(引用:Wikipedia)
前九年の役は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦いである。
1 名称の変遷
この戦争は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。ころが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。
これは源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、「奥州十二年合戦」が「後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解され、12年から3年を引き、前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説がある。また戦乱を13年間としている書物もあり、年数計算については諸説ある。
さらに、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。
2 戦いの経緯
2.1 開戦まで
陸奥国の土着で、有力豪族の安倍氏(注)は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
(注) 蝦夷のうち朝廷に帰服した陸奥俘囚の長であったとの見方が強い。また王朝国家時代に朝廷側に雇われた傭兵隊長である兵(つわもの)だったのではないかとの説や、東北地方の獣皮や砂金を大和朝廷に提供する交易の仲介者の役割があったとの説もある。
『陸奥話記』の記述によれば、永承の頃(1046年-1052年)陸奥の国奥六郡の司に安倍頼良という者があり、祖父安倍忠頼の頃から「東夷酋長」として権勢を振るい諸村落を服従させ、国司をも恐れぬ程であった、とある。
ただし、「東夷酋長」の話は『陸奥話記』でも広く知られた群書類従本には記されているものの、それよりも古い形態とみられる尊経閣文庫本には忠頼の名はなく、ただ頼良が「酋長」を自称したとしか記されていない。
これに対して戸川点は『範国記』長元9年(1036年)12月22日条に陸奥権守に任命された「安倍忠好」を頼良の父とされる安倍忠良と同一人物であるとし、忠良(忠好)父子が都から陸奥に下向してそのまま京都に帰らずに奥六郡に土着して現地の蝦夷を従えたとする「中央貴族出身」説を唱えている。
2.2 鬼切部の戦い
11世紀の半ば、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になった為、永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試み、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。この鬼切部の戦いでは秋田城介の平繁成も国司軍に加勢したが、安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭され、河内源氏の源頼義が後任の陸奥守となった。
永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。
安倍頼良は陸奥に赴いた源頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を安部頼時と改めた。また天喜元年(1053年)には源頼義は鎮守府将軍となった。
2.3 阿久利川事件
源頼義の陸奥守としての任期が終わる天喜4年(1056年)2月、源頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城(国府)に戻る為に阿久利川の河畔に野営していると、密かに源頼義の元に密使が来て、「(頼義配下の在庁官人)藤原光貞と元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た。」との情報が伝えられた。
さらに光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは安部貞任の仕返しに違いない。」と源頼義に答えた。そこで怒った源頼義は貞任に出頭を命じたが、安部頼時は安部貞任の出頭を拒否し、安倍氏と朝廷の戦いが再開されることとなった。
また、安部頼時の女婿ながら国府に属していた平永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた源頼義は永衡を殺害した。平永衡と同様の立場であった藤原経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を発し源頼義軍が多賀城に向かう間に安倍軍に帰属した。
阿久利川事件は、源頼義による謀略説の他、藤原説貞(光貞、元貞の父)など反安倍氏の在庁官人による謀略説がある。
2.4 頼時戦死
天喜5年(1057年)5月、源頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司・金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し、味方に引き入れることに成功した。
これに慌てた安部頼時は、7月に安部富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、安部富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)にて死去した。安部頼時の跡を継いだのは安部貞任であった。
2.5 黄海の戦い
源頼義は同年9月朝廷に安部頼時戦死を報告するも、論功行賞を受ける事が出来なかった。11月、源頼義は再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃した。この時の源頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。
安倍軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突(黄海の戦い)した。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、源頼義自身は長男の源義家を含む七騎でからくも戦線を離脱した。
2.6 清原氏参戦
頼義が自軍の勢力回復を待つ間、康平2年(1059年)ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく藤原経清の白札で税金を徴するほどでありその勢いは衰えなかった。とくに、国衙の兵は鬼切部、黄海の二度の敗戦で補充が思うに任せなかった。そのため、源頼義は関東、東海、畿内の武士に働きかけを行い麾下の兵力の増強に努めた。
康平5年(1062年)春、任期の切れた頼義の後任の陸奥守として高階経重が着任したが、郡司らは源頼義に従い、高階経重には従わなかったため、高階経重は帰洛して解任され、再び源頼義が陸奥守に任ぜられた。
苦戦を強いられていた源頼義は中立を保っていた出羽国仙北(秋田県)の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に「奇珍の贈物」を続け参戦を依頼したとも、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請したともいわれる。いずれにせよ、これを聞き入れた清原光頼が7月に弟清原武則を総大将として軍勢を派遣した。
この時の源頼義・清原氏連合軍の陣立ては以下の通り。
第一陣、清原武則の子である荒川太郎武貞率いる総大将軍。
第二陣、清原武則の甥で秋田郡男鹿(現男鹿市)(山本郡島、現大仙市強首との説もある)の
豪族志万太郎橘貞頼率いる軍。
第三陣、清原武則の甥で娘婿である山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武
率いる軍。
第四陣、貞頼の弟新方次郎橘頼貞率いる軍。
第五陣、将軍源頼義率いる軍、陸奥官人率いる軍、総大将清原武則率いる軍。
第六陣、吉彦秀武の弟といわれる斑目四郎吉美候武忠率いる軍。
第七陣、雄勝郡貝沢(現羽後町)の豪族貝沢三郎清原武道率いる軍。
朝廷側の兵力はおよそ10,000人と推定され、うち源頼義率いる軍は3,000人ほどであった。
2.7 厨川落城
清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。同年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。
安部貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ源頼義の面前に引き出されたが、源頼義を一瞥しただけで息を引き取った。藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首された。こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。
清原氏参戦後、わずか1ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏と清原氏の間に密約が成立し、藤原清衡の助命と引き替えの早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある(※4)。
2.8 戦後処理
康平5年12月17日(1063年1月19日)源頼義は騒乱鎮定を上奏。しかし康平6年2月25日(1063年3月27日)の除目では源頼義は意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予守となった。安倍貞任の弟安倍宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流された。このことは『平家物語』にも記述が見える。
清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任されて奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。
藤原経清の妻であった頼時の息女(有加一乃末陪)は、夫と兄の敵として戦った清原武貞に再嫁し、藤原経清の遺児(後の藤原清衡)共々清原氏に引き取られた。
ただし、源頼義が求めていた郎従10名余りに対する恩賞は出されず、これに不満を抱いた源頼義は以後も2年にわたって伊予には赴任せず、京都にて朝廷と交渉を続けることになった。
3 文献に見る前九年の役
『陸奥話記』は数々の挿話を交えて本合戦の様子を記しているが、テクストによる異同も多く、その内容を検討するには史料批判が必要である。また既存の漢籍から引き写されたとおぼしき部分も散見される。
なお、本役の性格について、『今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」等を踏まえ、蝦夷の反乱に同調しようとしたとの嫌疑を源頼義から受けたことに伴うものとの蝦夷側に立った見解が近年出されている。
4 源氏の神話化の原点としての前九年の役
「前九年の役」における源頼義・義家の戦勝は、河内源氏(※)が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。
実際、源頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となったこの戦役がある。
※河内源氏:河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。
源頼朝は源義経及び奥州藤原氏の征討に際し、自身が「前九年の役」を意識し、平泉滅亡後もさらに北上して、父祖戦勝の地「厨川(厨川柵)」へ赴き、源義家が同地で行なった鉄釘の故事を再現したと記されている。
また、後世、前九年の役の聖地とも言える「斯波郡」を領有した足利氏の分家は斯波氏を名乗り、室町幕府三管領家の筆頭格となった。
なお、江戸幕府を開いた徳川家康は河内源氏の新田氏の傍流である得川氏を自称した。
宇治拾遺物語の「白河院おそはれ給事」には、源義家の武芸が人智を超えたものであったと記されている。
5 その他
前九年の役に源氏軍に従軍していた長谷川五郎兵衛実義なる武将は芦ノ牧温泉に近い小谷(おや)という地で負傷して、その地に隠れて土着した。
前九年の役から約100年後の治承年間に長谷川の子孫は黒川(現:会津若松市)で飴屋(現:長谷川五郎兵衛)を創業したと伝わっている。
盛岡市の町名に「前九年」があるが、昭和初期に住民によって命名された、比較的新しい地名である。
(文引用:みちのく悠々漂雲の記(みちのく歴史散策街歩き -鬼切部城跡)
・永承5年(1050)、陸奥の俘囚、安倍頼良(頼時)の代に鬼首高畑に築いた城跡である。この城は前九年の役(1051~1062)の戦場となったところで、城は標高500mの広大な高原にある。
・中世の山城や近世の城とはその趣を異にし、空掘や土塁などの遺構もなく、北は軍沢川、東は荒雄川を見下ろし、西と南は奥羽山脈につづく天険を利用した要害である。
・城跡への上り口に、中世の山城の様相が見られるが、それはまったくの自然の地形のようだ。上りきると広々とした高原状の平地になり、雄大な光景が広がり、城域などは定かではない。
・勝者側の編纂による陸奥話記には
「六箇郡の司に安部頼良なるものあり、是同じき忠良の子なり、父祖忠頼東夷の酋長として威風大いに振い、村落皆服し、六郡に横行す」
とある。
・そして奥六郡を超えて栗原、玉造、賀美郡の山地にまで勢力を拡張した。
「貢賦を輸せず、徭役を勤めず、代々驕奢振る舞い・・・・」
となり遂に国司藤原登任がこれを討伐することになった。
・永承6年(1051)、藤原朝臣登任は数千の兵を発した。出羽の秋田城の介平朝臣重成を前鋒として、藤原登任は後続となりこれを攻めた。安倍頼良は、諸部の俘囚を糾合して、これに対し鬼切部を戦場として戦った。朝廷の軍は各地で敗れ、死者は甚大で、登任は都に逃げ帰った。
・この鬼切部の戦いを契機にして前九年の役が始まった。
・安倍頼良の子の貞任、宗任もこの地を根拠地として国府に従わなかったので、陸奥守鎮守府将軍源頼義は長子義家に征伐させた。義家は花淵山から攻め、矢館の柵を落とし鬼切部城に安倍一族を敗走させたと伝える。
(文引用:Wikipedia)
阿久利川事件(あくとかわじけん、あくりかわじけん)は、前九年の役中の天喜4年(1056年)に源頼義の部下が阿久利川畔の野営において何者かに夜襲を受け、人馬が殺傷された事件。前九年の役長期化の原因のひとつとなった。
〇経緯
11世紀、陸奥国における安倍氏 (奥州) の勢力拡大は著しく、次第に独立の気配を見せており、安倍頼良の代には朝廷への貢租を怠る状態となった。これに危機感を覚えた朝廷は、陸奥守の藤原登任に安倍氏討伐を命じる。
永承6年(1051年)、国府多賀城を発した討伐軍だったが、安倍軍は鬼切部 (鬼首とも。現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首高畑付近) で迎撃し、これを敗走させる。 藤原登任の敗北を受け、朝廷は同年中に、武家である源頼義を代わりとして東下させた(この時点での頼義は陸奥守のみの任官であり、鎮守府将軍任官は天喜元年(1053年)とする見解が近年では有力である)。
源頼義着任間もない永承7年(1052年)、上東門院藤原彰子の病気平癒祈願の大赦布告が発せられ、罪を免ぜられたこともあり、頼良は源氏の棟梁である源頼義に服従し、名を頼時と改め忠勤を約した。
天喜4年(1056年)源頼義の任期が終わる頃のある日、鎮守府(胆沢城)から国府多賀城に源頼義が帰ろうとして阿久利川(磐井川?・一迫川)畔に野営した際、頼義のもとを密使が訪れ、頼義の部下の藤原光貞、藤原元貞が夜襲を受けて人馬に損害が出るという事件があったことを告げた。
そこで頼義が藤原光貞を呼び出して心当たりの犯人を尋ねると光貞は「安倍頼時の長男、安倍貞任が光貞の妹を妻にしたいと願ったが、光貞はいやしい俘囚にはやらぬと拒んだのを逆恨みしての襲撃以外考えられない」と申し立てた。
これを聞いた源頼義は大いに怒り真相を確かめることもなく、安倍頼時に命じ、息子の安倍貞任を出頭させて処罰しようとしたが、安倍頼時は父親として「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」とこれを拒絶した。
〇藤原経清の離反
この時点で国府の将として衣川の南にいた平永衡と藤原経清は源頼義に従っていたが、2人とも安倍頼時の婿であり微妙な立場であった。
この時に平永衡は陣中できらびやかな銀の兜を着けているのでこれは、敵軍への通牒でないかと平永衡を誣告するものがあり、これを信じた源頼義によって永衡は殺された。
身の危険を感じた藤原経清は、国府襲撃の偽の情報を流して源頼義軍が多賀城へ急行している間に安倍頼時の軍に帰従した。
この離反のため一時国府の政令がおぼつかなくなるほどで、前九年の役平定に時間を要することとなった。
〇陰謀説
『陸奥話記』によると、安倍頼時はこの事件の直前も源頼義を饗応しており、間もなく任期が切れて京へと戻る源頼義を敢えてこの時期に刺激する意味は無い。
このことから、この事件は源頼義か藤原説貞(光貞、元貞の父)が安倍頼時の暴発を狙って仕掛けた罠であろうとの説が根強い。
〇所在地
早稲田大学名誉教授であった吉田東伍の『大日本地名辞書』によると、胆沢鎮守府と宮城(原文ママ)国府の間にある川の名とし、後世に伝えずとある。
が、吉田は仮定としながらも名前の相似点から、磐井川付近の岩手県一関市赤荻(阿古幾)とした。岩手大学教授高橋崇もその著作の中で「阿久利川(あくりがわ)未詳宮城県北部か」としている。
長年地域同定が出来なかったが、近年あくりでなく、利根川の利の様にあくとと呼ぶのではとの東北大学名誉教授高橋富雄の研究成果で、現在の宮城県栗原市築館と志波姫の境の一迫川畔の「阿久戸」という地域が比定地として有力である。付近には、伊治呰麻呂の居城・伊治城があり、国の史跡として発掘調査が進んでいる。
作業中
(引用:Wikipedia)
黄海の戦い(きのみのたたかい)は、1057年(天喜5年)11月に陸奥国・黄海で行われた前九年の役における合戦である。
〇概要
安倍氏の俘囚長であった安倍頼時が1057年(天喜5年)7月に戦死して、安倍貞任が後を継いだ。
同年11月、陸奥守・源頼義は多賀城の国府軍1,800を率いて安倍氏を討つべく出陣したが、厳しい雪の中で行軍は難航し、食糧にも不自由する有様であった。一方の安倍軍は国府軍の進軍路を完全に把握し、地の利も生かして優位に立った。
両軍の戦いは安倍軍が圧勝し、国府軍は数百の戦死者を出した。30年来の家臣の佐伯経範を初めとして有力な家人が討ち取られるなど源頼義は壊滅的な敗北を喫し、自身も息子の源義家を含む供回り6騎で命からがら安倍軍の追跡から逃れた。
この戦いの後暫くは国府を凌いで安倍氏が奥六郡の実権を握ることとなった。
(引用:Wikipedia)
〇概要
厨川柵(くりやがわのさく)は、岩手県盛岡市の西にあったと言われている。俘囚と言われる豪族安倍氏が築いた勢力範囲最北の居館である。
衣川柵などと並び、安倍氏の重要拠点であった。「厨川」は、中世から近世には栗谷川、栗屋河とも記された。河川の合流点付近にあり、約10mの断崖絶壁の自然要塞上にあったとも伝えられる。
所在地は広範囲にわたるとも見られ、明確ではない。現在の岩鷲山天昌寺(盛岡市天昌寺町)のある天昌寺台地が中核部として有力視されるが、農地化・宅地化による地形の変化、度重なる河川の流動により未確定である。
昭和56年(1981年)以後に推定地域の発掘調査が行われたが、安倍氏の柵跡であるという確証は得られていない。
〇沿革
厨川柵は、平安時代の奥六郡のうちの岩手郡に存在した安倍氏の柵の一つで、現在の岩手県盛岡市の西方にあったと考えられている。その範囲は現在の通称「館坂」以西、盛岡市天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られていた。
旧地形では天然の要害を形成する小河川や沢の痕跡が見られることから、現在の曹洞宗岩鷲山天昌寺(※)を中心とする里館遺跡がその中核であったと推定され、里館遺跡が厨川柵、北東約800mにある安倍館遺跡(盛岡市安倍館町)が「嫗戸柵」として、一連の柵を形成したと考えられていた。
※天昌寺:天昌寺は盛岡で唯一の安倍氏系の寺で900有余年の歴史があると伝えら、前九年の役で敗れた安倍氏一族郎党の菩提を弔う。厨川柵の有力な擬定地
昭和56年度(1981)以後の発掘調査では、里館遺跡も安倍館遺跡も、鎌倉時代以後の工藤氏の城館跡であることが明らかとなった。また近年、平安時代土器の研究が深化し、安倍氏、清原氏の時代の土器様相が明らかになってきた。里館遺跡および安倍館遺跡においても、この種の土器は確認されていない。
盛岡市厨川地区(旧厨川村)に隣接する、岩手郡滝沢村大釜地区では、安倍氏時代の土器を出土する遺跡が2か所確認されており、厨川柵や嫗戸柵の究明には、対象範囲を拡げる必要がありそうである。
厨川柵は安倍頼時の次男安倍貞任が拠点とした。よって安倍貞任は「厨川次郎」を名乗った。前九年の役において源頼義ら朝廷軍との最終決戦場となり、安倍氏の勢力はここで滅んだ。
安倍氏滅亡後、奥六郡は清原氏の所領となり、さらに安倍氏の血を引く奥州藤原氏の支配下となる。岩手郡は奥州藤原氏の一族「樋爪氏」が所管したと考えられている。
文治5年(1189年)源頼朝が奥州藤原氏を討ち、奥州を平定した。源頼朝は父祖による安倍氏追討以来の先例にならい、厨川を訪れ、戦功のあった工藤小次郎行光を岩手郡地頭に任じた(『吾妻鏡』)。
厨川工藤氏は厨川を拠点に岩手郡を統治し、「岩手殿」と呼ばれた。工藤行光は伊豆の御家人とされているが、甲斐国の工藤氏一族という説もある。
また源頼朝の命に拠り、一帯の精神的支柱である岩手山を神格化した「岩鷲山大権現」の大宮司となり、安倍氏が厨川柵に祀っていた祈願所を継承した。
阿弥陀・薬師・観音の祭祀権を掌握し、名実共に当地の支配者となった。この祈祷所が現在の「曹洞宗岩鷲山天昌寺(かつての天台宗岩鷲山天晶寺)」に相当する。天昌寺には、栗谷川家の墳墓が現存する。
南北朝対峙争乱のさいに北朝方につき、三戸南部氏により地頭職を停止され、近郊10ヵ村を領知するに至ったが、厨川(栗谷川)氏は南北朝期以後も有力氏族との婚姻を重ね、最終的には南部家の家臣に組み込まれていった。天正20年(1592年)、「諸城破却令」により厨川城は廃城された。
現在、安倍館遺跡に見られる濠跡は、この「厨川(栗谷川)城」の遺構であり、工藤氏が司った時代のものと考えられている。北上川と雫石川の合流点以北、現在の盛岡駅以北はかつての「厨川村」であり、旧名で上厨川(盛岡市西部)、下厨川(盛岡市北西部)に分かれる。なお、盛岡城築城のとき御菜園(盛岡市菜園地区)も、かつては厨川であったが、北上川改修により城下に組み入れられた。
作業中
追加開始:令和3年1月18日