昭和43年、昭和45年、昭和49年頃、奈良県、兵庫県で勤務していたころ、休日等で大阪に出かけたことが有りますが、あまり大阪についての名所旧跡へは訪れたことが有りません。
このページでは、Webサイトを中心に大阪の観光地の情報を紹介するとともに、古代史に関連する古代遺跡、古代史及び名所旧跡についても触れてみたいと思います。
1 大阪府の観光
(1)大阪府の観光最強スポット (2) 大阪府の歴史(全般)
2 大阪の古代遺跡
(1)池上・曽根遺跡 (2)百舌鳥・古市古墳群 (3)誉田御廟山古墳(4)大仙陵古墳
(1)王朝交代説 (2)河内王朝 (3)河内王朝の歴代天皇 (4)応神天皇
4 大阪の名所旧跡
(1)住吉大社 (3)難波宮 (3)大阪城
大阪観光最強スポット
大阪城/中座くいだおれビル/法善寺横丁/大阪城公園/通天閣/黒門市場/天満天神繁昌亭/大阪市中央公会堂/新世界/ジャンジャン横丁/あべのハルカス/インスタントラーメン発明記念館/梅田スカイビル・空中庭園展望台/道頓堀/なんばグランド花月/大阪歴史博物館/万博記念公園/四天王寺/ジョー・テラス・オオサカ/玉造稲荷神社/心眼寺/三光神社/大阪くらしの今昔館/海遊館/なにわ食いしんぼ横丁/道頓堀コナモンミュージアム/大阪天満宮/水曜日のアリス大阪店/天満天神MAIDO屋/かねふくめんたいパーク/パティスリーJOKER/ニフレル/REDHORSE OSAKA WHEEL/大阪たこ焼きミュージアム/上方浮世絵館/難波八坂神社/露天神社/ひらかたパーク/大阪ぼてぢゅう お好み焼き対剣道場/中之島バラ園/大阪ワンダーループ/ダイアログ・イン・ザ・ダーク/アクアライナー/独立行政法人造幣局/放課後駄菓子バーA-55/島之内フジマル醸造所/手ぬぐい専門店「にじゆら」/ナレッジキャピタル/茶臼山/長崎堂心斎橋本店/ミライザ大阪城/天神橋筋商店街/国立国際美術館/ユニバーサル・スタジオ・ジャパン
(引用:大阪府HP)
大阪の地は遠く1万年以上も前から人類が住み、生活していたことが明らかになっています。
5世紀ごろには、朝鮮半島などからもたらされた大陸の文化が広まり、大阪が日本の政治・文化の中心となりました。
7世紀には、日本最初の中国の都にならった都城が大阪に置かれました。その後、都は近隣の奈良や京都に移りましたが、文化・通商の玄関口としての役割は変わることなく繁栄を続けました。
12世紀の終わり以降、政権が武士の手に渡り戦乱の世となりましたが、堺は中世のイタリアに見られるような自由都市として発展しました。さらに、16世紀の終わりに、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、大坂(当時は「大阪」でなく「大坂」と書かれていました。)を本拠地と定め、巨大華麗な大坂城を築城、日本の政治・経済の中心地となりました。
17世紀には政治の中心は当時江戸と呼ばれていた東京に移りましたが、大坂は「天下の台所」、つまり全国の経済や物流をとりしきる所として重要な役割を果たしました。この時代に、大坂では広く町民を中心とした文化が成熟し、さらに、懐徳堂や適塾といった官制の学問にとらわれない私塾による学問も根を降ろしました。このようにして、開放的な気風や旺盛な企業家精神が育ち、やがて近代の大都市となる豊かな地盤がつくられました。
その後、19世紀には、明治維新と近代国家成立に向けての混乱により大阪商人は非常な打撃を受けましたが、その低迷から脱出、工業都市として発展を遂げ、近代都市への脱皮を図りました。第二次世界大戦による空襲の大被害からも立ち上がった大阪は、日本を代表する商業の都として、流通に、貿易に、工業に大きな役割を果たしてきました。
そして今、大阪は内外の人・物・情報が交流する世界都市へと大きく飛躍する時代を迎えています。
(~明治維新まで抜粋)
西 暦 |
で き ご と |
前25000年ごろ |
国府型ナイフ形石器の使用がみられる |
前4500年ごろ |
現在の河内平野、内湾となる |
前2世紀ごろ |
銅鐸など青銅器が使用される |
前1世紀ごろ |
池上曽根に巨大な掘立柱建物が築造される |
4世紀中ごろ |
淀川・大和川水系の丘陵上に古墳が築かれる |
4世紀後半から |
百舌鳥・古市古墳群の築造はじまる |
593年 |
聖徳太子、四天王寺を建立 |
645年 |
孝徳天皇、都を難波長柄豊碕宮に移す |
683年 |
天武天皇、複都の詔により難波宮は陪都となる |
726年 |
聖武天皇、難波宮再建に着手 |
754年 |
唐僧鑑真、難波に至る |
1332年 |
楠木正成が千早城で鎌倉幕府軍に対し奮闘 |
1496年 |
蓮如が石山御坊創建、1532年石山本願寺となる |
1583年 |
豊臣秀吉が大坂城築城を開始。 |
1585年 |
秀吉が関白に。 |
1615年 |
大坂夏の陣。豊臣氏ほろぶ |
1629年 |
徳川幕府が大坂城修築完成 |
1700年ごろ |
「天下の台所」として栄える |
1704年 |
大和川付替工事完了 |
1724年 |
町人の学問所・懐徳堂が開かれる |
1805年 |
植村文楽軒が人形浄瑠璃興行を開始 |
1830年 |
山片蟠桃、『夢ノ代』完成 |
1837年 |
大塩平八郎の乱 |
1838年 |
緒方洪庵が適塾を開く |
1868年 |
明治維新、太政官布告により大阪府が設置される |
(引用:Wikipedia)
池上・曽根遺跡(いけがみ・そねいせき)は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡。南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がり、総面積60万m2に達する大集落遺跡である。1976年に国の史跡に指定された。1995年から史跡整備が行われている。
池上曽根遺跡案内図 いずみの高殿 池上曽根史跡公園垂直図
(図引用:泉大津市HP) (写真引用:Wikipedia) (図引用:泉大津市HP)
〇発掘の経緯(抄)
●1903年:池上町在住、旧制中学在学中の南繁則(1888年~1969年)が自宅の土塀(遺跡の土を用いて築造)から石鏃を発見。
●1921年:南繁則が長首壺を発掘。
●1961年:府営水道敷工事に伴い、泉大津高校地歴部が発掘調査。多くの溝、竪穴式住居跡、土壙などを検出。弥生時代中期を中心とした土器などが多量に出土した。遺跡の南北約400メートルにおよぶ広がりが把握された。
●1993年:集落を取り囲む大溝を検出。南北約300メートル、東西約400メートルの大環濠と推定された。この溝の中から多量の土器・石器や獣骨の他に農工具を中心とした木製品出土。その中には鳥形木製品、男性器形木製品など含まれていた。方形周溝墓(弥生時代前期)、厚さ30センチメートル以上堆積した土器片、
〇主要な遺構
やよいの大井戸 竪穴住居
(引用:Wikipedia)
●環濠は、二重にめぐらされている。
・環濠で囲まれた居住区が約25万m2。
●環濠集落西方一帯の水田域が推定される。
●巨大丸太くりぬき井戸(弥生時代中期)
・直径2m、深さ1.2m。樹齢700年のクスノキを一木造りしている。
●方形周溝墓×20基(弥生時代中期)
・墓域は約40万m2・
・約15m四方、周囲を溝で巡らせた内部に棺を埋めた跡を5か所検出。
●竪穴住居
●鉄製品の工房
●高床式大型建物
・建築様式:掘立柱建物
・建物は井戸の北側3.5mにあり、東西17m、南北7m、面積約135m2の最大級の独立棟持柱の
高床式建物跡で、神殿らしい。
・建物を支えていた直径70cmヒノキ柱の基礎部分25本が腐らずに出土。
・柱の間隔は1.8m、長辺の中央部2.3m前後。
・土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、
紀元前52年に伐採されたことが判明。
●土間床平屋建物
・高床式大型建物の南東側に検出。
・規模:南北約30m、東西7.6m、約230m2。
・建物外側に、屋根を支える独立棟持柱の柱痕(直径40cm)を2か所検出。
〇主な遺物
●ヒスイ製勾玉 ●朱塗りの高坏 ●イイダコ壷 ●石包丁、農耕用の木製品 ●銅鐸の破片
〇関連施設
・池上曽根弥生情報館
・池上曽根弥生学習館
〇参考Webサイト
●泉大津市HP:史跡池上曽根遺跡について
●和泉市HP:史跡池上曽根遺跡
●邪馬台国大研究HP/弥生遺跡/池上曽根遺跡
(引用:Wikipedia)
百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん ) -古代日本の墳墓群-は、大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市にある45件49基の古墳群の総称。百舌鳥古墳群及び古市古墳群に含まれる。
2019年7月6日の第43回世界遺産委員会で正式に世界文化遺産に登録された。名称は「百舌鳥・古市古墳群」とも略称される。
大阪府南部の堺市、羽曳野市、藤井寺市の3市にまたがる4世紀後半から5世紀後半の45件49基が登録対象となる。世界遺産における登録名の一部はHanzei-tenno-ryo Kofunのような、宮内庁治定の陵墓名である。
〇百舌鳥エリア(百舌鳥古墳群)(堺市)
百舌鳥古墳群概観(引用:Wikipedia)
●百舌鳥古墳群の概要
百舌鳥古墳群は、大阪府堺市にある古墳群。半壊状態のものも含めて44基の古墳がある。このうち19基が国の史跡に指定されているほか、これとは別に宮内庁によって3基が天皇陵に、2基が陵墓参考地に、18基が陵墓陪冢に治定されている。
かつては100基を上回る古墳があったが、第二次世界大戦後に宅地開発が急速に進んだため、半数以上の古墳が破壊されてしまった。
古市古墳群とともに、巨大な前方後円墳を擁する古墳群として知られる。
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、ミサンザイ古墳など、墳丘長200m以上の大型の前方後円墳4基を含む。
堺市北西部に位置し、古代の海岸線に近い上町台地に続く台地上に築かれている。古墳は東西、南北ともそれぞれ約4キロメートルの範囲に分布。 古墳は、前方部が南向きに築造されている上石津ミサンザイ古墳、大山古墳、田出井山古墳などと百済川の谷の両岸に築造された土師ニサンザイ古墳、いたすけ古墳、百舌鳥御廟山古墳の二つの古墳群から構成されている。
この台地の西側の低い背梁部に上石津ミサンザイ古墳が営まれ、その北方へ大山古墳、田出井山古墳などが順次築造されていく一方、百済川の東方へも既述した古墳群が拡大されていったと推測される。
つまり、上石津ミサンザイ古墳が先行し、川の東部には百舌鳥大塚山古墳・いたすけ古墳が、次いで西方では大山古墳、川の東方では百舌鳥御廟山古墳がほぼ同時期に造られ、西方の土師ニサンザイ古墳と田出井山古墳が、これもほぼ同時期に築造されたと推測できる。
2008年9月26日、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)など宮内庁管理下の古墳を含む百舌鳥古墳群・古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加された。
歴史学や考古学の学会の一部には、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして期待する声がある。
世界遺産登録のために構成資産を確定する調査(2009年度堺市教育委員会発掘調査)において、聖塚古墳と舞台塚古墳が古墳ではなく中世以降に築かれた塚であったことが判明した。聖塚古墳の墳丘とみられていた部分の最下層から、江戸時代の磁器が出土し、18世紀以降に土を盛ってつくられた塚であること、また舞台塚古墳からも、13世紀頃に作成された土器が見つかり、いずれも古墳の可能性は低いとみなされた。
2017年7月31日、文化審議会が古市古墳群と合わせ「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産の2019年登録審査候補として正式に推薦することを決定し2019年5月13日、ユネスコの諮問機関は世界文化遺産への登録を勧告した。2019年7月6日、アゼルバイジャンで開かれた第43回世界遺産委員会にて、百舌鳥古墳群に属する古墳23基が正式に世界遺産に登録された。
●世界遺産の構成資産
大仙陵古墳(大山古墳)(16代仁徳天皇陵に比定)/上石津ミサンザイ古墳(17代履中天皇陵に比定)/ニサンザイ古墳(18代反正反勢天皇陵に比定)/田出井山古墳(18代反正天皇陵に治定)/御廟山古墳(15代応神天皇梁に治定)/いたすけ古墳/長塚古墳/永山古墳/丸保山古墳/銭塚古墳/大安寺山古墳/竜佐山古墳/収塚古墳/旗塚古墳/茶山古墳/孫太夫山古墳/菰山塚古墳/七観音古墳/塚廻古墳/寺山南山古墳/善右ヱ門山古墳/銅亀山古墳/源右衛門山古墳
〇古市エリア(古市古墳群)(藤井寺市&羽曳野市)
古市古墳群概観(引用:Wikipedia)
●古市古墳群の概要
古市古墳群は、大阪府羽曳野市・藤井寺市にある古墳群。20基が国の史跡に指定され、27基(重複含む)が宮内庁により天皇陵(8基)・皇后陵(2基)・皇族墓(1基)・陵墓参考地(1基)・陵墓陪冢(15基)に治定されている。
東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成される古墳群である。いずれも標高24メートル以上の台地や丘陵上にある。
北部の誉田御廟山古墳(伝応神陵)・仲津山古墳(伝仲津姫陵)・市ノ山古墳(伝允恭陵)・岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)などの古い古墳群と南方の前ノ山古墳(白鳥陵)を中心とする前方部の著しく発達した西向きの新しい一群とに分けられる。
相対的序列は、仲津山古墳、誉田御廟山古墳・仲津山古墳・津堂城山古墳、市ノ山古墳・墓山古墳、河内大塚古墳、前ノ山古墳、ボケ山古墳、白髪山古墳、高屋城山古墳になるであろう。
古墳造営には豪族の土師氏などが関与していたと考えられている。
2008年9月26日、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群とともに世界遺産の国内暫定リストに追加された。歴史学や考古学の一部学会には、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして歓迎する声がある。
2008年から羽曳野市教育委員会が行った発掘調査で、高屋城山古墳(伝安閑天皇陵)の近辺で、これまで同古墳群内で未発見だった、6世紀中頃のものと思われる前方後円墳(城不動坂古墳)が発見された。安閑天皇の后らが祭られていた可能性も指摘されていたが、判明前に宅地開発によって破壊されてしまった。
2019年7月6日の第43回世界遺産委員会にて、古市古墳群のうち26基が世界文化遺産に登録された。
●世界遺産の構成資産
誉田御廟山古墳(誉田山古墳)(15代応神天皇陵に治定)/仲ツ山古墳(仲津山古墳)(15代応神天皇皇后の仲姫命陵に治定)/岡ミサンザイ古墳(14代仲哀天皇陵に治定)/市ノ山古墳(市野山古墳)(19代允恭天皇陵に治定)/墓山古墳(応神天皇の培塚に治定)/津堂城山古墳(允恭天皇の陵墓参考地)/白鳥陵古墳(12代景行天皇皇子の日本武尊陵に治定)/古室山古墳/大鳥塚古墳/二ツ塚古墳/はざみ山古墳/峯ヶ塚古墳/鍋塚古墳/向墓山古墳(応神天皇の培塚)/浄元寺山古墳/青山古墳/鉢塚古墳/東山古墳/八島塚古墳(仲姫命の倍塚)/中山塚古墳(仲姫命の倍塚)/誉田丸山古墳/西馬塚古墳/栗塚古墳/野中古墳/助太山古墳(仲姫命の倍塚)/東馬塚古墳
(引用:Wikipedia)
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)または誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵」(えがのもふしのおかのみささぎ)として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されている。名称は「応神天皇陵」とも呼ばれることがあり、大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模である巨大古墳。
1)古墳の概要
5世紀初頭の築造と考えられている。立地条件は、必ずしも良いとは云えない。それは、土質の安定した段丘と不安定な氾濫原という異質の土地にまたがって墳丘を造営しているためという。 また、造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、周濠と内堤が歪んでいる。
なお、前方部の一部が崩れているのは734年、及び1510年にこの地で内陸直下型の大地震があったためと考えられており、前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層の生駒断層帯が走っている(地質調査で付近での活断層の存在が判明し、誉田御廟山古墳の一部を通っていることが推定された。また、地質調査により活断層が前回活動したと推定されている年代と、大地震があったと記録された年が一致)。
宮内庁が管理しており、立ち入って学術調査が出来ないため確かなことが分かっていない。
古墳本体を覆う植生やそれによる生態系は良く保たれている。これは、隣接する誉田八幡宮の神域の森として保護されてきたためである。内濠にはヒメボタルが生息する。
1.1)規模
当古墳の規模について、羽曳野市の公式サイトでは以下の数値を公表している。
・墳丘長:約425メートル
・後円部直径:250メートル
・後円部高さ:35メートル
・前方部幅:300メートル
・前方部高さ:36メートル
ただし、どの部分を古墳の裾とするかには議論があり、これらの長さには諸説がある。ただし、全長約420メートルという墳丘長は大仙陵古墳に次ぐ大きさであり、体積は143万3960立方メートルにおよんでいる。墳丘長、体積共に日本第2位の大王陵である。
1.2)周濠
周りには二重の堀をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48メートルの中提があり、その外に築造当時は幅約35メートルのもう一重の濠(外濠)のあった形跡があり、それを巡る外提は幅約15メートルあったと推定されている。濠の水深は170~250センチメートルと大仙陵古墳と比較してかなり深い。二重の濠と外堤が築造されたのは西側だけであり、東側の外濠や外堤は築造されなかったことが明らかになっている。
1.3)副葬品
埴輪の種類が多い。円筒、キヌガサ、家、盾(たて)、甲(よろい)、草摺(くさずり)、水鳥など。内濠から土師器と共に魚形土製品が10個出土している。鯨、烏賊(いか)、蛸、鮫、海豚など。これらの土製品の解釈には様々な説がある。
円筒埴輪や円形埴輪、後円部側の外濠の外部で馬形埴輪なども出土している。直径74センチメートルの笠形の木製の埴輪も副葬されていた。木製製品はこれまで、内堤までと考えられていたが、外堤にも立てられていたことが推測される。
1.4)陪墳
指定を受けている陪墳ものは5基ある。残りが民有地であるため古墳の破壊が続いた。
●盾塚(たてづか)
帆立貝式古墳、誉田山古墳の北東の方角にあり、濠の外にある。築造年代は、誉田山古墳より先行する可能性もある。盾が10枚も埋めてあったのでこの名が付いた。
埋葬施設は長大な割竹形木棺(わりたけがたもっかん)で、銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、鉄製の刀剣や鏃(やじり)、筒型銅器、碧玉製釧(へきぎょくせいくしろ)、竹櫛(たけくし)、盾10枚などが出土した。 また、前方部から、鉄製の刀、剣、矛(ほこ)が61本もまとまって出土した。
●珠金塚(しゅきんづか)
方墳で、盾塚の西側にある。墳頂には、組合せ木棺を納めた二つの粘土槨があった。一方の棺には、銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑、鉄製刀剣、竹櫛、盾などがあり、もう一方の棺にも銅鏡、玉類、短甲、鉄製刀剣などがあった。甲冑はいずれも鋲留式(びょうどめしき)。玉類の中に金製丸玉のものがあった。鋲留めという新しい技術、金製品もそれ以前には稀なものである。
●古市丸山古墳(ふるいちまるやまこふん)
円墳で、直径45メートルあり、円墳としては大規模。拝所の直ぐ近くにある。金銅製の鞍金具などの馬具(国宝、誉田八幡宮所蔵)が出土した。木製の鞍に金銅製の金具が綴じ付けてある。古墳出土の鞍の中でも最優秀品。横に連なった竜文の透かし彫りがある。伽耶(かや)高霊の古墳出土の文様に酷似しており、乗馬の道具が朝鮮半島からの舶載品を含んでいる。
●鞍塚(くらづか)
円墳で、盾塚の北にある。箱形木棺から銅鏡、玉類、甲冑、武器、馬具など出土。築造年代は、盾塚や珠金塚より新しい。
1.5)拝所
現在、前方部の正面にある。之は、文久(1861年~1863年)の修築以降。それ以前は、誉田八幡宮のある後円部の方から、つまり背面の方に参道があり、後円部の頂上にある六角形の宝殿まで石段が付いていた。一般の人たちも参拝していた。
2)被葬者と造営年代
円筒埴輪の型式や一部採集されている須恵器の型式、最近の考古学的な暦年代研究、年輪年代測定法による調査結果からも、5世紀の第1四半期と推定される。
被葬者は、「倭の五王」のうちの「讃」を誰にあてるかで変わってくる。この古墳は、古くから応神天皇の陵墓であるとの伝承を持つが、応神天皇の治世を、『古事記』の崩年干支が甲午(394年)であることから井上光貞は370年頃から390年頃と想定したが、この説を採用すると年代が合わない。
直木孝次郎は『日本書紀』応神紀と『三国史記』から百済阿莘王・腆支王との同時代性から4世紀末から5世紀初頭としており、これならば年代的には整合するし、資料解釈の方法自体にも説得力がある。
総じて誉田御廟山古墳が応神天皇陵である蓋然性は高いといわなければならないが、そのように想定した場合、大仙陵古墳の被葬者が仁徳天皇であるとする比定の蓋然性は高くなるものの、古市古墳群の仲ツ山古墳、百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳、古市の誉田御廟山古墳、百舌鳥の大仙陵という大阪平野南部における古墳編年と、仁徳・履中・反正と3代続いた大王が全て百舌鳥に陵墓を造営したという記紀伝承との間に矛盾が生じるし、従来の古墳の治定にも不整合が生じるという別の問題が発生し、また、井上光貞、上田正昭、直木孝次郎らがかつて唱えた河内政権論は成り立ちがたくなる。
3)付随の施設・神社・寺
・古墳敷地内に、宮内庁書陵部の古市陵墓監区事務所がある。
・古墳の南側に日本最古の八幡宮である誉田八幡宮(※)、室町時代に描かれた、「応神陵」造営から誉田八幡宮の建立や様々な功徳を述べた『誉田宗廟縁起絵巻』を所蔵している。天皇陵の存在を前提にして発生・発達した神社である。
(※)誉田八幡宮
誉田八幡宮鳥居(引用:Wikipedia)
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市誉田にある神社。旧社格は府社。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の南に隣接して鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。なお、この地は応神天皇陵(誉田御廟山古墳)がある地であるが、応神天皇が幼少の頃に居住されていたところでもあり、また、皇后の仲津姫はこの地を治める誉田真若王の娘でもあり、応神天皇にとって特別なゆかりのある地である。
〇参考Webサイト
●羽曳野市観光協会HP:「誉田八幡宮」
●羽曳野市観光協会HP:「誉田宗廟縁起」
●国立国会図書館HP:「国宝誉田宗廟縁起」
(引用:Wikipedia)
1)古墳の概要
1.1)築造時期・被葬者
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
1.1.1)治定について
『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→ 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→ 反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じている。
このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜式』の記述と大きく食い違うことになる。
1.2)規模
大仙陵古墳の規模について、堺市の公式サイトでは以下の数値を公表している。ここでは「 -> 」の後に 2018年4月12日宮内庁の三次元測量調査による修正値を記載する。
・古墳最大長:840メートル
・古墳最大幅:654メートル
・墳丘長:486メートル -> 525.1メートル
・墳丘基底部の面積:103,410平方メートル -> 121,380平方メートル
・後円部 - 3段築成
・直径:249メートル -> 286.33メートル
・高さ:35.8メートル -> 39.8メートル
・前方部 - 3段築成
・幅:307メートル -> 347メートル
・長さ:237メートル -> 257メートル
・高さ:33.9メートル -> 37.9メートル
墳丘長は、第2位とされる大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の425メートルを上回り、日本最大である。
墳丘本体の体積はコンピューター計算により164万立方メートルと、水面上の体積だけで誉田御廟山古墳の143万立方メートルを超えていることがわかった。525.1mと水中4mからは40メートル以上も全長が伸びて、水中からの体積は210万立方メートルにもおよび羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)よりも体積もさらに大きくなる。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の体積143万立方メートルはカラの濠からの体積で変化はしない。
底面積・表面積共に121,380平方メートルは誉田御廟山古墳よりもはるかに広くなる。宮内庁の調査は重要で考慮しておく必要がある。
なお一重濠の下にはヘドロは水の2倍以上も堆積していて墳丘の裾はヘドロの中に食い込んでいて600m以上ある可能性もある。体積は300万立方メートル以上と秦の始皇帝陵を超える体積の可能性もある。
1.3)墳形・周濠
前方部を南に向けた前方後円墳で、前方部と後円部のつなぎ目のくびれ部には左右に造出しを設けている。墳丘は3段からなるが墳丘には多くの谷があり、宮内庁所蔵の実測図でも墳丘の等高線の乱れが著しい。この谷の成因については自然崩壊のほかに、墳丘が未完成だったという説も提起されている。
現在、墳丘は三重の周濠で囲まれているが、江戸時代の元禄年間に当時の堺奉行所の指示で最外部の濠は一部を除いて畑地に開墾され、ほぼ二重濠のような見かけになっていた。
江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠は元々は三重であったと考えられる。
現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し、復元されたものである。明治政府によって行われた再掘削工事によって濠が築造時通りに復元されたかは疑問が残る。
1.4 外表施設
最近の発掘調査によると、前方後円墳の築造時には墳丘の斜面は葺石で覆われ墳頂部には円筒埴輪が並べられていたとされ、五色塚古墳(兵庫県神戸市)などそのような外観で復元される古墳が多い。
大仙陵古墳で明治維新の直前から現在まで研究者などの立ち入りが全く認められていないため外表施設について正確な情報はないが、上記の三重濠掘削の際に出土したと言われる女子人物頭部や馬の頭(以上は宮内庁所蔵)や、東側の造出しから多数の大甕の破片が出土したとされる。
また江戸時代には住民の立ち入りが認められていたため、この付近の庄屋であった南家の1795年の文書には「素焼ノ水瓶」(埴輪)が並んでいたことや「コロタ石」(葺石)が多いことが記されている。
1.5)埋葬施設
後円部は最も重要な人物が埋葬されるが、江戸時代には埋葬施設の一部が露出していた。江戸中期の1757年(宝暦7年)に書かれた「全堺詳志」には長さ318cm幅167㎝の巨大な長持型石棺が認められ、しかも盗掘されている旨が書かれている。
前方部正面の二段目の斜面からも竪穴式石室が見つかっている。1872年(明治5年)に、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊して埋葬施設が露出した。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されている。
残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6~3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている。
1.6 副葬品
後円部埋葬施設の副葬品は知られていないが、前方部の石室は1872年(明治5年)の発掘調査の際に、石棺の東側に「甲冑并硝子坏太刀金具ノ破裂等」が、石棺の北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が発見されている。
甲冑は、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲で、冑には鋲留めにされた金銅製の小札(こざね)と鉢の胴巻きに円形の垂れ飾りを下げ、眉庇に透かし彫りが施された豪華なもの。甲(よろい)は金銅製の横矧板(よこはぎいた)が鋲留めにされている。また、右の前胴が開閉するように脇に2個の蝶番を付けられており、これらの組合せは、当時の流行を表したものである。
鉄刀二十口は、把(つか)や鞘には金属製の装具のない簡略な外装の刀、ガラス坏(硝子坏)は、緑系のガラス壺と白ガラスの皿がセットになった品であったという。
なお、この調査では石棺の開封調査は行われていない。
1.6.1)ボストンの仁徳陵出土品
アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。
鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を細線で表しており、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。また、この鏡は、百済王より七支刀と同時に奉られた七子鏡であるとする説もある。
大刀は、刀身が折れて欠失しており、長さ23センチの把(つか、柄)と環頭(柄頭)が残っている。環頭は鋳銅製、金鍍金で、環の内側には竜の頭部を表し、環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅や任那の古墳から出土している。
宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉覚三(天心)により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いという。また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるという。
1.7 陪塚
陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は近親者や従者を葬ったとされる大古墳の近くに存在する小さな古墳である。
大仙陵古墳で宮内庁が指定・管理する陪塚は12基ある。坊主山(円墳、直径10m)、源衛門山(円墳、直径約40m)、大安寺山(円墳、直径55m)、茶山(円墳、直径55m)、永山(前方後円墳、墳丘長104m、周濠あり)、丸保山(帆立貝式、墳丘長87m、周濠あり)、菰山(帆立貝式、墳丘長36m、周濠あり)、樋の谷(円墳?、直径47m)、銅亀山(方墳一辺26m)、狐山(円墳、直径23m)、竜佐山(帆立貝式、墳丘長67m、周濠あり)、孫太夫山(帆立貝式、墳丘長56m、周濠あり)である。
しかし永山古墳は規模が大きく造出しを有する前方後円墳であること、坊主山は三重濠外縁から264mと遠いことから陪塚とは考えにくい。逆に坊主山より近くにありながら宮内庁が指定していない塚廻(円墳、直径35m)、鏡塚(直径15m)、夕雲一丁南(方墳)、収塚(帆立貝式)、昭和初年頃まで存在していた帆立貝式一基は陪塚の可能性が高い。以上により陪塚は15基あるとされている。
2)史料上の記述
2.1)『記紀』の記述
『古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は87年(399年)正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
2.2)延喜式
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。
なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。
2.3)堺鏡
『堺鏡』(1684年(貞享元年))には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として認識されており、現在でも近隣市民からは親しみをこめて「仁徳さん」と呼ばれている。また尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化が度々行われている。
1685年(貞享2年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年(元禄11年))で後円部墳頂に柵を設置。享保の修陵時(1722年(享保7年))には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置。1853年(嘉永6年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更。
1864年(元治元年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌、1865年(慶応元年)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。また、当古墳所在地である大鳥郡舳松村と北隣の中筋村は大仙陵池から耕地へ灌漑用水を引いていた。
2.4)明治時代
1872年(明治5年)の前方部斜面の崩壊により埋葬施設が露出したことを受けて、堺県県令税所篤等による緊急発掘が行われた。この時の調査は、古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、柏木政規(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。ただし、この記録は関東大震災により大半が焼失したため発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない。
3)名称の変遷と混乱
形状を現す大山・大仙、被葬者を表す仁徳、これに続けるものに学術的な古墳、陵墓としての陵・天皇陵・御陵・帝陵と多数の組み合わせが生じ、混乱している。また、併記する場合も多いため、より多種にわたってしまっている。江戸時代の絵図等では「仁徳天皇陵」「大山陵」の表記が見られる。
主因は仁徳天皇の墓かどうかの論争にあり、1971年(昭和46年)以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。しかし、これでは仁徳天皇の墓であることを否定したことにはならないため、1976年(昭和51年)以降、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。
宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(かつては「仁徳帝陵」を採用したものが多かった)。また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。
現在では、堺市が町名に大仙を採用したことから(大仙町、1929年(昭和4年)より)、大山よりも大仙が定着している。また、仁徳御陵・仁徳帝陵よりも仁徳天皇陵が定着しているが、堺市民の間では単に御陵と呼ばれることが多く、駅(御陵前停留場)、道路(御陵通)、町名(御陵通、1933年(昭和8年)より)などの名称にもなっている。
4 現状
歴史の教科書に「世界最大級の墳墓」として掲載され、宮内庁管理のため陵域内への自由な出入りはできないが、堺市の主要な観光地となっている。
最も墳丘に近づけるのは正面の拝所で、二重濠の外側堰堤まで立ち入ることができる。2000年(平成12年)には特別参拝として二重濠の内側堰堤まで立ち入りが許されたことがある。三重濠に沿って周遊路があり(1周約2,750メートル)、陵域を一周することもできる。 濠に棲むブラックバスやブルーギルを狙った釣り人のゴムボートによる無断立ち入りが昔から後を断たず、警備上の問題点とされている。
考古学上は仁徳天皇の陵であるとすることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半~中頃との見方が確定することによって、むしろ文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。
ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能となっていることから、現在では、教科書などを含めて「大仙陵古墳」とされており、「仁徳天皇陵」は注記に「伝仁徳陵」となるに留まっている。
堺市内には、他にも2つの天皇陵(履中天皇陵、反正天皇陵)があるが、単に「御陵」と言った場合は仁徳天皇陵を指す。また、堺市の地区名や町名には、陵西・陵南・向陵(北東)など、この古墳からの方角にちなんで付けられたものがある。堺市役所高層館21階の展望ロビーからは、巨大な前方後円墳の全容を遠望することができる。
鬱蒼とした木々が茂り、多くの鳥や昆虫の楽園となっている。大仙公園とともに大阪みどりの百選に選定されている。現在の植生は、明治20年から3年かけて、墳丘を覆っていた笹を伐採し、松や杉、樫などの苗木19万本以上を植樹した結果である。この植樹は大正時代、明治神宮の森を造林する際のモデルとなった。
諸外国の陵墓と比較して、大仙陵古墳の調査が進まないのは、天皇陵は現在も続いている王朝の陵墓だからだと指摘されている。世界遺産の始皇帝陵やエジプトのピラミッドの被葬者の王朝は現在は途絶えており、発掘調査されている。
日本の皇室は日本の建国から一貫して続いているとされており(万世一系)、たとえ古代の天皇陵であっても、現皇室の祖先の陵墓であり、現に天皇・皇族の参拝が行われている。それを発掘調査することは、王朝交替を経験していない日本にとって非常に抵抗の大きいものである。
2018年10月15日、宮内庁は、今月下旬から堺市などと共同で大山陵古墳(仁徳天皇陵)を発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓を宮内庁が外部機関と共同で発掘するのは初めて。同年11月22日、採掘調査中に埴輪や石敷きが発見された。
〇参考Webサイト
●堺市HP:「仁徳天皇陵(大山古墳)(世界文化遺産構成資産)」
●堺市HP:「仁徳天皇古墳百科」
●(公社)堺観光コンベンション協会公式サイト:「仁徳天皇陵古墳」
(引用:Wikipedia)
〇概要
王朝交替説は、日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説。
第二次世界大戦前まで支配的だった万世一系という概念に対する批判・懐疑から生まれた説で、1952年に水野祐が唱えた三王朝交替説がその最初のものでありかつ代表的なものである。
ただし、それに先立つ1948年に江上波夫が発表した騎馬民族征服王朝説も広い意味で王朝交替説であり、崇神天皇を起点とする皇統に着目している点など水野祐の説が江上波夫の説の影響を受けていることを指摘する学者もいる。
のち水野自身、自説をネオ狩猟騎馬民族説と呼んでいる。また、古代天皇の非実在論に基づいている点は津田左右吉の影響を受けており、九州国家の王であった仁徳天皇が畿内を征服して王朝を開いたという説は邪馬台国九州説の発展に他ならない。
水野の三王朝交替説はその後様々な研究者により補強あるいは批判がなされていくが、現在では万世一系を否定する学者でも水野の唱えるように全く異なる血統による劇的な王権の交替があったと考えるものは多くない。
水野のいう「王朝」の拠点が時代により移動していることも政治の中心地が移動しただけで往々にして見られる例であり、必ずしも劇的な権力の交替とは結びつかないとされている。
また、近年では、ある特定の血統が大王(天皇)位を独占的に継承する「王朝」が確立するのは継体・欽明朝以降のことで、それ以前は数代の大王が血縁関係にあっても「王朝」と呼べる形態になっていなかったとする見解が主流になっている。
〇水野祐の「三王朝交替説」
昭和初期(戦前)、津田左右吉は記紀が皇室の日本統治の正当性を高めるために高度な政治的な理由で編纂されたとの意見を表現し、有罪判決を受けた。
戦後になって記紀批判が行えるようになり、昭和29年(1954年)、水野祐が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表。この著書で水野は、古事記の記載(天皇の没した年の干支や天皇の和風諡号など)を分析した結果、崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てたが、これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であった。
水野は、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。
そして、15代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開した。仮説では、記紀の天皇の代数の表記に合わせると、第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝の興廃があったとされる。崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在し、現天皇は継体王朝の末裔とされている。
水野祐の学説は当時の学界で注目はされたが賛同者は少なく、その後水野の学説を批判的に発展させた学説が古代史学の学界で発表された。
井上光貞の著書『日本国家の起源』(1960年、岩波新書)を皮切りに、直木孝次郎、岡田精司、上田正昭などによって学説が発表され、王朝交替説は学界で大きくクローズアップされるようになった。
古代史の学説を整理した鈴木靖民も王朝交替論は「古代史研究で戦後最大の学説」と著書『古代国家史研究の歩み』で評価している。
また、王朝交替説に対して全面的に批判を展開した前之園亮一も著書『古代王朝交替説批判』のなかで、万世一系の否定に果たした意義を評価している。
〇3つの王朝について
崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在した可能性は上記で記したとおりだが、それらについて詳しく述べる。
①崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよばれている。水野祐は古王朝と呼称した。
この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれることもある。
この名称はこの時期に限られており、後代に贈られた和風諡号とは考えられない。崇神天皇の名はミマキイリヒコイニエ、垂仁天皇の名はイクメイリヒコイサチである。他にも崇神天皇の子でトヨキイリヒコ・トヨキイリヒメなどがいる。ただし、崇神・垂仁天皇らの実在性には疑問視する人も多い。
古墳の編年などから大型古墳はその時代の盟主(大王)の墳墓である可能性が高いことなどから推測すると、古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測する研究者もいる)、行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことがわかる。
さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げた大古墳のある地域と重なっていることを考え合わせると、崇神天皇に始まる政権はこの地域を中心に成立したと推測でき、三輪政権と呼ぶことができる。
日本古代国家の形成という視点から三輪政権は、初期大和政権と捉えることができる。この政権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半と推測されている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。
政権の性格は、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」卑弥呼を女王とする邪馬台国の呪術的政権ではなく、宗教的性格は残しながらもより権力的な政権であったと考えられている。
②応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)
応神王朝は天皇の宮と御陵が河内 ( 当時、律令制以前の為、律令制以後の河内国以外の摂津国、和泉国の範囲を含んでいた ) に多いことから河内王朝ともよばれている。
この王朝に属する天皇や皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。
河内王朝は上記の王朝交替論のなかでも大きな位置を占める。その理由は、前後の二つの王朝を結ぶ位置に河内王朝が存在するからである。水野祐は中王朝と呼称し、一般に初期大和政権、第2次大和政権などと呼ばれる王朝である。
なお、応神天皇を架空の天皇とする見解もある。応神天皇の出生が伝説的であることから、応神天皇と仁徳天皇は本来同一の人格であったものが三輪王朝と河内王朝を結びつけるために二つに分離されて応神天皇が作り出されたとする説で、この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。水野祐も仁徳王朝としている。
河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王が10回にわたり遣使したとの記述があり、倭の五王が河内王朝の大王と推測されることから王朝全体の実在の可能性は高い。ただし、倭の五王の比定は諸説ある。
また、大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、応神天皇は難波の大隅宮に、仁徳天皇は難波の高津宮に、反正天皇は丹比(大阪府松原市)柴垣に、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどから、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことは間違いない。
この河内王朝説を批判する門脇禎二によると河内平野の開発は新王朝の樹立などではなく、初期大和政権の河内地方への進出であったとする。
また、河内王朝説でも直木孝次郎、岡田精司による、瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説や、上田正昭による三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野、井上の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説とがある。
③継体王朝(越前王朝)
継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。
また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和に入ったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の息長氏は大王家に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統の王位継承資格者であって、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。
なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い。
ただし、継体天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また血統の点でも前の大王家の皇女(手白香皇女)を妻として入り婿の形で皇位を継承していることなどから、これを新王朝として区別できるかどうかは疑問とする考え方もある。
〇岡田英弘の倭国論・王朝交代説・日本の建国についての見解
東洋史学者の岡田英弘は、東洋史学者としての立場から中国・日本の史料を解釈することを標榜し、「日本の建国」に先立つ日本列島の歩みを次のように区分した。
1) 中国 ( 秦・漢時代 ) の地方史を構成していた時期。日本列島に散在した倭人の「諸国」とは華僑たちが居住する交易の拠点であり、北九州の「奴国」や邪馬台国などの倭王たちは、中国の都合で設置された、倭人の「諸国」の「アムフィクテュオニア」の盟主にすぎず、国家といえるような実態は日本列島にはまだ存在しなかった。
2) 中国の分裂 ( 三国時代・南北朝時代 ) に乗じて中国周辺の各地域に独自の政権が成立していく一環として、近畿地方を拠点とする政権が成立した時期。この時期、近畿地方を支配圏として倭国が成立、日本列島の各地や朝鮮半島の南部の諸国を服属させ、その支配者は中国の政権(三国の魏や南北朝の宋など)から「倭王」の称号を受けた(倭の五王その他)。
3)中国の再統一にともなう国際情勢の激変にともない、日本列島の倭国とその他の諸国がそれぞれの組織を解消して統一国家「日本」を建国。中国で統一王朝が成立 ( 隋および唐 ) し、中国による近隣諸国への攻撃、併合 ( 突厥・高句麗・百済 ) がすすみ、日本列島が国際的に孤立するという緊張の中、668年~670年、倭国とその他の諸国は従来の組織を解消、ひとりの君主を中心とする統一国家としての組織を形成し、国号を「日本」、君主を「天皇」と号し、これを「日本の建国」とする。
岡田英弘は、720年に成立した日本書紀について、「日本の建国事業の一環として編纂され、壬申の乱で兄の子弘文天皇より皇位を奪った天武天皇の子孫である現政権の都合を反映した史料」と位置づける。
日本書紀にみえる歴代の天皇たちについては、神武天皇より応神天皇までは、創作された架空の存在とし、当時の近畿地方の人々に「最初の倭王」と認識されていたのが「河内王朝」の創始者である禰 ( でい、日本書紀でいう仁徳天皇 ) とし、その後、播磨王朝、越前王朝が次々に交代したとする。
また、日本書紀が、現皇室系譜を直接には「越前王朝の祖」継体天皇にさかのぼらせている点について、隋書の記述を根拠として、日本書紀には日本書紀の成立直前の倭国の王統について極めて大きな作為があること、また、舒明天皇とそれ以前の皇統の間でも「王朝の交代」があった可能性を指摘している。
●岡田英弘の王朝交代説
1)河内王朝
2)播磨王朝
3)越前王朝
4)舒明天皇以降の「日本建国の王朝」
〇鳥越憲三郎の説
●葛城王朝説
鳥越憲三郎が唱えた説で、三王朝交替説では実在を否定されている神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。詳細は欠史八代の「葛城王朝説」を参照。
河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。
仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘磐之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押磐皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。
さらに、雄略天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。
こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。
(引用:Wikipedia)
〇概要
河内王朝(かわちおうちょう)は、現在の大阪市の上町台地に本拠地を置いたとされる日本の古代政権の呼称。4世紀末に奈良盆地を中心とした王権が、大阪平野を中心とする王権へと交代した倭国の王朝。
万世一系の皇統が神武天皇による建国以来、連綿と続いてきたとする『日本書紀』の記述に対し、倭国時代に複数の王朝が興亡したとするのは、歴史学上のひとつの立場表明である(王朝交替説)。
難波宮に拠点をおいた大王たちをひとつの王朝と見なす主張の中にも、始祖をだれとみなすか、王朝の名称をなんと称するかなどの点で、さまざまな諸説がある。
4世紀末に河内に新政権(河内王朝)が成立したとする説の源流は、1949年発表の江上波夫らによる座談会「日本民族・文化の源流と日本国家の形成」(『民族学研究』13巻3号)にあるとされる。
その後、1960年代に直木孝次郎、上田正昭、岡田精司らが、この立場に立った研究を次々と発表した。河内王朝論は1960年代においては有力な説であったが、1980年代以降、学界では否定的な見解が多くなっている。
この政権の名称を最初に河内王朝と称したのは上田正昭であり、以降、「河内王朝」の名称が定着することとなった。
東洋史学者の岡田英弘、日本史学者の塚口義信などが「河内王朝」の名称を用いている。難波王朝と称する研究者には考古学者の山根徳太郎がいる。
直木孝次郎は、応神天皇を政権の初代とみなす立場から「応神王朝」という名称を用いていたが、後に「王朝国家」との混同を避けるため、「河内政権」という呼称を用いるようになっている。
〇岡田英弘による学説
岡田英弘は、日本書紀にいう神武天皇から応神天皇までの歴代を、『日本書紀』の編纂を命じた現政権(天武天皇とその子孫たち)の都合によって創出された架空の存在とし、日本書紀の歴代天皇たちのうち、歴史上存在したのが確実なのは仁徳天皇からであるとし、禰とその子孫たちの王統を河内王朝と称する。
岡田は、雄略天皇に比定される倭王武が487年に中国の南朝宋に送った上表文にいう「祖禰(そでい)」を「「祖父である禰」の意味」だと解釈、禰(でい)を倭王武の祖父の名だと解釈した。
岡田は、この解釈にもとづき、宋書にみえる倭の五王と『日本書紀』の歴代天皇を次のように比定している。
禰(仁徳天皇)┬賛(履中天皇)
├珍(反正天皇)
└済(允恭天皇)┬興(安康天皇)
└武(雄略天皇)
〇塚口義信による見解
4世紀末のヤマト政権の内部分裂により誉田別皇子(のちの応神天皇)が忍熊王を打倒して成立。
(引用:Wikipedia)
〇応神天皇(15代)
●概要
応神天皇(仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。『日本書紀』での名は譽田天皇。実在性は定かでないが八幡神として神格化されている。
●略歴
実在したとすれば4世紀後半。足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。異母兄に麛坂皇子と忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは足仲彦天皇が崩御して十月十日後である。胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。神功皇后摂政3年に立太子。
即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。
在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは宋)に派遣されたという。
即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩じたとされる。
● 皇后・皇子女
・皇后:仲姫命(中日売命)(※) - 品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女
・荒田皇女(木之荒田郎女)
・大鷦鷯尊(大雀命・仁徳天皇)
・根鳥皇子 - 大田君祖
・妃:高城入姫命(高木之入日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母姉
・額田大中彦皇子
・大山守皇子 - 土形君・榛原君祖
・去来真稚皇子(伊奢之真若命) - 深河別祖
・大原皇女 - 『先代旧事本紀』は弟姫命の所生とする。
・澇来田皇女(高目郎女)
・妃:弟姫命(弟日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母妹
・阿倍皇女
・淡路御原皇女(阿具知能三腹郎女) - 根鳥皇子妃
・紀菟野皇女(木之菟野郎女)
・滋原皇女 - 記紀に見えず、『先代旧事本紀』より補う。
・三野郎女
・妃:宮主宅媛(宮主矢河枝比売) - 和弭日触使主女。『先代旧事本紀』には物部多遅麻連女の山無媛
・菟道稚郎子皇子(宇遅能和紀郎子) - 応神天皇皇太子
・矢田皇女(八田皇女・八田若郎女) - 仁徳天皇皇后(仁徳は異母兄)
・雌鳥皇女(女鳥王) - 隼総別皇子妃(隼総別は異母弟)。仁徳に求婚されたが隼総別
と結婚し、のちに仁徳に反逆したことにより夫婦とも殺害される。
・妃:小甂媛 - 和弭日触使主女、宮主宅媛妹。『先代旧事本紀』には物部多遅麻連女の香室媛とある。
・菟道稚郎女皇女(宇遅能若郎女) - 仁徳天皇妃(仁徳は異母兄)
・妃:息長真若中比売(弟媛) - 河派仲彦王(息長田別王子、日本武尊孫)女
・稚野毛二派皇子(若沼毛二俣王) - 息長君等祖、継体天皇高祖父、忍坂大中姫・衣通姫父
・妃:糸媛(糸井比売) - 桜井田部連島垂根女、男鉏妹
・隼総別皇子(隼別皇子、速総別命)
・妃:日向泉長媛
・大葉枝皇子(大羽江王)
・小葉枝皇子(小羽江王)
・幡日之若郎女 - 履中天皇皇后
・妃:迦具漏比売 - 須売伊呂大中日子(稚武彦王王子、日本武尊孫)王女
・川原田郎女
・玉郎女
・(忍坂大中比売) - 以下の2皇女は稚野毛二派皇子の女であろう。
・(登富志郎女)
・迦多遅王(堅石王)
・妃:葛城野伊呂売(怒能伊呂比売?) - 武内宿禰女?
・(伊奢能麻和迦王) - 去来真稚皇子の重複か。
・妃:兄媛 - 吉備武彦命(稚武彦命子)女、吉備御友別妹
※仲姫命(中日売命)
・仲姫命(なかつひめのみこと)(生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。
・系譜:父:品陀真若王 母:金田屋野姫命 同母姉妹:高城入姫命・弟姫命
夫:応神天皇 子:荒田皇女・仁徳天皇・根鳥皇子
仲姫命 仲津山陵(大阪府藤井寺市)(引用:Wikipedia)
・仲姫命の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府藤井寺市沢田にある仲津山陵(なかつやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「仲ツ山古墳(仲津山古墳)」で、墳丘長約290メートルの前方後円墳である。
応神天皇が八幡神として観想されると、その皇后である事から八幡三神中の比売神に充てられ、その神霊を祀る八幡宮も各地に鎮座する。
●皇居
『日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、神功皇后の磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内)をそのまま使っていたことになる。行宮としては難波大隅宮(なにわのおおすみのみや)(現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)がある。崩御した地は大隅宮とも明宮ともされる。『古事記』では軽島之明宮を皇居としている。現在は応神天皇の皇居として軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)(現在の奈良県橿原市大軽町)が比定されている。
●陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は惠我藻伏崗陵(恵我藻伏岡陵)(えがのもふしのおかのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市誉田6丁目にある遺跡名「誉田御廟山古墳」に治定されている。墳丘長約420メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
『日本書紀』には陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」とある。『延喜式』諸陵寮には「惠我藻伏崗山陵」として「兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と見える。誉田御廟山古墳は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ(第2位の規模)5世紀初造営ともいわれる大前方後円墳である。ただし考古学の絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。2011年宮内庁により考古学者らの立ち入り調査が認められた。
上記とは別に、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある遺跡名「御廟山古墳」が宮内庁により百舌鳥陵墓参考地(もずりょうぼさんこうち)として治定されており、応神天皇が被葬候補者に想定されている。
〇仁徳天皇(16代)
●概要
仁徳天皇(神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位: 仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。
●略歴
記紀に記される業績から、聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇。譽田天皇(応神天皇)の第4皇子。母は五百城入彦皇子の孫・仲姫命(なかつひめのみこと)。譽田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨去により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。
即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。
一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。即位30年には異母妹の八田皇女までも妃にしようとしたことから、激怒した皇后はついに山背の筒城岡に別居するに至った。『日本書紀』では怒りを解かないまま皇后は即位35年に崩御、即位38年に天皇は八田皇女を皇后とした。一方で『古事記』では天皇が八田皇女を諦めたような描写がある。皇后との間には去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)らを得た。また日向髪長媛との間に大草香皇子、草香幡梭姫皇女(大泊瀬天皇(雄略天皇)皇后)を得た。即位67年に百舌鳥耳原を陵墓地と定め、即位87年に110歳で崩御。『古事記』に83歳。
● 皇后・皇子女
・皇后(前):葛城磐之媛(※)(石之日売命。葛城襲津彦の女)
・大兄去来穂別尊(履中天皇)
・住吉仲皇子(墨江之中津王)
・瑞歯別尊(反正天皇)
・雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)
・酒人王 - 岡崎市坂戸の酒人神社の祭神。
・皇后(後):八田皇女(矢田皇女。応神天皇の皇女。ただし古事記では天皇と結婚していない)
・妃:日向髪長媛(諸県君牛諸井の女)
・大草香皇子(大日下王・波多毘能大郎子)
・草香幡梭姫皇女(橘姫皇女・若日下部命) 雄略天皇の皇后
なお『古事記』では宇遅之若郎女(菟道稚郎姫皇女。応神天皇の皇女)とも結ばれたとしているほか、黒日売(吉備海部直の女)という女性も登場するが、黒日売は妃になってはいない。
※ 葛城磐之媛
・磐之媛命(いわのひめのみこと)(生年不詳 - 仁徳天皇35年6月)は、古墳時代の皇妃。『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐姫とも記す。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城襲津彦の娘で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。孝元天皇の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。
ヒシアゲ古墳の拝所 ヒシアゲ古墳の空中写真(※)
(※)(1979年)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
(引用:Wikipedia)
・磐之媛命の陵は、奈良県奈良市佐紀町にあるヒシアゲ古墳とされている。古墳の形状は前方後円墳で佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
ヒシアゲ古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されている。
・コナベ古墳(こなべこふん)は、奈良県奈良市法華寺町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「小奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:第16代仁徳天皇皇后磐之媛命)として陵墓参考地に治定されている。
なお、コナベ古墳の墳形は市庭古墳(伝平城天皇陵)(奈良県奈良市)や誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)(大阪府堺市)との相似関係が指摘されている。
●皇居
即位後は、都をそれまでの大倭、または大隅宮から大伴氏などが本拠地を置いていた難波に遷都し、宮居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)とした。
宮址については、江戸時代の頃より諸説ある。現在の高津宮址の碑は、明治33年(1899年)に難波神社と高津神社において執り行われた仁徳天皇千五百年大祭を祝して設置され、その後に移設されたものである。
●陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある遺跡名「大仙陵古墳(大山古墳)」に治定されている(位置)。宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長525メートル、後円部286,33メートル、前方部幅347メートルもあるという調査結果が2018年4月12日に発表された。墳丘長、体積共に日本一の前方後円墳であり、世界的に見ても最大級の墳墓である。
『古事記』には「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」、『日本書紀』には寿陵であったと記され、「(八十七年)冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」とある。『延喜式』諸陵寮には「百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記されている。陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中からモズが現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけられる(なお、モズは大阪府の鳥である)。また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵は反正天皇陵、南陵は履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。
〇履中天皇(17代)
●概要
履中天皇(りちゅうてんのう)(仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日)は、日本の第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。『日本書紀』での名は去来穂別天皇。仁徳天皇の嫡子。
●略歴
5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第一皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)。住吉仲皇子、瑞歯別天皇(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の同母兄。仁徳天皇87年1月、大鷦鷯天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、翌年2月に即位して葛城黒媛を立后。皇后との間には億計天皇(仁賢天皇)と弘計天皇(顕宗天皇)の父である磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)を得た。その後は国史(ふみひと)や内蔵の制度を整えたものの、即位6年3月に病気のため磐余稚桜宮で崩御。『日本書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。『古事記』は壬申年1月3日に崩じたとする。後を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。
● 皇后・皇子女
・皇妃:葛城黒媛(葛城葦田宿禰(※)の女、一説に羽田八代宿禰(※)の女)
・磐坂市辺押磐皇子(仁賢天皇・顕宗天皇の父)
・御馬皇子
・青海皇女
・皇后:草香幡梭皇女(応神天皇の皇女)
・中磯皇女(中蒂姫命) 大草香皇子の妃・後に安康天皇の皇后
・嬪:太姫郎姫(鯽魚磯別王の女)
・嬪:高鶴郎姫(鯽魚磯別王の女)
※葦田宿禰(あしだのすくね)は『古事記』に記載のある男性皇族。祖父は建内宿禰、父は葛城襲津彦。娘に第17代履中天皇の妃になる黒媛がいる。姉妹の磐之媛命が第16代仁徳天皇の皇后となる。
※羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』では「羽田矢代宿禰」、『古事記』では「波多八代宿禰」とされ、『新撰姓氏録』では、河内国皇別 道守朝臣条・河内国皇別 道守臣条において武内宿禰の子とされている。子に関して、『日本書紀』履中天皇即位前条では黒媛の名を記載する(ただし、『古事記』では葛城襲津彦の子の葦田宿禰の娘とする)。武内宿禰の子で、波多氏およびその同族の伝説上の祖とされる。
『日本書紀』履中天皇即位前条では、履中天皇が皇太子の時に羽田矢代宿禰の娘の黒媛を妃にしようとしたが、住吉仲皇子が不倫を働いたため、履中天皇は住吉仲皇子を討ったという。『古事記』では事績に関する記載はない。
●皇居
都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある)。
●陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市西区石津ヶ丘にある遺跡名「上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳)」に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長365メートルの前方後円墳である。
〇反正天皇(18代)
●概要
反正天皇(はんぜいてんのう、仁徳天皇39年? - 反正天皇5年1月23日)は、日本の第18代天皇(在位:反正天皇元年1月2日 - 同5年1月23日)。『日本書紀』での名は瑞歯別天皇。兄弟継承した初の天皇。
●略歴
5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第三皇子。母は葛城襲津彦の女・皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)。去来穂別天皇(履中天皇)・住吉仲皇子の同母弟、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の同母兄。仁徳天皇87年、大鷦鷯天皇の崩後、叛乱を起こした住吉仲皇子をその近習である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した。
履中天皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に去来穂別天皇が崩御し、翌反正天皇元年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。
同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、子孫が即位することもなかった。10月に河内丹比を都とする。天下太平であり、何事もなく在位5年。反正天皇5年1月に皇太子を立てないまま崩御。後を弟の雄朝津間稚子宿禰尊が継いだ(允恭天皇)。
●皇后・皇子女
・皇夫人:津野媛(大宅臣の祖和珥木事の女)
・香火姫皇女(甲斐郎女)
・円皇女
・妃:弟媛(津野媛の妹)
・財皇女(古事記に財王で男性)
・高部皇子(古事記に多訶弁郎女で女性)
なお、「皇夫人」と称されたのは史上津野媛ただ一人である(「皇太夫人」とは異なる)。皇后を立てなかったのは、成務天皇に次いで史上2人目。
●皇居
都の名は丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)。大阪府松原市上田七丁目の柴籬神社が伝承地
●陵・霊廟
反正天皇 百舌鳥耳原北陵(大阪府堺市)(引用:Wikipedia)
陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁にある遺跡名「田出井山古墳」に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長148メートルの前方後円墳である。上記とは別に宮内庁から大阪府堺市北区百舌鳥西之町にある遺跡名「土師ニサンザイ古墳」が東百舌鳥陵墓参考地(ひがしもずりょうぼさんこうち)として反正天皇の空墓に想定されている。
〇允恭天皇(19代)
●概要
允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、日本の第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。『日本書紀』での名は雄朝津間稚子宿禰天皇。乱れた氏姓の改革を行ったと伝えられる。
●略歴
5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)。去来穂別天皇(履中天皇)、瑞歯別天皇(反正天皇)の同母弟である。
瑞歯別天皇が即位5年1月に皇太子を定めずして崩御したため、群臣達の相談により天皇(大王)に推挙された。病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、翌年12月に妻の忍坂大中姫の強い要請を受け即位。
即位4年9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。即位5年7月、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。即位7年12月、皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買う。即位23年、長男の木梨軽皇子を皇太子とするが、翌年に同母妹の軽大娘皇女との近親相姦が発覚。即位42年1月、崩御。『古事記』では甲午年1月15日に崩じたとされる。木梨軽皇子は群臣の支持を得られず粛清され、弟の穴穂皇子が即位した(安康天皇)。
●皇后・皇子女
・皇后:忍坂大中姫(※)(稚渟毛二派皇子の女)
第一皇子 木梨軽皇子(皇太子)
第一皇女 名形大娘皇女
第二皇子 境黒彦皇子
第三皇子 穴穂皇子(安康天皇)
第二皇女 軽大娘皇女
第四皇子 八釣白彦皇子
第五皇子 大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)
第三皇女 但馬橘大娘皇女
第四皇女 酒見皇女
・妃:弟姫(衣通郎姫、皇后の妹)
※忍坂大中姫
忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)(生没年不詳)は、第19代允恭天皇の皇后。木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の実母。第15代応神天皇は祖父にあたる。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(第26代継体天皇の曾祖父)の同母妹。允恭天皇は夫であると同時に父方の従兄弟にもあたる。
●皇居
『日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、瑞歯別天皇(反正天皇)の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや、大阪府松原市上田)をそのまま使っていたことになる。『古事記』によると都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥か)。飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇ということになる。
●陵・霊廟
允恭天皇 惠我長野北陵(大阪府藤井寺市)(引用:Wikipedia)
陵(みささぎ)の名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)。宮内庁により大阪府藤井寺市国府1丁目にある遺跡名「市ノ山古墳(市野山古墳)」に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円で、墳丘長228メートルの前方後円墳である。
上記とは別に、大阪府藤井寺市津堂にある遺跡名「津堂城山古墳」は宮内庁指定の藤井寺陵墓参考地(ふじいでらりょうぼさんこうち)として允恭天皇が被葬候補者に想定されている。
〇安康天皇(20代)
●概要
安康天皇(履中天皇2年? - 安康天皇3年8月9日)は、日本の第20代天皇(在位:允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日)。『日本書紀』での名は穴穂天皇。殺害されたと明確に記された最初の天皇である。
●略歴
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第二皇子。母は稚渟毛二派皇子の女・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子の同母弟で大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の同母兄。父帝が崩御すると群臣の支持を失っていた太子の兄に替わって即位。石上穴穂宮に都を遷す。即位元年、根使主の讒言を信じておじ(大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇子)の大草香皇子を誅殺。即位2年、その妃であった中蒂姫を皇后に立てたが、翌年8月9日に連れ子の眉輪王に暗殺された。
その後、弟の大泊瀬皇子が眉輪王を含めた多くの皇族を殺して後を継ぎ即位。根使主は14年後に讒言が発覚して誅殺されたが、やすやすと信じてしまった安康天皇の過ちもあり根使主の子孫が根絶やしにされることはなかった。
●皇后・皇子女
・皇后:中磯皇女(中蒂姫命。履中天皇の皇女。もと大草香皇子の妃)
・皇子女なし
●皇居
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)。伝承地は現在の奈良県天理市田町、同市田部、橿原市石原田町の3説がある。
●陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市宝来4丁目にある宝来城跡に治定されている。「古城1号墳」とも称されるが古墳ではないとする見方が強い。近年の調査結果でも古墳時代の遺物は発見されていない。城跡としては堀をめぐらした方形館の東側に馬出を付けた中世の平城である。宮内庁上の形式は方丘。
なお、南東には垂仁天皇陵に治定されている菅原伏見東陵(宝来山古墳)が所在する。垂仁天皇陵の飛地い号に治定されている遺跡名「兵庫山古墳」(奈良市宝来町字堂垣内:位置)は安康天皇陵に考定する説が元禄期以後に散見される。直径約40メートルを測る大型円墳である。宝来山古墳の北西約200メートルの平城京三条大路上に位置し、大路を歪めてでも残された古墳ということになる。
〇雄略天皇(21代)
●概要
雄略天皇(允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、日本の第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。仁徳天皇の孫。
●略歴
諱は、『日本書紀』では大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)。『古事記』では大長谷若建命、大長谷王。異名として、大悪天皇・有徳天皇とも呼ばれた。漢風諡号である「雄略天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
「記紀」によれば、兄である20代安康天皇の死によって即位し、反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せてヤマト王権の力を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされる。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭にその名が掲げられていることから、この天皇の時代が歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたことが窺える。それまでの倭国は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略の登場により天皇による統治が確立され、天皇を中心とする中央集権体制が始まったとする見方もある。
埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘に刻まれた「獲加多支鹵大王」を『記紀』に記された雄略天皇の諱である「ワカタケル」が発見され、考古学から実在が証された天皇である。また『宋書』・『梁書』における「倭の五王」中の武にも比定され、以上のことから5世紀末頃に在位していた天皇と推測されている。
●皇后・皇子女
・皇后:草香幡梭姫皇女(16代仁徳天皇の皇女)
・妃:葛城韓媛(葛城円大臣の女)
・白髪皇子(22代清寧天皇)
・栲幡姫皇女(稚足姫皇女とも) 斎宮
・妃:吉備稚媛(吉備上道臣の女。もと吉備上道臣田狭の妻。吉備兄君・吉備弟君の母)
・磐城皇子(難波小野王(23代顕宗天皇の皇后)の祖父)
・星川稚宮皇子
・妃:和珥童女君(春日和珥臣深目の女)
・春日大娘皇女(高橋皇女)(24代仁賢天皇の皇后)
(25代武烈天皇・手白香皇女(26代継体天皇の皇后・29代欽明天皇の母)
橘仲皇女(28代宣化天皇の皇后)の母
●皇居
都は、近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。なお、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたという。
●陵・霊廟
雄略天皇 丹比高鷲原陵(大阪府羽曳野市)(引用:Wikipedia)
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」で、直径75メートルの円墳・一辺50メートルの方墳の2基からなる(古墳2基を合わせて治定)。
『古事記』には、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、意祁命(後の仁賢天皇)が自ら雄略陵の墳丘の一部を破壊したとある。また『日本書紀』にも、顕宗が陵を破壊しようとしたが皇太子億計(仁賢)がこれを諌めて思い止まらせたとする。
上記とは別に、大阪府松原市西大塚にある宮内庁の大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)では、雄略が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「河内大塚山古墳」で、墳丘長335メートルの前方後円墳である。ただし埴輪が無い等の特徴から前方後円墳終末期のものである可能性が高く、そうであれば雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがある。
(引用:Wikipedia)
応神天皇(おうじんてんのう)(仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。『日本書紀』での名は譽田天皇。実在性は定かでないが八幡神として神格化されている。
1)略歴
実在したとすれば4世紀後半。足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。異母兄に麛坂皇子と忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは足仲彦天皇が崩御して十月十日後である。
胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。神功皇后摂政3年に立太子。
即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。
在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。
また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは宋)に派遣されたという。
即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩じたとされる。
2)名
・譽田天皇(ほむたのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
・誉田別尊(ほむたわけのみこと)- 『日本書紀』
・胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)- 『日本書紀』
・品陀和氣命(ほむだわけのみこと) - 『古事記』
・大鞆和気命(おおともわけのみこと) - 『古事記』
・品太天皇(ほむだのすめらみこと)- 『播磨国風土記』
・凡牟都和希王(ほむつわけのみこ/ほむたわけのみこ)- 『上宮記』逸文。
漢風諡号である「応神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
3)事績
3.1)即位
『日本書紀』によれば母后摂政(神功皇后)が崩御した翌年に即位。即位2年3月、仲姫命を立后。子に大鷦鷯尊(仁徳天皇)らがいる。また皇后の姉の高城入姫命との間には大山守皇子らを得た。
『日本書紀』によると即位3年10月に「蝦夷をもって厩坂道作らしむ」、即位5年8月に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、即位7年9月に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に武内宿禰に命して、即位11年10月に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。
『古事記』にも同様の記事が見え、「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」とある。
3.2)行幸
3.2.1)宇治
即位6年2月、近江国に行幸し、途中の菟道野(宇治)で歌を詠んだという。
〔千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ〕
『古事記』によると菟道野から北上して木幡村に到った天皇は道端で美しい少女と出会った。何者か問うと少女は和弭比布礼能意富美(わに の ひふれのおみ)の娘の宮主矢河枝比売(みやぬし やかえひめ)と名乗った。天皇は翌日の帰り道に必ず少女の家に寄ると約束し、少女も父に事情を報告した。翌日、天皇は酒を注ぎながら長い歌を詠み、宮主矢河枝比売を娶った。こうして生まれたのが皇太子となる菟道稚郎子と異母兄の皇后となる八田皇女である。
3.2.2)吉野
即位19年10月、吉野へ行幸。国樔人は白樫で横臼を作って大御酒を醸した。その大御酒をたてまつる時、口鼓を撃って演じ歌を詠んだ。
〔橿の生に 横臼を作り 横臼に醸める大御酒 うらまに 聞こし持ち食せ まろが父〕
吉野は山深い土地であり、日本書紀が書かれた奈良時代初頭でも吉野の人々が来朝することはまれであった。しかし時折、名産品を献上するときがあり、国主らはその際にこの歌を詠んだという
3.2.3)吉備
即位22年春3月5日、難波の大隅宮に行幸。14日、高台に登り遠望した。その時、妃の兄媛(えひめ)が西の方を望んで嘆いた。なぜ嘆いているのかを問うと故郷の父母が恋しいからだと兄媛は答えた。兄媛は吉備氏の娘であり故郷の方角を見て望郷の念にかられたのだった。そこで兄媛の里帰りの希望を許し、淡路の御原の海人八十人を水手として集めた。そして4月に大津から吉備に向かう兄媛を見送って歌を詠んだ
〔淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び 宜しき 島々 誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの〕
秋になって天皇は吉備へ行幸することにした。9月6日に淡路で狩りをし、小豆島を経て10月10日に吉備の葉田葦守宮に至った。そのとき兄媛の兄の御友別が出迎えて一族総出で食事を奉った。天皇は御友別の謹惶(かしこまり)を喜び、その子孫たちに吉備国を割いて封じることにした。彼らが吉備上道臣、下道臣祖などの祖となった。また織部(はとりべ)が兄媛に与えられた。『古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、兄媛は黒日売という名で登場する。御友別にあたる人物は登場せず、黒日売が自ら大御飯(おおみけ)を献上する。
3.3)甘美内宿禰の讒言
即位9年4月、武内宿禰を百姓の監察に筑紫へ遣わした際、その弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言した。それは武内宿禰が筑紫と三韓を率いて天下を奪おうとしているというものだった。武内宿禰は神功皇后の新羅出兵や天皇の即位に尽力した功臣である。
しかし天皇は甘美内宿禰を疑わず武内宿禰を誅殺するため使いを出した。驚き嘆いた武内宿禰だったが、壱岐真根子(壱伎直祖)という者が自ら進み出て身代わりとなって死んだ。
武内宿禰はひとり悲しみながらも南海を通って帰国し天皇の前で甘美内宿禰と抗弁して争った。判断がつかなかった天皇は磯城川のほとりに出て探湯で二人を戦わせることにした。武内宿禰が勝ち、敗れた甘美内宿禰は兄に殺されそうになった。命だけは天皇の勅によって救われたが、その身は紀直らの祖に隷属民として授けられたという。
3.4) 外交
即位14年、弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、その民は加羅に留まっていた。
そこで葛城襲津彦を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。
そこで即位16年8月、新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
即位15年8月、百済の阿花王(阿莘王)が良馬二頭を阿直岐(あちき)に付けて献上した。この阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので菟道稚郎子の師となった。
天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された王仁(わに)を即位16年2月に呼び寄せた。王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。
『古事記』にも同様の記事が見えるが、百済の王は照古王(近肖古王)とされ、阿知吉師(阿直岐)は牡馬と牝馬を献上し、阿直史らの祖となったとある。
また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。
また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。この論語と千字文の貢進がそれぞれ儒教と漢字の伝来とされている。
即位20年9月、「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。即位37年、阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣され、倭王讃の朝貢にも比定される。またこれらは神功皇后紀における『魏志』と現存しない『晋起居注』の引用を除けば『日本書紀』における中国関連最初の記事である。
3.5)武庫水門の火災
即位31年、武庫水門に停泊していた新羅の使者の失火により多くの船が失われてしまった。これらは即位5年10月に伊豆国へ命じて造らせた長さ十丈の「枯野」という船が老朽化したため、その代わりとして建造されたものだった。
「枯野」とは船が軽く速く進む様子から名付けられたというが、それなら「軽野」と呼ぶはずであり後代に訛ったのではないかと日本書紀では推察されている。
老朽化した「枯野」は塩を作るための薪にされ、塩は諸国に配られ、それを資金源として作られた新たな五百艘の船が武庫水門に集っていたというわけである。
新羅王は船を燃やしてしまった謝罪として技術者を献上した。技術者たちは猪名部(いなべ)の祖先とされる。
焼け残りの材木は琴にされ、その音が遠くまでよく音が聞こえたので天皇は歌を詠んだ。
〔枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に造り 掻き彈くや 由良の門の 門中の海石に 觸れ立つ なづの木の さやさや〕
『古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、河内の菟寸河にあった大木を「枯野」にしたと書かれている。この木の影は朝には淡路島を、夕方には高安山を隠すほど巨大で、船になってからは淡路島の寒泉(しみず)を飲料水として運ぶ役目を担ったと言う。
そして「この船、破れ壊れ、以ちて塩を焼き、其の焼け残れる木を取りて琴を作るに、其の音、七里に響きき」とある。新たな造船と続く失火については記載がない。
3.6)菟道稚郎子の立太子
晩年の即位40年1月8日、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼び寄せ「お前たち、子どもは愛おしいか?」と尋ねた。二人が肯定すると次に「年長と年少ではどちらがより愛おしいか?」と尋ねた。大山守命が年長だと答えると天皇は不機嫌になった。
そこで大鷦鷯尊が空気を読んで「年長は多く年月を経て既に成熟しており心配ありません。しかし年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。天皇は「その通りだ」と大変喜んだ。
天皇はかねてから年少の菟道稚郎子を立太子しようと思っていたので、年長の二皇子の気持ちも知りたいと思いこの問いをしたのだった。24日、天皇は菟道稚郎子を皇太子とし、大鷦鷯尊は太子の補佐役として国事を仕切らせ、大山守命には山川林野を任せた。
大山守命はこれを不服に思い翌年に天皇が崩御すると反乱を起こすこととなる。また菟道稚郎子は即位を拒否し、大鷦鷯尊との譲り合いの末に自決した。結局、皇位を継いだのは大鷦鷯尊だった(仁徳天皇)。
4)系譜
4.1)系図
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豊城入彦命 |
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[毛野氏族] |
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10 崇神天皇 |
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11 垂仁天皇 |
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12 景行天皇 |
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日本武尊 |
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14 仲哀天皇 |
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倭姫命 |
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13 成務天皇 |
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彦坐王 |
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丹波道主命 |
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山代之大 筒木真若王 |
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迦邇米雷王 |
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息長宿禰王 |
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神功皇后 (仲哀皇后) |
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15 応神天皇 |
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16 仁徳天皇 |
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17 履中天皇 |
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市辺押磐皇子 |
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飯豊青皇女 |
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18 反正天皇 |
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24 仁賢天皇 |
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手白香皇女 (継体皇后) |
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菟道稚郎子皇子 |
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23 顕宗天皇 |
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25 武烈天皇 |
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19 允恭天皇 |
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木梨軽皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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20 安康天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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21 雄略天皇 |
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22 清寧天皇 |
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春日大娘皇女 (仁賢皇后) |
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稚野毛 二派皇子 |
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意富富杼王 |
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乎非王 |
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彦主人王 |
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26 継体天皇 |
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忍坂大中姫 (允恭皇后) |
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(系図引用:Wikipedia)
応神天皇は後に男系断絶した仁徳天皇皇統と現在まで続く継体天皇皇統の共通の男系祖先である。そのため後世に皇祖神として奉られることになった。早くから神仏習合がなり八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られ各地の八幡宮に祭られた。
平安時代後期以降は清和源氏や桓武平氏など皇別氏族の武家が武功を立てる際に氏神として大いに神威を発揮したことで武神「弓矢八幡」として崇敬を集めた。
5)后妃・皇子女 前述
6)年譜
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
・仲哀天皇9年 12月、誕生
・神功皇后摂政3年 1月、皇太子に立てられる
・神功皇后摂政13年 2月、武内宿禰と角鹿(敦賀)の笥飯大神へ参拝
・応神天皇元年 1月、即位
・応神天皇2年 3月、仲姫命を立后
・応神天皇3年 10月、蝦夷に厩坂道を作らせる 11月、阿曇連の祖の大濱宿禰に海人を平定させる
・応神天皇5年 8月、海人部と山守部を定める 10月、伊豆国に長さ十丈の船を造らせ、これを枯野と名付ける
・応神天皇6年 2月、近江国へ行幸
・応神天皇7年 9月、高麗人・百済人・任那人・新羅人に韓人池を造らせる
・応神天皇9年 4月、武内宿禰が筑紫を観察。弟の甘美内宿禰が兄を廃しようと讒言
・応神天皇11年 10月、剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る
・応神天皇13年 3月、美人と名高い日向の髪長媛を呼び寄せる 9月、来朝した髪長媛を大鷦鷯尊に譲る
・応神天皇14年 2月、百済が絹衣工女を献上
秦氏の祖の弓月君が来朝を希望したので葛城襲津彦を派遣。以後、三年帰国せず
・応神天皇15年 8月、百済が阿直岐を派遣して馬を献上
・応神天皇16年 2月、阿直岐の紹介で王仁が来朝。
数々の典籍を伝え、阿直岐と共に菟道稚郎子(後に皇太子となる)の師となる
8月、平群木菟と的戸田を派遣、弓月君を来朝させ葛城襲津彦を連れ戻す
・応神天皇19年 10月、吉野に行幸。倭漢直の祖の阿知使主・都加使主が来朝
・応神天皇22年 3月、難波の大隅宮へ行幸。妃の兄媛を実家の吉備に返す
9月、難波から淡路島、吉備へ行幸。兄媛の兄弟と甥たちに吉備の統治権を与える
・応神天皇28年 9月、高麗から遣使。漢文を読める菟道稚郎子が表書きの無礼を理解して怒る
・応神天皇31年 8月、武庫水門で新羅人の過失により枯野船が炎上。焼け残りの木で塩と琴を作る
・応神天皇37年 2月、阿知使主・都加使主を呉(東晋あるいは宋)に派遣
・応神天皇40年 1月、菟道稚郎子を立太子
・応神天皇41年 2月、崩御。111歳(『日本書紀』)、130歳。(『古事記』)2月、阿知使主・都加使主が帰国
7)皇居 前述
8)陵・霊廟 前述
9)伝承
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。
9.1)誕生
応神天皇こと誉田別尊の誕生は神秘に彩られている。
出生前の仲哀天皇8年、母の気長足姫(神功皇后)は筑紫橿日宮で神託を行い「海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」という託宣を受けた。父帝はこれに背いたため天神地祇は皇后のお腹の中にいた皇子に三韓を与えることにした。まもなく父帝は崩御し、皇后は託宣を現実のものとするため新羅遠征を行い成功させた。
皇后は遠征と出産が重ならぬよう月延石や鎮懐石と呼ばれる石をお腹に当てて出産を遅らせた。父帝が崩御してちょうど十月十日後に筑紫で誕生した皇子は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けられた。その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し「ほむた」の音に「譽田」の字をあてたものだという。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので「胎中天皇」とも称された。
誉田別尊を君主と認めない異母兄の麛坂王、忍熊王の策謀は皇后と武内宿禰らに平定され、皇太后となった母の摂政のもと誉田別尊は三歳(計算上は四歳)で太子となった。71歳での即位まで母の神功皇后が摂政したという。そうであれば西暦367年-437年は天皇不在となる(神功皇后は女帝と認められていないため)。
9.2)氣比神宮参詣
神功皇后摂政13年2月8日、十四歳の誉田別尊は武内宿禰に連れられ禊のため角鹿(敦賀)の笥飯大神に参詣した。角鹿は父帝が笥飯宮を設け母后が熊襲征伐と新羅遠征へ出発した地であり、太子の角鹿参詣によって一連の出征が終わったと解釈できる。
このとき太子の誉田別尊と大神の去来紗別尊(いざさわけのみこと)が互いの名を交換したという説話がある。『書紀』は分注に一伝として「誉田別尊の元の名は去来紗別尊といい氣比神宮の笥飯大神と名前を交換して譽田別尊の名を得たのであろうが、他に所見なく未詳」としている。
『古事記』でも同様の説話があるが、さらにその続きとして「魚(な)と名(な)の交換」の説話がある。「名の交換」とはこれの誤伝とする説が有力である。詳しくは「氣比神宮」参照。
17日、太子が角鹿から戻ると母后は大殿で宴を開き、祝いの酒を飲み交わして歌を詠んだ。
〔此の酒は 我が御酒ならず 神酒の神 常世に坐す いはたたす 少名御神の 豊寿ぎ 寿ぎもとほし 神寿ぎ 寿ぎくるほし 祭り来し 御酒ぞ 乾さず 飮せ 酒〕
これに対し武内宿禰が太子に代わって返歌をした。
〔此の御酒を 釀みけむ人は 其の鼓 臼に立てて 歌ひつつ 釀みけめかも 此の御酒の あやに 歌樂し 酒〕
10)信仰
詳細は「八幡神」を参照
誉田別命(応神天皇)が崩御して久しい欽明天皇32年(571年)、その神霊が豊前国宇佐に初めて示顕したと伝わる。これが八幡神である。誉田別命を主神として母の神功皇后、比売神を合わせて八幡三神として祀られてもいる。なお本来の八幡神は豊前国宇佐で信仰されていた土着神で由来は誉田別命と無関係である。習合が始まったのは奈良時代後期から平安時代初期とされる。『豊前国風土記』逸文では新羅由来の神とも示唆されている。
11)考証
11.1)実在性
学術的に確定しているわけではないが、4世紀後半から5世紀初頭に実在した可能性が高いと見られている。
井上光貞は、御名に装飾性がなく(後述)『記紀』に記された事跡が具体的でなおかつ朝鮮の史書の記述に符合する部分も窺えることから「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」としている。
また中国の史書との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の「讃」に比定する説もある(ほかに仁徳天皇や17代履中天皇を比定する説もあり)。
一方で、岡田英弘は「応神天皇の五世孫」として即位した越前国出身の26代継体天皇の祖先神であるとして、その実在性を否定する。『記紀』において次帝の仁徳天皇の条と記述の重複・混乱が見られることから、両者を同一人物と考える説もある。
11.2)諡号か実名か
諡号である「誉田別」(ほむだわけ)は生前に使われた実名だったとする説がある。応神天皇から26代継体天皇にかけての名は概して素朴なもので装飾性が少なく、21代雄略天皇の「幼武」(わかたける)のように明らかに生前の実名と証明されたものもある。しかし確実性を増してからの書紀の記述によれば、和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。
『日本書紀』には、吉備臣の祖として「御友別」(みともわけ)の名が、『古事記』には、近江の安国造の祖先として「意富多牟和気」(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「誉田別」と全く同じである。
これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は4世紀から5世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが解る。事実、12代景行・17代履中・18代反正の各天皇の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。
なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については諸説あって明らかにしがたい。『古事記』では、景行天皇が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としているが、これは観念的説明であろう(姓としての「ワケ」の項も参照)。
11.3)系譜
父は14代仲哀天皇で母は神功皇后とされるが、異説も多い。その理由は既述の通り応神天皇の出生に謎が多いことによる。仲哀天皇以外の父として「是に皇后、大神と密事あり」とある住吉三神や、神功皇后に近侍していた武内宿禰とする説もある。
安本美典は応神天皇を神功皇后と武内宿禰との間の子であり、本来の後継者であった麛坂皇子と忍熊皇子を押しのけて皇位に即いたとし、武内宿禰が応神天皇の父であると考えればその後裔である葛城氏と蘇我氏の興起もうまく説明できるとしている。
なお武内宿禰も皇族であることから、仲哀帝が父でなくても王朝交代とまでは言えない
11.4)紀年
年代に関して、『日本書紀』では応神天皇3年条に百済の辰斯王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」の辰斯王が死去したと記述されている年は西暦392年である。
また、『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済記(百済三書の一つ)には、阿花王(あくえおう、あかおう)が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子腆支(直支のこと)を遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は西暦397年である。
また、『日本書紀』では応神天皇16年条に百済の阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は西暦405年である。 (詳しくは百済史年表を参照)
また、『日本書紀』では応神天皇25年条に直支王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において腆支王が死去したと記述されている年は西暦420年である。
『日本書紀』では応神天皇39年条に直支王が妹の新斉都媛と7人の女性を遣わしたともあり、明白に矛盾する記述となっている。
11.5)新王朝説
応神天皇をそれ以前の皇統とは無関係な人物と考え、新たに興った新王朝の創始者とする説がある。この応神天皇から始まる王朝は河内に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」、また「ワケ」の名がついた天皇が多いことから「ワケ王朝」などと歴史学上呼称される(詳細は王朝交替説の項目を参照)。
父母は14代仲哀天皇とその皇后である神功皇后であるが、伝承の項にもある通り出生時の状況も不自然であり、母である神功皇后が身重でありながら朝鮮に赴き、出産を遅らせて三韓征伐を指揮し、九州に帰国した際に生まれたとされている。
広開土王碑などの国外史料からも実証できるように4世紀末に倭国が朝鮮半島に侵攻をかけて百済と新羅を服属させたことは歴史的事実ではあるが、『記紀』における三韓征伐の記述は神話的表現も見受けられそのまま信用することはできない。
井上光貞は、『記紀』に応神天皇が九州の産まれで異母兄弟の麛坂皇子と忍熊皇子達と戦って畿内に入ったという記述があることから、応神天皇は本来ヤマト王権に仕えていた九州の豪族であり、朝鮮出兵を指揮する中で次第に中央政権をしのぐ力をつけて皇位を簒奪し、12代景行天皇の曾孫である仲姫命を娶ることによって入婿のような形で王朝を継いだのではないかと推測している。
仲哀天皇と先帝の13代成務天皇はその和風諡号が著しく作為的(諡号というより抽象名詞に近い)であり、その事績が甚だ神話的であることから実在性を疑問視されることが多く、井上はこの二帝は応神の皇統と10代崇神天皇から景行天皇までの皇統を接続するために後世になって創作された存在と考察している。
一方宝賀寿男は井上の説と前半までは同旨であるが、系譜研究と暦年研究から仲姫命の父・五百城入彦皇子を成務天皇と同人であると見て、仲哀天皇も応神天皇と同世代であるとしている。
天皇の神話的な物語は後世の潤色、表象、転訛に過ぎず、その程度の不合理さだけで大王家の歴史的な流れや諸豪族の系譜を無視した勝手な系譜改変、非実在説を唱える立場の者に対して非科学的、非論理的であるとしている。
また直木孝次郎は、それまで大和地方に拠点を置いていたヤマト王権が応神の代より河内地方に拠点を移していることから、河内の豪族だった応神天皇が新たな王朝を創始したと推測している。
(引用:Wikipedia)
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。
境内入り口 境内(左奥から右に第一・第二・第三・第四本宮)
(引用:Wikipedia)
1) 概要
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。
古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の1つである。
社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の1つである『住吉大社神代記』は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の重要無形民俗文化財に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。
2)社名
社名は、『延喜式』神名帳には「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上には「住吉神社」「住吉社」などと見える。また『住吉大社神代記』には「住吉大社」「住吉大明神大社」などとも記されている。中世には主に「住吉大神宮」と見える。明治維新後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の昭和21年(1946年)に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め現在に至っている。
「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。
本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている。
ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。
元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。
一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとみられ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。
3)祭神
現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
・第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
・第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
・第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
・第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) - 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。
第14代仲哀天皇皇后。
特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は4座。
『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する。
3.1)祭神について
主祭神の住吉三神(筒男三神/筒之男三神)は、『古事記』・『日本書紀』において2つの場面で登場する神々である。
1つは生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が筑紫日向小戸橘檍原で穢れ祓いのため禊をすると、綿津見三神(海三神)と筒男三神が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とする。
神功皇后の新羅征討(月岡芳年画) 住吉神社※(山口県下関市)
※『日本書紀』では住吉大社とともに神功皇后による創基とする。
(引用:Wikipedia)
次いで登場するのは神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神の神託もあって皇后の新羅征討が成功したとする。特に『日本書紀』では、住吉神は皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託したとし、それにより住吉神の荒魂を祀る祠が穴門山田邑に、和魂を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられたとする。
また『住吉大社神代記』では、筑紫大神が神功皇后に我が荒魂を穴門山田邑に祀るよう宣託を下したので、穴門直の祖である踐立が住吉神社(山口県下関市)に荒魂を、和魂を津守の祖である手搓(田裳見宿禰)が大津渟中倉之長峡の祠(当社の地)に祀ったとある。
このように住吉三神は記紀編纂時の7-8世紀には神代巻に登場する天神(あまつかみ)のランクに位置づけられており、『令義解』・『令集解』でも伊勢神・山城鴨神・出雲国造斎神と並んで住吉神が天神である旨が記される。
三神の「ツツノヲ」の字義については詳らかでなく、これまでに「津の男(津ツ男)」とする説のほか、「ツツ」を星の意とする説、船霊を納めた筒の由来とする説、対馬の豆酘(つつ)から「豆酘の男」とする説などが挙げられる。
そのうち「津の男」すなわち港津の神とする説では、元々は筑前国の那の津の地主神・守護神であった住吉三神であり、三韓征伐後に分祀された和魂を当社が祀り、難波の発展に伴って難波津も含むヤマト王権の外港の守護神に位置づけられ、神功皇后紀のような外交・外征の神に発展したとも推測される。また星の意とする説のうちでは、オリオン座中央の三つ星のカラスキ星(唐鋤星、参宿)と関連づける説などがある。
祭神数は『延喜式』・『住吉大社神代記』から現在まで4座とされ、他の式内社の住吉神社(3座または1座)と異にするが、住吉大社の場合も元々の祭神は住吉三神の3座であって4座目(第四宮)は時期が下っての合祀とされる。第四宮については、『住吉大社神代記』では「姫神宮」と記されるほか住吉三神との密事伝承が記され、現在の社殿配置も第一・二・三宮の列とは外れる点が着目される。
これらを基に、元々は住吉大社に奉仕していた巫女が祭られる神に発展し(巫女の神格化)、住吉三神共同の妻神として第四宮が形成され、後世(一説に7世紀以降)の神功皇后伝説の形成とともに第四宮に神功皇后の神格が付与されたとする説がある。
なお、上記のように祭神の順序は『住吉大社神代記』と現在では異なるが、『二十一社記』・『廿二社本縁(二十二社本縁)』以降の鎌倉時代末から現在までは底筒男が第一とされることから、中世期に祭神の順序の変更があったとする説がある。中世期には祭神自体にも異説が生じ、『廿二社本縁』では筒男三神・玉津島明神(衣通姫)とする説(住吉社を歌神とする信仰に由来)を、『二十二社註式』では天照大神・宇佐明神・筒男三神・神功皇后とする説を挙げる。祭神の本地仏に関しても、4神を薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・聖観音菩薩に比定する説を始めとして文献により諸説があった。
4)特徴
4.1)航海守護神としての信仰
住吉大社については、海上交通の守護神とする信仰が最もよく知られる。『日本書紀』神功皇后紀には、鎮座した筒男三神の言に「往来船(ゆきかよふふね)を看(みそこなは)さむ」とあり、当時には三神を航海守護神とした認識が認められる。
この信仰については、前述の『住吉大社神代記』にあるように住吉三神は筑紫大神であり、元々は筑前の那の津(現博多湾)の地主神・守護神であったのを、三韓征伐後に分祀し、荒魂を長門の住吉神社に、和魂を当社に祀ったものであったが、難波の発展に伴ってヤマト王権の外港の守護神に発展したと考える説がある。
同様の航海守護神としては志賀海神社(福岡県福岡市)と宗像大社(福岡県宗像市)も知られるが、志賀海神社は安曇氏が祀る綿津見神社、海神社、および綿津見三神や豊玉彦を祀る神社の総本社であり、宗像大社は宗像氏が祀る宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社であるのに対して、住吉大社は特定氏族の氏神ではない点で性格を異にし(神職津守氏の氏神は大海神社)、伊勢神宮・石上神宮・鹿島神宮とともに古代王権にとって国家的機関の位置づけにあったと考える説もある。
住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈歌には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている(後掲)。
また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える。また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。
後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。
4.2)禊祓の神・和歌の神としての信仰
住吉大社は別の神格として、禊祓の神・和歌の神としても信仰された。禊祓の神としての信仰は、『古事記』・『日本書紀』のイザナギの禊による筒男三神の誕生神話に顕著で、現在も例祭の住吉祭では祓の意味を込めた神事が斎行される。その性格の顕在化として、難波の八十島祭(平安時代-鎌倉時代の天皇即位儀礼の1つ)への住吉社の関与を指摘する説もある。
和歌の神としての信仰は、平安時代頃から見られるものになる。元々住吉はのちに「住吉の松」と歌枕で歌われるように風光明媚な地であったが、平安時代中頃の遣唐使停止で航海の神としての性格が薄れる一方、そうした土地柄から貴族の来遊や熊野詣時の参詣を受けていつしか和歌の神として信仰されるようになり、特に住吉明神のほか玉津島明神・柿本人麻呂の3柱は和歌の守護神として「和歌三神(わかさんじん)」と総称されるようになる(3神の選定には異伝承もある)。
古くは昌泰元年(898年)に宇多上皇が住吉社に参詣した際に和歌を献じたほか、長元8年(1035年)には藤原頼通邸での歌合に勝った公達が住吉社に御礼参りをして和歌を詠じるなど、平安貴族が度々京都から参詣に訪れていた。
また住吉社は『伊勢物語』、『源氏物語』須磨巻・明石巻・澪標巻、『栄花物語』殿上の花見巻・松のしづ枝巻など多くの物語にも登場する。
さらに前述のように院政期以降の熊野詣では途中に住吉社に寄って和歌を献じる例があったほか、住吉社神主の津守氏からも津守国基などの歌人が出ている。なお住吉関係の歌では、歌枕「住吉の松」など松が多く登場するが、これは住吉社の松が神木とされたことに由来する。
そのほか、石上乙麻呂が土佐国に流された際に詠まれた『万葉集』に見えるように神が現世に顕現するという現人神信仰があったほか(白髭の老翁として描かれることが多い)、平安時代からは祈雨の神とする信仰もあり、また当地の地主神として御田植神事に見られるような農耕の神とする信仰もある。
5)歴史
5.1)創建
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年、皇后は大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の和魂を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。
そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという。通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地に比定され、この記事をもって住吉大社の鎮座とされる。『日本書紀』では創祀年を明らかとしないが、『帝王編年記』では神功皇后摂政11年辛卯としており、現在の住吉大社でもこの年をもって鎮祭とする。
また『住吉大社神代記』によれば、住吉三神は「渟中椋長岡玉出峡(ぬなくらのながおかのたまでのお)」に住むことを欲したので、神功皇后はその地に住んでいた手搓足尼(田裳見宿禰)を神主として祀らせたという。この田裳見宿禰の後裔が、住吉大社の祭祀を担った津守連(津守氏)一族とされる。そのほか『摂津国風土記』逸文では、住吉社の地は「沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながおかのさき)」と見える。
歴史考証上では、神功皇后の伝説的記事は別としても、実際にもかなり早い時期の創祀と考える説もある。前述のように、上古に関してはヤマト王権の外港守護神に発展したと考える説が挙げられるが、そのヤマト王権の崇敬を背景として神功皇后伝説と住吉神とが結びつけられたとする説がある。
なお「大津渟中倉之長峡」には異説として、本居宣長が『古事記伝』で摂津国菟原郡住吉郷(現在の神戸市東灘区)に比定した説が知られる。この説では、『古事記』仁徳天皇段の「墨江之津を定む」の際に住吉神も菟原郡から住吉郡に移されたとし、同地の本住吉神社も同様の創建社伝を残すが、現在の通説では住吉大社の地に比定する見解が有力視される。
5.2)概史
5.2.1)古代
上記の『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料のうえでの文献上初見は『日本書紀』朱鳥元年(686年)条で、紀伊国国懸神・飛鳥四社・住吉大神に弊が奉られたという記事になる。持統天皇6年(692年)5月・12月条にも、伊勢・大倭・住吉・紀伊大神の4所への奉幣(藤原京遷都に伴う奉幣)記事、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足の5社への奉幣(新羅進納調物の奉納)記事が見える。
前述のように住吉社は遣唐使を守る神とされ、『万葉集』の天平5年(733年)の歌や円仁の『入唐求法巡礼行記』の記事が知られる。神階は延暦3年(784年)6月に正三位勲三等、同年12月に従二位、大同元年(806年)に従一位にそれぞれ昇叙された。平安時代以降は祈雨の神としても祀られ、承和3-9年(836-842年)・貞観元年(859年)などに祈雨祈願の奉幣記事が見える。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、摂津国住吉郡に「住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、4座が名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が定められている。また『延喜式』臨時祭のうち、祈雨神祭条では祈雨神祭八十五座のうちに住吉社四座と見えるほか、名神祭条では名神祭二百八十五座のうちに住吉神社四座が、東宮八十島祭条では八十島祭に祀られる神に住吉神四座が見える。
前述のように平安時代には和歌の神としても信仰され、『源氏物語』を始め多くの物語に描かれ、たびたび貴族の参詣もあった。さらに院政期には熊野詣の途次で上皇・貴族が当社に参詣している。また長暦3年(1039年)頃には二十二社の1つに位置づけられ、その後摂津国内では一宮に位置づけられていった。
5.2.2)中世
鎌倉時代には武家からも崇敬され、建久6年(1195年)には源頼朝が梶原景時を使として住吉社に奉幣、神馬を奉納している。古文書ではこの頃に神仏習合の進んだ様子も見られる。また元寇に際しては文永5-建治元年(1268-1275年)に叡尊がたびたび当社で異敵降伏の祈祷を行なった。
神主の津守氏は建保3年(1215年)以降の鎌倉時代から南北朝時代にかけて摂津守に補任され、摂津国における政治的勢力を強めた。さらに大覚寺統の上北面にも任じられて大覚寺統・南朝勢力と政治的な関係を強め、その関係で南朝の後村上天皇・長慶天皇が一時期住吉大社に行宮を置いている(住吉行宮)。
室町時代にも足利尊氏を始めとする室町幕府将軍から崇敬され、第8代将軍足利義政は社殿造営を細川勝元に命じている。しかし社勢は衰え、戦国時代には火災で度々焼失し、社殿の式年造替も遅延した。
5.2.3)近世
文禄3年(1594年)には豊臣秀吉の検地により朱印地として住吉郷内2,060石が定められ、慶長11年(1606年)には豊臣秀頼による社殿再興がなされた。
江戸時代には江戸幕府から崇敬され、慶長19年(1614年)に徳川家康から禁制を得たほか、元和元年(1615年)に引き続き朱印地として住吉郷内2,060石が定められた。造替も度々実施され、文化7年(1810年)には現在の本宮社殿が造営された。
西国の大名も参勤交代時には住吉社に参詣したほか、松尾芭蕉(元禄7年(1694年)参詣)・井原西鶴(貞享元年(1684年)参詣)が参詣して歌を詠んだことや、大田南畝・滝沢馬琴らの参詣も知られる。庶民からも信仰を集め、その様子は全国各地から奉納された多数の石燈籠にうかがわれる。
5.2.4)近代以降
明治維新後、社号を「住吉神社」に定め、明治4年(1871年)には近代社格制度において官幣大社に列した。戦後は、昭和21年(1946年)に社号を「住吉大社」に改称。また神社本庁の別表神社に列している。
平成18年(2006年)には境内域(住吉大社境内遺跡)での本格的な発掘調査が初めて実施され、調査地となった旧神宮寺跡の一角からは古墳時代末-飛鳥時代頃および中世頃の2期を中心とする多数の遺物が出土している。
5.3)神階
●六国史における神階奉叙の記録
・延暦3年(784年) 正三位から正三位勲三等 (『続日本紀』) - 表記は「住吉神」。
・延暦3年(784年) 従二位 (『続日本紀』) - 表記は「住吉社」。
・大同元年(806年) 従一位 (『日本後紀』)- 表記は「住吉大神」。
●その他
・平安時代前期頃の『住吉大社神代記』では、「従三位住吉大明神」と記載。
・『津守氏古系図』では、天暦6年(952年)時点で正一位。
5.4 神職
住吉大社の神職は、津守氏(つもりうじ、津守連のち津守宿禰)が担った。津守氏は筑紫の地より分祀された住吉三神の和魂を神功皇后と共にお連れした張本人であり、『津守氏系図』によれば「津守」姓は、田蓑宿禰の子の豊吾団(とよ・の・ごだん)が住吉神にちなんで名付けられた住吉津を守ったことに由来し、住吉郡の郡領も担ったとされる。
また出自について、『日本書紀』では住吉社創祀に関わる田裳見宿禰(たもみのすくね、手搓足尼)を祖とするほか、『新撰姓氏録』ではさらに遡って火明命(天火明命)を祖として尾張氏同祖とする。考証上では、特に尾張氏と同族とされる点が着目されており、尾張氏の畿内進出は継体天皇(第26代)の進出以降であることから、実際の津守氏の住吉進出および住吉社掌握を6世紀初頭頃とする説がある。その場合に、津守氏進出以前には阿曇氏系の海人族による住吉社の奉斎を推測する説もある。
津守氏の本宗は天武天皇13年(684年)12月に宿禰の姓を賜った。氏人は遣唐使として派遣もされており、『日本書紀』では斉明天皇5年(659年)7月に津守連吉祥の派遣記事が、『続日本紀』では宝亀9年(778年)11月に主神の津守宿禰国麻呂ら(宝亀8年(777年)6月に渡唐か)の遣唐使船の転覆記事が見えるほか、『住吉大社神代記』では天平3年(731年)7月に神主の津守宿禰客人が遣唐使になったと見える。
11世紀後半の津守国基は歌人としても知られ、津守氏中興に位置づけられる。さらに長治2年(1105年)に津守広基が和泉国国司に任じられたほか(津守氏の国司補任の初見)、建保3年(1215年)には津守経国が摂津守に任じられ、以降の鎌倉時代の歴代神主は摂津守に補任された。
また津守国助・国冬・国夏は大覚寺統の上北面に任じられて大覚寺統・南朝勢力と強い政治的関係を持った。その後も津守氏による世襲は続き、明治期の官制施行で他の社人が他職に転じても宮司職は津守氏が継承していたが、それも津守国栄を最後に廃され大正13年(1924年)以降は他氏が任じられる。
『住吉松葉大記』では神職として、正神主・権神主・家子・政所目代・神官・大海社司・斎童・権少祝・家司・開閤・田所・氏人・客方・侍家・伶人・勘所司・神宝所・戸方・神方・巫女・田辺宮主・出納役・小舎人役・田所役・釜殿役・木守・氏識事役・小預役・番匠役・物師役といった職名を伝える。
正神主・権神主は両官と称されたほか、神官は神奴氏を称し正禰宜・権禰宜・正祝・権祝の4人が4社を管掌したとされる。この職制も明治期の官制施行で廃絶した。
5.5)社領(略)
5.6)社殿造営(略)
6)境内(略)
6.1)本宮
本宮は海に向かって西面し、西から東に第三本宮(第三殿)・第二本宮(第二殿)・第一本宮(第一殿)が縦一列に建ち並び、第三本宮の南側に第四本宮(第四殿)が並ぶ。各本宮はほぼ同形同大の本殿・渡殿・幣殿からなり、主祭神4柱が各1柱祀られる。
(左)本殿(国宝)画像は第二本宮。「住吉造」と称される古代日本の建築様式。
(引用:Wikipedia) (右)幣殿(重要文化財)画像は第一本宮。桁行は五間。
本殿は4棟とも江戸時代後期の文化7年(1810年)の造営。「住吉造(すみよしづくり)」と称される独特の様式で、神社本殿としては神明造・大社造・大鳥造と並んで飛鳥時代まで遡る最古様式に位置づけられる。
建物は桁行(本建物の場合は側面)四間、梁間は正面三間・背面二間で(または正面一間・背面二間)、切妻造、妻入とし、屋根は檜皮葺で、内部は前後2室とする。
柱は丸柱で礎石上に建てられ、正面中央の柱は省略して板扉を設ける。屋根は反りがなく直線的で、屋根上には千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が乗る。鰹木の数は4棟とも5本であるが、千木は第一本宮から第三本宮は外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)、第四本宮は内削ぎ(水平に削る)。
内部を2室とする様は奈良時代の橘夫人宅(法隆寺東院伝法堂)・長屋王邸跡でも確認されており(ただし建物自体は平入)、上代の宮殿の間取りから発想された様式とされる。柱などの軸部と垂木・破風板は朱塗り、壁は白(胡粉)塗りである。
また社殿周囲に廻縁を巡らさない点も古色とされる。本殿周囲には瑞垣(本殿下半を隙間なく隠す垣根)・玉垣(瑞垣外側の角柱の垣根)が二重に巡らされるが、これらも古色を残す[36]。本殿4棟は国宝に指定されている。
各本殿の前面には渡殿(わたりでん)・幣殿(へいでん)が建てられており、いずれも本殿と同様に江戸時代後期の文化7年(1810年)の造営である。
第一本宮の幣殿は中世には存在したとされる一方、第二・第三・第四本宮の幣殿は慶長造替以後の設置とされる。第一本宮の幣殿は桁行五間・梁間二間、切妻造で、正面千鳥破風及び軒唐破風付、屋根は檜皮葺で甍棟を積む。割拝殿形式で、中央は拭板敷馬道、左右は二間四方の部屋とする。
第二・第三・第四本宮の幣殿は桁行三間であるほかは第一本宮と同様の形式。桁行三間のため左右の部屋は狭くなる。
本殿・幣殿をつなぐ渡殿は「間ノ廊下」とも称され、4本宮とも同じ形式で、桁行二間・梁間一間の両下造で、屋根は檜皮葺。幣殿の馬道を伸ばして廊下とし、中間に朱塗り角柱の鳥居を付す。渡殿・幣殿は合わせて1棟として計4棟とも国の重要文化財に指定されている。
なお他の住吉造の本殿としては、境内摂社の大海神社本殿(宝永5年(1708年)造営、重要文化財)、博多の住吉神社本殿(元和9年(1623年)造営、重要文化財)が知られる。
また古代の建築様式のうちでは、神明造を穀倉型神殿、大社造を宮殿型神殿、住吉造を祭場型神殿と見なす説がある。住吉造には大嘗宮正殿との関連も見られており、両者をヤマト大王の住居の名残とする説や、大嘗宮正殿を参考にして住吉造が創出されたとする説もある。
6.2)本宮以外の社殿(略)
6.3)その他の建造物(略)
6.4)旧跡(略)
7 摂末社
摂末社は、摂社4社(いずれも境内社)・末社25社(境内21社、境外4社)の計29社。そのほかに祠がある。
7.1 摂社
●大海神社「だいかいじんじゃ」
大海神社(引用:Wikipedia)
・祭神:豊玉彦命、豊玉姫命
・社格:式内社「大海神社二座」
・例祭:10月13日
第一の摂社。境内北寄りにおいて本宮同様に西面して鎮座する(位置)。『延喜式』神名帳では「元名津守安人神」とあるが、これを「氏人神」と校訂して津守氏の氏神社とする説のほか、『住吉大社神代記』にも「津守安必登神」と見えるため「安人神/安必登神 = 現人神」と解釈して津守氏の現人神信仰の神社とする説がある(詳細は「大海神社」を参照)。
社殿は本宮社殿とともに西面する。本殿は本宮本殿と同様の住吉造であるが、本宮本殿よりも古い江戸時代中期の宝永5年(1708年)の造営で、国の重要文化財に指定されている[53]。また幣殿・渡殿(宝永5年(1708年)造営)、西門(江戸時代前期の造営)も国の重要文化財に指定[54][55]。社前には「玉の井」と称される井戸がある。
●志賀神社「しがじんじゃ」
志賀神社(引用:Wikipedia)
・祭神:底津少童命、中津少童命、表津少童命
・例祭:9月9日
境内北寄りの大海神社近くに西面して鎮座する(位置)。祭神の綿津見三神(海三神)は住吉三神とともに禊祓で生まれた海の神で、阿曇氏祖神。志賀海神社(福岡県福岡市)を本社とする。
●船玉神社「ふねたまじんじゃ」
船玉神社(引用:Wikipedia)
・祭神:天鳥船命、猿田彦神
・社格:式内社「船玉神社」
・例祭:10月21日
本宮南西、瑞垣外(幸福門外)において西面して鎮座するが(位置)、昭和45年(1970年)までは第四本宮の社前に鎮座した。元々の祭神を住吉神の荒魂とする説もある。『住吉大社神代記』では紀伊の志麻神・静火神・伊達神(和歌山県和歌山市の志磨神社・静火神社・伊達神社)の本社とする。
●若宮八幡宮「わかみやはちまんぐう」
若宮八幡宮(引用:Wikipedia)
・祭神:応神天皇、武内宿禰
・例祭:1月12日
本宮南側、五所御前の南側において西面して鎮座する(位置)。祭神の応神天皇は神功皇后の子。1月12日の例祭では湯立神楽が奉納される[51][52]。
なお、江戸時代には住吉大社北方の生根神社も摂社とされていたが、明治5年(1872年)に分離独立した。
7.2 末社(略)
7.3 祠(略)
8 祭事
8.1 年間祭事(略)
8.2 住吉祭
住吉大社の例祭(例大祭、1年で最も重要な祭)を中心とした祭は「住吉祭(すみよしさい/すみよしまつり)」と称される。大阪を祓い清める祭りとして「おはらい」とも称され、「大阪三大夏祭り」の1つにも数えられる。かつては旧暦6月30日を中心に斎行されたが、明治7年(1874年)の太陽暦移行後は7月31日を中心に斎行される。『住吉大社神代記』に「六月御解除、開口水門姫神社」「九月御解除、田蓑嶋姫神社」と見えるうちの前者(南祭)を継承するものとされるが、後者(北祭)は現在までに廃絶している。
現在の祭儀次第は次の通り。
・7月第3月曜日(海の日)・火曜日 - 神輿洗神事
・7月30日 - 住吉祭宵宮祭
・7月31日 - 夏越祓神事、住吉祭例大祭
・8月1日 - 渡御祭、頓宮祭、荒和大祓神事
7月第3月曜日(海の日)から翌火曜日にかけて行われる神輿洗神事(みこしあらいしんじ)は、例大祭(住吉祭)に先立って海水で神輿を祓い清める神事である。かつては6月15日宵の満潮に長峡の浦で行われたが、現在では大阪湾沖合の海水を使って住吉公園において行われ、御旅所(住吉高燈籠)で一晩奉安したのち、翌日に還御する。
7月31日の夏越祓神事(なごしのはらえしんじ)では、五月殿での大祓式ののち、伝統衣装で着飾った夏越女・稚児の行列が茅の輪くぐりを行う。この夏越祓神事は「住吉大社の夏越祭」として大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。次いで第一本宮において例大祭(れいたいさい)が斎行され、祭典ののちに神楽「熊野舞」・住吉踊が奉納される。
翌日の8月1日には、住吉神の神霊を乗せた神輿が堺の宿院頓宮(堺市堺区宿院町東)までの渡御を行う。渡御は昭和37年(1962年)以降は自動車列となっていたが、平成17年(2005年)からは鳳輦・神輿列が復活し、街道を練り歩き大和川では川の中を進む。宿院頓宮に到着後は頓宮境内の飯匙堀(いいがいぼり)において荒和大祓神事(あらにごのおおはらいしんじ)を行う。この飯匙堀は海幸山幸神話の潮干珠を埋めたところと伝わる場所で、この地で本社で行なったのと同様の茅の輪くぐりを行う。
8.3 特殊神事
●踏歌神事「とうかしんじ」
1月4日。大地を踏みしめて五穀豊穣を祈る神事。中国の隋・唐で流行した群集歌舞に由来するもので、かつては宮中でも1月中旬に踏歌節会が催されて「阿良礼走(あらればしり)」とも称されたが、現在は当社と熱田神宮(愛知県名古屋市)に残るのみといわれる。
神事では、第一本宮での祝詞奏上後、直垂を着用した所役2人(言吹<ごんすい>・袋持)が、それぞれ梅の枝(言吹)・袋(袋持)を持って斎庭で向かい合って立ち、3度声を掛け合ったのち袋持が神前に餅を供える。その後神楽女が白拍子舞、熊野舞を奉納して、餅まきを行う。
●白馬神事「あおうましんじ」
1月7日。白馬が各本宮を巡拝して邪気を祓う神事。年初に白馬(青馬)を見れば年中の邪気が祓われるとする中国の信仰に由来するもので、かつては宮中でも1月7日に白馬節会(青馬節会)が催され、現在は当社のほか賀茂別雷神社(京都府京都市)・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)などに残る。
神事では、祝詞奏上後、神馬と奉行2人・神馬舎人が各本宮で拝礼したのち全本宮を外周する。
●御結鎮神事「みけちしんじ」
1月13日。弓矢で除魔招福を祈願する神事。神事では、第一本宮での祭典・饗膳後、射場で古式による弓十番が行われる。
●丸松苗神事「まつなえしんじ」
4月3日。松の苗の植樹と俳句披露を行う神事。住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期(1781-1788年)に枯死が目立った。そのために当時の俳人が松苗献木と俳句献詠を募り『松苗集』として住吉御文庫に奉納した、という故事に因む。
●卯之葉神事「うのはしんじ」
5月初卯日。鎮座伝承日(神功皇后摂政11年辛卯年卯月上卯日)に因み鎮座を記念する神事。旧暦では4月(卯月)、太陽暦移行後は5月に斎行される。
神事では、鎮座伝承地の五所御前に卯の葉の玉串を捧げる。その祭典後、石舞台で舞楽が奉納されるとともに、卯の花苑の一般公開も行われる。
●御田植神事「おたうえしんじ」
6月14日。御田(神田)で盛大に田植えを催す神事。住吉大社鎮座時に、神功皇后が長門国から植女を召して田を作らせたのが始まりと伝える。
神事では、まず神館で植女の粉黛・戴盃式を行なったのち、石舞台で全員の修祓、第一本宮で豊穣の祭典を行い、神前の早苗が植女に授けられる。そして御田に向かい、替植女による植付けが始まるが、その植付けの間に舞台や畦で田舞・神田代舞・風流武者行事・棒打合戦・田植踊・住吉踊といった芸能が催される。
御田植行事は各地に残るが、住吉大社の御田植は規模が大きく代表的なものであるとされ、「住吉の御田植」として国の重要無形民俗文化財に指定されているほか、芸能は国の選択無形民俗文化財に選択されている。
●宝之市神事「たからのいちしんじ」
10月17日。神功皇后が三韓の貢物・百貨をもって市を立てて庶人に分かった故事に因むと伝えるが、五穀を神前に供えたのち庶人に分かったのが本旨ともされる。神事では、御田の刈り取りののち、本宮にて初穂や升に入れた五穀を供える祭典が行われるほか、近日日曜日に相撲大会が催される。かつては升が多く売られたことから「升の市」とも称され、その時に参詣した松尾芭蕉は句を残している。
そのほか、3月初旬頃・11月初旬頃には埴使(はにつかい)と称される神事が行われる。これは祈年祭・新嘗祭に先立って、奈良県の畝傍山で埴土(はにつち:両祭での供献土器を作る材料とする土)を採取する神事である。『住吉大社神代記』で住吉大神が神功皇后に詔をして天香山の埴土で天平瓮を作らせたとする記事との関連が推測されるほか、『日本書紀』神武天皇即位前紀では神武天皇が天香山の埴土で祭器を作らせて丹生川上での祭祀に使用したと見えることから、畝傍山や天香山の埴土が古代氏族の祭祀権に関係したことが示唆される。神事では、住吉大社の神職が雲名梯神社(河俣神社)・畝火山口神社(いずれも奈良県橿原市)で祭典を行なったのち、畝傍山山頂で三握半の土を採取する。
9)文化財
9.1)国宝
●住吉大社本殿 4棟(附 瑞垣及び門)(建造物)
4棟とも江戸時代後期、文化7年(1810年)の造営。明治35年(1902年)4月17日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定、昭和28年(1953年)11月14日に国宝に指定。
9.2)重要文化財(国指定)
●住吉大社 13棟(建造物)
内訳は以下。昭和49年(1974年)5月21日に南門・東楽所・西楽所・石舞台の4棟を指定、平成22年(2010年)12月24日にその他9棟を追加指定。
南門/東楽所/西楽所/石舞台/幣殿及び渡殿(第一殿)/幣殿及び渡殿(第二殿)/幣殿及び渡殿(第三殿)/幣殿及び渡殿(第四殿)/南高蔵/北高蔵/摂社大海神社幣殿及び渡殿/摂社大海神社西門/末社招魂社本殿(旧護摩堂)/(附指定)住吉松葉大記 19冊
●住吉大社摂社大海神社本殿(建造物)
江戸時代中期、宝永5年(1708年)の造営。昭和39年(1964年)5月26日指定。
●木造舞楽面 9面(彫刻)
内訳は以下。平安時代から鎌倉時代の作。昭和43年(1968年)4月25日指定。
綾切4、抜頭1、貴徳番子1、皇仁庭1、秦王1、納曽利1
●太刀 銘守家 1口(工芸品)
鎌倉時代の作。大正15年(1926年)4月19日指定。
●刀 銘小野繁慶 奉納接州住吉大明神御宝前 1口(工芸品)
江戸時代の作。昭和35年(1960年)6月9日指定。
●住吉神代記(書跡)
平安時代の作。昭和29年(1954年)3月20日指定。
9.3)重要無形民俗文化財(国指定)
●住吉の御田植 - 昭和54年(1979年)2月3日指定。
9.4)選択無形民俗文化財(国選択)
●住吉の御田植神事の芸能 - 昭和46年(1971年)11月11日選択。
9.5)国の史跡
●住吉行宮跡 - 昭和14年(1939年)3月7日指定。
9.6)登録有形文化財(国登録)(略)
9.7)大阪府指定文化財(略)
9.8)大阪府選択無形民俗文化財(略)
9.9)大阪市指定文化財(略)
9.10)関連文化財(略)
10 関係事項
10.1 住吉大社神代記
住吉大社に伝わる神宝のうち最も有名なものとして、『住吉大社神代記』(すみよしたいしゃじんだいき)がある。住吉大社司の解文の形で住吉大社の縁起・神宝・社領などを記した古文書で、天平3年(731年)7月の奥書を持つが、実際には平安時代前期以降の作とする説が有力視される。
内容には『日本書紀』・『古事記』と同様の伝承に加えて、他の文書には見られない独自所伝も記載するため、数少ない古代史料・上代史料の1つとして重要視される(詳細は「住吉大社神代記」を参照)。
この住吉大社神代記の文献上初見は寛喜2年(1230年)で、その際も含め中世期の土地相論では神代記の記述が持ち出された。その後は神宝として第一本宮に秘蔵され門外不出とされていたが、明治頃から内容が公開された。現在原本は「住吉神代記」として国の重要文化財に指定されている。
10.2 住吉神宮寺
住吉大社境内では、かつて神宮寺が営まれていた。『古今著聞集』では本地仏の高貴徳王菩薩の託宣があったとし、『住吉松葉大記』では天平宝字2年(758年)の創建とし、新羅渡来の薬師如来を本尊としたため「新羅寺」とも称されたとする。ただし貞観8年(866年)には住吉社での読経の際に朝廷から僧11人が派遣されているため、この時点までの神宮寺の存在は必ずしも確かではない。
『扶桑略記』などでは、天慶3年(940年)11月21日には住吉神宮寺で藤原純友調伏の祈祷が行われたと見える。その後、天喜元年(1053年)に焼失したが、津守国基による再建で西塔が建立され、承久元年(1219年)には三綱が置かれた。
江戸時代の『住吉松葉大記』では、諸堂宇として本堂・東塔・西塔・東法華三昧堂・西常行三昧堂・大日堂・救聞持堂・護摩堂・食堂・東西両僧坊の記載が見える。
しかし明治初年の神仏分離で破却・廃寺となり、伽藍のうち護摩堂は境内末社の招魂社本殿に転用されたほか、西塔は切幡寺(徳島県阿波市)に移築された(切幡寺大塔:国の重要文化財)。現在の神宮寺の跡地には住吉文華館が建てられている。
その他の住吉大社関係寺院としては、津守氏氏寺と見られる津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺がある。住吉神宮寺・津守寺・荘厳浄土寺は住吉の三大寺に数えられたという
●津守寺(跡地は大阪市住吉区墨江)
『中右記』永長元年(1096年)条では、住吉社神主の津守国基が大伽藍を建立したと見える。「住吉社神主并一族系図」によれば、津守氏は神主を勤めたのち晩年に津守寺別当・塔別当になる例であった。明治初年の神仏分離で破却・廃寺。
●荘厳浄土寺(大阪市住吉区帝塚山東)
住吉大社の東に位置する。創建は不詳。『摂陽群談』によれば、応徳元年(1084年)に住吉社神主の津守国基が勅命によって再興し、その際に土中から出土した金札の銘の「七宝荘厳極楽浄土云々」により寺号を下賜されたといい、永長元年(1096年)に諸堂宇の建立と落慶供養とがなされたという(詳細は「荘厳浄土寺」を参照)。
10.3 住吉行宮
南北朝時代の住吉大社には、南朝の行宮(天皇の仮の御所)の1つである住吉行宮(すみよしのあんぐう/すみよしあんぐう)が置かれた。行宮とした天皇は、後村上天皇(2度)・長慶天皇。
文献では後村上天皇は住吉社神主の津守国夏の「住吉殿」を行宮としたと見えるが、この住吉殿(住之江殿)とは現在の住吉大社の南方に位置する正印殿(しょういんでん)跡地にあたると伝承される(ただし確証は無い)。この正印殿は住吉大社の神印が納め置かれた建物といわれるが、建物は非現存。跡地は「住吉行宮跡」として国の史跡に指定されている(詳細は「住吉行宮」を参照)。
なお、現在の住吉大社では4月6日に後村上天皇を偲んで正印殿祭が斎行される。
10.4 関係神社
『延喜式』神名帳には、次に示すような住吉神の関係社が各地に確認される。
延喜式 | 比定社 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
国郡 | 社名 | 格 | 社名 | 所在地 | 座標 | |
陸奥国磐城郡 | 住吉神社 | 小 | 住吉神社 | 福島県いわき市小名浜住吉 | 位置 | |
播磨国賀茂郡 | 住吉神社 | 小 | (論)住吉神社 | 兵庫県加東市上鴨川 | 位置 | |
(論)住吉神社 | 兵庫県加東市下久米 | 位置 | ||||
(論)住吉神社 | 兵庫県小野市垂井町 | 位置 | ||||
長門国豊浦郡 | 住吉坐荒御魂神社三座 | 並名神大 | 住吉神社 | 山口県下関市一の宮住吉 | 位置 | 長門国一宮 |
筑前国那珂郡 | 住吉神社三座 | 並名神大 | 住吉神社 | 福岡県福岡市博多区住吉 | 位置 | 筑前国一宮 |
壱岐島壱岐郡 | 住吉神社 | 名神大 | 住吉神社 | 長崎県壱岐市芦辺町住吉東触 | 位置 | |
対馬島下県郡 | 住吉神社 | 名神大 | (論)住吉神社 | 長崎県対馬市美津島町鶏知 | 位置 | |
(論)住吉神社 | 長崎県対馬市美津島町鴨居瀬 | 位置 |
これらの社の分布には朝鮮航路との関連が指摘される[8]。特に分布の背景として、住吉神がヤマト王権の国家的機関に位置づけられたことから、王権によって航路の各要所に住吉神が配置されたとする説もある。なお陸奥国の社については、蝦夷追討との関連が推測される。
また『住吉大社神代記』では、住吉大神の宮は9箇処にあるとして、「摂津国住吉大社四前」のほか8箇処が次のように記載される。
住吉大社神代記 | 比定社 | 備考 | |
---|---|---|---|
社名 | 所在地 | ||
摂津国西成郡座摩社二前 | 坐摩神社 | 大阪府大阪市中央区久太郎町 |
古代に住吉大社勢力下にあった かは確かでない |
摂津国菟原郡社三前 | 本住吉神社 | 兵庫県神戸市東灘区住吉宮町 | |
播磨国賀茂郡住吉酒見社三前 | 住吉神社 | 兵庫県加西市北条町北条 | |
長門国豊浦郡住吉忌宮一前 | 住吉神社 | 山口県下関市一の宮住吉 |
いずれか一社または両社一体を 指したか[8] |
忌宮神社 | 山口県下関市長府宮の内 | ||
筑前国那珂郡住吉社三前 | 住吉神社 | 福岡県福岡市博多区住吉 | |
紀伊国伊都郡 丹生川上天手力男意気続々流住吉大神 |
(不明) | ||
大唐国一処住吉大神社三前 | (不明) |
古代に国外に住吉神社が祀 られた事実は無い |
|
新羅国一処住吉荒魂三前 | (不明) |
『住吉大社神代記』では、以上に続けて部類神・子神として多くの神々が記載されるが、その内容については疑義が強い。
その後、後世には全国各地で分祠の住吉神社が祀られている(大社側では全国に2,000社以上とする)。
11)登場作品
11.1)和歌
〇『万葉集』より3首
● 石上乙麻呂卿配土佐国之時歌三首(そのうち1首)
「大君の 命(みこと)恐(かしこ)み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし恐し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず つつみなく 病あらせず 速(すむや)けく 帰したまはね 本(もと)の国辺に 」
—『万葉集』巻6 1020,1021番(連続した歌とする解釈に従って掲載)
● 民部少輔多治比真人土作歌一首
「住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と 行くとも来(く)とも 船は早けむ 」—『万葉集』巻19 4243番
● 天平五年贈入唐使歌一首
「そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 三津(みつ)に船乗り 直(ただ)渡り 日の入る国に 遣はさる 我が背の君を かけまくの ゆゆし恐き 住吉(すみのえ)の 我が大御神 船舳(ふなのへ)に うしはきいまし 船艫(ふなども)に み立たしまして さし寄らむ 磯の崎々 漕ぎ泊てむ 泊まり泊まりに 荒き風 波にあはせず 平(たひら)けく 率(ゐ)て帰りませ もとの朝廷(みかど)に 」
—『万葉集』巻19 4245番
●元禄7年(1694年)9月13日、松尾芭蕉が宝の市に詣でて詠んだ歌
「 升買うて 分別かはる 月見かな 」—松尾芭蕉
11.2 錦絵(略)
〇参考Webサイト
(引用:Wikipedia)
難波宮(なにわのみや)は、古墳時代、応神天皇の難波大隅宮(※1)や仁徳天皇の難波高津宮(※2)、欽明天皇の難波祝津宮(※3)。以来、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代の宮殿、日本の首都であり都城。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。
難波宮史跡公園(大阪市)(引用:Wikipedia)
復元された大極殿基壇とその手前に八角殿を模した構造物が見える。
(※1)難波大隅宮
『日本書紀』では応神天皇即位後の遷都記事がなく、神功皇后の磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内)をそのまま使っていたことになる。行宮としては難波大隅宮(なにわのおおすみのみや)(現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)がある。崩御した地は大隅宮とも明宮ともされる。
『古事記』では軽島之明宮を皇居としている。現在は応神天皇の皇居として軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)(現在の奈良県橿原市大軽町)が比定されている。
(※2)難波高津宮
高津宮(こうづぐう)は、大阪市中央区にある神社。難波高津宮に遷都した第16代天皇である仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。
貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。
(※3)難波祝津宮
『日本書紀』に下記の記述がある。
《原文》「九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、伐得新羅。」物部大連尾輿等奏曰「少許軍卒、不可易征。曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使表請任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁四縣、大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是、新羅怨曠積年、不可輕爾而伐。」
《現代語訳・一部》(即位1年)9月5日。欽明天皇は難波祝津宮(ナニワノハフリツノミヤ)(=現在の尼崎市難波本町か現在の大阪市浪速区?)に行きました。大伴大連金村(オオトモノオオムラジカネムラ)・許勢臣稲持(コセノオミイナモチ)・物部大連尾輿(モノノベノオオムラジオコシ)たちが従い、お供をしました。天皇は諸臣に問いて言いました。(以下、略)
1)概要
難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。
1913年(大正2年)大阪城外堀南の法円坂で、奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、大日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。1945年(昭和20年)、日本の降伏によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。
そこで、山根を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに、1954年(昭和29年)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では、難波宮の跡なのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した。
しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。
つまり、朱鳥元年(686年)正月「難波宮室が全焼した」という『日本書紀』の記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)、これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。
1961年(昭和36年)、山根らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根は発見当時「われ、幻の大極殿を見たり」という名言を残した。
2)前期難波宮
「難波長柄豊碕宮」(※)も参照
乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。
この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。
天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
※難波長柄豊碕宮
難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、摂津国難波にあった飛鳥時代の宮。難波長柄豊崎宮、難波長柄豊埼宮とも表記する。学術的には、この宮跡に建てられた難波宮(後期難波宮)と区別して前期難波宮とも呼ばれる。
乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。建物は、朱鳥元年(686年)の正月に全焼するまで、現在の大阪市中央区に34年の間存続した。
白雉5年(654年)孝徳帝の没後、斉明天皇(皇極天皇が重祚)により飛鳥板蓋宮に遷宮された。その後は、天平16年(744年)になって同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれた(後期難波宮)。
この宮は、上町台地の上にあり、大正2年(1913年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。昭和28年(1953年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。
内裏・朝堂院の構造がそれまで見られなかった大規模で画期的な物であったことから、大化の改新という改革の中心として計画的に造営された宮であるとされ、大化の改新虚構論への有力な反証となっている。
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。前期・後期の遺跡を元に建物の基壇などが設置されている。
●建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。
難波長柄豊﨑宮を正面から見る。(引用:Wikipedia)
手前、宮城南門を抜けて朝集殿を左右に見ながら北に進むと朝堂院南門に至る。
さらに朝堂院南門をくぐると左に西朝堂、右に東朝堂が見える。
朝堂院を北に進んでいくと内裏南門に到着する。
宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。
東西の八角殿院に挟まれた位置にあるのが内裏南門。
その奥の内裏前殿、内裏後殿を経て内裏に至る。左奥にあるのは内裏西方官衙。
模型では再現されていないが内裏東方官衙と対になっている。
(大阪歴史博物館・前期難波宮復元模型より)
天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原宮・平城宮・平安宮など)にも採用された。
朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである。
このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。
これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。
なお条坊制の存否については議論があるが、採用されていれば日本最古のものとなる。
3)後期難波宮
後期難波宮模型(大阪歴史博物館)(引用:Wikipedia)
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。
その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。
もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。
最終的に翌天平17年1月1日(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう。
延暦3年(784年)、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
4)史跡難波宮跡
現在、難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。
難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前4丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館の複合施設がある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したものである。 難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。
難波宮跡公園の場所は、明治4年(1871年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年(昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。
難波宮跡公園の北側を東西に通る府道高速大阪東大阪線(阪神高速道路東大阪線)は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用された為である。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっており、また橋脚の間隔も一本当たりにかかる重量を分散させる目的も兼ねて通常30メートル開けるところを、この区間は10メートル間隔で橋脚を設置している。
1985年に大阪市が、北接する大阪城公園と難波宮跡公園を一体化した「歴史公園構想」を発表。その一環として、馬場町にあったNHK大阪放送会館が上町筋を挟んだ大手前4丁目の大阪市中央体育館跡地に移転するなどしたが、この2つの公園の一体化構想は進展していない。
2004年(平成16年)から、四天王寺ワッソ(11月開催)のメイン会場となっている。
2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。
平成28年、後期難波宮の朝堂院の西側から4棟の建物の基礎跡が発掘された。
5)文化財
5.1)国の史跡
●難波宮跡 附 法円坂遺跡
・1964年(昭和39年)5月2日指定。
・1976年(昭和51年)3月31日、1986年(昭和61年)8月4日に史跡範囲の追加指定。
・2001年(平成13年)1月29日に法円坂遺跡の範囲の追加指定と指定名称を「難波宮跡 附 法円坂遺跡」に変更。
・2005年(平成17年)3月2日、2007年(平成19年)7月26日、2013年(平成25年)3月27日に史跡範囲の追加指定。
5.2)大阪府指定文化財
●有形文化財
・難波宮跡出土木簡 附 土器・土製品 33点(考古資料)
・附指定:土師器 23点
・附指定:須恵器 48点
・附指定:土馬 1点
5.3)大阪市指定文化財
●有形文化財
・難波宮跡出土蓮華文軒丸瓦・重圏文軒丸瓦 2点(考古資料) - 2003年12月19日指定。
・難波宮跡出土鴟尾 1点(考古資料) - 2003年12月19日指定。
・難波宮跡出土万葉仮名文木簡 1点(附 土器資料24点)(考古資料) - 2011年4月1日指定。
〇参考WEbサイト
●(一財)大阪市文化財協会:「難波宮インフォメーション」
●大阪観光協会公式サイト:「難波宮史跡公園」
(引用:Wikipedia)
大坂城/大阪城は、安土桃山時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園として整備されている。天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。
大阪城公園 復興天守
(引用:Wikipedia)
1)概要
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。
現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定している。
大坂城は、上町台地の北端に位置する。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある(他の二つは名古屋城、姫路城、熊本城の内から挙げられる場合が多い)。
現在は江戸時初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。
天守は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)構造によって復興された創作物であるが、築90年近い現在はそれはそれとして登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。
ちなみに、「おおさかじょう」の表記についてであるが、近代以降「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。なお「大阪城」は大阪市の町名にもなっている。
2)歴史・沿革
2.1)前史
かつて、この地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失した。
この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であった。
石山合戦終結後の同地は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣した。
一時的な野戦的布陣ではなく、「千貫矢倉」などの建物もあった(『細川忠興軍功記』)ことから、一軍が長期駐屯できるほどの設備が構築されていたと推測される。
津田信澄は本能寺の変の発生後、丹羽長秀に討たれた。その後、清洲会議で池田恒興に与えられるも、池田恒興がただちに美濃へ国替えとなったため、羽柴秀吉の領有となった。
2.2)豊臣政権
1583年(天正11年)から羽柴(豊臣)秀吉によって築城が開始され、羽柴家(豊臣氏)の本拠地となった。
一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されるが、実際には1585年(天正13年)には秀吉は関白に任ぜられ、翌86年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して翌年の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して亡くなるまで伏見において政務を執った。
2.3)江戸時代
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで石田三成が敗れた結果、徳川家康によって東軍への恩賞という形でその所領が分配されたため、220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏であったが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。
しかし、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。
落城後の大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、忠明に課せられた任務は大坂城下の復興であり、城そのものにはあまり手が加えられる事はなかった。
1619年(元和5年)に忠明は大和郡山へ移封となり、江戸幕府は大坂藩を廃止して大坂を幕府直轄領(天領)にすると、翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始された。
大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で58大名を動員して本丸一帯を、1628年(寛永5年)からの第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部、と実に3期足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成した。
豊臣期大坂図屏風に描かれた大坂城と城下の賑わい。(引用:Wikipedia)
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、近畿地方、および西日本支配の拠点となった。
他に大坂城代を補佐する定番2名(京橋口定番・玉造口定番)も譜代大名から選ばれ、旗本で編制された幕府の常備軍である大番2組(東大番・西大番)に加勢する加番4名(山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番)が大名から選ばれた。
なお、大番と加番は1年交代制だった。城代は江戸時代を通じて70代の就任をみている。本来の城主である将軍は家光、家茂、慶喜の3名のみ大坂城に入城している。
江戸時代中には三度の落雷による損傷と修復を繰り返した。一度目は1660年7月25日(万治3年6月18日)、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失した。爆発の威力はすさまじく、城内では29人が死亡、およそ130人が負傷した。天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡、家屋1481戸が倒壊し、多数の家屋の屋根が破損した。また、青屋門の扉が城から約14km離れた暗峠まで飛ばされたとの記録(「板倉重矩公常行記」)もある。後に幕府は現存する石造りの焔硝蔵を建造した。
二度目は1665年(寛文5年)正月2日で落雷を天守北側の鯱に受けて天守を焼失し、竣工40年あまりで天守は姿を消し、以後は天守を持たない城であった。
三度目は1783年(天明3年)10月11日で、大手多聞櫓に落雷が直撃し全焼。幕府の財政難のため再建は1845年(弘化2年)からの町人御用金による総修復まで待つこととなった。
江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。
この前後の混乱のうちに出火し、本丸御殿以下本丸にあった11基の三重櫓や桜門、山里門、姫門など本丸のすべての門、二ノ丸の巽、艮、太鼓、四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失した。
2.4)近代
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となった。
・1870年(明治3年)、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した。
・1885年(明治18年)、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名される。紀州御殿は、大阪鎮台(後の第4師団)の司令部庁舎として利用された。
・1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元された。
・1895年(明治28年)、天守台の東側に大手前配水場が建設され、地中に配水池が設置される。
・大正時代、城周辺の公園整備計画が持ち上がる。
・1928年(昭和3年)、当時の大阪市長、關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇の即位記念事業として整備が進められた。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と復興天守の建設がすすめられた。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成した。この頃まで八角薪蔵や西の丸米蔵が残っていたと考えられる。
・1931年(昭和6年)、復興天守が博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工する。第4師団司令部庁舎竣工。大阪城公園開園。
・1933年(昭和8年)、紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称した。
・1937年(昭和12年)、陸軍の命令で防諜のため、天守閣内へのカメラの持ち込みを禁止する。
・1940年(昭和15年)、8階展望台が封鎖される。
・1942年(昭和17年)9月、天守への立入、次いで城内への一般人の立入が禁止される。
・1943年(昭和18年)、天守に中部軍防空情報隊(後、第35航空情報隊、司令部は桜門桝形の西側)が入る。
・大阪大空襲など太平洋戦争中の空襲では、1868年(慶応4年)の火災では被害を免れていた二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋門を焼失、また青屋門に甚大な被害を受けた。特に終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下され、近隣の京橋駅も巻き添えとなり、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどだった。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれたが、天守閣に関しては天守台が損傷したものの破壊を免れた。このほか、一心寺に移築されていた豊臣時代の三の丸玉造門(長屋形式の黒門)も焼失している。
2.5)現代
終戦後城内の陸軍用地は占領軍に接収された。復興天守は現在も健在であり、大阪の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。
・1947年(昭和22年)9月、占領軍の失火により紀州御殿を焼失した。
・1948年(昭和23年)7月に接収が解除された後は建物の修理が進められ、大阪城公園の再整備も始まり、外堀を含む広域が公園地となった。
・1949年(昭和24年)、天守内の博物館が再開される。
・1950年(昭和25年)のジェーン台風によりまたもや大きな損傷を受けた。
・1953年(昭和28年)から傷んだ櫓や空襲で崩れた石垣などの本格的な補修事業が開始された。あわせて学術調査も行われ始めた。3月31日、大坂城跡が国の史跡に指定される。6月11日、大手門、千貫櫓、乾櫓など建造物13棟が重要文化財に指定される。
・1955年(昭和30年) 6月24日、大坂城跡が国の特別史跡に指定される。
・1959年(昭和34年)にはボーリング調査の結果、地下約9.3mの位置から石垣と思われる花崗岩が確認され、その地点を中心に3m四方の範囲を掘り下げたところ地下7.3mの位置で高さ4m以上の石垣が発見された。その翌年、発見された豊臣氏の大坂城本丸図との照合により、これが豊臣時代の遺構であることが確認された。本丸内の司令部庁舎の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎(後に大阪市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた東外堀跡の南端部では拳銃の射撃訓練も行われた(大阪府警射撃場跡は玉造口土橋東側に現存)。大阪陸軍造兵廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し小松左京や開高健の小説の舞台ともなった。
・1981年(昭和56年)、保存運動や文化庁の調査指示があったにもかかわらず、それらを無視した大阪市が大阪陸軍造兵廠旧本館を取り壊した。
・1983年(昭和58年)、「大阪築城400年まつり」に合わせ、国鉄大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪陸軍造兵廠旧本館跡地には大阪城ホールが開館された。弁天島を含む一帯には次々と大企業のビルが建ち並び、「大阪ビジネスパーク」が完成した。
・1995年(平成7年)12月から1997年(平成9年)3月まで天守には「平成の大改修」が行われた。
・1997年(平成9年)9月、天守が国の登録有形文化財に登録された。
・1996年(平成8年)、桜門と太鼓櫓跡石垣が修復され、さらに大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために大正初期、陸軍によって埋められた東外堀が総事業費25億円をかけ3年がかりで復元される(青屋口南部と玉造口東部は復元されず)。
・2001年(平成13年)3月31日、大阪市立博物館が閉館し、翌4月1日に大阪歴史博物館が開館する。
・2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(54番)に選定された。
・2007年(平成19年)、大阪城の不動産登記に関して、建物としては未登記であり、登記上の土地の所有者は旧陸軍省であるということが判明した。実務上は、建物の所有者は大阪市であり、土地は国からの借用であるということになっている。
・2014年(平成26年)、大阪市は、大阪城公園、大阪城天守閣(博物館)ほかの施設の指定管理者として、大阪城パークマネジメント共同事業体(代表者 株式会社 電通 関西支社(当時))を選定した。指定期間は2015年4月から2035年3月までである。重要文化財の『大坂夏の陣図屏風』(通称黒田屏風)は、大阪城天守閣の所蔵品である。
・2015年(平成27年)9月、多門櫓などが期間限定で公開された[18]。
・2016年(平成28年)1月から約半年間、多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵を特別公開[19]。
・2017年(平成29年)9月18日、天守閣の入館者数が1億人を突破した。10月19日、旧大阪市立博物館が改修され、複合施設「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」として営業を開始する。
3)構造
台地北端を立地とする大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。
大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が修築した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないといわれている。
3.1)豊臣大坂城
初代築城総奉行、黒田孝高が縄張を担当。輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は孝高に築城に際しての指示、大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。丹羽長秀が築城した安土城の石垣をそのまま踏襲しており、現在の大阪城の地下7メートルから当時の石垣が発見されている。
本丸の構造は建築に携わった中井正吉の系譜で、江戸幕府の京大工頭である中井家に伝来した指図から伺える。高石垣を築く技術が当時無く帯曲輪等により3段構造となっている。本丸内にある広い曲輪は、北から山里曲輪、最も高い位置を占め天守や奥御殿がある本丸奥の段、一段低く表御殿のある本丸表の段、その西にある出丸状の曲輪で構成された。
台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城・真田丸が構築された。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。
なお、琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島にある宝厳寺唐門(国宝)は、現存する唯一の豊臣大坂城の遺構ではないかといわれている[21]
3.2)徳川大坂城
徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、天下普請を行い藤堂高虎を総責任者とする。全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。また天守など建物も構造を踏襲せずに独自のものに造り替えることになった。こうして大坂城天下普請が始まる。豊臣大坂城は当時においては30年以上前の「古い城」であり、朝鮮の役・関ヶ原合戦・大坂の陣の戦訓と天下普請を通じて発達した城郭技術に応じた新たな城が求められた。
天下普請の結果、大坂城の城郭の大きさは豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守はその高さも総床面積も豊臣氏のそれを越える規模のものが構築された。二重に廻らせた堀割は江戸城をしのぐ規模のものとなった。また放棄された総構も畑や空き地として再建が可能な形で維持された。
3.3)天守
大坂城の天守は天正・寛永・昭和とこれまでに3度造営されている。いずれも外観は異なるが、復興天守は徳川大坂城の天守台を利用している。以下に詳細を記した。
3.3.1)豊臣大坂城天守
1585年(天正13年)竣工、1615年(元和元年)落城の際に焼失。
豊臣大坂城のものと見られている平面図『本丸図』では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。豊臣大坂城の天守は天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。
天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。
一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。なお、5階には、黄金の茶室があったといわれている。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの『日本史』にある[22]。
天守の復元案には、一番壮大で華やかな『大坂夏の陣図屏風』(黒田屏風)を元に、『大坂冬の陣図屏風』、『大坂城図屏風』などが参考にされている場合が多い。
特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も三浦正幸などから出されている。
黒田長政によって作成された黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルになっている。
3.3.2)徳川大坂城天守
1626年(寛永3年)竣工、1665年(寛文5年)落雷により焼失。
徳川大坂城の天守は江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態だった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。
建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、江戸城天守(初代)を細身にしたような外観があり、白漆喰塗籠の壁面だったとみられている。最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺だったという。高さは天守台を含めて58.32メートルあったとみられている。このことから江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。
天守の図面は、内閣文庫所蔵の『大坂御城御天守図』(内閣指図)と、大坂願生寺所蔵の『大坂御天守指図』(願生寺指図)がある。それぞれは相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は江戸城天守とほぼ同じ破風の配置である。
3.3.3)復興天守
1931年(昭和6年)11月7日竣工。
現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、博物館ともなっている大阪城天守閣である。
陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って1928年(昭和3年)11月に就任した当時の第7代大阪市長の關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)11月7日に竣工した。
この市民の寄付には、申し込みが殺到したため、およそ半年で目標額の150万円が集まった。そのうちの25万円は住友財閥総帥住友友成の寄付である。
150万円の使い道は天守の再建に47万円、第四師団司令部庁舎の建築に80万円、大阪城のうち本丸などの一部の公園化(北部は大阪砲兵工廠、残りの大半は第四師団の敷地)整備費用に23万円である。
昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。(洲本城天守閣(1928年)が先行するが、こちらは模擬天守。)
建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法を用いて建てた。高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)。5層8階(入口のある1階部分は地下)からなっており、復興天守の中は博物館「大阪城天守閣」となっている。
外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に、大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当した。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっておりその様子は古川の著書『錦城復興記』に記されている。
大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々の議論があり、豊臣時代もしくは徳川時代どちらかの形式に統一すべきとの意見もある。
1995年(平成7年)12月から1997年(平成9年)3月にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。
また、身体障害者や高齢者向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。2007年(平成19年)の外壁の塗り替えの際には、5層目の塗装がより豊臣時代に近いデザインに改められた。
30年で焼失した豊臣大坂城天守、39年で焼失した徳川大坂城天守に比べて、復興天守は最も長命の天守となっており、1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録された。
屋根に見られる緑色は銅瓦の緑青によるもの。
4)遺構
現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などの建物遺構が残っており、国の重要文化財に指定されている。また、桜門の高麗門については、明治20年(1887年)に日本陸軍大阪鎮台によって再建されたものであるが、国の重要文化財に指定されている。
また、現存する石垣も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の三期に渡る天下普請によって再築された。
石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された花崗岩である。
また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。生駒や笠置、加茂など木津川沿いからも採石されており、廃城になった伏見城の石材も再利用されて運ばれた。
石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されている。高さ5〜6mで最大幅14mに達する巨石が鏡石として数多く使われている。
城内最大の巨石は備前国岡山藩主池田忠雄が運んできた本丸桜門枡形にある蛸石で、重量は最大130トンと推定され、エジプト・ギザの大ピラミッドの積石が1個約2.5トンであるのと比べ、その巨大さがわかる。ただし厚さは40cmたらずしかない。
ピラミッド内部にある花崗岩でさえ約80トンと言われる。なおイギリス・ストーンヘンジで最大の石は高さ6.6mで45トンである。
また、城内4番目の巨石である大手見附石と、5番目の巨石である大手二番石は元は一枚岩で分割したものと判明している。
大阪市内や小豆島などには石垣に使われず放置された石材があり「残念石」と言われている。運搬時に落ちた石は「落城」に通じ縁起が悪いとされ捨てられた説がある。
現存する多くの鏡石はさほど厚みが無く本来の石垣の表に置かれた化粧石の役目になっている。
徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在の大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、すべて江戸時代の徳川大坂城のものである。
大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビル・道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。
村川行弘(大阪経済法科大学名誉教授・考古学)らによる昭和中期の大坂城総合調査により徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されている。
また、2003年(平成15年)には大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかった。
また、この発掘調査によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されている。豊臣時代の石垣を公開する計画があり、そのための募金活動が平成25年から行われている。
〇参考Webサイト
●大阪城天守閣HP
●大阪城残石記念公園(Wikipedia)
●大坂の陣(Wikipedia)
作成開始日時:令和3年1月28日 概成:令和3年1月30日