目次
(1)難波(津)の歌 (2)過近江荒都の歌
1)8世紀初期、摂津・難波津は存在しなかった。
*” 8世紀初期、摂津難波津は存在しなかった ” ということだけで、” その約100年前に唐の迎賓館を建てて、積極的に対唐通交を行った推古天皇は近畿大和の地の存在ではなく、筑紫の地の存在である ” ということになるであろう。” この難波津は筑紫難波津 ” と考えるしかないのである。
*過近江荒都歌の「倭(やまと)から淡海国」が「大和から近江国」では有り得ないことは明確である。かつ、既論及から、前者は「太宰府の地から山口県(長門・周防国)への遷都 」ということになる。
*当然、”「大和王朝」の王の ” ではなく、”「九州王朝」の王・天智天皇の ” ということである。そもそも、” ナンバーツウの王者の遷都 ” などない。当歌の主題は、信じ疑われない「大和王朝」の王・天智天皇の子・大友皇子の悲劇ではなく、「九州王朝」の王・天智天皇自身の悲劇である。
1.2)8世紀、大和王朝の表玄関・摂津難波は田舎。難波津は存在しなかった。
*抜きがたい ” 信仰 ” が存在する。”「難波」と言えば摂津の「難波」即ち「浪速」という信仰 ” である。”「やまと」と言えば「大和」という信仰 ” に似ているであろう。
*しかし、これが間違いであることは、”「やまと」と言えば、本来、「九州王朝」の王城の地、或いは「九州王朝」そのものを指した呼称である ” ことと同じである。このことは、既に大葉子の歌で触れた。
*人麿が、そして笠麻呂が歌う摂津の港は「三(御)津」であり、「難波津」ではない。そして、列島王権の「大和王朝」への移行後の8世紀全般に在っても、「大和王朝」の表玄関・摂津の港が「三(御)津」であったことは、山上憶良等「大和王朝」の官僚が証言する。
・本来、”「難波」と言えば、筑紫の「難波」。「難波津」は「九州王朝」の表玄関であった ” ということである。
2)藤原宇合(うまかい)の歌
2.1)「殷賑の地」難波は田舎
〔式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首〕
(312)「昔こそ難波ゐなかと言われけめ今都引(京引)き都びにけり」
(岩波訳):昔こそ難波田舎といわれたであろう。しかし、今、都を引き移して実に都らしくなった。
(岩波補注):藤原宇合は、神亀3年(726)、式部卿で知造難波宮事を兼ねた。続日本紀。天平4年(732)3月、「知造難波宮事従三位藤原朝臣宇合等己下、仕丁己上に物を賜ふこと格差あり」と見える。
・九州王朝の王城の地からの移築(京引)(京を引き移す意:万葉講義)
・藤原宇合は、「大和王朝」の大功臣・藤原鎌足の孫である。父は藤原不比等。つまり、「大和王朝」の超エリート官僚である。天平4年(732)8月には西海道節度使に任じられている。その宇合が難波は田舎であったが、今は「京(みやこ)」都らしくなった”と歌っているのである。
2.2) 推古天皇も聖徳太子も筑紫の存在
・既述を置けば、何ともおかしな話ということになるであろう。ここ難波の地は、古くは民を慈しんだと称えられる仁徳天皇の「高津宮」。近世に至って畿内外を定め国家の体制を整備した、あの、古代最大の史劇・大化の改新により即位した孝徳天皇の「長柄豊碕宮」だけ存在したのではない。
・今に、赫々たる嚇々たる聖徳が伝えられ、国民的な英雄である聖徳太子が創建した四天王寺も、古くから整備された三韓の迎賓館も、そして古代、対中国外交に画期的な業績を挙げた女帝・推古天皇が造った迎賓館も存在し、通史往来する列島有数の殷賑の地(※)のはずなのである。
(※)活気があってにぎやかな土地(デジタル大辞泉)
・「16年(608)の夏4月に、小野妹子、大唐より至る。唐国、妹子を號けて蘇因高と曰ふ。即ち、大唐の使人裴世清・下客12人、妹子臣に従いて、筑紫に至る。難波吉士雄成を派遣して、大唐の客裴世清等を召す。唐の客の為に、更新しき館を難波の高麗館の上(ほとり)に造る。」(『紀』推古天皇)
・「『今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ。』とのたまふ。・・・亂を平めて後に、摂津國にして、四天王寺を造る。」(『紀』崇峻天皇)」
・” 田舎 ” など、とんでもない ” 話 ” なのである。むろん、” 難波宮の「堵」を改造したから都びた ” などとんでもない ” 話 ” なのである。
・そもそも、この ” 難波宮 ” とは如何なる宮であろうか。まさか、” 孝徳天皇の「長柄豊碕宮」” というのではあるまい。「長柄豊碕宮」が何時、建されたのかは分からないが、90年に近い年月を経ていることになるであろう。
・聖武天皇は播磨国の印南野に行幸し、帰途、難波宮に到った(『続日本紀』神亀3年10月19日)と。宇合が知造難波宮事に任じられるのは僅か1週間後(『続日本紀』神亀3年10月26日)である。
●伊波・筑紫難波 → 印南・摂津難波:偽史の具現化
・そもそも、” 知造難波宮事 ” とは如何なる職掌なのであろうか。” 難波宮造営の総監督 ”(東洋文庫457『続日本紀』直木考次郎 他訳注)であること。当然、” 何もない処(難波の地)に宮を造るのであるから難波宮造営である ” ということであろう。
・一方、万葉集の詞書は ” 改造難波堵 ” である。当然、” 改造難波宮堵 ” であろう。言わずもがな、” 難波の地に存在する宮の堵、即ち、築地塀を改造する ” ということである。
・まさか、” 知造難波宮事 ” とは ” 改造難波宮堵 ” の総監督ということではあるまい。”難波宮は存在した。であるから、聖武天皇は、同宮に到り、(同宮の築地塀の荒れようを見、)宇合に同改造を命じた”などと。で、あれば、” 築地塀の荒廃 ” のみではないであろう。
・なお、こう言うであろうか。”むろん、宮殿そのものも、「大和王朝」によって、修繕、維持されてきた。で、このケースは築地塀の修繕なのである”などと。
・では言おう。”『続日本紀』は、それらのケースを記録しているのか ” と。むろん、”知造〇〇宮事の任命”である。ないであろう。むろん、こう言うであろうか。”難波宮の築地の改造は偶々記録されたのである。そもそも、史書と言っても、全てが記録されるものではない”などと。
・では、それでは何故、万葉歌の詞歌(改造難波堵)は「宮」を欠いたのか。そもそも、この「宮」を欠いて通意するとは解し難いであろう。四天王寺にも、三韓の迎賓館にも、「堵」は存在するであろう。その「堵」の修繕は度々行われたはずである。何故、当詞書の書き手は「宮」を落としたのかということである。まさか、これをも、”偶々、落とした”というのではあるまい。”都合のいい「古人粗忽説」への逃避”である。
・” 万葉集の詞書の書き手の良心 ” と考えざるを得ないであろう。” ささやかな抵抗 ” である。” 嘘(事実に反する完全なる体制への迎合)よりも不通意(意味不明であるが、嘘をつかず、体制に言い逃れし得る表現)を選んだ”ということである。” 難波宮など無かった ” からである。流石に、”知造難波宮事”或いは ” 改造難波宮堵 ” とは書き得なかったということである。
・なお、この難波宮造営は聖武天皇の播磨国の印南野行幸と関係があるということである。
” 筑紫伊波の難波の難波宮を摂津難波の難波宮とする ” 作為である。いや、虚構を完成させるための造営ということである。
2.3)移築による都会化
● 聖武天皇の印南野行幸 = 宇合の知造難波宮事と西海道節度使の任命
・宇合の「知造難波宮事」・「西海道節度使」任命は「九州王朝」の王都建築移築の実行
・岩波訳は、〔「都引」の語は、「他に類例なけれど、「京引」の二字をそのまゝによむものとしてはこの外によみ方あるべく思われず。而してその意は京をここに引き移す意なるべし」万葉集講義(山田孝雄)〕の見解に依っているようであるが、明確な解説はない。
・そうであろう。岩波訳者は困ったはずである。そう解するしかないが、その事実(「難波遷都」)など、どこにもないからである。この時期、或いは以降も、「京」は奈良の平城京なのである。それで、”意味はそう解した(訳は、そう訳した)が解説は放棄した”ということであろう。
・ずばり、言おう。これは、”「九州王朝」の「京」を引いた ” のである。むろん、「京を引く」とは、”「京」の機能と景観を構成している建造物の移築 ” である。それ以外に、” 田舎であり、「京」でもない難波が「京を引いて都備る」” ことはないであろう。かつ、そう考える他に、「京引」の字義と多分正しいであろうと思われる歴史との整合はない。
・既に、先行説がある。『法隆寺は移築された(大宰府から斑鳩へ)』(米田良三著)である。” 法隆寺は筑紫大宰府都城の観世音寺が移築されたものである”という。この当否を論じる能力はないが、” 移築された ” ということは確かであろう。” 天智9年(670)に全焼した法隆寺の五重塔の心柱の伐採年代が年輪年代測定法によって594年と確認されている”からである。
・”伐採材をねかせて、或いは廃材を利用して、7世紀末頃再建された”と主張する学者もいるが、無理であろう。” 伐採材を100年近くもねかせる ” など、正気の沙汰と思えない。” 廃材を利用 ” は微妙である。当然、”未だ命数のある廃材”ということである。”未だ、命数が尽きないのに毀却された寺の部材”ということにもなる。” まるまる廃材利用 ” であれば、移築ということである。
・しかも、で、あれば記録があるはずであろう。法隆寺は、” 全焼 ” を史書に特記されるほどの寺なのである。” 全焼した寺が存在し、再建の記録がない ” かつ、” その五重塔の心柱の伐採材が全焼を遡る約80年 ” ということは、” 全焼の後、現法隆寺が移築されたが、その移築の事実が隠されている ” と理解するのが妥当であろう。
・本歌は、”「京」から難波へ ” である。何がどれだけ。それは分からない。この「京引」との関連は分からないが、” 本来の「難波」から摂津の難波へ ” と思われる例が一例だけあげられる。四天王寺である。
・上宮聖徳太子補闕記などに難波の四天王寺は、はじめ玉造の東の岸に造られたとする。玉造はいまの大阪城付近といわれるが、旧寺地も確かめられておらず、移転説の実否は分からない。(『紀』岩波補注)
・俗に言う ” 火のないところに煙は立たず ” である。例えば、東大寺にそのような伝承はないであろう。” 移築された ” という伝承が残り、” その移築元 ” が不明なのである。” 摂津難波 ” にその痕跡はないと。
・当歌の意味を考え、『摂津国風土記』の ” 比賈碁(語)曾社の神の筑紫難波から摂津難波への移転 ” 、かつ、法隆寺の移築を考えれば、四天王寺も、とするのが妥当であろう。
・そもそも、” 推古天皇も、聖徳太子も、筑紫の存在 ” なのである。四天王寺は、法隆寺と同じく、移築元は隠されているのである。
・藤原宇合の「知造難波宮事」任命と「西海道節度使」任命とはくさいと言わざるを得ないであろう。「知造難波宮事」任命後、僅か5ケ月で、「西海道節度使」に任命されたことになる。そもそも、これ等は一体のものであったのではないか。” 摂津難波に「京」を引く ” 任務である。
・当然のことながら、推古天皇も聖徳太子も筑紫の存在であったということである。この歌が歌われた時期は、岩波補注の「その頃」ではなく、” この後、かなりの時期を経た頃 ” ということではないか。藤原宇合の「京引」完了の自賛の歌であろうということである。
●「九州王朝」建築技術者の東遷
・我が国には世界最古の会社が存在するという。大阪に本社を置く宮大工集団・金剛組である。聖徳太子信仰に拠って結ばれ、創業は578年(敏達7年)、” 聖徳太子の命による四天王寺建設が契機である ” と。実に1400年遡る飛鳥時代の話である。
・どうであろう、聖徳太子と時代の整合以外、全く、根拠が詰められている理由はないが、本来、九州に在った宮大工集団が、四天王寺、法隆寺等の近畿圏移築を契機として、近畿へと移動したのではないか。
3)山上憶良(おくら)の歌
3.1)好去好来歌一首
・遣唐大使の帰着を待つのは摂津・御津(みつ)
・・・一前入泊港、筑紫・難波津に到着と聞いたら御津へ
(894)「神代より云い伝て来らく大和の国(倭国)は 皇神の厳(いつく)しき国と言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国と語り継ぎ言い継がひけり今の世の 人もことごと目の前に見たり知りたり 人さはに満ちてはあれども高光る 日の大朝廷(日御朝廷) 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨(おおみこと) 戴き持ちて 唐の遠き境に遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神留(かむづ)まり うしはきいます 諸の大御神たち 船舳(ふなへ)に 導きまをし 天地の 大御神たち 大和(倭)の 大国御魂(おおくにみたま) ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見渡したまひ 事終はり 帰らむ日には また更に 大御神たち 船舳(ふなへ)に 御手うち掛けて 墨縄を 延(は)へたるごとく あじかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊(ただはて)てに み船は泊てむ つつみなく 幸くいまして はや帰りませ」
(岩波訳)「・・・大御神たちは船の舳先に御手を掛けられて、墨縄を引いたように値嘉の入り江(五島列島の福江島)から大伴の御津の浜べに向けて、一直線に御船は港に入って泊まることでしょう。恙なく無事に出発されて、早くお帰り下さい。」
(反歌)(895)「大伴の 御津の浜松 かき掃(は)きて 我立ち待たむ はや帰りませ」
(岩波訳)「大伴の御津の松原を掃き清めて、私はそこに立ってお待ちしましょう。早くお帰り下さい。」
(反歌)(896)「難波津に み船泊(は)てぬと 聞こえ来ば 紐解(と)き放(さ)けて 立ち走りせむ」
(岩波訳) 「難波の津に御船が着いたと聞こえて来たら、結んだ紐を解き放ってはね回り喜びましょう。」
(岩波補注)「天平5年(733)閏4月の出発を翌日に控えた第9次の遣唐大使多治比真人広成に、山上憶良が贈った送別の長唄と反歌2首。憶良はこの30年前、大宝2年(702)第7次の遣唐使の小録として入唐した。
・山上憶良は「倭国」を「日本国」、「倭」を「大和国」(奈良県)の意味で使用しているであろう。が、今は置く。問題は、この時点でも、摂津の港は「御(み)津」であるということである。本歌と反歌が、これを証明しているであろう。
3.2)「難波津」は筑紫の難波津
●反歌の難波津
・で、反歌(896)は、ということである。むろん、この「難波津」は摂津の難波津ではない。 憶良は、” 帰り着く港は「御津」であると歌っている(本歌)” のである。”「御津」の浜辺を掃き清めて、早い帰国を、立ち待ちしている歌っている(895)” のである。摂津の港は「御津」なのである。
・”「御津」は「難波津」の別名 ” 或いは ”「御津」は「難波津」の一部 ” などと言うのであろうか。”「野島」の崎は「淡路島」の北端 ” などと言う手である。まさか、”摂津の港は「御津」と「難波津」の二つ ” と言うのではあるまい。それとも、「三津(みつ)」というのであろうか。
・” 摂津の「難波津」(「御津」)に到着したと聞いたら(大和の家で)結んだ紐を解き放ってはね回り喜びましょう ”(896)では、憶良は嘘をつくことになるであろう。憶良は、摂津の「難波津」(「御津」)で、立ち待ちしている(”立って待つ”)と約束しているのである。
●奇っ怪な岩波誤訳”裸踊り”
・難波津に御船が着いたと聞こえてきたら、結んだ紐を解きはなってはね回り喜びましょう。憶良は前歌の約束「立ち待ち」を反故にし、奈良の家で、裸踊りを踊ると。
・そもそも、この ” 結んだ紐を解き放ってはね回り喜びましょう ” とは、どのような根拠で、そう訳し得るのか。” 古来、儒教の劣等生である倭人は、嬉しいことがあると、臆面もなく、儒教社会では忌まれる、人前で、裸になって飛び跳ねる習慣がある ” とでもいうのであろうか。
・歌は、”「難波津」に到着したと聞いたら(大和の家から)結んだ紐が解き放たれるほど立ち走りする ” なのである。” 立って走る ”。即ち、” 騎馬で走る(騎走)” ではなく、”徒走(かちばし)り”ということである。解釈に何の無理もない。むろん、” 喜んで ” であろう。そして、” 結んだ紐が解き放たれるほど、一所懸命に走る ” ということである。” 徒走り ” であれば、” 和装の結んだ紐が解ける ” のも自然なのだ。
●帰着を待つ御(み)津
・遣唐大使の帰着を待つのは御(み)津・「難波津」は筑紫の難波津
・むろん、この「難波津」とは摂津の難波津ではない。で、あれば、憶良が嘘をつく・・約束を違える・・のは同じである。
・むろん、” 憶良が約束を違えることなどない ” と言うのではない。また、” 実際、憶良が、約束の如く実行した(立ち待ちして出迎えた)” かどうかは別である。憶良が、相手に歌を示した時点で、嘘をつく(相矛盾する歌を示す)ことなどないと言うことである。
・歌は、” 船が「御津」に入港するのを立ち待ちしている(約束)”、そして、”船が「難波津」に入港したと聞いたらならば一所懸命に走る”なのである。この「難波津」は「御津」に帰着する前の港、即ち、筑紫の「難波津」と考える以外にないであろう。
・歌は、”「御津」で立ち待ちする”(約束)、そのため、”「御津」の前入泊港である「難波津」に入港したと聞いたら駆けつける”と言うものなのである。
・筑紫の「難波津」に到着したならば、まあ無事帰着ということであろう。先ず、この吉報を首を長くして待っていると。この吉報を得たならば、”結んだ紐が解き放たれるほど一所懸命に立ち走りする”と。何処へ。”立ち待ちするする”「御津」へ、である。「立ち待ちする期間」は、遣唐使船の筑紫の「難波津」入校から「御津」着港までの間ということである。
・何故、これほどの矛盾を放置するのか。本当に、定説学者は”この「難波津」は摂津の難波津”と思っているのか。自説(閥説)の為なら、憶良を”嘘つき”にし、憶良に”気違いじみた裸踊り”をさせて恥じない。信じ難い学問の堕落である。
・摂津の地及び摂津の港は、天平5年(733)時点、未だ、「難波」とも、「難波津」とも呼ばれていなかったということである。藤原宇合の歌は、「その頃」ではないということである。
☆「ちはやぶる金の岬を過ぎぬれば我は忘れじ志賀の皇神」(1230)の岩波訳注「金の岬は海の難所」は理に遭わないということである。であれば、”「筑紫の難波津到着」は、未だ、手放しで喜ぶ状況ではない ” であろう。「黒縄を 延へたるごとく あじかをし 値嘉の岬より 大伴の 御津の浜びに 直泊(ただはて)てにて み船は泊てむ」などと歌える状況ではない。そもそも、”「金の岬」沖の遣唐使船の難破”などないのである。
3)笠金村(かなむら)の歌
3.1)出発、帰着港は三津
〔天平5年癸酉閏3月、笠朝臣金村贈入唐使歌一首 〕
(1453)「玉だすき かけぬ時なく 息の緒に 我が思う君は うつせみの 世の人なれば 大君の 命恐(かしこ)み 夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 三津の崎より 大船に ま梶しじ貫き 白波の 高き荒海を 島伝ひ い別れ行かば 留まれる 我は幣(ぬさ)引き 斎(いは)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ」
・山上憶良の歌と同じ遣唐使に贈ったものであろう。出発港は「三津」である。当然、帰着港も「三津」である。「難波潟」と言っていることから、摂津の海がこの時点、「難波潟」と呼ばれていたということである。思うに、「難波」とは定説の言う「魚(な)庭(にわ)」。つまり、普通名詞なのであろう。で、あれば、この地が「難波」と呼ばれた可能性はあるであろう。
・前述と矛盾すると言うであろうか。いや、さにあらず。そもそも、「ナ・ニワ」は多元的なのである。正確に通意しようとすれば、「〇〇のナニワ」でなければならない。が、「ナニワ」といって通意する「ナニワ」、つまり、「ナニワ」中の「ナニワ」が摂津の「ナニワ」ではなかったということである。藤原宇合の「田舎の難波」と矛盾しないであろう。「ナニワ」といえば、「筑紫の難波」であったということである。
・「ナニワ・ヅ」もおなじであろう。「ナニワ・ヅ」といえば、〔筑紫の「難波」の「難波津」〕であったということである。摂津の難波津は、天平5年時点、未だ、その名を得ていないということである。
・摂津の「難波津」が、その名を得るのは、摂津の「難波」が、その名を得て(「ナニワ」と言えば摂津の「ナニワ」)以降のことなのである。藤原宇合の「ナニワの歌」は、「京引」によって”摂津の「難波」がその名を得た”という宣言なのである。
3.2)摂津難波津の歌
・初出の難波津:確実に、摂津の「難波津」を歌った歌がある。
(4380)難波津をこぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく
・時代を特定することは困難であるが、『万葉集』を、前、中、後期歌に分ければ、後期歌・・・当然、天平5年(733)より、ずっと後・・・8世紀後半頃か・・ということになるであろう。
・なお、摂津「難波津」が「ミ(御)津」として歌われたことが明確である最後の歌は、次の歌であろう。
(3722)「大伴の御津の泊に船泊てて竜田の山をいつか越え往かむ」
☆「大和王朝」が名実共に、列島の主権を掌握して30年、本格的都城・平城京に遷都して20年、正史『日本書紀』を編纂して10年、未だ、「大和王朝」の表玄関・摂津の地に、「難波」も「難波津」も存在しなかったということである。この一事をもってしても、「近畿天皇家一元説」は成立しないであろう。「九州王朝説」が正しいということである。
3.3)難波津の木の花歌
・難波津に咲くやこの花冬ごもりいまは春べと咲くやこの花
(訳)難波津に咲く梅の花よ、今は咲くべき春として、うるわしく咲く梅の花よ。
(『古今和歌集』窪田章一郎校注)
・邇邇藝能命と木花之佐久夜毘賈の出会いの地:笠沙の御前=筑紫の難波津
・『古今和歌集』の序に「そもそも、歌のさま、六つなり。唐のうたにも かくぞあるべき。その六くさの一つには、そへ歌。おほささぎのみかどをそへたてまつれる歌。」として挙例される。「そえ歌」とは「物になぞらえて詠む、譬喩的表現の歌。」であるという。「おほささぎのみかど」とは「仁徳天皇」であると。この歌は「王仁が仁徳天皇を梅の花によそえて」、「仁徳天皇の御代の始を祝った歌」であると。
・この「王仁云々」について論じる力はない。これは置く。当然、この紀貫之の認識は、
”「仁徳天皇」は摂津の「難波津」の存在 ” に拠るものである。 しかし、”「仁徳天皇」とその后「磐姫」も筑紫の存在 ” なのである。” 仁徳天皇の時代、摂津の難波津は存在しない ” のである。この「難波津」とは筑紫の難波津ということになる。
・このことは、この歌が木花之佐久夜毘賈(木花開耶姫)と関連して伝承されることと無関係ではないであろう。邇邇藝能命が木花之佐久夜毘賈と出会うのは「天孫降臨」の地「笠沙の御前」即ち、筑紫の地なのである。この「笠沙の御前」が難波津であろう。
・なお、「木の花」は梅の花と解されているようである。何故、「木の花」が梅と解されるのか解らない。単なる思い込みか。それとも、口伝でもあるのであろうか。が、であるとすると、筑紫の「難波津」がよりふさわしいであろう。
・中国原産の梅が、先ず、もたらされるのは、摂津の地より筑紫の地のほうであろうからである。むろん、遠近の問題だけではない。筑紫の地は列島権力の中心地であるからである。何よりも、太宰府天満宮は梅の名所として今に伝承されている。
3.5)難波の淤能碁呂島(おのごろじま)・淡島
・難波津を出港して難波の地を振り返って見える淡島(糸島)、淤能碁呂島(能古島)
:筑紫難波の地
・定説はむろんであるが、難波(津)・筑紫説でもすっきりしない例がある。いや、それだけではない。本論で言う本来の淡路島、即ち、淡路島・屋代島~興居島列島説に疑問を提示するかもしれない。 仁徳天皇が吉備の海部直の女(むすめ)・黒日賈に恋をし、大后・石之日賈(磐之姫)が嫉妬したという話である。
・是に天皇、其の黒日賈を恋ひたまひて、大后を欺きて曰りたまひしく、「淡路島を見むと欲ふ。」とのりたまひて、幸行できましし時、淡路島に坐して、遥に望(みさ)けて歌曰ひたまひしく、「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝島(おのころしま) 檳榔(あじまさ)の 島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ」 と歌いはまひき。乃ち其の島より傳ひて、吉備国に幸行えましき。
・” 難波の崎を出立して見る我が国 ” とは ” 難波をその一部とする地 ” として良いであろう。即ち、”振り返って見る我が国”であると。 淡島、自凝島、檳榔の島、放つ島は、難波の地を含む我が国本土を背景として浮かぶわが国の島々である。
・当然、この「難波」を、” 島らしい島一つ浮かばない ” 摂津・難波の地に当てることはできない。むろん、淡道島を淡路島とし、同島を「淡島」とすることも無理である。” 天皇は「淡島」に坐して、「淡島」を望む”ことになる。この風景は、”能古島(のこのしま)、玄海島、志賀島、そして、恐らく、現糸島半島も、など多くの島々を浮かべる ” 筑紫・難波の地、こそ、なのである。
・どの島がどの島とは当て難いが、自凝島、淡島が、それぞれ ” 国生み ” の ” 其の島(淤能碁呂島:おのころじま)”と ” 数に入れられていない第二子(淡島)”であるとすると、” 天孫降臨 ” の同地こそ、相応しいであろう。強いて言えば、能古島と淤能碁呂島との類似もある。むろん、「オ」音が軽声で、落ちた、ということである。
・しかし、此処で困った問題が有る。” 難波と淡道島が対面している ” ということである。
” 筑紫・難波と対面する淡道島”は考え難いのである。 むろん、このことは、”摂津・難波と淡道島が対面していることからの作文 ” とすることもできる。”本来(筑紫)の難波は本来の淡路島(周防~伊予の列島)と対面するものではない”と。
・そうであろう。そもそも、現淡路島は、” 淡路島伝いに吉備国などへ行けない ” のである。
” 伝って直接行けるのは播磨国か阿波国”なのである。本来の淡路島も、” 伝って直接行けるのは周防か伊予国 ” なのである。つまり、”この淡道島は淡路島ではないし、この吉備国も吉備国ではない”とするのが妥当なのである。
・それは、吉備国に伝いうる淡路島も考え得る。たとえば、児島半島と四国への島々である。”児島半島は島であったのでは”とする定説論者としても受け入れ易いであろう。しかし、この類の淡路島は、”では、難波は何処”という問いに答え得ない。
・既に、” 安芸国の海浜(長門の浦近辺)が伊勢国に当てられている事例(人麿・鳴呼見乃浦歌)”を見ている。この吉備国も、そうであると考えるのが妥当であろう。 が、で、あるが故に、”伝って、この吉備国に至る淡道島”の存在は疑い難いし、”その淡道島が筑紫・難波と全く無関係”とも考え難いのである。が、”伝って行ける地は考え難い”のである。筑紫・難波に対する地は無いのである。玄界灘が広がるだけである。
・この難問をどう解決するか。 既論の筑紫・難波、即ち、博多湾・唐津湾に臨む地が ” 近っつ難波(津)”で、周防灘に臨む豊前の地が ” 遠っ難波(津)” に当て嵌めるしかないであろう。「おしてるや 難波の崎」歌は前者であるが、前後の記述は後者の対面する本来の淡路島のことであると。 で、この本来の淡路島を伝って直接行き得る地とは周防国或いは伊予国であるが、『古事記』は、いずれかを吉備国としていると。
・よいであろう。が、もう一つ、すっきりしない問題が残る。歌中の「淡島」である。むろん、此の「淡島」は筑紫・難波の存在である。本来の淡路島の主島、周防の大島、即ち、屋代島ではない。 で、どの島が、である。
・「糸島半島」が「淡島」であったのではないか。むろん、大した論拠を以て言えるわけではない。が、「淡島」は「淤能碁呂島」と共に、筑紫・難波の存在なのである。 で、伊邪那伎命が黄泉の国訪問の穢れを禊ぎした所は「筑紫の日向の小門の阿波岐原」(『古事記』)であると。室見川の下流域であろう。例えば、博多湾と唐津湾を繋ぐ水道が「小門」ではないか。
・で、「阿波岐原」と「小門」を挟んで対面する島は「阿波島」と呼ばれたのではないかということである。「糸島半島」が「淡島」であれば、島々の筆頭に歌われるのも、その大きさから首肯し得るであろう。
・なお、ひょっとしたら、” 一群の属島の島々の主島、即ち、一番大きな島が「阿波島」と呼ばれた”可能性があるのではないか。周防の大島「淡島」も、当然、四国島も(四国が「阿波島」と呼ばれた)、ということである。これが、” 日本列島は九州島と本州島の交尾 ” 即ち、”日本列島は二つの島から成るという認識”ではないか。四国を含む、その他の島々はこの島の属島という位置づけである。
☆歌と前後の記述の地理のずれ。これは、歌は「九州王朝Ⅰ」の王、恐らく、諡(おくりな)「仁徳天皇」のもの。前後の行動は、「九州王朝Ⅱ」の前身「淡海国」の王者のものということではないか。恐らく、『古事記・日本書紀』は同時代の兩王者を、このように織り込んだのであろう。この作為は、後の「天子」と「天皇」との関係もである。
・「天皇」(と『古事記・日本書紀』で位置づけられた王者)之「淡海国」所在もあるということである。それが、ひょっとして、” 豊浦宮の「推古天皇」” である。”「天皇府」の「淡海国」所在 ” の可能性である。
3.6)押照難波
・「押照」は、本来、筑紫・難波の枕詞・・・「押照」光は壱岐(日本(やまと))から
・天津日高日子(あまつひだかひこ)とは天の中心(壱岐)の中天(日高)に居ます日神(天照神)の子
・「大和王朝」としては、壱岐が「日本」であることも、王権正統者が同地に由来する「天津日高日子」であることも隠したかったと考えざるを得ない。出来得れば、” 列島の王権正統者は「毛沼の若子」(久米本来の王統者)”としたかったと。それ故の天孫降臨地等一連の変更である。 しかし、”王権正統者は「天津日高日子」である”という民衆の伝承・総意を無視することは出来なかった。正史(『古事記・日本書紀』)への記載である。「日高日子説」は、王権正統者の出自を冥(くらま)し、この綻びを繕うものである。
・前述「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば・・・ 」歌。 岩波訳は「大和から難波に出る山上から望むと、難波の海が照り輝いて見えるところから、枕詞になったのであろう。」とし、根拠として、『万葉集』巻6・977歌を例示している。
〔5年癸酉、草香山を越えし時に、神社忌寸老麻呂(かみこそのいみきおゆまろ)の作りし歌〕
(977)「直越(ただごえ)えの この道にてし おしてる(押照)や 難波の海と 名付けけらしも」
(岩波訳)「まっすぐに超えるこの道においてこそ、『おしてる難波』の海と名付けたのであろう。」 解るであろうか。先ず、この「おしてるや 難波の崎よ」歌の岩波解釈が、ということである。私には皆目わからない。 朝日か、夕日か、それとも、昼の日差しか、それは分からない。大和から難波への道で、山上から難波の海を望んだら、その日を受けて、難波の海が輝いて見えたということであろう。・・・ここまではよい。ごく、普通、翌有る風景である。が、「で、枕詞となったのであろう。」が解らない。
・そうであろう。「で、照り輝く難波の海と歌った。」と言うのであれば、何の疑問もない。極ありふれた話であろう。しかし、「で、押照が難波の枕詞となった。」というのである。 そもそも、”「照り輝く」が、何で、「押照」なのか”ということである。
が、まあ、この字義は、一寸、置く。 ”「押照」が難波の枕詞 ” である。その光景の美しさに差はあっても、”日の光を受けて照り輝くのは、伊勢の海でも、紀伊の海でも、普(あまね)く同じであろう。で、あるのに、”「山上から海を望んだら照り輝いて見えた」という意味の「押照」は難波にのみ冠せられる枕詞と成った”と言うのである。
・と、言うことは、例えば、”難波の海の日光反射率は他の海のそれより大きい”ということでもなければ、おかしいのである。尤も、そうであったとしても、おかしい。この”枕詞”は、難波の海に冠せられるのではなく、難波に冠せられるのである。
・よいであろう。岩波解釈は解釈になっていない。むろん、この手の話に疑問の無い解釈を求めている訳ではない。それほど、当方面の学問に信を置いている訳ではない。しかし、解釈であるならば、「押照」の字義と「難波」との関わり・・納得のいく説明・・が必要であろうということである。
・で、根拠として示された神社忌寸老麻呂ノ歌である。天平5年(733)は、「大和王朝」の列島代表王権が確立され、正に、同王朝の大義名分が「九州王朝Ⅱ」の大義名分に。音を立てて、取って代わる時代である。
・全く解らない。むろん、この歌の意味が、ということである。何故、”大和から難波への道が直越(超)え”であるから、”押し照る難波の海と名付けられた”と言えるのか。むろん、”これで解ったとする解釈者がどう解っているのか”も、である。 結局、自分の頭で考える他ないということである。
・で、思うに、どうも、両者、即ち、”大和と難波”の”直接的な関わり方”が”「押照」の由来”であるらしいとはいえるのではないだろうかということになる。そう。で、あれば、”「押照」の由来は、大和と摂津・難波の関係とされているが、本来は、〇〇と筑紫・難波の関係ではないか”ということである。
・であれば、” 〇〇とは筑紫・倭、即ち、太宰府の地であろう ” とするのが妥当のようであるが、どうも、ピントこない。そうであろう。”山上から望む”かどうかは置いても、この両者の関係は、”大和と摂津・難波との関係”と同じであろうと思われるのである。違いが分からないのである。 そもそも、「照る」とは、”太陽が主体”と考えられてきたであろう。”太陽が照る”であると。で、あるから、「難波の海が照り輝いて見えた」などと解されてきたということであろう。
・困ったであろう。むろん、定説論者が、である。太洋であれば、普く降り注ぐ光が、”難波の海だけ強く反射する”などとしなければならないからである。で、理解不能の解釈と成ったということである。つまり、”照らす主体を太陽と考えるのは不適当”と考えざるを得ないのである。では、” 何が照らす主体か ” ということである。”何が難波(の海)を照らす主体か”ということである。で、”主体は天照大神なのではないか”ということである。
・”天照大神は太陽が神格化された神”であろう。で、”この天照大神は対馬海流域を中心とする「天」の主神”とするとおかしいであろう。そもそも、”「天」も、そして、何よりも、その主神・天照大神も、太陽に照らされる方”なのである。
・当然だ、と言うであろう。”天照大神は太陽が神格化された神で、「天」の主神であるが、太陽そのものではないのであるから”と。 それはそうである。が、この”照らすのは太陽”との先入観に依る解釈が「難波の海が照り輝いて見える」なのである。で、これは間違いなのである。”照らすのは太陽とは別のもの”と考えざるを得ないであろう。
・で、あれば、この”別のもの”とは、天照大神そのもの、と考えるしかないのである。つまり、” 難波を照らすのは天(てん)に在る自然物・太陽ではなく、「天(あま)」におわす天照大神・太陽 ” と言うことになるであろう。〇〇とは壱岐島、即ち、倭嶋根、即ち、「日本(やまと)」である。
・よいであろう。であるから、”「天」域の中心「天一柱」の壱岐島が磯輪上の秀真國「日本(やまと)」であり、同地の王者が「天津日高日子(あまつひだかひこ)」”なのである。奇妙、かつ、不思議な称号、「天津日高日子」とは「天」の中心(壱岐)の中天(日高)におわす天照大神(日神)の子ということであろう。単純に言えば、天照大神の直系の王者である。当然、そう読まれている「日高日子(ひこひこ)説」は誤りであろう。
・不学にして、どうして、「日高日子(ひこひこ)説」が生じたのか知らない。単純に『日本書紀』の「天津彦彦日瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)」からということであろうか。しかし、これはおかしいであろう。この説は「天津日高日子」と「天津彦彦」が同じということで成り立つ話である。
・が、この称号としての共通部分は、”「天津日高日子」と「天津彦」”である。”後者は・・数ある「天津」の「長官」の一。前者は特定の「日高」の「長官」”である。 当然、前者が格が上ということである。そうであろう。卑近な例に例えるのであれば、” 北海道産の昆布 ” と ” 北海道日高産の昆布 ”との違いがあるであろう。
・何故、” 格下の称号を ” と言うことである。”「大和王朝」の王統が、その称号に由来する ” ということになるであろう。”「大和王朝」の王統は、瓊瓊杵尊に由来するが、その称号は「天津彦」である”と。” 瓊瓊杵尊の称号は「天津彦」が正しい”と。
・「天津彦彦火瓊瓊杵尊」とは「天津の彦(役職)・彦(役職、或いは階級)火瓊瓊杵尊」ということであろう。別に、奇異なものではない。奇異は「彦彦(ひこひこ)」という続け読みなのである。 この奇っ怪な読みは、そもそも、”「大和王朝」の王者の最高称号が壱岐(日本:天孫降臨発出地)由来では都合が悪い ” 故のものであろう。「大和王朝」(『日本書紀』)は天孫降臨地を狗奴国の祖先伝承地・霧島の峰に変えた。最早、壱岐は「倭嶋根」ではなく、単なる”鄙の一孤島”である。
・が、最高称号の「天津」を無視したり、変えたりすることは、流石に、出来なかったということである。それが、正史(『古事記・日本書紀』)への記載である。が、この最高称号の出自を冥(くらま)したい。それが、特定を少しでも回避する「日高」の削除であろう。
・光源は、「日本(やまと)」である。”光は、「日本(やまと)」から筑紫・難波に押し照る、即ち、無理やり照る”ということである。”無理やり照る”とは、天孫降臨と理解するしかないではないか。天(あま)族にとっての、古代最大の史劇、天孫降臨である。
・天族の天孫降臨、即ち、難波への着上陸侵攻という中国(なかつくに)への反逆への踏切は、正しく、シーザー(カエサル)のルビコン川渡河と同じ大決断であったろう。「押照」は、この両者の関係の記憶である。転じて、”両者の関係は、その距離も含めて緊密”と言うことになるのではないか。”稲見の海(ルビコン川)、一渡り(直越え)”であると。
・” 大和と摂津・難波 ” で考えたのでは、何が何だか解らないのはとうぜんなのである。よいであろう。977歌は”壱岐島(人麿歌「倭嶋根」)と大和(笠朝臣金村歌「日本嶋根」)、そして、筑紫・難波と摂津・難波 ” が入れ替わったものなのである。 むろん、老麻呂のみならず、この時代の人々は、「押照」が、本来、壱岐島と筑紫・難波との関係であることを知っていたということである。そうであろう。977歌は、諸人士に理解されたのである。
☆要約すると次のように言えるだろう。
・意味不明 何故、「海が照り輝く」ことが「押照」であるのか説明になっていない。
「押照」は ”「やまと」から「なにわ」への関係 ” を表意したもの
:筑紫の両者の関係から近畿の両者の関係へ
・「押照」は、本来、筑紫難波の枕詞:光は壱岐(日本:やまと)から
:天孫降臨(権力の波及:”押し照らす”:無理やり)= 難波への着上陸侵攻
・天津日高日子(あまつひだかひこ)とは
:天(あま)の中心(日本)の中天(日高)に居ます日(天照大神)の子
邇邇藝以来の正統王者の称号。「日高日子(ひこひこ)説」は、それが不都合故の嘘
・天智天皇の悲劇を歌い古の悲劇(香坂王・忍熊王の悲劇)に思いを致すもの
・・・壬申の乱(大友皇子の悲劇)主題説は誤り
〔過近江荒都、柿本朝臣人麻呂作歌〕
(29)「玉だすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天(そら)にみつ(天尓満) 大和(倭)を置きて あをによし(青丹吉) 奈良山(平山)を越え いかさまに 思ほしめせか あまざかる(天離) 鄙にはあれど いはばしる 近江の国(淡海国)の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろぎ) 神の 命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮所 見れば悲しも」
・当然この歌を見直さなくてはならない。この歌は、むろん、定説の如く、” 壬申の乱の悲劇を歌ったもの ” ではない。また、古田説(『人麿の運命』)の如く、”「大和王朝」の第12代の王・景行天皇の「大和の地」から「近江国」高穴穂宮への遷都と同宮における曾孫・香坂王・忍熊王の悲劇を歌い、壬申の乱の悲劇に思いを致させるもの ” でもない。
・この歌は、”「九州王朝Ⅱ」の天智天皇の悲劇を歌い、古の「九州王朝Ⅱ」の悲劇、即ち、「応神王朝」の始原の悲劇に思いを致すもの”である。
1.2)「天尓満倭(そらにみつやまと)」は太宰府の地。大和説は間違い。
・人麿の認識(「十首」)によれば、この「天尓満倭」を「大和の地」とし、「淡海国」を「近江国」とすることはできないのである。くどいが、「大和の地」は「鄙」なのである。「大和王朝」の王は「大王」なのである。「筑紫の地」が「天」、「九州王朝Ⅱ」が「遠乃朝廷」、「九州島」が「倭嶋」なのである。
・「倭(やまと)」は「太宰府の地」、「淡海国」は山口県なのである。既に見てきた如く、「畝傍(火)」は「筑紫三山」の一。「天満」(「虚見津」等)は「倭(やまと)」に掛かる枕詞、本来は、「太宰府の地」に掛かる枕詞なのである。「青丹吉」も、この地の「平(なら)」の枕詞ということになるであろう。
・当然、「淡海国の楽浪の大津宮」とは、” 山口県の大津の宮 ” と言うことになる。この「大津」とは、「仲哀天皇」の「穴門豊浦」、そして、「景行天皇」の「高穴穂宮」、即ち、周防の佐婆の辺りの可能性が大きいということになるであろう。
・まあ、軽々な当ては慎まなければならないが、” 周防の大きな港 ” とすれば、笠戸湾、徳山湾のどちらか、或いは、併せた地ということになるであろう。他に適当な地はなく、接する存在で、それぞれ、笠戸湾湾口部の笠戸島火振岬、徳山湾を防波堤の如く蓋をする大津島と港に関連する地名が遺存している。
1.3)「九州王朝」(Ⅰ、Ⅱ)の「王城の地」
・「九州王朝」(Ⅰ、Ⅱ)は、その「王城の地」を動かしていない。
・「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月・・・自郡至女王国萬二千余里」(『魏志』)
・「大倭王居邪馬臺国 案邪摩惟音之訛也 楽浪郡撽去其国萬二千余里」(『後漢』)
・「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去楽浪郡境及帯方郡並一萬二千里」(『隋書』)
・「倭国者古倭奴国也。去京師一萬四千里」(『旧唐』)
・「日本者古倭奴国也。去京師萬四千里」(『新唐』)
・その位置は、帯方郡或いは楽浪郡から「一万二千里」(周・魏の「短里」)である。唐の都・長安からの「一万四千里」は、この「一万二千里」に、長安から、帯方郡或いは楽浪郡までの「二千里」(唐の「長里」)を加えたものである。基本は「一万二千里」。むろん、この距離が、” 倭国の「王城の地」まで ” であることは、『魏志』、『後漢』、『隋書』の記述で明らかである。
1.4)「九州王朝Ⅱ」の遷都
・「倭」(太宰府の地)から淡海国の楽浪(さざなみ)の大津島(山口県徳山湾辺り)へ
徳山湾口を蓋する大津島は遺存地名
・その「九州王朝Ⅱ」が「淡海国」の「大津」に遷都したと。これは、どういうことであるのか。天智天皇の「近江国」の「大津」であるなら周知のことだ。大友皇子の悲劇の舞台。壬申の乱の悲劇の舞台である。しかし、この根拠は曖昧である。
・「(六年)三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に移す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願わずして、諷へ諫く者多し。日日夜夜、失火の處多し」(『日本書紀』天智天皇)
(岩波補注)「・・・持統6年条に初めて近江大津宮の語があり、万葉29の柿本人麿の歌に『ささなみの大津の宮』の句があり、のち大津京の称が普通に用いられた。・・・近時、大津京に擬せられる大津市南志賀町には白鳳時代の寺院跡が、宮跡とは認められず、その他の土地でも大津宮跡は考古学的調査によって確認されるに至っていない。今の大津市内の平地に有ったろうという程度で、詳しい位置はわからない。遷都理由は、飛鳥の旧勢力を避け人心を一新するというのが定説で、他に水陸交通の便、対新羅防衛策などが挙げられている。」
・遷都は国家的な大事業であろう。が、『日本書紀』の記す記事は、是のみである。この”慎ましやかな記述”はどういうことであるか。定説の「飛鳥の旧勢力を避け人心を一新する」というのであれば、”もっと、賑々しく記述する”であろう。かつ、列島の王者でもない「大和王朝」の ” 王都移転 ” は遷都とは言わない。定説も、人麿の歌に支えられているようである。
1.5)歌われるのは天智天皇の悲劇
●壬申の乱の悲劇
・久米の若子・天智天皇の悲劇を歌い古(いにしえ)の悲劇に思いを致すもの
:壬申の乱(大友皇子の悲劇)主題説は誤り
・しかし、人麿の歌は、「九州王朝Ⅱ」の天智(●●)天皇の「淡海国」への遷都(●●)とその悲劇を歌ったものなのである。この点、定説も古田説も、おかしいであろう。壬申の乱の悲劇は、”「近江国」の大津の宮に天の下知らしめした天智天皇の子・大友皇子の悲劇”なのである。歌意に遭わない。歌意は”「淡海国」の大津の宮に天の下知らしめした天皇(●●)の悲劇”なのである。 『日本書紀』の遷都(●●)は、”天智(●●)天皇の「淡海国」への遷都(●●)”と解するのが妥当である。
・むろん、この悲劇の内容はわからない。この悲劇が、天智天皇の天皇即位に関連することは明らかである。即位は、遷都(●●)の翌年、天智7年正月、或る本では、「6年の歳次丁卯3月」としているのである。天智天皇は、天智(●●)天皇の悲劇を待って、やっと、天皇に即位し得たということなのである。或る本は、正に、ぴたりと整合するであろう。「7年正月」は体裁を整えたもの。「6年3月」が真実を伝えるものかもしれない。
・但し、”天智(●●)天皇の「淡海国」への遷都(●●)”はおかしいのではないか。”「倭国」は、その都城の地を動かしていない”のである。”一時的で、すぐに戻ったから”としてもおかしい。そもそも、都を軽々に動かせるものものではないであろう。しかも、この遷都(●●)の地で、即、天智(●●)天皇を待っていた悲劇を考えれば、これは配流の転宮(●●)と考えるのが妥当であろう。
・なお、定説も、本説も、問題が在るであろう。それは、「近江国」或いは「淡海国」の地が「天離夷(あまざかるひな)」と歌われていることである。 定説では、”人麿は、景行、成務、仲哀天皇の治天下の高穴穂宮の地を、天智天皇時点、「鄙」”と歌ったことになる。本説も、”人麿が「天」に来たと認識した(255歌)地、即ち、「淡海国」・「淡海海」の地を、天智(●●)天皇時点、「鄙」と歌った”ことになるからである。かつ、本説は、「淡海国」を「九州王朝」の親神祖・応神天皇の統治した国としているのである。
・この点、古田説は、” この「鄙」認識は景行天皇の時点。即ち、「大和の地」は「天」、「大和の地」以外は「鄙」。景行天皇の近江国遷都は、「大和の地」以外への初めての遷都”であるから整合する。しかし、古田氏の「天」・「鄙」認識が人麿のものと整合しないことは記述のとおりである。
・この不整合の大小を勘案すれば、本説が妥当なのではないかということである。つまり、人麻呂は〔「天」中の「天」〕(「倭(やまと)」)と〔「天」中の辺地 〕(「淡海国」)の表現として、”「淡海国」を「鄙」とした”のではないか。今はそう考えるしかない。
・尤も、更にこう言うかもしれない。人間というものはそう厳密な、或いは単純なものではないであろう。人麿が「大和王朝」に身を置いていたことは確かなのである。既に実権は「大和王朝」にあり、「九州王朝Ⅱが「遠乃朝庭」と成った時代、宮廷歌人たる人麿が ”「大和王朝」の主張に立って歌を詠む ” ことはあるであろう。いや、当然、そうであろう。
・この歌と ”「大和王朝」に決別して「天」の地へと旅立った ”「十首」の認識が違うことはあたりまえであろう。古田説が整合するのに、本説が「十首」の「天」・「鄙」認識と整合しないのは、この故の矛盾であろうと。
・が、これは無いのである。如何に宮廷歌人とはいえ、作為した(古の悲劇:「淡海国」⇒「近江国」)歴史を事実として歌うことはないであろう。それをも歌い得るとするのであれば、”「大和王朝」への決別”もないのであろう。 しかも、そもそも、古田説は ”「壬申の乱の悲劇」(現今の悲劇)は大友皇子を殺した天武・持統朝のタブー” に立つのである。阿諛追従の宮廷歌人の歌うべきテーマではないであろう。
・「是に、大友皇子、走げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。・・・将軍等、不破宮に向づ。因りて大友皇子の頭を捧げて、営の前に献りぬ。」(『日本書紀』天武天皇上)
・そもそも、悲劇は筑紫倭(やまと)(太宰府の地)から淡海国(長門・周防国)の大津の地に転宮(●●)した天智(●●)天皇の話なのである。大和の地の王者・天智天皇の話ではないのである。定説通り、大友皇子が大和の地の王者・天智天皇の子であれば、その悲劇は何の関係もない話ということになるであろう。それどころか、” 敵の子の因果応報の悲劇 ” ということになるであろう。
・逆な言い方をすれば、大友皇子が定説と違い天智(●●)天皇の子ということでなければ、古田説は成立しないということである。
2)古の悲劇
2.1)仲哀天皇の正統、即ち、久米の若子・香坂王と忍熊王の悲劇
〔柿本朝臣人麻呂歌一首〕
(266)近江(淡海)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もいのに古(いにしえ)思ほゆ
・人麿が佇立する処。ここが、天智(●●)天皇の「淡海大津宮」跡。そして、仲哀天皇の「穴門豊浦宮」跡とするのは、そう無理な想像ではないであろう。「淡海国」で、今の世の悲劇を思って、古の世の悲劇に思い至らぬとは考え難いからである。
・古の世の悲劇とは、古田氏が説くとおり、仲哀天皇の正妃・大中津姫の子、香坂王と忍熊王の悲劇であろう。人麿は、人麿代の悲劇・天智(●●)天皇古の世の悲劇を思い、古の悲劇を思ったということである。当然、共に、久米の若子の悲劇ということになるであろう。
・しかし、ここで困難な問題に逢着する。忍熊王の最後の舞台、”地理の問題”である。
2.2)” 武内宿禰の執念の追求と哄笑 ”
・武内宿禰、精兵を出して追ふ。逢適坂に遭ひて破りつ。故、其の處を號けて逢坂と曰ふ。軍衆走ぐ。狭狭浪(ささなみ)の栗林(くるす)に及きて多に斬りつ。是に、血流れて栗林に溢く。故、是の事を悪みて、今に至るまでに、其の栗林の菓を御所に進らず。忍熊王、逃げて入るる所無し。
・則ち五十狭茅(いさち)宿禰を喚びて、歌して曰はく、「いざ吾君(あぎ) 五十狭茅宿禰(あぎいさちすくね) たまきはる 内(うち)の朝臣(あそ)が 頭槌(くぶつち)の痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづき)せな」、則ち共に瀬田の済(わたり)に沈(おち)りて死(まか)りぬ。
・時に、武内宿禰、歌(うたよみ)して曰く、 「淡海(おうみ)の海(み)瀬田の済(わたり)に潜(かづ)く鳥目にし見えなば憤(いきどほろ)しも 」 、これに、其の屍(かばね)を探けれども得ず。
・然(しかう)して後に、日数(ひへ)て莬道(うじ)河に出づ。武内宿禰、亦歌して曰はく、「淡海の海瀬田の済に潜く鳥田上(たなかみ)過ぎて莬道(うじ)に捕へつ」(『日本書紀』神功皇后)
●淡海海(周防灘)に入水自殺した
・「逢坂」、狭狭浪」、「栗林」は置く。問題は、忍熊王と五十狭茅宿禰が入水した「瀬田」と「莬道河」である。
〔柿本朝臣人麻呂従近江国上来時、至宇治河辺作歌一首〕
(264)「もののふの 八十宇治川の 網代木(あじろき)に いさよふ波の 行くヘ知らずも」
・” 網代木に掛かって揺蕩する忍熊王の屍体 ”:古代の悲劇
・” いざよう波の行方 ”:人麿の懸念 = 国家(九州王朝Ⅱ)の行く末
・この歌が、「過近江荒都」の旅で詠まれたものであることは明らかである。この歌は、古田氏の説く如く、”単なる無常観を詠んだもの”とするより、” 宇治川の網代木に掛かって揺蕩する忍熊王の屍と勝利を己が目で確認した武内宿祢の哄笑 ” を思って、その光彩を放つであろう。
・瀬田の渡りに投身入水自殺した忍熊王の行方を必死に探し求め、その屍を得て安堵の笑みを漏らす武内宿祢である。反逆は成功したのである。忍熊王が生きていれば、悲運は明日の我が身なのである。
・人麿は、天智(●●)天皇の悲劇を思い、古の悲劇を重ね、国家(「九州王朝Ⅱ」)の行く末を思って、宇治川の網代木にいざよう波を眺めている。つまり、琵琶湖ー瀬田ー宇治川の地理は動かし難いと。『日本書紀』或いは古田氏(『人麿の運命』)の主張は動かし難いと。
・古田氏の論証に疑問を持った今でも、同書を読んで、”ぞくぞく”としたあの異様な感動が忘れられぬ。”ぞくぞく”したのは、この宇治川の歌に至ってである。人麿臨終の地、石見国、浜田の「鴨山」と「石川」の論証から、この宇治川の歌まで、判然である。縁有って奈良の地に住み、曾て眺めた宇治川の水の色と渦流が眼前に彷彿した。で、”論証、正に斯くの如くあるべし。”と。
・しかし、残念ながら、この感動を振り払わなければならない。いや、その場所を替えて、改めて、己が心情に問いかけなくてはならない。忍熊王の悲劇は「淡海国」でのものなのである。詞書の「過近江荒都」は「過淡海荒都」なのである。「上る」とは、「淡海国」から「太宰府の地」ということになる。「八十莬道河」とは「関門海峡」ということになるであろう。「淡海」と「玄海」を結ぶ「河」である。おかしいが、そう理解するしかない。
・くどいが、忍熊王が入水したのは「湖(うみ)」ではなく、「海」なのである。
・ 「忍熊王興伊佐比宿穪、共被追迫、乗船浮海歌曰」(訳)是に其忍熊王と伊佐比宿禰と、共に追い迫めらえて、船に乗りて、海に浮かびて歌曰ひけらく、「いざ吾君(あぎ) 振熊(ふるくま)が 痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の湖(宇美)に 潜きせなわ」とうたひて、即ち海に入りて共に死にき。(『古事記』仲哀天皇)
・「宇美」を「湖」とするのは、”「琵琶湖」を「淡海(近江)の海」とする”誤った解釈によるものである。本当に、そう考えるのであれば、”「宇美」は「海」を当てて然るべき”であろう。ここのみ、「湖」を当てて糊塗しようとしても駄目である。前後が「海」なのである。
・「淡海国」に入水した遺体が流れて浮かぶ「河」、「淡海国」から「倭」に至る途中の「河」とは「関門海峡」以外にないであろう。
・固有名詞を全て、このように解釈してよいのかという問題はあるが、”「八十莬道河」とは、「八十莬」へ至「道」の「河」”ということであろう。当然、「天」中の「天」、即ち、筑紫の地からということになる。「八十莬」とは「淡海国」を含む「鄙」の地ということになるであろう。つまり、この「河」は ” 界を別つ河 ” なのである。
3)宇治川とは玄海(黒い海)と淡海(淡い海)を結ぶ河、即ち、関門海峡
3.1)
・淡海海の枕詞 ”石走る(いわばしる)”とはその潮流か 。本来、「淡海国」に掛かる枕詞「石走」とは「関門海峡」の潮流であったのではないか。両岸の岩を噛んで奔流する潮流である。応神天皇の子には、淡路御原皇女も、莬道稚郎子皇子も存在する。この「淡路」も、「莬道」も、「淡海(国・海)」の存在と考えるのが妥当なのである。
・忍熊王の死も水死である。事代主命、出雲の児等、姫島の美人、人麿とそれぞれ事情は異なるが、「水死」が、古代の貴人の死に方或いは殺し方の一つであったということであろう。 人麿が「いさよう波」の行く末に見たのは、「九州王朝Ⅱ」(即ち「国家」)の行く末であったのではないか。
・なお、266、264歌は「十首」と一連のものである可能性があるであろう。そもそも、「十首」は、摂津の三津から筑紫の難波津への旅において詠まれたものなのである。それにしては、” 因島から厳島までの歌が欠けている ” ことは既述した。が、”欠けている”のは、この間だけではない。”関門海峡の歌も欠けている”。”他はかけて”も、此処の欠落は考え難いと思うのは私だけであろうか。
・景観も、早い潮流も、同所が ” なぐわしの「稲見海」” と ”「九州王朝Ⅱ」と縁の深い「淡海」” を結ぶ要地であり、肥前、豊後の姫島と対応する彦島の存在をも考えるならば、人麿が歌を詠む・・・人麿に感興を催させる・・・に十分なのである。254歌は ” 正に整合する ” のではないか。
3.2)宇治川・宇治の渡り
・”「宇治川・宇治の渡り」が関門海峡ではないか”ということは『古事記』(応神天皇)からも確認できるのではないか。
・一時(あるとき)、天皇近淡海国に越え幸(い)でまししとき、宇遲野の上に御立(みた)ちしたまひて、葛野(かづの)を望(みさ)かて歌曰ひたまひしく「千葉の 葛野を見れば 百戦足(ももちだる)る 家庭も見ゆ」とうたひたまひき。故、木幡村に到り坐しし時、麗美しき嬢子(をとめ)、其の道衢に遭ひき。
・応神天皇の宮は軽島の明宮(定説:大和国高市郡)であると。即ち、応神天皇は ” 大和から近江の地へ向かった ” と。即ち、” 応神天皇は宇治川を渡った ” ということになるであろう。”渡った宇治野で、歌をうたった”と。
・そんなことは言っていないというのであろうか。『古事記』は嬢子の父・丸邇之比布禮能意富美(わにのひふれのおほみ)との宴において、応神天皇が歌ったという歌を掲げている。
「この蟹や 何処(いずく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去(よこさ)らふ 何処(いづく)に到る 伊知遲島(いちじしま) 美(み)島に著き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき しなだゆふ 佐左那美(ささなみ)路を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子・・・ 」(歌われるのは宇治から楽浪への路ではなく、島々が散在し、細波の寄せる、穏(おだ)やかに起伏し緩(ゆる)やかにうねる(しなだゆふ:解読不能)海辺の路であろう。)
・この歌は、角鹿から佐佐那美へ、即ち、敦賀から琵琶湖南岸の楽浪への歌とも解されるが、まあ、定説と同じ、大和から琵琶湖南岸の楽浪への歌とする。
・応神天皇は、” 宇治野を過ぎた木幡で嬢子にであっている ” と言うことなのである。が、おかしいであろう。何処にも、「宇治川・宇治の渡り」が ” ない ” 、のである。むろん、「宇治川・宇治の渡り」を宇治野の前(南)としても同じである。”ない”のであるから。
・省略したというのであろうか。”一々書かなくとも”と。むろん、全て書かなければおかしいなどと言うのではない。「宇治川・宇治の渡り」は書かなければおかしい、と言うのである。
・「宇治川・宇治の渡り」は応神天皇の後継・「仁徳天皇」にとっても重要な場所なのである。言うまでもない。” 反逆した兄皇子・大山守命を誅殺した場所 ” である。そもそも、” 本来、応神天皇の後継を約束されていた太子・宇遲能和紀郎子の名は、この地に因む名前 ” であろう。
・『古事記』・『日本書紀』共に、この ” 誅殺 ” の細部と歌二首(「ちはやぶる 宇治の渡りに・・・」、「ちはやひと 宇治野渡りに・・・」)を記す。むろん、時代が下っても「宇治川・宇治の渡り」が地勢的重要地であることに変わりがないことは、「壬申の乱」に見るとおりである。” 同地は「吉野」の大海人皇子と「東国」との通交を扼する(糧道遮断の)要地である ” と。”ない”のはおかしいのである。
3.3)宇治川を渡る行幸(ぎょうこう)は越幸
・一時(あるとき)、天皇近淡海国に越え幸(い)でましし時、宇遲野の上に御立ちしたまひて
・・「宇治川は堺(天鄙)を別つ川、淡海海(周防灘)と瀚海(玄界灘)を繋ぐ川」 ・・”ある”のである。・・・何処に。「天皇近淡海国に越え幸(い)でましし時」である。原文は「天皇越幸近淡海国之時」。「行幸」ではなく、「越幸」であると。この「越」は ”「宇治川・宇治の渡り」 を越えること”、と考えざるを得ないであろう。
・この「越」の対象は ” 界を別つもの ” であろう。それが現・宇治川であろうか。” 宇治川は界を別つ川である ” と。まあ、日本人の感覚としては ” 大きい川”であろうが、とても、そこまでのイメージは湧かないであろう。増して、” 通交を扼する要地である ” などと、そもそも、”川を渡る”ことを「越」と言うのか。他に、例がないであろう。
・「越」の対象は「関門海峡」と考えるのが妥当なのである。「九州島」と「本州島」、「天」と「鄙」を別つ「川」、「淡海」から玄界灘、魏志に言う「瀚海」へと流れる「川」である。同海峡は、東西、或いは「淡海」と玄界灘の「関門」であったのであろう。” 伊知遲島、美島は「淡海」(周防灘)中の存在 ” ということである。
・近畿の地名とすればなにがな何だか分からないであろう。そうであろう。” 大和から琵琶湖南岸の大津(楽浪:さざなみ)へ向かう経路に、伊知遲島、美島が存在する”と言うのである。岩波注解は「イチジ島もミ島も地名(必ずしも島とは限らない)であろうが、所在不明。」としている。
・「倭嶋(やまとしま)」を ” 倭(やまと)の地 ” とする手である。臭わしてはみた。が、流石に、”イチジの地” や ”ミの島” とはし得なかったということであろう。適当な地名が存在しないということであろう。在ったらこじつけであろう。しかし、そのまま、率直に、「島」とすることにも引っ掛かる。で、注釈者は、島名を片仮名表記にしたのではないか。
・どうであろう。「楽浪」が特定の地名として存在することは疑い難いが、この歌の「佐左那美路」とは、岩波解釈の ”「楽浪」という地に至る「路」” ということではなく、” さざ浪の寄せる「淡海」の海辺の路 ” ということではないか。
3.4)宇治川の辺(ほとり)に這う角鹿(つぬが)の蟹 宇治から楽浪への路に散在する島々
・そもそも、場所が違うということ、も、であるが、この歌は、湖辺(うみべ)へ向かう歌とするよりも、 さざ浪が寄せ、蟹が這う海辺の路を行く歌と考えた方が妥当である。” 穏やかに起伏し、緩やかにうねる(「しなだゆふ」)海辺の路(「佐左那美路」)を行く歌 ” である。
・大山守命が沈んだ所が「訶和羅(かわら)の前(さき)」であると。「訶和羅(かわら)の岬(みさき)」ということであろう。埋葬された場所が、「那良山」であると。この「那良山」も、「関門海峡」の近辺ということになるであろう。人麿の「過近江荒都」歌の「平山」の可能性もあるであろう。
3.5)蟹は気比の海(周防灘)東域の角鹿から
・天皇の進行は、倭(太宰府の地)から関門海峡(宇治川)を越え、淡海海(周防灘)北縁を西から東へ 。
☆そもそも、”「この蟹や 何処(いずく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹・・・」の歌が ” 大和から琵琶湖南岸へ至る路の歌 ” などと、如何に、想像を逞しくしたとしても考え得るものではないであろう。”「宇治川」の川辺を這い回る「敦賀」の蟹 ” などを、である。” 近畿の歌。「角鹿」は「敦賀」” と信じるが故の解釈である。”そう謂われているのであるから、そう解する他ない ” と。”「敦賀」の海の蟹は山を越え、琵琶湖西岸から宇治川を下った”と。
・しかし、”「高志の前」の「角鹿」は「穴門国」の東界、即ち、「淡海」(周防灘=「氣比」)の地の東界の存在 ” なのである。蟹の「百傳」は ”「角鹿」(「淡海」東部)から「宇治の渡り」(「関門海峡」:「淡海」西部)までの海浜伝いの横這い”と言うことになるであろう。” 海の蟹の海浜伝いの横這い”である。
4)橿原即位の王者とは
・当然、問題は前述のみでは終わらない。畝傍の橿原で即位した王者のことである。この王者は神武天皇ではないということになる。天津日高日子番能邇邇藝命ということになるであろう。古史・古伝に言う「初代天皇」である。
・「大和王朝」は、神武天皇の「大和の地」における即位を、邇邇藝命の筑紫「倭(やまと)」における即位に擬したということである。
・このことは、『日本書紀』も証言するであろう。
「戌午年の春二月の丁酉の朔丁未に、皇師遂に東へゆく、舳艫相接げり。方に難波碕に到るときに、奔き潮有りて太だ急に合ひぬ。因りて、名けて浪速国とす。亦浪花と曰ふ。難波と謂ふは訛れるなり。天皇、前年の秋九月を以て、潜に天香山の埴土を取りて、八十の平瓮を造りて、窮自斎戒して諸神を祭りたまふ。遂に區宇を安定むることを得たまふ。故、土を取りし處を號けて、埴安という。故に古語(ふること)に称して曰さく「畝傍の橿原に、宮柱底磐の根に太立(ふとしきた)て、高天原に摶風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇を、號けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す」。
・むろん、この時期、筑紫「倭(やまと)」の地にも「天香具山」は存在しない。しかし、『日本書紀』編纂時点(720)、大和の地にも 天香具山は存在しなかったであろう。「難波」も、筑紫の存在で、摂津の存在ではないのである。つまり、この「天香具山」と「難波」の話は筑紫「倭」を意識して作られたものと考えるのが妥当である。
・「高天原」については、” 特定の地上に相応しい場所ではない ” と言うかもしれない。が、では、”「東」或いは「鄙」の某所の底磐根に宮柱を立てても「高天原」に摶風峻峙(ちぎたかし)”ことになるのかという疑問である。”「高天原」に摶風峻峙(ちぎたかし)る”場所は、やはり、特定の場所なのではないか。即ち、筑紫「倭」の地(「天(あま)」の「天(あま)」)であろう。
・なお、「磐余(いわれ)」についても、大和の地名ではないであろう。「倭」、即ち、原「九州王朝」の王統に連なることを誇示、自称する者が、即位した「鄙」中の地名を採って己の名乗りとすることなど、考えられることではない。東京生まれが自慢な男が「田舎彦」を名乗るようなもの”である。
・諧謔を楽しむ場合ではない。この「磐余」とは、筑紫「倭」圏にあって著名な地名。「磐余彦」{「磐余」の王者}とは、筑紫「倭」に於いて権威的な存在と考えるべきであろう。
・この「磐余」とは、” 磐(大島(だいとう))割れ(九州島と本州島)の余り(島)”と言うことではないか。即ち、関門海峡の「彦島」である。「磐余彦」とは、この地に在って、玄界灘、瀬戸内海の海上権を掌握する王者であったのではないか。「狗奴国」の王者・・穂穂出見王統者ではなく、現「狗奴国」の王者、即ち、海神の裔・・として相応しい称号であろう。この地こそ、” 二匹の蜻蛉の臀呫(となめ)の地 ” なのである。
・列島の主権王朝(「九州王朝Ⅱ」)を創基した「狗奴国」の王統の裔・「穴戸国」の王者・継体天皇が「伊波禮之玉穂宮」で天下統治した(『古事記』)とされるのも、これを裏付けるのではないか。継体天皇も、原「狗奴国」の王統を継ぐ者ということである。
☆「天智天皇」とは何者かということについて考えて見なければならない。むろん、結論は難しい。なお、その前に、宇治川を考えることによって浮上した「川」への疑問、何故、” 大伴旅人は筑紫の川を歌わなかった ” のかという疑問等々を確認する。
【要約】橿原即位の王者とは
・筑紫倭(やまと)即位の王者・邇邇藝命(神武天皇を邇邇藝命に擬した)
・「磐余(いわれ)彦」とは彦島の王者の称号か
:「磐余」=「磐(大島:だいとう)割れ(九州島と本州島)の余り(彦島)」
:「磐余」大和の地名説は嘘
前説は置いても、倭の出自を誇りとする王者が鄙の地名を名乗りとすることなどあり得ない。
・本来、狗奴国本家の王者(毛沼(けな)の若子(わかご))の名乗りか
:継体天皇(伊波禮之玉穂宮)は継承者
5)万葉集中の「河・川」
5.1)歌われない筑紫の川
・何故、筑紫の川は歌われないのか。松浦川は歌われるのに、何故、室見川、那珂川、御笠川、遠賀川、筑後川など、” 筑紫中の筑紫の川 ” は歌われないのか。” 筑紫中の筑紫の地物 ” 水城、大城山は歌われるのに。大伴旅人は水城は歌っても、筑紫の川は歌わなかったのか。
・何故、同じ「トホノミカド」と歌われる越中の主要な川は歌い尽くされているのに、外交・防衛上の要地、太宰府が設置され、多くの万葉歌人が滞在した筑紫の地の川は歌われていないのか。
・そのようなことは、どのケースを考えても有り得ることではない。” 筑紫中の筑紫の川 ” は歌われている。” 近畿の川 ” として。
・『万葉集』の「固有名詞の川」について、その比定に疑問があることは触れた。「宇治川」も、その一つである。「吉野川」については「嘉瀬川」であろうと。” 雄大な「明日香川」” はおかしいと。”「泊瀬」が筑紫の地名 ” であれば、”「泊瀬川」は筑紫の川”とするのが妥当であろう。
・『万葉集』中に頻出或いは多出する「固有名詞の川」は、この「宇治川」(10首)、「吉野川」(16首)、「明日香川」(20首)、「泊瀬川」(10首)の他に、「佐保川」(16首)、「木津川」(「泉川」:7首)・・以上、近畿の川、そして、肥前の「松浦川」(7首)、越中の「小矢部川(「射水川」:6首)」であろう。
・”『万葉集』は近畿人の歌集 ” であれば、この ” 川の歌われ方 ” も、一応首肯し得る。しかし、更に、” 何処の川が歌われていないか ” を確認すれば、重大な疑問が生じるであろう。
”「筑紫中の筑紫の地の川」、即ち、「室見川」、「那珂川」、「御笠川」、「遠賀川」、そして、全国的な大河、筑紫三郎「筑後川」等の歌が全く存在しない ” のである。
・”頻度が少ない”と言うのであれば、まあ、疑問海将とは言えないが、そういうこともあるかと考え得るであろう。列島中の全ての地の「川」が歌われているわけではない。”『万葉集』は近畿人の歌集”なのである。が、” 一首も歌われていない ” というのは首肯し難いであろう。此処は、他所と違う「太宰府」の地なのである。「大和王朝」の官人、歌人が多数在住し、多数の歌が詠まれている歌処なのである。
・大伴家持が「トホノミカド」と歌う越中の「川」は、長歌となく、短歌となく多く歌われている。「射水川」(「小矢部川」:3985、3993、4006、4106、4116、4150)、「片貝川」(「黒部川又は成願寺川」?:4000、4002、4005)、「雄神川」(「庄川」?)、「婦負川」(「神通川」?)、「宇奈比川」(「宇波川」?)、「延槻川」(「早月川」?)、鸕坂川(うさかがわ)等である。それぞれ、現在のどの川に該当するのか比定し難いが、ほぼ、主要な「川」は歌われているとして良いであろう。一番多く歌われている「射水川」は越中国府所在地を流れる川であり、頻度は妥当なのである。
5.2)悉く歌われる越中の川
〔二上山の賦一首 この山は射水郡に有り 〕
(3985)「射水川(いみづがわ) い行き巡れる 玉くしげ 二上山は 春花の・・・」
(4006)「かき数ふ 二上山に・・・射水川 清き河内に・・・」
(4150)「朝床(あさとこ)に聞けば遙けし射水川 朝漕ぎしつつ唱ふ船人」
〔立山の賦一首 短歌を并せたり。この山は新川郡に有り〕
(4000)「・・越の中・・その立山に 常夏に 雪降り敷きて帯ばませる 片貝川の・・」
(4006)「落ち激(たぎ)つ片貝川(かたかひがわ)(黒部川)の絶えぬごと今見る人も止まず通はむ」
〔砺波郡の雄神の河辺にして作りし歌一首〕
(4021)「雄神川(おかみがわ)紅にほふ娘子らし葦付(あしつき)取ると瀬に立たすらし」
〔婦負郡の鸕坂川(うさかがわ)の河辺にして作りし歌一首〕
(4022)「鸕坂川渡る瀬多みこの我が馬の足掻(あが)きの水に衣濡れにけり」
〔鸕を潜くる人を見て作りし歌一首〕
(4023)「婦負川(めひがわ)の早き瀬ごとに篝(かがり)さし八十伴の男は鵜川立ちけり」
5.3)歌われる千曲川、多摩川、利根川等
・「固有名詞の川の歌」は、信濃、関東、そして、東北にも及ぶ。「千曲川」、「多摩川」、「利根川」、「久慈川」も歌われているのである。そして、「筑紫の地」、肥前の「松浦川」(855~858、860、861、863、856「松浦なる玉島川を含む」)は歌われているのである。が、”「筑紫中の筑紫の地の川」、即ち、「室見川」、「那珂川」、「御笠川」、「遠賀川」そして、「筑後川」等の歌は全く歌われていない”のである。
(3373)「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき」
(3400)「信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ」
(3413)「利根川の川瀬も知らず直渡り波に逢ふのす逢へる君かも」
(4368)「久慈川は幸くあり待て潮船にま梶しじ貫き我は帰り来む」
5.4)唯一歌われる松浦川
〔蓬客等の更に贈りし歌三首〕
(855)「松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ」
(856)「松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる児らが家路知らずも」
(557)「遠っ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我こそまかめ」
5.5)歌われる筑紫の地物
・むろん、”「筑紫中の筑紫の地物」が一切歌われていない”と言うのであれば、これはこれで、首肯し得る。” 歌は存在したが、『万葉集』には不掲載とされた。と。何故。”「九州王朝」に触れることを恐れて”である。 しかし、「筑紫中の筑紫の地物」の歌は搭載されている。「水城」、「大城山」等である。「筑紫中の筑紫の地物」の歌の『万葉集』搭載はタブーではないのである。
・筑紫の地は、大伴旅人が、
(968)「ますらをと思へる我や水茎(みずぐき)の水城の上に涙拭う(のご)はむ」
と歌い、大伴坂上郎女が、
(1474)「今もかも大城山にほととぎす鳴きとよむらむ我「なけれども」
と歌う万感の地なのである。そして、そもそも、” 川は万葉集の主題の一 ” なのである。であるのに、” 筑紫中の筑紫の地の川 ” は全く歌われていないのである。
・万葉集歌人挙って、「筑紫中の筑紫の地物」には万感であるが、「筑紫中の筑紫の地の川」には何の感慨も持たなかったなど、とても信じ得ることではないであろう。 ” たまたま、「固有名詞の川の歌」は歌われなかった ” 或いは ” 歌われたけれども、拙劣であるから、「固有名詞の川の歌」は、全て、不搭載と成った ” などというのであろうか。”「松浦川」、越中の「川の歌」の搭載は、秀歌であるから、或いは、旅人、家持と関係するから特別に”などと。
・万葉歌人は、” 川に特別の情感を有していた ” とも思われるほど、川を多く歌う。近畿においては、溝の如き「明日香川」、小川の如き「泊瀬川」、「佐保川」から、大川と言ってよいであろう「吉野川」、「宇治川」まで、それこそ、親しく、頻頻と歌っている。そして、むろん、近畿以外の「川」もである。
・が、「太宰府」が置かれ、旅人、家持も在住した”「筑紫中の筑紫の地の川」は、短歌一首も歌われていない”と。”旅人も家持も、この地で、「固有名詞の川」を全く詠まなかった”と。”そんなことはない。長歌となく、短歌となく歌われ、搭載されている”とするのが理性の導くところであろう。
・”そんなことを言っても、歌が存在しないのであるからしょうがない。何処に、どう歌われているというのか”と言うであろうか。当初の疑問である。” 無い ” のである。”「筑紫の地の川」は近畿の川、即ち、「宇治川」、「吉野川」、「明日香川」、「泊瀬川」、「佐保川」、「木津川」として歌われている”と理解するしかない。
・強引というであろうか。可能性は否定し得ないが、そうとは断じ得ないであろうと。しかし、強引は定説も同じなのである。”「滝」も「宮柱を立てる河内」もなく、「船競い」も出来ない大和国吉野郡の「吉野川」を「吉野の国、吉野の宮と一連歌われる吉野川」である”と言うのである。”濡れそぼった秋萩で蔽われそうな細流・現「明日香川」が「雄大な」と歌われる「明日香川」である”と言うのである。根拠は、そう解釈、或いは主張されてきた。そして、何よりも、現在、その名でよばれているということだけなのである。
・”強引は同じ”であれば、より理のある、即ち、「九州王朝説」に整合する”「筑紫の地の川」は近畿の川として歌われている”と理解するのが妥当ということである。”「天香具山」は、本来、「筑紫の地」の存在、「明日香の神岳」は「大和の地」の「雷岳」、即ち、「雷山」” なのである。猶、現在の名前に拘るであろうか。”「天」(「筑紫の地」)に天香具山が存在せず、「鄙」(「近畿の地」)に天香具山が存在する ” ことを指摘すれば十分であろう。
・むろん、『万葉集』中のこれらの「固有名詞の川の歌」が、全て、「筑紫の地の川」を歌ったものであるというのではない。当然、現在の「大和の地の川」として認識されている「固有名詞の川の歌」もあるであろう。歌われた「川」が、どちらの地のものであるのか一々判別は困難である。” 歌われた「難波津」が本来の「筑紫の地」のそれか、それとも、これに替わった「摂津の地」のそれか判別し難い ” の都同じである。
・或いは、これらの「川」の内の幾つか、即ち、「佐保川」、「木津川」等は純然たる「大和の地の川」であるということも有るかもしれない。が、間違いなく、「吉野の国、吉野の宮と一連歌われる吉野川」そして、「雄大な川と歌われる明日香川」は「筑紫の地の川」だということである。
・で、これ等の川が「筑紫の地の川」のどの「川」に当たるかということである。「吉野の国、吉野の宮と一連歌われる吉野川」が「嘉瀬川」である。「雄大な川と歌われる明日香川」は「室見川」であろう。”「九州王朝」の古都(ふるきみやこ)(吉武高木遺跡)の川 ” である。「泊瀬川」、「佐保川」、「木津川」が、どの「川」に当たるかは困難であるが、「那珂川」、「御笠川」、「筑後川」、そして「遠賀川」等に当たるということになるであろう。
・で、「宇治川」である。”「海」に入水した忍熊王の遺体が漂着する川”を「関門海峡」以外に求めることは困難であろう。
5.6)川続き
・「雄大な明日香川」を「室見川」に見ることも困難であると言えるかもしれない。「雄大な明日香川」とは「筑後川」とする方が、よりぴったりとする。が、この川は「河辺宮人」の「川」に整合しない。この川は博多湾(「難波潟」)に注ぐ川なのである。
・” 遠つ明日香、近つ明日香 ” 或いは ” 旧明日香、新明日香 ” の問題もあるかもしれない。後者の「筑後川」流域存在の可能性である。何も吉武高木の古京まで遡らなくてもよいのではないかと。しかし、「神奈備山」をも、この地に求めるのは無理ではないか。” 新「神奈備山」” は考え難いからである。
・なお、”「佐保川」、「木津川」は純然たる「大和の地の川」”とすると、困る。”「筑後川」に当てるべき川が見当たらない ” のである。むろん、この九州第一の大河が歌われないなどということはない。しかし、”「泊瀬川」である ” とすると、どうもイメージが整合しないのである。
・尤も、”イメージが整合しない”というのも複雑である。「隠国(こもりく)乃泊瀬川」(79)、即ち、”「隠国」を流れる川 ” 或いは三輪山の南麓を流れる小川の如き「泊瀬川」と「筑後川」との余りにも大きな乖離ということで、「泊瀬川」を詠んだ歌が、そうであると言う訳ではない。
(3225)「天雲の 影さへ見ゆる こもりく(隠来)の 泊瀬の川(長谷之河)は 浦なみか 船の寄り来ぬ 磯なみか・・・」
・この歌は、正に、大川ということであろう。「筑後川」との乖離はない。乖離は、三輪山の南麓を流れる「泊瀬川」とのものである。
・で、”「泊瀬川」は「筑後川」”とすると、”「那珂川」或いは「御笠川」が歌われていない” ことになる。”「那珂川」或いは「御笠川」が歌われていない”と言うことも考え難いのである。” 越中でも全ての川が歌われたわけではないであろう ” というのであろうか。
・むろん、”「筑紫の地」の全ての川が歌われていなければおかしい ” などと言うのではない。この川は「太宰府」から「難波津」に至る川、” 古来、「九州王朝」の重要な川湊(おそらく、「投馬国」所在地)の川”なのである。越中の府中を流れる「小矢部川」の比ではないであろう。
・むろん、”「那珂川」或いは「御笠川」は「木津川」(「泉川」)として歌われている ” ということもあろう。が、歌われる頻度は「泊瀬川」が圧倒的に多いのである。” 頻度は逆でなければおかしい ” であろう。
・3225歌について、岩波注釈は次に言う。「この歌、柿本人麻呂の長歌(131)と共通する詩句がある。賀茂真淵は「奈良人の人万呂が言をうつして、かくはよめるなむ」(万葉考)と言う。その結果、「泊瀬川」が、海に関する言葉で描写されているということになったのであろう。
・人麿の長歌「石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑよし・・・」を写したと。
・本当に、このように考えたのであろうか。本当に、万葉集歌を考究する人々は、これで納得しているのであろうか。病の根は深い。なお、「筑紫中の筑紫の地物」の歌も少ない。それは、例えば、香具山(高山)、石上山等が近畿の地のものとされていることは既に触れた。
☆筆者(YA氏)は富山に在住したことがある。現地の人との同地の「二上山」についての会話で、”え、「二上山」は奈良にもあるのですか”との反問に絶句した。
二つの「トホノミカド」の地で、越中が「二上山」ならば、筑紫は「天香具山」であろう。越中の同地名はい遺存したが、筑紫のそれは消えた(地名変更・・・「大城山」・・・された)と言うことである。 ”「近畿の地名」は「筑紫の地名」を移されたもの ” であるからである。「川」もである。
6)大伴旅人
・「水漬く屍」を家訓伝承する武の頭領・大伴旅人が水城上で流した涙は、” 亡びし「九州王朝」への哀悼 ”。旅人の家郷は筑紫明日香の地。旅人は持統天皇の肥前吉野宮行幸に供奉した。
6.1)水城上の涙
・旅人の水城の上に零した涙は何であったのか。旅人は何に涙したのかということである。
・坂上郎女の1474歌「大城山のほととぎす」は懐旧の情であろう。同所は坂上郎女が曽て住暮らした懐かしの地なのである。では、旅人の歌はなんであろうか。むろん、この歌も懐旧の情かもしれない。
(966)「大和道は雲隠りたり然れども我が振る袖をなめしと思うな」
・上歌は、大宰帥大伴卿、大納言を兼任して京に向かいて上道しき。この日、馬を水城に駐めて府家を顧望す。時に、卿を送りし府吏の中に遊行女婦有り。その字を児島と曰ふ。ここに於いて娘子、この別るることの易きを傷み、かの会うことの難きを嘆き、涕を拭ひて自ら吟じ、袖を振りし歌なり。
・「馬を水城に駐めて府家を顧望」したら、過ぎし日の思い出が諸々胸に迫り、思わず涙を零したと。或いは、遊行女・児島を始め縁を結んだ諸々の人々との別離の情、堪え難く、思わず涙を零したということかもしれない。
〔大納言大伴卿の和せし歌二首〕
(967)「大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思はえむかも」
(968)「ますらをと思へる我や水茎(みずぐき)の水城の上に涙拭はむ」
・で、あるから、「ますらをと思える我や」であると。”「大丈夫」を以て自分を任じていたこの私が、不覚にも涙を”と。
・しかし、大将軍・旅人が、「水城」を「府家を顧望する」単なる踏み台としか見なかったとは考え難いであろう。本説 ” 大将軍・大伴旅人が「九州王朝」に止めを刺した ” 云々は置いても、である。遊行女との惜別の涙は有っても、「水城」の意義、即ち、倭唐戦争へは思い至らぬなどということがである。”「水漬く屍」を歌い継ぐ、武の頭領家、大将軍・大伴旅人が ” である。
・何も、遊行女との別れに涙するというのが悪いというのではない。旅人とて人の子、そういうことも有るであろう。しかし、見送る高位高官への惜別ではなく、その中の一遊行女・・旅人へ歌を贈ったからということであろうが・・へ惜別の歌を詠み、涙するというのも不自然である。いや、不自然を通り越して、嫌みと思えるのは筆者(AY氏)だけであろうか。
・大将軍・旅人が、倭唐戦争の古跡「水城」の上で、その故事に涙せず、遊行女との別れに涙したというのである。現今は、過ぎし大戦の悲劇の島・サイパン島の殉難地「バンザイ・クリフ」で、日本からの新婚カップルが記念写真を撮る時代である。しかし、大将軍・旅人を同じようなものとは考え難い。
・詞書などに作為が有るのは見てきた通りである。そもそも、送別の歌は、遊行女・児島のみではなく、当然、高位高官からのものが多数有ったであろう。が、歌の贈答は、旅人と遊行女・児島とのものとして構成搭載されているのである。
・不自然であろう。遊行女の地位が後世のようではなかったとしてもである。高くはなかった。低かったとしてよいであろう。で、あるから、「わたしが振る袖を無礼だと思わないでください」と詠んでいるのである。むろん、歌は身分ではない。上手い歌であれば文句はない。数多くの歌の中で、この遊行女の歌が一番であったと。・・・しかし、まあ、私(AY氏)には、特に取り上げるほど上手い歌とも思われない。これに答えた旅人の967
歌も、である。まあ、” 戯れの ” 歌であろう。
・で、あるのに、高位高官との贈答歌が ” 削除 ” され、” 遊行女とのもののみが搭載 ” されているということである。
・968歌はトーンが違うであろう。一応の措辞としてもである。旅人は功成り名を遂げ、大納言に出世して王都に帰還するのである。十年ぶりに故郷の地が踏めるのである。笑いをかみ殺すのに苦労するのではないか。水城の上で小躍りしてもおかしくないであろう。それが、遊行女に歌を贈られて・・むろん、惜別は縁を結んだ諸々の人々に対するもので、遊行女・児島は、その象徴としても、水城の由来に思いを致すこともなく、「水城の上で涙拭はむ」などとしかつめらしく歌を詠んだというのである。
・968歌は、この別離とは別の時の歌ではないか。そうであろう。芭蕉が、衣川の古戦場で、「夏草や強者どもが夢の迹」と歌って”涙をぬぐった”とすれば、芭蕉の涙は、間違いなく、亡びしものへの哀悼の涙であろう。それが人情であろう。
・「旅人の涙」も、そうではないか。武の頭領・旅人が倭(「九州王朝」)唐戦争の遺跡・水城の上で流す」涙とは ” 亡びし「九州王朝」への哀悼 ” であろう。「旅人の涙」は滅びし「九州王朝」への哀悼の涙から、遊行女への分かれの涙へと変えられたのである。
※「水漬く屍」を家訓とする旅人は水城を府家願望と遊行女等との別離の土台としか見なかったのか。隼人の乱を征定し大納言に出世して王都に凱旋する旅人は水城上で遊行女等との別離の涙のみ流したと。 当然、亡ぼしもの・・・九州王朝・・・への涙
6.2)旅人の故郷
故郷歌: 奈良の都に在って、少しの間も帰れない故郷明日香の地
〔三年辛未、大納言大伴卿在寧楽家、思故郷歌二首〕
(969)「しましくも(少しの間でも)行きて見てしか神奈備(かんなび)の淵は浅せにて瀬にかなるらむ」
(岩波訳)しばらくの間でも行ってみたいものだ。神奈備の明日香川の淵は浅くなって瀬になっているだろうか。
(970)「指進乃(訓訳不明)来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ」
(同注釈)大伴旅人、帰京後の歌。「故郷」は明日香を指す。天平3年7月25日薨。歌は病中の作。
・旅人の故郷は大和の国、即ち、奈良県の明日香の地であると。旅人は平城京において、この歌を詠んだと。しかし、おかしい。旅人は平城京に居るのである。現在ほどではないであろうが、明日香の地は正に、指呼の間である。「大和王朝」の武の頭領を以て任じる大将軍・旅人としては、騎走、一日に満たない距離であろう。三日も有れば、ゆっくり行って、帰れるのである。
・” 壬申の乱の時、平城山で、近江朝軍に敗れた大伴吹負は、騎走一挙、倭京(飛鳥古京)へ逃げ帰ろうとした”と言うのであろう。”聖徳太子は斑鳩の地から明日香の地まで、毎日、騎乗、通勤した”と言うのであろう。行きたければ、行けばよいのである。で、あるから、”病中”としていると。
・しかし、平城京に帰着して以降、何故、それほどの故郷への思いを実現しなかったのか。報告などで忙しかったというのであろうか。「大和王朝」は、十年、征戦或いは辺庭の治に苦慮し、見事それを成し遂げて帰京した功臣に、その程度の暇も与えなかったと。それとも、帰着後、すぐに病を得たというのであろうか。病を得て、望郷の思いが俄かに高まったと。で、あったとしても、” 歌を詠み得る ” 状態なのである。” 萩の花の咲く頃行って墓参り(手向け)しよう ” などと。輿に乗ってでも帰れるであろう。
・まあ、人間とはそうしたもの。つい、帰郷しそこねた、で、俄に病が重くなり、還りたくとも帰れなくなったと。が、やはり、おかしい。”大和明日香の地は「神奈備の地」ではない”のである。
・旅人が「大和朝廷」の臣であり、太宰府の地から奈良平城京に帰京したことは疑えないであろう。で、”詞書は正しい”とすると、” 寧楽は奈良平城京で良いが、「神奈備の淵」とは、定説に言う奈良明日香川の淵ではなく、筑紫明日香川、即ち、室見川の淵”と言うことになるのではないか。旅人の故郷は「筑紫明日香の地」ではないかということである。で、あるから、帰れないのであると。
・970歌の「指進乃」は訓訳不明であると。が「来栖の小野」とは、神奈備の川・室見川、即ち、明日香川の流れる小野であろう。しかも、相当著名な地名、かつ、当地は、大伴氏の墳墓の地と言うことであろう。が、どうであろう。大和明日香の地に、この地名は無くとも、大伴氏の奥津城の地としての遺存は有るのであろうか。
・そもそも、大伴氏の本貫の地は九州なのである。旅人の代には、大和明日香の地が故郷
・・旅人が生まれ育った地・・であったとしても、九州に、その墳墓の地が無ければおかしいであろう。何処であるというのであろうか。
6.3)旅人の歌う「吉野」
・人麿の歌う「吉野」は肥前「吉野」であり、「吉野川」は嘉瀬川として、” 旅人の歌う「吉野(川)」は大和「吉野(川)」として問題なし”とすることはできないであろう。
〔暮春の月、芳野離宮に幸したまひし時に、中納言大伴卿の、勅を奉りて作りし歌〕
(315)「み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変はらずあらむ 行幸(いでまし)の宮」
(岩波訳)み吉野の 吉野の宮は、吉野山本来の貴き故に、宮も貴くあるらしい。天地と共に長く久しく、永遠に変わらずあるだろう。行幸地吉野離宮は。
(反歌)(316)「昔見し象(きさ)の小川を今見ればいよいよさやけくなりにけるかも」
・”「吉野の山」は貴い ”と。何故かということである。当然、”全ての山が貴い”と言うのではない。”「吉野の宮」が存在するから貴い”と言うのでもない。その逆。”「吉野の山」が貴いから、「吉野の宮」は貴い”と言うのである。何故かと。 そんなこと ” 貴かったのだ ” と言うであろうか。”三輪山も明日香の山も、吉野の山も皆、貴かったのだ”と。
・では、何故、”貴さが歌われていない三輪山が、現在に、その貴さを伝承され、貴さが歌われている「明日香の山」も、「吉野の山」も、その貴さが現在に伝承されていない”のかということである。答え得ないであろう。
・私(AY氏)の説いてきたところによれば、明確である。”「吉野の宮」が存在する「吉野の山」とは、「九州王朝」の神奈備山、即ち、背振山系 ” なのである。「象の小川」とは嘉瀬川の支流と言うことになるのではないか。
(960)「隼人(はやひと)の瀬戸の巌も鮎走る吉野の滝になほしかずけり」
・当然、この「吉野」も、である。「滝」は嘉瀬川の「雄淵の滝」ということになるであろうか。「隼人の瀬戸の巌」が、どのようなものか分からないが、たいしたものであろう。壮大或いは奇観であろう。旅人が、隼人の地の代表的景観はこれとして、特に取り上げるものなのである。むろん、他の人々の評価も、そうであるということである。で、旅人は見てみたが、と言うことである。
・大和吉野川などでは比較にならないであろう。大和吉野川はありふれた清流に過ぎない。それは美しい川であるが、特別な景観はない。そもそも「滝」はないのである。それとも、”ささやかな滝と鮎を走らせる大和吉野川の清流こそ、素晴らしいなどと歌った”というのであろうか。つまり、郷里自慢である。であれば、何を以て比しても、そういうことになる。
・むろん、”「吉野の滝」が「隼人の瀬戸の巌」よりも壮大、或いは奇観でなければおかしい”などと言うのではない。そうかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。が、そうでなかったとしても、”ほどほどの景観は必要”ということである。”大和吉野川は、壮大或いは奇観という基準で見れば、ほどほどの景観以下・・・平凡な景観”と言うことである。単なる郷里自慢ではおかしいであろうということである。
・で、”315歌の詞書は正しい”とすると。旅人が肥前・吉野宮への行幸に供奉した「天皇」とは誰かということである。「九州王朝」の「持統天皇」ということになるであろう。「天之香具山」歌(28)を詠んだ「持統天皇」である。
☆”吉野の宮は山が貴いから貴い” ⇔ ”大和吉野山は神奈備山ではない”
∴ 吉野宮は肥前吉野宮。神奈備山(背振山系)中の存在
” 旅人は持統天皇の肥前吉野宮行幸に供奉した。“