京都府の歴史散歩は、丹後半島における籠神社、羽衣伝説、浦嶋伝説に関連する史跡・名所を取り上げました。
京都観光最強スポット2020
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(引用:京都府道路公社管理事務所パンフレットを一部トリミング)
(引用:Blue Signal JR西日本)
京都府の最北端、握りこぶしのように 日本海にせり出した丹後半島には、古くからの伝承が数多く残る。丹後半島の歴史をひも解けば、そこには語り継がれる物語と古代丹後国との関係が見えてくる。人々がさまざまに言い伝えてきた物語のルーツと舞台を訪ね、丹後半島を巡った。
画聖・雪舟も描いた「日本三景」の一つに挙げられる天橋立。伊射奈藝命がつくった天に昇る巨大な梯子で、もとは天に聳えて直立していたが、伊射奈藝命が寝ている間に倒れて現在の姿になったと伝わる。
細部は(引用:Blue Signal JR西日本) をご覧ください。
宇良神社に室町時代から伝わる『浦嶋明神縁起』。宇良神社の由来を解説した絵巻で、
浦嶋子が一人舟で釣りをしていると五色の亀が釣れ、亀が美女に変身した。その美女が蓬莱山(常世=不老不死の理想郷=龍宮城)へ浦嶋子をいざなっている場面。
細部は(引用:Blue Signal JR西日本)を御覧ください。
(引用:Wikipedia)
〇浦島伝説
●概要
浦島太郎は、日本の伽話(おとぎばなし)、及びその伽話内の主人公名。一般に知られるあらすじでは、亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、龍宮(竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、白髪の老人に化するというものである。
浦島子伝説が原話とされ、古くは上代の文献(『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』)に記述が残る。それらは、名称や設定が異なり、報恩の要素も欠け、行き先は「龍宮」ではなく「蓬莱(とこよのくに)」なので、異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。日本各地には、浦島太郎が居たと伝える伝承や縁起譚があり、浦島の名の出ない類話も存在する。
月岡芳年画浦島太郎(引用:Wikipedia)
現代において日本で広く普及する浦島太郎の御伽話は、明治から昭和にかけて読まれた国定教科書版に近い内容である。これは童話作家の巖谷小波が1896年に発表した『日本昔噺』版に、生徒向けに手を加えて短縮したもので、玉手箱を開けて老人化してしまうことで約束を破ると悪いことが起こると伝えようとしたためである。
現代版にみられる「竜宮」「乙姫」「玉手箱」などの呼称や、浦島が亀を買いとって助ける設定は、御伽草子に由来するが、版本として知名度が高い御伽文庫版のそれではなく、異本(I類系)に見られる。浦島子伝説では、蓬莱(とこよのくに)」の名のない女性が「玉匣(たまくしげ)」を渡す。
現代版では、亀と乙姫は別だが、浦島子伝説・御伽草子では、浦島が釣って逃がした亀は乙姫(蓬莱の女性)の化身である。御伽文庫では、最後に浦島も死ぬ代わりに鶴に変身する。
●普及版
現在一般的に普及しているストーリーは、教科書を通じて広く国民に知れわたったもので、概ね以下のような内容である。
浦島太郎という人(あるいは漁師)は、浜で子供達が亀をいじめているところに遭遇。その亀を買いとって保護し、海に放してやる。2、3日後、亀が現れ、礼として太郎を背に乗せ、海中の竜宮に連れて行く。竜宮では乙姫が太郎を歓待。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して蓋を開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に乗って元の浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が忠告を忘れて玉手箱を開けると、中から白い煙が発生し、太郎は白髪で皺老人の姿に変化する。(尋常小学国語読本、巻3)。
・経緯
上のあらすじは、特に広く親しまれた教科書だと評価される第3期国定教科書第3巻「うらしま太郎」から取った。この教科書は別名『尋常小学国語読本』、通称『ハナハト読本』という。大正~昭和の1918-1932年に使用された。
明治時代には、その元となった第2期国定教科書所収「ウラシマノハナシ」が登場している。このいわゆる「国民童話」版は、明治政府が教科書向きに書き換えたものであるが、童話作家の巌谷小波著『日本昔噺』所収の「浦島太郎」に若干の手を加えて短縮したものだと目されている。
竜宮城に行ってからの浦島太郎の行状は、子供に伝えるにふさわしくない「結婚生活」の内容が含まれているので、童話においてはこの部分は改変(もしくは省略)された。
・唱歌
文部省唱歌「浦島太郎」は、1900年の『幼年唱歌』に掲載された「うらしまたろう」(作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵)と、1911年の『尋常小学唱歌』に掲載された「浦島太郎」(作詞・乙骨三郎、作曲者不明)とがある。「昔々浦島は助けた亀に連れられて」で始まる歌は、『尋常小学唱歌』の「浦島太郎」である。
●考察
・近代版の浦島太郎には、善行を行えば報われるという、「仏教的な因果応報思想」が意図的に盛り込まれるとの解説がある。近代版には、亀が「おれいに竜宮へおつれしましょう」と語っているので、報恩の意志ははっきりしている。
・しかし、近代版では浦島の結末は、短く竜宮で楽しんだ後は老人となってしまう。結果的に自身が不幸に陥ることになるので、報恩といえるかどうか、疑問視もされ、「アンチ報恩譚」とのレッテルを張る論文すらある。お伽噺として不合理な教訓をもたらすことになっているのではないかというものだ。また古い浦島子伝説では報恩の要素は見いだせないとされる。
・中世(『御伽草子』、後述)の場合は、主人公が単に老化してあるいは死んで終わるのではなく、鶴と化して「めでたき」結末となっているので、より報恩譚として成立する。これについては逆に、亀の放生を行った程度で容易に無限の宝を得られるでは釣り合わない、との批判がみられる。鶴になる結末は何を伝えたいのかわからないとの向きもある。
・精神分析学の岸田秀は、浦島が亀に乗って入る、時の流れのない楽園である竜宮城を、抑圧も欲望の不満もない子宮のメタファーとし、軽率に竜宮城を出た浦島が玉手箱を開けることで時間の中に組み込まれる物語は、性的欲望に仮託した子宮復帰願望の物語であり、何の不安もなかった幼い日々を失った嘆きの物語と解釈した。
・竜宮
常世の女性が、ワタツミ(海神)の娘だということが付記されるのは、『万葉集』の長歌に詠まれる浦島子伝説においてである。
このワタツミを竜神や竜王と同一視できるかについては、浦島子伝説は既に中国の唐代に流行していた竜生九子伝説の影響を受けていたもので、すなわち奈良時代の浦島子伝説でも、亀姫は竜王の姫だったという解釈がある。また唐の『竜女伝』を元の素材として、亀姫は東海竜王の娘である竜女というより具体性のある見解を藤沢衛彦は打ち出している。
しかし仮説になりたった解釈を抜きにすれば、『御伽草子』において初めて、異郷が明確に「竜宮」となり、その異郷の女性が「乙姫」という名の竜王の娘として登場する。この竜王が竜族かを問えば、柳田国男によれば「日本の昔話の竜宮には竜はいない」とされる。
●御伽草子
「浦島太郎」として伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』による。その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった。
「御伽草子」の稿本といえば、普通「御伽文庫」版を指すことが慣習的となっている。こちらは江戸時代に版本にされて多くの部数が普及したからである。
・御伽文庫
御伽文庫の稿本の原文は、「昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり」と始まる。
丹後の国に浦島という者がおり、その息子で、浦島太郎という、年の頃24、5の男がいた。太郎は漁師をして両親を養っていたが、ある日「ゑじまが磯」というところで亀を釣りあげ、「亀は万年と言うのにここで殺してしまうのはかわいそうだ。恩を忘れるなよ」と逃がしてやった。
数日後、一人の女人が舟で浜に辿り着き、漂着したと称して、なんとか本国に連れ帰してくれと請願する。実はこれは逃がしてもらった亀の化身であった。二人が舟で龍宮城に到着すると、女性は太郎と夫婦になろうと言い出す。
龍宮城は、東西南北の戸を開けると四季の草木と眺めがみえるように作られていた。ここで共に三年暮す頃、太郎は残してきた両親が心配になり帰りたいと申し出た。姫は自分が助けられた亀であったことを明かし、開けることを禁じたうえで「かたみの筥(はこ)」(または「箱」、挿入歌では「玉手箱あけて悔しき」と詠まれる)を手渡した。太郎は元の浜に着き、老人に浦島(太郎の父)の行方を尋ねるが、それは七百年も昔の人で、近くにある古い塚がその墓だと教えられる。
龍宮城の三年の間に、地上では七百年もの年月が経っていたのであった。絶望した太郎が箱を開けると、三筋の紫の雲が立ち昇り、太郎はたちまち老人になった。太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かった。丹後では太郎と乙姫は夫婦の明神となって祀られた。
一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う能楽『鶴亀』などに受け継がれ、さらに、鶴亀を縁起物とする習俗がひろがったとする。
『御伽草子』では竜宮城は海中ではなく、島か大陸にあるように描写され、絵巻や絵本の挿絵もそうなっている。春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれている。
・異本と系統
浦島太郎の御伽草子の諸本は、実際には50種以上存在する。それらをテキストの類似性で分類すると、おおよそ4つの系統に分かれる。御伽文庫は、IV類系統に該当する。
・近代版に近い系統
「御伽文庫」版は御伽草子の定番だが、現代の「浦島太郎」のおとぎ話とは、筋書きや名称のうえで違いが多い。御伽文庫では、太郎は亀を買いとることはせず、背中にも乗らない。
I類系統の本が、現代版により近く、浦島太郎が宝を渡して亀を買い取る要素が含まれている。また、相手の女性を無名とせず、「乙姫」(「亀の乙姫」)と特定するものが含まれる。また本文でも「玉手箱」という言葉が使われる。
オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵の絵巻もI類に所属する。
林晃平は、I類を性格づける要素として、1) 亀の買い取り 2) 迎えの舟 3) 四季の間に郷愁をなだめる効果、4) 村人が長寿を認めて荼毘に付す(修行僧の役割)、5) 玉手箱の煙が蓬莱に到達し、乙姫が悲しむ、の五つを挙げている。
●浦島子伝説
「浦島太郎」という名前は中世の物語から登場し、それ以前の文献では「浦島子」の伝説として記録される。
浦島子の伝説は、上代の文献である『丹後国風土記逸文』『日本書紀』や『万葉集』巻九にあり、成立年代は近いとされるが、順序については異説がある。
浦島子が誘われる場所は蓬莱(とこよのくに)なので、これら伝説は異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。
蓬莱山は、中国における不老不死の理想郷で、道教の中核にある神仙思想の産物である。浦島子伝説には、こうした神仙思想的(道教的)要素が見いだせる。ただそのことについては、現地の伝説を取材したが原作者の漢籍癖が出たためとも、唐伝来の話の翻案であるから、とも論じられる。
・丹後国風土記逸文
8世紀に成立した『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子」「水江浦嶼子」は、浦島太郎の物語の原型と解されている。ほぼ同時代の『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい。
・内容は次の通り:
冒頭は「與謝郡日置里、この里に筒川村あり」とし、その村の筒川嶼子(つつかわのしまこ)は、容姿と風流が際立ち、別名「水江浦嶼子」といい、日下部首(くさかべのおびと)の先祖だとしている。
長谷(はつせ)の朝倉宮の御世、つまり雄略天皇の時代。嶼子(島子)が一人船で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が取れる。船で寝入る間に亀は美女の姿に変わっている。いきなり現れた女性の素性を訪ねると、「天上の仙(ひじり)の家」の者だとの返答。島子と語らいたくなってやって来たという。舟を漕いで女性の住む「蓬山」を訪れるが、海上の島であった。門に立つと、7人の童子、ついで8人の童子に「亀比売(かめひめ)の夫がいらした」と出迎えられるが、これらは昴七星と畢星の星団であった。浦島は饗宴を受け、女性と男女の契りを交わす。
三年がたち、島子に里心がつくと、女性は悲しむが、彼女との再会を望むなら決して開けてはならない玉匣(たまくしげ)(箱)を授けて送りだす。郷里を訪ねると家族の消息は得られず、水江の浦の島子という人が300年前に失踪したと伝わる、と教えられる。約束を忘れて箱を開けると、何か美しい姿が雲をともない天上に飛び去って行った。そこで島子は女性と再会できなくなったことを悟るのである。
しかし、何らかの力で二人は歌を詠みかわすことができ、3首が万葉仮名で引用されている。後世より贈られたという2首も引かれているが、これら贈答歌は、『丹後国風土記』より後の時代に追加されたとの説がある。
・伊余部馬養の作という説
『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の国宰だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。
馬養は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わって皇太子学士を勤め、『懐風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。そのことを踏まえても、馬養の著作の源が日本の伝承だったのか、中国の説話なのか疑問が残る。現地に元々あった伝承を採集しそれを中国の神仙譚風に編集、脚色したという見解と、中国の類話の舞台を丹波/丹後に移して翻案した作品との見解とで対立している。
・三浦の解釈
三浦佑之の論旨に従えば、『丹後国風土記』を基にして解釈すれば、主人公は風流な男である浦島子と[61]、神仙世界の美女であり、その二人の恋が官能的に描かれて[62][63]異界(蓬莱山)と人間界との3年対300年という時間観念を鮮明に持つ[64]。その語り口は、古代にあっては非常に真新しい思想と表現であり、神婚神話や海幸山幸神話などとはまったく異質であり[65]、結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な尸解譚になっているのもそのためである[66]。
・日本書紀
浦島太郎(浦嶋子)の記述は、『日本書紀』「雄略紀」の雄略天皇22年(478年)秋7月の条に見える。こちらには事件の日付だとして具体的な年・月付で、次のように記載される。:
丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山(とこよのくに)へ赴き、遍歴して仙人たち(仙衆(ひじり))に会ってまわった。
・万葉集巻九
8世紀半ば以降に成立した『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。
「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而(春の日の 霞める時に 住吉の["すみのえ"の] 岸に出で居て)..」という読み手の現実に始まり、そこから連想される浦島の故事に触れる。
大意は次のようなものである:
水の江の浦島の子が7日も帰らず鯛や鰹を釣りをしていると、海境(うなさか)を超えて漕いでいて行き交った海神(わたつみ)の娘と語り合うようになり、そして結婚する。常世にある海神の宮で暮らすこととなったが、愚かな男は里帰りを言い出す。妻は、この常世の国に戻りたいと願うなら決してこれを開くなと、篋(くしげ)を手渡す。
水江に帰ってみると、家を出てから3年しかたっていないと思っていたのにその家は跡形も無い。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ白い雲がたなびいて常世にむかい、うろたえて叫び、地団太を踏むと、気絶した。浦島の子は皺だらけの白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。
詠み手が長歌で「水江の浦島子の家」の跡が見えると締めくくっている。その舞台の「墨吉」は「すみのえ」と仮名振りされており、従来は丹後地方の網野町に比定されていたが、武田祐吉が摂津国住吉郡墨江村であると提唱した。澤潟久孝『萬葉集注繹』では、虫麻呂はおそらく摂津の住吉にいたのだろうが、浦島伝説の舞台をここに移し変えて「創作」したのだとしている。異郷淹留の場所がワタツミの神の国となり、仙女がその海神の娘になっているのは、この萬葉歌での加筆部分であるが、これもおそらく虫麻呂の創作であろうと考えられている]。
(出典: Wikipedia)
浦嶋神社は、京都府与謝郡伊根町本庄浜にある神社。旧社格は郷社。浦嶋伝説が伝わる。宇良神社とも呼ばれる。
社殿(noriokakyou撮影) 神社の前庭(noriokakyou撮影)
●主祭神:浦嶋子(浦島太郎) ●相殿神:月読命・祓戸大神(※)
●歴史:創祀年代は平安時代、淳和天皇の825年(天長2年)7月22日とされ、浦嶋子を筒川大明神として祀るのが始めであると伝えられる。
※ 祓戸大神:神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐命が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。なお、この時に大禍津日神・八十禍津日神(災厄を司る神々)、神直毘神・大直毘神・伊豆能売(禍津日の災厄を直す神々)、上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神(海の神々)、住吉三神、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。
『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
・瀬織津比売神(※)(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
・速開都比売神(はやあきつひめ) -- 河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを
飲み込む
・気吹戸主神(いぶきどぬし) -- 速開都比売神がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認
して根の国・底の国に息吹を放つ
・速佐須良比売神(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れ
をさすらって失う
速開都比売神を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐命の禊の際に化成した神に当てることが多い。
本居宣長は、瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てている(当てているだけでその神と同一視されるほどのものではない)。『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は伊勢神宮内宮荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記している。
●祓戸大神を祀る主な神社
佐久奈度神社(滋賀県大津市)、日比谷神社(東京都港区)、浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)、
水野社(愛知県名古屋市中村区)
※(補足)瀬織津姫
神道の大祓詞に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記・日本書紀には記されていない神名である。水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である。『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。なお、荒祭宮は、かつては正宮に位置していたと推定される。伊勢神宮公式の由緒書きに、「その御魂をこのように二宮に並べてお祭りするのは、皇大神宮に天照大神を、同別宮に天照大神の荒御魂を奉祀する姿の古い形と言われています。」と記されている。このとおりであれば、正宮は、式年遷宮のたびに位置を替えるのではなく、常に東に位置する正宮は天照大神、西に位置する正宮は瀬織津姫を祀っていたこととなる。
・『ホツマツタエ』では、日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后とし、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが記されている。瀬織津姫は穂乃子という名でも登場する。瀬織津姫穂乃子という。この瀬織津姫は本当の瀬織津姫かは、ホツマツタエが偽書であるかないかとともに、真偽が問われる部分である。
・また六甲比命講は、瀬織津姫を祭神としている神社の総本宮は兵庫県神戸市に鎮座する六甲比命神社(兵庫県神戸市)と考えられるとし、六甲比命大善神の磐座の存在が六甲の山名の由来であると推定し、またこれらは『ホツマツタエ』の記述から導き出されたものであるとする。
・水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である。
・『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。なお、荒祭宮は、かつては正宮に位置していたと推定される。伊勢神宮公式の由緒書きに、「その御魂をこのように二宮に並べてお祭りするのは、皇大神宮に天照大神を、同別宮に天照大神の荒御魂を奉祀する姿の古い形と言われています。」と記されている。このとおりであれば、正宮は、式年遷宮のたびに位置を替えるのではなく、常に東に位置する正宮は天照大神、西に位置する正宮は瀬織津姫を祀っていたこととなる。
・『ホツマツタエ』では、日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后とし、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが記されている。瀬織津姫は穂乃子という名でも登場する。瀬織津姫穂乃子という。この瀬織津姫は本当の瀬織津姫かは、ホツマツタエが偽書であるかないかとともに、真偽が問われる部分である。また六甲比命講は、瀬織津姫を祭神としている神社の総本宮は兵庫県神戸市に鎮座する六甲比命神社(兵庫県神戸市)と考えられるとし、六甲比命大善神の磐座の存在が六甲の山名の由来であると推定し、またこれらは『ホツマツタエ』の記述から導き出されたものであるとする。
(2020.9.23追記)
八人の天女が舞い降りたと伝えられる比治山(磯砂山)の頂から峰山の町を望む。
山頂には羽衣伝説ゆかりの地として羽衣天女のモニュメントがある。
細部は、(引用:Blue Signal JR西日本)を御覧ください。
(引用:Wikipedia)
〇羽衣伝説
●概説
羽衣伝説は世界各地に存在する伝説のひとつ。多くは説話として語り継がれている。日本で最古の羽衣伝説とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが『近江国風土記』に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが『丹後国風土記』に見られる。
日本の他の地方での羽衣伝説はこれら最古の伝説が各地に広まりその地に根付いたものと考えられる。天女はしばしば白鳥と同一視されており、白鳥処女説話(Swan maiden)系の類型とみなされる。これは異類婚姻譚の類型のひとつで、日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられ、天女をその部族の祖先神とみなす小規模な創世神話の型をとる。
日本をはじめ、世界各地に同じような伝説が伝えられている。共通点として、基本的な登場人物に「羽衣によって天から降りてきた天女(てんにょ)」「その天女を我がものとする男」の2人が挙げられる。同様の伝承は世界各地に残り、発祥はインドのプルーラブアス王の説話であるとする説もある。
●ストーリー
1)水源地(海岸・湖水)に白鳥が降りて水浴びし、人間の女性(以下天女)の姿を現す。
2)天女が水浴びをしている間に、天女の美しさに心を奪われたその様子を覗き見る存在(男、老人)が、天女を天に帰すまいとして、その衣服(羽衣)を隠してしまう。
3)衣類を失った1人の天女が飛びあがれなくなる(天に帰れなくなる)
・日本の羽衣伝説では、ここから近江型と丹後型でわかれる。
《近江型(昇天型)》
①天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。
②天女は羽衣を見つけて天上へ戻る。
③後日談(後述)
《丹後型(難題型)》
①天に帰れなくなった天女は、老夫婦の子として引き取られる。
②天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる。
③老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す。
④天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)
●類型
《羽衣の隠し場所》
① 穀物の貯蔵場所 :蔵、おひつ、ワラ束の中、カマド、ナガモチ
② 植物の植えてある場所 :畑の中、花の中、藪の中
珍しい所では、大黒柱の中というものもある。これらの隠し場所は、天女に豊穣霊あるいは穀霊としての側面があった為と考えられる。
《後日談》
地域によりかなりの差異が認められる。幾つかのパターンとしては
① 昇天型 :羽衣を見つけた天女が、夫を捨てて天にかえってしまう。子供を一緒に連れて行く場合
もある。
② 難題型 :天女の父が難題を出す七夕伝説に連続する。焼畑農耕地帯との関連が指摘されている。
山間部に多い。
③七星型 :北斗七星のうちの1つのぼんやりしたものが泣き暮れている天女とする。なお、日本では
沖縄県(北限奄美大島)にのみ存在。世界的には東南アジア、中国南部などに存在する。
④再会型 :九州地方に多い。稲作農耕地帯との関連も考えられている。
⑤夫と相思相愛になった天女が、天の父に夫を認めてもらうため、夫を助ける。
などがある。
天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。
がないケースもある。舞を見たいという要望があるが、夫婦にならず男の方がその場で渡してしまう。
天女を祖先神とする説話の型では、千葉県千葉市に伝わる羽衣伝説は千葉氏の出自について(さらに千葉の由来について)、余呉に伝わる別の羽衣伝説では菅原道真の、沖縄県宜野湾市森の川の飛衣(とびんす、羽衣)伝説では察度王の出自について語られている。鳥取県中部に伝わる羽衣伝説では倉吉の地名の由来、羽衣石城主・南条氏の出自などについてが語られている。
●『近江国風土記』にみられる羽衣伝説
滋賀県長浜市余呉湖 に伝わる羽衣伝説は、「昇天型」とされる。
●『丹後国風土記』にみられる羽衣伝説
京都府京丹後市峰山町に伝わる羽衣伝説は、「難題型」とされる。
●各地の羽衣伝説
上記のほか、日本各地に類似の伝承が残る。
・静岡県静岡市清水区三保の松原 - 昇天型
・千葉県佐倉市 - 昇天型
・千葉県千葉市(羽衣の松) - 昇天型
・鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石 - 昇天型
・大阪府交野市天野川流域
・大阪府高石市羽衣
●参考Webサイト
・Blue Signal JR西日本/舞い降りた天女、二つの「羽衣伝説」
・日本最古の羽衣伝説|丹後に伝わる2つの羽衣伝説と天女が舞い降りた女池と男池
(引用:Wikipedia)
籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏(あまべうじ)が宮司を世襲している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。
拝殿(引用:Wikipedia)
1 祭神
祭神は次の5柱。
●主祭神
・彦火明命 (ひこほあかりのみこと)
「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。
社家海部氏の祖神。
●相殿神
・豊受大神(とようけのおおかみ) - 「御饌津神」ともいうとする。
・天照大神(あまてらすおおかみ)
・海神(わたつみのかみ) - 社家海部氏の氏神。
・天水分神(あめのみくまりのかみ)
祭神については古くより諸説があり、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊、『神社明細帳』
では天水分神としている。
2 歴史
2.1 創建
社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。
そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ) が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。
伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説がある。延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている。籠神社をその地にあてたものとしては、建武2年(1335年)の文書の「豊受太神宮之本宮籠大明神」という記載、天和年間(1681年-1684年)の籠神社縁起秘伝の「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載がある。
2.2 概史
国史での初見は嘉祥2年(849年)に「籠神」が従五位下に叙せられたという記事で、その後六国史での神階は元慶元年(877年)の従四位上まで昇進した。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では丹後国与謝郡に「篭神社(籠神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。
籠神社の西方には丹後国分寺跡もあり、当地一帯が丹後国の中心地であったことがうかがわれる。
中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」(国宝、京都国立博物館蔵)に描かれている。また『丹後国田数帳』には籠神社の神領について、籠宮田46町210歩や朔弊料田12町等、計59町3段210歩が記載されている。しかし近世には社領を失い、わずか8斗4升4合であった。
明治に入り、近代社格制度では当初国幣中社に列したが、昭和20年(1945年)に官幣大社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となっている。
2.3 神階
・嘉祥2年(849年)、従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「篭神(籠神)」。
・貞観6年(864年)、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「篭神(籠神)」。
・貞観13年(871年)、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「篭神(籠神)」。
・元慶元年(877年)、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「篭神(籠神)」。
2.4 神職
籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担っている。海部氏とは海人族を統括した伴造氏族で、全国に分布が見られ、籠神社社家はそれらのうち「海部直」姓を称して丹後に拠点を持った一族である。
一族には、現存では日本最古の系図「海部氏系図」(国宝、平安時代の書写)が残されており、彦火明命を始祖(初代)として82代の現宮司までの名が伝えられている。また海部氏一族が丹波国造を担ったとも伝えているが、丹波国造について『先代旧事本紀』の「国造本紀」では尾張国造と同祖で建稲種命四世孫の大倉岐命を祖と記し、同書「天孫本紀」では饒速日尊(天火明命)六世孫の建田背命を祖と記すように、天火明命を祖とする尾張氏系と彦火明命を祖とする当一族との関連性が見られる。
3 境内
「上宮」の奥宮(真名井神社)に対して、本宮は「下宮」に位置づけられる。本殿は、桁行三間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。弘化2年(1845年)の再建で、京都府の有形文化財に指定されている。なお、欄干の擬宝珠は赤、黄、緑に彩色された「五色の座玉」で、格式の高い神社を表すと伝えられる。
神門前の左右に立つ凝灰岩製の石造狛犬は、安土桃山時代の作で国の重要文化財に指定されている。なお、神社側では鎌倉時代の作と伝える。阿形の狛犬の右前足は割れて鉄輪が嵌められているが、昔この狛犬が橋立に現れて悪さをしたので、天正年間(1573年-1592年)に岩見重太郎が斬ったことによると伝えられている。
4 摂末社
4.1 奥宮(境外摂社)
●真名井神社 (まないじんじゃ、眞名井神社)
・鎮座地:京都府宮津市江尻(位置) - 本宮の北東約400m
・磐座主座(上宮)祭神:豊受大神
・相殿神:罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神
・磐座西座祭神:天照大神(主神)、伊射奈岐大神、伊射奈美大神
「下宮」とする本宮に対して、奥宮の主座は「上宮」に位置づけられる。社殿は桁行一間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。天保3年(1831年)の造営で、京都府の有形文化財に指定されている。社殿裏に2つの磐座がある。
4.2 摂社
・蛭子神社(恵比寿神社):祭神:彦火火出見命、倭宿彌命
祭神の彦火火出見命は、大化以前の本宮主祭神。社殿は一間社流造銅板葺で、京都府の有形文化財
に指定されている(真名井神社の附)。
・天照皇大神社:祭神:天照大神の和魂あるいは荒魂
・真名井稲荷神社:祭神:宇迦御魂、保食神、豊受比売
明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座したが、1991年に本宮境内に移転再建。
4.3 末社
いずれも境内社。
・春日大明神社: 祭神:春日四神
・猿田彦神社: 祭神:猿田彦神
また、海の奥宮として冠島・沓島を神域とし、天火明命と市杵島姫命を祀る。傘松公園には冠島・沓島の遥拝所がある。
5 祭事
5.1 年間祭事
●月次祭 (毎月1日、15日)●歳旦祭 (1月1日)●成人式 (1月第1日曜または第2日曜翌日)
●節分大祭 (2月3日)●建国記念祭 (2月11日)●祈年祭 (2月17日)
●天照大神御鎮座記念日 (3月3日)●籠宮御鎮座記念日 (3月22日)●葵例大祭 (4月24日)
●大浜祭 (5月31日)●夏越の大祓式 (6月30日)●豊受大神御出座記念日 (7月7日)
●江之姫龍宮祭 (8月6日)●真名井稲荷例祭 (9月9日)●真名井神社例祭 (10月15日)
●神嘗祭奉祝祭 (10月17日)●古代赤米新嘗大祭 (11月23日)●麓神社飯遣福祭 (12月第1日曜)
●大祓式 (12月31日)
5.2 葵祭(例祭)
例祭は4月24日に行われ、「葵祭」と通称される。古くは4月2の午の日に行われており、『宮津府志』には大きな祭であった様子が記されている。祭事では近隣の集落から笹ばやし、太刀振、神楽が奉納される。京都府の無形民俗文化財指定。
6 文化財
6.1 国宝
●海部氏系図(附 海部氏勘注系図)(古文書)
宮司家の海部氏の系図。神社側では「籠名神社祝部海部直等之氏系図」と呼称。平安時代初期の書写で、現存では日本最古の系図とされる。1976年(昭和51年)6月5日指定。なお、系図の所有者は籠神社ではなく宮司家である。
6.2 重要文化財(国指定)
●木造扁額(工芸品)
室町時代の「籠之大明神」と記載された扁額。神社側では、976年(貞元元年)の勅額の「藤原
佐理卿筆額面」と呼称。京都府立丹後郷土資料館に寄託。
●石造狛犬 1対(彫刻)
●丹後国府中籠神社経塚出土品(銅経筒2口、菊花双雀鏡、線刻如来鏡像)(考古資料)
鎌倉時代、文治四年(1188年)在銘の経筒2口と伴出品。京都府立丹後郷土資料館に寄託。
6.3 京都府指定文化財
〇有形文化財
●本殿(附 棟札3枚)(建造物)
●摂社真名井神社本殿(附 拝所1棟、棟札3枚、末社恵比寿神社本殿)(建造物)
●籠神社文書(附 慶長七年丹後国検地帳19冊)(古文書) - 籠神社に伝わる鎌倉時代・室町時代・江戸時代の古文書。
●籠神社経塚出土品(考古資料) - 1989年(平成元年)4月14日指定[17]。
〇無形民俗文化財
●籠神社の祭礼芸能 - 1985年(昭和60年)5月15日指定[18]。
6.4 その他(指定文化財以外の宝物)
●海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」
息津鏡は後漢代の作と伝えられ直径175mmの長宜子孫内行花文八葉鏡、辺津鏡は前漢代の作と伝え
られ直径95mmの内行花文昭明鏡。「海部氏系図」の勘注系図にも記載があり、天祖が火明命に授
けたという。出土品でない伝世鏡では日本最古という。なお、鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致
するが、関係は明らかでない。
●小野道風筆額面
鎌倉時代の「籠之大明神」と記載された扁額。神社側では、平安時代の929年(延長7年)の勅額で
小野道風の筆と伝える。
●羅龍王古面 - 室町時代(伝鎌倉時代)。
●丹後国一宮深秘 - 南北朝時代から室町時代に書写された籠神社由緒記。
●内宮所伝本倭姫命世紀 - 室町時代(伝南北朝時代)。
●有栖川宮幟仁親王殿下御染筆額面 - 明治2年の有栖川宮幟仁親王筆の額。
(引用:Wikipedia)
海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。
ともに古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、昭和50年(1975年)6月に重要文化財、翌51年(1976年)6月に国宝の指定を受けた。
海部氏系図(本系図)巻頭(写真引用:Wikipedia)
〇本系図
「本系図」は、現存する日本の古系図としては、同じく国宝である『円珍俗姓系図』(「智証大師関係文書典籍」の1つで、「和気氏系図」とも呼ばれる)に次ぐもので、竪系図の形式を採っていることから、系図の古態を最もよく伝える稀有の遺品とされている。
体裁は楮紙5枚を縦に継ぎ足した、幅25.7cm、長さ228.5cmの巻子仕立てで、中央に「丹後国与謝郡従四位下籠名神従元于今所斎奉祝部奉仕海部直等之氏」と標記し、以下淡墨による罫1線を引いて、その上に神名・人名を記しているが、その上に「丹後国印」と彫られた朱方印を押しており(その数は28顆に及ぶ)、丹後国庁に提出され、その認可を受けたものであることが分かる。
また成立年代については、標記中に「従四位下籠名神」とあることから、籠神社が「従四位下」であった期間、すなわち貞観13年(871年)6月8日を上限とし、元慶元年(877年)12月14日を下限とするが、下述「勘注系図」の注記にも貞観年中(859-77年)の成立とある。作者は当時の当主である第33世(以下、世数は「勘注系図」による)海部直稲雄であると見られている。
●内容
始祖彦火明命から第32世の田雄まで、各世1名の直系子孫のみを記したきわめて簡略なもので、内容的には次の3部からなる。
1)始祖から第19世健振熊宿祢までの姓を有さない上代部。途中、2・3世と第5世から第18世までを
欠いているため、わずか3人(神)を記すのみである。
2)第20世都比から第24世勲尼までの、「海部直」の姓を持ち、伴造として丹波国(当時は丹後国
を含んでいた)の海部(海人族集団)を率いていたと思われる海部管掌時代。
3)第25世伍佰道から貞観時代の第32世田雄までの、「海部直」の姓を持つとともに名前の下に
「祝」字を付け、籠神社の祝としての奉仕年数を注記する祝部時代。
〇勘注系図
「本系図」に細かく注記を施したもので、竪系図の形式を襲うが、現存のものは江戸時代初期の写本であり、原本は仁和年中(885年 - 889年)に編纂された『丹波国造海部直等氏之本記』であると伝える。その紙背には桃山時代に遡ると推定される天候や雲の形による卜占を図示したものが画かれており、本来は反故紙であった卜占図の裏に書写されたものであった(これら卜占図も貴重な古文献とされている)。ちなみに編纂経緯として、注記中に「一本云」として以下のように伝えている。
1)推古天皇朝に丹波国造であった海部直止羅宿祢等が『丹波国造本記』を撰述。
2)上記『国造本記』撰述から3世を経た養老5年(721年)、丹波国造海部直千嶋(第27世)とその
弟である千足・千成等が『籠宮祝部氏之本記』を修撰(一説に養老6年(722年)8月ともある)。
3)貞観年中に、第32世の田雄等が勅を奉じて、上記『養老本記』を基にその後の数代を増補する
形で本系帳としての『籠名神社祝部氏系図』(現在の「本系図」)を撰進。
4)仁和年中に、「本系図」が神代のことや上祖の歴名を載せておらず、本記の体をなしていなかっ
たため、第33世の稲雄等が往古の所伝を追補して『丹波国造海部直等氏之本記』を撰述。
●内容
始祖から第34世までが記され、各神・人の事跡により詳しい補注を加え、当主の兄弟やそこから発した傍系を記す箇所もあって、「記紀」は勿論、『旧事本紀』などの古記録にも見られない独自の伝承を記すとともに、「本系図」上代部で省略されたと覚しき箇所もこれによって補い得る。
〇史料批判
この系図に関する真贋論争など史料批判は非常に少なく、太田亮が系図に関して「但馬正税帳に見ゆる海直忍立の見えざるは不審と云ふべし」と言及した程度である。
これに関して古代氏族・東アジアの系図研究者である宝賀寿男は海部氏系図の内容に以下のような疑問を投げかけている。
1)まず『本系図』に見える始祖の彦火明命を除いた歴代17人については、他の史料にまったく所見がなく傍証がないこと。従って正史に埋もれた古代地方豪族の史料だと主張しても、系図史料の信頼性の裏付けにはならない。
2)「海部直都比」、「海部直縣」といった表記法に疑問があること。大化前代庚午年籍以前の者については、当時は「都比直」という「名前+姓」の形の記載が一般的である。姓氏を先にあげて名前を記すような形で、しかもそれを繰り返すような表記は他例をあまり見ない。この表記法に関しては、同じく国宝指定を受けている「円珍俗姓系図」と比べ、その表記の奇妙さがよく表れている。
3)「都比」、「阿知」、「力」は別にしても、「伍佰道」、「愛志」、「望麿」、「雄豊」という名前はその他豪族の系図史料に見えず、名称が奇妙であること。『勘注系図』内に見える「勲尼」という名も同様。
4)彦火明命が天忍穂耳命の第三子とするのは疑問であること。『古事記』や物部氏の伝承では天火明命は天忍穂耳命の長男としており、『日本書紀』のように邇邇芸命の子とする伝承もあるが、『本系図』のような記述は他にない。
5)彦火明命が尾張氏の祖と伝える天火明命と同神だとしても、その三世孫に「倭宿禰命」という名は他書に見えないこと。『勘注系図』等に天忍人命の別名とするのも疑問である。また海部氏が尾張氏支流という系譜を唱えるのなら、肝腎の尾張氏の始祖高倉下(天香語山命)を書き込まない系図の意図が不明である。
6)応神天皇の「健振熊宿禰」から天武天皇・持統天皇ごろの「伍佰道祝」までの世代数が非常に少ないこと。大多数の古代氏族の系図では応神天皇世代の者から天武天皇世代の者まで10世代ほどあるが、『本系図』では7世代しかない。「健振熊宿禰」と「海部直都比」との間の「」が世代の省略を意味するのだとしても、祠官家では「稲種命」と伝えるというのみである。
7)和邇氏の祖である健振熊宿禰や尾張氏の氏人である日本得玉彦命が見えるなど、倭国造や和邇氏、尾張氏など他氏族から混入された名が見える。
8)「伍佰道祝」、「愛志祝」、「千鳥祝」の奉仕年代に整合性がないこと。特に「伍佰道祝」の記事「従乙巳養老元年合卅五年」に関して、乙巳から養老元年までの任期は、645年あるいは705年から717年までで、35年にはならないため問題がある。
9)丹波国造の姓氏は丹波直であって、海部直ではないにもかかわらず、『本系図』では海部直を丹波国造の地位にあったとしていること。氏姓国造において大国造は地域名を氏としており、そのことの例外になるのは不自然である。また、海部直氏が応神天皇の御代に国造として仕えたとしたら『国造本紀』の記事との関係でも疑問が大きい。
10)『但馬国正税帳』に見える天平ごろの与謝郡大領「海直忍立」が見えないこと。忍立が海部直氏の傍系の人で系図中に見えないのか、系図に問題があって見えないのかについて、海部直氏は大化改新後に籠神社の祝に奉仕する一流と、与謝郡の郡司に任ずる一流とに分かれたのではなかろうかという推測もあるが、大化頃に祭政分離がなされた例は氏姓国造では見られない。出雲国造・紀国造・阿蘇国造などの諸国造の例と比較しても、こういった推測は疑問である。
11)丹後の海部を管掌する伴造の姓氏の表記は「海部直」であったのかということ。『今昔物語』巻23でも、丹後の「海ノ恒世」という相撲人が見え、『但馬正税帳』とあわせて、「海直」と記された例しか見られない。同族とみられる但馬海直(『姓氏録』左京神別)もあり、海部直という表記は中世の苗字の海部氏に由来するものではないかと考えられる。
12)「千鳥(千嶋)祝」の世代だけ、兄弟を記載する意図が不明であること。『勘注系図』にその弟の「海部直千足」を「丹波直足嶋」の父と記すことにも姓氏変更の点などで疑問が大きく、『勘注系図』の記事に基づき三兄弟の記述を説明することは無理である。なお『続日本紀』和銅4年(711年)12月条に犯罪者「丹波史千足」、『但馬国正税帳』には丹後国少毅無位「丹波直足嶋」が見えるが、別系統で姓が異なる渡来系の東漢直氏一族丹波史氏の者を同族系図に入れ込むのは論外である。
13)『本系図』が本系帳ではないならば、『円珍俗姓系図』のように記事や系図の内容がもっと豊富であってよいということ。
〇参考Web サイト
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