目次
(参考 九州王朝変遷の要約)
6-1 応神王朝Ⅰ
(1)狗奴国 (2)神武天皇・仲哀天皇・応神天皇の出自 (3)奴国、投馬国、女王国の行程 (4)狗奴国、熊曾国、東鯷国
6-2 応神王朝Ⅱ(九州王朝Ⅱ)
(1)王統の交代 (2)九州王朝Ⅰの王統 (3)九州王朝Ⅰから九州王朝Ⅱへの王朝交代を証言
(4)肥後菊池と伊都を結ぶ王統 (5)応神王朝Ⅱ(九州王朝Ⅱ)創基時に於ける主役達
(参考)松野連系図(倭の五王)
1)九州王朝の変遷
● 邇々芸命王朝(天の王朝)~卑弥呼五王王朝(熊襲呉裔王朝)~継体王朝(天の庶流王朝・応神王朝Ⅱ)~
*天孫降臨王朝:邇邇藝命創基の原九州王朝(天の王朝:九州王朝0)の庶流王朝
穂穂出見命の庶流、即ち、穂穂出見命と海神(豊日別王:原狗奴国王)の女(むすめ)・豊玉姫の子・
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(なぎさたけうがやふきあえずのみこと)を祖とする王朝。
*狗奴は、倭奴、狗奴と同じ、久米の卑称
*豊国から淡海国に東遷した狗奴国:以降、応神王朝
2)九州王朝の王統
① 原九州王朝:邇邇藝・穂穂出見王統(天の王朝:九州王朝0)
*所謂、天孫降臨王朝(邇邇藝命が創基した王朝)
*列島の代表王権を出雲王朝から受け継ぐ「原九州王朝」
② 九州王朝Ⅰ:熊襲・倭王系図(松野連系図)
*卑弥呼(肥後菊池出自?)・倭の五王につながる王統
*景行天皇は卑弥弓呼か?
*伊都国王は九州王朝Ⅰの本流王家
③ 応神王朝Ⅰ:狗奴国(狗奴国は豊国・日向国)(応神天皇~継体天皇)(淡海国)
*原九州王朝(天の王朝:九州王朝0)の庶流王朝
*穂穂出見命と海神(「原狗奴国」王)の女(むすめ)・豊玉毘賈との子
=波限建鵜葺草葺不合命(なぎさたけるうがやふきあえずのみこと)を祖とする王朝
*応神天皇以前の景行天皇、更に遡って、豊国時代の狗奴国をも、応神王朝Ⅰに属するとしており、応神天皇を以て厳密に弁別するものではない。
*神武天皇も狗奴国・原狗奴系王統出自、仲哀天皇は天系狗奴国王、応神天皇は天系を継承と主張する原狗奴系狗奴国王
④ 九州王朝Ⅱ(=応神王朝Ⅱ)(継体天皇~持統天皇)
3)九州王朝の王統の変遷と正統
3.1)九州王朝の王統の変遷
① 穂穂出見命~穂穂出見命(数十代):原九州王朝(九州王朝0)
② 卑弥呼~倭五王:九州王朝Ⅰ ⇔ (並立) ⇔ ③ 応神王朝Ⅰ(豊国~淡海国)
④ 継体天皇~持統天皇:九州王朝Ⅱ(応神王朝Ⅱ)
3.2)九州王朝の正統
① 原九州王朝(九州王朝0)~③ 応神王朝Ⅰ(狗奴国)~④ 九州王朝Ⅱ(応神王朝Ⅱ)
② 九州王朝Ⅰ(熊襲・倭王系図)は偽王朝・・・『古事記』&『日本書紀』は存在を抹殺
(1)狗奴国 (2)神武天皇・仲哀天皇・応神天皇の出自
(3)奴国、投馬国、女王国の行程 (4)狗奴国、熊曾国、東鯷国
☆九州王朝の変遷
邇邇芸王朝(天の王朝)~卑弥呼五王王朝(熊襲呉裔王朝)~継体王朝(天の庶流王朝:応神王朝Ⅱ)
狗奴とは久米の卑称、即ち、倭奴、匈奴と同じ
1)「応神王朝Ⅰ」=「狗奴国」
* 「応神王朝Ⅰ」は、当然のことながら、〔「大和の地」の王朝〕でも、「倭」(太宰府の地)からその王城の地を動かしていない「九州王朝」の事でもない。『魏志倭人伝』に言う、卑弥呼と対立する卑弥弓呼を王とし、官に狗古智卑狗を有した「狗奴国」のことである。
*「応神王朝」とは、所謂、天孫降臨王朝、邇邇芸命(ににぎのみこと)の創基した王朝、列島の代表主権を出雲王朝から受け継ぐ「原九州王朝」(天(あま)の王朝:「九州王朝0」)の庶流、即ち、穂穂出見命(ほほでみのみこと)と海神(「原狗奴国」王)の女(むすめ)・豊玉姫毘賈との子・波限建鵜葺草葺不合命(なぎさたけるうがやふきあえずのみこと)を祖とする王朝である。
*ここで言う「応神王朝」とは、” 応神天皇から継体天皇に至る「淡海国」の存在 ”(「応神天皇Ⅰ」)と ” 継体天皇から持統天皇に至る列島の代表王権「九州王朝Ⅱ」としての存在 ” 即ち ”「継体王朝」”(応神王朝Ⅱ)である。
*但し、応神天皇以前の景行天皇、更に遡って、豊国時代の狗奴国をも、前者としており、応神天皇を以て厳密に弁別するものではない。
*むろん、前者の場合、列島を代表する王朝(倭国)は卑弥呼から倭の五王に続く「九州王朝Ⅰ」であり、「応神王朝Ⅰ」は地方の権力的存在で、「王朝」と呼ぶべき存在であったかどうかということは別である。
*” 後世「応神王朝Ⅰ」が列島を代表する王朝と位置づけられている(卑弥呼~倭五王の「九州王朝Ⅰ」は偽王朝)”ということから、斯く表現したものである。
ーー『魏志』の経路読解・陶淵明の証言ーー
*『魏志』の経路解説について確認するものではない。古田説は正しい。” 部分里程の総和が総里程 ” 即ち、帯方郡治から邪馬台国までの部分里程の総和と総里程が一万二千余里である。(蛇足であるが後述「博多湾頭の投馬国」に関係するので確認しておく。総里程は万二千余里である。万二千余里+水行く十日・陸行一月ではない。)
*が、” 余りにも出来すぎ ” である。” こんなにぴったりあうものであろうか ” ということである。贅沢な疑問である。古田氏は ” だめ押しの資料 ” を探していたところ、これを得たと。周代の歴史書『穆天子伝』である。この中に、穆王の周都から西王母の国までの里程付き訪問記が記されていると。この部分里程の総和と総里程が三万五千里であると。
*でも、” 西王母など神話上の話。つまり、この訪問記は荒唐無稽なお伽噺 ” という新たな反論があるであろう。古田氏は、” 西王母(国)は実在 ” としている。おくであろう。”架空の尊存在に、細部の里程(方位・距離)” は整合しない。
2)狗奴国の原所在と東遷(豊国から淡海国へ)
三世紀に豊国(豊日別:豊後・日向国)に所在した「狗奴国」は、五世紀、淡海国に所在した。 ” 狗奴国の東遷 ” である。
3)肥後菊池郡説・熊襲説は誤り
*〔「狗奴国」=熊本県菊池郡〕説、〔「狗奴国」=「熊曾(襲)國」(鹿児島県)〕説等は、『魏志倭人伝』を無視した恣意的な嘘説である。
*「狗奴国」は「女王国」の境界に位置する「奴国」の南に接する存在(「有奴国此女王境界尽其南有狗奴国」)なのである。
*”「狗奴国」の位置はこの「奴国」の位置による”ということである。としても、その位置が不定であるかぎり、「狗奴国」の位置は確定できないというのであろうか。
*考えてもみるがいい。魏は卑弥呼と、この「狗奴国」との戦争に介入し、張政等を派遣して、卑弥呼に詔書と黄幢を授与しているのである。張政は卑弥呼の死とその宗女・壹興の擁立を見て帰国したのである。倭地に在留し、倭国争乱の平定を指導したのである。その敵国の位置が分からない、そのような史書が有るものであろうか。考え難い。
*『魏志』の倭地内における基本方向は、北から南、倭人の島(九州島)に至って(「松廬国」)、西から東、即ち、九州島の北部を東に横断するものである。確かに、この横断は「不穪国」までしか記されない。
*が、この東への方向は「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」と続くのである。そして、”九州島(北部の)東岸が「女王国の東界」である”と。” 文章は読者の理解が基本 ” とする以上、こう理解するしかない。
4) ” 女王境界 ” の奴国は中津辺り
*『魏志』から ”「女王国」の東、何ヶ国を経て渡海地 ” とは読み難い。事実はどうであれ、” 魏朝人士は、九州島の東岸が「女王国の東界」であり、「女王の東界」であると理解した ” であろうということである。そして、この東への方向と「女王の東界」との交点が「奴国」であると。この交点とは「中津辺り」である。
*むろん、この ”「奴国」は「女王国」の東界所在 ” ということは、「邪馬壹国」と「投馬国」(「不穪国」から南の存在)を除く、その他の国(「斯馬国」~「奴国」:「21カ国」)が「不穪国」から東の線上に存在するということではない。この20カ国(「奴国」を除く)が、どのように存在しているか、それは分からない。
*しかし、『魏志』の基本方向が東で、「女王国」の東界が海岸で限られ、「奴国」が「女王国」の境界の存在であるとしているのであるから、” この「奴国」は「女王国」の東界、即ち、九州島東岸所在である ” と理解するしかないということである。
*”「20カ国」が、例え、ランダムに拳上された ” としても、”この「奴国」は「女王国」の東界(九州島東岸)所在として、この末尾に拳上された ” と。むろん、"「東渡海」の地として ” である。
*むろん、「女王国東渡海」の「女王国」の渡海地点はこの間ということであり、特定はできないと言うであろう。しかし、『魏志』の東が大きくぶれることはない。かつ、豊前・豊後の國分に理由ありとすれば、「中津辺り」が妥当ということである。
5) ” 其(奴国)南” 、狗奴国は豊国(豊日別:豊後・日向国)所在
◆狗奴国
*「中津辺り」の南の存在、即ち、「狗奴国」は「豊国」(「豊日別」:豊後国・日向国)の存在ということになるであろう。
*日向国は豊国の分国:景行天皇と日向国・御刀媛(みはかせひめ)との子は豊国別皇子
◆草創期の「九州王朝」の基盤
*草創期の「九州王朝」の基盤は、「筑紫国」・「肥国」に在る。「筑後国風土記」が記す。
筑紫君・肥君等の祝(はふり)・甕依姫(みかよりひめ)の共立に、それを見ることができる。
*むろん、これは筑紫神社の祝(はふり)の共立である。が、古代に在って、祭祀が重要であったことは説明を要しないであろう。これに、筑紫君・肥君等が共同したということである。
*この「等」中に、「豊君」が存在した可能性は否定できないが、「主」ではないということである。「主」は筑紫君・肥君ということである。「九州王朝」の「豊国」征服は後なのである。
*「筑後の國は、本、筑前の国と合わせて、一つの國たりき。昔、この兩の國の間の山に険しく狭き坂有りて、往来の人、駕れる鞍韉(したくら)を摩り盡されき。土人、鞍韉盡しの坂と曰ひき。三に云はく、昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極く多なりき。因りて人の命盡の神と曰ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を祝(はふり)と為して祭らしめき。爾より以降、路行く人、神に害はれず、是を持ちて、筑紫の神と曰ふ。」(『筑後国風土記』逸文・筑後国号)
◆熊襲征伐
*そもそも、景行天皇の「熊襲征伐」とは、筑紫・肥勢力を基盤とする初期「九州王朝」の「豊国」、「熊曾国」(九州東南岸)征服なのであろう。” 九州東南岸征服戦と西北岸不戦・筑紫への凱旋 ”(古田氏『盗まれた神話』)である。
*『日本書紀』は、「熊襲征伐」と記すが、記述量・内容は ”「豊国征伐」” の方が多く、多様である。「九州王朝」のそれぞれ「豊国征伐」と「熊襲征伐」が、景行天皇の「熊襲征伐」としてまとめられたものと考えるべきであろう。
*倭建命の「熊襲征伐」は文字通り「熊襲征伐」である。つまり、景行天皇の「熊襲征伐」以降、「豊国」は「九州王朝」の版図となったということになる。
◆卑弥呼と「狗奴国」王・卑弥弓呼との対立
*卑弥呼と卑弥弓呼との対立は、この初期「九州王朝」の九州東南岸征服のものではない。
「九州王朝」の版図と成って後の、分裂対立である。「九州王朝」の王権を争うものである。
*何故、そう言えるのか。それは、「狗奴国」が卑弥呼支配下の国と制度を同じくする(「官:卑狗」)とみられるからである。王名の共通性も、そうであろう。『日本書紀』に記される ” 卑弥呼以前の存在とする景行天皇の九州東南岸征伐(「熊襲征伐」)”も、これを傍証するであろう。
6)邇邇藝命・穂穂出見王統(天の王朝:原九州王朝=九州王朝0)の 断絶 と(~倭五王:九州王朝Ⅰ)の発足
◆倭王位を巡る対立
*倭王位を巡る対立とは、天津日高日子穂穂手見命の後継争いである。むろん、穂穂手見命は一代ではない。穂穂手見命の享年は580歳であるというのである。穂穂手見命は世襲名であり、数十代継続したということである。
*この王統が絶えたと。むろん ” 有力な王統 ” と言うことである。であるが故の争乱(「倭国乱」)である。で、あるから卑弥呼が共立されたのである。
*卑弥呼の後が、卑弥呼の宗女ということであるから、天津日高日子穂穂手見命に至る「天(あめ)の王朝」(原「九州王朝」:「九州王朝0」)は亡んだということになるであろう。
◆「狗奴国」王・卑弥弓呼と「狗奴国」の王統
*この卑弥呼・倭王(「九州王朝」の王)体制に異議を唱えたのが、穂穂手見命の庶流、即ち、何代目かの穂穂手見命と海神の女(むすめ)・豊玉毘賈との子・天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の後裔を自称する「狗奴国」王・卑弥弓呼ということになるであろう。
*この何代目かの穂穂手見命とは、筑紫、肥を基盤とする初期「九州王朝0」が、九州一円を基盤とする王朝へと飛躍する、その功業を成した英雄王ということになるであろう。九州東南岸を征定した王である。古田氏が言う「前っ君」ということになるであろう。
*むろん、九州東南岸征定は一気にではなく、別々、複数の王者が、ということであろうが、特筆すべき功業を為した王が「前つ君」ということになるであろう。
*つまり、「狗奴国」の王統とは、「九州王朝0」の英雄王が「狗奴国」(豊国)を征服した時、同王者と「狗奴国」の王者の女(むすめ)との間にできた子、即ち、「九州王朝0」の傍流王統である。
*卑弥弓呼は、” 正統 ” を主張し、卑弥呼と争い、その宗女・壹興と争ったが、負けたということである。
7)後漢書の狗奴国(拘奴国)は淡海国所在:対卑弥呼敗戦による狗奴国の東遷
◆『後漢書倭伝』での拘奴国
*『後漢書倭伝』(※)(以下『後漢』)は「自女王国東渡海千余里至拘奴国」と記す。『後漢』が『魏志』の記事を下書きにしていることは明らかである。この「拘奴国」は、「狗奴国」である。つまり、、淡海国所在と記す。つまり、三世紀に「豊国」にあったが、五世紀は「淡海国」に存在したということである。
*このことについて、一部、” 狗奴国は二世紀(後漢時代)、「自女王国東渡海千余里の位置に存在した”、つまり『魏志』の ”「狗奴国」は「女王境界所尽其南」の存在 ” は誤りとする説があるが、これは誤りであろう。
*『後漢』が『魏志』を下敷きにしていることは明らかである。『後漢』が300年も遡って、事実を確認することなど有り得ない。この事実は『後漢』執筆時点、即ち五世紀のものとするのが妥当である。
*尤も、『後漢』の著者・范曄が『魏志』の”「狗奴国」は「女王境界所尽其南」の存在”について、五世紀時点の確認から、”間違い”と断じた可能性はあるであろう。
(※)『後漢書倭伝』(424年頃編纂)は、次の六つの要素で構成されています。
① 魏志倭人伝の修正要約 ② 范曄の解説(漢書の引用等)③ 唐の李賢による注④ 先行後漢書と思われる史料の要約 ⑤ 漢書地理志呉地からの引用 ⑥ 三国志呉書や史記の整理
〔該当箇所の原文〕「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 自女王國南四千餘里至侏儒國 人長三四尺 自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國 使驛所傳極於此矣」
〔該当箇所の和訳〕「女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるけれども女王には属していない。女王国より南、四千余里で侏儒国に至る。人の背丈は72cmから96cmである。侏儒国から東南、船で行くこと一年で裸国、黒歯国に至る。交流の可能な国はここで終りになる。」
〔魏志倭人伝の修正要約〕 魏志では南にある狗奴国を東の国と「修正」しました。勘違いとか間違いとか考えるのは范曄に失礼です。
◆対卑弥呼敗戦
*何故、”「狗奴国」の所在は三世紀と五世紀で異なる ” のか。それは、「拘奴国」は、「女王国」(狗奴国を除く卑弥呼支配下の倭国勢力)に敗れ、東遷したのである。
1)仲哀天皇の出自
◆仲哀天皇は天(あま)系狗奴国王
*倭建命の子・仲哀天皇は、波限建鵜葺草葺不合命以来の狗奴国正統王統者にして、穂穂出見命の正統者(久米の若子)、ということになるであろう。即ち、天(あま)系の血である。むろん、厳密に言うと異なる。葺不合命は何代目かの穂穂出見命と狗奴国王の女(むすめ)・豊玉毘賈との子で、倭建命は、その穂穂出見命の子と考えられるからである。
*尤も、” 景行天皇は倭建命の曾孫・訶具漏(かぐろ)比賣を娶った” 即ち、” 倭建命は景行天皇より数代前の存在 ” であるから、” 景行天皇の子・倭建命と倭建命の子・仲哀天皇 ” の位置づけで考えることに無理があるということになるであろう。
*要するに、変わった王統・応神王朝が、強く、原狗奴系を示唆しており、で、あれば、仲哀王統は天系の王統と考えざるを得ないということである。しかも、” その血を濃くされた天(あま)系正統の王者 ” であると。むろん、” その血を濃くした者 ” とは倭建命である。
*倭建命(日本武尊)は、景行天皇の子ではない。『古事記・日本書紀』は、” 九州東南岸の征伐を盗んだだけでなく、倭建命(日本武尊)も盗んだ ” のである。
*当然、何代目かの穂穂出見命、即ち、「前つ君」の子からということになるであろう。解らないのは、何故、此処で、天(あま)の新しい血の導入が強調されるのか・・強調されなければいけないのか・・ということである。
◆仲哀天皇の死
*なお、『日本書紀」は、” 仲哀天皇は熊襲征伐において、賊の矢に当たって死んだ(「一云」)” とも記している。熊襲の矢に当たって筑紫の訶志比(かしい)宮で死んだのであれば、この「熊襲」とは「九州王朝Ⅰ」ということになるであろう。
*『日本書紀』は、” 仲哀天皇の南九州遠征を記していない ” のである。『日本書紀』が記すのは ” 北九州遠征と熊襲征伐 ”なのである。そして、” 死んだのは筑紫の訶志比宮 ” なのである。 ” 仲哀天皇の本拠は穴門の豊浦宮 ” なのであるから、”筑紫の訶志比宮は遠征の本営”と考えるべきであろう。
*「狗奴国」を「熊襲」とするのは当たらないということである。
2)応神天皇の出自
◆応神天皇は、天(あま)系を継承と主張する、原狗奴国系狗奴国王
*応神天皇は、原狗奴国王・海神王統者(毛沼の若子)・・息長氏にして狗奴国正統王統者
☆「狗奴国」の王統は、応神天皇を以て息長氏に変わった。
◆応神天皇は親神祖
*応神天皇は、「狗奴国」王・仲哀天皇の子で、その後を継いだと言うのであるから、「狗奴国」王は当然のことである。しかし、応神天皇の後裔である孝徳天皇(※1)は、” 応神天皇は親神祖 ” と言っている。
(※)孝徳天皇(596年- 654年)は、第36代天皇(在位:645年- 654年)で、その在位中には難波宮に宮廷があった。敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が即位前の軽皇子時代に接近していたことが知られる。皇極天皇4年(645年)に乙巳の変が起き、皇極天皇から譲位を受け即位し、中大兄を皇太子とした。
孝徳天皇元年(645年)、史上初めて元号を立てて大化元年とし、大化6年(650年)には白雉に改元し、白雉元年とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。
孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐に派遣した。
北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。白雉4年(653年)に、皇太子(=中大兄皇子)が大王に対して倭京に遷ることを求めた。大王がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と大后(皇后・間人皇女)、大海人皇子を連れて倭に赴いた。臣下の大半も皇太子に随って去ってしまい、気を落とした大王は、翌年病気になって崩御した。(出典:Wikipedia)
*” 王朝の親神祖 ” は、応神天皇が、その子だと主張する血統尊貴な仲哀天皇でも、熊襲を征伐した英雄王・景行天皇でもないのである。応神天皇その人である。 神功皇后・応神天皇紀でくどい程の ” 応神天皇は仲哀天皇の子 ” との主張とも違和感があるであろう。
*これはどういうことであるか。「狗奴国」の王統が ” 応神天皇を以て替わった ” と理解するしかないであろう。” 応神天皇は新王朝の創基者である ” と。” 応神天皇は仲哀天皇の正統な後継者 ”という主張は ” 嘘 ”(※2)であったということになるであろう。
(※2)以下、応神天皇の出生についての記述が続くが、此処では省略する。
◆応神天皇以降の王朝
*応神天皇以降の王朝は、” 名分は仲哀天皇を受け継ぐが、内実は新王朝 ” ということなのであろう。そうであろう。” 仲哀天皇の正統後継 ” は仲哀天皇と ” 妃 ” 大中津姫との子・香坂王・忍押王なのである。応神天皇は、戦い執ったのである。応神天皇の諡に「神」が付くのは、この故と理解するしかないのである。
*むろん、このことは、” 応神天皇は「狗奴国」の王統ではない ” ということではない。” 高千穂峰降臨 ” という祖先伝承は変わらず、” 仲哀天皇の子(名分継承)” を主張しているのであるから、「狗奴国」の王統に連なると考えるのが妥当であろう。
◆応神天皇の王統
*が、その主張をした者が、王朝の始祖となる。この王者が、” 仲哀天皇以前に遡る「狗奴国」の王統に繋がるものではない ”。これは、応神天皇は「狗奴国」の王統に連なるとしているが、王朝の始祖となっている。
*これは、”「狗奴国」の王統を遡るその一、即ち、傍系が王になった ” と理解するのが妥当である。即ち、この傍系とは、波限建鵜葺草葺不合命以降、穂穂出見王統に、その地位を明け渡した原狗奴国系王者(海神王 → 官・狗古智卑狗 → 息長氏)ということになるであろう。
*この王統が高千穂の峰降臨を伝承するということ以外、確定的なことは言えないが、どうであろう。この「狗古智卑狗」とは、”「狗奴国」つまり「久米国」の故智 を伝承する王者 ” の意味ではないか。
◆「毛沼の若子王統」と「久米の若子王統」
*応神天皇から継体天皇の王統は「毛沼の若子」王統、仲哀天皇から欽明天皇の王統は「久米の若子」王統と考えられるのではないか。
*「久米の若子」王統が上位王統として、両統並立或いは、対立しつつ存続した可能性が大きい。
◆「九州王朝」の王統
*「九州王朝」の王統は、応神天皇五世の孫・継体天皇から「狗奴国」の王統(九州王朝Ⅱ)に 替わる。
*この ” 九州王朝Ⅱの創基者は継体天皇 ” も大義名分による主張の可能性があるであろう。 即ち、” 欽明天皇 ”の可能性である。
3)神武天皇の出自
◆神武天皇も狗奴国・原狗奴国系王統の出自
*むろん、『記紀』の主張は天系の出自としている。しかし、その名・豊御毛沼命は、原狗奴系を表している。豊の三(み)・毛沼(けな)(原狗奴系王統:後述)である。
*神武天皇は「狗奴国」出自である。多くの説明は不要であろう。父・天津日高日子波限建鵜噴草噴不合命は「九州王朝」の王・天津日高日子穂穂出見命と海神の女(むすめ)、即ち、「狗奴国王」の女(むすめ)、豊玉毘賈との子なのである。
*むろん、穂穂出見命の嫡子(嫡流)は、その王城の地である筑紫「やまと」の地に存在する。筑紫「やまと」のしかるべき者の女(むすめ)との子である。
・つまり、噴不合命は「狗奴国」の王であり、「九州王朝」の庶流なのである。神武天皇は、その子という主張なのである。
*長兄は五瀬命。「日向国」の地名(五ケ瀬川)に関連する名前であろう。「日向国」が「豊国」の一部であったことは、” 景行天皇と「日向国」の御刀媛(みはかしひめ)との子が「豊国別皇子」である”ことから明らかであろう。
*そもそも、九州の地は、四つの国〔筑紫国(白日別)、豊国(豊日別)、肥国(建日向日豊久士比泥別)、熊曾国(建日別):『古事記』〕で、「日向国」は無かったのである。
*神武天皇自身が、豊御毛沼命である。神武天皇等が「豊国」の宇佐で、大御食(おおみけ)を献じられているのもその証拠である。
◆天孫降臨地の変更
*つまり、神武天皇と応神天皇は、共に、「狗奴国」、「豊国」出自なのである。しかも、共に、” 原狗奴系 ” ということになるであろう。 つまり、『記紀』の主張する邇邇藝命以来の ” 天系 ” ということからすれば嘘ということになるであろう。この主張が、” 本来の天孫降臨地の筑紫・日向から「日向国」高千穂の峯への変更 ” となるのである。
*「穴門国」の王者・応神天皇が「狗奴国」即ち、「豊国」出自であることの一が、応神天皇とその母・神功皇后が「豊国」の宇佐八幡宮に祭祀されている由縁であろう。
*応神天皇と気比大神、神功皇后と住吉三神と、神武天皇と応神天皇・神功皇后は、海神でも結ばれている。 そもそも、「狗奴国」は瀬戸内海から豊後水道までの海上権を有する海洋国であったのではないか。神武天皇が「東征」において、珍(うづ)の協力を得るのも、その故ではないか。少なくとも海の通航には支障が無かったであろう。
◆神武天皇と応神天皇の王統
*なお、神武天皇と応神天皇の王統であるが、『記紀』の時代の先後を考えれば、後者(「応神天皇王統」)が「狗奴国」の本家筋、前者(「神武天皇王統」)が分家筋ということになるであろう。当然であろう。前者(「神武天皇王統」)が「大和の地」へ東征した時、後者(「応神天皇王統」)は「豊国」或いは「淡海国」に存在したのである。
*筋という曖昧な表現としたのは、「狗奴国」の王統は以降も ” 天系 ” であり、” 原狗奴系 ”
は、” ナンバー2の王統 ” であったであろうと思われるからである。つまり、神武天皇の王統は、” 原狗奴系 ” 王統としても、分家であったのではないかということである。
◆神武天皇の東征
ーー 神武東征 ーー 狗奴国東遷の分流(三世紀の近畿銅鐸文明の破壊)
*凡そ、国(部族)が住み慣れた故郷を離れる理由は次の4つがあるであろう。
① 豊かな国への侵略移住
② 天災
③ 外敵の圧迫
④ その地に志を得ない(食っていけない)
*「天孫降臨」は①で、「狗奴国の東遷」は③である。「神武天皇東征」は④と①のようでもある。 「神武天皇東征」の時期について、『記紀』では、卑弥呼に当てられる神功皇后の遥か以前、ここで言う「狗奴国の東遷」の遥か以前である。出雲伝承は、” 縄文の終わり頃(『謎の出雲帝国』)” としている。
*しかし、” 近畿に於ける銅鐸(祭祀)の破棄 ” と整合すれば、弥生の編年の揺れもあるが、三世紀、つまり、「狗奴国の東遷」と同時期としても良いのではないか。 「神武東征」が、” 銅鐸を近畿の血にもたらした ” とすれば、” 三世紀、同地における銅鐸の廃棄 ” の意味を解することが出来ないからである。「神武東征」が”近畿における銅鐸文明を滅ぼした”としか考えようがないのである。
*神武東征は、”「狗奴国の東遷」の分流 ” なのではないか。その方が、”「狗奴国」で志を得ない王者が単独、長躯、銅鐸文明圏に突入した ” と考えるより妥当であると思われる。で、あれば、③と①ということになる。
*尤も、神武東征を出雲伝承の ” 縄文の終わり頃 ” として考えられないことはない。この場合、東征地は近畿の地ではなく、淡海の地(長門・周防の地)とすればということである。「狗奴国の東遷」は ③、安定地内の移動ということになる。
*この場合も、むろん、誰が、三世紀に、近畿圏の銅鐸祭祀を破壊したのかという疑問は残る。 出雲伝承は、” 何人もの神武の存在も ” 伝承するという。”三世紀も”ということではないか。” 時代を違えた神武の存在 ” である。そもそも、” 神武天皇とは「狗奴国」から派遣された外征将軍 ” なのではないか。
4)狗奴(くど)は久米(くめ)の卑称
◆「奴」の発音
*「奴」は、「ド」と「ナ」の二音がある。大国「狗奴」は、「倭奴」と同じく「ド」音である。しかし、多数の内包小国(「奴国」、「彌奴国」、「姐奴国」等)、「卑奴母離」の「奴」は「ナ」音である。
*応神天皇の裔(九州王朝Ⅱ)の王者が「久米の若子」と呼ばれ、神武天皇軍が「久米の子」と称する。両者は同じ「狗奴国」出自である。「狗奴」とは「久米」のことということになる。卑称であろう。むろん、「久米」の「米」は省略されて「狗奴」として表されたということである。「狗奴」(くな)ではなく、「狗奴」(くど)が正しいということになる。
◆対馬(対海国)・壱岐(一大国)の官名
*対馬・壱岐は、「出雲王朝」時代では「辺境の防備(人)」、「九州王朝」時代の壱岐は
”「天(あま)」中の「天」(天一柱)” なのである。
*『魏志倭国伝』に記す「大官日卑狗副卑奴母離」は、対馬・壱岐の官名を示している。大官卑狗(彦)」は「天(あま)」の制、「副卑奴母離」の「卑奴母離」は「出雲王朝」の辺境守備の制である。
*つまり、「出雲王朝」体制に「天(あま)」の体制が被さったもの・・「天」族が反旗を翻し、「鄙」体制に取って代わったもので、「夷守」は「出雲王朝」の遺制ではないかということである。
1)二つの奴国
◆『魏志倭国伝』には、” 二つの「奴国」” が記されている。
*一つは、本論中の「奴国」(「有奴国此女王境界所尽」)、即ち、「女王国」東界の「中津辺り」の小国(以下〔奴国〕)
*一つは、半島から「邪馬壹国」に至る主経路上の「伊都国」から「東南至奴国百里」の「有二万余戸」の大国「奴国」(以下【奴国】)である。
◆二つの奴国は別国
*両者は別物であり、混同し得るものではない。このことは、この【奴国】の南に「狗奴国」を置き得ない。
◆【奴国】の位置
*【奴国】は、定説より西、室見川を遡上した津に臨む国。「投馬国」は、那珂川或は御笠川を遡上した津に臨む国名のではないか。「九州王朝」の発展史を考えれば、前者が旧「近津」、後者が新「近津」ということになる。
*むろん、前者の上流の日向(ひなた)川との合流地(河内)が、最古の「三種の神器」を伴出した吉武高木遺跡、更に、その上流がクシフル峯、日向(ひなた)峠、即ち、「天孫降臨」の地であり、後者の上流が倭国王城の地、太宰府である。
2)博多湾頭(難波の地)の投馬国
◆「邪馬台国論争」での位置論争
*「大和説」:「一万二千余里」+〔「水行十日」+「陸行一月」〕
*「九州説」:「一万二千余里」=〔「水行十日」+「陸行一月」〕
*『魏志倭人伝』は、「従郡至倭・・・南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」と記し、別に「自郡至女王国(帯方郡から倭国女王都(邪馬壹国)に至る)万二千余里」と記している。この ”「倭国までの距離」=「一万二千余里」” は、歴代中国史の認識踏襲するところなのである。
◆『魏志倭人伝』の帯方郡からの「女王国」へ至る経路
*「韓国内経由経路」:〔「水行十日」+「陸行一月」〕
*「全水行行程」:(水行二十日)(※1)
◆「邪馬壹国」の位置
*木(距離:万2千里)に竹(時間:水行10日+陸行1月)を接ぐ
(距離:万2千里+(水行10日+陸行1月))
*当然、距離:万2千里 = 水行10日+陸行1月
*邪馬台(壹)国大和説は誤り。
◆不弥国は女王国の一国
・女王国内・国間距離について魏志は不記(0里)
◆投馬国の位置
*『魏志倭人伝』は「南至投馬国水行二十日」(※1)、『梁書』は「南水行二十日至投馬国」と記す。投馬国・宮崎、鹿児島県説等も木(距離:万2千里)に竹(時間:水行20日)を接ぐもの。当然、距離(※1):万2千里 = 水行20日ということ。
*投馬国も、女王国内の一国、不弥国と邪馬壹国の北から南の間の存在。戸数五万戸の大国・投馬国は博多湾頭・難波の存在。女王国の海の玄関。宮崎・鹿児島県説等既説はみな間違い。
(※1) 投馬国への行程は、帯方郡~邪馬壹国の主線行程途中の不彌国からの傍線行程であり、万二千余里には含まれず、投馬国は西都原古墳が所在する日向国(宮崎県西都原市)とする論説もあります。
3)魏志倭人伝に記される女王国の行程
*韓国経由の陸水行行程と帯方郡から直接至る全水行行程の二つ。前者は地誌としての性格兼備。三国の一、呉の越南から遼東半島の海洋活動を考えれば、実際上は後者であろう。むろん、” 無寄港 ” ではない。半島西南岸等幾つかの泊地を経由するもの。
*不弥国は、陸水行行程〔「水行十日」+「陸行一月」〕の終点〔女王国の陸の玄関〕
*投馬国は、全水行行程〔「水行二十日」〕の終着点〔女王国の海の玄関〕(※2)
*投馬国は、那珂川或は御笠川遡上の湊国〔難波津〕
(※2) 投馬国への行程は、帯方郡~邪馬壹国の主線行程途中の不彌国からの傍線行程であり、万二千余里には含まれず、投馬国は西都原古墳が所在する日向国(宮崎県西都原市)とする論説もあります。
1)魏志の倭国図
◆倭国=「女王国」+「狗奴国」+「その他の国」
*「女王国」は、王都所在の「邪馬壹国」を中核とする連合国家である。
*「狗奴国」も倭国内であり、連合国家であった可能性は大きい。
*「その他の国」は、狗邪韓国~「伊都国」、【奴国】(戸数二万戸)
◆「使訳所通三十国」
*魏に通じている国は、朝鮮半島南端から九州島北半所在と考えるべきであろう。
*三十国は、主経路上の9か国とその傍経路上の21か国である。
*その他、通じていない70か国がある。主に、「松廬国」以西、「女王国」以南、或いは、「女王国」境界以東の国々であろう。
*これら100か国が、非倭人の国か否かは、『魏志倭人伝』からは、どうとも言えない。
◆卑弥呼の支配地
*卑弥呼の事実上の支配は、「30か国」に留まり、「狗奴国」、「その他の国」70余か国に及んでいないということであろう。
*魏は、倭国30%支配の王、即ち、卑弥呼を「倭王」(100か国の王)として認め、支援したということである。
◆倭国の争乱
*倭国内の争いは、卑弥呼と卑弥弓呼の争いであり、” 倭国内の対立・戦争 ”、即ち、” 倭王位を巡る対立・戦争”なのである。
* ” 魏志倭人伝 ”は、「倭国」と「熊曾国」との戦争など一言も触れていない。
2)狗奴国は倭人の国
*『魏志倭人伝』は、狗奴国の人種(韓・穢・倭・侏儒)を弁別していない。
*” 狗奴国は倭人の国 ” 狗奴国・熊襲国説(異人種)は間違い。
3)熊曾国は東鯷国
◆『魏志』での不記載
*『魏志』は、「熊曾国」を記していない。ということは、「熊曾国」が遠絶・・「その他の国」の70か国と同程度で、特に記すことがないということになる。
*『魏志』は、「熊曾国」は「狗奴国」と考えていたのではないか。
*九州王朝の最大の対立勢力としての存在は「狗奴国」としてである。
◆『後漢書』での記載
*『後漢書』での東鯷国(「会稽海外有東鯷人分為二十余国」)と記載。海幸彦の国・熊曾国
*会稽から”東へ”の近遠の順は、「東鯷国」、「夷洲」、「澶洲」であり、このいずれの地にも徐福の子孫が栄えているということである。
*「夷洲」は本州島と考えると、” 東鯷国は「夷洲」より西 ” であれば、” 東鯷国は「九州」” ということになるであろう。
4)狗奴国と熊曾国は兄弟
◆山幸彦の国・狗奴国と海幸彦の国・熊曾国
*筆者(YA氏)は、「山幸彦・海幸彦譚」は、” 北部の「九州王朝」と南部の「熊曾国」とのもの ”、即ち、”「熊曾国」の「九州王朝」への臣従譚 ” であると思っていた。
*「熊曾国」とされる九州南部の地は、山幸彦に臣従した海幸彦の後裔・隼人の地なのである。「熊曾国」は「東鯷国」とすれば整合が取れる。
◆天孫降臨の地
*『古事記』は、「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣」、即ち、「福岡県の久士布流多氣」である。『日本書紀』は、「日向の国の槵日の高千穂の峯」、即ち、「宮崎県霧島の峯節」としている。
*天孫降臨の地の変更は、単なる「竺紫(福岡県)外し」ではないであろうということである。”「大和朝廷」の祖先伝承地が日向国の高千穂であった”と考えるのが妥当なのである。『日本書紀』は、穂穂出見命を「日向の高屋山上陵」(定説解釈:鹿児島県姶良郡)に葬ったとしている。
◆「大和王朝」の出自
*「大和王朝」は、「狗奴国」出自(後述)なのである。そして、「狗奴国」は南九州出自を強く示唆する。つまり、「狗奴国」と熊曾国は祖先伝承を同じくしている可能性が大きい。
*『記紀』に記される「山幸彦・海幸彦譚」は此処の話と考えるのが妥当なのである。
「山」は高千穂であろう。「狗奴国」の王者が「山幸彦」ということである。「熊曾国」の王者が「海幸彦」ということである。
*高千穂降臨伝承:海幸彦〔熊曾国(本家)〕・山幸彦〔狗奴国(分家)〕か?
(1)王統の交代 (2)九州王朝Ⅰの王統 (3)九州王朝Ⅰから九州王朝Ⅱへの王朝交代を証言
(4)肥後菊池と伊都を結ぶ王統 (5)応神王朝Ⅱ(九州王朝Ⅱ)創基時に於ける主役達
1)九州王朝Ⅱと応神王朝Ⅱ
*継体天皇は、卑弥呼、「倭の五王」以来の「九州王朝」(以下、「九州王朝Ⅰ」)に取って代わった「九州王朝」(以下「九州王朝Ⅱ」)の王である。
*「九州王朝」の王統は、継体天皇以降、狗奴国の王統に替わった。「応神王朝Ⅱ」は「九州王朝Ⅱ」ということである。
2)継体天皇の出自
*応神天皇五世の孫・継体天皇は、「淡海国」(山口県)から「倭(やまと)」(九州「筑紫の国」)に入って、「九州王朝Ⅱ」の王に成ったということである。
*「近江国」(滋賀県)或いは「越前国」(福井県)から「大和の地」(奈良県)に入って「大和王朝」の王に成ったとするのは虚構なのである。
3)「九州王朝Ⅰ」の後継の手がかり(『松野連系図』)
*卑弥呼、「倭の五王」以来の「九州王朝Ⅰ」の王統は、応神天皇五世・継体天皇の王位簒奪により、王家として滅亡した。
*この「九州王朝Ⅰ」王家は、その後どうなったのか。歴史は沈黙している。が、手掛かりはある。『松野連系図』(※)である。
(※)この系図は明治の系図研究者の鈴木真年によって蒐集された江戸時代の系図の中から発見され、「鈴木真年伝」の中に掲載されている「古代来朝人考」に記載された松野連氏系図を、同じく明治時代の系図研究者の中田憲信が筆写し、それを元に尾池 誠が論評したのが「埋もれた古代氏族系図 -新見の倭王系図の紹介」という本で、これが1984年に一般公開され、これ以降多くの古代史ファンが目にすることが可能になったのである。
未だ30年ほどしか経ていないのである。専門家の詳しい系図批判がされていないのである。
(出典:「おとくに ― 古代豪族 ー45.「松野連氏」考(付:日本人のルーツ論2)」)
1)肥後菊池と伊都を結ぶ松野連系図:熊襲・倭王系図
◆九州王朝Ⅰの主体
*両地(肥後菊池と伊都)の王統を淵源とする勢力が九州王朝Ⅰの主体。本来、伊都が本流で、菊池は支流であるが逆転。菊池勢力が本流となった。
*『松野連系図』第一系図:伊都系図/『松野連系図』第三系図:菊池系図
◆松野連
*松野連は、「九州王朝Ⅰ」の後裔である。「九州王朝Ⅱ」の王・欽明天皇に降伏して、同王朝の傘下にはいった。夜須評督ということである。
◆松野連系図と景行天皇の熊襲征伐
*不思議な系図である。
*呉王・夫差を遠祖とし、「景行天皇」の「熊襲征伐」に熊襲の女として登場する「市乾鹿文(いちふかや)」・「市鹿文(いちかや)」、「日本武尊」の「熊襲征伐」に熊襲の長として登場する「取石鹿文(とろしかや)〔川上梟師(かわかみのたける)〕」、「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)を記す。
◆『魏志』等との関連
*系譜には、” 称卑弥呼・熊津彦 ”(熊鹿文・姓媛氏)と注記された人物もおり、卑弥鹿文なる人物も、又、卑弥呼の一、二次遣魏使の長として「率善中郎将・銀印紫綬」の除綬が記録される難升米・液邪狗も存在する。
*この系譜の熊鹿文は、後漢の光武帝から金印を授与されたと。『魏志』に言う卑弥呼に授けられた「親魏倭王」の金印ではない。「漢委奴国王」の印である。注記には「後漢光武中元二年(AD 57)正月私通漢土受印綬僭称委奴国王」と記す。
・この熊鹿文は ”『魏志』の卑弥呼 ” ではないということになる。この系譜は ”『魏志』の卑弥呼 ”を記録しないということになる。
*しかし、熊鹿文を遡ること八代前の枝流・阿弓(怡土郡大野住)の二代・宇閈なる人物(熊鹿文より五代前)にも、「後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬」とある。つまりどちらかが間違いということである。
*むろん、どちらを間違いと断じ難いが、系譜は、難升米、液邪狗を前述枝流れの熊鹿文と同世代の熊津彦の子とも記す。つまり、熊鹿文と熊津彦、そして、難升米、液邪狗は魏代の存在ということになる。であれば、宇閈が「委奴国王」(AD 57在世)、熊鹿文が「卑弥呼」(AD 239在世)であるとする方が妥当であろう。
*宇閈~熊鹿文(182年以下)、五代は、一代、3~40年とすると整合が付く。つまり、熊鹿文の受印は ”「漢委奴国王」の印ではなく、「親魏倭王」の印 ”ということになるが、何故、そう記されなかったのかという疑問は残る。
*この系譜の作者が、”「漢委奴国王」の印を知り、「親魏倭王」の印をしらなかった ” とは考え難い。そもそも、”「漢委奴国王」印の注記 ” 「私通漢土受印綬僭称委奴国王」は、”「親魏倭王」印にこそ ” のはずなのである。
◆松野連系譜は倭王(「九州王朝Ⅰ」)の系譜
*この系譜は、金印の授受の混乱、熊鹿文(「卑弥呼」)とその枝流・熊津彦との混同等、疑問は多々あるが、倭王(「九州王朝Ⅰ」)の系譜と考えてよいのではないか。しかも、既知識から言えば、この系譜は ” 熊襲=倭王系譜 ” ということになる。
*この系譜が全て正しいかどうかは置く。何せ、卑弥呼の存在を強く臭わせながら、その金印受領を記さないのである。が、多くの真実を含んでいることは確かであろう。
*何故ならば、この系譜は、謂わば ” 反体制の系譜 ” であり、わざわざの創作は考え難いからである。
◆倭王家の出自
*倭王家の春秋戦国時代の呉王家出自については、中国史書も証言している。
*『晋書』:「男子無大小悉鯨面文身自謂太伯後」
*『梁書』:「倭者自云太白後俗皆文身」
◆反体制者(文書)の体制への擦り寄り
*松野連系図(「九州王朝Ⅰ」系図)が「漢委奴国王」の金印受領を記し、何故、卑弥呼の「親魏倭王」の金印受領を記さないかということである。系図の性格から言えば、後者こそ強調されてしかるべきなのである。
?これは、どうであろうか。これは ” 反体制者(文書)の体制への擦り寄り ” ではないか。” 系図は、同「倭王」よりも「景行天皇」が上位であることを示している ” のである。
∴ 狗奴国王・景行天皇、仲哀天皇が争った相手・熊襲とは九州王朝Ⅰ
1)松野連系譜の証言
◆松野連系譜と既述との整合
*松野連系譜は、既述と整合する。” 仲哀天皇が熊襲(「九州王朝Ⅰ」)の矢に当たって死んだ ” のも、”「九州王朝Ⅰ」の王統が、応神天皇五世の孫・継体天皇から「狗奴国」の王統(「九州王朝Ⅱ」)に替わる ” こともである。
◆「倭の五王」以降の系図
*この系譜は、「倭の五王」・武以降も、直系として「哲」、「満」、「牛慈」等々を記録する。「哲」には「倭国王」、「牛慈」には「金刺宮御宇服降為夜須評督」が注記される。
*卑弥呼以来の「九州王朝Ⅰ」の王統は、この「哲」を以て終わったということであろう。
*むろん、終わらせ、これに代わったのが「継体天皇」である。そして、満、牛慈と「九州王朝Ⅱ」に抵抗したが、牛慈に至って、「九州王朝Ⅱ」の王・「金刺宮御宇天皇」、即ち、「欽明天皇」に降伏したということになるであろう。
◆定説論者・「九州王朝説」の錯誤
*定説論者等は、”「継体天皇」も「欽明天皇」も「大和の地」の王者(=「大和王朝」の王)”という認識に立っていることであろう。この認識では、”「九州王朝Ⅰ」の王統に連なる牛慈が、「欽明天皇」に降伏して夜須評督になった ” ということは理解不能であろう。
*この時点で、列島代表王権が「九州王朝」から「大和王朝」に交代していたことになるからである。それこそ、定説そのもの、というであろうか。しかし、これは無理なのである。そもそも、”「評督(ひょうごう)」は「九州王朝」の制度 ” なのである。
2)「欽明天皇の時、降伏して夜須評督」
◆「九州王朝Ⅰ」の終焉
*卑弥呼~倭の五王と続いてきた王権(九州王朝Ⅰ)が、欽明天皇の時、その制度下の存在と成ったということ。
∴ 欽明天皇は九州王朝Ⅱの王者、即ち、大和王朝の応神天皇以降の王統譜
おそらく、以前も、同根の根別れ神武天皇まで
◆欽明天皇は大和王朝か
*欽明天皇の王統を、大和王朝(大和の地の王者)のものとすると、何が何だか分からないであろう。むろん、「九州王朝説」論者には、と言うことである。列島の主権が、九州王朝に在る時代まで遡って、大和王朝に征伐されましたと阿諛している言うことなのである。
*” 景行天皇の熊襲征伐 ” も、そうである。後述の継体天皇の場合もそうである。景行天皇の場合は、九州王朝の王「前っ君」の業績を盗んだもの。継体天皇の場合は、大和王朝の王・継体天皇の叛乱(古田説)として、欽明天皇も叛乱とするのか。それとも、松野連系図など信用し得るものではない、とするのか。
◆「評(ひょう)制度」と「郡(こおり)制度」
*古代史における戦後最大の論争と言われる「郡評論争」、即ち ” 古代における行政単位を巡る論争 ” は、出土木簡で勝負が着いたと。即ち、文武4年(700)以前は全て「評」である。
*文武5年即ち、大宝元年(701)の「大和年号」建元以前、「九州年号」中は全て「評」である。そして大宝元年(701)以降は、全て「郡」(こおり)である。
*しかし、『日本書紀』も『続日本紀』も、「評制度」を記さず、全て「郡制度」であったとして、遡って隠している。
◆『日本書紀』孝徳二年の詔勅
*二年の春正月の甲子の朔に、賀正礼睪(をは)りて、即ち、改新之詔(あたらしきにあらたむるみことのり)を宣ひて曰く「其の一に・・・其の2に曰く、始めて京師を修め、畿内国の司・・・郡司・・・防人・・・凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。・・・」
* ” 改新の詔勅そのものは「九州王朝」のもの ” と考えざるを得ないであろう。で、中身を改竄したと。即ち、「評」を「郡」へである。当然、「防人」は「九州王朝」の制度である。
∴「評」は九州王朝の制度で、「郡」は大和王朝の制度
3)記録される「景行天皇」は卑弥弓呼か/二人の「景行天皇」
◆二人の景行天皇
*一人は、卑弥呼以前の存在、九州王朝0の王者・前っ君。一人は、卑弥呼以降の存在、狗奴国王・卑弥弓呼の可能性。尤も、この系譜には、大きな矛盾がある。それは、” この系譜は「景行天皇」と対立する存在である ” ということである。
*”「景行天皇」の「熊襲征伐」は、「九州王朝」の王・「前っ君」の九州東南岸征服譚を剽窃したもの(古田氏『盗まれた神話』)” のはずなのである。
◆九州王朝0の王者・前っ君
*” この「景行天皇」は「九州王朝0」の王。「九州王朝0」の正統を主張する「九州王朝Ⅱ」( の王統を主張する「大和朝廷」)は、この王者を己の王統の王者・「景行天皇」である ” と主張している。
*滅ぼされた熊襲とは、卑弥呼以来の「九州王朝Ⅰ」ということである。
◆「大和王朝」(『記紀』)の対「熊曾(襲)国」関連記事
*関連記事は、「九州王朝0」の対「熊曾(襲)国」記事と、豊国及び淡海国所在の「狗奴国」の対「九州王朝Ⅰ」記事とを併せたものであると。むろん、それぞれ、” 前者が「大和王朝」” ということである。
◆「狗奴国王」・「景行天皇」
*「景行天皇」は、「狗奴国」の王、或いは、系譜上、王と位置付けられた王者ということになるであろう。本国「豊国」を離れ、「淡海国」周防の佐婆に拠点を移した王者である。
◆景行天皇の熊襲征伐
*景行天皇の時代、「大和朝廷」が、南九州まで征定しているのであれば、「九州王朝説」は成り立たない。で、当初、” 景行天皇が近畿の地から遥々熊襲征伐に出かけ、周防の佐婆から渡海した ” ということは全く嘘かと考えた。
*しかし、景行天皇が「狗奴国」王であり、本国、「豊国」(豊後・日向国)から淡海国へ本拠を遷した王と考えると、” 周防の佐婆からの渡海 ” も整合する。対「九州王朝Ⅰ」反撃である。これが、” 近畿からの征伐 ” と描かれたということである。
*むろん、このことは、” 淡海(周防灘)が近江(琵琶湖)” など、地誌の大転換と歩を同じくするということである。
淡海遷都(志賀・高穴穂宮)は、対卑弥呼敗戦による東遷
⇔ 周防の佐婆からの ” 熊襲征伐 ” 渡海は反撃
◆「景行天皇」と「前っ君」の関係
*「前っ君」は「九州王朝」の王である。古田説のとおり、九州東南岸を征定した「九州王朝」の王、即ち、原「九州王朝」(「九州王朝0」)の英雄王である。世襲名王・穂穂出見の何代目かの王ということになる。
*狗奴国の海神の女(むすめ)・豊玉毘賈との間に、噴不合を成した王者の可能性は大きいであろう。
4)日本武尊の不存在は系図の真実性を証言
◆日本武尊の不存在
*景行天皇を記録し、日本武尊(倭建命)(やまとたけるのみこと)が征伐した熊襲の首魁・川上梟師を記録する松野連系図が肝心の日本武尊を記録しない。即ち、松野連系図は、『日本書紀』に整合したものではなく、真実を証言している可能性が大である。
◆古事記・日本書紀との整合捏造説など不成立
*種々捏造して、肝心の主役・日本武尊を捏造しない捏造者はいない。日本武尊は、原九州王朝の王者。当然、景行天皇は原九州王朝の王、即ち、何代目かの穂穂出見と言うことになる。「前っ君」である。即ち、倭男具那王(やまとおぐなおう)であろう。
朝霜(あさしも)の 御木のさ小橋(をばし)群臣(まえつきみ)(魔幣莬者濔)い渡らすも 御木のさ小橋
★至尊の称号「君」も時代が下がればインフレとなる。が、むろん、景行天皇の時代を遥に下ったこと。歌は最高級の敬語(「い渡らす」)を使用。「群臣」は甚だしい誤訳
1)伊都国王は倭の五王に繋がる王統
◆系譜の年代
*この系譜(松野連系図)が市乾鹿文・市鹿文と兄弟(姉妹?)と記す宇也鹿文(第三系図)には、「火国菊池評山門里住、永初元年(107)十月通漢字」と付記されている。
*「永初元年(107)」は『後漢』が「倭国王帥升等献生口百六十人願請見」と記す年である。
◆始祖の本貫地
*そもそも、呉王夫差に連なる王家の始祖とする公子忌(第一系図)には「孝昭天皇三年来朝、住火国山門菊池郡」と付記されている。「菊池評」或いは「菊池郡」という表記の問題はあるが、「菊池の地」が本貫の地という主張であろう。
*しかし、第一系図の二代(公子忌の次代)・順には「居千(于?)委奴(いと)」、三代・阿弓には「怡土郡大野住」とも付記されている。
*率直に考えれば、始祖・公子忌も、本来は「怡土の地」所在であったのであろう。
□ 始祖・公子忌「孝昭天皇三年来朝、住火国山門菊池郡」
□ 第一系図(伊都系図)
公子忌の次代・順「居千(于?)委奴(いと)」・「三代・阿弓「怡土郡大野住」
□ 第三系図(菊池系図)
初代・宇也鹿文「火国菊池評山門里住、永初元年(107)十月通漢字」
◆本貫地の変更
*「怡土の地」が、「住火国山門菊池郡」と変えられたのである。何故。”本貫の地は菊池郡”
とする為である。”菊池郡の勢力(松野連家)が本流(本家)である”とする為にある。
*つまり、” 本来は、伊都郡の勢力が本流(本家)で、菊池郡の勢力(松野連家)が支流(分家)であった ” が、本支の地から関係が逆転したと。
*始祖・公子忌の「菊池の地」所在作為は 、" 支流(分家)・松野連家の本流(本家)宣言である ” ということである。始祖の菊池在住は作為された。その証拠が新表記(菊池郡)である。
◆両地の王統を淵源とする勢力が九州王朝Ⅰの主体
*本来、伊都が本流で菊池は支流であるが逆転。菊池勢力が本流と成った。
*この「伊都郡」の王統が、『魏志』に言う「世有王皆統属女王国」の軍事・外交の拠点「伊都国」ということではないか。
2)卑弥呼は肥後菊池郡出自か?
◆卑弥呼・倭王
*卑弥呼・倭王(「九州王朝Ⅰ」の王)は、筑紫君と肥国等に擁立された。
*筑紫の君、肥君等は、筑紫君等の祖・甕依姫を筑紫神社(※)の祝(ほふり)の共立した。
= 卑(日)弥呼(甕)の倭王共立(『筑後国風土記』)
※筑紫神社は、福岡県筑紫野市原田にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。現在の祭神は、筑紫の神 ( 筑紫の国魂)・玉依姫命( 後世に竈門神社から勧請)・坂上田村麻呂 ( 後世の合祀)。祭神について、『釈日本紀』所引『筑後国風土記』逸文では、筑後国は元は筑前国と合わせて1つの国(筑紫国)だったと記している。
また「筑紫」の由来として、2国の間の坂が険しく鞍が擦り切れるため「鞍尽くし」といった説、2国の境に荒ぶる神が居て往来の人が命を落とす「命尽くし」の神といったが筑紫君・肥君の祭祀で治まったという説、前説における多数の死者の弔いのため棺を作ったところ山の木々が無くなったという「木尽くし」による説の3説を載せるが、第2説と筑紫神社祭神の筑紫神との関連が指摘される。これらの伝説が筑紫神社の成立に直接関わるかは明らかでないが、中でも筑紫君・肥君が祀ったという所伝が特に注目されている。
当地は筑紫君の勢力圏内であるが、肥君が本拠地の九州中央部から北九州に進出したのは6世紀中頃の磐井の乱が契機で、この所伝にはその進出以後の祭祀関係の反映が指摘される。
「筑紫」の名称は、九州を「筑紫嶋」(古事記)または「筑紫州」(日本書紀)といったように広義では九州全体も指したが、狭義では筑紫神社周辺の地名を指すとされる。考古学的には、当地周辺の背振山地東部の低丘陵地は弥生時代中期において甕棺墓の分布中心部、後期においては青銅器生産の中心地であった。銅鐸祭祀の源流も一帯の地域にあると見られるがその盛行には渡来系の知識が欠かせず、渡来者集団による祭祀が指摘される。
◆卑弥呼の出自
・甕依姫が卑弥呼であれば、『筑後国風土記』時点の筑紫君・肥君等の祖先にあたるということであろう。であれば、甕依姫の肥後「菊池の地」出自の可能性はあるであろう。
*甕依姫が卑弥呼であれば、『筑後国風土記』時点の筑紫君・肥君は、卑弥呼の裔、即ち「九州王朝Ⅰ」の王統の裔ということになろう。
◆「熊曾(襲)」の地
*なお、肥後の地が「熊曾(襲)」の地であった可能性はあると考えている。既述に矛盾するようであるが、そうではない。” 蝦夷の東退 ” と同じく、” 熊曾も南退した ” のではないかということである。
◆筑紫君の系統
*甕依姫(卑弥呼)を推戴した筑紫君は、「九州王朝Ⅱ」下の筑紫君家ではない。この筑紫君家は、筑紫君・磐井に繋がるであろう。
*前述の系統は、筑紫君・薩夜麻にはつながらない。” 筑紫君家も万世一系ではない ” ということである。
◆”熊襲” 蔑称
*肥後は長い間、未服の時代があった。
*曾ての熊襲の地(熊襲の南退)=「九州王朝Ⅱ・大和王朝」の九州王朝Ⅰに対する ” 熊襲 ” 蔑称
3)伊都国王は九州王朝Ⅰの本流王家
◆菊池郡王統(卑弥呼~倭の五王)は伊都王統の支流
*伊都王統は、『魏志』の伊都国(「世有王皆統属女王国」)である。
*”「伊都国」の王が代々「女王国」を統属している ” と主張する説もあるようであるが、これは、定説の如く、女王国が「伊都国」を統属している”でよいであろう。
*「女王」が、「倭王」なのである。
◆「伊都国」の王
*問題は、この「伊都国」の王である。この王は卑弥呼以前からということである。「倭王」に服属しつつも、代々王を称する存在とはいかなるものかということである。
*『魏志倭人伝』:「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検索せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如くあり。王、使を遣わして、京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露(さがしあらわす)し、文書・賜遺(しい)の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯(ささく)(いりみだれまじわる)するを得ず。」(石原道博編訳)
◆「伊都国」の王統・・・本来、九州王朝Ⅰの本流王家
*「伊都国」は、”軍事、国内監察(刺史)、外交の拠点”である。何故、このような「倭国」の重要な機能が「伊都国」に置かれているのか。つまり、「伊都国」王とは、これらに関する能力によって地位を保証された存在なのではないかということである。
*当然、” 帰化系 ” ということであろう。” 王を称する帰化系 ” である。そう。この「伊都国」の王統とは、松野連の系図、即ち、第一系図に繋がるのではないかということである。九州王朝Ⅰの本流(本家)王家である。
◆卑弥呼、壹興は傍流
*卑弥呼、壹興は、傍流ということなのである。或いは、「伊都国」の王統を騙ったということかもしれない。
*『魏志』は、” 倭王の呉の太白出自 ” に触れていないのである。中国史書にとって、「倭王統の出自」は関心の低いものではないであろう。後世史書が特記する通りである。倭王の呉の太白出自は、「倭の五王」の王統の主張ということになるのかもしれない。
*壹興以降、倭王権が交代した可能性がある。そもそも、卑弥呼の後継は、宗女・壹興のような継承関係の継続は困難なのである。この王権が、己を飾る為、伊都国王権と結び付けた可能性もあるであろう。
九州王朝Ⅰから九州王朝Ⅱ(天の王朝への復活)へ
1)近江毛野(けな)臣は淡海毛沼(けな)臣
◆淡海毛沼(けな)臣とは
*近江毛野臣とは、淡海毛野臣と考えるのが妥当なのである。淡海毛沼臣は、「狗奴国」の王統に連なる王者「毛沼(けな)の若子(わかご)」にして、 「九州王朝Ⅰ」の大将軍である。
*淡海毛沼臣が、「応神天皇五世の孫の継体天皇」の配下の存在という『日本書紀』の主張は、嘘である。定説論者のみならず、「九州王朝説」論者までが ” 近江毛野臣は大和王朝の大将軍 ” を主張するのは驚きである。
*継体天皇の時代、大和朝廷が半島に大将軍を派遣していたのであれば、「九州王朝説」は成り立たない。
◆淡海毛野臣の出自
*「毛野」とは、「御毛沼命(みけぬみこと)」(三毛野命)、「若御毛沼命」(稚三毛野命:豊御毛野命=神武天皇)の「毛野(沼)」と考えるのが妥当である。つまり、神武天皇と同じく「狗奴国」の王統に連なるものということである。
*”「豊国」から「淡海国」への東遷 ” 後の「狗奴国」の王者の一。
◆「毛野」臣の本拠地
*「毛野」臣の本来の本拠地は「豊国」であったが、対卑弥呼戦の敗戦結果、「淡海国」に、その根拠地を遷した。
*「毛野」臣本家は遷ったが、諸「毛野」臣の一部は、「豊国」に残るなど、諸処に散って
いったということである。冠される「淡海」等は、この弁別ということになる。
◆「淡海毛野臣」は「毛野の若子」・「毛沼の若子」
*淡海毛野臣は、『日本書紀』が神武天皇の王統として主張している原「九州王朝0」の正統、即ち、津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の王統者(「久米の若子」)ではない。
*『日本書紀』は、この淡海毛野臣について、「枚方ゆ 笛吹き上(のぼ)る 近江(阿符美能野)のや 毛野(けな)の若子(わくご)い 笛吹き上る」と歌うのである。つまり、淡海毛野臣は、「毛野の若子」であると。
*淡海毛野臣とは、原「狗奴国」の王統(海神王統→官・狗古智卑狗:久米の古智を伝承する王者)に連なる王者、即ち、「淡海(国)の毛沼の若子」にして「九州王朝Ⅰ」の大将軍ということになるであろう。
*この「臣」とは ”「九州王朝Ⅰ」の「臣」” ということではなく、”「狗奴国」における王
「久米の若子」に対する位置づけの「官」、即ち、「臣」” なのではないか。
◆『記紀』での天孫降臨地の変更
* ” 神武天皇も「毛沼の若子」王統の王者 ” なのである。” 穂穂出見~葺不合(「久米の若子」)王統の王者(天孫降臨王統王者)は嘘 ” なのである。
*そうであろう。もし、そうであれば、『古事記』から『日本書紀』の ” 天孫降臨地の変更(筑紫国から「狗奴国」降臨地伝承地日向国へ)は必要ない ” のである。
*降臨地の変更は、”「大和王朝」の王統は「狗奴国」王統・・高千穂降臨伝承王統・・ につらなる ” ということなのである。
◆筑紫国造・磐井の反乱
*筑紫国造・磐井の ” 反乱 ” とは、” 毛沼臣の現地暴政を咎めての召喚 ” である。毛沼臣が対馬で死に、その葬送の時、妻が歌ったと言う。
「枚方ゆ 笛吹き上(のぼ)る 近江(阿符美能野)のや 毛野(けな)の若子(わくご)い 笛吹き上る」(この歌は葬送歌ではなく、進軍歌であろう。解軍・処罰に先んじての”反乱”に至る進軍歌である。)
★「近江」の名を冠されながら出自不明と。王朝の総軍(6万)を率いる大将軍がである。この一事を以てしても、「近江」は「淡海」(既論に合致)で、九州王朝Ⅰの大将軍である(大和朝廷の大将軍は誤り)ことは明確であろう。むろん、” 近江毛野臣・大和朝廷の大将軍 ” は「九州王朝説」に背理する。
2)二人の継体天皇
◆二人は別人
*一人は「九州王朝Ⅰ」の継体天皇、もう一人は「九州王朝Ⅱ」創基の王者である。
*継体天皇は二人居る。別に奇矯な説ではない。そう記紀に記されているのである。数々の疑問は呈されてきたようであるが、何故か「二人説」は説かれることがないようでる。
◆『記紀』・『百済本記』の記述
*一人は、『古事記』に言う継体21年(527)4月に43歳で崩じた継体天皇(継体天皇Ⅰ)・一人は、『日本書紀』に言う継体28年(534)に82歳で崩じた継体天皇(継体天皇Ⅱ)
*” 何かの間違い ” であるはずがない。” 継体天皇 ” は画期的かつ、以降の正統性の基準的王者 ”なのである。「継体天皇」として伝承された人物が二人いたというのが正しいのであろう。
◆二つの王統の継体
*「 二人の〇〇」 は、” 二つの王朝を弥縫する為の造作 ” なのである。本説の「九州王朝Ⅰ」から「九州王朝Ⅱ」への移行、そして、後述の「九州王朝Ⅱ」から「大和王朝」への移行期、多出する。
*なお、『百済本記』の継体25年(531)に崩じた「日本天皇」は、むろん、継体天皇Ⅱではない。古田説のとおり「九州王朝Ⅰ」の王である。 ” 二人は別人である ” ということである。当然、” 二人に殺された磐井も別人 ” ということになる。
◆九州王朝Ⅰを継いだ王(継体天皇Ⅰ)(43歳崩御)
*九州王朝Ⅰの王統が断絶したので、正統とは言えないが準正統として、その王統を継ぐとするもの。当然、九州王朝Ⅰの王統に繋がる王者で、九州王朝0の王統を継承とする応神天皇五世の孫・継体天皇は該当し得ない。
◆九州王朝Ⅱを創建した王(継体天皇Ⅱ)(82歳崩御)
*応神天皇五世の孫・継体天皇、即ち、九州王朝Ⅱを創建した王者である。九州王朝Ⅰの王諡号を盗用したということである。
◆「継体」諡号について
*「継体」とは、” 前の王統を継ぐ ” ということであるが、継体天皇Ⅱは全く王統が異なる。
*「継体天皇Ⅱ」の諡号は、継体天皇Ⅰから奪ったものである。これは、”「九州王朝Ⅰ」などなく、この間、「応神王朝Ⅰ」が正統であった、即ち、「九州王朝Ⅱ」として存在していた。天皇号と諡号は、これらの王者達のもの”という主張の為である。
◆「筑紫君・石井」(『古事記』)と「筑紫国造・磐井」(『日本書紀』)は別人
*継体天皇Ⅰが誅殺した筑紫君・石井(『記』)と継体天皇Ⅱが弑殺した筑紫国造・磐井 (『紀』)は別人、かつ、全く、時代を異にする事件である。
*筑紫君・石井の子が ”『紀』に言う筑紫君・磐井の子・葛子(奇子:くすこ=目頬子:めずらこ) ” で、”『筑後風土記』の筑紫君・磐井 ” であろう。(後述)
*つまり、” 筑紫君・磐井 ” と筑紫国造・磐井とは別人であるが、記される事件は同じ事件である。どういううことか。『紀』(或いは『紀』が拠ったであろう「九州王朝Ⅱ」の史書)が、
”「九州王朝Ⅰ」の王の弑殺事件を「九州王朝Ⅰ」の権臣、筑紫君・磐井弑殺事件で隠蔽した ”ということである。
◆『日本書紀』の継体天皇崩年の注記
*『日本書紀』が、継体天皇Ⅱの崩年を、伝承される「継体28年(534)」ではなく、 『百済本記』に記す「継体25年(531)」該当記事「日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬ」を当て、「後の勘校へむ者知らむ。」と注記している。
3)継体天皇Ⅱは淡海毛沼
◆継体天皇Ⅱと淡海毛沼
*共に、同時期、「淡海国」の出自である。これ程の勢力者が「淡海国」に並び存在したというのは如何に何でもおかしい。並みの勢力者ではない。「九州王朝Ⅰ」を滅ぼして「九州王朝Ⅱ」を創基する英雄と、「九州王朝Ⅰ」の総軍を掌握する大将軍という大勢力者の存在なのである。
*翻って、両者の軋轢を窺わせるものは全くないのである。同一人物と考えるのが妥当であろう。
◆古事記・日本書紀の記述
*『古事記』(武烈天皇)「天皇既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(ほむだの)天皇の五世の孫、袁本杼(をほどの)命を近淡海国より坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき。」
*『日本書紀』(継体天皇)「男大迹(をほどの)天皇は、誉田天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)王の子なり。母は、振姫と曰す。・・・天皇の父・・・三国の坂中井に聘へて・・・妃(みめ)としたまふ。遂に天皇を産む。天皇幼年くして、父の王薨せましぬ。・・・高向に帰寧(をやとぶら)ひがてらに、高向は、越前国の邑の名なり。天皇を奉養らむ・・・節(しるし)を持ちて法駕(みこし)を備えて、三国に迎え奉る。・・・注:近江~越(海)=「淡海国(海)」
◆淡海毛沼の出兵
*『日本書紀』の記述もおかしいであろう。定説の如く、” 淡海毛沼臣は継体天皇(Ⅱ)下の大将軍 ” とする記述がない。” そうであるように ” 記述され、”「近畿天皇家一元主義」という大義名分によって、そう理解されている ”だけである。
*淡海毛沼臣の初出(『日本書紀』継体天皇)「21年の夏6月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・トク己呑(ことん)を為復し興建てて、任那に合わせむとす。」この前にも後にも、継体天皇が ” そう命じた ” に類する記事は一切ない。
*出兵を命じたのは、継体天皇が、即ち、淡海毛沼臣であったと考えるほかない。しかし、命令者は「九州王朝Ⅰ」の王であろう。この「九州王朝Ⅰ」の王とは継体天皇Ⅰ(継体21年4月崩御)の後継王である。この後継王が、筑紫国造・磐井(「日本天皇」:欽明天皇Ⅰ)ということであろう。むろん、筑紫君・葛子ではない。
◆淡海毛沼臣と「九州王朝Ⅰ」の王とをつなぐもの
*両者は、河内の馬飼首(かわちのうまかいのおびと)でも結ばれる。既述の継体天皇Ⅱの天下取りに貢献した河内馬飼首荒籠(あらこ)、淡海毛沼臣の任那幕下の河内馬飼首・御狩(みかり)である。
*『日本書紀』(継体天皇)「然るに天皇、意の裏に尚疑ありとして、久しくして就かず。適(たまたま)河内馬飼首荒籠を知れり、密に使を奉遣して、具に大臣・大連等の迎へ奉る所以の本意を述べもうさしむ。・・・『よきかな、馬飼首、汝若し使を遣して来り告すこと無からましかば、殆(ほとほど)に天下に蚩(わら)あれなまし。』・・・践祚するに及至りて、厚く荒籠に寵待(めぐみたま)ふことを加ふ。甲申に、天皇、樟葉宮に行至りたまふ。毛野臣の傔人河内馬飼首御狩・・・」
*淡海毛沼臣は、「毛沼の若子」(王者)であると。「大和王朝」がその系譜上、重視する応神天皇五世の孫・継体天皇Ⅱは、”「毛沼の若子」(王者)” なのである。
4)筑紫国造・磐井(「日本天皇」:欽明天皇Ⅰ)
◆筑紫国造・磐井と筑紫君・磐井は別
*そもそも、筑紫国造・磐井と筑紫君・磐井は別の存在。筑紫、肥、豊、長門以西、更に長門以東を支配する筑紫国造・磐井は、「九州王朝Ⅰ」の王(日本天皇)、筑紫君・磐井は律令制定の功を誇示する「九州王朝Ⅰ」臣下ナンバーワンの存在。
*「日本天皇」と筑紫君・磐井は別人であるが、それぞれ『百済本紀』の「日本天皇」弑殺事件と『筑後国風土記』逸文の磐井斬事件は同一の事件。
*『日本書紀』の磐井斬と葛子の屯倉献上宥免事件は、同事件と『古事記』の石井斬事件を同一事件として捏造したもの。屯倉献上宥免事件は石井斬事件でのこと。
◆筑紫国造・磐井が「九州王朝Ⅰ」の王
*筑紫国造・磐井が「九州王朝Ⅰ」の王であることは論を待たないであろう。継体天皇Ⅰを継承、大将軍・淡海毛沼臣を任那に派遣し、その暴政を咎めて召喚した王「日本天皇」である。欽明天皇Ⅰということになるであろう。
◆筑紫国造・磐井が倭王
*磐井は、筑紫、肥、豊、長門以西(「九州王朝」の直轄領域)、更に、長門以東をも支配下に置き、三韓等朝鮮半島諸国の貢職船を受け入れている。(『日本書紀』) 三韓諸国が筑紫国造・磐井を倭王と認めている・・・というのである。
*自分を「余」と自称し、「九州王朝Ⅰ」の大将軍・淡海毛沼臣を曾て「伴」であったとし、「儞」(いまし)呼ばわりしているのである。倭王配下の数多くの「国造」(くにのみやっこ)の一であるはずがないであろう。
◆筑紫国造・磐井が何故「日本天皇」であるか
*筑紫国造・磐井の死(斬)は継体22年11月、「日本天皇」の死は継体25年2月なのである。
*『日本書紀』(継体天皇)『百済本紀』「太歳辛亥の3月に軍進みて安羅に至りて、乞トク城を営る。是の月に、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言えば、辛亥の歳は、25年に當る。後に勘校へむ者、知らむ。」
*つまり、合わない。「日本天皇」と筑紫国造の死は同時でなければおかしいのである。合うのは、『筑後国風土記』逸文の ” 徹底破壊 ” と『百済本紀』の ” 鏖(みなごろし)” なのである。
◆「日本天皇」と筑紫国造・磐井の死亡時期の不整合
・論文記述の解釈中
◆「筑紫国造・磐井、即ち筑紫君・磐井説」は誤り
*即ち、筑紫国造・磐井は、「九州王朝Ⅰ」の王で、筑紫君・磐井は臣下ナンバーワンとの思いに至っている。つまり、”『筑後国風土記』逸文の筑紫君・磐井は、継体天皇Ⅱに殺された筑紫君・石井の子・葛子(筑紫君・磐井)” で、”『日本書紀』の筑紫国造・磐井は継体天皇Ⅱに殺された筑紫国造・磐井(「日本天皇」)と、筑紫君・磐井・「日本天皇」の弑殺は隠された。即ち、 「日本天皇」は、筑紫君・磐井の如く描かれ(筑紫君・磐井は「日本天皇」の性格を持つ)・・・かつ、この筑紫君・磐井は「古事記」の筑紫君・石井・・・葛子の糟屋屯倉献上と罪宥免・・・の如く描かれた” のである。
*以上のように考えないと、『古事記』、『日本書紀』、『百済本紀』、『筑後国風土記』逸文の整合性は無理である。”「筑紫君・磐井」は二度(親子二代)殺された ” のである。
※「大和王朝」の史官が、この事情についてわからなくなっていた可能性は大きいであろう。「後に、勘校へむ者、知らむ」である。
5)そもそも ” 磐井の反乱 ” とは
◆継体天皇Ⅰの崩御と磐井の反乱の時期の不整合
*『古事記』の継体天皇Ⅰの崩御は527(継体21)年4月。” 筑紫国造・磐井が、大将軍・淡海毛沼臣の任那行きを阻んだのは所謂「磐井の反乱」の話 ” は527(継体21)年6月である。
*即ち、所謂「磐井の反乱」とは、”「九州王朝Ⅰ」の王、筑紫国造・磐井が、己が命じた大将軍・淡海毛沼臣の任那行きを阻んだ ” ということになる。つまり、根本的に成り立たない。
◆大将軍・淡海毛沼臣の派遣阻止
*筑紫国造・磐井(「日本天皇」)が、大将軍・淡海毛沼臣に命じたのは任那への派遣だけではない。同地における失政を咎めて叱責召喚も、である。この話が、” 筑紫国造・磐井が”大将軍・淡海毛沼臣の任那行を阻んだ話 ” となっているということである。
*かつ、この話は更に怪しい。『日本書紀』は、”527(継体21)年6月の時点、筑紫国造・磐井と大将軍・淡海毛沼臣は戦った”と記す。が、” 痕跡はない ” のである。
*” 筑紫、肥、豊、長門以西或いは以東をも支配する筑紫国造と6万を率いる大将軍との大戦(おおいくさ)の痕跡が何もない ” のである。
◆磐井の反乱の実相
*” 戦 ”は、何故か翌年の528(継体22)年11月なのである。しかも、ここでまた、大きな疑問にぶつかる。何故か、この ” 戦 ” に肝心の千両役者、大将軍・淡海毛沼臣が登場しないのである。” 淡海毛沼臣は任那に派遣された当事者 ” なのである。” 磐井が反対して行けなかった ” のである。” 磐井が斬られて、派遣される ” のである。そして、” 一年半前に、磐井と大いに戦った ” とされるのである。その大将軍・淡海毛沼臣が、肝心の磐井征伐戦に登場しないのである。
*『日本書紀』は、この ” 不登場 ” について一言も触れていない。で、千両役者は『古事記』と同じ大将軍・物部大連麁鹿火(あらかひ)であると。更に更に、この戦いは怪しい。期待した程の・・列島を揺るがすほどの・・大戦(おおいくさ)ではないこともであるが、突然の御井決戦である。古田氏の ” 友軍として「九州王朝」の中枢(御井)に入った「大和王朝」の王・継体天皇が突如、反乱した ” の如く理解せざるを得ないのである。
*で、” 筑紫国造・磐井が大将軍・淡海毛沼臣の任那行きを阻んだ ” という『日本書紀』の主張は、” 筑紫国造・磐井が大将軍・淡海毛沼臣の任那に於ける暴政を咎めて召喚した530(継体24)年10月の話 ” で、” 突然の御井決戦は召喚された大将軍・淡海毛沼臣、即ち、継体天皇Ⅱの解軍前の反乱 ” ととるとほぼ矛盾がない。
*むろん、『古事記』の物部荒甲が斬った石井(いわい)、『日本書紀』の物部麁鹿火が斬った磐井とは同一石井のことで、527(継体21)年以前のことである。” 527(継体21)年6月の磐井反乱 ”、” 528(継体22)年11月の磐井斬 ” は関連する何をかということであろうが、該当内容としては根拠とならない。
*残る矛盾は、” 継体天皇Ⅱの召喚(530(継体24)年10月)”と”「日本天皇」の崩御(531(継体25)年2月)” の非整合である。
6)継体天皇と安閑天皇の”三年の空位”
◆継体天皇Ⅱの崩年
*継体天皇Ⅱの崩年は534(継体28)年でよいであろう。安閑天皇の534(継体28)年の即位との間に「三年間の空位」は無くなる。しかし、『日本書紀』は ” 継体天皇Ⅱを「日本天皇」とし、531(継体25)年の崩御 ” としながら、何故、” 安閑天皇を531(継体25)年即位 ” としなかったのかということである。
*” 継体天皇Ⅱの崩年は534(継体28)年という伝承が存在した。” が、”『百済本紀』が「日本天皇」の531(継体25)年の崩御を記している ” ので、『百済本紀』の記録を採ったが、安閑天皇の即位は伝承のとおりとしたということになる。
*継体天皇Ⅱの崩御と安閑天皇の即位の整合性から ” 継体天皇Ⅱの534(継体28)年の崩御伝承が正しい ” ということである。
◆継体天皇Ⅱと「日本国天皇」の二重在位
*で、あれば、この場合、” 継体天皇Ⅱは在位(534(継体28)年崩御)して居て、531(継体25)年、「日本天皇」を継承即位した王者が存在した”ということである。
*この ” 二重在位 ” とはどういうことであるかということである。(後述)
8)磐井斬の ” 三年のずれと二年のずれ ”
◆三年のずれ
*” 三年のずれ ” とは、” 筑紫国造・磐井斬(528(継体22年)11月)” と「日本天皇」崩薨(531(継体25)年2月)の ” 3年 ” である。
*しかし、既にふれた『古事記』では、” 継体天皇の磐井(石井)誅殺 ” は527(継体21)年以前なのである。で、『日本書紀』に虚偽が多いのである。
*『古事記』が正しく、『日本書紀』の ” 528(継体22)年 ” は合わすべき基準にならないのである。つまり、「三年のずれ説」(古田説)は幻である。
◆二年のずれ
*” 二年のずれ ” とは、” 筑紫国造・磐井斬(528(継体22年)11月)” と ” 継体天皇Ⅱの召喚(530(継体24)年10月)反乱 ” の ” 二年 ” である。
*むろん、” 528(継体22)年 ” が合わすべき基準にならないことは同じである。で、あれば、注目すべきは「月」の整合性ではなかろうかということである。
*そうであろう。元々、527(継体21)年「6月」が戦なのである。それが、突如の528(継体22)年の「11月」なのである。で、「6月」の意味が解らないが、その「11月」が召喚月(「10月」以降)と整合するのである。「11月」は530(継体24)年11月の「11月」と考えてよいのではないか。
◆ずらした理由
*何故、” ずらした(同一の事件を二年離れた別々の事件とした) ” のかと言えば、” 530(継体24)年11月の「九州王朝Ⅰ」の弑殺の隠蔽 ” ということになるであろう。
*但し、” 530(継体24)年11月は「九州王朝Ⅰ」の権臣、筑紫君・磐井斬 ” で、王弑殺は、それ以降(~531(継体25)年2月)ということかもしれない。
*” 磐井の乱語(なめりごと)” も、該時期のやり取りの話・・権臣、筑紫君・磐井を殺して、「日本天皇」に迫る淡海毛沼臣(継体天皇Ⅱ)とのもの・・とすれば首肯し得るのではないか。
8)取って代わった者・欽明天皇Ⅱ/531(継体25)年に誰が即位したのか
◆「日本天皇」の地位を継承即位
*当然、継体天皇Ⅱが ” 取って代わった ” と考えたということである。「日本天皇」の召喚命令により 任那から軍を返した淡海毛沼臣、即ち、継体天皇Ⅱが、解軍と処罰に先手を打ち、「日本天皇」と太子、皇子を鏖(みなごろし)にし、権臣「筑紫君・磐井(奇子くすこ)」(召喚使・目煩子めずらこ)を斬り、その寿墓「岩戸山古墳」を破壊し、「日本天皇」に取って代わったと。つまり、「日本天皇」の地位を継承即位したと。
*しかし、どうも、「日本天皇」の死んだ531(継体25)年に、継体天皇Ⅱが即位したような形跡がない。おかしいであろう。まあ、普通は実権を握り、前王者を弑した者が次の王者と成る。つまり、即位する。或いは、自分の意のとおり動く王者を擁立する。
*むろん、必ずしも、弑して直ぐに即位、或いは、擁立するという訳にはいかないであろうが、これが定理であろう。衝動殺人ではないのである。
◆継体天皇Ⅱの即位の矛盾
*尤も、 継体天皇Ⅱの即位は難しい。 継体天皇Ⅰはとっくに即位しているのであるから。しかし、それは建前の話。継体天皇Ⅱは即位しなかった・・天皇ではなかった・・のではないか。当てられるのは、” 『聖徳法王帝説』の欽明天皇の即位 ” なのである。
*尤も、この ” 継体天皇Ⅱの即位 ” という筋書きは、” 継体天皇Ⅱの河内馬飼首・荒籠の手引きによる豊前河内樟葉宮入り ” つまり、” 淡海国からの河内入り” 即位という筋書きと大きく相違する以外、もっと大きな矛盾が二つある。
*一つは、” 継体天皇Ⅱは淡海毛沼臣 ” とすることによるものである。そもそも、『日本書紀』は淡海毛沼臣の帰国途中、対馬での死を記すのである。妻が葬送の時、「毛沼の若子」の歌を詠んだとする話である。 「是歳、毛沼臣、召されて対馬に到りて、病に逢いて死ぬ。葬送るときに、河の尋(まま)に、近江に入る。其の妻歌ひて曰く」(『日本書紀』)
*この一文を、そのまま受け取ることはできない。任那において、尊大かつ暴政を為し、「日本天皇」の再三の召喚命令を無視した淡海毛沼臣が、ようやく、召喚に応じた帰国途中、都合良く病に罹って死んだと言うのである。小説であれば、間違いなく、「日本天皇」の手による暗殺という筋書きであろう。
*にもかかわらず、状況は「日本天皇」の弑殺へと展開するのである。それも、太子、皇子諸共の鏖(みなごろし)なのである。淡海毛沼臣が召喚に応じたのは530(継体24)年の10月以降、「日本天皇」が弑殺されたのが530(継体24)年の11月とすれば、期日的に整合するであろう。
◆『日本書紀』の記述
*『日本書紀』は、淡海毛沼臣の死とその妻の葬送歌の一文に続き、” 継体天皇の崩御を記す ” のである。しかも、” 妻の葬送歌 ” は、どう見ても進軍歌であろう。「毛沼の若子(わくご)」の進軍歌である。
*もし、” 淡海毛沼臣が対馬で死んだことが真実 ” であれば、その総軍を掌握するものは、召喚使にして、武徳兼備の目煩子(めずらこ)ということになるであろう。で、あれば、流れから言って、この目煩子が反乱したということになるであろう。王の信頼厚く、その信を以て、淡海毛沼臣の召喚特使とされた目煩子がである。
◆「継体天皇Ⅱ・淡海毛沼臣説」の矛盾
*但し、「継体天皇Ⅱ・淡海毛沼臣説」そのものに根本的な矛盾がある。
*一つは、『日本書紀』の淡海毛沼臣の記述は ” 好意的なものではない ” のである。応神天皇五世の孫・継体天皇は「大和王朝」にとって特別な存在であろう。その描写が好意的なものではないのである。
*二つは、「日本天皇」弑殺の容疑者が、もう一人いることである。欽明天皇である。
『上宮聖徳法王帝説』の531(継体25)年の欽明天皇即位説である。欽明天皇Ⅱが 「日本天皇」、太子、皇子鏖(みなごろし)の犯人ということになるであろう。
*しかも、この犯行は、欽明天皇Ⅱと継体天皇Ⅱの共同正犯でも矛盾しない。” 欽明Ⅱ天皇と継体Ⅱ大王天皇 ” と考えればよいのである。
*欽明天皇Ⅱの名「天国排開廣庭」である。”王姓「天」(阿毎)”である。継体天皇Ⅱと欽明天皇Ⅱの父子関係は造作であろうと。むろん、この最終容疑者は「大和王朝」である。
◆欽明天皇Ⅱとは
*しかし、では、この欽明天皇Ⅱとは、如何なる存在であったのかということが全く分からない。継体天皇Ⅱはよい。” 淡海毛沼臣、「狗奴国」の王統者(毛沼の若子)にして、「九州王朝Ⅰ」の大将軍 ” と理解した。
*で、欽明天皇Ⅱは「狗奴国」二元王統の上位の王者「久米の若子」と考えるしかないが、そうし得る手掛かりがない・・『古事記・日本書紀』に片鱗も窺えない・・のである。
◆欽明天皇Ⅱとは目煩子(めづらこ)?
*で、当初、この欽明天皇Ⅱとは目煩子(めづらこ)ではないかと考えた。『日本書紀』の淡海毛沼臣の記述は ” 好意的なものではない ” が、目煩子について、『日本書紀』は、「目煩子は未だ詳ならず」と素っ気ないものの、再三の召喚命令を無視する暴慢な淡海毛沼臣を説き伏せし得る実力者、かつ、人気者でもあるからである。つまり、” 好意的 ”であると。
*召喚特使としての任那来訪は歓呼して迎えられ、目煩子が任那に至った時、その地の郷家等(いへびとども)が歌ったという。
「韓国(からくに)を 如何に言ふことそ 目煩子来る むかさくる 壱岐の渡を 目煩子来る」
*淡海毛沼臣の妻の歌に続く記述である。この後に、” 継体天皇の崩御 ” 記事なのである。
*その経歴は隠されているが、淡海毛沼臣の如く”死んで”もいない。当然、淡海毛沼臣の前後、或いは同時に帰国している。既にふれた。淡海毛沼臣の大軍を掌握し得る立場である。淡海毛沼臣が ” 死んでいる ” のであれば掌握は確実なのである。
◆目煩子(めづらこ)とは
*が、この説は ” 目煩子 ” とは、そも何者とすると、どうも、据わりが悪くなる。そもそも、目煩子なる者は「九州王朝Ⅰ」の王・筑紫国造・磐井の信頼の厚い臣下なのである。かつ、”目煩子”は当てである。”葛子”ほどではないであろうが、好意的なものではない。本来は、目煩子とは珍子(めずらこ)とするのが妥当であろう。「倭の五王」讃・珍・済・興・武に通じる名前である。
*で、あるとすると、そもそも、本論の ”「九州王朝Ⅰ」から「九州王朝Ⅱ」へ ” ではなく、”「九州王朝Ⅰ」内の後継争い ” 即ち、”「九州王朝Ⅰ」は変わっていない ” ことになる。それでは、何故の ” 鏖(みなごろし)と徹底破壊 ” なのかということになる。
*むろん、” 目煩子 は珍子で「倭の五王」に通じる”という安易な当ては間違いということもある。しかし、この ” めづらこ ” を「狗奴国」の王統者の名前とすることも躊躇するであろう。かつ、で、あれば、” 筑紫君・磐井 ” とは何者という根本的な疑問に変えることになる。
*どうであろう。” 河内の馬飼首・荒籠の案内によって淡海から豊前の河内に入って即位したのは継体天皇Ⅰのこと ” と考えるのが妥当なのかもしれない。もちろん、これはこれで多くの矛盾を抱える。
*かつ、目煩子、即ち、欽明天皇Ⅱで、反乱は、欽明天皇Ⅱ(「久米の若子」)と継体天皇Ⅱ(淡海毛沼臣、「毛沼の若子」)の共同正犯(直接手を下したのは継体天皇Ⅱ)と考えるべきなのかもしれない。やはり、” 河内の馬飼首・荒籠の案内によって淡海から豊前の河内へ入って即位したのは欽明天皇Ⅱのこと ” と考えるべきかもしれない。
9)二人の欽明天皇
◆継体天皇Ⅰを継いだ欽明天皇Ⅰ(九州王朝Ⅰの王:筑紫の君・磐井=日本天皇)
*継体21年即位、淡海毛沼臣を任那に派遣し、召喚した王
*欽明天皇Ⅰが、継体天皇Ⅱを任那に派遣し、その暴政を咎めて召喚し、弑された王「日本天皇」ということになる。この伝承を受けるのが、『上宮聖徳法王帝説』の欽明天皇の継体25年即位(欽明天皇Ⅱ)であろう。
◆欽明天皇Ⅰに取って代わった欽明天皇Ⅱ(九州王朝Ⅱの王)
*九州王朝Ⅱ・「一元王統説」では不成立、「二元王朝説」で合致
〔欽明天皇Ⅱ(上位王者)・継体天皇Ⅱ(下位王者)〕
*” 欽明天皇Ⅱが欽明天皇Ⅰに取って代わったのが継体25年 ” ということである。「欽明天皇」も二人ということになる。
*『日本書紀』は ” 継体天皇Ⅱの「日本天皇」弑殺 ” を記していない。むろん、” 御井決戦 ” は、” 筑紫国造・磐井、即ち、「日本天皇」の弑殺戦 ” ではなく、” 対筑紫君・磐井(奇子)戦 ” である。「御井」は筑紫君・磐井の本拠地である。
*ひょっとすると、王即位の要請を受け豊前の河内・樟葉宮に入った王とは継体天皇Ⅱではなく、欽明天皇Ⅱかもしれない。で、あれば、召喚され、反乱した継体天皇Ⅱと、その反乱の成功を受けて倭王に即位した欽明天皇Ⅱとが整合する。むろん、”「九州王朝Ⅱ」は二元統治体制であった(欽明天皇Ⅱ=王、継体天皇Ⅱ=官:執政官)”としてである。
◆「三年の空位」〔継体天皇崩御(継体25年)~安閑天皇即位(継体28年)〕と「二元王統」
*継体天皇崩御を伝承の継体28年とすれば整合する。
*しかし、継体25年に即位した王が存在しないとおかしい。つまり、『上宮聖徳法王定説』に合致する欽明天皇Ⅱの即位、即ち、九州王朝Ⅱの「二元王統」である。
10)二人の筑紫君・磐井、二度(親子二代)殺された筑紫君・磐井
◆継体天皇Ⅰに殺された筑紫君・磐井Ⅰ(岩井)
*一人は、先に触れた『古事記』の記す継体天皇Ⅰに誅殺された筑紫君・岩井である。
*「『古事記』継体天皇」の記述「この御世に、竺紫君磐井、天皇の命に従はずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連を遣はして、岩井を殺したまひき。」
*継体天皇Ⅰに殺された筑紫君・岩井、子・葛子(くずこ)(奇子:くすこ)、屯倉(みやけ)献上宥免。継体天皇Ⅰの崩御は継体21年(527)4月であるから、事件はそれ以前、最大21年遡る。
奇子が岩戸山古墳(寿墓)を築いた筑紫君・磐井ということになる。
◆継体天皇Ⅱに殺された筑紫君・磐井Ⅱ(葛子)
*もう一人は、「日本書紀」の記す継体天皇Ⅱに弑殺された「九州王朝Ⅰ」の王、筑紫国造・ 磐井、即ち、「日本天皇」に殉じた筑紫君・磐井(葛子=奇子)である。
*「『日本書紀』継体天皇」の記述
●二十一年・・・。是に、筑紫国造磐井、陰に反逆くことを謀りて、猶預して年を経。新羅、是を知りて、密かに貨賄を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩拠いて、使修職らず。外は海路を邀へて、高麗・百済・任那等の国の年に職貢る船を誘り致し、内は任那に遣わせる毛野臣の軍を遮りて、乱語して曰はく、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安ぞ率爾に使となりて、余をして儞に使となりて、余をして儞が前に自伏はしめむ』といひて、遂に戦ひて受けず。・・・秋八月・・・天皇、親ら斧鉞を操りて、大連に授けて曰はく「長門より東をば朕征らむ。長門より東をば汝制らむ。筑紫より西をば汝制れ。」・・・
●二十二年の冬十一月・・・大将軍物部麁鹿火、親ら賊の帥磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。籏鼓相望み、・・・遂に磐井を斬りて、果たして彊場を定む。十二月に、筑紫君葛子、父のつみに 坐りて誅せられ無ことを恐りて、糟屋屯倉を献りて、死罪贖はむことを求す。
●二十三年の春三月・・・是の月に、近江毛野臣を遣して、安羅に使す。
◆継体天皇Ⅱ或は欽明天皇Ⅱに殺された筑紫君・磐井(奇子)、筑紫君家断絶
*墓は破壊されたまま今に伝わる。筑紫君家は断絶したということである。後世の筑紫君薩夜麻の筑紫君家は別家である。
◆九州王朝Ⅰの王・筑紫国造・磐井に殉じた筑紫君・磐井
*筑紫君・磐井(奇子)は律令制定功労者・九州王朝Ⅰ臣下NO1の実力者
*奇子は淡海毛沼臣召喚特使・武徳兼備の目頬子(めずらこ)? 目頬子が任那に至った時、その地の郷家等(いへびとども)が歌ったという。「韓国(からくに)を 如何(いか)に言ふことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡(わたり)を 目頬子来る」
11)『古事記・日本書紀』・『筑後国風土記』での共通認識と断定の疑義
◆共通認識
*”『古事記』の筑紫君・岩井は、『日本書紀』の筑紫国造・磐井、そして『筑後国風土記』の筑紫君・磐井” これが、定説・非定説論者、共通の認識であろう。
*” 継体21年以前と継体22年の違い ” については、継体天皇Ⅰ、Ⅱの違いに同じく” 何かの間違い ” と。
*まあ、無理もない。『古事記』『日本書紀』共に、直接手を下した将軍は同じであり、他に記録もないのであるから。で、『筑後国風土記』逸文も、同じ事実であると。
◆認識と断定の疑義
*しかし、この共通認識の認識と断定に重大な疑義がある。
*一つは、「古事記・日本書紀」記録の時期的な相違である。くどいが、” 何かの間違い ”
で済まされる話ではない。つまり、どちらかが嘘をついているということになる。
*二つは、『日本書紀』と『筑後国風土記』逸文(※)の内容の著しい相違である。『日本書紀』は ” 筑紫国造・磐井の誅殺、そして、その子・筑紫君・葛子の屯倉献上、罪宥免(ゆうめん)を記し、『筑後国風土記』逸文は、筑紫君・磐井斬とその墳墓の徹底破壊と破壊放置”を記している。
※『筑後国風土記』逸文の記事
「筑後の國の風土記に曰はく、上妻の縣。縣の南二里に筑紫の君祝いの墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號けて衙頭という。衙頭は政所なり。
その中に一の石人あり、従容に地に立てり。號けて解部と曰う。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす。 側に石猪四頭あり。贓物と號く。贓物は盗みし物なり。彼の處に亦石馬三匹・石殿三間・石蔵二間あり。
古老の傳へて云へらく、雄大迹の天皇のみ世に當りて、筑紫君磐井、豪強く暴虐くして、皇風に偃(したが)はず。生平けりし時、預め此の墓を造りき。
俄にして官軍動発りて襲たむとする間に、勢の勝つまじしを知りて、獨自、豊前の國上膳の縣に遁れて、南の山の峻しき嶺の曲に終せき。ここに、官軍、追ひ尋ぎて蹤を失ひき。士、怒泄(や)まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは茲に由るか。」
◆『日本書紀』と『筑後国風土記』の事実の違い
* ”『日本書紀』と『筑後国風土記』では、全く、その様相を異にする。『日本書紀』の事実と『筑後国風土記』逸文の事実は同一の事実ではない。” とするのが理性の赴くところであろう。
*そうであろう。” 首魁を斬り、その墳墓をも徹底的に破壊する者が、僅かな献上物を以て、その罪を赦した ” 等、” ネロの如き気まぐれな暴君(巷説)の心情 ” とでも比さなければ、とても理解し得るものではない。この、『筑後国風土記』逸文とその内容が整合するのは、『百済本記』の内容「日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬ」なのである。”徹底破壊”と”鏖(みなごろし)”である。
◆『古事記』と『日本書紀』の内容の違い
*『古事記』と『日本書紀』の内容についても大きな相違はある。『古事記』は、謂わば、” 無礼打ち ” 。『日本書紀』は、” 王(継体天皇)が大将軍・物部麁鹿火に鉞(まさかり)を授ける、正に正統な国家の興廃をかけた決戦 ” である。
*『日本書紀』が事実であれば、『古事記』の記述も、相応のものであるはずである。『古事記』が ” 僅か数十字を惜しんで、簡明に記した ” とは思われない。
12)『古事記』・『日本書紀』・『筑後国風土記』の解釈
◆『日本書紀』の主張
*『日本書紀』の記述は明らかに、”「九州王朝」と「大和王朝」との決戦 ” として描かれている。「近畿天皇家一元説」の主張である。この主張が如何に根拠のないものであるかということは、本論の重説してきたところである。
*” 継体天皇Ⅱは「九州王朝Ⅱ」の王 ” なのである。”「九州王朝」と「大和王朝」との決戦”は、即ち、”「九州王朝Ⅰ」と「狗奴国(応神王朝Ⅰ)」との決戦 ” なのである。むろん、戦は 「旗鼓相望む」ような正々堂々なものではない。” 突如の反乱 ” である。
◆『日本書紀』の嘘
*つまり、『日本書紀』の記す事件は、『古事記』の記す事件 ”「九州王朝Ⅰ」の王・継体天皇Ⅰの配下の権臣、筑紫君・岩井誅殺 ” と ” 「狗奴国」の王統・応神天皇五世の孫・継体天皇Ⅱの 「九州王朝Ⅰ」取り ” を、同じ事件として記したものということである。
*先の ”『古事記・日本書紀』どちらかが 嘘 ” については、言うまでもなく ” 嘘をついているのは 『日本書紀』”ということである。
◆『日本書紀』の記述
*の意図するところは、 ” 筑紫国造・磐井(「日本天皇」):「九州王朝Ⅰ」の王の弑殺 ” (筑紫君・磐井(「九州王朝Ⅰ」の権臣)の誅殺の如く描いた)の抹殺であろう。
◆『古事記』の意図
*『古事記』は、” 筑紫国造・磐井の弑殺 ” を記さなかった”ということである。
◆『筑後国風土記』逸文の記述
*『筑後国風土記』逸文の記事は 、” 筑紫君・磐井(「九州王朝Ⅰ」の権臣)の誅殺 ” である。
◆筑紫国造と筑紫君
*尤も、この時点、未だ、継体天皇Ⅱは「九州王朝Ⅱ」の王ではない。「九州王朝Ⅰ」の権臣の誅殺は当たらない。つまり、筑紫君・磐井は、筑紫国造・磐井(「九州王朝Ⅰ」の王)弑殺(一族鏖)の巻き添えを食った・・殉じた(徹底破壊された)・・のであろうということである。
*そのようなことが言えるのか。そう考える他ないであろう。” 筑紫国造・磐井は「九州王朝Ⅰ」の王 ” なのである。”「筑紫君」は「九州王朝Ⅰ」の王に成り得る身分であろうが王ではなく、また、その称号でもない ” のである。『日本書紀』が ” 筑紫国造 ” としているのは ”「筑紫君」” とは違うということである。
*” 筑紫国造も筑紫君も同じ ” であるから、” 筑紫国造・磐井の子が筑紫君・葛子 ” なのではなく、” 筑紫国造・磐井(「九州王朝Ⅰ」の王)の話と筑紫君・磐井(石井)とその子・葛子の話を同じものとした” 故 の ” 混乱 ” であろう。
*むろん、” 何 かの間違い ” などではない。承知の上の ” 混乱 ” である。この程度を整理し得ない(誤魔化せない)編纂者はいない。 ” 混乱 ” するように、記したということである。
◆筑紫君・葛子に関する『日本書紀』の記述の矛盾
*『日本書紀』の如く、” 筑紫君・葛子は筑紫国造・磐井の子 ” というのであれば、矛盾は様相の全くの相違というだけではない。で、あれば、父王の死を受けて「九州王朝Ⅰ」の王に即位したであろう 葛子は、父王・磐井が反対し、結果として、その死を招いた ” その犯人である淡海毛沼臣の任那派遣 ” を未だ、父王のその屍も乾かない内に命令実行したことになるのである。
*しかも、この ” 葛子・磐井後継説 ” は、” 磐井の墳墓(岩戸山古墳の破壊放置)”という更に大きな矛盾に逢着する。破壊された岩戸山古墳が修築されず、当然、祭祀も行われずに放置されてきたという事実である。
*”葛子は何故、修復しなかったのか”ということである。無理なのである。”筑紫君・葛子は筑紫国造・磐井の子ではない”と考えざるを得ないのである。
◆筑紫君家の断絶
*かつ、” 筑紫君の墳墓の破壊放置された”ということは、筑紫君家が断絶した”ということになるであろう。で、あれば、”筑紫君家は筑紫君・葛子で絶えた”ということになるであろう。
*” 筑紫君家は筑紫国造・磐井で絶えた ” と言うのであれば定説も解し得る。しかし、” 筑紫君家は筑紫君・葛子で絶えた ” のである。くどいが、” 父・磐井の死と子の屯倉献上とその罪の宥免 ” を事実とすれば、”『筑後国風土記』逸文の「筑紫君・磐井」は筑紫君・岩井の子・葛子”ということになるということである。
◆『筑後国風土記』逸文の筑紫君・葛子
*つまり、”『筑後国風土記』逸文の筑紫君・磐井とは筑紫君・葛子”ということになる。
*そもそも、「磐井」とは地名であろう。清冽な水が湧く井戸から名付けられた地名である。人の名ではない。その地名を以て呼ぶのである。その地の王者の一般名詞である。筑紫君・葛子も筑紫君・磐井であろう。
◆筑紫君・葛子
*筑紫君・葛子は筑紫君・ 奇子であろう。が、”葛(屑)子”と卑しめられているということである。また、「磐井」である。本来、この地の王者を間接的に呼ぶ場合は、通常、「御井」とよばれていたであろう。「お山」、「お館」の類である。「磐井」は謂わば ” 呼び捨て ” なのである。
*むろん、この ” 筑紫君・磐井は筑紫君・岩井の子・奇子 ” 説も矛盾はのこる。継体天皇Ⅰに父を誅殺された奇子が、「九州王朝Ⅰ」の律令制定という治績を挙げ、その実績を誇示する寿墓(岩戸山古墳)を築いたというのである。
◆筑紫君・岩井の誅殺
*筑紫君・岩井の誅殺を継体天皇Ⅰの治世初期と考えないと整合が難しいし、で、あると、奇子は父を殺した継体天皇Ⅰ下で、権臣として、律令制定等に治績を挙げたという可能性が大きいこととなろう。殉じた欽明天皇Ⅰの治世は僅か四年足らずなのである。
◆筑紫君・薩夜麻
*なお、後世の筑紫君・薩夜麻である。筑紫君・磐井の筑紫君家は断絶したのに”筑紫君の称号は継承された”と言うことになるであろう。
*この筑紫君・薩夜麻は、筑紫君・磐井とは別系統ということになるであろう。「九州王朝Ⅱ」下の筑紫君である。そう考えざるを得ないであろう。
13)筑紫国造・磐井(「日本天皇」)
◆筑紫君・磐井に擬せられた九州王朝Ⅰの王:隠された「日本天皇」弑殺。
*日本書紀の ” 筑紫国造・磐井の子が筑紫君・葛子 ” は、極めた矛盾
*筑紫君が筑紫国造であったとして、筑紫国造・磐井は筑紫君・磐井であろう。で、あれば、” 筑紫国造・磐井の子は筑紫国造・葛子 ” であろう。罪は赦されているのである。
*それとも、葛子は筑紫君は継いだが筑紫国造の地位は継がなかったとするのであろうか。これは、継体21年以前の筑紫君・磐井誅殺と「日本天皇」弑殺、同事件で殉じた筑紫君・磐井を同じものとして描いた・・「日本天皇」弑殺をかくした・・矛盾である。
◆筑紫・肥・豊、長門以西(「天(あま)」)、長門以東支配の磐井は九州王朝Ⅰの王
14)磐井の反乱
*淡海毛沼臣(九州王朝Ⅰの大将軍)の任那派遣も、暴政を咎めての召喚も筑紫国造・磐井(九州王朝Ⅰの王)の命令。即ち、「反乱(筑紫国造・磐井が淡海毛沼臣の任那行きを阻止した)」は嘘。
*「反乱」は毛沼臣の任那からの召喚(解軍、処罰を意図)、反乱したのは、召喚された毛沼臣である。(「継体天皇Ⅱの反乱」)
◆” 継体天皇Ⅱ(淡海毛沼臣)の反乱 ”〔欽明天皇Ⅱ(X)(召喚使・目頬子?)〕
・毛沼臣の対馬での死が真実であれば、軍を掌握するのは召喚特使・目頬子。即ち、” 反乱者は目頬子 ” ということになる。共同反乱の可能性。
◆欽明天皇Ⅱ(久米の若子)と継体天皇Ⅱ(毛沼の若子)の九州王朝Ⅰ取り。
・継体24年11月~継体25年2月の「日本天皇」弑殺
→ 継体22年11月の筑紫君・磐井を誅殺:「三年のずれと二年のずれ」
◆「日本天皇」と筑紫君・磐井の死はほぼ同時
・弑殺は継体22年(528)11月ではなく、継体24年(530)11月~継体25年(531)2月の間。召喚が継体24年10月以降、11月の解軍前の反乱、突然の御井決戦(対筑紫君戦)も妥当
◆取って代わった者。欽明天皇Ⅱ
・継体25年に誰が即位したのか
・継体天皇Ⅱ(淡海毛沼臣)か、欽明天皇Ⅱ(X:継体25年即位説)か、欽明天皇Ⅰに代わるもので、後者の可能性が大きい = 九州王朝Ⅱの二元王統
15)欽明天皇の謚(おくりな)・天(あま)
◆「九州王朝Ⅱ」は「天」の王朝
・「九州王朝Ⅱ」は「天」の王朝である。「王姓阿毎」(『隋書』)である。
・欽明天皇(天国排開廣庭天皇)(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の天(あま)は、「王姓阿毎」である。
・継体天皇(男大迹天皇)(おおどのすめらみこと)は、「王姓阿毎」でない。本説「継体」は「九州王朝の王の謚」によれば問題ない。
◆王姓が「阿毎」とは
・これは、天孫降臨以来の「九州王朝」の王の ” 名乗り ” と考えざるを得ないであろう。
・天津日高日子穂穂手見命に遡る「天」である。この王統が絶えた故の「倭国大乱」、「卑弥呼共立」であろう。
◆「九州王朝Ⅰ」の王
・卑弥呼以降の「九州王朝Ⅰ」の王は「天」を名乗らなかったということであろう。この王統は「呉太白の後裔」を自称していたのである。
・穂穂手見命の血を引く、「狗奴国」の王はどうであったのか。天津日高日子波限建葺草葺不合命の後裔なのである。
◆「天」王朝の復活
・で、あるとすると、” 淡海毛沼臣は「毛沼」の本家の主、即ち、「毛沼の若子」、即ち
「狗奴国」の王統者 ” という認識を改めなくてはならない。
・” 淡海毛沼臣の妻の歌 ” 「毛沼の若子」とは、欽明天皇ではないかと。で、あるから、
”「天」王朝の復活 ” であろうと。
・或いは、欽明天皇は「狗奴国」の二元王統の上位、即ち、葺不合命の王統者(「久米の若子」)で、淡海毛沼臣、即ち、継体天皇Ⅱは下位、即ち、「狗奴国」の本来の王統者(毛沼の若子)ということかもしれない。王・卑弥弓呼は前者、官・狗古智卑狗は後者ということである。
16)「天皇」号と謚号(しごう)
◆天皇号
・「天皇」号が、” 神武天皇以来、「大和王朝」の王の称号 ” などではないことは確かであ
ろう。” いつ頃からの九州王朝の王の称号 ” である。
・『百済本紀』の記事を信じるならば、継体25年(531)以前に遡ることになる。むろん、
” いつ頃から ” は分からない。が、”当たり”はつけられるのではないか。
・凡そ、” 王が己の称号をよりグレードの高いものに変える ” ということは、その転機があるであろうということである。その転機(の表象)とがあると思われることが二つある。
・一つは、「倭の五王」の主張と、二つは、「九州年号」の建元である。
◆「倭の五王」の主張
・転機の一つは、「倭の五王」の珍の「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事
安東大将軍倭国王」の主張(438年)である。まさに「東夷の覇王」の主張であろう。
・もとより、「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国」の支配、或いは、名分支配はこれ以前に遡るであろう。『武の上表文』、『好太王碑文』に見る通りである。が、この「東夷の覇王」の主張はこれが初めてであろう。” 己の地位(むろん、中国王朝体制下の)についての意識が変化した” と言うことであろう。
・これを、武の「七国諸軍事安東大将軍倭国王」の主張(478年)とすることができるかもしれない。武のこの主張は祖父の二番煎じではある。が、祖父・珍の素志をほぼ完成したと言えるであろう。つまり、東アジアにおいて、曾てない地位を築いたと。中国王朝体制下、倭王として曾てない地位(征東将軍)にまで進号する。武の意識の肥大化である。
◆「九州年号」の建元
・転機の二つは、継体16年(522)の建元(「九州年号」)である。当然、” 己の地位についての意識が変化した ” と言うことである。
・これは、前「倭の五王の主張」よりも、より強烈な意識の変化ともいえるかもしれない。” 中国王朝体制の羈絆を脱した ”、 即ち、「天皇」どころか、”己を「天子」に擬した”とも取れるからである。若し、そうであれば、これ以前に「天皇」を称していたことになるであろう。「王」から「天子」への一足飛びよりも妥当と思われるからである。
・但し、ほぼ期を同じくして、新羅王も、独自年号を公布(536~650)するに至る。こう考えれば、” 独自年号の公布 ” は、東アジアの傾向であったと考えるのが妥当である。かつ、「倭の五王」の南朝への貢献と地位要求を考えれば、この時点の意識は ” 中国王朝体制下の特別な地位 ” 即ち、「天皇」ということになるのかもしれない。
・但し、継体16年は、「継体天皇Ⅰ」の時代である。「継体天皇Ⅰ」は、武烈天皇(倭王武?)を以って断絶した「九州王朝Ⅰ」を継いだ王である。継いだ王が ” 前王までの称号よりグレードアップした称号を名乗る ” ということは考え難い。
・尤も、そもそも ” 継いだ ” 王が、画期的な建元を行うということもそうであろう。そもそも「継体16年」というのが大義名分の主張であり、この時期は武烈天皇の時代で、建元は同天皇のものとするのが妥当かもしれない。
◆謚号
・で、謚(おくりな)である。どうであろう。定説は ”「大和王朝」(「大和の地」の王朝)の王の謚”というものであろう。”「天皇」号と共に ” である。が、「天皇」号は、もういいであろう。「九州王朝」の王(「倭王」)の称号である。当然、前者も、ということになるであろう。
・謚が何時からということもある。甚だしくは”八世紀の「大和王朝」の創作 ” がある。
”『古事記・日本書紀』編纂時の創作である ” と。”「大和王朝」(「大和の地」の王朝)の王に、『古事記・日本書紀』編纂時、創作謚した” と。
・この説も、”「大和王朝」(「大和の地」の王朝)の王に、『古事記・日本書紀』編纂時、創作謚した” というのであれば、否定し難い。例えば、「神武天皇」は、その可能性が大きいであろう。
・しかし、「継体天皇Ⅰ」は「九州王朝Ⅰ」の王なのである。「継体天皇Ⅱ」も「九州王朝Ⅱ」の王である。むろん、以降もである。しかも、これ等の王は「天子」を称するに至る。むろん、”「九州王朝Ⅰ」、「九州王朝Ⅱ」に歴史書有り ” である。
★”聖徳太子と蘇我馬子が『天皇記』を編纂した” とは、” 聖徳太子と蘇我馬子が「九州王朝Ⅱ」内の存在である ” と言うことである。
17)倭王・武の上表文
◆半島情勢と九州王朝Ⅰの継承争い
・「奄喪父兄」は武のではなく、武の父・済の父(珍)兄(X)。「九州王朝Ⅰ」内の王統を巡る争いについて、倭王・武の南朝・宋への上表文に見ることができる。
・宋書原文の記述:略
〔同上の訳文〕「・・・封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、・・・東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆(あやまら)ず。臣、下愚なりといえども、忝(かたじけ)なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道、百済を遥かに船舫を装治す。しかるに句驪無道・・・以て良風を失い、路に進むというといえども、或いは通じ、或いは叱らず。臣が亡考済、実に寇讎の天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義聲に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い垂成の功を一簣に獲ざらしむ。居在りて諒闇、兵甲を動かさず。偃息(えんそく)して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治めて、父兄の志を申べんと欲す。・・・」
・「奄喪父兄」について、何となく、”武の父兄”と思っていた。思い込みなのである。”倭王・武の上表文であるから武の父兄”と。が、本文を確認して、当然のことながら、これが間違いであることにきがついた。この父兄は、” 武の父・済の父兄 ” である。” 済が高句麗征討の軍を正に発起しようとした時、父兄を俄かに喪った。” と。
・「倭の五王」とは、讃(兄)ー 珍(弟)ー 済(珍の子)ー 興(済の子:武の兄)ー 武(済の子:興の弟)であるから、” 済の父兄 ” とは、父・珍と兄・Xということになる。
・” 父兄を俄かに喪った ” と言うのであるから、その原因は、事故か、それとも、内乱による弑殺かということになるであろう。それも、” 済が高句麗征討の大軍を率いて半島にあった時、その留守の本国で”と言うことであろう。
・父・珍と兄・Xは本国に在り、済が高句麗征討軍を率いて半島に在った時、軍不在の間隙を衝いた内乱による弑殺の可能性が大きいであろう。で、あるから、高句麗征討は大きく頓挫したのであろう。済も興も(武の父兄)、とうとう、その再興を期せなかったのである。内乱の収拾、即ち、済の即位と、その王統の確立に時日を費やさざるを得なかったということであろう。済の即位がスムーズなものではなかったことは『宋書』の沈黙が示している。
◆珍 ー 済の継承の謎
・『宋書』は、讃ー珍、済ー興、興ー武の継承については記するが、珍ー済の継承については記さないのである。是は上表文と整合するであろう。この継承に異常があったということである。
・そもそも、珍の後継が兄・Xであった可能性は大きいであろう。そして、その他の正統な王位継承者も存在した可能性もあるのではないか。済の即位はこれらとの争闘との結果である可能性である。
・父・珍と兄・Xの死が単なる事故で、王位継承に何等の支障が存在しないのであれば、” 珍ー済の継承の沈黙、即ち、例えば「珍死子済立」の不記載 ” は理解し難い。
・宋書の記述「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表献方物讃死珍立遣使貢献・・・・(元嘉)二十年倭国王済遣使奉献・・・済死世子興遣使貢献・・・・興死弟武立自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王・・・」
◆「九州王朝Ⅰ」の王統
・「九州王朝Ⅰ」の王統は、この五王だけ見ても、武の王統の他、讃の子の王統と、興の子の王統と、有力な王統が存在したことになる。もし、珍の死の原因が内乱によるものであるとすれば、讃の子の反乱という可能性は大きいであろう。『松野連系図』は讃の子として嘉なる人物を記す。
・どうであろう。度重なる半島出兵と内紛が、「九州王朝Ⅱ」創基の梟雄・応神天皇五世の孫・継体天皇Ⅱの登場の素地となったであろう。
・「磐井」と子・葛子或いは「目煩子」(「珍(めずら)子」)が、讃或いは興の王統に連なる者であった可能性が大きいであろう。むろん、武の王統の可能性もである。特に、「目煩子」というの名前は ”「倭の五王」の正統、即ち、倭王・珍の正統 ” という位置づけなのではないか。なお、「父兄之志」の父兄とは、むろん、済と興ということになる。
18)衆夷六十六国
*「衆夷六十六国」とは如何なる範囲かということである。「海北九十五国」は ” 朝鮮半島南半 ” で、良いであろう。「衆夷六十六国」とは「天」と「鄙」であろう。「東界北界有大山為限、山外即毛人之国」(『旧唐』)、「東北限大山、其外即毛人云」(『新唐』)、即ち、”大山以東北”が「毛人五十五国」ということになる。
*「九州王朝」(「倭国」)は、”「天」と「鄙」を夷人の居住する地域 ” と認識していたということである。”「天」と「鄙」は人種を弁別するものではなかった”と言うことになるであろう。”「都会」と「田舎」或いは「中央」と「地方」”と言った弁別である。当然であろう。そもそも、出雲が「中国(なかつくに)」の中心であり、「女王国東渡海千余里 復有国皆倭種」なのである。
*” 大 山 ” を日本アルプスとする説(古田説)があるが、無理であろう。富士山と考えるのが妥当である。つまり、” 関東以東北 ” が「毛人五十五国」ということになる。この「毛人五十五国」を「東」としてよいのではないか。
*そうであろう。「国譲り」に反対した大国主命の子・建御名方命は、こと敗れて、信濃の諏訪湖へ逃げて降伏したのである。” 信濃の地は「中国(なかつくに)」の内 ” と考えるべきであろう。”「中国(なかつくに)」の辺境 ” である。むろん、”「東」へ逃げた”という可能性を否定できるほどの論拠とはならない。が、この方が妥当であろうということである。「国譲り」は「中国(なかつくに)」の話なのである。で、「「中国(なかつくに)」が「鄙」であろう。
★衆夷は、九州~東海(天鄙+南九州・四国)の東夷。熊曾は、衆夷、即ち、倭人
19)修正された天孫降臨地:王朝交代の証言
◆『古事記』は福岡県を主張
・「天孫降臨」は、” 壱岐島から九州島、即ち、「筑紫の地」” に行われたものである。
・当然、『古事記』の「竺紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)」(「此地は韓国に向かい、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。」)、即ち、福岡県が正しい。
・つまり、”「九州王朝」の「本家」の主張 ” である。「本家」とは、天津日高日子番能邇
邇芸命の「正統」ということである。
◆『日本書紀』は宮崎県を主張
・『日本書紀』の「日向(ひむか)の襲の高千穂峯」は、”「天孫降臨」の地は「筑紫の地(福岡県)ではなく、「日向(ひむか)の地」(宮崎県)である。”とするものである。
・是は、「狗奴国」(「豊国」)の祖先伝承であろう。是は、”「狗奴国」の「本家」宣言”
である。” 元々、こちらが「本家」である。” という主張である。
・「狗奴国」の主張は、” 狗奴国の王は、「倭国」の王の正統・穂穂手見命と「狗奴国」の子(傍系)。穂穂手見命の正統王統が途絶えたのであるから、「狗奴国」王が正統王朝、即ち、「倭国」王であるべき。卑弥呼の「倭国」王継承は不当 ” というものであろう。むろん、「傍系」とは言っていないが『古事記』は正直ということであろう。
・『日本書紀』は ” そもそも、邇邇芸命が天降ったのは「狗奴国」で、・・当然、当地に於いて、「倭国」王として君臨してきた・・穂穂手見命と「狗奴国」の王女との子が鵜葺草不合命。で、神武天皇に繋がる ” というものである。つまり、「傍系」を抹殺し、「正統王統」としたということである。
◆天孫降臨地の変更
・”「九州王朝Ⅱ」の史書は、『古事記』の記述であった ” ということであろう。それを「大和王朝」が『日本書紀』に変更したということであろう。
・そうであろう。己の伽羅を「正統王統」から「傍系王統」に変えることなどない。”「大和王朝」は「九州王朝Ⅱ」と同じく「狗奴国」の後裔 ” と言うことである。『旧唐書』の証言、「日本国者倭国之別種也」と整合する。
・「日向国」は、”「筑紫国」(「白日別」)の日向(天孫降臨地)” を ” 後の「筑紫国」(「九州王朝」)の「日向国」(狗奴祖先降臨伝承地)” と虚偽する為、「豊国」(豊日別)を割いて、造作されたということになる。
・なお、「九州王朝Ⅰ」、即ち、卑弥呼の王統は、呉の太白の裔を主張するもので、この伝承とは関係ない。
※『YA論文』には松野連(まつのむらじ)系図が別紙として掲載されて、系図掲載の人物の説明等が記されているが、私(noriokakyou)が受領したコピー論文には、系図部分はブランクになっているため、Webサイトから関連事項を引用しています。
1)松野連系譜(姫姓)(引用:Wikipedia)
日本の古代豪族、『中興系図』によると呉王夫差の後裔。夫差の子・忌が日本に渡って帰化人となり、筑紫国に至って、肥後国菊池郡に住んだという。さらにその子孫・松野連(まつの むらじ)が、筑紫国夜須郡松野に住して、姫姓から松野姓に変えたのが始まりという伝承がある。北部九州に同氏を祖とする氏族の家系が複数存在する。
2)松野連系図(倭の五王)(引用:歩いて郷土を学ぶ会HP)
「松野連系図」は「国立国会図書館」と「東京・世田谷の静嘉堂文庫」の二カ所に所蔵され、「王の系図」と「書き込み」とで成り立っている。「表題」は「松野連姫氏」となっている。 松野連は『新撰姓氏録』「右京諸蕃」によれば、「呉王夫差より出づる也」とされている。
倭の五王とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。 朝貢の主な目的は、いずれも朝鮮半島での倭国の軍事行動権や経済的利益の国際的承認にあったとされる。
その五王の系図が「松野連系図」です。この系図は、鈴木真年(※1)が生涯を費やして収集したもので、鈴木の後を受け、尾池誠(※2)が『埋もれた古代氏族系図』として鈴木の研究結果を発表した。鈴木は天保2年生まれで、系譜学の学者。明治政府では帝国大学で『大日本編年史』の編纂に携わった。明治27年没、64歳。
(※1)鈴木 真年(1831年~1894年)は日本の江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。初めは紀州徳川家に属して系譜編輯事業を担当、明治維新後は弾正台に属して新政府の下での系譜編纂事業に就く。のち、宮内省・司法省・文部省・陸軍省と所属を変遷しながらも、この間に系譜編纂を継続し公的・私的いずれの立場においても多数の系譜集を編み世に送った。
(※2)尾池誠 「埋もれた古代氏族系図 : 新見の倭王系図の紹介」(1984年 晩稲社)
〇松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)
その尾池著の系図注釈 (鈴木が書いたものであろう) には、夫差の子、公子忌は孝昭天皇3年
(BC 473年)に来朝、火国山門に住んだ、と記されている。そして、五王については以下のように注釈されている。
「讃」:倭王晋安帝時遣使仁徳85年(396)
「珍」:立為王「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」・宋文帝元嘉二年(425)遣使
「済」:同二十年(443)遣使為「安東将軍倭国王」
「興」:孝武大明六年(462)授「安東将軍倭国王」
「武」:立為倭王自称「使持節都督七国諸軍事安東将軍倭国王」・順帝昇明二年(478)梁武帝授征東大将軍
松野連系図(倭の五王)(引用:歩いて郷土を学ぶ会HP)
3)「松野連氏」考(抜粋)(引用:「おとくに」(フォートカルチャーラボ))
*引用元の「松野連氏」考は、松野連氏について詳細に記述されています。このHPでは、この引用元の内容を抜粋させていただきました。詳細は、引用元をご参照下さい。
1⃣ はじめに
古代豪族「松野連氏」を知っている人は相当な古代史通である。通常の古代史の書物には先ず記載がない一族である。勿論記紀にも先代旧事本紀・古語拾遺などの古文献にもその名は記載されていないのである。ところが新撰姓氏録には右京諸蕃として記載されているのである。「出自呉王夫差也」とだけ記事がある一族である。
筆者(出典の筆者)は本古代豪族シリーズで色々な古代豪族を調査・執筆してきた。併せて「日本人のルーツ」についても、現在筆者が理解した範囲で述べてきた。記紀及び新撰姓氏録に記載されている皇別氏族、神別氏族は総てその出自を辿れば、神話の世界の人物になっているのである。ところが諸蕃氏族(蕃別氏族)の出自は渡来人なので神ではなく中国や朝鮮半島などの王族の名前などに辿り着くのである。例えば太秦氏なら秦始皇帝、百済王氏なら百済国都慕王、坂上氏なら後漢霊帝というようにである。
*ところが蕃別氏族の場合、日本列島への渡来時期がその殆ど総てが古墳時代以降だと認識されている氏族ばかりである。紀元前または弥生時代に多くの渡来人が日本列島に渡来したこと、弥生文化をもたらしたのは中国・朝鮮半島から渡来人がもたらしたものであることは古代の日本人も知っていたはずである。勿論弥生とか縄文という言葉は当時無かったものである。
*一方神別氏族は天神系と天孫系に区別され、さらに天神系は天神と地祇に区別されていたのである。一般的には地祇系氏族はニニギの尊が天孫降臨する以前からこの日本列島に住んでいた神々にその先祖を有する氏族であり、天神系氏族はニニギ尊に従って日本列島に天降った神々の子孫ということになっているのである。
これを言葉通りに現代流に解釈すると、
*「地祇系神々」は、① 縄文人を祖先に持って約1万年以上前からこの日本列島に住んでいた氏族の末裔の神。② 中国大陸・朝鮮半島からニニギの尊が降臨する以前に日本列島に渡来して列島に住んでいる弥生文化を有している氏族の末裔の神。③ ①②が混血して誕生した新氏族の末裔の神のいずれかであるはずである。
*「天神系神々」はニニギの尊に従って天降った神々。これにはこの神々の子孫と上記①②③などとの混血した氏族が新たに祀ったであろう神々も含まれるであろう。
*とすると、新撰姓氏録上では、この理屈通りではない分類がされているのではないかと思われるのである。地祇系氏族が著しく少ないのである。
*一方筆者は、本シリーズの中で既に「倭」「倭人」「倭国」「日本」「ヤマト」などについて論述してきた。 しかし魏志倭人伝に記されている「邪馬台国」「卑弥呼」などという言葉については、アマチュアである筆者が云々する範疇を越えて難解な歴史事項なので敢えて論考を避けてきたのである。
*ところが本稿の古代豪族「松野連氏」を述べる場合、以上のことが総て関係してくるのである。日本古代史の謎部分を、どう考えるかが問われる内容を含んでいるのである。
*さらに最近は、遺伝子分野での日本人のDNA解析も進んでいるので、それも大いに参考にして新たに日本人のルーツ論2を作成し本稿を執筆したのである。
2⃣人物列伝(抄)
*古代豪族「松野連氏」を理解するには、先ず中国の周王朝の祖先から知る必要がある。
2⃣ ー1)周王家人物概伝 4-1-1) 4-1-4) 4-1-4-4) 参照(略)
●后稷(こうしょく)(中国神話時代bc2,000年以上前)
①父:帝俊(五帝の一人)?母:姜原(キョウゲン:帝こくの元妃)/②子供:不?(みつ)諱:弃/③ 農業神/④周王家の元祖 姓:姫氏元祖/⑤神話時代の聖帝「舜」に仕えた。/⑥出身民族:北狄出身モンゴロイド系遊牧民?はっきりしていない。非漢民族/⑦『史記』周本紀
●古公亶父(ここうたんぽ)
①父:公叔祖類 母:姜族の娘?/②子供:太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)・季歴/③后稷の12世孫/③史記・詩経記事/④周は歴代姜族の娘を妻として、姜族と連合を計った。/⑤岐山の麓に定住。/⑥古公が「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば昌(文王の諱:3男季歴の子供)であろうか」と予言したので、弟の季歴に位を継がせるために太伯と虞仲は出奔した。よって周を継いだのは3男季歴となった。
●太伯(たいはく)(bc12-11c頃)
①父:古公亶父 母:姜族の娘?/②子供:なし 弟:虞仲・季歴 別名:泰伯/③姓:姫
/④「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば昌(文王の諱:3男季歴の子供)であろうか」という父の意を知った太伯と弟の虞仲は季歴 に周家の家督を継がすために荊蛮の地へ共に出奔した。後年周国の者が二人を迎えに来たが、髪を切り、前身に刺青を彫って、中華には帰ることを拒んだ。/⑤荊蛮(長江の中流域の原住民への蔑称。南の野蛮人。)の地に句呉(こうご)という君国を興した。中国江蘇省のうち長江以南の地域辺り。子供がいなかったので弟の虞仲に跡を譲った。/⑥史記:世家の第一として「呉太伯世家」を挙げている。/⑦論語:泰伯篇:泰伯はそれ至徳と謂う可きなり/⑧魏略:倭人は「自謂太伯之後」との記事初出。以後多数の中国古典に同一記事あり。/⑨伝承:宮崎県諸塚山には、太伯が生前住み、死後葬られた。/⑩鹿児島神宮:太伯は祭神説あり。/⑪新撰姓氏録:松野連氏が出自呉王夫差とある。
●虞仲(ぐちゅう)(bc12-11c頃)
①父:古公亶父 母:姜族の娘?/②子供:季簡 兄:太伯 弟:季歴 別名:仲雍・呉仲
/③姓:姫/④「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば昌(文王の諱:3男季歴の子供)であろうか」という父の意を知った太伯と弟の虞仲は季歴に周家の家督を継がすために荊蛮の地へ共に出奔した。後年周国の者が二人を迎えに来たが、髪を切り、前身に刺青を彫って、中華には帰ることを拒んだ。/⑤この虞仲の流れが句呉を継いだ。
●季歴(殷の時代後期ー)
① 父:古公亶父 母:姜族の娘?/②子供:文王・?仲・?叔 妻:太任 別名:王季/③中国殷の時代の周の首長/④殷の文武丁に監禁され餓死した
●文王(bc1152-bc1056)
①父:季歴 母:太任/②子供:伯邑考・管叔鮮・周公旦・蔡叔度・霍叔処・康叔封など多数、兄:?仲(かくちゅう)・?叔(かくしゅ) 妻:太?(たいじ)・帝乙の妹 別名:西伯昌・寧王/③周朝の始祖。姓:姫 諱:昌/④商(殷)帝辛(紂王)に仕えた。周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を?河(ほうが:渭河の支流)の西岸の豊邑(後の長安の近く)に移した。/⑤長男の伯邑考は帝辛の人質となり辛に煮殺された。その煮汁を飲まされた昌は財宝と領地を辛に献上して釈放され、西伯(西の統括をする諸侯の事)に任じられた。/⑥呂尚を軍師に迎えた。
●武王(?-bc1021)
①父:文王 母:太?(たいじ)/②子供:成王・唐叔(普開祖)・?叔・応叔・韓叔/③周朝の創始者:呂尚(太公望)や周公旦の助けを得て殷を滅ぼし、周を立て首都は鎬京。/④殷の紂王を「牧野の戦い」で破り、紂王は自殺。/⑤古代の聖王達の子孫を探し出し、次のように封じた。神農の子孫を焦に・黄帝の子孫を祝に・堯の子孫を薊に・舜の子孫を陳に・禹の子孫を杞に・呂尚(太公望)を斉に・周公旦を魯に/⑥成王の補佐役:呂尚と同母弟の周公旦/⑦兄弟の多くに君国を与えた。叔鮮:管 叔度:蔡 叔処:霍 康叔封:衛 など
●寿夢(じゅぼう)(?-bc561)
①父:去斉 母:/②子供:諸樊・余祭・余昧・季札 別名:乗/③句呉国初代太伯より18世王「去斉」の子供で、ここで国名を「呉」と改称した。初代呉王。首都:現在の蘇州周辺/④子供は兄弟が順次王となった。
●夫差(ふさ)(?-bc473)
①父:闔閭 母:不明/②子供:不明 兄:波/③中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓:姫/④越王勾践(こうせん:?-465)によって討たれた父・闔閭(こうりょ)の仇を討つため、伍子胥(ごししょ)の尽力を得て国力を充実させ、一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。/⑤『史記』:「臥薪嘗胆」の話:「闔閭は死に際して夫差を呼んで、自分の後継者に任命し『勾践がお前の父を殺したことを忘れるな』と遺言した。この言葉を忘れないように夫差は寝室に入る時は部下に闔閭の遺言を繰り返させ、寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れないようにした仇を報(むく)いるために辛い思いをすること。目的を成し遂げるために、艱難辛苦をすること。の故事」。
その後も越による激しい攻勢は続き、とくに紀元前475年に呉の公子慶忌が夫差に「王は行いを改めないと、いずれは滅びるでしょう」と諫言したが、聞き入れられず、公子慶忌は領地の艾に戻り、ついでに楚に向かった。同年冬に、越が呉を討伐すると慶忌は呉に戻り「今こそ不忠者を除いて、越と結ぶべきです」と進言したところ、激怒した夫差は大夫たちとはかって、ついに慶忌を誅殺した(『春秋左氏伝』)。
紀元前473年、ついに首都姑蘇(江蘇省蘇州市)が陥落した。夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄(呉の公族?)を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は勾践の前で裸となり、「夫差は越王勾践さまに対して一度命を助けたのですから、あなたも一度夫差の命を助けていただけないでしょうか?」と夫差の命乞いをした。だが、范蠡(はんれい)は「天から授かった機会を逃したから今の呉があるのです。22年間の苦しみを忘れたのですか?」と激しく諌めた。憐れに思った勾践は「ならば、夫差を甬東(ようとう:浙江省の東シナ海海上に浮かぶ群島)の辺境に流せば再起出来まい」と決めた。
こうして公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えた。だが、夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません」と言い、「子胥に合わせる顔が無い」と顔に布をかけると、自ら首を刎ねて死んだ。勾践は夫差の死に憐れんで丁重に厚葬した。
そして、呉の亡国の元凶となった伯?を処刑した。こうして呉は滅亡した。/⑥『新撰姓氏録』:右京諸蕃 松野連(まつののむらじ)の出自は夫差と記されている。/⑦ 資治通鑑前編(中国元朝頃出版か)呉亡条記事:「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」
参考)●越滅亡:bc334 首都:会稽 楚により滅亡される。●楚滅亡:bc223 首都:丹陽(湖北・湖南省)秦により滅亡される。●江南地方:もともと「江」は中国の長江を指し、「江南」はその南岸地域全体を表わす。特に蘇州、無錫、嘉興など、下流域の南岸地域を指す。古代には呉や楚などが興り、文明の中心地である黄河流域から遠い、後進地域と考えられていた。
2⃣ ー2)倭国姫氏人物列伝 4-2-1)参照
上記 資治通鑑前編(中国元時代完成)に記されているように中国春秋時代の呉国最後の王「夫差」の裔孫がBC473年頃に倭国に渡来して来たことになっているのである。これは上記「魏略」(270-280年頃完成)の記事を裏付けるものとされているのである。
日本では上記「新撰姓氏録」の右京諸蕃の松野連氏の出自は呉王夫差と記されているのである。公的に知られた史料は以上であるが、明治時代に古代豪族の系図を私的に蒐集研究してきた系図研究の第一人者である鈴木真年氏が蒐集した系図の中に松野連(倭王)系図なるものが発見されたのである。
この系図は現在、国会図書館及び静嘉堂文庫所蔵系図として残されているのである。この系図は2種存在していたようで2系列の人物の記載があるので分けて列伝とした。
姓氏類別大観ではその1系列のみ記載されている。松野連姓を賜って以降戦国時代の武将松野正重までの系図が記載されているのである。以上の史料を元に各種インターネット情報も参考にして列伝を作成した。
●呉王夫差(?-bc473)
①父:闔閭 母:不明/②子供:不明 兄:波/③中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓:姫/④越王勾践(こうせん:?-465)によって討たれた父・闔閭(こうりょ)の仇を討つため、伍子胥(ごししょ)の尽力を得て国力を充実させ、一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。/⑤『史記』:「臥薪嘗胆」の話/⑥『新撰姓氏録』:右京諸蕃:松野連(まつののむらじ)の出自は呉王夫差と記されている。/⑦ 資治通鑑前編(中国元朝頃出版か)呉亡条記事:「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」
これ以降は松野連氏系図に記された添書を忠実に記した。
*黄字太字は次ぎの世代への直系人物 青字太字は傍系人物
●忌
字ハ慶父/(孝昭天皇三年来朝住火国山門)(孝昭天皇三年来朝住火国山門菊池郡)国会図書館所蔵
・筆者注)BC473年倭国へ渡来し国会図書館所蔵系図では火国菊池郡山門に住んだ。
●順
字ハ去漫/(居于委奴)(推定)
・筆者注)委奴(伊都?)に居す。/怡土・伊都:現在の福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)/姓氏類別大観ではこの人物は無い。
<第1系図>参考)この系図が筑紫に居住した分家説あり。
●阿弓
(怡土郡大野住)
・筆者注)怡土郡大野に住む。筑前国怡土郡大野郷は古代伊都国と呼ばれ現在の前原市曽根・香力付近とされている。
●宇閇
(後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬)
・筆者注)AD57年後漢の光武帝に自称大夫という人物を派遣して金印を賜った。
●己婁伊加也
●玖志加也
(加志古)/(永初元年十月貢漢)
・筆者注)AD107年漢に貢ぐ。後漢書記事倭国王帥升のことか?
●鷲
①父:玖志加也? 母:不明/②子供:刀良?
●刀良(卑弥呼姫氏也)(宣帝時遣使礼漢本朝崇神帝時)
①父:鷲? 母:不明/②子供:花鹿文?・卑弥鹿文?・宇麻鹿文?
・筆者注)卑弥呼のこと。漢の宣帝に遣使した。日本では崇神の時である。前漢の宣帝はBC73-BC49まで在位していた。卑弥呼姫氏と卑弥呼の関係?
*参考)卑弥呼(?-248)
①父:不明 母:不明/②子供:不明/③光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』/④魏志倭人伝:卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道で衆を惑わしていたという。中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。既に年長大であったが夫を持たず、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある。王となってから後は、彼女を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた。卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。/⑤景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。/⑥正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。/⑦正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。/⑧正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。/⑨正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。/⑩正始九年(248年)頃あるいはその前後 日本列島で皆既日食。(247年3月24日日没)卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。日本列島で皆既日食。(248年9月5日日出)。/⑪卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。/⑫人物比定:神功皇后説・倭迹迹日百襲媛命説・天照大神説・倭姫命説・熊襲の女酋説 甕依姫説・宇那比姫説など多数。/⑬邪馬台国比定地:古来多数あり。九州説・近畿説が中心。
●花鹿文
①父:不明 母:刀良?/②子供:取石鹿文?・弟鹿文?
●取石鹿文:川上梟帥
①父:花鹿文? 母:不明/②子供:不明 兄弟:弟鹿文?
・筆者注)川上梟帥(たける)とも称する。日本書紀:景行天皇の時代の九州熊襲の首長。小碓尊(おうすのみこと)に殺されたときに、その強さをたたえて尊に日本武(やまとたける)の名を奉ったという。古事記:熊曽建(くまそたける)の名を用いる。第2系図取石鹿文の項参照
●弟鹿文
①父:花鹿文? 母:不明/②子供:不明 兄弟:取石鹿文?
●宇麻鹿文
①父:不明 母:刀良?/②子供:熊津彦?
●熊津彦
①父:宇麻鹿文?母:不明/②子供:難升米?掖邪狗?
参考)熊津彦
①父:不明 母:不明/②子供:不明/③ホツマ伝:クマノガタ(熊の県) の県主。景行天皇のクマソ討伐の帰路、クマの県に立ち寄る。兄クマツヒコは天皇に従うが、弟クマツヒコは拒んだため殺される。 /④『熊の県 長 クマツヒコ 兄弟を召す 兄ヒコは来れど 弟は来ず 臣と兄とに 諭さしむ 然れど拒む 故 殺す』
●弟熊(誅)
●難升米(兄夷守大夫)(卒善中郞為)
・筆者注)兄夷守大夫 卒善中郞は238年卑弥呼が魏国に大夫として派遣をした時 魏の皇帝から賜った役職名。
参考)難升米(なしめ)
①父:不明 母:不明/②子供:不明 別名:/③魏志倭人伝:景初2年(238年)、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人などを献じた。さらに皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。/④正始6年(246年)、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)。正始8年(248年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。
●掖邪狗(弟夷守)(卒善中郞為)
①父:熊津彦?母:不明/②子供:不明 兄弟:難升米?/筆者注)同上
参考)掖邪狗 (えきやく)
①父:不明 母:不明/②子供:不明/③魏志倭人伝:邪馬台国の大夫。卑弥呼の使者として魏の正始4年(243)魏に派遣され,率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬をうける。卑弥呼死後の壱与(台与(とよ)政権下でも,帰国する魏の使者をおくるため派遣された。/④魏志倭人伝:240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを持参のうえ邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。243年(正始4年)伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に天子から受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、お礼の為に魏朝へ上献(生口・倭錦・他)する。
●卑弥鹿文
①父:不明 母:刀良?/②子供:厚鹿文??鹿文? 兄弟:花鹿文?・宇麻鹿文?
参考)この人物を卑弥呼に比定する説あり。
<第2系図>参考)この系図が肥後に居住した宗家説あり。
・恵弓/阿岐/布怒之/玖賀/支致古 別名:志致古/宇閇(漢宣帝時遣使地節二年)
・筆者注)BC68年漢の宣帝に遣使された。
●阿米
●熊鹿文
①父:阿米? 母:不明/②子供:厚鹿文??鹿文?/姓姫氏 称卑弥子熊津彦(後漢光武中元二年正月私通漢土受印綬?称委奴国王)
・筆者注)AD57年後漢光武帝委奴国王印を受ける。卑弥子熊津彦と呼ばれた。
<以後系図統一>
●?鹿文(新羅阿達羅尼師今廿年遣使景行十二年熊襲梟帥也)
①父:熊鹿文?又は卑弥鹿文? 母:不明/②子供:取石鹿文?弟石鹿文?兄弟:厚鹿文?
筆者注)新羅阿達羅尼師今廿年は新羅8代王の20年で174年景行12年に熊襲梟帥が
新羅に遣使。173年5月、倭の女王卑彌乎が使者を送ってきたとする(三国史記:1145年完成からか?)。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作であり、且つ干支を一運遡らせたもの、と考えられている。
参考)?鹿文(せかや・さやか)
①父:不明 母:不明/②子供:取石鹿文(とりいしかや) 別名:/③ホツマ伝:景行のクマソ征伐におけるクマソの頭の一人。/④日本書紀景行天皇紀:『十二月五日 クマソを議り 御言宣 "我 聞く クマソ 兄アツカヤ 弟セカヤとて 人の頭 諸を集めて 長とす 矛前 当たる 者 あらず 少々 人と数 多なれば 民の痛みぞ 矛 駆らず 平けん"』『皇 姉が シム 絶つを 憎み 殺して 妹 ヘカヤ 襲の国造と 叔父の子の トリイシカヤと 因ませて』
●取石鹿文 号川上梟帥
①父:?鹿文?母:不明/②子供:不明 兄弟:厚鹿文?/筆者注)別名:川上梟帥 (たける)
参考)取石鹿文(とりいしかや)
①父:セカヤ 母:不明/②子供:不明 別名:川上梟帥・熊曽建? 妻:市鹿文<厚鹿文/③ホツマ伝:クマソの頭・アツカヤが殺された後、景行天皇によりアツカヤの娘ヘカヤを娶り、襲の国造とされる。/④後にまた背いて熊襲タケルとなり、オウスによって征伐されるが、この時に『ヤマトタケ』という名をオウス(倭建尊)に奉る。/⑤日本書紀景行天皇紀:『皇 姉が シム 絶つを 憎み 殺して 妹 ヘカヤ 襲の国造と 叔父の子の トリイシカヤと 因ませて』、『コウス御子 十二月に行きて クマソ等が 国の盛衰 覗えば トリイシカヤが 川上に 長けるの族 群れ寄りて 安座なせば』、『夜 更け 酔えれば コウス君 肌の剣を 抜き持ちて 長が胸を 刺し徹す』、『長が曰く "今 しばし 剣 止めよ 言あり" と 待てば "汝は 誰人ぞ" "皇の子の コウスなり"』、『長 また言ふ "我はこれ 国の強者 諸人も 我には過ぎず 従えり 君の如くの 者 あらず 奴が捧ぐ 名を召すや" 君 聞きませば "今よりは ヤマトタケとぞ 名乗らせ"と』
参考)川上梟帥(かわかみのたける)
③日本書紀景行天皇紀:九州熊襲の首長。小碓尊に殺されたときに、その強さをたたえて尊に日本武(やまとたける)の名を奉ったという。古事記では、熊曽建(くまそたける)の名を用いる。/熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権は武力では押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した。
●弟石鹿文
●厚鹿文
①父:熊鹿文?又は卑弥鹿文? 母:不明/②子供:市乾鹿文?市鹿文?宇也鹿文? 兄弟:?鹿文?
参考)厚鹿文(あつかや)
①父:不明 母:不明/②子供:市乾鹿文(いちふかや)・市鹿文(へかや)弟:セカヤ 別名:熊襲梟帥/③ホツマ伝:12代景行天皇が討ったクマソの頭のひとり。娘フカヤの寝返りによって討たれる。/④『十二月五日 クマソを議り 御言宣 "我 聞く クマソ 兄アツカヤ 弟セカヤとて 人の頭 諸を集めて 長とす 矛前 当たる 者 あらず 少々 人と数 多なれば 民の痛みぞ 矛 駆らず 平けん"』、『兵 連れて 屋に帰り 酒をあただに 飲ましむる 父 飲み酔ひて 臥す時に 父が弓弦 切り置きて 父 アツカヤを 殺さしむ』
⑤日本書紀景行天皇紀:熊襲(くまそ)の首長のひとり。景行天皇12年天皇の和解策に応じ,ふたりの娘を天皇と結婚させたが,姉娘の市乾鹿文(いちふかや)にうらぎられ,殺された。熊襲梟帥(くまそたける)とよばれた。
●市乾鹿文(景行天皇賜龍之殺父則悪 其不孝之甚而誅之)
筆者注)景行天皇により父親への不幸を誅された。
参考)市乾鹿文 (いちふかや)
①父:厚鹿文 母:不明/②子供:不明 夫:景行天皇 妹:市鹿文/③日本書紀景行天皇紀:日本書紀」にみえる女性。/熊襲梟帥(熊曾建)の娘。市鹿文の姉。熊襲征討のため日向にきた景行天皇の偽りの寵愛をうけ,父を酒によわせて殺すのを手助けする。のち不孝の罪で天皇に殺されたという。
●市鹿文(同時賜火国造魏正始八年 立為王景初二年貢奉被称壱欺)
・筆者注)247年火国造を賜る。238年壱欺と称する王となる。
参考)台与(臺與:とよ)
①父:不明 母:不明/②子供:不明 別名:壹與(壱与:魏志倭人伝)・臺與(梁書・北史)/③魏志倭人伝:邪馬台国の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性
・壹與のことである。/④魏志倭人伝:女王卑弥呼が死ぬと男王が立てられた。しかし人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。247年。/⑤魏志倭人伝:正始8年(248)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受け、同年倭に派遣された帯方郡の張政は、檄文をもって「壹與」を諭した。ただし張政の派遣は、正始4年の朝貢の返しとして6年に出された詔によるものである。壹與は掖邪狗(前述)ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。/⑥『日本書紀』神功紀に引用される『晋書』起居註:秦始2年(266)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。/⑦この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。/⑧比定人物:豊鍬入姫命説・豊姫説 *万幡豊秋津師比売説・天豊姫命説 *神功皇后の妹の豊姫に比定する説(肥前国風土記の神名帳頭注に「人皇卅代欽明天皇の廾五年(564年)甲申、肥前國佐嘉郡、與止姫神鎭座。一名豐姫。」とあり、與止日女神社の祭神。)
①父:熊襲梟帥 母:不明/②子供:不明 姉:市乾鹿文 別名:ヘカヤ/③日本書紀景行天皇紀:熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)を火国造に与えたとも記される。/④ホツマ伝:夫は取石鹿文/⑤熊襲梟帥(熊曾建)の娘。市乾鹿文(いちふかや)の妹。熊襲征討のため日向にきた景行天皇のもとに,姉とともにめされる。天皇の寵愛をうけて父をだまし討ちにした姉が天皇に殺されたのち,火国造をあたえられたという/⑥日本書紀景行天皇紀:『クマソには フカヤとヘカヤ 二娘 煌々しくも 勇めるを 重き引手に 召し入れて 隙を窺ひ 虜にす』、『皇 姉が シム 絶つを 憎み 殺して 妹 ヘカヤ 襲の国造と 叔父の子の トリイシカヤと 因ませて』
●宇也鹿文
①父:厚鹿文? 母:不明/②子供:茁子?伊馨耆? 兄弟:市乾鹿文?市鹿文?
(鬼毛理)(火国菊池評山門里住永初元年十月通漢)ーーー静嘉堂文庫所蔵系図
筆者注)AD107年漢に行く。火国菊池評山門里に住む。
参考)後漢書永初元年(107)記事の倭国王帥升と同一人物説あり。第1系図の玖志加也も同一人物か?
(伊馨耆 大夫)
①父:宇也鹿文? 母:不明/②子供:不明 兄弟:茁子?
参考)伊馨耆(イホキ)
①父:不明 母:不明/②子供:不明/③魏志倭人伝:240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを持参のうえ邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。243年(正始4年)伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に天子から受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、お礼の為に魏朝へ上献(生口・倭錦・他)する。
●茁子(安志垂)
①父:宇也鹿文? 母:不明/②子供:謄? 兄弟:伊馨耆?
●謄
①父:茁子? 母:不明 ②子供: 讃?珍?
●讃:倭王( 普安帝時遣使 仁徳85年):父:謄? 子供:嘉? 兄弟:珍?
筆者注)東普10安帝の時(404-418)遣使 した。これは仁徳85年である。
参考)17代履中天皇(369?-432?)
①父:16代仁徳天皇 母:磐之媛/②子供:市辺押磐皇子など 皇后:草香幡梭皇女<15応神天皇 兄弟:反正・允恭・住吉仲皇子ら・/③倭五王 讃に比定(応神天皇・仁徳天皇説もある)。/④宋書夷蛮伝:421年 安東将軍倭国王
●嘉
①父: 讃? 母:不明/②子供:不明
●珍
①父:謄? 母:不明/②子供:済? 兄弟: 讃?(立為王、使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王宋文帝元嘉二年遣使)/筆者注)AD425年南宋文帝の時遣使 安東大将軍倭国王となる。
参考)18反正天皇(378?-437?)
①父:16仁徳天皇 母:磐之媛 皇夫人:津野媛<和珥木事/②子供:③同母兄住吉仲皇子を誅殺 ④倭五王 珍に比定 ⑤宋書文帝紀:弟立つ438年 安東将軍倭国王
●済
①父:珍? 母:不明/②子供:興?武?(同二十年遣使為安東将軍倭国王)
筆者注)AD443年南宋文帝の時遣使。安東将軍倭国王となる。
参考)19允恭天皇(-454?)
①父:16仁徳天皇 母:磐之媛/②子供:木梨軽皇子・安康・雄略 皇后:忍坂大中媛<稚渟毛二派皇子/③玉田宿禰<葛城襲津彦孫を誅殺/④皇太子木梨軽皇子を廃太子/⑤倭五王 済に比定/⑥宋書夷蛮伝:443年 安東将軍倭国王 451年 安東大将軍
● 興
①父:済? 母:不明/子供:不明 兄弟:武?(孝武大明六年授、安東将軍倭国王)
筆者注)AD462年に安東将軍倭国王を授かる。
参考)20安康天皇(?-?)
①父:19允恭天皇 母:忍坂大中媛/②子供:なし 皇后:中磯皇女<履中天皇/③大草香皇子<仁徳天皇を誅殺/④眉輪王<大草香皇子に暗殺される。/⑤倭五王 興に比定/⑥宋書倭国伝:済の世子 462年 安東将軍倭国王
●武
①父:済? 母:不明/②子供:哲? 兄弟: 興?(立為倭王自称使持節都督七国諸軍事昇明二年梁武帝授征東大将軍)
筆者注)478年使持節都督七国諸軍事と自称して倭王となった。梁の武帝が征東大将軍を授けた。昇明二年(478)は南宋の順帝である。梁武帝在位は502-549である。征東大将軍を授けたのは梁武帝である。
参考)21雄略天皇(ー489?)
①父:19允恭天皇 母:忍坂大中媛/②子供:清寧天皇/③八釣白彦皇子<市辺押磐皇子<17履中天皇 坂合黒彦皇子<らを謀殺/④平群真鳥を大臣、大伴室屋・物部目を大連に任命/⑤倭五王 武に比定/⑥宋書順帝紀・南斉書倭国伝・梁書武帝紀:弟の武立つ。478年 安東将軍倭国王、502年以降に征東大将軍/⑦筑紫君磐井を武王に比定する説あり。
●哲:倭国王
①父:武? 母:不明/② 子供:満?
筆者注)倭国の王であった。
参考)筑紫君磐井の子供「葛井」説あり。
●満
①父:哲? 母:不明/②子供:牛慈?
参考)筑紫君磐井に比定する説あり。
●牛慈(金刺宮御宇服降為夜須評督)
①父:満? 母:不明/②子供:長提?
筆者注)29代欽明天皇(在位:509?-571?)の時ヤマト王権に降伏し夜須評督となった。
評督:郡の長官 夜須評:旧筑前国夜須郡 現福岡県朝倉市 邪馬台国比定地の一つ
参考)筑紫君磐井の息子「葛井」に比定する説あり。
●松野長提(小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡野住)
①父:牛慈? 母:不明/②子供:大野?
筆者注)33推古天皇(在位:593-628)の時、評督として筑紫国夜須郡松峡野に住む。現在の福岡県朝倉郡筑前町栗田付近か
●大野
①父:長提? 母:不明/②子供:廣石?
●廣石
①父:大野? 母:不明/②子供:津萬侶?
●津萬侶(甲午籍負松野連姓)
①父:廣石? 母:不明/②子供:大田満呂?
筆者注)甲午籍で松野連姓を賜る。但し甲午年は694年であるが、甲午籍という言葉は知られていない。庚午年籍なら670年である。
●大田満呂
①父:津萬侶? 母:不明/②子供:猪足?
●猪足
①父:大田満呂? 母:不明/②子供:鷹主?弟嗣
●弟嗣 従七位下
①父:猪足? 母:不明/②子供:不明 兄弟:鷹主?
●鷹主 園池少令史
①父:猪足? 母:不明/②子供:楓麿?小倉?瀧人?
筆者注)宮内省管轄の御料地の管理、庭園の管理をつかさどった。令史は園池司の主典。定員は一人。相当官位は大初位上
●小倉 右史生
①父:鷹主? 母:不明/②子供:浄足? 兄弟:楓麿?・瀧人?
筆者注)史:上級者の命令を受けて公文書の記録・作成を掌り、公文書の内容を吟味して上級者の判断を仰ぎ、読申することを職掌とした
●史生 7位以下の下級官吏
●瀧人
●楓麿 左史生従七位上(延暦十四年八月貫右京)
①父:鷹主? 母:不明/②子供:岑成? 兄弟:小倉?瀧人?/筆者注)795年平安京の右京に移った。
●岑成
①父:楓麿 母:不明/②子供:千豊・千秋・千直
●千豊
①父:岑成 母:不明/②子供:真棟・沢棟・親棟 兄弟:千秋・千直
●真棟
①父:千豊 母:不明/②子供:広人・広主・広本/③広主の流れが永続する。
●松野正重(-1655)
①父:松野重定 母:不明/②子供:良成? 別名:重元・道円 松野主馬・松野道円入道・平八 妻:一柳直末次女/③ 主君:豊臣秀吉→小早川秀秋→田中吉政→忠政→徳川忠長/④戦国時代の武将。通称は平八。正確な官名は主馬首/⑤父は土岐氏に仕えた松野重定 古代豪族「松野連氏」の末裔とされている。/⑥はじめ豊臣秀吉に仕え、丹波国に300石の領地を得る/⑦1595年小早川隆景の養子となった木下家定の五男・秀俊(のちの小早川秀秋)が丹波亀山から筑前名島へと移封になった際、秀吉より特に小早川氏に付けられて鉄砲頭を務めた。また、転封の際、豊臣姓を賜っている。/⑧1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍へ寝返った秀秋に反発して不参戦。のち戦線を離脱する。しかし、このことが主家(豊臣家)を裏切らなかった忠義者としての評価を受け、戦後は秀秋の下を去って田中吉政に仕官し、1万2,000石で松延城城番家老として仕えた。吉政の下、治水工事や堤防工事などに才を発揮し、重元が改修した川は「主馬殿川」と呼ばれた。ところが、1620年に田中氏が無嗣断絶により改易となると、同年9月に徳川忠長に仕えたが、忠長も1633年に改易され自害に追い込まれた。主君に恵まれなかった重元はその後は仕官せず、1655年に陸奥国白河で死去したという。
3⃣ 関係神社
●鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内)
①祭神:天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)・豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神
相殿神帯中比子尊(仲哀天皇)息長帯比売命(神功皇后)品陀和気尊(応神天皇)
中比売尊(仲姫命)太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる
②社格:式内社(大社)大隅国一宮 旧社格は官幣大社 別表神社別名:大隅正八幡宮
③創建:和銅元年(697)(社伝)
④由緒:当社は北東300mの石体宮に鎮座していたと言う。日子穗穗出見尊の高千穂宮の跡と伝わる。石を神体としており、石体は秘物であって藁薦を以て覆ってあり、毎年薦を替える儀式があるそうだ。
欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国隣大王(陳大王とも言う)の娘の大比留女(おおひるめ)は七歳の時に朝日の光が胸の間にさし入り、懐妊して王子を生んだ。王臣たちがこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべたところ、船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着いた。その太子を八幡と名付けたので船の着いたところを八幡崎と言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。外来神との見方。
八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
⑤祭神に太伯が祀られている説があるが、その根拠不明。少なくとも現在は祀られていない。
4⃣ 関係系図
4-1)中国古代王朝系譜
4-1-1)中国神話 五帝系図(「史記」五帝本紀 参考)(略:引用元参照)
4-1-2)夏王朝系図(「史記」参考)(略:引用元参照)
4-1-3)殷(商)王朝系図 (「史記」参考)(略:引用元参照)
4-1-4)周王朝系図 (「史記」参考)(略:引用元参照)
4-1-4-1)部落「周」時代系図 (「史記」参考)(略:引用元参照)
4-1-4-2)西周王朝系図 (「史記」参考)(略:引用元参照)
4-1-4-3)東周王朝系図 (「史記」参考)(略:引用元参照)
4-1-4-4)呉(春秋)王国系図 (「史記」参考)(略:引用元参照)
4-2)倭国姫氏松野連氏系図
(姓氏類別大観 「埋もれた古代氏族系図」松野連系図(国会図書館、静嘉堂文庫所蔵)など参考)
4-2-1)松野連氏基本系図
(引用:「おとくに」フォトカルチャラボ/「松野連氏」考)
4-2-2)松野連氏系図(添書付き:現保存系図)
(引用:「おとくに」フォトカルチャラボ/「松野連氏」考)
(引用:「おとくに」フォトカルチャラボ/「松野連氏」考)
4-2-3)参考系図)松野連氏系図(筆者代数推定系図)
(引用:「おとくに」フォトカルチャラボ/「松野連氏」考)
4-2-4)参考)系図修正1
(引用:「おとくに」フォトカルチャラボ/「松野連氏」考)
4-2-5)参考)修正系図2
(引用:「おとくに」フォトカルチャラボ/「松野連氏」考)
5⃣ 関連古代中国ー日本比較年表
略:引用元参照
6⃣ 松野連氏関連系図解説・論考
6-1)中国古代王朝関連系図解説
本稿を執筆するにあたり通常の古代豪族の系図解説とは異なった解説が必要と判断した。松野連氏は、その出自の関係で中国の周時代からの人物を理解する必要があるからである。幸いにも中国は、4000年の歴史が文字記録として残されており、重要氏族については、司馬遷の「史記」を代表とした中国古典にその系譜が残されているのである。
筆者は中国歴史については、全く知識が無く、その古典の一部で日本でも公知にされている範囲での公知史料を参考にして、筆者が理解した範囲で系図解説をしたい。
6-1-1)三皇五帝時代の系図概略解説(略)
6-1-2)夏王朝系図概説(略)
6-1-3)殷(商)王朝系図概説(略)
6-1-4)周王朝系図概説(略)
6-2)倭国姫氏松野連氏系図解説
姫氏は、上述したように本来中国の古代の周王朝の一族が使用していた姓である。ところが、その一族の末裔が日本の弥生時代に日本列島に渡来して来て、7世紀になって当時の朝廷から松野連姓を賜り、古代豪族の仲間入りをはたし、平安時代初期に編纂された新撰姓氏録の右京諸蕃に松野連氏は「出自呉王夫差也」との記事が掲載されたのである。ところが、この一族の活躍記録は日本の公的な記録として新撰姓氏録以外には全く無いのである。
ところが、明治時代に鈴木真年(1831-1894)という系譜研究家(紀伊藩の武士・東京帝大教師など)が蒐集した系図の中に松野連氏系図があったのである。彼が蒐集した系譜類は膨大であったと推定されているが、彼の没後その多くは散逸した可能性が高いとされているのである。しかし、特に重要だと判断できるものは、幸いにも当時の三菱財閥の岩崎家が創設した静嘉堂文庫(岩崎弥之助の雅号が静嘉堂:現在は東京都世田谷区岡本にあり、三菱グループ経営の私設図書館)に買い取られた。その中に松野連氏系図が含まれていたのである。よって現在まで保存されており、我々が読むことも可能なのである。もう一つは国会図書館に所蔵されているのである。松野氏の江戸時代前半までの系図であり、その一部はインターネットの姓氏類別大観で視ることが可能である。
また「埋もれた古代氏族系図」(尾池 誠著 晩稲社 1984 私家本)の中にも上記国会図書館所蔵・静嘉堂文庫所蔵の松野連氏系図が取り上げられているのである。
筆者は以上のような公知資料を参考にして系図を作成したので、これに基づいて解説を試みたいのである。
先ずこの系図は、非常に難解である。第1系図と第2系図と2種類あるが、途中から合体しているのである。
呉王夫差の子供と思われる「忌」という一字名の人物がある。次ぎは「順」であるが、これが忌の子供かどうかが分からない。というのが忌をbc473年頃に実在していた人物と仮定して次ぎに年代がはっきりする人物は倭五王の「讃」までの人物の数が非常に少ないのである。
人物の数が多い第2系図でも14代目に讃が記されているのである。讃は「普書」安帝紀の記事によると、ad413年に初出してくるのである。この間は約890年である。とすると平均64年/1代 となるのである。これは全く不合理な数字である。一般的には25年/1代と仮定できるので、35名以上の人物がいてもおかしくないのである。
とすると、この間で約20名程の人物が省略されているのである。よって、親子かどうかは全く不明なのである。順番がこの系図の様だったぐらいの確度しか表していないのである。2番目の順の次ぎから系図は1・2に分かれているのである。第1の「阿弓」と第2の「恵弓」が兄弟かどうかも全く分からないのである。この系図には添え書きが何人かに人物毎に記されているのである。()付きの添書と()の無い添書の2種類がある。この添書は、この系図が最初に作成された時には存在しなかったようであるが、そもそも何年頃に作成されたのであろうか?論考の中で筆者の意見も述べてみたいが、通常の日本の歴史書・中国の歴史書に出て来る名前も散在しているのである。添書も参考にして、解説を試みたい。
*順番1「忌」はbc473年に渡来し、火国菊池郡山門(現熊本県菊池市付近?)に住んだとある。
*順番2「順」は添書に委奴に居すとあるが、委奴という地名が良く分からない。伊都を表すのであれば、伊都国という魏志倭人伝に出て来る国名で福岡県糸島市付近に比定されているのであるが。
〔第1系図〕
*順番3「阿弓」は添書に怡土郡大野に住むとある。これは明らかに筑前国怡土郡大野郷に相当し、現在の前原市曽根・香力付近と思われるのである。
*順番4「宇閇」の添書にはAD57年後漢の光武帝から金印を賜ったという内容が付されているのである。これが史実なら、江戸時代に志賀島で発見され、現在国宝ななっている「漢委奴国王」と刻印された印である。bc473年からAD57年まで僅か4名の人物しかいないことになるので、ここまでに多数の人物が省略又は伝承記録から忘れられてしまったと考えられるのである。
*番5「己婁伊加也」添書なし。
*順番6「玖志加也」添書には「加志古」と別名あり。さらに永初元年十月に漢に貢ぐとある。これは後漢書東夷伝の「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」に相当するものであろう。だとすると、AD107年である。この人物が倭國王帥升と同一人物か従者であるかは不明。宇閇と玖志加也の間は約50年である。間に1名いるので、ほぼ繋がった系図だと判断するのである。
*順番7「鷲」添書なし
*順番8「刀良」この添書に「卑弥呼姫氏也」とある。さらに宣帝の時、漢にお礼の遣使を出したとある。日本では崇神天皇の時と。後漢には宣帝は存在しないが、前漢には宣帝がいるが(在位:bc73-bc49)で年代が合わないのである。ところが魏の後に建国した「普」には司馬懿(しばい)(179-251)という人物がおり死後に宣帝という称号が与えられたとされているのである。年代的にはこちらが正しいのではなかろうか。だとするとこの刀良が魏志倭人伝に出て来る邪馬台国の女王である卑弥呼であろうか?ならば(?-248)頃と推定されるのである。だとすると、約130年間に2人いたことになり65年/1代となりこれは一寸不合理。卑弥呼は長生きをした。梁書によると、卑弥呼は178年頃既に王位についたとある。だとすればAD107年に活躍記録のある玖志加也の子供が鷲で、孫が刀良であり178年には13才-15才であった可能性があり、後の壱与の例のように13才で女王になった記録があることから、無理な話ではないのである。よって玖志加也ー鷲ー刀良は可能性ありと判断するのである。
*順番9「卑弥鹿文」この人物には添書なし。卑弥呼の子供という位置づけであるが、魏志倭人伝では卑弥呼は結婚してなく、本来なら子供はいないはずである。女酋だとして、跡継ぎは養子を迎えて氏族の維持をはかったとの考えも排除は出来ないが。
*順番9「花鹿文」添書なし。
*順番9「宇麻鹿文」添書なし。
*順番9「卑弥鹿文」添書なし。この人物の流れが永続世代につながっているのである。
刀良とこれらの人物との親子関係を示す他の文献等は無いのである。以上3名は中国文献・日本の文献で裏付けする記述は無いのである。
*順番10「取石鹿文」は「花鹿文」の子供の位置づけである。添書に別名川上梟帥(たける)と記されているのである。この人物は日本書紀景行天皇紀に熊襲の首長として記され、景行天皇の子供である小碓尊に殺された人物である。古事記では熊曽建と記されている人物と同一である。花鹿文と親子関係を示す文献等はないのである。但し、日本書紀景行天皇紀・ホツマ伝では取石鹿文の父親は?鹿文と言うことになっているのである。だとすると?鹿文と花鹿文が同一人物ということになるのである。本件は後述したい。
*順番10「弟鹿文」添書なし。取石鹿文の弟という位置づけである。
*順番10「熊津彦」宇麻鹿文の子供という位置づけ。添書なし。ホツマ伝によると、「景行天皇の熊曽討伐の帰路に熊の県の県主であった熊津彦は天皇に従った」とあるのである。
*順番10「弟熊」添書に誅とあることから、殺された人物で熊津彦の弟という位置づけである。ホツマ伝では、兄熊津彦は景行天皇に従ったが弟は従わず殺されたとある。熊津彦・弟熊は、景行天皇の熊曽討伐時に存在し、取石鹿文は倭建の熊曽征伐時代に存在していたことになる。これを史実とするかどうかは後述することにして、本系図と同一人物が記紀などに記されているのである。ところが宇麻鹿文との親子関係は不明である。
*順番11「難升米」は熊津彦の子供という位置づけである。添書には兄夷守大夫・卒善中郞になったとある。この人物は魏志倭人伝に登場する人物である。238年卑弥呼の使節として魏に派遣された時に魏王から卒善中郞の称号を賜ったとされているのである。238年246年・248年の記事に登場する人物で邪馬台国の要人の一人である。系図上では卑弥呼の曾孫にあたるのである。不合理ではないのである。
*順番11「掖邪狗」も熊津彦の子供という位置づけである。添書には弟夷守大夫・卒善中郞になったとある。これから難升米の弟であろう。彼も魏志倭人伝に卑弥呼の使節として難升米と共に魏に派遣された人物である。243年まで記事があるのである。難升米と掖邪狗とが兄弟であることは魏志倭人伝記事と本系図で理解できるが、この兄弟と熊津彦の子供であることははっきりしないのである。卑弥呼と難升米と掖邪狗兄弟が同時に生存していたことは、魏志倭人伝の記事より明白である。しかし、この系図を確証する証拠にはなっていないのである。
*順番10「厚鹿文」は卑弥鹿文の子供という位置づけである。添書はない。日本書紀景行天皇紀に登場する人物である。別名熊襲梟帥(たける)と呼ばれた人物である。ホツマ伝にも記事が残されているのである。順番10「熊津彦」と同時代人となるのである。
*順番10「迮鹿文」は卑弥鹿文の子供という位置づけ。添書あり。景行12年に熊襲梟帥が新羅に遣使。これは174年である。この三国史記の記事は誤りで238年の三国史記の卑弥呼の記事を造作したものとされている。日本書紀景行天皇紀・ホツマ伝にも記事あり。厚鹿文は兄弟で、子供に取石鹿文となっている。上記花鹿文の子供と同一である。1代分のズレがあるのである。
*順番11「取石鹿文」「弟石鹿文」は迮鹿文の子供という位置づけ。しかも兄弟 省略
*順番11「市乾鹿文」は厚鹿文の子供という位置づけ。添書あり。景行天皇により父親への不幸を誅された。日本書紀景行天皇紀・ホツマ伝に記事あり。景行天皇の妃となって、父熊襲梟帥を殺し、それが不幸の罪となり、誅殺されたとあるのである。
*順番11「市鹿文」は厚鹿文の子供という位置づけ。添書あり。238年壱欺と称する王となった。247年火国造を賜る。日本書紀景行天皇紀記事:熊襲梟帥が父で姉が市乾鹿文で姉妹は共に景行天皇の妃になった。火国造となったとある。ホツマ伝では夫は取石鹿文となって襲国造になったとある。魏志倭人伝の壱与と同一人物だと添書は主張しているのである。系図上では卑弥呼の曾孫である。これは合理的範囲であるが史実か?
*順番11「宇也鹿文」は厚鹿文の子供という位置づけ。添書あり。AD107年に漢に行ったとあるが、これは時代が合わない。火国菊池評山門里に住むとあるのである。この人物は他の文献類には全く記事がないのである。厚鹿文との親子関係も全く不明。
*順番12「伊馨耆」は宇也鹿文の子供という位置づけ。添書は大夫だけある。この人物は魏志倭人伝の243年条に記事有り。上記の掖邪狗と同時に登場するのである。とすると、243年時には成人していたと考えられる。卑弥呼は未だ生きている時である。約220年頃誕生したとすると、卑弥呼の4代孫という系図上の位置は一寸無理筋のような気がするのである。卑弥呼は約165年頃の産まれと推定される。1代は185年2代は205年3代は225年4代は245年誕生が最短だと推定すると、243年は20才はおろか、未だうまれていないことになるのである。一寸おかい。1代ほど前の人物と推定されるのである。1代前にすると、年令は異なるにしても、難升米と掖邪狗と同時代人となり、魏志倭人伝の記事と整合性がとれるのだが。
*順番12「茁子」は宇也鹿文の子供・伊馨耆の兄弟という位置づけである。添書は別名「安志垂」とあるだけ。全く他に関連記事ないので、宇也鹿文との親子・伊馨耆の兄弟関係を確認することが不可能な人物である。
*順番13「謄」は茁子の子供という位置づけ。添書なし。この人物もこの系図でしか記事が全く無い一字名の人物である。茁子との親子関係も不明である。
*順番14「讃」は謄の子供という位置づけ。添書あり。倭王とあり、404-418年に東普に遣使したとあり、これは仁徳85年だと記してある。宋書倭国伝では413年に倭国王に宋が決めたとの記事がある。これに対応するものと考えると、243年の伊馨耆の記事とこの人物の413年まで約150年の間に2人の人物しかこの系図には記されていないことになるのである。通常の25年/1代を適用すると6人は必要である。4代程欠落しているのである。
*順番14「珍」は謄の子供・讃とは兄弟という位置づけである。添書あり。宋書倭国伝の438年の記事があるのである。倭国王である。
*順番15「嘉」は讃の子供という位置づけ。添書なし。不明である。
*順番15「済」は珍の子供という位置づけ。添書あり。宋書倭国伝の443年の記事。倭国王である。
*順番16「興」は済の子供という位置づけ。添書あり。宋書倭国伝の462年の記事・
倭国王である。
*順番16「武」は済の子供・興の兄弟と位置づけである。添書あり。宋書倭国伝の478年の記事あり。倭国王である。
以上が倭の五王と言われている人物名である。日本書紀などには、倭の五王と云われる人物名はないのである。しかし、現在の日本歴史学会ではそれぞれに比定する大王名が知られているのである。一般的には讃は17履中天皇・珍は18反正天皇・済は19允恭天皇・興は20安康天皇・武は21雄略天皇とされているのである。一部異論はあるが。このヤマト王権の王と本稿本系図の倭の五王との関係については論考で述べる予定である。
*順番17「哲」は武の子供という位置づけ。添書には倭国王とあるのである。他に関連文献等はないのである。よって武の子供かどうかも不明である。
*順番18「満」は哲の子供という位置づけ。添書はない。
*順番19「牛慈」は満の子供という位置づけ。添書あり。29欽明天皇の時(540年頃)ヤマト王権に降伏し筑前国夜須郡(現在の福岡県朝倉市付近)の評督になったとある。武の478年と牛慈の540年との間は約60年であり、3名の人物が記録されているので、合理的範囲と判断する。即ち系図上では武ー哲ー満ー牛慈は親子関係として繋がっていると考えても合理的だということである。
*順番20「長提」は牛慈の子供という位置づけである。添書あり。33推古天皇朝に評督として筑紫国夜須郡松峡野(現福岡県朝倉郡筑前町栗田付近)に住んだとある。
*順番21「大野」は長提の子供という位置づけである。添書なし。
*順番22「廣石」は大野の子供という位置づけ。添書無し。
*順番23「津萬侶」は廣石の子供という位置づけ。添書あり。670-694年に朝廷から松野連姓を賜ったとあるのである。
*順番24「大田満呂」は 津萬侶の子供という位置づけ。添書無し。
*順番25「猪足」は大田満呂の子供という位置づけ。添書なし。
*順番26「鷹主」は猪足の子供という位置づけ。添書には園池少令史とあり朝廷勤務についたらしい。
*順番26「弟嗣」は猪足の子供・鷹主の兄弟という位置づけ。添書あり。従七位下下級官吏である。
*順番27「楓麿」は鷹主の子供という位置づけ。添書あり。左史生従七位上で795年に平安京の右京に移ったとある。牛慈の540年と楓麿の795年の間約250年の間に8代の人物がいる。約24年/1代で合理的と判断できるのである。即ち順番19「牛慈」から順番27「楓麿」までは親子兄弟関係系図であることが窺えるのである。初代bc473年と順番27「楓麿」795年である。この間は、1270年間で必要代数は約50代である。本系図では26代である。24代欠落していると推定できるのである。
忌から宇閇の間で約18代欠落。壱与と讃の間で4代欠落と推定した。合わせて22代欠落である。2代不足であるが、これくらいなら誤差範囲と判断した。
以後の系図人名紹介および系図解説は省略する。
〔第2系図関係〕
*順番3「恵弓」順番2の順の子供という位置づけである。第1系図の阿弓の兄弟という位置づけでもある。添書なし。親子関係・兄弟関係不明。
*順番4「阿岐」は恵弓の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明。
*順番5「布怒之」は阿岐の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明
*順番6「玖賀」は布怒之の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明
*順番7「支致古」は玖賀の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明
*順番8「宇閇」は 支致古の子供という位置づけ。添書あり。bc68年漢の宣帝に遣使
したとある。親子関係不明
*順番9「阿米」は宇閇の子供という位置づけ。添書なし。親子関係不明
*順番10「熊鹿文」は阿米の子供という位置づけ。添書あり。姓は姫氏。卑弥子熊津彦と称すとある。AD57年に後漢光武帝から印綬され、委奴国王と称す。とある。親子関係不明。添書によると順番8「宇閇」bc68年と順番10「熊鹿文」ad57の間は125年で5代に相当するが系図は2代しかないので約3代欠落と判断するのである。
上記第1系図の順番4「宇閇」の添書も同種の内容が記されているのである。
第1系図の宇閇と第2系図の熊鹿文は同一人物と思われるが、系図の混乱の1つである。
bc473の夫差とAD57の熊鹿文の間は約530年である。この間に9代の人名が記されている。約60年/1代となり全く不合理である。通常なら21代ほど必要である。
約12人ほど欠落していると推定されるのである。順番8の添書から判断すると順番8-順番10の間でも3名ほど欠落していると推定できる。よって順番2-順番8までに9名程欠落していると推定できるのである。
第2系図の順番11は 第1系図の順番10「厚鹿文」と同一であるのでこれ以降は一緒である。第1系図と第2系図は全く独立した系図と考えられるので順番が最終的に1番しか異ならないのは、全くの偶然か意図的なことなのかは、論考のところで考えてみたい。第1系図*順番11「市鹿文」の添書によると237年に壱与として王になり、247年火国造となったと記されている。第2系図の順番10「熊鹿文」はAD57年の記事あり。
この間は180年である。通常は7代ほどかかる。ところが、第2系図では2代しかいない。5代ほど欠落が推定されるのである。一方第1系図では卑弥呼の248年と市鹿文の237年は僅か10年でほぼ同時代人である。但し魏志倭人伝などの記事によると、卑弥呼83才と壱与13才が249年に相当なので、年齢差は70才あり、通常ならこの間に3代あっても不思議ではないことになるのである。よって系図1の方はこの付近は合理的と判断したのである。
6-3)中国古代王朝関連論考(略)
6-3-1)「倭(わ)」について(略)
6-3-2)中国古文献類から窺える倭・倭人・倭国のイメージ論考(略)
6-4)松野連氏系図論考
6-5)「自謂太伯之後」の日本での評価
さて、本系図とは無関係に 中国の古典・『翰苑』(唐時代)の『魏略』逸文・『梁書』東夷伝などに記された、倭人の出自は「自謂太伯之後」、の記事が日本のその記事を読んだであろう歴史家などに与えた影響はどうだったのであろうか?
筆者が注目した記事を幾つか列挙しておきたい。
*「日本書紀私記」(日本書紀の平安時代の講義録)
*釈日本紀(鎌倉末期):東海姫氏國の記述あり。
*中厳円月(1300-1375)著「日本書」:天皇の祖先(国常立尊)を中国の呉太伯の後裔とし、天皇中国人説を唱えた。
*神皇正統記(北畠親房):天皇の呉太伯後裔説反対
*一条兼良著「日本書紀纂疏」(1455-57)成立:天皇は「日神の後裔」説を主張し、中厳説批判。
*林羅山(1583-1657):中厳説支持
*徳川光圀(1628-1701):北畠親房説支持。
●日中歴史共同研究(※)
呉の太伯の後裔説についての中国学者報告書記述内容
・村尾次郎(筆者注:1914-2006日本史学者):中国人の「曲筆空想」
・大森志朗(筆者注:1906-1992日本史・民族学者):「漢民族の中華思想の産物」
・千々和実(筆者注:1903-1985日本史学者):3世紀の倭人の部落が体内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人泰伯と結びつけたと指摘。倭人自称説を肯定。
・中国学者:ある程度の人数の大陸移民が呉王夫差を始祖として奉り、彼等は日本で「松野連」と改姓したけれども、なお祖先を忘れてはいなかったということである。
ーーーこの説はさまざまな中国史書に記録されているので、その来源はこまごまとした個人の伝聞などではなく、ある部落の始祖伝説によるものに違いない。ーーー
3世紀後期以前に、日本に東渡した呉人がある部落国家(或いは連盟)を建立し統治したことを意味する。この部落国家(或いは連盟)は親魏的な女王に背馳して、呉国の創始者泰伯を尊奉して始祖とし、邪馬台国の統治する30国に属さなかったと推察される。ーー
(※)2005年日中外相会談で日本側が提案/2006年日中首脳会談で日中有識者による本研究を立ち上げること合意/2006-2010研究実施。2010年報告書発表
6-6)日本人のルーツ論(2)
既稿40「安曇氏考」で日本人のルーツについて記述した。これをルーツ論(1)として
本稿でその続編を記したいのである。
先ず最近日進月歩の進歩をしているY染色体で判明してくる日本人のルーツを﨑谷 満の論文を中心に抜粋して、筆者の理解した範囲で解説したい。
6-6-1)Y染色体と日本人のルーツ論(略)
6-6-2)中国古代江南人と日本弥生時代人のルーツについて(略)
1)日中歴史共同研究報告書巻1 北岡伸一ら編 勉誠出版(2014)
2)江南人骨日中聯合調査団の報告
6-6-3)弥生時代・弥生人とは
6-6-4)弥生時代・弥生人の「まとめ」と今後の課題事項
7)まとめ
①最近の中国・朝鮮半島・日本列島での発掘調査などの結果、遺伝子解析結果などを充分考慮して日本列島を含む東アジアのbc1000年以降の人々・文化の交流の歴史は見直すべき時期にきていると判断する。
②中国古典に文字記録された東アジアのbc1000年以降の事項も見直すべき時期に来ていると判断するのである。
③本稿の主テーマである「松野連氏」の出自は新撰姓氏録に記録されたように、「呉王夫差」とあり、史実に限りなく近い記述だと判断する。
これは併せて、中国古典である「魏略」「翰苑」「梁書」「普書」などに記された「自謂太伯之后」の記事も史実を反映したものと判断できるのである。より具体的に述べればbc473年に呉王夫差の裔が倭(日本列島)に渡来して来たと判断すべきであると考えるのである。
④江戸時代に発見されたとされる「松野連氏」系図だとされる史料は、本来の古代豪族「松野連氏」に伝承・作成されたであろう元系図からは、その後何回かにわたり、大幅に改変されたものと判断するのである。よって現存する系図をそのまま史実を反映しているものと判断することは、不可能である。特に筆者が違和感を感じる部分は、邪馬台国・卑弥呼に関連する部分と、倭の五王に関連する部分である。
奴国王の部分は、従来のいかなる系図にも記されていないが、さらなる解析が必要だとは判断するが、史実を反映している可能性はあると判断した。
欽明天皇以降の記録はほぼ史実を反映しているものと判断した。
⑤日本古代史において、弥生時代は発掘考古学が主流の学問分野であるが、新分析技術(放射性炭素分析・分子生物学遺伝子分析など)もどんどん導入して世界史レベルでの日本の古代史・人類史・言語史・文化史を構築して貰えることを期待したい。
⑥出自「呉王夫差」を偏に活用して、直接的に天皇家の祖先説・九州王朝説・邪馬台国論などに結び付けることは、筆者は避けるべきだと判断しているのである。
⑦古代史において倭・倭人・倭国・ヤマト・日本などの言葉は、その定義が非常に難しい。また縄文時代・弥生時代・古墳時代という言葉もアマチュアには、非常に分かり難い。本稿の中では筆者が理解した範囲で使い分けてきたが、専門家の皆さんが、学会として纏めて頂きたい。時代とともに変化することを恐れないでやって貰いたい。同時に中国・韓国などの学者・有識者との交流を深めて貰いたい。
再分離:令和3年3月18日/最終更新:令和3年6月3日