1 磐井の乱
(1)磐井の乱の概要 (2)磐井の乱の経緯 (3)磐井の乱の意義・異説・俗説
(4)磐井の乱の記録
2 磐井ゆかりの史跡等
(1)岩戸山古墳 (2)岩戸山物語 (3)岩戸山歴史文化交流館
(参考)磐井の乱の前夜
(1)継体天皇の紀年と治世 (2)百済との交渉
1)磐井の乱とは
磐井の乱は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争といわれています。
この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られています。
磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られていますが、『筑後国風土記』逸文や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』にも簡潔な記録が残っています。
なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいます。
2)北部九州の古代豪族分布
出典:豊前市史
●屯倉
大化以前の大和朝廷の直轄領。官家、屯家、屯宅、三宅などとも書く。収穫物をたくわえる倉庫から出た語。のちには収穫物を得る土地や、これを耕作する田戸、田部までをも含めるようになった。
屯倉には
① 大和のように古くからの皇室領
② 地方豪族の領地の一部を皇室の直轄領としたもの
③ 単なる課税対象の地域
などがある。
●県主
大化以前の県の支配者。のち姓 (かばね) の一つとなった。「記紀」や「風土記」の伝承によれば,皇室直轄地の首長,また国造 (くにのみやつこ) が支配する国の下部組織の長ともいわれる。
神の霊をとどめ,託宣を聞くなど宗教的な性格を帯び,祭祀に関する機能を果したといわれる。
●国造
大和時代に,朝廷によって任じられた地方官の一つ。7世紀の初め頃から,大和朝廷は,地方行政組織である国県制度の一環として,以前からその地方に土着し部民などを私有していた豪族を国造に任じたり,朝廷から派遣したりして,支配権を確立していった。
(参考:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
真偽は定かではありませんが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりです。
1)近江毛野軍の任那派兵と磐井への贈賄
527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発しました(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。
この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請しました。
2)磐井の挙兵と物部麁鹿火の派遣
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦しました。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされています。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命されました。
3)筑紫三井郡での戦闘
528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北しました。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされていますが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されています。
4)筑紫葛子の糟屋屯倉の献上
同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられました。
5)近江毛野軍の任那派遣
乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせています。
以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されています。また、『古事記』は、筑紫君石井が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記しています。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述があります。
(Wikipedia抜粋)
1)意義
●古代の重要事件化
磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことです。当時、林屋辰三郎・藤間生大・門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト王権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけています。
これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出されました。
ただしそれらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったことと、乱の意義に着目した研究が続けられた結果、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける見方が通説となっています。
●磐井の乱の研究
1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表されました。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていましたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとしています。
●磐井の乱の意義・位置づけの再検討
1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになりました。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する見方は必ずしも一致していません。
●大和王権の体制の議論
一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が判明するに従って、九州広域にわたって栄えていた特有の文化圏と磐井の乱とを関連づけるようになりました。すなわち磐井の乱までのヤマト王権とは強い中央集権体制であったのか、それとも各地豪族の連合的政権であったのか、についての議論がなされています。
2)異説・俗説
当時、北九州にはすでにヤマト王権とは別個の政権(倭国政権:九州王朝)がありました。中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号(九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったとする説(九州王朝説)がある。
この説は、6世紀前半の日本においてヤマト王権が九州を含む統一王朝であったことを疑問視し、むしろヤマト王権よりも磐井政権の方が日本における有力政権だったと見なすものである。
ただし、古田武彦はこの説を取り下げた。そのため、多元王朝説ではこの乱自体を造作とする。 (Wikipedia抜粋)
1)日本書紀
『日本書紀』継体天皇21年(527年?)6月3日条によると、近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅・喙己呑(とくことん)を再興して任那を合併しようとした。
これに対して、筑紫君磐井が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。
そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致した。そしてついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。
継体天皇22年(528年?)11月11日条によると、磐井は筑紫御井郡(現在の福岡県三井郡の大部分と久留米市中央部)において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られた。そして同年12月、磐井の子の筑紫君葛子は死罪を免れるため糟屋屯倉(現在の福岡県糟屋郡・福岡市東区)を朝廷に献じたという。
2)古事記
『古事記』では継体天皇段において、竺紫君石井(磐井に同じ)が天皇の命に従わず無礼が多いため、物部荒甲大連(物部麁鹿火)・大伴金村連の2人が遣わされて石井を殺した、と事件について簡潔に触れている。
3)風土記
『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、上妻県(かみつやめのあがた)(現在の福岡県八女郡東北部)の役所の南2里(約1km)に筑紫君磐井の墓があるとする。その墓について詳述した後で古老の伝えとして、雄大迹天皇(継体天皇)の御世に磐井は強い勢力を有して生前に墓を作ったが、俄に官軍が進発し攻めようとしたため、勝ち目のないことを悟って豊前国上膳県(上毛郡:現在の福岡県築上郡南部)へ逃げて身を隠した。そしてこれに怒った官軍は石人・石馬を壊したという。
4)その他
『先代旧事本紀』「国造本紀」伊吉島造(壱岐国造)条では、継体天皇の時に石井(磐井)に従った新羅の海辺の人を討伐したとする記述がある。 (Wikipedia抜粋)
●参考HP:「八女観光」(筑紫君磐井に会いたい)
約20年前、福岡県で勤務している際に岩戸山古墳を訪れて、近くの史料館で筑紫君磐井をテーマにしたアニメーションを見ましたが、当地では、磐井が英雄とされていることを知りました。また、別区を散策中、犬(野良犬か飼い犬か不明)に追い回されて困惑した苦い記憶があります。
1)概要
岩戸山古墳は、福岡県八女市にある前方後円墳。八女古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「八女古墳群」に包含)。九州地方北部では最大規模の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)の築造と推定されます。
八女市北部、八女丘陵上に展開する八女古墳群を構成する古墳の1つ。八女丘陵は東西10数キロメートルからなり、5世紀から6世紀にかけての古墳が数多く築かれている。その数は前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及び、当古墳はその中でも代表的なものです。
古墳は東西を主軸にして、後円部が東に向けられています。2段造成で、北東隅に「別区」と呼ばれる一辺43メートルの方形状区画を有するという特徴を持っています。築造年代は須恵器の年代観から6世紀前半と見られ、被葬者と推定される筑紫君磐井に関する記録とも一致しています。内部主体は明らかとなっていませんが、電気探査等で横穴式石室と推定される構造が確認されています。
なお、墳丘脇には神社(大神宮)が鎮座していますが、古くは後円部墳頂に鎮座していました。墳丘・周堤・別区からは一般に「石人石馬」と総称される当地周辺特有の石製品が100点以上出土しており、その数・種類は他の古墳を圧倒しています。これらは人物・動物・器財の3種類に大別され、実物大を基本とするという特徴を持っています。なお、現在の別区には石製品のレプリカが大きさを縮小して建てられています。
当古墳は昭和30年(1955年)12月23日に国の史跡に指定されました。昭和53年(1978年)3月24日付けで、史跡の追加指定・統合指定が行われ、指定名称が「八女古墳群」に変更されました。
2)規模
●古墳総長:170m以上
●墳丘長:約135m
●後円部:直径:約60m、高さ:約18
●前方部:幅:約92m、高さ:約17m
●別区:一辺43mの方形
●古墳周囲には幅20mの周濠・周堤がめぐらされている。
3)被葬者
被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられています。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つです。
筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されています。また『筑後国風土記』逸文には岩戸山古墳の状況や位置が記されており、別区では裁判を思わせる記述もあります。同文によると、磐井は生前から墓を作っていましたが、戦に敗れ放棄したといわれています。
なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流であった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在まで定説となっています。
(写真&文:Wikipedia抜粋)
【第一章 八女丘陵の古墳群】
八女市の北部には、高さ約20メートルの丘陵が東西に横たわっています。この給料は八女郡広川町との境界にもなっていて、昔は「長峰」とよばれていました。現在は「八女丘陵」と言います。東西約10キロメートルの西端は筑後市や三潴郡まで伸びています。
八女丘陵のほぼ真ん中を国道3号線が南北に横断していますが、横断地点の西側に一段と盛り上がっているのが岩戸山古墳です。この古墳から南の方を見ると、八女市を中心にした平野部や矢部川、そしてその向こうに筑肥の山並みが一望できます。北の方は、高良台地をへだてて久留米市や耳納・背振の山系が見えます。まさに、筑後平野を二分する重要な地点に、この岩戸山古墳はあるといっていいでしょう。
八女丘陵には、この古墳を中心に大小二百数十基の前方後円墳や円墳などがあります。これらの古墳群を一括して「八女古墳群」と名付けています。したがって岩戸山古墳も「八女古墳群岩戸山古墳」というのが正しい呼び方です。
現在の考古学の古墳編年観によると。八女古墳群の主要な古墳は、西から東にかけて新しくなっているといわれている。最西端の石人山古墳は5世紀中期、最東端の童男山古墳は6世紀後期、そして両古墳のほぼ中間にある岩戸山古墳は6世紀初期の築造と推定されています。
そして、これらの主要古墳は、筑紫君一族の墓と伝えられています。つまり八女丘陵の主要古墳の変化は、筑紫君一族の栄枯盛衰を物語っているともいえるものです。
【第二章 筑紫君磐井】
筑紫君磐井は、今から1500年ほど前、この八女地方を支配していた豪族です。「日本書紀」では彼のことを「筑紫国造磐井」と記し、「風土記」では「筑紫君磐井」と呼んでいます。どちらも、当時の北部九州を代表する豪族を意味しています。
筑紫君一族の発生の地は、福岡県筑紫野市筑紫だったといわれています。そしてここに鎮座する筑紫神社は筑紫君が祭祀しました。祭神白日別が祭神であることは、筑紫君の先祖が朝鮮半島からの渡来人であったことをもうかがわせます。
筑紫野市一帯は、西の背振山系と東の古処山などの山系が幅3キロメートルの地峡を作っている地点です。ここは、福岡平野と筑紫平野の接点で、北部九州を制圧するためにはぜひとも押さえていなければならない要地でした。この地を制しつつ、数世代を経て筑紫君一族は次第にその拠点を南に移したのです。筑後川と矢部川の水利を求めて南下したものでしょう。
岩戸山古墳の西方4キロメートルにある石人山古墳は、磐井の祖父の墓といわれていますので、筑紫君一族は、5世紀松ごろ、すでにこの八女地方を拠点にしていたことになります。その勢力の絶頂期に、筑紫君一族の長としてきた九州に君臨していたのが磐井でした。彼がまれにみる戦闘者だったことはもちろんですが、灌漑の水利に長けていたことが、その名”磐井”から察せられます。岩間の清冽な泉を”磐井”と言います。”泉”は原始以来信仰の対象ともなっていました。”磐井”という名は彼の人物像を反映しているようです。
八女の古代人は、この名を口にするとき宗教的畏敬の念を持ったに違いありません。また、次章の”磐井の乱”では新羅が応援しています。当然、磐井には国際情勢を見分ける眼があり、また、海外からの新知識も身に着けていたことと思われます。一説によれば、乱を興したとき彼は70歳ぐらいだったといわれています。もしそうならば、磐井が自分の墓(岩戸山古墳)を築造したのは50歳前後のこととなるでしょう。
【第三章 筑紫国造磐井の叛乱】
”磐井の乱”について、「古事記」と「日本書紀」は、それぞれに特色のある記述をしていますが、「序」で述べたように「叛乱」という言葉を使って「日本書紀」のその部分を意訳してみます。
「大和の大王継体の21年(527)夏6月3日、近江毛野臣に率いられた大和軍6万人は、北九州を経由して朝鮮半島に渡ろうとした。新羅に併合された任那の一部を奪いかわすための遠征である。
ところが大和軍は、筑紫国造磐井のために遠征を阻止された。当時磐井は、火国(肥前・肥後)、豊国(豊前・豊後)の首長と連盟し、その主導権を握っていたのである。岩井は海路をおさえ、高句麗・百済・任那から大和に貢ぐ品物を満載した船を、毎年のように略奪していた。新羅は磐井を利用することを思いついた。経済的援助と引き換えに、大和軍渡航の妨害を彼に頼んだのである。
磐井は、渡航協力を強制する大和軍総帥毛野臣に対し『お前は、大和の大王継体の使者として俺に命令するつもりでいるらしいが、俺とお前は、昔、同じ釜の飯を食った仲間ではないか、その俺を従わせようとしても、無理なことだ』と言って、大和軍への協力を拒否した。
そのため、毛野臣率いる大和軍6万は、玄界灘を前にして立ち往生してしまった。大臣継体は激怒した。直ちに物部大連麁鹿火を将として、磐井征討軍を進発させた。秋8月1日、出発に先立ち、麁鹿火は『磐井が、いかに天然の要害を頼り智謀の限りをつくして戦いを挑もうとも、大王のご威勢で必ずこれを討伐してご覧にいれます』と誓った。
大王継体はこれに応えて『長門(山口)から東は自分が統御する。麁鹿火汝に九州のすべてを任せる。思うように兵を動かせ。』と将軍に印の斧鉞を与えて激励した。
将軍物部麁鹿火は勇躍筑紫の原野に軍をすすめた。しかし筑紫連合軍の抵抗は激しく手強かった。そして2度目の冬を迎えた11月11日、両軍は筑後川河畔の御井(久留米市)で雌雄を決することとなった。この日、磐井は自ら出撃し大和軍と対決した。
筑後平野に双方の軍旗がはためき、軍鼓がとどろいた。まき上がる砂塵で天日は翳った。激闘数刻、ついに利あらず、磐井はここ御井の地で斬られたのである。こうして1年有余にわたった磐井の叛乱はようやく終結した。12月、磐井の子の葛子は、罪の連座を免れるために、のちに屯倉となった糟屋の所領を献上したという。
以上が「日本書紀」による ” 叛乱 ” の大要です。磐井については「風土記」にも記述があります。これには次章のように「豊前に逃亡した」と記されています。「日本書紀」の記述は、唐時代の史書の模倣と文学的修飾が多いこと、再に記述内容の間違いが指摘されています。特に”磐井の乱”の原因については、「日本書紀」の記述を否定する次のような説があります。
① 朝鮮問題の行き詰まりを打開するために、北九州の族長に徴兵や兵糧・兵器の徴達を過重に命じたことが直接の原因である。
② 大和政府が国家統一のために、土地所有を目的とした屯倉制を北部九州にも拡大しようとした。それに抵抗して磐井は自己防衛の戦いをいどんだ。
磐井との闘いに勝った大和政府は、北部九州の各地に屯倉を設置します。そのために、豪族の連帯組織は断ち切られて来た九州連合体は完全に崩壊します。したがって、②の説は、とくに注目されるものでしょう。大和政府にとって、この戦いは是非とも勝たなければならぬ国家形成のための統一戦争だったわけです。
※「日本書紀」では麁鹿火ひとりとなっているが「古事記」では大伴大連金村と両名となっている。「古事記に信ぴょう性があるといわれている。」
《参考資料:「岩戸山物語」(著者:杉山洋)(発行:八女を記録する会)》
●参考HP:岩戸山歴史文化交流館いわいの郷
約20年前に訪れた際は、岩戸山歴史資料館だったような気がします。そこで見た筑紫君磐井に関するアニメーション映画を見ましたが、映画の最後に筑紫君磐井が「郷土の民を守った(要旨)」との発言があり、この言葉が今でも強く印象に残っています。
(引用:『福井県史』通史1 第二章 第二節 三 継体天皇の治世)
継体天皇の時代において最も大きな事件の一つは、いわゆる「任那四県割譲」問題であろう。しかもこの事件は、継体天皇七・八・九年条と、二十三年条に分けて記載され、理解を困難にしている。これが実は重複記事にほかならないことは、次に示す七・八・九年条(上段:左側)と二十三年条(下段:右側)の記載を対照したものによれば判然とする(笠井倭人「三国遺事百済王暦と日本書紀」『朝鮮学報』二四)。
七年夏六月、百済、穂積押山臣を通じて、伴跛の己を乞う。 | 二十三年春三月、百済王、穂積押山臣に謂りて曰く、「夫れ朝貢の使者恒に嶋曲を避るごとに風波に苦しむ。茲に由ってもてる所のものを湿し、全壊してみにくし。請う、加羅の多沙津を以て臣が朝貢の津路とせん」と。 |
九年春二月、百済の使者文貴将軍等、罷らんと請う。仍りて勅して物部連(闕名)を副えて遣わす。 | 是の月、物部伊勢連父根・吉士老等を遣わし、 |
七年冬十一月、朝廷に百済・斯羅・安羅・伴跛の使者らを引列し、己・滞沙を以て百済国に賜う。是の月に伴跛国、珍宝を献って己の地を乞う。而るに終に賜らず。 | 津を以て百済王に賜う。是に加羅の王、勅使に謂って曰く「此の津は官家置きてより以来、臣が朝貢の津渉とす。安ぞ輙く改めて隣の国に賜うを得ん。元の封ぜし限りの地に違う」と。 |
(八年)三月、伴跛、城を子呑・帯沙に築き、烽候・邸閣を置きて日本に備う。 | 是に由って加羅、儻を新羅に結びて、怨みを日本に生ず。 |
是の月(九年二月)に沙都嶋に到りて、伴跛の人恨みを懐き毒をふくむと聞き、物部連、舟師五百を率て直に帯沙江に詣る。 | 勅使父根等、斯に由って、まのあたり賜うを難しとして大嶋に却き還る。別に録史を遺して果して扶余に賜う。 |
夏四月、物部連、帯沙江に停まること六日。伴跛、師を興して往きて討つ。衣裳を逼め脱ぎ、もてるものを劫掠し、尽く帷幕を焼く。物部連ら怖じ畏れて逃遁る。僅に身命を存して慕羅に泊る。 |
この上段(左側)は主として百済側の史料により、下段(右側)は主として国内の史料によっている。それゆえ、上段では加羅が伴跛という地域に即した名称でよばれている。
そのため『紀』の編者は、両者が同一事件を扱っていることに気づかなかったのであろう。
ここで上段(左側)の継体天皇七・八・九年条にまたがる事件が下段(右側)では二十三年条にまとめられている。この約一四年の差は何故に生じたのか。
笠井によれば、百済の聖王の元年には、(1)五一三年(『三国遺事』即位干支)、(2)五二三年(『三国史記』)、(3)五二四年(『紀』百済王暦)、(4)五二七年(『三国遺事』治世年数)の四史料があるという。
継体天皇九年は、(1)にもとづく聖王三年であり、継体天皇二十三年は(4)にもとづく聖王三年である。すなわち加羅割譲の事件はともに聖王三年という時点において一致する。
同様に磐余玉穂「遷都」は、継体天皇二十年とする本文のほか、七年とする「一本」の説がある。前者は(4)による聖王年の前年、すなわち武寧王の末年にあたる。後者は(1)による聖王元年にあたるが、これは当年称元法によっているので、同時にまた武寧王末年にもあたっている。したがって両者は武寧王末年という時制表示において一致するのである。
しかし、絶対年代としてどちらが正しいかが示されてはいないが、武寧王陵碑の発見によって、武寧王の没年は五二三年であることが確実になった。これが継体天皇七年にあたるとすれば、継体天皇即位の年は五一七年と考えられる。
すなわち『紀』の継体天皇即位五〇七年は、約一〇年さかのぼって設定されていることになる。このことは、継体天皇の治績の理解にもかかわってくる。一般的にいわれるように、継体紀は、内政関係史料が乏しく、外交関係史料が大部分を占める。なかでも、いわゆる「任那四県割譲」問題と朝鮮半島出兵にかかわる「磐井の乱」問題である。
(引用:『福井県史』通史1 第二章 第二節 三 継体天皇の治世)
継体天皇6年(512)12月、百済は使を遣わして、任那の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四つの県の割譲を求めてきた。
哆唎の国守穂積臣押山は上奏して、これらの地域は日本から遠くて百済に近く、とうてい維持しがたいから百済の望みに任せた方がよいといったので、大連の大伴金村がこれに同調し、朝議はそれに決した、という。しかし大連の物部麁鹿火と、勾大兄皇子とはこれに反対意見をもっていた。(※)
(※)麁鹿火が難波館に出向いて、百済の使いに勅を伝えようとした矢先、妻から「神功皇后は(朝鮮半島の各国に)官家(みやけ)(王権の直轄地)を設け、わが国の守りとされた由来がある。これを割いて他国に与えると、後世長く非難を受けることになる」と言われた。「病気と言って、勅宣(ちょくせん)を受けなければよい」という妻に従い、使者を断った。そこで、別人が勅を伝え、任那四県を百済に割譲したという。
後になって勅宣のことを知った継体天皇の息子の勾大兄王子(まがりのおおえのみこ)(後の安閑天皇)が(割譲を)改めようとして、百済の遣いに伝えると、「父の天皇が勅をたまわれた。どうして子の皇子が勅と違う命令を出されるのか。これは嘘でしょう」と言って帰国した。割譲をめぐり、「金村と押山は百済から賄賂を受けている」との流言があった、という。
これに対し翌年、百済は五経博士段楊爾を送ってきた。そしてさらに、伴跛国が略奪した己の地を返還してほしいと要請した。この年十一月、政府は関係者を集めて協議のうえ、己・滞沙を百済国に与えた。そのため伴跛国は日本に怨みを抱き、翌年その地に赴いた物部連の船舶を焼討ちするに至った。以上が先に示した七・八年条の己・滞沙問題の経緯である。
これは「任那日本府」とその実態に直結する問題であるが、近年の学界の大勢は「任那日本府」の存在を否定する傾向が強い(井上秀雄『任那日本府と倭』、山尾幸久『古代の日朝関係』など)。
しかし、ここではその問題にまで立ち入らない。重要な点は、百済が割譲の見返りとして、各種の文化的な使節を送ってきたことである。五経博士などはその一例であるし、538年の仏教伝来もその延長線上にある。すなわち百済の要求を容れ、親百済政策をとったために、日本の文化は大いに進んだといえる。
しかしこれを喜ばない人びともあった。勾大兄皇子もその一人であることは興味深い。匂大兄は、尾張連草香の娘目子媛の所生であり、おそらく越前生まれと推定される。したがって地方豪族の利害を代弁しうる立場にあった。百済文化の浸透は、地方豪族の利害と一致しない。百済からの知的労働力の流入により畿内の生産力が高まることも望ましくない。畿内東辺はむしろ新羅系文化の影響を多く受けた地域であった。
百済対策の不一致ほど、継体天皇政権の性格を如実に示しているものはない。政権の中枢に坐る大伴金村ら中央豪族の主導のもとに政局は動いていったが、勾大兄を代表とする地方豪族の根強い不満があった。中央豪族のうち物部麁鹿火のみは勾大兄に同調していたらしい。
追記:令和6年9月16日
最終更新:令和6年(2024)9月16日