場所(定説)に対する疑問
三 「鄙の長道」とは
四 「明大門」「明門」とは
五 「飼飯の海」「稲見の海」とは
六 「山跡島根」とは
終わりに
私は、最近、このホームページで「古代史の謎」のページを追加している過程で、前述の春日市在住の際、北部九州を中心に九州各地の名所旧跡巡りをしたことがあり、九州王朝説についても少し関心を持っていたため、彼の論文の内容が少しづつ理解できるようになり、「継体天皇の謎」〔継体天皇の御生誕年と崩御年及び出身地が古事記と日本書紀で異なること(※3)〕にも少し近づけるところがあるように思ったところです。
(※3)「継体天皇の謎」
① 継体天皇の御生誕と崩御年の違い
推定御生誕:485年(古事記)/450年(日本書紀)
推定崩御年:527年(古事記)/531年又は534年(日本書紀)
② 継体天皇の出身地の違い:近淡海国(古事記)/越前国説(日本書紀)
③ 4か所の遷宮: 樟葉宮(507年)(大阪府枚方市)⇒ 筒城宮(511年)(京都府京田辺市)
⇒ 弟国宮(518年)(京都府長岡京市)⇒ 磐余玉穂宮(526年)(奈良県桜井市)
ただ、私は、古代史については素人であり万葉集の素養もありませんので、彼の主張を正確に理解したわけではありません。又、古代史の定説と大きく異なることがあり戸惑うところもあります。
しかし、この論文では、「古代史の謎」とされている「天孫降臨伝説地」、「邪馬台国・卑弥呼」、「倭の五王」、「磐井の乱」、「白村江の戦い」及び「壬申の乱」等について、九州王朝説をベースに独自の解釈をしています。
これらの解釈は、『古事記』・『日本書紀』の記述と大きく異なっていますが、とりあえず、彼の論文構成に即して、このホームページ の逐次改善を行いながら、彼の論文の内容の理解を深め、「古代史の謎」、特に「継体天皇の謎」をメインとして古代史の謎に迫ってみたいと思いますが、日本の精神文化の伝統(万世一系)については十分に尊重しなければいけないと思っているところです。
1)はじめに
・我が国の古代史・古代文学は、虚構で構成
・万葉集 、就中、柿本人麻呂 の歌がこの虚構を告発
・我が国の古代史・古代文学は虚構されている。この「虚構」とは、言うまでもなく、「近畿天皇家(「大和王朝」)一元論」である。先行せる王朝、「九州王朝」の抹殺である。
・ 七世紀まで九州王朝(倭国)、八世紀以降は大和朝廷(日本国)
2)人麿羈旅歌の定説解釈への疑問
・難波津ではない三津出航、作歌場所の比定・歌解釈等への疑問
・この「羈旅歌八首」&「下筑紫国海路作歌二首」は、大阪から博多に至る、東(鄙:近畿)から西(天:九州)への一定方向の一連の歌である。この証明が、我が国古代史の虚構を告発することになるであろう。
3)定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向
●天鄙とは
・天とは九州王朝直轄領域、鄙とは天域の東、近畿は鄙、国(島)生みと天、壱岐は原型天の中心
・古代歌謡に見る列島三分(天(あま)・鄙(ひな)・東(あずま))、「天」が九州王朝・「鄙」が大和王朝・「東」が関東王朝、唐詩に見る列島三分(扶桑・扶桑東・扶桑東東)
・天と鄙の逆転・・列島主権の移転、王朝交代の立場に立った歌
●倭とは
・倭(やまと)とは本来、九州王朝と筑紫の表意・呼称
・九州王朝は山の王朝、大国主命時代の九州の倭国
●やまと島・やまと島根
・倭嶋(やまとしま)(夜麻登思麻)は九州島、山跡嶋とは日本列島(秋津洲)
・山跡嶋根は壱峻島、日本嶋根は大和の地
・倭の枕詞「しきしまの」・・・本来、九州島。後、日本列島
4)解釈の鍵を成す地名と慣用句/「伊奈美・明(大)門・淡海海」と「大王の遠の朝庭」
●伊奈美国原と三山
・「伊奈美国原」とは、「九州王朝」の王城の地の「国原」、筑前平野である。
・「三山」とは九州王朝の王城の地(やまと)の筑紫三山
●明大門・明門・淡路島と気比の海
・明大門・明門は燈台設置の天(あま)の関門
・淡海国は穴門国。淡海海は気比海
●替え歌と歌の読み
・読替は “ 筑紫関連地を近畿関連地へ ” の常套作為 : 嚆矢(嘘の初め)
●大王之遠乃朝庭
・羈旅十首は、万葉集搭載順に、全て西に向かう。
5)人麿が天の地九州で見たもの/人麿の運命と九州王朝の終焉
●香具山の貴人の死
・九州王朝の未来を託すべき貴人の死、九州王朝の貴人の屍への悲嘆、慟哭
・国忘(くにわすれ)・待真国(まつまくに)とは、「国・真国(まくに)」とは九州王朝(国家)、「国忘(くにわすれ)」とは「国亡」、「待真国」とは 九州王朝の再生待望のことである。
・九州王朝の宮廷詩人・人麿の天回帰と虜囚、大和へ、人麿の刑水死と骸の晒し
●鳴呼見乃浦(あみのうら)の流人(るにん)
・人麿の妻を含む九州王朝大宮人の離島配流と-その身に迫りくる危険(溺死と飢餓)
・麻続王も流刑された九州王朝の貴人
・人麿の家と妻
●肥前吉野に於ける出雲の児等の屠殺と殉難
・子弟の大量粛清死と娘子の殉難死
・人麿が歌う「吉野」、肥前・吉野国・河内の宮 = 滝の都:舟競争・船出が出来る都
●姫島の水死美人と久米の若子
・水死美人と岩屋に幽閉死した九州王朝の王者
・九州王朝の和布刈神事とその途絶
・岩屋に幽閉死した大国主命
・久米の若子の幽閉地は志賀島か
・九州王朝の王者・久米の若子とは
6)応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと
●応神王朝Ⅰ
*狗奴国
*神武天皇・仲哀天皇・応神天皇の出自
*奴国、投馬国、女王国の行程
*狗奴国、熊曾国、東鯷国
●応神王朝Ⅱ(九州王朝Ⅱ)
*王統の交代
*九州王朝Ⅰの王統
*九州王朝Ⅰから九州王朝Ⅱへの王朝交代を証言
*肥後菊池と伊都を結ぶ王統
*応神王朝Ⅱ(九州王朝Ⅱ)創基時に於ける主役達
7)九州王朝は二元統治体制
*政治体制
*大化の改新と蘇我氏
8)所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと
*大和王朝の王統譜
*新唐書の “ 大和王朝 ”
*旧・新唐書の日本国記事
*日本書紀と新唐書の相違
*独自の対唐通交
9)難波(津)と過近江荒都の歌
*難波(津)の歌
*過近江荒都の歌
10)天智天皇とは
*二人の天智天皇
*斉明天皇と天智天皇
*天智天皇と天武天皇
11)天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り
*筑紫君薩夜麻の虜囚と百済を救う役
*筑紫都督府
*壬申の乱
12)古代通史粗筋
*列島の代表的王権の推移と原九州王朝(天の王朝:九州王朝0)
*原九州王朝(九州王朝0)王統の断絶と卑弥呼共立:九州王朝Ⅰへ
*狗奴国とその東遷
*狗奴国の九州王朝Ⅰ取り:九州王朝ⅠからⅡへ(天の王朝の復活)
*九州王朝Ⅱの内紛・天日(てんにち)両統の争い
*大和王朝の覇権確立
*天武天皇の大和王朝取り
*九州王朝Ⅱの終焉
13)おわりに
*後書き
*別表「九州年号」
*別図「松野連氏考」
(出典: Wikipedia)
「万葉集」(萬葉集)(まんようしゅう)、は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である。
万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)。全20巻4,500首以上の和歌が収められており、「雑歌(ぞうか)」(宴や旅行での歌)、「相聞歌(そうもんか)」(男女の恋の歌)、「挽歌(ばんか)」(人の死に関する歌)の3つのジャンルに分けられる。和歌の表現技法には、枕詞、序詞、反復、対句などが用いられている。
天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2,100首以上ある。
7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる。
原本は存在せず、現存する最古の写本は11世紀後半ごろの桂本万葉集(巻4の一部のみ)、完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。
日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった。
1)万葉集の成立
1.1)書名の由来
『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来、仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、『やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける』とあるのを引いている。
ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るため、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。
そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。
1.2)編者と成立年代
『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
① 巻1の前半部分(1 -53番)…
原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
② 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したことが推測されている。
③ 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」など)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16と17の間で分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。
④ 残巻増補…20巻本万葉集
延暦2年(783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされている。ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないかと推測されている。
「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件(藤原種継暗殺事件)で家持の家財が没収された。その中に家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説などがある。
2)諸本と刊本
万葉集の諸本は大きく分けて、「古点本」「次点本」「新点本」に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。
その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。
●古点本
古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人(大中臣能宣・源順・清原元輔・坂上望城・紀時文)の附訓で、万葉歌の9割にあたる4,000以上の歌が訓をつけられた。
確実な古点本は現存していないが、武田祐吉や小川靖彦によって桂本万葉集が古点の一部を存しているという見解が示されている。ほかに久松潜一は藍紙本万葉集も古点を伝えるとの見解を示している。
古点と伝える資料としては、古今和歌六帖など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれにあたるとの見方も山田孝雄や上田英夫らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。
●次点本
ともあれ、古点とは梨壺の5人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果を指し、藤原道長、大江佐国、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼、藤原基俊、藤原敦隆、藤原仲実、藤原清輔、藤原長忠、顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本(大半が欠けているもの)であり、完本(欠けた部分が無く全部そろっているもの)は伝わらない。
このうち、廣瀬本万葉集は藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集と認められる。1993年(平成5年)に関西大学教授の木下正俊・神堀忍に発見され、所蔵者である広瀬捨三(元同大学教授)の名をとって廣瀬本と称される。ただし、廣瀬本の奥書には甲府町年寄の春日昌預(1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克(1749年 - 1805年)といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、賀茂真淵の『万葉考』に依拠した本文や訓の訂正も行われている。
●新点本
新点本は仙覚が校訂した諸本を指し、大きく寛元本系統と文永本系統に分かれる。
・寛元本系統の諸本は伝わらないが、上田英夫の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。また橋本進吉や田中大士によって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測されている。西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は源実朝本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。
・文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、特に西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。
なお、近年出現した広瀬本万葉集については、項目を別に改めて付加して概述される必要がある。
2.4)版本
● 活字無訓本
江戸時代初期の刊行であり、初めての万葉集の版本である。全巻だが10冊のものと20冊のものがある。
一面は8行×18字詰めで、上下左右に二重の界線がある。歌を高く記し、題詞と左注は1字低い。全体は寛元本系だが、巻4、5、6は細井本系の林道春校本に依っているため、巻4の後半が欠落し、巻3の後半が重出する。
また、巻3末尾に大伴旅人、大伴家持、藤原不比人の伝が掲載されている。内閣文庫、東京大学図書館、大阪府立中之島図書館、石川武美記念図書館、尊経閣文庫、大東急記念文庫、穂久邇文庫、大英博物館などに所蔵されている。
● 活字附訓本
活字無訓本を文永十年本系の寂印成俊本(現存しない)で校合して訓をつけたもの。木版で袋綴じ、全巻10冊である。江戸時代初期の慶長(1596年 - 1615年)か元和(1615年 - 1624年)ごろの刊行と考えられている。なお、以下の奥書が付されている。
・巻1に文永十年および三年の仙覚奥書
・巻20に文永三年の仙覚奥書、寂印と成俊の奥書
国会図書館、石川武美記念図書館、天理図書館、東洋文庫、宮内庁書陵部、東京大学図書館、大谷大学図書館、龍谷大学図書館などに所蔵されている。
● 寛永本
寛永版本とも呼ばれる。江戸時代初期の1643年(寛永20年)の刊行で、京都三条寺町安田十兵衛の刊記がある。
木版で袋綴じ、全巻20冊である。活字附訓本の整版本だが、若干の増補改訂が行われている。江戸時代から流布本として用いられ、明治時代から戦前まで各種テキストの底本とされていた。国会図書館などが所蔵している。
● 宝永本
1709年(宝永6年)の刊行であるが、寛永本の刊記だけを出雲国寺和泉掾のものとした。国会図書館などが所蔵している。
● 旁註本
宝永本の本文に旁註を施したものである。木版で袋綴じ、全巻20冊である。1789年(寛政元年)の刊行で、註は常陸国の恵岳が契沖、賀茂真淵説に自説を加えて行った。出雲国寺和泉掾と同文治郎の刊記がある。国会図書館などが所蔵している。
●『古万葉集』
木版で袋綴じ、全巻20冊である。1803年(享和3年)に和泉寺などによって刊行された。土佐国の今村楽と横田美水が宝永本に改訂を加えて本文だけを出版したもので、今村の序と横田の跋がある。内閣文庫などが所蔵している。
● 校異本
『校異本万葉集』の題を持つ。木版で袋綴じ、全巻20冊である。校異を上欄に記している。1805年(文化2年)の刊行で、出雲寺文治郎の刊記がある。
旁註本の註を削除して、元暦校本等の橋本経亮の校異に藤原(山田)以文が再校を加えたものが掲載されている。国会図書館などが所蔵している。
3)万葉集の構成と内容
全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めてひとつの歌集にしたと考えられている。各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。
内容上から雑歌・相聞歌・挽歌の三大部類になっている。
① 雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
② 相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌(人を愛する歌)である。
③ 挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌(人の死を悼む歌)である。
表現様式からは、
① 寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
② 正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
③ 詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
④ 譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現
などに分けられる。
巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。この卷には、上総・下総・常陸・信濃四国の雑歌、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥十二国の相聞往来歌、遠江・駿河・相模・上野・陸奥五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・防人歌・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。
歌体は、短歌・長歌・旋頭歌の3種に区別されている。短い句は五音節、長い句は七音節からなる。
① 短歌は、五七五七七の五句からなるもの。
② 長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後を特に五七七という形式で結ぶもの。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。
③ 旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を2回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。
3.1)歌数
歌の数は4,500首あまりからなるが、写本の異伝の本に基づく数え方が、歌数も種々様々の説がある。
例えば『国歌大観』によれば総歌数は4,516首であるが、これには一首に2度番号を振るなど問題が多い。
それらを整理した武田祐吉によると総歌数は4,506首で、そのほかに「或本の歌」が57首、「一書の歌」が4首、「一本の歌」が3首、「或書の歌」が2首、「或は云はく」とある歌が3首、『古事記』の歌が1首の計70首であるという。
3.2)時期区分
歌を作った時期により4期に分けられる。
① 第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。
② 第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)・高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。ほかには天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。
③ 第3期は、733年(天平5年)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説の中に本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。
④ 第4期は、759年(天平宝字3年)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。
歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。
さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代とともに拡大されていったと考えられる。
3.3)歌風と万葉仮名
「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っているきわめて貴重な史料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵はこの集を評して「ますらをぶり」と言った。
全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とをあわせたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
編纂されたころにはまだ仮名文字は作られていなかったため、万葉仮名と呼ばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による
日本人のための最初の文字であったと言えよう。
ウィキクォートに大伴家持に関する引用句集があります。
・万葉仮名で書かれた大伴家持の歌
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)
・山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌
(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
(訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63)
・万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。そうして「平仮名」と「片仮名」が創造されたのである。
現在でも万葉仮名はいたるところで使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。
4)万葉集の影響
4.1)『万葉集』と方言
『万葉集』には「東風 越俗語、東風謂之安由乃可是也」(巻17・4017番)のように、当時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、実は大量の方言が記録されている。すなわち、巻14の東歌と巻20の防人歌である。
東歌は東国地方の歌の意で、東国(今の長野県・静岡県から関東地方、東北地方南部まで含まれる)に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌。90首+5首)と不明の歌(未勘国歌。140首+3首)に二分して収録している。
多くの歌で上代の東国方言が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。
詠まれてから時が経ち過ぎている、知識がなかった昭和時代の文献が幅を利かせすぎているため、間違った解釈もあり、その後の日本語、歴史に影響している。
防人歌は東国から徴集された防人の詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、もっとも著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。
これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人の詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。
しかも、万葉集に採録するにあたって、内容はもちろん万葉仮名表記に至るまで上進時のままで改変されていない可能性が高く、東国方言史料としての価値は東歌を凌駕するものと評価されている。
以下に東歌と防人歌から1首ずつ挙げる。
・昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(巻14・3483番)
(昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。)
比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家
・草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(巻20・4420番)
(旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でおつけなさいよ、この針でもって。)
久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志
上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記録された東国方言には、現代の東日本方言と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「~なふ」や命令形語尾「~ろ」は、現代東日本方言の「~ない」「~ろ」に連なる可能性が指摘されている。
また、東国方言の四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「愛(かな)しけ妹(いも)」のように中央語とは異なる独特の語形を取るが、八丈島で話される八丈方言は「書こ時」「高け山」のように、上代東国方言と同様の語形をとることで知られている。日本語に方言は数あれど、このような活用を残すのは八丈方言など少数である。
4.2)日本古来の物語の原型説
万葉集は『竹取物語』や『浦島太郎』などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、巻16「由縁ある雑歌」には竹取翁と天女が登場する長歌があり、内容は竹取翁の「別伝」的なもので異なる内容ではあるが、『竹取物語』(かぐや姫物語)の源流のひとつととらえられるものとして関連が指摘されている。
巻9の高橋虫麻呂作の長歌に『浦島太郎』の原型とも解釈できる内容の「浦島伝説」が歌われている。ただ、「浦島伝説」は日本書紀の雄略記でも、捕らえた大亀が女に変り、妻にして蓬莱山に行く内容のものがある。
万葉集の「菟原処女の伝説」は、『大和物語』の「生田川伝説」や、謡曲『求塚』、森鷗外の『生田川』に翻案されている。また、『源氏物語』でも、宇治川に身投げする浮舟(薫と匂宮の2人の男性に愛される女性)が登場している。
4.3)元号(令和)
明仁天皇譲位による改元で2019年4月1日午前11時41分に内閣官房長官・菅義偉が記者会見を執り行って発表され、皇太子徳仁親王の践祚にともなって同年5月1日から施行される元号「令和」の典拠となった。
「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」から引用した。
これまで日本の元号の出典は漢籍であったが、初めて日本の古典からの出典となった。内閣総理大臣・安倍晋三は元号発表にともなって開いた記者会見にて、新元号について「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる」という思いを込めたものであることを語った。
「令和」の典拠となった「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」は、天平2年(730年)の正月13日に、大宰帥の大伴旅人邸の梅園に山上憶良や下僚ら約30人が集まり催された「梅花の宴」の宴席で詠まれた32首(また後日6首が唱和された)の序文である。
現代訳では、「…時は良き新春正月、外気は快く風は和らいで、梅は佳人の鏡台の白粉のように白く咲き、蘭は香袋のように香っている。…」という意味である。
花を愛で、桜や桃、菊などの花びらを杯に浮べ飲むことは、長寿祈願の習わしであったが、万葉当時の花見は、桃や梅などの中国伝来の花を見るのが一般的であったという。
5)万葉集の諸点
5.1)巻頭と巻末の歌
『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まり、大伴家持の歌で締めくくられている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。
●巻頭(雄略天皇)
・大泊瀬稚武(おほはつせのわかたけ)天皇の御製歌(おほみうた)
『籠(こも)よ み籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも』(巻1・1番)
『篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母』
●巻末(大伴家持)
『新(あらた)しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)』
5.2)捕鯨
万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、おもに鯨類を指す。そして「いさなとり」は、捕鯨を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。
① 巻 二:「いさな取り」 淡海の海を 沖さけて こぎくる船 辺附きて こぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ
② 巻 三:越の海の 角鹿の浜ゆ 大船の 真楫貫きおろし 「いさなとり」 海路に出でて
③ 巻 六:やすみしし わが大君の あり通ふ 難波の宮は 「いさなとり」 海片附きて 玉拾ふ 浜辺を近み 朝羽振る 波の音(と)さわき 夕なぎに 櫂の声(おと)聞ゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干(しおひ)のむた 浦渚(す)には 千鳥妻呼び 芦辺には 鶴(たづ)が音(ね)響(とよ)む 視る人の 語りにすれば 聞く人の 見まくり欲(ほ)りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れども飽かぬかも
④ 第 一六:「鯨魚取り」 海や死する 山や死する 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ
5.3)外国語との関係
1950年代には安田徳太郎が『万葉集の謎』において日本語の祖語はインド北部レプチャ語であるとし、万葉集はレプチャ語で読めると主張していた。
また、1980年代には、『万葉集』の言葉は古代朝鮮語と関係がある、またはそれにより解釈できるという意見が出され、一連の著作がベストセラーになったことがある。しかし、当時から一部の日本語学の研究者の手によって反論と批判がなされている。
背景としては、日本の古代文化を朝鮮半島由来とする韓国特有の民族主義(朴炳植、李寧煕など)、さらに、それに同調する日本人(藤村由加など)の言説が存在している。また李寧煕は日本で育った在日韓国人であり、韓国在住の韓国人から事実認識の誤りが指摘されている。
こうした外国語との関係は金田一春彦も「万葉集の謎は英語でも解ける」と批判している。
6)研究史
6.1)仙覚
仙覚は1203年(建仁3年)、常陸国の生まれで、7歳ごろに万葉集の研究を志したという。40歳のころには鎌倉に住み、鎌倉将軍九条頼経の知遇を得ていた。1243年(寛元元年)、頼経が歌人で源氏物語学者の源親行に万葉集の校訂を下命した。仙覚は1245年(寛元3年)か1246年(寛元4年)にこの校訂作業に加わり、親行が書写した写本を底本としてほかの6種類の写本と校合を行って、1247年(寛元5年)2月に完成させた。これが「仙覚寛元本萬葉集」ないし「寛元本」と呼ばれているものである。ただし、後述の文永本とも仙覚の校訂本の原本は散佚している。
寛元本は「傍訓形式」をとっている。すなわち、歌の漢字本文の傍らにカタカナで訓、つまり読み下し文を書き入れた。同時に仙覚は万葉集の歌のすべてに訓を施し、1253年(建長5年)に新たに訓を施した152首を記した書と、万葉集の用字について論じた「奏覧状」の二書を後嵯峨院に献上している。
この縁で仙覚は、後嵯峨院とその子息の鎌倉将軍宗尊親王らの支援を受けることになり、さらに5種類の写本の閲覧が可能になった。そこで、1261年(弘長元年)に今回は仙覚単独で万葉集の校訂作業を再開した。
この校訂で1265年(文永2年)9月に完成したのが「仙覚文永二年本萬葉集」で、ただちに宗尊親王に献上された。また、翌年8月に新たな写本を完成させた、これが西本願寺本の祖本である「文永三年本」である。その後も校訂を続け、文永十年本の系統の写本が残っている。
万葉集研究者は文永三年本とその後の校訂本をあわせて「文永本」と呼んでいる。文永本の大きな特徴は傍訓の色分けである。従来の訓は黒、仙覚が改めた訓は紺青、新たに施した訓は朱で記されている。
(追記:令和3年1月9日)
引用:「女たちの壬申の乱」(水谷千秋著・文春新書1324)
〇『万葉集』と持統天皇
全20巻、全部で約四千五百首に及ぶ歌を掲載する『万葉集』という一大歌集を最終的に完成させたのは大伴家持であるが、すべてを彼一人がまとめあげたのではない。
『万葉集』全20巻は、一世紀以上の長い時間の中で形成されてきたものであった。とりわけ巻第一と巻第二は、実は大伴家持が生まれる以前にまとめられたもので、もともとは白鳳期に持統天皇や元明天皇によって編まれた勅撰集がその原型であったと見られている。
そこで巻第一と巻第二をそれぞれ「持統万葉」、「元明万葉」と読んだり、これらをまとめて「原型万葉」と読んだりもする。
(巻頭の歌:略)
万葉集の巻頭の歌は、雄略天皇の作である。次が舒明天皇の国ほめの歌。舒明天皇といえば、天智・天武の父であり、以後の皇統の祖となった天皇である。次はその皇后であった皇極天皇、重祚して斉明天皇の歌。以降、天智・天武・持統と各天皇の御代ごとに作られた歌が掲載される。時代順なのである。このような掲載の仕方は巻第一と第二にしかない。巻第二以降はこれに加えてジャンル(部立という)ごとの分類もあるが、巻第一はすべて「雑歌(ぞうか)」という一括りになっている。この点に注意したい。
巻第一には84の歌が収められているが、53番までとこれ以降とではまとめられた時期が違うとされる。いま述べた「~天皇の代」という分類は53番歌までで終わる。その掉尾にあたる52番・53番歌は、藤原京造営のために働く人々のこの京を讃える歌である。藤原京の造営は、持統4年10月に着手され、8年10月に完成し、遷都した。それから程遠からぬ時期 ー 持統天皇が即位10年で皇位を退いて太上天皇となった晩年ーにこの勅撰集は編纂が始まったのであろう。
続く54番歌は、「大宝元年辛丑の秋9月、太上天皇、紀伊国に幸せる時の歌」と題詞がある。ここから後は、「~天皇の代」の歌とは書かれない。巻第一末尾の84番歌は、「寧楽(なら)宮」とあって、平城遷都以降に作られた歌であることが示されている。
巻第一は、このように53番歌までのより古い部分と、あとから増補された部分とからなる。特に53番歌までのより古い部分に収録されているのは、各天皇の御製とあとは額田王と柿本人麻呂の作がほとんどである。そこから、この部分の編纂にこの白鳳期を代表する二人の歌人が関わっていたのではないか、との見方がされる所以がある。持統天皇の監修のもと、この二人の収集した歌がまとめられたのが、その実体ではないかと推定されるのである。これがいわゆる「持統万葉」である。
〇巻第二の成立
これに続く巻第二は、第一にはない「相聞(そうもん)」(恋愛の歌)と「挽歌(ばんか)」(死者を悼む歌)というジャンル(「部立」)分けがされている。そして巻第二でも巻第一と同じく「~天皇の代」と各天皇の時代ごとに配列される。巻第二の冒頭は、仁徳天皇の御世に磐姫(いわのひめ)が作った相聞歌が置かれている。(磐姫の歌:略)
巻第一が雄略天皇の求愛の歌から始まるのと相応するかのようだ。しかも片や男。こちらは女。明らかに対になっている。
その後、「~天皇の代」という時代順の配列が始まるのは天智天皇からで、以後天武の御製と皇子・皇女たちの詠んだ相聞歌が続き、後半は柿本人麻呂作の日並皇子(草壁皇子)、高市皇子の挽歌の連作が収録され、末尾はやはり人麻呂の挽歌で終わる。
こうしたことから、巻第一の53番までと巻第二とは、もともと一連の計画の下に編纂が進められたもので、まず持統の下で前者が成り、続いてこれを継いだ元明のもとで後者が成った。これがいわゆる「持統万葉」であり、「元明万葉」であった。このように伊藤博氏は考えた。これには多くの万葉学者と同様、私(筆者)も全面的に賛成する。(途中略)
この歌集は、先にも指摘したように、「~天皇の代」と、その作られた時代順に配列されていた。それはある意味、「歌で綴った各御代の歴史」でもある。『古事記』や『日本書紀』とは異なる観点から見た、これも一つの歴史の書なのである。それも持統天皇、元明天皇という女帝たちによって作られたものであった。
そういう観点から「持統万葉」・「元明万葉」の記載態度を『日本書紀』と比較してみたとき、そこに大きな隔たりがあることを、かって伊藤博氏が明らかにしている。
〇『万葉集』と『日本書紀』
・ひとつは『日本書紀』と異なり、『万葉集』の特に巻第一と巻第二には、政治を諷刺するような歌は一つも掲載されていないことである。
『日本書紀』は、最後の「天武紀」と「持統紀」にこそ政治を諷する歌はないが、「天智紀」末尾の三首は、ともに天智天皇崩後の争いを諷する歌であった。
その前に見える「天智紀」10年正月条の歌も、天智天皇に登用された亡命百済人を諷するような内容であり、その前の同9年5月条の歌もやはり壬申の乱の予兆のような不気味さを印象づける歌であった。
これらの歌は『万葉集』にはひとつも採録されておらず、そもそも政治を風刺するような歌は『万葉集』巻第一と第二には採用されていない。『万葉集』はそうした類の歌を明らかに避けているのである。
・ふたつめは、『万葉集』には、政治的に失脚した人、謀反の罪で殺された人々の歌が収められている点である。『日本書紀』が彼らの歌が収められていないのと対照的である。
ここでは世俗の罪などは捨象され、ただ歌の質が尊重されているのだ。有間皇子や大津皇子の歌、倭姫皇后の歌が収められているのも、おそらくこれと同じ採録方針からであろう。有間皇子の歌も大津皇子の歌も、いわゆる「元明万葉」とされる巻第二に収録されたものであるが、「持統万葉」とされる巻第一でも、天武4年に「罪あり」として因幡に流された麻績(おみ)王に関する歌が23番、24番に収められている。
これらからも、「持統万葉」、「元明万葉」とも、罪人かどうかといった政治的な要素はなるべく捨象される傾向のあることが察せられる。
こうした編纂方針は、当然持統天皇がたてたものだろう。助手的立場にあった柿本人麻呂や額田王の勧めがあったのかもしれない。それは正史たる『日本書紀』の編纂方針とは異なるものであった。
(追記:令和4年4月24日)
引用:『甦る万葉集 天智天皇暗殺の歌』(李寧煕著・文藝春秋刊 1993)
序文〈『万葉集』とは何か〉(全文抜粋)
・『万葉集』とは何でしょう。これは、一見平凡のようでありながら、実は突拍子もない疑問なのです。なぜなら、『万葉集』は、「5~8世紀にかけて詠まれた主に口誦歌を集めた歌集」と結論づけられているからです。ゆるぎないこの定説をさしおき、私は敢えて問題を提起します。
・『万葉集』とは何か。その問いかけに対する私自身の結論をここに述べます。『万葉集』は単なる歌集ではありません。『万葉集』は、主に7世紀後半に書かれ、あるいは発言された政治コメントを集めた大巻です。
・『万葉集』は、全20巻4,516首から成り、ご存知のように第1巻は84首の「雑歌(ざふか)」の部です。大歌集である『万葉集』はなんと「雑歌」から始まっているのです。不思議に思われませんか。
・そこで第2の疑問、「雑歌」とは一体何でしょう。『古語大辞典』(小学館)は、この「雑(ざふ)」を「和歌や俳諧の分類の一つ。歌集では雑多な歌」と説明しています。常識的には巻末に置くべき「その他、雑」を冒頭に置いたのは何故でしょう。これに対しても、私の考えをここにはっきり述べておきます。
・『万葉集』の「雑歌」には「雑多な歌」の意味はありません。「雑歌」は「雑歌(ジャブノレ)」と読むべきものです。韓国で「ジャブ」とは「取る」の意、「ノ レ」は「歌」のこと。「ジャブノ レ」とは「取り歌」即ち「国取りの歌」「政権取りの歌」、つまり「政争歌」です。
・雑歌(ジャブノレ)が政争歌なるが故に、『万葉集』は雄略天皇の即位宣言の歌を巻1の巻頭に据え、舒明天皇の国見の歌(望国之時御製歌)をこれに続けているのです。
・この巻1には、主に天智天皇系と天武天皇系との政争関連歌が集められており、巻3の方の「雑歌」の部には、高市皇子(たけちのみこ)(おそらく高市は天皇であったと思われる)をめぐる政争歌で埋められています。
・そして巻2は、「相聞」(贈答歌)と「挽歌」を通して、7世紀後半から8世紀初めにかけて起こった政治事件を鳥瞰し得る編集の仕組になっています。従って、巻1、巻2、巻3を真の訓み下しによって追究すると、当時の政治状況が実によく見えてくるのです。
・重ねて申し上げましょう。『万葉集』は、ただ花鳥風月や恋心を詠んだ歌、儀礼ごとだけを詠んだ歌ではなく、歌の形式をととのえているものの実は政治コメントであり、政治的行動を促す檄であり、政情を報告するリポートであり、かつ体制批判、社会風刺、陳情などの歌である。従来単なる民謡、庶民の歌とされてきた巻14の「東歌(あずまうた)」においてさえ、政争関連歌が多いのに驚かされる。
・さてここで第3の疑問が起こります。『万葉集』編纂の中心人物であったと伝えられる大伴家持(おおとものやかもち)は、何故歌を集めに集め、そして残したのでしょう。それは「執念」以外の何物でもありません。
・家持の祖父は、天武天皇のクーデター「壬申の乱」に参与した大納言兼大宰帥(だざいのそつ)従2位大伴卿(おおとものまえつきみ)こと、大伴宿禰安麻呂(おおとものすくねやすまろ)です。父も大宰帥兼大納言大伴宿禰旅人(おおとものすくねたびと)。しかし家持の代になると藤原勢に押され一地方官にまで零落します。
・天皇は百濟系から高句麗系、伽耶系、新羅系、そしてまた百濟系へと目まぐるしく変り、権力の無情な推移も展開される中で、一貫して貞節をを守り、国作りに従事してきたのは我が大伴家である。そのことを家持は言葉で語ろうとせず、膨大な政治コメント集をありのままの姿で残すことによって世に伝えようとしたのではないかと思われます。
・同時に、『日本書紀』の大いなる歪曲記述を指摘批判する反証として、この史書に登場する人物たちの生の声を集めに集めたのではないかととも思われます。
・家持の意図はともあれ、私はここでまた断言いたします。『万葉集』は、「もう一つの日本書紀」です。いえ、「正しい日本書紀」であると言い直さなければならないでしょう。
・古代韓国語(高句麗・百済・新羅などの地方別の方言を抱括する古語)で正しく訓み直すことによって、『万葉集』は『日本書紀』を補い、真の正史を伝える貴重な資料として今生まれ変わりました。『万葉集』は甦ったのです。1993年正月 李寧煕(イ ヨン ヒ)
新元号である「令和」の発表の際、菅官房長官は万葉集が典拠であると発表しました。その出典元は下記の通りです。
1)出典
「万葉集」巻五、梅花歌三十二首并せて序
[引用部分] 初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
[書き下し文]初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
[読み]しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす。
[用語解説]
・” 鏡前の粉 ”:女人が鏡の前でよそう白粉。梅花の白さをいう。
・” 蘭 ”:蘭はフジバカマだが、広くキク科の香草をいう。ここでは梅と対にして香草をあげた文飾で実在のものではない。
・” 珮後 ”:珮は本来帯の飾り玉。ここでは身におびる程度の意。
2)解説
この序の筆者は大伴旅人とされており、旅人宅で梅の花を囲む雅宴で詠まれた歌32首に対する序文です。また、上記は新元号「令和」の出典元となった一部分ですが、全体としては下記のようになっています。
[書き下し文]
天平二年正月十三日に、師の老の宅に萃まりて、宴会を申く。
時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
加之、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾け、夕の岫に霧結び、鳥は殻に封めらえて林に迷ふ。
庭には新蝶舞ひ、空には古雁帰る。
ここに天を蓋をし、地を座とし、膝を促け觴を飛ばす。
言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。
淡然と自ら放にし、快然と自ら足る。
若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情をのべむ。
詩に落梅の篇を紀す。
古と今とそれ何そ異ならむ。
宜しく園の梅を賦して聊かに短詠を成すべし。
[現代文]
天平二年正月十三日に、長官の旅人宅に集まって宴会を開いた。
時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉の如きかおりをただよわせている。
のみならず明け方の山頂には雲が動き、松は薄絹のような雲をかずいてきぬがさを傾ける風情を示し、山のくぼみには霧がわだかまって、鳥は薄霧にこめられては林に迷い鳴いている。
庭には新たに蝶の姿を見かけ、空には年をこした雁が飛び去ろうとしている。
ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。
すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつ)み、大自然に向かって胸襟を開きあっている。
淡々とそれぞれが心のおもむくままに振舞い、快くおのおのがみち足りている。
この心中を、筆にするのでなければ、どうしていい現しえよう。
中国でも多く落梅の詩篇がある。
古今異るはずとてなく、よろしく庭の梅をよんで、いささかの歌を作ろうではないか。
3)32首の和歌
新元号の典拠である序に続き、梅の花を題材に書かれた32首の和歌も下記をクリックするとご覧頂けます。
*正月立ち春の来らばかくしこそ 梅を招きつつ楽しきを経め【大弐紀卿】
【意味】正月になり新春がやって来たら、このように梅の寿を招きながら楽しき日を尽くそう。
*梅の花今咲ける如散り過ぎず わが家の園にありこせぬかも【少弐小野大夫】
【意味】梅の花は今咲いているように、散りすぎることなくわが家の庭に咲きつづけて欲しい。
*梅の花咲きたる園の青柳は かづらにすべく成りにけらずや 少弐栗田大夫】
【意味】梅の花咲く庭に、青柳もまた、かづらにほどよくなっているではないか。
*春さればまづ咲く宿の梅の花 独り見つつや春日暮さむ【筑前守山上大夫】
【意味】春になると最初に咲くわが家の梅花、私一人で見つつ一日を過ごすことなど、どうしてしようか。
*世の中は恋繁しゑやかくしあらば 梅の花にも成らましものを【豊後守大伴大夫】
【意味】世の中は恋に苦しむことが多いなぁ。そうならいっそ梅の花にもなってしまいたいものを。
*梅の花今盛りなりおもうふどち かざしにしてな今盛なり【筑後守葛井大夫】
【意味】梅の花は今は盛りよ。親しい人々は皆髪に挿そうよ。今は盛りよ。
*青柳梅との花を折りかざし 飲みての後は散りぬともよし【笠沙弥】
【意味】青柳を折り梅花をかざして酒を飲む。さあこの後は散ってしまっても、もうよい。
*わが園に梅の花散るひさかたの 天より雪の流れ来るかも【主人】
【意味】わが庭に梅の花が散る。天涯の果てから雪が流れ来るよ。
*梅の花散らくは何処しかすがに この城の山に雪は降りつつ【大監伴氏百代】
【意味】落梅はいずこのこと。それにしてもこの城の山には雪の降りつづくことよ。
*梅の花散らまく惜しみわが園の 竹の林に鶯鳴くも【少監阿氏奥島】
【意味】梅の花の散ることを惜しんで、わが庭の竹林には鶯が鳴くことよ。
*梅の花咲きたる園の青柳を かづらにしつつ遊び暮さな【少監土氏百村】
【意味】梅の花も美しい庭に、青柳のかづらまでして、一日を遊びすごそうよ。
*うち靡く春の柳とわが宿の 梅の花とを如何にか分けむ【大典史氏大原】
【意味】霞こめる春に美しく芽ぶく柳と、わが庭に咲き誇る梅の花と、そのよしあしをどのように区別しよう。
*春されば木末隠れて鶯そ 鳴きて去ぬなる梅が下枝に【少典山氏若麿】
【意味】春になると梅の梢では姿も隠れてしまって、鶯は鳴き移るようだ、下の枝の方に。
*人毎に折りかざしつつ遊べども いや愛づらしき梅の花かも【大判事丹氏麿】
【意味】誰も誰も折りかざしつつ遊ぶのだが、なお愛すべき梅の花よ。
*梅の花咲きて散りなば桜花 継ぎて咲くべくなりにてあらず【薬師張氏福子】
【意味】梅の花が咲き、散ってしまったなら、桜の花がつづけて咲くようになっているではないか。
*万代に年は来経とも梅の花 絶ゆることなく咲き渡るべし【筑前介佐氏子首】
【意味】万年の後まで年はあらたまり来ようとも、梅の花は絶えることなく咲きつづけるがよい。
*春なれば宜も咲きわたる梅の花 君を思ふと夜眠も寝なくに【壱岐守板氏安麿】
【意味】春になったとて、まことによく咲いた梅の花よ。あなたを思うと夜も寝られないものを。
*梅の花折りてかざせる諸人は 今日の間は楽しくあるべし【神司荒氏稲布】
【意味】梅の花を折りかざして遊ぶ人々は、こぞって今日一日が楽しいことだろう。
*毎年に春の来らばかくしこそ 梅をかざして楽しく飲まめ【大令史野氏宿奈麿】
【意味】年ごとに春がめぐり来れば、このようにこそ、梅をかざして楽しく酒をくもう。
*梅の花今盛りなり百鳥の 声の恋しき春来たるらし【少令史田氏肥人】
【意味】梅の花は今を盛りに咲く。鳥々の声も恋しい春が、やって来ているらしい。
*春さらば逢はむと思ひし梅の花 今日の遊びにあひ見つるかも【薬師高氏義通】
【意味】春になったら逢おうと思っていた梅の花よ、今日のうたげにこそ出会うことよ。
*梅の花手折りかざして遊べども 飽き足らぬ日は今日にしありけり【陰陽師礒氏法麿】
【意味】梅の花も手折り、かざしては遊ぶのだが、なお飽きることのない日は、今日なのだなあ。
*春の野に鳴くや鶯懐けむと わが家の園に梅が花咲く【算師志氏大道】
【意味】春の野に鳴くよ、その鶯をよび寄せようと、わが家の庭に梅の花の咲くことよ。
*梅の花散り乱ひたる岡傍には 鶯鳴くも春かた設けて【大隅目榎氏鉢麿】
【意味】梅の花の散り乱れる岡べには、鶯が鳴くことよ。春のけはい濃く。
*春の野に霧り立ち渡り降る雪と 人の見るまで梅の花散る【筑前目田氏真上】
【意味】春の野を一面に曇らせて降る雪かと人が見るほどに、梅の花が散ることよ。
*春柳かづらに折りし梅の花 誰か浮べし酒杯の上に【壱岐目村氏彼方】
【意味】春の柳をかづらにとて折ったことだ。梅の花も誰かが浮かべている。酒盃の上に。
*鶯の声聞くなへに梅の花 吾家の園に咲きて散る見ゆ【対馬目髙氏老】
【意味】鶯の声を聞くにつれて、梅の花がわが家の庭に咲いては散っていくのか見られる。
*わが宿の梅の下枝に遊びつつ 鶯鳴くも散らまく惜しみ【薩摩目髙氏海人】
【意味】わが家の梅の下枝に、たわむれつつ鶯が鳴くことよ。上枝に鳴けば花が散るだろうことを惜しんで。
*梅の花折りかざしつつ諸人の 遊ぶを見れば都しぞ思ふ【土師氏御道】
【意味】梅の花を折りかざしつづけて人々の集まり遊ぶのを見ると、都のことが思い出される。
*妹が家に雪かも降ると見るまでに ここだも乱ふ梅の花かも【小野氏国堅】
【意味】恋しい人の家に雪が降るのかと思われるほどに、一面に散り乱れる梅の花よ。
*鶯の待ちかてにせし梅が花 散らずありこそ思ふ子がため【筑前掾門氏石足】
【意味】鶯が開花を待ちかねていた梅の花よ、ずっと散らずにあってほしい。恋い慕う子らのために。
*霞立つ長き春日をかざせれど いや懐かしき梅の花かも【小野氏淡理】
【意味】霞こめる春の長い一日を、かざしつづけても、ますます心ひかれる梅の花よ。
(引用:Wikisource)
万葉集 編者:大伴家持 延暦二年(783年)
『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。各巻は、年代順や部類別、国別などに配列され、各巻の歌は、雑歌・相聞歌・挽歌の三大部類に分けられている。 — ウィキペディア日本語版「万葉集」より。
訓読版は万葉集 (鹿持雅澄訓訂)、万葉集 (奈良女子高等師範学校国語研究室編)を参照のこと。
宮廷を中心にした雑歌
[歌番号]01/0001
[題詞]雜歌 / 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇] / 天皇御製歌
[原文]篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母
[訓読]篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
[仮名]こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへきかな のらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われこそば のらめ いへをもなをも
※ 以下、01/0002~01/0084は、Wikisource万葉集/第一巻 参照
宮廷中心の相聞歌・挽歌
[歌番号]02/0085
[題詞]相聞 / 難波高津宮御宇天皇代 [大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇] / 磐姫皇后思天皇御作歌四首
[原文]君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 <待尓>可将待
[訓読]君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
[仮名]きみがゆき けながくなりぬ やまたづね むかへかゆかむ まちにかまたむ
※ 以下、02/0085~02/0234は、Wikisource万葉集/第二巻 参照
巻1・巻2を補う歌
[歌番号]03/0235
[題詞]雜歌 / 天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
[原文]皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為<流鴨>
[訓読]大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
[仮名]おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも
※ 以下、03/0234~03/0483は、Wikisource万葉集/第三巻 参照
巻1・巻2を補う歌。恋のやりとりの歌
[歌番号]04/0484
[題詞]相聞 / 難波天皇妹奉上在山跡皇兄御歌一首
[原文]一日社 人母待<吉> 長氣乎 如此<耳>待者 有不得勝
[訓読]一日こそ人も待ちよき長き日をかくのみ待たば有りかつましじ
[仮名]ひとひこそ ひともまちよき ながきけを かくのみまたば ありかつましじ
※ 以下、04/0484~04/0792は、Wikisource万葉集/第四巻 参照
太宰府を中心にした歌
[歌番号]05/0793
[題詞]雜歌 / <大>宰帥大伴卿報凶問歌一首 / 禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳 [筆不盡言 古今所歎]
[原文]余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
[訓読]世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
[仮名]よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり
※ 以下、05/0793~05/0906は、Wikisource万葉集/第五巻 参照
宮廷を中心にした歌
[歌番号]06/0907
[題詞]雜歌 / 養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]
[原文]瀧上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓<生>有 刀我乃樹能 弥継嗣尓 萬代 如是二<二>知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴将有 國柄鹿 見欲将有 山川乎 清々 諾之神代従 定家良思母
[訓読]瀧の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも
[仮名]たきのうへの みふねのやまに みづえさし しじにおひたる とがのきの いやつぎつぎに よろづよに かくししらさむ みよしのの あきづのみやは かむからか たふとくあるらむ くにからか みがほしくあらむ やまかはを きよみさやけみ うべしかむよゆ さだめけらしも
※ 以下、06/0907~06/1067は、Wikisource万葉集/第六巻 参照
作者名のない雑歌・譬喩歌・挽歌
[歌番号]07/1068
[題詞]雜歌 / 詠天
[原文]天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見
[訓読]天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ
[仮名]あめのうみに くものなみたち つきのふね ほしのはやしに こぎかくるみゆ
※ 以下、07/1068~07/1417は、Wikisource万葉集/第七巻 参照
四季ごとの歌
[歌番号]08/1418
[題詞]春雜歌 / 志貴皇子懽御歌一首
[原文]石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
[訓読]石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
[仮名]いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも
※ 以下、08/1418~08/1663は、Wikisource万葉集/第八巻 参照
旅と伝説の歌
[歌番号]09/1664
[題詞]雜歌 / 泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天<皇>御製歌一首
[原文]暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜
[訓読]夕されば小倉の山に伏す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも
[仮名]ゆふされば をぐらのやまに ふすしかの こよひはなかず いねにけらしも
※ 以下、09/1664~09/1811は、Wikisource万葉集/第九巻 参照
作者名のない四季の歌
[歌番号]10/1812
[題詞]春雜歌
[原文]久方之 天芳山 此夕 霞霏 春立下
[訓読]ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも
[仮名]ひさかたの あめのかぐやま このゆふへ かすみたなびく はるたつらしも
※ 以下、10/1812~10/2350は、Wikisource万葉集/第十巻 参照
恋の歌・相聞歌のやり取り
[歌番号]11/2351
[題詞]旋頭歌
[原文]新室 壁草苅邇 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
[訓読]新室の壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ娘子は君がまにまに
[仮名]にひむろの かべくさかりに いましたまはね くさのごと よりあふをとめは きみがまにまに
※ 以下、11/2351~11/2840は、Wikisource万葉集/第十一巻 参照
巻11に同じ
[歌番号]12/2841
[題詞]正述心緒
[原文]我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
[訓読]我が背子が朝明の姿よく見ずて今日の間を恋ひ暮らすかも
[仮名]わがせこが あさけのすがた よくみずて けふのあひだを こひくらすかも
※ 以下、12/2842~12/3220は、Wikisource万葉集/第十二巻参照
長歌を中心とする歌謡風の歌
[歌番号]13/3221
[題詞]雜歌
[原文]冬<木>成 春去来者 朝尓波 白露置 夕尓波 霞多奈妣久 汗瑞能振 樹奴礼我之多尓 鴬鳴母
[訓読]冬こもり 春さり来れば 朝には 白露置き 夕には 霞たなびく 汗瑞能振 木末が下に 鴬鳴くも
[仮名]ふゆこもり はるさりくれば あしたには しらつゆおき ゆふへには かすみたなびく **** こぬれがしたに うぐひすなくも
※ 以下、14/3221~14/3347は、Wikisource万葉集/第十三巻参照
東国で歌われた東歌
[歌番号]14/3348
[題詞]東歌
[原文]奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等<杼>米牟 佐欲布氣尓家里
[訓読]夏麻引く海上潟の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり
[仮名]なつそびく うなかみがたの おきつすに ふねはとどめむ さよふけにけり
※ 以下、14/3348~14/3577は、Wikisource万葉集/第十四巻参照
遣新羅使人の歌、中臣宅守と狭野弟上娘子の悲恋の歌
[歌番号]15/3578
[題詞]遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并當所誦之古歌
[原文]武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之
[訓読]武庫の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
[仮名]むこのうらの いりえのすどり はぐくもる きみをはなれて こひにしぬべし
※ 以下、15/3578~15/3785は、Wikisource万葉集/第十五巻参照
伝説の歌、滑稽な歌
[歌番号]16/3786
[題詞]有由縁并雜歌 / 昔者有娘子 字曰櫻兒也 于時有二壮子 共誂此娘而捐生挌<競>貪死相敵 於是娘子戯欷曰 従古<来>今未聞未見一女之身徃適二門矣 方今壮子之意有難和平 不如妾死相害永息 尓乃尋入林中懸樹經死 其兩壮子不敢哀慟血泣漣襟 各陳心緒作歌二首
[原文]春去者 挿頭尓将為跡 我念之 櫻花者 散去流香聞 [其一]
[訓読]春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも [其一]
[仮名]はるさらば かざしにせむと わがもひし さくらのはなは ちりにけるかも
※ 以下、16/3786~16/3889は、Wikisource万葉集/第十六巻参照
巻20まで大伴家持の歌日記。若い頃の周縁の人々の歌
[歌番号]17/3890
[題詞]天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言 [兼帥如舊]上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首
[原文]和我勢兒乎 安我松原欲 見度婆 安麻乎等女登母 多麻藻可流美由
[訓読]我が背子を安我松原よ見わたせば海人娘子ども玉藻刈る見ゆ
[仮名]わがせこを あがまつばらよ みわたせば あまをとめども たまもかるみゆ
※ 以下、17/3890~17/4031は、Wikisource万葉集/第十七巻参照
越中国の歌など
[歌番号]18/4032
[題詞]天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田<邊>福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒
[原文]奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢 於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敝利許牟
[訓読]奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
[仮名]なごのうみに ふねしましかせ おきにいでて なみたちくやと みてかへりこむ
※ 以下、18/4032~18/4138は、Wikisource万葉集/第十八巻参照
孝謙天皇時代の歌もある
[歌番号]19/4139
[題詞]天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花<作>二首
[原文]春苑 紅尓保布 桃花 下<照>道尓 出立D嬬
[訓読]春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子
[仮名]はるのその くれなゐにほふ もものはな したでるみちに いでたつをとめ
※ 以下、19/4139~19/4292は、Wikisource万葉集/第十九巻参照
防人の歌が含まれる
[歌番号]20/4293
[題詞]幸行於山村之時歌二首 / 先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等宣賦和歌而奏即御口号曰
[原文]安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曽許礼
[訓読]あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ
[仮名]あしひきの やまゆきしかば やまびとの われにえしめし やまづとぞこれ
※ 以下、19/4292~19/4516は、Wikisource万葉集/第二十巻参照
筆者(YA氏)がこの「古代史の虚構」で論じている日本列島代表王権の推移の要約は、次の通りです。
「出雲王朝」⇒ 「九州王朝0」(倭国大乱)⇒(九州王朝Ⅰ&Ⅱが並立)※
※⇒「九州王朝Ⅰ」(呉裔・熊襲王朝)
※⇒「九州王朝Ⅱ」(応神王朝Ⅰ) ⇒「九州王朝Ⅱ」(応神王朝Ⅱ)⇒「大和王朝」
『記紀』は、「九州王朝Ⅰ」を抹殺したと筆者(YA氏)は主張している。
↓天孫降臨
出雲王朝 ⇒ ★⇒「九州王朝0」(天の王朝)⇒ ★ 倭国乱 ⇒ ①へ
中国(なかつくに) 国譲り 邇邇芸+穂穂出見580年 王統断・内戦
穂穂出見 X(前っ君) 「天の王朝」庶流王統
葺不合(王:久米の若子) ②へ
「狗奴国」王女・豊玉姫 官:毛沼の若子 ③へ
①「九州王朝Ⅰ」~~~~~~~~~~~~~「倭の五王」(武烈=武?)☆ ①
卑弥呼・壹與共立 王統断
① 継体Ⅰ・欽明Ⅰ ★ ②「九州王朝Ⅱ」~~~~~~~ ★ 蘇我王朝 ②
「日本天皇」弑殺 崇峻天皇誅殺・天子親政 法皇:山背大兄弑殺
▲新唐書誤認:倭国⇒日本国
「毛沼の若子」・「久米の若子」
② 卑弥弓呼(景行天皇)~~~~~☆応神 ~~~~~~~~~継体Ⅱ・欽明Ⅱ ②
「豊国」から「淡海国」へ東遷 王統変?
(久米の若子 ⇒ 毛沼の若子)
② ★「九州王朝Ⅱ」天智Ⅰ即位・挫折~~~復活 ☆ 天智Ⅰ天子退位~~ ②
大化の改新・帝号天子即位 斉明・天武=帝号天子・天智Ⅰ下の天皇 対唐敗戦・天皇へ貶号
天智元年の政変
②~~~~~★天智Ⅰ天皇逐位 ~~~~~~~~~~~~★滅亡
天智7年の政変
③神武~~欠史八代~~~~~~~~~~~~~~~~~~天智Ⅱ~~~文武 ③
「銅鐸圏」侵略・原「大和王朝」創基
「狗奴王朝」創基=「天の王朝」の復活
③「大和王朝」 ★天智Ⅱ日位即位~ ★ 天武、日位回復~ 文武天位即位
日位=大王天皇 壬申の乱 天位=天皇
再分離:令和3年(2021)3月18日 最終更新:令和3年(2021)6月22日