1 治水伝説
2 治水伝説に係る史跡
(1)岩座(いわくら) (2)熊野神社(弓筈社・矢筈社) (3)足羽神社 (4)三国神社
3 越の三川の今昔
(1)九頭竜川 (2)足羽川 (3)日野川
治水伝説(福井県HP)
継体大王の時代は、現在の福井平野は大きな湖沼であり、そこへ九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいました。そこで、男大迹王は三国において河口を切り開き、大湖沼の水を日本海へ流出させ、跡地を一大田園と化すとともに澪筋(みおすじ)を定めて舟運や灌漑の便を図ったと伝えられています。
越前の主要な古墳は、川が平野部に流入する付近の山上に築かれています。古墳時代は大規模な水利、治水が始まった時期であり、古墳の立地は水を制する首長の権力を誇示しているように思えます。
(福井県HP)
1)岩座(坂井市春江町石塚52-17)
石塚神社脇にある大きな石は、継体大王が九頭竜川の治水を行った時、この岩の上から指揮をとったといわれているものです。
2)熊野神社(福井市加茂河原町32-7 )
弓筈 (ゆはづ) 社・矢筈社を合祀しています。
弓筈社は越前平野の治水のため、河川改修に笏谷石を多く使用したのが始まりで、石工達が生計出来るようにされた継体大王をお祀りしたといいます。
矢筈社は、治水に働く役夫が暑いときに、水を乞うたので、男大迹王が弓矢の筈(矢の末端)で巌を撞くと、冷水を得たところから、王自ら水神を祀られたところといわれています。
3)笏谷石・立矢(福井市)
継体大王が悪竜を退治して治水しようとされ、足羽山に登り海に向かって矢を射たところ、矢はぐるぐると水面を回り、やがて海に飛び込んでいきました。
すると、矢とともに一面の水が海に引いていきました。そして、矢は三国まで飛び、また戻ってきては落ちて地上に突き立ちました。
この地が立矢町(現在の足羽1丁目付近)で、その時手にしていた笏を捨てたところが笏谷であると言われています。
4)迹王の餅(越前市)
1500年の歴史を持つ神事で、毎年10月13日に岡太神社で行われています。
継体大王が526年に大和国磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷宮されたことを祝った行事です。
継体大王が河川を改修して洪水を治め、農業や養蚕を奨励するなどしたことに人々が感謝し、餅を差し上げたところ、皇子もまた餅を人々に与えられたという故事に拠っています。
数え年25歳の若者が氏子の家々を回り、餅を集めて神社に奉納します。餅は御煎餅 (おせんべい) として、区民に分与されます。
5)足羽山公園(福井市)
足羽山山頂の足羽山公園三段広場には高さ4mを越える継体大王の石像が建っています。この石像は、明治17年(1884年)、内山基四郎を中心とした石工たちが立てたもので、笏谷石でできています。石像は継体大王が治水に際して水門を開かれたと伝えられる北北西の三国港を向いています。
男大迹王の時代は、現在の福井平野は大きな湖沼であり、そこへ九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいた。そこで、男大迹王は三国において河口を切り開き、大湖沼の水を日本海へ流出させ、跡地を一大田園と化すとともに澪筋、を定めて舟運や灌漑の便を図ったと伝えられています。
6)三国神社
治水工事は、男大迹王の大きな事績である。この工事はおそらく508年頃男大迹王32歳前後の時に始められたものであろうとされています。完成は男大迹王が即位した後のことと思われますが、若き男大迹王は福井平野の開拓の必要性を感じ、開拓の指揮を執ったと思われます。
石塚神社の岩座(参考HP)
石塚神社脇にある大きな石は、継体大王が九頭竜川の治水を行った時、この岩の上から指揮をとったといわれているものです。
〇祭神
菅原道眞公/熊野久須比能命
〇参考HP:神社探訪狛犬見聞録・注連縄の豆知識(石塚神社)
弓筈 (ゆはづ) 社・矢筈 (やはず) 社を合祀しています。
弓筈社は越前平野の治水のため、河川改修に笏谷石を多く使用したのが始まりで、石工達が生計出来るようにされた継体大王をお祀りしたといいます。
矢筈社は、治水に働く役夫が暑いときに、水を乞うたので、男大迹王が弓矢の筈(矢の末端)で巌を撞くと、冷水を得たところから、王自ら水神を祀られたところといわれています。
熊野神社の位置:現在、グーグルで参考HPでの住所:「福井市加茂河原町32-7」で検索しても不明です。
熊野神社(参考HP)
〇 足羽神社の概要(足羽神社HP抜粋)
五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)が越前でお過ごしの間に越前平野の大治水事業をされますが、まずその初めに朝廷に祀られている大宮地之霊 (坐摩神)(※1)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされています。
第26代天皇として即位をされ越前を発たれる時に、「末永くこの国の守り神とならん」と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮めて旅立たれて行かれました。それから継体天皇が主祭神として本殿中央に祀られています。
足羽神社では古来朝廷を初め、世々の将軍、国主等によって尊崇の祭典を連綿と執り行ってきました。中でも桓武天皇、文徳天皇、朱雀天皇におかれては神位を授けられ、宇多天皇におかれては右大弁(律令制の官名)によって、毎年11月に17日間の「鎮魂祭(※2)斎行之儀」を宣下せられました。
また世々に御厨地を置かれるなど、その神田地や臨時祭、神職等に関して、源頼朝を初め、将軍足利家、国主朝倉家等々の古文書や国史旧記等に歴然と記されています。そうして中古以来は武家伝奏執奏(※3)の社格にて、江戸時代社主44代に至るころには、41人が奉仕していました。
しかし天正兵乱の際、社家の多くは滅び、神田は廃れ、神域もわずかに残るのみとなりますが、柴田勝家がこの国を治めるに当たり、足羽の神を深く尊信して、社殿を修理し祭供をされる事により、昔の規模には及ばずとも、著しくその社格を落とすまでには至りませんでした。
その後は国主松平家代々の崇敬が深く、永世の神供物として毎年米二十俵を献じたり、創立御鎮祭の年を紀元とし、50年毎に「勅許宣命」並びに「御宸筆」を受け式年大祭を斎行するのを定例とされました。
北朝貞和5年に下賜された光明天皇御宸筆「大宮地」と、文政12年5月の例大祭を以って下賜された仁孝天皇御宸筆「大宮地之霊」の額字がそれぞれ国宝に指定されていましたが、先の大戦にて他の文化財とともに宝物庫ごと焼失しました。
近年では明治33年の橋南の大火、昭和20年の福井空襲、同23年の福井大震災などにより社殿は焼失倒壊しましたが、その度に再建され昭和34年に整備完了となりました。その後は昭和51年に御鎮座1500年に当るのを以って大祭をあげています。
平成19年には継体天皇御即位1500年を奉祝し、本殿幣殿拝殿の増改修、社務所増改築をはじめ境内整備を行い、記念大祭を斎行しました。
※1)大宮地之霊 (坐摩神)(引用:Wikipedia)
●座摩神(坐摩神)
座摩神(いかすりのかみ/ざまのかみ)は、神祇官西院において祀られた次の5柱の神の総称。
・生井神(いくゐのかみ/いくいのかみ)
・福井神(さくゐのかみ/さくいのかみ) - 「栄井神」とも。
・綱長井神(つながゐのかみ/つながいのかみ)
・波比祇神(はひきのかみ) - 「婆比支神」とも。
・阿須波神(あすはのかみ)
神祇官配置図(引用:Wikipedia)
座摩神の祀られる北庁は西院中央上に位置する。
●大宮地之霊
平安時代の宮中(平安京大内裏)では、神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉斎されていた。座摩神はそれらのうち座摩巫(いかすりのみかんなぎ、坐摩巫)によって祀られた神々である。
「いかすり」は「居処領(いかしり)」または「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる。
生井神・福井神・綱長井神は井戸の神々であるが、井泉をもって宮殿の象徴とする様は『万葉集』の「藤原宮御井歌」にも見える。
波比祇神・阿須波神については具体的には明らかでないが、『古事記』においては大年神と天和迦流美豆比売の間に生まれた御子神としており、宮中の敷地を守る神々とされる。
『古語拾遺』では、これら座摩神を「大宮地の霊(おおみやどころのみたま)」と記している。
神祇官西院では、最重要視される大御巫8神は八神殿に東向きで祀られていたが、他の座摩巫5神・御門巫8神・生島巫2神は北庁内に南向きで祀られたと見られる。
座摩神について『延喜式』では祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞・神名帳に記述が見えるが、いずれも大御巫8神に次ぐ2番目に位置づけられている。また『延喜式』臨時祭の御巫条・座摩巫条によると、他の御巫は庶民から選んで良かったのに対して、座摩巫だけは都下国造一族の7歳以上の女子から選ぶと規定されている。
●座摩神の概史
古くは『続日本紀』において天平9年(737年)に「坐摩御巫」が爵を賜ったと見える。また、前述のように大同2年(807年)編纂の『古語拾遺』で記述が見えるほか、貞観元年(859年)には同じく宮中奉斎の櫛石窓神・豊石窓神・生島神・足島神とともに神階を従四位上に叙せられている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、宮中神36座のうちに「座摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」として、大社に列するとともに月次祭・新嘗祭では幣帛に預る旨が記されている。
座摩神含む神祇官の祭祀は中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持されていた。しかしながら、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる。
●関連社
古代からの神祇官の祭祀は、応仁の乱頃までには完全に廃絶している。宮中諸神では、大御巫の祀る8神の祭祀は神殿(宮中三殿の1つ)に継承されているが、座摩神含む他の諸神もこの神殿の「天神地祇」のうちに含まれると考えられる。
京都では、福長神社(京都府京都市上京区)が座摩5神のうち福井神・綱長井神の後継社であると伝える。この福長神社は、天正年間(1573年-1592年)頃に現在地に遷座したという。
また、関連社としては坐摩神社(大阪府大阪市中央区)が知られる。坐摩神社神主の渡辺家の伝承では、この家から座摩巫を出したという。この坐摩神社は難波宮での座摩神祭祀に関係する神社と見られ、同じく宮中奉斎神のうちの生島神・足島神を祀る生國魂神社(大阪府大阪市天王寺区)の存在と併せ、朝廷による難波の重要視の様子が指摘される。
以上のほか、足羽神社(福井県福井市)では5神を「大宮地の霊」として祀る。そのため、かつては「福井」という地名を福井神に由来すると見る説があった(現在では「福居」に始まり「福井」に改まったとされる。出典:「福井市」 『日本歴史地名大系 19 福井県の地名』 平凡社、1981年。)。
※2) 鎮魂祭
古代宮廷祭祀の一つ。鎮魂の和訓は「みたまふり」または「みたましずめ」。その意義については諸説あるが、一般に天皇の魂を体内に安鎮せしめ、健康を祈る呪法と考えられている。『日本書紀』の天武紀が初見であるが、神祇令にも規定され、律令時代には十一月下の寅(または中の寅)の日、すなわち新嘗祭の前日夕刻から宮内省正庁において、神祇官八神殿(はっしんでん)の神々と大直日神(おおなおびのかみ)の神座を設けて執行する。
この神事には、御巫(みかんなぎ)・猿女(さるめ)ら神祇官の巫女たちが参加して、彼女らによって神饌の炊飯や神楽舞などが行われるところに特色がある。
同日夕刻、神座の前に天皇の御衣の箱を安置し、御巫・猿女らが神楽舞をし、次に御巫が宇気槽(うけふね)を伏せた上に立ち、琴の音に合わせて桙(ほこ)で槽を撞く。一撞きごとに神祇伯が木綿(ゆう)の糸を結ぶ所作を十回くり返す。同時に女蔵人が御衣の箱を開いて振り動かす行為もあった。
神祇伯の結んだ御玉緒の糸は、斎瓮(いわいべ)に収めて神祇官斎院の斎戸(いわいど)の神殿(祝部殿・斎部殿)に収められ、毎年十二月にそこで祭りがあった。斎戸殿の鎮祭に関しての祝詞は、『延喜式』八に「鎮御魂斎戸祭」として収載されている。また、鎮魂祭の神楽歌は『年中行事秘抄』などに載せられている。
『旧事本紀』には、鎮魂祭の起源を、神武天皇の時に物部氏の祖宇麻志麻治命が十種の神宝を用いて行なった時にありとしている。
またこの神事の御巫らの行う宇気槽撞きや神楽舞との共通要素が見られるところから、天岩戸神話における天宇受売命の舞は『古語拾遺』以来鎮魂祭の祭儀神話と見られている。ただし、天岩戸神話全体については鎮魂祭の反映とみるべきでないという、有力な説がある。
平安時代末期以降は廃絶した宮内省の跡地に幄舎を張り、内侍らの牛車を並べて行われた(『江家次第』『薩戒記』など)。その様子は『年中行事絵巻』模本残欠の「宮内省鎮魂祭」図にみられる。図の右手牛車の前に御衣を捧じた内侍が立つ。この祭は戦国時代に中断、近世には白川伯家邸において再興したのち、変遷があって、明治22年(1889)以後は宮中の綾綺殿において11月22日に行われている。→斎戸祭(いわいどのまつり)
(参考文献:Wikipedia「鎮魂祭」参照)
※3)武家伝奏執奏
〇武家伝奏
武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。
建武の新政の際に置かれ、室町幕府がこれを制度化した。役料はそれぞれ250俵が与えられ、この他に官位禄物の配当があった。定員は江戸時代には2名。
江戸幕府の下では、1603年(慶長8年)に設置され、幕末の1867年(慶応3年)まで続いた。
〇武家執奏
武家執奏(ぶけしっそう)とは、武家政権である室町幕府と公家政権である北朝(朝廷)の公武関係(朝幕関係)に関連する用語で次の2つの意味がある。
室町幕府の将軍が北朝(朝廷)に対して特定の事項に関する政治的要請を行うこと。なお、この意味においての武家執奏はその後の武家政権(織豊政権・江戸幕府)でも行われている。
北朝(朝廷)に設けられた役職の1つで将軍からの武家執奏を取り次ぎ、反対に治天の君・天皇の意向を将軍に伝達する役目を果たした。
三国神社は、延喜式所載の式内社である。天文9年(1540)湊の住人・板津清兵衛が高柳村より流れて来た御神体を拾い上げ正智院に納める。天文13年(1544)院主・澄性小社を建立。
さらに、永禄7年(1564)澄性の弟子・澄元國中を勧進し桜谷を開き社地を開発・山王宮を建立する。この山王宮の祭神が先に高柳村より流れ来た御神体・大山咋命(山王権現)である。
明治2年山王宮を桜谷神社と改める。明治5年興ケ丘にあった、水門宮の御神体・継体天皇を桜谷神社に合祀をする。さらに、明治18年に三國神社と改称し、現在に至る。
●祭神:大山咋命 継体天皇
(三国神社HPから)
写真:三国神社HP
〇三国神社の概要
三國神社は、福井県坂井市にある神社である。旧社格は県社。式内社「越前国坂井郡 三國神社」の後裔社とされている。大山咋命(山王権現)と継体天皇を祀り、地元では「おさんのさん(お山王さん)」と呼ばれている。例祭の三国祭は福井県指定の無形民族文化財に指定されており、北陸三大祭の一つとされる。
〇歴史
「三國神社」の名は延喜式神名帳にはじめて登場する。当地は後に継体天皇となる男大迹王が治めた地で、継体天皇の歿後に朝廷によって継体天皇を祀る神社として創建されたのが始まりとする伝承がある。延喜式神名帳に記される三國神社は、中世までには廃絶したものと見られる。
現在の三國神社は、天文9年(1540年)、竹田川 の支流の兵庫川から流れてきたとされる御神体を住人が拾い、当地の正智院に納めたのに始まる。天文13年(1544年)、正智院の院主・澄性が境内に小社を建立した。永禄7年(1564年)、澄性の弟子の澄元が現在地の桜谷を開き、山王宮を建立した。
明治3年(1870年)、式内・三國神社の後裔であるとして山王宮は「三國神社」への改称を藩に願い出たが却下され、地名をとって「桜谷神社」に改称した。明治5年(1872年)、近くにあった継体天皇を祀る水門宮を合祀し、脇祭神とした。明治18年(1885年)、三國神社への改称が許可され、現社名となった。 (Wikipedia抜粋)
母校校歌に謳われている「越の三川(九頭竜川・足羽川・日野川)」は、上図のように福井平野で合流し、三国において日本海に流入していることが分かります。この「越の三川」について紹介しているホームページ「越前・若狭の河川」がありましたので紹介します。
参考HP「越前・若狭の河川」: http://www.geocities.jp/tugukeiko12/kasen1.html
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藤島高等学校校歌
一 越の三川 集まりて 日本海を さすところ 清き泉の 玉と湧く
福井のほとり 地をしめて いそしむ我ら若人の 夢遙かなり 白山連峰
二 常磐の森の 足羽山 麓に眠る 橋本が 新しき世を 迎えむと
若き魂 かたむけし 明道館の 流れくむ 校風永久に 光あり
三 庭に親しむ プラタナス 緑たけつつ 年ふれば 戦火の跡の 今いずこ
甍つらねて 栄えゆく 郷土に我ら うち立てむ 祖国に導く 新精神
九頭竜ダム 鳴鹿大堰 九頭竜川河口
(引用:Wikipedia)
1)九頭竜川流域の伝承
●黒龍大神信仰の創始
雄略天皇21年(477年)、男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(後の九頭竜川)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜に創祀された。この儀により現代まで連綿と続く九頭竜湖~九頭龍川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされる。
九頭龍川下流域には、今でも黒龍を冠する福井市内の神社として舟橋町の「黒龍神社」と毛矢町の「毛谷黒龍神社」が建っている。 二つはもともとは、舟橋の現在地から6.5km上流の川の中央に位置する高尾郷黒龍村(毛谷の杜)にあった。ただし二つの黒龍神社はどちらも高龗大神(たかおかみ)・闇龗大神(くらおかみ)を2柱並べて主祭神としており、黒龍神社と対になるべき白龍神社というものは存在しない。
その後、黒龍大神と白龍大神のうちの前者は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する4柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされた。東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島大明神〔神宮創建 推古天皇元年(593年)〕、北の越前国の当地には黒龍大明神として、日本の国家鎮護 及び 黒瀬川(後の九頭龍川)流域の守護神として祭祀されてきた。(この「四大明神」説は舟橋町の黒龍神社の伝承による。)
第四十三代元明天皇和銅元年(708年)9月20日、高志連村君が継体天皇の御遺徳を景仰し、高尾郷黒龍村(毛谷の杜)で御霊を合祀。延暦3年(784年)8月、社殿が火災で焼失し坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)が再建
●九頭竜の出現
寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべた。すると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神の対岸(今の船橋町の黒龍神社のある位置)に泳ぎ着いたという。以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになった。
●その後の黒龍大明神信仰の歴史
承平元年(931年)、藤原利行、朱雀帝御宇承平元年越前国黒龍村、毛谷神社神職となる(藤原姓の神職の祖、第一代)。
承平3年(933年)、長者となった生江の世常の宿祢の夢にお告げがあり、社殿を新しく造りかえた。毎年七度の祭礼が行われてきたという。それが延喜式にある坂井郡毛谷神社で、今の毛谷黒龍神社にあたる。生江の世常の宿祢が長者となる奇跡の物語は、今昔物語集[巻17-47]や宇治拾遺物語[巻15-7]に載っている。
光明院御宇暦応元年5月2日、二十四代藤原行古が左中将義貞に従軍し藤島の里に戦死。暦応元年5月、新田義貞が斯波高経と戦ったとき、 黒龍神社も兵火にかかり燃える。このとき神霊は、白龍となって山上に飛び、木の上にとまった。そこで、このあたりを竜ヶ岡と呼ぶようになった(『太平記』巻第二十に黒龍明神下での戦いの記載あり)。(ー 参考HP:Wikipedia)
この神社は30号線が九頭竜川に架かる九頭龍橋南詰近くに鎮座しています。入口に台輪鳥居が立ち、道路と社地の境界には玉垣など遮るものがない、河川敷道路を背にした至って開放的な雰囲気の神社です。鳥居を潜ると境内右手には「舟橋会館」、正面奥に拝殿・本殿が建立されています。又、社殿右に境内社の日吉神社が祀られ、境内左手奥に石祠が建ち並んでいます。
●御祭神:高龗大神、闇龗大神、大山祇神、継体天皇
●由緒:黒龍神社は、往古日本古来の四大明神の一 社として、東の常陸国には鹿島大明神、南に 紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島 大明神があり、北の越前国の当地には黒龍大 明神として、竜神を御勧請、日本の国家鎮護 と黒瀬川(九頭龍)の守護神として創祀され た古社である。
村名のいわれは黒竜川の川辺にあり、また 黒竜宮が鎮座していた故か黒竜村といわれて いたが、天正年間、柴田勝家が舟四十八艘に より、舟橋を架橋して後、今の舟橋となった。
黒竜神社の、宮地をその後今の、福井市足 羽山麓毛矢の森に移遷されたが、当社には創 始以来の、黒龍大明神の御神霊が鎮座ましま している。度重なる戦乱、一向一揆等による 兵火また水禍により、社廟の衰頽もあったが 近郷の総社として、舟橋、高木、高柳、寺 前、灯明寺、舟橋新、稲多等七カ村の住民氏 子(五百四拾余戸)の崇敬の中心であった。
当社は福井市舟橋二字龍ノ割に鎮座していた が、天保、明治、昭和の水禍河川改修等によ り川欠となり、現在の地に遷座し、年々歳々 祭祀を厳修してきた。現在氏子戸数三百余戸 広大無辺の御神徳を敬仰している。
〇毛谷黒龍神社
●御祭神:高龗大神、闇龗大神、継体天皇
●由緒・沿革:男大迹王越前國御在住の時、地の理に随ひ越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水工事をされ越前平野を拓かれた際に、北陸随一の大河であった黒龍川(九頭竜川)の守護と国土安穏、万民守護のため高屋郷黒龍村(舟橋)毛谷の杜に高龗大神、闇龗大神の二柱の御霊を祀る「毛谷神社」が御創建されました。元明天皇の和銅元年(708)9月20日、継体天皇の御遺徳を景仰し御霊の合祀が行われた。
後醍醐天皇の元徳元年(1329)6月1日神託により越前守参議藤原國房公が北ノ庄菩住山斎屋清水の上に(足羽山)に奉還され、元鎮座の村名を併せ「毛谷黒龍神社」と改称し、また元神社名を取り麓一帯は「毛矢町」と呼ばれ祭りは賑わい盛儀が行われた。
天地の初めから国土を守護されてきた四方位を象徴する御四柱の神の一社にて、往古より北国の鎮護神として著われ、「国土護治の神として、四國に四神座しき、東に常陸鹿島大明神、南に紀伊熊野大明神、西に安芸厳島大明神、北に越前黒龍大明神四隅を司どらしめ守護し給ふ」(絵図記)と記され日本古来の四大明神の一つとされている。
●越前名蹟考:「太平記」巻20黒丸城初度軍事付足羽度々軍事に「延元3年(1338)5月2日一条ノ少将朝臣、五百余騎ニテ江守ヨリ押寄テ、黒龍(くずれい)の明神ノ前ニテ相戦フ」とある「黒龍の明神」は、当時すでに足羽山に遷座されていた毛谷黒龍神社とされる。
慶長8年1月10日(1603)越前藩祖入納言三河守源、秀康公霊験著しきを以って黒龍宮を越前松平家の祈願所とされ社地として櫻井山(黒龍山)を寄進、御社殿を造営され人々の崇敬殊に篤く奉祀も郷重を極め神威日々に輝いた。
元禄3年5月(1609)松平吉品公国家の安泰と武運長久を祈願され神殿を山上(今日の藤島神社々地)を造営され、松平家代々の諸種の献納あり。
その後、明治8年12月10日(1875)現今の地へ社殿の移築が行われ敦賀県に於いて郷社に加列され、同33年4月福井市の橋南大火により社殿類焼の後、同38年5月18日再建、現在の本殿は昭和3年、拝殿は同6年に再建された。福井市内で唯一、福井空襲、震災を免れた歴史ある神殿の神鈴に願いを託す人は跡をたたない。
昭和52年には、御創立1500年式年大祭が齋行され、稚児行列などの各種の奉祝行事が行われ、また平成元年、御社殿修改築事業に着手し八幡神社、恵比須神社、神楽殿の改築、境内整備事業を行う。(-参考HP:毛谷黒龍神社HP)
3)九頭竜川の治水
〇九頭竜川の概要
九頭竜川は、日本の福井県嶺北地方を流れる一級河川。九頭竜川水系の本流。流域面積2,930㎢は福井県の面積の約70%にあたり、県のシンボルの一つとされています。
福井県大野市東市布の岐阜県との県境にある油坂峠(717m)付近に源を発し、九頭竜ダムを経て、岐阜県郡上市から流れる石徹白川を合わせています。大野盆地・勝山盆地を北西に進み、福井平野にて日野川を合わせ北進、坂井市で日本海に注いでいます。
九頭竜川は急峻な地形の上に上流の奥越地域は多雨地帯である事、又中流部の鳴鹿地区から扇状地となり、放射状に流路が変遷していたことから、有史以来氾濫を繰り返し「崩れ川」と呼ばれるほどでした。その一方、有数の穀倉地帯でもあり、古代より治水・利水のための開発が繰り返し行われて来ました。
〇越前支配の要・十郷用水
古代には福井平野は大きな湖であり、洪水のたびに水害が起きていました。5世紀~6世紀に掛けて越前を支配していた男大迹王(継体天皇)は九頭竜川河口を広くして湖の水を海に出やすくしたといわれています。継体天皇が九頭竜川治水の先駆者であると現在でも伝えられています。奈良時代に入ると東大寺領の墾田が数多く開墾され、利水の為の用水路整備が始まった。766年の溝江における用水が九頭竜川の利水の端緒といわれている。
下る平安時代末期の保元年間(1156年 - 1159年)、越前国惣追捕使・藤原国貞は九頭竜川流域の灌漑を図るため鳴鹿地区より用水路を掘削・取水しました。これが十郷用水です。鎌倉時代以降は十郷用水を中心とした利水開発が主体となりました。
1515年、越前守護・朝倉孝景は十郷用水の支配に乗り出し運用に関する詳細な規定を定めました。その後朝倉氏を滅ぼした織田信長は北陸総司令官として柴田勝家を越前に封じましたが、勝家は「十郷用水条々」を1578年に制定し更なる運用規定を定めました。一方治水に関して手付かずに近い状況であった。
〇福井藩による治水・利水事業
関ヶ原の戦いの戦功により越前北ノ庄68万石の太守となった結城秀康(徳川家康次男)は、重臣を要衝に配置し加賀前田氏の押さえとなりました。秀康は北ノ庄を福井と改め、福井藩の藩祖となるが藩政確立の為の領内整備を行いました。特に治水・利水においては家老・本多富正の功績が大きい。富正は家康の重臣・本多重次(作左衛門)の養子で秀康付きの家老となった人物です。
彼は福井城外堀への引水と城下の上水道・灌漑を目的に九頭竜川から日野川まで芝原用水を開削、日野川筋にも関ヶ鼻用水を開削して新田開発を促進しました。また、九頭竜川本川に「元覚堤」、日野川に「昼夜堤」を建設して中世には放置同然であった治水にも力を注ぎました。この他家老の一人今村盛次は十郷用水の公正な配水慣例を制定し、以後この慣例にしたがって十郷用水の水利権は履行されました。
これ以降も洪水を起こす九頭竜川の治水は藩政として続き、1796年(寛政8年)には木部輪中が造成されました。幕末、松平慶永(春嶽)は混乱期の中においても九頭竜川の治水計画を策定し、1869年(明治2年)より大規模な引堤に着手しましたが1871年(明治4年)の廃藩置県によって計画は頓挫しました。
〇明治の大改修と水力発電
明治に入り、内務省はお雇い外国人による河川改修を木曽川や淀川など全国で実施しました。その中心となったのがG.A.エッセルとヨハニス・デ・レーケですが、彼らは九頭竜川流域でも治水工事を指導監督しました。具体的には沈床工・護岸工の設置、土砂堆積が問題だった三国港改修のための突堤整備と九頭竜川導流堤の建設です。
その後も1900年(明治33年)に足羽川放水路開削事業が開始されるなど治水事業は継続されましたが、1906年(明治39年)の大水害を契機に国策での河川整備の要望が高まりました。九頭竜川は1908年(明治41年)に内務省直轄河川事業に指定されましたが、春江堤防・東藤島堤防築堤等の「明治の大改修」事業の完成までには杉田定一の尽力によるところが大きいとされています。
一方、絹織物産業などの殖産興業の発達により電力需要も増大し、急流で水量の豊富な九頭竜川は水力発電の適地として次第に電源開発が行われていきました。1899年(明治41年)、京都電燈が足羽川に水路式発電所である宿布水力発電所を建設したのが始まりですが、1909年(明治44年)越前電気は同じ足羽川に持越水力発電所を建設しました。これにより絹織物業の力織機動力源の確保や、1914年(大正3年)に営業運転を開始した京福電気鉄道への電力供給が可能となりました。電源開発は九頭竜川本川にも波及し、1919年(大正8年)から1923年(大正12年)にかけては西勝原第1・第2発電所が建設され、九頭竜川水系における大規模電源開発の嚆矢となりました。
〇鳴鹿から始まる国営農業水利事業
戦後に入ると、食糧増産のための施策として農林省(現・農林水産省北陸農政局)は1948年(昭和23年)より国営九頭竜川農業利水事業に着手しました。十郷用水と芝原用水の安定した水供給を図るために鳴鹿地先に鳴鹿堰堤を1954年(昭和29年)建設しました。
当時は固定堰であったが1964年(昭和39年)に国営九頭竜川第2農業水利事業が着手されるにおよび、1966年(昭和41年)に鳴鹿堰堤は可動堰へと改造されました。
然し、老朽化の進行や水需要の再分配、大野市の上水道需要の増大等から堰の改良が必要となり、1989年(平成元年)より建設省(現・国土交通省近畿地方整備局)によって鳴鹿堰堤再開発事業、九頭竜川鳴鹿大堰の建設が開始されました。堰は2003年(平成15年)に完成し、灌漑の他に洪水調節・不特定利水・上水道を目的とした多目的ダムとなりました。
〇福井大震災と昭和の大改修
1948年(昭和23年)、福井市を震度7級の激震が襲いました。この福井地震により市街地は壊滅的被害を受けましたが、それに追い討ちを掛けるように集中豪雨が起こり、福井市は再起不能寸前に陥りました。当時の福井市長熊谷太三郎が、福井市内の浸水被害から河川への排水を重要視、建設省などに治水のための予算配分などを要望しました。結果、福井市内などに排水機場や排水樋門などの整備が進行、また足羽川放水路の改良工事などの大改修を行いました。
この熊谷による治水事業は、杉田定一の「明治の大改修」に比肩するものとして「昭和の大改修」と呼ばれました。この改修事業で福井市は災害から復興を始めることができました。また、九頭竜川は鳴鹿地点で分流しそれぞれ表川・裏川と呼ばれましたが、洪水調節と農地開墾のために表川を本川として裏川を締め切ることになり、1968年(昭和43年)に締め切り工事は完成し流路は一本化されました。
〇奥越地域総合開発事業
九頭竜川の電源開発は戦後北陸電力や電源開発によって上流部に発電用ダムの建設計画が進められました。一方、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風や1961年(昭和36年)の第2室戸台風による水害を契機に建設省も九頭竜川水系の総合開発計画を策定しました。すでに福井県によって1951年(昭和26年)より真名川総合開発事業が始まり、笹生川ダム(1957年完成)や雲川ダム(1956年完成)が建設されていましたが、九頭竜川本川上流部に大規模な多目的ダムの建設を骨子とした九頭竜川総合開発事業が1961年より着手されました。これにより水系最大のダムである九頭竜ダムが建設され、発電施設として揚水発電である長野発電所や鷲ダム・仏原ダム・山原ダム・石徹白ダムが相次いで建設されました。
だが1965年(昭和40年)明治以後では最悪の水害・奥越豪雨が流域を襲いました。この時には上流で3日間で1,044mmの猛烈な豪雨が降り注ぎ、笹生川ダムは堤頂全体から越水し決壊の危機に襲われ、下流の西谷村(現・大野市)中島地区は壊滅的な被害を受け集団移転の憂き目に遭いました。こうしたことから建設省は九頭竜川水系工事実施基本計画を1968年に改訂、この中で更なる洪水調節を図るため真名川ダムの建設に着手、1978年(昭和53年)に完成しました。支流においても福井県によって日野川総合開発事業・竹田川総合開発事業などが実施され、広野ダム・桝谷ダム・龍ヶ鼻ダム・永平寺ダム・浄土寺川ダムなどが完成。現在、吉野瀬川ダムが建設中です。
(- 参考HP:Wikipedia)
4)千年の悲願 九頭竜川の用水
九頭竜川の用水について、継体天皇の時代から現在に至る経緯等を紹介しているWebサイトがありました。
●Webサイト
水土の礎 ⇒ 国土を創造した人々 ⇒ 参考HP:千年の悲願(九頭竜川の用水)
九頭竜川に設けられた鳴鹿大堰からの用水に関する歴史的経緯が詳しく説明されています。
十郷大堰所取水口(年代不明)(参考HP) 十郷大堰付近の取水口(参考HP) 旧鳴鹿堰堤(参考HP)
●九頭竜川資料館(九頭竜川流域防災センター)
福井市美山地区付近 足羽川桜並木(福井市中心部) 足羽川頭首工
(引用:Wikipedia)
1)足羽川の概要
足羽川は、福井県を流れる河川。九頭竜川水系日野川の支流です。福井県今立郡池田町の冠山を源に発し北流。福井市に入ると国道158号に沿って西に向きを変えます。福井市の中心部を流れ、福井市大瀬町付近で日野川に合流します。福井市街地の堤防に並ぶ日本一の桜並木は、「さくら名所100選」にも選ばれています。
たびたび、水害が起きていますが、最近では2004年7月18日に、梅雨前線による洪水で、多大な被害を与えました。水害が起きる原因として、福井市の市街地に入ると急に川幅が狭まって蛇行すること、足羽川にかかる橋が古いために橋脚が多く、川の流れを妨げてしまうということが挙げられます。事実、2004年の水害はカーブ外側の堤防が水圧によって破堤しました。
戦国時代には、朝倉氏の本拠地の一乗谷から九頭竜川河口の三国港への水運が盛んに行われていました。江戸時代には福井の城下から三国港への水運が行われ、特に足羽山の特産である笏谷石は主に、この川運を利用し三国から移出されました。
2)福井豪雨と足羽川治水対策
2004年(平成16年)7月18日の平成16年7月福井豪雨(足羽川水害)は、特定箇所への異常集中豪雨が最大の原因でした。福井市の市街地に入ると蛇行が多くなる上に急に川幅が狭まること、市街地で橋梁が多く橋桁で水がせき止められ、仮設道路や矢板の影響も多少あって堤防からの越流に至りました。堤防天端が舗装されていない越流に弱い箇所で、破堤に至りました。中小河川では越流しても数時間の越流であることから、その時間だけ破堤せずに持ちこたえられるように民地側堤防ののり面を補強すること等の対策がハード面の短期的視野での治水対策として国土交通省の緊急アクションプランに挙げられました。土木学会や国土問題研究会などの足羽川豪雨調査でも、越流しても破堤しない堤防補強が対策と第一に挙げられています。
これと並行して、長期的視野での治水対策としてダムによる洪水調節も再検討されるに至りました。足羽川には国土交通省によって多目的ダムである足羽川ダムが1983年(昭和58年)より計画されていましたが、水没世帯188戸に上るため猛烈な反対運動が起こっていました。
全国でダム建設の是非を巡る論争が繰り広げられた1990年代、特に賛否が紛糾しているダムの1つとして足羽川ダムは「足羽川ダム建設事業審査委員会」や「九頭竜川流域委員会」といった外部識者による諮問機関にその建設の可否を探らせました。結果『現行のダム計画は住民の犠牲が大きく、容認出来ない』との理由で1995年(平成7年)凍結されました。この間国土交通省は「九頭竜川流域委員会」や福井市等の足羽川流域自治体等にダムの代替案を提示し、様々な選択肢での治水対策を検討していましたがその矢先に平成16年7月福井豪雨が発生しました。
足羽川は福井市内を貫流している事から、堤防補強が第1の対策として挙げられているものの実際には鉄道・橋梁の架け替えや多大な住居移転が伴う為に補償額は莫大なものになる事が既に足羽川ダム代替案で示されていました。この為支流の部子川に高さ130.0m、総貯水容量70,000,000tの治水ダムを建設する計画を国土交通省は示しました。これが新・足羽川ダム計画であり普段は貯水せず洪水時には足羽川等から導水し洪水を貯留する事で洪水調節を行おうとしています。国土交通省試算では、堤防補強や放水路・遊水地よりもコストを圧縮出来るとして福井県や福井市、流域住民等に理解を求めました。一方、元来ダム事業等の公共事業に批判的な日本共産党の県議等で作る「国土問題研究会」は足羽川ダム計画に対し『十分議論されていない内に、集水面積が極めて小さくなり効果が疑問視され、その上建設費が高くなったダムでの対応を進めようとしている』としてダム建設には反対の姿勢を見せています。
福井豪雨においては、同じ九頭竜川支流の真名川において足羽川流域を上回る豪雨となったが、真名川ダムや笹生川ダムといった多目的ダムの洪水調節によって下流の大野市等では堤防越流や決壊による浸水被害が殆ど見られなかったという事実もあります。豪雨被害の当事者である福井市や流域の住民は概ねダム建設に理解を示していると言われ、2006年(平成18年)1月に国土交通省はダム建設計画を正式に発表。福井県や福井市もこれを認める方針を出しました。しかしながら一部からはダムという選択肢自体を認めない姿勢を持つ意見もある事から、流域に全く関係ないダム反対活動家等が参加し紛糾する事が予想されます。こうした治水計画において大事なのは、観念論を排除し総ての選択肢をオープンに議論する事であり、密室での議論や感情論は排さなければならない事であると言われています。
参考HP:Wikipedia3)足羽川ダム計画
足羽川ダム建設事業は、足羽川、日野川及び九頭竜川の下流地域における洪水被害の軽減を目的として、九頭竜川水系河川整備基本方針に定められた天神橋地点の基本高水のピーク流量2,600m3/s に対し、800m3/s の洪水調節を行うため、洪水調節専用(流水型)ダムと併せて、他の4 河川(水海川、足羽川、割谷川、赤谷川の洪水を導水するための分水施設(分水堰と導水トンネル)を整備するものです。
また、今後20年~30年の河川の整備内容を定めた九頭竜川水系河川整備計画においては、目標である戦後最大規模の洪水(福井豪雨規模)の流量2,400m3/sに対して、600m3/sを足羽川ダムにより洪水調整を行うこととしています。
河川整備計画期間内に先行的に建設する施設は、ダム本体と水海川からの分水施設です。なお、ダム本体は段階整備に適さない構造物であるなどの理由により、九頭竜川水系河川整備基本方針規模で整備する計画です。
北陸自動車道南条SA 八乙女頭首工 八乙女頭首工沈砂池
(引用:Wikipedia)
2)桝谷ダム
桝谷ダムは福井県南条郡南越前町、一級河川・九頭竜川水系桝谷川に建設されたダムです。桝谷川及び合流先である日野川の治水、福井市・鯖江市などへの利水を目的とした多目的ダムで、高さ 100.4 m のロックフィルダムです。
農林水産省北陸農政局が国営日野川用水農業水利事業の中心事業として建設した農林水産省直轄ダムであったが、目的に洪水調節が加わったことにより福井県が事業に参加し、完成後は福井県が管理している。
ダムによって形成された人造湖は河川名と地名からますたに湖と命名されたが、日野川からも導水して貯水を行っている。
1)日野川の概要
日野川は、九頭竜川水系の支流で、福井県嶺北(丹南地域)を流れる一級河川。福井県南条郡南越前町広野の岐阜県との境界付近に位置する夜叉ヶ池(1100m)に源を発し北流。越前市などを流れ、福井市大瀬で足羽川を合流し、福井市高屋で九頭竜川に合流する。流域面積1,275.5km²(足羽川を含む)、幹線流路延長71.5km。
鉄道唱歌の北陸篇六十三番には「、三国港の海に入る 日野川こえて福井駅 ここに織り出す羽二重は 輸出の高も数千万 」とあります。
〇沿革
日野川は真名川と並ぶ九頭竜川の主要支川であり、古代より流域は穀倉地帯として利水事業が行われていた。代表的なものが関ヶ鼻用水で、福井藩初代藩主・結城秀康の重臣である本多富正が開削に携わり流域の灌漑に寄与した。現在では県営農業水利事業に加え、農林水産省北陸農政局が手掛ける「国営日野川用水農業水利事業」が施行されて居り、その根幹施設として桝谷ダムが計画された。
一方、日野川は度々氾濫を繰り返し、引堤や浚渫等で対応していたが限界があった。そこで福井県は1961年(昭和36年)の第2室戸台風による水害を契機に、「国土総合開発法」に基づいて「真名川総合開発事業」に続く河川総合開発事業として「日野川総合開発事業」に着手。その一環として日野川本川に洪水調節・不特定利水・工業用水・発電を目的とした補助多目的ダム、広野ダム(重力式コンクリートダム、高さ 63 m)を1975年に建設しました。
だが、その後福井市などを始めとする沿岸地域の人口増加や工業団地の進出等もあって水需要が急増しました。こうした事から福井県は桝谷ダム計画に参入し、日野川総合開発事業と国営日野川用水農業水利事業の共同事業として建設される事になった。
〇目的
1981年(昭和56年)より建設事業が開始され、2005年(平成17年)に竣工しました。ダムの型式は中央土質遮水壁型ロックフィルダム、堤高は 100.4 m で農林水産省直轄ダムの中では刀利ダム(小矢部川本川)、日中ダム(阿賀野川水系押切川)に次ぎ堤高が高く、九頭竜川水系の既設ダムでも九頭竜ダム(九頭竜川本川・国土交通省近畿地方整備局)、真名川ダム(真名川・国土交通省近畿地方整備局)に次ぐ3番目の高さです。
目的は灌漑の他洪水調節、福井市・越前市・鯖江市・南条郡への上水道・工業用水の供給という多目的ダムである。ダムのある桝谷川では湛水が十分に出来ない事から、広野ダム上流の日野川に高さ 24.7 m の重力式コンクリートダムである二ッ屋頭首工を建設しトンネルを通じて日野川の河水をダム湖に導水している。
〇ますたに湖
ダムにより形成されたダム湖はますたに湖と命名され、湖畔には休憩場や展望台、ダム本体下流には公園が整備されている。
●二ツ屋導水施設
桝谷ダムは直接流域(10.2km3)だけでは十分な水を確保することができないため、既設の広野ダム上流に二ツ屋頭首工を築造し、間接流域(既設の広野ダムの流域)の水を二ツ屋導水トンネルにより導水し貯留する計画となっています。
参考HP:水土里ネット日野川用水(http://www.hinogawa.com/) 参考HP:Wikipedia
最終更新:令和3年3月17日