目次
《その1》1 はじめに
2 人麿羈旅歌の定説解釈への疑問
3 定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向
《その2》4 解釈の鍵を成す地名と慣用句
5 人麿が天の地九州で見たもの・人麿の運命と九州王朝の終焉
《その3》6 応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと
《その4》7 九州王朝は二元統治体制
8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと
《その5》9 難波(津)と過近江荒都の歌
《その6》10 天智天皇とは
11 天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り
《その7》 12 古代通史粗筋
13 おわりに
後書き
《その8》別表「九州年号」/別図「松野連氏考」
我が国の古代史・古代文学は、虚構で構成
万葉集 (※1)、就中、柿本人麻呂 (※2) の歌がこの虚構を告発
我が国の古代史・古代文学は虚構されている。この「虚構」とは、言うまでもなく、「近畿天皇家(「大和王朝」)一元論」である。先行せる王朝、「九州王朝」の抹殺である。
(※1)『万葉集』は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である。万葉集の和歌はすべて漢字(万葉仮名を含め)で書かれている。天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)などさまざまな幅広い身分の人々が詠んだ歌4,500首以上も集めたもので(うち作者不詳の和歌が2,100首以上ある)、759年までの約130年間の歌が全20巻に分類収録されており、体裁が整った成立は759年以後の780年頃にかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったことは間違いないとみられている。和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており、日本文学における第一級の史料であるが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。(出典: Wikipedia)
(※2)『柿本人麻呂』(660年頃 -724年)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明である。一般には天武9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。(出典: Wikipedia)
〇 七世紀まで九州王朝(倭国)、八世紀以降は大和朝廷(日本国)
●九州王朝(倭国)から大和王朝(日本国)への実権移行は中大兄皇子の即位の時
天智7年 (※3)(668年)
(※3) 661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。
●九州王朝は、天智7年から文武5年(701年)まで日本列島の代表王権としての名分的地位 (※4) を保持。
(※4)九州年号が、「善化」(継体16年:522年)の建元から「大長」(文武2年:698~)に至る継続公布
●大和王朝の名実共の体制確立(※5)は、行政組織を「評」(ひょう) から「郡」(こおり)への移行(大宝元年:701年)、 平城京の建設(710)、史書の編纂〔『古事記』(712)、『日本書紀』(720)〕が証言
(※5) 郡評論争(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)
日本古代史学上の論争。大化改新の詔発令の646年(大化2)から大宝令制定の701年(大宝1)までの間の地方行政組織が《日本書紀》にみえる郡制か、金石文などにみえる評制か、さらに改新の詔の史料的信憑性をめぐって争われた。1951年井上光貞の説の発表によって論争が始まり、1960年代に活発化する。おもな説は、① 評制は飛鳥浄御原令施行の689年 ( 持統3 ) 以前の制で、改新の詔は浄御原令を転載したとする説 ( 井上光貞・八木充・上田正昭 )/② 改新の詔で郡制を制定したが実際は浄御原令まで旧来の国造制と暫定的な評制が併行したとする説 ( 関晃 )/③ 大宝令施行まで評制が行われたとする説 ( 磯貝正義 ) の3説である。
●九州王朝の完全消滅は、「隼人の乱 」(※6) の完全鎮圧(天平2年:730)の時 である。この年、大伴旅人は、曾ての「九州王朝」の王城の地、大宰府で梅花の宴(※7)を開催する。この年、防人の制度が廃止され、” 旧体制とその制度は完全に消滅した ” のである。
( ※6)「隼人の乱」は、養老4年(720年)に起き、大伴旅人が征隼人持節大将軍として派遣、旅人は一時、大和に戻るが、その後大宰帥(大宰府の長官)(724年 - 729年)として大宰府に赴任している。
(※7)梅花の宴は、奈良時代(天平2年:730年1月13日)、大宰帥・大伴旅人の邸宅に於いて、いわゆる筑紫歌壇の員により梅花を題材とする32首の和歌が詠まれた宴会のこと。これらの歌は『万葉集』巻五に収録されている。日本の元号「令和」の選定元としても知られる。
〇 本論(YA論文)は、以上のことを『万葉集』の歌の中から証明しようとするものである。
『万葉集』(※8) は、
”『古事記』&『日本書紀』で固めた「嘘の構造」を告発している”
と、
”『万葉集』は、以上の認識と完全に一致している。”
と、
” 古代史などどうでもいい ” は、虚構保全協力(嘘の定説はそのままでいい)”
と、
筆者(YA氏)は主張している。
(※8)本論の『万葉集』歌は、岩波書店の『新日本古典文学大系』本に依り、定説を確認するため、訳を主とし、必要に応じて、原文及び注釈を加えている。
〇 虚構は今を規制(嘘に従わなければ受け入れられない社会)
・政治制度(天皇制)からTV番組の正解答まで
(1)定説の間違い (2)柿本朝臣人麻呂・羈旅歌八首
(3) 柿本朝臣人麻呂・下筑紫国時、海路作歌二首
※ 「羈旅歌」(きりょか):旅に触発された種々の感情を主題とする歌。 羈(羇)は旅,旅やどりを意味し,羈旅という語は《周礼》《楚辞》などの漢籍にも見えるが,中国では詩の分類用語としてはおもに〈行旅〉の語を用いる。
日本で羈旅歌の名称が最初に登場するのは『万葉集』で,旅先の地の景観や家郷,家人への思いを述べた歌を主とし,主要な作品として巻三の柿本人麻呂,高市黒人の羈旅歌8首などがある。
また巻七,十二では部類名としても見えているが,雑歌 (ぞうか),相聞 (そうもん)などの主要な部立の下位分類名として用いられているにすぎず,旅の歌がいまだ独立の部門と意識されていないことを示している。《出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版》
難波津ではない三津出航、作歌場所の比定・歌解釈等への疑問
〇 定説の間違い
定説の作歌場所の比定、歌解釈は間違っている。 そもそも、別載された「羈旅歌八首」、「下筑紫国時、海路作歌二首」は、摂津から筑紫に至る一連のものである。
以下、( )内は、定説による作歌場所、人麿の進行方向である。
進行方向は、西方向を「←」、東方向を「→」、明確でないものは不記とした。
みつ さき かしこ こも え 解読不可能
249 御津の崎 波を恐み 隠り江の 船公宜奴嶋尓(大阪湾・←)
三津埼 浪矣恐 隠江乃 舟公宣奴嶋尓
※「舟公宣奴嶋尓」は、現在に至るまで解読不可能。
たまも みぬめ のしま ちかづ
250 玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近付きぬ(神戸・←)
玉藻刈 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 船近着奴
あわじ のしま いも ひも
251 淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す(淡路島北端・←)
粟路之 野嶋之前 浜風乎 妹之結 紐吹返
あら ふじえ あま
252 荒たえの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行くわれを(明石)
荒栲 藤江之浦乎 鈴寸釣 白水郎跡香将見 旅去吾乎
いなびの こころ かこ
253 稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ(印南・加古川・←)
稲日野毛 去過勝乎 思有者 心恋敷 可古能嶋所見
ともしび あかし おほと こ いへ
254 灯火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず(明石・←)
留火之 明大門乎 入日哉 榜将別 家当不見
※(灯火の)明石海峡に漕ぎ入る日には、漕ぎ別れてしまうものだな。大和の家の辺りも見ないで。
あまざか ひな ながち と やまとしま
255 天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ(明石・→)
天離 夷之長道従 恋来者 自明門 倭嶋所見
※(天離る)地方からの長い道中、恋しく思いながら来ると、明石海峡から大和の地が見える。
けひ にわ かりこも あま
256 飼飯の海の 庭良くあらし 刈薦の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船(兵庫県三原郡)
飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船
※ 飼飯の海の漁場は穏やかであるらしい。(苅薦の)入り乱れて漕ぎ出て行くのが見える。海人の釣り船が。
いなみ ちへ やまとしまね
303 名ぐわしき 印南の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は(兵庫県印南)
名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
※その名も美しい印南の海の沖の波、その千重の波の彼方に隠れてしまった。大和の地は。
おおきみ とほ みかど かよ しまと かみよ おも
304 大君の 遠の朝廷と あり通う 島門を見れば 神代し思ほゆ(博多湾)
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎 見者 神代之所念
※大君の遠く離れた政庁へと行き通い続けると海峡を見ると、神代の昔が思われる。
〇 古代史の虚構の告発:定説(武庫の海・茅沼の海の東西漂泊等)は間違い。
この「羈旅歌八首」&「下筑紫国海路作歌二首」は、大阪から博多に至る、
東(鄙:近畿)から西(天:九州)への一定方向の一連の歌である。
この証明が、我が国古代史の虚構を告発することになるであろう。
(1)天鄙とは (2)倭とは (3)やまと島・やまと島根
1)天とは九州王朝直轄領域
1.1)「天」とはどこか:” 対馬海流域を中心とする領域 ”(古田説)
・「天」の原型は、『記紀』に記される ” 天降る地 ” とされている筑紫、出雲そして新羅の三地域を内包する地域である。
・対馬海流域民(天孫族)の九州筑紫への進出(天孫降臨)と同国家(倭国=九州王朝)
の発展により、「天」領域は「九州王朝」の直轄領域(人麿歌詞書「筑紫国 (長門・周防国
を含む)」:人麿時代の「天」)へと拡大したのではないか。
1.2)「天」(九州王朝)領域の東限、即ち「鄙」の西限が何処か。
・此処に所在するのが、「明大門」&「明門」ということになり、この「明大門」&「明門」とは何処かが、以後の展論の重要課題である。
2)鄙とは天域の東、近畿は鄙
2.1)鄙の長道(ながじ)は鄙。天と鄙の中間の存在ではない。
・起点は「天」の出口(「天」への入口)、終点は分からない。「鄙」側の起点ではない。
・明石海峡以東が「鄙」、以西が「天」とすると、「鄙の長道」が「鄙の短道」となり、「天」(筑紫の地)に到るには「天の長道」となり、明石海峡・天鄙境界説は不成立となる。
2.2)東限は富士山
・「天領域」が直轄領域へと拡大し、「鄙」の東退と同じく、「鄙」の東限も、東に拡大したのかもしれない。
・大国主命は、九州の地「倭国」を巡幸し、” 国譲り ” の争乱に於いては、建御雷命(たけみかずちのみこと)に追われた建御名方命(たけみなかたのみこと)は諏訪まで逃げている。即ち、西は九州から、東は信濃までが「出雲王朝」の支配下であり、この領域が「鄙」であったともいえる。
・人麿の時代の「鄙」の東限は、新唐書「東北限大山(東北は大山に限り)、其外即毛人(其の外は、即ち、毛人)」に記されているように、富士山であったとするのが妥当かも。
3)国(島)生みと天、壱岐は原型天の中心
3.1)壱岐は天孫族の原郷 (「根」)・「天」(原型) の中心
このことは、『日本書紀』も「国(島)生み」で島の名前と別名を記しているが、この亦の名の中で「天」を冠していることが、「天」の領域を証言している。
・島の名:隠伎之三子島(おきのみつごのしま) 亦の名:天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
・島の名:伊伎島(いきのしま) 亦の名:天比登都柱(あまのひとつはしら)
・島の名:津島(つしま) 亦の名:天之狭手依比賈(あめのさでよりひめ)
・島の名:女島(ひめしま) 亦の名:天一根(あめひとつね)
・島の名:知訶島(ちかのしま) 亦の名:天之忍男(あめのおしを)
・島の名:兩兒島(ふたごしま) 亦の名:天兩屋(あめふたや)
3.2)壱岐(天一柱)(あめのひとつはしら)は原型天域(対馬海流域)の中心
壱岐島には、現在でも神話の神々や神功皇后等を祀る42に及ぶ神社(※1)が残り、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする「原の辻遺跡」(※2)(国特別史跡に指定)が発掘されている。(出典:Wikipedia)
(※1)壱岐の島四十二社巡り(出典:壱岐観光・ドット・コム)
日本最古の歴史書とされる古事記。その序章には夫婦神、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の「国生み神話」があります。夫婦神は後に日本となる八つの島をつくったとされ、五番目に生まれたのがここ、伊伎嶋(壱岐島)です。古事記では天比登都柱(アメノヒトツバシラ)とも呼ばれています。
「柱」とは天地を結ぶ交通路という意味。つまり壱岐島は天と地を繋ぐ架け橋の役割を担っていた、そう考えられているのです。このように、神様ととても禄の深い場所である壱岐。法人登録されたものだけでも150を超える数の神社が、島のいたるところに点在しています。山奥にひっそりと建つものや、海のそばに建つもの。数々の神社は、この島に住む人たちにとって日々の暮らしの一部であり、心のよりどころとなっています。とりわけ、各地区を見守る氏神様が祀られた四十二の神社は、地域の人々に愛され、守り継がれてきました。そんな島の神社を巡れば、きっと壱岐の魅力に気づくはず。さあ、あなたも神秘の空気に満ちた壱岐島で、神様の息吹を感じてみませんか。
* 七社巡り:住吉神社(底筒男神・中筒男神・表筒男神)・本宮八幡神社(住吉大神・聖母大神・八幡大神)・聖母宮(息長足姫尊(神功皇后)外6柱)・箱崎八幡神社(豊玉毘古命を始め9柱の大神)・國片主神社(少彦名命、菅贈相國)・興神社(足仲彦天皇外6柱)・白沙八幡神社(應神天皇外6柱)
*パワースポット巡り:男嶽神社(猿田彦命)・女嶽神社(天鈿女命)・月讀神社(中月夜見命・左月弓命・
右月讀命)・爾自神社 (級長津彦神、息長足姫命、外7柱)・小島神社(伊弉册尊、軻遇突智命、埴安姫命、素盞嗚尊)・塞神社(猿田彦命、天鈿女命)
(※2)原の辻遺跡は弥生時代の環濠集落で、『魏志』倭人伝に記された「一支国」の王都に特定された遺跡です。この原の辻遺跡は “ 遺跡の国宝 ” にあたる国の特別史跡に指定されています。日本で弥生時代の遺跡として特別史跡に指定されているのは、この他、登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の2箇所だけです。
これまでの発掘調査で、日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡などが確認されています。遺跡からは交易によってもたらされた様々な地域の土器や中国の貨幣や三翼鏃をはじめ、日本唯一の人面石やココヤシで作った笛等が発見されています。
(出典:Wikipedia)
3.3)壱岐は浦安国・日本(やまと)
・「昔、伊弉諾尊、此の国を目(なづ)けて曰く、『日本は浦安の国・細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真國(ほつまくに)」とのたまいき。(神武天皇)(『日本書紀』)
・天照神信仰を中核とし、壱岐島を中心根拠地に、細々と南北に市糴(米貿易)してきた海の民・天族は、大陸交易のメインルートという地の利と、恐らく、「出雲王朝」即ち、「中国(なかつくに)(鄙)」の辺境防衛任務(鄙守=夷守)(ひなもり)という立場から、次第に、その勢威を増大させたと思われる。
・むろん、拡大「天」(あま)・九州王朝直轄領域の中心は「倭」(やまと)(大宰府の地)
3.4)大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)は九州島
・大倭豊秋津島とは、本来、王権の所在した九州島の呼称である。亦の名、天御虚空豊秋津根 = 天の御する虚空と豊饒の地、豊漁の津(天の支配する天地)の本拠島
・大倭豊秋津島、亦の名、天御虚空豊秋津根別は嘘。大倭豊秋津島=「大和の地」天御虚空豊秋津根別は嘘ということ。
3.5)天御虚空豊秋津(あまつみそらとよあきつ)
・この島の本来は「豊秋津」にあり、「豊国の安岐津」のことであり、この勢力の分流(根別)が「大和王朝」(当然、神武天皇達)であり、「豊国の安岐津」の勢力が「神武天皇東征」発出の主体ということである。(古田説)
・古田説は魅力的であるが、「天御虚空」とは ”「天」(海族)が「御する」(支配する)「虚空」(天:てん)と「豊秋津」(地・海:豊饒な大地と豊漁が約束された港)” と理解するのが妥当。 (本論説)
4)古代歌謡に見る列島三分(天(あま)・鄙(ひな)・東(あずま))
4.1)「天」が九州王朝、「鄙」が大和王朝、「東」が関東王朝。
・古代人は列島三分の政治地図を認識していた。
4.2)歌謡
「纏向の 日代の宮は・・・百足(ももだる)る 槻が枝(つきがえ)は 上枝(ほつえ)は 天(あま)(阿米)を覆へり 中つ枝は 東(あずま)(阿豆麻)を覆へり 下枝(しずえ)は 鄙(ひな)(比那)を覆へり・・・」(『古事記』雄略天皇)
・この弁別は多分に文化的なものであり、「天」と「鄙」は ” 中央と地方 ”、「東」は
” 異文化”ということである。
・むろん、上・中・下は、九州王朝視点の順位付けであり、東(あずま)に於ける5世紀の金鈴・金環文明を考えるならば、この序列は妥当である。
・この認識は、景行天皇の宮とされている「纏向の日代の宮」(※3)は「天」の存在を証言
している。「景行天皇」は「鄙」の地の存在である「大和王朝」の王ではなかったと証言している。この歌謡が「日本書紀」不記載であるのも、この故にあるであろう。
(※3)定説の「纏向の日代の宮」(出典:奈良県桜井市ホームページ)
5)唐詩に見る列島三分(扶桑・扶桑東・扶桑東東)
扶桑は、中国伝説で東方のはてにある巨木で、そこから太陽が昇るとされ、その巨木の生えている土地を扶桑国という。
古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬莱山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝、若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。
後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。
日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。室町時代に作成された行基図(地図)には、『日本扶桑国之図』というタイトルが付されている。
平田篤胤 (1776 - 1843) は、その著『大扶桑國考』(1836年)で、国王を意味するという「乙祁」を仁賢天皇の名とし、中国の伝説に表れる扶桑は日本のことだったとする説を唱えた。
現在、日本の別名とする説があり、倭の五王の倭国は今の九州にあったとして、それとは別勢力である扶桑国は関西・近畿地方にあったとする「関西説」、扶桑国は房総半島とした「関東説」、その他の日本国内説(九州説、東海地方説、東北地方説、北海道説、樺太説)がある。又、日本以外とする説もある。(出典:Wikipedia)
5.1)扶桑巳在渺暮茫中 家在扶桑東更東
= 扶桑(ふそう)は巳に渺暮(びょうぼう)の中に在るに 家は扶桑の東の更に東に在り
・扶桑(太陽の生まれる地)・扶桑東(ふそうのひがし) ・扶桑東東(ふそうのひがしのひがし)
◆「大和王朝」の官人等が ”「九州の地」が「日出処」(即ち、太陽「初日」が生まれる「陽谷」、其処に生うる木:扶桑)” と呼ばれる地であった”ということ、及び ”「大和の地」が扶桑の東(「初日外」)に当たる ” ということ、そして、” 扶桑の東に東限があり、以東は別域(扶桑の東の東)である ” ということの認識を有していたということである。(中小路駿逸氏指摘)
5.2)扶桑が九州王朝、扶桑東が大和朝廷、扶桑東東が関東王朝。
・8~10世紀、列島三分の認識は、日中知識人の常識であった。
6)天と鄙の逆転
6.1)列島主権の移転
・天の王朝「九州王朝(倭国)」から鄙の王朝「大和王朝(日本国)」への王朝交代
・九州王朝(万葉時代の筑紫国)は「天下(あまさ)がる鄙(ひな)の国辺(くにへ)」
6.2)王朝交代の立場に立った歌
・『万葉集』中で、この王朝交代の立場に立った歌が、多数、歌われている。
★人麿の歌が、” この「立場」に立ったものではない ” ということの証明は、「羈旅十首」
の一連の歌が、一貫して東から西へ向かうものであることを証明することである。
即ち、「羈旅十首」は ”「鄙」(大和の地)から「天」(筑紫の地)へ向かうもの ” となるからである。
1)倭(やまと)とは本来、九州王朝と筑紫の表意・呼称
・古より、倭(やまと)即ち大和説は誤り、むろん、倭・ちくし(筑紫)呼称説も誤り。
・「倭」とは、本来、「九州王朝」、即ち、「倭国」そのもの、或いは、その王権、或いは、その王権の地、即ち、太宰府の地の表意であり、かつ、呼称である。
・「大和王朝」、その王権、或いは、その王権の地、即ち、大和の地のものではない。
・列島主権の「大和王朝」への移転後、その表意、呼称と成ったのである。
・8世紀、「大和王朝」が「倭=やまと=大和」と作為した呪縛が、21世紀の今日、未だに、考究者の理性を縛し続けている。
・この ” 古から「やまと」は大和 ” こそ、我が国古代史を貫く、「近畿天皇家一元主義」という虚構の大梁なのである。むろん、「九州王朝」と筑紫の地を「やまと」とする説がないとするものではない。「山門」(やまと)説である。
・本論は、「倭」の表音「やまと」が「九州王朝」を指すということである。
2)九州王朝は山の王朝
・九州王朝が「山」(やま)の王朝であったということは論を待たないであろう。その王者及び
王城の地に、「山」幸彦、「邪馬」壹国、「邪馬」臺国の名があるからである。
・『隋書俀国傳』に記される阿蘇山の祷祭も傍証となるかもしれない。しかし、これでは「九州王朝」とその王権、或いは太宰府の地が「やま(と)」と呼称されていたかどうかは分からない。
3)倭建命(やまたたけるのみこと)、大葉子(おおばこ)が歌うのは筑紫「やまと」
◆倭建命の「国思(くにしの)ひ歌」
・「倭 (やまと:夜麻登)は 國のまほろば たたなづく 青垣(あおかき) 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」(『古事記』景行天皇)
◆大葉子(※)が「決別・望郷歌」で歌う筑紫「なにわ」
・韓國の城 の上に立ちて大葉子は 領巾振らすも 日本(やまと)(邪魔等)へ向きて
〈或有和(あるひとこたえ)へて曰はく〉
・韓國の 城の上に立たし 大葉子は 領巾振らす見ゆ 難波(なにわ)(耶麻儞)へ向きて (『日本書紀』欽明天皇)
(※) 大葉子(生没年不詳)は、上代日本の女性。調吉士伊企儺(つきのきしいきな)の妻。調伊企儺は、難波の人。応神天皇の代に弩理使主という者が百済から帰化し、その曾孫弥和は顕宗天皇の代に姓 調首を賜わった。
伊企儺は、その子孫で、号して調吉士。欽明23年(562)に新羅がまた背き、任那(任那官家)を亡ぼしたので、朝廷は紀男麻呂を将として問罪の師をおこし、伊企儺はこれの副将であった。
妻大葉子とともに軍に従い、敗れて、虜となった。新羅の人が刀を抜いて彼に迫り、その褌を脱がせ、臀をあらわにさせ、日本のほうへ向けさせて、「 日本の将、わが臗*(左に「月」、右に「隹」)を噉(くら)へ 」と叫ばせようとし、しかし伊企儺は、「 新羅王、わが臗*(左に「月」、右に「隹」)を噉(くら)へ 」と叫び、殺された。
その子である舅子は父 伊企儺の屍を抱いて死んだ。大葉子は虜であったが、歌って「 からくにの きのへにたちて おほばこは ひれふらすもやまとへむきて 」と。
聞く者はみなこれを哀れんだ。
(出典:Wikipedia)
◆倭建命と大葉子の歌
・倭建命が(「やまと」は国のまほろば)と歌い、大葉子が(「やまと」に向かって決別の領巾を振っている)ことである。
・もし、この「やまと」が、「大和王朝」や「大和の地」を指しているのであれば、「九州王朝説」は成り立たないであろう。
・倭建命及び大葉子の時代、同王朝及び同地が列島権力の中心ということになるからである。
◆景行天皇の時代
・大和王朝が景行天皇の時代、南九州の地を征定しているのであれば、「九州王朝説」は不成立。
・即ち、話は九州王朝の王族将軍・倭建命の熊曾征服譚。むろん、欽明天皇の時代(大葉子の時代)も九州王朝の時代
4)大国主命時代の九州の倭国
・「倭国」が、本来、九州筑紫の地を本拠とする王朝、即ち、ここでいう「九州王朝」である。
・大國主命の倭国巡行(倭国に上る)と宗形の多紀理毘売への妻問の際、その妻「須勢理毘売」が嫉妬した歌が『古事記』に記されている。
・この「倭国」は、筑紫へ列島の代表王権が移行して後の認識、即ち、「九州王朝」の視点での描写である。
・そもそもの話は、”「出雲王朝」の時代、列島の最高権力者・大国主命が九州・筑紫の地へ
行った(地方巡幸)” ということである。
5)山跡(やまと)は、本来、倭(やまと)と同じ
◆雄略天皇歌(『万葉集』の巻頭を飾る歌)
「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ) ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも」
◆「そらみつ」は、本来、倭嶋(やまとしま)(九州島)の枕詞
・「虚見津(そらみつ) 山跡乃國」は「大和國(奈良県)」ではなく「倭国(わこく)」
・「そらみつ」という枕詞は、本来、「九州王朝」或いは「太宰府の地」の「やまと」に冠せられるものである。
・「そらみつ」とは、本来、「天(そら)満」であろう。海の民が海上(船)から行く手の天空いっぱいに聳える(「天空に満つ」)巨大な山島(大島)を望む形容
・島が己の運命を託すに足る(風浪避難、食料・水の確保等)かどうかの一瞥
・天(そら)(虚空)満大島(みつだいとう)こそ=天満倭(そらみつやまと)は倭島(やまとしま)賛歌
6)倭と山跡の弁別
・山跡は拡大・倭(やまと)、即ち、大倭(おおやまと):「倭」<「山跡」
・山部赤人歌の「山跡国(やまとのくに)」は「日本國(にほんこく)」
甲斐国と駿河国に聳える富士山がその鎮め なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は・・・日の本の(日本之) 大和の国の (山跡国乃) 鎮めとも います神かも・・・
「やまと島」は島であり、支配領域の意。「やまと島根」とは島であり、「やまと島」支配の淵源、即ち、祖源の島の意。即ち、中心根拠地(島)である。天鄙逆転後、権力中心(地)の意へと転じた。
1)倭嶋(やまとしま)(夜麻登思麻)は九州島
◆倭嶋・大和の地説は極めたる誤説
・「倭嶋」とは定説の如く「大和の地」ではない。むろん、『日本書紀』の如く、”「嶋」として認識していない「本州島」” でもない。
・『古事記・日本書紀』に言う「筑紫嶋」、即ち、「九州島」である。
◆「羈旅八首」は、一貫、九州の地に向かうもの
(255)天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ〔自明門 倭嶋所見〕
(3608)天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より 家のあたり見ゆ〔安可思能門欲里 伊敞乃安多里見由〕
(3648)海原の 沖辺に灯し いざる火は 明かしして灯せ 大和島見む〔夜麻登思麻見無〕
この歌は、景行天皇が「熊襲征伐」時、九州への渡海港(周防の佐婆)からの九州島への出港と嵐による豊前への漂着の航海を歌ったもの。
2)山跡嶋とは日本列島(秋津洲)
◆日本列島は二島から成る。
・四国島は大なる属島(淡島、即ち、阿波島)。北海道島は認識外
うつゆふ まさ あきづ となめ
・「 内木綿の 眞迮き國と雖も、蜻蛉の臀呫 (※1) の 如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて。始めて秋津洲(あきづしま)の號有り。
(※1) 蜻蛉の臀呫 = 九州島(雄)と本州島(雌)の交尾
◆山跡なる大嶋の嶺・・・天智天皇から鏡王女への歌
・「妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる(山跡有) 大島の嶺(大嶋嶺)に 家もあらましを」
・大嶋は九州島、嶺は阿蘇山か ・・・” 天智天皇は九州所在 ”
◆豊前なる河内、鏡山
・太宰府の地ではなく、豊前鏡山に埋葬された大宰帥河内王(※2)
・河内王の豊前国の鏡山(※3)に葬られし時(持統8年)に、手持女王(※4)の作りし歌
「大君(王)の 和魂(にきたま)あへや 豊国の山を 宮と定むる」
・”持統三年、豊前の河内王を大宰帥に任命した持統天皇”
(※2) 飛鳥時代の皇族である河内王(生年不詳 - 持統8年(694年))は、敏達天皇皇子・押坂彦人大兄皇子系統の諸王で、百済王の子か孫である可能性が高い。天武天皇の朱鳥元年(686年)新羅の金智祥を饗するため、大伴安麻呂・藤原大嶋らとともに筑紫に派遣される。持統3年(689年)筑紫大宰帥に任じられ、兵仗や物を賜る。同4年(690年)大伴部博麻らを送還した新羅の送使金高訓らの饗を命じられた。持統8年(694年)浄大肆を贈位され、賻物(喪主に送られる葬祭料)を賜っているので、同年中に筑紫で客死したのであろう。『万葉集』巻3・417-419には、王を豊前国鏡山に葬る際、手持女王(王の妻か)の詠んだ挽歌3首が見える。河内王の墓は、1894年(明治27年)に、福岡県田川郡香春町に所在する「勾金陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇皇孫長親王王子河内王)(河内王陵)が治定されている。通称は「外輪崎古墳」。付近には手持女王の歌碑もある。 (出典:wikipedia)
(※3)勾金陵墓参考地 万葉の旅 香春鏡山
(※4)手持女王(たもちのおおきみ)(伝未詳):持統8年(694)以後、豊前国に葬られた河内王の挽歌を詠んでいる。河内王の妻かともいう。河内(かふち)の王(おほきみ)を豊前(とよのみちのくち)の国の鏡山に葬(はふ)れる時、手持女王の作る歌三首
①「王(おほきみ)の親魄(にきたま)あへや豊国の鏡の山を宮と定むる」(万3-417)
【通釈】河内王の親魂はこの地をよしとされたのか、豊国の鏡の山を永遠の宮とお決めになった。
【語釈】「河内王」:持統天皇三年(689)八月、筑紫大宰帥に任命され、持統八年にも大宰帥として筑紫にいたことが書紀から確認できる。帥として筑紫に死去し、豊前国に葬られたものらしい。「親魄(にきたま)」あへや:親魄はムツタマとも訓める。荒魂の対語で、現世に対し和み親しんでいる魂。「あへ」は、亡き王の魂が土地の霊と相適った、その土地を吉しとした、といった意味か。「鏡の山」:福岡県田川郡香春町鏡山にある小山という。
②「豊国の 鏡の山の 石戸(いはと)たて 隠(こも)りにけらし 待てど来まさず」(万3-418)
【通釈】豊国の鏡の山の岩の戸を閉じて、お籠もりになったらしい。いくら待ってもいらっしゃらない。
【語釈】◇石戸たて 「石戸」は墓の入口を塞ぐ岩。「たて」は「閉じて」の意。
③「石戸(いはと)破わる 手力(たぢから)もがも 手弱(たよわ)き女(をみな)にしあれば すべの知らなく」
【通釈】岩の戸をこわす程の腕の力がほしい。弱い女なので、どうすればよいのか分からない。(万3-419)
3)山跡嶋根は壱峻島
◆山跡嶋根 = 倭嶋、即ち、大和の地説は誤り
・「大跡嶋根」は日本列島の「根」ということになるであろう。むろん、” 天孫族の支配の
「根源」” ということである。” 天孫族の原郷 ”ということである。
・天孫族の源郷・山跡嶋支配の淵(祖)源の島・壱峻島
◆稲見海(いなみのうみ)は玄界灘
・稲見の海 = 播磨国・印南の海説は誤り(嘘)
・「名ぐわしの天孫降臨の海、渡れば見れる稲見野(筑紫平野)の豊饒の稲穂」
そもそも、播磨国の海は武庫(むこ)の海
4)日本嶋根は大和の地
◆日本嶋根は定説のとおり大和の地 = 権力中心(天鄙逆転)、
壱岐島(天一柱)は、既に、鄙中の鄙の存在
・定説の根拠とする歌は、次であろう。
〔角鹿(つのが)津乗船時、笠朝臣金村作歌一首 并短歌〕
「越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真梶貫き下ろし いさなとり 海路に出でて あへきつつ 我が漕ぎ行けば ますらをめ 手結が浦に 海人娘子(あまをとめ) 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見るしるしなみ わたつみの 手に巻かしたる 玉だすき かけて偲ひつ 大和島根(日本嶋根)を」
・この「日本嶋根」は定説の「山跡嶋根」と同じ、明らかに「大和の地」を指すであろう。 そもそも、定説は、”この「日本嶋根」から” と言うことであろう。前代の歌を後代の意味から解釈するという誤りの典型的な事例である。” 山跡嶋支配の根(権力の淵源)” から ” 日本嶋支配の根(権力の根源)”へと意味が変っているのである。
◆出雲王朝の時代、列島の「島根」は出雲の地「妣の国根の堅州国」
・「淵(祖)源」であり、「権力中心」
・・島根県は斯く意味を伝承した県名 ”意味は本家帰り”か
◆「山跡嶋根=大和の地」と整合を成す鍵である「いなみ=印南」
・「いなみ」は、『万葉集』中に多出する重要な地名である。
・定説論者は、「いなみ」は「印南」(※5)と主張する。その理由は「いなみ」=「筑紫の地」を忌避せんとするものである。
(※5) 印南は、古来、印南野(播磨平野)とも呼ばれ、兵庫県西部に広がる平野。姫路平野・播州平野とも。播磨灘に面し、加古川、市川、夢前川、揖保川などが流れる。平野東部は、印南野(いなみの)台地と呼ばれるなだらかな河岸段丘になっており、ため池が多い。
兵庫県姫路市、たつの市、高砂市、加古川市、三木市、加西市、西脇市、加東市、小野市、明石市、神戸市(西区、垂水区)、神崎郡福崎町、加古郡(稲美町・播磨町)、揖保郡太子町などの自治体が位置する。旧播磨国の主要部分であり、兵庫県南西部の中心的な場所を占める。(出典:Wikipedia)
・「いなみ」が定まり、また、「明大門」、「明門」が ”「家の島」以西に ” 定まれば、「羈旅十首」は、一貫して西、即ち、筑紫に向かうものである。
5)倭の枕詞「しきしまの」・・・本来、九州島。後、日本列島
◆倭(やまと)の枕詞(三つ):「そらみつ」、「あきづしま」、「しきしまの」
・柿本朝臣人麻呂歌集歌曰
「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあ)げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする」
(反歌)磯城島の 大和の国(倭国)は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ
あきづ島 大和の国(倭之国)は 神からと 言挙げせぬ国 しかれども 我が言挙げす・・・
・葦原の瑞穂の国 = 蜻蛉嶋倭国 = 磯城嶋の倭国
再分離:令和3年3月18日