作業中
倭・倭人関連の朝鮮文献では、朝鮮半島に伝わる各歴史書から、倭・倭人と関係する部分のみを書き出している。
1 参考Webサイト
2 好太王碑文
(1)碑文の解釈 (2)関連・三韓征伐
3 三国史記
(1)高句麗本紀 (2)百済本紀 (3)新羅本紀 (4)列伝
4 三国遺事
5 百済三書
〇高麗・李氏朝鮮時代 ●高麗史(世家) ● 朝鮮王朝実録(作業中)
中国・朝鮮・日本歴史年表(引用:Wikipedia)
(引用:Wikipedia)
1)好太王碑の概要(引用:Wikipedia)
好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われる。付近には陵墓とみられる将軍塚や太王陵もあり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)という。4世紀末から5世紀初頭の朝鮮半島史や古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。
この碑は、好太王の業績を称えるため子の長寿王が作成したもので、碑文によると「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとされる。
1880年(明治13年・光緒6年)に清国集安の農民により発見され、その翌年関月山よって拓本が作成された。1961年(昭和36年)には洞溝古墓群の一部として中国の全国重点文物保護単位に指定された。
高さ約6.3m・幅約1.5mの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が漢文で刻まれている。そのうち約200字は風化等で判読不能となっており、欠損部の解釈については様々な説がある。
2010年(平成22年)現在は風化・劣化を防ぐため、ガラスケースで保護されている。
好太王碑(広開土王碑) 広開土王碑拓本写真資料
(引用:Wikipedia) (引用:お茶の水大学デジタルアーカイブズ)
〇 日本と拓本
1884年(明治17年)1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料に、好太王碑の拓本が含まれていた(「酒匂本」)。
その後、参謀本部で解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、倭の五王以前の古代日本を知る重要史料とわかったため、漢文学者の川田甕江・丸山作楽・井上頼圀らの考証を経て、1888年(明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。
〇 碑文
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。
・399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
・404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがある。
また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。この碑文からは、好太王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。
碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している。その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。
倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした。
(引用:Wikipedia職貢図)
2)辛卯年条
碑文のうち、欠損により判読できない記述のある二段目の部分 (碑文)「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」の解釈がしばしば議論の対象となっている。
中国では歴史学者耿鐵華などの見解で、[海]の偏旁がはみ出し過ぎて他の字体とつり合いが取れていない事から、実際は[毎]ではないかとする意見もある。
〇 日本の学会による解釈
引用される部分 以下、該当部分を日本学会による通説により校訂し訳す。
(碑文)百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
(現代語訳)そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。
なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。
(碑文)百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
(現代語訳)そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
しかし、韓国・北朝鮮の学会では異説が主流である。また、倭を大和朝廷とするのか九州の支配者とするのかなど、倭をどう理解するかでも異論が多い。
日本の史学者は、日本書紀の神功皇后による、所謂三韓征伐を念頭に置いて理解しているため倭を大和朝廷と理解することが一般的である。
〇 朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の学会による解釈
韓国・北朝鮮の学会では、碑文で「破」と「攻」の文字が使われるのは「高句麗の軍事行動にだけ」だと指摘しながら、他の国である倭の軍事行動に例外として「破」が使われることはありえないと、一貫して世界で一般的な解釈を否定している(東北大学名誉教授であった井上秀雄はこれに同調している)。
1955年(昭和30年)、韓国の歴史学者鄭寅普の解釈以降、それを土台とした様々な解釈がなされている。鄭寅普は好太王の業績を称えるための碑文に、好太王の業績に対して都合の悪い記述をする理由が無いとして、それらの主語や目的語が相当数省略されているのではないかという認識から、
(碑文)百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民
(現代語訳)新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残はそんな倭と連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。(好太王は)臣民である(百残が)どうしてこんな事をしたのかと思った。
と解釈した。
これを受け北朝鮮の歴史学者朴時亨が以下のような解釈をした。
(碑文)百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘招倭新羅以為臣民
(現代語訳)新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。
韓国学会では好太王碑は好太王の高句麗の業績のためにつくられており、好太王の業績を礼賛する碑に倭が主語となって百残、加羅、新羅を破り臣民としたと記述されるのは間違えていると主張し、以下のような解釈が韓国学会の定説となっている。
(碑文)百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民
(現代語訳)新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした。
●大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻
・碑文の一部、辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした日本在住の韓国・朝鮮人考古学、歴史学者の李進熙が、1970年代に大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。
その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は、
(碑文)百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民
(現代語訳)百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。
と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。
しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。
高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。
ほかにもこの説に対しては井上光貞、古田武彦、田中卓、上田正昭らからも反論が示された。1974年(昭和49年)に上田が北京で入手した石灰塗布以前の拓本では、改竄の跡はなかった。1985年には古田らによる現地調査が行われ「碑文に意図的な改ざんは認められない」と結論付けた。
さらに、2005年(平成17年)6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一であるとされた。さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定され、その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。
東北大学名誉教授の関晃は「一介の砲兵中尉にそのような学力があったとはとうてい考えられないし、また酒匂中尉は特務機関として行動していたのであるから、そのような人目を惹くようなことができるはずもない」と述べ、改竄・捏造説を否定している。
なお、この説が唱えられる以前の1963年(昭和38年)、北朝鮮内で碑文の改竄論争が起き、同国の調査団が現地で調査を実施した結果、改竄とは言えないという結論を出した。
3) 参考
●三国史記の記述
なお、以下に『三国史記』の関連する記述を示す。
(碑文)「八年 夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 <高句麗>王<談德> 帥兵四萬 來攻北鄙 陷<石峴>等十餘城 王聞<談德>能用兵 不得出拒 <漢水>北諸部落 多沒焉 冬十月 <高句麗>攻拔<關彌城> 王田於<狗原> 經旬不返 十一月 薨於<狗原>行宮」 — 『三国史記』「百済本紀」391年
(現代語訳)八年、夏五月一日に日食あり。秋七月、高句麗の王、談德(好太王)が4万を兵で北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とされた。王(阿莘王)は談德が用兵に長けてると聞き出兵を拒否、漢水の北の部落が多数落とされた。冬十月、高句麗に關彌城を落とされた。王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。十一月、狗原の行宮にて死去した。
●その他
・集安高句麗碑:2012年7月吉林省集安市麻線県にある麻線河の川辺において、広開土王碑と同じ時期と推定される高句麗の石碑が発見された。
好太王碑位置図(中国吉林省集安市)
(引用:Wikipedia))
1)概要
三韓征伐は、神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。
(左)新羅征伐を前に釣り占いをする神功皇后と武内宿祢。(右)月岡芳年筆 朝鮮遠征。1880年月岡芳年。
(引用:Wikipedia)
経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。
『日本書紀』では新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない。
吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。
1~5世紀の朝鮮半島南部 4世紀頃の三韓諸国周辺 476年頃の高句麗と周辺諸国
(引用:Wikipedia)
2)三韓征伐の年代
日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、その史実の妥当性についての研究が続いている。
倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅が倭の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されている。
紀年については、『日本書紀』は百済三書の一つ『百済記』を参照または編入している。百済記の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運=120年)繰り上げて書いているとされており、百済記もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる。
井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている。
3)香椎宮託宣と仲哀天皇
以下、日本書紀の記載について概説する。
仲哀8(199)年9月条に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲討伐のため儺県(ナガアガタ、現在の福岡博多)の橿日宮(現・香椎宮)を訪れる。そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。
しかし、仲哀天皇は、これを信じず、高い丘にのぼり、海を見ても、そんな国は見えないとして、神になぜ欺くのかといった。神はなぜそのように誹るのか、汝はその国を得ることはできないが、汝の子がそれを成すだろうと述べた。
仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。さらに翌200年2月、筑紫の橿日宮で崩じた。皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。『天書紀』では熊襲の矢が当たったと記されている。
4)神功皇后の新羅征討
夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9年(200年)3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自ら神主となり、まずは熊襲を討伐した。
その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。
月讀神社(壱岐市) 月読神社(京都市) 鎮懐石八幡宮(糸島市)
(引用:Wikipedia)
また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代の峯に祭ったとある。
皇后は帰国後、筑紫の宇美(宇美八幡宮)で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。
宇美八幡宮 木阪神社(現海神神社)
(引用:Wikipedia)
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
5)関連史跡
●五色塚古墳
五色塚古墳(神戸市)(引用:Wikipedia)
この古墳は、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られる。同条によれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子と忍熊皇子(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとした。 続けて、
(原文)乃詳為天皇作陵、詣播磨興山陵於赤石。仍編船絙于淡路嶋、運其嶋石而造之。
(書き下し文)乃ち天皇の為に陵を作ると詳り(いつわり)、播磨に詣りて(いたりて)、山陵(みささぎ)を赤石に興つ(たつ)。仍りて船を編みて淡路島に絙し(わたし)、其の島の石を運びて造る。
— 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条(抜粋)
として、両皇子が仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 明石)に陣地を構築したとする。この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳のみであることから、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている。
上の伝承に関連する記事として、『播磨国風土記』賀古郡大国里条(印南郡大国里条)にも、息長帯日女命(神功皇后)が帯中日子命(仲哀天皇)の埋葬の際に讃岐国の羽若石(= 羽床石か)を求めたとする伝承がある。なお、『播磨国風土記』では明石郡条が欠落していることもあり、五色塚古墳自体に関する記述はない。
●劒神社
劒神社(福井県越前町)(引用:Wikipedia)
・祭神:素盞嗚尊を主祭神とし、気比大神・忍熊王を配祀する。
・創建:社伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。
のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。
以上が『古事記』・『日本書紀』に共通する伝承の骨子であり、日本書紀には、新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子の微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質にだしたことが記される。
(引用:Wikipedia)
1)新羅との外交
神功皇后 摂政5年(205年または325年)3月7日に新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしかんき)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。
神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。
怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ)(釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし)(慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。
2)神功46年以降
神功46年以降は『百済記』が構文されている。 神功46年(246年または366年)3月1日、斯摩宿禰を卓淳国に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済の久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。
斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。
神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。
比自㶱(ひじほ)、南加羅、㖨国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。
神功51年(251年または371年)3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。
神功52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。
3)葛城襲津彦の新羅征討
・神功皇后62年(262年または382年)、葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。『百済記』によれば壬午(382)年、新羅は日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。
しかし、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼす。加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、天皇は怒って、木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう。
★葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。
・応神14年 百済の弓月君が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、3年、音沙汰もなくなった。
・応神16年8月、天皇は平群木菟宿禰・的戸田宿禰に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
・仁徳天皇41年3月、 紀角宿禰に無礼をはたらいた百済王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。
●その他の記録
『続日本紀』には、来新羅使(752年6月)の前で神功皇后説話を聞かせて立腹させたという記事もある。『先代旧事本紀』には、新羅に攻め入るとき神功皇后の他に妹のトヨヒメが登場し、女性であるにもかかわらず鎧をまとっている様を、新羅人が嘲笑った様子が描かれている。
・八幡愚童訓
13世紀末から14世紀初頭に成立した八幡神の縁起書である八幡愚童訓甲本には、
「皇后、新羅・百済・高麗三箇ノ大国ヲ女人ノ為御身、纔以小勢不経日数不廻時尅責靡テ、御帰朝アリシ勇々シサハ、戒日大王ノ五竺ヲ随ヘ、秦ノ始皇帝ノ 六国ヲ滅シ、越王ノ夫差ヲ討ジテ会稽ノ恥ヲ雪シヨリモ勝タリ。異国ニ向シ士率ハ旧 里ニ帰ル悦アリ。此土ニ残ル人臣ハ本主ヲ得タル勇アリ。異国ノ合戦ニ討勝事ハ雖毎度事也、敵国帰伏シテ日本ノ犬ト成リ、奉備年貢事、皇后ノ外ハ御坐サズ」
とあり、新羅・百済・高麗の「三箇ノ大国」として記されている。
・太平記
南北朝末期の『太平記』巻三十九「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」では、『八幡愚童訓』と同じように神の加護で新羅征討をなしとげたとあるが「三韓の夷(えびす)」という語が新たに登場し、その三韓は同時代の高麗と理解されている。
(引用:Wikipedia)
1)「三韓」および新羅について
新羅は紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓の後継国家とされる。辰韓は馬韓、弁韓とあわせて三韓とよばれる。なお『日本書紀』および唐では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ。
辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦朝の労役から逃亡してきた秦人の国といい、言語も秦人(中国人)に類似していたといわれる(『晋書』辰韓伝および『北史』新羅伝)。従って、辰韓(秦韓)の民は、中国からの移民とされるが、中国政府系の研究機関中国社会科学院は、辰韓を中国の秦の亡命者が樹立した政権で、中国の藩属国として唐が管轄権を持っていたとしており、議論になっている。
2)概史・年表
以下、各国史書に基づき、三韓征伐に関する、新羅、倭国、百済ほかの歴史を概説する。なお、年代は計算によっても異なるので、三韓征伐を現時点で特定できない以上、新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録を網羅する。
●新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57年 - 紀元後4年)
・紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた。
●2代王南解次次雄の時代(在位:4年 - 24年)
・14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
●第4代新羅王の脱解尼師今の時代(在位:57年-80年)
・脱解尼師今は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ、この多婆那国は日本列島の丹波国に比定される事が多い。脱解尼師今の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる。
・73年、倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきたので、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した。
・77年には伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。
● 第5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位:80年-112年)
・倭国に服属した新羅王(波沙寐錦)(はさむきむ)のことを指すともいわれる。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう。
・法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定めた。
●第6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112年 - 134年)
・121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した。
・翌年123年3月に倭国と講和した。
●第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154年 - 184年)
・158年、倭人が来訪する。173年5月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたとする説もある。
●第9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184年 - 196年)
・193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した[14]。
●第10代王奈解尼師今の時代(在位:196年 - 230年)
・200年(仲哀天皇9年)天皇崩御後、応神天皇を身籠っていた神功皇后は対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王の波沙寐綿は抵抗することなく降伏し、微叱己知波珍干岐を人質に出し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した。なお、古事記は仲哀天皇崩御を362年とする。
・205年(神功皇后摂政5年)人質の微叱旱岐が新羅に逃げ帰った。
・208年夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
●第11代王助賁尼師今の時代(在位:230年 - 247年)
・232年4月に倭人が首都金城に攻め入った。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
・233年5月、倭人が東部国境に侵入。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
●第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 - 261年)
・249年夏4月、倭人が昔于老を殺害。
・249年(神功皇后摂政49年)、荒田別・鹿我別を派遣し、百済の木羅斤資らと共に新羅を破る。
●第13代王味鄒尼師今の時代(在位:262年 - 284年)
・262年(神功皇后摂政62年)、新羅が朝貢しなかったので葛城襲津彦を派遣して討たせた。
・272年(応神天皇3年)、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・蘇我石川宿禰・平群木菟宿禰が遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した。
・277年(応神天皇8年)、百済の阿花王は王子の直支(とき)を人質として日本に送った。
・283年(応神天皇14年)、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の民が帰化を求めていますが、新羅人が阻むため、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召したが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。
●第14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284年 - 298年)
・285年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦彦と共に倭国に帰ってきた。
・285年(応神天皇16年)、百済の阿花王が薨去した。日本に人質として滞在していた直支が帰国して王となった。
・287年4月、倭人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った。
・292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した。
・294年、倭兵が長峯城を攻略した。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。
・285年(応神天皇16年)、百済の阿花王が薨去した。日本に人質として滞在していた直支が帰国して王となった。
・287年4月、倭人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った。
・292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した。
・294年、倭兵が長峯城を攻略した。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。
・297年、伊西国に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した。
・297年(応神天皇28年)、高句麗王が遣使し朝貢した。その上表文に「高麗王教日本國也」とあった。太子の菟道稚郎子は無礼を怒り、高句麗の使者を責め、表を破った。
●第15代の王基臨尼師今の時代(在位:98年 - 310年)
・300年1月、倭国と使者を交わした。
・307年、国号を新羅に戻した。
●第16代の王訖解尼師今の時代(在位:310年 - 356年)
・312年、倭国王が王子の通婚を要求。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利の娘を嫁として送った。
・323年(仁徳天皇11年)、新羅が朝貢に参じる。
・329年(仁徳天皇17年)、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした。
・344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った。
・345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶。
・346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする。
・353年(仁徳天皇41年)、天皇の命で紀角宿禰が百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送った。
●新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356年 - 402年)
・356年、奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。
・364年4月、倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746 m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする。
・365年(仁徳天皇53年)5月、新羅が朝貢を怠ったため竹葉瀬・田道を派遣し征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四つの村の民を捕虜として連れ帰る。
・391年(辛卯年)倭が海を渡って百済(百残)・加羅(二字不明で異説あり)・新羅を破り、倭国の臣民となした。
・392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊飡(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した。秋7月、高句麗王好太王が4万の兵で百済北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗は百済の関彌城を落とした。百済の辰斯王が11月、狗原の行宮にて死去した。
・393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。
・397年、百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に差し出し服属した(『三国史記』百済本紀)。
・399年(永楽9年)、百済は高句麗との誓いを破って倭と和通したため、高句麗王は百済を討つため平壌に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした。
・400年(永楽10年)、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は任那・加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した。
●新羅18代王実聖尼師今の時代(在位:402年 - 417年)
・402年、三月、新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師今の子、未斯欣を人質として倭に送った。
・404年(永楽14年)、帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した。
・405年、倭兵が明活城を攻める。
・405年、百済の阿莘王が薨去し、倭国の人質になっていた腆支が帰国して即位した(『三国史記』百済本紀)。
・407年、春3月、倭人が東辺を侵し、夏6月にまた南辺を攻める。
●新羅19代王訥祇麻立干の時代(在位:417年 - 458年)
・418年、人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
・ 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事
・413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋と宋に朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。438年までに倭王讃を継承した弟の珍は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称し、同年4月に宋の文帝は珍を「安東将軍倭国王」とした。
・451年、珍の後を継いだ済は、宋の文帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号された。
・478年、済の後を継いだ子の興が没し王と成っていた興の弟の武は、宋の順帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」に叙任された。武は百済も加えた七国諸軍事の都督を自称したが認められなかった。高句麗に関しては自称もしていない。
3)その他の史料との関連
4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑・七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。
4世紀後期頃から倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されているため、三韓征伐神話を根拠として用いずとも4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出は史実として立証されている。
●中国・朝鮮の史書との関連
中国史書(『宋書』など)の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。
『三国史記』『三国遺事』といった朝鮮側の史料には、「オキナガタラシヒメあるいは倭女王の来襲(『三国史記』には卑弥呼の遣使は記載されている)」という記述は見られない。ただし、『三国史記』には新羅に倭兵が攻め込んだという記事が頻出するため、記紀に伝わる新羅征伐の伝承それ自体は、格別不審な伝承ではない。
また『日本書紀』にある新羅王子の人質の件に関しては、5世紀初頭の、王子未斯欣の人質と、新羅王の部下朴堤上による王子奪還(王子は新羅に逃れたが朴堤上は倭国側によって処刑された)事件と合致することが指摘されている。
●広開土王碑
広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。
李進熙は、1972年に好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍が大日本帝国の半島進出を正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年(平成17年)6月23日に墨本が中国で発見され、さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定された。
●七支刀
神功52(252または372)年9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七支刀を贈った。
なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、東晋の太和4年とされる。但し、この場合には泰の文字と太の文字が異なるために疑問視する声もある。
また七支刀に彫られた「泰■四年」を西晋の泰始4年(268年)もしくは宋の泰始4年(468年)だという説もあり、こちらは泰の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。
山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったと解釈している。
また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする。
浜田耕策は百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。
●
職貢図
2011年に発見された梁の『梁職貢図』には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときは倭に属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。
『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。
なお、蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京市)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にした。
(原文)「斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉 」
(現代語訳)「斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。あるとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通2年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。」
(引用:Wikipedia)
1)戦前の解釈
720年に完成した『日本書紀』には「三韓征伐」によって朝鮮は日本の従属国に入ったと記録されている。『日本書紀』の記述は、江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分の一つとした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行『武家事紀』など)がある。
戦前戦中を通じて、小学校で配布された国定教科書などで三韓征伐は史実として教育された。
津田左右吉は実証的歴史学の観点から、記紀を研究したが、1939年(昭和14年)に津田が『日本書紀』における聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察したことについて、蓑田胸喜・三井甲之らが不敬罪として攻撃した。
政府は、1940年(昭和15年)2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発禁処分にした。
同年に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。津田と出版元の岩波茂雄は出版法違反で起訴され、1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免訴となった。これは津田事件ともいわれるが、この裁判について津田自身は「弾圧ではない」と後に述べており、事件の実態について研究がすすめられている。
2)戦後の津田史観
●唯物史観の影響
戦後史学はマルクス主義の影響を受けた唯物史観の擡頭により、戦前戦中の皇国史観は排除され、津田による説話論も見直され、神功皇后の存在は後世に再構成されたものとされた。また津田左右吉による分析は「津田史観」ともいわれ、戦後主流となり、皇国史観や記紀を批判または否定するために援用されることがあった。
津田自身はそうした潮流について誤解があるとし、また皇室(天皇制)を批判するために津田の学説が政治的に利用されることについて津田は批判しており、天皇制と民主主義は矛盾しないと主張している。津田自身は近代的な実証史学を展開したのであり、記紀を「否定」する動機がなかったといわれる。
●津田左右吉と新羅征討説話論
津田左右吉は1948年に刊行された『日本古典の研究』において、新羅征討を中心とする神功皇后についての記紀の記載を、後世になって添加されたものが多く、日本が新羅を一時圧服したのは事実ではあるが、神功皇后伝説自体は「事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたもの」としたうえで、伝説の成立時期を6世紀の継体朝や欽明朝とした。
3)直木孝次郎の主張
●直木孝次郎による再検討
直木孝次郎は津田の分析を継承して、昭和34(1959)年4月に「神功皇后伝説の成立」を『歴史評論』に104号に発表した。
直木は、4世紀末に倭国が新羅を攻撃した歴史的事実と、神功皇后による新羅征討の伝承が一致することや、また津田の継体朝や欽明朝成立説では説明できないことが少なからず存在することを指摘し、6世紀以降、特に推古天皇以降の史実との関係が深いことから、この頃に伝承が形成されたとしている。
●高句麗の戦争伝承との関連
直木は、応神天皇期に大和政権が新羅を圧倒したことは事実また定説であり、神功皇后伝説と史実が無関係と論ずることはできないが、新羅征伐の記事に高句麗との戦争が記載されていないことに着目して、次のように考察した。
倭国が高句麗と戦争したことは広開土王碑文などから史実であるが、だとすれば、記紀における新羅征討の箇所で、高句麗について記載がない、またはほとんど問題とされていないことは不自然である。
4世紀末に倭国が新羅侵攻を行ったことは事実であるが、当時の倭国の最大の強敵は高句麗であったし、4世紀末から5世紀初頭における半島進出が伝承として記載されるのであれば、「建国まもない弱小の新羅に対する勝利よりも、強大勇武な高句麗との決戦の物語が伝承されるのが当然ではなかろうか」とし、新羅征討のみが伝承されたことと、高句麗との決戦が伝承されなかったことに着目し、三韓征伐の記述が成立した背景について、直木は、「5世紀末期以来、新羅が強大になり、日本の半島支配が動揺してきたため、日本の半島における支配権、とくに新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける必要」が出て来たとした。
●神功皇后の実在性
また、神功皇后の実在性について、神功皇后は仲哀天皇の死後、政治軍事の実権を握り、応神天皇を出産したあとも、政権の中心にあったと記録されているが、推古天皇の即位以前にこのような女帝が登場する例がないことなどから、推古時代以降の女帝をモデルとして構想されたのではないかという説を提唱した。
また、神功皇后自らが軍を指揮している点については、7世紀中葉に斉明天皇が百済救援と新羅攻撃のために北九州に出征したことが唯一の例であり、不自然であるとも指摘している。このように直木は、新羅打倒について6世紀以来、朝廷内部に存した願望が原動力となって、新羅征討の物語になったとする。
また、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するために、対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、物語の形成を促進したとし、津守氏と住吉神社や香椎宮など様々な伝承が加えたと主張している。
4)その他の説
●三韓征伐説話
三韓征伐説話は、新羅が日本へ朝貢していたことや、日本が朝鮮半島で闘った記憶、女帝・斉明天皇が新羅遠征のために筑紫朝倉宮まで行幸した故事を元に、創作・脚色されたものとしている(上田正昭、直木孝次郎説)。
この直木による仮説と解釈については、井上光貞が同昭和34年に刊行された『真説日本歴史 二巻 万葉の世の中』の座談会において批判した。その後、藤間生大、米沢康、岡本堅次、吉井良隆、二宮正彦、塚口義信の研究が続いた。
●新羅の「蕃」視
田村圓澄は神話の造作時期を天武 - 持統期とし、当時の新羅は倭国への従属から抜け出し新羅王と倭王が対等であったが、日本は律令国家を構築する中で倭を日本に、倭王を天皇に変更し、対する新羅王、新羅を「蕃」と規定、その一環として三韓征伐が造作されたと主張する。
鈴木英夫は『日本書紀』編纂時の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたと主張し、その事実が誇張・拡大されて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の中国王朝の史書『宋書、梁書』にある記述が成立したと主張する。
なお、この他国を「蕃国」視する意識の成立に関しては、堀敏一は『日本書紀』が朝鮮諸国の「朝貢」を記しているが、中華意識では到来するものすべてを朝貢と認識すると指摘する。山内弘一はこのような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在したことを指摘している。
●当時の国力の国際比較
また武光誠は、4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗と倭国に比べて、国力も領土も弱小であったことに注意すべきであるとしている。
当時の新羅の領域は北九州と同程度で、百済も新羅の二倍程であった。また、新羅にとって、自国と同程度の広さの北九州と中国・四国・近畿地方を領土とする大和朝廷は脅威であった。
(引用:Wikipedia)
1)撰者
『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。
2)編纂時期
地理志の地名表記(「古の○○は今の△△である」といった記述)の詳細な検討から、遅くとも1143年には編纂が始まっていること、また、『高麗史』仁宗世家23年条や同書の金富軾伝の記事から、1145年12月には撰上されたとされている。
3)構成
全50巻の目次は以下の通り。
・本紀: 巻1~巻28
(新羅本紀: 巻1~巻12、高句麗本紀: 巻13~巻22、百済本紀: 巻23~巻28)
・年表: 巻29~巻31・雑志: 巻32~巻40・祭祀、楽: 巻32・色服、車騎、器用、屋舎: 巻33
・地理: 巻34~巻37・職官: 巻38~巻40・列伝: 巻41~巻50
4)内容
本紀にはまず新羅を記し、それぞれの建国神話における建国年次の順にあわせて高句麗・百済の順としている。年表は干支、中国の王朝・新羅・高句麗・百済の四者についての一覧形式を採っている。
列伝の最初には新羅による三国統一の功労者である金庾信に三巻を費やしており、次いで高句麗の乙支文徳を配し、最終巻には後高句麗の弓裔、後百済の甄萱とするなど、時代・国についての特別な配置の整理は行なわれていない。
金庾信列伝では、金庾信はの祖先は黄帝の子の少昊金天氏の子孫とする。また、複数人を扱う列伝についての要約的な名付け(『史記』における儒林列伝、酷吏列伝など)は施されていない。
☆朝鮮半島の地名研究の根本史料でもある。
5)依拠史料
朝鮮側の資料として『古記』・『海東古記』・『三韓古記』・『本国古記』・『新羅古記』・金大問『高僧伝』・『花郎世記』などを第一次史料として引用したことが見られるが、いずれも現存していないため、その記述の内容には史料批判が必要である。
また、中国の史料と朝鮮の史料が衝突する場合には朝鮮の史料を優先している箇所もあるが、前記の史料の信用性に疑問があるため、慎重な取り扱いが必要とされる。
日本では中国史料と対応する記事が認められない3世紀頃までの記事は、にわかには信じがたいとする考え方が主流である。また、天変記事(ほうき星など)については中国史書と年月を同じくする記述も多い。
6)百済三書
三国における史書としては、高句麗には『留記』・『新集』、百済には『日本書紀』にその名が確認される百済三書(『百済本記』、『百済記』、『百済新撰』)、新羅にも国史を編纂させたという記録があるが、いずれも現在は存在が確認されていない逸失書であるため、記述内容を確認できない部分も含まれている。
7)記述の姿勢
新羅・高句麗・百済の三国すべてを「我ら」と記録することで最大限中立的に記述したとされるが、内容面においても新羅の比重が大きく、南北時代(統一新羅時代)と高麗朝を経て新羅人たちが記録した史料に大きく依存したため、新羅への偏重がある。
また、編纂者の金富軾が新羅王室に連なる門閥貴族であったため、また、高麗が新羅から正統を受け継いだことを顕彰するために、新羅寄りの記述が多い。
中国の史書においてより早く登場する高句麗の建国(紀元前37年)を新羅の建国(紀元前57年)よりも後に据えるのは、その現れである。
三国以前の古朝鮮・三韓、三国並立期の伽耶・東濊・沃沮、新羅統一後の渤海などの記述がなされていないが、これは『三国史記』がすでに存在していた勅撰の『旧三国史』をより簡潔にまとめた形式をとっているためとも考えられている。
しかしながら『旧三国史』に古朝鮮などの記事があったかどうかは、『旧三国史』が現存しないために確認は不可能である。そもそも、成立から100年近く後の高麗の大文人の李奎報が「東明王篇」の序文で訝しんでいるように、勅撰の『旧三国史』のあったところに重撰となる『三国史記』の編纂が必要とされた理由については、歴史の改ざんも含め諸説あるが未だ定説は無い。
(引用:Wikipedia)
*紀元前50年: 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*紀元前20年: 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。
・馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。
・これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。
・馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。
・この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
*14年: 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*57年: 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400 mであるので、一千里は400 kmとなる。)
*59年: 夏の五月に倭国と修交し、使者を派遣し合った。
*73年: 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽烏を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽烏が戦死した。
*121年:夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
*123年:春三月に倭国と講和した。
*158年:倭人が交際のために訪れた。
*173年:倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。
「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」
*193年: 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
*208年:夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
*232年:夏四月に倭人が金城を包囲。新羅王自ら戦い倭軍は潰走した。新羅軍は追撃し倭兵一千が戦死した。
*233年:五月 倭兵が東辺を攻めた。秋七月、倭軍と沙道で海戦し倭軍が全滅した。
*249年:夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。
*287年:夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
*289年:夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
*292年:夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。
*294年:夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
*295年: 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
*300年: 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
*312年: 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
*344年: 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
*345年: 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
*346年: 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。
*364年: 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。さらに追撃し全滅近くまで追い込んだ。
*393年: 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。倭軍が撤退を始めると、新羅軍は騎兵二百と歩兵一千で追撃し、倭軍は大敗した。
*402年: 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
*405年: 倭兵が明活城を攻めるが勝てず撤退した。新羅王自ら追撃し、倭軍は敗れ三百人が戦死した。
*407年: 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻め百人を捕らえて連れ去った。
*408年: 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站を撃破しようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。
*415年: 八月、倭人と風島で戦い、勝った。
*418年: 高句麗への人質(卜好)が堤上奈麻と共に帰った。倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。
*431年: 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
*440年: 倭人が、南の辺境に侵入し奴隷を奪い取って去った。夏六月にまた東の辺境を攻める。
*444年: 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。王は兵を出して追撃しようとした。臣下は「兵法家の説に拠れば、追い詰められた賊を追っ手はならない」と言ったが王はこれを聞き入れなかった。
数千の騎兵を率いて追撃して獨山の東で合戦したが倭軍に敗れ、将兵は過半数が死んだ。王は慌てふためいて馬を棄て山に登った。賊がこれを幾重にも囲んだ。突然霧が出てあたりが暗くなり、一寸先も見分けが付かなくなった。賊は「これぞ陰助だ」と言って、兵を収めて撤退した。
*459年: 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、進撃して月城を囲んで四方八方から矢や石を雨あられと打ち込んだ。王城守は賊将を退け、出兵してこれは撃破し、北に追撃して海口まで行った。賊軍で溺死する者が過半数に達した。462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
*463年: 倭人が歃良城(梁山市)を攻めるも勝てずして去った。王は伐智・德智に討伐を命じた。領兵が路に隠れて待ち伏せし、倭軍を要撃して大敗させた。王は以後、倭人が頻繁に国境、海岸を侵犯するので、国境、海岸に城を二つ築いた。
*476年: 夏六月、倭人が東辺を攻める。王は将軍德智に命じてこれを撃敗させた。殺したり捕虜にした者が二百人あまりいた。
*477年: 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
*482年: 五月に倭人が辺境を攻める。
*486年: 夏四月に倭人が辺境を攻める。
*497年: 夏四月に倭人が辺境を攻める。
*500年: 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
*663年: 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
*670年: 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
*698年:三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
*703年:日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。
*722年:日本の賊の路を遮断した。
*731年:日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
*742年:日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。
*753年:秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。
*802年:冬十二月、均貞に大阿飡の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
*804年:夏五月 日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。
*806年:春三月 日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。
*808年:春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。
*864年:夏四月に日本国の使臣が来た。
*879年:八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。
*882年:夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。
・132年と146年の2回にわたり、太祖大王の弟・遂成(後の次大王)が倭山で田猟をしたという記事がある。「倭山」は未詳であるが、倭や倭人とは無関係と見られる。他には倭・倭人関連の記載は無い。
(引用:Wikipedia)
*397年:夏五月 阿莘王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
*402年:五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
*403年:二月 倭国の使者が来たので、阿莘王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
*405年:腆支太子は倭国において阿莘王の訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
*418年:夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
*428年:倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
*608年:隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。
*653年:秋八月、義慈王は倭国と修交した。
*662年:七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。
(引用:Wikipedia)
〇任那強首伝「臣、もと任那加良の人。名は字頭。」
*233年: 助賁王の四年の七月に、倭人が侵攻して来たので、昔于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。敵は溺死してほとんど全滅した。
*253年:倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。昔于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍の于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。
昔于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。
倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、昔于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。
この子は後に訖解尼師今(十六代王)になった。未鄒王(十三代王)の代に倭国の大臣が来た時、昔于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うや、力の強いものに彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、勝てずして引き返した。
*402年: 壬寅の年に、倭国と和親を結ぶ時、倭王は奈勿王の子の未斯欣を人質として請うた。実聖王はかつて奈勿王が自分を高句麗へ人質としてつかわした事をうらんでいたので、その恨みをその子ではらそう思っていた。それ故に、倭王の請いを拒まないで未斯欣を倭国に派遣した。
*779年: 金巌は王命を受けて、日本国に使臣として行ったが、その国王は、彼が賢明な人であることを知り、抑留しようとした。たまたま、大唐の使臣の高鶴林が来て、互いに会って非常に喜ぶと、倭人たちは金巌が大国にもすでに知られている人物であることをさとり、敢えて留めておけず、すぐ帰した。
(引用:Wikipedia)
『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が補筆・署名し、刊行されたと見られる。
朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献ではあるが、由来の怪しい古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくない。
しかし、三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を記した資料は極めて乏しいということもあって、『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われている。
また、『三国史記』が名だけを留めて収めなかった郷歌(きょうか、ヒャンガ)を14首伝えており、言語学資料としての価値も高い。
1)概要
官撰の『三国史記』は儒学者である金富軾の編纂になるものであって、その姿勢はあくまでも中国史書の書式(紀伝体)に忠実であろうとしたために、三国時代の故事・伝承が数多く削り落とされている。
またその当時利用が可能であった中国の書籍を資料として利用しているため、例えば「卑彌乎」(卑弥呼か)の記載があるなど不自然な点もある。特に新羅の立場から編集しているため利用には注意を要する。
金富軾の編集態度に不満を抱いた一然は、『三国史記』が取りこぼした故事を拾い集め、また自身の禅僧としての立場から仏教の普及に関わる事実とをあわせて収録しようとした。
正史からこぼれ落ちた説話などをかき集め整理したものとして遺事と称したが、ただ単に『三国史記』を補おうとする位置づけではなく、「王暦」末尾の中国諸王朝について元を記さずに宋(南宋)で終えて大宋と記し、紀異篇の最初に檀君を記しているなど、一然が編纂にあたった当時の元の支配に反対し、民族の自主独立を掲げようとする姿勢も見せている。
2)構成
全5巻の目次は以下の通り。
●巻一:王暦・紀異
※「王暦」は新羅・高句麗・百済・駕洛国の王代と年表を記し、「紀異」は檀君朝鮮に始まる諸国の興亡と新羅各王の逸聞を記す。
●巻二:紀異
※前巻の紀異に続けて、新羅の末代の金傅大王(敬順王)の後に百済・後百済・駕洛国について記す。
●巻三:法興・塔像
※仏教史関係のものであり、「法興」「塔像」は新羅を中心とした仏教受容の事実を記す。
●巻四:義解
※仏教史関係のものであり、「義解」は高僧と律師の伝記を記す。
●巻五:神呪・感通・避隠・孝善
※仏教史関係のものであり、「神呪」は密教の神僧の事跡、「感通」は修行の末の神意の感応、「孝善」は仏法に則った孝行と応報の美談を記す。
3)内容
390年 第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。
そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を副使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。
(引用:Wikipedia)
1)概要
百済三書(くだらさんしょ)は、『百済記(くだらき)』・『百済新撰(くだらしんせん)』・『百済本記(くだらほんき)』の3書の総称(以下「三書」と略記する)。いずれも百済の歴史を記録した歴史書で、現在には伝わっていない逸書であるが、一部(逸文)が『日本書紀』にのみ引用されて残されている。
なお、『百済本記』と、『三国史記』に収められた「百済本紀」とは異なる。
2)内容
『日本書紀』に引用されている逸文からわかる範囲では、近肖古王(第13代百済王 在位:346年 - 375年)から威徳王(第27代百済王 在位:554年 - 598年)の15代にわたる200年近い歴史の記録が記されている。古い記録を扱っている方から順に『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』となる。
井上光貞は『百済記』は物語風の叙述が主で、『百済新撰』は編年体風の史書、『百済本記』は純然たる編年体史であったと推定している。
人名も多く載っており、その中には『百済記』に見える職麻那加比跪(しくまなかひこ)を千熊長彦に、沙至比跪(さちひこ)を葛城襲津彦にというように、『日本書紀』編者によって日本側の史料に現れる人物に比定される者もいる。
3)成立
三書は『日本書紀』内に唯一逸文が伝わるのみなので、成立過程は判然としない。実在したものとすれば、『日本書紀』成立の養老4年(720年)以前に三書も成立していたともいえる。
後の『三国史記』の375年の出来事として
「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記」(百済は開国以来文字で記録を残していなかったが、博士高興によってはじめて記録を始めた)
との記載は、この頃の中華秩序に倣った歴史書に準ずるなんらかの記録が百済にあったことを伝えている。
三品彰英は、『百済記』は推古天皇(在位:593年 - 628年)の時代(6世紀末から7世紀前葉)に成立したとしている。
井上光貞は、660年の百済滅亡に、当時交流の盛んだった倭(日本)が大量の亡命者を受け入れたことで百済の記録も日本にもたらされ、これらを元に当時の知識人によって三書が編纂された可能性を指摘した。
この説に従うと、三書の成立は663年から720年の間となる。
遠藤慶太は、『百済記』・『百済本記』の成立を7世紀前半に推定し、百済滅亡以前の欽明天皇期以降に倭の書記官を務めてきた田辺史などに祖先にあたる百済系渡来人のフミヒト(史)が自らの始祖伝承から倭国に仕えた経緯の記録と倭(日本)との関係を強調するために書いたとし、ひいては当時新羅の侵攻に悩まされてきた母国・百済救済を訴える意図も有していたとする。
4)『日本書紀』での引用
『日本書紀』で三書が明示的に引用されている個所は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。
逸文に見る引用には、「天皇」や「日本」など、後世の7世紀からようやく用いられるようになった言葉が現れていたり、日本のことを「貴国」と表現しているなど、およそ三書からの引用とは思えない箇所があることが津田左右吉によって指摘されており、『日本書紀』編者による潤色・改竄が行われていることは確実とされる。
しかし、継体天皇の崩年(崩御の年、527年?)については逆に、『百済本記』の記録を採用しているがために『日本書紀』の体裁がおかしくなっており、三書全部が『日本書紀』編者によって都合よく作り出されたものでもない。
井上はこういったことを考慮して、三書は「その編成目的に日本関係を主眼とするなどの偏向があったとしても、それぞれ編纂者を異にした百済の史書とすべきであろう」としている。
紀年については、三書を引用した『日本書紀』(応神紀)と『三国史記』とが、干支で記述された年月と事績との対比から、記述された実年代とは干支の2周分(2運)、即ち120年ずれて一致することが本居宣長、那珂通世らによって指摘されている。
井上はさらにその理由について、日本書紀の編纂者が古事記に崩年注記のない神功皇后を中国史に現れる卑弥呼に比定するためであったとしている。
*999年:十月 日本国人の道要弥刀等二十戸、来投す。之を利川郡に処らしめ、編戸となす。
*1012年:八月三日、日本国の潘多等三十五人、来投す。
*1019年:四月二十九日、鎮溟 船兵都部署の張渭男等、海賊八艘を獲。賊に掠められし日本の生口男女二百五十九人は、供駅令の鄭子良を遣わし、その国に押送す。
*1029年:七月二十八日、耽羅の民の貞一等、日本より還る。初め貞一等二十一人、海に浮かび風に漂い、東南のかた極遠の島に到る。島人は長大にして、遍体毛を生じ、語言は殊異なり。劫し留めらるること七か月、貞一等七人は小船を窃み、東北のかた日本の那沙府に至り、乃ち生還するを得たり。
*1036年:七月十六日、日本国、我が漂流人の謙俊等十一人を帰す。
*1039年:五月十日、日本民の男女二十六人、来投す。
*1049年:十一月二十日、東南海船兵都部署司奏す、「日本の対馬島の官、首領の明任等を遣わし、我が国の飄風人の金孝等二十人を押送し、金州に到る」と明任等に例物を賜うこと差あり。
*1051年:七月十一日、日本の対馬島、使いを遣わし、被罪逃人の良漢等三人を押送す。
*1056年:冬十月一日、日本国使の正上位権隷の藤原朝臣頼忠等三十人、金州に来り館す。
*1060年:七月二十七日、東南海船兵都部署奏す、「対馬島、我が飄風人の礼成江民の位孝男を帰す」と。王、使者に礼物を賜うこと優厚なり。
*1073年:七月五日、東南海都部署奏す、「日本国人の王則貞・松永年等四十二人来り、螺鈿鞍橋・刀・鏡匣・硯箱・櫛・書案・画屏・香炉・弓箭・水銀・螺・甲等の物を進めんことを請う。壱岐島の勾当官、藤井安国等三十三人を遣わし、亦た方物を東宮および諸令公府に献ぜんことを請う」と。制して、海道に由り、京に至るを許す。
・十一月十二日、八関会を設け、神鳳楼に御し観楽す。翌日、大会す。大宋・黒水・耽羅・日本等の諸国人、各々礼物・名馬を献ず。
*1074年:二月二日、日本国の船頭の重利等三十九人、来りて土物を献ず。
*1075年:閏四月五日、日本商人の大江等十八人、来りて土物を献ず。
・六月二十二日、日本人の朝元・時経等十二人、来りて土物を献ず。
・七月十日、日本商五十九人来る。
*1076年:十月十五日、有司奏す、「日本国の僧・俗二十五人、霊光郡に到り、告げて曰く、「国王の寿を祝う為め、仏像を雕成す。請う、京に赴き、以て献ぜんことを」と」と。制して、之を許す。
*1078年:九月一日、日本国、耽羅の飄風民の高礪等十八人を帰す。
*1079年:九月、日本国、我が飄風商人の安光等四十四人を帰す。冬十一月五日、日本商客の藤原等来り、法螺三十枚・海藻三百束を以て興王寺に施し、王の為めに寿を祝う。
*1080年:閏九月十一日、日本国の薩摩州、使いを遣わし、方物を献ず。
*1082年:十一月九日、日本国の対馬島、使いを遣わし、方物を献ず。
*1084年:六月二十日、日本国筑前州の商客の信通等、水銀二百五十斤を献ず。
*1085年:二月十三日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、柑橘を進む。
*1086年:三月二十二日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、方物を献ず。
*1087年:三月二十日、日本商の重元・親宗等三十二人、来りて方物を献ず。
・七月二十一日、東南道都部署奏す、日本国対馬島の元平等四十人、来りて真珠・水銀・宝刀・牛馬を献ず。
*1089年:八月十九日、日本国の大宰府の商客、来りて水銀・真珠・弓箭・刀剣を献ず。
*1093年:秋七月八日、西海道按察使奏す、「安西都護府轄下の延平島の巡検軍、海船一艘を捕らう。載る所の宋人は十二、倭人は十九。弓箭・刀剣・甲冑ならびに水銀・真珠・硫黄・法螺等の物あり。必ず是れ、両国の海賊、共に我が辺鄙を侵さんと欲する者ならん。其の兵杖等の物は、官に収納せんことを請う。捕らうる所の海賊は、並な嶺外に配し、其の巡捕せる軍士は賞せん」と。之に従う。
*1116年:二月二日、日本国、柑子を進む。
*1147年:八月十三日、日本の都綱の黄仲文等二十一人来る。
*1169年:正月三十日、奉香里離宮に幸し、郡臣に宴し、仍りて宋商および日本国の進むる所の玩物を賜う。
*1170年:春正月一日、王、賀を大観殿に受くるに、臣僚の賀表を親製し、群臣に宣示す。表に曰く、「三陽序に応じて、万物惟れ新たなり、玉殿春回りて、竜顔慶洽す。北使の寿を上りて、辞を致し、日域(日本)の宝を献じて、帝を称するより、常に天神の密助あり。
*1216年:二月六日、日本国の僧、来りて其の法を求む。
*1223年:五月二十二日、倭、金州に寇す。
*1225年:夏四月八日、倭船二艘、慶尚道の沿海の州県に寇す。
*1226年:正月二十七日、倭、慶尚道の沿海州郡に寇す。巨済県令の陳竜甲、船師を以て沙島に戦い、二級を斬す。賊、夜、遁る。
・六月一日、倭、金州に寇す。
*1227年: 四月十五日、倭、金州に寇す。防護別監の盧旦が兵を発し、賊船二艘を捕らえ、三十余級を斬し、且つ獲る所の兵杖を献ず。
・五月二日、倭、熊神県に寇す。別将の鄭金億等、山間に潜伏し、突出して七級を斬す。賊、遁る。
・五月十七日、日本国は書を寄せ、賊船の辺を寇するの罪を謝し、仍りて修好し互市せんことを請う。是の歳、及第の朴寅を遣わし、日本に聘せしむ。時に倭賊は州県を侵掠す。国家これを患い、寅を遣わして牒をもたらし、歴世の和好を以て、宜しく来侵すべからざるを諭す。日本は賊倭を推検し、之を誅す。侵掠、ややに息む。
*1243年:九月二十九日、金州防禦官報ず、「日本国は方物を献じ、また我が漂風人を帰す」と。
*1244年:春二月二日、有司劾奏す、「前の済州副使の盧孝貞と判官の李玨の在任せる時、日本商船の颶風に遇い、州境に敗れたるに、孝貞等私かに綾絹・銀珠等の物を取る。孝貞より銀二十斤、玨より二十斤を徴し、島に流せ」と。
*1259年:七月二十八日、監門衛録事の韓景胤と、権知直史館の洪泞を日本に遣わし、海賊を禁ずるを請わしむ。
*1260年:二月三日、済州副使・判礼賓省事の羅得璜を以て、防護使を兼ねしむ。朝議するに、「済州は海外の巨鎮なり、宋商と島倭と、無時往来す、宜しく特に防護別監を遣わし、以て非常に備うべし。然るに、旧制は但だ守倅のみ、防護を別置すべからず」と。ついに得璜を以て、之を兼ねしむ。
*1263年: 二月二十二日、倭、金州管内の熊神県の勿島に寇し、諸州県の貢船を掠す。
・四月五日、大官署丞の洪泞と、詹事府録事の郭王府等を遣わし、日本国に如きて、賊を禁ぜんことを請わしむ。牒に曰く、「両国の交通せるより以来、歳ごとに常に進奉すること一度、船は二艘を過ぎず。設し他船の他事に枉憑し、みだりに我が沿海の村里をみだすあらば、厳しく徴禁を加うるを似て定約となす。
・越えて今年二月二十二日、貴国の船一艘、故なく来りて、我が境内の熊神県界の勿島に入り、其の島に泊まる所の我が国貢船に載する所の多般の穀米、あわせて一百二十五石、紬布あわせて四十三匹を略い将ち去れり。また椽島に入り、居民の衣食・資生の具をば、尽く奪いて去れり。元定交通の意に於いて、甚だ大いに乖反す。今、洪泞等を遣わし、牒をもたらして似て送らしむ。公牒を詳かにし、あわせて口陳を聴き、上項の奪攘人等を窮推して、尽く皆な微沮し、似て両国和親の義を固めん」と。
・六月、日本官船大使の如真等、将に宋に入り、法を求めんとして風に漂い、僧・俗あわせて二百三十人は開也召島に泊まり、二百六十五人は群山・楸子の二島にいたる。大宰府の少卿殿は、「商船の七十八人、宋より将に本国に還らんとし、風に漂いて船を失い、小船を似て宣州の加次島に泊まる」と白す。全羅道按察使に命じて、糧・船を給し、其の国に護送せしむ。
・秋七月二十七日、日本商船の三十人、風に漂い亀州の島にいたる。命じて糧を賜い、護送せしむ。
・八月一日、洪泞・郭王府等、日本より還り、奏して曰く、「海賊を窮推するに、すなわち対馬島の倭なり。米二十石・馬麦三十石・牛皮七十領を徴して来る」と。
*1265年:秋七月一日、倭、南道の沿海州群に寇す。将軍の安洪敏等に命じ、三別抄軍を率い、之を禦がしむ。
*1266年:十一月二十五日、蒙古、黒的・殷弘等を遣わし来り、詔して曰く、「今、爾が国の人の趙彝来り、「日本は爾が国と近隣をなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、またあるいは使いを中国に通ず」と告ぐ。故に今、黒的等を遣わし日本に住かしめ、与に通和せんと欲す。卿、其れ、去使を道達し、似て彼の疆を撤して東方を開悟し、向風・慕義せしめよ。この事の責は、卿、宜しく之に任ずべし。風濤の険阻なるを似て、辞と為す勿れ。末だかつて通好せざるを似て、解となす勿れ。彼れ命に順わず、去使を阻むあるに托せんことを恐る。卿の中誠、斯に於いて見るべし。卿、其れ、之を勉めよ」とのたまう。
・十一月二十八日、枢密院副使の宋君斐と、侍御史の金賛等に命じ、黒的等と与に日本に住かしむ。
*1267年:・春正月、宋君斐・金賛、蒙使と与に巨済の松辺浦に至り、風濤の険を畏れ、ついに還る。王、また君斐をして黒的に随い、蒙古に如かしめ、奏して曰く、「詔旨に諭したまう所の、使臣を道達して日本に通好するの事は、謹みて陪臣の宋君斐等を遣わし、使臣に伴いて似て住かしむ。巨済県に至り、はるかに対馬島を望むに、大洋万里、風濤の天を蹴るを見、意謂えらく、「危険なること此の若し。安んぞ上国の使臣を奉じ、険を冒して軽々しく進むべけんや。対馬島に至るといえども、彼の俗は頑獷にして礼義なし。設し不軌するあらば、将た之を如何せん」」と。是を似て、与倶にして還れり。且つ日本は、素より小邦と末だ嘗て通好せず。但だ対馬島の人、時に貿易に因りて、金州に往来するのみ。小邦、陛下の即祚せるより以来、深く仁恤を蒙り、三十年の兵革の余、稍々に蘇息するを得、緜緜と存喘す。聖恩は天大にして、誓いて報せんと欲す。如しなすべきの勢いありて、心力を尽さざらんには、天日の如きものあり」と。
・八月一日、黒的・殷弘および宋君斐等、復び来る。帝、諭して曰く、「向者、使いを遣わし日本を招懐せしむるに、卿に嚮導を委ねたり。意わざりき、卿の辞を似て解となし、ついに徒らに還らしめんとは。意うに、日本、すでに通好せば、則ち必ず尽く爾が国の虚実を知る。故に、托するに他辞を似てするならん。然れども、爾が国の人の京師に在る者少なからず、卿の計もまた疎かなり。且つ天命は諶を難んじ、人道は誠を貴ぶ。卿は先後食言すること多し。宜しく自省すべし。今、日本の事、一に卿に委ぬ。卿、其れ、朕の此の意を体し、日本に通諭して、必ず要領を得るを似て期となせ。卿、嘗て言あり、「聖恩は天大にして、誓いて報効せんと欲す」と。此れ、報効に非ずして、何ぞや」とのたまう。
・八月二十三日、起居舎人の潘阜を遣わし、蒙古書および国書をもたらし、日本に如かしむ。蒙古書に曰く、「大蒙古皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君は、境土相い接すれば、尚お講信・修睦に務む。況んや我が祖宗、天の明命を受けて、区夏を奄有するをや。遐方・遠域の威を畏れ徳に懐く者は、悉く数うべからず。朕、即位の初め、高麗無辜の民の、久しく鋒鏑つかるるを似て、即ち兵を罷めしめ、その疆域を還し、その旄倪を返す。高麗の君臣、感戴して来朝し、義は君臣といえども、歓ぶこと父子の若し。計るに、王の君臣もまた、已にこれを知るならん。高麗は朕の東藩なり。日本は(高麗に)密邇し、開国より以来、また時に中国に通ずるに、朕の躬に至りて、一乗の使いの似て和好を通ずるなし。尚お恐る、王の国のこれを知ること、末だ審かならざるを。故に使いを遣わし、書を持して、朕の志を布告せしむ。冀わくは、自今似往、通問して好みを結び、似て親睦せん。且つ聖人は至りては、夫れ、孰れか好む所ぞ。王、それ、これを図れ」とのたまう。国書に曰く、「我が国、蒙古大国に臣事し、正朔を稟くること年あり。皇帝は仁明にして、天下を似て一家となしたまい、遠きを視ること邇きが如く、日月の照らす所、みなその徳を仰ぐ。今、貴国に通好せんと欲して、寡人に詔して云う、「日本は高麗と隣りをなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、しばしば中国に通ず。故に、特に書を遣わし、似て往かしむ。風濤の阻険なるを似て、辞となす勿れ」とのたまう。その旨、厳切なり。茲にやむを獲ず、某官の某を遣わし、皇帝の書を奉じて前去しむ。貴国の中国に通好するや、代々これなきはなし。況んや今、皇帝の貴国に通好せんと欲したまうは、その貢献を利とするに非ず。蓋し無外の名を似て、天下に高くせんと欲するのみ。若し貴国の通好するを得ば、必ず厚くこれを待すべし。それ、一介の士を遣わし、似て住きて、これを観ること何如。貴国、商酌せよ」と。
・十一月十一日、弟の安慶公淐を遣わし、蒙古に如き、賀正せしむ。因りて、更に藩阜を遣わし、日本に使いせしめたるを告ぐ。
*1268年:二月二十一日、初め帝、趙彝のそしりを似て、怒り解けたまわず。親らに勅して曰く、「前日、爾が国の奏せる所、朕、今、これを説わん。爾、それ、詳しく聴け。(中略)爾の日本と交通せるは、爾が国の人の来りて此に居る者、これを知らざるなし。爾、前日に於いて、何ぞ末だ嘗て交通せずと言い、似て朕を欺きしか。爾等の奉する所は、皆な是れ妄説なり。必ずしも答えず」とのたまう。
・秋七月十八日、起居舎人の藩阜、日本より還る。閣門使の孫世貞、郎将の呉惟碩等を遣わして蒙古に如き、節日を賀せしむ。また藩阜を遣わして、偕に行かしめ、上書して曰く、「向に臣に詔して、似て日本に宣諭せしめたまう。臣、即ち陪臣の藩阜を差わし、皇帝の璽書を奉じ、ならびに臣の書および国贐をもたらし、前年の九月二十三日似て、船を発して住く。今年の七月十八日に至り、回り来りて云う、「彼の境に到りてより、便ち王都に納れず、西偏の大宰府なる者に留置さるること凡そ五か月、館待甚だ薄し。授くるに詔旨を似てするも、而も報章なし。また国贐を贈り、多方告諭るも、竟に聴かず。逼りて之に送らる。故を似て、容領を得ずして還れり」と。末だ聖慮に副わず、惶懼すること実に探し。すなわち、茲に陪臣の藩阜等を差充し、似て奏す」と。
・十月十三日、蒙古、明威将軍・都統領の脱朶児と、武徳将軍・統領の王国昌と、武略将軍・副統領の劉傑等十四人を遣わし来る。詔して曰く、「卿、崔東秀を遣わし来りて、備兵一万・造船一船隻の事を奏す。今、特に脱朶児等を遣わし、彼に就きて軍数を整閲し、舟艦を点視せしむ。其の造る所の船隻は、去官の指画を聴け。もし耽羅の已に造船の役に与りたれば、必ずし煩重すべからず。もし其れ与らずんば、即ち別に百艘造らしめよ。其の軍兵・船隻、整点して足備せば、或いは南宋、或いは日本。逆命征討のことは、時に臨みて宜しきを制せしむ。
仍りて差去せる官が先行し、黒山・日本道路を相い視しむ。卿もまた官を差わして、護送せしめよ」とのたまう。
・十月二十二日、郎将の朴臣甫と、都兵馬録事の禹天錫を遣わし、王国昌・劉傑等に従い、住きて黒山島を視しむ。
・十一月二十日、黒的等、詔を伝う。其の詔に曰く、「向に、卿に去使を道達し、日本に送至するのを委ぬ。卿、乃ち辞を飾り、風浪険阻なるを以て、軽々しく渉るべからずと為せり。今、藩阜等、何に由りて達し得たるか。羞ずべく畏るべきの事、卿、已に之を為せり。復た何をか言わんや。今、来り奏し、藩阜の日本に至るや、逼りて送還さるの語あり。これもまた、安んぞ信を取るに足らんや。今、復び黒的・殷弘等を遣わし、使いに充てて以て住かしめ、必ず達せんことを期す。卿、当に重臣をして道達せしむべし、前の如く稽阻を致す毋かれ」とのたまう。
・十二月四日、知門下省事の申思佺、侍郎の陳子厚、起居舎人の藩阜は、黒的・殷弘とともに日本に如く。
*1269年:三月十六日、黒的及び申思佺等、対馬島に至り、倭人二人とらえて似て還る。
・夏四月三日、参知政事の申思佺を遣わし、黒的に伴い、倭人二人を以って、蒙古に如かしむ。
・五月二日、慶尚道按察使、馳報す、「済州人の漂風して日本に至り、還りて、「日本、兵船を具して、将に我に寇せんとす」と言う」と。是に於いて、三別抄及び大角班を遣わし、海辺を巡戍せしむ。また沿海の群県をして、城を築き殻を積ましめ、彰善県所蔵の国史を珍島に移す。七月二十二日、
*1272年:正月十八日、趙良弼、日本より還る。書状官の張鐸を遣わし、日本使十二人を率いて、元に如かしむ。王、訳語・郎将の白琚を遣わし、表賀して曰く、「盛化旁流してなり。すでに諶は連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、ますます切に效をいたす。惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん」と都省奏す、「聖旨を奉じて、世子をして、親しく自ら去かしめよ。尚書省の馬郎中をして做伴せしめ、当に去かしむべし」と」と。時に世子、久しく燕京に留まる。従者は皆な東帰を愁等し、世子に勧むるに、東征の事を以てし、帝に請いて還らんとす。薛仁倹・金㥠等、不可として曰く、「世子のここに在るは、将に社稷を衛らんとするを以てなり。今、これの事を請い、以て還らば、則ち本国如荷せん。世子、之を寝めよ」と。たまたま、林惟幹これを聞き、これに仮りて先に東還を請い、没せられし所の田民・財宝を復た収めんと欲す。世子これを知り、やむを得ず帝に請う。国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。、はるかに日生(日本の事)の域におよび、殊方率服して、悉く天覆の私を欣ぶ。惟だ彼の倭人は、鰈海に処る。宣撫使の趙良弼、年前九月を似て、金州の境に至り、装舟し放洋して住く。是年正月十三日、日本使・佐一十二人とともに、合浦県の界に還到せり。則ち此れ、誠に聖徳の懐綏に由る。彼れ、則ち皇風に嚮いて慕順し、一朝海を渉り、始めて爾の職を修む。而して万里を来りて天を膽る。曷ぞ、臣心の喜びを極めん。茲に賤介を馳せ、宸庭に仰ぐ」と。
・二月十日 中書省、牒して曰く、「世子の諶の云うに拠るに「吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺噍を保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可
・作成開始:令和2年6月29日~ 最終更新:令和6年5月23日