ここでは、古代史の謎に係る文献(大陸)についてWebサイト等から抜粋したいと思います。
作業中
1 参考Webサイト
2 正史
(1)正史とは (2)中国の正史 (3)中国の正史以外の重要な歴史書
(4)二十四史(一覧表)
3 倭・倭人関連の中国文献
(1)『論衡』 (2)『山海経』 (3)『漢書』 (4)『後漢書』 (5)『魏志』倭人伝 (6)『晋書』 (7)『宋書』 (8)南斉書 (9)梁書 (10)『北史』倭国伝
(11)『南史』倭国伝 (12)『隋書』 (13)『旧唐書』 (14)新唐書
1)参考Webサイト
中国資料に見る倭人(倭、倭国)に関して、まとまって解説しているWebサイトがありますので、そのサイトへのリンクを紹介します。
参考Webサイト:「鴨着く島(かもどくしま)おおすみ」(トップページ)
2)参考Webサイト「鴨着く島(かもどくしま)おおすみ」の内容
鴨着く島(かもどくしま)・・・ホホデミとトヨタマヒメの出会いの島
〔鴨着く島INDEX〕参考Webサイトのトップページからアクセスしてください。
鴨着く島へようこそ/日向神話の謎/神武東征の真実/投馬国の位置/もうひとつの/東遷説話/熊襲と隼人(狗奴国と投馬国)/「大倭」から大和へ/邪馬台国と「大倭」/第二次神武東征論/葛城地方の出雲系鴨神社と南九州/投馬国王統(ミミ)の人物群について/二種あった初期大和王権/記紀解釈の大前提/記紀を読む/中国史料に見る倭人(倭・倭国)/カヤ(鹿屋)考/朝鮮史料に見る倭人(倭・倭国)/カヤ(鹿屋)考/「大隅国」について/応神天皇と「大隅宮」/「大隅宮」と唐仁古墳群/ウガヤフキアエズ命の誕生伝承地/初日の出と吾平山上陵・鵜戸神社/ウガヤフキアエズノミコトの皇子たち/古日向王朝論(1)
3)同上サイト:中国史料に見る倭人(倭、倭国)
●山海経(せんがいきょう) ●史記(しき) ●論衡(ろんこう) ●漢書(かんじょ) ●倭人字磚(わじんじせん)
●後漢書(ごかんじょ) ●三国志呉書(ごしょ)(付・魏略、廣志) ●三国志魏書(ぎしょ)
〇)引用Webサイト
以下は、次のホームページ(HP)から引用しました。当該HPは、大陸・半島・列島の古代史を研究する上での史料を幅広く網羅しており、大変参考になるHPと思います。
●「古代史獺祭」 ●トップページ ●メインメニュー ●資料大陸編
※現在、上記サイトにアクセスできないようになっています。
●「古代史レポート」
倭・倭人関連の中国文献は、「倭」(※1)・「倭人」(※2)や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。
※1「倭」は、
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。倭の住人を倭人という。和、俀とも記す。 倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
※2「倭人」は、
① 狭義には中国の人々が名付けた、当時、西日本に住んでいた民族または住民の古い呼称。
② 広義には中国の歴史書に記述された、中国大陸から西日本の範囲の主に海上において活動していた民族集団。
一般に②の集団の一部が西日本に定着して弥生人となり、「倭人」の語が①を指すようになったものと考えられている。本項では、中国における派生的な蔑称についても扱う。
・「倭」についてはじめて書かれた正史は後漢初頭の『漢書』地理志(班固)であり、史書以外では『論衡』(王充)がある。
・『漢書』では、「倭」は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、『論衡』では、「倭」は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あると推定しているようである。
・『晋書』、『梁書』などが、「倭人」の出自に関しては「太伯之後」という文言を記している。呉の祖である太伯の子孫という意図であろう。
(引用:『邪馬台国を捕らえなおす』大塚初重著/吉川弘文館刊P-17~)
中国の史書の中で、中国の史書に書かれた古代の「倭」について要約的な記述がありましたので、引用させていただきます。
◇第1章「魏志倭人伝」の謎
◆中国の史書に書かれた古代の「倭」
邪馬台国はどこにあったのか。そして日本の歴史のどこに位置付けられるのか。
それを正確に把握するためには、最新の考古学的・科学的手法の検討と同時に中国・朝鮮半島をふくめた、いわば東アジアの歴史の中での倭、倭人、倭国、邪馬台国を整理しておく必要がある。まずは文献にあらわれた「倭」について確認しておこう。
古代の日本は「倭」と呼ばれていた。「倭」についてはじめて書かれた中国の正史は、後漢(25~220)の学者王允(おうじゅう)(27~90頃?)が著した『論衡』(ろんこう)と、後漢の初頭に、歴史家班固(はんこ)(32~92)らによって編纂された『漢書』(かんじょ)(前漢書ともいわれる)地理志とされている。
『論衡』には、「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず」(異虚篇第18)などと記されている。暢草は薬草で、酒に浸して服用されるもののようである。『論衡』においては倭を中国の呉越地方(揚子江(長江)の下流域」)の南付近と認識していたらしい。
中国の歴史時代は、夏(紀元前21世紀~紀元17世紀)からはじまったととされているが、確認されているのは商(殷ともいわれる。)(紀元前17世紀~紀元前12世紀・紀元前11世紀)の後期からで、『論衡』にある周は紀元前12世紀・紀元前11世紀頃から紀元前256年にあったとされているため、倭人のこの記事は、紀元前256年より前のこととなる。
紀元前256年以前、倭人が周の王朝まで行き、薬草を献じていたのであるから、日中国交の歴史は随分と古くからあったということである。
一方の『漢書』は、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国、歳時をもって来たりて献見すと云う」とある。「楽浪海中」とある楽浪郡は、いまの北朝鮮の平壌(ピョンヤン)付近にあった。前漢(紀元前202~紀元後8)の武帝(ぶてい)(紀元前156~紀元前87)が紀元前108年に衛氏朝鮮(えいしちょうせん)(紀元前195?~紀元前108)の地に設置した直轄領(郡)四郡の一つである。
その楽浪の海のなかに弥生中期後半(紀元前1世紀頃)、百余国に分かれた倭人の国があったのである。その一の認識は『論衡』の揚子江下流域の南付近という位置観とは異なっている。倭国の位置にかんして少なくとも二つの認識が中国に存在していたということがわかる。
『後漢書』「東夷伝」「倭条」のなかにも倭についての記述があり、建武中元2年、つまり紀元57年には、後漢に倭奴国の遣いが朝貢して印綬を賜ったと記されている。
また安帝永初元年、つまり、107年にも、倭国王帥升(すいしょう)(版本によっては師升等)が生口(せいこう)(奴婢)百六十人を献上したとある。
『後漢書』が成立したのは432年。後漢は紀元25年から220年にあった国であるから、滅亡から二百十年以上も経った南北朝時代の南朝宋の時代に書かれた史料である。つまり「倭条」は280年代に書かれた「魏志倭人伝」よりも後に書かれたことになる。
この紀元57年に倭奴国王が光武帝から授けられた金印と思われるものが、福岡県の博多湾にある志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴國王」印とされる。金印については後で詳しく触れるが、「漢委奴」の読み方や理解をめぐってもさまざまな説がある。
その「後漢書」に邪馬台国の記述がある。
中国・後漢の桓帝・霊帝の時代(146~189)に倭国中が乱れた。そして女王の卑弥呼を擁立することで治まった、とあり、そこに卑弥呼という名が出てくるのである。しかし、『後漢書』は「魏志倭人伝」より後に書かれた史書である。
◆『三国志』のなかの「魏志倭人伝」
「魏志倭人伝」にの記されている『三国志』は西晋(せいしん)(265~316)時代、285年頃完成したとされ、その資料となったのは、『魏略』(ぎりゃく)といわれる。
『魏略』は三世紀はじめ(239~248)、魏が朝鮮に置いていた帯方郡(いまのソウルの北方)の使者が「倭国」に行ったときの報告をもとに、魚豢(ぎょかん)という魏の史官が書いたとされるものである。
その『魏略』の記事を『三国志』の編者陳寿(ちんじゅ)(233~297)が『三国志』のなかの「東夷伝」に記したとされている。しかしもととなった『魏略』はその後散逸してしまって残っておらず、他の書物のなかに見られるのみで、その全貌を知ることはできないが 、他の書物に引用されているので、書物が存在していたことは確かだといわれている。
この頃中国では後漢(25~220)が滅亡し、魏(220~265)・蜀(221~263)・呉(222~280)の三国鼎立の時代に入っていた。
やがて蜀は魏に滅ぼされるが、魏は蜀を滅ぼした司馬昭(しばしょう)の死後、権力を引き継いだ子の司馬炎(しばえん)(236~290)により滅びる。司馬炎は新たに西晋(265~290)を建国して武帝となり、呉を征服し、三国鼎立の時代は終わる。
この「魏」「蜀」「呉」の歴史は、西晋の時代になってから「三国志」として編纂された。
『三国志』は全65巻。そのうち「魏書」が三十巻、「呉書」がに十巻、「蜀書」十五巻である。
「魏書」は、本紀が四巻、列伝二十六巻、計三十巻。そのうちの巻三十に東夷伝がある。東夷伝には、扶余(ふよ)・高句麗(こうくり)・東沮沮(よくそ)・挹婁(ゆうろう)・濊(わい)・馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁辰(べんしん)(弁韓)・倭人の条がある。この倭人の条が「魏志倭人伝」。正式名はつまり、『三国志』「魏書」「東夷伝」「倭人条」である。
しかしここには「倭人伝」とあって「倭国」とは書いていない。だから私たちは「倭国伝」ではなく「魏志倭人伝」である、と言ってきているのである。
「魏志倭人伝」によると、倭人たちは、邪馬台国の卑弥呼という女王によって統治されていた。二~三世紀にそのような国が中国の魏と国交をもっていたとすれば、邪馬台国と女王卑弥呼の動静は、古代日本の国家体制の形成を解く重要なカギとなる。
(引用:Wikipedia)
正史とは、東アジア諸国において、主に国家によって公式に編纂された王朝の歴史書のことである。中国の二十四史が代表的なものとしてあげられる。その国の政府が正統と認め、対外的に主張し、また教育する自国の政治の流れ。以下では主に正史について述べる。対義語は野史(民間で編まれた史書)。
正史(特に後述する「断代史」の形式をとる正史)は、その名から「正しい歴史」の略と考えられることがあるが、実際には事実と異なることも記載されている。
理由は、正史とは一つの王朝が滅びた後、次代の王朝に仕える人々が著すためである。現在進行形の王朝は自らに都合のいい事を書くから信用できない、という考え方からこのような方法が取られたわけだが、このせいで最後の君主が実際以上に悪く書かれる傾向にある、といった弊害もある。
また正史をまとめるに当たり、前王朝の史官が残した記録も参考にするので、その時点で既に前王朝にとって都合の悪い所が消されていたり、粉飾されていたりする場合もあり得る。
以上のことから正史とはあくまで「王朝が正当と認めた歴史書」という程の意味であり、信頼性の高い史料であるとは言えるが、歴史事実を引き出すには歴史学の手法にのっとり厳密な史料批判を経て行う必要があることに変わりはない。
(引用:Wikipedia)
1)編年体・紀伝体・断代史による記述
中国では、当初は『春秋』のように編年体(※1)の史書が一般的であったが、司馬遷の著した『史記』以来、紀伝体(※2)が盛んに行われるようになった。
(※1)編年体とは歴史の記述法の一つで、起こった出来事を年代順に記してゆく方法を指す。
(※2)紀伝体とは歴史の記述法の一つで、個人や一つの国に関しての情報をまとめて記述する方法を指す。紀伝体は以下のような項目から構成される。「紀伝」の名称は、このうち上位に位置づけられた2項目、「本紀」と「列伝」に由来する。
〔項目〕本紀/世家/列伝/志(書・典・略・考)/表/載記/修史証/国語解
史記を継いで前漢王朝一代の歴史書とした班固の『漢書』からは王朝ごとに時代を区切った紀伝体の史書、いわゆる「断代史」(※3)の体裁が流行した。
(※3)断代史は、史書における基本的概念であり思想である。通史とその性質を対となし、その時代におきた様々な出来事を記録、ひとつの王朝についてのみ記録する。古より中国では、ひとつの王朝の歴史は次の王朝が編纂すべきという史実に関する思想があり、後漢書などもこの考えに基づき後世において残された記録から編纂されている。根幹にあるのは自らのことを記すと誤摩化しが生じるという思想であるが、次代王朝において不利なこと(皇位簒奪など)においてはその限りではないので注意が必要である。
2)正史の選定
しかし、「史記」「漢書」をはじめ、西晋の陳寿が書いた『三国志』、宋の范曄が書いた『後漢書』、梁の沈約が書いた『宋書』など、当初の紀伝体史書はみな個人の撰であった。
唐に至って、歴史書を編纂する事業は国家の事業となり、『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』などが次々と編纂され、これまでの紀伝体の史書のうち史記や漢書、三国志などとあわせて「正史」とした。
3)支配の正統性を明示
これらは北朝の系譜に連なる唐の編纂であるが故に、晋朝の後継国である南朝よりも、むしろ北朝の諸王朝を正統として扱う傾向があったといわれる。
こうして唐以降、正史は王朝の支配の正統性を明らかにする道具となり、王朝が成立すると滅亡した前王朝の正史を編纂させるようになった。
このため、正確さよりも政治的思惑が最優先されて歴史書としての価値は大きく損なわれる事になった。
4)正史作成の手順
唐代以降は、正史が編纂される手法も確立される。朝廷内で皇帝に侍る史官が、皇帝および国家の重大事を記録する「起居注」を蓄積し、皇帝が崩御すると、代ごとに起居注をまとめた「実録」が編纂される。
王朝が滅んだ際には、次に正統を継いだ王朝が国家事業として、前王朝の皇帝ごとの実録を元に正史を編纂する、というのが大まかな手順である。このため、たとえば正史の「明史」よりも「明実録」の方が記録は詳細に残されている。史料としては、実録が1次史料、正史が2次史料ということになるが、どちらがより真実に近いかはそれぞれの史料によって異なる。
5)二十四史等の選定
清のとき、二十四書が正史として再度選ばれ、「二十四史」と呼ばれるようになったので、中国の正史といえば普通二十四史を指す。
二十四史に、中華民国期に編纂された『新元史』や『清史稿』を含めて「二十五史」あるいは「二十六史」(伝説上の帝王「黄帝」から清滅亡(1912年)までの歴史を含む。)という呼び方も見られる。
6)『清史』の編纂
また、台湾国民政府によって、正史としての『清史』(実際は『清史稿』の改訂)が編纂されたが、中華人民共和国政府はこれを認めていない。
中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期すため、完成は何度か先送りされている。2019年現在、原稿は完成したが、上級機関による添削を受けている途中という。
(引用:Wikipedia)
1)十八史略 - 元の曾先之の編。南宋滅亡までの歴史を編年体で簡易に略述。
(引用:amazonHP)
『十八史略』は、南宋の曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝(※)の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。「十八史」とは、『史記』から『新五代史』までの17史に曾先之が生きた宋一代を加えたものを意味している。
①『史記』- 司馬遷/②『漢書』- 班固/③『後漢書』- 范曄/④『三国志』- 陳寿/⑤『晋書』- 房玄齢他/⑥『宋書』- 沈約/⑦『南斉書』- 蕭子顕/⑧『梁書』- 姚思廉/⑨『陳書』- 姚思廉/⑩『魏書』- 魏収/⑪『北斉書』- 李百薬/⑫『周書』- 令狐徳棻他/⑬『隋書』- 魏徴・長孫無忌/⑭『南史』- 李延寿/⑮『北史』- 李延寿/⑯『新唐書』- 欧陽脩・宋祁/⑰『新五代史』- 欧陽脩/⑱「宋鑑」(以下の2書をひとつと数える)『続宋編年資治通鑑』- 李熹&『続宋中興編年資治通鑑』- 劉時挙
(※)三皇五帝は、古代中国の神話伝説時代の8人の帝王。三皇と五帝に分かれ(誰が該当するかについては諸説ある)、三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされた。伝説では、最初の世襲王朝・夏より以前の時代とされる。
2)資治通鑑 - 北宋の司馬光の編。五代までの歴史を編年体に編集した歴史書。
『資治通鑑』は、中国北宋の司馬光が、1065年の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。
収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。
この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』(※)などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。
①周紀/②秦紀/③漢紀/④魏紀/⑤晋紀/⑥宋紀/⑦斉紀/⑧梁紀/⑨陳紀/⑩隋紀/⑪唐紀/⑫後梁紀/⑬後唐紀/⑭後晋紀/⑮後漢紀/⑯後周紀
(※)『貞観政要』は、中国唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。
中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されて広まった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。
(引用:Wikipedia)
二十四史とは、中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。
二十四史は清の乾隆帝によって定められた。中華民国期に至って、元史を改めた『新元史』が編纂され、政府によって正史に加えられて二十五史となった。
しかし、『新元史』のかわりに、同じく民国期の編纂による『清史稿』を数えて「二十五史」とする場合もあり、一定しない。『新元史』『清史稿』をともに含めた「二十六史」という呼び方もされている。
中国・朝鮮・日本歴史年表(引用:Wikipedia)
二十四史一覧
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書名 |
王朝・作者 |
巻数 |
概 要 |
1 |
130 |
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2 |
100 |
・樂浪海中有倭人 ・會稽海外有東鯷人 |
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3 |
(398-445) |
120 |
・倭奴國奉貢朝賀(57) ・倭國王帥升等獻生(107) (巻次:115 伝・志名:東夷 呼称:倭) |
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4 |
(233-297) |
65 |
・倭女王遣大夫難升米等詣郡(238) ・邪馬台国・卑弥呼 (巻次:30 伝・志名:東夷 呼称:倭人) |
|
5 |
(578-648) |
130 |
・倭人來獻方物(266) ・倭國及西南夷銅頭大師並獻方物(413) (巻次:97 伝・志名:東夷 呼称:倭人) |
|
6 |
(441-513)
|
100 |
・倭國王遣使獻方物(430) ・倭國遣使獻方物(460) ・倭の五王(讃・珍・斉・興・武) (巻次:97 伝・志名:夷蛮 呼称:倭国) |
|
7 |
(487-537) |
59 |
・倭王武號爲鎮東大將軍 (巻次:58 伝・志名:東南夷 呼称:倭国) |
|
8 |
(?-637) |
56 |
・倭者自云太伯之後 (巻次:79 伝・志名:夷貊下 呼称:倭国) |
|
9 |
36 |
|
||
10 |
114 |
|
||
11 |
50 |
|
||
12 |
50 |
|
||
13 |
(580-643) |
85 |
・其王多利思北孤遣使朝貢(607) ・有阿蘇山
(巻次:81
伝・志名:東夷 呼称:倭国) |
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14 |
(?)
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80 |
・東夷伝中に倭国条・扶桑国条 ・倭の五王
(巻次:79 伝・志名:夷貊下 呼称:倭国) |
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15 |
(?) |
100 |
・倭王姓阿毎 字多利思比孤 ・有阿蘇山 (巻次:94 伝・志名:(四夷) 呼称:倭国) |
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16 |
(887-946) |
200 |
・倭國者古倭奴國也 ・日本國者 倭國之別種也 ・東夷伝(倭国伝+日本国伝) (巻次:199上 伝・志名:東夷 呼称:倭国・日本) |
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17 |
(998-1061) |
225 |
・其王姓阿毎氏 ・日本古倭奴也 ・東夷伝(日本伝) ・天御中主~彥瀲、神武天皇~皇極天皇列挙 ・隋開皇末、天皇家の目多利思比孤が初中国通交 ・筑紫城の神武が大和を統治し天皇に(神武東征) (巻次:220 伝・志名:東夷 呼称:日本) |
|
18 |
150 |
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||
19 |
74 |
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||
20 |
(1314-1355) |
496 |
(巻次:491 伝・志名:外国 呼称:日本国) |
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21 |
116 |
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22 |
135 |
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23 |
(1310-1381) |
210 |
(巻次:208 伝・志名:外夷 呼称:日本国) |
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24 |
(1672-1755) |
332 |
(巻次:322 伝・志名:外国 呼称:日本) |
(引用:Wikipedia)
『論衡』は、中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書、評論書。
実証主義の立場から王充は、自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判した。
1)概要
長い歳月の間に記されたものと考えられ、そのため書中では一貫性が欠けている面もみられるが、虚妄的な儒学の尚古思想を一蹴し、合理的に物事を究めようとする立場は当時の思想としては大胆かつ革新的なことであった。
反尚古思想であるゆえに、漢王室を絶対視している。また、作品中には王充自身の文章に対する意見も含まれており、誇張を嫌い、真実をそのまま記すことのできる文章を望んでいた。編述を終えた時点では100篇を超える構成であったというが、『後漢書』に挙げられた時点で85篇とされており、さらに巻15の「招致篇」44は散逸して篇名を伝えるだけとなっている。
王充の死後に本書が世に出たのは2世紀末であり、蔡邕が呉郡で入手して人と語らう際の虎の巻としたことや、会稽太守となった王朗が同地で一本を発見したことによるという。
一個人による百科全書的著作であり唐代までは大著として評価されてきたが、その記述姿勢が孔子・孟子に批判的であるという点から、宋代以降は無法の書として省みられなくなった。そのため、本文校訂も十分には進んでおらず、ようやく清末になって部分的注釈がなされ、中華民国時代になって詳細な注釈が完備した。
1970年代の中華人民共和国での批林批孔運動の際には孔子を批判していた先駆的な思想書として評価されたという。
2)構成
1巻 : 逢遇篇1、累害篇2、命禄篇3、気寿篇4/2巻 : 幸偶篇5、命義篇6、無形篇7、率性篇8、吉験篇9/3巻 : 偶会篇10、骨相篇11、初稟篇12、本性篇13、物勢篇14、奇怪篇15/4巻 : 書虚篇16、変虚篇17/5巻 : 異虚篇18、感虚篇19/6巻 : 福虚篇20、禍虚篇21、龍虚篇22、雷虚篇23/7巻 : 道虚篇24、語増篇25/8巻 : 儒増篇26、芸増篇27/9巻 : 問孔篇28/10巻 : 非韓篇29、刺孟篇30/11巻 : 談天篇31、説日篇32、答佞篇33/12巻 : 程材篇34、量知篇35、謝短篇36/13巻 : 効力篇37、別通篇38、超奇篇39/14巻 : 状留篇40、寒温篇41、譴告篇42/15巻 : 変動篇43、招致篇44(散逸)、明雩篇45、順鼓篇46/16巻 : 乱龍篇47、遭虎篇48、商虫篇49、講瑞篇50/17巻 : 指瑞篇51、是応篇52、治期篇53/18巻 : 自然篇54、感類篇55、斉世篇56/19巻 : 宣漢篇57、恢国篇58、験符篇59/20巻 : 須頌篇60、佚文篇61、論死篇62/21巻 : 死偽篇63/22巻 : 紀妖篇64、訂鬼篇65/23巻 : 言毒篇66、薄葬篇67、四諱篇68、讕時篇69/24巻 : 譏日篇70、卜筮篇71、弁祟篇72、難歳篇73/25巻 : 詰術篇74、解除篇75、祀義篇76、祭意篇77/26巻 : 実知篇78、知実篇79/27巻 : 定賢篇80/28巻 : 正説篇81、書解篇82/29巻 : 案書篇83、対作篇84/30巻 : 自紀篇85 王充自らの生い立ちや著述に当たっての姿勢を述べたもの。
2)『論衡』倭人について
周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、成王の在位は前1042年~前1021年とされるが、『論衡』自体は1世紀に書かれたものである。白雉は食用に、暢草(ちょうそう)は服用に、それぞれ供されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。
後漢 王充(27~97)撰。もと百編以上あったらしいが現存するのは全30卷85編である。いわゆる史書ではなく、当時さかんにおこなわれた讖緯説・陰陽五行説に基づく迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理を徹底的に批判した書。
3)『論衡』の原文と読み下し
●論衡 第五卷 異虚第十八
(原文)周時天下太平 倭人來獻鬯草
(読み下し)周の時 天下太平にして、倭人來り暢草を獻ず。
(要旨)奇異の現象を吉だ凶だと騒ぐのは虚妄の説であると批判した一編。
●論衡 第五卷 感虚第十九
(要旨)天が仁聖の徳に感応して奇跡を起こすというのは虚妄の説であると批判した一編。
●論衡 第八卷 儒增第二十六
(原文)周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶
(読み下し)周の時天下太平、越裳は白雉を獻じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
(要旨)いわゆる儒者のいう「白髪三千丈」風の誇大表現を批判した一編。
●論衡 第十九卷 恢國第五十八
(原文)王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
(読み下し)成王の時、越常は雉を獻じ、倭人は暢を貢す
(要旨)漢王朝の徳をたたえた一編。
(引用:Wikipedia&古代史獺祭)
1)概要(引用:Wikipedia)
・作者不詳。成立時期不詳(春秋戦国時代~前・後漢ころ)。空想的地理・本草書。
『山海経』(せんがいきょう)は、中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『山海経図絵全像』の女媧(引用:Wikipedia)
『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、「奇書」扱いされている。編者は禹およびその治水を助けた伯益(※)であると序などに仮託されているが、実際は多数の著者の手によるものと考えられる。
(※)益(えき)は、古代中国の伝説上の人物。帝舜と帝禹に仕えた。伯益、柏益(はくえき)、伯翳(はくえい)、大費(たいひ)とも。帝舜の時代には、虞(山沢を司る官)を務め、禹とともに治水などの政治を行った。禹が帝になったあとは、禹に仕えた。帝禹のもとで政治を取り仕切った皋陶(こうよう)が死んだ後に、益は政治の取り仕切り役となった。『漢書』などでは、動物たちの話す言葉が理解でき、鳥や獣たちを素直に従わせることが出来たという描写がある。
内容のほとんどは各地の動物、植物、鉱物などの産物を記すが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられている。そのため、後世失われたものの多い中国神話の重要な基礎資料となっている。
もともとは絵地図に解説文の組み合わせで構成されており『山海図経』と呼ばれていたが、古い時代に既に絵地図も失われてしまっており現存もしていない。そのため、現在残されている画像は『山海経』本文にある文章から逆算された後世の想像によるものであり、伝来する系統によって全く違う画像となっているものも存在している。
また、本文も当初そのままのものは伝来してはおらず、後世に編集・再構成がほどこされているため、各所各所で復元のされていない箇所、再構成によって方位など文意の不明確な箇所も存在している(脱簡・錯簡が起こってしまっている)。
五蔵山経(南山経から中山経の5巻)では本文中にその巻に登場した山の数、距離を合計して何里あるかを示す文章が登場しているが、おおよそ本文に示されている山の数・距離と計算が合っていない。これは復元されずに消滅してしまった文章が存在しているためであると考えられている。
構成している総編数・総巻数には時代によって異同があり、劉歆(りゅうきん)(※1)が漢室にたてまつった際には伝わっていた32編を校訂して18編としたとされている。『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。現行本は、西晋の郭璞(かくはく)(※2)の伝を付しており、5部18巻となっている。
(※1)劉 歆(? - 23年)は、中国、前漢末から新にかけての経学者、天文学者、目録学者。漢の時の爵位は紅休侯、新では嘉新公。陽城侯・劉向の第3子。前漢の宗室の身分である。後に、名を秀に、字を穎叔と改める。成帝の時、黄門郎となり、父の劉向と共に秘書(宮中の図書)を校訂した。父の没後、その業を継ぎ、哀帝の時、全ての書物の校訂を終了し、現存最古の書籍目録である『七略』を作り奏上した。また、古文経である『春秋左氏伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』を学官に立てることを主張したが、今文学者たちの激しい反対に遭った。平帝の元始5年(5年)、律暦の考定を試み、三統暦を作った。王莽の新朝では古文経を学官に立て、劉歆を「国師」に任じた。この時度量衡の改訂にも関わり、自分の理論に基づき標準器である「嘉量」を設計した。
(※2)郭 璞(276年 - 324年)は、中国西晋・東晋の文学者・卜者。字は景純。河東郡聞喜県の人。文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や『捜神記』などの志怪小説では、超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、『爾雅』『方言』『山海経』に注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが代表作とされる。『山海経』については、 彼が注釈をつけたものが現在の通行本である。
河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている五蔵山経は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり(※)、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっている。
(※) 四川大学の教授だった蒙文通の研究によれば、山海経のうち最も古い部分は蜀地方と巴地方について書かれた大荒経であり、その成立は西周時代後期にさかのぼる。次いで同じ地域を扱った海内経の一篇が書かれたと見られている。
地理学者・小川琢治は、洛陽を中心としている点・後の儒学者たちが排除した伝説や鬼神の多く登場する点・西王母が鬼神のような描写である点から、五蔵山経の部分の成立は東周の時代ではないかと推定をしている。日本へは平安時代に伝わり、江戸時代には刊本として流通していた。
2)構成(引用:Wikipedia)
2.1)山経
五蔵山経 (※)とも。『山海経』の最も核となる内容を有する。古くはこの「山経」に属するものだけが存在していたと考えられる。
(※)五蔵(ごぞう)とは「東・西・南・北・中」を示している。
①五蔵山経(南山・西山・北山・東山)
*南山経:《一経》招揺山から箕尾山まで《二経》柜山から漆呉山まで《三経》天虞山から南禺山まで
*西山経:《一経》銭来山から騩山まで《二経》鈐山から莱山まで 《三経》崇吾山から翼望山まで《四経》陰山から崦嵫山まで
*北山経:《一経》単狐山から隄山まで《二経》管涔山から敦題山まで 《三経》太行山から錞于毋逢山まで。
*東山経:《一経》樕𧑤山から竹山まで《二経》空桑山から䃌山まで《三経》尸胡山から無皋山まで。《四経》北号山から太山まで。
*中山経:《一経》甘棗山から鼓鐙山まで《二経》煇諸山から蔓渠山まで《三経》敖岸山から和山まで《四経》鹿蹄山から玄扈山まで《五経》苟牀山から陽虚山まで《六経》平逢山から陽華山まで《七経》休輿山から大騩山まで《八経》景山から琴鼓山まで《九経》女几山から賈超山まで《十経》首陽山から丙山まで《十一経》翼望山から几山まで《十二経》篇遇山から栄余山まで。
2.1)海経
②海外経(南・西・北・東の四経)
*海外南経:西南の隅から東南の隅にかけて。
*海外西経:西南の隅から西北の隅にかけて。
*海外北経:西北の隅から東北の隅にかけて。
*海外東経:東南の隅から東北の隅にかけて。
③海内経(南・西・北・東の四経)
*海内南経:東南の隅から西のようす。
*海内西経:西南の隅から北のようす。
*海内北経:西北の隅から東のようす。
*海内東経:東北の隅から南のようす。
④大荒経(南・西・北・東の四経)
*大荒東経:東の海のようす。日や月の昇る地域のようす。
*大荒南経:南の海のようす。
*大荒西経:西北の海のようす。日や月の入る地域のようす。
*大荒北経:東北の海の外のようす。
⑤海内経
*海内経:東の海の内のようす。
3)山海経図(引用:Wikipedia)
古代においては『山海経』は絵地図としても構成されており、山・川・海・森林などが描き込まれ、そこに神・人物・動物・植物・鉱物が描かれていたと考えられている。
とりわけ現行の『山海経』の特に海経に属する本文に存在する「杯に持って東に向かって立つ」(海内北経・蛇巫山)「几(つくえ)にもたれる」(海内北経・西王母)「東を向き崑崙の上に立つ」(海内西経・開明獣)などの描写は、本来は絵地図上に描かれた画像そのものの形を示していたと見られている。
現在確認されている『山海経』の図を持つ文献には以下のものが主に存在する。いずれも明の時代、あるいは清の時代に作られた版本などであるが、この他、同種の絵巻物も存在していたと見られている。
・明:広陵蒋応鎬絵図『山海経図絵全像』
・明:胡文煥『山海経図』
・清:『増補絵像山海経広注』
『三才図会』(※)などの類書には『山海経』が資料として引かれており、神・動物・異国などの情報と絵が収録されている。また、明の時代に邊景昭(べんけいしょう)の描いた絵巻物『百獣図』(1447年)にも『山海経』に由来するものと見られる動物などが多数描かれている。
三才図会にある世界地図・山海輿地全図(引用:Wikipedia)
(※)三才図会(さんさいずえ)は、絵を主体とした中国の類書。明の万暦35年(1607年)に完成し、1609年に出版された。王圻(おうき)とその次男の王思義によって編纂された。全106巻から構成される。三才とは天・地・人をいい、万物を意味する。世界の様々な事物を、天文、地理、人物、時令、宮室、器用、身体、衣服、人事、儀制、珍宝、文史、鳥獣、草木の14部門に分けて説明しており、各項目が図入りである点が本書の大きな特徴である。
日本では、江戸時代に描かれた絵巻物などに『山海経』の版本に描かれている神や動物を描いたものが確認されている。ただし記された情報に錯綜など多くが見られることから『山海経』の原文そのものを資料としておらず、中間に別の資料があり、それらを参考にして描かれたものであると考えられている。
*『怪奇鳥獣図巻』
*『十二霊獣図巻』 「ソウ」や「リョウシツ」など『山海経』に見られるものが描かれている。典拠には『三才図会』など類書との関係が見られている。
*『百鬼夜行画巻』 『百怪図巻』などに見られる日本の妖怪が描かれるが、後半に『山海経』のものが描かれている。長野市の真田宝物館に所蔵されている。
4)山海経の神々と妖怪 (引用:Wikipedia)
開明獣(カイメイジュウ)/窮奇(キュウキ)/義和(※1)/燭陰(ショクイン)/饕餮(トウテツ)/禺彊(グウキョウ)/句芒(クボウ)/祝融(シュクユウ)/蓐収(ジョクシュウ)/西王母(※2)/女媧(ジョカ)(※3)/九尾狐(キュウビコ)/讙(カン)/孟極(モウキョク)/竦斯(ショウシ)/白鵼/貫匈人(カンキョウジン)夔(キ)/天狗(※4)/応竜
開明獣 窮奇 燭陰 饕餮文
句芒 西王母像 女媧と伏羲 九尾狐 讙
貫匈人 夔 天狗 応龍
(引用:Wikipedia)
(※1)義和:太陽の母神であり、炎帝に属し東夷人の先祖にあたる帝夋の妻。羲和が天照大御神を指しているとする声もある。東海の海の外、甘水のほとりに羲和の国があり、そこに生える世界樹・扶桑(扶桑はかつて日本にあったとされる巨木)の下に住む女神である羲和は、神車を引きながら、子である「十の太陽たち=三足烏」を世話している。天を巡ってきてくたびれた太陽を湯谷で洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせるという。
(※2)西王母は、中国で古くから信仰された女仙、女神。大抵は俗称の王母娘娘と呼ばれる。「王母」は祖母や女王のような聖母といった意味合いであり、「西王母」とは西方にある崑崙山上の天界を統べる女性の尊称である。天界にある瑶池と蟠桃園の女主人でもあり、すべての女仙を支配する最上位の女神。東王父に対応する。
(※3)女媧は、古代中国神話に登場する人類を創造したとされる女神。三皇の一人に挙げる説がある。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。姿は蛇身人首であると描写される文献が残されており、漢の時代の画像などをはじめそのように描かれている。笙簧(しょうこう)という楽器の発明者であるともされる。
(※4)天狗は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。
5)『山海経』第十二「海内北経」(引用:Wikipedia)
(原文)蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
(読み下し)蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
★「倭」は「燕」に朝貢していたと考えられていたことがわかる。ただし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっており、「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。
★『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。この黒歯国と倭が関連付けられている記載として、以下のものがある。
●『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
(原文)去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可
(読み下し)女王(卑弥呼)の国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。
●『梁書』巻五十四 列伝第四十八 諸夷伝 東夷条 倭
(原文)其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至
(読み下し)南に身長三四尺の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。
★『山海経』の影響を受けているが、倭国と黒歯国は異なる国という認識である。
6)『山海経』の原文と読み下し(引用:古代史獺祭)
● 山海經 第九 海外東經 「君子國・黑齒國・毛民之國」
(原文)海外自東南陬至東北陬者 丘 爰有遺玉 青馬 視肉 楊柳 甘柤 甘華 百果所生 在東海 兩山夾丘 上有樹木 一曰嗟丘 一曰百果所在 在堯葬東 大人國在其北 爲人大 坐而削船 一曰在丘北 奢比之尸在其北 獸身 人面 大耳 珥兩青蛇 一曰肝楡之尸在大人北
(読み下し)海外、東南陬(すみ)より東北陬(すみ)に至る者(ところ)。 丘(さきゅう)。爰(ここ)に遺玉・青馬・視肉・楊柳・甘柤・甘華、有り。百果生ずる所。東海に在り、兩山丘を夾む。上に樹木有り。一に曰く、嗟丘。一に曰く、百果の在る所、堯を葬りし東に在り。 大人國は其の北に在り。人と爲り大。坐して船を削(あやつ)る。一に曰く、丘の北に在り。 奢比(しゃひ)の尸(し)、其の北に在り。獸身・人面・大耳。兩の青蛇を珥(じ=みみかざり)とす。一に曰く、肝楡(かんゆ)の尸、大人の北に在り。
(原文)君子國在其北 衣冠帶劍 食獸 使二大虎在旁 其人好讓不爭 有薰華草 朝生夕死
一曰在肝楡之尸北 在其北 各有兩首 一曰在君子國北 朝陽之谷 神曰天呉 是爲水伯
在北兩水閒 其爲獸也 八首人面 八足八尾 皆青黄 青丘國在其北 其狐四足九尾 一曰在朝陽北 帝命豎亥歩 自東極至于西極 五億十選九千八百歩 豎亥右手把算 左手指青丘北 一曰禹令豎亥 一曰五億十萬九千八百歩
(読み下し)君子國、其の北に在り。衣冠帶劍、獸を食う。二の文虎(文様のある虎)を使う。旁に在り。其の人、好く讓り爭わず。薰華草有り、朝に生じ夕に死す。一に曰く、肝楡の尸の北に在り。 (こうこう)、其の北に在り。各(おのおの)兩の首有り。一に曰く、君子國の北に在り。 朝陽の谷。神を天呉と曰い、是を水伯と爲す。の北、兩水の閒(かん=間)に在り。其の獸なるや八首人面・八足八尾。皆な青黄。 青丘國、其の北に在り。其の狐は四足九尾。一に曰く、朝陽の北に在り。帝は豎亥(じゅがい)に歩を命じ、東極より西極に至らしむ。五億十選九千八百歩。豎亥は右手に算(さん=そろばん)を把(と)り、左手は青丘の北を指す。一に曰く、禹は豎亥に令す。一に曰く、五億十萬九千八百歩。
(原文)黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 一赤一青 在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首
食稻使蛇 其一蛇赤 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝 雨師妾在其北 其爲人黑 兩手各操一蛇 左耳有青蛇 右耳有赤蛇 一曰在十日北 爲人黑身人面 各操一龜 玄股之國在其北 其爲人衣魚食 使兩鳥夾之 一曰在雨師妾北
(読み下し)黑齒國、其の北に在り。人と爲り黑し。稻を食し蛇を啖う。一は赤、一は青。其の旁に在り。一に曰く、豎亥の北に在り。人と爲り黑き首。稻を食し蛇を使う。其の一の蛇は赤し。 下に湯谷有り。湯谷の上に扶桑(ふそう=扶桑樹)有り。十の日の浴(ゆあみ)する所。黑齒の北に在り。水中に居す。大木有り。九の日は下の枝に居し、一の日は上の枝に居す。 雨師妾(うししょう)、其の北に在り。其の人と爲り黑し。兩手に各(おのおの)一蛇を操る。左耳に青蛇有り、右耳に赤蛇有り。一に曰く、十日の北に在り。人と爲り黑身人面。各(おのおの)一龜を操る。玄股(げんこ)の國、其の北に在り。其の人と爲り魚を衣しを食す。兩の鳥を使い之を夾む。一に曰く、雨師妾の北に在り。
(原文)毛民之國在其北 爲人身生毛 一曰在玄股北 勞民國在其北 其爲人黑 或曰敎民 一曰在毛民北 爲人面目手足盡黑 東方句芒 鳥身人面 乘兩龍 建平元年四月丙戌 待詔太常屬臣望 校治侍中光祿勳臣 侍中奉車都尉光祿大夫臣秀 領主省
(読み下し)毛民の國、其の北に在り。人と爲り身に毛を生ず。一に曰く、玄股の北に在り。勞民國、其の北に在り。其の人と爲り黑し。或に曰く、敎民。一に曰く、毛民の北に在り。人と爲り面・目・手・足、盡く黑し。 東方は句芒(こうぼう)。鳥身・人面、兩の龍に乘る。建平元年【←前漢の哀帝のとき。紀元前6年】四月丙戌 待詔太常屬【←官名】臣・望【←人名/丁望】 校治侍中光祿勳【←官名】臣【←人名/王(おうしゅう)】 侍中奉車都尉光祿大夫【←官名】臣・秀【←人名/劉秀】領主省【←不詳】
●山海經 第十二 海内北經 「蓋國は鉅燕の南・倭の北に在り。倭は燕に屬す」
(原文)海内西北陬以東者 蛇巫之山 上有人操而東向立 西王母梯几而戴勝杖 其南有三青鳥 爲西王母取食 在昆侖虚北 有人曰大行伯 把戈 其東有犬封國 貳負之尸在大行伯東 犬封國曰犬戎國 状如犬 有一女子 方跪進食 有文馬 縞身朱鬣 目若黄金 名曰吉量 乘之壽千歳 鬼國在貳負之尸北 爲物人面而一目 一曰貳負神在其東 爲物人面蛇身 犬如犬 青 食人從首始 窮奇状如虎 有翼 食人從首始 所食被髮 在犬北 一曰從足
(読み下し)海内、西北陬(すみ)より東の者(ところ)。蛇巫(だふ)の山。上に人有りを操(と)りて、東に向い立つ。西王母、几に梯して勝杖を戴せる。其の南に三青鳥有り。西王母の爲に食を取る。昆侖の虚(おか)の北に在り。人有り、大行伯と曰う。戈を把(と)る。・其の東に犬封國有り。貳負(じふ)の尸(し)、大行伯の東に在り。犬封國、犬戎國と曰う。状、犬の如し。一女子有り、方(まさ)に跪きの食を進む。文馬(文様のある馬)有り。身は縞、鬣は朱、目は黄金の若し。名を吉量と曰う。之に乘るに壽千歳。・鬼國、貳負の尸の北に在り。物と爲り人面にして一目。一に曰く、貳負の神は其の東に在り、物と爲り人面蛇身。 犬(とうけん)は犬の如し。青し。人を食うに首より始める。・窮奇。状は虎の如し。翼有り。人を食うに首より始める。髮食わるる所。犬の北に在り。一に曰く從足。
(原文)帝堯臺 帝臺 帝丹朱臺 帝舜臺 各二臺 臺四方 在昆侖東北 大蜂其状如螽 朱蛾其状如蛾 其爲人虎文 脛有綮 在窮奇東 一曰状如人 昆侖虚北所有 非 人面而獸身 青色 據比之尸 其爲人折頸被髮 無一手 環狗 其爲人獸首人身 一曰蝟状如狗 黄色 其爲物人身黑首從目 戎 其爲人人首三角
(読み下し)帝堯の臺、帝の臺、帝丹朱の臺、帝舜の臺、各(おのおの)二臺。臺は四方。昆侖の東北に在り。 大蜂。其の状は螽(しゅう)の如し。・朱蛾。其の状は蛾の如し。・(きょう)。 其の人と爲り虎の文(あや=文様)にして脛に綮有り。窮奇の東に在り。一に曰く、状人の如し。昆侖の虚(おか)北の所に有り。 非(とうひ)。人面にして獸身、青色。 ・據比(きょひ)の尸(し)。其の人と爲り頸を折り被髮す。一手無し。・環狗(かんこう)。其の人と爲り獸首・人身。一に曰く蝟(むらが)る状狗の如し。黄色。(み)。其の物と爲り人身・黑首・從目。・戎(じゅう)。其の人と爲り人首・三角。
(原文)林氏國有珍獸 大若虎 五采畢具 尾長于身 名曰吾 乘之日行千里 昆侖虚南所 有氾林方三百里 從極之淵深三百仞 維冰夷恆都焉 冰夷人面 乘兩龍 一曰忠極之淵 陽汗之山 河出其中 凌門之山 河出其中 王子夜之尸 兩手 兩股 首 齒 皆斷異處 舜妻登比氏生宵明 燭光 處河大澤 二女之靈能照此所方百里 一曰登北氏
(読み下し)林氏國に珍獸有り。大いなる虎の若(ごと)し。五采畢(ことごと)く具わり、尾は身よりも長し。名を吾(すうご)と曰う。之に乘るに日に行くこと千里。・昆侖の虚(おか)の南の所。氾林(はんりん)有り、方三百里。・從極の淵。深さ三百仞。これ冰夷(ひょうい)恆(つね)に都す。冰夷は人面、兩の龍に乘る。一に曰く忠極の淵。 陽汗(ようお)の山。其の中に河を出だす。 ・凌門(りょうもん)の山。其の中に河を出だす。 王子夜の尸(し)。兩手・兩股・(=胸)・首・齒・皆な斷ちて處を異にす。舜の妻の登比(とうひ)氏は宵(しょう)明・燭(しょく)光を生む。河の大澤に處し、二女の靈は能く此の所方百里を照らす。一に曰く登北氏。
(原文)蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕 朝鮮在列陽東 海北山南 列陽屬燕 列姑射在海河州中
射姑國在海中 屬列姑射 西南 山環之 大蟹在海中 陵魚人面 手足 魚身 在海中 大居海中 明組邑居海中 蓬山在海中 大人之市在海中
(読み下し)蓋國。鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に屬す。朝鮮。列陽の東に在り。北は海、南は山。列陽は燕に屬す。列姑射(れっこや)。海の河州の中に在り。射姑(やこ)國。海中に在り。列姑射に屬す。西南、山之を環る。大蟹。海中に在り。・陵魚。人面・手足・魚身。海中に在り。大。海中に居す。明組の邑。海中に居す。蓬山。海中に在り。 大人の市。海中に在り。
●山海經 第十四 大荒東經
(原文)東海之外大壑 少昊之國 少昊孺帝于此 棄其琴瑟 有甘山者 甘水出焉 生甘淵 大荒東南隅有山 名皮母地丘 東海之外 大荒之中 有山名曰大言 日月所出 有波谷山者 有大人之國 有大人之市 名曰大人之堂 有一大人其上 張其兩耳 有小人國 名靖人 有神 人面獸身 名曰犁之尸 有山 楊水出焉 有國 黍食 使四鳥 虎 豹 熊 羆 大荒之中 有山名曰合虚 日月所出
(読み下し)東海の外は大いなる壑(たに)にして少昊(しょうこう)の國。少昊は帝(せんぎょく)を此(ここ)に孺(じゅ=養育)し、其の琴瑟を棄つ。 甘山有り、甘水出て、甘淵を生ず。 大荒の東南隅に山有り、名は皮母地(ひぼち?)丘。・東海の外、大荒の中に山有り、名づけて大言と曰う。日・月の出づる所。 波谷山なる者有り。大人の國有り。大人の市有り、名づけて大人の堂と曰う。一大人其の上に(うずくま)り、其の兩耳を張りて有り。小人國有り、名は靖(せい)人。神有り、人面獸身、名を犁(りれい)の尸(し)と曰う。(けつ)山有り、楊水(ようすい)を出だす。(き)國有り、黍(きび)を食し、四鳥・虎・豹・熊・羆を使う。大荒の中に山有り、名を合虚(ごうきょ)と曰う。日・月出づる所。
(原文)有中容之國 帝俊生中容 中容人食獸 木實 使四鳥 豹 虎 熊 羆 有東口之山 有君子之國 其人衣冠帶劍 有司幽之國 帝俊生晏龍 晏龍生司幽 司幽生思士 不妻 思女 不夫 食黍 食獸 是使四鳥 有大阿之山者 大荒中有山名曰明星 日月所出 有白民之國 帝俊生帝鴻 帝鴻生白民 白民銷姓 黍食 使四鳥 虎 豹 熊 羆 有青丘之國 有狐 九尾 有柔僕民 是維土之國
(読み下し)中容の國有り。帝俊は中容を生む。中容人は獸・木の實を食し、四鳥・豹・虎・熊・羆を使う。東口の山有り。君子の國有り、其の人衣冠帶劍す。幽の國有り。帝俊は晏龍を生み、晏龍は司幽を生み、司幽は思士を生む。妻せず。思女は夫せず。黍を食し、獸を食し、是れ四鳥を使う。大阿の山なる者有り。大荒の中に山有り、名づけて明星と曰う。日・月出づる所。白民の國有り。帝俊は帝鴻を生み、帝鴻は白民を生む。白民は銷(しょう)の姓。黍を食し、四鳥・虎・豹・熊・羆を使う。青丘の國有り。狐有り、九尾。 柔僕民有り、これ(えい=みちたりた/ゆたかな)土の國。
(原文)有黑齒之國 帝俊生黑齒 姜姓 黍食 使四鳥 有夏州之國 有蓋余之國 有神人 八首人面 虎身十尾 名曰天呉 大荒之中 有山名曰鞠陵于天 東極 離 日月所出 名曰折丹 東方曰折 來風曰俊 處東極以出入風
(読み下し)黑齒の國有り。帝俊は黑齒を生む。姜(きょう)姓。黍を食し、四鳥を使う。夏州の國有り。蓋余の國有り。神人有り、八首人面、虎身十尾、名づけて天呉と曰う。大荒の中に山有り、名づけて鞠陵于天(きくりょううてん)、東極(とうぎょく)、離(りぼう)と曰う。日・月出づる所。(獺祭註:ここ数文字脱落があるものか、文意通ぜず。「折丹」とは神人なりとする郭璞【かくはく/276年~324年。東晋の人。東晋記室参軍の地位にあって、山海経に注釈を加えた】の註あり。)名づけて折丹(せったん)と曰い、東方を折(せつ)と曰い、來る風を俊(しゅん)と曰い、東極に處し以って風を出入す。
(原文)東海之渚中有神 人面鳥身 珥兩黄蛇 踐兩黄蛇 名曰禺 黄帝生禺 禺生禺京 禺京處北海 禺處東海 是爲海神 有招搖山 融水出焉 有國曰玄股 黍食 使四鳥
(読み下し)東海の渚の中に神有り。人面鳥身、兩の黄蛇を珥(じ=耳飾り)とし、兩の黄蛇を踐(ふ)む。名づけて禺(ぐごう)と曰う。黄帝は禺を生み、禺は禺京(ぐけい)を生む。禺京は北海に處し、禺は東海に處す。是れ海神と爲す。・招搖山有り、融水を出だす。・國有り玄股と曰う。黍を食し四鳥を使う。
(原文)有困民國 勾姓□食 有人曰王亥 兩手操鳥 方食其頭 王亥託于有易 河伯僕牛 有易殺王亥 取僕牛 河念有易 有易潛出 爲國于獸 方食之 名曰搖民 帝舜生戲 戲生搖民
(読み下し)困民國有り。勾(こう)の姓、(原文に文字欠落、未詳)を食す。人有り王亥(おうがい)と曰う。兩手に鳥を操り、方(まさ)に其の頭を食う。王亥は有易(ゆうてき)に託され、河(か=人名?)は僕牛(ぼくぎゅう=立派な牛)を伯(はく=保持する/所有する)す。有易は王亥を殺し、僕牛を取る。河は有易を念じ、有易は潛(ひそか)に出でて獸(じゅう=地名?)に國を爲す。方(まさ)に之を食す。(獺祭註:ここ数文字脱落があるものか、文意通ぜず。)名づけて搖民(ようみん)と曰う。帝舜は戲(ぎ)を生み、戲は搖民を生む。
(原文)海内有兩人 名曰女丑 女丑有大蟹 大荒之中 有山名曰搖羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載于烏 有神 人面 犬耳 獸身 珥兩青蛇 名曰奢比尸 有五采之鳥 相棄沙 惟帝俊下友 帝下兩壇 采鳥是司 大荒之中 有山名猗天蘇門 日月所生 有民之國 有山 又有搖山 有山 又有門戸山 又有盛山 又有待山 有五采之鳥 東荒之中 有山名曰壑明俊疾 日月所出
(読み下し)海内に兩人有り。名づけて女丑(じょちゅう)と曰う。女丑に大蟹有り。・大荒の中に山有り、名づけて搖羝(げつよういんてい)と曰う。上に扶木(ふぼく=扶桑樹)有り、柱(ちゅう=まっすぐに高くそびえること)三百里、其の葉は芥(かい=からしな)の如し。谷有り、源谷(おんげんこく=湯谷)と曰う。湯谷(とうこく)の上に扶木(ふぼく=扶桑樹)有り。一日(いちじつ=ひとつの太陽)方(まさ)に至り、一日方(まさ)に出で、皆、烏(う=からす)を載せる。・神有り。人面、犬耳、獸身、兩の青蛇を珥(じ=耳飾り)とす。名づけて奢比(しゃひ)の尸(し)と曰う。五采の鳥有り、相棄沙(この部分不詳)。惟れ帝俊の下の友。帝下の兩壇は采鳥是を司る。・大荒の中に山有り、名は猗天(いてん)蘇門(そもん)、日・月の生ずる所。民(けんみん)の國有り。山(きざん)有り。また、搖山(ようざん)有り。山(そうざん)有り。また、門戸山有り。また、盛山有り。また、待山有り。五采の鳥有り。東荒の中に山有り、名づけて壑明俊疾(かくめいしゅんしつ)と曰う。日・月出ずる所。
(原文)有中容之國 東北海外 又有三青馬 三騅 甘華 爰有遺玉 三青鳥 三騅 視肉 甘華 甘柤 百穀所在 有女和月母之國 有人名曰 北方曰 來之風曰 是處東極隅以止日月 使無相閒出沒 司其短長 大荒東北隅中 有山名曰凶犁土丘 應龍處南極 殺蚩尤與夸父 不得復上 故下數旱 旱而爲應龍之状 乃得大雨
(読み下し)中容の國有り。・東北の海外に、また三青馬、三騅、甘華有り。爰(ここ)に遺玉、三青鳥、三騅、視肉、甘華、甘柤有り。百穀の在る所。 女和月母の國有。人有り名づけて(えん)と曰い,北方を(えん)と曰い、來る風を(えん)と曰う。是、東極隅に處し以って日・月を止(とど)め、相い閒(まじ)えて出沒無からしめ、其の短長を司る。大荒東北隅の中に山有り、名づけて凶犁(きょうれい)土丘と曰う。應龍は南極に處し、蚩尤(しゆう)と夸父(こふ)を殺し、復た上ることを得ず。故に下は數(しばしば)旱(かん=ひでり)す。旱して應龍の状爲さば、乃ち大雨を得る。
(原文)東海中有流波山 入海七千里 其上有獸 状如牛 蒼身而無角 一足 出入水則必風雨 其光如日月 其聲如雷 其名曰 黄帝得之 以其皮爲鼓 以雷獸之骨 聲聞五百里 以威天下
(読み下し)東海の中に流波山有り。海に入ること七千里。其の上に獸有り、状、牛の如し。蒼身にして角無く、一足。水に出入して則ち必ず風雨、其の光は日・月の如く、其の聲は雷の如し。其の名を(き)と曰う。黄帝之を得、其の皮を以ちて鼓と爲し、雷獸の骨を以ちて(う)てば、聲五百里に聞こえ、以って天下を威(おどろ)かす。
(出典:Wikipedia&古代史獺祭)
★ 漢書 後漢 班固(32~92)撰。前漢(前206~後8)の歴史を記した史書。全百二十卷。
★中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのが、紀元前1世紀頃の『漢書』地理志である。
1)概要(引用:Wikipedia)
『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。
『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。『史記』と重なる時期の記述が多いので、比較されることが多い。
特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、『史記』に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは『史記』に勝る。
また思想的に、儒教的な観点により統一されている。『史記』と比較すると『漢書』には載道の意識が、やや硬直した形で現れている。
2)成書過程
『漢書』の制作は、班彪(はんひょう)が司馬遷の『史記』を継いで書いた『後伝』に始まる。班彪の子の班固が『史記』と未完の『後伝』を整理補充して『漢書』を制作した。
ただし、その八表と天文志は未完であり、和帝のとき、班固の妹の班昭と馬続によって完成された。
3)式との体裁の違い
・分野史:「書」を「志」と改める。
・伝記:「世家」を廃して「列伝」に入れた。
・年表:「百官公卿表」を創設し、官制の沿革を示した。「古今人表」を著し、太古から漢以前の人物を評価した。
4)内容
4.1)本紀
1 高帝紀 - 高祖劉邦/2 恵帝紀 - 恵帝劉盈/3 高后紀 - 高后呂雉(前少帝・後少帝劉弘)/4 文帝紀 - 文帝劉恒/5 景帝紀 - 景帝劉啓/6 武帝紀 - 武帝劉徹/7 昭帝紀 - 昭帝劉弗陵/8 宣帝紀 - 宣帝劉詢/9 元帝紀 - 元帝劉奭/10 成帝紀 - 成帝劉驁/11 哀帝紀 - 哀帝劉欣/12 平帝紀 - 平帝劉衎
4.2)表
1 異姓諸侯王表 - 劉氏以外の王/2 諸侯王表/3 王子侯表/4 高恵高后文功臣表/5 景武昭宣元成功臣表/6 外戚恩沢侯表/7 百官公卿表/8 古今人表
4.3)志
1 律暦志 - 鄧平らの太初暦・劉歆の三統暦/2 礼楽志/3 刑法志/4 食貨志/5 郊祀志/6 天文志/7 五行志/8 地理志/9 溝洫志/10 芸文志 - 劉向の『別録』、劉歆の『七略』に基づく。
4.4)列伝
1 陳勝項籍伝 - 陳勝・項籍/2 張耳陳余伝 - 張耳・陳余/3 魏豹田儋韓王信伝 - 魏豹・田儋・韓王信/4 韓彭英盧呉伝 - 韓信・彭越・英布・盧綰・呉芮/5 荊燕呉伝 - 荊王劉賈・燕王劉沢・呉王劉濞
6 楚元王伝 - 楚元王劉交・劉向・劉歆/7 季布欒布田叔伝 - 季布・欒布・田叔/8 高五王伝 - 劉肥・劉如意・劉友・劉恢・劉建/9 蕭何曹参伝 - 蕭何・曹参/10 張陳王周伝 - 張良・陳平・王陵・周勃
11 樊酈滕灌傅靳周伝 - 樊噲・酈商・夏侯嬰・灌嬰・傅寬・靳歙・周緤/12 張周趙任申屠伝 - 張蒼・周昌・趙堯・任敖・申屠嘉/13 酈陸朱劉叔孫伝 - 酈食其・陸賈・朱建・劉敬・叔孫通
14 淮南衡山済北王伝 - 淮南厲王劉長・衡山王劉賜・済北貞王劉勃/15 蒯伍江息夫伝 - 蒯通・伍被・江充・息夫躬/16 万石直周張伝 - 石奮・衛綰・直不疑・周仁・張欧
17 文三王伝 - 梁孝王劉武・代孝王劉参・梁懐王劉揖/18 賈誼伝 - 賈誼/19 爰盎鼂錯伝 - 袁盎・鼂錯/20 張馮汲鄭伝 - 張釈之・馮唐・汲黯・鄭当時/21 賈鄒枚路伝 - 賈山・鄒陽・枚乗・路温舒
22 竇田灌韓伝 - 竇嬰・田蚡・灌夫・韓安国/23 景十三王伝 - 河間献王徳・臨江哀王閼・臨江閔王栄・魯恭王余・江都易王非・膠西干王端・趙敬粛王彭祖・中山靖王勝・長沙定王発・広川恵王越・膠東康王寄・清河哀王乗・常山憲王舜/24 李広蘇建伝 - 李広・蘇建/25 衛青霍去病伝 - 衛青・霍去病
26 董仲舒伝 - 董仲舒/27 司馬相如伝 - 司馬相如/28 公孫弘卜式児寛伝 - 公孫弘・卜式・児寛/29 張湯伝 - 張湯/30 杜周伝 - 杜周/31 張騫李広利伝 - 張騫・李広利
32 司馬遷伝 - 司馬遷/33 武五子伝 - 戻太子拠・斉懐王閎・燕剌王旦・広陵厲王胥・昌邑哀王髆/34 厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝- 厳助・朱買臣・吾丘寿王・主父偃・徐楽・厳安・終軍・王褒・賈捐之
35 東方朔伝 - 東方朔/36 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝 - 公孫賀・劉屈氂・田千秋・王訢・楊敞・蔡義・陳万年・鄭弘/37 楊胡朱梅伝 - 楊王孫・胡建・朱雲・梅福/38 霍光金日磾伝 - 霍光・金日磾
39 趙充国辛慶忌伝 - 趙充国・辛慶忌/40 傅常鄭甘陳段伝 - 傅介子・常恵・鄭吉・甘延寿・陳湯・段会宗/41 雋疏于薛平彭伝 - 雋不疑・疏広・于定国・薛広徳・平当・彭宣
42 王貢両龔鮑伝 - 王吉・貢禹・龔勝・龔舎・鮑宣/43 韋賢伝 - 韋賢/44 魏相丙吉伝 - 魏相・丙吉/45 眭両夏侯京翼李伝 - 眭弘・夏侯始昌・夏侯勝・京房・翼奉・李尋
46 趙尹韓張両王伝 - 趙広漢・尹翁帰・韓延寿・張敞・王尊・王章/47 蓋諸葛劉鄭孫毋将何伝 - 蓋寛饒・諸葛豊・劉輔・鄭崇・孫宝・毋将隆・何並/48 蕭望之伝 - 蕭望之/49 馮奉世伝 - 馮奉世
50 宣元六王伝 - 淮陽憲王欽・楚孝王囂・東平思王宇・中山哀王竟・定陶共王康・中山孝王興/51 匡張孔馬伝 - 匡衡・張禹・孔光・馬宮/52 王商史丹傅喜伝 - 王商・史丹・傅喜
53 薛宣朱博伝 - 薛宣・朱博/54 翟方進伝 - 翟方進/55 谷永杜鄴伝 - 谷永・杜鄴/56 何武王嘉師丹伝 - 何武・王嘉・師丹/57 揚雄伝 - 揚雄
58 儒林伝 - 丁寛・施讎・孟喜・梁丘賀・京房・費直・高相・伏生・欧陽生・林尊・夏侯勝・周堪・張山拊・孔安国・申公・王式・轅固・后蒼・韓嬰・趙子・毛公・徐生・孟卿・胡毋生・厳彭祖・顔安楽・瑕丘江公・房鳳
59 循吏伝 - 文翁・王成・黄覇・朱邑・龔遂・召信臣/60 酷吏伝 - 郅都・寧成・周陽由・趙禹・義縦・王温舒・尹斉・楊僕・減宣・田広明・田延年・厳延年・尹賞
61 貨殖伝 - 范蠡・子贛・白圭・猗頓・烏氏蠃・巴寡婦清・蜀卓氏・程鄭・宛孔氏・丙氏・刀間・師史・宣曲任氏/62 游侠伝 - 朱家・劇孟・郭解・萭章・楼護・陳遵・原渉
63 佞幸伝 - 鄧通・趙談・韓嫣・李延年・石顕・淳于長・董賢/64 匈奴伝 - 匈奴/65 西南夷両粤朝鮮伝 - 南越・衛氏朝鮮/66 西域伝 - 西域/67 外戚伝 - 外戚/68 元后伝 - 王政君/69 王莽伝 - 王莽/70 叙伝 - 班家の歴史・班固の序文
2)内容(抜粋)(引用:古代史獺祭)
●『漢書』地理志燕地条「樂浪海中に倭人あり」
(原文)燕地 尾箕分也 武王定殷 封召公於燕 其後三十六世與六國倶稱王 東有漁陽右北平遼西遼東 西有上谷代郡雁門 南得郡之易容城范陽 北新城故安縣良郷新昌及勃海之安次 皆燕分也 樂浪玄菟亦宜屬焉
(読み下し)燕の地は尾(び)・箕(き)の分(ぶんや)なり。武王は殷を定め、召公を燕に封じ、その後三十六世にして六國と倶(とも)に王を稱す。東に漁陽(ぎょよう)・右北平(うほくへい)・遼西(りょうせい)・遼東(りょうとう)有り、西に上谷(じょうこく)・代郡(だいぐん)・雁門(がんもん)有り、南に郡(たくぐん)の易(えき)・容城(ようじょう)・范陽(はんよう)、北に新城(しんじょう)、故安(こあん)、縣(たくけん)、良郷(りょうごう)、新昌(しんしょう)、及び勃海(ぼっかい)の安次(あんじ)を得(え)、皆燕の分(ぶん)なり。樂浪(らくろう/=樂浪郡)・玄菟(げんと/=玄菟郡)もまた宜(よろ)しく焉(これ)に屬すべし。
(原文)燕稱王十世 秦欲滅六國 燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王不成而誅 秦遂舉兵滅燕
(読み下し)燕の王を稱して十世、秦は六國を滅さんと欲す。 燕王の太子丹(たん)は勇士荊軻(けいか)を遣し西に秦王を刺さしめるも、成らずして誅され、秦は遂に兵を舉げて燕を滅す。
(原文)薊 南通齊趙 勃碣之間一都會也 初太子丹賓養勇士 不愛後宮美女 民化以爲俗 至今猶然 賓客相過以婦侍宿 嫁取之夕男女無別 反以爲榮 後稍頗止 然終未改 其俗愚悍少慮輕薄無威 亦有所長敢於急人燕丹遺風也
(読み下し)薊(けい)は南に齊(せい)・趙(ちょう)に通じ、勃・碣(けつ)の間の一都會なり。初め太子丹は勇士を賓養(ひんよう)し、後宮の美女を愛さず、民は化を以って俗と爲す。今に至るも猶(なお)然(しか)り。賓客相過ぐるに、婦を以って宿に侍し、嫁取の夕に男女の別無く、反りて以って榮と爲す。後に稍(やや)頗止(ひんし)するも、然るに終(つい)に未だ改まらず。その俗は愚にして悍(たけ)く、慮(りょ/=思慮)少く、輕薄にして威無し。亦(また)長(ちょう/=長所)有り、人の急に敢たるは、燕丹(えんたん/=燕の太子、丹)の遺風なり。
(原文)上谷至遼東 地廣民希 數被胡寇 俗與趙代相類 有魚鹽棗栗之饒 北隙烏丸夫餘 東賈真番之利
(読み下し)上谷(じょうこく)より遼東に至るは、地廣く民希(すくな)く、數(しばしば)胡の寇を被り、俗は趙・代と相い類し、魚・鹽・棗・栗の饒(ぎょう)有り。北は烏丸・夫餘に隙(かく)し、東に真番(しんぱん)の利を賈う。
(原文)玄菟樂浪武帝時置 皆朝鮮貉句驪蠻夷 殷道衰 箕子去之朝鮮 教其民以禮義田蠶織作 樂浪朝鮮民犯禁八條 相殺以當時償殺 相傷以穀償 相盜者男沒入爲其家奴 女子爲婢 欲自贖者 人五十萬 雖免爲民 俗猶羞之 嫁取無所讎 是以其民終不相盜 無門戸之閉 婦人貞信不淫辟 其田民飲食以豆 都邑頗放效吏及内郡賈人 往往以杯器食
(読み下し)玄菟・樂浪は武帝の時に置き、皆朝鮮・貉(わいばく)・句驪の蠻夷なり。殷の道衰え、箕子(きし)は朝鮮に去り、その民に禮義を以って田蠶・織作を教う。樂浪・朝鮮の民の禁八條を犯すに、相殺すは時當(まさ)に殺に償(あがな)い、相傷つけるは穀を以って償う。相盜むは、男は沒入してその家の奴と爲し、女子は婢と爲す。自ら贖わんと欲するは、人に五十萬。免れ民と爲すと雖も、俗はなおこれを羞じ、嫁を取るに讎(むく)う所無く、これをもってその民は終(つい)に相盜まず、門戸の閉ざす無く、婦人は貞信にして淫辟(いんひ)せず。その田民は豆(へんとう)を以って飲食し、都邑は頗る吏及び内郡の賈人に放效(なら)い、往往杯器を以って食す。
(原文)郡初取吏於遼東 吏見民無閉臧 及賈人往者 夜則爲盜 俗稍益薄 今於犯禁浸多 至六十餘條 可貴哉 仁賢之化也 然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫
(読み下し)郡は初め遼東に吏を取り、吏は民の閉臧(へいかん)無きを見、及び賈人の往く者、夜に則ち盜を爲し、俗は稍く益薄し。今に禁を犯すは浸(ようや)く多く、六十餘條に至る。貴ぶ可(べ)き哉(かな)、仁賢の化。然(しか)るに東夷は天性柔順、三方の外に異る。故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。
(原文)樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云 自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也
(読み下し)樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う。
●『漢書』地理志呉地条 「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
(原文)呉地 斗分也 今之會稽 九江 丹陽 豫章 廬江 廣陵 六安 臨淮郡 盡呉分也
(読み下し)呉の地は、斗(と)の分(ぶんや)なり。今の會稽(かいけい)、九江(きゅうこう)、丹陽(たんよう)、豫章(よしょう)、廬江(ろこう)、廣陵(こうりょう)、六安(りくあん)、臨淮(りんわい)郡は盡(ことごと)く呉の分なり。
(原文)殷道既衰 周大王亶父興梁之地 長子大伯 次曰仲雍 少曰公季 公季有聖子昌 大王欲傳國焉 大伯仲雍辭行采藥 遂奔荊蠻 公季嗣位 昌爲西伯 受命而王 故孔子美而稱曰 大伯 可謂至也已矣 三以天下讓 民無得而稱焉 謂 虞仲夷逸 隱居放言 身中清 廢中權
(読み下し)殷の道既に衰え、周の大王亶父(たんぽ)、梁(きりょう)の地に興(おこ)る。長子を大伯(たいはく)、次を仲雍(ちゅうよう)と曰い、少を公季(こうき)と曰う。公季に聖子昌(しょう)有り、大王、國を傳えんと欲す。大伯・仲雍は采藥辭行して、遂に荊蠻(けいばん)に奔(はし)る。公季位を嗣ぎ、昌を西伯(せいはく)と爲し、命を受けて王となる。故に孔子、美(ほめ)て稱(たた)えて曰く、「大伯、至(德)と謂うべきなるかな。三たび以って天下を讓るも、民は稱え得る無し」と。謂(おもえ)らく「虞仲(ぐちゅう=仲雍)・夷逸(いいつ)は隱居放言して身は清なること中、權(けん)を廢すること中」と。
(原文)大伯初奔荊蠻 荊蠻歸之 號曰句呉 大伯卒 仲雍立 至曾孫周章 而武王克殷 因而封之 又封周章弟中於河北 是爲北呉 後世謂之虞 十二世爲晉所滅 後二世而荊蠻之呉子壽夢盛大稱王 其少子則季札 有賢材 兄弟欲傳國 札讓而不受 自壽夢稱王六世 闔廬舉伍子胥 孫武爲將 戰勝攻取 興伯名於諸侯 至子夫差 誅子胥 用宰 爲粤王句踐所滅
(読み下し)大伯の初めて荊蠻(けいばん)に奔(はし)るや、荊蠻之に歸し、號して句呉(こうご)と曰う。 大伯卒し、仲雍(ちゅうよう)立つ。曾孫の周章(しゅうしょう)に至りて武王は殷に克(か)ち、因って之を封ず。又、周章の弟の中(ちゅう)を河北に封ず。是を北呉と爲し、後世之を虞と謂い、十二世にして晉の滅す所と爲(な)る。二世の後に荊蠻の呉子壽夢(ごしじゅぼう)盛大にして王を稱す。其の少子則ち季札(きさつ)は賢材有り。兄弟は傳國を欲するも、札は讓りて受けず。壽夢の王を稱してより六世、闔廬(こうりょ)は伍子胥ー(ごししょ)を舉げ、孫武(そんぶ)を將と爲し、戰勝攻取して諸侯に伯名を興すも、子の夫差(ふさ)に至りて子胥を誅し、宰(さいひ)を用いて粤(えつ)王句踐(こうせん)の滅す所と爲る。
(原文)呉粤之君皆好勇 故其民至今好用劍 輕死易發
(読み下し)呉・粤(えつ)の君は皆勇を好む。 故にその民は今に至るも好く劍を用い、死を輕んじ發し易し。
(原文)粤既并呉 後六世爲楚所滅 後秦又撃楚 徙壽春 至子爲秦所滅
(読み下し)粤は既に呉を并わせ、後六世にして楚の滅す所と爲る。後に秦はまた楚を撃つ。壽春に徙(うつ)り、子に至り秦の滅す所と爲る。
(原文)壽春 合肥受南北湖皮革 鮑 木之輸 亦一都會也 始楚賢臣屈原被讒放流 作離騷諸賦以自傷悼 後有宋玉 唐勒之屬慕而述之 皆以顯名 漢興 高祖王兄子於呉 招致天下之游子弟 枚乘 鄒陽 嚴夫子之徒興於文 景之際 而淮南王安亦都壽春 招賓客著書 而呉有嚴助 朱賈臣 貴顯漢朝 文辭並發 故世傳楚辭 其失巧而少信 初淮南王異國中民家有女者 以待游士而妻之 故至今多女而少男 本呉粤與楚接比 數相并兼 故民俗略同
(読み下し)壽春、合肥は南北の湖の皮革、鮑、木の輸を受け、また一都會なり。始め楚の賢臣屈原は讒せられ放流し、『離騷』諸賦を作り、以って自ら傷悼(しょうとう)す。後に宋玉(そうぎょく)・唐勒(とうろく)の屬有り、慕いてこれを述べ、皆以って名を顯(あら)わす。漢興(おこ)り、高祖は兄の子(ひ)を呉の王とし、天下の游(ぐゆう)の子弟を招致し、枚乘(まいじょう)、鄒陽(すうよう)、嚴夫子の徒文、景の際に興る。而して淮南王安(あん)もまた壽春に都し、賓客を招き書を著す。而して呉に嚴助、朱賈臣有り、漢朝に貴顯して、文辭並び發ち、故に世に『楚辭』を傳う。その失は巧にして信少し。初め淮南王は國中民家の女(むすめ)有るを異とし、以って游士を待しこれに妻す。 故に今に至りて女多く男少し。もと呉・粤と楚は接比し、數(しばしば)相并兼し、故に民俗は略(ほぼ)同じ。
(原文)呉東有海鹽章山之銅 三江五湖之利 亦江東之一都會也 豫章出黄金 然菫菫物之所有 取之不足以更費 江南卑 丈夫多夭
(読み下し)呉の東に海鹽・章山の銅、三江五湖の利有り、また江東の一都會なり豫章は黄金を出す。然して物の所有は菫菫たり、これを取るも以って更費に足らず。江南は卑(ひしつ)にして、丈夫多く夭す。
(原文)會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云
(読み下し)會稽の海外に東鯷人(とうていじん)有り、分かれて二十餘國と爲す。歳時を以って來たり獻見すと云う。
★「鯷(テイ)」は大きなナマズの意味である。東鯷人と倭人の関係は不明であるが、谷川健一は「わが列島の中に「東鯷人」の国を求めるとすれば、阿蘇山の周辺をおいてほかにないと私は考える」と記している。
●漢書 卷二十八下 地理志第八下 粤地条 「その君は禹の後にして、帝少康の庶子と云う」
(原文)粤地 牽牛 女之分也 今之蒼梧 鬱林 合浦 交阯 九真 南海 日南 皆粤分也
(読み下し)粤(えつ)の地は、牽牛、女(ぶじょ)の分(ぶんや)なり。今の蒼梧(そうご)、鬱林(うつりん)、合浦(ごうほ)、交阯(こうし)、九真、南海、日南は皆粤の分なり。
(原文)其君禹後 帝少康之庶子云 封於會稽 文身斷髮 以避蛟龍之害
(読み下し)その君は禹(う)の後(すえ)にして、帝少康の庶子と云う。會稽に封ぜられ、文身斷髮し、以って蛟龍の害を避く。
(原文)後二十世 至句踐稱王 與呉王闔廬戰 敗之雋李 夫差立 句踐乘勝復伐呉 呉大破之 棲會稽 臣服請平 後用范蠡 大夫種計 遂伐滅呉 兼并其地 度淮與齊 晉諸侯會 致貢於周 周元王使使賜命爲伯 諸侯畢賀
(読み下し)後二十世、句踐(こうせん)の王を稱すに至り、呉王闔廬(こうりょ)と戰い、これを雋李(すいり)に敗る。夫差(ふさ)立つ。句踐、勝に乘じ復た呉を伐つも、呉は大いにこれを破る。會稽に棲み、臣服し平を請う。後に范蠡(はんれい)、大夫種(しょう)の計を用い、遂に呉を伐ちて滅し、その地を兼并す。 淮(わい)を度り齊・晉の諸侯と會し、貢を周に致す。 周の元王は使をして命を賜わしめ伯と爲し、諸侯は畢(ことごと)く賀す。
(原文)後五世爲楚所滅 子孫分散 君服於楚 後十世 至君搖 佐諸侯平秦 漢興 復立搖爲越王 是時 秦南海尉趙佗亦自王 傳國至武帝時 盡滅以爲郡云
(読み下し)後五世にして楚の滅する所と爲し、子孫は分散し、君は楚に服す。後十世、君(びんくん)搖(よう)に至り、諸侯を佐け秦を平らぐ。漢興(お)こり、また搖を立て越王と爲す。この時に、秦の南海尉(=官名)趙佗(ちょうた)また自ら王となし、傳國して武帝に至りし時に、盡く滅し以って郡と爲すと云う。
(原文)處近海 多犀 象 毒冒 珠 銀 銅 果 布之湊 中國往商賈者多取富焉 番禺 其一都會也
(読み下し)處は海に近く、犀、象、毒冒(たいまい)、珠(しゅき)、銀、銅、果、布の湊多く、中國より往く商賈の者は多く富を取る。番禺(ばんぐう)は、その一都會なり。
(原文)自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里 武帝元封元年略以爲耳 珠郡 民皆服布如單被 穿中央爲貫頭 男子耕農 種禾稻紵麻 女子桑蠶織績 亡馬與虎 民有五畜 山多麈 兵則矛 盾 刀 木弓弩 竹矢 或骨爲鏃 自初爲郡縣 吏卒中國人多侵陵之 故率數歳壹反 元帝時 遂罷棄之
(読み下し)合浦の徐聞より南に海に入り、大州を得たり。 東西南北方千里にして、武帝の元封元年に略し以って耳(たんじ)、珠(しゅがい)郡と爲す。民は皆布を服(き)るに單被の如く、中央を穿ち貫頭と爲す。男子は耕農し、禾稻・紵麻を種え、女子は桑蠶織績す。馬と虎亡く、民に五畜有り。山に麈・(けい)多し。兵は則ち矛、盾、刀、木弓弩、竹矢、或は骨を鏃と爲す。初め郡縣と爲してより、吏卒の中國人にこれに侵陵さること多し、故に率は數歳に壹たび反す。元帝の時、遂にこれを罷棄す。
(原文)自日南障塞 徐聞 合浦船行可五月 有都元國 又船行可四月 有邑盧沒國 又船行可二十餘日 有諶離國 歩行可十餘日 有夫甘都盧國
(読み下し)日南の障塞、徐聞、合浦より船行五月ばかりにして、都元國有り。また船行四月ばかりにして、邑盧沒國(ゆうろぼつこく)有り。また船行二十餘日ばかりにして、諶離國(しんりこく)有り。歩行十餘日ばかりにして、夫甘都盧國(ふかんとろこく)有り。
(原文)自夫甘都盧國船行可二月餘 有黄支國 民俗略與珠相類 其州廣大 戸口多 多異物 自武帝以來皆獻見 有譯長 屬黄門 與應募者倶入海市明珠 璧流離 奇石異物 齎黄金雜繒而往 所至國皆稟食爲 蠻夷賈船 轉送致之
(読み下し)夫甘都盧國より船行二月餘ばかりにして、黄支國(こうしこく)有り。民の俗は略そ珠と相類す。 その州は廣大、戸口多く、異物多く、武帝より以來皆獻見す。譯長有り、黄門に屬す。應募の者と倶(とも)に海に入り明珠、璧流離(へきるり)、奇石異物を市し黄金・雜繒を齎(もたら)して往きたり。至る所の國は皆食を稟(さず)け(ぐう=連れ立つ)を爲し、蠻夷の賈船、轉送しこれを致す。
(原文)亦利交易 剽殺人 又苦逢風波溺死 不者數年來還 大珠至圍二寸以下 平帝元始中 王莽輔政 欲燿威德 厚遺黄支王 令遣使獻生犀牛 自黄支船行可八月 到皮宗 船行可二月 到日南 象林界云 黄支之南 有已程不國 漢之譯使自此還矣
(読み下し)また交易に利し、人を剽殺す。また風波に逢い溺死するに苦しみ、しからずは數年に來還す。大珠は圍二寸を以って下るに至る。平帝の元始中、王莽(おうもう)は政を輔け、威德を燿(かがや)かさんと欲し、黄支王に厚く遺し、使を遣し生きたる犀牛を獻ぜしむ。黄支より船行八月ばかりにして、皮宗に到る。船行二月ばかりに、日南の象林(しょうりん)の界に到ると云う。黄支の南に、已程不國(いていふこく)有り、漢の譯使は此(ここ)より還る。
(引用:Wikipedia&古代史獺祭)
1)『後漢書』の概要(引用:Wikipedia)
『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻、列伝80巻、志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は宋の范曄で、「志」の編纂者は西晋の司馬彪。
●本紀
巻1上 (1/2) 光武帝紀上(光武帝)/巻1下 (2/2) 光武帝紀下(光武帝)/巻2 顕宗孝明帝紀(明帝)/巻3 粛宗孝章帝紀(章帝)/巻4 孝和孝殤帝紀(和帝・殤帝)/巻5 孝安帝紀(安帝)/巻6 孝順孝沖孝質帝紀(順帝・沖帝・質帝)/巻7 孝桓帝紀(桓帝)/巻8 孝霊帝紀(霊帝)
巻9 孝献帝紀(献帝)/巻10上 (1/2) 皇后紀上(光武郭皇后・光烈陰皇后・明徳馬皇后・賈貴人・章徳竇皇后・和帝陰皇后・和熹鄧皇后)/巻10下 (2/2) 皇后紀下(安思閻皇后・順烈梁皇后・虞美人・陳夫人・孝崇匽皇后・桓帝懿献梁皇后・桓帝鄧皇后・桓思竇皇后・孝仁董皇后・霊帝宋皇后・霊思何皇后・献帝伏皇后・献穆曹皇后)
●列伝
巻11 劉玄劉盆子列伝(劉玄・劉盆子)/巻12 王劉張李彭盧列伝(王昌・劉永・龐萌・張歩・王閎・李憲・彭寵・盧芳)/巻13 隗囂公孫述列伝(隗囂・公孫述)
巻14 宗室四王三侯列伝(斉武王縯・北海靖王興・趙孝王良・城陽恭王祉・泗水王歙・安成孝侯賜・成武孝侯順・順陽懐侯嘉)/巻15 李王鄧来列伝(李通・王常・鄧晨・来歙・来歴)/巻16 鄧寇列伝(鄧禹・鄧訓・鄧騭・寇恂・寇栄)
巻17 馮岑賈列伝(馮異・岑彭・賈復)/巻18 呉蓋陳臧列伝(呉漢・蓋延・陳俊・臧宮)/巻19 耿弇列伝(耿弇・耿国・耿秉・耿夔・耿恭)/巻20 銚期王覇祭遵列伝(銚期・王覇・祭遵・祭)
巻21 任李萬邳劉耿列伝(任光・任隗・李忠・萬脩・邳彤・劉植・耿純)/巻22 朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(朱祜・景丹・王梁・杜茂・馬成・劉隆・傅俊・堅鐔・馬武)/巻23 竇融列伝(竇融・竇固・竇憲・竇章)
巻24 馬援列伝(馬援・馬廖・馬防・馬厳・馬棱)/巻25 卓魯魏劉列伝(卓茂・魯恭・魯丕・魏覇・劉寛)/巻26 伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝(伏湛・伏隆・侯覇・宋弘・宋漢・蔡茂・郭賀・馮勤・趙憙・牟融・韋彪・韋義)
巻27 宣張二王杜郭呉承鄭趙列伝(宣秉・張湛・王丹・王良・杜林・郭丹・呉良・承宮・鄭均・趙典)/巻28上 (1/2) 桓譚馮衍列伝(桓譚・馮衍)/巻28下 (2/2) 馮衍伝(馮衍・馮豹)
巻29 申屠剛鮑永郅惲列伝(申屠剛・鮑永・鮑昱・郅惲・郅寿)/巻30上 (1/2) 蘇竟楊厚列伝(蘇竟・楊厚)/巻30下 (2/2) 郎顗襄楷列伝(郎顗・襄楷)
巻31 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列伝(郭伋・杜詩・孔奮・張堪・廉范・王堂・蘇章・蘇不韋・羊続・賈琮・陸康)/巻32 樊宏陰識列伝(樊宏・樊儵・樊準・陰識・陰興)/巻33 朱馮虞鄭周列伝(朱浮・馮魴・虞延・鄭弘・周章)
巻34 梁統列伝(梁統・梁松・梁竦・梁商・梁冀)/巻35 張曹鄭列伝(張純・張奮・曹褒・鄭玄)/巻36 鄭范陳賈張列伝(鄭興・鄭衆・范升・陳元・賈逵・張覇・張楷・張陵・張玄)
巻37 桓栄丁鴻列伝(桓栄・桓郁・桓焉・桓典・桓鸞・桓曄・桓彬・丁鴻)/巻38 張法滕馮度楊列伝(張宗・法雄・滕撫・馮緄・度尚・楊琁)/巻39 劉趙淳于江劉周趙列伝(劉平・趙孝・淳于恭・江革・劉般・劉愷・周磐・蔡順・趙咨)
巻40上 (1/2) 班彪列伝(班彪・班固)/巻40下 (2/2) 班彪列伝(班固)/巻41 第五鍾離宗宋寒列伝(第五倫・鍾離意・宋均・宋意・寒朗)/巻42 光武十王列伝(劉彊・劉輔・劉康・劉延・劉焉・劉英・劉蒼・劉荊・劉衡・劉京)
巻43 朱楽何列伝(朱暉・朱穆・楽恢・何敞)/巻44 鄧張徐張胡列伝(鄧彪・張禹・徐防・張敏・胡広)/巻45 袁張韓周列伝(袁安・袁京・袁敞・袁閎・張酺・韓棱・周栄・周景)/巻46 郭陳列伝(郭躬・郭鎮・陳寵・陳忠)
巻47 班梁列伝(班超・班勇・梁慬・何熙)/巻48 楊李翟応霍爰徐列伝(楊終・李法・翟酺・応奉・応劭・霍諝・爰延・徐璆)/巻49 王充王符仲長統列伝(王充・王符・仲長統)
巻50 孝明八王列伝(劉建・劉羨・劉恭・劉党・劉衍・劉暢・劉昞・劉長)/巻51 李陳龐陳橋列伝(李恂・陳禅・龐参・陳亀・橋玄)/巻52 崔駰列伝(崔駰・崔瑗・崔寔・崔烈・崔鈞)
巻53 周黄徐姜申屠列伝(周燮・黄憲・徐稚・姜肱・申屠蟠)/巻54 楊震列伝(楊震・楊秉・楊賜・楊彪・楊修)/巻55 章帝八王伝(劉伉・劉全・劉慶・劉寿・劉開・劉淑・劉万歳・劉勝)
巻56 張王種陳列伝(張晧・張綱・王龔・王暢・种暠・种岱・种払・种劭・陳球)/巻57 杜欒劉李劉謝列伝(杜根・成翊世・欒巴・劉陶・李雲・劉瑜・謝弼)/巻58 虞傅蓋臧列伝(虞詡・傅燮・蓋勲・臧洪)
巻59 張衡列伝( 張衡)/巻60上 (1/2) 馬融列伝(馬融)/巻60下 (2/2) 蔡邕列伝(蔡邕)/巻61 左周黄列伝(左雄・周挙・周勰・黄瓊・黄琬)/巻62 荀韓鍾陳列伝(荀淑・荀爽・荀悦・韓韶・鍾皓・陳寔・陳紀)
巻63 李杜列伝(李固・李燮・杜喬)/巻64 呉延史盧趙列伝(呉祐・延篤・史弼・盧植・趙岐)/巻65 皇甫張段列伝(皇甫規・張奐・段熲)/巻66 陳王列伝(陳蕃・王允)/巻67 党錮列伝( 劉淑・李膺・杜密・魏朗・夏馥・宗慈・范滂・尹勲・蔡衍・羊陟・張倹・岑晊・陳翔・苑康・檀敷・劉儒・賈彪・何顒)
巻68 郭符許列伝(郭泰・符融・許劭)/巻69 竇何列伝(竇武・何進)/巻70 鄭孔荀列伝(鄭泰・孔融・荀彧)/巻71 皇甫嵩朱鑈列伝(皇甫嵩・朱儁)/巻72 董卓列伝( 董卓)/巻73 劉虞公孫瓚陶謙列伝(劉虞・公孫瓚・陶謙)
巻74上 (1/2) 袁紹劉表列伝(袁紹)/巻74下 (2/2) 袁紹劉表列伝(袁譚・劉表)/巻75 劉焉袁術呂布列伝(劉焉・袁術・呂布)/巻76 循吏列伝( 衛颯・任延・王景・秦彭・王渙・許荊・孟嘗・第五訪・劉矩・劉寵・仇覧・童恢)
巻77 酷吏列伝 (董宣・樊曄・李章・周紆・黄昌・陽球・王吉)/巻78 宦者列伝(鄭衆・蔡倫・孫程・曹騰・単超・侯覧・曹節・呂強・張譲)/巻79上 (1/2) 儒林列伝(劉昆・洼丹・任安・楊政・張興・戴憑・魏満・欧陽歙・曹曾・陳弇・牟長・宋登・張馴・尹敏・周防・孔僖・楊倫)
巻79下 (2/2) 儒林列伝(高詡・包咸・魏応・伏恭・任末・景鸞・薛漢・杜撫・楊仁・趙曄・張匡・衛宏・董鈞・丁恭・周澤・周堪・鍾興・甄宇・楼望・程曾・張玄・李育・何休・服虔・穎容・謝該・許慎・蔡玄)
巻80上 (1/2) 文苑列伝 (杜篤・王隆・夏恭・傅毅・黄香・劉毅・李尤・李勝・蘇順・劉珍・葛龔・王逸・崔琦・辺韶)/巻80下 (2/2) 文苑列伝 (張升・趙壱・劉梁・劉楨・辺譲・酈炎・侯瑾・高彪・張超・禰衡)
巻81 独行列伝 (譙玄・李業・劉茂・温序・彭修・索盧・周嘉・范式・李善・王忳・張武・陸続・戴封・李充・繆肜・陳重・雷義・范冉・戴就・張揖・趙苞・向栩・諒輔・劉翊・王烈)/巻82上 (1/2) 方術列伝(任文公・郭憲・許楊・王喬・謝夷吾・楊由・李南・李郃・段翳・廖扶・折像・樊英)
巻82下 (2/2) 方術列伝(唐檀・公沙穆・許曼・趙彦・樊志張・単颺・韓説・董扶・郭玉・華陀・徐登・費長房・薊子訓・劉根・左慈・計子勲・上成公・解奴辜・甘始・王真・王和平)/巻83 逸民列伝(野王二老・向長・逢萌・周党・王覇・厳光・井丹・梁鴻・高鳳・臺佟・韓康・矯慎・戴良・法真・漢陰老父・陳留老父・龐徳公)
巻84 列女伝(鮑宣妻・王覇妻・姜詩妻・周郁妻・曹世叔妻・楽羊子妻・程文矩妻・孝女曹娥・許升妻・袁隗妻・龐淯母・劉長卿妻・皇甫規妻・陰瑜妻・盛道妻・孝女叔先雄・董祀妻)
巻85 東夷列伝(夫餘・挹婁・高句驪・東沃沮・濊・三韓・倭)
巻86 南蛮西南夷列伝(南蛮・巴郡南郡蛮・板楯蛮夷・西南夷・西南夷・夜郎・滇・哀牢・邛都・莋都・冉駹・白馬氐)/巻87 西羌伝(羌無弋爰剣・滇良・東号子麻奴・湟中月氏胡)
巻88 西域伝(拘彌・于窴・西夜・子合・徳若・條支・安息・大秦・大月氏・高附・天竺・東離・栗弋・厳・奄蔡・莎車・疏勒・焉耆・蒲類・移支・東且彌・車師)/巻89 南匈奴列伝(南匈奴)/巻90 烏桓鮮卑列伝(烏桓・鮮卑)
●志
巻91 律暦上/巻92 律暦中/巻93 律暦下/巻94 礼儀上/巻95 礼儀中/巻96 礼儀下/巻97 祭祀上/巻98 祭祀中/巻99 祭祀下/巻100 天文上/巻101 天文中/巻102 天文下/巻103 五行一
巻104 五行二/巻105 五行三/巻106 五行四/巻107 五行五/巻108 五行六/巻109 郡国一/巻110 郡国二/巻111 郡国三/巻112 郡国四/巻113 郡国五/巻114 百官一/巻115 百官二/巻116 百官三/巻117 百官四/巻118 百官五/巻119 輿服上/巻120 輿服下
2)『後漢書』東夷伝(引用:古代史獺祭)
(原文)建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
(読み下し)建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
(原文)安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
(読み下し)安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。
★倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、後漢の都の洛陽にまで使者をはるばる派遣し、朝貢していた。授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。
〇 中国史書での「倭奴国」表示
一方、中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。
●『北史』倭国伝
(原文)安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國
(読み下し)安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という。
●『隋書』倭国伝
(原文)安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國
(読み下し)安帝の時(106-125年)また遣使が朝貢、これを『倭奴国』という。
●『旧唐書』倭国・日本国伝
(原文)倭國者、古倭奴國也
(読み下し)倭国とは、古の『倭奴国』なり
★この後は、倭国大乱と卑弥呼の記事があり、『三国志』の『魏書』東夷伝の倭人条(魏志倭人伝)に似ているが、大乱の時期を「桓霊間」(桓帝と霊帝の時代)と具体的に記すなど相違点もある。東夷伝にはこの他、『漢書』地理志から引用したと見られる「東鯷人」の記事、『三国志』の『呉書』孫権伝から引用したと見られる夷洲と亶洲(「澶洲」と誤記)の記事もある。
〇中国史書での「倭国」表示
★中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。
(原文)冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出
南朝宋 范曄(398~445)撰。後漢(25~220)の歴史を記した史書。
●『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。
(原文)光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食(※)
(※)『三国志』「魏書」「烏桓鮮卑東夷伝」鮮卑に「後檀石槐乃案行烏侯秦水 廣袤數百里 停不流 中有魚而不能得 聞汙人善捕魚 於是檀石槐東撃汗國 得千餘家 徙置烏侯秦水上 使捕魚以助糧 至于今 烏侯秦水上有汙人數百戸」とあり裴松之の注釈で汙人を倭人とする
3)倭国について(引用:Wikipedia)
『後漢書』東夷列伝の中に倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされているが、これに対して反論を唱える学者もいる。
「魏志倭人伝」にない記述として、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。
このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。
また、「安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人」ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。
また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱(魏志は「倭国乱」とする)についても桓帝・霊帝の間(147年 - 189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。
4)後漢書の原文と読み下し( 出典:古代史獺祭)
●後漢書 卷一下光武帝紀第一下 より 中元二年 抜粋 「倭奴國王、使を遣わす」
★この翌月に光武帝は崩御する。倭奴國王の遣使は光武帝の生涯にぎりぎり間にあったのだった。
(原文)「(中元)二年春正月辛未 初立北郊 祀后土 東夷倭奴國王遣使奉獻 二月戊戌 帝崩於南宮前殿 年六十二 遺詔曰 朕無益百姓 皆如孝文皇帝制度 務從約省 刺史・二千石・長吏皆無離城郭 無遣吏及因郵奏 初 帝在兵閒 久厭武事 且知天下疲秏 思樂息肩 自隴・蜀平後 非儆急未嘗復言軍旅 皇太子嘗問攻戰之事 帝曰 昔衞靈公問陳 孔子不對 此非爾所及 毎旦視朝 日側迺罷 數引公卿・郎・將講論經理 夜分迺寐 皇太子見帝勤勞不怠 承閒諫曰 陛下有禹湯之明 而失黄老養性之福 願頤愛精神 優游自寧 帝曰 我自樂此 不爲疲也 雖身濟大業 兢兢如不及 故能明慎政體 總攬權綱 量時度力 舉無過事 退功臣而進文吏 戢弓矢而散馬牛 雖道未方古 斯亦止戈之武焉
論曰 皇考南頓君初爲濟陽令 以建平元年十二月甲子夜生光武於縣舍 有赤光照室中 欽異焉 使卜者王長占之 長辟左右曰 此兆吉不可言 是歳縣界有嘉禾生 一莖九穗 因名光武曰秀 明年 方士有夏賀良者 上言哀帝 云漢家歴運中衰 當再受命 於是改號爲太初元年 稱陳聖劉太平皇帝 以厭勝之 及王莽簒位 忌惡劉氏 以錢文有金刀 故改爲貨泉 或以貨泉字文爲 白水眞人 後望氣者蘇伯阿爲王莽使至南陽 遙望見舂陵郭 唶曰 氣佳哉 鬱鬱蔥蔥然 及始起兵還舂陵 遠望舍南 火光赫然屬天 有頃不見 初 道士西門君惠・李守等亦云 劉秀當爲天子 其王者受命 信有符乎 不然 何以能乘時龍而御天哉 贊曰 炎正中微 大盜移國 九縣飆回 三精霧塞 人厭淫詐 神思反德 光武誕命 靈貺自甄 沈幾先物 深略緯文 尋邑百萬 貔虎爲羣 長轂雷野 高鋒彗雲 英威既振 新都自焚 虔劉庸代 紛紜梁趙 三河未澄 四關重擾 神旌乃顧 遞行天討 金湯失險 車書共道 靈慶既啓 人謀咸贊 明明廟謨 赳赳雄斷 於赫有命 系隆我漢」
●後漢書 卷五孝安帝紀第五 より 永初元年 抜粋 「倭國、使を遣わし奉獻す」
(原文) 「永初元年春正月癸酉朔 大赦天下 蜀郡徼外羌内屬 戊寅 分犍爲南部爲屬國都尉 稟司隸兗・豫・徐・冀・并州貧民 二月丙午 以廣成游獵地及被災郡國公田假與貧民 丁卯 分清河國 封帝弟常保爲廣川王 庚午 司徒梁鮪薨 三月癸酉 日有食之 詔公卿内外衆官・郡國守相 舉賢良方正・有道術之士 明政術・達古今・能直言極諫者 各一人 己卯 永昌徼外僥種夷貢獻内屬 甲申 葬清河孝王 贈龍旗・虎賁 夏五月甲戌 長樂衞尉魯恭爲司徒 丁丑 詔封北海王睦孫壽光侯普爲北海王 九眞徼外夜郎蠻夷舉土内屬 六月戊申 爵皇太后母陰氏爲新野君 丁巳 河東地陷 壬戌 罷西域都護 先零種羌叛 斷隴道 大爲寇掠 遣車騎將軍鄧騭・征西校尉任尚討之 丁卯 赦除諸羌相連結謀叛逆者罪 秋九月庚午 詔三公明申舊令 禁奢侈 無作浮巧之物 殫財厚葬 是日 太尉徐防免 辛未 司空尹勤免 癸酉 調揚州五郡租米 贍給東郡・濟陰・陳留・梁國・下邳・山陽 丁丑 詔曰 自今長吏被考竟未報 自非父母喪無故輒去職者 劇縣十歳・平縣五歳以上 乃得次用 壬午 詔太僕・少府減黄門鼓吹 以補羽林士 廐馬非乘輿常所御者 皆減半食 諸所造作 非供宗廟園陵之用 皆且止 丙戌 詔死罪以下及亡命贖 各有差 庚寅 太傅張禹爲太尉 太常周章爲司空 冬十月 倭國遣使奉獻 辛酉 新城山泉水大出 十一月丁亥 司空周章密謀廢立 策免自殺 戊子 敕司隸校尉・冀并二州刺史 民訛言相驚 弃捐舊居 老弱相攜 窮困道路 其各敕所部長吏 躬親曉諭 若欲歸本郡 在所爲封長檄 不欲勿強 十二月乙卯 潁川太守張敏爲司空 是歳 郡國十八地震 四十一雨水 或山水暴至 二十八大風 雨雹」
●後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 序文 「濊・貊・倭・韓は萬里朝獻す」
(原文)王制云 東方曰夷 夷者柢也 言仁而好生 萬物柢地而出 故天性柔順 易以道御 至有君子不死之國焉 夷有九種 曰畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷 故孔子欲居九夷也
(読み下し)『王制』(=『禮記(らいき)・王制偏』)に云う、『東方を夷(い)と曰う』と。『夷』とは『柢(てい/「根」のこと)』なり。仁にして好生、萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。君子・不死の國有るに至る。夷に九種有り。畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・黄夷(こうい)・白夷(はくい)・赤夷(せきい)・玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・陽夷(ようい)と曰う。故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり。
(原文)昔堯命羲仲宅嵎夷 曰暘谷 蓋日之所出也 夏后氏太康失德 夷人始畔 自少康已後 世服王化 遂賓於王門 獻其樂舞 桀爲暴虐 諸夷内侵 殷湯革命 伐而定之 至于仲丁 藍夷作寇 自是或服或畔 三百餘年 武乙衰敝 東夷寖盛 遂分遷淮・岱 漸居中土
(読み下し)昔、堯(ぎょう)は羲仲(ぎちゅう)に命じ嵎夷(ぐうい)に宅せしむ。暘谷(ようこく)と曰う。
蓋(けだ)し日の出ずる所なり。夏后氏の太康は德を失ない、夷人始めて畔(そむ)く。少康(=夏后少康)已後(いご/以後)より世に王化に服し遂に王門に賓(ひん)し、その樂舞を獻ず。桀(けつ/夏の桀王)は暴虐を爲し、諸夷は内に侵す。殷の湯(とう/殷の湯王)は命を革(あらた)め、伐ちてこれを定む。仲丁(ちゅうてい)に至り、藍夷(らんい)は寇を作(な)す。これより或いは服し或いは畔(そむ)き、三百餘年。武乙は衰敝し、東夷は寖(ようや)く盛んなり。遂に分かちて淮(わい)・岱(たい)に遷(うつ)り、漸(ようや)く中土に居す。
(原文)及武王滅紂 肅慎來獻石砮・楛矢 管・蔡畔周 乃招誘夷狄 周公征之 遂定東夷 康王之時 肅慎復至 後徐夷僭號 乃率九夷以伐宗周 西至河上 穆王畏其方熾 乃分東方諸侯 命徐偃王主之 偃王處潢池東 地方五百里 行仁義 陸地而朝者三十有六國
(読み下し)武王(=周の武王)、紂(=殷の紂王)を滅ばすに及び、肅慎(しゅくしん)來り石砮(せきど)・楛矢(こし)を獻ず。管・蔡(=武王の弟の管叔と蔡叔)、周に畔き、すなわち夷狄(いてき)を招誘す。周公これを征し、遂に東夷を定む。康王の時、肅慎また至る。後に徐夷(じょい)僭號(せんごう)し、すなわち九夷を率い以って宗周を伐ち、西に河(=黄河)の上(ほとり)に至る。穆王(ぼくおう)、そのまさに熾(さかん)なるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐の偃王(えんおう)に命じてこれに主たらしむ。偃王は潢池(こうち)の東に處す。地の方は五百里。仁義を行ない、陸地にして朝する者は三十有六國。
(原文)穆王後得驥騄之乘 乃使造父御以告楚 令伐徐 一日而至 於是楚文王大舉兵而滅之 偃王仁而無權 不忍闘其人 故致於敗 乃北走彭城武原縣東山下 百姓隨之者以萬數 因名其山爲徐山
(読み下し)穆王、後に驥騄(きりょく)の乘を得たり。すなわち造父(ぞうほ)をして御さしめ、以って楚に告げて徐を伐たしむ。一日にして至る。ここに楚の文王は大いに兵を舉げてこれを滅す。偃王は仁なれども權無く、その人と闘うに忍びず。故に敗を致す。すなわち彭城武原縣の東山の下に北走(のが)る。百姓のこれに隨う者、以って萬を數えたり。因りてその山の名を徐山と爲す。
(原文)厲王無道 淮夷入寇 王命虢仲征之 不克 宣王復命召公伐而平之 及幽王淫亂 四夷交侵 至齊桓修霸 攘而卻焉 及楚靈會申 亦來豫盟 後越遷琅邪 與共征戰 遂陵暴諸夏 侵滅小邦
(読み下し)厲王は無道にして、淮夷(わいい)入寇す。王、虢仲(かくちゅう)に命じてこれを征たしむるも克たず。宣王、また召公に命じ伐たしめてこれを平らぐ。幽王の淫亂なるに及び、四夷は交(こもごも)侵す。齊桓(=春秋五覇の一人、齊の桓公)の霸を修むるに至り、攘(はら)いてこれを卻(しりぞ)く。楚靈(=楚の靈王)、申(しん)に會するに及び、また來り盟に豫(あずか)る。後に越は琅邪(ろうや)に遷り、與共(とも)に征戰し、遂に諸夏を陵暴(りょうぼう)し、小邦を侵し滅ぼす。
(原文)秦并六國 其淮・泗夷皆散爲民戸 陳渉起兵 天下崩潰 燕人衞滿避地朝鮮 因王其國 百有餘歳 武帝滅之 於是東夷始通上京 王莽簒位 貊人寇邊 建武之初 復來朝貢 時遼東太守祭肜威讋北方 聲行海表 於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻 故章・和已後 使聘流通 逮永初多難 始入寇鈔 桓・靈失政 漸滋曼焉
(読み下し)秦は六國を并せ、その淮(わい)・泗(し)の夷は皆な散じて民戸と爲す。陳渉(=陳勝)兵を起こし、天下崩潰す(=陳勝呉広の乱)。 燕人衞滿(えいまん)は地を朝鮮に避け、因りてその國に王たりて(=衞氏朝鮮)百有餘歳。武帝(=漢の武帝)はこれを滅ぼし、ここに東夷は始めて上京に通ず。王莽(おうもう)、簒位するや貊人(はくじん)は邊を寇す。建武の初め、また來たり朝貢す。時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、威を北方に讋(おそ)れしめ、聲は海表に行なわれたり。ここに濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は萬里朝獻す。故に章・和(=後漢の章帝・和帝)已後(=以後)、使聘(しへい)流通す。永初の多難に逮(およ)び、始めて入りて寇鈔す。桓・靈(=後漢の桓帝・靈帝)失政し、漸(ようや)く滋曼(じまん)せり。
(原文)自中興之後 四夷來賓 雖時有乖畔 而使驛不絶 故國俗風土 可得略記 東夷率皆土著 憙飲酒歌舞 或冠弁衣錦 器用俎豆 所謂中國失禮 求之四夷者也 凡蠻・夷・戎・狄總名四夷者 猶公・侯・伯・子・男皆號諸侯云
(読み下し)中興(=後漢の光武帝により漢王朝が復興された)の後より、四夷來賓す。時に乖畔(かいはん)有りと雖ども、而して使驛は絶えず。故に國俗風土を略記するを得る可し。東夷は率(おおむね)皆な土著(どちょ/土地につく=定住)にして飲酒・歌舞を憙(この)み、或いは弁(べん)を冠り錦を衣る。器に俎豆(そとう)を用う。所謂(いわゆる)、中國、禮を失なわば、これを四夷に求むる者なり。凡そ蠻(ばん=南蠻)・夷(い=東夷)・戎(じゅう=西戎)・狄(てき=北狄)を總(すべ)て「四夷」と名づくるは、なお公・侯・伯・子・男を皆な「諸侯」と號すがごとしと云う。
●後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五(倭)「倭の奴國、奉貢朝賀す…光武、印綬を以って賜う」
(原文)倭在韓東南大海中 依山爲居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里 其地大較在會稽・東冶之東 與朱崖・儋耳相近 故其法俗多同
(読み下し)倭は韓の東南、大海の中にあり、山に依りて居を爲す。凡そ百餘國。武帝の朝鮮を滅してより使譯漢に通ずる者三十許國。國、皆王を稱し丗丗統を傳う。其大倭王は邪馬臺國に居す。樂浪郡徼 (きょう) はその國を去ること萬二千里。その西北界拘邪韓國を去ること七千餘里。その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・擔耳と相い近し。故にその法俗、多くは同じ。
(原文)土宜禾稻・麻紵・蠶桑 知織績爲縑布 出白珠・青玉 其山有丹 土氣温 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
(読み下し)土は禾稻・麻紵・蠶桑に宜 (よろ) しく、織績を知り、縑布 (けんぷ) と爲す。白珠・青玉を出し、その山には丹有り。土氣は温 (おんどん) にして冬夏菜茹を生ず。 牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。
(原文)其兵有矛・楯・木弓・竹矢 或以骨爲鏃 男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差 其男衣皆橫幅結束相連 女人被髮屈紒 衣如單被 貫頭而著之 並以丹朱身 如中國之用粉也
(読み下し)その兵には矛・楯・木弓・竹矢有り。或いは骨を以って鏃と爲す。男子は皆、黥面文身し、その文の左右・大小を以って尊卑の差を別つ。その男衣は皆橫幅、結束して相連ね、女人は被髪屈紒し、衣は單被の如く頭を貫きてこれを著る。並に丹朱を以って身をすること中國の粉を用いるが如きなり。
(原文)有城柵屋室 父母兄弟異處 唯會同男女無別 飲食以手 而用籩豆 俗皆徒跣 以蹲踞爲恭敬 人性嗜酒 多壽考 至百餘歳者甚衆 國多女子 大人皆有四五妻 其餘或兩或三 女人不淫不妒 又俗不盜竊 少爭訟 犯法者沒其妻子 重者滅其門族 其死停喪十餘日 家人哭泣 不進酒食 而等類就歌舞爲樂
(読み下し)城柵・屋室有りて父母兄弟處を異にす。唯、會同に男女の別無し。食飲は手を以ってし籩豆を用う。俗、皆徒跣。蹲踞を以って恭敬と爲す。人性酒を嗜む。多く壽考にして百餘歳に至る者、甚だ衆(おお)し。國に女子多く、大人は皆四・五妻を有し、その餘も或は兩、或は三。女人、淫せず妒せず。又、俗は盜竊せず爭訟少なし。法を犯す者はその妻子を没し、重き者はその門族を滅す。 その死には喪に停まること十餘日。家人哭泣し酒食を進めず。而して等類就いて歌舞し樂を爲す。
(原文)灼骨以卜 用決吉凶 行來度海 令一人不櫛沐 不食肉 不近婦人 名曰 持衰 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以爲持衰不謹 便共殺之
(読み下し)骨を灼 (や) いて以って卜し、吉凶を決するに用う。行來・度海には一人をして櫛沐 (せつもく) せず食肉せず婦人を近づけず、名を「持衰」という。若し塗 (みち) に在りて吉利なれば則ち雇するに財物を以ってし、如し病疾・害に遭えば、以って持衰謹まずと爲し、便ち共に之を殺す。
(原文)建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
(読み下し)建武中元二年(57年) 倭の奴國、奉貢朝賀す。使人、自ら大夫と稱す。倭國の極南界なり。光武、印綬を以って賜う。安帝【後漢の第六代皇帝】の永初元年【西暦107年】、倭國王帥升等、生口百六十人を獻じ、見 (まみ) ゆるを請願す。
(原文)桓・靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞 法俗嚴峻
(読み下し)桓・靈【桓帝/後漢の第11代皇帝・霊帝/後漢の第12代皇帝】の閒(=間)、倭國大いに亂れ更に相攻伐し、歴年主無し。一女子有り、名を卑彌呼という。年長ずるも嫁せず。鬼神の道を事とし、能く妖を以って衆を惑わす。是に於いて共立して王と爲す。婢千人を侍し、見る者少しく有り。ただ男子一人有りて、飲食を給し、辭語を傳う。居處・宮室・樓觀・城柵、皆兵を持して守衞し法俗嚴峻たり。
(原文)自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王 自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺 自朱儒東南行船一年 至裸國・黑齒國 使驛所傳 極於此矣 會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國
(読み下し)女王國より東に海を度ること千餘里にして拘奴國に至る。皆倭種と雖も、女王に屬さず。女王國より南に四千餘里にして侏儒國に至る。人の長、三・四尺。侏儒より東南に行船すること一年にして裸國・黒齒國に至る。使譯の傳うる所、此に於いて極まる。會稽の海外に東鯷 (とうてい) 人有り。分れて二十餘國を爲す。
(原文)又有夷洲及澶洲 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海 求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承 有數萬家 人民時至會稽市 會稽東冶縣人有入海行遭風 流移至澶洲者 所在絶遠 不可往來
(読み下し)又夷洲・澶 (せん) 洲有り。傳え言う、秦の始皇【始皇帝】、方士徐福を遣し、童男女數千人を将 (ひき) いて海に入り蓬莱・神仙を求むれども得ず。徐福、誅を畏れ敢て還らず。遂に此の洲に止まる。丗丗相い承 (う) け、數萬家有り。人民、時に會稽に至り市す。會稽・東冶の縣人、海に入りて行くに風に遭い、流移して澶 (せん) 洲に至る者有り。所在、絶遠にして往來すべからず。
(原文)論曰 昔箕子違衰殷之運 避地朝鮮 始其國俗未有聞也 及施八條之約 使人知禁 遂乃邑無淫盜 門不夜扃 回頑薄之俗 就寬略之法 行數百千年 故東夷通以柔謹爲風 異乎三方者也
(読み下し)論に曰く、昔箕子(きし)は衰えし殷の運を違(さ)り、地を朝鮮に避く。始めその國の俗は未だ聞(ぶん)有らず。八條の約を施すに及び、人をして禁を知らしむ。遂にすなわち邑に淫盜無く、門は夜に扃(とざ)さず。頑薄(がんはく)の俗を回(めぐ)らし、寬略(かんりゃく)の法に就(つ)け、行うこと數百千年。故に東夷は通じ柔謹を以って風と爲し、三方に異る者なり。
(原文)苟政之所暢 則道義存焉 仲尼懷憤 以爲九夷可居 或疑其陋 子曰 君子居之 何陋之有 亦徒有以焉爾 其後遂通接商賈 漸交上國 而燕人衞滿擾雜其風 於是從而澆異焉 老子曰 法令滋章 盜賊多有 若箕子之省簡文條而用信義 其得聖賢作法之原矣
(読み下し)苟(いやし)くも政(まつりごと)の暢(の)ぶる所、すなわち道義存す。仲尼(ちゅうじ)は憤(いきどおり)を懷(いだ)き、以爲(おもえらく)「九夷に居る可(べ)し」と。或(ある)いはその陋(いや)しきを疑う。子曰く、『君子これに居らば、何ぞ陋(いや)しきこれ有らん』と。また徒(ただ)に以(ゆえ)有る爾(のみ)。その後、遂(つい)に商賈(しょうか)に通接し、漸(ようや)く上國に交わり、而して燕人衞滿(えいまん)はその風を擾雜(じょうざつ)し、是に於いて從いて澆異(ぎょうい)す。老子曰く、「法令滋章(じしょう)にして盜賊多く有り」と。箕子の文條を省簡にして信義を用うるが若(ごと)きは、それ聖賢の作法の原(みなもと)を得たり。
(原文)贊曰 宅是嵎夷 曰乃暘谷 巣山潛海 厥區九族 嬴末紛亂 燕人違難 雜華澆本 遂通有漢 眇眇偏譯 或從或畔
(読み下し)贊に曰く、この嵎夷(ぐうい)に宅し、すなわち暘谷(ようこく)と曰う。山に巣し、海に潛(ひそ)み、厥(そ)の區は九族。嬴(えい)の末の紛亂に、燕人は難を違(さ)り、華を雜(まじ)え本を澆(うす)くし、遂に有漢に通ず。眇眇(びょうびょう)たる偏譯(へんえき)、或いは從い或いは畔(そむ)く。
●「後漢書 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十 (鮮卑)
(原文)鮮卑者 亦東胡之支也 別依鮮卑山 故因號焉 其言語習俗與烏桓同 唯婚姻先頭 以季春月大會於饒樂水上 飲讌畢 然後配合 又禽獸異於中國者 野馬・原羊・角端牛 以角爲弓 俗謂之角端弓者 又有貂・・鼲子 皮毛柔蝡 故天下以爲名裘
(読み下し)鮮卑(せんぴ)はまた東胡の支(わかれ)なり。別れて鮮卑山に依る。故に因りて號(なづ)く。その言語・習俗は烏桓(うがん)と同じ。唯(ただ)婚姻には先ず頭(こんとう)し、季春(りしゅん)の月を以って饒樂水(じょうらくすい)の上(ほとり)に大いに會す。飲讌(いんえん)畢(おわ)り、然る後に配合す。 また禽獸の中國に異なるは、野馬・原羊・角端牛。(角端牛は)角を以って弓と爲し、俗にこれを『角端弓』と謂う。また貂(ちょう)・(だつ)・鼲子(こんし)有り。皮毛柔蝡(じゅうぜん)にして、故に天下は以って名裘(めいきゅう)と爲す。
(原文)漢初 亦爲冒頓所破 遠竄遼東塞外 與烏桓相接 未常通中國焉 光武初 匈奴強盛 率鮮卑與烏桓寇抄北邊 殺略吏人 無有寧歳 建武二十一年 鮮卑與匈奴入遼東 遼東太守祭肜擊破之 斬獲殆盡 事已具肜傳 由是震怖 及南單于附漢 北虜孤弱 二十五年 鮮卑始通驛使
(読み下し)漢の初め、また冒頓(ぼくとつ=匈奴の冒頓單于/ぼくとつぜんう)の破る所と爲し、遠く遼東の塞外に竄(のが)れ、烏桓と相接す。未だ常に中國に通ぜず。光武の初め、匈奴強盛にして鮮卑と烏桓を率(ひき)い北邊を寇抄(こうしょう)す。吏人を殺略し、寧歳(ねいさい=平穏で安寧な年)有る無し。建武二十一年、鮮卑と匈奴は遼東に入る。遼東太守の祭肜(さいゆう)はこれを擊破し、斬獲して殆ど盡す。事已(すで)に『肜傳(ゆうでん)』(=後漢書 卷二十 銚期王霸祭遵列傳)に具(つぶさ)なり。これにより震怖(しんぷ)す。南單于(みなみぜんう)、漢に附すにおよび北虜(ほくりょ)孤弱(こじゃく=孤立して勢力を弱めた)なり。 二十五年、鮮卑始めて驛使を通ず。
(原文)其後都護偏何等詣祭肜求自効功 因令擊北匈奴左伊育訾部 斬首二千餘級 其後偏何連歳出兵擊北虜 還輒持首級詣遼東受賞賜 三十年 鮮卑大人於仇賁・滿頭等率種人詣闕朝賀 慕義内屬 帝封於仇賁爲王 滿頭爲侯 時漁陽赤山烏桓歆志賁等數寇上谷
(読み下し)その後、都護(とご)の偏何(へんか)等、祭肜(さいゆう/前出の遼東太守)に詣(いた)り自ら功を効(いた)さんことを求む。因りて北匈奴の左伊育訾部(さいいくしぶ)を擊たしむ。斬首二千餘級。その後、偏何は連歳出兵し北虜を擊ち、還りて輒(すなわ)ち首級を持ち遼東に詣り賞賜を受く。三十年、鮮卑大人の於仇賁(おきゅうふん)・滿頭(まんとう)等種人を率い闕に詣りて朝賀し、義を慕いて内屬す。 帝、封じて於仇賁を王と爲し、滿頭を侯と爲す。 時に漁陽の赤山烏桓(せきざんうがん)の歆志賁(きんしふん)等、數(しばしば)上谷に寇す。
(原文)永平元年 祭肜復賂偏何擊歆志賁 破斬之 於是鮮卑大人皆來歸附 並詣遼東受賞賜 青徐二州給錢歳二億七千萬爲常 明章二世 保塞無事
(読み下し)永平元年、祭肜また偏何(前出/都護の偏何)に賂(わい)し、歆志賁(きんしふん)を擊ち、破りてこれを斬る。ここに鮮卑の大人皆な來たり歸して附し、並びに遼東に詣り賞賜を受く。青・徐の二州は錢を給すること歳に二億七千萬を常と爲す。明・章の二世、保塞に事無し。
(原文)和帝永元中 大將軍竇憲遣右校尉耿夔擊破匈奴 北單于逃走 鮮卑因此轉徙據其地 匈奴餘種留者尚有十餘萬落 皆自號鮮卑 鮮卑由此漸盛 九年 遼東鮮卑攻肥如縣 太守祭參坐沮敗 下獄死 十三年 遼東鮮卑寇右北平 因入漁陽 漁陽太守擊破之 延平元年 鮮卑復寇漁陽
(読み下し)和帝の永元中、大將軍の竇憲(こうけん)は右校尉の耿夔(こうき)を遣わし匈奴を擊破し、北單于逃走す。鮮卑はこれに因りて轉(てん)じ徙(うつ)りてその地に據(よ)る。匈奴の餘種の留まる者なお十餘萬落有り、皆な自ら鮮卑を號す。鮮卑、これに由り漸(ようや)く盛んなり。九年、遼東の鮮卑、肥如縣(ひじょけん)を攻め、太守の祭參(さいさん)は沮敗(そはい)に坐し、獄に下り死す。十三年、遼東の鮮卑は右北平に寇し、因りて漁陽に入る。漁陽太守これを擊破す。延平元年、鮮卑また漁陽を寇す。
(原文)太守張顯率數百人出塞追之 兵馬掾嚴授諫曰 前道險阻 賊埶難量 宜且結營 先令輕騎偵視之 顯意甚鋭 怒欲斬之 因復進兵 遇虜伏發 士卒悉走 唯授力戰 身被十創 手殺數人而死 顯中流矢 主簿衞福・功曹徐咸皆自投赴顯 倶歿於陣 鄧太后策書褒歎 賜顯錢六十萬 以家二人爲郎 授・福・咸各錢十萬 除一子爲郎
(読み下し)太守の張顯(ちょうけん)、數百人を率い塞を出でてこれを追う。兵馬掾(へいばえん/辺境の軍事をあずかる役職名)の嚴授(げんじゅ)諫(いま)しめて曰く、『前道險阻にして賊埶(ぞくせい)量り難し。宜しく且(しばら)く營を結び、先ず輕騎をしてこれを偵視せしめん』と。顯、意は甚だ鋭く、怒りてこれを斬らんと欲す。因りてまた兵を進めるに虜伏の發るに遇い、士卒悉く走る。ただ授のみ力戰し、身に十創を被り、手ずから數人を殺して死す。顯は流矢に中(あた)り、主簿(しゅぼ/郡の庶務担当官)の衞福(えいふく)・功曹(こうそう/郡の人事担当官)の徐咸(じょかん)は皆な自ら投じて顯に赴(つ)き、倶(とも)に陣に歿(=没)す。鄧太后(とうたいごう/後漢書 本紀 卷十上 皇后紀第十上 和熹鄧皇后)、策書して褒め歎き、賜うに顯に錢六十萬、家の二人を以って郎と爲し、授・福・咸に各錢十萬、一子を除して郎と爲す。
(原文)安帝永初中 鮮卑大人燕茘陽詣闕朝賀 鄧太后賜燕茘陽王印綬 赤車參駕 令止烏桓校尉所居城下 通胡市 因築南北兩部質館 鮮卑邑落百二十部 各遣入質 是後或降或畔 與匈奴・烏桓更相攻擊
(読み下し)安帝の永初中、鮮卑大人の燕茘陽(えんれいよう)、闕に詣り朝賀す。鄧太后、燕茘陽に王の印綬・赤車參駕(せきしゃさんが)を賜い、烏桓校尉(うがんこうい)の居す所の城(ねいじょう)の下に止め、胡市(こし)を通ぜしむ。因りて南北兩部の質館を築く。鮮卑の邑落百二十部、各(おのおの)入りて質を遣わす。この後、或いは降(くだ)り或いは畔(そむ)き、匈奴と烏桓は更に相い攻擊す。
(原文)元初二年秋 遼東鮮卑圍無慮縣 州郡合兵固保清野 鮮卑無所得 復攻扶黎營 殺長吏 四年 遼西鮮卑連休等遂燒塞門 寇百姓
(読み下し)元初二年秋、遼東の鮮卑は無慮縣(むりょけん)を圍(かこ)む。州・郡、兵を合わせ保(ほ/砦)を固め、野を清め(=周辺の穀物や財物を接収して、からっぽにしてしまうこと)鮮卑は得る所無し。 また扶黎營(ふれいえい)を攻め、長吏を殺す。四年、遼西の鮮卑の連休(れんきゅう)等、遂に塞門を燒き、百姓を寇す。
(原文)烏桓大人於秩居等與連休有宿怨 共郡兵奔擊 大破之 斬首千三百級 悉獲其生口牛馬財物 五年秋 代郡鮮卑萬餘騎遂穿塞入寇 分攻城邑 燒官寺 殺長吏而去 乃發縁邊甲卒・黎陽營兵 屯上谷以備之 冬 鮮卑入上谷 攻居庸關 復發縁邊諸郡・黎陽營兵・積射士歩騎二萬人 屯列衝要 六年秋 鮮卑入馬城塞 殺長吏 度遼將軍鄧遵發積射士三千人 及中郎將馬續率南單于 與遼西・右北平兵馬會 出塞追擊鮮卑 大破之 獲生口及牛羊財物甚衆 又發積射士三千人 馬三千匹 詣度遼營屯守
(読み下し)烏桓大人の於秩居(おちつきょ)等と連休は宿怨(しゅくおん)有り。郡兵と共に奔りて擊ち、大いにこれを破る。斬首千三百級。悉くその生口・牛馬・財物を獲る。五年秋、代郡の鮮卑萬餘騎は遂に塞を穿ち入寇す。分かれて城邑を攻め、官寺を燒き、長吏を殺して去る。すなわち縁邊の甲卒と黎陽(れいよう)の營兵を發し、上谷に屯し以ってこれに備う。冬、鮮卑、上谷に入り居庸關(きょようかん)を攻む。また縁邊の諸郡と黎陽の營兵・積射の士・歩騎二萬人を發し、衝要(しょうよう/要衝の場所)に列して屯す。六年秋、鮮卑は馬城(=地名/馬城縣)の塞に入り長吏を殺す。度遼將軍の鄧遵(とうじゅん)は積射の士三千人を發し、及び中郎將の馬續(ばしょく)は南單于を率い、遼西と右北平の兵馬を會し、塞を出て鮮卑を追擊し、大いにこれを破る。生口及び牛羊財物を獲ること甚だ衆(おお)し。また積射の士三千人・馬三千匹を發し、度遼營に詣り屯守す。
(原文)永寧元年 遼西鮮卑大人烏倫・其至鞬率衆詣鄧遵降 奉貢獻 詔封烏倫爲率衆王 其至鞬爲率衆侯 賜綵繒各有差
(読み下し)永寧元年、遼西の鮮卑大人の烏倫(うりん)・其至鞬(きしけん)は衆を率い鄧遵(とうじゅん)に詣り降り、貢獻を奉ず。詔して封ずるに烏倫を率衆王と爲し、其至鞬を率衆侯と爲し、綵繒(さいそう/彩色の絹布)を賜うに各差有り。
(原文)建光元年秋 其至鞬復畔 寇居庸 雲中太守成嚴擊之 兵敗散 功曹楊穆以身捍嚴 與倶戰歿 鮮卑於是圍烏桓校尉徐常於馬城 度遼將軍耿夔與幽州刺史龐參發廣陽・漁陽・涿郡甲卒 分爲兩道救之 常夜得潛出 與夔等并力並進 攻賊圍 解之 鮮卑既累殺郡守 膽意轉盛 控弦數萬騎 延光元年冬 復寇鴈門・定襄 遂攻太原 掠殺百姓 二年冬 其至鞬自將萬餘騎入東領候 分爲數道 攻南匈奴於曼柏 薁鞬日逐王戰死 殺千餘人 三年秋 復寇高柳 擊破南匈奴 殺漸將王
(読み下し)建光元年秋、其至鞬(きしけん)また畔き、居庸(きょよう)を寇す。雲中太守の成嚴(せいげん)はこれを擊つも、兵は敗散す。功曹(役職名)の楊穆(ようぼく)は身をもって嚴を捍(ふせ)ぎ、與倶(とも)に戰歿す。鮮卑、ここにおいて烏桓校尉の徐常(じじょう)を馬城に圍む。度遼將軍の耿夔(こうき)と幽州刺史の龐參(ほうさん)は廣陽・漁陽・涿郡(たくぐん)の甲卒を發し、分かれて兩道と爲しこれを救う。 常(=烏桓校尉の徐常)は夜潛(ひそか)に出でるを得て、夔(=度遼將軍の耿夔)等と力を并せ並進し、賊の圍みを攻めこれを解く。鮮卑は既に郡守を累殺し、膽意(たんい)は轉(うたた)盛んにして控弦(こうげん)數萬騎。延光元年冬、また鴈門(がんもん)・定襄(ていじょう)を寇し、遂に太原を攻め百姓を掠殺す。二年冬、其至鞬(きしけん)自ら萬餘騎を將い東領候に入り、分かれて數道と爲し、南匈奴を曼柏(まんはく)に攻む。薁鞬日逐王(いくけんにっちくおう)戰死し、千餘人を殺す。 三年秋、また高柳に寇し、南匈奴を擊破し漸將王(ざんしょうおう)を殺す。
(原文)順帝永建元年秋 鮮卑其至鞬寇代郡 太守李超戰死 明年春 中郎將張國遣從事將南單于兵歩騎萬餘人出塞 擊破之 獲其資重二千餘種 時遼東鮮卑六千餘騎亦寇遼東玄菟 烏桓校尉耿曄發縁邊諸郡兵及烏桓率衆王出塞擊之 斬首數百級 大獲其生口牛馬什物 鮮卑乃率種衆三萬人詣遼東乞降 三年 四年 鮮卑頻寇漁陽・朔方 六年秋 耿曄遣司馬將胡兵數千人 出塞擊破之 冬 漁陽太守又遣烏桓兵擊之 斬首八百級 獲牛馬生口 烏桓豪人扶漱官勇健 毎與鮮卑戰 輒陷敵 詔賜號 率衆君
(読み下し)順帝の永建元年秋、鮮卑の其至鞬(きしけん)は代郡に寇し、太守の李超(りちょう)戰死す。明年春、中郎將の張國(ちょうこく)は從事を遣わし南單于の兵の歩騎萬餘を將(ひき)い塞を出で、これを擊破せしめ、その資重二千餘種を獲る。時に遼東の鮮卑六千餘騎また遼東・玄菟に寇す。烏桓校尉の耿曄(こうよう)は縁邊諸郡の兵を發し、および烏桓の率衆王は塞を出でてこれを擊つ。斬首數百級。その生口・牛・馬・什物を大いに獲る。鮮卑すなわち種衆三萬人を率い遼東に詣り降を乞う。三年・四年、鮮卑、頻りに漁陽・朔方に寇す。六年秋、耿曄(こうよう)は司馬を遣わし胡兵數千人を將いて塞を出でてこれを擊破せしむ。冬、漁陽太守また烏桓兵を遣わしこれを擊つ。斬首八百級。 牛・馬・生口を獲る。烏桓豪人の扶漱官(ふしゅうかん)は勇健にして鮮卑と戰う毎にすなわち敵を陷(くだ)す。詔して『率衆君』の號を賜う。
(原文)陽嘉元年冬 耿曄遣烏桓親漢都尉戎朱廆率衆王侯咄歸等 出塞抄擊鮮卑 大斬獲而還 賜咄歸等已下爲率衆王・侯・長 賜綵繒各有差 鮮卑後寇遼東屬國 於是耿曄乃移屯遼東無慮城拒之 二年春 匈奴中郎將趙稠遣從事將南匈奴骨都侯夫沈等 出塞擊鮮卑 破之 斬獲甚衆 詔賜夫沈金印紫綬及縑綵各有差 秋 鮮卑穿塞入馬城 代郡太守擊之 不能克 後其至鞬死 鮮卑抄盜差稀
(読み下し)陽嘉元年の冬、耿曄(しゅうか)は烏桓親漢都尉の戎朱廆(じゅうしゅかい)率衆王侯の咄歸(とつき)等を遣わし塞を出て鮮卑を抄擊せしめ、大いに斬獲して還る。咄歸(とつき)等已下(=以下)に賜いて率衆王・侯・長と爲す。綵繒(さいそう)を賜うこと各差有り。鮮卑は後に遼東屬國に寇す。ここに耿曄はすなわち移りて遼東の無慮城に屯しこれを拒む。二年春、匈奴中郎將の趙稠(ちょうしゅう)は從事を遣わし南匈奴の骨都侯(こつとこう)夫沈(ふちん)等を將(ひき)い、塞を出でて鮮卑を擊たしめ、これを破る。斬獲甚だ衆し。詔して夫沈に金印紫綬及び縑綵(けんさい)を賜うこと各差有り。秋、鮮卑は塞を穿ち馬城に入る。代郡太守はこれを擊つも克つこと能(あたわ)ず。 後に其至鞬(きしけん)死し、鮮卑の抄盜すること差(や)や稀(まれ)なり。
(原文)桓帝時 鮮卑檀石槐者 其父投鹿侯 初從匈奴軍三年 其妻在家生子 投鹿侯歸 怪欲殺之 妻言嘗晝行聞雷震 仰天視而雹入其口 因呑之 遂身 十月而産 此子必有奇異 且宜長視 投鹿侯不聽 遂之 妻私語家令收養焉 名檀石槐 年十四五 勇健有智略 異部大人抄取其外家牛羊 檀石槐單騎追擊之 所向無前 悉還得所亡者 由是部落畏服 乃施法禁 平曲直 無敢犯者 遂推以爲大人 檀石槐乃立庭於彈汗山歠仇水上 去高柳北三百餘里 兵馬甚盛 東西部大人皆歸焉 因南抄縁邊 北拒丁零 東卻夫餘 西擊烏孫 盡據匈奴故地 東西萬四千餘里 南北七千餘里 網羅山川水澤鹽池
(読み下し)桓帝の時、鮮卑の檀石槐(だんせきかい)なる者。その父の投鹿侯(とうかこう)は、初め匈奴の軍に從い三年たり。その妻、家に在りて子を生む。投鹿侯、歸り、これを怪しみ殺さんと欲す。妻の言いしく、「嘗て晝に行き雷震を聞く。天を仰ぎ視るに而して雹(あられ)その口に入る。因りてこれを呑むに、遂に身(にんしん)す。十月にして産まれたり。この子に必ず奇異有らん。且(しばら)く宜(よろ)しく長ずるを視ん」と。投鹿侯、聽(ゆる)さず。遂にこれを(す/=棄)てる。妻、私(ひそか)に家に語り收めて養いしむ。檀石槐(だんせきかい)と名づく。年十四五にして、勇健にして智略有り。異部の大人、その外家の牛羊を抄取す。檀石槐、單騎これを追擊し、向う所前無し。悉く亡(な)くす所の者を還し得たり。これに由り部落畏服す。すなわち法禁を施き、曲直を平らげ、敢て犯す者無し。遂に推して以って大人と爲す。檀石槐、すなわち庭(てい)を彈汗山(たんかんざん)歠仇水(せっきゅうすい)の上に立てたり。高柳を去ること北に三百餘里。兵馬甚だ盛んなり。東西部の大人は皆な焉(これ)に歸す。因りて南に縁邊を抄(かす)め、北に丁零(ていれい)を拒み、東に夫餘を卻(しりぞ)け、西に烏孫を擊ち、盡く匈奴の故地に據(よ)る。東西は萬四千餘里、南北は七千餘里。山川・水澤・鹽池を網羅す。
(原文)永壽二年秋 檀石槐遂將三四千騎寇雲中 延熹元年 鮮卑寇北邊 冬 使匈奴中郎將張奐率南單于出塞擊之 斬首二百級 二年 復入鴈門 殺數百人 大抄掠而去 六年夏 千餘騎寇遼東屬國 九年夏 遂分騎數萬人入縁邊九郡 並殺掠吏人 於是復遣張奐擊之 鮮卑乃出塞去 朝廷積患之 而不能制 遂遣使持印綬封檀石槐爲王 欲與和親 檀石槐不肯受 而寇抄滋甚 乃自分其地爲三部 從右北平以東至遼東 接夫餘・濊貊二十餘邑爲東部 從右北平以西至上谷十餘邑爲中部 從上谷以西至敦煌・烏孫二十餘邑爲西部 各置大人主領之 皆屬檀石槐
(読み下し)永壽二年秋、檀石槐は遂に三四千騎を將い雲中に寇す。延熹元年、鮮卑は北邊に寇す。冬、使匈奴中郎將の張奐(ちょうかん)は南單于を率い塞を出でてこれを擊ち斬首すること二百級。二年、また鴈門に入り數百人を殺し、大いに抄掠して去る。六年夏、千餘騎が遼東の屬國に寇す。九年夏、遂に騎數萬人を分かち縁邊九郡に入り、並びに吏人を殺掠す。ここにまた張奐を遣わしこれを擊つ。鮮卑はすなわち塞を出でて去りたり。朝廷、これに患(うれい)を積むも而して制すること能(あた)わず。遂に使を遣わし印綬を持し、封じて檀石槐を王と爲し和親せんと欲す。檀石槐は受けることを肯(がえん)ぜず、而して寇抄すること滋(いよ)よ甚だし。すなわち自らその地を分かち三部と爲す。右北平以東より遼東に至る夫餘・濊貊に接する二十餘邑を東部と爲し、右北平以西より上谷に至る十餘邑を中部と爲し、上谷以西より敦煌・烏孫に至る二十餘邑を西部と爲し、おのおの大人を置きこれを主領せしめ、皆な檀石槐に屬せしむ。
(原文)靈帝立 幽・并・涼三州縁邊諸郡無歳不被鮮卑寇抄 殺略不可勝數 熹平三年冬 鮮卑入北地 太守夏育率休著屠各追擊破之 遷育爲護烏桓校尉 五年 鮮卑寇幽州 六年夏 鮮卑寇三邊 秋 夏育上言 鮮卑寇邊 自春以來 三十餘發 請徴幽州諸郡兵出塞擊之 一冬二春 必能禽滅 朝廷未許 先是護羌校尉田晏坐事論刑被原 欲立功自効 乃請中常侍王甫求得爲將 甫因此議遣兵與育并力討賊 帝乃拜晏爲破鮮卑中郎將 大臣多有不同 乃召百官議朝堂 議郎蔡邕議曰
(読み下し)靈帝立ち、幽・并・涼の三州の縁邊諸郡に鮮卑の寇抄を被らざる歳無し。殺略すること勝(あ)げて數うべからず。熹平三年の冬、鮮卑北地に入る。太守の夏育(かいく)は休著屠各(きゅうちょちょかく)を率い追擊してこれを破る。遷(うつ)して育を護烏桓校尉と爲す。五年、鮮卑は幽州に寇す。六年の夏、鮮卑は三邊に寇す。秋、夏育上言すらく、鮮卑の邊に寇すること、春より以來三十餘發す。請う幽州諸郡の兵を徴し塞を出でてこれを擊たんことを。一冬二春にして必ず能く禽(とら)え滅ぼさん」と。朝廷未だ許さず。これより先に護羌校尉の田晏(でんあん)は事に坐して刑を論ぜらるも原(ゆる)され、功を立て自ら効(いた)さんと欲す。すなわち中常侍の王甫(おうほ)に請い將と爲るを得んことを求む。甫、これに因りて兵を遣わし育と力を并わせ賊を討たんことを議す。帝すなわち晏を拜して破鮮卑中郎將と爲す。大臣の同ぜざる多く有り。すなわち百官を召し朝堂に議す。 議郎の蔡邕(さいゆう)議して曰く
(原文)書戒猾夏 易伐鬼方 周有獫狁・蠻荊之師 漢有闐顏・瀚海之事 征討殊類 所由尚矣 然而時有同異 埶有可否 故謀有得失 事有成敗 不可齊也
(読み下し)「『書(=書経)』に夏を猾(みだ)すを戒しめ、『易(=易経)』に鬼方を伐つ。周に獫狁(けんじゅう)・蠻荊(ばんけい)の師有り、漢に闐顏(てんがん)・瀚海(かんかい)の事有り。殊類を征討すること由る所尚(ひさ)し。然れども而して時に同異有り、埶(せい/=勢)に可否有り。故に謀に得失有り、事に成敗有り。齊(ひとし)くすべからざるなり。」
(原文)武帝情存遠略 志闢四方 南誅百越 北討強胡 西伐大宛 東并朝鮮 因文・景之蓄 藉天下之饒 數十年閒 官民倶匱 乃興鹽鐵酒榷之利 設告緡重税之令 民不堪命 起爲盜賊 關東紛擾 道路不通 繡衣直指之使 奮鈇鉞而並出 既而覺悟 乃息兵罷役 封丞相爲富人侯 故主父偃曰 夫務戰勝 窮武事 未有不悔者也 夫以世宗神武 將相良猛 財賦充實 所拓廣遠 猶有悔焉 況今人財並乏 事劣昔時乎
(読み下し)武帝、情は遠略に存り、志は四方を闢き、南に百越を誅し、北には強胡を討ち、西に大宛を伐ち、東は朝鮮を并わす。文・景の蓄(たくわえ)に因り天下の饒(ゆたか)なるに藉(か)るも、數十年閒、官民倶に匱(とぼ)し。すなわち鹽鐵・酒榷の利を興し、告緡(こくびん)・重税の令を設け、民は命に堪(た)えず、起(た)ちて盜賊と爲し、關東紛擾し道路通ぜず。繡衣(しゅうい)直指(ちょくし)の使、鈇鉞(ふえつ/=斧鉞)を奮いて並び出ず。既にして覺悟し、すなわち兵を息(やす)め役を罷(や)め、丞相を封じて富人侯と爲す。故に主父(しゅほ)の偃(えん)の曰く、『夫れ戰勝に務め、武事を窮めて、未だ悔いざる者有らず』と。夫れ世宗の神武、將相の良猛を以って、財賦は充實し、拓(ひら)く所は廣遠にしてすら、なお悔ゆること有り。況んや今は人財並びに乏しく、事は昔の時に劣れるをや。
(原文)自匈奴遁逃 鮮卑強盛 據其故地 稱兵十萬 才力勁健 意智益生 加以關塞不嚴 禁網多漏 精金良鐵 皆爲賊有 漢人逋逃 爲之謀主 兵利馬疾 過於匈奴 昔段熲良將 習兵善戰 有事西羌 猶十餘年 今育・晏才策 未必過熲 鮮卑種衆 不弱于曩時 而虚計二載 自許有成 若禍結兵連 豈得中休 當復徴發衆人 轉運無已 是爲耗竭諸夏 并力蠻夷 夫邊垂之患 手足之蚧搔 中國之困 胸背之瘭疽 方今郡縣盜賊尚不能禁 況此醜虜而可伏乎
(読み下し)匈奴の遁逃してより鮮卑は強盛にして、その故地に據り兵十萬を稱す。才力は勁健(けいけん)にして意智は益(ますま)す生ず。加以(しかのみにあらず)關塞は嚴しからず、禁網は漏るること多し。精金・良鐵は皆な賊の有と爲し、漢人は逋逃(ほとう)してこれの謀主と爲す。兵利(するど)く馬疾(はや)きこと匈奴に過ぎたり。昔、段熲(だんけい)は良將にして兵を習い戰に善(すぐれ)しも、西羌に事有ることなお十餘年。今、育・晏の才策は未だ必ずしも熲(けい)を過ぎず。鮮卑の種衆は曩(さき)の時よりも弱からず。而して虚しく二載を計り自ら成す有るを許すに、若(も)し禍を結び兵の連なれば豈(あに)中休を得んや。當に復た衆人を徴發し、轉運已(や)むこと無し。これ諸夏を耗竭(もうかつ)し力を蠻夷に并すと爲す。それ邊垂(へんすい)の患は手足の蚧搔(かいそう)にして中國の困は胸背の瘭疽(ひょうそ)。まさに今、郡縣の盜賊なお禁ずること能わず。況(いわ)んやこの醜虜にして伏すべきや。
(原文)昔高祖忍平城之恥 呂后慢書之詬 方之於今 何者爲甚
(読み下し)昔、高祖は平城の恥を忍び、呂后は慢書の詬(はじ)を(す/=棄)てたり。これを今に方(くら)べ、何をか甚(はなはだ)しと爲さん。
(原文)天設山河 秦築長城 漢起塞垣 所以別内外 異殊俗也 苟無蹙國内侮之患則可矣 豈與蟲螘狡寇計爭往來哉 雖或破之 豈可殄盡 而方令本朝爲之旰食乎
(読み下し)天は山河を設け、秦は長城を築き、漢は塞垣(さいえん)を起て、内外を別(わか)ち、殊俗の異る所以(ゆえん)なり。苟(いやし)くも國を蹙(ちぢ)め内に侮(あなどり)の患無ければ則ち可なり。豈(あに)蟲螘(ちゅうぎ)狡寇(こうこう)と計爭(けいそう)往來せんや。或いはこれを破ると雖も、豈(あに)殄(ほろぼ)し盡くすべけんや。而して方(まさ)に本朝をしてこれが爲に旰食(かんしょく)せしむるをや。
(原文)夫專勝者未必克 挾疑者未必敗 衆所謂危 聖人不任 朝議有嫌 明主不行也 昔淮南王安諫伐越曰 天子之兵 有征無戰 言其莫敢校也 如使越人蒙死以逆執事廝輿之卒 有一不備而歸者 雖得越王之首 而猶爲大漢羞之 而欲以齊民易醜虜 皇威辱外夷 就如其言 猶已危矣 況乎得失不可量邪
(読み下し)それ勝つを專(もは)らする者は未だ必ずしも克たず。疑いを挾む者は未だ必ずしも敗れず。衆の危うしと謂う所は、聖人は任ぜず。朝議に嫌有るを明主は行わざるなり。昔、淮南王の安は越を伐つを諫(いまし)めて曰く、『天子の兵は、征有るも戰無し。その敢えて校(むくゆ)る莫(な)きを言うなり。如(も)し越人をして死を蒙(おか)し以って執事の廝輿(しよ)の卒を逆(むか)えしめ、一の備わらずして歸る者有らば、越王の首を得ると雖も、而してなお大漢の爲にこれを羞ず』と。而るに齊民を以って醜虜に易(か)え、皇威を外夷に辱しめんと欲す。就(たと)えその言の如きも、なお已(すで)に危うし。況んや得失を量るべからざるをや。
(原文)昔珠崖郡反 孝元皇帝納賈捐之言 而下詔曰 珠崖背畔 今議者或曰可討 或曰之 朕日夜惟思 羞威不行 則欲誅之 通于時變 復憂萬民 夫萬民之飢與遠蠻之不討 何者爲大 宗廟之祭 凶年猶有不備 況避不嫌之辱哉 今關東大困 無以相贍 又當動兵 非但勞民而已 其罷珠崖郡 此元帝所以發德音也 夫卹民救急 雖成郡列縣 尚猶之 況障塞之外 未嘗爲民居者乎 守邊之術 李牧善其略 保塞之論 嚴尤申其要 遺業猶在 文章具存 循二子之策 守先帝之規 臣曰可矣
(読み下し)昔、珠崖郡の反くに、孝元皇帝は賈捐(かよう)の言を納れ、而して詔を下して曰く、『珠崖背畔す。今、議者は或いは討つべしと曰い、或いはこれを(す)てんと曰う。朕、日夜惟思するに、威の行なわれざるを羞じ則ちこれを誅せんと欲し、時變に通じてはまた萬民を憂う。それ萬民の飢えたると遠蠻の討たざると、何をか大と爲さん。宗廟の祭すら凶年にはなお備えざる有り。況んや不嫌の辱を避けるをや。今、關東は大いに困し、以って相い贍(た)らすこと無し。また、當(まさ)に兵を動かすべくは、ただ民を勞すのみに非ず。それ珠崖郡を罷(や)めよ』と。これ元帝の德音を發する所以(ゆえん)なり。それ民を卹(あわ)れみ急を救うには、成郡・列縣と雖も尚(な)お猶(な)おこれを(す)てる。況んや障塞の外に未(いま)だ嘗(かつ)て民居と爲らざる者をや。守邊の術は李牧(りぼく)その略に善く、保塞の論は嚴尤(げんゆう)その要を申し、遺業はなお在り、文章は具(つぶ)さに存す。二子の策に循(したが)い先帝の規を守るを臣は可と曰わん。
(原文)帝不從 遂遣夏育出高柳 田晏出雲中 匈奴中郎將臧旻率南單于出鴈門 各將萬騎 三道出塞二千餘里 檀石槐命三部大人各帥衆逆戰 育等大敗 喪其節傳輜重 各將數十騎奔還 死者十七八 三將檻車徴下獄 贖爲庶人 冬 鮮卑寇遼西 光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食
(読み下し)帝、從わず。遂に夏育(かいく)を遣わし高柳に出さしめ、田晏(でんあん)をして雲中に出さしめ、匈奴中郎將の臧旻(ぞうびん)をして南單于を率い鴈門に出さしむ。おのおの萬騎を將(ひき)い三道より塞を出ずること二千餘里。檀石槐は三部の大人に命じ、おのおの衆を帥(ひき)い逆戰せしむ。育等大いに敗れ、その節傳(せつでん)・輜重(しちょう)を喪(うし)ない、おのおの數十騎を將い奔り還る。死者は十に七八。三將は檻車(かんしゃ)に徴(め)され獄に下り、贖(あがな)いて庶人となる。冬、鮮卑は遼西に寇す。光和元年冬、また酒泉に寇す。縁邊の毒(おか)されざる莫(な)し。種衆は日に多く、田畜・射獵するも食を給するに足らず。檀石槐すなわち自ら徇行(じゅんこう)し、烏侯秦水(うしゅうしんすい)の廣從(こうじゅう)數百里に、水の停(とど)まり流れざるを見る。その中に魚有るも、これを得ること能(あた)わず。倭人は善く網もて捕うと聞く。ここに東に倭人國を擊ち、千餘家を得て、秦水の上(ほと)りに徙(うつ)し置き、魚を捕らえ以って糧食を助けしむ。
(原文)光和中 檀石槐死 時年四十五 子和連代立 和連才力不及父 亦數爲寇抄 性貪淫 斷法不平 衆畔者半 後出攻北地 廉人善弩射者射中和連 即死 其子騫曼年小 兄子魁頭立 後騫曼長大 與魁頭爭國 衆遂離散 魁頭死 弟歩度根立 自檀石槐後 諸大人遂世相傳襲
(読み下し)光和中、檀石槐死す。時に年四十五。子の和連(われん)代りて立つ。和連の才力は父に及ばずも、また數(たびたび)寇抄(こうしょう)を爲す。性は貪淫にして、法を斷ずるに平らかならず、衆の畔く者半ばなり。後に出でて北地を攻む。廉人の善く弩を射る者、射て和連に中(あ)て、すなわち死す。その子の騫曼(さいまん)は年小にして、兄の子の魁頭(かいとう)立つ。後に騫曼長大なるに魁頭と國を爭そい、衆は遂に離散す。魁頭死し弟の歩度根(ほどこん)立つ。檀石槐の後より、諸大人の遂に世に相い傳襲す。
(原文)論曰 四夷之暴 其埶互彊矣 匈奴熾於隆漢 西羌猛於中興 而靈獻之閒 二虜迭盛 石槐驍猛 盡有單于之地 蹋頓凶桀 公據遼西之土 其陵跨中國 結患生人者 靡世而寧焉 然制御上略 歴世無聞 周・漢之策 僅得中下 將天之冥數 以至於是乎 贊曰 二虜首施 鯁我北垂 道暢則馴 時薄先離
(読み下し)論に曰く。四夷の暴、その埶(せい=勢)互いに彊(つよ/=強)し。匈奴は隆漢に熾(さか)んにして、西羌は中興に猛し。而して靈・獻の閒、二虜は迭(たが)いに盛んなり。石槐は驍猛(ぎょうもう)にして盡く單于の地を有し、蹋頓(とうとん)は凶桀にして遼西の土に公據す。その中國を陵跨(りょうこ)し、生人に患(わざわい)を結ぶは世にして寧(やす)きこと靡(な)し。然るに制御の上略を歴世に聞くこと無し。周・漢の策は僅(わず)かに中下を得たり。將(まさ)に天の冥數(めいすう)、以ってここに至るか。贊に曰く。二虜は首施し、我が北垂に鯁(こう)たり。道暢(の)ぶれば則ち馴れ、時薄ければ先んじて離る。
(引用:Wikipedia&古代史獺祭)
1)『三国志』の概要(引用:Wikipedia)
魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略。
当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく、『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。従って倭人に関する条のみならず、東夷伝のすべてを通読しなければ意味がないという考え方もある。
さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は、提言として「『三国志』の著者である陳寿(233~297年)の世界観や政治状況は、約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、陳寿の世界観を形成している儒教の経典(けいてん)に通じなければ分からない」と述べている。
中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している。
当時の倭(後の日本とする説もある)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国)を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。
しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないことから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。
また、一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいないではない。岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解を述べている。
宝賀寿男は「『魏志倭人伝』が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。『魏略』の『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している。
さらに、渡邉義浩は『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている。
2)倭と魏の関係(引用:Wikipedia)
〇卑弥呼と壹與
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来、人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族or宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
〇魏・晋との外交
景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
景初3年1月1日に12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった。
正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
正始8年(247年)、新太守の王(斤+頁)が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年(泰始2年(266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。 現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
〇倭人のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。
3)邪馬台国までの行程と倭国の様子(引用:Wikipedia)
(省略)
4)「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝・『隋書』倭国伝との関係(引用:Wikipedia)
〇『後漢書』倭伝
范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。
〇『隋書』倭国伝との関係
『隋書倭国伝』では、『倭國(隋書は倭を“俀”につくる。倭国に訂正)』について、『倭国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において山島に依って居る。』・『その国境は東西五月行、南北三月行にして、各々海に至る。』・『邪靡堆(北史には邪摩堆とある。靡は摩の誤りであろう)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。古より(北史では“又”)いう、「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり、儋耳と相近し」と。』とあり、倭国(邪馬台国と大和朝廷)の連続性を認めている。
『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、総合的に記述されているとのこと。
●『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
(原文)倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
(読み下し)倭人は帯方郡の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国
★東夷伝には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。
●東夷伝の韓伝 冒頭にも倭という記載がある。
(原文)韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里(『魏志』韓伝)
(読み下し)韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。
5)『三国志』の原文と読み下し(引用:古代史獺祭)
西晋 陳寿(233~297)撰。黄初元年(220)~太康元年(280)の三國時代の魏・屬・呉の歴史を記した史書。
●三國志 卷四 魏書四 三少帝 齊王芳
(原文)倭國女王俾彌呼使を遣わし奉獻す(原文の細部は省略)
●三國志 卷三十 魏書三十 東夷 韓
(原文)國は鐵を出す。 韓・濊・倭はみな從いてこれを取る
(参考)三國志 卷三十 魏書三十 鮮卑 より 裴松之注 魏書曰 (原文)
ここに掲げた注は『魏書』からの長文の引用である。これによると、『後漢書』の卷九十鮮卑列伝にある「倭」は、本来は「汗」であったことがわかる。
●三國志 卷四十七 呉書二 呉主(孫権)傳第二 黄龍二年条
(原文)省略
(読み下し)二年(呉の黄龍二年=西暦230年)春正月。魏、合肥に新城を作る。詔して都講祭酒(とこうさいしゅ=官名)を立て、以って諸子を敎學せしむ。將軍衛(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣し甲士萬人を將いて海に浮かび夷洲及び亶洲を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老、傳え言う「秦の始皇帝、方士徐福を遣し童男・童女數千人を將いて海に入り、蓬・神山及び仙藥を求めしむるも、此の洲に止まりて還らず。世相い承(う)け數萬家有り。其の上の人民、時に有りて會稽に至り布を貨す。會稽東縣の人、海に行き、また風に遭い流移して亶洲に至る者有り」と。所在遠にして、卒、至るを得るべからず。ただ夷洲の數千人を得て還る。
〇三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
★百衲本(原文、書き下し文、現代語訳)、 国名や官名は漢音で読む。
(原文)倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
(読み下し)倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。
(現代語訳)倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。
(原文)從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(読み下し)郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。
(現代語訳)(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
(注/梁書倭伝「乍開乍閉」=開いたり閉じたり)
(原文)始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
(読み下し)始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。
(現代語訳)始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。
(原文)又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
(読み下し)又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。
(現代語訳)また(さらに)、南に一海を渡る。千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、また(対海国と同じく)、ヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。
(原文)又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之
(読み下し)又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。
(現代語訳)また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。
(原文)東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
(読み下し)東南陸行。五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。
(現代語訳)(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
(原文)東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
(読み下し)東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有り。
(現代語訳)(伊都国から)東南、奴国に至る。百里。官はシバコといい、副はヒドボリという。二万余戸が有る。
(原文)東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
(読み下し)東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。
(現代語訳)(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。
(原文)南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
(読み下し)南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。
(現代語訳)(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。
(原文)南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
(読み下し)南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。
(現代語訳)(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。およそ七万余戸。
(原文)自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
(読み下し)女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。
(現代語訳)(ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。次にカウコト国がある。次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。次にソド国がある。次にコイフ国がある。次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲド国がある。次にド国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。
(原文)其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
(読み下し)その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。
(現代語訳)その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。郡より女王国に至るまで、万二千余里。
(原文)男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)
(読み下し)男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
(現代語訳)男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽から東冶にかけての東にある。
(原文)其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
(読み下し)その風俗は淫ならず。男子は、皆、露紒し、木綿を以って頭を招(しば)る。その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うこと無し。婦人は被髪屈紒す。衣を作ること単被の如し。その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。
(現代語訳)その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。
(原文)種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
(読み下し)禾稲、紵麻を種(う)え、蚕桑す。緝績して細紵、縑、緜を出す。その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。兵は矛、盾、木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くす。竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃。有無する所は儋耳、朱崖と同じ。
(現代語訳)稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。
(原文)倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食
(読み下し)倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。朱丹を以ってその身体に塗る。中国の紛を用いるが如し。食、飲には籩豆を用い、手食す。
(現代語訳)倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟(男子)は別の場所で寝たり休んだりする。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。食飲には、籩(ヘン、竹を編んだ高坏)や豆(木をくり抜いた高坏)を用い、手づかみで食べる。
(原文)其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐
(読み下し)その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。始め、死して喪にとどまること十余日。当時は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。以って練沐の如し。
(現代語訳)人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を造る。始め、死ぬと死体を埋めないで殯(かりもがり)する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。それは(白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。
(原文)其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
(読み下し)その行来、渡海し中国に詣るに、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服は垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。若し、行く者に吉善ならば、共にその生口、財物を顧す。若し、疾病が有り、暴害に遭うならば、便(すなわ)ち、これを殺さんと欲す。その持衰が謹まずと謂う。
(現代語訳)その行き来し海を渡って中国にいたる際は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人を近づけさせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイが慎まなかったというのである。
(原文)出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉
(読み下し)真珠、青玉を出す。その山には丹有り。その木には枏、杼、橡、樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香有り。その竹は篠、簳、桃支。薑、橘、椒、襄荷有り。以って滋味と為すを知らず。獮猴、黒雉有り。
(現代語訳)真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、?(楺櫪)、?(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)。ショウガや橘、山椒、茗荷などがあるが、(それを使って)うまみを出すことを知らない。アカゲ猿や黒雉がいる。
(原文)其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
(読み下し)その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。
(現代語訳)その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、ひっかかりがあると、すぐに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。先に卜する内容を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。
(原文)其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
(読み下し)その会同、坐起では、父子、男女は別無し。人性は酒を嗜む。
(現代語訳)その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。人は酒を好む性質がある。
★(裴松之)注…「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」
「魏略(*)いわく、その習俗では正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。」《*/「魏略」…魏の歴史を記した書、現存しない》
(原文)見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年
(読み下し)大人を見て敬する所は、ただ搏手し、以って跪拝に当てる。その人は寿考、或いは百年、或いは八、九十年。
(現代語訳)大人を見て敬意を表す場合は、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。
(原文)其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没 其門戸及宗族 尊卑各有差序足相臣服
(読み下し)その俗、国の大人は、皆、四、五婦。下戸は或いは、二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すに、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸、宗族を没す。尊卑は各(それぞれ)差序有りて、相臣服するに足る。
(現代語訳)その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。
(原文)収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
(読み下し)租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。
(現代語訳)租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。
(原文)「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」
(読み下し)「女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」
(現代語訳)「女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」
(原文)下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
(読み下し)下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。辞を伝え、事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠る。これが恭敬を為す。対応の声は噫と曰う。比して然諾の如し。
(現代語訳)下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。貴人の返答の声は「アイ」という。比べると(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。
(原文)其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
(読み下し)その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。
(現代語訳)その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。
(原文)女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
(読み下し)女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。
(現代語訳)女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72㎝~96㎝)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。
(原文)参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
(読み下し)倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
(現代語訳)倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。
(原文)景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰
(読み下し)景初二年六月、倭女王は大夫、難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守、劉夏は吏を遣わし、将(ひき)い送りて京都に詣る。その年十二月、詔書が倭女王に報いて曰く。
(現代語訳)景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。
(原文)制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
(読み下し)制紹、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣わし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所は遠きを踰(こ)える。
すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。
汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。
今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。
又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。
還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜うなり。
(現代語訳)制詔、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。
今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。
今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。
今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。
帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。
(原文)正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩
(読み下し)正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。倭王は使に因りて上表し、詔恩に答謝す。
(現代語訳)正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。
(原文)其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬
(読み下し)其の四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。
(現代語訳)その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。
(原文)其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
(読み下し)其の六年、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授す。
(現代語訳)正始六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付して仮に授けた。
(原文)其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
(読み下し)其の八年、太守、王頎が官に到る。倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。
(現代語訳)正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
(原文)卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
(読み下し)卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。
(現代語訳)卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。
(原文)壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
(読み下し)壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。
(現代語訳)壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。
(引用:Wikipedia &古代史獺祭)
1)概要(引用:Wikipedia)
『晋書』は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の貞観20年(646年)に太宗の命により、房玄齢(578~648)・李延寿らによって編纂が開始され、貞観22年(648年)に完成した。
西晋(265~316)~東晋(317~420)の104年間を記した、帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻(全百三十卷)によって構成される紀伝体で記した正史。
2)成立までの経緯と構成(引用:Wikipedia)
〔経緯〕
玄武門の変(※)により兄で皇太子の李建成を排除して帝位を簒奪した太宗・李世民は、房玄齢を総監として未編纂の史書を作ることを命じ、『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』と『晋書』が編纂された。
(※)玄武門の変は、626年に発生した唐の高祖の後継者争い。これに勝利した李世民が第2代皇帝として即位することになった。高祖は長男の李建成を立太子するが、隋討伐で戦功を挙げた李世民の名声が高まり、天策上将なる称号を与え、東宮に匹敵する弘義宮を建築するに至り、皇太子の地位に不安を持つようになった。世民の勢力を削減しようとした建成は、世民から礼遇されている謀臣である房玄齢と杜如晦を讒言により排除した。その後建成の幕臣魏徴や弟の李元吉が世民暗殺を建議した。
この計画を事前に察知した世民は、讒言によって遠ざけられていた房玄齢と杜如晦を道士に変装させて自邸に呼び寄せ対策を協議、建成の部下で長安北門である玄武門の守備隊長である常何を買収、武徳9年(626年)6月4日に変を起こした。これにより後継者争いに勝利した世民は、父である高祖から譲位を受け、第2代皇帝太宗として即位した。
太宗は代表作である「蘭亭序」を陪葬することを命じるほど王羲之に傾倒しており、『晋書』「王羲之伝」は自ら執筆している。
既存の正史である『史記』『漢書』『三国志』などはいずれも個人が編纂したものを後に正史と定めたものであったが、太宗の欽定史書として『晋書』が編纂されて以降は史書編纂は国家事業となり、滅亡した王朝の史書を編纂することが正統王朝としての義務となった。
〔参考にした書物〕
『晋書』成立以前にも、数多くの史家によって晋の歴史書が作られており、それらのうち代表的な18種類の書物が「十八家晋史」(後述)と呼ばれていた。『晋書』は、「十八家晋史」の内の一つである、臧栄緒の『晋書』をはじめとした晋の約数十種類の歴史書や、崔鴻の『十六国春秋』(※)などの五胡十六国の歴史について述べられた書物などを参考にして編纂された。
(※)『十六国春秋』は、中国の北魏に撰せられた、五胡十六国時代に関する歴北魏の崔鴻が撰した元本は北宋代には散佚してしまっており、現代まで伝えられてはいない。
元本の全100巻は、司馬光が『資治通鑑』の編纂に引用した北宋初期には二十余巻を除いて散逸していた。現行本は、明代になって、『北史』や『晋書』「載記」などの諸書から輯佚したものであり、元本とは異なっている。
また、『漢魏叢書』中にも「十六国春秋」16巻が収載されているが、こちらの伝来も不明であり、北魏の崔鴻の手になる元本とは異なっている。その他、『広雅書局叢書』中には、清の湯球が撰した「十六国春秋纂録校本」10巻、「十六国春秋輯補」100巻がある。
こちらは、『晋書』や各種類書に引用される佚文を輯集したものであり、その典拠も明記されている。また、そこには同撰者による「三十国春秋輯本」も収載されている。史書である。五胡十六国時代という名称の由来になった。『隋書』「経籍志」によれば、全100巻。
〔既述の範囲〕
本紀に記載されるのは晋の実質上の始祖である司馬懿から東晋最後の恭帝・司馬徳文までであるが、載記では東晋滅亡の年より後に死去した赫連勃勃なども入っている。
西晋では、武帝・恵帝の時代に、将来の『晋書』編纂に当たって、どの時代から扱うかが議論された。荀勗は司馬懿が魏の実権を握った正始年間(240~249年)を、王瓚は司馬師が曹芳を廃立した嘉平年間(249~254年)を始期にすべきと主張したが、結論は出なかった。
のちに賈謐が、武帝が皇帝に即位した泰始年間(265~274年)を始期にするよう主張した。正始期を支持する荀畯・荀藩・華混、嘉平期を支持する荀熙・刁協はなおも自説を主張したが、王戎・張華・王衍・楽広らの支持を得た賈謐の主張(泰始年間)が通った。
正史『晋書』は、王朝の事実上の始祖として本紀を立てた司馬懿・司馬師・司馬昭や、竹林の七賢(※)など一部例外はあるが、基本的に西晋での方針に従い、武帝の即位(265年)以前に死去した人物の伝記は立てていない。すなわち、実質的に晋臣として活動した人物であっても、武帝即位以前に死去した人物は原則立伝されなかった。
(※)竹林の七賢とは、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した下記の七人の称。阮籍(げんせき)/嵆康(けいこう)/山濤(さんとう)/劉伶(りゅうれい)/阮咸(げんかん)/向秀(しょうしゅう)/王戎(おうじゅう)
竹林の七賢 晋時代のレリーフ拓本(引用:Wikipedia)
阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。7人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、多くは役職についており、特に山濤と王戎は三公にまで登っている。
日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、嵆康は鍾会の讒言によって陥れられ、死刑に処せられている。
彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される。
魏から晋の時代には老荘思想に基づき、俗世から超越した談論を行う清談が流行した。
『世説新語』には彼ら以外の多くの人物について記されているが、彼ら以後は社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。 思想的には、漢代末期から続く乱世で、儒教的教えに反感を抱いた結果清談に至ったとされる。
竹林は彼らの理想とする清の象徴である。老荘思想の系統に属している。
2.1)十八家晋史
十八家晋史(じゅうはちかしんし)は、『晋書』成立以前に作られ流布していた18種類の晋の歴史書の総称。九家の『晋書』と、九家の『晋紀』から成る。晋代を記述した歴史書は、唐の貞観期に正史の『晋書』が成立して以後、徐々に散失し始め、南宋の頃にはそのほとんどが失われてしまったとされる。
これらは現在では、劉孝標の『世説新語』注、裴松之の『三国志』注、李善の『文選』注、『太平御覧』などの引用として部分的に残っているのみである。その中では、臧栄緒の『晋書』と王隠の『晋書』の記述が比較的多く残っている。
『十八家晋史』の大部分は、晋代に存在していたいくつかの王朝に限って述べたものや、西晋についてのみ述べたもの、未完成なものなどであったと見られている。
ただし臧栄緒の『晋書』は比較的完成度が高く、創業の宣帝から劉裕による晋の滅亡までが記載されていて、「紀」「録」「誌」「伝」あわせて110巻から成っていたといわれる。
このため、正史の『晋書』もこの書をかなり参考にしていたのではないかと考えられている。
『十八家晋史』は、清の湯球によって再現が試みられている。その内容は中華書局の『叢書集成初編』の中で排印本(活字本)として収録されている。
〇 九家晋書
以下のリストは、著者 書名 (書かれた時期)である。
虞預『晋書』(晋)/朱鳳『晋書』(晋)/王隠『晋書』(晋)/謝霊運『晋書』(宋)/何法盛『晋中興書』(宋)/臧栄緒『晋書』(斉)/蕭子雲『晋書』(梁)/蕭子顕『晋書草』(梁)/沈約『晋書』(梁)
〇 九家晋紀
陸機『晋紀』(晋)/干宝『晋紀』(晋)/曹嘉之『晋紀』(晋)/鄧粲『晋紀』(晋)/徐広『晋紀』(晋)/劉謙之『晋紀』(宋)/王韶之『晋安帝紀』(宋)/郭季産『晋録』(宋)/裴松之『晋紀』(宋)
〇 唐代以前のその他の『晋史』著作
『隋書』経籍志、裴松之注『三国志』などによると、『十八家晋史』以外にも、次のような晋の歴史書があったと見られる。
陸機 『晋恵帝起居注』/習鑿歯 『漢晋春秋』(晋)/孫盛『晋陽秋』(晋)/檀道鸞『続晋陽秋』(宋)/李軌『晋起居注』(晋)/劉道薈『晋起居注』(宋)/傅暢『晋諸公讚』(晋)/荀綽『晋後略』(晋)/盧綝『晋八王故事』『晋四王遺事』(晋)/張緬『晋抄』(梁)
東晋時代の北方十六国史である崔鴻(北魏)の『十六国春秋』、蕭方等(梁)の『三十国春秋』などにも晋の歴史が記載されている。
3)評価
『晋書』の志の部分は、晋のみならず後漢や三国時代についても記しており、志をもたない『三国志』を補う重要な資料となっている。また、晋だけでなく五胡十六国の歴史を載記という形で載せているのも貴重である。いっぽう『晋書』の正確性については、批判的な評価が多い。
『史通』(※)「採撰篇」で劉知幾は、『晋書』が『語林』『世説新語』『幽明録』『捜神記』といった書物に記載された怪しげな話を採用していることを指摘した。「分量さえ多ければいい、資料収集が広ければいいという態度だ。小人は喜ばせられるだろうが、君子のあざ笑うところである。」と手厳しく非難している。
(※)『史通』は、中国における歴史書であり、単なる記録にとどまらず、系統立った史学概論・史学理論を体系的に記した最初の書物である。
撰者は唐の劉知幾で、全20巻、成立は景龍4年(710年)である。劉知幾は、史官の地位にあって、史書の編纂について知見を備えていたが、それが世に入れられないのを憤慨して、歴史書編纂の大要を記したのが本書である。
その論は、後述(略)の六家の特徴、編年体、紀伝体、断代史の長所短所や、歴史官の制度や沿革および、唐代までの正史などに関する批評や、歴史編纂の形式論、史料に対する取り扱いにまで及んでいる。
また、『旧唐書』の著者劉昫は、「房玄齢伝」の評語で、「以臧栄緒晋書為主、参考諸家、甚為詳洽。然史官多是文詠之士、好採詭謬砕事、以広異聞、又所評論、競為綺艶、不求篤実、由是頗為学者所譏。」と、筆を極めて酷評している。
つまり、「『晋書』は諸書を参考に詳しく書かれている。ところが、編纂に当たった史官は文士・歌詠みが多く、デマや誤報、くだらないゴシップを喜んで書いているような程度の低い連中で、広く異聞を集め、所々で評論家ぶって美文を書こうとしているが、真実を追求していないので学者はひどくバカにしている」というのである。
すなわち、正史であるにもかかわらず後世からあたかもイエロージャーナリズムのような評価しか受けなかった史書、それが晋書であった。この評価は後世も概ね踏襲されており、清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。
また、現代日本において晋書の部分日本語訳を行った越智重明は「晋書には多くの誤りがあり、敦煌文書に含まれる干宝の『晋紀』や、『世説新語』などで校正しなければならない」「占田制・課田制のような重大な歴史学の問題でも、晋書には誤りがあるので鵜呑みにしてはいけない」と批判している。
宮川寅雄も「おおかたは逸話や伝承のたぐいで埋められており、枝葉なことがらを洗いおとしてゆくと、家譜や歴任の官職の大まかな推移になってしまう」と述べている。
既存の史書と比較すると、それまで個人が執筆・編纂していたものに対して、複数の編者が存在することで前後矛盾する内容となっている箇所もあり、内藤湖南から批判された。例示すれば「李重伝」の中に「見百官志」(百官志に見える)と記述されるにもかかわらず、『晋書』の中には「百官志」が存在しないこと、などである。
一方で『冊府元亀』の評では、「前代の記録を広く考証し、残存する記録を広く探し、雑草を刈り取るように肝心な部分を抜き出している」と、『晋書』の資料収集を高く評価しているが、そのような好意的評価は非常に少ない。
以上『晋書』は史書としての評価は高くはないが、『三国志』が「地理志」を欠くこともあって、周代以来三国時代に到る地理志の研究家は、『晋書』「地理志」を参考にしている。
また『三国志』には司馬懿の伝記がなく、晋書には司馬懿の伝記「宣帝紀」があるので参考にされることも多い。ただし「宣帝紀」には司馬懿の首が180度回転したといった事実とは考えられない記述が多く、清朝考証学では論難されている。
4)内容
●紀(巻・巻題・節目)
巻1 帝紀第1 宣帝(高祖宣帝)/巻2 帝紀第2 景帝 文帝(世宗景帝・太祖文帝)/巻3 帝紀第3 武帝(世祖武帝)/巻4 帝紀第4 恵帝(孝恵帝)/巻5 帝紀第5 懐帝 愍帝 (懐帝・孝愍帝)
巻6 帝紀第6 元帝 明帝(中宗元帝・粛宗明帝)/巻7 帝紀第7 成帝 康帝(顕宗成帝・康帝)/巻8 帝紀第8 穆帝 哀帝 海西公(孝宗穆帝・哀帝・廃帝海西公)/巻9 帝紀第9 簡文帝 孝武帝(太宗簡文帝・孝武帝)/巻10 帝紀第10 安帝 恭帝 (安帝・恭帝)
●志(巻・巻題・節目)
巻11 志第1 天文上 /巻12 志第2 天文中/巻13 志第3 天文下/巻14 志第4 地理上/巻15 志第5 地理下/巻16 志第6 律暦上/巻17 志第7 律暦中/巻18 志第8 律暦下/巻19 志第9 礼上
巻20 志第10 礼中/巻21 志第11 礼下/巻22 志第12 楽上/巻23 志第13 楽下/巻24 志第14 職官/巻25 志第15 輿服/巻26 志第16 食貨/巻27 志第17 五行上 /巻28 志第18 五行中 /巻29 志第19 五行下/巻30 志第20 刑法
●列伝(巻・巻題・節目)
巻31 列伝第1 后妃上(宣穆張皇后・景懐夏侯皇后・景献羊皇后・文明王皇后・武元楊皇后・武悼楊皇后・左貴嬪・胡貴嬪・諸葛夫人・恵賈皇后・恵羊皇后・謝夫人・懐王皇太后・元夏侯太妃)/巻32 列伝第2 后妃下(元敬虞皇后・明穆庾皇后・成恭杜皇后・康献褚皇后・穆章何皇后・哀靖王皇后・廃帝孝庾皇后・簡文宣鄭太后・簡文順王皇后・孝武文李太后・孝武定王皇后・安徳陳太后・安僖王皇后・恭思褚皇后)
巻33 列伝第3(王祥(王覧)・鄭沖・何曾(何劭・何遵)・石苞(石崇・欧陽建・孫鑠))/巻34 列伝第4(羊祜・杜預(杜錫))/巻35 列伝第5(陳騫(陳興)・裴秀(裴頠・裴楷・裴憲))/巻36 列伝第6(衛瓘(衛恒・衛璪・衛玠・衛展)・張華(張禕・張韙・劉卞))
巻37 列伝第7(宗室 安平献王孚・彭城穆王権・高密文献王泰・范陽康王綏・済南恵王遂・譙剛王遜・高陽王睦・任城景王陵)/巻38 列伝第8(宣五王・文六王 平原王榦・琅邪王伷・清恵亭侯京・扶風王駿・梁王肜・斉王攸・城陽王兆・遼東王定国・広漢王広徳・楽安王鑑・楽平王延祚)/巻39 列伝第9(王沈(王浚)・荀顗・荀勗・馮紞)
巻40 列伝第10(賈充(賈謐・郭彰)・楊駿)/巻41 列伝第11(魏舒・李憙・劉寔・高光)/巻42 列伝第12(王渾(王済)・王濬・唐彬)/巻43 列伝第13(山濤(山簡)・王戎(王衍)・楽広)
巻44 列伝第14(鄭袤・李胤・盧欽(盧浮・盧珽・盧志・盧諶)・華表・石鑒・温羨)/巻45 列伝第15(劉毅(劉暾)・和嶠・武陔・任愷・崔洪・郭奕・侯史光・何攀)/巻46 列伝第16(劉頌・李重)
巻47 列伝第17(傅玄(傅咸・傅祗・傅宣・傅暢))/巻48 列伝第18(向雄・段灼・閻纘)/巻49 列伝第19(阮籍(阮咸・阮瞻・阮孚・阮脩・阮放・阮裕)・嵆康・向秀・劉伶・謝鯤・胡毋輔之(胡毋謙之)・畢卓・王尼・羊曼・光逸)
巻50 列伝第20 曹志・庾峻・郭象・庾純・秦秀/巻51 列伝第21(皇甫謐(皇甫方回)・摯虞・束晳・王接)/巻52 列伝第22(郤詵・阮种・華譚(袁甫))/巻53 列伝第23(愍懐太子)/巻54 列伝第24(陸機(孫拯)・陸雲(陸耽・陸喜))
巻55 列伝第25(夏侯湛(夏侯淳・夏侯承)・潘岳(潘尼)・張載(張協・張亢))/巻56 列伝第26(江統(江虨・江惇)・孫楚(孫統・孫綽)/巻57 列伝第27(羅憲(羅尚)・滕脩・馬隆(馬咸)・胡奮(胡烈)・陶璜・吾彦・張光・趙誘)
巻58 列伝第28(周処(周玘・周勰・周札・周莚)・周訪(周撫・周楚・周瓊・周虓・周光・周仲孫)/巻59 列伝第29(汝南王亮・楚王瑋・趙王倫(孫秀)・斉王冏(鄭方)・長沙王乂・成都王穎・河間王顒・東海王越)
巻60 列伝第30(解系・孫旂・孟観・牽秀・繆播・皇甫重・張輔・李含・張方・閻鼎・索靖・賈疋)/巻61 列伝第31(周浚・成公簡・苟晞(苟純)・華軼・劉喬)/巻62 列伝第32(劉琨(劉羣・劉輿・劉演)・祖逖(祖納))
巻63 列伝第33(邵続・李矩・段匹磾・魏浚・郭黙)/巻64 列伝第34(武十三王・元四王・簡文三子 毗陵王軌・秦王柬・城陽王景・東海王祗・始平王裕・淮南王允・代王演・新都王該・清河王遐・汝陰王謨・呉王晏・勃海王恢・琅邪王裒・東海王沖・武陵王晞・琅邪王煥・会稽王道世・臨川王郁・会稽王道子)
巻65 列伝第35(王導(王悦・王恬・王洽))/巻66 列伝第36 (劉弘・陶侃(陶洪・陶瞻・陶夏・陶琦・陶旗・陶斌・陶称・陶範・陶岱・陶臻・陶輿))/巻67 列伝第37 (温嶠・郗鑒(郗愔・郗超・郗曇))
巻68 列伝第38(顧栄・紀瞻・賀循(楊方)・薛兼)/巻69 列伝第39(劉隗・刁協・戴若思(戴邈)・周顗/巻70 列伝第40(応詹・甘卓・卞壼・劉超・鍾雅)/巻71 列伝第41(孫恵・熊遠・王鑑・陳頵・高崧)
巻72 列伝第42(郭璞・葛洪)/巻73 列伝第43(庾亮(庾冰・庾翼))/巻74 列伝第44(桓彝(桓雲・桓豁・桓石虔・桓振・桓石秀・桓石民・桓石生・桓石綏・桓石康・桓秘・桓沖・桓嗣・桓胤・桓謙・桓修・徐寧))
巻75 列伝第45 (湛・王承・王述・王坦之・王嶠・荀崧・荀羨・范汪・范寧・范堅・劉惔・張憑・韓伯)/巻76 列伝第46(王舒・王廙・王彬・虞潭・顧衆・張闓)/巻77 列伝第47(陸曄(陸玩・陸納)・何充・褚翜・蔡謨・諸葛恢・殷浩(顧悦之・蔡裔))
巻78 列伝第48(孔愉・孔坦・孔厳・丁潭・陶回)/巻79 列伝第49(謝尚・謝安(謝琰・謝混・謝奕・謝玄・謝万・謝朗・謝石・謝邈))/巻80 列伝第50(王羲之(王玄之・王凝之・王徽之・王楨之・王操之・王献之・許邁))
巻81 列伝第51(王遜・蔡豹・羊鑑・劉胤・桓宣・桓伊・朱伺・毛宝・劉遐・鄧嶽・朱序)/巻82 列伝第52(陳寿・王長文・虞溥・司馬彪・王隠・虞預・孫盛・干宝・鄧粲・謝沈・習鑿歯・徐広)/巻83 列伝第53(顧和・袁瓌・袁喬・袁耽・江逌・車胤・殷顗・王雅)
巻84 列伝第54 (王恭・庾楷・劉牢之・殷仲堪・楊佺期)/巻85 列伝第55(劉毅・諸葛長民・何無忌・檀憑之・魏詠之)/巻86 列伝第56(張軌(張寔・張茂・張駿・張重華・張耀霊・張祚・張玄靚・張天錫))
巻87 列伝第57 (涼武昭王李玄盛(李歆))/巻88 列伝第58(孝友 李密・盛彦・夏方・王裒・許孜・庾袞・孫晷・顔含・劉殷・王延・王談・桑虞・何琦・呉逵)/巻89 列伝第59(忠義 嵆紹・王豹・劉沈・麹允・王育・韋忠・辛勉・劉敏元・周該・桓雄・韓階・周崎・易雄・楽道融・虞悝・沈勁・吉挹・王諒・宋矩・車済・丁穆・辛恭靖・羅企生・張禕)
巻90 列伝第60(良吏 魯芝・胡威・杜軫・竇允・王宏・曹攄・潘京・范晷・丁紹・喬智明・鄧攸・呉隠之)/巻91 列伝第61(儒林 范平・文立・陳邵・虞喜・劉兆・氾毓・徐苗・崔遊・范隆・杜夷・董景道・続咸・徐邈・孔衍・范宣・韋謏・范弘之・王歓)
巻92 列伝第62(文苑 応貞・成公綏・左思・趙至・鄒湛・棗拠・褚陶・王沈・張翰・庾闡・曹毗・李充・袁宏・伏滔・羅含・顧愷之・郭澄之)/巻93 列伝第63(外戚 羊琇・王恂・楊文宗・羊玄之・虞豫・庾琛・杜乂・褚裒・何準・王濛・王遐・王蘊・褚爽)
巻94 列伝第64(隠逸 孫登・董京・夏統・朱沖・范粲(付范喬)・魯勝・董養・霍原・郭琦・伍朝・魯褒・氾騰・任旭・郭文・龔壮・孟陋・韓績・譙秀・翟湯(付翟荘)・郭翻・辛謐・劉驎之・索襲・楊軻・公孫鳳・公孫永・張忠・石垣・宋繊・郭荷・郭瑀・祈嘉・瞿硎先生・謝敷・戴逵・龔玄之・陶淡・陶潜)
巻95 列伝第65(芸術 陳訓・戴洋・韓友・淳于智・歩熊・杜不愆・厳卿・隗炤・卜珝・鮑靚・呉猛・幸霊・仏図澄・麻襦・単道開・黄泓・索紞・孟欽・王嘉・僧渉・郭麘・鳩摩羅什・曇霍・臺産)
巻96 列伝第66 列女(羊耽妻辛氏・杜有道妻厳氏・王渾妻鍾氏・鄭袤妻曹氏・愍懐太子妃王氏・鄭休妻石氏・陶侃母湛氏・賈渾妻宗氏・梁緯妻辛氏・許延妻杜氏・虞潭母孫氏・周顗母李氏・張茂妻陸氏・尹虞二女・荀崧小女灌・王凝之妻謝氏・劉臻妻陳氏・皮京妻龍氏・孟昶妻周氏・何無忌母劉氏・劉聡妻劉氏・王広女・陝婦人・靳康女・韋逞母宋氏・張天錫妾閻氏薛氏・苻堅妾張氏・竇滔妻蘇氏・苻登妻毛氏・慕容垂妻段氏・段豊妻慕容氏・呂纂妻楊氏・呂紹妻張氏・涼武昭王李玄盛后尹氏)
巻97 列伝第67 四夷(夫餘国・馬韓・辰韓・粛慎氏・倭人・吐谷渾・焉耆国・亀茲国・大宛国・康居国・大秦国・林邑国・扶南国・匈奴)/巻98 列伝第68 (王敦(沈充)・桓温(桓熙・桓済・桓歆・桓禕・桓偉・孟嘉))
巻99 列伝第69(桓玄・卞範之・殷仲文)/巻100 列伝第70(王弥・張昌・陳敏・王如・杜曾・杜弢・王機・祖約・蘇峻・孫恩・盧循・譙縦)
●載記( 巻目・巻題・ 節目)
巻101 載記第1 劉元海(劉宣)/巻102 載記第2 劉聡(陳元達)/巻103 載記第3 劉曜/巻104 載記第4 石勒上/巻105 載記第5 石勒下(石弘・張賓)/巻106 載記第6 石季龍上
巻107 載記第7 石季龍下(石世・石遵・石鑑・冉閔)/巻108 載記第8 慕容廆(裴嶷・高瞻)/巻109 載記第9 慕容皝(慕容翰・陽裕)/巻110 載記第10 慕容儁(韓恒・李産・李績)
巻111 載記第11 慕容暐(慕容恪・陽騖・皇甫真)/巻112 載記第12 苻洪・苻健・苻生(苻雄・王堕)/巻113 載記第13 苻堅上/巻114 載記第14 苻堅下(王猛・苻融・苻朗)/巻115 載記第15 苻丕・苻登(徐嵩・索泮)
巻116 載記第16 姚弋仲・姚襄・姚萇/巻117 載記第17 姚興上/巻118 載記第18 姚興下(尹緯)/巻119 載記第19 姚泓/巻120 載記第20 李特・李流/巻121 載記第21 李雄・李班・李期・李寿・李勢
巻122 載記第22 呂光・呂纂・呂隆/巻123 載記第23 慕容垂/巻124 載記第24 慕容宝・慕容盛・慕容熙・慕容雲/巻125 載記第25 乞伏国仁・乞伏乾帰・乞伏熾磐・馮跋(馮素弗)
巻126 載記第26 禿髪烏孤・禿髪利鹿孤・禿髪傉檀/巻127 載記第27 慕容徳/巻128 載記第28 慕容超(慕容鍾・封孚)/巻129 載記第29 沮渠蒙遜/巻130 載記第30 赫連勃勃
5)『晋書』の原文と読み下し(引用:古代史獺祭)
●『晋書』武帝紀 太康10年(289年)条
・「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」
・この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。倭人については東夷伝と武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。
・邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人や卑弥呼については書かれている。また266年の「倭人」の朝貢は日本書紀の神功皇后紀に『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致するので、この女王は台与と考えられている。
・266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したと解釈した一説が提示されている。
〇『晋書』の原文と読み下し
●晋書 卷一 帝紀第一 高祖宣帝 懿 より 正始元年「東の倭は譯を重ねて貢を納む」
(原文)「正始元年春正月 東倭重譯納貢 焉耆・危須諸國 弱水以南 鮮卑名王 皆遣使來獻 天子歸美宰輔 又增帝封邑 初 魏明帝好修宮室 制度靡麗 百姓苦之 帝自遼東還 役者猶萬餘人 雕玩之物動以千計 至是皆奏罷之 節用務農 天下欣賴焉」
●晋書 卷三 帝紀第三 世祖武帝 炎 より 泰始二年「倭人來り方物を獻ず」
(原文)(泰始)二年(266)
・春正月丙戌 遣兼侍中侯史光等持節四方 循省風俗 除禳祝之不在祀典者 丁亥 有司請建七廟 帝重其役 不許 庚寅 罷雞鳴歌 辛丑 尊景皇帝夫人羊氏曰景皇后 宮曰弘訓 丙午 立皇后楊氏
・二月 除漢宗室禁錮 己未 常山王衡薨 詔曰 五等之封 皆録舊勳 本爲縣侯者傳封次子爲亭侯 郷侯爲關内侯 亭侯爲關中侯 皆食本戸十分之一 丁丑 郊祀宣皇帝以配天 宗祀文皇帝於明堂以配上帝 庚午 詔曰 古者百官 官箴王闕 然保氏特以諫諍爲職 今之侍中、常侍實處此位 擇其能正色弼違匡救不逮者 以兼此選
・三月戊戌 呉人來弔祭 有司奏爲答詔 帝曰 昔漢文・光武懷撫尉他・公孫述 皆未正君臣之儀 所以羈縻未賓也 皓遣使之始 未知國慶 但以書答之
・夏五月戊辰 詔曰 陳留王操尚謙沖 毎事輒表 非所以優崇之也 主者喩意 非大事皆使王官表上之 壬子 驃騎將軍博陵公王沈卒
・六月壬申 濟南王遂薨
・秋七月辛巳 營太廟 致荊山之木 采華山之石 鑄銅柱十二 塗以黄金 鏤以百物 綴以明珠 戊戌 譙王遜薨 丙午晦 日有蝕之
・八月丙辰 省右將軍官 ・初 帝雖從漢魏之制 既葬除服 而深衣素冠 降席撤膳 哀敬如喪者 戊辰 有司奏改服進膳 不許 遂禮終而後復吉 及太后之喪 亦如之
・九月乙未 散騎常侍皇甫陶・傅玄領諫官 上書諫諍 有司奏請寢之 詔曰 凡關言人主 人臣所至難 而苦不能聽納 自古忠臣直士之所慷慨也 毎陳事出付主者 多從深刻 乃云恩貸當由主上 是何言乎 其詳評議 ・戊戌 有司奏 大晉繼三皇之蹤 蹈舜禹之跡 應天順時 受禪有魏 宜一用前代正朔服色 皆如虞遵唐故事 奏可
・冬十月丙午朔 日有蝕之 丁未 詔曰 昔舜葬蒼梧 農不易畝 禹葬成紀 市不改肆 上惟祖考清簡之旨 所徙陵十里内居人 動爲煩擾 一切停之
・十一月己卯 倭人來獻方物 并圜丘・方丘於南・北郊 二至之祀合於二郊 罷山陽公國督軍 除其禁制 己丑 追尊景帝夫人夏侯氏爲景懷皇后 辛卯 遷祖禰神主于太廟
・十二月 罷農官爲郡縣 ・是歳 鳳皇六・青龍十・黄龍九・麒麟各一見于郡國
●晋書 卷十帝紀第十 安帝 德宗 より・義熙九年「高句麗・倭國及び西南夷銅頭大師並びに方物を獻ず」
(原文)(義熙)九年(413)
・春三月丙寅 劉裕害前將軍諸葛長民及其弟輔國大將軍黎民・從弟寧朔將軍秀之 戊寅 加劉裕鎮西將軍・豫州刺史 林邑范胡達寇九真 交州刺史杜慧度斬之
・夏四月壬戌 罷臨沂・湖熟皇后脂澤田四十頃 以賜貧人 弛湖池之禁 封鎮北將軍魯宗之爲南陽郡公
・秋七月 朱齡石克成都 斬譙縱 益州平
・九月 封劉裕次子義真爲桂楊公
・冬十二月 安平王球之薨 ・是歳 高句麗・倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」
●晋書 卷九十七 四夷伝 倭人 (唐 房 玄齡 等 撰)
・四夷傳:「夫餘國」(略)、「韓」(馬韓・辰韓・肅愼)(略)、「倭人」、「裨離國」(略)
(原文)倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。
(読み下し)倭人は帶方東南大海の中に在り、山島に依りて國を爲す。地に山林多く、良田无く、海物を食す。舊、百餘の小國相接して有り。魏の時に至り、好を通ずるに三十國有り。戸は七萬有り。男子は大小と无く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂う。又、上古使の中國に詣るや、皆自ら大夫と稱すと言う。
(原文)昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。
(読み下し)昔、夏少康の子會稽に封ぜられしに斷髮文身し以って蛟龍の害を避く。今、倭人好く沒して魚を取り、亦た文身は以って水禽を厭わす。其の道里を計るに、當に會稽東冶の東たるべし。
其の男子の衣は横幅にして、但だ結束して相連ね、略ぼ縫い綴ること无し。婦人の衣は單被の如く、其の中央を穿ち以って頭を貫く。皆、被髮し徒跣なり。
(原文)其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣迎之。死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。
(読み下し)其の地は温暖にして、俗は禾稻紵麻を種え、蠶桑織績す。土に牛馬无し。刀、楯、弓、箭、有り。鐵を以って鏃と爲す。 屋宇有りて、父母兄弟臥息處を異にす。食飮に俎豆を用う。嫁を娶るに錢帛を持たず、衣を以って之を迎う。 死には棺有りて椁无し。土を封じて冢と爲す。初め喪するや、哭泣し、肉を食さず。已に葬るや、家を舉げて水に入りて澡浴自潔し、以って不祥を除く。
(原文)其舉大事、輒灼骨以占吉凶。不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
(読み下し)其の大事を舉するに、輙ち骨を灼き以って吉凶を占う。 正歳四節を知らず、但だ秋に收むるの時を計りて以って年紀と爲す。 人多く壽は百年、或は八九十。 國に婦女多く、淫せず妬せず、爭訟无し。輕き罪を犯す者は其の妻孥を没し、重き者は其の家、族を滅す。 舊、男子を以って主と爲す。漢の末、倭人亂れ攻伐して定まらず。乃ち女子を立てて王と爲す。名を彌呼と曰う。
(原文)宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
(読み下し) 宣帝、公孫氏を平ぐるや、其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。其の後、貢聘絶えず。文帝、相と作(な)るにおよび、又、數至る。泰始の初め、使を遣し譯を重ねて入貢す。
●『晉書』帝紀(抜粋)唐太宗御撰(史官 房喬、等)
(原文)(魏)正始元年(240年)春正月、 東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。 謚 (生年~即位年~歿年)
★武帝紀 (236~265~290)
・(泰始) 二年 (266年)/十一月已卯、倭人來獻方物。
・(咸寧) 二年 (276年)/二月丙戌、河間王洪薨。甲午、赦五歳刑以下。東夷八國歸化。/秋七月 /癸丑、東夷十七國内附。
・(咸寧) 三年 (277年)/是歳、西北雜虜及鮮卑、匈奴、五渓蠻夷、東夷三國前後十(千)餘輩、各帥種人部落内附。
・(咸寧) 四年(278年)春正月庚午朔、日有蝕之。三月甲申、尚書左僕射盧欽卒。辛酉、以尚書右僕射山濤爲尚書左僕射。東夷六國來獻。/是歳、東夷九國内附。
・(太康) 元年 (280年)/六月/甲申、東夷十國歸化。秋七月/東夷二十國朝獻。
・(太康) 二年 (281年)/三月丙申安平王敦薨。賜王公以下呉生口各有差。詔選孫晧妓妾五千人入宮。東夷五國朝獻。/夏六月、東夷五國内附。
・(太康)三年(282年)/九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。
・(太康)七年(286年)/八月、東夷十一國内附、京兆地震。/是歳、扶南等二十一國、馬韓等十一國、遣使來獻。
・(太康)八年(287年)/八月、東夷二國内附。
・(太康)九年(288年)/九月、東夷七國詣校尉内附、郡國二十四螟。
・(太康)十年(289年)/五月、鮮卑慕容來降、東夷十一國内附。/是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻。虜奚軻男女十萬口來降。
・(太熈)元年(290年)/二月辛丑、東夷七國朝貢。
★惠帝紀(259~290~306)
・(永平) 元年 (291年)/三月辛卯、誅太傅楊駿…東夷校尉文淑、尚書武茂、皆夷三族。/是歳、東夷十七國、南夷二十四部、竝詣校尉内附。
★元帝紀 (277~317東晋~322)
・(建武) 元年(317年)/六月丙寅/東夷校尉崔[冠比脚必]、鮮卑大都督慕容[广垂中鬼]等一百八十人上書勸進、曰,云々
驪。
・(太興) 四年 (321年) /十二月、以慕容爲持節、都督幽平州東夷諸軍事、平州牧、封遼東郡公。
★成帝紀 (321~325~342)
・(咸康) 二年/二月/庚申、高句驪遣使貢方物。
★康帝紀 (~343~361)
・(建元)元年(343年)/十二月、高句驪遣使朝獻。
★簡文帝紀(321~371~372)
・(咸安)二年(372年)/春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。/六月、遣使拜百濟王餘句、爲鎭東將軍領樂浪太守。
★孝武帝紀 (362~372~396)
・(太元) 七年(382年)/九月、東夷五國遣使來貢方物。
・(太元) 九年(384年)/秋七月/己酉、葬康獻皇后于祟平陵。百濟遣使來貢方物。
・(太元) 十一年(286年)/夏四月、以百濟王世子餘暉爲使持節、都督、鎭東將軍、百濟王。
★安帝紀 (382~396~418)
・(義熈) 九年 (413年)/是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物。晉安帝時、倭王讃遣使朝貢。(南史東夷傳)
(引用:Wikipedia &古代史獺祭)
1)『宋書』の概要
『宋書』は、中国南朝の宋の60年間について書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。
宋代のうちに何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができた。本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる。
宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。
北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったという。
日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている。
2)内容(引用:Wikipedia)
●本紀
1.本紀第一 - 武帝上/2.本紀第二 - 武帝中/3.本紀第三 - 武帝下
4.本紀第四 - 少帝/5.本紀第五 - 文帝/6.本紀第六 - 孝武帝
7.本紀第七 - 前廃帝/8.本紀第八 - 明帝/9.本紀第九- 後廃帝/10.本紀第十 - 順帝
●志
1.志第一 - 志序・律暦上/2.志第二 - 律暦中/3.志第三 - 律暦下/4.志第四 - 礼一
5.志第五 - 礼二/6.志第六 - 礼三/7.志第七 - 礼四/8.志第八 - 礼五
9.志第九 - 楽一/10.志第十 - 楽二/11. 志第十一 - 楽三/12.志第十二 - 楽四/13.志第十三 - 天文一/14.志第十四 - 天文二/15.志第十五 - 天文三/16.志第十六 - 天文四/17.志第十七 - 符瑞上/18.志第十八 - 符瑞中/19.志第十九 - 符瑞下
20.志第二十 - 五行一/21.志第二十一 - 五行二/22.志第二十二 - 五行三/23.志第二十三 - 五行四/24.志第二十四 - 五行五/25.志第二十五 - 州郡一
26.志第二十六 - 州郡二/27.志第二十七 - 州郡三/28.志第二十八 - 州郡四/29.志第二十九 - 百官上/30.志第三十 - 百官下
●列伝
1.列伝第一 后妃 - 孝穆趙皇后・孝懿蕭皇后・武敬臧皇后・武帝張夫人・少帝司馬皇后・武帝胡婕妤・文元袁皇后・文帝路淑媛・孝武文穆王皇后・前廃帝何皇后・文帝沈婕妤・明恭王皇后・明帝陳貴妃・後廃帝江皇后・明帝陳昭華・順帝謝皇后
2.列伝第二 - 劉穆之・王弘/3.列伝第三 - 徐羨之・傅亮・檀道済/4.列伝第四 - 謝晦/5.列伝第五 - 王鎮悪・檀韶・向靖・劉懐慎・劉粋/6.列伝第六 - 趙倫之・王懿・張邵/7.列伝第七 - 劉懐粛・孟懐玉・劉敬宣・檀祗
8.列伝第八 - 朱齢石・毛脩之・傅弘之/9.列伝第九 - 孫処・蒯恩・劉鍾・虞丘進/10.列伝第十 - 胡藩・劉康祖・垣護之・張興世/11.列伝第十一 宗室 - 長沙景王道憐・臨川烈武王道規・営浦侯遵考
12.列伝第十二 - 庾悦・王誕・謝景仁・謝述・袁湛・袁豹・褚淡之・褚叔度/13.列伝第十三 - 張茂度・庾登之・謝方明・江夷/14.列伝第十四 - 孔季恭・羊玄保・沈曇慶/15.列伝第十五 - 臧燾・徐広・傅隆
16.列伝第十六 - 謝瞻・孔琳之/17.列伝第十七 - 蔡廓/18.列伝第十八 - 王恵・謝弘微・王球/19.列伝第十九 - 殷淳・張暢・何偃・江智淵/20.列伝第二十 - 范泰・王准之・王韶之・荀伯子
21.列伝第二十一 武三王 - 廬陵孝献王義真・江夏文献王義恭・衡陽文王義季/22.列伝第二十二 - 羊欣・張敷・王微/23.列伝第二十三 - 王華・王曇首・殷景仁・沈演之/24.列伝第二十四 - 鄭鮮之・裴松之・何承天
25.列伝第二十五 - 吉翰・劉道産・杜驥・申恬/26.列伝第二十六 - 王敬弘・何尚之/27.列伝第二十七 - 謝霊運/28.列伝第二十八 武二王 - 彭城王義康・南郡王義宣/29.列伝第二十九 - 劉湛・范曄/
30.列伝第三十 - 袁淑/31.列伝第三十一 - 徐湛之・江湛・王僧綽/32.列伝第三十二 文九王 - 南平穆王鑠・建平宣簡王宏・晋熙王昶・始安王休仁・晋平剌王休祐・鄱陽哀王休業・臨慶沖王休倩・新野懐王夷父・巴陵哀王休若
33.列伝第三十三 - 顔延之/34.列伝第三十四 - 臧質・魯爽・沈攸之/35.列伝第三十五 - 王僧達・顔竣/36.列伝第三十六 - 朱修之・宗愨・王玄謨/37.列伝第三十七 - 柳元景・顔師伯・沈慶之
38.列伝第三十八 - 蕭思話・劉延孫/39.列伝第三十九 文五王 - 竟陵王誕・廬江王禕・武昌王渾・海陵王休茂・桂陽王休範/40.列伝第四十 孝武十四王 - 豫章王子尚・晋安王子勛・松滋侯子房・臨海王子頊・始平孝敬王子鸞・永嘉王子仁・始安王子真・邵陵王子元・斉敬王子羽・淮南王子孟・晋陵孝王子雲・南海哀王子師・淮陽思王子霄・東平王子嗣・武陸王賛
41.列伝第四十一 - 劉秀之・顧琛・顧覬之/42.列伝第四十二 - 周朗・沈懐文/43.列伝第四十三 - 宗越・呉喜・黄回/44.列伝第四十四 - 鄧琬・袁顗・孔覬/45.列伝第四十五 - 謝荘・王景文
46.列伝第四十六 - 殷孝祖・劉勔/47.列伝第四十七 - 蕭恵開・殷琰/48.列伝第四十八 - 薛安都・沈文秀・崔道固/49.列伝第四十九 - 袁粲/50.列伝第五十 明四王 - 邵陵殤王友・随陽王翽・新興王嵩・始建王禧
51.列伝第五十一 孝義 - 龔穎・劉瑜・賈恩・郭世道・厳世期・呉逵・潘綜・張進之・王彭・蒋恭・徐耕・孫法宗・范叔孫・卜天与・許昭先・余斉民・孫棘・何子平/52.列伝第五十二 良吏 - 王鎮之・杜慧度・徐豁・陸徽・阮長之・江秉之
53.列伝第五十三 隠逸 - 戴顒・宗炳・周続之・王弘之・阮万齢・孔淳之・劉凝之・龔祈・翟法賜・陶潜・宗彧之・沈道虔・郭希林・雷次宗・朱百年・王素・関康之/54.列伝第五十四 恩倖 - 戴法興・戴明宝・徐爰・阮佃夫・王道隆・楊運長
55.列伝第五十五 索虜 - 北魏/56.列伝第五十六 鮮卑吐谷渾 - 吐谷渾/57.列伝第五十七 夷蛮 - 林邑国・扶南国・師子国・天竺・高句驪国・百済国・倭国・荊雍州蛮・豫州蛮
58.列伝第五十八 氐胡 - 略陽清水氐楊氏・胡大沮渠蒙遜/59.列伝第五十九 二凶 - 元凶劭・始興王濬/60.列伝第六十 自序 - 沈警・沈田子・沈亮・沈林子・沈邵・沈璞・沈伯玉
3)倭の五王(引用:Wikipedia)
倭の五王は、中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史『宋書』に登場する倭国の五代の王、讃・珍・済・興・武をいう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡り、晋、宋、斉などの諸帝国に遣使入貢し(遣宋使)、また梁からも官職を授与された。倭の五王が記紀=『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説ある(後述)。
〇概要
中国六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。
宋に続く斉の正史『南斉書』(537年)、梁の正史『梁書』(619年)、南朝四代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。
一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は遣使の事実を記していないが、倭の五王に比定される歴代大王(天皇)の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする(※)。
「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる。
(※)『書紀』の応神天皇紀三十七年二月条「遣阿知使主都加使主於呉令求縫工女」、四十一年二月条「阿知使主等自呉至筑紫」、仁徳天皇紀五十八年十月条「呉国高麗国並朝貢」、雄略天皇紀五年条「呉国遣使貢献」、八年二月条「遣身狭村主青檜隈民使博徳使於呉国」十年九月条「身狭村主青等将呉所献二鵝」など。
倭の五王の遣宋使の目的は、中国の先進的な文明を摂取すると共に、中国皇帝の威光を借りることによって当時の倭(ヤマト王権)にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。
倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもある。
438年の遣使では、「珍」が「隋」ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正を求めているが、このとき「珍」が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える(※)。
451年にも、やはり倭済が23人に軍群(将軍号・郡太守号)の授与を申請している。
(※) ただし、倭隋の「倭」を姓として倭王の一族と見る説もある。
また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め(※)、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における権益に関して国際的承認を得ることも遣宋使の重要な目的であった。
(※)倭の遣使が東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭および三韓からの南朝への航海の安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったという見解を大庭脩や川本芳昭はとっている。
倭王たちは宋帝に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、最終的には「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」授与され(※)、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。
(※)「使持節」とは皇帝から節(旗印)を得て委任を受けたことを示し、「都督……諸軍事」とはその地域の軍事権を承認されたことを意味する。ただし倭王が認められたのは軍事権であり、現地の行政権ではないことに注意が必要である。
この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、倭と対立する高句麗(『宋書』における呼称は高驪)の反発を避けようとしたものと考えられる。
また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものと思われる。
478年の遣宋使を最後として、倭王は宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っている。
『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」及び「武」の遣使時期と重なり(後述)、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、中国皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。
また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある。
〇年表
413年 から502年の間の中国正史の記録を年表にまとめると以下の通り。この中には倭王自身が使者を送ったか判然としないもの、倭王の名が伝えられないものもあるが、晋・呉・斉・梁の四代において、のべ9次の遣使及び迎使(中国皇帝からの使者の受け入れ)と除正(官職授与)をおこなっている。
倭の五王 遣使年表
西暦 | 中国王朝 | 中国元号 | 倭王 | 用件 |
---|---|---|---|---|
413年 | 東晋 | 義熙9 | ? | 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』) |
421年 | 宋 | 永初2 | 讃 | 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝) |
425年 | 宋 | 元嘉2 | 讃 | 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) |
430年 | 宋 | 元嘉7 | 讃? | 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) |
438年 | 宋 | 元嘉15 | 珍 |
これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝) 4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀) 珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝) |
443年 | 宋 | 元嘉20 | 済 | 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』夷蛮伝) |
451年 | 宋 | 元嘉28 | 済 |
宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝) 7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀) また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝) |
460年 | 宋 | 大明4 | 済? | 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 |
462年 | 宋 | 大明6 | 興 | 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) |
477年 | 宋 | 昇明1 | 興(武) |
11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀) これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝) |
478年 | 宋 | 昇明2 | 武 | 上表して、自ら「開府儀同三司」[注1]と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて) |
479年 | 南斉 | 建元1 | 武 | 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) |
502年 | 梁 | 天監1 | 武 | 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀)[注2] |
(引用:Wikipedia)
[注1]「開府儀同三司」は官庁を開き官僚を置くことのできる名誉職で、当時倭国と対立する高句麗の長寿王が任ぜられていた。
[注2]鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、征東大将軍の誤りとされる。
最初の413年の遣使入貢は宋帝国に先立つ晋帝国(東晋)に対してのもので、『晋書』(648年)によると、「高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が方物を献上した」とある。この記述について、高句麗と倭国の共同入貢とする解釈(※)、高句麗が倭人の戦争捕虜を伴ったとする解釈、単に個別の入貢を一括して記したものとする解釈もあるが、詳細は不明である。ただし、後の『梁書』諸夷伝には「晋の安帝の時、倭王讃有り」という記述がある。
(※)しかし当時激しく敵対していた高句麗と倭国が共に入貢するとは到底考えづらい。
479年と502年の記録はそれぞれ斉帝国(南斉)、梁帝国の建国時(479年・502年)のもので、これらは帝国建設・王朝交替に伴う事務的な任官であり、前王朝の官位を踏襲したものと考えられ、倭国の遣使があったか否かは明らかではない。
確認できる最後の遣使は478年であり、史料上確実な倭国の次の遣使は600年・607年の遣隋使まで途絶えることとなる。ただし『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記における「倭が斉の建元年中に表を持ってきた」という記述から、斉への遣使を事実とする説もある。
〇比定
〔有力な仮説〕
有力な仮説として、オホハツセノワカタケル=大泊瀬幼武天皇(雄略)を「武」(倭武)とする説がある。
『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の記述の内容が、『宋書』(513年ごろ)、『梁書』(619年)や『三国史記』(1145年)などが伝える5世紀末の朝鮮事情とよく符合し、諱の一部である「ワカタケル」と思しき名が刻まれた鉄剣がやはり5世紀末頃の遺跡で見つかっていることから、同時代に在位していたオホキミ=大王(スメラミコト=天皇)である可能性があり、「武」という名も諱の一部である「タケ」または「タケル」を意訳したものと考えられる。
〔記紀との関連〕
『日本書紀』によれば先代のアナホ=穴穂天皇(安康)は大泊瀬幼武天皇(雄略)の兄であり、先々代のオアサヅマワクゴノスクネ=雄朝津間稚子宿祢天皇(允恭)は穴穂(安康)、大泊瀬(雄略)の父であり、その系譜は倭済の子が倭興でありその弟が倭武であると記す『宋書』の系譜と一致する。
また、478年に「武」が奉った上表文に「にはかに父兄をうしなひ」(奄喪父兄)とあり、宿祢(允恭)の死後に跡を継いだ穴穂(安康)がわずか3年で暗殺されたという『古事記』『日本書紀』の記述とも整合性がある。
このように「済」・「興」・「武」の人物比定については研究者の間で有力な仮説があるが、「讃」と「珍」の人物比定については『宋書』と『古事記』『日本書紀』の伝承に食い違いがあるため諸説あって特に有力な仮説は無い。
〔宋書と梁書の記述〕
倭の五王といわれるが、倭王自身が使者を送ったか判然としないもの、倭王の名が伝えられないものもある。『宋書』倭国伝に見える倭人はのべ7人であり(讃・珍・隋・祢・済・興・武)、このうち宋帝に朝貢の表をおくったことが確実であるのが五王(讃・珍・済・興・武)である。
五王のうち、『梁書』は「珍」ではなく「弥」を記す。右掲の系図(略)に見られるように、『宋書』では「讃」・「珍」二代と「済」・「興」・「武」三代の間の系譜(続柄)が記されていない。このことから、「讃」・「珍」と「済」・「興」・「武」との間に王統の断絶があったとする王朝交替説も存在する。
『梁書』は倭珍を記さず、『宋書』に載っていない倭弥を挙げて、倭弥と倭済の関係を父子であると記す。これは「珎(珍の俗字)」と「弥(彌の俗字)」を混同したものと解されるが、倭珍と倭弥とは別人であり倭王は6人いた(倭の六王)とする説もある。
『宋書』倭武上表文に「祖祢(祖禰)」と見えることから、倭武の祖父は「祢」(倭祢)であったと解釈でき、これと倭珍を同一視する説もある。ただし「祢」は廟の意であり、「祖祢」は祖廟や遠祖とも解釈できる。
〔その他の説〕
他の説として、「讃」は15代ホムタワケ=応神で、「珍」をオホサザキ=仁徳とする説や、後述する「讃」が16代オホサザキ=仁徳で、「珍」をオアサヅマワクゴノスクネ=反正とする説などがある。
上述のように「武」の名が雄略の諱の一部「タケル」の意訳とみられることから、他の王も同じであると考え、「讃」を応神の諱「ホムタワケ」(※1)の「ホム」から、「珍」を反正の諱「ミヅハワケ」(※2)の「ミヅ」から、「済」を允恭の諱「オアサヅマワクゴノスクネ」(※3)の「ツ」から、「興」を安康の諱「アナホ」(※4)の「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ているという説もある。
しかし、字義や語音の解釈は恣意的な解釈も可能であり、傍証にはなり得ても決め手になるとはいい難い。
(※1)和風諡号『古事記』品陀和氣命、『日本書紀』譽田天皇。『日本書紀』一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇、『播磨国風土記』品太天皇、『上宮記』逸文凡牟都和希王
(※2)和風諡号『日本書紀』多遅比瑞歯別尊、『古事記』水歯別命
(※3)和風諡号『日本書紀』雄朝津間稚子宿禰尊、『古事記』男淺津間若子宿禰王
(※4)和風諡号『日本書紀』穴穂天皇。穴穂皇子
一方、中国皇帝からヤマト王権への遣使については『日本書紀』にみられるが、ヤマト王権から中国への遣使については『古事記』『日本書紀』にみられないことや、ヤマト王権の大王が讃・珍・済・興・武などといった漢字一字の中国名を名乗ったという記録が存在しないこと、『古事記』に掲載された干支と倭の五王の年代に一部齟齬が見られることなどから「倭の五王」はヤマト王権とは別の国の王とする説も江戸時代から存在した。
特に九州の首長であるとする説は根強く、古くは本居宣長が熊襲による僭称を唱えていたほか、戦後も古田武彦が九州王朝説を唱えて一時期は学術誌に掲載されることもあった。
4)『宋書』倭国伝の概要
★南朝梁 沈約(441~513)撰。南朝宋(420~478)の正史。本紀十卷、志三十卷、列伝六十卷の全百卷。
(原文)自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
(読み下し)昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。
(原文)詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王
(意訳)時の順帝は、上表に応え、詔を以て武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍とした。
(解説)倭王に叙爵し、倭国が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)に対して、百済を除く朝鮮半島及び倭の六国支配を認めた。倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。
5)『宋書』倭国伝の原文と読み下し
●宋書 卷五 本紀第五 文帝 より 元嘉七年 「倭國王、使を遣わし方物を獻ず」
・(原文)(元嘉)七年(430年)
・春正月癸巳 以吐谷渾慕容爲征西將軍・沙州刺史 是月 倭國王遣使獻方物
・三月戊子 遣右將軍到彦之北伐 水軍入河 甲午 以前征虜司馬尹沖爲司州刺史 甲寅 以前中領軍殷景仁爲領軍將軍
・夏四月癸未 訶羅單國遣使獻方物
・六月己卯 以冠軍將軍氐楊難當爲秦州刺史
・秋七月戊子 索虜碻戍棄城走 丙申 以平北諮議參軍甄法護爲梁・南秦二州刺史 戊戌 索虜滑臺戍棄城走 甲寅 林邑國・訶羅佗國・師子國遣使獻方物
・冬十月甲寅 罷南豫州并豫州 以左將軍竟陵王義宣爲徐州刺史 戊午 立錢署 鑄四銖錢 戊寅 金墉城爲索虜所陷
・十一月癸未 虎牢城復爲索虜所陷 壬辰 遣征南大將軍檀道濟北討 右將軍到彦之自滑臺奔退
・十二月辛酉 以南兗州刺史長沙王義欣爲豫州刺史 司徒司馬吉翰爲司州刺史 乙亥 京邑火 延燒太社北牆 兗州刺史竺靈秀有罪伏誅
●宋書 卷五 本紀第五 文帝 より 元嘉十五年 「以倭國王珍爲安東將軍」、「武都王・河南國・高麗國・倭國・扶南國・林邑國、並びに使を遣わし方物を獻ず」
(原文)(元嘉)十五年(438年)
・春二月丁未 以平東將軍吐谷渾慕容延爲鎮西將軍・秦河二州刺史
・夏四月甲辰 燕王弘遣使獻方物 立皇太子妃殷氏 賜王公以下各有差 己巳 以倭國王珍爲安東將軍
・五月己丑 特進・右光祿大夫殷穆卒 辛卯 鎮北大將軍・徐州刺史王仲德卒 壬辰 以右衛將軍劉遵考爲徐・兗二州刺史
・秋七月辛未 地震 甲戌 以陳・南頓二郡太守徐循爲寧州刺史
・八月辛丑 以左衛將軍趙伯符爲徐・兗二州刺史 甲寅 以始興内史陸徽爲廣州刺史 丁巳 以兗州刺史王方俳爲青・冀二州刺史 ・是歳 武都王・河南國・高麗國・倭國・扶南國・林邑國並遣使獻方物
●宋書 卷五 本紀第五 文帝 より 元嘉二十年 「河西國・高麗國・百濟國・倭國、並びに使を遣わし方物を獻ず」
(原文)(元嘉)二十年 (443年)
・春正月 於臺城東西開萬春・千秋二門
・二月甲戌 江州刺史庾登之爲中護軍 庚申 以廬陵王紹爲江州刺史 仇池爲索虜所沒 甲申 車駕於白下閲武
・三月辛亥 安西將軍・荊州刺史衡陽王義季進號征西大將軍 以巴西・梓潼二郡太守申坦爲梁・南秦二州刺史
・夏四月甲午 立第六皇子誕爲廣陵王
・五月癸丑 中護軍庾登之卒
・秋七月癸丑 以楊文德爲征西將軍・北秦州刺史 封武都王 辛酉 以南蠻校尉蕭思話爲雍州刺史 甲子 前雍州刺史劉真道・梁南秦二州刺史裴方明有罪 下獄死
・八月癸未 以廷尉陶愍祖爲廣州刺史
・冬十二月庚午 以始興内史檀和之爲交州刺史 壬午 詔曰 國以民爲本 民以食爲天 故一夫輟稼 饑者必及 倉廩既實 禮節以興 自頃在所貧罄 家無宿積 賦役暫偏 則人懷愁墊 歳或不稔 而病乏比室 誠由政德弗孚 以臻斯弊 抑亦耕桑未廣 地利多遺 宰守微化導之方 萌庶忘勤分之義 永言弘濟 明發載懷 雖制令亟下 終莫懲勸 而坐望滋殖 庸可致乎 有司其班宣舊條 務盡敦課 遊食之徒 咸令附業 考覈勤惰 行其誅賞 觀察能殿 嚴加黜陟 古者躬耕帝籍 敬供粢盛 仰瞻前王 思遵令典 便可量處千畝 考卜元辰 朕當親率百辟 致禮郊甸 庶幾誠素 將被斯民 ・是歳 河西國・高麗國・百濟國・倭國並遣使獻方物
●宋書 卷五 本紀第五 文帝 より 元嘉二十八年 「安東將軍倭王倭濟、號を安東大將軍に進む」
(原文)(元嘉)二十八年(451年)
・春正月丙戌朔 以寇逼不朝會 丁亥 索虜自瓜歩退走 丁酉 攻圍盱眙城 ・是月 甯朔將軍王玄謨自確退還暦下
・二月丙辰 索虜自盱眙奔走 癸酉 詔曰 ・玁狁孔熾 難及數州 眷言念之 寤寐興悼 凶羯痍挫 迸跡遠奔 凋傷之民 宜時振理 凡遭寇賊郡縣 令還複居業 封屍掩骼 賑贍饑流 東作方始 務盡勸課 貸給之宜 事從優厚 其流寓江・淮者 並聽即屬 並蠲複税調 ・甲戌 太尉・領司徒江夏王義恭降爲驃騎將軍・開府儀同三司 辛巳 鎮軍將軍・徐兗二州刺史武陵王諱降號北中郎將 壬午 車駕幸瓜歩 是日解嚴
・三月乙酉 車駕還宮 壬辰 征北將軍始興王浚解南兗州 庚子 以輔國將軍臧質爲雍州刺史 戊申 徐州刺史武陵王諱爲南兗州刺史 甲寅 護軍將軍蕭思話爲撫軍將軍・徐兗二州刺史
・夏四月癸酉 婆達國遣使獻方物 索虜偽甯南將軍魯爽・中書郎魯秀歸順 戊寅 以爽爲司州刺史
・五月乙酉 亡命司馬順則自號齊王 據梁鄒城 丁巳 婆皇國 戊戌 河南王 並遣使獻方物 己巳 驃騎將軍江夏王義恭領南兗州刺史 戊申 以尚書左僕射何尚之爲尚書令 太子詹事徐湛之爲尚書僕射・護軍將軍 壬子 以後將軍隨王誕爲安南將軍・廣州刺史
・六月壬戌 以北中郎將武陵王諱爲江州刺史 以振武將軍・秦郡太守劉興祖爲青・冀二州刺史
・秋七月甲辰 安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍
・八月癸亥 梁鄒平 斬司馬順則
・冬十月癸亥 高麗國遣使獻方物
・十一月壬寅 曲赦二兗・徐・豫・青・冀六州 是冬 徙彭城流民于瓜歩 淮西流民于姑孰 合萬許家
●宋書 卷六 本紀第六 孝武帝 より 大明四年 「倭國、使を遣わし方物を獻ず」
(原文)(大明)四年(460年)
・春正月辛未 四駕祠南郊 甲戌 宕昌王奉表獻方物 乙亥 車駕躬耕藉田 大赦天下 尚方徒系及逋租宿債 大明元年以前 一皆原除 力田之民 隨才敘用 孝悌義順 賜爵一級 孤老貧疾 人穀十斛 藉田職司 優沾普賚 百姓乏糧種 隨宜貸給 吏宣勸有章者 詳加褒進 壬午 以北中郎司馬柳叔仁爲梁・南秦二州刺史 左將軍・荊州刺史硃修之進號鎮軍將軍 庚寅 立第三皇子勳爲晉安王 第六皇子房爲尋陽王 第七皇子子頊爲曆陽王 第八皇子子鸞爲襄陽王
・二月庚子 侍中建安王休仁爲湘州刺史 己未 以員外散騎侍郎費景緒爲甯州刺史
・三月甲子 以冠軍將軍巴陵王休若爲徐州刺史 丁卯 以安陸王子綏爲郢州刺史 癸酉 以徐州刺史劉道隆爲青・冀二州刺史 索虜寇北陰平孔堤 太守楊歸子擊破之 甲申 皇后親桑于西郊
・夏四月癸卯 以南琅邪隸王畿 丙午 詔曰『昔衣禦宇 貶甘示節 土簋臨天 飭儉昭度 朕綈帛之念 無忘於懷 雖深詔有司 省游務實 而歲用兼積 年量虚廣 豈以捐豐從損 允稱約心 四時供限 可詳減太半 庶裘絺順典 有偃民華 纂組傷工 無競廛市』 ・辛酉 詔曰『都邑節氣未調 癘疫猶衆 言念民瘼 情有矜傷 可遣使存問 並給醫藥 其死亡者 隨宜恤贍』
・五月庚辰 于華林園聽訟 乙酉 以徐州之梁郡還屬豫州 丙戌 尚書左僕射褚湛之卒 以撫軍長史劉思考爲益州刺史 庚寅 以南下邳並南彭城郡
・秋七月甲戌 左光祿大夫・開府儀同三司何尚之薨
・八月壬寅 宕昌王遣使獻方物 己酉 以晉安王子勳爲南兗州刺史 雍州大水 甲寅 遣軍部賑給
・九月辛未 以冠軍將軍垣護之爲豫州刺史 甲申 上于華林園聽訟 丁亥 改封襄陽王子鸞爲新安王
・冬十月庚寅 遣新除司空沈慶之討沿江蠻 壬辰 制郡縣減祿 並先充公限
・十一月戊辰 改細作署令爲左右禦府令 丙戌 複置大司農官
・十二月乙未 上于華林園聽訟 辛巳 車駕幸廷尉寺 凡囚系咸悉原遣 索虜遣使請和 丁未 車駕幸建康縣 原放獄囚 倭國遣使獻方物
●宋書 卷六 本紀第六 孝武帝 より 大明六年 「倭國王世子の興を安東將軍と爲す」
(原文)(大明)六年(462年)
・春正月己丑 湘州刺史建安王休仁加平南將軍 辛卯 車駕親祠南郊 是日 又宗祀明堂 大赦天下 孝子・順孫・義夫・悌弟 賜爵一級 慈姑・節婦及孤老・六疾 賜帛五匹 穀十斛 下四方旌賞茂異 其有懷真抱素 志行清白 恬退自守 不交當世 或識通古今 才經軍國 奉公廉直 高譽在民 具以名奏 乙未 置五官中郎將・左右中郎將官 乙卯 復百官祿
・三月庚寅 立第十三皇子子元爲邵陵王 壬寅 以倭國王世子興爲安東將軍 乙巳 改豫州南梁郡爲淮南郡 舊淮南郡并宣城 丁未 輔國將軍・征虜長史・廣陵太守沈懷文有罪 下獄死
・四月申 原除南兗州大明三年以前逋租 新作大航門
・五月丙戌 置凌室 修藏冰之禮 壬寅 太宰江夏王義恭解領司徒
・六月辛酉 尚書左僕射・護軍將軍劉延孫卒
・秋七月庚辰 以荊州刺史朱脩之爲領軍將軍 廣州刺史臨海王子頊爲荊州刺史 甲申 地震 戊子 以輔國將軍王翼之爲廣州刺史 辛卯 以西陽太守檀翼之爲交州刺史 乙未 立第十九皇子子雲爲晉陵王
・八月亥 原除雍州大明四年以前逋租 乙亥 置清臺令
・九月戊寅 制沙門致敬人主 戊子 以前金紫光祿大夫宗愨爲中護軍 乙未 尚書右僕射劉遵考爲尚書左僕射 丹陽尹王僧朗爲尚書右僕射
・冬十月丁巳 以山陽王休祐子士弘繼鄱陽哀王休業 丁卯 詔上林苑内民庶丘墓欲還合葬者 勿禁
・十一月己卯 陳留王曹虔秀薨 辛巳 以尚書令柳元景爲司空 尚書令如故
●宋書 卷十 本紀第十 順帝 より 昇明元年「倭國、使を遣わし方物を獻ず」
・(原文)昇明元年(477年)改元 大赦天下 賜文武位二等 甲午 鎮軍將軍齊王出鎮東城 輔政作相 丙申 詔曰「露臺息構 義光漢德 雉裘焚制 事隆晉道 故以檢奢軌化 敦儉馭俗 頃甸服未靜 師旅連年 委蓄屢空 勞敝莫偃 而丹雘之飾 糜耗難訾 寶賂之費 徵賦靡計 今車服儀制 實宜約損 使徽章有序 勿得侈溢 可罷省御府二署 凡工麗彫 傷風毀治 一皆禁斷 庶永昭憲則 弘茲始政 征西大將軍・荊州刺史沈攸之進號車騎大將軍・開府儀同三司 尚書左僕射・中領軍・鎮軍將軍・南兗州刺史齊王爲司空・録尚書事・驃騎大將軍 刺史如故 中書令・衛將軍・開府儀同三司 撫軍將軍劉秉爲尚書令 加中軍將軍 安西將軍・郢州刺史晉熙王燮爲撫軍將軍・揚州刺史 南陽王翽爲郢州刺史 辛丑 尚書右僕射王僧虔爲尚書僕射 右衛將軍劉韞爲中領軍 金紫光祿大夫王琨爲右光祿大夫 給司空齊王錢五百萬 布五千匹 癸卯 車駕謁太廟 丙午 以安西參軍明慶符爲青・冀二州刺史 武陵王贊爲郢州刺史 新除郢州刺史南陽王翽爲湘州刺史 司空・南兗州刺史齊王改領南徐州刺史 征虜將軍李安民爲南兗州刺史 雍州大水
・八月壬子 遣使賑卹 蠲除稅調 以驃騎長史劉澄之爲南豫州刺史 山陽太守于天寶・新呉縣子秦立有罪 下獄死 戊午 改平準署 辛酉 以宣城太守李靈謙爲兗州刺史 癸亥 司徒袁粲鎮石頭 丁卯 原除元年以前逋調 復郡縣祿田 戊辰 崇拜帝所生陳昭華爲皇太妃 庚午 司空長史謝朏・衛軍長史江學・中書侍郎褚炫・武陵王文學劉候入直殿省 參侍文義 齊王固讓司空 庚辰 以爲驃騎大將軍・開府儀同三司
・九月己丑 詔曰「昔聖王既沒 淳風已衰 龜書永湮 龍圖長祕 故三代之末 德刑相擾 世淪物競 道陂人諛 然猶正士比轂 奇才接軫 朕襲運金樞 纂靈瑤極 負扆巡政 日晏忘疲 永言興替 望古盈慮 姫・夏典載 猶傳緗帙 漢・魏餘文 布在方冊 故元封興茂才之制 地節創獨行之品 振維務本 存乎得人 今可宣下州郡 搜揚幽仄 摽采郷邑 隨名薦上 朕將親覽 甄其茂異 庶野無遺彦 永激遐芬」・己酉 廬陵王暠薨
・冬十一月己酉 倭國遣使獻方物 丙午 員外散騎侍郎胡羨生行越州刺史 以交州刺史沈景德爲廣州刺史
・十二月丁巳 以驍騎將軍王廣之爲徐州刺史 車騎大將軍・荊州刺史沈攸之舉兵反 丁卯 録公齊王入守朝堂 侍中蕭嶷鎮東府 戊辰 内外纂嚴 己巳 以郢州刺史武陵王贊爲安西將軍・荊州刺史 征虜將軍・雍州刺史張敬兒進號鎮軍將軍 右衛將軍黄回爲平西將軍・郢州刺史 督諸軍前鋒南討 征虜將軍呂安國爲湘州刺史 都官尚書王寬加平西將軍 庚午 新除左衛將軍齊王世子奉新除撫軍將軍・揚州刺史晉熙王燮鎮尋陽之盆城 壬申 以驍騎將軍周盤龍爲廣州刺史 是日 司徒袁粲據石頭反 尚書令劉秉・黄門侍郎劉述・冠軍王蘊率衆赴之 黄回及輔國將軍孫曇瓘・屯騎校尉王宜興・輔國將軍任候伯・左軍將軍彭文之密相響應 中領軍劉韞・直閤將軍卜伯興在殿内同謀 録公齊王誅韞等於省内 軍主蘇烈・王天生・薛道淵・戴僧靜等陷石頭 斬粲於城内 秉・述・蘊踰城走 追擒之 並伏誅 其餘無所問 豫州刺史劉懷珍・雍州刺史張敬兒・廣州刺史陳顯達並舉義兵 司州刺史姚道和・梁州刺史范柏年・湘州行事庾佩玉擁衆懷貳 甲戌 大赦天下 乙亥 以尚書僕射王僧虔爲尚書左僕射 新除中書令王延之爲尚書右僕射 呉郡太守劉遐據郡反 輔國將軍張環討斬之
・閏月辛巳 屯騎校尉王宜興有罪伏誅 癸巳 沈攸之攻圍郢城 前軍長史柳世隆固守 攸之弟登之作亂於呉興 呉興太守沈文秀討斬之 己亥 内外戒嚴 假録公齊王黃鉞 辛丑 寧朔將軍・北秦州刺史武都王楊文度進號征西將軍 乙巳 録公齊王出頓新亭
●宋書 卷九十七 列傳第五十七 夷蛮伝 倭國(倭の五王)
(原文)倭國在高驪東南大海中丗修貢職 ・高祖永初二年(421年)詔曰『倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授』・太祖元嘉二年(425年)讃又遣司馬曹達奉表獻方物
(読み下し)倭國は高驪東南大海の中に在り、丗ゝ貢職を修む。・高祖永初二年(421年)、詔して曰く、『倭の讃、萬里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜う可し』と。太祖元嘉二年(425年)、讃、又、司馬曹達を遣し表を奉り方物を獻ず。
(原文)讃死弟珍立 遣使貢獻 自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正 詔除安東將軍倭國王 珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號 詔竝聽
(読み下し)讃死して、弟、珍立つ。使を遣し貢獻す。自ら使持節、都督、倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王を稱し、表して除正を求む。詔して安東將軍、倭國王に除す。珍、又、倭隋等十三人を平西、征虜、冠軍、輔國將軍の號に除正を求む。詔して竝びに聽(ゆる)す。
(原文)(太祖元嘉)二十年(443年)倭國王濟遣使奉獻 復以爲安東將軍倭國王・(太祖元嘉)二十八年(451年)加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡
(読み下し)二十年(443年)、倭國王濟、使を遣して奉獻す。復た以って安東將軍、倭國王と爲す。・二十八年(451年)、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事を加え、安東將軍は故(もと)の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に除す。
(原文)濟死丗子興遣使貢獻 ・丗祖大明六年(462年)詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王
(読み下し)濟死して、丗子、興、使を遣して貢獻す。 丗祖大明六年(462年)、詔して曰く、「倭王丗子興、奕丗(えきせい)載(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を寧(やす)んじ、恭(うやうや)しく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ。宜しく爵號を授け、安東將軍、倭國王たる可し」と。
(原文)興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王 ・順帝昇明二年(478年)遣使上表曰封國偏遠作藩于外 自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿
(読み下し)興死して、弟、武立つ。自ら使持節、都督、倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱す。順帝昇明二年(478年)、使を遣し上表して曰く、「封國は偏遠にして藩を于外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑をき、山川跋渉して寧處(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東に征するに毛人五十五國、西に服するに衆夷六十六國、渡りて平ぐるに海北九十五國、王道融泰(ゆうたい)にして土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
(原文)累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無替前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節
(読み下し)累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。臣、下愚と雖も忝(かたじけなく)も先緒を胤(つ)ぎ、統(すぶ)る所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遥(へ)て、船舫を裝治す。而(しか)るに句驪無道にして、圖(はか)るに見呑を欲し、邊隷(へんれい)を掠抄し、虔劉(けんりゅう)して已(や)まず。毎(つね)に稽滯を致し、以って良風を失い、路に進むと曰うと雖ども、或いは通じ、或いは不(しか)らず。 臣が亡考濟、實に寇讎(こうしゅう)の天路を壅塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦(こうげん)百萬、義聲に感激し、方(まさ)に大擧せんと欲せしも、奄(にわ)かに父兄を喪(うしな)い、垂成(すいせい)の功をして一簣(き)を獲ず。居(むな)しく諒闇にあり、兵甲を動かさず。是を以って偃息(えんそく)して未だ捷(か)たざりき。今に至り甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁(こはん)文武功を效(いた)し、白刃前に交るとも亦た顧みざる所なり。若し帝德の覆載(ふくさい)を以って、此の彊敵を摧(くじ)き、克(よ)く方難を靖(やす)んぜば、前功を替えること無し。竊(ひそか)に自ら開府義同三司を假し、其の餘は咸(み)な假授して、以って忠節を勸む」と。
(原文)詔除武 使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
(読み下し)詔して武を使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王に除す。
(引用:Wikipedia&古代史獺祭)
1)『南斉書』の概要(引用:Wikipedia)
『南斉書』(南齊書)は、中国南朝の斉について書かれた歴史書。梁の蕭子顕が書いた紀伝体の史書。二十四史の内の一つ。原名は『斉書』であったが、李百薬の『北斉書』に鑑みて、宋の時に手直しされた。
本紀8巻、志11巻、列伝40巻の合計59巻(一説には著者である蕭子顕の自叙1巻があったものの、紛失して59巻になったと言われている)。高帝の建元元年(479年)から和帝の中興2年(520年)までの南斉の歴史が記されている。また、北朝に関しては「魏虜伝」に記載されている。
蕭子顕が斉の高帝の孫に当たることから、記事の内容は詳細を究めており、趙翼の『廿二史劄記』は隠諱・直書に優れているとしてその公正さを評価するが、同書の執筆対象である斉の旧皇族が書いた歴史書であることから、公正さは期待できないという厳しい評価を下す歴史学者もいる。
趙翼も高帝の子は大勢いるのに、蕭子顕が自分の実父である豫章王蕭嶷のために、列伝一巻の編纂(列伝第三)を行ってその人物を賞賛した事は、親孝行ではあるが歴史家の執筆態度としては相応しくないと批判している。
『南史』が編纂された後は読まれる事が少なくなったと言う。
2)内容
〇本紀
1.本紀第一 - 高帝上/2.本紀第二 - 高帝下/3.本紀第三 - 武帝/4.本紀第四 - 鬱林王/5.本紀第五 - 海陵王/6.本紀第六 - 明帝/7.本紀第七 - 東昏侯/8.本紀第八 - 和帝
〇志
1.志第一 - 礼上/2.志第二 - 礼下/3.志第三 - 楽/4.志第四 - 天文上/5.志第五 - 天文下/6.志第六 - 州郡上/7.志第七 - 州郡下/8.志第八 - 百官/9.志第九 - 輿服/10.志第十 - 祥瑞/11.志第十一 - 五行
〇列伝
1.列伝第一 皇后 - 宣孝陳皇后・高昭劉皇后・武穆裴皇后・文安王皇后・鬱林王何妃・海陵王王妃・明敬劉皇后・東昏褚皇后・和帝王皇后/2.列伝第二 - 文恵太子/3.列伝第三 - 豫章文献王/4.列伝第四 - 褚淵・褚澄・王倹
5.列伝第五 - 柳世隆・張瓌/6.列伝第六 - 垣崇祖・張敬児/7.列伝第七 - 王敬則・陳顕達/8.列伝第八 - 劉懐珍・李安民・王玄載・王瞻・王寛・王玄邈/9.列伝第九 - 崔祖思・劉善明・蘇侃・垣栄祖・全景文
10.列伝第十 - 呂安国・周山図・周盤龍・周奉叔・王広之/11.列伝第十一 - 薛淵・戴僧静・桓康・焦度・曹虎/12.列伝第十二 - 江謐・荀伯玉/13.列伝第十三 - 王琨・張岱・褚炫・何戢・王延之・阮韜
14.列伝第十四 - 王僧虔・張緒/15.列伝第十五 - 虞玩之・孔逷・何憲・劉休・沈沖・庾杲之・王諶/16.列伝第十六 高祖十二王 - 臨川献王映・長沙威王晃・武陵昭王曄・安成恭王暠・鄱陽王鏘・桂陽王鑠・始興簡王鑑・江夏王鋒・南平王鋭・宜都王鏗・晋熙王銶・河東王鉉
17.列伝第十七 - 謝超宗・劉祥/18.列伝第十八 - 到撝・劉悛・虞悰・胡諧之/19.列伝第十九 - 蕭景先・蕭赤斧・蕭穎冑/20.列伝第二十 - 劉瓛・劉璡・陸澄
21.列伝第二十一 武十七王 - 竟陵文宣王子良・廬陵王子卿・魚復侯子響・安陸王子敬・晋安王子懋・隨郡王子隆・建安王子真・西陽王子明・南海王子罕・巴陵王子倫・邵陵王子貞・臨賀王子岳・西陽王子文・衡陽王子峻・南康王子琳・湘東王子建・南郡王子夏/22.列伝第二十二 - 張融・周顒/23.列伝第二十三 - 王晏・蕭諶・蕭坦之・江祏
24.列伝第二十四 - 江斅・何昌㝢・謝瀹・王思遠/25.列伝第二十五 - 徐孝嗣・沈文季・沈昭略/26.列伝第二十六 宗室 - 衡陽元王道度・始安貞王道生・安陸昭王緬/27.列伝第二十七 - 王秀之・王慈・蔡約・陸慧曉・蕭恵基
28.列伝第二十八 - 王融・謝朓/29.列伝第二十九 - 袁彖・孔稚珪・劉絵/30.列伝第三十 - 王奐・殷叡・殷恒・王繢・張沖/31.列伝第三十一 文二王・明七王- 巴陵王昭秀・桂陽王昭粲・巴陵隠王宝義・江夏王宝玄・廬陵王宝源・鄱陽王宝寅・邵陵王宝攸・晋熙王宝嵩・桂陽王宝貞/32.列伝第三十二 - 裴叔業・崔慧景・張欣泰
33.列伝第三十三 文学 - 丘霊鞠・檀超・卞彬・丘巨源・王智深・陸厥・崔慰祖・王逡之・祖沖之・賈淵/34.列伝第三十四 良政 - 傅琰・虞愿・劉懐慰・裴昭明・沈憲・李珪之・孔琇之
35.列伝第三十五 高逸 - 褚伯玉・明僧紹・顧歓・臧栄緒・何求・劉虯・庾易・宗測・杜京産・沈驎士・呉苞・徐伯珍/36.列伝第三十六 孝義 - 崔懐慎・公孫僧遠・呉欣之・韓係伯・孫淡・華宝・韓霊敏・封延伯・呉達之・王文殊・朱謙之・蕭叡明・楽頤・江泌・杜栖・陸絳
37.列伝第三十七 倖臣 - 紀僧真・劉係宗・茹法亮・呂文顕・呂文度/38.列伝第三十八 魏虜 - 魏虜/39.列伝第三十九 蛮・東南夷 - 高麗・加羅・倭国・林邑・扶南・交州/40.列伝第四十 - 芮芮虜・河南・氐楊氏・宕昌
2)『南斉書』列伝 第三十九 蛮 東南夷-倭国(引用:Wikipedia)
(関連部分の原文)倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。
倭国関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく抄録したもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。
・479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号を鎮東大将軍に昇格したことなどが書かれている。
3)『梁職貢図』(引用:Wikipedia)
『梁職貢図』に記された皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子の中に、倭国の記載がある。
●職貢図
古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意味 。貢職図とも呼ばれる。梁時代の梁職貢図が有名。
中国王朝からみた諸夷と呼ばれた周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章とともに絵図として描いている。梁(南朝)から清朝の時代まで複数の存在が確認されている。
・詳細は中国語記事「職貢図」を参照のこと
・『梁職貢図』は、梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられる。
蕭繹は学問好きで、蔵書は10数万巻に及んだという。蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にしたといわれる。
●『蕭繹職貢図』模写
6世紀南朝梁元帝(蕭繹)の職貢図の模写。左から末、白題(匈奴部族)、胡蜜丹、呵跋檀、
周古柯、鄧至、狼牙脩、倭、亀茲、百済、波斯、滑/嚈噠からの使者。(引用:Wikipedia)
6世紀に梁朝の元帝(姓・蕭、諱・繹)時代に作成されたものが中国史上最古とされ、526~539年頃作成。大きさは26.7cm×402.6cmと伝えられる。しかしこの原図は存在せず、模写された「職貢図」(宋人摹本残巻、1077年)が中国国家博物館に収蔵されており、梁職貢図とも呼ばれる。残存する模写図の長さは200.7cmで、絵中には12の地域からの使者が描かれている。
(引用:Wikipedia&古代史獺祭)
1)梁書の概要
『梁書』(りょうしょ)は、南朝梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書。56巻。629年(貞観3年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が成立させた。
同時期に完成した『晋書』などの官撰の正史とは趣きを異に、司馬氏父子の『史記』などに通ずる私撰の史書としての意味合いを持っている。
本紀6巻・列伝50巻で構成されており、梁から陳にかけて編纂された『梁史』も参照にされている。
後世の評価では、概ね公正で体裁も整った良史とされるが、列伝の立伝方針や編纂順序等に難ありとの評価もある。また、引用文以外の文章は当時全盛の駢儷文を採用せず、古文を用いて叙述している点にも特徴がある。
卷五十四 列傳第四十八 諸夷には、倭国を含め、当時の東・東南・西・中央・南アジア諸国について記載がある。倭伝では、倭王武が大将軍に除正されたことなどが記されている。
各国、歴史的な実在と比定が確認されているもの、未確認のものがある。以下、掲載国とその概要を記す。
2)内容
●本紀
1.本紀第一 - 武帝上/2.本紀第二 - 武帝中/3.本紀第三 - 武帝下/4.本紀第四 - 簡文帝/5.本紀第五 - 元帝/6.本紀第六 - 敬帝
●列伝
1.列伝第一 皇后 - 太祖張皇后・高祖郗皇后・太宗王皇后・高祖丁貴嬪・高祖阮修容・世祖徐妃/2.列伝第二 - 昭明太子・哀太子・愍懐太子/3.列伝第三 - 王茂・曹景宗・柳慶遠/4.列伝第四 - 蕭穎達・夏侯詳・蔡道恭・楊公則・鄧元起/5.列伝第五 - 張弘策・庾域・鄭紹叔・呂僧珍/6.列伝第六 - 柳惔・柳忱・席闡文・韋叡・韋愛
7.列伝第七 - 范雲・沈約・沈旋/8.列伝第八 - 江淹・任昉/9.列伝第九 - 謝朏・謝覧/10.列伝第十 - 王亮・張稷・王瑩/11.列伝第十一 - 王珍国・馬仙琕・張斉/12.列伝第十二 - 張恵紹・馮道根・康絢・昌義之/13.列伝第十三 - 宗夬・劉坦・楽藹/14.列伝第十四 - 劉季連・陳伯之
15.列伝第十五 - 王瞻・王志・王峻・王暕・王泰・王份・王琳・王錫・王僉・張充・柳惲・蔡撙・江蒨/16.列伝第十六 太祖五王 - 臨川王宏・安成王秀・南平王偉・鄱陽王恢・始興王憺/17.列伝第十七 - 長沙嗣王業・永陽嗣王伯游・衡陽嗣王元簡・桂陽嗣王象
18.列伝第十八 - 蕭景・蕭昌・蕭昂・蕭昱/19.列伝第十九 - 周捨・徐勉/20.列伝第二十 - 范岫・傅昭・傅映・蕭琛・陸杲/21.列伝第二十一 - 陸倕・到洽・明山賓・殷鈞・陸襄/22.列伝第二十二 - 裴邃・夏侯亶・韋放/23.列伝第二十三 高祖三王 - 南康王績・廬陵威王続・邵陵携王綸
24.列伝第二十四 - 裴子野・顧協・徐摛・鮑泉/25.列伝第二十五 - 袁昂/26.列伝第二十六 - 陳慶之・蘭欽/27.列伝第二十七 - 王僧孺・張率・劉孝綽・王筠/28.列伝第二十八 - 張緬・張纘・張綰
29.列伝第二十九 - 蕭子恪・蕭子範・蕭子顕・蕭子雲/30.列伝第三十 - 孔休源・江革/31.列伝第三十一 - 謝挙・何敬容/32.列伝第三十二 - 朱异・賀琛/33.列伝第三十三 - 元法僧・元樹・元願達・王神念・羊侃・羊鴉仁
34.列伝第三十四 - 司馬褧・到漑・劉顕・劉之遴・許懋/35.列伝第三十五 - 王規・劉瑴・宗懍・王承・褚翔・蕭介・褚球・劉孺・劉潜・殷芸・蕭幾/36.列伝第三十六 - 臧盾・傅岐
37.列伝第三十七 - 韋粲・江子一・張嵊・沈浚・柳敬礼/38.列伝第三十八 太宗十一王・世祖二子 - 尋陽王大心・南海王大臨・南郡王大連・安陸王大春・忠壮世子方等・貞恵世子方諸/39.列伝第三十九 - 王僧弁
40.列伝第四十 - 胡僧祐・徐文盛・杜崱・陰子春/41.列伝第四十一 孝行 - 滕曇恭・沈崇傃・荀匠・庾黔婁・吉翂・甄恬・韓懐明・劉曇浄・何炯・庾沙弥・江紑・劉霽・褚脩・謝藺
42.列伝第四十二 儒林 - 伏曼容・何佟之・范縝・厳植之・賀瑒・司馬筠・卞華・崔霊恩・孔僉・盧広・沈峻・孔子祛・皇侃/43.列伝第四十三 文学上 - 到沆・丘遅・劉苞・袁峻・庾於陵・劉昭・何遜・鍾嶸・周興嗣・呉均
44.列伝第四十四 文学下 - 劉峻・劉沼・謝幾卿・劉勰・王籍・何思澄・劉杳・謝徴・臧厳・伏挺・庾仲容・陸雲公・任孝恭・顔協/45.列伝第四十五 処士 - 何点・阮孝緒・陶弘景・諸葛璩・沈顗・劉慧斐・范元琰・劉訏・劉歊・庾詵・張孝秀・庾承先
46.列伝第四十六 止足 - 顧憲之・陶季直・蕭眎素/47.列伝第四十七 良吏 - 庾蓽・沈瑀・范述曾・丘仲孚・孫謙・伏暅・何遠/48.列伝第四十八 諸夷 - 林邑国・扶南国・盤盤国・丹丹国・干陁利国・狼牙修国・婆利国・中天竺国・師子国・高句驪・百済・新羅・倭・文身国・大漢国・扶桑国・河南王国・高昌国・滑国・周古柯国・呵跋檀国・胡蜜丹国・白題国・亀茲・于闐・渇盤陁国・末国・波斯国・宕昌国・鄧至国・武興国・芮芮国
49.列伝第四十九 - 豫章王綜・武陵王紀・臨賀王正徳・河東王誉/50.列伝第五十 - 侯景・王偉
3)梁書諸夷伝(引用:Wikipedia)
卷五十四 列傳第四十八 諸夷には、倭国を含め、当時の東・東南・西・中央・南アジア諸国について記載がある。各国、歴史的な実在と比定が確認されているもの、未確認のものがある。以下、掲載国とその概要を記す。
〇海南諸国
林邑国(林邑國者,本漢日南郡象林縣,古越裳之界也)/扶南国/盤盤国/丹丹国/干瑽利国(在南海洲上)/狼牙修国(在南海中)/婆利国(在廣州東南海中洲上)/中天竺国(在大月支東南數千里。天竺と同一)/師子国(現在のセイロン島。 - 「天竺旁國也」)
〇東夷諸戎
高句驪/百済/新羅/倭/文身国(文身國,在倭國東北七千餘里)/大漢国(在文身國東五千餘里)/扶桑国(※)(沙門慧深いわく「扶桑在大漢國東二萬餘里,地在中國之東,其土多扶桑木,故以爲名。」)
(※)扶桑国:扶桑(ふそう)は、中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木・扶桑木・扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば『扶桑略記』は平安時代の私撰歴史書の一つである。
〇西北諸戎
河南王国(河南王者,其先出自鮮卑慕容氏)/高昌国/滑国(滑國者,車師之別種也)/周古柯国(周古柯國,滑旁小國也)/呵跋檀国(呵跋檀國,亦滑旁小國也)/胡蜜丹国(胡蜜丹國,亦滑旁小國也)/白題国(白題國,王姓支名史稽毅,其先蓋匈奴之別種胡也)/亀茲(龜茲者,西域之舊國也)/于闐(于闐國,西域之屬也)/渇盤陁国(渇盤陁國,于闐西小國也。西鄰滑國,南接罽賓國,北連沙勒國。所治在山谷中,城周回十餘里,國有十二城。風俗與于闐相類(タシュクルガン・タジク自治県))/末国(末國,漢世且末國也。勝兵萬餘戸。北與丁零,東與白題,西與波斯接)/波斯国(波斯國,其先有波斯匿王者,子孫以王父字爲氏,因爲國號)/宕昌国(宕昌國,在河南之東南,益州之西北,隴西之西,羌種也)/鄧至国(鄧至國,居西涼州界,羌別種也。白水羌ともいい、中国の南北朝時代に羌族が建国。現在の四川省九寨溝県。)/武興国(武興國,本仇池)/芮芮国(芮芮國,蓋匈奴別種。魏、晋世,匈奴分爲數百千部,各有名號,芮芮其一部也)
4)東夷諸戎(引用:古代史獺祭)
(対象国)高句驪・百済・新羅・倭・文身国(文身國,在倭國東北七千餘里)・大漢国(在文身國東五千餘里)・扶桑国(沙門慧深いわく「扶桑在大漢國東二萬餘里,地在中國之東,其土多扶桑木,故以爲名。」)
〇梁書諸夷伝(唐 姚 思廉 撰)
(原文)倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。
(読み下し)倭は自ら太伯の後と云う。俗は皆文身。帶方を去ること萬二千餘里、おおよそ會稽の東に在り、相去ること絶遠たり。
(原文)從帯方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國、又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至祁馬臺國、即倭王所居。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。
(読み下し)帶方より倭に至るには、海に循いて水行し、韓國を歴て、乍ち東し乍ち南し、七千餘里、始めて一海を度る。 海闊く千餘里、名は瀚海、一支國に至る。また一海を度ること千餘里、名は未盧國。また東南陸行五百里にして伊都國に至る。また東南行百里にして奴國に至る。また東行百里にして不彌國に至る。また南水行二十日にして投馬國に至る。また南に水行十日、陸行一月日にして邪馬臺國に至る。即ち倭王の居する所なり。其の官に伊支馬有り、次を彌馬獲支と曰い、次を奴往鞮と曰う。
(原文)民種禾稻紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。出黒雉、眞珠、青玉、有獸如牛、名山鼠。又有大蛇呑此獸、蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射之中、蛇則死矣。物産略與[扁人旁右澹]耳、朱崖同。地温暖、風俗不淫。男女皆露紒、富貴者以錦繍雜采爲帽、似中國胡公頭。食飲用[冠竹脚邊]豆。其死、有棺無槨、封土作冢。人性皆嗜酒、俗不知正歳、多壽考、多至八九十、或重百歳。共俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶兩三妻。婦人無婬妬。無盗竊、少諍訟、若犯法、軽者没其妻子、重則滅其宗族。
(読み下し)民は禾稻紵麻を種え、蠶桑織績す。薑・桂・橘・椒・蘇、有り。黑雉・真珠・青玉を出す。牛の如き獸有り、名は山鼠(さんそ)。また此の獸を呑む大蛇有り。蛇の皮堅く斫(き)るべからず。其の上に孔有り、乍ち開き乍ち閉じ、時に或いは光有りて、之の中を射らば、蛇則ち死す。物産はほぼ耳・朱崖と同じ。地は温暖にして、風俗淫ならず。男女は皆露す。富貴の者は錦雜采を以ちて帽と爲す。中國の胡公頭に似る。食飲に豆用う。其の死には、棺有りて槨無く、土を封じて冢を作る。人性皆酒を嗜む。俗は正歳を知らず、多くは壽考にして、多く八・九十に至り、或いは百歳に至る。其の俗は女多く男少く、貴き者は四五妻に至り、賤なる者もなお兩三妻。婦人に婬妬無し。 盜竊無く、諍訟少し。もし法を犯さば、輕き者は其の妻子を沒し、重きは則ち其の宗族を滅す。
(原文)漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王。彌呼無夫壻、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自爲王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衡。至魏(239年)、公孫淵誅後、卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。正始中(240年-249年)、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。
(読み下し)靈帝の光和中、倭國亂れ、相攻伐して歴年、乃ち共に一女子卑彌呼を立て王と爲す。 彌呼に夫壻無く、鬼道を挾(きょう=身につけている。たしなむ)し、能く衆を惑わす。 故に國人之を立てる。 男弟有り佐けて國を治む。 王と爲りて、見る者少く有り、婢千人を以って自ら侍せしむ。 ただ一男子をして出入せしめ敎令を傳えしむ。處する所の宮室、常に兵有りて守衡す。魏の景初三年に至り、公孫淵の誅されし後に、卑彌呼始めて使を遣し朝貢す。魏は以って親魏王と爲し、金印紫綬を假す。正始中、卑彌呼死し、更に男王を立てしも國中服さず、更に相誅殺し復た卑彌呼の宗女臺與を立てて王と爲す。其後復た男王立ちて、並びに中國の爵命を受く。
(原文)晋安帝時(396 - 419年)、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大)將軍。
(読み下し)晉の安帝の時、倭王賛有り。賛死して弟の彌立つ。彌死して、子の濟立つ。濟死して、子の興立つ。興死して、弟の武立つ。齊の建元中、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に除す。 高祖即位し、武の號を征東大將軍に進む。
(原文)其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而醜。其肉美、行者或射而食之。・文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖、犯死罪則置猛獸食之、有枉則猛獸避而不食、經宿則赦之。・大漢國、在文身國東五千餘里。無兵戈、不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。
(読み下し)其の南に侏儒國有り、人の長(たけ)三四尺。 また南の黑齒國、裸國は倭を去ること四千餘里、船行一年にして至るべし。また西南萬里に海人有り、身は黑く眼は白く、裸にして醜し。其の肉は美く、行く者は或いは射て之を食う。・文身國、倭國の東北七千餘里在り。人體に獸の如き文有り。其の額の上に三文有り、文直なる者は貴、文小さき者は賤。土俗は樂を歡び、物豐かにして賤く、行客に糧を齎(あた)えず。 屋宇有りて、城郭無し。 其の王の居する所、金銀珍麗を以ちて飾る。屋を繞(めぐ)るに塹を爲し、廣さは一丈、水銀を以ちて實(み)たし、雨ふれば則ち水銀の上を流る。市に珍寶を用う。輕き罪を犯す者は則ち鞭杖、死の罪を犯すは則ち猛獸之を食うに置く。枉(おう=冤罪)有り則ち猛獸避けて食わざれば宿を經て則ち之を赦す。・ 大漢國、文身國の東五千餘里に在り。兵戈無く、攻戰せず。風俗並に文身國と同じにして言語異る。
(原文)扶桑國者、齋永元元年、其國有沙門慧深來至荊州。説云「扶桑在大漢國東二萬餘里。地在中國之東、其土多扶桑木。故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之。實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭、有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯輕者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大會、坐罪人於坑。對之宴飲、分訣若死別焉。以灰繞之。其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。
(読み下し)扶桑國。齊の永元元年、其の國の沙門慧深有り、來りて荊州に至り、説いて云う。扶桑は大漢國の東二萬餘里在り、地は中國の東に在り。其の土に扶桑木多く、故に以って名と爲す。扶桑の葉は桐に似る。而して初めて生ずるに笋の如く、國人之を食う。實は梨の如くして赤し。其の皮を績ぎ布と爲し以って衣と爲し、また以って綿と爲す。板屋を作り城郭無し。文字有り、扶桑の皮を以って紙と爲す。 兵甲無く、攻戰せず。 其の國法に南北の獄有り。もし輕きを犯す者は南獄に入り、重き罪の者は北獄に入る。赦有りて則ち南獄は赦し、北獄は赦さず。北獄に在る者、男女相配し、男を生むは八歳に奴と爲し、女を生むは九歳に婢と爲す。罪を犯す身は、死に至りて出でず。貴人罪有り、國乃ち大いに會し、罪人を坑に坐し、之に對し宴飲し、分訣、死別の若(ごと)く、灰を以ちて之を繞(めぐ)らす。 其の一に重きは則ち一身を屏退し、二に重きは則ち子孫に及び、三に重きは則ち七世に及ぶ。
(原文)名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青。丙丁年赤。戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長。以角載物、至勝二十斛、車有馬車、牛車、鹿車。國人養鹿。如中國畜牛。以乳爲酪、有桑梨、經年不壊。多蒲桃。其地無鐵有銅、不貴金銀、市無租估。
(読み下し)國の王を名づけて乙祁と爲し、貴人第一の者を大對盧と爲し、第二の者は小對盧と爲し、第三の者は納咄沙と爲す。國の王の行くに鼓角有り導き從う。其の衣の色は年に隨いて改易し、甲乙の年は青、丙丁の年は赤、戊己の年は黄、庚辛の年は白、壬癸の年は黑。牛有り。角甚だ長く、角を以ちて物を載せ、二十斛に勝るに至る。車有り馬車・牛車・鹿車。國人鹿を養う。中國の牛を畜うが如く、乳を以ちて酪と爲す。桑梨有り、年を經て壞(かい)せず。蒲桃多し。其の地に鐵無く銅有り、金銀を貴ばず。市に租估(そこ/租、估ともに税金。估は一説に物の対価とも)無し。
(原文)其婚姻、婿往女家門外作屋、晨夕灑掃、經年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大抵與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑妹妹、三日不食、設霊爲神像。朝夕拜奠、不制[糸至]。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、[冠网厂垂扁炎旁右剣]賓國嘗有比丘五人游行其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。
(読み下し)其の婚姻、婿は女の家の門外に往き屋を作り、晨夕に灑掃(さいそう)す。年を經て女悅ばずは即ち之を驅い、相悅ばば乃ち婚を成す。婚禮はおおよそ中國と同じ。親を喪うは七日食わず、祖父母を喪うは五日食わず、兄弟伯叔姑妹は三日食わず。靈を設け神像と爲し、朝夕に拜奠(はいてん/「奠」はまつること。時期を定めてまつることを「祭」といい、時期を定めずまつることを「奠」という)し、(さいてつ=喪服)を制(さだ)めず。。嗣王立ち、三年國事を視ず。其の俗に舊(もと)佛法無し。宋の大明二年、賓國に嘗て比丘五人有り、游(うか)び行きて其の國に至り、佛法・經像・敎令・出家、流通し風俗遂に改まる。
(原文)慧深又曰。「扶桑東千餘里有女國。容貌端正、身體有毛、髪長委地。至二、三月、競入水則任娠、六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行。三四年則成人矣。見人驚避、扁畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿、而氣香味鹹。
(読み下し)慧深また云う。「扶桑の東千餘里に女國有り。容貌は端正、色甚だ潔く白し。身體に毛有り。髮長く地に委(ゆだ)ぬ。二・三月に至り、競いて水に入り則ち任娠し、六・七月に子を産む。女人は胸の前に乳無く、項の後に毛生え、根は白く、毛の中に汁有り、以って子に乳す。一百日に能く行き、三・四年に則ち成人す。人を見て驚き避け、偏(すこぶ)る丈夫(じょうふ=成人した男性)を畏(おそ)る。 鹹草(かんそう=「あしたば」)を食い禽獸の如し。 鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似て氣は香しく味は鹹(から)し
(原文)天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉、男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戸如竇云。
(読み下し)天監六年、晉の安人有りて海を渡り風に飄う所と爲し一島に至る。 岸を登り、人有り、居して止まる。女は則ち中國の如くして言語は曉(さと)るべからず。男は則ち人身にして狗頭、其の聲は吠えるが如し。其の食に小豆有り。其の衣は布の如し。土を築き墻(しょう=かき。かこい)と爲し、其の形は圓、其の戸は竇(とう=あな。あなぐら)の如しと云う。
1)『北史』の概要(引用:Wikipedia)
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。
南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。
詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。
2)内容
〇本紀
1.魏本紀第一 - 太祖道武帝・太宗明元帝/2.魏本紀第二 - 世祖太武帝・恭宗景穆帝・高宗文成帝・顕祖献文帝/3.魏本紀第三 - 高祖孝文帝/4.魏本紀第四 - 世宗宣武帝・粛宗孝明帝/5.魏本紀第五 - 敬宗孝荘帝・節閔帝・廃帝・孝武帝・西魏文帝・西魏廃帝・西魏恭帝・東魏孝静帝/6.斉本紀上第六 - 高祖神武帝・世宗文襄帝/7.斉本紀中第七 - 顕祖文宣帝・廃帝・孝昭帝/8.斉本紀下第八 - 世祖武成帝・後主・幼主/9.周本紀上第九 - 太祖文帝・孝閔帝・世宗明帝/10.周本紀下第十 - 高祖武/・宣帝・静帝/11.隋本紀上第十一 - 高祖文帝/12.隋本紀下第十二 - 煬帝・恭帝
〇列伝
1.列伝第一 后妃上 - 魏神元皇后竇氏・文帝皇后封氏・桓皇后惟氏・平文皇后王氏・昭成皇后慕容氏・献明皇后賀氏・道武皇后慕容氏・道武宣穆皇后劉氏・明元昭哀皇后姚氏・明元密皇后杜氏・太武皇后赫連氏・太武敬哀皇后賀氏・景穆恭皇后郁久閭氏・文成文明皇后馮氏・文成元皇后李氏・献文思皇后李氏・孝文貞皇后林氏・孝文廃皇后馮氏・孝文幽皇后馮氏・孝文昭皇后高氏・宣武順皇后于氏・宣武皇后高氏・宣武霊皇后胡氏・孝明皇后胡氏・孝武皇后高氏・文帝乙弗皇后・文帝悼皇后郁久閭氏・廃帝皇后宇文氏・恭帝皇后若干氏・孝静皇后高氏
2.列伝第二 后妃下 - 斉武明皇后婁氏・文襄敬皇后元氏・文宣皇后李氏・孝昭皇后元氏・武成皇后胡氏・後主皇后斛律氏・後主皇后胡氏・後主皇后穆氏・周文皇后元氏・文宣皇后叱奴氏・孝閔皇后元氏・明敬皇后独孤氏・武成皇后阿史那氏・武皇后李氏・宣皇后楊氏・宣皇后朱氏・宣皇后陳氏・宣皇后元氏・宣皇后尉遅氏・静皇后司馬氏・隋文献皇后独孤氏・宣華夫人陳氏・容華夫人蔡氏・煬愍皇后蕭氏/3.列伝第三 魏諸宗室/4.列伝第四 道武七王・明元六王・太武五王 -/5.列伝第五 景穆十二王上 - 拓跋新成・拓跋子推・拓跋小新成・拓跋天賜・拓跋万寿・拓跋洛侯
6.列伝第六 景穆十二王下 - 拓跋雲・拓跋楨・拓跋長寿・拓跋太洛・拓跋胡児・拓跋休/7.列伝第七 文成五王・献文六王・孝文六王/8.列伝第八 - 衛操・莫含・劉庫仁・尉古真・穆崇・奚斤・叔孫建・安同・庾岳・王建・羅結・楼伏連・閭大肥・奚牧・和跋・莫題・賀狄干・李栗・奚眷/9.列伝第九 - 燕鳳・許謙・崔宏・張袞・鄧彦海
10.列伝第十 - 長孫嵩・長孫道生・長孫肥/11.列伝第十一 - 于栗磾/12.列伝第十二 - 崔逞・王憲・封懿/13.列伝第十三 - 古弼・張黎・劉潔・丘堆・娥清・伊馛・乙瓌・周幾・豆代田・車伊洛・王洛児・車路頭・盧魯元・陳建・来大干・宿石・万安国・周観・尉撥・陸真・呂洛抜・薛彪子・尉元・慕容白曜・和其奴・苟頽・宇文福
14.列伝第十四 - 宋隠・許彦・刁雍・辛紹先・韋閬・杜銓/15.列伝第十五 - 屈遵・張蒲・谷渾・公孫表・張済・李先・賈彝・竇瑾・李訢・韓延之・袁式・毛脩之・唐和・寇讃・酈範・韓秀・堯暄・柳崇/16.列伝第十六 - 陸俟・源賀・劉尼・薛提/17.列伝第十七 - 司馬休之・司馬楚之・劉昶・蕭宝寅・蕭正表・蕭祗・蕭退・蕭泰・蕭撝・蕭円粛・蕭大圜
18.列伝第十八 - 盧玄・盧柔・盧観・盧同・盧誕/19.列伝第十九 - 高允・高祐・盧曹/20.列伝第二十 - 崔鑑・崔弁・崔挺/21.列伝第二十一 - 李霊・李順・李孝伯・李裔・李義深/22.列伝第二十二 - 游雅・高閭・趙逸・胡叟・胡方回・張湛・段承根・闞駰・劉延明・趙柔・索敞・宋繇・江式
23.列伝第二十三 - 王慧龍・王劭・鄭羲・鄭述祖・鄭道邕・鄭訳・鄭偉/24.列伝第二十四 - 薛弁・薛端・薛冑・薛濬・薛聡・薛孝通・薛道衡・薛善・薛慎・薛寘・薛憕/25.列伝第二十五 - 韓茂・皮豹子・封敕文・呂羅漢・孔伯恭・田益宗・孟表・奚康生・楊大眼・崔延伯・李叔仁/26.列伝第二十六 - 裴駿・裴延儁・裴佗・裴果・裴寛・裴侠・裴文挙・裴仁基
27.列伝第二十七 - 薛安都・劉休賓・房法寿・畢衆敬・羊祉/28.列伝第二十八 - 韓麒麟・程駿・李彪・高道悦・甄琛・張纂・高聡/29.列伝第二十九 - 楊播・楊侃・楊椿・楊昱・楊津・楊愔・楊旉・楊素・楊玄感・楊約・楊寛
30.列伝第三十 - 王粛・劉芳・常爽/31.列伝第三十一 - 郭祚・張彝・邢巒・李崇・李平/32.列伝第三十二 - 崔光・崔劼・崔鴻・崔亮・崔光韶・崔道固/33.列伝第三十三 - 裴叔業・夏侯道遷・李元護・席法友・王世弼・江悦之・淳于誕・沈文秀・張讜・李苗・劉藻・傅永・傅豎眼・張烈・李叔彪・路恃慶・房亮・曹世表・潘永基・朱元旭
34.列伝第三十四 - 孫紹・張普恵・成淹・范紹・劉桃符・鹿悆・張燿・劉道斌・董紹・馮元興/35.列伝第三十五 - 袁翻・陽尼・賈思伯・祖瑩/36.列伝第三十六 - 爾朱栄・爾朱文暢・爾朱文略・爾朱兆・爾朱彦伯・爾朱敞・爾朱仲遠・爾朱世隆・爾朱度律・爾朱天光
37.列伝第三十七 - 朱瑞・叱列延慶・斛斯椿・賈顕度・樊子鵠・侯深・賀抜允・侯莫陳悦・念賢・梁覧・雷紹・毛遐・乙弗朗/38.列伝第三十八 - 辛雄・楊機・高道穆・綦儁・山偉・宇文忠之・費穆・孟威/39.列伝第三十九 斉宗室諸王上 - 趙郡王琛・清河王岳・広平公盛・陽州公永楽・襄楽王顕国・上洛王思宗・平秦王帰彦・長楽太守霊山・永安簡平王浚・平陽靖翼王淹・彭城景思王浟・上党剛粛王渙・襄城景王淯・任城王湝・高陽康穆王湜・博陵文簡王済・華山王𤁒・馮翊王潤・漢陽敬懐王洽
40.列伝第四十 斉宗室諸王下 - 河南王孝瑜・広寧王孝珩・河間王孝琬・蘭陵王長恭・安徳王延宗・漁陽王紹信・太原王紹徳・范陽王紹義・西河王紹仁・隴西王紹廉・楽陵王百年・汝南王彦理・南陽王綽・琅邪王儼・斉安王廓・東平王恪
41.列伝第四十一 - 万俟普・可朱渾元・劉豊・破六韓常・金祚・劉貴・蔡儁・韓賢・尉長命・王懐・任祥・莫多婁貸文・厙狄迴洛・厙狄盛・張保洛・侯莫陳相・薛孤延・斛律羌挙・張瓊・宋顕・王則・慕容紹宗・叱列平・歩大汗薩・薛修義・慕容儼・潘楽・彭楽・暴顕・皮景和・綦連猛・元景安・独孤永業・鮮于世栄・傅伏
42.列伝第四十二 - 孫騰・高隆之・司馬子如・竇泰・尉景・婁昭・厙狄干・韓軌・段栄・斛律金/43.列伝第四十三 - 孫搴・陳元康・杜弼・房謨・張纂・張亮・張曜・王峻・王紘・敬顕儁・平鑑・唐邕・白建・元文遙・趙彦深・赫連子悦・馮子琮・郎基/44.列伝第四十四 - 魏収・魏長賢・魏季景・魏蘭根/45.列伝第四十五 周宗室 - 邵恵公顥・杞簡公連・莒荘公洛生・虞国公仲・広川公測・東平公神挙
46.列伝第四十六 周室諸王 - 宋献公震・衛剌王直・斉煬王憲・趙僭王招・譙孝王倹・陳惑王純・越野王盛・代奰王達・冀康公通・滕聞王逌・紀厲王康・畢剌王賢・酆王貞・漢王賛・莱王衎/47.列伝第四十七 - 寇洛・趙貴・李賢・梁禦/48.列伝第四十八 - 李弼・宇文貴・侯莫陳崇・王雄
49.列伝第四十九 - 王盟・独孤信・竇熾・賀蘭祥・叱列伏亀・閻慶・史寧・権景宣/50.列伝第五十 - 王羆・王思政・尉遅迥・王軌/51.列伝第五十一 - 周恵達・馮景・蘇綽/52.列伝第五十二 - 韋孝寛・韋瑱・柳虯
53.列伝第五十三 - 達奚武・若干恵・怡峯・劉亮・王徳・赫連達・韓果・蔡祐・常善・辛威・厙狄昌・梁椿・梁台・田弘/54.列伝第五十四 - 王傑・王勇・宇文虬・耿豪・高琳・李和・伊婁穆・達奚寔・劉雄・侯植・李延孫・韋祐・陳欣・魏玄・泉企・李遷哲・楊乾運・扶猛・陽雄・席固・任果
55.列伝第五十五 - 崔彦穆・楊纂・段永・令狐整・唐永・柳敏・王士良/56.列伝第五十六 - 豆盧寧・楊紹・王雅・韓雄・賀若敦/57.列伝第五十七 - 申徽・陸通・厙狄峙・楊薦・王慶・趙剛・趙昶・王悦・趙文表・元定・楊𢷋
58.列伝第五十八 - 韓褒・趙粛・張軌・李彦・郭彦・梁昕・皇甫璠・辛慶之・王子直・杜杲・呂思礼・徐招・檀翥・孟信・宗懍・劉璠・柳遐/59.列伝第五十九 隋宗室諸王 - 蔡景王整・滕穆王瓚・道宣王嵩・衛昭王爽・河間王弘・義城公処綱・離石太守子崇・房陵王勇・秦王俊・庶人秀・庶人諒・元徳太子昭・斉王暕・趙王杲
60.列伝第六十 - 高熲・牛弘・李徳林/61.列伝第六十一 - 梁士彦・元諧・虞慶則・元冑・達奚長儒・賀婁子幹・史万歳・劉方・杜彦・周搖・独孤楷・乞伏慧・張威・和洪・陰寿・楊義臣/62.列伝第六十二 - 劉昉・柳裘・皇甫績・郭衍・張衡・楊汪・裴蘊・袁充・李雄
63.列伝第六十三 - 趙煚・趙芬・王韶・元巌・宇文㢸・伊婁謙・李円通・郭栄・龐晃・李安・楊尚希・張煚・蘇孝慈・元寿/64.列伝第六十四 - 段文振・来護児・樊子蓋・周羅睺・周法尚・衛玄・劉権・李景・薛世雄/65.列伝第六十五 - 裴政・李諤・鮑宏・高構・栄毗・陸知命・梁毗・柳彧・趙綽・杜整
66.列伝第六十六 - 張定和・張奫・麦鉄杖・権武・王仁恭・吐万緒・董純・魚倶羅・王辯・陳稜・趙才/67.列伝第六十七 - 宇文述・王世充/68.列伝第六十八 外戚 - 賀訥・姚黄眉・杜超・賀迷・閭毗・馮熙・李恵・高肇・胡国珍・楊騰・乙弗絵・趙猛・胡長仁・隋文帝外家呂氏
69.列伝第六十九 儒林上 - 梁越・盧丑・張偉・梁祚・平恒・陳奇・劉献之・張吾貴・劉蘭・孫恵蔚・馬子結・石曜・徐遵明・董徴・李業興・李鉉・馮偉・張買奴・劉軌思・鮑季詳・邢峙・劉昼・馬敬徳・張景仁・権会・張思伯・張彫武・郭遵/70.列伝第七十 儒林下 - 沈重・樊深・熊安生・楽遜・黎景熙・冀儁・趙文深・辛彦之・何妥・元善・房暉遠・馬光・劉焯・劉炫・王孝籍
71.列伝第七十一 文苑 - 温子昇・荀済・祖鴻勲・李広・樊遜・荀士遜・王褒・庾信・顔之推・虞世基・柳䛒・許善心・李文博・明克譲・劉臻・諸葛潁・王貞・虞綽・王冑・庾自直・潘徽/72.列伝第七十二 孝行 - 長孫慮・乞伏保・孫益徳・董洛生・楊引・閻元明・呉悉達・王続生・李顕達・倉跋・張昇・王崇・郭文恭・荊可・秦族・皇甫遐・張元・王頒・楊慶・田翼・紐因・劉仕儁・翟普林・華秋・徐孝粛
73.列伝第七十三 節義 - 于什門・段進・石文徳・汲固・王玄威・婁提・劉渇侯・朱長生・馬八龍・門文愛・晁清・劉侯仁・石祖興・邵洪哲・王栄世・胡小彪・孫道登・李几・張安祖・王閭・郭琰・沓龍超・乙速孤仏保・李棠・杜叔毗・劉弘・游元・張須陁・楊善会・盧楚・劉子翊・堯君素・陳孝意・張季珣・杜松贇・郭世儁・郎方貴
74.列伝第七十四 循吏 - 張膺・路邕・閻慶胤・明亮・杜纂・竇瑗・蘇淑・張華原・孟業・蘇瓊・路去病・梁彦光・樊叔略・公孫景茂・辛公義・柳倹・劉曠・王伽・魏徳深/75.列伝第七十五 酷吏 - 于洛侯・胡泥・李洪之・張赦提・崔暹・邸珍・田式・燕栄・元弘嗣・王文同
76.列伝第七十六 隠逸 - 眭夸・馮亮・鄭脩・崔廓・徐則・張文詡/77.列伝第七十七 芸術上 - 晁崇・張深・殷紹・王早・耿玄・劉霊助・李順興・檀特師・由吾道栄・顔悪頭・王春・信都芳・宋景業・許遵・呉遵世・趙輔和・皇甫玉・解法選・魏寧・綦毋懐文・張子信・陸法和・蔣昇・強練・庾季才・盧太翼・耿詢・来和・蕭吉・楊伯醜・臨孝恭・劉祐・張冑玄
78.列伝第七十八 芸術下 - 周澹・李脩・徐謇・王顕・馬嗣明・姚僧垣・褚該・許智蔵・万宝常・蔣少游・何稠/79.列伝第七十九 列女 - 魏崔覧妻封氏・封卓妻劉氏・魏溥妻房氏・胡長命妻張氏・平原女子孫氏・房愛親妻崔氏・涇州貞女児氏・姚氏婦楊氏・張洪祁妻劉氏・董景起妻張氏・陽尼妻高氏・史映周妻耿氏・任城国太妃孟氏・苟金龍妻劉氏・貞孝女宗・河東姚氏女・刁思遵妻魯氏・西魏孫道温妻趙氏・孫神妻陳氏・隋蘭陵公主・南陽公主・襄城王恪妃・華陽王楷妃・譙国夫人洗氏・鄭善果母崔氏・孝女王舜・韓覬妻于氏・陸譲母馮氏・劉昶女・鍾士雄母蔣氏・孝婦覃氏・元務光母盧氏・裴倫妻柳氏・趙元楷妻崔氏
80.列伝第八十 恩幸 - 王叡・王仲興・趙脩・茹皓・趙邕・侯剛・徐紇・宗愛・仇洛斉・王琚・趙黙・孫小・張宗之・劇鵬・張祐・抱嶷・王遇・苻承祖・王質・李堅・劉騰・賈粲・楊範・成軌・王温・孟欒・平季・封津・劉思逸・郭秀・和士開・穆提婆・高阿那肱・韓鳳・斉諸宦者/81.列伝第八十一 僭偽附庸 - 夏・燕・後秦・北燕・西秦・北涼・後梁
82.列伝第八十二 - 高麗・百済・新羅・勿吉・奚・契丹・室韋・豆莫婁・地豆干・烏洛侯・流求・倭
83.列伝第八十三 - 蛮・獠・林邑・赤土・真臘・婆利/84.列伝第八十四 - 氐・吐谷渾・宕昌・鄧至・党項・附国・稽胡
85.列伝第八十五 西域 - 鄯善・于闐・高昌・焉耆・亀茲・烏孫・疏勒・悦般・破洛那・粟特・波斯・大月氏・安息・條支・大秦/86.列伝第八十六 - 蠕蠕・匈奴宇文莫槐・徒何段就六眷・高車/87.列伝第八十七 - 突厥・鉄勒/88.列伝第八十八 序伝 - 涼武昭王李暠
3)『北史』倭国伝の概要
中国の北朝について書かれた歴史書『北史』は全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。『北史』巻94列伝第82四夷伝に倭国(日本)についての記述(北史倭国伝)がある。『北史』は李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。
『北史』は南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。公正・詳密な記述で史料的価値が高い。
659年に正史として公認された。 巻94列伝第82四夷伝に、高麗・百濟・新羅・勿吉・奚・契丹・室韋・豆莫婁・地豆幹・烏洛侯・流求・倭条がある。
李延寿は、唐の太宗に仕えて、太子典膳丞・崇文館学士を務めた。『隋書』や『晋書』の編纂に参与して、御史台主簿となり、直国史を兼職した。最後は符璽郎に任ぜられ、修国史を兼任して、まもなく死去した。他に『南史』80巻や『太宗政典』30巻があった。
(原文)漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。
(読み下し)後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。
(原文)安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。
(読み下し)安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という。
★北史倭国伝では主に、「邪馬台国への行程」、「邪馬台国以前の歴史」、「倭国の制度・風俗」、「阿蘇山」、「邪摩堆への行程」、「外交書簡」が述べられている。
4)『北史』倭国伝の原文と読み下し
(原文)倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中依山島而居。魏時、譯通中國三十餘國、皆稱子。夷人不知里數、但計以日。
(読み下し)倭国は百済と新羅の東南に在り、水陸を行くこと三千里、大海中の山島に依って居を構えている。三国魏の時代、通訳を連れて中国に通じる国が三十余国、皆が子を称した。東夷の夷人は里数(距離計算)を知らない、ただ要した日程で計っている。
(原文)其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢、東高西下。居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云:去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽東、與儋耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。
(読み下し)その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程、各々が海に至る。その地形は東が高く西が低い。邪摩堆で暮らす、魏志に則れば、言うところの邪馬臺である。また言う、楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似する。俗は皆が身体に刺青をし、太伯の後裔だと自称する。
(原文)計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海。又南千餘里、度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。
(読み下し)帯方郡から倭国に至る距離を計れば、海を巡って水行し、朝鮮国を経て、南へ東へと七千余里、初めて一海を渡る。また南に千余里、一海を渡る、広さは千余里、名は瀚海、一支国に至る。また一海を渡ること千余里、名は末盧国。また東南に陸行すること五百里、伊都国に至る。また東南に百里、奴国に至る。また東に行くこと百里、至彌国に至る。また南に水行すること二十日、投馬国に至る。また南に水行すること十日、陸行すること一月、邪馬臺国に至る、すなわち倭王の王都である。
(原文)漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立為王。無夫、有二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室、樓觀、城柵、皆持兵守衛、為法甚嚴。
(読み下し)後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という。霊帝の光和中(178-184年)、その国は乱れ、互いが順番に攻伐しあい、何年も君主がいなかった。卑彌呼という名の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。夫はおらず、二人の男子がおり、王に飲食を給仕し、言葉を伝達する。その王は宮室におり、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛し、法は甚だ厳しく為されている。
(原文)魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼始遣使朝貢。魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命。江左歴晉、宋、齊、梁、朝聘不絶。
(読み下し)魏の景初三年(239年)、公孫文懿(公孫淵)が誅伐された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢。魏主は假(仮の)金印紫綬を授けた。正始中(240-249年)、卑彌呼が死に、改めて男王を立てたが、国中が服さず、益々互いを誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を立てて王とした。その後、再び男の王が立ち、それぞれが中国から爵位を拝命した。江左(江東)は、晋、宋、斉、梁を経て、朝聘は絶えなかった。
(原文)及陳平、至開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗、使者言倭王以天為兄、以日為弟、天明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。文帝曰:『此大無義理。』於是訓令改之。
(読み下し)南朝の陳を平定するに及び、開皇二十年(600年)に至って、倭王「姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌」が遣使を王宮に詣でさせた。上(天子)は所司にそこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、天が(未だ)明けざる時、出てきて聴政、結跏趺坐し、日が出ればすなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。文帝が曰く「これは全く道理に適っていない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
(原文)王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
(読み下し)王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。
(原文)其服飾、男子衣裙襦、其袖微小、履如屨形、漆其上、繁之於腳。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。
(読み下し)その服飾は、男子の衣は裙襦、その袖は微小、履(靴)は草鞋(わらじ)のような形で、漆(うるし)をその上に塗り、頻繁にこれを足に履く。庶民は多くが裸足である。金銀を用いて装飾することを得ず。故時、衣は幅広で、互いを連ねて結束し、縫製はしない。頭にも冠はなく、ただ髮を両耳の上に垂らしている。
(原文)至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有○。攕竹為梳、編草為薦。雜皮為表、縁以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧、漆皮為甲、骨為矢鏑。雖有兵、無征戰。
(読み下し)隋に至って、その王は初めて冠を造り、錦の紗(薄絹)を以て冠と為し、模様を彫金した金銀で装飾した。婦人は髮を後で束ね、また衣は裙と襦、裳には皆○がある。攕竹を櫛と為し、草を編んで薦(ムシロ)にする。雑皮を表面とし、文様のある毛皮で縁取る。弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧があり、皮を漆で塗って甲とし、骨を矢鏑とする。兵はいるが、征服戦はない。
(原文)其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬。俗、殺人、強盜及姦、皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。
(読み下し)その王の朝会では必ず儀仗を陳設し、その国の音楽を演奏する。戸数は十万ほど。そこの習俗では、殺人、強盜や姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計って、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して奴隷と為す。その余は罪の軽重によって、あるいは流刑、あるいは杖刑とする。犯罪事件の取調べでは毎回、承引せざる者は、木で膝を圧迫、あるいは強弓を張り、弦でその項を撃つ。あるいは沸騰した湯の中に小石を置き、競いあう者にこれを探させる、理由は、正直ではない者は手が爛れるのだという。あるいは蛇を甕の中に置き、これを取り出させる、正直ではない者は手を刺されるのだという。
(原文)人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身、沒水捕魚。無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。知卜筮、尤信巫覡。
(読み下し)人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。楽器には五弦、琴、笛がある。男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、潜水して魚を捕る。文字はなく、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている。
(原文)毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。
(読み下し)毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。
(原文)俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見。婦人不淫妒。
(読み下し)風俗は盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風がある。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。
(原文)死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。
(読み下し)死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は殯(かりもがり=埋葬前に遺体を棺桶に安置する)をし、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。
(原文)有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
(読み下し)阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異なことだとし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で、珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
(原文)大業三年、其王多利思比孤遣朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。
(読み下し)大業三年(607年)、その王の多利思比孤が(使者を)遣わして朝貢。使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。国書に曰く「日出ずる所の天子、書を日沒する所の天子に致す。つつがなきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と言った。
(原文)明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
(読み下し)「翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
(原文)倭王遣小德何輩臺從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗從二百餘騎、郊勞。既至彼都、其王與世清。來貢方物。此後遂絶。
(読み下し)倭王は小德の阿輩臺を派遣し、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。既に彼の都に至り、その王、裴世清と(相見える)。方物を貢献させに来た。この後、遂に途絶えた。
1)『南史』の概要(引用:Wikipedia)
『南史』(なんし)は、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。
南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。
2)内容
〇本紀
1.宋本紀上第一 - 武帝・少帝/2.宋本紀中第二 - 文帝・孝武帝・前廃帝/3.宋本紀下第三 - 明帝・後廃帝・順帝/4.斉本紀上第四 - 高帝・武帝/5.斉本紀下第五 - 廃帝鬱林王・廃帝海陵恭王・高宗明皇帝・廃帝東昏侯・和帝/6.梁本紀上第六 - 武帝上/7.梁本紀中第七 - 武帝下/8.梁本紀下第八 - 簡文帝・元帝・敬帝/9.陳本紀上第九 - 武帝・文帝・廃帝/10.陳本紀下第十 - 宣帝・後主
〇列伝
1.列伝第一 后妃上 - 宋孝穆趙皇后・孝懿蕭皇后・武敬臧皇后・武張夫人・文章胡太后・少帝司馬皇后・文元袁皇后・孝武昭路太后・明宣沈太后・孝武文穆王皇后・前廃帝何皇后・明恭王皇后・後廃帝陳太妃・後廃帝江皇后・順陳太妃・順謝皇后・斉宣孝陳皇后・高昭劉皇后・武穆裴皇后・文安王皇后・鬱林王何妃・海陵王王妃・明敬劉皇后・東昏褚皇后・和王皇后
2.列伝第二 后妃下 - 梁文献張皇后・武徳郗皇后・武丁貴嬪・武阮修容・簡文王皇后・元徐妃・敬夏太后・敬王皇后・陳武宣章皇后・文沈皇后・廃帝王皇后・宣柳皇后・後主沈皇后・張貴妃/3.列伝第三 宋宗室及諸王上 - 劉道憐・劉道規・劉義慶・劉遵考・劉義真・劉義康・劉義恭・劉義宣・劉義季/4.列伝第四 宋宗室及諸王下 - 宋文帝諸子・孝武諸子・孝明諸子
5.列伝第五 - 劉穆之・徐羨之・傅亮・檀道済/6.列伝第六 - 王鎮悪・朱齢石・毛脩之・傅弘之・朱修之・王玄謨/7.列伝第七 - 劉敬宣・劉懐粛・劉粋・孫処・蒯恩・向靖・劉鍾・虞丘進・孟懐玉・胡藩・劉康祖
8.列伝第八 - 趙倫之・蕭思話・臧燾/9.列伝第九 - 謝晦・謝裕・謝方明・謝霊運/10.列伝第十 - 謝弘微・謝荘・謝朏・謝譓・謝哲・謝顥・謝覧・謝挙・謝嘏・謝僑/11.列伝第十一 - 王弘・王錫・王僧達・王融・王微・王遠・王僧祐・王籍・王瞻・王沖・王瑒・王瑜
12.列伝第十二 - 王曇首・王僧綽・王倹・王騫・王規・王暕・王承・王訓・王僧虔・王慈・王泰・王志・王筠・王彬・王寂/13.列伝第十三 - 王誕・王藻・王瑩・王亮・王華・王琨・王恵・王球・王景文・王蘊・王奐・王份・王琳・王銓・王錫・王僉・王勱・王質・王固/14.列伝第十四 - 王裕之・王鎮之・王韶之・王悦之・王准之
15.列伝第十五 - 王懿・到彦之・垣護之・張興世/16.列伝第十六 - 袁湛・袁豹・袁淑・袁顗・袁粲・袁彖・袁昂・馬仙琕・袁君正・袁枢・袁憲・袁敬・袁泌/17.列伝第十七 - 孔靖・孔琳之・殷景仁
18.列伝第十八 - 褚裕之・褚秀之・褚淡之・褚球・褚湛之・褚彦回・褚玠/19.列伝第十九 - 蔡廓・蔡興宗・蔡約・蔡撙・蔡凝/20.列伝第二十 - 何尚之・何偃・何戢・何求・何点・何胤・何炯・何昌㝢・何敬容
21.列伝第二十一 - 張裕・張永・張岱・張緒・張完・張充・張瓌・張率・張盾・張稷・張嵊・張種/22.列伝第二十二 - 張邵・張敷・張冲・張暢・張融・張宝積・徐文伯・徐嗣伯/23.列伝第二十三 - 范泰・荀伯子・徐広・鄭鮮之・裴松之・何承天
24.列伝第二十四 - 顔延之・沈懐文・周朗/25.列伝第二十五 - 劉湛・庾悦・顧琛・顧覬之/26.列伝第二十六 - 羊欣・羊玄保・沈演之・江夷・江秉之/27.列伝第二十七 - 沈慶之・宗愨/28.列伝第二十八 - 柳元景・柳世隆・柳惔・柳惲・柳偃・柳盼・柳憕・柳忱・柳慶遠・柳津・柳仲礼・柳敬礼
29.列伝第二十九 - 殷孝祖・殷琰・劉勔・劉悛・劉孺・劉覧・劉遵・劉苞・劉絵・劉孝綽・劉瑱/30.列伝第三十 - 魯爽・薛安都・鄧琬・宗越・呉喜・黄回/31.列伝第三十一 斉宗室 - 蕭道度・蕭道生・蕭遙光・蕭遙欣・蕭緬・蕭景先・蕭赤斧・蕭諶・蕭誕・蕭坦之/32.列伝第三十二 斉高帝諸子上 - 蕭嶷
33.列伝第三十三 斉高帝諸子下 - 蕭映・蕭晃・蕭曄・蕭暠・蕭鏘・蕭鑠・蕭鑑・蕭鋒・蕭鋭・蕭鏗・蕭銶・蕭鉉/34.列伝第三十四 斉武帝諸子・文恵諸子・明帝諸子 - 蕭子良・蕭子卿・蕭子響・蕭子敬・蕭子懋・蕭子隆・蕭子真・蕭子明・蕭子罕・蕭子倫・蕭子貞・蕭子岳・蕭子文・蕭子峻・蕭子琳・蕭子建・蕭子夏・蕭昭秀・蕭昭粲・蕭宝義・蕭宝玄・蕭宝源・蕭宝寅・蕭宝攸・蕭宝嵩・蕭宝貞
35.列伝第三十五 - 王敬則・陳顕達・張敬児・崔慧景/36.列伝第三十六 - 李安人・戴僧静・桓康・焦度・曹武・呂安国・周山図・周盤龍・王広之/37.列伝第三十七 - 荀伯玉・崔祖思・蘇侃・虞悰・胡諧之・虞玩之・劉休・江祏/38.列伝第三十八 - 陸澄・陸慧曉・陸杲/39.列伝第三十九 - 庾杲之・王諶・孔珪・劉懐珍
40.列伝第四十 - 劉瓛・明僧紹・庾易・劉虯/41.列伝第四十一 梁宗室上 - 蕭景・蕭懿・蕭敷・蕭暢・蕭融・蕭宏/42.列伝第四十二 梁宗室下 - 蕭秀・蕭偉・蕭恢・蕭憺/43.列伝第四十三 梁武帝諸子 - 昭明太子・蕭綜・蕭績・蕭続・蕭綸・蕭紀
44.列伝第四十四 梁簡文帝諸子・元帝諸子 - 哀太子大器・尋陽王大心・南海王大臨・南郡王大連・安陸王大春・武烈世子方等・貞恵世子方諸・愍懐太子方矩/45.列伝第四十五 - 王茂・曹景宗・曹義宗・席闡文・夏侯詳・吉士瞻・蔡道恭・楊公則・鄧元起・張恵紹・張澄・馮道根・康絢・昌義之
46.列伝第四十六 - 張弘策・庾域・鄭紹叔・呂僧珍・楽藹/47.列伝第四十七 - 沈約・范雲/48.列伝第四十八 - 韋叡・裴邃/49.列伝第四十九 - 江淹・任昉・王僧孺/50.列伝第五十 - 范岫・傅昭・孔休源・江革・徐勉・許懋・殷鈞/51.列伝第五十一 - 陳伯之・陳慶之・蘭欽
52.列伝第五十二 - 賀瑒・司馬褧・朱异・顧協・徐摛・鮑泉/53.列伝第五十三 - 王神念・羊侃・羊鴉仁/54.列伝第五十四 - 江子一・胡僧祐・徐文盛・陰子春・杜崱・王琳・張彪/55.列伝第五十五 陳宗室諸王 - 陳擬・陳詳・陳慧紀・陳昌・陳曇朗・陳伯茂・陳伯山・陳伯固・陳伯恭・陳伯仁・陳伯義・陳伯礼・陳伯智・陳伯謀
56.列伝第五十六 - 杜僧明・周文育・侯瑱・侯安都・欧陽頠・黄法𣰰・淳于量・章昭達・呉明徹/57.列伝第五十七 - 胡穎・徐度・杜稜・周鉄武・程霊洗・沈恪・陸子隆・銭道戢・駱文牙・孫瑒・徐世譜・周敷・荀朗・周炅・魯悉達・蕭摩訶・任忠・樊毅/58.列伝第五十八 - 趙知礼・蔡景歴・宗元饒・韓子高・華皎・劉師知・謝岐・毛喜・沈君理・陸山才
59.列伝第五十九 - 沈炯・虞茘・傅縡・顧野王・姚察/60.列伝第六十 循吏 - 吉翰・杜驥・申恬・杜慧度・阮長之・甄法崇・傅琰・虞愿・王洪範・沈瑀・范述曾・孫謙・何遠・郭祖深/61.列伝第六十一 儒林 - 伏曼容・何佟之・厳植之・司馬筠・卞華・崔霊恩・孔僉・盧広・沈峻・孔子祛・皇侃・沈洙・戚袞・鄭灼・張譏・顧越・沈不害・王元規
62.列伝第六十二 文学 - 丘霊鞠・檀超・卞彬・丘巨源・王智深・崔慰祖・祖沖之・賈希鏡・袁峻・劉昭・鍾嶸・周興嗣・呉均・劉勰・何思澄・任孝恭・顔協・紀少瑜・杜之偉・顔晃・岑之敬・何之元・徐伯陽・張正見・阮卓
63.列伝第六十三 孝義上 - 龔穎・劉瑜・賈恩・郭世通・厳世期・呉逵・潘綜・張進之・丘傑・師覚授・王彭・蒋恭・徐耕・孫法宗・范叔孫・卜天与・許昭先・余斉人・孫棘・何子平・崔懐順・王虚之・呉慶之・蕭叡明・蕭矯妻羊氏・公孫僧遠・呉欣之・韓係伯・丘冠先・孫淡・華宝・解叔謙・韓霊敏・劉渢・封延伯・呉達之・王文殊・楽頤之・江泌・庾道愍
64.列伝第六十四 孝義下 - 滕曇恭・陶季直・沈崇傃・荀匠・吉翂・甄恬・趙抜扈・韓懐明・褚脩・張景仁・陶子鏘・成景儁・李慶緒・謝藺・殷不害・司馬暠・張昭/65.列伝第六十五 隠逸上 - 陶潜・宗少文・沈道虔・孔淳之・周続之・戴顒・翟法賜・雷次宗・郭希林・劉凝之・龔祈・朱百年・関康之・漁父・褚伯玉・顧歓・杜京産
66.列伝第六十六 隠逸下 - 臧栄緒・呉苞・徐伯珍・沈麟士・阮孝緒・鄧鬱・陶弘景・諸葛璩・劉慧斐・范元琰・庾詵・張孝秀・庾承先・馬枢/67.列伝第六十七 恩倖 - 戴法興・徐爰・阮佃夫・紀僧真・劉係宗・茹法亮・呂文顕・茹法珍・周石珍・陸験・司馬申・施文慶・沈客卿・孔範/68.列伝第六十八 夷貊上 - 林邑国・扶南国・中天竺国・師子国
69.列伝第六十九 夷貊下 - 高句麗・百済・新羅・倭国・扶桑国・河南王・宕昌国・鄧至国・武興国・荊雍州蛮・豫州蛮・高昌国・亀茲・于闐・波斯国・蠕蠕
70.列伝第七十 賊臣 - 侯景・熊曇朗・周迪・留異・陳宝応
3)『南史』倭国伝の概要(引用:古代史俯瞰 by tokyoblog)
南史倭国伝では、「倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。」に始まり、「倭国の風俗」、「倭の五王」、「侏儒国・黒歯国・裸国」、「文身国」、「大漢国」、「扶桑国」について記述されている。
『南史』「倭国伝」は、中国の南朝について書かれた歴史書『南史』において、倭国に関して記述された巻69「列伝79」夷貊下東夷伝倭国条のことである。『南史』は李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された二十四史の一つである。
『南史』は全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。
また、南朝北朝の歴史がそれぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集している。南朝北朝のそれぞれの正史よりもひろく読まれたのは、叙述が簡略であることのほか、一族の人物を王朝の興亡と関わりなく、一ヶ所にまとめて記述する家伝の方法を用いたことが、南北朝時代の門閥貴族社会の実情をよく伝えたからである。
巻69「列伝79」夷貊下においては、東夷・西戎・蠻・西域諸國・蠕蠕伝があり、東夷伝の中に、朝鮮条・倭国条・扶桑国条がある。659年に正史として公認された。
李延寿は、唐の太宗に仕えて、太子典膳丞・崇文館学士を務めた。『隋書』や『晋書』の編纂に参与して、御史台主簿となり、直国史を兼職した。最後は符璽郎に任ぜられ、修国史を兼任して、まもなく死去した。他に『北史』100巻や『太宗政典』30巻があった。
4)『南史』倭国伝の原文と読み下し(引用:古代史俯瞰 by tokyoblog)
(原文)倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。人種禾稻、紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。出黑雉、真珠、青玉。有獸如牛名山鼠、又有大蛇呑此獸。蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射中而蛇則死矣。物産略與儋耳、朱崖同。地氣溫暖、風俗不淫。
(読み下し)倭国、その先祖の出た場所や所在については北史が詳しい。そこの官には伊支馬があり、次を彌馬獲支といい、その次を奴往鞮という。人々は水稲、紵麻の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。薑、桂、橘、椒、蘇がある。黒雉、真珠、青玉を産出する。牛の如き獣がおり、名は山鼠、また、この獣(山鼠)を呑み込む大蛇がいる。その蛇皮は堅く、叩き切れない。大蛇の上部に孔があり、開いたり閉じたりして、時には光を放つが、その孔の中を射れば蛇は死ぬ。物産はほぼ儋耳や朱崖と同じ。風土気候は温暖、風俗は淫乱ではない。
(原文)男女皆露紒、富貴者以錦繡雜采為帽、似中國胡公頭。食飲用籩豆。其死有棺無槨、封土作家。人性皆嗜酒。俗不知正歳、多壽考、或至八九十、或至百歳。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶至兩三妻。婦人不媱妒、無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其宗族。
(読み下し)男女は皆、頭に何も被らないが、富貴な者は錦に様々な彩りを縫い付けて帽子とする、中国の胡公頭に似ている。飲食には御膳を用いる。そこの死者には棺はあるが槨はなく、土を封じて塚を作る。人々の性質は皆が酒を嗜む。習俗は正歳(歴)を知らず、多くが長寿で、あるいは八~九十歳、あるいは百歳に届く。そこの風俗は女が多く男は少ないので、高貴な者は四~五人の妻、賎しい者でも二~三人の妻がいる。婦人は嫉妬をせず、窃盗はなく、争訟は少ない。もし法を犯せば、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその宗族を滅する。
(原文)晉安帝時、有倭王讚遣使朝貢。及宋武帝永初二年、詔曰:『倭讚遠誠宜甄、可賜除授。』文帝元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。
(読み下し)晋の安帝の時(396-418年)、倭王讃がおり、遣使を以て朝貢した。宋の武帝の永初二年(421年)に、詔に曰く「倭の讃、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべし」。文帝の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬曹達を遣わし、奉表して方物を献上した。
(原文)讚死、弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王、表求除正。詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭洧等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍等號、詔並聽之。
(読み下し)讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献し、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称し、上表して除正を求めた。詔を以て安東将軍、倭国王に除した。珍がまた倭洧ら十三人を、平西、征虜、冠軍、輔国将軍などの号に除正することを求め、詔を以て、これをいずれも聴き届けた。
(原文)二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故、并除所上二十三人職①。
(読み下し)元嘉二十年(443年)、倭国王の済が遣使を以て奉献してきたので、また以て安東将軍、倭国王と為す。元嘉二十八年(451年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は元の如し、併せて上る所の二十三人の職を叙した①。
・注記① 宋書は「二十三人を将軍や郡太守に叙した」とあり、南史は脱字があると思う。
(原文)濟死、世子興遣使貢獻。孝武大明六年、詔授興安東將軍、倭國王。
(読み下し)済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。孝武帝の大明六年(462年)、詔を以て興に安東将軍、倭国王を拝受させた。
(原文)興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。順帝昇明二年、遣使上表、言「自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉①山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、陵平海北九十五國②。王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。道逕百濟、裝飾船舫、而句麗無道、圖欲見呑。臣亡考濟方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。今欲練兵申父兄之志、竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」。詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。齊建元中、除武持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。梁武帝即位、進武號征東大將軍。
(読み下し)興が死に、弟の武が立つと、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。順帝の昇明二年(478年)、遣使が上表して言う「昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山河を跋渉し、安らかに暮らす暇なく、東に毛人を征すること五十五カ国、西に衆夷を服すること六十六カ国、陵墓を平らげること海北の九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れ、累代に亘って朝廷を尊び、歳に誤りなし。道は百済に直行し、船舶を装飾する。而して高句麗は非道にも、併呑を欲して謀る。臣の亡き済は、まさに大挙せんと欲したが、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣も獲れず。今、練兵して父兄の遺志を明らかにせんと欲す。密かに自らを開府儀同三司と仮称したが、その余は皆、各々仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧めん」。詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙した。斉の建元中(479-482年)、除武を持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に叙した。梁の武帝が即位すると、武の爵号を征東大将軍に進めた。
・注記① 跋渉(ばっしょう)は、山河を上り下りする旅の苦難を表わす形容詞。
・注記② 宋書では「渡平海北九十五國」とあり、南史の誤植かもしれない。
(引用:Wikipedia 、古代史獺祭)
1)『隋書』の概要
隋書』は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。
本紀5巻・志30巻・列伝50巻からなる。特に「経籍志」が名高い。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて勅撰を行った。編纂には顔師古や孔穎達らが参加した。
636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻・列伝50巻が完成し、第3代高宗に代替わりした後の656年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成、編入された。
〇隋書の十志
『隋書』の最大の特徴は、この十志30巻である。本紀および列伝55巻が『漢書』に始まる断代史の体裁をとるのに対し、この十志は『史記』や『南史』・『北史』と同様の通史となっている。
本紀および列伝の完成後に太宗が命じたのは、南朝梁・陳・北斉・北周・隋の5つの王朝に対する志の編纂であった。
既に完成していた各朝の正史に志がなかったことによるが、一方で北魏と南朝宋以来、隋の統一までを南北朝という一つの時代と見て六朝と呼ぶ後世の視点とは異なり、当時の視点では南北の二極対立から再び三極の鼎立にいたり、隋が統一を果たすという見方であったことを示している。
よって、この十志だけを独立して「五代史志」と呼び習わし、また、断代史であって通史でもあるという正史が成立した。
「経籍志」は、第32巻志27から第35巻志30にあたる。中国の正史に付されたものとしては、『漢書』「芸文志」に次ぐものであった。
「律暦志」には、南朝宋・斉の祖沖之(429年 - 500年)が、円周率を3.1415927の位まで計算したことを記しているが、これは、『南斉書』の本伝にも見えない記録である。ヨーロッパにおいてこの桁数までの計算が果たされたのは16世紀のことであった。
〇東夷伝に関する記述
『隋書』の「東夷伝」は、第81巻列伝46にあたる。この書の中では、当時の俀國(倭国ヤマト政権)とその王多利思北孤や朝鮮半島にあった高句麗・新羅・百済と琉求について記述されている。記述の順番は高句麗・百済・新羅・靺鞨・琉求・倭国である。
俀(倭)に関する記述では、腕へ刺青を行っていたという風俗に関するもの、また聖徳太子が仏法僧を隋へ留学させたことなどが言及されている。
2)内容
〇 紀
1.帝紀第一 - 高祖上/2.帝紀第二 - 高祖下/3.帝紀第三 - 煬帝上/4.帝紀第四 - 煬帝下
/5.帝紀第五 - 恭帝
〇志
1.志第一 - 礼儀一/2.志第二 - 礼儀二/3.志第三 - 礼儀三/4.志第四 - 礼儀四/5.志第五 - 礼儀五/6.志第六 - 礼儀六/7.志第七 - 礼儀七/8.志第八 - 音楽上/9.志第九 - 音楽中/10.志第十 - 音楽下/11.志第十一 - 律暦上/12.志第十二 - 律暦中/13.志第十三 - 律暦下
14.志第十四 - 天文上/15.志第十五 - 天文中/16.志第十六 - 天文下/17.志第十七 - 五行上/18.志第十八 - 五行下/19.志第十九 - 食貨/20.志第二十 - 刑法/21.志第二十一 - 百官上/22.志第二十二 - 百官中/23.志第二十三 - 百官下/24.志第二十四 - 地理上
25.志第二十五 - 地理中/26.志第二十六 - 地理下/27.志第二十七 - 経籍一/28.志第二十八 - 経籍二/29.志第二十九 - 経籍三/30.志第三十 - 経籍四
〇列伝
1.列伝第一 后妃 - 文献独孤皇后・宣華夫人陳氏・容華夫人蔡氏・煬帝蕭皇后/2.列伝第二 - 李穆・梁睿/3.列伝第三 - 劉昉・鄭訳・柳裘・皇甫績・盧賁/4.列伝第四 - 于義・陰寿・陰世師・竇栄定・元景山・源雄・豆盧勣・豆盧毓・賀若誼/5.列伝第五 - 梁士彦・宇文忻・王誼・元諧・王世積・虞慶則・元冑
6.列伝第六 - 高熲・蘇威/7.列伝第七 - 李徳林・李百薬/8.列伝第八 - 河間王弘・楊処綱・楊子崇・観徳王雄/9.列伝第九 - 滕穆王瓚・道悼王静・衛昭王爽・蔡王智積/10.列伝第十 文四子 - 房陵王勇・秦孝王俊・庶人秀・庶人諒/11.列伝第十一 - 趙煚・趙芬・楊尚希・長孫平・元暉・韋師・楊异・蘇孝慈・李雄・張煚
12.列伝第十二 - 韋世康・柳機/13.列伝第十三 - 楊素/14.列伝第十四 - 牛弘/15.列伝第十五 - 宇文慶・李礼成・元孝矩・郭栄・龐晃・李安/16.列伝第十六 - 長孫覧/17.列伝第十七 - 韓擒虎・賀若弼/18.列伝第十八 - 達奚長儒・賀婁子幹・史万歳・劉方
19.列伝第十九 - 王長述・李衍・伊婁謙・田仁恭・元亨・杜整・李徹・崔彭/20.列伝第二十 - 杜彦・高勱・爾朱敞・周搖・独孤楷・乞伏慧・張威・和洪・侯莫陳穎/21.列伝第二十一 - 盧愷・令狐熙・薛冑・宇文㢸・張衡・楊汪/22.列伝第二十二 - 盧思道・李孝貞・薛道衡
23.列伝第二十三 - 明克譲・魏澹・陸爽・杜台卿・辛徳源・柳䛒・許善心・李文博/24.列伝第二十四 煬帝三男 - 元徳太子昭・斉王暕・趙王杲/25.列伝第二十五 - 崔仲方・于仲文・段文振
26.列伝第二十六 - 宇文述・雲定興・郭衍/27.列伝第二十七 - 王韶・元巌・劉行本・梁毗・柳彧・趙綽・裴粛/28.列伝第二十八 - 樊子蓋・史祥・元寿・楊義臣・衛玄・劉権/29.列伝第二十九 - 李円通・陳茂・張定和・張奫・麦鉄杖・沈光・来護児・魚倶羅・陳稜・王弁
30.列伝第三十 - 周羅睺・周法尚・李景・慕容三蔵・薛世雄・王仁恭・権武・吐万緒・董純・趙才/31.列伝第三十一 - 李諤・鮑宏・裴政・柳荘・源師・郎茂・高構・張虔威・栄毗・陸知命・房彦謙/32.列伝第三十二 - 虞世基・裴蘊・裴矩/33.列伝第三十三 - 宇文愷・閻毗・何稠/34.列伝第三十四 - 王劭・袁充
35.列伝第三十五 - 楊玄感・李子雄・趙元淑・斛斯政・劉元進・李密・裴仁基/36.列伝第三十六 誠節 - 劉弘・皇甫誕・陶模・敬釗・游元・馮慈明・張須陁・楊善会・独孤盛・元文都・盧楚・劉子翊・堯君素・陳孝意・張季珣・杜松贇
37.列伝第三十七 孝義 - 陸彦師・田徳懋・薛濬・王頒・楊慶・紐回・郎方貴・李徳饒・徐孝粛/38.列伝第三十八 循吏 - 梁彦光・樊叔略・趙軌・房恭懿・公孫景茂・辛公義・柳倹・王伽・魏徳深/39.列伝第三十九 酷吏 - 厙狄士文・田式・燕栄・趙仲卿・崔弘度・元弘嗣・王文同
40.列伝第四十 儒林 - 元善・辛彦之・何妥・房暉遠・馬光・劉焯・劉炫・王孝籍/41.列伝第四十一 文学 - 劉臻・王頍・崔儦・諸葛潁・孫万寿・王貞・虞綽・王冑・庾自直・潘徽・杜正玄/42.列伝第四十二 隠逸 - 李士謙・崔廓・徐則・張文詡
43.列伝第四十三 芸術 - 庾季才・庾質・盧太翼・韋鼎・来和・蕭吉・楊伯醜・張胄玄・許智蔵・万宝常/44.列伝第四十四 外戚 - 呂永吉・独孤羅・独孤陀・蕭巋・蕭琮・蕭瓛/45.列伝第四十五 列女 - 蘭陵公主・南陽公主・襄城王恪妃・華陽王楷妃・譙国夫人・鄭善果母・孝女王舜・韓覬妻・陸讓母・劉昶女・鍾士雄母・孝婦覃氏・元務光母・裴倫妻・趙元楷妻
46.列伝第四十六 東夷 - 高麗・百済・新羅・靺鞨・琉求・倭国
47.列伝第四十七 南蛮 - 林邑・赤土国・真臘・婆利/48.列伝第四十八 西域 - 吐谷渾・党項・高昌・康国・安国・石国・女国・焉耆・亀茲・疏勒・于闐・吐火羅/49.列伝第四十九 北狄 - 突厥・西突厥・鉄勒・奚・契丹・室韋/50.列伝第五十 - 宇文化及・宇文智及・司馬徳戡・裴虔通・王充・段達
3)『隋書』倭国伝
隋書の「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記載があるが、倭国ではなく俀国と書かれている。
「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」:男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)し顔に点し身に文し、水に没して魚を捕るとある。
『魏志倭人伝』記事の焼き直しでなく、608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたものであれば、7世紀初頭の倭人社会についての資料となる。
また、「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」:新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来すとあり、新羅と百済が、共に、大国にして宝物の多い俀を尊敬し、常に使いを通わせていたとの記述と思われる。
「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」:大業三年(607年)其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。
俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。
海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。
●『隋書』東夷傳
「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」:九夷(中国の東に住む諸民族)が居る所は、中華から遠くにあり、(九夷の)天性は柔順である。
4)『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國の原文と読み下し(引用:Wikipedia)
※倭國 注意:隋書は「倭國」を「俀國」とする。
(原文)俀國在百濟新羅東南水陸三千里 於大海之中依山而居 魏時譯通中國三十餘國皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東與耳相近
(読み下し)國は百濟・新羅の東南に在り、水陸三千里。大海の中に於いて山に依りて居す。魏の時、譯の中國に通ずるもの三十餘國。皆、自ら王を稱す。夷人は里數を知らず、但だ日を以って計る。其の國境は東西五月行、南北三月行、各々海に至る。其の地勢は東に高く西に下る。邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。古に云う、樂浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一萬二千里。會稽の東に在りて、耳に相い近し、と。
(原文)漢光武時遣使入朝 自稱大夫 安帝時又遣使朝貢 謂之奴國
(読み下し)漢の光武の時、使を遣して入朝す。自ら大夫と稱す。安帝の時、又、使を遣して朝貢す。之を奴國と謂う。
(原文)桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主 有女子名彌呼 能以道惑衆 於是國人共立爲王 有男弟佐彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面者 唯有男子二人給王飲食通傳言語 其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 爲法甚嚴 自魏至于齊梁代與中國相通
(読み下し)桓靈の間、其の國大いに亂れ、遞(たが)いに相攻伐して歴年主無し。女子有り、名を彌呼という。能く道を以って衆を惑わす。是に於いて國人共に立てて王と爲す。男弟有り、彌を佐(たす)け國を理(おさ)む。其の王に侍婢千人有り。其の面を見る者罕(まれ)に有り。唯だ男子二人有りて王に飲食を給し、言語を通傳す。其の王に宮室・樓觀・城柵有り。皆な兵を持して守衛す。法を爲すこと甚だ嚴なり。魏より齊・梁に至り代々中國に相通ず。
(原文)開皇二十年王姓阿毎字多利思比孤號阿輩彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 王以天爲兄以日爲弟 天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟 高祖曰 此太無義理於是訓令改之
(読み下し)開皇二十年、王、姓は阿毎、字は多利思比孤、號は阿輩彌、使を遣して闕に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う「王は天を以って兄と爲し、日を以って弟と爲す。天未だ明けざる時、出でて政を聽き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我弟に委ねん」と。高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。
(原文)王妻號彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信 員無定數 有軍尼一百二十人 猶中國牧宰 八十戸置一伊尼翼 如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼
(読み下し)王の妻、號は彌。後宮に女六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利と爲す。城郭無し。内官に十二等有り。一に曰く大德、次を小德、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、次を大禮、次を小禮、次を大智、次を小智、次を大信、次を小信。員に定數無し。一百二十人の軍尼有り。猶お中國の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如き也。十伊尼翼は一軍尼に屬す。
(原文)其服飾男子衣襦其袖微小履如形漆其上繋之於脚 人庶多跣足 不得用金銀爲飾 故時衣横幅結束相連而無縫 頭亦無冠但垂髪於兩耳上 至隋其王始制冠 以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾 婦人束髪於後亦衣襦裳 皆有 竹爲梳 編草爲薦 雜皮爲表 縁以文皮
(読み下し)其の服飾、男子の衣は襦(くんじゅ)にして、其の袖は微小、履は形の如く、其の上に漆り、之を脚に繋く。人庶、多くは跣足。金銀を用いて飾と爲すを得ず。故時、衣は横幅にして、結束して相連ね縫うこと無し。頭には亦た冠無く、但だ髪を兩耳の上に垂らす。隋に至り、其の王、始めて冠を制す。錦綵(きんさい)を以って之を爲し、金銀を以って花を鏤(ちりば)め飾りと爲す。婦人は髪を後ろに束ね、亦た衣は襦(くんじゅ)、裳。皆な(ちんせん)有り。竹を梳と爲す。草を編んで薦と爲す。雜皮を表と爲し、縁を文皮を以ってす。
(原文)有弓矢刀弩斧 漆皮爲甲骨爲矢鏑 雖有兵無征戦 其王朝會必陳設儀杖奏其國樂 戸可十萬
(読み下し)弓・矢・刀・(さく)・弩・(さん)・斧有り。皮を漆りて甲と爲し、骨を矢鏑と爲す。兵有りと雖も征戦無し。其の王、朝會に必ず儀杖を陳設し、其の國の樂を奏す。戸は十萬可り。
(原文)其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴 自餘輕重或流或杖 毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項 或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛 或置蛇中令取之云曲者即螫手矣
(読み下し)其の俗、殺人・強盗・姦は皆な死し、盗む者は贓(ぞう)を計り物を酬いしめ、財無き者は身を没し奴と爲す。自餘は輕重もて或は流し、或は杖す。獄訟を訊究する毎に、承引せざる者は木を以って膝を壓し、或は強弓を張り、弦を以って其の項を鋸す。或は小石を沸湯の中に置き、競う所の者に之を探らしめ、云う、理、曲なる者は即ち手爛(ただ)ると。或は蛇を中(おうちゅう)に置き、之を取らしむ。云う、曲なる者は即ち手螫(ささ)ると。
(原文)人頗恬静罕争訟少盗賊 樂有五弦琴笛 男女多黥臂點面文身 没水捕魚 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡 毎至正月一日必射戲飲酒 其餘節與華同 好博握槊樗蒲之戲
(読み下し)人、頗(すこぶ)る恬静(てんせい)にして、争訟罕(まれ)に、盗賊少し。樂に五弦の琴・笛有り。男女多く臂に黥し、面に點し、身に文す。水に没し魚を捕う。文字は無く、唯だ木を刻み繩を結ぶ。佛法を敬し、百濟に於いて佛經を求め得て、始めて文字有り。卜筮を知り、尤も巫覡を信ず。正月一日に至る毎に、必ず射戲・飲酒す。其の餘の節は、ほぼ華と同じ。博・握槊・樗蒲の戲を好くす。
(原文)氣候温暖草木冬青 土地膏腴水多陸少 以小環挂項令入水捕魚日得百餘頭 俗無盤爼藉以葉食用手餔之 性質直有雅風
(読み下し)氣候は温暖にして、草木は冬も青し。土地は膏腴にして水多く陸少し。小環を以っての項に挂け、水に入りて魚を捕えしめ、日に百餘頭を得。俗、盤爼無く、藉くに葉を以ってし、食するに手を用いて之を餔う。性質は直にして、雅風有り。
(原文) 女多男少 婚嫁不取同姓 男女相悦者即爲婚 婦入夫家必先跨犬乃與夫相見 婦人不婬妬 死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之或以小
(読み下し)女多く男少し。婚嫁に同姓を取らず。男女相悦ぶ者は即ち婚を爲す。婦、夫家に入るに必ず先ず犬を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。婦人は婬妬せず。死者は棺槨を以って斂め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜して(うず)む。葬に及び屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或は小を以ってす。
(原文)有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祭 有如意寶珠 其色青大如卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來
(読み下し)阿蘇山有り。其の石は故無くて火起り天に接する者、俗以って異と爲し、因って祭を行う。如意寶珠有り。其の色青く、大いなること卵の如し。夜に則ち光有り、云う、魚の眼精也、と。新羅・百濟は皆を以って大國にして珎物多しと爲す。並びに之を敬仰して、恒に使を通じて往來す。
(原文)大業三年其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
(読み下し)大業三年(607)、其の王、多利思北孤、使を遣し朝貢す。使者曰う、『海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人、來りて佛法を學ぶ』と。其の國書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と。
(原文)明年上遣文林郎裴清使於國 度百濟行至竹南望羅國經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於
(読み下し)明年、上、文林郎裴清を遣し國に使せしむ。百濟を度り、行きて竹に至り、南に羅國を望み、都斯麻國を經て、迥かに大海の中に在り。又、東に一支國に至り、又、竹斯國に至り、又、東に秦王國に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也。又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、皆なに附庸す。
(原文)王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎 後十日又遣大禮哥多従二百余騎郊勞 既至彼都 其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國 故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不即相見 今故清道飾館以待大使 冀聞大國惟新之化
(読み下し)王、小德阿輩臺を遣し、數百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らし來りて迎えしむ。後十日、又、大禮哥多を遣し、二百余騎を従え郊を勞せしむ。既に彼の都に至る。 其の王、清と相見(まみ)え、大いに悦びて曰く、『我、海西に大隋禮義の國有りと聞く。故に遣して朝貢す。我は夷人にして海隅に僻在し、禮義を聞かず。是を以って境内に稽留し、即ち相見(まみ)えず。今、故(ことさら)に道を清め館を飾り、以って大使を待つ。冀(ねがわく)は大國惟新の化を聞かん』と。
(原文)清答曰皇帝德並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引清就館 其後清遣人謂其王曰朝命既達 請即戒塗 於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物 此後遂絶
(読み下し)清、答えて曰く、「皇帝の德は二儀に並び、澤は四海に流る。王、化を慕うを以って、故に行人を遣して來りて此に宣諭す」と。既に清を引きて館に就(つ)かしむ。其の後、清、人を遣して其王に謂いて曰く、『朝命既に達す。請う、即ち塗(みち)を戒めよ』と。是において宴享(えんきょう)を設け以って清を遣し、復た使者を清に隨いて來らしめ方物を貢ず。此の後、遂に絶えたり。
(引用:Wikipedia&古代史獺祭)
1)『旧唐書』の概要
『旧唐書』(くとうじょ)は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。
そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。
これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する。
大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。
★『旧唐書』には日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。
(原文)倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 ~ 日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地— 『舊唐書』 東夷伝 倭國
(読み下し)日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。倭国は「その名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み」名を改めたと自称したと読める。
★古田武彦氏は『失われた九州王朝』で『旧唐書』について、次のように記している。
「『旧唐書』の倭国伝・日本国伝の記述は、
一に、7世紀後半の白村江の戦いの当時、倭国に繰り返し派遣され、唐側で倭国の現地情報に関してもっとも詳悉していた人物、郭務悰の直接報告(軍事的・政治的報告)にもとづく。
二に、当の「日本国」の遣唐使にして唐朝内の高級官僚として生涯をその都(西安)に終えた人物、阿倍仲麻呂の情報もしくは裏書による。
以上のような『旧唐書』のもつ史料性格からすれば、その資料としての信憑性を疑うこと、それは不可能なのである。もとより、枝葉末節まで悉く妥当するとはいいえないだろう。それは当然だ。しかし「倭国」と「日本国」との根本関係、それを「あやまり」とすること、それは武断以外の何物でもない。」
(出典:「失われた九州王朝」古田武彦著 朝日文庫 P572)
2)構成
「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻の計200巻から成る。紀伝体の書である。
〇本紀
1.本紀第一 高祖/2.本紀第二 太宗上/3.本紀第三 太宗下/4.本紀第四 高宗上/5.本紀第五 高宗下/6.本紀第六 則天皇后/7.本紀第七 中宗 睿宗/8.本紀第八 玄宗上/9.本紀第九 玄宗下
10.本紀第十 粛宗/11.本紀第十一 代宗/12.本紀第十二 徳宗上/13.本紀第十三 徳宗下/14.本紀第十四 順宗 憲宗上/15.本紀第十五 憲宗下/16.本紀第十六 穆宗/17.本紀第十七上 敬宗 文宗上
18.本紀第十七下 文宗下/19.本紀第十八上 武宗/20.本紀第十八下 宣宗/21.本紀第十九上 懿宗/22.本紀第十九下 僖宗/23.本紀第二十上 昭宗/24.本紀第二十下 哀帝
〇志
1.志第一 礼儀一/2.志第二 礼儀二/3.志第三 礼儀三/4.志第四 礼儀四/5.志第五 礼儀五/6.志第六 礼儀六/7.志第七 礼儀七/8.志第八 音楽一/9.志第九 音楽二/10.志第十 音楽三
/11.志第十一 音楽四/12.志第十二 暦一/13.志第十三 暦二/14.志第十四 暦三/15.志第十五 天文上/16.志第十六 天文下/17.志第十七 五行/18.志第十八 地理一/19.志第十九 地理二
20.志第二十 地理三/21.志第二十一 地理四/22.志第二十二 職官一/23.志第二十三 職官二/24.志第二十四 職官三/25.志第二十五 輿服/26.志第二十六 経籍上/27.志第二十七 経籍下/28.志第二十八 食貨上/29.志第二十九 食貨下/30.志第三十 刑法
〇列伝
1.列伝第一 后妃上 - 高祖太穆皇后竇氏・太宗文徳皇后長孫氏・賢妃徐氏・高宗廃后王氏・中宗和思皇后趙氏・中宗韋庶人・上官昭容・睿宗粛明皇后劉氏・睿宗昭成皇后竇氏・玄宗廃后王氏・玄宗貞順皇后武氏・玄宗楊貴妃
2.列伝第二 后妃下 - 玄宗元献皇后楊氏・粛宗張皇后・粛宗韋妃・粛宗章敬皇后呉氏・代宗睿真皇后沈氏・代宗崔妃・代宗貞懿皇后独孤氏・徳宗昭徳皇后王氏・徳宗韋賢妃・順宗荘憲皇后王氏・憲宗懿安皇后郭氏・憲宗孝明皇后鄭氏・女学士尚宮宋氏・穆宗恭僖皇后王氏・敬宗郭貴妃・穆宗貞献皇后蕭氏・穆宗宣懿皇后韋氏・武宗王賢妃・宣宗元昭皇后晁氏・懿宗恵安皇后王氏・昭宗積善皇后何氏
3.列伝第三 - 李密(単雄信)/4.列伝第四 - 王世充・竇建徳/5.列伝第五 - 薛挙・李軌・劉武周・高開道・劉黒闥・徐円朗/6.列伝第六 - 蕭銑・杜伏威・輔公祏・沈法興・李子通・羅芸・梁師都/7.列伝第七 - 裴寂・劉文静/8.列伝第八 - 唐倹・長孫順徳・劉弘基・殷嶠・劉政会・柴紹・武士彠
9.列伝第九 - 屈突通・任瓌・丘和・許紹・李襲志・姜謩/10.列伝第十 宗室 - 永安王孝基・淮安王神通・襄邑王神符・長平王叔良・襄武王琛・河間王孝恭・廬江王瑗・淮陽王道玄・江夏王道宗・隴西王博乂/11.列伝第十一 - 温大雅・陳叔達・竇威(竇惲)/12.列伝第十二 - 李綱・鄭善果・楊恭仁・皇甫無逸・李大亮
13.列伝第十三 - 封倫・蕭瑀・裴矩・宇文士及/14.列伝第十四 高祖二十二子 - 隠太子建成・衛王玄霸・巣王元吉・楚王智雲・荊王元景・漢王元昌・酆王元亨・周王元方・徐王元礼・韓王元嘉・彭王元則・鄭王元懿・霍王元軌・虢王鳳・道王元慶・鄧王元裕・舒王元名・魯王霊夔・江王元祥・密王元曉・滕王元嬰
15.列伝第十五 - 高士廉・長孫無忌/16.列伝第十六 - 房玄齢・杜如晦/17.列伝第十七 - 李靖・李勣/18.列伝第十八 - 尉遅敬徳・秦叔宝・程知節・段志玄・張公謹/19.列伝第十九 - 侯君集・張亮・薛万徹・薛万均/20.列伝第二十 - 王珪・戴冑・岑文本・杜正倫/21.列伝第二十一 - 魏徴
22.列伝第二十二 - 虞世南・李百薬・褚亮/23.列伝第二十三 - 薛收・姚思廉・顔師古・令狐徳棻(李延寿)・孔穎達/24.列伝第二十四 - 劉洎・馬周・崔仁師/25.列伝第二十五 - 蘇世長・韋雲起・孫伏伽・張玄素
26.列伝第二十六 太宗諸子 - 恒山王承乾・楚王寛・呉王恪・濮王泰・庶人祐・蜀王愔・蔣王惲・越王貞・紀王慎・江王囂・代王簡・趙王福・曹王明/27.列伝第二十七 - 韋挺・楊纂・劉徳威・閻立徳(閻立本)・柳亨・崔義玄
28.列伝第二十八 - 于志寧・高季輔・張行成/29.列伝第二十九 - 祖孝孫・傅仁均・傅奕・李淳風・呂才/30.列伝第三十 - 褚遂良・韓瑗・来済・上官儀/31.列伝第三十一 - 崔敦礼・盧承慶・劉祥道・李敬玄・李義琰・孫処約・楽彦瑋・趙仁本
32.列伝第三十二 - 許敬宗・李義府/33.列伝第三十三 - 郭孝恪・張倹・蘇定方・薛仁貴・程務挺・張士貴・趙道興/34.列伝第三十四 - 劉仁軌・郝処俊・裴行倹/35.列伝第三十五 - 唐臨・張文瓘・徐有功
36.列伝第三十六 高宗中宗諸子 - 燕王忠・原王孝・沢王上金・許王素節・孝敬皇帝弘・章懐太子賢・懿徳太子重潤・庶人重福・節愍太子重俊・殤帝重茂/37.列伝第三十七 - 裴炎・劉禕之・魏玄同・李昭徳
38.列伝第三十八 - 韋思謙・陸元方・蘇瓌/39.列伝第三十九 - 狄仁傑・王方慶・姚璹/40.列伝第四十 - 王及善・杜景倹・朱敬則・楊再思・李懐遠・豆盧欽望/41.列伝第四十一 - 桓彦範・敬暉・崔玄暐・張柬之・袁恕己
42.列伝第四十二 - 魏元忠・韋安石・蕭至忠/43.列伝第四十三 - 婁師徳・王孝傑・唐休璟・張仁愿・薛訥・王晙/44.列伝第四十四 - 蘇味道・李嶠・崔融・盧蔵用・徐彦伯/45.列伝第四十五 睿宗諸子 - 譲皇帝憲・恵荘太子撝・恵文太子範・恵宣太子業・隋王隆悌/46.列伝第四十六 - 姚崇・宋璟
47.列伝第四十七 - 劉幽求・鍾紹京・郭元振・張説/48.列伝第四十八 - 魏知古・盧懐慎・源乾曜・李元紘・杜暹・韓休・裴耀卿/49.列伝第四十九 - 崔日用・張嘉貞・蕭嵩・張九齢・李適之・厳挺之/50.列伝第五十 - 尹思貞・李傑・解琬・畢構・蘇珦・鄭惟忠・王志愔・盧従愿・李朝隠・裴漼・王丘
51.列伝第五十一 - 李乂・薛登・韋湊・韓思復・張廷珪・王求礼・辛替否/52.列伝第五十二 - 馬懐素・劉子玄・徐堅・元行沖・呉兢・韋述/53.列伝第五十三 - 郭虔瓘・郭知運・王君㚟・張守珪・牛仙客・王忠嗣/54.列伝第五十四 - 高仙芝・封常清・哥舒翰/55.列伝第五十五 - 宇文融・韋堅・楊慎矜・王鉷
56.列伝第五十六 - 李林甫・楊国忠・張暐・王琚・王毛仲/57.列伝第五十七 玄宗諸子 - 靖徳太子琮・庶人瑛・棣王琰・庶人瑤・靖恭太子琬・庶人琚・夏悼王一・儀王璲・潁王璬・懐哀王敏・永王璘・寿王瑁・延王玢・盛王琦・済王環・信王瑝・義王玼・陳王珪・豊王珙・恒王瑱・涼王璿・汴哀王璥
58.列伝第五十八 - 韋見素・崔円・崔渙・杜鴻漸/59.列伝第五十九 - 馮盎・阿史那社爾・契苾何力・黒歯常之・李多祚・李嗣業・白孝徳/60.列伝第六十 - 李光弼・王思礼・鄧景山・辛雲京
61.列伝第六十一 - 崔光遠・房琯・張鎬・高適・暢璀/62.列伝第六十二 - 李暠・李麟・李国貞・李峘・李巨/63.列伝第六十三 - 苗晋卿・裴冕・裴遵慶/64.列伝第六十四 - 魯炅・裴茙・来瑱・周智光
65.列伝第六十五 - 崔器・趙国珍・崔瓘・敬括・韋元甫・魏少遊・衛伯玉・李承/66.列伝第六十六 粛宗代宗諸子 - 越王係・承天皇帝倓・衛王佖・彭王僅・兗王僩・涇王侹・鄆王栄・襄王僙・杞王倕・召王偲・恭懿太子佋・定王侗・淮陽王僖・昭靖太子邈・均王遐・睦王述・丹王逾・恩王連・韓王迥・簡王遘・益王迺・隋王迅・荊王選・蜀王遡・忻王造・韶王暹・嘉王運・端王遇・循王遹・恭王通・原王逵・雅王逸
67.列伝第六十七 - 厳武・郭英乂・崔寧・厳震・厳礪/68.列伝第六十八 - 元載・王縉・楊炎・黎幹・庾準/69.列伝第六十九 - 楊綰・崔祐甫・常袞/70.列伝第七十 - 郭子儀/71.列伝第七十一 - 僕固懐恩・梁崇義・李懐光/72.列伝第七十二 - 張献誠・路嗣恭・曲環・崔漢衡・楊朝晟・樊澤・李叔明・裴冑
73.列伝第七十三 - 劉晏・第五琦・班宏・王紹・李巽/74.列伝第七十四 - 薛嵩・令狐彰・田神功・侯希逸・李正己/75.列伝第七十五 - 張鎰・劉従一・蕭復・柳渾/76.列伝第七十六 - 李揆・李涵・陳少遊・盧𢝖・裴諝
77.列伝第七十七 - 姚令言・張光晟・源休・喬琳・張渉・蔣鎮・洪経綸・彭偃/78.列伝第七十八 - 段秀実・顔真卿/79.列伝第七十九 - 韓滉・張延賞/80.列伝第八十 - 王嶼・李泌・崔造・関播/81.列伝第八十一 - 李勉・李皋/82.列伝第八十二 - 李抱玉・李抱真・王虔休・盧従史・李芃・李澄
83.列伝第八十三 - 李晟(李愬)/84.列伝第八十四 - 馬燧・渾瑊/85.列伝第八十五 - 盧杞・白志貞・裴延齢・韋渠牟・李斉運・李実・韋執誼・王叔文・程异・皇甫鎛/86.列伝第八十六 - 竇参・斉映・劉滋・盧邁・盧邁・斉抗
87.列伝第八十七 - 徐浩・趙涓・劉太真・李紓・邵説・于邵・崔元翰・于公異・呂渭・鄭雲逵・李益・李賀/88.列伝第八十八 - 趙憬・韋倫・賈耽・姜公輔/89.列伝第八十九 - 陸贄/90.列伝第九十 - 韋皋・張建封・盧群
91.列伝第九十一 - 田承嗣・田弘正・張孝忠/92.列伝第九十二 - 李宝臣・王武俊・王廷湊/93.列伝第九十三 - 李懐仙・朱滔・劉怦・程日華・李全略/94.列伝第九十四 - 尚可孤・李観・戴休顔・陽恵元・李元諒・韓遊瑰・賈隠林・杜希全・尉遅勝・邢君牙・楊朝晟・張敬則
95.列伝第九十五 - 劉玄佐・董晋・陸長源・劉全諒・李忠臣・李希烈・呉少誠/96.列伝第九十六 - 薛播・鮑防・李自良・李説・厳綬・蕭昕・杜亜・王緯・李若初・于頎・盧徴・楊憑・鄭元・杜兼・裴玢・薛伾
97.列伝第九十七 - 杜黄裳・高郢・杜佑/98.列伝第九十八 - 裴垍・李吉甫・李藩・権徳輿/99.列伝第九十九 - 于休烈・令狐峘・帰崇敬・奚陟・張薦・蔣乂・柳登・沈伝師/100.列伝第一百 徳宗順宗諸子 - 舒王誼・通王諶・虔王諒・粛王詳・文敬太子謜・資王謙・代王諲・昭王誡・欽王諤・珍王諴・郯王経等
101.列伝第一百一 - 高崇文・伊慎・朱忠亮・劉昌裔・范希朝・王鍔・閻巨源・孟元陽・趙昌/102.列伝第一百二 - 馬璘・郝廷玉・王栖曜・劉昌・李景略・張万福・高固・郝玼・段佐・史敬奉/103.列伝第一百三 - 姚南仲・劉迺・袁高・段平仲・薛存誠・盧坦/104.列伝第一百四 - 孔巣父・許孟容・呂元膺・劉栖楚・張宿・熊望・柏耆
105.列伝第一百五 - 穆寧・崔邠・竇群・李遜・薛戎/106.列伝第一百六 - 于頔・韓弘・王智興/107.列伝第一百七 - 王翃・郗士美・李鄘・辛祕・馬摠・韋弘景・王彦威/108.列伝第一百八 - 武元衡・鄭余慶・韋貫之/109.列伝第一百九 - 衛次公・鄭絪・韋処厚・崔群・路隨
110.列伝第一百十 - 韓愈・張籍・孟郊・唐衢・李翺・宇文籍・劉禹錫・柳宗元・韋辞/111.列伝第一百十一 - 李光進・烏重胤・王沛・李珙・李祐・董重質・楊元卿・劉悟・劉沔・石雄/112.列伝第一百十二 - 潘孟陽・李翛・王遂・曹華・韋綬・鄭権・盧士玫・韓全義・高霞寓・高瑀・崔戎・陸亘・張正甫
113.列伝第一百十三 - 孟簡・胡証・崔元略・杜元穎・崔弘礼・李虞仲・王質・盧簡辞/114.列伝第一百十四 - 王播(王亀・王式)・李絳・楊於陵/115.列伝第一百十五 - 韋夏卿・王正雅・柳公綽・崔玄亮・温造・郭承嘏・殷侑・徐晦/116.列伝第一百十六 - 元稹・白居易
117.列伝第一百十七 - 趙宗儒・竇易直・李逢吉・段文昌・宋申錫・李程/118.列伝第一百十八 - 韋温・独孤郁・銭徽・高釴・馮宿・封敖/119.列伝第一百十九 - 李訓・鄭注・王涯・王璠・賈餗・舒元輿・郭行余・羅立言・李孝本
120.列伝第一百二十 - 裴度/121.列伝第一百二十一 - 李渤・張仲方・裴潾・李中敏・李甘・高元裕・李漢・李景倹/122.列伝第一百二十二 - 令狐楚・牛僧孺・蕭俛・李石/123.列伝第一百二十三 - 鄭覃・陳夷行・李紳・李回・李玨・李固言/124.列伝第一百二十四 - 李徳裕
125.列伝第一百二十五 憲宗二十子・穆宗五子・敬宗五子・文宗二子・武宗五子・宣宗十一子・懿宗八子・僖宗二子・昭宗十子 - 恵昭太子寧・澧王惲・深王悰・洋王忻・絳王悟・建王恪・鄜王憬等・懐懿太子湊・安王溶・悼懐太子普・梁王休復・譲王執中・紀王言揚・陳王成美・荘恪太子永・蔣王宗倹・武宗五子・宣宗十一子・懿宗八子・僖宗二子・徳王裕・棣王祤等・嗣襄王熅・朱玫・王行瑜
126.列伝第一百二十六 - 李宗閔・楊嗣復・楊虞卿・馬植・李譲夷・魏駿・周墀・崔亀従・鄭粛・盧商/127.列伝第一百二十七 - 崔慎由・崔珙・盧鈞・裴休・楊收・韋保衡・路巌・夏侯孜・劉瞻・劉瑑・曹確・畢諴・杜審権・劉鄴・豆盧瑑/128.列伝第一百二十八 - 趙隠・張裼・李蔚・崔彦昭・鄭畋・盧携・王徽
129.列伝第一百二十九 - 蕭遘・孔緯・韋昭度・崔昭緯・張濬・朱朴・鄭綮・劉崇望・徐彦若・陸扆・柳璨/130.列伝第一百三十 - 朱克融・李載義・楊志誠・張仲武・張允伸・張公素・李可挙・李全忠/131.列伝第一百三十一 - 史憲誠・何進滔・韓允忠・楽彦禎・羅弘信/132.列伝第一百三十二 - 王重栄・王処存・諸葛爽・高駢・時溥・朱瑄
133.列伝第一百三十三 外戚 - 独孤懐恩・竇徳明・長孫敞・武承嗣・韋温・王仁皎・呉漵・竇覦・柳晟・王子顔/134.列伝第一百三十四 宦官 - 楊思勗・高力士・李輔国・程元振・魚朝恩・竇文場・霍仙鳴・倶文珍・吐突承璀・王守澄・田令孜・楊復光・楊復恭
135.列伝第一百三十五上 良吏上 - 韋仁寿・陳君賓・張允済・李桐客・李素立・薛大鼎・賈敦頤・李君球・崔知温・高智周・田仁会・韋機・権懐恩・馮元常・蔣儼・王方翼・薛季昶
136.列伝第一百三十五下 良吏下 - 裴懐古・張知謇・楊元琰・倪若水・李濬・陽嶠・宋慶礼・姜師度・強循・潘好礼・楊茂謙・楊瑒・崔隠甫・李尚隠・呂諲・蕭定・蔣沇・薛玨・李恵登・任迪簡・范伝正・袁滋・薛苹・閻済美
137.列伝第一百三十六上 酷吏上 - 来俊臣・周興・伝遊芸・丘神勣・索元礼・侯思止・万国俊・来子珣・王弘義・郭霸・吉頊/138.列伝第一百三十六下 酷吏下 - 姚紹之・周利貞・王旭・吉温・羅希奭・毛若虚・敬羽
139.列伝第一百三十七上 忠義上 - 夏侯端・劉感・常達・羅士信・呂子臧・張道源・李公逸・張善相・李玄通・敬君弘・馮立・謝叔方・王義方・成三郎・尹元貞・高叡・王同皎・蘇安恒・兪文俊・王求礼・燕欽融・安金蔵
140.列伝第一百三十七下 忠義下 - 李憕・張介然・崔無詖・盧奕・蔣清・顔杲卿・薛愿・張巡・許遠・程千里・袁光庭・邵真・符璘・趙曄・石演芬・張伾・甄済・劉敦儒・高沐・賈直言・庾敬休・辛讜
141.列伝第一百三十八 孝友 - 李知本・張志寬・張志寬・王君操・趙弘智・陳集原・元譲・裴敬彝・裴守真・李日知・崔沔・陸南金・張琇・梁文貞・崔衍・丁公著・羅譲/142.列伝第一百三十九上 儒学上 - 徐文遠・陸徳明・曹憲・欧陽詢・朱子奢・張士衡・賈公彦・張後胤・蓋文達・谷那律・蕭徳言・許叔牙・敬播・劉伯荘・秦景通・羅道琮
143.列伝第一百三十九下 儒学下 - 邢文偉・高子貢・郎余令・路敬淳・王元感・王紹宗・韋叔夏・祝欽明・郭山惲・柳沖・盧粲・尹知章・徐岱・蘇弁・陸質・馮伉・韋表微・許康佐
144.列伝第一百四十上 文苑上 - 孔紹安・袁朗・賀徳仁・庾抱・蔡允恭・鄭世翼・謝偃・崔信明・張蘊古・劉胤之・張昌齢・崔行功・孟利貞・董思恭・元思敬・徐斉聃・杜易簡・盧照鄰・楊炯・王勃・駱賓王・鄧玄挺
145.列伝第一百四十中 文苑中 - 郭正一・元万頃・喬知之・劉允済・富嘉謨・員半千・劉憲・沈佺期・陳子昂・宋之問・閻朝隠・賈曾・許景先・賀知章・席豫・斉澣・王澣・李邕・孫逖/146.列伝第一百四十下 文苑下 - 李華・蕭穎士・陸據・崔顥・王昌齢・孟浩然・元徳秀・王維・李白・杜甫・呉通玄・王仲舒・崔咸・唐次・劉蕡・李商隠・温庭筠・薛逢・李拯・李巨川・司空図
147.列伝第一百四十一 方伎 - 崔善為・薛頤・甄権・宋侠・許胤宗・乙弗弘礼・袁天綱・孫思邈・明崇儼・張憬蔵・李嗣真・張文仲・尚献甫・孟詵・厳善思・金梁鳳・張果・葉法善・僧玄奘・神秀・一行・桑道茂/148.列伝第一百四十二 隠逸 - 王績・田遊巌・史徳義・王友貞・盧鴻一・王希夷・衛大経・李元愷・王守慎・徐仁紀・孫処玄・白履忠・王遠知・潘師正・劉道合・司馬承禎・呉筠・孔述睿・陽城・崔覲
149.列伝第一百四十三 列女 - 李徳武妻裴氏・楊慶妻王氏・楊三安妻李氏・魏衡妻王氏・樊会仁母敬氏・絳州孝女衛氏・濮州孝女賈氏・鄭義宗妻盧氏・劉寂妻夏侯氏・楚王霊亀妃上官氏・楊紹宗妻王氏・于敏直妻張氏・冀州女子王氏・樊彦琛妻魏氏・鄒保英妻奚氏・宋庭瑜妻魏氏・崔絵妻盧氏・奉天県竇氏二女・盧甫妻李氏・鄒待徴妻薄氏・李湍妻・董昌齢母楊氏・韋雍妻蘭陵県君蕭氏・衡方厚妻武昌県君程氏・女道士李玄真・孝女王和子
150.列伝第一百四十四上 突厥上 - 始畢可汗・処羅可汗・頡利可汗・突利可汗・思摩・車鼻・単于 瀚海二都護府・骨咄禄・默啜・毗伽可汗・登利/151.列伝第一百四十四下 突厥下 - 処羅可汗・射匱可汗・統葉護可汗・莫賀咄侯屈利俟毗可汗・咄陸可汗泥孰・沙缽羅・乙毗沙缽羅葉護可汗・乙毗射匱可汗・阿史那賀魯・阿史那弥射・阿史那歩真・突騎施烏質勒・蘇禄
152.列伝第一百四十五 迴紇 - 迴紇/153.列伝第一百四十六上 吐蕃上 - 吐蕃/154.列伝第一百四十六下 吐蕃下 - 吐蕃/155.列伝第一百四十七 南蛮西南蛮 - 林邑国・婆利国・盤盤国・真臘国・陀洹国・訶陵国・墮和羅国・墮婆登国・東謝蛮・西趙蛮・牂牁蛮・南平獠・東女国・南詔蛮・驃国
156.列伝第一百四十八 西戎 - 泥婆羅・党項羌・高昌・吐谷渾・焉耆国・亀茲国・疏勒国・于闐国・天竺国・罽賓国・康国・波斯国・拂菻国・大食国
157.列伝第一百四十九上 東夷 - 高麗・百済国・新羅国・倭国・日本国
158.列伝第一百四十九下 北狄 - 鉄勒・契丹・奚国・室韋・靺鞨・渤海靺鞨・霫・烏羅渾国/159.列伝第一百五十上 - 安禄山・高尚・孫孝哲・史思明/160.列伝第一百五十下 - 朱泚・黄巣・秦宗権
3)『舊唐書』の原文と読み下し
●卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
(原文)倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通 其國居無城郭 以木爲柵 以草爲屋 四面小島五十餘國 皆附屬
(読み下し)倭國は古の倭奴國なり。京師を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中國と通ず。其の國、居るに城郭無く、木を以って柵と爲し、草を以って屋と爲す。四面の小島、五十餘國。皆、(こ)れに附屬す。
(原文)其王姓阿毎氏 置一大率 検察諸國 皆畏附之 設官有十二等 其訴訟者 匍匐而前 地多女少男 頗有文字 俗敬佛法 並皆跣足 以幅布蔽其前後 貴人戴錦帽 百姓皆椎髻無冠帯 婦人衣純色 長腰襦 束髪於後 佩銀花長八寸左右各數枝 以明貴賤等級 衣服之制 頗類新羅
(読み下し)其の王、姓は阿毎氏。 一大率を置き、諸國を検察す。 皆、之を畏附す。 官を設けるに十二等有り。 其の訴訟する者は匍匐して前(すす)む。 地に女多く、男少し。 頗(すこぶ)る文字有り。 俗は佛法を敬(うやま)う。 並に皆な跣足(せんそく)にして、幅布を以て其の前後を蔽う。 貴人は錦帽を戴き、百姓は皆な椎髻(ついけい)にして冠帯無し。 婦人の衣は純色にして(もすそ)を長くして腰に襦(じゅ)。 髪を後ろに束ね、銀花長さ八寸を佩(おび)ること左右おのおの數枝、以って貴賤の等級を明らかにす。 衣服の制は頗(すこぶ)る新羅に類す。
(原文)貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還 至二十二年 又附新羅奉表 以通起居
(読み下し)貞觀五年、使を遣して方物を獻ず。 太宗、其の道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅してごとに貢せしむる無し。 また新州刺史表仁を遣し、節を持して往きて之を撫せしむ。 表仁、綏遠(さいえん)の才無く、王子と禮を争い、朝命を宣(の)べずして還る。 二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じ、以って起居を通ず。
(原文)日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
(読み下し)日本國は倭國の別種なり。 其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。 或は云う。 日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
(原文)其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉 又云 其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國
(読み下し)其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。 故に中國、焉れを疑う。また云う。 其の國の界、東西南北各數千里。 西の界・南の界は咸(み)な大海に至り、東の界・北の界は大山有りて限りと爲し、山外は即ち毛人の國なりと。
(原文)長安三年 其大臣朝臣眞人 來貢方物 朝臣眞人者猶中國戸部尚書 冠進德冠其頂爲花分而四散 身服紫袍 以帛爲腰帯 眞人好讀經史 觧屬文 容止温雅 則天宴之於麟德殿 授司膳卿 放還本國
(読み下し)長安三年、其の大臣朝臣眞人、來りて方物を貢ず。 朝臣眞人は猶お中國の戸部尚書のごとし。 進德冠を冠り、其の頂に花を爲し、分れて四散せしむ。 身は紫袍を服し、帛(はく)を以って腰帯と爲す。 眞人、好く經史を讀み、文を屬するを觧し、容止温雅。 則天、之を麟德殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本國に還らしむ。
(原文)開元初 又遣使來朝 因請儒士授經 詔四門助敎趙玄黙 就鴻臚寺敎之 乃遣玄黙 闊幅布以爲束修之禮 題云 白元年調布 人亦疑其僞 此題所得錫賚市文籍 泛海而還 其偏使朝臣仲 慕中國之風因留不去 改姓名爲朝衡 仕歴左補闕儀王友 衡留京師五十年 好書籍放帰郷逗留不去
(読み下し)開元の初、また使を遣わして來朝す。 因って儒士に經を授けられんことを請う。四門助敎趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれを敎えしむ。 乃ち玄黙に闊幅布を遣り、以って束修の禮と爲す。 題して云う、白元年の調の布と。人またその僞なるかを疑う。 この題得る所の錫賚(しらい)、文籍を市(か)い、海に泛(うか)んで還る。 その偏使朝臣仲、中國の風を慕い、因って留まりて去らず。 姓名を改め朝衡と爲し、仕えて左補闕・儀王友を歴たり。 衡、京師に留まること五十年、よく籍を書し、放ちて郷に帰らしめしも、逗留して去らず。
(原文)天寶十二年 又遣使貢 上元中 擢衡爲左散騎常侍鎮南都護 貞元二十年 遣使來朝 留学學生橘免勢 學問僧空海 元和元年 日本國使判官階眞人上言 前件學生藝業稍成願本國 便請與臣同從之 開成四年 又遣使朝貢
(読み下し)天寶十二年、また使を遣して貢す。 上元中、衡を擢んでて左散騎常侍鎮南都護と爲す。貞元二十年、使を遣して來朝す。 學生橘免勢、學問僧空海を留む。元和元年、日本の國使判官階眞人上言す。 前件の學生、藝業稍(や)や成りて、本國にらんことを願う。 便(すなわ)ち臣と同じくらんことを請う。 之に從う。開成四年、また使を遣して朝貢す。
(引用:Wikipedia、古代史獺祭)
1)『新唐書』の概要
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代(618~907)の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。
★北宋時代に再編纂された『新唐書』においては、古の倭奴が、高句麗滅亡後、倭の悪名を嫌って日本と改名したとの理解に対して、「日本という小国を倭があわし(合併し)その号(日本の名)を冒(名のる)」し、日本と改めたと説明したが、疑いを持たれた、という記述がある。
〇 構成
1.本紀、10巻/2.志、50巻/3.表、15巻/4.列伝、150巻
〇 編纂の経緯・後世の評価
『旧唐書』は、唐末五代の戦乱の影響で、武宗以後の皇帝は実録に欠落があるなど史料不足による不備が大きかった。宋代になって、新出の豊富な史料によって、その欠を補ったのが、本書である。本紀・志・表は欧陽脩が編纂。列伝は宋祁の撰とされるが、実際には宋敏求らの多数の当時を代表する学者が関与している。志の中に「兵志」を新設して、表を多用したのは、その功績とされている。
また文章も、唐宋八大家の一人であり古文家の大立者である欧陽脩のものであるため、簡潔な文体で叙述されている。ただ、簡略に過ぎていることや、詔勅の文章を古文に改変したり、中には錯誤も見られるため、史料的な価値では『旧唐書』に及ばないとされる。
同時期に『資治通鑑』を編纂した司馬光は、その「唐紀」の材料の多くを『旧唐書』から取り、本書にはほとんど依拠していない。本書の編纂に参画した呂夏卿は、本書の成立の直後に『唐書直筆新例』1巻を著すと、呉縝は『新唐書糾謬』20巻を著した。
宋代に盛んとなった中華思想を背景に、本書には復古的で儒教的な道義を重視する態度が貫かれている。「春秋の筆法」と呼ばれる主観的な叙述を用いているため、客観性を欠くという指摘がなされている。また、李白が乗船中、酒に酔って水面に映る月を取ろうとして船から転落して死亡した、と言う有名な俗説を取り入れてしまっている点も批判されている。
清朝の王鳴盛(『十七史商榷』)や趙翼(『二十二史箚記』)に代表される考証学の学者たちも、本書に対しては批判的である。
天体観測の記録も含まれており、天文学史の分野においては775年の宇宙線飛来と思われる記述など当時の天文現象を記述した貴重な資料となっている。
〇日本について
『新唐書』巻二二〇、東夷日本伝に「咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名、更号日本」とあり、咸亨元年すなわち670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述がある。『旧唐書』では倭と日本が並立した状態で書かれているが、『新唐書』では「日本伝」としてまとめられている。
隋の開皇末に天皇家の目多利思比孤が初めて中国と通じたと書かれている。そして、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている。出典は示されていないが、宋史日本伝の記事から、東大寺の僧侶・奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』を参照したと考えられている。
(原文)「其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城 彥瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曾孫女神功爲王 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閒 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極」— 新唐書卷220 列傳第145 東夷
以上のとおり天御中主から彥瀲までの32世、天皇は神武天皇以下皇極天皇まで列挙されている。またその後には光孝天皇までが詳述されている。ただし、天御中主から彥瀲までの世数は宋史日本伝では「二十三世」であり、全ての名前が列挙されて数も合っているため、「三十二世」は二と三を取り違えた可能性が高い。『古事記』や『日本書紀』と異なる記事で注目される。
また遣唐使に加わった橘逸勢や空海等の名が見える。最後に「邪古 波邪 多尼三小王」について触れられ(時代は明らかでない)、これらは屋久島、隼人、種子島のことともいわれる。
なお、唐書を読んだフビライ・ハンは、「日本には金銀を豊富に産出するとある」と書かれていたことから日本に興味をもち、親交を結ぼうとしたが、当時の執権である北条時宗にすげなく断られたことがフビライの逆鱗にふれて、元寇につながったとされる。
2)内容(引用:Wikipedia)
〇本紀
1.本紀第一 高祖/2.本紀第二 太宗/3.本紀第三 高宗/4.本紀第四 則天皇后・中宗/5.本紀第五 睿宗・玄宗/6.本紀第六 粛宗・代宗/7.本紀第七 徳宗・順宗・憲宗/8.本紀第八 穆宗・敬宗・文宗・武宗・宣宗/9.本紀第九 懿宗・僖宗/10.本紀第十 昭宗・哀帝
〇志
1.志第一 礼楽一/2.志第二 礼楽二/3.志第三 礼楽三/4.志第四 礼楽四/5.志第五 礼楽五/6.志第六 礼楽六/7.志第七 礼楽七/8.志第八 礼楽八/9.志第九 礼楽九/10.志第十 礼楽十
11.志第十一 礼楽十一/12.志第十二 礼楽十二/13.志第十三上 儀衛上/14.志第十三下 儀衛下/15.志第十四 車服/16.志第十五 暦一/17.志第十六 暦二/18.志第十七上 暦三上
19.志第十七下 暦三下/20.志第十八上 暦四上/21.志第十八下 暦四下/22.志第十九 暦五/23.志第二十上 暦六上/24.志第二十下 暦六下/25.志第二十一 天文一
26.志第二十二 天文二/27.志第二十三 天文三/28.志第二十四 五行一/29.志第二十五 五行二/30.志第二十六 五行三/31.志第二十七 地理一/32.志第二十八 地理二
33.志第二十九 地理三/34.志第三十 地理四/35.志第三十一 地理五/36.志第三十二 地理六/37.志第三十三上 地理七上/38.志第三十三下 地理七下/39.志第三十四 選挙上
40.志第三十五 選挙下/41.志第三十六 百官一/42.志第三十七 百官二/43.志第三十八 百官三/44.志第三十九上 百官四上/45.志第三十九下 百官四下/46.志第四十 兵
47.志第四十一 食貨一/48.志第四十二 食貨二/49.志第四十三 食貨三/50.志第四十四 食貨四/51.志第四十五 食貨五/52.志第四十六 刑法/53.志第四十七 芸文一/54.志第四十八 芸文二/55.志第四十九 芸文三/56.志第五十 芸文四
〇表
1.表第一 宰相上/2.表第二 宰相中/3.表第三 宰相下/4.表第四 方鎮一/5.表第五 方鎮二/6.表第六 方鎮三/7.表第七 方鎮四/8.表第八 方鎮五/9.表第九 方鎮六/10.表第十上 宗室世系上
11.表第十下 宗室世系下/12.表第十一上 宰相世系一上 - 西眷裴氏・洗馬裴氏・南来呉裴氏・中眷裴氏・東眷裴氏・彭城劉氏・尉氏劉氏・臨淮劉氏・南陽劉氏・広平劉氏・丹陽劉氏・曹州南華劉氏・河南劉氏
13.表第十一下 宰相世系一下 - 皇舅房蕭氏・斉梁房蕭氏・三祖房竇氏・平陵房竇氏・陳氏・封氏・観王房楊氏・越公房楊氏・京兆高氏・晋陵高氏・河南房氏・宇文氏
14.表第十二上 宰相世系二上 - 長孫氏・京兆杜氏・襄陽杜氏・洹水杜氏・濮陽杜氏・武陽房隴西李氏・姑臧房隴西李氏・丹陽房隴西李氏・南祖趙郡李氏・東祖趙郡李氏・西祖趙郡李氏・遼東李氏・江夏李氏・漢中李氏
15.表第十二中 宰相世系二中 - 琅邪王氏・太原王氏・京兆王氏・館陶魏氏・宋城魏氏・鹿城魏氏・温氏・戴氏・侯氏・岑氏/16.表第十二下 宰相世系二下 - 河東張氏・始興張氏・馮翊張氏・呉郡張氏・清河東武城張氏・河間張氏・中山張氏・魏郡張氏・汲郡張氏・鄭州張氏・扶風馬氏・茌平馬氏・褚氏・鄭州崔氏・許州鄢陵房崔氏・南祖崔氏・清河大房崔氏・清河小房崔氏・清河青州房崔氏・博陵安平崔氏・博陵大房崔氏・博陵第二房崔氏・博陵第三房崔氏・于氏
17.表第十三上 宰相世系三上 - 西眷房柳氏・東眷房柳氏・韓氏・来氏・安陸許氏・辛氏・任姓・盧氏/18.表第十三下 宰相世系三下 - 上官氏・楽氏・孫氏・九真姜氏・丹徒枝陸氏・太尉枝陸氏・侍郎枝陸氏・新安趙氏・敦煌趙氏・南陽趙氏・閻氏・郝氏・南祖薛氏・西祖薛氏
19.表第十四上 宰相世系四上 - 西眷韋氏・東眷韋氏・逍遙公房韋氏・鄖公房韋氏・南皮公房韋氏・駙馬房韋氏・龍門公房韋氏・小逍遙公房韋氏・京兆韋氏・華陰郭氏・昌楽郭氏・中山郭氏・武氏・騫氏・沈氏・趙郡蘇氏・武功蘇氏・范氏・邢氏・傅氏・史氏・宗氏・格氏
20.表第十四下 宰相世系四下 - 欧陽氏・狄氏・河東袁氏・陝郡姚氏・婁氏・豆盧氏・永安周氏・吉氏・顧氏・朱氏・唐氏/21.表第十五上 宰相世系五上 - 敬氏・桓氏・祝氏・紀氏・北祖鄭氏・南祖鄭氏・滎陽鄭氏・滄州鄭氏・鍾氏・広平宋氏・源氏・安定牛氏・苗氏・呂氏・第五氏
22.表第十五下 宰相世系五下 - 常氏・喬氏・關氏・渾氏・瀛州斉氏・董氏・河南賈氏・権氏・皇甫氏・程氏・令狐氏・段氏・元氏・路氏・舒氏・白氏・夏侯氏・蔣氏・畢氏・曹姓・徐氏・下博孔氏・独孤氏・柳城李氏(1)・武威李氏・高麗李氏・柳城李氏(2)・鶏田李氏・范陽李氏・代北李氏・営州王氏・太原王氏・安東王氏・田氏・烏氏
〇列伝
1.列伝第一 后妃上 - 太穆竇皇后・文徳長孫皇后・徐賢妃・王皇后・則天武皇后・和思趙皇后・韋皇后・上官昭容・粛明劉皇后・昭成竇皇后・王皇后・貞順武皇后・元献楊皇后・楊貴妃
2.列伝第二 后妃下 - 張皇后・章敬呉太后・貞懿独孤皇后・睿真沈太后・昭徳王皇后・韋賢妃・荘憲王皇后・懿安郭太后・孝明鄭太后・恭僖王太后・貞献蕭太后・宣懿韋太后・尚宮宋若昭・郭貴妃・王賢妃・元昭晁太后・恵安王太后・郭淑妃・恭憲王太后・何皇后
3.列伝第三 宗室 - 李道宗・李道興・李孝基・李道玄・李叔良・李孝協・李思訓・李晋・李幼良・李琛・李孝恭・李瓌・李瑗・李神通・李道彦・李孝逸・李神符・李博義・李奉慈
4.列伝第四 高祖諸子 - 李建成・李玄霸・李元吉・李智雲・李元景・李元昌・李元亨・李元方・李元礼・李元嘉・李元則・李元懿・李元軌・李鳳・李元慶・李元裕・李元名・李霊夔・李元祥・李元暁・李元嬰
5.列伝第五 太宗諸子 - 李承乾・李寛・李恪・李泰・李祐・李愔・李惲・李貞・李治・李慎・李囂・李簡・李福・李明/6.列伝第六 三宗諸子/7.列伝第七 十一宗諸子/8.列伝第八 諸帝公主
9.列伝第九 - 李密・単雄信・祖君彦/10.列伝第十 - 王世充・竇建徳/11.列伝第十一 - 薛挙・李軌・劉武周・高開道・劉黒闥/12.列伝第十二 - 蕭銑・輔公祏・沈法興・李子通・梁師都/13.列伝第十三 - 劉文静・裴寂
14.列伝第十四 - 屈突通・尉遅敬徳・張公謹・秦叔宝・唐倹・段志玄/15.列伝第十五 - 劉弘基・殷開山・劉政会・許紹・程知節・柴紹・任瓌・丘和/16.列伝第十六 - 温大雅・皇甫無逸・李襲志・姜謩・崔善為・李嗣真
17.列伝第十七 - 杜伏威・張士貴・李子和・苑君璋・羅芸・王君廓/18.列伝第十八 - 李靖・李客師・李令問・李彦芳・李勣・李敬業・李思文/19.列伝第十九 - 侯君集・張亮・薛万均・薛万徹・薛万備・盛彦師・盧祖尚・劉世譲・劉蘭・李君羨
20.列伝第二十 - 高倹・高履行・高真行・高重・竇威・竇軌・竇琮・竇抗・竇静・竇誕・竇璡・竇徳玄/21.列伝第二十一 - 房玄齢・房遺愛・杜如晦・杜楚客・杜淹・杜元穎・杜審権・杜譲能
22.列伝第二十二 - 魏徴・魏謩/23.列伝第二十三 - 王珪・王燾・薛收・薛元超・薛元敬・薛稷・薛伯陽・馬周・馬載・韋挺・韋待価・韋武・韋万石/24.列伝第二十四 - 李綱・李安仁・李迥秀・李大亮・李安静・李道裕・戴冑・戴至徳・劉洎・楽彦瑋・崔仁師・崔湜・崔液・崔澄
25.列伝第二十五 - 陳叔達・楊恭仁・楊思訓・楊師道・楊執柔・封倫・裴矩・宇文士及・鄭善果・鄭元璹・権万紀・権懐恩・閻立徳・閻立本・蒋儼・韋弘機・韋岳子・姜師度・強循・張知謇/26.列伝第二十六 - 蕭瑀・蕭鈞・蕭嗣業・蕭嵩・蕭華・蕭復・蕭俛・蕭倣・蕭廩・蕭遘・蕭定
27.列伝第二十七 - 岑文本・岑羲・岑長倩・格輔元・虞世南・李百薬・李安期・褚亮・劉孝孫・李玄道・李守素・姚思廉・姚璹・姚珽・令狐徳棻・令狐峘・鄧世隆・顧胤・李延寿/28.列伝第二十八 - 蘇世長・蘇良嗣・蘇弁・韋雲起・韋方質・孫伏伽・張玄素
29.列伝第二十九 - 于志寧・于休烈・于敖・于琮・龐厳・高季輔・張行成・張易之・張昌宗/30.列伝第三十 - 長孫無忌・長孫敞・長孫操・長孫詮・長孫順徳・褚遂良・褚璆・韓瑗・来済・来恒・李義琰・李巣・李義琛・上官儀
31.列伝第三十一 - 杜正倫・崔知温・高智周・石仲覧・郭正一・趙弘智・来章・崔敦礼・楊弘礼・盧承慶・劉祥道・李敬玄・劉徳威・孫処約・邢文偉・高子貢/32.列伝第三十二 - 傅奕・呂才・陳子昂・王無競・趙元
33.列伝第三十三 - 劉仁軌・裴行倹・裴光庭・裴稹・裴倩・裴均・婁師徳/34.列伝第三十四 - 崔義玄・楊再思・竇懐貞・宗楚客・紀処訥・祝欽明・郭山惲・王璵
35.列伝第三十五 諸夷蕃将 - 史大奈・馮盎・阿史那社爾・阿史那忠・執失思力・契苾何力・黒歯常之・李謹行・泉男生・李多祚・李湛・論弓仁・尉遅勝・尚可孤・裴玢/36.列伝第三十六 - 郭孝恪・張倹・王方翼・蘇定方・薛仁貴・程務挺・王孝傑・唐休璟・張仁愿・張敬忠・王晙
37.列伝第三十七 - 王義方・員半千・石抱忠・韓思彦・蘇安恒・薛登・王求礼・柳沢範・馮元常・蒋欽緒/38.列伝第三十八 - 唐臨・唐紹・張文瓘・徐有功・徐彦若/39.列伝第三十九 - 崔融・徐彦伯・蘇味道・豆盧欽望・史務滋・崔元綜・周允元
40.列伝第四十 - 狄仁傑・郝処俊・朱敬則/41.列伝第四十一 - 王綝・韋思謙・陸元方・陸象先・王及善・李日知・李懐遠/42.列伝第四十二 - 裴炎・劉禕之・魏玄同・李昭徳・吉頊/43.列伝第四十三 - 張廷珪・韋湊・韋見素・韓思復・宋務光・呂元泰・辛替否・李渤・裴潾・張皋・李中敏・李款・李甘
44.列伝第四十四 - 武平一・李乂・賈曾・白居易・白行簡・白敏中/45.列伝第四十五 - 桓彦範・盧襲秀・薛季昶・楊元琰・敬暉・崔玄暐・張柬之・袁恕己/46.列伝第四十六 - 劉幽求・鍾紹京・崔日用・王毛仲・李守徳・陳玄礼
47.列伝第四十七 - 魏元忠・韋安石・郭元振/48.列伝第四十八 - 李嶠・蕭至忠・盧蔵用・韋巨源・趙彦昭・和逢堯/49.列伝第四十九 - 姚崇・宋璟/50.列伝第五十 - 蘇瓌・張説
51.列伝第五十一 - 魏知古・盧懐慎・李元紘・杜暹・張九齢・韓休/52.列伝第五十二 - 張嘉貞・源乾曜・裴耀卿/53.列伝第五十三 - 蘇珦・尹思貞・畢構・李傑・鄭惟忠・王志愔・許景先・潘好礼・倪若水・席豫・斉澣
54.列伝第五十四 - 裴守真・崔沔・盧従愿・李朝隠・王丘・厳挺之/55.列伝第五十五 - 裴漼・陽嶠・宋慶礼・楊瑒・崔隠甫・李尚隠・解琬/56.列伝第五十六 宗室宰相 - 李適之・李峴・李勉・李夷簡・李程・李石・李回
57.列伝第五十七 - 劉子玄・呉兢・韋述・蒋乂・柳芳・沈既済/58.列伝第五十八 - 郭虔瓘・郭知運・王君㚟・張守珪・王忠嗣・牛仙客/59.列伝第五十九 - 宇文融・韋堅・楊慎矜・王鉷/60.列伝第六十 - 哥舒翰・高仙芝・封常清
61.列伝第六十一 - 李光弼/62.列伝第六十二 - 郭子儀/63.列伝第六十三 - 李嗣業・馬璘・李抱玉・路嗣恭/64.列伝第六十四 - 房琯・張鎬・李泌/65.列伝第六十五 - 崔円・苗晋卿・裴冕・裴遵慶・呂諲
66.列伝第六十六 - 崔光遠・鄧景山・魏少游・衛伯玉・李澄・韓全義・盧従史・高霞寓/67.列伝第六十七 - 李麟・楊綰・崔祐・甫柳渾・韋処厚・路隋/68.列伝第六十八 - 高適・元結・李承・韋倫・薛玨・崔漢衡・戴叔倫・王翃・徐申・郗士美・辛秘
69.列伝第六十九 - 来瑱・田神功・侯希逸・崔寧・厳礪/70.列伝第七十 - 元載・王縉・黎幹・楊炎・厳郢・竇参/71.列伝第七十一 - 李栖筠・李鄘/72.列伝第七十二 - 王思礼・魯炅・王難得・辛雲京・馮河清・李芃・李叔明・曲環・王虔休・盧群・李元素・盧士玫
73.列伝第七十三 - 令狐彰・張孝忠・康日知・李洧・劉澭・田弘正・王承元・牛元翼・史孝章/74.列伝第七十四 - 劉晏・第五琦・班宏・王紹・李巽/75.列伝第七十五 - 李揆・常袞・趙憬・崔造・斉映・盧邁
76.列伝第七十六 - 関播・董晋・袁滋・趙宗儒・竇易直/77.列伝第七十七 - 張鎰・姜公輔・武元衡・李絳・宋申錫/78.列伝第七十八 - 段秀実・顔真卿/79.列伝第七十九 - 李晟/80.列伝第八十 - 馬燧・渾瑊
81.列伝第八十一 - 楊朝晟・戴休顔・陽恵元・李元諒・李観・韓游瓌・杜希全・邢君牙/82.列伝第八十二 - 陸贄/83.列伝第八十三 - 韋皋・張建封・厳震・韓弘
84.列伝第八十四 - 鮑防・李自良・蕭昕・薛播・樊沢・王緯・呉湊・鄭権・陸亘・盧坦・柳晟・崔戎/85.列伝第八十五 - 徐浩・呂渭・孟簡・劉伯芻・楊憑・潘孟陽・崔元略・韋綬/86.列伝第八十六 - 張薦・趙涓・李紓・鄭雲逵・徐岱・王仲舒・馮伉・庾敬休
87.列伝第八十七 - 姚南仲・独孤及・顧少連・韋夏卿・段平仲・呂元膺・許孟容・薛存誠・李遜/88.列伝第八十八 - 孔巣父・穆寧・崔邠・柳公綽・楊於陵/89.列伝第八十九 - 帰崇敬・奚陟・崔衍・盧景亮・薛苹・衛次公・薛戎・胡証・丁公著・崔弘礼・崔玄亮・王質・殷侑・王彦威
90.列伝第九十 - 鄭余慶・鄭珣瑜・高郢・鄭絪・権徳輿・崔群/91.列伝第九十一 - 賈耽・杜佑・令狐楚/92.列伝第九十二 - 白志貞・裴延齢・崔損・韋渠牟・李斉運・李実・皇甫鎛・王播
93.列伝第九十三 - 韋執誼・王叔文・陸質・劉禹錫・柳宗元・程异/94.列伝第九十四 - 杜黄裳・裴洎・李藩・韋貫之/95.列伝第九十五 - 高崇文・伊慎・朱忠亮・劉昌裔・范希朝・王鍔・孟元陽・王栖曜・劉昌・趙昌・李景略・任迪簡・張万福・高固/96.列伝第九十六 - 李光進・烏重胤・王沛・楊元卿・曹華・高瑀・劉沔・石雄
97.列伝第九十七 - 于頔・王智興・杜兼・杜亜/98.列伝第九十八 - 裴度/99.列伝第九十九 - 李逢吉・元稹・牛僧孺・李宗閔・楊嗣復/100.列伝第一百 - 竇群・劉栖楚・張又新・楊虞卿・張宿・熊望・柏耆
101.列伝第一百一 - 韓愈/102.列伝第一百二 - 銭徽・崔咸・韋表微・高釴・馮宿・李虞仲・李翺・盧簡辞・高元裕・封敖・鄭薫・敬晦・韋博・李景譲/103.列伝第一百三 - 劉蕡/104.列伝第一百四 - 李訓・鄭注・王涯
105.列伝第一百五 - 李徳裕/106.列伝第一百六 - 陳夷行・李紳・李譲夷/107.列伝第一百七 - 李固言・李玨・崔珙/108.列伝第一百八 - 畢諴・崔彦昭・劉鄴/109.列伝第一百九 - 馬植・楊収・路巌
110.列伝第一百一十 - 鄭畋・王鐸・王徽/111.列伝第一百一十一 - 周宝・王処存・鄧処訥/112.列伝第一百一十二 - 王重栄・諸葛爽・李罕之/113.列伝第一百一十三 - 楊行密・時溥・朱瑄
114.列伝第一百一十四 - 高仁厚・趙犨・田頵/115.列伝第一百一十五 - 劉建鋒・成汭・杜洪/116.列伝第一百一十六 忠義上 - 夏侯端・劉感・常達・謝叔方・呂子臧・馬元規・王行敏・盧士叡・李玄通・羅士信・張道源・張楚金・李育徳・李公逸・張善相・高叡・高仲舒・安金蔵・王同皎・王潜・周憬・呉保安・李憕・李源・李彭・盧奕・盧元輔・張介然・崔無詖
117.列伝第一百一十七 忠義中 - 顔杲卿・顔泉明・賈循・隠林・張巡・許遠・南霽雲・雷万春・姚誾/118.列伝第一百一十八 忠義下 - 程千里・袁光廷・龐堅・蔡廷玉・張名振・石演芬・呉漵・賈直言・辛讜
119.列伝第一百一十九 卓行 - 元徳秀・李崿・権皋・甄済・陽城・何蕃・司空図/120.列伝第一百二十 孝友/121.列伝第一百二十一 隠逸 - 王績・孫思邈・王希夷・李元愷・司馬承禎・賀知章・陸羽・陸亀蒙
122.列伝第一百二十二 循吏/123.列伝第一百二十三 儒学上 - 陸徳明・顔師古・顔相時・孔穎達・欧陽詢・欧陽通・蓋文達・蕭徳言/124.列伝第一百二十四 儒学中/125.列伝第一百二十五 儒学下
126.列伝第一百二十六 文芸上 - 袁朗・賀徳仁・蔡允恭・謝偃・崔信明・劉延祐・張昌齢・崔行功・杜審言・王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王・元万頃・范履冰/127.列伝第一百二十七 文芸中 - 李適・劉允済・沈佺期・宋之問・閻朝隠・尹元凱・劉憲・李邕・呂向・王翰・李白・王維・鄭虔・蕭穎士・陸據・柳并・皇甫冉・蘇源明
128.列伝第一百二十八 文芸下 - 李華・孟浩然・王昌齢・崔顥・劉太真・邵説・于邵・崔元翰・于公異・李益・盧綸・欧陽詹・李賀・呉武陵・李商隠・薛逢・李頻・呉融
129.列伝第一百二十九 方技 - 李淳風・甄権・許胤宗・張文仲・袁天綱・客師・張憬蔵・乙弗弘礼・金梁鳳・王遠知・薛頤・葉法善・明崇儼・尚献甫・厳善思・杜生・張果・邢和璞・師夜光・羅思遠・姜撫・桑道茂/130.列伝第一百三十 列女
131.列伝第一百三十一 外戚 - 独孤懐恩・武士彠・武承嗣・武三思・武攸曁・楊国忠/132.列伝第一百三十二 宦者上 - 楊思勗・高力士・程元振・魚朝恩・竇文場・霍仙鳴・劉貞亮・吐突承璀・馬存亮・厳遵美・仇士良・楊復光
133.列伝第一百三十三 宦者下 - 李輔国・王守澄・劉克明・田令孜・楊復恭・劉季述・韓全誨・張彦弘/134.列伝第一百三十四 酷吏 - 索元礼・来俊臣・周興・丘神勣・侯思止・王弘義・郭弘霸・姚紹之・周利貞・王旭・吉温・羅希奭・崔器・毛若虚・敬羽
135.列伝第一百三十五 藩鎮魏博 - 田承嗣・史憲誠・何進滔・韓允中・楽彦禎・羅弘信・羅紹威/136.列伝第一百三十六 藩鎮鎮冀 - 李宝臣・王武俊・王廷湊・王元逵・王紹鼎・王紹懿・王景崇・王鎔
137.列伝第一百三十七 藩鎮盧龍 - 李懐仙・朱滔・劉怦・劉済・朱克融・李載義・楊志誠・史元忠・張仲武・張允伸・張公素・李茂勲・李全忠・劉仁恭/138.列伝第一百三十八 藩鎮淄青横海 - 李正己・李納・李師古・程日華・程懐直・程懐信・李全略・李同捷
139.列伝第一百三十九 藩鎮宣武彰義澤潞 - 劉玄佐・鄧惟恭・呉少誠・呉少陽・呉元済・李祐・劉悟・劉従諫・李佐之・李師晦・李丕/140.列伝第一百四十上 突厥上 - 突厥・東突厥/141.列伝第一百四十下 突厥下 - 東突厥・西突厥/142.列伝第一百四十一上 吐蕃上
143.列伝第一百四十一下 吐蕃下/144.列伝第一百四十二上 回鶻上 - 回鶻/145.列伝第一百四十二下 回鶻下 - 回鶻・鉄勒/146.列伝第一百四十三 沙陀/147.列伝第一百四十四 北狄 - 契丹・奚・室韋・黒水靺鞨・渤海
148.列伝第一百四十五 東夷 - 高麗・百済・新羅・日本・流鬼
149.列伝第一百四十六上 西域上 - 泥婆羅・党項・東女・高昌・吐谷渾・焉耆・亀茲・跋禄迦・疏勒・于闐・天竺・摩掲陀・那掲・烏茶・章求拔・悉立・罽賓/150.列伝第一百四十六下 西域下 - 康・寧遠・大勃律・小勃律・吐火羅・謝亹・識匿・箇失蜜・骨咄・蘇毘・師子・波斯・拂菻・大食
151.列伝第一百四十七上 南蛮上 - 南詔上/152.列伝第一百四十七中 南蛮中 - 南詔下・蒙巂詔・越析詔・浪穹詔・邆賧詔・施浪詔/153.列伝第一百四十七下 南蛮下 - 環王国・盤盤・扶南・真臘・訶陵・投和・瞻博・室利佛逝・名蔑・単単・驃・両爨蛮・南平獠・西原蛮
154.列伝第一百四十八上 姦臣上 - 許敬宗・李義府・傅游芸・李林甫・陳希烈/155.列伝第一百四十八下 姦臣下 - 盧杞・崔胤・崔昭緯・柳璨・蒋玄暉・張廷範・氏叔琮・朱友恭/156.列伝第一百四十九上 叛臣上 - 僕固懐恩・周智光・梁崇義・李懐光・陳少游・李錡
157.列伝第一百四十九下 叛臣下 - 李忠臣・喬琳・高駢・朱玫・王行瑜・陳敬瑄・李巨川/158.列伝第一百五十上 逆臣上 - 安禄山・安慶緒・高尚・孫孝哲・史思明・史朝義/159.列伝第一百五十中 逆臣中 - 李希烈・朱泚/160.列伝第一百五十下 逆臣下 - 黄巣・秦宗権・董昌
3)『新唐書』の原文と読み下し(引用:古代史獺祭)
●『新唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
(原文)日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居 東西五月行南北三月行 國無城郭聯木爲柵落 以草茨屋 左右小島五十餘皆自名國而臣附之 置本率一人検察諸部 其俗多女少男 有文字尚浮屠法 其官十有二等 其王姓阿毎氏
(読み下し)日本、古(いにしえ)の倭奴也。京師を去ること萬四千里、新羅の東南に直(あた)り、海中に在る島に居す。東西は五月行、南北は三月行。國に城郭無く、聯木を柵落と爲し、草茨を以って屋す。 左右の小島五十餘り、皆自ら國と名づけて臣を之に附す。本率一人を置き、諸部を検察す。其の俗に女多く男少し。文字有り、浮屠の法を尚(とうと)ぶ。其の官は十有二等。其の王の姓は阿毎氏。
(原文)自言初主號天御中主 至彦瀲凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城 彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曽孫女神功爲王 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閑 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極
(読み下し)自ら言う、初めの主は天御中主と號し、彦瀲に至り、凡そ三十二世、皆「尊」を以って號と爲し、筑紫城に居す。 彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って號と爲し、徙(ただ)大和州を治む。 次を綏靖と曰い、次は安寧、次は懿德、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀。 仲哀死し、開化の曽孫女の神功を以って王と爲す。次は應神、次は仁德、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顯宗、次は仁賢、次は武烈、次は繼體、次は安閑、次は宣化、次は欽明。欽明の十一年は、梁の承聖元年に直(あた)る。 次は海達、次は用明、または目多利思比孤と曰い、隋の開皇末に直り、始めて中國と通ず。 次は崇峻。崇峻死し、欽明の孫女の雄古立つ。次は舒明、次は皇極。
(原文)其俗椎髻無冠帶 跣以行幅巾蔽後 貴者冒錦 婦人衣純色長腰襦結髪于後 至煬帝 賜其民錦綫冠飾以金玉 文布爲衣 左右佩銀長八寸 以多少明貴賤
(読み下し)其の俗は椎髻し、冠帶無く、跣を以って行き、幅巾をもって後を蔽う。貴者は錦を冒る。 婦人の衣は純色にして裙(もすそ)長く腰に襦(じゅ)。髪を後に結う。煬帝に至り、其の民に錦綫冠を賜い、金玉を以って飾り、文布を衣と爲し、左右銀 を佩(おび)ること長さ八寸、以って多少貴賤明らかなり。
(原文)太宗貞觀五年 遣使者入朝 帝矜其遠 詔有司毋拘歳貢 遣新州刺史高仁表往諭 與王爭禮不平不肯宣天子命而還 久之 更附新羅使者上書
(読み下し)太宗の貞觀五年、使者を遣し入朝す。 帝、其の遠きを矜(あわ)れみ、有司に詔して歳ごとの貢に拘(とら)わるを毋(な)からしむ。新州刺史の高仁表を遣し往きて諭さしめるも、王と禮を爭い平らかならず、肯(あえ)て天子の命を宣(の)べずして還る。久しくして、更に新羅使者に附して上書す。
(原文)永徽初 其王孝德即位改元曰白雉 獻虎魄大如斗碼碯若五升器 時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅 未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立 明年 使者與蝦人偕朝 蝦亦居海島中 其使者鬚長四尺許珥箭於首 令人戴瓠立數十歩射無不中 天智死 子天武立 死 子總持立
(読み下し)永徽の初め、其の王孝德即位し、改元して白雉と曰う。虎魄(こはく)大いさ斗の如く、碼碯(めのう)五升器の若(ごと)きを獻ず。時に新羅は高麗、百濟の暴す所と爲す。高宗、璽書を賜い、出兵して新羅を援けしむ。未だ幾ばくならずして孝德死し、其の子天豐財立つ。死し、子の天智立つ。明年、使者蝦人と偕(とも)に朝す。蝦はまた海島の中に居す。其の使者は鬚の長さ四尺許(ばか)り、箭(や)を首に珥(はさ)み、人をして瓠を戴せて數十歩に立たしめ、射て中(あた)らざること無し。天智死し、子の天武立つ。死し、子の總持立つ。
(原文)咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本 使者自言國近日所出以爲名 或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外即毛人云
(読み下し)咸亨元年、使を遣し高麗を平らげしを賀す。後に稍(やや)夏音を習い、倭の名を惡(にく)み、更に日本と號す。使者自ら言う、國、日出ずる所に近きを以って名と爲すと。或は云う、日本は乃ち小國、倭の并す所と爲す。故に其の號を冒すと。使者情を以ちてせず、故に焉を疑う。又其の國都は方數千里と妄(みだ)りに夸(ほこ)る。南・西は海に盡き、東・北は大山に限り、其の外は即ち毛人と云う。
(原文)長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物 朝臣眞人者猶唐尚書也 冠進德冠 頂有華四披 紫袍帛帶 眞人好學能屬文進止有容 武后宴之麟德殿授司膳卿還之 文武死 子阿用立 死 子聖武立 改元曰白龜
(読み下し)長安元年、其の王文武立ち、改元して太寶と曰う。朝臣眞人粟田を遣し方物を貢ず。朝臣眞人は、猶唐の尚書也。 進德冠を冠り、頂に華四披し有り、紫袍・帛帶す。眞人は好く學び、能く文を屬し、進止に容有り。 武后之を麟德殿に宴し、司膳卿を授け、之を還す。文武死し、子の阿用立つ。 死し、子の聖武立ち、改元して白龜と曰う。
(原文)開元初 粟田復朝 請從諸儒授經 詔四門助敎趙玄默即鴻臚寺爲師 獻大幅布爲贄 悉賞物貿書以歸 其副朝臣仲満慕華不肯去 易姓名曰朝衡 歴左補闕儀王友多所該識 久乃還
(読み下し)開元の初め、粟田また朝し、諸儒に從い經を授けられんことを請う。四門助敎の趙玄默に詔して即ち鴻臚寺の師と爲す。大幅布を獻じ贄と爲し、悉く賞物貿書を以って歸る。其の副の朝臣仲満は華を慕い肯(あえ)て去らず、姓を易え名を朝衡と曰う。左補闕・儀王友を歴て多く識該(そな)わり、久しくして乃(すなわ)ち還る。
(原文)聖武死 女孝明立 改元曰天平勝寶 天寶十二載 朝衡復入朝 上元中 擢左散騎常侍 安南都護 新羅梗海道 更明 越州朝貢
(読み下し)聖武死し、女の孝明立つ。 改元して天平勝寶と曰う。天寶十二載、朝衡また入朝す。上元中、左散騎常侍、安南都護に擢(ぬき)んず。新羅、海道を梗(ふさ)ぎ、更に明を(もち)い、越州に朝貢す。
(原文)孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王 死 白壁立 建中元年 使者眞人興能獻方物 眞人蓋因官而氏者也 興能善書 其紙似繭而澤 人莫識
(読み下し)孝明死し、大炊立つ。死し、聖武の女の高野姫を以って王と爲す。死し、白壁立つ。建中元年、使者の眞人興能、方物を獻ず。眞人は蓋し官に因りて氏とする者也。興能は書を善くす。其の紙は繭に似て澤あり、人の識る莫(な)し。
(原文)貞元末 其王曰桓武 遣使者朝 其學子橘免勢 浮屠空海願留肄業 歴二十餘年 使者高階眞人來請免勢等倶還 詔可
(読み下し)貞元の末、其の王を桓武と曰い、使者を遣し朝す。 其の學子の橘免勢、浮屠の空海は留りて業を肄(なら)わんことを願う。 二十餘年を歴て、使者の高階眞人來り、免勢等倶(とも)に還らんことを請う。詔して可(ゆる)す。
(原文)次諾樂立 次嵯峨 次浮和 次仁明 仁明直開成四年 復入貢 次文德 次清和 次陽成 次光孝 直光啓元年 其東海嶼中 又有邪古波邪多尼三小王 北距新羅 西北百濟 西南直越州 有絲絮怪珍云
(読み下し)次に諾樂立つ。次は嵯峨。次は浮和。次は仁明。仁明は開成四年に直(あた)りまた入貢す。次は文德、次は清和、次は陽成。次は光孝、光啓元年に直(あた)る。其の東の海嶼の中にまた邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たね)の三小王有り。北は新羅を距て、西北は百濟、西南は越州に直(あた)る。 絲絮・怪珍有りと云う。
・作成開始:令和2年6月22日~ 最終更新:令和6年5月21日