1 古代集落遺跡
(1)環濠集落
(2)高地性集落
2 古代の山城
(1)古代の朝鮮式山城(全般)
(2)史書が載せる古代山城(朝鮮式山城)
(3)史書が載せない古代山城(神籠石)
(4)神籠石の歴史的意義
3 古代古墳
(1)古代古墳の変遷
(2)装飾古墳の分布
4 青銅祭器の分布と祭祀の地域性
(引用:Wikipedia)
環濠集落とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。
1)ルーツ
「環濠」と「環壕」のルーツはそれぞれ、長江中流域と南モンゴル(興隆窪文化)であると考えられており、日本列島では、弥生時代と中世にかけて各地で作られた。
長江中流域では、今から約8,000年前の環濠集落が、湖南省のリーヤン平原にある彭頭山遺跡で発見されている。この環濠集落の直径が約200mで、西側が自然河川に繋がっており、北側と東側、南側には、幅約20mの濠が巡っているらしい。充分な発掘調査はまだであるが、水田稲作農耕の遺跡である。
内蒙古自治区赤峰市にある興隆窪遺跡から、約8,200~7,400年前の環濠(環壕)集落が見つかっている。この集落は、長軸183m、短軸166mの平面形が楕円形に巡る溝によって囲まれている。溝の幅は約1.5~2mあり、深さは約1mほどである。環濠の内側から約100棟の竪穴式住居が発見されている。この集落の生業はアワなどを栽培する畑作農業である。
2)日本
2.1)発見
日本における環濠集落の研究学史は、福岡県福岡市博多区博多駅南周辺に広がる比恵遺跡群の発掘調査に始まる。
1933年(昭和8年)頃から始まった当地域の土地区画整理事業に伴い、1938年~1939年(昭和13年~14年)にかけて鏡山猛・森貞次郎により実施された発掘調査で、溝によって複数の竪穴建物が囲われた弥生時代の「環溝(かんこう)」遺構が検出され「環溝住居阯(かんこうじゅうきょし)」として報告・研究されたことが、後の環濠集落研究の端緒となった。
奈良県大和郡山市稗田町に現存する環濠集落。
国土交通省『国土画像情報(カラー空中写真)』より作成。
(引用:Wikipedia)
1952年(昭和27年)の比恵遺跡群第2次調査で検出された「第5号環溝」と呼ばれる1辺10メートルほどの環溝は「比恵環溝住居遺跡」として福岡県指定史跡に指定されている。ただし、この第5号環溝については、1辺が10メートルと小さいうえ、内部に建物遺構が検出されていないため、環溝集落(または環溝住居)と見てよいものか決め手を欠き、現代の知見では、埋葬施設が削平された方形周溝墓である可能性が高いとされている。
2.2)特色
環濠集落には、防御と拠点という特色がみられる。断面が深くV字形に掘削された環濠やその周辺に逆茂木と称されるような先を尖らせた杭を埋め込んでいる様子から集落の防御的性格があったことが窺える。
また、大規模な集落については、長期間継続し、人口も集住し、周辺に小集落が存在し、首長の居宅や祭祀用の大型掘っ立て柱建物があり、金属器生産が行われ、遠隔地との交流物品が出土することなどから、政治的・経済的集落であり、拠点的集落という性格を有すると考えられる。
倭国における王権形成期とされる弥生時代中期には防御的性格を強め、高地性集落とともに、王権形成過程の軍事的動向を反映していると考えられている。王権形成が進み古墳時代に入ると、首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体される。
2.3)縄文時代
環濠集落は朝鮮半島南部でも見られ、北九州では縄文時代晩期(前4世紀)の環濠集落がある。
縄文人のムラは環濠を形成しない傾向にある。しかし、今から約4,000年前(中期末~後期初)、北海道苫小牧市にある静川16遺跡から幅1~2m、深さが2mほどあり、断面形がV字状になった溝が、長軸約56m、短軸約40mの不正楕円形にめぐる環濠集落が発見されている。
環濠の内側から2棟、外側からは15棟の円形竪穴住居が見いだされている。それは、弥生の環濠集落とは性格を異にするものであろう。例えば、縄文人の祭祀の空間だったのかも知れない。 縄文時代の環濠集落は、現在のところこの遺跡のみである。
環濠ではないが、秋田県上新城に晩期末の二重の柵、茨城県小場に中・後期の住まいと墓地を隔てる真っ直ぐな溝、埼玉県の後期末~晩期初の宮合貝塚などがある。これらは、祭の場、墓地などを囲み、日常の位の場とを分離していたものである。
2.4)弥生時代
環濠集落は稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ波及したと考えられている。しかし、2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で消滅していく。この時期に、西日本から東海、関東にかけて政治的状況が大きく変わったことを示すものとして考えられている。
この時代の環濠集落は、沖積地の微高地に立地する低地型と台地・丘陵などの高所に立地する高地型がある。低地型は水濠で、高地型は空壕で囲まれている。
今のところ、弥生時代でもっとも古い環濠集落は、北部九州の玄界灘沿岸部に位置する福岡県粕屋町の江辻遺跡で弥生時代早期のものが見つかっている。
近畿では早期の環濠集落はないが、前期前半では神戸市大開遺跡がある。長径70m、短径40mで、環濠内からは竪穴住居と貯蔵穴が検出されている。環濠の断面はV字形と逆台形で、溝の幅2m、深さ1.5mあったと推定されている。出土した石器のうち打製石器が大きな割合を占めている。
愛知県の朝日遺跡は、弥生時代中期の集落であり、環濠集落のなかでも最も防御施設の発達した集落として知られている。集落の外側に大濠をめぐらせて、その土で内側に土塁を築いたと考えられている。さらに外側には逆茂木を伴う2重の柵と乱杭をめぐらしている。
弥生時代前期末以降に発達する環濠集落は、濃尾平野以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた土地や水争いなどの村落間の戦いに備えて独自に成立したと見られる。
そのころ、福岡市の板付遺跡と大阪府高槻市の安満(あま)遺跡、京都府中郡峰山町扇谷遺跡などに環濠集落が現れる。板付遺跡では復元幅2m以上、深さ1m以上の断面V字形の溝を、長径120m、短径100mの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。扇谷遺跡では、最大幅6m、深さ4mの環濠か、長径270m、短径250mでムラを囲っている。これらの遺跡からムラを防御していることが考えられる。
また、北部九州や近畿地方などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生中期以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400mに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。
弥生後期では北部北九州では佐賀県吉野ヶ里遺跡や大阪府の安満遺跡や池上・曽根遺跡、奈良県の唐古・鍵遺跡などの大規模環濠集落が挙げられる。
低地に作られ、通常は堀の外側に掘った土を盛った土塁がある(対照的に、中世の土塁は堀の内側にある)。ムラの内部と外部を区別する環濠を形成する目的として、外敵や獣などから集落を守る防御機能を備えることが考えられている。
堀は二重・三重の多重環濠となることもあり、長大な環濠帯を形成しているものもある。水稲農耕に必要な首長権力や、共同体の結束強化、内部と外部での階級差を反映しているとも考えられている。また、水堀の場合には排水の機能をもたせることができる。
2.5)中世
室町時代の後半の戦国時代では戦乱が多発し、農村では集落を守るために周囲に堀(環濠)を巡らして襲撃に備えるところが現れ、中世の環濠集落として現在も各地に点在している。
有力な仏教寺院が中心に存在し、規模が大きくなる場合は「寺内町」となる。今も一部に環濠が残る今井町などが挙げられる。
現存集落の一つである稗田環濠集落(奈良県大和郡山市)は、賣太神社を中心とする集落である。浜野卓也・箕田源次郎の著作『堀のある村』(1973年6月、岩崎書店・少年少女歴史小説シリーズ)は、賣太神社の古記録をもとにしている。
3)古代遺跡
現在でも当時以来の姿を残した環濠集落が、わずかながら存在する。吉野ヶ里遺跡の遺構からは、大規模な環濠集落の全貌が明らかにされた。また、最近では伊邪那美神陵伝説地の一つである安来市伯太町からも経塚鼻遺跡が発掘され話題を呼んでいる。
3.1)早期
●江辻遺跡(福岡県粕屋町)弥生時代早期後半、幅約1mほどの浅い溝が周囲を二重に巡っている。この集落は渡来人住居、松菊里型稲作集落の典型で、朝鮮半島南部の影響を強く受けて、成立したものか。これまでに9か所の遺跡が発見されている。2000年(平成12年)には、「加麻又郡」(かまたぐん、または、かままたぐん)と記した土器片も発見された。
●那珂遺跡(福岡県)正円に近い二重の環濠、外径150m。
3.2)前期
北部九州から瀬戸内海沿岸地域、大阪湾沿岸へと東進波及する。規模は、径70~150m、卵形、小規模で大環濠に肥大しない。
*板付遺跡(福岡市)
*百間川沢田遺跡(岡山県)
*中ノ池遺跡(香川県善通寺市)
*大開(だいかい)遺跡(兵庫県神戸市)
*安満(あま)遺跡(大阪府高槻市)
*扇谷遺跡(京都府京丹後市、旧峰山町、山陰地方、二重の環濠で、土器、石器、鉄斧、玉づくりの道具、ガラス塊、土笛などが出土。)
3.3)中期以降
*原の辻遺跡(長崎県壱岐島南東部)
*吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)
*経塚鼻遺跡(島根県安来市)
*池上・曽根遺跡(大阪府和泉市と泉大津市にまたがる)
*稗田の環濠集落(奈良県大和郡山市)
*唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)
*太田・黒田遺跡(和歌山県和歌山市)
*朝日遺跡(愛知県清須市、春日町、名古屋市にまたがる)最も防御施設が充実した遺跡
*神崎遺跡(神奈川県綾瀬市)
*大塚・歳勝土遺跡(神奈川県横浜市)
4)現存する集落
特に若槻環濠集落(奈良県大和郡山市)と稗田環濠集落(奈良県大和郡山市)が歴史学的に重要な史跡として有名であり、また郡山駅からほど近い上に稗田環濠集落内の賣太神社の前に駐車場があるという点で、観光名所としても有名である。
奈良県に多いように見えるが、これは単に奈良県が環濠集落を観光スポットとしてアピールしているからで、もちろん全国に現存する。
奈良県の環濠集落は案内板を設置するなど観光スポットとして分かりやすく整備されているが、全国の現存する多くの環濠集落は観光名所として整備されておらず、単に水路で囲まれていて車が通れないほど道が狭い上に駐車場もない民家の集まりである。
また、都市化に伴って埋められた環濠も多く、大都会の中にあるコンクリートで固められた無名の水路が実は古代の環濠集落の名残と言う例は多い。
●三重県
*一身田寺内町(三重県津市)
●滋賀県
*下石寺環濠集落(滋賀県彦根市)
*新海町(滋賀県彦根市) - 新海地区の開発領主、新開氏の平地城館の跡地とされ、新開氏が1558年に滅ぼされた後は集落の用水路として使われている
●大阪府
・久宝寺寺内町(大阪府八尾市)
・恵光寺寺内町(大阪府八尾市)
・平野郷環濠跡(大阪府大阪市平野区) - 集落としての原型を留めておらず、環濠もほとんど埋められているが、一部が保存されて整備されている。平野氏の氏神である杭全神社などが現存する。
久宝寺寺内町の環濠。(引用:Wikipedia)
大都会大阪府八尾市の中心地にあり、環濠集落としての原型はほとんど残っていない
●奈良県
・稗田環濠集落(奈良県大和郡山市) - 集落内の入り組んだ道や鬼門の「七曲り」など環濠集落の特徴が完全に現存しているという点で貴重な環濠集落。稗田氏の拠点であり、古事記の編纂者である稗田阿礼の出身地とされており、稗田阿礼を祀る賣太神社がある。
稗田環濠集落(引用:Wikipedia) 稗田環濠集落(引用:Wikipedia)
*若槻環濠集落(奈良県大和郡山市) - 環濠集落が形成される時期が資料で裏付けできるという点で貴重な環濠集落。
*番条環濠集落(奈良県大和郡山市)
*高安環濠集落(奈良県斑鳩町)
*南柳生環濠集落(奈良県天理市)
*竹之内環濠集落(奈良県天理市)
*萱生環濠集落(奈良県天理市)
*保津環濠集落(奈良県田原本町)
*南郷環濠集落(奈良県広陵町)
*藤森環濠集落(奈良県大和高田市)
*今井環濠集落(奈良県橿原市)
●佐賀県
*直鳥環濠集落クリーク公園(佐賀県神埼市)
など。
5)主要な環濠集落
5.1)安満遺跡(前期)
安満遺跡(あまいせき)は、大阪府高槻市にある弥生時代の遺跡。三島平野の東端部に位置し、高槻市東部を流れる桧尾川が形成した扇状地に立地している。国の史跡に指定されている。
安満遺跡公園にある弥生時代の水田遺構。(引用:Wikipedia)
奥の建物は旧京都大学大学院農学研究科附属農場本館
〇概要
遺跡は、1928年に京都大学大学院農学研究科附属農場建設工事の際に発見された。さらに1966年頃から、住宅開発が始まったことをきっかけに農場北側の発掘調査が行われ、集落跡が広範囲に広がっていることから、比較的大きい規模の集落がこの地に拓けていたことが判った。
1928年の調査で多量の弥生時代の石器や土器が出土し、これらの出土品から弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で学史上著名な遺跡である。
また、この地が弥生文化を知る上で重要な遺跡であることから、農場北側、東西600m、南北100mの範囲が国の史跡に指定されている。全体では東西1500m,南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている遺跡である。
1966年からこれまで、50回以上に及ぶ発掘調査が行われている。
かつて当地に存在した京都大学大学院農学研究科附属農場の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を高槻市が「安満遺跡公園」として整備し、本遺跡を保存・活用するとともに、防災機能を備えた大規模公園として整備する工事が進められている。2019年3月、公園西側が一部開園。引き続き東側の工事が行われており、2021年の全面開園が予定されている。
〇集落
三島地方で初めて米作を始めた土地であり、弥生時代前期から中期まで続いた集落があったとされている。居住群のまわりに壕でめぐらせる環濠集落跡で、集落の南側に用水路を備えた水田が広がり、東側と西側は墓地になり、方形周溝墓が100基以上確認されている。
このあたりは湿地帯で、遺跡の北東に流れる桧尾川の洪水や氾濫に脅かされることも多かったため、一時期山麓の芝谷遺跡などの高地性の集落へと移った形跡があったとされている。
弥生式文化 安満遺跡(引用:Wikipedia)
〇集落の変遷
発掘調査から集落は弥生時代を通じて5段階の変遷をたどっていることが確認され、大きく3段階で構成される。
●前期
居住域が遺跡中央部南寄りの高台に設けられ、東西150m、南北140mの不整形な環濠で囲まれた部分が中心となる。生産域である水田は、居住域の南側の一段低くなった区域にあり、東西約400m,南北約150mの範囲に広がっている。墓域は、居住域の東方300mから500mの地域。
●中期
中期では、2段階の変遷がたどれる。
・中期(前)
居住域、生産域、墓域のいずれもが前期と同じ場所で営まれるが、それぞれの規模は大きくなる。
・中期(後)
居住域はこれまでの区域とその北側200mの区域とに分かれ、生産域も前半の区域のほかに東方に小規模な水田区が現れる。墓域は前半のものが放置され、遺跡の西部と中央北部に新たに設けられるようになる。このことは、これまで1つのグループのものであったのが、この時期に2つのグループに分化したものと考えることができる。また、後期でも2つのグループに分かれている。
●後期
中期に比べ規模は縮小すると同時に、大きな変化が見られるようになる。後期でも2段階の変遷を認めることができるがその間に大きな差はない。
居住域は、前期以来の区域に規模を縮小しながら営まれるものと、その東方500mの地点でこれまで墓域であった地域に設けられたものがあり、北の高台にあった居住域は消滅する。
生産域は、それぞれの居住区の南側の低地に設けられているが、墓域についてはまだ確認できていない。
5.2)扇谷遺跡(前期)
扇谷遺跡(おうぎたにいせき)とは、現在の京都府京丹後市峰山町に、弥生時代前期末から中期初頭にかけての比較的短期間営まれた、日本最古とされる高地性集落跡地。市指定史跡。
解説版(引用:Wikipedia) 2018年1月19日 丘陵上の写真
(引用:Wikipedia)
〇概要
環濠集落ともみなされ、陶塤、菅玉、鉄製品、ガラスの塊、紡錘車など出土遺跡には学術的価値が高く、それらの分析の結果から、扇谷遺跡には当時の “ ハイテクノロジー集団 ” が存在していたと考えられている。近畿地方最古の鉄斧も扇谷遺跡の周濠から出土している。また陶塤は京都府暫定登録文化財に登録されている。
遺跡を取り囲む周濠は、最大幅6m・最大深さ4mの濠が二重になっており、内濠の延長は850mに及ぶ。集落は丘陵の頂や屋根づたいにあったのではないかと想定されているが、1974年(昭和49年)以降、複数回に及ぶ発掘調査でも明らかにはなっていない。出土品のほとんどは、周壕から出土している。
周辺地域には、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多く分布し、歴史学者・門脇禎二が提唱した「丹後王国論」の一部であると位置づけられる。
〇場所
峰山町の杉谷・丹波・荒山の地区にまたがる丘陵の上にあり、標高56~66m、平地部との比高は30~40mと低いが、東に丹後半島を南北に貫流する竹野川の本流を望み、南北に広がる沖積地を眺望できる地点である。2018年(平成30年)現在、その場所には、京都府丹後文化会館、京丹後市立峰山図書館等が建っている。
※『丹後王国論』
丹後王国論は、日本古代史が専門の歴史学者・門脇禎二が提唱した古代王国説。古墳時代に丹後地方(今日の京都府京丹後市辺り)を中心に栄え、ヤマト王権や吉備国などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を丹後王国と呼んだもの。
ただし丹後国は和銅6年(713年)に丹波国の北部5郡を割いて分国したものであることから、これを丹波王国と呼ぶこともある。
門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権の支配下に入っていったと推定している。
〇背景
丹後地方には網野銚子山古墳・神明山古墳・蛭子山古墳(以上3古墳は日本海三大古墳と総称)などの大型古墳が集中している。この事実に加え、近年の発掘調査などから、この地方には古代に独立した勢力が存在していたと考えられるようになってきた。
〇参考文献
門脇禎二 『丹後王国論序説 日本海域の古代史』 東京大学出版会、1986年
5.3)原の辻遺跡(中期以降)
原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、石田町石田西触にある遺跡。国の特別史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
原の辻遺跡遠景(引用:Wikipedia)
原の辻一支国王都復元公園(引用:ながさき旅ネット)
〇発掘調査
最初の遺跡発掘は1923年(大正12年)から1926年(大正15年)にかけて、地元の石田尋常高等小学校教諭・松本友雄による小規模なものであった。彼はこの時、弥生式土器や石器類を発掘している。
●戦後の発掘調査
第二次大戦後の1951年(昭和26年)より1961年(昭和36年)の10年間に九学会連合・東亜考古学会により4回にわたる発掘調査が行われた。この結果、居跡や墓地が発掘され、貨泉や大量の鉄器等が出土した。
●平成期の大規模発掘調査
以後も長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所を中心に調査が継続され、また、現在も調査は継続されている。1993年(平成5年)の大規模な調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出された。また、壕の外西北では日本最古の船着き場の跡も発掘された。原の辻の中心部分に当たる。
環濠集落の規模は東西約350メートル、南北約750メートルである。この東側に、魏志倭人伝に出てくる卑狗と卑奴母離などの役人の家や役所があったと想像される。壕の外の北、東、東南には墓地が見つかっている。また、遺跡全体の総面積は100ヘクタールにも及ぶ広大なものである。また、集落域は約24haであった。
これらの発掘調査結果から1995年(平成7年)に一支国の国都である可能性を指摘した。
出土物に大陸系の品が多く、中国鏡、戦国式銅剣、貸泉などの中国の銭貨、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、三韓系土器、楽浪系の土器など。後期にはこれらの量が増加した。
また、弥生時代中期の竪穴住居址から炭化した米、麦が出土している。島の河川流域の低地に水田が広がり、水稲農耕が行われていた。対馬に比較して水稲農耕が広く行われていた。島には貝塚もあり、狩猟獣であるシカ・イノシシのほか、家畜であるウマをはじめ獣骨や魚骨が出土している。
石器では石斧・片刃石斧・石包丁に一部鉄器を交えるが、後期になると石器はほとんど姿を消し、手斧・鎌・刀子など鉄器が豊富になる。なかには鉄器の原材料と想定できる板状のものがあり、これからさまざまな鉄器を造り出した。壱岐島の鉄器は舶載品であると考えられている。
〇史跡・特別史跡へ
遺跡は1997年(平成9年)に国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月24日には特別史跡となった。史跡公園が計画されているが、遺跡全体の公有化が進んでおらず現在既に発掘された場所は一旦埋め戻されたが、原の辻一支国王都復元公園として再整備されている。
出土品は壱岐市芦辺町深江鶴亀触にある「壱岐・原の辻展示館」に収蔵されていたが同館は2009年(平成21年)8月31日で閉館され、遺跡の北方に新しく建設された「壱岐市立一支国博物館」(2010年(平成22年)3月14日開館)に改めて収蔵されている。
なお、原の辻ガイダンスには、発掘の歴史や調査の様子が展示されており、さらに勾玉づくりなどの体験、壱岐神楽の見学もできるように整備されている。
5.4)吉野ケ里遺跡(中期以降)
吉野ヶ里遺跡 遠景(引用:Wikipedia)
〇概要
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。
およそ117ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園である。
佐賀県東部は、福岡県境である標高1,000メートル前後の脊振山地を北端に、脊振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野(筑紫平野)、有明海へと移るにつれて標高が低く、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の1つである。
吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。
壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘された。
多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。
発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。
また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。
多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。1998年には銅鐸が遺跡の周辺部で発見された。九州北部で製造されたと推定されており、形状から福田型銅鐸とみられている。
出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるほか、中国大陸、朝鮮半島、南西諸島ともさまざまな面で共通性・類似性が見られる。
また、遺跡内にある3基の前方後方墳は、弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられている。
〇歴史
●縄文時代
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。
ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3kmほどの距離にあったと推定されている。
有明海は干満の差が平均で5-6mと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。
●弥生時代
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。
〔前期〕
・前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。
〔中期〕
・中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。大きな墳丘墓になると南北約46m、東西約27mの長方形に近い墳丘で、高さは4.5m以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。
〔
後期〕
・後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される。
海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からは港のようなものがあったと推定されている。吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。
吉野ヶ里墳丘墓のルーツは、朝鮮半島を経由せずに中国江南もしくは山東半島から北部九州に直接伝わったとする研究がある。
●古墳時代
古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。
また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。
古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。
●律令制時代
奈良・平安の律令制時代には、神埼郡の役所的な性格の建物があったと推定されている。
律令制時代には土地の区画整理を条里制と言ったが、「吉野ヶ里」の「里」はその呼び名が今も伝わって残っているもので、旧神埼郡内には他にも「○○ヶ里」という地名が多く見られる。
5.5)池上曽根遺跡(中期以降)
池上・曽根遺跡は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡。南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がり、総面積60万m2に達する大集落遺跡である。1976年に国の史跡に指定された。1995年から史跡整備が行われている。
いずみの高殿(引用:Wikipedia)
〇概要
池上・曽根遺跡が発見されたのは1900年頃であるが当初は注目を受けなかった。1969年から1971年に大阪万博に備えて国道整備に伴い発掘調査が行われ、この時に遺跡が2万平方メートルを超える当時としては前代未聞の規模であることが判明し、一躍注目を浴びることになる。
しかし、その後は唐古・鍵遺跡や吉野ヶ里遺跡に注目が移り、調査はあまり進まなかった。1990年代に至り、史跡公園整備のための再調査が行われ、大型掘立柱建物の発見や年輪年代法による調査結果が発表されると再び注目を浴び、近畿地方の弥生時代研究に欠かすことのできない遺跡となっている。
集落の内郭の中心には棟持柱をもつ大型の掘立柱建物がある。またこれと直行する掘立柱建物も確認されており、これらの建物が井戸を囲んでいる。こうした建物の用途は明らかではないが、祭祀空間あるいは首長の居館など集落の中心的な用途であったと考えられている。これらの建物がは同じ場所に3回から4回の切り合い跡があり、弥生時代中期に100年近くに渡って建て替えを繰り返されてきたと考えられる。
環濠は弥生時代中期に繰り返し掘削が行われたが、ある時点で掘削が行われなくなる。その後も掘立柱の建物群が建てられたことが確認されているが、明らかに集落としての規模が小さくなっており、拠点が移動したものと考えられている。その理由は定かではないが、池上・曽根遺跡の背後の丘陵にある観音地山遺跡に拠点が移動したする説があり、共同体が再編成された可能性を指摘されている。
出土品として特筆すべきは大量の石包丁が出土している点である。この石は和歌山県の紀の川流域でとれる緑色片岩とされ、製品は1300点、未成品は300点に及ぶ。このようなことから池上・曽根遺跡は石包丁の流通拠点であったと考えられている。
また打製石鏃の1300点を始めとして、打製石剣、打製石槍などの石製武器が出土している。これらの石は二上山産のサヌカイトである。
そのほかの遺跡での研究も合わせると、近畿地方では石器を中心とした生産・流通システムが存在し、集落ごとに役割を分担していたと考えられている。
なお、池上・曾根遺跡では鉄器が出土しておらず、その他の遺跡調査と合わせると弥生時代の近畿地方における鉄器の普及は北部九州と比べると遅れていたと考えられている。
また、弥生時代後期のものと思われる、龍を描いた長頸壺が出土している。こうした土器は船橋遺跡や玉津田中遺跡などで確認されているが、井戸などからまとまって出土することから水の祭祀に関係すると考えられている。龍は中国では雨ごいの神と考えられており、こうした由来を知る人物が近畿地方に存在した可能性が指摘されている。
〇発掘の経緯
・1903年:池上町在住、旧制中学在学中の南繁則(1888年~1969年)が自宅の土塀(遺跡の土を用いて築造)から石鏃を発見。
・1921年:南繁則が長首壺を発掘。
・1949年:和泉市池上ポンプ場東方から畿内第II様式の壺形土器が多量確認され、大規模遺跡として知られるようになった。
・1954年:大阪府立泉大津高校地歴部が土器を採集。
・1958年:市営住宅の建設に伴い、和泉市教育委員会が発掘調査。紀元前2世紀頃の土器・炭化米などが出土。
・1961年:府営水道敷工事に伴い、泉大津高校地歴部が発掘調査。多くの溝、竪穴建物跡、土壙などを検出。弥生時代中期を中心とした土器などが多量に出土した。遺跡の南北約400メートルにおよぶ広がりが把握された。
・1967年:国道26号建設に伴い、大阪府教育委員会が範囲確定調査を行う。
・1969年:国道26号建設に伴い、大阪府教育委員会が発掘調査を開始(〜1971年)。
・1971年:府道松之浜曽根線内範囲確定調査を行う。
・1974年:府道松之浜曽根線内第一次発掘調査開始。
・1978年:国道26号建設に伴い、大阪府教育委員会が発掘調査を開始(〜1979年)。
・1987年:府道松之浜曽根線内第二次発掘調査開始。
・1990年:史跡池上曽根遺跡整備委員会による発掘調査。
・1993年:集落を取り囲む大溝を検出。南北約300メートル、東西約400メートルの大環濠と推定された。この溝の中から多量の土器・石器や獣骨の他に農工具を中心とした木製品出土。その中には鳥形木製品、男性器形木製品など含まれていた。方形周溝墓(弥生時代前期)、厚さ30センチメートル以上堆積した土器片、
・1995年:大型高床建物・丸太くり抜き井戸検出。
〇主な遺構
・環濠は、二重にめぐらされている。:環濠で囲まれた居住区が約25万m2。
・環濠集落西方一帯の水田域が推定される。
・巨大丸太くりぬき井戸(弥生時代中期):直径2m、深さ1.2m。樹齢700年のクスノキの一木造
やよいの大井戸(引用:Wikipedia)
・方形周溝墓×20基(弥生時代中期):墓域は約40万m2、約15m四方、周囲を溝で巡らせた内部に棺を埋めた跡を5か所検出。
・竪穴建物
竪穴建物(引用:Wikipedia)
・鉄製品の工房
・高床大型建物:建築様式:掘立柱建物。建物は井戸の北側3.5mにあり、東西17m、南北7m、面積約135m2の最大級の独立棟持柱(むねもちはしら)の高床建物跡で、神殿らしい。建物を支えていた直径70cmヒノキ柱の基礎部分25本が腐らずに出土。柱の間隔は1.8m、長辺の中央部2.3m前後。土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。
・土間床平屋建物:高床大型建物の南東側に検出。規模:南北約30m、東西7.6m、約230m2。建物外側に、屋根を支える独立棟持柱の柱痕(直径40cm)を2か所検出。
〇主な遺物
・ヒスイ製勾玉、朱塗りの高坏、イイダコ壷、石包丁、農耕用の木製品、銅鐸の破片
5.6)唐古・鍵遺跡(中期以降)
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵にある弥生時代の環濠集落の遺跡。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
唐古・鍵遺跡 大型建物跡・復元楼閣(引用:Wikipedia)
〇概要
奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地に位置する。現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。
1901年(明治34年)、高橋健自が『大和考古雑録』の中で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した事を始め、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。1999年(平成11年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
2004年(平成16年)11月24日、田原本青垣生涯学習センター2階に「唐古・鍵考古学ミュージアム(英語版)」を開設し、出土品などの展示を行っている。
2018年(平成30年)に周辺が唐古・鍵遺跡史跡公園として整備された。また同時期に「道の駅レスティ唐古・鍵」が開業している。
〇遺跡の変遷
遺跡の範囲は、おおきく北地区・西地区・南地区・中央区の4つに分けて認識されている。
復元模型(唐古・鍵考古学ミュージアム展示。)(引用:Wikipedia)
●弥生時代
〔第1段階〕
初期(弥生時代前期初頭から前半)には西地区から北地区の微高地に居住区などが存在したと考えられる。この頃は周辺に川が流れる中州状であったとされ、人工的な環濠があったとは考えられていない。
この時期の土器は、弥生土器の古い型式と縄文土器の晩期の型式が共伴するが、縄文土器は周辺の集落との交易で持ち込まれたものと考えられる。
また、多数の土坑とその内部から未完成の鍬や鋤などの木製品が検出されているが、これらは製作途中の木製品やその材料を水漬け保存したものと考えられており、集落は周辺集落に木器を供給する生産拠点でもあったと推定されている。
〔第2段階〕
集落の第2段階(弥生時代前期後半から中期初頭)でも、引き続き未完成の木器貯蔵穴が検出され、農耕具や斧などの工具・高杯などの容器類が出土している。
また、西地区からは流紋岩製石包丁とその原石や未完成品などが大量に発見されており、石包丁の製作工房があったと考えられる。流紋岩製石包丁は弥生時代前期に見られる農具で、材料は集落から直線距離にして6㎞ほどの耳成山から採取されたものとされる。
このころには集落の範囲が南地区にも広がり、弥生時代前期末頃には各地区を区画する大溝が掘られた。この溝は湿地の排水を目的としたものと考えられ、短期間で埋没する。
各地区のなかでも西地区の集落が最も大きく、総柱の大型建物跡が検出されている。建物の全容は明らかではないが集落の中心的な建物と推定され、梁行2間(7m)桁行5間以上(11.4m以上)の南北に長い建物で、独立棟持柱をもつ。柱穴には直径60㎝のケヤキ3本とヤマグワ1本の柱が残存していたが、このケヤキの伐採時期は炭素年代測定法により紀元前5世紀ごろのものと、紀元前4世紀から3世紀のものという結果が示されている。このうち古い柱は転用された可能性があり、この建物の前身となったより古い大型建物が存在した可能性がある。
また、同時期の墓として北地区の北東はずれから木棺墓、南地区南東部から方形周溝墓が検出されている。木棺墓のうちひとつは保存状態がよく、頭骨を含む人骨が出土した。木棺の炭素年代測定では2100年前との結果が得られて弥生時代であることが確認されたが、一方で人骨を調査した馬場悠男が「とても弥生時代の人骨に見えず、江戸時代のものではないかと思った」と話すほど現代人に近い様相をもち、被葬者は大陸系の人物と考えられている。なお、木棺墓と方形周溝墓の違いが時期によるものなのか、それとも埋葬形態の違いであるかは不明である。
〔第3段階〕
第3段階(弥生時代中期前葉)は、周囲に環濠が巡り、集落がもっとも繁栄した時期とされる。環濠の造成はいくつかの段階を踏んでいると考えられる。
まず各地区を囲むような環濠が掘削されたが、すぐにこれは埋め戻された。続いて集落全体を取り囲むように幅7m、深さ1.5mから2m程度の大環濠が造成された。
さらに大環濠の外側に3条から5条のやや小規模な環濠が掘削され、環濠帯を形成する。最も外側の環濠は、全長は2㎞に達すると推定され、相当の年月と人工を必要とした土木工事とされる。環濠に湛える水は流水であったと考えられ、環濠集落の出入りは陸橋ではなく、木橋であったと推定される。集落の南東部にあたる環濠からは橋脚と思われる径30㎝の柱が検出されている。
西地区北側からは、前述のものとは別に中期初頭と考えられる大型建物跡が検出されている。梁行2間(6m)桁行6間(13.2m)の総柱の建物であるが、柱穴から少なくとも2回の建て替えが行われたと考えられる。検出された柱は炭素年代測定法により紀元前4世紀から3世紀との結果が得られた。その周囲にも全容はつかめていない大きな柱穴が見つかっており、大型建物とそれを取り巻く施設が配置されていたと推測されている。
この第3段階から集落内に井戸が掘られた。井戸からは祭祀にまつわると考えられる長頸壺や水差形土器などが検出されることが多いが、中でも西地区で発見された大型井戸は、使われなくなった後に卜骨や炭化した雑穀を入れた壺、獣骨などが供献されている。
また、この大型井戸から出土した甕と接合する土器が、大量のイノシシの下顎骨と共に集落北西側の大環濠から出土しており、炊いた穀物・占い・イノシシの下顎を用いたマツリゴトが行われていたと推定されている。また、大量のもみ殻を投棄した井戸もあり、この時代に脱穀が行われていた事が確認された。
南地区には鋳造関連遺物が出土し、青銅器工房があったと推定される。工房が展開したのは中期末から後期初頭にかけてと推定され、炉跡を中心に鋳型などが出土している。また、集落西南部には近江・紀伊地方からの搬入土器が多く出土する地区、北部にはサヌカイトがまとまって出土する地区、南部には木器の未完成品が出土する地区など特色がみられ、エリアごとに異なる役割をもつ集落構造であった可能性がある。
この時期の墓は、集落外縁部に土壙墓、あるいは甕を転用した小児の墓が検出されている。ただし、同時期の奈良盆地の遺跡と同様に、中心となる成人用の墓域は集落から離れた場所に作られたと推定されている。その場所は、周辺の清水風遺跡や阪手東遺跡などの方形周溝墓である可能性が指摘されているが、集落の人口に見合う規模や権力を象徴するような遺物は無く、確定できていない。
〔第4段階〕
第4段階(弥生時代後期)は、集落が被災・再生・発展した時期である。弥生時代中期後半から末にかけて集落各所で洪水跡が確認されており、繰り返し災害に見舞われたことが分かっている。特に中期末の洪水は集落全体を押し流したと考えられ、また近畿一円の弥生時代中期の遺跡においても痕跡が確認されることから、広域大規模災害であったと考えられる。ただし、他の拠点集落が廃絶・解体・移動を行うのに対し、唐古・鍵遺跡では位置を変えずに再建しさらに規模を拡大したと考えられており、こうした様相は特徴の一つとなっている。
環濠は弥生時代中期末の洪水で埋没するが、後期初頭には再掘削が行われて復活。後期前半には溝さらえなどが行われて維持されていたが、大半の環濠は後期後半に大量の土器の投棄によって埋められている。さらに最後の環濠も弥生時代終末期に埋められて、環濠は消滅した。一方で、弥生時代後期の土器が多数検出されており、依然として集落の生産・消費活動は衰えていなかったと推定されている。また、集落内に方形周溝墓が作られるようになり、特に南地区は墓域として再整備されたと考えられる。
〔第5段階〕
第5段階(弥生時代週末から古墳時代前期)は、大環濠帯が消失した時期にあたる。環濠は前段階で埋められ機能を失ったが、集落は存続していたと考えられる。ただし出土する土器では、古墳時代最初期の庄内式甕は顕著ではなく弥生形甕が中心となっており、同時期に繁栄した奈良盆地南東部の纒向遺跡などとは様相が異なっている。続く布留式土器が出土する古墳時代前期では遺構遺物ともに数が増し、山陰系の土器が出土するなど、交易が行われていたと推定される。また、北地区・南地区・西地区などで弥生時代中期から後期の環濠が再掘削され、古墳時代前期に環濠集落が復活したと考えられている。
●古墳時代以降
6世紀後半ごろから唐古・鍵遺跡に後期古墳が10基あまり造営される。これらの古墳は早い段階に墳丘が崩壊したと考えられるが、小字に上塚や狐塚が見られる事から中世ごろまでは残存していたと推定される。しかし、その後の開発により墳丘は削平されて、現在は周溝が残存するのみである。また遺跡東側からは古墳時代の集落が検出され、井戸からは馬の頭蓋骨を含む祭祀遺物が投棄されていることから、有力首長の存在が推定されている。
その後、条里制により整備された。10世紀末の記録にみえる藤原宣孝の所領であった田中庄(後に興福寺の荘園)が現在の小字田中がとされる。田中では古代から中世にかけての遺物が出土しており、荘園を管理する施設の存在が推定されている。
応仁の乱前後には、法貴寺に所在した法貴寺氏を盟主とした武士団の所領となり、「唐古」「唐古南」「唐古東」などの在地武士の名前が記録されている。この時代の遺構・遺物も確認されているが、こうした時代の溝や井戸からは弥生時代の遺物が共伴することが多く、遺跡が重複する部分で弥生時代の遺構が破壊されたと考えられる。近世に入ると在地武士は帰農して、集落が統廃合されて唐古南に集落を形成。以降現代に至るまで水田が広がっている。また、唐古池は江戸時代後期の造成であることが判明している。
〇発掘調査
遺跡は、高橋健自が1901年に発表した論文『大和考古雑録』に「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として初めて紹介され、唐古池から南側から石器などが出土することが記されている。1917年には鳥居龍蔵・岩井武俊が小規模な発掘を行い「唐古遺跡」として紹介された。その後、飯田恒男・松次郎親子が遺物採集を行い1930年に『大和唐古石器時代遺物図集』を自費出版。その他にも小規模な調査が行われ、これらの成果により梅原末治・森本六爾らの研究者に注目されるようになった。
1936年(昭和11年)に第1次調査として唐古池底の調査がおこなわれた。この調査により唐古遺跡は、低湿地という条件により木製品や種実などの有機物が良好に保存されており、弥生文化を総合的に理解できる遺跡として注目されるようになる。
それから40年ほど調査は行われなかったが、1977年の第3次調査から始まる第1期の調査が奈良県立橿原考古学研究所により行われ、遺跡の範囲は存続期間などの基礎的調査が行われた。
続いて1982年の第13次調査から第2期の調査が田原本町教育委員会により行われ、広大な遺跡の範囲が明らかになった。1988年の第34次調査から始まる第3期では、農地整備や小学校の設置に伴う事前調査が主で、環濠集落の実像が明らかになってきた。
特に楼閣の描かれた土器片が第47次調査で発見され、報道などで一般に知られるようになる。1996年の第61次調査からは、史跡指定に向けての調査が行われ、これにより1999年に国史跡にしていされた。また第74次の調査では大型建物跡が検出され、重要な遺跡であるという認識がより強まった。以降、2012年時点で112次に及ぶ調査が行われている。
〇主な遺物と弥生文化の復元
唐古・鍵遺跡の特徴のひとつは、弥生時代を通じて全期間の遺物が出土する事である。特に大量に出土する弥生土器は、大和様式弥生土器編年として纏められ、考古学で近畿地方の標準的な土器編年に位置づけられている。
また、唐古・鍵遺跡から出土する土器の特徴として建物や鹿を描いた絵画土器が多い事が挙げられる。2012年時点で、全国で発見された絵画土器の総数は600点余りとされるが、その半数以上が唐古・鍵遺跡とその周辺から出土している。特に楼閣を描いた土器は著名で、この発見により弥生時代に2階建ての建造物が存在したと考えられるようになった。ただし、この楼閣の遺構は確認されていない。
楼閣以外にも、人物・鹿・魚・スッポン・船などが見られるが、女性とみられる鳥装の人物や盾や戈を持って踊る戦士は祭祀を表現したものと推定され、絵画土器は祭祀に用いられた特別な土器と考えられている。
また、遠方からもたらされた土器も出土している。弥生時代前期から中期前半は伊勢湾から東海地方の土器が多く、弥生時代中期後半になると吉備地方を中心とする瀬戸内地方の土器が多くなる。特に、1点ずつ発見されている吉備製の大形壺と大形器台は日用品ではなく、2地域間の関係性を象徴するものと推定されている。
石器は製品のみでなく原料や未成品が出土し、集落は石器製品の生産地であったと考えられる。これらの原料は、弥生時代前期では耳成山産流紋岩(磨製石包丁)、中期には紀ノ川産結晶片岩(磨製石包丁)、前期から中期を通して二上山産サヌカイト(打製石剣・打製石鏃・打製石鑿など)など、遠方から持ち込まれた。一方で磨製石斧など、製品が出土する一方で未完成品が発見されない石器もあり、地域間ごとに石器の生産が分担され交易があったと推測される。
木製製品も未完成品が見られ、弥生時代全期間を通して木器生産が行われていたと考えられる。木器は水漬け保管を行いつつ数年かけて製作していたと考えられるが、その保管方法は前期と中後期で異なる。前期では土坑に水を湛えて保管したと考えられるが、中後期では環濠や区画溝・井戸跡などが用いられたとみられる。製品としては鍬・鋤・臼・杵・槽・斧柄などの農工具・工具類と、壺・高杯・鉢・匙などの食器類、糸巻具などの紡績具、弓や竪などの武器・狩猟具、木製戈などの祭祀用具など多様である。樹種としては、カシ・ヤマグワ・ケヤキなどが多く、製品により樹種を使い分けていた。
また、紡績具も多く出土している。機織り技術は弥生時代に大陸から伝来したものと考えられ、また、唐古・鍵遺跡からは貴重な弥生時代中期初頭とみられる織布の断片が発見されており、大麻を用いた平織り布が存在したことが明らかになった。この布断片は、きわめて緻密な布で大陸からの伝来したものという説もある。一方で、縄文時代からの編布も引き続き生産されていたと考えられる。
金属器としては青銅器と青銅器の鋳造に関わるものも出土している。青銅器は弥生時代中期初頭の細形銅矛が最も早いが、これは朝鮮半島もしくは北部九州からもたらされたと考えらえれる。次に古いのは、銅鐸を模した土製品である。土製品ではあるが、文様などが精工に再現されており保有していたであろう弥生時代中期の銅鐸を観察して製作したと考えらえる。その他、弥生時代後期の銅鏃・銅釧・巴形銅器・小型仿製鏡・有孔円盤などが出土している。
鋳造関連遺物としては、弥生時代中期中頃の銅鐸の石製鋳型と鋳造失敗品と考えられるスクラップされた銅鐸片が最も古いと推定されるが、確実に年代が判明する最古の遺物は中期後半の送風管とされる。最も鋳造が盛んだったと考えられるのは、青銅器鋳造編年の第Ⅱ期から第Ⅲ期(弥生時代中期末から後期初頭)の土製鋳型によって大型青銅器が製造された時期で、南地区からは大量の土製鋳型が出土している。
鋳型内側の粘土が剥離しているため、どのような製品が製造されたのかは明らかではないが、鋳型の大きさから銅鐸・銅戈・銅鏃・銅鏡などが候補に挙げられている。なお、鉄器の出土は僅かで、弥生時代後期後半の鉄斧と、古墳時代前期のヤリガンナなどが見られる。ただし木製品や骨角器などに鉄器による加工痕が見られるため、それなりに所有していたとする説もある。
装身具としては、新潟県姫川産のヒスイが7点出土している。特に注目されるのが、褐鉄鉱の空洞に入った状態で出土した2点のヒスイ製勾玉である。1号勾玉の大きさは弥生時代では最大クラスの4.6㎝で、2号勾玉は最高品質のヒスイで大きさは3.6㎝であった。この遺物は出土状況が明らかではないが、首長あるいは集落の象徴的な遺物が弥生時代後期に埋納されたものと考えられている。その他には、水晶玉・ガラス小玉・牙製垂飾品などが出土している。また、未完成の碧玉製大型管玉やこれを加工する玉砥石などが出土しており、集落内で装飾品の加工が行われていたと考えられる。
その他に注目されるのが大量に出土する動植物の史料である。
植物性食料としては主食の炭化米や穂束などがあるが、その他にマメ・ウリ・ヒョウタン・モモ・クルミ・トチノキなどが出土している。
また注目されるものとして弥生時代前期のドングリを保管するピットが確認されており、弥生時代前期においての主食はまだ米主体ではなく、堅果類と補完関係であったと考えられる。
動物性食料としてはイノシシが圧倒的に多く、獣類ではシカ・イヌ・タヌキ・キツネ・ウサギ・スッポン、鳥類ではカモ・ガン・ツグミ、魚類では淡水魚のアユ・ギギ・ナマズ・ウナギ・コイ、海水産としてマイワシ・エイ・ハモ・タイ・アカニシ・サメ・クジラ・ウニが確認されている。
海産物と関連して漁具の蛸壺も出土しており、こうした品々は和泉沿岸から大和川を経由して持ち込まれたと考えられている。食用以外として注目されるのが42点が確認されている骨卜である。骨はイノシシやシカの肩甲骨が利用されている。骨卜は弥生時代中期前葉から後期にかけて行われたが、焼灼の仕方が時期によって変化することも確認されている。このほか、イノシシの下顎に孔をあけたものが出土している。これは棒に引っ掛けて飾り付けたと考えられるが、豊作の儀礼や魔除けなどに用いられたと考えられる。
5.7)平塚川添遺跡(中期以降)
平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市平塚にある弥生時代中期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から西暦4世紀ごろ)の遺跡である。国の史跡に指定(1994年(平成6年)5月19日指定)。
〇地理
筑紫平野の東端近く、現在の朝倉市域西部の沖積平野に位置している。遺跡の西側には筑後川支流の小石原川が流れ、遺跡は小石原川流域に含まれる標高20メートル程度の微高地で、福田台地の西端部にある。遺跡の東側には同じく筑後川支流の佐田川が流れる。当遺跡の周辺は筑後川とその支流の小石原川・佐田川・荷原川(いないばるがわ)により形成された平野であり、北東にある平塚山の上遺跡をはじめとして、同時代の遺跡がいくつか存在する。
〇発掘
1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見され、当時の甘木市教育委員会と福岡県教育委員会により翌1991年(平成3年)8月から1993年(平成5年)5月まで発掘調査が進められた。
遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。
中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡が検出されている。別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。
遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉(貨泉)などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。植物はアシ・ブドウ・ハンノキ・イチイガシ・ツブラジイ・コナラ・ヤマモモなどが出土している。
時代としては中国の歴史書に記されている倭国大乱から邪馬台国の時代にあたり、このような集落構造が当時の「クニ」の実態を理解する上で極めて重要であるとして、1994年(平成6年)に遺跡部の112,073.88平方m(約11ヘクタール)の区域が史跡に指定された。
〇平塚川添遺跡公園
発掘調査終了後、甘木市では1996年(平成8年)から文化庁・福岡県の補助を受け遺跡を整備し、2001年(平成13年)に平塚川添遺跡公園として開園した。環濠、竪穴式住居・高床式倉庫などの当時の建物、古代植生などが復元設置されている。
〇詳細説明(引用:文化庁国指定文化財等データベース)
福岡県の西南部には、筑後川とその支流である小石原川・佐田川・荷原川が形成した平野が広がり、古くから交通の要衝、肥沃な土地として知られてきた。この地域には旧石器時代から始まって多くの遺跡が分布し、特に弥生から古墳時代の遺跡が氾濫原と自然堤防上の微高地に顕著である。
平塚川添遺跡は、この地域を代表する弥生時代中期前半から古墳時代初頭にかけての大規模な集落遺跡であり、濠を伏流水の多い標高23m前後の氾濫原に数条もち、内部のやや高い乾燥した平坦地を居住域としている。
北東に隣接してほぼ同時期の平塚山の上遺跡がある。両遺跡の東には4mほど高い広大な福田台地があり、台地周辺部に前漢鏡、鉄戈、貝輪などが発見された弥生時代中期から後期の甕棺墓、土壙墓、円形周溝墓、古墳時代前期の方形周溝墓、前方後円墳などと、それぞれの時期の集落遺跡とが点在している。
平塚川添・平塚山の上遺跡を含めた地域に工業団地が画され、平成3年11月末から甘木市教育委員会が約4・5ヘクタールを対象に事前調査を開始した。調査の進捗にともない次第にその重要性が認識され、翌年11月末からは福岡県教育委員会も調査に協力してほぼ全体の様相が確認できた。その結果、平塚川添遺跡を中心とした地域、約11ヘクタールを保存することとなった。
本遺跡は、弥生時代中期前半と、弥生時代後期中ごろから古墳時代初頭にかけての2時期にわたる。弥生時代中期前半については、集落の東半分の様相を確認し、多数の竪穴住居や土坑を発見した。また一部の濠がこの時期に堀削された。
再び後期中ごろに居住を開始し、最終的には合計7重の濠をもつ集落となった。
中央の微高地には広場を設け、南東に接して棟方向を北西・南東に揃えた桁行四間梁間2間の大型堀立柱建物が4棟並ぶ。広場の南から北を半月形に取り囲んで、長方形の竪穴住居が数軒ずつまとまって合計200棟ほど存在する。
竪穴住居は、中央に炉を置きそれを挾んで長軸方向に主柱穴を2か所配するものが多い。
また竪穴住居群の北東端の東、環濠との間に周辺に縁と見られる柱穴をもつ桁行3間梁間2間の大型堀立柱建物がある。この集落跡の最高所に立てられた最大の建物である。
一方、広場の西、環濠と竪穴住居群の間には、甕棺墓7基と石棺墓七基がある。
これら建物跡・広場などからなる中央部は約2ヘクタールあり、南北約220メートル、東西約120メートルの内濠が楕円形に囲み、その外側に全体を2重に巡る濠が存在する。
さらに台地の反対の西側低地には、3ないし4重の濠があり、自然流路をそのままあるいは若干造成した部分もある。全体で南北400メートル、東西250メートル以上の広さをもつほぼ楕円形の環濠集落となる。
濠はおおむね断面U字形で幅約6から10メートル、深さ約1メートルであるが、6重目は規模が大きく幅約33メートル、深さ約2メートルで内斜面は垂直に近く外斜面は緩やかである。また5重目の濠の内斜面上に3列、外斜面上に1列、6重目の濠の外斜面上に1列、柱穴が約2メートル間隔で並び、柵と考えられる。
環濠の間には、濠の一部を大きく外側に曲げて6か所以上の区画を設けていた。中央部の南西、内濠の外の区画は、堀立柱建物だけからなる倉庫域である。
この区画の北側、内濠の両斜面には柱穴が一対ずつあり、中央部に通ずる橋脚と考えられる。
一方、中央部の北東、3重目の濠の外の区画には中央に竪穴住居群があり、その東西に堀立柱建物群が発見された。西には楕円形の周濠をもつ堀立柱建物があり、福岡県春日市の須玖岡本遺跡や須玖永田遺跡などで青銅器鋳造工房跡と推定された遺構に似る。
この区画からは貨泉、管玉未製品、そして南隣の濠からは鼠返し、槽などの木器と共に多量の木器未製品や板材などが出土した。工人集団の居住・作業区域と推定できる。なお、この区域に近い中央部北側の竪穴住居から、碇石に転用した銅矛鋳型片を発見している。
環濠部で多数の柱根や礎板などを発見し、防腐のために表面を焼いたものもある。濠のなかからも柱、梁、梯子、鼠返しなどの建築部材を発見した。また、平鍬、三叉鍬、鋤、竪杵、砧、手綱枠、槽、〓(*2)部材、手斧柄、植物遺体なども豊富に残っている。また全域から多量の土器が出土し、中央部からは2点の小型〓(*3)製の内行花文鏡を含む銅鏡3面、銅鏃、銅戈耳部などを発見した。
平塚川添遺跡は、防御と排水のためと考えられる多くの環濠をもち、住居域・工房域・倉庫域などが分化し、大型の堀立柱建物をもつ大規模な集落遺跡である。この遺跡がもっとも拡大した弥生時代後期後半は中国史書に伝える倭国大乱から耶馬台国の時代に相当し、そこに記された「国」の実態を理解する上できわめて重要である。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするもの。
文引用:邪馬台国総論&Wikipedia
1)概要
高地性集落は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差があり、平野や海など周囲を眺望できる山頂や丘陵の尾根上などに形成された集落である。
弥生時代の集落遺跡は、周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落が主たるものであり、これらはコメの生産地となる水田に近い平野部や台地上に形成されていた。
それに対して、人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、弥生時代中期~後期の集落遺跡、すなわち高地性集落の遺跡が見つかっており、「逃げ城」や「狼煙台」などの軍事目的の集落であった等、その性質をめぐって様々な議論が提起されている。
2)高地性集落の分布
弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。しかし、北部九州にはみられない集落である。
集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。
遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃も高地性集落の多くから発見されている。
以上を総合して、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。しかし、高地性遺跡からも同時期の平地の遺跡とほぼ同じ内容の遺物が見つかっており単なる監視所・のろし台といったものではなく、かなりの期間、住居を構えた場所だったことも判明してきている。
3)高地性集落の意義
集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。つまり、畿内を中心とした地域で進められていた統合・連合への動きであった。
豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。
さらに、弥生中期~後期という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方がある。
一方、環濠集落はほぼ弥生時代全期間を通じて存在した。これは、近隣のクニやムラとの戦いに備えたものであり、北部九州とヤマトのような遠く離れた地域間の戦いに備えたものでないことが考えられる。
20世紀末期ごろからは、高地性集落を特殊な集落と捉えるのではなく、他の環濠集落や非環濠集落との関連性に着目し、地域の拠点となる拠点集落とその他の集落という関係で見直す動きも出ている。
4)分布変遷
4.1) BC50~AD100
図引用:邪馬台国総論
紀元前1世紀から紀元1世紀の日本といえば、西暦57年に奴国が後漢から印綬を貰ったり、西暦107年の面土国・帥升が奴国を征服し後漢に使者を送る直前の時代である。
この年代のどこかで神武東遷があった可能性が高い。高地性集落が、畿内から瀬戸内海沿岸部にかけて多く建造されるが、まだ、九州・熊本以南や中部地方以東には殆ど建造されていない。
また、最近の考古学の研究では紀元前50年ころには既に、九州同様、畿内でも中国思想を導入した街づくりが行われていたようである。
4.2) AD100~AD200
図引用:邪馬台国総論
紀元2世紀の日本といえば、西暦107年の面土国・帥升が奴国を征服し後漢に使者を送ったり、後半には卑弥呼擁立のきっかけになった倭国大乱があった時代である。
この時代になると、高地性集落が、九州・熊本まで南下し、東海地方まで広がり始める。
4.3)AD200~AD300
図引用:邪馬台国総論
紀元3世紀の日本といえば、魏志倭人伝の邪馬台国の時代である。現在の考古学のデータでは、その時代の高地性集落の分布は九州から大和ではなく、大和から東や北の方角に変わるために、卑弥呼以後の九州から畿内への東遷説は説明しにくい。
逆に、日本書紀に記載されている崇神天皇時代の四道将軍の大和から四方への派遣とは照応する。
このことが、考古学者が邪馬台国大和説に傾く大きな理由になっているようだ。
5)主な遺跡
5.1) 全般
日本最古の高地性集落遺跡は、京都府京丹後市の扇谷遺跡で、弥生時代前期末から中期初頭にかけての比較的短期間営まれたものとみられている。そのほか、主な高地性集落遺跡には、香川県三豊市詫間町の紫雲出山遺跡(標高352m)、同県高松市岩清尾山古墳群(標高232メートル)、愛媛県西条市の八堂山遺跡(標高196.5m)、瀬戸内海に浮かぶ男鹿島の山頂にある兵庫県飾磨郡家島町大山神社遺跡(標高220m)、神戸市伯母野山遺跡(標高130m)、同県芦屋市会下山遺跡(標高185m)、同城山遺跡(標高250m)、岡山市貝殻山遺跡(標高284m)、柏原市高尾山遺跡(標高280m)などがある。
高地性環濠集落として新潟県村上市に所在する弥生時代後期後半の山元遺跡がある。東北の文化圏では初めての環濠集落となる。長辺100m以上、短辺約50mの広さで、深さ約1m、溝の断面は逆台形である。環濠外の土抗墓群から61点に及ぶ大量のガラス玉が出土している。
その他の高地性環濠集落として大阪府高槻市に、弥生時代後期初頭の遺跡である古曽部・芝谷遺跡がある。標高80 - 100メートルに位置し、東西600メートル、南北500メートルにわたって広がっており、100棟以上の住居や木棺墓が発掘されている。集落間の争いを避けるために丘陵に移住したとされる。
5.2)会下山遺跡
〇概要
会下山遺跡(えげのやまいせき)は、兵庫県芦屋市内の北方から南に傾斜する六甲山堤の西半分にある弥生時代中期から後期の高地性集落遺跡。社会史的に重要かつ著名な遺跡であり、1960年(昭和35年)に県の史跡に指定された後、2011年(平成23年)2月7日に国の史跡に指定された。
会下山遺跡(引用:Wikipedia) 高床倉庫(復元)(引用:Wikipedia)
〇遺跡の発見
1956年(昭和31年)に、芦屋市立山手中学校の生徒が、弥生土器の破片を多数発見した。市の教育委員会がその後数回にわたり、会下山山頂から中腹にかけて学術的な発掘調査を行ったところ、集落跡がほぼ完全な状態で発見された。
●施設
・竪穴住居跡 - 7ヵ所、16戸/祭祀場/高床倉庫跡/土壙墓/焼土壙 - 長径4メートル/柵跡
●出土品
・壺・甕・高坏などの弥生土器/石鏃・石斧・石錘・掻器・石錐
・銅鏃・ガラス小玉・鉄斧・鉄鐫(のみ)・小刀・火打石
〇詳細解説(引用:文化庁国指定文化財等データベース)
会下山遺跡は、六甲山系南部の一つ、標高201mを最高所とする前山尾根を中心に存在する弥生時代中期から後期の集落跡である。昭和29年、中学校の造成工事に伴い土器が発見されたことを契機に遺跡の存在が知られ、昭和31年から36年にかけて芦屋市教育委員会により発掘調査が実施された。
その結果、遺構としては、尾根を中心とした山頂部付近で祭祀関係遺物を伴う竪穴建物1棟、大型の竪穴建物1棟を含む合計8棟の竪穴建物を検出した。このほか、焼土坑、土坑墓、柵列なども確認され、一時期に数棟からなる集落と考えられた。
遺物としては、弥生時代中期中葉から後期中葉にかけての土器がある。壺・甕をはじめとする各器種が揃い、近江、東摂津、中河内、播磨、讃岐などからの搬入土器も確認された。
このほか、打製石鏃、磨製石鏃、柱状片刃石斧などの石器、逆刺をもつ大型鉄鏃、鋳造鉄斧などの鉄製品も出土し、調査の過程で、日本列島では極めて珍しい漢 (かん ) 式 (しき ) 三(さん)翼(よく)鏃(ぞく)も採集された。このように、弥生時代の高地性集落の構造を明らかにしたという点で、学史的に重要である。
平成19年度からは、遺跡の範囲を確認するための発掘調査を実施したところ、これまで認識されていた集落域より広範囲に遺構が存在していることが明らかとなった。これまでに検出された最も北側の竪穴建物のさらに約50メートル北側で溝2条を確認した。北側の溝は幅6メートル程度、南側が幅3から4メートル程度である。ここから北は傾斜が急となる地形の変換点で、集落域の北限を画していたと考えられる。
また、丘陵斜面において、弥生時代中期後葉以降に造成された平坦面や焼土坑、弥生時代後期の段状遺構、土坑、ピットなどを確認した。これによって、集落域は丘陵斜面にも広がるものと考えられる。
このように、会下山遺跡は弥生時代中期中葉から後期中葉にかけての高地性集落である。遺構は、近年の調査成果を踏まえると、山頂部にとどまらず丘陵斜面にも及ぶと考えられる。
また、土器の様相は広範囲な地域の集団と交流があったことを示し、鋳造鉄斧や漢式三翼鏃などの出土は金属器流通においても一定の役割を担っていたことを示唆する。
高地性集落については、弥生時代の社会的緊張関係があったことを示す逃げ城、見張り場であるとの説をはじめさまざまな機能、性格が論じられてきた。本遺跡は、学史的に重要な高地性集落であるとともに、高地性集落の機能、性格を考える上で、さらに、弥生時代の政治情勢、生活や交流といった社会のあり方を知る上でも重要である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。
●『日本書紀』(記紀)などの史書に太宰府を何時設置したか記録がない。また都城本体の建設の記録もない。古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が畿内特に大和ではなく、太宰府であった事は明らかである。
(水城や所在の明瞭な古代山城は、北九州に多い。また記紀に築城の記録が無い古代山城「神籠石式山城」が北九州から瀬戸内沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中している)。
●古代史研究家の永井正範氏は、『神籠石は九州王朝の城だった』との説を展開されています。現在日本で発見されている 22 基の『朝鮮式山城』を、私は、次の三つの類型に分けています。
ⅰ.史書が載せる 6 基
〔発見されている朝鮮式山城〕
・金田城(かねたのき)(長崎県下県郡美津島町黒潮:対馬)
・大野城(おおのじょう)(福岡県大野城市瓦田,太宰府市太宰府)
・基肄城(きいじょう)(佐賀県三養基郡基山町小倉,福岡県筑紫野市山口)
・鞠智城(きくちじょう)(熊本県菊鹿町米原,菊池市木野)
・屋島城(やしまのき)(香川県高松市屋島)
・高安城(たかやすのき)(奈良県生駒郡平群町,大阪府八尾市)
〔発見されていない朝鮮式山城(推定)〕
・長門城(ながとのき)(推定:山口県下関市)
・常城(つねき)(推定:広島県福山市新市町)
・茨城(いばらき)(推定:広島県福山市蔵王)
・稲積城(いなづみのき)(推定:福岡県糸島郡志摩町)
・三野城(みのじょう)(推定:福岡県福岡市博多区美野島)
・三尾城(みおのき)(推定:滋賀県高島郡高島町)
ⅱ.史書が載せない 九州 の 10 基
・高良山神籠石(こうらさん)(福岡県久留米市御井町高良山)
・女山神籠石(ぞやま)(福岡県山門郡瀬高町大草字女山)
・宮地岳神籠石(みやぢだけ)(福岡県筑紫野市)
・帯隈山神籠石(おぶくまやま)(佐賀県佐賀市久保泉町,神埼市神埼町)
・おつぼ山神籠石(おつぼ)(佐賀県武雄市橘町小野原)
・杷木神籠石(はき)(福岡県朝倉市林田)
・雷山神籠石(らいざん)(福岡県前原市雷山)
・鹿毛馬神籠石(かけのうま)(福岡県嘉穂郡頴田町鹿毛馬)
・御所ヶ谷神籠石(ごしょがたに)(福岡県行橋市津積)
・唐原の各神籠石(とうばる)(福岡県築上郡大平村下唐原,土佐井)
ⅲ.史書が載せない 瀬戸内 の 6 基
・石城山神籠石(いわきやま)(山口県熊毛郡大和町石城)
・永納山城(えいのうざん)(愛媛県西条市河原津)
・讃岐城山城(さぬききやま)(香川県坂出市西庄町 他)
・鬼ノ城(きの)(岡山県総社市奥坂,黒尾)
・大廻り小廻り山城(おおめぐりこめぐり)(岡山県岡山市草ヶ部)
・播磨城ノ山城(はりまきのやま)(兵庫県龍野市揖西町中垣内,新宮町馬立)
※『書紀』・『続紀』が記す 11 基の内、発見されているのは上の 6 基だけです。日本で発見されている『朝鮮式山城』 は以上の 22 基だけで、他にはありません。
(引用:Wikipedia )
1)金田城(かねたのき)(長崎県下県郡美津島町黒潮:対馬)
南部石塁(後背に黒瀬湾) 金田城の位置 東南角石塁
(引用:Wikipedia)
金田城(かねだじょう/かなたのき/かねたのき)は、対馬国下県郡の城山(じょうやま、現在の長崎県対馬市美津島町黒瀬)にあった日本の古代山城(分類は朝鮮式山城)。城跡は国の特別史跡に指定されている。
対馬島中央部、浅茅湾西側の外浅茅の南縁の城山(じょうやま、標高276m)の山上に築城された古代山城である。飛鳥時代の天智天皇6年(667年)に築城された朝鮮式山城で、西日本各地に築城された一連の古代山城のうちでは朝鮮半島への最前線に位置する。
近世期までに城の所在は失われていたが、1922年(大正11年)・1948年(昭和23年)の調査で比定が確定され、1985年度(昭和60年度)以降に発掘調査が実施されている。
城は城山の急峻な自然地形を利用して築造されており、城山の東斜面において城壁とともに城門・水門・掘立柱建物跡の構築が認められる。特に城壁としては約2.8kmにもおよぶ石塁が全周し、他の古代山城が土塁を主とするのとは性格を異にする。
また掘立柱建物跡の遺構から防人の居住が示唆されるほか、出土品の様相からは奈良時代までの廃城化が推測される。古代の対朝鮮半島の最前線としての重要性、また遺構の良好な遺存状況と合わせて、文献上では知られない当時の防人配備の実情を考察するうえでも重要視される遺跡になる。
城跡域は1982年(昭和57年)に国の特別史跡に指定されている。
2)大野城(おおのじょう)(福岡県大野城市瓦田,太宰府市太宰府)
百間石垣(高さ8m×基底部幅9m×長さ180m)(引用:Wikipedia)
大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている。
大野城は、大宰府政庁跡の北側背後に聳える、標高410mの四王寺山(大城山)に所在する。山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と石塁の外周城壁は、約6.8kmである。そして、南側と北側の土塁が二重となり(城壁総長は8.4km)防備を固める。城域は東西約1.5㎞×南北約3㎞の、日本一の大規模な古代山城である。城門は太宰府口城門など9か所が開く。また、谷部では、浸透式で自然排水の百間石垣・水ノ手石垣などに加え、水口のある屯水石垣などが確認されている。
大野城市の名称はこの大野城に由来する。2006年4月6日には、日本100名城(86番)に選定された。
3)基肄城(きいじょう)(佐賀県三養基郡基山町小倉,福岡県筑紫野市山口)
頂上部の土塁(引用:Wikipedia)
基肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1954年(昭和29年)3月20日、国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されている。
基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)、大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている。城郭の建設を担当したのはいずれも亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。
また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である。そして、『続日本紀』 の698年(文武天皇2年)には、大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載され、『万葉集』にも、「記夷城(きいのき)」と、記載されている。
基肄城が所在する基山は、大宰府の南方8㎞に位置する。山麓には、大宰府から南下する古代官道が通り、基肄駅(きいのうまや)で築後国方面と肥後国方面に分岐したとされる要衝にある。
基肄城は、標高404mの基山の3か所の谷を囲み、その東峰(327m)にかけて、約3.9㎞の城壁を廻らせた包谷式の山城で、城の面積は約60ヘクタールである。城壁は、ほとんどが尾根を廻る土塁であるが、谷部は石塁で塞いでいる。
また、山頂では、北側の博多湾、南側の久留米市や有明海、東側の筑紫野市や朝倉市方面、西側の背振の山並みを一望することができる。古代は、大宰府政庁や大野城・阿志岐山城・高良山神籠石など、他の軍事施設と連携を図れる好位置にある。そのため、基肄城は、大宰府を守る南の防御拠点として、主に有明海方面の有事に備えて築かれたとされている。
発掘調査では、約40棟の礎石建物跡、軒丸瓦・軒平瓦・土器などの出土遺物、頂上部で溜池遺構などが確認されている。城門は、推定2か所を含め、4か所が開く。残存遺構のある城門は、城内北寄りの「北帝(きたみかど)門」と「東北門」である。城内南寄りの「南門」と「東南門」は、あったとされる推定の城門である。城跡見学の玄関口となる南門と一連の水門石垣に、土塁とともに基肄城を代表する水門遺構があり、通水口は国内最大級である。また、2015年(平成27年)の水門石垣の保存修理で、新たに三つの通水溝が発見された。同一の石垣面に四つ以上の排水施設を持つ古代山城は、国内においては唯一、基肄城のみである。
基肄城の東南山麓に、「とうれぎ土塁」と「関屋土塁」が確認されている。水城と大野城の関係と同様に、基肄城と対となり、最も狭い交通路を塞いだ遮断城とされている。
天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤・小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている。
4)鞠智城(きくちじょう)(熊本県菊鹿町米原,菊池市木野)
歴史公園 鞠智城(引用:Wikipedia)
鞠智城(きくちじょう/くくちのき)は、熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる台地状の丘陵に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、2004年(平成16年)2月27日、国指定の史跡「鞠智城跡」に指定されている。
『続日本紀』に、「大宰府をして大野(おおの)、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城(みつのき)を繕治せしむ」と、記載された城である。
鞠智城は、『続日本紀』に記載された文武天皇2年(698年)の城の修復記事が初見であり、築城年は不明である。しかし、発掘調査では少なくとも7世紀後半~10世紀中頃まで約300年、存続したことが判明している。そのため、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた水城・大野城・基肄城と、ほぼ同時期に築かれたと考えられているまた、八角形建物跡や銅造菩薩立像の出土などは、百済からの亡命者が関与したことが窺える。
鞠智城は、標高約90~171mの米原台地に所在する。城壁の周長は、自然地形の崖を含めて約3.5㎞、城の面積は約55ヘクタールである。直線距離で大宰府の南、約62㎞に位置し、古代山城では最も南にある城である。また、有明海に注ぐ菊池川の河口の東北東、約30㎞の内陸部で、流域は肥沃な平野が広がる。城の南側は、古代官道が推定されている交通路の要衝に位置する。
発掘調査では、国内の古代山城で唯一の八角形建物跡2棟(2棟×2時期)・総計72棟の建物跡・3か所の城門跡・土塁・水門・貯水池などの遺構が確認されている。また、貯水池跡では、付札木簡と百済系の銅造菩薩立像が出土している。
鞠智城の築城当初は、大宰府と連動した軍事施設で、大野城・基肄城などとともに北部九州の防衛拠点であり、兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどが考えられている。そして、修復期以降は、軍事施設に加えて、食料の備蓄施設の拠点、南九州支配の拠点などの役割・機能などが考えられている。
鞠智城は、7世紀末の律令制の導入時に、役所機能のある肥後北部の拠点に改修されたと考えられている。発掘調査で大宰府と連動した施設の改修と変遷が確認された特異な城跡である。また、他の古代山城は国府の近くに所在するが、鞠智城は城自体が役所機能を有するなど、特殊な古代山城といえる。そして、8世紀後半以降は、倉庫が立ち並ぶ物資貯蔵機能に特化した施設に変化して終焉を迎えたとされている。
5)屋島城(やしまのき)(香川県高松市屋島)
城外の城壁の北側より南側を望む(引用:Wikipedia)
屋嶋城(やしまじょう/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市の屋島に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡と天然記念物に指定された「屋島」の指定範囲に包含される。屋嶋城敷地跡には四国遍路84番札所の屋島寺がある。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、日本の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている。瀬戸内海の島に築かれた古代の屋嶋城は、667年(天智天皇6年)、高安城・金田城とともに築かれた。
また、屋嶋城は、政権基盤の宮都を守る高安城、国土領域を守る最前線の金田城とともに、瀬戸内海の制海権を守る重要なポイントとされている。
屋島は江戸時代までは陸から離れた島であったが江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、陸続きになった。全体の大きさは南北5㎞・東西3㎞、南嶺の標高は292.0m・北嶺の標高は282m、山頂は平坦で、端部は急崖で囲まれた台地の地形で、南嶺と北嶺は細い尾根で接続されている。
屋嶋城は、南北嶺の山上全域が城跡とされている。山上の外周7㎞のほとんどが断崖で、南嶺の外周4㎞の断崖の切れ目に城壁が築かれている。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造の城門の存在が判明したのは国内初のことであった。この懸門の存在は、大野城・基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える。
浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100mの山中に谷を塞いだ、長さ約47m×基底部幅約9mの石塁と台状遺構(物見台)がある。この遺構は大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは、屋嶋城の唯一の遺構であった。山上の城は断崖を利用して城壁は築かれなかったとされ、山上に遺構が見当たらない。また、考古学の視点では未実証で、多くの研究者が実態の不明な山城に位置づけていた。2009年の調査で、7世紀後半代の城跡遺構であることが判明した。
屋嶋城は二重防御の城である 。浦生地区の遺構は、進入路を塞いだ遮断城で、大野城と水城・鬼ノ城と水城状遺構と同類とされている。
城門は懸門構造に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で、城内から城外に向かって暗渠の排水路が設置され、通路の両側の柱穴の検出により建造物(門扉)の存在が実証された。
城門遺構の全長45m×高さ6mの石塁などが復元された。城門は幅5.4m×奥行10m、入口の高さ2.5m(段差)である。城門の南側は、内托式の城壁で、高さ6mの城壁がある。城門の北側は、夾築式の城壁で、北端は断崖に接続され、長さ10m×高さ5m×幅10mである。城門遺構の見学路などが整備され、2016年3月19日、一般公開となる。
南嶺山上の北斜面土塁は、斜面を利用し、幅約2m×長さ約200m×高さ約2mの石積みの背面に盛り土をした、内托式の土塁である。
屋嶋城は複数の国を管轄した軍政官の、伊予総領の管轄下で築かれたとされている。山上からは、西方約28㎞の香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた、備讃瀬戸の海路が遠望できる。また、讃岐城山城(さぬききやまじょう)と鬼ノ城(きのじょう)も視野に入る。
島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳、北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡、東岸の入江(屋島湾)一帯は源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島古戦場、北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある。
四国にある古代山城は、屋嶋城・讃岐城山城・永納山城(えいのうざんじょう)の三城である。
屋嶋城の城門遺構は、瀬戸内海国立公園に指定された屋島(屋島園地)に所在する。
6)高安城(たかやすのき)(奈良県生駒郡平群町,大阪府八尾市)
高安城 第2号倉庫跡(引用:Wikipedia)
高安城(たかやすじょう/たかやすのき)は、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる、高安山の山頂部に所在するとされる、日本の古代山城である。
『日本書紀』に、「大和国の高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築く」と、記載された城である。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、倭(日本)の防衛のため、対馬~畿内に至る要所に様々な防御施設を築いている。古代山城の高安城は、667年(天智天皇6年)、金田城・屋嶋城とともに築かれた。また、高安城は、国土の領域を守る最前線の金田城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、政権基盤の宮都を守る重要なポイントであった。
高安城が築かれた標高487mの高安山は、奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部に位置する。山の南の大阪湾に注ぐ大和川は、奈良盆地を遡り、支流の飛鳥川は宮都の飛鳥京に至る。
山頂周辺は、大阪平野側の西斜面は急峻で、東斜面は標高400mほどの多数の尾根が谷を抱える地形である。また、山頂部の眺望は良好で、大阪平野・明石海峡ほかの大阪湾と、飛鳥京ほかの奈良盆地が視野に入る。
高安城は、史書にその名がみえるものの、明確な遺構・遺物は未発見である。1978年(昭和53年)、「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見し、一躍注目される存在となる。発見された礎石建物跡6棟のうちの、2号と3号の礎石建物の発掘調査は、8世紀前期の建物と推定される。その後も、大阪府や奈良県が推定地内で発掘調査を実施しているが、明確な遺構は確認されていない。また、高安城の外周城壁ラインの推定範囲を最初に提示した関野貞の他、城の範囲に諸学説があり、古代山城の高安城の具体像は、まだ解明されていない。
2007年、神籠石を有する自治体が光市(石城山神籠石)に参集し、「第一回 神籠石サミット」が開催された。「第4回 神籠石サミット」が開催された後、他の古代山城を有する自治体が加わり、2010年より「古代山城サミット」へと展開されている。
山頂の西側の大阪管区気象台 高安山気象レーダー観測所は、四国・中国・紀伊半島など、半径約300㎞の気象を観測する。
〔発見されていない朝鮮式山城(推定)〕
7)長門城(ながとのき)(推定:山口県下関市)
長門城(ながとじょう/ながとのき)は、長門国にあった日本の古代山城。城跡の所在地は不明。白村江の戦いでの敗北を契機に築かれた城で、『日本書紀』には天智天皇4年(665年)と天智天皇9年(670年)に長門国に城を築いたとする記録があるが、城名や所在場所に関する情報がないため、地元史家の間で諸説がある。
8)常城(つねき)(推定:広島県福山市新市町)(引用:府中市立図書館/府中市歴史資料)
常城推定地の七ツ池周辺(引用:府中市立図書館/府中市歴史資料)
7世紀には朝鮮半島の覇権をめぐって、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、唐(とう)、日本などの諸国が入り乱れ争っていました。白村江(はくすきのえ)の戦い(663)で、唐と新羅の連合軍に敗れ、日本は撤退することになりますが、当時の超大国であった唐が日本へ進攻してくる事態に備え、大宰府(だざいふ)を中心に大野城(おおのじょう)や基肄城(きいじょう)などの山城を各地に築きました。朝鮮半島の山城築造技術を取り入れて築かれているため「朝鮮式山城」と呼ばれています。
『続日本紀』養老3年(719)の条に、「備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」という記事があります。「常城」は、その地名から福山市新市町常および府中市本山町七ツ池周辺一帯に存在したと推定されますが、明確な遺構は見つかっていません。昭和42~43年(1967~68)に、府中高等学校の豊元国(とよもとくに)教諭と地歴部が七ツ池周辺を現地踏査し、全国的な調査例がほとんどなかった当時としては、画期的な成果をあげることができました。
しかし、各地での調査が進んだ現状では、整合しない点も出てきており、当時確認された遺構の大半は、今では古代山城に関係しないと考えられています。また、現在も確認調査が行われていますが、一帯には山上寺院の「青目寺(しょうもくじ)」の遺構も重複して存在し、常城の確認を困難にしています。
9)茨城(いばらき)(推定:広島県福山市蔵王)
茨城(いばらじょう/いばらき)は、備後国安那郡にあった日本の古代山城。城跡の所在地は不明。記録としては『続日本紀』元正天皇養老3年(719年)12月の条に「備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」とあるのみで、正確な築城時期や位置は明らかとなっていない。
1958年に地元の高等学校教諭である豊元国が「芸備文化」第12・13合併号で発表した論文「備後茨城の所在考」で茨城の場所を福山市街地北東にそびえる蔵王山(標高225.5m)に比定して以来蔵王山説が有力になった。しかし、蔵王山に城跡の遺構は全く見つかっておらず、詳細な調査も実施されていない。そのため否定的な意見も根強く福山市加茂町北山など、別の場所にあったとする説もある。
ただ、いずれの説も文献に適応できると思われる場所を地理環境から求めたに過ぎず、古代山城の存在を示す証拠は見つかっていない。しかし、比定地の中には開発の進んだ場所もあり、そもそも続日本紀の記述が事実かどうかも含め不明な部分が多く、現状では茨城の存在自体が伝説の域を出ていない。
〇蔵王山説
●根拠
蔵王山説の有力な根拠となっているのが、南麓に奈良時代の寺院跡(国の史跡:宮の前廃寺跡)が確認されていることや、この周囲に市場があったと考えられること(蔵王の旧地名は市村という)、また、南方には「深津」と呼ばれる港があったなど、交通・経済の要衝として栄えていたことである。更に江戸時代後期の地誌「備陽六郡志」外編に「蔵王山上に石塁があるが城主は誰だったか分からない」という記述があり、これも蔵王山説を補強する根拠とされている。
なお、『続日本紀』で茨城は安那郡にあるとされており、深津郡に含まれる蔵王山は対象から外れるようにも見えるが、実は養老5年(721年)まで深津郡は安那郡の一部で後に安那郡から分離しているので矛盾はしていない。
●疑問点
蔵王山説の疑問点として指摘されるのが、山中に明確な遺跡が存在しないことで、1960年代以降、山頂に放送送信設備が設置されたり、北麓に山陽自動車道が建設されるなど、ある程度開発されたにも関わらず「備陽六郡志」で存在するとされる石塁を含め城の遺物は全く確認されていない。近郊で山頂付近に石塁が残る城としては戦国時代末期の山城・相方城(さがたじょう、福山市新市町相方)が知られるが、城の標高(191.0m)も近いのになぜ蔵王山のみ石塁が全くなくなっているのか、そもそも備陽六郡志の記述が事実であるのかもはっきりしない。
また、近くに「いばらき」に似た音を持つ地名が残されていないことや、古代山城の多くが国府の近くに設置されているが茨城には近くに国府がないことも疑問視されている[4]。 そして、蔵王山説を唱えた豊元国氏は広島県立府中高等学校(府中市)在職中の1967年から1968年に顧問を務めていた同校地歴部部員とともに備後国のもうひとつの古代山城である常城(福山市新市町金丸・常及び府中市本山町)の調査を行い、その遺構を確認したとしていたが、こちらの調査結果に矛盾が生じているなど、論文の信頼性自体にも疑問が持たれている。
〇木之上説
福山市神辺町湯田。神辺平野中央部で広島県立神辺旭高等学校裏山に位置する「要害山」にあるとする説。ただし、要害山には古代山城の痕跡は確認されていない。この説は郷土史家である高垣敏男が発表した「備後国府考」の中で他の説に先駆けて唱えられた。これによると高垣は備後国の国府を神辺町湯野にあるとし、これを守護する城として国府の西側に位置する要害山を茨城と比定している。
その後、備後国府の位置は発掘調査などから府中市であることが確実視されるようになるが、通常は国府の近くに建てられるべき国分寺が備後国では神辺町御領地区にあるため、当初国府は神辺にあり後に府中に移転した可能性も指摘され、現在でもある程度の支持を得ている。ちなみに府中市には甘南備(かんなび)神社という神社があり、「甘南備」は神辺という地名の語源の一つとされている。
〇井原説
岡山県井原市。 「イバラ」という地名と安那郡に隣接することから比定される。ここには井原市中心部の井原町の北に「茨(いばらき)八幡宮」という神社があり、井原町で最も古い神社で「井原」という地名の語源の一つとされている上、近くには古城跡とされる井原富士(横手山)がある。また、小田郡矢掛町と接する市東部の神代町には、国の端を意味すると思われる「末国」という小字があり、末国川と呼ばれる河川が存在する。これらのことから考えられる説は、下記の通り。
*井原は吉備分国後より備中国後月郡井原郷に属し、備後国安那郡と国境をまたいで接しており、「続日本紀」著者が茨城が備後国安那郡にあると勘違いして書いたとする説。
*井原に関する記述のある古い書物うち、安閑紀伝に「備後後城(しつき / 後月)」(現:井原市高屋町)、「備後多禰(たね / 種)」(現:井原市芳井町種)という記述があり、備中を備後と誤って書いたのではないかという扱いになっている。しかし、これが誤りでないとした場合、備中は後から置かれたもので、吉備が分国された際に備中は存在せず、備前と備後の二国しかなかったか、それとも備中は存在し、一時的に井原が備後に属した時があったとする説。
ただし、現在のところ説はあっても井原市内での本格的な調査は行なわれたことがない。しかも、井原市芳井町一帯(梶江・簗瀬・与井・吉井・天神山・下鴫・山村・池谷)は、かつて「井原荘(庄)」と呼ばれ、荘内の井原市芳井町天神山から木之上説の福山市神辺町三谷は距離的に近いことと、井原市芳井町天神山は標高の高い位置にあり、同じく標高の高い北山説の福山市加茂町北山を望める関係にあるため、これらの関係を含め他説が井原荘と関係しているかどうかすらもわかっていない。
10)稲積城(いなづみのき)(推定:福岡県糸島郡志摩町)
準備中
11)三野城(みのじょう)(推定:福岡県福岡市博多区美野島)
準備中
12)三尾城(みおのき)(推定:滋賀県高島郡高島町)
三尾城(みおのき)は、近江国にあった古代日本の城。城跡の所在地は不明で、現在の滋賀県高島市付近に推定される。
〇歴史
『日本書紀』天武天皇元年(672年)7月条によれば、天智天皇の死後に大海人皇子(のち天武天皇)・大友皇子の間で起こった争乱(壬申の乱)の際、大海人皇子方は大和国・近江国の2方面に各数万人の軍勢を配して進攻したが、そのうち近江方面軍はさらに湖北(湖西)方面軍・湖東方面軍に分かれ、湖北方面軍においては将軍の出雲臣狛・羽田公矢国らが北陸路を押さえたのちに7月22日に「三尾城」を攻め落としたという。
三尾城が記録に見えるのは、上記記事のみになる。
〇考証
城名の「三尾」は地名で、『和名類聚抄』にも近江国高島郡に「三尾郷」と見えており、現在は滋賀県高島市安曇川町三尾里を遺称地とする。同地は天智天皇・大友皇子の営んだ大津宮の北方に位置することから、三尾城は大津宮の北面防衛目的で築造された城であったと推測される。築城時期は定かでないが、天智天皇の時代には白村江の戦い(663年)の敗北を契機として西日本の各地に古代山城(いわゆる天智紀山城や神籠石)が築城されており、三尾城も同様の背景による築城とする説が有力視される。
具体的な城の所在地は、現在も明らかでない。比定地には諸説あるが、特に白鬚神社(高島市鵜川)北側の長法寺山に比定する説が有力視される。同地では長法寺跡(伝・嘉祥2年(849年)創建)や中世山城跡が重複することもあって、確実な遺構は明らかでないが、1982年(昭和57年)の調査では山中において7㎞以上に及ぶ長大な石塁などの存在が認められている。これを江戸時代のシシ垣(動物よけ)とする伝承もあるが、長大さ・水門などシシ垣にはそぐわない点も見られることから、(後世にシシ垣に転用されたとしても元々は)古代山城の遺構である可能性が指摘される。
なお三尾の地では、継体天皇の出自と関わる古代豪族の三尾氏が割拠したことが知られる。この三尾氏は朝鮮文化の影響を強く受けた氏族であることから、三尾城の築城主体に三尾氏を推定する説があるほか、実際の壬申の乱での三尾城主将に三尾氏を仮定する説もある。また、『日本書紀』天武天皇元年(672年)5月是月条では「自近江京至于倭京、処処置候」として、道々には候(うかみ、斥候・監視所)が置かれたことが知られるため、三尾城は城郭ではなくこのような監視所であったとする説もある。
1)御所ヶ谷神籠石(引用:行橋市HP)
神籠石の「中門」 北側上空から撮影(※)
(※)左側の最高所がホトギ山。中央右の空き地が景行神社(写真出典:行橋市HP)
参考Webサイト
「御所ヶ谷」(ごしょがたに)という地名は、九州を訪れた景行天皇(12代)がこの地に行宮(仮の皇居)を設けたとの言い伝えによります。 遺跡のほぼ中央の見晴らしのいい高台に、景行天皇を祀る神社があります。
南北朝時代に、東隣の山にあった馬ヶ岳城の城主、新田氏との関連で懐良親王の子が住んだのではないかとする説もあります。
「神籠石」とは、山中に列石や土塁、石塁で囲いを作った遺跡のことです。7世紀後半頃に作られた山城跡だとする説が有力です。
現在、北部九州から瀬戸内海沿いの地域にかけて、16ヶ所が確認されています。 敵軍の侵攻を監視し、妨害するために古代の官道を見張りやすい位置に築かれたとされており、御所ヶ谷神籠石も、北麓約1.5kmを大宰府と京都平野をつなぐ古代官道が東西に走り抜けています。
●詳細説明(引用:国指定文化財等データベース)
缶ヶ辻と称せられる標高246.9mの山梁の西部にあり、南西竝に北斜面溪谷の東西両側の屋根に近い部分に切石状の列石及びその痕跡を存し、その延長約4200mと推せられる。
〔構造〕
北斜面東方・中央及び西方の溪谷に所謂東ノ門、中ノ門及び西ノ門の石壁あり、殊に中ノ門の石壁は所謂御所ヶ谷川に跨りて存し、延長30余m高さ約6mを有し、切石を以て壁状に構築せられ、その基部に精巧な水門口あり、この種の示例中最も優秀なものである。
なお中ノ門の西方の小丘陵上に景行神社の石祠並に礎石の配列あり、西ノ門附近に馬立場と名づける石積がある。わが国上代の遺跡として価値が深い。
〔位置〕
御所ヶ谷神籠石は、福岡県の東部京都平野の南に連なる馬ヶ岳連山の御所ヶ岳(標高247m)の西北斜面に位置している。神籠石は、山頂部を底辺、北側の谷を頂点とする三角形状の広がりのなかに、列石と土塁および門跡などの遺構が全長約3kmに及んで所在している。とくに中門の石垣は、高さ7.5m、長さ18mの規模をもち、2段の石塁と水門を備えたものであり、神籠石のなかでも特筆すべき遺構である。
〔実測調査等〕
昭和の初めに実測調査が実施され、その成果に基づき4か所の門跡と一部の列石・礎石群が昭和28年11月に史跡に指定された。
平成3年度から遺構の分布調査と保存管理計画策定が行われ、土塁線および列石線の構造が解明された。その結果、7か所の門跡と列石を版築土塁中に取り込んだ土塁の構造や列石を伴わない土塁線などが確認された。
また、今回の調査で土塁の崩落土中から7世紀第4四半期のものと考えられる須恵器片が検出され、神籠石築造の時期を考える資料となっている。
今回の追加指定は、その調査結果に基づくものであり、外郭線の保存と郭内の保存を図ろうとするものである。
2)高良山神籠石(引用:Wikipedia)
高良山神籠石(こうらさんこうごいし)は、筑後国御井郡の高良山(現在の福岡県久留米市御井町)にあった日本の古代山城(分類は神籠石系山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
近年は「高良山城(こうらさんじょう)」とも称される傾向にある。「神籠石」の遺跡区分名称の由来に関わる遺跡であるとともに、神籠石論争の中心となった遺跡として知られる。
高良山神籠石(高良山城)のある高良山(引用:Wikipedia)
参考Webサイト:国指定文化財等データべ-ス
●概要
福岡県南部、筑紫平野に岬状に突出する耳納山地先端部の高良山(標高312.3メートル)西側斜面に築城された古代山城である。文献に記載が見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)の1つで、現在の山名を冠する城名は後世の命名による。城は高良山の山上に土塁を巡らすことによって構築され、谷部2ヶ所では石塁の水門が構築される。
遺構としては土塁基底部の列石が良好に遺存し、この列石が「神籠石」と誤称されたことに由来して「高良山神籠石」の遺跡名が定着するとともに、文献非記載の古代山城についても「神籠石系山城(神籠石式山城)」の遺跡区分名称が定着した。それと同時に、明治-昭和期に列石遺構の解釈について山城説・霊域説に大別して繰り広げられた論争、いわゆる「神籠石論争」の中心となった遺跡でもある。
城跡域は1953年(昭和28年)に国の史跡に指定されている。
●歴史
〔古代〕
高良山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、高良山城もその1つに比定される。
立地としては、山麓の筑後国府跡前身官衙・西海道・筑後川を抑える要衝になり、付近では筑後国府跡前身官衙・高良山城と同時期の水城状遺構(小水城)の上津土塁の構築も認められている。また広域的には、筑紫平野の古代山城として北に阿志岐山城・基肄城・大野城、東に杷木城、南に女山城、西に帯隈山城を望む。
築城時期については、『日本書紀』斉明天皇4年(658年)条に見える「繕修城柵断塞山川」を神籠石系山城の築城・改築記事とする説があるが、同記事は百済国内の軍事的動向を示すとする説もあって詳らかでない。また高良山城では城壁の北半部が未検出であるが、これを天武天皇7年12月(679年1月)の筑紫大地震の崩壊によるとする説があり、それが正しければ679年以前の築城が示唆される。
そのほか、『続日本紀』文武天皇3年(699年)条に「令大宰府修三野、稲積二城」と見える2城の所在地が現在まで明らかでなく、通説では博多湾沿岸説や南九州説が挙げられるが、近年では三野と「耳納(みのう)」の音通から三野城を耳納山系の高良山城に比定する説も挙げられている。
高良山城に関連する古代の施設としては、山上に鎮座する高良大社が知られる。この神社は、文献上では延では「高良玉垂命神社」として式内名神大社に列している。考古学的には神宮寺の高隆寺の8世紀後半-9世紀初頭の存在が確実であるため、高良大社も奈良時代以前には成立していたものとされる。古代山城に式内社が重複する例は他にも見られ、機能喪失後の古代山城の神聖化を指摘する説もある。
〔中世から近世〕
『高良玉垂宮縁起』(鎌倉時代後期以前の成立)では、列石遺構を「八葉(はちよう)の石畳」、高良玉垂神の住まいの磐座(馬蹄石)を「神籠石」として記載する(列石遺構に関する最初の記録)。
その後は『絹本著色高良大社縁起』・『高良記』・『高良山八葉石記』でも、同様の区分・呼称による記述が見える。
江戸時代中期の『筑後志』では列石遺構が「神籠石」として記載されるようになるほか 列石遺構を「神籠石」と称する最初の記録、幕末の『筑後国郡誌』でも列石遺構を「神籠石」とも「八葉石」ともいうとし、名称に混乱が生じている。
〔近代以降〕
近代以降については次の通り。
・1898年(明治31年)、小林庄次郎が高良山の列石遺構について、霊域を示すものと解釈して「神籠石」の名称で学会に最初に紹介。
・1900年(明治33年)、八木奘三郎が列石遺構の解釈について山城説を提唱。
以降、列石遺構を巡り霊域説(坪井正五郎・喜田貞吉ら)・山城説(八木奘三郎・関野貞・
谷井済一ら)に分かれて論争の展開(神籠石論争)。
1963年(昭和38年)のおつぼ山城(おつぼ山神籠石)、1964年(昭和39年)の帯隈山城
(帯隈山神籠石)の発掘調査結果から、神籠石論争は最終的に山城説で決着。
・1953年(昭和28年)11月14日、「高良山神籠石」として国の史跡に指定。
・1976年(昭和51年)12月25日、史跡範囲の追加指定。
・1989年(平成元年)10月9日、史跡範囲の追加指定。
・2009年(平成21年)、福岡県久留米市で第4回神籠石サミットの開催。
●詳細説明(引用:国指定文化財等データベース)
高良山の山腹に存する。2箇所の溪谷を繞って巨大な切石が竝列し、その全長約1550mに達する。列石の東部は高良神社々殿の背後にあり、それより鷲尾嶽附近に至って南面し極楽寺跡より里道に接し勢至堂跡を経、更に西面して降り小沢に臨み県道を越えて虚空蔵堂跡の附近に至って終っている。水門はもと2箇所に存したが、字北谷のものは既に破壞せられ、字神篭石の溪谷にはその跡を存している。わが国上代の遺跡として学術的価値が深い。
現在史跡に指定されている部分は、高良山神籠石の南半分である。北側には、若干の既指定地があるが全体の指定を欠いていて開発で破壊されるおそれがあるので、この北半分の部分と西側の一部を追加指定し、全体の保存を図るものである。
本史跡は、昭和28年11月14日の指定であるが、既指定地は、列石線の左右約5メートル幅の帯状地であり、列石の保護に支障をきたすことが多いため、列石の確認されている部分について、これに接する土地を面的に追加指定し、保存に万全を期すものである。
引用:「失われた日本」古田武彦著(原書房1998)より抜粋
九州王朝の存在に対する、無二の物証がある。大宰府を中心として、北部九州(福岡県・佐賀県・大分県)から中国地方(山口県)へと分布する「神籠石」(こうごいし)と呼ばれる一大山城群である。
かって ” 霊域か山城か ” という論争が行われていたが、佐賀県による帯隈山(おぶくま)、おつぼ山等の神籠石の発掘、調査によって、それらが「山城の木柵の礎石」であることが判明した。6~7世紀の間の建物である。すべて ” 画一的な工法 ” に基づいていることも、判明した。しかし山城内から弥生時代の銅戈が出土している例(女山)(ぞやま)からも、古くからの霊域に、新たな「山城」が造られたケースのあることも、当然考えうるであろう。
またこれと関連するものとして、朝鮮式山城(朝鮮半島の新羅・高句麗などと共通の様式の山城)もまた北部九州(長崎県・福岡県・熊本県)に点在する。
問題は、次の2点だ。
第1、中心域はどこか。
第2、仮想敵はどこか。
右(上)につき、
第1に対する回答は容易だ。先にも述べたように「太宰府の地」である。決して「近江」(滋賀県)や「大和」(奈良県)や「河内」(大阪府)といった、近畿ではない。これは地形上、自明である。
第2、この「一大山城群」は、” はりねずみ ” のように「太宰府の地」を ” 四囲 ” から守る形となっている。中でも、対馬(長崎県)の金田城が朝鮮海峡の真ん中におかれていることからも判明するように、「北」すなわち朝鮮半島側からの来襲にそなえていることが明白だ。
新羅が唐側と呼応して、南の倭国に対して圧力を加えつつあった形勢と対応しよう(「任那日本府」の滅亡は「562年」であった、と日本書紀は伝えている。)
ところが一方、注目すべきは ” 東方への警戒 ” である。山口県の石城山神籠石(熊毛郡大和町)がその最東端にあたる。すなわち、先に述べた「継体と磐井との決裂」以後、かっての「分派」であった、近畿分流王朝(天皇家)側に対する「警戒」の姿勢も、十分にうかがえるのである。
他にも、西方(長崎県)や南方(熊本県)、そして有明海北岸(佐賀県)に対する「警戒」も見られる。先の吉野ケ里のケースにも見られた、中国の江南からの来襲に備えたものであろう。要するに、先にのべたように「四囲に対する、はりねずみ型の警戒網」が張りめぐらされているのである。
さらに1点、それは日本書紀において、この「6~7世紀の間」の記述の中(継体天皇から持統天皇)に、一言として、これらの「神籠石」式山城についての言及が無いことである。
現地に臨めば、一目瞭然のように、山の中腹において延々と張り巡らされた山城群は壮大である。「兵士」たちの拠点であるにとどまらず、「一般民衆」をも、非常にさいして収容すべき”広さ”を持つ。
従ってこれら「神籠石」という名の山城群の構築にさいしては、おびただしい労働力の提供と経済力の支出を、築造者側が強いられたであろうこと、一点の疑いもない。ところが、日本書紀は、これらの建造時期の「直後」といってもいい、8世紀初頭(720)において編述されたにもかかわらず、これらの「神籠石」式一大山城群に関しては、一言の言及もない。
これは何を意味するか。他にない。この一大山城群の建造者は、近畿分流王朝ではなかった。この一事である。その対極的地図が客観的に明示する通り、ここ「太宰府の地」こそ「神籠石」式の一大朝鮮式山城群の中心、その心臓部であることは疑えない。すなわち、「6~7世紀」において、倭国の首都圏はこの大宰府の地にあった。これが「物」のしめすところ、その率直な帰結である。
然るに、わが国の従来の論者は是に対し、「天皇家の命じて作らしめ給うた山城群」と称してはばかるところが無かった。
もし、唐や新羅の大船団が「倭国の首都」へと襲来するとき、もそそれが近畿であるならば、必ずその近畿を目指すであろう。あるいは、対馬海流に乗じて舞鶴湾へ、あるいは瀬戸内海を通って大阪湾へ、あるいは黒潮に乗じて紀州(和歌山県)へと襲来することであろう。それが当然の「仮想敵国」の「仮想襲来コース」だ。
とすれば、最終的に「神籠石」や「朝鮮式山城」を築いて守るべきは、当然「近畿」だ。その「近畿」をさしおいて、ただひたすら「太宰府の地」中心の、一大山城群を、莫大なる労働力とはかり知れぬ経済力を投入して作りつづけたとは。正気の沙汰とは思えない。しかも ” 肝心 ” の近畿には、それがないのだ。
「近畿天皇家一元主義」のイデオロギーに両眼をしばられて、「物を見ても、事実を見ぬ」それが明治以来の日本の学界なのである。明治維新以降の、わが国の「薩長史学」の悪弊はここに極まる。そういって過言だろうか。この悪弊を一気にはらい捨てざる限り、わが国に理性的な独創力の噴出はありえない。決してありえないのである。私はそう思う。
※古田武彦(ふるた たけひこ)(1926年 - 2015年)は、日本の思想史学者・古代史研究家。元昭和薬科大学教授。専門は親鸞等の中世思想史だが、むしろ古代史研究において著名である。
(引用:Wikipedia)
〇古墳時代
古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。
古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。
現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。
西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。日本国家の成立を考察すれば仁徳天皇は難波(なにわ:現在の大阪市)に都を定め、宮居を難波高津宮 (なにわのたかつのみや) とし、国内流通の中心である住吉津や難波津といった港湾設備も建設され、倭国のヤマト王権が拡大し王権が強化統一されていった時代と考えられる。
その後、都を飛鳥に定め、飛鳥時代に入り後に7世紀半ばに孝徳天皇の難波宮で行われた大化の改新により倭から日本という国号と共に元号の使用が始まった。
1)概要
〔古墳の変遷〕
この時代にヤマト政権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。
3世紀半ば過ぎには出現期古墳が現れると見る説が通説とされるが、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する。
3世紀の後半または4世紀前期には奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉に大阪平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。
続く5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権の確立後、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。大王の墓は特別に八角墳として築造された。
〔対外関係〕
対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出。新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される広開土王碑文などから知られる(高句麗と倭の戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)。5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。大陸から、文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器と須恵器を用いた。また、『隋書』によると、新羅や百済は、倭国は珍物が多い大国であると尊び、倭へ使い通わしているとの記述が存在する。
〔水稲耕作〕
水稲耕作については、弥生時代以来の「小区画水田」が作られ続けているが、この時代の小区画水田は、静岡県静岡市の曲金北遺跡や、群馬県高崎市の御布呂遺跡・芦田貝戸遺跡などのように、小区画が数百~数千の単位で集合して数万平方mの水田面を形成する例が全国的に見られるようになる。
また、東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになる。例えば、5世紀末から6世紀初めの岡山県岡山市の中溝遺跡例などがあり、水田の一筆の広さが150~200平方mを測る。新たな水田造成技術の導入もみられ、新田開発が行われたと推定されている。屯倉の設定にはこうした新水田造成技術を導入して行われたとする見解がある。
〔墓の階層化と被葬者の特徴〕
古墳時代になると、王族や貴族の大型古墳、地方豪族の古墳、横穴墓などの集合墓、あるいは円筒埴輪棺など死者を埋葬する墓における階層化が目を見張るようになり、それに伴い被葬者の間で身体特徴の違いが見られるようになる。
一番わかりやすい身長で比較すると、大型古墳の被葬者は一般に高身長でときに170cm近くにも及ぶ被葬者がいた。各地豪族墓の男性被葬者の平均は160cmぐらいであり、横穴墓に埋葬された者はそれを下回り、158cmほどである。
古墳時代の人骨の一番の特徴は縄文人や弥生人の骨格で見られた骨太さ・頑丈さが目立たなくなったことである。この傾向は、大型古墳の被葬者などで非常に顕著であり、横穴墓や円筒埴輪棺などの常民墓の埋葬者ではさほどでもなく、縄文人、弥生人と大型古墳の被葬者との中間である。
顔立ちについては縄文人で一般的であった鉗子状咬合は全体の70%ほどで見られるが、大型古墳の被葬者では、のちの日本人で一般的な鋏状咬合が多くなる。また、下顎のエラの部分の前ほどにある凹み(角前切痕)が多くみられるようになる。さらに、顎の先が細く尖り気味の下顎骨を持つ者や第3臼歯が萌出しない者の割合が多くなる。これらの下顎骨の骨細化や退縮減少に伴う顔面骨の変化は、生活様式の変化、特に食物の硬さが減じたことに起因する。また階層により生活レベルの違いが大きくなり、階層性が目立つようになったと考えられる。
2)時期区分
2.1)古墳時代出現期
3世紀半ば過ぎには、出現期古墳が現れる。前方部が撥形に開いているもので、濠が認められていないものがある。中には、自然の山を利用しているものもあり、最古級の古墳に多いと言われている。埴輪が確認されていないのが特徴である。葺石なども造り方が定まっていないようにも思われる。また、魏志倭人伝を根拠に、248年頃に死亡したとされる卑弥呼の墓が円墳だったとする説があるが、墓そのものが特定されていない。
〇この時期の主な古墳
*福岡県京都郡苅田町、石塚山古墳(邪馬台国九州説の一説では、女王卑弥呼の墓と目され、最古級の前方後円墳。造営当初は130メートル以上か。築造時に墳丘に複合口縁壺が樹立されていたと推定されている。)
*大分県宇佐市、川部・高森古墳群の赤塚古墳(57.5m、周囲には幅8.5 - 11mの空濠が巡る)
*奈良県桜井市太田字石塚、纒向石塚古墳(96m、後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。葺石および埴輪は用いられていない)
*京都府木津川市山城町、椿井大塚山古墳(推定175m、自然の山を利用している)
*奈良県天理市柳本町、黒塚古墳(130m、撥形であることが分かる。また周濠を持っている)
*静岡県沼津市東熊堂、高尾山古墳(62m、前方部と後方部の長さがほぼ同じで、周濠を持つ。葺石および埴輪は用いられていない)
2.2)古墳時代前期
3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。
それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。また、福岡県の沖ノ島ではヤマト王権による国家祭祀が始まった時期とされる。
〇この時期の主な王墓
*奈良県桜井市、箸墓古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280mの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
*奈良県天理市、大和古墳群の西殿塚古墳(219m)
*奈良県天理市、柳本古墳群の行燈山古墳(242m、伝崇神陵)
*奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山古墳(伝景行陵、310m)
〇この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
*奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳(280m)
*奈良県桜井市、メスリ山古墳(240m)
〇主な首長墓
*山梨県甲府市、甲斐銚子塚古墳(168m)
*岡山市、神宮寺山古墳(約150m)
*東広島市 三ツ城古墳
2.3)古墳時代中期
5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化した人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓が造られ始め、また、装飾古墳が出現し出した。
〇畿内の盟主墓
*大阪府堺市 大仙古墳(伝仁徳天皇陵、525m)
*大阪府羽曳野市 誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵、420m)
*大阪府堺市 上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365m)
〇一部の地域首長古墳が巨大化
*岡山市 造山古墳(360m)
*岡山県総社市 作山古墳(270m)
*群馬県太田市 太田天神山古墳(210m、濠を入れると約320m)
2.4)古墳時代後期
6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
〇古墳時代後期の大王陵
*今城塚古墳(大阪府高槻市、真の継体陵、墳丘長190m)
*河内大塚山古墳(大阪市松原市、墳丘長mメートル)
〇前方後円墳最終段階の大王陵
*見瀬丸山古墳(欽明陵と推定される、全長318m、奈良県橿原市)
*太子西山古墳(伝敏達天皇陵、全長100m未満、大王陵最後の前方後円墳)
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪が畿内で衰退したことで、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。
2.5)古墳時代終末期
全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、方墳や円墳、八角墳がもっぱら築造されるようになる。この時期の古墳を終末期古墳という。646年の薄葬令で古墳時代が事実上終わりを告げた後も、東北地方や北海道では墳丘墓の築造が続き末期古墳と呼ばれるが、末期古墳が古墳であるかどうかについては議論が分かれる。
〇終末期の古墳の代表的なもの
*大堤権現塚古墳(千葉県山武市大堤古墳群、終末期最大の前方後円墳、三重の周溝を含み全長174m)
*浅間山古墳(千葉県印旛郡栄町龍角寺古墳群、最後の前方後円墳、全長93m)
*龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町龍角寺古墳群、終末期最大の方墳、78×78m)
*春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現用明天皇陵、63×60mの方墳)
*駄ノ塚古墳(千葉県山武市板附古墳群、62×62mの方墳)
*山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現推古天皇陵、63×56mの方墳)
*総社愛宕山古墳(群馬県前橋市総社町、総社古墳群、一辺55mの方墳)
*宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町、総社古墳群、54×49mの方墳)
*石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村島庄、蘇我馬子の墓と推測、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)
*八幡山古墳(埼玉県行田市藤原町、若小玉古墳群、径66mの円墳)
*山室姫塚古墳(千葉県山武市松尾町山室、大塚古墳群、径66mの円墳)
*壬生車塚古墳(栃木県下都賀郡壬生町壬生、車塚古墳群、径62mの円墳)
*牧野古墳(奈良県北葛城郡広陵町、押坂彦人大兄皇子の墓である可能性が高い、径43mの円墳)
*ムネサカ1号墳(奈良県桜井市、中臣氏一族、径45mの円墳)
*峯塚古墳(奈良県天理市、物部氏一族、径35mの円墳)
*高松塚古墳
*キトラ古墳
3)地域国家から古代国家へ
3.1)初期ヤマト王権
弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことがわかっている。3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。いずれにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。ただしヤマト王権と邪馬台国は全くの別勢力と見なす説もある。
成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権など列島各地の勢力と連合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もある。
ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが(→ 弥生時代の墓制を参照)、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされる。
ヤマト王権は、ヤマト地方(畿内)を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。ヤマト王権は倭国を代表する政治勢力へと成長すると、支配拡大の過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不明である。
3.2)倭の五王の時代
中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半も経って、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。
これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。武については、中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。
埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘からその治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。
4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。6世紀には、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱われている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆している。
3.3)古代国家の成立
安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 - 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。
宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増すと、崇峻朝(587年 - 592年)では蘇我氏が大臣一人で政権の中枢を握った。崇峻天皇は592年、蘇我馬子の手筈により暗殺される。稲目・馬子・蝦夷・入鹿と蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代が645年(皇極天皇4年)の乙巳の変までの約半世紀間続いた。
欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝では仏教の伝来が538年に百済からあった。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事が分かっている。仏教伝来については、仏教受け入れ派の蘇我氏と反対派の物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わる。
4)国際関係
4.1)朝鮮との関係
4世紀以降、朝鮮半島で鉄資源の供給地としてのいわゆる任那地域などに進出したことが、広開土王碑文(西暦414年に建てたとされる)などからも知られる。
また『三国史記』(西暦1143年執筆開始、1145年完成)は、3世紀以前の記述は信用性に疑問があるものの、「空白の4世紀」について朝鮮半島との関係が書かれた数少ない史料である。
4世紀末頃まで隆盛だった朝鮮半島南部洛東江流域の日本列島勢力が高句麗勢力の南下の影響を受けて後退し始め、代わりに5世紀以降朝鮮半島南西部栄山江流域の日本列島勢力が隆盛となり(韓国『金海市』公式サイト「伽耶史の概観」)、近年は栄山江流域周辺で前方後円墳が多数発見されている。(姜仁求1983)
※詳細は「倭・倭人関連の朝鮮文献」を参照
4.2)中国との関係
この時代において、中国の華北には五胡十六国(316年 - 439年)が興亡したのち、北魏・東魏・西魏・北斉・北周と続く北朝の時代となるが、これらの諸国家と倭国との外交や交易などについての史料は知られていない。
南朝との関係では、倭の五王と冊封関係にあったことが知られている。
※詳細は「倭・倭人関連の中国文献」を参照
(引用:Wikipedia)
〇参考Webサイト:熊本県立装飾古墳館
1)装飾古墳の概要
装飾古墳(そうしょくこふん)は、日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。
〔分布〕
装飾古墳は、日本全国に約600基があり、その半数以上に当たる約340基が九州地方に、約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。
〔装飾の変遷〕
古墳時代初期から装飾が施されていた。初期には刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)の側面や蓋の上に、中期には組み合わせ式長持ち石棺の蓋の上面、家形石棺の蓋および棺の内側や外側、箱形石棺にも、そして、5世紀前半頃には横穴式石室にも彫刻や彩色の方法で装飾が施され、さらには石室内全体にまで及んだ。
〔装飾方法〕
装飾方法は、浮き彫り、線刻、彩色の3手法があり、浮き彫りや線刻に彩色するなどの併用手法を用いている。最初期の装飾手法は、彫刻が主流であり、線刻は一部で用いられ、浮き彫りが多く、彩色は赤色顔料だけである。
5世紀ごろになると彫刻されたものに赤色以外の色が使用されるようになる。6世紀になると浮き彫りを基調とする彫刻がなくなり、基本的には彩色だけで文様が描かれるようになり、石室の壁全体に図柄が描かれるようになる。7世紀末から8世紀初めの奈良県高松塚古墳やキトラ古墳は、装飾古墳とは系統を異にするもので壁画古墳と呼び分けている。
〔文様〕
装飾古墳に描かれた文様には幾何学的・抽象的な直弧文(ちょっこもん)・蕨手文(わらびてもん)・鍵手文(かぎのてもん)・円文・同心円文・連続三角文・菱形文・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・区画文などがあるが、何を表しているのか分からない文である。次に、具象的な図柄では盾・靱(ゆぎ)・甲冑・刀・船などの武器・武具・その他の器物や人物・馬・鳥・蟾蜍(ひきがえる)・朱雀などである。人物や鳥獣には大陸文化の影響が認められる。
2)築造時期
4世紀 - 7世紀頃に造られ、古墳時代の中では後期に位置する。
3)装飾古墳の分布
装飾古墳は、全国にありますが、九州地方は特に多く、壁画の文様が複雑なものが多くあります。さらに、装飾がきれいなものも多く残されています。
九州地方の中では、福岡県は墳丘を持つ古墳の彩色壁画が多く、熊本県や大分県は墳丘を持つ古墳と横穴墓の線刻壁画も多くあるのが特徴です。長崎県や宮崎県になると線刻の壁画が多くなります。九州の中でも、福岡県の筑後川流域、熊本県の山鹿地域は、装飾古墳がたくさん残っている地域です。(文出典:九州国立博物館「装飾古墳データベース」)
装飾古墳の分布(九州) 装飾古墳の分布(全国)
(文出典:九州国立博物館「装飾古墳データベース」)
4)主な装飾古墳
主なものだけを挙げる。太字のものは国の史跡。
※参考Webサイト:全国装飾古墳リスト
〇東北
*山畑横穴群:宮城県大崎市 - 横穴(彩色)
*泉崎横穴:福島県西白河郡泉崎村 - 横穴(彩色)
*清戸迫横穴:福島県双葉郡双葉町 - 横穴(彩色)
*中田横穴:福島県いわき市 - 横穴(彩色)
*羽山横穴:福島県南相馬市 - 横穴(彩色)
〇関東
*虎塚古墳:茨城県ひたちなか市 - 前方後円墳(彩色)
*吉田古墳:茨城県水戸市 - 八角墳(線刻)
*長柄横穴群:千葉県長生郡長柄町 - 横穴(線刻)
*地蔵塚古墳:埼玉県行田市 - 方墳(線刻)
*馬絹古墳:神奈川県川崎市 - 円墳(彩色)
〇近畿
*高井田横穴墓群:大阪府柏原市 - 横穴(線刻)
〇中国
*千足古墳:岡山県岡山市 - 帆立貝形古墳(浮き彫り)
*梶山古墳:鳥取県鳥取市 - 変型八角墳(彩色)
〇四国
*宮が尾古墳:香川県善通寺市 - 円墳(線刻)
〇九州
*田代太田古墳:佐賀県鳥栖市 - 円墳(彩色)
*石人山古墳:福岡県八女郡広川町 - 前方後円墳(浮き彫り)
*弘化谷古墳:福岡県八女郡広川町 - 円墳(彩色)
*乗場古墳:福岡県八女市 - 前方後円墳(彩色)
*丸山塚古墳:福岡県八女市 - 円墳(彩色)
*日輪寺古墳:福岡県久留米市 - 前方後円墳(浮き彫り)
*下馬場古墳:福岡県久留米市 - 円墳(彩色)
*浦山古墳:福岡県久留米市 - 帆立貝形古墳(線刻)
*珍敷塚古墳:福岡県うきは市 - 円墳(彩色)
*日岡古墳:福岡県うきは市 - 前方後円墳(彩色)
*重定古墳:福岡県うきは市 - 前方後円墳(彩色)
*王塚古墳:福岡県嘉穂郡桂川町 - 前方後円墳(彩色)
*桜京古墳:福岡県宗像市 - 前方後円墳(彩色)
*竹原古墳:福岡県宮若市 - 円墳(彩色)
*五郎山古墳:福岡県筑紫野市 - 円墳(彩色)
*双六古墳:長崎県壱岐市 - 前方後円墳(線刻)
*鬼ノ岩屋古墳:大分県別府市 - 円墳(彩色)
*穴観音古墳:大分県日田市 - 円墳(彩色)
*ガランドヤ古墳:大分県日田市 - 円墳(彩色)
*千代丸古墳:大分県大分市 - 円墳(線刻)
*鬼ヶ城古墳:大分県玖珠郡玖珠町 - 円墳(線刻)
*鬼塚古墳:大分県国東市 - 円墳(線刻)
*チブサン古墳:熊本県山鹿市 - 前方後円墳(彩色)
*弁慶ヶ穴古墳:熊本県山鹿市 - 円墳(前方後円墳説もある)(彩色)
*鍋田横穴群:熊本県山鹿市 - 横穴(浮き彫り)
*石貫ナギノ横穴群:熊本県玉名市 - 横穴(線刻・彩色)
*石貫穴観音横穴群:熊本県玉名市 - 横穴(浮き彫り・彩色)
*大坊古墳:熊本県玉名市 - 前方後円墳(彩色)
*永安寺東古墳・西古墳:熊本県玉名市 - 円墳(彩色)
*塚坊主古墳:熊本県玉名郡和水町 - 前方後円墳(彩色)
*釜尾古墳:熊本県熊本市 - 円墳(彩色)
*千金甲古墳1号墳・3号墳:熊本県熊本市 - 円墳(浮き彫り・彩色)
*井寺古墳:熊本県嘉島町 - 円墳(線刻・彩色)
*小田良古墳:熊本県宇城市 - 墳形不明(線刻・彩色)
*大村横穴群:熊本県人吉市 - 横穴(浮き彫り)
王塚古墳 チブサン古墳
写真出典:九州国立博物館「装飾古墳データベース」
珍敷塚古墳(壁画)
写真出典:福岡県うきは市観光協会
(引用:#東京国立博物館/考古/装飾古墳/装飾古墳入門)
〇講師 東京国立博物館 学芸研究部 調査研究課長 河野一隆氏
https://www.youtube.com/hashtag/東京国立博物館から引用しました。
第1回「装飾古墳が誕生したのは筑紫君磐井の乱に負けたからなのか?」(2020/08/31)
1)装飾古墳とは
1.1)装飾の種類
〇彩色壁画
*チブサン古墳(熊本県山鹿市)
*井寺古墳(熊本県嘉島町)今から1000年も昔に描かれた絵ですが、大変細かいデザイン。
*竹原古墳(福岡県宮若市)大きな石の部屋の一番奥の壁に絵が描かれている。
〇彫刻
*石人山古墳(福岡県広川町)石の棺の外側に幾何学文様をレリーフにしたもの
*長岩横穴群(熊本県山鹿市)敵が来た時に敵を防ぐための楯を彫刻したもの
*釜尾古墳(熊本県熊本市)幾何学文様を表した装飾古墳
*五郎山古墳(福岡県筑紫野市)古代人の物語を描いたような装飾古墳
1.2)分布
*九州北部から中部にかけての地域
*関東の北部から東北の南部にかけての地域
*山陰の地域
2)磐井君磐井の乱とは
2.1)乱の概要
(いつ)磐井の乱527年~528年
(だれが)継体大王(大和)VS筑紫君磐井(+九州豪族連合軍)
(どこで)九州北・中部
(なにを)激動の東アジア情勢を背景とした戦争
(どうした)乱後に継体大王による地域支配が一段とすすむ
・朝鮮半島:新羅・百済・伽耶を巻き込んだ国際紛争が九州の北部を舞台として起こった。
2.2)日本書紀と筑後国風土記が語る筑紫君磐井乱
●日本書紀の場合
・磐井は国造の立場でありながら新羅から賄賂をもらって朝鮮半島に兵を送ろうとする大王軍を妨害した。
・このため継体大王は将軍を派遣して磐井を打ちとった。
・息子の葛子は領地を献上して赦しを願い出た。
●筑後国風土記(逸文)の場合
・急に大王軍が攻めてきた。
・磐井は形勢不利なことを知り大分県方面へ逃亡、山中で亡くなった。
・大王の軍勢は怒りにまかせて生前に磐井が築いていた墓にたてられていた石人や石馬の手足をたたき壊した。
3)考古資料からの通説と反証
●石人とは
*重要文化財 石人(せきじん)(古墳時代・6世紀 福岡県八女市 岩戸山古墳出土)
3.1)磐井の乱と装飾古墳における通説
通説①:九州北中部には磐井の乱以前から石人などの石製品を立てる風習があった。
通説②:磐井の乱後 石製品を立てるという九州独自の風習が大和によって禁止された。
通説③:独自の文化を否定された九州の人々は外から見えない石室の中に物語風の画題を描くようになった。
3.2)通説に対する反証
反証①:石人や石馬と装飾壁画は共存する例がある(例:チブサン古墳など)
反証②:磐井の乱後にも石人が立てられている(例:福岡県鶴見山古墳・・・磐井の息子・葛子の墓とされる)
反証③:磐井の墓(福岡県岩戸山古墳)と継体の墓(今城塚古墳)とは古墳の形が相似 副葬品も共通している可能性がある
反証④:磐井の乱後も九州から石棺が継体大王や大王家の近親者に送られていた
4)結論
Q:装飾古墳が誕生したのは筑紫君磐井の乱に負けたからなのか?
A:大王家は九州独自の古墳文化を否定していない。装飾古墳も大和へのレジスタンスを表現した芸術ではない。
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第2回「装飾古墳が近畿に少ないのはローカルな文化だからなのか?」
1)古墳装飾は誰のためのものなのか
竹原古墳(引用:福岡県宮若町HP)
仮説①:装飾は入口から見るためのもの⇒葬送儀礼に参加した人が見るための装飾である。
仮説②:装飾文様で飾られた死者を見ることになる⇒装飾古墳は「飾られた死者」を演出する空間である。
2)古墳時代の埋葬施設
2.1)竪穴式石室
棺を埋めたあと天井石をかけたら再利用できない。
2.2)横穴式石室
「飾られた死者」と「隠された死者」
〇九州の横穴式石室・・・黄泉の国
*入口から見えるように使者を配置
*装飾を施し「飾られた死者」として演出する空間
一番奥に棺が置かれ、奥の壁に壁画が描かれている。一枚岩の閉塞石、閉塞石を外すと装飾が見れる。
〇近畿の横穴式石室
*入口から見えないように使者を配置
*「隠された死者」を収納する空間
石室の側面に棺が置かれ閉塞石を外しても棺が見れないようになっている。
3)平成館考古展示室の「装飾古墳」
*石障(せきしょう)(古墳時代・6世紀 熊本県八代市 田川氏寄贈)
3.1)黄泉国神話
〇黄泉国神話のあらすじ
・日本列島の神々を生んだイザナギとイザナキ
・妻のイザナミは火の神を生んで死亡
・夫のイザナギは死者の国である黄泉国を訪ねイザナミと再会する
・いざなぎはイザナミを連れて帰ろうとするが、いざなみは黄泉国の食事をとったため現世に戻ることができない。イザナミは黄泉国の神に相談するあいだ自分の姿を見てはならないと伝える。
・イザナギが見たものは体が腐敗したイザナミの姿であった。
・イザナミは鬼と仮してイザナギを追う。
⇒ イザナギは現世に戻るが黄泉国との境に岩を立てて生と死の国の境を遮断する
・現世に戻った後、イザナギは死の穢れをおとすため禊を行う。
3.2)黄泉国と副葬品
*黄泉国の炊飯具(古墳時代・6世紀 奈良県葛城市出土)ミニュチュア炊飯具、須恵器
4)横穴式石室は何時普及したのか
4.1)横穴式石室は継体大王の時代に普及
*九州とは異なり近畿式の横穴式石室は死者を穢れたものとする黄泉国神話にもとづく死生観により生み出された
4.2)なぜ継体大王は黄泉国神話を広めたのか
・POINT①:継体大王は大王が空位となった時に現在の福井県三国で大王の血筋を受け継ぐ人物として起用された(※継体天皇の出自等には諸説あります)。
・POINT②:しかしその出自から政権中枢の豪族たちからは冷遇され約20年大和に入ることができなかった。
・POINT③:現世の大王の権威を高めるために亡くなった豪族たちの系譜の中心に大王を位置づけて再編することを発案した。
*その中で出てきたのが生者と死者とを断絶を強調する黄泉国神話
⇒ 死者を隠す構造の近畿式の横穴石室が普及した
5)結論
A:近畿には装飾古墳が少ない理由は、死を穢れたものとする死生観を継体天皇が普及させたため
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第3回「装飾古墳が九州に多いのは中国に近いからなのか?」(2020/11/11)
1)高松塚古墳やキトラ古墳は装飾古墳なのか
・POINT:装飾古墳とは埋葬施設に絵がかいてある古墳のこと。
・POINT:高松塚古墳とキトラ古墳・・・壁画古墳や装飾古墳とは区別されている
2)装飾古墳と壁画古墳の違い
・時代:装飾古墳:4世紀に登場、7世紀後半に消滅
壁画古墳:7世紀末~8世紀に登場
・分布:装飾古墳:近畿に少ない
壁画古墳:近畿にしかない
・顔料:装飾古墳:緑は緑土
壁画古墳:緑は孔雀石(マラカイト)、古代寺院の仏教壁画と共通
・人物像:装飾古墳:中国や高句麗の人物壁画とは異なる
壁画古墳:中国や高句麗の人物壁画と共通
⇒装飾古墳と壁画古墳は絵を描くときのルールが違う
3)絵を描くときのルール
・実験①:4本足の動物・・・右利きの人は左を向く(頭の方から描く)
・実験②:鳥・・・側面を描く(認知しやすいものの組み合わせ)
◇もしも〇〇人が高松塚古墳の「飛鳥美人」を描いたら、
*もしもエジプト人が描いたら
・顔は横顔で上半身は側面で表す
・描かれた人の身分の上下によって描く大きさを変える
*もしも九州の人が描いたら
・顔及び上半身を正面で描く
・1人1人は別々に描き重なりを表さない
・色は塗分けはせず単色で影絵状に表現する
⇒ 人は絵を描くときルールから逃れられない
◇装飾古墳の絵は稚拙な絵なのか
・装飾古墳の絵の複雑なデザインをみると技術の差ではなく、絵を描くルールが飛鳥の壁画古墳とは違うと考えるべき
4)結論
A:装飾古墳が中国の影響で登場したのなら高松塚古墳の「飛鳥美人」のような絵になっていたはず。
しかし、九州装飾古墳と飛鳥の壁画古墳は「絵を描くルール」が全く異なる、よって中国に近いから多いのではない
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第4回「装飾古墳は洞窟絵画と関係があるのか?」(2020/11/27)
1)装飾古墳と洞窟絵画はどのように描かれたか
〇 装飾古墳
*松明の光では赤と緑の塗り分け我出来ない
・・・天井石をかけたあとに松明を灯して描いたのではなく明るい太陽光の下で描かれた
*石室内の壁画の見え方を精密に計算して描かれた
〇 洞窟絵画
*洞窟の暗闇の中で火を灯しながら描いた
*アルタミラ洞窟(スペイン)・ラスコー洞窟(フランス)
・約2万年前(旧石器時代)にクロマニヨン人によって壁画が描かれる
・優れた観察眼より非常に写実的な表現で動物を描く
〇 装飾古墳と洞窟絵画の環境
⇒ 絵が描かれるときの環境が全く異なる
2)洞窟壁画(アルタミラ洞窟(スペイン)・ラスコー洞窟(フランス))
*約2万年前(旧石器時代)にクロマニヨン人によって壁画が描かれる
*優れた観察眼により非常に写実的な表現で動物を描く
・偶蹄類・・・牛 ひずめの先端が2つに分かれている
・奇蹄類・・・馬 ひずめが解れていない
3)古墳時代の人の観察眼
●いのししの埴輪・・・偶蹄類・・・馬のひずめと同じ奇蹄類になっている
*洞窟壁画・・・偶蹄類の表現になっている
*古墳時代・・・奇蹄類の表現になっている
●洞窟壁画の特徴
*動物を写実的に描く・・・ラスコー洞窟(フランス)では偶蹄類(牛)と奇蹄類(馬)を描き分けている
*絵の具の濃淡で立体感を表現する・・・ショーヴェ洞窟(フランス)では水墨画のような表現が使われている。
*重なりで前後を表現する・・・遠近法が使われている
*人物は写実的でなく抽象的に表現する・・・ラスコー洞窟に描かれた唯一の人物は頭が鳥の形をしている
⇒クロマニヨン人にも絵を描くルールがある
4)展開の様子
●洞窟絵画の展開~拡散する洞窟絵画~(手形の文様の展開)
*共通する絵の記号が広範囲で確認されている
例:スペイン・インドネシア・チリなどで確認
●装飾古墳の展開~収斂する装飾古墳~
*エジプト・中国・マヤといった文明の中心からの伝播により成立した系統
*文明とは関係なく海洋ルート(地中海・東アジア沿岸)で伝播し点在する系統
⇒ 装飾古墳は特定の地域(4つの系統)にまとまって分布している
5)結論
A:装飾古墳と洞窟古墳は描かれた環境や展開していく過程が異なるので関係があるとはいえない
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装飾古墳入門のおわりに(総括)
装飾古墳や洞窟絵画は人類史における貴重な遺産であるため未来へ守り伝えていく必要がある。
(引用:野洲川下流域の弥生遺跡)
〇参考Webサイト:野洲川下流域の弥生遺跡(NPO法人 守山弥生遺跡研究会)
1⃣ 銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(1)
~弥生の祭祀から見えてくる政治統合と近畿政権の誕生
野洲川下流域を離れて当時の列島内国々の様子を見てみましょう。
中国の古書によれば、小さな国々に分かれて争っていたようですが、弥生後期になるとそれぞれ共通した祭器を用いて、祭祀を軸にした大きなブロックとしてまとまっていたようです。北九州、中国、近畿、東海などではやがて大きな地域政権となっていきました。
(1)弥生中期の青銅器祭祀(下之郷遺跡の時代)
弥生時代中期、小さな集落群が拠点集落を中心としてまとまっていたようです。中期後半には、古代中国の歴史書『漢書』地理志に、「この頃、倭国、分かれて百余国・・」と書かれているように、日本列島各地には小さな国が多く成立していました。
当時の倭国の国々はそれぞれの地域で独自の祭りを行っていたようですが、朝鮮半島からの影響もあり、青銅器で祭祀の道具を作り農耕にかかわるまつりごとを行っていました。そのような青銅祭器の分布を示します。
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
祭祀を大きく分けてみると、武器型祭器と銅鐸祭器に2分されます。北九州から中国、四国にかけては武器型の祭器が用いられ、中国、四国、近畿、東海では銅鐸が祭器として使われていました。武器型祭器も地域によって形状が異なっており、地域性が見られます。銅鐸も10系統以上の形式に分かれでいました。
かっては、銅矛・銅剣文化圏と銅鐸文化圏と対峙したような見方もありましたが、出雲の荒神谷遺跡や摂津(神戸市)の桜ケ丘遺跡では、銅鐸と武器型青銅器が一緒に埋納された状態で発見されています。銅矛・銅剣祭祀と銅鐸祭祀の両方が行われていたようです。
また、北九州でも数は少ないものの、銅鐸の鋳型や銅鐸自体も見つかっており、銅鐸祭祀が行われていたようです。また、野洲川下流域でも銅鐸だけでなく銅剣が見つかっています。両者とも量としてはそれほど多くはありませんが、異なる祭祀も容認していたようです。
図からわかることは、100余国に分かれていても、青銅器祭祀に関してはいくつかのブロックにまとまっていたことです。銅鐸の詳しい解説は省略しますが、この時期の銅鐸祭祀は、銅鐸を鳴らして音を聞く「聞く銅鐸」の祭祀です。弥生後期の「見る銅鐸」に比べると、銅鐸は小ぶりで、いろいろな種類のものが造られていました。
(2)弥生後期の祭祀のシンボル(伊勢遺跡の時代)
弥生時代後期は、『魏志倭人伝』に記されているように、倭国に属する30余の国が分立していた時期です。 しかし、中期末の社会変動により、次第に武器型祭祀や銅鐸祭祀を続けている地域と、青銅器祭祀を止めて、墳墓をシンボルとしてまとまっていくより大きなブロックが現れます。
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
山陰地方は銅鐸や銅剣の祭祀から四隅突出型墳丘墓をシンボルとした祭祀に変わります。瀬戸内地方は双方中円墳をシンボルとした祭祀に移ります。銅鐸祭祀を続ける四国・近畿・東海も、「聞く銅鐸」から大きくて華麗な「見る銅鐸」へと祭祀のやり方が変わります。その「見る銅鐸」の形式も「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」へと集約されていきます。
弥生後期には、30余の国々は、祭祀の統合を通じてより大きなブロックにまとまっていたことが判ります。
銅矛・銅剣祭祀を続ける北九州は、やがて大型広幅銅矛に統一されていきますが、それらは墓の副葬品ではなく、クニの祭祀に使用されるようになります。その一方で、豪華な装飾金具や大型中国鏡、鉄製武具を多数副葬する王墓が継続的に出現しており、ここに一大勢力(ツクシ政権)があったことが判ります。
九州に比べ、中国文明の到達が遅れていた近畿地方も、北九州との交流が進み、大陸系文物が急速に搬入され、原初的な集落構成から政治勢力の総合が進みます。
詳しくは後述しますが、地域政治勢力としては近畿地方の近畿政権と東海地方のオハリ(尾張)政権にまとまっていきます。瀬戸内地方では、キビ(吉備)政権が地域政権として巨大な墳丘墓を築き「特殊器台」、「特殊壷」を副葬します。山陰地方では四隅が突出した巨大な墳丘墓を築くイズモ(出雲)政権としてまとまります。
このように相争った30国も祭祀を共通する大きな地域政権にまとまって行きました。ここで大切なのは、武力による制圧ではなく、祭祀(宗教と言っていいか)を通じた統合であったことです。
(3)銅鐸の変遷から見えてくる政治統合
次に、祭祀を通じて国々がまとまっていく過程を、もう少し詳しく見てみます。
奈良文化財研究所の難波洋三さんがまとめられた「銅鐸群の変遷」は、瀬戸内、近畿、東海に広がる銅鐸文化圏の銅鐸の様式の変遷を示すものですが、銅鐸製作工人をかかえる首長の動向をしめすもので、それは政治統合の流れを示すものでもあると考えます。
銅鐸の変遷の解釈についていはいろいろな見方がありますが、以下、難波さんの説に依っています。
(3.1)見る銅鐸の第1次統合
弥生時代中期の「聞く銅鐸」の祭祀は、弥生中期から後期に移る社会混乱期に大半が埋納されて終わり、一時期中断した後に弥生時代後期に「見る銅鐸」として再開されます。
この時、10系統以上の種類があった「聞く銅鐸」は整理され、5つの系統の銅鐸がそれまでの形式や装飾を引き継いで「見る銅鐸」として、より大型化、装飾化が進みます。これら5系列の銅鐸群は、地域政権の意向を受けた銅鐸製作工人が、その地で作っていたと考えられます。
銅鐸のサイズや形式、文様は工人が決めるものではなく、政権の首長が政治地政学に沿って、自分たちのシンボルあるいはブランドとして決めたと考えて良いでしょう。
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
上の図は、5つの系統の現在の呼び名と推定される製作地方を示しています。さらにこれらの形式が統合され近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2つの系統になっていきます。三遠式とは三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)地方で多く発見された銅鐸で、地名の頭文字を付けています。
(3.2)近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の統合(第2次統合)
図に示したように、近畿式銅鐸に統合されるとき、3系統の銅鐸の影響を受けています。矢印の太さが影響の度合いを示しています。すなわち、近畿式銅鐸は大福式銅鐸をベースとして、山陰・中国地方で作られた迷路派流水紋銅鐸の影響をかなり受けている、また、瀬戸内東部の横帯分割型銅鐸の影響も少し受けている・・・と、読み取れます。
また、三遠式銅鐸は2系統の影響を受けており、東海派銅鐸をベースとして、瀬戸内東部の横帯分割型銅鐸の様式をとり込んでいます。
このような銅鐸の統合は、大切な祭器の統合、言ってみれば政権のシンボルの統合であり、政治的な連携が進み、連合国家が形成された結果だと解釈されます。
このように、銅鐸の形式の変遷をとおして、政治統合の過程を読み解くことができます。
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2系統に統合された後、それぞれが大型化、装飾の華麗化が進みます。この様子を、野洲市教育委員会の進藤武さんが図解されているので引用します。
図から年と共に大型化し、装飾が豊かになっていくのが判ります。このように統合化された銅鐸が、銅鐸圏各地より出土しています。
大型化し華麗な装飾・デザインになっていくのは、祭祀を壮麗化して権威を強調するためであり、現在の高層建築や高層タワーが「世界一」を目指す動向に似ていないでしょうか?
銅鐸分布図では、銅鐸圏西部が近畿式銅鐸を採用し、東部が三遠式を採用するという構図になっています。
そうして最後に、近畿式銅鐸に統合されていきますが、その時に三遠式銅鐸のデザインを一部で取り入れています。統一された近畿式銅鐸は、東海も含む銅鐸圏で広く発見されており、政治的にもオール銅鐸圏としてまとまったようです。
このような銅鐸の統合は、大切な祭器の統合、言ってみれば政権のシンボルの統合であり、政治的な連携が進み、連合国家が形成された結果だと解釈されます。
すなわち、倭国の統合への歩みを示しています。
このように、銅鐸の形式の変遷をとおして、政治統合の過程を読み解くことができます。
(4)実は良好な関係であった近江と東海
従来、卑弥呼の晩年に、邪馬台国と狗奴国が戦争状態にあったとする「倭人伝」の記載から、近畿式銅鐸の勢力圏と三遠式銅鐸の勢力圏は対峙していたように言われていました。
しかし、土器の流れや銅鐸の文様、使われ方などを見ていると、2つの勢力圏は良好な関係を保ち、連邦的な間柄ではなかったかと思われるのです。
*弥生時代後期、近江型土器が東海に流れ込んで八王子古宮式土器が成立する
*近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の祖形である大福型銅鐸と東海派銅鐸には類似点が多い
*大岩山では、両方の銅鐸が埋納されており、近江では両方を使った祭祀が行われていた
*東海でも、近畿型銅鐸が数多く出土している
このような事例を見ていると、近江と尾張は独自の文化を持ちつつ、相互に密接な関係を維持していたと考えて差し支えないでしょう。
(5)まとめ
倭国が30の国に分かれており、後期末頃、倭国大乱があったとの文献がありますが、卑弥呼擁立の前夜頃には、祭祀を通して大きくまとまっていったと考えられます。
瀬戸内、近畿、東海に広がる銅鐸祭祀圏では、銅鐸の形状・文様の変遷から、倭国が統合されていく様子が読み取れます。
2⃣ 銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(2)
~状況証拠から見えてくる近畿政権の中核:近江~
青銅器祭祀の変遷から、小さな国々がまとまっていく様子を見てきました。
銅鐸祭祀を継続したのは近畿と東海で、近畿地方の国では、近畿政権が誕生していたと考えられます。
では、その中核となる地域はどこなのか、銅鐸の制作主体の検討や状況証拠から推測していきます。
(1)銅鐸の密度分布から判る地域政権
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
前節の「弥生時代後期の青銅器祭祀の地域性」で、銅鐸の分布範囲を示しましたが、その主力がどこであったのかを知るためには出土密度を見る必要があります。
愛媛大学の吉田広さんたちはGIS解析の手法を使って青銅器祭祀の密度分布を視覚的に分かりやすく図示しています。その中から弥生時代後期の「見る銅鐸」の密度分布図を転記します。
この図から、近畿式銅鐸は近畿東部(近江南部)に密度が高く、和歌山でも多く見られます。一方、三遠式銅鐸の密度分布は東海地方が圧倒的に高く、近畿、北陸にも密度は低いながらも広がっていることが見て取れます。
また、東海地方でも近畿式銅鐸の密度が高くなっていますが、これは三遠式銅鐸が近畿式銅鐸に統合された後の銅鐸です。このように、銅鐸の密度分布からも地域政権の所在が近畿地方と東海地方にあったことが視覚的に判ります。
近畿の勢力と東海の勢力が並び立っているように見えますが、最終的には、上にも述べたように近畿式銅鐸に統合され、銅鐸圏を広く治める近畿政権が浮かび上がってきます。
(2)銅鐸の変遷、出土状況から見えてくる製作地域
青銅祭器の分布から地域政権の誕生と範囲が見えてきて、さらに銅鐸を詳しく調べることにより、小さな地域政権が政治的統合を行って大きな地域政権になる様子がみえました。
では、その中核となる地域はどこなのかを絞り込むために、銅鐸の変遷、銅鐸や鋳型の出土状況から推測していきます。
地域政権の伸張は「発見された銅鐸の数量と分布」から考えていますが、注意を要するのは、銅鐸は集落から離れた所にまとめて埋納されるのが多いことです。青銅祭器は権威の象徴であり、その政権のシンボルであるとすると、銅鐸が出土した場所よりも、誰が製作主体であったのかということが重要になります。
ここでも、先述の難波さんの見方に準拠し、銅鐸の鋳型が見つかっているのかなどを含めて、製作地域を考えてみます。
(2.1)近畿式銅鐸のルーツとしての大福型銅鐸の製作地域
まず、近畿式銅鐸のベースとなる大福型銅鐸は出土地が判明しているのは4個で、内3個は大岩山で見つかったものです。しかも、大岩山の24個の銅鐸の中で、一番古いのがこの形式で、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」の移行期に当るものです。このようなことから、難波さんは近江の工人が造ったものではないかと推測されています。ここで、近江が製作地域として浮かび上がります。
(2.2)近畿式、三遠式の双方に影響を与えた横帯分割型銅鐸の製作地域
難波さんは、瀬戸内東部の工人集団が製作したのでは・・・と推測されています。さらに、横帯分割型銅鐸と平型銅剣の分布の重なる場所とも言われています。量的なことも考えると、この条件をよく満たすのは讃岐です。
一方で、鋳型の出土地と考慮すると、摂津が有力な製作地域になります。
(2.3)三遠式銅鐸のルーツとしての東海派銅鐸の製作地域
出土地が判っている東海派銅鐸は4個あり、1個は尾張から、3個が三河からです。東海派銅鐸の祖形は「聞く銅鐸」へさかのぼることができますが、これらは近畿以西から出土しており、製作工人たちは「見る銅鐸」の時期に東海へ移ったものと考えられます。尾張または三河の地域勢力が製作主体と考えられます
以上のように推定した銅鐸製作地域を図示します。
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
(3)拠点集落を考え合わせると見えてくる近畿政権の中核:近江南部勢力
吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡など大型建物や祭祀空間が見つかった遺跡は、その地域における拠点集落であり、政治・経済の中核的役割を担っていたと考えれれています。
したがって、銅鐸の製作主体を絞り込むためには、銅鐸が造られた時代に、その近辺にどのような拠点集落があったのか、を考える必要があります。
(3.1)近畿型銅鐸最盛期の地域勢力
弥生時代後期前半、近畿式銅鐸がどんどん大きくなり始める頃、近畿の拠点集落は解体し小さくなる中で、突如現れる巨大遺跡が伊勢遺跡です。吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡と比べても大型建物が圧倒的に多く、祭祀空間としても巨大です。
ただ、伊勢遺跡は祭祀空間であって、近江勢力の拠点であったかどうかは判りませんが、伊勢遺跡または、この周辺に近江勢力の拠点があったと考えられます。
先にも述べたように、近江型土器が全国に向けてどんどん拡散していくことからしても、この地に大きな力を持つ勢力があったことも確かです。また、先ほど、政治連携が武力ではなく、祭祀を通じてなされた・・と言いましたが、伊勢遺跡の祭祀空間がその役割を果たしたと充分考えられます。
他に大きな勢力はなく、上記ような背景から、また、大福型の後継形式を強く受け継いでいることなどを勘案して、近畿式銅鐸の製作主体は「近江南部の勢力」と推定します。
(3.2)三遠式銅鐸最盛期の地域勢力
東海地方では、三遠式の由来となっているように、三河、遠江から銅鐸が多く発見されています。
では当時、どんな遺跡が東海地方にあったのでしょうか? 尾張(名古屋市)で見つかっている巨大な朝日遺跡があります。吉野ヶ里遺跡にも匹敵する大きな拠点集落です。独自の土器文化を持っており、この地方発祥のS字甕は西は近畿へ、東は中部、関東方面に広がって見つかっています。
銅鐸の鋳型は三河、遠江からは見つかっておらず、尾張では見つかっているのです。
上記ような背景から、三遠式銅鐸の製作主体は「尾張勢力」と推定しました。
以上のように推定した銅鐸生産主体を図示します。
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
銅鐸の統合・変遷から浮かび上がる地域政権の統合は、武力ではなく、祭祀の力を使ってなされたもので、有力な候補が近江南部勢力になります。
(4)弥生後期の近江地域の力を示す状況証拠
これまで、野洲川下流域に限った遺物・遺構の紹介をしてきました。弥生後期、30余国が覇権を争っていた時代、それぞれの国の力はどうだったのか、野洲川下流域の集落は、他の地域と比べてどのような規模であったり、位置付けであったのかを見てみます。
(4.1)銅鐸:技術力と財力
出土した銅鐸の数でみると、淡路島、桜ケ丘遺跡をかかえる兵庫県がトップで、島根県、徳島県に次いで滋賀県は40個の銅鐸が出ています。
単一遺跡からの出土数では、島根県の賀茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が出土しており、滋賀県の大岩山で見つかった24個の銅鐸は、これに続くものです。
しかし、弥生時代後期の「見る銅鐸」については、近江と遠江でほぼ同数を出土しています。その後の銅鐸の統合を考えると、前節で述べたように、近江が銅鐸圏の覇者になります。
大岩山の135cmの銅鐸は群を抜いて大きく、現在の鋳造技術をもってしても難しいと専門家が言っています。それだけの技術を持つ工人をこの地で擁していたことになります。またこの銅鐸は45kgの重さがあります。難波さんによると、当時の銅の価格は鉄の4倍だそうで、これだけの銅素材を得るためには相当の財力を要します。近江には技術と財力があったとことになります。
(4.2)玉作り集落:財力
玉製品は権威を示し、お墓の副葬品にも成りましたが、代替貨幣としても使われていました。鉄や銅を入手するために用いられたと思われます。
これまでに見つかっている玉作り集落の数は、原石を産出する佐渡が30ヶ所で、近江が23ヶ所と続きます。代替貨幣となる玉の原石はどこも入手を欲し、争いがあったと思われます。そのような中で原石を確保し、玉造りをしていた近江の力はとても大きかったと言えます。その近江の玉作り集落は野洲川下流域に集中していました。
(4.3)土器の広がり:情報力
「近江型土器が語る弥生の近江商人?」のところで述べたように、近江型の甕や鉢は他の地域の土器に比べて、広範囲に広がって出土しています。北九州から瀬戸内、新潟、群馬、千葉、遠くは韓国に至るまでの甕や鉢が見つかっています。それだけ広範囲に近江の人が移動し、交易をしていたということが判ります。
このことは、交易だけではなく、情報入手、情報伝達という観点で重要なことです。 倭国大乱のとき30の国々は共に卑弥呼を擁立したとありますが、そのために国々を巡って情報交換をしたのは誰か? 「弥生の近江商人」であった可能性は大きいと思います。
(4.4)手焙り型土器:祭祀の力
「いろいろなまつり・儀礼の道具」のところで、手焙り型土器について述べました。 これは近江型土器の上にフードが付いたもので、祭礼や儀式で用いられたと推定されます。この手焙り型土器は、近江発祥で河内、大和でも多く出土しており、盛行期には尾張でも使われるようになります。さらに、九州、中国、北陸、関東地方にも分布が広がります。すなわち、近江の祭祀の道具、スタイルが全国に拡散していった、ということになります。
ちなみに、河内は池上曽根遺跡が、大和は唐古・鍵遺跡が、尾張は朝日遺跡があった辺りになります。いずれも弥生時代を代表する遺跡であることが興味を引きます。
(4.5)米つくり:基礎生産力
当時の米の生産量は国力に直接結び付くものであったと言えます。では、当時の各国の米の生産量はいくらであったのでしょうか?
千城 央さんは著書「近江にいた弥生の大倭王」の中で、弥生時代後期と平安時代で、各国の水田の広さは違うものの、國間の相対比較には大きな違いはないだろうという前提で、平安時代の和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)記載の田積数を基に各国の水田広さと戸数を考察されています。戸数の推定に当たっては、既に所在地が比定されている国の田積数と魏志倭人伝に書かれている戸数を基にして計算されています。
図出典:「野洲川下流域の弥生遺跡」
西日本諸国で、田積数が最も多いのは近江で33403町歩、次いで吉備に相当する備前・備中・備後の32715町歩、その次が吉野ヶ里地区の筑後+周辺で20000町歩となっています。大和、出雲・伯耆、筑前は18000町歩前後です。
すなわち、近江は西日本最大の米の生産量を誇っていました。それだけ多くの人が住んでおり、また、各地から交易に来た人たちの食糧を賄えたということを意味します。 ちなみに、上記の大和、吉備、出雲、筑前は邪馬台国の候補地として推定されている所です。
千城央さんは、田積数と魏志倭人伝に記載されている国々の戸数を比較して、国の所在地を推定し、邪馬台国に相当する戸数を賄えるのは近江であると判定されています。
(4.6)弥生のGDP
弥生時代の国力(後期では30余各国)を示す指標が何なのか判りませんが、GDP(国内総生産)的な見方をすると、銅鐸製造、玉作り、お米の生産量などが要素として考えられます。
以上、状況証拠を示したように、近江南部の弥生GDPは群を抜いて大きかったに違いありません。
(4.7)政治祭祀空間
政祭一致の当時、弥生時代後期の近畿地方ではそれまでの大集落が中期末ごろに消えて小さな集落に分散していました。そうした中で、大きな祭祀空間、政治空間を持つのは伊勢遺跡だけですし、銅鐸祭祀の総本山としての巨大な祭祀空間を持つのは、近畿圏ではここだけです。
伊勢遺跡は政治祭祀空間であり、行政執行機関の遺構は見つかっていません。
しかし、以上のような状況証拠から、野洲川下流域に近江政権の拠点があったと推定され、伊勢遺跡周辺にその遺構が眠っている可能性があります。
ただ、伊勢遺跡は人の住んでいなかった土地に突如として建設されているので、何らかの目的をもって新しい地域に造られた祭祀空間とも考えられています。
(5)まとめ
見る銅鐸の分布密度、製作主体の検討、そのたの状況証拠から、近畿政権の中核としての近江南部が浮かび上がってきます。
銅鐸祭祀の中核となったのが伊勢遺跡と考えられますが、突如として近江に誕生する伊勢遺跡は何らかの政治目的を持って造営されたとも考えられます。
作業中
(最終更新:令和6年6月19日)