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歴史散歩への誘い(近畿)④


兵庫県の歴史散歩


兵庫県観光マップ

 

 兵庫県の歴史散歩は、先ず、神功皇后に関連する史跡・名所として、神戸市の五色塚古墳と海神社を取り上げています。次に、アメノヒボコに関する出石神社を中心に取り上げてみました。


神功皇后伝説


五色塚古墳


(引用:Wikipedia)

 

五色塚古墳(引用:神戸市HP

 

五色塚古墳(千壺古墳)は、兵庫県神戸市垂水区五色山にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財・神戸市指定有形文化財に指定されている。兵庫県では最大規模の古墳で、4世紀末-5世紀初頭古墳時代中期)頃の築造と推定される。日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られる。本項では、五色塚古墳の西側にある小壺古墳(五色塚古墳と合わせて国の史跡)についても併せて解説する。

 

    

墳丘全景(左に前方部、右奥に後円部)墳頂から明石海峡を望む

(写真引用:Wikipedia)

 

 兵庫県南部、神戸市西部の垂水丘陵南端部において、眼下に明石海峡を、対岸に淡路島を望む位置に築造された巨大前方後円墳である。古墳名の「五色塚」や「千壺」は江戸時代から見られる呼称で、「五色塚」の由来には諸説があり詳らかでないが、「千壺」の由来は墳丘上の埴輪群によるという。

 古墳域は戦前には松林として保護されていたが、戦中に松は油採取等に利用するため伐採され、戦後には畑地として開墾された。加えて、前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が引かれたほか、古墳周囲にも道路が敷かれたため、周濠等も改変を受けている。考古学的には、これまでに数次の発掘調査が実施されたほか、築造当時の姿へと復元整備も実施されており、日本では最初に復元整備が行われた古墳になる。

 墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は194メートルを測るが、これは兵庫県では最大規模になる(全国では第40位程度)。墳丘表面の各段には円筒埴輪列が巡らされるほか、各段斜面には葺石が葺かれる。特に埴輪は推計2,200本、葺石は推計223万個・2,784トンにおよび、上段・中段の葺石は淡路島産とも判明している。墳丘周囲には深い周濠・浅い外部周溝が2重で巡らされており、濠内には墳丘くびれ部左右・後円部北東の3か所に方形の島状遺構(マウンド)を有する。主体部の埋葬施設は明らかでないが、竪穴式石室の使用が推定される。

 この五色塚古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、明石海峡やその周辺を支配した豪族首長と推測される。『先代旧事本紀』などには、4世紀末から5世紀初頭に在位したとされる応神天皇の時代に明石国造が任命されたと伝わる。

 特に、築造に際して明石海峡対岸の淡路島から多量の石が運ばれたという事実は、『日本書紀』神功皇后紀の記事(後述)と対応するものとして注目され、これより被葬者の支配領域は淡路島まで及ぶとする説もある。実際に淡道国造が設置されたのは4世紀前半に在位したとされる仁徳天皇の時代からとされる。また、当時としてはヤマト王権の大王墓佐紀古墳群に匹敵する規模の古墳になるが、一帯は明石海峡を押さえる要衝である一方で巨大古墳を築造できるだけの経済基盤の無い地域であることから、築造に際してはヤマト王権中枢からの強い関与が推測される。加えて、当時はヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)へと移行する時期にもなるため、ヤマト王権中枢の変動との相関を想定する説もある。

 古墳域は、1921年(大正10年)に小壺古墳の古墳域と合わせて国の史跡に指定された。2012年(平成24年)には、出土品(円筒埴輪群)が国の重要文化財に指定されている。

 

〇小壺古墳

 

墳丘全景(写真引用:Wikipedia)

 

 小壺古墳は、五色塚古墳の西にある古墳。形状は円墳。五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定され、出土品は神戸市指定有形文化財に指定されている。

 古墳名の「小壺」は、五色塚古墳の別称「千壺」との対比とされる。墳丘は2段築成。下段直径は70メートル、上段直径は43メートル、墳頂高さは約8.5メートルを測り、円墳としては茶すり山古墳(朝来市、直径86メートル)に次ぐ兵庫県第2位の規模になる。ただし墳丘が周辺道路の下まで及ぶため、現在は元来の2段では復元されず、盛土をして1段に成形して保護されている。墳丘表面では各段に埴輪列(推計約320本)が検出されているが、五色塚古墳と異なり葺石は葺かれていない。また、墳丘周囲には周濠が巡らされており、周濠内では墳丘北側で通路状遺構(土橋)も認められている。出土品としては、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、形象埴輪(家形・靭形・蓋形埴輪など)がある。この小壺古墳は、五色塚古墳と同時期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定されるが、五色塚古墳との築造年代の前後は明らかでない。

 なお文献によれば、かつて五色塚古墳の周囲には、小壺古墳のほかにも遊女塚・小塚(小壺古墳か)・四ッ塚・七ッ塚・東側陪塚と称される古墳が存在したとされる。 

〇登場作品

関係略系図(数字は代数)

神功皇后 ーーーーーー 14 仲哀天皇---ー--大中姫命

                  Ⅰ         Ⅰ  

                   誉田別尊     麛坂皇子  忍熊皇子

              (15 応神天皇)  

 

 五色塚古墳に関しては、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られる。同条によれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子と忍熊皇子(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとした。

 続けて、

(原文)

「乃詳為天皇作陵、詣播磨興山陵於赤石。仍編船絙于淡路嶋、運其嶋石而造之。」

(書き下し文)

「乃ち天皇の為に陵を作ると詳り(いつわり)、播磨に詣りて(いたりて)、山陵(みささぎ)を赤石に興つ(たつ)。仍りて船を編みて淡路島に絙し(わたし)、其の島の石を運びて造る。」

— 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条(抜粋)

として、両皇子が仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 明石)に陣地を構築したとする。この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳のみであることから、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている。

 上の伝承に関連する記事として、『播磨国風土記』賀古郡大国里条(印南郡大国里条)にも、息長帯日女命(神功皇后)が帯中日子命(仲哀天皇)の埋葬の際に讃岐国の羽若石(= 羽床石か)を求めたとする伝承がある。なお、『播磨国風土記』では明石郡条が欠落していることもあり、五色塚古墳自体に関する記述はない。 


海神社


海神社(わたつみじんじゃ)は兵庫県神戸市垂水区宮本町に鎮座する神社。

 

拝殿(引用:Wikipedia)

1 概要

 式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。伊和神社粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。

 「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。古くは、あまじんじゃ・たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。「ワタツミ」の読みは本居宣長の説に基づき明治4年(1871年)に採用したものである。『播磨国官幣中社海神社史』では「古例の通りアマもしくはタルミと読むべきである」としている。「タルミ」の読みは、祭神の本来の名称が垂水神であったことによるものである。「アマ」は、当社が海直(あまのあたい)の氏神であったことによる。

2 祭神

 海神三座として以下の3柱を主祭神とし、大日孁貴尊を配祀する。

 ・上津綿津見神(うわつわたつみのかみ):海上=航海の神

 ・中津綿津見神(なかつわたつみのかみ):海中=魚(漁業)の神

 ・底津綿津見神(そこつわたつみのかみ):海底=海藻、塩の神

3 歴史

 社伝によると、神功皇后三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったため、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりという。 『日本書紀』に記される広田神社・生田神社・長田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様であるが、『日本書紀』の当該箇所に海神社に関する記述はない。

 文献に現れる最も古い記述は、大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』にある播磨明石垂水神に神封戸10戸を寄進するという記述。 当所は海上交通の要地であることから、古くから海上鎮護の神として崇敬を受けた。 『延喜式神名帳』では「播磨国明石郡 海神社三座」と記載され、名神大社に列している。

 中世以降、戦乱等のために社勢が衰えるが、天正11年(1587年)に豊臣秀吉が祈祷料として垂水郷山内の山林を寄進、江戸時代にも歴代明石藩主が篤く崇敬し、毎年2月に参拝するのを通例としていた。

江戸時代の初頭より「日向大明神」と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に国幣中社に列格した際に「海神社」に復称した。明治30年(1897年)に官幣中社に昇格した。

4 祭祀

4.1 えびす祭

 西宮神社と同じくえびすは海の神でもあるため毎年1月10日の前後の3日間行われる。

5 その他

 平成18年(2006年)まで、毎年7月に行われる夏祭りで奉納花火大会が開催されていたが、翌年以降夏祭りはこれまで通り開催されるものの奉納花火大会は開催されなくなった。平成13年(2001年)に起きた明石花火大会歩道橋事故が少なからず影響している。


アメノヒボコ伝説


天日槍(天之日矛)


(引用:Wikipedia

 アメノヒボコは、記紀等に伝わる新羅からの渡来人または渡来神。

『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。

 『日本神話』・『古事記』等では渡来人、『播磨国風土記』では渡来神と位置づけて記述される。

1 記録

1.1 日本書紀

1.1.1 垂仁天皇3年条

 『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子天日槍が渡来したと記す。

 その際に次の7物、

 1)羽太の玉(はふとのたま) 1箇 2)足高の玉(あしたかのたま) 1箇

 3)鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇 4)出石の小刀(いづしのかたな) 1口

 5)出石の桙(いづしのほこ) 1枝 5)日鏡(ひのかがみ) 1面 7)熊の神籬(くまのひもろき) 1具

を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。 

 

 垂仁天皇紀3年条一云の系図

     太耳(※)天日槍(妻:知古ー麻多烏)ー 但馬諸助ー 但馬日楢杵 但馬清彦ー 田道間守

  ※太耳:天日槍の岳父

 同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は新羅王子であると自称し、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。

 そして次の8物、

 1)葉細の珠(はほそのたま) 2)足高の珠 3)鵜鹿鹿の赤石の珠 4)出石の刀子

 5)出石の槍 6)日鏡 7)熊の神籬 8)胆狭浅の大刀(いささのたち)

を献上した。

 そこで天皇は播磨国宍粟邑淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。

 また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守を儲けたという。

1.1.2 垂仁天皇88年条

 『日本書紀』垂仁天皇88年7月条によると、新羅王子を自称する天日槍が持って来た但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に勅命を下して献上させた。

 その神宝とは次の5物、

 1)羽太の玉 1箇 2)足高の玉 1箇 3)鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇 4)日鏡 1面 5)熊神籬 1具

であった。

 ただしこれらとは別に「出石(いづし)」という名の小刀1口があったが、清彦は献上を望まなかったので袍の中に隠して身に帯びていた。しかし天皇が清彦を遇しようと御所で酒を与えたとき、その小刀が袍の中から出た。清彦は隠し通すことを断念し、これが神宝の1つであることを言上すると、天皇はこれと他の神宝とを一緒にして神府みくら奈良県天理市の石上神宮の神府か)に納めた。そのしばらくのち、天皇が神府を開くと小刀が自然になくなっており、清彦に人を遣わして問いただすと、清彦は小刀が自然と清彦の家に来たがその日の朝にはなくなったと言った。天皇は畏れそれ以上は小刀を求めることをやめたが、一方の小刀はのちに自然と淡路島に至り発見されたので島人により祠に祀られたとする。

 また、同条では続けて昔話として、新羅王子の天日槍が小舟に乗って但馬国に停泊し、そのまま但馬に留まったと伝える。そして天日槍は但馬国の前津耳(一云に前津見または太耳)の娘の麻拕能烏(またのお)を娶り、麻拕能烏との間に但馬諸助を儲けたとし、これが清彦の祖父であるという。

1.1.3 その他

 後述の『古事記』では、比売碁曾社(比売許曾神社)の由来が天日槍阿加流比売神の伝承として記述されるが、『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等とその妻の伝承として記述されている。

1.2 古事記

 『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅王子という天之日矛が渡来したとし、その渡来の理由を次のように記す。

 新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

 天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。

 天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。

 また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

 1・2)珠 2貫 3)浪振る比礼(なみふるひれ)浪切る比礼(なみきるひれ) 5)風振る比礼(かぜふるひれ)

 6)風切る比礼(かぜきるひれ) 7)奥津鏡(おきつかがみ) 8)辺津鏡(へつかがみ)

であったとする。

 そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという(兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。

1.3 風土記

1.3.1 播磨国風土記

 『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。

●揖保郡揖保里 粒丘条

 客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近か)の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと)に宿所としての土地を求めると、志挙は海中に宿ることのみを許した。これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという(たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山に比定)

宍禾郡比治里 川音村条

 天日槍命が村に泊まって「川の音がとても高い」と言ったので「川音村(かわとのむら)」と称されるという(宍粟市山崎町川戸付近に比定)

宍禾郡比治里 奪谷条

 葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、「奪谷(うばいだに)」と称されるという。

宍禾郡高家里条

 天日槍命が「この村の高さは他の村に優っている」と言ったので「高家(たかや)」と称されるという(宍粟市山崎町庄能から山崎付近に比定)。

宍禾郡柏野里 伊奈加川条

 葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという(菅野川に比定)

宍禾郡雲箇里 波加村条

 伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近に比定)

●宍禾郡御方里条

 葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう(宍粟市一宮町の北半部に比定)。

●神前郡多駝里 粳岡条

 伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする(姫路市船津町八幡の糠塚に比定)(別伝は省略)。

●神前郡多駝里 八千軍条

 天日桙命の軍兵が8,000人あったため「八千軍野(やちぐさの)」と称されるという(神崎郡福崎町八千種付近に比定)

1.3.2 筑前国風土記

 『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、足仲彦天皇(仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎えた。五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。一説に蔚山)に天降った日桙の後裔としている。

1.3.3 その他

 アメノヒボコの名はないが関連伝承として、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもとを逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(豊後国ながら大分県の姫島か)。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する、という。

また『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引)では、新羅国の神がやって来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」と称されたとする伝承を記す(福岡県田川郡香春町の香春神社に比定)。

1.4 古語拾遺

 大同2年(807年)編纂の『古語拾遺』では垂仁天皇条において、新羅王子の海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し、但馬国出石郡に大社(出石神社)をなしたとする。

2 霊廟

 アメノヒボコに関わる神社としては、但馬国一宮の出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)が知られる。この神社は『延喜式』神名帳では但馬国出石郡の名神大社として「伊豆志坐神社八座」と記載されるが、これは『古事記』の「伊豆志之八前大神」とも一致することから、『古事記』編纂の8世紀初頭に遡る頃から8柱の神々が祀られていたと見られる。

 現在では、アメノヒボコが将来した八種神宝の神霊が「伊豆志八前大神」として祀られるとともに、アメノヒボコの神霊が併せ祀られている。この出石神社の創祀は、社伝を別とすると、実際にはアメノヒボコを奉じる朝鮮系渡来人の一族がその将来した宝物を祀ったことによると推測される。但馬地方では、出石神社のほかにも関係社数社の分布が知られる(「信仰」節参照)。

3 後裔氏族

 上記のように、アメノヒボコは『日本書紀』『古事記』では但馬諸助(多遅摩母呂須玖)から神功皇后に至る諸人物の祖、また『筑前国風土記』逸文では怡土県主らの祖とされる。

『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

 ・左京諸蕃 橘守 - 三宅連同祖。天日桙命の後。

 ・右京諸蕃 三宅連 - 新羅国王子の天日桙命の後。

 ・大和国諸蕃 糸井造 - 三宅連同祖。新羅国人の天日槍命の後。

 ・摂津国諸蕃 三宅連 - 新羅国王子の天日桙命の後。

4 考証

 アメノヒボコ伝説は『日本書紀』『古事記』のうちで代表的な渡来伝承になるが、一般には

1人の歴史上の人物の説話ではなく、渡来人集団をアメノヒボコという始祖神に象徴した説話ではないかという考えもある。「アメノヒボコ(天日槍/天之日矛)の名称自体も日本名(もしくは新羅名)であり、出石地域を中心とする渡来系一族(出石族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化したことに由来する意見もある。

 この氏族の渡来の時期は定かでなく、出石神社が弥生遺跡の中心地に位置することや蹴裂による開拓伝承の存在から農耕伝来の時期とする説がある一方、『日本書紀』の「陶人」という記述から須恵器生産の始まる5世紀以降と推測する説がある。

 また、アメノヒボコの伝承地では鉄文化との関わりが見られることから、須恵器・製鉄技術伝来の伝承を背景に見る説もある。『播磨国風土記』において播磨の地方神たる葦原志挙乎(葦原志許乎)または伊和大神との争いが記されることも、その渡来の様子の一面を表す伝承として注目されている。

  この出石族一族に関して、日光感精による懐妊説話がモンゴル・満州など東北アジアに広くみられる神話であることから、元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団であったと想定する見方も存在する。

 また赤玉についても、高句麗の朱蒙の卵生説話など遊牧民族系伝承と類似しているが、この赤玉はその日神祭祀における太陽の象徴品と見られる。加えて『日本書紀』に記される播磨→近江→若狭→但馬という遍歴は、この集団の移動または分布を反映するといわれる。この出石族の氏については「出石君(いずしのきみ/いづしのきみ)」と称したとする説もあるが、古代但馬の人物としては見えないため明らかでなく、一族自体が比較的早期(記紀編纂の頃まで)に衰退したともいわれる。出石君とは別に三宅氏と見る説もあり、その説ではヤマト王権が屯倉経営を行う6世紀以後に、出石神社奉斎氏族が三宅氏を称し始めたとする。

  『古事記』中に見えるアカルヒメを祀る「比売碁曾社」に関しては、『延喜式』神名帳での摂津国東生郡の「比売許曾神社」、現在の比売許曾神社(大阪府大阪市)に比定される。大阪市付近では式内社として赤留比売命神社(杭全神社飛地境内社)の分布も知られるが、この伝承に関わるアカルヒメは元々は日矛を祀った巫女を表すといわれる。このようなヒメコソの神の伝承は『日本書紀』垂仁天皇紀にも記され、そちらでは都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝承として記述されるが、その伝承はアメノヒボコ伝説と同工異曲のため同一の神に関する伝承と見られている。「天日槍」の名称自体についても、「ツヌガ(角干:新羅の最高官位)アラシト(日の御子の名)の日本名になるという説もある。

 なお、『筑前国風土記』逸文ではアメノヒボコ後裔として怡土県主一族が見えるが、この怡土郡周辺(現・福岡県糸島市付近)渡来系集団の最初の上陸地と推測する説もある。また、この怡土地域を始めとしてアメノヒボコ・都怒我阿羅斯等伝承地神功皇后伝説地がほぼ重なり合うこと、また系譜も繋げて記述されることや、神功皇后伝説にも呪術的な玉が頻出することなどから、出石族の伝承神功皇后伝説に取り込まれた様子が指摘される。

5 信仰

 

 

  但馬地方では、上述の出石神社をはじめアメノヒボコに関連する式内社数社の分布が知られる。主なものは次の通り。

アメノヒボコ関係社の一覧
 
延喜式 関連人物名 比定社
社名 社名 所在地 座標
出石郡 伊豆志坐神社八座 名神大   出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内 位置
御出石神社 名神大   御出石神社 兵庫県豊岡市出石町桐野 位置
諸杉神社 但馬諸助
(多遅摩母呂須玖)
諸杉神社 兵庫県豊岡市出石町内町 位置
日出神社 多遅摩比多訶 (論)日出神社 兵庫県豊岡市但東町畑山 位置
(論)日出神社 兵庫県豊岡市但東町南尾 位置
須義神社 菅竈由良度美 須義神社 兵庫県豊岡市出石町荒木 位置
中島神社   中嶋神社 兵庫県豊岡市三宅 位置
比遅神社 多遅摩斐泥 比遅神社 兵庫県豊岡市但東町口藤 位置
気多郡 多麻良伎神社 但馬日楢杵
(多遅摩比那良岐)
多摩良木神社 兵庫県豊岡市日高町猪爪 位置
葦田神社 (アメノヒボコ従者) 葦田神社 兵庫県豊岡市中郷森下 位置
鷹貫神社 葛城高額比売 鷹貫神社 兵庫県豊岡市日高町竹貫 位置
城崎郡 耳井神社 前津耳
(太耳/前津見)
耳井神社 兵庫県豊岡市宮井 位置

 表(引用:Wikipedia)

 

『出石町史』では、以上のほか城崎郡の海神社も関連社として挙げる。また大永4年(1524年)の「沙門某出石神社修造勧進帳」を始めとする文献には出石神による豊岡盆地・出石盆地の蹴裂伝説が記されており、アメノヒボコないしその奉斎氏族による出石開拓との関連が指摘される。


出石神社


 出石神社は、兵庫県豊岡市出石町宮内にある神社。式内社(名神大社)、但馬国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 

神門(引用:Wikipedia)

1 概要

 兵庫県北部、出石盆地東縁の山裾に鎮座する神社である。出石盆地南縁の現在の出石市街地からは北方約2キロメートルに位置するが、かつては出石神社付近が周辺一帯の中心地であり、現在の出石市街地は天正2年(1574年)に山名氏が居城を此隅山城から有子山城(のち山麓に出石城)に移してからの発展になる。

 この出石神社は、『古事記』『日本書紀』に記される渡来新羅王子天日槍伝説の中心となる神社で、現在の祭神には天日槍が将来したという八種神宝の神霊および天日槍自身の神霊を奉斎し、地元では出石の開拓神としても信仰される。古くから但馬国(兵庫県北部)では随一の神威を誇ったほか、中世・近世には但馬国の一宮にも位置づけられた、但馬地方では代表的な古社になる。

 社殿は大正3年(1914年)の再建で、豊岡市指定文化財に指定されている。また社宝として、明治14年(1881年)寄進の脇差(国の重要文化財)のほか、歴代領主の甲冑や古文書などを伝世し、現在はこれらの多くが文化財に指定されている。

 

  

鳥居                    社殿

(引用:Wikipedia)

2 社名

文献上で見える主な名称は次の通。

・出石神 - 『但馬国正税帳』、『新抄格勅符抄』、『続日本紀』、『日本三代実録』等。

・伊豆志坐神社 - 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳。

・出石大社 - 『日本紀略』貞元元年(976年)条、弘安8年(1285年)の『但馬国大田文』。

・伊豆志社 - 永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」。

・出石大神宮 - 出石神社蔵の銅印(鎌倉時代)

現在、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」とも通称されている。

3 祭神

現在の祭神は次の通り。

伊豆志八前大神いづしやまえのおおかみ、出石八前大神)

天日槍命(あめのひぼこのみこと)

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は8座。享禄5年(1532年)の祝詞では、祭神を「正一位出石大明神、二位の后の宮、七所の王子」とする。現在の出石神社では、上記のように天日槍が将来したという八種神宝の神霊「伊豆志八前大神」として奉斎し、これに天日槍の神霊を併祀する形を取っている。

3.1 古典史料の記述

  出石神社の祭祀は、『古事記』や『日本書紀』などの記す天日槍あめのひぼこ、天之日矛/天日桙)伝説との深い関わりで知られる。

 そのうち『古事記』応神天皇記では、天之日矛新羅王子であり、その昔(応神天皇以前)に日本に渡来したとする。そしてその渡来の経緯として、天之日矛は妻を追って日本に渡来し難波に着こうとしたが着けなかったため、新羅に帰ろうと但馬国に停泊していたが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶って子孫を儲けたという。また天之日矛は「玉津宝(たまつたから)」と称される神宝8種を将来し、それらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるとする。続けて、その伊豆志大神の娘の伊豆志袁登売神(いづしおとめのかみ、出石乙女)の神婚譚が記される。

 対して『日本書紀』垂仁天皇3年条では、天日槍を同じく新羅王子とした上で、垂仁天皇(第11代)の時に渡来したとし、天日槍は将来した7物を但馬国に納めて永く神宝としたとする。また同条の別伝では、日本に渡来した天日槍は初め神宝8種を天皇に献上したとし、さらに天皇から居住地として提示された播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑は固辞したうえで、近江国・若狭国を経て但馬国に至り、そこで但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、子孫を儲けたとする。

 そのほか『日本書紀』垂仁天皇88年条では、天日槍の将来した神宝を見たいと天皇が欲したので、曾孫の清彦に5物を献上させたとする。この時に5物とは別に「出石」という名の小刀1口があり、清彦は献上を望まず隠していた。清彦は結局これを献上したが、のちに自然と消え、淡路島で発見され祠に祀られたという。続けて系譜として、天日槍は但馬国の前津耳(さきつみみ)の娘の麻拖能烏(またのお)を娶り、子孫を儲けたと記される。

 以上の一方、『日本書紀』では『古事記』にあるような出石神に関する具体的な記述はない。

 天日槍伝説および関連伝承は、『古事記』・『日本書紀』のほかにも『播磨国風土記』『筑前国風土記』逸文・『摂津国風土記』逸文・『古語拾遺』などでも見られる。そのうち『播磨国風土記』では、天日槍客神(渡来神)に位置づけ、葦原志許乎命や伊和大神(播磨国一宮の伊和神社(兵庫県宍粟市)祭神)との間で播磨国の国占めを競う姿が記されている。また古語拾遺でも、新羅皇子の「海檜槍」の渡来について「今在但馬国出石郡為大社」と見え、ここでも天日槍と出石との深い関わりが記される。 

3.2 考証

 以上のように、天日槍伝説は古典史料における代表的な渡来伝承になる。ただし一般には、1人の歴史上人物の説話ではなく、朝鮮系集団の渡来アメノヒボコという始祖神に象徴した説話と考えられている。その中では特に、「天日槍」という神名を「日矛(日槍)」という祭祀具の人格化と想定し、大陸系の日神信仰を持つ渡来系一族(出石族)の伝承と見る説が知られる。

 また、説話中に見える一族による神宝の献上はレガリアの献上を意味するとされ、この出石族が抵抗を示しながらもヤマト王権に服属したことを表すともいわれる。天日槍が将来したという神宝の数・内容は『古事記』と『日本書紀』で異なるが、現在の出石神社では神宝を8種とし「八前大神」として祀っている。 

 なお、上記の古典史料では天日槍を主に渡来人・渡来神として記述するのに対して、出石地域では天日槍による開拓伝説、特に泥海状態であった豊岡盆地の水を津居山の瀬戸を切り開いて流した伝説(蹴裂伝説)が広く知られる。この蹴裂伝説は大永4年(1524年)の「沙門某出石神社修造勧進帳」を初見とし、現在も出石神社ではそれに因む「幟まわし」神事が続けられている。この伝説成立の背景として、天日槍ないしその奉斎氏族による実際の出石開拓との関連を推測する説もある。なお出石地域では、天日槍の一族人物名に関連する神社数社の分布も知られている。 

4 歴史

4.1 創建

 創建は不詳。社記『一宮縁起』では、谿羽道命(たにはみちのみこと)多遅麻比那良岐命(たじまひならきのみこと)が祖神の天日槍を祀ったことに始まるとする。

 出石神社の実際の創祀については、天日槍を奉じる朝鮮半島系の渡来人一族がその将来した宝物を祀ったことによると推測される。『新撰姓氏録』では「天日桙命」の後裔を称する三宅連(三宅氏)の存在が見えるが、豊岡市内に残る「三宅」地名を関連づけて、この三宅氏が当地にもいて出石神社を奉斎したとする説がある。

 なお、出石地域では弥生時代の遺跡として宮内遺跡・黒田遺跡が分布し、朝来・養父・気多・城崎地域とともに但馬地方で最も早く稲作が始まった地域の1つといわれる。

4.2 概史

4.2.1 古代

 文献では、前述のように『古事記』・『日本書紀』などの古典史料で出石に関する記述が見られる。

天平9年(737年)の『但馬国正税帳』では、「出石郡出石神戸」について、租代は435束6把である旨のほか、調絁20匹4丈5尺を直稲1,245束で買い取る旨が記されている。但馬国では他に有力神社として粟鹿神社(朝来市、但馬国二宮)と養父神社(養父市、但馬国三宮?)が知られるが、粟鹿神戸は租代66束2把・調絁2匹4丈5尺(直稲165束)、養父神戸は租代145束5把・調絁6匹4丈5尺(直稲405束)であり、出石神社とは大きく差が開いていた。

 『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒では、当時の「出石神」には神戸として但馬国から13戸を充てると見える。なお粟鹿神は2戸、養父神は4戸であった。

 続けて国史では、「出石神」の神階について、承和12年(845年)に従五位下、貞観10年(868年)に正五位下、貞観16年(874年)に正五位上にそれぞれ昇叙された旨が記載されている。

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では但馬国出石郡に「伊豆志坐神社八座 並名神大」として、8座が名神大社に列する旨が記載されている。平安時代中期の『和名抄』に見える地名のうちでは、当地は「出石郡出石郷」に比定される。

 『日本紀略』貞元元年(976年)条によれば、「出石大社」内に烏鵲(カササギ)が集まることがあった旨と、古老が言うに出石大社は「国内第一霊社」であってかつてはその神威を畏れ烏雀蚊虻も入ることはなかった旨が但馬国司から報告され、このことについて朝廷で評議のうえ卜占が行われている。また永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」によれば、「伊豆志社」には布50端が課されている。 

4.2.2 中世

 中世の文書として弘安8年(1285年)の『但馬国大田文』では、当時の社領が記される。これによれば、「当国一宮」である「出石大社」の社領田は141町余で、二宮の「粟鹿大社」の100町余、三宮の「水谷大社」の69町余を大きく上回っていた。この文書を初見として、中世期以降の出石神社は但馬国において一宮の位置づけにあったとされる。 

 また中世期の変遷は、出石神社文書、および祝職の神床家文書により知られる。これらによれば、神主職には嘉禎4年(1238年)に源家則、元亨4年(1324年)に家朝、建武5年(1338年)に家景(長尾彦太郎家景)ら長尾氏一族がそれぞれ補任されたと見える。この「長尾」の名字は、天日槍の渡来に際して朝廷から使者として派遣された市磯長尾市に由来すると伝えられ、この長尾氏を古くから出石神社の祭祀に関わった氏族と推測する説もあるが、正平7年(1352年)の軍忠状を最後に一族の名は見えなくなる。以上の文書のほか、明徳元年(1390年)に守護山名氏清が神主に宛てた書状や、永享8年(1436年)に山名持豊(宗全)が「但州一宮出石大明神」に宛てた願文、文安2年(1445年)に宗全が播磨国から一部の名主職を寄進した書状が伝世される。

 戦国時代にも守護・国人から社領寄進などの崇敬を受けたが、永正元年(1504年)に山名氏内紛による兵火で神宮寺の総持寺とともに社殿を焼失した。大永4年(1524年)になって社殿再興の勧進状が起草されており、その後年に再建が完了したものと見られる。しかし戦国時代末期の天正8年(1580年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が但馬地方を平定すると、それまで神社を崇敬した山名氏は但馬を去り、社領も没収されて社勢は衰微した。

 なお中世・近世を通じては、総持寺(豊岡市出石町宮内)が出石神社の神宮寺とされた。この総持寺(惣持寺)は現在では出石神社の東方に所在するが、かつては神社近くにあったという。寺伝では天日槍が新羅から聖観音を将来したことに淵源を持つとし、平安時代頃から神宮寺となったと見られる(神宮寺としての初見史料は至徳4年(1387年)の寄進状)。総持寺には出石神社の「十六所之王子」に因み16供の供僧が置かれ、これらの僧は出石神社の祭祀にも深く関わっていた。 

4.2.3 近世

 江戸時代には出石藩主の小出氏および仙石氏からの崇敬を受け、延宝4年(1676年)には小出英安による門の造営や、天和2年(1682年)にも小出氏からの屋敷地・田地の寄進があった。

 宝暦7年(1757年)には播磨国住人の八木田源八郎が出石神社の荒廃を嘆いて諸国を勧進し、それによって明和7年(1770年)に本殿、安永3年(1774年)に社殿が造営された。

4.2.4 近代以降

 明治維新後、明治4年(1871年)5月に近代社格制度において国幣中社に列した。明治43年(1910年)には火災により社殿を焼失し、大正3年(1914年)に再建された。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

4.3 神階

・承和12年(845年)、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「出石神」。

・貞観10年(868年)、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「出石神」。

・貞観16年(874年)、正五位下から正五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「出石神」。

5 境内

 境内の広さは22,000平方メートル。現在の社殿は大正3年(1914年)の再建による。本殿は三間社流造で、屋根は銅板葺である。本殿前に幣殿・祝詞殿(いずれも切妻造)が接続し、両殿の左右から透塀が出て本殿を囲む。幣殿・祝詞殿の前面には拝殿が建てられている。拝殿は舞殿形式であり、入母屋造平入りで、屋根は銅板葺。特に、身舎屋根とは独立して平唐破風出桁造の向拝を持つという特徴を有する。これらの社殿は豊岡市指定有形文化財に指定されている。また、境内入り口には神門が建てられている。この神門は丹塗の八脚門で、多くの蟇股が飾られている。そのほかの社殿としては、神饌所・社務所などがある。

 また境内東北隅の一角には禁足地が存在する。この禁足地の広さは1,000平方メートルほどで、現在は玉垣に囲まれている。その由来は明らかでなく、江戸時代には「天日槍廟所」と称されていた。

 なお、境内から西に約500メートル、鳥居橋を渡った地点の鳥居地区では昭和8年(1933年)に旧鳥居の残欠が古銭多数とともに掘り出されており、かつての神域の広大さを物語っている。周辺の地名「鳥居」は、この旧鳥居に因むとされる。伝承ではこの鳥居を第二鳥居とし、さらに西方の狭間坂(豊岡市出石町方間)に第一鳥居があったとする。掘り出された鳥居残欠は豊岡市指定有形文化財に指定され、現在は神門内に保存されている。鳥居跡の西方延長線上には但馬国府推定地が位置することから、出石神社自体もかつては但馬国府方向に西面したとする説がある。

6 摂末社

境内末社として次の4社がある。

・比売神社(比売社) - 祭神:麻多烏(天日槍の妃神)

・稲荷神社(夢見稲荷神社) - 祭神:宇賀能魂

・市杵島比売神社 - 祭神:市杵島比売命

・菅原神社(天神社) - 祭神:菅原神

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