トップ  継体天皇ゆかりの史跡めぐり

①父方の里 ②母方の里 ③潜龍の地 ④治水伝説 ⑤使者謁見の地 

⑥皇居の変遷 継体天皇⑦磐井の乱 ⑧2つの古墳 ⑨図書紹介  関連系図


継体天皇⑧2つの古墳


1 継体天皇の崩年

(1)3つの崩年 (2)辛亥の変 (3)継体天皇崩後のコシ(4)継体・欽明朝の内乱 

(5)図書紹介『辛亥の変-二朝並立はあったのか』

 

2 2つの古墳

(1)太田茶臼山古墳 (2)今城塚古墳 (3)史跡新池埴輪政策遺跡

(4)古墳からみた継体王権(継体天皇陵と手白香皇后陵&継体天皇の擁立基盤)


 大阪には、茨木市と高槻市との境界線を挟んで、直線距離で1.5km程度しか離れていないところに、巨大な古墳が2基存在します。太田茶臼山古墳今城塚古墳はそれぞれに継体大王の陵墓ではないかといわれています。

 

 継体天皇の陵墓は、現在、宮内庁は大阪府茨木市太田にある太田茶臼山を治定しており、陵墓として宮内庁が管理していますが、造営年代や埴輪等の出土品等から、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳継体天皇の墓と言われています。しかし、今城塚古墳は、国の史跡に指定はされていますが、宮内庁の管理ではなく発掘調査等が行われています。

 

 この2つの古墳と、この古墳に埋葬された埴輪を作ったという「史跡新池ハニワ工場公園」を出張の合間を縫ってタクシーを利用して短時間で巡りました。 


1 継体天皇の崩年


(1)3つの崩年説


(引用:福井県史HP)

 継体天皇の崩年としては、古来3つの説が伝わっている。 

1)527年説(『古事記』)

 第一は『古事記』の崩年干支が伝える丁未の歳、すなわち527年である。

 

 しかし、『日本書紀』はこの崩年干支を少しも考慮に入れた形跡はない。磐井の乱の勃発を527年に置いているので、もし丁未説をとるならば、継体天皇はこの乱の初期に没し、その鎮圧は継体天皇の治世をはみ出すことになる。

 

 『古事記』は「この御世に、筑紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」と記し、磐井の乱を継体天皇の治世中のこととしている。 しかし、磐井の乱の絶対年代は若干動く可能性もあり、この点のみから丁未説を否定することはできない。  

 

 『この御世に竺紫君石井(いはい)、天皇の命(みこと)に従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連(おほむらじ)、大伴の金村(かなむら)の連2人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、43歳(よそじまりみとせ)。〔丁未の年の4月9日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり。』(〔〕は分注)       ― 『古事記』(Wikipedia抜粋) 

 

2)534年説(『日本書紀』「或本」)

 第二の説は、『日本書紀』の「或本」が記す継体28年甲寅(534年)説である。『日本書紀』は次の安閑天皇の即位534年に置いており、安閑天皇は譲位によって即位したことになっているので、その点、この説は合理的である。 

 

3)531年説(『日本書紀』)

 第三に、一見合理的にみえるこの説を、『日本書紀』自身が覆して、本文には25年辛亥説を採用した。これは『百済本記』の辛亥の歳に、「日本の天皇および太子・皇子倶に崩薨」とある記事に従ったものである。

 

 辛亥は531年で、『紀』編者は、譲位によって即位したはずの安閑天皇の即位まで二年の空白の生じる不合理さえ、あえて冒しているようである。


(2)辛亥の変


(引用:福井県史HP)

 

 『紀』の矛盾に対し、果敢に批判した最初の人は平子鐸嶺であった(平子鐸嶺「継体以下三皇紀の錯簡を弁ず」『史学雑誌』1617)

 

 平子は『上宮聖徳法王帝説』に欽明天皇の在位期間を四一年と記していることをとりあげ、欽明天皇の即位は531年辛亥の歳でなければならないと論じた。

 

 一方、『百済本記』にいう辛亥の歳に崩じた天皇・太子・皇子とは宣化天皇とその皇子たちであろうと説き、『続日本紀』に大臣巨勢男人継体・安閑の二朝に奉事したとある記事を挙げ、『紀』の記す男人の薨年である継体天皇23年は、すでに安閑朝に入っているとした。

 

 かくて平子は『紀』の紀年を大幅に組みかえ、継体天皇の崩年を『記』にしたがって527年とし、そのあと安閑・宣化の二朝ののち、531年欽明天皇が即位したし、仏教の公伝は『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』で戊午の歳(538年)とされているが、538年も欽明天皇の治世なので矛盾がなくなると論じた。

継体天皇の崩年関連年譜福井県史HP


(3ー1)継体・欽明朝の内乱(Wikipedia説)


 

 継体・欽明朝の内乱は、仮説上の内乱。当時の歴史を記録した文献資料において不自然な点が存在することから、6世紀前半の継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したという仮定に基づく。

 

 発生した年を『日本書紀』で継体天皇が崩御したとされている辛亥の年(531年)と具体的に定めて、辛亥の変(しんがいのへん)と呼ぶ説もある。 

 

 『日本書紀』によれば、継体天皇の崩御の年次について、『百済本記』の説を採用して辛亥の年(531年)とする一方で、異説として甲寅の年(534年)とする説も載せている。

 

 甲寅の年は次の安閑天皇が即位した年とされ、これは通常継体天皇の没後、2年間の空位があったと解釈されている。 

 

 ところが、ここにいくつかの疑問点が浮上する。

1)『百済本記』の辛亥の年の記事は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」

2)『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の即位した年が辛亥の年(531年)とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。

3)『古事記』では継体天皇が丁未の年(527年)に崩御したことになっている。

 

 こうした矛盾を解釈する方法については、明治時代に紀年論が注目されて以来、議論の対象となった。

 

 まず最初に登場した説は継体天皇の崩御を丁未の年(527年)、欽明天皇の即位を辛亥の年(531年)として間の4年間に安閑天皇・宣化天皇の在位を想定する説である。

 

 この説では『古事記』・『日本書紀』ともに安閑天皇の崩御乙卯の年(535年)と一致していることと矛盾が生じる(勿論、これを正確な史料に基づく年次と取るか、同一の出典が誤っていたと取るかで議論の余地が生じる) 

 

 昭和時代に入って喜田貞吉が『百済本記』が示した辛亥の年(531年)に重大な政治危機が発生し、その結果として継体天皇の没後に地方豪族出身の尾張目子媛を母に持つ安閑-宣化系と仁賢天皇の皇女である手白香皇女を母に持つ欽明系に大和朝廷(ヤマト王権)が分裂したとする「二朝並立」の考えを示した。

 

 この考え方は第二次世界大戦後に林屋辰三郎によって継承され、林屋はそこから一歩進めて継体天皇末期に朝鮮半島情勢を巡る対立を巡る混乱(磐井の乱など)が発生し、天皇の崩御後に「二朝並立」とそれに伴う全国的な内乱が発生したとする説を唱えた。

 

 『日本書紀』はこの事実を隠すためにあたかも異母兄弟間で年齢順に即位したように記述を行ったというのである 

 

 だが、『百済本記』は現存しておらず、その記述に関する検証が困難である。更に同書が百済に関する史書であるため、倭国(日本)関係の記事を全面的に信用することに疑問があるとする見方もある。

 

 そもそも辛亥の年に天皇が崩御したのが事実であるとしてもそれが誰を指すのか明確ではないのである(安閑天皇の崩御の年を誤りとすれば、辛亥の年に宣化天皇が崩御して欽明天皇が即位したという考えも成立する)

 

 このため、「二朝並立」や内乱のような事態は発生せず、この時期の皇位継承については継体の崩御後にその後継者(安閑・宣化)が短期間(数年間)で崩御して結果的に継体→安閑→宣化→欽明という流れになったとする『日本書紀』の記述を採用すべきであるという見方を採る学説も有力である。 

 

 更に「二朝並立」を支持する学者の中でも必ずしも林屋の説を全面的に支持されているわけではない。

 

 例えば、林屋は欽明天皇の背後に天皇と婚姻関係があった蘇我氏がおり、安閑・宣化天皇の背後にはこの時期に衰退した大伴氏がいたと解釈するが、背後関係を反対に捉える説をはじめ、継体天皇とその後継者を支持する地方豪族と前皇統の血をひく欽明天皇を担いで巻き返しを図るヤマト豪族との対立とみる説、臣姓を持つ豪族と連姓を持つ豪族の間の対立とみる説などがある。  

 

 継体天皇から欽明天皇の時代にかけては、仏教公伝屯倉の設置帝紀・旧辞の編纂和風諡号の導入、武蔵国造の乱など、その後の倭国(日本)の歴史に関わる重大な事件が相次いだとされており、「二朝並立」や内乱発生の有無がそれらの事件の解釈にも少なからぬ影響を与えるとみられている

 (Wikipedia抜粋)


(3-2)継体・欽明朝内乱説(福井県史HP)


 戦後、この両朝併立説をうけてさらに一歩を進め、大規模な内乱説林屋辰三郎によってうち出された(林屋辰三郎『古代国家の解体』)

 

 「『天皇及太子皇子倶崩薨』というような重大事変は、決して単に皇室内にのみその原因があったとは考えられず、その基づくところはきわめて根深いものがあったとせねばならない」と林屋は説き、さらに「この事変に倒れた継体天皇は、(中略)越前に出自があり、大和勢力とながく相容れない存在であったことをみれば、この内乱が朝廷内部に反映して皇位争奪という形をとることにはたしかな理由があったと思われる」と推断した。

 

 林屋によれば、辛亥の変にあたって、継体天皇のあとを継いだのは安閑天皇(勾大兄)ではなく、嫡子欽明天皇であり、これを支えたのは新興の蘇我氏であった。

 

 そして三年後に安閑天皇、ついで宣化天皇を擁立したのは大伴氏であった。その間、物部氏は慎重な態度を持していたが、やがて蘇我氏と結んで大伴氏を追放、欽明朝による統一政権が樹立された、というのである。

 

 しかし、これについては多くの批判説も出たが、とりわけ三品彰英は、前記笠井倭人『三国遺事』百済王暦の研究のうえに立って、この問題に一石を投じた。

 

 今日、われわれが利用しうる朝鮮側の史料としては『三国史記』『三国遺事』王暦の二種があるが、百済の聖王の即位・薨去の年代については、両史料間に三年の差がある。

 

 三品によれば、534年甲寅は『三国遺事』によって聖王八年となるが、『三国史記』による聖王八年は、531年辛亥となる。

 

 したがって『紀』の編者は、最初継体天皇崩年を534年としていたのを、史料系統の異なる『百済本記』の説をとって、531年にくりあげてしまったので、崩後に三年の空位を生じたのであったという(三品彰英「『継体紀』の諸問題」『日本書紀研究』二)

 

 そして平子・喜田両氏の論文は、問題を深刻化した代表的論文であり、また戦後一部の史家が内乱を流行テーマとしてとり上げたと非難し、「だが問題の空位は撰者の机上で作られたものであり、したがって、その上に組みあげられた諸諸の卓説も、その推論の妙味に名残りを惜みながら捨てて行かねばならない」と厳しく林屋らの説を批判した。

 

 しかし今日、武寧王陵碑の発見により『三国史記』系統の史料が正しいことが知られている。『紀』編者も531年説の正しいことを知り、534年説を捨てたのであろう。したがって、この点からの三品の批判には一定の限界があるといわなければならない。

 

 すでに継体王権の内部において、たとえば百済対策について深刻な意見の対立のあることをみてきた。たんに一時的な意見の相違というようなものでなく、その根底にあるものは、地方豪族中央豪族の対決である。

 

 また、この間のヤマト朝廷の中枢にあっては、蘇我氏の急速な成長を見逃すわけにはいかない。この蘇我氏は、安閑・宣化天皇をその本拠地のなかで育てたが、それと同時に、欽明天皇側にも堅塩媛を妃として出した。こういうふうに双方に関係をもち、新しい施策をとりはじめたのが蘇我氏であった。

 

 最終的に勝利したのは欽明朝であり、安閑・宣化朝の敗北は、地方勢力の敗退を意味するものであった。


(4)継体天皇崩後のコシ


(引用:福井県史HP)

 ところで、継体天皇崩後の形勢のなかで、継体天皇進出の基地であった越前の情勢はどのようなものであったか。

 

 一般的にいえば、地方勢力衰退傾向をたどっていったに違いない。第一節の越前の古墳文化の動向からもそれが推察できる。しかしコシの情勢そのものを具体的に示す文献史料は皆無に近い。

 

 そのなかでやはり注目されるのは『上宮記』の記載である。『上宮記』の成立年代が推古朝もしくはその直後であることは、定説としてよい。そうであるならば、その内容も継体天皇出現時代を反映するよりも、成立当時の情勢を反映している点が多いのではあるまいか。

 

 たとえば、そのなかには「三国坂井県」との記載がある。これは北陸地方において唯一の「県」の表現である。「県」については数多くの議論があり、ここにはその要約さえも述べることができないが、概していえば、①国と比較して県の方が小さい、②ヤマト朝廷の直轄地の色彩が強い、③天皇制のイデオロギーないし祭祀と密接に関連している、というような性格を有するようである。

 

 この「坂井県」については、継体天皇が少年時代を過ごした場所として、周辺の土地と比べてヤマト朝廷と関係がとくに深い所だったために県がおかれたという指摘もあるが、『上宮記』の史料上の制約はそのような解釈を許さないと思われる。

 

 編纂された史料は、大体において成立した時代の用語によって書かれる。したがって坂井県は、『上宮記』の成立した六・七世紀の交に存在したと考えられるのである。

 

 継体天皇崩後に存在した坂井県も「天皇直轄地」としての性格が考えられ、継体天皇の子孫父祖発祥地たる越前坂井の地をとくに重視していた状況がうかがい知られる。


(5)図書紹介『辛亥の変 - 二朝並立はあったのか』


引用:『謎の大王 継体天皇』水谷千秋著(文藝春秋)(p-173~)

 この水谷千秋氏の『謎の大王 継体天皇』は、次のような構成で継体天皇の謎に迫っておられる。 

〇 目次

 第1章 継体新王朝説

 第2章 継体出現前史 ー 雄略天皇、飯豊女王の時代

 第3章 継体天皇と王位継承

 第4章 継体天皇の即位と大和定着

 第5章 磐井の乱 - 地方豪族との対決

 第6章 亥の変 - 二朝並立はあったのか

 終 章 中世以降の継体天皇観 

 

第6章 辛亥の変 (項目)

 二朝並立論とは?/継体の崩年/安閑の即位/継体から安閑への譲位/「二種類の百済王歴」論/「辛亥の変」の一解釈/欽明、宣化と安閑/安閑の支持勢力/安閑ヘの譲位の失敗

/「辛亥の変」意義/有力豪族による合議制/『日本書紀』にみえる政権掌握/国際情勢と継体朝 

 ここでは「二朝並立論とは?」/「継体の崩年」を抜粋します。 

 

●二朝並立論とは?

 継体天皇の生きた時代は、まさに動乱の相次いだ時代であった。が、この動乱の火種は彼の死にまでついてまわる。その死後、その後継者をめぐって皇子達が対立し、政権が分裂したという説があるのだ。

 

 蘇我氏が推した欽明天皇と、大伴氏、物部氏の推した安閑天皇、宣化天皇が並び立ったという二朝並立論である。

 

 この説は戦前の平子鐸嶺氏(「継体以下三皇紀の錯簡を論ず」『史学雑誌』第16巻第6号喜田貞吉(「継体以下三天皇皇位継承に関する疑問」『喜田貞吉著作集』所収)の研究に始まり、戦後、林屋辰三郎(「継体・欽明朝内乱の史的分析」『古代国家の解体』)によって継承、発展をみた。 

 

 この説が唱えられた主な根拠は、継体から安閑、宣化、欽明に至る『書紀』の記述にいくつも不審な点が見られることにある。

 

 具体的には、

① 継体の崩御した年について、『古事記』の説と『日本書紀』の二つの説と都合三つの所伝があって一定していないこと。

 

② ふたつめは継体の次の安閑天皇の即位した年について、『日本書紀』二つの所伝があること。

 

③ 三つ目は『日本書紀』の引用する「百済本紀」に日本の天皇及び太子、皇子がともに亡くなった、とあってこれが継体、安閑、宣化の不穏な死を暗示していること。

 

④ 第4に、『元興寺伽藍縁起』『上宮聖徳法王帝説』欽明の即位年を、『日本書紀』が継体の崩御したとする年の翌年に設定していることである。この所伝をとるなら、継体の亡くなった翌年に安閑と宣化を飛び越えて欽明が即位したと捉えることもできる。 

 

 これらの記事から、林屋氏らは以下のようなクーデタの存在を推定した。

 

 継体の崩御後、安閑の即位に同意しない蘇我氏が、欽明を立てて安閑、宣化の殺害を計りクーデタをおこした(これを『日本書紀』の記す干支にしたがって「辛亥の変」と呼ぶ)

 

 かくして欽明が即位したが、一方で安閑、宣化の二人は辛くも助かり大伴氏、物部氏によって立てられ即位した。

 

 こうして安閑、宣化と欽明の二王朝7年間にわたって対立した。そして最終的には、欽明のもとで合一したというのである。 

 

 喜田氏によって提示され、林屋氏によって具体化されたこの二朝並立論は、6世紀の政権の動乱を構想力豊に想定したまことに魅力的な説だ。

 

 近年ではさらに、継体は磐井の乱のさなかに退位させられ、代って欽明がこれを平定したとする

 

 山尾幸久氏の説(『日本国家の形成』)『百済本紀』” 日本の天皇及び太子、皇子がともに亡くなった ” という記事は、安閑(太子)の外交権を奪取しようとした欽明側が、海外に向けて意図的に流した虚偽の情報であると考える川口勝康氏の説(「紀年論」と『辛亥の変』について」弥永貞三先生還暦記念『日本古代の社会と経済』所収)もある。 

 

 一方、近年では二朝並立論を否定する見解も少なくない。『記・紀』に内乱があったことを示す伝承が全くなく、考古学の成果によっても内乱状況を思わせる遺構、遺物が検出されないことなどがその根拠である。私も同じような理由から二朝並立論には懐疑的だ。ただのちに述べるように、継体の死後に何らかの政変が起きたことまでは認められるのではないかと考えている。 

 

●継体の崩年

 近年の二朝並立論に立つ研究では、『日本書紀』編者がこの史実を隠蔽する意図から、資料を操作し改竄したのだとする理解が前提に在るようだ。しかし私の目には、『日本書紀』編者自身がすでに史実をつかめずどのように記せばいいのか、途方に暮れているように見える。 

 

 先ず『書紀』編者が悩まされたのは、継体の崩年であろう。

(『書紀』読み下し)

 25年春2月、天皇、病甚(おも)し。丁未、天皇磐余玉穂宮に崩(かんあが)ります。時に年82。冬12月、丙申朔庚子、藍野陵(あいのみささぎ)に葬りまつる。

 〔ある本に云く、天皇、28年歳次甲寅に崩ります。しかるに此に25年歳次辛亥に崩りますと云へるは、百済本紀を取りて文をつくれるなり。その文に云く、「太歳辛亥3月、軍(いくさ)進みて安羅(あら)に至り、乞乇城(こうとくのさし)を営(つく)る。是月に高麗、其王安(あん)を殺す。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨(かんあが)ります」。此に由りて言へば、辛亥之歳は25年に当れり。後に勘校(かんが)へむ者、知らむ〕 

 

(『書紀』現代語訳)

 25年春2月、天皇の病は重くなった。丁未、天皇は磐余玉穂宮で崩御された。時に82歳であった。冬12月、丙申朔庚子、藍野陵に葬りまつった。

 

 〔ある本に言うには、天皇は、28年歳次甲寅に崩御された。にもかかわらずここで25年歳次辛亥に崩御されたというのは、「百済本紀」の文を採用したからである。その文に言うには、「太歳辛亥3月、百済軍は進んで安羅に至り、乞乇城を営んだ。この月に高麗、其王安弑逆した。又聞くところでは、日本の天皇及び太子・皇子がともに薨去された」。是にしたがって言えば、辛亥の年は25年に当る。後に勘校えむ者が知るであろう〕 

 

 本文は、これを25年春2月、辛亥年(531年)のこととするが、「或本」の28年甲寅崩(534年)という記事も載せている。

 

 なぜ本文に辛亥年説を採ったかというと、「百済本紀」に「辛亥」の年に「日本天皇及太子・皇子、倶崩薨」とあり、この「辛亥」がちょうど継体の25年に当たるからだ。ただこの点について『日本書紀』編者は、「後勘校者知之也(のちにかんがへんものしらむ)と異例の注記を残している。辛亥(しんがい)年説と甲寅(こういん)年説のいずれをとるか、なお自信が持てないままなのである。

 

 『日本書紀』編者は、7世紀後半百済の亡命官人が作成し大和政権に献呈したとされる「百済本記」という史書にかなりの信頼性をおき、たびたびこの史料を引用している。

 

 だからこそ、ここでもその記事を本文に採用しているわけだが、なおかつ「28年甲寅崩」という国内の所伝も併記し、「後勘校者知之也」と記すように揺れ動いている。

 

 それは、「百済本記」の内容が天皇、太子、皇子の同時薨去というきわめてショッキングなものだったからであろう。

 

 しかもこの三人が継体、安閑、宣化を指しているとすると、継体の死後安閑、宣化が順に即位したという国内の古い伝承と、明らかに齟齬することになる。このことは『書紀』編者をおおいに悩ませたに違いない。 

 

 先に私は、二朝並立論に否定的だが、継体の死後に政変が起きたことことまでは認められるのではないかと述べた。その主な根拠となるのは、やはりこの「百済本記」の記事だ。

 

 この記事の年紀が正しいかどうか、又三人が亡くなったのが本当に同時だったかどうかは確かに疑問も残る。しかしこの記事の信憑性を全くしりぞけ無視してしまうならばともかく、そうでない以上は継体の死の直後になんらかの政変が起こり、ときの天皇、太子、皇子が相次いで亡くなった事実は認めなければならないと考える。 

 

 一方では、これを意図的に流された虚報(デマ)であるとか、亡くなったと見えた太子と皇子は実は辛うじて助かっていたと見る説がある。しかしこれは、実は二朝並立論を成り立たせるための苦しい解釈に他ならない。何故ならこの三人、特に安閑、宣化が亡くなってしまうと、その後の安閑・宣化VS.欽明の二朝並立など想定することは不可能になってしまうからだ。

 

 二朝並立論者が、この所伝から何らかの政変の存在を想定しながらも、三人の死去に関してだけはこれを史実と認めないのは、こういった理由からだろう。これでは、自説の都合のいい史料だけをつまみ食いするようなものといわれてもしかたがないのではないか。

(2020.9.5追記) 


2 2つの古墳


(1)太田茶臼山古墳


                                               (写真引用:福井県HP

1)概要

 太田茶臼山古墳は、大阪府茨木市太田にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」として第26代継体天皇の陵に治定されています。

 

  墳長はおよそ230mで、後円部の径はおよそ140m、前方部の幅はおよそ150m。馬蹄形の周濠が巡るが、かつては二重濠であったと推定する向きもあります。周囲には陪冢と考えられる小古墳も点在しています。陵名「三島藍野陵」の「藍」は、三島が島上郡と島下郡に分かれる以前の広範囲の地名であり、この古墳の北西には安威(あい)という地名が残り、安威川が流れています。 

 

2)規模

・墳丘長:226メートル 

・後円部:直径:138メートル、高さ:19.2メートル

・方部:幅:147メートル、長さ:117メートル、高さ:19.8メートル 

・幅:約28-33メートル 

 

3)発掘

 昭和61年(1986年)には外堤の、平成14年(2002年)には墳丘本体の護岸工事を前提とした発掘調査が宮内庁によって行われており、大量の円筒埴輪の他、馬形埴輪、甲冑形埴輪、水鳥形埴輪、須恵器片などが出土している。

 

 宮内庁管理区域外では大阪府教育委員会や茨木市教育委員会によって発掘調査が行われており、外堤上の埴輪列や、陪冢に使用されていたと見られる形象埴輪などが出土しています。 

 

4)治定

  日本書紀では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野陵に葬られたといわれています。『古事記』は三島の藍の御陵としています。

 

 藍原の地形は、継体天皇が没した当時は原野であったと思われます。『延喜式』には、摂津国島上郡にあると書いているが、これは平安時代前期の陵墓掌握であって、それが必ずしも真陵であるかどうかは別です(太田茶臼山古墳がある茨木市は島下郡にあたり、後述の今城塚古墳のある高槻市は島上郡にあたる) 

 

 江戸時代中期に継体天皇陵に比定されましたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くに指摘されていました。

 

 さらに、出土埴輪の特徴は、5世紀中頃のものと考えられているもので、考古学的にも527年 (古事記)534年 (日本書紀或本云) に没した継体天皇の陵では在り得ないという意見が研究者の大勢を占めています。

 

 これに対し、東へ1.5キロ程の所に所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が文献に記される継体天皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられています。

 

 また、太田茶臼山古墳の被葬者を継体天皇の曽祖父である意富富杼王に比定する説があり、継体天皇本人ではなくてもその関係者を被葬者として推定する見方もあります。

  (Wikipedia抜粋)


(2)今城塚古墳


    ●参考HP:高槻市インターネット歴史館「いましろ大王の杜」(今城塚古墳公園)

    ●参考HP:高槻市インターネット歴史館「今城塚古代歴史館」(史跡 今城塚古墳とは)

 (写真引用:福井県HP

今城塚古墳公園全景(Wikipedia)
今城塚古墳公園全景(Wikipedia)

 

 今城塚古墳は、大阪府高槻市郡家新町にある前方後円墳。国の史跡に指定されています。

 造営時の6世紀前半では最大級の古墳である。宮内庁の治定は受けていないが第26代継体天皇の真の陵とする説が有力で、発掘調査が可能な大王陵です。

 

 摂津北部、三島(みしま)平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳です。三島野古墳群に属します。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっています。 

 

 古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっています。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡との深い関連が指摘される古墳です。 

 

 真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われました。

 

 しかし、宮内庁今城塚古墳陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定しています。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられます。 

 

 この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられます。

                               (Wikipedia抜粋)


(参考)産経新聞記事(平成19年(2007年)3月2日)


(追加:2023.4.8)


(3)史跡新池埴輪製作遺跡


       ●参考HP:「史跡新池埴輪製作遺跡」   ●参考HP:「史跡新池ハニワ工場公園

(写真引用:Wikipedia)
(写真引用:Wikipedia)

 史跡新池埴輪製作遺跡は、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間操業していた、日本最古最大級の埴輪生産遺跡です。3棟の大形埴輪工房と18基の埴輪窯、工人集落などが丘陵上約27,000平方メートルの発掘調査で確認され、大王陵級の古墳の埴輪生産システムを具体的に知ることができる貴重な遺跡です。

 

  ここで作られた大量の埴輪は太田茶臼山古墳 (5世紀中頃、茨木市・現継体陵) や史跡今城塚古墳(6世紀前半、郡家新町)といった巨大古墳をはじめとして、土保山古墳昼神車塚古墳などの三島の有力者の墓に立て並べられました。

 

   また同時に確認された7世紀の集落跡からは、新羅土器 (しらぎ どき) も出土していて、『日本書紀』欽明天皇23年条にある新羅人の子孫が住むという「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」そのものにあたると考えられ、『日本書紀』の記述を裏付ける遺跡でもあります。 

       (参考HP:高槻市HP


(4)古墳からみた継体王権(継体天皇陵と手白香皇后陵&継体天皇の擁立基盤)


(引用:福井県史)

〇参考Webサイト:福井県史/第二章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/四 古墳からみた継体王権継体天皇陵と手白香皇后陵継体天皇の擁立基盤

 

1)継体天皇陵と手白香皇后陵

〔継体天皇陵〕

 継体天皇陵は、『延喜式』諸陵寮によれば、摂津国嶋上郡三嶋野に所在していたことになっている。現在、宮内庁によって管理されている継体天皇陵は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市、前方後円墳、226m)であるが、これは嶋下郡に属し、墳丘形態や埴輪などから五世紀中ごろに比定されている。一方、嶋上郡に所在する六世紀前半の二重周溝をもつ大規模な前方後円墳には今城塚古墳があり、これが継体天皇陵であると古くから指摘されている。

 

 そうすると、継体天皇は三嶋野有縁の人物となる。三嶋野には、古墳時代前期の弁天山B一号墳(大阪府高槻市、前方後円墳、墳丘長100m)や中期の太田茶臼山古墳をへて、後期の今城塚古墳へと連綿と続く三嶋野古墳群があり、継体天皇はこの系譜に連なる人物と考えるのが自然であろう。継体天皇の父彦主人王は、「近江国高島郡三尾の別業」(『日本書紀』)「弥乎国高島宮」(『上宮記』)にいたのであるが、その本貫地については記載がない。しかし、継体天皇と深いかかわりのある三嶋野をその本貫地とすれば合理的に理解することができる。三嶋野継体天皇有縁の土地であったとすべきであろう。

 

手白香皇后陵

 一方、手白香皇后陵(衾田墓)は、『延喜式』諸陵寮によると、大和国山辺郡にあり、城上郡にあった崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)の陵戸に兼ね守らしめたことになっている。崇神天皇陵は柳本古墳群(奈良県天理市)に所在した可能性が強く、それに北接する山辺郡内における六世紀前半代の比較的大規模な前方後円墳は、大和古墳群(奈良県桜井市・天理市)西山塚古墳(天理市、墳丘長116m)しかなく、現在治定されている西殿塚古墳ではなく、西山塚古墳が衾田墓である蓋然性はきわめて大きい。しかも、新池埴輪窯跡(大阪府高槻市)で焼成された埴輪が、太田茶臼山古墳や今城塚古墳はもとより西山塚古墳にまで搬入されていることは、そのことを一層裏づけているようである。

 

 継体天皇にはじまる継体王権については、すでに応神天皇正統な系譜ではなく、その后の手白香皇后を通じて大和の王統につながるといわれ、継体天皇は入り婿の形王統の継続性を主張したと考えられている。それゆえ継体天皇陵は、その前の応神王朝の墳墓の地である古市(大阪府羽曳野市)百舌鳥(同堺市)両古墳群を離れた継体天皇の有縁の地、三嶋野に営まれたのである。また、応神王朝につながる手白香皇后陵をその父仁賢天皇陵の所在する古市古墳群中に営まず、初期ヤマト政権の大王墓の営まれた大和古墳群中に営んだところにこそ、継体王権の旧王統を引き継いだという自負と真意がくみとれるのである。

 

 これ以後の大王墓については、今城塚古墳と同じ剣菱形前方後円墳であり、古市古墳群の西方の高鷲の地に営まれた安閑天皇陵に比定される河内大塚古墳(大阪府豊中市、330m)や、奈良盆地南部の身狭の地に営まれた欽明天皇陵に比定される見瀬丸山古墳(奈良県橿原市、310m)などがあげられる。

 

 これら二つの古墳は、その始祖である今城塚古墳の近くに営まれることもなく、また旧来の有力な古墳のなかに含まれるわけでもない。その巨大さにより、大王権力が従来にまして隔絶したことが理解されるが、その地域的・氏族的基盤を離れていることが注目される。この段階の大王墳は、連合政権としてのヤマト政権の盟主の地位を示すものから、諸豪族から完全に超越した権威として確立したものに変質したものと理解され、またそれは単なる同盟の盟主として従来のようにその構成員が交替しうる性格のものでなくなっていることを示すもので、その権力を支える勢力の動向とも関連して、転々と陵墓は移動するようになったと考えられているのであるが(白石太一郎「巨大古墳にみる大王権の推移」『日本古代史』四)、まったくそのとおりであろう。

 

2)継体天皇の擁立基盤

  表7は、五世紀末~六世紀前半の全国の大型前方後円墳の分布をまとめたものである。この表から、全国的にみた場合越前の前方後円墳の規模は、決してほかに勝るものではないことがわかる。むしろ普通であるといった方がよい。ただ、中・小型の前方後円墳が11基も集中する横山古墳群は特異であり、注目に値する。

 

 表7 全国の大型前方後円墳(5世紀末~6世紀前半)

 

 このことから、継体天皇は越前の振媛(母)方の勢力もさることながら、むしろ彦主人王(父)方(畿内北部と近江・美濃)や数多い皇妃方(越前・近江・河内・大和・尾張)の勢力、さらには継体天皇擁立を支持した大伴氏河内の豪族などの畿内勢力の結集と推挙とがあって皇位につくことができたといえよう。しかし、より限定していえば、六世紀初頭に東日本最大の前方後円墳である断夫山古墳(名古屋市)を築いた尾張氏(継体天皇の妃目子媛を出している)の後押しが最大の功績であったと考えてまちがいない。

 

 このように、古墳をとおして『日本書紀』『上宮記』の継体天皇関係記事をみると、その内容にそれなりの史的背景を読みとることができる。

 

〇参考Webサイト:福井県史

 第二章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/四 古墳からみた継体王権/

 横山古墳群と継体王権横山古墳群と三尾氏継体天皇の母の里横山古墳群にみる各地との交流

 /継体天皇陵と手白香皇后陵継体天皇の擁立基盤

最終更新:令和5年(2023)4月8日