このページでは、第1次邪馬台国?の謎を訪ねるため、九州北西部の伊都国の歴史散歩を楽しむための関連事項を掲載します。
1 伊都国の歴史散歩
(1)伊都国について
(2)平原弥生古墳
(3)日向神話に登場する神々
(4)支登神社
(5)高祖神社
(6)細石神社
(7)神武天皇に関わる伝説
2 壱岐の歴史散歩
(1)一支國(一大國)について
(2)原の辻遺跡
3 対馬の歴史散歩
(1)対馬国について
(2)和多都美神社
(3)海神神社
天孫降臨の地? 伊都国散策マップPDF
(引用:Wikipedia)
伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つである。末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、大和時代の伊覩縣(いとのあがた)、現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部(旧怡土郡)に比定している研究者が多い。
1)概要
『魏志倭人伝』には、次のように記されている。
「東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐」(「三国志魏書、巻三十、東夷伝、倭人(略称、魏志倭人伝)」)
原文のおよその意味は、
「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ、せもこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ、へくこ)という。1000余戸の家がある。代々の王が居た。みな女王国に従属している。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、足を止める所である。」
となる。
『魏略』には次のように記されている。
「東南五百里 到伊都國。戸万余。置官曰爾支 副曰洩渓・柄渠。其國王皆属女王也」
原文のおよその意味は、
「(末廬國から)東南へ500里行くと、伊都國に到る。10000余戸の家がある。そこ置かれた長官を爾支(にき、じき)といい、副官は洩渓(せつけい)・柄渠(ひょうご、へいきょ、へく)という。その国の王は皆女王に属する」
となる。
『魏志倭人伝』、『魏略』の中で『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていない。
1.1)一大率
一大率は女王国の官人である。その官名は城郭の四方を守る将軍である大率に由来するとする説もある(『墨子』の「迎敵祠」条)。
『魏志倭人伝』には、次のように書かれている。
「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史」
原文のおよその意味は、
「女王国は北側に一大率(いちだいそつ、いちたいすい)を置いて、特に(=厳しく)検察している。諸国はこれ(=女王国)を畏(おそ)れ、気を使っている。伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。国中(=魏)の刺史と同職のようである。」
である。
1.2)日本側文献の記述
旧怡土郡は大化の改新以前は伊覩縣が置かれ、『日本書紀』によるとその祖の名は五十迹手(いとて)(※)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされる。
『筑前国風土記』逸文では筑紫に行幸した天皇を出迎えて奉ったため、勤し(伊蘇志[いそし])と讃えられた。それがなまって伊覩(いと)になったと伝える。また、五十跡手が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った日拝(≠天日鉾命)の苗裔である」と天皇に奏上したとある。
※五十迹手(引用:日本神話・神社まとめ/仲哀天皇(九)伊覩県主の祖先、五十迹手と伊覩の地名説話)
〔原文〕
又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之、因以奏言「臣敢所以獻是物者、天皇、如八尺瓊之勾以曲妙御宇、且如白銅鏡以分明看行山川海原、乃提是十握劒平天下矣。」天皇卽美五十迹手、曰「伊蘇志。」故、時人號五十迹手之本土曰伊蘇国、今謂伊覩者訛也。己亥、到儺縣、因以居橿日宮。
〔現代語訳〕
また、筑紫の伊覩縣主(イトノアガタヌシ=伊覩は現在の福岡県糸島郡)の祖先の五十迹手(イトテ)は天皇が来るのを聞いて、五百枝賢木(イホエノサカキ)を抜き取って、船の舳艫(トモエ)に立てて、上枝(カミツエ)には八尺瓊(ヤサカニ)を掛け、中枝(ナカツエ)には白銅鏡(マスミノカガミ)を掛け、下枝(シモツエ)には十握剣(トツカノツルギ)を掛け、穴門(アナト=長門=現在の山口県)の引嶋(ヒコシマ)に出迎えました。
それで言いました。「臣(ヤツカレ=部下=自分のこと)は敢えて、この物を献上する理由は、天皇は八尺瓊(ヤサカニ=勾玉)の勾(マガ=曲が)っているように、曲妙(タエ)に天下を治め、また白銅鏡(マスミノカガミ)のように分明(アキラカ)に山川海原を看て、この十握剣をひっさげて天下を平定していただきたいと思っているからです」
天皇は五十迹手(イトテ)を褒め称えて「伊蘇志(イソシ=勤)」といいました。それでその時代の人は五十迹手(イトテ)の本土を名付けて「伊蘇国(イソノクニ)」といいます。
今、伊覩(イト)というのは訛ったからです。それで(即位8年1月の)21日に灘県(ナダアガタ=福岡県博多地方)に到着して、橿日宮(カシヒノミヤ)に滞在しました。
〔解説〕
・同じ記述が「仲哀天皇(七)筑紫の岡県主の祖先の熊鰐」では岡県主の祖先の熊鰐(ワニ)が天皇を周芳(スワ=山口県防府市)で出迎えるのに、ほぼ同じ祭祀を行っています。ほぼ、というのは掲げるものの枝の順番が違うってことです。
順番が違うということは「文化」に違いがあるということであり、それなりに歴史があるということと、この二つの氏族がそれなりの権力を持っていたからかと思われます。
・魏志倭人伝との関係
五十迹手(イトテ)の本国である伊蘇国(イソノクニ)が鈍って伊覩(イト)という地名となり、それが現在の福岡県に「糸島郡」という名前で残っています。この「伊覩」がどうも魏志倭人伝の「伊都国」ではないかと思われます。
次に灘県の「ナダ」の「ナ」は同じく魏志倭人伝に出てくる「奴国」の「ナ」、後漢書の「倭奴国」の「ナ」、志賀島の金印の「漢倭奴国」の「ナ」と同意義だと思われ、同じ国かと思われます。
ちなみに魏志倭人伝、つまり三国志の成立は3世紀後半。仲哀天皇は4世紀の前半か中盤の天皇なので、辻褄は合う。後漢書の成立は5世紀。ただし記述内容は後漢書の方が古い。
2)考古遺跡
糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる。
2.1)三雲南小路遺跡
三雲南小路遺跡(国の史跡)は弥生時代中期の方形周溝墓で、甕棺墓 2器を持つ『王墓』と云われている。
1号甕棺墓の副葬品は、銅剣 1、銅矛 2、銅戈 1、ガラス璧破片 8個以上、ガラス勾玉 3個、ガラス管玉 60個以上、銅鏡 31面以上、金銅製四葉座金具 8個体分などである。この他にも鉄鏃 1、ガラス小玉 1が出土している。
鏡の多くは「潔清白」に始まる重圏文または内行花文鏡であり、福岡市博多区の聖福寺に伝えられている内行花文鏡に合う外縁部が出土している。この鏡の直径は16.4センチメートルである。
1号甕棺墓の北西に近接(15cm横)して 2号甕棺墓がある。甕棺内に内行花文鏡(日光鏡) 1面が元の位置のまま発見された。直径6.5cm、「見日之光天下大明」(日の光、見(まみ)えれば、天の下、大いに明らかなり)という銘文の青銅鏡。
副葬品は、銅鏡22面(星雲文鏡1、内行花文銘帯鏡4、重圏文銘帯鏡1、日光鏡16。)以上、ガラス小勾玉12個、硬玉勾玉1個、ガラス製垂飾品(大きさは 1cm弱で紺色)が出土している。 銅鏡は6.5cm前後のものが多い。
1号墓を「王」とすれば、 2号墓は「王妃」に当たるものと推定されている。 1.5メートル以上の盛り土の墳丘墓であることは、青柳種信が記すところである。
平成の調査で、「周溝」を持つ事が判明して、「方形周溝墓」という事が判り、現在その様に復元されている。
なお出土品の有柄銅剣は熱田神宮に祀られている天叢雲剣(※)との関係が指摘されている。
※天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の一つで 熱田神宮の神体となっている。草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも言われる。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。
日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である。八岐大蛇退治に至る経緯と、神剣の名称については『古事記』『日本書紀』で複数の異伝がある。 スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原のアマテラスに献上した。
2.2)井原鑓溝遺跡
三雲遺跡の周辺に井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき)がある。(地元の伝えによると、鑓(槍)が土の中から出て来た事から「鑓溝」の小字名がついたらしい)。青柳種信の著書『柳園古器略考』によれば天明年間(1781年 - 1788年)に、この遺跡からは21面の鏡が出土している。
拓本からは全てが方格規矩四神鏡(流雲文、草葉文、波文、忍冬様華文などの縁がある)であることが分かっている。後漢尺で六寸のものが多く、王莽の新時代から後漢の時代にかけての鏡である。
これらの鏡に加え、巴形銅器3、鉄刀・鉄剣類が発見されているが、細形銅剣・銅矛などが出ていない。 1974年(昭和49年) - 1975年(昭和50年)の調査では、この遺跡の所在を確かめることはできなかった。しかし、甕棺墓であったことは間違いないとされている。
2.3)曽根遺跡群
曽根遺跡群(そねいせきぐん)は、福岡県糸島市にある遺跡群。国の史跡。ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の3基の古墳と平原遺跡で構成され、糸島市東部にある瑞梅寺川と雷山川にはさまれる曽根丘陵地帯に分布、存在している。
●ワレ塚古墳(われづかこふん)
古墳時代中期築造と考えられる前方後円墳。大きさは、全長約43m、後円部直径約29m、高さ約4.5m、前方部の長さ約15m、高さ約0.6mで、後円部は3段に造られており、周りに周溝が巡っていた痕跡がある。曽根丘陵の中央部に存在する。
●銭瓶塚古墳(ぜにがめづかこふん)
古墳時代中期築造と考えられる前方後円墳。大きさは、全長約50m、後円部の直径約37m、高さ5m、前方部の長さ16mで、後円部は3段に造られており、古墳の一部が道路造成の際に破壊されてしまっている。周りには幅約6mの周溝があったと考えられ、周溝部分の発掘で朝顔形埴輪、円筒埴輪、形象埴輪が出土している。曽根丘陵の中央部に存在する。
●狐塚古墳(きつねづかこふん)
古墳時代中期築造と考えられる円墳。3段に造られており、大きさは、直径33m、高さ4mで、幅6mから10mの周溝が確認されている。内部には、4区画に仕切られ床面に敷石の施された長さ2.6m、幅1.65mの横穴式石室があるが、かなり壊れている。副葬品は、刀子5本、鉄斧1個、鉄鏃2本、などが出土した。曽根丘陵の東端部に存在する。
●平原遺跡(細部後述)
平原遺跡(国の史跡)は三雲南小路遺跡の西側の曽根段丘上に存在する弥生時代後期から終末期の 5基の周溝墓群を合わせた名称である。 その 1号墓の「王墓」は、「女王墓」ではないかと云われている。
平原遺跡 1号墓(平原弥生古墳)の副葬品は日本最大の、直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)4面(5面)、青銅鏡35面(方格規矩四神鏡32、内行花文四葉鏡2、四螭鏡1)、ガラス勾玉3個、丸玉500個以上、瑪瑙管玉12個、ガラス管玉とガラス小玉多数個、素環頭大刀(鉄刀)1、などで、それら副葬品を一括して国宝に指定されている。三種の神器の八咫鏡との関係が議論されている。
3)伝承
糸島市内には天孫降臨以降の神話が伝わる舞台が複数存在する。
●八竜の森
火遠理命の生誕地と伝わる。
●御子守石
玉依毘売が火遠理命を御子守した石、または火遠理命が座った石と伝わる。
●岩鏡
豊玉毘売が髪をけずった時に使われたと伝わる支石墓。
●志登神社
綿津見の宮から先に故郷へ帰った火遠理命の後を追って、豊玉毘売が上陸した霊地とされる。
第1次邪馬台国 卑弥呼の墓?
参考Webサイト(平原遺跡)邪馬台国大研究ホームページ/遺跡・旧跡巡り/平原遺跡
1)概要
平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月に追加指定。
この遺跡は、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。
昭和40年 (1965年)1月、平原遺跡1号墳が偶然発見され、原田大六氏を中心に学術調査された。昭和63年~平成11年度にかけて、1号墳周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墳の実が墳丘墓として復元管理されている。
写真引用:(邪馬台国大研究:http://inoues.net/ruins/itokoku.html)
平原遺跡・碑銘 変形内行花文八葉鏡(糸島歴史博物館展示) 平原遺跡・1号墳
写真引用:Wikipedia
2)発掘者・原田大六の主張(引用:Wikipedia)
2.1)原田大六の経歴
原田大六(1917年~1985年)は日本の考古学者。福岡県糸島郡前原町(現糸島市)生まれ、福岡県立糸島中学校(現高等学校)在学中に安河内隆教諭の薫陶を受け、考古学に傾倒。糸島郡内の遺跡を踏査。
しかし考古学に傾倒したために成績は低く、中学卒業後に上京し計測器の研摩工に就いたが、召集され、中国大陸各地を転戦。武昌で終戦を迎え、1946年に復員。
翌1947年春から、中山平次郎博士に師事。その後、地域の発掘・調査を通じて、皇室の故郷は、自分の郷土であると確信を持つに至る。弥生後半の墳丘墓と古墳の間にみられる共通性から、古墳の起源を追うことを提唱。
2.2)平原遺跡の発掘
1965年、前原町有田で平原遺跡を発掘調査。2世紀後半とした1号墓は、割竹形木棺や墳丘を持つ弥生時代末期の「弥生古墳」であった。
37面にも及ぶ銅鏡の出土に加え、銅鏡・鉄製素環頭大刀・勾玉という三種の神器を彷彿とさせる副葬品、八咫鏡と平原遺跡出土鏡の近似性から、古墳との共通性を推測。
さらに、墳丘墓付近にあった2つ一組の穴を鳥居と推定し、2組の鳥居がそれぞれ日向国に通じる名のある日向(ひなた)峠と高祖山に向いていることから、被葬者を太陽に関わる神事を行っていた人物とした。
そして、記紀の神代の記述は北部九州で起きた史実を記録したものであり、平原遺跡の被葬者を玉依姫、つまり大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神であると推量した。
2.3)『実在した神話』の出版
原田は、翌1966年に出版した著作『実在した神話』で、これらの持論を展開。終戦後、皇国史観の反動で唯物史観が学会の主流を占め、記紀の内容は架空の絵空事だとされていた学会に衝撃を与えた。
2.4)発掘後の活躍
その後も、沖ノ島の発掘調査に参加し、金属遺物の検討を行なうなど、在野の考古学者として活躍。前原市(現糸島市)が建設した伊都歴史資料館(伊都国歴史博物館の前身)の初代館長への就任が予定されていたが、それを待たずに脳梗塞で逝去。同資料館名誉館長の称号が贈られ、館の前に銅像が建てられた。
1号墳からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、そのすべてが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で平成18年(2006年)、国宝に指定された。(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)
3) 平原遺跡調査報告書(引用:糸島市HP)
平原遺跡は、1965(昭和40)年に発見、発掘調査が実施されました。平原遺跡の調査成果については1992(平成3)年に「平原弥生古墳」調査報告書(平原弥生古墳調査報告書編集委員会)が刊行され、さらに、2000(平成12)年には、新たな調査を加えた『平原遺跡』(前原市教育委員会)が刊行されました。
引用:読売新聞(平成3年10月7日)
●調査報告書の本文目次(抄)
1.はじめに
1.平原遺跡の発見から現在にいたる経過
2.調査の組織
2.位置と環境
3.発掘調査の成果
1.平原遺跡の年度別調査経過
2.1号墓
(1)墳丘 1.周溝 2.遺物出土状況
(2)主体部 1.墓壙 2.割竹形木棺 3.遺物出土状況
(3)付設遺構 1.墓壙周辺小穴群 2.鳥居状遺構 3.独立柱
4.大柱 5.三日月形土坑
(4)出土遺物 1.銅鏡 2.玉類 3.鉄器 4.土器 5.石器
(5)周辺土壙墓
3.2号墓:略
4.3号墓:略
5.4号墓:略
6.5号墓:略
7.木棺墓
8.特殊建物状遺構
9.弥生時代中期の集落遺構:略
10.その他の遺構、遺物:略
4.おわりに
5.科学的測定と保存修復
●調査報告書の掲載図版
新訂版「平原遺跡」調査報告書表紙 空から見た平原遺跡調査風景
1号墓から出土した銅鏡群 1号墓から出土した素環頭大刀 1号墓から出土したガラス勾玉
(引用:「平原弥生古墳」調査報告書)
4)太陽信仰(糸島市HP抜粋)
4.1)平原王墓から探る伊都国女王と太陽信仰
かつて、祭祀をもって政を治めた時代がありました。当時は、世を明るく照らし、万物の生命の根源となる「太陽」は、何にも勝る崇拝の対象でした。
よって、祭祀によって太陽と一体となることができる人物、それこそが、絶対的な統治者として崇められた人物であり、「日の巫女(ひのみこ)」=「卑弥呼」であったとも言われています。
卑弥呼の治世の直前に作られた墓で、女性の伊都国王が眠る平原王墓(糸島市有田)。この遺跡は、発掘調査により、女王の遺体は太陽と密接な関係性があることが分かっています。
女王は、日向峠の方角に足を向けて埋葬されており、万民が汗水流して稲作を行い、その稲穂がたわわに稔り頭を垂れるこの時期、日向峠から昇る朝日は、煌々と王墓を照らすよう計算されているのです。
王墓の東方脇には大柱(直径約65㎝・地上高約13m)を立てた痕跡があることから、女王の遺体は太陽に照らされた大柱の陰と一体となったと推測されます。
祭祀に用いられた銅鏡は太陽のシンボルであり、当時の権力の象徴でもありました。中でも内行花文鏡は、デザインそのものも太陽を模したもので、特に重要な鏡とされています。
平原王墓からは、日本最大の内行花文鏡※(直径46.5㎝)が5面出土しており、その全てが故意に破砕されて埋葬されていました。女王埋葬時の秘儀を彷彿させます。
※伊勢神宮のご神体・八咫鏡と、大きさ・文様ともに類似していることが指摘されている。
※副葬品はすべて国宝。
その後、古墳時代においても、銅鏡は最高級の副葬品として取り扱われることから、平原王墓すなわち伊都国は、古代国家形成において重要なカギを握っているのです。
4.2)1号墳の埋葬された割竹形木棺の方向と日向峠の位置関係
平原遺跡1号墳の遥拝所 埋葬された女王(割竹形木棺) 日向峠の位置関係
(引用:確認中)
上記の位置関係を示す写真:大柱を含む(太陽の影が埋葬された女王に注ぐ?)
平原遺跡1号墳から見た日向峠からの朝日(引用:確認中)
図出典:Webサイト(確認中)
公式ホームページ 志登神社~糸島の総鎮守・式内社 空海(弘法大使)ゆかりの地
糸島地方唯一の延喜式内社にして筑前国十九社の一社。延喜式神名帳に怡土郡志登神社一座とある。
1)御祭神
・主祭神:豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
・相殿神:和多津見神(わたつみのかみ)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
息長帯姫命(おきながたらしひめ)、武内宿禰(たけしうちのすくねのみこと)
2)由緒
延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に十九式内社の一社でとして糸島で唯一記載せられた式内小社です。
御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。
対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。
社地の近くには豊玉姫命が髪を梳った地とされる岩鏡や、鏡掛松、拝松、古宮、玉ノ井などの古跡が点在しており、南東5kmの高祖山で彦火々出見命を祀る高祖神社、彦火々出見命が龍宮に赴くのを導いた塩土翁を祀る志摩芥屋の塩土神社も何かしらの関わりがあると考えられています。
古くからこの周辺は、海洋交易の要衝で、入江が東西から割り込み伊都国の港を形成していたと考えられています。南東600mにはそのことを裏付ける志登支石墓群が残されています。国指定遺跡の志登支石墓群は、弥生前期(約2500~2200年前)に造られ、朝鮮半島との繋がりを示すものとされています。
天正9年(1581)11月に高祖山城の城主であった原田隆種により再建され、高祖神社の御祭神である息長帯姫命と武内宿禰命の御神体を分霊し、潤村から西太郎丸村まで12丁歩の神田が寄附されました。しかし豊臣秀吉の九州平定(1586-1587)の時、神領を悉く没収され神官社僧も皆農夫となり廃絶の危機に至ります。
元禄3年(1690)3月、第3代藩主の黒田光之から神田1町6反の寄附と共に神殿を初め末社に至るまで造立され再興されました。
明治5年(1872)11月3日郷社に列格、大正5年(1916)10月12日県社に昇格し、同年12月12日幣帛供進社に指定されました。平成27年(2015)12月に前年の火災焼失から再建されました。
3)所在地
糸島は半島両側の湾がもっとぐっと入り込んでいて、志摩エリアは本当に「島」のようだったと言う。唯一、志登神社付近でかろうじて陸地が繋がっていたようで、それゆえに、この付近は特別な場所だったと言われている。
●近隣遺跡
志登支石墓群(引用:Wikipedia)
「志登支石墓群」という遺跡がある。支石墓は石柱の上にどでかい石の屋根を載せたお墓の一種で、ヨーロッパではドルメンと呼ばれ、フランスやイギリスによく見られ、アジアでは韓国などでも見られる。
(引用:Wikipedia)
高祖神社(たかすじんじゃ)は、福岡県糸島市高祖にある神社。旧社格は県社。通称は「高祖宮」。高祖山の西麓に鎮座する。
1)御祭神
・主座:彦火々出見命
・左座:玉依姫命
・右座:息長足姫命 - 神功皇后
2)祭神について
高祖神社は『日本三代実録』に見える「高礒比咩神(高磯比咩神)」に比定されており、現在は見られないこの神を巡って、これまでに諸説が挙げられている。
・一説には、新羅渡来のアメノヒボコ(天日槍/天之日矛/天日桙)伝説と関連づけられ、特に高礒比咩神はその妻神に比定される。その根拠として、長野宇美八幡宮(糸島市川付)の社伝に関連伝承が見えるほか、『筑前国風土記』逸文では怡土県主祖の五十迹手は日桙の末裔と見える点、『筑陽記』では高祖を怡土県主の本貫地とする所伝が見える点、『日本書紀』の渡来系伝承で「伊都都比古」という人物名が見える点が関連づけられる。
・また別説として、『和名抄』では筑前国怡土郡に託杜郷(たこそごう、託社郷)が見えるほか、「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』では当地で宅蘇氏(たくそうじ)一族の居住が知られ、現在残る棟札にも「詫祖大菩薩」の記載が見えることから、これらと「高祖」・「高礒(高磯)」が関連づけられる。宅蘇氏は詳らかでないが、「戸籍断簡」には「宅蘇吉志」として新羅官位由来の姓である吉士(吉志)を称して見えることから、渡来系氏族とも推測される。
・以上のほか、祭神に彦火々出見命(皇室祖先)を祀ることから「高祖」と名付けられたとする説(九州軍記)や、「タラシ」の音から息長足姫命(神功皇后)を高礒比咩神に比定する説もある。
3)創建
創建は不詳。伝承では、古くは大下の地に鎮座したが、建久8年(1197年)に原田種直が当地に入るに際して、高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという。また、古くは怡土城の鎮守神として祀られたとする伝承もある。
糸島地方は『魏志倭人伝』に見える伊都国の比定地で(曽根遺跡群)、古墳時代にも古墳の密集地域として知られるが、一方で渡来系氏族による製鉄遺跡も認められており、上古の祭祀の性格については古来伝統祭祀と渡来系祭祀の両面で諸説がある。
(引用:Wiukipedia)
福岡県糸島市にある神社。古くは「佐々禮石神社」と表記されていた。旧社格は村社。
(引用:Wikipedia)
1)祭神
磐長姫と木花開耶姫の姉妹二柱。
2)所在地
伊都国の中心部に所在すると推察されている。
3)神社縁起
元禄8年(1695年)の「細石神社御縁起」では、古くは神田も多く大社であった。しかし、たびたび兵乱に見舞われ社殿を焼失した。さらに天正15年(1587年)の豊臣秀吉の太閤検地により、神田没収に遭い衰退した。現在は「村社、細石神社」の石柱が鳥居の脇に建てられている。
祭日に行われていた儀式・流鏑馬(やぶさめ)も途絶えてしまいました。寛永(1624〜1644年)の末、庄屋小原金右衛門という人物が、社前に81間の馳道を作って流鏑馬を再興しましたが、現在は行われていません。
4)近隣遺跡
この神社の西側に、伊都国の王と后とみられる墓、国史跡三雲南小路遺跡があり、何らかを暗示しているように感じられます。
001 ~「天皇」はどこから大和にいったのか~
まず「日本書紀」「古事記」(総称するときは「記紀」)に書かれている「神武(じんむ)天皇」について。
お題は
「神武天皇」はどこから、なぜ大和に行ったのか
『日本書紀』に記される「神武天皇」は「始馭天下(はつくにしらす)天皇」、すなわち「ヤマト政権の初代天皇」と位置づけされている(注1)。
しかし「実際にそんな天皇がいたというのはうそだ」というのが ≪ 学者 ≫ たちの見解だ。
この天皇のことを事細かに記した『日本書紀』や『古事記』は大和政権が西日本の支配権を確立した後に作ったもので歴史事実をそのまま記述したものではない。
『古事記』も事実を記したものであるかどうかはわからない。
しかし、まとまった史書としてはこの二書しか残っていないので、考古学的事実も用いて実在していたのか、そして本当は彼はどこにいたのか、どこから、なぜ大和に行かなければならなかったか、について書いてみよう。
㈠ 「神武」の実在性について
第二次世界大戦の最中、日本では軍部や政界と結んだ財閥、そして教育界を巻き込んだいわゆる神話教育によって「天皇親政」が強化され、「天皇の命令に背くものは非国民である」として市民は戦争に駆(か)り立てられ、塗炭(とたん)の苦しみを受けさせられた。
戦後はこのことへの厳(きび)しい反省から一転、津田左右吉氏らによって「神武伝承」を含むいっさいの「神話」は「すべて作り話である」とされ否定された。
しかし、戦後の考古学や民俗学の進展、さらに文献上の再点検によって「神話」は必ずしも「全てが作り話ではない」という認識が広まってきた。その旗手(きしゅ)は考古学では森浩一氏(同志社大学)であり、民俗学では大林太良氏(京都大学)、文献上では古田武彦氏(元昭和薬科大学)らであったと考えられる。
津田氏が「作り話」とした根拠である「神武ら天皇群の誇大な年齢表示」(神武136歳、孝安125歳、崇神168歳、応神130歳、雄略124歳など)は、実は魏志倭人伝(ぎしいじんでん)に記す「二倍年暦(ねんれき)」(注2)の伝承を伝えたものであったし、「陸地である大阪・日下(くさか)に船で接岸したといううそ(虚言)」は、津田氏が現在の大阪市街のほとんどが当時湖(みずうみ)状態の入り江「古河内湖(こかわちこ)」で、「河内の日下」(現東大阪市一帯)はその湖岸であったことも知らなかったからだった。
また弥生、古墳時代を通じての「剣、玉、鏡」、いわゆる「三種の神器」の埋納(まいのう)が北部九州の多くの古墳から出土し、東アジアと共通する神話伝承の存在も指摘された。津田氏らの主張はほぼ根拠を失っているといえる。
㈡ 「神武」がいたのはどこか
『記紀』によれば、「神武らは日向(ひむか)から大和(やまと)へ向かった」という。問題はこの「日向」がどこなのかということである。一般的な認識としてはこの「日向」は宮崎県であるとされる。本当だろうか。この認識は『記紀』の記載とは相反しているのだ。
『記紀』では神武らは「日向から東に向けて発進し、宇佐(うさ)に至った」と記す。「宮崎の日向」から東には大海原とその先にハワイがあるだけだ。フラダンスを踊りに行くわけじゃないだろう。
『記紀』の記載からすれば神武らは「宇佐の西にいた」ということになる。
「大分県の宇佐の西」には福岡県が広がっている。その西端、博多とその西側の糸島半島基部一帯は「漢委奴国王印」と刻した金印が出土し、魏志倭人伝(注3)に「伊都(いど=倭奴)国」があったと記される地である。
「伊都国」は旧福岡県怡土(いど)郡、現在の糸島市であることは定説になっている。ここからは三雲南小路(みくもみなみしょうじ)王墓、平原弥生(ひらばるやよい)古墳、井原(いわら)ヤリミゾ王墓、閏地頭給(うるうじとうきゅう)玉造(たまつくり)遺跡など興味深い遺跡が多数発見されている。
三雲南小路王墓は中心に高級赤色顔料である朱(しゅ)を満載した巨大な合わせ口カメ棺(長さ2,4㍍~)二基が埋納されていて、中から古代中国で権威の象徴ともされた玉璧(ぎょくへき=ガラス製、直径十二㌢)、前漢時代(紀元前202~紀元9年)の鏡計五十七面、銅剣、銅矛(ほこ)、勾玉(まがたま)などが出土した。
平原弥生古墳からは現地で作られたとされる巨大な内行花文鏡(ないこうかもんきょう=直径46,5㌢=左写真)五面を含む三十八面、そして前漢、後漢時代(紀元前202~紀元220年)の鏡二面が、そして井原ヤリミゾ遺跡からも前漢、後漢鏡計二十一面が発見されている。
平原弥生古墳出土の巨大鏡は弥生時代最大の国産鏡であり、発掘調査をした原田大六氏は「現在、伊勢神宮のご神体になっている巨大鏡・八咫鏡(やたのかがみ)は、その寸法、実見した関係者の証言記録からみて平原の巨大鏡と同形鏡である可能性が高い」と指摘している。和歌山市の日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神社に祭られる大鏡も同じでものであろう。
これほど多くの前漢鏡、後漢鏡が出土している地域は全国探しても皆無であり、ここが中国史書や金印が語る「「伊都(いど=倭奴、委奴)国」(注4)であることに疑問の余地はなかろう。そして『記紀』に記す「鏡作り神話」の舞台はここであろう、と察しがつく。
㈢ 「伊都(倭奴)国」に神武伝説
高祖神社(Wikipedia)
一方、「伊都(倭奴)国」周辺には数多くの神武とその一族に関する伝承や地名が残っている。
当地の東側に連なる背振(せふり)山脈の東麓、福岡市西区には小字「日向(ひなた)」があり、日向川、日向峠の地名が現在も知られている。西麓には高祖(たかす)神社(写真)が鎮座(ちんざ)し、『記紀』に言う一族の祖ニニギの子とされる彦ホホデミや神武の母玉依(たまより)姫らを祭っている。
近くの大字飯氏(いいし)にある飯石(いいし)神社や大字千里の三所(さんしょ)神社には神武の兄ミケイリの命(みこと)を、糸島市前原(まえばる)の細石(さざれいし)神社や波多江(はたえ)神社にはニニギの妻木花咲姫(このはなのさくやひめ)やその姉の磐長(いわなが)姫、神武兄弟の父ウガヤフキアエズの命、北側の志登(しと)神社にはウガヤフキアエズの実母という海神の娘トヨタマ(豊玉)姫が祭られている。
さらに同市志摩(しま)町にはアマテラス大神、イザナギの命、天(あま)の岩戸を引き開けたという手力男(たぢからのお)、山幸彦(やまさちひこ=ホオリの命)に海神の住む竜宮に行く道を教えたというシオツチの翁(おきな)を祭る神社などが林立している。
なかでも注目されるのは地域の中心に鎮座する産宮(さんのみや)神社である。『記紀』には記録されていない「神武の姉」というナルタ姫が祭られているからだ。今は安産の神として地域の崇敬(すうけい)を受けているが、この神社の存在はこれらの神社が『記紀』の影響を受けて建立された神社群ではないことを示している。
魏志倭人伝(ぎしいじんでん)には「伊都(倭奴)国」の長官は「爾支(ニギ)という」と記録されている。魏志は邪馬壹国(やまいちこく)の女王卑弥呼(ひみこ)を「日本列島を代表する政権の王」という建て前で描いているから「伊都国」の王を「長官」と書いている。
だが、「世に王あり」という記述からこの「長官」は「王」のことであると思われる。糸島市の北東海岸の砂浜を地域の人々は「ニギの浜」と呼んでいる。「ニニギ」の「ニ」を丹や玉を意味する美称(びしょう)とすれば「ニギ」はまさしく「伊都国の王」を意味する言葉であったと考えられる。
さらにここには神武らが “ 東征(とうせい)” のなかで歌ったという『記紀』歌謡の “ 現場 ” が残っている(古田武彦「神武歌謡は生き返った」新泉社 1992年など)。
神風の伊勢の海の大石に 這廻(はいもと)ろふ細螺(しただみ)のい這廻ろい 撃(う)ちてし止(や)まむ
大石神社(Wikipedia)
この歌にある「伊勢(いせ)」は旧大字「伊勢浦」、「大石(おおいし)」は隣接の志摩町の旧海岸部砂浜に鎮座する大石神社(写真)としてそっくり遺(のこ)されている。
宇陀高城(うだのたかぎ)に鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず
いすくわしクジラ障ぐ・・・
の「宇陀(村)」は合併で糸島市となり現在大字「宇田川原」として遺(のこ)る。「高城」は現在の「高来寺」の周辺地名であろう。「クジラ」が出没するのは山岳地帯「奈良の宇陀」ではなく海岸べりの糸島半島一帯である。
みつみつし久米(くめ)の子らが垣下(かきもと)に植えし椒(はじかみ)口ひびく
吾(われ)は忘れじ 撃ちてし止まん
の「久米」も大字「来目(くめ)」などとして志摩町に遺る。
いずれも糸島市周辺で歌っていた歌を “ 東征 ” の途中でも歌った、あるいは歌ったことにしたと考えられる。大族「久米氏」の拠点の一つであったのだろう。
ここが『記紀』が示す「神武」らの発信地である可能性は極めて高い。
だが、問題は残る。『記紀』によれば神武らの先祖「ニニギの命(みこと)」は「日向の襲(そ)の高千穂の峯に天降(あまおり)した」という。「襲」は熊襲族の「ソ」であり鹿児島県曽於(そお)市の「ソ」でもある。
「高千穂の峯」は明らかに「南九州日向(ひむか)にある高千穂の峰」を指し示している。
「襲」は鹿児島県曽於市の北方にある霊峰・霧島(きりしま)連山であり、熊襲族(本来は「熊曾於族」と言っていたのであろう)がシンボルとしていた連山でもある。曽於市を含む鹿児島県の大隅半島一帯は和銅6(713)年まで「日向国諸県(もろのあがた)」であった(『続日本紀』)。
『記紀』によれば神武らの祖「ニニギの命」は、まず「笠沙(かささ)の岬の大山積(おおやまつみ)神の娘・木の花の咲くや姫、別名鹿葦津(かのあしつ)姫、神吾田津姫(かむ・あたのつの)姫と結婚したという。笠沙の岬(南さつま市加世田)がある薩摩半島南端は古来「阿多(あた)」と呼ばれていた地域である。
この説話はニニギが中国大陸南部を含む東南アジアの海岸部一帯から船に乗り、黒潮を利用して薩摩半島の南端に渡来してきたことを示す説話であると考えたい。
「天」と「海」はいずれも「あま」と読み、古代には「一体のもの」と認識されていたからである。「大海原」を「天空」、「波を押し分けて来た」を「雲を押し分けて来た」と書き、霊峰・霧島連山に「天から降りて来た」とする。『記紀』は自らの祖先が物理的には考えられず、あり得ない「霊妙な存在であった」ことを示したかったのだ。
「阿多」を含む薩摩半島西側一帯からは縄文晩期、弥生時代のものと考えられている支石墓やカメ棺が出土する。カメ棺はインド東部から中国大陸南部を経て伝わった風習である。「カメ棺葬の風習」を持った人々《天(海人)族》がこの地域に渡来したことを示す可能性が高いと考える。
中国ではカメ棺葬の風習は紀元前四〇〇〇年以上前から始まり全土に広がっている。「伊都(倭奴)国」が位置する北部九州一帯も薩摩半島西部と同様、カメ棺と支石墓が集中する地域として知られる。
薩摩半島のカメ棺遺構群は現在、きちんとした理化学的な年代測定はされておらず、従来の「カメ棺葬は北部九州が中心で、薩摩半島のカメ棺はそこから伝わったものだ」ということにされている。まったくいい加減な話である。
薩摩半島を含む一帯は桜島や南端の開聞岳など活火山地帯である。薩摩半島に上陸した天(あま)(海人)族が開聞岳などによる噴火や風水害に追われ、数十世代を経て北部九州に移動し「伊都国」を造ったと考えたい。
『記』に記すニニギの到着地点での発言
「この地は韓国(からくに)に向かい 笠沙の御前(岬)を真来(まき)通りて
朝日のただ刺す国、夕日の日照る国 この地ぞよき地」
の「韓国(からくに)」は元来「韓国(かんこく)」すなわち朝鮮半島を指すのではなく「唐国(からくに)」、すなわち中国大陸を指すことばであったのではないだろうか。
開聞岳(かいもんだけ)や桜島の噴火、或は風水害、疫病の蔓延、氏族間の争いなど何らかの原因によって北の「伊都国」に移住し、この地の風物を愛した天(あま=海人)族の人々が当地北部九州、糸島半島の位置どりを考えて、後に「韓」の字を当てたのではないかと考えられる。糸島半島やその付近に「笠沙」や「笠沙の岬」という地名はその存在を見出せないからでもある。
(熊襲族は中国・山東省以南の大陸沿岸部から亡命し、まず大隅半島・志布志湾あたりに上陸したと考えられる氏族群である。この件はまた別項で記そう)
㈣ なぜ神武らは糸島を去ったのか
魏志倭人伝には卑弥呼時代にも「伊都国」は存在したことが記されている。しかも「世(々)に王あり」で、「(中国の帯方)郡からの使者が常に駐在する」「諸国を監視する≪一大率(いちだいそつ)≫が常に置かれている」所であると報告している。
「邪馬壹(臺)国」時代にも国家のキーポイントと言える重要な役所が伊都国にあったわけだ。「邪馬壹国」が国家として名実ともに確立されていたらこのような事態は想像できない。
「(一)大率」は中国の史書『史記』の「呉太伯(ごのたいはく)世家第一」のなかにも出てくる。
南中国・呉王朝(三国時代の「呉」でなく、周代の「勾呉」)の組織のひとつで、天子直轄の軍隊を指す。ついでだが、「太宰府」の名の基になったと思われる「太宰(たいざい)」も「同太伯世家」に出てくる。
「太宰」は総理大臣格の職務で「百官を統治する官。「府」は役所のことである。中国の史書『魏略』や『晋書』などは「倭の人は自ら、太伯の子孫であると言っている」と記録している。
この記述と邪馬壹国の官名などから考えると、卑弥呼の姓は日本で「紀」とか「木」とか「記」と書かれる「姫(き)」氏であったと考えられる。太伯は「周」の国の皇子であったから姓は周や呉の王家の姓「姫」であったからである。
「伊都国」はまだ旧宗主国としての位置を保っていたと考えられる。ちょうど中国の周王朝がその ≪ 権威 ≫ のゆるみによって、群雄割拠の春秋時代、戦国時代を招いたが、その時代にもかろうじて旧宗主国としての位置を確保していたのと同じような状態であったと考えられるのだ。
それは「後漢書(ごかんしょ)」の記述からもうかがえる。「邪馬壹国」誕生前の騒乱を「倭国大乱(いこくのたいらん)」と評価している。
漢字の熟語で「大乱」は単に「大規模な騒乱」を意味する言葉ではない。「臣下が君主を犯す乱」、すなわち天下の政権奪取を目論む乱を「大乱」というのである(諸橋轍次『大漢和辞典』)。
「大葬」も「天子の葬儀」を意味する。「大極殿」も「天空の中心にある天帝が居住する殿舎」である。「大」は「大きい」という意味から変じて「天子」を表す言葉としても用いられている。
要するに卑弥呼政権というのは「伊都国」の(内乱、分裂に乗じた?)反乱の末、政権を得た「暫定政権」であることが暗示されている。であるから魏が卑弥呼に与えた金印の字面は「親魏 邪馬壹 国王」ではなく、やはり「親魏倭王」であると倭人伝は記している。
神武や神武の長兄五十瀬(いせ=伊勢)の命らが「伊都国」の人々であれば、『記紀』や倭人伝の記載からして彼らは「伊都国王家」の人々であっただろう。
神武らの ≪ 東征 ≫ について『記紀』は「いかなる地に坐せば平らけく天下の政(まつりごと)を聞こし召さん」『紀』、「東によき地あり・・・けだし国の中心か」『記』とだけ記し、なぜそうしたのかについてはいっさい「黙秘」を貫いている。
そして卑弥呼らの存在や政権が奪取されたらしいこともいっさいカットして「知らぬふり」を決め込んでいる。
すなわち神武らの ≪ 東征 ≫ は、実は ≪ 東避 ≫ であった可能性が高いのである。
卑弥呼らが「伊都国」の主流派を追い出したのだ。殺害を恐れた神武らは「高千穂の宮」で鳩首会談をし、仲間や親せきを頼って東に逃げることにしたのである。
伊都国の東方に連なる背振山脈の山々は現地では「高千穂の峰」とも呼ばれる。この「高千穂の宮」は西麓にある「高祖神社」付近にあったと考えられる。
㈤ 吉備の勢力を頼んで大和へ
『記紀』によれば、神武らは「日(火・肥)前(佐賀県)」の日向、すなわち「伊都」を発った後、筑紫を通り抜け豊(とよ)の国の宇佐に至り、そこの宇佐津比古(うさつひこ)、宇佐津日売(ひめ)に会い、「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」で歓待された。
その後「筑紫岡田の宮」(福岡県遠賀郡芦屋町付近)に一年(現在の数え方では半年)いたあと安芸国の「たけりの宮」(エの宮=入り江の宮、とも)に七年間(三年半)いた。
そこから吉備(きび=広島県)の「高島の宮」に八年(四年)いたあと大和へ発進したという。さまざまな考えを巡らしつつ行った “ 逃避行 ” であったろう。
「速吸(はやすい)の門」で「水先案内」をしてくれる国ツ神「珍彦(うずひこ=渦彦か)」と会い、瀬戸内海の難所をうまく航海できた。「浪速渡(なみはやのわたり)」(大阪湾)から(古河内湖の)「青雲の白肩の津」(日下の港)に到着した。しかし、そこには富ノ長洲根比古(とみのながすね彦)が待ち構えていた。長兄の五十瀬(伊勢)の命は深手を負って退却し、紀の国(紀州)の男水門(おのみなと)で亡くなった。
「(我々が生きていける根源ともいうべき尊い)太陽に向かって戦いを挑んだのが間違いだった」として迂回し、熊野(和歌山県南部)から北に山越えして宇陀(うだ=奈良県南部)に入ったという。先に述べた歌はここで紹介されている。
神武ら ≪ 東避≫軍は神武らの手勢に吉備(きび)の勢力が加わったものであろう。魏志倭人伝は「倭国の大乱」後の「伊都(倭奴)国」の人口を「千戸」と記録している。
しかし、「大乱」前は「一万戸」いたという。魏志が参考にしたとみられる先行史書『魏略』(逸文)がそう記録している。「大乱」で多くの「伊都国」人は卑弥呼勢力によって殺害され、あるいは四散したと考えられるが、神武の≪東避≫軍はこれらの残存兵を集めたものであろう。主力はもちろん「吉備の軍」である。
『魏志』は戦乱の期間を「七,八〇年間」(現在の数え方では三五~四〇年間)とし、朝鮮の史書『三国史記』は西暦173年条に「卑弥乎、鶏林(後の新羅)に使者を送り、礼物を献じる」とある。このことなどから卑弥呼が女王の座に就き、神武らを追放したのは「西暦170年から180年の間」であると考えられる。
古代大和盆地の中心地域とされる奈良・纏向(まきむく)遺跡の発掘調査では各地の土器に混じって吉備の土器が発見されている。さらに大和の初期前方後円墳からは吉備の「都月型(とつきがた)特殊器台(きだい)」などが出土し、吉備の影響が強くみられる。大和の初期前方後円墳は吉備の勢力が持ち込んだ「墓の形」である可能性が高いのである。
注1)『古事記』では初代天皇を崇神(すじん)天皇とする。崇神天皇の名は「ミマキ入彦イニエ」という。もちろんだがこのころの支配者は「天皇」ではなく、「王」あるいは「大王」と呼ばれていた。「神武天皇」の名はいくつかあるが「狭(さ)の命」とか「神倭磐余(かむい・いわら?)彦」という。137(86)歳で死んだという。
注2)裴松之の注として「『魏略』に曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕、秋収を計(はか)りて年紀となす」とある。日本の多くの神社で行われる一年のけがれをはらう儀式・「大祓(おおはらえ)」の儀式も六月と十二月の二回行われている。宮中でも「二倍年暦」廃止後も大晦日(おおみそか)に行われる大祓の儀式は六月と十二月の二回行うことが決められていた(「延喜式」並びに「続日本紀・養老五年七月記」など)。「二倍年暦」が実際に行われていた名残りであろう。
注3)「わじんでん」と読むのは教科書で教えられている読み方であるが間違いである。『魏志』は三世紀末、中国北方の洛陽(らくよう)で作られた史書であるから北方の音、後漢の『説文解字』による「漢音」で読まなければならない。「倭」の読みは「ヰ(い)」しかない。「ワ(uwa:)」と読むのは中国南方や日本の「呉音」による読みであり、明らかな誤りである
注4)「奴」の読みも同様に「漢音」では「ド」しかない。「ナ」と読むのは「呉音」の読みであり間違いである
(この一文は『卑弥呼と神武が明かす古代』(ミネルヴァ書房、二〇〇七年)の一部を要約し、東大阪市の文化誌「わかくす」に寄稿したものに加筆したものである)(2014年11月)
天(海人)族の源郷?
(引用:Wikipedia)
1)概要
・一支国(いきこく、いきのくに、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文、梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。
・一支國は、壱岐のほか、伊伎、伊吉、伊岐、由紀、由吉など様々に表記され、「いき」または「ゆき」と読んだ。日本の地方行政区分だった西海道の令制国の一つとして壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。
壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。
・1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。
2)記述
邪馬壹國(邪馬臺國)が支配下に置いていたとされる島国で、『魏志倭人伝』では「一大國」、『魏略』、『梁書』、『隋書』では「一支國」と表記される。
対海國(対馬國)から南に一千里(当時の度量衡で400Km)の所、ということになるが、仮に対海國(『魏略』では対馬國と記載)を現在の対馬とすれば、これは鹿児島県の南方海上になるため、実際にどこであるかには論争がある。
これについて当時の中国では「一里=400〜500m」という「長里」が使われて来たが、韓地や倭地については、魏(・西晋)朝で「一里=75mないし90mで、75mに近い」長さの「短里」が使用されていたという説があり、これに従えばおおよそ現在の壱岐島の位置にあたると主張されている。なお日本の近代では一里=4Kmであり、中国の距離とは異なる。
3)魏志倭人伝
・また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。また長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。
「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴」
4)魏略逸文
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。
・南に海を渡り一支國に至る。官を置くこと対に同じ(其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴と曰う)。地の方三百里。
「始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里」 — 『翰苑』卷三十魏略逸文
5)梁書
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。
「始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國」 — 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
6)隋書
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。
「都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國」— 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
7)北史
『北史』巻94 列伝第82(北史倭国伝)において、次のように記述されている。
「計從帶方至倭國,循海水行,歷朝鮮國,乍南乍東,七千餘里,始度一海。又南千餘里,度一海,闊千餘里,名瀚海,至一支國。」「都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國」
参考Webサイト 壱岐市立一支国博物館HP
(引用:Wikipedia)
1)概要
原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、石田町石田西触にある遺跡。国の特別史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
原の辻遺跡の遠景(壱岐市立一支国博物館より望む)(引用:Wikipedia)
2)「原の辻遺跡」詳細解説(引用:国指定文化財等データベース)
原の辻遺跡は,長崎県の北方に浮かぶ壱岐島の南東部の台地から平野部に広がる,弥生時代中期から後期にかけての大規模集落跡である。遺跡は大正時代から注目され,戦前・終戦直後の発掘調査を経て,昭和50年以降は長崎県・芦辺町・石田町の各教育委員会による継続的な調査がおこなわれている。
その結果,3重の環濠に囲まれた集落域の規模は24haに達し,その周辺の遺構を含めると,遺跡としての広がりは約100haに及ぶことが判明した。
環濠内部では掘立柱建物跡の集中する祭場の一部や多数の竪穴住居跡からなる居住域が確認され,環濠の内外では墓域も見つかっている。
遺物としては土器や石器のみならず,青銅器・鉄器・木器・骨角器等が多量に,しかも良好な状況で出土した。とりわけ大陸の集団との交渉を裏づける土器・青銅器・鉄器等が数多く認められたことは大きな特徴である。
そして,『魏志倭人伝』に記載された「一支国」の中心集落の様相が明らかとなり,弥生時代の対外交渉を解明する上で重要であることから,平成9年9月に史跡に指定された。
その後の調査では,3重の環濠の他にも溝が発見され,多重環濠になることが判明した。また,環濠の外からは船着き場跡や道路状遺構,さらには水田跡等も検出され,環濠周辺の様相も明らかとなっている。また,床大引材と呼ばれる建築部材が確認され,これまでにない構造の高床倉庫の存在も推測されることとなった。
さらに、これまで出土していた貨泉に加え五銖銭や大泉五十等といった銭貨が出土し,これらを含めた多量の大陸系遺物は,他の大規模集落のそれを圧倒している。九州北部や瀬戸内地域等の土器が出土していることからすると,本遺跡が大陸系文物をめぐる流通の拠点であったことを強く示唆している。
原の辻遺跡は弥生時代の環濠集落としては最大級の規模を有し,検出された遺構・遺物により,集落の構造や当時の暮らしぶり,さらには大陸との交渉の窓口という性格などが明らかとなった。
中国の史書に記されたクニの中心集落の実態が明らかになったという点では希有の例である。こうした成果は考古学のみならず古代史・東アジア史・建築史など広い分野にわたって豊富な資料を提供しており,学術的価値はきわめて高い。よって特別史跡に指定しようとするものである。
3)長崎県原の辻遺跡出土品(引用:国指定文化財等データベース)
本件は、長崎県原の辻遺跡から出土した弥生時代の出土品一括である。遺跡は長崎県壱岐市に所在する、居住域と墓域からなる大規模な環濠集落である。
昭和49年(1974)以降、河川改修やほ場整備に伴う発掘調査が行われた。これらの調査により、弥生時代の大規模な環濠集落であることが判明、『魏志倭人伝』に記された「一支国」の中核的集落に比定する説が有力となり、平成9年(1997)に史跡、平成12年(2000年)に特別史跡に指定された。
遺跡の中心部は三重の環濠で囲まれ、周辺に広がる墓域や船着き場跡を含めた面積は約百ヘクタールに及ぶ。集落は弥生時代前期後葉に形成され、中期から後期にかけて繁栄、古墳時代前期には環濠が埋没して廃絶する。
本件は、長崎県教育委員会と壱岐市教育委員会により実施された、昭和49年度から平成19年度(1974~2007)にかけての発掘調査で出土した主要な遺物千六百七十点から構成される。
その内容は、土器・土製品七百十一点、木器・木製品百十四点、石器・石製品四百三十点、ガラス製品五十三点、金属製品三百十六点、骨角製品四十六点である。
土器・土製品には朝鮮系無文土器、楽浪系や三韓系の瓦質土器、朝鮮三国系の陶質土器などの外来系土器が多数含まれ、これらに畿内・山陰・周防・肥後など西日本各地からの搬入土器も存在して、国内外との活発な交流を物語る。
木器・木製品は農工具のほか、漆塗り台付杯を含む容器、短甲や楯などの武器・武具、椰子笛など多彩である。石器・石製品では、祭祀具と推定される人面石が特筆される。
さらに、金属製品には鋳造鉄斧、中国鏡・車馬具・中国銭などの多様な舶載の青銅器があり、なかでも竿秤に用いる権(けん)は、交易の実態を示していて貴重である。骨角製品では、離頭銛・あわびおこし・釣針などの漁労具が充実し、生業の一端を示している。
本件は日本と中国・朝鮮との交易拠点として繁栄した大規模集落の出土品一括として、当時の国際交流、生業、精神生活を復元するうえで極めて重要な資料である。
(引用:Wikipedia)
対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
1)対馬国の概要
対馬国の初見は、『三国志』魏志倭人伝の對馬國(対馬国)である(三国志のテキストの間でも版によって表記が異なり、現存する最古の版である紹熙〈しょうき〉本では對海國、よりポピュラーな版である紹興〈しょうこう〉本では對馬國となっている)。倭人伝の「今、使訳を通ずるところ三十国」のうちの一国。日本では津島とも書かれたが、7世紀に律令制の地域区分として対馬国が設けられると、「対馬」の表記に定まった。
『古事記』の建国神話には、最初に生まれた島々(「大八洲」)の1つとして「津島」と記されている。『日本書紀』の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。古くからユーラシア大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島と倭国・倭人・ヤマトをむすぶ交通の要衝であった。
対馬国は律令制下で対馬島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。701年(大宝元年)の大宝律令では「対馬島」と改称され、のちに再び「対馬国」に復している。
国内には上県(かみあがた)郡、下県(しもあがた)郡の2郡が置かれた。上県郡は伊奈(いな)、久須(くす)、向日(むかい)、三根(みね)、佐護(さご)の5郷、下県郡は豆酘(つつ)、鶏知(けち)、賀志(かし)、与良(よら)、玉調(たまつき)の5郷から成った。大化以前は上県、下県の両国造の領域であった。
『延喜式』によれば、大宰府からの海路行程は4日、正税3,920束、庸と中男作物は免除され、特産品としては銀を納めることとなっていた。
2)対馬国の古代
2.1)先史
旧石器時代に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。現在までに確認された最古の遺跡は、新石器時代に属する縄文文化のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。大陸からのナウマンゾウ等の哺乳類の化石も見つかっていない。
縄文時代の峰町佐賀貝塚や上県町志多留()貝塚からは外洋性の魚の骨が出土し、峰町では多くの貝輪(腕に付ける装飾品)の材料が、沖縄の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と北海道産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。また、石器の材料は、佐賀県伊万里市腰岳産の黒曜石である。
さらに、峰町吉田貝塚からは縄文時代晩期の夜臼式土器、弥生時代前期の板付I式土器などが出土し、九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。これらの石器・貝輪、土器は、峰町歴史民俗資料館や豊玉町郷土館等で収蔵・展示されている。
北部九州ではこの頃から水稲耕作が始まり、平野が開発されてゆくが、対馬では河川や低平な沖積地に恵まれず、水田を拡大できなかったことから、弥生時代に入っても狩猟や採集・漁労などの生業が依然として大きな比重を占めたものと推定され、イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。
ただし、大陸系磨製石器や青銅器・鉄器などの金属器などは出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く出土している。
2.2)古代
●神話
『古事記』では最初に生まれた島々(「大八島国」)の1つとして「津島」と記されている。『日本書紀』の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。
●交通の要衝
古くから大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島と倭国・倭人・ヤマトをむすぶ交通の要衝であった。
『魏志』倭人伝では、「対馬国」は倭の一国として登場する。帯方郡から邪馬台国への経路の途上、「狗邪韓国」(韓国慶尚南道金海)の記述につづいて「一海を渡ること一千余里」の南に位置するとしており、邪馬台国に服属した30余国のなかの一国であった。
そこには、対馬は、居る処は絶島で、土地は山が険しく、深林が多く、道は獣の径(みち)のようであり、千余戸の家はあるものの、良田がないので海産物を採集して自活し、船による南北の交易によって生活していたと記されている。
また、他の倭の諸国同様に、「卑狗」(ヒコ)と呼ばれる大官と「卑奴母離」(ヒナモリ)と呼ばれる副官による統治がなされていたとする。
古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、鉄剣(部分)、管玉等が出土している。前方後円墳は、3世紀代にヤマトで生まれた古墳形態であり、出土した有茎柳葉式銅鏃は古式畿内型古墳の典型的出土品であることから、この時代の対馬の首長はヤマト王権と深く結びつき、その強い影響下にあったことを示している。
首長墓のうち比較的大規模なものは、対馬市美津島町高浜曽根の海岸に集中して分布している。えべすのくま古墳は前方後円墳とみられているが、前方後方墳の可能性もあり、墳丘の全長は約40メートルである。箱式棺で銅鏃12点、管玉1点、鉄剣を出土しており、銅鏃は京都府の妙見山古墳や福岡県の石塚山古墳のものと類似し、古墳時代前期(4世紀ころ)の築造と推定される。
美津島町の鶏知(けち)ネソ1号墳は全長30メートルで箱式棺をともない管玉・鉄鏃・刀を出土している。鶏知ネソ2号墳は全長36メートルで、主室は箱式棺をともなって須恵器や鉄刀が出土しており、副室は箱式棺より土師器と鉄剣が出土している。ネソ1号墳、2号墳はともに積石塚である。
島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代はヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代であり、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。
このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』において、対馬北端の和珥津(わにのつ、現在の上対馬町鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させたうえ、屯倉を設置したという記述である。皇后が三韓征伐の帰途、旗八流を納めたとされるのが和多都美神社(現海神神社)であり、この神社が対馬国の一宮である。
また、朝鮮側の記録としては、12世紀に編纂された朝鮮最古の歴史書『三国史記』に、第18代新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。このように、対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地としての役割を担っていたことが知られる。
大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇における600年(推古8年)と607年(推古15年)の遣隋使も、また630年(舒明2年)の犬上御田鍬よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としている。
3)白村江の戦い
663年(天智2年)の白村江の戦い以後、倭国は、唐・新羅の侵攻に備え、664年には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8か所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。
667年(天智6年)には浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞とし、674年(天武3年、白鳳2年)には厳原が正式な国府の地に定まり、同年、対馬国司守忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した銀を朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。この対馬銀山は含銀方鉛鉱の鉱床であり、鉱石を山上に運び数日間焼き続けることにより残った銀を採取したものであるという。この金属精錬法は灰吹法に類似している。
701年(文武5年)、対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。
対馬国には伊奈、久須など5郷からなる上県郡と豆酘、鶏知など5郷からなる下県郡が置かれた。741年(天平13年)、「鎮護国家」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも厳原の地に国分寺が建立されている。
防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年(天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした。
神護景雲2年(768年) 波自采女が続日本紀に
「対馬島上県郡の人高橋連波自采女、夫を亡くして後誓って志を改めず。その父もまた死す。盧を墓の側に結んで、毎日斎食す。孝義の至り。路行く人を感ぜしむることあり。よってこれを其の門閭(里の入口)に表彰し、租(年貢)を免じて一生を終わらしむ。」
と記されており、対馬市豊玉町に墓がある。
8世紀中葉の成立と思われる和歌集『万葉集』には、
「百船(ももふな)の泊(は)つる対馬の浅茅山 時雨(しぐれ)の雨にもみだひにけり」
の短歌が収載されているが、『万葉集』には、他にも「浅茅浦」「竹敷の浦」などの地名がみえ、また、「玉槻」という対馬在住とみられる女性による、
「竹敷の玉藻なびかしこぎ出なむ 君が御船をいつとか待たむ」
の歌も収められている。
古代において、新羅から日本には540年(欽明天皇元年)から929年(延長7年)まで89回におよび入朝しており、日本から新羅へは571年(欽明天皇32年)から882年(元慶6年)まで45回にわたり使節(遣新羅使)を派遣している。これらは、すべて対馬を経由した。
平安時代に入って桓武天皇の時代には防人制は広く廃止され、軍団制に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した。
4度にわたる新羅の入寇では、813年(弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。
承和4年(837年)和多都美神社が神位を拝受した。
894年(寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが撃退している。
4)刀伊の入寇
1019年(寛仁3年)、正体不明とされた賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365人、拉致された者1289人で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。
現在では賊(日本側に捕らわれた捕虜3名はすべて高麗人)の主体は刀伊(一部は高麗に朝貢していたと言われる女真族)であったとされており、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。女真族は、このとき対馬の判官代長嶺諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は一度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録が残っている。
(引用:Wikipedia)
和多都美神社は、長崎県対馬市にある神社。式内社論社、旧社格は村社。
写真出典:Wikipedia「和多都美神社」
1)主祭神
・彦火々出見尊・豊玉姫命
2)歴史
・神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、この和多都美神社が鎮まる地を「夫姫(おとひめ)」と名付けたという。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の夫婦神が祀られている。
・『延喜式』の「神名帳」 に對馬嶋上縣郡「和多都美神社 名神大」とある。
・貞観元年(859年)に清和天皇から従五位上の神階を賜る。
・『三代実録』によれば永徳元年(1381年)に従一位を叙せられ、名社大社の一つ に数えられた。
●伝承
豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊(山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること3年、豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。
大潮の時期、満潮をむかえた境内では社殿の近くまで海水が到達することもある。その光景は龍宮を連想させ、豊玉姫命と彦火火出見尊の出会いに由来する「玉の井」や、満珠瀬・干珠瀬、磯良恵比須の御神体石などもある。
また、本殿の裏手の海宮山の原生林の中を少しく歩くと、磐座がみえてくる。この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。ただ、豊玉姫命は ” 仁位の高山 ” に葬られたと社家には伝承されているので、この磐座は恐らく古い斎場の跡であったものが、戦後の混乱期に社家がいったん途絶した為、「豊玉姫の墳墓」と言われるようになったと考えられる。
豊玉姫命を仁位の高山に葬った事については『楽郊紀聞』に和多都美宮司が語ったものが記録されている。
境内池の中の三柱鳥居 (引用:Wikipedia) 拝殿横の三柱鳥居
※三柱鳥居(みはしらとりい)は、鳥居を3基組み合わせたものをいう。正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木嶋神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。
(引用:Wikipedia)
1)概要
海神神社は、長崎県対馬市峰町木坂にある神社。式内社(名神大社)論社(※)、対馬国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。式内名神大社の「和多都美神社」、同「和多都美御子神社」、式内国幣小社の「胡禄神社」、同「胡禄御子神社」の論社である(いずれも複数の論社がある)。
拝殿と本殿(引用:Wikipedia)
※論社:式内社の後裔が現在のどの神社なのかを比定する研究は古くから行われている。現代において、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)などと呼ばれる。
式内社の後裔としてほぼ確実視されている神社でも、確実な証拠はほとんど無く、伝承により後裔の可能性がきわめて高い論社という扱いである。
延喜式編纂時以降、社名や祭神・鎮座地などが変更されたり、他の神社に合祀されたり、また、荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数になることもある。
論社には、他の研究によって後裔社だとみなされることもあるが、その神社自ら式内社だと主張することも多い。
2)祭神
・主祭神:豊玉姫命
・配祀神:彦火火出見命・宗像神・道主貴神・鵜茅草葺不合命
江戸時代までは八幡神を祀っていた。
3)歴史
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するという。旗は後に現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。
中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現 厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。
明治3年(1870年)、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社に改称した。翌明治4年5月、国幣中社に列格する際に、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、同年6月に現在の海神神社に改称した。
4)民俗
神社の南にある集落は、旧社人が居住していたので、穢れを忌む意識が強く、家屋は川の北側にあって、女性は出産に際しては川の南側に移って小屋の中で出産し、産後しばらく忌が開けるまで滞在した。
墓は参り墓が川の南岸にあり、埋め墓は南方の山を越えた海岸部にあるという両墓制の形態をとっていた。産穢と死穢を忌む意識が強い。
集落の北側にあって神社の鎮座する山を伊豆山と呼ぶが、伊豆はイツク(厳く)の意味で、神がよりつく神聖な山の意味である。旧6月の午の日の早朝にはヤクマの祭りが行われ、西海岸に石塔を立てて、伊豆山の方向を拝む。元々は天道の祭りで、太陽を拝むと共に、麦の収穫感謝を願った。
八幡神を祀っていたのは、母子神信仰が基盤にあるからで、太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰が習合していた。母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、豊玉姫命と鵜茅草葺不合命とも解釈された。
しかし、母子神信仰の基層には、海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していたのである。元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、さらに明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読みかえられ、式内社に比定する動きが強まった。
分離掲載開始:令和3年1月10日現在
最終修正:令和6年10月9日