トップ  継体天皇ゆかりの史跡めぐり

①父方の里 ②母方の里 ③潜龍の地 ④治水伝説 ⑤使者謁見の地 

⑥皇居の変遷 継体天皇⑦磐井の乱 ⑧2つの古墳 ⑨図書紹介  関連系図


継体天皇①父方の里


1 継体天皇の父系

(1)彦主人王 (2)彦主人王父方の息長氏 (3)彦主人王母方の牟義都国造

 

2 父方の里ゆかりの史跡

(1)田中王塚古墳 (2)水尾神社 (3)三重生神社 (4)鴨稲荷古墳

 

3 息長氏考

(1)はじめに (2)息長氏人物列伝 (3)息長氏関連系図 (4)系図解説・論考

(5)まとめ(筆者の主張) (6)参考文献


1 継体天皇の父系


(引用:福井県史

 『日本書紀』は彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫としていますが、その系譜については何も記していません。また三尾の別業にいたと記されていますが、その本拠地についてはまったく触れていません。

 

 一方『上宮記』は、継体天皇の父を汙斯王とし、凡牟都和希王(一般的に応神天皇と考えられる)より四代の系譜を伝えていますが、これは『古事記』の伝える系譜にきわめて近似したものです(図30)

 

 『古事記』の系譜にはオキナガマワカナカツヒメが登場し、それが息長氏に関連する系譜であることは明らかです。

 

 『古事記』によれば、図の最後に出てくる大郎子(意富富杼)は、三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君などの祖になっています。大郎子は、『上宮記』によると意富富等とも記し、継体天皇の曾祖父にあたる人物であります。 


(1)彦主人王


(引用:福井県史)

 彦主人王(ひこうしのおう)(生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)です。第15代応神天皇の四世孫で、第26代継体天皇の父であります。『上宮記』逸文では「汙斯王」(うしのおおきみ)と表記されています。

 

〇系譜

 『釈日本紀』所引の『上宮記』逸文によれば、汙斯王(彦主人王)は応神天皇(第15代)の四世孫とされています。父は乎非王(おひのおおきみ)で、母は牟義都国造伊自牟良君の女の久留比売命とされています。

  『上宮記』逸文と『日本書紀』によれば、妃は垂仁天皇七世孫の振媛(ふりひめ)(布利比売命)で、その間の子に継体天皇(第26代)がおられます。

 

〇記録

 『日本書紀』継体天皇即位前条によると、彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)におり、越前三国の坂中井(さかない)(現在の福井県坂井市の旧三国町域)振媛を娶られました。

 その後、振媛は男大迹王(のちの継体天皇)を生んだが、その幼少のうちに彦主人王は死去されました。そのため振媛は高向(現在の福井県坂井市の旧丸岡町域)に帰郷して、男大迹王を養育されたといわれています。

 

〇三尾別業

 三尾別業(みおのなりどころ)は、彦主人王が拠点とした三尾にあったとされる別業。継体天皇の出生地ともされ、近江国高島郡三尾郷(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)と見られますが、具体的な比定地は未詳です。

 この「三尾」の地について『上宮記』では「弥乎国」と見えるほか、『延喜式』では兵部省条に「三尾駅」が、『和名抄』では高島郡に「三尾郷」が見えます。現在も水尾神社や「三尾里」の地名が残ることから、「三尾」とは高島市の鴨川下流域一帯を指す地名とされます。現在、同地には継体天皇出生に関する数々の伝承地が残っています。

 

〇名所旧跡

●水尾神社 - 式内名神大社。祭神は磐衝別命(三尾氏祖)と振媛。

●三重生神社 - 式内社。祭神は彦主人王と振媛。継体含む3子出産の伝承地。

●安産もたれ石 - 振媛出産伝承地。

●胞衣塚 - 継体天皇の胎盤の埋納伝承地。6世紀の築造とされる直径約11.5mの円墳で、高島市指定史跡となっています。 

 そのほか、同地にある田中王塚古墳(彦主人王墓伝承地)鴨稲荷山古墳は5世紀中頃から6世紀前半の首長墓と見られており、豪族の三尾君(みおのきみ、三尾氏)との関係も指摘されています。(後述)                           (Wikipedia抜粋)


(2)彦主人王父方の息長氏


(引用:福井県史)

〇系譜

 『新撰姓氏録』左京皇別には、「息長真人」の名がみえ、「誉田天皇の皇子稚渟毛二俣王(ワカヌケフタマタ王)の後なり」と記されています。ワカヌケフタマタ王の子孫ということは、おそらくオホホトの子孫というにほかならないでしょう。

 

 『新撰姓氏録』はこのあと、山道真人・坂田酒人真人・八多真人の三氏を掲げ、いずれもワカヌケフタマタ王の後と記しています。息長氏を含め、これらの四氏はいずれも前掲の系譜にオホホトの子孫として挙げられているものです。

 

 系譜上、息長氏につながるという意味で息長グループともいうべき諸氏と、継体天皇とは、オホホトという共通の祖先をもっているとも考えられます。それゆえ、継体天皇の父系が、少なくとも息長グループに属する氏族であろうということは、かなりの確実性をもっていうことができるでしょう。 

 

〇息長氏の性格

 息長氏は、オキナガタラシヒメ(神功皇后)によって古代史上有名な氏族ですが、神功皇后の実在性については多くの議論があり、その系譜の古い部分は信頼性に乏しいとされています。しかしオキナガタラシヒメがホムタワケ(応神天皇)の母と位置づけられている伝承は、応神天皇が継体天皇の五世の祖と伝えられているだけに、無視しがたい重みをもっています。 

 

 息長氏が史上に確実な姿を現わすのは、息長真手王の娘麻績娘女が継体天皇の妃の一人となり、また同じ真手王の娘広姫敏達天皇(継体天皇の孫)の皇后となってからでしょう(ただし同一人物が祖父と孫とにその娘をめあわすなどということはまずありえず、ここには何らかの錯誤あるいは作為がはいっているのでしょう)。 

 

 息長氏はおそらく近江を地盤とした豪族でしょうが、突如として敏達天皇の皇后を出しうるはずはなく、それ以前から蓄積した勢力や、皇族との縁故があったはずであります。その一端が麻績娘女の伝承として現われているのでしょうが、継体天皇自身を息長氏の一族と考えるとき、より明確にこの結びつきを理解することができます。

 

 継体天皇の息長氏出身説は多くの学者によって説かれています(岡田精司「継体天皇の出自とその背景」『日本史研究』128など)。息長氏は天武朝に真人姓を与えられています。また皇統系譜についても、『上宮記』において継体天皇の曾祖父とされるオホホト『古事記』では息長氏の祖となっています。このように、継体天皇の出身氏族と考えられる息長氏は朝廷において特別の皇親待遇をうけていました。 

 

〇気比大神

 さらに継体天皇出現の舞台となった越前から近江にかけて、無視できないのは、応神天皇角鹿(敦賀)との深い関係を示す説話であります(『日本書紀』応神天皇即位前紀、『古事記』仲哀天皇段)すなわち即位以前の応神天皇が敦賀に来て、笥飯(気比)大神名前を交換したことになっています。笥飯大神の名はイササワケ応神天皇の名はホムタワケでありますが、本来、大神はホムタワケ、応神天皇の元の名はイササワケであったのではないかと、『日本書紀』の編者は疑っています。

 

 『日本書紀』編纂のころ、この話の真の意味は理解されないようになっていたと思われますが、それにもかかわらず『古事記』、『日本書紀』ともに同じような話が採録されたのは、この説話の起源が古く、捨て去ることができなかったためでしょう。名前を交換することは、両者が非常に親密な関係であったことを示している。

 

 気比大神の名イササワケは、新羅の王子天日槍(※)のもたらした神宝の一つ胆狭浅の大刀と関係あるでしょうし(『日本書紀』垂仁天皇三年三月条)天日槍を系譜上の祖とするオキナガタラシヒメが新羅遠征に出かける前に敦賀の笥飯の宮にいたと伝えられていることなどを考えれば、息長氏気比神とのつながりは否定できません。

 

 越前から近江にかけての地域は、応神王朝成立の有力な基盤であったのであり、それが100余年の歳月を隔てて、『古事記』『日本書紀』ともに応神5世の孫と伝える継体天皇の本拠となったことも、偶然とは考えられないのです。

 

天日槍:アメノヒボコは、記紀等に伝わる新羅からの渡来人または渡来神。『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。(引用:Wikipedia)

 

『日本神話』・『古事記』等では渡来人、『播磨国風土記』では渡来神と位置づけて記述される。

 継体天皇の勢力基盤として、商業活動を重要な要素と考える説もあります(岡田前掲論文)。近江地方の古墳群について検討すれば、湖上水運を軸とした交易活動の可能性が考えられます。彦主人王が本拠地ではなく「三尾の別業」にいたと記されている点も、こうした推測を助けるものでしょう。

 

 本来湖東を地盤とする息長氏が、もし湖西に進出したものとすれば、商業活動のためであるかもしれませんし、また滋賀県マキノ町の製鉄遺跡(※)と関連した鉄資源開発のためかもしれません。

 

マキノ地域の製鉄遺跡:高島市北部のマキノ地域は、古代の鉄生産、製鉄の一大拠点で あった足跡をたどれる地域です。 (引用:高島市歴史散歩No190)


(3)彦主人王母方の牟義都国造


(引用:Wikipedia) 

 彦主人王の母は、美濃国北中部を支配した牟義都国造(※)の娘とされています。継体天皇の祖父も同国造の娘を娶ったといわれています。同国造の本拠は、美濃国武儀郡が中心領域(概ね現在の岐阜県関市・美濃市)といわれています。

 

 岐阜県関市池尻の弥勒寺跡隣接地の発掘調査弥勒寺官衙遺跡により、7世紀後半の弥勒寺造営に先行する豪族居館と、奈良時代の郡衙に伴う正倉が設置されていたことが明らかになっています。『上宮記』の伊自牟良を『和名抄』の岐阜県山県郡出石郷に比定し、伊自良村(現山県市)に当てる説もありますが、古代豪族にふさわしい古墳の分布が見られず、武儀盆地からも遠隔なことから、本拠地と考えるのは困難と見られます。

 

 継体天皇の最初の妃の目子媛が居住されていたとされる根尾谷(岐阜県本巣市)は、牟義都国造の版図と思われ、「根尾谷・薄墨桜」の伝承も真実味を帯びてくると思われます。

 

根尾谷・薄墨桜(引用:ぎふのたびガイド

 

牟義都国造:牟義都国造(むげつのくにのみやつこ・むげつこくぞう)は牟義都国(美濃国北中部)を支配した国造。表記は、『釈日本紀』に牟義都国造とある他、牟宜都君、身毛津君とも。祖先は『古事記』によると、景行天皇の子の大碓命が神大根王の娘の弟比売と密通して誕生した押黒弟日子王が祖という。継体天皇の祖父も同国造の娘を娶ったという。氏族は身毛氏(むげつうじ、姓は君)で、牟下・牟下都・牟下津・牟宜都・牟義・武義・牟宜津氏などとも。後に宿禰を賜るものもいた。半布里戸籍により、鴨県主との婚姻関係が確認でき、同氏が持っていた水取としての職掌を継承して、元正天皇の美濃国の醴泉への行幸へ供奉したり、その醴泉を都に貢納するなどして、主水の役割を務めるようになった。


2 父系の里ゆかりの史跡


(1)田中王塚古墳


(引用:Wikipedia)

田中王塚古墳(引用:Wikipedia) 

1)田中古墳群

 田中古墳群は、滋賀県高島市安曇川町田中にある古墳群。高島平野西部、泰山寺野台地の東端部に形成された古墳群である。古墳群中央北に位置する田中王塚古墳を主墳として、その周囲に約70基の古墳がこれまでに確認されている。

 古墳群は5世紀後半に築造が始まって6世紀中頃が最も多く、7世紀まで続いている。形式は円墳または方墳で、多くは直径は約10mから20m、高さは約1mから4mである。

 

2)田中王塚古墳

2.1)陵墓参考地に治定

 田中王塚古墳は、田中古墳群の主墳。通称は「王塚」・「ウシ塚」

宮内庁により「安曇陵墓参考地(被葬候補者:第15代応神天皇玄孫宇非王王子彦主人王継体天皇御父)として陵墓参考地に治定されている。

 

2.2)古墳の概要

 直径約58メートルを測る大型の円墳または帆立貝形古墳である。形態・埴輪から5世紀後半の築造とされる。墳丘は二段で、表面には葺石がふかれるとともに埴輪が巡らされている。

 

 埋葬主体は明らかでなく、粘土槨または木棺の直葬と推定されている。この古墳は、安曇川以南で最初に造られた首長墓に位置づけられる。

 

 1905年(明治38年)、宮内省(現・宮内庁)によって被葬者が彦主人王(第26代継体天皇の父)と想定され、周辺の古墳(陪塚として)とともに買収された。その際、他の天皇陵の前方後円墳に倣って前方部が造成されたと見られている。現在に至るまで陵墓参考地に治定されているため、調査は行われておらず詳細は明らかでない。

 

2.3)考証

 『日本書紀』によると彦主人王は当地に別業として「三尾之別業」を営んだといい、継体天皇の幼少時に死去したという。

 

 この彦主人王の墓を高島市鴨の鴨稲荷山古墳(6世紀前半、前方後円墳)にあてる説等もあるが、450年頃という継体天皇の出生に対する5世紀後半の他の首長墓はないことから、本古墳がその墓として有力視されている。

 

 また本古墳が首長墓でありながら前方後円墳でない理由に関して、5世紀後半における雄略天皇による中央集権化(地方勢力の締め付け)に見る説、本古墳は他所からの支援による初の大型古墳であるためとする説がある。

 

3)田中36号墳

 田中36号墳は、2007年(平成19年)に田中古墳群のうちで初めて本格的な発掘調査がなされた古墳である。直径24m、高さ4mの円墳]。九州地方の古墳と共通する「石屋式」の横穴式石室が検出された。石室の全長は7.9mを測り、壁面には赤色の顔料が塗られている。そのほか、馬具・土器類等多くの副葬品が出土した。以上より、築造年代は6世紀後半頃と推定される。現在では遺構は埋め戻されている。


(2)水尾神社


(水尾神社にて撮影)

 (引用:Wikipedia) 

1)概要

●社格・祭神:式内社(名神大)、旧県社。祭神:磐衝別命(※)比咩神(振媛)

●創建: 天平神護元年(765年)の創建

●由緒(引用:滋賀県神社庁HP

 式内社で年4度の奉幣の他に名神大社として臨時大祭にも奉幣があった。延暦3年従五位下、貞観5年従四位下の神位を授けられ、明治15年郷社、大正4年県社に列格。

 

 磐衝別命猿田彦天成神道を学ぶ為、当地に来住され朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神を遙拝されたのでこの地を拝戸と称した。そして磐衝別王は当地で亡くなられたので、その子磐城別王三尾山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を創建されたという。

 

 以後100年後、応神天皇の第11皇子速総別王天成神道を学ぶ為に拝戸に来られ、4世孫彦主人王磐城別王の5世孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産した。これが後の継体天皇と伝えられる。 

 

●本殿・境内建物:〔本殿〕一間社流造 間口二間 奥行二間 〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間

●境内社:八幡神社

●社域:社域は相当広大であったようで、音羽の大炊神社は、炊殿跡、安曇川町の今宮神社、太田神社は御旅所の跡と伝えられ繁栄を物語っています。南方1.5 kmにある六角形の礎石は神社の鳥居跡であるといわれています。

 

●旧跡:継体大王の父・彦主人王や振媛が男大迹王を生む時にもたれたとされる「もたれ石」などがあります。古来、歌枕として有名な背後の三尾山には、拝戸古墳群があり、三尾君の祖の墳墓と伝えられる皇子塚があります。

 

2)祭神:磐衝別命

 磐衝別命(いわつくわけのみこと)(生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第11代垂仁天皇の第十皇子である。史書には事績に関する記載はない。

2.1)名称

 表記は次のように文書によって異なる。本項では表記を「磐衝別命」に統一して解説する。

伊波都久和希 (『上宮記』逸文)/石衝別王 (『古事記』)/磐衝別命 (『日本書紀』、『新撰姓氏録』)/磐撞別命 (『先代旧事本紀』「天皇本紀」)/石衝別命 (『先代旧事本紀』「国造本紀」)

 

2.2)系譜(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

 第11代垂仁天皇と、山背大国不遅(山代大国之淵)の娘・綺戸辺(かむはたとべ)(弟苅羽田刀弁)との間に生まれた第十皇子である。同母妹には両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)(石衝毘売命:第14代仲哀天皇の母)がいる。子には石城別王(いわきわけ)(石城別王/伊波智和希)水歯郎媛(みずはのいらつめ)(第12代景行天皇妃の五百野皇女の母)がいる(※

 

※磐城別王・水歯郎媛について『古事記』に記載はない。『日本書紀』では景行天皇紀に記載があるものの磐衝別命との関係は記されていないが、他の史書から磐衝別命の子とされている。

 

 『上宮記』逸文(『釈日本紀』所収)には磐衝別命後裔の系譜の記載があり、五世孫・振媛彦主人王に嫁ぎ、乎富等大公王(第26代継体天皇)を生んだという。

 

 『先代旧事本紀』「天皇本紀」では命を産んだ垂仁天皇の妃を丹波道主王の娘・真砥野媛(まとのひめ)とし、同母兄弟に祖別命(記紀では異母兄弟)があると異伝を記す。また「国造本紀」では、四世孫として大兄彦君の名を伝える。

 

3)関係神社 

3.1)羽咋神社 (はくいじんじゃ)(石川県羽咋市)

●式内社、旧県社。主祭神:石衝別命

磐衝別命の子孫の羽咋君が氏祖を氏神として祀ったことに始まるとされる。境内には上述の磐衝別命墓に治定された古墳がある。

 

・当社で行う唐戸山神事相撲羽咋市指定無形民俗文化財)は、当地で仁政を敷いた命を偲んで命日の9月25日に相撲を行った事に由来するという。また社伝において「羽咋(はくい)」の地名は、命がこの地で領民を苦しめた悪鳥を射落とし、その鳥の羽を命が連れた三匹の犬が喰った、すなわち「羽喰」に基づくという(ただし、一説には大国主命の故事によるともいう)。そのほか、命の妻について「三足比咩命(みたらしひめのみこと)」という名を伝える。

 

・当社周辺には、磐衝別命墓・磐城別王墓を含めて命に関する7つの塚(羽咋七塚)が伝わる。

 

3.2)大湊神社 (おおみなとじんじゃ)(福井県坂井市) - 式内社。古記録では、かつて磐衝別命も祭神として祀ったという。

 

3.3)布久比神社 (ふくいじんじゃ)(兵庫県豊岡市) - 式内社。「岩衝別命」として祭神に祀る。      

                            伊久牟尼利比古大王11 垂仁天皇)

                              |

                         伊波都久和希(磐衝別命)

                              |

                              伊波智和希(磐城別王)

                                   |

                                伊波己里和気

                                   |

        凡牟都和希王(15 応神天皇)         伊波己里和気

               |                   |

            若野毛二俣王                麻和加介

               |                   |

          大郎子(意富富等王)             阿加波智君

               |                   |

              乎非王                 乎波智君

               |                   |

          汗斯王(彦主人王)━ 布利比弥命(振媛)

                          |

                   乎富等大公王( 第26代継体天皇)

4)磐衝別命の

 墓は、石川県羽咋市の羽咋神社境内にある磐衝別命墓に治定されている。宮内庁上の形式は円墳。遺跡名は「羽咋御陵山古墳」など。

 命の墓に関して史書に記載はないが、大正6年(1917年)に宮内省(現・宮内庁)により公式墓に治定された。古墳は全長約100メートルの前方後円墳と見られ、5世紀中頃の築造と考えられている。

 なお、墓には隣接して円墳(羽咋大谷塚古墳)があり、「磐城別王墓」として大正6年(1917年)に子の磐城別王の墓に治定されている。

 

5)磐衝別命の後裔

〇氏族

 磐衝別命について『古事記』では「三尾君の祖」、『日本書紀』では「羽咋君・三尾君の祖」として、羽咋氏・三尾氏が後裔氏族と記されている。

 

●三尾氏 (みおうじ)

 北近江から北陸地方に勢力を持った地方豪族。本拠地は、近江国高島郡三尾郷(現・滋賀県高島市安曇川町三尾里付近)または、越前国坂井郡三尾駅(現・福井県あわら市付近か)と推定されている。『上宮記』逸文にあるように一族は継体天皇の出自に関わっており、継体天皇の妃にも2名が見えることから、その即位への関与が指摘される。

 

●羽咋氏 (はくいうじ)

 能登国羽咋郡一帯(現・石川県羽咋市周辺)に勢力を持った地方豪族。『新撰姓氏録』では右京皇別に「羽咋公」として記載があり、垂仁天皇皇子・磐衝別命の後と言及されている。後述のように「国造本紀」にある羽咋国造の氏族と推定されるが、奈良時代の文献には登場しないため政治的地位は早くに低下したものと考えられている。

 

〇国造

 磐衝別命に関係する国造としては、加我国造(賀我国造)羽咋国造が見える。

 

●加我国造 (かがのくにのみやつこ)(賀我国造)

 加賀国加賀郡(現・石川県河北郡一帯)を治めたと見られる国造。「国造本紀」では、雄略天皇の御代に三尾君祖石衝別命の四世孫・大兄彦君が初代国造に任じられたとする。

 

●羽咋国造 (はくいのくにのみやつこ)

 能登国羽咋郡羽咋郷(現・石川県羽咋市一帯)を治めたと見られる国造。「国造本紀」では、雄略天皇の御代に三尾君祖石衝別命の子・石城別王が初代国造に任じられたとする。


(3)三重生神社


(三重生神社にて撮影)

1)概要

●式内社『延喜式神名帳』にある「三重生神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。 

●御祭神:彦主人王・振媛

●創建:創祀年代は不詳。第15代応神天皇の第11皇子速総別王が猿田彦命の天成神道を学ぶために猿田彦命を祀る当地に来住し定住。その4世孫が彦主人王。 

 第11代垂仁天皇皇子で、『古事記』にも三尾の君の祖とある磐衝別命(いわつくわけのみこと)がやはり以前から定住し、その末裔が振媛(振姫、ふりひめ)で、彦主人王と振媛は結婚した。 

 彦主人王が当地で薨じたので、社を建て斎祀したのが当社。振媛も後に合祀された。

ご利益:夫婦和合、子宝・安産、家内円満

●境内社 足羽神社・気比神社・垂井神社

●例祭日 4月29日

 

2)縁起(出典:社頭石碑)

 彦主人王は、応神天皇の五世の孫にして、よく神道を修められ、三國の坂中井から垂仁天皇七世の孫振媛を迎えて妃となさいました。当社はこの二神を奉祀しています。

 

 王は、余暇に山狩や河漁を楽しまれたと伝えられています。

 振媛が三子をご出産になるとき、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあり、「この度天より授かる子は天孫の大いなる迹をふむべき男子なり」と。そこで山崎社(三尾神社)の拝殿を産所として南天に祈られ、また、王も自ら北の仮社で北極星にお祷りされたので、彦人、彦杵、彦太の三子を安産されました。

 

 故にこの社を三重生神社と呼ばれるようになり、今に安産の神として崇められる由縁です。

 

 御子が五歳のとき、彦主人王が薨られたので振媛は彦杵と彦太をお連れになって越前高向館にお帰りになり、養育されていましたが、13年後、振媛も薨られました。二柱とも2月18日が御命日であり、明治維新までこの日を例祭日としていました。

 

 薨長男彦人王(天迹部皇子)は、この地で成長され?史(刺史)となって北越五ヶ國を治められました。三男彦太尊は、後の二十六代継体天皇(男大迹の天皇)となられました。

 勅使の詠まれた御歌(古来勅使参向の社)

  近江なるうしの祭りのこととへば 如月なかば雪は降りつつ

  近江のやうしの祭りのこととへば 志らゆう花を雪とまかへて

 

3)関連史跡

 境内社に足羽神社・気比神社(仲哀天皇)・垂井神社がある。なお、当社に伝わる伝承は、水尾神社の由緒ともリンクしており、両者の深い関係を思わせる。近くに彦主人王の陵墓傳承地となつている王塚古墳があり。

 

 継体天皇出生に関する傳承の地であり、南の鴨川流域を中心とする三尾君との関連も深い土地である。 



関連史跡(1)(もたれ石:三尾神社旧跡)


(三尾神社旧跡にて撮影)



関連史跡(2)(えな塚)


(えな塚にて撮影)



関連史跡(3)安閑神社


(安閑神社にて撮影)

(引用:Wikipedia)

安閑神社は、滋賀県高島市にある神社である。市内に2社存在する。

●祭神:安閑天皇

●歴史:創祀年代や由緒は不詳である。

●文化財:神代石(神代文字と伝わる文様が描かれた大きな石)

 安閑神社の境内には、俗に「神代文字」と伝えられている1基の碑(高さ1m、幅1.4m)が建っており、表面には絵とも文字とも判別しにくい陰刻があります。

 旧産所村(現、安曇川町田中馬場地区)にあった三尾神社(現、田中神社摂社安田社)に伝えられた「秀真伝」(ホツマツタエ)の謎の超古代史の記号文字に類似した点があるように思われ、不可解な町の歴史がいにしえのロマンヘいざないます。 


(4)鴨稲荷山古墳


  

(鴨稲荷古墳にて撮影)

(高島歴史民俗資料館にて撮影)

(引用:Wikipedia)

 稲荷山古墳は、滋賀県高島市鴨にある前方後円墳。「鴨稲荷山古墳」とも。滋賀県指定史跡に指定されている。6世紀前半の築造とされる。滋賀県内で唯一、刳抜式の家形石棺を持った古墳で、朝鮮半島の影響を受けた多数の豪華副葬品が出土したことで知られる。 湖西で平野部に立地する唯一の前方後円墳である。

 

1)概要

 高島平野中央部、鴨川右岸にある古墳である。もともとは名の通り稲荷を祀っていた塚であったという。1902年(明治35年)の県道改修工事に伴って発見され家形石棺が掘り出されたが、現在は墳丘は完全に失われている。本来は南に前方部を向ける墳丘長約50メートルほどの前方後円墳であったと推定される。1923年(大正12年)に京都帝国大学(京都大学)により初めて本格的な調査が行われた。

 

 家形石棺は後円部から掘り出されたもので、凝灰岩製の刳抜式石棺である。発見当時には、長さ9メートル・幅約1.8メートル・高さ約1.8メートルの石室内にあったとされる。棺内からは冠・沓など多くの豪華な副葬品が見つかった。現在これらの副葬品は東京国立博物館に保存されており、石棺は現地の覆屋内で保存されている。

 

 古墳の築造時期は6世紀前半と位置づけられている。当地で生まれたとされる継体天皇(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳である。

 古墳域は1964年(昭和39年)8月19日に滋賀県指定史跡に指定されている。 

 

2)出土品 

 石棺から検出された主な副葬品は次の通り。

 金銅冠/沓/魚佩/金製耳飾/鏡/玉類/環頭大刀/鹿装大刀/刀子/鉄斧

  これらのうち、広帯二山式冠・捩じり環頭大刀・三葉文楕円形杏葉の3品は当時の王権特有の威信財であり、王権中枢との関わりが指摘される。 

 

3)明治35年の石棺発見の状況についての報告書

 この稲荷山古墳は古くから宿鴨村落の共有地で、もとは更に広潤な兆域を有していたものと伝えられている。 しかるに周囲を開墾して田圃としたため、漸次小さくなったが、明治時代にはなお直径十数間、高さ十七八尺のやや大なる饅頭形の封土を存し、雑木が繁茂しておって、土地での一目標をなしていたとのことである。

 

 ところが、何時のころよりか、この封土の南方の一隅に大きな石の一部が露出して、その下に空隙を生じ、一時狐狸の棲家と化し、村民に災いをなした。 そこでいっそのこと、村々の桑園に開いてしまおうか、という議が生じその後も再三くりかえされたが、他方にこの古墳の地は古く「天王(てんのう)と呼び、また神輿を埋めたところであるとの伝説があったため、神の崇りを懸念して自ら開墾に手を下す人がなく、封土はそのままに残ることとなった。

 

 明治35年、塚の前を走る街道の改築工事に当たり、「土砂の必要性から工事請負人から代償金を村に納める条件で、この稲荷山古墳の封土を採掘したいと申し出た」 村ではこれを了承したが、上述の伝承もあるので始終注意を払って工事を見守っていた。 すると、「同年8月9日、下から石棺が現れて、偉い人の墳墓であることが分かり、大騒ぎとなった」 

 

 翌日、高島郡長、警察分署長ら立会いのもと、石棺の蓋が開かれた。 当時、同村の友岡親太郎が、主として調査を行い、石棺内の見取り図も描いている。そこには、遺体の両脇に二本の大刀、身体を横切るように斜めにもう一本の剣が置かれ、頭部には「冠様のもの」「珠玉」、足には沓が置かれていた。 同年11月には「宮内省諸陵寮」による調査が行われ、主要な発掘品は東京に送致された。 数年後、発掘品は村へ返還されたが、大正元年10月になって、東京帝室博物館から出土品の主要なるものを提出するようにとの指令が来た。

  

4)考証

 『日本書紀』継体天皇即位前条によると、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたという。継体天皇の在位は6世紀前半と見られており、三尾氏とつながりがあったことは同氏から2人の妃が嫁いだことにも見える。そうした『日本書紀』の記述から、本古墳の被葬者としては三尾氏の首長とする説が知られている。

 

 一方、高島の地方豪族であった三尾氏の古墳にしては、あまりにも「豪華すぎる」点が指摘されている。高橋克壽は、この古墳が高島という地方に在りながら、畿内的な特徴を持っていることを指摘している。

 

 具体的には、

・二上山(大阪府と奈良県の境に位置)で産出する白色凝灰岩を、わざわざ高島まで運び入れ、畿内の家形石棺を採用していること

・畿内型の円筒埴輪を導入していること

などから、被葬者が「地方勢力ではなく、畿内の王権と直接的な関係にあった」としている。

 

 森下章司は、副葬された冠・美豆良金具・沓の三種の装身具は葬儀に当たって特別に作られたものと考えており、被葬者は「高島郡三尾と深い関わりを持ちながら、王権中央でも高い地位にあった人物」としてる。

 

 辻川哲朗は、この古墳から出土した埴輪は、畿内で作られていた埴輪だとして、(真の継体天皇陵とされる)今城塚古墳と同じ新池埴輪窯で焼かれたとしてる。

 

 これらの説では、

・畿内の王権での高い地位。

・高島郡三尾に強い縁。

・継体天皇と親密な関係。

などの全ての条件を満たす人物として、継体天皇の三尾氏出身の皇子(例えば、三尾角折君妹 稚子媛(日本書紀)三尾君等祖 若比売(古事記)を母に持つ大郎皇子)が被葬者として提唱されている。

 

 稚子媛は、「日本書紀」では手白香皇女、目子媛の次の三番目に記載されるが、「古事記」では若比売として筆頭に記載され、その所生の皇子が大郎皇子(古事記では大郎子)と記載されており大郎の名前は長男を意味するので、三尾氏の稚子媛が継体の一番最初の妻で、大郎皇子が最初の子供だった可能性が強い。

 

 かつては被葬者を彦主人王とする説もあったが、築造時期から近年では否定的である。 『日本書紀』によると彦主人王は当地に「三尾之別業」を営んだといい、継体天皇の幼少時に死去したという。

 この彦主人王の墓を鴨稲荷山古墳(6世紀前半、前方後円墳)にあてる説もあるが、 450年頃という継体天皇の出生に対する5世紀後半の他の首長墓はないことから、田中王塚古墳(5世紀後半、円墳または帆立貝形古墳)がその墓として有力視されている。

継体天皇・三尾君関係系図(『日本書紀』に基づく)

<応神天皇四世孫>
彦主人王
 
 
[三尾君]
振媛
 
 
 
       
 
 
 
      (26)
継体
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<三尾君堅楲女>
倭媛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
      天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<三尾角折君妹>
稚子媛
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(27)安閑天皇 (28)宣化天皇 (29)欽明天皇 大郎皇子 出雲皇女 大郎子皇女 椀子皇子
(三国公祖)
耳皇子 赤姫皇女

 

5)京都帝国大学による発掘調査

 1923年(大正12年)7月に京都帝国大学(現京都大学)の梅原末治、中村直勝らが調査した古墳の報告書によると、被葬者の性別は、「武器などの副葬品の豊富である点から、もとより男子と推測することが出来る。」、出土品の冠、装飾品が、朝鮮半島に源流を持つ物であるとして 「日本で製作せられたにしても、それは帰化韓人の手によったものであり、その全部あるいは一部が彼の地から舶載したものとしても、何らの異論はない。」とする。

 

 被葬者の出自については、「此の被葬者が三韓の帰化人もしくは、其の子孫と縁故があったろうと云ふ人があるかも知れない。しかしそれには何の証拠もない。」として、朝鮮半島からの渡来人説には慎重な立場を取っている。

 

 だが「当時において格越した外国文化の保持者であり、外国技術の趣味の愛好者であった。」と指摘している。 


(参考)継体天皇出生の地


(引用:高島市文化財保存活用地域計画 第7章 関連文化財群●ストーリー①継体天皇出生の地)

 

 6世紀初頭に即位したとされる継体大王の父である彦主人王は、『日本書紀』によ ると、高島郡に「三尾の別業」を有しており、この地に越前三国の坂中井から振媛を 妃に迎え、継体が誕生したという。市内には、継体誕生時の胞 え 衣 な を埋めたという「胞 衣塚」や、母の振媛が出産のときにもたれたという「安産もたれ石」、また継体の両 親を祭神とする三重生(みおう)神社など、継体大王出生などに関わる伝承地が数多く存在して いる。

 

 また、記紀の記載には、継体大王の后の中に、高島郡を本拠とする三尾氏の娘であ る稚子媛倭媛が含まれているとあり、後に大和の国で新王朝を樹立する継体大王で あるが、高島の地は、その重要な勢力基盤であったことがうかがわれる。

 

 「三尾の別業」または三尾氏の本拠が置かれたと考えられる安曇川扇状地の中央付 近から鴨川流域には、そうした古代高島を特徴づける南市東遺跡南市北・下五反田 遺跡天神畑・上御殿遺跡が存在している。これらの遺跡の出土品は、この地に5世 紀中頃以降の渡来系氏族の居住を含めた長距離交易や鍛冶生産などの手工業生産の 発展があったことを示している。さらに、これら遺跡群の西側の台地上には、彦主人 王の陵墓とされる田中王塚古墳、九州地域の影響を受けた横穴室石室を持つ田中36 号墳を含む田中古墳群が存在している。また市域北部では、北牧野製鉄遺跡群を始め、 複数の製鉄関連遺跡が確認されている。

 

 さらに、注目されるのは、鴨川の右岸に所在する滋賀県指定史跡鴨稲荷山古墳であ る。鴨稲荷山古墳は、6世紀前半に築造された全長40m前後の前方後円墳で、後円 部の横穴式石室からは凝灰岩製の家形石棺が発見され、棺内外からは、金製垂飾付耳 飾金銅製の冠飾履環頭大刀などの豊富な副葬品が出土した。中でも金銅製の冠 は、日本海側の古墳で見られる新羅系のもの、また環頭大刀も日本海側で発見される 朝鮮半島系のもので、鴨稲荷山古墳の被葬者は、若狭や越前、出雲などの日本海側地 域と密接な関係を持ち、かつ高島の地で、継体大王の擁立に関わった有力豪族の首長 クラスの人物であろうと考えることができる。

 

 継体大王出生の地・高島は、近江北西部および日本海側周辺地域の生産・集積の拠 点として、さらには日本海と畿内を結ぶ交通の要衝地として、この後も発展を続ける ことになるのである。

 

「継体天皇出生の地」を構成する文化財等

1) 北牧野製鉄遺跡(マキノ町牧野)

2) 斉頼塚古墳 (マキノ町牧野)

3) 北牧野古墳群 (マキノ町牧野) 

4) 妙見山古墳群 (今津町日置前)

5) 東谷遺跡 (今津町大供)

6) 下平古墳群( 新旭町安井川)

7) 南畑古墳群 (新旭町安井川)

8) 二子塚古墳 (新旭町安井川)

9) 南市東遺跡 (安曇川町中央)

10) 下五反田遺跡 (安曇川町田中)

11) 南古賀古墳群 (安曇川町南古賀)

12) 田中古墳群 (安曇川町田中)

13) 田中王塚古墳 (安曇川町田)

14) 田中神社(境内社 三尾神社) (安曇川町田中)

15) 三重生神社 (安曇川町常磐木)

16) 安産もたれ石 (安曇川町田中)

17) 胞衣塚  (安曇川町三尾里)〔市史跡〕

18) 安閑神社(神代文字) (安曇川町三尾里)

19) 上御殿遺跡 (安曇川町三尾里)

20) 天神畑遺跡 (鴨)

21) 天皇橋 (鴨)

22) 鴨稲荷山古墳 (鴨)〔 県史跡〕

23) 水尾神社 (拝戸)

24) 拝戸古墳群 (拝戸)

25) 音羽古墳群 (音羽)

26) 高島歴史民俗資料館 (鴨)

27) 各出土遺物

 

注:太字は、訪問したことのある文化財等

追記:令和5年10月27日


3 息長氏考


(引用:「おとくに」フォトカルチャーラボ 古代豪族 息長氏考

引用Webの全文を抜粋させていただきました。


(1)はじめに (2)息長氏人物列伝 (3)息長氏関連系図 (4)系図解説・論考

(5)まとめ(筆者の主張) (6)参考文献


(1)はじめに


 「息長 」を一般的には、イキナガオキナガと読む。キナガ、シナガとも呼ぶらしい。「気長」「磯長」「科長」「級長」「師長」などとも記される。その意味も色々言われており、「息が長い」「風を吹く」などがあり、息長氏は潜水を専門とする海人、いや風の神製鉄の民である、などと言われている。

 

〔息長氏の始祖〕

 息長氏はその始祖を誰にするべきか、謎である。一般的には(古事記)応神天皇の孫である意富富杼王(オオオド)(別名:大郎子)息長氏祖とされている。しかし、息長真手王説もありよく分からない。というのも、歴史的に「息長」という文字をその名前につけている人物が上記2人以前にも多数記紀に記されてあるからである。

 

 一番古いと思われるのは、天御影神娘「息長水依比売」淡海御上神社で、9代開化天皇の子供日子坐王の妃となった女性である。これは天津彦根神の流れで明らかに神別氏族である。

 

 次ぎは日子坐王の曾孫として息長宿禰王、その娘が「息長帯日売」こと神功皇后である。なんと言ってもこの人物が一番の有名人である。

 

 また別系統である日本武尊の子供に「息長田別王」なる人物が古事記には記されており、その流れから15代応神天皇妃「息長真若中比売」がいる。この二人の間の子供が、上記息長氏祖と言われている大郎子の父若沼毛二俣王が産まれているのである。

 

皇別氏族〕

 彦坐王にしろ日本武尊にしろ皇族なのでこの流れは皇別氏族である。息長氏は新撰姓氏録では皇別氏族に分類されている。さらに舒明天皇の名前は「息長足日広額天皇」である。これは、息長氏出身の天皇ということを表しているとのこと。

 

八色の姓・真人

 天武天皇の時、新たな氏族分類制度が導入された八色の姓この時最も高貴な姓である「真人」姓の筆頭に息長氏が位置付けられた。理由は、時の天皇家の祖26代継体天皇は、息長氏であり、蘇我氏の血が入ってない押坂忍人大兄皇子(父は敏達天皇、子に舒明天皇の母親は、息長真手王の娘広姫で「息長氏」である。

 

 天智天皇も天武天皇もこの流れであり、天皇家にとって最も大切な氏族は、息長氏であると認定されたのだという説が強い。

 

 他の「真人」姓はその息長氏の近い親族、及び継体天皇以降の天皇家から分かれた皇別氏族であった。と言われている。

 

〔息長氏の役割〕

 ところが筆者の調査した範囲では、歴史上記録に残っている息長氏らしい人物は、継体天皇以降では、息長山田公なる人物唯一人である。系譜らしきものも残されていない。不思議である。一般的には息長氏は、和邇氏等と同じく天皇家をその皇族などに妃を供給する形で蔭で支えてきた氏族で、政治的には決して表に表れなかった氏族であったとされている。

 

 即ち天皇家の血筋を(天孫族として)常に綺麗?真っ当な状態に保つための氏族という役割に徹した特殊な存在であった。とも言われている。

 

〔謎の氏族〕

 しかし、謎だらけの氏族である。記紀だけの記述では、一番天皇家にとって大切な氏族のはずなのに、その系図がすっきりしてない。その出自もよく分からない。何故であろうか。

 

 一方和邇氏の系図はしっかり残されており、平安時代の小野氏(小野道風、小野小町など)までかなりはっきりしている。

 

 日本の古代史上謎とされている重要人物の多くが、息長氏と絡んでいる。「彦坐王」「天日矛」「日本武尊」「神功皇后」「応神天皇」などである。

 

 これらの人物の存在を正当化するために、記紀編集者らが、息長氏なる架空の人物群を導入したのである。とか、天武朝で「真人」姓に認定された息長氏関係者がその先祖を飾りたくて編集者らに圧力をかけ、記紀系図を改竄したのである、など諸説紛々である。

 

 最近「大阪府全志」に採録されている「北村某家記」記載の息長氏の記録の裏付け調査、琵琶湖周辺の息長氏関係地域の発掘調査などが進んでいるようである。新たな解釈も出ているようであるが、これらも参考にして筆者なりの謎解きに挑戦してみたい。

 

 前稿の「継体天皇出自考」と非常に関連が深い。京都府京田辺市、琵琶湖周辺、旧摂津国界隈、我が「乙訓郡」地域も色々関連してくる非常に面白い謎解きである。


(2)息長氏人物列伝


1)日子坐王(???-???)

①父;9代開化天皇 母;意祁都比売命、姉オケツ媛(日子国意祁都命妹;姥津命妹)

②母は、和迩氏出身。

 妻;息長水依比売、近江御影神社の娘(天之御影神の娘)子供;丹波道主命

  ;山代之荏名津比売 山城国 子供;大俣王、小俣王(当麻勾君祖)

  ;沙本之大闇戸売 春日建国勝戸売の娘(春日)子;狭穂彦王、狭穂姫(11垂仁后)

  ;袁祁都比売命(妹オケツ媛)子供;山代大筒城真稚王、伊理泥王

 兄弟;10代崇神天皇(母;伊香色謎命)

③三輪王朝(10代崇神天皇)に追われて亡命。近江王朝を立てたと言われている。

狭穂彦王の王権奪回の試みが、狭穂姫と一緒に行われたが失敗。

⑤近江の三上の「息長水依比売」を妻とし、近江を統一していき、大きい力を持っていっ た。 日子坐王こそ15代応神天皇、26代継体天皇を生み出した天皇家の始祖である、とも言われている。

 

2)山代大筒城真稚王(???-???)

①父;日子坐王 母;妹オケツ媛(和迩氏)

②妻;阿治佐波媛(伊理泥王娘;日子坐孫)

 子供;加邇米雷王 

 

・丹波道主命(丹波比古多多須美知能宇斯王)(???-???)

①父;日子坐王 母;息長水依比売

②妻;丹波之河上之摩須郎女

 子供;日葉酢媛(11代垂仁天皇后、12代景行天皇の母、倭姫命の母)

「四道将軍」の一人として丹波に派遣された。(崇神10年) 

 

3)加邇米雷王(???-???)

①父;大筒城真稚王 母;阿治佐波媛

②妻;高材比売(丹波遠津臣女)子供;息長宿禰王  名;カニメイカズチ王

③山城国綴喜郡筒城郷の普賢寺の裏山は、「息長山」と呼ばれており、朱智神社(天王社) があり、加邇米雷王が祀られている。この木津川流域筒木の地には、早くから半島の渡来人が住み着き蚕を飼い絹織物を織り、また鋳銅も行っていた。これを配下にしたのが「和迩氏」である。 この付近もその勢力下。彼も和迩氏の一族であり南山城地方を支配していた王。

④「カニ」の由来は、「綺(かにはた)」綺麗のキ。模様を浮かせて織った透けるように薄い美しい絹織物。という意味。

 

4)息長宿禰王(???-???)

①父;加邇米雷王 母;高材比売

②妻;葛城高額比売命(天日矛田島間守当麻羊悲流れ)**

 子供;息長帯日売命神功皇后;14代仲哀天皇后

 

5)神功皇后(???-???)

①父;息長宿禰王 母;葛城高額比売命

②夫;14代仲哀天皇  子供;15代応神天皇 

 兄弟;息長日子王(吉備品遅君、播磨阿 宗君の祖先)、虚空津比売命別名;息長帯日売命

③実在性???

④朝鮮半島関係の記紀記事。女性としては最も詳しい事績が記されている。

⑤日本書紀では暗に卑弥呼に比定している。

 

6)15応神天皇(200?-310?)

①父;14代仲哀天皇 母;神功皇后(息長帯日売命)

②皇后;仲姫命

 妃;高城入姫命、弟姫命、宮主宅媛、

   息長真若中比売(杭俣長日子王女、倭建曾孫)

 子供;16代仁徳天皇若沼毛二俣王、八田皇女、雌鳥皇女、など

 

7)若沼毛二俣王(???-???)

①父;15代応神天皇 母;息長真若中比売(倭建曾孫)

②妻;弟日売真若比売命(百師木伊呂弁;母の妹)

 子供;大郎子(意富富杼王)

    忍坂大中津比売命(忍坂大中姫、19代允恭天皇后、20代安康天皇母、21代雄略天皇母

 別名;稚淳毛二俣王、若野毛二俣王。 

 兄弟;16代仁徳天皇、八田皇女ら 

 

8)意富富杼王(???-???)

①父;若沼毛二俣 母;弟日売真若比売命

②妻;中斯知命     呼称:オオオド 別名:大郎子

 子供;乎非王

 兄弟;忍坂大中姫、田中之中比売、田宮之中比売、沙祢王

息長氏祖と言われている。

④三国君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫米多君、布勢君らの祖 

 

・忍坂大中姫(???-???)

①父;若沼毛二俣王 母;弟日売麻若比売

②夫;19代允恭天皇

 子供;20代安康天皇、21代雄略天皇、橘大郎女、衣通郎女、木梨軽皇子、など

③押坂部(刑部)は、押坂宮を主体に領有され、息長氏の管理のもと、大中姫から押坂彦人大兄皇子、やがては天智天皇へと伝領されていったと考えられる。

 この系統には、蘇我氏の血が殆ど入り込んでないことから、この系統を反蘇我の皇統と見なし、蘇我氏を倒した天智天皇の財力の基盤となったのが、この坂部ではないかとされ、また蘇我氏の血を入れないために皇統を純化する役割をも息長氏が担っていたのではないかとも推論されている。

 皇室内部の「皇族氏族」

 

9)乎非王(???-???)

①父;意富富杼王 母;中斯知命

②妻;久留比売命。

 子供;彦主人王

 

10)彦主人王(???-???)

①父;乎非王 母;久留比売命

②妻;振姫(11代垂仁天皇7代孫)

 子供;26代継体天皇

 

11)26代継体天皇(???-???)天皇家系譜参照

①父;彦主人王 母;振姫

(参考)26代継体天皇は、琵琶湖北東部の息長(滋賀県近江町)を拠点とする息長氏の出身と考えられる(岡田精司氏)。育ったのは、母「振媛」の郷里である「越」であった。

 

 后妃は、9人おり近江出身5人、尾張、大和、河内各一人と「手白香皇女」である。

息長氏は、26代継体天皇以前に大王家姻戚関係あり(忍坂大中姫など)、息長氏は、忍坂宮と刑部を通じて王権と密接な関わりを持ち続けるだけではなく、大王家内に「敏達天皇ー彦人大兄王ー舒明天皇ー中大兄皇子」と続く息長氏系王統が形づくられていく。

 

 しかし、息長氏の在地の権力基盤は、さして強固ではなかったし、刑部にしても基本的には、息長氏系の王妃、王子女のためのもので大王家に属した。

 

 そして何よりも「外戚氏族」として権力を振るうことが一度もなかったことは、息長氏の「皇族氏族」としての性格を如実に物語っている。常に黒子のように陰で大王家を支え続けたのである。滋賀県近江町一帯に息長氏の古墳群がある。しかし、小さいものばかりで大王家を打倒するような勢力を保有していたとは、考えられない。

 

 

 26代継体天皇は、既存の大王家への入り婿と見るべきで、継体天皇以降の王家は、母系を通じて15代応神王朝の血統を引き継ぐことになったのである。26代継体天皇は、単独で既存の王権に取り込まれたと考えるべきである。

 

<刑部>中央豪族である刑部造が管理し、忍坂宮に居住した王族たち(押坂彦人大兄皇子、田村皇子、舒明天皇)の所領として代々伝領されたが、その経営には、その王家の母系姻族として多くの妃を嫁がせていた中小豪族の息長氏も深く関わっていたらしい。

 

・「息長真手王」

 記事;29代敏達天皇后「広姫」の父。この間の子;押坂彦人大兄皇子

    26代継体天皇妃として娘「麻績娘子」を出した。

 

・「息長山田公」

 記事;35第皇極天皇元年、舒明天皇の喪事で、日嗣を誅び奉る。舒明天皇の養育係(湯人)だった可能性も考えられる。舒明天皇のおくり名は「息長足日広額天皇」となった。

 

(参考)

◎天之日矛(???-???)

①父;不明 母;不明

②別名;天日槍、天之槍、天日鉾、

 妻;阿加流比売(※1)

  ;前津美(前津耳女;俣尾娘、麻多烏娘) 子供;母呂須玖、孫;悲泥 

   曾孫;比那良岐 

③11代垂仁天皇3年に来朝したとされる新羅王子

④金属製祭器(銅製)を人格化したものと言われている。播磨、近江、若狭、但馬などはいずれも金属に関係ある土地である。これらの地に勢力を張ったとされている。

伽耶王子ツヌガアラシトと同一人物扱いされている。(日本書紀)

⑥末裔氏族;田島間守氏(比那良岐の子)(※2)

出雲神と戦った(風土記)

⑧「垂仁記」には、近江国吾名邑にしばらく住んでいたと記載されている。

 

 「倭名抄」にも、近江国坂田郡に阿那という地名があったことが記されている。後に「息長村」と呼ばれ、葛城之高額比売命息長宿禰の婚姻も、この繋がりと無縁ではないと考えられる。

 息長村は、息長一族の本拠地であり、天日槍の従人達が住んだという「鏡谷」の近くの三上山麓の「御上神社」は、天之御影命を祀るが、日本の鍛冶の祖神と称せられる。

 この天之御影命の娘は、「息長水依比売」であり、日子坐の妻となった。

 

(※1)難波比売碁曽神社、豊前国国前郡比売語曽神社、大分県姫島「比売語曽神祠」

大阪市西淀川区姫島町「姫島神社」などある。

 

(※2)田島間守、但馬毛理

 垂仁天皇90年に常世国に非時香実(ときじくのみ;橘のこと?)を求めて派遣され、それを持ち帰ったが、既に天皇はこの世に亡く、泣く泣く殉死したため、人々は、天皇の陵墓近くに田島間守の塚を築いたという記事あり。ーーー橘諸兄もこの話しと関係ありと言われている。即ち天皇の忠臣を志した。ーーー

 

・田島間守の弟?比多訶の娘が葛城高額姫だと言われている。

・田島間守の弟?「清日子(スガ)」と葛城氏の流れを引く「当麻羊悲」との間の娘「菅竈由良度美」と上記「比多訶」との間に産まれたのが「葛城高額姫」である。

 これと息長氏の「息長宿禰」との間の娘が「神功皇后(息長足媛)といわれている。

 

・15代応神天皇は、14代仲哀天皇と神功皇后との間に産まれた天皇とされており、この妃「息長真若中比売」は、「倭建 」と和迩氏娘との間に産まれた「息長田別王」の子「咋俣長日子王」の娘で息長氏流れである。

 

・15代応神天皇「息長真若中比売」との間の子が「若野毛二俣王」であり、その妃が母の妹「弟日売真若比売命」である。

 この間の子「意富富杼王」「忍坂大中姫」らは、まさに「彦坐王」「天日矛」「葛城氏」「日本武尊」母系の血統「10代崇神天皇」「彦坐王」「吉備氏(日本武尊)」父系血統の融和したものであり、 今後天皇家は、この二人の系統が、主流となったと言える。この意味で、「彦坐王」息長氏こそ天皇家の始祖ともいわれる由縁である。

 

 但し母系の息長氏が、歴史の表舞台 に出ることはなかった。これが「葛城氏」「蘇我氏」「藤原氏」らとは明らかに異なる氏族である。

と言える。 

 

◎倭建命(???-???)

①父;12景行天皇 母;稲日大郎姫(伊那毘大郎女;若建吉備津日子娘)

②妻;両道入姫(11代垂仁天皇娘)、吉備穴戸武媛、弟橘比売、一妻(和迩氏女?)

 子供;14代仲哀天皇、息長田別王(母;一妻)

 叔母;倭比売命(伊勢神宮の神話上の初代斉宮、12景行天皇同母姉)

 別名;「小碓命」「倭男具那」

 兄弟;大碓命、倭根子命、神櫛王、櫛角別王、以上同母

③実在が疑わしい。とされている。

④父12代景行天皇の命により西征し、「熊曽建」「出雲建」らを討伐した後、東征して「荒ぶる神、伏まつろわぬ人ども」を悉く平定した。帰途、伊吹山で病を得、伊勢の能煩野で崩じた。この地に陵を造ったが、八尋の白鳥となって、天翔り、河内国の志幾に留まったので、再び陵を造り「白鳥の御陵」と名付けた。

「倭は、国のまほらば、たたなづく青垣、山隠れる倭しうるわし」


(3)息長氏関連系図


 基本的には記紀記述に準拠して(一部上宮記仕様)

・息長氏概略系図

・息長氏詳細系図を作成した。   どちらも筆者創作系図である。

 さらに参考系図として河内「北村某家系図」を載せた。

大阪府全志(大正11年刊行)について記述解説されている諸種記事を基にした筆者創作系図である。


(4)系図解説・論考


 息長氏という氏族としての息長氏がいつ頃から誰の時から発生したのかと言われると、はっきりしないのが現状である。記紀記録上名前に息長と付けられた最初は、日子坐王妃天御影神女「息長水依姫」である。近淡海御上神社神官の娘を妃として「彦坐王」が近江国を支配下においたとも言われている。 これは時代的には、10代崇神天皇の頃であるから3世紀末から4世紀初め頃であろう。

 

「3)神別息長氏」として息長水依比売までの系図を示したが記紀に記された天御影神は息長水依比売の父ではなく、その流れを引く御上神社祝家の娘と考えた方が良さそうである。

 

 この系図は公知の系図であり、神世と現世の間を表している。しかし、記紀の神世と神武以降の現世系譜との辻褄を合わせた感じがする。よって天御影神息長水依姫の間の人物には嵩上げがされているのではなかろうかとも思える。

 

 天津彦根神は現在も多くの神社に祭神として祀られている。天御影神は凡河内氏、山背国造氏の祖として播磨、但馬、丹波、近江などに祀られている。

 

 これが前稿(尾張氏考)で述べた海部氏の倭宿禰だとすると年代的には合ってくるから不思議である。(神武天皇の頃)何かしら関係していたのであろうか。

 

 京都府舞鶴市に彌加宜神社があり、祭神は天御影命である。これは息長氏と関係する「行永」という地名の近くである。海部氏の籠神社の近くでもある。

 

 天御影天目一箇神と同一であるとの説もあり、鉄に関係した氏族の匂いがしてくる。

 

 前述したように息長とは、風、製鉄に関係した名前であるとの説からすると彦坐王が製鉄に関係する権利を取得したと解するべきか。それが「息長」という名跡として表現されたとは考えられないだろうか。

 

 即ち天津彦根神天御影神の系統が有していた製鉄関係の技術・人間などを引っくるめて皇別氏族である彦坐王が婚姻を通じて奪取したと考えるのである。

 

 これが息長という名の原点である。未だ氏族ではない。この権利を継いだ者が息長なる名前を付されて記紀に記録されたのではなかろうか。と考える。

 

〔系図の概観〕

 さて「息長氏概略系図」「1)彦坐王詳細系図」「2)日本武尊系息長氏詳細系図」を概観すると

①彦坐王は、5代孝昭天皇の子供天足彦国彦の流れ即ち「和邇氏」の娘腹であり自分の妃の一人にも同じ和邇氏の娘を貰っている。

 

 和邇氏については別稿で詳しく論考する予定であるが、琵琶湖湖西に「和邇」という地名が現在も残されているように、琵琶湖、山代南部奈良方面にかけて勢力を有していた古代豪族である。古くから和邇氏と息長氏は非常密なる関係がある氏族同士であるとされている。

 

②彦坐王と上記和邇氏娘との間に産まれた「山代大筒城真稚王」の流れから息長宿禰、息長帯日売即ち神功皇后が出て、15代応神天皇に繋がっていく。

 

 この系図については、古来異論多い。本来息長と名乗れるのは息長水依姫の子供であるはず。即ち、丹波道主水穂真若王などではないのか。それが何故和邇氏腹の子供に息長の名跡が嗣がれたのか、これは系図がどこかで錯綜したためで、本来は水穂真若の子供が迦邇米雷であると主張する説もある。

 

 しかし、迦邇米雷は、山城国綴喜郡にある息長山普賢寺に隣接してある朱智神社の祭神として現在も祀られてあり、山代筒城真若の存在が現在の京都府京田辺市付近であることを示唆している。またこの地は真偽は別にしても「神功伝説」の多い所でもある。26代継体天皇の筒城の宮跡もこの付近と比定されている。

 

③神功皇后の母親の系譜がまた謎に包まれている。新羅から渡来してきたとされる、天日矛伝説は西日本の多くの土地に現在も残されている。但馬の出石神社の祭神であり、ここが没したところとされている。この流れの系図も記紀で一部異なるが記されている。

 

 田島間守なる人物は記紀に垂仁天皇紀に記されており、有名人である。これの兄弟の妃及び娘等は何かしら但馬ではなく葛城の匂いが濃い出身らしい。そこに産まれたのが葛城高額媛である。これと上記息長宿禰との間に神功皇后が産まれたとなっている。

 

 古事記には神功皇后と同腹の子として息長日子王虚空津媛なる人物が記されている。どちらも事績がよく分からないが、虚空津媛はこれまた謎の人物武内宿禰の妃となり、葛城襲津彦を産んだとの伝承もあるとか。

 

〔賀茂氏考参照〕

 日本書記では暗に神功皇后を魏志倭人伝に登場してくる「邪馬台国女王・卑弥呼」に比定している。これが意図的にそうしたのか、そう信じられていたのかは意見が分かれるであろうが、現在では時代が異なると断は下されている。

 

 卑弥呼は2世紀ー3世紀中の人物。応神天皇は実在していたと仮定すれば4世紀末ー5世紀初めの人物。その母親なら4世紀中以降の人物である。卑弥呼は勿論、台与より後になる人物である。よって応神天皇は実在したとしても、神功皇后は創作された人物ではないかという説が主流? となると「息長氏」はどうなっているのか疑問が生じる訳である。

 

④12代景行天皇と吉備氏の娘との間に産まれた日本武尊の子供は非常に多い。その中に息長田別王なる人物がいる。母親は「一妻」とだけ記されており定かでない。

 

 この流れの娘に息長真若中姫がおり、これが神功皇后が産んだ15代応神天皇の妃となり産まれたのが「若野毛二俣王」である。日本書記ではこの辺りの系図は不明瞭であるが、古事記では明記してある。

 

 この二俣王と真若中姫の妹「弟日売真若比売」亦名:百師木伊呂弁)との間に産まれたのが息長氏祖と言われている「意富富杼王」亦名:大郎子)である。この妹に19代允恭天皇の后となった「忍坂大中姫」がいる。記紀記述では、大物女性である。この末弟に「沙禰王」なる人物がいる。古事記に記録はあるが誠に蔭の薄い人物である。この人物は後述するが、実は息長氏にとって重要人物のようである。

 

 上記咋俣王にはもう一人娘がいる。飯野真黒媛である。これが長女とされている。古事記に記されたこの媛の系譜が間違っている(余りに不合理な箇所あり)と判断し、ここでは載せなかった。

 

⑤記紀では26代継体天皇の出自が15代応神天皇5世孫と、父が彦主人母が垂仁天皇7世孫振姫とだけしか記述がないことは、「継体天皇出自考」の稿で述べた。これを若野毛二俣王から彦主人までをはっきりさせたのが上宮記である。大郎子意富富杼王と同一人物であることを示唆したのも上宮記である。この辺りについては現在も異論百出のところである。

 

⑥古事記には意富富杼王を息長氏祖と記してあるらしい。記紀には忍坂大中姫妹、衣通姫が近江国坂田郡に住んでいたことを記してある。ということは、若野毛二俣王又は百師木伊呂弁が近江坂田郡にいたことを示唆したことになる。

 

息長真手王なる人物が記紀に登場する。娘「広姫」敏達天皇の妃となり「押坂彦人大兄皇子」を産みその後の非蘇我勢力の元祖となり、天智、天武へと皇統を保った原点的人物として描かれている。出自は謎めいている。何処に拠点を持っていたのかもはっきりしてない。どうもこの流れが最終的には息長真人姓を賜ったように思えるが、筆者の調査した範囲ではすっきりしない。

 

 全くこれ以降の系譜が公知にされてないらしい。不思議である。天皇家に最も近い母系氏族であるのにである。継体天皇の子供は沢山いるが、これが息長氏を称した形跡がない。

坂田大跨王なる人物の流れから坂田真人が出たことは間違いなかろう。問題は「広姫」の方である。

 

⑧さて話を15代応神天皇の所まで戻そう。応神天皇の母「神功皇后」は明らかに彦坐王系からの息長の名跡が伝わっている。一方応神天皇の妃である息長真若中姫には日本武尊系の息長の名跡が伝わっている。その子「若野毛二俣王」はどちらから見ても「息長」の名跡がある。その子の母も日本武尊系息長である。即ち大郎子忍坂大中姫沙禰王も間違いない息長系である。ということは20代安康天皇、21代雄略天皇も息長腹である。

 

 これから以降は25代武烈天皇まで男系には一部息長のDNAは残るものの息長の血が薄れた状態が続いたことになる。葛城系ではない息長系に戻そうという勢力の影が見えてくる。

26代継体天皇は、本当に息長腹だったのか定かではない面もある。

 

 しかし、記紀編纂時、息長氏が特別な存在価値があったことは窺える。記紀での彦坐王・神功皇后・日本武尊・応神天皇及び天日矛の記述には何か異様なものを感じる。その裏に息長の名が見え隠れしている。これら総てが虚構である、とする学者も多い。現在では主流かも知れない。果たしてそうであろうか。

 

 大正11年刊行された「大阪府全志」なる本に採録された「河内北村某家記」の中に、非常に興味ある記述がされている。色々な先人が解説記事を発表されているが、筆者なりに解釈し、系図化したものを参考系図として記した。筆者なりの解釈は下記の通りである。

 

 現在の大阪市平野区喜連町:旧東成郡喜連村付近の伝承記事である。この辺りは、元々大々杼(オオド)国 大々杼郷と称した。「楯原神社」の祭神建御雷男の子孫 大々杼命にちなんで付けられた。

 

 神武天皇時功あって 大々杼の姓を賜り、国造に任じられた。14代仲哀天皇時「大々杼黒城」に嗣子がなかった。天皇(神功皇后)は弟の息長田別王を黒城の娘黒媛に婿養子として出した。その時息長の名を与えた。その子供が杭俣長日子であり、この姉娘が息長真若中比売で15代応神天皇の妃となり若沼毛二俣王を産んだ。この杭俣長日子に嗣子がないため応神8年に妹娘の弟女真若伊呂弁の婿養子として若沼毛二俣王を迎えた。

 

 この間に産まれた子供らは大郎子ら7名である。長子大郎子は仁徳天皇の勅命により淡海の息長君として分家した。その子供が彦主人である。

 

 一方息長氏の本家を嗣いだのは末子の沙禰王であった。その娘真若郎女が近江の彦主人に嫁ぎ、産まれたのが大々杼王(後の26継体天皇)である。産まれたのは母の里である河内である。8年後雄略元年に母子を淡海に帰したが、間もなく実母は亡くなり異母福井振媛に従い越前三国の君を号した。

 

 大々杼郷は継体天皇にはばかり杭俣郷に変わり現在は「抗全(クマタ)」と呼ばれている。

 

 息長の姓はこの村を流れている息長川(現在は今川)に由来する。即ち神功皇后に冠せられた「息長帯足日売」とは無関係との記述ともとれる。

 

 また、沙禰王の後を嗣いだのが長子息長真手王である。その男「真戸王」に継体天皇の娘都夫良郎女が嫁いだがこの二人に子供が出来ない内に二人とも事故死した。そこで真手王の娘「黒郎女」に都夫良郎女と同腹の阿豆王を継体天皇は婿養子として出した。

 

 その間に産まれた娘が敏達天皇妃となり、忍坂彦人太子を産んだ「比呂姫」である。これを信じるか無視するかは意見が分かれるところである。筆者は記紀に記述のものよりこちらの方が真実臭いと感じている。記紀には何処にも河内国に息長氏が居たなどの記述はない。

 

 その後の情報によると讃野皇山には伝忍坂大中姫御陵があり。

 中筋塚という伝沙禰王墓、広住塚という伝息長真若中姫墓、浮山にある伝杭俣長日子王埋葬地、ツブレ池は継体天皇皇女都夫良郎女溺死伝承地など息長氏関連人物の伝承遺跡が多数この喜連町周辺にある。まんざら嘘ばかりとは思えないのである。

 

 以上の新たな伝承情報と記紀記録、上宮記など古くからの記録を比較すると息長氏に関する多くの疑問が解けるような気がする。

 

イ)天御影神から伝わった製鉄技術が、息長水依姫を通じ彦坐王に嗣がれ、息長宿禰らの山代南部の息長氏に渡され、神功皇后を通じて河内中部の大々杼氏に神功皇后の義理弟「田別王」を婿養子に入れる形で継がれた。そして息長氏を名乗り、その流れの娘等が応神天皇の妃となりその子が再び息長氏に婿入りした。そこで産まれた長子が琵琶湖坂田郡に分家息長氏を興した。

 

 本家息長氏を継いだのは末子「沙禰王」でその子が息長真手王である。この真手王の娘とされた「広姫」は実は分家息長氏出身の26継体天皇の実子「阿豆王」(記紀にも記録あり)と真手王の娘との間に出来た娘である。これなら敏達天皇の后扱いだったことも頷けるし、その子「押坂彦人大兄」が本来の世継ぎの御子だったことも分かる。また息長氏がその後真人になったのも充分理解できる。

 

 但し、この一族は河内の豪族家を嗣いでいったので、中央にはその後も出なくて、系図も公知にならなかった訳である。この流れが息長真若麻呂、北村治良麻呂らに繋がる系図を「北村某家記」として残したものと判断する。即ち息長氏が一本の糸に繋がったのである。分かる。

 

ロ)分家息長氏の息子彦主人に嫁いだ26代継体天皇の実母は、本家息長氏の娘であった。よって26代継体天皇は、子供の頃河内にいたことになり、記紀に記事のある河内馬飼首荒籠と26代継体天皇の交流記録も納得がいくことになる。この辺りのことは「聖徳太子信仰の成立」(田中嗣人 吉川弘文館)という本に詳しく記されている。

 

ハ)記紀は何故河内息長氏のことを記録しなかったのか。真手王の出自についても伏せたのか。謎は残るが。

 

ニ)26代継体天皇の出現に、影で一番貢献したのは、福井振姫の里である三尾君の力は無視できない。三尾君から2人も継体天皇の妃が出ている。この関係からも実母の里のことを記録に残すことが憚れたのであろうか。何しろ日本武尊系の息長氏の系図は古事記にはあるが、日本書紀では全く触れられてないのである。この辺りには何かがあると思わざるを得ない。

 

ホ)もっと憶測をすれば、息長氏の血族的繋がりからみれば、神功皇后と応神天皇がキーマンである。彦坐王系と日本武尊系の交差点に応神天皇が存在している。この人物が多くの学者が言っているように、九州方面から新たに出現した新王朝の王だとすると、この息長氏の存在は、おかしくなる。勿論神功皇后の存在も??? 26代継体天皇の正当性を主張するために創作された氏族、息長氏ということも考えられないことはない。応神天皇も神功皇后も彦坐王もか?それほどこの氏族の素性は謎に包まれている。

 

 従来は滋賀県坂田郡が息長氏の本貫地と目されてきたが、ここにある息長氏の古墳は、発掘調査の結果6世紀以降のものであることが明らかになった。息長氏の本貫地でないことは間違いない。即ち26代継体天皇出現後に勢力を得た氏族のものである。

 

 現在は山城南部、京田辺市近辺が元々の息長氏の本拠地として本命視されている。そこから河内中部に移りさらに滋賀県坂田郡にも勢力を持ったものと考えられる。遺跡の発掘調査の結果が待たれる。これにより、神功皇后の実在性、応神天皇の実在性も確認の糸口が見つかる。息長氏はいずれにせよ、大豪族ではない。実在したのも間違いない。これからが謎解きがさらに面白くなるであろう。


(5)まとめ(筆者の主張)


・息長氏は他の古代豪族とは異なった成立過程を経て氏族として確立された。

 

・初期においては「息長」という一種の特殊な技術(例えば製鉄技術)を有する集団みたいなもののリーダーみたいなものに与えられた名跡みたいなものだった。

 

・この名跡を婚姻、血族内の色々な関係を活用しながら、山城南部に息長の名跡を世襲する氏族が現れた。

 

・しかし、その山城息長氏族も跡が続かず、河内中部にその名跡が移った。この流れの血脈と神功皇后からの山城南部息長氏の血脈が応神天皇を介して合流され、これから幾つかの血族関係のある息長氏なるものが確立されその一つから26代継体天皇が輩出された。

 

・息長氏は天皇家を支える氏族で表舞台に出ることは26代継体天皇以降もなかった。

 

・全体的には謎の多い氏族である。記紀は敢えてその実態をあからさまにしなかったようである。彦坐王、神功皇后、応神天皇、天日矛、日本武尊など記紀記述で最も力を入れた人物の影に常に息長が見え隠れする。何かあると思うがすっきりしない。

 

・息長氏の実態を解明すれば、応神天皇・神功皇后などの実存性の解明に繋がる。


(6)参考文献


・「日本古代国家の成立と息長氏」大橋信弥 吉川弘文館(1987年)

・「日本古代国家の成立」直木孝次郎  講談社(2002年)


最終更新:令和3年(2021)5月30日