昭和61年頃約1年半、滋賀県に勤務していた際、滋賀県湖西エリアを中心に大津エリア・湖北エリアの名所旧跡巡りを経験しましたが、湖南エリア・甲賀エリア・東近江エリアへは訪れる機会があまりありませんでした。今回の滋賀県の観光マップやモデルコース等を中心にこのページを作成しているところです。近い将来、邪馬台国近畿説の一つである伊勢遺跡を中心とした野洲川下流の弥生遺跡を訪れたいと思っているところです。
滋賀・びわ湖観光情報(モデルコース)
〇大津エリア
●半日コース
・三井之晩鐘の地をめぐる(大津港~大津絵の道~琵琶湖疎水~長等公園
~三橋節子美術館 ~長等神社~三尾神社~三井寺(園城寺)~円満院門跡
~大津市歴史博物館~大津絵の道~大津港)
●1日コース
・びわ湖 水環境を考える旅(名神大津IC~環境体験学習クルーズ~瀬田川洗堰
~琵琶湖博物館~佐川美術館~~名神栗東IC or 竜王IC~家棟川 エコ遊覧船~)
・歴史とふれあう 摩崖仏を訪ねる(名神大津IC~富川磨崖仏~仙禅寺跡磨崖仏
~狛坂磨崖仏~磨崖不動明王像~福林寺跡磨崖仏~名神栗東IC)
・義経と弁慶 ゆかりの地(名神大津IC~三井寺~比叡山延暦寺~義経元服の池
~義経元服料理(竜王かがみの里)~義経の隠れ岩(海津)~北陸道木之本IC)
・東海道の 宿場町をめぐる( 西大津バイパス皇子山ランプ~ 大津宿(大津市歴史博物館)
~草津宿(草津宿本陣)~旧和中散本舗~水口宿(水口城資料館)~土山宿(東海道伝馬館)
~新名神甲賀土山IC)
●1泊2日コース
・国宝の湖南三山と滋賀の美術館・博物館(名神栗東IC~常楽寺(要予約)~長寿寺(要予約)
~昼食(湖南市内)~善水寺~ MIHO MUSEUM~ 宿泊(大津・草津市内)~ホテル発
~滋賀県立近代美術館~昼食(大津・草津市内)~滋賀県立琵琶湖博物館~佐川美術館)
〇湖南エリア
●半日コース
・湖南の仏教美術と古刹を訪ねて(妓王寺~錦織寺~兵主大社~福林寺~芦浦観音寺)
・旧東海道を訪ねて(立木神社~草津宿街道交流館~ 草津宿本陣~栗東歴史民俗博物館
~旧和中散本舗~新善光寺)
〇甲賀エリア
●1日コース
・甲賀三大佛(安心(あんじん)参り)モデルコース(新名神高速道路 甲南IC~大池寺
~もち工房~櫟野寺~ 道の駅 あいの土山~十楽寺~甲賀土山IC)
・日本六古窯 陶芸の里・信楽を旅する(新名神高速道路 信楽IC~県立陶芸の森
~信楽伝統産業会館~ 窯元散策路~新宮神社~陶芸体験~MIHO MUSEUM
~新名神高速道路 信楽IC)
・歴史とふれあう 磨崖仏を訪ねる(名神大津IC~富川磨崖仏~仙禅寺跡磨崖仏~狛坂磨崖仏
~磨崖不動明王像~福林寺跡磨崖仏~名神栗東IC)
・天台古刹 湖南三山めぐり (名神竜王IC~善水寺~長寿寺(要予約)~常楽寺(要予約)~名神栗東IC)
・東海道 宿場町をめぐる(西大津バイパス皇子山ランプ~大津宿(大津市歴史博物館)
~草津宿(草津宿本陣)~旧和中散本舗~ 水口宿(水口城資料館)~ 土山宿(東海道伝馬館)
~新名神甲賀土山IC)
・陶都・信楽窯元と紫香楽宮跡コース (信楽高原鐵道信楽駅~窯元散策路~信楽伝統産業会館
~滋賀県立陶芸の森~玉桂寺~紫香楽宮跡(甲賀寺跡)~信楽高原鐡道信楽駅)
・ 湖南三山をめぐるサイクリングの旅(JR石部駅~田楽茶屋~雨山文化運動公園 宿場の里
~常楽寺~長寿寺~じゅらくの里~うつくし松~磨崖不動明王~善水寺~伝統工芸会館
~JR三雲駅)
●1泊2日コース
・国宝の湖南三山と滋賀の美術館・博物館(名神栗東IC~ 常楽寺(要予約)~ 長寿寺(要予約)
~善水寺~MIHO MUSEUM~ 滋賀県立近代美術館~滋賀県立琵琶湖博物館~佐川美術館)
〇東近江エリア
●半日コース
・信長満喫サイクリングコース( 安土城郭資料館~JR安土駅~浄厳院
~安土城天主・信長の館~安土城考古博物館~安土城跡~セミナリヨ跡)
●1日コース
・自然満喫、農業満喫竜王めぐり(苗村神社~龍王寺~雪野山史跡広場「妹背の里」
~アグリパーク竜王~緑の広場グランドゴルフ場(アグリパーク竜王内))
・自然と遊ぶ、動物と遊ぶ(永源寺~愛郷の森~木地師資料館~ブルーメの丘
~ グリム冒険の森~ 日野川ダム)
・近江商人のふるさとをめぐる2( 日野商人館~信楽院~正明寺~蒲生SIC
~ 桟敷窓のある町並~旧正野玄三薬店(まちかど感応館)~旧山中正吉邸~綿向神社)
・古代万葉ロマンの旅(世界凧博物館・東近江市大凧会館~太郎坊宮~万葉の森船岡山
~雪野山古墳~あかね古墳公園~石塔寺~野口謙蔵記念館~山部神社~赤人寺
~ガリ版伝承館)
・青い目の湖国人 ヴォーリズ建築を訪ねて(名神竜王IC~ 近江八幡市内(ヴォーリズ記念館ほか)
~旧伊庭家住宅~豊郷小学校~ 醒井宿資料館(旧醒井郵便局舎)
~今津ヴォーリズ資料館 (旧百三十三銀行)~北陸道木之本IC)
・さわやか満喫 びわ湖よし笛ロードを行く(JR近江八幡駅~長命寺港~西の湖
~安土・文芸の郷~大中の湖南遺跡~能登川水車とカヌーランド~JR能登川駅)
・ 花の社寺を訪ねて 春の花めぐり(名神八日市IC~正法寺(藤の寺・日野)
~鎌掛シャクナゲ渓・ホンシャクナゲ群落(日野)~ 雲迎寺・さつき寺
~ 沙沙貴神社・花の神社(安土)~長命寺(アジサイ・近江八幡)~ 三大神社(フジ・草津)
~名神栗東IC)
・義経と弁慶 ゆかりの地(名神大津IC~三井寺~比叡山延暦寺~義経元服の池~義経元服料理
(竜王かがみの里)~義経の隠れ岩(海津)~北陸道木之本IC)
・近江商人のゆかりの まちなみをめぐる(名神彦根IC~ 豊郷(伊藤忠兵衛の旧邸ほか)
~東近江小田苅(江商人郷土館)~東近江五個荘(近江商人博物館・外村宇兵衛邸ほか)
~近江八幡(新町通り・市立資料館ほか)~日野(近江日野商人館)~名神八日市IC)
・戦国の時代 近江商人を育てた城下町(名神竜王IC~近江商人のまちなみ・八幡堀
~ 八幡山城跡(八幡山ロープウェイ)~日野・蒲生氏郷公の銅像 ひばり公園~まちかど感応館
~近江日野商人館~信楽院~馬見岡綿向神社~日野川ダム・中野城址~名神八日市IC)
・繖三観音サイクリングコース(JR安土駅~石寺楽市~観音正寺~石寺楽市
~五個荘観光センター~石馬寺~ ぷらざ三方よし~JR能登川駅)
●1泊2日コース
・近江商人ゆかりの町を巡る(近江日野商人館~馬見岡綿向神社~新町通り(資料館)~八幡堀
~日牟禮八幡宮~金堂の町並み~五個荘近江商人屋敷3館~近江商人博物館
~あいとうマーガレットステーション)
・近江湖東の古刹 湖東三山めぐり(名神彦根IC~西明寺~金剛輪寺~愛荘町歴史文化資料館
~ 百済寺~永源寺~名神八日市IC)
・戦国の歴史を垣間見る 近江・城めぐり(名神竜王IC~八幡山城跡・八幡堀~安土城跡
~信長の館~ 安土城考古学博物館~国宝彦根城~佐和山城跡~長浜城歴史博物館~小谷城跡
~北陸道長浜IC)
〇湖東エリア
●半日コース
・中山道で巡る湖東路の旅(るーぶる愛知川でめぐりんこ利用~愛知川宿~伊藤忠兵衛記念館
~豊郷小学校旧校舎群~高宮宿~鳥居本宿~彦根駅でめぐりんこ返却)
●1日コース
・青い目の湖国人 ヴォーリズ建築を訪ねて(名神竜王IC~近江八幡市内(ヴォーリズ記念館ほか)
~旧伊庭家住宅~豊郷小学校~醒井宿資料館(旧醒井郵便局舎)
~今津ヴォーリズ資料館(旧百三十三銀行)~北陸道木之本IC)
・中山道 宿場町をめぐる(名神栗東IC~守山宿~武佐宿(武佐宿跡)~愛知川宿~高宮宿(無賃橋)
~鳥居本宿(赤玉神教玉本舗)~番場宿(蓮華寺)~ 醒井宿(居醒の清水)~柏原宿(柏原宿歴史観)
~北陸道米原IC)
・ 近江商人のゆかりの まちなみをめぐる(名神彦根IC~豊郷(伊藤忠兵衛の旧邸ほか)
~東近江小田苅(江商人郷土館)~東近江五個荘(近江商人博物館・外村宇兵衛邸ほか)
~近江八幡(新町通り・市立資料館ほか)~ 日野(近江日野商人館)~名神八日市IC)
・井伊家35万石の城下町 彦根をめぐる(JR彦根駅~いろは松~ 埋木舎~ 玄宮園~ 彦根城博物館
~国宝彦根城~夢京橋キャッスルロード・四番町スクエア~足軽組屋敷~芹川のケヤキ並木
~七曲がり(仏壇街)~JR彦根駅)
・精鋭の将 井伊の赤鬼物語(名神彦根IC~彦根城博物館~国宝彦根城~玄宮園~埋木舎
~宗安寺(重成首塚、三成千体仏)~ 龍潭寺(菩提寺)~天寧寺(血染めの座布団)~西明寺(三成絵馬)
~名神八日市IC)
・お酒めぐり(藤居本家~愛知酒造~岡村本家~キリンビール滋賀工場)
・手仕事のふるさとを訪ねて(手おりの里金剛苑~学び舎(旧甲良東小学校)
~甲良豊後守宗廣記念館~ぴんてまりの館~近江上布伝統産業館)
・近江商人のふるさとに触れる(先人を偲ぶ館~豊郷小学校旧校舎群~伊籐忠兵衛の旧邸
~豊会館(又十屋敷)~一休庵~せせらぎの里こうら)
・湖東路の名刹・庭園めぐり(玄宮園~多賀大社~胡宮神社~勝楽寺~西明寺~金剛輪寺
~百済寺)
・石田三成の城 佐和山城(JR彦根駅~戦国丸~宗安寺~龍潭寺~佐和山城本丸跡~龍潭寺
~JR彦根駅)
●1泊2日コース
・近江湖東の古刹 湖東三山めぐり(名神彦根IC~西明寺~金剛輪寺~愛荘町歴史文化資料館
~ 百済寺~永源寺~名神八日市IC)
・太閤ストーリー 豊臣秀吉出世街道(北陸道長浜IC~姉川古戦場~小谷城跡~賤ヶ岳
~長浜城歴史博物館~ 豊国神社~長浜港~ 竹生島(秀頼が豊国廟移築)~多賀大社(太閤橋、庭園)
~八幡山城~名神竜王IC)
・戦国の歴史を垣間見る 近江・城めぐり(名神竜王IC~八幡山城跡・八幡堀~安土城跡
~信長の館~ 安土城考古学博物館~国宝彦根城~佐和山城跡~ 長浜城歴史博物館~小谷城跡
~ 北陸道長浜IC)
〇湖北エリア
●半日コース
・湖北戦国の道2(米原市近江はにわ館~福田寺~ 石田三成出生地~観音寺~三島池
~グリーンパーク山東~伊吹薬草の里文化センター)
●1日コース
・旧中山道を訪ねて(番場宿~蓮華寺~醒井宿資料館~居醒の清水~柏原宿歴史館
~ 清瀧寺徳源院)
・青い目の湖国人 ヴォーリズ建築を訪ねて(名神竜王IC~ 近江八幡市内(ヴォーリズ記念館ほか)
~旧伊庭家住宅~豊郷小学校~醒井宿資料館(旧醒井郵便局舎)~今津ヴォーリズ資料館(旧百三十三銀行)
~北陸道木之本IC)
・ 伊吹山のお花畑と醒井の梅花藻(名神関ヶ原IC(岐阜県)~伊吹山ドライブウェイ~伊吹山9合目
~道の駅 伊吹の里(旬彩の森)~醒井養鱒場~醒井水の宿駅~地蔵川の梅花藻~ 醒井宿資料館
~北陸道米原IC)
・奥びわ湖 観音の里をめぐる(北陸道木之本IC~高月観音の里歴史民俗資料館
~渡岸寺観音堂(向源寺)~石道寺~己高閣・世代閣~黒田観音寺(要予約)~ 赤後寺(要予約)
~西野薬師観音堂(要予約)~高月観音堂(要予約)~北陸道木之本IC)
・中山道 宿場町をめぐる (名神栗東IC~守山宿~武佐宿(武佐宿跡)~愛知川宿~高宮宿(無賃橋)
~鳥居本宿(赤玉神教玉本舗)~番場宿(蓮華寺)~醒井宿(居醒の清水)~柏原宿(柏原宿歴史観)
~北陸道米原IC)
・近江と越前をむすぶ 北国街道を歩く(北陸道木之本IC~木之本宿~木之本地蔵院
~北国街道安藤家~黒壁スクエア~北陸道長浜IC)
・秀吉ゆかりの城下町 長浜を歩く(JR長浜駅~長浜城歴史博物館~ 慶雲館(梅展)
~長浜鉄道スクエア~北国街道安藤家~黒壁スクエア~曳山博物館~大通寺~JR長浜駅)
・元亀争乱の舞台を走ろう!「浅井三姉妹のふるさと」(JR木ノ本駅~北国街道木之本宿
~賤ヶ岳古戦場(リフト利用山頂へ)~余呉湖(はごろも市)~全長寺~毛受兄弟の墓~JR余呉駅)
●1泊2日コース
・太閤ストーリー 豊臣秀吉出世街道(北陸道長浜IC~姉川古戦場~小谷城跡~賤ヶ岳
~長浜城歴史博物館)
・戦国の歴史を垣間見る 近江・城めぐり(名神竜王IC~ 八幡山城跡・八幡堀~ 安土城跡
~信長の館~安土城考古学博物館~国宝彦根城~佐和山城跡~長浜城歴史博物館~小谷城跡
~北陸道長浜IC)
〇湖西エリア
●半日コース
・マキノ高原で自然を体感(JRマキノ駅~メタセコイア並木~マキノピックランド
~マキノ高原・マキノ高原温泉さらさ)
・大溝の水辺景観をめぐる(JR近江高島駅~打下古墳~乙女が池~大溝城跡~たかしまびれっじ
~旧大溝城下町・町割り水路~大溝陣屋総門)
・懐かしい水辺の風景に会いに行こう(針江生水の郷~道の駅しんあさひ風車村~藁園神社
~JR新旭駅~藤本太郎兵衛像~川島酒造)
●1日コース
・義経と弁慶 ゆかりの地( 名神大津IC~ 三井寺~比叡山延暦寺~義経元服の池
~義経元服料理(竜王かがみの里)~義経の隠れ岩(海津)~北陸道木之本IC)
・ メタセコイア並木を抜けてサイクリングロードを走ろう(マキノ駅~マキノサニービーチ
~ 知内川サイクリングロード~マキノ高原・マキノ高原温泉「さらさ」
~ マキノピックランド・メタセコイア並木~マキノ駅)
・湖西の風を感じて琵琶湖岸を走ろう(近江今津駅~琵琶湖周航の歌資料館~今津港
~湖岸の風景(新旭)~道の駅しんあさひ風車村~ 船木港桟橋跡(安曇川)~たかしまびれっじ(高島)
~ 近江高島駅)
(引用:守山商工会議所青年部HP)
〇「邪馬台国」とは
「三国志」時代の「魏志」の「倭人伝」の項に記録が残る、謎に包まれた統一王朝。当初「倭国(日本)」は大いに乱れていたが、30余国の王からひとりの女性を共立し、女王にしたとあります。その女性を「卑弥呼」と呼び、「倭国」はそのおかげで統一国家としての面目を保ったと。「卑弥呼」は「鬼道」と呼ぶ祭祀に従事していたとも記されています。
〇「近畿説」とは
「邪馬台国」がどこにあったのかについては、多くの研究者がいくつかの地名を挙げてきました。最近では「畿内」(主に、奈良県纏向遺跡)とする説と、「九州」とする説があります。そんな中で、滋賀県守山市から発掘された「伊勢遺跡」の詳細が判明してくると、その概要が、以下のようなものであったことが分かってきました。
「直径およそ220mの綺麗な円周上に、30余の、まさに伊勢神宮と同じ『神明造』ふうの建造物が、見事に等間隔に建造され、その中央からは『楼閣』(タワーふう建造物)、近くからは『二棟連立式の祭殿』と想像される大型建造物も存在した。」
この事実は、先の「魏志・倭人伝」の記載と、見事に辻褄が合います。
さらに、のちの時代に建立された、ぴたりと同じ名前の「伊勢神宮」の祭神は、太陽神でもある女神「天照大神」であり、その存在感が「卑弥呼」を思わせること。
その両親とされる「イザナギ」「イザナミ」神は、「滋賀県東部」にある「多賀大社」に祀られており、その地にいた渡来系朝鮮人の豪族「息長(おきなが)」氏を、「近江説」では「卑弥呼」の出自部族と考えられていること。
「イセ」の地名が、朝鮮の言葉に由来し「イザナギ」「イザナミ」の「イザ」とも呼応していると思われること。これらも、この説の持つ神秘の符合です。
当時は日本海側が、地球の寒冷時期と重なった、大陸、それも朝鮮半島からの移民を受け容れる、日本にとっての「先進技術の表玄関」とする考えもあり、「ツヌガアラシト」伝説の残る敦賀港からの渡来者が、湖上交通の利便性の高い「近江」に定着し、滋賀県には多くの渡来朝鮮系豪族がいたと言います。
また、「伊勢遺跡」の建造物の形状は、「伊勢神宮」の「神明造」と相似形であり、「伊勢遺跡」から出土した「二棟連立式の祭殿」ふうの建物の存在が、現在に続く「伊勢神宮」の「式年遷宮」のルーツであるとの考え方があるとも伺います。
(引用:守山弥生遺跡研究会HP)
(口絵の解説:画:中井純子さん)
(引用:守山商工会議所青年部HP & Wikipedia)
〇伊勢遺跡
伊勢遺跡(いせいせき)は、滋賀県守山市伊勢町・阿村町・栗東市野尻にある遺跡。国の史跡に指定されている。縄文時代から室町時代にかけての複合遺跡であり、特に弥生時代後期の国内最大級の大型建物群で知られる。
伊勢遺跡概観(引用:Wikipedia)
滋賀県南東部、野洲川の形成する微高地に位置する。1981年(昭和56年)に遺跡として確認され、これまでに多数の発掘調査が実施されている。
遺跡域は東西約700メートル・南北約450メートルを測る。特に弥生時代後期の1世紀-2世紀代の大型建物群として、中央部に二重柵方形区画の中に整然と並ぶ建物群(政治・祭祀施設か)、その東に楼観が認められているほか、方形区画を取り囲むように円周状に並ぶ独立棟持柱付建物群(祭殿か)、北側に竪穴建物(首長居館か)が検出されている。これまでの調査において検出された大型建物は計13棟を数え、その様相からは近江南部地域における政治・祭祀の中心地であったと想定されており、『魏志倭人伝』に見える「クニ(國)」の1つになるとして注目される遺跡になる。
守山市域では、弥生時代前期には服部遺跡で広大な水田跡が、弥生時代中期には下之郷遺跡(国の史跡)で大環濠集落が認められているが、その後の弥生時代後期に突如として伊勢遺跡が出現する様相を示す。
また同時期には伊勢遺跡の南西1.2キロメートルの下鈎遺跡で金属器生産が、弥生時代後期末-古墳時代前期には下長遺跡において伊勢遺跡衰退後の首長居館跡と推定される遺構が認められており、伊勢遺跡を含めて「ムラ」から「クニ」へと発展する過程を知るうえで重要な遺跡群になる。
遺跡域は2012年(平成24年)に国の史跡に指定されている。
(以上:Wikipedia)
伊勢遺跡は、東西方向がJR琵琶湖線のすぐ西側から阿村町東端まで、南北方向は栗東市立大宝東小学校から日本バイリーン南側までの範囲に広がり、面積は約30haです。弥生時代後期の集落としては佐賀県吉野ヶ里遺跡、奈良県唐古・鍵遺跡などと並んで国内最大級の遺跡です。
近畿地方の集落遺跡は、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散居住することが特徴で、後期になって伊勢遺跡のように巨大化する集落は稀です。
伊勢遺跡の全景(引用:守山市HP)(青年部HP掲載)
(以上:青年部HP)
●弥生時代後期の巨大集落
昭和56年(1981年)、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて、弥生時代後期の巨大な集落遺跡が広がっていることがわかりました。
その後、平成19年3月までに実施した104次にわたる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約700m、南北約450mの楕円形状に形成されていることが明らかになっています。
集落が営まれた時代は、縄文時代後期から室町時代で、最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1~2世紀)です。遺跡は、南と北にある低地に挟まれた微高地にあり、東から西にかけて傾斜する土地にあります。
弥生時代後期の建物跡には、竪穴住居と掘立柱建物の2種類の建物跡があり、竪穴住居の平面形には円形と方形そして五角形の3種類があります。また、掘立柱建物の規模には大小が見られ、ここでは床面積が30m3以上のものを大型建物と呼んでいます。
遺跡の西半部には竪穴住居が広がり、東半部の大型建物跡が無くなると、その上にも竪穴住居が造られるようになります。遺跡の西側では、溝を挟んで方形周溝墓が築かれていますが、弥生時代集落の有力者の墓域であったと推定されます。
遺跡の東端では、幅約7m、深さ2m以上もある大きな堀のような大溝があり、北側は方形周溝墓、南側は、旧河道であったと推定されます。
伊勢遺跡の概要(引用:守山商工会議所青年部HP)
(以上:青年部HP)
●伊勢遺跡の特殊性
伊勢遺跡では、現在までに13基の大型建物が出土しており、それぞれの建物は計画性をもって配置されたと考えられています。
これほどの量の大型建物を出土した弥生集落の例はほとんどなく、当時、この遺跡が近隣に比べて、大規模な勢力を有していたことが見て取れます。
当遺跡の最大の特徴は、伊勢遺跡中心部の方形区画(柵による区画)内の大型建物跡を中心にして、円状に配置されたと推測される大型建物跡群の存在に集約されます。
下図を見ていただければ分かると思いますが、南西に2基、北東に2基、そして最近の調査で北から3基の大型建物跡が出土しており、これらのことを総合的に捉えると、楼閣や方形区画を中心として、これら7基の大型建物跡が円周上に配されているという点が指摘できるのです。
伊勢遺跡の概要(引用:守山商工会議所青年部HP)
これら円周線上の大型建物群は、全て棟持柱付き建物で、柱の配置や棟持柱の傾き、建物の規模や柱穴の掘り方、これらの特徴がほとんど類似していることから、円周線上に設置されたのは偶然のことではなく、何らかの意図をもって企画的に設けられたものだと考えられています。
(以上:青年部HP)
●遺構
弥生時代後期の遺構は、中心部の方形区画と、方形区画を取り囲む大型建物群から構成される。中心部の方形区画は二重の柵で区画されており、その空間の中でL字状に整然と配置される大型建物4棟が検出されている。
またその東約30メートルでは一辺9メートルの正方形総柱建物が検出されており、楼観(佐賀県の吉野ヶ里遺跡に例)に似る多層構造の建物と見られる。これら中心部の建物群は、首長が政治・祭祀を行うための特別な施設群であったと想定される。
出土土器 守山市立埋蔵文化財センター展示。(引用:Wikipedia)
方形区画の周囲の大型建物群は、方形区画を取り囲むように円周状に配置される。いずれもほぼ同規模・同形式の独立棟持柱付大型建物で、伊勢神宮正殿にも似た構造になる。各建物は18メートル間隔で配置されており、高度な測量技術が認められる。これらの円周状建物群は祭殿と想定される。
そのほか、円周状建物群の外側北方には当時国内最大級の大型竪穴建物がある。一辺13.6メートル・床面積約185平方メートルを測り、屋内に棟持柱を有する特殊な構造の建物になる。
この建物の床面は粘土を貼って焼くという焼床であるほか、壁際にもレンガ状の壁材が並べられるという類例のない技術が認められており、中国の紅焼土に似ることから大陸とのつながりが指摘される。この大型竪穴建物は首長の居館と想定される。
また遺跡の西半部では多数の竪穴建物群が認められている。一般的な方形建物とは異なって五角形建物が計9棟検出されており、日本海沿岸および近江南部地域の弥生遺跡の特徴に合致する。
そのほか、遺跡の西側では方形周溝墓が、東端には幅約7メートル・深さ2メートル以上の大溝、南側には流路(旧河道)が認められている。
遺跡域からの出土土器には、近畿地方を中心に展開するヘラ磨きで仕上げられた土器のほか、近江地域特有(近江系土器)と考えられる「受口状口縁」と呼ばれる独特な口縁部の土器がある。受口状口縁土器は、伊勢遺跡の営まれた弥生時代後期には中期よりも広範囲の地域で出土していることから、近江地域を結節点とした活発な交流が指摘される。
(以上:Wikipedia)
(引用:守山商工会議所青年部HP)
延命長寿・縁結びの神として古くから全国的な信仰を集め、豊臣秀吉の厚い信仰もありました。祭神として天照大神(あまてらすのおおみかみ)の両親の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っている旧官弊大社です。「お多賀さん」の名で親しまれ、駅前の大鳥居から神社までの参道の両わきにみやげ店などが並びます。
神社を清流が囲み、太閤橋(たいこうばし)と呼ばれる石の反り橋を渡って門をくぐると、玉砂利を敷いた境内の向こうによく茂った木立を背に堂々とした風格を持つ本殿が建ちます。
厳かな雰囲気が漂う境内には、本殿右に能舞台、左に絵馬殿が立っています。また、東廻廊の横にある石は、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念したもので、延命石と呼ばれています。
拝殿などは、格天井が美しいといわれています。社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。
また、神社から少し離れた杉坂山に杉坂峠の杉と呼ばれる杉があり、御神木となっています。
本殿(引用:守山商工会議所青年部HP)
(引用:守山商工会議所青年部HP)
JR守山駅の西約500m、小さな森を背にして建っています。祭神は、物部布津命(もののべふつのみこと)・火明命(ほあかりのみこと)・宇麻志間知命(うましまちのみこと)。
祭神が武神であったことから武家の信仰が篤く、近江国守護の佐々木氏が出陣する際には、必ず勝部神社の竹を旗竿(はたざお)にしたと伝えられています。
〈重要文化財〉本殿(引用:守山商工会議所青年部HP)
現在の本殿は、戦国時代に佐々木高頼(ささきたかより)が再興したもので、国指定の重要文化財です。内陣(ないじん)両側の縁が一段高くなっており、正面に付けられた向拝の部分に優れた彫刻の手挟(てばさ)みがあります。
勝部神社は、毎年1月第2土曜日に行われる「火祭り」が特に有名で、近江の奇祭として県の無形民俗文化財に選定されています。
(引用:Wikipedia)
本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、畿内地方にあるとする邪馬台国畿内説を概説する。
新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いた。しかしのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。
ただし、九州説には、邪馬台国が ” 移動した " とする説(「東遷説」)と " 移動しなかった " とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。
1960年代には、畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物があまり出土しないのに比べ、九州では豊富であると考えられていたが、1970年代から交差年代による考古学的年代決定論の研究が進み、畿内説を有力とする意見もある。
2000年代に入り、奈良県の纏向遺跡と箸墓古墳を邪馬台国と卑弥呼の墓に比定し大和朝廷の成立時期がさかのぼるとする、放射性炭素年代測定と年輪年代学による年代観が国立研究所によって示された。畿内の土器の放射性炭素の測定を国立研究所が行って畿内の大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代までさかのぼるとの説もあるにある。
この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。
ただし、九州説・畿内説・東遷説はどれも結局のところ、「ヤマト王権」は「大和朝廷(天皇系統)」であるか否かをそれぞれが説明するために作った説で、場所の比定が先にあるのではなく、大和朝廷とは何か、現在の政治権力と大和朝廷の関係はこうあるべきだと説明するために邪馬台国論争は始まったのである。
ここでは、これまで訪れたことのある名所旧跡をエリア別に紹介したいと思います。
〇琵琶湖疎水(引用:Wikipedia)
取水口(琵琶湖)(引用:Wikipedia)
琵琶湖疏水(びわこ そすい)とは、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)である。国の史跡に指定されている。
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行なわれた。
水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。
疏水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。
無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。また、疏水百選の1つである。
〇三井寺(園城寺)(引用:Wikipedia)
金堂(国宝)(引用:Wikipedia)
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)、開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。
日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で、札所本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
*札所本尊真言(如意輪観音):おん ばだら はんどめい うん
*ご詠歌:いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖
〇草津宿:草津宿(-東海道と中山道が出会う町―)参照
〇信楽の里:信楽町観光協会HP参照
〇安土城(引用:Wikipedia)
安土城大手道 空中写真(国交省国土画像情報) 安土城図
(引用:Wikipedia)
安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の、近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。
安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた(大中湖)。
地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。
総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。
この安土城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。
城郭の規模、容姿は、太田牛一(『信長公記』などの著者)や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因(後述)によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。
日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。
そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。
城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。
滋賀県は1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模した本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。
〇彦根城(引用:Wikipedia)
国宝天守 玄宮園から天守を望む
(引用:Wikipedia)
彦根城(ひこね じょう)は、滋賀県彦根市にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。
天守が国宝指定された5城の一つに数えられる。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。
滋賀県は明治の廃城令で解体された城が多く彦根城は唯一の保存例である。
〇賤ヶ岳古戦場(引用:Wikipedia)
(引用:Wikipedia)
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。
1) 清洲会議
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長とその嫡男で当主の織田信忠が重臣明智光秀の謀反によって横死する本能寺の変が起こり、その後まもない山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つにいたった。
6月27日(7月16日)、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と嫡男信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じた。
結果的には同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したため勝家も譲らざるをえず、この後継者問題は形の上ではひとまず決着をみた。ただし、近年の説として、勝家も三法師擁立自体には賛成していたが、その成人までの名代(当主代理)をどうするかで対立したとする説もある。
2) 合戦にいたるまで
2.1) 両陣営の動き
この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うが、北陸の柴田側の後方にある上杉景勝や、信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄が、羽柴側になびくなど秀吉に有利な状況が出来つつあった。
一方で勝家の側も土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしている。
2.2)勝家による和平交渉
10月16日、勝家は堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、及び不当な領地再分配、宝寺城の築城を非難している(『南行雑録』)。11月、勝家は前田利家・金森長近・不破勝光を使者として秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させた。
これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由とした見せかけの交渉であった。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略しており、さらには高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長らに人質を入れさせ、畿内の城を固めている。
2.3)秀吉による長浜城、岐阜城攻め
12月2日(12月26日)、秀吉は毛利氏対策として山陰は宮部継潤、山陽は蜂須賀正勝を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、勝家の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏した。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日(1583年1月13日)には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。
2.4)滝川一益の挙兵
翌天正11年(1583年)正月、伊勢の滝川一益が勝家への旗幟を明確にして挙兵し、関盛信・一政父子が不在の隙に亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏兎城を調略、亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き、自身は長島城で秀吉を迎え撃った。
秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月には大軍を率いこれらへの攻撃を再開、国府城を2月20日(4月11日)に落とし、2月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃したが、滝川勢の抵抗は頑強であり、亀山城は3月3日(4月24日)、峯城は4月12日(6月4日)まで持ち堪え、城兵は長島城に合流している。この時、亀山城、峯城の守将・益氏、益重は武勇を評され、益重は後に秀吉に仕えた。
2.5)勝家の挙兵
一方で越前・北ノ庄城にあった勝家は雪のため動くことができずにいたが、これらの情勢に耐え切れずついに2月末、近江に向けて出陣した。
3)合戦
3.1)対峙
3月12日(5月3日)、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと共におよそ3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。
滝川一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。
双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また、丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、3月27日(5月18日)秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。秀吉から秀長に「(自軍の)砦周囲の小屋は前野長康、黒田官兵衛、木村隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と3月30日付けの書状が送られたが、この命令は実行されていない。
3.2)交戦
4月16日(6月6日)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった秀吉は翌4月17日(6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。
秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た柴田勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。
続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。
この成果を得て柴田勝家は佐久間盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に着陣し続けた。
4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより佐久間盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。
しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の佐久間盛政の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。
同日、大垣城にいた羽柴秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動した (美濃大返し) 。 佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。佐久間盛政隊を直接は崩せないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この柴田勝政を佐久間盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。
ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。
これは羽柴秀吉の勧誘に前田利家が早くから応じていたからではないかと推測される。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。
3.3)勝家の敗走
押し寄せる秀吉軍を勝家軍が食い止めることは出来なかった。しかも、押し寄せる秀吉軍に呼応して勝家軍の将である前田利家が戦線を離脱してしまった。もはや陣形を維持出来ない柴田勝家は、北ノ庄城へ退却した。これにより、北ノ庄城の戦いが始まった。
3.4)岐阜、長島城の落城と信孝自害
佐久間盛政は逃亡するものの黒田孝高の手勢に捕らえられた。のちに斬首され、首は京の六条河原でさらされた。
また、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は尾張国内海(愛知県南知多町)に移され、4月29日(6月19日)織田信雄の使者より切腹を命じられて自害した。
残る伊勢方面の滝川一益はさらに1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家し、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居した。
4)賤ヶ岳の七本槍
秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)と呼ばれる。実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉家一、石川兵助一光も同様である。
江戸初期の『甫庵太閤記』に見られる " 賤ヶ岳の七本槍 " の呼び名が初見である。7人というのは語呂合わせで、『一柳家記』には「先懸之衆」として七本槍以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている。
天正期成立の大村由己『天正記』内 " 柴田合戦記 " には7人に加え桜井.石川の9人が挙げられている。後年七本槍は豊臣政権において大きな勢力を持つに至ったが、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。
福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌った(今日の研究では清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされる)などの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。
脇坂安治(1554年 - 1626年) 片桐且元(1556年 - 1615年) 平野長泰(1559年 - 1628年)
福島正則(1561年 - 1624年) 加藤清正(1562年 - 1611年) 糟屋武則(1562年 - 不詳)
加藤嘉明(1563年 - 1631年)
5)合戦の性格
この戦いは柴田勝家、滝川一益と羽柴秀吉、丹羽長秀の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長次男織田信雄と三男織田信孝の対立でもあった。
両者の対立がそのような形をとったことは、戦国時代の幕府の政争が将軍の家督争いという形をとってきたことと相似する。そればかりか、柴田勝家の場合は備後国鞆ノ浦(広島県福山市)にあって京都への帰還をもくろんでいた征夷大将軍足利義昭の擁立さえ試みていた。
この戦いで、一向宗の本願寺勢力は羽柴秀吉方に与力すると申し出ている。本願寺が加賀の一揆を動員して秀吉に忠節をつくすと申し入れてきたことに対して、秀吉はこれを賞賛し、柴田領の加賀・越前で活躍すれば加賀を本願寺に返還すると応えている。とはいえ、本願寺にそのような力は残っておらず、実際、柴田勝家が一向宗残党を警戒した様子はない。
6)合戦の影響
この合戦の結果、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになった。また合戦終了の2日後の4月25日(6月15日)に羽柴秀吉は中国地方の戦国大名・毛利輝元の重臣・小早川隆景に書簡を送り、自軍の勝利に終わったことを報告するとともに、中立状態にあった毛利氏の自らへの服属を暗に促した。
戦後処理終了後ほどなく、羽柴秀吉は畿内の石山本願寺跡に大坂城の築城を開始し、同年5月には朝廷から従四位下参議に任命された。
さらに合戦終了後、秀吉のもとには徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の有力大名が相次いで使者を送り、戦勝を慶賀し親交を求めたことも秀吉の畿内における権力掌握を象徴した。
しかし臣従したとはいえ、丹羽長秀、池田恒興、森長可、蒲生氏郷、堀秀政、長谷川秀一などの織田家旧臣が大幅な加増を得ていることも見逃せない事実である。
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美濃大返し
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●概要
美濃大返し(みのおおがえし)は、賤ヶ岳の戦いの際に羽柴秀吉が美濃国大垣(岐阜県大垣市)から近江国木之本(滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52km)の道のりを5時間でかけぬけた大掛かりな軍団移動のことをいう。
●移動の理由
天正11年4月20日(グレゴリオ暦;1583年6月10日)、羽柴秀吉は岐阜城の織田信孝を倒すために美濃にいた。しかし、大雨で長良川と揖斐川が増水したのが原因で、その川に囲まれている岐阜城を攻められず大垣に留まっていた。
そのとき、秀吉が築城し、中川清秀が守っていた大岩山砦(長浜市余呉町)が敵将の佐久間盛政によって陥落したという情報が届いたのである。なおこの時中川清秀は戦死している。秀吉はこの報を受けた時、清秀を哀悼しながらも、柴田勢は掌中にあり、天下の雌雄が決まるときだと考えたようである。
●移動の実際
好機到来と考えた羽柴秀吉は、賤ヶ岳へと通じる村々に炊き出しと松明の用意を命じ、午後2時ころ大垣を発って、午後7時ころには現地に到着した。秀吉軍の追撃は翌未明より開始された。大垣と木之本間の綿密な連絡網からしても、予定されていた一騎駆けで場当たり的な作戦ではなかった。これが秀吉の勝因といえる。
●戦況への影響
一方、砦を落としたらすぐに退けという大将柴田勝家の命令をやぶり大岩山に野宿していた佐久間盛政は、羽柴秀吉が木之本に迫っているとの情報に驚き、浮き足だったところに、秀吉によって追撃がなされ総崩れとなり、柴田全軍の撤退につながった。佐久間盛政は秀吉軍が戻って来ることを知っていたが、その行軍の速さを驚いたという。
さらに、越前府中(福井県武生市)にあった柴田勝家与力の前田利家が戦線を離脱、のちに秀吉軍の先鋒となって柴田勝家本拠の北庄城(福井県福井市)を4月24日に落城させた。柴田勝家は落城の際に妻・お市の方とともに自害し、娘3人は逃がされた。
賤ヶ岳の戦いの火蓋(4月20日~4月21日)
次の図は、賤ヶ岳の戦いについて解説しているプログ「今日は何の日?徒然日記」から引用しました。なお、4月20日と4月21日の動きについて、下図の図引用に示したリンク先に細部説明がなされていますのでご参照下さい。
(図引用:前述プログ2011年4月20日) (図引用:前述プログ2011年4月21日)
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賤ヶ岳の合戦のときに築かれた砦
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賤ヶ岳合戦のときに築かれた城・砦について紹介しているHP「お城へ移行!(滋賀県長浜市のお城めぐり)」があり、其処から引用しました。これ以外にも、多くの武将がこの合戦の為に砦を築いています。
●堂木山砦:賤ヶ岳合戦のとき築かれ山路正国、大金藤八郎、後に木下半右衛門が守った陣城
●神明山砦:賤ヶ岳合戦で蜂須賀彦右衛門、木村隼人が守った陣城
●賤ヶ岳城:賤ヶ岳合戦で築かれた陣城で佐久間盛政軍を追撃した折の本陣
●大岩山砦:賤ヶ岳合戦のときに柴田勝家の甥佐久間盛政に攻め落とされた中川清秀の陣城
●岩崎山砦:賤ヶ岳合戦のときに摂津高槻城主高山右近より築かれた未完成の陣城
なお、地元の余呉観光協会のHPでは、賤ヶ岳合戦のことを余呉庄合戦が相応しいかもしれませんとして、次のように記しています。
「賤ヶ岳合戦場」というと、大音からリフトで上がる賤ヶ岳頂上へ行けば、古戦場へ足を踏み入れたと思われますが、賤ヶ岳山頂自体は、それほど大きな役割を担ったわけではありません。むしろ大岩山の方が激戦地の一つとして、江戸時代にはこの地を観光に訪れられていたそうです。
木之本から柳ヶ瀬に至る南北10㎞と余呉湖にわたる地域の線上として賤ヶ岳合戦を知ってもらいと思います。もしかしたら、江戸時代の別名・「余呉庄合戦」が名としてはふさわしいのかもしれませんね。
余呉湖全景(図引用:余呉町観光協会HP・賤ヶ岳合戦)
北国街道 賤ヶ岳の合戦戦跡(図引用:余呉町観光協会HP・賤ヶ岳合戦)
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北国街道
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北国街道と賤ヶ岳の合戦~柴田勝家が開いた安土への最短軍用道
余呉から今庄に至る間には栃ノ木峠(標高538.8m)と椿坂峠(標高504.2m)と呼ばれる峠道があります。この峠は大変な難所とされ、越前へ行くには、多くの人が、柳ヶ瀬から刀根越で疋田に出て、ここで西近江路から山中峠を越えてきた道に合流し、敦賀に出て、さらに木ノ芽峠を越えて今庄に出ていました。
しかしこれでは椿坂峠を越える場合に比べ、2倍以上の回り道でした。この栃ノ木と椿坂の峠道を切り開き、改修したのが柴田勝家です。勝家は織田信長から越前に領土を与えられると、北の庄城の築城と並行して信長の安土城へ続く最短距離の軍用道として整備しました。
この道は畿内から北陸に出る主要道となったのです。この道は現在も国道365号線として健在しています。
北国街道(引用:関西電力HP-越前若狭探訪問)
〇継体天皇父方の里
〇川島酒造株式会社(引用:川島酒造㈱HP)
慶応元年(1865年)創業
近江の湖西路は、比良連峰を遙かにのぞむ風光明媚な土地柄。清酒 松の花はこの恵まれた自然の中で創業以来150年余りたえず、飲む人の健康を考え、本物の味を求めて酒造り一筋に歩んでいる蔵元です。また、地域文化の守り手でありたいと願っております。
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作成開始:令和3年1月23日