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古代史の虚構⑧(YA論文)その7


我が国古代史の虚構  ~万葉からの告発


目次

その11 はじめに

     2 人麿羈旅歌の定説解釈への疑問

     3 定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向

その24 解釈の鍵を成す地名と慣用句

     5 人麿が天の地九州で見たもの・人麿の運命と九州王朝の終焉

その36 応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと

その47 九州王朝は二元統治体制

     8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと

その59 難波(津)と過近江荒都の歌

 その610 天智天皇とは

      11 天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り

その7》 12 古代通史粗筋

      13 おわりに 

      後書き

その8別表「九州年号」/別図「松野連氏考」


12 古代通史粗筋


(1)列島の代表的王権の推移と原九州王朝(天の王朝:九州王朝0)

(2)原九州王朝(九州王朝0)王統の断絶と卑弥呼共立:九州王朝Ⅰへ

(3)狗奴国とその東遷  (5)九州王朝Ⅱの内紛・天日(てんにち)両統の争い

(6)大和王朝の覇権確立 (7)天武天皇の大和王朝取り

(8)九州王朝Ⅱの終焉


 個々に確認したことを、全体として整合させるべく、その躊躇もなく、そして、既述からは若干自由に、想像を加えて述べれば、大筋以下の如くなるであろう。むろん、とは言え、断じ難きことは残る。


(1)列島の代表的王権の推移と原九州王朝(天の王朝:九州王朝0)


1)日本列島の代表的王権日本海側・北から南へ)
日本列島の代表的王権
・日本列島の代表的王権は日本海側を逐次南下したのであろう。東北(三内丸山など)王朝
(真脇など)王朝「出雲王朝」である。で、「大和王朝」へと移行する。
 ※ 原「九州王朝」(「天(あま)の王朝」、以降、表記「九州王朝0」)
阿曇(あづみ)族:海洋文化と日神信仰を共通とする海洋民複合体勢力
原「九州王朝」は、壱岐島(「天の一柱」ー「倭嶋根」)を中心根拠地とする対馬海流域の海洋

文化日神信仰(天照神=天照大神)を共通とする海洋民複合体勢力(阿曇(あづみ)族)であろう。

 

・彼等は、” 壱岐島日神の中天(日高)におわす地として「日本」(日の本の地)と呼んだ ” のであう。 

 

・で、「天」域阿曇族の支配者、即ち、日神から王権を授けられた王者が天津日高日子(あまつひだかひこ)である。むろん、この名乗りは正式なもので、一般的には「阿曇の君」或いは「我(等)が君」(「阿輩君」)と呼ばれたのであろう。

阿曇族の台頭

「出雲王朝」「中国(なかつくに)」=「鄙(ひな)」〕の支配下に、細々と南北に市糴(米交易)してきたこの「海(あま)(天)族」は、その大陸、半島から日本列島へ至るメイン・シー・ルートの掌握という地の利と、おそらく、「出雲王朝」の辺境防衛任務(長官「夷守(ひなもり)」)により金属器武器を充実(「細矛千足(くわしほこちたる)」)し、勢力を増大したということであろう。 

 

・辺境の将軍が勢威主を凌ぐことと成ったということである。先ずは、壱岐島を中心とする「天(あま)「中国(なかつくに)からの離反、独立という形をとったであろう。「夷守」長官「日子」下の存在(副)と成った ” のであろう。

◆天孫降臨
・で、憧れの瑞穂の地・天満大島(そらみつおおしま)九州島(「倭嶋(やまとしま)」)へ進出した。
これが天津日高日子番能邇邇藝命「天孫降臨」である。

 

” 降臨の海 ” 玄界灘、即ち、名細(なぐわ)しの「稲見海」である。反旗を翻しての渡海であれば、シーザーのルビコン河渡河に似るということであろう。 

 

・上陸地が難波の竺沙の御前(みさき)ということである。この難波への強行上陸が「押照」である。「押照」とは「海(あま)族」中国(なかつくに)からの独立記念の記憶ということになるのであろう。 

 

・で、彼等「海(あま)族」が九州における地位を確立した地が「降臨地」即ち、日向(ひなた)久士布流多氣(くしふるたけ)の眼下、室見川(飛鳥川)の河内の地・吉武高木の地(飛鳥の地)である。日向峠を南に辿った山並み、背振山脈 ” 三諸の神備山 ” である。

◆豊葦原瑞穂の地

豊葦原瑞穂の地、即ち、稲見野「九州王朝」の国原・筑前平野。室見川の注ぐ海、此処が難波潟海神(わだつみのかみ)(住吉大神)の生まれた「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)である。

 

・那珂川或いは御笠川を遡上した湊の地が難波津。『魏志』の投馬国の中心地、邪馬壹国海の玄関である。糸島半島が国生みの「淡嶋」。唐津湾に浮かぶ姫島が関門海峡の彦島と対を成す(姫島)(筑紫伊波(いなみ)の姫島:天一根(あめひとつね)である。

2)「出雲王朝」から「九州王朝0」への国譲り
「出雲王朝」から「九州王朝0」への列島代表王権の交代、これが「国譲り」である。

 天孫降臨して、九州の地に、勢威を増大させた「九州王朝0」「出雲王朝」を武力により屈服させ、列島代表王権奪取したということである。

 

「出雲王朝」の王・大国主命は出雲国内の岩屋に幽閉され、幽閉死刑死し、その子・事代主命は美保の地で公開水死刑とされる。「出雲王朝」も、大国主命(大汝命)の話も、神話でも、お伽噺でもないということである。

 

・この貴種幽閉刑死、或いは、投水死刑は、数百年を経た「大和王朝」への列島代表王権の移行という歴史時代にも確認される。「九州王朝Ⅱ」の王・久米の若子幽閉死刑とその妃・姫島美人の水死である。むろん、柿本人麿水死刑も、この流れの中ということである。

「九州王朝0」での「地名」の範

「九州王朝0」は、種種、範を「出雲王朝」に求めたと思われる。むろん、何を、とは一々挙げ得べきもないが、確実に 、「地名」はそうである。 

 

・その一つが、” 王朝東域の「氣比の海」” で、その二つが、” 美保(御大)と国社(美保神社・志賀海神社) である。 

 

「九州王朝Ⅱ」から「大和王朝」への列島代表王権交代の場合と同じであろう。この場合、一つが ” 王朝東域の「伊勢(海):国社」”。二つが、” 筑紫三山と大和三山 ” である。


(2)原九州王朝(九州王朝0)王統の断絶と卑弥呼共立:九州王朝Ⅰへ


1)原九州王朝王統の途絶

◆「九州王朝0」の正統王統
「九州王朝0」の正統王統は、邇邇藝命以降、襲名、恐らく、数十代に亘る穂穂出見(享年:580年)後、途絶えた。
◆卑弥呼共立:「九州王朝Ⅰ」へ
・後継王位を巡る争い(「倭国乱」)の後、王に共立されたのが卑弥呼である。そして、
卑弥呼の死後の争闘を経て共立されたのが、その宗女の壹與である。
◆「倭の五王」
・この「九州王朝Ⅰ」の王統は「倭の五王」に繋がる。呉の太白の裔を称し、「熊襲」と伝
承される松野連ともつながる。
◆「九州王朝0」と「九州王朝Ⅰ」の王統の違い
・おそらく、前者(九州王朝0)に繋がるのが伊都国王譜後者(九州王朝Ⅰ)に繋がるの
が肥後出自とも考えられる卑弥呼である。「九州王朝0」は滅んだということである。
◆「九州王朝説」の間違い
・くどいが、” 邇邇藝命以来の「九州王朝」「大和王朝」へ、列島代表王権を移譲するま
で継続した「九州王朝説」” と考えるのは間違いである。「大和王朝一元論」(「大和王朝」が一貫、列島王権の代表王権)に似るであろう。

 

・かつ、そもそも繋がらないであろう。” 天孫降臨と呉の太白の裔 ” とが。いや、この程度の錯誤は、まだ良い。この主張は、逆に言えば、” 天皇でもない鄙の大和の地の王に、「九州王朝」の天皇の(みことのり)を当て嵌めて、或いは創作して発言させ、その王子を東宮、皇太子などと呼ぶ等、『古事記・日本書紀』は、正に、史官の顔も赤らむ嘘 ” としなければ成立しない説なのである。

・よいであろう。” 天孫降臨した「九州王朝」が、即ち、「大和王朝」(「大和王朝」の主
張)” なのである。卑弥呼・「倭の五王」王統は、邇邇藝命に連なる王統ではない。

” 卑弥呼・「倭の五王」王統は、邇邇藝命に連なるという認識 ” は「九州王朝説」の

大きな錯誤の一つである。

 

”「大和王朝」は、己、即ち、近畿の地の王権を唯一の正統とする立場から「九州王朝」

(邇邇藝命から卑弥呼・「倭の五王」に繋がる王権・王統)を抹殺した”とするのは間違いである。

抹殺しているのは偽王朝「九州王朝Ⅰ」なのである。

 

「九州王朝0」「大和王朝」整合する為、修正してるのである。その大なる一つが

” 天孫降臨地の変更 ” なのである。

 

2)すべての説の大きな錯誤
◆「大和王朝」の王統
・で、全ての説の大きな錯誤が、”「大和王朝」の王統は近畿の地の王統 ” と言うことであ

る。しかし、”「大和王朝」の王統の創基者・神武天皇と「欠史八代」を除き「九州王朝0」、「応神王朝Ⅰ」・「九州王朝Ⅱ」(「応神王朝Ⅱ」)の王統 ” なのである。

 

・つまり、「九州王朝Ⅰ」の代わりに「応神王朝Ⅰ」を打ち嵌めた「九州王朝」の王統 ”

なのである。で、以降、「大和王朝」を繋いだものということである。

 

・即ち、”「九州王朝」中、「九州王朝Ⅰ」偽王朝であるが、他は正統王朝 ” という主張で

ある。”「大和王朝」は「九州王朝」の正統王朝を受け継ぐ王朝 ” という主張なのである。

 

・くどいが、” 神武天皇以降は大和の地の王統という認識は間違い ” なのである。

◆筑紫・筑紫の関連地と近畿・近畿の関連地
・で、あるから、” 筑紫・筑紫の関連地が、即ち、近畿・近畿の関連地 なのである。
・当然、” 故郷を懐かしんで故郷の地名を付けた ” というのは、真実の全てではないということである。

(3)狗奴国とその東遷


1)「九州王朝0」の九州征定
◆筑紫と肥の征定
「九州王朝0」九州征定は、筑紫と進んだ。で、九州東(豊日別)九州南
(熊曾国=建日別)岸へである。この征定を画期的に進捗させた英雄が、何代目かの穂穂出見命「前っ君」纏向日代宮御宇天皇:大足(おおたらし)彦)である。
・この英雄王「狗奴国」(「久米国」=「豊日別」:「豊・日向国」)王女(海神の女(むすめ)豊玉姫との子が天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命である。葺不合命襲名であろう。所謂、古史古伝の葺不合朝である。何代目かの葺不合命が卑弥弓呼である。
◆卑弥呼と卑弥弓呼との対立
卑弥呼卑弥弓呼との対立は、「九州王朝0」(「倭国」)正統王統を巡るものである。
卑弥弓呼の主張は、” 穂穂出見命の正統が途絶えたのであるから、穂穂出見命の正統は
「狗奴国」王 、即ち、「狗奴国」王は「九州王朝0」の正統後継者  というものであろう。
・で、戦いに敗れた「狗奴国」は、その拠点を山口県、即ち「淡海国」へと遷した。この地が「女王国東渡海千余里」、即ち、周防の佐婆ということになるであろう。
◆「狗奴国」の王争覇敗北、景行天皇(卑弥弓呼)本国・豊国を捨てて淡海国

・この根拠地を東遷した「狗奴国」の王とは、所謂「景行天皇」卑弥弓呼である可能性が高い。良いであろう。この「景行天皇」「九州王朝0」の王「纏向日代宮御宇大足彦天皇」に当てられているということである。倭建命は、この王者の子、「九州王朝0」の頑敵・熊曾の首魁・熊曾建を征伐した王族将軍・倭男具那王(やまとおぐな)という事ことになるであろう。

 

◆「神武東征」

・この東遷の分流が「神武東征」である。所謂、「神武天皇」は、「狗奴国」本来の王統「毛沼の若子」分家(豊国の三毛沼)である。

 

2)狗奴国の王統 

◆原「狗奴国」王統

原「狗奴国」王統は、高千穂峰降臨を伝承する海神(隼人)王統であろう。この王統は二王、即ち、山幸彦王統・海幸彦王統である。ここで言う原「狗奴国」王統前者(山幸彦)で、「熊曾国」王統後者(海幸彦)である。両者は兄弟ということである。

 

「九州王朝Ⅱ」「大和王朝」南九州・隼人との関係が深いのは、単なるその所在或いは祖源の地の地理的な近さということではなく、この為である。

◆「狗奴国」の二つの王統

・「狗奴国」には、二つの王統が存在したであろう。一つは、「九州王朝0」庶流王統(No1王者「王」=久米(くめ)の若子(わくご):葺不合~卑弥弓呼)。一つは、「狗奴国」本来の王統(No2王者「官」・「臣」=毛沼の若子:海神~狗古智卑狗)である。

 

「景行天皇」は ” 倭建命の曾孫・訶具漏比賈を娶った(『古事記』)” と言うのであるから、「九州王朝0」の王・「纏向日代宮御宇大足彦天皇」の少なくとも数代後の存在ということになる。

 

”「景行天皇」は卑弥弓呼(「久米の若子」)と考えたが、「景行天皇」は倭建命の王統

(血統)を受け継いだ ” と言うのであるから狗古智卑狗(「毛沼の若子」)と考えるべきかもしれない。

 

◆「景行天皇」

卑弥弓呼(「久米の若子」)が、貴い血ではあろうが、ここで、新たに、「纏向日代宮御宇大足彦天皇」の傍流の血を受ける・・貴い血を濃くする・・というのもすっきりとは腑に落ちないのである。

 

狗古智卑狗(「毛沼の若子」)が、ここで、貴い血を受け入れたと考える方が妥当なのである。で、あるから、「景行天皇」は、「纏向日代宮御宇大足彦天皇」に擬される特別な王者なのであろう。

 

◆「狗奴国」王統の変更

・で、この倭建命の血とはということである。”「纏向日代宮御宇大足彦天皇」の血(「久米の若子」)並み ” (主張)ということであろう。

 

・で、「仲哀天皇」「景行天皇」の子と考えてよいのかということである。違うのではないか。何故。子であるならば、「景行天皇」「仲哀天皇」、そして、「応神天皇」と、何等、問題ないはずである。

 

・しかし、「仲哀天皇」「応神天皇」の間に王統の断絶があるということなのである。

”「応神天皇」は「仲哀天皇」の子(「仲哀天皇」の血は貴い)であるが、「応神天皇」は

王統の初代 ” である。

 

「仲哀天皇」「久米の若子」「景行天皇」「応神天皇」「毛沼の若子」とい

うことである。で、「応神天皇」「久米の若子」の血をも受け継いだ「毛沼の若子」

あると。で、桀紂の論理で、”「仲哀天皇」は神のお告げを信じない愚かな王者 ” なのである。

 

・案外、”・・・一部省略・・・「応神天皇」は「仲哀天皇」の子であるが、「仲哀天皇」以外の種、即ち、原狗奴王統の一・息長系の種 ”と言うことである。

 

・この ”「狗奴国」の王統は替わった ” について、「九州王朝Ⅱ」の視点か、それとも「大和王朝」の視点か、ということである。当然、後者の視点、大義名分であろうということになる。

◆「大和王朝」の主張

・しかし、この「久米の若子」にして「毛沼の若子」という「スーパー若子」は、”「九州

王朝Ⅱ」の最後の王者「久米の若子」” に整合しない。つまり、「スーパー若子」「大和王

朝」の主張上の存在ということになるであろう。

 

・事実は、”「大和王朝」の王統は「応神天皇」を祖とする「毛沼の若子」の王統 ”と言う

ことである。即ち、” 天武天皇の王統 ” ということになるであろう。

◆天孫降臨地の変更

・当然、この主張の相手は、「九州王朝Ⅱ」の正統「久米の若子」王統とその支持者たちである。

 

・で、あるから、『日本書紀』の「天孫降臨」地も、” 天(あま)族の天津日高彦が降臨した筑紫国日向(ひなた)から、「狗奴国」の祖先降臨伝承の地、日向国へと変わった ” のである。

 

「九州王朝Ⅱ」の史書の「天孫降臨」地『古事記』と同じ、前者(筑紫国日向)であったということである。

3)大和の地の王統
◆神武天皇の王統

・むろん、大和の地における王統が「神武天皇」王統だけなどではないことは言うまでもない。在地王統(長髄彦)も、侵入・移入王統(饒速日)も多かったであろう。が、「神武天皇」王統が、次第に、第一人者としての地位を築いたと考えるべきであろう。この王統に連なるのが天智天皇Ⅱである。

 

「神武天皇」王統は、「九州王朝0」「九州王朝Ⅰ」ではなく、「九州王朝Ⅱ」

別れであることは『旧唐書』証言(「日本国者倭国之別種(わかれたしゅ)」)する。『日本書紀』(「天御虚空豊秋津根別」)である。

 

・尤も、「倭国之別種」と言っても、” この「倭国」は、唐書の誤認から、少なくとも、「九州王朝Ⅰ」或いは「九州王朝Ⅱ」どちらかの可能性がある ” と言うことである。

 

・しかし、「大和王朝」の主張する ”「大和王朝」の王統 ” は、実質、「大和王朝」の王統上の大義名分で取捨した ”「九州王朝Ⅱ」の王統 ” ということなのである。

 

神武天皇「毛沼の若子」王統者の一。天武天皇「毛沼の若子」王統者、「応神天皇」

に繋がる王統者なのである。

 

・で、あるから、天孫降臨地「狗奴国」伝承地へと変えられ、応神天皇特別な地位

与えられているのである。

 

◆「倭国」と「九州王朝」

「倭国」「九州王朝Ⅰ」である可能性 ” については良いであろう。「神武天皇」

「九州王朝Ⅰ」別れである可能性 ” である。で、あれば、” 卑弥呼~「倭の五王」の抹殺  ”

はないのである。

 

・くどいが、『古事記・日本書紀』は、” 在ってはならない存在として「九州王朝」を抹殺

した ” のではない。「九州王朝」「大和王朝」とすることに抹殺した ” のである。

 

・で、” 在ってはならない存在としての九州王朝は「九州王朝Ⅰ」ということ ” なのであ

る。

 

◆「大和王朝」の王統

・更に、くどいが、”『古事記・日本書紀』が多利思北孤を抹殺した ” のは「九州王朝」とその王を抹殺したのではない。「九州王朝Ⅱ」の天皇より上位なる存在を抹殺した ” のであ

る。これは、” 斉明五年の天智天皇Ⅰを抹殺した ” のと同じなのである。”「大和王朝」の「天

皇」(大王天皇)より上位なる存在・天智九年の持統天皇の抹殺も”、である。

 

・つまり、「大和の地の王統」はほとんど分からない。ほんの一部がそうであろうということである。神武天皇「欠史八代」(綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝安天皇、孝昭天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇)の王者である。

 

・検証したということではない。検証し得るほどの資料が有るかも確認したものではない。全くの腰だめである。強いて理由を挙げれば、所謂「欠史」ということ、その名に「倭」或いは「大倭」を冠するということである。

 

「大和王朝」が、『古事記・日本書紀』編纂に於いて、色々な書物(諸家伝来本)を参考としたということはよいであろう。むろん、主は、「九州王朝Ⅱ」の歴史書(「禁書」)であろう。で、「欠史」とは ” 該当がなかった ” と言うことである。”「九州王朝Ⅱ」の王統譜の人物ではない ” と言うことである。

 

・むろん、「大和の地の王統」も、口承は有ったであろうが、文書としての伝承はなかったということである。この時代の「大和の地」の王者の名前に「倭」、況や「大倭」が冠せられることなどないと言い切れるであろう。「欠史」の人物の名は新しいということになるであろう。

 

・証拠とは言えないが面白い事例がある。『松野連系図』である。呉王夫の子、初代・公子忌の来日に「孝昭天皇三年来朝住火国山門菊池」とある。ずっと時代が下った十二代・宇也鹿文の注記は「火国菊池山門里住」である。つまり、古い時代の孝昭天皇時代が新しい「郡」で、時代次代が下がった方が古体の「評」なのである。

 

4)淡海国の宮
◆周防の高穴穂の宮
「景行天皇」の宮は、周防の高穴穂の宮ということになるであろう。この地が、「仲哀天

皇」の穴門の豊浦の宮、更に、天智天皇Ⅰ大津の宮の地であるかどうかは分からない。

が、後者の地が、” 神功皇后東征の地 ”  即ち、” 香坂王、忍熊王悲劇の地 ” であり、” 天智天皇Ⅰ悲劇の地  ” と言うことになるであろう。

 

・ひょっとすると、「宮」は「王」と「官(臣)」別々の存在であったかもしれない。どうも、論理的ではないが、「景行天皇」の宮が東に偏りすぎているやに思われるのである。

◆穴門の豊浦の宮

・即ち、” 穴穂或いは穴門 ” の「穴」とは「大畠の瀬戸」と考えるのが妥当なのである。後の「九州王朝Ⅱ」直轄領域「天」東域海関である。「角鹿」とされる領域中の最辺域である。が、楽浪の「大津の宮」は、そのような最辺域ではないであろう。

 

・どうであろう。「周防の高穴穂の宮」と「穴門の豊浦の宮」は同じ(地の)宮で、かつ、推古天皇の「豊浦の宮」ではないか。で、天智天皇Ⅰの「大津の宮」は笠戸湾、徳山湾辺りである。

 

・尤も、「穴門の豊浦の宮」とは〔「淡海国」の豊浦の宮〕ということで、即ち、「大津の宮」と考えた方が良いのかもしれない。


(4)狗奴国の九州王朝Ⅰ取り:九州王朝ⅠからⅡへ(天の王朝の復活)


1)狗奴国の九州王朝Ⅰ取り
◆「九州王朝Ⅰ」の弱体化

「狗奴国」が、旧来の主張を実現する、「九州王朝0」の王統が「九州王朝」王位(倭王位を回復する機会が巡ってきたということである。

 

「九州王朝Ⅰ」の王は、中国南朝下、「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事征東将軍」の地位を得、「天皇」を号し、「年号」を公布するに至る。「九州王朝Ⅰ」の絶頂期ということであろう。

 

・しかし、当然、陰りが忍び寄ることと成る。「九州王朝Ⅰ」は、高句麗との半島争覇王位継承争いなどに因って、疲弊、弱体化する。直接の原因も、” 任那出兵 ” である。

◆継体天皇Ⅱの反乱

「九州王朝Ⅰ」の王・欽明天皇Ⅰ(筑紫国造・磐井=「日本天皇」)は、任那に派遣した大将軍・淡海毛沼臣(おうみけなおみ)(継体天皇Ⅱ)の暴政を咎めて召喚しようとするが、毛沼臣は応じない。

 

・で、欽明天皇Ⅰは、「九州王朝Ⅰ」の律令制定功労者で王族である武徳兼備の目煩子(めづらこ)(筑紫君・磐井)召喚使として派遣。毛沼臣は召喚に応じるが、解軍の前に、反乱する。

 欽明天皇Ⅰの弑殺太子、皇子の鏖(みなごろし)である。筑紫君・磐井も、共に、滅ぼされということである。

 

・即ち、” 継体天皇Ⅱの反乱 ” である。が、反乱の成果として継体25年の即位するのは欽明天皇Ⅱと考えるのが妥当のようである。つまり、実行者は継体天皇Ⅱ(毛沼の若子)であるが、即位したのは欽明天皇Ⅱ(久米の若子)である。「狗奴国」(応神王朝Ⅰ)「九州王朝Ⅰ」を簒奪したと考えるべきであろう。

 

・ということは、” 応神天皇~継体天皇Ⅱ ” 「狗奴国」の正統王統ということは、この王統に連なる王統者、即ち、天武天皇「大和王朝」の主張ということであり、この時点も、「狗奴国」「久米の若子」「毛沼の若子」との二元体制であったということになるであろう。

 

・そもそも、「淡海国」における「狗奴国」「応神王朝」とするのは、この主張に副ったものということかもしれない。

2)「九州王朝Ⅰ」から「九州王朝Ⅱ」へ

”「九州王朝」は、継体天皇Ⅱから変わった(「九州王朝Ⅰ」から「九州王朝Ⅱ」へ)”と言うことである。

 

・『新唐書』は、これを ”「九州王朝」(「倭国」)から「大和王朝」(日本国)へと変わった ”と誤解したということである。

 

・何故、誤解したのかということはよいであろう。”「九州王朝」の王統が替わった(「九州王朝Ⅰ」から「九州王朝Ⅱ」)” こと、”「大和王朝」はその替わった「九州王朝Ⅱ」の王統を己のことと主張した ” からである。

3)まとめ

狗奴国:(穂穂出見・葺不合王統者)(欽明天皇Ⅱ) と

          ( 原狗奴王統者(毛沼の若子)(継体天皇Ⅱ) = 二元統治体制

 

・働いたのは継体天皇Ⅱ、即位したのは欽明天皇Ⅱ(継体25年)

 ★「毛沼の若子」王統王朝・大和王朝の主張

 

仲哀天皇から「久米の若子」の資格を継承した「毛沼の若子」王統者・応神天皇に連なる者が「天皇(日本国王)」の正統者


(5)九州王朝Ⅱの内紛・天日(てんにち)両統の争い


1)「九州王朝Ⅱ」内における天・日兩統の争い

「九州王朝Ⅱ」内における天・日兩統の争いは、時には、武力対決、時には、融和しつつ継続したということであろう。

 

・本来は、「天」象徴権威的な支配者「日」実質的な支配者ということであろう。

”どちらが偉いのか ”と言うことであれば、前者ということであろうが、本質は ” 相侵してはな

らない役割分担 ” ということではないか。これは、「狗奴国」由来のものということではなく、我が国の伝統ということであろう。「九州王朝Ⅰ」 ” 卑弥呼と男弟 ” もそうであったと思われるからである。

 

・が、恐らく、「天」の方から、このタブーを冒した。中国式王朝の創設が、そもそも、この伝統に馴染まないものであろう。「天」「天子」を称するようになる。”「天子」は、本来、専制君主 ” であろう。論理的に、”「日」を排除する ” ことと成る。” 煬帝の訓令で改めた ”のではないであろう。 

 

・この争いの中に、” 聖徳太子(即位して上宮法皇=多利思北孤)崇峻天皇の誅殺(崇峻四年:法興元年)や、 ” 蘇我蝦夷皇極天皇の「法皇」山背大兄王(歌彌多佛利)弑殺(皇極二年)” があるということである。

 

「天」が強いとき、天子親政( ” 天子年号 ” の発布)となり、場合により、天皇空位で、大王天皇して存在したのではないか。「日」が強いとき、二元統治体制、即ち、天皇親政(”天皇年号”の発布)と成ったのではないか。

 

・この兩年号の境目が明確であるのは、大化5年と孝徳天皇即位の白雉元年である。

2)「大化の改新」

・で、「大化の改新」である。天智天皇Ⅰ(中大兄皇子)は滅ぼされた「天子宗室」(「久米の若子」王統)を恢復したということである。天智天皇Ⅰ「久米の若子」王統者であったということである。

 

・くどいが、「天皇」「天子」ではない、「天子」下の存在である。疑問の余地はない。「天皇」国内的に実質「天皇号天子」となるのは「大和王朝」代表主権が移って以降、時代を経てである。定説論者は意図的に、この解釈に拠っているのである。詐欺の手法である。

 

「大化の改新」は挫折したと考えざるを得ないであろう。むろん、「日位」、即ち、「天皇」側からの反撃ということである。

 

・しかし、天智天皇Ⅰは復活したということである。これが、” 斉明四年の政変 ”と斉明五年の「帝号天子」即位である。

3)「天」・「日」の対立

・皇極4年の「大化の改新」 ” 斉明四年の政変 ” 「天豊財重日足姫天皇4年」であり、ここに、「重祚」も含め多くの謎を解く鍵があると思われる。まあ、多くが解るという訳にはいかないが、この基は ” 天豊財重日足姫天皇(天位者)は斉明天皇(日位者) とした嘘である。

 

・対立は、天智元年対唐敗戦講和を巡って、クライマックスに至る。「帝号天子」天智天皇Ⅰ斉明天皇後継「天皇」天武天皇対唐講和条件についての対立である。

 

・「帝号天子」天智天皇Ⅰの ”「天子」位廃位と退隠或いは「天皇」への降格問題 ” である。

 

・天武天皇は、退位し、吉野へ難を逃れ、更に、「大和王朝」へ亡命する。

4)天位(久米の若子)王統

「王・卑弥弓呼」~「天皇・欽明天皇Ⅱ~天子「法王」・多利思北孤」、

 「山背大兄」~「天子「帝」・天智天皇Ⅰ」~「天皇・天智天皇Ⅰ」

   ⇔ 旧来の確執+統一中華体制の出現・波及:王権強化の要

5)日位(毛沼の若子)王統

「官・狗古智卑狗」~「大王天皇・継体天皇Ⅱ」~「天皇・崇峻天皇」、

 「大王天皇・推古天皇」~「天皇・斉明天皇」、

 「天武天皇」~「大王天皇・天智天皇Ⅱ」~「大王天皇・天武天皇」、「持統天皇」


(6)大和王朝の覇権確立


1)対唐対決・天智天皇Ⅰ、敗戦と権力の凋落

◆「九州王朝Ⅱ」の内紛への武力介入

「大和朝廷」(天智天皇Ⅱ)は、「九州王朝Ⅱ」の内紛に武力介入した。既に天武天皇

の連携関係を築いており、唐との通交も独自に積み重ねてきた。対唐講和の実現を求めていたということである。

 

◆九州王朝制圧・筑紫大宰府設置

・介入は成功した。「九州王朝Ⅱ」「大和王朝」の武力制圧後下の存在と成ったということである。で、「大和王朝」が「九州王朝Ⅱ」を管理する為に置かれた期間が「筑紫太宰府」である。

 

・しかし、この「大和王朝」の「九州王朝Ⅱ」支配も、完全なものではなかったということである。「九州王朝Ⅱ」と「大和王朝」の間は、” 権威と実権が均衡した状態 ” 、まあ、痛み分けのような状態が続いたということであろう。

2)天智天皇Ⅱの日位即位
◆天智天皇の天下取りの問題点

・この間、天智天皇Ⅱの天下取り、即ち、「大王天皇」位即位について、大きな問題が二つあったであろう。一つは、天智天皇Ⅰ(天位者)許諾。二つは、本来の「大王天皇」位(「日位」)正統王統者・天武天皇との調整であろう。

 

・で、後者については、妥協が成ったということであろう。” 天武天皇は天智天皇Ⅱの後継者

(「東宮」)である。が、前者については、天智天皇Ⅰの許諾が得られなかったということである。

◆天智6年~7年の政変:筑紫大宰府 ⇒ 筑紫都督府(九州王朝を戒厳令下に) 

・これが、天智天皇Ⅱ(「大和王朝」)天智六年の再度の武力介入の理由である。「天智天皇Ⅱ」天智天皇Ⅰ淡海国配流し、「九州王朝Ⅱ」を完全な武力占領下に置く。この為、「筑紫太宰府」を軍事的に強化した体制が「筑紫都督府」である。

 

天智天皇Ⅱ天智天皇Ⅰを弑殺したのではないか。『開聞故事縁起』” 天智天皇 ”義経生存伝説と同じであろう。” 殺された天智天皇Ⅰは、実は、生きていた ” というものである。で、天智天皇Ⅰの後継として、持統天皇を擁立したことになる。で、その許諾により、天智天皇Ⅱ「大王天皇」に即位したのである。

 

「大和王朝」天智天皇Ⅱで、覇権を確立したのである。が、これは、あくまで、後世の「天皇」に対する「幕府」のようなものである。

 

天智天皇Ⅱは、即位後、僅か四年で、世を去ることになる。この「四年」が天智天皇Ⅰ在位年「10年」に当てられたのである。

◆天武天皇、大和王朝へ亡命(天智元年~6年の間)

・この天智10年にも、天智元年の如き劇的なやりとり天智天皇Ⅱ天武天皇との間に在ったということである。

 

天智天皇Ⅱは天武天皇との約束を反故にしたということになろう。


(7)天武天皇の大和王朝取り


1)壬申の乱

天武天皇「大和王朝」取り。これが「壬申の乱」ということであろう。しかし、この「壬申の乱」が、全く、近畿の地勢(地名)に合致していない。

 

・そもそも、” 天智天皇Ⅱの近江国遷都 ” など、あるべきもないのである。が、「壬申の乱」が、「大和王朝」王位、すなわち、「九州王朝Ⅱ」「日位」・「大王天皇」位を巡る天智天皇Ⅱの子・大友皇子天武天皇の争いであったことは疑えないであろう。

 

2)天智天皇Ⅱの皇子

大友皇子は、天智天皇Ⅱ伊賀采女宅娘との子である。天智天皇(Ⅱ)の子として、その他、多くの皇子が記録される。

 

・夭折した蘇我山田石川麻呂大臣(むすめ)越智娘(をちのいらつめ)との子・建皇子(たけるのみこ)を除いて、宮人(地方豪族の女)との子、四人忍海造小龍(おしぬみのみやっこ)(むすめ)色夫古娘(しこぶこのいらつめ)との子・川嶋皇子、越の道君伊羅都賈(みちのみきいらつめ)との子・施基皇子(しきのみこ)、計六人である。

 

3)大友皇子の出自

・しかし、その後継者は最末尾に記録される身分卑しい伊賀采女との子の大友皇子であると。何故、「大和王朝」の輝かしい王者・天智天皇(Ⅱ)の後継者が身分卑しい「伊賀采女」との子であるのかということである。

 

・つまり、” 多くの皇子 ” は、天智天皇Ⅰの子の可能性が大きいということである。むろん、” 多くの皇女 ” も、である。もし、” 多くの皇子達 ” が、本当に、天智天皇Ⅱの子であったならば、”大友皇子は、如何にして、多くの血筋貴く、有力な皇子達を排して、天智天皇Ⅱの後継者と成ったのか ” 再説、強調されるであろう。

 

・大友皇子が、天武天皇・持統天皇の「大和王朝」の王統にとって、触れたくない存在としてでもある。例えば、” 後継者たり得ない大友皇子が、不当にも、数多くの皇子達を排して天智天皇(Ⅱ)の地位を後継し、不当にも、本来の正当後継者(日位正統者にして皇太子)天武天皇を亡き者とせんとした ” と。『日本書紀』の文脈は、この後半を臭わしているであろう。

 

4)大友皇子が後継者とされた理由

・むろん、「伊賀采女」が身分卑しくなかったとしても、大友皇子が、他の皇子達と同じぐらい血筋貴い存在であったとしても、何故、何の争いもなく、後継者なのかということである。何故、『日本書紀』は、このことに沈黙しているのかということである。

 

” 天智天皇Ⅱの後継者は大友皇子 ” 。このことに、何の問題もなかったからである。他に、有力な皇子は居なかったということである。天智天皇Ⅱの子としては、「伊賀采女」との子が妥当であったということになるであろう。「鄙」即ち、「大和の地の王朝」の王者の子として、である。

 

・むろん、このことは、天智天皇Ⅱ、「伊賀采女」、大友皇子を卑しめるものではない。世の仕組みから、そう評価されたということである。その他の血筋貴い皇子達は天智天皇Ⅰの子とすれば、何の疑問もないことになるであろう。

 

・但し、太田皇女鵜野皇女天智天皇Ⅱの子であろう。むろん、天智天皇Ⅰの皇女名に当てられたものと考えるのが妥当である。そうであろう。持統天皇(鵜野皇女)「九州王朝Ⅱ」天皇名に当てられているのである。

 

5)大友皇子の「大王天皇」即位

・当然、大友皇子は、天智天皇Ⅱの後を襲って、「大王天皇」即位していた可能性は大きいのではないか。が、その実態は、皆目、分からない。何せ、” 近江朝は嘘 ” なのである。かつ、肝心な「九州王朝Ⅱ」許諾が、そのまま、すんなり得られたとは考え難いであろう。

 

・どうであろう。” 天武天皇は大和飛鳥の地で即位した ” と言うのであるから、大友皇子の所在(本営)も、此処であったのではないか。

 

6)天武天皇の意図

・どうであろう。「九州王朝Ⅱ」「大王天皇」位即位許諾も、大友皇子へではなく、天武天皇に与えられたのではないか。

天武天皇も、「九州王朝Ⅱ」滅ぼす意図はなかったのではないか。天武天皇の目指すところは、「大王天皇」(日位)正統快復天位・日位二元体制であったのではないか。

 

7)まとめ

天智天皇Ⅱと日位王統者・天武天皇密約

                = 天智天皇Ⅱの日位即と天武天皇の天智天皇Ⅱ後継

 

天智天皇Ⅱ密約反故大友皇子日位即位(天智10年の政変:壬申の乱)

                ⇒ 壬申の乱の制覇天武天皇日位即位(復位)

 

” 天智天皇Ⅰと天智天皇Ⅱは別人 ” を駄目押しする証拠の一が「天智天皇の後継者が大友皇子」であろう。

 

大友皇子伊賀采女の子という地域弁別(天智天皇Ⅰは筑紫所在)もあるが、後継争い存在しないことが、その大なるものである。

大友皇子天智天皇Ⅱの子川嶋皇子、施基皇子等六皇子天智天皇Ⅰの皇子ということになるのではないか。


(8)九州王朝Ⅱの終焉


1)「大和王朝」の天下取り

・どうも、「大和王朝」が、「九州王朝Ⅱ」を積極的に滅ぼそうとの意図を持ったのは、持統天皇以降ではないかと思われる。むろん、根拠を以て、そうだ、とは言えないが、天智天皇Ⅱも、天武天皇も、「九州王朝Ⅱ」名分主権(「天皇」)「大和王朝」実権主権(「大王天皇」):天位・日位の二元体制 ” ということで満足していたのではないか、と思われるのである。

 

・そうであろう。本当に滅ぼそう、としたのであれば、滅ぼせたであろう。 名分主権者 を廃位・擁立し得るほど完全に制圧しているのである。

 

・で、この体制に囚われることの少ない出自或いは世代の天智天皇Ⅱの女(むすめ)・持統天皇その孫・文武天皇に至って、「大和王朝」「九州王朝Ⅱ」に取って代わったということであろう。

 

・が、まあよい。この当否は別として、情勢は、一貫、「大和王朝」の天下取りへと進捗したということである。

 

2)「大和王朝」の列島代表主権王朝へ

「大和王朝」が、列島の代表主権王朝として、「九州王朝Ⅱ」に替わったのが、文武5年(701)、即ち、「九州年号」の終了と「大和年号」大宝元年の発足である。

 

「大和王朝」の王、即ち、「天皇」(内実「大王天皇」)が文字通りのものとなったのである。

 

・であるから、本格的都城・平城京が建設され、王朝史が編纂され、行政が一新され、「大和年号」が公布されたのである。

3)「九州王朝Ⅱ」のその後

・しかし、猶、その後も、「九州王朝Ⅱ」天皇「久米の若子」は生き続けていたということである。何と、曾て、「出雲王朝」王・大国主命がそうであったように、岩屋に幽閉されて。そして、その死とともに、「九州王朝Ⅱ」は滅んだということである。「出雲王朝」がそうであったように。

 

・この最後の天皇「久米の若子」が最後の「九州年号」「大長」を公布した王者である可能性は大きいであろう。で、この王者の死、即ち、岩屋幽閉死文武四年(700)である可能性

も、である。


13 おわりに


 

《AY氏の主張》

『古事記・日本書紀』を解釈改竄し、古人を侮蔑し、万葉秀歌を愚歌とし、

中国史書を貶め、日本人の理性を麻痺させなければ成立しない定説

 

1)「大和王朝」の描く「我が国の古代史」 

『 万葉集』は、「大和の地の存在」と信じられてきた「天皇」及び山川などの自然地形の「筑紫の地の存在」を証言している。 

 

「大和王朝」の描く、「我が国の古代史」とは、筑紫におけるそれを、近畿大和の地

置き換えたものである。 

 

”「大和王朝」の王統 ” ” 「九州王朝Ⅱ」の王統を「天皇」一元として整理したもの ””「大和の地」の王統の一部、即ち、「神武天皇」と「欠史8代」を内嵌めたもの ” である。 

 

2)「大和王朝」の主張 

・”「大和王朝」「九州王朝」単純に抹殺した ” のではない。”「九州王朝Ⅰ」存在しない  即ち、「九州王朝0」「淡海国」存続していた(「継体天皇」以前の「九州王朝Ⅱ」として)”と言うことである。 

 

・で、” この「九州王朝0」の正統「九州王朝Ⅱ」は、即ち、「大和王朝」である ” と。但し、若干の修正も加えて、である。 「天孫降臨」地筑紫国(『古事記』)から日向国(『日本書紀』)への変更  である。即ち、「九州王朝Ⅱ」の王統の血は、邇邇藝命穂穂出見命の血が濃く、「大和王朝」のそれは「狗奴国」の王統の血が濃いということである。 

 

3)「万葉集」の証言 

『万葉集』は、「大和の地の存在」と信じられてきた「天皇」及び山川などの自然地形

「筑紫の地の存在」を証言している。 

 

4) 筆者(YA氏)の本旨

・むろん、万葉集歌の意味するところと、『古事記・日本書紀』の語ることに対する私(YA氏)自身の理解は十分なものではない。” 正しいと思うから斯く主張している のであるが、” 本論全てが正しい ” と自惚れるものではない。 

 

” 万葉集歌はこのような解釈妥当である 。で、あれば、” 我が国の古代史はこのように解釈し得るのではないか 或いは ” 定説等万葉集歌に整合するように見直すべきである というのが本旨である。後者は、前者ほど ” 確定した ” ものではない。未だに ” 動いて ” いる。 

 

蟷螂の斧或いはドンキホーテであることは十分自覚している。読者が、もう一度、万葉集歌について、或いは、我が国の古代史について考え直してみようと思う契機となれば、とするものである。 

 

5) 筆者(AY氏)の本考究を通じての率直な感想 

・それとも、猶、「やまと」と言えば「大和」「なにわ」と言えば「摂津難波」「埴安池」「海」に見立て、比高20mにも満たない「雷丘」「雷岳」とし、濡れそぼった秋萩が覆うほどの細流「飛鳥川」を雄大だとし、「琵琶湖」に「鯨」を泳がせ、「吉野」の「河内」に宮を建て、あの山奥から「船出」させ、「大和の地」即ち「鄙の地」の王者・「舒明天皇」に「天香具山」で「国見」を指せ、「倭嶋」を、「山跡嶋根」をも「大和の地」であると強弁し、「印南の海」から淡路島越に「大和の地」を望ませ、「明石海峡」「あかしの門」といい、「氣比の海」「武庫の海」の間違い、三河国の「渥美半島の伊良湖岬」を伊勢国の「伊良虞嶋」と呼んだ等々と言うであろうか。 

 

” 本当に、そう思っていた、或いは、そう思っているのか。古代の人も、現代の学者。・・・知っていた、或いは、分かっているのでは ” というのが、本考究を通じての率直な感想である。 

 

5)奇説・怪説

・解っているから、「天皇天命将及乎」「天皇(すめらみこと)、天命将乎(みいのちをはりなむとす)るか」と読み、「大倭天報之近」大倭(やまと)(あめ)の報(むくい)(ちか)きかなと読み、「古京是本営処也」古京は是れ本(もと)の営(いほり)の処なりなどと呼んでいるのである。 

 

・そうでなければ、とても、こう読めるものではない。他人の私(YA氏)でも、恥ずかしく、顔が赤らむ気がする。目的なくして、恥ずかしさに耐え得ないであろう。こんな読みが許されるのであれば、原文の意味はない。

  

・これらの奇説、怪説は ” そうとでも解さねば定説が成り立たない ” 故のものなのである。この子供でも騙されないであろう奇説、怪説が人間の理性を千数百年に亘って縛し続けるなど、とても信じることはできない。 

 

” 古代も現代も、諸家は皆、騙された振りをしている ” と。” 騙された振りをして、その偽りの構造上に諸説を展開している ” と。 そうであろう。誰が見ても、”王様は裸”なのである。素人の私(AY氏)が、改めて指摘するのが気恥ずかしいようなものである。 

 

6)「倭嶋」の解釈 

・例えば、倭嶋(やまとしま)」=「九州島」〕である。「十首」は一連、西に向かうもの、即ち、「天」に向かうもの ” ”「明大門」「明門」「天の関門」入出口 ”。で、あれば、”この関門とは大畠の瀬戸ということになる ” と。 

 

・で、”「明門」から「飼飯海」の彼方に見える島、それは「九州島」以外にない。かつ、言葉に厳密である人麿が「大和の地」即ち、「陸中の一定領域」「大海中の山嶋」と弁別し得ない「倭嶋」などと歌うはずがない。況や、「倭嶋」「山跡嶋根」も同じなどとするはずがない。

 そもそも、倭建命が歌う国偲び歌「夜麻登」で、夜麻登嶋とも夜麻登嶋根とも歌われていない ” として、結論に至った。論理として、そうなると。 

 

・しかし、内心、腰が引けなかったわけではない。研究諸家、皆、「定説」なのである。が、怯える必要など微塵もなかったのである。3648歌である。「九州島」夜麻登思麻と歌われている ” ではないか。諸家が知らないはずがないであろう。知らなかったのは私だけだったのである。 

 

・この歌を知っていて、定説に立つことなど出来る道理がないであろう。つまり、” 諸家 ” は知っていて、知らない振りをしていると断じざるを得ない。かつ、で、あれば、「明大門・明門」明石海峡になど当て得ないことは明確なのである。で、あれば、この ” 当て替え ” が、当然、諸々に及ぶことは必至なのである。 

 

・私の説くところは、私の説、或いは見解などというものではない。”そう歌われているのであるから、知らないふりなどしないで、そう解釈すべき ” というものなのである。・・・。 

 

7)万葉集の証言の残る最大の疑問 

・なお、” 置き換えた ” ということは明らかなのであるが、その「大和の地」の王権(所謂「大和王朝」)が、どういうものであったのかということまで、『万葉集』は証言していないそもそも、これが、” 残る最大の疑問 ” かもしれない。 

 

◆大宰少弐小野朝臣歌一首 

(328)「あおによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」 

・《岩波補注》小野老は、天平元年(729年)、大宰小弐石川足人の後任として大宰府に着任したと思われる。これは着任の宴席で披露した歌であろうか。 

 

◆万葉集 829歌「梅花宴」梅花三十二首 

・天平二年(730)正月十三日、帥老(大伴旅人)の宅に集まって宴会を開く。  

(829)「梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや」薬師張氏福子 

 

・”「梅の花」「九州王朝」「桜の花」「大和王朝」である。むろん、これは、歌がそう証言しているということではない。 

 

隼人が征定され、「大和王朝」体制が盤石なものとなったこの時期、「九州王朝」の王城の地、梅花の名勝の地、太宰府の地に於いて開催された「梅花宴」として、言い得ていると思われるということである。 

 

・宴席に連なった者、同時代に呼吸していた者全てが、「九州王朝」盛時と滅を知っており、そして、「大和王朝」盛運、即ち、新しい時代の到来を感じていたであろうからである。 

「梅の花」往事を思い「桜の花」、世の移ろい現今に思いを致すことは、人の自然な感情であると思われるからである。 

 

◆万葉集 328歌「青丹吉 寧楽京師」 

・なお、328歌「青丹吉 寧楽京師」を定説のとおり「奈良の京」即ち、平城京であるとするのは疑問があるであろう。当歌の時期は、312歌の「京引」以前である可能性が大きい。「太宰府」である可能性が大きいであろう。” 大宰少弐・小野老が「太宰府」で詠んだ歌 ” の可能性である。

 

8)本論究の基本 

人麿の歌は、私(YA氏)をとんでもないところへと導く。むろん、このとんでもないところとは、人麿の歌の示すところと、他の万葉集定説解釈とその矛盾、『古事記・日本書紀』或いは中国・朝鮮史書記録するところを対照して、何故ゝを重ねて至ったものである。重ねた何故、何十倍もの何故が残っている。 

 

・本論全てにおいて、自身、得心が有るわけではないことは先にも触れた。能力を顧みず、疑問には全て突撃したので、敢え無く玉砕、もある。疑問を避けないというのが本論究の基本である。 

 

そうであろう。都合の良いことだけで、体系を成しても、真理を得たということにはならないからである。玉砕は心理への入口であろう。そもそも、ほとんどが堅忍不抜と思えたものなのである。が、突撃、突撃で、今に至っている。 

 

・尤も、突撃する前は堅忍不抜の鉄壁と思われたものが幻であったということの方が多いかもしれない。突撃しなければ分からないことの方が多いのではないか。で、少しずつ真理に近づいていると。まあ、本説大本の正しさは疑えぬが、それが、細部とどう体系をなしているのかということはこれからということである。当然、未だ、発展途上のとんでもないところということになる。 

 

・全く、考えてみるまでは思いもつかなかったところである。まるで、” 暗闇の船出 ” のようなものなのである。そうであろう。玄人の船出ではない。素人の船出なのである。拠るところは「十首」と論理、” 船が何辺の岸辺に行き着くか ” 予測し得ることではないのである。  

 

・読者が、本論究を ” 思い込みである ” と論破するのは簡単であろう。只、私(YA氏)の人麿の歌の解釈が間違っていとすればよいのである。


後書き


 『記紀』虚構の書である。しかし、筆者(YA氏)は ”『記紀』は虚構の書 ” として、これを非難するものではない。” 虚構を金科玉条とし、これを未来を託すべき若者に強いる定説論者等を非難するもの ” である。

 

 むろん、定説論者も人の子、戦前の体制下ではやむを得なかったであろう。どのような体制下で在っても真理を語る、それが学問の理想ではあるが、そうし得なかった学究を非難する資格は私(YA氏)にはない。しかし、戦後、約六十年、学問の自由は保障されてきたではないか。なのに、何故、である。

 

 確かに、古田氏の「九州王朝説」は世に出た。” やっと、古代史が学問(内外資料等と整合し、かつ、体系として矛盾なく理解し得るもの)になった ” これが、私(YA氏)の率直な感想である。で、更に言えば、”この学問の魅力は、玄人、素人云々などの衒いのない明確な論理に在る”と。

 

 が、古田説、世に出て三十数年、少しは ” この虚構の押し売り ” は変わったであろうか。私(YA氏)が参考とした『記紀』、『万葉集』、そして、わが国古代史の解釈が、である。残念ながら、びくともしないというのが現状である。

 

 むろん、” 古田説は未だ未完の真説 ” である。” 未だ、体系(「古田史学」)として完成されていない ”” 大本は正しいが、枝、それも一部大枝に間違いがある”。これが、不遜であるが、私(YA氏)の古田説に対する基本的な認識である。しかし、” 古田説に瑕疵あり ” としても、定説その他の説よりも格段と優れていると。真理に迫っていると。これが、本論が古田説に拠るところである。本論は、” この瑕疵を補備し、犯罪的現状を告発せんとするもの ” である。これが、本論の動機である。

 

 むろん、古代史について ” 全(すべ)き完成 ” はないであろう。”より、完成されたものへ”である。私の提言の正否は置いても、古田説が、これ等の疑問に答え得ないのであれば、それが、即ち、”「古田史学」未完 ” の証拠である。

 

 当然のことながら、” AY説を ” などという野心も力もない。私の万葉集解釈にしても、無知による間違いは多いであろう。しかし、自分で言うのもおかしいが、その間違いを差し引いても、と言うことである。

 

 無知の誤謬(虎)の方が、定説の或いは権威と知識にかまけた欺瞞(苛政)より、百倍もましということである。かつ、私の言うところは、” 見解 ” などというものではない。”そう歌われているのであるから、そう解釈すべきだ”と言うものである。

 

 ”そう歌われている”とするのはお前の ” 見解 ” と言うのであろうか。むろん、そうである。が、この ” 見解 ” は、例えば、「海」「シー」として理解するというものである。「湖」(「レイク」)「池」(「ポンド」)ではないとするものである。現今に至る共通の認識なのである。” 古代の一時期、「ポンド」は「海」と呼ばれた ” とする「仮説」こそが、論証を要求される ” 見解 ” なのである。

 

 「レイク」は「うみ」と呼ばれた。現今に伝承されている。大きい「ポンド」が「レイク」であろう。で、あれば、”大きい「ポンド」は「うみ」と呼ばれたであろう”とするのはよい。論理的錯誤はない。しかし、” この「うみ」は「海」である ” とするのは論理詐欺である。”この「うみ」は「湖」”なのである。

 

 ”「湖」は「海」である。現に、「琵琶湖」は「近江(淡海)の海」と呼ばれ、表記されてきた”と言うであろう。これが間違いであることは縷々述べた。これは、私(YA氏)の”見解”である。が、これはなかったとする。この定説が正しいとする。

 

 しかし、このことを以て、”大きい「ポンド」は「海」と表記されていた”とすることは無理であろう。そもそも、「埴安の池」が「海」と呼ばれ、そう表記された形跡はない。かつ、列島中、そのように多くの「海」伝承も、記録されていないのである。むろん、「埴安の池」に沈む夕日を見ることなど出来るわけはない。

 

 我が国の ” 古代史論争 ” において、抜き難い ” 病根 ” がある。

 

 定説論者或いはそうでない人も、こう言うであろう。”見解は色々有って良い”と。”正に、学問的公正と寛容さ”である。正に、学問斯くあるべしである。が、現状はどうだ。” 定説が大手を振ってまかり通って ” いる。

 

 『記紀』、万葉解釈だけではない。国立博物館の展示説明も、TVドラマもである。そもそも、”見解は色々有って良い”とは、その理に優れた説が ” 大手を振ってまかり通る ” 即ち、” 定説となる ” ということを前提にしたものであろう。ことは学問の世界の話なのである。

 

 しかし、現状は、” 理に劣った定説 ” がまかり通っている。例えば、国立博物館冒頭の陳列、金印の読み「漢の倭の奴の国王」である。正に ” 万犬は吠ゆ、されどキャラバンは行く ” である。これは何であるか。

 

 ある人はこう言う。” 自然科学は証明されるけれど、人文科学は証明されないから ” と。一見、尤ものようであるが、これは”間違い”である。当然であろう。これは、”人文科学について一切考えない社会であれば ” ということである。 ” 定説が論じられず、教えられない社会であれば ” ということである。” 歴史が教育されず、歴史博物館も存在しない社会であれば ” ということである。

 

 そうでない以上、論理の優劣を以て、これを断ずる。これが学問であろう。論理の優れたものが、即ち、定説となる。これが、人間社会であるべきであろう。むろん、”全てが優劣を以て断じられる”ものではない。が、これは、部分を以て全体のことの如く言うのと同じである。” 意図が透けて見える ” であろう。” 定説を不可侵として保存するための煙幕 ” なのである。

 

 ある人は、こう言う。”古代史などどうでもよいであろう”と。「はじめに」に掲げた疑問である。これらの人が、” 歴史教育など止めてしまえ ” と言うのであれば解る。それとも、” 近現代史のみ有意義 ” と言うのであろうか。個人の信条に立ち入るつもりはない。が、中世史、更に古代史の理解がなくして、近現代史の理解は困難であろう

 

 中国も、韓国も、高句麗について無関心であれば、高句麗史は中国の一地方史であるのか、それとも朝鮮史であるのかなどという現代の対立論争もないであろう。まあ、これは実利がないと言うであろうか。

 

 では、竹島問題はどうだ。根拠は江戸時代の領有に遡るであろう。むろん、こんな、” 俗世の利害 ” は置いても、人の好奇心に蓋などできないであろう。

 

 更に言うか。” 天が動こうが、地が動こうが ” どうでもよいということであろう。” 日が出たら働き、日が落ちたら寝る ” 何の問題があるのかと。” 老子の如き達観 ” である。

 

 問題は、” 天が動く ” 等という嘘で固められた側の保身(利益保全)なのである。” 地が動く ” では、この正当な論理が揺らぐと。”人々を目覚めさせないことである”と。” 目覚めた奴は致し方ない ” が ” どうでもよい奴は曖昧に閉じ込めておけ”と。ついでに、どうでもよい奴等に、目覚めた奴等を”どうでもよいことに目くじらを立てる変人、奇人”と揶揄でもさせておけば万全であると。

 

 ある人はこう言う。例えば、” 邪馬台国などインドネシア、南米説が成り立つほどいい加減なものである。つまり、そのようないい加減なものは学問の対象とすべきものではない”と。すごい論理である。これくらい、責を他人に転嫁し得れば、気楽であろう。

 

 これは、『魏志』(の著者陳寿)の責任ではない。そう理解した人、そのような見解もあり得るとした人の責任である。陳寿も地下で仰天していることであろう。これ等の説も、もうよいであろう。” 学問の正確さを期す為の論ではない ” のである。” 定説を不可侵として保全する為の言い掛かり ” なのである。

 

 ある人はこう言う。” そもそも中国の史書など出鱈目で信用できない ” と。甚だしくは ” 中国の史書と日本の史書とどちらを信用するのか ” と。むろん、中国史書の我が国に関する記述について、出鱈目も、間違いも存在するであろう。しかし、これを以て、全てがそうではないことは言うまでもないであろう。これは、『記紀』も同じである。『万葉集』も、なのである。

 

 しかも、斯く言う論者は同じ舌で、我が国古代の貧弱さを説く。” 我が国は王仁が千字文をもたらす五世紀まで文盲であった ” と。”「七国諸軍事」など倭王(倭人)の法螺である ” と。等々である。中国の王朝が、文盲の倭王・卑弥呼詔書を授与したり、倭人の法螺に騙され、そのまま史書に記したなど、如何に矛盾しても一顧もしない。古代日本人を辱めて恬として恥じない。

 そうであろう。そのくせ、『紀』も記さない ” 聖徳太子の遣隋使 ” などと言うのである。『隋書』「日出処天子」聖徳太子で、” 対中国対等外交である ” などと。『紀』は、”推古天皇の大唐、唐天子への遣唐使などと、相手も、時代も、内容も間違えた、或いは、嘘をついたと言う”のである。

 何のことはない。” 説く「愛国心」は「近畿天皇家一元説」擁護の」なりふりかまわぬ手段 ” なのである。この為、” 古代日本人が如何に愚かに、又、嘘つきに成ろう”とも、”『紀』が粗忽な編集者に依る誤り多き史書となろう”とも、”万葉秀歌が無残な万葉愚歌と成ろう”とも意に介することもない。

 もうよいであろう。これらの ” 話 ” は全て、定説を保全せんが為の ” あの手この手 ” なのである。学問の話ではない。諜報謀略の世界の「謀略の話」なのである。二十一世紀の今尚、跳梁跋扈する魑魅魍魎・モンスターの保身の話なのである。むろん、このことと、” 話し手 ” の自覚の有無とは別の問題である。

 

 古代史など、理に拠ろうが拠るまいが、現代社会に何の問題もない”とするのは暴慢である。” 豈、古代史のみならんや ” である。” 古代史を考える ” ということは、結局、”人間とは ” を考えることであるのかもしれない。考究を通じて感じたのは、虚構さえ排せば、” 意外に『記紀』は正直 ” ということである。” 虚構の梁を太くし、本数を増やした ” のは定説の論者なのである。


再分離:令和3年3月18日/最終更新:令和3年7月3日