(引用:『古代史推理ガイド』古代史斯道会編・学研研究社 1995)
※(倭国・中国・朝鮮)の表示のない記述は、日本書紀の内容
(倭国・中国・朝鮮)の記述は、末尾に出典を記載
●神功皇后
・234(神功34年):(中国・三国時代)諸葛孔明が魏に侵入、五丈原で死ぬ
・237(神功37年):(中国・三国時代)遼東の公孫淵が自立して燕王と称する
・238(神功38年):(中国・三国時代)魏の司馬懿が公孫淵を破り遼東を平定
・239(神功39年):(倭国)倭王卑弥呼が魏に使いを遣わす(魏志)、明帝が卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を与える(魏志)
・240(神功40年):(倭国)倭王が魏使に託して帯方郡守に上表する(魏志)
・243(神功43年):(倭国)倭女王卑弥呼が魏に使いを遣わして貢献(魏志)
・247(神功47年):百済が初めて貢献する (倭国)卑弥呼が狗奴国との交戦を魏に告げ、魏は使いを邪馬台国に遣わし、檄をつくって告諭(魏志)
・248(神功48年):(倭国)このころ卑弥呼没(魏志)
・265(神功65年):(中国・三国時代・西晋)晋の建国・魏の滅亡
・266(神功66年):(倭国)倭の女王が使いを遣わし西晋に貢献する(晋書)
・269(神功69年):神功皇后の死
●応神天皇
・270(応神1年):応神天皇即位
・280(応神11年):(中国・晋(西晋))呉王晧が降り呉が滅ぶ
・285(応神16年):百済人王仁が治工・醸酒人・呉服師を率いて来朝し、「論語」「千文字」などを献じる
・310(応神41年):応神天皇の死
●仁徳天皇
・312(空位):菟道稚郎子と大鷦鷯尊が位を譲りあい、空位3年におよぶ。菟道稚郎子は自殺
・313(仁徳1年):大鷦鷯尊(仁徳)が即位
・314(仁徳2年):磐之媛命を皇后とする
・316(仁徳4年):天皇が高台に登り、炊煙の状態を見て百姓の窮乏を知る (中国)西晋の滅亡・五胡十六国時代始まる
・319(仁徳7年):天皇が高台に登り、炊煙を見て百姓の富めるのを喜ぶ
・356(仁徳44年):実は仲哀天皇の即位の年にあたる(古事記)
・362(仁徳50年):実は仲哀天皇の崩御の年に当たる(古事記)
・372(仁徳60年):百済人久氐らが来朝して七枝刀1口・七子鏡1面を献じる
・391(仁徳79年):倭の兵が渡海して百済・新羅を征す(高句麗広開土王碑銘)
・399(仁徳87年):仁徳天皇の死(倭国)倭が百濟と組んで新羅を侵す(高句麗広開土王碑銘)
●履中天皇
・400(履中1年):履中天皇の即位 (倭国)高句麗が新羅に出兵して倭軍を追い、任那・加羅に至る(高句麗広開土王碑銘)
・404(履中5年):(倭国)倭が帯方郡に出兵し、高句麗軍と戦って敗退(高句麗広開土王碑銘)
・405(履中6年):履中天皇の死
●反正天皇
・406(反正1年):反正天皇の即位
・410(反正5年):反正天皇の死
●允恭天皇
・412(允恭1年):允恭天皇の即位
・413(允恭2年):(倭国)倭が東晋に方物を献じる。(晋書)
・420(允恭9年):(中国)東晋の滅亡、劉裕が宋を建国
・421(允恭10年):(倭国)倭王賛が宋に貢献して武帝から除授の詔を受ける。(宋書)
・425(允恭14年):(倭国)倭王賛が使いを宋に遣わし文帝に上表、方物を献じる。
・429(允恭17年):(倭国)百済が倭国に使50人を遣わす(三国史記百済本紀)
・438(允恭27年):(倭国)宋の文帝が倭王珍を安東将軍倭国王とする(宋書)
・439(允恭28年):(中国)北魏が華北を統一、南北朝時代始まる
・443(允恭32年):(倭国)倭王済が使いを宋に遣わして貢献し、安東将軍倭国王の号を受ける。(宋書)
・451(允恭40年):(倭国)倭王済が宋から使持節都督及び倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の号を受ける(宋書)
●安康天皇
・453(安康):允恭天皇の死、穴穂皇子(安康)の即位
●雄略天皇
・456(雄略1年):眉輪王が天皇を弑し、大泊瀬皇子が眉輪王を殺す。大泊瀬皇子(雄略)が泊瀬朝倉宮に即位
・460(雄略4年):(倭国)倭王が使いを宋に遣わして方物を献じる(宋書)
・461(雄略5年):(日本)百済加須利君(蓋鹵王)が弟軍君(琨支君)を日本に遣わす。
・462(雄略6年):(日本)天皇が后妃に桑蚕のことを勧める。(倭国)倭王康が宋から安東将軍倭国王の号を受ける。(宋書)
・463(雄略7年):任那国司吉備上道田狭が叛く。
・465(雄略9年):紀小弓・蘇我韓子・大伴談・小鹿火らが新羅を討つ。 (倭国)倭が使いを晋に遣わす(晋書)
・477(雄略21年):(倭国)倭王武が使いを宋に遣わし貢献し、みずから使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称する。(宋書)
・478(雄略22年):(倭国)宋の順帝が倭王武に使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王の号を授ける。(宋書)
・479(雄略23年):雄略天皇の死、筑紫の安致臣らが高句麗を撃つ。(倭国)南斉の高帝が倭王武に鎮東大将軍の号を授ける。(南斉書)(中国)斎が建国、宋が滅亡
●清寧天皇
・480(清寧1年):清寧天皇が磐余甕栗宮で即位
・484(清寧5年):清寧天皇の死
●顕宗天皇
・485(顕宗1年):弘計王(顕宗)が近飛鳥八釣宮で即位
・487(顕宗3年):顕宗天皇の死
●仁賢天皇
・488(仁賢1年):(日本)億計王(仁賢)が石上広高宮で即位
・498(仁賢11年):(日本)仁賢天皇の死、皇太子(武烈)が泊瀬列城で即位
●武烈天皇
・502(武烈4年):(倭国)梁の武帝が倭王武に征東将軍の号を与える(梁書)(中国)斉が滅亡、梁が建国
・506(武烈8年):武烈天皇の死
●継体天皇
・507(継体1年):大連の大伴金村らが男大迹王を迎えることを議する。男大迹王(継体)が河内樟葉宮に即位
・512(継体6年):百済の請によって任那の4県を割譲する。
・527(継体21年):筑紫国造磐井が火・豊2国に拠って反乱を起こす
・528(継体22年):物部麁鹿火羅が磐井を筑紫御井郡に斬る
・529(継体23年):継体天皇の死
●安閑天皇
・535(安閑2年):筑紫など諸国に屯倉をおく。安閑天皇の死
●宣化天皇
・535(宣化1年):宣化天皇の即位
・537(宣化2年):大伴金村大連の子の磐と狭手彦が任那を救援
・538(宣化3年):百済聖明王が仏像と経綸を送り、仏教が正式に伝わった(上宮聖徳王帝説など)
・539(宣化4年):宣化天皇の死。天国排開広庭命(欽明)の即位
●欽明天皇
・540(欽明1年):大伴金村が任那の4県割譲問題で引責引退する。
・541(欽明2年):百済に命じて任那を復興させる
・546(欽明7年):百済が進貢する
・531(欽明12年):百済が高句麗を討って漢城をとり、平壌を攻めて6郡の故地を回復
・552(欽明13年):天皇が仏像礼拝の可否を群臣に問う。蘇我稲目が自分の家を寺とする。物部尾輿が仏像を難波の堀江に投じる。
・554(欽明15年):日本、百済両軍が新羅と戦う
・562(欽明23年):新羅が任那の官家を滅ぼす。大将軍紀男麻呂が任那に渡り新羅と戦う
・570(欽明31年):大臣蘇我稲目の死
・571(欽明32年):欽明天皇の死
●敏達天皇
・572(敏達1年):敏達天皇の即位
・576(敏達5年):豊御食炊屋姫尊(後の推古)を皇后とする
・581(敏達10年):(中国・隋・陳)楊堅が隋を建国、北周の滅亡
・584(敏達13年):蘇我馬子が自宅に仏殿を造る
・585(敏達14年):物部守屋が寺を焼き仏像を堀江に投じる、敏達天皇の死
●用明天皇
・585(用明1年):橘豊日尊(用明)の即位
・587(用明2年):用明天皇の死、蘇我馬子が穴穂部皇子を殺し、物部守屋を滅ぼす。
●崇峻天皇
・587(用明2年):崇峻天皇の即位
・588(崇峻1年):蘇我馬子が法興寺を建立
・591(崇峻4年):兵2万をちくしに進め、新羅・任那に使いを遣わす。
・592(崇峻5年):蘇我馬子が東漢直駒に天皇を殺させる。敏達天皇の皇后額田部皇女(推古)が豊浦宮に即位
●推古天皇(摂政:聖徳太子)
・593(推古1年):厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とし朝政を摂らせる。
・598(推古6年):(中国・隋)隋が高句麗を討って失敗
・600(推古8年):(倭国)倭王が隋都大興(長安)に使いを遣わす。(隋書)任那が新羅と戦う。
・601(推古9年):新羅征伐を議する
・602(推古10年):来目皇子を撃新羅将軍とする
・603(推古11年):来目皇子が筑紫で病死、冠位12階を定める
・604(推古12年):聖徳太子が憲法17条をつくる
・607(推古15年):小野妹子らを「大唐」(隋?)に遣わす(倭国)倭王多利思北孤の朝貢(隋書)
・608(推古16年):小野妹子が「大唐」から使人裴世清らを伴って筑紫に到る(倭国)隋の文林郎裴清が倭国に使い(隋書)
・609(推古17年):小野妹子が「大唐」から帰る
・611(推古19年):(中国・隋)高句麗征討の詔を下す
・613(推古20年):(中国・隋)隋が再び高句麗を討つ(撤退)
・614(推古21年):犬上御田鍬らを「大唐」に遣わす(中国・隋)隋が高句麗を討つ(撤退)
・618(推古26年):(中国・唐)煬帝が殺される、李淵の即位、唐の建国
・621(推古29年):(中国・唐)唐が夏・鄭・梁・呉を滅ぼす
・622(推古30年): 厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)の死
・626(推古34年):蘇我馬子の死、その子蝦夷が大臣となる
・628(推古36年):日食が見える、推古天皇の死 (中国・唐)唐が中国統一を達成
●舒明天皇
・629(舒明1年):舒明天皇の即位
・630(舒明2年):犬上御田鍬・薬師恵日を唐に遣わす(第1回遣唐使)
・631(舒明3年):百済王がその子の豊を人質として日本に遣わす
・632(舒明4年):唐が高表仁を遣わして犬上御田鍬を送らせる(倭国)倭国が唐に貢献。唐の新州刺使高表仁が倭国に(旧唐書)
・641(舒明13年):舒明天皇の死
●皇極天皇
・642(皇極1年):皇極天皇の即位 (朝鮮)高句麗で泉蓋蘇文がクーデター、専権を振う
・643(皇極2年):蘇我入鹿が山背大兄王を殺す
●孝徳天皇
・645(孝徳・〈大化〉1年):中大兄皇子らが蘇我入鹿を殺す(蘇我蝦夷自殺)孝徳天皇の即位、初めて元を立てて大化という (中国・唐)太宗が高句麗に親征する
・646(孝徳2年):改新の詔を発布
・647(孝徳3年):七色十三階の冠を定める (中国・唐)唐の高句麗遠征
・648(孝徳4年):(倭国)倭国が新羅に託して上表(旧唐書)(中国・唐)唐が再び高句麗に遠征、(朝鮮)唐が新羅の年号を廃止させ、衣冠を唐制に従わせる
・649(孝徳5年):冠十九階を定め、八省百官をおく (中国・唐)太宗の死(高宗の即位)
・653(孝徳・〈白雉〉4年):吉士長丹を遣唐大使に任じる
・654(孝徳5年):遣唐押使高向玄理らが唐に到り高宗に謁見する。孝徳天皇の死
●斉明天皇
・655(斉明1年):皇極天皇の重祚(斉明天皇)
・658(斉明4年):阿倍比羅夫が蝦夷を討伐。有間皇子が殺される。
・660(斉明6年):阿倍比羅夫が粛慎を討つ。百済の鬼室福信が救いを求め、王子豊璋を国王とすることを乞う(倭国)百済僧道探、旧将福信、周留城で反乱。倭国から故王子扶余璋を迎えて王とする。(旧唐書)(中国・唐)唐と新羅の連合軍が百濟を滅ぼす。
・661(斉明7年):天皇が百濟救援のため難波を出帆。斉明天皇の死(皇太子の中大兄の執政)
●天智天皇
・662(天智1年):百済の鬼室福信に兵器・兵糧を与える。阿曇比羅夫らが豊璋を百済に送り、王位を継がせる。(倭国)百済の遺臣らが倭国と高句麗に兵を請う(旧唐書)
・663(天智2年):百済の豊王が鬼室福信を疑って殺す。日本水軍が白村江で唐の水軍と戦って敗れる。(朝鮮)白村江の戦い、唐・新羅の連合軍が百済の遺臣と倭を破る。
・664(天智3年):唐の百済鎮将劉仁願が使いを遣わして貢献
・665(天智4年):唐使劉徳髙等の来日 (朝鮮)泉蓋蘇文の死、高句麗で内紛
・666(天智5年):百済の帰化人二千余人を東国に移す (倭国)唐の高宗の封禅の儀式に倭国も参加(冊府元亀)(中国・唐)唐の高宗が泰山で封禅する。
・667(天智6年):都を近江の大津に移す。
・668(天智7年):皇太子中大兄皇子(天智)の即位。栗前王を筑紫率とする。(中国・唐)唐が平壌を陥し高句麗を滅ぼす。
・669(天智8年):藤原鎌足の死
・670(天智9年):法隆寺が全焼
・671(天智10年):大友皇子を太政大臣に任ずる。大海人皇子が吉野に引退。筑紫君・薩夜麻らとともに唐使ら二千人が筑紫に至る。
●(弘文天皇)
・671(弘文):天智天皇の死
・671(弘文1年):大海人皇子が吉野で挙兵(壬申の乱)、弘文天皇(大友皇子)が自殺
●天武天皇
・673(天武1年):大海人皇子(天武)の即位
・679(天武7年):高句麗が貢献
・680(天武8年):高句麗が貢献
・681(天武9年):律令の制定を詔する(天武令)、帝紀と上古の諸事を記し定めさせる。
・683(天武11年):大津皇子が朝政を聴く。(中国・唐)高宗の死、中宗の即位
・684(天武12年):諸氏の族姓を改めて八色の姓を定める。(中国・唐)武大后が中宗を廃して睿宗を擁立
・685(天武13年):伊勢神宮に式年遷宮の制を定める。
・686(天武14年):天武天皇の死、大津皇子の謀叛が発覚して殺される。
●持統天皇
・689(持統3年):草壁皇子の死
・690(持統4年):皇后(持統)の即位 (中国・唐)武大后が即位し、国号を周と改める。
・692(持統6年):新羅が貢献
・694(持統8年):都を藤原宮に移す。
・695(持統9年):新羅王が王子を遣わして国政を奏請し貢献
・696(持統10年):高市皇子の死
●文武天皇
・697(文武1年):軽太子の立太子、持統天皇が譲位して太上天皇と称する。
・700(文武4年):刑部親王・藤原不比等らに律令を撰定させる(続紀)
・701(文武・〈大宝1年〉):律令の完成(大宝律令)(続紀)
・702(文武・〈大宝2年〉):大宝律の施行(続紀)、持統天皇の死(続紀)
・703(文武・〈大宝3年〉):日本の大臣朝臣真人が唐に使い(旧唐書)
・705(文武・〈慶雲2年〉):(中国・唐)則天武后の退位、中宗の復位、国号を唐に復する。則天武后の死
・707(文武・〈慶雲2年〉):文武天皇の死、文武天皇の生母阿閉皇女(元明)が即位(続紀)
・712(元明・〈和銅5年〉):太安万侶が『古事記』を撰上(続紀)(中国・唐)睿宗が玄宗に譲位
・713(元明・〈和銅6年〉):『風土記』の編纂を命じる。(続紀)
・714(元明・〈和銅7年〉):紀清人らに国史を撰ばせる。(続紀)
・715(元正・〈霊亀1年〉):元正天皇の即位(続紀)
・716(元正・〈霊亀2年〉):多治比県守を検討しに任じ、吉備真備らを留学生とする。(続紀)
・718(元正・〈養老2年〉):藤原不比等が養老律令を制定(続紀)
・720(元正・〈養老4年〉):舎人親王らが『日本紀』30巻・系図1巻を撰上、藤原不比等の死(続紀)
分離掲載:2021.7.2