トップ  継体天皇ゆかりの史跡めぐり

①父方の里 ②母方の里 ③潜龍の地 ④治水伝説 ⑤使者謁見の地 

⑥皇居の変遷 継体天皇⑦磐井の乱 ⑧2つの古墳 ⑨図書紹介  関連系図


継体天皇③ 潜龍の地


岡太神社・謡曲「花筐」の風景・薄墨桜伝承地・目子媛街道

 継体天皇は、若かりし頃、味真野郷(粟田部)に潜龍され、この地で後の第27代安閑天皇・第28代宣化天皇のお二人の皇子が誕生されたとの言い伝えがあります。


1 旧粟田部町(現越前町)

(1)岡太神社 (2)皇子ヶ池 (3)佐山姫公園 (4)故郷:粟田部の歴史の参考

2 旧岡本村(現越前市)

(1)大滝神社・岡太神社

3 味真野郷

(1)味真野神社 (2)五皇神社 (3)越前の里:味真野苑・万葉館

4 謡曲「花筐」の風景

5 薄墨桜伝承地

(1)花筐公園薄墨桜 (2)根尾谷薄墨桜 (3)「真清探當證」継体天皇異伝

6 目子媛街道

(1)部子山/神社跡・小祠 (2)ヲホド王権擁立基盤と目子媛街道

(3)目子媛の里 (4)越前と尾張を結ぶ古代と現代の交通路

 

(5)国道417号線(冠山峠道路)


1 旧粟田部町(現越前市)


(1)岡太神社


岡太神社(noriokyakyou撮影)

1)概要

 岡太神社は、越前市粟田部町19字大山3番地にあり、延喜式神名帳では旧今立郡14座中では最も古い社です。当初、「玉穂の宮」と称し第21代雄略天皇(456~479年)以前に鎮座されたといわれています。

 

 男大迹の王(継体大王)は、三大河 川の九頭竜川足羽川日野川を開き度重なる氾濫を治め、建角身神大己貴命国狭槌尊の三柱を勧進し岡太神社と号しました。 

 

 養老2年(718年)正月7日から12日まで僧の「泰澄大師」(※)が巡錫(僧の行脚)の折、当地に来て仏像二躯を勧請して神仏同体の行を修め、社名を「白山三社大権現神社」として崇めることとされました。 

 

  明治五年(1874年)に維新政府の神仏分離令により社名を県社岡太神社と改め現在に至るも、その間明治6年(1873年)の大火により消失、明治35年(1902年)再建など波乱の歴史があります。

 

泰澄大師(引用:Wikipedia)

 泰澄(たいちょう)(天武天皇11年6月11日(682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日(767年4月20日))は、奈良時代の修験道の僧。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられる。「(こし)の大徳」と称された。

 越前国麻生津(福井市南部)にて、豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれる。14歳の時出家し、法澄と名乗る。越智山にのぼり、十一面観音を念じて修行を積んだ。

 

 大宝2年(702年)文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、豊原寺を建立する。その後養老元年(717年)越前国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した。同年、平泉寺を建立する。

 

 養老3年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行う。養老6年元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜った。天平9年(737年)に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞重祚により称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り泰澄に改名したと伝えられる。

 

2)祭神

2.1)建角身命(たてつのみこと)

〇概要

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)は、日本神話に登場する神である。鴨建角身命とも呼ばれる。

 別名には八咫烏八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)三嶋湟咋(みしまのみぞくい)三島溝咋三島溝橛耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)陶津耳命(すえつみみのみこと)陶津耳天日方奇日方武茅淳祇(あまひがたくしひがたたけちぬつみ)がある。山城の賀茂氏(賀茂県主)葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

 

『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。

 

『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。

 

賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)建玉依比売命(建玉依姫命)(たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)上賀茂神社の祭神を懐妊し出産したとされるが(『山城国風土記』逸文)、『古事記』や『日本書紀』、『先代旧事本紀』では事代主神または大物主神となり、櫛御方命媛蹈鞴五十鈴媛命五十鈴依姫命を生んだとされる。

 

〇系譜

賀茂氏の系譜神皇産霊尊天神玉命天櫛玉命加茂建角身命(八咫烏鴨武角身命)鴨建玉依彦命五十手美命(賀茂氏祖)」とされ、陶津耳命の系譜は「高皇産霊尊天活玉命天押立命陶津耳命玉依彦命生玉兄日子命(賀茂氏祖)」となっている。

 

 また『難波田使首系図』には「天活玉命(伊久魂命)天押立命(神櫛玉命)陶津耳命玉依彦命」と続いており、これに従えば「天神玉命(天活玉命、伊久魂命)天櫛玉命(神櫛玉命、天押立命)加茂建角身命(八咫烏、陶津耳命)鴨建玉依彦命(玉依彦命)五十手美命(生玉兄日子命)」となる。

 

●娘には神武天皇の妻である比売多々良伊須気余理比売の母・勢夜陀多良比売(活玉依毘売、玉櫛媛、玉依姫命、建玉依姫命)がいる。言い換えれば、加茂建角身命神武天皇岳母の父にあたり、加茂建角身命八咫烏同一神とすると、世代関係が大きく矛盾してしまうことになるため、実際に神武天皇の道案内をしたのは加茂建角身命の孫である生玉兄日子命と考えられている。

 

なお、八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神賀茂建角身命同一視する説を平田篤胤などが唱えている。

 

〇関係神社

●賀茂御祖神社

〔概要〕

 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)式内社(名神大社)山城国一宮二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。

 

 本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏賀茂建角身命の化身である。

 境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。

 

〔祭神〕

 *東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと)賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母

 *西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父(賀茂別雷命の祖父)

 

〔歴史〕

 京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。

 

 上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女斎王として賀茂社に奉仕した。

 

 平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。

 

●上賀茂神社

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楼門(引用:Wikipedia)

〔概要〕

 賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)式内社(名神大社)、山城国一宮二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 

 京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。

 

 賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として、京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。また、社報「上賀茂」が年2回発行されている。

 

〔祭神〕

賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)

 

〔歴史〕

 創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。

 

 『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命下鴨神社に祀られている。

 

 国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。

 

 延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。

 

 明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。 

 

岡田鴨神社

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本殿(右)・天満宮(左)(京都府指定文化財)(引用:Wikipedia)

 岡田鴨神社(おかだかもじんじゃ)は、京都府木津川市加茂町北にある神社。式内社(式内大社)で、旧社格は郷社。賀茂氏の祖である建角身命を祀る。

 

 『山城国風土記』逸文によれば、建角身命大和国葛城から山城国岡田賀茂を経て洛北賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まったとある。崇神天皇の治世に賀茂氏によって、建角身命に縁のある岡田賀茂の地に下鴨神社より勧請を受けて創建されたものと伝わる。

 

 文献上の初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条で、当社に従五位上の神階を授けると見える。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国相楽郡に「岡田鴨神社 大 月次新嘗」として、式内大社に列するとともに、朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。

 

 当社は元々現在地より北方(木津川河岸に「鴨大明神趾」がある)に鎮座していたが、木津川の流路が変わりたびたび水害に遭うようになったため、現在地に遷座した。現在地は元明天皇岡田離宮の旧跡と伝えられる。離宮が廃された後、その旧跡を保存するために村人が神社を創建し、「天神社」と称した。その境内に岡田鴨神社を遷座したものである。現在、天満宮は境内社となっている。

 

2.2)国狭槌尊(くにさっちのみこと)

〇概要

 国狭槌尊(くにさつちのみこと)は、日本神話に登場する神。主に「『日本書紀』の天地開闢の段に登場する神で別名国狭立尊(くにのさたちのみこと)。神代七代のうちの一柱「国之常立神」の2代目。『古事記』には大山津見神の子に天之狭土神・国之狭土神がいるが、国狭槌尊と同一神とは限らない。神名「サツチ」の「サ」は神稲、「ツチ」は土、即ち神稲を植える土の意か。」

「天地開闢」における神々(古事記による)(引用:Wikipedia)

〇関係神社 

・熊野速玉神社:下四社第九殿一万宮(祭神:国狭槌尊、本地仏:文殊菩薩) 

 

2.3)大己貴命(おおなむちのみこと) 

 大己貴命(大国主神)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。

 

〔別名〕出雲系の著名な神様、多数の異なる神名を持たれている。

  大穴牟遅神、国作大己貴命、八千矛神、葦原醜男、大物主神、宇都志国玉神、大国魂神、伊和大神、所造天下大神、地津主大己貴神、国作大己貴神、幽世大神、幽冥主宰大神、杵築大神 等

 

〔神話における記述〕

 『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。

 

 須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせ りびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。

 

 だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が約束したことにより、このときの名を杵築大神(きづきおおかみ)ともいう。

 

 大国主神を扱った話として、因幡の白兎の話根の国訪問の話沼河比売への妻問いの話が『古事記』に、国作り国譲り等の神話が『古事記』と『日本書紀』に記載されている(但し、『日本書紀』では「大国主神」という神名ではない)

 

 『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある。 また山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東など広範囲における地方伝承にも度々登場する。 

 

因幡の白兎

大国主の神話(八十神の迫害・根の国訪問・大国主の妻問い)

大国主の国づくり

葦原中国平定

 

〔別称〕

 大国主は多くの別名を持つ。(※名義は新潮社神名釈義から) 同名の記載順は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、その他祝詞や神社とする。

大国主神(おおくにぬし の かみ)・大国主大神 - 根国から帰ってからの名。「偉大な国の主人」の意

 

大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・於褒婀娜武智(おほあなむち)・大穴持命(おおあなもち-『出雲国風土記』、『伊予国風土記』逸文での表記』)・大汝命(おおなむち-『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち-)・国作大己貴命(くにつくりおおなむち-) - 誕生後の名。「偉大な鉱穴の貴人」の意

 

八千矛神(やちほこ-) - 沼河比売との歌物語での名。「多くの矛」の意

 

葦原色許男・葦原醜男・葦原志許乎/葦原志挙乎命(あしはらのしこを) - 根国での侮蔑を込めた呼称。「地上の現実の国にいる醜い男」の意

 

三諸神(みもろのかみ)大物主神(おおものぬし-)八戸挂須御諸命/大物主葦原志許(やとかけすみもろ の みこと/おおものぬしあしはらのしこ『播磨国風土記』での表記)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名。「偉大な精霊の主」の意

 

宇都志国玉神(うつしくにたま-)顕国玉神 - 根国から帰ってからの名。「現実の国の神霊」の意

 

大国魂神(おおくにたま-) - 各地の神社で同一視される。「偉大な国の神霊」の意

 

伊和大神(いわ の おおかみ)国堅大神(くにかためましし おおかみ)占国之神(くにしめましし かみ)大神 - 伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称

 

所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ) - 『出雲国風土記』における尊称。「地上の国造った神」の意

 

地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)- 祝詞『大国神甲子祝詞』での呼称

 

幽世大神(かくりよ の おおかみ)- 祝詞『幽冥神語』での呼称

 

幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ) - 「幽冥界を主宰する神」の意

 

杵築大神(きづき の おおかみ)

 このうち、大穴牟遅神について、記紀神話で少名毘古那神と連携して国土経営を行って著しい功績を残し、2神は多くの伝承に連称して現れる。白鳥庫吉は「オオナ」は「スクナ」(少兄、宿禰)に対する「大兄」と解釈している。また「ムチ」は「貴い神」を表す尊称で、神名に「ムチ」が附く神は大己貴のほかには大日孁貴(オオヒルメムチ、天照大御神の別名)道主貴(ミチヌシノムチ、宗像三女神の別名)布波能母遅久奴須奴神八島牟遅能神などのわずかしか見られない。

 

〔祀る神社〕

 大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。

出雲大社(島根県出雲市)/物部神社 境内 稲荷神社、一宮祖霊社(島根県大田市)/大洗磯前神社(茨城県大洗町)/神田明神 (東京都千代田区)/大國魂神社(東京都府中市)/氷川神社(埼玉県さいたま市)/一之宮貫前神社 境内 咲前神社(群馬県富岡市)/二荒山神社(栃木県宇都宮市)/日光二荒山神社(栃木県日光市)/大前神社(栃木県真岡市)/高瀬神社(富山県南砺市)/気多大社(石川県羽咋市)/気多本宮(石川県七尾市)/小国神社(静岡県周智郡)/富士山本宮浅間大社 境内 久須志神社(静岡県富士宮市)/諏訪大社 境内 大国主社、秋宮恵比寿社(長野県諏訪市、諏訪郡)/南宮大社 境内 樹下神社(岐阜県不破郡)/飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)/日吉大社 西本宮(滋賀県大津市坂本)/建部大社(滋賀県大津市)/砥鹿神社(愛知県豊川市)/出雲大神宮(京都府亀岡市)/愛宕神社(京都府亀岡市)/一宮神社(京都府福知山市)/地主神社(京都府京都市)/大国主神社(大阪府大阪市)/道明寺天満宮 境内 元宮土師社(大阪府藤井寺市)/大神神社(奈良県桜井市)/有間神社(兵庫県神戸市北区)/高砂神社(兵庫県高砂市)/伊和神社(兵庫県宍粟市)/中山神社 境内 国司社(岡山県津山市)/飛瀧神社(和歌山県那智勝浦町)/金刀比羅宮(香川県仲多度郡)/八桙神社(徳島県阿南市)/薬師神社 – 全国各地

 

 ほか、全国の出雲神社で祀られている。また北海道神宮(北海道札幌市)をはじめ北海道内のいくつかの神社では、「開拓三神」として大国魂神・少彦名神と共に祀られている。

 

2.4)継体天皇(けいたいてんのう)

 岡太神社の相殿に祀られています。

 (参考:岡太神社 http://okahuto-jj.jimdo.com/)

 

3)岡太神社の伝統行事

3.1)左義長(1月)

・開催日時:1月15日前後の日曜日午後1時

・場所:花筐公園

・祭り:小正月に厄年の人により五穀豊穣、天下泰平、家内安全、無病息災を祈願して大きな造り物を火で焚き上げる祭り

・細部:HP越前粟田部 蓬莱祀(左義長)参照 

 

3.2)市祭り(2月)

・開催日:2月9日 午前0時より

・場所:岡太神社拝殿

・祭り:商売繁盛を願う神事

・細部:HP越前粟田部 蓬莱祀(市祭り)参照 

 

3.3)徳日参り(観音様)(2月)

・開催日:2月10日 午前0時より

・場所:岡太神社拝殿

・祭り:徳日参りの日にこの観音様にお参りすると、一年分の徳を授かると言われている神事

 ・細部:HP越前粟田部 蓬莱祀(徳日参り・観音様)参照 

 

3.4)蓬莱祀(2月)

 ・開催日:2月11日

・場所:岡太神社と粟田部町内

・祭り:継体天皇の即位を祝って始められたとされている神事

・細部:HP越前粟田部

 

3.5)迹王の餅(10月)

・開催日:10月12,13日

・場所:岡太神社と粟田部町内

・祭り:継体天皇が盤余玉穂宮に遷都された日を祝って始められたとされる神事。

・細部:HP越前粟田部 蓬莱祀(迹王の餅)参考

 

3.6)岡太神社祭礼(10月)

・開催日:10月12日~14日

・場所:岡太神社

・祭り: 神輿渡御や子供神輿、神楽「浦安の舞」が行われる。

 

4)神事(継体天皇に係る主な神事)

4.1)蓬莱祀(おらいし)(引用:「蓬莱祀」http://www.oraishi.jp/

悠久の時を超え、現代に息づく粟田部の「蓬莱祀

花筐自治振興会        蓬莱祀保存会

(引用:「蓬莱祀」HP)

〔HPの項目〕

◇蓬莱祀の「歴史」 蓬莱祀の「造物」 蓬莱祀の「祭事」 

蓬莱祀の「流れ・地図」 粟田部の文化財 粟田部のみどころ

 

〔HPの概要〕

「粟田部と蓬莱祀」地域に根付く蓬莱祀

 雪で山車も曳き手も真っ白になる時期の、2月11日に粟田部(あわたべ)の「蓬莱祀(おらいし)」が毎年執り行われています。ここ越前市粟田部町は、かつて近隣の中心地として栄え、県社「岡太神社」をはじめとして多くの寺社が町並みの中に溶け込み、自然豊かな「花筐公園」では春の桜・秋のもみじが楽しめます。

 

 蓬莱祀は岡太神社の神事のひとつで、地元では継体天皇の即位を祝って始められたとされています。今の蓬莱祀は、五穀成就・天下泰平を願い、町の子供からお年寄りまで大勢の人が山車を曳いて町を練り歩きます。この様に地域の人たちが楽しみながら、遠い昔から伝わる蓬莱祀を受け継いでいます。長い歴史と特色ある蓬莱祀は、平成17年に国選択無形民俗文化財に選ばれ、同年に蓬莱祀保存会を設立して継承・発展に努めています。

 

4.22)迹王の餅( どうのもち)           

 私(noriokakyou)も24歳ごろに、当番者の一人としてこの神事に参加しました。

 毎年、10月12,13日、岡太神社と粟田部町内で行われ、継体天皇が遷都された日を祝って始められたとされる神事です。 

 

  岡太神社の「堂」「宮」講組織より若い当番者(数え年25歳)が選ばれ、12日は神社に献上する餅を当番者宅から集めて廻り、翌朝13日に講の全員に渡されます。粟田部では男大迹皇子(継体天皇)から餅をいただいた伝承を大切にし、堂の餅迹王の餅と呼んでいます。

 

 迹王の餅の始まりは、継体天皇が大和の磐余玉穂宮に遷都された日を祝して始まったとされます。また男大迹皇子がこの地に潜竜の頃、常に深く御心を民事に留められ、その恩徳に報いるため郷民が餅をついて奉納したところ、皇子からも餅を郷民に下賜されたとされています。

 

 最近、迹王の餅の最も古い記録が見つかり、文化10年の宮西座の記録によると享保6年(1721年)に餅を献上した人の名前が残るので、少なくとも約三百年の歴史がある伝統を誇る神事です。 (参考HP:「迹王の餅」http://www.oraishi.jp/midokoro/midokoroIn/gyouji_004.html 


(2)皇子ヶ池


 継体天皇の皇子である27代安閑天皇、28代宣化天皇がこの地で生まれた時、産湯に使われた池と伝えられています。花筐公園の一角にあり周囲は格式高い6角形の玉垣をめぐらし、横の井戸からは今も清冽な水が湧き出ています。

             (参考HP:「岡太神社」http://okahuto-jj.jimdo.com/


(3)佐山姫公園


佐山姫公園(福井県HP)

 継体大王と照日の前が出会ったとされる場所で、御所跡とも伝えられています。また照日の前は佐山姫と呼ばれていたともいわれています。

 照日の前は、謡曲「花筐」に出てくる継体天皇が当地で愛した侍女と言われています。


(4)故郷:粟田部の歴史の参考HP


1)花筐人(かきょうびと):郷土の千五百年の歴史大河 (参考HP:http://kakyou.jimdo.com/

2)花筐自治振興会:(参考HP:http://kakyo-jichi.jimdo.com/


2 旧岡本村(現越前市)


(1)大瀧神社・岡太神社


「大瀧神社・岡太神社」の社標と一のッ鳥居 川上御前 大瀧神社奥の院(奥:岡太神社)(写真:参考HP)

1)神社の概要(引用:Wikipedia)

 大瀧神社・岡太神社は、福井県越前市大滝町にある神社です。上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建っていますが、下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記されています。国の重要文化財指定名称は「大滝神社」です。 

 

2)神社の歴史(引用:Wikipedia)

 大滝神社の伝承によれば、養老3年(719年)、この地を訪れた泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒権現を建立したと云われています。後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となっています。

 

 岡太神社については、約1500年前、大滝町の岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのが始まりとされています。この伝説の姫『川上御前』を、和紙の神様・紙祖神として祀ったのが岡太神社です 。

 

 延元2年(1337年)足利軍の兵火で社殿が失われ、岡太神社の祭神を大瀧神社の相殿に祭られました。さらに天正3年(1575年)、織田信長の一向一揆攻略の際、大瀧寺一山が兵火に遭い消失し、再建時に大瀧神社の摂社として境内に祀られるようになりました。

 

 大正12年(1923年)大蔵省印刷局抄紙部川上御前の分霊が奉祀され、岡太神社は名実共に全国紙業界総鎮守となっています。

 

  神社の格としては大瀧神社の方が上でありますが、住民達が崇拝してきたのは川上御前であったため「大瀧神社・岡太神社」と並記していると考えられています 。

 

3)旧粟田部町と旧岡本村の岡太神社

 平成17年 (2005) 10月1日、福井県の嶺北地方に新しい都市が誕生しました。それまでの武生市今立町が合併してできた越前市です。

 

 その中の今立町は、54年前の昭和31年(1956)9月に、粟田部町岡本村が合併して新設された町でした。当時粟田部町と岡本村と呼ばれていた2つの地域には、それぞれ「岡太神社」が鎮座しています。両社の距離は直線で2キロも離れていません。だが、岡太神社の場合、漢字表記は同じでも、呼称が異なります。粟田部町では「おかふとじんじゃ」と呼び、岡本村では「おかもとじんじゃ」と呼んでいます。

 

●旧粟田部町の岡太神社の祭神:建角身命・國狹槌尊・大己貴命

●旧岡本村の岡太神社の祭神 :川上御前 

 

4)継体天皇との関わり(地元に伝わる伝説)

  継体天皇がまだ男大迹皇子と呼ばれこの地に住んでいた頃、岡太川の上流の宮ケ谷というところに一人の美しい女性が現れて、こう言いました。

 

 「この村里は谷間で田畑が少なく、暮らしにくいところである。しかし清らかな谷水に恵まれているから、紙を漉(す)けば生活は楽になるだろう」

 

 そして自ら上衣を脱いで竿にかけ、親切に紙の漉き方を教えました。喜んだ里人が名前をたずねると、「岡太川の川上に住む者」と答えて立ち去ったといわれています。それ以来、村人はこの女神を「川上御前」と崇め、岡太神社の祭神として祀ってきたという。 

 

【参考HP】大瀧神社ー橿原日記http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0816.htm

【参考文献】

・小葉田淳編著『岡本村史』岡太神社・大滝神社重要文化財指定記念事業実行委員会著「神と紙:その郷」 


3 旧味真野郷(現越前市)


(1)味真野神社


味真野神社(福井県HP)   謡曲「花筐」記念碑(福井県HP)  継体天皇御宮跡記念碑(福井県HP)

(引用:Wikipedia抜粋)

1)概要

 継体大王を祀る神社として、昔から人々に親しまれている神社で、謡曲『花筐』「継体天皇御宮跡」の記念碑が建立されている。

 また、ここは室町時代に管領斯波氏の一族が移り住み、鞍谷姓を名乗って暮らしていたと伝えられている。また、神社境内が館跡となることから、鞍谷御所跡と言われている。

 

2)関連氏族(斯波氏)

 斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏奥州探題最上氏羽州探題を世襲した。

 

2.1) 足利尾張家
2.1.1)嫡子から庶子へ 

〔足利家氏の母・伯父〕

・斯波氏は、鎌倉時代足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。家氏の同母弟兼氏(義顕)は、室町時代九州探題を世襲する渋川氏の祖である。家氏の母は、執権北条氏の有力一門名越氏の出身で、当初は泰氏正室であった。しかし、兄の名越光時らが嫡流の北条得宗家に反乱を起こしたためか、母は側室に退き、家氏も嫡子から庶子へと改められた。代わって得宗家の北条時氏の娘が泰氏の正室となって頼氏を儲(もう)け、これが足利氏嫡流を継承することとなった。

 

足利家氏の格

・だが元は嫡子であり足利宗家とは別に将軍に直接仕える鎌倉殿御家人となった足利家氏は、自立できるほどの地位と所領を持てずに宗家の家人になっていった他の足利氏庶流(仁木氏・細川氏など)とは一線を画した存在であった。宗家である弟の頼氏が早く死去したため、その跡を相続した家時後見人となって惣領を代行したことなどもあり、家氏は足利一門中でも宗家に準ずる格を有した。

 

〔足利家氏の子孫〕

・この子孫が代々尾張守に叙任されたため、足利尾張家と呼ばれる家となる。このように鎌倉時代の斯波氏は足利姓を称する足利別流の扱いであり、斯波氏として散見され始めるようになるのは室町時代の半ばになってからである。

 

2.1.2)室町幕府草創期の重鎮
〔足利尊氏の与党〕
 後醍醐天皇の倒幕運動に宗家の足利尊氏がくみすると、足利尾張家当主足利高経や弟の家兼らもこれに従って活躍した(元弘の乱)。さらに足利尊氏建武政権たもとを分かち、新たな武家政権(室町幕府)を開始してからも、高経兄弟尊氏与党として南朝方の将・新田義貞を越前で討つなど活躍し、幕府草創期の有力者であった。
〔陸奥国と出羽国へ進出〕
 足利高経の嫡男家長が『太平記』に「志和三郎」あるいは資料に「志和尾張弥三郎」などの名で現れるあたりが斯波(志和)を名乗るはじめで、家長所領斯波郡のある陸奥国で奥州総大将兼関東管領として南朝方の北畠顕家らと対抗し、若くして戦死した。
 足利家兼奥州管領として下向して陸奥国をまとめ上げ、南朝勢力の駆逐に成功する。出羽国にも次子を送り込み、奥羽両国での子孫繁栄の礎を築いた。
観応の擾乱への兄弟の対応
 観応の擾乱兄・高経足利直義を支持し、尊氏を支持した弟・家兼と対立した。その後は尊氏に降ったものの、引付頭人に任ぜられた家兼と比較して冷遇され、一時期足利直冬と結んで幕府に反抗するなど、不遇の時代を経験している。
2.1.3)執事(管領)就任
〔高経四男の執事就任〕
 尊氏の死後2代将軍義詮の時代となり、高経は執事への就任を請われて復権の道が開かれるが、執事とは足利宗家の家政機関であり、高師直に至るまで宗家譜代の被官である高氏が代々務めるところであった。つまり執事就任格下・従者の扱いを受け入れることともなり、宗家とほぼ同格という意識を持つ足利尾張家(斯波氏)にあって、打診された高経や三男氏頼は就任を渋っていた。結局、高経の四男でわずか13歳の義将執事に就け、高経がこれを後見する形がとられた。
〔執事職から管領職へ〕
 しかしこの頃から、執事職は単に足利宗家の家政機関としてその家領や従者を管理する立場を超え、幕政に参与する有力守護大名の座長的性格を持つ管領職へと形を変え、管領の実父として高経は幕府の主導権を握ることとなる。また、四男にして年少であった義将も、執事・管領の地位上昇の結果、戦死した長男家長に代わって斯波氏嫡流の位置に上った。
〔高経の貢献と失脚〕
 高経は、義将を執事(管領)に就けたほか、五男の義種を侍所頭人、孫の義高(次男・氏経の子)引付頭人に就けて一門で幕府要職を固める体制を構築する。足利一門最高の家格を誇る長老であり、元弘の挙兵以来の元勲である高経の影響力は大きく、西国の有力大名であった大内氏山名氏の幕府への帰順にも成功し、高経体制は幕府の安定化に一定の成果をあげた。
 しかし幕府の権威を高める政策が早急すぎたことや、次男で九州探題の氏経が九州攻略に失敗したこともあって諸侯の高経への反感が高まり、高経の協力者であった佐々木道誉らの策謀によって失脚した貞治の変

 

2.2)武衛家

2.2.1)名の由来

 管領義将以降室町幕府三管領家の一つとなった斯波氏嫡流は、前述の通り実際には室町時代にも斯波姓で記述される例はほとんどなく、武衛(家)と呼ばれる。基本的には当時「武衛(屋形)」「勘解由小路(武衛)」と記されている。

 

 武衛ぶえいとは兵衛府の唐名で、代々当主が兵衛府の(かみ=長官)(すけ=次官)に任ぜられたことに由来する。は唐名を武衛大将軍といい、室町幕府では初代将軍足利尊氏やその弟で幕府の実質的な首長であった足利直義、また尊氏の子で鎌倉公方の基氏など将軍の近親者に限られていたが、義将が任じられて以降斯波氏当主も兵衛督さひょうえのかみに任官するのが慣例となった(左兵衛督まで進んだ可能性がある当主は義将・義重・義淳・義敏・義寛の5名)

 

 勘解由小路(かでのこうじ)は洛中の小路の名で、武衛家がここに本邸を構えたことによる。邸宅は武衛陣と呼ばれ、現在でもその一帯が武衛陣町(京都市上京区)という地名で続いている。

 

2.2.2)三管領の筆頭

 高経死後に義将が幕政に復帰すると、時の管領細川頼之と対立。頼之の政策に批判的な反細川派の諸侯を結集させ、3代将軍義満に対し頼之の罷免を求める康暦の政変を起こして再び管領となった。義将は、将軍義満と幕府全盛時代を支え続け、義満の没後も4代将軍義持を補佐した。

 

 この間、朝廷から打診のあった義満に対する太上天皇の追号を拒否したり、屈辱的との批判が多かった勘合貿易の廃止を提言するなど、康暦の政変以降自身の死まで、およそ30年間にわたって幕府の宿老として大きな影響力を持った。また三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏・細川氏とともに管領を出す家柄、特に三管領筆頭の家柄として重んじられた。

 

 義将の子義重は、応永6年(1399年)の応永の乱における大内氏討伐の功により尾張守護職を、さらに後には遠江守護職も加えられて、以後はこれに本領であった越前を合わせた3か国の守護を世襲した。

 

2.3)勢力後退

 応永17年(1410年)、宿老として長年にわたり幕府に大きな影響力を与えていた義将が没すると、義重の子義淳は管領職を解任されてしまう。応永21年(1414年)には義将の甥満種(義種の子)が将軍義持の不興を被り、加賀守護職を失って高野山に隠退。永享元年(1429年)に足利義教が6代将軍に就任すると義淳が再び管領となったが、強権的な政治を行う義教宥和的な政策を目指す義淳は相いれず、義淳は度々管領の辞職を申し出ている。やがて嫡男義豊にも先立たれ心身ともに疲弊した義淳は3年後の永享4年(1432年)にようやく管領の辞任を許され、翌永享5年(1433年)に病没する。

 

 義淳の後嗣となった弟の義郷やその子の義健も相次いで早世し、その間に勢力を伸ばした細川氏畠山氏に押され、武衛家は大きく後退してしまう。細川氏が畿内を抑え、畠山氏も畿内近辺に分国を有すのに対して、武衛家の分国は尾張・越前といった京都から遠い場所に分散していた上、当主は京都に滞在していることが多かったため、支配は守護代に委任せざるをえなかった。このため次第に分国の実権は越前守護代甲斐氏・朝倉氏尾張守護代織田氏らの重臣らに牛耳られるようになっていった。 

 

2.4)足利一門の高家

 この間、6代将軍義教の時代(永享年間)御一家制度が整備されたとされる。「御一家」は足利一門の中でも家格の高い吉良氏・石橋氏・渋川氏(京都家)の三氏を三管領家(三職)と同格に遇し(一説に吉良氏は三職に優越するという)、かつ後世には足利将軍家断絶の際にはその継承権を持っていたとの一種の伝承がささやかれた家格であった。

 

 「御一家」の三氏と斯波氏は " 足利氏惣領の庶兄 " を祖とする共通点を有し(見方を変えれば斯波氏にも潜在的な将軍家継承権があり、実際に5代将軍足利義量の没後にはそうした噂も流されたことが『看聞御記』に記されている)、三氏のうち、石橋氏足利尾張家分家筋渋川氏弟筋同族なので、武衛家の家格も御一家相当の高さがあり、実際に室町殿の書札礼を見る限り、吉良氏はもちろんのこと堀越公方家などの将軍連枝と同じ書札礼「状如件」の書止文言)を適用され、前述の通り同時代の史料のほとんどで「斯波」の名字は現れず「武衛」または「勘解由小路武衛」と記されるなど(なお吉良氏は「吉良」と名字で記述される)、戦国後期に至るまで室町幕府体制下では別格の扱いであった。それにもかかわらず三職に留められたのは、政治的に非力な御一家と異なって勢力の大きい鎌倉公方足利氏武衛家将軍家継承の可能性から排除するためであったとも考えられる。

 

 また、鎌倉公方や管領畠山氏・細川氏を含む諸侯が将軍から偏諱を与えられる場合、通常は諱の下の一字を賜るのであるが、武衛家の場合は御一家と同様に将軍家代々の通字である「義」字を賜るのを慣例としており、周囲からも「将軍の家臣」では無く「将軍の一族」と見られていたと思われる。また外国使節も武衛家をして「王の次人」と表現しており、これらを見ても武衛家が御一家と同等以上の高い待遇を受けていたことを示している。

 

2.2.5) 家督争い

 寛正6年(1465年)義健没後、一門である大野斯波家からの養子義敏と、同族渋川氏出身義廉とが家督を巡って争った(武衛騒動)。この争いや将軍家・畠山氏の家督相続が原因となって応仁元年(1467年)応仁の乱が起きる。義廉は西幕府の管領として西軍の主力となった。一方東軍に属した義敏も越前に下ってその一円支配を目指したが、越前守護代の朝倉氏に守護職を奪われ、また遠江も駿河守護今川氏に侵食され、尾張で義敏の子孫が守護代の織田氏に推戴されて存続するのみとなった。

 

 なお、義廉の子義俊は、将軍家連枝(もしくは越前に在国した斯波一族)とも伝わる鞍谷公方家(今立斯波家)を継ぎ、形式的な越前国主として朝倉氏に推戴された(朝倉氏滅亡まで鞍谷家は続く)

 

2.2.6)尾張在国

 尾張のみを残すところとなった武衛家であるが、乱後にすぐさま守護代織田氏傀儡となったわけではなく、斯波義敏の子義寛が9代将軍足利義尚による六角高頼征伐へ織田氏(応仁の乱で大和守家・伊勢守家の2つに分裂していた)を従えて参陣しているように、武衛家は依然として守護代権力に対して優越した存在であった。

 

 また、義寛が尾張に在国し続けられた背景として、隠居であった父・義敏が京都に滞在して幕府要人との政治的関係を保っていたために領国経営に専念できた側面があり、義尚期の武衛家はむしろ政治的影響力を回復させていたとする指摘もある。武衛家が中央政治において力を失ったのは明応2年(1493年)明応の政変とその直後に発生した今川氏の遠江侵攻で義寛がこれまで密接な関係にあった10代将軍足利義材との関係が失われて、新しく将軍となった足利義澄との関係が十分に構築できなかったのが最大の原因であったとも考えられる。

 

 義寛の子義達の頃にも、遠江奪還のための出陣を繰り返すなど、尾張守護の実態は保っていた。義達は、対立した守護代織田達定(大和守家)を合戦で討ちとるなどして織田氏の勢力を抑え、あるいは尾張を中心とした戦国大名へと成長する可能性もあった。しかし、今川氏親に敗れて遠江奪還に失敗し、義達の幼少の子義統に家督を譲った。義達は通説では大永元年(1521年)に没したとされているが、実際にはそれから10年以上後にあたる天文2年(1533年)には義敦と改名した義達が尾張守護に在任しており、近年の研究ではそれから48年後の永禄12年(1569年)まで健在であったとする説が有力になっている。これが事実だとすれば、義達(義敦)はその後の武衛家の没落はおろか、因縁の相手であった今川氏の崩壊(駿河侵攻)をも目の当たりにしたことになる。

 

2.2.7)織田信長の台頭

 義統が当主になると、武衛家は急速に衰え、その一方で大和守家の重臣織田信秀が頭角を現し、守護や守護代の勢力をしのぐようになる。天文23年(1554年)に守護義統が守護代織田信友に殺され、義統の嫡子義銀は織田信秀の跡を継いだ信長を頼って落ち延びた。信長にとって信友(大和守家)は本家・主君筋だが、信長守護殺害の仇討を名分に信友を討ち取った。信長は織田伊勢守家はじめとする織田一族も倒し尾張一国をほぼ平定した。

 

 信長は外交上の配慮から、斯波義銀を尾張国主・清洲城主に据えて隠居する形をとって隣国三河の吉良氏との同盟を推進したが、義銀が吉良義昭と会見する折、両者が席次をめぐって対立を起こした。前述のように武衛家将軍家と同格の家柄を誇る名門中の名門であった。対する吉良氏「御所(足利将軍家)絶えれば吉良が継ぐ」と伝えられ、鎌倉以来、足利本家の当主が幼少の折は当主を代行するなど、その家柄は斯波氏に劣ることはないと主張した。このときの同盟は不調となったものの、永禄4年(1561年)に義銀や吉良義昭、それに尾張国内にあった将軍家御一家の石橋氏は結束し、駿河の今川氏と通じて信長打倒を画策したものの発覚して追放され、尾張守護としての武衛家は滅亡した。

 

2.3)武衛家分家

2.3.1)大野斯波家

 高経の五男義種が、兄義将の守護国越前において大野郡を任された(大野郡代)ことに始まる家。歴代当主はおおむね民部少輔から修理大夫に任官したため、別に修理家・民部家と呼ばれることもある。武衛家上屋形と称されたことに対して、大野家下屋形と称された。

 

2.3.2)末野斯波家

 高経の次男氏経の系統とされる。『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の内の「末野殿」に相当する家と考えられる。幕府の外様衆の家格に列し、後に義敏の子である義延(よしのぶ/よしなが)が継承したといわれる。

 

2.3.3)今立斯波家

 系統不詳ではあるが、越前国今立郡鞍谷に居し、大野斯波家と同じく越前国内の分郡守護的立場にあったとされる。『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の筆頭格「越前斯波殿」に相当する家と考えられる。『奥州斯波系図』では高水寺斯波家より郷長入嗣したと伝わり、寛正から大永年間には政綿(活動期間が長期にわたるため、同名の2代説あり)の活動が見られる(『大滝神社文書』・『上杉家文書』等)。一説に将軍家連枝と伝わる鞍谷公方はこの今立斯波家と同一であったといわれる。 

 

2.3.4)五条斯波家

 系統不詳。『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の内の「五条殿」に相当する家と考えられる。高水寺斯波家関係史料である『稗貫状』にその名が見えるため、奥州斯波氏と何らかの関係があったものと思われる。 

 

2.3.5)千福斯波家

 大野満理の系統か。越前国南仲条郡千福に居し、『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の内の「仙北殿」に相当する家と考えられる。義敏の子である寛元(ひろもと/とおもと)が継承し、朝倉氏との合戦で討死したといわれる。その後は徐々に朝倉氏の傘下に入り、天正期に千福式部大輔・同遠江守親子の活動が見られる。 

 

2.4)奥州斯波氏

 奥州斯波氏は奥州・羽州に定着した斯波氏の庶流をいう。高経の弟斯波家兼の系統である大崎氏、最上氏、黒川氏、天童氏(元々は新田一門)高経長男の系統という高水寺斯波家などがあり、特に大崎・最上両氏は奥羽両国の探題職を歴任した。斯波氏は足利一門筆頭の家柄を誇り、勢力も大きいことから嫡流である武衛家も奥州に拠点を持った斯波氏の一門(大崎氏、最上氏、高水寺斯波家、天童氏など)らも当初は大いに栄えた。

 

4.1) 大崎氏:詳細は「大崎氏」を参照

 そもそも斯波氏の名乗りの起源は陸奥斯波郡とされており、奥州は斯波氏にとっては本貫である。南北朝時代の建武2年(1335年)斯波家長が南朝側鎮守府将軍北畠顕家を抑えるために奥州総大将に任じられるが、足利尊氏の子足利義詮の執事を務めていたため下向はしなかったとみられる。現地勢力である相馬氏などを味方に付けたという。その後、奥州総大将は軍事指揮権だけでなく、検断・沙汰の権限、管国内の知行安堵、恩賞などの推挙権を持つ奥州管領に格上げされる。観応の擾乱期には畠山国氏・吉良貞家らが任ぜられたが、斯波家兼が管領に任ぜられると四管領並立の混乱期を平定し、子孫である大崎氏がやがて世襲する。

 

4.2) 最上氏:詳細は「最上氏」を参照

 斯波家兼が四管領並立を制し奥州管領の地位を確保すると、1356年次男斯波兼頼を出羽国へ送り込み、兼頼は南朝勢力を巧みに退けながら最上郡への勢力の扶植に成功する。出羽国における南朝側の最後の組織的な抵抗となった漆川の戦いには、鎌倉公方足利氏満と大崎氏も兵を出したという。室町幕府から屋形号を許され最上屋形を称するようになって以降は最上氏を名乗り羽州探題を世襲する。しかし、分散配置した庶流が次第に独立傾向を強めるなど一枚岩とは言えない状況となる。

 

4.3)高水寺斯波家

 高水寺城(現在の岩手県紫波郡紫波町高水寺)を拠点に栄えた斯波氏(奥州斯波御所家)の一族は1335年鎌倉で敗死した斯波家長の直系子孫だという。『続群書類従』には簡易な系図が挙げられているものの裏付となる資料も乏しく、系図は必ずしもはっきりしていない。南北朝時代に高水寺城によった斯波一族は、延文年間(1356年 - 1360年)大巻舘にあった南朝側河村氏を次第に圧迫し、応永3年(1396年)河村秀基はその傘下に下ったという。かくして斯波郡一帯を傘下に収めた斯波氏は足利氏の血を引く貴種であることから「斯波御所」「奥の斯波殿」と尊称され、書札礼でも大崎氏と同格であった。永享7年(1435年)に発生した和賀の大乱では大崎氏の職務代行者として北奥の諸氏を指揮している。

3)鞍谷氏

 鞍谷氏(くらたにし)は、室町時代の越前国にあった足利氏の一門。3代将軍足利義満の子であった義嗣の子・嗣俊に始まるという説があるが、奥州斯波氏の出身ともされる。いずれにしても足利一門の中でも家格は高く鞍谷御所と称した。戦国期には越前国主朝倉氏客将として遇され、姻戚関係を重ねた。

 出身地は、越前国今立郡鞍谷庄(※)とされている。

 

※鞍谷庄は、福井県今立郡池泉村(蔵谷)、味真野村池泉、武生市池泉、現・越前市池泉町。他に、鞍谷は越前市蓑脇町の一地区の名で、鞍谷神社などが存在する。越前市・鯖江市を流域とする鞍谷川に名を残す。

 

3.1)出自

3.1.1)足利将軍連枝説

 『越前名勝志』等によると、鞍谷氏の祖は足利義満の子義嗣であるとされる。応永23年(1416年)上杉禅秀の乱の際に義嗣が兄の将軍義持と対立して逆名を受けたため、右兵衛佐嗣俊越前に逃れ、 今立郡鞍谷庄に住して鞍谷御所と称したという。また義嗣の後は掃部頭嗣時刑部大輔嗣知と続いたという。ただし、義嗣の子については『続群書類従』所収の「足利家官位記」等の系図にも記載されておらず、義嗣の子について記した良質な史料は存在しない。これらの説は江戸時代に流布されていた「鞍谷氏系図」によるものである。

 

3.1.2)奥州斯波氏出身説

 以上の鞍谷氏を足利義嗣の子孫とする説は江戸時代の越前に流布した『鞍谷系図』によるもので、『奥州斯波系図』には斯波詮教志和御所奥州斯波氏の子斯波郷長が越前に移り住んで鞍谷氏を相続したが顧みられていなかった。

 

 佐藤圭は、良質な系図が残っていないものの、斯波氏一門の中でも家格の高い奥州の一族が越前に移り、斯波氏宗家が朝倉氏に追われた後は越前における斯波一族諸氏(佐藤は「越前斯波氏」と呼ぶ)の中核的存在になったこと、当時鞍谷氏は斯波一族と認識されていたのに対して足利将軍家の出(義嗣の子孫)であることを示す同時代史料は見られないこと、さらに当時の土地文書から鞍谷氏の所領はもともと斯波氏宗家のものであったことが確認できることから、鞍谷氏は将軍家出身ではなく奥州斯波氏の流れを引く有力一門で、後に斯波氏宗家に代わる存在になったとする。

 

 斯波義敏が将軍足利義尚の求めに応じて文明13年(1481年)にまとめた『斯波家譜』に、「斯波の先祖は高経の弟の左京権大夫家兼という者で、関東(陸奥国)の知行地斯波郡に家兼を置いたことから名字を斯波とし、その子孫は今日も関東にある。近年越前へもその一族が移って来て斯波と名乗っている」と記されている。また、永正11年(1514年)成立の『奥州余目記録』が載せる奥州探題大崎教兼(家兼の子孫)の文明3年から5年頃の記事によれば、「越前には武衛様御一家、斯波殿、仙北殿、五条殿、末野殿へは謹上と書き上げる」と厚礼の書札礼をとることと記されている。ここでいう越前の「斯波殿」は、『斯波家譜』の奥州から移り住んだ斯波一族と同じものとみられる。永正8年(1511年)成立の『大崎家鹿島社古記録』は、「奥州の斯波殿は越前の斯波をお持ちなので斯波殿と呼ぶ。当国の斯波の郷へ下って四代になる」といい、奥州斯波氏の下に「越前の斯波」を位置付けている。時代は下るが、連歌師宗長が編集に関与した『今川家譜』に、「(斯波氏の祖)家氏の子孫は、奥州斯波、同国の大崎、出羽の最上、越前鞍谷、同国の大野、尾張の武衛などである。ただし尾張の武衛はこの家の嫡流である。これを尾張流という」とあり、ここで鞍谷氏は斯波氏一門として現れる。

 

 足利(斯波)高経の四男義将の子孫で管領家となった斯波氏宗家はもっぱら「武衛」と称されているが、その一方で本貫の斯波郡には家兼の子孫ともあるいは高経の長子家長の子孫ともいう奥州斯波氏が南北朝時代以来定着しており、「斯波殿」とは彼らおよび越前に移った一族の当主を指した。佐藤は、蜷川親元の『親元日記』寛正6年(1465年)3月28日条などに見える「斯波四郎三郎殿(政綿)」を「越前斯波氏」であるとする。そして鞍谷を領していた斯波政綿が、『朝倉宗滴話記』に見える朝倉孝景の長女が嫁した「鞍谷殿」であろうと見る。

 

佐藤は、没落していた奥州斯波氏の勢力が戦国中期に一時的に回復した様子が見られることについて、鞍谷氏から詮基という人物が下って奥州斯波氏を再興したという所伝からその可能性も指摘している。

 なお佐藤は、斯波義俊と栄棟を同一人物と見て鞍谷氏の名跡を継承したとする説には矛盾があり再検討すべきとし、斯波義廉(義俊の父)の実家渋川氏はむしろ加賀国から越中国にかけての一帯につながりを持っており、戦国時代に渋川氏や管領斯波氏(義廉)の一族がいた可能性が高いのは加賀方面で、鞍谷氏とは直接の関係はないと見る。 

 

 鞍谷御所は越前守護斯波氏の庇護下にあったが、やがて斯波氏は家督継承を巡って斯波義敏斯波義廉の二派に分かれ、これが一因となって応仁の乱が起こる。乱の最中、東軍の総大将・管領細川勝元は斯波氏被官で西軍の有力部将であった朝倉孝景を寝返らせ、越前支配を認めた(守護職補任の密約だったともいう)。斯波義敏・義寛親子は、越前の回復を目指し、乱後も幕府にたびたび訴訟を起こしたが、幕府は朝倉氏の「武衛への参仕」を条件とする調停案を示した。ここで朝倉氏は、斯波義廉の子を名目上の越前国主・斯波氏当主(武衛)として立てることでその条件を遵守する形を取り、義敏・義寛派の越前回復の主張に対抗した。この義廉の子(栄棟喝食)を斯波義俊に比定し、これが女婿として鞍谷氏の名跡を継承したとする考え方もあるが断定はできない。

 

3.2)鞍谷氏のその後

 応仁の乱後、朝倉氏が名実ともに守護となると鞍谷氏朝倉氏客将化し、越前随一の名門として、また代々朝倉氏と姻戚関係を結んで一定の権威を保持した。鞍谷御所嗣知の息女は朝倉義景の側室になっている。後に足利義昭が義景に庇護を求め、兄である将軍義輝を討った三好三人衆松永久秀を討伐するための出兵を求めてきたとき、義昭の従者であった明智光秀が義景に取り入って家中に勢力を築いたが、嗣知は義景に讒言して光秀を退けたという。足利義昭も義景が討伐の兵を挙げないことにしびれをきらせ、光秀も朝倉家中において立場を失ったことから、主従は尾張の織田信長を頼ったが、皮肉にもこれで大義名分を得た信長によってやがて朝倉氏は滅ぼされる。以後の鞍谷氏の事績は明らかではないが、信長の武将である佐々成政に仕えた鞍谷民部少輔の名が見える。

 

3.3)系図

(足利将軍連枝説による)

                足利義満
            ┏━━━━┫
            足利義持 足利義嗣
                 ┣━━━┳━━━┓
                 梵修   清欽   嗣俊
                  ┃
                     嗣時
                    ┃
                    嗣知

  以上の系図は(名著出版 1993)を参考にしたもの。なお、同系図では嗣俊から嗣時の間が省略されている可能性がある

 なお、「続群書類従 巻百十三 系図部八」の『奥州斯波系図』では奥州斯波氏の斯波詮教の三男、斯波郷長(民部少輔)が越前国鞍谷氏を相続したとあるが、詳細な関係は不詳。 


(2)五皇神社


五皇神社(福井県HP)

 応神大王から継体大王の父彦主人王までの5柱の御神霊を祀る神社であり、継体大王が学問所として開いたという伝説も残されています。

〇御祭神

男大迹王子/譽田別皇子/稚野毛二泒皇子/太郎子皇子/汗斯王子/彦主人王子/伊弉諾尊

 

〇境内社

大洗磯前神社、神明神社


(3)越前の里 味真野苑・万葉館


継体天皇と照日の前像(福井県HP)

 継体大王ゆかりの地・味真野は、『万葉集』とも関わりが深いことでも有名です。継体大王の花がたみ像のほか、『万葉集』にある歌の歌碑や『万葉集』について学べるのがここです。

 聖武天皇の命により味真野で暮らす中臣宅守と都に残された妻、狭野弟上娘子(おとがみのおとめ)。離ればなれになってしまった彼らの「逢いたい…」と願う気持ちが、相聞歌となって残されました。苑内では二人の相聞歌碑を季節の木々や美しい花々が見守るように咲き誇り、いつも静かな雰囲気に包まれています。

 万葉館では『万葉集』と味真野の関わりについて学べるほか、一般から公募した「恋のうた」の入選作品を展示し、花かごを手にする照日の前を描いた上村松園の復刻画も展示されています。

 

※中臣宅守:奈良時代の貴族・歌人。刑部卿・中臣東人の子。官位は従五位下・神祇大副。天平12年(740年)頃に蔵部の女孺であった狭野弟上娘子を娶ったときに越前国に流罪となる。罪に問われた事情は明らかでなく、政変がらみとするものと禁を犯して娘子と結ばれたものとの両説がある。同年6月に大赦が行われるが、罪は赦されなかった。天平13年(741年)9月に再度行われた大赦により帰京したか。天平宝字7年(763年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵するも、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱に連座して除名された。越前国配流時に狭野茅上娘子と交わした和歌を中心に40首が『万葉集』に採録されている。

※狭野弟上娘子:奈良時代の下級女官。狭野茅上娘子(さののちがみの おとめ)とも表記される。斎宮あるいは後宮の下級女官であったともいわれている。天平12年(740年)頃に中臣宅守と結婚するが、夫は越前国に配流された。一説には娘子の身分が問題視され罪に問われたとされる。配流先の夫を想う和歌が『万葉集』に採録されている。

 

〔代表歌〕

*君が行く 道のながてを 繰り畳ね 焼きほろぼさむ 天の火もがも(巻15‐3724)

*天地(あめつち)の 底ひのうらに 吾が如く 君に恋ふらむ 人は実あらじ(巻15‐3750)

*帰りける 人来たれりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて(巻15‐3772)


4 謡曲「花筐」の風景


花がたみ-継体大王物語-謡曲「花筐」発祥之地

        謡曲花筐発祥之地 碑参考HP              継体天皇と照日の前の像参考HP

1)謡曲花筐発祥之地 碑(味真野神社)

〇 謡曲花筐発祥之地建碑由来

 福井県越前市池泉町JR北陸本線・武生駅から東に 7km。福井県道201号 (菅生武生線) の南側に面して “ 味真野 (あじまの) 神社”があります。社殿に向かって左手前の参道脇に「謡曲花筐発祥之地」と刻まれた 石碑副碑が建っています。石碑の上や周辺には苔がびっしりと生えており,緑の絨毯のようです。

 謡曲「花筐」は、 室町時代に世阿弥が作った長編の謡曲で,継体天皇照日の前の恋物語を題材にしています。当地 越前の味真野は,後に第26代継体天皇となる 男大迹王(おおどおう)が隠れ住んだ宮跡だったという伝承があります。

 男大迹王は 寵愛した侍女・照日の前に花筐を残して 即位のために都に向けて出発。 照日の前は 男大迹王への恋情を捨てきれず 花筐を持って都に上ります。 ある日 継体天皇が行幸の途中で,花筐を持ち狂女となった照日の前と遭遇し, ふたたび彼女皇居へ連れ帰ったという話です。

 

〇 謡曲花筐発祥之地(副碑) 説明 

 「ここは人皇第二十六代継体天皇がまだ 男大迹王と申された頃鞍各御所を営み 潜龍されたという聖地伝承の地である。 謡曲花筐に天皇がこの地を即位のため 都に上られた頃の人情味豊で詩的一佸柄を 遠く鎌倉時代に於いて斯界の巨匠世 阿弥によって作曲修辞佳麗世に名作とう たわれている。本会は天皇一千四百五十年祭を記念し碑石を 美濃の恵那に求め揮毫を時の良 二千石 中川平太夫先生に仰ぎ聖蹟を千歳に顕彰す るものである。 

     昭和五十四年十月吉日  味真野花筐会々長 帰山登喜雄 文  帰山 喜伯 書」 

 

〇 継体天皇と照日の前の像 (万葉苑)

 味真野神社に隣接して“万葉館”があって,神社と万葉館の間に継体天皇と照日の前の像があって, 次のような説明が書かれています。

 「室町時代の世阿弥が作った謡曲「花筐」 には二人の美しいロマンスが語られている。越前の国 味真野におられた男大迹皇 子はにわかに皇位につくことになり寵愛 する照日の前に 花筐と玉章を贈って 上京し継体天皇となられた。残された彼女は皇子恋しさのあまり 花かごと御手紙を持って大和の玉穂の 都へと上り紅葉狩りの行幸に遇う。そこで花筐が縁で再び天皇の愛を 回復したという。

 世阿弥には巷間に取材した曲がある が この「花筐」も当時味真野に伝え られていた継体天皇伝説をもとに創 作されたものであろう。今 新しい世紀を迎えるに当たり継 体大王伝説を伝えて来た先人の心 を大切にし ここに「花がたみ」の像を つくり永く後世に伝えるものである。 平成十一年五月吉日 」 

参考HP:「謡曲花筐発祥之地」http://hamadayori.com/hass-col/art0/Hanagatami.htm 

 

2)謡曲「花筐」(引用:Wikipedia) 

〇 概要

    

花筐での継体天皇と照日の前のイメージ(引用:Wikipedia)

 花筐(はながたみ)は世阿弥作とされる能の一曲。成立は室町時代。本作中で謡われる「李夫人(※)の曲舞」は観阿弥の作で元々は独立した謡い物だったが本作に取り込まれたとされる。また、従者を連れて演じられる狂女物はこの曲のみという。

 

※李夫人: 前漢の武帝の夫人(側室)。中山郡の人。昌邑王劉髆の生母。兄に李延年・李広利。「反魂香」や「傾国の美女」の由来となった人物である。

 兄の李延年は歌舞を得意とし、武帝に侍した際に「北方に佳人あり、 絶世にして独り立つ。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く」と詠んだ。この歌を聞いた武帝が「この世に本当にそのような佳人がいるのか?」と問うと、武帝の姉である平陽公主は「延年の妹です」と答えた。そこで李延年の妹は後宮に入って夫人となった。

 李夫人は容貌に優れ、舞踊に長け、武帝の寵愛を一身に受けて、皇子劉髆を産んだ。しかし、まもなく若死したという。重病に陥った際、武帝は自ら臨んで見舞い、最後に一目会いたいと願ったが、夫人は布団で顔を覆って反応しなかった。武帝は怒って立ち去った。姉妹は夫人を責めたが、夫人は「重病により容色を失いました。今の私を見たら、きっと嫌いになります。その後は私の兄弟をどう見ますか?」と応えた。

 死別後、武帝は李夫人のことを追慕し、兄の李広利を重用した。武帝は夫人の姿が忘れられず、道士に命じて霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという。

 武帝が崩御した後、霍光は武帝の生前の意向を考慮し、李夫人に孝武皇后と贈号し、皇后の格式で祭祀が行われた。昭帝崩御後に孫の劉賀は皇帝に短期間即位したが、間もなく廃位された。 

 

〇 登場人物

前シテ:照日の前/後シテ:狂女(照日の前)/ツレ:侍女/子方:大迹皇子(継体天皇)/ワキ:官人/ワキツレ:使者/ワキツレ:輿舁

 

〇 あらすじ

 春の越前国・味真野。皇位を継ぐため都へ向かった大迹皇子は使者を最愛の女性・照日の前の元に遣わす。使者は照日の前に皇子からの文と愛用の花筐(花籠)を届け、悲嘆にくれた照日の前はそれらを抱いて故郷へ帰っていく。

 秋の大和国・玉穂。帝(皇位を継いだ大迹皇子)は臣下とともに紅葉狩りに向かうが、そこへ皇子を慕うあまり都へとやってきた照日の前と遭遇する。帝の行列を汚す狂女として官人に花筐を打ち落とされた照日の前は花筐の由来を語り、漢の武帝の后・李夫人の曲舞を舞う。花筐を見た帝はそれがかつて自ら与えたもので狂女が照日の前であると気づき、再び照日の前を召し出して都へと帰っていく。


5 薄墨桜伝承地


 私の地元花筐公園(福井県越前市粟田部)にある薄墨桜の伝承と同じような伝承を持つ「根尾谷淡墨桜」(岐阜県本巣市)について、どのような共通性があるのか、永年、関心がありました。

 今回、このホームページ作成の一環としてWeb散策をしていて、関連する図書・Webサイトを見つけてみると、全く異なるルーツを持つ伝承と分かりました。

 全国的には、残念ながら花筐公園の薄墨桜より根尾谷公園の淡墨桜の方が知られています。現在、福井県も越前市も花筐公園の薄墨桜のPRをしておりますので、全国的な認知度が高まることを期待しています。 


(1)花筐公園薄墨桜


 三里山山頂皇谷の地に、樹の周り 4.5 m余幹の高さ 9 m余、樹令 500~ 600年を有し、昭和 45 年3月天然記念物として福井県の指定を受けた薄墨桜の樹がありますが、伝えによると男大迹皇子は日頃から大変桜を寵愛されていましたが、即位のため急に都へ上られることになり、神社に形見として遺していかれた桜を世人はカタミ筐 の花と呼んだと伝えています。 

 

 後俗風に染まるのを畏れて人跡まれな現在地に文亀2( 1503年)年右野盛重(近郷切っての大富豪 大島三郎右衛門の先祖)によって植えかえられ、皇子の遺跡として崇めるようになりました。

 この桜は皇子在郷のときには紅色で匂が四方に充満したといいますが、皇子が都へ上られて後は花に対する愛玩が薄れ、次第に色がうす黒くなって、いつ頃からか薄墨桜と呼ぶようになったといわれています。 

 

 現在の薄墨桜はおおよそ 500 年前に植え替えられてから何代目なのかは不明ですが、老木化が進んでいて特に近年の大雪や豪雨により傷みが進んでいます。いずれしても粟田部を象徴する史跡であることには間 違 い な く 、花 筐 公 園 保 勝 会の 力 を 借 り な が ら 、定 期 的 な手入れを継続しなければならないと思われます。 

 

 岡太神社古縁起によると、薄墨桜の傍らに祠があり花筐神社と呼ばれていたが、もとの八幡社です。後に今の八幡町に八幡社を移したと言われています。上記の大島家の古伝説でも氏神の八幡宮を建谷の祠に遷座したと伝えられていますので、史実と思われます。


(2)根尾谷淡墨桜



(3)「真清探當證」継体天皇異伝


         

1)参考図書(1)

『継体天皇とうすずみ桜 古代秘史『真清探当証』の謎 伝承が語る古代史4』

                              小椋一葉著 河出書房新社 1992

 根尾谷・薄墨桜の伝承は、「真清探當證」という古文書に寄っています。

 第26代継体天皇の出生については、「日本書紀」の中に書かれています。しかし、「日本書紀」とは異なる出生の伝承が書かれた資料がありました。

 

 それは「真清探當證」と言う資料です。この資料には「継体天皇」「雄略天皇」の皇位継承の際に殺された「市辺押磐皇子」の子供で後の「第23代顕宗天皇」になった「弘計王」の子供として生まれたと書かれています。

 この「真清探當證」のあらすじについて、参考HPでは、「小椋一葉氏」著(参考図書)に拠って紹介しています。

参考HP

「継体天皇紀行 福井発 歴史ロマンの旅:2007年2月18日 :継体天皇異伝 真清探當證」

 

2)参考図書(2)

『真清探當證 真清田神社と継体天皇を結ぶ歴史秘話(復刻版)』

                     田中 豊編集 有限会社「人の森」 』単行本 – 2016

●内容紹介

 岐阜県の根尾村に残されていた謎の本「真清探当証 ( 真清探當證 )。そこには古代史の通説を覆す、驚くべきことが書かれていました。

 『日本書紀』には、第26代継体天皇は近江国で生まれ、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国で育てられ、のちに大和朝廷に迎えられたと書かれています。

 

 ところが「真清探当証」では、継体天皇は、父である皇子が政変を逃れ、現在の愛知県一宮市に隠れ住んでいた時にそこで生まれ、さらに岐阜県の根尾村に行って育てられたとなっているのです。根尾村にある有名な薄墨桜は継体天皇が都に呼び戻される時にお手植えにされたものと書かれています。

 

 「真清探当証」の原本は残っておらず、昭和11年に書き写された写本が根尾村に残るのみでした。それを日ごろから古文書の解読をされ、歴史に造詣の深い編者の田中豊先生が、根尾村文化財保護審議会の許可を得、平成11年に、約9ヶ月をかけて復刻版を完成しました。真偽は別にして、ぜひ隠された古代ロマンに触れてください。なお本書は、絶版となっていた復刻版の再版です。 

 

●出版社からのコメント

 愛知県一宮市周辺を主な舞台に、継体天皇の出自や根尾の淡墨桜の由来までが記された歴史秘話。他の史書とは全く異なる内容が。旧木曽川町籠守勝手神社の伝承は正しかったのか?!  フィクションか真実かはわかりませんが、古代史好きにはたまらない本です。 


6 目子媛街道


  このホームページを見た高校同級生H.Kさんから、部子山(位置:下図参照)に目子媛を祀った祠があるとのアドバイスを得て、目子媛についてWeb散策をしたところ「目子媛街道」浮神というサイトを見つけました。

 また、目子媛に関わりのある伝承として、花筐公園 ( 福井県越前市 ) と同じような伝承がある根尾谷淡墨桜(岐阜県本巣市)目子媛の墓といわれている味美二子山古墳(愛知県春日井市)についてのサイトを見つけました。

  このWebサイトでは、目子媛の出身地(愛知県名古屋市熱田区)から岐阜県本巣市を経由して部子山麓を通り継体天皇の居所(福井県坂井市)とをつなぐ経路を「目子媛街道」として紹介していました。


(1)部子山/神社跡・小祠


1)部子山

「福井県の地名(日本歴史地名大系18)」(平凡社刊)

 部子山は、福井県今立郡池田町と同県大野市の境にある標高1,464.6m、泰澄が開いたと伝え、山頂に継体天皇の妃目子媛を祀る小祠がある。往古は目子嶽とよばれたともいわれる。

 

 慶安4年(1651年)「部古由来記」(福井大学蔵)には、部子嶽又は部媓ケ嶽と記し、「越前国名蹟考」には、「目子嶽、今云部子嶽訛耳」とある。」(・・・中略・・・)「また、部子山は、古来信仰の山で、明治初年に部子山神社奉賛会が作られ、神社建立ととともに登山道の整備も行われた。」 

 

〇部子山(Wikipedia)

 部子山(へこさん)は、福井県今立郡池田町と大野市の境界にある標高1,464 mの山

 

 経ヶ岳から望む銀杏峯と部子山(引用:Wikipedia)

 九頭竜川水系の部子川や真名川の支流の源流の山である。泰澄が開山したという伝承があり、「越前五山」(越知山、文殊山、日野山、蔵王山(吉野ヶ岳)、白山又は部子山)の一つとされる場合がある。

 

●山名の由来

 山頂に継体天皇の妃・目子媛をまつる祠があり、目子ノ岳とよばれたのが部子岳、さらに部子山に変わったという。

 

〇私見:花筐公園の薄墨桜や根尾谷・淡墨桜の伝承を考えますと、古代において越前と美濃・尾張を結ぶ街道としていわゆる「目子媛街道」が利用されていた可能性があり、この街道の経路にある部子山目子媛を祀る部子神社跡や祠が現存するというのも興味深いものがあります。 


(2)ヲオド王権擁立基盤と目子媛街道


参考HP:「浮神」


(3)目子媛の里


1)目子媛の故郷

 目子媛は、継体天皇の最初の妃で、勾大兄皇子(安閑天皇)隈高田皇檜子(宣化天皇)を産まれました。目子媛の父の尾張連草香は、古代の地方豪族・尾張氏の首長で、断夫山古墳に祀られているのではないかとの説があるように、愛知県名古屋市熱田区周辺に勢力を持っていたと思われます。 

 

 尾張連は尾張地方の首長として、伊勢湾を舞台とした海運・水運や美濃の良質な鉄鉱石産地を押さえるなど、この地域のみならず大和に対しても強い影響力を持っていました。

 継体大王は、尾張連草香の娘である目子媛を后として迎えることにより姻戚関係を築き、後ろ盾を広げていったものと考えられています。

 

2)味美二子山古墳

Ajiyoshi Futagoyama Kofun, zenkei-2.jpg

墳丘全景(右に前方部、左奥に後円(引用:Wikipedia)

 尾張地方では、後期古墳としては名古屋市熱田区の断夫山古墳に次いで2番目に大きい古墳で、盾形の周濠をもった墳長95mの前方後円墳で、昭和11年に国の史跡に指定されました。

 この古墳と断夫山古墳は、墳形や出土品が類似していることから、被葬者は何らかのつながりがあったと思われ、断夫山古墳尾張連草香の墓味美二子山古墳を、草香の娘である目子媛の墓とする説もあります。

 

 目子媛は継体大王の后の一人で、継体大王との間に生まれた2人の皇子は、その後、安閑大王、宣化大王となっています。

 平成3~4年に公園整備に伴う発掘調査が行われ、現周濠の外側に溝が確認されました。溝からは大量の埴輪や須恵器が出土。円筒埴輪をはじめ人物・馬形・家形などの形象埴輪や、高坏・器台・脚付四連坏・子持蓋付脚付壺などの特殊な形の須恵器が出土しています。出土の集中する箇所が墳丘造り出し部分の延長上にあたることからそこで何らかの祭祀が行われたようです。

  味美二子山古墳の築造年代は、出土する埴輪や須恵器などから6世紀初頭 ( 約1500年前 ) であると考えられています。 

 

3)断夫山古墳

Danpusan Kofun zenkei.JPG 

墳丘横景(左手前から右奥へ後円部、造出、前方部)(引用:Wikipedia)

 

 断夫山古墳は、東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m、高さ16.2m、後円部の径80m、高さ13mの規模を誇っています。熱田神宮公園の敷地も含めてかつては熱田神宮の管理下にありましたが、第二次大戦後に名古屋市の戦災復興事業に伴い借換地となり、1980年(昭和55年)に愛知県の所有となって現在に至っています。1987年(昭和62年)7月に国の史跡に指定されました。

 

 現在は石垣で組まれ、区画された周濠をもちますが、現在のものは第二次大戦後に造られたもので、以前はより幅広い濠が巡らされ、墳丘の内外には円筒埴輪が配置されていたようです。

 

  伝承では、日本武尊の妃宮簀姫(みやずひめ)の墓と伝えられていますが、5~6世紀に尾張に勢力を伸張していた尾張連草香の墓と考えられています。  (福井県HP)


(4)越前と尾張を結ぶ古代と現代の交通路


1)国道157号線

 目子媛街道の細部については分かりませんが、個人的には、根尾谷公園のある本巣市から大野市までは現在の国道157号線の路線と重なると推測できるのではないかと思います。

 この途中から部子山付近の峠を越えれば、現在の大野市内を経ずして謡曲「花筐」の郷である味真野郷への近道となります。

 

 いずれにしても目子媛街道は、当時の尾張と越前をつなぐ主要な交通路であったのではないかと、勝手に想像しています。

国道157号(引用:Wikipedia) 

 国道157号は、石川県金沢市から福井県大野市を経由して岐阜県岐阜市に至る一般国道です。起点・金沢市から石川・岐阜県境の温見峠までの区間は、温見峠付近を除いて概ね改良済みの一般的な国道です。

 

 温見峠周辺の区間は、冬季は雪が多く1年の半分近くが通行止めとなる豪雪地帯で、狭路、落石、崩壊、ガードレールやカーブミラーの未整備など、道路改良はなかなか進まず整備状態がかなり悪いため、本州屈指の「酷道」とも評されています。特に岐阜県本巣市根尾黒津から根尾能郷までの倉見渓谷沿いの冬季閉鎖区間では、谷底を覗くと目がくらむほどの断崖路であり、根尾能郷の冬期閉鎖ゲート近くには「落ちたら死ぬ!!」という看板があることが酷道愛好家の間ではよく知られています。

 

 温見峠から根尾黒津までの間は急勾配と急カーブが連続する山岳道路で、複数の洗い越しがあります。本巣市の道の駅うすずみ桜の里・ねお付近からは終点・岐阜市まで2車線の道路が続きます。 

 

2)温見峠

●温見峠の概要

 福井県と岐阜県は隣り合う県で、県境もそれなりの距離になります。この2県の県境を国道でぬけようとするならば2つの選択肢があがるのですが、県境は険しい山であるために、その両方ともが厳しい峠越えルートとなっています。その2つの峠越えルートとは、国道157号・温見峠国道158号・油坂峠です。

 

 温見峠は、福井県大野市と岐阜県本巣市根尾の境にある峠で、国道157号(国道418号と重複)が通っています。最高地点の標高は約1,020m。九頭竜川の支流温見川と揖斐川の支流根尾西谷川との分水嶺となっています。

 

 能郷白山の鞍部にあり、峠の名前は旧西谷村にあった集落の名前に由来します。現在も大野市温見として名前は残るものの廃村となっています。岐阜県側の根尾村大河原(現在は本巣市根尾大河原)は冬期無人集落となっています。 

 

●温見峠の歴史

・鎌倉時代越前府中(福井県越前市)鎌倉(神奈川県鎌倉市)とを結ぶ最短ルートとして重宝されました。

・戦国時代 : 越前朝倉氏が温見峠から美濃の国へ攻め入り、朝倉氏の滅亡後は織田信長が、越前一向一揆で温見峠からも越前に攻め入ったとされています。

・江戸時代 : 結城秀康が関所を設けて、福井藩への敵の侵入を監視しました。

 ・1974年(昭和49年)10月:主要地方道大野墨俣線の一部として車道が開通。

 ・1975年(昭和50年)4月:車道が国道157号に昇格。

3)国道417号・福井県道175号

 岐阜県から福井県池田町に通じる道路としては、現在、国道417号線と福井県道175号線が予定されているようでありますが、これらは、いずれも部子山冠山の峠間をトンネル&橋梁で通ることが予測されています。

 継体天皇の頃は、これらの冠山峠、熊河峠や巣原峠等が利用された可能性もあるのではないかと個人的に推察しています。 

 

●国道417号(古代:冠山峠、熊河峠越え?)

 国道417号線は、岐阜県大垣市から福井県南条郡南越前町へ至る一般国道です。徳山ダム建設工事に関連し全住民が退去して廃村となった旧徳山村(現・揖斐川町)や、岐阜県と福井県の2つの池田町を通ります。このうち、揖斐川源流域を通り抜ける岐阜・福井県境は未開通区間のままになっていますが、冠山林道を経由して通行可能です。2016年現在、この未開通区間の解消のため冠山峠道路が事業中です。(後述)

 

  福井県丹生郡越前町の織田北交差点(国道365号交点)から終点までは国道365号・国道305号の重複区間であるため表記がないこと、その終点が重複する国道305号と同じ南越前町であっても場所が異なること(国道305号の終点は桜橋交差点ではなく今庄IC)から、どこまでが国道417号に指定されているのかが分かりにくくなっています。

 

●福井県道175号(古代:熊河峠、巣原峠越え?)

 大野市の国道157号と池田町の国道476号を結ぶ役割を担う路線です。しかし起点から市境にかけて分断しており、実質的には池田町内で終始している点線県道です。池田町はこの路線も含めて4本の点線県道(点線国道含む)、2本の冬季通行止めの路線を持つ福井県内で最も孤立しがちな町であり、この路線も含め交通を充実させることが急務といえます。早期開通の望まれる路線である。           参考HP:Wikipedia


(5)国道417号線(冠山峠道路)


(引用:Wikipedia)

1)冠山峠

 冠山峠かんむりやまとうげ)は、林道冠山線の岐阜県と福井県の県境にある峠である。標高1,050m。冠山の山頂から西北西約1.8kmに位置する。

 

冠山方面から望む冠山峠と金草岳(2008年11月)(引用:Wikipedia)

 

 1971年(昭和46年)11月13日の林道冠山線の整備に伴い新設された峠である。岐阜県揖斐郡揖斐川町と福井県今立郡池田町との境界(県境)であり、両町を車両で往来できる唯一の峠である。それ以前は、冠山の東側に存在した冠峠(冠ヶ峠)又は冠越(かんむりごえ)と呼ばれた峠や、西側の金草岳寄りにある檜尾峠が使用されていたが、車両の往来は不可能だった。

 

 両県からは国道417号の未開通部分をつなぐ林道冠山線を経て当峠に至ることができるが、降雪期の11月下旬から翌年6月頃までは冬期通行止めとなり、福井県側は林道入口と峠付近に設置されている開閉式ゲートを遮断して進入禁止となる。

 

2)国道417号(冠山峠道路)供用開始

 冠山の山頂直下では、林道とは別の国道417号冠山峠道路のトンネルが建設中であり、岐阜県側の冠山峠1号トンネル(※1)は2017年(平成29年)7月31日に、山頂直下の冠山峠2号トンネル(※2)は2020年(令和2年)11月4日に貫通した。2023年(令和5年)11月に冠山峠道路が供用開始されると、林道を通らず冬季も峠の両県側を行き来できるようになる。

 

※1 冠山峠1号トンネル(国土交通省近畿地方整備局HP)

   https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/press/h29/pdf/2017080101.pdf

※2 冠山峠2号トンネル(国土交通省近畿地方整備局HP)

   https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/press/r02/pdf/2020110503.pdf

 

 また、揖斐川の源流・才ノ谷と九頭竜川水系足羽川の支流・添又谷との分水嶺であり、「揖斐川源流 冠山」の石碑が建っている。ここからは、冠山及び金草岳への登山道が整備されており、登山客のための駐車スペースが広く設けられている。峠付近からは冠山や白山などの山並みを望むことができる。

 

 峠には開通記念として約2mの自然石に「冠山峠」と刻んだ記念碑(福井県知事中川平太夫による揮毫)と、県境を挟んで両県の地方自治体名を標した石碑がそれぞれ設置されている。福井県側には「越前国池田町」の石碑が1つ設置されているものの、岐阜県側には「美濃国徳山村」「美濃国藤橋村」「美濃国揖斐川町」を標した3つの石碑が設置されており、町村合併による岐阜県側の自治体の変遷を垣間見ることができる。 

引用:冠山峠道路位置図(国土交通省近畿地方整備局HP)

追加:令和5年10月329日