トップ 歴史散歩への誘い

東北①青森 東北②岩手 東北③秋田
近畿①奈良 近畿②大阪 近畿③京都 近畿④兵庫 近畿⑤和歌山 近畿⑥滋賀
中国①岡山  ※九州地域については〔古代史の謎③④⑤⑥〕参照

歴史散歩への誘い(近畿)①


奈良県の歴史散歩


 奈良県での2度の勤務で、通算3年半を過ごし、奈良市内、山辺道近辺、明日香地方、葛城地方、吉野等を訪れる機会がありました。

 このページでは、主として古代統一国家成立に関連する史跡・名所を中心に取り上げてみました。


1 奈良県の観光

2 古代遺跡

(1)唐古・鍵遺跡 (2)纏向遺跡 (3)纏向遺跡関連(穴師坐兵主神社)

3 山の辺の道

 (1)大和の古道(2)山の辺の道

(3)山辺の道沿線の名所・旧跡(大神神社・石上神宮) 


1 奈良県の観光


〇4つのエリアと人気の施設(引用:なら旅ネット・観光

 

●生駒・信貴・斑鳩・葛城エリア(抜粋)

 ・法隆寺/信貴山朝護孫子寺/宝山寺/葛城坐一事主神社/松尾寺

 

●山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア(抜粋)

 ・長谷寺/曽爾高原/あすかいちご狩りパーク/大神神社/橿原神宮

 

●吉野路エリア(抜粋)

 ・金峯山寺/吉野山/天河大辨財天社/榮山寺/御船の滝

 

●奈良エリア(抜粋)

 ・若草山/春日大社/東大寺/薬師寺/興福寺

 

〇奈良県の観光マップ

奈良県観光マップ 奈良公園観光マップ 山の辺の道観光マップ 明日香村観光マップ


2 古代遺跡


(1)唐古・鍵遺跡


(引用:Wikipedia

 唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代環濠集落遺跡

 

   

             唐古・鍵遺跡史跡公園               復元楼閣

(写真引用:Wikipedia)

1 概要 

 現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。1901年(明治34年)、高橋健自『大和考古雑録』の中で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した事を始め、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。1999年(平成11年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。

2004年(平成16年)11月24日、田原本青垣生涯学習センター2階に「唐古・鍵考古学ミュージアム」を開設し、出土品などの展示を行っている。

 2018年(平成30年)に周辺が唐古・鍵遺跡史跡公園として整備された。また同時期に「道の駅レスティ唐古・鍵」が開業している。

2 遺跡の変遷

2.1 弥生時代前期

● 集落の形成

・遺跡北部・西部・南部の小高い丘に居住域が形成される。

・各居住区はおよそ150×300メートルの範囲を有していた。そこからは、多数の鍬や鋤の農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢などの容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。この期の石包丁の石材は遺跡の南方6キロにある耳成山からの流紋岩であった。原石から石包丁までの製作の過程のものが出土している。このようなことから、この集落の形成時期から様々な道具を造り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定されている。

・弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が検出されている。この建物は、西地区の中枢建物と推定。

2.2 弥生時代中期

 ●集落の分立(中期初頭)

・3か所の居住域周辺に環濠が巡らされる。

・西部居住域で大型建物の建築。

●集落の統合(中期中葉)

・3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し、一つの居住域に統合する。(長径約500メートル、短径約400メートルの不整円形)

・内側の環濠は幅8メートル以上、その大環濠を囲むように幅4~5メートルの環濠が4~5重に巡らされる多重環濠。これらの多重環濠群は居住区の外縁を幅150~200メートルで囲み、環濠帯を形成している。各居住区の内部は未調査であるが、村の西南部に河内や近江、紀伊など各地の搬入土器が多く出土する市的な場所、また、南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡、北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土する所などがあり、各種工人の居住の場所と推定される。南地区の中央部に高床建物がたっていた可能性が高く、中枢部と考えられる。このようなことから大環濠内では、各種の機能別に区画されていたと考えられている。

●中期後半

・楼閣などの建物・動物・人物の絵画を土器に描く風習の確認。

・洪水により環濠が埋没。

2.3 弥生時代後期

 ●集落の発展

・中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。

・集落南部で青銅器の製作。

2.4 古墳時代前期

 ●集落の衰退

・大環濠の消滅。

・環濠の一部再掘削。弥生時代を通しての環濠集落を放棄したにもかかわらず、古墳時代の初めに再度環濠集落をも形成する。ここに唐古・鍵遺跡の特徴があると、考えられている。

・弥生時代前期と同様に、三個所の地区(西・北・南)を中心に居住遺構が検出されている。次の時期には遺構数も増加する傾向にある。

・井戸などの遺構が減少していることから、居住域が規模が縮小していることがわかる。

2.5 古墳時代後期以降

 ●集落の消滅

・遺跡中央部に前方後円墳が造られ、墓域となる。

●中世

・唐古氏・唐古南氏・唐古東氏の居館がつくられる。

・唐古南氏の居館周辺は、現在の鍵集落へと発展。

●江戸時代

・唐古・鍵池が造られる。

・遺跡周辺が水田となる。

3 発掘調査

 1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて、唐古池から道路工事用の泥土を採取した折に土器や木片などが発見された。1937年(昭和12年)に発掘調査が行われて以降、間に中断はあるものの5期で100次以上の発掘調査が行われ、多数の竪穴と土器や石器などが発見された。

3.1 主な遺構

・弥生時代中期初頭の大型建物跡を検出。

・銅鐸の工房跡ではないかとみられる弥生時代の青銅器鋳造炉跡の検出。

 ・北地区から弥生時代前期の木棺墓を2基検出。

 ・井戸跡

 ・大環濠帯跡

 ・南地区東南部側の環濠付近から大環濠集落成立以前(弥生時代中期初頭)の方形周溝墓。

3.2 主な遺物

・大阪府西部・滋賀県南部・三重県から愛知県西部・岡山県南部など各地の搬入土器が出土。

・木棺墓1基から弥生人の成人男性の人骨を検出。

・絵を描いた土器が多数出土。そのうちの二つの土器の破片に「楼閣」が描かれている。楼閣とは、2階建て以上の高い建物のこと。巻き込んだ屋根飾りを付けた建物が6棟あり、格式の高い建物である。その中でも「楼閣」は巻き込んだ屋根飾りがたくさん付いているので一番格式の高い建物であることが推測できる。建物の絵を描いた土器は西日本の各地で46例見つかっており、そのうち15例がこの遺跡から出土した土器で、屋根飾りを付けた建物の絵はこの遺跡で6例、隣村の清水風(天理市)で1例あるのみ。

・絵画土器 - 弥生土器にヘラ状の道具で描いた線刻画。弥生時代後半、近畿地方を中心に出土する。最多出土が本遺跡で300点。次いで清水風遺跡約50点。祭祀用の土器と考えられている。水壺・酒壺などの液体貯蔵用土器に描かれている。画題は、建物・人物・鹿など。

・大型勾玉が2個入った褐鉄鉱(かつてっこう)容器が出土。

・ヒスイ製勾玉(新潟県糸魚川市周辺のものが原料)

・石庖丁(いしぼうちょう)

・木製農耕具

・埋没古墳の検出。前方後円墳

・動物遺体(イノシシ、イヌ、ブタ)

・銅鐸片・銅塊・銅滓・鋳型の外枠・送風管・被熱土器片。


(2)纏向遺跡


 纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。

 3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。

 

纏向遺跡(引用:Wikipedia)

1) 概要

 

 遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。

 

 2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km2になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km2(300万m2)に達する。

 

 地勢は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。縄文時代に土石流の流れ込みがあり被害があった事が確認されている。そのためか、遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみである。

 

 この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されている。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。

 

 纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者から、邪馬台国の最有力候補地ともされる。2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある。

 

 ただし年代推定には技術的に誤差が大きく、また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと古墳時代のものが見つかることが多いので、纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できないことに注意する必要がある。石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

 

 飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨書された土器も検出されている。

遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定された。

 

2)発掘調査

 

 纒向遺跡は1937年(昭和12年)に土井実によって「太田遺跡」として『大和志』に紹介されたのが最初である。現在の名称で呼ばれるまでは「太田遺跡」・「勝山遺跡」として学界に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され、特に注目を集めていなかった。

 

 しかし、炭鉱離職者の雇用促進のための県営住宅建設および小学校建設計画が持ち上がり、それを契機に1971年(昭和46年)より橿原考古学研究所によって事前調査が行われることとなった。その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が検出され、地元の万葉研究者である吉岡義信らが『万葉集』に登場する「巻向川」の跡ではないかと述べたことから、注目を集めることとなった。

 

 川跡からは、吉備の楯築遺跡や都月坂遺跡で出土している特殊器台が出土した。その後も、橿原考古学研究所の石野博信と関川尚功を中心に発掘調査がなされ、様々な遺構や出土品が広範囲にわたり確認された。1977年(昭和52年)の第15次調査以降は、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在も調査を継続しており、調査回数は100次を超えている。2008年(平成20年)12月段階でも、遺跡は全体の5%が発掘調査されたにすぎない。

 

 2009年(平成21年)にはいくつかの建物を検出し、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきた。

 

 纒向遺跡発掘に携わった奈良県桜井市教育委員会は、遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2,000個が見つかったと2010年(平成22年)に発表した。桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかったと発表した。

 

2.1) 主な検出遺構

 

 唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模であるとする。また、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。

● 矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、「北溝」「南溝」と称される。

 ・南溝:箸墓古墳の突出部先端付近の巻向川から北西方向の現纒向小学校方向に延びる。

  水源は箸墓古墳周濠。濠の背後に国津神社があり、現在の巻向川に到達する。

 ・北溝:北東の旧穴師川から南西方向に延びる。水源は旧巻向川である。

 両溝の合流地点は纒向小学校グラウンドの中にあり、推定2,600mにおよぶ。これは大和川と通じており、遠く外海へと結ばれている。

●底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3m・深さ約1.5mの一方が突出する不整形な円の土坑が約150基検出された。

●掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23m2の建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立柱建物17棟検出)

●竪穴式住居

 ただし、竪穴式住居は多くなく、高床式建物が建ち並んでいたものと考えられる[1]。

●弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝

●導水施設跡(宮殿の排水施設か)

●祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)

●製鉄跡 - 「ツクシ型送風管」を伴う鍛冶遺跡。畿内で鉄が精錬された4世紀後半のものと推定される。

●集落をめぐる柵

●遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群)

 また、地上では確認できない埋没古墳が地中に多数埋蔵されている可能性がある。

 

2.2) 主な出土遺物

 

 弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土しており、出土した弥生土器・土師器により纒向編年がなされている。それによれば、弥生土器第V様式(纒向1類)、庄内式土器(纒向2類・纒向3類・纒向4類)、布留I式(纒向5類)の5期に時代区分がなされている。しかし年代についてはC14年代測定法によるもので100年以上古く推定されている可能性がある

 

●朱色に塗った鶏形木製品

●吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組み合わせて文様を施した「弧文円板」と呼ばれる木製品。

●絹製の巾着袋 しかし絹が畿内で生産されるようになったのは4世紀以降である。

●瓦質土器(1996年(平成8年)に土器片の出土。胎土成分組成の分析により、2001年(平成13年)に国内で類例のないものであることが確認され、朝鮮半島の技術で作られたものと判明した)

●ミニチュアの舟

●木製鏃

●石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品

●多数の搬入土器(外来系土器)

 

 しかし、銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。 

 

  日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。[1][6]。

 

2.3)纒向遺跡の主な古墳

 

・纒向石塚古墳 ・纒向勝山古墳 ・纒向矢塚古墳 ・東田大塚古墳 ・ホケノ山古墳 ・箸墓古墳

 

2.4)特異な遺跡

 

 纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多い。

 

 辻・トリイ前地区でほぼ南北に2×3間の掘立柱建物とその南に東西に並ぶ柵列が、太田南飛塚地区で家屋倒壊遺構が、巻野内家ツラ地区で1×1間の小家屋と2×2間の総柱の建物が検出されている。このほか太田メグリ地区では、掘立柱建物が17棟が東田柿ノ木地区・太田飛塚地で竪穴住居跡が検出されている。

 

 石野博信によれば、「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」である。

 

3 遺跡の特徴

 

・弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡である。

 

・当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡である。

 

・遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っており、ヤマト王権最初の大王墓である。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。

 

・倭迹迹日百襲姫命は、一説に邪馬台国の女王・卑弥呼とされる。しかし、本遺跡からは卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない。また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない。

 

・肥後和男は大正時代の笠井新也の見解を紹介している。それによれば、笠井は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇にあてた。

 その根拠は、

①崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い。

②モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ているとする。

③モモソヒメは崇神天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)から見れば甥と弟ほどの誤りは許されるであろうというものであった。

 

 この説に対しては懐疑的な意見も多いが、考古学者のなかには最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳であることから箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの白石太一郎らの見解がある一方、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、『魏志』倭人伝の「卑彌呼死去 卑彌呼以死大作冢 徑百余歩」の記述があるが、魏志倭人伝使われている短里の場合古墳の大きさは30m前後となり、箸墓古墳は大きすぎることになる。さらに、魏志倭人伝では古墳の大きさは径で記されていることから、円墳かそれに類似したものと考えられ点も異なる。

 

 3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。

 

 祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達しするが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。

 

 2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられる。

 

 一方で、関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。  

 

3.1)ヤマト王権の王都

 

 寺沢薫は、「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」の中で、纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている。

①3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。

②搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた。

③生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。

④導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。

⑤居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。

⑥鉄器生産。(纒向遺跡では鉄器は見つかっていない)

 

 また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されている。

 

 寺沢はこのように述べた後、「このような考古学的・文献学的特徴をトータルに備えた巨大な集落は、三世紀の日本列島には他に存在しない。とすれば。三世紀の纒向遺跡こそが、『ヤマト王権』と呼ばれる列島最初の王権の都宮が置かれた都市であった可能性がきわめて高いといえる」と結論付けている。

 

 石野博信もまた、大和川につながる護岸工事の施された大溝や祭祀場が検出されたこと、また、近畿以外の諸地域からもたらされた土器が異常に多いこと、そして、これらの土器の構成から纒向には少なく見積もっても5人に1人はヤマト以外のクニグニからやってきた人々であろうと推定されることを論拠として、決して自然発生的なムラではなく、人工的に造られた都市であるとしている。

 

 また、次のような指摘も、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都であるとの見解を補強している。

・周囲には5世紀の雄略天皇の長谷(泊瀬)朝倉宮、6世紀の欽明天皇の師木(磯城)島大宮(金刺宮)などの宮もみられる。

・『万葉集』にも纒向の地名を詠んだ歌が数多く収録されている。

 

3.2)前方後円墳発祥の地

 

 遺跡内に所在する箸墓古墳は、一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとする説がある。寺沢薫は、纒向石塚古墳など箸墓古墳に先立つ纒向古墳群に属する墳丘墓を「纒向型前方後円墳」の概念を用いて捉え、これらを出現期古墳に位置づけている。


(3)纏向遺跡関連:穴師坐兵主神社


穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。元は穴師坐兵主神社上社)(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(下社)(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。

(引用:Wikipedia)

 元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命(※)が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。※倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。

※「倭姫命」:第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えている。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、これが制度化されて後の斎宮となった。(引用:Wikipedia)

 祭神の「兵主神」(※)は現在は中殿に祀られ、を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

 巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

※「兵主神」:武神,軍神として,各地にある兵主神社に祭られる神。実際に祭られるのは大貴己神,素戔嗚尊などの神だが,兵主神の名は『古事記』『日本書紀』にまったく登場せず,『日本三代実録』(901年成立)にみえる例が最初であること,『史記』封禅書に載せる諸神の中に「兵主」という神(山東半島の八神の一つ:蚩尤)がみえることなどから,これは日本固有の神ではなく中国の「兵主」に由来する外来神ではないか,とする説もある。また,『延喜式』神名帳には19の兵主神社が出ているが,但馬国(兵庫県北部)にある7社を中心にして,山陰地方に集中することが指摘されている。(引用:朝日日本歴史人物事典の解説(佐佐木隆))(補足)『史記封禅書』の八神に、天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主があり、兵主は蚩尤、黄帝と戦った軍神で、兵器の創始者である。 

(参照:大兵主神社

  上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)にそれぞれ正五位上(穴師坐兵主神社)、従五位上(巻向坐若御魂神社)の神階が授けられた。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命(※)という説がある。

※「天日槍命」:アメノヒボコは、記紀等に伝わる新羅の王子。父は新羅第4代国王脱解王(脱解尼師今)とされる。『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。『日本神話』・『古事記』等では帰化人、『播磨国風土記』では神と位置づけて記述される。アメノヒボコ曰く、父の国を探しに日本に訪れたとされる。なお、父親に当たる脱解尼師今は、『三国史記』によれば多婆那国の王妃の子とされ新羅へ渡来し新羅王となった。多婆那国は但馬・丹波地方とする説が有力であり、アメノヒボコも同地域に上陸している。(引用:Wikipedia)

 中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。

(2020.9.23追記)


3 山の辺の道


(1)大和の古道


(引用:Wikipedia

 〇大和の古道

 大和の古道とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたものをいい、

 ・奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道。山辺の道

 ・奈良盆地の中央より東を南北に平行する三本の縦貫道。上ツ道(かみつみち)中ツ道(なかつみち)

  下ツ道(しもつみち)。また、これを「大和三道」ともいう。

 ・奈良盆地の中央と南部を東西に平行する二本の横断道。横大路(よこおおじ)北の横大路

 ・奈良盆地の中央部を斜め(北北西-南南東方向)に通る道。筋違道(すじかいみち)

 などがある。

 

 

     

        大和の古道                山辺の道

                        赤線:景行天皇陵~檜原神社 青線:檜原神社~海柘榴市

 

 1)上ツ道・中ツ道・下ツ道概要

 

 南北にまっすぐ通る三道は、ほぼ4里(一里 = 531メートル、四里で約 2120 m)の等間隔をなしており、東から順に上ツ道、中ツ道、下ツ道と平行に並んでいる。現在でも形跡が残っている箇所も多く存在する。三道の敷設年代については、『日本書紀』孝徳天皇の白雉4年 (653年) 六月条に「処処の大道を脩治(つく)る」とあることなどを勘案して7世紀半ば頃に敷設されたと推定されている。また、『日本書紀』によれば、壬申の乱の奈良盆地での戦闘記事には、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前には完成していたことが知られる。

 

 三道の目的については、よく分かっていない。7世紀に飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われた。とりわけ斉明朝には、巨大な建築物や山をも取り込んで石造の巨大施設が作られており、その材料の運搬のための道路であるとも考えられる。また、壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないか、とも推測されている。

 

1.1)上ツ道

 

 上ツ道は桜井市から奈良盆地東端の山沿いを北上して、天理市を経て奈良市中部(猿沢池)に至る古道。古墳時代には物部氏の西山古墳と南では箸墓古墳を結んでいたのではないか。近世では上街道と呼ばれた。現在では伊勢街道、長谷街道などとよばれている。

 南は桜井市仁王堂で横大路と交わり、更にその先は山田道を経て飛鳥へと通じている。また、櫟本(天理市)で「北の横大路」と交わっている。

 

1.2)中ツ道

 

 中ツ道は、上ツ道と下ツ道の間約2.1 kmの所を平行して通り、橿原市の天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る直線道である。道筋は現在の奈良県道51号天理環状線と概ね合致・平行している。南は藤原京の東京極をなし、北ではのちの平城京の東京極となった。更に南は香具山を迂回し橘寺へ至るため、近世は橘街道と呼ばれた。中ツ道また飛鳥の中心部を通っている。

 

 南の延長線上に「ミハ山」があり、『万葉集』 (13-3230) にも詠まれている。その「ミワ山」が「神名火山」で、「神岳」である吉野に通ずる道しるべであるかも知れない。更に南下すれば芋峠を経て吉野に至る。近江朝廷を脱出した大海人皇子は、この中ッ道を通って吉野の嶋宮に入ったと推測されている。

 

 平安時代には吉野詣で賑わい、御堂関白記には藤原道長もこの道を経て吉野へ向かったと記されている。他の道に比べれば形跡はあまりはっきりと残っておらず、途切れがちな印象である。

 

  2013年5月11日に、中ツ道の遺構とみられる跡が発見されたと、調査した奈良県立橿原考古学研究所が発表した。天理市喜殿町の県道拡幅に伴う調査で、幅約2.2 m、深さ約70 cmの側溝跡とみられる溝が発見され、その西側で幅約3 m、南北約15 mにわたって路面跡とみられる遺構が出土した。砂混じりの土を突き固めた舗装を行っており、側溝跡からは土器なども出土しており、それらの年代などから平安時代後期まで道路として使われていたと見られる。

 

1.3)下ツ道

 

 下ツ道は、藤原京(現・橿原市)の西京極から、奈良盆地の中央を北上し、平城京(現・奈良市)の朱雀大路となる。道幅は、両側にある側溝の中心間で22.7メートルである。橿原市大軽町と五条野町に跨る見瀬丸山古墳の周濠の西端をかすめて南進している。路面や東西の側溝は、平城宮朱雀門の下層、稗田遺跡、藤原京右京五条四坊などで検出されている。7世紀後半には敷設されていたと考えられている。道路の規模は34.5メートル、路面幅は18メートルで横大路(道路規模は42メートル、路面幅35メートル)に次いで広い。

 橿原市から天理市にかけては、現在の国道24号と概ね合致・平行する。近世には中街道と呼ばれるようになった。

 

2)横大路

 

  現在の桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで東西に設置された道と、生駒郡斑鳩町の法隆寺付近から天理市の櫟本まで東西に通っていた道があり、通常、横大路とは前者のことを指し、後者は「北の横大路」と区別される。

 

3)筋違道

 

 法隆寺(生駒郡斑鳩町)付近から飛鳥(高市郡明日香村)へほぼ一直線に結んでいたとされる官道。南北から北北西-南南東方向に約20度傾いて設置されているところから、筋違道と呼ばれた。斜行道(しゃこうどう)とも呼ばれた。また、聖徳太子が行き来したとされることから、「太子道」とも呼ばれた。

 

4)山辺の道

 

 山辺の道は、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の若草山に並んでいる春日山のふもとまで、盆地の東端を山々の裾を縫うように通る道である。一帯は大和青垣国定公園となっている。


(2)山の辺の道


参照:山の辺の道観光マップ

 

 山辺の道は大和の古代道路のひとつで、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の春日山のふもとまで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に通ずる古道。山の辺の道とも表記される。

 

   

        山辺の道/奈良県天理市付近     山辺の道沿いに建つ、柿本人麻呂の万葉歌碑

(写真引用:Wikipedia)

 山辺の道(やまのべのみち、古代読み:やまのへのみち、古風な表記:山辺道、旧字表記:山邊道)は、日本の古道の代表的な一つ。大和の古道の一つ。古代大和の山辺(やまのへ。山辺郡の語源にあたる地域名)に通した道である。日本史上(記録上)最古の道、日本現存最古の道として知られる。奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に走る。現代(※2010年代に確認)では「山の辺の道」という異綴を当該地域の地方自治体までもが用いているが、日本語地名「やまのへ(やまのべ)」および「山辺」を「山の辺」と綴ることは無く、歴史や地名学を踏まえた表記ではない。一方で宮内庁は古来の「山辺道/山邊道」を用いる。

 

1) 概要

 

・『日本書紀』では、崇神天皇の条に次のような記述がある。

《崇神天皇条 原文抜粋》「葬于山邊道上陵」

《書き下し文》「山辺道(やまのへのみち)の上(ほとり)の陵(みさざき)に葬さうす。」

 要するに、崇神天皇は山辺道(山辺の道)の「上」(※『上』を『ほとり』と読むなら近辺、『うへ』と読むなら、表立った所、もしくは、上)の御陵(天皇陵)に葬られたと記しているのであり、後になって書くこともできるとは言え(※目印の少ない場所を説明するための便利な表現として時系列を無視して後代の施設を目印にしてしまうことは珍しくないとは言え)、文脈どおりに読めば山辺の道が崇神天皇陵の造営以前にあったと解釈できる。

 

・また、『古事記』には、崇神天皇の条と景行天皇の条に、それぞれ次のような記述がある。 

《崇神天皇条 原文抜粋》「御陵在山邊道勾之崗上也」

《書き下し文》「御陵(みさざき)[* 3]は山辺道の勾の岡(まがりのおか)の上ほとりに在ある也なり。」

《景行天皇条 原文抜粋》「御陵在山邊道上」

《書き下し文》「御陵は山辺道の上ほとりに在り。」

こちらでは、崇神天皇陵の在り処を、山辺の道の「勾の岡」の「上(ほとり/うえ)」と記している。つまり、「上」の読み次第であるが、勾の岡という場所の近辺(ほとり)か、表立った所(うへ)、あるいは、上(うへ)にあるという。

 

・これらの記述を論拠として、山辺の道は、古墳時代の初期、4世紀の崇神天皇の時代には既に整備されていたと考えられている[2]。もっとも、弥生時代後期には既に布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道として存在していたとも推測されている。

 

・大和国曾布(そふ)/層富(そほ)(のちの奈良〈添郡[そふのこおり]東部、のちの添上郡〉、現在の奈良市中核)から石上・布留(式上郡の石上・布留、現・天理市石神町・布留町)を経て三輪(式上郡三輪、現・桜井市三輪、cf. )に通じていたとみられ、その全長は約35キロメートル、幅は2メートル足らずの小道であるが、沿道には石上神宮、大神神社、長岳寺、崇神天皇陵、景行天皇陵、金谷石仏などの多くの寺社や古墳群があり、この地に権力を握る古代国家の中枢があったことや、文化交流の重要な幹線道路であったことをうかがわせている。

 古墳時代の奈良盆地は沼地や湿地が多く、これを避けて山林、集落、田畑の間を縫うように山裾に沿ってつくられたため、道は曲がりくねっている。

 

・『日本書紀』巻第16 武烈天皇即位前紀には、政治的謀略によって乃楽山(ならやま、平城山丘陵、奈良山)で討たれた平群鮪を追う物部影媛(物部麁鹿火の娘)の悲しみを詠んだという歌が収められている。通称「影媛道行歌(かげひめ みちゆきのうた)」「影媛歌(かげひめのうた)」などと呼ばれるものである。

《原文》石上布留過、薦枕高橋過、物多大宅過、春日春日過、妻隱小佐保過、玉笥飯盛、玉碗水盛、泣沾行影媛。」

《書き下し文》「石上(いすのかみ) 布留(ふる)を過ぎて、薦枕(こもまくら) 高橋(たかはし)過ぎ、物多(ものさは)に大宅(おほやけ)過ぎ、春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ、妻隠(つまごも)る小佐保(をさほ)を過ぎ、玉笥(たまけ)には飯(いひ)さへ盛(も)り、玉碗(たまもひ)に水(みづ)さへ盛り、泣き沾(そぼ)ち行(ゆ)くも影媛(かげひめ)あはれ。」

 ここでは、石上(いしのかみ)(布留の一角)-布留(布留川流域一帯。物部氏の拠点)-高橋-大宅(おおやけ)(和珥氏支族・大宅氏の本拠。現・奈良市白毫寺町あたり)-春日(はるひ)-春日(かすが)(和珥氏支族・春日氏の本拠。現在の春日大社境内)-小佐保(奈良市法連の佐保川流域の一角)を経由して乃楽山へ到る道筋が、泣きながら歩いたとして詠い込まれているわけであるが、この道筋は山辺道の延長であろう。

 

・時代の経過とともに奈良盆地の湿地や沼地が乾燥して、平地部に直線的な道路が開かれるようになると、山辺の道を利用する人々は減少していき、しだいに西側の上ツ道が多く用いられるようになったと考えられている。

 

・三輪山近くにあった海石榴市(つばいち)は、日本最古の市が立った所といわれている。南部に古道の痕跡や景観が残り、20世紀末期および21世紀初期において、一般的にハイキングコースとして親しまれるのは、天理市の石上神宮から桜井市の大神神社付近までの約15 kmの行程で、その多くは東海自然歩道となっている。

 

・また、石上神宮から北部にも山辺の道は続いていたと考えらてれるが、長い歳月で風化が進んでしまっていることから、今日においてもその道筋の詳細はわかっていない。 

・田畑の間を抜ける際にはその眼下に奈良盆地が大きく開けており、生駒山や二上山[6]、そして葛城・金剛の連嶺を背景にした大和三山なども遠望できる。

 

1.1)起点

 

・現在のその道の起点は、海石榴市つばいち、椿市:つばきのいちである。古代には、海石榴市の八十(ヤソ)の衢(ちまた)と称されたところで、桜井市粟殿(おおどの)を中心とした地域であった。平安時代中期の延長4年(926年)には椿市観音堂付近が起点の地になった。 

 

1.2)海石榴市、椿市

・この市は、政治の中心が主として奈良盆地の東南部にあった頃、定期的に市が立って栄えた。北へたどる山辺の道の起点であり、そこに初瀬街道がT字形に合し、さらに飛鳥からの山田の道、磐余の道などの主要な街道が集まり[10]、また初瀬川を下り大和川に出る水運の河港もでき、水陸交通などの要衝の土地であった。その場所は三輪山の南、今の桜井市金屋付近である。

 

・推古天皇16年8月の条(西暦換算では608年9月頃の条[* 8])に「唐の客を海石榴市の衢に迎ふ」とあり、隋の使者は、初瀬川を船で遡り海石榴市で船を降り、市(衢)そこで出迎えられ、飛鳥の小墾田宮に入京したのであろう。路傍に「海石榴市観音道」の石の道標があり、少し離れたところに「海石榴市観音堂」がある。

《万葉集歌》「海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 立ちならし 結びし紐を 解かまく惜しも」 [10]— 作者不詳、『万葉集』巻12・2951 

 

1.3)道程

・金屋の集落を後にして三輪山の山麓を北へ行くと三輪山の神である大物主を祭神とする大神神社につく。大神神社は、日本最古の神社で大和国の一宮である。三輪山信仰は縄文または弥生時代まで遡るかも知れない。

・大神神社からさらに北の沿道には、茅原大墓古墳・景行天皇陵・崇神天皇陵・櫛山古墳・西殿古墳・東乗鞍古墳・西乗鞍古墳などの古墳群がある[5]。また、茅原大墓古墳のすぐ西側に、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳があり、古代・邪馬台国を治めていた卑弥呼の墓とする説もある[5]。古墳時代にはいると山麓地帯には墳丘長200メートルを超える巨大古墳が造られた。

・『古事記』には、「山辺道の勾の岡(まがりのおか)」の近辺に崇神天皇の陵(墳丘長242メートル)が、山辺道の近辺に景行天皇の陵(310メートル)があると記している。初期大和政権がこの地に誕生したと考えられている。

・このように両天皇の墓が「山辺道」の近辺にあると『古事記』に記されているところから8世紀の初めにはこの道が出来ており、7世紀末の藤原京時代にもできあがっていたのではないかと推測できる。

・ 現在では静寂さを取り戻しており、山裾の曲がりくねった道ではある。また、飛鳥、藤原の時代には、この海石榴市が栄えていた。 

 

2)沿線の名所・旧跡(関連Wikipediaへのリンク)

 石上神宮 内山永久寺跡 大和神社 西山塚古墳 長岳寺 伝崇神天皇陵 黒塚古墳 

櫛山古墳 天神山古墳 伝景行天皇陵 箸墓古墳 檜原神社 穴師坐兵主神社 

夜都伎神社 三輪山 大神神社 竹之内環濠集落 萱生環濠集落 磯城瑞籬宮

 

3) 沿線の施設

天理市立黒塚古墳展示館

トレイル青垣 


(3)山辺の道沿線の名所・旧跡


〇大神神社(引用:Wikipedia

 大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 旧来は美和乃御諸宮大神大物主神社と呼ばれた。中世以降は三輪明神と呼ばれる。明治時代になり「大神神社」と改名された。三輪山を神体山とする。

 

  

      三輪山(神体山)と大鳥居      二の鳥居        拝殿前の縄鳥居

(写真引用:Wikipedia)

1 概要

 大神神社は纒向・磐余一帯に勢力を持った出雲ノ神の一族が崇敬し、磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つで、神奈備信仰様式をとった神聖な信仰の場であったと考えられる。大穴持命が国譲りの時に、己の和魂を八咫鏡に取り付けて、倭ノ大物主櫛甕玉命と名を称えて大御和の神奈備に鎮座した。これが三輪神社の創始である。(『出雲国造神賀詞』)

 全国各地に大神神社・神神社(三輪神社、美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。

1.1 祭祀

 大神神社は三輪山(三諸山)を神体山として直接、拝するようになっているため本殿をもたず、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座がある。大神神社は拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。

 寛文4年(1664年)、4代将軍徳川家綱によって再建された拝殿(国の重要文化財)は棟札によると高宮範房神主の代のときに金屋の茂左衛門と手代福本又次郎を番匠棟梁とし造営されたもので、それ以前は三ツ鳥居とそれに続く瑞垣が巡るに過ぎなかった。拝殿奥にある重要文化財に指定された三ツ鳥居(三輪鳥居)は営造物の中において中枢の地位を占め、明神鳥居の形式の両脇に、脇鳥居が接続し、本柱の他、脇柱が2本、合計4本の柱があり、特異な形式のものである。

 三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、麓の山ノ神祭祀遺跡などからは、古墳時代中期以降の布留式土器や須恵器・子持勾玉・茶臼玉(竹玉)など古墳時代から奈良時代のものが出土した。

 三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。

1.2 杉玉

 例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる。これが各地の造り酒屋へと伝わった。

1.3 伊勢神宮との関係

大神神社の摂社の檜原神社(#本社周辺参照)は倭姫命が天照大神を磯堅城の神籬を立てて磯城の厳橿の本にはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の始まりの地となっている(『日本書紀』垂仁天皇段)。

2 祭神

2.1 主祭神

 ・大物主大神 おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命):大己貴神の和魂である大物主神は蛇神であると考えられ、水神または雷神としての性格を合わせ持ち、稲作豊穣、疫病除け、醸造などの神として特段篤い信仰を集めている。また日本の守護神、氏族神(三輪氏の祖神)である一方で祟りなす強力な神ともされている。

2.2 配祀神

大己貴神 (おおなむちのかみ)

少彦名神 (すくなひこなのかみ) 

2.3 三輪山伝説

  主祭神の大物主神に関係する伝説として、大神神社の付近にある箸墓にかかわる伝説が知られる。以下に概略を述べる。

 倭迹迹日百襲媛命は聡明で未来を予言することができた。崇神天皇の命により北陸道を平定しようと出発した将軍の大彦命が道中で不思議な童歌を詠う少女に出会った。大彦命はただちに引き返して天皇に報告した。これを聞いた倭迹迹日百襲媛命は武埴安彦命吾田媛の反逆を予言した。武埴安彦命らによる反乱は大彦命・彦国葺命らによって討伐された。

 その後月日は流れ、倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしか姫のところへやって来ず姿を見ることができなかった。百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった(もしくは、箸で陰部を突き命を絶った)。百襲姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を箸墓と呼んだという。

 3 歴史

3.1 創建

 記紀によれば、大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために、国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、「大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力する」と言った。この神が御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神であるという。この神を祀ったのが、現在の大神神社と思われる。

3.2 祭祀

 崇神天皇5年から疫病が流行り民が死亡し、同6年には、百姓流離し国に叛くものがあった。天皇はこれを憂慮し、祭祀によって事態を解決しようとした。同7年2月、倭迹迹日百襲媛命に憑依して、大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、その神託に従って同7年11月に物部氏の祖伊香色雄に命じ、大田田根子を河内国茅渟県陶邑(のちの東陶器村)に探し出して祭祀主とし、大物主神を祀らせた。その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が賑わった(『日本書紀』)

 なお、この大田田根子が神の子であることを知った理由として古事記では、母の活玉依毘売が処女で妊娠したことにその両親が怪しんで、赤土を床の周りにまきちらし麻糸を針につらぬいて、ひそかに通ってくるという立派な男の着物に刺すように教えたところ、朝になるとその麻糸は三輪だけを残して鉤穴を抜けており、それをたどっていくと三輪山の神の社にとどまっていた、という<処女懐胎伝説>を紹介している。

 三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある陶邑古窯址群で焼かれたとされており、このことは大田田根子が陶邑から見いだされたという伝承と一致する。

 大田田根子の子孫はのちに三輪氏(神氏(姓は君)とも)となり、さらにのちに大神氏(姓は君)・大三輪氏(姓は朝臣)となった。

3.3 古代

 国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。また、『延喜式神名帳』には「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載され、名神大社に列している。

3.4 中世以降

 中世以降、神仏習合の色濃く、三輪明神として篤く信仰された。室町時代に創作された作者不詳(一説に金春禅竹ともいう)謡曲「三輪」ではキリ(終りの部分)の詞章に「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事。いわくら(磐座・言はくら)や」の言葉(天岩戸の事)がある。

 平等寺、大御輪寺、浄願寺(尼寺)という三つの大きな神宮寺があったが、明治時代に行われた廃仏毀釈で三寺全てが廃寺となり、大御輪寺の本尊であった十一面観音像が聖林寺に移管された。

 その後、昭和52年(1977年)に平等寺は曹洞宗の寺院として再興された。神社名も神仏分離令により三輪明神から「大神神社」と改名された。この際「神」「ミワ・ミハ」と訓ませた。

3.5 現代

 明仁上皇陛下が2回参拝(皇太子時代(昭和45年)と平成26年)している。平成の参拝の折、美智子皇后陛下は毎年4月18日に催される「鎮花祭(はなしずめのまつり)」に心引かれたという。

3.6 神階

六国史における神階奉叙の記録。いずれも神名は「大神大物主神」と記される。

・嘉祥3年(850年)10月7日、正三位 (『日本文徳天皇実録』)

・仁寿2年(852年)12月14日、従二位 (『日本文徳天皇実録』)

・貞観元年(859年)1月27日、従二位勲二等から従一位勲二等 (『日本三代実録』)

・貞観元年(859年)2月、正一位勲二等 (『日本三代実録』)

4 摂末社

 境内マップ (大神神社HP)

4.1 摂社

4.1.1 本社近く(二の鳥居の内側)

高宮社:祭神:日向御子神 三輪山上に鎮座する。

狭井神社祭神:大神荒魂神 式内社「狭井坐大神荒魂神社五座」。病気平癒の神社。御神体である三輪山への登拝口が境内にある。但し、三輪山は御神体であり山そのものが神域であるため、軽率な気持ちで入山することは出来ない。(明治に渡るまで「神域」として一般の入山禁止であった。)登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、それを了承した上で登拝することが義務づけられている。なお、入山中は撮影・飲食は禁止である。

活日神社祭神:高橋活日命 崇神天皇の時代に大神神社の掌酒を務めた名人を祀る。記録に残る日本最初の杜氏であり、酒の神として知られる。

・磐座神社:祭神:少彦名神 三輪山周辺に点在する辺津磐座(神が鎮まる岩)の中心である。

・市杵島神社:祭神:宗像大神の一柱、市杵島姫命を祀る。

 

  

       狭井神社           活日神社          磐座神社

(写真引用:Wikipedia)

4.1.2 本社周辺

 大直禰子神社(若宮社):祭神:大直禰子・少彦名命・活玉依姫命 明治の廃仏毀釈までは大御輪寺と呼ばれた、三輪明神の神宮寺の一つであり、桜井市の聖林寺にある国宝十一面観音菩薩立像が安置されていた。社殿は入母屋造本瓦葺きの仏堂形式で、数回にわたって大規模改修された末に室町時代に現在の形態になり、内陣の部材には奈良時代のものが含まれることが近年の解体修理に伴う部材調査で判明している。

檜原神社祭神:天照大神若御魂神・伊弉諾尊・伊弉册尊 式内社「巻向坐若御魂神社」。元伊勢の1つで、崇神天皇の時代に皇宮の外で祀られるようになった皇祖神が最初に遷られたのがこの地といわれる。大神神社にはあった拝殿すらなく、三ツ鳥居を通して直接三輪山を拝む(ご神体は山中の磐座である)。嘉禄2年(1226年)に出された「大三輪鎮座次第」の社伝に「当社(大神神社)古来宝倉無く、唯三箇鳥居有るのみ。奥津磐座は大物主大神、中津磐座は大己貴神、辺津磐座は少彦名神」とある。だとすると、檜原神社は、大神神社の古代の姿をよく留めているといえる。なお境内には豊鍬入姫命も祀られている。

神御前神社祭神:倭迹迹日百襲姫命

神坐日向神社祭神:櫛御方命・飯肩巣見命・建甕槌命 式内社「神坐日向神社」。

綱越神社祭神:祓戸大神 式内社「綱越神社」。

玉列神社祭神:玉列王子神・天照大御神・春日大神 式内社「玉列神社」。椿の木が多く、毎年3月に「椿まつり」が催される。

 

        

    大直禰子神社     檜原神社     神御前神社   神坐日向神社    綱越神社

(写真引用:Wikipedia)

4.1.3 奈良市内

率川神社祭神:媛蹈鞴五十鈴姫命・玉櫛姫命・狭井大神 式内社「率川坐大神御子神社三座」。

率川阿波神社祭神:事代主神 式内社「率川阿波神社」。率川神社の境内社。

  

                率川神社       率川阿波神社

(写真引用:Wikipedia)

4.2 末社

久延彦神社祭神:久延毘古命。合格祈願の神社。受験生や就活生の参拝が多く、たくさんの

 ふくろうを模した絵馬が奉納される。

大行事社 :祭神:事代主神、八尋鰐、加屋奈流美神

・成願稲荷神社:祭神:保食神、宇迦御魂神(稲荷大神)、大宮売命。元は浄願寺の鎮守祠。

天皇社祭神:御真木入日子印恵命

神宝社祭神:家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神(熊野権現の三神)。

 毎年元旦未明の繞道祭十八社巡りにおいて三ツ鳥居から出た御神火が最初に捧げられる社。

ほか多数。 

 

   

    久延彦神社      神宝神社        貴船神社        豊鍬入姫宮

 (写真引用:Wikipedia)


〇石上神宮

石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社

1 社名

別名として、

 石上振神宮 石上坐布都御魂神社 石上布都御魂神社 石上布都大神社 石上神社

 石上社 布留社 岩上大明神 布留大明神

などがある。幕末 - 明治期には地元で「いわがみさん」と呼ばれていた。

 なお『日本書紀』に記された「神宮」伊勢神宮石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。

2 祭神

●主祭神:布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。

●配神

・布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) - 十種神宝に宿る神霊。

・布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊。

・宇摩志麻治命(うましまじのみこと)

・五十瓊敷命(いにしきのみこと)

・白河天皇

・市川臣命(いちかわおみのみこと) - 天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、石上神宮社家の祖。

3 歴史

・古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。 

その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。

・また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。

・社伝によれば、布都御魂剣武甕槌経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

・社伝ではまた一方で、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。

・垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦23年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。

・神階は嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従一位、貞観9年(868年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預り、臨時祭も執り行われると記されている。『延喜式』の「臨時祭」の項では殿舎と神門の鑰を宮中で保管し容易には開かないと記されている。

・中世以降は布留郷の鎮守となり、当社の神宮寺である内山永久寺(天理市杣之内町にあった寺院。明治時代初期に廃寺)と共に栄えた。しかし、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発し、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に押され、神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。

・この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年(明治7年)の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年(明治11年)の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年(大正2年)には本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。

4 境内

・本殿

・拝殿 - 入母屋造、檜皮葺。白河天皇が新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を拝殿として寄進したとの伝承があるが、実際の建立年代は鎌倉時代初期とみられる。仏堂風の外観をもち、貫(柱を貫通する水平材)を多用するなど、大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。国宝に指定。

・楼門

・廻廊

・神庫

・鶏 - 七十二候にちなんで東天紅鶏・烏骨鶏など約30羽が境内に放し飼いされている。

 

  

             楼門(重要文化財)         石上神宮の神使、鶏

(写真引用:Wikipedia)

5 摂末社

5.1 摂社

●出雲建雄神社

・祭神:出雲建雄神

 (草薙剣の荒魂、縁起では「吾は尾張の氏の女が祭る神である」とあり宮簀媛を示すとされる)

 式内社。社殿は切妻造、檜皮葺。拝殿は内山永久寺の鎮守社住吉神社の拝殿を1914年

 (大正3年)に移築したもの。正安2年(1300年)の建立。桁行5間の建物の中央1間分を土間

 の通路とした「割拝殿」と呼ばれる形式の拝殿である。国宝に指定されている。

 

出雲建雄神社 拝殿(国宝)(写真引用:Wikipedia)

●猿田彦神社

・祭神:猿田彦大神、住吉大神、高靇神。

 住吉大神は元々は内山永久寺の鎮守社である住吉神社で祀られていたもの。

●天神社

・祭神: 高皇産霊神、神皇産霊神

●七座社

・祭神:生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳都神、辞代主神、大直日神

上記4社は拝殿よりも南であるが、石段の上の隣接した高い位置にある。そのため拝殿前の中庭から見ると、楼門がまるで4社の楼門であるかの様に見える。なお、斎宮が居た場所は上記4社(西向)の真裏(東隣)と伝えられる。 

5.2 末社 

・神田神社:祭神: 高倉下命

・祓戸神社:祭神: 祓戸大神(聖域につき神職者以外は参拝不可)

・恵比須神社:祭神: 事代主神 - 境外末社

6 祭事

・1月 1日 歳旦祭 3日 元始祭 15日 古神符焼納祭

・2月 節分前夜 玉の緒祭 節分当日 節分祭 19日 祈年祭

・4月 第1日曜日 献燈講講社大祭 15日 春季大祭

・5月 3日 長寿講社春季大祭

・6月 30日 神剣渡御祭(でんでん祭)、大祓式

・9月 第1日曜日 崇敬会大祭

・10月 1日 榜示浚神事15日 例祭(ふるまつり)

・11月 3日 長寿講社秋季大祭 11月22日 鎮魂祭 23日 新嘗祭

・12月 8日 お火焚祭 23日 天長祭 31日 神庫祭、大祓式、除夜祭

・毎月1日・15日 月次祭

7 文化財

7.1 国宝

・拝殿(建造物)

 鎌倉時代前期の造営。1906年(明治39年)4月14日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づき国宝に指定。

・摂社出雲建雄神社拝殿(建造物)

 鎌倉時代後期、正安2年(1300年)の造営。1916年(大正5年)5月24日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づき国宝に指定。

・七支刀(考古資料)

 古墳時代の作で、石上神宮伝世品。両刃の剣の左右に3つずつの小枝を突出させたような特異な形状を示す。金象嵌で記された銘文の中に「泰□四年」の年紀があるが、「泰和」と解釈して「太和4年(369年)」に比定する説があり、その頃の百済での作と推定される。かつては神剣渡御祭(でんでん祭)で持ち出され、祭儀の中心的役割を果たした。

1949年(昭和24年)5月30日に国の重要文化財に指定、1953年(昭和28年)11月14日に文化財保護法に基づき国宝に指定。

7.2 重要文化財(国指定)

・楼門(建造物)

  鎌倉時代後期、文保2年(1318年)の造営。正面には山縣有朋の筆による「萬古猶新」と記された

 木額が掲げられている。1906年(明治39年)4月14日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、

 1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により重要文化財に指定。

色々威腹巻 兜・壺袖付芸品)

色々威腹巻 兜・壺袖付(国の重要文化財)(写真引用:Wikipedia)

 

 1901年(明治34年)3月27日指定。神宮の記録には足利尊氏が奉納した甲冑が存在したことが見え、「色々威腹巻」がそれに当たるとされる。現状では、背中で引き合わせて着用する腹巻形式の胴鎧に、肩と上腕部を守る袖と星兜、喉輪が合わさり、室町時代の作とされているが、実際は各部品とも製作年代がそれぞれ異なる別個のもので、近代の(旧)国宝指定に際しての修復により一揃いとされた経緯を有する。

 星兜のうち鉢の部分は南北朝時代の製作とみられ、同甲冑の中で最も古く精巧であるが、修理により後頭部を保護するシコロは室町時代後期のものが取り付けられている。胴の威毛は紅・萌黄・白・紫の4色の組紐を用いており、「色々威」の名称はこれに由来する。

 甲冑研究家の山上八郎は、戦前に神宮を調査した時に緋色の威毛断片を確認したとして、尊氏が奉納したのは緋威の大鎧で、現在腹巻に付く星兜も本来その一部だったのが、経年で大鎧が破損して鉢と威毛が残ったのではないかと推測している。

 なお、山上は、大正時代に甲冑愛好を趣味とした画家の2代目五姓田芳柳から聞いた話として、当時、時代の異なる部品を組み合わせて揃いの甲冑一領に仕立てることは、識者の間では「石上式」と呼ばれ侮蔑の対象であったと述べている。

・鉄盾 2枚(考古資料)

鉄盾(2枚のうち東京国立博物館寄託品、国の重要文化財)(写真引用:Wikipedia)

 

 古墳時代の作で、石上神宮伝世品。元禄12年(1699年)成立の『石上大明神縁起 坤』には盾は3枚あったと記されており、1枚は失われたようである。大きい方は石上神宮保管、小さい方は東京国立博物館に寄託されている。

 盾の模様は、一部の木盾や革盾で用いられる鍵手文を踏襲している。一見すると両者はそっくりだが、石上神宮保管品は鍵手文をよく理解しており、制作手順が規則的で、鋲の直径が5mmと3mmのものが混在し、鉄板の厚さは2.4mmである一方で、東博寄託品は鍵手文の理解が不足しており、制作手順に規則性が見られず、鋲の直径は5〜6mmで一定し、厚さは約3mmと前者より2割ほど厚い。そのため、東博寄託品の方が少し後に作られたと考えられる。

 また、中世の石上神宮では、強訴などで鉄盾を持ち出すこともあったことから、当時、強訴での使用により破損・破棄された盾を補うため、古墳時代に作られた神宮保管品を手本として東博寄託品が製作されたとする説がある。昭和24年5月30日指定。

・石上神宮禁足地出土品(考古資料)

 明細は以下。奈良国立博物館に寄託。1897年(明治30年)12月28日「勾玉類11箇」として指定、昭和33年2月8日追加指定。

・硬玉勾玉 11箇 ・碧玉管玉 一括 ・硬玉棗玉等 10箇碧玉琴柱形石製品 1箇 ・金銅鐶 3箇

・金銅垂飾品 1箇 ・環頭大刀柄頭 1箇 ・銅鏃 2本

(附指定)金銅球形製品 1箇 (附指定)銅鏡 2面 (附指定)鏡形銅製品 2面

7.3 奈良県指定文化財

●有形文化財

・太刀「銘義憲作」(工芸品) - 「小狐丸」の号がある。1953年(昭和28年)3月23日指定[22]。

・須恵大甕(考古資料) - 1959年(昭和34年)7月23日指定[22]。

●天然記念物

・石上神宮鏡池棲息ワタカ - 1953年(昭和28年)3月23日指定[22]。

・石上神宮社そう - 1995年(平成7年)3月22日指定[22]。

●有形民俗文化財

・石上神宮祭礼渡御図絵馬 2対 - 1988年(昭和63年)3月22日指定[22]。

7.4 その他

・黒塗練革星兜鉢 ・十六間筋兜鉢 ・朱札紅糸素懸威鉄腹巻 ・黒塗練革星兜鉢 ・十六間筋兜鉢

8 忌火職

 皇室・出雲国造と同じく、世襲の忌火(いんび)職があり、江戸時代まで物部氏の本宗として、代々森家が務めた。現在の宮司も森家出身。

 忌火とは、本来神饌を煮炊きする、火鑽(ひきり)によって得た神聖な火の意味。石上神宮の長官職を意味し、皇室の大嘗祭、出雲国造の火継式(神火相続式)に似た、神主の忌火成り神事が行われた。

 酒殿社(現存せず。柿本人麻呂の碑の西にあった。同地より、胴径160cmの巨大な古墳時代の須恵器大甕が発掘されている。)に臨時の清浄殿が設けられ、神主はそこに籠もり、忌火が鑽り出され、その火によって神聖な食事をし、現人神となった神主は、比礼(千早?)を肩に掛け、布留山の榊・梅の楚(すわえ:若枝のこと)を持って行進し、忌火になったことを示した。


作業中