トップ 古代史の謎

①全般 ②邪馬台国論争 ③第1次邪馬台国? ④第2次邪馬台国? 

⑤第3次邪馬台国? ⑥九州王朝説 ⑦古代遺跡 ⑧古代伝承 ⑨神社と祭神

⑩神仏習合と修験道  ⑪近現代の宗教政策


古代史の謎⑥九州王朝説


作業中

1 九州王朝説

(1)概要 (2)九州王朝説の根拠となる説明 (3)関連する主張 (4)説の歴史と問題点

(5)関連書

 

2 九州王朝の舞台

(1)倭国とは (2)奴国について (3)筑紫国について (4)筑前国について

(5)筑後国について

 

3 奴国の歴史散歩

(1)吉武高木遺跡 (2)須玖岡本遺跡

 

4 筑前国の歴史散歩

(1-1)宮・香椎宮 (1-2)宮・朝倉橘広庭宮 

 

(2-1)大宰府・政庁 (2-2)大宰府・観世音寺 (2-3)大宰府・竈門神社 (2-4)大宰府・太宰府天満宮 (2-5)大宰府・防衛施設(その1:水城)(2-5)大宰府・防衛施設(その2:大野城) (2-6)大宰府・防衛施設(その3:基肄城)

 

(3-1)神社・宗像大社 (3-2)神社・志賀海神社 (3-3)神社・筑紫神社 (3-4)神社・宮地嶽神社

(3-5)神社・竈門神社

 

5 筑後国の歴史散歩

(1)高良大社 (2)祇園山古墳 (3)大善寺玉垂宮 (4)岩戸山古墳 


九州王朝説は、古田武彦氏によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説であります。

 

 邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申氏から太平洋戦争後では長沼賢海氏らがいますが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴があります。当初、古田氏九州倭国白村江の敗戦により滅亡したと考えていましたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっています。

 

 近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田氏の同説に対する影響力は低下してきています。

 

●本説は古田氏の「多元的古代史観」の主要な部分を占めています。古田氏は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」倭国の前身であるとし、その後、九州倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしています。

 

●現在、本説は、井上光貞榎一雄山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典邪馬台国論争史を著述した研究書においては記載されていません。歌手の武田鉄矢は、古田武彦著の『「邪馬台国」はなかった』に触発されて『倭人傳』を作曲しています。

 

●このホームページでは、『古代史の虚構』(YA論文)、『古代史の謎』(古代遺跡・古代伝承)、『古代史の謎に係る文献』ページの掲載を通じて、この九州王朝説に共感しているところです。

 

●このページでは、Wikipediaに掲載されている「九州王朝説」を紹介するとともに、九州王朝説に関連すると思われる地域の名所旧跡について触れてみたいと思います。



1 九州王朝説


(1)概要


(引用:Wikipedia )

1)経緯 

 古事記日本書紀の記述は、中国の史書に記されている邪馬台国(邪馬壱国)倭の五王の記述とは食い違う部分が少なくない。例えば、日本書紀ではに朝貢した倭王神功皇后であるとされているが、日本書紀において神功皇后一人の業績とされる記述は魏志倭人伝では卑弥呼・壱与という二人の女王の業績とされており、明らかに矛盾している。 

 

 こうした矛盾は江戸時代から議論の対象となってた。松下見林異称日本伝において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は倭王武雄略天皇清寧天皇二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の邪馬台国畿内説倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。 

 

 多くの国学者に影響を与えた本居宣長馭戒慨言』において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、熊襲任那日本府倭王を僭称したとする熊襲偽僭説を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが鶴峯戊申であり、彼は「中近世文書に頻出する大宝以前の古代逸年号についても古代の九州年号である」と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。

 

 明治維新以降も戦前・戦後を問わず神宮奉斎会会長の今泉定助、東京帝国大学教授の飯田武郷、九州帝国大学教授の長沼賢海、東北大学名誉教授の井上秀雄らが熊襲偽僭説九州王朝説を主張していた。 

 

 こうした流れの中、在野の研究者であったものの親鸞研究等で学界からも一定の評価をされていた古田武彦の著書『失われた九州王朝』がベストセラーとなった。さらに彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は史学雑誌にも掲載されるなど、学界・アマチュアの双方で彼の説は一定の評価を受け、井上光貞安本美典らとの間で論争となった。そして市民の古代研究会が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で一世を風靡することとなった。 

 

 一方、『東日流外三郡誌』を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。

 

 しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し、大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。

 

 近年では2018年(平成30年)所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。

 

2)主な主張

(以下は古田説の概要ではなく、学者・在野を問わず、各論者の説を纏めたもの。) 

 

紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権一貫して九州にあり、倭(ゐ)大倭(たゐ)俀(たゐ)と呼ばれていた[注]

 

[注]:「委」は、上古音(周・秦・漢の音)では「uar、わ」。中古音(隋・唐音)では「ui、ゐ」(両唇音のwはなかった)。「法華義疏」に「大委国上宮王私集非海彼本」とある。倭を委としており、上古音で委の発音は倭(わ)と同じであった証拠の一つである。万葉仮名では「委」は「わ、ゐ」。藤原京出土の木簡に、「伊委之」( = 鰯、いわし)。藤堂明保著『漢字語源辞典』(学燈社、1965年(昭和40年)、4312000018)によると、魏代の「倭(委)」は「( I ) uar 」という読みである。  

 

1世紀には倭奴国(倭国)北部九州を中心とした地域に成立し、倭奴国王(倭王)博多湾近くに首都をおいて漢に朝貢「漢委奴國王」金印を授与されていた。

 

King of Na gold seal.jpg      

           漢委奴国王印   (引用:Wikipedia)  金印。漢委奴國王印文 

 

倭王卑彌呼(ひみか)伊都国に都し、倭国福岡平野の奴国(当時としては大都市の2万戸)を中心としていた[注]。漢が滅亡し魏が興ったことにより、「漢委奴国王」の金印に代わり魏より「親魏倭王」の金印が授与された。

 

 [注]:「魏志倭人伝」に見える3世紀の「邪馬壹国」(邪馬台国)を記録どおり「邪馬壹国」とする(邪馬壹国説)。古田は、魏志倭人伝など古い記録は、邪馬壹国であり邪馬臺国の表記は誤り、邪馬壹国(やまいちこく)であるとしているが、後漢書倭伝に「邪摩惟(やまたい)」、隋書俀伝に「邪靡堆(やまたい)」等とあることから、南朝滅亡後の倭(ゐ) → 大倭・俀(たゐ)への変化に伴い邪馬壹国 → 邪馬臺国になったと考えられる。 

 

卑弥呼は、筑紫君の祖甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)は、漢風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。 

 

倭の五王(讃、珍、済、興、武)九州倭国のであり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。 

 

筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王武烈天皇であり、継体天皇は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である[注]

 

[注]:古田は「磐井の乱」を畿内ヤマトの九州倭国に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ている。 

 

●九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号(九州年号)が建てられた。 

 

●隋王朝との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」[注]は、九州倭国の倭国王であった。

 

[注]:「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」(※「大王」の使用例 伊予国風土記逸文(「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我法王大王与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 柿本朝臣人麻呂「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」) 

 

太宰府は倭京元年(618年)から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の風水四神相応を考慮した計画都市であった。 

 

白村江の戦いでは、総司令官である九州倭国の天皇筑紫君薩夜麻(さちやま・倭薩)が唐軍の捕虜となったことで九州倭国は敗北した。 

 

壬申の乱は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の高市皇子のこと)と 薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇(十市皇女)-大友皇子(弘文天皇との対立に畿内の豪族大海人皇子(天武天皇が介入し日本列島の覇権を得た事件で、勝敗を決したとされる美濃からの援軍とは畿内日本軍である。 

 

壬申の乱九州倭国の天皇(高市皇子 = 薩夜麻)大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利したが、協力を得る為に吉野の盟約大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女(持統天皇の間の息子(草壁皇子を後継者の皇太子とした。戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子 = 薩夜麻)の基盤は弱体化し、戦乱とそれに続く天災[注]で荒廃した九州から天武の勢力圏である畿内へ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。

 

[注]:筑紫地震(678年):水縄断層系が起震断層とされマグニチュード6.5〜7.5だったと推定されている。 

大化の改新(乙巳の変)」は皇太子であった草壁皇子が即位せずに逝去した為に、次の皇位に誰が付くか不明確となり、疑心暗鬼となった草壁皇子の子の軽皇子(文武天皇中臣鎌足藤原不比等と同一人物)が九州年号の大和(大化)元年(695年)に藤原京天皇(高市皇子 = 薩夜麻)とその子を暗殺し、翌年の大化2年(696年)に軽皇子(文武天皇)

即位した事件である。 

 

神武東征は、6世紀に任那滅亡等により発生した難民の一部が九州から東征したもので、先に九州から畿内に植民して巨大古墳を築造していた邇藝速日命が支配する長髄彦等の国である日下(日本)を征服したものである。

 通説で飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権(日本・日下)はまだ日本を代表する政権ではなく畿内地方政権にすぎなかったが、文武の時代に九州倭国から政権を完全に奪い日本全体「日本」と呼ばれるようになった。 

 

古事記・日本書紀九州倭国の歴史書であり、続日本紀天武朝の歴史書である。記紀に記された天皇の内、初代神武天皇と第9代までの欠史八代の天皇および第40代天武天皇と第41代持統天皇、続日本紀に記された第42代天武天皇から第48代孝謙天皇までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の天皇は天皇ではなく畿内の地方豪族に過ぎなかった。記紀に記されたその他の天皇は九州倭国の天皇である。 

 

●万葉集の歌なども8世紀までの古いものは、殆どが九州で詠まれたものである。 

 

●神亀6年(729年)藤原氏は、九州倭国系である長屋親王長屋王の変で抹殺。 

 

●第3回神宮式年遷宮(神亀6年/天平元年(729年) - 天平4年(732年))により伊勢神宮八代市から伊勢市に移された。 

 

●神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇を天皇に擁立した。 

 

3)古田武彦説

  上記概要と古田説の主な異なる部分について、掲載する。古田の論文は『史学雑誌』や『史林』に掲載されるなど、九州王朝説論者の中では数少ない学説の形に世に問うたものであった。なお、この説の出典は特記のない限り古田の著書『失われた九州王朝』『古代は輝いていた』『古田武彦の古代史百問百答』による。 

 

3.1)上記概要と古田説の主な異なる部分

●九州王朝の始まりは後に天孫降臨として神話化される出来事であり、天孫降臨の舞台となった場所は福岡県の糸島近辺である。また九州王朝の前には出雲王朝が存在しており、国造制部民制の原型は既に出雲王朝の時代から存在していた。 

 

神武天皇は1世紀から2世紀頃に実在しており、神武東征も基本的に史実である。九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立した。 

 

●古田は近畿天皇家の天皇については、基本的に九州王朝の分王朝の大王として近畿に実在した、と考える。記紀には景行天皇「九州大遠征」をはじめ、九州王朝の大王・天子の記事からの「盗用」はあるものの、例えば景行天皇自身が九州王朝の大王であった、とは古田は主張していない。 

 

欠史八代も含めた天皇は実在したが、当時は大和盆地の南部を支配しているだけであった。崇神天皇の時代になって銅鐸圏の諸国を滅ぼし、後の近畿天皇家(古田は近畿分王朝、近畿大王家等の呼称を提案している)近畿一帯を支配するようになった。 

 

磐井の乱は、九州王朝の分家であるヤマト王権武烈朝から継体朝に替わったことにより、九州王朝への臣従意識が薄れたヤマト(継体)による九州王朝への反乱であり、最終的にヤマトは糟屋屯倉の備蓄を戦利品としただけで、その後も九州王朝は存したとしていた。(もっとも後に「磐井の乱」はなかったとしている。)  

 

「乙巳の変」については、近畿天皇家内部における「親九州王朝派」蘇我氏が粛清された事件であるとする。 

 

天武天皇が近畿天皇家の人間ではなかった可能性については、根拠が中世文書であるため懐疑的である。 

 

3.2)古田の説で特徴的なもの

 また、古田の説で特徴的なものとしては、次のような主張がある。

●魏志倭人伝における原文改訂を一切認めない。

 

●裸国・黒歯国は南米のエクアドルとチリ北部である。

 

狗奴国は邪馬壱国の東方にある。(狗奴国南九州説を支持しない。)なお、狗奴国の位置については当初は「瀬戸内地方説」を唱え、その後「畿内説」を提唱している。 

 

●聖徳太子架空説は支持しない。

推古天皇聖徳太子小野妹子を遣隋使ではなく遣唐使として派遣したのである。また、その内容も対等外交ではなく朝貢外交である。

聖徳太子架空の存在ではなく、日本書紀も上宮法皇の記録をそのまま盗用したわけではない。 

 

4)九州王朝説論者の間の論争点

 九州王朝説論者は古田が主唱者ではあるが、学術論文の形をとっていないアマチュアの研究発表を含めると数々の異説が存在する。その主な論点を記す。 

 

4.1)神武東征説話の信憑性

 古田は「神話はリアルである」と述べて、神武東征伝承は基本的に信用できるとした。そして九州王朝の王子であった神武天皇が弥生後期に大和盆地に侵入し、九州王朝の分王朝としての近畿天皇家の創始者となったとしている。

 

 これについて、九州王朝説論者の中には神武天皇非実在説や神武・崇神同一人物説を唱える者もいる。古田史学の会の代表である古賀達也は神武天皇の実在は認めつつ、その説話の中には九州王朝の天孫降臨説話からの盗用があるとしている。

 

4.2)近畿天皇家の存在について

 古田の九州王朝説は多元王朝説の一環として主張されたものであり、近畿天皇家の存在自体を否定するものではなかった。むしろ神武天皇や欠史八代、神功皇后の実在を認める点では戦後の津田史学よりも古田史学の方が記紀の伝承を尊重しているとさえ言えた。 

 

 だが、近畿天皇家の伝承のほぼすべてを九州王朝(豊前の分王朝)からの盗用とする主張や、応神天皇以降の歴史のみが近畿天皇家の歴史であるというもの、景行天皇・応神天皇・仁徳天皇・継体天皇・欽明天皇等の数多くの天皇が実際には九州王朝の天皇であったとするものも存在している。

 

 なお、近畿天皇家の天皇の一部が実際には近畿ではなく九州に存在していたとする説は九州王朝説論者以外に水野祐や坂田隆も主張していたが、こうした主張を古田は否定していた(水野の主張は『盗まれた神話』で、坂田の主張は「記・紀批判の方法 --坂田隆氏の問いに答える」で、それぞれ批判している)。 

 

 いき一郎は日本書紀は藤原不比等による創作であり、関西に存在したのは近畿天皇家ではなく扶桑国であると述べている。これについて古田は対案として「扶桑国関東説」を示唆しつつ、近畿天皇家自体が存在しなかったという主張には同意することはなかった。

 

4.3)狗奴国の位置

 古田は当初狗奴国讃岐説を主張していたが、後に狗奴国近畿説に転向した。こうした古田自身の主張の変遷もあり、狗奴国の位置については九州王朝説論者の間でも意見が分かれる。

 従来の邪馬台国九州説論者同様、狗奴国の位置を邪馬台国(邪馬壱国)の南方である南九州に比定する論者も存在する。

 

4.4)前期難波宮の位置付け

 前期難波宮は7世紀における太宰府と並ぶ条坊都市である。古田は前期難波宮孝徳天皇難波長柄豊碕宮ではないことを主張していたが、では前期難波宮は何の遺跡であるのか、については明確な答えを出さなかった(古田は難波長柄豊碕宮は博多湾岸にあり、そこに白村江の戦い直前に九州王朝の呼びかけに応じてその分王朝である近畿天皇家のメンバーも終結していた、とした)。 

 

 古賀達也は前期難波宮は前後の時代の近畿天皇家の宮殿との連続性が見られないこと、むしろ太宰府と似ている部分があること、前期難波宮の造営・焼失の年代と九州年号の改元が一致していること、等を根拠に「前期難波宮九州王朝副都説」を提唱した。これについは古田史学の会の内部でも議論がある。

 

4.5)聖徳太子について

 古田は聖徳太子架空説を述べていないが、一般に聖徳太子の業績とされる遣隋使は実際には九州王朝が派遣したものであること(聖徳太子は遣唐使を派遣した)、法華義疏は聖徳太子の真筆ではなく九州王朝の上宮法皇が「収集」したものであること(聖徳太子と同年代の作であれば天台大師等の6世紀末・7世紀初頭の僧侶の説が反映されていない、法華義疏の奥付に切り取られた跡がある、等の不審な点を説明できない)、を始め聖徳太子の伝承の多くは後世による造作であったり別人物の業績からの盗用であるとした。

 

 これを受けて聖徳太子関連の業績のほぼ全てを九州王朝からの盗用とする論者や、聖徳太子架空説を主張する論者も存在する。


(2)九州王朝説の根拠となる説明


(引用:Wikipedia)

1)九州

 「九州」の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)からなっていたことに由来するといわれるが、「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、中国では周代以前全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、9つの国の意味ではなく、天下のことを表すこともある(参考:九州 (中国)。また新羅の九州の実例もある。ただし、天子の直轄統治領域を九州と呼ぶのは古代中国での用法であり日本でも同じように用いられたという証拠はない。

 

2)金印

 博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があったという主張がある。 

 

 

『漢委奴国王印』印影(引用:Wikipedia)

 

●皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い(金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」 = 「倭国王」に与えられたものであると仮定する。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはないと仮定する。

 

 卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり倭王に対して下賜されたものである。

「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。つまり漢委奴國王の金印を志賀島に埋めたのは卑弥呼であると仮定する。 

 

●『旧唐書』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだ)」等との記事がある。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものであると仮定し[注1]、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王[注 1]と認められた者の住む国である [注2]

 

[注1]:この解釈は古田の解釈とは異なる

 

[注2]:『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」・「楽浪海沖に倭人が現れる。100か国余りに分かれているが、季節になると貢物を持って挨拶に来る。と云う。」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが『後漢書』東夷傳では「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」「武帝が朝鮮を滅ぼして以来、30国ていどが漢と交流している。

 

 (それらの)国は全て代々王を称することを伝統としている。」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたことが察せられる。倭奴国は自己の申告により漢の皇帝から家臣としての王に任命されたもので倭国内の統治の実態は不明だが、王を自称していた他の30あまりの国にから異議が無いところから建武中元二年までに倭国内の他の国々の自称王を降し、初めて倭国を統一した者である可能性があると仮定する。この後「桓 靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」・「桓帝と霊帝の間、倭国が内戦状態になり、互いに攻め合い。長い間、君主が居なかった。」となり再び統一が乱れたことが察せられる。 

 

●「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる[注]。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。

 

[注]:「ゐ」は隋唐音であり、「倭」「委」はともに「わ」であるとする反論もある。 

・現在でも韓国・朝鮮では日本を「倭奴((왜노)ウェノム)」と呼ぶことがある[注]

 

[注]:「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも金印には「倭」の字が減筆されニンベンの無い「委」が用いられている(新の王莽が匈奴に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「漢の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。 

 

3)邪馬壹国

 古田武彦の主張については邪馬壹国説を参照 

 

4)倭の五王は九州の大王

 倭の五王は畿内ではなく九州の大王であったという主張がある。 

 

「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、南朝(東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと仮定する。 

 

畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら [注1] 同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないということにして、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと仮定する。

 

 また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではないと仮定する。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが [注2] 根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。

 

 古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示していると仮定する。

 

[注1]:倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている(三韓征伐#概史・年表)。九州王朝説でも九州では軍事が民生を圧迫していたと考えるが、九州の勢力は独自に軍事活動を行っていたと仮定する。

 

[注2]:(1)出現期の前方後円墳の分布の中心は近畿の大和

(2)出現期の前方後円墳の分布は瀬戸内海沿岸各地から北部九州。 

(3)九州南部では東西に地下式横穴墓、地下式板石積石室墓という二大分布圏が存在。前方後円墳は沿岸部のみに分布する。 

(4)古墳時代前期後半に東日本、近畿、西日本各地で前方後方墳から前方後円墳への転換が確認されている。 

(5)3世紀中葉すぎ、近畿、中国地方 → 北部九州への土器の移動が顕著に認められる。逆の動きはほとんど認められない。(参考 → 「前方後円墳と前方後方墳」 白石太一郎講演 [リンク切れ]))等を根拠であるとする反論。 

 

●『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」 = 中部・関東、「西の衆夷」 = 畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」 = ???、となり、比定地を特定することができないこととする(実際は可能である)。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」 = 畿内、「西の衆夷」 = 九州、「渡りて海北」 = 朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能であるとする[注 1][注2]

 

[注 1]:現在でも、九州の北西部に広がる海域を玄界灘と言う。「玄」は「玄武」と同様に「北」の意味であり、玄界灘とは(荒い)北の海を意味する。なお、日本書紀にも2か所「北海」の表記はあるが、これは九州倭国の史書からの盗用であると考えられることとする。

 

[注2]:根拠はないが、倭王武が九州倭国の王であるとすると、古事記や日本書紀が伝えるところの「ニニギノミコト」・「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」・「ウガヤフキアエズノミコト」は九州倭国の人間で、そこから東征に派遣された「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)」の子孫が巨大古墳を築造した畿内日本であることになる。多元王朝説(古田武彦)は神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、神武が畿内に入植したのは2世紀の頃ではないかと推定している。九州倭国は半島等での軍事活動で疲弊し高句麗のような強力な競争相手のいない新天地に入植した神武の子孫畿内日本はその後も東征を続け発展に向かい、近畿地方から東日本にかけて大勢力を築いたとする。 

 

5)九州倭国の大陸との交流 

 漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったという主張がある。 

 

広開土王碑三国史記等の倭・倭人関連の朝鮮文献、『日本書紀』によれば、百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない可能性がある [注]

 

 政治、祭事、軍事が未分化の時代、王は司令部のある北部九州に常駐することとなった可能性がある。そこで、ヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる、ということを仮定する。

 

[注]:戦国時代でも朝鮮出兵に際して豊臣秀吉は、肥前名護屋城を築城しそこから指揮を執っている。明治になっても日清戦争に際して日本政府は、大本営と首都機能を広島市に移して戦っている。 

 

は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、畿内日本外交儀礼に疎く国書も持たず遣使したとされる [注1]

 

 更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内地方に唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内地方には隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず九州倭畿内日本とは明らかに別物であると仮定できる。

 

 『新唐書』日本伝では「開皇年間(581年 〜 600年)の末に初めて日本国は隋と国交開始した。」と記しており遣隋使・遣唐使が畿内日本と隋・唐の初の直接交流である[注 2]

 

[注1]:第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「遣唐使」となっている。

 

[注2]:『隋書』にある600年の第一回遣隋使は『日本書紀』に全く記載がなく、第二回の607年の遣隋使も隋ではなく大唐国に派遣したと記している。唐は618年に建国しており607年は隋代である。極めて可能性は低いが、「『唐土』としての『大唐』ではなく、王朝としての『唐』に行った」とすると618年以後のことと仮定することはできる。

 

 『日本書紀』の記す第二回遣隋使は実は唐代の619年であり、『日本書紀』では年代を12年繰り上げた為に隋代を大唐国と書いてしまったのではないかと仮定する。そうすると、607年の遣隋使は九州倭国の派遣したもので、隋の従八品文林郎の裴世清は俀国に来たのであり、619年にも唐の家臣となり降格した後の正九品鴻臚寺の掌客の裴世清が小野妹子と供に来たと考えれば無理矢理ではあるが辻褄が合う。約12年の誤差  

 

・5世紀の倭の五王12回も中国の南朝に朝貢し、朝鮮半島で数世紀に亘って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかない。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為であると仮定する。ただしこれは倭の五王100%に近い航海成功率であったことが前提であり、説として極めて稚拙である。 

 

6) 磐井の乱

 磐井の乱は継体が武烈天皇を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の記事であるという主張がある。

 (上記古田武彦説にあるように古田は、磐井の乱とは九州王朝の分家である畿内ヤマトの九州王朝への反乱だと考えていたが、後に自説の矛盾に気がつき、磐井の乱は無かったとしている。) 

 

6.1) 磐井の乱は史実

 九州王朝が実在したと仮定した上で磐井の乱は史実であるとする主張は以下のとおりである。

 ・「記紀」や「筑後国風土記」等に同じ事件についての同じような記事がある。「記紀」や「筑後国風土記」等の著者に磐井のような地方豪族の反乱の記事を捏造する必要性が無い。

・「磐井の乱」を否定する根拠が無い。

・福岡県八女市に磐井の墓とされる岩戸山古墳が実存し、記録とも一致している。 

 

6.2)継体天皇地方豪族説

 継体天皇は地方豪族に過ぎなかったという主張がある。 

●『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、三国史記の『百済本紀』とは異なる逸失書)から531年「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。しかし、継体天皇の子の安閑・宣化は、継体天皇の死後も生きていた。この記述は記録の齟齬ではなく継体天皇のことではないと仮定する。 

 

●継体21年(547年)、継体天皇は「社稷の存亡ここにあり」という詔を発しているが、天皇が一地方豪族を討伐するにしては大げさであるということにする。 

 

●継体天皇が物部麁鹿火磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。磐井を討伐しないと継体天皇は日本の支配権を得られなかったということにし、継体天皇には政権は無かったということであるということにする。 

 

●継体天皇は仁徳天皇系の最後の大王・武烈天皇から10親等も離れた応神天皇の5代の孫とされており、大王の継承資格がないということにする。 

 

●継体は、即位するとその正当性を担保するため武烈の姉の手白香皇女を皇后にしている。 

 

6.3)磐井は九州倭国の天皇説 

●『日本書紀』に逸書『百済本記』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していたということにする。[出典]

 

[出典]:以下のように日本書紀と朝鮮側記録等の間には3年のずれがあるので、528年と記録のある「磐井の敗死」も3年ずらして、531年の「日本天皇・皇太子の同時死亡」のこととするのが妥当であるということにする。

 

継体18年(524年)百済の太子明、即位(逸書「百済本記」) ⇒ 527年百済聖明王即位(遺事百済王暦)

継体22年(528年)磐井滅亡(日本書紀本文) ⇒ 531年日本天皇太子皇子の死(三国史記「百済本紀」)

継体23年(529年)加羅金官国滅亡(日本書紀本文) ⇒ 532年(三国史記)

継体25年(531年)継体の死(日本書紀本文:継体紀)534年継体の死・安閑即位(日本書紀或本:安閑紀) 

 

●福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは、九州に律令があったことを示すもので九州に王朝があった証拠であることとする。 

 

●古代わが国では曲水の宴は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県久留米市には、8世紀以前の「曲水の宴」のものだと仮定することができる遺構がある。 

 

●福岡県久留米市の高良山にある高良大社は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせるということにする。 

・高良大社が三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠七支刀を所蔵している。 

 

・高良大社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓である。

 

・中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)「連」(つら)などと言った称号を持った者がいる[出典]。ただしこれらの系図は古代のものとしては極めて稚拙であり偽作である可能性が高い。

 

[出典]: (1)物部日良仁光連、(2)日往子明連、(3)日男玉頼連、(4)神力玉依連、(5)日光玉一連、(6)日往玉尊連、

1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩

 

・高良大社の祭神高良玉垂命は、武内宿禰と言われている。武内宿禰の子供達の名前の地名がこの一帯に散らばっている。羽田(波多)、肥前基肄郡基肄(紀)、肥前佐嘉郡巨勢(巨勢)、肥前三根郡葛木・椎田町葛城村(葛城)、曾我(蘇我)、平群(平群)。ただしこれらの地名は畿内により鮮明に残っている。 

 

●「筑紫君葛子(ちくしのきみ かつし)は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。ただし、葛子がヤマト王権に仕えていた人間と仮定しても矛盾しない。

 

7)聖徳太子 

 厩戸王子「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州倭国の人物であったとする。[注]で、冠位十二階、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子は畿内日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。

 

[注]:九州年号に「聖徳」(629年)とあることを聖徳太子と結びつけ、伝説の聖徳太子は九州倭国の王の一人であった(聖徳太子の太子は本来は、仏教に深く帰依した大師である)とする仮説もある。しかし、古田武彦はこの仮説をとらない 

 

●『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀国王多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、俀国には阿蘇山があると明記されているので、俀国は九州のことであるということにする[注]

 

[注]:「有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭 有如意寶珠 其色青 大如雞卵 夜則有光 云魚眼精也」「阿蘇山がある。その石は訳も無く火が起り天に接するもの。習慣が異なり、よって祈祭をおこなう。如意宝珠あり、その色青く大きい雞卵のようだ。夜はすなわち光あり、魚の眼精だという」 

 

●開皇二十年(600年)「倭王姓阿毎字多利思北孤」「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」男王であり「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」・「王の妻は雞彌(キミ)と号す。後宮に女が600 - 700人いる。太子の名を利歌彌多弗利となす。」とあるので、聖徳太子が推古天皇の代わりを務めたことを考慮しなければ俀国王自身は太子でも女帝(推古天皇)でもない。

 

 また、当時の俀国の王が女性なら、儒教の影響の強い隋では大変珍しいので、隋の使者は見逃さずに必ず記録に留めたと考えられることとする[注]

 

[注]:毎字多利思北孤(アメ又はアマ・タラシホ(ヒ)コ)は『古事記』、『日本書紀』に見られる呼称と一致し、大王・天君は首長以外にも用いられた尊称であるとして、『隋書』の「俀王姓阿毎字多利思北孤」を厩戸王子を指すとする説もあるが厩戸王子は天皇ではない。新唐書では多利思北孤は用明天皇のことである。 

 

『古事記』には「 用明天皇記」において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1か所あるだけで業績に関する記載は無い。ただ、記述が無いだけで実績そのものが無い証明にはならない。 

 

法隆寺金堂釈迦三尊像は「厩戸王子」の像ではない。

・『日本書紀』で厩戸皇子は推古29年(621年)2月癸巳(5日)に亡くなったとされているが、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の上宮法皇登遐(とうか)は「癸未年(622年)2月22日」である。

・『日本書紀』で厩戸の母は「間人皇女」、后は「菟道貝蛸皇女」であるが、『釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇の母は「鬼前太后」、后は「干食王后」となっている。 

 

8)評を制定したのは九州倭国

 「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国であるという主張がある。九州年号では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えられることとする。 

 

『日本書紀』では「大化の改新」時に「郡」が成立したと記すが、出土した文書(木簡類)により「郡」と言う用語が実際に用いられるのは、大宝律令が制定された文武天皇5年(701年)以降であり、文武天皇4年(700年)以前「評」を使っていたことが確認されている[注]

 

[注]: 名古屋市博物館の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/若狭国小丹生評/木ツ里秦人申二斗」・「尾治国知多郡/大宝二年(702年)」などの記載がある奈良文化財研究所 木簡データベース

 

●斉明7年(661年)6月と天智7年(688年)に二度も逝去記事がある伊勢王に関する次の記事は34年前の事であり、640年代に九州倭国評制度樹立改革していたと考えられるということとする。

・朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀 → 白雉3年(652年)の孝徳天皇の葬儀 [注]

・天武12年(683年)12月天下を巡行し、諸国の境界を分限 → 649年

・天武13年(684年)10月諸国の境界を定めた → 650年

・天武14年(685年)10月東国へ向った → 651年

 

[注]:  書記には天武天皇には何度も葬儀記事がるが、孝徳天皇には一度も葬儀の記事が無いのはこの記事の入れ替えによると考えられる。また天皇が逝去したので九州年号白雉元年(652年)へ改元したと考えられる。 

 

●『伊予三島縁起』には「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき、番匠(大規模な土木工事)がはじまり、九州年号の常色2年戊申(648年)には日本国に御巡礼される。)とある。つまり「孝徳天皇のとき前期難波宮造営がはじまり、大化4年(648年)に天皇が九州倭国から畿内日本国に行幸し、その途中に伊予に寄った。」と考えられるということとする。

 

9)壬申の乱

9.1)壬申の乱の舞台は九州説

 壬申の乱の戦闘があった地域は、九州内であったという主張がある [出典]

 

[出典]:『壬申の乱の舞台を歩く 九州王朝説』 大矢野栄次 (著) 2012年(平成24年)12月25日  

 

●この乱では、大分恵尺大分稚臣等の九州の豪族が活躍している。また、大海人皇子は九州の豪族である宗像氏の娘(胸形尼子娘)を妃にしていた。東国豪族のことは考慮していないため強引ではあるが根拠とする。 

 

大津京は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津大津町にあったと考えられることとする。

 

・近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡と見做せなくはない東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。

 

・滋賀県の瀬田川に架かる瀬田の唐橋は長大で、日本書紀の記述のように壬申の乱で甲を重ねて刀を抜いて突破することは困難であるということにする。しかしこれが大津町瀬田付近の白川に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおり突破が可能であるということとする。

 

・近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるということにする。肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた太宰府から内陸部の大津京への首都の疎開である」と説明がつくこととする。

 

・大津町の北側の菊鹿盆地は、古代には 茂賀の浦(しかのうら)と呼ばれた巨大な湖が存在していたといわれる。 

 

●大分県には竹田・ 三重・大野・犬養・佐伯など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。

不破の道とは竹田市付近の街道のことと考えられることとする。

 竹田市には西から道が集まっており、日本書紀の記述どおりに攻めてくる敵の各個撃破が可能であることとする。 

 

ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。 

 

●源氏が八幡神を氏神とし祀ったことから、八幡神が軍神とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えられることとする[注]

 

[注]:藤原広嗣の乱の時も鎮圧に当った大野東人は戦いの前に宇佐神宮で勝利を祈願している。 

 

●勝敗を決したとされる美濃から来た援軍畿内日本国美濃や大和の周辺で招集し九州倭国へ派遣した軍のことと考えられることとする。 

 

●『日本書紀』に記された立田山や大坂山は九州内の山であり、難波は筑後平野に在ったと考えられることとする。[注]

 

[注]:7世紀中頃は白村江戦の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿を造営するとは考えられないにも拘わらず古田武彦は、博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、「難波長柄豊碕宮」を福岡市西区の愛宕神社に比定し、『皇太神宮儀式帳』を根拠にここで九州王朝は評制を樹立したとしている。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年(平成21年))『なかった』五号(ミネルヴァ書房、2008年(平成20年)6月)

 

・『日本書紀』天武8年(679年)11月条に「初めて関を竜田山、大坂山に置く、よりて難波に羅城を築く」とある。上町台地の難波宮に羅城(城壁)の痕跡は見つかっていない。 

 

●以下のことから難波(津)は上町台地ではなかったと考えられることとする。 

上町台地北端・道修町高麗橋周辺は平安時代に渡辺津と呼ばれていた。

『日本書紀』には、神武が瀬戸内海を経てたどり着いた所は「浪速国・浪花」と記されている。『古事記』でも「浪速」と記している。王仁の故事を無視するならば、大坂市の難波は元は浪花と呼ばれており、難波は後世に人為的に付けられた名前であるとすることができる。

 

仁徳紀に記された難波の堀江は、人工的に建設されたものとされるが、上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。

 

上町台は、7世紀頃まで大阪湾と河内湖に挟まれた砂洲であり狭小で多くの住民の住めるような土地もなく、ヤマト王権の本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、仁徳天皇が難波高津宮、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮等の宮を置けるような場所ではないということにする。 

 

長柄豊碕宮までの「難波」とは筑後川河口(筑後平野)付近に在ったと考えられるということにする。

柳川市内には、長柄(北長柄町・南長柄町)という地名が存在し、久留米市内には、高津という地名も存在する。更に、三潴郡大木町には、大隅(大角)という地名も存在する。また、佐賀市には鰡江(しくつえ・祝津江)という地名が存在し、古代難波にあった宮の名が全て遺存する。

 

大阪府には、神崎川・大川・柳川町・大木など筑後川河口にある地名(神埼市・大川市・柳川市・大木町)と同じ地名が存在する。難波の地名の移植に伴い同時に移植されたと考えられることとする。

 

筑後川中流域は、磐井(武烈天皇)が都を置いたという想像をすれば、倭国の中心部であったと考えられる。さらに想像を広げれば、応神天皇、仁徳天皇、欽明天皇、孝徳天皇など歴代の天皇が都を置いたかもしれない。

 

日羅難波で暗殺され小郡の西畔丘に一旦仮埋葬されたとされる。仮埋葬地の小郡は難波から遠くない所であったと考えられるが、河内国には小郡は存在しない。小郡市があるのは筑後平野である。ただし小郡の地名は当時からあったわけではない。

 

「壬申の乱」終息時に「大伴吹負」「難波小郡」で「難波以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」「印」などを押収している。「壬申の乱」は20日程度で終息しており、もし難波が上町台地であったなら20日程度で遠く離れた九州等の国司達に命令を伝えて上町台地へ集めることは不可能であり、その目的も不明である。しかし、この「難波小郡」筑後の「小郡」のことなら「難波以西の国」は九州内だけの国司達のこととなり筑後の「小郡」へ集めることが可能であると仮定すれば、一応はその目的も敵に協力した国司達の解任との推測が成り立つ。

 

古代筑後川は海が内陸まで入り込み船で中流域まで遡上できたと考えられている。

 

古代難波には八十島といわれるほど、島が多くあったとされるが、河内湖は上町台地に遮られており、島が形成される余地は少なかったと考えられることとする。一方、筑後河口は巨大な三角州であり、陸化の過程で数多くの中州が形成され、有明海は潮の干満の差の大きな海であることから潮が引いた状態では更に多くの州が出現する。

 

9.2)壬申の乱は、易姓革命

 以下のことから壬申の乱により、王朝交代(易姓革命)があったと考えられる[出典]

 [出典]:『倭国と日本古代史の謎 』斎藤忠 (著)(学研M文庫)文庫 2006年(平成18年) 

 

『古事記』『日本書紀』には、同父同母天智天皇「兄」天武天皇「弟」と書かれているが、天智天皇は天智天皇10年(671年)に46歳で崩御し、天武天皇は天武天皇15年/朱鳥元年(686年)に65歳で崩御しているので天武天皇のほうが4歳天智天皇よりも年上である。また天武天皇天智天皇の娘を4人も妃にしているので、天武天皇と天智天皇が兄弟であることはない。 

 

●天武天皇は壬申の乱のおりに、自分を百姓(侠客)上がりの漢の高祖劉邦になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。 

 

「天智天皇」は、最後の暴君とされる紂王の愛した「天智玉」に由来し、「天武天皇」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智天皇」・「天武天皇」の諡号は、殷王朝から周王朝への易姓革命を意識して付けられたものである(森鷗外『帝謚考』)。 

 

『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国畿内日本とは別の国であり、九州が畿内により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである。つまり、(九州)日本(畿内)とは別の国であり、九州倭国畿内日本により征服され、ヤマト王権日本の名前を使い始めたと考えられる。

 

〈史書の国号改称記事〉

『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國

「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」

『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本

「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」

 

●天皇家の最も重要な祭祀である大嘗祭は、天武天皇2年(673年)まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。 

 

天武天皇2年(673年)8月条に、「詔耽羅使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。 

 

漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武天皇10年(681年)である。 

 

●日本書紀によると天武は、三種の神器の一つである草薙剣に祟られているので、天武は、本来正当な後継者ではなかったと考えられる。 

 

10)九州倭国からヤマト王権

10.1)神武東征

 古田武彦を始めとする九州王朝説論者の主流派は次のように述べている。(古田史学の会の公式HPより)

 

 大王神武は神話の中の日本(倭)の創始者ではありません。大王神武と久米集団は、弥生後期に倭国から銅鐸国家圏へ攻撃を行いました。尚倭国とは三種の神宝ー鏡・矛・勾玉が祭祀と権力の象徴とする国で、銅鐸国家圏は銅鐸が祭祀と権力の象徴とする国です。神武と同行したのは、海兵隊としての久米の集団のみです。

 

 『古事記』によれば、日向(ひなた、糸島)から東に向かい、安芸(広島県)と吉備(岡山県)で植民し定住しようとしました。しかしそれは失敗し、その結果、銅鐸国家圏への侵略に切り換えました。

 

 そして大阪湾の浪速(なにはや 大阪中之島)を通り、河内湖と呼ばれた湖の端である日下の楯津へ上陸しました。しかし日下での戦いに敗れ、彼らは(大阪市)南方の水路を通って、血沼(ちぬ)の海(大阪湾)へ出ました。そこから彼らは紀伊半島を周り、山を越えて熊野から大和に突入しました。

 

 彼は東方侵略に賭け、大和侵入に成功した。大和では彼は倭国から神倭(かんやまと)伊波礼毘古命(いはれひこのみこと)と呼ばれた。

 

 それで彼は後世”大王”と呼ばれたり、神武天皇と呼ばれている。神武天皇とは漢風諡号(かんぷうしごう)といって、古事記・日本書紀編纂時の名前です。

 

 大王神武は実在である。神武東征は弥生後期の大阪湾の地図が根拠を明示しています。

 

●神武は天皇ではなかったという主張がある。

・古代において天皇は姓を持たなかったと言われるが、神武の父の名は、「鵜葺草葺不合」(ウガヤフキアエズ)であり「鵜葺草葺(ウガヤフキ)という姓を持っていた

・神武は、鵜葺草葺不合の四男である。

・天皇につながる神は皆「稲」に関する名を持つが、鵜草葺不合命は稲穂と無関係である。

・古事記によれば、高千穂の宮「東に行く」ことを決定したのは、兄の彦五瀬命と弟の神武の2人であり、最初軍を率いていたのは五瀬命である。五瀬命が死んで指揮権が神武に移っている。

 ただしどれもが根拠たり得ない稚拙なものである。 

 

『旧唐書』には、倭と日本について『倭国伝』『日本国伝』の二つの記事が立てられ下記のように記されている。神武が征服した東方の小国「日下」九州倭国を併合したと考えられる。

・日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす。

日本は旧・小国、の地を併す。

 

10.2)欠史八代

 九州王朝説の古田武彦は欠史八代は神武天皇以来の近畿分王朝(九州王朝の分家として実在した、と主張している。 

 

10.3)記録が語る王朝交代

 九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であるという主張がある。 

 

古代国家成立の要件は、常設の政府(官僚機構)常設の軍隊首都(都城)等であることとする。これらが畿内地方で揃うのは持統天皇8年(694年)以降であるが、九州には奴国太宰府などの都城が古代から存在しこれらが揃っていたと考えられる。 

 

●『魏志倭人伝』の邪馬壹國北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史ではについての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定できることとする。[注]

 

[注]:古田は、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を文武天皇5年(701年)としたため九州倭国が7世紀末に日本の国号を使い始め、ヤマト王権が政権簒奪後も日本の国号を使い続けたとしている。

 

・『新唐書』の時期に、日本の歴史が改竄・捏造されたと考えられることとする。

・万葉集では、8世紀まで大宰府(倭)を日本とは別の国と認識しているという解釈をする。

 〔八隅知之 吾大王乃 御食国者 日本毛此間毛 同登曾念〕(やすみしし わがおほきみの をすくには にほんもここも おなじとぞおもふ)八方を統べ治めるわが大君のお治めになる国は、日本もここ(大宰府・倭)も同じだと思う(大宰帥 大伴旅人 万6-956) 

 

漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の歴史書「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。ただし、これには『天皇記』『国記』などの6世紀に編纂された書物のことが考慮されていないので成り立たない。 

 

●日本各地の寺社の縁起地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたということにできる「九州年号」(継体元年(517年)-大長九年(712年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定されることとする。 

 

●日本書紀によると敏達天皇13年(584年)に畿内へ仏教を伝えたのは播磨にいた高句麗の還俗僧の恵便である。584年以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということであり、6世紀末播磨畿内にとって別の文化圏( = 外国)だったということにすることもできる[注]。

 

[注]百済への仏教伝来は枕流王元年(384年)と記録されている。一方、日本への仏教公伝は6世紀半ば頃とされ欽明天皇代に百済の聖王によって伝えられたとされる。

 しかし倭国と百済は親密な関係にあり、倭国への伝来が百済より200年も後とは考えられない。

 九州倭国への仏教伝来は4世紀末から5世紀初頭の頃であり、6世紀半ばの伝来は畿内日本への仏教伝来のことである。

 ただし、公的ではない仏教徒は仏教公伝以前にも司馬達等などがいるので以上は根拠にはならない。 

 

10.4)8世紀のヤマト王権

 8世紀は異常に多くの反乱クーデターが発生しており、ヤマト王権は政権が安定していない。 

●神亀6年(729年)長屋王の変(長屋王を藤原氏が暗殺した事件) 

 

●天平12年(740年)藤原広嗣の乱(藤原四兄弟が天然痘の流行によって全滅。鈴鹿王、橘諸兄が台頭し、失脚した藤原広嗣は大宰府において反乱を起し討伐された。) 

 

●天平勝宝9年(757年)橘奈良麻呂の乱(孝謙天皇が藤原仲麻呂を利用して橘諸兄の子奈良麻呂等443人を粛清。) 

 

●天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(孝謙上皇・道鏡が邪魔になった藤原仲麻呂を粛清しようとした。仲麻呂は軍事力をもって対抗しようとしたが失敗。) 

 

●神護景雲3年(769年)宇佐八幡宮神託事件(称徳天皇(孝謙天皇)は宇佐八幡宮の託宣により道鏡に皇位を継がせようとしたが、和気清麻呂の妨害で失敗。) 

 

●神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶藤原氏は天智天皇の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。 

●天応元年(781年)氷上川継の乱(天武天皇の曾孫が計画したクーデタ未遂事件。) 

 

10.5)九州倭国の抵抗

  九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測できることとする。 

九州年号は大長(704年 - 712年)まで続いている。 

 

続日本紀に下記のような記述がある。

・養老元年(717年)11月17日 亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初(武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)

 

・養老7年(723年)4月8日 大宰府言。日向。大隅。薩摩三国士卒。征討隼賊。頻遭軍役(大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、隼人の反乱軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている)

 

・養老7年(723年)5月17日 大隅・薩摩二国隼人等六百廿四人朝貢(大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた) 

 

10.6)防人

 防人の配置は、九州倭国制圧のために東国の蝦夷を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられるということにする。 

 

11)太宰府(倭京)

 太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられることとする[注]。

[注]:内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ書房 (2000年(平成12年)7月)  

 

11.1)名称

●「太宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「太宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に解釈することもできなくはない。宋に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた[注]。

 

[注] 倭王武の上表文に「竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」・「ひそかに、みずから開府義同三司を仮に与え、その余はみな仮に授けて、もって忠節を勧める」とあり、宋代には三司が(三公も含めて)最高クラスの官位になっていることから 

 

●太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにある首都」という意味であり、遠くとは距離的に遠いだけでなく時間的に遠い、昔の首都という意味である[注1] [注2]。

 

[注1]  大槻文彦『大言海』

(1)京都ヨリ遠ク隔リテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥ノ鎮守府、諸国ノ國衙ナドナリ。コレヲ、ひなのみやこ(都)トモ云フ。

(2)専ラ、太宰府ノ稱。

(3)又、三韓ヲモ稱ス。

 『日本国語大辞典』

(1)都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などがこれにあたる。

(2)特に、太宰府のこと。

(3)新羅(しらぎ)に置かれた官家」

 

[注2] 柿本朝臣人麻呂筑紫国時海路作歌「大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念(細い水路を蟻が通り抜けるようにして大王の昔の首都(太宰府)に通う時、門のように並んだ二つの島(志賀島、能古島)を見ると、いよいよ繁栄していた神代の時代のことがしのばれる)」 

 

●太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる[注]。

 

[注] 吉田東伍『大日本地名辞書』、『筑前国続風土記』によると、紫宸殿、内裏の名称は安徳天皇に由来するとされるが、『平家物語』・『源平盛衰記』などの記録では庁舎が戦火で消失していたため平家は大宰府政庁に宮を置いていないので、これは地名の由来を説明するための後代の創作であると考えられる。 

 

●太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり本来は都督府と呼ばれていた[出典]。都督府とは中国の官職である都督に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に評督が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。

 

[出典]:『日本書紀』天智天皇6年(667年)条に「筑紫都督府」とある。  

 

11.2)記録の空白

●『日本書紀』などのヤマト王権の史書に太宰府を何時設置したか記録がない。また都城本体の建設の記録もない。 

 

古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が畿内特に大和ではなく、太宰府であった事は明らかである水城や所在の明瞭な古代山城は、北九州に多い。またヤマト王権に築城の記録が無い古代山城神籠石(こうごいし)式山城」が北九州から瀬戸内沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中している) 

 

11.3)都城

11.3.1)日本最古の都市

 下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の条坊制都城である藤原京(持統天皇8年(694年))より古い、本格的な計画都市である。 

 

●条坊の建設は単なる区画化した都市計画事業に過ぎず、城砦や城壁を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。

 

 『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である大野城・水城等が築城されたとされる天智天皇3年(664年)には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたことになる。 

 

●7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはなく、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。 

 

竈門神社の社伝では、天智天皇の代大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(天智天皇7年(668年) - 弘文天皇元年/天武天皇元年(672年))にはあったことになる。 

 

●新羅が西暦250年 - 300年頃には金城を整備し、高句麗も427年に都を平壌に遷している。更に百済は538年に 泗沘都城を建設している。

 

 宋の皇帝から安東大将軍に任命され、隋・唐朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。 

 

●九州年号に倭京元年(618年)とあることから、この年に建設されたと考えられる。 

 

11.3.2)唐の首都(長安)をモデルとした都市

●都市の区画割が明らかに唐の長安を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる)。 

 

●ヤマト王権でこのように北に政庁を配置した条坊制の都は、平城京(710年)以降であり、これより46年 - 92年早い。 

 

●ヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったと考えられている。 

 

11.4)『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録

●和銅4年(711年) - 延暦19年(800年)蓄銭叙位令などが示すように畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」

 「この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。 

 

『魏志倭人伝』によると3世紀奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。また畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。 国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。 

 

「新唐書・日本伝」に、「其の王の姓阿毎氏。自ら言う、初めの主は天御中主と号し、・・・筑紫城に居す。」とあり、 筑紫城 = 大宰府(都府楼)である。 

 

●『日本書紀』壬申の乱(672年)の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内地方には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。 

 

『万葉集』に大宰小弐小野老朝臣が天平元年(729年)大宰府に着任した時、饗宴で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものであり、大宰府の繁栄を示すものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有 あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり 万3-238」 

 

11.5)測定調査・発掘

●通説では、約300年にも亘って当初の計画に基づき建設され続けたことになるが、単なる区画整理事業に過ぎず「数か月から数年で可能な条坊の建設に何故300年も要したのか?」「300年にも亘って計画を維持する事が可能か?」・「実施した者の正体は何か?」・「目的は何か?」などの疑問や矛盾が発生する。 

 

●現在の太宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。

 水城の築城は、理科学的測定によれば下部西暦240年中部西暦430年上部西暦660年で、水城の排水口の木部西暦430年であったので『日本書紀』の記述等よりも古くなり、太宰府本体も古くなる可能性がある。

鴻臚館の便所からはトイレットペーパー代わりに使われた西暦430年の木片も見つかっている。 

 

●学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、1968年(昭和43年)に太宰府遺跡で竹内理三教授等が発見した焼土層は1600年ほど前の物である。 

 

12)官僚機構

 7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。 

 

養老律令によれば9,000人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとされるが、飛鳥京には9,000人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も無い。 

 

●ヤマト王権は持統天皇8年(694年)に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、文武天皇5年(701年)大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、7世紀まで日本(畿内)には文字が無かったとされている。 

 

●奈良時代の下級官僚は薄給であり誤字等に対する罰金制度等があり、妻を質入れするほど困窮する者もあったと記録されている。知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の扱いは極めて劣悪である。 

 

●下記のとおり『続日本紀』神護景雲3年(769年)10月甲辰の記事にあるように8世紀になっても大宰府では学問で身を立てようと志す者が多かった。 

「大宰府言 此府人物殷繁 天下之一都会也 子弟之徒 学者稍衆 而府庫但蓄五経 未有三史正本 渉猟之人 其道不広 伏乞 列代諸史 各給一本 伝習管内 以興学業 詔賜史記 漢書 後漢書 三国志 晋書各一部」

 

 大宰府の役人が「この府は人の行き来や交易が盛んで日本で一番大きい都会ですが、府庫には五経しかなく三史がないので、学生や学者が、本が読みたくても本が読めません。伏してお願いします。学業のために列代の諸史を各1冊下さい。」と言上してきたので、天皇の命令で史記、漢書、後漢書、三国志、晋書各一部を賜った。 

 

13)通貨貨幣経済

 次のことから、7世紀以前に無文銀銭富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎(和同開珎)等の貨幣を発行したと考えられる。古田史学会報「二つの確証について」 

 

*西日本を中心に弥生時代の遺跡から秦や前漢の通貨である半両銭、前漢から隋の通貨である五銖銭、新の通貨である貨泉等が多数出土している。 

 

*魏志倭人伝に「乘船南北市糴(船に乗って南北に出かけて米の買い付けを行う)」・「國國有市、交易有無、使大倭監之(町々には市場があり、交易の有無を位の高い者に監視させている)」とあり倭は交易が盛んであったと記されている。 

 

*『続日本紀』769年の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は人の行き来や交易が盛んで、日本一の都会である)」と報告しているように北部九州では8世紀既に経済活動が活発であった。 

 

*『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の貨幣は和開同珎(慶雲5年/和銅元年(708年))である。しかし、古代日本には和開同珎より以前に無文銀銭や富本銭(天武天皇12年(683年))などの貨幣が存在している。 

 

*和開同珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本でその多くが鋳造されていた。 

 

*九州には古代から博多港・坊津・八代港などがあったが、畿内地方には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる貿易港は、平清盛が12世紀に大輪田泊(神戸港)を整備するまで無かった。 

 

*蓄銭叙位令(和銅4年(711年) - 延暦19年(800年))などが示すように畿内地方では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。畿内地方で通貨経済が発展するのは、12世紀に平清盛によって多量の宋銭が輸入されてからである。

 

14)万葉集

 『万葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである[出典]。代表的歌人でありながら正体不明な柿本人麻呂額田王等は九州倭国縁の人物である。山上憶良等も元は九州倭国の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。

 

 [出典]:『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林)2001年(平成13年)4月20日 

 

14.1)九州の歌である

 万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。 

*7世紀以前の畿内ヤマトでは文字が普及しておらず、歌などの記録の保存が難しかったと考えられる。 

 

太宰府(九州倭国)花は梅畿内日本花は桜や菊である、万葉集では梅118首桜40首が詠まれ、菊は1首も詠まれていない。 

 

*万葉集では北朝で使われた「紅葉」ではなく九州倭国が朝貢した南朝で使われた「黄葉」が多く使われている。 

 

*古代の河内地域には、巨大な河内湖(草香江)があり雄大な景色が広かってたと考えられるが、7世紀頃には陸化により消滅したといわれている。河内湖は瀬戸内海から大和への通り道であり古代人は頻繁にこれを通ったと考えられ、これを観たり通った古代人が歌を詠まないはずが無いが、万葉集にはこの雄大な河内湖そのものを詠んだ歌や船で河内湖を行く歌が存在しない。 

 

*万葉集には「白村江の戦」に関する歌が無い。「白村江の戦」は九州倭国が主体として戦ったものであることを隠すために残されなったものである。 

 

14.2)香具山

 万葉集の香具山は、久留米市南方の山(古田武彦は鶴見岳説) 

 

*万葉歌では香具山から見える鴎を詠った歌(万1-2)があるが、奈良県の香具山からは海は見えない。また標高が152.4mしかなく奈良県の山々の中で際立っているとは言い難い。 

 

・「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者」( やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには)(山門郡 - 大和町 (佐賀県)には たくさんの山があるが そのなかでも際立っている 天の香具山に登り立って 領土を見渡せば 人々が暮らす平野には 炊煙が立ち昇り 海原では 鴎が飛び 素晴らしい国だよ (秋津島)ヤマトの国は)万1-2 

 

14.3)吉野山

 万葉集の吉野山吉野ヶ里背面の山 

 

●『日本書紀』によれば持統天皇は、持統3年(689年)1月から持統11年(697年)4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の白村江の戦直前の九州倭国の天子の軍事的目的を持った佐賀県吉野への視察記事から盗用されたものである(部隊は機密保持のため有明海に集結し、有明海 → 五島列島 → 韓のコースを辿ったと考えられる[出典]

 

[出典]:古田史学論集 第十一集「古代に真実を求めて」古田史学の会(編) 明石書店 2008年(平成20年)3月 978-4-7503-2762-4『日本書紀』・「持統紀」の真実——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——(正木裕) この歌は大和吉野の歌ではない

 

・春8回、夏9回、秋8回、冬6回と亡き夫を偲ぶにしては、季節に関係なく1年中行っている。冬山に天皇が行幸したとは考えられない。

 

・持統天皇8年(694年)夏4月の吉野行幸から帰った日に「丁亥」とあるが、この年の4月に「丁亥」はない。しかし34年前の斉明天皇6年(660年)4月なら「丁亥」がある。


(3)関連する主張


(引用:Wikipedia)

1) 日向・高千穂

 天孫降臨の地である筑紫の日向とは福岡市と糸島市との間にある日向峠付近であり、高千穂とは糸島市の高祖山のことである。(「怡土志摩郡地理全誌」によると高祖山付近をクシフル山と呼んでいた)[出典]

 

[出典]『天孫降臨地の解明』古田武彦 

 

2) 九州倭国の九州統一

 景行天皇の九州大遠征説話は「筑前」を拠点として「九州統一」を成し遂げた九州倭国の史書からの盗用である[出典]。

 

[出典]:古田 武彦 著『盗まれた神話』 

 

*畿内の大王が、本拠地を遠く離れ7年間も九州に遠征したとは考え難い。 

 

*筑後や肥後では現地側の歓迎を受けながら、豊前や球磨・大隅では現地側の勢力と戦闘を行っている(東が討伐で、西が巡行)のは、東の大和から来た遠征軍としては不自然である。 

 

*浮羽まで来ていながら、九州の中枢筑前へ入っていないのは、不可解である。 

 

*遠征の出発地点から最終地の浮羽まで詳述しながら、突如浮羽から、日向・大和へ帰り着いている。 

 

*遠征の出発地点から終点の浮羽まで地名が、異常に詳細に、かつ長大に記述されている。 

 

*古事記の景行記には「九州遠征」についての記述が全くない。 

 神功皇后の筑後平定説話九州倭国の史書からの盗用である。  

 

3) 正倉院

 奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物である[出典]

 

[出典]古田武彦氏講演会(四月十七日) 抄録 

 

●「正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、稲・塩・酒・粟などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は鷹狩のための養鷹人と猟犬。白玉・青玉・縹玉などの玉類などである。鷹狩・曲水の宴などの貴族趣味は畿内地方にはなく、筑後にはあった。 

 

●玄界灘の真っ只中、九州本土から約60kmに浮かぶ沖ノ島は、宗像大社の神領であり、日本で最も多くの国宝が出土しており、「海の正倉院」と称されている[出典1]。沖ノ島から出土した土器のほとんどは北部九州製であり、一部が山口県の土器である[出典2]。

 

[出典1]:伊藤まさこ著「太宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房、2014年(平成26年)8月) 

[出典2]:古田武彦著『ここに古代王朝ありき』(ミネルヴァ書房、2010年(平成22年)9月)

 

4) 法隆寺

 法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(太宰府都城の観世音寺又は福岡市難波池の難波天王寺又は筑後国放光寺)が移築されたものである[出典]。

 

 [出典]:米田良三著『法隆寺は移築された』新泉社 (2007年(平成19年)2月) 

 

5) 君が代

 「君が代」は九州倭国の春の祭礼の歌である[出典]。

 

[出典]:『奪われた国歌「君が代」』(株式会社情報センター出版局)2008年(平成20年)8月11日 『日本の秘密 「君が代」を深く考える』(五月書房)2000年(平成12年)1月28日  

 

*千代 - 福岡市の中心街の地名。

 

*細石(さざれいし) - 福岡県糸島市に細石神社がある。

 

*巌(いわお) - 福岡県糸島市に井原(いわら)という地名あり。

 

*苔のむすまで - 福岡県糸島市に若宮神社があり、祭神は「苔牟須売神(コケムスメ・苔むすめ)他である。 

 

6) 源氏物語等

源氏物語はもともと九州『倭国』における作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たものである。物語の舞台の中心は7世紀前半の太宰府都城である[出典]。

 

[出典]:米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』 

 

7) 井真成

 2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌を発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国の皇族であると考えられる。 

 

*死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではない。当時この官職に就くことができたのは、皇子を含む皇室貴族だけだった。 

 

*井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用唐政府が負担したと記されているが、これは三等官以上の外国使節に対する扱いである。 

 

*現在、「井」という姓は九州熊本県の産山村・南小国町・一の宮町などに多く存在する[注]。

 

[注]:「井」一族は神武天皇とも関わりのある古い時代からの姓で、有力豪族だったという。また本姓は「井」だが「井野(イの)」等の苗字を名乗っている家も多い。 

 

(ゐ)に通じる。 

 

8) 地名

*大宰府政庁の「蔵司」「老司」、北九州市の「門司」、山口県の「下関」、大分県の「佐賀関」等々は、九州倭国の役所と考えられる[出典]。

 

[出典]:古賀達也の洛中洛外日記第520話 2013年(平成25年)2月2日 

 

*大分県の「国東半島」の国東とは、九州倭国の東という意味である。

 

9) 神社

 住吉神社、八幡宮など九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州倭国の信仰ヤマト王権が引き継ぎ広まったものである[注]。

 

[注]:神道発祥の地は壱岐市の月読神社といわれており、日本最古の住吉神社は壱岐市にある住吉神社や福岡市の住吉神社である。また八幡様の総本宮は宇佐神宮であり、宇佐神宮の本宮は飯塚市大分八幡宮である。 

 

10) 駅路

 古代日本では、駅路という全長6,300kmにも及ぶ幅6-30mの直線的道路が本州をほぼ縦断して全国に作られ、沿線には「駅家(うまや)という休憩・宿泊施設も作られていた。

 

 これは2021年(令和3年)現在の日本の高速道路網にも匹敵するものであるが、これだけの道路の建設にもかかわらず、どれだけ費用がかかり、誰が負担したかと言う事がわかっていない。

 

 当時の人口は500万人程度と推測されており、建設には長い歳月と膨大な労力が必要だったと考えられる。これらも九州倭国が、半島での戦争を遂行するために兵員の移動物資の補給用に建設したものであると考えられる[出典]。

 

[出典]:『古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?』 


(4)説の歴史と問題点


(引用:Wikipedia)

1) 説の歴史

 九州王朝説の提唱者である古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。九州王朝説に関しても、一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって自己の主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。

 

 歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとしており[注1]、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、主要な百科事典邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されていない[注2] 

 

 その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。

 

[注1]:安本美典 『古代九州王朝はなかった』(新人物往来社)には、井上光貞が九州王朝説を「空中楼閣」と評したとしている。東アジアの視点で、日本の歴史を学ぶ (PDF) [リンク切れ]・ヤマト王権は鉄を使って勢力を広げたって本当? (PDF, 206 KB) (日本語)

 

[注2]:最新の邪馬台国論争史研究書である『邪馬台国論争』(佐伯有清、岩波書店、2006年(平成18年))にも片言も掲載されていない。 

 

2) 問題点

 九州王朝説は根拠に示すとおり多くの証拠があるにも拘らず日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による。 

 

通説とあまりにかけ離れており日本古代史学界の多くの研究成果を否定することになる[注 ]。

 

[注 ]:日本古代史考古学界では年輪年代学の成果から3世紀中葉に畿内を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある(参照:白石太一郎 『古墳とヤマト政権』 文藝春秋、1999年(平成11年) 

 

②古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない[注]。

 

[注]:一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視していると思われる発言を支持者がしている。

(出典:古田史学の会 横田幸男の発言に「最後に当会は、屁理屈も理屈であると言われる日野陽仁(川村明)氏の九州王朝説批判を批判することはありません。これは、当会の考えとして元の史料である『通典』・『唐会要』・『太平御覧』の史料批判から出発すべきだと考えるからです。それらの史料性格については、大昔に古田氏が『邪馬臺国の常識』(松本清張編 毎日新聞社)で論じているところであり、新しい知見や再解釈が行なわれば公開させていただきます。そんなことは当面ありそうにないです。」とあり、『通典』とそれを根拠にした批判を無視していくことを公言している。なお、別の九州王朝説論者による批判は存在する。)。 

 

③古田武彦の漢文の読み方恣意的である[注]。

 

[注]:山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986年(昭和61年)P62、P255 - 参照。張明澄「誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば」久保書店、1992年(平成4年) は「古田説はただの帳尻合わせ」とする。謝銘仁 『邪馬台国 中国人はこう読む』 立風書房、1983年(昭和58年)は「水行十日・陸行一月」を帯方郡からのトータルの所要日数とする古田説について、極端な漢文の読み方であり問題にならないとする。

 『歴史と旅』秋田書店、1984「東アジアからみた邪馬台国」「魏志倭人伝の読み方、日本人のここが間違っている 謝銘仁vs張明澄 司会安本美典」は「水行十日陸行一月」について「帯方郡から邪馬台国まで、すなわち全行程(たとえば古田説)に要した距離ではない。漢文上そういう読み方は無理。その場合は「自帯方郡・・・至邪馬台国…」のようになる。」とする。 

 

3) 問題点に対する九州王朝説側からの意見等

 飛鳥時代以前を記録した一次史料金石文や発掘された木簡など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、この僅かな一次資料と記紀万葉集漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事九州年号大宰府、那珂遺跡群、金印、神籠石などである。

 

 この資料の少なさが、九州倭国否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。

 

 通説側から九州倭国の存在を仮定しての日本書紀等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。 

 

 『日本書紀』神代巻「筑紫」14回出現するが「大和」1回も出現しないことなどから、神代の舞台九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説の一部の論者の中には上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。

 

 九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。古田武は自分の仮説は九州王朝大和王朝双方の存在をみとめる「多元王朝説」なのであって九州王朝一元説は支持しない[注]と明言している。

 

[注]: 「私は九州王朝一元史観ではないわけでありまして、多元史観なわけですね。私のいっているのは、多元史観が大事であると、多元史観というのは今おっしゃいました出雲であるとか、吉備であるとか、日向であるとか、そういったところの、それぞれの歴史を大事にしていくということでありまして、その一つを原点にして、全部を説明していく、というやり方をしないということなんです。だから近畿天皇家一元主義にかわる九州王朝一元主義をとるというんじゃないんですね。」

 大嘗祭と九州王朝の系図 [リンク切れ] 

 

 また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見る、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見る、大化の改新まで九州倭国の歴史と見る [注] 等考え方は様々であり定まっていない。

 

 かつて古田の弟子であり今は袂を分かった原田実のように、九州王朝磐井の乱大和朝廷に屈したと考える論者もいる。中小路駿逸(元追手門学院大学教授)は、雑誌「市民の古代」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。

 

  [注] :古田は「磐井の乱」を畿内ヤマトの九州倭国に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ている。

 

 古事記研究家の竹田恒泰は、八代市で行った講演で上記「八代伊勢説」を紹介等したにもかかわらずテレビ番組「そこまで言って委員会NP」の中では「記紀は我々日本人にとって真実なのであり、海外の文献と比較して事実を暴く様な事をしてはいけない。」・「日本史の教科書に魏志倭人伝等載せるべきではない。」等と発言し通説側の苦悩を現している。


(5)関連書


(引用:Wikipedia )

1)肯定側

古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1971年 

古田武彦 『失われた九州王朝』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1973年 

古田武彦 『盗まれた神話-記・紀の秘密-』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1975年

古田武彦編 『邪馬壹国から九州王朝へ』 新泉社、1987年

古田武彦 『古代は輝いていた一-『風土記』にいた卑弥呼-』 朝日新聞、1988年

古田武彦 『古代は輝いていた二-日本列島の大王たち-』 朝日新聞、1988年

古田武彦 『古代は輝いていた三-法隆寺の中の九州王朝-』 朝日新聞、1988年

古田武彦 『古代史60の証言』 かたりべ文庫、1991年

古田武彦、福永晋三、古賀達也 『九州王朝の論理—「日出ずる処の天子」の地』 明石書店、2000年

古田武彦、谷本茂 『古代史の「ゆがみ」を正す—「短里」でよみがえる古典』 新泉社、1994年

 

内倉武久 『太宰府は日本の首都だった—理化学と「証言」が明かす古代史 ミネルヴァ書房、2000年

 

草野善彦 『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的転回』 本の泉社、2003年 

 

九州古代史の会編 『「磐井の乱」とは何か—九州王朝多元説を追う』 同時代社、2006年 

 

2)否定側

岡田英弘 『倭国—東アジア世界の中で』 中央公論新社、1977年

 

山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986年

 

安本美典 『虚妄(まぼろし)の九州王朝—独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ』 梓書院、1995年

安本美典 『古代九州王朝はなかった—古田武彦説の虚構』 新人物往来社、1986年

安本美典 『邪馬一国はなかった』 徳間書店、1988年

 

高木彬光 『邪馬壱国の非論理』 私家版、1977年

高木彬光 『邪馬壹国の陰謀』 日本文華社、1978年

 

原田実 『幻想の多元的古代—万世一系イデオロギーの超克』 批評社、2000年

原田実 『トンデモ日本史の真相』 文芸社、2007年

 

久保田穣 『古代史のディベート』 大和書房、1994年

 

鷲﨑弘朋 『邪馬台国の位置と日本国家の起源』 新人物往来社、1996年

 

西野凡夫 『古代天皇の系譜と紀年 さらば九州王朝論』 高城書房出版、1997年

 

張明澄 『誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば』 久保書店、1992年


2 九州王朝の舞台(筑紫国?)


(1)倭国とは


(引用:Wikipedia)

 倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。

 

 隋書倭国伝や北史倭国伝では、その国境は東西に五カ月で南北に三カ月とされる。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。

 

 7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めたが『漢書』以来の倭国との関連は定かでない。中国正史の旧唐書、新唐書の間でも記述に差異がある

 

1)小国の形成と倭国大乱 

 「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃のことであり、中国では、『漢書』に記された前漢代にあたる。

 

 『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝へ朝貢しており、多数の(『漢書』には「100余」と記す)の政治集団(国)を形成していたことが知られている。

 

 1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。

 

『後漢書』東夷傳 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

 

  これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国が後漢へ遣使したと考えられている。

 

 『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡平野比定地とされている。この地からは『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が出土しており、奴国の中枢と考えられる須玖岡本遺跡(春日市)からは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。また、「伊都国」の中心と考えられる三雲南小路遺跡(糸島市)からも紀元前1世紀の王墓が検出されている。

 

 その約50年後の永初元年(107年)には、倭国王帥升後漢へ遣使し、生口(奴隷)を160人献呈している。

 

 『後漢書』「東夷傳 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

 

  107年の文献に名を残す日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられる。

 

 後漢書は遥か後代の編纂であるが、このことから、1世紀末から2世紀初頭にかけて、倭国をある程度代表する有力な政治勢力が生まれたとする見解があるものの、日本列島各地の豪族がそれぞれ倭国王を称していた可能性も否定できない。いずれにせよ、これ以降、7世紀最末期までの間、倭・倭人を代表する/統合する政治勢力は、対外的に「倭国」を称し続けた。

 

 帥升以降、男子が倭国王位を継承していったとされるが、2世紀後期になると倭国内の各政治勢力間で大規模な紛争が生じた(倭国大乱) 

 

 2)魏志倭人伝と卑弥呼

 この大乱は、邪馬臺國/邪馬壹國に居住する卑弥呼倭国王に就くことで収まった。卑弥呼は240年代に亡くなり、その次は男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與/壹與倭国王となって乱は終結した。このように、弥生後半の倭国では、巫女的な女子が王位に就くことがたびたびあった。

 

 『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国をはじめ、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国などの諸国についてかなり詳細な記述がみられる。不弥国から投馬国までは水行20日で到着し、投馬国から邪馬台国までは南へ水行10日陸行1月で到着する。邪馬臺國王卑弥呼も魏の国に朝貢し親魏倭王の称号を授かった。 

 

 台与以後、しばらく倭国による中国王朝への朝貢の記録は途絶えていた。国造本紀によれば、120以上の国造が日本列島の各地にいて、地域国家が形成されていた。

 

 そのなかで、古墳時代4世紀前半までには連合し成立したとされるヤマト王権の王たちは対外的に「倭王」「倭国王」を称したが、初期のヤマト王権は地域国家の諸豪族の連合政権であり、専制王権や王朝ではなかった。地域国家の王たちが、対外的に倭国王と称したこともあったと思われる。 

 

 4世紀後期ごろからは東晋など南朝への朝貢がみられるようになり、この南朝への朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の王が知られる。

 

 倭国王は、大陸南朝の王朝に対しては倭国王もしくは倭王と称し、国内的には熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣の銘文に「治天下獲□□□鹵大王」とあるように、または大王治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と称した。 

 

3)「倭国」から「日本」へ

 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國で記述される。隋書では、俀國は百済・新羅から東南、水陸三千里にあるとされ、その国の領域は、東西に五カ月で、南北に三カ月とされている。

 

 607年俀國王・多利思北孤から派遣された遣隋使の使者が持参した隋への国書では、俀國王(倭国王)の表記を用いず、「日出處天子」(日出ずるところの天子)と記している。

 

 これは当時の仏典『大智度論』(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書)などに「日出處是東方 日没處是西方」とあるように東方にあることを示しただけとする考えもある。

 

 しかし、日本が発展する中で「倭」という文字は国名に相応しい意味ではないと気付き、それが理由となり「日本」という国名に改めていったという説が存在する。その後、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままであった。 

 

●『旧唐書』巻一百九十九上 列伝第一百四十九上 東夷 倭国 日本国

〔日本國者、倭國之別種也、以其國在日邉、故以日本爲名。或曰:「倭國自惡其名不雅、改爲日本。」或云:「日本舊小國、併倭國之地。」〕

 

●『新唐書』巻二百二十 列伝第一百四十五 東夷 日本

〔咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言國近日所出、以爲名。或云:「日本乃小國、爲倭所并、故冒其號。」使者不以情、故疑焉。〕

 

●『宋史』巻四九一 外国伝 日本国

 〔倭國者、本倭奴國也、自以其國近日所出、故以日本爲名。或云、惡其舊名改之也。〕

 

●『三国史記』新羅本紀 文武王十年十二月

 〔倭國更號日本、自言近日所出、以爲名。〕 

 

 660年、百済が滅びると倭国はその復興を企図し、唐・新羅とのあいだで663年に白村江の戦いが勃発するが敗北し、朝鮮半島からの完全撤退を余儀なくされた。これを受け倭国内部では、国制整備・国力増強への志向が急速に強まった。

 

 672年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、律令国家建設を加速し、その過程で、北朝唐に対して、南朝系の倭国・倭とは別国である如くに示すことにより、唐の侵攻をなんとしても避ける必要があった。

 

 7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行直前の701年前後国号倭・倭国から日本へ改められたとされている。以後、日本列島の中心的な政治勢力ヤマトと自称することになる。

 

 このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されている。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されている。

 

 また、朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。新唐書には天皇家として目多利思比孤が初めて中国と通じたと記されている。

 

 その後も日本国内では、しばらく日本を指して「倭」ヤマトと呼ぶこともあったが、奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。

 

 また、「日本」は当初は「ヤマト」と読まれていたが、やがて「ジッポン」「ニッポン」などと音読されるようになり、それが平安時代頃に定着し、現在へ至ったとされる。 


(2)奴国について


(引用:Wikipedia)

 奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』『梁書倭伝』『北史倭国伝』にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡、現在の福岡市から春日市に存在したと推定する研究者が多い[注釈 1]

 

[注釈1]: “筑紫国と高天原神話・日向三代神話”. 宝賀寿男. 2017年8月26日閲覧。 

 

1)概要

 弥生時代にかつて存在した倭人の国で、現在の福岡市や春日市など福岡平野一帯を支配していたとされる。領域内には那珂川と御笠川が流れ、弥生時代の集落や水田跡、甕棺墓などの遺跡が各所で確認されている。また文献上に現れる最古の国家でもある。

 

 また海人族研究の第一人者である宝賀寿男海神族(漁労民)天孫族(農耕民)衝突・共存した地として葦原中国に比定している。 

 

2)記録

 倭国後漢と外交交渉をもったのは、以下の史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。議論があるものの倭国王帥升が朝貢したとする説があり、その後奴国に代わって邪馬台国魏の皇帝に使者を派遣した。

 

 『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され印綬を与えられたという。江戸時代に農民が志賀島から金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明された。地中から発掘されたにしては金印の状態が余りに良いために金印偽造説も出たが、書体の鑑定等から、偽造説については否定的な意見が大勢を占めている。

 

 その金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれていた。刻まれている字は「委」であり、「倭」ではないが、委は倭の人偏を省略することがあり、この場合は「委=倭」である。このように偏や旁を省略することを減筆という。金印については「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じて委奴を「伊都国」にあてる説や、匈奴と同じく倭人を蛮族として人偏を省略し委奴(わど)の意味とする説もある。 

 

「中元二年春正月(中略)東夷倭奴國王遣使奉獻」— 『後漢書』光武帝紀第一下

  〔訳文〕中元二年(57年)春正月、東夷の倭奴国王が使いを遣わして貢献した。(後漢書光武帝紀による)

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」— 『後漢書』東夷列傳第七十五

 〔訳文〕建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。(倭奴国は)倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜った。また、安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らが奴隷百六十人を献上し、朝見を請い願った。(後漢書東夷伝による)

 一方、時代がやや下って『三国志』魏志倭人伝には、3世紀前半の奴国の様子が記録されている。

 

「東南至奴國百里 官曰兜馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸」 — 『三国志』魏書東夷倭人

 

訳文〕東南の奴国まで百里ある。そこの長官を兕馬觚(じまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。 

 

 なお、魏志倭人伝には、もう一ヶ所「奴国」があらわれる。

 

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(中略)次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國」 — 『三国志』魏書東夷倭人

 

〔訳文〕女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載し得たが、その余の旁国は遠く険しくて、詳細を得られなかった。次に斯馬国(中略)次に奴国が有り、ここが女王の境界の尽きる所である。その南に狗奴国が有る。 

 

 文字通り、九州の奴国とは別に、近畿大和から見て東の伊勢付近に別の奴国があったという説と、周回して同一の九州の奴国を2度記したとする説、あるいは何らかの文字が脱落したとする説がある。 

 

3)奴国の所在地

 帯方郡から奴国までの行程について、『魏志倭人伝』や『北史倭国伝』には、次のように記述されている。

魏志倭人伝(原文) 魏志倭人伝(訳注)  北史倭国伝(原文)
倭人在帯方東南、大海中。 倭人は帯方の東南、大海の中にあり。 倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、乍(あるい)は南し、乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千餘里。 計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里。
始度一海、千餘里至對海國。 始めて一海を度る千余里。対馬国に至る。 始度一海。又南千餘里。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國 また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。 度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國
又渡一海、千餘里至末盧國。 また一海を渡る千余里、末盧国に至る。 又度一海千餘里、名末盧國。
東南陸行五百里、到伊都國。 東南陸行五百里にして伊都国に到る。 又東南陸行五百里、至伊都國。
東南至奴國百里。 東南奴国に至る百里。 又東南百里、至奴國。

 

 尚、『後漢書」では「倭國の極南界なり」とあり、『魏志倭人伝』ではもう一ヶ所「奴国」があらわれる。

 

4)遺跡

 福岡市博多区の那珂遺跡群では3世紀頃の「都市計画」によって造られたとみられる国内最古の道路跡(幅7m・南北へ1.5kmキロ以上の直線)が見つかっている。  

 

比恵遺跡

 福岡市博多区博多駅南五丁目にある縄文時代の終わり頃から戦国時代に至るまでの集落、墳墓などの遺跡で、『日本書紀』宣化元年(536年)の条に記述されている「那津官家」に関連するものと考えられる。 

 

●比恵遺跡群

 福岡市博多区博多駅南四丁目にある旧石器時代から室町時代いたる複合遺跡。石錘や貝輪、貝塚とといった漁労遺構農耕遺構が混在しており、海人族が定着したのは、米作りを始めた縄文時代晩期末で、以後集落甕棺墓地墳丘墓が営まれ、後期には環溝集落も出現した。墳丘墓の甕棺墓には銅剣が副葬されており、また青銅製品(銅剣・銅矛)ガラス製品の生産を物語る鋳型や取瓶などが出土した。

 弥生時代の集落構造や生産のありかたを知る上で重要な遺跡であり、甕棺出土の銅剣に付着した絹は、日本国内最古の絹織物である。

 

那珂遺跡群

 福岡市博多区那珂六丁目にある縄文時代晩期末二重環濠集落跡。弥生時代初頭の環濠集落としては後述の板付遺跡があるが、この遺跡はそれを一時期遡る。

 旧石器時代の黒曜石製打製石器が出土しており、吉野ヶ里遺跡、九州大学筑紫キャンパス内遺跡に次いで3例目となる巴形銅器鋳型も出土している。

 古墳時代の層からは三角縁神獣鏡の出土など、初期古墳の特徴を持つ那珂八幡古墳をはじめ、東光寺剣塚古墳剣塚北古墳などの前方後円墳が築造されており、奴国の中心が春日丘陵に移った後も大規模な集落が残存したと考えられている。 

 

板付遺跡

 福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡。弥生時代が主であるが、それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡。

 長らく渡来人によって弥生時代に伝来したと考えられていた水稲栽培縄文時代から行われていたことを示す最初の遺跡として全国に知られる。 

 

●諸岡遺跡

 福岡市博多区諸岡にある旧石器時代縄文時代晩期弥生時代前期末~中期、中世後半複合遺跡。 釣針や貝輪、細形銅剣を副葬する甕棺墓など弥生時代の遺構・遺物が出土している。 

 

金隈遺跡

 福岡市博多区金隈にある弥生時代の甕棺墓遺跡。 ゴホウラ製の貝輪と磨製石鏃を手に持つ人骨が検出されており、漁労民農耕民という両面を持った人々の存在を明らかにしている。 

 

●須玖タカウタ遺跡

 春日市須玖にある弥生時代の遺跡で、国内最古の銅鏡鋳型が出土している。 

 

須玖岡本遺跡

春日市岡本にある弥生時代の遺跡で、墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡等を含む遺跡群。 

 

安徳台遺跡

 那珂川市にある遺跡で、奴国王の住居があったと指摘されている。 


(3)筑紫国について


(引用:Wikipedia)

 筑紫国(つくしのくに)は、のちの令制国での筑前国筑後国にあたり、現在の行政区分では、福岡県のうち東部(豊前国の一部だった地域)を除いた範囲にあたる地域に大化の改新・律令制成立以前の日本古代にあった国である。

 本項では、この筑紫国を支配した国造である筑紫国造についても併せて解説する。 

 

1)概要

 『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に筑紫島(九州)を生んだとされ、さらにその四面のひとつとして、別名を「白日別(シラヒワケ)といったとされる。

「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。」

 

 7世紀末までに筑前国と筑後国とに分割された。両国とも筑州(ちくしゅう)と呼ばれる。また、筑前国と筑後国の両国をさす語としては、二筑(にちく)両筑(りょうちく)も用いられる。

 

2)語源

 (江戸期の文献の説によると) 「筑紫」とは「西海道」すべてを言うのではなく、「筑前」のみを言うのである。そして、筑前が古来、異国から「大宰府」へ向かう重要な路であったため、それが石畳にて造られていた。それを称して「築石」といい、これがなまって「筑紫」となったのである。石畳の道は筑前の海岸に現存しているという。 

 

3)筑紫国造

 筑紫国造(つくしのくにのみやつこ、つくしこくぞう)は、のちに筑前国・筑後国となる地域(筑紫国)を支配した国造である。 

 

3.1)表記

 「筑紫国造」は『日本書紀』における表記である。『先代旧事本紀』「国造本紀」においては、「筑志国造」と表記される。ただし『国造本紀考』によれば、「国造本紀」における表記も筑紫国造であるという。

  

3.2)祖先

・『日本書紀』によれば、大彦命(孝元天皇(第8代天皇)の皇子で、四道将軍の一人)筑紫国造など計7族の始祖であるという。 

 

・『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、成務天皇(第13代天皇)の時代に阿倍氏(姓は臣)の同祖である大彦命の5世孫にあたる人物が初代筑志国造(または筑紫国造。#表記参照。)に任命されたという。

 この人物の名の表記については同じ「国造本紀」でも「田道命」と記すもの(度会延佳神主校正鼇頭旧事紀)「日道命」と記すもの(前田侯爵家所蔵安貞年間古写本・佐伯有義氏所蔵別本所引清魚県主本所引イ本)「曰道命」と記すもの(神宮文庫本)がある。

 

『古代豪族系図集覧』の系図は大彦命武渟川別命(四道将軍)大屋田子命田道命となっており、これに従えば田道命は大彦命の5世孫ではなく曽孫(3世孫)となる。  

 

4)氏族

4.1)筑紫氏(姓は君・公)

 『日本書紀』筑紫国造だったと記す後述の筑紫磐井について、『古事記』竺紫氏(姓は君)だったと記す。筑紫氏阿部氏(姓は臣)とは同祖である(どちらも大彦命の子孫)。史書では7世紀末までこの氏の一族の名が見られ、その活躍が認められている。

 

 なお筑紫氏と同名の氏族には、中世以降の武家で筑前国や筑後国、肥前国に勢力を張った筑紫氏がいる。

 

4.2)本

 のちの筑後国上妻郡(現在の福岡県八女郡)、なお、「筑紫」の名を持つ郡としては近代以降の明治29年(1896年)4月1日から平成30年(2018年)9月30日まで福岡県筑紫郡が存在した。

 

 この郡は御笠郡・那珂郡・席田郡(すべて旧筑前国)の区域をもって発足したもので、発足当時の郡域は、現在の福岡市の一部と筑紫野市、春日市、大野城市、太宰府市、那珂川市の全域にあたる。

 

 このうち旧筑前国御笠郡原田村(現在の福岡県筑紫野市原田)には、筑紫国造の氏神である筑紫神社があり、また旧原田村に隣接して旧筑前国御笠郡筑紫村(現在の福岡県筑紫野市筑紫)があってこれも筑紫の名を持つ。また、「筑紫」の名を持つ自治体としては、筑紫村があった。 

 

4.3)支配領域

 筑紫国造の支配領域は当時筑紫国と呼ばれていた地域である。筑紫国はのちの令制国の筑前国・筑後国をさし、現在の福岡県西部に当たる。

 筑紫国はのちに令制国の整備にともなって、7世紀末に筑前国(現在の福岡県西部に当たる)筑後国(現在の福岡県南部にあたる)に分割された。 

 

4.4)氏神

 筑紫国造の氏神は、福岡県筑紫野市原田(旧筑前国御笠郡)にあり筑紫国の国名を負う筑紫神社(ちくしじんじゃ/つくしじんじゃ)である。この神社は「筑紫の神」(筑紫の国魂)を主祭神とする。

 

 元々旧筑前筑後二国の国境付近にある城山の山頂に祀られていたが麓に移されたという説(続風土記拾遺)当初から現在地に祀られたという説(続風土記)がある。この神社を筑紫君肥君が祀ったという所伝が存在し特に注目されている。

 

 当地は筑紫君の勢力圏内であるが、肥君が本拠地の九州中央部から北九州に進出したのは6世紀中頃の磐井の乱が契機で、この所伝にはその進出以後の祭祀関係の反映が指摘される。

 

4.5)関連神社

●劔神社(つるぎじんじゃ)

 福岡県直方市(旧筑前国鞍手郡)下新入にある神社。往古は「倉師(くらじ)大明神」と称えられたが、この「くらじ」は筑紫国造鞍橋君(くらじ の きみ)に由来する可能性がある。

 なお鞍手郡(くらてぐん)「くらて」または「くらで」は、鞍橋君「くらじ」が訛ったものとされる。

 また、この神社の祭祀の始祖は、筑紫の国造田道の命で、筑紫物部を率いて神々を祀ると云う。また、長田彦が神官となった。

 

●鞍橋神社(くらじじんじゃ)

 福岡県鞍手郡鞍手町長谷(旧筑前国)の飯盛山にある神社。鞍橋君が祀られている。

 

4.6)墓

 筑紫君(筑紫国造の氏族)一族の墓に相当すると推定されているのは八女丘陵に分布する八女古墳群である。前方後円墳12基装飾古墳3基を含む古墳約300基からなり、その築造は4世紀前半から7世紀前半に及ぶ。

 

 以下に筑紫国造の墓と関係すると思われる八女古墳群中の古墳を記載する。なお以下の古墳はすべて旧上妻郡内にある。

 

●岩戸山古墳(いわとやまこふん)

 福岡県八女市吉田にある前方後円墳。現在では『筑後国風土記』逸文に詳述されている筑紫磐井(後述)の墓に比定されている。この古墳の墳丘長は135mで、北部九州では最大、かつ当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の古墳である。

 

 その築造年代6世紀前半と推定され『日本書紀』の年代と一致し、また石人・石馬を含む多くの石製品が出土し、古墳東北隅には別区の存在も確認され、多くの点で『筑後国風土記』逸文とも一致を見せている。

 

 石人山古墳(せきじんさんこふん)

 福岡県八女郡広川町一条にある全長107mの前方後円墳。5世紀前半~中頃の築造。この古墳は昭和中頃までは磐井の墓とする説が有力視されていたが、現在は岩戸山古墳の2世代前にあたり磐井の祖父の墓であると推定されている。

 

鶴見山古墳(つるみやまこふん)

 福岡県八女市豊福にある墳長87.5mの前方後円墳。6世紀中頃の築造で、岩戸山古墳の次世代にあたる古墳である。近年、磐井の息子・葛子(くずこ)の墓である可能性が高いとの見方が有力になっている。

 

 ただし、葛子の墓を鶴見山古墳と同じく岩戸山古墳次世代であり八女古墳群中の古墳である八女市吉田所在の乗場古墳(のりばこふん)か八女郡広川町六田所在の善蔵塚古墳(ぜんぞうづかこふん)に推定する説もある

 

5)人物

 以下に筑紫国造を務めた著名な者を記載する。

5.1)筑紫磐井つくし の いわい)生年不詳 - 継体天皇22年(528年?)

 6世紀前半(古墳時代後期)の豪族。古事記では氏が竺紫、名が石井となっている。『日本書紀』筑紫国造だったとするが、これは後世の潤色と見られるとする説もある。『日本書紀』によれば、528年11月11日にヤマト王権に対する反乱(磐井の乱)を起こし物部麁鹿火率いる王権軍に敗れて殺されたという。

 

5.2)鞍橋君(くらじ の きみ)生没年不詳

 6世紀中頃(古墳時代後期)の豪族。欽明天皇15年(554年)に内臣に率いられ百済への援軍として朝鮮半島に渡った一団の一人と考えられる。

 

 このときに百済王子余昌(のちの威徳王)新羅兵に包囲されたとき、矢をつぎつぎと放ち敵の包囲を射ち破ったことで、余昌たちを間道から脱出させた。

 

 弓が得意であり、つかう強弓の威力はすさまじく、敵の騎兵の鞍橋(馬鞍の前後に付くアーチ)を射抜いてさらに鎧にまで矢が通る程であった。鞍橋君の名は戦後この活躍にちなみ余昌より贈られた尊名である。

 

 福岡県・筑前国の郡である鞍手郡やその中にある鞍手町の名「くらで」は、鞍橋君の「くらじ」が訛ったものとされる。また、福岡県直方市(旧鞍手郡)にある劔神社は往古は「倉師(くらじ)大明神」と称えられたが、この「くらじ」鞍橋君に由来する可能性がある。

 

5.3)子孫

●筑紫葛子(つくし の くずこ)

 6世紀(古墳時代後期)の豪族。筑紫国造であったかは不明。上記筑紫磐井の子。『日本書紀』によると、528年11月に父の筑紫磐井が磐井の乱で敗死したため、同年12月に葛子は連座による死罪を贖うことを求め、糟屋屯倉(旧筑前国糟屋郡付近、現在の福岡県糟屋郡・福岡市東区付近に比定)を朝廷に献じて死罪を免ぜられたという。

 

●長田彦

 小狭田彦とも。初代筑紫国造の田道命の子孫あるいは橘孫。この人物が天照大神の神勅をうけて神籬を建てたのが宗像三女神の祭祀の始まりであるという。

 また、劔神社の神官になった。ただし『古代豪族系図集覧』の系図では小狭田命(小狭田彦)田道命の弟香月氏(姓は公)の祖となっており、その場合小狭田彦は筑紫国造の子孫とはいえない。


(4)筑前国について


(引用:Wikipedia)

 筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。

 

1)沿革

筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑後国とともに7世紀末までに成立した。7世紀後半のものと見られる太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡「竺志前國」とある。 

 

1.1)近世以降の沿革

*「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(862村・633,434石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。

・糟屋郡(85村・62,854石余) - 福岡藩/・宗像郡(60村・56,306石余) - 福岡藩

・遠賀郡(85村・54,956石余) - 福岡藩/・鞍手郡(68村・60,628石余) - 福岡藩

 

・穂波郡(61村・38,103石余) - 福岡藩、秋月藩/・嘉麻郡(63村・46,349石余) - 福岡藩、秋月藩

・上座郡(34村・25,596石余) - 福岡藩/・下座郡(44村・21,436石余) - 福岡藩、秋月藩

 

・夜須郡(54村・40,286石余) - 福岡藩、秋月藩/・御笠郡(57村・37,512石余) - 福岡藩

・那珂郡(70村・42,611石余) - 福岡藩/・席田郡(9村・9,899石余) - 福岡藩

 

・早良郡(53村・45,153石余) - 福岡藩/・志摩郡(48村・44,058石余) - 福岡藩

・怡土郡(71村・47,681石余) - 福岡藩、豊前中津藩、対馬府中藩

 

*明治2年

・8月7日(1869年9月12日) - 府中藩が改称して厳原藩となる。

 

*明治4年

・11月14日(1871年12月25日) - 廃藩置県により、福岡県、秋月県、中津県、厳原県の管轄

・11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により、全域が福岡県の管轄となる。

 

2)国内の施設

2.1)宮

 筑前国内に設けられた天皇の宮は次の通り。

橿日宮 - 第14代仲哀天皇。比定地は福岡県福岡市東区香椎。

朝倉橘広庭宮 - 第37代斉明天皇。比定地は福岡県朝倉市内。 

 

2.2)大宰府

 筑前国には大宰府が置かれ、西海道諸国の統括と対外交渉が行われた。政庁跡は太宰府市に所在(国の特別史跡)。発掘調査により、7世紀後半から11世紀後半にわたる遺構が検出されている。

 

2.3)国府

 国府は御笠郡にあった。現在の太宰府市、大宰府に近い所に置かれたと推定されるが、遺構は見つかっていない。

 易林本の『節用集』には、「上座郡に国府並びに大宰」と記載されている。 

 

2.4)国分寺・国分尼寺

●筑前国分寺跡 (太宰府市国分)

 国の史跡。推定寺域は寺域は約192m四方。中門・金堂・講堂を配し、中門から出て金堂に取り付く回廊の内部に七重塔を配する伽藍配置。跡地上の龍頭光山国分寺が法燈を伝承する。

 

●筑前国分尼寺跡 (太宰府市国分)

 史跡指定なし。僧寺の西方約100mに所在。発掘調査で掘立柱建物・東外郭線が認められたほか、礎石数個が残る。

 国分寺・国分尼寺の周辺では、瓦窯の遺構も見つかっている(国分瓦窯跡、国の史跡)

 

2.5)神社

〇延喜式内社

『延喜式神名帳』には、大社16座8社・小社3座3社の計19座10社が記載されている。大社8社は以下に示すもので、全て名神大社である。

*宗像郡 宗像神社三座:比定社)宗像大社(宗像市田島ほか)

 ・祭神:沖津宮) 田心姫神、(中津宮)湍津姫神、(辺津宮)市杵島姫神

 

*宗像郡 織幡神社:比定社)織幡神社(宗像市鐘崎)

 ・祭神:武内大臣( 武内宿禰)、住吉大神、志賀大神、天照大神、宗像大神、八幡大神、壱岐真根子臣

 

*那珂郡 八幡大菩薩筥埼宮:比定社)筥崎宮(福岡市東区箱崎)

 ・祭神:主祭神)応神天皇、(配祀神)神功皇后・玉依姫命

 

*那珂郡 住吉神社三座:比定社)住吉神社(福岡市博多区住吉)

 ・祭神:主祭神)底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)(配祀神)天照皇大神 ・神功皇后

 

*糟屋郡 志加海神社三座:比定社)志賀海神社(福岡市東区志賀島)

 ・祭神:左殿)仲津綿津見神(左殿相殿)神功皇后、(中殿)底津綿津見神(中殿相殿)玉依姫命

     (右殿)表津綿津見神(右殿相殿)応神天皇

 

*御笠郡 筑紫神社:比定社)筑紫神社(筑紫野市原田)

 ・祭神:筑紫の神 ( 筑紫の国魂)、玉依姫命 ( 後世に竈門神社から勧請)坂上田村麻呂 ( 後世の合祀)

 

*御笠郡 竈門神社:比定社)竈門神社(太宰府市内山ほか)

 ・祭神:(主祭神)玉依姫命(相殿神)神功皇后・応神天皇 (第15代。神功皇后皇子)

 

*下座郡 美奈宜神社三座:比定論社)美奈宜神社(朝倉市林田)(比定論社)美奈宜神社(朝倉市荷原)

 ・祭神:今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された。皇后はこのことを秘し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祭って日本最初の外征に肥前名護屋から出征していった。皇后は航海中船中で素戔嗚尊・大己貴命・事代主命の3神に戦勝を祈願された。

 海上つつがなく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗・百済も来貢し、肥前・高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られた。その神が美奈宜神社の3神である。 

 

〇廟

香椎廟(樫日廟/橿日廟)比定社)香椎宮(福岡市東区香椎) 

 

〇総社・一宮

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧

総社:不詳

 

*一宮住吉神社(福岡市博多区住吉)

 中世末期以降は筥崎宮(福岡市東区箱崎)を一宮とする史料も見られ、現在は筥崎宮も全国一の宮会に加盟する。二宮以下は不詳。 

 

2.6)安国寺利生塔

・景福安国寺 - 福岡県嘉麻市下山田。 

 

3)地域

3.1) 郡:15郡

 志摩郡/怡土郡/早良郡/那珂郡/席田郡/御笠郡/糟屋郡/宗像郡/遠賀郡/鞍手郡

 /穂波郡/嘉麻郡/夜須郡/上座郡/下座郡 ※安佐久良/朝座郡=上座郡・下座郡の前身。 

 

3.2)江戸時代の藩

●福岡藩(黒田家)(52.3万石)

●東蓮寺藩(福岡藩支藩)(4万石、5万石)

●秋月藩(福岡藩支藩)(5万石) 

 

4)人物

4.1)国司

4.1.1) 筑前守

 山上憶良(726年 - 733年)吉備真備(750年 - 751年)藤原棟世/源常基/源満政  

 

4.2)守護

4.2.1)鎌倉幕府

 武藤資頼(1195年〜1227年)少弐資能(1227年〜1273年)少弐経資(1273年〜? )

 /少弐盛経(1294年〜1304年)/少弐貞経(1316年〜1333年) 

 

4.2.2 室町幕府

  少弐貞経(?〜1334年 )/少弐頼尚(1334年〜1352年)一色直氏(1352年〜1355年)

 /菊池武光(1357年〜?)少弐頼尚(1359年〜1361年)少弐冬資(1361年〜1375年)

 /少弐頼澄(1375年 - )今川貞世(1375年〜1387年) 少弐貞頼(1387年〜1404年)

 /少弐満貞(1408年〜? )大内持世(?〜1441年)大内教弘(1441年〜1465年)

 大内政弘(1465年〜1495年) 大内義興(1496年〜1528年)大内義隆(1528年〜1551年) 

 

4.3)戦国時代

4.3.1)戦国大名

*少弐氏:平安以来の名門だが、戦国時代には周防の大内氏の侵攻を受け、肥前に後退する。1559年、家臣であった龍造寺氏に攻められ滅亡。 

 

*大内氏:周防を本拠とし、豊前も領国としていたが、応仁の乱後に筑前にも進出豊後の大友氏と戦いを繰り広げた。 

 

*大友氏:豊後を本拠とするが、大内氏滅亡後、筑前国内の大内領を自領に組み入れ、1559年には筑前守護となった。龍造寺、島津に敗北後、衰退に向かい筑前への影響力も失った。 

 

*秋月氏:少弐氏、大内氏、大友氏と主家を変えたが、戦国末期には島津氏と結んで大友氏に対抗し、筑前・筑後・豊前に推定36万石の所領を得た。豊臣秀吉の九州征伐に敗北、日向国高鍋に移封された。 

 

*宗像氏:宗像大社大宮司有力な水軍を有していた。秀吉の九州征伐直前に滅亡

 

4.3.2) 豊臣政権の大名

*小早川隆景・秀秋筑前・筑後・肥前1郡37万1300石(名島城)、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、備前岡山藩51万石に移封) 

 

4.4)武家官位としての筑前守  

4.4.1)江戸時代以前(略) 

4.4.2 江戸時代(略) 

 

5 筑前国の合戦

・1019年 : 刀伊の入寇

・1274年 - 1281年 : 文永・弘安の役

・1336年 : 多々良浜の戦い。北朝(足利尊氏、少弐頼尚) x 南朝(菊池武敏、阿蘇惟直)

・1567年 : 休松の戦い。秋月種実 x 大友(戸次鑑連他)

・1569年 : 多々良浜の戦い (戦国時代)。大友宗麟 x 毛利元就

・1586年 : 岩屋城の戦い。島津(島津忠長) x 高橋紹運


(5)筑後国について


(引用:Wikipedia)

 筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。 

 

1)沿革

 筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑前国とともに7世紀末までに成立した。

 戦国時代は、筑後の守護大友氏であり、その勢力下にあったが、実際に筑後を支配し統括したのは筑後十五城と呼ばれた大名分の国人領主たちであり、筑後南部(下筑後地域)蒲池氏、田尻氏、黒木氏が、筑後北部(上筑後地域)その他は星野氏、草野氏、問註所氏その他の大身が割拠した。

 

 江戸時代は、筑後北部有馬氏(摂津有馬氏)久留米藩筑後南部のうち柳川市やみやま市など大半は立花氏柳河藩、大牟田市は柳河藩と親類関係にある三池藩であった。

 

1.1)近世以降の沿革

*「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(789村・536,851石2斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。 

・三潴郡(164村・140,241石余) - 久留米藩、柳河藩/・山門郡(115村・77,948石余) - 柳河藩

・三池郡(72村・53,125石余) - 幕府領(柳河藩預地)、柳河藩、陸奥下手渡

・下妻郡(37村・29,920石余) - 久留米藩、柳河藩/・上妻郡(115村・79,464石余) - 久留米藩、柳河藩

・生葉郡(59村・26,882石余) - 久留米藩/・竹野郡(89村・22,875石余) - 久留米藩

・山本郡(30村・16,559石余) - 久留米藩/・御井郡(72村・56,528石余) - 久留米藩

・御原郡(36村・33,304石余) - 久留米藩 

 

*慶応4年

・8月28日(1868年10月13日) - 幕府領が日田県の管轄となる。

・9月13日(1868年10月28日) - 日田県の管轄地域が長崎府の管轄となる。 

 

*明治元年9月27日(1868年11月11日) - 下手渡藩が三池郡に藩庁を移転して三池藩となる。

 

*明治4年

・11月14日(1871年12月25日) - 廃藩置県により、久留米県、柳河県、三池県の管轄となる。

・11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、全域が三潴県の管轄となる。

・明治9年(1876年8月21日) - 第2次府県統合により福岡県の管轄となる。 

 

2)国内の施設

2.1)国府

 国府御井郡(三井郡)に存在した。国府の位置は、江戸時代に久留米藩の学者である矢野一貞によって、三井郡合川村に推定された。1961年(昭和36年)に、九州大学考古学研究室によって初めて阿弥陀遺跡の発掘調査が行われ、瓦や礎石列・築地跡か見つかったことから、国庁の存在が確実になった。その後の発掘調査で、国庁は1期から4期と御井郡内を転々としたことが判明している。

 

I期国庁:古宮・田代遺跡。7世紀後半に造営された。深い溝を設けるなど軍事的な色彩が濃い。

 

*II期国庁:8世紀半ばに阿弥陀遺跡へ移転。礎石を有し、工房や国司館を備えている。藤原純友の乱によって破壊。

 

*III期国庁:10世紀前半に朝妻遺跡へ移転。大宰府政庁(Ⅲ期)よりさらに大規模な平面プランをもっていた。

 

*IV期国庁:11世紀後半に横道遺跡へ移転された。以降、文献上には12世紀後半まで記述が残る。

 1996年(平成8年)に、「筑後国府跡」として国の史跡に指定されている。現在、阿弥陀遺跡に石柱と解説パネルがある。また、横道遺跡は久留米市立南筑高等学校校内にあたり、当時の建物の柱列が復元されている。 

 

2.2)国分寺・国分尼寺

●筑後国分寺跡 (久留米市国分町)

 久留米市指定史跡。現在は日吉神社境内と重複する。推定寺域は約150m四方で、講堂跡・塔跡・築地跡が確認されている。室町時代から近世初頭にかけての移転と伝える護国山国分寺(久留米市宮ノ陣)が、その法燈を伝承する。 

 

●尼寺跡は未詳であるが、僧寺跡の北方約200メートルの西村地区の地に推定される。 

 

2.3)神社

〇延喜式内社

 『延喜式神名帳』には、大社2座2社・小社2座2社の計4座4社が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。 

 

*三井郡 高良玉垂命神社:比定社:高良大社 (久留米市御井町)

祭神:(正殿)高良玉垂命(左殿)八幡大神(右殿)住吉大神

 

*三井郡 豊比咩神社 - 久留米市内に論社が複数社ある

  比定論社:高良大社 (久留米市御井町)

  比定論社:豊姫神社 (久留米市上津町)

  比定論社:豊姫神社 (久留米市北野町大城) 

 

〇総社・一宮

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧。

*総社:味水御井神社 (久留米市御井朝妻)

*一宮:高良大社 (久留米市御井町)

 二宮以下はない。 

 

2.4)安国寺利生塔

安国寺 - 福岡県久留米市山川神代。

利生塔 - 今は廃寺の淨土寺(福岡県大川市酒見)内に設置。 

 

2.5)筑後十五城

蒲池氏(下蒲池・柳川城540町) 山門郡・三潴郡・下妻郡12000町(12万石)蒲池鑑盛蒲池鎮漣

*蒲池氏(上蒲池・山下城540町) 上妻郡 8600町(8万6千石)蒲池鑑広、蒲池鎮運。

 

問註所氏長岩城500町) 生葉郡 1000町(1万石)。問註所鑑景(統景の大叔父)問註所統景

星野氏(生葉城500町)生葉郡・竹野郡 1000町(1万石)。星野吉実。

 

*黒木氏猫尾城646町)上妻郡 2000町(2万石)黒木家永

河崎氏犬尾城250町)上妻郡 1000町(1万石)。河崎鑑実、河崎鎮堯。

 

*草野氏発心城677町)山本郡 900町(9千石)。草野鎮永。

*丹波氏高良山580町)高良山 2000町(2万石)。丹波良寛。

 

*三原氏(本郷城100町)御原郡 700町(7千石)。 三原紹心

西牟田氏城島城250町)三潴郡 1000町(1万石)。西牟田家周。

 

田尻氏鷹尾城328町)山門郡 1600町(1万6千石)田尻鑑種

*五条氏(高屋城500町)上妻郡 1400町(1万4千石)。五条鑑量、五条鎮定

 

*溝口氏溝口城500町)下妻郡 1000町(1万石)。溝口遠江。

三池氏(今山城250町)三池郡 800町(8千石)。三池鎮実。 

 

3)地域

3.1)郡:10郡(延喜式)

 御原郡生葉郡竹野郡山本郡御井郡三瀦郡三潴郡

 /陽咩/八女郡・・・延喜式までに上妻郡と下妻郡に分割。

 /上妻郡下妻郡山門郡三毛郡三池郡 

 

3.2)江戸時代の藩

柳河藩:田中家(32.5万石 無嗣断絶)→立花家(10.9万石)

三池藩:立花家(1万石)

久留米藩:有馬家(21万石)

松崎藩:(久留米藩支藩、1万石) 

 

4)人物

4.1)国司

4.1.1)筑後守

  道首名(※初代筑後権守)(713年 - ? )/高丘宿禰五常(※筑後介(886年 - ?)

 /平維将(※筑前肥後守)(970年前後)平惟仲(※筑後権守)(972年 - 975年?)

 

 /平親信(※筑後権守)(975年 - 977年? )/平範季(? - ? )

 /藤原広業(※筑後権守)(1000年? - ? )高階成章(※筑後権守)(1017年? - 1019年? )

 

 /平家貞 父は平範季。(1159年前後 - ? )平貞能 父は平家貞。(1160年? - ? )

 波多野遠義(※筑後権守)(? - 1180年前後?)橘遠茂(※筑後権守) - 平家家人(1180年前後? - ? )

 

 /藤原俊兼(※筑後権守)(1186年 - ?)源仲頼 - 若宮社歌合に参加(1191年前後? - ?)

 /草野教員(※筑後権守)(1274年前後? - ? )/大友頼泰(※筑後権守)(1274年前後? - ? )

 /阿蘇惟澄(※筑後権守)(1350年代? - ?) 蒲池治久(※筑後守)(? - ?) 

 

4.2)守護

4.2.1)鎌倉幕府

 大友能直(1206年 - 1213年 ) /北条時章(1241年 - 1272年) 大友頼泰(1272年 - 1277年)

 /北条宗政(1277年 - 1281年)少弐盛経(1286年 - 1288年)宇都宮通房(1295年 - ? )

 /宇都宮頼房(1305年 - 1315年)/北条氏(? - 1333年) 

 

4.2.2)室町幕府

 宇都宮冬綱(1333年 - 1349年)/詫磨宗直(1349年)大友氏時(1363年 - 1364年)

 /大友氏継(1364年)島津氏久(1375年)今川貞世(1375年 - 1391年)大友親世(1391年 - ? )

 /大友親著(1401年 - 1426年) 菊池持朝(? - 1446年)菊池為邦(1446年 - 1466年)

 /菊池重朝(1466年 - 1469年 )大友親繁(寛正年間に既に半国守護であったとする説)(1469年 - 1482年)

 /大友政親(1482年 - 1484年 )大友親豊(義右)(1484年)大友親治(1499年)

 /大友義親(義長)(1501年 - 1516年) 

 

4.3)戦国時代

4.3.1)戦国大名 

*蒲池氏:大友氏の下で柳川城を本城とし、筑後筆頭大名と言われた。大友氏没落後、龍造寺隆信に敗れ、大名としては滅亡。

 

*大友氏:豊後を本拠とし、筑後守護も兼ねる。筑後においては龍造寺氏との戦いに敗れ衰退。

 

*龍造寺隆信本拠は肥前。1581年蒲池氏を滅ぼしたが、隆信は1584年に沖田畷の戦いで戦死、肥前に後退した。

 

4.3.2)豊臣政権の領主

*小早川隆景・秀秋:筑前・筑後・肥前1郡37万1300石(名島城)、

       1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、備前岡山藩51万石に移封)

*小早川秀包:久留米13万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)

*立花宗茂:柳河13万2千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)

*筑紫広門:山下1万8千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易) 

4.4)武家官位としての筑後守(略)

4.4.1)江戸時代以前(略)

4.4.2)江戸時代(略)

 

5)筑後国の合戦

*527年 - 528年 : 磐井の乱。ヤマト王権(物部麁鹿火) x 筑紫君磐井

*1359年 : 筑後川の戦い。南朝方(菊池武光等4万) x 北朝方(少弐頼尚等6万)。日本三大合戦の一つ。 


3 奴国の歴史散歩


(1)吉武高木遺跡


伊都国王墓・奴国王墓に先立つ最古の王墓か?

(引用:Wikipedia )

 吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)は、福岡県福岡市西区大字吉武にある弥生時代の遺跡。1993年(平成5年)10月4日に国の史跡に指定され、2000年(平成12年)9月21日に一部範囲が追加指定された。

〇参考Webサイト :邪馬台国大研究ホームページ/遺跡巡り/吉武高木遺跡

 

1)概要

 福岡市の西部に位置する早良平野は、南方の脊振山地とそれから派生した丘陵によって三方を限られ、北の玄界灘に向かって扇形に開く独立した自然空間を形成している。

 

 吉武高木遺跡は、早良平野の中央部を貫流する室見川の中流左岸に広がる吉武遺跡群の一部を構成する弥生時代の墳墓と建物跡からなる遺跡である。

 

 1980年(昭和55年)吉武遺跡群が所在する飯盛・吉武地域において、圃場整備事業が計画されたため、1981年(昭和56年)から1985年(昭和60年)にかけて、福岡市教育委員会が5次にわたる事前調査を実施した。調査の結果、遺跡群が縄文時代から中世にかけて遺跡からなる大規模なものであることが判明した。遺跡群の最盛期弥生時代で、前期末から中期後半にかけて甕棺を主体とした墳墓1200基、丹塗磨研土器を投入した土壙50基竪穴住居掘立柱建物などが検出されている。

 

 吉武高木遺跡はこの遺跡群の南端部に位置し、高木・大石の2地区から青銅器や玉類を副葬するなど、卓越した内容の墳墓群が発見された。

 

 特に高木地区の墳墓群は、共同墓地から離れて独立した墓域を形成しており、調査された350平方mの範囲に、木棺墓4基甕棺墓16基小型甕棺墓18基が密集する。

 このうち小児用とみられる小型の甕棺は、墓域の東半部に集中し、西半部に成人用とみられる大形の甕棺墓と木棺墓が、墓壙の主軸を北東方向に揃えて、整然と配置されていた。

 これらの成人墓は、大型の墓壙を有しており、墓壙上に花崗岩や安山岩を配した墓標をもつなど、同時期の他の墳墓とは規模や構造上でも差異が認められる。副葬品はこのうちの木棺墓4基甕棺墓7基で確認された。 

 

 甕棺墓はいずれも弥生時代前期末から中期初頭に位置付けられる金海式甕棺で、成人棺は特別に大型に作られ、蕨手状の刻目突帯文を施したものや、疾駆する2頭の鹿を描いたものがある。副葬品をもつ甕棺墓の構成は銅剣1口を基本に玉類が加わるもの4基、銅釧2点玉類からなるもの1基、玉類のみのもの2基となっている。

 

 4基の木棺墓も甕棺墓と同時期の所産で、大型の墓壙をもち、内部に組合式木棺割竹形木棺を納めた痕跡が残る。

 特に墓域の中心近くに位置する2号木棺墓は、長さ4.8m、幅3.5mの長大な墓壙をもち、中に納めた割竹形木棺も長さ2.5m、幅1mの規模をもつ。これには、銅剣1口硬玉製勾玉1点碧玉製管玉95点からなる頸飾り碧玉製管玉40点からなる腕飾り、小壺などが副葬されていた。

 

 また墓域南端部にある3号木棺墓は、2号木棺墓に比較すると墓壙はやや小規模であるが、硬玉製勾玉1点碧玉製管玉95点からなる頸飾りとともに、多鈕細文鏡1面銅剣2口銅戈・銅矛各1口が副葬され、他を圧倒する内容を有していた。

 

 高木地区の木棺墓は、他の2基の木棺墓にも銅剣が副葬されるなど、すべてに副葬品がみられ、甕棺墓に対する優位性が認められる。

 

 高木地区の木棺墓と甕棺墓から出土した副葬品は、細形銅剣9口、細形銅戈1口、細形銅矛1口、多鈕細文鏡1面、銅釧2点、碧玉製管玉468点、硬玉製勾玉4点、ガラス製小玉1点、有茎式磨製石鏃1点、小壺などである。多鈕細文鏡と実用的な細形の青銅製武器は、朝鮮半島からの船載品と考えられるものである。

 

 これらの豊富な副葬品をもつ墓は、大型の石を地上標識とする点や、共同墓地から離れて独立した墓域をもつ点で、奴国王墓と推定される福岡県春日市須玖岡本遺跡や、伊都国王墓と推定される糸島市三雲南小路遺跡の墳墓へと発展する要素が認められ、この墳墓の被葬者達が早良平野に出現した有力首長層であったことを推測させる。

 

 青銅器を多量に副葬した墓群の東方40mの地点からは、大型の掘立柱建物高床倉庫が発見されている。

 大型建物は、桁行5間(総長12.5m)、梁行4間(総長9.5m)の身舎に西廂が付く南北棟建物で、北・東の2面には軒支柱が巡り、既発見の同時期の建物としては最大の規模を誇る。この大型建物は先の墓群の被葬者の居館の一部を構成する建物と考えられる。

 高床倉庫は大型建物の南方50mに7棟を確認している。桁行2間、梁行1間のもの5棟、桁行・梁行ともに一間のもの2棟からなる。

 

 なお一般集落を構成する竪穴住居はこの地区に存在せず、墓域同様、首長層の居住域が一般集落構成員の居住域から独立した可能性が高い。

 

 以上のように吉武高木遺跡は、北部九州における弥生時代の階層分化の過程と王権の生長過程を解明する上で、また『漢書』「地理志」が伝える百余国に分かれた倭人社会の実態を追求する上で、極めて高い学術的価値を有しているため、国の史跡に指定されている。 

 

2)参考Webサイト :国史跡吉武高木遺跡「やよいの風公園 

〇遺跡の見どころ

*重要遺構1:特定集団墓

①最古の王墓発見か?/②弥生人の生と死/③続々と出土する豪華な副葬品/④有力者たちが眠る場所特定集団墓/⑤国の出現と東アジア世界/⑥シカに見る弥生人の精神世界 

 

*重要遺構2 甕棺墓群「甕棺ロード」

①甕棺ロードへようこそ/②甕棺ロードVS特定集団墓/③弥生のタイムカプセル「甕棺」/④甕棺の映り変わり 

 

*重要遺構3:大型建物

①謎の大型建物あらわる/②大型建物の復元 

 

〇吉武遺跡群の発展と衰退

Ⅰ 吉武遺跡群とは

 国史跡吉武高木遺跡の周辺には、旧石器時代(約2万年前)から江戸時代(約200年前)にいたる数々の遺跡が営まれています。この地は古くから水田・農地として利用されていましたが、ときおり土器や石器が採集できたことから、遺跡があるのでは?と考えられていました。そこで、福岡市は昭和43( 1968)年に遺跡分布調査を行って遺跡の存在を確認し、「飯盛弥生遺跡」「樋渡遺跡」「高木甕棺遺跡」などの遺跡を登録しました。

 

 現在、高木地区・大石地区・樋渡地区に広がるこれらの遺跡を統合し、まとめて「吉武遺跡群」と呼んでいます。吉武遺跡群は、北の日向川と南の竜谷川にはさまれた扇状地上に広がっており、その面積は40ヘクタール(400,000㎡)にもおよびます。 

 

Ⅱ 弥生時代の吉武遺跡群

  弥生時代における吉武遺跡群の変遷について、ここでは発展期・展開期・衰退期の3期に分け、みていくことにしましょう。

 

 

(引用:やよいの風公園HP)

   

        発展期         展開期           衰退期

(引用:やよいの風公園HP)

①発展期:中期はじめ(約2,200年前ごろ)

 前期のおわりに「北のむら」、続く中期のはじめに「南のむら」と、集落が相次いで出現しています。そして、高木地区では他地域にさきがけて豊富な副葬品をおさめた「特定集団墓」が、大石地区では青銅製武器をおさめた甕棺墓群が、それぞれつくられました。同時に周辺においても、小規模な甕棺墓群が、形成されはじめます。 

 

②展開期:中期中ごろ~おわり(約2,100~2,000年前ごろ)

 高木地区では特定集団墓の形成が終わり、「大型建物」が出現します。大石地区周辺では甕棺墓群形成が最盛期をむかえ、「甕棺ロード」となります。樋渡地区では墳丘墓がつくられ、中には中国鏡や鉄製武器を副葬した甕棺墓もありました。同じころ、後に「伊都国」「奴国」と記される地域では、「王墓」と呼ばれる特別な墓があらわれます。 

 

③衰退期:後期はじめ(約1,900年前ごろ)

 高木地区の大型建物は姿を消し、樋渡地区の墳丘墓や大石地区の甕棺ロードの形成も終わります。「北・南のむら」は規模が小さくなり、かつての隆盛は影をひそめていきます。


(2)須玖岡本遺跡


奴国の中心地・奴国王の王墓?

(引用:Wikipedia)

 須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)は、福岡県春日市岡本にある遺跡群。福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2km、東西 1kmの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡等)を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。

 1986年(昭和61年)6月24日、国の史跡に指定された。この遺跡の中の巨石下甕棺墓(古名称は須玖岡本遺跡は明治期に発見されたもので、その後、遺物は散逸していて、正確な数値は不明である。 

 

〇参考Webサイト:奴国の丘歴史公園(邪馬台国大研究HP 

1)概要

  1979年(昭和54年)、1980年(昭和55年)の調査では、遺跡の最高所の標高36.3m地点を中心に、弥生時代中期~後期初頭の116基以上の甕棺墓群木棺墓中期後半祭祀遺構など、あわせて約300基の墓壙が確認された。また、少し低い西側平坦地で9軒の住居跡が検出され、さらに片磨岩製小銅鐸鋳型が出土した。 

 

〇巨石下甕棺墓の概要

 明治32年(1899年)、土地所有者の吉村源次郎は家屋の新築のために脇にある「長3.60m、幅2.0m、厚30.3cmの横石」とその側方に立つ、「高1.20m、幅1.50m、厚40cmの立石」の二つの巨石が邪魔になるので動かして、下を掘ったところ、「合口甕棺」があり、その内外から種々の遺物が出土した。

 

 その場所から約14m北東に煉瓦囲いの地下室を作って、出土遺物と掘り上げた土塊までもこの中に収めた。この地下室の場所を「D地点」と呼んでいる。

 

 最初にこの「巨石下甕棺墓」に注目したのは明治末期の八木奘三郎である。中山平次郎は大正初年以降、この地下室から鏡片などを採取、発表し、昭和4年の京大の島田真彦の調査で幕を閉じた。

 

2)巨石下甕棺墓の遺構

  現状は本遺跡は学術調査されていないので正確な情報は得られず、先人の所見からの復元想像によるものと、近傍の発掘調査から三雲南小路遺跡と同規模の墳丘墓の可能性がある、とされている。「周溝」の存在は不明であるが、三雲南小路遺跡が方形周溝墓であることから、同様の形式の可能性もある。

 

 巨石は土壇状の隆起部の上にあったとみられることから、墳丘の上に設置されていたらしい。その二つの巨石の方位などは不明だが、「被葬者の頭の後方に立石が設置されていた」と考えられる。甕棺の形式は不明である。

 

3)巨石下甕棺墓の副葬品

・銅剣 2/・銅矛 4/・銅戈 1

・銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、

 星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)

・ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上/・ガラス勾玉/・ガラス管玉 

 

4)巨石下甕棺墓の考察

 副葬品に武器類が多いことから、この墓は「男王墓」と推定されている。時代的には「前漢鏡」や「青銅剣」などの編年から割り出して糸島市三雲の三雲南小路遺跡同年代の王墓であろう、と云われている。

 

 また、近傍には「青銅器の鋳造所」遺構などが多数発見されていることと、地名の「那珂川」「那の津」などからの推論と、伊都国は糸島市三雲が中心地であろう、ということから導いて、この須玖岡本遺跡群奴国の中心地であろうと言われている。

 

 この「巨石下甕棺墓」の主は「奴国王」であろうと推論されるが、志賀島出土の金印(漢委奴国王印)の奴国王かどうかは不明である。通説では、金印を授けられた奴国王より以前の王であろう、と云われている。 


4 筑前国の歴史散歩


(1-1)宮・香椎宮


(引用:Wikipedia)

〇筑前国内に設けられた天皇の宮

(1-1)橿日宮 - 第14代仲哀天皇。比定地は福岡県福岡市東区香椎。

(1-2)朝倉橘広庭宮 - 第37代斉明天皇。比定地は福岡県朝倉市内。

 

〇参考Webサイト:「香椎宮」(公式ホームページ)

 福岡県福岡市東区香椎にある神社。勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。「香椎神宮」と誤記される場合もあるが、正しくは「香椎宮」である。 

 

Kashii-gu0902.jpg

中門から拝殿・幣殿を望む(引用:Wikipedia )

1)概要

 福岡市北部、立花山南西麓に鎮座する。古代には神社ではなく霊廟に位置づけられ、仲哀天皇・神功皇后の神霊を祀り「香椎廟(かしいびょう)「樫日廟」などと称された。

 「廟」の名を持つ施設として最古の例であったが、平安時代中頃からは神社化し、類例のない特殊な変遷を辿った。

 

 上記のように天皇・皇后の神霊を祀るという性格から、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられ、現在も勅祭社として10年に一度天皇からの勅使の参向を受ける神社である。 

 

 境内の社殿のうち、特に本殿は江戸時代後期の再建時のもので、「香椎造(かしいづくり)と称される独特の構造であり国の重要文化財に指定されている。祭事としては、10年に一度勅祭が斎行されるほか、現在も仲哀天皇・神功皇后の命日神事が行われている。

 

2)社名

 史料上で見える呼称は次の通り。いずれも読みは「かしい」(歴史的仮名遣では「かしひ」)

・香椎廟 - 『万葉集』、六国史(複数)

・香椎宮 - 六国史(複数)

 

・香椎廟宮 - 『日本三代実録』

・哿襲宮 - 『筑前国風土記』

 

・樫日廟 - 六国史(複数)

・香襲宮 - 『続日本後紀』

 

・香襲廟宮 - 『日本三代実録』

・橿日廟 - 『延喜式』

 

・橿日廟宮 - 『延喜式』

・借飯廟宮 - 『諸神根源抄』 

 

 香椎宮の創建以前にあったとされる仲哀天皇の行宮(仮宮)は、『日本書紀』において「橿日宮」、『古事記』において「訶志比宮」、『新撰姓氏録』では「橿氷宮」と表記されている。

 

 「香椎」とは『和名抄』にも糟屋郡香椎郷として見える古い地名であるが、『筑前国続風土記』ではその由来について、椎の木に仲哀天皇の棺を掛けたときに異香が漂ったことに由来するとしている。そのほか、「かしい」首都大村の意味とする説がある。 

 

3)祭神

 祭神は次の4柱。

〇主祭神

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。

神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇皇后。

 

〇配祀神

応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。仲哀天皇皇子。

住吉大神(すみよしのおおかみ) 

 

●祭神について

 文献では祭神に関して、

神功皇后祭神説 - 『兵範記』、『宇佐託宣集』、『諸神記』、『伊呂波字類抄』

仲哀天皇祭神説 - 『宋史日本伝』

 

神功皇后・応神天皇・住吉大神の祭神3柱説 - 社伝、『筑前国続風土記』

神功皇后・武内宿禰・応神天皇・住吉大神の祭神4柱説 - 『二十二社註式』

などの諸説が存在する。

 

 近世の『筑前国続風土記』では「神功皇后、相殿左八幡大神、右住吉大神」と記載されており、明治4年(1871年)の神祇官への届け出もそれを踏襲している。その後、大正4年(1915年)仲哀天皇の神霊摂社の古宮から本殿に遷座・合祀されたため、以後は祭神を上記4柱としている。

 

 香椎宮の社伝『福岡県神社誌』の解釈では、元々は仲哀天皇・神功皇后の両方が祭神であったとしており、初めに仲哀天皇の神霊が天皇崩御時から行宮跡地の廟(かつての摂社古宮大明神)に祀られ、次いで神功皇后の神霊が神亀元年(724年)新廟(現在の本宮に祀られ、これらの並列する二廟「香椎廟」と総称されたとする。

 

 上記の文献に見える神功皇后祭神説は、後世に神功皇后信仰が盛んになったためとする。

 なお『宇佐託宣集』『八幡愚童訓』では、香椎宮の神「大帯姫(おおたらしひめ)と記している。このことから、オオタラシヒメ伝承神功皇后伝説の元伝承になったと見なす説や、『延喜式』神名帳で豊前国宇佐郡に見える「大帯姫廟神社」(現・宇佐神宮の三之御殿)香椎宮とを関連づける説がある。

 

4)歴史

4.1)創建

 『日本書紀』『古事記』によると、仲哀天皇8年に天皇は熊襲征伐のための西征で筑紫の行宮の橿日宮(かしひのみや、記:訶志比宮)に至ったが、仲哀天皇9年に同地で崩御したという。

 香椎宮の社記『香椎宮編年記』によれば、その後養老7年(723年)2月6日に神功皇后の神託があったため造営を始め、神亀元年(724年)12月20日に廟として創建されたとする。

 

 現在の香椎宮社伝では、仲哀天皇9年時点ですでに神功皇后の手で仲哀天皇廟が建てられたとした上で、さらに養老7年の皇后の託宣により神亀元年に皇后廟も建てたので、これら二廟をもって創建とし「香椎廟」と総称された、としている。 

 

 後述の通り、創建当初から10世紀中頃まで香椎宮は文献では「廟」すなわち霊廟として記され、他の神社とは性格を異にする。古代に神社霊廟がどのように区別されていたかは明らかでないが、日本土着の信仰としてではなく、中国・朝鮮の宗廟思想を背景として創建されたする指摘があり、中には異国の祖廟とする説もある。

 

 文献では香椎廟新羅との深い関係が見られ、新羅と事があるごとに奉幣が行われている。ただし日本・新羅間が最も緊張した斉明天皇・天智天皇の時期(7世紀後半)に記事は見えず、文献上では神亀5年(728年)11月が初見になるため(『万葉集』)、史実の上でもその間の創建とされる。 

 

 香椎宮の鎮座する糟屋郡一帯は、6世紀前半磐井の乱に際して筑紫君葛子から糟屋屯倉として献上され、ヤマト王権朝鮮半島進出の足がかりをなしたことが知られる。

 

 この一帯で神功皇后伝説が広く分布することに関して、ヤマト王権が糟屋一帯支配強化するに伴い、一帯の古伝承神功皇后伝説へと換骨奪胎されたとする説がある。

 

 仲哀天皇・神功皇后は初期天皇の中でも特に実在性が疑問視される人物であるが、そうして創出された神功伝説と仲哀天皇の行宮伝承が結びついた結果、天皇・皇后の廟が営まれるに至ったとする説もある。

 

 香椎一帯古代の遺跡が分布し古くから開けていたことが知られ、『日本三代実録』では香椎廟志賀島の海人とのつながりが深い様子も見られることから、海人族を通じた海外交渉の存在を香椎宮の起源を巡る要素として指摘する説などもある。

 

4.2)概史

●古代

 『万葉集』では、神亀5年(728年)11月に大宰帥大伴旅人・大弐小野老・豊前守宇努男人ら3人が「香椎廟」を参詣し詠んだ歌(後掲)が記されるが、これが確かな史料としての初見になる。『筑前国風土記』逸文では、当時は筑紫国に至ればまず「哿襲宮(かしいのみや)に参詣することを例としたと見える。 

 

 国史では、天平9年(737年)・天平宝字3年(759年)・天平宝字6年(762年)に、新羅の無礼を報告する奉幣が伊勢神宮(三重県伊勢市)・大神神社(奈良県桜井市)・住吉神社(福岡県福岡市)・宇佐神宮(大分県宇佐市)と併せて香椎廟にもなされた旨が記されている。

 

 また弘仁元年(810年)には薬子の変に関する奉幣、天長10年(833年)には仁明天皇即位に関する奉幣などの記事が見られるほか、以後も即位・天災・外寇の度に朝廷から奉幣を受けている。

 

 以上の一方で、神社ではなく廟であったため他の神社のような神階叙位の記事はない。 

 承和14年(847年)には唐から帰国した円仁「香椎明神」経の転読を行なったほか、仁寿2年(852年)には円珍が入唐前に同神に対して博太浜で経の奉読を行なっている。

 

 延長5年(927年)成立の『延喜式』のうち、「神名帳」に記載はないが、「式部上」には神宮司ではなく廟司(橿日廟司)を置いた旨の記載や、同じく「式部上」には「橿日廟宮舎人一人」の記載があるほか、「民部式」には「香椎宮」守戸一烟と見え、山陵(天皇陵)に準じる特殊な位置づけにあった。また『和名抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は糟屋郡香椎郷に比定される。 

 

 天元2年(979年)「太政官符」では「大宮司を置く」と見え、10世紀後半頃からは他の神社と同様の扱いを受けるようになっている。また史料によると香椎宮は度々焼亡しているが、その報を受けた朝廷では5日間にもわたって廃朝を行なっている。

 

 平安時代以降、香椎宮は九州で宇佐神宮に準じる位置づけにあり、事あるごとに宇佐香椎使(和気使)が朝廷から派遣されたほか、伊勢神宮・氣比神宮・石清水八幡宮とともに「本朝四所」の一所にも数えられた。

 

●中世から近世

 保延6年(1140年)には、大山寺(竈門神社神宮寺)筥崎宮・香椎宮の神官・僧徒が大宰府以下の屋敷を焼き打ちする事件を起こし、社領石清水八幡宮領から大宰府領に編入された。

 

 仁安元年(1166年)平頼盛大宰大弐として赴任した際には、本家職蓮華王院に寄進され、領家職は頼盛が有した。頼盛の死後、建久8年(1197年)からは石清水八幡宮領返付され、その後は長らく石清水八幡宮の支配下にあったが、元寇頃から先は豊後大友氏の支配下となった。

 

 香椎宮後背の立花山には大友氏の立花山城が築城されたが、天正14年(1586年)にその城が島津氏の侵攻を受けて香椎宮も社殿を焼失、さらに豊臣秀吉から社領も没収されて荒廃したという。その後に入った小早川隆景神田寄進社殿造営を行なったが、小早川秀秋は再び領地を没収している。 

 

 江戸時代には福岡藩主黒田氏から崇敬を受け、社領として天和3年(1683年)には3代藩主黒田光之から30石、延享元年(1744年)には6代藩主黒田継高から70石、文政3年(1820年)には10代藩主黒田斉清から50石の寄進を受けた。

 

 また社殿は、寛永14年(1637年)本殿・拝殿が焼失したが、寛永21年(1644年)に2代藩主黒田忠之によって再建され、さらに享和元年(1801年)に10代黒田斉清によって改築されるなどの整備を受けた。

 

 現在の本殿(国の重要文化財)は、この斉清による享和元年時の再建になる。別当寺はかつて16坊あったというが、江戸時代には護国寺のみであった。

 

●近代以降

 明治維新後、明治4年(1871年)6月に近代社格制度において国幣中社に列し、明治18年(1885年)には官幣大社に昇格した。大正13年(1924年)には、10年に一度の勅使参向も定められている。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

 


(1-2)宮・朝倉橘広庭宮


(引用:Wikipedia)

  朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)は、飛鳥時代に斉明天皇が営んだ宮殿。

 

1)記録

 『日本書紀』によれば、斉明天皇6年(660年)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は難波などを経て斉明天皇7年(661年)3月25日に娜大津(諸説あり後述)より磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入り、さらに5月9日に朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えた。しかし、7月24日に同地で死去した。 

 

 朝倉橘広庭宮の建設に際しては、朝倉社の木を切って用いたために神が怒って宮殿を壊したほか、宮中では鬼火が目撃され、大舎人らに病死者が続出したという。ただし異説として、病死ではなく筑紫君磐井の残党に討たれ、宮家を焼かれたと言う説もある。 

 

 また、鎌倉時代の十訓抄には上巻可施人恵事、一ノ二「天智天皇世につつみ給ふことありて筑前国上座郡朝倉といふ処の山中に黒木の屋を造りおはしけるを木の丸殿といふ 丸木にて造るゆえなり」とある。 

 

2)比定地

 日本書紀に現れる各地名の比定地は定まってない。「(廃)」は現存しない。

●娜大津

「那の大津(なのおおつ)を旧地名とする、博多津(現在の福岡県福岡市の博多湾)に比定

「干娜大津」高知県高知市朝倉付近の旧地名(朝倉神社) 

 

●磐瀬行宮

那の津の「官家(みやけ)の地。書紀巻18宣化天皇「修造官家、那津之口」より。「官家」の比定地も諸説あり、福岡県福岡市南区三宅(地名より)、比恵遺跡(福岡市博多区。旧地名にも「官田」「三宅田」などあり)などがある。

龍頭遺跡群(廃)(福岡県那珂川市梶原)ほか、同町の安徳台遺跡群裂田神社

高宮八幡宮(福岡県福岡市南区高宮)。近所に「磐瀬」の旧地名。

御館山の御館社(廃)(福岡県中間市岩瀬)、中間駅近く

村山神社(愛媛県四国中央市)

 

●朝倉橘広庭宮(後述)

福岡県朝倉市の地(須川、宮野、山田の各地区、あるいは杷木志波)

朝倉神社(高知県高知市朝倉) 

 

朝倉橘広庭宮の所在地は現在の福岡県朝倉市の地とされるが、具体的な場所は特定されていない。朝倉市大字須川には奈良時代の寺院跡である長安寺廃寺跡が残っており「橘廣庭宮之蹟」の碑が建てられている。山田の恵蘇八幡宮にも「木の丸御所の地」の碑文がある。 

 

*高知県高知市朝倉丙にある朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている。また同社では、社殿背後に立つ「赤鬼山」が『日本書紀』に記述のある「鬼が天皇の喪の儀式を覗いていた山」であると伝えられる。


3)朝闇神社 朝倉橘広庭宮跡か?

 この項の文・図・写真は、次のWebサイトから引用させていただきました。

朝倉橘広庭宮跡、朝闇神社について参考となると思いますのでアクセスしてみて下さい。

   Ameba まにまに。~神の随に神社巡り~朝闇神社 

②  ジャラン観光ガイド(橘之広庭公園)

③  ひもろぎ逍遥(朝闇神社 高木の神・・・再び悪夢か)

④  古墳巡りウォーキング in 福岡(朝倉橘広庭宮跡)

 

3.1)北部九州の王に捧げられていた宮廷舞がルーツ 筑紫舞

(引用:Wikipedia)

 

 朝闇神社の絵額「筑紫の舞」

 

 筑紫舞(つくしまい)は、筑紫傀儡子(つくしくぐつ)と呼ばれる人々によって古来伝承されてきたとされる、伝統芸能。跳躍や回転を取り入れた独特の足づかいを大きな特徴とした舞である。

 

〇参考Webサイト

古来からの伝承「筑紫舞」(宮地嶽神社HP)

筑紫舞とは(神事芸能研究会HP)

「筑紫舞」一覧(古賀達也の洛中洛外日記) 

 

3.2)歴史

 その起源は古く、『続日本紀』天平3年(731年)の記事にその名を見ることができる。以来、神舞くぐつ舞など、何種類かに分類される二百以上の舞が、すべて口伝によって伝承されてきたと云われる。(ただし、木に記号なども刻んでいたらしい。)

 

 現在では、箏曲家・菊邑検校から戦前に伝承を受けた西山村光寿斉を初代宗家とし、二代目宗家・西山村津奈寿をはじめとする数十人の弟子によって舞の継承が行われている。

 その舞の実際は、毎年7~8月に福岡市中央区の大濠公園能楽堂で開催される「筑紫舞の会」などで見ることができる。 

 

 尚、やはり戦前、現在は宮地嶽神社の奥宮として不動神社が祀られている横穴式石室古墳内で、当時の芸能者達によって筑紫舞が舞われた場に少女期の西山村光寿斉が同席しており、その縁で後年宮地嶽神社数曲の舞を伝授する事となった。現在でも宮地嶽神社では年に一回筑紫舞の祭典があり、宮司や神職舞を奉納している。

 

 奉納上演が恒例となっている神社は他に、天智天皇所縁の舞恵蘇八幡宮(朝倉市)八幡系の舞紅葉八幡宮(福岡市)東物稲毛神社(川崎市)雄琴神社 (壬生町) などである。

 いずれも西村光寿斉及び西山津奈寿より伝承を受け、神職または氏子によって神事芸能として奉納されている。 

 

〇参考文献

 鈴鹿千代乃『神道民俗芸能の源流』(国書刊行会) 古田武彦『よみがえる九州王朝』 

 

〇外部リンク

筑紫舞伝承後援会FaceBook

宮地嶽神社公式サイト

 


(2-1)大宰府・政庁


(引用:Wikipedia) 

  大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。 

 

 

正殿跡(引用:Wikipedia)

1)名称

 大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数か国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))周防総令(天武天皇14年(685年))伊予総領(持統天皇3年(689年))などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。

 

 『続日本紀』文武天皇4年(700年)10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野を大弐(次官)と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。 

 

 大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えてよい。また、その想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。遺跡は国の特別史跡

 

 平城宮木簡には「筑紫大宰」平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「太宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある。 

 

 唐名は、「都督府」であり、現在でも、地元においては、史跡を「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称することが多い。 

 

2)概要

 外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。弘仁15年/天長元年(824年)に大隅に編入))については、(じょう)以下の人事四度使監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷」(とおのみかど)とも呼ばれる。

 

 軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。西海道諸国のから軍馬を集めて管理する権限を有していた。 

 

 外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。 

 

 長官は大宰帥(だざいのそち 唐名:都督)といい従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないことが大半となり、次席である大宰権帥実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、唐宋商船との私貿易の中心となった。 

 

 北部九州六国から徴発された西海道の仕丁は、大宰府に集結させられた。そのうち400人前後が大宰府官人の事力(じりき)となり、あるいは主船司等に配属された(『延喜式』民部下)。このほか観世音寺の造営のための駆使丁としても使役された(『続日本紀』和銅2年(709年)2月戊子条) 

 

 面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。しかし、遺跡が確認されたものは少ない。 

 

 「大宰府跡」は1921年(大正10年)国の史跡に指定。1953年(昭和28年)国の特別史跡に指定された。その後、1970年(昭和45年)、1974年(昭和49年)、2009年(平成21年)、2014年(平成26年)(3月と10月の2回)、2015年(平成27年)追加指定が行われ、指定面積は320,235.91平方メートルである。政庁(都府楼)地区のほか、1キロメートルほど離れた客館跡特別史跡大宰府跡に含まれている(2014年(平成26年)10月追加指定) 。

 2015年(平成27年)、文化庁から「古代日本の『西の都』〜東アジアとの交流拠点〜」として日本遺産に認定される。

 

3)職員

四等官は、権帥の下に

(すけ) : 大弐(だいに)少弐(しょうに)

(じょう) : 大監(だいげん・だいじょう)少監(しょうげん)

(さかん) : 大典(だいてん・おおさかん)少典(しょうてん)

が置かれ、そのほか令によると主神・大判事・大令史・大工・史生・医師・算師など50人の官人が置かれていた。 

 

4)歴史

4.1)古代の国交の要衝

 特に弥生時代や古墳時代を通じて、玄界灘沿岸は、アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。 

 

 『魏志倭人伝』に見られる「一大率」は、後の大宰府と良く似たシステムとして指摘されている。また、

 

・『日本書紀』宣化天皇元年(536年)条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝(もう)で届(いた)る所、未来(ゆきき)の関門(せきと)にする所なり。(中略)官家(みやけ)を那津(なのつ、博多大津の古名)の口(ほとり)に脩(つく)り造(た)てよ」

 

・崇峻天皇5年(593年)条の「駅馬を筑紫将軍の所に遣して曰はく」

 

・推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともち)、奏上して言さく」

などの記述が、太宰府がヤマト政権の出先機関として設置され存在した証拠と考えられる。 

 

 「大宰」の文字の初見が609年(推古天皇17年)であるが、既に見たように(宣化天皇元年(536年)の宣化朝の記事のこと)福岡県博多に官家を造るなどの記事から大宰府の起源はもっと遡るのではないかと考えられている。 

 

 7世紀に入ると、遣隋使小野妹子隋の使者裴世清を伴って那津に着いた頃から、官家(みやけ)は、大陸や朝鮮半島からの使者の接待をも担うようになったと考えられる。また、同じ時期に聖徳太子の弟である来目皇子が新羅遠征を名目に九州に駐屯しており、両方の政策に関与していた聖徳太子が一族(上宮王家)筑紫大宰に任じて、大宰の力を背景に九州各地に部民を設置して支配下に置いていったとする説がある。

 

 筑紫大宰九州全体の統治外国使節の送迎などにあたったと考えられ、以後は大宰府に引き継がれていく。 

 

 斉明天皇6年(660年)百済が滅亡し、百済復興をかけて天智天皇2年(663年)8月唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗した。

 

 天智朝では、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から天智天皇3年(664年)、筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)小水城を造ったという。水城は、福岡平野の奥、御笠川に沿って、東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、今もその遺跡が残っている。構造は、高さ14m、基底部の幅が約37mの土塁を造り、延長約1キロにわたる。

 

 また、翌年の天智天皇4年(665年)大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。 

 

 大化5年(649年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。

 

 なお、「惣領」の語が大化改新後に登場する言葉であることから、「筑紫総領」「筑紫大宰」からの改称とみる説、「筑紫大宰」が官司名で「筑紫総領」をそれを率いた官職名とする説、大化改新後に「筑紫大宰」とは別に「筑紫総領」が設置され両者は職掌が分かれていたのが後に統合されて大宰府になったとする説などに分かれている(なお、「大宰」と「総領」両方の設置が確認できるのは、吉備国と筑紫国のみであったことも注目される)

 

 関としては、天智天皇6年(667年)「筑紫都督府」があり、同10年(671年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。

 

 この時代は、首都たる大和国(現在の奈良県)、延暦13年(794年)以降は山城国(現在の京都府)失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。例としては菅原道真藤原伊周などがいた。

 

 また、大宰府に転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられたことを恨んで天平12年(740年)に反乱を起こし、その影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。つまり、天平14年(742年)1月にいったん廃止し、天平15年(743年)12月に筑紫に鎮西府を置く。しかし、天平17年(745年)6月に復活させている。

 

4.2)平安時代

 その後、平安時代に入ると大宰府の権限が強化され、大同元年(806年)2月に大宰大弐の官位相当が正五位上から従四位下に引き上げられ(『日本後紀』)、弘仁元年(810年)には大宰権帥が初めて設置された。天慶4年(941年)天慶の乱藤原純友の乱で陥落、府庁は一度焼失したと考えられている。大宰権帥の橘公頼が対抗する。

 

 平安時代後期になると、「大府」「宰府」という異名も登場する。ただし、12世紀に入ると、「大府」は名目のみの存在となった大宰帥に代わって責任者の地位にありながら実際には遥任の形態で京都で政務を執った大宰権帥大宰大弐を、「宰府」は大宰府の現地機構を指すようになった。

 

 大宰権帥や大宰大弐が現地機構に対して発した命令を大府宣、反対に現地機構からの上申書を宰府解(大宰府解・宰府申状)と呼んだ。

 

 この頃、刀伊の入寇に伴い、大宰府官東国武士団が九州に入り活躍、鎮西平氏薩摩平氏などとして周辺の前や南九州に割拠し始める。 

 

 交易面でも大宰府の重要性が増し、10世紀から13世紀まで日宋貿易、これと並行して朝鮮や南島との貿易も盛んとなった。1080年(承暦4年頃)の大宰府解に『商人の高麗に往反するは,古今の例也』とあるとおり、朝廷がこれを積極的に統制しなかった。

 

 保元3年(1158年)に平清盛大宰大弐に就任(赴任せず)。1166年には弟の平頼盛が大宰府に赴任する。平氏政権の基盤の一つとなった日宋貿易の統制のため、やがて北九州での政治的中心地は、大宰府から20キロメートル北の博多(福岡市)へ移る。 

 

 宋・明州(江省寧波市一帯)長官後白河法皇平良盛との間で「公式」な交易関係が結ばれ、貿易が隆盛を極めるとともに、古来の渡海制・年紀制などの律令制以来の国家による貿易統制が形骸化していく事に繋がった。

 

 これにより鎌倉時代に至るまで大宰府権門は直接的な交易実益を喪い没落名誉職としての大宰権帥としての権威付け及び有力国人権帥、大弐への就任する形態に遷移していく。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、博多を素通りさせ、福原大輪田泊まで交易船が直輸した。 

 

 源平合戦期には平家武人が大宰府に一時落ち延びた。北九州に平定のため入国した天野遠景が文治2年(1186年)九州惣追捕使鎮西奉行に補任され大宰府権門を掌握する。しかし10年ほど過ぎた後、天野は頼朝に解任され、鎌倉へ召喚された。

 平安時代を通して大宰府現地官人の土着化、土豪化が進んだ。 

 

4.3)鎌倉時代

 治承・寿永の乱を経て鎌倉時代に入るまでに、古代以来の官舎としての大宰府は解体、廃絶したと考えられている。一方で、前述の中国や朝鮮、南島との貿易権益、さらに古代政庁以来の権威付けとしての「大宰府」は九州北部の有力国人に利用された。 

 

 嘉禄2年(1226年)、筑前・豊前・肥前守護で鎮西奉行の武藤資頼太宰少弐に任じられ、以降代々の武藤氏は太宰少弐職を世襲して少弐氏と名乗る。鎌倉幕府により、大宰府には宰府守護所が置かれる。元寇における武功により、少弐氏は北部九州を代表する名族となる。その後博多に鎌倉幕府により鎮西探題が置かれた。南九州には島津氏が進出する。 

 

 役職としての「大宰権帥」「大宰大弐」は広大な大宰府領や対外貿易の利益から経済的に魅力のあった地位であった。元寇前夜の文永8年(1271年)2月に、大宰権帥の地位を巡って吉田経俊と分家の中御門経任が争って最終的に後嵯峨上皇の側近であった中御門経任が補任されたことを非難した同族の吉田経長の日記の中に経任が古代中国の富豪である陶朱のようになったと皮肉を込めて記している(『吉続記』文永8年2月2日(1271年3月14日)条) 

 

 もっとも、こうした任命の裏には任命する天皇や上皇の側にも利点があり、大宰権帥退任後に修理職などの地位に任じられ、御所の造営や大嘗祭のような多額の費用のかかる行事の負担を命じられた。当然、大宰権帥に就いたことによる経済的利得はその負担を上回るものであったと推定される。

 

 4.4)室町時代以降

  建武期・南北朝時代の動乱に博多・大宰府周辺を含む九州一円が巻き込まれる。足利方・探題と、肥後国の南朝方征西府の菊池氏と戦いとなり、中央や足利氏、更に少弐氏自身の内紛などで一時混迷するも、少弐氏も加わって大宰府を巡り一進一退の攻防となる(浦城の戦い 針摺原の戦いなど)

 

 やがて幕府足利義満が今川貞世(了俊)を九州平定に派遣すると、少弐冬資が謀殺され、南朝方が連敗し駆逐されるなどした。やがて南北朝合一が成り、応永2年(1395年)に了俊が探題職を解任されると、一時的に少弐氏は大宰府を回復するが、戦国時代には大内氏に追われ少弐氏は滅亡。天文5年(1536年)には大内義隆が大宰大弐に就くも、大内氏自身が大寧寺の変により滅亡する。 

 

 太宰府天満宮(当時は安楽寺天満宮)の本殿が再建されるのは、時代が下って安土桃山時代の天正19年(1591年)、小早川隆景による。

 

 江戸時代末期、幕末の政変で、公家五卿が安楽寺延寿王院に一時滞在した。大政奉還により京都に戻った。 

 

5)発掘・調査

 1968年(昭和43年)から学術調査が実施されるようになった。 

5.1)政庁地区

  政庁地区の発掘調査は1943年(昭和18年)に行われたものを嚆矢とする。 調査の結果、政庁地区においては3時期の遺構面が存在することが確かめられた。各遺構面の概要は下記のとおりである。

*第1期 : 7世紀後半 - 8世紀初頭。大宰府政庁創建期(掘立柱建物群。古段階と新段階に細分される。)

 

*第2期 : 8世紀初頭 - 10世紀中葉。朝堂院形式創建期礎石建ち瓦葺き建物。政庁規模は、東西111.6m、南北188.4m、回廊規模は、東西111.1m、南北113.8m)

 

*第3期 : 10世紀中葉 - 12世紀。朝堂院形式整備拡充期(礎石建ち瓦葺き建物) 

 

 政庁地区については、発掘調査以前には「現在見える礎石が創建時のもの」「天慶4年(941年)の藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」、という考えが主流であった。

 

  前者の考えについては各遺構面が存在することによって否定され、後者については、第2期遺構面上に堆積する焼土層によって焼失の事実は証明されたものの、第3期の遺構がさらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなり、現在では否定されている。 

 

 第1期から第2期への改築は、律令制度によって政府機関として確立したことに対応するものである。第3期は律令制度が弛緩している時期にあたるため、第2期より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた在庁官人層の拡大に対応するものと理解されている。

 

5.2)条坊制

  大宰府に条坊制による街区が存在することを想定したのは、のちに九州大学教授となる鏡山猛が初めてで、1937年(昭和12年)のことである。

 

 鏡山は、政庁域を方四町、観世音寺域を方三町と推定した場合、両者の南辺を東西線上に一致させることができること、かつその場合の政庁東辺と観世音寺西辺の間が二町となることをもって、一町を単位とする造成企画の存在を想定し、その適用範囲を広げると周囲の道路や畦畔に合致するものが多いことを指摘。

 

 加えて観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6km、南北約2.4kmに亘る条坊域を想定した。その実態は1930年代に存在していた道路や畦道に基づく「机上の復元案」といえるものであるが、大宰府の条坊の存在を指摘し、学界に注意を喚起した事は特筆される。鏡山案は現在もっとも知られているもので、一般向け図書やHPなどで紹介されている復元図はほとんどがこの鏡山案である。 

 

 その後、福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。

 

① 政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。

 

② 政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、政庁中央から南へ伸びる南北中央大路(地元では朱雀大路と呼ばれる)周辺を中心として存在する。これらの遺構は南北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、整然とした条坊域が整備されていたのではない可能性もある。

 

③ 政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存在する。この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。区画溝などの遺構は11世紀後半から12世紀前半にかけて埋没し、条坊制による街区はこの頃に廃れたと考えられる。 

 

 こうした状況は、政治的中心の周囲に次第に都市が形成されていく過程と理解できる。

もはや鏡山案はそのままの形では成り立たない状況となっており、上記のような発掘成果を受けた新たな条坊復元案金田章裕井上信正などによって提示されている。

 

 2006年(平成18年)4月20日、筑紫野市教委は、大宰府政庁跡の北端から約1.7km南で条坊の南端と推定される幅約8mの道路と側溝の遺構が見つかったと発表した。市教委は、この場所より南側ではほとんど遺構が発見されていないことなどを根拠として、この遺構を条坊の南端と推定している。

 

 井上は、第一期大宰府政庁の条坊築造時期について7世紀末との説を発表したが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示している。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、日本史上最古とされる藤原京条坊築造時期と同時期あるいはより古い可能性が出てくる。

 

5.3)その他 

*学校院跡

 大宰府学校院跡(だざいふがっこういんあと)は、福岡県太宰府市大字観世音寺に所在する大宰府の官人養成機関に関する遺跡である。1970年(昭和45年)に、国の史跡に指定されている。

 

*月山東地区官衙跡 

 

*蔵司地区官衙跡 

 

6)関係人物

藤原広嗣吉備真備大伴旅人(天智天皇4年(665年) - 天平3年(731年)) - 神亀5年(728年)から天平2年(730年)の晩年、大宰帥。大宰府へ赴任した直後に妻丹比郎女を失った。/大伴家持大伴坂上郎女山上憶良小野岑守 - 大宰大弐として赴任中の弘仁14年(823年)に公営田の導入を建議、翌天長元年(824年)に多褹国を大隅国に編入した。/

菅原道真 - 大宰員外帥として赴任するが、大宰府政庁には一度も登庁せず。/藤原隆家 - 眼病治療のために自ら望んで大宰権帥として赴任。その後、刀伊の入寇に遭遇し、現地での陣頭指揮を執った。/橘公頼高階成章 - 太宰大弐(天喜3年(1055年) - 天喜6年/康平元年(1058年)。「欲大弐」の綽名がある。妻は歌人の大弐三位。/藤原長房 - 太宰大弐(寛治6年(1092年) - 寛治8年/嘉保元年(1094年)。/平清盛(保元3年(1158年) - 大宰大弐となる。/武藤資頼(嘉禄2年(1226年) - 嘉禄3年/安貞元年(1228年) - 武士ながら大宰少弐に任ぜられ、少弐氏の祖となる。

 

7)異説・俗説

 九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。しかし査読のある学術雑誌において九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、九州王朝説および関連する主張は科学的な根拠の欠如したいわゆる俗説に過ぎないとの強い指摘が、専門家によりなされている。

 

 一方で、大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っていること、山城である神籠石の分布が畿内ではなく大宰府を防衛していることが明らかであること、条坊築造時期が藤原京条坊築造時期より古い可能性があり、その場合、日本最古の条坊がなぜ大宰府に築造されたのかの合理的説明が難しいなど、一概に俗説に過ぎないと言い切れない面もある。

 


(2-2)大宰府・観世音寺


(引用:Wikipedia)

1)概要

 観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。開基は天智天皇である。九州西国33箇所第33番札所。

 

 九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。 

 

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講堂(福岡県指定文化財)(引用:Wikipedia)

 

2)歴史

 九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。

 

〔観世音寺の創建〕

 『続日本紀』の記述によると、観世音寺は、天智天皇母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年-683年)のことであるとの記事が見える。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされる。 

 

〔7世紀の出土〕

 観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである。

 

 この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる。また観世音寺に現存する梵鐘は、正確な鋳造年次は不明ながら、「戊戌年」(698年)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされる。これらのことから、7世紀末ころまでにはある程度の寺観が整っていたものと推測される。 

 

〔戒壇院の設置〕

 現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はないが、発掘調査によると、回廊で囲まれた内側の東に塔、西には金堂が東面して建つ、川原寺式に近い伽藍配置であった。その後天平宝字5年(761年)鑑真によって当寺に戒壇院が設けられた。これは、僧になる者が受戒をするためにわざわざ都へ出向かずとも、観世音寺で受戒ができることを意味した。 

 

〔平安時代以降の火災や風害〕

 平安時代以降の観世音寺は、たび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像はことごとく失った。康平7年(1064年)には火災で講堂、塔などを焼失。現存する当寺の仏像は、大部分がこの火災以後の復興像である。康和4年(1102年)には大風で金堂、南大門などが倒壊している。金堂はその後復旧したが、康治2年(1143年)の火災で再度焼失している。 

 

〔江戸時代〕

 寛永7年(1630年)の暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、観世音寺は廃寺同然の状況に追い込まれた。翌寛永8年(1631年)に金堂が、元禄元年(1688年)には講堂(本堂)が藩主黒田家や博多の豪商である天王寺屋浦了夢らによって復興されたが、昔の面影には遠く及ばない。当初は「八宗兼学の寺」とされ、平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、明治時代以降は天台宗の寺院となっている。

 

〔大正・昭和時代の修復〕

 大正2年(1913年)から同4年にかけて、傷みの激しかった諸仏の修理が行われた。昭和34年(1959年)には鉄筋コンクリートの宝蔵が完成。これは、寺院の文化財収蔵庫としては早い時期につくられたものである。宝蔵には像高5m前後の巨像3体(馬頭観音、不空羂索観音、十一面観音)をはじめ、金堂、本堂(講堂)に安置されていた諸仏が収蔵・公開されている。

 

3)伽藍 

 かつて存在した門、回廊などは失われている。県道から並木道の参道を北へ進み、南門跡を過ぎると、やや小高くなった広場があり、左方に金堂、正面に講堂が建つ。この他、広場の東方に塔跡と鐘楼、その奥に宝蔵、講堂裏手に僧坊跡がある。また、寺の西に隣接して戒壇院が建つ。「天下三戒壇」の一とされた戒壇院の後身であるが、現在の戒壇院は観世音寺とは別法人であり、宗派も臨済宗である。 

 

 発掘調査の結果によると、創建当初の伽藍は東西93m、南北78mの回廊で囲まれた敷地の東に五重塔、西に金堂が建つもので、回廊の南面中央に中門、北面中央に講堂が建っていた。これら中心伽藍の南には南大門、北には東西に長い僧坊が建つほか、多くの付属建物があり、境内地は方三町に及んでいた。金堂は南でなく東を正面とし、五重塔と向かいあう形で建てられていた。

 

 金堂を東向きに建てる点は、飛鳥の川原寺とも共通している。川原寺は観世音寺と同じく斉明天皇ゆかりの寺であり、前述の出土瓦の形式等からも両寺の結びつきが推定される。五重塔は焼け残った心礎のみが残っており、塔は一辺が6mと推定されている。 

 

4)仏像

 観世音寺金堂と講堂には、かつては多くの仏像が安置されていたが、1959年、境内に鉄筋コンクリート造の宝蔵が完成してからは、大部分の仏像がそちらへ移された。当寺所有の仏像で国の重要文化財に指定されているものは15件(18躯)を数えるが、このうち、聖観音立像は講堂に安置、阿弥陀如来立像は九州国立博物館に寄託されており、残りの13件(16躯)は宝蔵に移されている。

 

 これらの仏像はいずれも平安時代または鎌倉時代の作品であり、創建期(奈良時代)にさかのぼる仏像で完存するものはない。奈良時代の仏像関連遺品としては、かつて講堂に安置されていた塑造不空羂索観音立像(鎌倉時代に倒壊)の心木と面相部の断片、境内から出土した塑像の断片などが残るのみである。

 

 観世音寺では康平7年(1064年)と康治2年(1143年)大火があり、現存する仏像の大部分はそれ以後の平安時代末期から鎌倉時代にかけての作である。一部に10世紀にさかのぼるとみられる像もあるが(兜跋毘沙門天立像、阿弥陀如来立像)これらの像の江戸時代以前の伝来は明らかではない。 

 

 当寺の仏像の特色としては、地方色の薄い、都風の作風の像が多いこと、クスノキ材を用いる像が多いこと(平安時代以降の日本の木彫仏は一般にヒノキ材のものが多い)に加え、丈六像が5躯あることが特筆される。丈六像とは、経典に釈尊の身長が一丈六尺とあることから、この高さを基準に造られた仏像のことである(立像の場合は像高約4.8m、坐像の場合は半分の約2.4m)

 

 当寺の仏像では聖観音坐像、阿弥陀如来坐像、不空羂索観音立像、十一面観音立像、馬頭観音立像が丈六像である。このうち、聖観音坐像(旧講堂本尊)は治暦2年(1066年)の講堂再興時の作。十一面観音立像はその3年後の延久元年(1069年)の作である。阿弥陀如来坐像(旧金堂本尊)と馬頭観音立像はやや下って12世紀前半の作。不空羂索観音立像は、奈良時代から安置されていた塑造の当初像が承久3年(1221年)に転倒・損壊した後、その再興像として翌貞応元年(1222年)に造立されたものである。

 

●木造聖観音坐像:もと講堂本尊。重要文化財指定名称は「木造観音菩薩坐像」。クスノキ材の寄木造。像高は3.21m。像内に「藤原重友、重□(近)、紀為延」等の結縁交名(けちえんきょうみょう、結縁者の列記)の記がある。『扶桑略記』の治暦2年(1066年)11月28日、観世音寺再興供養の条に「金色丈六観世音像」とあるのが本像にあたり、同年頃の造立とみられる。

 

木造十一面観音立像:もと講堂安置。ヒノキ材の寄木造。像高は4.98m。像内に「延久元年七月、□□師賀斐講師暹明」等の造像結縁交名の記があり、賀斐(甲斐)講師暹明が延久元年(1069年)に造立したことがわかる。

 

木造聖観音立像:もと金堂安置、現・講堂安置。重要文化財指定名称は「木造観音菩薩立像」。クスノキ材の寄木造。像高は1.68m。像内に「大仏師良俊」等の造像結縁交名の記がある。11世紀の作。肥前杵島沖の有明海から引き上げられたとの伝説から「杵島観音」と通称される。

 

木造馬頭観音立像:もと講堂安置。ヒノキ材の寄木造。像高は5.03m。四面八臂(前後左右に顔があり、8本の腕を有する)で忿怒相をあらわす。像内に「大仏師真快、明春、上座威儀師暹増」等の造像結縁交名の記があり、作者名(真快、明春等)は判明するが、造像年次の記載はない。寺伝では大治年中(1126 - 1131年)の作という。康治2年(1143年)の「筑前国観世音寺年料米相折帳」という文書に「新造馬頭観音」とあるのが本像にあたり、その頃に「新造」されたものとみられる。また、像内の結縁交名中の暹増という僧の活動時期とも併せ、本像は寺伝どおり12世紀前半の作品と判断される。

 

木造阿弥陀如来坐像:もと金堂本尊。定印を結ぶ(膝前で両手を組み、各手の第1・2指で輪をつくり、他の3指を伸ばす)。クスノキ材の寄木造。像高2.2メートル。前出の馬頭観音像同様、康治2年(1143年)の「筑前国観世音寺年料米相折帳」に「新造阿弥陀」とあるのが本像にあたり、その頃の作品とみられる。

 

木造不空羂索観音立像:もと講堂安置。クスノキ材の寄木造。像高は5.17m。三眼六臂、頭上に11の小面を有する。像内に「貞応元年八月十四日、行事良慶、大仏師僧琳厳」の造立銘があり、造立年(貞応元年 = 1222年)と作者(琳厳)が明らかである。前述のとおり、奈良時代に造られた当初像(塑像)が転倒・損壊した後に再興された像であり、像内には当初像の心木と面相部断片が納入されていた。本像は、同じ宝蔵にある平安時代末期作の馬頭観音像及び十一面観音像より時代が下り、作風も異なっている。本像の引き締まった面貌、脇腹を絞り抑揚のある体形、腰から下の衣文が左右対称でなく変化を付けている点などは鎌倉時代仏像の特色である。

 

木造十一面観音立像:もと講堂安置。ヒノキ材の寄木造。像高は3.03m。像内に「仁治三年九月廿七日」の造立記1巻が納入されていた(仁治3年は1242年) 

 

4)文化財

4.1)国宝

 ●梵鐘(工芸品)

 奈良時代。京都・妙心寺鐘、奈良・當麻寺鐘等とならぶ日本最古の梵鐘の一つと考えられている。本鐘の正確な鋳造年次は不明であるが、戊戌年(西暦698年)の銘を有する妙心寺鐘と同じ木型を用いて鋳型を造った兄弟鐘と推定されている。

 

 妙心寺鐘観世音寺鐘とは、龍頭(最上部のフック部分)や、上帯・下帯(じょうたい・かたい)唐草文のデザインが異なるが、鐘身全体の寸法・形状などは細部まで一致している。観世音寺鐘には銘文はないが、笠形の上面に「天満」、口縁部の下面に「上三毛」などの文字が陰刻されている。

 

 鐘は現在も鐘楼に懸けられている。明治37年2月18日、当時の古社寺保存法に基づき旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定、昭和28年11月14日、文化財保護法に基づき国宝に指定。鐘の音は日本の音風景百選にも選ばれている。また菅原道真が大宰府にて書いた詩で「都府の楼には纔に瓦の色を看る 観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く」と詠じられている。 

 

4.2)重要文化財(略) 

 

4.3)国の史跡

*観世音寺境内及び子院跡(附 老司瓦窯跡): 昭和45年9月21日指定。

 

4.4)福岡県指定有形文化財

金堂及び講堂 - 昭和32年8月13日指定。

 


(2-3)大宰府・竈門神社


(引用:Wikipedia)

 竈門神社(かまどじんじゃ)は、福岡県太宰府市にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。別称を「宝満宮」「竈門宮」とも。 

 

〇参考Webサイト:「竃門神社」(公式ホームページ) 

 

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拝殿(引用:Wikipedia)

1)概要

 太宰府市東北に立つ宝満山に所在する神社で、社殿は次の2ヶ所に形成されている。

●上宮:宝満山山頂(標高829.6m)

 

●下宮: 宝満山山麓。

 かつては山腹に中宮もあったが、明治に廃絶している。 

 

 宝満山は大宰府の鬼門(東北)の位置にあることから、当社は「大宰府鎮護の神」として崇敬された。平安時代以降は神仏習合が進み、当社と一体化した神宮寺の大山寺(だいせんじ、竈門山寺・有智山寺とも)は、西国の天台宗寺院では代表的な存在であった。

 

 また、宝満山には英彦山(ひこさん)とともに修験道の有数の道場が形成されたが、明治期にこれらの仏教施設は廃された。しかしながら、今なお福岡県下には当社から勧請された約40社の神社があり、現在も宝満山に対する信仰・縁むすび信仰により崇拝されている神社である。

 

 文化財としては、当社社地を含む宝満山一体国の史跡に指定されている。また、木造狛犬や宝満山山岳信仰関係資料307点が福岡県の文化財に指定されている。 

 

2)社名について

宝満山(引用:Wikipedia )

 

 当社は大宰府東北方の宝満山(ほうまんざん)に鎮座するが、この宝満山は古くは「御笠山」(みかさやま)「竈門山」(かまどやま)と称されていた。うち「御笠山」の山名は、笠のような山容に由来する古いものといわれ、古くは神体山として信仰されたともいわれる。

 

 もう1つの山名「竈門山」は、筑前国の歌枕としても多く詠み込まれている。当社社伝である鎌倉時代後期の『竈門宝満大菩薩記』では、元は「仏頭山」「御笠山」と称されていたが、神功皇后の出産の時にこの山に竈門を立てたことに由来すると伝える。

 

 一方『筑前国続風土記』では、山の形がかまど(竈)に似ており、煮炊きの様子を示すかのように雲霧が絶えないことに由来するとする。

 

 そのほか、大宰府鎮護のためカマド神を祀ったとする説、九合目付近の「竈門岩」に由来するという説がある。

 

 現在の「宝満山」の山名は、神仏習合に伴って祭神を「宝満大菩薩」と称したことによるとされ、その初見は13世紀末頃の古文書まで下る。

 

3)祭神

〇主祭神

玉依姫命 (たまよりひめのみこと)

 

〇相殿神

神功皇后 (じんぐうこうごう)

応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代。神功皇后皇子。 

 

 祭神のうち、玉依姫命元々の祭神で、神功皇后・応神天皇はのちに合祀されたという。

 

 『筥崎宮縁起』等では当宮八幡神の伯母(応神天皇の伯母、神功皇后の姉)と見なしており、遅くとも12世紀初頭には八幡神(神功皇后・応神天皇)と結び付けられたと見られている。

 

 竈門神が八幡神の系譜に組み込まれた背景には、古くから大宰府と関わっている当社の政治的色彩が指摘される。

 

 一方神社の社名から本来の祭神は竈神たる三宝荒神で、宝満山中に巨岩があり天孫族に多い巨石信仰が見られることからも、本来の祭神を三宝荒神と同神の八幡神と見る説もある。

 

 神名は中世には「宝満大菩薩」、近世には「宝満明神」とも称された。 

 

4)歴史

4.1)創建

大宰府正殿跡(都府楼跡)当社はその鬼門(東北)に位置する。(引用:Wikipedia) 

 

 社伝では、天智天皇の代(668年-672年)に大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが神祭の始まりという。次いで天武天皇2年(673年)心蓮(しんれん)上人が山中での修行していると玉依姫命が現れたため、心蓮が朝廷に奏聞し山頂に上宮が建てられたという。神社側では、この時をもって当社の創建としている。

 

 これらの社伝の真偽は明らかではないが、下宮礎石群の調査から創建は8世紀後半には遡るとされる。また上宮付近からは、9世紀から中世にまで至る、多くの土師器・皇朝銭等の祭祀遺物が検出されており、大宰府・遣唐使との関連も指摘される。

 

 社伝に見られるように、当社の歴史は大宰府と深い関係を持ちつつ展開する。一方で、玉依姫命「水分の神」としての性格から、御笠川・宝満川水源の神として自然発生的に玉依姫命が祀られていたと推測し、その後に政治的な神格が与えられたと見る説もある。

 

4.2)概史 

〇奈良時代から平安時代

 当社に関係する最初の確実な史料は、延暦22年(803年)竈門山寺(かまどさんじ)(当社の神宮寺)に関する記載である。この記事に見えるように、当社は奈良時代にはすでに神仏習合の状態であったと見られている。 

 

 「竈門神」については、承和7年(840年)従五位上の神階が叙された記事を初見として、神階はその後嘉祥3年(850年)正五位上(従五位上?)、貞観元年(859年)従四位下、元慶3年(879年)従四位上、寛平8年(896年)正四位上に上った。

 

 また、承和9年(842年)には奉幣の記事が見えるほか、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、筑前国御笠郡に「竃門神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。なお、当時の社名の訓みは一般に「カマト」と付されるが、「カマカト」と付す写本もある。 

 

 社殿に関しては、長治2年(1105年)の焼亡の記事に始まり、御占・遷宮の記事を経て、久寿2年(1155年)に再度焼亡とそれに伴う訴えの記事が見える。

 

 社司は、天元2年(979年)の段階では大宮司一山の貫主を担っていたが、11世紀末頃には神仏一体となっており、大山寺別当が当社含め一山を取り仕切っていたと見られている。長治2年(1105年)には、当社神宮寺の大山寺の別当職を巡り、延暦寺石清水八幡宮が争いを見せた。

 

 嘉承元年(1106年)には当社は正一位の極位に達し、この頃には最も宝満山の勢いがあったといわれ、当時の当社を「九国総鎮守」と記す伝も見える。また八幡神関係の文書には竈門神八幡神(応神天皇)の伯母とする記載が見え、大宰府と関わる当社の政治的影響力八幡神の関わりが指摘される。

 

〇鎌倉時代以後(鎌倉時代以降の動向は、神宮寺節も参照)

 平安時代以後の当社は、神仏一体となって営まれた。その進展もあって室町時代からは「宝満宮」という名称も見られるようになる。その後は戦国時代の戦乱に巻き込まれ、勢力は大きく衰退した。

 

 近世に入ると、筑前国を治めた小早川氏によって天正15年(1587年)から修験道の道場として再興され、慶長2年(1597年)には神殿・拝殿・講堂・行者堂・末社等が再建されたという。

 

 代わって慶長5年(1600年)に入国した黒田長政からの崇敬も篤く寄進も受けたが、寛永18年(1641年)に火災によってほとんどの建物を焼亡した。慶安3年(1650年)、福岡藩2代藩主・黒田忠之によって神殿・拝殿・講堂・神楽堂・鐘楼・行者堂が再建された。江戸時代を通して、社領は50石を数えていた。

 

 明治に入り、神仏分離によって仏教色は一掃された。明治5年(1872年)近代社格制度では村社に列し、明治28年(1895年)官幣小社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。 

 

〇神階

「竃門神」に対する神階奉叙の記録。

●六国史

・承和7年(840年):従五位下から従五位上 (『続日本後紀』)

・嘉祥3年(850年):正五位上 (『日本文徳天皇実録』)従五位上の誤りか。

・貞観元年(859年):正五位下から従四位下 (『日本三代実録』)

・元慶3年(879年):従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)

 

●六国史以後

・寛平8年(896年):従四位上から正四位上 (『日本紀略』)

・嘉承元年(1106年):従一位から正一位 (『中右記』) 

 

5)境内

 社殿は宝満山山頂の上宮、山麓の下宮からなる。古くからの信仰の場であるとして、当社社地を含め宝満山は国の史跡に指定されている。かつては中腹中宮も存在した。 

 

5.1)山麓(下宮)

 下宮は山麓に鎮座する。主要社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる。

 

 境内には南北七間・東西四間の礎石建物跡があり、竈門山廃寺の中枢施設と見られている。当地からは8世紀から12世紀の古瓦が出土している。

 そのほか、北方の太宰府市北谷には境外遥拝所がある。 

 

5.2)宝満山中(上宮・中宮跡)

 上宮は宝満山山頂(標高829.6m)に鎮座する。山頂付近には、心蓮上人を埋葬したとされる墓や、祭神・玉依姫命の墓所と伝える法城窟(ほうじょうくつ)がある。

 

 また山腹には中宮跡が残る。かつて中宮には講堂・神楽堂・役行者堂・鐘楼等が備えられていたとされるが、明治の廃仏毀釈に伴い廃絶した。

 

 そのほか、山中には多くの坊跡仏教遺跡が残り、神仏習合時代の面影を残している。

 

6)摂末社

・五穀神社

・須佐神社

夢想権之助社:祭神は夢想権之助。夢想権之助は宝満山で修行したのち、宮本武蔵と戦って勝ったと伝えられる。

 


参考 山岳信仰と宝満山


(引用:Wikipedia)

 宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)竈門山(かまどやま)とも言う。

 

1)概要

 かつての筑前国御笠郡の中央にあたり、福岡市の南東、太宰府市の北東部、筑紫野市の北東部に位置する。古くから霊峰として崇められ、山頂の巨岩上に竈門神社の上宮があり、全山花崗岩で、英彦山脊振山と並ぶ修験道の霊峰である。また、中世高橋氏の本拠である宝満山城(宝満城)が築かれた。

 

 山頂の眺望は抜群で、西から脊振山地の山々、博多湾・玄界灘・三郡連山(砥石山・三郡山・頭巾山・仏頂山・宝満山)・英彦山・古処山・馬見山・津江山地・九重山の山々・福岡・筑後・佐賀の三平野・有明海の彼方に雲仙岳も遠望でき、稜線沿いに仏頂山・三郡山へと至る道は人気の高いハイキングコースである。数多くの登山道があるが、太宰府側からのものが登山者が多い。

 

 古くから大宰府と密接に関わった歴史があり、古代から近世の遺構が多く残っており、日本の山岳信仰のあり方を考える上で重要な山として、2013年10月17日付で文化財保護法に基づく史跡に指定された。

 

2)山名の由来 

●御笠山

 最も古い名称で、筑紫野市の二日市方面から望むと「笠」の形に見えることから(古来「笠」は神の憑代(よりしろ)と考えられ山全体が御神体として信仰されていた)麓には、日本書紀にも記される三笠の森の史跡がある。

 

●竈門山

 この山の九合目にある竈門岩によるという説と、貝原益軒の「筑前国続風土記」には「この山は国の中央にありていと高く、造化神秀のあつまれる所にして、神霊のとどまります地なれはにや、筑紫の国の惣鎮守と称す。」と書かれてあり、カマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上っているように見えることからという説がある。

 

●宝満山

 神仏習合によってこの山に鎮座する神が「宝満大菩薩」とされたことから。

 

 大宰府政庁の鬼門(北東)の方位にあたり鬼門封じの役目といわれている、京都御所における比叡山と同じ、伝教大師最澄も宝満山で祈祷をしたといわれている。

 

 太宰府天満宮の手水舎は宝満山から運び出した岩で造られたもの。

 

3)宝満山と修験道(引用:宝満山弘有の会HP

3.1)宝満二十五坊

 宝満山には盛時370の坊があったと伝えられています。そのうち300坊は学問を専らにした「衆徒方(しゅとがた)、70坊は修行を専らにした「行者方」といわれました。

 

 度重なる戦乱に坊は没落し、江戸時代には行者方の25坊のみが残り「宝満二十五坊」と呼ばれました。

 

 現在キャンプセンターがあるところは、「座主(ざす)跡」ともいいますが、ここに宝満山伏のトップ「座主楞伽院(りょうがいん)があり、その下の東院(とういん)に16坊、百段ガンギの両側に展開する西院(さいいん)に9つの坊がありました。

 

 坊は寺であり、山伏の住まいであり、その家族や弟子たちも住んでいました。また上宮(じょうぐう)参拝七窟巡りなどをする信者の宿泊施設でもありました。

 

3.2)中宮跡

 山伏(修験者)は、山で厳しい修行をすることによって仏の子として生まれ変わり、人々を救う存在になることを目指しました。

 

 宝満山の修験道の中心道場は中宮跡にありました。中宮付近には、仏を表す梵字を彫った巨岩がいくつかあります。それらに刻まれた年号は、鎌倉時代末のものがほとんどです。つまりこの頃、宝満山に本格的に修験道が導入され、中宮が開発されたものと考えられます。

 

 明治維新の神仏分離、修験道の廃止によって、今は広場となっている中宮跡ですが、かつては大講堂や神楽堂、鐘撞堂が建ち並び、法螺貝や錫杖の音、読経の声も響いていたことでしょう。

 

3.3)金剛界と胎蔵界

 修験道の本尊は大日如来です。大日如来が罪深い衆生を教化するために変身されたお姿が不動明王なのです。ですから山伏の修行は何時もお不動さんと共にあります。

 

 大日如来には金剛界(こんごうかい)胎蔵界(たいぞうかい)という相対する二つの世界があります。

 

 金剛界曼荼羅(まんだら)は、九つの区画に区切られた仏の世界で、大日如来の智的構成を示し、金剛不壊(ふえ)といわれる堅固な悟りや智恵を表しています。金剛界であり、であります。

 

 胎蔵界曼荼羅は、八葉(はちよう)の蓮華の中央に座す大日如来を中心に仏の世界が波紋のように広がります。現象界理法を表し、の慈悲を表しています。

 

3.4)宝満修験の峰入り

〔金剛界と胎蔵界〕

 宝満山金剛界の山、一方の胎蔵界英彦山です。

 

 両山の距離は130㎞、その間に「四十八宿(しじゅうはっしゅく)という礼拝する場所が置かれました。宿は神社やお寺、お堂もありますが、巨岩や巨木、泉など自然の聖なる場所もありました。最も重要な宿は小石原の深仙宿(じんぜんしゅく)で、両界の境目となる重要な行場でした。

 

〔入峰道〕

 宝満山と英彦山の間の入峰道は697年に役行者が開いたと伝え、また役行者は701年に再来し、宗像の孔大寺山胎蔵界とする三部習合之峯を開いたとも伝えています。

 

 しかし実際の所、宝満山から大根地山夜須高原の五玉(いつたま)神社、古処山(こしょさん)屏山(へいざん)馬見山嘉麻峠不動岳二又山を経て小石原深仙宿に入り、糸ヶ峰の難所を越えて、愛法窟での出生潅頂、さらに大日岳釈迦岳岳滅鬼(がくめき)から彦山に至る峰道が開かれたのは平安末期頃、団体での入峰行が行われるようになったのは鎌倉時代以降、この地で修験道が盛んになったのは蒙古襲来が大きな契機と考えられます。

 

〔大峯〕

 宝満山-彦山間の入峰「大峯」といわれ、宝満山伏秋峰として行い、彦山山伏春峰夏峰の二季、入峰修行しました。

 

 宝満山の修験道は獅子流と言われ、入峰修行の中心道場は獅子宿(ししのしゅく)といわれました。この宿は峰々を隔てて、英彦山の備宿(そなえじゅく)と向き合っていました。獅子宿はキャンプセンター水場の下にありましたが、明治維新で修験道が廃止されると谷底に突き落とされたと伝えられています。

 

〔葛城峯〕

 宝満山-孔大寺山間の入峰「葛城峯(かつらぎのみね)といわれ春峰修行として行われました。

 

 宝満山を出ると三郡縦走の峰道を若杉山に至り、久山の首羅山から犬鳴山へ。西山連峰は東に下り、峰に戻っては西に下り、また峰に戻るという苦行をしながら靡山(なびきやま)から釈迦岳、戸田山、孔大寺へ至ります。帰路は宗像の鐘崎から宗像大社、香椎宮、筥崎宮など有名所をまわり、博多では櫛田神社で町人のために、福岡城に入っては藩主のために護摩祈祷をしました。

 

〔春峰〕

 春峰は、座主一世に一代の入峰であり、大がかりな入峰で、デモンストレーション的な要素もあったためか、多くの史料や入峰絵巻などが遺されています。

 

〔大巡行〕

 春秋の峰入りの他に、夏に「大巡行(おおめぐりぎょう)が行われました。昼は東院谷の薬師堂で写経や読経をし、夜間、宝満山中の拝所に花(樒(しきみ)の枝)を供えてまわるのです。「天台の修法(すほう)とも「心蓮の遺法」ともいわれます。

 

 大巡行では薬師堂から女道を通り大南窟まで下り、そこから一気に中宮に登って、山名の由来ともいわれる竃門岩(かまどいわ)馬蹄岩、そして上宮を拝し、仏頂山(ぶっちょうざん)心蓮上人のお墓で日の出を迎えるのです。この行ではまた、季節柄、凶作を引き起こす害虫除けの祈祷もなされました。

 

〔明治以降の修験道〕

 明治のはじめ山伏は山を追われますが、昭和57(1982)年、心蓮上人の1300年遠忌(おんき)を記念して宝満山修験会が結成され、入峰、採燈大護摩供(さいとうだいごまく)が復活し、毎年5月の第2日曜日に入峰、最終日曜日に採燈大護摩供が行われています。

 

 また、宝満山開創1350年を記念して、平成25年に、明治維新以来途絶えていた英彦山への峰入りも再興しました。

 

〇参考Webサイト

山岳信仰と宝満山(九州国立博物館)

宝満山-歴史の宝の山、宝満山(日本山岳会)

ちくしの散歩「宝満山の山伏」(筑紫野市教育委員会)

山旅日記宝満山辺(YAMAP)


(2-4)大宰府・太宰府天満宮


(引用:Wikipedia)

1)概要

 太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。

 

 菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間にすると850万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。

 

20100719 Dazaifu Tenmangu Shrine 3328.jpg

本殿(重要文化財)(引用:Wikipedia)

2)祭神

 菅原道真公 学問の神として広く知られている。

 

3)歴史

〔菅原道真の左遷〕

 右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。その死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。

 

〔安楽寺天満宮の創祀〕

 一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。

 

〔道真の祟り〕

 それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。

 

 そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった清涼殿落雷事件。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。

 

 承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。

 

〔御霊信仰〕

 わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。

 

  ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった。

 

 寛弘元年(1004年)一条天皇が初めて北野天満宮へ行幸されて、太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、とくに承徳元年(1097年)大江匡房が太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、祭祀が厳かになったという。

 

〔社運の隆盛〕

 その後、社運に変遷はあったが、江戸初期に黒田氏が国主になってからは、常に社域の整備や社殿の修復・造営がおこなわれて社運は隆盛、九州でも多くの観光客を集める神社となっている。

 

〔学問の神様〕

 文明12年(1480年)に当地を訪れた連歌師の宗祇が『筑紫道記』にこの安楽寺天満宮のことを記しているが、道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。

 

近代社格制度

 明治に入り、近代社格制度のもとで明治4年(1871年)国幣小社に列格するとともに神社名を太宰府神社に変更した。これは北野天満宮が近代社格制度のもと「北野神社」に変更したのと同様に、「宮」号が基本的には皇族を祭神とする神社しか使用できなくなったからである。同15年(1882年)には官幣小社に昇格、次いで同28年(1895年)には官幣中社に昇格した。神社の国家管理を脱した戦後の昭和22年(1947年)に社号を太宰府天満宮に復した。

 

〔文化の神様〕

 祭神の菅原道真が「学問の神様」であると同時に「文化の神様」としても信仰されていたため、それぞれの時代の人々による和歌・連歌・歌舞伎・書画の奉納を通じて、文芸・芸能・芸術、いわゆるアートと関係が深まっていった。平成の時代においても、女性音楽グループが本殿前に特設の舞台を設け歌唱奉納を行うなどしている。また、奉納絵馬は九州でも指折りの質量となっており、それを掲げた絵馬堂はギャラリーとしての役割を果たしている。

 

幕末維新の策源地

 参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地といわれ、三条実美たち公卿5人が3年半余り滞在した所である。土佐脱藩の土方久元中岡慎太郎も滞在しており、薩摩の西郷隆盛や長州の伊藤博文、肥前の江藤新平坂本龍馬なども来訪している。

 

〔三天神〕

 太宰府天満宮北野天満宮防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを大阪天満宮等とする説も存在する。

 


(2-5)大宰府・防衛施設(その1:水城)


(引用:Wikipedia)

 水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている。 

 

〇参考Webサイト:みどりの木のプログ

 水城1(歴史など) 水城2(東門跡周辺) 水城3(水城館) 水城最終回(展望台) 

 

水城跡 概観

 水城跡 概観(引用:Wikipedia )

1)概要

 『日本書紀』に、「・・・。また、筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と、記載された城である[注]

 

[注] 『日本書紀』の天智天皇三年(664年)十二月の条に、「・・・。又於 筑紫、築 大堤 貯水、名曰 水城。」と、記載する。 

 

 白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの(とぶひ)対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した。

 

 そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城[注]を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。

 

[注] 水城は、「大水城・水城大堤」とも呼ばれる。また、水城の西方に所在する複数の小規模の土塁遺構は、「小水城」と総称されている。

 

 

空から見た水城。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成 1975年。(引用:Wikipedia)

 

 水城は、大野城のある四大寺山(大城山)[注]、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。全長約1.2km×高さ9m×基底部の幅約80m・上部の幅25mの二段構造の土塁で、東西の端部の東門西門が開く。土塁の基底部を横断して埋設された木樋(もくひ)は、長さ79.5m×内法幅1.2m×内法高さ0.8mである。土塁の博多側の現水田面より5m下に、幅60m×深さ4mほどの外濠が存在する。

 

[注]:正式名称は大城山(おおきやま)である。福岡県では、通称の四大寺山(しおうじやま)が一般的に使用される。 

 

 水城は、平野を遮断する直線的な土塁外濠をあわせもつ「城壁」(防塁)である。中央に御笠川が北流する沖積地の軟弱地盤に築かれる。土塁の最下層部に多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する、敷粗朶(しきそだ)工法で施工されている。また、土塁の上層部は、土質の異なる積土を10cmほどの単位で硬く締め固めて積まれた、版築(はんちく)土塁である。

 

 水城は、博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する「遮断城」である。東門西門が設けられ、福岡方面から2道が通過していた。西門は3期の変遷が確認され、大宰府筑紫館(後の鴻臚館)を結ぶ、儀礼的な外交の主要道として8世紀後半まで機能していたとされている。

 

 水城の西方に、丘陵の間を塞ぐ複数の小規模の土塁遺構がある。水城と一連の構築物で、「小水城」(しょうみずき)と総称される。土塁の長さ約80mの「上大利小水城」・土塁の長さ約100mの「大土居小水城」[注]・土塁の長さ約80mの「天神山小水城」[注]などである。

 

[注]:「大土居水城跡」と「天神山水城跡」は、国指定の特別史跡「水城跡」に包含される遺跡である。

 また基山町にも、基肄城に連なると考えられる関屋土塁跡とうれぎ土塁跡があり、これらも小水城と呼ばれる。 

 

 天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬〜九州の北部〜瀬戸内海〜畿内と連携する防衛体制を整える。

 

 また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤小水などで防備を固め、この原型は、百済の泗沘都城にあるとされていた。しかし当時はまだ大宰府が機能していなかったとして否定されつつある。 

 

2)関連の歴史

 日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。

天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。

 

天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城基肄城を築く。

 

天智天皇6年(667年):大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。 

 

3)調査研究

 遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。

・考古学的調査は、1913年(大正2年)黒板勝美中山平次郎の土塁断面の調査と、1930年(昭和5年)長沼賢海鏡山猛の木樋の調査があるが、本格的な発掘調査は1970年(昭和45年)に開始された。

 

 それ以降、福岡県教育委員会・九州歴史資料館・太宰府市・大野城市が、継続的に調査している。 1975年(昭和50年)の発掘調査で、水城大堤の博多側に外濠が存在することが判明した。1978年(昭和53年)の発掘調査で、8世紀後半代の「水城」銘の墨書土師土器が発掘された。 

 

・2013年から2014年にかけて、福岡県教育委員会は、100年ぶりに土塁断面の再調査を行った。九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である。2019年2月26日、大野城市下大利にある「父子嶋」(ててこじま)国特別史跡「水城跡」に追加指定された。 

 

4)その他

・九州旅客鉄道の鹿児島本線の「水城駅」は、『日本書紀』の「水城」に由来する。水城駅の近くで、列車は「水城の土塁切断部」を通過する。 

 

・平成25年〜27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関係自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された。

 

・2017年(平成29年)、続日本100名城(182番)に選定された。

 

・2017年(平成29年)4月1日 - 水城館開館。

 

・2017年11月、国際天文学連合(IAU)は火星と木星の間で古川麒一郎により発見された小惑星に「Mizuki」と命名、登録した。

 


(2-5)大宰府・防衛施設(その2:大野城)


(引用:Wikipedia)

 大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている。 

 

百間石垣(高さ8m×基底部幅9m×長さ180m)

百間石垣(高さ8m×基底部幅9m×長さ180m)(引用:Wikipedia ) 

1)概要

 大野城は、大宰府政庁跡の北側背後に聳える、標高410mの四王寺山(大城山)[注 1]に所在する。山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と石塁の外周城壁は、約6.8kmである。そして、南側と北側の土塁が二重となり(城壁総長は8.4km)防備を固める。城域は東西約1.5km×南北約3kmの、日本一の大規模な古代山城である。

 

 城門は太宰府口城門など9か所が開く[注 2]。また、谷部では、浸透式で自然排水の百間石垣・水ノ手石垣などに加え、水口のある屯水石垣などが確認されている。

 

 大野城市の名称はこの大野城に由来する。2006年4月6日には、日本100名城(86番)に選定された。

 

[注1] 福岡県では、通称の「四王寺山(しおうじやま)」が一般的に使用されている。本項目も「四王寺山」を主とする。

 

[注2] 太宰府口・坂本口・水城口・宇美口の城門に加え、2003年の集中豪雨の復旧事業で、原口・観世音寺口・北石垣・小石垣の城門が発見された。その後、新たに中嶋聡(古代山城研究会会員)により、クロガネ岩城門が発見された。 

 

2)調査・研究

 発掘調査では、太宰府口城門三期にわたって建て替えられている。また、北石垣城門は、入口前面に1mほどの段差を設けた懸門構造であり[注 3]、門柱の軸受け金具の出土は国内初の事例である。

 

  そして、約70棟の建物跡が確認され、数棟で一群となり、主城原(しゅじょうばる)礎石群など、城内8か所に分布する。掘立柱建物礎石建物があり、倉庫と考えられている総柱礎石建物が多数存在するが、築城期以降の建物とされている。出土遺物は、墨書土器・軒丸瓦・軒平瓦・炭化米などが出土している。

 

[注3]:朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の入口に進入しにくい段差のある城壁を設け、普段は梯子・木段などで出入りし、戦闘時は撤去する門で、防御性能を高める構造。 

 

城跡の研究は、1926年(大正15年)島田二郎が発表した「大野城址」を嚆矢とする。 

 

考古学的研究は、1950年~1960年の鏡山猛踏査研究をもとに、1973年(昭和48年)から九州歴史資料館発掘調査を行っている。発掘調査の成果は、福岡県教育委員会 編集/発行 『特別史跡 大野城跡 ・I~IV』、1976年~1991年、で報告されている。 

 

・平成15年7月、異常な豪雨で土砂災害が発生し、平成16年から6年間にわたり、約30か所で遺構関連復旧工事が施工された。 

 

・土塁の崩壊により、外郭線の全域の土塁基底部に列石が存在することが判明した。また、列石の前面で柱穴列が検出された。 

 

九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である。 

 

・1898年(明治31年)高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 4]。そして、その後の発掘調査城郭遺構とされた。

 

 一方、文献に記載のある大野城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 5]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。

 

 また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた。

 

[注4] 歴史学会・考古学会における大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』第6巻、雄山閣出版、1987年)。

 

[注5] 1995年(平成7年)、文化財保護法の指定基準の改正にともない「神籠石」は削除され、「城跡」が追記された。 

 

3)関連の歴史

 『日本書紀』には、「・・・大野(おおの)(き)二城(ふたつのき)を築かしむ」と、記載する[注 6]。また、『続日本紀』に、「大宰府をして大野基肄(きい)鞠智(くくち)の、三城を繕治せしむ」と、記載された城である[注 7]

 

[注6] 『日本書紀』の天智天皇四年(665年)八月の条に、「・・築 大野及椽 二城」と、記載する。

 

[注7] 『続日本紀』の文武天皇二年(698年)五月の条に、「令 大宰府 繕治 大野、基肄、鞠智、三城」と、記載する。 

 

 大野城は、白村江の戦い唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)基肄城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている。城郭の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。

 

 また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である。そして、『続日本紀』の698年(文武天皇2年)には、 大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載されている。 

 

 天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整える。

 

 また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤・小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている。 

 

 大野城が所在する「山」の名は、『万葉集』や『風土記』逸文は、「大野山」「大城山」と記述する。

 

 『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

・天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。

 

・天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。

 

・天智天皇4年(665年):長門国にを築き、筑紫国に大野城基肄城を築く。

 

・天智天皇6年(667年):大和國に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。 

 

4)その他

・大野城跡の史跡指定面積の8割は宇美町(うみまち)に属し、百間石垣増長天礎石群などの遺構が所在する。増長天礎石群は内周土塁に沿った四棟の礎石建物跡で、見学者が多いため、「イラスト復元の説明板」への変更が検討されている。 

 

・平成25年~27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関連自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された。 

 

・聖地としての「四王寺山」の名称は、宝亀5年(774年)外敵駆逐を祈願する護国の寺、四王寺(四天王寺・四王院)の建立に起因する。その後、伽藍は現在の毘沙門堂に変遷する。また、十二世紀には多くの経塚が造営され、十八世紀末には山内の要所に三十三観音の石像が安置され、現在に至る。 

 


(2-5)大宰府・防衛施設(その3:基肄城)


(引用:Wikipedia)

 基肄城(きいじょう / きいのき椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1954年(昭和29年)3月20日、国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されている。 

 

〇参考Webサイト:「発見!きやまの歴史1『基肄城のヒミツ』」(基山町立図書館HP)

 

頂上部の土塁

頂上部の土塁(引用:Wikipedia)

1)概要

 基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)、大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている[注 1]

 

 城郭の建設を担当したのはいずれも亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)四比福夫(しひふくぶ)である。

 

 また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である。そして、『続日本紀』 の698年(文武天皇2年)には、大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載され[注 2]、『万葉集』にも、「記夷城(きいのき)」と、記載されている。

 

[注1] 『日本書紀』の天智天皇四年(665年)八月の条に、「・・・築 大野及椽 二城」と、記載する。

 

[注2] 『続日本紀』の文武天皇二年(698年)五月の条に、「令 大宰府 繕治 大野 基肄 三城」と、記載されている。 

 

 基肄城が所在する基山は、大宰府の南方8kmに位置する。山麓には、大宰府から南下する古代官道が通り、基肄駅(きいのうまや)築後国方面肥後国方面に分岐したとされる要衝にある。

 

 基肄城は、標高404mの基山の3か所の谷を囲み、その東峰(327m)にかけて、約3.9kmの城壁を廻らせた包谷式の山城で、城の面積は約60ヘクタールである。

 

基肄城内地図

基肄城跡内地図(引用:基山町HP-基肄城跡) 

 

 城壁は、ほとんどが尾根を廻る土塁であるが、谷部は石塁で塞いでいる。また、山頂では、北側の博多湾、南側の久留米市や有明海、東側の筑紫野市や朝倉市方面、西側の背振の山並みを一望することができる。

 

 古代は、大宰府政庁や大野城・阿志岐山城・高良山神籠石など、他の軍事施設と連携を図れる好位置にある。そのため、基肄城は、大宰府を守る南の防御拠点として、主に有明海方面の有事に備えて築かれたとされている。 

 

 基山からの眺望

基山山頂からの眺め(引用:基山町HP-基肄城跡 

 

 発掘調査では、約40棟の礎石建物跡[注 3]、軒丸瓦・軒平瓦・土器などの出土遺物、頂上部で溜池遺構などが確認されている。城門は、推定2か所を含め、4か所が開く。残存遺構のある城門は、城内北寄りの「北帝(きたみかど)門」「東北門」である。城内南寄りの「南門」「東南門」は、あったとされる推定の城門である。城跡見学の玄関口となる南門と一連の水門石垣に[注 4]、土塁とともに基肄城を代表する水門遺構があり、通水口は国内最大級[注 5]である。

 

 また、2015年(平成27年)の水門石垣の保存修理で、新たに三つの通水溝が発見された。同一の石垣面に四つ以上の排水施設を持つ古代山城は、国内においては唯一、基肄城のみである。

 

[注3] 基肄城には、三×五間の総柱礎石建物が23棟あり、大野城と同一仕様である。発掘調査が進めば、大野城と同数の35棟が想定できる(赤司善彦 「古代山城の建物—鞠智城と大野城・基肄城—」『鞠智城 東京シンポジウム 2015』、熊本県教育委員会、2016年、63頁)。

 

[注4] 石塁は、長さ約26m×高さ約8m×上端幅は約3.3mである。

 

[注5] 水口は、天井部の長さ9.5m×高さ1.4m×幅1.0mである。 

 

 基肄城の東南山麓に、「とうれぎ土塁」「関屋土塁」が確認されている[注 6]。水城と大野城の関係と同様に、基肄城と対となり、最も狭い交通路を塞いだ遮断城とされている。

 

 天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤・小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている。

 

[注6]:とうれぎ土塁は長さ350m、関屋土塁は長さ200m(主要部遺構は消滅)である。 

 

2)関連の歴史

『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

 

天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。

 

天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。

 

天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城基肄城を築く。

 

天智天皇6年(667年):大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。 

 

3)調査研究

 遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。

・1912年(大正元年)、関野貞の踏査研究により古代山城であることが確定した。

 

・1928年(昭和3年)以降、久保山善映・松尾禎作が踏査研究を進める。1959年(昭和34年)、鏡山猛が城跡の実側調査を行い、1968年(昭和43年)、『大宰府都城の研究』で実測結果を発表した。

 

・発掘調査は、1976年と2003年から3か年、森林整備等に伴う発掘調査が実施された。また、2009年に水門石垣保存修理事業に着手し、新たな通水溝を発見して、2015年(平成27年)に完了した。

 

・九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である。

 

・1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 7]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。

 

 一方、文献に記載のある基肄城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 8]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。

 

 また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた。

 

 [注7] 歴史学会・考古学会における大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』第6巻、1987年。)

 

 [注8] 1995年(平成7年)、文化財保護法の指定基準の改正にともない「神籠石」は削除され、「城跡」が追加された)。 

 

4)その他

・平成25年~平成27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関連自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された。そして、基山町イメージキャラクター「きやまん」が、まんが『基肄城のヒミツ』などで活躍する。

 

・平成27年(2015年)10月、第5回 古代山城サミットが基肄城(基山町)で開催された。

 

・平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(184番)に選定された。

 


(3-1)神社・宗像大社


宇佐八幡宮と同じ宗像三女神をまつる神社

(引用:Wikipedia)

    

       辺津宮拝殿         中津宮拝殿        沖津宮拝殿

(写真引用:Wikipedia)

 1)概要

 宗像大社は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社で現在は別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。

 

 また、あらゆる道の神としての最高神(むち)の称号伊勢神宮(おおひるめのむち)出雲大社(おおなむち)に並び持ち、道主貴(みちぬしのむち)と称す。神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。

 

 2017年(平成29年)「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。 

 

2)祭神(細部後述)

3社にそれぞれ以下の神を祀り、宗像三女神(宗像大神)と総称する。

・沖津宮(おきつぐう) : 田心姫神

・中津宮(なかつぐう) : 湍津姫神

・辺津宮へつぐう) : 市杵島姫神 

 

3)社殿

 宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の三社の総称であるが、現在では「辺津宮」のみを指す場合も多いが、辺津宮を指し田島様とも呼ぶ住民も多い。筑前大島には沖津宮遥拝所(瀛津宮)もある。 

 

 地図上で辺津宮から11 km離れた中津宮、さらに49 km離れた沖津宮を線で結ぶと、その直線は145 km離れた朝鮮半島釜山の方向に向かう。

 

 古代から大陸と半島政治、経済、文化の海上路であった。古くから海上・交通安全の神としての神威にちなみ、信仰されているが、現在では海上に限らず、道主貴の名のもとにあらゆる道、陸上・交通安全の神として信仰を集めている。 

 

 沖津宮のある海上交通の要所に位置する沖ノ島は、古来より島に立ち入り見聞きした事を口外してはならず「お不言さま(おいわずさま)と呼ばれ、島全体御神体である。そのため現在でも女人禁制であり、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならない。これが男女差別だと言われることもあるが、これは島の神が女の神様(田心姫神)であり、女性が島に上陸すると嫉妬され祟りがあると言われている説があるが定かではない。

 

 昭和29年以来十数年に渡り沖ノ島の発掘調査が行われ、4世紀から9世紀までの古代祭祀遺構や装飾品などの大量の祭祀遺物(奉献品)、この他に縄文時代から弥生時代にかけての石器や土器などの遺物が発見された。このことから、沖ノ島は俗に「海の正倉院」と呼ばれており、有史以前の古代から海人族らの信仰の対象とされていたことが偲ばれる。

 

 現在は、台風などの緊急避難港に指定されている。なお、大社の神勅の額は、伏見宮貞愛親王が揮毫している。 

 

4)歴史

 伝えられる伝承では日本神話に起源を持つ。天照大神素戔嗚尊誓約(うけい)の際、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕き、プッと吹き出した破片から生まれたのが宗像三女神である。

 

 彼女たちはアマテラスの神勅を奉じて、皇孫ニニギノミコトを見守り助けるため海北道中、玄界灘に浮かぶ筑紫宗像の島々に降り、この地を治めるようになったのが宗像大社の起源とする。 

 

 記紀に記載される「天から地に降りた神」ニニギノミコトとその天孫降臨以前に天降った宗像三女神だけである。これは記紀に記載される神名とその鎮座地が明確に記述されたものとしては最古のものである。 

 

 宗像三宮の御神体依代について、筑前国風土記に依れば、『西海道風土記曰、宗像大神、自天降居埼門山之時以、青玉置奧津宮之表以、八尺紫玉置中津宮之表以、八咫鏡置邊津宮之表以、此三表成神體之形而納置三宮、即隱之因曰身形郡後人改曰、宗像其大海命子孫、今宗像朝臣等是也云々』と逸文に記述あり。 

 

 宗像は『古事記』では胸形という字が当てられ、また胸肩宗形とも表記されるが、もとは水潟であったとする説もある。古くから当地の民の氏神として信仰を集めてきたが、神功皇后三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに宗像に奉幣使を派遣する習いになったとされる。 

 

 大和朝廷から重視され、古来遷都の度に宮中の賢所に当社の分霊が奉斎された。またこの逸話からは航海安全の守護神として崇められるようになった経緯がうかがえる。 

 

 律令制導入により国郡制が布かれると宗像一郡が神領として与えられ、当地の豪族宗形氏神主として神社に奉仕し、神郡の行政も司ることになった。 

 

 宗形氏の由緒を記した石碑によれば、宗形氏の族長が二代にわたって中国の商人の娘を正室に迎えている。また宗形徳善は娘の尼子娘天武天皇の後宮に入れ、白雉5年(654年)に二人の間に生まれた第一皇子高市皇子壬申の乱で父を助けて大功を挙げ、のちに太政大臣に任ぜられた。長屋王高市の子であり、また高階氏の祖ともなった。

 

 807年(大同2年)には封戸74戸の寄進、840年(承和7年)には従五位下に叙され後、859年(貞観元年)、正二位となる。天慶4年(天慶の乱後)には更に進めて正一位の神階を得る。979年(天元2年)大宮司職が太政官より定められる。  

 

5)海の正倉院

 玄界灘に浮かぶ絶海の孤島・沖ノ島の20数箇所の祭祀遺跡から発掘された一括遺物。1954年から1971年に至る第1次〜第3次の発掘調査で出土したもので、時代的には古墳時代から平安時代(4世紀〜10世紀)にわたる。

 

 中国・朝鮮半島製品を含む、各種の銅鏡、金銅(銅に金メッキ)製の馬具類のほか、土師器、三彩陶器、滑石製品、玉類、刀剣類などが出土品の主なものである。出土品中にはペルシャ・サーサーン朝製と見られるガラス椀の破片などもある。

 

 考古学、美術史、宗教史、古代史など、さまざまな分野の研究に資するところの多い、学術的にきわめて貴重な資料である。3次にわたる発掘調査の結果は『沖ノ島』『続沖ノ島』『宗像沖ノ島』という報告書の形で刊行されている。これら出土品は宗像大社の神宝館で公開されている。 

 

 1962年に第1次・第2次発掘調査出土品が国宝に指定され、2003年には第3次発掘調査出土品が追加指定されている。約8万点に及ぶ一括遺物の国宝としては、数量の上で日本一である。

 

国宝:福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品 一括  

    

写真出典:宗像大社HP

 

6)「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群

 

沖ノ島

6.1)概要

 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、ユネスコの世界遺産リスト登録物件で、日本の世界遺産の中では21番目に登録された。

 

 福岡県の宗像市及び福津市内にある宗像三女神を祀る宗像大社信仰や、大宮司家宗像氏にまつわる史跡・文化財を対象とするものであり、自然崇拝を元とする固有の信仰・祭祀4世紀以来現代まで継承されている点などが評価されている。世界遺産委員会では、航海と結びつく世界遺産の少なさを補完する物件という観点からも評価された。 

 

 世界遺産暫定リスト記載時点では宗像・沖ノ島と関連遺産群だったが、正式推薦とともに改称され、その名称で正式登録された。 

6.2)構成資産 

6.2.1)宗像市

●沖ノ島(宗像大社沖津宮) 

「宗像神社境内」として島全体が御神体で国の史跡に指定、「沖ノ島原始林」国の天然記念物に指定。また、「福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」として約8万点の出土品が国宝に指定されており、「海の正倉院」とも呼ばれる由縁となっている。正式版の推薦書では、島の手前にある小屋島御門柱天狗岩の三つの岩礁が鳥居の役割を果たしているとし、付帯施設として記載された。 

 

●宗像大社中津宮(御嶽山祭祀遺跡を含む)

 宗像市大島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定、本殿は福岡県の有形文化財に指定。中津宮背後に聳える御嶽山山頂に鎮座する御嶽神社の裏で確認された御嶽山祭祀遺跡は沖ノ島と同時期の露天祭祀遺構である。御嶽神社に至る登山道は九州オルレにも指定。 

 

●沖津宮遥拝所

 宗像市大島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定。 

 

●宗像大社辺津宮

 宗像市田島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定、本殿及び拝殿は国の重要文化財に指定。境内背後にある高宮祭場の地中にある下高宮祭祀遺跡は沖ノ島および御嶽山祭祀遺跡同様の露天祭祀遺構である。 

 

          

沖津宮の拝殿 祭祀遺跡がある磐座 中津宮の拝殿    御嶽山祭祀遺跡   沖津宮遥拝所 辺津宮の拝殿辺津宮の拝殿

 (引用:Wikipedia)

6.2.2)福津市

●新原・奴山古墳

新原・奴山古墳群 木碑(引用:Wikipedia) 

 

 新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)は、福岡県福津市の対馬見山系にある、津屋崎古墳群の一角を成す古墳群。国の史跡に指定されている(史跡「津屋崎古墳群」に包含)5世紀後半~6世紀後半の古墳時代中期後半に造営され、被葬者は宗像氏関係者と推定される。古墳群の名称は、福津市勝浦の字「新原」「奴山」地区に跨ることによる。

 2017年(平成29年)、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。 古墳が世界遺産に登録された国内最初の例である。 

 

●古墳群の概要

 新原・奴山古墳群、東西800メートルの丘陵地上に前方後円墳5基、方墳1基、円墳41基が現存し、便宜的に通し番号が付されている。この他、過去の記録や発掘調査・地形測量により、周囲の田圃開削により失われた古墳が18基あったことが確認されており、それらにも通し番号が付されている。 

 

 古墳造営当時は丘陵地の西側に接して入海(現在の津屋崎湾が深く入り込む入り江)があったが徐々に後退し、江戸時代に干拓され塩田となり、明治時代以降水田となった。古墳群の周辺にはため池が点在するが、これは近世以降に作られた灌漑用であり、古墳とは無関係。丘陵地は国道495号によって分断されている。 

 

 古墳石室に使用された玄武岩は玄界灘の相島から船によって運ばれたと推定されている。

 


(参考)宗像三女神


(引用:Wikipedia)

 宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラススサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。

アマテラスとスサノヲの誓約(『古事記』に基づく)(引用:Wikipedia) 

 1)概要

 この三女神は、日本から大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神、要として海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島、辺津宮・宗像田島)に祀られ、大和朝廷によって古くから重視された神々。遣隋使遣唐使もこの島を目印として渡海した。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表している。

 

〔三女神の降臨地:沖津宮・中津宮・辺津宮〕

 天照大神が国つくりの前(天孫降臨より以前)「うけい」により生まれたこの三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と神勅を示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。これが宗像大社が祀る、沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神イチキシマヒメ)」である。

 

 この三女神は天照大神と素戔男の誓(うけい)の結果から生まれたという。素戔男の邪心を疑った天照は彼の本心を確かめるために誓約する。素戔男がたばさんでいる剣を天の真名井ですすぎ、口で噛みくだいてキリとして吐き出した。そうして生まれたという。娘たちに「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である。

 

 『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)筑紫(九州北部)海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。

 

〔三女神の降臨地:六ヶ岳〕

 『日本書紀』については、卷第一・神代上・第六段の「本文」とその「一書」で天照大神と素戔嗚尊の誓約の内容が多少異なる。降臨の地は、福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳という山で、筑紫国造の田道命の子孫の、長田彦(小狭田彦)が、天照大神の神勅をうけて神籬を建てたのが祭祀の始まり。『宗像大菩薩御縁起「筑前国風土記逸文」』『香月文書』『六ケ岳神社記』『福岡県神社誌』など。

 

 天照大神が「汝三神(いましみはしらのかみ)、道の中に降りて居(ま)して天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて、天孫の為に祭られよ」との神勅を授けたと記されている。これは現代まで祭祀が続く御神名とその鎮座地が明確に記載される記述では、最も古い。

 

〔三女神の降臨地:御許山〕

 なお、第三の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山に降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしている。八幡神の比売大神である。

 

〔「貴」ムチ)の尊称〕

 別称の「道主貴」の「ムチ」は「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は道主貴のほかには大日孁貴(オオヒルメムチ、天照大神)大己貴命(オオナムチ、大国主)のわずかしか見られない。

 

2)化生した順 

2.1)『古事記』

『古事記』では、化生した順に以下の三神としている。

①沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりびめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)

②大島の中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)

③田島の辺津宮 - 多岐都比売命(たぎつひめ)

この三社を総称して宗像三社と呼んでいる。

 

2.2)『日本書紀』

『日本書紀』では以下のようになっている。

〇本文

①沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)/②中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)/③辺津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)

 

〇第一の一書

①沖津宮 - 瀛津嶋姫(おきつしまひめ)/②中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)/③辺津宮 - 田心姫(たごりひめ)

 

〇第二の一書

①沖津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)/②中津宮 - 田心姫(たごりひめ)/③辺津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)

 

〇第三の一書

①沖津宮 - 瀛津嶋姫(おきつしまひめ) 別名 市杵嶋姫(いちきしまひめ)/②中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)

/③辺津宮 - 田霧姫(たぎりひめ)

 玄界灘に浮かぶ沖ノ島は世界文化遺産に登録され、島には沖津宮があり田心姫神を祀っている。島には古代祭祀遺構があり出土品は一括して国宝に指定されている(邊津宮にある宗像大社神宝館にて展示されている)。 

 

2.3)宗像大社の社伝

 宗像大社の社伝では、以下のようになっている(三女神の神名や配列などに 古来、種々の変遷もあったが現在では以下のようになっている)

①沖津宮 - 田心姫神/②中津宮 - 湍津姫神(たぎつひめ)/③辺津宮 - 市杵島姫神(いちきしまひめ) 

 

3)宗像三女神を祭神とする全国の神社

 海の神・航海の神として信仰されている。宗像大社のほか各地の宗像神社・宮地嶽神社・厳島神社・八王子社・天真名井社・石神神社などで祀られている。八幡社比売大神としても宇佐神宮石清水八幡宮で祀られている。

 

 宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある。なお、八王子神社は五男三女神を祀る神社である。

 

3.1)宗像三女神を祀る神社

 宗像大社 - 福岡県宗像市田島鎮座 総本社宗像神社 - 全国各地/厳島神社 - 広島県廿日市市厳島鎮座 安芸国一宮厳島神社 - 全国各地網走神社 - 北海道網走市鎮座 北見国一宮善知鳥神社 - 青森県青森市安方鎮座

 

八戸三嶋神社 - 青森県八戸市鎮座隠津島神社 - 福島県郡山市湖南町鎮座隠津島神社 (二本松市) - 福島県二本松市木幡鎮座都野神社 - 新潟県長岡市鎮座江島神社 - 神奈川県藤沢市江の島鎮座前川神社 - 埼玉県川口市鎮座

 

天宮神社 - 静岡県周智郡森町天宮鎮座藤切神社 - 滋賀県東近江市甲津畑町鎮座/阿自岐神社 - 滋賀県鎮座市比賣神社 - 京都市下京区河原町鎮座/繁昌神社 - 京都市下京区繁昌町鎮座日向大神宮 - 京都市山科区鎮座

 

八坂神社美御前社 - 京都八坂神社内末社穴水大宮 - 石川県穴水町鎮座/四所神社 (豊岡市) - 兵庫県豊岡市鎮座阿智神社 (倉敷市) - 岡山県倉敷市本町鎮座/亀山神社 - 広島県三原市鎮座

 

日招八幡大神社 - 愛媛県松山市鎮座/蒲生八幡神社 - 福岡県北九州市小倉南区蒲生鎮座六嶽神社 - 福岡県鞍手町六ヶ岳鎮座/慈島宮(厳島神社に改名) - 福岡県宗像市地島鎮座七夕神社 - 福岡県小郡市大崎鎮座

 

薦神社 - 大分県中津市鎮座田島神社- 佐賀県唐津市呼子町加部島鎮座/淵神社 - 長崎県長崎市淵町鎮座/須賀神社(須加神社) - 東京都・三重県・兵庫県・佐賀県など各地に鎮座/粟皇子神社 - 三重県伊勢市二見町松下字鳥取に鎮座 (神宮125社の一つ)

 

3.2)宗像三女神のうち、田心姫神を主祭神とする神社。

 宗像大社沖津宮 - 福岡県宗像市沖ノ島鎮座日光二荒山神社 - 栃木県日光市鎮座/瀧尾神社 - 栃木県宇都宮市等各所鎮座網戸神社 - 栃木県小山市鎮座/興津宗像神社 - 静岡県静岡市清水区興津中町鎮座

 

深島神社 - 愛知県名古屋市北区柳原鎮座/瀧浪神社 - 石川県小松市鎮座小汐井神社 - 滋賀県草津市大路鎮座/新日吉神宮 - 京都府京都市東山区鎮座/一宮神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市中央区山本通鎮座 生田裔神八社の1社/津門神社 - 島根県江津市波子町鎮座

 

3.3)宗像三女神のうち、湍津姫神を主祭神とする神社。

 宗像大社中津宮 - 福岡県宗像市大島鎮座岩木山神社 - 青森県弘前市百沢鎮座 津軽国一宮石峰山石神社 - 宮城県石巻市雄勝町鎮座高津比咩神社 - 千葉県八千代市高津鎮座/奥津嶋神社 - 滋賀県近江八幡市沖島町鎮座大嶋神社奥津嶋神社 - 滋賀県近江八幡市北津田町鎮座/三宮神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市中央区三宮町鎮座 生田裔神八社の1社

 

3.4)宗像三女神のうち、市杵島姫神を主祭神とする神社。

 宗像大社辺津宮 - 福岡県宗像市田島鎮座市杵島神社 - 全国各地/関川神社 - 愛知県豊川市赤坂町関川神社鎮座八百富神社 - 愛知県蒲郡市竹島町鎮座/都久夫須麻神社 - 滋賀県長浜市竹生島鎮座

 

白雲神社 - 京都府京都市上京区京都御苑内鎮座/岩戸神社 - 大阪府八尾市大字教興寺鎮座高天彦神社 - 奈良県御所市鎮座/氷室神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市兵庫区氷室鎮座/四宮神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市中央区中山手通鎮座 生田裔神八社の1社/丹生官省符神社 - 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院鎮座

 

3.5)その他

〇市杵島姫神は中津島姫命の別名とされ大山咋神と供に主祭神とする神社。

 松尾大社 - 京都市西京区鎮座 総本社松尾神社 - 全国各地

 

〇市杵島姫神は鎌倉時代に行勝上人により厳島神社から勧請され丹生都比売神社の主祭神のうち第四殿の祭神となった。

 丹生都比売神社 - 和歌山県伊都郡かつらぎ町鎮座 総本社丹生神社 - 全国各地

 

〇市杵島姫神は弁才天と同一視(本地垂迹)されることも多く、古くから弁才天を祀っていた神社では明治以降、市杵島姫神や宗像三女神を祀っている神社も多い。

 弁財天宮 - 長崎県新上五島町有川郷鎮座/銭洗弁財天宇賀福神社 - 神奈川県鎌倉市佐助鎮座天河大弁財天社 - 奈良県吉野郡天川村坪内鎮座/須佐中嶋弁財天社 - 山口県萩市須佐鎮座

 


(3-2)神社・志賀海神社


九州王朝の祖先?

(引用:Wikipedia )

 志賀海神社は、福岡県福岡市東区志賀島にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。龍の都と称えられ、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。  

 

〇参考Webサイト志賀海神社(公式HP) 

 

Shikaumi-jinja haiden.JPG      

        拝殿         志賀海神社が鎮座する志賀島    拝殿(手前)と本殿(右奥)

写真出典:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/志賀海神社) 

 

1)社名 

 志賀島の島名でもある「志賀」の語源について、『筑前国風土記』逸文 では、神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)と言い、のち「資珂島(しか)と転訛したという。社名「志賀海」は、現在「しかうみ」と呼称されるが、本来の呼称については「しかのわた」「しかのあま」「しかのうみ」「しかにいますわた」等の諸説がある。 

 

2)祭神

 祭神は、次のように左・中・右殿に主祭神が各1柱、相殿神が各1柱が祀られている。主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される。 

・左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)

・中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)

・右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)、右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう) 

 

〇祭神について

 祭神のワタツミ(海・綿津見・少童)三神は、「海 = ワタ・ワタノハラ」という古名に見えるように、海の神とされる。『古事記』『日本書紀』の神産みの段では、禊ぎにおいて住吉三神とともに生まれた神として次の記載が見える。

 

●『古事記』

 誕生した三神の底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を「綿津見神」と総称し、「阿曇連らが祖神ともちいつく神なり」と記す。 

 

●『日本書紀』

 「生めりし海神等を少童命と号す」と述べたのち、誕生した三神の底津少童命・中津少童命・表津少童命について「阿曇連らがいつきまつる神なり」と記す。

 

 このように、ワタツミ三神は記紀においては阿曇氏(安曇氏・阿曇族・安曇族)祖神または奉斎神とされている。阿曇氏の読み「アズミ /アヅミ」もまた「アマツミ(海津見)」の略とも見られるように、この神を奉斎する阿曇氏は海人集団を管掌する伴造氏族であった。

 

 『先代旧事本紀』 では、同じく神産みの段で「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」と記されており、「筑紫斯香神(つくしのしかのかみ)の名で志賀海神社氏神に挙げられている。

 なお、ワタツミ以外の主な海の神としては、スミヨシ(住吉三神:住吉族が奉斎)・ムナカタ(宗像三女神:宗像族が奉斎)が知られ、九州北部にはそれぞれを祀る住吉神社・宗像大社が鎮座する。 

3)歴史

3.1)創建

 創建は不詳。社伝では、古くは志賀島の北側、勝馬浜において表津宮(うわつぐう)仲津宮(なかつぐう)沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという。仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる。

 

 古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる。志賀島海上交通の要衝であり、その志賀島海の中道を含めた一帯 が阿曇氏の本拠地であったとされており、志賀海神社阿曇氏の中心地であったと考えられている。現在も志賀島の全域は神域とされ、現在の神主家阿曇氏の後裔を称している。

 

 なお阿曇氏の活動は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島といった「しか」・「あつみ」という地名は、その遺称地と伝えられる。

 

  また志賀島は金印(漢委奴国王印)が出土したことで知られるが、当地で奴国の印が出土した理由は明らかではなく、阿曇氏ひいてはその氏神たる志賀海神社奴国の関わりを推測する説もあり、同東区名島の名島神社では阿曇氏儺 (那) 懸主であるとしている。

 

3.2)概史

 記録上は、天平3年(731年)の日付(実際は平安時代前期頃の成立か)『住吉大社司解(住吉大社神代記)「那珂郡阿曇社三前」「志賀社」として記載が見える。また『新抄格勅符抄』 では、大同元年(806年)時点で「阿曇神」に神封(寄進された封戸)として8戸があったと見える。

 

 国史によると、天安3年(859年)「志賀海神」の神階が従五位上に、元慶4年(880年)「賀津万神」(仲津宮に比定)従五位下に昇叙されている。

 

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、筑前国那珂郡に「志加海神社三座 並名神大」と記載され、名神大社に列している。 

 

 志賀海神社に関するそのほかの平安・鎌倉期の史料は数少なく、『小右記』 に万寿3年(1026年)に志賀海神社社司が入宋し、翌年に帰国したという記録が見える程度である。

 

 鎌倉時代、元寇の際には志賀島は戦場となったが、志賀海神社境内は『蒙古襲来絵詞』「志賀島大明神」の名称で記載されている。 

 

 南北朝時代以降、志賀海神社は武家の支配を強く受けた。応仁3年(1469年)には少弐頼忠が対馬東月寺の住持に志賀島宮司職が安堵されており、その後は大内氏から庇護を受けた。また志賀海神社では、明に渡航する前に航海の無事が祈願されていた。

 

 近世には、筑前国を治めた小早川氏・黒田氏の庇護を受けた。慶長5年(1600年)に入国した黒田長政により、神殿・拝殿・楼門等が造営されたという。また、文化14年(1817年)の社領は50石であった。

 

 明治5年(1872年)、近代社格制度において村社に列し、大正15年(1926年)官幣小社に昇格した。

 

3.3)神階

・天安3年(859年)1月27日志賀海神従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)

・元慶4年(880年)3月22日賀津万神正六位上から従五位下 (『日本三代実録』)

  - 神名「賀津万(かつま)」から、摂社・仲津宮(勝馬明神)に比定される。 

 

4)境内

 境内は志賀島の南側に位置する。かつて志賀海神社は志賀島の北側において、表津宮(うわつぐう)仲津宮(なかつぐう)沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたという。うち表津宮が当地に遷って現在の本社となり、仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その表津宮跡は福岡市東区勝馬に伝えられている。

 

 境内の鹿角堂(ろっかくどう)では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されている。また「亀石(かめいし)」として、神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある。

 

 参道には石造の宝篋印塔が立つ。宝篋印塔とは仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、当塔は南北朝時代の貞和3年(1347年)の銘を持ち、完存では福岡県内最古である。花崗岩製で、基礎・塔身・笠部・相輪から成り、総高は334.5cm。この塔は福岡県指定有形文化財に指定されている。

 

  一の鳥居は、寛文10年(1670年)の福岡藩3代藩主・黒田光之による造営。次の鳥居は元禄13年(1700年)、海浜の鳥居は安永3年(1774年)の造営。

 

5)摂末社

 摂末社は、摂社5社と末社19社の計24社。『筑前国続風土記』によれば、古くは末社375社があったというが戦国の乱世で損傷し、永享11年(1439年)の大内持世による再興時には120社余、その後江戸時代には5社ばかりであったという。

 

5.1)摂社

●沖津宮(おきつぐう)

・鎮座地:福岡市東区勝馬  

・祭神:表津綿津見神天御中主神

 

●仲津宮(なかつぐう、中津宮)

・鎮座地:福岡市東区勝馬 

・祭神:仲津綿津見神

「勝馬明神(かつまみょうじん)の別称を持ち、国史見在社「賀津万神」に比定される。平成6年(1994年)、前庭部から古墳(中津宮古墳)が発見された。神社造営に伴う破壊により墳丘規模・形態は明らかではないが、竪穴系の石室とともに副葬品が発見された。7世紀前半の築造で、当地の海人集団の首長墓とされる。

 

●今宮神社(いまみやじんじゃ)

・鎮座地:本社境内 

・祭神:宇都志日金拆命、住吉三神、阿曇磯良丸を初め神孫阿曇諸神

 

●弘天神社(ひろてんじんじゃ)

・鎮座地:福岡市東区弘

・祭神:伊邪那岐命、伊耶那美命

 

●大嶽神社(おおたけじんじゃ)

・鎮座地:福岡市東区大岳

・祭神:志那都比古神、志那都比売神、大濱宿禰、保食神 

 

5.2)末社

 志賀に12社、勝馬に5社、弘に1社、大岳に1社の計19社が鎮座する。  

6)祭事

6.1)例大祭 

 志賀海神社の例大祭は、「国土祭(くにちさい)と称される。その前日には、隔年(西暦奇数年)に志賀海神社最大の祭の御神幸祭(ごしんこうさい)が執り行われる。古くは旧暦9月8日(御神幸祭)・9月9日(国土祭)に行われたが、現在は体育の日とその前日(10月第2月曜とその前日)に行われる。

 

 祭に先立ち、まず旧暦9月1日(10月1日)には「男山祭」として、くじにより神幸を行うかが決められる(現在では御神幸は隔年に執行される)御神幸祭では、旧暦9月8日(体育の日前日)の夜9時から3基の神輿(一の戸・ニの戸・三の戸)が出輿し、頓宮まで遷幸する。

 

 頓宮では、「龍の舞」「八乙女の舞」「羯鼓の舞」といった志賀海神社の縁起に基づく芸能が奉納される。その後神輿は神社に戻り、神霊は本殿に遷されて御神幸祭は終了する。翌旧暦9月9日(体育の日)の国土祭では、流鏑馬が奉納される。

 

 御神幸祭は、夜間に神霊の移動を行う点、志賀海神社の縁起に基づく芸能により人々への再確認を意図する点から、古式を留めた様態とされる。祭は「志賀海神社神幸行事」として福岡県指定無形民俗文化財に指定されている。 

 

6.2)特殊神事

歩射

 「ほしゃさい」。1月2日から15日まで行われる年頭行事のうち、1月15日近くの日曜に行われる祭。歩射はかつて1月15日に行われた。「歩射」すなわち馬に乗らずに弓を射ることで、破魔・年占を行う神事である。阿曇百足(ももたり)による土蜘蛛退治伝承に因む。

 

 歩射では、氏子から選ばれた若者が射手衆となって、参道に立てられた大的を射る。その準備は1月2日から始まり、以後数々の儀礼を経る伝統的な神事である。祭は「志賀海神社歩射祭」として福岡県指定無形民俗文化財に指定されている。 

 

〇山誉種蒔漁猟祭、山誉漁猟祭(細部後述)

  「山ほめ祭」とも称される。山誉種蒔漁猟祭(やまほめたねまきぎょりょうさい)は4月15日、山誉漁猟祭は11月15日の春秋に行われる。かつては旧暦2月15日と11月15日に行われ、「狩漁の御祭」と称していた 。山誉種蒔漁猟祭では豊作を祈って種まきの所作があり、秋の山誉漁猟祭は大漁を祈って網引きの所作がある。

 

 次いで志賀三山(勝山・衣笠山・御笠山)を祓い、三山をほめる(山ほめ)。次いで鹿を射る所作(狩の行事)、鯛を釣る所作(漁の行事)を行う。祭は「山ほめ祭」として福岡県指定無形民俗文化財に指定されている。 

 

 なお、神楽歌として次の歌が歌われる。

君が代(だい)は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで

あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸(みがい)に命(いのち)

千歳(せんざい)という 花こそ 咲いたる 沖の御津(おんづ)の汐早にはえたらむ釣尾(つるお)にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや 志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで 今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良(いそら)が崎に 鯛釣るおきな』

 

〔—山誉祭 神楽歌〕 

 国歌である君が代酷似しているが、先々代の香椎宮・宮司 木下祝夫の父である木下美重によれば、この山誉祭神楽歌旅芸人によって広められ、古今和歌集に収められ、のちに薩摩琵琶『蓬莱山』にある「君が代」になり国歌になったことが香椎宮に所蔵されていた筑紫の神楽記録から判明しているという。

 

 また福岡市東区の名島神社とに福岡県大川市の風浪宮も類似した神楽歌が伝わっている(志賀海、名島、風浪宮の三社の神職は共に安曇氏)。 

 

〇七夕祭

 8月6日から7日に行われる、漁の安全・大漁を祈願する祭。かつては旧暦7月7日に行われた。祭では、博多湾の漁師が大漁旗を掲げた漁船で港に訪れ、志賀海神社に参拝する。祭の様子は、貝原益軒の『筑前国続風土記』にも記載が見え、古くは多くの出店もあったという。 

〇男山祭

 10月1日に、その年の例祭で神幸を行うかくじで決める神事。かつては旧暦9月1日に行われた。ただし、現在では神幸は隔年に行うこととなっている。

 

6.3)君が代

 この項目の内容は、Webサイト「続倭人伝」から引用させていただきました。

 

 

引用:Webサイト(続倭人伝) 

 

 ・「君が代」といえば、日本の国歌である。法律としても1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に国歌に制定されている。 

 

・日本国歌:”君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで” 

 

・(訳):君が代は 千年も幾千年も 小さな石があつまって大きな岩になり、さらに苔が生えるくらい 長く長く続きますように。 

 

・採用経緯:明治の世になり、外交儀礼や軍楽隊の演奏用に国歌が急遽必要とされ、10世紀につくられた古今和歌集和漢朗詠集などから引用したようだ。だがこれより古いと思われる類似する歌が、福岡県の志賀海神社に伝わっている。 

 

・志賀海神社がある志賀島へは、波の静かな博多湾を左に、玄界灘を右に見る細長い砂州の ” 海の中道 ” を通る。昔は島であったが今は陸続きで、福岡市東区に属する。志賀島といえば、「漢委奴國王」の金印が発見されたことが有名である。 

 

・当社で春と秋に行われている山誉め祭 神楽歌の中で下記のように歌われている。

これは「山を育てると海が生きる」という知恵を古来より守り伝えてきた、海の民である阿曇族の伝統行事である。 

 

・君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 略~

 あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや 志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん

 香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に 今宵夜半につき給う御船こそ、

 たが御船になりにける

 あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ

 いるかよいるか 潮早のいるか磯良(いそら)が崎に 鯛釣るおきな 

 

・いつごろから行われていたのか正確な年代は不明であるが、神功皇后三韓出兵の際、この神事を奉仕して「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」と賞賛されという言い伝えが残っているので古今和歌集などよりは古いことは確かそうだ。 

 

志賀海神社 山誉め祭

引用:Webサイト(続倭人伝) 

 

・君が代(我が君)とは、この地方を収めていた安曇氏、またはその神をさすのだろう。(磯良とは、安曇氏の始祖とされ海の神でもある阿曇磯良のことか?) 

 

・安曇の君の繁栄を願い、豊漁を祈る歌ということになるだろうか。ただしこの神楽歌だけだと歌詞が変容したり、足されたりした可能性もあるので筑紫の国由来の歌と断定はできない。 

 君が代に出てくる地名

引用:Webサイト(続倭人伝)  

 

・志賀海神社の神楽歌にでてくる、志賀の浜香椎はもちろんだが、上記図のように千代(千代町)さざれ石(細石神社)(井原山:岩羅山)苔のむすまで(若宮神社:コケムスヒメを祀る)など、現在の福岡市から糸島市の地名が浮かび上がる。 

 

・これを踏まえて歌を詠むと、「我が君」繁栄を願うとともに、安曇の君の領地「千代」から「苔のむす」までという距離も含むことになる。つまり時間と距離の双方の意味が含まれ歌としてのイメージも膨らんでくる。無理矢理に地名を当て込んでいる感も否めないが、歌の完成度を考えるとこの解釈はおもしろい。

 

さざれ石神社

細石神社

引用:Webサイト(続倭人伝) 

 

・またこれも伝承ではあるが、コケムスメ(苔牟須売神は地元では盤長姫命(イワナガヒメ)だとされる。

 

イワナガヒメと言えば、コノハナノサクヤビメ(妹)とともに天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返され、これに対してその父は「イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように・・・(略)・・・イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろう」と告げた。

 

 これにより人の寿命が決まったという神話が古事記にある。

 

 ・「君が世」が永遠でありますようにと願う歌に、イワナガヒメを象徴する「岩の永遠性」が掛けられているとすれば・・・。

 

・ちなみに、糸島市の細石神社には、コノハナノサクヤビメとともにイワナガヒメが祀られている。

 

 あくまで推測の域を出ないが、このような仮説も古代史の醍醐味のひとつといえよう。 

 

 〇志賀海神社の山ほめ祭り

・以前は旧暦2月15日、11月15日の春秋2回行われ、「狩漁の御祭」と称した。現在は春を「山誉種蒔漁猟祭」、秋を「山誉漁猟祭」と称し、4月15日と11月15日に行っている。春の方に種蒔の所作が入る点が違っており、神功皇后が三韓出兵の途次、対馬豊浦に滞在中、志賀の海士が海山の幸で饗応したという伝説にちなむ行事である。 

 

・境内の裏山から伐り出した高さ約2メートル程の椎の木を、神前の庭の盛り砂に立て、庭に莚を敷き社人達が着座して行事が始まる。

 

・まず、大宮司一良が「ことなき柴」の枝を折り採って、志賀三山(勝山・衣笠山・御笠山)を祓う。次に扇を開き右手に執って標の山前で拍合わせて拝する。

 

・続いて別当一良が「ああらよい山、繁った山」と三山をほめる。そして、鹿を射る問答があり、標の山の盛り砂に狩股の矢を射る作法となる。古くは、子供が務める犬の役があったというが今はない。

 

・ここまでが狩の行事である。

 

・次に漁りの行事となる。藁製の鰭を両手に持つ社人と艫を持つ社人が出て、磯良ヵ崎にこぎ出して鯛を釣る所作が演じられる。

 

・現在の行事は簡略化されており、作法の順序も入れ換わっている。江戸期の「御祭礼執事式記」では、山ほめの次が漁りの所作、最後は狩の所作となっており、詞唱も違っている。 

 

山誉め祭 神楽歌の中で下記のように歌われている。これは「山を育てると海が生きる」という知恵を古来より守り伝えてきた、海の民である阿曇族の伝統行事である。

 

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

  略~

 あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや 

 志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん

 香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に 

 今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船になりにける

 あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ

 いるかよいるか 潮早のいるか磯良(いそら)が崎に 鯛釣るおきな

 

7)志賀島金印公園 

〇参考Webサイト邪馬台国大研究ホームページ/遺跡巡り/金印公園 

 

金印公園(引用:Wikipedia) 

 

漢委奴国王印は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。昭和29年(1954年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 

 

7.1)印文と解釈

・印文は陰刻印章(文字が白く出る逆さ彫り)で、3行に分けて篆書で「漢〈改行〉 委奴〈改行〉 國王」と刻されている。印文の解釈は、文字と改行に着目して諸説ある。

 

・文化庁編『新増補改訂版 国宝事典』(便利堂、1976年)「考古 金印」の項では「その訓みについてはなお定説をみない」としている。 

 

・『日本大百科全書』(小学館、1984年)「金印」の項では「1892年(明治25)三宅米吉により「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、いまの那珂郡に比定されて以来この説が有力である」としている。

 

・京大日本史辞典編纂会編『新編日本史辞典』(東京創元社、1990年)では「現状では金印について問題点が多く存在する。発見者については秀治なるもの、出土地については金印公園の地がよりふさわしいとされる。また委奴国の読み方にも諸説ある。(1) 伊都国説、(2) ワのナ国説が代表的なものであろう」としている。

 

7.2)文化財としての価値

・この金印は出土状態(土層、関連遺物の有無など)が不明であるため、それが実際に1世紀に制作されて1世紀に志賀の島に持ってこられて1600年間志賀の島の地中から動かなかったかどうかの検証ができないものであり、あくまでも『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述にある印綬であると認識することが文化財としての価値を決定しているものである。

 

 よって、いずれの説も、この『後漢書』の記述を肯定的にしろ否定的にしろ念頭においてその文字やその国のさす範囲を検討するものである。

 

 7.3)倭王に与えられた金印?

九州王朝説では、 皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い(金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。

 

卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えている。

 


(参考)綿津見三神


(引用:Wikipedia)

 ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神。転じて海・海原そのものを指す場合もある。

1)概要

イザナギの禊ぎによって生まれた神々(『古事記』に基づく)(引用:Wikipedia)

 『古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)大綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)海神(わたつみ、わたのかみ)海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。

「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる。

2)神話での記述

 日本神話に最初に登場する綿津見神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)伊邪那美命(伊弉冉尊・いざなみ)二神の間に生まれた。神名から海の主宰神と考えられているが、『記紀』においては伊邪那岐命は後に生まれた三貴子の一柱須佐之男命(素戔嗚尊・すさのお)に海を治めるよう命じている。

 

 伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。この三神はオオワタツミとは別神であるとの説や、同神との説がある。この時、ソコツツノオノカミ底筒之男神)ナカツツノオノカミ(中筒之男神)ウワツツノオノカミ(上筒之男神)住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。

 

 また、綿津見神三神の子の宇都志日金析命(穂高見命)が九州北部の海人族であったとされる阿曇連(阿曇氏)の祖神であると記している。現在も末裔が宮司を務める志賀海神社安曇氏伝承の地である。また穂高見命は穂高の峯に降臨したとの伝説があり、信濃にも安曇氏が進出している。

 

2.1)山幸彦と海幸彦

 山幸彦海幸彦の段では、火照命又は火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れ、綿津見大神の娘である豊玉毘売と結婚している。

 

 二神の間の子である鵜草葺不合命は豊玉毘売の妹である玉依毘売に育てられ、後に結婚して若御毛沼命(神倭伊波礼琵古命・かむやまといわれひこ)らを生んでいる。綿津見大神の出自は書かれていないが、一般にはオオワタツミと同一神と考えられている。

 

3)系譜

 伊邪那岐命、または同神と伊邪那美命の子に置かれる神で、子には宇都志日金析命(穂高見命)布留多摩命(振玉命)豊玉毘売命玉依毘売命の四兄妹がいる。

 この内、宇都志日金析命阿曇氏の祖神で、布留多摩命倭国造八木氏尾張氏の祖神とされる。なお豊玉毘売命玉依毘売命の姉妹は、火遠理命の妻になったという世代を考えて、実際には宇都志日金析命の妹ではなくであったと見る説がある。

 

4)ワタツミ神を祀る神社

 志賀海神社(福岡県福岡市東区志賀島)(総本社)綿津見神社・海神社 - 全国各地

志賀神社(福岡県糟屋郡粕屋町)風浪宮(福岡県大川市酒見)

渡海神社(千葉県銚子市高神西町)穂高神社(長野県安曇野市穂高)

二見興玉神社(三重県伊勢市二見町)林神社(兵庫県明石市宮の上)

小江神社(兵庫県豊岡市江野)田土浦坐神社(岡山県倉敷市下津井田之浦)

由加神社本宮(岡山県倉敷市児島由加)沼名前神社(広島県福山市鞆町)

水上神社(島根県大田市温泉津町)浜殿神社(長崎県対馬市豊玉町)

鹿児島神社(鹿児島県鹿児島市草牟田)飯倉神社(鹿児島県南九州市川辺町)

永尾神社(熊本県宇城市不知火町)

 

5)関連項目①(阿曇磯良)

 5.1)概要

 阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良とも書く)は、神道の神である。海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。阿度部磯良(あとべのいそら)磯武良(いそたけら)とも。  

 

 神楽に誘われて海中より現れ、古代の女帝神功皇后竜宮の珠を与えたという中世の伝説で知られる。

 

 石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。

 

 「磯」と「渚」は共に海岸を指すことから阿曇磯良豊玉毘売命の子で、日子波限建(ヒコナギサタケ:鵜葺草葺不合命の別名)同神であるとする説がある。また、『八幡宮御縁起』では、安曇磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。

 

『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)

 

 阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ阿知女作法「阿知女(あちめ)阿曇磯良または阿度部磯良のことである。

 

5.2)伝説

 『太平記』には、阿度部磯良の出現について以下のように記している。神功皇后三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて阿度部磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて阿度部磯良が現れた。阿度部磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠 [注 1] を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。

 

[注 1] 日本神話の海幸山幸神話にも登場する。

 

 海人族安雲氏の本拠である福岡県の志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、阿曇磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、阿曇磯良奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。

 

 海神が干滿の珠を神功皇后に献じたという伝説は広く見られ、京都祇園祭の船鉾もこの物語を人形で表わしている。

 

5.3)舞い

 阿曇磯良の伝説をもとにした舞として、志賀海神社国土祭の磯良の舞奈良春日大社春日若宮おん祭細男(せいのう、ほそお、ほそおのこ)の舞などがある。春日大社のそれは、筑紫の浜で老人から「細男の舞をすれば、磯良が出てきて干珠・満珠を授ける」聞いた神功皇后が舞わせたところ、貝殻のついた醜い顔を白布で隠した磯良が現れたという物語を表現したもので、白布の覆面姿の男たちが舞う。

 

 細男は、平安期の記録に「宮廷の神楽に人長(舞人の長)の舞いのあと、酒一巡して才の男(才男)の態がある」と次第書きがあり、この才の男から転じた言葉で、滑稽な物真似のような猿楽の一種であろうと推測されている。

 

 『風姿花伝』では、天の岩戸に隠れた天照大神を誘いだすために神楽に合わせて行なった滑稽な演技「せいのう」を猿楽の起源のひとつとして挙げている。

 

 また、大分県中津市の古要神社には、操り人形による細男の舞(※)があり、同様に白布で顔を隠した磯良の人形が使われる。同様のものは、福岡県吉富町の八幡古表神社にも伝わる。

 

 (※)細男の舞参考Webサイト

古要神社の傀儡子の舞と相撲(NHKみちしる)

古要舞と神相撲(中津市)

古要神社(玄松子の記憶)

秋風に誘われて古要神社の古要舞と神相撲の奉納を訪ねてドライブ(4travel.jp) 

 

5.4)磯良を祀る神社

志賀海神社:綿津見三神、神功皇后、玉依姫命、応神天皇

風浪宮少童命三座、息長垂姫命(神功皇后)、住吉三神、高良玉垂命

綿津見神社綿津見三神、豊玉姫と玉依姫や、豊玉姫の子の阿曇磯良

和布刈神社撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・日子穂々手見命・鵜草葺不合命・豊玉比賣命・安曇磯良神

磯良神社 (大阪府茨木市):磯良大神

磯良神社 (宮城県色麻町):息長帯比売命・底筒男命・中筒男命・表筒男命

 

6)関連項目②(海犬養氏)

 海犬養氏(あまのいぬかいうじ/あまいぬかいうじ)は、「海犬養」を氏の名とする氏族。

 

 犬養部は犬を用いて宮門、大和朝廷の直轄領である屯倉などの守衛に当たる品部であり、海犬養は、県犬養、稚犬養、阿曇犬養、辛犬養連、阿多御手犬養とともにこれを統率した伴造6氏族の一つである。

 

 海犬養氏(海犬甘氏)は、海神綿積命の後裔を称した海神族に属する地祇系氏族で、安曇氏と同族とされる。海部の一部を割いて設置した犬養部伴造氏族で、犬養部を設置した際に海(海部)氏を統属していた安曇氏の一族をその伴造としたものと想定される。姓はであったが、八色の姓の制定により宿禰に改姓した。

 

 645年(皇極天皇4年)乙巳の変で、 海犬養勝麻呂が 佐伯子麻呂・ 葛城稚犬養網田とともに 蘇我入鹿暗殺に参加した。684年(天武天皇13年)「八色の姓」の制定にともない、685年に宿禰姓を与えられている。

 

 『萬葉集』巻第六、996番には、 奈良時代の734年(天平6年)、聖武天皇に応詔して、天皇の御世を讃えた海犬養岡麻呂の和歌が収録されている。

 

 740年(天平12年)藤原広嗣の乱の際に、海犬養五百依(あまのいぬかい の いおより)が、征討軍の軍曹(第4等官)として藤原広嗣の従者二十数人を連行している。

 

 その他の海犬養氏としては、天平年間(729年 - 749年)に経師であった海犬甘連広足、神護景雲2年に東大寺写経所廻使となった海犬甘連広主らがおり、無姓のものとしては、天平8年7月29日(736年)「内侍所牒」に名の現れている海犬養豊島、天平9年(737年)の「河内国大税負死亡人帳」に記された同国の戸主、海犬養麻呂らがいる。

 

 筑前国那珂郡海部郷(現在の福岡県福岡市犬飼地区)が根拠地の一つで、この地が那津官家(現在の福岡市南区三宅)に隣接していることから、那津の屯倉の守衛に当たっていたことが想定される。

 

 宮城十二門には、 安嘉門(あんかもん)として名前を残している。これは『拾芥抄』の記述により、最初に造営した氏族の名を顕彰したものだと言われてきたが、 井上薫の説によると、 藻壁門(佐伯門)・ 皇嘉門(若犬養門)のような例から分かることとして、 飛鳥板蓋宮十二門を守り、蘇我入鹿誅伐に参加した氏族の名前を門号に残したのでは、とされている。

 

  佐伯有清はこれを発展させ、十二氏族が各々の名前に由来する門を警護したのは、軍事的・膳部的職掌にもとづく伝統で、古くから天皇に近侍したことを示しているのではないか、としている。

 

 また、 大林太良は、犬養部の中には海人を兼ねるものも存在し、犬の飼育に魚を食べさせていたのではないか、それが海犬養氏であったのではなかったのか、と述べている。


(3-3)神社・筑紫神社


 (引用:Wikipedia)

筑紫神社(ちくしじんじゃ/つくしじんじゃ)は、福岡県筑紫野市原田にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。

Chikushi-jinja keidai.JPG

境内(引用:Wikipedia)

1)祭神

 現在の祭神は以下の3柱。

筑紫の神 (つくしのかみ) - 筑紫の国魂。

玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 後世に竈門神社から勧請。

坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ) - 後世の合祀。 

 

〇祭神について

 『釈日本紀』所引『筑後国風土記』逸文では、筑後国は元は筑前国と合わせて1つの国(筑紫国)だったと記している。

 

 また「筑紫」の由来として、2国の間の坂が険しく鞍が擦り切れるため「鞍尽くし」といった説、2国の境に荒ぶる神が居て往来の人が命を落とす「命尽くし」の神といったが筑紫君・肥君の祭祀で治まったという説、前説における多数の死者の弔いのため棺を作ったところ山の木々が無くなったという「木尽くし」による説の3説を載せるが、第2説と筑紫神社祭神の筑紫神との関連が指摘される。 

 

 なお本居宣長は、『古事記伝』において「命尽くし」の由来説を有力視する。これらの伝説が筑紫神社の成立に直接関わるかは明らかでないが、中でも筑紫君・肥君が祀ったという所伝が特に注目されている。

 

 当地は筑紫君の勢力圏内であるが、肥君が本拠地の九州中央部から北九州に進出したのは6世紀中頃の磐井の乱が契機で、この所伝にはその進出以後の祭祀関係の反映が指摘される。 

 

 そのほかに、筑紫神について白日別神とする説や五十猛命とする説がある。

 ・白日別神(しらひわけのかみ)

 吉村千春による説。『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面として筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の記載があり、「筑紫国を白日別という」とあることによる。

 光・明・日を表す朝鮮の借字が「白」であることから、朝鮮との関係が指摘される。

 

・五十猛命(いそたけるのみこと)

 松下見林・貝原益軒による説。『日本書紀』では神代の別伝として、スサノオ五十猛神(五十猛命)を連れて新羅に天降り、のち出雲に移ったとある。このとき、五十猛神は多くの樹種を持っていたが、韓国では植えず、筑紫から始めて国中に播いたと伝える。

 以上の説話から、五十猛神渡来系の神であったことがうかがわれ、やはり朝鮮との関係が見える。

 

2)歴史

2.1)創建 

 創建は不詳。元々は城山山頂に祀られていたが麓に移されたという説、当初から現在地に祀られたという説がある。

 

 「筑紫」の名称は、九州を「筑紫嶋」(古事記)または「筑紫州」(日本書紀)といったように広義では九州全体も指したが、狭義では筑紫神社周辺の地名を指すとされる。

 

 考古学的には、当地周辺の背振山地東部の低丘陵地は弥生時代中期において甕棺墓の分布中心部後期においては青銅器生産の中心地であった。銅鐸祭祀の源流一帯の地域にあると見られるが、その盛行には渡来系の知識が欠かせず、前述の白日別・五十猛命の伝承も合わせると、渡来者集団による祭祀が指摘される。 

 

2.2)概史

 国史での初見は貞観元年(859年)従四位下の神階奉授を受けたという記事で、元慶3年(879年)には従四位上に昇叙された。

 

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では筑前国御笠郡に「筑紫神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また天元2年(979年)官符には住吉神社・香椎宮・竈門神社・筥崎宮とともに筑紫神社に大宮司職を置くという記載がある。

 

 鎌倉時代からは、当地の地頭職にあった筑紫氏社司を兼ねたという。その後、戦国時代の島津勢兵火によって社殿・古文書が焼失し、凶賊にあい荒廃したという。江戸時代に入り、復興が図られ社殿の再建が行なわれていった。

 

 明治維新後、明治5年(1872年)には近代社格制度で郷社に列したが、郡区画改正で村社になり、明治14年(1881年)に再び郷社に、そして大正4年(1915年)に県社に昇格した。

 

2.3)神階

・貞観元年(859年)1月27日、従五位下から従四位下 (『日本三代実録』)

・元慶3年(879年)6月8日、従四位上 (『日本三代実録』) 

 

3)摂末社

●五所神社 (ごしょじんじゃ)

・祭神:須佐之男命、櫛名田姫、菅原道真公、伊耶那岐大神、少名彦名命

・大正4年に近隣の無格社5社を、昭和4年に境内社を合祀したもの。

 


(3-4)神社・宮地嶽神社


(引用:Wikipedia)

 宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)は、福岡県福津市に所在する神社。神功皇后を主祭神とし、勝村大神・勝頼大神を配祀する。Webサイト:ご祭神・ご由緒(宮地嶽HP) 

 

〇参考Webサイト宮地嶽神社公式ウェブサイト 宮地嶽神社FaceBook 

 

Haiden of Miyajidake Shrine.JPG

拝殿と注連縄(引用:Wikipedia)

1)概要

 全国にある宮地嶽神社の総本社である。毎年220万人以上の参拝客が訪れ、特に正月三が日には100万人以上の人々が訪れている。開運商売繁昌の神社として知られている。

 

 宗像地方では宗像大社と並んで参拝客が多く、日本一大きいと称される注連縄と大太鼓・大鈴も有名である。神社の参道には多くの土産店が立ち並んでおり、商売繁昌にちなんで招き猫やダルマを販売している店が多い。また「松ヶ枝餅」が売られている。餅の表面には宮地嶽神社の神紋・三階松紋がある。 

 

 その他、毎月末の深夜0時(明けて1日)には「朔日参り」と呼ばれるものが行われており、多くの参拝客が深夜にも関わらず詰め掛ける。そのため多くの出店が出店しており飲食店も開店する。

 

 参道のうち、「男坂」と呼ばれる神社正面の石段から門前町を通り宮地浜まで至り相島を望む西向きの参道は、約800mに渡る直線道路となっている。9月の秋季大祭においては、この参道を御神幸行列が牛車で往復する。

 

 また、この参道の延長線上に夕日の沈む期間が、年に二期(2月下旬および10月下旬)あり、この夕日と参道が一直線に並ぶ光景は、2016年2月に放映された嵐が出演する日本航空のCMをきっかけに有名になり、「光の道」と称されるようになった。

 

 この時期には「夕日のまつり」が開催され、参道の階段は観覧席として使用する為閉鎖される。なお、石段である「男坂」のすぐ脇にも境内と参道を繋ぐ坂道があり、こちらは「女坂」と呼ばれ、各種車両や前述の牛車、参拝客などの通行に利用されている。

 

 2010年に屋根の一部が補修され柔らかい金色の荘厳な屋根となったが、チタン製屋根が採用されており、最新技術を伝統建築に採用された代表例となっている。 

 

2)歴史

 宮地嶽神社の創建は社伝では約1600年前にさかのぼるとされ、息長足比売命(神功皇后)が、宮地岳の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりといわれる。

 現在の境内は祭壇を設けたとされる宮地岳の山腹に位置する。また、宮地岳山頂には宮地嶽古宮の祠、日の出参拝所がある。

 

3)御祭神・ご由緒

3.1)御祭神

・息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)《 別名:神功皇后(じんぐうこうごう)

・勝村大神(かつむらのおおかみ)

・勝頼大神(かつよりのおおかみ)

 

3.2)ご由緒

 ご創建は、約1700年前。当社のご祭神「息長足比売命」別名「神功皇后」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。 古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。

 

 その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」(みやじだけみはしらおおかみ)としてお祀りしました。 以来、宮地嶽三柱大神のご加護のもとで事に当たれば、どのような願いもかなうとして「何事にも打ち勝つ開運の神」として多くの方に信仰されるようになりました。 当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。

 

4)境内外社

  宮地嶽神社内には「奥の宮八社」と呼ばれる社が祀られている。「一社一社をお参りすれば大願がかなう」といわれ、昔から多くの人が訪れている。その起源は日本最大級の石室古墳発掘を機に不動神社(史跡)を奉祀したことによる。

 

・第1番・七福神社・・・福を運ぶ七福神

・第2番・稲荷神社・・・食物とお米の方策を守る神様

・第3番・不動神社・・・災いや厄を除く神社

・第4番・万地蔵尊・・・子供達の守り神

・第5番・恋の宮(濡髪大明神・淡島神社)・・・女性の心身内外をお守りする神様

・第6番・三宝荒神・・・かまど、火除けの神様

・第7番・水神社・・・水がコンコンと湧き続ける龍神様

・第8番・薬師神社・・・あらゆる病難から救う神様

 

4)宮地嶽古墳

宮地嶽古墳(引用:Wikipedia)

4.1)概要

 宮地嶽古墳は、宮地嶽大塚ともいい、福岡県福津市に所在する古墳時代終末期の円墳である。「津屋崎古墳群」の一つとして国の史跡に指定されている。奥の宮、古くは岩屋または不動窟とも呼ばれてきた。本古墳の出土品一括は国宝に指定され、九州国立博物館に寄託されている。 

 

 本古墳は宮地嶽神社境内(本殿の裏手100m)にあり、宮司・手光にある他の古墳と同様に7世紀の築造と推定される。墳丘形状は大型の円墳で、直径は34m、横穴式石室の長さが約22mもある。今日内部を見学できる横穴式石室としては最大のものである。

 

 この石室に使用されている石材(玄武岩)は、玄界灘の相島から船によって運ばれたと推定されている。

 

 現在知られている古墳時代の横穴式石室で日本最大のものは、奈良県橿原市にある巨大古墳見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)のもの(全長約28m)であるが、これは宮内庁管理の陵墓参考地に含まれており、非公開とされている。

 

 巨石墳として有名な奈良県明日香村の石舞台古墳でさえ約20mである。

 

4.2)被葬者について

 この古墳の入口には、ガラス製の骨壺を収めた青銅製の骨蔵器も追納されており、被葬者は、宗像一族の首長墓であるとされる。

 

 『日本書紀』天武天皇二年(673)正月条で帝紀を記している中に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善であるとの説が有力であるが、宮地嶽古墳は6世紀の築造であり7世紀前半の人物である徳善では時代が合わず、諸説あるが磐井氏の関係者(※)との説もあると宮地嶽神社では説明している。 

 

※被葬者の謎・参考Webサイト

宮地岳古墳、被葬者は胸形か阿曇か(旧聞since2009)

154宮地嶽古墳の被葬者は九州王朝の大王葛子!?(ひぼろぎ逍遥)

宮地嶽古墳の被葬者はだれ(日本古代史つれづれプログ)

 

5)文化財(国宝)

●地嶽古墳出土品

・金銅鞍金具残欠 1背 前後両橋(りょうぼね)覆輪、海磯金具鞖(しおで)

・金銅壺鐙(つぼあぶみ)1双/・金銅鏡板付轡(かがみいたつきくつわ)1箇分

・金銅杏葉(ぎょうよう)残欠 2枚分/・銅鎖 1連

・金銅装頭椎大刀(かぶつちのたち)残欠(大形) 1口分 柄頭(つかがしら)、鐔、刀身断片、鞘金具等

・金銅装頭椎大刀残欠 1口分 柄頭、鎺(はばき)、刀身断片等/・金銅透彫冠残欠 一括

・金環 1箇/・緑瑠璃丸玉 1連/・緑瑠璃丸玉 一括/・蓋付銅鋺 1口/・銅盤残欠 1枚分

・土師器盌(わん)1口/・長方形緑瑠璃板残欠 3枚分/・緑瑠璃板断片 一括

・附:各種金具等残片 一括

 

●筑前国宮地嶽神社境内出土骨蔵器

・瑠璃壺 1合/・銅壺 1合/・附:陶質鉢残欠 2口分

 

※宮地嶽古墳副葬品参考Webサイト

宮地嶽古墳(邪馬台国大研究/遺跡・旧跡案内)

 


(3-5)神社・竃門神社


(引用:竈門神社公式HP&Wikipedia)

 竈門神社(かまどじんじゃ)は、福岡県太宰府市にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。別称を「宝満宮」「竈門宮」とも。

 

Kamado shrine 01.JPG

拝殿(引用:Wikipedia) 

1)概要

1.1)竈門神社公式HP

  古来、「縁結び」、「方除け」、「厄除」の神様として信仰されている竈門神社。 

 主祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祀りしていることから、魂(玉)と魂を引き寄せる・引き合わせる(依)という御神徳を慕われ、古くから「縁結びの神」として広く信仰されてきました。「縁結び」とは、男女の「良縁」をはじめ、家族、友人、仕事、自然などとの良いご縁を結んでいただける神様として広く親しまれています。 

 

 また古くは、大宰府政庁の鬼門除けとして、また、大陸へ渡る人々がこれから進む航海(道)の安全事業の成功を祈願したことから「方除け」「厄除」の信仰も篤く、現代においても、新たな生活をはじめる方や、人生の節目を迎えた方々などが参拝に訪れ真摯な祈りが捧げられています。

 創建以来千三百五十年を越える長い歴史を引き継ぎ、これから未来へより一層信仰の輪を広げ、多くの人々の神様として、親しまれていくことを願っています。

 

1.2)Wikipedia

 太宰府市東北に立つ宝満山(ほうまんざん)に所在する神社で、社殿は次の2ヶ所に形成されている。

上宮 - 宝満山山頂(標高829.6m)。

下宮 - 宝満山山麓。

*かつては山腹に中宮もあったが、明治に廃絶している。

 

 宝満山は大宰府の鬼門(東北)の位置にあることから、当社は「大宰府鎮護の神」として崇敬された。平安時代以降は神仏習合が進み、当社と一体化した神宮寺の大山寺(だいせんじ、竈門山寺・有智山寺とも)は、西国の天台宗寺院では代表的な存在であった。

 

 また、宝満山には英彦山(ひこさん)とともに修験道の有数の道場が形成されたが、明治期にこれらの仏教施設は廃された。しかしながら、今なお福岡県下には当社から勧請された約40社の神社があり、現在も宝満山に対する信仰・縁むすび信仰により崇拝されている神社である。

 

 文化財としては、当社社地を含む宝満山一体が国の史跡に指定されている。また、木造狛犬や宝満山山岳信仰関係資料307点が福岡県の文化財に指定されている。 

 

2)社名について(Wikipedia)

宝満山(その山容から、古くは「御笠山」とも称された。)(引用:Wikipedia)

 

 当社は大宰府東北方の宝満山に鎮座するが、この宝満山は古くは「御笠山」(みかさやま)「竈門山」(かまどやま)と称されていた。うち「御笠山」の山名は、笠のような山容に由来する古いものといわれ、古くは神体山として信仰されたともいわれる。

 

 もう1つの山名「竈門山」は、筑前国の歌枕としても多く詠み込まれている。当社社伝である鎌倉時代後期の『竈門宝満大菩薩記』では、元は「仏頭山」「御笠山」と称されていたが、神功皇后の出産の時にこの山に竈門を立てたことに由来すると伝える。一方『筑前国続風土記』では、山の形がかまど(竈)に似ており、煮炊きの様子を示すかのように雲霧が絶えないことに由来するとする。そのほか、大宰府鎮護のためカマド神を祀ったとする説、九合目付近の「竈門岩」に由来するという説がある。

 

 現在の「宝満山」の山名は、神仏習合に伴って祭神を「宝満大菩薩」と称したことによるとされ、その初見は13世紀末頃の古文書まで下る。 

 

2)祭神(Wikipedia)

 主祭神:玉依姫命(たまよりひめのみこと)

*相殿神:神功皇后 (じんぐうこうごう)応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代。神功皇后皇子。

 

 祭神のうち、玉依姫命は元々の祭神で、神功皇后・応神天皇はのちに合祀されたという。『筥崎宮縁起』等では当宮を八幡神の伯母(応神天皇の伯母、神功皇后の姉)と見なしており、遅くとも12世紀初頭には八幡神(神功皇后・応神天皇)と結び付けられたと見られている。竈門神が八幡神の系譜に組み込まれた背景には、古くから大宰府と関わっている当社の政治的色彩が指摘される。

 

 一方神社の社名から本来の祭神は竈神たる三宝荒神で、宝満山中に巨岩があり天孫族に多い巨石信仰が見られることからも、本来の祭神を三宝荒神と同神の八幡神と見る説もある。

 神名は中世には「宝満大菩薩」、近世には「宝満明神」とも称された。

 

3)歴史

3.1)竈門神社公式HP

 天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰府政庁が置かれた際、鬼門にあたる竈門山(宝満山)では大宰府また国家鎮護のための祭祀がはじまりました。頂上の上宮が建つ巨岩の下からは和同開珎をはじめ皇朝十二銭や奈良三彩など、奈良時代から平安初期に国家的な祭祀が行われていたことを示す数々の出土品が確認されています。

 

 天武天皇二年(673)、開山心蓮上人が山中で修行中、にわかに山谷震動して貴婦人が現れ、「われはこれ玉依姫の霊、現国を守り、民を鎮護せんために、この山中に居すること年久し。」などと告げ、金剛神に姿を変じ九頭の龍馬に駕して天を自在に飛行しました。心蓮上人は直ちに朝廷にその旨を奏上すると、朝廷の命によって上宮が建立されました。

 

 宝満山が大宰府政庁と密接な関係にあったことから、最澄空海をはじめ、遣隋使遣唐使など大陸へ渡る人々が航海の安全と、目標達成のために登拝し、祈りを捧げた山として大切に守られてきました。

 

 中世以降は修験者による信仰が盛んになり、険しくも秀麗な宝満山の姿に多くの山伏が憧れ、厳しい修練を重ね、世の平安と人々の除災招福のための加持祈祷が行われました。

 

 江戸時代の博多の禅僧で著名な仙厓和尚も宝満山に魅了された一人で、頂上下の竈門岩の伝承に深く感銘し「仙竈」の文字を大書して「仙厓敬書」の銘を刻みました。

 

 竈門神社は、承和二十二年(803)従五位上が授けられ、その後徐々に位階を進め、嘉承元年(1106)には正一位を贈られ、『延喜式』には名神大社にも列せられました。そして明治二十八年(1895)、竈門神社は官幣小社に列せられました。

 

 現代においても、縁結び方除け厄除の神さまとして多くのご参拝をいただいているほか、桜や紅葉の名所としても親しまれています。歴史と文化が息づく太宰府の街に、人と人の心が通い合う祈りの山として、これからも大切に守り伝えられていくことでしょう。

 

3.2)Wikipedia

〇創建

 社伝では、天智天皇の代(668年-672年)大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが神祭の始まりという。次いで天武天皇2年(673年)心蓮(しんれん)上人が山中での修行していると玉依姫命が現れたため、心蓮が朝廷に奏聞し山頂に上宮が建てられたという。神社側では、この時をもって当社の創建としている。

 

 これらの社伝の真偽は明らかではないが、下宮礎石群の調査から創建は8世紀後半には遡るとされる。また上宮付近からは、9世紀から中世にまで至る、多くの土師器・皇朝銭等の祭祀遺物が検出されており、大宰府・遣唐使との関連も指摘される。

 

 社伝に見られるように、当社の歴史は大宰府と深い関係を持ちつつ展開する。一方で、玉依姫命の「水分の神」としての性格から、御笠川・宝満川の水源の神として自然発生的に玉依姫命が祀られていたと推測し、その後に政治的な神格が与えられたと見る説もある。

 

〇概史

●奈良時代から平安時代

 当社に関係する最初の確実な史料は、延暦22年(803年)竈門山寺(かまどさんじ:当社の神宮寺)に関する記載である。この記事に見えるように、当社は奈良時代にはすでに神仏習合の状態であったと見られている。

 「竈門神」については、承和7年(840年)従五位上の神階が叙された記事を初見として、神階はその後嘉祥3年(850年)正五位上(従五位上?)、貞観元年(859年)従四位下、元慶3年(879年)従四位上、寛平8年(896年)正四位上に上った。

 

 また、承和9年(842年)には奉幣の記事が見えるほか、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、筑前国御笠郡に「竃門神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。なお、当時の社名の訓みは一般に「カマト」と付されるが、「カマカト」と付す写本もある。

 

 社殿に関しては、長治2年(1105年)の焼亡の記事に始まり、御占・遷宮の記事を経て、久寿2年(1155年)に再度焼亡とそれに伴う訴えの記事が見える。

 

 社司は、天元2年(979年)の段階では大宮司が一山の貫主を担っていたが、11世紀末頃には神仏一体となっており、大山寺別当が当社含め一山を取り仕切っていたと見られている。長治2年(1105年)には、当社神宮寺の大山寺別当職を巡り、延暦寺石清水八幡宮が争いを見せた。

 

 嘉承元年(1106年)には当社は正一位の極位に達し、この頃には最も宝満山の勢いがあったといわれ、当時の当社を「九国総鎮守」と記す伝も見える。また八幡神関係の文書には竈門神を八幡神(応神天皇)の伯母とする記載が見え、大宰府と関わる当社の政治的影響力と八幡神の関わりが指摘される。

 

●鎌倉時代以後

(鎌倉時代以降の動向は、神宮寺節も参照)

 平安時代以後の当社は、神仏一体となって営まれた。その進展もあって室町時代からは「宝満宮」という名称も見られるようになる。その後は戦国時代の戦乱に巻き込まれ、勢力は大きく衰退した。

 

 近世に入ると、筑前国を治めた小早川氏によって天正15年(1587年)から修験道の道場として再興され、慶長2年(1597年)には神殿・拝殿・講堂・行者堂・末社等が再建されたという。

 

 代わって慶長5年(1600年)に入国した黒田長政からの崇敬も篤く寄進も受けたが、寛永18年(1641年)に火災によってほとんどの建物を焼亡した。慶安3年(1650年)、福岡藩2代藩主・黒田忠之によって神殿・拝殿・講堂・神楽堂・鐘楼・行者堂が再建された。江戸時代を通して、社領は50石を数えていた。

 

 明治に入り、神仏分離によって仏教色は一掃された。明治5年(1872年)近代社格制度では村社に列し、明治28年(1895年)に官幣小社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

 

〇神階

「竃門神」に対する神階奉叙の記録。 

〔六国史〕

・承和7年(840年)4月21日、従五位下から従五位上 (『続日本後紀』)

・嘉祥3年(850年)10月7日、正五位上 (『日本文徳天皇実録』)従五位上の誤りか。

・貞観元年(859年)1月27日、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』)

・元慶3年(879年)6月8日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)

 

〔六国史以後〕

・寛平8年(896年)9月4日、従四位上から正四位上 (『日本紀略』)

・嘉承元年(1106年)11月3日、従一位から正一位 (『中右記』)

 

4)境内(Wikipedia) 

 社殿は宝満山山頂の上宮、山麓の下宮からなる。古くからの信仰の場であるとして、当社社地を含め宝満山は国の史跡に指定されている。かつては中腹に中宮も存在した。

 

4.1)山麓(下宮)

下宮本殿(引用:Wikipedia)

 

 下宮は山麓に鎮座する。主要社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる。境内には南北七間・東西四間の礎石建物跡があり、竈門山廃寺の中枢施設と見られている。当地からは8世紀から12世紀の古瓦が出土している。 そのほか、北方の太宰府市北谷には境外遥拝所がある

 

4.2)宝満山中(上宮・中宮跡)

上宮社殿(引用:Wikipedia)

 

 上宮は宝満山山頂(標高829.6m)に鎮座する。山頂付近には、心蓮上人を埋葬したとされる墓や、祭神・玉依姫命の墓所と伝える法城窟(ほうじょうくつ)がある。

 また山腹には中宮跡が残る。かつて中宮には講堂・神楽堂・役行者堂・鐘楼等が備えられていたとされるが、明治の廃仏毀釈に伴い廃絶した。

 そのほか、山中には多くの坊跡や仏教遺跡が残り、神仏習合時代の面影を残している。

 

4.3)摂末社

*五穀神社

*須佐神社

*夢想権之助社

 祭神は夢想権之助。夢想権之助は宝満山で修行したのち、宮本武蔵と戦って勝ったと伝えられる。

 

5)神宮寺

 当社には、かつて神宮寺として大山寺(だいせんじ)があった。宗派は天台宗大山寺は、西国の天台宗寺院を代表する存在であったという。寺名は、竈門山寺(かまどさんじ)内山寺(うちやまじ)有智山寺(うちやまじ)とも記される。ただし、これらが同一の寺を指すかは確実ではない。

 

 神宮寺に関する史料では、延暦22年(803年)の記事が最古である。下宮にある礎石群から、8世紀後半にはかなりの規模を誇っていたと見られている。史料によると、その延暦22年(803年)には最澄が入唐の折に竈門山寺において、入唐4船のため薬師仏4躯を彫ったという。また承和14年(847年)には唐から帰国した円仁が神前で読誦し、仁寿2年(852年)には円珍が読誦した。承平3年(933年)には、沙弥証覚によって延暦寺の「六所宝塔」のうちの1つが建てられたという。

 

 当寺は平安時代中期、文治4年(1188年)までには竈門神社と一体化し、宮寺として活動していた。その後、大山寺は平安時代後期の11世紀末には一時石清水八幡宮末寺となったが、12世紀初頭に比叡山延暦寺末寺となった。このため、当寺の訴えは中央の京都にも及んでいる。竈門宮正一位が授けられた嘉承元年(1106年)頃には数多くの僧坊を擁し、竈門神とともに最盛期をなした。平安末期の『梁塵秘抄』では、筑紫の霊験所の1つとして「竈門の本山」と歌われている。

 

 宝満山は鎌倉時代末期から室町時代に修験化し、彦山(英彦山)胎蔵界宝満山金剛界とした峰中修行が形成された。南北朝時代に入ると、付近に有智山城・宝満城等が築かれた関係で戦乱に巻き込まれ、寺勢は衰退していった弘治3年(1557年)には大友宗麟による検地・堂社破壊によって社勢・寺勢は衰退し、盛時には370坊あった僧坊も近世初頭には25坊にまで減少したと伝えられる。

 

 その後、近世に小早川氏・黒田氏によって山伏の修験道場として再興された。しかし、寛永18年1641年の火災で多くの堂社を焼失したこともあり、江戸時代中期以前に周辺の僧坊のほとんどは廃絶、残った仏教施設も明治の廃仏毀釈で一掃された。 

 

6)宝満山への信仰

6.1)竈門神社公式HP

  九州で最も登山者が多いといわれている宝満山は、古の時代より神が降り立つ山として崇められてきました。別名の「竈門山」とは、頂上付近に遺る竈門岩の伝承によるものと、江戸時代の儒学者貝原益軒も「筑前国続風土記」にも記しているように、山の姿がカマドの形に見え、常に雲霧が絶えず、それがカマドで煮炊きをして煙が立ち上っているように見えることに由来していると言われています。

 

 平成25年10月、宝満山はわが国の歴史上においても大変重要な国家的祭祀が継承されてきた信仰の山「霊山」として、その歴史的・文化的価値が認められ、鳥海山富士山に次ぐ、全国3例目の国史跡に指定されました。

 

6.2)Wikipedia

〇概要

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南方からみた宝満山(引用:Wikipedia)

 

 宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)竈門山(かまどやま)とも言う。

 

 かつての筑前国御笠郡の中央にあたり、福岡市の南東、太宰府市の北東部、筑紫野市の北東部に位置する。古くから霊峰として崇められ、山頂の巨岩上に竈門神社上宮があり、全山花崗岩で、英彦山脊振山と並ぶ修験道の霊峰である。

 

 また、中世高橋氏の本拠である宝満山城(宝満城)が築かれた。

 

 山頂の眺望は抜群で、西から脊振山地の山々、博多湾・玄界灘・三郡連山(砥石山・三郡山・頭巾山・仏頂山・宝満山)・英彦山・古処山・馬見山・津江山地・九重山の山々・福岡・筑後・佐賀の三平野・有明海の彼方に雲仙岳も遠望でき、稜線沿いに仏頂山・三郡山へと至る道は人気の高いハイキングコースである。数多くの登山道があるが、太宰府側からのものが登山者が多い。 

 

 古くから大宰府と密接に関わった歴史があり、古代から近世の遺構が多く残っており、日本の山岳信仰のあり方を考える上で重要な山として、2013年10月17日付で文化財保護法に基づく史跡に指定された。

 

〇山名の由来

●御笠山

 最も古い名称で、筑紫野市の二日市方面から望むと「笠」の形に見えることから(古来「笠」は神の憑代(よりしろ)と考えられ山全体が御神体として信仰されていた)麓には、日本書紀にも記される三笠の森の史跡がある。

●竈門山

 この山の九合目にある竈門岩によるという説と、貝原益軒の「筑前国続風土記」には「この山は国の中央にありていと高く、造化神秀のあつまれる所にして、神霊のとどまります地なれはにや、筑紫の国の惣鎮守と称す。」と書かれてあり、カマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上っているように見えることからという説がある。

 

●宝満山 

神仏習合によってこの山に鎮座する神が「宝満大菩薩」とされたことから。

*大宰府政庁の鬼門(北東)の方位にあたり鬼門封じの役目といわれている、京都御所における比叡山と同じ、伝教大師最澄も宝満山で祈祷をしたといわれている。

*太宰府天満宮の手水舎は宝満山から運び出した岩で造られたもの。

 

〇宝満山を水源とする河川

*御笠川 ― 博多湾

*宇美川 ― 多々良川に合流 ― 博多湾

*宝満川 ― 筑後川に合流 ― 有明海 

 

7)関連項目

7.1)夢想権之助

 夢想 権之助は、江戸時代初期の剣客である。生没年は不明。また、杖術として有名な神道夢想流杖術の流祖である。同流の口伝では名字は山本、諱は勝吉である。『武芸流派大事典』(綿谷雪、山田忠史)によれば本姓は平野、通称は権兵衛。『武芸流派大事典』によれば、霞流の桜井大隅守(諱は吉勝)が師、弟子は小首孫右衛門(諱は吉重)。また、松林蝙也斎も権之助の弟子であるといわれる。

 

 夢想権之助は宮本武蔵に敗れたとされている。時期は『海上物語』(惠中(堤六左衛門 諱は坂行)、寛文6年(丙年)弥生(1666年3月))では武蔵が明石滞在時、『二天記』(安永5年(1776年)。なお元となった『武公伝』に記載はない)では、江戸滞在時である。

 

 当流の口伝では、後日に権之助が宝満山の竈門神社で祈願し杖術の研究を重ね、再び武蔵と立会い、ついに破った後に開いたと伝える。『武稽百人一首』では「武道をば神の夢想ぞ権之助自らゆるす天下一かな」とよまれている。

 

7.2)「鬼滅の刃」

 正確な関係性は吾峠や集英社側から明かされていないが、主人公の「竈門炭治郎」の姓と同じ、同神社が大宰府の「鬼門封じ」、同神社の上宮の宝満山で修行する修験者は「市松模様」の装束を着ているが、これは炭治郎の羽織の柄と合致する、金剛兵衛という刀鍛冶の墓がある、作者の「吾峠呼世晴」福岡県出身であるなどの共通点が複数あることから「鬼滅の刃」の聖地ではないかと話題を集めており、2019年11月頃から鬼滅の刃のブームと共に参拝者が急増している。

 

参考Webサイト〕

Wikipedia「鬼滅の刃」『鬼滅の刃』(きめつのやいば)は、吾峠呼世晴による日本の漫画。略称は「鬼滅」。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて2016年11号から2020年24号まで連載された。大正時代を舞台に主人公が鬼と化した妹を人間に戻す方法を探すために戦う姿を描く和風剣戟奇譚。2021年2月時点でコミックスのシリーズ累計発行部数は電子版を含めて1億5000万部を突破している。2019年にテレビアニメ化された。

 

YAMAP MAGAZINE(2020.03.31):「鬼滅の刃聖地巡礼」竈門神社と宝満山を巡るマニアな山旅

LINEトラベルjp福岡・宝満宮竈門神社は「鬼滅の刃」発祥の地?その秘密とは 

西日本新聞me(2012.5.18):人気漫画「鬼滅の刃」の聖地? 福岡・竈門神社、ネットで話題に 


5 筑後国の歴史散歩


(1)高良大社


九州王朝(倭の五王時代)の覇権が伊都国から筑後国へ移転?


写真引用:高良大社HP

(引用:Wikipedia)

 高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮・九州総社・鎮西11ヶ国の宗廟とたたえられています。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。古くは高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)などとも呼ばれた。

 

〇参考Webサイト:高良大社公式HP

 

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中門(引用:Wikipedia)

1)概要

 久留米市中心部の東方に鎮座する。古代から筑紫の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に篤い信仰圏が見られる。厄年の厄ばらい・厄除け開運・延命長寿・現代では交通安全のご利益でも名高い。また芸能の神としての信仰もある。

 

 高良大社自体が名神大社、筑後国一宮であるほか、本殿に合祀されている豊比咩神社が名神大社、境外末社の伊勢天照御祖神社が式内小社、味水御井神社が筑後国総社であるとされる。社殿は国の重要文化財に指定されており、神社建築としては九州最大級の大きさである。

2)祭神

向かって右 八幡大神 中央 高良玉垂命 向かって左 住吉大神(引用:高良大社HP)

*正殿:高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) - 神紋は「横木瓜」、神使は「烏」

*左殿:八幡大神(はちまんおおかみ) - 神紋は「右三巴」、神使は「鳩」

*右殿:住吉大神(すみよしおおかみ) - 神紋は「五七桐」、神使は「鶴」

 

 この他、本殿内には御客座があり、豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されている。高良玉垂命とは夫婦との説もある。神階は正四位下。詳細は下記豊比咩神社を参照。御客座にはほかにも境内にあった坂本神社の祭神などが合祀されている。

 

 高良玉垂命は朝廷から正一位を賜っているものの記紀には登場しておらず、正体が誰であるかに関しては古くから論争があり、武内宿禰(物部保連)藤大臣(中臣鳥賊津臣命、藤大臣連保、月天子、住吉明神の化身、物部氏の遠祖・物部胆咋連、物部保連)物部祖神(饒速日命、物部胆咋連、物部保連)彦火々出見尊説水沼君祖神説綿津見神説比売許曽神(香春同神)景行天皇(大足彦)芹田真誰説新羅神説高麗神説など諸説がある。江戸時代には武内宿禰に比定する説が主流であったが、明治以降は特に比定されていない。

 

〇御神徳

 厄除け・延命長寿・交通安全はじめ生活全般をお守りくださる神様として篤く信仰されてきました。文永・弘安の蒙古襲来(1274年・1281年)には、勅使が参向、蒙古調伏なるや叡感あって、「天下の天下たるは、高良の高良たるが故なり」との綸旨を賜わったと伝えられることから、「武運長久の神」として、更には、高良神楽発祥の地であることから、「芸能の神」としても崇敬されています。

 

3)歴史

 仁徳天皇55年(367年)または78年(390年)鎮座、履中天皇元年(400年)創建と伝えられる。『延喜式神名帳』には「筑後国三井郡 高良玉垂命神社」と記載されて名神大社に列しているほか、筑後国一宮とされた。また、祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされる。

 

 高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。 

 

 現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前「高牟礼市民センター」や、久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っている。

 

 現在の社殿は久留米藩第3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660年)に本殿が、寛文元年(1661年)に幣殿・拝殿が完成した。

 

 明治4年(1871年)、近代社格制度において「高良神社」として国幣中社に列格し、1915年(大正4年)国幣大社に昇格した。

 

 〇神階

●高良玉垂命

・延暦14年(795年)5月6日、従五位下 (『日本紀略』)

・承和7年(840年)4月21日、従五位上 (『続日本後紀』)

・承和8年(841年)4月14日、正五位下 (『続日本後紀』)

・嘉祥元年(848年)11月2日、従四位下 (『続日本後紀』)

・嘉祥3年(850年)10月7日、従四位上 (『日本文徳天皇実録』)

・仁寿元年(851年)3月2日、正四位上 (『日本文徳天皇実録』)

・仁寿元年(851年)9月25日、従三位 (『日本文徳天皇実録』)

・天安2年(858年)5月14日、正三位 (『日本文徳天皇実録』)

・天安3年(859年)1月27日、従二位 (『日本三代実録』)

・貞観6年(864年)7月27日、正二位 (『日本三代実録』)

・貞観12年(870年)2月15日、従一位 (『日本三代実録』)

・不詳、正一位(『筑後国神名帳』)

 

豊比咩大神

・天安元年(857年)10月丁卯、従五位下 (『日本文徳天皇実録』)

・貞観元年(859年)1月27日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)

・貞観6年(864年)6月27日、正四位下 (『日本三代実録』)

・貞観11年(869年)3月22日、正四位上 (『日本三代実録』)

 

●高皇産霊神

・元慶2年(878年)、従五位上(『日本三代実録』)

・不詳、正五位下(『筑後国神名帳』)

 

●その他 『筑後国神名帳』の記載。

*借従四位上

斯禮賀志命神 高良玉垂命神第一王子(高良御子神社)

 

正五位下

伊勢天照名神(伊勢天照御祖神社)

物部名神(赤星神社)

 

*借従五位上

朝日豊盛命神 高良玉垂命神第二王子(高良御子神社)

暮日豊盛命神 高良玉垂命神第三王子(高良御子神社)

淵志命神 高良玉垂命神第四王子(高良御子神社)

谿上命神 高良玉垂命神第五王子(高良御子神社)

那男美命神 高良玉垂命神第六王子(高良御子神社)

坂本名神 高良玉垂命神第七王子(高良御子神社)

安子竒命神 高良玉垂命神第八王子(高良御子神社)

安樂應寶秘命神 高良玉垂命神第九王子(高良御子神社)

 

*正六位上

味氷御井神(味水御井神社)

 

4)摂末社・兼務社など

 『玉垂宮賓殿及境内末社記』には、下記以外に発心権現(発心三社大権現)が末社として挙げられている。鎮座地はわかりやすくするため旧字名を使用した。

 

4.1)奥宮

●高良大社奥宮(奥の院)

 御井町字奥の谷に鎮座。古くは「高良廟」「御神廟」あるいは「語霊廟」と称し、高良玉垂命に比定されていた武内宿禰の葬所とされた。

 

●水分神社(みくまりじんじゃ)

・境外末社。祭神:水分神。例祭:11月13日(摂末社例祭)。初寅祭:毎月初寅日。

・奥宮境内に鎮座。「水分社」とも称する。旧「高隆寺毘沙門堂」が明治の神仏分離で改められたもの。

 

4.2)境内

 三の鳥居・本坂及び下向坂(げこうざか)鳥居・石段より内側が境内地。現在の本参道は本坂だが、かつては下向坂石段であったという。

 

〇豊比咩神社

●豊比咩神社(とよひめじんじゃ)

・式内社(名神大)。旧県社。現在は摂社として本殿に合祀。

・祭神:豊比咩大神(豊玉姫命)

 

 名神大社の論社の一つ。筑後国三井郡の式内社3座(大2座・小1座)は同一個所にあったであろうと考えられており、天安元年(857年)5月に豊比咩神社の社殿を焼失した際、高良玉垂宮にも被害があった記録があることから、相殿あるいは至近距離にあったとする説もある。貞観11年(869年)3月22日、正四位上に列格。『筑後国神名帳』にも記載はあるが、その後は退転し不詳となった。そのため論社は複数存在する。

 

 貞享2年(1685年)に末社として再興されたというが、その社殿は真根子神社のものとして使われている。明治維新のころに御井町字清水、清水山山頂(御手洗池西岸)「新清水観音堂」境内に豊比咩神社の小祠が作られ再興、さらに明治の神仏分離により新清水観音堂が廃されたことからそちらに移った。境内には桃青霊神社も鎮座していた。1873年(明治6年)県社に列格。明治中年頃の『国幣中社高良神社絵図』には「境外県社」とある。「豊比咩社」「豊比咋咩神社」とも称した。

 1936年(昭和11年)に隣接地であるブリヂストン石橋家の別荘「水明荘」の用地の一部となり、豊比咩神社廃社され本殿に合祀、社殿などはそのまま放置されているというが、桃青霊神社は後に現在地の宮地嶽神社境内に遷座した。

 

〇境内摂末社

●市恵比須社(いちえびすしゃ)

 境内社。祭神:夫婦恵比須神。例祭(えびす大祭):9月25日。

 元は麓の御井町字府中に祀られていた市の神社。筑後国付近で市を開くときは高良山大祝の許可を得て恵比寿神を勧請するのが通例であったという。府中宿内や下宮には現在でも恵比寿神石像が複数存在する。

 

●印鑰神社いんにゃくじんじゃ)

 境内末社。祭神:武内宿禰公。例祭:11月13日(摂末社例祭)

 「印鑰社」とも称する。1873年(明治6年)、後述する御井町字宗崎にある印鑰神社から勧請された。明治中年頃の『国幣中社高良神社絵図』では祭神は「高良神社の印鑰」とされる。

 

●高良御子神社(こうらみこじんじゃ)

 境内摂社。例祭:11月13日(摂末社例祭)、月次祭:毎月13日。

 祭神:高良玉垂命の御子神9柱・九躰皇子

 第一王子 斯礼賀志命(しれがしのみこと)/第二王子 朝日豊盛命(あさひとよさかりのみこと)

 第三王子 暮日豊盛命(くれひとよさかりのみこと)/第四王子 渕志命(ふちしのみこと)

 第五王子 谿上命たにがみのみこと)/第六王子 那男美命(なおみのみこと)

 第七王子 坂本命(さかもとのみこと)第八王子 安志奇命(あしきのみこと)

 第九王子 安楽応宝秘命(あらおほびのみこと)

「高良御子社」とも称する。1873年(明治6年)、後述する山川町字王子山にある高良御子神社から勧請された。

 

●真根子神社(まねこじんじゃ)

 境内末社。祭神:壱岐真根子命。例祭:11月13日(摂末社例祭)。「真根子社」とも称する。1935年(昭和10年)、同じく境内にあった五所八幡宮日吉神社風浪神社が合祀。現在の社殿は貞享2年(1685年)再興の豊比咩神社の旧社殿とされる。

 

*五所八幡宮(ごしょはちまんぐう):境内末社。祭神:肥前千栗、豊前大分、肥後藤崎、薩摩鹿児島、大隅霧島。古くは「五社八幡」「五所神社」と称した。

 

*日吉神社(ひよしじんじゃ):境内末社。祭神:大山咋命。古くは「山王七社」と称した。

 

*風浪神社(ふうろうじんじゃ):境内末社。祭神:綿津見神。古くは「風浪権現」「風浪社」と称した。 

 

4.3)山内

 二の鳥居で車道(福岡県道750号)と分岐する。参道を登り切った下向坂鳥居付近で車道から分離した臨時バス専用車道と合流、さらに進んだ三の鳥居付近で車道と合流する。

 

〇山内参道沿い

●鏡山神社(かがみやまじんじゃ)

 境外末社。祭神:高良玉垂命の分祖。例祭:11月13日(摂末社例祭)

 元は麓の御井町字賀輪に祀られていたが、九州自動車道の建設のため現在地である高良山二十六ヶ寺の中院跡に遷座した。高良大社宝物館に収められている四雲文重圏規距鏡が祀られていた。

 

●伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)

 境外末社。式内社(小)。祭神:天照大神。例祭:11月13日(摂末社例祭)

 御井町字中谷に鎮座。「伊勢御祖神社」とも称する。古くは「伊勢社」「御祖神社」「伊勢御祖神(いせみおや)と称した。延暦3年(784年)、伊勢の皇大神宮から分祀された。室町時代末の『高良社画縁起』では、石造大鳥居の北(現御井小学校正門、府中宿本陣跡「伊勢の井」付近)に小祠が描かれているが、明和4年(1767年)の府中大火が契機となり、現在地に遷座した。久留米市大石町の伊勢天照御祖神社と同じく、式内小社の論社だが、祭神は異なる。

 

*八幡宮境外末社。伊勢天照御祖神社境内に鎮座。

 元は山内の別の場所にあったが、整備により伊勢天照御祖神社境内に遷座した。『玉垂宮賓殿及境内末社記』には「若宮八幡宮」が末社として挙げられているが、高良山周辺には複数の八幡神社があるため、当社を指すのかどうかは不明。

 

*天満宮境外末社。伊勢天照御祖神社境内に鎮座。

 元は山内の別の場所にあったが、整備により伊勢天照御祖神社境内に遷座した。『玉垂宮賓殿及境内末社記』には「天満宮」が末社として挙げられているが、高良山周辺には複数の天満神社があるため、当社を指すのかどうかは不明。

 

●大辨財天社(だいべんざいてんしゃ)

 境外社。二の鳥居に入ってすぐの竹やぶの中に鎮座する石塔。裏面には白蛇塚と書かれている。

 

〇山内車道沿い

●大学稲荷神社(だいがくいなりじんじゃ)

 境外末社。祭神:倉稲魂命。初午祭:2月初午日、夏祭:9月6日、冬籠祭:12月8日。

御井町字宗崎、稲荷山山頂に鎮座。「稲荷神社」「稲荷社」とも称するほか、古くは「愛宕山稲荷」とも称した。筑前・筑後稲荷十社筆頭といわれる高良大社の摂末社の中でも大きい神社で、明和8年(1771年)、京都の伏見稲荷大社から愛宕神社境内に勧請。慶応2年(1886年)に現社地を拓き、1875年(明治8年)に遷座された。上社(通称:大学稲荷社)下社(通称:小学稲荷社)に分かれ、また三九郎稲荷社三四郎稲荷社など多数の稲荷社がある。下社は愛宕神社ができる前からこの地にあったとされる。

 

●印鑰神社(いんやくじんじゃ)

 元境外末社のち兼務社。旧村社(神饌幣帛料供進社)。祭神:武内宿禰公・菅原道真公。夏祭:7月17日、冬祭:12月18日。

 御井町字宗崎に鎮座。白鳳16年(676年)鎮座。元は大宮司宗崎邸があった場所だが、慶長6年(1601年)に宗崎村が高良大社の神領から外されて社地も宗崎分となったため、宗崎村の氏神となった。

 

 『玉垂宮賓殿及境内末社記』には「印鑰大明神」が末社として挙げられている。文化8年(1811年)、菅原道真公が合祀された。1873年(明治6年)3月14日郷社に、1921年(大正10年)4月7日神饌幣帛料供進社に列している。印鑰とは高良大社鍵(鑰)のことであり、高良大社の宝を守る鍵、あるいは高良大社そのものを守る神社であるといわれている。高良大社境内にある印鑰神社はこちらからの勧請。

 

●宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)

 境外末社。祭神:神功皇后。例祭:11月13日(摂末社例祭)

 御井町字礫山、虚空蔵山山頂に鎮座。福岡県福津市の宮地嶽神社からの勧請。

 

●桃青霊神社(とうせいれいしんのやしろ、とうせいれいじんじゃ)

 境外末社。祭神:松尾芭蕉

 宮地嶽神社境内に鎮座。寛政8年(1796年)2月建立。全国でも初めて松尾芭蕉を祀った神社とされる。元は清水山の新清水観音堂のち豊比咩神社境内にあったが、豊比咩神社廃社により社地が「水明荘」の用地の一部となったため、1960年(昭和35年)から1965年(昭和40年)ごろに虚空蔵山の宮地嶽神社境内に遷座した。新清水観音堂の自得祠もこちらに移されている。

 

●愛宕神社(あたごじんじゃ)

 境外末社。祭神:火迦具土神。夏祭:7月23日、月次祭:毎月4日。

 御井町字礫山、礫山山頂に鎮座。万治11年(1660年)に京都の愛宕神社から勧請、隈山(現久留米大学御井学舎付近)に鎮座していたが、遠方で祭事に支障があるため、寛文11年(1671年)現在地に鎮座。古くは「愛宕権現」と称した。通称「愛宕さん」。

 

 境内には岩不動がある。正式には「三尊磨崖種子(さんぞんまがいしゅじ)」という市指定文化財で、中央が地蔵菩薩、左右は不動、毘沙門の三尊の種子(梵字)が彫られている。正参道はかつて岩不動参道の横にあったが、一の鳥居からは九州自動車道で遮られており繋がっていない。近くには礫山古墳、高良下宮社の間には祇園山古墳がある。 

 

〇山内その他

●琴平神社(ことひらじんじゃ)

 境外末社。祭神:大物主命・崇徳天皇。春季大祭:4月10日、秋季大祭:9月10日、月次祭:毎月10日。御井町字吉見嶽、吉見嶽山頂に鎮座。「琴平社」とも称する。安永3年(1774年)3月10日、讃岐の金刀比羅宮から勧請された。明治4年(1871年)、讃岐の本社と同様に崇徳天皇を合祀し「白峰社」さらに「琴平神社」と改称した。同地には吉見嶽城跡がある。

 

●高良御子神社(こうらみこじんじゃ)

 元境外末社のち兼務社。祭神:高良玉垂命の御子神9柱・九躰皇子(斯礼賀志命、朝日豊盛命、暮日豊盛命、渕志命、谿上命、那男美命、坂本命、安志奇命、安楽応宝秘命)

 

 山川町字王子山に鎮座。古くは「阿志岐王子」「九躰王子」と称した。通称「王子宮」。允恭天皇時代、阿志岐山上に建立。神護景雲2年(768年)現在地に遷座した。第一王子である斯礼賀志命従四位上第二王子以降従五位上が送られている(『筑後国神名帳』)。古くは摂社だったが、後に独立し山川町字本村の氏神、山川町の総氏神となった。『玉垂宮賓殿及境内末社記』には「王子宮」が末社として挙げられている。高良大社境内にある高良御子神社はこちらからの勧請。

 

 境内社に王子若宮八幡宮(仁徳天皇)太神宮(天照大神)恵比須神天満神社(菅原神(本村区氏神))。王子池の「花火動乱蜂」は高良御子神社ではなくこの若宮八幡宮の例祭(9月15日)。『玉垂宮賓殿及境内末社記』には「若宮八幡宮」が末社として挙げられているが、高良山周辺には複数の八幡神社があるため、当社を指すのかどうかは不明。

 

*坂本神社

 元境外末社のち兼務社。例祭:7月撰日

 祭神:東坂本社:櫛岩窓命(くしいわまどのかみ)西坂本社:豊岩窓命(とよいわまどのかみ)

 

 高良御子神社境内右脇に鎮座。高良山道入口の守護神で、山川町字栗林の氏神。栗林(御井駅付近)阿志岐坂に至る古道の東西2か所に祀られていた。古代高良山の登口である三口(耳納村・阿志岐村・高良内村)の一つで最も重要な北口にあった。『玉垂宮賓殿及境内末社記』には「坂本明神」が末社として挙げられている。高良大社境内本坂の両脇にも分霊が祀られていたが、現在は本殿内の御客座に遷座している。

 

 1910年(明治43年)9月26日、明治後期の神社合祀により両社とも末社ごと高良御子神社に遷座合祀された。そのため、高良大社では兼務社に準ずるものとして扱っているが宗教法人格はなく、法律上は高良御子神社の境内神社となる。高良御子神社の一の鳥居の扁額は「王子宮」、二の鳥居の扁額は「坂本神社」となっている。

 

 境内社は、東坂本社が末社素盞嗚社(素盞嗚命)、末社佐田社(猿田彦命)、末社八柱社(高良玉垂命・外7柱、元治2年(1865年)建立)。西坂本社が末社隼鷹天神社(高皇産霊神)、末社石川宿弥社(不詳)、佐屋神大明神。

 

4.4)山麓

 石造大鳥居(一の鳥居)から二の鳥居まで。

 

●高樹神社(たかぎじんじゃ)

 元境外末社のち兼務社。旧郷社(神饌幣帛料供進社)。祭神:高皇産霊神。例祭:12月13日。

御井町字神籠石に鎮座。古くは「高牟礼権現」「高牟礼神社」と称した。歴史にある通り高良山の地主神であり、元慶2年(878年)従五位上(『日本三代実録』)、後に正五位下に列せられた(『筑後国神名帳』)

 

 1873年(明治6年)3月14日郷社に、1922年(大正11年)11月24日神饌幣帛料供進社に列している。明治中年頃の『国幣中社高良神社絵図』には「境外郷社」とある。

境内社に社日神社、猿田彦大神。狛犬は筑後地方で最も古いものであり、久留米市指定民俗文化財。

 

●厳島神社(いつくしまじんじゃ)

 境外社。祭神:市杵嶋姫命。例祭:11月13日(摂末社例祭)。

 御手洗池に鎮座。「厳島社」とも称する。御手洗池は、元は谷で土橋があったところ、安永年間(1772年から1781年)に久留米藩が放生池として整備、享和3年(1803年)9月に石橋である御手洗橋(県指定有形文化財)が建てられた。

 

4.5)町内

 石造大鳥居(一の鳥居)より外。石造大鳥居脇に下宮へ向かう鳥居がある。

●高良下宮社(こうらしもみやしゃ)

 元境外末社のち兼務社。旧村社。例祭:11月13日。

〔祭神〕

 正殿・下宮社:高良玉垂命

 左殿・幸神社:孝元天皇

 右殿・素盞嗚神社(祇園社):素盞嗚尊

 

 御井町字府中に鎮座。古くは「高良宮下宮」と称した。上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年あるいは白鳳2年(664年)の創建。有馬家入国の際に府中宿の氏神となる。元は境外末社であったが、1914年(大正3年)に上宮から独立し村社に列した。明治中年頃の『国幣中社高良神社絵図』には「境外郷社」とある。

 

 境内社に粟島神社、秋葉神社、恵比寿像、役行者像(極楽寺から移されたもの)、猿田彦大神など。

 

 愛宕神社の間には祇園山古墳があり、素盞嗚神社(祇園社)はそれを守るために建てられたという説もある。現在でも素盞嗚神社だけでなく高良下宮社自体を通称「祇園さん」と呼ぶ場合がある。『玉垂宮賓殿及境内末社記』には「下宮」と「祇園社」がそれぞれ別に末社として挙げられている。

 

●味水御井神社(うましみずみいじんじゃ)

 境外末社。筑後国総社。

〔祭神〕 水波能賣命。例祭:11月13日(摂末社例祭)。夏祭:8月7日。

 

 御井町字朝妻、久留米大学前駅北側に鎮座。古くは「朝妻社」あるいは「朝妻大明神七座」と称した。創建は不明だが、正六位上として天慶7年(944年)の『筑後国神名帳』にも載っている古社。久留米大学駅前南側に高良大社屯宮跡(頓宮、すなわち摂社のこと)の碑があり、元は駅も境内地であった。高良三泉の一つで、高良山十景の一つ、朝妻清水が御神体であり、鳥居や社殿はない。

 

 10世紀半以降、国府が合川町枝光から朝妻へ移ったため、筑後国総社となった。御神木のクロガネモチは県指定天然記念物。

 

 また、朝妻の各所に別々に鎮座していた7社(朝妻七社)を合祀している「七社権現」と呼ばれる小祠がある。味水御井神社に社殿がないため、こちらと勘違いされることがある。

 

 祭神は仲哀天皇、神功皇后、国長明神、古母、妙見、乙宮、西宮。

 

4.6)その他の兼務社

 高良山山麓の兼務社は、前述の印鑰神社高良御子神社(坂本神社)高樹神社高良下宮社を含め、御井・山川・高良内3校区全16社

 

●山川招魂社

高良内八幡神社

●赤星神社(妙見宮) - 正五位下(『筑後国神名帳』)

●冨松神社

●天満神社(山川校区内計6社)

 *野口天満神社

 *安居野天満神社

 *神代天満神社

●鑓水日吉神社

●太郎原日吉神社

 

5)関係寺院

●高隆寺

 天台宗寺院。廃寺。中世中期までの高良山の神宮寺として高良玉垂宮を支配していたが、後期以降は衰退し御井寺にその座を譲った。

 

●御井寺

 天台宗寺院。山号は高良山、院号は蓮台院。中世後期以降の高良山の神宮寺。高良山の座主として、26寺360坊1000余名の衆徒を支配した。明治2年(1869年)神仏分離(廃仏毀釈)により仏教は高良山を追い出され、高良山二十六ヶ寺は全て廃寺となった。本坊跡は旧宮司宅、座主跡は高良山御殿として使用された。1879年(明治11年)4月、麓の宝蔵寺跡御井寺が再建された。

 

●高良山二十六ヶ寺、高良山十二院

 高良大社参道に点在していたが、前述の通り全て廃寺となった。

 

6)参考Web サイト(高良玉垂命の謎) 

 ニホンタビ(2016/02/19)

 「久留米・高良大社、九州を代表する火の祭祀の奥に見える高良玉垂神の謎を知る福岡旅 」「高良大社」は福岡県久留米市の高良山に鎮座する筑後国の一宮。その信仰は筑後はもとより、有明海一円に広がっています。

 

 この社の祭神、高良玉垂命は記紀に載せられない隠された神として、その正体は不明ともされています。今回はこの高良大社を参拝し、高良玉垂神の謎に触れるディープな福岡旅へとご案内します。 

 

私の雑記帳(高良玉垂命の謎)

1.高良玉垂命の正体

 

2.高良玉垂命に関する伝承

(1)玉垂命(高良大神)

(2)玉垂姫命(豐姫大神)

(3)宇佐神宮の神々

(4)住吉三神

 

3.九州の神社

(1)元高良:大善寺玉垂宮

(2)筑後国一宮:高良大社

(3)肥前国一宮:與止日女神社

(4)基山北東麓の筑紫神社と南西麓の荒穂神社

 

ひもろぎ逍遥(2017.05.27)

玉垂命は安曇磯良(アントンイソラ)

 


(2)祇園山古墳


卑弥呼の墓?


(引用:Wikipedia)

1)概要

 祇園山古墳(ぎおんやまこふん)は、福岡県久留米市御井町字高良山に所在し、福岡県指定史跡に指定されている方墳である。3世紀中頃の築造と推定される。築造時期や規模から、宝賀寿男や地元研究者などにより、この古墳を邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかとする意見がある。

 

案内板(引用:古墳巡りin福岡 

 

 耳納山系西端の高良山から西の平野に向かって派生する丘陵の先端部にあり、筑後平野の多くを一望の下に見渡すことのできる台地(赤黒山)の上に位置しており、占地の意図を窺わせる。同台地上の祇園山古墳南側にはさらに5基の古墳があり、総称して「祇園山古墳群」と呼ばれる。

 

 『記紀』によれば仲哀天皇9年に仲哀天皇神功皇后熊襲討伐のため筑紫に幸し高良山に滞在(安在地・朝妻)し、朝鮮半島に出兵時には高良の神神功皇后を援け給うと伝えられ、高良大社には神功皇后を補佐した武内宿禰が祀られている。

 

 その後も磐井の乱では筑紫君磐井がここに陣を置いたと伝えられており、『日本書紀』斉明天皇4年(658年)条の「繕修城柵断塞山川」神籠石式山城と伝えられている。

 

 また豊臣秀吉は1587年(天正15年)島津氏討伐の際、高良山の吉見岳城に本陣を置いた。有史以来多くの戦乱で砦が置かれているように、この地は朝倉方面、福岡方面、八女方面、また鹿島方面など筑紫平野を一望できる戦略的な要衝であり、高良大社高良山神籠石などの文化財も多い。

 

 古墳は、高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、その基部は楕円形をなしている。場所は 九州自動車道に面しており、久留米インターチェンジから高速道下り方向1.7キロメートル地点から目視することができる。

 

 古墳は九州自動車道建設のために削開されるところを、福岡県教育委員会および市民による道路公団に対する保存運動により、1969年(昭和44年)12月11日から1972年(昭和47年)6月1日まで5次にわたる埋蔵文化財の発掘調査が行われた。調査結果による重要性の認識から、工事は基部の部分的な削開にとどまり、かろうじて遺構の約80%が現地保存された。

 

2)規模・形状

 形状は方墳で、規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mで、標高60m(墳丘頂部)、標高55m(墳丘基準面)である。葺石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を楕円形に整形した台地の上に存在する。

 

 周辺からは埴輪などは出土していない。埋葬主体は墳頂部中央の箱式石棺である。石棺はあるが槨はなく、形状、規模とも吉野ケ里遺跡の楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似する。

 

3)埋葬施設

3.1)墳頂部

 墳頂部は一辺が約10mの平坦面であり、そのほぼ中央に長辺軸を北東-南西方向とする箱式石棺がある。安山岩の板石を大小5枚使い、側壁の不足部を補う板石各1枚で構築されている。石棺の大きさは底部付近で長さ約m、幅約90cm、深さ約90cmで、棺内には蓋石も含めて朱が塗られていた。

 

3.2)墳裾外周部

 墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されている。

 

 甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置づけられる。第7号箱式石棺墓(H7)では、石棺の両小口側(短辺側)それぞれに朱に染まった粘土塊があることから枕の痕跡と捉え(人骨は見つかっていない)、被葬者2体の頭位を逆にして同じ棺に埋葬した「差し違い2体葬」と考えられた。このような「差し違い2体葬」は当墓のほか、祇園山古墳の南に位置する祇園山2号墳の墳丘直下で検出された石蓋土壙墓でも見つかっている。

 

 墳裾外周の埋葬施設群は、方墳とほぼ同時期に造られた甕棺墓を最古として、石蓋土壙墓・箱式石棺墓・竪穴式石室墓へと墓制が時期差を持って変遷しており、墓制・遺物の検討からおよそ半世紀ほどの期間で造営された集団墓と考えられている。

 

 また、このような大型の主墳の墳裾に複数の小型埋葬施設が従属的に造られる事例は、祇園山古墳以外にも久留米市の七曲古墳群(旧・放光寺古墳群)や岡山県赤磐市の用木古墳群など、各地で見られる。

 

4)副葬品

 墳頂部箱式石棺は古い時代に盗掘を受けたと見られ、主体部の副葬品は失なわれている。近傍の高良大社に出土品と伝わる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)および変型方格規矩鏡があるものの、詳細な由来は不明である。

 

 墳裾外周部の第1号甕棺墓(K1)は内部が朱に塗られ、成人女性人骨後漢鏡片(半円方格帯鏡:主銘「吾作明口幽湅三商周□無□配疆會…番昌兮」、副銘「善同出丹□」)、大きさ5cmの大型硬玉製勾玉、2個の両面穿孔碧玉製管玉刀子が出土し、九州歴史資料館に収蔵されている。成人女性は被葬者の従者ないし巫女の頭と考えられている。

 

 形状不明のG1号墓主体からは3世紀の畿内では出土していない刀子、鉄鏃、剣、刀身などの鉄製武器だけでなく、鎌、錐、手斧鍬などの鉄製農具も出土している。墳裾の各所から古式土師器(西新式土器)、須恵器等が多数出土している。

 

5)卑弥呼の墓

 古代日本では、『魏志倭人伝』『記紀』の中に殉死・殉葬に関する記事が見られるものの、実際の弥生墳丘墓や古墳において、確実に殉葬が行われたと捉えられる出土人骨や遺構の事例は確認されていない。

 

 福岡県糸島市平原遺跡3号墓周濠を、底部で見つかった朱や掘り込み形状から16人分の殉葬溝と見る原田大六の見解もあったが、今日の再検討報告では殉葬溝とは見なされておらず、同遺跡4号墓周溝内土坑墓1基のみに対し殉葬墓の可能性が指摘される以外は全て追葬墓と見なされている。

 

 祇園山古墳の発掘調査報告書でも、墳裾外周で検出された66人分以上の墓群について、半世紀ほどの期間で造営されたとみられることから、祇園山古墳の被葬者を盟主とする集団の集団墓と捉えている。

 

 これについて宝賀寿男は、この墓群を1つの棺に「差し違い2体葬」があることや、墳丘築造前の棺が見られないこと、全ての棺が墳丘裾内に存在することなどを挙げてこれらを同時期の埋葬ではないかとして、殉葬者の墓ではないかとしている。

 

 また大塚初重の意見に賛同し、弥生時代の築造ならば集団墓ではなく個人の墓であろうとしている。ただし「差し違い2体葬」については1棺への2体葬が必ずしも同時埋葬ではなく、追葬と考えうる時間差がある事例が多いことは、祇園山2号墳石蓋土壙墓例などから指摘されている。

 

 また宝賀は、墳墓の形状、主体部(石棺)、築造時期が3世紀中期であると考えられること、規模が一辺約23m・斜辺32mで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪がなく墓群があること(殉葬者と仮定)、そのうちの第1号甕棺墓(K1)からは後漢鏡片大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1号墓からは鉄製の武器や農具が出土し、時期的に矛盾が無いことなどが『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載と一致するとしている。

 

 また魏朝の薄葬令や朝鮮諸国、帯方郡の墳墓がいずれも30m前後の方墳であったことなど、国際的観点から照らし合わせても同墳の規模に不自然さが無く、さらにこの古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台に占地することをあげて、卑弥呼の墓ではないかとの説を示している。

 

 そのほかに、村下要助・廣木順作が同古墳(弥生墳丘墓)を卑弥呼の墓であると主張している。また石野博信は畿内説論者であるが、邪馬台国を筑紫に想定した場合、同古墳が卑弥呼の墓として「有力候補になってくるのかもしれない」と述べた。

 

 このほか、田中幸夫は様相が卑弥呼の墓に類似するとした。学術論文ではないが作家の足立倫行は、2011年に『週刊朝日』に掲載した紀行文の中で、築造を卑弥呼没年より半世紀後としつつも、卑弥呼の墓を彷彿させると述べた。

 

〇参考Web サイト

卑弥呼の墓候補地*祇園山古墳(2019.09.18)(YAMAP)

祇園山古墳(1)(ピラミッド型の方墳に箱式石棺)(ひもろぎ逍遥)

 


(3)大善寺玉垂宮


九州王朝(倭の五王時代)の王都?


 (引用:大善寺玉垂宮HP)

1)大善寺玉垂宮について 

〔創建〕

 大善寺玉垂宮の創建については謎が多く明らかではないが、景行天皇の皇子国乳別(くにちわけ)皇子を始祖とする水沼君が当地を治められたとき、その祖神を祀ったのが玉垂宮の前身と考えられ、平成15年(2003年)に1900年御神期大祭を終えた古社です。(社伝)

 

〔御祭神と由緒〕

 御祭神は、玉垂命(藤大臣(とうのおとど)・高良大明神とも称す)八幡大神住吉大神が祀られています。藤大臣神功皇后三韓出兵に大功があり、玉垂宮神功皇后との関係が深い。

 

 『吉山旧記』によれば、藤大臣は仁徳天皇55年に賊徒退治の勅命を受け、この地に下り筑紫を平定し、同57年(369年)高村(大善寺の古名)御宮を造営し筑紫の政事を行ったが、仁徳天皇78年(390年)にこ の地に没し祀られ、高良玉垂宮と諡(おくりな)されたと伝えられます。

 

 天武天皇の白鳳元年(673年)三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗僧安泰をして祭神を祀らせ、そばに一宇の精舎を開基して御廟院高法寺と号しました。後に、高法寺は延暦年間天台宗となり、弘仁5年(814年)嵯峨天皇の勅命により、殿堂、楼門、回廊などを新たに建立し、善美を尽くしたので大善寺と改められました。盛時には衆徒45坊、社領3000町を有していたと伝えられます。

 

〔中世期〕 

 中世期には、大荘園三潴庄の総鎮守社として朝野の尊崇を集め、建徳元年(1370年)には征西将軍懐良親王への奏聞をへて玉垂宮絵縁起二幅(国指定重要文化財)が寄進されました。

 

〔戦国時代~江戸時代〕

 戦国時代には度々の兵乱により荒廃し、元亀・天正の大乱(※)で本殿、末社等悉(ことごと)く焼失しましたが、慶長6年(1601年)筑後に入国した田中吉政によって復興がなされました。徳川吉宗は大善寺領として三百石を寄進し、同9年には梵鐘を、同12年には鰐口を寄進二代田中忠政も元和4年(1618年)に表参道の鳥居を寄進しています。

 

(※)元亀・天正の大乱:本願寺自身は命令を出さず,現地の有力寺院が一向一揆を指導した。 70年(元亀1)から80年(天正8)に及ぶ,戦国争乱の最後の死闘である元亀・天正の争乱は,徳川家康と同盟した織田信長と将軍足利義昭を結節点とした反信長勢力の対決であり,浅井,朝倉,毛利,武田などの反信長連合の中軸に石山本願寺一向一揆があった。一向一揆は大坂石山に籠城し,北陸,近江,紀伊などの門徒は石山救援活動を行う一方で,各地に蜂起して信長軍と戦った。 

 

〔有馬藩〕

 有馬藩になってからは、慶安4年(1651年)有馬忠頼が 「高良玉垂宮絵縁起」 二幅を寄進し、安永4年(1775年)には銀弐貫五百目が下賜され楼門が再興されました。

 

〔明治時代〕

 明治2年(1869年廃仏毀釈により、神宮寺だった大善寺は廃され、玉垂宮のみ残って現在に至ります。

 

2)鬼夜について

 鬼夜は、『吉山旧記』によれば仁徳天皇五六年(368年)1月7日、藤大臣(玉垂命)が勅命により当地を荒し、人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取り焼却したのが始まりだと言われています。

 

 毎年一月七日の夜に行う追儺の祭事で、1.600年余りの伝統があり、松明6本が境内を巡る火祭りです。平成6年(1994年)には国の重要無形民俗文化財に指定され、日本三大火祭り(※)の一つに数えられています。

 

三大火祭り

 道祖神祭り(長野県野沢温泉村)鞍馬の火祭(京都市・由岐神社)那智の火祭り(和歌山県・熊野那智大社)/鬼夜(福岡県・大善寺 )松明あかし(福島県須賀川市)向田の火祭り(石川県能登島町)お松明(京都府)鬼すべ(福岡県太宰府市)

 

〇参考Webサイト

大善寺玉垂宮関係の文化財(郷土の文化財)(久留米市)

大善寺玉誰宮公式サイト

玉垂命を武内宿禰としたいきさつ(大善寺玉垂宮の事例)(忍者プログ) 

玉垂命を武内宿禰としたいきさつ②(御祭神取り換え決意文)(忍者プログ)

 

〔参考〕玉垂命を武内宿禰としたいきさつ(抜粋引用)

 香川県観音寺市の琴弾八幡宮摂社・高良社が明治維新を契機として武内神社に変わったということをブログで紹介した。そんなことが本当にあるのかと疑問に思われる方がおられるかもしれない。実は古田武彦氏もそのような事例を語っていたことをつい最近知った。福岡県久留米市の大善寺玉垂宮で、祭神を玉垂命から武内宿禰としたいきさつが文書に残っているというのだ。

 

 大善寺玉垂宮のもう一つの祭神は玉垂命。江戸時代の終り頃、天皇の世の中になりそうだというので、宮司さんが氏子から了解を取って祭神を武内宿禰に変更した。戦後また玉垂命に戻したという歴史があります。

 

 確かに明治維新の際の神仏分離令のために、寺院だけでなく神社も仏教色を排除することを余儀なくされた。江戸時代までの神仏習合において、高良大明神は本地・ 大勢至菩薩とされており、仏教色を残したまま神社の縁起等の差出しを行えば、存続が危ぶまれる怖れもある。具体策として神社名変更あるいは祭神の変更などを行ったところもあるようだ。

 

 応神天皇・神功皇后・武内宿禰を祭神とする八幡宮が多くみられるのは、高良玉垂命から武内宿禰への祭神名変更が行われた可能性を示唆する。もちろん筑前地方においては、三韓征伐の神功皇后を補佐した武内宿禰が共に祀られているのはあり得るところであるが、その神功皇后の業績には卑弥呼・壹與ひいては九州王朝の倭王の事績が取り込まれているということが『日本書紀』の史料批判によって浮かび上がってきた。

 

 古田武彦氏は神功皇后が祀られている福岡市の香椎宮あたりが本来、卑弥呼の廟なのではないかとの考えも持っていたようである。そうすると、それに付随する武内宿禰の伝承も後付けの感があり、倭の五王に前後する九州王朝による半島進出こそが本来の歴史的事実だったのではなかったか。

 

 福岡県の大善寺玉垂宮玉垂命武内宿禰としたいきさつはリアルであった。武内宿禰命を祭神とする神社で違和感があれば、その過去(江戸時代以前)にさかのぼって祭祀形態を調べることで、本来は高良玉垂命あるいは高良明神などの本来の姿が見出せるかもしれない。 

 

 大善寺玉垂宮は久留米市役所から南西に約6kmの福岡県久留米市大善寺町宮本という場所にある。この神社の創建は古く、およそ1900年前の創祀とも伝えられており、筑後国一宮・高良大社に先行する古社であったことは宮本の地名からも伺える。

 

 昔は大善寺玉垂宮という神仏習合であったようだ。それが明治の初期に起きた廃仏毀釈運動で、神仏混淆の廃止、神体に仏像の使用禁止などが叫ばれて、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。その時に、寺であった大善寺はなくなり玉垂宮だけになったようだ。その際、ご祭神の玉垂命を武内宿禰としたいきさつを伝える史料が残されていた。詳細が、『俾弥呼の真実』(古田武彦著、2013年)に書かれていたので、お伝えしておきたい。

 

 2003年(平成15)の8~9月、久留米市におもむき、その所蔵文書を長時間、調査させていただいたことがある。「東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)」「多元的古代研究会」「古田史学の会」等の合同調査であった。

 

 そのとき、刮目した史料群があった。そこには江戸時代末、戊辰戦争直後、大善寺玉垂宮の宮司「御祭神を取り換える」旨の決意がしたためられていた。従来の「玉垂命」に換えて、天皇家に“由縁”のある「武内宿禰」を以って、今後の「御祭神」にしたい、という、その決意が「文書」として明記されていた。

 

 この「新祭神」としての武内宿禰の存在は、近年(戦後)までつづいていたようであるが、ようやくこれを廃し、もとの「玉垂命」へと“返った”ようである(光山利雄氏による)

 

 「高良神社の謎」シリーズで追い求めてきた高良玉垂命の正体は何者か? 大善寺玉垂宮の祭神は『福岡県神社誌』(昭和20年)では竹内宿禰・八幡大神・住吉大神となっていて、『飛簾起風』(大正12年)では高良玉垂命(江戸時代の記録の反映か)となっている。

 

 表面的に見ただけでは、従来から根強く流布していた「高良玉垂命=武内宿禰」説が正しいのではないかと誤解されそうだ。これを非とする根拠はいくつかあったものの、全国的に高良神社の祭神を武内宿禰とするところが多いという事実もあって、完全には否定できずにいた。

 

 その長きにわたる論争も、この大善寺玉垂宮に関する史料によって一区切りつけることができたのではなかろうか。祭神を天皇家に由縁のある武内宿禰としたのは、あくまでも時の政権に対する忖度であった。なぜそうしなければならなかったかというと、やはり近畿天皇家に先立つ倭国の中心権力者に関わる内容が秘められていたからであろう。

 

 日本三大火祭りの一つに数えられている鬼夜(おによ)の由来については『吉山旧記』に記されている。仁徳天皇56年(368年)1月7日、藤大臣(玉垂命)が勅命により当地を荒し、人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取り焼却したのが始まりだと言われている。 毎年1月7日の夜に行う追儺の祭事で、1600年余りの伝統があり、松明6本が境内を巡る火祭りである。

 

 「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)「卑弥呼―難升米」といった記述からの “書き換え” である。そういう可能性の高いこと、特に注意しておきたい(あるいは「壹与」か)

 

 また問題の「桜桃沈淪(ゆすらんちんりん)討伐」譚において、討伐側の主体として登場する「籐大臣」もまた、近畿天皇家の人物ではなく、「倭国(九州王朝)の人物である点も当然ながら、わたしたちの視野に入れておかねばならぬ。

 

 この事件自体は、「倭国(九州王朝)が大陸側(朝鮮半島)で高句麗・新羅と激戦していた「四~六世紀間」歴史事実の反映なのではあるまいか。この事件は、仁徳53年(376)、第六代の葦連(あしのつら)の時とされている(古事記、日本書紀の方には「桜桃沈淪」の名は出現しない)

 

 「倭国」百済と盟友関係にあったこと、高句麗好太王碑の記す通りであるが、これに対し、「桜桃沈淪」は、高句麗・新羅側と提携しようとしたのであろう(もちろん、歴史事実の反映とみられる)

 

 福岡県に多く祀られる「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)「卑弥呼―難升米」の事績が『日本書紀』に取り込まれ、表向きは近畿天皇家の業績とされ、伝承されてきたものであろうか

 


(4)岩戸山古墳


九州王朝の歴代王の墳墓?

(引用:Wikipedia)

1)概要

 岩戸山古墳は、福岡県八女市にある前方後円墳。八女古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「八女古墳群」に包含)。九州地方北部では最大規模の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)の築造と推定される。

 

Iwatoyama-kofun enkei.JPG

石製品群から望む別区(手前)と墳丘(奥)(引用:Wikipedia)

 

 八女市北部、八女丘陵上に展開する八女古墳群を構成する古墳の1つ。八女丘陵は東西10数kmからなり、5世紀から6世紀にかけての古墳が数多く築かれている。その数は前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及び、当古墳はその中でも代表的なものである。

 

〔構造〕

  古墳は東西を主軸にして、後円部が東に向けられている。2段造成で、北東隅に「別区」と呼ばれる一辺43mの方形状区画を有するという特徴を持つ。築造年代は須恵器の年代観から6世紀前半と見られ、被葬者と推定される筑紫君磐井に関する記録とも一致している。

 

 内部主体は明らかとなっていないが、電気探査等で横穴式石室と推定される構造が確認されている。なお、墳丘脇には神社(大神宮)が鎮座しているが、古くは後円部墳頂に鎮座していた。

 

 墳丘・周堤・別区からは一般に「石人石馬」と総称される当地周辺特有の石製品が100点以上出土しており、その数・種類は他の古墳を圧倒している。これらは人物・動物・器財の3種類に大別され、実物大を基本とするという特徴を持っている。なお、現在の別区には石製品のレプリカが大きさを縮小して建てられている。

 

〔史跡指定〕

 当古墳は昭和30年(1955年)12月23日に国の史跡に指定された。昭和53年(1978年)3月24日付けで、史跡の追加指定・統合指定が行われ、指定名称が「八女古墳群」に変更された。

 

2)規模

〔古墳総長〕170m以上

〔墳丘長〕約135m

〔後円部〕直径:約60m 高さ:約18m

〔前方部〕幅:約92m 高さ:約17m

〔別区〕一辺43mの方形 〔古墳周囲〕幅20mの周濠・周堤

 

3)被葬者

 6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つである。

 

 筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されている。また『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)には岩戸山古墳の状況や位置が記されており、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作っていたが、戦に敗れ放棄したという。

 

 なお、古くは石人山古墳磐井の墓とする説が主流であった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在まで定説となっている。

 

 

 古墳脇にある大神宮

写真出典:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/岩戸山古墳)

岩戸山古墳出土の石人

写真出典:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/岩戸山古墳)

別区・奥に石製品群

 写真出典:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/岩戸山古墳)


以下、作業中


(分離転記:令和3年1月10日)                  最終編集:令和6年5月15日