このページでは、第3次邪馬台国?の謎を訪ねるため、九州南部の日向国・大隅国・薩摩国の歴史散歩を楽しむための関連事項を掲載します。
1 日向国の歴史散歩
(1)日向国について (2)日向国の古代遺跡・神社 (3)西都原古墳群
(4)日向神話の神々を祀る神社(高千穂神社・天岩戸神社・宮崎神宮・鵜戸神宮)
2 大隅国の歴史散歩
(1)大隅国について(2)隼人の反乱 (3)鹿児島神宮
3 薩摩国の歴史散歩
(1)薩摩国について (2)隼人の反乱(略)
(3)薩摩国の神社(枚聞神社・加紫久利神社・新田神社)
(引用:Wikipedia)
1 )「日向」の由来
『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。
「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている。ただし、この「譬武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される。
成立当初は現在の九州南部一帯の呼称で宮崎県と鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていたが、8世紀の初めには、薩摩・多褹の叛乱を契機に薩摩・大隅両国が分置され、日向の国域が定まった。
2)沿革
古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた。5、6世紀のヤマト政権には、筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊曽国(南部)の四区分に観念されていた。これは九州成立以前の政治的区分である。
7世紀中期以降、ヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、日向国は成立した。成立当初は現在の南九州広域に渡っていた。
大宝2年(702年)、薩摩・多褹の叛乱を契機に、現在の鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。
その後、和銅6年(713年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が大隅国として分立した。以後、明治初期まで日向国の郡構成(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、諸県郡の5郡)に変化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等、領域の変化はあった。
また日向国について「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院、三俣院、穆佐院、新納院、飫肥院、土持院、櫛間院、救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。
1883年(明治16年)宮崎県再置の際、諸県郡が新設宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県に残った南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡・東諸県郡、那珂郡が北那珂郡・南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡・西臼杵郡にそれぞれ分割された。
3)歴史
3.1)伝承
3.1.1)神話
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見えるが、日向の記載はない。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。
この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。
隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考える説がある。
3.1.2)征西説話
『古事記』景行天皇段では、天皇の子・小碓命が熊曽討伐を命じられるという征西説話が記述されている。この中で小碓命は熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗った。
『日本書紀』では景行天皇自ら熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定し、子・豊国別皇子が初代日向国造に任じられている。のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の子・日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。
なお『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、豊国別皇子の三世孫・老男が応神天皇期に日向国造に任じられたと記しており、『天皇本紀』(『先代旧事本紀』第7巻)では、豊国別皇子は日向諸県君らの祖と記している。
現在の歴史学界の中で、考古学界の大勢では実在天皇の可能性は応神天皇以降に求められており、上記の記述は歴史的事実とはされておらず、むしろ応神・仁徳の記述の伏線と捉えるのが妥当とする考えがなされているものの、文献史学界からは異なる意見も唱えられている。
3.2)律令制以前
日向地域では、弥生時代には青銅器の欠如と抉り入り方形石包丁の存在という特色が見られていたが、4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した。こうした古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示している。
『古事記』『日本書紀』の応神天皇・仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、こうした政治関係を背景として成立したと見られ、5世紀代に豪族が出仕したものと推測されている。
6世紀から7世紀中期にかけては、史書では推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない。
3.3)飛鳥・奈良・平安時代
「日向国」の文献上の初見は、『続日本紀』文武天皇2年(698年)9月28日条である。成立時期は明らかでないが、律令制成立に伴い7世紀中期以降に設けられたと見られている。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。
令制では大上中下のうちの中国とされ、中央から守、介、掾、目の四等官とそれを補佐する史生が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や四度使の監査など、大宰府の強い管理下に置かれた。
弘仁6年(815年)には軍団1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅(※)1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。
※軍毅(ぐんき)は、古代日本の軍団を統率した官職で、大毅、少毅、毅の総称である。1軍団に軍毅が複数いるときには1名の長官を大毅、1名か2名の次官を少毅といった。軍毅が1人しかいない軍団ではその1名を毅といった。郡司と同じく地元の有力者から任命され、国司の指揮下にあった。外官の武官である。
3.4)鎌倉時代
1185年(文治元年)惟宗忠久が、主筋である近衛家の島津荘(南九州にあった大荘園)の下司職に補任され、地頭職も兼任した。その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称した。忠久は1197年(建久8年)に薩摩・大隅にあわせ日向の初代守護職に任じられた。
しかし、忠久が、1203年(建仁2年)、比企能員の変に連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、北条氏赤橋家に伝えられることとなった。
日向国北部一帯を有した宇佐神宮の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の延岡市周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を土持氏が、西部山間部(現在の高千穂町周辺)を大神氏の流れをくむ三田井氏が地頭として勢力を有していたが、鎌倉御家人の伊東氏が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。
3.5)室町時代
南北朝時代においては、北朝方より南九州の大将として畠山直顕が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。畠山直顕は観応の擾乱において足利直義に味方し、足利尊氏方に味方した島津氏と争い敗れた。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。
ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から室町時代中期にかけては、北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏、南東部は豊州島津氏、北郷氏、新納氏といった島津一族を中心として、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり豊後の大友氏に臣従するようになる。
戦国時代になると、新納氏が薩州島津氏により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により、禅宗と真宗で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、大隅国にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。
更に義祐により豊州島津氏が飫肥から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、1572年の木崎原の戦いにより伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してきた。
滅亡の危機に立った義祐は豊後の大友義鎮を頼ったが、島津氏が1578年の耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、1587年秀吉の九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。
3.6) 江戸時代
日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割された。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩(薩摩藩支藩)、飫肥藩。この他、隣の大隅国から大きくはみ出るように薩摩藩が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の人吉藩も領地を持った。
3.7)近世以降の沿革(略)
4)国内の施設
4.1)国府
国府は『色葉字類抄』によると、児湯郡にあった。西都市大字右松の寺崎遺跡と推定されていたが、国衙も発見、児湯郡内で国庁の建物が調査されている。
4.2)国分寺・国分尼寺
4.3)神社
●延喜式内社
『延喜式神名帳』には、以下に示す小社4座4社が記載されている。大社はない。
・児湯郡 都農神社 (児湯郡都農町川北)
・児湯郡 都萬神社 (西都市妻)
・宮埼郡 江田神社 (宮崎市阿波岐原町)
・諸県郡 霧島神社 - 論社4社。
これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。
●総社・一宮以下
・総社 都萬神社
・一宮 都農神社
二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。
4.4)安国寺利生塔
安国寺 - 宮崎県日南市飫肥にあった。
5)地域
5.1)郡
5.2)江戸時代の藩
・延岡藩:高橋家(5万石)→有馬家(5.3万石)→三浦家(2.3万石)→牧野家(8万石)→内藤家(7万石)
現延岡市を中心とした県北一帯。飛地として、現宮崎市北部。
・高鍋藩:秋月家(3万石→2.7万石)
現児湯郡高鍋町周辺や美々津。飛地として、串間市周辺と宮崎市の一部。
・飫肥藩:伊東家(5.7万石→5.4万石→5.1万石)
現日南市、宮崎市南部
・佐土原藩:(薩摩藩支藩、3万石→2.7石)
現宮崎市佐土原町及び周辺地域一帯、西都市南部
・天領:現宮崎市周辺(宮崎市佐土原町一帯を除く)、日向市、国富町本庄、西都市北部
・西国筋郡代(役所は日田代官所)配下、出張所として富高陣屋(現日向市)を置き、支配。
その他、以下が日向国に領地を有していた。
・薩摩藩(島津氏):現宮崎県南西部一帯および鹿児島県志布志市、大崎町など。
・都城領主館:都城島津氏(北郷氏):現都城市
・人吉藩(相良氏):現宮崎県西部山間部
・交代寄合の米良家の米良陣屋:現西米良村、西都市西部、木城町中之又。
美々津県時代に八代県球磨郡から移管。
6)人物(略)
6.1)国司(略)
6.1.1)日向守(略)
6.1.2)日向介・権介(略)
6.1.3)日向掾・権掾(略)
6.2)守護(略)
6.2.1)鎌倉幕府(略)
6.2.2 )町幕府(略)
6.3)戦国時代
6.3.1)戦国大名
・日向伊東氏:日向の最大勢力。島津氏に敗れ1576年に一時没落するが、豊臣秀吉の九州征伐で戦功をあげた功績により、再び大名として復活を遂げる。
・土持氏:日向守護代。日向北部に勢力を持ち、後に伊東氏と対抗した。1580年、大友宗麟に敗北し滅亡。
・北郷氏;島津氏の支流。都城付近を領有し、北原氏・伊東氏と争った。
・北原氏:真幸院(現えびの市・小林市)と周辺を領有していたが、伊東氏の謀略により衰退。
・島津氏:日向・大隅・薩摩守護。1576年に日向を征服、さらに進出しほぼ九州統一にいたるも、豊臣秀吉の九州征伐により敗走。薩摩・大隅2カ国と日向真幸院を所領とする。
6.3.2)豊臣政権の大名
・伊東祐兵:清武・曾井2万8千石→飫肥5万7千石
1587年 - 1600年(関ヶ原戦後も本領安堵、飫肥藩に)
・秋月種長:串間3万石
1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、政庁を移し高鍋藩に)
・高橋元種:縣(延岡)5万3千石
1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、延岡藩に)
・島津豊久:高城2万8千石、
1587年 - 1600年(豊久は関ヶ原の戦い後で戦死するが、島津以久が跡をつぎ、薩摩藩支藩佐土原藩に)
6.4)武家官位としての日向守(略)
6.4.1)江戸時代以前(略)
6.4.2 江戸時代(略)
7)日向国での合戦
・1572年 : 木崎原の戦い
・1578年 : 耳川の戦い
・1587年 : 根白坂の戦い
・1592年 : 梅北一揆
・1599年 : 庄内の乱
(引用:Wikipedia)
1)古代遺跡
1.1)参考Webサイト
●世界文化遺産としての古墳を考える/南九州の古墳群/宮崎県の古墳について
古墳時代、円墳・方墳・前方後円墳といった墳丘をもつ古墳は、全国で約16~20万基が確認されている。そのうち前方後円墳は約5,000基確認されているが、全体の約3%にしか満たない。
宮崎県に目を向けると、あくまで概数であるが、前方後円墳170基、前方後円墳以外の墳丘をもつ古墳(円墳や方墳)約1,400基、地下式横穴墓約950基、横穴墓約1,150基、総数にすると3,600基を超える数が確認されている。
また、県内には、未確認の地下式横穴墓・横穴墓が多数存在すると考えられ、宮崎県内の古墳総数は、現在確認されている3,500基を大きく超える基数になると推測されている。
●日本遺産南国宮崎の古墳景観(日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会HP)
古代人のモニュメント 大地に絵を描く南国宮崎の古墳景観
日本独自の形である前方後円墳という古墳が造られた時代。宮崎平野でも西都原古墳を始め多くの古墳が造られました。
列島各地であまた造られた古墳のある景観(風景)は、時の移ろいの中で様変わりしますが、宮崎平野には繁栄した当時に近い景観が今も保たれています。
古墳の姿形が損なわれることなく、古墳の周りに建造物がほとんどない景観は全国で唯一です。古墳を横から、上から斜めから。いろんな形と古墳のある景観を楽しんでみませんか?
1.2)西都原古墳群
古墳時代全般を通じて造営された全国有数の大古墳群。陵墓参考地の男狭穂塚や女狭穂塚、前方後円墳(帆立貝式古墳)や円墳、方墳など300基以上の古墳と横穴墓、地下式墓が史跡地内に点在する。
・国指定史跡、1934(昭和9)年指定。
・国指定特別史跡、1952(昭和27)年指定。
・日本遺産、2018(平成30)年認定。
〇主な古墳
・鬼の窟古墳(206号墳)
・宮崎県立西都原考古博物館
1.2)本庄古墳群
本庄川と深年川に挟まれた本庄台地上を中心に分布する古墳群で、前方後円墳17基・円墳37基・横穴墓2基・地下式横穴墓1基の計57基が国史跡に指定されている。なお、国富町の中心部は古墳群の中に形成されており、「古墳とともに暮らすまち」として注目を集めている。
・国指定史跡、1934(昭和9)年指定。
・国富町HP http://www.town.kunitomi.miyazaki.jp/
参考資料:『史跡本庄古墳群保存管理計画書』 国富町教育委員会 2016年3月
1.3)その他の古墳群
〇生目古墳群
大淀川右岸、跡江地区の丘陵上に立地。前方後円墳や円墳、地下式横穴墓などで構成され、西都原古墳群と並び九州地方を代表する古墳群となっている。国指定史跡、1943(昭和18)年指定。2008(平成20)年には生目古墳群史跡公園が開園し、前方後円墳や円墳など約30基が園内に保存・整備、隣接する生目の杜遊古館には出土品が展示されている。
・日本遺産、2018(平成30)年認定。
〇茶臼原古墳群
茶臼原台地に分布する古墳群。春日・轟・上野の3地区に前方後円墳3基、円墳52基が確認されているが、ほとんどの古墳が未調査のため詳細は不明。このうち、児屋根塚古墳(1号墳)は全長約110mの前方後円墳で、銅鏡(四獣鏡)や玉類、蛇行剣などが出土しており、5世紀前半の築造と推定されている。
・国指定史跡、1973(昭和48)年指定。
・千畑古墳(近くの古墳)
2)神社(延喜式内社)
2.1)都農神社
都農神社(つのじんじゃ)は、宮崎県児湯郡都農町にある神社。式内社、日向国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。明治以前は「宮崎社」「宮崎宮」とも称されていた。地元では「一の宮神社」とも呼ばれる。
境内(左に拝殿、右に末社の熊野神社)(引用:Wikipedia)
〇祭神
・大己貴命(おおなむちのみこと)
大国主命(おおくにぬしのみこと)に同じ。古くからの都農町一帯の守り神であることから、土地の神として大己貴命を充てたものであるとされている。
なお、『塵袋』には「吐乃(つの)大明神」とあり、『塵添壒嚢鈔』はそれに追書して疱瘡の治療に霊験あらたかであると載せている。また田畑の虫害を除くとの信仰もあった。
〇歴史
●創建
社伝によれば、神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるという。また神功皇后が三韓征伐に際して舟の守護神として「吐乃大明神」を勧請したとの『塵添壒嚢鈔』の記事を引用して、皇后が凱旋後に社殿を造営したのが初めであると伝えている。
都農町一帯には縄文時代以来の遺跡が分布するほか、円墳や前方後円墳など20基以上の古墳(都農古墳群)もあり、当社鎮座地付近からも土器・石器類が出土している。このように早くから人が居住していたことが知られ、守護神としての当社の歴史も太古の昔に遡るものとされる。
●概史
承和4年(837年)に官社に列し、承和10年(843年)従五位下が授けられ(以上『続日本後紀』)、天安2年(858年)従四位上に昇叙された(『日本三代実録』)。『延喜式』神名帳では日向国児湯郡に「都農神社」と記載され、式内社に列している。当時は壮大な社殿と広大な境内を有する日向国第一の大社であったと伝えられている。その地位から都萬神社との政治的・宗教的対立を生じたともいうが、後述するように古文書類を焼失しているために詳細は明らかではない。
当社が「日向国一宮」として庶民はもちろん在地領主からも崇められたことは確かであり、天文18年(1549年)には伊東義祐によって社殿が造替されている。その後天正6年(1578年)、大友・島津両軍の争乱の際に、大友宗麟と島津義久の兵火に罹って社殿を始め、社宝、古文書類を悉く焼失してからは次第に衰退した。延宝3年(1675年)には「其後取立る人もなしとて、僅の小社となり御名さへ知らず、只明神とのみいへり」といった状態であった。
その後元禄5年(1692年)に高鍋藩主・秋月種政によって再興されるとともに、元禄14年(1701年)に社領20石が寄進されて以来、江戸時代を通じて歴代の高鍋藩主から崇敬された。享保12年(1727年)の同種弘による鳥居奉献、同種美による元文元年(1736年)の社殿造営と延享2年(1745年)の鳥居造営、安政6年(1859年)の同種殷による社殿造営が行われたほか、藩主による参拝や代参、奉幣もしばしば行われた。
明治4年(1871年)近代社格制度において国幣小社に列し、昭和9年(1934年)に「神武天皇御東遷2600年記念事業」として社域の拡大整備を行った。戦後は神社本庁に属すとともに、昭和23年(1948年)にその別表神社となり、平成19年(2007年)に本殿を再建した。
●神階
・承和4年(837年)8月、官社に列格 (『続日本後紀』) - 表記は「子都濃神」。
・承和10年(843年)9月19日、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「都濃皇神」。
・天安2年(858年)10月22日、従五位上から従四位上 (『日本三代実録』)
〇境内
本殿は一間社流造銅板葺で、千木・鰹木を置く。平成19年に再建されたもので、ほぼ旧本殿の造形を踏襲したものである。旧本殿は安政6年に河野喜之助の寄進により再建されたもので、現在は移築されて末社熊野神社の本殿となっている。
拝殿は本殿と同じく平成19年の再建。正面5間側面3間平入の入母屋造で、背面中央に奥行2間の切妻造妻入の幣殿を付ける。屋根は銅板葺で、正面に千鳥破風を架し、その下に縋破風で中央1間に軒唐破風を構えた3間の向拝を付加している。旧拝殿は移築され神楽殿として使用されている。
〇摂末社
●奥宮
・瀧神社(祭神:高龗命)
●摂社
・素盞嗚神社(祭神:素盞嗚)
・足摩乳神社(祭神:足摩乳命)、手摩乳神社(祭神:手摩乳命)
●末社
・稲荷神社 - 祭神:宇加之御魂命
・愛宕神社 - 祭神:火産霊命
・熊野神社 - 祭神:速玉男命(※)、事解男命(※)、菊理比売命。社殿は本社旧本殿。
※速玉之男命・事解之男命
『日本書紀』で伊弉諾尊(イザナギ)が伊弉冉尊(イザナミ)を追いかけて黄泉の国へ行ったときに生まれた神として登場する。
第五段一書(第十)はこんなふうに書いている。イザナミに会ったイザナギは、おまえを失って悲しいから来たのだと言う。それに対してイザナミはわたしを見ないでくれと言う。
しかし、イザナギはイザナミを見てしまう。するとイザナミは恨み恥じて、あなたは私の心を見た、私もあなたの心を見たと言い、悪いと思ったイザナギが去ろうとするとイザナミは別れると言い、イザナギは負けないと答えた。
このとき、イザナギが吐いた唾から化成したのが速玉之男(ハヤタマノオ)で、穢れを祓うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が生まれたという。(古事記には表記なし)
2.2)都萬神社
都萬神社(つまじんじゃ、都万神社)は、宮崎県西都市にある神社。式内社で、日向国総社論社、日向国二宮論社。旧社格は県社。
拝殿(引用:Wikipedia)
〇社名について
「都万」の社名について、「妻万」とする説が古くからある。またその場合、読みを「つま」のほか「さいまん」とする説がある。現在も地元では、「おせんさま」という「さいまん」の転訛による呼称が残っている。
〇祭神
・木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
社名の「都万」は「妻」のことであり、祭神の木花開耶姫命が瓊々杵尊の妻であることによるという。一説として、祭神は柧津比売命という説もある。
〇歴史
●創建
創建の年代は不詳。当社周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。当社近くには全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定地や日向国府跡もあり、日向の中心地であったことがうかがわれる。
なお本居宣長以来古くから、当地の地名「妻(つま)」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説がある(確証はされていない)。
●概史
国史の初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の「日向国子湯郡都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社を官社に預かる)」という記事である。その後、神階は天安2年(858年)に従四位下まで昇進した。
『延喜式』神名帳では日向国児湯郡に「都万神社」と記載され、式内社に列している。日向国府は当社近くに設けられており、また「五社明神」という別称から日向国の有力社を合祀していたと見られることから、当社は日向国の総社の機能を担ったとする説がある。また、都農神社(日向国一宮)に次ぐ二宮として崇敬されたとする説もある。
日向国衙の在庁職にあった日下部氏は当社の神官も務め大きな影響を持ったが、室町時代以後の当社は伊東氏から庇護された。中世には「妻宮」「妻万宮」「日向総廟五社大明神」などと呼ばれていたという。日向国の式内社4社の中では、実質的に最も有力な神社であった。
明治6年(1873年)に、近代社格制度において県社に列格し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進指定を受けた。
●神階
・承和4年(837年)8月、官社に列格 (『続日本後紀』) - 表記は「妻神」。
・天安2年(858年)10月22日、従五位上から従四位下 (『日本三代実録』)
〇摂末社
・大山祇神社 - 祭神:大山津見命
・八坂神社 - 祭神:須佐之男命
・霧島神社 - 祭神:瓊瓊杵命
・四所神社 - 祭神:磐長姫命ほか3柱
・稲荷神社 - 祭神:宇迦之御魂命
2.3)江田神社
江田神社(えだじんじゃ)は、宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)にある神社。式内社で、旧社格は県社。
拝殿(引用:Wikipedia)
〇祭神
●主祭神: 伊邪那岐尊 (いざなぎのみこと)
●配祀神: 伊邪那美尊 (いざなみのみこと) - 寿永2年(1183年)の増祀。
以上の2柱は「産母(やぼ)二柱大明神」と号され、地元の人々からは「産母(やぼ)様」とも呼ばれている。
〇歴史
●神話
『古事記』『日本書紀』には、伊邪那岐尊が黄泉から帰還して禊を行ったという記述がある。禊を行なった場所について、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記すが、この「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」が当地であると伝えられている。
この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へたまひし時に」と読み上げられている。
当社近くの「みそぎ池」が伊邪那岐尊が禊を行った地と伝えられ、かつては入江であったが、後に開墾されて「江田」と称されたという。
なお上記の神話に基づき、当地はイザナギの子であるアマテラス・ツクヨミ・スサノオら三貴子や住吉三神の誕生地と伝えている。
当社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代初め(約2,400年前)の檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代の初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは国内最大の木製墓室・木槨跡が見つかった。
●概史
国史の初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の「日向国子湯郡都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並びに官社に預かる」という記事である。『延喜式』神名帳では日向国宮埼郡に「江田神社」と記載され、式内社に列している。また、『和名類聚抄』には宮崎郡に「江田郷」の記載があり、境内からは10世紀前後の須恵器も出土したことから、創建当初の位置に現在も鎮座していると考えられている。
天禄元年(970年)までには神階が最高位の正一位まで進み、菊の紋章を持つ壮麗な神殿を持つなど、かつては社勢を誇っていたといわれる。中世には那珂郡に属し、京都の『清滝宮勧進神名帳』や文明11年(1479年)の『戒壇院公用神名帳』にも記載が見られるなど、日向国を代表する神社であったと見られている。江戸時代は幕府領伊東氏飫肥藩預地であった。
しかしながら、寛文2年(1662年)の外所(とんどころ)地震の大津波により社殿を失ってからは衰退し、一村落の産土神の扱いとなっていた。津波によって貴重な歴史遺産が多数失われたともいわれる。江戸時代初期、神道家・橘三喜の『諸国一宮巡詣記』は「江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う」と記している。
明治6年(1873年)5月25日、近代社格制度において県社に列格し、同40年2月9日に神饌幣帛料供進神社に指定された。
●神階
・承和4年(837年)8月、官社に列格 (『続日本後紀』)
・天安2年(858年)10月22日、従五位上から従四位下 (『日本三代実録』)
2.4)霧島神社
霧島神社(きりしまじんじゃ)は、かつて日向国にあった神社(式内社)である。また、霧島神宮の旧社名でもある。
国史の初見は『続日本後紀』承和4年(837年)8月1日条で、「日向国子湯郡都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社を官社に預かる)」とし従五位上を授けられたと記載されている。
その後、『日本三代実録』天安2年(858年)10月22日条に従四位下の神階を授けるという記述がある。
延喜式神名帳では「日向国諸県郡 霧嶋神社」と記載され、小社に列している。
霧島神社は霧島山の神を祀ったものであり、元々は高千穂峰と火常峰(御鉢)の間に社殿があったが、文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の大噴火により焼失したため遷座され、また分社も行われた。そのため現在、式内社・霧島神社の論社には以下の4社がある。
・霧島岑神社(宮崎県小林市細野、旧県社、祭神 瓊瓊杵命ほか)
・東霧島神社(宮崎県都城市高崎町東霧島、旧県社、祭神 伊弉諾尊)
・霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田、旧県社、祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊)
・霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口、旧官幣大社、祭神 瓊瓊杵尊)
霧島岑神社(霧島山中央六所権現)の社伝によれば、天慶・天暦年間に性空上人が霧島岑神社に参籠し、霧島山の四方に夷守神社ほか4社を創建したという。
その後文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の噴火により社殿は焼失、その後末社の霧辺王子神社の辺に遷座されたが、享保元年(1716年)に新燃岳が噴火し社殿が再び焼失、御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが元の社地は全く荒廃したので、享保14年(1729年)、夷守岳(ひなもりだけ)中腹に社殿を再建、明治初頭まで鎮座された。明治6年(1873年)に同じく霧島六社権現に数えられていた夷守神社を合祀した後、夷守神社跡地(現在地)に遷座した。
また、霧島神宮の社伝によれば、文暦元年(1234年)の噴火で社殿(高千穂河原の古宮址)を焼失し、社殿を霧島山の東の長尾山に移し東霧島権現(東霧島神社)とした。文明16年(1484年)、島津忠昌がこれを東西の2社に分けた。その東社(霧島東御在所権現)が現在の霧島東神社、西社(西御在所霧島権現)が現在の霧島神宮である。
その他にも、文暦元年(1234年)の噴火で社殿を焼失し、社殿を霧島山の東の長尾山に移した後、これを現在の霧島岑神社と霧島東神社の2社に分け、更に霧島東神社から霧島西神社(現在の霧島神宮)を分けたという伝承もある。
このように文暦元年(1234年)の御鉢の噴火によって消失した社のその後の現在に至るまでの経緯については、様々な伝承があるようである。
これら4社に狭野神社(狭野大権現)・夷守神社(夷守六所権現。明治6年に霧島岑神社に合祀)を加えて霧島六社権現という。
古来より霧島山中央六所権現がその名の通り中心的な役割を果たしていた。後年になり西御在所霧島六社権現もその役割を担う様になっていった。西御在所霧島六社権現は明治の神仏分離の際に霧島神社に改称した。明治7年(1874年)、霧島神社は霧島神宮となり、明治10年に東霧島神社を、明治13年に霧島東神社を摂社とした。
第3次邪馬台国 卑弥呼の墓?
(引用:Wikipedia)
西都原古墳群(引用:Wikipedia)
〇参考Webサイト:宮崎県立西都原考古博物館
1)概要
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)は、宮崎県西都市三宅・童子丸・右松にある古墳群。国の特別史跡に指定されている。標高70メートル程度の洪積層の丘陵上に分布する日本最大級の古墳群である。3世紀前半~3世紀半ばから7世紀前半にかけての築造と推定されている。
現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。
大正3年(1914年)、出土品を収蔵するため宮崎県立史跡研究所が設立された。後に市に移管され、昭和27年(1952年)博物館法指定で西都市立博物館となる。現在は宮崎県立西都原考古博物館。
その後、昭和9年(1934年)に国の史跡に、昭和27年(1952年)に国の特別史跡に指定され、昭和41年(1966年)から昭和43年にかけて、風土記の丘第1号として整備が進められた。
西都原古墳群は地形的に西都原台地上と、西都原台地と市街地との間に位置する中間台地上の二地域に区分でき、その中で更に11の集団に分けることができる。
2)西都原台地上の主な古墳
2.1)男狭穂塚・女狭穂塚
男狭穂塚(おさほづか)(175m)は日本最大の帆立貝形古墳。女狭穂塚(めさほづか)(180m)は九州最大の前方後円墳。共に宮内庁陵墓参考地であり、特別史跡の指定範囲には含まれない。
2.2)姫塚(202号墳)
姫塚は「第1集団」の西端に位置する前方後円墳で、墳長50.2m、前方部幅30.8m、前方部高さ5.25m、後円部径28.4m、後円部高さ6.0mを測る。その形状の美しさから姫塚(ひめづか)と呼ばれ、周囲には周湟(周濠)が巡らされている。確認された埋葬主体は木棺直葬である。
大正時代に発掘された30基のうちの一つで、直刀3本、刀子1本、須恵器9個、ガラス製小玉、水晶製切子玉などが出土した。前方部の発達具合や大正年間の発掘の際の出土品から築造年代は6世紀初頭(古墳時代後期)と考えられている。
2.3)鬼の窟古墳(206号墳)
鬼の窟古墳(引用:Wikipedia )
鬼の窟古墳は西都原古墳群内で唯一、埋葬施設に横穴式石室を採用している古墳である。鬼が一夜で造りあげたとする伝説が残ることが名の由来となっている。石室内の水を排出するための暗渠の存在や土塁が完全に古墳を一周していたこと、追葬が行われていたことなどが明らかとなった。古墳の周囲に土塁を巡らしているのは中華人民共和国・朝鮮半島ではよく見られるが、国内では石舞台古墳が類似するのみで、関係が注目される。
宮崎県には、いわゆる日向神話の神々を祀る神社が数多く存在します。その詳細は、Webサイト「宮崎県の神社:http://www.pmiyazaki.com/jinjya/」に詳しく掲載されています。その内、これまで訪れた神社の紹介します。
(引用:Wikipedia )
1)高千穂神社
高千穂神社(たかちほじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する神社である。国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の有力な論社であるが、近代社格制度上は村社にとどまった。現在は神社本庁の別表神社となっている。
拝殿(引用:Wikipedia )
1.1)社名
古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称されて来たが、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895年)現社名に改称した。
1.2)祭神
〇主祭神
・一之御殿(いちのごてん):高千穂皇神(たかちほすめがみ)
・二之御殿(にのごてん):十社大明神(じっしゃだいみょうじん)
●高千穂皇神・十社大明神とは
高千穂皇神は日本神話の日向三代と称される皇祖神とその配偶神(天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命)の総称で、十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命(みけぬのみこと)とその妻子神9柱(三毛入野命の妃神である鵜目姫(うのめひめ)命と、両神の御子神である御子太郎(みこたろう)命、二郎(じろう)命、三郎(さぶろう)命、畝見(うねみ)命、照野(てるの)命、大戸(おおと)命、霊社(れいしゃ)命、浅良部(あさらべ)命)の総称とされる。
●主祭神の伝承・異伝
・十社大明神の中心である三毛入野命は、「記紀」に浪穂を踏んで常世国に渡ったとあるが、当地の伝承では、高千穂に戻り当時一帯を荒らしていた鬼神の鬼八(きはち)を退治、当地に宮を構えたと伝える。
・また文治5年(1189年)3月吉日の年記を持つ当神社の縁起書『十社旭大明神記』には、神武天皇の皇子「正市伊」が「きはちふし」という鬼を退治し、その後正市伊とその子孫等が十社大明神として祀られたという異伝を載せている。
・更に、正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝もあり、また、『平家物語』巻8緒環段では、「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」の正体は「大蛇」で豊後緒方氏の祖神であるとしている。
・また、鵜目姫命は祖母岳明神の娘神で、鬼八に捕らわれていたところを三毛入野命に助け出され、後にその妃神になったという。
1.3)歴史
・高千穂は日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地と伝えられるが、天孫降臨伝承と在地固有の信仰が融合し、更に熊野修験も加わるなど複雑な信仰を包含する。また、槵觸神社(くしふるじんじゃ)は古来より当神社の春祭りに対して秋祭りを行うなど、当神社と密接な関係を持つものでもあった。
・社伝によれば、三毛入野命が神籬(ひもろぎ)を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。
・当神社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」であるとすれば朝廷からの神階授与があったことになるが、『延喜式神名帳』の記載はない。
・また、天慶年間(938-47年)に豊後国から大神惟基の長子政次(高知尾太郎政次)が当地に入り高知尾(高千穂)氏を興したが、社伝によると同氏は当神社を高千穂18郷にわたる88社(高千穂八十八社)の総社と位置づけて崇めたといい、以後も当神社に深く関わるようになったと見られている。
・中世になると土持氏の勢力が入り、建久8年(1197年)の『建久図田帳』では妻万(つま)宮(現西都市の都萬神社)の社領中に「高知尾社八町」、地頭土持宣綱とあって、当神社は妻万宮の管轄下にあったようであるが、同じ頃高千穂氏によって紀州の熊野信仰がもたらされたようで、その後高知尾庄と呼ばれるようになった当神社の社領は、建長6年(1254年)4月26日の関東下知状案を見ると熊野山領とされており、地頭職には高知尾政重が就き、鎌倉時代中期までは熊野山領に組み込まれたようである。
・また社伝によれば、源頼朝が天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して多くの神宝を奉納、この時重忠によって現存する重要文化財の鉄製鋳造狛犬1対が献納され、境内にある「秩父杉」(高千穂町指定天然記念物)も重忠自らが植えたものといい、文永・弘安の役には鎌倉時代中頃からは高知尾庄に北条氏被官の安東氏の勢力が進出して来る一方で、熊野別当の後胤を称す浦上氏も預所職を務めるなど当神社を含めた一帯の支配を強めるようになった。
・また、鎌倉時代末から高知尾氏に代わり島津氏が地頭となる一方、高知尾氏も三田井氏を称して三田井郷の地頭職を所持するなど、この頃から社領や神事を巡る相論が頻出しだし、南北朝時代にはこれに加えて南朝方に与する阿蘇氏の勢力も進出、社伝によれば征西将軍懐良親王による祈願のための神宝が奉納されたというが、以後阿蘇氏支配の下、「高千穂郷総鎮守」として崇められた。
・明治4年7月に延岡県の県社、11月に美々津県の県社とされたが、宮崎県に改組されると同6年(1873年)に村社とされた。戦後は神社本庁に参加し、昭和46年(1971年)に別表神社となった。
●神階
国史見在社であれば、承和10年(843年)9月甲辰(19日)に都濃皇神とともに無位から従五位下を授けられ(『続日本紀』)、天安2年(858年)10月22日に同じく都農神とともに従五位上から従四位上に昇った(『日本三代実録』)。
1.4)祭祀
〇神事
●例祭(4月16日)
当年の豊作等を祈る祭りで、上述のようにこれに対して槵触神社では秋に感謝祭を行う。また、お旅所である天真名井まで神輿の巡幸があり、そこで神楽が奉納される。
●神話の高千穂夜神楽まつり(11月22-23日)
夜を徹して重要無形民俗文化財に指定されている高千穂の夜神楽全33番が奉納される。ちなみに境内の神楽殿では、年間を通じて観光用に33番の中から「手力雄(たぢからお)」・「鈿女(うずめ)」・「戸取(ととり)」・「御神体(ごしんたい)」の4番が実演されている。
●猪掛(ししかけ)祭(旧暦12月3日)
鬼神鬼八の慰霊のために始められたもので、かつては16歳になる生娘を生贄として捧げていたが、天正年間(1573-93年)に三田井氏の家臣甲斐宗摂がこれを悪習と嘆き、高城山で巻狩を行って獲た16頭の猪(しし)を代わりに捧げ、以後「鬼餌の狩」と称する狩りで獲た猪を捧げるようになったと伝える。
当日は町内3箇所の鬼八塚に氏子等が供物をするなどの慰霊祭を行った後、社頭で笹振り神事を行う。笹振り神事は神前に1頭の猪を丸ごと献饌し、鬼八の魂を鎮める「鬼八眠らせ歌」を歌いながら笹を左右に振る「笹振り神楽」を舞う。
これによって鬼八は神へと昇華し、霜害を防ぐ「霜宮」に転生するという。なお、「笹振り神楽」は一に「地祇(ちぎ)の舞」とも呼ばれ、高千穂神楽の祖型であるとされている。
〇祠官
上掲『十社旭大明神記』では十社大明神の子孫が代々奉仕してきたといい、正和3年(1314年)の古文書には「宗重」という神主が、祖先である「承念」以来26代にわたって他氏を交えず奉仕してきたことを述べ、建武5年(1338年)の文書にも同じ名前が見えるが、その後の神主家の消息は不明である。
一方南北朝時代からは、当神社領であった高知尾庄を10の地区に分け、それぞれに「宣命」と呼ばれる神官職が置かれ、阿蘇氏に属した三田井氏がこれを補任していたとされ、この「宣命」が各地区において神事を司るようになったが、こちらもその後の沿革は不詳である。
1.5)社殿
本殿は梁間2間の五間社流造銅板葺で棟に千木・鰹木を置く。
安永7年(1778年)に延岡藩主内藤政脩を大檀那として造替された九州南部の代表的な大規模社殿であり、東側の脇障子に彫刻された鬼八を退治する三毛入野命の神像といった当地の伝説や祭礼に関する彫物を施し、西側脇障子の部分には稲荷社を設ける独特の形式などの地方色も顕著に有していることから、国の重要文化財に指定されている。ちなみに天保8年(1837年)に参拝した松浦武四郎は、その紀行文(『西海雑志』)に「本社は東向に瑞籬の中に十社并び建たり」と当時の有様を記している。
1.6)境内
境内に以下の境内社がある。
●稲荷社:- 上述本殿東脇に付属する小祠で、事勝国勝長狭神と大年神を祀っている。
●荒立神社・四皇子社:- 本殿左側に鎮座し、猿田彦大神・天鈿女命(荒立神社)と神武天皇・五瀬命・稲氷命・三毛入野命(四皇子社)を祀る。荒立神社は明治末年に同町の村社を合祀したものであるが元の地にも復祀されている(現荒立神社)。
●その他:門守神(祭神不詳)、八坂神社(素盞嗚命)、御霊社(大神惟基)、羽居高天神(菅原道真公)、比波里天神(天村雲命)、鎮守社(祭神不詳)、及び飛地境内の市之神社
拝殿前西に根元が1つであることから「夫婦杉」と呼ばれる2本の大杉が聳え、夫婦が手をつないでこれを3周すると、夫婦円満・家内安全・子孫繁栄の3つの願いが叶うと伝わる。
また、本殿東後方に「鎮石(しずめいし)」があり、これは垂仁天皇の勅命による社殿創建に際して用いられた古石と伝え、この石に祈ると個人の悩みから世の乱れまでの一切が鎮められるという。因みに当神社では、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮に伝わる「要石(かなめいし)」は同神宮の社殿造営に際して当神社より贈られたものと伝えている。
(引用:天岩戸神社HP)
2) 天岩戸神社
天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。旧社格は村社で、神社本庁の別表神社。
天岩戸神社西本宮 (引用:Wikipedia) 天岩戸神社東本宮
〇参考Webサイト:日向国天岩戸神社(公式HP)
2.1)概要(参考Webサイトより)
天岩戸神社は宮崎県高千穂町に鎮座し、日本神話(古事記・日本書紀)の中に書かれております天照大御神様のお隠れになられた天岩戸と呼ばれる洞窟を御神体として御祀りしており、天岩戸神話の舞台となった場所でございます。 岩戸川をはさんで西本宮と東本宮が鎮座し、両社とも、天照大御神様を御祭神として御祀りしております。 川上には八百萬の神々がお集まりになり、御相談をされた天安河原がございます。
2.2)御由緒
参考Webサイト「御由緒」参照
2.3)天岩戸神社 西本宮(参考Webサイトより)
・御祭神:大日霎尊(おおひるめのみこと) 【天照皇大神の別称】
・御神木:招霊(おがたま)の木
※天照皇大神が御隠れになられた天岩戸(洞窟)を御神体として御祀りしている神社。
2.4)天岩戸神社 東本宮(参考Webサイトより)
・御祭神:天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)を祭る。
※天照皇大神が天岩戸からお出ましになられた後、最初にお住まいになられた場所を御祀りしている神社。
2.5)天安河原宮(参考Webサイトより)
・御祭神:思兼神(おもいかねのかみ)
八百萬神(やおよろずのかみ)
※天照皇大神、天岩戸へ御籠り遊ばれた時に、八百萬神は天安河原へ神集神議りになった事を古事記等に記してありますが、天岩戸神社より500メートル川上の此の天安河原は其の御相談の場所であると伝へます。此の河原の一角に「仰慕窟(ぎょうぼがいわや)」と称し間口40メートル、奥行30メートルの大洞窟があり、全国から願事がかなうとの信仰があります。
2.6)境内
(引用:Wikipedia)
3)宮崎神宮
宮崎神宮(みやざきじんぐう)は、宮崎県宮崎市神宮にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
拝殿(引用:Wikipedia)
〇参考Webサイト:宮崎神宮(公式HP)
3.1)社名
歴史は古く、「神武天皇宮(社)」、「神武天皇御廟」などと称されたが、明治6年(1873年)に「宮崎神社」と改称し、更に同11年「宮崎宮」と改称、大正2年(1913年)に神宮号が許可されて現社名となった。地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれている。
3.2)祭神
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこ の みこと、のちの神武天皇(初代天皇))を主祭神とし、父神・鸕鷀草葺不合尊と母神・玉依姫命の2柱を配祀する。
3.3)由緒
社伝によれば、鎮座地は神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた皇孫の建磐龍命(阿蘇神社の祭神)がその縁にちなんで創祀したといい、崇神天皇の時代に初めて社殿が創建され、景行天皇の熊襲征討に際して重ねて造営がなされ、さらに応神天皇の時代からは『国造本紀』に載せる日向国造の祖、老男命(おいおのみこと)が祀るようになったと伝える。
古くから鎮座していたのは確からしいが上古の由緒は不明で、文献上の初見は鎌倉時代初めまで降り、当地の地頭職にあった土持信綱が現在地に社殿を造営し、皇宮屋(こぐや)(現 境外摂社)から建久8年(1197年)に遷座したという記録である。
『神皇正統記』に神武天皇が「日向の宮崎の宮」から東征したと記すように、中世には東征以前に宮崎に帝都があったとする説も定着し、当宮をこれに充てるようになったと思われており(『古事記』に載せる高千穂宮(高千穂神社)に擬する説もある)、以後神武天皇に対する崇敬から、歴代の領主により深く崇敬された。文明5年(1473年 )に伊東祐国が蓮ヶ池(現宮崎市村角町)と下北方(同下北方町)の一部を奉献したのを始め、永禄3年(1560年)に有馬永純が社領として2石5斗を寄進、同5年(1562年)には伊東義祐が下北方・江平(現宮崎市江平町一帯)から領地を割いて奉献、更に天正5年(1577年)には島津義久が米穀や幣帛を奉献している。
江戸時代には、延岡藩が当地を所領し、寛永21年(1644年)藩主有馬康純が社殿を造営、天保10年(1839年)にも藩主内藤政義による修造が行われている。もっとも、神武天皇を祀る古社とはいえ、江戸時代までは地方の1古社に過ぎず、当宮が広く全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古の大号令で「神武創業の始め」に復することが唱導され、当宮が脚光を浴びるようになってからである。
明治6年(1873年)に 県社と定められた(この時宮崎神社と改称。「社名」節参照)が、神武天皇の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受けるようになり、同8年(1875年)に国幣中社、同18年(1885年)には官幣大社へと累進した。同32年(1899年)には総裁を二条基弘、会長を島津忠亮とする「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、高木兼寛が幹事長となって全国から寄付金を集めて境内整備を行い、同40年にほぼ現在の姿となったが、更に昭和15年(1940年)、紀元2600年を記念した拡大整備事業(その規模は橿原神宮に次いで全国2位であったという)で、現在の境内が完成した。戦後は神社本庁の別表神社となり、現在に至っている。
3.4)神事
●神武天皇祭(4月3日)
神事流鏑馬を行うが、この流鏑馬は1940年の紀元2600年奉祝行事の一環として古儀に則り復興されたもの。4月3日は神武天皇崩御の日である。
●宮崎神宮大祭(御神幸祭)(例祭後の土・日曜日)
当宮から瀬頭と大淀の御旅所(隔年で交替)まで、神輿を中心にシャンシャン馬や稚児行列が練り歩く。
明治時代には、天照(アマテラス)大神の孫(天孫)ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の御陵と伝えられる前方後円墳に立つ奈古(なご)神社(宮崎市南方町、明治4年以前は長屋神社とも呼んだ)が宮崎神宮大祭のスタート地点となり、宮崎神宮まで練り歩いた。
※宮崎県内では、西都市・西都原古墳群内の男狭穂塚(九州最大の古墳、宮内庁陵墓参考地)もニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の御陵との伝説がある。
3.5)社殿
本殿は方3間の切妻造妻入。前面に桁行4間の両下造の渡殿が接し、正面7間側面4間の幣殿に続く。幣殿の前面には桁行3間の向拝が付き、左右には渡廊を経て御料屋(向かって左)、神饌所(同右)が結合されている。御料屋と神饌所はそれぞれ妻を正面に向けた正面3間側面4間の切妻造で、また幣殿の前方には方3間切妻造平入の拝所が立つ。
以上いずれも明治40年の造替にかかり、狭野杉を用材とする銅板葺であるが、杉を社殿建築の用材とする珍しい例である。なお、本殿以下の主要社殿には千木・鰹木が設けられ、その直線的で簡素な佇まいには、伊勢神宮の神明造の影響が顕著である。
設計は、東洋の古建築を研究し、その学問的体系を確立した東京帝国大学名誉教授伊東忠太である。平成22年(2010年)に「国土の歴史的景観に寄与している」として本殿を始め11棟の建造物が国の登録有形文化財に登録された。神社建築としての登録は宮崎県内では日向市の大御神社に次いで2例目である。
3.6)摂末社
●摂社・皇宮神社
東宮から北西1km弱離れた市内下北町の飛び地境内に鎮座。神武天皇を主祭神として吾平津媛命・手研耳命を相殿に祀る。神武天皇の宮跡と伝えられるため、一に皇宮屋とも呼ばれる、鎌倉時代までの旧社地である。1月14日に皇宮屋破魔矢祭(こぐやはまやまつり)という五穀豊穣を予祝する特殊神事を行う。なお、社殿は1976年に伊勢の神宮の第60回式年遷宮の折に、外宮外幣殿の古材を使って改築した
●末社・五所稲荷神社
宇迦魂神を祀る。市内下北方町、花ヶ島町などの5神社を合祀して創建した。
なお、戦前は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田鎮座の旧県社狭野神社を別宮として所管していた。また、宮崎市のアミュプラザみやざき屋上の「交通神社」は、宮崎神宮から祭神を分霊したものである。
(引用:Wikipedia)
4)鵜戸神宮
鵜戸神宮(うどじんぐう)は、宮崎県日南市にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。
本殿(引用:Wikipedia)
〇参考Webサイト:鵜戸神宮(公式HP)
4.1)社名
「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。古くは「鵜戸権現」とも称されたが、明治元年(1868年)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神社」と改称。同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。
4.2)祭神
・日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
・大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)
・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
・彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)
・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
・神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日孁貴以下の皇祖神と神武天皇を祀る。主祭神降誕の地とされ、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めている。また境内には主祭神の陵墓とされる古墳もある。
4.3)歴史
創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。
また、延暦元年(782年)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える。
平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。中世以後、伊東氏の崇敬を受け、永禄3年(1560年)に伊東義祐によって社殿が再興された。江戸時代初期の寛永8年(1631年)には飫肥藩主伊東祐慶による造替、同18年(1641年)にも同藩主伊東祐久による修復が行われた。その後も正徳元年(1711年)に同藩主伊東祐実による造替が、明和7年(1770年)に修復が行われた。
明治元年(1868年)の神仏判然令によって別当寺院の仁王護国寺を廃し、1874年(明治7年)に「神宮号」が宣下されるとともに官幣小社に列した。1889年(明治22年)に社殿を改修、1895年(明治28年)に官幣大社に昇格し、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっている。
1965年(昭和40年)、NHKの朝の連続テレビ小説『たまゆら』の舞台に宮崎が選ばれたことも手伝って、昭和40年代には新婚旅行の定番地となった。1968年(昭和43年)に本殿及び末社を修復したが、翌々1970年(昭和45年)、文政年間(1818~30年)に建てられた茅葺書院造の社務所を原因不明の火災により焼失し、それとともに古文書類の大半を失った。
1997年(平成9年)に屋根の葺き替えと漆の塗り替えを施したのが現在の社殿である。
潮風が吹く場所であるため、境内にある住吉神社の屋根は、銅製から腐食に耐えるチタン製に葺き替えられた。神宮本殿でも同様の改修が検討されている。
4)祀官
前述の通り、古来から仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、初代別当職は快久が勤め、第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。
すなわち、当初は天台宗であり、後に真言宗に、そこから更に新義真言宗に改まったようである。別当は智積院で学び、仁和寺で任官する習わしで、明治維新までは仁王護国寺を仁和寺が所管し、18の寺坊が神門に至る八丁坂参道の両脇に並んでいたが、明治の神仏分離で、第59世の観空法院を最後に廃され、寺坊も悉く棄却された。
5)社殿
社殿は、本殿・幣殿・拝殿が1体となった権現造(八棟造)こけら葺で、極彩色を施す。拝殿には千鳥破風と唐破風を飾る。正徳元年に飫肥藩主伊東祐実が改築したものを、1889年(明治22年)に大改修し、その後1968年(昭和43年)、1996年(平成8年)にも改修が行われた。
幾度の改修を経たとはいえ、その様式は往時のままであり、文化的価値が高いことから、1995年(平成7年)に県の有形文化財に指定された。その他、玉橋、千鳥橋、楼門、神門などがある。
6)神事
仁王護国寺の下、江戸時代までは修験道式の修法が行われたが、明治以降は神道式に改まった。
●シャンシャン馬道中(3月末の日曜日)
当地の古俗として、新婚夫婦は神に報告するためにシャンシャン馬という鈴を付け鞍に赤い毛布を敷いた馬に花嫁を乗せて参詣する習わしがあり、花婿は手綱を取って青島から七浦七峠という難所含みの日南海岸道中を往復した。
元禄年間(1688~1704年)に始められたものというが、「シャンシャン馬道中唄」という民謡の題材ともなっている。しかし、明治の中頃から廃れ、現在はこの行事と宮崎神宮の宮崎神宮大祭に催し物として行われるもののみが、その名残りとなっている。
7)境内社
本殿周りに以下の3社がある。
●皇子神社
本殿左側に鎮座し、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。もと吹毛井(ふけい)の船形山(ふながたやま)に鎮座し、明治維新後現在地に遷座したという。なお、1977年(昭和52年)に旧社地にも分霊、復祀している。
●住吉神社・火産霊神社・福智神社
3社が1宇に鎮座。祭神は底筒男神・中筒男神・上筒男神(住吉社)、火産霊神(火産霊社)、仁徳天皇(福智社)
●九柱神社
神直毘神・大直毘神・伊豆能売神・底筒男神・中筒男神・上筒男神・底津綿積神・中津綿積神・上津綿積神を祀る。
そのほか洞窟外に、門守社(楼門左右。左に櫛磐窓神、右に豊磐窓神を祀る)、鵜戸稲荷神社、波切神社(波切不動)が鎮座している。
(引用:Wikipedia)
大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
1)沿革
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。
隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した。
大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に、同年、日向国を割いて唱更国・多褹国が分立した。
その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡、現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。
数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7年(755年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。
天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島と種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。
平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。
明治12年(1879年)、奄美群島(大島郡)を編入した。明治30年(1897年)には、現在の三島村、十島村地域が薩摩国川辺郡から大島郡に編入された。
2)概要
令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲(球磨囎唹と訓が当てられ、そのまま囎唹郡と繋がる)の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた。薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。
当時はそのような隼人首長の大隅直(あたい)、曾君(そのきみ)、加士伎県主(かしきあがたぬし)、肝衝(きもつき)といった豪族が割拠した。
養老4年(720年)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。
この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、延暦19年(800年)には他地域同様に班田制も導入され、律令制による支配が定着した。
しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘4年(1007年)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、長元2年(1029年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開発者であった平季基が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた(※)。
※ 大蔵氏は加治木郷を開発して勢力を扶植しており、菅野重忠の殺害も大蔵満高の父大蔵種材の指示によるものであった。菅野重忠殺害事件は藤原道長の裁定で犯人不明とされ、大蔵満高は大宰大弐藤原高遠の庇護により事件後特に処分されることもなかったが、二十四年後に皇族僭称と菅野重忠殺害の科でようやく罰された。
こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮に八幡神を勧請して、九州五所別宮となる正八幡宮が成立している。
平季基は賄賂を駆使し、また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。
※近世以降の沿革(略)
3)国内の施設
3.1)国府
国府は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。現在の霧島市国分府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。
3.2)国分寺・国分尼寺
大隅国分寺跡鹿児島県霧島市国分中央。
3.3)神社
〇延喜式内社
『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている。大社1社は名神大社ではない。
●桑原郡 鹿児嶋神社(正八幡宮、霧島市隼人町内) - 薩摩・大隅・日向で唯一の大社。
●曽於郡 大穴持神社 (霧島市国分広瀬)
●曽於郡 宮浦神社 (霧島市福山町)
●曽於郡 韓國宇豆峯神社 (霧島市国分上井)
●馭謨郡 益救神社 (熊毛郡屋久島町宮ノ浦)
〇総社・一宮以下
●総社 祓戸神社 (霧島市国分府中) - 但し、明証がない。
●一宮 鹿児島神宮
●二宮 蛭児神社 (霧島市)
〇安国寺利生塔
●安国寺 - 鹿児島県姶良市加治木町反土。
4)地域
●郡
・囎唹郡 - 湾の北東部。日向に隣接。
・桑原郡 - 囎唹郡より分置。北端。日向・薩摩に隣接。
・菱苅郡 - 囎唹郡より分置。西北端。
・姶羅郡 - 湾の北西端。薩摩に隣接。
・肝属郡 - 半島中部。日向に隣接。
・大隅郡 - 半島最南端
・熊毛郡 - 種子島。多褹国から併合。
・馭謨郡 - 屋久島。多褹国から併合。
●江戸時代の藩
・薩摩藩、島津家(77万石)
(引用:Wikipedia)
隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立した。
隼人側が立て籠もったと伝わる比売之城跡(鹿児島県霧島市国分姫城)(引用:Wikipedia )
1)背景
7世紀後半の九州南部はヤマト王権(朝廷)の勢力が及んでいたものの支配体制は完全ではなく、熊襲あるいは隼人と呼ばれる住民が多くの集団に分かれて割拠する状況であった。
朝廷は自らの勢力範囲に広く律令制を導入することを試みていたが九州南部においては住民の支持を得られなかった。これは律令制が稲作を制度の中心に据えており、稲作に適さないシラス土壌の広がる九州南部には適合しなかったためである。
一方、南西諸島を経由した中国大陸との交流が活発化しており、朝廷は覓国使(べっこくし、くにまぎのつかい)と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年(文武天皇4年)に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。
朝廷は大宰府に武器を集め702年(大宝2年)8月、薩摩・多褹の叛乱を契機に、九州南部に兵を送るとともに、日向国を分割して唱更国(後の薩摩国)を設置し現地の支配体制を強化した。
さらに713年(和銅6年)には大隅国が日向国から分置され、当時律令制導入の先進地であった豊前国から5000人を移住させ指導に当たらせるなど支配体制がさらに強化されている。
律令制、特に国郡制の導入や班田収授法を推し進めようとする朝廷と、九州南部において共同体的な土地利用形態を守ってきた隼人との間で緊張が高まった。
2)反乱
養老4年(720年)2月29日、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。
隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。これに対して朝廷側は九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、6月17日には5ヶ所の城を陥落させたと報告している。
しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となった。大伴旅人は戦列を離れ8月12日に都に戻りその後の攻略を副将軍らに任せている。
1年半近くにわたった戦いは隼人側の敗北で終結し、養老5年(721年)7月7日、副将軍らは隼人の捕虜を連れて都に戻った。隼人側の戦死者と捕虜は合わせて1,400人であったと伝えられている。
反乱のため班田収授法の適用は延期されることになり戦乱から80年近く経過した延暦19年(800年)になってようやく適用されている。
3)関連遺跡
3.1)隼人七城
隼人側が立て籠もった7ヶ所の城は『八幡宇佐宮御託宣集』によると、奴久等、幸原、神野、牛屎、志加牟、曽於乃石城、比売之城であったとされている。
このうち曽於乃石城は国分城と清水城、比売之城は姫木城と橘木城であったと考えられているが、他の5城については国分平野付近に集中していたとする説と九州南部に広く分散していたとする説がある(現在の鹿児島県伊佐市は中世まで牛屎院と呼ばれた)。
3.2)隼人塚、凶首塚
隼人塚(引用:Wikipedia )
戦死者の霊を弔うため戦場近くに隼人塚、朝廷側の拠点であった豊前国には凶首塚(現在の宇佐市百体神社)が建てられた。
3.3)亀ノ甲遺跡
1953年(昭和28年)12月、霧島市の向花小学校拡張工事中に刀剣や土器などが発見され、隼人の反乱で殺害された国司の墓所ではないかと考えられている。
(引用:Wikipedia)
鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。式内社(式内大社)、大隅国一宮。旧社格は官幣大されていた。
〇参考Webサイト:鹿児島神宮(公式HP)
勅使殿(鹿児島県指定文化財)(引用:Wikipedia)
1)祭神
現在の祭神は次の通り。
●主祭神
・天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと)(山幸彦)
・豊玉比売命(とよたまひめのみこと) ( 天津日彦火火出見尊の后神)
●相殿神
・帯中比子尊(なかたらしひこのみこと)(第14代仲哀天皇)
・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后 - 仲哀天皇皇后)
・品陀和気尊(ほむだわけのみこと)(第15代応神天皇・八幡大神)
・中比売命(なかつひめのみこと)(仲姫命 - 応神天皇皇后)
相殿神4柱は八幡神を合祀した関係による。
2)歴史
創始は社伝によると遠く神代とも、あるいは「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる。和銅元年(708年)に現在地に遷座され、高千穂宮跡の旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵(※)がある。
※神代三陵(神代三山陵):可愛山陵(鹿児島県薩摩川内市、瓊瓊杵尊陵)・吾平山上陵(鹿児島県鹿屋市、天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊陵)と合わせて「神代三陵(神代三山陵)」と総称される。
欽明天皇5年(544年)に八幡神が垂迹したのもこの旧社地とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという。」との記載がある。
八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
大隅正八幡の正の字が示すように、鹿児島神宮は八幡宮の根本社だともいわれている。伝承ではかつて国分八幡と宇佐八幡との間に、どちらが正統な八幡かを巡って争いが起き、宇佐八幡は密かに15人(14人とも)の使者を遣わして国分八幡を焼かせたという。
その際、燃え上がる社から立ち上る黒煙の中に「正八幡」の字が現れ、それを見て驚き怖れた使者達は溝辺の地まで逃れてきたが、神罰を受けたのか次々と倒れてその数は13人に及んだ。その後土地の人々は異境に死んだ者たちを憐れみ、それぞれが倒れた場所に塚を盛り霊を慰めたが、その数が13であったことから、そこを十三塚原と名付けたといわれている。
この十三塚原は鹿児島県の国分平野北方にあり、その北東部には鹿児島空港やこの伝承に基づく十三塚原史跡公園がある。この宇佐八幡の使者に関する伝承には、上記と内容の異なる伝承が他にもいくつかある。
信頼できる史料での初出は、醍醐天皇の時に編纂された『延喜式神名帳』に「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので大社に列しており、日向、大隅、薩摩のいわゆる南九州では最も格の高い唯一の式内大社である。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した。
平安時代に宇佐八幡が九州五所の八幡別宮を勧請したのに伴い、当社に八幡神が合祀されたともされている。それ以降、正八幡宮・大隅正八幡宮・国分八幡宮などとも称される。
戦国時代から江戸時代には、地元の大名である島津氏の尊崇を受けた。
1874年(明治7年)に神宮号宣下及び近代社格制度において官幣中社に列し、1895年(明治28年)に官幣大社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となった。
(引用:Wikipedia )
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
1)沿革
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。
この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。
隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
5世紀の仁徳天皇の御代には隼人の長を改めて直としたとされ(『国造本紀』)、系図では坂合部氏と同族の伊具足尼命を薩摩国造に任命したと伝わる。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した。
大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に、現在の鹿児島県本土の西部が、10月3日までに唱更国(唱更 = はやひと/はやと/しょうこう)に分立したのが、薩摩国の始まりである。 唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう。
国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた。8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。
※近世以降の沿革(略)
2)国内の施設
2.1)国府
国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。
現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年(昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。
2.2)国分寺・國分尼寺
薩摩国分寺跡 薩摩川内市国分寺町。
2.3)神社
〇延喜式内社
『延喜式神名帳』には、以下に示す小社2座2社が記載されている。大社はない。
・頴娃郡 枚聞神社 (指宿市)
・出水郡 加紫久利神社 (出水市)
〇総社・一宮
・総社 不詳: 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
・一宮 :新田神社 (薩摩川内市)、 式外社。国府の近くにあった。
元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。
明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。
二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。
〇安国寺利生塔
・安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
・安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
3)地域
現在は桜島を除く鹿児島市、指宿市全域、枕崎市全域、南九州市全域、南さつま市全域、日置市全域、いちき串木野市全域、薩摩川内市全域、さつま町全域、阿久根市全域、出水市全域、長島町全域、旧菱刈町と旧西太良村を除く伊佐市、三島村、十島村が含まれる。人口の過半数が鹿児島市に集中している。
3.1)郡
高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。
養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となった。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。
その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
出水郡/高城郡/薩摩郡/伊佐郡/甑島郡/日置郡/伊作郡(後に阿多郡と統合)/阿多郡/谿山郡/河辺郡/給黎郡/揖宿郡/頴娃郡/鹿児島郡
3.2)江戸時代の藩
・薩摩藩、島津家(77万石)
大隅国と同じ
(引用:Wikipedia)
1)枚聞神社
枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、鹿児島県指宿市開聞十町にある神社。式内社、薩摩国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
勅使殿と長庁(引用:Wikipedia)
1.1)祭神
〇主祭神
・大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
〇配祀神
・五男三女神を配祀。
アマテラスとスサノヲの誓約(引用:Wikipedia)
明治時代以後は近隣の神社を合祀している。祭神については海神(わたつみのかみ)説の他、猿田彦神や国常立尊、大宮姫など様々な説がある。
1.2)歴史
創建の年代は社伝によれば、遠く神代とされているが、神社の縁起には,和銅元年(708年)の創建と記されている。元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられ、当初は開聞岳の南麓に鎮座していたといわれているが、貞観年間の噴火により揖宿神社の所に一時避難、その後北麓の現在の場所に遷座されたという。
信頼できる史料での初出は『日本三代実録』貞観2年(860年)3月20日庚午条の神階昇叙記事で、この日に薩摩国従五位上開聞神が従四位下を加えられた。開聞神は、貞観8年(866年)4月7日に従四位上を授けられ、元慶6年(882年)10月9日に正四位下を授けられた。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には「薩摩国穎娃郡 枚聞神社」として記載され、式内社に列している。
大正14年8月の「枚聞祭神調書」によれば、当神社は後鳥羽天皇の文治の頃から後陽成天皇の慶長4年までは、和田都美神社と称せられていたと伝えているので、当時の祭神は和田都美神であったと思われ、「神名帳頭注」(1503年)も和田都美神としている。
「一宮記」にも「和田都美神社、枚聞神と号し」との記述があるが、祭神は塩土老翁・猿田彦神としている。「三国名勝図会」と「神社撰集」は共に猿田彦神としており、明治維新の「廃寺方被仰渡」では国常立尊、大日孁貴、猿田彦大神の3座を祭神としている。この他にも豊玉姫、木花開耶媛、大宮姫など当神社の祭神については古来より諸説がある。
鎌倉時代以降は新田神社(薩摩川内市)と薩摩国一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる。戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にあったが、元亀2年(1571年)に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失った。
しかし、すぐに島津氏の庇護を受けて再興、同氏は当神社の籤により作戦を決めたという。現在の社殿は慶長15年(1610年)に島津義弘が寄進したものを天明7年(1787年)に島津重豪が改築した物である。
外洋に面した立地から古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
しかし江戸時代になると、宇佐八幡宮の五社別宮ともされていた新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治4年(1871年)5月に国幣小社に列したが、対して新田神社は同18年(1885年)に上位の国幣中社に列している。
第二次世界大戦後に近代社格制度が廃止されると、当社は神社本庁に参加、その別表神社に定められた。
当神社の本殿の裏に、木製の柵で囲まれた一角がある。この柵の中は、地面に大小様々な大きさの石が敷き詰められているが、ここは「清所」と呼ばれている場所で、言い伝えでは豊玉姫の御陵であるともいわれている。
当神社の近くには、豊玉姫と彦火々出見尊が出会ったとされ、日本最古の井戸ともいわれる「玉の井」があり、古事記 上巻や日本書紀巻第二 神代下・第十段の本文、第十段の一書(第一)、一書(第二)、一書(第四)などに記されている井戸であるとされる。また彦火々出見尊と豊玉姫の結婚後の新居があったとされる「婿入谷」という所もある。
〇神階
・貞観2年(860年)3月20日、従五位上から従四位下 (『日本三代実録』)
・貞観8年(866年)4月7日、従四位上 (『日本三代実録』)
・元慶6年(882年)10月9日、正四位下 (『日本三代実録』)
1.3)境内
〇本殿
方3間の入母屋造妻入で、屋根銅板葺、千木・鰹木を置き、正面参道から本殿の方を向くと、本殿の屋根の上に開聞岳が位置する構造になっているが、現在は背後の樹木が繁茂して見通すことはできなくなっている。
(引用:Wikipedia )
2)加紫久利神社
加紫久利神社(かしくりじんじゃ)は鹿児島県出水市下鯖町にある神社。式内社で、旧社格は県社。
(引用:Wikipedia )
2.1)祭神
・天照大神
・多紀理毘売命 ※加紫久利神社社伝によると天照大神の娘とされる。
・住吉三神
・応神天皇
・神功皇后
また、摂末社として稲荷神が祭られている。
2.2)沿革
創始年代は不詳であるが、社伝によれば遠く神代とも創建以来凡そ2000年ともされているが、『式内社調査報告』によると、当神社は、大宝2年(702年)薩摩建国と同時に肥後国境にそびえる加紫久利山の山麓に宇佐の3女神を移祭したものであり、それは大宝2年(702年)の隼人征討軍に参加した豊前上三毛郡加自久也里出身地と推定される加志君和多利が、その出身地の大富神社の祭神(住吉大神・宗像大神・八幡大神)を奉祀したものであるという。
隼人征討軍に従軍して功績のあった加志君は、戦後肥後国境守備を命ぜられてここに屯住し、郷里加自久也里の地名にちなんでこの地を加自久里と呼んだとされる。
当時豊前加自久也里は郷里制の改正で炊江郷となるが、薩摩加自久里も本家分家の関係から借家郷という訓の同じ郷名に替えて和名抄にその名をとどめることになったとされる。
弘仁14年(823年)に日本66国のうちの薩摩のための大社として加紫久利神社が確定したという。
仁寿元年(851年)に官社に列し、貞観2年(860年)3月に従五位下から従五位上に昇った。
『延喜式神名帳』では枚聞神社と共に名前が見え、薩摩国の神社として記載のあるただ2つの例の一つであった。そのため後世「薩摩二ノ宮」とも言われている(薩摩国は鎌倉時代以後、一宮が2社存在し二宮不詳)。
当神社の由緒にある加紫久利山は、熊本県水俣市と鹿児島県出水市の県境にまたがる矢筈岳の古い呼び名であるとされ、山頂には矢越神社が鎮座しており当神社が管理している。この神社の例祭が当神社の春祭と同じ3月4日であることから両社の間には何らかの関係があったとも考えられるが、現在しかとした伝承は伝わっていないものの、元々は加紫久利山を神体とする山岳信仰から始まった神社であったとも考えられる。
薩摩建国にゆかりをもつ歴史のある神社であることから、その後この地の支配者となった島津氏の尊崇も篤く、21代島津吉貴は、当神社を薩州の総社と唱えるよう迎出して社殿の造営に当たった。
明治10年(1877年)の西南戦争により全焼し、社殿はおろか歴代伝えた宝物すら失った。同13年(1880年)に社殿は再興されたものの、その後の新田開発などで境内を大きく浸食され、戦後には社殿崩壊の危機にまで瀕した。
2.3)社殿
現在の社殿は地元有志の寄付により昭和36年(1961年)に再建され、平成元年(1989年)に改築されたものである。
(引用:Wikipedia)
3)新田神社
新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」・「八幡新田宮」・「川内八幡宮」・「一宮八幡」・「新田明神」等とも呼ばれていた。
社殿の背後に、皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、ニニギノミコト)の陵墓とされる可愛山陵がある。
勅使殿(引用:Wikipedia)
3.1)祭神
・天津日高彦火邇邇杵尊
・天照皇大御神
・正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた。
3.2)歴史
社伝によると「鹿児島県の加世田市(現南さつま市)から川内の地に到来された天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギノミコト)は、この地に千台(センノウテナ)すなわち高殿(高城千台の宮)を築いてお住まいになった。
川内(センダイ)の名は、この千台 → 川内から来ているとされる。やがて、ニニギノミコトが亡くなられたのでお墓が造られたがそれが今の可愛山陵で、そのニニギノミコトの御霊を祀ったのが新田神社の創始である。なお当神社の “ 新田 ” という名称には、ニニギノミコトが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになったという意味が込められているとされる。
ただ新田神社のことを書いた最も古い史料は、永万元年(1165年)の新田神社文書所収の寺家政所下文案のもので、これには「当宮自再興経三百余歳云々」とあり、永万元年から300年前といえば清和天皇貞観7年(865年)となるので、貞観の頃に再興された事は明らかである。
この他に当神社の創建年代に関する記録のある史料としては、「聖武天皇神亀2年(725年)創立」とする三国神社伝記(1808年)や、「陽成天皇元慶6年(882年)薩州新田宮建立」とする三国名勝図会(1843年)などがある。
また当神社がかつて八幡新田宮(新田八幡宮ともいう)と呼ばれた由縁で通説とされるものに「承平天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)のときに国家鎮護を祈願し、九州の5ヶ所に石清水八幡宮から勧請された八幡五所別宮の一つに列したため」というものがあり、これについては新田宮所司神官等解文(1247年)、肥後藤崎八旛宮社祠神官等解文(1357年)などの史料で証されるが、この承平年間(931-938年)の八幡神勧請(八幡五所別宮)による八幡新田宮(新田八幡宮)の由縁から、それ以前の平安前期(794〜930年頃)には、既に新田神社(新田宮)が当地にあったことは間違いない。
また神代三陵異考(1875年)には「新田宮は、はじめ今の地から東7・8町(約800m)の川内川の向かいにある隈之城郷宮里村に鎮座されていたので、地名を宮里とよんだ」とある。
これは笠沙崎から当地に移られたニニギノミコトが最初に宮居したのが川内川左岸・宮里の地で、その宮跡に創建されたのが当神社であるとするものである。このニニギノミコトの宮居はその後、都八幡・宮ヶ原・地頭館址・屋形ヶ原と移されていき、最終的に神亀山に移されたとの伝承がある。
また一説によれば、「ニニギノミコトを主神とする新田宮が現在地(神亀山)にあり、別に石清水八幡宮祠官紀氏の勧請した応神天皇を主神とする八幡宮が隈之城郷宮里村にあったものを、新田宮の東部に近接する薩摩国府が新田宮を主社とすべく両社を合祀して大きくし、八幡新田宮としたものであろう」ともいう。 これからすると、宮里にあったのは八幡宮で、新田宮はそれとは別に神亀山にあったということになる。
かつてこの宮里にあった若宮八幡の跡がニニギノミコトの宮居の地であるという伝承があり、この若宮八幡は同じ宮里にある志奈尾神社に合祀されたという。
この志奈尾神社は、日本三代実録に「貞観2年3月20日薩摩國従五位志奈毛神に授五位上」との記載がある国史見在社であるが、由緒に明治43年7月に無格社若宮神社を合祀とあるのでこの若宮神社が若宮八幡のことであると思われる。
この志奈尾神社の伝えに「新田神が姉神で、志奈尾神が妹神ともいわれる」というものがある。新田神社と志奈尾神社の由緒などからは、この両社が姉妹の神であるという謂れのようなものについては特に見い出せないが、関連性があると思われるのが宮里の地はニニギノミコトが最初に宮居された地であり、新田宮は宮里のニニギノミコトの宮居の跡地に創建された、あるいは新田宮と宮里の八幡宮が合祀して八幡新田宮となったなどの、新田宮と宮里の地の関わりについての伝承があるが、これらがこの両社を姉妹の神とする伝承の基になったものであるかは判然としない。
(新田神社の祭神の天照大御神と志奈尾神社の祭神の志奈都比古神、志奈都比売神のうち男神の志奈都比古神の両親がイザナギとイザナミであり、女神の志奈都比売神は志奈都比古神と男女一対の神と見られるし、志奈都比古神の別名とされる級長戸辺命(シナトベノミコト)は、女神とされることもあるようで、神社によっては志奈都比古神の姉または妻とされ、また志奈都比売神とされることもあるようなので、これらが両社を姉妹の神とする謂れの一つになっていると見ることも或いは出来るのかもしれない。)
現在、当神社は神亀山の頂上にあるが、薩隅日地理纂考(1871年)には、「山上には、はじめ山陵だけがあって宮殿はなかった」とあり、これは古くからの神奈備山信仰に類するもので、山頂にある聖地(山陵か)を麓(里宮)から遥拝していたのが当社の始まりであったことを示唆しており、その旧社地は神亀山中腹にある平地だったといわれており、今も当時の社殿の礎石が残っているという。
この旧社地の神亀山中腹から山頂に遷座した経緯は、高倉天皇承安3年(1173年)に失火により中腹にあった社殿が焼失したため、安元2年(1176年)朝廷の宣旨により今の山頂に遷座したという。
新田神社は『延喜式』にその名前が見えないことから、当初の地位はかなり低いものだったという見方もあるが、同じように『延喜式』にその名前が見えない神社に、福岡県福岡市東区香椎にある旧官幣大社香椎宮がある。香椎宮は、神託によって香椎に大廟を造成したのが始まりで、廟とあるように、中国の死者の霊を祀る廟を模して創始されたので、古代には神社ではなく霊廟に位置づけられていたため『延喜式』にはその名前が見えない。
だが、『延喜式』民部省の巻をみると、香椎宮の前身の橿日廟宮は、天皇陵と同じ待遇を得ていたことがわかる。
新田神社が鎮座する神亀山にはもともと山陵(可愛山陵)だけがあって神社はなかったが、後の時代になってからその御霊を祀る社殿が建立されたものの、あくまでここは山陵としての位置づけで認識されていたため、たとえ祭神の山陵に鎮座してその御霊を祀る社であったとしても、主体である山陵の付随的なものであった新田神社(新田宮)は、一般の神社と同じようには認識されていなかったと思われるので『延喜式』に記されることはなかったと思われる。
そもそも新田神社のように陵墓にある神社は、そこに神社が建てられたとしても一般にはそれほど大きいものではなく、陵墓としての位置づけの方が圧倒的に大きいため、『延喜式』の対象とはならなかったと思われる。この新田神社と同じような例と思われるのが大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する誉田八幡宮である。
この神社は社伝によると、欽明天皇20年(559年)に欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、宇佐に八幡神が顕現したのが欽明天皇32年(571年)とされていることから、それよりも早く最古の八幡宮と称している。
旧社格は府社で、天皇により創建された神社であり、最古の八幡宮とも称され、当神社の主祭神で八幡神とされる応神天皇の陵墓に鎮座するという、まさしく八幡宮の根本社ともいえるような神社であると思われるが、やはり全国第2位の規模を誇る巨大古墳である誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の天皇陵としての存在感があまりにも強大なためか、そんな天皇陵に付随的な位置づけにある誉田八幡宮は、前述のような由緒を持つ神社であるにもかかわらず『延喜式』にはその名前は見えない。あるいは、応神天皇陵前に神廟が設置されたことが始まりとなっているので、香椎宮と同じように神社ではなく霊廟に位置づけられていた可能性もある。
文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護島津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。
蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩国では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、島津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。
これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになるが、最終決定がされておらず、薩摩国に一宮が二つ存在することになる。また、国分寺留守職、天満宮別当職に執印氏の分流の国分氏が就き、新田神社は薩摩国国分寺とも深い繋がりを持つ事になる。
武神である八幡神を祀っていたことから、当地を支配していた島津氏に尊崇を受け、暦応4年(1341年)年記のある『島津家文書』に依ればこの新田神社が「薩摩国一宮」として挙げられている。
しかし現代においては執印氏の強引な手法も詳らかとなり、古来から一宮とされてきた枚聞神社が正しく薩摩国一宮であるとの意見も多く散見される。
近代社格制度においては、当初無格社であったが明治18年(1885年)に枚聞神社より上の国幣中社に列した。しかしながら現在は枚聞神社と同じ神社本庁の別表神社にあたる。
3.3)山陵
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年)明仁上皇(当時の皇太子)及び上皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。
3.4)摂末社
〇御陵社
●可愛陵社(祭神:邇邇杵尊)
明治7年の可愛山陵指定によって創建され新田神社の境内社となったが、大正3年に宮内省の管轄に移管される。この邇邇杵尊の御陵の陵形については、方墳(南北11m・東西10m)説の他、髙塚式円墳説、扁平な小方丘説などがある。
●端陵神社(祭神:木花開耶姫尊)(邇邇杵尊の妃神)
神亀山の頭部部分に鎮座。邇邇杵尊の妃神の御陵と伝わるため、「御前様陵(ごぜんさまのみささぎ)」とも呼ばれる。この木花開耶姫の御陵と伝わる端陵古墳は、1987年に川内市歴史資料館により測量された結果、山の稜線を利用した全長54mの前方後円墳と判明した。前年の1986年の現地踏査では墳裾も確認されている。
●中陵神社(祭神:火闌降命)(邇邇杵尊の皇子神)
神亀山の首部分に鎮座。祭神の御陵と伝わる。この火闌降命の御陵と伝わる中陵古墳は、本格的な測量は実施されていないが、1986年に川内市歴史資料館により端陵古墳と共に現地踏査が行なわれ、こちらからも墳裾が確認されており、略測で直径約22mの円墳の可能性があるとされている。文化3年(1806年)にここにあった古い松の木が枯れて、土地の人が切り除き根を掘りとった際、石榔に掘り当たりその中にあった石棺の蓋石を引き開いたところ、中から白煙が吹き出しその石棺の内部は青味がかった赤色であったという逸話が残っている。
●川合陵神社(祭神:天火明命)(邇邇杵尊の兄弟神、もしくは皇子神)
神亀山ではなく五代町の冠山の麓に鎮座。御陵殿(みささぎどん)とも称された。はじめ社は、冠山の山上にあったといわれているが、その後陵が崩れたため冠山の麓に移したとされる。社殿のすぐ西側に祭神の墳墓と伝わるチョッポ岡という小丘がある。
〇摂社
●四所宮(祭神:彦火火出見尊・豊玉姫尊・鵜草葺不合尊・玉依姫尊)本殿の向かって右脇に鎮座。若宮四所宮、若宮殿とも称する。
●武内宮(祭神:彦太忍信命)(孝元天皇の皇子で武内宿禰の祖父)本殿の向かって左脇に鎮座。武内社とも称する。
〇境内末社
●二十四社(祭神:天孫降臨に際して供をした五伴緒神(天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉祖命)をはじめとする24柱 武内宮の向かって左側に鎮座。
●興玉神社(祭神:猿田彦命)西廻廊向かって左側に鎮座。かつては若宮四所宮、武内社に次いで尊重され、大王社(太玉社)とも称された。
●高良神社(祭神:天鈿女命)神亀山中腹に鎮座。高良社、猴等神社とも称する。
●中央神社(祭神:大山祇神)(邇邇杵尊の岳父) 神亀山中腹に鎮座。中王社とも。神亀山の地主神と伝わる。
●早風神社(祭神:級長津彦命)神亀山中腹に鎮座。早風社とも。
●東門守神社(祭神:豊磐間戸神)神亀山石段入口の向かって右側に鎮座。殿門守護の神で、往古は東善神王と称された。
●西門守神社(祭神:櫛磐間戸命)神亀山石段入口の向かって左側に鎮座。殿門守護の神で、往古は西善神王と称された。
●保食神社(祭神:保食神)神亀山麓に鎮座。田の神と同一視され、現在でも農耕儀礼の神事が行われる。
●稲荷神社(祭神:倉稲魂命)昭和初期に近隣工場の守護神として創建され、後に工場閉鎖に伴って神社境内へ遷座。
※廃絶した境内末社
●彼岸社(祭神:波切不動明王)かつては社僧の読経修行の場であったが、幕末期に廃社となった。
●荒神社(祭神:素戔嗚尊)現在の可愛山陵内に鎮座していたが、創建年代・廃社年代ともに不明。
〇境外末社
●大己貴神社(祭神:大己貴神)汰宮(すべりのみや)とも。往古は薩摩総社の役割を果たしたと伝わる。
●九樓神社(祭神:甕速日神)隣接する守公神社とともに「九樓守公神社」とも称される。
●守公神社(祭神:樋速日神)薩摩国総社と伝わる神社で、隣接する九樓神社とともに「九樓守公神社」とも称される。
●武内神社(祭神:彦太忍信命)かつての宮内麓(郷士の居住地)に鎮座。
●大将軍神社(祭神:武甕槌神)五代町に鎮座。室町後期の創建と伝わり、大将軍宮とも称される。
●八尾神社(祭神:八岐大蛇・八咫鏡)小倉町に鎮座。八王明神とも称される。鏡山神社(祭神・八咫鏡)を合祀。
●船間島神社(祭神:御伴神(十郎大夫))船間島に鎮座。海神宮とも称される。祭神の十郎大夫は御伴神の1柱で、この地で病死した神であるといわれる。
※廃絶した境外末社
●鏡山神社(祭神:八咫鏡)かつて小倉町に鎮座。伝承では邇邇杵尊が当地の国津神の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所と伝わる。後に八尾神社に合祀。
(分岐掲載:令和3年1月10日) 最終更新:令和3年2月14日