トップ 古代史の虚構(YA論文)

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古代史の虚構⑤(YA論文)その4


我が国古代史の虚構  ~万葉からの告発


目次

その11 はじめに

     2 人麿羈旅歌の定説解釈への疑問

     3 定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向

その24 解釈の鍵を成す地名と慣用句

     5 人麿が天の地九州で見たもの・人麿の運命と九州王朝の終焉

その36 応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと

その47 九州王朝は二元統治体制

     8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと

その59 難波(津)と過近江荒都の歌

 その610 天智天皇とは

      11 天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り

その7》 12 古代通史粗筋

      13 おわりに 

      後書き

その8別表「九州年号」/別図「松野連氏考」


7 九州王朝は二元統治体制


(1)政治体制 (2)大化の改新と蘇我氏


(1)政治体制


1)政治体制の要約

天兄(久米の若子)(毛沼の若子)対立と併存・・・蘇我王朝は漁夫の利

 

●応神王朝Ⅱ、即ち、九州王朝Ⅱの二元統治体制とは 

 

天位者:久米の若子)と日位者:毛沼の若子)の二元統治 

 

・天:穂穂出見命(~卑弥弓呼)の血統を引く「久米の若子」王統 ・・・象徴権威的存在

・日:狗奴国本来の王統(~狗古智卑狗)である「毛沼の若子」王統・・・実権支配的存在 

 

●天日両王統対立と併存 

 

*大陸の動き=” 正統 ” 南北朝の弱い中華体制から ” 北狄 ” 隋、唐の統一された強い中華体制への動き 

 

・この動きに敏感に呼応したのが(あま)王統の ” 多元(二人)「天子」宣言  ”であろう。 

 

・当然、「天子」体制(”天子専制”)二元体制は併存し得ない。 

 

・両王統は対立と併存を繰り返してきた。この対立の中に、崇峻天皇の誅殺(※1)山背大兄王(法皇)弑殺(※2)があるのであろう。 

 

(※1)誅殺 罪をとがめて殺すこと。 「天に代わって-する」?

(※2)弑殺 故意にそして計画的に殺す。? 

 

●九州王朝Ⅰの官僚体制を引き継いだ九州王朝Ⅱ 

*旧官僚・蘇我大臣専横漁夫の利天位乗っ取り ” 蘇我王朝 ” の創基 

 

●古代最大の史劇・大化の改新とは 

天位の回復(王政復古)成功「大化」の発足(天子年号)〕挫折「白雉」改元(天皇年号)〕

 

2)政治体制 

(兄)(弟)二元統治「天皇・大王天皇」から「天子(法王・帝号)・天皇」へ。

 そして、” 天子専制(一元)” 天子象徴・天皇実権(二元) の矛盾対立

 

「狗奴国王・卑弥弓呼」(穂穂出見王統者)「官・狗古智卑狗」(原狗奴国王統者) 

 

3)(てん)(兄)と日(ひ)(弟)の二元統治

●九州王朝の政治体制

『隋書』にいう王以天為兄以日為弟「俀(たい)王、天を以て兄と為、日を以て弟と為す」天未明時出聴政跏跌坐日出便停理務委我弟」「天(兄)「日(弟)である。

 

魏志』に言う卑弥呼男弟(「有男弟左治国自為王以来少有見者」)以来の、恐らく、これを遡る”「倭国」の政治体制 ” ということであろう。

 

” 思想性が加味され、整備されたもの ” と言うことである。「王」象徴的な権威(象徴・権威的支配者)「補佐者」実質的な施政者(実質的支配者)である。

 

「九州王朝」の政治体制は、象徴的権威の第一人者実務為政者二元体制であった。中国南朝体制下においては、「天皇」「大王天皇」南朝が滅亡し、この天皇「天子」を称するに至って、「天子(法王・帝)「天皇」である。対唐敗戦以降「天皇」「大王天皇」へと戻る。中華体制下への復帰である。 

 

●二元体制~一元体制~二元体制への移行

*この「九州王朝」「天皇」「大和王朝」「大王天皇」体制へと移行する。この移行

天智天皇「天皇即位」である。天智天皇は天智大王天皇ということになる。そして「大和王朝」「大王天皇」「天皇」となるのが、文徳天皇からである。即ち、 「大王天皇」がなくなる。「九州王朝」の滅亡「大和王朝」「天皇」一元体制への移行である。

 

『日本書紀』は、この「九州王朝」から「大和王朝」「天皇」一元大義名分として

編まれたものである。尤も、この「天皇」一元政治体制も、やがて、摂政関白、そして、征夷大将との二元体制へと移行することとなる。 

 

●「九州王朝」の体制

「天子(法皇・帝)「天皇」と成っても、それぞれ、「弟」は存在したであろう。後者は 「大王天皇」である。前者は、どうであろう。「大王法皇(王)」或いは「皇太子」であったのではないか。

 

*むろん、前者中国史書における倭王王子である。当然、体制は複雑、かつ、矛盾は増大したであろう。

 

●「蘇我王朝」の創基と「大化の改新」

*そもそも、” 天子は専制 ” なのである。対立は先鋭化する。その大事例が、” 崇峻天皇誅殺 ” あり、” 山背大兄法皇弑殺 ” である。この対立に咲いた徒花、漁夫の利が、蘇我蝦夷法皇王家(「天子の宗室」)に代わる立「天子」、所謂、「蘇我王朝」創基である。

 

*で、この「蘇我王朝」” 誅滅 ” して、「天子の宗室」を恢復した  のが「中大兄皇子」「大化の改新」である。「中大兄皇子」天子に即位したと考えるのが妥当であろう。

 

上宮法皇” 天子親政(法興の治)崇峻天皇誅殺を以て始まった ” と考えるのが妥当であれば、”「中大兄皇子」天子親政(大化の治)も ” であろう。

 

*しかし、この大化の治は短命に終わった。僅か五年である。が、この「一元と二元」の矛盾は続いたということであろう。対唐敗戦、即ち、「九州王朝」実質的滅亡まで、である。 

 

●「聖徳太子」・「山背大兄王」

「多利思北孤」・「上宮法皇」・「聖徳太子」が同一人、即ち、その子「利歌彌多弗利」

「山背大兄王」同一人については後述する。

 

*おもしろいであろう。「聖徳太子」「山背大兄王も、”  その身分(法皇で天子)を奪われている ” のである。それぞれ、「推古天皇」下の皇太子「皇極天皇」下の「王」とされている ” のである。 

 

●「中大兄皇子」

*”中大兄皇子も ” と考えるのが妥当であろう。「中大兄皇子」は、「舒明天皇」、「皇極天皇」、「孝徳天皇」、「斉明天皇」と  四代に亘る「皇太子」” であると。

 

*” 四代に亘る「皇太子」”などない。”「中大兄皇子「天子」であった  ということである。  

 

4)隋書の “ 二人の俀王 ”

●『隋書』の記述

「隋」が、大業三年(607)の俀王「多利思北孤」国書「日出処天子致書日没処天子」)を受けて、翌大業四年(608)に派遣した隋使・文林郎裴清が会見した俀王「其王興清相見大悦日我聞海西有大隋禮義之国故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義以稽留境内不即相見」)とは誰かということである。 

 

●二人の俀王

*誇り高き王:二人の天子を主張する王・・・隋使・裴清と会見せず 

 「日出処天子致書日没処天子」(日出る処の天子、書を、日没する処の天子にいたす)

 

*卑屈な王:夷人、田舎者を卑下する王・・・隋使・裴清と会見 

 「我夷人僻在海隅不聞礼儀」(われは夷人、海隅に僻在し礼儀を聞かず) 

 

●『北史』(唐・大和王朝の初交資料(正史外資料)が誤加か:北史・隋書の欠落・誤加論争)

『北史』は、前掲会見(隋使・裴清との会見)記事を欠くが、会見記事の直前(「・・・俀王遣小徳阿輩臺従数百人設儀仗鳴鼓角来迎後十日又派遣大礼可多眦従二百余騎郊労既至彼都其王」)で、終わっているということである。会見は記されていない。

 

*つまり、俀王は、隋使・文林郎裴清儀仗、郊迎して、礼を尽くして迎えたが、会見は不調に終わったということである。そうであろう。” 会見は有った ” のである。本来なら、特筆掲上されてしかるべきなのである。しかし、” 記されていない ” ということなのである。で、あるから、『隋書』の末尾は「来貢方物此後遂絶」で終わっているのであろう。

 

*何故不調に終わったのか。『唐書』にも記されるとおり、” 争礼 ” であろう。” 俀王二人の天子という対等の礼を要求し、隋帝は中華唯一の天子の承服というを要求した ” ということである。” 不調に終わった会見が、成功裏に終わった会見記事を以て当てられている ” ということである。

 

『北史』会見記事の欠 ”『北史』の「欠落」” と見るのが定説のようであるが、『隋書』「誤加」ということになるであろう。『北史』が正しい ” ということである。 

 

●会見記事の俀王

*”この会見記事の俀王(「多利思北孤」:「天(兄)」)とのものではない。或いは、” 俀王とのものであるが、その内容が全く、偽られている”ということである。が、”『北史』が不都合として削った会見記事を『隋書』が虚偽粉飾して掲上した”とは考え難いであろう。前者であろう。

 

*では、”『隋書』の「誤加」”は何かということである。”『北史』が俀王との会見記事ではないとした、この会見記事は隋使・文林郎裴清と誰とのもの”か、ということである。

 

*当初、この会見の相手とは「日(弟)」王であろう。むろん、会見は、隋使・裴清と「日(弟)」王ということで、「日(弟)」王が、このように言ったということは ”『隋書』の粉飾 ” としてである。俀王実務(理務)を執らないのであるから、会見という実務は「日(弟)とのこと、であろうと。

 

*しかし、しっくりしない。基本的立場は「天(兄)「日(弟)も同じはずなのである。 『隋書』としても、そう粉飾し得るものではない。・・「僻在海隅」とは「大和王朝」王者の言とするのが一番、妥当なのである。 

 

5)法隆寺仏二つの銘文

●天子の存在が削除された薬師仏銘文と天子が明記された釈迦三尊銘文

*銘文は九州王朝の二元政治体制を証言する。聖徳太子上宮法皇(俀王・多利思北孤)である。

 

からへの移行の時期に該当する金石文がある。法隆寺薬師仏、釈迦三尊像の光背

の銘文である。(古田武彦著『古代は輝いていたⅢ』) 

 

●薬師仏後背銘文・・・「天皇」より上位の存在である「法皇」の存在を削除

*金銅薬師佛造像記

 池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳    16文字

 次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大 19文字

 御病太平欲坐故将造寺薬師像作奉仕詔然  18文字 

 當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天 19文字

 皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉  18文字

 

〔読み下し〕

① 池辺の大宮に天の下を治(し)らす天皇(すめらみこと)(用明天皇)、大御身労(いたつ)き賜う。/② 時に、歳次丙午年(用明元年=586)大王天皇(推古天皇)太子(彦人皇子か)を召して誓願し賜う。/③ 「倭が大御病、太平ならむと欲(おも)い坐(ま)す。故(かれ)、寺の薬師像を造り作(な)し」、仕え奉る」と詔す。/④ 然るに、時に当たりて崩じ賜い、造り堪(あ)えざれば、

⑤ 小治田大宮に天の下を治らす大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王(聖徳太子)、大命(おおみこと)受け賜いて、歳次丁卯年(推古十五年=607か)、仕え奉る。

 

*” 天皇が大御身を労した時、大王天皇と太子を呼んで、「我が大御病の太平」を誓願したい ” 天皇が自分の身労、病を「大御身労」「我大御病」と言う ”  文章を成さない ” 

 

*本来、天皇天子の病(大御身労=大御病)平癒を祈願したもの(当然、天皇の病を「大御病」とは言わな い。)(この時期、天皇は後世の国内的「天皇号天子」ではない。)” 天皇が「天子が労した」大御身労)時、「天子の病」(大御病)平癒を誓願 ”

 

 ” 天子関連部分削除 ” → 文意不通、かつ、”各行文字数がバラバラ”造文し得ない・・王朝ではなく、おそらく、寺・・レベルの緊急避難的作為)

 

ーー〇〇大宮治天下ーー

 「治天下」はナンバーワン(No.1)の職責ではなく、ツウ(No.2)の職責(天子の代行)

 

ーー薬師仏光背銘文中の崇峻ーー

 「歳次丙午年(用明元年)の大王天皇」は「池辺の大宮に天の下を治らす(用明)天皇」下の大王天、 即ち、「倉椅(くらはし)の柴垣の大宮に天の下を治らす天皇」崇峻天皇

 

*「小治田大宮に天の下を治らす(上宮法皇)(削除)」下の大王天皇:小治田は上宮法皇の宮、天皇は空位、推古天皇は大王天皇、推古天皇の宮は豊浦 

 

●釈迦三尊後背銘文

    ・・・法興32年:推古30年(622)2月22日に死去した法皇(仏法天子)を明記

*銘文(『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編による)

 法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼   14文字

 前太后崩明年正月廿二日上宮法     ↓

 皇枕病岪悆干食王后仍以勞疾並

 著於床時王后王子等及與諸臣深

 懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋

 像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安

 住世間若是定業以背世者往登浄

 土早昇妙果二月廿一日癸酉王后

 即世翌日法皇登遐癸未年三月中

 如願敬造釋迦尊像并挟侍及荘厳

 具竟乗斯微福信道知識現在安穏

 出生入死随奉三主紹隆三寶遂共

 彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁

 同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造 

 

*摘訳:法興31年12月、鬼前太后崩じ、翌年1月22日、上宮法皇、そして、干食王后も罹病し、2月21日王后、翌日、法皇が崩御

上宮法皇は仏法天子(日出処天子)。多利思北孤、即ち、聖徳太子

法興は、” 天子年号 ”所謂「九州年号」 ” 天皇年号 ”

 ” 天皇年号 ”  は 非公式伝承 ” ⇔ ” 天子年号  は抹殺

 

崇峻天皇誅殺法興の治(天子親政)発足:法興建元:591年=崇峻4年・辛亥

 崇峻天皇治世:崇峻4年或は崇峻5年・592年壬子説(記紀)は嘘

 

*ーー聖徳太子遣隋使説の欺瞞ーー

 日出処天子・多利思北孤(男:「有後宮女六七百」対隋通交(隋代の遣唐使は間違い。推古天皇の遣隋使)=日本書紀:推古天皇(女)遣唐使(小野妹子)

(隋使は聖徳太子を倭王と間違えた)(蘇因高と名付けたのは唐帝ではなく隋帝)

 

6)「兄」・「弟」の争いの原因と契機

●根底

 「天(兄)(穂穂出見王統:久米の若子)「日(弟)(原狗奴国王統:毛沼の若子二王統の対立

「兄」王統(「天」位王統)卑弥弓呼に繋がる王統。邇邇藝命、穂穂出見命、そして、鵜葺草葺不合命に繋がる竺紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多氣」降臨王統である。

 

「弟」王統(「日」位王統)は、狗古智卑狗に繋がる王統、原狗奴国王統に繋がる王統であ

ろう。即ち、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯」降臨王統である。

 

「日出処天子・多利思孤」(「聖徳太子」)「兄」王統推古天皇「弟」王統である。 

●大陸情勢の波及による国家体制改新の要

 

*大陸に於ける強力統一王朝の出現(南朝弱権体制から隋・唐=皇帝専制強権体制へ)波及

 =天皇 → 天子(専制君主)⇔ (象徴 NO 1 王者)(実権 NO 2 王者)体制に矛盾

 :「天(てん)「日(ひ)」からの実権の奪取 

 

●契機の一

*「使者言俀王以天為兄日以為弟天未明時聴政跏跌坐日出便停理務云委我弟高祖日此太無義理於是訓令改之」(『隋書』)

 

*隋の高祖は、”「兄」・「弟」の統治役割(名分・実権)分担 ” ” 甚だしく、義理がないとして” 改めさせた ” というのである。当然、”改める”とは、” 日の出以降の理務も「兄」が執ること(「兄」)の名実兼備 = 「弟」の存在意義の否定ということである。 

 

*しかし、決着が着くことなく、推移したということになるであろう。「大和王朝」が名実具備するに至るまで。(大宝元年:「九州王朝」の全き終焉までである。 

 

●『古事記・日本書紀』の立ち位置

 *『古事記・日本書紀』は、「弟」を正統とする史書 ” である。で、あるから、「兄」に

冷たい(抹殺或いは虚偽・過小記載)”  のは当然であるが、加えて、この ” (「弟」)(「兄」)判定 ”も、あるのではないかと思われるのである。” 慣行を破壊したことへの非難 ” である。

・で、なければ、例えば、大倭(「弟」即ち「大和王朝」ではなく、「兄」即ち「九州王朝」)に下る天報(てんのむくい)(後述)の意味が理解できないのではないか。


(2)大化の改新と蘇我氏


1) 大化の改新とは

*むろん、舞台は「九州王朝」である。蘇我入鹿の山背大兄の弑殺、即ち「天宗盡滅」

中大兄皇子の蘇我入鹿誅殺、即ち、「大化の改新」とは何であったのか。

*「九州王朝」の二元体制は、”「天子」一元”となったのか。それとも、”「天皇」一元”とな

ったのか。それとも、”「帝号・天子」・「天皇」二元体制”として維持されたのか。 

 

2)大化の改新

2.1)王政復古(天子王家の復活)

●中大兄皇子が皇極天皇に向かって述べた主張

  「鞍作盡滅天宗、将傾日位」(鞍作、天宗を藎滅して、日位を傾けんとす)

  「天宗」とは、「按謂天子宗室也、指山背王等也」(按ずるに天子の宗室を謂う也。山背王等を指す也)(天子の宗家を言い、山背大兄王等を指す)であるという。

 

◆『日本書紀』皇極天皇二年の記述

「子弟(うから)・妃妾(みめ)と一時(もろとも)に自(みずか)ら經(わな)きて倶(とも)に死(みう)せましぬ。時に、五色の幡蓋(はたきぬがさ)、種種(くさぐさ)の伎楽おもしろきおと、空に照灼(てりひか)りて、寺に臨(のぞ)み垂れり。」

 

●山背大兄王一族の滅亡(『日本書紀』の描写)

*むろん、「天子宗室」正統の王者が無位の山背大兄王であるはずがないであろう。山背大兄王は父・聖徳太子(上宮法皇:日出処天子)を後継した「 法皇」(「天子」)である。描写は明らかに仏法天子一族諸共の死である。

 

*つまり、仏法天子・山背大兄王「天子宗室」(「天位」者)で、皇極天皇「天位」者でなく、「日位」者ということになる。「天皇」は「「日位」者、「天・日」体制の「弟」である”ということなのである。

「日位」(天皇)「毛沼の若子」の上位王家 = 「天位」(天子)「久米の若子」王家

 

●中大兄皇子の主張

*つまり、中大兄皇子の主張は、” 蘇我入鹿は「天位」王家を滅ぼして「天・日」体制を破壊した ” ということであろう。或いは、単に、「天位」王家を滅ぼした”ということかもしれない。「日位」王家は保全されているのである。

 

*或いは、” 蘇我入鹿の最終目的は、「天・日」体制の完全破壊、即ち、「日位」王家も ” ということかもしれない。「蘇我王朝」の創基である。その意図が明らかであるが故の ” 日位を傾けようとした ” である。

 

*しかし、中大兄皇子の非難する体制は、” 蘇我蝦夷「天子」と皇極「天皇」” ということであろう。そうであろう。単に ” 蘇我入鹿が「天位」王家を滅ぼした ” 或いは、”「日位」王家も”というのであれば、” 蘇我蝦夷・入鹿父子の誅殺 ” でことは終わる。が、ことは皇極天皇の退位を以て終わるのである。 

 

2.2)中大兄皇子とは何者

●中大兄皇子は「天位」者と考えざるを得ない。

*舒明天皇~斉明天皇四代に亘る天皇下の皇太子虚構

        :聖徳法皇号天子32年の治世の抹殺  = 推古天皇下の聖徳太子に同じ

 

*中大兄皇子の目的は、「天位」王家の復活、即ち ” 王政復古 ” 即ち、「天子」一元体制、或いは、「天子」・「天皇」二元体制の復活。

 蘇我蝦夷天子(「天位」)・皇極天皇(日位)体制の打倒 

            →  誅殺(弑殺)・退位(「日位」保全であれば、蝦夷誅殺で目的完遂)

で、成ったのである。「大化」元号が証言する。

 

●元号について

「大化」元号は、「法興」と同じく、所謂「九州年号」には含まれない。別系統元号である。「大化」は「法興」と同じく、” 天子系年号 ” と考えるのが妥当なのである。” 所謂「九州年号」は天皇系年号  である。

 

中大兄皇子は帝号「天子」に即位。「大化」 ” 天子年号 ”(日本書紀:大化元年即位)

 「白雉」は ” 天皇年号 ”  ∴ 日本書紀は嘘、新唐書が正しい

 

*天子系年号は、原則、抹殺されたということであるが、法興は抹殺されたが、「大化」は抹殺されなかった。これは、「大和王朝」は、大化の改新の英雄・中大兄皇子、即ち、天智天皇の後継王朝という主張に在ると考えざるを得ないであろう。 

 

2.3)挫折と復活?

●『旧唐書』と『新唐書』の記述

大化の改新は、「大化」の5年(649)終了。(旧唐書「大化4年の倭国最後の遣使」)

 『旧唐書』は、「倭国」について、「貞観5年(631)・・・至22年(648)まで、亦附新羅奉表、以通起居」としており、つまり、大化5年まで「倭国」と通交があったと。このことは、「倭国」が復活した ”即ち”、” 旧体制が復活した”ということを示しているのではないか。『旧唐書』は、『新唐書』が記す「日本国」(この時期「倭国」)孝徳天皇記事以降について沈黙している。つまり、” この「倭国」は従前の「倭国」ではない  としている。

 

*もし、孝徳天皇の即位が『日本書紀』の言うがごとく、大化元年であれば、この通交は ” 孝徳天皇とのもの ” なのである。 しかし、『新唐書』は、「貞観5年・・・久之更附新羅使者上書。永徽初(白雉元年)、其王孝徳即位、改元白雉。献琥珀魄大如斗、瑪瑙五升器。」と記す。

 

*『新唐書』は、貞観22年(648)では「日本国」の王に当て得なかったのである。それで、久之とした、ということである。つまり、この ” 起居を通じた「倭国」の王 ” とは孝徳天皇ではないということである” 孝徳天皇の他に、「倭国」に起居を通じたが居た ” ということである。

 

●挫折

*むろん、私(YA氏)の説くところは、「天子・天皇」体制である” 中大兄皇子「天子」と孝徳「天皇」の共存 ” は、本来、異とするものではない。問題は、孝徳天皇の琥珀、瑪瑙献上である。つまり、白雉元年以降、「倭王」孝徳天皇ということである。” 中大兄皇子「天子」が存在するのであれば、「倭王」は中大兄皇子「天子」のはず ” なのである。

 

*大化の5年間、大化維新親政「倭王」・中大兄皇子「天子」の下で行われたが、それで挫折したということである。しかし、” この中大兄皇子「天子」が「天智天皇」であるのか ” ということである。これは難しい。むろん、” この中大兄皇子「天子」が「大和王朝」(「大和の地の王朝」)の「天智天皇」ではない ” は明確である。つまり、「九州王朝」の「天智天皇」かどうかということである。

 

●復活?

『新唐書』は、「天豊財立、死、子天智立、明年使者興夷人偕朝」と記す。『日本書紀』斉明5年に記される記事と整合する。諸般を整合すると、”天智天皇の斉明5年の即位となるが、これ等については後述する。” 斉明4年に政変が有ったのではないか ” ということである。つまり、” 皇極天皇も天智天皇も復活した ” ということになる。” で、共に、天豊財重日足姫天皇(皇極・斉明)の4年を転機として ” ということである。

 

*こんな偶然はあり得ない。”日本書紀が嘘をついている”ということである。何が嘘なのかということである。” 皇極天皇は斉明天皇 ” か、「中大兄皇子は天智天皇」か。「大化の改新」、時期も含め、疑い難いであろう。” 内容が「日本書紀」の記すとおり ” かどうか。そして、”皇極4年”に当たるかどうかは別としてである。

 

●抹殺された歴史 

*7世紀中期、高句麗に於いては、泉蓋蘇文(せんがいそぶん)の国王・建武弑殺(642:国王宝蔵の擁立)、新羅に於ける眦雲(ひどん)の乱(647:善徳女王廃位クーデター・失敗)宮廷革命が相次ぐからである。列島にまで波及した、この衝撃は唐の東方策に関係する。むろん、” 山背大兄王弑殺(643)も、ということである。この揺り戻しが「大化の改新」なのである。

 

*で、あれば、主役、中大兄皇子の存在も疑い難いであろう。で、中大兄皇子「天子」”も、なのである。で、” 中大兄皇子「天子」が「天智天皇」” ということになるであろう。で、なければ、何の ”「大和王朝」の主張(「大和王朝」「天智天皇」の後裔)かということになる。真実は ”皇極天皇の重祚は嘘で、天智天皇の復活が真 ” ということかもしれない。

 

”中大兄皇子「天子」は抹殺されている”のである。” 斉明4年即位の「天智天皇」”(『新唐書』)についても抹殺されている。当然のことながら、” 抹殺した歴史が嘘 ” で、” 抹殺された真実が本当の歴史 ” ということなのである。

 

斉明(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)4年(658)の政変?

   :天豊財重日足姫4年皇太子復帰 = 『新唐書』「斉明4年の天智天皇即位」 

 

2.5)天智天皇出自(王姓阿米)

●天智天皇の出自

 天命開別天皇(あめのみことひらかすわけのすめらみこと)(あめ)「王姓阿毎(あめ)(久米の若子)

 

*そもそも、”「大和王朝」の王 ” の和風諡号の「天」である。この「天」が『隋書』、「旧唐書」、『新唐書』の「王姓阿米」「阿米」であることは間違いないであろう。舒明天皇以前(欽明天皇「天国排開廣庭天皇」を除く)にこれが冠せられず、皇極天皇以降にこれが冠せられる。これは、「大和王朝」史官の気まぐれではないであろう。

 

*天智天皇の和風諡号「天命開別天皇」は ” 新王朝、即ち、「大和王朝」の列島王権として創基に対するもの ” と考えていた。”「大和王朝」の王・天智天皇が「天命」を受けた”と。むろん、「大和王朝」が諡したと。 

 

しかし『日本書紀』の ” 中大兄皇子は天智天皇 ” を信じるならば、この「天」は、やはり、「王姓阿米」ということになるであろう。”「九州王朝」の「天位」者 ” ということである。

しかし、これはおかしいのである。中大兄皇子の ” 母・皇極天皇は「天位」出自者(天豊財重日足姫天皇)であっても舒明天皇(「息長足日廣額天皇」)の子なのである。即ち、中大兄皇子(天智天皇)は、舒明天皇と皇極天皇の子ではないということである。で、あれば、” 中大兄皇子と皇極天皇 ” の対立も理解し得るであろう。

 

*皇極天皇、孝徳天皇(「天萬豊日天皇」)天武天皇(「天淳中原瀛眞人」)は、”「天位」出自者が「日位」(「天皇」)に即位した”というものである。皇極天皇の ” 子連れ再婚、立皇后 ” は、やはり、異常であろう。皇極天皇の舒明天皇(「日位」者)との子(「漢皇子」)連れ再婚は ” 降嫁 ” であったことになる。天武天皇「漢皇子」、即ち「天位」系と言うことかもしれない。

 

*が、”「大和王朝」の王統”は「大和王朝」の主張である。これが真実であるかどうかは別である。” 誰がこの主張を為したか ” ということである。天智天皇か、天武天皇か。天武天皇であろう。天武天皇が事実上の「大和王朝」の開祖なのである。明確であるのは、” 天武天皇が「漢皇子」”かどうかは別として、” 天武天皇が皇極天皇の子である ” ということであろう。

 

*何故、「大和王朝」は、” 天智天皇を重し ” とするのであろうか。そもそも、”天智天皇も、天武天皇も皇極天皇の子であるならば同じであろう。天武王家は天智天皇の血を入れなくても貴いのである。”そうではない”から、” 兄弟 ” 或いは ” 天武天皇と天智天皇の娘との婚姻が協調されている ” のである。そもそも、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇が兄弟であれば、”天武天皇は「日位」(皇極天皇)側”なのである。

 

●天子宗室

*「九州王朝」の正統の王者は、その名に「天」が冠せられたであろう。即ち、「天子宗室」である。欽明天皇(「天国排開廣庭天皇」)は正統の王者ということになろう。欽明天皇が「兄」、継体天皇(「男大迹天皇」)が「弟」ということである。で、あるとすると、「日本天皇」弑殺の犯人は欽明天皇ということになる。『古事記・日本書紀』は”上下関係を逆転させ親子関係としている”ということである。

 

*なお、当然、用明天皇(「橘豊日天皇」)「天(阿毎)多利思北孤」は別人である。「多利思北孤」即ち「上宮法皇」即ち「聖徳太子」とすれば、この関係も、”上下関係を逆転させ親子関係としている”ということである。この ”上下関係を逆転させ親子関係にしている” のは ” 天智天皇と斉明天皇も同じ ” なのである。

 

『古事記・日本書紀』は、”「九州王朝」の二元政治体制を「天皇」一元とし、「大和王朝」のもの ” としているのである。” 

 

3)蘇我氏

3.1)九州王朝Ⅰ以来の帰化系高級官僚(外交・経済)

●蘇我氏の登場

*何故、蘇我氏天孫降臨に遡る経歴を有せず、唐突に歴史に登場するのか。

                  ⇒ 九州王朝Ⅱ九州王朝Ⅰ官僚機構を継承

 

蘇我氏は、『古事記』 では欽明天皇の時、『日本書紀』では宣化天皇の時、いきなり、蘇我稲目が「大臣」として登場する。何か功績があるのかと言えばなにもない。何も記されていないというのが正しいかもしれない。並びに特記される物部麁鹿火大伴金村” 継体天皇の擁立に貢献した。(それで「大連」に登用された。)とされるのにである。

 

●蘇我氏の出自

蘇我氏の出自については、他の有力氏族と違い、天孫降臨以来の伝承もないことから帰化人説が有力である。門脇禎二氏の「百済蓋鹵王代の権臣・木(羅)満智」説、黒岩重吾氏の「百済蓋鹵王の弟・昆支王蘇我氏祖先・石川宿禰」説が有名であろう。

 

*黒岩氏は、自説を「昆支王と木(羅)満智系の婚姻=蘇我氏」へと発展させている。門脇節との融合である。骨子は以下である。(『古代史への旅』)

  「昆支王は、AD461年に倭国に来た。来倭の途中、昆支王の妃の一人が、各羅嶋で子供を産んだ。後の百済武寧王〔嶋(斯麻)王〕である。” 昆支王は、近畿の河内の石川に入ったのであろう。”  百済蓋鹵王は、高句麗との敗戦(AD475:漢城落城)の中で、その子・文周王(羅)満智などを援軍要請のため新羅などに派遣した。文周王は援軍を率いて帰国したが、木(羅)満智については記載がない。(羅)満智は倭国に行ったのであろう。”

 

*両説とも、蘇我氏百済の貴種として、これを以て、蘇我氏の倭国における地位と半島帰化人に対する優位を説明している。魅力的であり、活躍の舞台を近畿ではなく、九州の地とすれば、ありうるかもしれない。が、かなり飛躍的ではある。これらの説が成り立つのであれば、「蘇我氏=魏・曹氏」説も成り立つのではないか。 

 

3.2)蘇我氏・司馬曹達説

●蘇我氏の祖先

*蘇我氏の祖先の一を、『宋書』「太祖元嘉2年(425)讃又遣司馬曹達奉獻放物」(讃、又、司馬曹達を遣わし放物を奉献す)(『宋書』)の「司馬曹達」とするものである。この倭人としては珍しい曹氏を名乗る人物。この人物が魏・曹氏に繋がるものと主張し、中国側にそう受け取られたとするのはそう無理な創造ではないであろう。

 

*魏・曹氏と倭人との関係は深いのである。曹操の祖先の地、安徽省亳県の後漢時代の墓から、その関係を証言する重大な資料(※)が出土している。

 

※ 有名な「倭人塼(せん)」( ” 有倭人以時盟不 ” )である。僅か七文字であり、これを以て意味を云々することはできないが、魏・曹氏倭人の交流が二世紀に遡ることは間違いないであろう。倭王・卑弥呼の魏への貢献も、この延長線上であると。

 

●何故、曹氏が蘇我なのか?

「蘇我氏=貴種の帰化人」ということではよいであろう。で、何故、その魏・曹氏が「蘇我」であるのかということである。

 

・一つは、その職「司馬」〔魏晋朝:「将軍・都督(倭王)の属官」〕である。「馬子」、「鞍作」と通じるであろう。『元興寺(飛鳥寺)丈六仏光背銘写文』は”「馬子」を「有明子」、「蝦夷」を「善徳」としている。”「馬子」”は、「鞍作」は「司馬」に当てた卑字(卑称)と考えられるであろう。

外交(「司馬」:倭王「都督」の属官)官僚 → 大臣:馬子・鞍作

 

・二つは、蘇我氏が屯倉の経営など経済活動にその手腕を発揮していることである。このことは、華僑の世界各地における経済活動と通じるのではないか。また、蘇我氏は、「巷哥」『元興寺丈六仏光背銘写文』とも記される。この「巷哥」とは市場(巷)管理者(哥)の中国表記ということではないかと思われるのである。ひょっとすると、蘇我氏の経済活動は、『魏志』「国国有市交易有る無使大倭監之」(国々に市有りて有無を交易し、使大倭、之を監す)「使大倭」以来のものかもしれない。

 経済活動〔市場監理「使大倭(し・だいい)」= 巷哥(そが)「街の顔役」〕

 

・三つは、その音の類である。「曹」と「蘇」、「曹家」と「蘇我」」相通じるであろう。

 

●蘇我氏の天下取り

・蘇我氏は、継体天皇以前の「九州王朝Ⅰ」高級外交・経済官僚であったのではないかということである。そして、応神天皇五世の孫・継体天皇の「九州王朝Ⅰ」取り、即ち「九州王朝Ⅱ」の発足以降も、その勢威を保っていた。いや、更に、その勢威を高めていたということではないか。

 

・蘇我氏にとって、継体天皇以降の「九州王朝Ⅱ」王家は権威あるものではなかったのではないか。” 崇峻天皇弑殺 ”” 天宗盡滅 ” は蘇我氏の天下取り〔「彼可取而代也」(彼、取って代わるべき也)(『史記』項羽本紀)〕であったとする方が素直である。 

 

3.3)蘇我蝦夷は天子

●天子としての振舞い

 天子の舞・八佾(やつら)の舞の挙行、人民使役、天皇記等国書の保持

 

*『日本書紀』は、「皇極元年」、「蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾(やつら)の儛をす」。「八佾の儛とは、64人の方形の群舞で天子にのみゆるされるものであるという。これは、” 密かに行えるもの ” ではない。” 公のもの ” である。” 僭越にも ” という範囲ではない。既に、蘇我蝦夷は ” 天子として振る舞っている ”、即ち、蘇我蝦夷は天子である”ということである。

 

*むろん、国書(『天皇記』、『国記』)保持人民使役(「又盡に国拳る民、并て百八十部曲を発して、預め双墓を今来に作る。」)冠位授与(「私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ」)、も、である。

 

*『日本書紀』の記述を出鱈目としない限り、そう断じるしかないであろう。” 肥・豊を支配し、三韓と通商する筑紫国造・磐井が倭王、即ち、「九州王朝」の王である ” と断じられるようにである。

 

●「大和王朝」の大義名分

*” 蘇我蝦夷は「皇極天皇」下の存在(「大臣」)” は「大和王朝」の大義名分なのである。これは、”上宮法皇は「推古天皇」下の存在(「皇太子」)”としているのと同じである。同じ手法は、後述 ” 天智天皇は「斉明天皇」下の存在(「皇太子」)”にも見るであろう。

 

・で、蘇我入鹿は、” 天子の宗室を盡滅した  のである。この反動が「大化の改新」なのである。『日本書紀』の記述が迫真的とはいえ、この記述そのものが真実であるとは言えないであろう。当然、「皇極天皇」は ” 天子ではなかった ” ということである。

 

*この惨劇の舞台(「大極殿」)は、時代的に、その存在が疑問視されている ”「皇極天皇」の朝廷ではない ” ということである。” 蘇我蝦夷 ” の朝廷ということになるであろう。話は大分違うであろう。亦、祖廟八佾の儛中国風の風俗である。” 中国を真似た ” ということもあろうが、このことも、「蘇我氏=魏・曹氏」説を証言するものではないか。 

 

3.4)藤原氏も半島出自

●大化の改新の統括者

*なお、藤原鎌足も、突然、重要人物として歴史に登場する。「皇極3年」、いきなり、神祇伯である。藤原氏帰化人説共々、蘇我氏と共通するであろう。藤原氏も、蘇我氏と同じく、継体天皇以前の「九州王朝」の高級官僚であったということであろう。勢威に違いは有れ、旧体制の同僚である。で、あれば、鎌足が、皆が畏れた蘇我氏に対して怯まなかったことも首肯し得るであろう。

 

古人大兄皇子「韓人、鞍作臣を殺しつ。」を「韓政に因りて誅せられるるを謂う。」とは理解し難い。この韓人とは藤原鎌足のことではないか。確かに、「大化の改新」の主役は、即ち、蘇我入鹿暗殺の主役は中大兄皇子である。が、真実がどうであるは別にして、” 中大兄皇子が韓人 ” とは言えない。かつ、蘇我入鹿暗殺現場の実質的主役藤原鎌足である。

・そうであろう。鎌足は見守り、中大兄皇子は、他の暗殺者達と共に、自ら太刀を振るったのである。統括者が自らはないであろう。暗殺者が怖じ気づいて、万、やむおえずということであるが、で、あれば、本来、鎌足が、なのである。鎌足等は中大兄皇子を守るのが役目なのである。

・が、中大兄皇子なのである。それは、咄嗟としては、そういうこともあるであろう。何せ、中大兄皇子は血気の19歳なのである。しかし、そうであった場合、当然、鎌足等も、雪崩れ込むであろう。しかし、鎌足はそうしていない。むろん、足がすくんで、ではない。で、あれば、以後、重く用いられることなどない。統括者藤原鎌足と考えるべきであろう。

 

●『日本書紀』皇極4年6月の記述

「中臣鎌足連等、弓矢を持ちて為助衛る。海犬養連勝麻呂をして、箱の中の兩つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授けしめて曰く、『努力努力、急須に斬るべし』という。子麻呂等、水を以て送飯く。恐りて反吐す。中臣鎌足連、責め励しむ。・・・中大兄皇子、子麻呂等の、入鹿が威に畏りて、便旋ひて進まざるを見て曰く、「咄嗟」(やあ)とのたまう。即ち子麻呂等と共に、出其不意く(ゆくりもなく)、剣を以て入鹿が頭肩を傷り割ふ。・・・」 

 

3.5)「韓人殺鞍作臣」の「韓人」は鎌

*そもそも、” 中大兄皇子が蘇我入鹿を殺したこと ” は万人が認めることなのである。如何に、蘇我一族紂罰するかが、大化の改新前提なのである。中大兄皇子が行ったということならば、例えば、古人大兄皇子の言葉は ” 皇子、鞍作臣を殺しつ ” となるであろう。何も、” 韓人云々 ” 等と謎めいて記されることはない。” 韓人は中大兄皇子ではない ” ということである。で、あれば、” 藤原鎌足 ”とするのが妥当なのである。鎌足は、それ程の存在であったということである。

 

軽皇子(孝徳天皇)は、神祇伯就任以前の藤原鎌足に、寵妃を提供して処遇している。元々、鎌足が高い身分であったということである。それはそうであろう。鎌足は、「天智天皇」が思いを寄せた鏡王女を嫡室としているのである。まさか、内大臣に出世してから娶ったというのではないであろう。若い時に娶っている。鎌足は、若い時に、それなりの身分であったということである。

 

 藤原氏九州王朝Ⅰ以来の帰化系高級官僚(神祇)

                 :軽皇子(孝徳天皇)は寵妃を提供して鎌足を処遇

 藤原鎌足嫡室は天智天皇も思いを寄せた鏡王女

               ∴中臣鎌足は若年からの高位者:一舎人からの出世は嘘

 

3.6)「石舞台古墳」と蘇我氏

*当然のことながら、蘇我氏九州の地の存在である。「石舞台古墳」(伝蘇我馬子墓)が奈良飛鳥の地に在っても。むろん、その枝流が、或いは、その後裔が奈良飛鳥の地に勢力を扶植したことを否定するものではない。

 

鎌足も、本来、九州の地の存であったということである。「九州王朝」臣・「朝臣」として。が、奈良の地へ来たということである。「大和王朝」天智天皇の臣として。そうであろう。鎌足の死「天智8年」なのである。(「九州王朝」の天智天皇は最早いない。:後述) 


8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと


(1)大和王朝の王統譜 (2)新唐書の “ 大和王朝 ” (3)旧・新唐書の日本国記事 

(4)日本書紀と新唐書の相違 (5)独自の対唐通交


(1)大和王朝の王統譜


1)新唐書の「大和王朝(日本国)」の王統と『記紀』と一致

 大和王朝は、狗奴国庶流王朝、即ち、天の庶流庶流王朝

            但し、主張される”大和王朝”とは、ほとんど九州王朝Ⅱのこと。

*「大和王朝」が分からない。狗奴国庶流・神武天皇が創基したで王朝、で「九州王朝0」から言えば、庶流の庶流王朝であることは分かる。しかし、『古事記・日本書紀』或いは『新唐』が描く”「大和王朝」”は、ほとんど ”「九州王朝0」ー「応神王朝Ⅰ」ー「九州王朝Ⅱ」(応神王朝Ⅱ)”、つまり、多分、”「九州王朝Ⅱ」主張の正統” なのである。で、一部、神武天皇「欠史八代」「大和の地」の王統ではないか。

 

*明確であるのは、「大和王朝」”「九州王朝Ⅱ」主張の王統 ” に己を結び付けたことである。”正統は、「九州王朝0」ー「応神王朝Ⅰ」ー「九州王朝Ⅱ」(応神王朝Ⅱ)ー「大和王朝」である”と。

 

*このことは、”「大和王朝」の正統が「九州王朝Ⅱ」に由来する ” ということと断じてよいであろう。で、なければ、”「大和王朝」の正統は神武天皇以来の「大和の地の王朝」の王統”とするであろう。むろん、そう描いてはいる。”「大和王朝」は、大和王統の断絶により、近江王統の継体天皇が継ぐというイレギュラーは有ったが、基本は神武天皇以来の「大和の地の王朝」である”と。が、真実は前述ということである。 

 

2)九州王朝Ⅱの王統と「大和の地の王朝」の王統の合体王統 

●九州王朝Ⅱの王統譜に、神武天皇、欠史八代(※)を挿入?

 

※)欠史八代:神武天皇と天智天皇を結ぶ大和の地の王統、即ち九州王朝Ⅱの王統譜に存在しない王

かつ、景行天皇以下、応神天皇・継体天皇(狗奴国本来の王統血統:毛沼の若子を強調、一部「天(あま)(邇邇芸命の血統:久米の若子王者の王譜削除

 

「大和王朝」の王統譜 ” は、「九州王朝Ⅱ」の王統譜の鵜葺草葺不合命以降に、「大和の地の王朝」の王統、神武天皇(初代)からおそらく、開化天皇(第9代)までの王統譜(神武天皇と「欠史八代」)が繰り込まれたのである。むろん、これは ” 腰だめ ” である。

 

*が、神武天皇が「大和の地の王朝」の王で、「大和王朝」神武天皇の王統を受け継ぐと主張し、応神天皇「淡海国」の王で、その五世の孫・継体天皇が新しい「九州王朝Ⅱ」の王で、「大和王朝」が、この「九州王朝Ⅱ」の王統をも受け継ぐとするのであるから、「大和王朝」の王統 ” は、両者を接合するものであろうということである。

 

●「大和の地の王朝」の王統

*が、どうであろう。で、あれば 「大和の地の王朝」の王統 ” は、以降、天智天皇まで、”中を飛ばされた王統”ということになる。しかも、これらの王は遠い祖先である。神武天皇はさておいて、どれだけの伝承があったのか疑わしい。” 実質は、「九州王朝Ⅱ」の王統 ”としてよいのではないか。

 

*尤も、綏靖天皇、安寧天皇位はさておいて、以降も、遠い祖先か疑問である。この間の天皇名に「倭(日本)或いは「大倭(大日本)が冠されていることは決定的であろう。”「大和の地」の王者の名に、この時代、「(日本)」或いは「大倭(大日本)」が冠されることなど有り得ない ” のである。つまり、” 造作された名前 ” ということである。ただし、むろん、これら王者が実存しなかったというわけではない。実在したであろう。が、”「大和の地の王朝」の王者・神武天皇と天智天皇とを繋ぐ王統 ” ではないか。

 

*つまり、”「大和の地の王朝」の王統 ” は、そう明確なものではなかったのではないか。神武天皇の血を引くとしても、である。で、この王統を、神武天皇以降の王統として、ここに整理したのではないか。例えば、この間の、その名に(日本)」或いは「大倭(大日本)」を冠する王者(懿徳天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇)「大和の地の王朝」の王、即ち、”大和の王”、冠しない王者は、”大和の王”ではないが、「大和の地の王朝」の王者・天智天皇に繋がる王者というようにである。

●「大和王朝」の王統

「大和王朝」の王統は、直接的には、応神天皇、その五世の孫・継体天皇に由来するというのが ”「大和王朝」の主張 ” であろう。つまり、「大和王朝」の王統は、「九州王朝Ⅱ」の王統を主としつつ、「大和の地の王朝」の王統に配慮したものということになるであろう。

”「大和王朝」の王統譜 ”” 卑弥呼から「倭の五王」(九州王朝Ⅰ)が存在しない ” のは当然なのである。

 

★むろん、このことは、『古事記・日本書紀』に描かれる「大和王朝」の王が、「九州王朝Ⅱ」の王(王者)、或いは「大和の地の王朝」の王(王者)そのものということではない。同時代の「九州王朝Ⅰ」の王を擬して描かれている可能性は大きいであろう。

 特に、漢風諡号はそうであろう。” 仁徳天皇の「高山」における国見 ”、” 崇神天皇の遠津年魚目目微比賣 ”との婚姻 ”、” 景行天皇の「纏向の日代の宮」” などは、これにあたるであろう。 

3)九州王朝Ⅱの王統譜(狗奴国正統王統譜)

「九州王朝0」の王統

*むろん、詳細には想像できないが、先ず、天御中主尊(あめのみなかぬし)(『古事記』:天之御中主神)、そして、天孫降臨以来の「九州王朝0」の王統との主張から、天津日高日子番邇邇藝命同穂穂手見命、そして、その王統を直接受け継いだと主張する「狗奴国」王・天津日高日子鵜葺草葺不合命と続いたであろう。

 

「豊国」における「狗奴国」の鵜葺草葺不合命の王統

*以後、「豊国」における「狗奴国」鵜葺草葺不合命の王統ということになる。どうであろう。これが、古伝に言う鵜葺草葺不合朝ということではないか。「九州王朝0」「豊国」征服の時期を考えれば、穂穂手見命の早い代(「まえつ君」)からということになる。

 

「鵜葺草葺不合命」も、穂穂手見命と同じく、襲名であったということではないか。この王統の裔・卑弥弓呼穂穂手見命王断絶以降の王である。「鵜葺草葺不合命」と卑弥弓呼の間は数代経過している。この間が「鵜葺草葺不合朝である。この王統は、筑紫に於ける穂穂手見命の正統(数代に亘る穂穂手見命)共に存在してきた。で、筑紫に於ける穂穂手見命王統の断絶以降、穂穂手見命の正統性を主張していということであろう。

 

「狗奴国」の「淡海国」の地に東遷

卑弥弓呼自身、或いは、その近い裔が景行天皇ということになるであろう。「狗奴国」「淡海国」の地に東遷した王である。この王都が周防の大津・佐婆(豊浦)であろう。

 

景行天皇の正統後継者が仲哀天皇であろう。応神天皇へと繋がるが、ここで、王統に変化があったことは確かである。「狗奴新王朝」の祖が応神天皇ということになるであろう。諡に「神」が付くのは故なしとしないであろう。始祖の位置づけなのである。

 

*当然、応神天皇から仁賢天皇まで  は「淡海国」の王、或いは王者ということになるであろう。が、武烈天皇「九州王朝Ⅰ」の王なのではないか。継体天皇Ⅰもである。で、継体天皇Ⅱと繋がるとしてよいのかということである。これは、亦、別に検討する必要があるであろう。 

 

”『新唐』の「大和王朝」の王統は「九州王朝Ⅱ」の王統 ” としても、これが、” 純然たる「九州王朝Ⅱ」の王統 ” とは断じ難いからである。”「大和王朝」が、そう主張している ”ように、この王統が ”その影響を受けている ” 可能性は否定し難いからである。

●「大和王朝」の主張

 

「大和王朝」の主張は、継体天皇Ⅱの正統性にある ” と思われるのである。むろん、” この影響は継体天皇Ⅱ以前に遡る ” であろう。当然、” 応神天皇は、その重なるもの ” である。が、これはきりがない。残されているのは”「大和王朝」の主張 ” なのである。 

 

*総じて” 邇邇藝命以来の正統王統譜  即ち、「狗奴国」正統王統譜 ということになるであろう。 

  狗奴国正統王統譜邇邇芸命・穂穂出見命(天津日高日子)

 ~葺不合命(豊国の狗奴国王の王統:久米の若子)~ 景行天皇(淡海国の狗奴国王の王統)

 ~欽明天皇以下、「天(あま)」王統


(2)新唐書の “ 大和王朝 ”


1)『新唐書・東夷伝・日本』 

『新唐書』”「大和王朝(日本国)の王統」” はほぼ『古事記・日本書紀』のそれと一致する。 

「・・・皆以尊為號、居筑紫城、彦瀲子神武立、更以天皇為號、徒治大和洲、次日綏靖

・・・継体、次安閑、次宣化、次欽明。欽明十一年直梁承聖元年。次敏達、次用明、亦日目多利思比孤、直隋開皇末(二十年:600)、始興中国通。次崇峻、崇峻死、欽明の孫女推古立。次舒明、次皇極。其俗推鬠無冠帯、跣以行。幅巾蔽後、貴者冒錦、婦人衣純色、羣(君の下が羊ではなく衣)長腰襦、結髪于後。至煬帝、賜其民錦綫冠、飾以金玉。文布為衣、左右佩銀□、長八寸、以多少貴賤。太宗貞観五年、遣使者入朝。帝衿其遠、詔有司母拘歳貢、遣新州刺史高仁表往論。興王争禮不平、不肯宣天子命而還。久之更付新羅使者上書。栄徽初、其王孝徳即位、改元白雉。獻虎魄大如斗、瑪瑙若五升器。時新羅為高麗百済所暴。高宗賜璽書、令出兵援新羅。未幾孝徳死、其子天豊財立、死、子天智立。明年使者與蝦夷人偕朝。蝦夷又居海島中。其使者須長四尺許、□箭于首、令人載瓠立数十歩、射無不中。天智死、子天武立、死、子摠持立。咸享元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、悪倭名、更号日本。使者自言、国近日所出、以為名。或云、日本乃小国、為倭所并、故冒其号。」

 

*この「王朝」が中国王朝と始めて通交を持ったのは、用明「天皇」の時、隋の開皇末(開皇二十年=推古八年:600「次用明、亦日目多利思比孤、直隋開皇末、始與中国通」であるという。つまり、新しい「王朝」であると。 「日本古倭奴也・・居筑紫城・・神武立・・更以天皇為號、徒治大和州・・応神・・次用明、亦日目多利思比孤、直隋開皇末(二十年:600)、始興中国通」(『新唐書』)

 

〔概訳〕神武天皇に至って天皇を号し、大和州に遷り・・用明(日目多利思比孤)が隋の開皇二十年、初めて中国と通交した。 

 

*ここで、古代史研究者は、皆、”こう思った”ということになるであろう。”この王朝は「九州王朝」(「倭国」)ではなく、「大和王朝」(「日本」)である”と。・無理もない。いや、当然と言うべきか。『新唐書』が「東夷伝・日本」としているのであるから。かつ、「倭国」であれば、「世與中国通(代々中国と通交)(『旧唐』)なのである。 

 

・で、「大和王朝」が、始めて、中国と通交を持ったのが推古八年頃であろう ” と。で、定説論者は ” 聖徳太子の遣隋使 ” を言い、「九州王朝説」論者は ”「九州王朝」の対隋通交が何らかの理由により、「大和王朝」のものと混同されたもの ” としながらも、まあ、この事実は疑えないと。  

 

2)天皇号は 九州王朝内の存在 

*しかし、おかしい。第一に、この「王朝」の王は神武天皇以来、「天皇」を称号としてきた。(「神武立、更以天皇為號」)ということである。で、あれば、『百済本紀』「日本天皇」は文字通り、この「王朝」の王ということになるであろう。「九州王朝説」は成り立たない。まさか、”「九州王朝」の王も、「大和王朝」の王も、共に、「天皇」を称号としてきた”などと言うのではあるまい。むろん、これも、「九州王朝説」の成り立つ話ではない。

 

*「九州王朝説」は正しい。『百済本紀』「日本天皇」「九州王朝Ⅱ」の王である。で、あれば、「九州王朝Ⅱ」の配下である「大和王朝」の王が、同等の「天皇」を号してきたなど有り得ない。 

 

*明確であろう。「大和王朝」は、「九州王朝」の王の称号を奪ったのである。”「九州王朝」の王が代々号してきた「天皇」号を「大和王朝」の王が代々号してきたものである”と。”神武天皇まで遡らせて”である。では、この「王朝」は「天皇」称号だけを「九州王朝Ⅱ」から奪ったのであろうか。「日本」号(後述)のように。 

 

3) “ 大和王朝の王統譜 ” 中の「多利思北孤」

● 目多利思比孤とは九州王朝Ⅱの仏法天子・多利思北孤

 「大和王朝」の王統 ” そのものが「九州王朝Ⅱ」の王統であるから、”「大和朝廷」が用明天皇を「多利思北孤」に当てた ” 或いは ”「多利思北孤」は用明天皇・「目多利思比孤」の間違い”説等々は皆、間違いということになる。 

 

” そもそも、この王統には、『隋書俀国伝』(以下、『隋書』)の「多利思北孤」が存在しない。この「多利思北孤」が「九州王朝Ⅱ」の王、即ち、「日出処天子」であることは「九州王朝説」の眼であろう。このことは、この王統が「九州王朝Ⅱ」とは別の王統、即ち、「大和王朝」のものであることを示している ” というであろうか。 

 

*しかし、開皇末対隋通交は、「九州王朝Ⅱ」(「倭国」:阿蘇山下の王朝「有阿蘇山其石無故火起接天」)、即ち、「多利思北孤」のものである。「大和王朝」即ち「大和の地の王朝」(「徒治大和洲」)の王・用明天皇(「目多利思比孤」)のものではない。 当然、”「多利思北孤」とは、用明天皇(「目多利思比孤」の間違い)(『隋書』の間違い。『新唐』が正しい)”、或いは、”この対隋通交が推古天皇下の聖徳太子によるものであることは常識。『新唐』は」用明天皇と推古天皇を取り違えた。(『新唐』の間違い) として済む話ではない。 

 

*この目多利思比孤とは多利思北孤のことである。「目」が「自」、「比」が「北」の誤り、即ち、” 亦曰(またいわ)く自ずから多利思北孤と”である。つまり、”「多利思北孤」とは「用明天皇」のこと”という解釈は置いて、この「王朝」「多利思北孤」を内在させる「王朝」、即ち、「九州王朝Ⅱ」の事なのである。

 

●「多利思北孤」は自署名

*『新唐』は、「彦瀲子神武立、更以天皇為號と記している。「ヒコ」を「比孤」と記す理由はない。たとえ、該当資料が ” 日本国使者から聞き取り ” としてもである。既に先例(「実」)がある。「卑狗」が適当であろう。むろん「大和王朝」が「ヒコ」を「比孤」と記す道理もない。「ヒコ」は「彦」或いは「比古」、「日子」、「毘古」である。 

 

*そもそも、「多利思北孤」とは、「 衆生(多)済度(利)」を「願(思)(多利思)う「天子(北孤:南面する君子)(仏法天子)と「多くの矛(足矛(たらしほこ):八千矛)」を有する” 武力強大な「天子(北孤)」を掛けた特別名「号」”なのである。その主要な部分が他者と共通し得るものではない。 

 

*そもそも、「多利思北孤とは国書「其国書曰日出処天子致書日没処天子」)の自署名なのである。「仏法天子」を自任する自署名なのである。そう「表意」通意する「多利思北孤」が相応なのである。 そもそも、「目多利思比孤」では、其「表意」・「メタリシヒコ」以外、何も通意しない。中国側が聞いて、例えば、「目足彦」を、そう「表音」表記したのであればあり得るかもしれない。が、自署名なのである。「目足彦」と署名されるであろう。 

 

*猶、”「目多利思比孤」とは「多利思北孤」のこと”は、解釈ということであろうか。 「目多利思比孤」は ” 亦曰(いは)く自(みずか)多利思北孤と(「亦日自多利思北孤」)” の誤り。 

(誤植)そもそも、開皇20年、始めて中国と通交したのは多利思北孤 

 

  ” 大和王朝の王統譜 ” は、阿蘇山下の王朝、即ち、九州王朝Ⅱの王統譜  

 

3)日本国、即ち、” 争礼 ” の倭国は、新唐書の誤認 

●貞観5年(631)唐使「不宣朝命而還」(ちょうめいをのべずしてかえる)

 *では、貞観五年(631)の通交はどうだ。この通交は、唐と「九州王朝Ⅱ」(「倭国」)とのもの(「旧唐書倭国日本伝」、以下『旧唐』) なのである。この通交は、同時に、それぞれ、という訳にはいかない。” 争礼不調 ” という内容までが同じなのである。まさか、これをも、「王子」(『旧唐』)「王」(『新唐』)として、別王朝のこととするわけにはいかないであろう。 

 

◆『旧唐書』の倭国記事(王子と争礼 = 『新唐書』の日本国記事(王と争礼) 

王子と争礼(具体的相手)= 王と争礼(本質) 

*そもそも、「王子」と「王」の違いは、” 厳密にはない ” のである。そうであろう。『旧唐』の ” 王子との争礼 ” も、本質は ” 王との争礼 ” なのである。であるから、表仁無綏遠之才(表仁、綏遠(外交)の才無く)、與王子争礼(王子と礼を争い)、不宣朝命而還(朝命を宣ずして還る)」なのである。 

 

*争いは、直接的には、王子と唐使・表仁との間で争われたが、王子の立場は、「倭国」王の立場ということなのである。表仁は、王子と喧嘩して、朝命を宣べずに帰ったということではない。それでは、「外交(綏遠)の才が無い」などと言えるものではない。 

 

『旧唐』は、事実(現象)として、” 表仁は王子と礼を争った”としているのに対して、『新唐』は、本質として、” 表仁は王と礼を争った ”(與王争礼不平、不肯宣天子命而還)としているのである。 

 

*つまり、”「多利思北孤」と「争礼」” が記録される「王朝」は「九州王朝Ⅱ」と解する他ないのである。即ち、この「王朝」は「九州王朝Ⅱ」であると。当然であろう。この「王朝」は ”(「永徽初、其王孝徳即位、改元白雉)” のである。”「白雉」以前に遡る「大和王朝」の列島覇権の確立(年号の連続発布)”など、とても、「九州王朝説」に整合するものではない。むろん、”「白雉」は例外的に公布される「大和年号」などでは有り得ず、一連の「九州年号」の一”である。 

 

*この「王朝」「天智九年」以前「倭国」であった(「咸享元年(天智九年:670)、遣使賀平高麗(使いを遣わし高麗を平らぐるを賀す)。後稍習夏音(後、やや、夏音を習い)、悪倭名(倭名を悪み)、更号日本(さらに、日本と号す)」)” というのである。”「白雉詔」の証言”は再説しない。” この、後に「日本国」を名乗る「倭国」が唐と戦った「倭国」である ” ということなのである。 

 

*それとも、「九州王朝説」論者は、この時代、”後に「日本国」を名乗る「倭国」(「大和王朝」)の他に、もう一つの【倭国】(「九州王朝」が存在した)”というのであろうか。 

       倭国は、既に、後に日本国を名乗る倭国に代わっている。 

 

*なお、『新唐』は、唐使表仁の派遣を倭王・皇極天皇代(後述)としている。当然『日本書紀』の ” 舒明天皇代 ” と相違する。が、我が国の二元体制を考えれば、倭王・皇極天皇は ” 法皇・山背大兄王(利歌彌多佛利)” の可能性が大きいであろう。


(3)旧・新唐書の日本国記事


1)「併合・被併合説」は誤り:共に ” 日本国の倭国併合を証言 ”

*『旧・新唐』に、言われているような齟齬はない。共に、” 日本国の倭国併合 ” を証言している。違いは併合の時期である。 

 

*不思議な説が流布している。他の説を一切聞かない。疑うべからざる定説と言っても過言ではないであろう。 

 

 ”日本国・倭国の併合・被併合関係旧・新唐書ではになっている”ということである。

 ”『旧唐』では、日本国が倭国を併合したと書かれている ” が、

 ”『新唐』では、日本国が倭国に併合されたと書かれている ” と。 

 

・しかし、この定説は間違っている。 

 

●『旧唐』関連記事 

「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本旧小国、併倭国之地。」

旧唐書:「日本旧小国(日本、元、小国)併倭国之地(倭国の地を併す。)

・ 『旧唐』の「日本旧小国、併倭国之地。」はよい。” 小国であった日本国が倭国を併合した ” である。異論もないし、これ以外に読みようもない。 

 

●『新唐』関連記事 

「咸享元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名、更号日本、使者自言、国近日所出、以為名、或云、日本乃小国、為倭所并、故冒其号。」 

『新唐』:「日本乃小国(日本、即ち、小国)為倭所并(倭を併せる所と為し)故冒其号(故に、其の号を冒す。) 

 

*問題は、『新唐』の「日本乃小国、為倭所并、故冒其号。」の 為倭所并」であろう。これが、果たして、”倭(国)に併合された”と読み得るかということである。この部分のみを読めば、そうも読めるということである。” 倭ノ為ニ并サルル所トナリ ” 或いは ” 倭ノ并セル所トナリ ” である。 

 

*しかし、この文章は、「日本乃小国、為倭所并、故冒其号。」で有意なのである。そう読んだとすれば、” 日本国は小国であったが、倭国に併合され、それで、倭国(「其」)の称号(「日本」)を奪って、日本と名乗った ” ということになる。” 併合された国が、其併合した国の称号を奪って、日本を名乗った ” というのである。意味をなさないであろう。 

 

★「為倭所并」が”倭の并せる所(倭国が日本國を併合した)”では、

・・・” 故に(それで)日本が其(倭)の号(日本)を冒す(名乗った)が ” 通意しない

 

*尤も、” この文章は、「日本乃小国、為倭所并、故冒其号。」で有意 ” どころではない。そもそも、この本そのものが、『新唐』東夷伝・日本なのである。” 存在する日本伝 ”なのである。” 存在しない(併呑された)日本伝 ” であるわけがないであろう。この部分は、” 倭(国)を併合し”である。直接的な読みとしては、” 倭ヲ并セル所ト為し” 或いは ” 倭所ヲ并為シ ” であろう。この文章は、”日本国は小国であったが、倭国を併合し、それで、倭国(「其」)の称号(「日本」)を奪って、日本と名乗った”ということである。何の変哲もない。

 

●日本国が倭国を併合

” 日本国が倭国を併合した”ことは、旧・新唐書共に同じなのである。”日本国・倭国の併合・被併合が旧・新唐書では逆になっている”との定説、即ち、日本国が倭国に併合された(倭国が日本国を併合した)虚説である。 何故、このような虚説が定説として語られ、論じてこられたのか。全く理解不能である。ことは漢文読解能力の問題ではないのである。敢えて言おう。これは、我が国の古代史研究における病弊なのである。”そう読みたい。そう読むべきだ”と。 

 

”「日本国」(「大和王朝」)が「倭国」(「九州王朝」)を併合した ” は都合が悪いからである。” 古来より、一貫して、列島の代表主権王朝は「日本国」(「大和王朝」)との主張に整合しない。” 古来からの主権王朝は「倭国」(九州王朝)” なのである。で、旧・新唐書の ” 矛盾 ” として、事実を曖昧なものとして置こうと。” 無かったこと ” にして置こう。そもそも、このように ” 相矛盾する ” 中国史書は信ずるに足りない。 

 

2)新唐書記事は、新事実を加えた旧唐書記事の確認

●『旧唐』&『新唐』の記事 

*なお、『旧唐』 

A:日本国(の王統)は倭国(の王統)の分かれ(別れた種)である。国が日辺に近いということで日本を名としている。 

B:或いは、倭国自身がその名が雅ではないと嫌って、日本と改名したと言われるし、また、日本は、元(旧)、小国であったが、倭国の地を併合したともいわれる。 

 

*A、Bに差があると思われる。Aは確実な情報。Bは不確実な情報である。 

 

『新唐』 

C:咸享元年、使者を派遣し高句麗平定を賀した。後、中華の発音に習熟して倭名を嫌い日本と改めた。使者は国が日の出の所に近いので名としたと言っている。 

D:また、日本は小国であったが、倭国の地を併合し、その号を奪って名乗ったとも言われる。 

 

*Cは確実な情報。Dは不確実な情報である。

 

『旧唐』&『新唐』日本国認識

*Aの「国が日辺に近い」がCの「使者の言」として確認され、Bの「倭国自身の改名」がCの「咸享元年後」として確認され、Bの「日本国の倭国併合」も、Dの「倭国の称号・日本を奪った」という新事実を加えている。 

 

*つまり、旧・新唐書の日本国認識に、言われているような齟齬はない。『新唐』の「日本古倭奴国也」が『旧唐』の「倭国者倭奴国也」と同じであるのは、” 日本国が倭国を受け継ぐ王朝である”  という認識に基づくものであろう。  

  「日本国が倭国を併合」⇒「日本国が倭国を併合して、倭国の号・日本を名乗った。」 等 

 

3)相違は併合時期(新唐書の誤認)

●旧・新唐書の相違 

旧・新唐書の相違は、” 日本国が倭国を併合した時期 ” である。『旧唐』は ” 貞観22年(648)から長安3年(703)の間 ” としているのに対して、『新唐』は、” 開皇20年(600)頃 ” としていることである。 

 

*むろん、旧・新唐書自身が、明確に、そう述べているのではない。『旧唐』は ” 貞観22年(大化四年)(648)の通交を従来の倭国とのものであるとしているとし、長安3年(大宝3年)(703)の通交を日本国との初交としている ” からであり、『新唐』は”開皇20年(推古8年)(600)の通交が日本国(咸享元年以降、日本国と改号する倭国)との初交としている”からである。 

 

『新唐』は、開皇20年(600)、つまり、「俀王」・「日出処天子」・「多利思北孤」の時点で、列島の主権日本国に移していたと認識していたということである。つまり、間違いである。”「九州王朝説」から斯く断じ得る ” というのではない。俀王阿蘇山下の王朝であり、ここが「扶桑」と呼ばれた地であるからである。” 日本国「扶桑の東」 なのである。 

 

*が、間違えた理由は明確である。倭国の王統が替わったのである。この王統は、中国が代々通交してきた「倭の五王」に遡るものではなかったからである。「九州王朝」「倭の五王」王統から継体王統(「狗奴国」王統)に代わった ” からである。そして、この王統は、日本国己のものと主張する王統ほぼ同じであったからである。つまり、 日本国の倭国併呑は開皇20年(600)以前に完了していると。つまり、”既に、『旧唐』の「倭国」は存在しない。存在する「倭国」は後に「日本国」となる「倭国」である”と。『旧唐』が正しいということである。 

 

*しかし、『旧唐』にも疑問があるであろう。何故、”『旧唐』は開皇20年(600)の通交を倭国とのものとしなかったのか。” 或いは、” 日本国のものとしなかったのか。” と。 

 

●旧唐書の認識 

*これは明確である。”『旧唐』は倭国とのもの ”としている。「世與中国通」と。” 倭国は代々中国と通交してきた国である”と。”『旧唐』は隋代を省いている”のである。 

 

倭国最後の遣使 貞観22年(大化4年:648)から日本国の最初の遣使 長安3年(大宝3年:703)の間 

 

●新唐書の認識 

*”『新唐』の記す「日本国」の王統は「九州王朝Ⅱ」の王統である”ということである。

”「大和王朝」は「九州王朝Ⅱ」の王統を己の王統と主張している”ということである。”『新唐』の錯誤は、この安易な折衷判断に依る”としてよいであろう。 

 

*倭国から後に日本国を名乗る倭国への王朝交代は開皇20年(600)以前に完了

 :九州王朝Ⅰから九州王朝Ⅱへの交代九州王朝(倭国)から大和王朝(日本国)への交代と誤認した。(九州王朝Ⅱ=大和王朝)倭国の王統は倭の五王以前(九州王朝Ⅰ)と違う。 

 

”  多利思北孤を含む王統譜(九州王朝Ⅱの王統譜)は日本国の王統譜 ” 、” 日本国がそう主張している ” 「使者不以情、故疑焉(死者は事実を応えていない、故に疑わしい) 

 

4)新唐書「日本国」:定説と九州王朝説の都合・不都合

・むろん、『新唐』の「日本国」の内容が、ということである。 

★一顧する余裕が有れば、”九州王朝の交代””所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと”であることは明白 

●定説の合都合  

『新唐』は定説にとって都合がいいであろう。筑紫から大和へ遷ったと。神武天皇以来、「天皇」を称号としたと。王統も ” 「大和王朝」の主張そのもの ” である。まさに、” 神武天皇以来、「大和王朝」は列島の主権王朝 ” である。

*むろん、『新唐』が、そう言っているということではない。筑紫から大和への移転といい、「天皇」称号といい、「大和王朝」の主張、即ち、定説と矛盾しないということである。

 筑紫から大和への遷都、大和王朝の神武天皇以来の「天皇」称号 

(大和朝廷の一貫統治の肯定:定説の合都合) 

●九州王朝説の不都合 

* 何故、九州王朝の目多利思比孤 の対隋通交が、「始興中国通(始めて、中国と通ず)」なのか。

 (九州王朝の一貫性の否定:九州王朝説の不都合)

 

*九州説にとって、何が不都合であるか。それは、「倭の五王」以前に遡る対中国通交の「実」であろう。この王朝は、多利思北孤(目多利思比孤:用明天皇)以前に遡る中国通交の実績がないということである。そうであろう。” 神武天皇以来、「大和王朝」は列島の主権王朝 ” であれば、多利思北孤以前に遡る対中国通交は、皆、この王朝のもののはずなのである。

 

*で、” 採用した ” のが、” 中国史書不信説(出鱈目説)” である。後は、”やり放題”。都合よく、中国史書の断片を定説に整合すればよい。代表例として、「邪馬台国・大和説」を挙げれば十分であろう。 既に、「天皇」号等について述べた。何よりも、” 多利思北孤の時点で、後に日本国を名乗る「倭国」(以下、日本国或いは「大和王朝」)が倭国を併合している ” ということであろう。 

 

*失礼ながら、所謂「九州王朝説」論者には何のことであるか解らないであろう。” 倭国(「九州王朝」)対唐敗戦まで存続する ” のであるから。当然、” 多利思北孤の時点で、日本国が倭国を併合している ” など、偏見による解釈というであろうか。 

 

●『新唐』の記述のスタンス 

*では、何故、”『新唐』は存続した、列島王朝である「九州王朝」(倭国)を記さず、その後、これに代わった「大和王朝」(日本国)のみを、未だ、一地方政権の時代にまでさかのぼって記すのか ” こたえられるであろうか。 

 

*そもそも、中国王朝は主権王朝と通交せず、地方政権と通交し、それのみを正史に記すのか。まさか、”「九州王朝」と対立関係に在ったから ” 或いは ”「九州王朝」は、後に亡んでしまったから ” などと言うのではあるまい。 

 

*「大和王朝」に、「九州王朝」を抹殺する理由は有っても、『新唐』に、「九州王朝」を抹殺する理由など有り得ないであろう。むろん、” 対立した王朝或いは亡んだ王朝は記さない ” などということが有り得ないことは言うまでもない。 

 

●「九州王朝説」論者の取り組み 

*そもそも、所謂「九州王朝説」論者は、この疑問に真面目に取り組んでいないと断じざるを得ない。そうであろう。取り組んでいれば、当然、『新唐』は、多利思北孤の時点で、日本国が倭国を併合しているとしている ” と思い至るはずなのである。即ち、” 既に、日本国が列島の主権王朝であるとしている”と。が、斯く論及は寡聞にして知らない。

 

*で、あれば、これが、『新唐』の誤認であると断じるのは容易なのである。” 多利思北孤は阿蘇山下の王朝の王者 ” なのである。”『新唐』は「九州王朝Ⅱ」「大和王朝」としている ” と。で、あるから、貞観5年の「不宣朝命而還」を、この王朝のこと、としていると。当然、「目多利思比孤」「目多利思比孤」の間違いである”と。 

 

*で、あれば、『新唐』が ” 多利思北孤の時点で、日本国が倭国を併合している ” と認識したのは、”「九州王朝」が、多利思北孤の時点以前に、「大和王朝」が己の王統と主張する王朝に代わっていたから”と理解するしかないであろう。 

 

●継体天皇の捉え方 

*と、すれば、この ” 切り口  は、時代的にも、”「大和王朝」の主張 ” としても、「倭の五王」 継体天皇の間と断じざるを得ないであろう。即ち、本既論究は正しいと。 

 

「九州王朝」の王統は、継体天皇以「九州王朝Ⅰ」から「九州王朝Ⅱ」へと変わる”と。 ” 定説の不都合も、「九州王朝説」の不具合も解消する ” と。

 

*所謂「九州王朝説」論者も、” 継体天皇「大和王朝」(「大和の地の王朝」王者 ” という刷り込みに囚われているのである。このご認識に立つ限り、”逃げ場”は”「九州王朝」のことを「大和王朝」のこととした”とするしかないであろう。”「大和王朝」大騙(おおかたり)り説”である。 

*例えば、孝徳天皇白雉の詔建元である。「九州王朝」建元「大和朝廷」の孝徳天皇建元とした”と。むろん、これは、”「九州王朝」孝徳天皇の詔、建元 ” である。 

 

●『古事記・日本書紀』が描く王廷 

*例えば、『日本書紀』は、「大和王朝」の王廷を描くのに、その王を「天皇」とし、その王妃を「后」或いは「大后」とし、その跡継ぎの太子を「皇太子」或いは「東宮」などと描いた。むろん、これは、「九州王朝」「天皇」「皇太子」或いは「東宮」のことを「大和王朝」のこととした ” ということである。 

 

*当然のことながら、「大和王朝」が列島の代表王権代表と成る八世紀以前に於いて、『古事記・日本書紀』「王廷」として描く「王朝」「九州王朝Ⅰ・Ⅱ」のこと ” なのである

 

即ち、”「九州王朝Ⅱ」以前(「狗奴国」:「豊国」、「淡海国」時代)大和王朝の王廷「九州王朝Ⅰ」の王廷 ” で、”「九州王朝Ⅱ」時代の「大和王朝」の王廷は「九州王朝Ⅱ」の王廷”である。むろん、”「九州王朝Ⅰ」は偽王朝 ”であり、その記事は、天皇の諡号の他、極力抑えられたということであろう。 

 

*で、恐らく、” 王廷として描けなかったのが「欠史八代」、即ち、「九州王朝Ⅰ・Ⅱ」に当て得ない「大和の地」の王統 ” ではないか。この王統は、「大和王朝」に繋がる大事な王統ということである。 

 

*むろん、” この時代の存在 ” ではない。”  神武天皇は景行天皇と同じ頃の存在 ” なのである。で、あるから、” 当て得ない(「欠史」)”ということである。 

 

「大和朝廷の騙り」 

「大和王朝」の騙り  の主は、” 景行天皇以前の「豊国」、以降の「淡海国」の存在、即ち、一地方勢力時代の存在主権王朝の王廷の如く描いたこと、或いは、一地方勢力時代から「九州王朝Ⅱ」まで、全て「大和の地」の存在  ということにあるのであろう。 

 

『新唐』は、”定説化”しているように杜撰なものではない。錯誤は、” 日本国の倭国併合時期  なのである。これは、正しい「九州王朝説」に立てば克服し得る問題である。不当評価のほとんどの責は読者に在る。


(4)日本書紀と新唐書の相違


1)「天皇」(王)譜は同じであるが在位、続柄が大きく異なる。 

『新唐』と『日本書紀』の王統譜 

『新唐』の記す「大和王朝」の王統と『日本書紀』の記す「大和王朝」の王統とは相違する。正確に言えば、王譜はほとんど似るが、その続柄、在位年は大きくずれる。即ち、「九州王朝Ⅱ」の「天皇(王)」譜「日本国」の王譜としているということである。

 

『新唐』「倭王譜(九州王朝Ⅱの王統)そのまま。『日本書紀』「弟」王譜を正統とする一元王統譜ということであろう。即ち、「兄」(「天皇」「天子」)抹殺・「弟」(「大王天皇」「天皇」)一元王統である。 

 

*が、むろん、「兄」は、全て、抹されているというのではない。「兄(天皇)である欽明天皇継体天皇(弟) ”などとされ。「兄(天子)である「法皇号天子」多利思北孤とその子・利歌彌多弗利は、それぞれ、推古天皇(弟)下の聖徳太子皇極天皇(弟)下の山背大兄王であると。 そして「帝号天子」天智天皇(後、貶号して天皇)は、斉明天皇(弟)下の皇太子である等と調整されているということである。 

 

●『新唐』と『日本書紀』の認識 

*『新唐』の認識 、 ” 後に「日本国」と名乗る「倭国」”とは、文字通り「倭国」、即ち「九州王朝Ⅱ」のことである。で、「大和王朝」は、” この王譜は己のもの ” と主張しているのである。本来王譜に大きな相違はないはずなのである。

 

しかし、その続柄在位年が大きく違うのである。この相違は、”「大和王朝」の作為による”と断じざるを得ないであろう。 

 

●『日本書紀』と『新唐』の作為の動機

*この認識の相違は、『新唐』に作為の動機を見出すのは困難であろう。『新唐』が、その王譜を知らない、或いは詳しくは知らないというのであれば、こうは言えない。作為は無くとも杜撰な編集は有るであろうからである。 

 

*が、例えば、「欽明11年直梁承聖元年」(承聖元年は欽明13年)とまで確認しているのである。当然、中国側の資料(「実」)に基づいてである。この「実」を疑うのは困難である。かつ、” この王譜は「九州王朝Ⅱ」のもの ” なのである。であれば、「法皇号天子・多利思北孤」斉明5年の天智天皇」天智9年の持統天皇」等が記されない『日本書紀』に作為が有るのが明白なのである。 

 

*”『日本書紀』は絶対正しい ” とすれば、『新唐』の記述を、「日本国」の一僧がもたらした『王年代記』(※)に依ったなど、しかも、杜撰に誤記したなど、と断じざるを得ないであろう。” 古代日本人愚者説 ” と同じ手である。” 古代中国人は斯様に杜撰であった ” と。 

 

(※)『王年代記』:984年に東大寺の僧の奝然(ちょうねん)が宋に渡り、『王年代記』等を中国に伝えています。その内容は、『宋史』の「日本国伝」に紹介されています。日本神話にかかわる異伝を含む貴重な史料です。(Webサイト)  

 

●『日本書紀』の作為 

*しかし ”『日本書紀』に作為 ” なのである。そして、「法皇号天子・多利思北孤」斉明5年の天智天皇「天智9年の持統天皇」等、皆”『日本書紀』の「天皇」よりも上位の存在” であれば、”『新唐』は倭王(兄)(天皇・天子)を記したが、『日本書紀』は王弟譜(大王天皇・天皇)一元王統として作為した ” と断じられるということである。 

 

●ずれや相違 

*で、この整理のため、ずれや相違が生じたということである。日出処天子・多利思北孤(600)用明天皇(585~587)が同じということであれば、「13年以上のずれ」ということになる。当然、用明天皇が繰り下がるということである。欽明天皇(539~571)2年繰り下がる。当然、『上宮聖徳法王帝説』(継体25年即位:531とも異なる(継体27年即位:533こととなる。 

 

推古天皇(593~628)欽明天皇(539~571)「孫」としている。「子」と「孫」の違いであり、欽明天皇(539~571)、推古天皇(593~628)間の敏達天皇(572~585)、用明天皇(585~587)、崇峻天皇(587~592)を考えれば、誤認もあり得るかもしれない。 

 

*しかし、そもそも、用明天皇(多利思北孤)の繰り下がりで、崇峻天皇はむろん、推古天皇の治世はほとんど飛んでしまう。用明天皇が「十三年以上繰り下がる」可能性は否定できないが、そもそも、” 日出処天子・多利思北孤は用明天皇  は無理なのである。

 

皇極天皇(「天豊財重日足姫」)(642~645)が貞観5年(舒明3年:631)、唐に使者を派遣してきたと。で、太宗が新州刺史の高表仁を派遣したと。「興王争禮不平、不肯宣天子命而還」である。皇極天皇「11年以上遡る」こととなる。 

 

*これは、” 舒明天皇の誤り ” などとすることはできないであろう。共に、使者を交換しているのである。” 礼を争う ” 真剣勝負、緊迫したやりとりを記録する相手なのである。 

 

* ” それはそうであるが、そもそも、唐側が、「皇極天皇」などと言う諡号を知っていたという訳ではない。これも、唐側の比定とすれば、資料対比において、ずれたという可能性もあるであろう。そもそも、この王は女王とはされていない ” ということであろうか。 

 

*杜撰な編史者ということになるであろう。この手の可能性は百%否定できないが、当然、” 舒明天皇(629~641)は、その上にずれる ” ということである。この手の間違いは ” 皇極天皇は女性 ” ということでは可能性が小さいということになるであろう。” 礼を争う真剣勝負の相手が女性 ” であれば年次を間違う可能性は小さいであろうからである。” 皇極天皇は男性 ” の可能性があるということである。 

 

孝徳天皇(645~654)の即位が白雉元年(650)で、5年ずれることは既にふれた。大化5年(639)に存在した王者が抜けている。即ち、” 中大兄皇子の帝号天子即位 ” の可能性もである。面白いことに、皇極天皇(642~645)と孝徳天皇(645~654)の継承も、続柄も、不記載である。『宋書』の ” 珍・済の継承に似る ” であろう。 

 

皇極天皇(642~645)から孝徳天皇(645~654)への継承移行に、特別な事情が介在したということである。それが、即ち、「大化の改新」の挫折であれば、『日本書紀』の話とは大分違うことと成る。” 皇極天皇は「大化の改新」の断行の為、退位した(大化元年)のではなく、挫折で退位した(大化5年:(639)ことになる ” からである。” 大化の5年間に存在した王者とは皇極天皇 ” ということになるであろう。 

 

孝徳天皇(645~654)斉明天皇(655~661)「親と子」とされている。『日本書紀』の弟・姉”そもそも、斉明天皇皇極天皇(天豊財重日足姫)重祚 という主張と大きな違いである。『新唐』の記録が正しいかどうかは置いて、” 皇極天皇(と中大兄皇子、皇極天皇は中大兄皇子が擁立した王者として)孝徳天皇対立関係 ” を考えれば ”『日本書紀』は全くの嘘 ” ということになるであろう。 

 

〔孝徳天皇以降の続柄〕

*孝徳天皇以降、続柄が常記されるようになる。当然のことながら、代が下るに従って詳しくなるということであろう。しかし、これが、全く、相違する。 

 

斉明天皇(655~661)天智天皇(668~672)「親と子」は『日本書紀』に整合するが、そもそも『新唐』に「斉明天皇」が存在しない。「天豊財」であると。一人漢風諡号ではなく和風略号の王者である。「天豊財」「天豊財重日足姫」として、斉明天皇とは別人。「親と子」の関係は「天豊財」天智天皇との関係ということになるであろう。 

 

*そして、天智天皇天武天皇「親と子」で、天武天皇持統天皇「親と子」である。「兄弟」でも「夫婦」でもない。かつ、持統天皇「摠持」と記される。 

 

*” 中国の王朝は父子相続を基本とした。これは、その考えによる『新唐』史官の誤断であろう。斉明天皇の名前表記も、「天豊財重日足姫」に相応する。この程度の齟齬、持統天皇の名前の間違いなど、あり得る範囲のものである”というのであろうか。 

 

・” 全て『新唐』が正しく、全て『日本書紀』が間違い或いは嘘 ” などと断じることはできない。が、斉明5年(659)天智天皇(668~672)天豊財立、死、子天智立。明年使者興蝦夷人偕朝、天智9年(676)持統天皇(690~697)(「天智死、子天武立、死、子摠持立。咸享元年、遣使賀平高麗」はどうだ。”『新唐』が間違えた”は無理なのである。”『日本書紀』が嘘をついている” ということなのである。

 

〔倭王譜を騙る動機〕

*かつ、くどいが、”『新唐』には、倭王譜を騙る動機がない ” が、”『日本書紀』には騙る動機がある”ということである。”「大和王朝」は天孫降臨以来の列島正統の王朝であり、神武天皇以降、大和の地を本拠とする王朝である”という大騙りである。 

 

*『日本書紀』の ”「大和王朝」の王統 ” は、対唐敗戦を境として、以前は、「天皇」より上位なる存在(天子)以降大宝元年までの間「大王天皇」より上位なる存在(天皇)が隠されているのである。共に、ナンバーワンの王者の存在である。 

 

*即ち、「法皇号天子・多利思北孤(聖徳太子)」、「舒明3年の皇極天皇」、(法皇号天子・山背大兄王、「大化5年間の王者」(帝号天子・天豊財或いは帝号天子・中大兄皇子、「斉明5年の帝号天子・天智天皇」、そして、「天智9年の持統天皇」である。 

 

2)斉明5年の天智天皇 

●『新唐書』と『日本書紀』の記事 

『新唐書』に記す「子天智立。明年使者興蝦夷人偕朝(子天智立ち、明年、使者と蝦夷人、共に朝す)」の記事が、『日本書紀』が斉明5年(659)のこととして記す「小錦下坂合部連石布・大仙下津守吉祥を遣して、唐國に使せしむ。仂りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示せたてまつる」であることは疑えない。つまり、「天智天皇」の即位は斉明4年(658)ということになる。これは、天智元年(662)4年前であり、天智天皇即位(天智7年:66810年前である。 

 

『新唐書』と『日本書紀』の「ずれ」について 

*この「ずれ」はままあるなどとは言えないであろう「天智天皇即位翌年の唐への遣使」は唐側が確認した事実なのである。天智天皇、即ち、天命開別天皇は「九州王朝Ⅱ」に代わる「大和王朝」創始者なのである。その元年、或いは、即位年は間違いようもない。間違えてはならない「年」であろう。 

 

*尤も、斉明紀の記事には明らかに重複が認められる。「斉明5年」は絶対的基準にはならないというのであろうか。”本来、天智紀(天智2年)の記事が、何らかの理由で「斉明5年」の記事にされた”と。つまり、”天智元年、「天智天皇」は、即位していないが、即位したとみられ、天智2年、蝦夷人を帯同した使者を唐朝に送った”と。 

 

*が、これが無理であることは明らかであろう。天智元年(661)或いは天智2年(662)は、正に、対唐対決の年(白村江の戦い(663)は天智元年:後述)なのである。「九州王朝Ⅱ」にせよ、「大和王朝」にせよ、のんびりと、使者を送り、唐帝のご機嫌窺いをしている時期ではない。 

 

●天智天皇は「倭王」 

*” 斉明5年の天智天皇の存在 ” を疑うのは困難であろう。この「ずれ」は、当然のことながら、単に、「天智天皇」の即位年の「ずれ」ということでは収まらない。同時期に、斉明天皇と天智天皇が存在したということになるのである。 

 

*『日本書紀』は、この天智天皇について沈黙している。抹殺しているということである。斉明天皇が『日本書紀』の言うが如く、「天皇」であれば、この天智天皇「天子(「帝」)ということになるであろう。むろん、この天智天皇「倭王」ということである。「天豊財」「倭王」であるが、斉明天皇「倭王」ではないということである。 

 

∴ 天智天皇の斉明4年即位・斉明5年の遣唐使は、斉明天皇の上位者(倭王)である中大兄皇子である。しかし、『日本書紀』では中大兄皇子は斉明天皇下の存在としている。

 

 3)天智9年の持統天皇 

●持統天皇の唐への遣使 

*「天智9年(676)持統天皇の唐への遣使」は、どのような理由も無理であろう。これも唐側が確認した事実なのである。” 咸享元年、摠持が唐の高句麗平定を賀し、使者を送って来た(「子摠持立咸享元年遣使賀平高麗」)”と。”天智9年(676)に、持統天皇(690~697)が唐に高句麗平定の祝賀使を送った”というのである。 

 

*これをしも、『日本書紀』の天智9年(676)の「是歳、小錦中河内直鯨等を遣して、大唐に使せしむ。」の ” 天智天皇の遣使 ” であると言うのであろうか。無理である。『新唐』の ” 王名に続く記事 ” は、”その直前の王代の記事 ” なのである。当然であろう。で、なければ、” 誰が、何時、何をしたのか ” 全く、弁別できない。そもそも、記録(史書)の意味がなくなってしまうであろう。賀平高麗使の派遣持統天皇とする以外にないのである。 

 

*むろん、「賀平高麗」使の派遣だけを考えるのであれば、”『新唐』、『日本書紀』それぞれの間違いの可能性は五分五分”ということになるであろう。しかし、『日本書紀』天智天皇の存在を隠しているのである。”『日本書紀』が嘘をついている”と断定せざるを得ない。即ち、”この時期、倭王は「大和王朝」の天智天皇ではない”ということである。 

 

*”天智天皇と天武天皇の間違い”であるならば、あり得るかもしれない。天智天皇の晩年なのである。しかし、” 天智天皇と持統天皇の間違い ” など、あり得ないであろう。これをも、”あり得る”とするのであれば、そもそも、『新唐』に限らず中国史書の内容を論じること自体が無駄である。尤も、この虚構の中で、空しく、延々と論じられているのが、”邪馬台国論争”であり、”聖徳太子の遣隋使”等であろう。

 

*この持統天皇(「摠持」)「九州王朝Ⅱ」、即ち、「天皇」であろうということである。まさか、”「天子」”とするわけにはいかないであろう。戦いに負けており、そもそも、この戦いの発端と成った唐の高句麗征伐、その成功を祝賀するというのである。 

 

*この持統天皇は、『新唐』の言う”「天皇」を以て号する「倭王」”である。この”「天皇」”とは、天智天皇の天皇より、高位の存在ということになる。即ち、名目上の「倭王」。むろん、持統天皇の父と記される天武天皇(「天武」)も、ということである。 

 

天智天皇の天皇は「大王天皇」ということになるであろう。「九州王朝説」としても、天智天皇の天皇即位を以て、「九州王朝Ⅱ」から「大和王朝」への列島主権の完全移転ではないのである。「九州年号」公布する権威「禁書と軍器を保持する存在として。 

 

*よいであろう。この持統天皇が、” 持統3年、豊前の河内王大宰帥に任じた持統天皇”であり、”大伴旅人がその供奉を歌う肥前吉野へ行幸した持統天皇”ということになる。 

 

” 天智9年の持統天皇 ” が否定する大和王朝の王が、神武天皇以来、或は、天智天皇以前に「天皇」を以て号とした可能性 

*『新唐』の認識である。まさか、定説も、というわけではないであろう。が、”大和王朝の王・欽明天皇”以前にも遡るであろう。或いは、「九州王朝説」に立つとしても、”「大和王朝」の王・天智天皇 ” 以前に、「九州王朝」の王が「天子」で、「大和王朝」の王が「天皇」という体制であったのではないか ” という考えもあるであろう。これも含めて、「大和王朝」の王が、本説に言う文武天皇以前に、「天皇」であった可能性が有るかということである。 

 

*で、この可能性は、” 天智9年の持統天皇の唐への賀平高麗使の派遣   ” 無くなる ” ということである。この持統天皇が、『新唐』のいう ”「天皇」を以て号と為す「倭王」” なのである。で、”この「倭王」持統天皇が、即ち「日本國王」である”と。しかし、” 日本國王は、天智天皇 ” なのである。 

 

*つまり、”『新唐』が認識した「倭王」持統天皇は「大和王朝」の王ではなく、「九州王朝」の王である”ということ。即ち、”「九州王朝」の王は、「大和王朝」の王より、上位の存在で、「天皇」である”ということなのである。これより以前、「大和王朝」の王が「天皇」であるはずがない”ということになるであろう。 

 

*むろん、”「大和王朝」の王が「天子」で、「九州王朝」の王が「天皇」という体制に変わった、であるのに、「九州王朝」の王が、未だ、「倭王」の如く、賀平高麗使を派遣したもので、「大和王朝」の王の与り知らないこと”などと言えないことは、天智9年の「大和王朝」遣唐使派遣から当然であろう。 

 

*この  天智9年の「大和王朝」遣唐使 が、即ち、”持統天皇の賀平高麗使”と考えるのが理性の至るところであろう。 天智9年の持統天皇(天皇=倭王)(新唐書の認識)は、大和王朝外の存在、即ち、九州王朝Ⅱの存在。かつ、天智天皇 は「天皇(倭王)ではなく、「大王天皇」であったということ。 


(5)独自の対唐通交


〇要約

*「大和王朝」が、ほとんど「九州王朝Ⅱ」のこと”であることはもうよいであろう。では、

「大和王朝」(大和の地の王朝) の事はどうであろうか。 

 

「大和王朝」(「大和の地の王朝」)は、対唐通交を行ってきた。「九州王朝」の名の下に。「九州王朝Ⅱ」唐の激突まで。これが、『新唐』の 「大和王朝」(「日本国」)は、即ち「九州王朝Ⅱ」(「倭国」) という錯誤の一要因であろう。 

 

*所謂「大和王朝」「九州王朝Ⅱ」である。王統譜も、おそらく、その業績も、である。残念ながら、本来の「大和朝廷」、即ち、「大和の地の王朝」がどのようなものであったのかは窺い得ない。が、一つだけ、窺い得るものがある。 

 

*それは、対唐通交である。”  所謂「大和王朝」は、己を「九州王朝Ⅱ」そのものとする一方、対唐和親(屈従)通交正統なものとして記録した ” と考えざるを得ない。即ち、「九州王朝Ⅱ」対唐(対決)通交抹殺  である。で、「大和の地の王朝が、対唐通交を行っていたということは確かである。 

 

*しかし、これが ” 独自にか ” というとそうではない。ややこしいことに、” 所謂「大和王朝」とは大和の地の王朝ではない。「九州王朝Ⅱ」「天皇」大和の地の王朝を併せたもの ” なのである。即ち、” 所謂「大和王朝」の対唐通交とは 「九州王朝Ⅱ」の「天皇」(天皇府)と「大和の地の王朝」が連携して行った対唐通交 ” と考えるのが妥当なのである。  

 

1)推古天皇の遣唐使 

●推古16年(隋大業4年:608)の遣唐使 

推古16年の遣唐使とは、同年の「九州王朝Ⅱ」(天子)「隋」(天子)との通交に、推古天皇29年頃の所謂「大和王朝」(天皇と「大和の地の王朝」)対唐通交が当てられたものである。 

 

◆推古16年・大業4年の通交 

推古16年隋の大業4年(608)、中国の王朝は「隋」である。そもそも、この年の通交は「隋」「九州王朝Ⅱ」(「俀国」即ち、「倭国」)とのものである。 

 

推古15年・大業3年(607)「九州王朝Ⅱ」の王・「多利思北孤」の国書(”二人の天子”「其国書曰日出処天子致書日没処天子」)を受けての「隋」対「九州王朝Ⅱ」通交である。むろん、中国側は認めていないが、” 天子(倭帝:日出処天子)と天子(煬帝:日没処天子)のもの ” である。 

 

◆『日本書紀』の主張 

*しかし、『日本書紀』は、推古16年・大業4年(608)のみを記す。そして、この通交は ”「大和王朝」のもの ”、かつ ” 天皇(倭皇)と天子(唐帝)とのもの ” であると。 

 

「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴世清等至りて、久しき憶、方に解けぬ。」・・・これが、”「隋」とのもの”というのであれば、一応解るのである。”「大和王朝」は、隋使の「九州王朝Ⅱ」への来訪機会を捉えて、独自の通交を試みたと。

 

*『日本書紀』は「大和王朝」の王を、後世の「天皇」とし、「隋」と「九州王朝Ⅱ」との通交を参考として国書等を偽造作文したと。『隋書』は、この通交を「九州王朝Ⅱ」とのものとして誤加「僻在海隅」王者)した”と。 

*が、『日本書紀』”「唐」とのもの ” というのである。しかも、” 誇らかに ” であろう。この通交は”所謂「大和王朝」と「唐」とのもの”と解するのが妥当であろう。 

 

 ∴ 唐建国(618)の10年前 = 遣唐使は嘘

      むろん、推古16年の隋使・文林郎世清の訪問先は九州王朝の天子の朝庭  

 

●通交は推古29年頃・唐武徳4年頃 

10年以上のずれである。おそらく、この通交は、推古29年・唐武徳4年(621)頃のものである。唐王朝建国4年目である。そもそも、”「唐帝の書」中の「寶命欽承」という用語は初代皇帝のもの(古田氏) であると。隋・煬帝は当たらず、唐・高祖に当たると。 

 

*この年、高句麗、新羅、百済の朝鮮三国「唐」に朝貢している。列島の王権が、この半島諸国の動きに無関心であったとは考え難いであろう。「僻在海隅」の所謂「大和王朝」も、この時、接触を求めたと考えるのが妥当なのである。 

 

*むろん、唐書が、この推古29年頃「倭国」との通交を記さないのであるから、この通交は、「九州王朝Ⅱ」(「倭帝」)と「唐」(「唐帝」とのものではない。 

 

●所謂・大和王朝 

「天皇」「九州王朝Ⅱ」内の存在であることは既に述べた。「天皇」は、元々は、「九州王朝Ⅱ」「朝廷」(小治田宮)に於ける ”「天子」(「天(兄)王」)補佐、即ち、「理務」最高執行者(「日(弟)王」)”ということであろう。 が、恐らく、この天・日」間に亀裂が生じた。その明確な事例の一つが” 崇峻天皇の誅殺天子・多利思北孤、即ち、上宮法皇法興の治の発足  であろう。 

 

*この端緒が、既に触れた『隋書』「訓令改之」ものかどうかは別である。そもそも、この大業4年の「隋」と「俀国」、更に時代が下って、貞観5年の「唐」と「倭国」との通交において、「日(弟)王」の影が見えないのである。 明確であるのは王子の存在である。で、この王子は、貞観5年(631)の「唐」と「倭国」との通交では、” 唐使と礼を争うという”「理務」を取り仕切っている。つまり、俀王或いは倭王の王庭「天皇」は存在しない。「天皇」は、その府を「淡海国」(豊浦宮)へと袂を分かっていたのではないかということである。 俀王以天為兄以日為弟天未明時出聴政跏跌坐日出便停理務云委我弟高祖日此太無義理於是訓令改之」 

 

「淡海国」「紀伊国(豊後国)「伊勢国(安芸国)に挟まれる位置関係に在ること、即ち「近江国」とも「大和國」とも擬せられていることは既に述べた。” 此処に「天皇」府が存在した ” と考えるのが妥当であろう。 

 

*そして、「天皇」「大和王朝」内の存在(「大和王朝」の主張)なのである。” 所謂「大和王朝」とは、「九州王朝Ⅱ」の「天皇」「大和王朝」(「大和の地の王朝」)を合わせたもの”ということになるであろう。この両者が連携して、推古29年・唐武徳4年(621)頃の対唐通交に関っているのではないかということである。 

 

●何故、推古16年なのか 

*何故、” 推古29年・唐武徳4年(621)頃の所謂「大和王朝」対唐通交が、推古16年・大業4年(608)「九州王朝Ⅱ」「天子」対隋通交に当てられたのか ” ということである。 ” 文書を交換するという我が国の画期的な対中国通交公式な記録(中国史書)他になかったから ” と理解するしかないであろう。 

 

*尤も、単に、画期的な対中国通交というだけであれば、” 無視する ” 選択もある。例えば、”『日本書紀』は、金印を授与されるという画期的な「九州王朝Ⅰ」対魏通交を無視している ” のである。” 所謂「大和王朝」が行った ” ということが前提である。 

 

推古29年・唐武徳4年(621)頃に、” 所謂「大和王朝」「唐」との間に、画期的な通交が為された ” と考えざるを得ないであろう。文書の交換(唐帝の「天皇」と「大和王朝」の王へ宛られた親書、「天皇」の唐帝へ宛てた返書)を伴う通交である。 この通交が ” 推古16年・大業4年(608)当てられた ” ということである。当然、この当ては、”「九州王朝Ⅱ」の「天子」対隋通交の否定(無かった)”即ち、” 日出処天子・多利思北孤(倭王・聖徳太子)の否定(存在しなかった)” ということでもある。  

 

●隋とのものを唐とのものに置き換えた可能性 

推古16年・大業4年(608)「九州王朝Ⅱ」「天子」「隋」との通交を、所謂「大和王朝」「唐」とのものにした ” ということはないのか。その方が時期も一致するのである。この方が、前述 ” 否定 ” も直接的で明確であろう。 しかし、これはないであろう。前述の ” 無視 ” で良いのである。記す前提は ” 所謂「大和朝廷」がおこなった ” である。” 当て ”は、前提中国史書整合・・結果としての対隋通交多利思北孤の ” 否定”・・なのである。 

 

『日本書紀』「唐」について、「大唐」、「天子」、「唐帝」或いは、その「恩寵」を記すが、「隋」については、その手を期さないのである。「唐」尊敬の対象であるが、「隋」は、そうではない。強いて言えば、” 見下す対象 ” なのである。 

 

*「26年の秋8月の癸酉の朔に高麗、使いを遣して方物を貢る。因りて言さく、『隋の煬帝、30万の衆(いくさ)を興して我を攻む。返りて我が為に破られぬ。故、俘虜貞公・普通、2人、及び鼓吹・弩・拠石の類十物、并て土物・駱駝1匹を貢献る。』ともうす。」(『日本書紀』推古26年)  「隋」は我が国に貢献する高句麗に敗北し、その捕虜が我が国への貢ぎ物とされる存在ということである。当然、『日本書紀』はこの年(推古26年:618)の「隋」滅亡を知っている。 

 

*つまり、”『日本書紀』は「唐」体制下を意識したもの ” なのである。この「隋」との話を「唐」とのものとし、しかも、誇らかに記すなど、凡そ考え得るものではない。 

 

*猶、「隋」使「唐」使一致に拘るであろうか。古田氏の説の如く、同一人ということであろう。「文林郎・裴世清」(『隋書』)と「鴻臚寺掌客・裴世清 (『日本書紀』)である。「隋」に「文林郎」として仕えた外務官僚・裴世清が、「唐」朝に鴻臚寺掌客として仕えたということである。 

 

●紛失した「唐帝の書」・奉読された「唐帝の書」 

「6月の壬寅の朔丙辰に、客等、難波津に泊れり。是の日に、飾船30艘を以て、客等を江口に迎えて、新しき館に安置らしむ。・・・妹子臣、奏して日さく。『臣、参還る時に、唐の帝、書を以て臣に授く。然るに百済国を経過る日に、百済人、探り掠み取る是を以て上ることを得ず』とまうす。・・・ 秋8月の辛丑の朔癸卯に、唐の客、京に入る。是の日に、飾騎75匹を遣して、唐の客を海石榴市の術(ちまた)に迎ふ。・・・壬子に、唐の客を朝廷に召して、使いの旨を奏さしむ。・・・時に使主裴世清、親ら書を持ちて、兩度再拝みて、使いの旨を言上して立つ。その書に曰はく、『皇帝、倭皇を問う。使人長吏蘇因髙等、至でて懐(おもい)を具(つぶさ)にす。朕、寶命を欽(よろこ)び、・・・故、鴻臚寺の掌客裴世清を遣して、稍(ようやく)に往く意を宣ぶ。并て物送すること、別の如し』という。・・・丙辰に、唐の客等を朝に饗たまふ。」(『日本書紀』推古16年) 

 

 *何故、” 遣唐使・小野妹子紛失した「唐帝の書」が、唐使・裴世清によって、奉読されたのか ” ということである。” 唐帝は「天皇」あての書を2通発函した ” のであろうか。で、”1通は倭使・小野妹子に携行させ、もう1通は己の使者・裴世清に携行させた”と。 そんなことはない。そんな馬鹿なことは考えられない。が、もし、万が一、”2通”であったとすれば、唐使・裴世清(唐使の一行)が”2通”共に携行したであろう。大事な唐帝の書を、事前に相手国の来訪使者に渡すなど正気の沙汰ではない。 

 

*考え難いが、『日本書紀』の記述(紛失と奉読)が正しいとすれば、それぞれ、” 別の書であった ” と考えるのが妥当であろう。当然、前者の書とは「大和王朝」の王宛のもの、後者「九州王朝Ⅱ」の「天皇」宛のものということになるであろう。小野妹子「大和王朝」の王の臣ということである。当然、この場合、「大和王朝」の王宛の書は、「天皇」宛てのものより、ずっと、ランクの下がるものであったであろうということである。” 倭皇と唐帝 ” などと言うものではないということである。 

 

*むろん、で、あっても、唐帝の書を事前に相手の使者に渡すことなどありえないことは同じである。が、もし、あるとすれば、唐使が「大和王朝」に赴かない場合であろう。即ち、唐使が赴くのは「天皇」府で、「大和王朝」へは赴かない場合である。” 文書で「大和王朝」を教え諭す ” 場合である。 しかし、” 唐使は「大和王朝」に赴行した ” と考えざるを得ないのである。「僻在海隅」である。「九州王朝Ⅱ」の「天皇」では整合せず、「大和王朝」の王の言としてのみ整合するのである。” 唐帝の書の紛失 ” の理由、しかも、” 唐使・裴世清の携行したものではなく、小野妹子の携行した唐帝の書のみ掠め取られた ” 理由は別のところに求めなければならない。 

 

”「大和王朝」宛の書は開示し得ない。”  これが、”小野妹子が携行する唐帝の書の紛失 ” の理由である。言うまでもないであろう。開示すれば、”「天皇」が「大和王朝」の存在でない”ことが明らかになってしまうのである。”「大和王朝」が『日本書紀』が主張するような存在ではない ” こともである。で、”「天皇」宛の唐帝の書のみ開示する為 ” である。 

 

” では、最初から小野妹子の携行する唐帝の書など無かった、とすればよいであろう。もともと、2通の唐帝の書など、有り得ないのであるから ” というのであろうか。そのとおりである。何故、しれっとしていればよいものを ” 掠め取られた ” などと荒唐無稽な話をわざわざでっち上げたのかということである。 

 

●唐:対高句麗(東方)策の一環・倭国の内訌に付け入った離間策 

*どうであろう。ひょっとすると、”「大和王朝」の王宛唐帝の書の盗難紛失 ” は ” 唐使を「大和王朝」へ誘致する為の嘘であった ” のではないか。むろん、小野妹子の嘘だけで成立する話ではない。” 唐使・裴世清と小野妹子合作の嘘 ” である。 

 

*「唐」は、「九州王朝Ⅱ」の「天子」(「法皇」)と「天皇」との対立という「倭国」の内紛につけ込んで、「天皇」との提携を図ったということになるであろう。「天皇」「大和朝廷」と連携して、積極的に対応したということである。 

 

・” 想像が過ぎる ” というであろうか。しかし、こうでも考えないと、「九州王朝Ⅱ」の時代、瀬戸内海を経由した「大和王朝」と「唐」との通交など考えられないし、” 紛失したり、拝読されたりする「大和王朝」の「天皇」宛ての「唐帝の書」” など理解し得るものではない。 

 

*くどいが、この時期の「大和王朝」の王が「天皇」であると考えたり、「大和王朝」が、その王を「天皇」に擬し、「東の天皇」云々、或いは、「皇帝、倭皇に問う。」云々の唐帝の偽造作文したとするほうが ” 想像が過ぎる ” のである。 

 

●小野妹子「蘇因高」は嘘(大和王朝の臣・小野妹子 ⇔ 九州王朝Ⅱの天皇の臣・蘇因髙) 

 *” 小野妹子は「蘇因高」(蘇=「小野」の簡略意訳、因高=「妹子」の音訳 ?)” という『日本書紀』の記述は嘘ということになるであろう。 「蘇因高」は奉読された「唐帝の書」(「九州王朝Ⅱ」の「天皇」宛の書「使人長吏蘇因高」)中のものなのである。「蘇因高」は「九州王朝Ⅱ」の「天皇」の臣ということである。小野妹子「大和王朝」の臣ということである。 

 

*” 小野妹子が、「大和王朝」の臣ではなく、「九州王朝Ⅱ」の「天皇」の臣ということはないのか。” 元々、この通交は、「唐」と「九州王朝Ⅱ」の「天皇」とのもので、”「大和王朝」とも、というのはお前の思い込みだ ” と。 

 

* ”小野妹子が「九州王朝Ⅱ」の「天皇」の臣である可能性 ” については置く。「大和王朝」が対「唐」通交を行ってきたことは『伊吉博徳書』「遣唐使節の三津出港」から疑えないし、この初交が該時期である可能性は極めて大きい。が、これも、また、”「僻在海隅」は「大和王朝」の方が相応しい”ということも、置く。 

 

*しかし、であれば、”「唐帝の書」は百済で掠め取られた ”など苦しい言い訳は必要ないであろう。” 伴った唐使・裴世清は「天皇」宛て「唐帝の書」を拝読している ” のである。この言い訳は、”「唐帝の書」を公表し得ない「大和王朝」にこそ”であろう。 

 

*言い訳ではなく、本当のことと言うのであろうか。” 唐使一行を伴う、百済が大国として敬仰する「九州王朝Ⅱ」の「天皇」の臣・小野妹子が、百済で、「唐帝の書」を掠め取られた”と。”百濟の官に、或いは、賊に”と言うのであろうか。考え難い。”木賃宿に泊まる旅人が枕探しに遭う”のでもあるまい。しかも、唐使・裴世清の携行する「唐帝の書」は無事であったということである。 

 

「16年の夏4月に、小野妹子、大唐より至る。唐国、妹子臣を号けて蘇因高と曰ふ。即ち大唐の使人裴世清・下客12日知、妹子臣に従いて筑紫二至る。」(『日本書紀』推古16年) 

 

・むろん、”「唐」の「大和王朝」の王に宛てた「唐帝の書」など元々無かった”などとは言えない。で、あれば、” 掠め取られた ” などと言い訳する必要がない。” 有った ” と言うことである。で、” その書をもたらしたのは小野妹子である ” という伝承が明確に存在したということである。で、あるから、その事実そのものは記さざるを得ない。しかし、その内容は公表せざるを得ない。で、あるから、” 掠め取られた ” と考えるしかないであろう。 

 

・くどいが、公表し得ないのは、その書の内容が唐使・裴世清によって奉読された「唐帝の書」とは全く相違するからである。何よりも、”「大和王朝」の王は「天皇」ではないからである。  

 

●推古16年の当て 

”「天皇」の推古29年頃親書交換という画期的な対唐通交事実”を以て

      ”「天子」多利思北”の国書交換という画期的な対隋通交” を否定するもの。  

 

●紛失した(隠された)唐帝の書(宛:大和王朝の王)・奉読された唐帝の書(宛:天皇)

大和王朝の王「天皇」とし、小野妹子「蘇因髙」とする為、前書を隠す必要 

 

*唐使に随行帰国する小野妹子唐帝の書携行する意味唐使は大和王朝を訪問しない 小野妹子大和王朝の臣 

 

唐使の訪問先「天皇」府。但し、実際は、唐使大和王朝を訪問したのではないか。(『隋書』の誤加)  

 

・”小野妹子は「蘇因高」” は、” 唐帝の「九州王朝Ⅱ」の「天皇」宛の書を「大和王朝」の王宛の書とする手品のタネ ” と言うことになるであろう。 

 

●唐使・鴻臚寺の掌客輩世清の訪問先 

*「夏4月・・筑紫に至る」は「筑紫・難波津」到着(~「淡海・難波津」) 

 

*「6月の・・客等、難波津に泊まれり」は「淡海・難波津」又は「摂津・難波津」 

 

「天皇」府、そして、「大和王朝」即ち、小野妹子帰朝先である。 

 

飾騎飾船で歓迎したと。江口」で、「飾船30艘」を以て、唐使を迎えたのは「大和王朝」である。で、「海石榴市(つばきいち)」で、「飾騎75匹」を揃えて、郊迎(こうげい)したと。 

 

*よいであろう。『隋書』「200騎」「飾船」の記載はない。別のことである。” 誇大に記されたと考え得る数でも、間違われる数 ” でもない。むろん、『日本書紀』編者は『隋書』を知っており、「200余騎」を知っていて、事実として「飾騎75匹」と記したということである。 

 

*「江口」で、飾船」による歓迎は、舒明4年・貞観6年(632)唐使歓迎と同じである。 この記事も、当然、唐使の「九州王朝Ⅱ」の「天皇府」への訪問か、それとも、「大和王朝」の王都・大和への訪問かということである。が、後者であろうと。 

 

*既述や、地名(都市)の一致で、ということではない。地名の一致を根拠とするのは危うい。小野妹子が帰朝した王朝の地ということである。かつ、「6月の壬寅の朔丙辰に、客等、難波津に泊まれり」の「難波津」は「筑紫・難波津」ではなく、「摂津・難波津」と考えるのが妥当なのである。 

 

*そうであろう。小野妹子、唐使一行は、4月「筑紫」に泊まっているのである。この「筑紫泊」とは「筑紫・難波津泊」と考えるより他ないであろう。尤も、ひょっとすると、この「筑紫泊」は「筑紫難波津泊」ではなく、「淡海・難波津」ということかもしれない。唐使・裴世清は間違いなく「天皇」府を訪問している。そもそも、この通交は「九州王朝Ⅱ」の「天子」に秘密のものなのである。 

 

*また、むろん、” 6月難波津到着 ” の「難波津」を ”「天皇」府所在の地の難波津(豊浦?)とすることも有り得ないことではない。”2か月をまるまる旅程に費やした”と考えることもないからである。しかし、” 月余に亘る旅程 ” 即ち、「摂津・難波津」と考えるのが率直であろう。 

 

*この、”6月の難波津は「摂津・難波津」”ということ、”小野妹子と唐使一行の6月の「摂津・難波津」到着”ということからも、この対唐通交が、「大和王朝」のもので、小野妹子は「天皇」の臣ではなく、「大和王朝」の王の臣であるということが確認されるであろう。 

 

*むろん、以上の解釈も、また、多くの矛盾、疑問を残すことになる。そもそも、「誤加「僻在海隅」の王者の言)「天皇」の言(「久しき憶(おもい)、方(まさに)に解けぬ」云々)に整合するのである。 

 

魏徴(『隋書』撰者)は、公式な通交ではない「唐」(唐使・裴世清)所謂「大和王朝」との通交を、公式な通交である「隋」(隋使・裴世清)「九州王朝Ⅱ」の「天子」とのものと誤認したと理解されるのである。そのような誤認が本当に有り得るのかということである。 

 

・更に、何故、” 推古29年頃の所謂「大和王朝」と「唐」との通交を、推古16年の「九州王朝Ⅱ」の「天子」と「隋」との通交の年にあてたのか ” もである。 

 

・” そもそも、『日本書紀』と中国史書との整合など厳密にはない ” のである。” 推古15年・大業3年(607)も整合されていない ” のである。つまり、” 推古29年の「大和王朝」と「唐」との国書交換の通交 ” として何等の差し障りはないのである。 

 

2)舒明4年(唐貞観6年:632(※))の通交 

(※)YA氏論文では、532年となっているが、632年の誤記と思われ、この項の西暦は100年追加して記述している。 

 

●唐書は斉明3年(貞観5年)。日本書紀は舒明4年(貞観6年)末 

*舒明3年・貞観5年(631)の「唐」の対「九州王朝Ⅱ」「天子」使所謂「大和王朝」へ誘致したもの。或いは、対「天子」通交に失敗した「唐」が、対列島策を、前例(推古29年頃の対「天皇」通交)に倣い、翌年、対「天皇」通交として再興したものである。 

 

*「舒明4年・貞観6年(632)」の対「唐」通交は良いであろう所謂「大和王朝」の対唐通交である。” 難波津、江口、飾船による歓迎 ” は「推古16年の遣唐使」と同じである。この「難波津」も「摂津・難波津」ということになるであろう。 

 

*唐書は「舒明3年・貞観5年(631)」としているのである。で、” 王子或いは王と「礼」を争って通交は不調に終わった ” と。表仁無綏遠之才(表仁外交のさいなく)與與王子争礼(王子と礼を争い)不宣朝命而還(朝命を宣ずして還る)(『旧唐』)と唐使・表仁が外交の才に欠け、外交が失敗に終わったことを難じている。 

 

●唐が列島策を対「天皇」策として翌年再興した可能性が大 

*しかも、本題で、ではなく、その入口である礼の問題で、決裂したと。” 何故、もう少しうまく出来なかったのか ” と言うことであろう。それだけ、「唐」対「倭国」外交を重視していたということである。「唐」は前王朝・「隋」が命数を縮めた、中国王朝の宿痾と言ってよい対高句麗策を慎重に推進しているのである。その後背に在って、強い影響力を有する東夷の大国・「倭国」の篭絡「唐」の東方政策の重要な柱であったであろう。 

 

*「唐」は対列島策を推進するに当たり、先ず、正攻法、即ち、対「天子」外交を、としたということである。しかし、それに失敗したと。で、当然、「唐」は所謂「大和王朝」へ働きかけたということである。その為の推古29年頃からの働きかけなのである。『日本書紀』は「舒明4年・貞観6年(632)末」としているのである。 

 

*唐使の「九州王朝Ⅱ」への訪問を捉えた「天皇」府、更に、「大和王朝」への誘致とも考えられるが、「唐」の対「天子」通交不調による、「天皇」へと目標を変えた対列島策の再興とするのが妥当なのかもしれない。で、通交は友好裏に成ったと。通交年を異にし、結果を全く異ににする。これを同じ両者間のものとすることはできないであろう。 

 

「冬10月の辛亥の朔甲寅に、唐國の使人高表仁等、難波津に泊まれり。即ち大伴連馬養を遣わして、江口に迎えしむ。船32艘及び鼓・吹・旗幟、皆具に整飾へり。便ち高表仁等に告げて曰く、『天子(唐帝)の命のたまへる使、天皇の朝に到れりと聞きて迎へしむ』という。時に高表仁対へて曰さく『風寒じき日に、船艘を飾整ひて、迎へ賜ふこと、慶び愧る』とまうす。・・・5年の春正月の己卯の朔甲寅に、大唐の客高表仁等、国に帰りぬ。送使吉士雄摩呂・黒麻呂等、対馬に至りぬ。」(『日本書紀』舒明4・5年) 

 

3)唐使・高表仁の訪問先 

*「推古29年頃の通交」と同じく。「天皇」府、そして、「大和王朝」を訪問したと考えるのが妥当であろう。 

 

*そもそも、『日本書紀』の記述はおかしいであろう。” 唐使船がいきなり難波津に入港したと。この難波津は「摂津・難波津」と考えるしかない。むろん、そのように書かれている。以降、「江口」以下、「推古16年の時」と同じなのである。で、それを聞いて、迎えに出た ” と。これでは、まるで、” アメリカの特使一行が、東京国際空港に到着したと聞いたので、急ぎ、迎えに来た”と言っているのと同じであろう。むろん、そういうことが有り得ないというのではない。話は、情報の発達していない古代のことであるから。 

 

*が、定説に立てば、本通交は、東夷の大国「倭国」に対する「唐」の初の公式通交なのである。”「隋」の対「倭国」通交以来の中国王朝の公式通交”なのである。唐突すぎるであろう。「唐」の対「倭国」使派遣は、高句麗問題の解決という難題を抱えてのものなのである。 「唐」の初「倭国」接触は、「倭国」と「高句麗」との半島権益を巡る対立の経緯も、「隋」対「倭国」策が失敗に終わったことも十分認識した上でのものなのである。接触は、慎重に計画されたもので事前に通告があっての使節派遣と考えるのが妥当なのである。 

 

*むろん、唐使の来訪は、唐使船の対馬到着以前に、或いは、同地からの報告を受けて承知していた。その唐使一行の船が ”「摂津・難波津」に到着したと報告を受けて出迎えたもの”と言うのであろうか。 で、あれば、” 省略しすぎ ” であろう。”ぐだぐだ書くのは面倒”としても、”唐帝の使節派遣の言葉”を書くか、それが無くとも、”対馬からの報告”を書けばよいのである。”で、予定通り、出迎えた”と。 

 

*『日本書紀』は意外と正直なのである。所謂「大和王朝」(「天皇」と「大和の地の王朝」)は、事前に通告を受ける対象ではなかったということである。むろん、通告を受ける対象は「九州王朝Ⅱ」(「天子」=倭王)ということなのである。この一事を以てしても、この時点、「大和王朝」は列島の主権王朝ではなかったと判断されるであろう。 

 

4)「天皇の朝」とは九州王朝Ⅱの天皇府 

 *そもそも、”「大和王朝」の王は「天皇」ではない ” から、「天子の命(唐帝)のたまえる使、天皇の朝に到れりと聞きて迎へしむ」「天皇の朝」「大和王朝」(「大和の地の王朝」)ではない)ことは当然である。 では、この「天皇の朝」とは、「九州王朝Ⅱ」の「天皇」の「朝庭」”であろうか。それとも、「九州王朝」の「天子」の「朝庭」”であろうかということである。むろん、両者は全く別の存在である。”『日本書紀』が、後者を前者に言い換えた”可能性である。

 

* ”「九州王朝Ⅱ」の「天皇」の「朝庭」”と考えるのが妥当であろう。” 言い換えていない ” と言うことである。『日本書紀』は明確に、” 唐天子と日本の天皇を弁別表記 ” している。この時代のに於ける我が国の「天子」の存在を秘匿している。上手の手からの水が引用の『伊吉連博徳書』の「帝朝(朝倉の朝)なのである。” 存在したが存在していないことにした と言うことである。 

 

*この時代は「仏法天子(法皇)」・「山背大兄」の時代のはずなのである。” 唐使・高表仁が訪問したのは「倭王」・「山背大兄」の処(「天子の朝庭」)のはず ” なのである。高表仁が ” 王子と礼を争った王庭は此処のはず ” なのである。しかし、当然と言うべきか、『日本書紀』はこの事実に触れていない 

 

*しかし、『日本書紀』が ”「九州王朝」の「天子」の「朝庭」” 即ち、「聖徳太子」の「朝庭」或いは「山背大兄」の「朝庭」” を ”「大和王朝」の「天皇」の「朝庭」” に作為した形跡はない・・触れていない・・のである。作為は、”「九州王朝」の「天皇」の「朝庭」を「大和王朝」の「天皇」の「朝庭」へ”なのである。 

 

 

5)斉明7年(661)に至る通交(白村江交戦前まで友好的に通交) 

●「大和王朝」の対「唐」通交は「天皇」の代理 

「大和王朝」は、「推古29年頃」以降、「天皇」と連携して、対唐通交を行うには至っていないということである。どうであろう。半島情勢を巡って、「九州王朝Ⅱ」と「唐」との関係が緊迫する中で、「大和王朝」対「唐」通交「天皇」の代理として行われたのではないか。 

 

●遣唐使節の「難波の三津浦」発遣 

*そう考えないと、既述、斉明5年(659)に記される『伊吉連博士徳書』” 遣唐使節の「難波の三津浦」発遣 ” が理解できない。 

 

同天皇の世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等が2船、呉唐の路に奉使さる。・・・難波の三津浦より發す。・・・天子相見て問訊問ひたまはく、「日本國の天皇、平安にますや否や」とのたまふ。・・・・・・天子問いて曰はく、「此等の蝦夷の国は、何の方に有るぞや」とのたもふ。 

 

●「九州王朝Ⅱ」の名を騙った通交

*むろん、「九州王朝Ⅱ」(「倭国」)の名の下にである。当然、「天子」の名の下ではなく、「天皇」の名の下に、である。「天皇」即ち「倭王」としてと言うことになるであろう。 そう考えないと、『新唐』が記す、「孝徳天皇」の琥珀献上、「天智天皇」の蝦夷国使の帯同した唐への遣使など理解し難い。いや、「孝徳天皇」はよいかもしれない。[天皇]なのである。しかし、「天智天皇」は違う。「天子」なのである。 

 

*斉明5年は、正に、「天子」天智の時代であり、翌斉明6年には、「九州王朝Ⅱ」「唐」とは百濟に於いて激突(後述)する。とても、『伊吉連博士徳書』に記されているような ” 唐の朝庭に於いて、「大和王朝」の使節が最も優れている ” などと自慢する時期でも、” 唐帝の恩寵を求める ” 時期でもない。 

 

●白村江の激突までも続く通交 

「大和王朝」対唐通交百済滅亡後も続くのである。 

 

「伊吉連博士徳書に云はく、辛酉の年(斉明7年:661)の正月25日に、還りて越州に到る。」(『日本書紀』斉明7年) 

白村江の激突(天智元年:662、後述)直前もである。「唐」は、この時期、「大和王朝」使節の活動を許容していたということになる。 

 

●通交は「天皇」の代理(連携) 

*では、所謂「大和王朝」は、全く、「九州王朝Ⅱ」規範を脱していたのであろうか。甚だしくは、両者は対立にいたっていたと。しかし、これはないであろう。この対立を内包して、「九州王朝Ⅱ」対唐決戦に踏み切るとは考え難いであろう。 この「大和王朝」の倭・唐決戦(白村江の戦い)に至る通交は、「九州王朝Ⅱ」の「天皇」の代理として連携の下に行われたと考えるのが妥当である。 

 

*「九州王朝Ⅱ」の「天子」と「天皇」の対立は、対唐通交策に於いても大きく異なっており、「天皇」は、密かに、或いは、かなり公然と「大和王朝」と連携して、対唐通交を続けてきたのではないか。 当然、「天皇」は、ずっと、対唐和親、和平、即ち、中華体制承服という立場であったということになるであろう。「天子は、対唐対決、即ち、中華体制不承服(「二人の天子」)である。 

 

*が、決定的な対立へとは至っていなかったということである。で、あるから、「大和王朝」遣唐使節「蝦夷国」使節帯同も、斉明7年の耽羅使節帯同帰国と、その使節の「帝朝」(「朝倉之朝」)、即ち、「九州王朝Ⅱ」の「天子の朝庭」への「奉進」もあるのである。

「僅に耽羅嶋に到る。便即ち嶋人王子阿波伎等9人を招き慰へて、同じく客の船に載せて、帝朝に献らむとす。5月23日に、朝倉の朝に奉進る。」(『日本書紀』斉明7年『伊吉連博士徳書』) 

 

*「天子」も、「唐」との武力衝突までは望んでおらず、その回避策を模索していたのかもしれない。その意味での、”「天皇」の外交 ” の消極的な容認である。「蝦夷国」は「九州王朝Ⅱ」の意として、「大和王朝」の遣唐使節に同行したということになるであろう。 

 

●讒言は使節の非正統性の告発 

*そう考えないと、前『伊吉連博士徳書』の ” 唐朝に於ける「大和王朝」の遣唐使節「倭客」への讒言 ” 雅理解できない。 

 朝ける諸番の中に、倭の客最も勝れたり・・・・韓智興が傔人西漢大麻呂、枉げて我が客を讒す。客等、罪を唐朝に獲て、巳に流罪に定む。前ちて智興を三千里の外に流す。・・・因りて即ち罪を免されぬ。事了りて後に、勅旨すらく、「国家、来らむ年に、必ず海東の政有らむ。汝等、倭の客、東に帰ることを得ざれ」とのたまふ。(『日本書紀』斉明5年) 

 

*この「讒言」とは、” 該使が「九州王朝Ⅱ」(「倭国」)正式な使節」ではないということ”と理解するしかないのである。 

 

●讒言者は在唐「九州王朝Ⅱ」人士 

・・・また、智興が傔人東漢草直足嶋の為に讒されて、使人等寵を蒙らず。使人の怨、上天の神に徹りて、足嶋を震して死しつ。時の人称ひて曰へらく「倭(やまと)の天(あめ)の報近きかな」といへりといふ。(『日本書紀』斉明7年) 

 

「大倭(やまと)の天(あめ)の報近きかな」(岩波)誤訳である。送であろう。そもそも、岩波訳者は「天(あま)の報(むくい)とは、更に、「大倭(やまと)の天(あめ)の報」とは ”どのような報い ” と読者の理解を得ようとしたのであろうか。失礼ながら、とても、理解して訳したとは思われない。 

 

*当然のことながら、「天報」とは、「上天(じょうてん)の神が下す罰、即ち「天罰(てんばつ)である。「天(あま)の報(むくい)は「大和王朝」(「倭」)にではなく、「九州王朝Ⅱ」(「大倭」)に下る(後述)のである。 ” 讒した ” 韓智興と傔人西漢大麻呂とは、在唐「九州王朝Ⅱ」(「大倭」)人士ということなのである。 

 

●「唐朝に於ける兩朝使節の正統性争い」説は誤り 

*本資料を以て、” 唐朝に於ける「九州王朝Ⅱ」使節と「大和王朝」使節との「倭国」代表の正統性争い ” と説く説があるが、これは間違いである。 

 

*そうであろう。先にも述べた。「唐」と「倭国」は、斉明6年(660)、半島の覇権を賭けて激突するのである。「唐」の「海東の政」(百済への渡海侵攻)と「倭国」の「百済救援の役」である。この時点、「九州王朝Ⅱ」が「唐」へ使節を派遣し、配下の「大和王朝」と、その正統性を争い、その使節が流罪の憂き目を見たなど、とても、考えられることではない。 

 

在唐「九州王朝Ⅱ」(「大倭」)人士が、「大和王朝」(「倭」)使節の正統性に疑問を持ち、唐朝に申し出たもの(讒言)とするのが妥当なのである。 

 

『新唐』”「天智天皇」の即位と翌年の「蝦夷国」使節の帯同遣使 ” を記す。『日本書紀』は、”「蝦夷」の帯同遣唐使を斉明5年 ” に記す。で、あれば、「天智天皇」は「斉明4年」に即位していることになる。これはどういうことであるのか。 「天智天皇」について確認する必要がある。が、少し堅くなり過ぎた。亦、歌に戻る。


再分離:令和3年3月18日/最終更新:令和3年6月10日