古代史の虚構⑨(YA論文)その8


我が国古代史の虚構  ~万葉からの告発


目次

その11 はじめに

     2 人麿羈旅歌の定説解釈への疑問

     3 定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向

その24 解釈の鍵を成す地名と慣用句

     5 人麿が天の地九州で見たもの・人麿の運命と九州王朝の終焉

その36 応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと

その47 九州王朝は二元統治体制

     8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと

その59 難波(津)と過近江荒都の歌

 その610 天智天皇とは

      11 天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り

その7》 12 古代通史粗筋

      13 おわりに 

      後書き

その8別表「九州年号」/別図「松野連氏考」


別表「九州年号」/別図「松野連(倭王)系図」


九州年号


 九州年号(倭国年号)鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。

 

 史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号)が多数散見される。

 

 九州年号(倭国年号)が制定された理由としては、南朝との交流が502年のへの朝貢で最後となり、冊封体制から外れた為に自前の年号が必要になったからと考えられる。

 

 また倭のライバル高句麗では391年に好太王(永楽太王)永楽の年号を用いており、倭や高句麗に従属させられていた新羅でさえ536年には建元という年号を建元している。

 

 554年には、百済より暦博士が来日しており、隋・唐代には天子を自称していた倭の大王が通説のように701年まで年号を定めなかったことは考えられない。 《出典:Wikipedia》

 

九州年号

(古田武彦氏『失われた九州王朝』より)

西 暦 干 支 大和王朝王代 九州年号(異説)
 522 壬寅 継体十六 善化(善記)
 526 丙午 継体二十 正和
 531 辛亥 継体二十五 発倒(教到)
 536 丙辰 宣化一 僧聴
 541 辛酉 欽明二 同要(明要)
 552 壬申 欽明十三 貴楽
 554 甲戍 欽明十五 結清(法清)
 558

戊寅

欽明十九 兄弟
 559 己卯 欽明二十 蔵和(蔵知)
 564 甲申 欽明二十五 師安
 565 乙酉 欽明二十六 和僧(知僧)
 570 庚寅 欽明三十一 金光

 576

丙申 敏達五 賢接(賢称)
 581 辛丑 敏達十 鏡当(鏡常)
 585 乙巳 敏達十四 勝照
 589 己酉 崇峻二 瑞政
 591 辛亥 崇峻四 法興 元
 594 甲寅 推古二 従貴(吉貴)
 601 辛酉 推古九 煩転(願転)
 605 乙丑 推古十三 光元(光充)
 611 辛未 推古十九 定居
 618 戊寅 推古二十六 倭京(倭縄京)
 622 壬午 推古三十 法興三十二
 623 癸未 推古三十一 仁王
 629 己丑 舒明一 聖徳
 635 乙未 舒明七 僧要
 640 庚子 舒明十三 命長
 645 乙巳 皇極四 大化 元
 647 丁未 孝徳三 常色
 649 己酉 孝徳五 大化五
 652 壬子 孝徳八

白雉

 661 辛酉 斉明七 白鳳
 684 甲申 天武十二 朱雀
 686 丙戍 天武十四 朱鳥(大化)
 695 乙未 持統九 大和
 698 戊戌 文武二 大長

九州年号に関する論説(その1)


(引用:日本古代史の復元ー佃収著作集日本古代史についての考察

 

 九州年号について、Webサイトのサーフィンしたところ、日本の古代史に関する興味深い論説にヒットし、その中で引用に示す九州年号に関するプログが見つかりましたので、紹介したいと思います。

 なお、ご参考までに、佃収氏の著作集のURL(リンク先)を次に記します。このリンク先では、同氏の著作の概要についてPDFで紹介されています。

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新「日本の古代史」(佃説)

副題、早わかり「日本通史」(概要篇)

講演での活用を考慮して、佃説による日本古代史の概要が、時の流れに沿ってまとめられる。天孫降臨、邪馬壹国(邪馬台国)について詳述する。

購入方法の案内もあります。

 新「日本の古代史」(上)

紀元前12世紀からの倭人の渡来の経過、天孫降臨、卑弥呼の邪馬壹国、神武天皇の東征、崇神天皇の渡来、神功皇后の貴国建国などを詳論する。

 新「日本の古代史」(中)

貴国の後の倭の五王、磐井の乱、物部麁鹿火王権、俀国(阿毎王権)など主に5,6世紀の日本を支配した王権について詳述する。

プログ日本古代史についての考察)(下記)

「九州の王権」と年号(その一)(その三)の三論文と「九州年号」の要点をブログにまとめたもの。

*「九州の王権」とその年号(その一)「倭王武」と年号-「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」-

*「九州の王権」とその年号(その二)「物部麁鹿火王権」と本拠地-「物部氏」の研究-

*「九州の王権」とその年号(その三)「俀国(阿毎王権)」とその歴史-『隋書』の「俀国」は九州の物部氏- 

 新「日本の古代史」(下)(第2刷)

12の論文が執筆された順に並び、主に推古紀~斉明・天智・天武紀の7世紀日本の姿を浮き彫りにし、最近の研究成果も収録する。

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日本古代史についての考察

(引用)2018-01-03 

はじめに-いわゆる「九州年号」-

 佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の「九州の王権」と年号(その一)~(その三)の三つの論文によって、5世紀から7世紀初めにかけての日本の歴史の骨格を、私達は知ることができる。この文書は、この三つの論文と「九州年号」についての要点を、「日本古代史の復元」ホームページ作成委員会がまとめたものです。 

 

 佃氏は『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』、『宋書』、『隋書』、『旧唐書』(記紀、続日本紀はよく知られているため、この小論では以降『』を付けずに表記します)などはもとより、様々な古文献や古墳から発掘された考古学的資料などを基に考察している。その考察では、歴史的事象の時を特定したり、王権の交代などを検討することなどに、いわゆる「九州年号」と呼ばれているものが実に ‘ 導きの糸 ’ として有効に使われていることに驚かされる。そこで、既存の歴史学では「私年号」などとも呼んでいる「九州年号」に対する、私達作成委員会の捉え方をまず明記することから始めたい。 

 

 記紀には年号が三つだけ記載されている。古事記には全くなく、日本書紀だけに「大化」、「白雉」、「朱鳥」の年号が突然出てくる。巻第25孝徳紀で「…大化元年(645年)とす。大化元年の秋七月の…」「大化」年号表記が初めて現れる。しかし、年号を初めて建てるというような記述はない。

 

 次は、同じく巻第25孝徳紀に「白雉元年(650年)の春正月の…」と「大化」に続くとされる「白雉」年号が現れる。次は、巻第29天武紀の天武14年12月の記事の後に「朱鳥元年(686年)の春正月に…」「朱鳥」年号が現れる。他には全く出てこないので、様々な疑問が浮ぶ。まず、日本の年号は「大化」を最初としていいのか?「大化」、「白雉」と続くとして、「朱鳥」までの数十年間は年号が制定されていなかったのか?「朱鳥」以降持統紀には年号はなかったのか?……

 

 日本書紀に続く続日本紀では、巻第1で年号の表記がない文武天皇の4年間が記述された後、巻第2で文武天皇5年目の3月に「元を建てて大宝元年としたまふ。」と書かれ、文武天皇の最初の年号「大宝」(701年~705年)が表記される。「大宝」以降は現在まで年号は続いている。 

 

 古代年号について、古田武彦氏は『失われた九州王朝』の中で、『海東諸国紀』、『麗気記私鈔』、『如是院年代記』、『襲国偽僣考』(そのくにぎせんこう)などに言及して、『襲国偽僣考』を著した鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)が述べた「九州年号」の重要性を指摘した。 

 

 『海東諸国紀』は李氏朝鮮の碩学が15世紀に撰録した史書である。『海東諸国紀』(岩波文庫)のはしがきには次のように書かれている。「『海東諸国紀』は、朝鮮王朝最高の知識人が日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交の実情等を克明に記述した総合的研究書である。1471年に朝鮮議政府領議政申叔舟(シンスクチュ)が王命を奉じて撰進した書物で、海東諸国(日本と琉球)の国情と、その朝鮮との通交の沿革を記し、さらに使人接待の規定を収めている。本書に記された使人応接の規定は日朝間の通交を長く規制したものであり、実務書として果した役割も少なくなかった。」

 

 「議政府領議政」は首相に相当する最高の官職であり、申叔舟(シンスクチュ)はハングルを制定した世宗(セジョン)以降世祖(セジョ)など6朝に仕えている最高の知識人である。 

 

 この『海東諸国紀』を読むと、「日本国紀」「天皇代序」の部分で、初代神武天皇から102代後花園天皇までのことが年代順に簡潔に記述されている。26代継体天皇の項では「…(継体)16年(522年)壬寅、始めて年号を建て善化と為す。…」と書かれている。継体16年(522年)に、日本の年号が初めて建てられたことが示され、以降の天皇の年号がすべて記載されている。

 

 続日本紀に書かれている「大宝」から「延暦」までの14の年号が正確に記載されているだけではなく、以降も15世紀の「応仁」「文明」まで、正確に日本の年号が書かれている。(南北朝については、北朝の年号を記載)

 

 日本書紀は、持統11年(697年)8月に、天皇が皇太子に譲位する記事で終わる。前に見たように、日本書紀では、持統11年(697年)までに断片的に三つの年号だけが現れ、他には年号の記載はない。古事記には、年号の記述は全くない。しかし、継体16年(522年)以降の日本の古代年号が、隣国朝鮮の最も信頼されるべき本の中に書き続けられている。 

 

 朝鮮の『海東諸国紀』だけでなく、『二中暦』(鎌倉時代の百科事典)や上に揚げた日本の古文献にもこの古代年号が記載されている。その中の『襲国偽僣考』(そのくにぎせんこう)を著した鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は豊後国臼杵生まれの江戸後期の学者で、研究領域は多岐に渡っている。10代の頃から本居宣長に触発された古書・古文献の注釈、西洋の天文学(地動説)・物理学、言語学等を研究する他、アメリカ海軍司令官ペリーが来航したとき水戸侯斉昭に「異国船の儀に付内分申上候書付」を呈上し、嘉永7年(1854年)日米和親条約が結ばれた直後に「新町開発存寄書」を記し、社会改革にも言及している。 

 

 鶴峯戊申はその著書『海西漫録』の中の「倭錦考証」の項で、「…但し魏志に倭王とあるは、我天皇の御事にあらず、倭王とは九州にて僭偽せしものをいへる事、戊申が『襲国偽僣考』に記し置きたるが如くなるべし、…」と述べ、「武王上表」の項では、「宋書に載る所の、倭の武王の上表は、けだし偽僭襲人の作れる所也、その我朝廷を蔑にして、外を慕う意まことに悪むべしといへども、此文章は上宮太子の憲法に先だつ事、一百二十八年のむかしに書る処也、…これをもても、九州の地方にはやくより漢風の盛なりし事を推べし、…なほくはしくは『襲国偽僣考』にあげつらへり、…其書のおもむきは、在昔我皇国にて、偽僭をなしたる熊襲の先は、そのかみ我西鄙に逃来りし呉王夫差の子孫にして、其勢ようやく強大にして、身に錦繡をよそひ、居に城郭を築き、朝廷に先だちて漢の文字を取あつかひ、僞て王と稱し、漢及三韓に通じ、暦を作り、銭を鑄たる考、倭と云國号も襲人の建たる所、九州年号と云るも、襲人のしわざなるべきよしを辯じ、且又倭字を皇國の國號の假字に用ひ、皇國を呉太伯の後也と云に至るは、もと襲人を皇國に混じたるより起れる非が事なる由を、すべて和漢古今の諸書に徴して、明細にさとせる也。」と述べている。(『鶴峯戊申の基礎的研究』桜楓社、藤原暹著) 

 

 「魏志(倭人伝)に倭王とあるは、…倭王とは九州にて僭偽せしもの」であり、「倭の武王の上表(文)は、けだし偽僭襲人の作れる所也」と述べ、天皇の系統とは別の「呉王夫差の子孫の襲人」が王を称し、漢や三韓に通じ、年号を定めている、と戊申は言っている。

 

 更に、「九州年号」と題した古写本があり、これを見て、それに基づいて、「善記」から「大長」まで続くこの「襲人」の国の古代年号を「九州年号」と述べた。(『海東諸国紀』では、最初の年号は「善記」ではなく「善化」と記している。年号表記は古文献によって少し違いがある。) 

 

 この「九州年号」と呼ばれた古代年号を、歴史学会は「私年号」などと呼び、無視している。「九州年号」を認めてしまえば、大和朝廷以外に、年号を認めさせ支配をしていた王権が実在していたことになり、記紀の記述に反するからである。

 

 最初に「善記」が建てられ、継体16年(522年)から始まるこの古代年号を鶴峯戊申によって「九州年号」と呼ぶようになったこと、朝鮮の史書や日本の古文献に記載されている「九州年号」は無視されるのではなく、考慮に値するのではないかということは、以上で納得していただけるのではないかと思う。更に私達は次のことから、「九州年号」を考察することがどうしても必要であると考えている。 

 

 奈良にある有名な法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に書かれている年号「法興」『襲国偽僣考』にある「九州年号」である。また、続日本紀の神亀元年冬十月条の記事に書かれている年号「白鳳」「朱雀」「九州年号」である。その他各地での古文書などにも「九州年号」が記載されている。「九州年号」が偽作などではなく、その時代に明らかに流布されていたものであることが確認できる。大和朝廷かどうかは別にして、年号が使われていたという事実は、その時代その地方を確かに統治していた権力が存在していたという事を示している。 

 

 既存の日本古代史の定説では、『宋書』倭国伝に記されている「倭の五王」讃・珍・済・興・武は大和朝廷の天皇であり、倭王武雄略天皇であるとし、他の讃・珍・済・興については、諸説があり、確定していないとする。このことに対して、上に述べたように鶴峯戊申は、「倭の五王」の倭国は、大和朝廷とは別の「偽僭襲人」の国であり、「九州年号」はその年号であるとしている。「倭の五王」が本当に大和朝廷の天皇であったのかを明確にするためにも、「九州年号」の詳しい検討が必要ではないだろうか。

 

 以上「九州年号」と呼ばれているこの古代年号を「私年号」として無視するのは、日本古代史の在り方として適切でないことを述べた。もちろん、『海東諸国紀』『襲国偽僣考』に書かれていることをすべて正しいと認めることではない。記紀や他の古文献、古墳などから出土する考古学的資料などと比較検討しながら、史実を反映している日本古代史の建設に向け、「九州年号」も十分に活用していかなければならないというのが、私達作成委員会の立場である。

 

 ついでながら、次のことも確認しておきたい。私達は主に7世紀くらいまでの日本古代史を検討していて、大和朝廷がどのように成立してきたかも考察している。しかし、このことは、現在の天皇制に対する政治的な立場とは直接関係しないと思っている。イギリスの王室よりはるかに長い歴史をもつ日本の天皇制は、その時代ごとに役割を果してきた。現在の天皇制に対する政治的な見解は、現在の政治状況等から判断されることであり、古代の歴史がどのように作られてきたかは、直接には影響しないと考える。

 

 私達は、古代において日本人がどのように形成されてきたかに興味がある。既存の日本古代史は、どう考えてみても納得のできるものではない。今後の日本人が国際社会の中でどのように生きていくのか、日本人の生き方に、歴史の究明が深いところでつながっていると考えている。そのために、祖先の足跡をしっかりと確認したいと願っている。

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2018-01-03

Ⅰ.「九州の王権」と年号(その一)-「倭王武」と年号-

  (「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」)

※ この文書は、佃收氏著『新「日本の古代史」(中)』の中の上記表題の論文(62号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。

 

<1章> 「倭王武」と「九州年号」 

 『宋書』倭国伝には五人の倭王讃・珍・済・興・武の朝貢の記録がある。『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫)で簡単に確認することができる。

 また、『南斉書』『梁書』にも倭王武の朝貢の記録がある。この記事から、倭王興の在位年を462年~478年4月頃倭王武の在位年を478年5月頃~502年以降と確定できる。

 既存の日本史では、倭王武は雄略天皇であるとしている。日本書紀では、雄略天皇の在位は457年~479年とする。古事記では、崩年干支と月日を示して、雄略天皇の崩年は489年であると記している。

 『梁書』には、天監元年(502年)に倭王武が梁へ朝貢していることが書かれており、少なくともこの年には倭王武は生存しており、日本書紀や古事記が述べる雄略天皇でないことが最初に示される。 

 

(『新「日本の古代史」(中)』の中で、この論文の前に「倭の五王=筑紫君」(54号)と題する20ページほどの論文がある。この論文は、古田武彦氏が示した「倭の五王」に関する全資料を掲げ、それらを検討していくことから、「倭の五王」讃・珍・済・興・武の在位年をすべて割り出している。また、日本書紀雄略紀の年が、倭王興の在位年とほとんど重なることを指摘し、具体的に日本書紀雄略紀の記述は倭王興の記録であることを示している。論旨が明快に展開されるこの論文は大変読みやすい。「倭の五王」については、この論文から読むと分かり易いのではないかと思う。) 

 

 鶴峯戊申が著した『襲国偽僣考』の「九州年号」の初めに「継体天皇16年(522年)、武王、年を建て善記という。是九州年号のはじめなり。…善記4年に終わる。」とある。この記事からも、倭王武は九州の王であり、日本列島で始めて年号を建てていることが確認できる。

 更に、年号「善記」(522年~525年)から、倭王武の在位年は478年~525年であることが確定する。

 それでは、なぜ倭王武の時代の522年に、初めて日本に年号が建てられたか。それは、中国南朝との関係から明らかになる。倭王讃は425年、倭王珍は430年、438年、倭王済は443年、451年、460年、倭王興は462年、477年すべて宋に、倭王武は478年宋に、479年斉に、502年梁に朝貢している。年号が中国で建てられていることは分かっている。日本でなぜ建てられたのか。 

 

 『宋書』倭国伝「倭王武の上表文」と呼ばれている文書が載っている。478年に兄の倭王興が死去して、弟の倭王武は即位すると直ぐに、宋に朝貢する。このとき、宋の最後の天子である順帝に上表した文書である。

 

 「封国は偏遠にして藩を外に作る。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋歩し、寧処(安心して生活する)に遑(いとま=ゆとり)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国。(中略)臣は下愚なれども忝(かたじけなく)も先緒を胤(つ)ぎ、…(中略)、…以って忠節を勧む。」

 

 倭国は先祖の代から日本列島や朝鮮半島の国々を征服してきた。「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国」と倭国は、朝鮮半島まで支配を拡げている大国である。475年には高句麗によって滅ぼされた百済を救い興し、百済の再興を助けている。百済は倭国の支配下にあると言える。

 

 ところが、倭王武の時代の中国の王朝は宋、斉、梁と目まぐるしく交代し、更に「梁の高祖」は、521年「百済王餘隆」「寧東大将軍」に任命し、倭国が滅亡から救った百済倭国と同格以上に扱う。

 

 このことで、中国王朝への不満が高まり、倭王武朝貢を止め、独立し、自ら年号「善記」を建て、天子となることを決意する。翌522年のことである。これが、倭王武の時代に日本列島に初めて年号が現れた理由であると、佃氏は説明する。

 

 尚、中国王朝への朝貢は502年以降百年間ほど途絶え、その後600年に俀国が隋へ朝貢する。 

 

<第2章> 「磐井の乱」と「倭の五王」 

 日本書紀に「磐井の乱」と云われている戦いがある。継体21年(527年)6月、近江毛野臣は軍衆6万人を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅などを復興して、任那と合併しようとしたときに、「…筑紫国造磐井は陰に反逆を謀る。……磐井は火・豊の二国に掩(おそ)い拠りてつかまえられず。」とある。

 

 継体天皇物部麁鹿火に対して、もし磐井を伐つことができたら、「長門(山口県)より以東は朕がこれを制する。筑紫より以西は汝が制せよ。」と言う。(継体)22年(528年)11月、大将軍物部大連麁鹿火、親(みずか)ら賊師の磐井と筑紫の御井郡で交戦する。…遂に磐井を斬り、果たして疆場を定める。」磐井は伐たれ、「長門(山口県)より以東」は継体天皇の領土に、「筑紫より以西は」物部麁鹿火の領土になった、と書かれている事件である。 

 

 日本書紀のこの記事から、磐井の支配領域は、火・豊の二国(肥前・肥後・豊前・豊後)長門(山口県)より以東、筑紫より以西を含む領域であり、西日本であることが分かる。

 

 日本書紀では、「磐井の乱」の磐井は、「筑紫国造」とされている。一方、『筑後国風土記』では、「筑紫君磐井」と記され、別区をもち、中に石人がある大きな墓(具体的な大きさを表記)磐井の墓だと述べられている。研究者によって、この大きな墓は福岡県八女市の岩戸山古墳であることが実証されている。このことから、「筑紫君」は西日本を支配している王であり、筑後(福岡県八女市付近)を本拠地としていることが分かる。

 

 筑後の八女古墳群からは、特有の「石人・石馬」が出土し、この「石人・石馬」は筑後、肥後、豊後に分布しており、「磐井は火・豊の二国に掩(おそ)い拠りて」に合致している。また、この有明海周辺の古墳群には「横口式家形石棺」という大きな特色がある。 

 

 吉備には5世紀前半頃の「造山古墳」、5世紀中頃の「作山古墳」という大きな古墳があり、「吉備王国」が存在したとされる。ところが「作山古墳」以降は、墓の作り方が一変する。5世紀後半になると吉備地方には、「肥前・肥後」(有明海周辺)の石材と技術による新しい形式の古墳が急に作られるようになるという。

 

 「墓」の違いは、文化、習慣の違いを意味しているから、古墳の遺跡は、「吉備王国」が有明海周辺の王権、即ち「筑紫君」に支配されるようになったことを示している。日本書紀雄略7年(463年)に、吉備の国に関する記事がいくつか出てくる。その中で、「吉備下道臣前津屋」が天皇を馬鹿にしているという記述をした後、「これを聞いた天皇は、物部の兵士30人を派遣して、前津屋および族70人を誅殺したという。」と書いている。

 

 この記事は、吉備王国が滅亡し、他の権力によって支配されたことを示している。前に述べた古墳の変化とこの記事から、463年頃、「筑紫君」吉備地方を支配するようになったことが分かる。また、「筑紫君」の支配領域「長門(山口県)より以東」吉備地方を含んでいることも確認できる。 

 

 巨大古墳時代は4世紀末頃から始まるが、吉備地方が「筑紫君」に支配されるようになった5世紀の後半の頃から近畿の古墳にも大きな変化が現れる。「長持形石棺」が消滅し、これに代わって、「九州の舟形石棺」が登場する。古墳時代の最大の変革期であり、九州の菊池川付近で造られた阿蘇石製舟形石棺が河内地方等に運ばれる。「筑紫君」の領域は畿内まで拡大し、「筑紫君」西日本を支配している。 

 

 日本書紀雄略7年(463年)の吉備の国に関する記事で、もう一つの事件がある。吉備上道臣田狭は盛んに自分の妻(稚媛)が美人であることを自慢し、それを聞いた天皇が、稚媛を女御にしようと決心し、田狭を任那国司に任命して派遣し、天皇は稚媛を娶り、子供までつくったという事件である。

 

 『宋書』が記しているように、朝鮮半島南部の任那を支配しているのは倭の五王である。463年であるから、「吉備上道臣田狭」を任那に派遣したのは、倭王興である。倭王興は任那と吉備地方を支配している。一方、「物部の兵士30人を派遣して」、吉備王国を滅ぼしたのは、「筑紫君」であった。吉備地方を支配しているのは、「筑紫君」であり、同時に「倭の五王(倭王興)」である。即ち、「筑紫君」=「倭の五王」ということになる。 

 

 また、「倭の五王」「筑紫君」であることは、次の日本書紀の記事によっても検証される。雄略10年(466年)9月、宋に派遣されていた身狭村主青(むさのすぐりあを)が筑紫に帰って来て、筑後の三潴(水間)に上陸している記事がある。宋へ朝貢しているのは「倭の五王」である。462年に倭王興は即位すると直ちに宋に朝貢する。462年3月に宋は倭王興「安東将軍」に任命する。翌月の462年4月、宋はそれを正式に伝えるため使者を倭国に派遣する。

 

 464年に倭王興はそのお礼を兼ねて身狭村主青等を宋に派遣する。466年身狭村主青等は帰国して倭王興に報告に行く。筑後の三潴(水間)は有明海に沿ってあり、もし、雄略天皇が居る大和へ報告に行くのだとしたら、有明海に入り、筑後の三潴に上陸することはない。倭王興が居る筑紫君の本拠地(八女市付近)に行くために有明海に入る。「倭の五王」の本拠地は筑後だから、「倭の五王」「筑紫君」である。 

 

 日本書紀倭王興雄略天皇に、倭王武継体天皇にすり替えて記していると、佃氏は指摘する。日本書紀雄略紀の記事等により、倭王興が、吉備地方を始として近畿、瀬戸内海地方を支配するようになったことを確認した。『宋書』「倭王武の上表文」日本書紀継体紀によって(4章で述べる「筑紫の舞」や稲荷山古墳の鉄剣の銘文などからも)倭王武が関東まで含む日本列島と朝鮮半島南部を支配したことを理解することができる。 

 

 『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP選書、長野正孝著)は航海や漁業、海運等に関する認識に目を見開いてくれ、古代史に新たな視点を投じて、私達に大変参考になった本である。

 

 この本の中で、長野氏は、463年頃吉備地方が侵攻された事件に触れ、この雄略帝による吉備侵攻瀬戸内海啓開事業が真の目的であったと述べる。更に、それまで瀬戸内海は一般的には通交することができず、瀬戸内海の啓開を行なったのは雄略帝であるとし、「大和朝廷は、瀬戸内海の啓開と符牒があうように、6世紀から播磨、備前、備後、安芸を経て九州まで数多くの屯倉を開くこととなった。穀物が瀬戸内海を運べるようになったことを意味するとともに、汐待ち、風待ちで立ち寄る船乗りへの食糧供給基地をつくった。…瀬戸内海でそれを行なうことを可能にしたのが、雄略帝の啓開だったのである。」(p.118)と述べている。

 

 また、「倭国は「磐井の乱」制圧後、6世紀半ばに、国家として九州と近畿を含めた「敦賀・湖北ヤマト王国」になり、継体天皇から我が国は本格的な統治を始めた-とする武光誠氏の説に私は深く賛同する。」(p.209)とも述べている。

 

 長野氏は「海路」の観点などから詳しく見て、雄略天の時代に瀬戸内海啓開され、継体天皇の時代に我が国は本格的な統治がされるようになった、と言う。長野氏と私達は大和朝廷や支配的な王権の捉え方が全く異なるが、日本書紀の雄略紀の時代、即ち倭王興の時代瀬戸内海が支配されていき、継体紀の時代、即ち倭王武の時代日本列島が統一的に支配されるようになったと、同じことを述べていて、大変興味深い。

 

 この本の姉妹編とも言える『古代史の謎は「鉄」で解ける』(PHP選書、長野正孝著)からも、いろいろなことを学ぶことができた。私たちのメンバーに中には、この本で触発され丹後半島に旅し、神明山古墳などを訪れた者もいる。 

 

 もし、「倭の五王」大和朝廷の天皇で、「邪馬壹国」奈良にあったとした場合、瀬戸内海の啓開が雄略紀、つまり倭王興の時代だと分かると、倭王讃が425年に宋に朝貢した時の海路はどのようなルートであったのか、更に遡って、247年に「邪馬壹国」に来たと『魏志』倭人伝が書いている魏の張政はどのようなルートで来て、どのようなルートで帰ったのかを明らかにする必要がある。従来は、瀬戸内海を通ることが、それ程大きな問題とは考えられていなかった。長野氏が述べるような専門的な知識を歴史学は生かしていかなければならないのではないだろうか。 

 

<3章> 「磐井の乱」と年号 

 継体22年(528年)11月に物部麁鹿火が磐井を斬り、「磐井の乱」は終焉し、「筑紫より以西」物部麁鹿火が制する。次の12月の日本書紀の記事に「筑紫君葛の子、父に座して誅されるのを恐れて糟屋屯倉を献じて死罪を讀(あがな)われんことを求む。」とある。と言うことは、磐井「筑紫君葛」であることを示している。

 

 また、多々良川の南側にある糟屋屯倉「筑紫より以西」であるから、筑紫君葛の子物部麁鹿火糟屋屯倉を献じて、「死罪を讀(あがな)われんことを求」めた。北九州を支配しているのは物部麁鹿火である。 

 

 『襲国偽僣考』は、倭王武が年号「善記」を建てたことを記しているが、同書は、他の古文献の記述や違う説があることにも言及している。「殷到」の項では、「…如是院年代記、教到に作る。同書に、教到元、始めて暦を作る、とあるもまた襲人のしわざなるべし。一説に正和と殷到との間に定和・常色の二年号あり。いわく定和7年に終わる。常色8年に終わる。教知5年に終わる。一説に教知に造る。又、殷到という。」と書いている。

 

 『如是院年代記』の記事も参考にして、年号「殷到」は初めて建てられた年号であること、二種類の年号が併存していることを佃氏は示す。「善記」-「正和」-「定和」―「常色」倭王権(筑紫君)の年号が続いていく。

 

 一方、倭王権以外新たな王権(九州)年号「殷到」が建てられ、「殷到」-「僧聴」と続く。「殷到」は531年に始まり535年に終わり、「僧聴」は536年に始まると『襲国偽僣考』は記している。

 

 ここで、日本書紀宣化元年(536年)7月に物部麁鹿火薨去したとする記事を見る。物部麁鹿火が死去した年に、年号が「殷到」から「僧聴」に替わっている。「殷到」は初めて建てられた年号であるから、倭王(筑紫君)を倒して、九州で新たに天子となった物部麁鹿火が建てた年号が「殷到」であり、この王権の2代目の年号が「僧聴」であることが分かる。物部麁鹿火は年号をもった新たな王権を樹立している。

 

 糟屋屯倉を献じることで「筑紫君葛の子」「筑紫君」として存続を許される。倭王武から始まる「筑紫君」の年号は、磐井が継ぎ、磐井死後も死罪を免れた筑紫君葛の子によって継続される。そのため、二つ「九州年号」併存することになった。ここのところでは、重なり合って複雑な年号と歴史的事実とを、佃氏は見事に解き明かしている。 

 

 日本書紀では、「磐井の乱」が終わった年を継体22年(528年)としている。王が変わると年号は変わるから、この年は、倭王権では定和元年であり、物部麁鹿火王権では殷到元年ということになる。ところが、定和元年殷到元年も共に531年である。この「九州年号」の考察から、「磐井の乱」が終わった年は531年であると判断できる。(始まったのは、530年)

 

 日本書紀の継体紀に次の記事がある。「…『百済本紀』を取りて文を為す。其の文に云う、太歳辛亥3月…又聞く、日本の天皇、及び太子・皇子、倶(とも)に、崩薨す。…」辛亥年531年であり、日本の天皇531年崩御したと述べている。

 

 百済が日本の天皇としているのは、継体天皇ではなく、実際に交流している倭王葛(磐井)である。この記事からも、倭王葛(磐井)が死去した年は531年であること、即ち、「磐井の乱」が終わった年は531年であることを確認することができる。

 

 逆に、日本書紀はこの『百済本紀』の記事から、継体天皇の崩年を継体25年(531年)とし、一方、古事記丁未年(527年)4月9日と、食い違った表記をしている。他の事柄からも古事記の記事のほうが正しいと判断でき、継体天皇の崩年は527年である。すると、「磐井の乱」が始まる530年には、すでに継体天皇は崩御している。

 

 日本書紀は、「磐井の乱」を継体天皇が物部麁鹿火を将軍として派遣して、筑紫君(倭王)を伐った事件であると記述する。しかし、継体天皇はすでに死去していて、派遣することはできない。また、磐井は西日本を支配する倭王(筑紫君)である。このことから、「磐井の乱」は主君である倭王(磐井)に対する物部麁鹿火反逆事件であり、531年に終わることが判明した。 

 

 最後に、朝鮮半島前方後円墳について、その特徴がまとめられている。6世紀前半(512年~532年)の時期に突如として出現する一世代の造営であり、被葬者は朝鮮半島の在地首長ではなく、九州北部から有明海沿岸地域出身倭人であるという。

 

 また、戦士集団である可能性が高く、栄山江流域前方後円墳には百済製品があり、銀被鉄釘と鐶座金具が使用された装飾木棺百済王室からの下賜品である、と韓国の考古学者が述べている。

 

 百済と交流しているのは倭王権である。倭王権(筑紫君)によって朝鮮半島に派遣されていた武将や、531年の「磐井の乱」で敗れて朝鮮半島に逃げた倭王権の武将が、その墓として前方後円墳を築いているのではないかと、佃氏は述べる。 

 

<4、5章> 「獲加多支鹵大王」と「江田船山古墳」、稲荷山古墳と「辛亥年」 

 稲荷山古墳(埼玉古墳群)から出土した鉄剣の金象嵌の銘文江田船山古墳(熊本県玉名郡菊水町)から出土した鉄剣の銀象嵌の銘文では、ともに「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)と記されていることが判明した。銘文の解釈を含めて、定説は以下のようである。

 

 「稲荷山古墳(関東)の被葬者と江田船山古墳(九州)の被葬者は共に天下を治めた獲加多支鹵大王に仕えていた。獲加多支鹵大王は全国を支配しているから大和の天皇で、稲荷山古墳の鉄剣の銘文に鉄剣が作られた年が記されて「辛亥年7月」とあるから、471年(辛亥年は531年説もあるが、定説は471年)のことであり、このときの天皇は雄略天皇である。つまり、獲加多支鹵大王は雄略天皇であり、倭王武でもある。」

 

  しかし、倭王武が即位するのは『宋書』倭国伝からも確認できたように478年であり、471年にはまだ倭王武は即位していないので、この定説は成立しない。江田船山古墳(九州)の被葬者は「治天下獲加多支鹵大王」に仕えていたと銘文にある。この時代九州を支配していたのは、倭王(筑紫君)であり、雄略天皇ではない。従って、獲加多支鹵大王倭王(筑紫君)である。

 

 更に、倭王讃の墓とされる石人山古墳江田船山古墳の石棺や副葬品等から、江田船山古墳の最初の被葬者は、『宋書』倭国伝「太祖の元嘉2年」の記事に出てくる倭王珍将軍「倭隋」であろう、と佃氏は述べる。 

 

 『筑後国風土記』では、岩戸山古墳筑紫君磐井の墓としている。しかし、磐井は豊前国に逃げて死んだとも記されていることなどから、磐井は筑後の八女古墳群には埋葬されていない。また、岩戸山古墳は寿墓(生前に作られた墓)であり、磐井の死後も墓の整備が行なわれ、祀り続けられているという。このことなどから、岩戸山古墳は、倭王武の墓であることが分かる。

 

 一方、継体天皇「磐井の乱」には関係しないことが明らかになったが、更に、継体天皇の出自についても考察している。継体天皇の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)に熊本県宇土産の「阿蘇ピンク石製石棺」が使われていることなどから、継体天皇の父は筑紫君将軍であり、熊本県から近江(滋賀)に派遣されて、継体天皇を生んだのではないか、としている。 

 

 最後に、古田武彦氏が『よみがえる九州王朝』(角川選書)の中で詳しく紹介している「筑紫の舞」「倭の五王」(筑紫君)が全国を支配していることを証明している、とする。また、「筑紫の舞」であるにもかかわらず、各地区の翁の中に「筑紫の翁」がなく、「都の翁」が必ずあることから、「筑紫」ではないかとする。

 

 更に、始終「肥後の翁」が中心になって舞が進行していることから、「肥後の翁」江田船山古墳被葬者とされた倭王の将軍「倭隋」などを表しているのではないかとする。「七人立の舞」に出てくる翁は各地域の王であり、ちょうどその時期その地域に立派な古墳が造られていることを、佃氏は指摘する。

 

 都の翁-岩戸山古墳肥後の王-江田船山古墳加賀の翁-二本松山古墳難波津より上がりし翁-今城塚古墳夷の翁-二子山古墳(埼玉)尾張の翁-断夫山古墳出雲の翁-出雲地方の古墳。この指摘も興味深いが、岩戸山古墳(八女古墳群)二子山古墳稲荷山古墳(埼玉古墳群)が同じ設計で作られていて、同じ形であるとする指摘も大変興味深い。 

 

 5章の最初に、江田船山古墳の鉄剣の銘文は「治天下獲加多支鹵大王」と書かれており、大王が「治天下」であることを示し、最初の年号「善記」(522年~525年)を建て「天子(治天下)」となっているのは倭王武であることなどから、獲加多支鹵大王倭王武であるとする。

 

 また、稲荷山古墳の鉄剣の銘文辛亥年471年が定説とされてきたが、倭王武が年号「善記」を建て、「治天下」となったのは522年であることから辛亥年は522年以降であり、辛亥年531年が正しいとして、定説の誤りを指摘する。『百済本紀』「日本の天皇…崩薨す。…」と記した辛亥年3月は531年3月であったが、鉄剣辛亥年531年である。 

 

 埼玉古墳群は原野に突如として造られ、最初の「稲荷山古墳」は5世紀の第4四半期(476年~500年)頃造られたと、研究者が述べている。倭王興は463年頃「吉備王国」を滅ぼし、その直後に「東海」から「関東」に居る「毛人」を征服するために「埼玉古墳群」の人々を派遣したのだろうと、佃氏は述べる。倭王権(筑紫君)は、関東まで支配を拡げている。

 

 「稲荷山古墳」に追葬された「乎獲居臣(オワケの臣)は、「獲加多支鹵大王」(倭王武)に仕えて大王が天下を治めるのを助け、大王が死去した後に、鉄剣を作っている。 

 

 『百済本記』は、531年3月「磐井の乱」が終わると伝える。稲荷山古墳の鉄剣がどうしてこの直後の531年7月に作られたのか、どうして銘文がこのように書かれたのかの解釈は納得できるもので、大変素晴らしい。漢字の短い文の中に込められた深い意味を多くの人にも味わっていただきたいので、是非、佃氏の論文「九州の王権」と年号(その一)に目を通していただきたいと思う。 

 

 最後に「九州年号」は、鉄剣の金石文『百済本紀』の記述と合致していることを確認し、「九州年号」は歴史学会が言うような「偽年号」「私年号」ではなく、日本列島を支配した倭国(筑紫君)正式な年号であると述べる。

 

 辛亥年は471年であるとする誤った定説は、「須恵器編年」を狂わしており、佃氏が古代史の復元⑧『天武天皇と大寺の移築』で指摘した飛鳥寺に関する誤った定説も「須恵器編年」を大きく狂わしているとして、現在の考古学について苦言を呈している。 

 

 以上の文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の論文【「九州の王権」と年号(その一)-「倭王武」と年号-(「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」)】(62号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。要点だけのこの文書では分かりづらいときは、ホームページで全文を見ることができますので、是非論文を見ていただきたいと思います。また、この文を読んで興味をもたれた方も、論文を読んで、もっと詳細な記述に接していただきたいと思います。


九州年号に関する論説(その2)


(引用:うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

 九州年号について、Webサイトのサーフィンしたところ、日本の古代史に関する興味深いプログにヒットし、その中で引用に示す九州年号に関するプログが見つかりましたので、紹介したいと思います。

 なお、ご参考までに、同プログのトップページのURL(リンク先)を次に記します。このリンク先では、同氏のプログの概要について紹介されています。

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」(プログトップURL)

 

006 九州倭政権が制定していた年号

―教科書から抹殺された「真実の古代史」―


1)実体のない『日本書紀』の年号記載

 いわゆる「大和政権」に先行して7世紀末まで日本全国を統一していたと考えられる「九州倭(いぃ)政権」(注1)は現在、文部科学省が検閲するいっさいの教科 書から抹殺されている。

 

 十年ほど前だったか、一時はその存在がちらりと掲載されたことはあるが、その後再び消えた。「九州倭政権」実在のさまざまなデータ は次々と明らかにされているのに、そのことにいっさい目をそむけている。

 

 教科書を執筆している者の仕業か、検閲官が「間違いだらけの古代史」を掲載するよ うに強要しているのか、どちらかだろう。いずれにせよ市民の信頼を裏切るとんでもない所業だ。彼らに人間として、そして研究者としての「良心」はないのだ ろうか。

 

 「権力」によって市民は目をふさがれ、さらにこの件にまったく無知なマスコミが「いかがわしい古代史」を増幅しているようだ。

 

 こんなひどい構図ができあがった大きな原因は、この件が日々の生活に直接結び付くものではないことだろう。マスコミはこの件を「ただのお話」、「ロマン」と しかとらえられず、事実を伝えるさまざまなデータに目をつぶり、「真実を市民に伝える」という最低限の義務を放棄してしまっているようだ。

 

 しかしこの件は、日本と言う国のアイデンティティ、誇り、将来の国の指針を決めてしまう重要な視点になる事柄である。「過去」の事実をしっかり見据えなけれ ば「将来」の指針もゆがんでしまう。それはなにも「近現代史の歴史事実」だけではない。古代史も重要な視点のひとつである。人間や集団にとって「温故知 新」や「経験則」が大事なのだ。

 

 ということで、今回は「九州倭政権」実在のさまざまなデータのうちまず「九州年号」についてお伝えしよう。古来「年号(元号)の制定」というのは天皇のもっとも 大事な権限であった。どこかの〝馬の骨〟が「明日から平成という年号を使いましょう」と言っても誰も従わない。「天皇」や政府が発するから従う。

 

 いわゆる「大和政権」初めて建てた年号701年「大宝」である。このことは『日本書紀』に続いて記録された『続日本紀』にきちんと書かれている。

 

 『続日本紀』〈文武天皇五(701)年正月〉 

 甲午(21日)、対馬嶋(つしまのしま)(かね)を貢ぐ。建元して大宝元年としたまう。

 始めて新令により官名・位号を改制する 

 

 ここで大和政権ははっきりと「建元」という字句を使っている。「建元」という熟語は「初めて(永続的な)元号を建てる」という意味である。 

 

 しかし読者は、社会科の授業でそれ以前に「大化」という年号があったと教えられている。有名な「大化の改新」などである。戸籍をつくり班田収授の法をつくるなどして国政の刷新を図ったという。だがこの「大化の改新」についてはさまざまな疑問が研究者の間からもちあがり、今は否定する意見が有力だ。用いら れた「郡」などの字句は実施した時期よりはるかに新しいものであることや、条里制など実施された形跡がほとんどないことなどだ。「大化の改新」はなかっ た、と。

 

 何より数十種類「史書」が伝える九州倭政権が建てていた年号のなかにこの「大化」という年号が記されているのだ。しかもその時期は『日本書紀』がいう645年ではなく、諸説あるが40年以上新しい7世紀末の686年、あるいは695年からである。

 

 『日本書紀』はそれ以前に元号を建てたことがないのに「改元して大化とする」(孝徳天皇4年)などとごまかして記している。「元号を改める」はそれ以前に「元号」がある場合だけに使える言葉である。社会科教師の多くはこのことをあいまいにし、いかがわしい古代史を説く先兵となっている。

 

「大化」のつぎに「白雉(はくち)という年号も『日本書紀』に書かれている。しかし、この年号がいつまで続いたのか、『書紀』はまったく知らん顔で口を拭い、そのまま消えている。「白雉」九州年号の中に記録されている。『日本書紀』は「白雉年号」制定のおりの仰々しいまでのいきさつや祝賀行事のありさま を記録している。 

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 実はこれは「九州倭政権」の史書である『日本(旧)記』の記載をそっくりいただいて転載したものと考えられている。「改元」は天皇が変わった時には必ず行わ れる。しかし、「白雉」と改元されたという年は孝徳6年にあたり、次の斉明天皇即位したという年には全く改元の記事はない。『日本(旧)記』の書名は『書紀』雄略天皇紀や福岡県糸島市の『雷山千如寺縁起』に出てくる。

 天武天皇の時代に「白鳳(はくほう)という年号もあったという。美術史で7世紀後半を「白鳳時代」という。「白鳳」という年号は多くの社寺の言い伝え(縁起)などにも登場する(写真上は福岡県直方市の鳥野神社の由緒書き)。一般の人はてっきり大和政権が制定した年号だと勘違いさせられている人が多い。が、『書紀』には書かれていない。代わりに『書紀』は天武14年に「朱鳥(しゅちょう)という年号があったとする。これは九州年号「朱鳥」と同じ年の制定で、これにあわせて強引に挿入したものであろう。改元する理由など全くない時だ。二年後の持統天皇の即位時には何の「改元」もない。

『続日本紀』〈聖武(しょうむ)天皇神亀(じんき)(724)年〉には、聖武が 

 白鳳以来朱雀(すじゃく)以前、年代玄遠にして尋問明らめがたし 

という詔(みことのり)をし、世間一般にはこうした年号が使われていたことを認めている。しかし「おれ(大和政権)たちはそんな年号は知らん」と頬かむりしている詔だ。

 

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 要するに『日本書紀』に記されている「大宝」以前の「元号」はまったく実態がないのである。「続日本紀」「建元」したと言っているのは正しい。以後「大宝」からはとぎれなく「元号」が続く。始めて永続的な年号を建てられたから「建元」なのだ。

 

2)九州年号の実際

 九州倭政権が制定していた「年号」は522年「善記(ぜんき)から始まるらしい。「らしい」というのは、これらの年号を記録した数多くの「史書」にかなりな異同があるからだ。

 

 大和政権が自身の史 書である『日本書紀』から「九州倭政権」を消し去った時、「九州年号」も消し去る必要があった。おおっぴらに時代を知る手段として通用していたら、この期 間、大和政権「天皇」がいなかったことがばれてしまうからである。

 

 おそらく徹底した「元号隠し」の策略が実行されたのだろう。「九州年号」「地下に」 もぐった。だからきちんとした完璧な記録がないのである。しかし、「継体天皇」年号を制定し始めたとする資料は一部を除いて一致している。

 

 今、八世紀初頭の「大長」まで営々と続く三十数個「元号」が伝えられている。そのひとつを掲げてみよう。鎌倉時代初期に編纂された百科事典「二中歴」(上記写真)の記録だ。(洋数字の書入れは発布された年。筆者)

 

 これには最初の年号が「継体」であるとしている。しかし他の 史書たとえば江戸時代の鶴峯戊申『襲国偽僭考(そこくぎせんこう)や桃山時代に日本に駐在したポルトガル宣教師ジョアン・ロドリゲス『日本大文典』筆者不明『興福寺年代記』『麗気記私抄』などはすべて「善記」が最初だと記録している。

 

 使用例は鹿児島から青森まで全国で約400件も発見されている。実際の使用例でも「継体」年号は使われていない。従って「継体」年号は九州倭政権の天皇のおくり名「継体」を年号と見誤った記録と考えられている。

 

 さらに『二中歴』の記録には「聖徳」年号や最後の年号「大長」が記録されていない。『二中歴』の筆者は「大化」のあと「大和政権」が支配権を奪取して「大宝」に引き継がれたと勘違いしているようだ。

 

 しかし「大長」は、大和政権が新しく制定した「大宝」の後も続けて使われていた記録がある。九州倭政権の中心氏族のひとつであった熊曾於族養老5(721)大伴旅人ら「大和政権」の軍に殲滅(せんめつ)されるまで生きていたらしい。九州倭政権は実質的には663年「白村江」の戦いで力を失い、じわじわと攻められやがて「大和政権」に取って代られた。

 

 「大和政権」701年文武天皇になって初めて名実ともに列島の覇者となった。そのいきさつについて『書紀』は一切口をとじている。それでも熊曾於族紀氏など九州政権の残存勢力8世紀初頭まで抵抗を続け、細々ながら生きながらえていたのだろう。年号からもそう読み取れる。 

 

3)新しい使用例発見される

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 平成14年2月、九州年号の新しい使用例が熊本県で見つかった。同県玉名郡和水(なごみ)町にお住いの前垣芳郎氏が近くの元庄屋石原家宅に保存されていた古文書を整理していたところ、九州年号(善記から大長まで31年号)大和政権年号(大宝~)を年代順に並べて記した一枚の紙が出てきた。(写真=部分)江戸時代の天明元(1781)年までに石原家の当主らが作ったものらしい。通報をうけて調べた近くの泗水(しすい)町、久米八幡神社宮司吉田正一氏は「生まれ年による運命や健康占いのためにつくられた納音(なっちん)というものだろう」と考えている。

 

 福岡県小郡市鰺坂(あじさか)の鰺坂小学校東側にある若宮八幡宮の立柱にも「貴楽」という年号がきざまれているのが見つかっている。本殿に向かって左側にある立柱だ。(写真左)「欽明天皇御宇 喜楽二年 建立」と。地元に伝わっていた伝承を昭和31年に記したという。

 

 大和政権の懸命なもみ消し作業にもかかわらず、一般人の間、それも知識人の間では一連の九州年号が時代の物差しとして使われていたことを実証する資料である。それは「常識」でもあったことが間違いなくわかる貴重な資料である。

 

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 前垣さんらはすぐに地元紙である熊本日日新聞に通報したが、同紙の“専門記者„は「それは偽年号とされている」と言って記事にしなかったという。無知なうえ読者に事実を伝えようという意欲もないマスコミの退廃ぶりをまざまざと見せつけた。

 

4)「事実」知られることを恐れる専門家たち

  日本の古代史を知るうえで重要な文献と言えば、国内の現状では『日本書紀』と『古事記』だ。しかしこれまでこのブログなどで何回も指摘している通り『日本 書紀』大和政権が権力を握ったあと作った史書である。客観性はゼロ。日本国内の権力構造と関係のない外国の史書、とりわけ中国と朝鮮の史書とは内容的に 大きな齟齬がある。『古事記』も完成から再発見されるまで約500年間空白があり、『日本書紀』の記述とあまり齟齬をきたさないようかなりな削除や改作がなされているらしい。

 

 国史学者考古学者の多くが『日本書紀』を柱にした古代史を描いてきた。衆を頼んでいかがわしいというか、事実とはかけ離れた古代史を市民に広めてきた。こんな「裏切り行為」がいつまで続くのだろうか。彼らに「良心」というものがあるのだろうか。伝えるべきデータを意図的に隠し、俗世の栄達のみを気にし、「面子(めんつ)」だけを保とうとしているようだ。

 

 「年号学者」という久保常晴や所功らはこの年号群について「公のものでなく、鎌倉時代にどこかの僧侶がでっちあげた私年号である」と主張し、多くの古代史‶専門家〟は調べもせず盲従してきた。

 鎌倉時代に作られた年号がなぜ奈良時代、724年の詔勅に出てきて全国の史書にも記載されているのか。久保らの主張は、実態をわきまえないおかしな主張であることは中学生でもわかることだろう。 

 

「九州年号」を勉強していていつもひっかかることがひとつあった。400個近くも採集されている使用例の多くに「継体天皇」とか「安閑天皇」「欽明天皇」「敏達天皇」「推古天皇」「天武天皇」「持統天皇」など一般に「大和政権の天皇」と考えられている天皇の贈り名(漢風諡号=しごう)がつけられていることだ。

 

 最初この伝え方は「大和政権の天皇でいえば○○天皇」という言い方が強制されたか、あるいは便宜的に使っているのか、とも考えていた。しかしこの年号を使った人たちはそんな“強制„に屈するような人たちではなかったろう。そうではなく、この天皇群こそまさしく「九州政権の天皇たちの諡号(贈り名)」なのではないか、と気づいた。

 

 「『書紀』の巧みな書き方から導かれた虚構の大和政権」の幻影に取りつかれた国史学者らが「これらの天皇は大和にいた」と勘違いしてしまっていたのだ。事実、これらの諡を誰が作ったのかはなぞなのだ。現在候補者として淡海三船があげられているが、その確実な証拠は何もない。

 

 確かに奈良国立文化財研究所や奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査にもかかわらず、7世紀前半までの奈良大和では「天皇が都し、全国を支配するための大勢の官僚群が仕事し、住んだ」と考えられる都城遺構は全く出ていない。『書紀』が「〇〇天皇は××に都した」というに記載している場所は掘りつくした感がある。それでも出てこない。このことと深い関連があったのだ。

 

 この天皇群は筑紫太宰府、あるいは豊前京都(みやこ)、そして「孝徳天皇」からは関西に副都を置いた天皇たちなのだ。放射性炭素による年代測定で太宰府都城遺構5世紀前半には出来上がっていたことが判明している(ブログ5「九州、東北の遺跡年代」など参照)。 

 

 「九州年号」については、江戸時代の国学者鶴峯戊申が「九州年号」と題した古写本の内容を紹介。1970年代に、古田武彦氏九州王朝実在の大きな証拠の一つとして再提唱。旧「市民の古代」グループが全国の史書や金石文などを調べあげ、そこに記された九州年号を収集した(写真上下=『市民の古代』第11集 新泉社刊から=部分)。客観性ゼロの『日本書紀』を真っ当な「史書」と考え、古代史解明の柱としてきた国史学者らは今でも頬かむりを続け、市民を騙し続けている。

 

注1)「倭」を呉音の「わ」と読むのは間違いである。中国の史書が書かれた中原の漢音で「ヰ」と読まなくてはいけない。ブログ1「神武天皇」注など参照 


「松野連(倭王)系図」


 松野連(倭王)系図は、YA論文の中で説明文がありますが各自の続柄についての明示が不明だったので、Webサイト:「おとくに」(フォトカルチャラボ) /古代豪族 / 45「松野連氏」考 から引用させていただきました。



倭王系図の論説


(引用:埋もれた古代史族系図:新見の倭王系図の紹介:尾池誠著・晩稲社刊)

 引用文書の中から、「倭王系図:概要」(P50-56)を抜粋します。

 

倭王系図(概要)

 呉王夫差に始まるこの〈系図〉は、『新撰姓氏録』右京諸番の「松野連 出自呉王夫差也」の記載に一致する。

 

 鈴木真年『通鑑』「周元王三年越ハ呉ヲ亡シ其ノ庶トトモニ海ニ入リテ倭トナル」という記録をもって<倭王系図>呉王末裔伝説を信憑性あるものと見なしたようだ。しかし呉王夫差は『史記』によれば473年BCに確かに死んでいるし、たとえ生き延びていたとしても、夫差自身が倭国に渡来した可能性は極めて薄い。〈

 

 系図〉では、夫差の子を「公子慶父忌」とする。夫差の子としては、『史記』等から「友」の存在が知られているが、その他に『呉氏統譜』や『呉氏家乗』によれば「友」の弟として「地」が見える。「地」は別名を「啓」という。慶父忌の「慶」と「啓」は類似音名であるがにわかには判断しかねる。また呉氏の系譜の中で最も詳細な内容を伝える『施渓呉氏支譜』では友・地の他に嫡子として鴻を付している。それによれば「夫差之子即曹避難易名鴻、各譜僅載友地而無鴻、今按「方輿記」云「昔呉王夫差為起所滅勾践流其三子長子鴻逃于新安、因塟焉爰載之」とあるが特に該当するとも思われない。

 

 さて慶父忌の子は「阿弓」という。その名の左下に小さく「怡土郡大野住」とある。この時はじめて渡来したということであろうか。しかし「郡」という文字の使用からみて、郡制成立後の表記であることはいうまでもない。しかしまただからといってこの記述を史的価値のないものと言い切ることもできない。なぜならこの大野という地は承平年中(931~937)に成立の『倭名類聚抄』には「大野郷」として見えるけれども、早くからその地名は消失してしまっているからである。後世誰かによって書き加えられたものとしても、消失してしまった地名を記載するとは考えられない。そこでこの記事はおそらく何らかの別伝資料を基にして誰かが補ったものか、あるいはもともと古い表記であったのを後世風にかきかえたかのいずれかであろう。

 

 夫差から「刀良」までの八代は兄弟の記載がなく一世代一人だけの簡略系図である。

 このうち阿弓の子「宇閇」とその孫「玖志加也」にそれぞれ「後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬」「永初元年十月貢漢」という二つの著名なできごとが付記されている。さらに刀良の名の右側に小さく「卑弥呼 姫子也」とあり左側に「宣帝時礼漢遣使」とあって一瞬わが目を疑う。しかし、後述するようにこれらも原本にあったものではなく鈴木真年の考証による付注と判断される。

 

 刀良の時代になってそれまでの ” 単系図 ” からはじめて兄弟の複数の系図に変わる。これは単純に伝声資料が豊富になったためと考えられなくもないが、この王族に何か画期的な変化が生じたことの表れではなかろうか。刀良に三人の子がある。「花鹿文、卑弥鹿文、宇麻鹿文」である。(この鹿文はカヤと訓む)そしてこのうち、花鹿文の子として「取石鹿文、弟石鹿文」の二人が記され、二番目の卑弥鹿文に「厚鹿文、迮鹿文」の二人がある。さらに厚鹿文には市乾鹿文、市鹿文の二人の女性が見える。実はこの厚鹿文、迮鹿文兄弟達は、『日本書紀』景行天皇12年の条に熊襲渠師としてそっくりそのまま登場してくる。ここは<倭王系図>の重要さを夷際立たせる革新的な箇所である。

 

 ところが驚くべきことにはこの箇所を訂正するような別の系譜が重ねて書き加えられているのである。その別な系譜によれば 厚鹿文、迮鹿文の父は熊鹿文になっている。そしてその訂正ににとどまらず熊鹿文の祖先系譜が別個に加筆されている。要するに<倭王系図>は実に二つの伝本があったのだ。今「仮に先に記載された方を「第Ⅰ倭王系図」(略称第Ⅰ系図)、あとから加筆されたものを「第Ⅱ倭王系図」(第Ⅱ系図)と呼ぶことにする。第Ⅰ系図に記されていた厚鹿文の末子「鬼毛理」とその子「安志垂」は第Ⅱ系図によって、それぞれ「宇也鹿文」とその子「垂子」とに改められている。また花鹿文の子取石鹿文兄弟についても第Ⅱ系図では厚鹿文の弟迮鹿文の子となっている。

 

 この両系図の関係についてはにわかに判定はしかねるが、これによれば、倭王家は早くから二流に分かれて存在し、厚鹿文、迮鹿文に至ってどちらか一方が王位を譲るなどして再び一系統の王家となったものであろうか。

 

 なお第Ⅰ系図は慶父忌から厚鹿文までが九代、第Ⅱ系図は十一代と世代数にも異同があり、図で示したようにあるいは第Ⅰ系図に見える阿弓は慶父忌の子でなく、第Ⅱ系図に見える順の子で恵弓とは「弓」の字を共有する兄弟であったかとも思われる。

 

 宇麻鹿文の後に「熊津彦、難升米、掖邪狗」、また垂子の弟として「伊謦耆」などという名は『日本書紀』と『倭人伝』とをもって付加した注で、採るに足らないものであることは一目瞭然であろう。この系図が写本であるという弱みをもつにしてもこうした付加部分が見られることは当系図の史料的価値を一層低めかねないが、むろん右の箇所は容易に稚い加筆であることが判定できるので、この点によって他の<倭王系図>の記載の価値を下げるものではない。

 

 垂子の子は「勝」とある。そしてかの著名な倭の五王がこの勝のあとに現れる。しかしそこに記される事績はやはり鈴木真年による注記であると見られる。ただ、『諸系譜稿』によれば(『諸系譜稿』に収められる<倭王系図>は第Ⅱ系図のみである)倭王讃の子としてという名の人物がある点が注目される。

 

 また従来『宋書』が伝える倭の五王の系譜は「讃・珍」兄弟と「済」との関係が不明であったが、この系図によって「珍」の子が「済」であることが判明し、さらには『梁書』に見える「贊・彌」の文字は「讃・珍」の誤りであることも明らかになった。武王の子は「哲」という。これも第Ⅰ系図に別の名が記されていたのを第Ⅱ系図によって訂正したもので、訂正前の名は判読できない。

 

 しかし哲の名の側に小さく倭国王とあるのは、原本からのものと思われ重要である。哲の子を「満」という。満には何の事績も記されていないが、私見によれば、この満王こそは『日本書紀』『古事記』に見える筑紫国造磐井君(石井)にあたると考える。

 

 この磐井を筑紫国造とするのは、これを滅した新大倭王権が一介の地方豪族に見たてたことによる呼称であり、無論歴史的事実とはいえない。またのちの筑紫国造族は磐井とは何らの関わりもない別系の氏族である。(『景行紀』に市鹿文を火国造にしたとされているが、これものちの肥国造族とは無関係であるのと同様である)

 

 満の子牛慈には「金刺宮御宇服従為夜須評督」とある。牛慈はおそらく『日本書紀』に見える磐井君の子葛子にあたると思われる。金刺宮欽明天皇を指し、このときに服従したということは倭王家欽明天皇の時に滅亡したということだ。このあたりは多くの問題を含む最も重大なところであろう。牛慈の子は長提といい「小治田朝評督、筑紫前国夜須郡松峡野住」とあるように倭王家遺裔が、夜須評督という地方豪族になっていく経過が読みとれよう。そしてこのとき以来の居住地「松峡野」に因んで、長提の孫津万呂は松野連を賜る。それは甲午籍とあるから694年のことである。延暦十四年(795)津万呂の玄孫楓麿は京へ移り右京に貫せられた。

 

 そしてその孫娘は藤原諸貞の妻となって貞守を出生したとあるが、これは『尊卑分脈』に貞守の母として松野氏とあるところに一致している。以後松野氏は在京官人として表舞台に姿を現すこともなく続き十一世紀ころ美濃に移住した系統が生まれ、大きくは二系統の松野氏が分在することとなったようである。以上ざっと流れを追ってきたが、この系図の成立年代については松野連に関する外部史料が全く存在せず決定することは困難である。しかし「夜須評督」という表記の見えるところから七世紀中頃には既に今見るような原型はできていたと考えて洋であろう。


分離掲載:令和3年7月7日