1 神道の概要
1)概要 2)分類 3)主な信仰 4)歴史 5)神道諸派
(参考)「三宝興隆の詔」と「敬神の詔」(神仏習合の起源?)
2 神仏習合思想
1)概要 2)歴史 3)種類(後述)
(参考)神仏習合現象の始まり(図書紹介)
3 神仏習合の種類
1)両部神道 2)山王神道 3)御流神道 4)伊勢神道 5)吉田神道
6)三輪神道 7)垂加神道 8)雲伝神道
4 修験道
1)概要 2)歴史 3)有名な修験道独自の神 4)教義 5)経典 6)宗派
7)主な霊山・社寺等(後述) 8)関連項目
5 主な霊山・社寺等
1)恐山 2)出羽三山 3)荒澤寺 4)甑岳 5)鳥海山 6)蔵王山
7)日光山 8)迦葉山 9)三峰山 10)御嶽山 11)高尾山 12)大山
13)大雄山 14)箱根山 15)戸隠山 16)飯縄山 17)御嶽山
18)白山 19)立山 20)石動山 21)富士山 22)秋葉山 23)片山神社 24)伊吹山
25)園城寺/三井寺 26)醍醐寺/上醍醐 27)聖護院 28)鷲峯山金胎寺
29)根本山神峯山寺 30)千光寺 31)犬鳴山 32)瀧安寺 33)金剛山 34)金峰山・大峰山・金峯山寺 35)薬師寺 35)薬師寺 36)熊野三山 37)布引の滝 38)伽耶院 39)雪彦山 40)後山 41)諭鶴羽山
42)五流尊瀧院 43)伯耆大山 44)石鎚山 45)剣山
46)英彦山 47)求菩提山 48)阿蘇山
1)概要 2)分類 3)主な信仰 4)歴史 5)神道諸派
(引用:Wikipedia)
1)概要
神道は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である。
自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。
神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である [注 1]。
[注1] ただし仏教を仏道と呼んだり、儒教を儒学と呼んだりする。また、「キリスト教」は明治以降の語で、安土桃山時代から江戸時代には「切支丹」と呼ばれていた。
伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。
神道には確定した教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている。
森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(神とともにあるの意)」であるといわれる。
教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。
神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合)。一方で、伊勢神宮や出雲大社のように早くから神仏分離して神事のみを行ってきた神社もある。明治時代には天皇を中心とした国民統合をはかるため、すべての神社で神仏分離が行われた。
神道と仏教の違いについては、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。
神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載がある『宗教年鑑 平成29年版』が、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する。
2)分類
2.1)一般的な分類
2.1.1)皇室神道 (宮中祭祀)
皇居内の宮中三殿(※1)を中心とする皇室の神道である。新年の四方拝(※2)や歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭(天皇即位後初の新嘗祭は大嘗祭という)などが行われる。
(※1)宮中三殿は、皇居の吹上御苑にある賢所、皇霊殿、神殿の総称。これら三殿を一括して「賢所」とも称する。
宮中三殿は皇祖天照大御神を祀る賢所を中央に、その西側に位置する歴代の天皇や皇后、皇族の霊を祀る皇霊殿、その東側に位置する天神地祇八百万神を祀る神殿からなる。
(※2)1月1日(元日)の午前5時30分に、天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた仮屋の中に入り、伊勢神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神祇を拝する。
この時に天皇が拝する神々・天皇陵は、伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)、山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮(鹿島神宮)、下総国一宮(香取神宮)である。
2.1.2)神社神道
〇概要
神社神道(じんじゃしんとう)とは神道の一つの形態である。以下の2つの意味で使われる。
・第二次世界大戦前の「国家神道」の異称。国家神道を参照。
・第二次世界大戦後の神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼を信仰の中心とする信仰形態。
現在では単に「神道」という場合、神社神道を指す。祭祀の場となる神社は日本各地に数多くあるが、1945年までは全ての神社神道に属する神社が内務省の外局である神祇院の管轄下におかれていた。
●神社神道の種別
1945年12月にGHQによって発せられた神道指令により、「神道の国家管理」は廃止されることになり、神祇院は廃止されて1宗教法人として改組され、新たに神社本庁が発足した。神祇院の管轄下にあった神社神道約8万社は、
①神社本庁の発足とともにその包括下に入ったもの(約7800社)
②神社本庁とは別の包括団体をつくり、その包括下にはいったもの
③単立となったもの
などにわかれた。
●経典・神職
神社神道には教典は存在せず、『古事記』や『日本書紀』などの神典にのっとり祭祀をおこなう。 祭祀の担い手となるのは神職であり、宮司・禰宜・権禰宜・出仕などの役職につき、神事を司る。
「神社神道の巫女」は神職には含まれない。「神楽の舞手」として「神事に参加」することはできるが、「神事を主宰・執行」することはできない。
神職となるためには「位階」を必要とする。 位階は、現在では神社本庁が授与する民間の資格で、浄階・明階・正階・権正階・直階の5段階がある。
〇神職資格取得課程
神職養成課程を設置する教育機関は大学2校、専門学校・各種学校7校があり、就学年限は1年から4年である。神社本庁とは別の包括団体の傘下にある神社や単立の神社が独自の神職資格を定めたり、自前の「位階」を授与する例はなく、これらの教育機関では「神社本庁の包括下にない神社」や教派神道に属する神社の子弟の受け入れを行っている。
●大学
・國學院大學
所在地:東京都渋谷区 専門学科名:神道文化学部
歴史:前身である皇典講究所は、神官・神職の養成及び任用について内務省より委託
されていた
・皇學館大学
所在地:三重県伊勢市、名張市 専門学科名:神道学科
歴史:伊勢神宮の学問所である林崎文庫に開設された「皇學館」は日本古来の神典や
国文、国史を研究する国の中心的機関であった
●神職養成所
・出羽三山神社神職養成所(山形県)
・志波彦神社 塩竈神社神職養成所(宮城県)
・熱田神宮学院(愛知県)
・京都國學院(京都府)
・神宮研修所(三重県)
・大社國學館(島根県)
それぞれが有力な神社が運営しているものであり、なかでも伊勢神宮の運営する神宮養成所、出雲大社が運営する大社國學館が有名です。また、京都御所のすぐ近くにある京都國學院は、6か所の中で最も古い歴史を誇ります。
〇包括組織
かつて神道は神道事務局によって管理されようとしたが、最終的に神道事務局は神道大教とする教派神道として神社神道とは切り離された。
その後神社神道は内務省によって管理されたが、国民精神総動員運動の影響を受け1940年(昭和15年)には神祇院として独立した。しかし直後の敗戦によって目立った成果は上げなかった。
戦後は神祇院の後継組織である神社本庁が最も多くの神社が所属する団体であるが、神社本庁は原則として宗教法人格を有することが加盟の条件であるため法人格を有しない小規模な祠等はそもそも所属できない。
また宗教法人格を有する神社に限っても、例えば東大阪市は法人格を持つ神社の半数以上が神社本庁未加盟でありその中には式内社の石切剣箭神社等も含まれている。
さらに全国でも鎌倉宮・靖国神社・伏見稲荷大社・日光東照宮・気多大社・梨木神社・新熊野神社・富岡八幡宮・日前宮など、有名な神社であるにもかかわらず神社本庁の包括下にない例も存在する。
神社本庁以外の包括組織(包括宗教法人)も存在する。誠心明生会には91社、神社本教には78社、神社産土教には72社、北海道神社協会には60社、日本神宮本庁には23社、日本神社教団には15社の神社神道の神社が属している。
〇「神社神道」の語の由来
神社神道という言葉は比較的新しく、明治以降、教派神道と区別するためにつくられた。1868年(明治元年)、維新政府は神祇官(明治時代)を設置したが、中央集権的体制を強めるためには国家神道政策だけでは足りないとして神祇省を設置し皇道宣布運動を展開する。
ただ、1882年(明治15年)1月24日には内務省達乙第7号「自今神官ハ教導職二兼補ヲ廃シ葬儀二関係セサルモノトス」により、「神社神道は宗教ではない」(神社非宗教論)とし、宗教(教派神道・仏教)と祭祀(神社神道)を分離させ、神道は国の祭祀として非宗教とされた。
1899年(明治32年)の宗教法案には神道やキリスト教は含まれていなかったが、明治末頃から、教派神道は国家神道と称されはじめた。
1917年(大正6年)になると、日本基督教会が、学生が神社参拝を強制されていることを理由に神社非宗教論を否定した(『神社に関する決議』)。さらに強制は憲法の信教の自由に抵触するものであるという不服が申立てられた。
神道やキリスト教を含めない1899年の宗教法案は、3度にわたって議会に提出されるも不成立となっていたところ、その後に法案は名称を変え、1939年(昭和14年)になって神道とキリスト教を対象に含めた宗教団体法が成立した。
ここで神社神道も、神道に含まれる宗教であるとされ、仏教のような教えや戒律こそないが、第二次世界大戦終結までの間、政府に保護されることとなった。
さらに、これを国家的神道と称し、そして、「国体神道」と「神社神道」とに細分して説を展開した有力な学者もいた 。第二次世界大戦前は神社神道とは近代になって政府による統制の加わった神社における儀礼・思想・組織を指す言葉であったのである。
2.1.3)民俗神道
民間神道ともいう。民間で行われてきた信仰行事をいう。道祖神・田の神・山の神・竈神など。修験道や密教や仏教、あるいは道教の思想と習合している場合も多い。いざなぎ流なども入る。
〇道祖伸(どうそじん、どうそしん)
道祖神は、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である。のちには縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどがある。
道祖神は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。
厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられており、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。
中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる。全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、中世まで遡り本小松石の産業が盛んな神奈川県真鶴町や、とりわけ道祖神が多いとされる長野県安曇野市では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い(真鶴町と安曇野市は友好親善提携が結ばれている)。
各地で様々な呼び名が存在する。道陸神(どうろくじん)、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど。秋田県湯沢市付近では「仁王さん」(におうさん)の名で呼ばれる。
道祖神の起源は不明であるが、『平安遺文』に収録される8世紀半ばの文書には地名・姓としての「道祖」が見られ、『続日本紀』天平勝宝8歳(756年)条には人名としての「道祖王」が見られる。
神名としての初見史料は10世紀半ばに編纂された『和名類聚抄』で、11世紀に編纂された『本朝法華験記』には「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されており、『今昔物語集』にも同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている。
平安時代の『和名抄』にも「道祖」という言葉が出てきており、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている。13世紀の『宇治拾遺物語』に至り「道祖神」を「だうそじん」と訓じている。後に松尾芭蕉の『奥の細道』の序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない。
道祖神が数多く作られるようになったのは18世紀から19世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である。
神奈川県真鶴町では特産の本小松石を江戸に運ぶために村の男性たちが海にくり出しており、皆が祈りをこめて道祖神が作られている。
岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり、猿田彦神および彼の妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。
集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた。また、ときに風邪の神、足の神などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた。
〇田の神(たのかみ)
田の神は、日本の農耕民の間で、稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。作神、農神、百姓神、野神と呼ばれることもある。
穀霊神・水神・守護神の諸神の性格も併せもつが、とくに山の神信仰や祖霊信仰との深い関連で知られる農耕神である。
● 農耕神をまつる習俗
古代より日本では農耕神をまつる習俗のあったことが知られており、8世紀成立の『日本書紀』や『古事記』にも稲霊(いなだま)すなわち「倉稲魂」(うかのみたま)、「豊受媛神」(とようけびめのかみ)、穀霊神の大歳神(おおとしのかみ)の名が記載されている。
このうち、豊受媛神は10世紀初頭成立の『延喜式』「大殿祭祝詞」に、稲霊であり、俗にウカノミタマ(宇賀能美多麻)と称するという註があり、このことについて柳田國男は、稲の霊を祭った巫女が神と融合して祭られるようになり、それゆえ農神は女神と考えられるようになったのではないかとしている。
民間では、こうした農耕神を一般に田の神と呼称してきたが、東北地方では「農神」(のうがみ)、甲信地方(山梨県・長野県)では「作神」(さくがみ)、近畿地方では「作り神」、但馬(兵庫県)や因幡(鳥取県)では「亥(い)の神」、中国・四国地方では「サンバイ(様)」また瀬戸内海沿岸では「地神」などとも別称されてきた。
また、起源の異なる他の信仰と結びついて、東日本ではえびす、西日本では大黒をそれぞれ田の神と考える地域が多く、さらに土地の神(地神)や稲荷神と同一視されることもあり、その一方で漁業神や福徳神とは明確に区別される神である。
●山の神信仰や他神との結びつき
〔春秋去来の伝承〕
山の神信仰は、古くより、狩猟や焼畑耕作、炭焼、杣(木材の伐採)や木挽(製材)、木地師(木器製作)、鉱山関係者など、おもに山で暮らす人々によって、それぞれの生業に応じた独特の信仰や宗教的な行為が形成され伝承されてきた。
いっぽう、稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰があった。
これを、田の神・山の神の春秋去来の伝承といい、全国各地に広くみられる。ただし、去来する神が山の神や田の神として明確に特定されないケースも多い。このように一つの神が季節のうつろいとともに所在を変え、神格を融通する信仰はめずらしい。
たとえば、新潟県村上市中継(旧、山北町)の民俗事例では、3月16日に田の神が天竺(インド)よりやって来て家に降りるとされる。つづいて4月16日には家から田へと出て行き、10月16日には再度家に戻るといわれ、これらの日にはぼた餅をえびす(恵比寿)に供えて送り出し、出迎えの儀礼をおこない、11月16日には田の神は再び天竺に還るとされた。
すなわち、田の神は、一年かけて天竺・家・田を循環するわけであり、この動きは、ほぼ一年の稲作過程と重なり合うのである。
このように、去来伝承には田の神が家を媒介として去来するという伝承も多く、それには、
①田から家へ帰る、②家から田へ出て行く、③山から家へ降りてくる、
④家から山へ帰る、⑤家と田とを去来する、⑥去来せず留守神となる
などのパターンがあり、上述の村上市の事例のように、去来する先として天竺などの異空間が加わることがある。
奥能登(石川県)に今日まで伝わる民俗行事「アエノコト」(国の重要無形民俗文化財)も、秋の収穫後(12月5日、もと11月5日)に、田から家へ田の神を迎えて饗応(=アエ)をする行事である。
かつては、春先(2月9日、もと1月9日)に家から田へ田の神を送り出す行事もあった。「アエノコト」では、種籾俵が神体としてまつられる。
〔かかし、屋敷神、祖霊神〕
大国主の国づくりの説話に登場する「久延毘古」(クエビコ)は、かかしが神格化されたものであるが、これもまた田の神(農耕神)であり、地神である。
かかしはその形状から神の依代とされ、地方によっては山の神信仰と結びつき、収獲祭や小正月行事のおりに「かかしあげ」の祭礼をともなうことがある。また、かかしそのものを「田の神」と呼称する地域もある。なお、かかしは「かがし」を原義とする言葉と考えられ、これは稲作に害をおよぼす鳥獣が嫌悪する臭いをかがせ、それによって鳥獣を追い払う目的でつくられたという。
さらに、春秋去来の伝承は屋敷神の成立に深いかかわりをもっているとみられる。屋敷神の成立自体は比較的新しいが、神格としては農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、特に祖霊信仰との深い関連が指摘される。
日本では、古来、死んだ祖先の魂は山に住むと考えられてきたため、その信仰を基底として、屋敷近くの山林に祖先をまつる祭場を設けたのが屋敷神の端緒ではないかと説明されることが多い。
古代にあっては一般に、神霊は一箇所に留まらず、特定の時期に特定の場所に来臨し、祭りを受けたのちは再び還るものと信じられていた。
また、現在ならば「姓」と称されるものも、かつては「同苗(どうみょう)」や「苗字(みょうじ)」という用法があったように、東北地方の民俗例でみられる播種の際の戸別の「苗印(なえじるし)」は、田の神の依り代であると同時に家ごとに異なり、その点ではまさしく祖霊の神、家々の神であった。
屋敷神の祭祀の時期も、一般に春と秋に集中し、後述するように農耕神(田の神)のそれと重なっている。その一方で農耕神もまた祖霊信仰のなかで重要な位置を占めるようになった。こうして屋敷神・農耕神・祖霊神の三神は、穀霊神(年神)を中心に、互いに密接なかかわりをもつこととなったのである。
〇山の神
山の神(やまのかみ)は、山に宿る神の総称である。山神・山祇(やまがみ/やまつみ)とも言い、やまつみの場合は国津神としての性格を表す祇を充てる。
〔歴史〕
実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なる。どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを謙遜して「山の神」という表現が生まれた。このような話の原像は『古事記』、『日本書紀』のイザナミノミコトとも一致する。
〔概要〕
農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち、1つの神に山の神と田の神という2つの霊格を見ていることになる。
農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。
ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある。
猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。
この山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日(一般に12月12日、1月12日など12にまつわる日)は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。
長野県南佐久郡では大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている。
また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。
なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。
「Y」のような三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いために伐採時には事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている。
日本神話では大山祇神などが山の神として登場する。また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比咩神など、特定の山に結びついた山の神もある。
〔鉱山における山神〕
日本の鉱山においては、安全と繁栄を祈願してオオヤマツミやカナヤマヒコ・カナヤマヒメを祀る神社が設置されることが多く、これらも略称して山神と称する。鉱山で採掘された鉱石がご神体となったり、稀ではあるが、奈良県の大和水銀鉱山のように、創業者(発見者)を祭る山神社もある。多くは祠程度の規模のものが多いが、歴史が長かったり、規模の大きかったりする鉱山においては一般的な神社と同じ規模のケースもある。
鉱山の閉山後は、本社が存在する場合は大山祇神社や南宮大社に還御されるが、そうでない場合は朽ち果て自然消滅する場合も多い。あるいは、鉱山閉山後も製錬所が操業を続けたり、廃水処理施設が稼働したりする場合には、神社が施設の守り神として維持されることがある。
〇竈神
かまど神(かまどがみ)は竈・囲炉裏・台所などの火を使う場所に祀られる神。
●日本のかまど神
火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされる。竈神、久那土神とも呼ばれることがある。
日本におけるカマドの伝来は古墳時代前期末(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)にさかのぼり、朝鮮半島から渡来人を通じてもたらされた。当時の集落遺跡の竪穴建物に造り付けカマドが導入されると、調理様式や器材に「台所革命」とも評される劇的な変化を与え、古墳時代中期~後期(5世紀~6世紀)にかけて爆発的に普及していった。
この時、カマドを信仰の対象として捉える文化も同時に普及し、カマド構築材に祭祀遺物(石製模造品)を封じ込める例(神奈川県横浜市矢崎山遺跡)や、古いカマドを解体する際に底を打ち欠いた土師器を2枚伏せて「カマド鎮め」をしたと見られる例(千葉県香取市小六谷台遺跡)などが各地で見つかっている。
千葉県印旛郡酒々井町の飯積原山遺跡(いいづみはらやまいせき)では、平安時代前期(9世紀)の竪穴建物から出土したカマドの土製支脚に眉・目・鼻の表現が線刻されていた。また、埼玉県深谷市・熊谷市の、7世紀から11世紀にかけての官衙跡である幡羅官衙遺跡群の竪穴建物から出土した土製支脚と見られる棒状土製品にも人面が彫刻されていた。2023年(令和5年)1月には、茨城県那珂市の下大賀遺跡の竪穴建物から、人面および胴体が線刻された石製支脚が出土した(石製では初の事例)。これらカマドの支脚にみられる人面付きのものは、カマド神の表現ではないかとされている。
一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが、祀り方の形態は地方によって様々である。
東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神やカマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る。新築する際に家を建てた大工が余った材料で掘るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたりアワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴。
信越地方では釜神といって、約1尺の木人形2体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある。島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。
日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている。また近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている。
神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。なお、平野神社(旧官幣大社)の第二座の久度大神は、竃神である。
住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある[11]。
●中国のかまど神:略
2.1.4)教派神道(神道十三派)
教祖・開祖の宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い。
教派神道とは、狭義には、江戸時代までの伊勢神宮・出雲大社・富士山・御嶽山などの講組織や、江戸時代から明治時代に起こった新宗教も含め、明治時代に神道を宣教する教派として段階的に公認されていった総計14の神道系教団のこと。宗派神道とも呼ばれる。
途中で1教派(伊勢神宮系の「神宮教」)が離脱し、(戦前において)最終的に出揃ったのは13教派だったので、かつては神道十三派とも表現された。
広義には、戦後に「教派神道連合会」に新たに加入した「大本」も含む。(戦後に「大本」が「教派神道連合会」に新たに加入し、逆に「天理教」と「神道大成教」が離脱したため、現在「教派神道連合会」所属の教派は、12教派となっている。)
神社神道と対比され、神社神道が(明治以降、伊勢神宮の下に束ねられることになる)日本各地の様々な神社・慣習的信仰の集合体であるのに対して、教派神道は(江戸時代後期の、根源的・包括的信仰を模索する国学・復古神道の系譜に影響を受けた)大教院の理念(※3)を引き継ぎ、綜合的な性格が強いため、中心的機関・教団である神道本局(神道大教)をはじめとして、祭神には原初神である天之御中主神から始まり、全ての神々(神祇)を祭るという姿勢の教団が多い。
黒住教・神習教・神理教・禊教・金光教・大本などの一部教団は、教祖自身が、国学・復古神道(あるいは儒家神道)の系譜から、直接的に思想的影響を受けている。
(※3)大教院は、大教宣布運動の高揚を図るため教部省が1872年(明治5年)に神仏合併を行う教導職の道場として設置した半官半民の中央機関である。仏教勢力の反発に遭い、3年後の1875年(明治8年)に解散。神道に関する活動は、後継機関である神道事務局が引き継いだ。
国民に対して尊皇愛国思想の教化(大教宣布)をするための機関である。教導職は半官半民の任命制であり、神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども教導職に任命された。
国民教化をより具体的に行う為、教導職の全国統括機関である大教院、各府県単位の統括を行なう中教院が設置され、全国に小教院が置かれた。「三条の教憲」(敬神愛国、天理人道を明らかにする、皇上の奉載)を掲げ、それを国民強化運動の柱とした。
2.1.5)古神道(≒原始神道)
江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が仮構され、復古神道・古道・皇学・本教などと称された。明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものも古神道と称している場合がある。近代以降の学問で研究されて国学色を排除してからは、純神道・原始神道ともいう。
〇古神道(こしんとう)とは
・日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していたとされる宗教をいう。純神道、原始神道、神祇信仰ともいう。通常はこちらを古神道という。
・江戸時代の復古神道の略称。
・江戸時代の復古神道の流れを汲み、幕末から明治にかけて成立した神道系新宗教運動。仏教、儒教、道教、渡来以前の日本の宗教を理想としている。神道天行居や出雲大社教、神理教、古神道仙法教などの教団が存在している。大本などに影響を与えた。
〇概要
外来の影響を受ける以前という意味での古神道とは「原始宗教の一つである」ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。
その要素は、自然崇拝・精霊崇拝などのアニミズム、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としてのマナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。民俗学などで提唱された。
江戸時代に発達した復古神道の流れの国学において、古神道という概念が初めて提示された。当初の定義では「記紀などの古典に根拠を置き儒仏の要素を混じえない神道」が古神道、「記紀などの古典に根拠を置かず儒仏思想を混じえた神道」が俗神道であるとされ、古神道と俗神道が対概念であった。
近代以降、歴史学において仏教伝来以前の神道を純神道と呼んだが、その後、おもに人類学のほうから原始神道という呼び方がされるようになった。
しかしさらに後、神道という枠組み自体が仏教や儒教と対抗的に歴史的に形成されたものであるという説に依拠して、現在のいわゆる神道の実体または核心が儒仏以前に遡るという発想には疑問がもたれ、新たに神祇信仰(または神祇崇拝)という言い方がされるようになった。これは古代の特定の民族の宗教でありながら特定の名称をもたない多神教が、例えば「古代ギリシア人の宗教」とか「古代エジプト人の宗教」などと呼ばれていることに準拠した表現でもある。
以上の用語はほぼ同義であるが、しいていえば微妙なニュアンスの差異がある。それは、古神道という用語は、純粋に学問的な手法による研究にしろ、宗教的または神秘主義的な手法にしろ、ある一定の体系だった世界観がかつて存在し、かつそれが本来の神道であったという予感のようなものを前提としており、これに対して神祇信仰という用語は、かつて存在したのはいわゆる神道と呼ばれるべきものとは別であったことが学問的な研究の結果わかるはずという信念を前提としている。これらに対して原始神道は、不可知論または未知の立場である。むろんこれらは微妙なニュアンスの問題で、実際にはほぼ同義の言葉である。
仏教でいう根本仏教・原始仏教・初期仏教という言葉の差異にあてはめると、古神道が根本仏教、原始神道が原始仏教、純神道が初期仏教のニュアンスにそれぞれ近く、神祇信仰に該当する仏教の言葉はない。また通俗書などでは「縄文神道」という言葉もみられるが、かなり意味が狭く限定されてしまうのと、学問の進歩とともに縄文のイメージが変化していくため恣意的なニュアンスを賦与されがちであり、専門用語として熟した言葉ではない。
●自然崇拝
日本民俗学では、太陽から来るマナを享受し、それを共有する存在をライフ・インデックスとして崇拝する自然崇拝は神籬・磐座信仰として現在にも残るとされ、具体的には、神社の「社(やしろ)」とは別に境内にある注連縄が飾られた御神木や霊石があり、また、境内に限らずその周囲の「鎮守の森」や、海上の「夫婦岩」などの巨石などが馴染み深いものである。
また、雷を五穀豊穣をもたらすものとして「稲妻」と呼んだり、クジラは日本においては、座礁や漂着などして現れた貴重な食料として、感謝の気持ちを込めて「えびす」と呼んだりして、各地に寄り神信仰が生まれた。また、「野生の状態で生き物として存在するマナ」として捉えられるシャチやミチ(アシカ)なども、畏き(かしこき)者として恐れ敬われた。
自然や幸せに起因するものだけでなく、九十九神にみられるように、生き物や人工物である道具でも、長く生きたものや、長く使われたものなどにも神が宿ると考えた。そして、侵略してきた敵や、人の食料として命を落としたものにも命や神が宿る(神さぶ)と考え、蒙古塚・刀塚や魚塚・鯨塚などがあり、祀られている。
●異界観
自然に存在する依り代としての岩や山、海や川などは神の宿る場所でもあるが、常世と現世との端境であり、神籬の籬は垣という意味で境であり、磐座は磐境ともいい、神域の境界を示すものである。
実際に、島に森林を含めた全体を神の領域とする「禁足地」である宗像大社、「沖ノ島」のような場所もあり、その考えは神社神道の建築様式の中などにも引き継がれているが、例えば、本来は参道の真ん中は神の道で禁足となっている。
一般家庭にも結界はあり、正月の注連縄飾りや節分の柊鰯(※1)(ひいらぎいわし)なども招来したい神と招かれざる神を選別するためのものでもある。
また、集落などをつなぐ道の「辻」には石作りの道祖神や祠や地蔵があるが、旅や道すがらの安全だけでなく、集落に禍や厄災を持ち込まないための結界の意味がある。
(※1)柊鰯:東洋の伝統的な思想では、季節の変わり目である節分は、鬼や魔物といった邪気が生じると考えられてきました。そのため魔除けや厄除けとして用いられてきたのが、先が鋭くとがったものや臭いの強いもの。
鬼は、柊の葉っぱのトゲといわしを焼いた独特な臭いを嫌うといわれており「鬼(邪気)」が家に入ってこないよう、魔除けの意味を込めて節分に柊鰯を飾るようになったとされています。
〇世界観
古来からの古神道は後から意味付けされたものも多く、その対象も森羅万象におよぶので、共通の概念や用語をとりまとめるのは難しいが、古神道に始まり、現在への神道までの流れとして時系列や、漢字や日本語としての古語の意味などを考え、記述する。
・とこよ(常世・常夜):常世・常夜
・うつしよ(現世)
〔神〕
・尊(みこと) - 日本神話にある人格神(人と同じ姿形、人と同じ心を持つ神)
・御霊(みたま) - 尊以外の神。個々の魂が寄り集まったものとしての神霊の形。
・魂(たましい)・御魂(みたま) - 個々の人の命や人の心の態様。神の心の態様。
・荒御魂(あらみたま) - 荒ぶる神のこと。
・和御魂(にぎみたま) - 神和ぎ(かんなぎ)といわれる安寧なる神のこと。
四魂(※2)
〔神代・上代〕(かみよ・かみしろ) - 現世における神の存在する場所を指す。
日本神話の神武天皇までの、現世にも神が君臨した時代を指すときは上代もしくは
神世(かみよ)である。
・神体(しんたい) - 古来からあり、神が常にいる場所や神そのものの体や、比較的大きい
伝統的な神の宿る場所やもの。
・神奈備(かんなび・かむなび・かみなび) - 神名備・神南備・神名火・甘南備とも表記し、
神が鎮座する山や神が隠れ住まう森を意味する。
・磐座(いわくら) - 神が鎮座する岩や山。なお、磐境(いわさか)とは神域や常世との
端境である岩や山を指す。
・神籬(ひもろぎ) - 神が隠れ住む森や木々、または神域や常世との端境。現在では
神社神道における儀式としての神の依り代となる枝葉のこと。
・御霊代(みたましろ)依り代(よりしろ) - 代(しろ)とは代わりであり、上記のほか神が
一時的に降りる(宿る)憑依体としての森羅万象を対象とした場所や物を指す。
・巫(ふ・かんなぎ) - 神降ろしのことで、神の依り代となる人(神の人への憑依)を指す。
(※2)四魂
〔一霊四魂〕
一霊四魂(いちれいしこん)とは、人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂から成り立つ、という、幕末の神道家の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観である。
一霊四魂説のもっとも一般的な解釈は、神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま、さちみたま)・奇魂(くしみたま)の四つの魂があり、それら四魂を直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしているというものである。和魂は調和、荒魂は活動、奇魂は霊感、幸魂は幸福を担うとされる。
一般に、「一霊四魂」は古神道の霊魂観として説明されるが、実際には幕末以降に平田篤胤の弟子である本田親徳によって唱えられた特殊な概念であり、古典上の根拠は一切なく、明治以降に広められた特殊な霊魂観であり、神道辞典などには一霊四魂という名称さえ掲載されていない。
各魂の名称は記紀などによるもので、『日本書紀』の「神功皇后摂政前紀」には新羅征討の際に神功皇后に「和魂は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったとある。また、神代には、大国主命のもとに「吾(あ)は是汝(これいまし)が幸魂奇魂なり」という神が現れ、三輪山に祀られたとある。『古事記』では、神宮皇后が、「墨江大神(すみのえのおおかみ)の荒御魂」を国守神(くにもりのかみ)として新羅に祀ったとある。
だが、それらの記述には、神には四魂があるとはどこにも書いていない。ゆえに、それらは別個に活動することがあるとまではいえるが、四魂があるとは言えない。一霊四魂説は、本田親徳とその後継者たちの神学的な解釈から生み出されたとみることもできる。 なお本居宣長は、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」に、三輪山の神は大国主命の和魂だとあることなどを根拠に、魂には大きく荒魂と和魂の2種があり、和魂にはさらに幸魂と奇魂の働きがあるとしており、四魂としてまとめてみるようなことはしていない。
近世になって、一霊四魂は本田霊学系の後継者によって、古神道の霊魂観として重視され、本田親徳や大本教の出口王仁三郎、また出口王仁三郎の弟子らによって、構造や機能が詳述されていくこととなる。神理教でも一霊四魂説を唱える。
〔一霊四魂の構造〕
荒魂には「勇」、和魂には「親」、幸魂には「愛」、奇魂には「智」というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊がコントロールしている。簡単に言えば、勇は、前に進む力、親は、人と親しく交わる力、愛は、人を愛し育てる力、智は、物事を観察し分析し、悟る力である。
これら4つの働きを、直霊がフィードバックし、良心のような働きをする。例えば、智の働きが行き過ぎると「あまり分析や評価ばかりしていると、人に嫌われるよ」という具合に反省を促す。つまり、この直霊は、「省みる」という機能を持っている。悪行を働くと、直霊は曲霊(まがひ)となり、四魂の働きは邪悪に転ぶとされる。
〔四魂の機能〕
・勇 - 荒魂(あらみたま)
「勇」は荒魂の機能であり、前に進む力である。勇猛に前に進むだけではなく、耐え忍びコツコツとやっていく力でもある。行動力があり、外向的な人は荒魂が強い。
・親 - 和魂(にぎみたま)
2つ目の魂の機能は和魂であり、親しみ交わるという力である。その機能は、1字で表現すれば「親」である。平和や調和を望み親和力の強い人は和魂が強い。
・愛 - 幸魂(さきみたま、さちみたま)
3つ目の魂は幸魂であり、その機能は人を愛し育てる力である。これは、「愛」という1字で表される。思いやりや感情を大切にし、相互理解を計ろうとする人は幸魂が強い人である。
・智 - 奇魂(くしみたま)
4つ目は奇魂であり、この機能は観察力、分析力、理解力などから構成される知性である。真理を求めて探究する人は、奇魂が強い。
●先祖崇拝
「お盆」といわれるものはそのしきたりや形式は古神道の先祖崇拝であるが、仏教伝来以来の神仏習合の影響により、寺で行われ僧が執り行うことになっているため、一般に仏教行事として認識されており、古神道としての側面が曖昧になっている。
仏教は本来、輪廻転生し徳を積めば最後は開眼し仏となる教えであり、「特定される個人としての死」はないので先祖崇拝はなく、「盂蘭盆」が正式な仏教行事で釈迦を奉るものである。現在では、特定の仏教宗派に属さなければ、盂蘭盆に触れる機会は少ないことも、「お盆は仏教行事という認識」につながっている。
吉野裕子によれば、盆即ち申の月と、寅の月つまり正月を祝う風習は、中国からの影響もあるが日本独特のものであるという。また、民俗学者の柳田國男によれば、日本では古来「窪んだ物、カプセル状の物、ぴらぴらしたもの」に魂がつくとされ、お盆の名称も、いわゆるトレイを「魂の寄るもの」として使ったための呼称ではないかとする。
●祈祷や占い
祈祷や占いは現在の神社神道でも受け継がれ、古来そのままに亀甲占いを年始に行う神社もある。大正時代まで盛んであった祭り矢・祭り弓も日本の価値観や文化(目星を付ける・的を射る・射幸心)に影響を与え、その年の吉凶を占うことから、「矢取り」に選ばれた者は的場に足繁く通ったという。
現在のおみくじも本来は神職による祈祷と占いを簡素化したものであり、柳田國男によれば「正月に行う、花札や百人一首」なども、占いの零落したものである。
また、巫女の舞や庶民や芸能の芸として現在に受け継がれる「神事としての興行(相撲)」や舞(纏舞い・獅子舞)や神楽(巫女の舞など)や太神楽(曲独楽・軽業)なども神に捧げ神を和ごませる儀礼としての祈祷である。
〇歴史
●祭政一致
まつりごとは「まつりの式次第を主催する」の意であり、その祭りに従うことが「まつろふ」である。従って、物部氏が、元来軍事、政治を担当したと考えられ、「貴人にマナをつける」職掌だったとする谷川健一説や、折口信夫の『水の女』で展開する「ふぢはら」は淵原であり、中臣氏が、元「貴人を洗い清め、特殊な方法で絆を締めて尊いものにした」シャーマン的な存在であったとする説も成立しうる。
また古くは卑弥呼なども祈祷師であり、その祈祷や占いから「国の行く末」を決めていたといわれる。神社神道の神主などの神職は古くから政(まつりごと)の執政をし、平安時代には道教の陰陽五行思想を取り込むことによって陰陽師という組織とその政治における官僚としての役職を得た。
そして、占いや祈祷により指針を定め、国政を司った。この流れは戦国時代以降は潜むが、公家の間では政として、あるいは神社神道として残っていった。
地域振興の中心は、古くは寺社であり、その中心にある神社が興行や縁日や神事を行い、「寺社普請」だけでなく地域の社会基盤整備としての普請にもなった。そして、民間でも自治としての政が江戸時代から一層顕著に認められ、祭りとして神や御霊や自然を祀り、その社会的行為は「七夕祭り」や「恵比寿講」として現在にも行われ、神社神道の儀式とは離れた民衆の神事として定着し、昔と同様に普請としての地域振興を担っている。
●近現代の古神道
江戸時代末期には、尊皇攘夷思想や平田国学の隆盛と連動して世に出た、古神道と称する思想や儀礼などが多くある。
明治時代以降、古神道は、国家神道が宗教ではなく国家儀礼であるとされたのに対し、「宗教」であることを強調されることとなった。この点は黒住教をはじめとする幕末期以降の教派神道と共通しており、事実、教派神道系の教団には古神道を名乗るものが少なくない。
また篤胤以降の江戸国学が単なる国文学に傾斜するのに反発したり、近代の国家神道が宗教性を忌避して国民道徳へと変貌するのに飽きたらず、篤胤の研究範囲に内在していたスピリチュアリズムの部分を追求するなどした諸派は、その後秘教神道ともよばれ、その教義は神道霊学と称されるようになっていった。例外もあるがこれらの諸派も多くは古神道を標榜している。
現在においては、新宗教で古神道を名乗る宗派も、上記記述の宗派の流れを受け継いだものであって、江戸時代以前から存在していた神道の宗派とされるものには、そもそも、「古神道」とは称されていなかったものもある。伝統的な古神道では平田篤胤ほかが学頭を務めた皇室神道の伯家神道から受け継いた儀礼や行法がみられるが、この系統ではない出雲神道(出雲大社教)、巫部神道(神理教)、九鬼神道、修験道に由来する行法や教団も存在する。
2.1.6)国家神道
特に近代(明治維新より第二次世界大戦終結まで)において国家の支援のもとに行われた神道を指す名称であり、事実上の国家宗教(※4)となっていた。
(※4)教派神道の『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった。
現在では政教分離が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはほぼなくなった。
しかし、この様な国家神道の概念・語を、創作・捏造とする説もある。昭和26年の宗教法人法により、多くの神社が政府機関から伊勢神宮を中心とした神社本庁傘下の宗教法人へと変更された経緯がある。
2.1.7)橘家神道(きつけしんとう)
橘家神道は、蟇目・鳴弦の秘伝や神軍伝を持つなど、兵法的な要素が強く、中世の兵法流派の影響を受けていると考えられる。
橘諸兄の子孫である玉木正英(※5)が江戸時代に家伝宗教から興した神道。口伝や秘伝が多く「鳴弦」「蟇目」「守符」「軍陣」などの秘儀を行ったとされる。その一方、吉田神道、陰陽道の影響も受けていると言われる。橘家神道はほぼ消滅したとされるが、その修法や思想などが民間信仰に残っていると言われる。
(※5)玉木正英(1671年 - 1736年)は、江戸時代中期の神道家。京都梅宮社の神職ともいわれるが、その根拠となる資料はなく、はじめは人形商であったともいう。はじめ下御霊神社の出雲路信直から神道を学んだ。その後、垂加神道を創設した儒者・神道家の山崎闇斎の高弟で、その死後に垂加神道の正統な後継者となった正親町公通に弟子入りし、垂加神道の秘説を学び、後に正統な後継者として認められた。
正英は、橘氏(堂上薄家)の後胤である薄田以貞(すすきだ これただ)と同族であったので、彼より橘諸兄伝来とされる神道説を伝授され、これを垂加神道説と結びつけて橘家神道を整備・普及するに至った。著書に「玉籤集」「神代巻藻塩草」など。門人に谷川士清など。
2.1.8)雲伝神道(うんでんしんとう)
慈雲(※6)が説いた神道。慈雲は真言宗僧だが、仏教色を感じさせず、古事記・日本書紀を中心にした復古神道的思想で、日本を世界の要とし「真心」を重要視した神道を興した。また儒教的な面もあったが、明治以降に断絶した。
(※6)慈雲(1718年 - 1805年)は江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。能書家としても知られる。
慈雲が主張した雲伝神道は、日本の神道は密教に基づく曼荼羅観に一致するとして、専ら密教の教義によって解釈された神道の一派である。葛城神道ともいう。
その思想は、当時の儒者や神道家による仏教批判に対抗して、旧来の両部神道の再構築を図ったもので、神道の本義を君臣の大義に置き、夫婦・朋友の道を立てる儒学を批判し、日本は聖人の出現を必要としない神国であるとするなど、従来の神仏習合とは異なって復古神道に近い立場を取っている。
神道関係の主著は、『神儒偶談』『神道要語』『神道国歌』『神勅口伝』『天の御蔭』など。
2.1.9)三輪流神道(みわりゅうしんとう)
僧の慶円(※7)が説いた奈良の三輪山を中心に、三輪の神と伊勢の神を一体とし、大日如来を含めた神道。大神神社にて両部神道や神仏混交の影響などを受け、室町時代に発生し、伊勢神道や真言宗や陰陽道なども混ざり合った信仰。明治時代に廃絶に至るも、一部に細々と存続している。現在の「大神教」であり、能「三輪」に影響を与えている。
(※7)慶円(1140年ー1223年)は、鎌倉時代初期に神仏両部思想を確立した僧侶。法名は禅観。号は慈明。別名に三輪上人。三輪神道の創始者とされる。
九州豊前国の大伴氏につながる菊地家の出身。上賀茂神社の神宮寺を建てていることから鴨氏(三輪氏)との深い関わりがあるものと考えられる。
建長5年(1253年)に書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作 薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され行ったとあるように貞慶解脱上人とは無二の親友であった。
桜井の阿倍寺にて、法相学を学び、のちに大和国吉野山の尭仁法親王(後光厳天皇の第7皇子)に師事して東密広沢流を学び、また、金剛王院流も修学した。三輪別所(のち平等寺)を創建。建保5年(1217年)に東寺、仁和寺とともに京都三弘法のひとつ神光院を上賀茂神社北西に開創している。
上賀茂神社(京都市北区)でも奉られる。
2.1.10)烏伝神道(うでんしんとう)
賀茂規清(※8)が江戸時代に興した神道説。万物や現象などは神霊や霊魂が影響するという思想。また人の誕生は「幸魂」、死は「奇魂」が作用すると説いた。しかしその教義は人を惑わすとして、規清は流罪になり、死去した。烏伝神道は廃絶したが、その一部は禊教(※9)に継承された。
(※8)賀茂 規清(1798年 - 1861年)は、山城国出身の江戸時代の神道家。烏伝神道を唱導した。八丈島に流罪。梅辻則清とも。
上賀茂神社の社家に生まれる。家の名が梅辻で、本姓は賀茂県主である。江戸の下谷池の端の「瑞烏園」で主に神道を講釈するなどした。幕府に神道的な観点から献策し、「忠孝山」の建設などを提起した。
1847年、「政道を批判」したとして八丈島に流罪の判決が下された。流罪途中、三宅島を中継地としたが、ここで後の禊教につながる神道家の井上正鉄と会見している。
黒羽藩の第11代藩主である大関増業は規清に師事していた 。また、規清は流罪後に同じ流民で民衆活動家の菅野八郎と接点があった。同島で死去。
思想としては、『日本書紀』の神代を、「万人の系図」と「帝王の系図」に分けた上で、後者は天皇家の始祖である「羽明玉ノ御祖王」と三十二神による国家建設の話とした。
(※9)禊教(みそぎきょう)は、禅、観相、医学、伯家神道を学んだ井上正鐵の教えを継承する教派神道の一派である。文部科学大臣所轄包括宗教法人。
創始者は井上正鐵(教祖)。1790年、館林藩士・館林藩勘定方安東真鐵の子として江戸・日本橋浜町にて生まれる。母方の縁者の養子に入り井上姓となる。父安藤真鐵は賀茂真淵の門人で、国学や医術・儒教・仏教など修めた。神道の奥義も会得したが既に老齢であったため後人に伝えることができず、正鐵に神道を究め世に広めるよう遺言したという。
以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。
2.2)「祭り型」「教え型」による分類
また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。
●祭り型神道(社人神道 - 儀礼を中心とする)
これは上記の「皇室神道」「神社神道」「民俗神道」などのことである。
●教え型神道(学派神道 - 教学を中心とする)
●神仏習合系 - 両部神道・山王一実神道など
●神儒習合系 - 儒家神道・理学神道・伊勢神道(=度会神道)・垂加神道など
●家元神道 - 唯一神道(=吉田神道)など
●復古神道 - 平田篤胤・大国隆正ら
●国学系の教団 - 出雲大社教・神道修成派など
●霊学系の教団 - 神道天行居など
2.3)その他の新宗教
●山岳信仰系 - 実行教・御嶽教など
●霊示系(創唱宗教) - 黒住教・金光教・天理教(正確には、天理教は政府の弾圧を避けるために教派神道となり、現在は諸派に分類されている)・大本など
●大本系新宗教 - 生長の家・世界救世教・白光真宏会など
●救世教系新宗教(いわゆる「手かざし」系) - 世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世
●界神団・神慈秀明会など
以上のように分けられる。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道のひとつではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない。
3)主な信仰
3.1)八幡信仰(八幡神社)
古くは八幡神と呼ばれる皇祖神の須佐之男命・五十猛神を、現在は応神天皇、神功皇后として幅広く信仰されている。宇佐国造の祀った宇佐八幡宮がその起源で、早くに神仏習合が進み、朝廷だけでなく源氏など武家の氏神としても全国に広まった。
3.2)伊勢信仰(神明神社)
古代に皇祖神の天照大御神を伊勢神宮に祀り、大日如来と習合しつつも早くに神仏分離をした。朝廷からの崇拝を受けたが、歴史的に天皇が参拝した例はごくわずかである。現在は神明神社が各地に鎮座する。
3.3)天神信仰(天神神社)
延喜式に複数社見えるよう、本来天神は天津神を指す言葉であったが、菅原道真が死後怨霊として恐れられたあとに神仏習合し、天満大自在天神として神格化された御霊信仰。太宰府天満宮や北野天満宮を中心として広まり、おもに雷神・学問の神として信仰される。
3.4)稲荷信仰(稲荷神社)
穀物神の宇迦之御魂神を祀る伏見稲荷大社を起源とし、江戸時代には神大市比売や大年神などとともに、商売繁盛、諸産業の神として厚く信仰された。秦氏の神ともされるが、もとは海神族の神であったと考えられる。
ウカノミタマは、日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。記紀ともに性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである(後述)。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
〇史料における記載
●記紀神話
『古事記』では、須佐之男命の系譜において登場し、須佐之男命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売との間に生まれている。同母の兄に大年神(おおとしのかみ)がいる。大年神は一年の収穫を表す年穀の神である。
『日本書紀』では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。飢えた時に食を要することから、穀物の神が生じたと考えられている。『古事記』『日本書紀』ともに名前が出て来るだけで事績の記述はない。
また『日本書紀』には、神武天皇が戦場で祭祀をした際に、供物の干飯に厳稲魂女(いつのうかのめ)という神名をつけたとあり、本居宣長は『古事記伝』において、これをウカノミタマと同じとしている。
●延喜式祝詞
神名の「ウカ」は穀物・食物の意味であり、同じ意味の「ウケ」「ケ」を名前に持つ食物の女神と習合していくことになる。平安時代の『延喜式』(大殿祭祝詞)には、トヨウケビメの別名ともされる屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)が登場するが、この女神について祝詞の注記では「これ稲の霊(みたま)なり。世にウカノミタマという。」と説明しており、ウカノミタマを女神と見なしていたことがわかる。上述の『日本書紀』の厳稲魂女も稲の霊であり、これらの記述から、食物の持つ生命力や稲霊(いなだま)が女性的なものと考えられていたことがうかがえる。
●神道五部書
鎌倉時代に伊勢神宮で編纂された「神道五部書」には、内宮と外宮の主な社殿と祭神が記されている。その一つ、『御鎮座伝記』では内宮について、「御倉神(みくらのかみ)の三座は、スサノオの子、ウカノミタマ神なり。また、専女(とうめ)とも三狐神(みけつかみ)とも名づく。」と記される。
外宮についても、「調御倉神(つきのみくらのかみ)は、ウカノミタマ神におわす。これイザナギ・イザナミ2柱の尊の生みし所の神なり。また、オオゲツヒメとも号す。また、保食神(うけもちのかみ)とも名づく。神祇官社内におわす御膳神(みけつかみ)とはこれなるなり。また、神服機殿に祝い祭る三狐神とは同座の神なり。故にまた専女神とも名づく。斎王専女とはこの縁なり。また、稲の霊もウカノミタマ神におわして、西北方に敬いて祭り拝するなり。」と記される。
記紀神話に登場する食物神は、天照大神や天皇の食事を司ることから「御饌津神」(みけつかみ)とも呼ばれるが、ウカノミタマには「三狐神」の字が当てられている。これは関西方言では狐を「ケツ(ネ)」と呼んだことから付けられたといわれる。
また、『日本書紀』ではウカノミタマを倉稲魂命と表記し、伊勢神宮でも御倉神として祀られることから、この神は五穀の神である食物神の中でも、特に稲倉に関係の深い神ではなかったかとも考えられている。
●吉田家神道書
室町時代に神祇次官・吉田兼倶が著した『神名帳頭註』の伏見稲荷の条では、「本社。ウカノミタマ神なり。この神はスサノオの娘なり。母はオオイチヒメなり。ウカノミタマ神は百穀を播きし神なり。故に稲荷と名づくか。イザナギの御娘にこの名これ有り。」と記される。
また、同じく神祇次官の吉田兼右が著したといわれる『二十二社註式』の伏見稲荷の条では、「中社。ウカノミタマ命。この神は百穀を播きし神なり。一名をトヨウケヒメ命という。大和国の広瀬大明神、伊勢の外宮とは同体の神なり。ヒメ大明神と名づく。」と記されている。
平安・鎌倉時代の文献に登場する稲荷神は女神であるが、神名についての記述はなく、室町時代になり稲荷主神としてウカノミタマの名が登場する。最古の稲荷縁起は『山城国風土記』逸文に記されるが、この伝承によると稲荷神は稲の神であるため、いつしか同じく稲の神格を持つウカノミタマのことと認識されるようになったのだろうといわれる。
●伏見稲荷社記
江戸時代になると、伏見稲荷の神職などによって諸々の由緒記(『水台記』ほか)が著されるが、その多くが稲荷三神の主神をウカノミタマとしている(天倉稲魂命、若倉稲姫魂命、と表記される場合もある)。本来は稲荷山の上・中・下の三社のうち、中社に鎮座するとされていたが、江戸後期から下社とする記述が増え、現在もそのようになっている。
これに対し、他の2神の神名は文献によって異同があり、現在の形(ウカノミタマ、サタヒコ、オオミヤノメ)に決まるのは明治になってからである。
なお、真言宗総本山・東寺の縁起に登場する、稲束を担いだ翁の稲荷明神がウカノミタマと呼ばれることもあるが、近世以降の付会である。中世の東寺縁起では、この翁の稲荷神に固有の神名はなく、鎮座場所も稲荷山の上社である。高野山伝来の『稲荷五所大事聞書』では、この翁の稲荷神の名は「太多羅持男」としている。
〇系譜
『古事記』において須佐之男命と神大市比売との間に生まれた子で、兄に大年神がいる。
『日本書紀』においては伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子とし、食物の神を生もうという明確な意思によって誕生する。
『諏訪氏系図』において建御名方神と八坂刀売神との子である八杵命の子とされるが、別の資料では倉稲主神としており、八杵命の子である倉稲玉神が記紀の宇迦之御魂神と同一神であるかは不明である。
〇祀る神社
ウカノミタマは、現在は穀物の神としてだけでなく、農業の神、商工業の神としても信仰されている。伏見稲荷大社(京都市)、笠間稲荷神社(茨城県)、祐徳稲荷神社(佐賀県)などの全国の稲荷神社で祀られているほか、ビルやデパートの屋上、工場の敷地内などにも、屋敷神として稲荷神を祀る社が設けられている(例えば、日本橋三越デパート屋上の三囲神社などがある)。
稲荷神社以外でウカノミタマを祀る神社としては、以下のような例がある。
・ほしいも神社(茨城県ひたちなか市):堀出神社の境内末社。地域の特産物である干し芋の恵みを感謝すべく、干し芋生産の歴史に寄与した5名の先人と共に祀る。
・利神社(静岡県掛川市):大歳神とともに祀られている。式内小社。
・小津神社(滋賀県守山市):平安時代に制作された、ウカノミタマの神像(重要文化財)を祀る。垂髪(たれがみ)の女神の座像で、片膝を立て、手に宝珠を持つ。木製で像高50cm。ウカノミタマを主祭神とするが、稲荷神社ではない。
・小俣神社(三重県伊勢市):伊勢外宮の境外摂社。神道五部書の『御鎮座本紀』では、トヨウケ大神に随行してきた「ウカノミタマ稲女神」を祀ると記される。地元では、稲女(いなめ)さん・稲嘗(いなべ)さん、とも呼ばれる。
・上社(三重県伊勢市):合祀により、4座の宇迦之御魂神を祀る。
・葭原神社(三重県伊勢市):皇大神宮の別宮月読宮の境内末社。
・愛宕神社(福岡県福岡市西区)
・江文神社(京都府京都市左京区)
※稲荷神として祀られる場合は、稲荷神・稲荷神社を参照。
3.5)熊野信仰(熊野神社)
多くの名で語られるが総じて皇祖神の須佐之男命を祀る。出雲国造の祀った熊野大社や、熊野国造の祀った熊野那智大社、熊野速玉大社を起源とし、物部氏族系が多く祀る。仏教や修験道などとも深く結びついた。
3.6)諏訪信仰(諏訪神社)
出雲神の子で、海神族の諏訪氏の祖・建御名方神とその妻・八坂刀売神を祀る。洲羽国造、科野国造の祀った諏訪大社を起源とし、古代は狩猟、農耕、風、水の神、鎌倉時代には武神として武家にも広く信仰された。
3.7)祇園信仰(八坂神社、津島神社)
元はインド由来の祇園牛頭天王と須佐之男命が集合した信仰。京都府の八坂神社や津島神社、須賀神社を中心に、牛頭天王の八柱の御子・八王子権現とともに蘇民将来説話(※1)から疫病除災の神として信仰された。
(※1)蘇民将来は、備後国風土記に記された人物であり、日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰となっている。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。
なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。
説話として、古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(福山市素盞嗚神社に比定)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。
すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
蘇民将来の起源について、武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない。
武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられるが、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるのではないかとの説を述べている。
蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた。
3.8)白山信仰(白山神社)
白山比咩神社を起源とし、白山比咩神と呼ばれる菊理媛神(※2)(宇迦之御魂神と同神か)を祀る。水の神として信仰されるほか、伊弉諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持った神話から、縁結びの神としても信仰される。
(※2)菊理媛神(ククリヒメのカミ)は、加賀国の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神と同一神とされる。
〔神話上の菊理媛〕 日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみである。
【原文】
及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
【解釈文】
その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっています」と。
このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。
神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。 そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。 つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。 菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。
この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも、 伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘、イザナミが「故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ」(古事記)と言及した黄泉神(よもつかみ)(イザナミ以前の黄泉津大神)、 伊弉冉尊の荒魂(あらみたま)もしくは和魂(にぎみたま)、あるいは伊弉冉尊(イザナミ)の別名という説もある。
いずれにせよ菊理媛神(泉守道者)は、伊奘諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持つ。 また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。 ケガレを払う神格ともされる。
神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも、また菊花の形状からという説もある。菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説もある。
他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。 白山神社(石川県鳳珠郡能登町字柳田)では、『久久理姫命(久々利姫命)』と表記している。
〔祭祀上の菊理媛〕
白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もある。菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041年-1111年)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている。白山は霊山(山岳霊場)として、北陸地方を中心に信仰を集めていた。
14世紀に天台僧によって書かれた『渓嵐拾葉集』には、「扶桑明月集云、・・・八王子近江國滋賀郡小比叡東山金大巌傍天降。八人王子行卒。天降故言八王子。 客人宮桓武天皇即位延暦元年天降。八王子麓白山妙理権現顕座。」とある。
文明元年(1469年)に吉田兼倶が撰したとされる二十二社註式には、「扶桑明月集云、・・・客人宮第五十代桓武天皇即位延暦元年、天降八王子麓白山。菊理比咩神也。」とあり、『大日本一宮記』内には菊理媛が白山比咩神社の上社祭神として書かれている。
その後の江戸時代の書物において白山比咩神と菊理媛が同一神と明記されるようになった。
なお、神仏習合のなかでは白山比咩神は白山大権現、白山妙理権現、または白山妙理菩薩とされ、本地仏は十一面観音とされた他、様々な異説があった。
現在の白山比咩神社は、菊理媛神(白山比咩神)を主祭神とし、伊奘諾尊・伊弉冉尊も共に祀られている。『玉籤集』は、熊野本宮大社(本宮)で菊理媛神(伊弉冉尊)が祀られていると記述している。
3.9)山王信仰(日吉神社)
比叡山の山の神として古くから大山咋神(少名毘古那神と同一か)を祀る。日吉大社を起源として早くに神仏習合し、山王権現として各地の日吉神社や日枝神社に祀られる。疫病除災の神として信仰される。
3.10)山神信仰(山神社)
山の神である大山津見神を祀り、鉱山などでは合わせて金山毘古神とともに信仰される。山への信仰や農耕神としても信仰を集める。
3.11)浅間信仰(浅間神社)
大山津見神の娘・木花之佐久夜毘売を祀るが、元は保食神であったか。富士山本宮浅間大社を起源とし、和邇氏族系によって祀られている。富士山との関連で火山の神、火中出産神話から安産の神として信仰される。
3.12)春日信仰(春日神社)
中臣氏の祖・天児屋命、天美津玉照比売命、建御雷神の三柱の他、国譲り神話から経津主神も合わせて祀る。春日大社を起源とし、中臣氏族系によって祀られる。
3.13)鹿島信仰(鹿島神社)
中臣氏の祖・建御雷神を祀る。本宗の鹿島神宮は春日大社の直接的な起源ともされており、地震を起こす鯰を封じる神とされたほか、建御名方神に勝利したことから武道の神としても幅広く信仰されている。
4)歴史
4.1)神話
・日本神話/古来の神祇信仰/大和朝廷/高天原/天津神・国津神/出雲国(出雲大社)
4.2)古代
(※1)神祇官:古代の律令制での神祇官は、朝廷の祭祀を司る官であり、諸国の官社を総轄した。現存する『令集解』より復元された養老令の職員令には太政官に先んじて筆頭に記載されるため、太政官よりも上位であり、相並んで独立した一官であった。諸官の最上位とされた日本独自の制度である。
しかし中村直勝による文書様式の研究から太政官より下位、八省と同等だったとわかり(今江広道,1986)、平安時代後期には国衙と同等まで低下したという(石尾芳久,1962)。また、有富純也は神祇官を「官」としたのは、個々の神社への幣帛の直接授受などにより太政官を介入させずに全国の神社を掌握する構想があったためとするが、実際には全国の神職らが都の神祇官に参集して幣帛を授ける仕組(『儀式』祈念祭儀)が機能せず、延暦17年(798年)に個々の神社への幣帛の授受が国司の職権に移行されて(官幣国幣社制度の導入)以後、神祇官の存在意義は失われたとする(有富純也,2003)。(※あくまでも、諸説あるなかの見解である。)
4.3)奈良時代
(※2)神宮寺(じんぐうじ)とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺、神宮禅院ともいう。
別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。宮寺は、神宮寺を意味するほかに、石清水八幡宮寺や鶴岡八幡宮寺のように、神祇の祭祀を目的とし、境内には神社のほか仏教施設や山内寺院が立ち並び、運営は仏教僧・寺院主体が行った、神仏習合の社寺複合施設または組織をいうこともある。
4.4)平安時代
・延喜式(第9-10巻を通常「神名帳」と称し、全国の朝廷、国司が祭る社格を定めた一覧表になっている)
・斎宮(※3)/斎院/二十二社(※4)/御霊信仰/本地垂迹説/天神信仰/祇園信仰
/熊野信仰
(※3)斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。
(※4)二十二社(にじゅうにしゃ)は、神社の社格の一つ。国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた。平安時代後期、後朱雀天皇治世の長暦3年(1039年)に22社目の日吉社が加わり、白河天皇治世の永保元年(1081年)に制度としての二十二社が確立したとされる。京から見て遠方の神社ではなく、主に畿内の神社から選ばれた。
4.5)中世
・伊勢神道/神道五部書(※5)/中世日本紀(※6)/吉田神道
(※5)神道五部書(しんとうごうぶしょ)とは、伊勢神道(度会神道)の根本経典で、以下の5つの経典の総称である。
・『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
・『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
・『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
・『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
・『倭姫命世記』
いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっているが、実際には鎌倉時代に度会行忠ら外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとみられている。
(※6)中世日本紀(ちゅうせいにほんぎ)は、日本中世において、『日本書紀』等に基づきながらも主に本地垂迹説などに則り多様に解釈・再編成された神話群の総称、あるいはそのような解釈・再編成の動きを指す学術用語である。前者については、中世神話とも呼ばれる。
中世日本紀では、記紀の神々が仏教の諸天諸仏と同一視されることが多く、神仏が同じ舞台で対等に渡り合ったりと中世における両部神道や山王神道などによる神仏習合思想を下敷きにした神話が語られている。また、そうでないものにあっても仏教の影響を受けた神話の解釈が見られる。主に歌学書、軍記物、寺社縁起などにおいて記述されているため、統一的・体系的な文献は存在せず、豊富なバリエーションが残されている。
4.6)近世
・神儒合一/国学/復古神道/垂加神道(江戸時代)/烏伝神道(経済と性に重きを置いた神道で、幕末期に賀茂規清によって大成された)/禊教(幕末に井上正鉄が唯一神道をもとに興した一派)/黒住教(幕末に黒住宗忠が興した天照大神の陽気に生命を求める神道)/天理教/不二道(幕末に小谷三志が広めた富士講の一派で、日常道徳に重きを置いた)。
4.7)近代
・国家神道/神仏分離/祭政一致/皇典講究所/教派神道/國學院/國學院大學/皇學館大学/神社整理(神社合祀)/神道指令
5)神道諸派
5.1)
伯家神道(白川神道・白川伯王家)/伊勢神道/吉田神道/両部神道/山王一実神道
/法華神道/土御門神道(天社土御門神道)/吉川神道/垂加神道/出雲神道
/物部神道/忌部神道/橘家神道/復古神道(古道)/国家神道/神社本庁
5.2)教派神道(神道十三派)
・神道大教/黒住教(神道黒住派)/神道修成派/出雲大社教/扶桑教/実行教
/神道大成教/神習教/御嶽教/神理教/禊教/金光教/大本
5.3)天理教
天理教は政府から弾圧をさけるために神道十三派に入ったが、現在では神道十三派を抜け、諸派に分類されている。また、記紀神話を用いず、泥海古記(どろうみこうき)と呼ばれる独自の創世神話を持っている。
5.4)神宮教
・神宮教とは、伊勢信仰である伊勢講を母体とした教派神道の一派である。正式には1882年(明治15年)に教派神道の一派となり1899年(明治32年)に神宮奉斎会へと発展改組した。
〔伊勢信仰の布教母体〕
1872年(明治5年)7月20日に伊勢神宮の少宮司で教部省にも所属した浦田長民が神宮教会の設立を願い出て、10月には教学のための神宮教院の届を出し、教徒のための講社を設け、従来の伊勢講(太々講)を基盤に神宮教会の傘下とし再編成を行った。神宮教院は神宮教会の中枢として設けられた。
1873年(明治6年)、伊勢神宮の大宮司である本庄宗秀による2000両の献金をもとに、全国の教会の模範となる説教館を設置し、8月には時擁館と名付けられ明治神宮内の神宮教会を意味した届け出は3月で、開館は10月1日である。各地の講社は愛国講社などと称したが、1873年(明治6年)10月には統一され神風講社となる。
1873年(明治6年)7月から12月の神宮教会の巡教では、企画は浦田、説教者は本庄やほかの教導職が行い、連日多いときには9000人余りそうでなくとも数百から2000人程度の聴衆が集まった。
大教院が瓦解すると、浦田の教化策に従い、東京に出張所を設け全国の各教区に本部教会1つと支部教会を置いた。
〔教派神道としての独立〕
1882年(明治15年)の「明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号」によって祭祀を司る神官と、布教を行う教導職との兼補を廃止される。この直後に神宮司庁と神宮教院を分離したが、この神宮教院が神道神宮派という教派神道の一派となった。
浦田が1877年(明治10年)に退任したあと教化に努めた田中頼庸が初代官長に就任する。10月5日には、教派神道の各派が派名で独立していたが、分派ではないとしてそれぞれ教団名にした。
1882年(明治15年)、神宮大麻と神宮暦の製造と頒布は、神宮教院への委託と取り決めたが、翌年、製造は神宮司庁が担うと改め、神宮教院は頒布を担った。
〔東京大神宮〕
1882年(明治15年)に東京日比谷の神宮司庁東京出張所の所有の不動産は神宮教院の所有となり、伴って神宮遥拝殿は、神宮教院の所有となり大神宮祠(通称、日比谷大神宮)と改称され、震災による焼失の後東京大神宮となった。
〔神宮奉斎会を経て神社本庁への発展改組〕
1899年(明治32年)9月24日には、国家神道の確立とともに活動の余地が狭まり、また国家事業である神宮大麻の頒布を一つの教派にゆだねることへの批判から、崇敬者による団体である財団法人神宮奉斎会と改組された。神道指令に伴い、1946年(昭和21年)1月23日、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の3団体が中心となり、神社本庁を設立する。
〔現在〕
現在、兵庫県丹波篠山市に同名の宗教団体がある。こちらは戦前の神宮教の直接の後継団体ではないが伊勢太神宮分霊を祭神とし、神社本庁別表神社である生田神社宮司の日置春文を管長とするなど伊勢神宮・神社本庁と無関係に設立されているわけでもない。
5.5)その他
●アニミズム
●太陽神
(2024.3.5:補足修正)
(引用:「ねずさんの学ぼう日本」https://nezu3344.com/blog-entry-5515.html)
第30代敏達天皇の即位14年春2月24日のことです。この日、蘇我馬子が流行病に倒れました。そこで占い師に問うと、「父のときに祀った仏を放置した祟り」との卦が出たのです。蘇我氏は大臣(おほおみ)ですから、この結果は天皇に奏上されます。
すると天皇は「卜者の言葉に従って、父の神(=稲目が祀った仏)を祀りなさい」と詔されました。このときの病は、実は国中に広がって、多くの民が亡くなっていました。
そのような情況の中で、天皇が仏を祀れと詔されたと聞いた物部守屋大連(おほむらじ)は、3月1日、中臣勝海とともに禁裏にまかり、主上に「なにゆえ我らの言葉を用いないのでしょうか。父天皇であられる欽明天皇から、陛下(敏達天皇)の時代に至るも病が流行して、国の民の命が絶たれています。それは蘇我臣が仏法を興しているからでございます」と奏上します。
天皇は「それが明らかならば、仏法を止めよ」と詔されました。
こうして3月30日には、物部守屋は自ら寺に詣出て、床几(しょうぎ)に座ると、寺の塔を切り倒し、これに火をつけ、仏像と一緒に焼き払いました。さらに焼け残った仏像を取って、難波の堀江に捨ててしまいます。
この日は雲が無いのに風が吹き、雨が降っていました。物部守屋は雨衣を被りながら、蘇我馬子に従う仏僧らを詰問しました。さらに蘇我馬子が供えた尼たちを呼び寄せると、彼女たちを牢屋に預けました。牢番たちは、尼たちの三衣(さむえ)を奪い、縛り上げて市販の馬を叩く棒で、楚撻(そうち=鞭打)ちました。(便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭)
ところがそうまでしたのに、一向に疫病がおさまる気配がない。蘇我馬子は、「これは物部氏が仏像や仏僧らにひどい仕打ちをしたから、仏罰が下ったのではないか」と言い出します。
こうして、6世紀の日本は、蘇我氏と物部氏の相克の時代となっていきました。。。。。
と、以上は日本書紀にある物語です。
結局、587年の丁未の乱で物部氏は滅ぼされ、この対立に決着が付きますが、それでも仏教と古来の神道との間には、その後も軋轢がきしみ続けます。
そうした時代下にあって、593年、推古天皇が御即位され、聖徳太子を摂政に起きました。
聖徳太子は、翌年2月1日に、三寶興隆の詔(仏教興隆の詔)を推古天皇の御名で発します。「三寶」とは仏・法・僧のことです。これにより氏寺の建立が盛んになったという。
そして聖徳太子は、飛鳥寺、法隆寺(斑鳩寺)、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺などを次々に建立していきます。
こうして仏教界に完全に安心を与えた後に、聖徳太子は、607年2月、「敬神の詔」を推古天皇の御名で詔するのです。
それは、「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」(朕聞之、曩者、我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祗、周祠山川、幽通乾坤。是以、陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祠神祗、豈有怠乎。故、群臣共為竭心、宜拝神祗。)とするものでした。
こうして我が国は、ご皇室は神道と仏教を見事に大調和させていくのです。この大調和の精神は、それから1400年以上経過した我が国において、いまなお生きている精神です。
(追記:2023.4.29)
1)概要 2)歴史 3)種類(後述)(参考)神仏習合現象の始まり(図書紹介)
(引用:Wikipedia)
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
当初は仏教が主、神道が従であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。
日本で仏、菩薩が仮に神の姿となったとし、阿弥陀如来の垂迹を八幡神、大日如来の垂迹が伊勢大神であるとする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生するが、神道側からは神道を主、仏教を従とする反本地垂迹説が出された。
江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛し、明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。
1)概要
神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。
仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。
日本への仏教の伝来から、神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり、さらに戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。
2)歴史
2.1)仏教の伝来
552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。日本で最初に出家して仏を祀ったのは尼(善信尼)と『日本書紀』にはあるが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたのをそのまま仏にあてはめたものと考えられている。
寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、仏教には祟りという概念は無いため、神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解できる。
2.2)神宮寺の建立
〔神身離脱〕
宇佐神宮が朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされているが、一般的にはそれより後、日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神道の神を迷える衆生の一種と位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされている。これを神身離脱という。
〔法楽〕
715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らにより鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。このような神のための神域内の造寺造仏を「法楽」
〔仏道に帰依〕
奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになった。
〔神像の造形〕
また、東寺・薬師寺に見られるように9世紀には神体が菩薩形をとる僧形八幡神も現れた。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。また、神の存在は元々不可視であり依り代によって知ることのできるものであったが、神像の造形によって神の存在を表現するようになった。
〔有力豪族たちの願望〕
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられている。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。
〔遊行僧の出現〕
それに応えるように雑密(※)を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。
※雑密:世界の女性原理的霊力をそれと同置された呪文,術語でいう真言(しんごん)(マントラ),明呪(みようじゆ)(ビディヤーvidyā),陀羅尼(だらに)(ダーラニー)等の誦持によってコントロールし,各種の目的(治痛,息災,財福の獲得など)を達しようとするものである。
〔重税からの逃避〕
神々が仏に帰依したいと神託を下してきたと各神社の神職が訴え出てきたのは、律令制の重税から逃れたかったためという指摘もあり、当時、民が勝手に僧侶になる=優婆塞の例が後を絶たなかったことが根拠とされる。つまり当時は神道側も搾取される側であり、例外は仏教僧であったことも起因している(後世の神奴も税は免除されている)。
〔仏法守護の善神〕
こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とした。これが現在の手向山八幡宮である。他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は護法善神といわれる。
〔神仏混淆〕
この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在と見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫するものではなく、神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となっている。
2.3)大乗密教による系列化
これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて基盤を強化しつつあったが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来するとされる租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院と認識されることを望むようになってきた。
朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進んだ。
また、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を受けながら神仏習合とも強く関係しつつ、独自の発達を遂げることとなった。
2.4)熊野信仰
本地垂迹説により、普遍性を獲得する契機の先頭に立ったのが、八幡神や日吉神、熊野神など早くから仏教と深い関係を取り結んでいた神々であった。とりわけ熊野の神々は、修験道と結びつくと共に、院の帰依を受け、院政期以降に「熊野信仰」を全国に広げていった。
熊野は本宮・新宮・那智の三社(熊野三所権現)で構成され、熊野本宮の本地・阿弥陀如来は、平安末以降の阿弥陀仏による救済願望に応える神として衆庶の信仰を集め、一大霊場として繁栄を極めた(蟻の熊野詣)。この時、浄土信仰を奉じる一遍も参詣し、託宣を受けて時宗開教へ踏み出している。
熊野信仰の隆盛は、古代的な価値観の解体も示しており、熊野信仰の特質の一つの苦行が霊験を高め、現世的なもの、身体的なものを超えた、高次元の精神的なものを志向することとなった。その霊験をテコに「日本第一大霊験所」と称して、比類なき神格の尊貴性を主張し、伊勢・熊野同体論が登場するなどし、神々が互いの霊験を競い合うようになった。
2.5)怨霊信仰
〔幽霊信仰〕
「祟り」とは神の意思の表現方法であり、人の霊の一部が、神に比した「祟り」をなすという考えは奈良時代より見られる。これが「御霊信仰」である。御霊信仰は、政治的闘争において敗北して処刑された人の霊が、疫病などの祟りを行うと信じて、その霊を慰めようとする信仰であり、怨霊信仰の一種とされる。この御霊信仰が、人を神と祀る人神信仰の始まりであり、幽霊への信仰の始まりでもあった。
〔菅原道真の怨霊〕
密教の興隆は王権の相対化をもたらし、藤原氏の勢力拡大に伴う旧来の名族の没落とも相まって、政争敗死者を担いで王権への不満や反撥を正当化する怨霊信仰が盛んとなった。
この動きは平安時代前期には御霊会の流行を引き起こしたが、民間の疫神への信仰と結びつき、疫病をもたらす疫神の跳梁と考えられて、それを慰めるための「御霊会」が催された。平安時代の怨霊信仰の、特に最大の存在が菅原道真の怨霊である。
道真の霊は、初めは恐ろしい怨霊とみられていたが、道真は文人として知られていた人でもあり、後には学問・詩歌の神として信仰されていき、慈悲に満ちる神として天神信仰へと変化していった。この変化に際し、仏教の論理により天部として位置づけられたことは、王権に対する祟りの後に祀られて善神(護法善神)となったという考え方が密教の影響だったと示している。
〔将門の新皇即位〕
この典型的な例が平将門即位の状況に見られる。将門の新皇即位は、神仏習合の神であり天皇家の祖神でもある八幡神がその位を授け、位記(辞令)を菅原道真が書いたとし、仏教音楽により儀式を行うようにと神祇信仰の巫女が託宣したものであり、王権相対化の論理を正当化する手段としての仏教の影響が強く表れている。
〔牛頭天王の信仰〕
一方で、御霊信仰と疫神信仰の融合から出たのが牛頭天王の信仰である。京都では御霊会を受け継ぎ、祇園御霊会が恒例となり、その拠点として祇王天神堂が創建され、これが現在の八坂神社となり、祇園御霊会が祇園祭となった。
2.6)ケガレ忌避の論理
このように呪術的な信仰を求める大衆に対しての仏教の側からの浸透に対抗し、神祇信仰の側からも理論武装の動きが出てきた。
神祇信仰においては従来それほど顕著でなかった二極対立の考え方が発達し、浄とケガレの二極が強調されるようになった。このため9世紀から10世紀にかけて、従来は祓いで済んでいたケガレ除去の方法が、陰陽道の影響もあり物忌み中心に変わってきていることが確認されている。
神祇信仰の論理性の強化は、仏教側からの侵食に対抗するとともに、仏教側と共生することを可能とした。10世紀末には、浄土思想にもケガレ思想の影響が見られ、往生要集などには本来の仏教の浄穢思想理解のための手段として、神祇信仰のケガレを利用した論理が見受けられる。
2.7)本地垂迹説
詳細は本地垂迹説参照
神宮寺の創建を経て、神仏の習合は進んでいき、十世紀頃には本地垂迹説が成立した。
本地垂迹とは、仏菩薩が衆生を救済するために、仮に神の姿として現れたものとする説である。
本地垂迹説は、ケガレを忌避する神祇信仰に対し、ケガレから根本的に離脱する方法を提示できる仏教の優位を示すこととなった浄土思想の普及により出てきた動きであり、仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できる。
絶対的存在としての仏や菩薩と、その化身である神という形を取ることにより、神仏の調和の理論的裏づけとしたのである。また、このような仏教優位の考え方は、ケガレと日常的に接する武士の心を捉え、以後の八幡神信仰や天神信仰の興隆にもつながることとなった。
八幡神は、神と仏の歴史をみる際に、重要な役割を担ってきた神であるが、歴史上では九州豊前国宇佐地方より奈良時代に登場し、平安京遷都には京都に石清水八幡宮が勧請された。応神天皇と同体ともみなされ、天照大神とともに天皇家の始祖神とされた。747年の東大寺大仏造営事業の際には、神々を代表してこの造営に参画するために上京したとされ、あるいは一部の神々が「菩薩」と名乗るようになったのも八幡神が最初であり、明治維新まで「八幡大菩薩」と号していた。
更に鎌倉時代になると本地垂迹説による両部神道や山王神道による大祓詞(中臣祓詞訓解)の仏教的解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の仏教的説明の試みが活発化し、「中世日本紀」といわれる現象が見られるようになった。
仏教の天部の神々も元来はヒンドゥー教の神であったように、インドに起こった仏教は他国への伝播の過程において、日本だけでなく中国においても、その地域社会の土着の神々や歴史上の重要人物を仏菩薩の化身として包摂することで根付いていった歴史がある。仏教にはそのような性質が本来あったことが神仏習合を生んだ要因でもあった。
2.8)神本仏迹説
詳細は反本地垂迹説参照
鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れ、江戸時代には儒学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生した。これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献した。
しかし、神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく続いている。現在、仏教の寺院の墓地における墓石と板塔婆がそれぞれ石と木で作られることを、神社における磐座と神籬の影響とする説があるように、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている。
2.9)天道思想
詳細は天道思想参照
日本の戦国時代は、歴史学上、現在の日本社会の原型が成立した最も重要な時代とみなされている。この時代の日本では、宗教や信仰も大きな隆盛をみせていた。戦国時代には、神仏習合の観念と符節を合わせるように、さらに「天道思想」が戦国武将に広がり、「天運」「天命」を司るものと認識され、仏教・儒教に日本の神道が結合した、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を形成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に広く深く浸透されるようになった。
この「天道」の観念は、中国から流入した儒教道徳により浸透したとされ、古くは『日本書紀』『今昔物語集』にも見ることができる。天道は『周易』『尚書』などの古代中国にあり、「自然の摂理(道理)」や「天」の人格化に伴いその意志を示す語ともなった。
日本では加えて、天道は「人間の運命」を左右するものとされ、「神仏」の加護と同等とみなされ、「世俗的道徳」の遵守、「内面的倫理」を重視することで「心中の実」が天道に適うことが大切とされた。
戦国武将も天道に反する行いによって罰を受けるとして、神仏への起請を破ること、世俗道徳を破ることで、天道に見放されると感じていた。織田信長、豊臣秀吉、徳川幕府も天道思想の持ち主であった。
天道思想の拡大の背景のひとつには、五山禅林を中心とした諸教一致の思潮がある。五山の禅僧は、禅学を中心としながら広く他の思想にも関心を示したが、これを保証したのが儒仏道の三教一致の思想であり、中国の禅林の思想が移入されたものであったが、日本では道教(道家思想)を神道に置き換えながら、神儒仏一致の思想として受け入れられた。
「天道思想」が浸透した日本の宗教観では、諸宗派・諸教団がそれぞれの神仏を戴いて共存することが、即ち天道に適うとされた。当時の日本は「日本宗」ともいうべき共通の宗教的心性を育んだ「見えない国教」が形成されており、「天道」の観念のもと教義も行動様式も異なって見える諸宗派が、実は同一の思想的枠組に収まる共存的宗教観が上下を分かたず共有されており、諸宗は「政教分離」的な原則を共有して活動していた。
「天道思想」は近世以降も続いていき、個々人の倫理と道徳を保証するものとなり、また素朴な信仰面では太陽と結びつけられ「おてんとさん」として太陽信仰の一部となっている。天道思想は明治維新によってその地位が失われたが、現在でも「おてんとうさまに顔向けができない」といった俗諺にわずかに残っている。
3)種類(後述)
両部神道/山王神道/御流神道/伊勢神道/吉田神道/三輪神道/垂加神道/雲伝神道
引用:逵 日出典著「八幡神と神仏習合」(講談社現代新書2007年刊)
〔目次〕
第1章 神奈備信仰(神体山信仰)と仏教の伝来(略)
第2章 神仏習合現象の始まり(抜粋)
第3章 八幡という神の成立(略)
第4章 八幡神の発展と神仏習合(略)
第5章 習合現象の中央進出と八幡大菩薩の顕現(略)
第6章 本地垂迹説の成立(略)
第7章 八幡仏教徒の国東進出(略)
第8章 八幡信仰の全国的広がりと神仏習合(略)
〔第2章 神仏習合現象の始まり〕
仏教公伝以来7世紀末ころまでの1世紀半余りに及ぶ時期(約170年間)は、日本における仏教興隆期であるとともに、古来の神祇信仰と伝来の仏教が接近し、やがて両者が集合に至る素地の形成期でもあった。この素地を踏まえて、神仏習合が現象となって現われる。最初の習合現象はどのような形で現れたのであろうか。
〇神仏習合の素地形成
①神祇・仏教両者の内容面より形成する素地
神祇・仏教両者の内容は大きく異なるが、両者とも他を排斥する一神教ではなく、多神教であるという共通点を持っている。これは重要な要素であり、多角的に物事を摂取し、何事にも融通のきく解釈ができる日本人によって、両者を接近させる出発点になったと考えられよう。
また、仏教の中に諸天(しょてん)というものがある。釈迦が仏教を開いて後、インド固有の神々を仏教の中に取り入れ、仏法守護の役割をそれぞれに課して諸天とした。わが国において、これら諸天は日本固有の神々に相応すると考えられるようになっていく。仏教を教義的理解を通してではなく、神祇信仰にもある呪術的・現世祈願的なものに期待する形で受け入れ、仏教の一段と高度な呪術に影響されることが大きくなっていく。
仏教のこのような直観的理解は、仏教の持つ外見面の相違が神祇信仰にも影響を及ぼすことになり、前章で述べた人格神の登場や神社に社殿が立てられるなどの現象を見るに至る。
以上のことがらに、両者の接近・集合に至る一つの素地の形成を見出すことができるであろう。
②仏教受容面より形成する素地
ここで扱う仏教受容は民間に限定し、国家としての受容は次の③で扱う。
まず、仏教本来の立場からすれば一つの矛盾ではあるが、祖先崇拝と結合して仏教が受容され、また仏教を祭祀的な面において受容したり、さらに、海上から訪れてくるものはまさに祖霊、「まれびと神」として需要されるなど、いずれも習合の素地を形成するものである。
一方、社会構造面から見ると、四・五・六世紀は豪族(氏族)間の抗争が激化した時期であり、豪族たちの支配が再編成を繰り返していく。この中で本来の豪族の守護神(氏神)が新たに編入された被支配者に対して従前のような威力を発揮できない(日本の神祇は地域的閉鎖性をもっていた)。いわば支配の上で危機的状況に迫られた豪族たちは、ここに普遍的神性として仏教を受容する基盤ができていった。
したがって、地方における仏教はまず豪族によって受容され、一般大衆(農民)は豪族を通して間接的に仏教を受容した。その中で、仏は何よりも荒ぶる神を鎮めるものとして受容され、大衆の間に「神も仏もない」という意識を培い、やがて、習合現象が地方を舞台に起こる素地が形成されていく。
③国家の宗教政策より形成する素地
伝来の仏教は、しばらくの間、天皇(国家)の立場において受容されなかった。したがって、当初の日本仏教は氏族仏教として展開した。
本格的に天皇の立場において仏教を受容するのは、七世紀後半の天武天皇である。天皇は、『金光明教』・『任王教』・『法華経』など鎮護国家の経典(いわゆる護国の経典)を重視し、公的な立場でにおいて受容する。つまり律令国家の中に仏教を組み入れることにより、国家仏教として成立し、ここに神仏は同格となる。それは、②の氏族社会が仏教受容に至った宗教意識の、より一層の明確化の上に立っていたともいえよう。
神仏同格を打ち出した国家は、さまざまな ”国の大事” にさいして、神祇・仏教の双方に祈願刷ることになる。このような動向の中にも習合現象の素地が生まれる。
④仏教徒の山岳修業より形成する素地
大化改新後の七世紀後半から急速に盛んとなる仏教徒による山岳修行(その様相はすでに前章でのべた)は、仏教徒が山に入ることに意味があり、彼らが山に鎮まる神々や諸霊を避けて通るわけにはいかなかった。彼らはまず、神々や諸霊を祈り祀って、その協力と保護を得ることにより、自らの修行を可能とすることができたであろう。
したがって、仏教徒の山岳修行を通じて、神仏の接近はおろか、極めて自然な形で、どの面よりも先んじて神仏習合の端緒(行為のうえで)を開いていたのである。
*以上、四つの側面にまとめて習合の素地形成をみたが、要するに、①②がまず形成し、七世紀後半に至って③④が決定的なものに導く形で登場した。しかも④は重要な素地であるとともに、習合への端緒を開いていたことは注目に値する。
〇山岳修行者の地方遊行
地方での仏教受容は当然のことながら地方豪族によってなされ、一般大衆はこれらの豪族を通して間接的に強化を受けた。このような中で、氏神を中心に神観念が変貌を遂げる。氏神が成立しても、祖先神を祀るだけでなく、従来信仰していた自然神をも祀っているのが実情であった。大化改新後の律令制下においても、一般大衆の間には原始的な精霊信仰が温存されていた。
これがかっての氏族社会における祖霊信仰と結びついていたこともあって、氏神はようやく祖先神の奉祀に一本化され、受容された仏教からの影響も多分にあって、それぞれ職能をもった人格神として登場することになった。
人格神の登場により、地方豪族によって受容され、大衆に教化された仏教は、神祇信仰ときわめて近いものとして受け取られたことであろう。つまり、その教化はきわめて単純な内容にならざるを得ない。そうでないと大衆にはとても理解できない。単純になればなるほど、神と仏の差はなくなっていく。豪族の立場からすれば、仏教は何よりも荒ぶる神(一定の方針に従わない悪神)を圧伏するものとして受容された。
先に素地形成の②で述べたことと関係するが、もともと小豪族が小地域の土地や人民を神威(神の力)を借りながら支配していた。ところが、四・五・六世紀と時の推移の中で豪族間の抗争が続き、有力豪族は弱小豪族を次々に打ち破り、その小豪族・土地・人民を支配下に入れ、一段と広い地域を支配することになった(支配の再編成)。ここで破れた小豪族たち(土地・人民とも)はやむをえず有力者の支配下に入り被支配者となったわけであるが、これら被支配者たちは本来それぞれ異なる神を祀ってきたのである。したがって、被支配者たちは、ややもすれば、みずからの神を奉じて新たな支配者である有力豪族に反抗を企てようとする。
有力豪族にとって、征服を重ねて得たより広い地域の円滑な支配は困難となり、支配の危機的状況におちいった。この状況を打開するため(つまり、荒ぶる神を圧伏するために)、普遍的神性(広い範囲にいきわたる神の性格)をもつものとして仏教を受容した。
従って、そこには神か仏かという教義上の問題はなかった。仏教の地方普及により、神仏習合に向って自然な形で進もうとしていたのである。
このような状況にある地方社会に、山岳で修行した仏教徒が遊行してくる。民間の修行者たちは入山修行と地方遊行を繰り返すことは前章で述べた。修行者は各地域をめぐり歩きながら、祈禱や卜占をして人々の要請に応えたので、大衆から大きな期待と尊敬を寄せられ、また、恐れられもした。遊行僧の中には、修行の程も疑わしい者や悪行をはたらく便乗者もいたらしく、政府を悩ませた。なぜならば、神祇信仰の中にも呪はあるが、彼らの活動は仏教的呪法によるものであり、一段と高度な呪法は大衆にとって魅力的であったことであろう。特に祈雨(雨乞)に対する呪法などは決定的な影響を与えたものと考えられる。
〇神身離脱思想
山岳修行者が地方を遊行することはさまざまな意味をもつ。彼らは不思議な呪力をもつ宗教者であるとともに、各地をめぐり歩く情報運搬者でもあり、地域社会に与える影響ははかり知れないものがあっただろう。かれらの遊行は七世紀後半からであり、律令国家体制になっている。この体制下では、これまでの地方豪族はことごとく郡司などの新しい地方行政官になり、引き続き地域の支配に当たっているので豪族層と記す。彼らが豪族層をはじめ大衆と盛んな接触をおこなう中で、神仏関係に大きな転換が起こってくる。おそらくこの転換は、山岳修行者からの働きかけによるところが大きいと考えられる。
それは神身離脱思想という新たな思想の登場である。その内容を要約すると、神は神であること自体を宿業(すくごう)(前世の報い)として苦悩している。そのことが神威の衰えをきたすことになり、結果は、風雨不順・五穀不作・疫病蔓延といった現象として現われ、地域社会の安穏が損なわれていく。苦悩する神は仏の力を借りて救われたいと望んでいる。つまり、神は仏法を悦びたまうのである。そうすることによって神威を増し、再び地域社会の安泰を保持することができるー明らかに仏教的立場からの内容であることがわかる。(この思想は『金光明最勝王経』滅業障品によっているとされる)。
いまや、これまで通りの神であっては、地域社会の要望に応えきれなくなっており、どうしても仏教の呪力が必要なのだ、というところから出た考えである。山岳修行者によって鼓吹されるこの思想は、まず豪族層への説得としてなされ、修行者と豪族層との間に、新しい神仏関係の具体的な実現策が考え出されていく。神仏習合がここに初めて現象(形)となって登場するのである。
〇神宮寺の出現と分布(抄)
神仏習合による最初の現象とは神宮寺の出現である。神宮寺とは、神威の衰えた神を救い護るために神社の傍らにできる寺院をいう。歴史の表面を華々しく彩る奈良の諸官寺とは対照的に、地方から登場してくるのが各地の神宮寺である。
*初期神宮寺事例一覧表(略)
〇創建事情に見る一般的特徴(抄)
*一般的な特徴
①神の苦悩(宿業としての神身であること自体)を、仏力を加えることによって救い、神威を一段と発揮させる。神もまた仏法を悦び歓迎する。そのために神宮寺を建立する。つまり、神身離脱思想を伴っての建立である。
②右の、つまり①の結果として、農耕生活の安定(風雨順調・五穀豊穣・疫病除去など)がもたらされる。
③神宮寺創建の推進力は地方の豪族である。
④神宮寺創建に関係した仏教徒はことごとく山岳修行者(沙弥・優婆塞・禅師など)であり、中には官僧もいるが、それとても山岳修行の経験者である。したがって、①でいう仏力によって神の苦悩を救うという「仏力」とは、山岳修行で得た呪法の力であることが分かる。
神身離脱思想にもとづいて神託が発せられると、豪族層は修行僧と協力して、心を寄せる大衆を動員して(知識集団を結成して)費用を集め(浄財を募って)、神宮寺の創建を進めることになる。このようにして創建された神宮寺は、地域社会の願望に応えるものとしての意味づけをもつ。
ところが、いま述べた特色とは異なる神宮寺が例外として有る。それは、宇佐八幡神宮寺(宇佐弥勒寺)と八幡比売神宮寺である。(後述:略)
さて、神仏習合現象が始まり、各地に神宮寺が出現すると、次なる現象として神の前でお経を読む「神前読経」が盛んに行われるようになる。
元来、神の前で読むのは祝詞(のりと)であるが、ここにきて、先述のように神仏関係が大きく転換してくると、神は仏法を悦ぶと考えられるようになり、必然的に神は読経も悦ぶものと考えたのは当然であろう。
〇初期神仏習合の特質
神宮寺の創建・神前読経という初期の神仏習合現象を通して、その特質を考えておこう。
神仏習合という現象は、神仏両者が接近し、結合・融合することうをいう。接近のしかたにおいて、いずれかが一方的に接近する場合と、両者ともども接近し合う場合の二つがあるであろう。初期神仏習合現象の場合、背景となった神身離脱思想にしても、神宮寺創建事情・神前読経にしても、明らかに仏から神への一方的な接近による習合である。これはどうしてであろうか。
第1章で述べたように、仏教は深遠な内容をもっていたが、後から伝来してきたというところに弱点があった。一方の神祇信仰は古来のものであり、きわめて自然な要素を豊かにもっており、日本社会の隅々まで浸透している。つまり、神祇信仰は地盤において強固なものを持っていた。伝来の仏教にとっては、古来の神祇に習合していくことにより、一層大衆の中に浸透をはかったものと考えられる。
このように初期神仏習合現象にみる第一の特質は、地方から発生した仏から神へと接近したといえよう。
次に、これまで見てきた諸現象は、現象ばかりが目立ち、強い思想的裏づけを感じない。もちろん神身離脱思想があったとはいえ、仏教側からの都合のよい説明の感が強い。わが国の神祇信仰には、強い信仰性はあっても深い教義は持ち合わせていなかった。清らかな心、正直な心をもって神に祈るという実に素朴な信仰で支えられている。それに寄生していった仏教の側としても、あえて深い思想や理論的裏づけを必要とせず、習合することこそ先決であり、現象が大いに優先することになった。これをもって初期習合現象にみられる第二の特質と言えよう。
追記:令和3年11月5日
1)両部神道 2)山王神道 3)御流神道 4)伊勢神道
5)吉田神道 6)三輪神道 7)垂加神道 8)雲伝神道
(引用:Wikipedia)
1)両部神道
両部神道とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想である。両部習合神道ともいう。
金剛界曼荼羅 (引用:Wikipedia) 胎蔵曼荼羅
1.1)概要
密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとされる。それは大日如来を中心にした金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅の儀規として表現されている。この金剛界と胎蔵界の両部の曼陀羅に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々をその垂迹として解釈した。
●思想
両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王であり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であり、尸棄大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした(二宮一光説)。両部神道とは、これによって神と仏の究極的一致を説明しようとしたところに注目した命名である。
また、日本書紀の三神に、仏教の如来の三身(※)をあてはめ、国常立尊が法身、国狭槌尊が報身、豊斟渟尊が応身であるとし、この三神が合一して、密教の本尊である大日如来となるともした。
(※)三身は、大乗仏教における、仏の3種類の身のあり方(法身・報身・応身)で、仏身観の一種である。三身説。『十地経論』巻3には「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とある。通常はこの三身説がよく用いられる。対応関係を表すと次の通り。
三身 |
説明 |
三徳 |
仏(如来) |
法 身 (ほっしん) |
宇宙の真理・真如そのもの、仏性。 |
法身 |
毘盧遮那仏 |
報 身 (ほうじん) |
仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。 |
般若 |
阿弥陀仏 |
応 身 (おうじん) |
この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。 |
解脱 |
釈迦牟尼仏 |
三身が具現していることを、三身即一、あるいは三身円満などという。
また古事記の天神七代は過去七仏(※)に等しく、また北斗七星の各星を表しているとされた。またイザナギ・イザナミ、諏訪神社の上社・下社、なども両部曼陀羅になぞらえられた。
(※)過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。
古い順から
①毘婆尸仏 ②尸棄仏 ③毘舎浮仏 ④倶留孫仏 ⑤倶那含牟尼仏 ⑥迦葉仏 ⑦釈迦牟尼仏
の7仏。いわゆる過去仏信仰の代表的な例。
1.2)歴史
両部神道の萌芽は仏教伝来にまでたどることができる。仏教伝来により日本古来の信仰であった神道も多大な影響を受けた。日本の神々も仏法による解脱を望んでいるとして神前読経が行われるようになり、神社の境内に神宮寺が建てられ、仏像の影響を受けて神像も製作されるようになった。
やがて8世紀末頃から、日本の神々は仏と同体と考えられ、本地である仏が日本の人々を救済するために仮に神に姿を変えて現れたとする本地垂迹説が発生し、のちの神仏習合思想の基礎となった。
平安時代後期には、神道を理論的に説明する教説として僧侶による仏家の神道理論が成立した。当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち、天台宗の教えを取り入れたのが山王神道、真言宗の教えを取り入れたのが両部神道である。
両派とも大祓詞の解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の説明が、当時の仏教界の主流だった密教の教義を用いてなされている。
いずれも、最澄・空海などに選者を仮託する神道書によっており、各神社の秘伝として伝授され、また一部は、修験道などを介して民間にも知られていった。これらは鎌倉時代に理論化され、後世多くの神道説を生み出していった。
これらの神道書のうち、後世に最も大きな影響を与えたのが、醍醐天皇が神泉苑に出現した龍女から受けた秘伝と称する『麗気記』である。この書は、伊勢神宮に関する真言密教に基づいた深秘説を集成しており、南北朝期以降、『日本書紀』と並ぶ中世神道の最も重要な聖典と見なされるようになった。
1.3)影響
両部神道はのちの神道説の展開に大きな影響をあたえ、中世には習合神道説の主流となって、御流神道、三輪神道などの多くの分流が生じた。
しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説をとなえる伊勢神道や吉田神道が現れ、江戸時代には神道の主流派の教義となっていく。
幕末から明治維新にかけ、明治元年(1868年)に出された廃仏毀釈および神仏分離により両部神道は壊滅的な打撃を受け、神道教義の主流派の地位を失った。
2)山王神道
山王神道(さんのうしんとう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派である。狭義には、江戸時代の天海より以前のものを山王神道という。
比叡山(引用:Wikipedia)
2.1)概要
日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合したのが山王神道である。山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとされ、神仏分離では大山咋神とされた。
また、「山」の字も「王」の字も、三本の線と、それを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想(※)と結びつけて説いた。
(※)三諦即一思想
山王神道の中心思想は山王の2字を天台宗の三諦円融観をもって説明するもので,三諦とは仮諦・空諦・中諦を指す。仮諦とは万法妙有,空諦とは諸法真空,中諦とは諸法実相非有非空を指し,円融観からすれば三諦は一つである(三諦即一)と説かれる。山王神道ではこれを山王2字に転用して,山の竪(たて)三画は三諦,横一画は即一をあらわし,王字では横三画は三諦,竪一画は即一をあらわす。
山王神道の教説をまとめた書としては、『山家要略記(さんけようりゃくき)』が知られる。同書は、比叡山の僧である義源が、顕真に仮託して鎌倉時代の後期に編纂したものであり、比叡山の神道思想とそれに関わる大衆の活動を考えるうえで重要な史料とされる。義源は、修行としての記録を重視した「記家(きけ)」と呼ばれる一派に属していたが、記家は、山王神道との関わりが深いとされてきた。
また、貞治5年(1366年)のころに成立したとされ、多種多様な神社の縁起を紹介している『神道雑々集(しんどうざつざつしゅう)』も、山王神道に関する記述が多い。『神道雑々集』は、その以前、文和・延文年間(1352年-1361年)に成立したとされる『神道集』の成立に刺激されて編纂されたとする指摘があり、『神道集』が山王神道に距離を置く檀那流の系統にある安居院流(あぐいりゅう)の者が編纂したのに対し、『神道雑々集』は山王神道に積極的とされた恵心流(記家)の者が編纂したとする説がある。
「山王神道」とは、広義には、比叡山における「山王」を中心とした神々への信仰を意味するが、狭義には、上述の『山家要略記』などの記家の文献にみられる神道思想を指すことが多く、山王神道の教説は記家が生み出したと説明されることさえある。
だが、山王神道を記家の神道説とすることには、異論もある。記家は神道を重んじ、主な活動が山王神道の伝承であったことや、山王神道の発展に果たした役割が大きいことが指摘されているが、一方で、山王神道は必ずしも記家が独占していたわけではないともいわれる。
また、義源と戒家との関わりに着目し、戒家の教学形成に記家が与えた影響が大きいとして、戒家と山王神道との深い関係を唱える説もみられる。なお、戒家とは、南都の戒律復興に刺激され、円戒の復興を目指した派である。また、比叡山付近の大衆の活動が山王神道と深い関係があることも指摘されており、山王神道はそれら大衆の思想と活動の中に位置づけるべきだとの主張もみられる。
いずれにせよ、山王神道を語るうえで、記家の位置づけをどうみるかは、非常に大きな課題といえる。
2.2)歴史
最澄が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として日吉山王権現を祀った。
音羽山の支峰である牛尾山は、古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。
また、古事記には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。
山王神道の始まりは、貞応2年(1223年)成立の『耀天記』の「山王事」に記載がある本地垂迹説であるとされ、この段階では、山王神道の教理はまだ稚拙であったとされる。
なお、「山王事」の成立時期には諸説があるという。その後、鎌倉時代の後期に入り、伊勢神道の刺激を受け、思想が発達し、組織化も進んでいく中で、義源が『山家要略記』を編纂し、教説を集成したとされる。
山王神道の教学形成において、『山家要略記』の編纂が大きな役割を果たしたとする見解は、ほぼ定説のようになっている。だが、『山家要略記』以前に既に山王神道の教説はできあがっていたとする説も多い。
たとえば、戒家の文献にみられるように、義源の前に既に山王神道の教理はほぼ形成されており、記家の文献も豊富となっていたとする説もある。また、慈円に密教思想がみられることから、山王神道の教理形成に慈円が大きな役割を果たしたとする指摘もある。
このほか、中世に唱えられたとされる山王の受戒説の始まりが、正暦4年(993年)の比叡山分裂以前にみられるとする説もある。
いずれにせよ、『山家要略記』は山王神道の教本としては非常に大きな存在と認識されており、その成立以前の教理がどのように形成され、どのように発展していったかを考察することが、義源の編纂事業をどう評価するかにつながるとされる。
●山王一実神道
徳川家康につかえていた江戸時代の僧・天海は、家康の歿後、山王神道説をもとに山王一実神道(さんのういちじつしんとう)へと発展させ、山王一実神道に依拠して家康の霊を権現(東照大権現)の神号で祀ることを主唱した。山王一実神道では、山王権現とは大日如来であり、天照大神であると説いた。これには伊勢神道の影響も見られる。
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府城で死亡し、柩は久能山に運ばれ、19日に吉田神道の流儀で埋葬されたが、元和3年(1617年)に日光へ柩が移され、天海により山王一実神道の流儀で祀られることとなった。
同年4月4日、柩は、日光の座禅院に、次いで8日には奥院へと移され、天海により五眼具足の印と真言が伝授され、11日後には塔柱灌頂鎮座深秘式、三種神器秘印明が修された。こうした儀式は、天皇の即位灌頂の際の秘儀と同一とされ、家康が日光で天皇と同等かそれ以上の神霊として祀られたことを意味するとされる。家康の墓所には東照宮が建立され、天海は薬師如来の垂迹である、東照大権現の由来を記した『東照大権現縁起』を編纂した。
江戸幕府は、幕府を開いた徳川家康が天海から東照大権現の位を受けたことなどにより、家康を神格化して、徳川という新しい家系の地位を安定させたとされる。だが、天海の主張により、山王一実神道によって家康が祀られたにも関わらず、家康や日光への崇敬は別として、山王神道そのものは、江戸幕府の将軍から厚遇を受けることはなかったとされる。そして、山王神道は、江戸時代の神仏習合の神道の中では最も活動的であったのに、近代の神道の諸派と互角に競う力も持てなかったとされる。このことは、江戸幕府が宗教をさほど重視しておらず、特に神道については、幕府の主要な関心事とならず、二次的地位であったことを示しているといわれる。
また、乗因は、比叡山で山王一実神道を修し、 『山家要略記』を伝授された後、信州の戸隠にて、忌部神道や『旧事大成経』の教義を取り込んで、修験道の一派である一実霊宗神道を開き、信州の住民に支持された。だが、乗因は天台宗内部で異端として訴えられ、八丈島に流され、そこで亡くなった。後に、乗因は恩赦されるが、この事件は神道の問題ではなく天台宗の内部の問題で終わったとされる。
山王神道が天台宗によって厳しく統制されていたことも指摘されるが、このことについては、上述の乗因のような「異端」の教義が一時的に隆盛したことと矛盾するように思われ、また、山王一実神道を開いた天海もどちらかといえば「異端」といえる存在であり、このように異端とされる存在が多く台頭する以上、天台宗による統制が厳しかったとはいえないのではないか、という反論もある。
2.3)研究史
山王神道に関する主要な文献のひとつとみなされる『山家要略記』は、菅原信海、野本覚成らによって原文が整理され、天海蔵とされる9巻の書が続天台宗全書『神道1』(春秋社、1999年)に収録された。だが、その後、『山家要略記』の研究は進んでいないとされる。同書は、上述のように、位置づけについても見直しが必要とされてきた。
山王神道の研究としては、以下のものがあげられる。
・島地大等「一実神道に就て」(『教理と史論』 明治書院、1931年)
・田島徳音「日吉山王神道」(『神道大辞典』臨川書店、1937年)
・佐藤真人「山王神道の教理」(『国文学解釈と鑑賞』、1987年9月)
・菅原信海『山王神道の研究』(春秋社、1992年)
・佐藤真人「山王神道」(『神道事典』弘文堂、1994年)
・末木文美士『中世の神と仏』(山川出版社、2003年)
・水上文義「山王神道の形成」(伊藤聡編『中世神話と神祇・神道世界』竹林舎、2011年)
3)御流神道
御流神道(ごりゅうしんとう)とは、法親王などに相承される法流の神道。両部神道が真言密教と密接に結びついて発達した。
〇概要
平安時代末期から鎌倉時代にかけて成立したと考えられ、様々な灌頂儀式とともに伝承され、室町時代には密教的儀礼に基づいた御流神道加行法則が成立し、江戸時代初期には八十通印信の印信(※)形式を整え、御流神道口決と呼ばれる口決(※)も成立した。
だが、明治維新の神仏分離令によって解体させられたが、今日でも密教寺院にその印信・口決の名残を残している。
※印信:密教で、師僧が秘法を伝授した証拠として弟子に授与する書状。
※口決: 文書に記さないで、口で直接言い伝える秘訣(ひけつ)。口伝(くでん)。口義(くぎ)。
4)伊勢神道
伊勢神道(いせしんとう)とは、伊勢神宮で生まれた神道の説。外宮の神職(度会氏)の間で唱えられるようになった。このため、度会神道・外宮神道ともいう。
伊勢神宮外宮(豊受大神宮)(引用:Wikipedia)
4.1)概要
鎌倉時代末期に、それまでの両部神道や山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本地垂迹説(神本仏迹説)が勃興するようになり、その影響で、伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって、伊勢神道が唱えられた。伊勢神道は、『神道五部書』(偽書とされる)を根本経典とする。また、儒教・道教思想の要素も含まれた最初の神道理論とされる。
伊勢神道は、元寇により日本が神国であると再認識し、日本における唯一絶対の宗教は神道であるとする勢力から支持され発展した。 日本書紀によると、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女で、天照大神の御杖代(みつえしろ)として各地を巡行し、伊勢の地で神宮を創祀した。「神道五部書」と呼ばれる伊勢神道の根本史料の一つ『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』(鎌倉時代頃成立)に、度会(わたらい)郡(度会町、大紀町、玉城町、南伊勢町)を中心とする倭姫命の足跡が数多く記されている。
その思想は、外宮の祭神である豊受大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神や国常立尊と同一視して、内宮の祭神である天照大神をしのぐ普遍的神格(絶対神)とし、内宮に対抗する要素があった。
それまで、外宮の豊受大神は、内宮の天照大神に奉仕する御饌津神とされていたが、度会氏は『神道五部書』を根拠に、外宮を内宮と同等、あるいはそれ以上の権威あるものとし、伊勢神宮における外宮の地位の引き上げを目指した。
また、家行は『類聚神祇本源』を著して宋学、老荘、仏教など多様な書物を引用しつつ伊勢神道を体系化するとともに、「機前論」という独自の神道教義を説いた。それは、世界が生成される以前の混沌状態を「機前」とし、かつそれが我が心の本源であり、そこに神の本質があるとした上で、その実践として清浄を維持することを説いたものである。
伊勢神道の理論の構成には、中国思想の影響が多分に感じられるが、絶対神の存在を強調することで、神を仏の上位におき、反仏、排仏の姿勢を示したのである。
伊勢神道は、鎌倉時代・室町時代を前期、江戸時代を後期とする。代表的な神道家として、創唱者の度会家行のほか、出口延佳などがあげられる。
4.2)伊勢神道家
●度会行忠(わたらい ゆきただ)(1236年 - 1306年)
鎌倉時代後期の伊勢国(現:三重県伊勢市)出身の神道家、外宮祠官、伊勢神宮禰宜。
●度会家行(わたらい いえゆき)(1256年 -1351年?)没年は1362年という説もある。
伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、伊勢神道の大成者。
●出口延佳(でぐち のぶよし)(1615年 - 1690年)
江戸時代前期の神職、国学者である。幼名は延良。通称は与三郎または信濃。号は直菴、講古堂。
●河辺精長(かわべ きよなが)(1602年- 1688年)
江戸時代前期の神職、国学者である。本姓は大中臣。幼名は清長。通称は喜左衛門。法名は慶順。
●出口延経
●松木智彦
●田中頼庸(たなか よりつね)(1836年 - 1897年)
幕末から明治時代の神道家、国学者、薩摩藩士である。通称は藤八。号は雲岫又は梅屋。
4.3)伊勢神道の神道五部書
(一)天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記(あまてらしますいせにしょこうたいじんぐうごちんざしだいき)
(二)伊勢二所皇太神宮御鎮座傳記(いせにしょこうたいじんぐうごちんざでんき)
(三)豊受皇太神御鎮座本紀(とようけこうたいじんごちんざほんき)
(四)造伊勢二所太神宮寶基本紀(ぞういせにしょだいじんぐうほうきほんき)
(五)倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)
5)吉田神道
吉田神道(よしだしんどう)とは、室町時代、京都吉田神社の神職吉田兼倶によって大成された神道の一流派。唯一神道、卜部神道、元本宗源神道、唯一宗源神道とも。
吉田神社 斎場所大元宮(京都市左京区)(引用:Wikipedia)
5.1)概要
吉田神道は、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派であるが、実際は吉田兼倶がほとんど一人で集成したと見られている。元本宗源神道、唯一宗源神道などを自称している。本地垂迹説である両部神道や山王神道に対し、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる。
『唯一神道名法要集』によれば、神道は本迹縁起神道、または社例縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられ、このうち第三の元本宗源神道は吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であるとする。同書によれば元本宗源神道とは「元とは陰陽不測の元元を明す。本とは一念未生の本本を明す。(中略)宗とは一気未分の元神を明す。源とは和光同塵の神化を明す。」ものであり、即ち「吾国開闢以来唯一神道是也」とする。
5.2)思想
吉田神道は、仏教・道教・儒教の思想を取り入れた、総合的な神道説とされる。吉田神道は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置づけた。
吉田神道は、顕隠二教を以って一体となすのが特徴で、顕露教の教説を語るものとしては『古事記』『日本書紀』『先代旧事記』(三部本書)、隠幽教の教説は『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』(三部神経)に基づくとするが、兼倶独自のものとは言い難く、上述のとおり、仏教・道教・儒教のほか、陰陽道等の教理や儀礼を取り入れたものといえる。また、密教の加持祈祷も取り入れている。
5.3)歴史
室町時代、吉田神道と同様に反本地垂迹説の立場をとっていた伊勢神道(度会神道)が南朝と結びつくことで勢力を失っていたため、吉田神道が反本地垂迹説を受け継ぐこととなった。吉田神道によって、反本地垂迹説は完成に導かれ、より強固なものとなった。
吉田兼倶は祓の秘宝伝授を行い『日本書紀』を後土御門天皇から比叡山の僧侶に至るまで講釈し、『神道大意』などが自身の家に伝えられたと捏造し、さらに伊勢信仰を吸収するために川の上流に塩をまき、「伊勢の神器が吉田山に降臨した」と偽ったので神宮側から激しい反発が起こった。
しかし活発な宣教運動により、日野富子らの寄付によって虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祭神とする神道の総本山を自称する斎場所太元宮を完成させ、朝廷や幕府に取り入って支持を取り付けつつ、従来の白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」(※)を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。
(※)「宗源宣旨」は諸国の神社に位階,神号,神職に許状を授けるために吉田家から出された文書。吉田神道を宗源神道というのにちなんだ名称。吉田兼倶 (1435~1511) のときに始るという。白川家の宣旨と異なり,朝廷は関係しなかったが,江戸時代盛んに出された。
このように神道を日本の宗教の根本と言いながらも、それまでの儒教、仏教、道教、陰陽道などを習合における矛盾を巧妙に解釈・混用した、きわめて作為的な宗教であったが、一方でその融合性に富むところから近世に広く長期に渡って浸透し続けた。
本来の神道は皇室が主家であり、長く白川家が実務担当の役にあったが、以後、大部分の権限を吉田家が持つこととなった。一時衰退した時期もあったが、江戸期には、徳川幕府が寛文5年(1665年)に制定した諸社禰宜神主法度(※)で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いた。
(※)諸社禰宜神主法度は、江戸幕府が寛文5年(1665)に制定した神社を統制するための神社・神職管理法令。第1条は諸社の禰宜・神主などはもっぱら神祇道を学び、神体を崇敬し、神事祭礼をつとめること。第2条は社家が位階を受ける場合、朝廷に執奏する公家(寺社伝奏)が前々よりある場合は、これまでどおりとする。第3条は無位の社人は白張を着すように。第4条は神領の売買禁止。第5条は神社修復についての5ヵ条からなり、位階・装束などの許状発行権を有する吉田家の支配力が強化。吉田神道を正統としてその統制に服することを義務づけた。
やがて平田篤胤らによる復古神道、いわゆる平田神道が隆盛となり、明治の神仏分離により吉田神道と対立する本地垂迹説はほぼ完全に衰退するものの、明治政府により古代の官制に基づく神祇官が復古されて、かつての権勢は失われている。
6)三輪神道
Wikipediaに当該項目なし
7)垂加神道
垂加神道(すいかしんとう、しでますしんとう)は、江戸時代前期に山崎闇斎が提唱した神道説。吉川神道や伊勢神道と並ぶ儒家神道のひとつとされる。日本書紀の研究にも関係があったとされる。
7.1)概要
垂加神道は、吉川神道を始めとする神道の諸教説を学んだ山崎闇斎が、吉川神道の流れをさらに発展させ、朱子学、陰陽学、易学をも取り入れた神道の集大成として完成させたもので、道徳性が強い内容となっている。
7.2)「垂加」の由来
臨済宗の僧侶であった山崎闇斎は、その後儒教を学ぶがあきたらず、度会延佳 (出口延佳) 及び大中臣精長 (河邊精長) から伊勢神道を学び、ついで吉川惟足に師事し、吉川神道の奥義を伝授された。垂加とは、このとき、惟足が闇斎に贈った号である。「倭姫命世記」の「神垂以祈祷為先冥加以正直以本」の語句に由来する。
7.3)思想
垂加神道は、天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした。
また、人間の「敬」を最も大切な徳分とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えた。この「敬」の実践行為とは「正直」であるとした。
7.4)影響
垂加神道は、 その内容から、尊王思想の思想的バックボーンを形成することとなり、水戸学の尊王論や国粋主義思想に大きな影響を与えた。また、この系譜から竹内式部や山県大弐のような熱烈な尊皇家が出た。浅見絧斎も儒教的大義名分論から尊王論を唱えた。やがてそこから日本主義=国学の隆盛をもたらすこととなった。
8)雲伝神道
慈雲(じうん)(1718年 - 1805年)は江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。能書家としても知られる。俗姓は上月氏。法諱は飲光(おんこう)。号は百不知童子、葛城山人、雙龍叟など。慈雲尊者と尊称される。
8.1)生涯
大坂中之島の高松藩蔵屋敷で上月安範の子として生まれ、父の遺言により13歳の時に摂津の法楽寺(大阪市東住吉区)で出家、同寺の住職・忍網貞紀に密教と梵語(サンスクリット)を学ぶ。16歳の時に、忍綱の命で京都に行き、伊藤東涯に古学派の儒学を学ぶ。翌年に奈良に遊学し、顕教、密教、神道と宗派を問わず学び、河内の野中寺(羽曳野市)で秀厳の教えを受けて、戒律の研究を始め、1738年(元文3年)、具足戒(※)を受けた。翌年には忍網から灌頂を受け、法楽寺の住職となったが、2年後に住職を同門に譲った。その後、信濃に曹洞宗の僧侶の大梅を訪ねて禅を学び印可を受ける。
(※)具足戒:仏教で出家した男女の修行者 (比丘,比丘尼) が遵守すべき戒のこと。具戒,進具戒,大戒などともいわれる。出家者としての生活に入ろうとする者は,この具足戒を受けて,初めて出家者の集団 (僧伽) に入ることができた。
1744年(延享元年)、河内の長栄寺(東大阪市)を再興して住職となり、初めて戒律の講義を行なったのを皮切りに、高野山や近畿の各地で修行と講演を続ける。1750年(寛延3年)、「根本僧制」を定めて正法律の復興を標榜、有馬の桂林寺で『方服図儀』を著し、袈裟の裁制を正す。
1758年(宝暦8年)、『南海寄帰伝解䌫鈔』7巻を著した後、生駒山中の雙龍庵という草庵に隠居して研究に専念し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするものであった。この『梵学津梁』の内容は、明治時代に来日したフランス人のサンスクリット研究家シルヴァン・レヴィから高く評価されたほどであった。
1775年(安永4年)、『十善法語』12巻を著す。1776年(安永5年)に河内の高貴寺(南河内郡河南町)に入寺した。
大和郡山藩主・柳沢保光の支援を受け、高貴寺の堂舎を整備し、この寺を正法律の本山と定めた。保光は慈雲に深く帰依し、慈雲の死後に保光が剃髪した際には、毛髪を高貴寺にある慈雲の墓のそばに埋めたほどであったと伝えられる。
晩年に、独自の神道説を唱え、磐船神社を根本道場とした。慈雲の提唱した神道は後に雲伝神道(うんでんしんとう)または葛城神道(かつらぎしんとう)と呼ばれた。
1804年、京都の阿弥陀寺でその生涯を終えた。遺体は高貴寺に運ばれ埋葬された。
8.2)雲伝神道
慈雲が主張した雲伝神道は、日本の神道は密教に基づく曼荼羅観に一致するとして、専ら密教の教義によって解釈された神道の一派である。葛城神道ともいう。
1)概要 2)歴史 3)有名な修験道独自の神 4)教義 5)経典
6)宗派 7)主な霊山・社寺等(後述) 8)関連項目
(引用:Wikipedia)
修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。
熊野の深山にて修行中の修験者(引用:Wikipedia)
1) 概要
修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である。
日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。 この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる。
修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった大峰山(奈良県)や白山(石川県)など、「霊山」とされた山々であった。中でも、熊野三山への信仰は、平安時代の中期から後期にかけて、天皇をはじめとする多くの貴族たちの参詣を得て、隆盛を極めた。
修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。
神道で用いられる祭祀や祝詞(大祓詞など)をしない行事もあれば、祝詞・祓詞・加持・祈祷も行う行事・儀式もあり、経典で示されるものや真言を唱えるものばかりではない。
修験道は全国霊山、各寺社仏閣により次第は異なる。
神仏習合の権現や明神が必ずしも主神とは限らない。本地垂迹の仏教の仏を祭祀している他、天照大神を初めとする諸国の神々も年中行事として祀り、礼する。
一見の判断や視聴で修験道の把握は従事者及び研究者や論学者などでも判断は困難であり、一概の例に留まる見解は誤認を際するので注意したい。
上述の熊野信仰においては、三所権現・五所王子・四所宮の祭神が重要な位置を占めており、これを勧請した九十九王子が有名である。山伏と関連するため、山に関連した神格が存在することもある。
2)歴史
修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。
修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる。神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。
そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった。このように、修験道は、密教との関わりが深かったため、修験道法度弐を定めることで仏教の一派と見なして統制した。
修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。
もっとも、神仏分離令・修験禁止令そのものは、日本国憲法で定められた信教の自由に反するため現在では無効であるとされる。
明治以降、修験禁止になっても、修験道の気合術を医療技術に活かした修験浜口熊嶽、気合術の気合・合気を武術に活かした大東流合気柔術の創始者武田惣角がいる。武田は理論的な気合ノ術・合気ノ術、実技的な気合の法・合気法を残した。合気の極意「音無きに聞き姿無きに見る」は修験の鍛錬の意味がある。
3)有名な修験道独自の神
3.1)蔵王権現(ざおうごんげん)
蔵王権現(ギメ東洋美術館)(引用:Wikipedia)
蔵王権現は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。
3.2)愛宕権現(あたごごんげん)
愛宕権現の本地仏とされる勝軍地蔵(ギメ東洋美術館)(引用:Wikipedia)
愛宕権現は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られた。
3.3)若一王子(にゃくいちおうじ)
若一王子は、神仏習合の神である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。
熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。
熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。明治の神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。
3.4)九十九王子(くじゅうくおうじ)
多富気王子跡(大門坂)(引用:Wikipedia)
九十九王子とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。
3.5)前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)
葛飾北斎『北斎漫画』より、役小角(右上)、前鬼(右下)、後鬼(左下)(引用:Wikipedia)
前鬼・後鬼は、修験道の開祖である役小角が従えていたとされる夫婦の鬼。前鬼が夫、後鬼が妻である。
役小角を表した彫像や絵画には、しばしば(必ずではないが)前鬼と後鬼が左右に従う形で表されている。役小角よりは一回り小さい小鬼の姿をしていることが多い。
3.6)一言主(ひとことぬし)(元は賀茂氏の祖神)
『古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。
少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇が一事主神(一言主神)に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。(ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある)
さらに、822年の『日本霊異記』では、一語主(一言主)は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り、『日本霊異記』執筆の時点でもまだそれが解けないとある。
また、能の演目『葛城』では、女神とされている。
3.7)天狗(てんぐ)
山伏天狗(引用:Wikipedia)
神として信仰の対象となる程の大天狗には名が付いており、愛宕山の「太郎坊」、秋葉山の「三尺坊」、鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)、比良山の「次郎坊」の他、比叡山の「法性坊」、英彦山の「豊前坊」、筑波山の「法印坊」、大山の「伯耆坊」、葛城山の「高間坊」、高雄山の「内供坊」、富士山の「太郎坊」、白峰山の「相模坊」などが知られる。
滋賀県高島市では「グヒンサン」といい、大空を飛び、祭見物をしたという。高島町大溝に火をつけにいったが、隙間がなくて失敗したという話が伝わっている。
鹿児島県奄美大島でも、山に住む「テンゴヌカミ」が知られ、大工の棟梁であったが、嫁迎えのため60畳の家を1日で作るので藁人形に息を吹きかけて生命を与えて使い、2,000人を山に、2,000人を海に帰したと言う。
愛媛県石鎚山では、6歳の男の子が山頂でいなくなり、いろいろ探したが見つからず、やむなく家に帰ると、すでに子供は戻っていた。子に聞くと、山頂の祠の裏で小便をしていると、真っ黒い大男が出てきて子供をたしなめ、「送ってあげるから目をつぶっておいで」と言い、気がつくと自分の家の裏庭に立っていたという。
4)教義
修験道とは柱源の境界を得ることを究極の目的とする宗教である。柱源の教えは難解であるため、初行者は密教を修めることで境界を高めることから修行を始める。
柱源法は園城寺(天台宗)と醍醐寺(真言宗)のみが護持する。園城寺では柱源法流、醍醐寺では惠印法流として相承する。そのため修験寺はこの二寺の末寺となって本山派、当山派と呼ばれたのである。
従って近年、修験を自称する宗派が増えているが、密教法流と柱源法流または惠印法流を伝承しない宗派は修験とは呼び難い。
修験道が峰中で行う修行は十界修行(※1)という、無相三密(※2)の修行である。柱源の境界を得るための修行として峰中修行が重視されるが、山野を駆けることが修験の本旨ではない。
(※1)十界修行修験道で峰中で行われる10種の修行をいう。《華厳経》に説かれている成仏過程である地獄,餓鬼,畜生,修羅,人,天,声聞,縁覚,菩薩,仏の10の段階のそれぞれに,修行者の五体が大日如来の五大と悟る座法である床堅(とこづめ),懺悔,修行者の犯した罪の重さを計る業秤,水断,水汲みの作法である閼伽(あか),相撲,延年,護摩のための木をあつめる小木(こぎ),穀断(こくだち),金胎(こんたい)の秘印をさずける正灌頂の10種の修行を充当し,峰入りの期間中にこの10種の修行をおさめおわることによって即身成仏しうると説明された。(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について)
(※2)三密(さんみつ)とは密教の用語で、「身密・手に諸尊の印契(印相)を結ぶ」、「口密(語密)・口に真言を読誦する」、「意密・意(こころ)に曼荼羅の諸尊を観想する」の総称。一般の仏教でいう三業にあたり、また仏の場合を指し、三密加持によって相応する。法身の動きと衆生の動きとが一致するのを「無相の三密」といい、身に印を結び、口に真言を唱え、意に本尊を念ずるのを「有相の三密」という。(引用:Wikipedia)
5)経典
前述の通り、修験道の初行者は密教を修める。そのため天台宗(台密)、真言宗(東密)の金剛界、胎蔵界の修法に用いる経典が用いられる。
柱源法は近年次第が出版されているが、かつてはその名さえ秘され、一般に知られることは無かった。柱源法については阿吸坊即伝法印や海浦義観法印の著書に記述がみられるが、事相についてが中心である。これは柱源法が筆授によらず、面授口伝を契機として相承するものだからである。
6)宗派
修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類される。当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていった。真言宗や天台宗は皇族・貴族との結びつきが強いが、修験道は一般民衆との関わりを持つものであり、その意味において、修験者(山伏)の役割は重要であった。
現代では、奈良県吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院(本山修験宗)、同伏見区の醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。また、日光修験や羽黒修験のように各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れもある。
7)主な霊山・社寺等(後述)
8)関連項目
8.1)泰澄
泰澄(たいちょう、天武天皇11年6月11日(682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日(767年4月20日))は、奈良時代の修験道の僧。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられる。越(こし)の大徳と称された。
8.2)山岳仏教
山岳仏教(さんがくぶっきょう)とは、日本において、平安時代に、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)において行われるようになった、山岳での修行を重視する仏教である。山岳仏教は、政治と結びつきの強くなった奈良仏教の世俗化などに反発するかたちで始まったが、やがて、日本古来の山岳信仰とも融合し、急速に発達していくこととなった。なお、「山岳仏教」を仏教とは異なる独自の宗教とするとき、修験道ともいう。
8.3)山伏信仰
山伏信仰(やまぶししんこう)とは、日本古来の信仰で、山に神霊が宿ると見なして信仰すること。山伏のように、奥深い山中で修行すると超自然的な力(験力)が得られると信じられている。山伏は修験者ともいわれる。
8.4)法螺貝
法螺貝は修験道においては、「立螺作法(りゅうらさほう)」と呼ばれる実践が修行される。立螺作法には、当山派・本山派などの修験道各派によって流儀を異にし、吹奏の音色は微妙に違う。大まかには乙音(低音側)、甲音(高音側)、さらには調べ、半音、当り、揺り、止め(極高音)などを様々に組み合わせて、獅子吼に擬して仏の説法とし、悪魔降伏の威力を発揮するとされ、更には山中を駈ける修験者同士の意思疎通を図る法具として用いられる。
昭和初期に発表された醍醐寺三宝院当山派本間龍演師の『立螺秘巻』は、その後の修験者、とりわけ吹螺師を修行する者の必須テキストとして評価伝承されている。
東大寺二月堂の「お水取り」では、堂内から鬼を追い祓うため、法螺貝が吹き鳴らされる。
8.5)滝行
滝行(たきぎょう)とは滝に入って行う修行のこと。垢離の一種で、水行と呼ばれることもある。鎌田東二は滝行の定義を「滝行とは、滝場に顕現する神仏や諸霊への畏怖・畏敬の念に基づき、滝の水流を全身に受けることにより、 ある目的(解脱・霊験・法力・活力を得る、 悩みの解除・祓い、 武道やスポーツの技量の向上など)を達成すべく、 心身を鍛錬する日本の伝統的な身体技法である」としている。
歴史的に見ると、『古事記』『日本書紀』の中に禊の様子が書かれている。奈良時代に役行者を開祖とする修験道が全国に広まり、その修行方法の一つとして水行・滝行が行われるようになった。
明治時代には禊が復活して、川面凡児が作法を実践した。鎌田東二(2011)の研究によると、滝行の始まりをはっきりと特定することは困難で、あくまでも伝承であるが、裸形上人による那智滝での滝行が始まりとされる。
「那智滝」は瀧篭修行の行場として扱われた48の滝の総称であり、そこで裸形上人、生仏上人、浄蔵、花山院、文覚上人らが修行したとされるほか、915年(延喜15年)に浄蔵が3年間籠居したとされる。
また『熊野山略記』には「那智山者、神龍之伏地、 胎金之権跡也」とあり、裸形上人のほか、役行者小角、 空勝上人、朗善和尚、蓮寂上人、叡豪上人らが滝行を行なったとの記載や、花山院が那智の二の滝に籠もって千日滝籠行をしたという伝承が伝えられている。
8.6)大峯奥駈道
大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道。1000-1900m級の険しい峰々を踏破する「奥駈」という峰入修行を行なう約80kmに渡る古道を指す。
2002年(平成14年)12月19日、国の史跡「大峯奥駈道」として指定された[2]。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部。
●概要
大峯奥駈道は、修験道の根本道場である金峯山寺などがある奈良吉野山と熊野三山を結ぶ、もとは修験道の修行場として開かれた道であり、熊野古道の中で最も険阻なルートをなす。修験道の開祖とされる役行者が8世紀初頭に開いたとされる。
今日、一般的に大峰山(大峯山)といえば山上ヶ岳を指すが、大峯奥駈道でいう「大峯」とは、吉野から山上ヶ岳を経てさらに奥の山々、そして最終的には熊野三山に至る大峰山脈を縦走する修行の道全体を指している。道中の最高峰は八経ヶ岳の1915m。
吉野から熊野まで、神社や寺のほかに、大峰山脈の主稜線沿いに75の靡(なびき)と呼ばれる行場(霊場)があり、修験者は5月3日の大峯山寺の戸開けから9月23日の戸閉めまでの間に奥駈修行を行なう。奥駈は修験道でもっとも重視される修行であり、神仏が宿るとされる岩や峰、滝などで祈りを捧げる。宗教上の理由から、山上ヶ岳の北「五番関」から南の「阿弥陀ヶ森」までは女人禁制。
●大峯奥駈
大峯奥駈とは本来、大峯山寺より奥の「靡(なびき)」に進むことを奥駈と云われていた。修行場は「靡」と呼ばれ、ひとつひとつに番号が割り当てられている。すなわち、熊野本宮大社の本宮証誠殿(1番)にはじまり、吉野川河岸の柳の宿(75番)に終わる。この大峯七十五靡は75箇所を数えるが、これは歴史的に整理されてきた結果であり、もっと多くの靡が設けられていた時期もある。
江戸時代の紀州藩の宗教政策や明治時代の修験道禁止令以降、奥駈道の水場に乏しい南部は荒廃し忘れ去られた。しかし1980年以降の前田勇一たちの活動と、これを引き継いだ新宮山彦ぐるーぷなどの尽力により、持経宿、行仙宿、平治宿に山小屋が建てられ、南奥駈道は再興された。
●順峯と逆峯
これら行場を巡る方法には2つの方法が知られている。ひとつは、本宮から吉野に向かう順峯(じゅんぷ)、他方は、逆に吉野から本宮に向かう逆峯(ぎゃくふ)で、それぞれに主宰する宗派が異なる。
順峯は天台宗系の聖護院(本山派)が、逆峯は真言宗系の醍醐寺三宝院(当山派)がそれぞれ主導する。
中世の熊野を支配し、熊野詣の先達をつとめたのは天台宗系の本山派であり、大峯奥駈についても本山派が先行していたが、近世以降の熊野詣の衰退に伴って、江戸時代から今日まで、両派とも吉野から入るのが一般的かつ正統的なものとされている。ただ、中世の熊野詣を主導した天台宗系による順峯は、那智山青岸渡寺によって復興され、今日でも行われているので、完全に途絶したわけではない。
水場が乏しいこともあって、前鬼宿(奈良県下北山村)太古の辻以南の部分(南奥駈と呼ばれることもある)はたどられないことが一般的であり、現在でも大峯七十五靡を踏破する奥駈の行をおこなう寺院は限られている。
8.7)立山修験
●参考Webサイト:「立山曼荼羅と立山の伝説に触れる夏」(Toyama Just Now)
立山修験(たてやましゅげん)とは、富山県の立山を中心として行われた修験道をいう。
立山は霊山として古くから山岳信仰の対象となってきた。仏教では、立山の雄山などを極楽浄土、地獄谷を地獄に見立て絵解きした『立山曼荼羅』を携えた芦峅寺の御師が、江戸時代に日本各地を回って参詣を勧め、広まった。(神道における立山信仰は「雄山神社」を参照。)
立山修験の世界観は、今日まで伝わる『立山曼荼羅』に描かれた世界を見ることで、窺い知ることができる。
立山山麓には、岩峅寺や芦峅寺をはじめとした信仰登山の拠点があった。芦峅寺の集落には幕末の最盛期には33の宿坊があった。そこに住む人々を中心に日本全国に勧進が行われ、福江充によれば、江戸城大奥まで広がっていた。
立山は女人禁制であったため、江戸時代までは、入峰を許されない女性のための布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という行事が芦峅寺で行われ、盛んであった。3年に一度行なわれ、目を布で覆った女性たちが橋の上に敷かれた白い布の上を歩いて渡ると極楽往生するというもので、明治時代の廃仏毀釈により行われなくなったが、1996年より地元住民らの手によって復活している。
鎌倉時代から江戸時代にかけて成立した立山の開山縁起は、大宝元年(701年)、立山を含む越中国国司とされる佐伯有若の息子佐伯有頼が白鷹を追って立山奥深くに分け入り、阿弥陀三尊を仰ぎ見て、慈興と号して立山大権現を建立したと伝える。
立山信仰の背景には山上他界が存在するという信仰があり、立山の山域の各所は、開山伝説に基づき、浄土と地獄にそれぞれ比定された。立山を巡拝することで死後の世界を擬似体験し、形式上「他界」に入り「死」から戻ってくるという修行を積むことができ、超常的な力(法力)を身に付けることができると考えられるようになった。
立山浄土としては、立山三山、なかでも雄山は仏そのものであり、阿弥陀如来の仏国土である極楽浄土の象徴とされた。
立山地獄は、現在の地名にも残る地獄谷であり、硫黄臭ただよう場所である。その近くのみくりヶ池は、血の池として、また、剱岳は針山地獄であるとされた。
8.8)金峯山寺
金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗(修験道)の本山。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来より桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)と、その南方二十数キロメートルの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)を含む山岳霊場を包括した名称である。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、およびこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。
(引用:「日本の霊山読み解き事典」西海賢二・時枝 務・久野俊彦著/柏書房)
古来、山に対して人々は神秘的な感情を抱き、田畑を潤す水源として水分(みくまり)の神を祀り、あるいは祖霊の棲む他界と唱えるなど、様々な観念を持ち続けてきた。こうした観念は、現在の日本人の文化のなかにも広く認めることができる。長い歴史の中で育まれてきた山岳信仰は、日本の宗教や精神世界全般にわたって重要な位置を占めている。
日本の山岳信仰の際立った特徴は、修験道が形成されたことである。多かれ少なかれ、その影響のなかった山はなかったといっても過言ではない。そもそも庶民にとって、山は元来、立ち入ったり登ったりする対象ではなく、神霊や仏が鎮座するものとして、その麓で遥拝すべき対象であった。しかし、修験者(山伏)や行者など宗教的職能者によって修行の拠点として整備されることで、山は初めて、庶民が登拝、参詣することができる対象となったのである。
日本の主な山を、修験者の活動の面から見てみると、おおむね以下のように分けることが出来る。
〇全国の修験者が入峰修行の対象としていた山
●中部・・・金峰山
●近畿・・・大峯山・熊野三山
〇地方の修験者が入峰修行の対象としていた山
●東北・・・出羽三山・磐梯山・吾妻山・飯豊山
●関東・・・日光山・大山・武州御嶽山
●中部・・・富士山・木曽御嶽山
●近畿・・・葛城山
●九州・・・宝満山・英彦山・阿蘇山
〇地域の修験者が拠点とした山
●東北・・・恐山・岩木山・岩手山・早池峰山・蔵王山
●関東・・・筑波山・上毛三山・三峰
●中部・・・八海山・秋葉山・石動山・浅間山
●近畿・・・笠置山・三輪山・比叡山
●中国・・・大山・三徳山・後山
●四国・・・剣山・石鎚山
●九州・・・雲仙岳・霧島山
1)恐山 2)出羽三山 3)荒澤寺 4)甑岳 5)鳥海山 6)蔵王山
7)日光山 8)迦葉山 9)三峰山 10)御嶽山 11)高尾山 12)大山
13)大雄山 14)箱根山 15)戸隠山 16)飯縄山 17)御嶽山
18)白山 19)立山 20)石動山 21)富士山 22)秋葉山 23)片山神社 24)伊吹山
25)園城寺/三井寺 26)醍醐寺/上醍醐 27)聖護院 28)鷲峯山金胎寺
29)根本山神峯山寺 30)千光寺 31)犬鳴山 32)瀧安寺 33)金剛山 34)金峰山・大峰山・金峯山寺 35)薬師寺 35)薬師寺 36)熊野三山 37)布引の滝 38)伽耶院 39)雪彦山 40)後山 41)諭鶴羽山
42)五流尊瀧院 43)伯耆大山 44)石鎚山 45)剣山
46)英彦山 47)求菩提山 48)阿蘇山
(引用:「日本の霊山読み解き事典」西海賢二・時枝 務・久野俊彦著/柏書房)
〇北海道・東北の霊山(参考)
●出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)〔山形県〕●恐山〔青森県〕●鳥海山〔山形県・秋田県〕
●飯豊山〔山形県・福島県・新潟県〕●大雪山〔北海道〕●北海道アイヌの霊山〔北海道〕
●岩木山〔青森県〕●岩手山〔岩手県〕●早池峰山〔岩手県〕●太平山〔秋田県〕
●神室山〔秋田県・山形県〕●山寺〔山形県〕●葉山〔山形県〕●八甲田山〔青森県〕
●室根山〔岩手県〕●栗駒山〔岩手県・宮城県・秋田県〕●金華山〔宮城県〕●箟岳山〔宮城県〕
●本山/真山〔秋田県〕●保呂羽山〔秋田県〕●金峰山〔山形〕●朝日岳〔山形県・新潟県〕
●蔵王山〔山形県・宮城県〕●吾妻山〔福島県・山形県〕●磐梯山〔福島県〕●安達太良山〔福島県〕
●飯盛山〔福島県〕●霊仙〔福島県〕
1)恐山 2)出羽三山 3)荒澤寺 4)甑岳 5)鳥海山 6)蔵王山
(引用:Wikipedia)
1)恐山(青森県)
恐山(おそれざん、おそれやま)は、下北半島(青森県)の中央部に位置する活火山である。カルデラ湖である宇曽利山湖の湖畔には、日本三大霊場(※)の一つである恐山菩提寺が存在する。霊場内に温泉が湧き、共同浴場としても利用されている。恐山を中心にした地域は下北半島国定公園に指定されている。本記事では、恐山と同霊場について詳述する。なお、恐山山地は下北半島の北部を占める山地を指すので、本記事で詳述するいわゆる霊場恐山とは区別される。
※日本三大霊場:恐山・高野山・比叡山
地蔵山、剣の山と恐山菩提寺(引用:Wikipedia)
1.1)恐山
●霊場としての恐山
宇曽利山湖の湖畔にある恐山菩提寺は日本三大霊場の一つであり、9世紀頃に天台宗の慈覚大師円仁が開基した。本尊は延命地蔵尊。同寺は現在は曹洞宗の寺院であり、本坊はむつ市田名部にある円通寺である。恐山は死者の集まる山とされ、7月の恐山大祭では、恐山菩提寺の境内でイタコの口寄せも行われる(後述)。
●信仰
恐山は、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ、古くから崇敬を集めてきた。下北地方では「人は死ねば(魂は)お山(恐山)さ行ぐ」と言い伝えられている。山中の奇観を仏僧が死後の世界に擬したことにより参拝者が多くなり信仰の場として知られるようになった。
明治・大正期には「恐山に行けば死者に会える」「河原に石を積み上げ供物をし声を上げて泣くと先祖の声を聞くことができる」「恐山の三大不思議(夕刻に河原に小石を積み上げても翌朝には必ず崩れている、深夜地蔵尊の錫杖の音がする、夜中に雨が降ると堂内の地蔵尊の衣も濡れている)」などが俗信された。
●イタコの口寄せ
恐山大祭や恐山秋詣りには、イタコマチ(イタコがテントを張って軒を連ねている場所)に多くの人が並び、イタコの口寄せが行われる。なお恐山で口寄せが行われたのは戦後になってからであり、恐山にイタコは常住していない。また恐山菩提寺はイタコについて全く関与していない。イタコは、八戸や、青森から恐山の開山期間中にのみ出張してきており、むつ市には定住していない。
●歴史
・開山
伝承によれば、開山は862年(貞観4年)、開祖は天台宗を開いた最澄の弟子である円仁(慈覚大師)とされている。同年に編纂されたとされている『奥州南部宇曽利山釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起』によれば、円仁が唐に留学中、「汝、国に帰り、東方行程30余日の所に至れば霊山あり。地蔵大士一体を刻しその地に仏道を広めよ」という夢告を受けた。
円仁はすぐに帰国し、夢で告げられた霊山を探し歩いた。苦労の末、恐山にたどり着いたと言われている。その中に地獄をあらわすものが108つあり、全て夢と符合するので、円仁は6尺3寸の地蔵大士(地蔵菩薩)を彫り、本尊として安置したとされている。
・近代
恐山は、江戸期以前より地域住民の信仰の対象であったと考えられるが、近代に入ってもそうした信仰は継続していた。この土地の様子を伝える明治期の早い時期の記録の一つとして、作家の幸田露伴が1892年(明治25年)に訪れた折に記した、紀行「易心後語」がある。
「易心後語」によれば、寺の西側はすでに現在と同様、白い岩石が露出する荒涼とした風景だったとのことで、露伴は「何と無く不気味なる」「怪異なる此山の景色」などと記している。集まった人々が死者を思い、念仏を唱えたり賽銭を投げたりしていた光景も詳しく記され、「血の池」では出産の折に死んだ女性の、「賽の河原」では死んだ子の供養が行われていたことも知られる。また、露伴は境内に湧く温泉も利用しているが、3年後の1895年(明治28年)に博文館から刊行された『日本名勝地誌』「東山道之部下」によれば、粗末ながら5ヶ所の浴場が設営されていたとのことである。
また、この場所の岩石について、「易心後語」には「岩にさへ赤鬼青鬼等の名ある」としか記されておらず、『日本名勝地誌』も「血ノ池」「畜生道」ほか八大地獄などの称があることを伝えるのみだが、1911年(明治44年)に円通寺が刊行した『奥州南部恐山写真帖』によって、現在も見ることができるような露岩に「鬼石」「剱之山」「修羅地獄」「大王石」といった名前がつけられていたことがわかる。
なお、その後、この宇曽利湖北岸には硫黄鉱山が設けられ、寺の境内も鉱区に含まれていた。寺の東側に下北鉱山区(現在温泉がある場所)、地蔵山西側に宇曽利鉱区、東側に八滝鉱山があり、県道周辺に飯場や遊廓などがあった。当時、硫黄は火薬の原料として貴重であり、硫黄の産出は軍事機密に直結することから、高い秘匿措置がなされていた。当初は三井鉱山によって採掘が行われ、後に王子製紙の所有となっていた。『日本名勝地誌』に「本道なるを以て甚だ嶮ならず」と記され、明治期からよい道であったことがうかがえる恐山街道も、鉱石運搬用道路としてさらに整備が進められ、現在は観光の便に益している。
・戦後
これらの鉱山は戦後、石油から硫黄分を大規模に抽出する方法が実用化されたことにより、硫黄原石の価値が暴落したため、1969年(昭和44年)に閉山された。現在でも山内には鉱山の遺構が存在し、土木工事の痕跡も残っている。
また、恐山山地は火山活動の影響で鉱物資源が豊富に存在していたため、恐山の硫黄鉱山のほか、川内町の安部城鉱山(金、銀、銅)、陸奥鉱山(金、銀)、葛沢鉱山(金、黄鉄鉱)、西又鉱山(鉛、亜鉛、黄鉄鉱)、大揚鉱山(黄鉄鉱)、大畑町の大畑鉱山(砂鉄)、大間町の青森鉱山(銅)、佐井村の佐井鉱山(チタン)、千国鉱山(マンガン)など多数の鉱山があったが、現在はすべて閉山している。
1.2)恐山菩提寺
菩提寺(ぼだいじ)は、青森県むつ市の恐山にある曹洞宗の寺院。恐山菩提寺とも称される。本坊は円通寺が勤めている。
●概説
開山期間は5月1日から10月31日で、毎年7月20日から24日に恐山大祭が行われる。恐山は死者の霊魂が集まる場所と信じられており、恐山大祭ではイタコの口寄せも行われる。
境内の宇曽利山湖寄りには噴気や温泉の湧出があり、賽の河原や極楽浜と呼ばれる地形がある。境内には4つの温泉があり、共同浴場として利用されている。
●歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、寺伝によれば862年(貞観4年)天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられる。その後衰退していたが、1522年(大永2年)曹洞宗の僧聚覚が南部氏の援助を受け円通寺を建立して恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改められた。1871年(明治4年)には本坊の円通寺に斗南藩(旧会津藩)の藩庁が置かれた。
●祭事
夏と秋の大祭に、イタコと呼ばれる巫女が、死者の霊をこの世に呼びよせる口寄せを行い、故人と現実に逢っているように対話できる「イタコの口寄せ」が行われる。
・大祭典 : 7月20日から24日
・秋詣り : 10月の体育の日が最終日となる3日間(土・日・月)
1.3)円通寺
円通寺(えんつうじ)は、青森県むつ市にある曹洞宗の寺院。山号は吉祥山。本尊は釈迦如来。恐山菩提寺の本坊でもある。
この寺は、1522年(大永2年)、南部氏の援助により曹洞宗の僧聚覚によって創建され、1659年(万治2年)に中興されている。明治維新におきた戊辰戦争のうち東北戦争で新政府軍に敗れた会津藩(23万石)が、1869年(明治2年)、五戸(ごのへ)に転封となり斗南藩(3万石)となったが、1871年(明治4年)に藩庁がこの寺に移されている。
戊辰戦争三十三回忌の明治33年(1900年)に招魂碑が建立された。
2)出羽三山(山形県):月山/羽黒山 - 羽黒修験/湯殿山
2.1)概要
出羽三山(でわさんざん)は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。
出羽三山神社大鳥居と羽黒山(引用:Wikipedia)
出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」である。三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向字手向7番地)とがある。
現在、毎年8月末には出羽三山神社(神道)、羽黒山修験本宗(修験道)のそれぞれの山伏により「秋の峰」と呼ばれる1週間以上におよび山に籠る荒行が行われる。
山 名 |
社 名 |
祭 神 |
本 地 仏 |
月 山 |
月山神社 |
月読命(月山権現) |
阿弥陀如来 |
羽黒山 |
出羽神社 |
伊氐波神・稲倉魂命(羽黒権現) |
正観世音菩薩 |
湯殿山 |
湯殿山神社 |
大山祇神・大己貴命・少彦名命(湯殿山権現) |
大 日 如 来 |
2.2)歴史
●開山
出羽三山は、出羽三山神社の社伝によれば崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。
一方、出羽三山の修験道には、月山の祖霊信仰が結びついた土着の羽黒派修験以外にも、当山派、本山派の修験も存在し、三修験の修行道場として共存していた。当山派や本山派では、空海や役小角を出羽三山の開祖とした。
このうち空海開基説は、真言宗湯殿山派諸寺において唱えられている説である。これによると、空海が諸国漫遊の旅を行っている途上、ある川(梵字川。赤川の上流部の名称)を光り輝く葉が流れてきた。それを拾い上げるとその葉には、大日如来を表す5文字の真言が書かれていたため、この川の上流に聖地があると確信して川をさかのぼり、ついには湯殿山にたどり着いたという。湯殿山派諸寺では、湯殿山および空海によって開かれた大網の地を「高野山と対なる聖地」としている。
なお、出羽三山の寺社の中には、東照大権現や飯縄権現が勧請される例もあった。
●三山
江戸時代以前は、鳥海山や月山の東方にある葉山(白磐神社)が三山の一つに数えられていた。湯殿山は、「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかった。天正年間、葉山が別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、これ以降湯殿山が出羽三山の1つとして数えられるようになったとされる。なお、慈恩寺は東北地方における天台・真言両宗の中心となった寺院であり、湯殿山4ヶ寺のうち、本道寺(口ノ宮湯殿山神社)と大日寺(大日寺跡湯殿山神社)は慈恩寺宝蔵院の末寺であった。
月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)とされる。古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。
●鎌倉時代~室町時代
鎌倉時代、僧兵の存在が確認され幕府に地頭の干渉について訴えを起こし認めさせている(『吾妻鏡』)。室町時代以降、長覚が湯殿山で、全岩東純、越叟了閩、界厳繁越らが羽黒山で出家した後、鎌倉や京都で学び高野山無量寿院や、長州大寧寺、駿河梅林院などで活躍した。戦国時代においては、最上義光が病気平癒を祈願し、またその妹義姫(伊達輝宗室、伊達政宗母)は子宝を授かることを湯殿山に祈願している。
●江戸時代
江戸時代以前、出羽三山は真言宗であったが、江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。その際宥誉は天海上人の弟子となり、師の名を一字もらい天宥と改名した。天台宗への改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。以降、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが以下のように、仏教の寺院と一体のものとなった。
・羽黒山出羽神社 - 伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。
・月山神社 - 本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。
・湯殿山神社 - 本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。
江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。
出羽三山参詣は、「霞場」(かすみば)と呼ばれる講を結成して行われた。出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は 1997年(平成9年)まで女人禁制であった。別当寺は、女人参詣所という役割もあった。なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。
出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。大網に庄内藩の「大網御番所」が、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」がそれぞれ置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。
●即身仏
出羽三山で有名な即身仏は、真言宗の湯殿山派で行われたものであり、天台宗の羽黒山・月山派では行われていない。即身仏が残されている大日坊、注連寺は、いずれも湯殿山4ヶ寺である。
●明治時代
1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において伽藍・文物が徹底的に破却された。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。戦後、神社本庁の別表神社となった。
・別当寺(羽黒山)
寂光寺:廃寺となり、山内の18坊内15坊が廃棄となり取り壊される。残った正善院、荒沢寺、金剛樹院が寺院として羽黒山から独立し、現存する。
・別当寺(月山)
日月寺:神仏分離により廃寺となり、現在の岩根沢三山神社となった。岩根沢の出羽三山神社は比較的早く廃寺となったため、廃仏毀釈を免れ、神社ではあるが庫裏の構造がそのまま残されており、修験道を知る貴重な史跡になっている。神社前に宿坊が立ち並んでおり、境内や周辺部には、日月寺に安置していたという地蔵菩薩を祀る地蔵尊や、南無阿弥陀仏石碑等が残されている。また、行者の精進料理である「六浄豆腐」は、岩根沢にしかない秘伝の豆腐である。
・別当寺(湯殿山)
本道寺、大日坊、注連寺、大日寺:このうち、大日坊と注連寺は真言宗寺院として湯殿山から独立し、現存する。残る2寺は廃寺となり、神社となった。
本道寺は西川町本道寺の口之宮湯殿山神社として、大日寺は西川町大井沢の大日寺跡湯殿山神社として現存する。本道寺の寺宝は、寺院として分離した大日坊・注連寺を初めとする諸寺院に引き取られたが、その後散逸した品が多い。
このうち、空海坐像は栃木県内の古美術商の手に渡っていたが、1989年(平成元年)に口之宮湯殿山神社が買い取った。仁王像は、1905年(明治38年)に仙台駅前にある仙台ホテルが建て替えした際、同像を所有していた弥勒院が同ホテルに売却したが、2005年(平成17年)に仙台ホテルの所有者・運営者が替わって全面改装することになったため、同年11月15日に口之宮湯殿山神社に寄贈された。いずれも、現在は口之宮湯殿山神社の拝殿に安置されている。
大日寺の伽藍は、明治期に火災により消失し、現在は山門のみが、当時の姿を偲ぶものとして残されている。
3)荒澤寺(山形県):羽黒山修験本宗/羽黒修験
荒沢寺(こうたくじ)は、山形県鶴岡市にある寺院で羽黒山修験本宗の本山である。山号は羽黒山で、正善院が本坊である。本尊は大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩。
荒沢寺山門(引用:Wikipedia)
この寺は、崇峻天皇の皇子蜂子皇子(能除太子)によって開かれたと伝えられ、出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)に対する山岳信仰・修験道の寺として古くから信仰されてきた。もとは真言宗を中心とする寺院であったが、江戸時代に入ると天台宗に属することとなった。
明治初年の神仏分離に伴い延暦寺の末寺となり、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、島津伝道が独立して羽黒山修験本宗の本山となった。
羽黒派修験は、真言宗当山派、天台宗本山派の2派に収斂していった修験道2派のいずれにも属さず、古くからの修験道と、土着の月山の祖霊信仰が結びついた独自の修験である。
その中で、荒沢寺の修験道は、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏の、世界を形成している十界を体験する「十界行」を厳密に行うことが、出羽三山神社と比した特徴である。十界行とは、行者が死に、死の世界で、山内の各行場での修行を通じて十界の苦しみを体験し、現世へと転生する行である。出羽三山神社の行は仏式ではなく神式であり、行を通じて死後の追体験を行うのは同じだが、その内容は古来からの修験と比べて簡略化されたものである。
4)甑岳(山形県) - 古流修験本宗
甑嶽観音寺は、山形県村山市と東根、尾花沢市に跨る甑岳(標高 1,016m)山 中にあった修験寺院です。村山市楯岡開端寺所蔵の古文書「楯岡町歴史」 の一節に、この霊山甑岳に関わる次の様な伝承が記されています。
今から およそ1300年前の奈良時代、大化四年(648年)に道照上人が霊像を安置し、 甑岳が開山しました。その後、弘法大師が来錫し、密教がこの山に伝来し たのです。追って慈覚大師も来山して円教を、理源大師が役行者の修験の 法流を伝えました。にわかに信じ難い伝承ではありますが、ともかくもこ うして甑岳に顕密修験一体の教えが備わったのです。(ー古流修験本州HPより)
5.1)鳥海山
鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。山頂に雪が積もった姿が富士山に類似しているため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。秋田県では秋田富士(あきたふじ)、山形県では庄内富士(しょうないふじ)とも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属する。
南西から(引用:Wikipedia)
●人間史
〔鳥海山の活動期〕
『鳥海山史』によれば、由利郡小瀧(鳥海山修験の拠点の一つ)の旧記に敏達天皇7年(578年)1月16日噴火したことが、由利郡直根村旧記に推古天皇御代の噴火と元明天皇の和銅年間(708年 〜 715年)に噴火したことが、由利郡矢島(鳥海山修験の拠点の一つ)においては元正天皇の養老元年(717年)6月8日噴火したことが伝えられている。同書では、いずれも正史の記事ではないので安易に信ずることはできないが、真実であれば鳥海山は578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないかと考察している。
〔祭神・大物忌神〕
この山は正史へ大物忌神の名で登場し、度々神階の陞叙を受けているが、正史に現れた最初の授位の記事は『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条における記述である。大物忌神という神について『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では、物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むということであり、夷乱凶変を忌み嫌って予め山の爆発を発生させる神であると大和朝廷は考えたのではないか、と考察している。
『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』においても国事兵乱との関係で畏敬尊崇の対象となっていたと述べ、『鳥海山史』も同様の考察をしている。しかし、秋田県の郷土史家田牧久穂は、大物忌神は大和朝廷による蝦夷征服の歴史を反映し、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だと述べている。
〔大物忌神と鳥海山〕
『続日本後紀』承和7年(840年)7月26日の条では大物忌神を従四位下勳五等へ陞叙しているが、同記事では陞叙の理由を、大物忌神が雲の上にて十日間に渡り鬨の声をあげた後、石の兵器を降らし、遠く南海で海賊に襲われていた遣唐使船に加護を与えて敵の撃退に神威を表したからだとしている。
この記事により、大物忌神が出羽国の火山らしいことが初めてわかるが、山の姿をより詳細に記述し、大物忌神が現在の鳥海山であると推定できるのは、『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある、下記の出羽国司の報告である。
《出羽国司の報告。従三位勳五等の大物忌神社は飽海郡の山上にある。巖石が壁立し、人が到ることは稀である。夏も冬も雪を戴き、草木は禿て無い。去る4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。
山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10丈(約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。
河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間(810年 〜 824年)に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告を受けた朝廷が陰陽寮にて占いを行ったところ、結果は全て、出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また冢墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ。
もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田を汚している冢墓骸骨を除去せよと国守に命じた。
以上の記事から『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、四時雪を戴いて草木も生えず、登山困難な高山で、しかも4月8日に噴火したとあり、出羽国飽海郡にそのような山は一つしかないので鳥海山と推定される、と述べている。
〔噴火の記憶〕
また、『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』では、『日本三代実録』貞観13年5月16日の条にある「長さ10丈の大蛇2匹」とは2本の泥流であろうと言われている、との説を紹介している。
その後も『日本三代実録』には、元慶8年(884年)9月29日の条において「6月26日、秋田城へ石鏃23枚が降った」との記述、仁和元年(885年)11月21日の条において「6月21日、出羽国秋田城中および飽海郡神宮寺西浜に石鏃が振った」との記述が見られるが、噴火があったのかは不明である。噴火が確認できるのは『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条にある「大物忌明神の山が燃えた」との記述で、これが中世では最後の噴火の記録となり、以後数百年間は史上に噴火の記録を見ることはなくなる。
〔山名の由来〕
『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では、元来、鳥海山は山名が無く、山そのものが「大物忌神」と呼ばれていたと述べているが、前述のように『続日本後紀』および『日本三代実録』では「大物忌神」、『本朝世紀』では「大物忌明神の山」と記述され、鳥海山という名では呼ばれていない。
鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』においても「北山」と呼ばれ鳥海山と言う名では呼ばれないと『鳥海山史』では述べている。鳥海山という名が文字として確認できる最古のものは、暦応5年(1342年)7月26日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した鰐口銘に見えるものであると『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では紹介している。
しかし、『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、この鰐口銘も山全体の名称であるかについては疑問があると考察している。その理由を同書では、永正7年(1510年)編集の『羽黒山在庁年代記』に「本宮大権現、欽明天皇七年丙寅年、飽海嶽に出現。今の鳥海権現是也」とあるので鳥海は権現号、山号は飽海嶽であると言うことになり、山号を鳥海とする資料が近世になっても見当たらないからだと述べている。
また、鳥海山の由来についても定説が無い。『鳥海山史』では、山腹の鳥海湖に由来する説を紹介した後、鳥海彌三郎に由来するのではないかとの考察を行っている。
〔修験道の場〕
鳥海山は中世後期以降、修験道の場となり、矢島・小滝・吹浦・蕨岡などの主要登山口に修験者が集うようになった。
『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に神宮寺が置かれた頃と推測し、『鳥海山史』では、吹浦・蕨岡よりも矢島方面の修験道が相当古い由緒を持っていると推測しているが、峰々の曼荼羅化や入峰方式がどの様に確立されて行ったのか、各登山口にいつから修験者が住み着いたか等については、史料が欠けており正確には分かっていない。
各登山口の修験者は、連綿とした事由からお互いに反目・対立するようになっていき、江戸時代には修験者同士の争いが矢島藩と庄内藩を巻き込んだ嶺境争いに発展、江戸幕府の裁定によって山頂が飽海郡とされている。
〔噴火の記録〕
近世に入り、再び鳥海山の噴火が史上に現れる。『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』によれば、『由利郡仁賀保旧記』に万治2年(1659年)噴火の記事が見えるという。しかし、庄内側に記録がないので、北面の噴火だったのかもしれないと推測している。
『出羽風土略記』には元文5年(1740年)5月上旬の噴火によって山上の瑠璃の壺、不動石、硫黄谷と言われる辺りが焼けたとの記述がある。寛政12年(1800年)の冬から文政4年(1821年)に至る期間にも鳥海山は噴火しており、特に享和元年(1801年)の噴火は激烈を極め、新山(享和岳)を生成し、『文化大地震附鳥海山噴火由来』によれば火山弾によって8人の死者を出したのだと言う。
現代においても、昭和49年(1974年)3月に噴煙をあげたことから全山入山禁止となり、『山形縣神社誌』によれば山頂の大物忌神社が中腹に造営した「中の宮」へ遷座している。
5.2)鳥海山大物忌神社
鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)は、山形県飽海郡遊佐町にある神社。式内社(名神大社)、出羽国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
山頂にある御本社(引用:Wikipedia)
●概要
鳥海山頂の本社と、麓の吹浦(ふくら)と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる鳥海山を神体山とする。当社は鳥海山の山岳信仰の中心を担ってきており、平成20年(2008年)に神社境内が国の史跡へ指定されている。
●祭神
・大物忌大神:主祭神は記紀には登場しない神で、謎が多い。『神祗志料』や『大日本国一宮記』では、大物忌大神と倉稲魂命が同一視されている。
・豊受姫命
・月読命:吹浦口之宮で祀られている
鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽国における山岳信仰の中心として現在の山形県庄内地方や秋田県由利郡および横手盆地の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。
〇歴史
●創建に関する諸説
景行天皇または欽明天皇時代の創祀と伝えられるが、創建時期には諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、時期の特定は困難である。
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所(鳥海修験 も参照のこと)があり、各登山口ごとに異なる伝承が伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況である。
〔吹浦の伝承〕
吹浦の社については、元禄16年(1703年)に芹沢貞運が記した『大物忌小物忌縁起』において、景行天皇のとき出羽国に神が現れ、欽明天皇25年 (564年) に飽海郡山上に鎮まり、大同元年 (806年) に吹浦村に遷座したとある記述があり、現在の社伝はこの吹浦の創建についての伝承を踏襲しているとされる。なお、大同元年は空海が唐から帰国した年にあたり、東北の多くの寺社で創建の年とされているという。
『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽国司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上とあるのみで、上記の吹浦についての言及はない。
創建に関する吹浦の伝承として、他に、吹浦の信徒が蕨岡の勢力に対抗して宝永2年(1705年)に寺社奉行所に提出した「乍恐口上書を以申上候事」という文書に、慈覚大師(円仁)が開基したとの記載がある。この記載は、蕨岡に伝わる縁起に対抗する意味合いが強かったと思われるが、現在も吹浦には慈覚大師直筆とされる天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が保管されている。
その他、吹浦の「大日本国大物忌大明神縁起」(成立年代不明)には、地元の他の伝承と融合したと思われる「卵生神話」が記されており、「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇のとき、二神が出羽国に現れ、仲哀天皇のとき、三韓征伐で功績をたてたので、正一位を授かり勲一等を得た。用明天皇のとき、師安元年6月15日に、二神は飽海郡飛沢に鎮まった」という。
なお、丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族である可能性があるとされる。その後、貞観6年(864年)、慈覚大師(円仁)が鳥海山から五色の光が放たれているのに気づいて、登ろうとすると、青鬼と赤鬼が妨害したので、火生三昧の法で対抗したところ、鬼は観念して、今後は鳩般恭王として大師に従い仏法を守護すると誓ったという。そして、円融院の代(969年から984年)に朝廷から両所大菩薩と命名されたという。
上記の「卵生神話」は朝鮮の「三国遺事」や「三国史記」にも記載があり、外来の伝承が存在したことが推測されるが、鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、中世に成立した「鳥海山」の名称と関連していて、現在も地元に伝わる霊鳥伝説ともつながりを持っており、中世から近世にかけて成立した伝承である可能性が高いとされる。
永正7年(1510年)の『羽黒山年代記』では、鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、欽明天皇7年(546年)に神が出現した後、貞観2年(860年)に、慈覚大師(円仁)が青鬼と赤鬼を退治した後、山の外観が龍に似ているとして、龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に権現堂を建て、寺号を龍頭寺(りゅうとうじ)として、さらに、鳥の海に因んで山号を鳥海山としたとされており、卵生神話の記載はないものの、上記の「大日本国大物忌大明神縁」と共通する内容となっている。
なお、現在の龍頭寺は大同2年 (807年) に慈照上人が開いたとされており、上述の空海の帰国の年に合わせられているほか、慈照上人の実在が確認されておらず、慈覚大師(円仁)の錯誤である可能性もあるが、『羽黒山年代記』の貞観2年に開かれたとする記述とは年代が離れている。
〔蕨岡の伝承〕
吹浦とは別の縁起が伝わる蕨岡の「鳥海山記并序」(宝永6年、1709年)では、役行者が開山したとする前提で、行者がはじめて山に登ったとき、「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている。なお、社の創建のとき、山に名称はなく、現在の「鳥海山」という山名ができた由来には諸説あり、山上にあって霊鳥が生息すると言い伝えられる「鳥の海」によるとする説が有力である。
蕨岡に伝わる他の縁起では、「鳥海山縁起和讃」(嘉永5年、1852年)に、天武天皇のとき、山の神の命により、役行者が山中に出没する鬼を退治し、開山したと記されている。この縁起は、吹浦に伝わる慈覚大師(円仁)の創建とする説よりも年代を古い説を唱え、対抗しようという意図がみられるとされる。
関連して、蕨岡の東之院興源は「出羽國一宮鳥海山略縁起」(安政4年、1857年)の中で、役行者が山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという記載があり、実際に、蕨岡では山道に三十六王子を祀っていたという。
●古代
〔山岳信仰〕
越国より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた蝦夷が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する鳥海山の存在は朝廷軍にとって脅威であった。そのような状況で、もともと日本では山岳信仰が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』では推測している。
前述の『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽国司からの報告には、鳥海山の噴火について、「出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ」等の記述があり、鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』では述べている。
上述のとおり、当初、「鳥海山」という山名は無く、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』では考察している。
また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『日本紀略』天慶2年(939年)4月17日の条にある秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われたことを挙げている。なお『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。
〔神仏習合〕
六国史によれば斉衡3年(856年)から貞観12年(870年)の間に出羽国では定額寺が6ヶ所指定され、また『日本三代実録』仁和元年(885年)11月21日の条では飽海郡に神宮寺があったと記していることから、出羽における神仏習合はこの時期に始まったと『名勝鳥海山』では推測している。また同書によれば、大物忌神へ奉仕する職制は神仏習合以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する社家、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕をしていたのだと言う。これが後の明治の神仏分離によって、大物忌神社に復すまで続くことになる。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社とされた。また、『延喜式』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥国鹽竈社、伊豆国三島社、淡路国大和大国魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。大物忌神は、六国史にも、13度登場している。なお、当時は「鳥海山」という山名がなかったため、「飽海郡鎮座の大物忌神」と呼ばれていた。
●中世
鳥海山における中世の信仰についてはまとまった記録が残っておらず、断片的な記録等から推測せざるをえないとされる。そして、それらによれば、幕府や南朝の有力者が両所宮や両所大菩薩へ寄進を行っていたという。
承久2年(1220年)、藤原氏(三善氏)が北条義時の命により、現在の遊佐町北目の新留守氏に「北條氏雑掌奉書」を送っており、同書に「出羽國両所宮修造之事」とあることから、大物忌神社が、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」とされていたことがわかる。
南北朝時代に入ると、「鳥海山」という山名の使用がみられるようになる。山中で発見された鰐口の銘に「暦応5年」(1342年) の年号(北朝)がみられ、「奉献鳥海山和仁一口右趣意者藤原守重息災延命如」とあるのが、「鳥海山」という山名の初出とされる。なお、戸川安章によれば、当時、鰐口は修験道の伽藍に掛けられるのが一般的だったため、鳥海山における修験道の出現は南北朝時代からであるとされる。
当神社は出羽国一宮とされ、南北朝時代の正平13年(北朝の元号では延文3年、1358年)、南朝の陸奥守兼鎮守府将軍である北畠顕信(北畠親房の次男)が南朝復興と出羽国静謐を祈願し、神領として「出羽國一宮両所大菩薩」に由利郡小石郷乙友村を寄進したことが、吹浦口之宮の所蔵文書である「北畠顕信寄進状」に記されている。これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
なお、当時、吹浦の両所宮では鳥海山と月山の神とを「両所大菩薩」として祀っており、本地垂迹説に基づき、本地を薬師と阿弥陀とされていた。
・一宮争い(前述:「2日本の神社(1)一宮についてー2.4.2)一宮争い②」参照)
〔吹浦、蕨岡の論争〕(前述)
〔蕨岡、矢島の御堂建替の論争〕(前述)
〔蕨岡、矢島の嶺境の論争〕(前述)
〔吹浦の一宮名号使用の訴願〕(前述)
●明治以降
明治元年(1868年)の神仏分離令への対応では吹浦が蕨岡に先行することとなり、明治2年、吹浦の信徒は全て神道を奉ずることとなり、明治3年には社の奉仕者たちが正式に神職となり、社号も大物忌神社となった。神宮寺等の仏教建築や仏像は撤去され、明治4年(1871年)5月、吹浦の大物忌神社は国幣中社に列せられ、山頂の権現堂の管理もできることとなった。
吹浦の後から神道を奉ずるようになった蕨岡の信徒たちは、自分たちの権利を取り戻そうと山形県や明治政府に何度も請願して、訴訟も行ったが失敗した。
明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたが、松方正義の意見により、明治13年(1880年)8月7日、左大臣有栖川宮熾仁親王から、山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし、吹浦と蕨岡の大物忌神社を、それぞれ里宮(後に口ノ宮)とする旨の通達が出され、明治14年に実施されたため、両者の争いは収束した[1]。この変則的な祭祀体制は、吹浦と蕨岡のそれぞれに国幣中社大物忌神社の社務所を置き、宮司は吹浦に駐在するが、本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うというものだった。
神仏分離による混乱・動揺の後、鳥海山への山岳信仰は再び盛り上がりをみせ、明治以降も登拝は盛んとなった。特に第2次世界大戦中は登拝が多かったとされる。
昭和30年(1955年)、大物忌神社が山頂と吹浦と蕨岡の3つの社の総社号とされ、吹浦と蕨岡は、それぞれ大物忌神社吹浦口ノ宮・蕨岡口ノ宮とされた。
昭和47年(1972年)、鳥海ブルーラインが開通すると、鳥海山は徐々に、山岳信仰の対象としてよりは観光の対象と認識されるようになり、信仰に基づく登拝は昭和40年代(1970年代)後半から、徐々に少なくなり、神仏習合や修験道が盛んだった時代の痕跡もほとんどみられなくなった。
6)蔵王山(宮城県・山形県)
蔵王はかつて修験道の場であり、その為に蔵王権現が祀られた。これに起源を持つ刈田嶺神社 (七ヶ宿町)が刈田岳の山頂に鎮座し、またこれに対をなす刈田嶺神社 (蔵王町遠刈田温泉)が蔵王の山麓にある。山頂の神社が奥宮、山麓の神社が里宮と呼ばれていて、この二つの神社の間で季節に伴う遷座が行われている。さらにこれとは別に刈田嶺神社 (蔵王町宮)もある。また、熊野岳の山頂には蔵王山神社がある。
1976年度撮影の国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成(引用:Wikipedia)
写真中央に御釜(五色沼)があり、その東側に五色岳がある。
これらを東側が開いたC形の外輪山が囲む。南側の外輪山の刈田岳頂上に当社などがある。
なお、写真左上の熊野岳山頂に蔵王山神社がある。
天武天皇の時代に、修験道の開祖役小角(役行者)の叔父に当たる行願が、大和国吉野の金峯山から現在の蔵王の山頂に蔵王権現を分祀して修験の地としたと伝わる。あるいは、刈田嶺神社の社伝によれば、白鳳8年(679年)、役小角が大和国の吉野山から蔵王権現を不忘山に奉還し、周辺の奥羽山脈を修験道の修行の場としたとも言われる。
6.1)刈田嶺神社
刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)は、奥羽山脈・蔵王連峰の宮城県側、刈田岳東麓の遠刈田にある神社。刈田岳(標高1,758m)山頂の「刈田嶺神社」と対になっており、山頂の同名社を「奥宮」、当社を「里宮」と言う。神体は、夏季に山頂の「奥宮」に、冬季は麓の「里宮」にと、両宮の間を季節遷座している。
「蔵王連峰」の "蔵王" は、かつて両宮が祀っていた蔵王権現に由来する。
刈田嶺神社(引用:Wikipedia)
〔歴史〕
・(宮城県神社庁の説):「開山せしは何時頃なりしか不明なれど、人皇二代綏靖天皇を奉祀せしこと」が地方伝説等には残されている。社伝(『安永風土記御用書出』・『刈田郡誌』も同)では、役小角が白鳳8年(679年)に大和国に蔵王権現、即ち、天之水分、国之水分、二柱の御神霊を鎮座した吉野山から、「其後文武天皇の御宇」(在位697~707年)、不忘山に蔵王権現を奉還して、山名も「蔵王山」と改めるに至った。
この時代は仏教の最も盛んなる時にして、畏くも天皇御自身三宝の奴と称し、行基出でて神仏習合説を唱い、空海(774~835年)、最澄(767~822年)の二僧出ずるに及び、本地垂跡説を説きし頃(平安時代はじめ頃)なりしかば、いつしか神社名も忘れ、「蔵王大権現」と称するに至った。
・(蔵王町教育委員会の説):蔵王山頂に鎮座する蔵王大権現は、天武天皇8年(679)に、役の行者の叔父 願行(がんぎょう)が勧請したものと伝えられる。蔵王大権現社は往古より蔵王一帯の修験者を統括し、大刈田山(青麻山)東麓の「願行寺」が管理した。平安時代末期(12世紀末)には奥州藤原氏の庇護も受け、願行寺は繁栄し、子院四十八坊を形成するまでになった。
奥州藤原氏が滅亡とともに衰退し、戦国時代には兵火による焼失も加わって、戦国時代末期には山之坊・宮本坊・嶽之坊の3坊にまで減少した。後に、山之坊は廃れ、宮本坊は宮蓮蔵寺となり、嶽之坊は金峯山蔵王寺嶽之坊と号し、蔵王山参詣表口を統括した。御山詣りが流行した江戸後期以降は、多くの参詣者を山頂の蔵王大権現へと導く役を担った。
雪深い蔵王山は冬の参詣ができないため、例年、十月八日から翌四月八日までは御神体を遠刈田の「蔵王大権現御旅宮」(おかりのみや)に遷すようになった。この御旅宮は嶽之坊と同一の場所にあるなど、古くから嶽之坊と蔵王大権現社とは、同体ともいえるほど深くつながっていた。
6.2)蔵王山神社
蔵王山神社(ざおうさんじんじゃ)は、山形県山形市上宝沢の蔵王連峰主峰である熊野岳山頂(標高1,841m)にある神社である。祭神は須佐之男命。山形市蔵王温泉を見下ろす「瀧山」、蔵王温泉内にある「酢川神社」(酢川温泉神社)とともに三社一宮をなしている。
蔵王山神社(引用:Wikipedia)
680年(天武天皇9年)、奥羽山脈の宮城県側の不忘山に「権現社」が建立され、690年(持統天皇4年)に、役小角という行者が吉野の金峯山寺から金剛蔵王大権現を勧請して、宮城県側の刈田岳山頂に祀った(「蔵王大権現社」。後の刈田嶺神社(奥宮)および刈田嶺神社(里宮))。これ以降、修験道の修行の場となった当地の奥羽山脈は「蔵王山」と呼ばれるようになった。
「蔵王山」の山形県側では708年、当社の前身である「熊野神社」が熊野岳に建立された。熊野修験の信者からは、吉野・大峰山に対して「東のお山」と呼ばれている。熊野神社には、後年熊野権現と白山権現も勧請されている。
712年には、山形市下宝沢に「三乗院」が作られて山岳修験の拠点となり、承和年間中(834年~847年)に、酢川神社が作られ、851年に慈覚大師が「瀧山」(りゅうざん)を開山した。これ以降、当社は、瀧山(本宮)、酢川神社(口ノ宮)、熊野神社(離宮)の三社一宮となった。三社一宮は、熊野信仰の特徴である。
後に、瀧山の周辺には300坊と呼ばれるほどの宿坊が立ち並び、蔵王修験の中心となった。
1952年(昭和27年)、熊野神社から蔵王山神社へと改名された。
瀧山に関しては蔵王権現と切り離し、「瀧山信仰」であったとする論もあるが、現在も続いている瀧山の例大祭は、蔵王山神社と瀧山閉山後に遷座した瀧山神社が合同で行っている。また、毎年の山開きの日には、蔵王山神社の氏子、刈田嶺神社の氏子双方が、刈田峠駐車場に集い、共に山の安全祈願を行っている。
(引用:「日本の霊山読み解き事典」西海賢二・時枝 務・久野俊彦著/柏書房)
〇関東の霊山(参考)
●榛名山〔群馬県〕●男体山〔栃木県〕●三峰山〔埼玉県〕●武州御嶽山〔東京都〕
●大山〔神奈川県〕●赤城山〔群馬県〕●妙義山〔群馬県〕●武尊山〔群馬県〕●迦葉山〔群馬県〕
●女峰山〔栃木県〕●太郎山〔栃木県〕●古峰ヶ原〔栃木県〕●八溝山〔茨城県・栃木県・福島県〕
●筑波山〔茨城県〕●加波山〔茨城県〕●高尾山〔東京都〕●箱根山〔神奈川県〕
●白根山〔栃木県・群馬県〕●武甲山〔埼玉県〕●両神山〔埼玉県〕●金鑽山(御嶽山)〔埼玉県〕
●鹿野山〔千葉県〕●清澄山(妙見山)〔千葉県〕●鋸山〔千葉県〕●三原山〔東京都〕
●八丈富士〔東京都〕
〇中部の霊山(甲信越分抜粋)(参考)
●富士山〔山梨県・静岡県〕●妙高山〔新潟県〕●戸隠山〔長野県〕●御嶽山〔長野県・岐阜県〕
●弥彦山〔新潟県〕●米山〔新潟県〕●八海山〔新潟県〕●身延山〔山梨県〕
●金峰山〔山梨県・長野県〕●七面山〔山梨県〕●飯綱山(飯縄山)〔長野県〕
●槍ヶ岳〔長野県・岐阜県〕●金北山〔新潟県〕●二王子岳〔新潟県〕●苗場山〔新潟県・長野県〕
●大菩薩嶺〔山梨県〕●鳳凰山〔山梨県〕●八ヶ岳〔山梨県・山梨県〕●皆神山〔長野県〕
●恵那山〔長野県・岐阜県〕●浅間山〔長野県・群馬県〕
7)日光山 8)迦葉山 9)三峰山 10)御嶽山 11)高尾山 12)大山
13)大雄山 14)箱根山 15)戸隠山 16)飯縄山 17)御嶽山
(引用:Wikipedia)
7)日光山(栃木県) - 日光修験
7.1)日光山
日光山(にっこうさん)は、栃木県日光市にある輪王寺の山号である。江戸時代には日光寺社群を総称して日光山と呼んだが、明治時代の神仏分離令により輪王寺の山号となった。
男体山 女峰山 太郎山
(引用:Wikipedia)
日光山は、栃木県北西部にある男体山(2,486m)、女峰山(2,464m)、太郎山(2,368m)の三山を中心とする山岳の総称としても用いられる。
●起源
日光山は勝道上人(奈良時代後期から平安時代初期の人物)が開いた現日光の山岳群、特にその主峰である男体山を信仰対象とする山岳信仰の御神体ないし修験道の霊場であった。
男体山は奈良時代には補陀洛観音浄土に擬せられて「補陀洛山」と呼ばれていたが、後に「二荒山」という字が当てられたと言われる(『延喜式』には「二荒山」とある)。更にそれを音読して「日光山」と呼ぶようになり、男体山のみならず隣接する山々を含めた総称となった。
「日光」が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期ないし鎌倉時代以降である。
下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ、また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる。
●日光三山
日光三山(にっこうさんざん)とは、栃木県日光市にある日光連山(日光表連山)のうち、男体山(2,486m)、女峯山(2,464m)、太郎山(2,368m)の三山を指す。
それぞれに新宮権現、滝尾権現、本宮権現の三社が祭祀されている。鎌倉時代には、これら三社をまとめて日光権現と称していた。
※関連項目:日光山縁起
7.2)輪王寺
輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされている。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。
輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
三仏堂(重要文化財)(引用:Wikipedia)
●概要
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。国宝、重要文化財など多数の文化財を所有し、徳川家光を祀った大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。
日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である。
一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については21世紀の現在も東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていない。
上述のとおり各所に点在する堂塔の状況を記すと、東照宮の南方の境内には本堂の三仏堂や寺務所があり、ここには本坊表門、護法天堂、相輪橖(そうりんとう)などがある。二荒山神社西側には大猷院霊廟の建築群があり、その南側には常行堂と法華堂、そこから長い石段を上った先には中興の祖・天海を祀る慈眼堂がある。勝道を祀る開山堂は東照宮北方、滝尾神社への参道の途中にある。
このほか、神橋近くの二荒山神社本宮に隣接した四本龍寺の旧地には、観音堂と三重塔があり、少し離れて児玉堂がある。中禅寺湖畔の中禅寺(立木観音)も輪王寺に所属している。
開山1250年を記念して、2016年7月31日から2017年11月30日まで輪王寺に伝わる秘仏「吉祥天」の一般公開が中禅寺立木観音で行われた。
●本堂
本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築である。現在の建物は徳川家光の寄進により正保2年(1645年)竣工した。日光三山の本地仏として三体の本尊が祀られている。三仏、三山、三所権現、祭神(垂迹神)及び寸法は以下の通りである。
・千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと)
- 総高703.6cm(本尊335.4cm)
・阿弥陀如来(女峰山)=滝尾権現(たきのおごんげん)=田心姫命(たごりひめのみこと)
- 総高756.3cm(本尊306.3cm)
・馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
- 総高744.7cm(本尊301.3cm)
これらの仏像は国内有数の大きさだが、制作時期等の来歴が不明のため文化財には指定されておらず、今後の調査が望まれる。
日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されていた。輪王寺本堂(三仏堂)に三体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
7.3)日光修験
日光修験(にっこうしゅげん)とは、栃木県の日光山で行われてきた修験道をいう。勝道上人が開山、役小角(役行者)を開祖と仰ぐ。
●概要
奈良時代に勝道上人が大剣峰で3年にわたる修行の後に、二荒(ふたら)山、現在の日光山を開基した。第24世座主の弁覚法印によって日光山では熊野修験の修法を取り入れ始め、室町時代に独自の修験道を発展させた。江戸時代には日光山第53世貫主の天海によって山王神道の下で東照大権現が日光に祀られた。
新宮権現、滝尾権現、本宮権現を日光三所大権現として祀る。併せて日光十八王子も祀るとともに、明星天子や深沙大王も信仰する。
●現在の日光修験道
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって日光修験は禁じられて一旦は途絶したものの、現在は日光山輪王寺、中禅寺、日光二荒山神社の協力で復興され、春・夏・秋の3回の峰入りを実施している。
8)迦葉山(群馬県)
迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ) は、群馬県沼田市上発知町にある曹洞宗の寺院である。沼田市北部にそびえる迦葉山の中腹に鎮座する。寺号は「迦葉山 龍華院 弥勒護国禅寺(かしょうざん りゅうげいん みろくごこくぜんじ)」だが、一般には単に「迦葉山」と呼ばれることが多い。迦葉山参りでは、最初の年に中峰堂から天狗面を借りて帰り、次にお参りする機会に借りた面と門前の店で新しい面を求めて添えて寺に納め、また別の面を借りてくるという習わしになっている。
848年(嘉祥元年)に、桓武天皇の皇子葛原親王の発願により、天台宗比叡山の円仁を招いて、天台宗の寺院として創建されたと伝えられている。1456年(康正2年)曹洞宗に改宗し、徳川初代将軍の祈願所として御朱印百石・十万石の格式を許された。
〔天狗伝説〕
弥勒寺は天巽禅師によって改宗開山されたが、禅師の高弟に中峰尊という僧がいた。中峰尊は、山門の岩屋や険しい岩山といった人力では登れない処まで修行者を導くなどの神通力を持ち、その童顔は少しも変わらなかった。天巽禅師が二世大盛禅師に住職の座を譲るや、中峰尊は「吾れ迦葉仏の化身にて巳に権化化業は終わった。よって今後は永くこの山に霊し、末世の衆生の抜苦与楽せん」と誓願して案山峰より昇天し、その後に天狗の面が残ったという。
9)三峰山(埼玉県):三峯神社
9.1)三峰山
三峰山(みつみねさん)は、本来は奥秩父山塊にある妙法が岳(1332m)、白岩山(1921m)、雲取山(2017m)の三山の総称。一般的には、三峯神社が在るその頂を三峰山と認識することも多い。これはかつて三峰ロープウェイの三峯神社側の駅が三峰山頂駅と称していたことからもうかがえる。
9.2)三峯神社
三峯神社(みつみねじんじゃ)は、埼玉県秩父市三峰にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。拝殿の手前には珍しい三ツ鳥居がある。狼を守護神とし、狛犬の代わりに神社各所に狼の像が鎮座している。
三峯神社拝殿(引用:Wikipedia)
●祭神
・主祭神:伊弉諾尊・伊弉册尊
・配祀神:造化三神 (天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の総称)・天照大神
●歴史
社伝によれば、景行天皇の時、日本武尊が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法ヶ岳・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる。
三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。
中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。養和元年(1182年)に、秩父を治めていた畠山重忠が願文を収めたところ霊験があったとして、建久6年(1195年)に東は薄郷(現・小鹿野町両神あたり)から西は甲斐と隔てる山までの土地を寄進して守護不入の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えた。しかし正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。
文亀年間(1501年-1504年)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて天文2年(1533年)に堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)」を寺の定紋とした。
江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。
10)御嶽山(東京都):武蔵御嶽神社
10.1)御岳山
御岳山(みたけさん)は、東京都青梅市にある標高929mの山である。武蔵御岳山とも呼ばれる。古くから山岳信仰の対象となっており、山上には武蔵御嶽神社が建立されている。
10.2)武蔵御嶽神社
本社拝殿(引用:Wikipedia)
武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、東京都青梅市(武蔵国多磨郡)にある御嶽神社。武蔵御岳山の山上に鎮座する。御岳、御嶽とは修験道の中心地である奈良県吉野の金峯山を指している。蔵王権現、櫛真智命などを祀り、中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。式内社の大麻止乃豆天神社(武蔵国の式内社一覧参照)であるという説があり、旧府社である。現在は神社本庁に属していない単立神社である。ご眷属の大口真神(おいぬ様)も祀っていることから、祈願のため犬を連れた参拝客が近年増えており、御岳山を登る御岳登山鉄道は、ケージを用いずに犬を乗車させることができる。
●祭神
蔵王権現/櫛真智命/大己貴命/少彦名命/安閑天皇/日本武尊
●由緒
崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされ、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納される。慶長10年(1605年)には大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700年)には幣殿と拝殿が建立された。
明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現(御嶽蔵王権現)から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。昭和27年(1952年)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。
11)高尾山(東京都):高尾山薬王院
11.1)高尾山
高尾山(たかおさん)は、東京都八王子市にある標高599mの山。明治の森高尾国定公園及び東京都立高尾陣場自然公園に位置。東京都心から近く、年間を通じて多くの観光客や登山者が訪れる。古くから修験道の霊山とされた。
744年 (天平16年) 行基により開山(初登頂)が行われ、高尾山薬王院が創建される。
11.2)高尾山薬王院
本堂(薬師如来・飯縄権現を祀る)(引用:Wikipedia)
髙尾山薬王院(たかおさんやくおういん)は、東京都八王子市の高尾山にある寺院。真言宗智山派の関東三大本山のひとつである[注]。 正式な寺名は髙尾山薬王院有喜寺だが、一般には単に「高尾山」あるいは「髙尾山薬王院」と呼ばれる。薬王院と参道のスギ並木は八王子八十八景に選ばれている。
[注]:関東三大本山の残り2つは川崎大師平間寺(神奈川県川崎市)と成田山新勝寺(千葉県成田市)である。
天平16年(744年)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、行基菩薩により開山されたと伝えられている。その際、本尊として薬師如来が安置されたことから薬王院と称する。永和年間(1375年 - 1379年)に京都の醍醐寺から俊源大徳が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄することとなる。
●飯縄権現
飯縄権現(いづなごんげん、いいづなごんげん)とは、信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である。
多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある。一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰された。特に、上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名。
その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などとならび中世から近世にかけては「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法とされつつ俗信へと浸透していった。「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」(『茅窓漫録』)「しきみの抹香を仏家及び世俗に焼く。術者伊豆那の法を行ふに、此抹香をたけば彼の邪法行はれずと云ふ」(『大和本草』)の類である。
しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも信州の飯縄神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県の鹿野山神野寺、千葉県いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されており、薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていた。
12)大山 (神奈川県):
12.1)大山
渋沢丘陵から見た秦野盆地と大山(引用:Wikipedia)
大山(おおやま)は、神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高1,252mの山である。丹沢山などの丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、神奈川県有数の観光地のひとつ。
大山は、丹沢表尾根の東端にあり、富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)。「大山」の名称は、山頂に大山祇神を祀ったためとされるが、大山祇神はかつては「石尊大権現」と呼ばれていた。
大山の山頂には巨大な岩石を御神体(磐座)として祀った阿夫利神社の本社(上社)があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。また、大山は別名を「阿夫利(あふり)山」、「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。
江戸時代の中ごろ(18世紀後半)から、大山御師(明治以降は先導師)の布教活動により「大山講」が組織化され、庶民は盛んに「大山参り」を行った。各地から大山に通じる大山道や大山道標が開かれ、大山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えることとなった。
大山では、天狗信仰も盛んであり、阿夫利神社には大天狗、小天狗の祠がある。そして大山には日本の八天狗に数えられた大山伯耆坊が伝わっている。元々は伯耆大山の天狗であり、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峯に行ってしまったために、相模大山に移り、富士講の人々に信仰されたという。現在でも阿夫利神社の下社の近くに伯耆坊の石碑があり、大山寺の側には伯耆坊を祀った祠がある。
●歴史
・平安時代まで
大山信仰が始まった時期は不明だが、発掘により、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や、古墳時代の土師器片・須恵器片、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されており、信仰開始の時期はかなり古い時代にまでさかのぼることができると推定される。ただし、縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説もある。
『万葉集』の東歌で、大山は「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな」と詠われた。
10世紀前期の『延喜式』神名帳には、相模国十三座の一つとして、大山の「石尊大権現」を祀る「阿夫利神社」の記載があり、神名帳の原本である神祇官の台帳が天平年間の完成とされることから、8世紀前半に阿夫利神社が創建されたとすることもできる。
神仏習合の時代の後、修験道が隆盛を迎え、不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、阿夫利神社の別当寺とされると、大山そのものへの信仰と「石尊大権現」への信仰とが一体化していったとされる。なお、『續群書類從』第27輯下釋家部の『大山寺縁起』(真名本)には、天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正が大山寺を開創したとの記載がある。大山寺は、聖武天皇により国家安穏を祈願する勅願寺とされ、天平宝字5年(762年)には行基の命により、光増が不動明王像を製作して本堂に奉納したとされる。元慶2年(878年)の大地震と大火により大山寺は焼失したが、元慶8年(884年)安然が再興し、天台宗系の修験の場として栄えていった。
平安時代の末に、大山は糟屋氏が支配する糟屋荘に編入されたが、久寿元年(1154年)12月に糟屋荘は安楽寿院に寄進された。その後、大山は藤原得子(ふじわらのなりこ。鳥羽法皇の皇后。美福門院)の領地となり、さらに、得子の子である暲子内親王(あきこないしんのう。八条院)の領地とされた。
・鎌倉時代から戦国時代まで
鎌倉時代には、糟屋氏が源頼朝の御家人となったため、大山寺は鎌倉幕府の庇護を受けることとなった。『吾妻鏡』には、大山寺が源頼朝や源実朝から寄進を受けた旨の記載がある。その後、一時荒廃した大山寺だが、真言宗の願行房憲静(けんじょう)の手で復興された。このとき、願行は蒙古を降伏させる秘法を修得するため大山に登り、百日間の苦行を行い、師匠・意教房頼賢が提供した鉄造の不動明王像の前で祈り続けると、怒り狂った不動明王の姿がみえ、その後、不動明王像の目が見開かれたという。願行は、この時の不動明王の姿をもとに、二体の鉄造の不動明王像を製作し、その一体が大楽寺の不動明王像(「試みの不動」と呼ばれる。現・覚園寺蔵。神奈川県重要文化財)となり、もう一体が大山寺の不動明王像(国の重要文化財)となったとされる。
室町時代においても、当初、大山寺は室町幕府の庇護を受けることとなったが、同時代の末になると、大山寺は、幕府の衰退に伴い、外部からの侵入や管内の修験道の勢力に悩まされるようになった。文明18年(1486年)の冬に大山に登った道興准后は、『廻国雑記』に「その夜の大山は寒くて眠れなかった」と記しており、当時の大山寺の衰退がうかがわれるという。なお、室町時代の後期のころに、『大山寺縁起絵巻』が成立した。
戦国時代に、大山は小田原の北条氏の支配下に入り、北条氏が修験道の勢力を利用しようとしたことから、大山における修験道は天台宗・本山派玉瀧坊の傘下とされた。天正18年(1590年)に徳川家康に与する軍勢が小田原を攻略した際には、大山の修験道の勢力は北条氏に与して、激しい戦いを繰り広げた。
・江戸時代
江戸時代に入ると、徳川家康は敵対していた大山の勢力に厳しい姿勢で臨み、大山の修験道の勢力を全て下山させ、山内の居住は清僧(学僧)のみで25口に限定して許可することとし、さらに大山寺を天台宗から古義真言宗へと改宗させ、初代学頭に成事智院の住持であった実雄法師(古義真言宗)を任命し、定住させることとした。そのうえで、慶長13年(1608年)には御朱印地等を寄進するなどし、経済的な援助関係を強めた。特に徳川家光は、大山寺の「寛永の大修理」の際に、造営費として1万両を与え、落成の祝賀等に春日局を代参として二度参詣させた。
下山させられた修験道の信者たちは、大山の麓に居住し、御師として、布教活動を行うとともに、宿坊や土産物屋の経営をするなどし、その結果、大山門前町(蓑毛町、坂本、稲荷、開山、福永、別所、新町)が成立した。御師たちの活動により、宝暦年間(1751年 - 1764年)から行われた信仰による登山は大山講と呼ばれ、各地から通じる道は「大山道」(「大山街道」ともいう現在の国道246号を含む)と呼ばれた。江戸の庶民にとっては、大山詣と江ノ島詣のセットが娯楽の一つとなった。古典落語の演題にも『大山詣り』が登場した。
明治初期の『開導記』には、大山講の総講数は15700であり、総檀家数は約70万軒との記載がある。このように大山信仰が流行することとなった要因として、『大山寺縁起』(正確には『大山寺縁起絵巻』)の内容が民間に伝わったことが指摘されている。寛政4年(1792年)には、『大山不動霊験記』が出版された。
・明治以後
明治維新以後、明治元年(1868年)3月の神仏分離令と、それに伴う廃仏毀釈の運動により、大山寺は取り壊しとなり、その跡に阿夫利神社の下社が建立された。明治18年(1885年)に、大山寺は現在地(来迎院の跡地)に明王院として再建され、大正4年(1915年)に観音寺と合併し、再び「大山寺」を称することとなった。
12.2)大山阿夫利神社
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、旧社格では県社に列している(現・神社本庁の別表神社)。
●祭神
本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。
●歴史
大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂からは祭祀に使われたとされる縄文土器が発掘されるなどしている。大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。
大山阿夫利神社は、社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされる。延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。
天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。以後、神仏習合が続く。
中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。
また、大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた。なお、一部の地域には、大山に登ると一人前として認められるという伝承があり、大山の神霊が立身出世の神とされていたことがうかがえる。
明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された。明治6年(1873年)には県社に列格している。
戦後、神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独で運営されてきたが、近年、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。
13)大雄山 (神奈川県)・最乗寺(引用・参考Webサイト:大雄山最乗寺HP)
●はじめに
大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4000余りの門流をもつ寺である。
御本尊は 釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。
開創以来600年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ。
●開創の由来
開山了庵慧明禅師は、相模国大住郡糟谷の庄(現在伊勢原市)に生まれ、藤原姓である。長じて地頭の職に在ったが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉 不聞禅師に就いて出家、能登總持寺の峨山禅師に参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺通幻禅師の大法を相続した。
その後永沢寺、 近江總寧寺、越前龍泉寺、能登妙高庵寺、通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住する。
50才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に 竺圡庵を結んだ。そのある日、1羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じた。その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号した。應永元年(1394年)3月10日のことである。
●守護道了大薩埵
大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。尊者はさきに 聖護院門跡覚増法親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約1年にしてこの大事業を完遂した。その力量は1人にして5百人に及び霊験は極めて多い。
應永18年3月27日、了庵禅師75才にしてご遷化。道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。
以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている。
14)箱根山(神奈川県):箱根神社
14.1)箱根山
箱根カルデラを北から望む(引用:Wikipedia)
矢倉沢峠付近から見た箱根山カルデラの山々。湖尻の先に芦ノ湖が広がる。
(引用:Wikipedia)
箱根山(はこねやま)は、日本の神奈川県足柄下郡箱根町を中心に、神奈川県と静岡県にまたがる火山の総称である。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。地名「箱根」は古くは「函根」と記したが、同じく「箱根山」は函根山と記し、函嶺(かんれい)ともいった(函嶺洞門、函南町などといった地名に名残がある)。
14.2)箱根神社
箱根神社(引用:Wikipedia)
箱根神社(はこねじんじゃ)は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にある神社。旧社格は国幣小社。かつては箱根権現、三所大権現とも称された。
●祭神
・箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊の3神の総称。)
・なお、奥宮には以下の造化三神も祀られている。
天之御中主神/高皇産巣日之神/神皇産巣日之神
●歴史
六国史や延喜式神名帳には見えないが、鎌倉時代には『貞永式目』付属の起請文の中で、日本国中の神祇の筆頭にあげられたほど、幕府の篤い崇敬と保護を受け、伊豆山神社とともに二所権現、さらに三島大社を加えて三所権現とよばれ、後北条氏の時代まで特に武家たちの信仰を集めた。
『筥根山縁起并序』(建久2年(1191年)、箱根権現別当・行実編纂)によると、古代から箱根山に対する山岳信仰は盛んで特に神山への信仰は篤く、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていた。
特に、孝昭天皇の時代に聖占(しょうせん)が駒ケ岳において神仙宮を開き開山したのが最初といわれ、神山を神体山として祀ったことが、山岳信仰の隆盛に大きな影響を与えたとされる。駒ケ岳の山頂では現在も10月24日に御神火祭が行われており、古代における神山への祭祀の名残を示しているという。
この筥根山縁起の記述からすると、箱根権現は道教(神仙道)の祭式によって祀られたことになるが、事実、別の縁起書によれば、箱根山はもともと泰山府君を祀る泰禄山とよばれたことがあるという。
また社宝の『箱根権現縁起絵巻』には、天竺斯羅奈(しらな)国のさだいえ中将、その娘の霊鷲御前、その婿の波羅奈国の二郎王子が日本に来て箱根三所・伊豆二所両権現となったという伝承が掲載されている。
この箱根権現が玄利老人によって東福寺となり、それが滅亡しかけたのを、万巻上人が天平宝字元年(757年)、現在地に里宮を再興して僧・俗・女の三体の神を箱根三所権現として祀ったと伝える。この東福寺が別当の金剛王院となって箱根権現をリードしていった。その後、伝承では、万巻上人が人々を苦しめていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、現在の九頭龍神社本宮を建立して、九頭龍を守護神として祀ったとされる。
『吾妻鏡』には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当行実が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建した。
長らく別当寺の金剛王院東福寺が箱根権現の中核であったが、明治の神仏分離の際に別当は還俗して神職となり、箱根神社に改称した。昭和3年に国幣小社に昇格した。
昭和39年(1964年)、堤康次郎の寄進によって駒ヶ岳山頂に箱根元宮が再建された。以来、奥宮として登拝者を集めている。平成11年(1999年)、九頭龍神社の新宮が箱根神社の境内に建立された。
15)戸隠山(長野県)
15.1)戸隠山
戸隠山(とがくしやま)は、長野県長野市にある山。戸隠連峰の一峰で、標高は1,904m。400万年前から270万年前頃の新第三紀の海底火山由来の火成岩が、山体を作っていると考えられる。
鏡池畔から望む戸隠山 (引用:Wikipedia) 山頂付近。細い尾根が続いている。
古くから修験道場や戸隠流忍者の里としても知られている。中腹には戸隠神社(奥社)があり、廃仏毀釈までは聖観音菩薩を祀っていたほか、摂社に地主神の九頭龍社が祀られている。また、当山と同じく修験道場として知られる飯縄山は東南東へ直線で約10kmほどの場所にある。
全体として古い岩質で構成され脆く崩れやすい地質のため、登山の上級者向けの山とされる。登山者は山の形状が屏風形であるため切り立った崖を登るか縦走とならざるをえず、幅50cm前後しかない尾根上が登山路となり両側が断崖絶壁である「蟻の塔渡り」など危険な場所が多い
●名前の由来
「戸隠」の名は、「天照大御神が、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたとき、天手力雄命が、その岩戸をここまで投げ飛ばし、世に光を取り戻した。」との伝説による。
●修験の歴史
戸隠山から高妻山に至るまでが戸隠曼陀羅として考えられ、修験の地として、高妻山の奥にある両界山付近までが古くから栄え、天台宗と真言宗が覇を競い、山に向かって奥社参道左手が真言宗の、右手が天台宗のテリトリーであったとされる。両宗派間にはいさかいが絶えなかったが、最終的に真言宗が戸隠の地を追われる結果となった。
戦国時代、信濃国とその近隣では上杉氏と武田氏が覇を競ったが、この時期の戸隠神社や飯綱神社は多くの修験者と信仰者集団を抱えており、両氏にとってぜひ味方につけたい存在であった。特に修験者は、広く各地の情報に通じていたことや、薬草の知識があったことにより従軍医師としての期待が大きかった。
15.2)戸隠神社
戸隠神社は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社。旧社格は国幣小社。
中社大鳥居(引用:Wikipedia)
●構成各社と祭神
各社の主祭神は、地主神である九頭龍大神以外は「天照大神が、弟である素戔嗚尊の度重なる非行を嘆いて天岩戸に隠れたため、この世に暗黒と悪神がはびこった」とされる神話にまつわる神であるが、それぞれがいつ頃から現在の祭神を祀るようになったかは必ずしも明らかでない。しかし他の多くの神仏習合の神社とは異なり、祭神は江戸時代以前から変わっていない。
・宝光社(ほうこうしゃ):現在地への鎮座は康平元年(1058年)、天暦3年(949年)に阿智の祝部が奥社の相殿として創建されたものである。祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)で、中社の祭神である天八意思兼命の子。学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神とされる。麓から登ってきて最初にあり、うっそうとした杉木立の階段を上って参拝する。
・火之御子社(ひのみこしゃ)(日之御子社とも書く):創建は承徳2年(1098年)。祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。他に高皇産霊命(たかみむすびのみこと)、その娘である栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀る。天鈿女命は天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。舞楽や芸能、また火防の神とされ、宝光社の上1.5kmほどの場所にある。なお、他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であって、かつての顕光寺とは関係がない。
・中社(ちゅうしゃ):「戸隠山顕光寺流記」によると、寛治元年(1087年)に当時の別当が、「当山は三院たるべし」という夢告を受け、奥院(現在の奥社)と宝光院(現在の宝光社)の中間に位置するこの地に中院(現在の中社)を創建したと記されている。現在の祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神。知恵の神ともされる。
・九頭龍社(くずりゅうしゃ):祭神は九頭龍大神。奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。戸隠山には「戸隠三十三窟」といわれる洞窟が点在し、その「龍窟」にあたる。本殿から本殿右手上の磐座の上まで廊下が続いており、そこが「龍窟」となる。古くは雨乞い、縁結びの他、虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。氏子の人によると戸隠の九頭龍大神は梨が好物だそうである。
・奥社(おくしゃ):祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。
神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいた。旧奥院。廃仏毀釈までは聖観音菩薩(現在は長野県千曲市の長泉寺本尊、仁王尊像は長野市の寛慶寺)を祀っていた。戸隠三十三窟「本窟」「宝窟」と言われる中心となる窟が奥社本殿内部にあるが、非公開なので内部に何があるのかは秘密とされている。
現在の奥社、中社、宝光社の3院は天台系であり、これと激しく抗争して約500年前に滅亡したとされる西光寺など真言系の寺院が存在していた事も知られている。
●歴史
・創建:一説には現在の奥社の創建が孝元天皇5年(紀元前210年)とも言われるが、九頭龍社の創建はこの奥社よりもさらに古いとされている。伝承では、この地の地主神である九頭龍大神が、天手力雄命を迎え入れたといわれている。
縁起によれば、飯縄山に登った「学問」という僧が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされている。
また『日本書紀』の天武紀には684年三野王(美努王)を信濃(現在の長野県)に派遣して地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせ、691年に持統天皇が使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせたとされていて、この水内の神が戸隠神社とする説もある。
当神社の御神体である戸隠山の名称は、天照大神が籠っていた天の岩戸を天手力雄命が力まかせに投げ飛ばしたとき、その一部が飛んできて山になったという伝説から生じている。
・平安時代から室町時代
平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山(延暦寺)、高野山(金剛峯寺)と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。
平安末期には、霊場としての戸隠は京の都でもよく知られていたらしく、『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山…」とうたわれるまでになっていた。
当山(延暦寺山門派)の別当職であった栗田氏が鎌倉時代以後は山麓の善光寺(園城寺寺門派)別当をも世襲したこともあって両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かった。
室町時代には戸隠神社で天台・真言両宗の法論闘争が発生、応仁2年(1468年)天台派の宣澄法師が真言派に暗殺された。後世に至って宣澄の供養のため、宝永5年(1708年)に宣澄社が建立され、村人によって毎年8月16日の中社の例祭に「宣澄踊り」が奉納されるようになった
・戦国時代
戦国時代に北信濃地域は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信豪族の後ろ盾となった越後国の上杉謙信との争乱(川中島の戦いなど)に巻き込まれた。これによって戸隠神社と善光寺の別当である栗田氏が分裂するなどして両軍によって絶えず危機に晒された。このため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に大日方氏の庇護を受けて移り住むなど苦境の時期であった。
川中島の戦い当時は、多くの修験者と信仰者集団を抱えていた戸隠神社や飯縄神社(飯綱神社)は武田、上杉両軍の双方にとってぜひ味方につけたい存在であり、修験者は広く各地の情報に通じ多くの人々を牽引し戦況を占い、何より薬草の知識は従軍医師としての期待が大きかった。このため善光寺や、戸隠、飯綱を味方にするか敵に回すかは極めて重要であったため、これらを巡って戦火に巻き込まれ熾烈な戦闘が繰り返されている。
・江戸時代
江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。同時に東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。
・明治以降
明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果、廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となった。 なお当時戸隠の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに現在も伝わり祀られている。
16)飯縄山(長野県)
16.1)飯縄山
山の南側からの眺めで、山頂の右に霊仙寺山、左に瑪瑙山が見える。(引用:Wikipedia)
飯縄山(いいづなやま)(飯綱山)は、長野県北部(北信地方)、長野市・上水内郡信濃町・飯綱町にまたがる山。標高1,917メートル。飯縄山と、その支峰・霊仙寺山(れいせんじやま)(1875.0m)、瑪瑙山(めのうやま)(1748m)などからなる連山全体を飯縄山と呼ぶこともある。戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山とともに、北信五岳のひとつに数えられる。
●信仰
古くから山岳信仰の霊山であり、飯縄権現を祀り修験道場が開かれ、足利義満や管領細川氏、上杉謙信、武田信玄、徳川家康など武将の尊崇を得ていた。また忍術(滋賀県甲賀市の古寺の本尊は飯縄権現像と伝わる)や剣術の修業の地(神道無念流開祖の福井嘉平は飯縄権現への参篭により会得したと伝わる)としても知られる。全国に多くの分社を持つ総本山である飯綱神社だが簡素な社があり、頂上に至る登山道脇には1番の不動明王に始まる13体の石仏が点在する。同じく修験道場として知られる戸隠山は、さらに西北西へ直線距離で10キロメートル余りの場所にある。
●山名
飯縄山の名称は、「飯砂(いいずな)(飯のように食用となる砂の意)」に由来し、信州で局地的に見られる菌類・藻類など微生物の複合体、「テングノムギメシ」(天狗の麦飯)のことを指す。かつては同山中に生息していたが現在は絶滅したともいわれる。凶作の時に飯綱三郎天狗がこの飯砂を配り人々を救ったという伝説がある。
16.2)飯縄神社(WEbサイト:飯縄神社公式サイト)
里宮拝殿(引用:Wikipedia)
飯縄神社(いいづなじんじゃ)は、長野県長野市富田にある神社。全国に祭祀されている飯縄神社の惣社である。社格は旧郷社。
●歴史
270年頃飯縄山山頂に天神大戸道尊を祀り、飯縄大明神と称す。本地を大日如来とし、848年(嘉祥元年)3月学問行者が飯縄山に入山し、如来の尊容を拝す。
1233年(天福元年)信濃国荻野(信州新町)の地頭 伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請する。忠綱の子、盛綱も忠綱に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、忠綱より飯縄の法(※)を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称し、飯縄信仰を全国に広げると共に忍法の祖となる。
1873年(明治6年)5月長野県庁より皇足穂命神社(すめたるほのみことじんじゃ)の称号を与えられる。
(※)飯縄の法:管狐を使う独特の法術
16.3)飯縄大明神(飯縄権現)
飯縄権現(いづなごんげん、いいづなごんげん)とは、信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である。
飯縄権現(ギメ東洋美術館)(引用:Wikipedia)
●概要
多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある。一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰された。特に、上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名。
その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などとならび中世から近世にかけては「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法(※)とされつつ俗信へと浸透していった。「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」(『茅窓漫録』)「しきみの抹香を仏家及び世俗に焼く。術者伊豆那の法を行ふに、此抹香をたけば彼の邪法行はれずと云ふ」(『大和本草』)の類である。
しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも信州の飯縄神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県の鹿野山神野寺、千葉県いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されており、薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていた。別称を飯綱権現、飯縄明神ともいう。
(※)外法外法(げほう)は、仏教の法である仏法(内法)に対し、それ以外の法のこと。つまり、仏教以外の宗教、仏教から見た異教のこと。外道(げどう)に近い意味を持つ。ただし、外道とは違い、魔法、魔術、妖術といった意味あいも持つ。外法(魔法)を使う者という意味で、天狗を外法様と呼ぶ。人の髑髏を使った妖術とされることもあり、これに使われる髑髏を外法頭(げほうあたま、げほうがしら)と呼ぶ。また、口寄せ等に使われる人形を外法仏(げほうぼとけ、仏は仏像の意)と呼ぶ。
飯縄権現仏像図彙 高尾山薬王院の権現堂 高尾山薬王院の飯縄権現銅像
●起源
飯縄権現に対する信仰は各種縁起や祭文により微妙に描写のされ方が異なる。年次の判明しているもので古いものには『戸隠山顕光寺流記并序』(とがくしさんけんこうじるきならびにじょ:室町頃)があり、そこには、
「吾は是れ、日本第三の天狗なり。願わくは此の山の傍らに侍し、(九頭竜)権現の慈風に当たりて三熱の苦を脱するを得ん。須らく仁祠の玉台に列すべし。当山の鎮守と為らん。」
とある。
『戸隠山顕光寺流記并序』はあくまで戸隠を中心においた縁起であり、飯縄明神は戸隠権現の慈風によって鎮守となる、との主客関係が示されている。
一方、江戸時代の『飯縄山略縁起』では、飯縄大明神とは「天神第五偶生の御神大戸之道尊を斎祭り奉り、御本地は大日如来」とされる。地蔵菩薩、将軍地蔵等と変じ、嘉祥元年(848年)3月、学問行者が飯縄山を訪れ飯縄明神の尊容を拝して後、天福元年(1233年)、千日太夫の開祖、荻野城主・伊藤豊前守忠縄が約400年ぶりに飯縄明神を拝し、衆生済度の為の「十三の誓願」を掲げられたという。
この他、『飯縄講式』では妙善月光と金毘羅夜叉との間にできた18の王子のうち、出家せず俗に留まった十王子の第三が飯縄智羅天狗で、これが飯縄山の飯縄明神であると語る。これは先の『戸隠山顕光寺流記并序』と内容的に関連する。
飯縄山を中心とする修験は「飯縄修験」と呼ばれ、代々その長を務めるのは千日太夫と呼ばれる行者であった。千日太夫は近世には武田信玄によって安曇郡から移された仁科氏が務め、飯縄神領百石を支配していた。飯縄山における飯縄信仰は、この千日太夫を中心に後世形作られていったものと思われる。
飯縄権現がいつ頃から信仰としての形を整えたのか現段階で詳らかにすることはできないが、現存最古銘の飯縄神像は永福寺の神像であり、応永13年(1406年)の銘がある。
また、岡山県立博物館寄託の飯縄権現図は絹本著色で室町期の作と推定されており、日光山輪王寺伝来の「伊須那曼荼羅図」には南北朝〜室町期の貞禅の名が見える。加えて、高尾山薬王院有喜寺における飯縄権現は、中興の祖俊源が永和年間(1375〜1379年)に入山した折に感得したといい、俊源が既に飯縄権現に関する情報を得ていたことを伺わせる。先に見た縁起や講式等の記述等と併せて考えるならば、中世初期にはかなり体系的な飯縄信仰像が形成されていたと考えられる。
●展開
一口に飯縄信仰と言っても、憑霊信仰や天狗信仰、武将や修験者、忍者の間での信仰、狐信仰など非常に多岐にわたっており、複雑な様相を呈している。実際どのようなものであったのかは今後の研究の堆積が俟たれるところであるが、室町頃には一面、魔法、外法といった捉えられ方が既になされていたようである。
●真言
「オン チラチラヤ ソワカ」 「チラチラヤ」は飯縄智羅天狗の「智羅」から来ている。また、『今昔物語集』に智羅永寿という天狗が登場している。
17)御嶽山(岐阜県・長野県)
御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。
17.1)御嶽山
●概要
木曽御嶽山、御嶽、王嶽、王御嶽とも称する。また嶽の字体を新字体で表記し御岳山や、単に御岳と表記されることもある。標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する。日本には同名の山(御嶽山・御岳山)が多数あり、その最高峰である。山頂には一等三角点(3,063.61 m、点名「御岳山」)と御嶽神社奥社がある。
古くから山岳信仰の対象の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの峰を連ねてそびえる活火山である。民謡の『木曽節』では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、『伊那節』では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として親しまれている。
●山名の由来
遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。
●歴史・信仰
御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。
鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。室町時代中期に神沢杜口の随筆『翁草』巻162で 『御山禅定は百日精進せずしては上り得ず、其間は行場に入りて修行をなす、昼夜光明真言を誦し、水垢離をとるなり。其の料金三両二分百日間の行用とす。斯くのごとくなれば軽賦の者は登り得ず生涯大切の旨願ならねば籠らずとなり。 — 神沢杜口『翁草』巻162(室町時代中期)』 と記載されていて、山頂の御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ、この厳しい修行を行った者だけに年1回の登拝が許されていた。この「道者」と呼ばれる木曽谷の人々による登拝が盛んとなった。
1560年(永禄3年)6月13日に木曽義昌が、従者と共に武運を祈願するために御嶽神社の里宮で100日の精進潔斎を終えた後に登拝した。江戸時代前期の行脚僧円空も登拝し、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残している。
1785年(天明5年)に尾張春日井郡出身の覚明行者が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させるに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになった。
その後、普寛行者が王滝口を開いた。江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成されて御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。江戸時代末期の『信濃奇勝録』で、
『信州一の大山なり、嶽の形大抵浅間に類して、清高これに過ぐ、毎年6月諸人潔斎して登る、福島より十里、全く富士山に登るが如し。— 信濃奇勝録(江戸時代末期)』
と記載されている。1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始し、この上部への女性の立ち入りが禁止されていたが、1872年の太政官通達により他の国内の山と比較して早くから女人禁制が解かれた。
王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。
御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。
●御嶽の四門
遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所が「御嶽の四門」と呼ばれていて、鳥居などが設置された御嶽山の遥拝所がある。これらは仏教の四門として、岩郷村神戸が発心門、長峰峠が菩薩門、三浦山中が修行門、鳥居峠が涅槃門にたとえられていた。木曽福島から黒沢口への古道の合戸峠や姥神峠などにも御嶽遥拝所があった。
・岩郷村神戸 - 中山道を京方面から最初に御嶽山を望める箇所、現在の木曽町、山頂の東南東19.8 km。
・長峰峠 - 鎌ヶ峰との鞍部 - 覚明行者系の空明行者によって再興された御嶽大権現の碑が設置されている。山頂の北北東10.4 km。
・三浦山中 - 戦乱で焼失したと記録されている。阿寺山地の拝殿山、山頂の南西17.2 km。
・鳥居峠 - 中山道、山頂の東北東29.2 km。木曽義元が戦勝祈願のため、御嶽遥拝の鳥居を建造した。普寛行者系の一心行者の石像が設置されている。
●御嶽信仰を広めた行者
・覚明行者(かくめいぎょうじゃ)は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村皿屋敷の農夫丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれ、幼名は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていた。出身地の愛知県春日井市立牛山小学校の校歌で、「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれている。
1818年(文政元年)10月の『連城亭随筆』で「医師の箱持ちをした後お梅と結婚し餅屋を開き商いをしていた」と記録されている。ある時予期せぬ出来事(盗みを働いたと疑われたことがきっかけとする説がある)が起こり、各地で巡礼修行をして行者となった。木曽谷の村々で布教活動を行い信者を増やした。
1782年(天明2年)御嶽山を管轄する神職武居家と尾張藩木曽代官山村氏に登山許可の請願を行ったが、数百年に渡る従来の登拝型式(精進潔斎)を破ることになるため却下された。しかし登山許可がないまま1785年(天明5年)6月8日に地元住民8名と、6月14日には尾張の38名の信者らと、6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った。登拝したものは罪を受け、覚明行者も21日間拘束を受けたとされている。
1786年(天明6年)にも多数の同志を引き連れて登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行ったが、その最中の6月20日にニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬された。山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の霊場が現存する。
その後覚明行者の志を受け継いだ信者により黒沢口の登山道の改修が完結され、覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となった。信者が増加し福島宿に経済効果が生まれるようになったこともあり1791年(寛政3年)6月には麓の庄屋が連名で武居家に軽精進登拝の請願を提出し、1792年(寛政4年)1月1日に許可が下された。6月14日から6月18日まで間に、入山料200文を徴収し、軽精進による登拝を認めるという規定が作られた。
1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。覚明行者は麓の開田西野で村人に「アカマツの苗が育てば必ず稲ができる」と教え、村人が苗を植えたら育ったことから開田の地名が生まれ、その由来が1806年(文化3年)に設置された稗田の碑に刻まれている。御嶽山を中興開山させた先駆者とされている。
・普寛行者(ふかんぎょうじゃ)は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期に江戸へ出て剣術を学び、酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられている。1764年(明和元年)三峯神社に入門した本山派の修験者となった。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた。その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた。1794年(寛政6年)には上州の武尊山、1795年(寛政7年)には八海山の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、1801年(享和元年)9月、巡錫中に武州本庄宿で病に倒れた。
普寛行者は
なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月 — 普寛行者の辞世の句
王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された。普寛行者の直弟子として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった。の辞世の句を残している。
●木曽御嶽信仰の起源
修験道の神である蔵王権現を祀る神社は、明治時代の神仏分離のときに、御嶽神社、金峰神社(金峯神社)、蔵王神社などと改称された。
蔵王権現は、釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化し出現したとされ、神道においては、「大己貴命」「少彦名命」「国常立尊」や、「安閑天皇(広国押建金日命)」「金山毘古命」と習合し、同一視されたために、それらの神々を祭神とするようになった。
なお、覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は、上記と区別して「おんたけじんじゃ」と呼ばれる。起源は蔵王権現信仰であるが別の信仰として分化している。
●御嶽講
御嶽山の登拝は行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅(御嶽参り)でもある。講者ごとに先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝されることが多い。普寛行者の没後有力な行者が次々と現れ、この信仰により病苦が救われると信頼され、最初に江戸など関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれた。
その後、普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、1769-1841年)が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が愛知県を中心に西日本へと広まった。
濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していた。木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成された。各講の先達の魂は霊神として、その碑が御嶽山の登拝道に鎮められている。この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく霊神碑が御嶽山信仰の特徴の一つである。
江戸時代から関東や尾張から中山道が利用されていたが、1919年(大正8年)の中央本線が全線開通すると木曽福島駅から御嶽山へ歩き始めるようになった。1923年(大正12年)に木曽森林鉄道が敷設された後、木曽福島駅から黒沢と王滝までおんたけ交通の乗合バスが利用されるようになった。1966年(昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると貸切バスで直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、1971年(昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになった。
現在は天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われることが多い。黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下るルートで登拝されるか、王滝口から山頂を往復するか、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂を経て黒沢口へ下るルートで登拝されることが多い。
17.2)御嶽神社
御嶽大神と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。王滝口に里宮と黒沢口に里宮と若宮があり、木曽御嶽神社王滝口の奥社は王滝頂上、木曽御嶽神社黒沢口の奥社は山頂の剣ヶ峰にある。
御嶽山王滝頂上の御嶽神社頂上奥宮本社(長野県木曽郡王滝村)(引用:Wikipedia)
1882年(明治15年)6月に、小谷分喜が『御嶽神社社略縁起』を出版した。1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。1984年(昭和59年)9月14日の御嶽山直下を震源とした長野県西部地震で一合目の里宮の拝殿と末社が半壊し、行場の清滝は滝つぼが土砂に埋まった。御嶽神社黒沢口では太々神楽が奉納されている。
●木曽御嶽神社黒沢口
・里宮 - 黒沢口、所在地は木曽町三岳6687、少彦名命を祭神とする。
・若宮 - 1385年(至徳年間)黒沢口に再興された。大己貴命を祭神とする。
・頂上奥社本宮 - 御嶽山頂上(剣ヶ峰)、大己貴命と少彦名命を祭神とする。
●木曽御嶽神社王滝口
・里宮 - 王滝口1合目にあり、1484年(文明16年)に再建され、御嶽山登拝前の精進潔斎の参籠のための行場であった。古くは、「岩戸権現」と呼ばれ、明治以前は王御嶽岩戸座王権現が祀られていたが、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。
・頂上奥社本宮
頂上の剣ヶ峰、かつては日ノ権現が祀られていたが、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。
●八海山神社 - 王滝口5合目、眼病平癒
●三笠山神社 - 王滝口7合目の三笠山頂上、道中安全、交通安全
●田ノ原大黒天 - 王滝口5合目の田の原、商売繁盛、開運
●御嶽神社飛騨口里宮 - 濁河温泉登山口
(引用:「日本の霊山読み解き事典」西海賢二・時枝 務・久野俊彦著/柏書房)
〇中部の霊山(北陸・東海分抜粋)(参考)
●富士山〔山梨県・静岡県〕●立山〔富山県〕●石動山〔石川県・富山県〕●白山〔石川県・岐阜県〕
●御嶽山〔長野県・岐阜県〕●槍ヶ岳〔長野県・岐阜県〕●高賀山〔岐阜県〕●伊豆山〔静岡県〕
●日金山(十国峠)〔静岡県〕●久能山〔静岡県〕●秋葉山〔静岡県〕●恵那山〔長野県・岐阜県〕
●鳳来寺山〔愛知県〕
18)白山 19)立山 20)石動山 21)富士山 22)秋葉山 23)片山神社
24)伊吹山
(引用:Wikipedia)
18)白山(石川県)
・旧加賀国白山寺白山本宮(神仏分離令で廃寺)
・旧越前国霊応山平泉寺(神仏分離令で廃寺)
・旧美濃国白山中宮長滝寺(現在は天台宗の白山長瀧寺)
18.1)白山
大汝峰から望む白山(剣ヶ峰と御前峰)と火口湖(引用:Wikipedia)
白山(はくさん)は、日本の北陸地方、白山国立公園内の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる標高2,702mの活火山である。富士山、立山と共に日本三霊山の一つである。日本百名山、新日本百名山、花の百名山及び新・花の百名山に選定されている。最高点の御前峰(ごぜんがみね)には、一等三角点と白山比咩神社奥宮がある。
白山は、富山県、石川県、福井県、岐阜県の4県にまたがる両白山地の中央に位置し、その最高峰である。山頂周辺は、成層火山となっている。30万年から40万年前から火山活動を始め1659年(万治2年)の噴火が最も新しい。白山とは、最高峰の御前峰(標高2,702m)・剣ヶ峰(2,677m)・大汝峰(2,684m)の「白山三峰」を中心とした周辺の山峰の総称である。また、別山・三ノ峰を加えて「白山五峰」という。「白山連峰」と呼ばれることもある。 北陸地方の中では標高の高い山であるため、他の山では残雪が消えた季節でも「白い山」として遠方からでも一目で判明する山である。
●山名の由来
かつては「越白嶺」と書いて「こしのしらね」と呼ばれ、その名残が現在の白山周辺の地名「白峰」として残っている。その後、「白山」と書いて「しらやま」と読む時期を経て、現在の呼称となっている。
●開発史
室堂から望む白山神社と御前峰(引用:Wikipedia)
白山を霊峰とする白山信仰は古くからあり、中世には白山は白山修験の霊山として栄え、登山口には修験の道場がひらかれて白山信仰の全国的広がりのもととなった。2011年現在、日本各地に約2,700社の白山神社があり、白山比咩神社(石川県白山市)がその総本社となっている。
・717年(養老元年) - 泰澄上人が開山した。
・832年(天長9年) - 越前・加賀・美濃の三方から白山への登拝道(禅定道)が開かれた。
・848年(嘉祥元年) - 勅により神殿仏閣が造立され、鎮護国家の道場と定められる(『白山之記』)。
・905年(延喜5年)から - 『古今和歌集』の中で「しらやま」として詠われた。
・1183年(寿永2年) - 源義仲が倶利伽羅峠の戦いの戦勝により白山比咩神社に神馬を奉納。同年、源頼朝が神領の寄進をおこなう(『平家物語』)。
・1480年(文明12年) - 大火により白山比咩神社の40余りの堂塔伽藍がすべて焼失。末社三宮が鎮座していた現在地へ遷る。
・1668年(寛文8年) - 江戸幕府が地元の藩主から白山周辺の土地を取り上げ直轄領とした。
・1871年(明治4年)8月29日 - 廃藩置県が行われ、その翌年に白山周辺の土地は、石川県に属するようになった。
・1872年(明治5年) - 太政官通達により神社仏閣地の女人禁制が解かれ、鳥取県の女性が白山に初登頂したとされている。
・1955年(昭和30年) - 一帯が白山国定公園に指定された。
・1962年(昭和37年) - 一帯が白山国立公園に指定された。
・1977年(昭和52年)8月26日 - 白山スーパー林道が開通。
●禅定道
白山禅定道(引用:Wikipedia)
832年(天長9年)に、越前・加賀・美濃の三方から白山への登拝道(禅定道)が開かれた。現在も大部分が白山への登山道として利用されている。
■越前禅定道 - 越前馬場である福井県勝山市の平泉寺白山神社から、法恩寺山、市ノ瀬、指尾山、室堂を経て、御前峰(白山頂上)へ通じる道である。
■加賀禅定道 - 加賀馬場である石川県白山市の白山比咩神社から桧新宮、長倉山、天池室跡、四塚山、大汝峰を経て、頂上へ通じる道である。
■美濃禅定道 - 美濃馬場である岐阜県郡上市の白山長滝神社から、白山中居神社、石徹白の大杉、神鳩社跡、水呑権現社跡、三ノ峰、御手洗池・別山室跡、南竜ヶ馬場、室堂を経て頂上へ通じる道である。
山頂付近には加賀国の一宮である白山比咩神社の奥宮がある。
18.2)白山信仰
白山信仰(はくさんしんこう)は、加賀国、越前国、美濃国(現石川県、福井県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰。
●成立
古くから「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。
●主な地域
白山信仰の歴史や伝承についての研究は多いが、白山信仰がどのような地域に広がっていったかを扱う地理的観点からの研究は少ないという指摘がある。
だが、白山信仰の地理的研究が難しいというわけではない。白山信仰には白山神社の存在が欠かせないが、白山神社は白山信仰の浸透をみるうえでの重要な指標であるとされ、白山神社の分布をみれば、白山信仰がどのような地域に浸透していったかを知ることができるという指摘がある。
こうして白山神社の所在を確認していった研究では、石川県における加賀地方の南部(加賀市・小松市・能美市・白山市・川北町・野々市町)こそ、石川県側における白山信仰の主要な舞台であるとされる。その根拠として、加賀地方の南部には、白山や白山比咩神社が位置するほか、白山を源とする主要な河川が4つ(手取川・梯川・動橋川・大聖寺川)も流れており、中宮八院・白山五院・三箇寺といった白山信仰関連の寺院も多々みられることがあげられている。
●歴史
崇神天皇7年に、白山を仰ぎみる遥拝所が創建されたと伝えられる。祭神は菊理媛尊(白山比咩大神)、伊邪那岐尊(伊弉諾命)、伊邪那美尊(伊弉冉命)の三柱であった。
その後、717年(養老元年)に、修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ、以後の白山信仰の基となった。翌718年(養老2年)に、泰澄は御前峰に社を築き、白山妙理大権現を奉祀した。
平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、「三箇の馬場(ばんば)は、加賀の馬場(白山比咩神社)、越前の馬場(白山神社)、美乃の馬場(白山神社)也」(三馬場)と呼ばれた。そして、神仏習合により、820年(天長9年)には、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立された。
延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けたが、寛文8年(1668年)白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した。
〔白山修験〕
白山修験は、白山頂上本社、中宮八院(護国寺、昌隆寺、松谷寺、蓮花寺、善興寺、長寛寺、涌泉寺、隆明寺)、下山七社(白山寺白山本宮、金剱宮、三宮、岩本宮、中宮、佐羅宮、別宮)で一山組織を成し、「白山衆徒三千を数う」「馬の鼻も向かぬ白山権現」といわれるほど、中世には加賀国を中心に宗教的にも政治的にも隆盛を極めた。
白山修験は熊野修験に次ぐ勢力だったといい、特に南北朝時代に北朝方の高師直が吉野一山を攻めて南朝の敗勢が決定的となった際には、吉野熊野三山間の入峯が途絶したため、白山修験が勢力を伸ばし、日本全国に白山信仰が広まった[7]。
『源平盛衰記』や『平家物語』に記された白山衆徒(僧兵)が、対立した加賀国守を追放した安元事件に代表されるように、加賀国では白山修験は一向宗(加賀一向一揆)と並んで強大な軍事力を有する教団勢力として恐れられた。しかし、戦国時代には一向宗門徒によって焼き討ちにされて加賀国では教団勢力は衰退したが、江戸時代になると加賀藩主前田家の支援により復興された。
白山修験の僧兵は山門(延暦寺)の僧兵と結びつき、特に霊応山平泉寺は最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝わる。
〔神仏分離・廃仏毀釈〕
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比咩神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。
山頂や登山道の各地に置かれていた仏像は、このとき引き下ろされて廃棄される運命にあった。しかし、銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市)の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の「白山本地堂」に安置されている。
●曹洞宗
日本曹洞宗の道元禅師(高祖承陽大師)が宋から帰国する前夜に、白山権現が碧巌録の写本を助けたとの伝承がある。このことから曹洞宗大本山永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており、毎年夏には永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経を読誦する。
『洞谷記』には太祖瑩山禅師が白山氏子と記されている。
●主な白山神社
白山信仰を表し加賀国白山比咩神社を総本社とする白山神社は各地に鎮座し、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としている。
白山神社は日本各地に2,700社余り鎮座するが、特に石川・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多く分布する。東日本の被差別部落に白山神社が多く祀られており、その理由については諸説あり未詳であるが、一説には江戸浅草新町の矢野弾左衛門が信仰したことで広がったという。
中世には加賀白山比咩神社の前身である白山寺白山本宮や、美濃国の白山中宮長滝寺(現長滝白山神社)、越前国の霊応山平泉寺(現平泉寺白山神社)が延暦寺の末寺になっていたことから、天台宗や白山修験の普及とともに各地に勧請された。勧請元としては白山寺白山本宮(白山比咩神社)、白山中宮長滝寺、霊応山平泉寺が主で、長滝寺より勧請したものが最も多く、現在でも白山神社が最も多くあるのは岐阜県である。しかし、この3社のうち『延喜式神名帳』に記載されているのは白山比咩神社だけであるため、明治時代に白山比咩神社が「日本全国の白山神社の総本社」と認定され、各地の白山神社の多くは「白山比咩神社から勧請を受けた」というように由諸を書き換えた。
・白山比咩神社(石川県白山市鎮座)旧国幣中社。全国白山神社の総本社とされる。
・平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町平泉寺鎮座)旧県社。越前における白山禅定道の登拝口
・長滝白山神社 (岐阜県郡上市白鳥町長滝鎮座)旧県社。美濃における白山禅定道の登拝口
・白山神社(新潟県新潟市中央区一番堀通町鎮座)旧県社
・白山社 (長野県飯田市上飯田鎮座)旧県社
・白山中居神社(岐阜県郡上市白鳥町石徹白鎮座)旧県社
・洲原神社(岐阜県美濃市須原鎮座)旧県社
・大山白山神社(岐阜県加茂郡白川町水戸野鎮座)旧県社
・白山比咩神社 (山口県岩国市横山鎮座)旧県社
・白山神社 (福岡県北九州市若松区白山鎮座)旧県社
19)立山(富山県)
・旧加賀藩芦峅寺(神仏分離令で廃寺)
・旧加賀藩岩峅寺(神仏分離令で廃寺)
19.1)立山
立山(たてやま)は日本の飛騨山脈(北アルプス)北部、立山連峰の主峰で、中部山岳国立公園を代表する山の一つである。雄山(おやま、標高3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、標高3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、標高2,999 m)の3つの峰の総称である。雄山のみを指して立山ということもあるが、厳密には立山連峰に立山と称する単独峰は存在しない。剱岳、鹿島槍ヶ岳、唐松岳とならび、日本では数少ない、氷河の現存する山である。
ミドリガ池から望む立山(引用:Wikipedia)
「立山」は単なる地理的な名称ではなく、室堂や地獄谷、弥陀ヶ原、立山カルデラという立山一帯を含んだ地理的な広がりと、立山信仰や遥拝登山など精神的な広がりを含んだ複合的な意味を持っている。
かつて山体は立山カルデラにあり、元の立山火山の山頂部は侵食で喪失している。弥陀ヶ原と五色ヶ原はこの火山の火砕流堆積物や溶岩の台地である。ミクリガ池、ミドリガ池は火口湖であり、現在の立山火山の主な火山活動は地獄谷周辺の火山性ガスの噴出と温泉噴出である。日本三名山、日本百名山、新日本百名山及び花の百名山に選定され、富山県のシンボルの一つとされている。
雄山の山頂には、雄山神社本宮がある。峰本社神殿右端の前には、測量の基準である大きな黒御影石の標石(標高点3,003 m)があり、その約70 m南南西に一等三角点(標高2,991.59 m、点名は立山)の標石が設置されている。立山について万葉集には「多知夜麻」と記された。
●人に関わる歴史(抜粋)
・701年(大宝元年) - 佐伯有頼(慈興上人)が開山したとされている。(白鷹伝説)
・奈良時代 - 歌人の大伴家持により「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」と詠われている。
・1695年(元禄8年) - 加賀藩主が室堂平に立山寺(立山権現)参拝者のための参籠所(現在の室堂山荘の前身)を設置した。江戸時代には、立山信仰が盛んになり、多くの信者が立山に登拝した。
・1872年(明治5年) - 太政官通達により神社仏閣地の女人禁制が解かれた。それ以前の女性の登拝は、芦峅寺の姥堂までとされていた。
・1927年(昭和2年)5月12日 - 頂上直下、三ノ越の巨岩に昭和天皇の御製「立山の空にそびゆる雄々しさにならえとぞ思ふ御代の姿も」を刻んだ歌碑が完成。
・1934年(昭和9年)12月4日 - 中部山岳国立公園に指定され、山域はその特別保護地区となっている。
・1963年(昭和38年) - 関西電力の黒部川第四発電所が完成。
・1971年(昭和46年)6月1日 - 立山黒部アルペンルートが全通開通。
・2012年(平成24年)7月3日 - 弥陀ヶ原と大日平がラムサール条約湿地に登録された。
・2018年(平成30年)1月 - 内蔵助雪渓に存在する氷体が氷河であることが確認された。
●山岳信仰
立山は古くから立山修験と呼ばれる山岳信仰の山として、日本三霊山の一つとされている。古代には立山権現として、平安時代からは地獄極楽のある山として阿弥陀信仰と結びついてきたという変遷が見られる。
雄山神社の主神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、本地仏は阿弥陀如来で、不動明王を本地とする手力雄命(たぢからおのみこと)を副神とする神仏混淆がみられる。
立山本峰の雄山に峰本社があり、山麓芦峅寺の中宮(祈願殿)、岩峅寺の麓大宮(前立社壇)とともに、三者一体の形を有する。峰本社を見上げる室堂平には参籠の場として建てられた室堂が復元されている。
立山山麓には、芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺(いわくらじ)の二つの拠点寺院がある。大伴家持は「皇神(すめかみ)の頷(うしは)きいます 新川のその立山に〜」(国神の領有される新川のその立山に)と立山の霊性を詠んだ。
●信仰登山
立山は山頂付近に地獄(地獄は古い日本語で温泉の意味)がある山としても知られていた。
19.2)立山修験
立山修験とは、富山県の立山を中心として行われた修験道をいう。立山は霊山として古くから山岳信仰の対象となってきた。仏教では、立山の雄山などを極楽浄土、地獄谷を地獄に見立て絵解きした『立山曼荼羅』を携えた芦峅寺の御師が、江戸時代に日本各地を回って参詣を勧め、広まった。
立山修験の世界観は、今日まで伝わる『立山曼荼羅』に描かれた世界を見ることで、窺い知ることができる。立山山麓には、岩峅寺や芦峅寺をはじめとした信仰登山の拠点があった。芦峅寺の集落には幕末の最盛期には33の宿坊があった。そこに住む人々を中心に日本全国に勧進が行われ、福江充によれば、江戸城大奥まで広がっていた。
立山は女人禁制であったため、江戸時代までは、入峰を許されない女性のための布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という行事が芦峅寺で行われ、盛んであった。3年に一度行なわれ、目を布で覆った女性たちが橋の上に敷かれた白い布の上を歩いて渡ると極楽往生するというもので、明治時代の廃仏毀釈により行われなくなったが、1996年より地元住民らの手によって復活している。
鎌倉時代から江戸時代にかけて成立した立山の開山縁起は、大宝元年(701年)、立山を含む越中国国司とされる佐伯有若の息子佐伯有頼が白鷹を追って立山奥深くに分け入り、阿弥陀三尊を仰ぎ見て、慈興と号して立山大権現を建立したと伝える。
立山信仰の背景には山上他界が存在するという信仰があり、立山の山域の各所は、開山伝説に基づき、浄土と地獄にそれぞれ比定された。立山を巡拝することで死後の世界を擬似体験し、形式上「他界」に入り「死」から戻ってくるという修行を積むことができ、超常的な力(法力)を身に付けることができると考えられるようになった。
立山浄土としては、立山三山、なかでも雄山は仏そのものであり、阿弥陀如来の仏国土である極楽浄土の象徴とされた。立山地獄は、現在の地名にも残る地獄谷であり、硫黄臭ただよう場所である。その近くのみくりヶ池は、血の池として、また、剱岳は針山地獄であるとされた。
19.3)雄山神社(参考Webサイト:雄山神社公式サイト)
雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町にある神社。旧称は立山権現・雄山権現。式内社、越中国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。また、元明天皇や後醍醐天皇の勅願所でもあった。
峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。上市町新屋にも立山末社の小さな雄山神社がある。岩峅寺及び芦峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味がある。
峰本社、祈願殿、前立社壇の三社は三位一体の性格を持っているため、どの社殿に参拝してもご利益は同じとされている。これは山頂の峰本社には旧暦の7月~9月までしか参拝できない点及び、祈願殿は主峰雄山を正面に頂き開祖が晩年を過ごした点、前立社壇から立山開山の話が始まるなど、三社が各々独自に立山信仰に深く位置付けられている点、加えて古くは岩峅寺の前立社壇より山頂の峰本社まで宮司が歩いて通ったと伝えられることや今でも前立社壇の宮司が峰本社の宮司である事にも由来される。
●祭神
現在の祭神は以下の2柱。伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)・天手力雄神 (あめのたぢからおのかみ)
●歴史
創建の年代は不詳である。社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。また、大宝3年(703年)に釈教興が勧請したとも伝える。
『万葉集』の巻17には、越中国国司であった大伴家持によって天平18年(746年)4月27日詠まれた「立山の賦」が収録されている。
正史の記事によれば以下の2度、神階の昇叙を受けている。
・『日本三代実録』貞観5年(863年)9月25日の条 : 清和天皇により正五位下から正五位上に昇叙。
・『日本紀略』寛平元年(889年)8月22日の条 : 宇多天皇により正五位上から従四位下に昇叙。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により小社に列格された。『日本の神々 -神社と聖地-8 北陸』では、南北朝時代の安居院『神道集』や『日本鹿子』において越中国一宮とされていると紹介している。
明治6年(1873年)に県社、昭和15年(1940年)に国幣小社に列せられた。戦後は、神社本庁が包括する別表神社となっている。
19.4)芦峅寺(参考Webサイト:雄山神社芦峅中宮祈願殿公式サイト)
芦峅寺(あしくらじ)は、富山県中新川郡立山町の地名で立山連峰の玄関口である。もとは神仏習合の形態であった当時の「雄山神社 中宮祈願殿」の寺名で、中宮寺とも呼ばれていた。
雄山神社中宮祈願殿(引用:Wikipedia)
芦峅寺の門前は、昔から優秀な山案内人や山小屋経営者を多数輩出してきた。江戸時代から立山信仰の拠点として栄え、戦後は山岳ガイドの集落として知られた。
住民の名字は、そのほとんどが佐伯有頼による立山開山伝説に端を発する「佐伯」「志鷹」の2姓で占められている。そのため、住民同士が互いを呼び合う際には下の名前や屋号を用いることが多い。
なお、芦峅寺地内には、雄山神社や富山県立山博物館、国立立山青少年自然の家などがある。
●芦峅寺の縁起
●立山ガイド
立山ガイドは江戸時代の立山修験(立山信仰)の「御師」に始まると考えられている。「立山曼荼羅」で多くの人を霊山立山に呼び、芦峅寺などにある宿坊に泊めた。
現在、登山者の間では立山町のガイドは「勇敢で登山者を命懸けで守る」と評判で、民間救助隊員として遭難救助に活躍した者も少なくない。幼いころから立山信仰とともに生き、山とともにある暮らしの中で山の知恵を学んでいった。
出身者の中には「剣の文蔵」と称された佐伯文蔵、南極での学術観測に協力した佐伯富雄などもいる。佐伯富雄は空気の湿り具合や雲の動き具合から嵐の前兆を察する能力にも優れていた。このようなカンは実際の入山で自然に培われていった。しかし、登山ブームが去ると立山ガイドの仕事も減り、すたれ始めた。
そうした中、富雄の長男佐伯高男は、1991年に立山ガイド協会の設立に参加。また自然教育機関「立山自然学校」で子供たちに自然の素晴らしさを伝える活動にも従事している。
映画「劔岳 点の記」では、立山ガイド協会会員が撮影支援に当たった。
●布橋灌頂会
布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)というのは女人禁制だった霊山立山の代わりに架け橋を渡って極楽往生を願う立山信仰の伝統儀式だった。現在はイベントとして開かれている。
灌頂会は立山を登ることが許されなかった女性たちが、代わりにうば堂川にかかる布橋(うば堂御宝前<ごほうぜん>の橋、天の浮橋)と呼ばれる架け橋を渡って極楽往生を願う。
閻魔堂で懺悔の儀式を行った後、教典に節を付けた仏教音楽「声明」や雅楽が流れる中、宿坊の僧侶(引導師)に導かれ、「あの世」と「この世」の架け橋とされる朱色の欄干の布橋(煩悩の数と同じ108枚の板で組まれている)に白い布を敷き、白装束を着た女人衆が白くて細い目隠しをしたまま、ゆっくりと渡る。悪人は龍が口を開けて待っている谷川に転落したという(この様子は立山曼荼羅にも描かれている)。
橋の先にあるうば堂(現在は「遙望館」)に入り、閉め切られた堂内の暗闇の中、読経を行う。女人衆が目隠しを解くと目の前の壁の覆いが上がり、陽光に照らされた立山が目前に広がる趣向となっている。女性たちは静かに手を合わせ、心を新たにする。橋を渡って一旦「あの世」に入り、生まれ変わって「この世」に戻るという「疑死再生」の意味がある。
江戸時代後期は立山信仰の浸透とともに盛んに行われたが、明治の廃仏毀釈で廃止された。布橋は1970年に立山風土記の丘の一施設として復元された。1996年に国民文化祭の一環で復活。2005年以降は地元住民らによる実行委員会が中心となって開催されている。2014年には布橋灌頂会を130年ぶりに再現させたとして、「布橋灌頂会実行委員会」が、地域文化の発展に貢献した団体などに贈られる「サントリー地域文化賞」を受賞した。
19.5)岩峅寺(参考Webサイト:雄山神社前立社壇公式サイト)
雄山神社の3社の中で一番平野に近く、立山の前に立つお社であることから前立社壇がここに位置する。
●岩峅寺の縁起
雄山神社を参照のこと。
20)石動山(石川県・富山県) - 石動修験 伊須流岐比古神社 天平寺
20.1)石動山
石動山(せきどうさん、いするぎやま)は、石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市にまたがる標高564mの山。山頂は中能登町に位置し、中能登町の最高峰でもある。
●概要
加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は80を数える。南北朝時代と戦国時代の2度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡した。山頂一帯は国の史跡に指定されている。
●歴史
開山は紀元前92年(崇神天皇6年)とも717年(養老元年)とも言われ、『延喜式』に伊須流岐比古神社として登場する。後に、虚空蔵求聞持法の修法や修験的な峰入り行が盛んになり、真言宗の寺院となって隆盛を極めた。後の太平記や太閤記が記すように任侠武勇をもって知られる。
南北朝時代初頭の1335年、中先代の乱が起こると朝廷側の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏に呼応した同国守護普門俊清に焼き討ちされて一時衰退した。
戦国期には復興し、北陸に一向一揆勢力が勃興する中でも隠然たる勢力を誇ったが、1582年(天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒とともに石動山に立て籠ったため、前田利家・佐久間盛政・長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、再び全山焼亡した。このときの焼き討ちは、主君織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちに似ているともいわれ、数百人の法印のみならず児童子まで、撫で斬りにしたとか、1060の首を山門の左右に掛け並べたなど、凄惨な弾圧がなされた。
近世には前田家により復興されたが振るわず、明治時代初頭の神仏分離政策のもとほぼ全ての院坊が破却され、以後復興されることなく廃寺となった。
20.2)伊須流岐比古神社
伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)は、石川県鹿島郡中能登町の石動山山頂(大御前)にある神社である。伊須留岐比古神社とも表記される。能登国二宮である。
伊須流岐比古神社(引用:Wikipedia)
●祭神
伊須流岐比古神(石動彦)・白山比咩神を祭る。このうち、主神の伊須流岐比古神は「肯構泉達録」などに登場する日本神話の神で、また五社権現と称される石動権現ともされる。「いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだという。伊須流岐比古神社は石の鳴動を鎮め、その石を神として祭るべく創建されたと伝わる。
明治期以降の国家神道の下で、権現の名称は否定されており、現在は伊須流岐比古神または石動彦と呼ばれている。
相殿神として、白山比咩神が祭られている。なお、石動彦と白山比咩神は、イザナギ・イザナミとしても扱われている。かつての本地仏は、虚空蔵菩薩(伊須流岐比古神)・十一面観音(白山比咩神)であった。
●歴史
かつては、白山と並ぶ北陸地方を中心として広い地域からの尊敬を集める一大霊山であった。創建は養老元年(717年)白山を開いた泰澄により開山したと言われている(崇神天皇6年(紀元前92年)説もあり)。延喜式に記載された式内社の一つである。
治承4年(1180年)に藤原家通が参拝し、以降勅願寺として保護され、尊敬を受ける。神仏習合の形態であり、伊須流岐比古神社は真言宗寺院の「石動山天平寺」を称していた。天平寺は、院坊360余、衆徒約3,000人の規模を誇った。
中世以降、しばしば焼き討ちにあっては再建されている。南北朝時代には足利尊氏の軍に焼き討ちにされた後、暦応4年(1341年)に尊氏の手で再建され、能登国守護の畠山氏により保護される。天正10年(1582年)、上杉謙信死後に七尾に攻め込んだ前田利家に率いられた織田軍と、上杉方についた畠山軍との合戦に巻き込まれ、全山焼き討ちに遭いまたもや焼失、翌天正11年(1583年)に、勅命により豊臣秀吉の手で再興されている。
現存する本殿は、承応2年(1653年)に加賀藩主前田利常により建てられたものであり、建立当時は「大宮」と呼ばれていた。
明治5年(1872年)、神仏分離令が公布。寺号を廃し郷社に列する。その際、廃仏毀釈が行われ、石動山全山に渡って伽藍・院坊が破壊され、寺としての痕跡は徹底的に破却された。その後、わずかに残された大宮を御輿堂の場所に移設して、それぞれ本殿・拝殿とした。
富山県射水市の放生津八幡宮では江戸時代より、高岡市の二上射水神社では明治期に休止となり、昭和31年(1956年)より復活し現在も行われている、全国的にも珍しい古代信仰の形態である築山行事が行われているが、ここ伊須流岐比古神社でも明治期まで行われていた。なお3ケ所の主神の見た目から、放生津の「足なし」、二上山の「手なし」、石動山の「口なし」といわれてきた。
21)富士山(静岡県) - 村山修験
南西の富士市より(富士山がある風景100選選定地)(引用:Wikipedia)
21.1)富士山
富士山は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。
21.2)浅間神社(参考Webサイト:富士山本宮浅間大社公式サイト)
浅間神社(あさまじんじゃ、せんげんじんじゃ)は、「浅間」を社名とする神社。主に富士山に対する信仰(富士信仰/浅間信仰)の神社である。
富士山本宮浅間大社本宮 (引用:Wikipedia) 富士山本宮浅間大社(奥宮)
●概要
富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)、または浅間神を記紀神話に現れる木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)と見てこれを祀る神社である。
富士山は古くは「福慈神」・「不尽神」と記載されるような霊妙な神山・日本鎮護の神山であった。しかし奈良時代末から火山活動が活発化し、火山神(浅間神)としての信仰(浅間信仰)として全国に広がった。「浅間(あさま)」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。「あさま」は古称で、もう1つの称「せんげん」は中世以降から用いられたとされる。
浅間神と木花咲耶姫命が同一視されたのには木花之佐久夜毘売の出産が関係している。中には木花之佐久夜毘売命の父神・大山祇神や、姉神・磐長姫命を主祭神とするものもあり、それらを含めて全国に約1,300社の浅間信仰の神社がある。
これらの神社は、富士山麓をはじめとしてその山容が眺められる地に多く所在する。その中でも特に、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。のち、浅間神は神仏習合により「浅間大菩薩」(本地仏:大日如来)とも称された。
祭祀の特徴として、主要な浅間神社は山中に祀られた山宮と麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られることが挙げられる。これは、山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている。また、関東地方を主として多くの神社の境内には富士塚が築かれ、氏子らで富士講が形成された。
●名神大社「浅間神社」
延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』には、名神大社として駿河国と甲斐国に「浅間神社」の記載がある。
◆駿河国
「駿河国富士郡 浅間神社」と記載される名神大社。以下の一社に比定されている。
・富士山本宮浅間大社(富士宮市) - 駿河国一宮、旧官幣大社、別表神社
浅間大社は文献上最古から確認されている神社で、仁寿3年(853年)に名神・従三位に叙せられている。これは「浅間神」の初見でもあるが、初めから従三位という高位を授かるとは考えがたく、神名の成立はさらにさかのぼると考えられている。貞観元年(859年)には正三位に叙せられた。
社伝では、垂仁天皇3年とされる創建から大同元年(806年)までは山宮浅間神社で祀られており、同年に現在地に遷座したという。なお、遷座して来るまでの当地には式内社・富知神社が鎮座し、湧玉池を祭祀していた(現在は北方に遷座)。この遷座は、富士信仰が水の神たる「フクチ・フジ」信仰から火の神たる「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事だと解されている。
◆甲斐国
「甲斐国八代郡 浅間神社」と記載される名神大社。以下の三社がいずれも古社であることから論社とされ、同様に甲斐国一宮についても論社とされている。
・浅間神社(笛吹市) - 旧国幣中社、別表神社
・河口浅間神社(南都留郡富士河口湖町) - 旧県社
・一宮浅間神社(西八代郡市川三郷町) - 旧村社
21.3)富士信仰
富士信仰は、富士山の神に対する神祇信仰。山岳信仰の1つ。富士信仰は、富士山そのものを神と見立てるなど、何らかの形で富士山を信仰・崇拝の対象とすることであり、代表的なものとして、浅間信仰(せんげんしんこう)(富士浅間信仰とも)がある。その他、著名なものに村山修験や富士講などがある。詳細は「村山修験」および「富士講」を参照(後述)
富士信仰史の流れを大まかに分けると、
①富士の山神(『常陸風土記』では「福慈神」、『万葉集』では「霊母屋神香聞」、都良香の『富士山記』では「浅間大神」)を祀り拝むための社殿が営まれ始めた原初的山岳信仰の時代、
②仏教が流入し従来の神祀思想と習合した山林仏教として発達し、富士山登拝を目的とした富士道者と言われる山岳修行者が現れる霊山信仰的性格の時代、
③平安末期から組織体系化が進んだ山岳修行者たちによる修験霊場的性格の時代、
④南北朝・室町期から高まっていった一般庶民らによる富士山登拝を目的とした富士講・富士行人の時代、
⑤幕末明治期以降の教派神道の時代
となる。
21.4)浅間信仰
ここでは特に浅間信仰について詳述する。古くに富士そのものを崇拝の対象にする思想が生まれ、山麓の諸地方に富士の山神である浅間大神を奉納祭祀する神社が設立されるようになった。浅間信仰とはそれに端を発する信仰である。
浅間信仰の核となる浅間神社は、富士山の神霊として考えられている浅間大神を祀る神社である。静岡県および山梨県を中心として全国に約1300社の(富士神社)が分布する。富士山8合目以上の大半の境内(詳細は富士山本宮浅間大社にて)とする富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本宮としている。なお富士山本宮浅間大社の元宮とされる富士山本宮山宮浅間神社は、社殿を持たない形式の神社であり、富士信仰の祭祀形態を持つ神社として希少である。
浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神がコノハナノサクヤビメとなった経緯としては、コノハナノサクヤビメの出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。浅間神社の中には、浅間造と呼ばれる特殊な複合社殿形式を持つものもある。浅間大神は神仏習合によって、浅間大菩薩と呼ばれることもある。
富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火を抑えるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。
21.5)村山修験
村山修験(むらやましゅげん)は、村山(現在の静岡県富士宮市村山)における富士山の修験道。富士修験ともいう。
●信仰形態
村山修験は修験道本山派に属し、聖護院門跡の直末にあたる。また村山修験は、富士山信仰において修験道を中心とするという点で特徴的であり、これは御師などを中心とする吉田や河口、須走などと大きく異なる。平安時代成立の『地蔵菩薩霊験記』に「末代上人トゾ云ケル。彼の仙駿河富士ノ御岳ヲ拝シ玉フニ。(中略)ソノ身ハ猶モ彼ノ岳ニ執心シテ、麓ノ里村山ト白ス所ニ地ヲシメ …」とあり、古来から富士信仰の中心地であった。
応永5年(1398)の「伊豆走湯山密厳院領関東知行地注文案」(醍醐寺文書)には「一, 駿州 富士村山寺」とあり、当初村山修験は伊豆走湯山密厳院の末寺として存在していた。
村山浅間神社の境内には村山修験における祭事などで利用された水垢離場や護摩壇などが残る。水垢離場では道者によって禊が行われた。「竜頭ヶ池」という場所から水を引き、それを聖水として滝に打たれて身を清めた後、不動明王に安全を祈願したとある。
『富嶽之記』(1733年)では村山をこのように表現している。
浅間の社あり。坊支配にて智西坊・大鏡坊・辻の坊三人ハ阿闍梨なり、山伏十一人あり
このように浅間神社を中心として構成され(富士山興法寺)、村山三坊が支配し、山伏など修験道の形態を有していた。
村山修験は対外的には富士垢離という信仰形態を確立させている。『諸国図絵年中行事大成』によると、富士行者が水辺にて水垢離を行うことにより、富士参詣と同様の意味を持つ行であるという。この富士垢離を取り仕切る集団に「富士垢離行家」というものがあり、大鏡坊が聖護院に取り付け、村山修験先導の下で行われていた。
●歴史
村山の地は登山道を中心として成り立つ。富士山修験道の開祖とされる末代上人が富士山頂に大日寺を建て富士山修験道の基礎を築いた。その後、末代上人の流れを汲む頼尊が村山に富士山興法寺を開き、村山が富士山修験道の拠点となり、「村山修験」が確立された。 13世紀前半に富士山南麓における登山が拡大したといい、14世紀初めには修験者による組織的登山が広まった。1429年には村山に発心門が建立される。
1482年(文明14年)に村山修験は聖護院本山派に属することになったとされ、聖護院と関わりが深い。『廻国雑記』によると、文明18年(1486年)に聖護院門跡の道興が村山を訪れている。またこれが村山修験と聖護院の関係を示す最初の史料である。
村山修験は今川氏の庇護を受けていた。今川氏は富士山興法寺を管理する村山三坊に掟を定める文書を繰り返し発布し、富士参詣の道者の取締などを行なった。今川氏による浅間神社や富士信仰への権力的な介入は顕著であったといわれ、村山修験に対しても同様である。
これは同じく富士山麓地域を支配・管理する立場であった武田氏や小山田氏と比べても特徴的であり、特に今川義元の代から顕著になったといわれる。例えば天文22年(1553年)5月25日の義元から村山三坊大鏡坊への文書の七ヶ条に「一、於村山室中、不可魚類商買、并汚穢不浄者不可出入事」とあり、村山を俗界と区別される聖地と定めていることなどは特徴的である。
聖護院本山派の法親王は、慣例として度々村山に参拝を行っている。元禄年中に道尊法親王、正徳4年(1714年)に道承入道親王、宝暦7年(1757年)7月には増賞親王、文化4年(1807年)3月には盈仁法親王、天保12年(1841年)9月には雄仁法親王などの参拝が確認されている。
江戸時代後期に入ると村山修験は衰退していき、神仏分離令が決定的となって事実上廃されることとなった。『駿河国新風土記』によると、江戸時代初期の段階では600戸あまりが村山に存在していたが、18世紀半ばでは70戸まで減少していたという。
なお、聖護院との関係は現在も続いており、7月1日の富士山開山祭では聖護院の修験者が中心となり、村山浅間神社にて護摩焚きを行っている。
21.6)富士講(浅間講)
(狭義)江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、特に江戸を中心とした関東で流行した、角行の系譜を汲むものをいう。講社に留まらず、その宗教体系・宗教運動全般を指すことも多い。「富士講」と言うと通常はこちらを指している。
(広義)富士山とその神霊への信仰を行うための講社全般。
●概要
富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成っている。オガミにおいて、彼らは勤行教典「オツタエ(お伝え)」を読み、「オガミダンス(拝み箪笥)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて「オタキアゲ(お焚き上げ)」をする。
また信仰の拠りどころとして石や土を盛って富士山の神を祀った富士塚(自然の山を代用することもある)を築いた例もある。
御師(おし)は、角行が説いた信仰の指導者であり、同時に、富士講の講員に富士登山時の宿泊所を提供する役目を荷っている人である。閉山期には御師は江戸などの富士講をまわり、教えを説いた。夏になり富士の開山の時期となると、河口や吉田などにある御師の家に富士講の講員らが続々とやってくるので、宿を提供し、登山道についての情報や登山に必要な食料や装備も提供するなど、様々な世話をした。
なお、狭義の「富士講」は江戸時代においては、吉田の御師による活動のみを指しており、吉田以外の川口・須走・須山などの御師の活動や導者との師檀関係は「富士講」には含まれず、かつそちらの方が一般的な形態であったとする指摘もある。
上記とは別に、修験道に由来する富士信仰の講集団も富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上記のものと大きく異なり、初夏に水辺で行われる水行(富士垢離)を特徴とする。また、富士山への登山も行うが大峰山への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる。
●歴史
狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。のちに旺心(赤葉庄佐衛門)らが初の講社を組み、以下の3つを掟とした。
①良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。
②稼げは福貴にして、病なく命長し。
③怠ければ貧になり病あり、命短し。
享保期以降、村上光清や食行身禄によって発展した。村上は主に大名や上層階級から支持され、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く食行は江戸庶民から熱狂的に支持された。
身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は既存の宗教勢力に属さないもので、食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力であった。
一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に宝永の大噴火以降復旧に時間がかかった大宮口や須山口は、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわった。最盛期では、吉田口には御師の屋敷が百軒近く軒を連ねていたほどであったのである。数多くの講社があり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであった。
富士講は、江戸幕府からはその宗教政策上好ましくないと見なされしばしば禁じられたが、死者が出るほどの厳しい弾圧は受けなかった。
しかし、明治以後、神道勢力からの弾圧が非常に激しくなった。その結果、やむなく 富士講のその一部は教派神道と化し、食行の流れを汲む不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教などが生まれた。
明治以後、特に戦後、富士山やその周辺が観光地化され、登山自体がレジャーと認識されるようになり、気軽に富士登山をできるようになると、登山の動機を信仰に求めていた富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は1964年以降は行われていない。冨士講は衰退し講員の数はめっきり減り、東京の街中などで講員が活動する姿を見ることはまず無くなったが、現在でも富士山に行けば富士講講員らが巡礼する姿を見ることができる。2006年(平成18年)現在、十数講が活動し、3軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている。
●富士山登拝と富士講碑奉納
富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。
角行修行の地である人穴は聖地とされており、講員らが訪れる。人穴に隣接する人穴浅間神社は主祭神を角行としている。さかんに碑塔の建立されたので、現在も約230基の碑塔群が残っている。現在は「人穴富士講遺跡」として知られている。
富士講信者には「富士講碑」という記念碑を奉納する文化が存在した。(なお、この碑の特徴として「笠印」というマークの刻印が挙げられる。この笠印は講社により異なり、「マルサン」や「ヤマサン」などの種類がある。)
●巡礼
富士講信者は富士山の登拝だけでなく、富士五湖や白糸の滝などの巡礼地で、巡礼や水行などの修行を行っていた。また忍野八海や洞穴(船津胎内樹型や吉田胎内樹型など)も霊場・巡礼地となっていた。
22)秋葉山(静岡県)
22.1)秋葉山
秋葉山(あきはさん)は、静岡県浜松市天竜区春野町領家に位置し赤石山脈の南端を占める標高866mの山である。
山頂近くには、火防(ひぶせ)の神である秋葉大権現の後身秋葉山本宮秋葉神社があり、秋葉山は同神社の俗称ともなっている。明治以前は秋葉大権現として秋葉社と秋葉寺の両方が存在する両部神道であった。しかし、明治初めの神仏分離・廃仏毀釈によって、秋葉山は神社と寺院とに分離されることとなった。現在は、秋葉神社上社は秋葉山の山頂にあり、曹洞宗の秋葉寺は秋葉山の中腹の杉平にある。
東京都千代田区・台東区の秋葉原の地名由来としても知られている。
●霊山として
秋葉神社は秋葉山を神体山と仰ぐ信仰を根源とし、同社では「神山」と呼ぶ。中世以降は修験道の霊場となった。秋葉権現の眷属は天狗であり、天狗信仰の山でもあって山麓春野町 (静岡県)は「天狗の里」と呼ばれている。 地元の伝説の他、江戸時代に天宮神社の神職、中村乗高が著した『事実証談』等には秋葉山にまつわる霊験譚が記されている。
・怪火(老人火、天狗の火)
老人火(ろうじんび)または老人の火(ろうじんのひ)は、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある怪火。信州(現・長野県)と遠州(現・静岡県)の境で、雨の夜に山奥で現れる魔の火。老人とともに現れ、水をかけても消えないが、獣の皮ではたくと消えるという。
一本道で老人火に行き遭ったときなどは、履物を頭の上にのせれば火は脇道にそれて行くが、これを見て慌てて逃げようとすると、どこまでもついてくるという。
別名を天狗の御燈(てんぐのみあかし)ともいうが、これは天狗が灯す鬼火との意味である。
江戸後期の国学者・平田篤胤は、天狗攫いから帰還したという少年・寅吉の協力で執筆した『仙境異聞』において、天狗は魚や鳥を食べるが獣は食べないと述べている。また随筆『秉穂録』によれば、ある者が山中で肉を焼いているところへ、身長7尺(2m以上)の大山伏が現れたが、肉を焼く生臭さを嫌って姿を消したとある。この大山伏を天狗と見て、これら『仙境異聞』『秉穂録』で天狗が獣や肉を嫌うという性質が、老人火が獣の皮で消せるという説に関連しているとの指摘もある。
・天狗囃子(略)
・山姥
山姥(やまうば、やまんば)は、奥山に棲む老女の怪。 日本の妖怪で、山に住み、人を食らうと考えられている。山の中に夜中行く当てもなくさまよう旅人に宿を提供し、はじめはきれいな婦人の格好を取り食事を与えるなどするが、夜寝た後取って食うといわれる。グリム童話に出てくる森の奥に住んでいる魔女のように、飢餓で口減らしのために山に捨てられた老婆などの伝承が姿を変えたもの、姥捨て伝説の副産物と解釈する説もあり、直接西欧の魔女に当たるものという説もある。
静岡県磐田郡の某家に来て休んだ「ヤマババ」は、木の皮を綴ったものを身にまとった柔和な女で、釜を借りて米を炊いたが、二合で釜が一杯になったという。特に変わったところもなかったが、縁側に腰掛けたときに床がミリミリと鳴ったという。
静岡県周智郡春野町(現・浜松市)熊切には「ホッチョバア」という山姥が伝わり、夕方に山道に現れるほか、山から祭りや祝い事の音が聞こえてくる怪異はこの山姥の仕業とされた。
・山男
山男(やまおとこ)は、日本各地の山中に伝わる大男の妖怪。中世以降の怪談集、随筆、近代の民俗資料などに記述がある。山人(やまびと)、大人(おおひと)などの呼称もある。
江戸時代の奇談集『絵本百物語』によれば、遠州秋葉(現 静岡県浜松市)におり、身長は約2丈、木こりの荷物運びを助けて里近くまで同行し、手伝いを終えるとまた山へ帰って行くという。礼を与えようとしても金銭は受け取らず、酒なら喜んで受け取ったという。
言葉は通じないが、身振り手振りで言葉を伝えることができ、それら身振りなどを憶えるのは非常に早いという。あるときに遠州の又蔵という者が、病人のために医者を呼びに行く途中、誤って谷に落ち、足を痛めて身動きがとれなくなった。そこへ山男が現れ、又蔵を背負って医者のところまで辿り着くと、かき消えるように姿を消した。後に又蔵が礼の酒を持って谷を訪れたところ、山男が2人現れ、喜んで酒を飲んで立ち去ったという。
・浪小僧
波小僧(なみこぞう)は、遠江国(静岡県西部)一帯に伝わる妖怪。遠州七不思議の一つに数えられる。浪小僧と表記される場合もある(読みは同じ)。遠州七不思議における波小僧の伝承は以下のようなものである。
奈良時代の僧・行基が年老いた母の快癒を祈願して2体の藁人形を作り、田植えをさせた。行基は田植えを終えた藁人形に読経を聞かせた後、風雨の災害が起きる時は必ず事前に人々へ知らせるよう言い聞かせて久留女木川(都田川の旧称)へ流した。
藁人形のうち1体は海へ流れ着き、漁師が仕掛けておいた網に引っかかる。海から引き上げられた波小僧は漁師に命乞いをし、助けてくれれば波の音で天気を知らせると約束する。漁師は波小僧を網から解放し、波小僧は海の向こうへ姿を消した。こうして遠州灘の波の音は「雷三里、波千里」と呼ばれる地鳴りに似た独特の響きを持つようになり、漁師たちは波の響きが南東から聞こえれば雨、逆に南西から聞こえれば晴れと知ることが出来るようになった。
また、浜松市中区曳馬には別の伝承が残されている。少年が田植えをしていると、親指大の波小僧が顔を出した。波小僧は大雨の日に海から陸に上がって遊んでいたが日照り続きで海へ帰れなくなったと言い、気の毒に思った少年は波小僧を海へ帰してやる。その後も日照りのため不作が続き、少年が途方に暮れて海辺に立っていると波小僧が現れる。波小僧は少年に恩返しをすると言い、雨乞いの名人である父親に頼んで雨を降らせると約束する。そして、波の響きが南東から聞こえれば雨が降る合図だと言い残して海の向こうへ帰って行き、それから間もなく南東から波が響いて雨が降り田畑が潤った。それ以後、農民は波小僧の知らせで事前に天気を知ることが出来るようになった。
この波小僧の伝説は、静岡県女子師範学校の編集による『静岡県伝説昔話集』で紹介されたことで知られるようになったが、同書には類似する以下のような話がある。
弘法大師が和地山大山にいた頃、付近を荒らすイノシシを脅すために麦藁人形を作った。イノシシを退治した後、人形たちが「今より後は人々に雨風を知らせん」と言ったので、人形たちを遠州灘に入れた。その後、天気が悪化するときには波の音が立つようになった。
秋葉神社の建設時、藁人形が労働力として用いられた。人形たちはよく働き、その年は大豊作となった。仕事が終わって人形たちを川に流さなければならなくなったとき、人々はこれを惜しみ、その後も豊作になるよう天気の具合を教えてほしいと頼んだ。以来、海の鳴る音で天気を知ることができるようになった。
これらには水と人形という点が共通しているが、水の妖怪として知られる河童もまた、労働力として作られた人形が河童に変じたという伝説があることから、波小僧もまた河童の一種とする説がある。
妖怪漫画家・水木しげるの著書の中には、浪小僧を神様に近い河童と解説しているものもある。また、民話では海坊主ともされる。
民俗学者・千葉徳爾による論文「田仕事と河童」では、天竜川中流の山間部に、河童が農作業を手伝ったという伝承や昔話が多いことが報告されているが、波小僧もまた天竜川一帯の伝承として、それらにあてはまるとの見方もある。
・雑記
波小僧の伝承は旧遠江国一帯で広く親しまれており、浜岡砂丘の入り口と舞阪町(浜松市西区)にはそれぞれ「波小僧の像」が建立されている他、JA遠州夢咲の「波小僧みそ」や菓子「波の音」を始め波小僧をモチーフにした商品や土産物も多数作られている。
また、1996年に環境庁が選定した「日本の音風景100選」に「遠州灘の海鳴 波小僧」として選ばれている。
22.2)秋葉神社
秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在する神社である。神社本庁傘下だけで約400社ある。また、歴史地理学者・米家泰作による2017年(平成29年)の調査では1,129社を数える。
神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(現在の遠州秋葉山秋葉山本宮秋葉神社と越後栃尾秋葉山の秋葉三尺坊大権現別当常安寺の二大霊山を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。
祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。
●総本社
秋葉山本宮秋葉神社-静岡県浜松市天竜区春野町領家にある神社で、秋葉大権現の起源。日本二社(総本廟)秋葉大権現の「今の根元」といわれる。伝・和銅2年(709年)創建。
秋葉三尺坊大権現-新潟県長岡市谷内二丁目(旧栃尾市谷内)にある神社で、日本二社(総本廟)秋葉大権現の起源。「古来の根元」といわれる。
・参考Webサイト
秋葉山本宮秋葉神社:Wikipedia秋葉山本宮秋葉神社 秋葉山本宮秋葉神社公式サイト
秋葉三尺坊大権現:新潟県長岡市栃尾観光協会HP
日本第一総本廟 別当 常安寺:清瀧山常安寺公式サイト
22.3)秋葉山本宮秋葉神社
秋葉山本宮秋葉神社(引用:Wikipedia)
秋葉山本宮秋葉神社は、静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについてその事実上の信仰の起源となった神社であり、もう一方の日本二社(総本廟)秋葉大権現の越後栃尾秋葉山『古来の根本』秋葉三尺坊大権現と並び、『今の根本』と言われる。
●祭神と呼び名
祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)秋葉山に鎮まる神で「秋葉大神」(あきはのおおかみ)とも称される。
江戸時代までは秋葉権現を祀(まつ)る秋葉権現社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の山だった。秋葉大権現について秋里籬島『東海道名所図会』(寛政9年(1797年)成立)では「秋葉山大権現〔本堂の側にあり当山鎮守とす〕祭神大己貴命〔或曰式内小國神社〕三尺坊〔秋葉同社に祭る当山護神とす〕」と三尺坊とは異なる鎮守神とし、僧侶の編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2年(1717年))では三尺坊を秋葉権現であるとしている。実際には鎮守と三尺坊は混淆され、人々は秋葉大権現や単に秋葉山などと称し信仰した。
賀茂真淵門人の内山真龍は『遠江国風土記傳』(寛政11年(1799年)成立)で『日本三代実録』に記載された「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」の後身であるとの説を唱えた。
三代実録に曰く「貞観十六年五月十日、遠江国正六位上岐氣保神に従五位下を授く」、と、按ずるに倭名鈔に岐氣は山香郷の郷名なり、保は火なり、此山岐氣の保神社の地に当る、而して火防神と称するか
神仏判然に際し教部省は秋葉権現を三尺坊とは異なる神祇(鎮守)と考証し、その上で秋葉権現社を秋葉神社と改称することを命じた。この時祭神名については修験の家伝を採用し「火之迦具土大神」とされた。
また別称として古くは寺号を霊雲院(りょううんいん)と称した。
●社紋
神紋と社紋を分けており、神紋は「七葉もみじ」(しちようもみじ)、社紋は剣花菱である。剣花菱は武田信玄の寄進と社伝にある。
●信仰
『東海道名所図会』には秋葉大権現の利益として「第一には弓箭刀杖の横難を免れ、第二には火災焼亡の危急を免れ、第三には洪水沈没の免れさせたまふ」とある。
顕著な信仰を挙げると
・火防(ひぶせ)
・厄除開運(厄除・八方除)
・家内安全・町内安全・商売繁盛
・新築祈願(新しい家が火事などの被害にあわないように祈願)
・花火など火・火薬を扱う事業の安全と繁栄
・鍛冶・金属加工・鉄鋼業・工業全般の安全及び事業発展
・大漁祈願(船上での火(燈)や遠州灘で秋葉山が目印になることに由来)
・茶業繁栄・茶業安全
・武運長久(武田信玄などの武将からの奉納刀剣多数、また正木流の流祖が参籠開眼)
・人形感謝(人形のお焚き上げ)創建伝説と火の信仰に基づく
古来、火防及び火そのものに対する信仰が根本であり、町内で火災鎮護を祈る地域や消防団、火を扱う職業の参拝が多い。火災鎮護ということで三河地方を中心に新築・増改築に際して参拝し棟札を受ける習慣がある(上棟式の投げ銭の5円玉の束を持参し納める人も多い)。
●歴史
〔創建〕
創建時期には諸説があるが、上古より神体山・霊山として仰がれて来た。社伝では和銅2年(709年)に初めて社殿が建立された。その伝承では山が鳴動し火が燃え上がったため、 元明天皇 より「あなたふと 秋葉の山にまし坐せる この日の本の 火防ぎの神」と御製を賜り、社殿を建立したという(秋葉山本宮秋葉神社由緒)。なお地元春野町では浪小僧の伝説が伝えられる。その内容は社殿建立時に人手が不足し、藁で人形を作り祈ったところ、人形に魂が宿り一緒になって働いたため予定より早く完成した。感謝して川に流したところ浪の音で風雨の災害を知らせてくれるようになったというものである。
その後、仏教や修験道が入り、神仏習合の霊山として発達した。江戸時代に僧侶が編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」などでは行基開山説が説かれ、大宝元年(701年)に寺を開いたとされる。
「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から賜った御製の中に「ゆく雲のいるべの空や遠つあふみ秋葉の山に色つく見えし」とあったことから秋葉山と呼ばれるようになったと社伝(修験の伝承)に謳われる一方「行基が秋に開山したことによる」、「焼畑に由来する」、「蝦蟇の背に秋葉の文字が浮かび上がった」(「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」)などの異説もある。
〔修験道〕
平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市戸隠)の出身で、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。しかし、
①三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある。
②修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しながら発展しており、本山という概念は必ずしも無かった。
③江戸時代には秋葉寺以外にも、上述の蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区)の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録も残されている。
④戦国時代より以前に成立した、秋葉大権現に関する史料がほとんど発見されていない
よって現状では、祭神または本尊であった秋葉大権現・三尺坊の由来も「定かではない」という他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれている。
〔近世期〕
戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康と関係のあった可睡斎の禅僧茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととなった。
秋葉山には禰宜・僧侶(曹洞宗)・修験(当山派)の三者が奉仕し、別当は僧侶が務めた。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、修験も十七坊(時代によって増減あり、三十六坊の時期もある)あったと伝えられる。
徳川綱吉の治世の頃から、秋葉大権現は神道、仏教および修験道が混淆した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯(秋葉灯篭)が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた。
龍燈(龍頭)と呼ばれる祠を兼ねた特殊な常夜燈があり、そこが町内・講中の信仰の場となった。現在でも町内で神符を受けて常夜燈に祀る地域は多い。
〔近代以降〕
1868年(明治元年)に明治政府によって神仏分離令が、1872年(明治5年)には修験宗廃止令が強行され、秋葉山も神仏分離を行うこととなったが、秋葉権現が神仏いずれかという神学論争に加え、山内の修験派と僧派の対立もあり、その決着が容易につかなかった。
明治5年に教部省は秋葉権現を三尺坊とは異なる鎮守と判断し、更に修験の家伝に基づき祭神名を火之迦具土大神であるとした。秋葉山を神道の秋葉大権現と仏教の秋葉寺に分離し、更に秋葉大権現を秋葉神社と改称した。
翌1873年(明治6年)、秋葉寺は無住無檀という理由で廃寺となるが、これは当時の社寺に関する法令が適用された結果であり、秋葉寺が神仏分離で廃寺されたというのは正確ではない。秋葉寺の廃寺に伴い、三尺坊は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座、宝物什物も移管された。全国各地の分社もそれぞれの土地の事情で神仏分離令に従い、神社または寺として独立の道を歩むこととなった。明治6年に県社列格。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、山頂(上社、かみしゃ)が山麓から発生した山火事の類焼により本殿東側の山門を除く建物全てを焼失した。戦中戦後は再建も容易ではなく、山麓に下社を造営し祭祀を継続した。しかし、1986年(昭和61年)に現在の山上の社殿が再建され、相前後して山頂に通じる林道の整備も成ったため、ここに名実共に秋葉山本宮秋葉神社として再興を果たした。尚、戦後秋葉山本宮秋葉神社と改称したのは、社格制度がなくなる中、全国の秋葉神社の本宮であることを示すためである。 平成21年(2009年)御鎮座1300年を記念して本殿西側の神門を建立。
〔現在〕
山頂の上社と、麓の気田川の畔にある下社(しもしゃ)とは、徒歩で登り1時間半から2時間、標高差約750mほどの古くからの参道が通じる。また山頂に至る車道は西側の麓を走る天竜川沿いの国道152号線から車で20分ほど登る、やや狭いが舗装された林道となっている。
山頂からの眺望は東海一とも言われ、天気が良ければ袋井市のエコパやJR浜松駅近くのアクトタワー、更に空気が澄んでいれば天竜川河口・太平洋や浜名湖なども望める観光スポットとしても人気が高まっている。宮大工立川流による山門や常夜灯の数々および茶屋跡などが江戸時代からの繁盛ぶりを示す。更に30分程降りると富士山を見ることができるスポットがある。
現在でも火防の神様として全国各地から、消防・火力発電・調理師など火を取り扱う仕事の関係者が、お参りとお札を求めにやってくる。
山頂より参道を徒歩で10分ほど下ると、8合目程の場所に秋葉山秋葉寺(あきはさんしゅうようじ、三尺坊(さんしゃくぼう)とも呼ばれる)がある。地元の人々の強い願いにより、1880年(明治13年)に本尊を観世音菩薩とする寺として改めて創建されたものである。
天竜川から秋葉神社上社へ至る道は、行程7.5km平均斜度約10%の遠州一の激坂として自転車ヒルクライムをする人々に知られている。周辺にも自転車で走りやすい船明ダム湖畔、気田川沿い、天竜スーパー林道などの道があることもあり、一帯はサイクリングの名所となっている。
23)片山神社(愛知県) (引用:https://alay.at.webry.info/200902/article_4.html)
23.1)御祭神
主神・蔵王大権現、右神・国狭槌尊、左神・安閑天皇
23.2)由緒
片山神社は古書によれば、1300余年前修験道の開祖役小角(役行者)により天武12年(684)愛知県内で最初に崇め祀られた格式たかい古社で、主神(祭神中 主体として祀られる神)蔵王大権現(大和の霊峰 大峰山・吉野山の祭神) 右神 国狭槌尊 左神 安閑天皇 が祀られております。
蔵王権現は、釈迦如来・千手観世音菩薩・弥勒菩薩三身一体の変化神で、三身が前世・現世・来世を示され過去・現在・未来を象徴し、三世にわたり一切の生物を救う万能の威力をもつ大神であります。(わたしは 前世・現世・来世 を 祖霊・現世・子孫 と 解釈して 説いております)
国狭槌尊は、天常立神-国之常立神-国常立尊(神代-神世七代の最初の神)と同神、国土形成の神で天地の中心にあって永遠に天地を主宰する天の神であります「蔵王権現と国狭槌尊とを修験道では神道的に同体であると説いております」(吉野山金峯山修験本宗総本山 金峯山寺故五条覚澄法主談)
安閑天皇(第27代・466~535)名は勾大兄、おくり名を広国押武金日、継体天皇の第一皇子、母は大和国葛城の尾張連草香の女目子媛、大和の勾金橋(今の橿原市曲川町)に都し 仁賢天皇(第24代)の女の春日山田皇女を皇后とする。在位二年(534-535)勾金橋宮で崩御、宝算70 御陵 古市高屋丘陵
役行者は、天武12年(684)天武天皇の勅命をうけ、三河国に滝山寺を開山の途次片山神社現在地に金剛蔵王大権現を宗祀され、後685-686年、岡崎北辺の山中に滝山寺を建立されました。
天武8年(690)にも役行者は天武天皇の勅命により大和に室生寺を開かれました。後世 衰退した室生寺を興福寺の高僧賢璟(尾州愛智郡の人 姓・荒田氏)が天平末から平安初期(770-790)にかけて再興しました。
式内社とは醍醐天皇(第60代)の命により延喜5年(905)8月に編纂を開始、完成奏上は延長5年(927)12月26日 施行は40年後の康保4年(967)10月9日の古代法典 「延喜式」五十巻中の巻九「神名上」 巻十「神名下」(神名帳)に収録されている。神名 神社は、宮中をはじめ全国で3132座(このうち36座が宮中)(2861社)、片山神社は 巻九「神名上」尾張国山田郡十九座の首位に記載されております。これに収録されている神社は式内社としてその社格を誇ることができました。
これに記載されていない神社は 式外社と云います
拝殿右側奥の石垣の間に桜町天皇(第115代)の御代(250余年前)に祀られた千手観世音の石仏が(吉野山産の緑の石)、また、左側の古木ご神木には蔵王さまのお使いといわれる大峰山上竜ノ口の竜神さまが祀られております。蔵王さま、観音さま、竜神さまに まことを込めてひたすらにすがる祈願があきらかにかなえられることは、大昔からお参りの人々により有名であります。(田口一雄謹書)【総本社式内片山神社由緒書より抜粋転載】
安閑天皇は尾張氏と関わりの深い、というか尾張氏の血を引く天皇なのですが、継体天皇前後は色々と謎な部分が多く、古事記や日本書紀その他で記述が混乱しています。
安閑天皇の在位は二年と短く、この間は二朝並立説など色々あり、私もよくわかりません。ただ何故か、安閑天皇は蔵王権現と習合し、全国各地に祀られるようになります。
神社を創祀したという役行者は天武天皇の勅命で活動していたとありますが、天武天皇といえば壬申の乱で尾張氏が擁立した大海人皇子のこと。ここにも尾張氏との関係が見えてなりません。
24)伊吹山(岐阜県・滋賀県) - 伊吹修験
24.1)伊吹山
南側の鈴鹿山脈の霊仙山から望む伊吹山(引用:Wikipedia)
伊吹山(いぶきやま〈いぶきさん〉)は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)標高1,377 mの山である。一等三角点が置かれている山頂部は滋賀県米原市に属し、滋賀県最高峰の山であり、山域は琵琶湖国定公園に指定されている。
●概要
古くから霊峰とされ、『古事記』、『日本書紀』においてはヤマトタケルが東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されている。日本百名山、新・花の百名山、一等三角点百名山、関西百名山、近畿百名山、ぎふ百山の1つに選定されている。
●山名
『日本書紀』では「五十葺山」と記され、『古事記』では「伊服阜能山」と記述される。また、「膽吹山」のほか、「伊服阜山」、「伊夫阜山」とも記される。かつて修験道においては「大乗峰」と呼ばれていた。他に、伊福貴、異吹、伊布貴、伊夫伎などの表記が為された。
「伊吹山」の読み方について、国土地理院の登録された山名をはじめ、地図や道路標識などの振り仮名は「いぶきやま」となっており、伊吹山の山麓地域では「いぶきやま」と呼ばれる。一方、「いぶきさん」という呼び方も存在し、滋賀県の伊吹町では「いぶきやま」、美濃尾張方面では「いぶきさん」とする名鑑があるほか、滋賀県内の伊吹山に近い地域では「いぶきやま」、遠い地域になるほど「いぶきさん」と呼ぶ傾向があるとも言われており、岐阜県でも同様の傾向がある。
●年表
・673年 - 天武天皇により麓に三関のひとつである不破関が置かれる。
・平安時代 - 日本七高山(近畿地方の7つの霊山)の一つに数えられる。
・712年(和銅5年) - 古事記の景行記に、伊吹山にまつわる日本武尊の伝説が記される。
・851-854年(仁寿年間) - 伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立された。
・1558年(永禄元年)- この年から1570年(永禄13年)の間に、織田信長が南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山に作らせる。その菜園には、ポルトガル人が自国で用いていた約3,000種のハーブが移植されたといわれている。
・明治末年 - 川崎義令が千種類に及ぶ薬草を採取する。
・1912年(大正元年)10月 - 山頂の弥勒堂近くに礎石を築き、現代にも残る日本武尊の石像が供養される。
・1950年(昭和25年)7月24日 - 山腹周辺が琵琶湖国定公園の特別保護地区に指定される。
・1965年(昭和40年)7月1日 - 伊吹山ドライブウェイが全線の供用を開始した。
・1967年(昭和42年)3月17日 - 岐阜県が、岐阜県側の山域を県立伊吹自然公園に指定する。
・1998年(平成10年)3月 - 伊吹山文化資料館が開設された。
・2003年(平成15年)7月25日 - 伊吹山頂草原植物群落が、国の天然記念物に指定される。
24.2)伊吹神の信仰
伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた。『古事記』にはヤマトタケルがこの伊吹大明神と戦って敗れる物語がある。伊吹山の神に苦しめられて敗れたヤマトタケルは病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒井の平成の名水百選の1つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられている。
山頂部にはその日本武尊の石像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されている。表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされていて、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られた。
また文献によれば、古代には近江国・美濃国の両国で伊吹神が祀られたことが知られる。国史では両神に対する神階奉叙の記事が散見され、中央にも知られる神であった。両神は、『延喜式』神名帳においてもそれぞれ「伊夫伎神社」・「伊富岐神社」として記載されて式内社に列しているほか、美濃の伊富岐神社は美濃国内において南宮大社(一宮)に次ぐ二宮に位置づけられた。現在も近江の神社は伊夫岐神社(滋賀県米原市伊吹)として、美濃の神社は伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手)として祭祀が継承されている。なお、創祀については美濃地方の豪族の伊福部氏との関係を指摘する説もある。
年 |
伊夫伎神社 (近江国坂田郡) |
伊富岐神社 (美濃国不破郡) |
---|---|---|
850年 | 従五位下 | |
852年 | 官社指定 | |
859年 |
従五位下 →従五位上 |
|
865年 |
従五位下 →従四位下 |
|
877年 |
正四位下 →従三位 |
従四位下 →従四位上 |
神名帳 | 小 | 小 |
一宮制 | 美濃国二宮 |
24.3)山岳宗教と伊吹山寺
役小角が伊吹山に登り、弥高寺と大平寺を建立したと伝えられている。白山を開山した泰澄は、この山に分け入り白山信仰を伝えた。9世紀に伝わった密教と結びついて修験の場として、多くの寺院が山中に建立されるようになった。
851-854年(仁寿年間)に僧三修(さんじゅ)により、伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立されたことが「日本三代実録」に記録されている。三修により山上と山麓に山岳寺院が建立され、江戸時代まで山岳修行の山とされていた。
弥高寺は伊吹山寺と呼ばれる定額寺の中心となる一つで、伊吹四大寺として他に大平寺、長尾寺、観音寺が建立され、のちに伊吹護国寺となった。
鎌倉時代には修験者による山岳宗教が発達し一時は数百の堂房が山中に建ち隆盛したが、戦国時代に兵火でほとんどが焼失し現存せずその地名が残されている。
弥高寺は戦国時代に京極氏や浅井氏により城郭の一部として改造され、1512年(永正9年)に兵火に遭い、その後ふもとに坊舎が移された。円空は伊吹山の太平寺に暮らし、平等石(行道岩)で修行を行い、木彫仏を残している。「弥高寺跡」は2004年(平成16年)2月27日に、国の史跡に指定された。
(引用:「日本の霊山読み解き事典」西海賢二・時枝 務・久野俊彦著/柏書房)
〇近畿の霊山(参考)
●大峯山〔奈良県〕●比叡山〔京都府・滋賀県〕●高野山〔和歌山県〕
●那智山(熊野三山)〔和歌山県〕●朝熊山(朝熊ヶ岳)〔三重県〕●比良山〔滋賀県〕
●飯道山〔滋賀県〕●鞍馬山〔京都府〕●愛宕山〔京都府〕●箕面山〔大阪府〕●甲山〔兵庫県〕
●書写山〔兵庫県〕●輸鶴羽山〔兵庫県〕●三輪山〔奈良県〕●吉野山〔奈良県〕
●金剛山〔奈良県・大阪府〕●春日山〔奈県〕●生駒山〔奈良県・大阪府〕
●伊吹山〔滋賀県・岐阜県〕●三上山〔滋賀県〕●大文字山〔京都府〕●笠置山〔京都府〕
●摩耶山〔兵庫県〕●雪彦山〔兵庫県〕●天香久山〔奈良県〕●耳成山〔奈良県〕●畝傍山〔奈良県〕●葛城山〔奈良県・大阪府〕●三笠山〔奈良県〕●多武峰〔奈良県〕●信貴山〔奈良県〕
●玉置山〔奈良県〕●二上山〔奈良県・大阪府〕
25)園城寺/三井寺 26)醍醐寺/上醍醐 27)聖護院 28)鷲峯山金胎寺
29)根本山神峯山寺 30)千光寺 31)犬鳴山 32)瀧安寺 33)金剛山 34)金峰山・大峰山・金峯山寺 35)薬師寺 35)薬師寺 36)熊野三山 37)布引の滝 38)伽耶院 39)雪彦山 40)後山 41)諭鶴羽山
(引用:Wikipedia)
25)園城寺/三井寺(滋賀県) - 天台寺門宗
金堂(国宝)(引用:Wikipedia)
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)、開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で、札所本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。
25.1)歴史
当寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。
●円珍の登場
園城寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。そして、大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没した。しかし、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする寺をようやく建立した。
壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、朱鳥元年(686年)この寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与える。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。
なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
現在の園城寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期や飛鳥時代に遡る古瓦や、崇福寺、穴太廃寺、南滋賀町廃寺と同じ形式の瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
園城寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、園城寺初代長吏に就任し、その後の園城寺の発展の基礎を築いたのが智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(現:香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。
その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから後に園城寺は修験道とも深い繋がりを持つようになる。
仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国し、翌貞観元年(859年)に大友氏の氏寺であった園城寺に入り、清和天皇より仁寿殿を賜わって「唐坊」(とうぼう)、後に改めて「唐院」(とういん)とし、これを現在の護法善神堂がある場所に設置し、寺を再興する。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。
貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
●延暦寺との抗争
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、園城寺に移った。
比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
園城寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信濃国善光寺も荘園末寺として記録に著れる。伽藍も金堂や別所・水観寺を中心とする中院、新羅社(新羅善神堂)や別所・常在寺を中心とする北院、三尾社(三尾神社)と、現在の長等公園一帯にあった三別所の微妙寺・尾蔵寺・近松寺を中心とする南院、さらに別院である如意寺が整備されていき、この三院五別所の体制でもって運営されていった。
中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が園城寺に戦勝祈願をし、三男の源義光が新羅善神堂の前で元服するなどしたことから歴代の尊崇が篤く、治承4年(1180年)4月に源頼政が以仁王と共に平家打倒の兵を挙げた時(以仁王の挙兵)にはこれに協力し、源頼光の子孫である山本義経が挙兵(近江攻防)した際もこれに協力した。そのために同年12月、平重衡と平忠度によって焼き討ちを受けて637棟の建物が炎上している。
平家を滅ぼした源頼朝は早速当寺に保護を加え復興が始まった。頼朝の意思を継いだ北条政子、源実朝もこの方針を継承し、建保元年(1213年)には延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させ、建保4年(1216年)に再興している。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。
文永元年(1264年)5月、延暦寺に攻め込まれて現在「弁慶の引摺鐘」といわれている釣鐘が盗まれてしまうが、幕府の命令によって文永4年(1267年)4月に戻されている。北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると幕府との仲も戻っている。弘安8年(1285年)の時点で中院は74院、北院は124院、南院は140院にものぼる子院が存在していた。
南北朝の内乱では北朝方で源氏の足利氏を支持する。建武3年(1336年)1月には園城寺の僧兵は北朝側に付き、細川定禅と共に園城寺に立て籠もって南朝方の北畠顕家・結城宗広を迎え撃ったが敗北し、焼き討ちを受けて金堂が炎上した。その際、僧が燃え盛る金堂から弥勒仏を救出しようとするが叶わず、せめて頭部だけでも助けようとして頭部を切り落として運び去ったともいわれる。
こうして北朝を支持したことから当寺は室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
●没落と復興
戦国時代に入ると、勢力を強めていく織田信長と延暦寺の対立は頂点に達し、ついに元亀2年(1571年)に園城寺に本陣を置いた信長によって比叡山焼き討ちが行われた。しかし、その一方で園城寺は信長と良好な関係を構築し維持し続けていた。
次いで園城寺は天下人となった豊臣秀吉とも良好な関係を築いていたが、文禄4年(1595年)11月、園城寺は突如として豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられた。園城寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院(現在妙法院がある場所にあった。後に北白川に移転)に避難させ、僧も保護したが、ほとんどの仏像や宝物はよその寺院へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に破却、移築された。当時の園城寺金堂は比叡山に移され、現在も延暦寺西塔転法輪堂(釈迦堂)として現存している。残ったものは新羅善神堂、三尾社本殿、護法善神堂の他は上光院などいくつかの子院のみであった。
道澄は、元光浄院の住持であり秀吉の御伽衆でもある山岡景友とその弟光浄院暹実らと共に復興の請願を繰り返し行った。慶長3年(1598年)になり、秀吉は自らの死の直前になって園城寺の再興をようやく許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな園城寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受けて園城寺長吏・道澄が中心となって寺の復興事業が開始される。それに伴って、照高院に避難させていた弥勒菩薩像、智証大師坐像、黄不動尊などを園城寺闕所の際にも存続が許されて残っていた上光院に移している。
伽藍の復興も進められ、寺領4,300石も安堵された。翌慶長4年(1599年)には高台院が金堂を寄進し再建を果たした。他にも勧学院客殿は慶長5年に豊臣秀頼が施主となり、毛利輝元の寄進で建立、光浄院客殿は慶長6年に山岡景友の寄進で建立されている。現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。そして慶長年間末期の頃には三院で49院、五別所で25坊もの子院が並んでいた。
園城寺は平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、うち14回は延暦寺による焼き討ちであった。
寛永年間(1624年 - 1645年)には寺領4,619石が安堵されている。『元禄五年寺社僧坊改記』には、園城寺や各子院、末社の状況やその由来が記されているが、それによると寺内には浄土宗や一向宗の寺があることが分かる。
明治維新後、1873年(明治6年)には北院の大半となる20万平方メートルが陸軍用地として軍部に接収されてしまい歩兵第9連隊司令部(現、大津商業高校)や練兵場(現、皇子山総合運動公園)とされ、新羅善神堂と法明院を残して北院は廃絶してしまった。また、明治以降は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年(昭和21年)に天台寺門宗と名称を改めたうえで天台寺門宗総本山となった。
25.2)黄不動
黄不動(きふどう)は、滋賀県大津市の園城寺(通称:三井寺)に秘仏として伝わる、全身が黄色の不動明王立像の仏画である。平安時代初期の9世紀の作で、国宝に指定されている。円珍が感得した像を描いたものとされる。三不動の一であり、別名、金色不動明王。公開されていない。
京都・曼殊院等に伝わる多くの模写像は磐座上に立つが、本像は円珍が実際に感得した際のさまを表現しているため、虚空上に立つ姿を本紙いっぱいに描いている。また、背景も虚空の状景を表すため、何も描かれていない。不動明王を単独で描いた仏画としては現存最古の遺品である。天台宗寺門派最高の厳儀とされる伝法灌頂の受者しか拝することが許されない秘仏とされる。印刷物などへの掲載も厳しく制限されている。
円珍は、比叡山や渡唐上でこの黄不動に再三感得し、身の危険を救われたとされると種々の伝承に伝わるが、その根幹になったのは、円珍が没して11年後の延喜2年(902年)、文章博士・三善清行が撰述した『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』にある一文である。承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。
円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させたという。この伝承通り承和5年(838年)頃の制作と見られていたが、同じ図様は空海が請来した図像に既に見られ、細部は円珍請来本の中で初めて見られることから、円珍が帰朝した後描かれたとする説が有力である。
本像はその聖性や神秘性から、後世しばしば模作された。現在、絵画作品がおよそ20件、彫刻は6件ほど知られている。
26)醍醐寺/上醍醐(京都府) - 真言宗醍醐派/当山派
金堂(国宝)(引用:Wikipedia)
醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称し、本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所観音霊場第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。
26.1)歴史
平安時代初期の貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えていた。
その後、室町時代の応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなっていた。しかし、豊臣秀吉によって花見が醍醐寺で行われることに決まると、秀吉によって三宝院が再興されるなどし、伽藍が復興され始め、慶長3年(1598年)に「醍醐の花見」が盛大に行われた。
続いて、豊臣秀頼によって伽藍の整備が行われ、慶長5年(1600年)には秀吉の時代から行われていた金堂の移築工事が完成、慶長10年(1605年)には西大門の再建、慶長11年(1606年)には如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が行われた。
明治時代の廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したりするなかで、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けている。
1935年(昭和10年)、霊宝館が開館した。1939年(昭和14年)8月、上醍醐を襲った山火事により短時間で経蔵、西国三十三所第11番札所の准胝堂が焼失するが、1968年(昭和43年)5月に准胝堂が再建された。
・1995年(平成7年)1月、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の影響で、五重塔、金堂などの漆喰が剥がれた。1997年(平成9年)9月、朱雀天皇の勅願で下醍醐に法華三昧堂として天暦3年(949年)に創建され、後に焼失した堂を真如三昧耶堂として建立した。
・2008年(平成20年)8月24日、落雷による火災で上醍醐の准胝堂が全焼する。現在は焼失した准胝堂の西国三十三所札所が下醍醐の観音堂に仮に移されている。
26.2)伽藍
下醍醐と上醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩で1時間は要する。
●下醍醐
本尊の薬師如来像を安置する金堂、三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失と再建を繰り返しているが、五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のものである。
・金堂(国宝)
入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期の建立。豊臣秀吉の発願により紀伊国から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)、豊臣秀頼の代になって落慶している。
・五重塔(国宝)
平安時代の天暦5年(951年)建立。承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、承平7年(937年)の代明親王の死去などの影響で工事は停滞し、朱雀天皇が引き継ぐも、村上天皇の天暦5年(951年)、発願の20年後に完成した。
・西大門(仁王門) - 慶長10年(1605年)豊臣秀頼による再建。
・清瀧宮本殿(重要文化財) - 永長2年(1097年)に創建。永正14年(1517年)に再建。本殿の西側は塔頭・無量光院の跡地。
・拝殿 - 慶長4年(1599年)建立。
・不動堂 - 堂前で柴燈護摩が焚かれる。
・真如三昧耶堂 - 真如苑の開祖・伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するため醍醐寺により1997年(平成9年)建立。金色の涅槃像を祀る。もとは朱雀天皇の御願による法華三昧堂として天暦3年(949年)に創建されたものだが、享徳19年(1470年)に焼失している。
・祖師堂 - 向かって右に弘法大師(空海)、左に理源大師(聖宝)を祀る。慶長10年(1605年)9月、座主・義演准后の建立。
●上醍醐
長らく西国三十三所第11番札所が存在し、西国一険しい札所として知られた。上り口にはかつて女人結界があったことから女人堂が置かれ、そこから険しい山間に入る。平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿、准胝堂跡、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ている他、醍醐山山頂(標高450m)には、如意輪堂と開山堂が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。
・女人堂(成身院) - 江戸時代初期の再建。上醍醐への入山料の支払所がある。これより19丁(2.6km)約1時間の軽登山となる。
・音羽魔王大権現社
・清瀧宮本殿- 空海が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社。創建は寛治2年(1088年)12月。
・拝殿(国宝) - 室町時代の永享6年(1434年)に再建。懸造りとなっている。
・横尾大明神
・醍醐水 - 聖宝が感得し、醍醐寺の名前の由来となったといわれる霊泉。
・准胝堂跡 - 貞観18年(876年)、聖宝によって如意輪堂と共に創建された。西国三十三所第11番札所。1968年(昭和43年)に再建された堂は落雷により2008年(平成20年)8月24日に焼失した。再建までの間は西国札所は下醍醐の観音堂(大講堂)に仮に移されており、納経も下醍醐だけで行っている。
・薬師堂(国宝) - 醍醐天皇の勅願により、聖宝が延喜13年(913年)に天皇の御願堂として創建する。現存の堂は保安2年(1121年)の建立。入母屋造、檜皮葺き。正面5間、側面4間。側面の柱間4間のうち、中央の2間が狭く、前寄りと後寄りの各1間が広いのは珍しい。内部には薬師三尊像(国宝)、閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上は重要文化財)などを安置していたが、現在は全て下醍醐の霊宝館に移されている。
・五大堂 - 聖宝が鎮護国家の祈願道場として延喜13年(913年)に創建。慶長11年(1606年)に豊臣秀頼によって再建された。現在の堂は1940年(昭和15年)の再建。
・縁結白山大権現
奥の院・洞窟 - 開山堂の奥にある一の鳥居から二の鳥居、三の鳥居を経て約30分、左へ少し行くと浅い洞窟の奥の院、右へ進むと「東の覗き」で下は断崖絶壁となっている。
26.3)新宗教団体との関係
醍醐寺は戦後、真言宗醍醐派から独立した真言宗系新宗教である真如苑、解脱会等と現在でも密接な関係を持っている。
解脱会の創始者・岡野聖憲は、醍醐寺三宝院にて出家得度。死後、醍醐寺から「解脱金剛」の諡号が贈られている。解脱会は伊勢神宮、橿原神宮、泉涌寺を三聖地としているが、醍醐寺にも集団参拝を行う。
真如苑の開祖・伊藤真乗は、醍醐寺で恵印灌頂、伝法灌頂を畢めており、1966年(昭和41年)には大僧正位が贈られている。醍醐寺は1997年(平成9年)、真乗の興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰する「真如三昧耶堂」を境内に建立した。真如苑の法要には、醍醐派管長をはじめ、醍醐寺の僧侶が招待されることがある。
27)聖護院(京都府) - 本山修験宗/本山派(参考Webサイト:聖護院(公式サイト))
聖護院(引用:Wikipedia)
聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。錦林府とも称された。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
27.1)概要
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった。江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った。明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある。なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている。
聖護院の南西には、平安時代に「聖護院の森」の鎮守として熊野神社が祀られ、 「京の熊野三山」(残り2つは若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
・地名
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である。
27.2)歴史
当寺の開基は園城寺の僧・増誉である。増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど、修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた。この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられ、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を下賜された。これが聖護院の創建である。寺名は「聖体護持」の意である。ただし、増誉および増智(藤原師実の子)時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した。増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した。後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。ところが、門跡を継がせる予定であった弟子(皇族)が次々と師に先立って死去したために覚助の没後は南朝と北朝間もしくは北朝内部において門跡の地位を巡る争いが発生する、この争いは覚助法親王を継いだ覚誉法親王(花園天皇の皇子)が後光厳天皇の皇子である覚増法親王を後継者に指名したものの、その覚増法親王が明徳元年(1390年)に急死したことで聖護院は一時断絶の危機に見舞われた。
朝廷や室町幕府では聖護院の後継者選考にあたっていたが、園城寺の院家である常住院門跡で熊野三山検校を兼ねていた良瑜が自身の弟子で実の姪孫でもあった道意(二条良基の子)を推挙して認められた。この際、良瑜は熊野三山検校を道意に譲り、以降常住院に代わって聖護院が熊野三山検校の地位を務めるようになった。これによって聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。
現在は明治初期 神仏分離令 修験廃止令により山も強制的に神社に併合、寺院も江戸幕府の令号に伴い修験道法度にて天台 真言に分け隔て純血の修験寺院は130ヵ寺まで減り慶長18年から今 平成の世迄 色濃く残る(幕末 神兵隊により社殿 寺院 本尊 破壊により廃寺)。
道意の没後、年の離れた弟である満意が継承した。満意は良瑜の没後衰退した常住院を傘下に収めている。ところがその後継を巡って室町幕府が介入し、既に後継者に内定していた近衛房嗣の子・道興を排除して、足利義教の子である義観が後継者とされた。ところが、義観が突如隠居を表明して程なく没し、結局は道興が後継者とされた。
応仁の乱においては火災による焼失に加え、門跡である道興が足利義視との親交から西軍への内通が疑われて美濃国へ亡命するなど困難を迎えるが、乱の終結後に赦免された道興が洛北の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。その後は、戦国時代を通じて道興と同じ近衛家出身の門跡が継承(例外である伏見宮貞常親王の子道応も近衛政家の猶子)し、足利将軍家と諸大名とのパイプ役を務めた。
しかし、長谷の仏堂は文明19年(1487年)4月に盗賊の放火によって焼失した。その後、豊臣秀吉の命により烏丸今出川に移転するが、江戸時代の延宝の大火で延焼してしまう。こうして延宝4年(1676年)に現在地に再興され、現在みられる寺院の姿となった。
天明8年(1788年)の天明の大火の際には光格天皇が宸殿に入り、ここを仮御所としている。また、安政元年(1854年)の内裏炎上に際しては孝明天皇が一時期仮宮として使用した。当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。
慶応4年(1868年)1月8日に聖護院門跡雄仁法親王が還俗して聖護院宮嘉言親王となり、海軍総督等を務めた。嘉言親王の死後は異母弟で同じく聖護院に入っていた智成親王が継嗣として「聖護院宮」の宮号を継承したが、これが旧門跡との区別が判然としないとして北白川宮に改称された。嘉言・智成両親王は共に子に恵まれず、二人の兄弟であった元輪王寺門跡の能久親王が北白川宮家を継承したため、皇室に両親王の血統は残らなかった。しかし能久親王の子孫により、北白川宮家は皇籍離脱後2018年(平成30年)現在に至るまでその血筋が続いている。
1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、1872年(明治5年)には修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、修験宗を設立して天台寺門宗から独立した。
2000年(平成12年)、役行者1300年御遠忌を記念し、 数年かけて行われていた寺院の修理が終わった。
28)鷲峯山金胎寺(京都府)
金胎寺(こんたいじ)は、京都府相楽郡和束町原山にある真言宗醍醐派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶせん、じゅうぶさん)。本尊は弥勒菩薩。開基は役小角(役行者)と伝えるが詳細は不明である。大和(奈良県)の大峯山に対し「北大峯」と称された、山岳信仰の霊地であり、山内には現在も奇岩怪石が連なる行場(ぎょうば)がある。
●歴史
金胎寺は京都府の南東端に近い和束町にあり、標高682mの鷲峰山(じゅぶせん、じゅうぶさん)に位置する。南方に位置する笠置寺と同様、山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地として開けていたと推定されるが、こうした山岳寺院の常として草創の経緯ははっきりわかっていない。
中世の記録である『興福寺官務牒疏』(嘉吉元年・1441年)によると、金胎寺は天武天皇の白鳳4年(675年)、役小角(役行者)の草創で、天武天皇白鳳4年(675年)9月、役小角(役行者)によって開かれたといわれる。養老6年(722年)、泰澄が再興。平城京の鬼門封じとして、聖武天皇によって堂が建立され勅願寺となる。さらに大同2年(807年)には興福寺の願安が再興したとするが、創建者を役行者とするのは山岳寺院の草創縁起にしばしば見られるもので、伝承の域を出ない。
鎌倉時代後期の永仁6年(1298年)には伏見天皇が当寺に行幸したとされ、勅願により多宝塔が建てられたという。この多宝塔は現存し、伏鉢(屋根上にある、椀を伏せたような形の部材)の銘から永仁6年の建立と認められている。元弘元年(1331年)には笠置へ落ち延びる途上の後醍醐天皇が当寺に立ち寄ったことが『太平記』に記され、そのため当寺も焼き討ちに遭ったというが、詳細は不明である。
全盛期の当寺は「東塔」「西塔」に分かれた広大な山内に58もの坊舎を抱える大伽藍を誇ったというが、幾度の戦乱や出火で荒廃した。寺は康安元年(1361年)に再建された後、永正15年(1518年)に再び焼失。現在の寺観は近世末期に整えられたものである。
29)根本山神峯山寺(大阪府高槻市)
神峯山寺(かぶさんじ)は、大阪府高槻市にある天台宗の寺院。山号は根本山(こんぽんざん)。日本で最初に毘沙門天が安置された霊場といわれており、本尊である毘沙門天、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)、双身毘沙門天(そうじんびしゃもんてん)の3体はいずれも秘仏。紅葉の名所として知られる。
本堂(引用:Wikipedia)
29.1)概要
神峯山寺は高槻市の中心部より北へ約6km、原地区という田園風景が広がる農村部山間の山寺である。行政区は大阪府であるが、地理的には京都盆地の西側、西山連山から続く最西端に位置する。敷地約100haのほとんどは山林で覆われ、一帯を総称して神峯山といい、都市近郊の貴重な原生林が現存。参道に張られた勧請掛けが聖域と俗世の境界を示すとされる。
また、開山の祖とされる役小角(役行者)、中興の祖である開成皇子の像が境内に安置され、古来の皇室との緊密な関係は本堂の十六八重菊紋などで確認できる。また、かつて七高山と称された修験霊場の一角であり、修験者が使用した修行の道や滝、葛城山(金剛山)遥拝所を示す石標などが境内の各所に点在する。神峯山の参道入口には石造の鳥居が立ち、仁王門前には狛犬があるなど神仏混淆の風土が現在も見られる。
29.2)歴史
●開山伝承
「神峯山寺秘密縁起」によれば、文武天皇元年(697年)に役小角が葛城山で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け、この地にやってきた。そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の毘沙門天が刻まれ、役小角は伽藍を建立しこの毘沙門天を祀ったことが当寺の起源とされている。
さらに縁起によれば、刻まれた残り3体の毘沙門天は天高く飛散し、1体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、1体は京都市左京区の鞍馬寺に、1体は奈良県生駒郡平群町の朝護孫子寺に安置されたと伝わっている。これら寺院の本尊は現在も毘沙門天であるが、この逸話はあくまで神峯山寺の縁起によるものであり関連は定かではない。
開山以後、神峯山寺は修験霊場として多くの修験者を迎え入れたとされ、同じく近畿の修験霊場として名高い比叡山、比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山に並ぶ七高山の一角として大いに栄えたとされている。
●中興
宝亀5年(774年)、光仁天皇の子息であり桓武天皇の庶兄にあたる開成皇子が、勝尾寺(現・大阪府箕面市)から入山し、光仁天皇の命によって本堂を建立して住職となった。これを機に神峯山寺は天台宗寺院となる。また光仁天皇の勅願所となって以降、神峯山寺は皇室に緊密な寺院となり、その関係は幕末まで続いていたとされる。
境内には開成皇子の埋髪塔(五重塔)や、光仁天皇の御分骨塔(十三重塔)があり、天皇と皇室を表す十六八重菊の使用が認められ、各所に菊の紋章が見られる。
●平安時代後期
平安時代後期に、天台宗僧侶であった良忍が開宗した融通念仏宗の源流が大原、鞍馬を通り神峯山寺へ伝わったとされ、神峯山寺秘密縁起4巻の冒頭にはその説話が残されている。
大治元年(1126年)の頃、摂津国に橘輔元という役人がおり、極めて裕福であったが七度の火災で家財がすべて失われ、輔元の父、子にわたる三代にわたって癪の病にかかるという苦しみを受けた。輔元は奥之院の毘沙門天の宝前でこの苦しみから救われるよう深く祈祷し、九頭龍滝に打たれるなど苦行を行ったとされている。そして輔元とその子息は、後に良恵、忍恵と名乗り、良忍の弟子となり神峯山寺の住職を継いだといわれる。
●鎌倉時代以降
神峯山寺本尊・毘沙門天が武将による信仰を厚く受けていたのは、鎌倉時代末期からであったとされている。楠木正成が奉納したと伝わる殿中刀は現在も神峯山寺本堂に所蔵されており、室町幕府三代将軍足利義満、摂津守護代三好長慶に仕えていた松永久秀や、豊臣秀頼の生母淀殿らによる寄進があった。これらは毘沙門天が戦いの神として崇拝されたことに起因するようだが、経緯は定かではない。
●江戸時代
上方文化が栄えた元禄年間(1688年 - 1704年)頃より、神峯山寺は大坂商人から厚い信仰を受け巡礼地として栄えた。これは毘沙門天が七福神の一神であったことから、商売繁盛を祈願するために商人達が淀川を上り、三島江から神峯山寺まで歩いて参拝したことが記録されている。江戸時代の代表的な豪商である鴻池善右衛門もまた巡拝者の一人であり、三島江から神峯山寺参道にかけて十数か所に石造の道標を建立した。
神峯山寺は江戸時代に隆盛期を迎えた。最盛期には七つの堂に加え伽藍および僧坊が21か所、寺領は1,300石あり、奈良県生駒郡平群町にも飛地が存在したことが神峯山寺秘密縁起に記録されている。しかし、明和2年(1765年)に火災により本堂を消失して以降、安永6年(1777年)に再建されたものの、規模は徐々に縮小し、現在に至っている。
しかし、昨今の調査で宝塔院(本坊)にて江戸幕府2代将軍徳川秀忠から14代徳川家茂までの位牌が発見されるなど、江戸末期においても徳川将軍家との密接な関係があったことが確認されている。
●幕末 - 明治
本堂にかかる「日本最初毘沙門天」の扁額は、伏見宮邦家親王の真筆であり、同時期には明治政府の要人であった有栖川宮熾仁親王が神峯山寺本坊の「宝塔院」と書いた真筆を奉納している。また有栖川宮熾仁親王の祖父母にあたる有栖川宮韶仁親王と宣子(のぶこ)女王の位牌は嶺峯院に祀られているなど、幕末から明治期にかけても皇族との関係が密接であったことを表している。
29.3)本尊
神峯山寺の本尊は3種の毘沙門天で構成されるという珍しい形態をとっており、それぞれ第一の本尊、第二の本尊、第三の本尊と称されている。いずれも秘仏だが、第二の本尊・兜跋毘沙門天のみ秋の大祭の折に開帳される。
●第一の本尊・毘沙門天
毘沙門天を中尊とし、吉祥天(毘沙門天の妃または妹とされる)と善膩師童子(ぜんにしどうじ。毘沙門天の子とされる)を脇侍とする三尊形式をとり、本堂内陣中央に安置される。皇室や幕府は国家安泰の神としてこの毘沙門天を厚く信仰した。また子授安産、家庭安穏の御仏としても利益があるとされる。
●第二の本尊・兜跋毘沙門天
本堂奥内陣に安置される。福徳先勝の神として楠木正成や松永久秀などの武将から、また商売繁盛の神として大坂商人からも厚い信仰を受けた。神峯山寺で年に一度行われる秋の大祭にて開帳され、その折にのみ拝観が可能である、
●第三の本尊・双身毘沙門天
歴代住職の持仏として本堂中内陣の厨子に安置される。天台密教における双身毘沙門天の祈願作法は秘法で、天台本流の作法が正式に伝承されている。
29.4)信仰
●毘沙門信仰
神峯山寺の毘沙門信仰は時代の変遷によって信奉者と祈願の内容が異なる点で興味深い。開山期は修験霊場の聖地に鎮座する神として祀られ、平安期以降は皇室より国家安泰の勅願所に指定された。また鎌倉末期からは福徳先勝を祈願する武将達の信仰の対象となり、江戸時代には大坂商人による商売繁盛祈願の巡礼地でもあった。国家安泰の祈願は幕末・明治においても続いていたとされる。また最近では福徳先勝より派生して合格祈願の祈願所として初参りに訪れる大学受験者も見られる。
●山岳信仰
役小角が開山した寺院であったことから、神峯山寺一帯は山岳信仰が色濃く残る場所であった。一帯の峯を総称する神峯山は龍のご神体として信仰され、境内にある九頭龍滝はその龍の口であると言い伝えられていることなどから、神仏混淆の寺院として天台宗寺院とは異なる側面を持つ場所であることが分かる。現在も修験道を志す修験者が寺領で修行をする光景が見られる。
●阿弥陀信仰
平安時代末期に融通念仏宗の源流が神峯山寺で伝播したことから、神峯山寺周辺は阿弥陀信仰が根付いた地域でもある。「病気平癒」などのご利益があるとされる阿弥陀如来(重要文化財)は現在も本堂に安置されており、融通念仏宗とも独自の交流がある。
30)千光寺(奈良県平群町) 真言宗醍醐派/元山上修験
千光寺(せんこうじ)は、奈良県生駒郡平群町にある真言宗醍醐派の寺院。山号は鳴川山。通称は元山上千光寺。ユースホステルの運営も行っている。
役行者がこの地に千手観音菩薩を安置し修行したのに始まるという。役行者霊跡第15番札所となっている。
千光寺観音堂(引用:Wikipedia)
●千光寺の縁起(引用:千光寺HP)
修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)は、舒明天皇6年(634年)元日、出雲の国の高賀茂問賀介麿(まかげまろ)と賀茂役氏の娘の白専女(しらとうめ)の子として、大和国葛木上郡茅原の郷に生まれました。幼少期の時より山に入り、修行を積み、修験道を開かれました。後に成人し、金剛葛城山において仏道修業に励まれました。
西暦660年頃、生駒明神に参拝の折にご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、将軍木(ウルシの木)で千手観音を刻んで安置しました。その後、天武天皇が国家鎮護を願って伽藍を建立し、「千光寺」と名付け、寺領500石を下し賜われました。
●「元山上」「女人山上」の由来(引用:千光寺HP)
日夜、荒行に励まれていた小角の身を案じた母・白専女は、従者と鳴川の里に登り、小角と共に修行しました。
ある日、小角が遠見ケ嶽に登り南の方を観ると、多くの山々の中に金色に輝く山を見て霊威を感じ、母・白専女を鳴川に残し、二匹の鬼を従えて此処より南へ二上山・葛木山・金剛山・友ケ島を経て熊野ヘ、熊野から大峯山の山頂である山上ケ嶽に登り、修行根本道場と定められました。
後世の人々は、役小角が大峯山を開く以前に修行したところから、「元の山上(もとのさんじょう)」と呼ぶようになりました。
一方、母・白専女は、小角が大峯山に行かれてからも鳴川の里に残り修行を続けられたとのことです。この伝えから、女人禁制の吉野大峯に対し女性の修行も受け入れたため、「女人山上」と呼ばれ、女人の修行道場として栄えました。
31)犬鳴山(大阪府)・七宝滝寺 - 真言宗犬鳴派/犬鳴山修験道
犬鳴山(いぬなきさん)は、大阪府泉佐野市大木犬鳴の犬鳴川渓谷を中心として、そこへ流れ込む燈明ヶ岳(標高558m、西ノ燈明ヶ岳ともいう)等の山域全体の総称。「犬鳴山」という名称の山があるわけではない。
31.1)犬鳴山
●概要
名勝地や金剛生駒紀泉国定公園の指定を受けるなど豊かな自然を持つ。七宝瀧寺参道としての犬鳴川を持ち、決して高い山域ではないにも関わらず、渓流沿いの山岳景観は「大阪府 緑の百選」にも選ばれ、地元民に深く愛されている。関西国際空港が開港してからは、空港からもっとも近い温泉「犬鳴山温泉」がある場所として名前が広がった。
山中には、七飛瀑(両界の滝、塔の滝、弁天の滝、布引の滝、古津喜の滝、千寿の滝、行者の滝)をはじめ大小48の滝がある。このうち行者の滝は滝に打たれる修験場として知られている。一般の一日体験も可能であり、女性でも参加できる。(有料、要予約)
なお「犬鳴山」の読み方についてであるが、地元では通常(いぬなきさん)と呼ぶ。これは次節で述べているように、「犬鳴」が寺院の山号に由来しているためである。そのため地元で「いぬなきさんに行く」と言えば、犬鳴川渓流沿いの参道を遡って七宝瀧寺へ行くことを指すのであって、決して山歩きに行こうと言っているわけではない。 これに対し、参道渓流入り口の温泉郷では(いぬなきやま)と読ませて「犬鳴山温泉」と称している。
●地名の由来
犬鳴山という名前は、七宝瀧寺の山号である「いぬなきさん」に由来したものである。
宇多天皇の御代、紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。
犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝滝寺の僧となって愛犬を供養した。 このことを聞いた天皇はいたく感動し、七宝滝寺に『以後「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜ったと伝えられている。(義犬伝説)
●葛城修験道の霊場
犬鳴山には真言宗犬鳴派の本山「七宝瀧寺/七宝滝寺」があり、役小角が661年、大峰山山上ヶ岳の6年前に開山したと伝わり、元山上と呼ばれている。古くは犬鳴山を含む金剛・和泉山系全体を「葛城」と呼び、その中でも犬鳴山は西の行場、東の行場を持つ葛城二十八宿修験道の根本道場となっている、日本の霊山のひとつである。
近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。
南北朝期に六坊が創建され、室町期には二十坊の坊舎を有し、本堂の修復も行われて隆盛を迎えた。しかし豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎を焼き払われ、田畑山林も没収され、一時は廃絶同然となった。のち岸和田城主より寺領五石の寄進を受け、ほぼ今日見られるまでに復興したものである[3]。
31.2)七宝瀧寺
七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)は、大阪府泉佐野市にある真言宗犬鳴派大本山。山号は犬鳴山(いぬなきさん)で犬鳴山の山中にある。本尊は倶利伽羅不動明王。2019年(令和元年)5月20日に認定された日本遺産『旅引付と二枚の絵図が伝えるまち-中世日根荘の風景-』の構成文化財のひとつ。「犬鳴山の溪谷」は「大阪みどりの百選」に選ばれている。
七宝瀧寺本堂(引用:Wikipedia)
●歴史
斉明天皇7年(661年)、役小角によって大峰山山上ヶ岳が開かれる6年前に開山したと伝わり、元山上と呼ばれている。古くは犬鳴山を含む和泉山系全体を「葛城」と呼び、その中でも犬鳴山は西の行場、東の行場を持つ葛城二十八宿修験道の根本道場である。
平安時代初期、大干ばつに見舞われた際に雨乞いを祈願して雨が降り、それを知った淳和天皇が「七宝瀧寺」と名付けたという。
南北朝時代の正平17年(1362年)、南朝方の橋本正高が志一上人を犬鳴山に招いて不動堂を建立して中興し、さらに塔頭14坊が創建された。当寺は室町時代には熊野信仰と葛城修験道の隆盛にしたがって20坊の坊舎を有するようになり、本堂の修復も行われて栄えた。
しかし、戦国時代になると織田信長に寺領を没収され、天正13年(1585年)には豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎が焼き払われ、一時は廃絶同然となった。だが、後に秀吉の寄進によって滝本坊が再建され、御供米として30石が寄進されている。
江戸時代には岸和田藩主岡部行隆より新田五反の寄進を受けるなどして、ほぼ今日見られるまでに復興した。近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。
明治時代になると廃仏毀釈で被害を受けた上に修験道が禁止され、当寺は著しく衰えた。が、明治時代後期には再興した。1950年(昭和25年)8月7日には真言宗犬鳴派を設立し、葛城修験道の根本道場として修験道総本部を設置した。
●行場
境内を流れる犬鳴川の北側には表行場、南側には裏行場がある。修験道の行場であり、相当に危険な箇所がある。
32)瀧安寺(大阪府) - 本山修験宗/本山派
瀧安寺(りゅうあんじ)は、大阪府箕面市箕面公園にある本山修験宗の寺院。山号は箕面山(みのおさん)。宝くじの起源である富籤(くじ)発祥の地とされている。お金ではなく、お守りを配る古式に則った富籤を2009年に復活させ、毎年10月10日に行っている。
瀧安寺(引用:Wikipedia)
●歴史
寺伝によれば658年(一説には650年)に役小角が箕面滝の下に堂を建設し、本尊の弁財天像を安置し、「箕面寺」と命名したのが始まりである。平安時代に後白河天皇が編纂したとされる『梁塵秘抄』に「聖のすみかは何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ」と歌われている。
後醍醐天皇が隠岐に島流しになった際には、護良親王が当寺に帰還祈祷を依頼したという。その後「瀧安寺」という寺号を賜ったとされる。その他にも、山岳霊場として栄え、空海や日蓮、蓮如が修行したほか、現在も護摩法要が行われている。
山門は光格天皇が1809年(文化6年)に京都御所から移築したものである。また、弁財天本堂は後水尾天皇の勅命により1656年(明暦2年)に建てられた。この弁財天は日本四弁財天に数えられる。通路側にある鳳凰閣は昭和時代初期の建築物である。
室町時代末期に織田信長によって焼失し、江戸時代になって後水尾天皇の援助によって現在地に再建された。また天正3年(1575年)に「富会」を挙行した。これを日本の宝くじ発祥とする見方もある。祈願の目的とした瀧安寺の「箕面富」の記録は後述のように、更に平安時代まで遡る。
弁財天を祀っている所から、芸能の寺としても知られ、近松門左衛門、坂田藤十郎ら上方歌舞伎関係者が大般若経を奉納している。
●富くじ
鎌倉時代編纂の『夫木和歌抄』に収録された藤原兼隆(平安時代中期の公卿)の歌に、瀧安寺で行われていた「箕面富」について記されている。これによると、約950年前より古くから富籤の原型があったことになる。金銭を配るのではなく、当籤した者は「大福御守」が授けられたという。
戦国時代の1575年(天正3年)には「富会」が始まり、江戸時代に刊行された『摂津名所図会』にも、箕面富の賑わいが描かれている。明治時代初期に中止となり、「万人講くじ」と名称・形を変えて、2009年に箕面富が復活した。
現在行われている宝くじの源流とされる江戸時代の富籤は、この箕面富が発祥と考えられている。寺社が修繕資金を集めるため番号が入った富札を発売し、同じ番号の木札を箱に入れて、期日に錐で突いて選び当籤者を決めた。
33)金剛山(大阪府・奈良県)・転法輪寺 - 真言宗醍醐派/葛城修験道
北方の大和葛城山より冬の金剛山を望む(引用:Wikipedia)
33.1)金剛山
金剛山は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある山。かつては高間山・高天山(たかまやま)や葛城嶺(かづらきのみね)といわれていた。金剛山地の主峰である。標高は1,125m。最高地点は葛木岳といい、御所市の葛木神社の本殿の裏にあるが、神域となっており立ち入ることはできないため、国見城跡の広場が山頂扱いされている。他に湧出岳1,112m、大日岳1,094mのピークがある。大阪府の最高地点(1,053m)がこの山の中腹にあり、その旨の標識が掲出されている。三角点は湧出岳に設置されている。
●「葛城山」の呼称
「葛城山」の呼称は、歴史的には南北に連なる金剛山と葛城山(大和葛城山)との総称として用いられた。その第一峰を高天山と称し(『大和名所図会』)、金剛山の別称は金剛砂を産出したことによる(『大和志料』)とも、また金剛山転法輪寺の山号にちなむともいわれる。
正嘉元年(1257年)の『私聚百因縁集』には「葛木山ハ即チ金剛山ナリ」とある。また貝原益軒の『南遊紀行』では現在の葛城山をさして「葛城(金剛山)の北にある大山をかい那が嶽といふ、河内にては篠峰と号す、篠峰を葛木といふはあやまりなり、葛城は金剛の峰なり」とある。また本居宣長の『菅笠日記』には「古は二つ(金剛山と葛城山)ながらを葛城山にてありけんを金剛山とは寺(金剛山転法輪寺)たててのちにぞつけられん」とみえる。
また貝原益軒の『和州巡覧記』では葛城山について「篠峰の南にあり。篠峰より猶高き大山也。是金剛山也。山上に葛城の神社あり。山上より一町西の方に金剛山の寺あり。転法輪寺と云。六坊有。山上は大和なり。寺は河内に属せり。婦人は此山による事をゆるさず……此山に登れば、大和、河内、摂津、其外諸国眼下に見ゆ」と記載されており、明らかに金剛山をさしている。
●役小角との関係
金剛山は修験道の開祖役小角(役行者)が修行した山として知られている。役行者は今から約1,300年前、16歳の時から、この山で修行し、全国各地の霊山へ駆け巡ったと伝えられる。山頂付近には役行者が開いたとされる転法輪寺(真言宗醍醐派、葛城修験道大本山)がある。近くには一言主を祭神とする葛木神社がある。
毎年7月7日の役行者の命日には一言主ノ神を祀る葛木神社と法起菩薩を本尊とする転法輪寺との珍しい神仏習合のれんげ祭りが行われている。
●楠木正成との関係
金剛山周辺には太平記の英雄楠木正成の城であった千早城、上赤坂城、下赤坂城の城跡や楠公誕生地など、正成ゆかりの史跡が点在している。楠木正成の菩提寺であった観心寺には、正成が少年期に学問を修めた記録が残っている。また古来より金剛山鎮守と称された、建水分神社は楠木氏の氏神であり、本殿(重要文化財)は正成が再建したもので、境内にある摂社の南木神社は正成を祀る最古の神社である。
33.2)転法輪寺(参考Webサイト:金剛山転法輪寺(公式サイト))
転法輪寺(てんぽうりんじ)は奈良県御所市高天にある真言宗醍醐派の大本山の寺院。葛城修験道の根本道場でもある。
転法輪寺(引用:Wikipedia)
●由来
修験道の開祖とされる役小角が16歳のとき金剛山に登って苦修練行を重ねた結果、天智天皇4年(665年)祖神一言主大神を鎮守とし、法起大菩薩を祀る金剛山寺(転法輪寺)を建立して神仏習合の霊山としたのが開創と伝承される。奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山の1つに数えられ、歴代天皇の勅願所として五堂七宇の殿堂輪煥の美を誇った。
行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録される。
鎌倉時代の末、楠木正成がわずか5百の兵で金剛山中腹に築いた山城(やまじろ)の千早城に戦陣を張って、鎌倉幕府が派遣した総勢5万といわれた関東の軍勢を寄せ付けなかったのは、金剛山寺(転法輪寺)の修験勢力の支援が大きかったと伝わる。
●神仏分離・廃仏毀釈
明治元年の神仏判然令(神仏分離)によって一言主大神を祭神とする葛木神社のみが残されて、廃仏毀釈によって金剛山寺(転法輪寺)は廃寺となった。
●昭和の再興
地元の金剛山講によって転法輪寺の復興が強力に要望され、日本国憲法による信仰の自由、神社庁を初め宗教学識経験者やマスコミ等の各界の意見を総合し、昭和25年(1950年)役行者1250年御遠忌を契機として金剛山古来の伝統、神仏混淆の旧態に復して、真言宗醍醐派に属する葛城修験道大本山として転法輪寺が再興された。金剛山講の協力を得て本堂は昭和36年(1961年)に落慶し再建された。
34)金峰山・大峰山(奈良県)・金峯山寺(吉野山)
- 金峯山修験本宗/大峯山寺(山上ヶ岳)
34.1)金峰山・大峰山
大天井ヶ岳から山上ヶ岳を望む 山上ヶ岳
(引用:Wikipedia)
金峰山(きんぷせん)とは、奈良県の大峰山脈のうち吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称である。金峯山とも表記し、「金の御岳」(かねのみたけ)」とも呼ばれる。吉野山の金峯山寺は修験道の中心地の一つであり、現在は金峯山修験本宗の総本山である。
大峰山(おおみねさん)は、奈良県の南部にある山。現在では広義には大峰山脈を、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ)を指す。歴史的には「大峰山」は、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々の呼び名であった。対して小篠から山上ヶ岳を含み尾根沿いに吉野川河岸までを金峰山という。
歴史的に使われてきた呼称及び修験道の信仰では、青根ヶ峰より南を「大峯」、以北を吉野としてきた。
この一帯は1936年(昭和11年)に吉野熊野国立公園に指定され、1980年(昭和55年)にはユネスコの生物圏保護区(ユネスコエコパーク)に登録(登録名:大台ケ原・大峯山・大杉谷)、さらに2004年(平成16年)7月、ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の文化的景観を示す主要な構成要素として、史跡「大峯山寺」「大峯奥駈道」ほかが登録された。女性の入山を禁止する女人禁制を採っている。
●概要
吉野から熊野に至る大峯奥駈道は、古来の自然信仰と渾然一体となった中国渡来の神仙思想や道教、仏教の修行のために、藤原京や平城京からこの地を訪れた僧侶(修験者)によって切り開かれたことに始まり、飛鳥時代の終わり頃の文部天皇の時期に役小角によって開山された。
大峯奥駈道(引用:三峰山岳会HP)
熊野修験が勢力を伸ばす中で長久年間(1040年 - 1044年)に修験者(義叡、長円)により熊野から吉野までの大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)が体系付けられた。山伏が大峯で修行することを「峯(みね)入り」「入峯(にゅうぶ)」と言い、熊野から吉野へ抜けることを「順峯」、吉野から熊野まで詣でることを「逆峯」と呼んでいる。室町時代以降、京都などに近い吉野から入山する逆峯が多くなった。大峯山と書く場合の「峯」は、「山久しくして平らかなり。」という意味を示している。
深田久弥の随筆『日本百名山』やそれを元にした各種一覧表では、大峰山 (1,915 m) とあるが、これは広義でいう大峰山の最高峰「八経ヶ岳」(八剣山)の標高である。『日本百名山』において深田久弥は山麓の吉野郡天川村洞川(どろがわ)から山上ヶ岳に登った。宿坊で泊まり翌朝山頂に立つとそこから南へと大峰山脈縦走路(大峯奥駈道)に入り大普賢岳、行者還岳を経て夕方に弥山(みせん)の山小屋に着き、翌朝に近畿の最高地点である八経ヶ岳の山頂に登った。縦走路はさらに南へ続くが大峰山最高峰到達に満足し山を下ったとされる。
大峰山の麓、天川村には日本三大弁財天の一つ(異説もあるが)で古い歴史を持つ天河大弁財天社があり、弥山の山頂にはその奥宮がある。
1984年(昭和59年)8月、大峰山寺の解体修理に伴う外陣回りの発掘調査で、山岳宗教史上の大発見として黄金仏2体が検出された。
●主な山岳
・山上ヶ岳
奈良県吉野郡天川村に位置する。標高1,719 mで日本三百名山。この一帯は古くから修験道の山として山伏の修行の場であった。道場としての大峯山は、単独の山を指す名前ではなく吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を意味している。
その中でも山上ヶ岳(旧名:金峯山)の頂上付近には修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂があり、山全体を聖域として現在でも女人禁制が維持されている。山上ヶ岳へ通じる登山道には、宗教上の理由により女人禁制である旨を伝える大きな門があり(女人結界門 )、1300年の伝統を守るための協力を依頼した看板が設置されている。しかし、1929年(昭和4年)には既に女性が登山していたとされ、一部では入れるようになったともいわれる。
1007年(寛弘4年)8月、藤原道長が大峯山の山頂である山上ヶ岳に、自筆の妙法蓮華経、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、弥勒上生下成仏経、般若心経など併せて十五巻を銅の筺に納めて埋経した。これに倣った貴族の大峯登拝と埋経が盛んになった。また、道長は1011年(寛弘8年)に御嶽精進をはじめるが、触穢(しょくえ)によって大峯山詣を中止した。道長の埋経は出土しており、大峯参詣の記録を含む日記『御堂関白記』も伝わっている。ちなみに藤原頼通、藤原師通も登山しており、師通は、日記『後二条師通記』に登拝の記録を残している。
山上ヶ岳の麓には門前町として洞川温泉の集落があり、参拝者のための旅館が立ち並んでいる。洞川から大峯大橋までは道路が整備されて、すぐそばの女人結界門から山頂まで参道が設けられているが、鎖場を登る長く険しい山道が続く。
・稲村ヶ岳(女人大峯)
奈良県吉野郡天川村に位置する。標高1,726 m.。大日山と稲村ヶ岳の2峰がある。山上辻に稲村ヶ岳の山小屋がある。亜高山植物に富む。山上ヶ岳では女人禁制が維持されているが、その隣に位置する稲村ヶ岳では、女性信者のための修行の場として1960年(昭和35年)より開放されており、「女人大峯」とも呼ばれる。
・八経ヶ岳
奈良県吉野郡天川村と上北山村の境界に位置する。標高1,915 m。八経ヶ岳(八剣山、または仏経ヶ岳)は近畿地方の最高峰で、トウヒやシラベの原生林に覆われている。また初夏にはシャクナゲやシロヤシオが咲き、7月初旬には国の天然記念物オオヤマレンゲが咲く花の山となる。
34.2)金峯山寺
本堂(蔵王堂、国宝)(引用:Wikipedia)
金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗(修験道)の本山。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来より桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは単独の峰の呼称ではなく、吉野山と、その南方二十数キロメートルの大峯山系に位置する山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称である。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、およびこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。
奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。
「吉野山」とは、1つの峰を指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名である。また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者を「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。
●役行者と蔵王権現
国土の7割を山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていた。なかでも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していた。こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角である。
役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で広く知られる役小角は、7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれ、大和国と河内国の境にある葛城山(現在の金剛山・葛城山)で修行し、様々な験力(超人的能力)を持っていたとされる伝説的人物である。奈良県西部から大阪府にかけての地域には金峯山寺以外にも役行者開創を伝える寺院が数多く存在する。
『続日本紀』の文武天皇3年(699年)の条には、役小角が伊豆国へ流罪になったという記述がある。このことから役小角が実在の人物であったことは分かるが、正史に残る役小角の事績としては『続日本紀』のこの記事が唯一のものであり、彼の超人的イメージは修験道や山岳信仰の発達と共に後世の人々によって形成されていったものである。
金峯山寺は役行者が創立した修験道の根本寺院とされているが、前述のように役行者自体が半ば伝説化された人物であるため、金峯山寺草創の正確な事情、時期、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳といわざるをえない。
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現という、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格である。金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて日本で独自に創造されたものと考えられる。
修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされている。
●歴史
〔平安時代〕
金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平6年(894年)、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。
「金剛蔵王菩薩」は両部曼荼羅のうちの胎蔵界曼荼羅に見える密教尊である。この頃から金峯山は山岳信仰に密教、末法思想、浄土信仰などが融合して信仰を集め、皇族、貴族などの参詣が相次いだ。金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇(昌泰3年(900年))、藤原道長(寛弘4年(1007年))、藤原師通(寛治2年(1088年))、白河上皇(寛治6年(1092年))などがいる。
このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している(奈良県吉野町金峯神社蔵、国宝)。金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営された。
〔中世 - 近世〕
修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の2つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)である。
一方の当山派は真言宗系で聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。
中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院を持ち、多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)を抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵を指す)にも劣らないといわれた。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにもこうした軍事的背景があった。
近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗(日光・輪王寺)の傘下に置かれることとなった。
〔近代〕
明治維新となり修験道信仰は多大な打撃をこうむった。1868年(明治元年)に発布された神仏分離令によって、長年全国各地で行われてきた神仏習合の信仰は廃止され、寺院は廃寺になるか、神社に変更し生き延びるほかなかった(吉野山でも僧坊の一つだった吉水院は吉水神社になっている)。
1872年(明治5年)には追い討ちをかけた形で修験道廃止令が発布され、1874年(明治7年)には金峯山寺自体も廃寺に追い込まれた。その後余りに過激化した太政官政府の宗教政策が沈静化したことや、僧侶・修験道者らの嘆願により、1886年(明治19年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が図られ、金峯山寺は寺院として復興存続が果たせた。ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され現在に至っている。
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に、天台宗から分派独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和27年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっている。
2004年(平成16年)に蔵王堂と仁王門が世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして登録された。
34.3)大峯山寺
大峯山寺(おおみねさんじ)は、奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院である。大峯山山上ヶ岳の山頂に建つ。平安時代初期から現在に至るまで女人禁制で、毎年5月3日に戸開式(とあけしき)、9月23日に戸閉式(とじめしき)が行われる。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。役行者霊蹟札所。
大峯山寺妙覚門(引用:Wikipedia)
●歴史
大峯山寺は、役小角(役行者神変大菩薩)を伝承的な開祖とする修験道の寺院で、大峯山系(大峰山脈)の中ほどに位置する山上ヶ岳(1719.2m)の山頂近くに本堂があり、蔵王権現像を祀っている。吉野山にある金峯山寺本堂(蔵王堂)を「山下(さんげ)の蔵王堂」と言うのに対し、大峯山寺本堂は「山上の蔵王堂」と呼ばれている。
山上と山下の蔵王堂は20数キロメートル離れており、現在では別個の寺院になっているが、両者は元来「金峯山寺」という一つの修験寺院の一部であり、現在のように吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とに分かれるのは近代以降のことである。
大峯山寺本堂の草創については定かでない。伝承によれば、7世紀末に修験道の祖である役小角が、金峯山で感得した蔵王権現を刻んで本尊とし、蔵王堂を建てたとされる。その後、天平年間に行基が大改築を行い、参詣困難な山頂の蔵王堂に代わって山下にも蔵王堂(吉野・金峯山寺)を建てたとする伝承もある。
平安時代初期には一時衰退した時期もあったが、9世紀末に真言宗の僧・聖宝(理源大師)によって再興され、10世紀以降、皇族・貴族の参詣が相次いだ。戦国時代には一向宗と争って山上の本堂などを焼失するが、江戸時代になって再建された。
●山内
大峯山寺本堂へは、吉野山からの尾根道もあるが、一般の参拝者は麓の天川村の洞川(どろがわ)から山上ヶ岳を登る。洞川からは徒歩約4時間。登山口の大峯大橋からでも片道約3時間の登山となる」母公堂を過ぎて大峯大橋の先にある「女人結界門」から先は、女人禁制の習慣が今でも守られ、女性の入山は禁止されている。
日本各地のかつて女人禁制とされていた他の仏教系の霊場は今日男女の区別なく公開されているが、大峯山寺は現在も女人禁制を守っている。1,300年来の伝統を守るべきだとする意見がある一方で、女人禁制は女性に対する差別であるとして反発する動きもある。
大峯大橋から大峯山寺本堂への登山道は整備され、途中にはいくつかの茶屋が設けられている。茶屋はすべて登山道を覆うように建てられており、必ず建物内を通過することになる。
その先には「油こぼし」「鐘掛岩」「西の覗き」などと称される鎖場の難所「表の行場」が続く。中でも「西の覗き」と称される行場は著名で、これは絶壁の縁から命綱をつけて身を乗り出し、仏の世界を垣間見ようとするものである。
難所にはすべて安全な迂回路が整備されている。「西の覗き」を過ぎると後述の護持院によって運営される5軒の宿坊が建ち並び、その先に本堂が建つ。本堂裏手には鎖もない断崖絶壁で命綱もつけずに修行をする「裏の行場」がある。西の覗きは先達(案内人)によって命綱が支持され、裏の行場は先達の案内なしでの立ち入りが禁止されている。
35)薬師寺(奈良県) - 南都修験
薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町にある法相宗大本山の寺院。南都七大寺の1つ。開基は天武天皇、本尊は薬師如来。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして、ユネスコより世界遺産に登録されている。
東塔(国宝、手前)と西塔(引用:Wikipedia)
●歴史
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
〔創建〕
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
〔平城京への移転〕
その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年(716年)の記載のある木簡が出土していることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。
平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。天禄4年の火災では金堂、東塔、西塔は焼け残ったが、講堂、僧坊、南大門などが焼けた。発掘調査の結果、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄4年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものとみられる。
〔移建・非移建論争〕
平城京の薬師寺にある東塔および本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在、東塔は平城京での新築とするのがほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。
発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。
金堂本尊薬師三尊像については、既述の「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)が行われた」との記述(『書紀』)を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。
〔金堂・西塔などの再建〕
20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代後期仮再建(従来は1600年再建説や1676年再建説などもあった)の金堂、講堂が建ち、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められてきた。1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔(1981年)、中門、回廊の一部、大講堂(2003年)などが次々と再建された。2017年5月には修行・食事に使われる食堂(じきどう)がほぼ完成し、復興事業は最終段階を迎えた。
●南都修験(引用:薬師寺HP)
南都修験道薬師寺修験咒師本部では、法相宗を日本に伝え各地を巡錫修行された道昭菩薩、吉野大峯の山々で修行された神変大菩薩 (役行者) を祖として教学の研鑽とともに山林での修行を重んじております。古来より南都の各寺院の修験道では吉野大峯の山々をはじめとした諸山霊場で抖藪修行(※)(とそうれんぎょう)していた歴史がありますが、薬師寺では近代にいたって「薬師寺修験咒師本部」を組織し、南都修験道の伝統を復興し継承しています。
現在は小豆島八十八ヶ所霊場への巡錫、大峯山への入峯修行、薬師寺および関係寺院での柴燈大護摩などを年間の主要な行事として厳修しており、多くの方々にご参加とご参拝をしていただいております。
また、修験道は在家の仏教でもあり、修験の道を志す方には先達の証を授けております。さらに、信心を重ねる者には講習会を実施して戒を授け、修験咒師本部の僧侶として人々を導く布教を行っております。
(※)抖藪:(仏語)① 衣食住に対する欲望をはらいのけ、身心を清浄にすること。また、その修行。とすう。② 雑念をはらって心を一つに集めること。(例:「いよいよ精神を―して」)(出典 小学館デジタル大辞泉について)
36)熊野三山(和歌山県) - 熊野修験・熊野本宮大社/熊野速玉大社/熊野那智大社
熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。熊野権現も参照のこと。
2004年7月に、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録された。
熊野三山 熊野那智大社(引用:Wikipedia)
36.1)熊野信仰
熊野の地名が最初に現れるのは『日本書紀』の神代記で、神産みの段の第五の一書に、伊弉冉尊が死んだとき熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)というところに葬られたという記述がある。国家が編纂した歴史書(『正史』)に熊野の名が登場するのは日本三代実録からである。
古来、修験道の修行の地とされた。延喜式神名帳には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社とあるが、熊野那智大社の記載が無いのは、那智は神社ではなく修行場と見なされていたからと考えられている。3社が興ってくると、3社のそれぞれの神が3社共通の祭神とされるようになり、また神仏習合により、熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来、熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音とされた。熊野の3神は熊野三所権現と呼ばれ、主祭神以外も含めて熊野十二所権現ともいう。
平安時代の中期(長久年間ごろ)に鎮源によって記された『大日本国法華経験記』には壱睿・義睿・明蓮・道命といった僧侶が熊野山中で法華経にまつわる不思議な経験をしたことが記されており古くから極楽往生を望む僧侶にとって熊野は霊場として理解されていた。
平安時代後期、浄土教の阿弥陀信仰が強まり、熊野の地は浄土と見なされるようになった。熊野は霊場であると同時に紀伊山地を挟んだ吉野とともに皇室の祖先神話ゆかりの地でもあったことも関心が持たれた理由と考えられる。藤原道長・師通が行った吉野の金峯山詣も場所こそ違えど熊野詣での先駆としてみなすことが出来る。
上皇の参詣の先例としては宇多院や花山院の例が知られるが、大規模な熊野詣の契機は永久4年(1116年)に白河院が行った2回目の熊野詣であった。白河院は寛治2年(1088年)に高野山を行幸し、寛治4年(1090年)には最初の熊野詣を、寛治6年(1092年)には金峯山詣を行い、永久4年の熊野詣以降、恒例行事として定着した。
高野山でも金峯山でもなく熊野が選ばれた最大の理由は熊野が霊場であるとともに神域としても整備されており、王権守護に対する期待と共に浄土信仰と記紀神話が融合された当時の神仏習合の流れに合致した土地であったからと考えられている。それ以降、院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれ、後白河院の参詣は34回に及んだ。
上皇の度重なる参詣に伴い、在地勢力として熊野別当家が形成され、熊野街道の発展と共に街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神が祀られた。鎌倉時代に入ると、熊野本宮大社で一遍上人が阿弥陀如来の化身であるとされた熊野権現から神託を得て、時宗を開いた。
熊野三山への参拝者は日本各地で修験者(先達)によって組織され、檀那あるいは道者として熊野三山に導かれ、三山各地で契約を結んだ御師に宿舎を提供され、祈祷を受けると共に山内を案内された。熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、念仏聖や比丘尼のように民衆に熊野信仰を広める者もあらわれた。
また観音の化身とされた牟須美神を祀る那智大社の那智浜からは観音が住むという補陀落を目指して、大勢の僧侶が小船で太平洋に旅立った。次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、俗に「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んになった。また、各社で発行される熊野牛王符(または牛王宝印(ごおうほういん)とも)は護符のほか、起請文(誓約書)の料紙として使われ、この牛王符に書いた誓約を破ると神罰を受けると信じられた。
熊野権現は日本全国に勧請され、各地に熊野神社が建てられた。中でも沖縄では、神社の殆どが熊野権現を祀っている。
ピークは過ぎたものの盛んであった熊野信仰も江戸時代後期の紀州藩による神仏分離政策で布教をしてきた聖や山伏、熊野比丘尼の活動を規制したため衰退し、明治の神仏分離令により衰退が決定的となった。
なお出雲の熊野大社(島根県松江市)には、この熊野三山の元津宮であるとの古伝がある。
沖縄の神社は熊野信仰が強い。 沖縄における主な神社琉球八社とは、波上宮、普天満宮、沖宮、識名宮、末吉宮、天久宮、金武宮、安里八幡宮 であるが、安里八幡宮以外は熊野権現を祀っている。
●文化財
・史跡「熊野三山」
熊野本宮大社(現社地および旧社地(大斎原))、熊野速玉大社境内(神倉神社および御船島を含む)、熊野那智大社境内、青岸渡寺境内、および補陀洛山寺境内は、国の史跡「熊野三山」である。当初、熊野三山は史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日)の一部であったが、2002年12月19日に分離および名称変更、熊野本宮大社現社地と熊野速玉大社境内の追加指定が行われた。
36.2)熊野権現
熊野権現(くまのごんげん、または熊野神〈くまののかみ〉、熊野大神〈くまののおおかみ〉とも)は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。熊野神は各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社ある。
●縁起
熊野権現とは熊野三山の祭神である神々をいい、特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)(スサノオ)・速玉(イザナギ)・牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記)(イザナミ)のみを指して熊野三所権現、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現ともいう。
熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(『扶桑略記』)、那智は孝昭天皇代に裸行が開基した(『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』)したとするが定かではない。
正史において、神名が確実に確認できるのは大同元年(806年)の史料中にある記述で、天平神護2年(766年)付で速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入したとあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑(くまのしんそん)に一緒に祀られていたと見られる。
9世紀中ごろになると、単に熊野坐神(くまのにますかみ)とだけ呼ばれ、神名が明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩と呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子が古くからの熊野神であるとの伝承が成立した(「熊野権現垂迹縁起」、『長寛勘文』所収))。
さらに、『中右記』天仁2年(1109年)10月26日条にはこれら3柱の神名のみならず、五所王子、一万眷属、十万金剛童子、勧請十五所、飛行夜叉、米持(めいじ)金剛童子の名が挙げられ、鳥羽院・待賢門院の参詣記(『長秋記』所収)長承3年2月1日条には『中右記』に挙げられていた十二所権現とその本地仏が挙げられており、この頃までに熊野三所権現および熊野十二所権現が確立していたことが分かる。
那智は本宮・速玉とは性格を異にし、古くは滝篭行の聖地として知られ、当初は結神を主祭神としていたが、鎌倉時代初期に成立した『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』には熊野十二所権現の祭祀に関する縁起譚が記されており、この頃までに本宮・速玉の祭神をもあわせ祀っていたことが分かる。以上のように、12世紀末までに三山が互いの祭神を祀りあうことにより、三山は一体化を遂げたのである。
●熊野権現
各神社の主祭神は以下の通りであるが、相互に祭神を勧請しあい、前述のように三山では三神を一緒に祀っている。
熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来、熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音とされる。
三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった。
熊野本宮大社・熊野速玉大社では十二柱の神が以下のように祀られている。
社殿 | 祭神 | 本地仏 | 神像 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
上四社 | 三所権現 | 両所権現 | 第一殿 | 西宮(結宮) | 伊邪那美尊・熊野牟須美大神・事解之男神 | 千手観音 | 女形 |
第二殿 | 中宮(早玉明神) | 伊邪那岐大神・速玉之男神 | 薬師如来 | 俗形 | |||
證証 | 第三殿 | 丞相(家津王子) | 素戔嗚尊・家津美御子大神 | 阿弥陀如来 | 法形 | ||
五所王子 | 第四殿 | 若宮 | 天照大神(若女一王子) | 十一面観音 | 女形 | ||
中四社 | 第五殿 | 禅児宮 | 天忍穂耳命 | 地蔵菩薩 | 法形(または俗形) | ||
第六殿 | 聖宮 | 瓊々杵尊命 | 龍樹菩薩 | 法形 | |||
第七殿 | 児宮 | 彦火々出見尊 | 如意輪観音 | 法形 | |||
第八殿 | 子守宮 | 鸕鶿草葺不合命 | 聖観音 | 女形 | |||
下四社 | 四所明神 | 第九殿 |
一万宮・ 十万宮 |
軻遇突智命・ | 文殊菩薩・普賢菩薩 | 俗形 | |
第十殿 | 米持金剛 | 埴山姫命 | 毘沙門天 | 俗形 | |||
第十一殿 | 飛行夜叉 | 彌都波能賣命 | 不動明王 | 夜叉形 | |||
第十二殿 | 勧請十五所 | 稚産霊命 | 釈迦如来 | 俗形 |
(引用:Wikipedia)
熊野那智大社では「瀧宮」(祭神 大己貴命(飛瀧権現)、本地仏 千手観音)を第一殿として、以下一殿ずつ繰り下げとなり、中四社・下四社の八神を第六殿(八社殿)に祀り、あわせて「十三所権現」となっている。
37)布引の滝(兵庫県)・旧摂津国瀧勝寺(現在は臨済宗天龍寺派大円山徳光院)
雄滝と滝壺(引用:Wikipedia)
37.1)布引之滝
布引の滝(ぬのびきのたき)は、神戸市中央区を流れる布引渓流(名水百選)にある4つの滝の総称。日本三大神滝のひとつ。日本三大名瀑にも選ばれることがある。布引滝とも表記する。名瀑として知られる古来の景勝地である。
かつて役小角が開いた滝勝寺の修験道行場として下界とは一線を画する地であったが、現在は渓流沿いおよび布引山(森林浴の森100選)一帯から滝を経て布引ハーブ園へと至る遊歩道が整備され、鉄道駅からも気軽に立ち寄ることができるようになっている。
六甲山の麓を流れる生田川の中流(布引渓流)に位置し、上流から順に、雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとだき)、鼓滝(つつみだき)、雌滝(めんたき)からなる。和歌山県那智勝浦町の那智滝、栃木県日光市の華厳滝とともに三大神滝とされ、日本の滝百選に選ばれている。
平安時代の歌物語『伊勢物語』や歴史物語『栄花物語』をはじめ、古くから宮廷貴族たちが和歌に詠むなど多くの紀行文や詩歌で紹介される文学作品の舞台となっている。 生田川下流流域には、布引の滝を詠んだ和歌にちなんで名付けられた地名がある。
・雄滝 - 高さ 43m、滝壺は面積430㎡、深さ6.6m、滝の横には5箇所の甌穴(最大のもので10畳大)があり、竜宮城に続いているという伝説がある。
・夫婦滝 - 高さ 9m/・鼓滝 - 高さ 8m/・雌滝 - 高さ 19m
37.2)滝勝寺
瀧勝寺(りゅうしょうじ)は文武天皇の御代、役行者が布引の瀧に入り修行中、馬頭観音が現れその霊感を得て創建したと伝える。元は滝寺村(現在の熊内八幡神社の北裏)に有った。かっての地は平清盛が福原に都を遷した際、葺屋庄内300戸を寺領として賜った。
1575年(天正7年)花隈城主荒木村重の謀反に拠る滝山城落城の兵火によって悉く焼失したが、その後復興したという。
江戸時代初めに著された『慶長国図』には山間に「滝上寺」と見え、1617年(元和7年)の『摂津一国御改帳』には「滝寺」と見える。いずれも石高55石余とあり、かっては広大な寺地に七堂伽藍と70有余の僧房や末寺があり、隆盛を極めていた。
887年(明治22年)火災に遭い堂宇が焼失、1920年(大正9年)現在地に移転している。現在地に移ってからも先の大戦で戦災に遭い、現在の堂宇はその後の再建である。
●第10話:「役の行者と布引のたき」(引用:神戸市HP-中央区ー区の紹介―かたりべ)
役の行者(引用:Wikipedia) 布引の滝(引用:神戸公式観光サイト)
今からおよそ千三百年も昔のことです。布引のたきに一人の修行者がやって来ました。里人の質問に、行者は答えて言いました。
「わしは、役の行者じゃ。これまで箕面のたきではげしい行をしておったが、それを終え、これからはこの布引のたきで、たきに打たれたり大ごまをたいたりして『ゆか大法』という一段ときびしい行をするつもりじゃ」役の行者が行を始めて二十一日目のことでした。
たきの落ちる谷間一帯に何とも言えないいい香りがただよい、ふしぎな光がさし始め、とつ然、たきの中から馬頭観音が姿を現わされました。
馬頭観音(引用:池田雅幸氏)
「行者よ、よくきびしい行にたえられた。まもなく、あなたは大きな力を得られるであろう」行者は少しの間、ボウッとしていました。が、ふと気がつくと、行者のまわりにいろいろなまものが現われてきて、しきりに行をさまたげたり、もっと楽なほかのことをするように行者をさそいかけたりしました。
しかし、行者の意思は強く、前よりはげしく一心にたきに打たれていました。するとやがてたきの水の中から、おそろしい顔かたちをした不動明王が現われて、行者の周囲に集まってきていたもののけを追いはらってくれました。時にはたきに住む弁天さまが現われて、行者を守ってくれました。
ついに修行を終えて、何でも自由自在になるふしぎな力を身につけた役の行者は、修行中に現われた馬頭観音や不動明王の像をきざんで、たきの東の谷にまつりました。これが滝勝寺の起こりだということです。
37.3)大円山徳光院(引用:徳光院HP)
※滝勝寺跡地に建立された寺院
●徳光院縁起
大圓山徳光院は、明治39年(1906年)の創建である。禅宗の一派、京都嵯峨野の臨済宗天龍寺派に所属し,夢想国師の法灯を掲げる。当時の管長高木龍淵禅師を請じて開山とした。
神戸に所縁のある川崎造船所(現川崎重工業)の創始者川崎正蔵翁が民衆教化の禅道場創立を発願して、境内530坪(1750平米)及び本堂,庫裡、山門、鐘楼などの伽藍を建立或いは移築して、一寄進を以って開基された。
その後、約50年間に亘って、川崎家代々の庇護のもと多宝塔、開山堂、弁天堂、茶室、納骨堂等々の建物を増やし、約4000坪(13,200平米)の境内地を擁する現在の輪奐が整えられた。
この地は、元の布引滝勝寺(通称滝寺)の跡地といわれる。同寺の縁起によると、滝寺は文武天皇初年(697年頃)、役の小角が布引の滝において修法し、馬頭観音を祀り創建した寺で、一時七道伽藍、七十有余の僧房、末寺を有し、頗る隆盛を極めたと伝えられる。
惜しいかな、天正七年(1575年)、花隈城主荒木村重謀反に依る滝山城落城の兵火によって、悉く焼失したのである。
布引山に隣接して、「寺ヶ谷」「教の尾」「口円光坊」「奥円光坊」等の地名があるのはその名残りであろう。滝寺は栄枯盛衰を経て、大正9年(1920年)市内熊内町に移り、今は真言宗の名刹として栄えている。
また、すぐ前の砂子山(通称円山)は、神功皇后、生田神社創祀の霊地として、約五百年後ここに鎮座せられたが、滝寺創建の頃(697年頃)、熊内郷に遷座、さらに百年後、延暦十八年(799年)、生田の森に遷座せらる云々と伝えられている。この砂子山山頂附近と寺の境内地から弥生時代の土器が出土し、現在神戸市立博物館に委託保存されている。
38)伽耶院(兵庫県)
伽耶院(がやいん)は兵庫県三木市にある天台系修験道の寺院。山号は大谷山(おおたにさん)。宗派は本山修験宗。本尊は毘沙門天。山伏の寺として知られる。
本堂と多宝塔(ともに重要文化財)(引用:Wikipedia)
寺伝では孝徳天皇の勅願寺として、大化元年(645年)に法道仙人が開基したとされる。以来大谿寺(だいけいじ)と称し、また東一坊(といちぼう)と称した。
法道仙人は天竺(インド)から雲に乗って日本に飛来したとされる伝説的な人物である。現在の兵庫県南部を中心に法道開基伝承をもつ寺院が点在することから、「天竺から飛来」云々はともかく、モデルとなる山岳修行者が存在したことは想定される。法道開基伝承をもつ他の寺院と同様、伽耶院についても草創の正確な時期や経緯については判然としない。
平安時代中期には数十の堂宇と百三十余の坊舎をもち、花山法皇の行幸があったと記されるなど隆盛を極めたが、安土桃山時代の羽柴秀吉の三木城攻めにおいて、当山に別所長治方の陣が置かれたことによる兵火により、また慶長14年(1609年)には失火により、城塞のような石垣を残して全山を焼失した。現存する堂塔は慶長15年(1610年)以降の諸国大名の寄進によるものである。
延宝9年(1681年)、後西上皇の勅により仏陀伽耶に因む寺号、伽耶院と改めた。
中世以降、聖護院末の修験寺院として勢力をもち、江戸時代には天台系山伏を統率する四院家のひとつとして修験界に威をふるった。現在も10月の体育の日には、各地から多数の山伏が参集し、近畿地方では最大の規模を誇る採燈大護摩が行われている。
39)雪彦山(兵庫県)
雪彦山(せっぴこさん)は、兵庫県姫路市にある山である。 弥彦山(新潟県)、英彦山(福岡県・大分県)と共に日本三彦山として知られる修験道の地。日本百景、ひょうごの森百選、兵庫50山、関西百名山、近畿百名山に選定されている。ロッククライミングの名所として知られている。
雪彦山(引用:Wikipedia)
●概要
雪彦山については複数の定義が存在する。旧夢前町(現在は姫路市に合併)は、雪彦山の定義として、「洞ケ岳」(811m)、「鉾立山」(950m)、「三辻山」(915m)の総称であると定義し、「洞ケ岳」山頂にもそのように表記していた。これに対して、国土地理院発行の2万5千分の1地図等では、三辻山を「雪彦山」として、二等三角点を置いている。また、登山案内の多くでは、「大天井岳」、「不行岳」、「三峰岳」、「地蔵岳」等の岩峰から構成される「洞ケ岳」の最高峰である「大天井岳」(標高811m)を雪彦山と看做している。さらに、古くは周辺の明神山、七種山と三山を総称して雪彦山と呼んでいた、という定義もある。
地質は、後期白亜紀の火山岩(デイサイト・流紋岩)である。南麓から夢前川及びその支流の菅生川が流れ出ている。
●歴史と信仰
修験道の行場として知られる雪彦山の南側にはこの信仰を支える、賀野神社が置かれている。神社は推古天皇代(592-628)に法道仙人によって開かれたとされ、雪彦山大権現、雪彦山金剛鎮護寺と呼ばれ、神仏習合の形式をとっていた。明治元年の廃仏毀釈により、金剛鎮護寺は廃寺となり、現在は基壇だけが残されている。賀野神社には、廃仏毀釈の年に建てられた入母屋造の本殿が残されており、姫路市の文化財に指定されている。
40)後山(兵庫県)・道仙寺
後山(うしろやま)は、兵庫県宍粟市と岡山県美作市にまたがる標高1344mの山である。兵庫県側からは板場見山(いたばみやま)とも呼ばれる。中国山地東部にあたり、氷ノ山後山那岐山国定公園の主要な一部をなす。兵庫50山、近畿百名山、中国百名山の一つ。三等三角点がある山頂部分は岡山県美作市側に位置する。
後山を南から望む、日名倉山から撮影(引用:Wikipedia)
40.1)概要
後山は岡山県と兵庫県の県境に位置し、岡山県においては最高峰だが、兵庫県では氷ノ山・三室山に続いて第3番目に過ぎない。後山を南東とし、船木山・鍋ヶ谷山・駒の尾山・ダルガ峰と次第に高度を下げながら北西に続く稜線を形成している。山頂からの展望は優れている。
後山は、「西大峯山」と呼ばれることもある、修験道の中心地として栄えた山の一つであり、今日でも美作市側にある道仙寺奥の院の周囲は女人禁制とされている。
後山そのものは役小角により開かれたと伝えられているが、道仙寺は建長年間(1249年 - 1255年)に僧徹雲法印によって開かれたとされており、実際の後山における修験道の発展は13世紀以降と見ることができる。今日でも50以上の行場が存在し、様々な形での修行が行われている。 9月7日と8日には、道仙寺の奥の院と護摩堂にて、紫燈大護摩法要が行われ、全国から1万人余りの修験者達が訪れる。
40.2)道仙寺(参考Webサイト:道仙寺公式サイト)
道仙寺(どうせんじ)は、岡山県美作市後山(うしろやま)にある真言宗醍醐派の寺院で、同派の準別格本山である。山号は延命山。本尊は地蔵菩薩。
役小角が開いたと伝える修験道の霊山後山を管理する本坊である。後山では行基・空海・宮本武蔵が修行したと伝えられている。
由緒書によれば、道仙寺は建長年間(1249 - 1255年)、僧徹雲が開いたもので、当時は今の奥の院の位置にあった。文禄年間(1592 - 1596年)頃に現在地に移っている。
41)諭鶴羽山(兵庫県)
諭鶴羽山(ゆづるはさん)は兵庫県の淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある標高607.9mの山である。諭鶴羽山地の最高峰であり淡路島の最高峰でもある。南あわじ市の神代浦壁・北阿万稲田南・灘惣川の境界に位置する。一等三角点設置。柏原山、先山とともに「淡路三山」の一峰。古名に譲葉山とも。
北西から望む諭鶴羽山(引用:Wikipedia)
41.1)諭鶴羽山
山名はユズリハが多く見られることから、また、この山に群落をなす照葉樹が春から夏にかけて葉を更新して(若葉に譲って)いく様から名付けられたとされる。
紀伊水道に浮かぶ沼島との間を通る中央構造線の北側にあたり、堆積岩である白亜紀の和泉層群の砂岩・礫岩などで成り立っている。 南斜面は断層崖となっているため急傾斜で海岸線まで落ち込んでいる。 これに対して東西の尾根は起伏が少なく穏やかに伸びている。
瀬戸内海式気候に含まれる諭鶴羽山一帯は温暖で冬季に雨が少なく 、北側山麓には灌漑用の諭鶴羽ダム・牛内ダム・大日川ダムがある。
41.2)諭鶴羽神社(参考Webサイト:諭鶴羽神社公式サイト)
諭鶴羽神社(引用:Wikipedia)
山頂の南側約400mに鎮座する諭鶴羽神社は創建が開化天皇の治世と伝えられる古社である。祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命。三角点のある山頂は諭鶴羽神社の御旅所で、毎年4月第2土曜日に行われる春の例大祭には神輿が上がる。
自然崇拝に始まったとみられる諭鶴羽参りは平安時代になると修験道の一大道場として隆盛を誇った。長寛元年(1163年)に書かれた『長寛勘文』の「熊野権現御垂迹縁起伝」によると、熊野神は英彦山から石鎚山、諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡られたとされる。
一帯に28宇の伽藍が建ち並び、熊野権現元宮・熊野本宮と称えられて京の都にまでその名が聞こえた。『枕草子』にも「峰は ゆずるはの峰 あみだの峰 いや高の峰」とある。
しかし康正2年(1456年)に戦乱で全山が焼失。天文年間に美作藩主の助力で18宇を再建したが、天文18年(1549年)6月9日に石川紀伊守の乱で再び焼失。再興の望みがないため資料を後世へ伝えるべく天文21年、美作の乗蔵らが各社堂・神仏を碑石に刻んで残した。これらの碑石が奥宮・十二所神社に安置されている。
その後、承応年間(1652年から1654年)に徳島藩主の蜂須賀氏により本殿、拝殿などが再建されたが、明治初年の神仏分離令によって衰退した。
参道である諭鶴羽古道は、表参道が一の鳥居のある灘黒岩から18町。裏参道が神代浦壁・賀集牛内から30町。1町毎に町目地蔵が安置されている。また古道から発掘された町石は建武元年(1334年)銘で、在銘町石として県下最古のものである。また社叢林の原生林には前述のアカガシの他にタブノキの群落も見られる。
(引用:「日本の霊山読み解き事典」西海賢二・時枝 務・久野俊彦著/柏書房)
〇中国・四国の霊山(参考)
●石鎚山〔愛媛県〕●大山〔鳥取県〕●三徳山〔鳥取県〕●厳島弥山〔広島県〕●剣山〔徳島県〕
●象頭山〔香川県〕●横倉山〔高知県〕●船上山〔鳥取県〕●三瓶山〔島根県〕●焼火山〔島根県〕
●後山〔兵庫県・岡山県〕●金峰山〔山口県〕●大滝山〔香川県・徳島県〕●篠山〔愛媛県・高知県〕
42)五流尊瀧院 43)伯耆大山 44)石鎚山 45)剣山
(引用:Wikipedia)
42)五流尊瀧院(岡山県) - 五流修験
五流尊瀧院(ごりゅう そんりゅういん)は岡山県倉敷市林に所在する修験道の寺院。本尊は十一面観音。天台修験系の一宗派である「修験道」の総本山である。
本殿(引用:Wikipedia)
修験道の祖と言われる役小角(役行者)は文武天皇3年(699年)朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀)。役行者について正史が伝えることは以上であるが、伝承によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の熊野神社の地に紀州熊野本宮を遷座し、5人の高弟それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。
奈良時代に入ると皇室の熊野崇敬と相まって天皇の崇敬を受け、天平12年(740年)聖武天皇が児島一円を社領として寄進した。天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、付近の木見に諸興寺と新宮を、山村に由伽寺と那智宮(現・蓮台寺、由加神社)を建て新熊野三山とした。
熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。
承久3年(1221年)承久の乱が勃発し、三井寺長吏であった後鳥羽上皇の皇子・覚仁親王が難を逃れてこの地に下った。更に、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。頼仁親王は衰退していた五流の寺院と十二社権現宮を再興し、南北朝の頃まで繁栄し次第に衰微し尊瀧院のみが残った。なお、現在まで続いている当院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫と伝えられる。南北朝時代に後醍醐天皇を奪還しようと試みた児島高徳はこの地の出身と伝えられ、境内には児島高徳社が祀られている。
現在の五流尊瀧院は倉敷市立郷内小学校北に隣接しているが、元来は400mほど北の真浄院北側にあり熊野神社と隣接していたと伝えられている。現在も三重塔、鐘楼などは熊野神社境内に接して建つ。
室町時代になり応仁の乱が勃発すると、この地も戦乱に巻き込まれた。応仁3年(1469年)には細川勝元方に加担した覚王院の円海を中心とした兵により新熊野は焼き討ちにあい、ほぼ全焼した。
明治時代になると神仏分離令により、十二社権現は熊野神社となり五流尊瀧院と分離した。明治5年(1872年)修験道の廃止に伴い天台宗寺門派に属する。太平洋戦争終結後、天台宗より独立し、修験道総本山となる。
平成15年(2003年)9月、明和5年(1768年)建造の修験者の寄宿所である長床(熊野神社拝殿)を失火により全焼。平成19年(2007年)10月に再建した。
明治11年(1878年)に暗殺された大久保利通が襲撃された際に乗っていた馬車が、大久保家により永代供養のため奉納されている。なおこの馬車は本殿と棟続きの五流会館に安置されている。
43)伯耆大山(鳥取県)・大山寺
大山(だいせん)は、日本の鳥取県にある標高1,729mの山。成層火山であるが、活火山としては扱われていない。鳥取県および中国地方の最高峰でもある。角盤山(かくばんざん)とも呼ばれるほか、鳥取県西部の旧国名が伯耆国であったことから伯耆大山(ほうきだいせん)、あるいはその山容から郷土富士として伯耆富士や出雲富士とも呼ばれる。日本百名山や日本百景にも選定され、鳥取県のシンボルの一つとされている。
西方より望む(引用:Wikipedia)
大山は中国山地の連なりからやや北に離れた位置にある独立峰の火山で、その裾野は日本海に達しており主峰の剣ヶ峰や三鈷峰、烏ヶ山や船上山などの峰を持つ。山体は東西約35km、南北約30km、総体積約120km3。日本列島におけるデイサイト質火山の中でも最大級の規模である。
広義には南東側に連なる擬宝珠山・蒜山(上蒜山、中蒜山、下蒜山)・皆ヶ山などの蒜山火山群も大山火山の一部とされることが多いが、活動場の変遷からみて蒜山火山群を大山火山と区別する場合もある。
最高点は剣ヶ峰であるが、剣ヶ峰に至る縦走路が通行禁止とされていることや古くから第二峰の弥山(みせん 1,709m)で祭事が行われたことから、一般には弥山を頂上としている。
一帯は大山隠岐国立公園に指定されており、標高800mから1,300mは西日本最大のブナ林に覆われ、その上部には亜高山針葉樹林帯がなく低木林や草原の高山帯になっている。山頂付近に見られるダイセンキャラボクの純林は国の特別天然記念物に指定されている。
周辺の地域では古来からの大山信仰が根強い。現存する最古の記述は『出雲国風土記』の国引き神話で、三瓶山と同様に縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとある。『出雲国風土記』では「火神岳」(ほのかみだけ)または「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代の養老年間に山岳信仰の山として開かれたとされる。北西の山腹には大神山神社奥宮や大山寺阿弥陀堂があり、明治の廃仏毀釈まで大山寺の寺領とされ、一般人の登山は禁止されていた。
43.2)大神山神社
大神山神社(おおがみやまじんじゃ)は、鳥取県にある神社である。式内社、伯耆国二宮で、旧社格は国幣小社。伯耆大山山麓(米子市)の本社と山腹(西伯郡大山町)の奥宮とがある。
奥宮本社(国の重要文化財)(引用:Wikipedia)
●祭神
大穴牟遅神 - 本社/大己貴命 - 奥宮・・・どちらも大国主神の別名である。
●歴史
当社の奥宮は、大山に登った修験者が、海抜900mほどの場所に簡易な遥拝所を設置したのが起源とされている。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていたが、積雪により祭事に支障が生じるため、麓に冬宮を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになった。これにより、現在の「奥宮」は「夏宮」と呼ばれるようになった。
大山は神体山として、大己貴命が鎮まるとされたが、神仏習合が広まると、当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになった。その後、三院にして百八十坊の規模となり、三千人の僧兵を擁するようになった。
『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。
明治8年(1875年)、神仏分離によって大山寺を廃し(大山寺は後に再興)、冬宮を本社とし、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、奥宮とした。
43.3)大山寺
大山寺(だいせんじ)は鳥取県西伯郡大山町(大山隠岐国立公園内)伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺。中国三十三観音第二十九番。山号は角磐山。本尊は地蔵菩薩。
本堂(引用:Wikipedia)
大山寺は奈良時代に成立した山岳信仰の霊場であり、養老2年(718年)に俊方(金蓮上人)によって開かれたとされる。『選集抄』や『大山寺縁起』によると、俊方はある日大山で鹿を弓で射たが、その対象が鹿ではなく地蔵尊だったと知った。俊方は殺生は罪深いことだったと悟り、出家して「金蓮」を名乗り、草庵をむすび地蔵菩薩を祀った。この草庵が大山寺の起源とされる。なお、この「起源」の説話が影響しているのか、現在でも、大山には石造りの地蔵が多数みられる。
平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の一大拠点となった。寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となった。
古くから信仰の道である大山道が岡山県岡山市から南北に整備され、途中出雲街道とも交差することもあって、信仰だけでなく、商業交通の面でも発展した。
中世には尼子氏・毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、盛んに寄進や造営がなされた。江戸時代に入ると一時、中村一忠によって寺領の一部が没収されたが慶長15年(1610年)、西楽院の僧正豪円が幕府に働きかけたことにより大山寺領3000石が安堵された。
明治8年(1875年)廃仏毀釈により大山寺の号が廃された。大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿を大神山神社に引き渡した。これにより大山寺は急激に衰退した。明治36年(1903年)に大山寺の号が復活した。昭和3年(1928年)には4度の火災に見舞われた。
開祖である長谷川俊方(金蓮上人)の後裔が玉造温泉で松江藩から湯之介と呼ばれる温泉を管理する役職も設けられていた長谷川家で俳優の長谷川博己もそれにあたる。
44)石鎚山(愛媛県)・石鎚本教総本宮石鎚神社
44.1)石鎚山
石鎚山(いしづちさん、いしづちやま)は、四国山地西部に位置する標高1,982 mの山で、近畿以西を「西日本」とした場合の西日本最高峰である。愛媛県西条市と久万高原町の境界に位置する。石鉄山、石鈇山、石土山、石槌山あるいは伊予の高嶺などとも表記される。『日本霊異記』には「石槌山」と記され、延喜式の神名帳(延喜式神名帳)では「石鉄神社」と記されている。前神寺および横峰寺では「石鈇山(しゃくまざん)」とも呼ぶ。
霊峰石鎚山(引用:Wikipedia)
石鎚山は、山岳信仰(修験道)の山として知られる。日本百名山、日本百景の1つであり、日本七霊山のひとつとされ、霊峰石鎚山とも呼ばれる。石鎚山脈の中心的な山であり、石鎚国定公園に1955年11月1日指定されている。
正確には、最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高1,982 m)・石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974 m)・南尖峰(なんせんぽう、標高1,982 m)の一連の総体山を石鎚山と呼ぶ。
●山岳信仰
石鎚山は古くから山岳信仰の山とされ奈良時代には修行道場として知れ渡った。役小角や空海も修行したとされ山岳仏教や修験道が発達し、信仰の拠点として石鎚神社、前神寺、極楽寺、横峰寺がある。(石鎚神社中宮成就社のある成就は明治初期の神仏分離以前は常住と呼ばれていた。)
弥山の石鎚神社山頂社(引用:Wikipedia)
古代の石鎚山は笹ヶ峰、瓶ヶ森および子持権現山が石鈇信仰の中心であったとする説、あるいは現在の石鎚山と笹ヶ峰の東西2つの霊域を想定する説がある。(新居浜市の正法寺では奈良時代の石鎚山が笹ヶ峰を指していたことに基づき、現在でも石鎚権現の別当として毎年7月に笹ヶ峰お山開き登拝が行われている。)
開山の伝承として、657年に役の行者とその供をした法仙が龍王山(瓶ヶ森の中腹標高840 m辺り)で修行のすえ石土蔵王権現を感得したという。そして、そのすぐ下の広い場所に天河寺を開創する。737年に石土蔵王権現はさらに高い瓶ヶ森の絶頂に祀られ宮とこと呼ばれ、753年には芳元が熊野権現を勧請した。その山は石土山と云われていて、天河寺はその別当として栄えた。
一方、現在の石鎚山となる山は石撮峰と呼ばれ、法安寺(愛媛県西条市小松、飛鳥時代創建)の住職である石仙(灼然)により横峰寺が開かれ、さらに当山中腹の常住に前神寺の前身となる堂が造られた。その後、黒川谷で修業をした上仙菩薩(伊予国神野郡出身)が石鎚蔵王大権現を称え、登山道を山頂へと開く。そして、828年には、瓶ヶ森より石土山を現在の石鎚山へ光定(伊予国風早郡出身)により移され、石鈇山と呼ばれるようになる。
平安時代前半には神仏習合が行われたとされ、山岳信仰特有の金剛蔵王権現および子持権現が祀られた。そして、桓武天皇(782年〜805年)が自身の病気平癒祈願と平安京奉謝などの成就をしたことにより、国司に命じ常住に七堂伽藍を建て勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜された。天正年間には河野通直、村上通聴が社領、1610年(慶長15年)には豊臣秀頼が社殿を前神寺に寄進した。寛文年間には小松藩主一柳氏、西条藩主松平氏の帰依により社殿が整備された。
江戸時代初期には信者の増加に伴い、前神寺は麓に出張所を設置してからは常住の本寺を奥前神寺、麓の出張所を里前神寺と呼ぶようになった。その後、本寺機能は里に移っていった。そして、別当職や奥前神寺の地所をめぐって西条藩領の前神寺と小松藩領の横峰寺との間に紛争が起こった。古来、石鈇山蔵王権現別当は前神寺が専称していたのに対し、1729年(享保14年)に横峰寺が「石鈇山蔵王権現別當横峰寺」の印形を使用したのが発端であるとされ、双方が京都の御所に出訴するに至った。そこで、地所は小松藩領の千足山村、管理権と「石鈇山蔵王権現別當」の専称は前神寺とし、奥前神寺は常住社と名称変更され、横峰寺は「佛光山石鈇社別當」と称するとの裁決が下された。
1871年(明治4年)の神仏分離により、石鈇蔵王権現は石土毘古命となり前神寺の寺地は全て石鉄神社に、前神寺は廃寺に、横峰寺は横峰社となった。両寺はその後すぐに復興し真言宗に所属することとなった。1902年(明治35年)に石鉄神社から石鎚神社に変更が決定され、石鎚毘古命(石鎚大神)、石鎚山となる。そして明治時代中期以降は石鎚神社、前神寺、横峰寺はさらに多くの信者を集めるに至った。
毎年、7月1日から10日までの間に「お山開き」の神事が執り行われ、多くの信者が参拝登山に訪れる。古くからお山開きの期間中は女人禁制とされてきたが、現在では7月1日だけが女人禁制となった。当日は女性は成就社まで、また土小屋遥拝殿までで山頂まで登る事が出来ない。
44.2)石鎚神社
石鎚神社(いしづちじんじゃ)は、愛媛県西条市にある神社。西日本最高峰石鎚山を神体山とする神社で、山麓に鎮座する本社(口之宮)、山腹の成就社(中宮)と土小屋遙拝殿、山頂の頂上社の4社の総称である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。石鎚山総本宮と称し、宗教法人・石鎚本教の総本宮でもある。神紋は丸に石の字。
石鎚神社本社(口之宮)(引用:Wikipedia)
●祭神
石鎚毘古命(いしづちひこのみこと・古事記では石土毘古、石鎚大神とも称する)
・石鎚大神は、伊邪那岐命と伊邪那美命の第二子で、天照皇大神の兄に当たるとされている。
・祭神は一神だが、神徳を仁智勇の玉持ち神像(和魂 にぎみたま)、鏡持ち神像(奇魂 くしみたま)、剣持ち神像(荒魂 あらみたま)の三体の神像に現す。
・祈願の作法:二拝→二拍手→心中祈願→二拍手→二拝
・玉串拝礼の作法:玉串を持ち心中祈念→玉串を神前に供える→二拝→二拍手→一拝
●由緒
石鎚山は古くから日本七霊山の一つとして名高く、日本霊異記には「石鎚山の名は石槌の神が坐すによる」とある。 伝説で紀元前63年のこと崇神天皇第35年石鎚の峯に神を勧請す(長寛勘文による)とある。
また、685年に役小角(神変大菩薩)が開山、引き続き、寂仙法師(上仙とも呼ばれていて石仙の弟子)が開山したと伝えられる。その後、空海自作の『三教指帰』に「或ときには石峯に跨りて」と記されていることから空海も修行したことは異論のないところである。
さらに伊予国風早郡の出身の光定といった高僧たちも修行した。以来、石鈇山蔵王権現と称され、神仏習合・修験の道場として繁栄した。
また、朝廷・武家の崇敬極めて篤く、桓武天皇の勅願によって建立された石鈇山常住社には、文徳天皇・高倉天皇・崇徳天皇・後醍醐天皇など歴代天皇が納めた仏像や経巻が伝わる。1342年(興国3年)には後村上天皇が朝敵退散を祈願するために勅使を遣わしている。武家では河野氏が篤く崇敬し、そして西条藩主・小松藩主も厚く遇した。
近世の歴史として、石鈇山常住社に1591年(天正19年)伊予の領主となった福島正則が参籠し、1610年(慶長15年)豊臣秀頼が石鈇山常住社の神殿を修築し、福島正則がその普請奉行となる。
1657年(明暦3年)には、石鈇山社(麓の西田)に西条藩主一柳直興が仏殿を建立し、1670年(寛文10年)西条藩祖の松平頼純は石鈇山社に高三石を寄附する。1728年(享保13年)徳川吉宗の命を受け採薬師植村佐平次が石鈇山に登頂する。1752年(宝暦2年)には徳川家重が1778年(安永7年)には徳川家治が、石鈇山社に厄除け祈祷を命じたと記録がある。
明治に入って、1869年(明治2年)に神仏分離につき取調が始まり、翌年には石鈇権現号が廃止、さらに翌年の1871年(明治4年)4月5日に石鉄神社(祭神石土毘古命)となり、同年7月4日には県社に列格された。
その際中、1872年(明治5年)に本殿と庫裡は焼失し、寺方は塔頭の医王院(現在の前神寺の場所)へ転出する。そして、前神寺の境内は当社となり、現在の祖霊殿を本殿とし、石鈇山常住社は当社の成就社となり、横峰寺は西の遙拝所とされた。
その後、1875年(明治8年)前神寺と横峰寺に廃寺通告が来る。社名は1902年(明治35年)3月8日に石鉄神社から石鎚神社に変更が決定される。しかし、発足当初の当社は神社としての態勢が不十分で、神仏分離の混乱のため信者が減少し、長らく不振の時代が続いたが、1912年(明治45年)第10代社司に就いた越智勝丸により各地に崇敬講を組織し、財政の再建や社殿の修復・新築に尽力し現在の当社の基礎を築き発展していった。なお、前神寺と横峰寺はその後復興されている。
戦後は1946年(昭和21年)5月10日「石鎚教教派総本社」を設立し、1949年(昭和24年)宗教法人「石鎚本教」に改称、神社本庁に属して、別表神社に加列、神仏習合の伝統に基づく教化活動を行なっている。
成就社の災難の歴史として、1889年(明治22年)4月10日午前5時行者の参籠通夜中の失火により全焼し社殿・宝物が消失。1893年(明治26年)成就社本殿再建、1900年(明治33年)成就社社殿再建竣工する。また、1980年(昭和55年)11月13日に大火に見舞われ、周辺の旅館と共に全焼した。山上で消火用水も少なく消防車も駆けつけることが出来なかったことが被害を大きくした。しかし2年後の6月には早くも周辺旅館と合わせて復興した。
45)剣山(徳島県)
剣山(つるぎさん)は徳島県三好市東祖谷、美馬市木屋平、那賀郡那賀町木沢の間に位置する標高1,955mの山で、徳島県の最高峰である。日本百名山の一つに選定され、徳島県では県のシンボルとされている。別名太郎笈(たろうぎゅう)と呼ばれ、南西側の次郎笈と対峙する。
次郎笈から山頂を望む(引用:Wikipedia)
45.1)剣山
●概要
剣山は千数百メートルの山々が連なる四国山地の東部にあり、同じく四国山地西部の石鎚山に次いで、近畿以西の西日本では2番目の高峰である。一帯は剣山国定公園に指定され、山頂には一等三角点「剣山」が設置されている。
修験道の山として古くから知られ山岳信仰の対象とされ、一ノ森経由の表参道の登山拠点には龍光寺・剣山本宮剣神社、見ノ越には剣神社と円福寺、中腹には西島神社と剣神社の本社である大剣神社(おおつるぎじんじゃ)、山頂には剣山本宮宝蔵石神社などがあり、山頂近くには「行場」(後述)と呼ばれる修行用の難所や祠がある。
山名の由来は安徳天皇ゆかりの剣にちなむ説と、頂上直下にある大剣神社の大剣岩が由来とする説とがある。正しくは「つるぎさん」と読むが、徳島県を中心に「けんざん」と呼ぶ人が多く、呼び名についての論争があった。1963年、徳島県は「つるぎさん」として統一することを決め、剣山の近隣自治体の名前は「つるぎ町」であるなど、公式には「つるぎ」で統一された。
先述の日本百名山に選ばれているほか、とくしま88景(徳島県観光協会と徳島新聞社による)の徳島県の代表景観9選に「剣山系」として選ばれている。また、山頂付近の剣山御神水は環境省により名水百選に選定されているほか、山麓の森林は林野庁により剣山水源の森として水源の森百選に選定されている。
●行場
刀掛ノ松より左へ380m約10分行くと行場にさしかかり、岩場である鶴ノ舞・蟻ノ塔・迫割石・鎖行場、洞窟である不動岩屋、プレハブ小屋である両剣神社、プレハブ小屋から祠になった古剣神社、三十五社の祠などがある。
45.2)劔神社
劔神社は、徳島県三好市の剣山の見ノ越に鎮座する神社で標高1420m辺りにある。本社の大劔神社は標高1810m辺りにある。
創建年は不詳。祖谷山開拓の際に大山祗命を鎮祀して祖谷山の総鎮守とした。かつては大劔権現と称されていたが、明治初年に劔神社と改称、明治3年に崇敬大社に列せられ、1873年(明治6年)に郷社となる。
毎年4月29日には剣山の「お山開き」が行われ、神事や餅投げ等が行われる。
本社は剣山中腹に鎮座する大劔神社で、巨大な岩石である 御塔石(おとうせき)が御神体となっており、名水百選に選ばれた祖谷川源流の剣山御神水(つるぎさん おしきみず)がある。
●祭神
安徳天皇/大山祗命/素盞嗚命
●由緒(引用:劒神社HP)
創立年代は不詳である。祖谷山開拓の折に大山祗命を鎮祀して祖谷山の総鎮守とした。
寿永4年(1185)、源氏との戦に敗れた平家の一門が安徳天皇を奉じて祖谷の地にのがれ来たり、平家再興の祈願のため安徳天皇の「深そぎの御毛」と「紐劔」を大山祗命の御社に奉納。以来劔山と呼ばれ、神社も劔神社と称されるようになった。
一時大劔権現と称されていたが、明治初年劔神社と改称し、明治3年崇敬大社に列せられ明治6年郷社になる。
『阿波志』(藤原之憲著 文化12年[1815]に、阿波藩の藩撰の地誌として記されたもの)に「劔祠 在祖山菅生名剣山上去名二里餘頂有石屹立髙三丈土人以神…謁以名曰劍…」とあり、すなわち劔の祠は祖谷の菅生から二里のところに剣山とい(引用:Wikipedia)う山の上にある。そして頂に高さ三丈の岩(今の御塔石)があり土人これを以て神と為す。…その形の似たるを以て劔と曰う…とある。
劔山系には586社の社があり(西島神社・八劔神社・古劔神社・両劔神社・宝蔵石神社・三劔神社など)その総本社が大劔神社である。ご信仰としては、縁結びと安産の信仰がつよい。
(引用:「日本の霊山読み解き事典」西海賢二・時枝 務・久野俊彦著/柏書房)
〇九州・沖縄の霊山(参考)
●英彦山〔福岡県・大分県〕●宝満山〔福岡県〕●求菩提山〔福岡県〕●六郷満山〔大分県〕
●霧島山〔宮崎県・鹿児島県〕●背振山〔福岡県・佐賀県〕●雲仙岳〔長崎県〕●阿蘇山〔熊本県〕
●檜原山〔大分県〕●行人岳〔熊本県〕●開聞岳〔鹿児島県〕●硫黄岳〔鹿児島県〕
●紫尾山〔鹿児島県〕●冠岳〔鹿児島県〕●屋久島の山〔鹿児島県〕●御嶽〔沖縄県・鹿児島県〕
●牛尾山〔佐賀県〕●九重山〔大分県〕●鶴見岳〔大分県〕●高千穂〔宮崎県〕●尾鈴山〔宮崎県〕
46)英彦山 47)求菩提山 48)阿蘇山 49)宝満山
(引用:Wikipedia)
46)英彦山(福岡県)・英彦山神宮/・霊泉寺 - 英彦山修験道
(参考Webサイト:英彦山修験道紹介映像)
英彦山(ひこさん)は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1,199mの山である。耶馬日田英彦山国定公園の一部をなす。日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる。国の史跡に指定されている。
中岳山頂の英彦山神宮上津宮(引用:Wikipedia)
46.1)英彦山
●概要
北岳・中岳・南岳の3つの峰があり、最高点は南岳 (1,199m) にある。福岡県内では、大分県日田市との境にある釈迦岳(1,230m)、八女市にある御前岳(1,209m)に次いで3番目に標高が高い。山域は福岡県と大分県の県境未確定地域となっている。
もとは「彦山」との表記であったが、1729年(享保14年)、霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたという。
山の中腹720m近辺に英彦山神宮奉幣殿があり、多くの参拝客が訪れる。中岳山頂には上津宮がある。2005年(平成17年)10月には、英彦山神宮へ続く参道沿いに、参道起点の銅の鳥居横から英彦山花公園を経由して参道終点の英彦山神宮奉幣殿へ至る全長849mのスロープカーが完成し、英彦山神宮奉幣殿まで約15分で行けるようになった。
北岳の北東にある、石段と鎖付き岩壁で辿り着く「望雲台」と呼ばれる切り立った足場30cmの岩壁は、下界に広がる森林から突き出た鷹ノ巣山が望めるなど眺望が素晴らしく、自己責任で登るロッククライミングの名所となっている。本来山伏の修行場であった。
麓にある深倉峡は紅葉の名所である。深倉峡の奥の深倉園地にある奇岩「男魂岩」(おとこいわ)と、谷を隔てて対峙する「女岩」とは巨大なしめ縄で結ばれており、毎年11月に「男魂祭」が催される。
旧亀石坊庭園など「英彦山庭園群」の一部は国指定名勝に指定されている。
●歴史
英彦山は羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという。
この山を根拠とする豊前佐々木氏が領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため、天正9年(1581年)10月、敵対する大友義統の軍勢による焼き討ちを受け、1ヶ月あまり続いた戦闘によって多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという。
なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが滅ぼされず、細々と生き残っている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎はこの豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある。その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという。
山伏集落についての詳細は不明であったが平成27年、添田町が行ったレーザー測量によって集落跡地とみられる場所を複数個所、確認した。「英彦山三千 八百坊」と言われていたが測量結果から800箇所・三千人規模の集落があったと推測される。
●逸話
・彦山豊前坊という天狗が住むという伝承がある。豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている。
・英彦山豊前坊の伝説をもとに、近隣の航空自衛隊築城基地で編成された第304飛行隊の機体マークとして天狗がデザインされた。「天狗の如く山河を超え、鎮西の空を飛翔することの象徴」として、当時の基地司令のアイデアによるものとされている。
・英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた。
・2014年6月30日、数日前に英彦山を研修で訪れていた柳川高等学校の女子生徒計26人が、校内で集団パニックに陥り、霊に取り付かれたのではないかとの噂がインターネットで流れた。
46.2)英彦山神宮(参考Webサイト:英彦山神宮HP)
英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社。旧社格は官幣中社。現在は神社本庁の別表神社。通称「彦山権現」。
英彦山は北岳・中岳・南岳(主峰の南岳:標高1,199メートル)の3峰で構成され、中央の中岳の山頂から山腹にかけて上津宮・中津宮・下津宮があり、その下に奉幣殿がある。また英彦山全域に摂末社が点在する。
●祭神
祭神は次の3柱。北岳・中岳・南岳を神格化し各峰に1柱をあてる。
・主祭神:正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) - 北岳。
・配神:伊耶那岐命(いざなぎのみこと) - 南岳。/伊耶那美命(いざなみのみこと) - 中岳。
神仏習合時代、各神は法体権現・俗体権現・女体権現と称され、合わせて「彦山三所権現」と総称された。『彦山流記』(1213年)における祭神・本地仏の記載は次の通り。
峰 | 習合神 | 祭神 | 本地仏 |
---|---|---|---|
北岳 | 法体権現 | 天忍穂耳尊 | 阿弥陀如来 |
南岳 | 俗体権現 | 伊弉諾尊 | 釈迦如来 |
中岳 | 女体権現 | 伊弉冉尊 | 千手観音 |
●歴史
・創建・伝承
英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に日田の猟師の藤原(藤山)恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。
しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。
また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。清和天皇代の貞観7年(865年)に従四位上を授けられたとあり、延喜式神名帳にも忍骨命神社として名を残す。
いずれも伝承で実際の歴史は、11世紀初頭に増慶によって中興されるまでについては10世紀の「太宰管内志」等わずかに残るのみである。しかし早くから神仏習合し彦山「権現」の名を用いていた。
12世紀には、後白河法皇撰の梁塵秘抄では「筑紫の霊検所は大四王寺、清水、武蔵清滝 豊前国の企救の御堂 竈門の本山彦の山」と詠まれており霊山としての英彦山はこの時期には中央に知られていたことが分かる。
「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て嵯峨天皇に上申し詔によって「日子山」を「彦山」に改めたとされる。
・概史
12世紀より西国修験道の一大拠点として栄えた。元弘3年(1333年)、後伏見天皇第八皇子の長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降、助有法親王の直系が座主を世襲制する事となった。現在の社家の高千穂家はその末裔である。
当時僧坊3000余、四十九窟(行場)を有するといわれたが天正年間(1573年~92年)秋月氏・大友両氏の兵火が及んで奉幣殿をはじめ社殿が焼失、江戸時代初期1616年に小倉藩主細川忠興が奉幣殿(当時は大講堂)を再建した。
焼き打ちや寺領廃止もあり打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)、霊元法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。
明治の神仏分離により修験道が廃止され、彦山座主であった教有は還俗し高千穂と称した。 九州彦山山伏の本山であった霊仙寺を廃し神社となって「英彦山神社」に改称し,教有は大宮司となった。1883年に宮司の高千穂宣麿が男爵を授けられ、華族に列した。1898年(明治30年)に官幣中社に列した。1975年、現在の「英彦山神宮」に改称した。
46.3)霊泉寺
霊泉寺(れいせんじ)は、福岡県田川郡添田町にある、英彦山修験道の本山。山号は英彦山。
英彦山霊泉寺(引用:Wikipedia)
●概要
北魏の僧・善正上人が彦山を練行の地と定め、洞窟で修行したという。これにより、英彦山修験が成立した。その後、法蓮上人が中興したという。
彦山から英彦山となったのは、霊元法皇の院宣による。英彦山大権現を祀り、寺号を霊仙寺、院号を無量寿院と称した。神仏分離により、英彦山神社に改称した。廃された大講堂は英彦山神社奉幣殿(重文)となっている。かつては天台修験の本山派に属していた山だが、戦後、修験者により霊泉寺として復活した。
●歴史
・継体天皇25年(531年?)善正上人は一宇を建立する。
・弘仁10年(819年)法蓮上人は中興する。
・元禄9年(1696年)本山派の別格本山・霊仙寺となる。
・享保14年(1729年)霊元法皇の院宣により、英彦山と改称する。
・明治元年(1868年)神仏分離により、英彦山神社に改称する。
・1955年(昭和30年)霊泉寺として復活する。
47)求菩提山(福岡県)(参考Webサイト:求菩提資料館HP)
求菩提山(くぼてさん)は、福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する筑紫山地に属する標高782メートルの山である。麓の豊前市のシンボル的な山であり、かつては英彦山、犬ヶ岳と共に修験道の山だった。
求菩提山を東北東から望む 左奥は犬ヶ岳(引用:Wikipedia)
●概要
古くから修験道の霊山として修行が行われ、1870年頃の明治時代前期まで山伏信仰が行われていた。山頂付近では修験道に関係する「求菩提五窟」と称される普賢窟・多聞窟・迦陵頻伽の彫られた岩洞窟など遺跡や遺物が存在しており、国宝や重要文化財に指定されたものもある。こうした歴史的背景から2001年に日本の史跡にも指定され、さらに2012年には「求菩提の農村景観」として日本の重要文化的景観にも選定されている。
山頂には国玉神社上宮があり、麓には資料館やキャンプ場がある。周辺には湧き水も多い。山頂の神社に至る850段の石段は「鬼のあぶみ」とも呼ばれ、山中を荒らし回っていた鬼が求菩提権現との誓約により一晩で築いたという伝説が伝わる。
周辺には英彦山や耶馬渓などがあり、求菩提山も耶馬日田英彦山国定公園に含まれる。
また、求菩堤山には鴉天狗の伝説が伝えられており、豊前市のマスコットキャラクターである「くぼてん」はカラス天狗にちなんだマスコットキャラクターである。
頂上からは南に英彦山・犬ヶ岳など、東に豊前市街地、周防灘の眺めがよい。
豊前市内や築上町、みやこ町犀川から福岡県道32号犀川豊前線を使って山頂付近まで車で行くことも可能である。また標高が高いため冬場は路面凍結や積雪などに注意が必要である。
47.2)国玉神社(参考Webサイト:豊前市HP)
・国玉神社上宮
求菩提信仰の中心となったのが山頂で、累々とした巨石群は神の降臨する場所として神聖視されました。また、辰の口と呼ばれる岩穴からは今も蒸気が見られ、かつてこの山が火山であったことを示しています。
・国玉神社中宮
求菩提山護国寺と呼ばれ、山の中心となった場所です。往時には多宝塔、講堂など七堂伽藍を備えていたといい、今も鬼神社など堂宇が残されています。また、豊前修験道最大の祭礼である「松会」行事が行われた場所で、今でも毎年3月29日には「お田植え祭り」が行われ、多くの見物客で賑わいます。
・中宮鳥居
麓の鳥居畑集落にあった「東の大鳥居」で、昭和30年代にこの場所に移築されました。この先には山門があって、守護神である仁王像が納められていましたが、明治34年の台風で倒壊したといいます。
・鬼の階段
今に伝えられる民話に「求菩提の鬼の石段」があります。その昔犬ヶ岳に棲む鬼たちの乱暴狼藉に困った村人が、求菩提の権現様に鬼を退治してくれるよう頼んだといいます。権現様は鬼たちに求菩提の山頂まで一晩で石段を築くよう命じ、出来れば今までどおり、出来なければ山を出てゆくように迫ったといいます。その時に鬼が築いたのがこの石段で、一説に八五〇段とも言われますが、さてさて真偽の程は・・・・・。
48)阿蘇山(熊本県)・西巌殿寺
48.1)阿蘇山
阿蘇山(あそさん)は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇地方に位置する火山。カルデラを伴う大型の複成火山であり、活火山である。阿蘇火山は、カルデラと中央火口丘で構成され、高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳が阿蘇五岳と呼ばれている。最高点は高岳の標高1592m。カルデラは南北25km、東西18kmに及び(屈斜路湖に次いで日本では第2位)面積380㎢と広大である。
阿蘇山空撮(2014年5月)(引用:Wikipedia)
●概要
阿蘇山は、世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボル的な存在として親しまれている。火山活動が平穏な時期には火口に近づいて見学できるが、活動が活発化したり、有毒ガスが発生した場合は火口付近の立入りが規制される。
阿蘇山のカルデラ内部に出来た中央火口丘群のうち、その中核を成しほぼ東西に一列に並ぶ根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を阿蘇五岳(あそごがく)と呼ぶ。北側の阿蘇谷方面から阿蘇五岳を見た姿は、釈迦が寝ている姿=涅槃像に似ていると言われており、名物の雲海で五岳が雲間から浮かんでいる姿は特に好まれている。
阿蘇五岳の中央に位置する噴火口のある山が中岳、最高峰が高岳、ギザギザの山が根子岳である。各山の山頂付近は九重連山や雲仙岳と並ぶミヤマキリシマの一大群生地となっており、最盛期には南郷谷から烏帽子岳の斜面がピンクに染まる山肌を見ることが出来る。
根子岳は地層調査によって他の山より古くからある山であることが分かり、カルデラ形成前からあったものであると推定されている。阿蘇山の南麓には名水として知られる白川水源がある。
●邪馬台国=高天原=阿蘇カルデラ説
中国の歴史書(正史)である『南史倭国伝』によれば、「倭国の先の出ずる場所、及び所在については北史に詳しく記述されている」とあり、『北史倭国伝』では、阿蘇山(火山)が詳述 されている。すなわち、阿蘇カルデラは「ヤマト発祥の地・高天原 」であることが示されている。
阿蘇カルデラは、魏志倭人伝や北史倭国伝の記述通り、短里説(周髀算経 ・一寸千里法=一里約77m)で、帯方郡から邪馬台国までの総距離「一万二千余里」となる。
卑弥呼については、火国(建日向日豊久士比泥別)の女王ということになり、邪馬台国の支配地域は、魏志『女王国以北・周旋可五千余里』であるため、概ね、国産み神話における白日別(筑紫国)・豊日別(豊国)・建日向日豊久士比泥別(火国)の三面となる。
邪馬台国(女王国)が阿蘇カルデラであれば、南の狗奴国については、建日別(熊襲)となる。また、東に海を渡ること千里(約77km)にて至る国については、「四国」を、女王国を去ること南へ四千里(約308km)の侏儒国ついては、「種子島」を比定することができる。会稽については女王国の西に、帯方郡については、女王国の北西に位置することとなる。
阿蘇山の北麓には肥後国(火国)一宮である阿蘇神社があり、健磐龍命や國龍神(日子八井命)、金凝神(第2代綏靖天皇)をはじめとする神々が、祀られている。健磐龍命の子速瓶玉命が第7代孝霊天皇の際に、両親を祀ったことに始まるが、以来、天照大御神やニニギノミコト、神武天皇の子孫でもある多氏阿蘇氏が祭祀を執り行い続けている。天孫降臨神話の残る日向の高千穂に隣接する阿蘇カルデラは阿蘇黄土「リモナイト(褐鉄鉱)・朱丹」や鉄器鍛冶工房の遺跡群、雲海の名所でも知られており、山跡で山に囲まれたところの山のふもとに広がる高原台地で、山に神が宿るとみなす自然信仰の拠点である火の本・阿蘇山を擁する。
48.2)西巌殿寺(参考Webサイト:阿蘇山西巌殿寺HP)
西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院。山号は阿蘇山。古くから阿蘇山修験道の拠点として機能し、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつである。本堂は2001年に火災で焼失し礎石のみ残るが、山門をくぐり石段を登った本堂跡には阿蘇檜や公孫樹の古木が見られる。周辺には僧坊跡が点在し、多くの文化財が保管されている。
奥之院(引用:Wikipedia)
●歴史
開基には二説ある。寺院が採る726年(神亀3年)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・建磐龍命(たていわたつのみこと)を感得したとするものである。
1144年(天養元年)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとする説である。
どちらの説にも共通するのは、阿蘇山の火口の西の巌殿に十一面観音菩薩を安置して庵(山上本堂)を開き、絶えず法華経を読誦したため「最栄読師」(さいえいとくし)と呼ばれたとするものである。
阿蘇山上に最栄が庵を開いてから、多くの修行僧、修験者が阿蘇山上に集まった。それらの人々は現在の旧阿蘇山スキー場一帯の牧野に当たる地に坊舎を建て、厳しい環境の中で修行に励んだ。その数は三十六坊五十二庵と言われる。西巌殿寺とは、本堂に加えこれら坊や庵を加えた総称である。
しかしこの本堂や古坊中は、天正年間(1573年 – 1592年)に島津と大友の戦乱時に軍勢によって焼き払われてしまい、豊臣秀吉の九州統一時には宗徒や行者なども寺を去ったと伝わる。
これを再興させたのが、肥後に入部した加藤清正だった。各地に散った僧侶たちを呼び戻し、山上本堂を修復するとともに麓の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十六坊を復興させた。この黒川の坊は「麓(ふもと)坊中」と呼ばれ、地名も「坊中」と改められた。これに対応して、阿蘇山上の坊舎跡は「古坊中」と名称が改められた。
さらに寺領も附されるなど、熊本藩の庇護は細川家時代になっても続いた。この再興には長善坊契雅という法師の尽力が功を奏したとも言われる。江戸時代には「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験が行われたり「牛王法印」の札販売などで賑わった。
明治政府が発した神仏分離令によって、西巌殿寺は廃寺が決まり、ほとんどの僧侶は還俗した。しかし1871年(明治4年)に山上本堂を麓坊中のひとつ学頭坊に移し、1874年(明治7年)には学頭坊を西巌殿寺(麓本堂)とすることで法灯は継承された。1890年(明治23年)には古跡保存のために山上本堂(奥の院)が再建された。2001年(平成13年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失する事件が起きたが、僧坊などに保存された貴重な文化財とともに信仰を継承している。
49)宝満山
宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)、竈門山(かまどやま)とも言う。
南方からみた宝満山(引用:Wikipedia)
49.1)概要
かつての筑前国御笠郡の中央にあたり、福岡市の南東、太宰府市の北東部、筑紫野市の北東部に位置する。古くから霊峰として崇められ、山頂の巨岩上に竈門神社の上宮があり、全山花崗岩で、英彦山、脊振山と並ぶ修験道の霊峰である。
また、中世高橋氏の本拠である宝満山城(宝満城)が築かれた。
山頂の眺望は抜群で、西から脊振山地の山々、博多湾・玄界灘・三郡連山(砥石山・三郡山・頭巾山・仏頂山・宝満山)・英彦山・古処山・馬見山・津江山地・九重山の山々・福岡・筑後・佐賀の三平野・有明海の彼方に雲仙岳も遠望でき、稜線沿いに仏頂山・三郡山へと至る道は人気の高いハイキングコースである。数多くの登山道があるが、太宰府側からのものが登山者が多い。
古くから大宰府と密接に関わった歴史があり、古代から近世の遺構が多く残っており、日本の山岳信仰のあり方を考える上で重要な山として、2013年10月17日付で文化財保護法に基づく史跡に指定された。
49.2)山名の由来
〇御笠山
最も古い名称で、筑紫野市の二日市方面から望むと「笠」の形に見えることから(古来「笠」は神の憑代(よりしろ)と考えられ山全体が御神体として信仰されていた)麓には、日本書紀にも記される三笠の森の史跡がある。
〇竈門山
この山の九合目にある竈門岩によるという説と、貝原益軒の「筑前国続風土記」には「この山は国の中央にありていと高く、造化神秀のあつまれる所にして、神霊のとどまります地なれはにや、筑紫の国の惣鎮守と称す。」と書かれてあり、カマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上っているように見えることからという説がある。
〇宝満山
・神仏習合によってこの山に鎮座する神が「宝満大菩薩」とされたことから。
・大宰府政庁の鬼門(北東)の方位にあたり鬼門封じの役目といわれている、京都御所における比叡山と同じ、伝教大師最澄も宝満山で祈祷をしたといわれている。
・太宰府天満宮の手水舎は宝満山から運び出した岩で造られたもの。
49.3)参考〔「日本の霊山読み解き事典:宝満山」からの引用〕
〇三つの山名
福岡県の北部中央に南北に連なる三郡山系の主峰三郡山から西南方向に張り出した先端部分に位置する。見る方角によっては独立峰に見え、花崗岩が隆起し浸食を受けて形成された山容は堂々として他を圧し、貝原益軒をして「満山岩石多くして、其形勢良工の削なせるが如し。誠に奇絶の境地也」と言わしめた。
鎮座する竈門神社は、頂上に上宮、山麓に下宮、八合目付近に中宮跡がある。延喜式内社、旧官幣小社、祭神は玉依姫命、本地十一面観音。相殿に神功皇后、応神天皇を祀る。
この山は古く、三笠山、竈門山とも称した。「御笠山」の名は、その神奈備型(笠型)の山容から生じたものであり、宝満川・御笠川の水源として水分の神の性格を現わしている。
「竈門山」は九合目にある三石鼎立した竈門石によるという説、雲霧が立ち登りカマドで煮炊きしているように見える山容によるという説、律令制下最大の官衙「大宰府」の成立とともに道教の竃神が導入されたことによるとする説などがあり、「宝満山」は祭神の神仏習合的名称の「宝満大菩薩」による。山名の変遷が、とりもなおさずこの山の信仰の歴史を物語っている。
〇開山伝説
「縁起」では、太宰府ができた時、その鬼門除けのために山頂で八百萬神を祀ったことがこの山の祭祀の始まりと伝えている。それを物語るかのように、上宮が建つ巨岩の断崖などで古代の古代の祭祀遺跡発見され、標高390mの辛野遺跡からは「蕃」の墨書土器などが出土している。開山は法相僧心蓮。天武天皇の白鳳2年2月10日、修行中に玉依姫が示現し、天皇の命によって上宮が創建されたと伝える。
鎌倉期の縁起「竈門山宝満大菩薩」(称名寺所蔵)には、祭神宝満大菩薩が神功皇后の姉であり、竈門上下宮の創建が神功皇后を祀る香椎社と同じ神亀元年(724年)であると、両者の深い関係を強調している。
これらの伝承は、この山が古く官寺僧などの山林修行の場であったことや、古来鎮護国家を祈る山として、八幡教学のなかでも重要な位置を占めていたことを物語るものであろう。
これら縁起類には、竈門大神あるいは宝満大菩薩に対して「九州総鎮守」「鎮西鎮守」、あるいは「本朝鎮守」であるとする宣旨などが下された平安時代末期の隆盛の歴史をも期している。
〇鎮西の比叡山
延暦22年(803)、入唐請益天台法花宗還学生として唐への渡海を志す最澄は、大宰府竈門山寺において遣唐使四船の渡海の平安を祈って薬師仏四体を彫った(『叡山大師伝』など)。
最澄は帰国後、大乗戒壇の設置と六所宝塔建立の二大願を発する。六所宝塔は法華経の功徳によって日本国の平安な治国を実現しようとするもので、多宝塔の上層に日本国で書写した法華経一千部を安置し、下層で法華三昧法を修して鎮護国家を祈るものであった。筑前に建設予定の塔は、承平3年(933)沙弥證覚によって宝満山の標高280mの地点(本谷遺跡)に実現した。
承和14年(847)、唐から帰国した円仁は5日間をかけて、竈門山大山寺において、観世音寺講師の助力のもと、諸神に報謝の転経をしている(『入唐求法巡礼行記』)。相次ぐ天台の高僧の来山、六所宝塔の建立を経て、宝満山は鎮西の比叡山ともいうべき様相を呈していった。
平安時代後期から鎌倉時代にかけた大山寺・有智山寺は、中国人の「船頭」を寄人として抱え、対外貿易を盛んに行うなど繫栄した。法会としては、百箇日法華60巻談義や有智山30講などが厳修され、台密の祖・谷阿闍梨皇慶に両部の大法を授けた慶雲阿闍梨などの高僧が住み、山麓に営まれた別所では経塚造営、民衆教化などの活動が行われ、背振山の彼方を西方極楽浄土と目して往生した僧の名が中央の「往生伝」に散見する。
平安時代末の一時期、大山寺別当に石清水八幡宮の関係者が補されるが、長治年間(1104~06)の都をも揺るがす事件の陣定によって、比叡山の末山と裁定された。
〇修験の山へ
修験の山としての宝満山は、「文武天皇御宇、役行者が来山し七窟(法城窟・剱窟・大南窟・宝塔窟・釜蓋窟・普地窟・福城窟)で修行、彦山・宝満山間に彦山を胎蔵界、宝満を金剛界とする両部曼荼羅を敷いた。大宝元年(701)再来し、宝満・孔大寺山間に葛城峯を開いた」と伝えている。
中宮跡付近に現存する文保2年(1318)・元応元年(1319)・元亨3年(1323)などの摩崖梵字の年紀や、『大悲王院文書』から知られる雷山の状況、彦山の文書などから、宝満山への修験の導入は、蒙古襲来後の社会不安により強い験力が希求された結果と考えられる。
彦山 - 宝満山間の入峰は「大峯」といい、宝満山からは秋峰として修行された。元禄12年(1699)に再興したという春峰は、宗像孔大寺山を胎蔵界とし、帰路の外金剛部に法華経28品の宿を配したもので、「葛城峯」と言われた。両峰が中央修験の影響を受けたものであることは疑いない。また夏には、天台の遺法として山内を回峰する大巡行が行われた。
〇戦乱による疲弊
北部九州の守護職と大宰少弐の職を兼務した少弐氏は、宝満山に本城有智山城を築いた。中世宝満山の命運は少弐氏とともにあった。建武3年(1336)、少弐頼尚が都落ちした足利尊氏を迎えに行った留守を衝かれて有智山城が落城した。
その後、少弐氏はたびたび有智山城の奪還を図り、文明3年(1471)には竈門神社に木造狛犬(県指定文化財)を奉納するなどのこともあったが、この間にあって山も疲弊し、山麓の内山・南谷・北谷に、学問を専らにした衆徒方三百坊、修行を専らにした行者方七十坊があったという坊舎も、行者方二十五坊のみとなり、永禄元年(1558)浄戒座主に願い出て、山上、西谷松の尾嶺・東院谷に移り住んだという(『筑前国続風土記』など)。
更に戦国期には、大友氏の幕下高橋氏が宝満城に拠った。宝満城は山岳寺院を接収した「宝満城塞群」ともいうべき城であったため、再び戦いに巻き込まれ、宝満山は山も人心も荒廃し、衰微の一途を辿った。
〇江戸期の復興
宝満山は堂社の復興は福岡藩によって行われた。しかし浄戒座主の没落後は、山の組織が不安定な状況が続いていた。三代藩主黒田光之の時、山伏明厳院が国中山伏の惣司に任命されたことに端を発し、彦山・宝満山の本末争いに発展した。その間、寛文5年(1665)、宝満山は聖護院の末山となった。その急先鋒が若くして衆頭となった平石坊弘有である。
弘有は兵火に焼失した縁起の再編集に着手し、松下見林の校閲、五条大納言菅原為庸の揮毫、外題并和歌は鷹司右大臣兼煕という格式の高い『竈門山宝満宮伝記』乾坤二巻として成立させた。
本縁起編集の目的は、宝満山が「彦山より格の高い山」であると実証することにあり、それゆえ、内容も伝説的部分は少なく、編年体に史実が述べられている。祭事の復興、山林管理の確率など山の復興にも邁進した 弘有であったが、元禄元年(1688)に離山禁錮を命じられ、彦山・宝満山の本末論争は一応の和解をみた。
弘有離山後の宝満山には、座主楞伽院が建てられ、山中二十五坊、筑前一円に組下三十数坊の一山組織が確立し、福岡藩の祈禱社として入峰、雨乞い祈禱(水鏡祈禱)などが行われた。
〇明治維新後
明治初年に神仏分離令が出されると、宝満二十五坊は座主をはじめとする改革派(廃仏派)九坊と亀石坊を中心とする守旧派(奉仏派)十六坊に分裂したが、竈門神社が村社となるに及んで、吉祥坊吉田広輝一人を祠掌として残し、明治6年(1873)には全員が宝満山を離れた。山中では廃仏毀釈が徹底的に行われ、仏教的建造物・仏像・仏具等が払拭され、山林は上地となった。
明治28年(1895)、官幣小社に昇格し、同36年(1903)より宝満講の結集が図られた。一時期は、北部九州一円などの6万件の配札をした時期もあったが、現在では講活動は行われていない。しかし、今なお正月行事として行われる「作試し」は、水分の神と崇められた農耕神としての性格が連綿と続いていることの証であり、4月のえんむすび大祭は、成人儀礼として登拝した十六詣りの流れを汲むものである。
昭和57年(1982)には、開山心蓮上人1300年遠忌を記念して宝満山修験会が結成され、毎年5月に入峰・採燈護摩供を行っており、平成25年(2013)には竈門神社1350年祭を祈念して宝満山から彦山への大峯修行を復活させた。また同年10月17日、宝満山は「霊山」として国の史跡に指定された。
ページ追加:令和3年(2021)3月6日 最終更新:令和6年(2024)10月18日