項目整理中(令和3年6月13日)
目 次
《その1》1 はじめに
2 人麿羈旅歌の定説解釈への疑問
3 定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向
《その2》4 解釈の鍵を成す地名と慣用句
5 人麿が天の地九州で見たもの・人麿の運命と九州王朝の終焉
《その3》6 応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと
《その4》7 九州王朝は二元統治体制
8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと
《その5》9 難波(津)と過近江荒都の歌
《その6》10 天智天皇とは
11 天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り
《その7》 12 古代通史粗筋
13 おわりに
後書き
《その8》別表「九州年号」/別図「松野連氏考」
” 天智天皇 ” とは、天津日髙日子継承者、久米の若子
★斉明5年即位の天智天皇Ⅰ:九州王朝Ⅱの帝号天子、対唐敗戦講和後、貶号して天皇
★天智7年即位の天智天皇Ⅱ:大和王朝の王
★二人の継体天皇・二人の天智天皇は、ここで歴史を接合したということ。
九州王朝Ⅰ(中身は応神王朝Ⅰにすり替え)と九州王朝Ⅱ、九州王朝Ⅱと大和王朝
・そもそも、「天智天皇」とは如何なる存在であるのか。「天智天皇」との関係から見えてくる斉明天皇、天武天皇、そして、諸々の事々。”「天智天皇の「淡海国」への遷都 ” とはどういうことであるのか。
(1)二人の天智天皇 (2)斉明天皇と天智天皇 (3)天智天皇と天武天皇
・「天智天皇」が ” 二人存在した ” ことはもうよいであろう。斉明5年(659)に即位した「九州王朝」の天智天皇Ⅰと天智7年(668)に即位した「大和王朝」の天智天皇Ⅱである。両者の即位には十年の開きがあり、前者の退位と後者の即位はぴたり整合する。両者は別人。後者は前者の偽物と言うことになる。定説論者の常套 ” 何かの間違い ” で逃げられることではない。
2)天智天皇Ⅰ
2.1)新唐書と日本書紀の証言(斉明5年即位の天智天皇・蝦夷使帯同遣唐使)
・『新唐』と『日本書紀』を整合すれば、斉明4年の即位と言うことになる。天智元年が「天智天皇Ⅰの5年」。天智6年が「同10年」。天智7年が「同11年」である。” 天智天皇Ⅰの年紀は「10年」” からすれば妥当である。
・しかし、後述と整合すると、斉明4年の即位は一年ずれる。天智元年が「天智天皇Ⅰの4年」で、天智7年が「同10年」の方が、全てに整合する。
・で、本論は、すっきりとはいかないが、”『新唐』の認識は、天智天皇Ⅰの実権確立が斉明4年であったからの誤解で、天智天皇Ⅰの即位は斉明5年が真実 ” に立つ。
・”『日本書紀』が、本当は斉明6年のこと(「蝦夷男女2人示唐天子」)を斉明5年のこととして記した ” という可能性はない。斉明6年(660)は、唐の百済侵攻の年、即ち、百済滅亡の年であるからである。我が国の対唐突入の年(「斉明6年の百済を救う役」後述)である。「九州王朝説」でなく、「近畿天皇家一元論」に立っても有り得ないのである。
・なお、天智天皇Ⅰは「帝号天子」であった。対唐敗戦、講和まで、以降、「天皇号大
王」、即ち、天皇である。対唐講和条件(「唐人の計:後述」)が、” そうであった(「帝号天子」の廃位と中華体制の承服)”ということになるであろう。
2.2)開聞岳故事縁起・大宮姫伝説の天智天皇
・大宮姫伝説「もう一人の天智天皇」:斉明5年(659)に即位し、天智7年(668)に退隠したの天智天皇
・鹿児島県下に「大宮姫伝説」(『開聞故事縁起』)が存在しており、「天智天皇」の運命に関するものである。この伝説は、” 天智天皇の別在 ” と ” 天智元年(662)と天智7年(668)の政変 ” を示唆する。内容に若干の相違はあるものの大筋においては次であるという。
・(『市民の古代』最後の九州王朝ー鹿児島県「大宮姫伝説」の分析:古賀達也氏著)
「孝徳天皇の白雉元年庚戌の時、開聞岳の麓で鹿が美しい姫を生んだ。その姫は二歳の時入京し、天智4年(665)、13歳で天智天皇の妃となったが、訳あって都を追われ開聞岳に帰って来た。その後、天智10年辛未の年、天智天皇が姫の後を追ってこの地に来られ、天智天皇は慶雲3年(706)に亡くなられた。年齢は79歳であったと言う。その天皇の後を追うようにして大宮姫は和銅元年(708)に59歳で亡くなられた。」
・白雉元年は「650年」とされている。つまり、計算が合わない。天智4年(665)では、大宮姫は「15歳」となるからである。が、「九州年号」は「白雉元年」を「652年」と伝えている。この白雉は「九州年号」であると。「13歳」は整合すると。
・古賀氏は ” この記事の人物は天智天皇のことではない、という点である。大宮姫が九州王朝の「女王」とすれば、この「天智」も九州王朝の王であると考えるべきである ” としている。そして、” その人物は白村江の敗戦により唐の捕虜となり、天智10年に帰国した筑紫の君・薩野馬である。”と。
・「白雉元年」と「天智4年」を整合しようとすれば、そうであろう。しかし、この年齢の不整合はこれだけではない。生まれた年が「652年」であるとすると、その没年、和銅元年(708)は「56歳」、数えで「57歳」である。つまり、数えで「2歳」不足する。〔「白雉元年」は「650年」〕が整合するであろう。年齢は数えであろう。
・これは、{「白雉元年」は「650年」}でよいということである。大宮姫が、数えで「16歳」となる「天智4年」(665)が問題なのである。
・「天智4年」は「天智(●●)4年」(662)と考えるべきであろう。「白雉元年」(660)生まれの大宮姫の立妃は数えで「13歳」となる。没年も、数えで「59歳」である。
・この資料は天智天皇Ⅰのことを記したものなのである。天智天皇Ⅱは「時間の基準の存在」ではないのである。そもそも、この縁起記録者が、天智天皇Ⅱのことを記したものであれば、天智天皇Ⅱの天智10年以降の生存を記録することなど有り得ないのである。
・当然、この「天智10年辛未の年」も「天智(●●)10年」である。即ち、天智7年(668)、天智天皇Ⅱの即位年と言うことになる。確かに、この比定は ”「天智10年」は辛未年 ” という整合性からはおかしい。”「天智7年」の戌辰年 ” ではないのである。
・しかし、よいであろう。” 初めと終わりを尺度の違う物差しで測ることなどない ” のである。且、そもそも、この「天智天皇」は「九州王朝Ⅱ」の天智天皇Ⅰなのである。「辛未年」は ”「大和王朝」の天智天皇Ⅱへの整合”である。
・” この話は天智天皇Ⅰのことではありませんよ。天智天皇Ⅱのことですよ。「天智4年」で年齢が整合しないのは単なる計算違いですよ。それが証拠に「天智10年」を「辛未年」としているでしょ。”と。” 天智天皇Ⅰを語って、天智天皇Ⅱの如く装 う ”ということである。
・この伝承は、「九州王朝Ⅱ」の天智天皇Ⅰとその身に生起した天智元年と天智7年の政変を証言しているのである。
・この天智天皇Ⅰの即位年は斉明5年(659)ということになる。この伝承は『新唐』の証言とも一致する。『新唐』も、『開聞故事縁起』も、” 正しい ” ということになるであろう。何等
利害関係のない二つの資料が一致するのである。『日本書紀』は ” 嘘をついている ” と言うことになるであろう。
★天智元年の政変:対唐敗戦と講和受諾、天智天皇Ⅰと天武天皇の対立
:天智4年、妃・大宮姫の追放・開聞岳への帰郷
★天智7年の政変:天智天皇Ⅰの退位と天智天皇Ⅱの即位
:天智10年、天智天皇、大宮姫の後を追い開聞岳へ
2.3)天智天皇Ⅰとは
・天智天皇Ⅰとは、邇邇芸命、穂穂出見命の正統、「天津日高日子」を継承する狗奴国の王者(「久米の若子」)の継承者と考えざるを得ないであろう。「天津日高日子」と「久米の若子」とは違うのではないか。
・「天津日高日子」とは「九州王朝0」の正統後継者の称号であり、「久米の若子」とは、同王統者と原狗奴国の王者(国王:海神)の正統者、即ち、穂穂出見命と豊玉姫の子の正統ということになるのではないか。で、原狗奴国の王者(国王:海神)の正統者が「毛沼の若子」ということではないか。
・で、(「天津日高日子」の正統断絶後は、「狗奴国」或いは「九州王朝Ⅱ」として)「久米の若子」が尊貴ナンバーワンの象徴王者で、「毛沼の若子」が尊貴ナンバーツーの実権王者である。「九州王朝Ⅱ」は兩王統が併存、或いは対立、片王統一元体制という状態も出来したが、天智天皇Ⅰ代は併存二元体制であったということになるであろう。
・天武天皇、神武天皇以来の「大和の地の王朝」の王・天智天皇Ⅱは「毛沼の若子」の王統に連なるということである。天武天皇が本家「毛沼の若子」王統。天智天皇Ⅱが分家「毛沼の若子」王統と言うことになる。で、あるから、『古事記・日本書紀』の天孫降臨地は狗奴の祖先降臨伝承地である高千穂の峰に変更されたのである。
・しかし、列島の主権王朝の正統を「毛沼の若子」王統とすることはできなかったということである。 ”「天津日高日子」(「天(あま)の王者」)、そして、その血を継承する「久米の若子」が正統 ” との人々の意識を変更することが出来なかったのである。
・で、あるから、『日本書紀』は、正統・天智天皇(「久米の若子」)を皇極(斉明)天皇(「毛沼の若子」)の子、天武天皇(「毛沼の若子」)の兄弟として取り込んだのである。
3)天智天皇Ⅱ
・天智天皇Ⅱは、「神武天皇」以来、大和の地に、その地位を築いてきた王朝の王統に連なる王者、即ち、「大和の地の王朝」の王と理解するしかないであろう。「九州王朝Ⅱ」の天智天皇Ⅰと入れ替わるように即位していること。天智天皇Ⅰの存在は全く抹殺されていることから、” 天智天皇Ⅱは天智天皇Ⅰ ” が『日本書紀』の主張と言うことになるであろう。
・”「大和王朝」の特筆すべき王者、天智天皇Ⅱ(天命開別天皇)は「九州王朝Ⅱ」の天智天皇Ⅰを騙っている”と言うことである。
・むろん、” 本当は、天智天皇Ⅱなぞ存在しなかった。存在したのは、「大和王朝」の天智天皇Ⅰのみで、『日本書紀』の記述は何らかの都合で時代がずれただけ ” などと言えない。そんな「何らかの都合」など想像し得るものではない。 ” 天智天皇Ⅱは天智天皇Ⅰの偽者 ” これが、諸資料の示す事実なのである。
・放伐(武力革命)による王朝交代「天命将及乎(天命、正に、及ばんとするか)」むろん、岩波訳「天皇、天命将及乎」は誤り。 但し、事実は、天智天皇Ⅰの弑殺と新「天皇」の擁立、自身「大王天皇」位即位 = 九州王朝Ⅱの名分継続
3.1)天智6年の天智天皇Ⅰの淡海国配流と天智7年の天智天皇Ⅱの即位
〔『日本書紀』天智天皇記〕
「7年の春正月の丙戌の朔戊子に、皇太子即天皇位す。或本に云く、6年の歳次丁三月に、位に即きたまふ。秋7月・・・時に、近江国、武(つわもの)を講(なら)ふ。・・・また、舎人等に命して、宴を所所にせしむ。時の人の曰はく、『天皇(すめらみこと)、天命将及(みいのちをはりなむとす)るか』(「天皇、天命将及乎」)という。」
(岩波補注)「天命将及」は中国で王朝交代の意。
・「天皇、天命将及るか」には言葉もない。むろん、補注の意味(「天皇、天命将及乎」:天智天皇Ⅱに、王朝創基・・・天下統治・・・の天命が下った)である。交代は、平和的な政権交代、即ち、禅譲ではなく、武力によるもの、即ち、放伐の可能性が大きい。(「近江国、武を講ふ」、少なくとも、周の武王の討殷の習武と紂王放伐を擬したもの)ということになるであろう。
・但し、これは ” 修辞 ” ということになるであろう。” 気分は王朝交代であろうが、実態は武力行使による実権の掌握 ” である。天智天皇Ⅱは天智天皇Ⅰを排した(廃位追放或いは弑殺)が「九州王朝Ⅱ」そのものを滅ぼしてはいない。
・天智天皇Ⅱの「天皇」即位が、完全な王朝の交代ではなかったこと、即ち、天智天皇Ⅱは実権的にはナンバーワンの存在であるが、名分的にはナンバーツーの存在であることは明らかなのである。
・何故ならば、以降も、「九州年号」は継続するからである。「大和王朝」は、未だ、「大和年号」を公布し得ない存在であったということである。九州の地に、権威が存在したということである。天智天皇Ⅱは、天智天皇Ⅰに代わる存在を擁立したということになるであろう。
・『新唐』王統譜から言えば、この王者は「倭王・天武天皇」と言うことになる。この王者の次代「倭王・摠持天皇」が ” 天智9年の存在 ” であれば、この「倭王・天武天皇」は天智7年から天智9年の間の存在であったということであろう。むろん、この「倭王・天武天皇」は『日本書紀』の天武天皇とは別の存在である。
・この「倭王・天武天皇」、「倭王・摠持天皇」は「九州王朝Ⅱ」の「天皇」なのである。そうであろう。” この後に「日本国」を名乗る「倭国」の王は「天皇」を号とする”と言うのである。が、” この「倭王・天武天皇」、「倭王・摠持天皇」を天智天皇Ⅱをナンバーワンとする「大和王朝」の存在 ” とすることは出来ないのである。
・当然、この「倭王・天武天皇」、「倭王・摠持天皇」が、名分ナンバーワンということである。天智天皇Ⅱの「天皇」は「大王天皇」と理解せざるを得ないであろう。この「倭王・天武天皇」、「倭王・摠持天皇」の天智天皇Ⅱとの、同時存在、これこそ、「九州王朝Ⅱ」の存在、そして「天皇」が同王朝の存在であったことを証言しているということになるであろう。
・「倭王・天武天皇」、「倭王・摠持天皇」が如何なる者であったかということは全く見当がつかない。天智天皇Ⅰ、そして、「九州王朝Ⅱ」の最後の王者が「久米の若子」であることを考えれば、この王統に連なる者ということになるであろう。
3.2)天命将及(みいのちをはりなむとす)
・何故、「天皇、天命将及乎」が「天皇(すめらみこと)、天命将及(みいのちをはりなむとす)るか」などと読まれたのかということである。斯く、読まれるに至った経緯等について知らないのであるから、考えようがないのであるが、気になる。
・むろん、前提は、” 天智天皇Ⅱに王朝交代の天命が下る ” では、どういうことか解らない、ということである。で、あるから、これをどう理解するかということで、斯くの如き読みと成ったと。 しかし、天智7年時点で、しかも、即位したばかりの天智天皇Ⅱの ” 御命終わりなむとす ” は如何にもおかしいのである。
・如何に、何がなんだか解らなかったとしても、もっと、上手い誤魔化し方(読み)が有ったであろうということである。”「天命将及」とは天皇即位のこと ” とすればよいのである。” 対唐敗戦という未曽有宇の国難に対応するため、慎み、皇太子身分のまま渾身努力してきた甲斐あって、とうとう天智天皇Ⅱに天皇即位の「天命」が下った”と。
★ ” 想像を絶する読み ” :天智天皇Ⅰのこと(寓意)か
・しかし、「天皇(すめらみこと)、天命将及(みいのちをはりなむとす)るか」と読まれているのである。そう、ひょっとして、この読みは ” 天智天皇Ⅰのこと(天智天皇Ⅰの弑殺)” なのではないかということである。
☆面白いことに、或いは、当然なことにと言うべきか、王朝の交代期に、” 王者が重複 ” する。継体天皇、欽明天皇、そして天智天皇である。” 張り合わせの糊しろ ” ということであろう。
★7年の称制
・天智天皇Ⅱの年紀「4年」= 天智天皇Ⅰの年紀「10年」
・” 即位していない期間”:天智元~7年、又は、斉明7年=天智6年
1)「斉明天皇」と「天智天皇」は母子関係ではなく政治的対立関係
・「斉明天皇」と「天智天皇」は母子関係ではない。両者は政治的対立関係に在る。
「天豊財重日足姫」(「皇極天皇」・「斉明天皇」)と「天智天皇」(「中大兄皇子」)は、母子関係であるという。が、「天智天皇」の即位から見れば、この関係は否定されるであろう。
・舒明天皇の皇后であった「天豊財重日足姫」は、舒明天皇崩御後、「皇極天皇」として即位、「大化の改新」を機に、弟・孝徳天皇に譲位、孝徳天皇崩御後、重祚して、「斉明天皇」と成ったと。
・何故、舒明天皇の葬儀において、誄(しのびこと)をした(後継者の資格)一人前の男である「16歳」の皇太子・「中大兄皇子」を差し置いて、その母が即位したのか、全く、理由が見いだし得ない。
・何故、蘇我入鹿を誅殺して、” 天皇家の危機を救った ” 「19歳」の「中大兄皇子」が即位せず、母の弟・孝徳天皇が即位したのか、『日本書紀』はもっともらしいことを記す。が、「中大兄皇子」は皇太子であり、実権も握っているのである。全く、理由になっていない。
・何故、孝徳天皇崩御後、「29歳」という壮年の実力者・皇太子・「中大兄皇子」を差し置いて、その母が重祚という異例の行動を取ったのか、全く、理由が見いだし得ない。
・これを率直に見れば、” 母が、その子・「中大兄皇子」の天皇即位を三度に亘って阻止した ” ということである。「中大兄皇子」は母・「斉明天皇」の死を待って、いや、その死後、7年にしてようやく、天皇に即位し得たということなのである。
・これは、通常の母子関係ではあり得ないであろう。むろん、例として、あり得ないことではない。” 他の子を重し ” とする場合である。神功皇后は、応神天皇(大鞆和氣命・亦の名、品陀和氣命)の前に、品夜和氣命を生んで(『古事記』)いる。むろん、” 仲哀天皇の子 ” である。が、” 仲哀天皇の後継は後から生まれた応神天皇である ” と。しかし、『日本書紀』の描く、「天豊財重日足姫」と「中大兄皇子」の関係からは、それは全く窺えない。例えば、” 天皇位を大海人皇子へと画策したなど ” である。
・かつ、「大化の改新」の如きは、「皇極天皇」と「中大兄皇子」は対立関係である。で、「皇極天皇」は、孝徳天皇の後を、皇太子である「中大兄皇子」を差し置いて襲い、「斉明天皇」として重祚したというのである。
・つまり、「天豊財重日足姫」と「中大兄皇子」は、母子関係どころか、政治的な対立関係なのである。
・但し、少しややこしい。”「斉明天皇」は天智天皇Ⅰ(帝号天子)下の存在(後述)” なのである。『新唐』は ” 天智天皇Ⅰは「天豊財重日足姫」の子”としているのである。で、あれば、”「斉明天皇」は「天豊財重日足姫」”という『日本書紀』の主張は嘘ということになるであろう。
・当然、”「中大兄皇子」が天智天皇Ⅰであるかどうか ” について、共に、「天位」者であり、そう主張されているので、そうであろうが、断じ難い。そもそも、「皇極天皇」の在位時期は「11年以上遡る」のである。
1.2)中大兄皇子の皇極4年の立皇太子
・「中大兄皇子」は、舒明、皇極、孝徳、斉明天皇の四代に亘って” 皇太子 ” であるが、厳密には ” 皇極天皇の皇太子 ” ではない。皇極天皇は、皇極4年、孝徳天皇(軽皇子)への譲位とともに、「中大兄皇子」を皇太子にしたと。
・皇極天皇は、舒明天皇の後継・皇太子「中大兄皇子」を排して即位し、” 蘇我・皇極天皇体制 ” を構築したが、「中大兄皇子」に、同体制を破壊され、” 孝徳天皇に譲位し、「中大兄皇子」を皇太子にした ” ということになるであろう。
・皇極天皇と「中大兄皇子」が母子関係であるなど有り得ないのである。「大化の改新」は「中大兄皇子」の ” 復権行為 ” と考えるのが妥当なのである。
・気になっていることが有る。疑問として、と言うことである。当然、疑問であるから、此処に関連するのかどうか、解らない。
〔「中大兄皇子三山歌」の返歌注記である。〕
(15)「わたつみ(渡津海)の豊旗雲(とよはたくも)に入日さし今夜(こよい)の月夜さやけかりこそ」
・上の一首の歌は、今案ずるに、反歌に似ず。但し、旧本この歌を以て反歌に載す。故に今猶しこの次に載す。また日本書紀に曰く、「天豊財重日足姫天皇の先の4年の乙巳、天皇を立てて皇太子と為しき」という。
・皇極4年(「天豊財重日足姫天皇の先の4年の乙巳)の ” 立皇太子 ” である。むろん、” 皇極4年の立皇太子 ” が疑問と言うことではない。何故、当歌の注記に、唐突に、それが記されるのかということである。かつ、であれば、「中大兄皇子」は、” 舒明、斉明、兩天皇の皇太子 ” なのである。
・” 斉明天皇の皇太子は孝徳天皇の皇太子の継続(皇極天皇が皇太子としたということも勘案)”として、”立皇太子のそもそもは、舒明天皇の時 ” なのである。 そう。もし、そう注記されるのであれば、「息長足日廣額天皇の〇〇年の〇〇、「中大兄皇子」を立てて皇太子と為しき」と有ってしかるべきであろうということである。 どうであろう。注記は『日本書紀』の引用の体裁を取っているが、これが真実ということではないか。つまり、” 舒明天皇の皇太子は嘘 ” と言うことである。
・で、この「先の4年の乙巳」である。「先」と言えば皇極天皇代で、「乙巳」は正に、同4年、即ち、大化元年に当たる。しかし、で、あれば、おかしいのである。” 皇極天皇は、自分で、孝徳天皇の後継者は「中大兄皇子」と定めて置きながら、その後継者を排し、重祚という非常手段をさえ弄している ” と言うことなのである。
・そもそも、” 皇極天皇(斉明天皇)と「中大兄皇子」は母子関係ではなく、かつ、位(日位)の譲位継承関係ではない ” のであるから、” 立皇太子 ” は意味がない。
・要するに、『日本書紀』記述と本確認から言うと、”「中大兄皇子」の舒明、皇極、孝徳、そして、むろん、斉明天皇の皇太子は嘘 ” ということになるであろう。
・「先の4年の乙巳」(大化元年)である。”「中大兄皇子」の立皇太子 ” の可能性はどうかということである。むろん、皇極天皇の皇太子ではない。”「天豊財重日足姫天皇」(天位)の皇太子”である。
・「中大兄皇子」は「天豊財重日足姫天皇」を帝号天子として擁立し、皇太子に為ったということであればあるかもしれない。が、どうであろう。ここは素直に、「中大兄皇子」が帝号天子に即位したとする方が妥当である。が、この大化の改新は5年で挫折したということであろう。
・しかし、復活したということである。如何なる史劇の結果と言うことは分からない。これが、” 斉明4年の「天智天皇」の即位(『新唐』)” ではないか。つまり、(『万葉集』15歌注記)の ”「天豊財重日足姫天皇4年の「中大兄皇子」の立皇太子 ” とは ” 『新唐』の斉明4年の「天智天皇」の即位 ” のことではないか。
☆ 舒明天皇の皇太子・中大兄皇子は、皇極天皇の退位によって皇太子に復帰
2)斉明天皇
・斉明天皇は「帝号天子」・天智天皇Ⅰ下の「天皇」である。「九州王朝Ⅱ」のNo2ということになる。” 倭王(No1)譜を記す ” 『新唐』に記されないのはこの故である。
2.1)斉明天皇と天豊財重日足姫天皇とは別人
・斉明天皇は、” 筑紫の地の存在 ” 即ち、”「九州王朝Ⅱ」の存在 ” である。このことは、「斉明天皇」の ” 筑紫の地における築城 ” と ” 筑紫の地からの伊予温泉行 ” が証言するであろう。
・なお、このことは、” 斉明天皇は「天豊財重日足姫天皇」(天智天皇Ⅰの前代王者)” としたことによる。つまり、” この築城も、温泉行も、「天豊財重日足姫天皇」が行ったことでは ” という疑念が生じるかもしれない。” 同一人 ” は嘘。天豊財重日足姫天皇は天智天皇Ⅰの前代王者なのである。当然の疑念である。その可能性はある。
・が、前者は斉明2年。後者は、斉明7年、所謂、” 対唐戦の為の西征 ” である。”天豊財重日足姫天皇は斉明5年以前の存在(斉明5年の天智天皇Ⅰ)” であるので、時期的に、前者はそうであろうが、後者は、そうは言えない。斉明天皇の行為ということになるであろう。このことは、斉明天皇が、天智天皇妃ではなく、天武天皇妃・太田姫皇女を伴っていることも整合する。
・むろん、これだけでは、” 斉明天皇は「九州王朝Ⅱ」の存在 ” 或いは ” 斉明天皇と天智天皇Ⅰは同時在位 ” は言えても、” 斉明天皇は「天子」・天智天皇Ⅰ下の「天皇」 ” 或いは標記である ” 斉明天皇と天豊財重日足姫天皇とは別人 ” とは言えない。
・これを証言するのは、「帝朝」の存在(『伊吉博徳書』)である。むろん、「帝朝」は斉明「天皇」の「朝庭」ではない」ということで、である。『日本書紀』は ” 唐帝・唐天子と天皇(日本天皇)” を明確に弁別している。即ち、『日本書紀』は、この列島に、「天皇」ならぬ「帝」が存在していると言っているのである。この「帝」とは斉明天皇と同時在位の天智天皇Ⅰと考える他ないであろう。
☆斉明天皇は、天智天皇Ⅰ(帝号天子)下の存在。天豊財重日足姫天皇(帝号天子?)と同一人は嘘
2.2)筑紫に対(つい)(本営岡本、後営吉野)の築城
・天香具山を中核とする対北方防御の本営(岡本宮)と背振山険に拠る後営(吉野宮)
〔(斉明天皇2年)〕
「遂に宮室を起つ。天皇、乃ち遷りたまふ。號(なづ)けて後岡本宮と日ふ。田身嶺に、冠らしむるに周れる垣(神籠石=朝鮮式山城)を以てす。復、嶺の上の兩つの槻の樹の辺に、観(たかどの)(望楼)を起つ。號けて两槻宮とす。亦は天宮と日ふ。時に興事を好む。迺(すなわ)ち水工をして渠穿(みぞほ)らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗(そし)りて曰く、「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すること、七万余。宮材斕れ、山椒埋もれたり。」という。また、謗りて曰く、「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ。」という。又、吉野宮を作る。」
・よいであろう。この場所は筑紫の地である。そして、この大土木工事は、宮の造営などではない。半島情勢対処のための築城である。” 香山(天香具山:大城山)から西の石上山に至る堀と宮の東の山の石累 ” 即ち、天香具山を中心とした太宰府防衛のための対北防御の築城である。” 田身嶺の周れる垣 ” とは、朝鮮式山城(「神籠石」)。” 槻 ”とは望楼であろう。「後岡本宮」が本営。「吉野宮」は後営として造営されたということであろう。人麿が歌う ” 吉野の国の吉野宮 ” (36)である。
・この吉野は、背振山系を利した対北要害の地であり、嘉瀬川(吉野川)を下れば有明海に至る。防御も、また、後図を計るにも、理想的な後営であろう。一連の築城として矛盾がない。「後岡本宮」と「吉野宮」は ” 対の造営 ” として矛盾しない。
・この ” 宮造営 ” を「大和の地」のものとすれば、それこそ、” 狂心の大土木工事 ” と理解するしかないであろう。どのような ” 宮殿 ” か想像も困難である。どこに、その壮大な土木工事の痕跡を見ると言うのであろうか。かつ、何故、” 対の造営 ” であるかも、答え得ないであろう。
・「吉野宮」は ” 風光明媚な離宮 ” などではなく、” 軍事的、政治的に重要な宮 ” であったということである。この「吉野の地」で、出雲の児等が ” 粛清された ” ということである。” 天武天皇(大海人皇子)の吉野入り ” も、である。で、あるから、「虎に翼を着けて放てり」なのである。むろん、「翼」とは、この「吉野」の要害ということである。
・大和の天香具山に名を奪われて以降、筑紫の天香具山は大城山。なお、天香具山は、築城以降、大城山と呼ばれるようになったということであろう。そして、天香具山の名の「大和三山」への移行以後、この大城山の名を以て呼ばれることとなったということである。この斉明天皇紀の記事は「筑紫三山」の比定を裏付けるであろう。
〔大伴坂上郎女思筑紫大城山歌一首〕
(1474)「今もかし 大城山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 我なけれども」
2.3)” 筑紫に西征 ” は嘘。筑紫からの伊予温泉行
〔後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇 譲位後即位後岡本宮 額田王歌〕
(8)「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな」
・右(上)は、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰く、「飛鳥岡本宮に宇御めたまひし天皇の元年己丑の9年丁酉の12月己巳の朔の壬午、天皇と大后と、伊予の湯宮に幸したまひき。後岡本宮に宇馭めたまひし天皇の7年辛酉の春正月の丁酉の壬寅、御船西に征き、始めて海路に就き、庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯の行宮に泊まりき。天皇、昔日より猶し存する物を御覧たまひ、当時忽ちに感愛の情を起こし、所以に因りて歌詠を製りて哀傷を為したまひき」という。即ち、この歌は天皇の御製なり。ただし、額田王の歌は別に4首あり。
・舒明天皇(飛鳥岡本宮御宇天皇)の9年(637)、天皇と大后が伊予の湯宮に幸したと。この歌は、額田王のものではなく、斉明天皇(「後岡本宮馭宇天皇」)が、「西征」(斉明7年)の時、当時を偲んで、詠んだものであると。舒明9年の伊予行幸について、『日本書紀』は記さない。『日本書紀』の記すのは舒明11年の伊予温泉行(「12月の己巳の朔壬午に、伊予温湯宮に幸す。」)である。
・むろん、”「鄙」の王の「天」行幸などない ” 。しかも、湯宮である。これは、” 同所への行幸が常に行われている。所謂、「常宮(とこみや)」” と言うことである。” 旅先の仮の宮(「行宮(あんぐう)」)” というものではない。「大和王朝」の話であるわけがないのである。「九州王朝Ⅱ」の話である。”「九州王朝Ⅱ」の「斉明天皇」が天武天皇の妃を帯同して、伊予の湯宮に湯治に行った ” のである。であるから、「御船、還りて娜大津に至る」なのである。
・この注記の後半は ”『日本書紀』との整合を図ったもの ” である。こじつけである。「西征」はなかったとして良いであろう。時は、”「九州王朝Ⅱ」の時代 ” なのである。
☆天武妃を伴った筑紫からの伊予温泉行「御船、還りて娜大津に至る」
2.4)斉明天皇(天豊財重日足姫天皇)を非難する日本書紀
★王朝交代の桀紂の理論(前王朝への非難):本来は、天豊財重日足姫天皇と天智天皇Ⅰへの非難
★直接的には、対唐戦準備、即ち、前「岡本・吉野宮」築城、そして、社稷を伐採しての「朝倉宮」築城(開戦目前の急速整備)への非難
・『日本書紀』は斉明天皇を非難している。人民の怨嗟の声を無視して大土木工事を行った斉明天皇、「九州王朝Ⅱ」の神聖な社稷を伐採して「朝倉の宮」を造営した斉明天皇を、である。
〔『日本書紀』斉明天皇〕
「5月の乙未の朔癸卯に、天皇、朝倉橘廣庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舎人(とねり)及び諸の近侍、病みて死れる者衆し。・・・・・・秋7月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましむ。8月の甲子の朔、皇太子、天皇の喪を奉徒りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み見る。衆皆嗟怪ぶ。」
・斉明天皇を皇極天皇の重祚として、「天智天皇」と天武天皇の母とする『日本書紀』の立場として、納得し難い処である。 で、当初、この非難は ” 天智天皇Ⅰに対するもの ” と考えた。これも、「天智天皇」の位置づけを考えると納得し難いが、非難そのものは妥当なのである。王朝交代の桀紂の理論である。武烈天皇非難と同じである。
・しかし、斉明天皇とは別人の「天豊財重日足姫天皇」に対するものと理解するのが妥当であろう。むろん、” 斉明天皇は「天豊財重日足姫天皇」” とされたことにより、”「天智天皇」と天武天皇王統にとって大事な親天皇を非難するという奇妙なことと成った ” ということである。
・むろん、この非難は、本来は「天豊財重日足姫天皇」にだけ向けられたものではない。当然、天智天皇Ⅰに対してもということである。が、さすがに、この非難は隠されたということである。” 天智天皇Ⅰは天智天皇Ⅱ ” とされたからというだけではない。『日本書紀』は天智天皇Ⅰを抹殺しているからである。
・そもそも、” 大土木工事 ” 即ち、” 岡本・吉野宮の造営 ” が対唐決戦の為の防御築城であるとすれば、” 神聖な社稷を伐採して造営された「朝倉宮」も、そうである ” と理解すべきであろう。” 決戦は目前 ” なのである。如何に暗愚な君主でも、興廃を賭けた決戦を目前にして、無目的に、その社稷を伐採することなど有り得ない。
・で、この ” 社稷伐採、「朝倉宮」造営 ” については、天智天皇Ⅰの行為ということになるであろう。本来、この行為については天智天皇Ⅰを非難するものなのである。
・『日本書紀』は、対唐戦争そのものを非難している。対唐戦争に突入した「天豊財重日足姫天皇」と天智天皇Ⅰを非難しているということになるであろう。
・対唐戦争を肯定しているのであれば、” 大土木工事 ” も ” 社稷伐採 ” も非難の対象ではないであろう。戦を肯定して、その準備を非難することなど出来ない。
・「天豊財重日足姫天皇」と、その後継者天智天皇Ⅰは、対唐決戦論者であったということである。斉明天皇と、その後継者天武天皇、そして、天智天皇Ⅱは対唐決戦回避論者であったということになるであろう。
3)斉明天皇代における帝朝(朝倉の朝=天朝)の存在
★日本書紀は唐帝(天子)と日本天皇とを明確に弁別。
当然、天王の朝庭を帝朝とは言わない。
我が国に、「天皇」とは別に「天子(帝)」が存在したということ。
= 持統4年の大伴部博麻帰還時の詔勅「天朝(てんちょう)」
★後世の対内 ” 天皇 = 天皇号天子(帝)” で解するのは論理的詐欺。
むろん、「天子の朝庭」は島門(しまど)を真木通る太宰府(やまと)の地。
「天皇府」は淡海国・豊浦(大津)か。
3.1)天皇府と別在する天智天皇Ⅰ(帝号天子)の朝庭
★「斉明7年」に記録される『伊吉博徳書』に、次の記述がある。
「僅に耽羅嶋に到る。便即ち嶋人王子阿波伎等9人を招き慰へて、同じく客の船に載せて、帝朝に献らむとす。5月23日に、朝倉の朝に奉進る。 耽羅の入朝、此時に始まれり。」
・「帝朝」即ち「朝倉の朝」である。おかしいであろう。『日本書紀』は ” 唐帝(皇帝、或いは、天子)と天皇 ” と明確に位取りしている。”「帝」とは唐帝 ” なのである。しかし、ここは、” 斉明天皇の朝庭 ” であると。” 斉明天皇が「西征」して、朝倉の社を切って造営した行宮・朝倉宮 ” であると。
・むろん、そうであるとは書いていない。そう取られるように書いている。で、定説がそうであろう。つまり、騙されたというわけであろう。いや、騙された振りをしているということかもしれない。体制にとっても、学閥にとっても都合がよいと。
・しかし、『日本書紀』の主張する時期の天皇は唐天子下の天皇である。そもそも、「天皇」を号し、「帝」を号することなどない。「天皇」号大王(天皇)は存在しても、「帝」号大王など存在し得ない。当たり前のことながら、「帝」号は「天子」にのみ付く。
・後、「天皇」者は、国内に於いて、「帝」を以て呼ばれ、「天子」を以て呼ばれるようになる。実質、「天皇号・天子」である。即ち、「帝号・天子」天智天皇Ⅰへの国内的回帰である。
・しかし、これは後世のこと。くどいが、『日本書紀』は ”「天皇を「帝」呼ばわり」” していない。つまり、”「帝朝」とは、「九州王朝Ⅱ」の「天子」のおわす「朝庭」” と理解するしかないのである。即ち、「帝号・天子」天智天皇Ⅰの「朝庭」ということである。即ち、我が国の政治体制は「天子」(天智天皇Ⅰ)と「天皇」(斉明天皇)の二元体制であったということである。
・『伊吉博徳書』の話は、” 三津を船出した「大和王朝」の遣唐使一行が、耽羅国の使者を帯同して、「九州王朝Ⅱ」の天子の朝庭への入朝に貢献した ” とするものである。「大和王朝」の遣唐使は、この使節の時期の妥当性、どの程度或いはどのようなという疑問付きながら、「九州王朝Ⅱ」と連携したものであったということになるであろう。
・なお、「天子の朝庭」は「天朝(てんちょう)」とも呼ばれていたということになるであろう。「天(兄)朝」である。持統4年の ” 大伴部博麻の帰還 ”(後述)。戦役も、博麻の犠牲的貢献により帰還し得た筑紫君薩夜麻の時期も、斉明天皇代(6,7年)である。持統天皇は詔勅の中で、博麻の献身で、薩夜麻等の「天朝」への報告が成就したとしている。
「富杼等、博麻が計(はかりごと)の依(まま)に、天朝に通(とづ)くこと得たり。汝、獨他界に淹滞(ひさしくとどま)ること、今に30年なり。朕、厥(その)の朝を尊び国を愛ひて、己を賈りて忠を顕すことを嘉ぶ。」
・もし、「天朝」が ” 天皇の朝庭 ” として理解されているとすれば、大いなる誤解ということになろう。
・第一に、そのような非礼な省略は有り得ないからである。よいであろう。現代の中・高校生ではないのである。むろん、後世の「天皇号天子の朝庭」をそう呼ぶ可能性は別である。
・第二に、報告は何を置いても、「帝朝」に、であろうからである。つまり、”「天朝」とは「帝朝」” と理解するしかないのである。なお、「天皇の朝庭」は、「日(弟)朝」(「日朝」(にっちょう))ということになるであろう。
4)伊吉博徳書の大倭(おおやまと)と倭(やまと)
4.1)大倭:九州王朝Ⅱ 倭:大和朝廷
・天智天皇Ⅱ即位以降、九州王朝Ⅱが「天皇」府で、大和朝廷が「大王天皇」府という弁別が存在したのであろう。以前は、九州王朝Ⅱが「帝朝」で大倭、「天皇」或は「大王天皇」府が淡海国・豊浦で倭の弁別も存在したのではないか。
4.2)「大和王朝」(倭)の対唐対決間際通交と「九州王朝Ⅱ」(大倭)の滅亡予見
・「大和王朝」は、対唐対決間際、即ち、百済に於ける戦争突入前まで、唐と通交を続けていたということである。
・で、この通交は、「九州王朝Ⅱ」との何らかの連携の下に、である。『日本書紀』の記述の ” 唐への傾倒 ” から「九州王朝Ⅱ」の対唐和平派、即ち、中華体制を以て国際秩序とする国際派、即ち、「天皇」を中心とする勢力ということになるであろう。
・博徳書には、「倭」と「大倭」の存在が記されている。定説論者には困った問題であろう。岩波訳は、どちらも、「やまと」即ち「大和」である。で、何の事やら分からない。 しかし、この「倭」は「大和」或いは「大和王朝」、「大倭」とは「九州王朝Ⅱ」のことである。
〔『日本書紀』斉明5年〕
「朝ける諸番の中に、倭の客最も勝れたり。・・韓智興が傔人西漢大麻呂、枉げて我が客を讒す。客等、罪を唐朝に獲て、巳に流罪に定む。前ちて智興を三千里の外に流す。・・」
〔『日本書紀』斉明7年〕
「・・・また、智興(在唐九州王朝Ⅱ人士)が東漢草直足嶋の為に讒されて使人等寵(唐帝の寵)を蒙らず。使人の怨、上天の神に徹りて、足嶋を震して死しつ。時の人称ひて日へらく『大倭の天の報い近きかな』といへりといふ。」
4.3)岩波訳「大倭天報之近」は甚だしい誤訳 = 嘘訳
・「大倭天報之近」を岩波解釈は、「大倭(やまと)の天(あめ)の報(むくい)近(ちか)きかな」としている。全く、何を言っているのか分からない。失礼ながら、解釈者は意味を解していないと断じざるを得ない。(本当は、意味を解しているから、意味を伝えるより、意味は伝わらなくとも、真実を隠すことを優先して、斯く、訳したということになる。以下が解らないなどという解説者は居ない。)
・「天(あま)の報(むく)い」とは何か。斯く言って、読者に、” どのような報い ” との理解を得ようとしたのか。まさか、”「大倭(やまと)の天(あま)の報(むく)い」とは大和が下す罰 ” などと言うのではあるまい。で、” 何処(誰)に下る ” というのか。” 何処(誰)が何処(誰)に ” という基本が欠落してことになる。
・むろん、「天(あま)の報(むく)い」も、「大倭の天の報い」も、有るべくもない。これは、「天(てん)の報い」であり、「大倭(やまと)に天(てん)の報(むくい)近(ちか)きかな」ということである。” 天(てん)の報(むく)いが下るのは大倭(やまと)に ” である。”「天の報い」を下すのは上天の神 ” である。
・そうであろう。” 唐朝に於いて、韓智興の傔人東漢草直足嶋が、三津を出帆した「倭」の遣唐使節(倭客)を讒した。で、使節は唐帝の恩寵を受けなかったと。この怨みが上天(じょうてん)の神に届いて、天罰が足嶋に下り、震死させた ” これが、「大倭天報之近」の兆しというのである。
・当然、”「倭客」が「大和王朝」(倭)の遣唐使節(客)”なのであるから、”「大倭」とは、「大和王朝」以外の存在 ” ということになるであろう。「大倭」とは、足嶋、即ち、その主人の智興が属するところと理解する以外にないであろう。即ち、「九州王朝Ⅱ」ということなのである。
・まさか、”「倭(やまと)」と「大倭(やまと)」で、何の事やら解らなくなった ” と言うのではあるまい。少し、引いて見るならば、簡単明解なことなのである。解釈者は、” 解っていて、「の」と言い、「天(あめ)の報(むく)い」と言っている ” と理解せざるをえないであろう。
・” 解っている ” から「天(てん)の報い」を「天(あま)の報い」などと読んでいるのである。日本人であるならば、誰一人、その意味を知らない者のない、「天(あめ)の報い」などと、である。「大倭(やまと)の」であれば、「天(てん)の報い」などとするわけには行かないことは解っていたということである。そうであろう。「私の天(てん)の報い」などと言えば、間違いなく、精神障害を疑われる。” 全て解って ” いて、” 斯く解説している ” のである。
・なお、この ”「倭(やまと)」(「大和王朝」)・「大倭(おおやまと)」(九州王朝)の弁別 ” は、他に同類の資料もなく、”『伊吉博徳書』の弁別 ” とせざるを得ない。が、どうであろう。代表王権の移行時期(天智天皇~文武天皇)、このような弁別が存在したのではないか。「大王天皇」府の所在する「大和王朝」を「倭(やまと)」、「天皇」府の所在する「九州王朝」を「大倭(おおやまと)」とである。
★「倭」の使節を讒言した者に天罰が下ったことが「大倭天報之近」の兆し
:九州王朝Ⅱの滅亡予言「大倭天報之近(大倭に天の報い近きかな)」=讒言者は大倭(所属)
★そもそも、大倭の天報などない。大倭に天報。「大倭」も「倭」も「大和」で何のことか解らない。 〔大和の使節を讒言した者に天罰が下ったことが「大和に近く天罰が下る兆し」〕で、大倭の天報(あめのむくい)と(意味不明:大和が与える罰?)
★意味は不明となっても、定説(大倭・倭=大和)保全を優先
・『本朝皇統招運録』(※)によれば、天武天皇は天智天皇より、「4歳」年上であるという。「天智・天武天皇非兄弟説」である。
・「天智天皇」と天武天皇は兄弟ではない。「大和朝廷」の王者・王者・天智天皇Ⅱと天武天皇は、むろん、「九州王朝Ⅱ」の「帝号・天子」天智天皇Ⅰ(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)も、である。
※本朝皇胤紹運録:天皇・皇族の系図。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した。名の由来は、中国南宋の『歴代帝王紹運図』。内容は神代に始まり、天照大神以下の5代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子 ・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している。
2)大化の改新における天武天皇の不在
2.1)天智天皇・天武天皇、非兄弟を決定的に証言:” 兄弟 ” は嘘
・天智天皇Ⅰ(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)が兄弟でないことの何よりの証拠が
”「大化の改新」における天武天皇の不在 ” である。
・何故、「英邁な」と『日本書紀』に記され、「壬申の乱」において果断に行動して勝ちを得る大海人皇子が「大化の改新」の舞台に登場しないのかということである。” 登場しない ” のであるから、” 中大兄皇子と大海人皇子は兄弟ではない ” ということである。
・そうであろう。「大化の改新」は、「鞍作、天宗を盡し滅して、日位を傾けむとす。」という。” 国家の危機を、その巨魁の暗殺という非常手段によって回復するという我が国古代に於ける最高の史劇舞台 ” なのである。特筆される英雄兄弟として申し分ない舞台であろう。
・他のことは置いても、” この危機に共に行動しなくて ” ということである。” 大海人皇子は幼すぎた ” というのであろうか。” どのような役割を演じるにも幼すぎた ” と。
・『日本書紀』は、兄弟を、天智天皇(葛城皇子)、間人皇女、天武天皇(大海人皇子)の順と記す。「大化の改新」時、天智天皇は19歳である。大化元年、間人皇女は孝徳天皇の皇后となるので、少なくとも、12歳以上であろう。等分の年齢差ということはないであろうが、天武天皇は、少なくとも5、6歳以上としてよいであろう。
・天智天皇が、蘇我入鹿誅殺の計画を藤原鎌足と密議することが如何に困難であったかということは、” 蹴鞠の機会を利用した ” として強調されるところである。で、あれば、何故、英邁な天武天皇が ” 伝言或いは文使い役 ” としてでも登場しないのか。” 幼い天武天皇 ” としては格好の役割であろう。 むろん、天武天皇の年齢を5、6歳以下、例えば、3、4歳としても、この役割に不足はないであろう。それとも、天武天皇は何の役割も担えない中途半端な年齢であったと言うのであろうか。
・よいであろう。” 天智天皇は皇極天皇の子ではない(皇極天皇は天智天皇の母ではない)” のである。” 天武天皇が皇極天皇の子(皇極天皇は天武天皇の母)” であれば、天智天皇(当然、天智天皇Ⅰ)と天武天皇は兄弟ではないということになるであろう。
・『日本書紀』は虚構で構成されている。しかし、当たり前のことながら、何から何まで、ということではない。意外に正直なのである。そうであろう。” 話としては、幼い天武天皇が、ちょこちょこと、文使いでもした方が面白い ” のである。しかし、” そのような嘘をついていない ” ということなのである。
★ 中大兄皇子は、天位者(「久米の若子」)、
大海人皇子は、皇極天皇の子・日位者(「毛沼の若子」)
★天武天皇Ⅱは九州王朝Ⅱの存在 = むろん、皇極天皇が九州王朝Ⅱの存在。
天智天皇Ⅱの女(むすめ)との婚姻以前の九州女の妃(鏡王、胸形君、宍人臣の女)
3)天武天皇と天智天皇Ⅱの娘の婚姻
★天武天皇は天智天皇の娘を4人も娶っている。
3.1)”古代、叔父・姪の結婚は珍しくない” は虚説、天智天皇Ⅰ・天武天皇の姻戚は嘘
・” 古代において、叔父・姪の結婚は珍しくなかった ” との説もあるが、これは虚説である。
『日本書紀』の記す、「天皇位者」の叔父・姪結婚者は、孝安天皇、欽明天皇、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇のみである。しかも、前四者は、「異母兄弟」の娘であり、「同母兄弟」の女(むすめ)を娶ったのは天武天皇だけである。
・つまり、この天智天皇と天武天皇は兄弟でない。この天智天皇と天武天皇は、前者が下位、後者が上位である。そうであろう。この婚姻は明らかに政略結婚であろう。で、あれば、その娘を妃として次々に入内(じゅだい)させる。入内させる方が下位である。稀有な例として有る降嫁ではない。
・稀有な例とは、上位者が下位者ではあるが実力、上位者を凌ぐ場合、その意を迎えんとするものである。天智天皇Ⅰと天武天皇に、この関係を見出すのは困難であろう。
・尤も、下位者が上位者の娘を次々に娶る場合もある。が、この場合は、上下関係が逆転した場合、或いは、上位者が死去して下位者が取って代わった場合であろう。血筋に箔をつける場合である。しかし、『日本書紀』の主張は両者存命中であり、これに当たらない。
◆3.2)天武天皇(上位)と天智天皇Ⅱ(下位)の連携:対天智天皇Ⅰ
★ ” 女(むすめ)を入内(じゅだい)させる方が下位 ”
即ち、姻戚は天武天皇と大和王朝の王・天智天皇Ⅱ
・” 天武天皇が上位で、天智天皇が下位 ” であると。これは、どういうことであるのか。この天智天皇と天武天皇は、天智天皇Ⅰと天武天皇ではない。「大和王朝」の王、後の天智天皇Ⅱと天武天皇ということである。天武天皇は、後の「大和王朝」の天武天皇である。
・天武天皇は「日位」者・斉明天皇(皇極天皇)の子である。天武天皇は、天智天皇Ⅱの娘を娶る以前、”3人の「九州の地」の女(鏡王、胸形君徳善、宍人臣大麻呂の娘)” を妃としている。” 天武天皇は「九州王朝Ⅱ」の存在 ” なのである。
・両者は、婚姻によって連携したということである。この婚姻は、” 兩王朝の関係強化 ” とは解し得ない。天武天皇は「九州王朝Ⅱ」のナンバーワンの王者でも、ナンバーツウの王者でもないのである。当然、第三者、即ち、「帝号・天子」天智天皇Ⅰに対してと言うことになるであろう。
3.3)額田姫王:天武天皇妃(妹)から天智天皇Ⅱ妃(人妻)へ
・” 天武天皇が上位で、天智天皇が下位 ” を証言するのは天武天皇と天智天皇Ⅱの娘との婚姻だけではない。
・天武天皇の妃の一人、鏡王の娘・額田姫王が『万葉集』中に登場する「額田王」であることは疑えないであろう。十市皇女を生んだと。しかし、両者の歌はどうだ。天武天皇は額田王に”人妻”と呼び掛けている。”人妻”とは、定説の如く、” 天智天皇Ⅱの妃 ” と言うことであろう。
3.4)” 妃を与える方が上位 ” 即ち、天武天皇から即位前の天智天皇Ⅱへ
〔天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に額田王の作りし歌〕
(20)「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(天智天皇Ⅱ)は見ずや君(天武天皇)が袖振る」
〔天武天皇の答し御歌〕
(21)「紫のにほへる妹を憎くもあらば人妻(天智天皇Ⅱ妃)ゆゑに我恋ひめやも」
・これはどういうことであるか。これは、” 天武天皇が天智天皇Ⅱに額田王を与えた ” と理解するしかないであろう。むろん、時点は、” 天智天皇Ⅱの「天皇」即位以前 ” である。
・当然、”与えた”方が上位である。”与え方”も、一時的或いはそのままということもあるのであろう。軽皇子(孝徳天皇)が中臣鎌足(藤原鎌足)を寵妃・阿倍氏を以て遇したのは前者かもしれない。
・この歌の時点は、天智7年以降、即ち、天智天皇Ⅱが「天皇」に即位して後ということになるであろう。天智天皇Ⅱと天武天皇「皇太子」である。立場が逆転しているということである。
4)天武天皇と天智天皇Ⅰの対立
4.1)天智元年九州王朝Ⅱの政変
・対唐講和(唐の対倭国講話条件「唐人の計」の受諾)を巡る
”帝号天子・天智天皇(講和拒否)と天武天皇(講和受諾)の対立”
・天武天皇と「帝号・天子」天智天皇Ⅰの対立ということである。そう、” 天智天皇と東宮(皇太子)・大海人皇子の対立 ” ではなく、” 天武「天皇」と「帝号・天子」天智天皇Ⅰの対立 ” である。 かつ、そもそも、この対立は、定説の如く、天智10年のことではなく、天智元年のことである。驚きであるが、『日本書紀』の記述を正しく分析すれば斯く結論に至るであろう。
・そもそも、『日本書紀』の記す ” 天智天皇と天武天皇(大海人皇子)の対立 ” はおかしいであろう。
・先ず、イントロ。天智元年、” 天武天皇は「東宮」に立てられた ” と言うのである。天智元年時時点、”天智天皇は、未だ、「天皇」ではなく、「皇太子」”なのである。
・まあ、この「東宮」は粉飾で、” 天智7年以降の身分を遡らせたもの ” としよう。が、当然、この「東宮」とは ” 天智天皇の後継が約束された者のはず ” である。これが何故、”天智天皇が、死に臨んでの、改まっての譲位云々などという話 ” になるのか。
・むろん、話としてはあり得る。最初はそのつまりであったが、” 我が子(大友皇子)の成長を見て気が変わり、死に臨んで、我が子への譲位を強く望むようになった ” と。” 天武天皇は天智天皇のその意を察して固辞し、かつ、「東宮」の地位も捨てた。” と。後世の太閤秀吉と甥の関白秀次の例も挙げられるかもしれない。
・が、やはりおかしい。この「天皇位譲位という罠」は、” 天武天皇が食いついてきたら、それを契機として、天武天皇を除こう。即ち、殺してしまおう ” と言うものである。
・で、あれば、天智天皇に、それだけの気力、体力のある内にこその話であろう。秀吉は秀次を殺している。むろん、秀吉に、それだけの気力、体力が有ったということである。しかし、死に臨んでは、最も危険な家康にも、ひたすら頼むしかなかったのである。
4.2)『日本書紀』(天智天皇と天武天皇のやりとり時期)の矛盾
・不思議なのは、この話は、天武天皇即位前期において、「天智4年」のことと記されていることである。当然、この話は「天智4年」も無理である。天智天皇は、未だ即位していないし、ぴんぴんしているのである。
〔『日本書紀』天智天皇10年〕
「冬10月・・・。庚辰に天皇、疾病彌留し。勅して東宮を喚して、臥内に引入れて、詔して曰したまはく、『朕、疾甚し。後事を以て汝に属く。』と、云々。・・・固辞びもうして曰したまはく、・・・東宮即ち吉野入りたまふ。」
〔『日本書紀』天武天皇即位前期〕
「4年の冬10月の庚辰に、天皇、臥病したまひて、痛みたまふこと甚し。・・東宮を召して、大殿に引き入る。・・・天皇、東宮に勅旨て、鴻業を授く。乃ち辞譲びて曰はく、・・壬午に、吉野宮に入りたまふ。・・或る曰はく、『虎に翼を着けて放てり』という。」
・兩記事が同じものであることは一目瞭然である。が、前者は「天智10年」。後者は「天智4年」である。しかし、この間違いは理解不能であろう。「大和王朝」にとって、天智天皇、天武天皇紀の重要なことは言うまでもないであろう。その眼目を成す記事、それが、この、 ” 天智天皇と天武天皇のやりとり ” である。『史記』における鴻門の会の項羽と劉邦のそれに似るであろう。正に、手に汗を握る最高の見せ場なのである。そして、” 虎口を脱した ” 天武天皇も、劉邦も、次なる戦い、「壬申の乱」、「垓下の戦い」で天下を取るのである。
・兩記事は、正に、膚を接して記載されたものなのである。相互の確認は容易なのである。どのような理由を付けても間違いようがないのである。むろん、編纂時だけの話ではない。例え、未熟者の書写としてもである。百歩譲って、書写の誤りがあったとしても、その誤りが伝世されて今日に至ることなど有り得ないのである。
・岩波補注が天武天皇即位前期の「天智4年」記事について、「天智10年、以下、大海人皇子の吉野への退去の事情については、天智天皇10年10月17日条・同19日条にも見える。」つまり、” 重複・誤記 ” と、当然の如く処理しているのは驚きである。凡そ、人間の理性の至るところではないであろう。抜きがたい ” 古人愚者論 ” である。
4.3)「天智天皇」(天智元年)と「天智10年」(天智7年・天智10年)
・この「話」、或いは、この「話」の基となった重大な事実が「天智4年」又は「天智10年」に生起したと考えるのが妥当なのである。むろん、同一のことが「天智4年」と「天智10年」に起きることなど有り得ない。前者はどちらかの年のことで、後者は、別々のことであるが、類似する重大なことである。むろん、編集者は、この矛盾を承知していたということである。で、” それでよい ” と。
・類似する重大なこと。天智10年(671)はよいであろう。定説のとおり、天智天皇Ⅱの崩御である。天武天皇の天下取り、「壬申の乱」の序章である。
・で、よいか。「天智10年」は、もう一つある。「天智天皇Ⅰの10年」即ち、天智7年(668)、” 天智天皇Ⅰの放逐或いは弑殺 ” である。 で、「天智4年」である。これは、もう、良いであろう。「天智天皇Ⅰの4年」、即ち、天智元年(662)のことなのである。
・天智元年とはどういう年であったのかということである。倭唐講和の年である。眼目が ”「帝号・天子」天智天皇Ⅰの「天皇」への降格 ” であったことはそう難しい創造ではないであろう。即ち、” 我が国の中華体制承服 ” である。
・おそらく、この三つの重大事件を合わせたものが『日本書紀』の記す ” 壬申の乱 ” である。が、これは置く。次の課題である。天武天皇と天智天皇Ⅰの対立、そもそもは「九州王朝Ⅱ」に於ける「日位」と「天位」の継続せる対立であるが、所謂 ”天智天皇と天武天皇の対立「譲位云々」の話 ” とは天智元年のこととするのが妥当である。
4.4)焦点 ” 帝号・天子称号の廃止 ”
・帝号天子・天智天皇Ⅰの天皇への降格 ⇔ 天武天皇(斉明天皇後継即位)の天皇退位
・帝号天子・天智天皇Ⅰの退隠 ⇔ 天武天皇への譲位
・で、” 対立 ” の前に、確認しておかなければならない。”天智元年がどういう年である(細部後述)”のか。そして、” 天武天皇の地位 ” である。
・” 天智元年は、白村江の戦いの年であり、「大和王朝」が太宰府の地に「九州王朝Ⅱ」を監理する機関・太宰府を設置した年であり、唐との講和が成った年 ” である。
・”我が国(「九州王朝Ⅱ」)は、前年、斉明7年は、薩夜麻の送還とともに突き付けられた「唐人の計」の講和条件(主:「帝号・天子」天智天皇Ⅰの廃位、或いは、「天皇」への「貶号」)”を受け入れたということである。
◆天武天皇の斉明天皇後継即位
・即位は斉明7年(斉明天皇の崩御は斉明6年)。天智元年は天武2年
・天豊財重日足姫天皇7年は斉明4年。天智Ⅰ元年は斉明5年
◆焦点 ” 帝号・天子称号の廃止 ”
・帝号天子・天智天皇Ⅰの天皇への降格 ⇔ 天武天皇(斉明天皇後継即位)の天皇退位
・帝号天子・天智天皇Ⅰの退隠 ⇔ 天武天皇への譲位
・しかし、問題が在った。” 天武天皇は、斉明天皇の後を継ぎ、既に、「天皇」に即位していた ” ということである。”「廃位」は、即、「譲位」”であり、”「貶号」は、天武「天皇」の退位 ” と言うことになる。これが、『日本書紀』に記される「譲位云々」の話であろう。
4.5)天智天皇Ⅰの攻勢と天武(虎)の天険・吉野宮(翼)入り
・「虎に翼を着けて放てり」(天智4年 = 天智Ⅰ 4年 = 天智元年)
・むろん、天智天皇が、素直に、講和条件を容れるとしたかどうかは分からない。この時点、天智天皇Ⅰが天武天皇など対唐講和派に対して、武力的に優位であったということであろう。で、天武天皇の天険「吉野宮」城への逃避があったと。で、天智天皇Ⅱの武力介入があり、天武天皇、天智天皇Ⅱの「九州王朝Ⅱ」制圧した、対唐講和が成ったということになるであろう。
◆天武天皇と天智天皇Ⅱの連携反撃、九州王朝制圧
・対唐講和成立。大和王朝、九州王朝管理機関(全権行政府)大宰府を設置
・対唐講和の時点、政治の主導権は「九州王朝Ⅱ」の対唐講和派が握っていたのであろう。が、この主導権は脆弱であったということである。主導権は軍事力を掌握する天智天皇Ⅱのものとなったということである。太宰府は「大和王朝」の「九州王朝Ⅱ」監理機関(全権行政府)として設置された。天武天皇と天智天皇Ⅱは、その立場を変え、天武天皇は天智天皇Ⅱの庇護下の存在と成ったということであろう。
・が、これで、天智天皇Ⅰの運命が定まり、「大和王朝」の実権が確立されたというわけではない。天智天皇Ⅱの「天皇」(「大王天皇」)即位には、猶、6年の歳月を要するのである。この間、「九州王朝Ⅱ」の権威と「大和王朝」の実権が、それなりの均衡を保ちつつ推移したということになるであろう。天武天皇は、この微妙な均衡の中で、「大和王朝」に亡命したことになる。
・どうであろう。天智天皇Ⅱの「大王天皇」即位には、天智天皇Ⅰの許諾が第一条件であったろうが、そもそも、その正統な地位者・天武天皇との調整も有ったのではないか。天智天皇Ⅱが先、天武天皇がその後、ひょっとすると、これが、即ち、「天智天皇Ⅱの元年」(天智7年)の立「東宮」である。
・天智天皇Ⅱは、天智天皇Ⅰを淡海国に流し、廃位放逐、或いは弑殺し、持統天皇を擁立する。これが、天智6年のクーデターである。
・なお、『日本書紀』天武天皇即位前期記事の ”「天智元年」が天智天皇Ⅱ即位の「天智7年」で、「天智4年が天智天皇Ⅱ崩御の「天智10年」である ” 可能性があるのかということである。
・岩波補注(「天智4年」記事)で、触れた。が、此処では、「天智元年」共々で、ということである。”「天智元年」の立東宮、「天智4年」の吉野入り”は、それぞれ、「天智7年」、「天智10年」として、” この程度も整合し得ない杜撰な編纂 ” であるが、矛盾はないであろう。
☆むろん、「天智4年」即ち、天智元年の ” 天智天皇Ⅰと天武天皇の対立 ” について、仮定に仮定を重ねる、つまり、風が吹けば桶屋が儲かる適菜危うい論理であることは重々承知している。しかし、天智元年に起こったこと、何故、列島代表主権が大和の地の王権へと移ったのか、何故、「九州王朝Ⅱ」のNo2王者・天武天皇が「大和王朝」の後継者と成ったのかについて総合考慮すれば、こうなるであろう。
★大和王朝の実権支配下、天武天皇、大和王朝へ亡命
九州王朝・大和朝廷関係(権威:実権)は均衡して6年推移
5)天武天皇の斉明天皇後継即位
・天武天皇の天皇即位、むろん、定説の天智天皇Ⅱの後継の話ではない。斉明天皇の後継の話である。誰も論じたことのないテーマである。むろん、気が狂ったのでも、奇を衒ったのでもない。
・天智天皇Ⅰが「天位」、即ち、「九州王朝Ⅱ」(倭国)のナンバーワンの王者(帝号天子)で、斉明天皇が「日位」、(九州王朝Ⅱ)(倭国)のナンバーツーの王者であったことはもうよいであろう。天武天皇が、斉明天皇の後継者、即ち、「日位」の後継者であったことも、である。
・で、あれば、天武天皇は、定説(斉明7年の斉明天皇崩御)に於いても、天智元年の天皇即位となる。既に、天武天皇は天皇なのである。で、これでよいか。違うであろう。少しややこしいが、天智天皇Ⅰから確認する。
・天智天皇Ⅰの即位は斉明5年である。『新唐』は「天豊財立、死、子、天智立」としている。天豊財の崩御は斉明4年である。
・天豊財とは、若干の疑問は残るが、天豊財重日足姫天皇・・特に、「姫天皇」、女性に疑問・・として良いであろう。”天豊財重日足姫天皇は斉明天皇 ” は嘘である。当然、” 天豊財重日足姫天皇7年は斉明7年 ” も嘘と言うことになる。” 斉明4年以降、天豊財重日足姫天皇は既に存在しない。” ” 天豊財重日足姫天皇7年は斉明4年 ”なのである。
・『日本書紀』編者は、” 斉明4年(天豊財重日足姫天皇7年)の天豊財重日足姫天皇崩御と斉明5年(天智Ⅰ元年)の天智天皇Ⅰ即位 ”を ” 斉明7年の斉明天皇の崩御と天智元年の天智天皇Ⅱの摂政 ” に置き換えたのである。
・で、よいか。まだ問題が在る。『日本書紀』は ” 百濟を救う役は天豊財重日足姫天皇の7年 ” と記す。しかし、これは嘘である。嘘とは、先に触れた”天豊財重日足姫天皇の7年 ”が既に存在しないことではない。” 百濟を救う役は斉明7年ではなく、斉明6年”(後述)なのである。
・『日本書紀』編者は、” 斉明6年を天豊財重日足姫天皇の7年としている ” ということである。”A(本物)の最終年にB(偽物)の最終年(実年)を合わせる(B(偽物)の実年が基準)”という『日本書紀』の手法を考えれば、” 斉明天皇の最終年、即ち、崩御は斉明7年 ” で整合するのであるが、本当は”6年”、”1年プラス”されている。
・” 6年が7年”で問題はなく、何故と言う疑問はの残る。斉明紀に於ける”1年の重複”はこれによるであろう。且、ひょっとすると、白村江の戦いの ”1年のずれ(天智元年⇒天智2年:後述)”も、これに因るのではないか。 当然、天武天皇の斉明天皇後継即位は斉明7年ということになるであろう。”天智元年は天武2年”ということになる。
・なお、どうであろう。この天武天皇が『新唐』に言う天武天皇(「天智死、子天武立、死、子摠持立」)ではないか。ひょっとすると、天智元年から天智7年の天智天皇Ⅱの大王天皇位即位までの間、天皇位も、大王天皇位も空位であったのではないか。”天智Ⅰ帝号天子の退位と天武天皇の退位という状態の継続 ” である。で、天智Ⅱ大王天皇と天武天皇が持統天皇を擁立したということである。
(1)要約 (2)筑紫君薩夜麻の虜囚と百済を救う役 (3)筑紫都督府 (4)壬申の乱
1)九州王朝の凋落
対唐敗戦=「百済を救う役」(660)・「白村江の戦い」(662)
★天智天皇Ⅱの天下取り、即ち、列島主権王朝の九州王朝から大和王朝への実質交代が、
筑紫都督府による九州王朝の武力制圧
★天智天皇Ⅰの放逐或は弑殺?と持統天皇の擁立、天智天皇Ⅱの「大王天皇」位即位
2)天武天皇の大和王朝取りが「壬申の乱」の制覇
★天武天皇の「大王天皇」位・「大和王朝」王位取り
★共に、「天皇」位(天位:象徴的支配権)を巡るものではなく、「大王天皇」位(日位:
実質的支配権)を巡るもの。
3)列島主権王朝の実質交代
・九州王朝、即ち、倭国の対唐敗戦は、列島主権王権の凋落をもたらすこととなった。即ち、列島主権王権の「九州王朝」から「大和王朝」への移行である。
・しかし、この直接的な打撃の大なる一が「九州王朝Ⅱ」の王、即ち、筑紫君薩夜麻の唐軍虜囚であるとする説(筑紫君薩夜麻・倭王説)は間違いである。「九州王朝」の王、自らが山川を跋渉し、白刃を眼前に交わらせた中国天子下の大将軍の時代は遥か過去の話であり、当該時期、「九州王朝」の王は、” 天子 ” なのである。
・「大和王朝」の王・天智天皇Ⅱの天下取り、即ち、列島主権王朝の「九州王朝」から「大和王朝」への実質交代は、「大和王朝」による「九州王朝」の武力制圧(そして、軍政:筑紫都督府)であり、その「大和王朝」の王権を巡る天武天皇と天智天皇Ⅱの子・大友皇子の争覇が壬申の乱である。
・この2つの争いは、” ナンバーワン王権「天皇」位を巡るもの ” ではなく、共に、” ナンバーツー王権「大王天皇」位(実質的支配権取り)を巡るもの ” である。
4)天智天皇Ⅱの天下取り
・天智元年以来、「九州王朝Ⅱ」を大宰府(全権行政府)の管理下とし、列島支配の実権を掌握した「大和王朝」の王・天智天皇Ⅱは、「九州王朝Ⅱ」との6年の均衡を破り、行動に出る。大宰府の都督府(全権軍政府)への移行と天智天皇Ⅰの淡海国幽閉(遷都)と廃位の強行である。
・で、天智天皇Ⅱは、天智7年元旦、「大王天皇」(「毛沼の若子」の継承王権)に即位する。即ち、” 天智天皇Ⅱの天下取り ” である。
4)「大王天皇」の正統継承者
・当然、「大王天皇」位の正統継承者は天武天皇である。天智天皇Ⅱの即位に当たって、天智天皇Ⅱと天武天皇間に、何らかの合意が交わされたと考えざるを得ないであろう。これが ” 天智元年(天智7年)の天武天皇の立東宮 ” であるとすると、” 天智天皇Ⅱは天武天皇を後継者とすることに依って、「大王天皇」位を得た ” と言うことになる。
・で、あれば、壬申の乱は、天武天皇に正統性があるということになるであろう。天武天皇の ”「大和王朝」取りは、「大王天皇」位の正統後継者への回復 ” と言うことではないか。
1)筑紫君薩夜麻(ちくしのきみさつやま)(さちやま:幸山)虜囚・倭王説(倭王捕囚説)は誤り。
・筑紫君薩夜麻の虜囚は斉明7年戦役でなく、6年戦役である。
・薩夜麻等の帰還の目的は ”「唐人の計」(唐の対倭国和平意図)の「天朝」(「九州王朝Ⅱ」)への報告 ” 即ち、その帰還は唐の対倭国和平交渉の為の水先案内人としての捕虜送還である。薩夜麻等は斉明7年(天智Ⅰ 3年)に送還された。
1.1)中国、朝鮮史書 ” 倭王虜囚 ” など無記載
・筑紫君薩夜麻を以て、「九州王朝」(Ⅱ)の王(天子)とする説(古田氏)あるが、これは間違いである。捕虜とした中国、朝鮮史書がそれを記さないからである。
・{「筑紫君」=倭王、即ち、「九州王朝Ⅱ」の王(この時期「天子」)}説そのものが間違いである。「筑紫君」が古来、「九州王朝」に於ける有力な地位を占めてきたことは確かであろう。しかも、『日本書紀』の記するところによれば、「筑紫君・磐井」と同一人とされる「筑紫国造・磐井」が「九州王朝Ⅱ」の王であったことは疑えない。
・しかし、” 古来からの「九州王朝」における有力な地位 ” が同説に至る論拠とはならないことはあきらかであろう。甕依姫の共立に見るとおり、「筑紫君」は、「肥君」等より優位ではあるが、絶対的存在ではない。恐らく、倭王家に繋がる家系であろう。が、倭王家ではない。
・そして、既に触れた。何よりも、”「筑紫国造・磐井」は「九州王朝Ⅰ」の王であるが、「筑紫君・磐井」ではない ” と言うことである。”「筑紫君・磐井」は「九州王朝Ⅰ」の王ではない ” ということなのである。そもそも、「筑紫君・倭王説」の大前提が消えるということである。
・「筑紫君」が、倭王ではないことの何よりの証拠は、中国、朝鮮史書の沈黙なのである。くどいが、この時期の「九州王朝Ⅱ」の王は「天子」なのである。その東夷の「天子」を捉えて、中国、朝鮮の史書が沈黙するなどということは有り得ない。
・そもそも、「倭王」は、最早、王その人が英雄性を要求される「九州王朝」草創期の王者或いは中国南朝下の将軍の如く、自ら、山川を跋渉し、白刃を眼前に交合わせる覚悟を要求される存在でもないのである。
2)薩夜麻虜囚は6年(660年)戦役
2.1)戦役の亡霊・大伴部博麻の30年振りの帰国
・筑紫君薩夜麻。「持統4年」(690)、突如、”「斉明7年」の百済救援戦役で、唐軍の捕虜となり、「天智3年」に帰国した ” と記される。身を売って、その帰国費用を贖(あがな)い、自身は30年唐土に留まった大伴部博麻の帰国美談と共にである。
2.2)持統天皇の詔(『日本書紀』持統天皇)(※)
「天豊財重日足姫天皇7年(661)に、百済を救ふ役に、汝、唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇の三年に洎(およ)びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶の兄、四人、唐人の計る所を奏聞くさむと思欲へども、衣粮無きに縁りて、達(とづ)くこと能はざることを憂ふ。是に、博麻、土師連富杼等に謂りて曰く、『我、汝と共に、本朝に還向かむとすれども、衣粮無きに縁りて、倶に去くこと能はず。願ふ、我が身を賈りて、衣食に充てよ。』という。富杼等、博麻が計の依に、天朝に通(とづ)くこと得たり。汝、獨他界に淹滞(ひさしくとどま)ること、今に30年なり。朕、厥の朝を尊び国を愛(おも)ひて、己を賈りて忠を顕すことを嘉ぶ。・・・」
(※) 持統天皇4年(690年)10月22日の条には、
●詔軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻曰「於天豐財重日足姬天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。汝獨淹滯他界、於今卅年矣。朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。故、賜務大肆、幷絁五匹・綿一十屯・布卅端・稻一千束・水田四町。其水田、及至曾孫也。免三族課役、以顯其功。」
●(現代訳)軍丁で、筑後国上陽咩郡の人、大伴部博麻を召出して「斉明天皇7年(661年)の百済救援戦で、お前は、唐軍の捕虜になった。天智天皇の3年に及んで、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶の児の4人が、唐人の計画を連絡したいと思ったが、衣食にも困っていて、できないことを憂えた。そこで博麻は、土師富杼等に『私は、貴方と一緒に、日本に帰還したいが、衣食にも困る状態で、一緒に去ることはできない。お願いします、私の身を売って、衣食代に充ててください』と言った。富杼等は、博麻の計画のとおりに日本に帰り着くことができた。お前は、一人外国に長く留まり、今年で30年になる。朕は、その朝廷を尊び国を愛して、自分を売って忠誠を示すことを歓ぶ。そこで、務大肆の官位を与え、あわせて絁5匹・綿11屯・布30端・稲1,000束・水田4町を賜ろう。その水田は曾孫まで相続させる。三族の課役を免除して、その功をあらわす。」と仰った。
(出典:Wikipedia)
2.3)” 戦役は真実、何年か ” ← 唐土在留30年
・筑紫君薩夜麻が「九州王朝Ⅱ」に於ける貴重な存在であり、当然、一軍の将であったことは間違いない。その他の3名も、そうであろう。この4名等が率いる軍衆は万余に及んだはずである。廬原君臣がそうであったようにである。この4名が、「斉明7年」(661)の戦役で、唐軍の捕虜と為ったと。が、これはおかしい。それでは、博麻の ” 他界に淹滞 ” は「29年」となる。しかも、これほどの戦は記録されないのである。これほどの戦は白村江の戦い以外に考えられないのである。
・では、この「斉明7年」とは ”「天智元年」(662)の白村江の戦い ” (後述)のことであろうか。しかし、これもおかしい。それでは、博麻の ” 他界に淹滞 ” は「28年」である。”「天智2年」(663)の白村江の戦い ”(定説)では「27年」である。挙げ足ではない。” 大宰府永年勤続表彰 ”(後述)では「29年」と言っている。「凡そ30年」ではないのである。「淹滞30年」は ” き っちり30年 ” と考えるべきなのである。
・そもそも、”「斉明7年」(661)の役 ” は「百済を救ふ役」ではなく、「百済を救ひ興す役」と言うことになるであろう。” 百濟は亡んでいる ” のである。王子・豊璋の護衛送還は、百済の再興支援、そして、やがて、白村江の戦いへと繋がる軍事行動なのである。
〔天智天皇、斉明7年〕
「8月に、前将軍大花下安曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣等、後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等を遣して、百済を救はしむ。仍りに、兵仗・五穀を送りたまふ。9月に、皇太子、長津宮に御す。織冠を以て、百済の王子・豊璋に授けたまふ。復多臣将敷の妹を妻す。乃ち大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を遣して、軍五千余を率て、本郷(もとつくに)に衛り送らしむ。是に、豊璋が国に入る時に、福信迎へ来、稽首みて国朝の政を奉て、皆悉に委ねてたてまつる。」
・この戦とは、「斉明6年」(660)の百済滅亡の戦と考えざるを得ないであろう。文字どおり、「百済を救ふ役」であろう。「斉明6年」であれば、博麻の ” 他界に淹滞 ” は、正に、「30年」である。
・『日本書紀』は、筑紫君薩夜麻等、万余が参加し、甚大な損害を蒙った百濟救援の戦について沈黙しているということになるであろう。
★七年に合わせれば ” 百済を救い興す役 ”(百済滅亡:斉明6年:660)
690-29 = 661(斉明7年) 唐土在留29年
★唐土在留30年に合わせれば ”百済を救う役”
690-30=660年(斉明6年)
∴天豊財重日足姫天皇7年は660(斉明6年)
3)6年戦役の編成
3.1)
・但し、全くの沈黙かということである。” 片鱗を洩らしている ” のではないか。”「斉明7年」(661)の役 ” は「百済を救ひ興す役」としてもおかしい。
・8月、前後軍編成の大軍・・恐らく万余であろう・・を送って、その僅か1月後に、王子・豊璋を五千の軍を付して送る。大事を取ったかにも見られるが、どうもすっきりしない。百済は、福信(※)の掌握下に在り、王子・豊璋を迎え入れる状況に在るのである。
※福信:鬼室 福信(生年不詳 - 663年)は、百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代武王(余璋)の甥。官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。没した2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。義慈王時代の660年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡した後も、旧臣らを糾合して抵抗運動を続け、百済の故都である泗沘城の奪還を試みた。この頃、義慈王の王子であった余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していたが、鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印として擁するため豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求める。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することとし、翌年正月には斉明天皇自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。(出典:Wikipedia)
・これを、8月の先遣軍の成果と見るのは無理であろう。むろん、小説的には、福信が信じ難い・・事実、後に、豊璋と福信は対立・・ので、先ず、先遣の大軍により牽制したとも言える。しかし、で、あっても、王子・豊璋は万余プラス五千の兵と共に乗り組む方が妥当であろう。兵力を合することは戦術の基本であり、牽制は先軍が担えばよいのである。かつ、そもそも、” 8月の軍事行動は白村江の戦いに繋がらない ”。繋がるのは ” 天智2年3月の軍事行動 ” なのである。
〔天智天皇2年〕
「3月に、前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄を遣して、二万七千人を率いて新羅を打たしむ。」
・つまり、この ” 斉明7年8月の軍事行動 ” は「百済を救ひ興す役」としてもおかしいということである。
・で、あれば、即ち、この ” 斉明7年8月の軍事行動 ” と ” 天智2年3月の軍事行動 ” を同じものとするか、それとも、前者を ”「斉明6年」の役 ” とするかということになろう。” 同じもの ” とは考え難いであろう。年月も、編成も、阿倍引田臣以外全く異なっているのである。”「斉明6年」の役 ”と考えるべきであろう。むろん、百済の滅亡は7月であるから、そのまま、整合しない、が、その可能性が大きいのではないか。
つまり、「九州王朝Ⅱ」の半島への介入は、
斉明6年(660)の百済救援軍派遣(万余)
斉明7年(661)の百済王子・豊璋擁立送り込み(五千)
天智元年(662)の百済救援軍派遣(二万七千)
※白村江の戦い(天智2年8月:663年10月)
として行われたのではないかということである。
・そうであろう。『日本書紀』の記述のとおりであるとすれば、” 万余プラス五千の軍 ” は ” どうしたのか ” と言うことになる。” 合した ” というであろうか。
〔『日本書紀』天智天皇2年〕
「大唐の軍将、戦船170艘を率いて、白村江に陣烈れり。・・・・朴市田来津(えちたくつ)、天に仰ぎて誓ひ、歯を切(くいしば)りて嗔(いか)り、数十人を殺しつ。焉(ここ)に戦死(たたかひう)せぬ。」
・斉明7年の百済王子・豊璋帰還護衛軍の将・朴市田来津は白村江の戦いに参加、戦死しているのである。しかし、で、あれば、” 阿倍引田臣は在百濟のまま、天智元年の百済救援軍の後軍の将軍に任じられた ” ことになるであろう。
・戦乱状況が継続していたから、豊璋帰還護衛軍の将・朴市田来津は斉明7年以来、現地に留まり、やがてクライマックスである白村江の戦いに参加することになったのであろう。” この情勢を尻目に、実は、斉明7年8月派遣の軍は帰国していた ” などということが有るべくもないであろう。
・「五千」と「二万七千」は合したが、「万余」は別と言うことである。この「万余」の軍は ” 斉明6年の百済救援軍 ” とするのは正しいということである。この軍中に、筑紫の君・薩夜麻等が居たということになるであろう。
3.2)7年戦役の前後二軍編成に中軍を加えたもの?
・前将軍:阿曇比羅夫連、(中将軍:筑紫君薩夜麻?)、後将軍:阿部引田比羅夫
・どうであろう。「万余」の軍も、「前・後軍の二軍編成」ではなく、「前・中・後軍の三軍編成」であったのではないか。で、中軍の将は筑紫君薩夜麻等であったのではないか。で、薩夜麻等は捕虜となり、後軍の将・阿倍引田臣等は生還したということになるであろう。前軍の将・阿曇比羅夫連は戦死したのかもしれない。
・で、あれば、『日本書紀』は「斉明6年の百済救援の役」について完全黙秘しているのではなく、それを、一部、「斉明7年の百済復興支援の役」とし、かつ、筑紫君薩夜麻等の参加を秘していることとなる。
・この疑問は残る。古田説に整合するやに思われるが、この疑問は冒頭の「薩夜麻・非倭王」を乗り越えるものではない。
・そもそも、古田氏の「薩夜麻・倭王」説の一つの大梁は ” 筑紫君・薩夜麻は筑紫君・幸山 ” であろう。「筑紫君」は「九州王朝」の王ではない。この「幸山」(「九州王朝Ⅱ」王者の聖なる名)について、真と断定するのは保留すべきではないか。
・むろん、そうだとしても、” 筑紫国造・筑紫(倭王)と配下ナンバーワンの筑紫君・葛子(「九州王朝Ⅰ」の聖なる名、奇子或いは珍子)” を考えれば、奇異とするに当たらないと言えるかもしれない。
3.3)日本書紀は6年戦役と敗戦、編成を隠している。
何故、白村江の敗戦を隠さない日本書紀が該戦役と筑紫君の参加を曖昧なものとしているのか。不明。が、既論、かつ、時代は倭王・武の将軍時代を過ぎ、倭王は天子の時代、筑紫君・薩夜麻・倭王説、即ち、天子7年戦役親征説(古田説)は無理である。
薩夜麻(さつやま)、即ち、幸山(さちやま)、山の王朝・九州王朝(0・Ⅱ)の聖なる名、即ち、筑紫君薩夜麻は九州王朝の王説(「筑紫君は九州王朝の王の称号」)は保留しなければならない。
当問題は筑紫君奇子(くすこ)は、即ち、九州王朝Ⅰの聖なる名が葛(屑)子と卑しめられていることと似る・重要な問題が潜んでいることは確かである。しかし、筑紫君薩夜麻・倭王説は無理であろうということである。
4)薩夜麻等の帰還時期と理由
4.1)
・薩夜麻の帰還の時期について、持統天皇紀では「天智3年」(664)であるが、天智天皇紀では「天智10年」(671)となっている。
〔『日本書紀』天智10年11月〕(※)
「対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、『月生ちて2日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝裟婆・布師首磐、4人、唐より来りて曰さく、『唐國の使人郭務悰等600人、送使沙宅孫登等1,400人、総合べて2,000人、船47隻に乗りて・・・』・・・」
●對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」
●対馬の国司が大宰府に使いを遣わして報告した。「さる2日に、沙門道久(ほうし どうく)・筑紫君薩野馬・韓嶋勝裟婆(からしま の すぐり さば)・布師首磐(ぬのし の おびと いわ)の4人が唐より来て『唐国の使節の郭務悰600人、護衛の沙宅孫登等1400人、合わせて2,000人が、47隻の船に乗って、共に比知島に停泊していて、両人共に言うには、現在、我々の人船は多数であり、突然やって来ると、恐らく対馬の防人は、驚いて戦いになるだろう。そこで道久等を遣して、予め少しだけ来朝する意向を示し申します。』と言った。」(出典:Wikipedia)
・で、どちらが正しいのか。ちょっと待ってほしい。” 薩夜麻の帰還の時期 ” はこれだけではないのである。「天智8年」(669)も、なのである。
〔『日本書紀』天智8年是歳〕
「是の冬に、高安城を修りて、畿内の田税を収む。時に、斑鳩寺に災けり。是の歳、小錦中河内直鯨等を遣して、大唐に使せしむ。又佐平余自信・佐平鬼室集斯等、男女700余人を以て、近江国の蒲生郡に遷し居く。又、大唐、郭務悰等2,000余人を遣せり。」
・補注に「10年11月条の重出か。記事の簡略な本条を削るべきかという。」とある。
・で、どれが正しいのかということである。「天智3年」か。「天智8年」か。それとも「天智10年」か、ということである。
・但し、その前に、「天智8年」を修正しなければならない。この「天智8年」は「天智9年」である。そんなことが言えるのか。言える。この記事は「天智9年」のことなのである。「大唐への使者派遣」、これは、『新唐』に言う咸享元年、即ち、「天智9年」の「賀平高麗使」と考えざるを得ないのである。
・そんな断定をしてよいのかという疑問があるかもしれない。補注にあるとおり、研究諸家が悩んだ問題なのである。しかし、この問題はそう難しいものではない。
・先に、”「天智4年」と「天智10年」が当てられている ” ことを見た。即ち、”「天智3年」は「天智9年」に当てられるはず ” なのである。つまり、『日本書紀』の記述は、”「天智3年」、「天智4年」、「天智9年」、そして「天智10年」となっていて然るべき ” なのである。
・しかし、唐の和平工作、即ち、薩夜麻等の送還が、「天智9年」や、況や、「天智10年」などでは有り得ないことは、天智10年記事そのものが証言している。『日本書紀』は前掲に続けて「忽然に彼に到れば、恐るらく彼の防人、驚き駭みて射戦はむという」と記しているのである。つまり、この時期は未だ一触即発の戦争状態にあったということである。くどいが、「天智9年」の「賀平高麗使」の後の話であるはずがないのである。
・” この時期は「天智10年」ではない ” ということである。「天智9年」の我が国の「賀平高麗使」の派遣と、親善友好を積み重ねてきた、その「天智9年」でも、「天智10年」でも有り得ないのである。
・つまり、薩夜麻等の帰還は、「天智(●●)3年」か「天智(●●)9年」か、それとも「天智(●●)4年」か「天智(●●)10年」か、ということなのである。
4.2)唐の対倭国和平交渉案内人としての送還
・薩夜麻等の帰還目的は、”「唐人の計」の天朝への報告 ” である。その帰還が、「天智(●●)3年」(斉明7年)か「天智(●●)9年」(「天智6年」)か、ということである。
・” 戦に敗れて虜となった薩夜麻等の唐人と共にの帰還 ” 、有り体に言えば、唐の ” 捕虜送還 ” と薩夜麻等の ”「唐人の計」の天朝への報告 ”。是は、唐の薩夜麻等を案内人とした対「倭国」和平工作である。4人は ” 唐の和平の意を誤り無く伝える ” 案内人ということである。
・この和平工作が「天智8年」以前であれば、一応、整合する。「天智9年」の「賀平高麗使」に繋がるからである。つまり、いずれの年も、整合する。
・しかし、『日本書紀』は「天智3年」のこととして、5月の唐使・郭務悰の来訪と表函進上、10月の同帰国に対する贈物・饗宴、12月の同帰国を記している。既に、和平は完全に成立している。
・で、薩夜麻等の帰還は、「天智3年以前、即ち、「天智(●●)3年」(「斉明7年」)か、それとも、「天智(●●)4年」(「天智元年」)かということになる。
・百済の滅亡は「斉明6年7月」であるから、「斉明7年是歳」の ” 捕虜送還 ” は整合する。「持統4年」記事とも、整合するであろう。「唐人の計」( ” 唐の対「倭国」講和案 ” )の 10年も経た天朝への報告という矛盾もない。しかし、結果から見れば、この唐の和平工作は不調に終わったということになる。
・では、「天智元年11月」はどうか。少しややこしい。” 白村江の戦いは「天智2年」” という定説に立てば、「持統4年」記事との不一致を除き、ほぼ同じである。つまり、”「斉明7年」の方が「天智元年」より、より整合する ” であろう。
・しかし、” 白村江の戦いは「天智元年」” という本説に立つと、微妙である。”「倭国」軍が百濟の王族、将軍共々、命からがら逃げ帰ったのは「天智元年9月末」” なのである。百済の鎮将・劉仁願は、その僅か2ケ月後、対「倭国」講和の使節を送って来たことになる。そして、結果から見れば、この工作は成功したと。和平の成立ということから見れば、”「斉明7年」より、天智元年の方が、より、整合する ” とも言えるであろう。
・その ” 素早さ ” に疑問が残るが、あり得ないことではないであろう。” 劉仁願の機敏な措置 ” と考えれば良いことである。”「斉明6年」の百済救援戦役で捕虜と為った薩夜麻等の、この時期での送還”とても、あり得ないことではない。” 劉仁願は、白村江の戦いで勝利したこの機会に、一挙に、対「倭国」和平を、と考えた ” とすればよいのである。” 戦(「高句麗」)平定はまだこれから ” なのである。「唐の倭国占領説」は全く成り立つものではない。
・勘案すれば、” 和平の成立は「天智元年」(「天智(●●)4年」)が正しい ” としてよいのではないか。当然、この早急な和平の成立は、”「倭国」の政変 ” と関係するであろう。” 対唐和平派の政権掌握 ” である。
・それにしても、薩夜麻等の帰還は、「持統4年」記事の「天智3年」でよいのではないか。白村江の戦いを「天智2年」或いは「天智元年」としても、その白村江の戦い、その後の唐の対「倭国」和平工作は符号するというであろうか。”「5月の唐使・郭務悰の来訪と表函進上」がそうである”と。
・そもそも、”「天智(●●)4年」の薩夜麻等の帰還など、何処にも記されていない”と。”それは「天智10年」からの類推であろう”と。
4.3)唐の和平意図と講和条件(「唐人の計」)の報告
・論は戻る。では、天智紀の薩夜麻等の帰還が「天智10年」であるかと。「天智9年」の「賀平高麗使」の後に、何の「唐人の計」の報告かと。
・”「唐人の計」が唐の対「倭国」講和策である”とするのも、お前の考えで、解らないとするのが学問的に正しい。で、あれば、このことは、時期判断の根拠にはならない、と言うであろうか。
・また論は戻る。では、何故、” 天智天皇と大海人皇子との譲位云々という同一の話が「天智4年」と「天智10年」のこととされる ” のかである。
・よいであろう。論は ”「唐人の計」は唐の対「倭国」講和策である ” からではなく、この ”「天智4年」と「天智10年」” からなのである。前者は ” 結果 ” なのである。”そう考えれば全てが整合する ” と。
・史書の整合から言えば、持統天皇紀の薩夜麻等の帰還は「天智10年」であるべきであろう。で、古人は、これほどの基本的な整合をも計れないほど、愚か、或いは粗忽であったと言うであろうか。我が国古代史を貫く、抜き難い古代人への侮蔑である。
4.4)帰還は斉明7年(天智天皇Ⅰの3年)
・・・「天命開別天皇3年・・・唐人の計るところを」
・馬鹿馬鹿しい。矛盾をそのままにしたということである。敢えて整合しなかったということである。”天智4年”の「天武天皇と天智天皇の対立」と同じである。” 天智3年 ” という資料なり、伝承が有ったということである。この ” 天智3年 ” が「天智3年」であるはずがないであろう。この ” 天智3年 ” とは「天智(●●)3年」である。
・薩夜麻等の帰還について、二説(資料・伝承)有ったのであろう。それが、「天智9年」と「天智10年」の重複であろう。即ち、「天智(●●)3年」、「天智(●●)4年」の重複と言うことである。
・薩夜麻等の帰還が「天智(●●)3年」(斉明7年)。和平成立(「唐人の計」の成就)が「天智(●●)4年」(天智元年)という可能性が大きいであろう。
5)大伴部博麻の帰国美談と薩夜麻等の惨めな帰国
5.1)標記(古田説)は思い込み。
・標記については、古田氏が「筑紫君薩夜麻・倭王説」において、既に、賞罰権が「大和王朝」(「持統天皇」)に在ることと共に、強調されるところである。”「大和王朝」は、美談と対照的な倭王・薩夜麻(幸山)の虜囚とおめおめの帰国を記録した”と。
5.2)”美談(帰国費用の贖い)” は、嘘。日本書紀は薩夜麻等の報告を評価
・しかし、大伴部博麻の帰国美談、即ち、前者は嘘ということになるであろう。薩夜麻等の帰還は唐の捕虜送還なのである。” 帰国費用は要らない ” のである。では、”「大和王朝」は美談をでっち上げて、曾ての列島の王者を貶めようとした ” としてよいであろうか。
・しかし、” 薩夜麻等の虜囚は恥辱的もの ” であろうが、記述そのものは、そうでない。確かに、美談に大きく支えられるし、” 唐人としては惨めであったであろうな ” とは思われる。何時の世も、” 良く戦いし者の評価は高い ” のである。現に、白村江の戦いに於いても、朴市多久津(えちたくつ)の奮戦戦死は特筆されるところなのである。
・しかし、かと言って、「虜囚の辱め」も、それは、今次大戦の記憶を多分に引きずったものということになるであろう。『日本書紀』の記述そのものは、” 薩夜麻等によって、「唐人の計」が恙なく天朝へ報告された”とするのである。” 虜囚に対する非難 ” も無く、” 薩夜麻等の行為は肯定的 ” なのである。
5.3)美談は惨めな帰国を糊塗する為
・つまり、標記の前後共に、” 無かった ” ことになる。何故、” 美談がでっち上げられた ” のかということである。是は、美談と対照して、” 薩夜麻等を惨めにする ” ものではなく、” 薩夜麻等の「唐人の計」の恙ない天朝へ報告 ” を強調するもの、即ち、” 虜囚の恥辱を糊塗 ” するものということになるであろう。
1)筑紫都督府は「大和王朝」の「九州王朝」支配機関
・筑紫都督府は、天智元年、白村江の敗戦と期を同じくして設置された「大和王朝」の「九州王朝」支配機関、即ち、筑紫大宰府の一時的な呼称である。「大和王朝」は、天智6年、「九州王朝」を占領状態下に置いたのである。天智天皇Ⅰの退位と天智天皇Ⅱの即位のために。
・天智6年には、「近江遷都」或いは「天智6年の天智天皇即位」の他に、もう一つ注目される記事がある。「筑紫都督府」の出現である。
〔『日本書紀』天智天皇〕
「11月の丁巳の朔乙丑に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府(つくしのおほみこともちのつかさ)に送る。」
・岩波注釈は奇っ怪である。「筑紫大宰府をさす。原資料にあった修飾がそのまま残ったもの。」と。前者はよい。しかし、後者は何を以てそう断じ得るのか。抜き難い ” 古代人愚者説 ” である。 そうであろう。原資料がどのようなものであったか知らないが、『日本書紀』の記述は「筑紫大宰府」を以て、統一表記された。しかし、ここだけ、原資料の「筑紫都督府」の記述が残ったというのである。で、その間違いのまま、現今に伝承されたと。
・『日本書紀』は粗忽、かつ浅学な個人による編纂ではない。国家事業として、「大和王朝」の知を集めて編纂されたものである。例え、一時的な錯誤は有っても、このような単純明解な錯誤が、そのまま伝承されて現今に至るなど考え得べきことではない。
・当然、「筑紫都督府」は、編纂委によって ” そう呼称された ” とするものである。” 他の年次に出現する「筑紫大宰府」は、それでよいが、天智6年は「筑紫都督府」である ” と。
・むろん、このことは、” 本当に、そう呼称された ” かどうかとはべつである。どうであろう。「筑紫大宰府」は、そう呼称されたであろうが、「筑紫都督府」は史書上の粉飾ではないか。
・明確であるのは、” 天智6年、そう弁別されてしかるべき重大なことがあった ” ということである。そして、” その重大なことは天智天皇Ⅱ即位(天智7年1月)とリンクしている ” ということである。
2)唐による設置説(唐の倭国占領説)は誤り
2.1)筑紫都督府一個の設置で大国倭国の占領行政など不可能
◆唐は、占領した百済には5都督府、高句麗には9都督府と統括する安東都護府を設置
⇔ 筑紫都督府一個の設置で大国倭国の占領行政など不可能
・・・・例えば、10都督府と統括する征東都護府の設置が必要
・この「筑紫都督府」を以て、” 我が国が白村江の戦いの敗戦の結果、唐に占領された。この「都督府」とは、唐が、その占領機関として設置したもの ” とする説がある。「九州王朝説」論者のみならず、広く支持される説である。
・この説は、我が国の敗戦と「筑紫都督府」を結び付けたものであろう。唐は占領した百済に5つの「都督府」を置いている。故に、「筑紫都督府」とは、” 唐が我が国を占領して、(「九州王朝」の王城の地である)筑紫に設置したものである ” と。
・おもしろいことに、この説は現代史の影を引きずる。大東亜戦争の敗戦と連合軍の進駐統治である。「筑紫都督府」が「GHQ」ということになるであろう。該論者の多くが、何かうれしげに見えるのはひが目であろうか。皇国史観に対する一矢の口吻とでもいうのであろうか。しかし、この自虐史観は間違いである。
・唐は、この時点、未だ、東征の目的である、随以来の中国王朝にとっての宿痾である高句麗の平定を果たしていない。唐が、前朝・随の失敗とその没落に鑑み、高句麗征討に慎重であったかはその歴史に記すところである。
・唐の対高句麗戦は、北方の突厥、西方の吐谷渾などの脅威を一掃し、慎重の上に、更に慎重に、正に、満を持して発動されたものである。が、その第1次高句麗征討(644~645)は失敗に終わっているのである。百済征服(660)から高句麗征服(668)まで、猶、長年月を要するのである。実に、建国(618)以来、半世紀の悲願達成なのである。
・その悲願達成のための画期的な作戦、それが渡海作戦、即ち、新羅と連携しての百済征服、そして、南北挟撃なのである。それでも、再興を期さざるを得ない状況に陥っている。一度占領した百済の再起に手を焼いている。天智6年(667、或いは、それ以前)は、この征図未達、或いは、正に、今一息で大願成就という時期なのである。とても、「倭国占領」など、考えも、実行もし得るものではない。
2.2)倭国占領は有り得ない
・第一に、中国のそれを記さない。百済の5都督府、更に、高句麗の9都督府とそれを統括する安東都護府の設置は記録するのに、である。『隋書』が「百済新羅皆以俀大国」と記す大国「倭国」の占領を、である。それも、” 一都督府だけの設置で ” などとである。少なくとも、”10都督府の設置と征東都護府の設置 ” が必要であろう。
・第二に、朝鮮の史書も記さない。度重なる「倭国」の侵略を受け、人質を差し出して、その意を迎えんとしたと記す、そして、戦勝国となった新羅の史書が、である。「倭国」に人質となった王子救出の為、己を犠牲にしたという「朴堤上の哀話」を特筆記録する新羅の史書がである。
・第三に、「九州王朝」は、「九州年号」を断続することなく、公布し続ける。占領された王朝が、その年号を公布し続けることなど、万が一にもあり得ない。新羅は唐の干渉により、その独自年号を廃止しているのである。
・第四に、天智8年及び天智10年の ” 唐使各二千 ” を以て ” 占領軍 ” することは ” 軍事的にも無理 ” なのである。
〔『日本書紀』天智天皇2年〕
「秋8月の壬午の朔甲午。新羅、百済王の己が良将を斬れるを以て、直に国に入りて先ず州柔を取らむことを謀れり。是に、百済、賊の計るところを知りて、諸将に謂りて曰はく、『今聞く、大日本国の救将蘆原君臣、健児万余を率て、正に海を越えて至らむ。願わくは、諸の将軍等は、預め図るべし。我自ら往きて、白村に待ち饗へむ。』という。」
〔『三国史紀』文武王〕
「竜朔3年(663)に至り、揔管孫仁師、兵を領し来りて府城を救う。新羅の兵馬、亦八誌て同征す。行きて周留城下に至る。此の時、倭国の船兵、来りて百濟を助く。倭船千艘、停まりて白沙に在り。百済の精騎、岸上にて船を守る。」
〔『三国史紀』義慈王、竜朔2年:662 7月〕
「・・・白江口に倭人と遭ひ、4戦皆克ち、その舟400艘を焚く。煙炎、天を灼き、海水丹と為る。」
〔『旧唐書』劉仁軌、竜朔2年:662〕
「劉仁軌、白江乃口に倭兵と遭い、4戦して捷ち、其の舟400艘を焚く。海水皆赤く、賊衆大潰す。」
・計算上、倭国は、未だ「万余」の軍勢と「600艘」の軍船を擁していることになる。が、白村江の敗戦を以て、倭国軍が壊滅したとするのも早計であろう。元寇の例を引くまでもないであろう。唐軍「二千」或いは「四千」としても、唐の倭国占領は無理なのである。「唐の倭国占領説」は、大東亜戦争後の「敗戦史観」が投影されているのである。それ以外に、当説の根拠を見出し得ない。当然のことながら、歴史の考察に、「敗戦史観」も「神州不滅の信念」も不要である。
・くどいが、「九州王朝」(倭国)は、時代こそ違え、7万の軍を以て隋軍30万を打ち破った高句麗の歩騎5万と半島の権益を争った(『好太王碑』)大国なのである。倭王・武は「倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍」を自称し、南朝宋に「六国諸軍事安東大将軍」を除された軍事強国なのである。千艘の軍船、万余の兵の半島派遣は、これを裏付けるであろう。
◆一都督府で占領し得たとして、その状態は何時まで続き、何時、解除されたのか
百済に戦勝碑を建立した唐の史書が、半島諸国が大国とする倭国の占領を、むろん、筑紫の地に唐の戦勝碑など見い出し得ない。倭国の度重なる侵略を受け、人質して服従してきたと記す新羅の史書が、倭王(日出処天子)を虜にして、それを記さない・・あり得ないであろう。
2.3)新羅の烈臣・朴堤上哀話とその時代・・・倭国に王子を質した新羅
★王子を本国に逃がし、己は焚かつ斬刑された忠臣・朴堤上
〔『三国史紀』第5、朴堤上:佐伯有清編訳〕
「・・・実聖王元年(402)壬寅、倭国と和を講ず。倭王、奈勿王の子未斯欣を以て質と為すことを請えり。・・・吾が弟2人、倭と麗の2国に質し、多年還らず。・・願わくば生還せ使めん。・・・倭人の若きは、口舌を以て諭す可からず。当に詐謀を以て王子をして帰来さしむ可し。乃ち死を以て自らに誓い、妻子の見(まみ)えず、栗浦に抵りて舟を汎べて倭に向え。・・・堤上、これを知りて、未斯欣と舟に乗りて遊び魚鴨を捉える若くす。倭人、之を見て、無心と謂いて喜べり。是に於いて、堤上、未斯欣に潜かに本国に帰ることを勧む。未斯欣が曰く。僕は将軍を奉ずること父の如し。豈に独り帰る可からんやと。堤上曰く。若し二人倶に発せなば、則ち恐らく謀は成らざらん。・・・未斯欣の逃れるを知り、遂に堤上を縛る。行舡して之を追えり。適々煙霧晦冥にして、望めども及ばず。堤上を王の所に帰(おく)る。則ち木島に流す。幾ばくもならずして、人を使て薪火を以て支体を焼爛せしめ、然る後に、之を斬る。大王、之を聞きて、哀慟して、大阿飡を追贈し、其の家に厚賜せり。」
・「倭国」に質となった新羅の王子・・・当然、留め置かれる処は「倭都」・・・が、海上に脱出し、倭兵を振り切ったというのであるから、” 倭都は海浜に面する地、則ち、この「倭国」とは、なお、この後に長い逃走行程を残す「大和王朝」ではなく、「九州王朝」” であると。古田説の重要な論拠の一である。
・当時期は、高句麗・好太王(広開土王)の時期に重なる。倭・高句麗が半島南半の覇権をあらそっていた時期である。つまり、この話は妥当であろう。
・本関連記事は『日本書紀』の神功皇后5年の葛城襲津彦関連の記事に、未斯欣=微叱許智(みしこち)、朴堤上=毛麻利叱智(ももりしち)として見える。『日本書紀』は神功皇后の39年を景初3年(239)に当てている。則ち、「39年。是年、太歳己未。魏志に曰はく、明帝の景初3年の6月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して・・・」である。神功皇后の5年は205年ということになる。つまり、整合しない。
・『三国史記』は、「倭の女王卑弥呼、使を遣わし来聘す。」(阿達羅尼師今20年(173))とも記す。『魏志』を正しいとすれば、『三国史記』は ” 約60年繰り上がっている ” ことになる。で、あれば、この時期は「倭の五王」の興王或いは武王の時期ということになる。
・なお、『日本書紀』と『三国史記』。同じ事を語って、200年から260年のずれがある。どちらが間違い(嘘)かということである。『日本書紀』として良いであろう。
・そもそも、神功皇后は倭王ではないのである。むろん、「摂政」などとしても駄目である。『日本書紀』は「40年、魏志に云はく、正始元年に、建忠校尉梯携等を遣して・・・」とも記す。この時期、倭王・卑弥呼に代わって倭王・壹與の時代なのである。合わせようとすれば、神功皇后は二重人格ならぬ、” 二人人格 ” となる。神功皇后は「狗奴国」王・仲哀天皇の后なのである。
・” 倭都 ” は近江、即ち、滋賀県の高穴穂宮、或いは、大和、即ち、奈良県の磐余の若桜宮である。当然のことながら、海浜に面する地ではない。まさか、新羅の王子が琵琶湖を逃げ、新羅に逃げ帰ったというのではあるまい。
・神功皇后、応神天皇は、3世紀から4世紀の存在ではなく、5世紀前半の存在としてよいのではないか。応神天皇5世の孫・継体天皇のほぼ100年前の存在である。整合するであろう。つまり、「ずれ」は200年ということになる。
・むろん、” 卑弥呼遣使記事のみが繰り上がっていた ” のか ” 卑弥呼遣使記事は正しかった ” のかという問題は残る。
3)筑紫都督府とは大宰府の一時的呼称
3.1)大宰府とは、大和朝廷の九州王朝監理機関(全権行政府)
・では、この「筑紫大宰府」をどう考えるのか。『日本書紀』の岩波注釈は、この「筑紫都督府」を「つくしのおほみことのつかさ」の読み与えている。この解釈は正しいであろう。この「筑紫都督府」 は「筑紫大宰府」の一時的な呼称である。
3.2)大宰府の設置は天智元年(662年)
・「大宰府」とは、白村江の戦いの敗戦を契機として実権を喪失した「九州王朝」の総理府(「太宰府」)に置いた「九州王朝」監理機関であろう。後世の「京都守護職」に似るであろう。設置は、「持統5年」(661)の ” 大宰府永年勤続29年表彰 ” から、「天智元年」(662)ということになる。
・白村江の戦いは、中国、朝鮮史書の齟齬はあるようであるが、この「大宰府」の設置から、竜朔2年、即ち、天智元年(662)が正しいということになるであろう。
〔『日本書紀』持統天皇〕
「5年(691)の春正月・・・丙戌に、詔して曰はく、『直廣理肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に29年。清白き忠誠を以て、敢えて怠情まず。是の故に、食封50戸・絁15匹・綿25屯・布50端・稲5,000束賜ふ』とのたまふ。」
3.3)監理体制の強化呼称が筑紫都督府
・天智天皇Ⅱは、一時的に、「九州王朝」を監理下から更に強圧的な占領状態下に置いた。” 軍事体制強化された「大宰府」”が「筑紫都督府」ということであろう。”「筑紫都督府」の出現 ” は、一時的、かつ、天智天皇Ⅱの即位と符号するのである。「天命将及」は王朝の交代なのである。当然、「九州王朝Ⅱ」の天智天皇Ⅰは、退位か、幽閉か、追放か、弑殺かの運命ということになるであろう。
3.4)白村江の敗戦と対唐講和派・大和王朝のクーデター
・ひょっとして、ひょっとすると、「天皇(すめらみこと)、天命将及(みいのちをはりなむとす)るか」の「読み」は天智天皇Ⅰの運命が投影されているのかもしれないということである。
・くどいが、”「筑紫大宰府」の「天智元年」設置 ” は ” 唐の占領と「筑紫都督府」の設置 ” と整合しないであろう。定説の「天智2年」の白村江の戦いはむろんである。
・それとも、猶、”「筑紫大宰府」は「大和王朝」の機関。唐の占領と「筑紫都督府」の設置とは別 ” などというであろうか。「大和王朝」に、その王城の地に、「筑紫大宰府」を設置された「九州王朝Ⅱ」が、唐と戦い、占領され、「筑紫都督府」を設置されたと。
・それとも、猶、「大和王朝」の戦いであるというであろうか。「天智元年」時点、既に、実質的な王朝交代はなっていたと。それが、「筑紫大宰府」の設置であると。で、「大和王朝」は、戦の直前まで、唐帝の寵を獲んと使節を送り、一所懸命に擦り寄ったが、結果、戦となり、敗戦、占領されたと。
・共に、有り得ないであろう。これをしも、有り得るとするか。では、何故、”「天智6年」の「筑紫都督府」”なのか。定説でも、”「天智2年」以降、遅くとも、「天智3年」には、「筑紫都督府」は設置されていたはず ” であろう。”「天智6年」時点、我が国は唐の占領下に在った”として、で、何時、その占領は解除されたのか。
・”「大和王朝」(『日本書紀』)は、唐の占領という事実を不名誉として抹殺したが、たまたま、「天智6年」記事を遺漏した ” などと言うであろうか。
・これは最早、” 研究者の精神病理の問題 ” である。「天智元年」の「筑紫大宰府」の設置も、「天智6年」の設置も、「天智6年」の、同、「筑紫都督府」呼称も、十分、審査した上での記述と考えるのが理性の至るところである。何よりも、このことは、既述、「天智元年」の政変、「天智7年」の政変(天智天皇Ⅱの即位)にぴったりと整合する。
・” 大宰府永年勤続29年表彰 ” は ”「筑紫大宰府」前に設置されたということにはならない ”と言うかもしれない。つまり、”「筑紫大宰府」の設置はその以前である可能性もある”と。
・しかし、これはないのである。「九州王朝説」に立つ限り、「九州王朝Ⅱ」の没落、即ち、”「大和王朝」の「筑紫大宰府」設置 ” を対唐敗戦、即ち、白村江の戦い以前に求めることはできないのである。
・白村江の戦いを『日本書紀』は「天智2年」(663)としている。「九州王朝説」に立ち、『日本書紀』によるのであれば、”「持統5年」時点における最長の勤続は「28年」”なのである。
3.5)持統5年(691)の太宰府29年勤続表彰:691-29 = 662
・では、「29年」とはなんであるのか。” 白村江の戦いが「天智2年」ではなく、「天智元年」である ” ということである。
・”「29年」が間違い”という可能性はないのか。” ゼロ ” とは断じ難いが、小さいであろうことは ”「天智元年」の政変 ” 等、既述のとおりである。
★「筑紫都督府」唐の占領・設置説は、高句麗好太王碑中の「渡海破」の主語を「倭」とするのに似ているであろう。 即ち、” 百濟、新羅を臣民としたのは「倭」(碑中用語「倭賊」、「倭寇」)である ” と。” 高句麗が好太王顕彰碑中において「倭賊」を顕彰した”と。むろん、”「倭賊」の臣民 ” などという概念はない。 ”「大和王朝」は、正史『日本書紀』に、「唐」の史書が記録しない「唐」の「九州王朝」占領支配を記録した”と。
3.6)設置は天智元年(662)
・白村江敗戦 → 大和朝廷の大宰府設置
対唐講和派・大和王朝のクーデター説は置いても、大宰府・大和王朝の機関説に立つ限り逆はない。
∴ 白村江の戦い天智元年(662)。白村江の戦い天智2年(663)説(定説)は間違い。
3.7)天智6年の大宰府は都督府(将軍府=全権軍政府)と呼ぶ理由
・” 戒厳令下の淡海国遷都 ” = ” 天智天皇Ⅰの淡海国配流 ”
・当然、弁別してのこと。他の年は大宰府でよいが、天智6年は都督府であると。
3.8)天智7年元旦の天智天皇Ⅱの即位
・「原資料にあった修飾がそのまま残った」(岩波注釈)は、” 筑紫大宰府で統一表記されたが、天智6年の条は原資料の筑紫都督府の表記がそのまま残り、訂正されることなく伝承された”と。国家プロジェクトがかように杜撰なものであったと。《常套の古代日本人愚者説》
4)もう一つの筑紫都督府説
・気にはなっていた。この【都督府】と「使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍」の〔都督府〕との関係である。しかし、これは有り得ないと・・言うまでもないと。全くの別のものであると。が、この説も有るようなので確認する。
①〔都督府〕は南朝下の存在である。【都督府】は唐朝(北朝)時代の存在である。南朝下の存在を自任してきた倭国が北朝、北狄・唐朝下の存在であるはずがない。
②或いは、それと同じと誤解されるであろう「都督」を名乗るはずがないであろう。倭王は、既に、南朝を滅ぼした北朝、北狄・隋帝に対して、「二人の天子」の立場を取っており、この立場は唐朝に替わってもも同じなのである。そもそも、この大義名分と半島権益が倭唐戦争の原因なのである。
③そもそも、〔都督府〕下に「大宰府」は存在しないであろう。
・むろん、〔都督府〕即ち、倭王の王都(倭王府)が、南朝或いは百濟等の半島諸国から、その所在地の名を冠して「筑紫都督府」と呼ばれた可能性を否定するものではない。あるであろう。
・しかし、天智6年時点は、開府以来約2世紀、南朝亡び、倭王が「日出処天子」を称して約60年。時代は幾変転も経ている。この時点では有り得ないであろう。” 昭和時代に至って、我が国の政府が江戸幕府と呼ばれた ” とするに似るであろう。
・百歩譲って、例えば、百済が、中華体制秩序に則り、天智6年時点、「九州王朝」を、そう呼んだとする。朝鮮半島が、中華体制を未だに引きずり、現今、我が国の「天皇」を「日王」呼ばわりしているのであるから。
・しかし、その資料が『日本書紀』にそのまま誤り記されて、現今に伝承されたなど有り得ないことは我が国の公文書に「天皇」を指して「日王」と記され伝承されることなどないのと同じである。
・むろん、「大和王朝」が「九州王朝」を天智6年時点で、中華体制下の「筑紫都督府」などと呼ぶことはないであろう。そもそも、” 継体天皇以降の「九州王朝」とは己のこと”というのが「大和王朝」の主張なのである。
・くどいが、『日本書紀』編纂委は、” 天智6年の「都督府」とその他の年の「大宰府」を弁別した ” ということである。” 他の年は「大宰府」でよいが、天智6年は「都督府」である ” と。で、” 天智6年は「大和王朝」の天智天皇が即位(天智7年正月)に至る「政変の年」” なのである。”「政変の年」だけ、「都督府」”ということなのである。
・”「天智6年の政変の年」だけ、「大宰府」を「都督府」と呼んだ。或いは呼ぶと主張している ” のである。”「大宰府」は「大和王朝」の「大宰府」” なのである。”「都督府」が「大和王朝」の「都督府」である”のは当然なのである。つまり、”「筑紫都督府」は「大和王朝」の「大宰府」の一時的な呼称 ”と解するのが最も妥当なのである。
・なお、「別府」・「防府」との関係に在る「府」とは、列島ナンバーワン王者・倭王の所在する処・〔都督府〕、即ち、”「使持節都督」の ”ということになるであろう。蛇足するが、”「九州王朝」(天子)の総理府・太宰府の ” ではない。
★倭の五王は南朝下の都督。で、筑紫に開府したであろうから筑紫都督府を以て呼ばれたであろう。その呼称が、そのまま使われたと。
・「使持節都督倭百済新羅任那・・七国諸軍事安東大将軍・・開府・・」(宋書)
前岩波注釈に似る。:杜撰な編纂。現日本政府を江戸幕府と呼ぶに似る。
5)太宰府・大宰府論争
5.1)九州王朝の太宰府(首相府)・大和王朝の大宰府(全権行政府)
・大和王朝が九州王朝を武力制圧し、首相府に九州王朝管理の全権行政府を設置したということ。 「太宰府・大宰府論争」ほど、奇妙で、「九州王朝」と「大和王朝」の存在、かつ、後者の前者併呑を物語るものはないであろう。
・奇妙であろう。多分に「近畿天皇家一元説」に立って、どちらが正しいなどと言うのである。明確なのである。”「九州王朝」の「太宰府」” であり、”「大和王朝」の「大宰府」” なのである。”「九州王朝」の「太宰府」” が ”「大和王朝」の「大宰府」” に成った。つまり、”「大和王朝」が「九州王朝」を占領した ” ということである。
1)壬申の乱とは
・むろん、ほとんど解らない。そもそも、地形と話が全く整合しない。が、強いて、論理として考えれば、こう言えるのではないかということである。
1.1)日本書紀の描くのは天智元・7・10年の政変
・「大和王朝」の跡目相続争い。即ち、天智天皇Ⅱ(天智大王天皇)の子・大友皇子と大海人皇子との「大王天皇」位(「日位」)を巡る争闘と考えるしかないであろう。
・大海人皇子は、「九州王朝Ⅱ」のナンバーツウーの王統・斉明天皇の子であり、「天皇」を貶号した「大王天皇」(「日位」)の正統者である。「天智元年の政変」により、天智天皇Ⅰ(「天智帝号天子」)と対立するに至り、「天皇」位、或いは貶号した「大王天皇」位(「日位」)を逐われ「大和王朝」へ亡命した。
・” 譲位云々の話 ” は「天智4年」と「天智10年」に記される。
・前者(天智4年)は、「天智天皇Ⅰの4年」即ち「天智元年」の ” 天智天皇Ⅰと斉明天皇の後を継いだ大海人皇子、即ち、天武天皇との間のこと”である。
・後者(天智10年)は、「天智天皇Ⅰの10年」即ち「天智7年」の ” 天智天皇Ⅰと天武天皇・天智天皇Ⅱ ” 或いは、「天智10年」の ” 天智天皇Ⅱと天武天皇との間のこと ” と考えるしかないであろう。
・むろん、定説は、後者の「天智10年」の ” 天智天皇Ⅱと天武天皇との間のこと ” である。
・しかし、この話の本は、前者の「天智元年」の ” 天智天皇Ⅰと天武天皇との間のこと ” であることは既に述べた。 ” 天武天皇の吉野入り ” である。当然のことながら、この話は筑紫の地・太宰府と肥前吉野が主舞台である。「大和王朝」の後継争いの舞台・近畿ではない。
・が、「壬申の乱」は ”「大和王朝」の跡目相続争い ” として記され、語られてきたのである。つまり、” イントロこそ、「天智元年」の話が挿入されたが、実体は「天智10年」の話である ” と。
・この二つの話のミックスか、とすると、据わりが悪いであろう。そもそも、「天智10年」は「天智天皇Ⅰの年紀10年」に合わせれた架空のものなのである。「天智元年」と「天智天皇Ⅰの4年」の ” 混記 ” を考えれば、”「天智7年」(「天智天皇Ⅰの10年」)のこと ” が記されていないとは考え難いのである。
・しかも、この ” 天智天皇Ⅰの配流地(遷都した淡海の地)” が大友皇子側、即ち、「近江朝」の王都であるというのである。
・で、あれば、” 淡海(近江)関連記事は「天智7年」のこと(「天智7年1月」に至ることで、実体は「天智6年」のこと、ということになる)が投影されている ” と考えざるを得ないであろう。
・つまり、「壬申の乱」は、「天智元年」のこと、「天智7年」のこと、そして、「天智10年」のことが、ミックスされて記されていると。当然、舞台は、北九州、山口県、そして、近畿の地ということになる。
2)近畿の地勢に整合しない壬申の乱
◆「虚構・壬申の乱」に真実の断片を貼り合わせたもの?
・地勢の論理的不整合は了解事項。” 杜撰、間違い ” などとするのが間違い。
◆「虚構・壬申の乱」とは
・描かれるのは天智元・七・十年の政変?
:天智Ⅱ元年は天智Ⅰ四年で天智Ⅰ四年は天智Ⅱ十年のこと。
であれば、天智Ⅰ十年、天智Ⅱ七年も(天智天皇Ⅰの弑殺と天智天皇Ⅱの即位)
★各舞台:〔天智元年:筑紫〕 〔天智七年:淡海国(山口県)〕 〔天智十年:近畿〕
3)天武の東国行
・しかし、”「壬申の乱」は「大友大王天皇」と天武天皇との「大和王朝」争奪論 ” なのである。舞台が近畿関係地であることは動かせないであろう。
・『日本書紀』の描く「壬申の乱」の天武天皇の東国行は ” 日付行程(経路)付き” で、” その真実性を裏打ちしている ” であろう。疑い難いと。真実であると。
・たしかに、この ” 騎乗行程(経過と距離と時速)” について、騎兵経験者の疑問・・真実性に対する疑問・・はある。つまり、精密に描いているが、その真実性は疑わしいと。まあ、” 嘘 ” ということであろう。
◆日程行程も経路も疑問
・言うのは ” 女子供連れの逃避行 ” 、描くのは ” 果敢な接触行動・遮断作戦 ”
= ” 近江朝目前の逃避行 ” と ” 上野、鈴鹿、不破:募兵と封鎖 ”
・古田武彦氏『壬申の乱』:三森尭司氏「馬から見た壬申の乱一騎兵の体験から『壬申紀』への疑問
「大海人本隊は、徒歩と馬で160キロを丸二昼夜ちょっとで、三重郡家までの徹宵行軍であった。しかも、莬田郡家のほとりで、湯沐の米を運ぶ伊勢の駄50匹に遇って、積んでいる米を捨てて徒歩のもの全員が乗馬したというから、女官達十有余は騎乗したことになる。婦人の乗馬についてはここでふれないが、何でもかんでも馬があれば乗れると考えている。乗馬するには、鞍・銜・面繋・毛綱という準備が必要であり、駄馬が乗馬になることは絶対にない。」
・しかし、” 内容は誇張した(嘘)” としても、この舞台の ” 近畿関係地は正しいのでは ” ということである。” 当然だ、お前も、「大和王朝」の争奪戦といっているではないか。「天智元年の政変」も、「天智7年の政変」も繰り込まれているが、メインは「天智10年の政変」なのだから ” と。
・しかし、”「天智天皇Ⅱ」「大王」の近江遷都は「嘘」”なのである。この「嘘」を軸点とした大海人皇子の東国行、そのものに、真実があるのかということになるであろう。
・まあ、ここまで疑問とすると収拾がつかなくなる。既に、日程行程は「嘘」であろうと。
・で、”「大友大王天皇」の所在、即ち、「大王天皇」府が近江大津 ” として・・日程行程も、「大王天皇」府の所在も「嘘」では論を進め難いので・・この「経路」は納得し得るのかということである。
・これも疑わしいであろう。天武天皇が「東国」(美濃)の力を頼った。即ち、先ず、「東国」への脱出を図ったいうのはそうとする。しかし、『日本書紀』はこの経路を、隠(名張)~伊賀~鈴鹿~桑名とするのである。
・当然、”「大友大王天皇」側が強く、天武天皇側が弱い ” という情勢下である。女子供連れの50名ほどの天武天皇達は雨に濡れながら、この経路を辿ったと。
・如何に、「大友大王天皇」側が鈍重であったとしても、この「経路」は「近江朝」の目の前を横切るものである。何故、このような危険な「経路」をわざわざ取るのかということである。もっと、安全な「経路」が有る。例えば、伊賀まではよいとしても、ここから、伊勢路を辿り、伊勢、そして、桑名へが、妥当であろう。
・「大友大王天皇」側の動き、いや、動かないことは、そもそも、鈍重などの表現を越えるものであろう。濡れそぼった50名の女子供連れ集団が、伊賀で数百の兵を集め、そして、500の兵を集めて鈴鹿を押さえ、更に、3,000の兵を集めて不破を押さえ、桑名に脱出するのを黙過しているのである。
・この経路を見て、何故か、小牧・長久手の戦いに於ける、徳川方の将・本田平八郎の秀吉本軍の秀吉本軍への果敢な接触行動を想起した。その行動は、己を犠牲にしても秀吉の本軍行動を遅滞させ、家康本陣の安全を図るというものである。
・天武天皇の東国行は、” 出来得る限り、「大友大王天皇」側から距離を取って、安全に、目的地・美濃へ ” でなければならないのである。それなのに果敢な接触行動、ということである。
・つまり、”「経路」は日程行程にも増して疑わしい ” ということである。そもそも、『日本書紀』の記述は悲惨な逃避行の体裁を取っているものの、内実は、” 天武天皇の「大友大王天皇」側に対する東側遮断作戦 ” と言うのである。” 天武天皇側の「大友大王天皇」側への先制攻撃 ” ということである。
・そもそも、「大友大王天皇」側は天武天皇の行動を警戒していたのであろう。「虎に翼を着けて放てり」なのである。” 虎がどう動くか ” は最大の関心事なのである。それが、無為無策で、女子供連れの脱出行に全く気が付かなかったということである。
〔『日本書紀』天武天皇上6月〕
「是の時に、近江朝、大皇弟東国に入りたまふことを聞きて、其の群臣悉に愕じて、京の内震動く。或いは遁れて東国に入らむとす。或いは退きて山澤に匿れむとす。爰(ここ)に大友皇子、群臣に謂りて曰はく、『何にか計らむ』とのたまふ。一の臣進みて曰さく、『遅く謀らば後れなむ。如かじ、急に驍騎(ときうまいくさ)を聚(つど)へて、跡に乗りて逐はむには』とまうす。皇子従ひたまはず。」
・で、東国、倭京、筑紫、そして、吉備に使いを派遣して、挙兵、「近江朝」側への参軍を促したと。まあ、 驍騎による追及は既に手遅れということであろう。「近江朝」側が知っていたかどうかは分からないが、不破も、鈴鹿も、既に、天武天皇側によって塞がれている。いくら、” 事実は小説よりも奇なり ” とは言えひどすぎる。” 事実は『日本書紀』の描くようなものではない ” と断じざるを得ない。
・そもそも、天武天皇の吉野からの脱出も、おかしいであろう。「倭京」(明日香古京)の勢力は「近江朝」側なのである。で、明日香と吉野とは、正に膚接の関係地なのである。しかも、明日香の倭京の地は近江朝と結ぶ、” 天武天皇監視南北連続拠点ライン(監視哨所群)の一大拠点、最南拠点 ” なのである。
〔『日本書紀』天武天皇上6月〕
「是の日に、大伴連吹負、密に留守守司坂上直熊毛と議りて、一二の漢直等に謂りて曰はく、『我詐りて高市皇子と称れて、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の路より、出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ』という。・・・留守司高坂王、及び、兵を興す使い穂積臣百足等、飛鳥の西の槻の下に拠りて営を為る。唯し、百足のみは小墾田の兵庫い居りて、兵を近江に運ぶ。時の営の中の軍衆・・悉に散(あら)け走(に)げぬ。」
・「近江朝」側としては、「近江朝」側への4つの挙兵・参軍督促使派遣で、唯一成功したのが「倭京」へのものであったと。吉備は成功したやに見られるが、その成果はが明確ではない。
・この、「倭京」への特使派遣も、そもそも、おかしい。既に述べた如く、「倭京」は「近江朝」の重要拠点なのである。何を今更である。いや、そもそも、「留守司」とは「近江朝」、即ち、「大王天皇」府下の存在と考えるべきであろう。
・で、あるから、大伴吹負は、” 天武天皇側へ参ずることなく、「倭京」を手に入れる為に、「近江朝」側のような顔をして残った ” ということなのである。
・こんなに脆(もろ)く、天武天皇側のものと成るのであれば、結果論ではあるが、慌ててて東国への脱出を計らなくてもよかったのである。が、これは、結果論。で、目と鼻の先に、虎・天武天皇が居るのである。当然、この虎・天武天皇の動向を監視するのは、「倭京」勢力(「留守司」)の重要任務なのである。で、あるのに、である。
・つまり、「天武天皇の東国行」は日程行程や経路だけではなく、話全体に疑問符が付くということになるであろう。
★「倭京」(明日香)は、” 天武天皇の東国連絡遮断哨戒線の二大拠点の一つ ”
天武天皇は、女子供連で ” 二大拠点の一つ ” の敵中を突破しながら、その東側を遮断したことになる。信じ難い。
4)”近江朝の王都楽浪(さざなみ)” 難波の楽浪(ささなみ)
・そもそも、「大友大王天皇」(以下、煩雑になるので、表記は大友皇子に戻る)の所在地(「大王天皇」府)が「近江大津京」ということは『日本書紀』の記述から、そうであるとは確認し難い。そもそも、此処に「近江大津京」が在って、その鼻先を、女子供連れが駆け抜けるなど有り得ないからである。かつ、これを具体的に裏付ける記述そのものがないであろう。
〔『日本書紀』天武天皇上7月〕
「男依等瀬田に到る。時に大友皇子及び群臣等、共に橋の西に営りて、大きに陣を成せり。・・・大友皇子・左右大臣等、僅に身免(みのが)れて逃げぬ。男依等、即ち粟津岡の下に軍(いくさだち)す。・・・。壬子(23日)に、男依等、近江の将犬養連五十君及び谷直塩手を粟津市に斬る。是に、大友皇子、走(に)げて入らむ所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れて、自ら縊れぬ。時に左右大臣及び群臣、皆散け亡せぬ。・・・辛亥(22日)に、将軍吹負、既に、倭の地を定めつ。便ち大阪を越えて、難波に往る。以余の別将、各三つの道より進みて、山前に至りて、河の南に屯む。即ち、将軍吹負、難波の小郡に留まり、以西の諸の国司等に仰せて、官鍮(かぎ)・駅鈴・傅印を進らしむ。癸丑(24日)に、諸の将軍等、悉に筱(ささ)(筱、此をば佐佐と云う。)浪(なみ)に会ひて、左右大臣、及び諸の罪人を探り捕る。乙卯(26日)に、将軍等、不破宮に向づ。因りて大友皇子の頭を捧げて、営の前に献りぬ。」
・「粟津岡(あわづのおか)」は滋賀県大津市膳所であると。「粟津市(あはづのいち)」も、ということであろう。瀬田に自ら出陣し、敗れ、大津の地で、又敗れたのであるから、つまり、最後の決戦の地が「近江大津京」所縁の地であるから、「近江大津京」の実在は疑えないと。左右の大臣が捕らえられたのも筱浪(ささなみ)(楽浪)であると。
・しかし、おかしい。先ず、大友皇子の最後である。「近江大津京」の地、即ち、王都で敗れたのであれば、” 王者は王宮で死ぬ ” であろう。何も、わざわざ、「山崎」(「山崎説」)まで逃げて、或いは、粟津市近辺の山(「普通名詞地説」)に逃げ隠れて、適当な木を選んで縊死したなどと言うことがである。” 王宮に戻ることを得なかった ” というのであれば、忍坂王の故事の如く、湖に入水死することも可能であろう。少なくとも、この方が無様な縊死体を即、敵に晒す可能性は小さいのである。
・まあ、偶々、入水死よりも縊死を選んだとしよう。辛亥(22日)から癸丑(24日)の間は定説の如く、”日時を後戻りさせたもの”として、癸丑(24日)から乙卯(26日)までの間である。
・”24日に、諸軍を「楽浪」に会合させ、逃げていた左右大臣を探索して捉えた”と。” 大友皇子は、前日、23日の敗戦で逃げ隠れする所が無く、「山前」で縊死したというのに、左右大臣は、此処、王都に隠れ潜んでいた ” と。後者は、まあ、そういうことも、有ると言えば有るであろう。
・しかし、では何故、24日の諸軍会合の地が「楽浪」なのかということである。くどいが、「粟津崗」も、「粟津市」も、「楽浪」も、現大津市、即ち、「近江朝」の王都の地であると言うのである。
・天武天皇側の本軍は一度、「楽浪」を離れたと言うのであろうか。左右大臣等「近江朝」の多くの要人が隠れ潜む「楽浪」を。しかも、例えば、” 大友皇子を追って、「山前」へ ” というのは駄目である。”22日には、既に、「以余の別将」が「山前」の河の南に布陣している”のである。
・或いは、天武天皇側の本陣は、23日、「粟津市」(=「楽浪」:現大津市内)で、大友皇子の本軍を打ち破って以来、大友皇子が隠れ潜むことが出来なかった同地に隠れ潜む左右大臣を探し続け、総軍参集した24日に至り、ようやく、彼らを捕獲したと言うのであろうか。
・違うであろう。そもそも、定説の比定は違うであろう。少なくとも、「粟津崗」・「粟津市」と「楽浪」では違うであろう。「楽浪」は最終目的地、即ち、「近江朝」の王都である。で、”「楽浪」は「難波」(の小郡)近辺の存在”とりかいするしかないであろう。
・そうであろう。「以余の別将」は、既に、22日に、翌23日に、大友皇子が縊死する「山前」に屯営していた。で、あれば、「楽浪」が現大津市の地として、即ち、24日に、「楽浪」に参集することは可能であろう。かつ、大友皇子の死を確認しての参集ということである。一連のながれとしても自然である。
・しかし、22日に、摂津「難波」(の小郡)に駐屯し、対西国策を講じた将軍吹負の24日の近江大津参集は不可能である。例えば、直線距離50kmを一昼夜程度で移動ということなのである。
・むろん、” 諸の将軍等が悉く集う ” というのであるから、「伊勢」から「倭(やまと)」へと「不破」から「近江」への二面作戦、各数万の将軍等が全て参集したということである。” 将軍吹負は別動作戦の為、不参集 ” などと、或いは、” 将軍吹負と幕僚数騎が騎走参集した ” などは駄目である。
・「山前」は固有名詞ということになるであろう。しかし、所謂「山崎」ではない。この「山前」は「難波」(の小郡)近辺ということである。当然のことながら、将軍吹負と以余の別将等は相呼応しているということである。” 近江朝の王都楽浪挟撃の ” である。この近辺に、「楽浪」が在る、ということになるであろう。当然、” 難波 ” の「楽浪」ということになるであろう。
・くどいが、将軍吹負と以余の別将等が、全く異なる作戦目的で動いているということも有ると言えば有るであろう。又、これ等の軍と「伊勢」から「倭(やまと)」への方面軍(紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連莬)との関係も不明である。が、「倭(やまと)」平定は共同している。以後も、共同したと考えるのが妥当であろう。で、当然、「倭(やまと)」平定後は、共に、”「近江朝」の王都「楽浪」へ ” である。『日本書紀』も、そう記す。
・「近江朝」の王都の地「楽浪」は、「瀬田」⇒「粟津市」⇒「山前」・「難波の小郡」⇒「難波の楽浪」という関係位置の存在ということになるであろう。(先入観から言えば、” 東から西への位置関係 ” ということであるが、そもそもが、この位置関係は作為されている。本当は、西から東の可能性もある。よって、方向は保留する。)
・大友皇子は王都に逃げ込むことが出来ず、途中、「山前」で、縊死したということである。 で、天武天皇軍は ” 悉く、「近江朝」の王都「楽浪」に参集(24日)” したということである。で、大友皇子を見捨てて、王都「楽浪」に逃げ帰り、隠れ潜んでいた左右大臣等を捕らえたと。
・この「瀬田」~「楽浪」を、現在の瀬田~大津市とすることは如何に何でも無理であろう。しかも、王都「楽浪」は「難波」中の地で、「小郡」と「山前」は、この「楽浪」を挟撃する位置関係と考えるのが妥当なのである。
・何の矛盾もないであろう。”矛盾”は、” 近畿関係地として考えると ” ということなのである。そう。当然、近畿関係の地図に適合しない。「隠(なばり)」(「名張」)は置くとしても、「鈴鹿」、「桑名」、そして、何よりも、天武天皇の本営・「不破」は、近畿関係の地と思われるのにである。「飛鳥寺」、「高安城」、「箸墓」等も、” 舞台は近畿 ” を証言し、「壬申の乱」が天智天皇Ⅱの子・大友皇子と天武天皇の「大和王朝」の跡目相続争いであることは動かないと思われるのにである。
・先に、”22日に、摂津「難波」(の小郡)に駐屯する将軍吹負の24日の近江大津「楽浪」参集は不可能”としたが、”24日、近江大津「楽浪」参集の諸将が26日、不破の宮に参向することも不可能 ” であろう。直線距離でも、優に、60km以上はある。24日に参集して、直ぐに、不破へということもないであろうから、万余の軍隊が一昼夜程度で、この距離を移動したことになる。むろん、諸将は配下の軍を近江大津「楽浪」に置き、騎走参向したなどというのは駄目である。
・これはどういうことか。そもそもは、” 近江大津京など無い ” ということである。が、では、その真実は、ということである。今は、解らないとするしかない。
★『日本書紀』解説者等、定説論者は、本当に『日本書紀』の記述ができたのであろうか。むろん、解らないことは多いが、例えば、”24日の「楽浪」における左右大臣の捕獲 ” である。理解できないであろう。何故、一昼夜逃げおおせたのか。
で、” 記述が混乱している ” 或いは ” 現実、そう整然としたものではないであろう ” 或いは ” 古人の杜撰な編纂 ” 等と片付けているのではないか。それとも、そのようなことは、考えてみたこともない言うのであろうか。
◆王都は難波の楽浪(さざなみ):地勢は順に、瀬田、粟津市、山前、難波小郡、難波楽浪
・瀬田、粟津で戦い、いずれも近江朝側の敗北
・大友皇子山前で縊死、左右大臣、王都楽浪へ逃亡
・天武天皇側、山前(他将)・難波小郡(大伴吹負)で楽浪挟撃態勢
・楽浪占領、左右大臣捕獲
★情勢推移と地勢に何の矛盾も無い。しかし、定説、即ち。近畿地勢では ” 大津で破れた近江朝の左右大臣は大津に隠れ潜んだ ” ことになり、” 天武軍は一度占領した近江朝王都を放棄し、戻ってきて左右大臣を捕獲した ” ことになる。
・・・:舞台は近畿ではないということになる。
◆「山前」普通名詞説は嘘
・「山前」は天武天皇側”近江朝王都”難波楽浪攻撃前の諸将会合地:普通名詞であるはずがない。
・” 知らない振り ” の普通名詞説は ” 地勢非整合糊塗の方便 ”
5)「吉野」と「倭京」・・・” 舞台は近畿 ” では、整合しない。
・「近江朝」の王都「楽浪」(近江京)と同じく標準と成るべき「吉野」、「倭京」(或いは「古京」)について確認してみる。
◆「吉野」
・「近江京」と「大和明日香」(「倭京」)の北南線では「吉野」・東国の東西線を遮断し得ない。
〔『日本書紀』天武天皇上5月〕
「或いは人有りて奏して曰さく、『近江京より、倭京に至るまでに、処々に候(うかみ)を置けり。亦、莬道の守橋者に命(おほ)せて、皇大弟宮の舎人の私粮運ぶ事を遮へしむ』とまうす。」
・「近江京」と「倭京」を北南の位置関係とする。天武天皇は「東国」へ脱出したのであり、「近江朝」は、この北南線上に哨戒所を設置し、「吉野」所在の天武天皇の糧道を遮断したというのであるから、「吉野」は北南線の左、即ち「西」の存在である。
・”「皇大弟の宮の舎人の、私糧運ぶ事」の遮断 ” が ” 天武天皇の糧道遮断 ” であるのか、という疑問はあるが、『日本書紀』は前期に続いて、天武天皇の「・・・何ぞ黙(もだ)して身を亡(ほろぼ)さむや」との言をきしている。座して死を待つよりはと「東国」へ脱出するのである。そう考えるしかないであろう。
・宇治の「守橋」所も、北南線上の存在であり、重要な哨戒所とするが妥当であろう。むろん、厳密に、北南線上と言うのではない。東西を遮断する一ということである。
・この「吉野」は「大和の吉野」ではない、ということになるであろう。言うまでもなく、「大和の吉野」は、近江大津~大和飛鳥の延長線上の存在である。
・で、むろん、この { 宇治の「守橋」} も、{ 現「宇治川」の宇治辺りに存在した橋と守衛所}とすることは困難であろう。当然、{橋と守衛所の存在}ではない。そもそも、「宇治川」の何処に、{橋と守衛所}が存在したとしても、その存在が現「吉野」と「東国」を遮断する拠点にはならないであろう。いや、有る。しかし、遮断拠点となる場合は、瀬田と同唐橋ということになるであろう。ほとんど”「近江京」の内”と言って良い。これは、”「近江京」と「倭京」の間”ではないであろうということである。
★近江大津と大和明日香の間を遮断して
・・・・・・・・遮断し得ない大和吉野と東国・遮断拠点とならない宇治川
∴「吉野」は大和吉野ではない。「倭京」は大和明日香ではない。 ” 宇治川 ” は近畿の宇治川でなはい。
◆「倭京」すなわち「古京」説は誤り。
・”「倭京」は「古京」” は間違い。嘘と言うのが正しいかもしれない。「倭京」は「飛鳥の地」の存在であり、「古京」は「乃楽の地」の存在であることは明確なのである。
・定説は「倭京」も、「古京」も、「大和の明日香」である。
・「倭京」が「明日香の地」であることはよいであろう。「飛鳥寺の北の路」・「飛鳥寺の西の槻の下」(『日本書紀』天武天皇上7月)等である。「大和の明日香の地」であるかどうかは置くとして、「明日香の地」の存在であると。で、大伴吹負は「倭京」を征定し、「乃楽」に向い、「乃楽山」に陣したと。
〔『日本書紀』天武天皇上7月〕
「時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく『古京は是れ本(もと)の営(いほり)の処なり。固く守るべし』とまうす。将軍従ふ。則ち赤麻呂・忌部首子人を遣して、古京に詣りて、道路の橋の板を解ち取りて、楯に作りて、京の辺の巷に堅てて守る。癸巳に、将軍吹負、近江の将大野君果安と、乃楽山に戦ふ。果安が為に敗られて、軍卒悉に走ぐ。将軍吹負、僅に身を脱るることを得つ。是に、果安、追ひて八口に至りて、仚(のぼ)りて京を観るに、巷毎に楯を堅つ。伏兵有らむことを疑ひて、乃ち稍に引きて還る。」
・「乃楽山」に陣するに至って、赤麻呂が将軍吹負に、出発地である「倭京」(「古京」)防衛の重要さを訴え、防御策を献言したと。で、吹負は献言を容れ、赤麻呂等に防衛施策を命じたと。
・” 重要拠点「倭京」(明日香の地)の防衛について、何等施策することなく、出軍し、30kmも離れた「乃楽山」(奈良北東の地)に陣するに至って、その重要さと防御施策の必要を献言された ”と。で、”赤麻呂等は、30km戻った”と。まあ、そういうこともあると言えば有るかもしれない。しかも、吹負は、この後、戦に敗れたものの、この策によって、「倭京」の防衛は全うされたというのであるから、万々歳と言うことである。
・しかし、おかしい。「近江朝」軍が追撃して「倭京」(「古京」)に至ったが、伏兵を恐れて引き上げたということである。そもそも、この追撃は ” 即日 ” ということではないであろう。何しろ、「乃楽山」から「明日香」まで、30kmである。” 即日 ” 即ち、” 速攻 ” でこそ、” 伏兵に対する配慮が必要 ” なのである。数日かけて、「倭京」に迫り、伏兵を恐れて兵を引くなど、理に合わないのである。
・そう。”「倭京」は「乃楽山」の近傍 ” でなければおかしいのである。「近江朝」将軍・大野君果安は、”「乃楽山」で、吹負の軍を破って、敗軍を追い、「倭京」(「古京」)を高みから窺ったと。で、その防御施策を見て、伏兵が有るであろうと判断して、軍を引いた”というのである。よいであろう。この追撃は”即”なのである。
・そんな、細かいことを、と言うであろうか。
・が、そもそも、吹負は「倭京」に逃げ込んでいないのである。追撃軍が ” 即 ” 覗けた「倭京」へ逃げる途中「墨坂」(宇陀郡)で、救援軍に遭い、散じた兵を糾合し、別な侵攻「近江朝」軍を求め、その軍と戦っているのである。
〔『日本書紀』天武天皇上7月〕
「是の日に、将軍吹負、近江の為に敗られて、特一二(ただひとりふたり)の騎を率て走ぐ。墨坂に逮(いた)りて、遇莬が軍の至るに逢ひぬ。更に還りて金綱井に屯みて、散れる卒を招き聚む。是に、近江の軍、大阪道より至ると聞きて、将軍軍を引きて西に如(ゆ)く。當麻の巷に到りて、壹伎史韓国が軍と、葦池の側(ほとり)に戦う。」
・こんな馬鹿な話はないであろう。援軍を得、散じた兵を糾合したのであれば、踏みとどまって、追撃してくる「近江朝」軍と再戦するか、防衛体制の整っている「倭京」(「古京」)で、これを迎え撃つ。
・「近江朝」軍とて、そうである。吹負の軍が、「倭京」(「古京」)にも入らず、葛城山麓辺りで、別動の「近江朝」軍と戦いを交えているというのであれば、伏兵の有無を確認して、 「倭京」(「古京」)を攻め落とすか、吹負の軍の背後を衝くであろう。それが、引き揚げたというのである。
・尤も、そもそも、吹負が、折角、乾坤一擲の奇計を為し、己の命運を賭けて、手に入れた要地「倭京」を、その功により将軍に任じられたというその「倭京」を、「近江朝」軍が高安城に籠もり、或いは、河内方面から陸続と迫る情勢下に、何の防御措置も講じず放棄して、「乃楽山」の地まで出軍することなど有り得ることではないであろう。
・この矛盾は ”「倭京」は「古京」” としたことに在るであろう。即ち、”「倭京」と「古京」は別 ”ということである。『日本書紀』の記述からは、”「倭京」は「明日香」の地の存在 ” で、”「古京」は「乃楽」の地の存在 ” ということになる。”「乃楽」に「古京」が存在する ” というのである。” 舞台は近畿 ” に疑問符が付くであろう。”「乃楽」の地の京は、ずっと、後世の平城京のはず ” なのである。
・本当に、定説論者等は「壬申の乱」を読み解けるのであろうか。それとも、この ” 混乱 ” こそ、真実である証明などというであろうか。” 敗走する将軍が、追撃軍が、その「本営」に迫る中、「本営」に籠ることもなく、別動の敵を求めて開戦する ” ことも不思議ではないと。
・「古京」についての岩波の読み「古京は是れ本(もと)の営(いほり)の処なり。」はずるいであろう。” いつもの手”と言っては言い過ぎであろうか。原文は「古京是本営(ほんえい)処也」なのである。”「古京」は「本営」処”ということなのである。
・そもそも、「本(もと)の営(いほり)の処」とは何であるのか。「前の宿営地」ということではないであろう。「一番最初の宿営地」とでも解させようと言うのであろうか。それとも、「原駐屯地」の意味であろうか。この読みは、”「本営」は天武天皇が居る不破宮処 ” という認識による、即ち、”「古京」が「本営」処では困る ” が故の誤魔化し読みと考えざるを得ない。
・むろん、『日本書紀』が誤魔化しているのではない。後世の定説論者が、斯くも、奇怪な誤魔化しをしているということである。”『日本書紀』の編者は矛盾を承知していた”と言うことである。” 編纂者は矛盾を糊塗しなかった ” と言うことである。
・この「倭京」と「古京」が存在する地とは、筑紫の地ということになるであろう。で、あれば、「倭京」即ち「明日香」とは室見川と日向川の河内ということになる。当然、「古京」とは「太宰府(やまと)の地」で、この地を劃(かく)し、かつ、東北の通交の要衝の地が「乃楽山」ということになるであろう。
・なお、近畿「乃楽の地」の平城京は「新京」ということになる。
◆「倭京」は「明日香の地」。「古京」は「乃楽山」近傍の地
★舞台は「倭京」(明日香の地)と「乃楽山」近傍に「古京」(壬申の乱時点、平城京は存在しない)を有する地=筑紫の地
★「倭京」即ち「古京」説は、近畿では整合しない故の(近畿に整合するための)強弁
◆「乃楽山」で戦い、勝った近江朝の将・大野果安(はたやす)が、則、覗いた「古京」
⇔ 逃げ続ける(「古京」に辿りつけない)負けた天武天皇側の将・大伴吹負(ふけい)
(「倭京」(明日香)を目指し。途中、宇陀郡「墨坂」で援軍一千と合流)
6)二つの本営:不破と「古京」
◆二つの舞台というだけでなく、二つの争乱ということ。
・「壬申の乱」の本営(天武天皇の所在地)は一貫・不破。即ち、筑紫に於ける争乱が加えられているということ
◆「古京是本營処也」
・「古京(ふるきみやこ)是(こ)本(もと)營(いほり)の処(ところ)也」(岩波訳)
・岩波訳は極めた嘘読み
笑い話ではない、学者が斯く読んだということ。読んだ当人の理解、読者の理解などどうでもよいと。只只、「古京」が本拠処では困る。
(不破本營処との不整合)と。” 古京は本拠処(古京が本拠処)なり ” が正しい。
再分離:令和3年3月18日