1 邪馬台国論争
(1)概要
(2)「魏志倭人伝」中の “邪馬台国”
(3)名称・表記
(4)邪馬台国に関する論争
(5)邪馬台国論争の研究・論争のまとめ
2 邪馬台国畿内説
(1)邪馬台国畿内説の論者
(2)邪馬台国畿内説の基本論拠
(3)纒向遺跡
(4)箸墓古墳
3 邪馬台国九州説
(1)邪馬台国九州説の論者
(2)邪馬台国九州説の基本論拠
(3)主な比定地
4 邪馬台国東遷説
(1)邪馬台国東遷説の論者
(2)国家東遷説
(3)少数東征説
5 邪馬台国四国説
6 フィクションにおける邪馬台国
(引用:Wikipedia)
邪馬台国は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合 ( 邪馬台国連合 ) の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから「やまたいこく」の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。
中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ているため。また誤写ではないとする異論がある)。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本項でも「邪馬台国」と表記する。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立 ( 1世紀中頃か2世紀初頭 ) から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。
女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期から間もなく248年頃に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、卑弥呼宗女の「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が巫女女王になることで連合国が収まった。壱与女王は266年に晋の武帝に朝貢している。なお壱与の治世時期は、近畿ヤマト王権では崇神天皇治世時期に重なるとする説もある。
なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。
(引用:Wikipedia)
以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。
1)道程
魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡から邪馬台国に至る道程が記されている。
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國 從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴 又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸 東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる。道程についても「連続説」と「放射説」がある。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた。
その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。
2)倭地、女王国の地理
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至 參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
女王國から東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国があることは、九州説を前提とすれば近畿を、畿内説を前提とすれば東海地方や琵琶湖の対岸が想起される。その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があるがこの地は女王国からは4,000里である、などと説明されている。それとは別にまた船行一年にて行ける所として裸国と黒歯国があった。
倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」とある。この周旋5,000里については、女王国までの12,000里から帯方郡から狗邪韓国までの7,000里を引いたもので、倭国領域内での行程を机上で算出したものにすぎないという説と、後述する短里説によれば一周400km弱となるから九州のことだという説、及びその他の諸説がある。
3)政治
收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、国々には市場が開かれ、「大倭」に交易を監督させていた。
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
女王国より北には特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れていた。常に伊都国で治めており、中国でいう刺史のようである。王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣する際や、郡の使者が倭国に来た際は、皆が津に臨んで伝送文書と贈物を披露し照合して女王に送っていたので間違いは起こらなかった。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
倭国には元々は男王がいたが、70-80年くらい男王の時代が続いた間は戦乱があり毎年のようにお互いに攻撃していたので、一人の女子を共立し王とした。名を卑弥呼といい、女王は鬼道を使い、能く人心を掌握し、既に高齢で、夫は持たず、弟が政治を補佐した。卑弥呼が王位と為ってからは、人と合うことは少なく、1,000人の女性が侍っていて、ただ一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。宮室や楼観で起居し、険しい柵を設け、常に多数の兵士が守衛をしていた。
女王国の北の伊都国に一大率が置かれたという記述は、伊都国から南に邪馬台国があるという記述と一致する。卑弥呼に関する「鬼道」という言葉を「呪術カリスマ」とみて、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)であるとする見方がある一方、単に祭祀を行っていたとする見解もある。
また、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治(ヒメヒコ制)とする見方もある。
卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
卑弥呼が死去すると直径が100歩ほどの大きな墳墓がつくられ、奴婢100人あまりが殉葬された。その後男王が立てられたが、國中はこれに服さず更にお互いを誅殺し1,000人あまりが死んだ。再度、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與(臺與)を王と為し遂に国は定まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭した。壹與も魏に大夫率の善中郎將掖邪狗など二十人の使者を送り、男女の奴隷30人、白珠五千孔、大句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢した。
4)魏・晋との外交
「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。詳細は以下の通り。
●建安年間(196年-220年)公孫康が屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、後漢の遺民を集めるため公孫模や張敞などを派遣し兵を興して韓と濊を討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。
●景初2年(238年)、魏の明帝は劉昕を帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、この両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。
・6月または景初3年(239年)6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
・12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝(12月8日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
・8月23日帯方郡と楽浪郡を支配していた公孫淵が司馬懿により斬首される。
・帯方郡と楽浪郡が魏に占領される。
・景初3年(239年)春正月丁亥日(1月1日)明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。
●正始元年(240年)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
●正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
●正始6年(245年)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
●正始6年(245年)帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂は嶺東へ遠征して濊を討った後、郡内の韓族が反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族を討ち滅ぼしたが弓遵は戦死した。
●正始8年(247年)女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
●女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。
この後、『日本書紀』の「神功皇后紀」に引用される『晋起居注』(現存しない)に、泰初(泰始の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀にも泰始2年に倭人が朝貢したとあるので(女王という記述は無いが)現在では、時代的に考えるとこの女王は神功皇后ではなく邪馬台国の壹與であり、新女王の壹與が魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられる。 なお、266年頃は近畿のヤマト王権では崇神天皇の時代と考えられている。
5)言語
魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の邪馬台国の言語の特徴は8世紀(奈良時代)の日本語の特徴と同じであることが、森博達らによって指摘されている。
その特徴とは
①開音節(母音終わり)を原則とする。
②ア行は原則として頭音にくること。つまり二重母音は回避されること。
③頭音には原則としてラ行が来ないこと。
④頭音には原則として濁音が来ないこと。
などである。
こうした特徴が見出されることは現代日本語の基礎が邪馬台国時代にすでに形作られていたことを物語る。二重母音回避の規則性に従えば「邪馬台」を「ヤマタイ」と発音することは回避され、「ヤマト」あるいは「ヤマダ」等に発音されることになる。
6)風俗
魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾がある。以下は便宜上その2ヶ所を区別せず列記する。
・男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
・その風俗は淫らではない。
・男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
・着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
・稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
・牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
・兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
・家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
・人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
・倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
・真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
・特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
・集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
・敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
・長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
・身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
・女は慎み深く嫉妬しない。
・盗みは無く、訴訟も少ない。
・法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
・宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
7)邪馬台国のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢を最後にして、5世紀の義熙9年(413年)倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで150年近く中国の史書に倭国に関する記録はない。これは壹與以後に邪馬台国連合が衰えて中国に朝貢する国力も無くなったためであろう。
このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。 邪馬台国連合とヤマト王権との関係については諸説あるが、若井敏明は「邪馬台国の滅亡 吉川弘文館2010年出版」で、邪馬台国連合は九州北部にあり近畿のヤマト王権との関係は無かったとした。しかし西暦366年頃のヤマト王権の仲哀天皇・神功皇后の九州遠征により邪馬台国末裔は最終的に滅亡したとしている。
(引用:Wikipedia)
1) 名称・表記
現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)の刻版)と紹熙本(紹熙年間(1190年 - 1194年)の刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』は成本が10世紀で現存の『三国志』写本より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。
『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。
日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。
表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説などがある。
2)発音
邪馬臺(台)國(国)
秦 漢 :ʎia mɔ dʰəɡ kwək
魏 : jia ra əї ək
隋 : jia ma dʰɑ̆i kuək
現代: yé ma tái guó
実際にはさらに複雑多岐で時代や地方で発音が異なる上に忘れ去られたと考えられる発音もある。
「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する対馬國を対馬,一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに発音の近さを手掛かりの一つとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から場所をあてはめようとするものである。
新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定してその場所を比定したと考えられている。
「邪馬壹國」の表記から、三世紀の音符は【 旁 】(つくり)にあり【 壹 】の旁は【 豆 】であって「登」あるいは「澄」と同様に「と」と発音されていたして、「やまと」と読む説もある。
なお、『隋書』『北史』は、邪馬臺国の発音に関する記述(邪靡堆、邪摩堆)があるが、堆は過去にも現在にも「壹」(イ)の音には発音しない。
現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい。
(引用:Wikipedia)
日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志倭人伝」から引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。。
なお、一般に「魏志倭人伝」の名称で知られるのは『三国志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷伝の一部分で(参照→Wikisource)、以降に書かれた中国の正史もしくはそれ以外の史書にも、この「魏志倭人伝」に由来すると思われる記事が少なくない。
史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。
古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石は「古史通或問」において奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。
その後、国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。
これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。
1)位置に関する論争
厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに単純に距離と方角を足していくと邪馬台国は太平洋の真ん中に行きつく。ゆえに、新井白石も本居宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。
江戸時代から現在まで学界の主流は「九州説」(白鳥庫吉ら)と「畿内説」(内藤湖南ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説(若井敏明の2010年の著書「邪馬台国の滅亡」など)がある。は、筑後川下流域にあった邪馬台国後裔は仲哀天皇の九州遠征により365年頃に滅亡したとしている。
邪馬台国は魏志倭人伝に記載のあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)から『日本書紀』の晋書起居註に記載があるように壹與が晋に泰始2年(266年)に朝貢したことから、3世紀に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した邪馬台国からヤマト政権に政権が移ったことになる。邪馬とは、山と音訳出来る。
2)連続式と放射式
●「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従って方角を90度読み替えたり距離を修正しながら比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対海国・一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる説。
●「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説。伊都国までは連続読みと同じだが、その先は表現方法が変化していることから、伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点に読んでいく説。
●同じ「放射式」だが伊都国ではなく末廬国を起点とする説。
●伊都国を起点とする放射式だが、投馬国への行程だけは伊都国からでなく不彌国から連続して読む説。言い換えると、邪馬台国までの「連続式」の行程とみて奴国と投馬国の二つの「傍線行程」(支線)があると解釈するもの。
・さらに古田武彦は邪馬壱国への「水行十日・陸行一月」を「帯方郡→邪馬壱国」の日程と解釈し、不弥国の南に邪馬壱国が「接している」とする。
3)距離の計算
「魏志倭人伝」の距離(里数)が大雑把に約5倍に誇張されているという問題については、後述するように短里が使用されていたとする説、当時は兵力などを10倍に誇大に記載する例が多いことから、公孫氏を滅ぼした魏軍が帯方郡を接収した当時の軍事報告に基づいたためという説、魏が呉を地理上挟み撃ちにできるとして威圧する目的で、実際より南の呉の近くにあるように見せかけるため都合よく書き換えたという説、曹爽の功績である「親魏大月氏王」の距離と、曹爽の政敵の司馬懿の功績である親魏倭王の距離のバランスをとるため誇張したという説、などがある。
宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。
また「自郡至女王國萬二千餘里」の記述は、行程に関する最も重要な一文であるにも関わらず、多くの説において故意に無視されている。
3.1)短里説
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。
古田武彦は、魏・西晋時代時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。これを傍証するように、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる。これは、三国志が「蜀志」については、漢の伝統を守っていたことを陳寿はそのまま記したものと思われる。これを「魏朝短里説」という。
これに対して安本美典らの説では「短里は東夷伝の三韓条と倭人条のみに見られ他の箇所では存在しない」として、魏朝の制度ではなく、倭韓の地に周の古い度量衡が残存した可能性を示唆しているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する。周代の度量衡であるかは別として、藤田元春、宝賀寿男なども倭韓地短里説を採る。
なお渡邉の著書では白鳥庫吉までも短里説論者に入れているがこれは誤認であり、白鳥は「全体で」平均すると約5倍になっていると言ってはいるが、個々の数値は1里あたりの実測距離がバラバラであることから、特定の距離単位が実在したとは認めていないので、短里説論者ではない。
4)邪馬台国所在地説 (後述)
● 邪馬台国畿内説
● 邪馬台国九州説
・21世紀に登場した異説
● 邪馬台国東遷説
● 邪馬台国四国説
● フィクションにおける邪馬台
※(参考)主要な邪馬台国論争(要約)
図出典:確認中
※(参考)邪馬台国の謎(全国マップ)
図出典:『古代史推理ガイド』(学研 古代史斯道会編)
5)邪馬台国論争の研究・論争のまとめ(引用:Webサイト「神社と古事記」)
以下の表は、Webサイト「神社と古事記」から引用させていただきました。
5.1)明治まで
5.2)明治期
5.3)大正期
5.4)昭和(戦前)期
5.5)昭和(戦後・前半)期
5.6)昭和(戦後・後半)期
5.7)平成(20世紀)期
5.8)平成(21世紀~2005)期
5.9)平成(21世紀~2010年)期
5.10)平成(21世紀~2020年)期
※年代などはおよその年などを示している場合がある。
※著名説から、知られていないものまで、また、珍説・奇説と思われるもの含めて、網羅性に重点を置いている。
※現在、精査中の情報もあり、まだすべてを表示しているわけではない。
ーWebサイト「神社と古事記」より
(引用:Wikipedia )
新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いた。しかしのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。
ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。
1960年代には、畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物があまり出土しないのに比べ、九州では豊富であると考えられていたが、1970年代から交差年代による考古学的年代決定論の研究が進み、畿内説を有力とする意見もある。
2000年代に入り、奈良県の纏向遺跡と箸墓古墳を邪馬台国と卑弥呼の墓に比定し大和朝廷の成立時期がさかのぼるとする、放射性炭素年代測定と年輪年代学による年代観が国立研究所によって示された。畿内の土器の放射性炭素の測定を国立研究所が行って畿内の大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代までさかのぼるとの説もあるにある。
この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。
ただし、九州説・畿内説・東遷説はどれも結局のところ、「ヤマト王権」は「大和朝廷(天皇系統)」であるか否かをそれぞれが説明するために作った説で、場所の比定が先にあるのではなく、大和朝廷とは何か、現在の政治権力と大和朝廷の関係はこうあるべきだと説明するために邪馬台国論争は始まったのである。
(引用:Wikipedia)
邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの複数の説が存在する。この中では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が有力とされている。 邪馬台国畿内説では、「畿内には最大級の都市遺跡がある。魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であったはず」という仮定に基づいている。
1)畿内説の基本論拠
① 纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。
② 年代調査の成果により、魏志倭人伝の時代(卑弥呼247年頃(3世紀半ば)没)と遺跡の時代(始期は2世紀後半(180年)〜3世紀前半(210年)頃。最盛期は3世紀終わり頃〜4世紀初め)が概ね合致していると考える。
③吉備、阿讃(東四国瀬戸内側)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が卑弥呼の没年近くに作られはじめ(箸墓古墳)、大和を中心に分布し、時代が下るにつれて全国に広がっていったこと。
④3世紀後半には北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
⑤卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布していること。
⑥弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち魏の年号を記した10枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、そのうちの5枚が畿内に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる勢力であったことを物語ると考える。
⑦『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を神功皇后に結び付けているように読める。
⑧『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。
⑨近畿は南に無いが、現存する「魏志」はすべて宋時代の刊行本を元としているので、それ以前の写本の中に、南を東と記載したものがある可能性。
畿内が卑弥呼の没後である3世紀後半から国内最大規模の勢力として存在していたことは疑いようがない。
2)畿内説の弱点
逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。
①魏に朝貢したからと言って、邪馬台国が日本列島最大勢力であったとは限らないこと。さらに纏向遺跡からは九州地方の遺物の出土も乏しく、大陸系の遺物は全くといってよいほど発見されていないこと。
②纏向遺跡の年代の問題から卑弥呼治世時の遺跡とする見解に対する批判があり、上記説に伴って邪馬台国と大和の二朝並立説や、王朝とまではいえなくとも邪馬台国とは別の地方勢力があったと考えられること。
③倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土するが、畿内からは極わずかしか出土しない。ただし鉄に関しては淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認された。
④「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が海洋民ものである事。(奈良に海は無い)
⑤「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。ただし畿内に定住した海神族などの事情もあり、上記説と合わせてこれだけでは否定する論拠にはならない。
⑥「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然。
⑦「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北部九州の国より南側にあること。また、記紀には元伊都国王や元奴国王が北部九州征伐に行った仲哀天皇に降伏して、玉や剣など先祖伝来の神器を仲哀天皇に差し出したとの記述があること。
すなわち邪馬台連合構成国だったこれらのクニグニはこの時点(4世紀半ば)で初めてヤマト王権に服属した(若井敏明:邪馬台国の滅亡)。
⑧『旧唐書』では邪馬台国と日本国を別国として扱っていること。
3)重要視されなくなった根拠(説)
かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない説は以下である。
①三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400~500面以上になること、中国や朝鮮半島から1面も出土例がないこと、製造時期の長さから特鋳説には無理があること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表するなど中国の学者が概ね日本鏡説を支持したことなどから、九州説の側から「三角縁神獣鏡は全て日本製」との反論を受けた。
②邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
(引用:Wikipedia)
纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。
3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。
1)立地と遺跡概要
辻地区 遠景 纒向遺跡 辻地区
建物遺構の奥にJR桜井線巻向駅。左後方は三輪山、右端には箸墓古墳。
遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。
2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km2になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km2(300万m2)に達する。
地勢は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。縄文時代に土石流の流れ込みがあり被害があった事が確認されている。そのためか、遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみである。
この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されている。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。
ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者から、邪馬台国の最有力候補地ともされる。2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある。
ただし年代推定には技術的に誤差が大きく、また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと古墳時代のものが見つかることが多いので、纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できないことに注意する必要がある。石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。
飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨書された土器も検出されている。
遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定された。
2)発掘調査
纒向遺跡は1937年(昭和12年)に土井実によって「太田遺跡」として『大和志』に紹介されたのが最初である。現在の名称で呼ばれるまでは「太田遺跡」・「勝山遺跡」として学界に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され、特に注目を集めていなかった。
しかし、炭鉱離職者の雇用促進のための県営住宅建設および小学校建設計画が持ち上がり、それを契機に1971年(昭和46年)より橿原考古学研究所によって事前調査が行われることとなった。
その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が検出され、地元の万葉研究者である吉岡義信らが『万葉集』に登場する「巻向川」の跡ではないかと述べたことから、注目を集めることとなった。
川跡からは、吉備の楯築遺跡や都月坂遺跡で出土している特殊器台が出土した。その後も、橿原考古学研究所の石野博信と関川尚功を中心に発掘調査がなされ、様々な遺構や出土品が広範囲にわたり確認された。
1977年(昭和52年)の第15次調査以降は、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在も調査を継続しており、調査回数は100次を超えている。2008年(平成20年)12月段階でも、遺跡は全体の5%が発掘調査されたにすぎない。
2009年(平成21年)にはいくつかの建物を検出し、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきた。
纒向遺跡発掘に携わった奈良県桜井市教育委員会は、遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2,000個が見つかったと2010年(平成22年)に発表した。桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。
また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかったと発表した。
2.1)主な検出遺構
唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模であるとする。また、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。
●矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、「北溝」「南溝」と称される。
・南溝:箸墓古墳の突出部先端付近の巻向川から北西方向の現纒向小学校方向に延びる。水源は箸墓古墳周濠。濠の背後に国津神社があり、現在の巻向川に到達する。
・北溝:北東の旧穴師川から南西方向に延びる。水源は旧巻向川である。
両溝の合流地点は纒向小学校グラウンドの中にあり、推定2,600mにおよぶ。これは大和川と通じており、遠く外海へと結ばれている。
●底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3m・深さ約1.5mの一方が突出する不整形な円の土坑が約150基検出された。
●掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23m2の建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立柱建物17棟検出)
●竪穴式住居 ただし、竪穴式住居は多くなく、高床式建物が建ち並んでいたものと考えられる。
●弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝
●導水施設跡(宮殿の排水施設か)
●祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)
●製鉄跡 - 「ツクシ型送風管」を伴う鍛冶遺跡。畿内で鉄が精錬された4世紀後半のものと推定される。
●集落をめぐる柵
●遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群)
また、地上では確認できない埋没古墳が地中に多数埋蔵されている可能性がある。
2.2)主な出土遺物
●弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土しており、出土した弥生土器・土師器により纒向編年がなされている。それによれば、弥生土器第V様式(纒向1類)、庄内式土器(纒向2類・纒向3類・纒向4類)、布留I式(纒向5類)の5期に時代区分がなされている。しかし年代についてはC14年代測定法によるもので100年以上古く推定されている可能性がある
●朱色に塗った鶏形木製品
●吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組み合わせて文様を施した「弧文円板」と呼ばれる木製品。
●絹製の巾着袋 しかし絹が畿内で生産されるようになったのは4世紀以降である。
●瓦質土器(1996年(平成8年)に土器片の出土。胎土成分組成の分析により、2001年(平成13年)に国内で類例のないものであることが確認され、朝鮮半島の技術で作られたものと判明した)
●ミニチュアの舟
●木製鏃
●石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品
●多数の搬入土器(外来系土器)
しかし、銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、ここが邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。
2.3)纒向遺跡の主な古墳
奈良県桜井市にある、纒向古墳群に属する古墳。纏向遺跡内では最古の古墳の可能性がある。また、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。2006年(平成18年)1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。
・被葬者:不明
・墳形:纒向型前方後円墳丘墓
・規模:全長96m、後円部径64m、前方部の長さ約32m、幅約34m。
奈良県桜井市の纒向古墳群に属する古墳。2006年(平成18年)1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。
・被葬者:不明(新聞掲載によると卑弥呼の父の墓では?)
・墳形:前方後円墳丘墓(葺石・埴輪なし)
・規模:全長115m、後円部径70m、前方部の長さ約45m、くびれ部の幅約26m。
奈良県桜井市の纒向古墳群に属する古墳。2006年(平成18年)1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。
・被葬者:不明
・築造時期:古墳時代前期初頭(3世紀中頃以前)
・墳形:纒向型前方後円墳(葺石・埴輪なし)
・規模:全長約96m、後円部径約64m、後円部高さ5m、前方部長32m
奈良県桜井市の纒向古墳群に属する古墳。2006年(平成18年)1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。
・被葬者:不明
・墳形:纒向型前方後円墳丘墓(葺石・埴輪なし)
・規模:全長約120m、後円部径約68m、後円部高さ9m、前方部長約50m
奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型前方後円墳ともいわれるホタテ貝型の前方後円墳である。2006年(平成18年)1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。現在、復元整備され一般に公開されている。
・被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)
・築造時期: 以前から豊富な鉄族や鉄製刀剣類、鉄製農工具などの副葬品や埋葬施設の形式から4世紀の古墳と考えられてきた。しかし、桜井市纒向学研究センターは築造を邪馬台国の時代(3世紀中頃)に重なるとしている。奈良県立橿原考古学研究所は、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃としつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含むと報告している。
邪馬台国の会はこの測定結果と、石囲い木槨(割竹形木槨)を持つことが『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし。」という記述と矛盾することから築造は4世紀であるとし、邪馬台国畿内説に対して疑問を呈している。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている。
・墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)、円墳に短い前方部を東南方向に付けている。
・規模:全長約80m。後円部径約55m、前方部長約25m、後円部高さ約85m前方部高さ約3.5m
●箸墓古墳:後述
2.4)特異な遺跡
●纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多い。
●辻・トリイ前地区でほぼ南北に2×3間の掘立柱建物とその南に東西に並ぶ柵列が、太田南飛塚地区で家屋倒壊遺構が、巻野内家ツラ地区で1×1間の小家屋と2×2間の総柱の建物が検出されている。このほか太田メグリ地区では、掘立柱建物が17棟が東田柿ノ木地区・太田飛塚地で竪穴住居跡が検出されている。
●
石野博信によれば、「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」である。
3)遺跡の特徴
●弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡である。
●当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡である。
●遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っており、ヤマト王権最初の大王墓である。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。
●倭迹迹日百襲姫命は、一説に邪馬台国の女王・卑弥呼とされる。しかし、本遺跡からは卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない。また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない。
肥後和男は大正時代の笠井新也の見解を紹介している。それによれば、笠井は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇にあてた。
その根拠は、
①崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い。
②モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ているとする。
③モモソヒメは崇神天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)から見れば甥と弟ほどの誤りは許されるであろうというものであった。
この説に対しては懐疑的な意見も多いが、考古学者のなかには最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳であることから箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの白石太一郎らの見解がある一方、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、『魏志』倭人伝の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の記述があるが、魏志倭人伝使われている短里の場合古墳の大きさは30m前後となり、箸墓古墳は大きすぎることになる。
さらに、魏志倭人伝では古墳の大きさは径で記されていることから、円墳かそれに類似したものと考えられる点も異なる。
●3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達するが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。
2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられる。
一方で、関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
3.1)ヤマト王権の王都
寺沢薫(※)は、「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」の中で、纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている。
※寺沢薫(1950年~):日本の考古学者。主として弥生時代・古墳時代を研究している。現在は、纒向学研究センターセンター長。過去に、奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長。古代学研究会の代表を務める。
①3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。
②搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた。
③生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。
④導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。
⑤居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。
⑥鉄器生産。(纒向遺跡では鉄器は見つかっていない)
また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されている。
寺沢はこのように述べた後、「このような考古学的・文献学的特徴をトータルに備えた巨大な集落は、三世紀の日本列島には他に存在しない。とすれば、三世紀の纒向遺跡こそが、『ヤマト王権』と呼ばれる列島最初の王権の都宮が置かれた都市であった可能性がきわめて高いといえる」と結論付けている。
石野博信(※)もまた、大和川につながる護岸工事の施された大溝や祭祀場が検出されたこと、また、近畿以外の諸地域からもたらされた土器が異常に多いこと、そして、これらの土器の構成から纒向には少なく見積もっても5人に1人はヤマト以外のクニグニからやってきた人々であろうと推定されることを論拠として、決して自然発生的なムラではなく、人工的に造られた都市であるとしている。
※石野博信(1933年~):日本の考古学者。奈良県立橿原考古学研究所研究嘱託、兵庫県立考古博物館名誉館長。主として古墳時代を研究領域としており、とくに纒向遺跡の発掘調査に携わったことで知られる。
また、次のような指摘も、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都であるとの見解を補強している。
●周囲には5世紀の雄略天皇の長谷(泊瀬)朝倉宮、6世紀の欽明天皇の師木(磯城)島大宮(金刺宮)などの宮もみられる。
●『万葉集』にも纒向の地名を詠んだ歌が数多く収録されている。
3.2)前方後円墳発祥の地
遺跡内に所在する箸墓古墳は、一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとする説がある。寺沢薫は、纒向石塚古墳など箸墓古墳に先立つ纒向古墳群に属する墳丘墓を「纒向型前方後円墳」の概念を用いて捉え、これらを出現期古墳に位置づけている。
※詳細解説(引用:文化庁国指定文化財等データーベース)
纒向遺跡は、奈良盆地東南部に所在する、3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めに営まれた大規模な集落跡である。周辺には、纒向石塚古墳をはじめとする史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が点在している。
この遺跡については、昭和46年以降、桜井市教育委員会及び奈良県立橿原考古学研究所が176次にわたって発掘調査を実施してきた。その結果、遺跡は東西2km、南北1.5㎞という、当該時期では類をみない規模であることが判明した。今回指定しようとするのは、そのなかの、辻地区と太田地区の一部である。
〔辻地区〕
辻地区においてはすでに多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出されている。平成20年からの調査で掘立柱建物は3世紀前半期とみなされるもので、3棟の掘立柱建物が東西に連続して存在している。
もっとも大きい建物は、桁行4間、梁行は現状で2間、復元すると4間と考えられ、南北19.2m、東西12.4mで、その西側には、独立棟持柱建物、さらにその西にも掘立柱建物が検出され、柵で囲まれていた。
さらに、その西側にも多くの柱穴及び井戸が確認されている。これらは、微高地に位置し、軸線と方位を揃え、一連の建物群は強い規格性を有しており、これらは居館を構成するものとみなされる。その範囲は東西150m、南北100m前後の方形を呈すると考えられている。
また、建物廃絶後の庄内式期の長径4.3m、短径2.2mの土坑からは、線刻のある土器や底部穿孔の土器、ヘラ状木製品や黒漆塗りの弓、剣形木製品などが出土した。このほか、イワシ類・タイ科などの魚類、カエルなどの両生類、ニホンジカ・イノシシなどの哺乳類、そして2000個以上のモモの種などが出土し、当時の祭祀のあり方を知る上できわめて重要である。
〔太田地区〕
一方、辻地区の南方、谷を挟んだ太田地区では、掘立柱建物、祭祀土坑などと、墳長28mの前方後方墳(メクリ1号墳)、方形周溝墓、木棺墓、土器棺墓なども検出された。時期は庄内式期であり、史跡纒向古墳群などと同時期である。
〔出土遺物〕
このほか、この遺跡で注目される出土遺物としては、東海をはじめ、南関東から北部九州という広範囲にわたる他地域の土器が出土していることである。地点によっては全体の15〜30%を占め、この遺跡の性格を考える上で重要である。
このほか、銅鐸片や鳥形・舟形の木製品、木製仮面の出土も注目される。布留式期になると、鞴の羽口や鉄滓なども出土し、鉄器製作を行っていたことも明らかとなっている。
〔遺跡の意義〕
纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀始めにかけて営まれた、きわめて大規模な集落跡である。しかも、本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上できわめて重要である。
また、同時期の居住域や墓域及び祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっていることも明らかとなった。出土遺物も豊富で、東海系の土器をはじめとする他地域の土器が多数出土する点も注目される。
〔遺跡周辺〕
この遺跡周辺には、史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が多数存在し、これらの古墳との関わり、すなわち大和政権と関わりのある遺跡とみなされる。
このように、纒向遺跡は我が国における古代国家形成期の状況を知る上できわめて重要である。今回、もっとも保存を急ぐ居館域等を史跡指定し、保護を図ろうとするものである。
(引用:Wikipedia)
箸墓古墳(はしはかこふん)、箸中山古墳(はしなかやまこふん)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。
また、笠井新也の研究以来、邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする学説がある。周濠部分は国の史跡に指定されているほか、一部が「箸中大池」としてため池百選の1つにも選定されている。百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが名前の由来である。
墳丘全景(右に前方部、左に後円部)倭迹迹日百襲姫命大市墓 拝所
(引用:Wikipedia)
1)概要
奈良盆地東南部、三輪山北西山麓の扇状地帯に広がる大和・柳本古墳群に含まれる纒向古墳群(箸中古墳群)の盟主的古墳であり、纒向遺跡箸中地区に位置する。出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳である。
築造年代は、墳丘周辺の周壕から出土した土器(土師器)の考古学的年代決定論と、土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国の卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀中頃から後半とする説がある。
一方で、近年炭素14年代測定法では、実年代より50-100年程度古く推定されることが明らかとなっていることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっていることなどを理由に、4世紀中期以降とす説もある。
現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。
考古学の世界では、大正期から邪馬台国畿内説を唱えていた笠井新也により「女王卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説が提唱され、後に「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説へと進展、今日の議論にも繋がる先駆的研究となった。
2)名の由来
名前の由来は、百襲姫の陰部に箸が突き刺さり絶命したという説話に基づく。『日本書紀』崇神天皇10年9月の条には、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。
倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。
大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。
ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。
それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。
ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)
また、築造について『日本書紀』には、 「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」 と記されている。
なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と神話における説話との間に大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛の説もある。
3)築造時期
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されている。陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土した。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280~300年(±10~20年)と推定している。
しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。
4)年代に関する意見
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としている。白石太一郎は3世紀中葉過ぎとし、「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、その後継者である台与の時代である。」とも言っている。寺沢薫は260~280年頃、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとする。
日本最古の前方後円墳などと紹介されるが、前方後円墳としてホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、神門古墳群(神門5号墳・神門4号墳)、辻畑古墳など多数ある。これらの纒向型前方後円墳といわれる墳形とは異なり箸墓古墳は方形墳丘の部分が拡大した定型的な前方後円墳となっており、築造時期は3世紀後半以降から4世紀前半までと考えるのが一般的である。
5)被葬者
宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。
その根拠としては、
・この古墳の後円部の直径が長里説を取れば『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致するとしている。定説では、魏・晋時代の一尺は24.3センチメートル、一里は1800尺=300歩であり、魏・晋時代の1里は約435m、1歩はほぼ145cmとなり100余歩は約145m強となる。
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること。この点は調査により当初から前方後円墳であったことがわかり否定されている。
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること。
一方これに対する反論もあり、根拠としては、
・魏志倭人伝では、對馬國や一大國などの旅程記事などから一里約76メートル(これを短里と呼ぶ)とする説が有力であり、この場合古墳の直径は約30メートルとなる。またこれだけ巨大な前方部が無視されている合理的な説明がつかない。
・もっとも早い築造であっても並立王朝説などに対しては全く反論にならない上、早くとも3世紀後半という卑弥呼没年との築造年代のズレも問題がある。
・殉葬跡が存在せず、箸墓古墳と同時期に築造された古墳は全て有棺有槨であるなど、『魏志倭人伝』の槨がないとの記述と一致しない。
といったものがある。このような議論があり、意見の一致を見ていない。
広瀬和雄は「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」と述べている。
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」としつつ、卑弥呼の墓である蓋然性は高いとする見解を示している。
石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓とし、「纒向遺跡。二世紀末に突然あらわれ、四世紀中頃に突然消滅したこの大きな集落は、邪馬台国の有力な候補地として浮かびあがってきた」としている。
箸墓を寿陵と考える寺沢薫は「壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこよう」と評価している。
宝賀寿男は古代氏族研究を通じて古代においても男性優位であった状況を踏まえ、女性陵墓説を退けて実質的な王権設立者である崇神天皇の真陵説を唱えている。
奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を280~300年(±10~20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており、C14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることが判明したとして、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低いとする意見もある。
2009年(平成21年)5月30日に国立歴史民俗博物館名誉教授の春成秀爾は、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする研究成果を報告した。ただし、歴博は弥生時代開始をAMS法で測定した結果、これまでの定説より600年早い紀元前10世紀から始まったと発表して批判を浴びており、箸墓周濠出土の土器でも通説より20年ないし数十年ほど古い値が出ている としているが、海洋リザーバー効果を考慮していないなど多くの批判がある。
歴博教授の西本豊弘らによる2009年(平成21年)1月の報告によると、紀元前650年付近と紀元後100年頃から200年頃に放射性炭素濃度が世界標準と乖離する部分があることがほぼ確実となっており、これを補正するために日本独自の炭素年代較正曲線(J-Cal)がまとめられつつある段階で、年代推定には誤差があることに注意する必要がある。
2011年(平成23年)には、国立歴史民俗博物館調査チームによる日本産樹木年輪資料を用いての較正を行った結果として、築造「直後」の年代を西暦240年-260年頃と報告した。
白石太一郎は、この自然科学分析による年代測定結果は、現代の考古学による古墳出現期の暦年代観とも巨視的に一致するとして肯定的に評価しつつ、築造開始時期が西暦240年よりも古くなる可能性をも示唆する報告書の見解については、分析に使用した布留0式土器が出土状況からみて築造「直後」のものとは考えにくい(築造開始時期とする可能性のほうが高い)として疑問を示している。
いずれにせよ、現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりである。
(引用:Wikipedia)
1)概要
新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。
ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある。一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある。
2)論者
邪馬台国九州説を唱える論者には、新井白石、白鳥庫吉、原田大六、田中卓、古田武彦、鳥越憲三郎、若井敏明、安本美典、宝賀寿男らがいる。
また『記紀』などの国内資料に基づく研究については、坂本太郎『国家の誕生』や原秀三郎らの指摘にも関わらず、考慮されない傾向があるといわれ、若井敏明はこうした傾向について、戦前に弾圧された津田左右吉の学説が戦後一転してもてはやされたことに起因するとして批判している。
(引用:Wikipedia)
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の御井郡、福岡県の大宰府(太宰府市)、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群、熊本県の球磨郡など諸説が乱立している。邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。
1)根拠
①帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること。
②邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。
③「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること。
④「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている。
⑤「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。またそれに伴って、3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。また同時代の朝鮮半島は小国並立状態であり、倭国が先行して北部九州から畿内までの広域連合政権を生み出したとは考え難い。
⑥魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していることや、石棺無槨の墳丘墓が多数出現していること。また「無槨」の記述から、槨を持つ畿内の古墳は当てはまらない。
⑦福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡が伊勢神宮の神道五部書に伝わる八咫鏡と同型・同規模であり、天照大御神といった太陽神信仰との関係が考えられること。
⑧福岡県久留米市には、宝賀寿男が、規模や副葬品、石棺無槨、主体部および周囲の集団墓(宝賀は殉葬墓ではないかとする)などの状況が『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓記載とよく一致するとする祇園山古墳がある。
⑨奈良県桜井市所在で最古の定型化した前方後円墳といわれる箸墓古墳を、3世紀後半の築造とし、卑弥呼の冢とする説があるが、卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない。
また、当時の朝鮮半島など周辺国の墳墓はいずれも一辺30メートル前後の墳丘墓で、倭国だけが飛び抜けて巨大な墳丘墓(箸墓古墳)を築造したとするのは無理がある。
また箸墓古墳に年代的に先行するとされるホケノ山古墳の発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の同古墳の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため、3世紀中頃とする年代に疑問を呈する意見がある。
⑩三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面を遥かに上回っている。
2)反論
逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。
①魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと。
②奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは、大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、考えにくいこと。
ただし使節が倭国の戸数を全て調べたとは考えられず、倭人からの伝聞が含まれると考えられるため、記載された戸数③中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。ただし九州説では卑弥呼の時代を古墳開始期説として採用しないため、これは反論にならない。
④古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、これは1966年に佐原真らによって提唱され1975年に佐原本人が撤回し、現在は3世紀説が多く指示されている。ただし上述のホケノ山古墳の報告事例などから、その開始期を見直そうとする議論も行われている。
3)3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点
はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。
よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、安本美典や宝賀寿男など、その後の九州論者はほとんどこの説に追随、またはこれに近い説を表明している。
三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もある。しかし、様式論からは呉の作ではないとされ、少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない。
これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。
また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。ただし畿内と北九州を別勢力と見た場合、優位性だけで位置を断定できない。
●かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないもの
・近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説がある。
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。
4)短里説
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説(周髀算経・一寸千里法)である。
魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。
この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。九州説を唱える多くの者は、この短里説を基本論拠としている。またこの短里を採用した場合、径百歩の卑弥呼の冢は直径約30m程になり、卑弥呼の冢を箸墓古墳とする説への反論となっている。
(引用:Wikipedia)
1)筑紫平野
●山本郡説
古くから支持されており、人口が多く「ヤマト」の地名に関係しそうな山本郡とする説
●甘木・朝倉説
平塚川添遺跡の甘木・朝倉説
●久留米説
御井郡域である久留米説を邪馬台国とする説。久留米市にある祇園山古墳を卑弥呼の塚とする説もある。
●八女説
豊後国風土記には景行天皇が豊国の日田郡(福岡県八女市の隣接地域)を訪れたとき、人に姿を変えた比佐津媛(ひさつひめ)という女神と話をしたという逸話があり、この姫が卑弥呼であるという説がある。
2)福岡県
●福岡平野説
奴国があったと考えられる福岡平野に、これに隣接するように邪馬台国もあったとする説。伊都国や奴国から放射説行程とする説もある。
3)西九州
●佐賀平野説
唐津から松浦川沿いや現国道323号沿いなどの経路で佐賀平野に抜ける説。当地には吉野ケ里説が存在する。
4)九州北東沿岸
●宇佐説
経路などはともかく、八幡宮の総本宮である宇佐神宮周辺を邪馬台国と見る説。この地には神武東征時に神武天皇へ協力した宇佐氏(宇佐国造)が存在する。
●京都郡説
現在の行橋市や刈田町のあたりとする説
(引用:Wikipedia )
九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷して畿内に移動したという説。東遷説には、この東遷を神武東征や天孫降臨などの神話にむすびつける説と、特に記紀神話とは関係ないとする説の両パターンがある。東遷した時期や形態についても九州王朝説と関連して多くの説がある。
白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。
しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され、栗山周一、黒板勝美、林家友次郎、飯島忠夫、和田清、榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、坂本太郎、井上光貞らによって論じられていた。
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷した(東遷した)のであるとした。
また大和岩雄も、九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、女王壹與の代になってから畿内の邪馬台国へ東遷したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし神武東征や天孫降臨などの神話と関係づけることはしていない)。
この他にも、森浩一、中川成夫、谷川健一、金子武雄、布目順郎、奥野正男らが細部は異なるもののそれぞれの東遷説を論じていた。安本美典は現在でも精力的に東遷説を主張している一人である。
(引用:Wikipedia)
神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷して畿内に移動したという説がある。
東遷説には、この東遷を神武東征や天孫降臨などの神話にむすびつける説と、特に記紀神話とは関係ないとする説の両パターンがある。東遷した時期や形態についても九州王朝説(異説参照)と関連して多くの説がある。
白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷した(東遷した)のであるとした。
また大和岩雄も、九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、女王壹與の代になってから畿内の邪馬台国へ東遷したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし神武東征や天孫降臨などの神話と関係づけることはしていない)。
栗山周一、黒板勝美、林家友次郎、飯島忠夫、和田清、榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、坂本太郎、井上光貞、森浩一、中川成夫、谷川健一、金子武雄[要曖昧さ回避]、布目順郎、安本美典、奥野正男らが論者。
(引用:Wikipedia)
記紀の神武東征を実際の歴史の神話化と見るのは上記説と一部被るが、北東アジア史を通して国家の危機でもない限り、国が丸ごと移動する例は他になく、氏族の動向や地理・科学的な面からも国家規模の東遷はありえず、神武天皇とそれに伴う少数者の東征と見る説。上記説の弱点である東征理由も、北東アジア史においてままある諸王が新天地を求めた結果としている。
※宝賀寿男(1946年~):日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚で、現在は弁護士。経歴は次の通り。
北海道に生まれる。1969年、東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省(関税局企画課配属)。省内各局・国税庁などのほか、外務省(在中国大使館)、経済企画庁でも勤務する。
1993年6月より富山県副知事となり、1995年に理財局たばこ塩事業審議官。1996年7月に東京税関長。1997年7月より関税局担当の大臣官房審議官。2002年3月に退官し、中小企業総合事業団理事兼中小企業大学校長などを経て、2003年からは弁護士として活動している。
在学中から古代史に関心があり、やがて歴史の基礎資料ともなる古代及び中世の氏族の系図・系譜に目を向けるようになる。
官僚として各地で勤務するかたわら、地道な研究を長年続け、古代氏族にかかわる系譜を探るなかで、幕末〜明治期の国学者である鈴木眞年の系図研究の重要性を見出し、全国各地の資料館、寺社などを歩き、鈴木眞年のかかわった系図史料をくまなく渉猟している。
(引用:Wikipedia)
1970年代後半より注目され始めた新しい説。邪馬台国までの行き方(道順)を表しているとされる古代中国魏志倭人伝の(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の解釈として、まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部より四国へ上陸、その後は畿内説と同じく南を東と読みかえて陸路で徳島県に辿り着くとの見解が示される事も多い。
近年では数多くの書籍・メディアなどで紹介されているが当初は郷土史家の郡昇が四国説を唱え著書を自費出版で行った。その後、古代阿波研究会なども四国説を主張し、『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』には多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓らが編集委員として名を連ねている。
日本テレビの番組で、番組プロデューサーの山中康男はその後『高天原は阿波だった』(講談社)を出版した。1980年代にはNHK高知放送局が制作した「古神・巨石群の謎」の中で邪馬台国=土佐(四国山頂)説を主張する土佐文雄が著書『古神・巨石群の謎』(リヨン社)を出版。他にも浜田秀雄や大杉博、林博章などが四国説を主張する著書を出版、2009年にはテレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』で四国徳島説が放送された。
日本神話では我が国は淡路島の次に四国が誕生したとされることで、四国も国産み神話に基づくものだとされる。また朝廷は徳島(四国地方)から始まり奈良へ移行されたとされる四国説・近畿説を共に主張する声もある。
(引用:Wikipedia)
フィクションの世界では邪馬台国は九州説や東遷説をとっているものが多い。
●横光利一の小説「日輪」(1923年)では、具体的な地理は出てこないが、卑弥呼は元々不弥国(本作では「うみ」とルビ)の出身で、奴国との抗争の結果、耶馬台(「やまと」とルビ)に行ったとされている。これら三国はお互いにすぐに攻め込める程度の距離関係として描かれている(船に乗ったりする描写はない)。奴国は考古学上九州北部に比定されている国である。
●手塚治虫の漫画『火の鳥 黎明編』(1967年)は邪馬台国を舞台としている。卑弥呼を連想させるキャラクターも登場する。邪馬台国は九州にある倭の大国(火の鳥が棲む火の山が九州にあり、海を渡る描写もある)だったが、卑弥呼の死後に大陸から渡った騎馬民族に滅ぼされた。当時、一般に強い影響を与えた騎馬民族征服王朝説に立ち、騎馬民族の長のニニギが後の皇室の始祖と解釈している。この漫画は『火の鳥』のタイトルで1978年に実写映画化された。監督は市川崑、主演は高峰三枝子。
●映画『卑弥呼』は、1974年に篠田正浩監督、岩下志麻主演により制作された。映画に出る火口は阿蘇を思わせるが撮影は吾妻小富士で行われた。映画の最後では近畿の古墳群が撮影されるなど、九州説と畿内説の両方が暗示されている。
●安彦良和の漫画『ナムジ』(1989年-1991年)は、ナムジ(おおなむち、すなわち大国主)を主人公に神話を独自解釈した作品。邪馬台国は九州にあり、スサノオ率いる強国出雲と敵対している。卑弥呼は天照大神に比定されている。続編の漫画『神武』(1992年-1995年)は、卑弥呼の孫のイワレヒコが(政略結婚のため)畿内へ東征しヤマト王権の祖となる東遷説を採っている(市井の古代史研究者である原田常治の著書の影響を大きく受けている)。
●星野之宣による漫画『ヤマタイカ』(1986年-1991年)および『宗像教授異考録』第2集第2話:『割られた鏡』(2005年)では、九州・甘木と畿内・奈良、そして九州・日向と畿内・熊野の地名相似をひとつのキーワードとして、邪馬台国の場所は九州説、そして東遷説(甘木→阿蘇平野→日向→熊野→大和)を採用している。また、「火」をもうひとつのキーワードとして、卑弥呼(火を司る巫女の女王)-天照大御神(太陽神)-伊邪那美(火山神)の三者を同一の存在としている。
●作・寺島優、画・藤原カムイによる漫画『雷火』(1987年-1997年)
邪馬台国の乗っ取りを図る張政(魏から派遣された役人)とライカたちとの神仙術を駆使した戦いを描く作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。
●矢吹健太朗による漫画『邪馬台幻想記』(1998年-1999年、連載前の読みきり分を含む)。
卑弥呼亡き後、その意思を継ぎ倭国統一を目指していた壱与(台与)と、国王を暗殺し国を滅ぼす「国崩し」を行っていた少年、紫苑との出会いと触れ合い、壱与を亡き者にしようと企む敵との戦いを描いている。
短期打ち切りのため様々な伏線を回収することなく唐突な終り方をしている。上述雷火の強い影響を受けたと思われる作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。
●都築和彦による漫画『IZUMO』および『やまとものがたり』では九州説を採用している。
分離掲載:令和3年1月10日開始 最終修正:令和6年10月9日