(1)『古事記・日本書紀』&『釈日本紀』の記述 (2)継体天皇の系譜について
2 継体天皇関連の系図
(1)第15代応神天皇~第26代継体天皇 (2)継体天皇出自系図
(3)継体天皇の妃と皇子・皇女 (4)妃の出自等
(5)第24代仁賢天皇~第37代斉明天皇
3 継体天皇出自考
(1)初めに (2)継体天皇出自関連系図(筆者創作系図)(3)系図解説・論考
(4)総合的論考 (5)余談 (6)参考文献
4 継体天皇の出自(福井県史)
(1)越前か近江か (2)継体天皇の父系 (3)息長氏の性格 (4)気比大神
(5)継体天皇の母系 (6)三尾氏と三国氏 (7)三国の意義 (8)二つの三尾氏
(9)皇親か否か
5 継体天皇出自の異説
引用:『継体天皇と朝鮮半島の謎』水谷千秋著(文藝春秋)
『古事記』が継体天皇の出自について「応神五世孫」としか記さないのと比べると、『日本書紀』は、父と母の名や、父方が応神天皇五世の孫、母方は垂仁天皇の後裔であることを記している。
しかし、応神天皇の後、継体天皇の父彦主人王に至る三代の祖先の名は記されていない。母方も垂仁天皇の後、継体天皇の母に至るまでの歴代の名は記されていない。
その不十分を埋めてくれるのが『釈日本紀』に引用される「上宮記一云」の所伝である。『釈日本紀』は、鎌倉時代末に卜部兼方によって書かれた『日本書紀』の注釈書であるが、この中に現在散逸して残っていない古い書物の断片がいくつも引用されている。
『上宮記』の逸文もそのひとつで、そこには『記・紀』には記されていない継体天皇の詳しい出自系譜が引用されている。
〇『古事記』
応神五世孫
〇『日本書紀』(「継体即位前紀」)
男大迹(おおど)天皇〔更の名は彦太尊(ひこふとのみこと)〕誉田(ほむた)天皇の五世孫、彦主人王の子なり。母を振媛(ふるひめ)と曰ふ。振媛は、活目(いくめ)天皇の七世の孫なり。
〇『釈日本紀』(「上宮記一云」)(緑字:noriokakyouの追記)
●継体天皇の父方の系譜
『上宮記』に曰く。一に云う。
凡牟都和希王(ほむつわけ)(応神天皇)、涇俣那加都比古(くいまたなかつひこ)の女子、名弟比売麻和加(おとひめまわか)(応神天皇の妃)を娶りて生める児、若野毛二俣王(わかぬけふたまたおう)(応神天皇の皇子)、母々恩己麻和加中比売(若野毛二俣王の配偶者)を娶りて生める児、大郎子(おおいらつこ)(若野毛二俣王の子)、一名意富富等王(おほほどおう)、妹践坂大中比弥王(ほむさかおおなかつひめ)(若野毛二俣王の子)、弟田宮中比弥(たみやなかつひめ)(若野毛二俣王の子)、弟布遅波良己等布斯郎女(ふじわらことふしいらつめ)(若野毛二俣王の子)の四人也。
此意富富等王(若野毛二俣王の子)、中斯知命(なかしちのみこと)(意富富等王の配偶者)を娶りて生める児、乎非王(おひおう)(意富富等王の子)、牟義都国造(むぎつこくぞう)名伊自牟良君(いじむらのきみ)の女子、名久留比売命(くるひめ)(乎非王の配偶者)を娶りて生める児、汙斯王(うしおう)(乎非王の子)(別名・彦主人王)(継体天皇の父)。
●継体天皇の母方の系譜
伊久牟尼利比古大王(いくむにりひこおおきみ)(垂仁天皇)の児、伊波都久和希(いわつくわき)(垂仁天皇の皇子)の児、伊波智和希(いわちわき)(垂仁天皇の孫)の児、伊波己里和氣(いわこりわき)(垂仁天皇の曾孫)の児、麻和加介(まわかき)(垂仁天皇の玄孫)の児、阿加波智君(あかはちのきみ)(垂仁天皇の来孫)の児、乎波智君(おはちのきみ)(垂仁天皇の昆孫)、余奴臣(よぬのおみ)(加賀の江沼郡を拠点とする豪族)の祖、名阿那爾比弥(あなにひめ)を娶りて生める児、都奴牟斯君(つぬむしのきみ)、妹布利比弥命(いもふりひめのみこと)也。
●継体天皇の生誕と養育
汙斯王(彦主人王・継体天皇の父)、弥乎国高嶋宮に坐ましし時、この布利比弥命(振姫・継体天皇の母)甚だ美女なるを聞きて、人を遣わし、三国坂井県(あがた)より召し上げ、娶りて生まれる所、伊波礼(いわれ)の宮に天下治(しらし)めしし乎富等(をほど)大公王(継体天皇)也。 父、汙斯王崩去(かんさ)りて後、王の母布利比弥命言いて曰く、我独り、王子を持ち抱きて、親族部(うからべ)无(な)き国に在り。唯、我独り養育(ひた)し難し。ここに将(ひき)ひて下り去りて、祖三国命の在(いま)す多加牟久(たかむく)村に坐す也。 (2020.9.6追記)
ー釈日本紀所引上宮記逸文の研究ー(抜粋) 黛弘道氏
注:PDF原稿からの引用であり、特定の漢字が正確に転写出来ないものがありますのでご了承ください。
はしがき
ト部兼方著わすところの『釈日本紀』はその豊富な内容で研究者を魅き付ける。いまここに問題とする『上宮記逸文』もその例にもれない。これは他に傍証のない部分を含んで考証が困難であるが、一見して古色蒼然、非常に古い時代の制作と感じられる。
しかるに近来、これを以て、記紀の欠を補うために後世造作したものとして、これを疑う説が流行している。
しかしながら、まだ誰もこれについて本格的な本文批判的研究をやっていないのである。すべての議論はまず厳密な本文批判の上に立って 行なわるべきことは古代史研究のイロハである筈なのに、これが等閑に付されて来たのは意外である。
いまここに拙ない研究を敢て発表するのも、右のような現状に対する反省の資としたいがためであり、これをきっかけに、広く歴史家、国語学者がこの問題について発言されんことを期待するものである。
一 本文校定とその訓み
まず『釈日本紀』から『上宮記逸文』を紹介しよう。この場合、’尊経閣文庫所蔵古写本の写真を底本にし、国史大系本を参照したことをお断りしておく。大系本と異なる点については註を付して参考に供することとした。
《上宮記逸文:底本略》
《訓読》
上宮記に曰く。一に云ふ。凡牟都和希王、涇俣那加都比古の女子名は弟比売麻和加に癸ひて生める児若野毛二俣王(が)、母メ 恩己麻和加中比売に娶(みあ)ひて生める児大郎子、一名意富々等王、妹践坂大中比弥王、弟田宮中比弥、弟布遅波良己等布斯郎女の四 人なり。
此の意富々等王(おほほど)、中斯知命に娶(みあ)ひて生める児乎非王 (が)、牟義都国造、名は伊自牟良の女子、名は久留比売命に娶(みあ)ひて生める児汙斯王(が)、伊久牟尼利比古大王の児伊波都久和希の児伊波智和希の児伊波己里和気の児麻和加介の児阿加波智君の児乎波智君(が)、余奴臣の祖、名は阿那余(笠冠に小)比弥に娶(みあ)ひて生める児都奴牟君、妹布利比弥命に娶(みあ)ひます。
汙斯王、弥乎の国の高嶋の宮に坐しし時、此の布利比売命の甚美(いとうるは)しき女なりといふことを聞きて、人を遣はして三国の坂井県(さかないのあがた)より召し上げて娶(みあ)ひて生める所は伊波礼(いはれ)の宮に天の下治しめしし乎富等大公王(をほどのおおきみ)なり。
父 汗斯王崩りたまひし後、王の母布利比弥命言ひて曰く、我独り王(子)を持抱て親族部(うがら)なき国にあり。唯我独り養育(ひだし)たてまつること難しと云ひ、ここに在祖三国命の坐します多加牟久村に将て下り去く。
上宮記の文章をこのように訓んだ上で、これを縦系図に示せば次の通りである。(なお、釈日本紀には兼方が作成した系図を添えてあるが、これが甚しい誤りであることは本居宣長の夙に指摘するところである。)
《系図:略、本文PDF参照、又は後述系図参照》
本文校定と訓みがすんだところで、本文中にみえる固有名詞その他の語彙につき、記紀その他の古典と対照した表を作成して示すことにする。(第一表)これによって上宮記と他の古文献との対比をたやすくし、この後の考察の便宜をはかることとしたい。
二 国語学からみた本文批判(抜粋)
第一表は、上宮記と古事記及び日本書紀で固有名詞等31個の対比(上宮記-古事記-日本書紀ー備考)をし、それぞれの語彙について解説したものである。主要なものを抜粋する。
●《上宮記》若毛野二俣《古事記》若沼毛二俣(応神紀)《日本書紀》稚野毛二派(応神紀)・稚渟毛二岐(安康紀)《備考》和訶奴気(成務記)
●《上宮記》母メ思己麻和加中比賈《古事記》弟比売(景行紀)・弟日売真若比売(応神紀)《日本書紀》ナシ
●《上宮記》践坂大中比弥《古事記》忍坂之大中津比売(応神紀)《日本書紀》忍坂大中姫(允恭記・安康紀)
●《上宮記》 伊久牟尼利比古《古事記》伊玖米入日子(崇神紀)伊久米伊理比古(垂仁紀)《日本書紀》活目入彦(垂仁紀)
●《上宮記》伊波都久和希《古事記》石衝別(垂仁紀)磐衝別(垂仁紀)
●《上宮記》布利比弥《古事記》ナシ《日本書紀》振媛(継体紀)
●《上宮記》乎富等《古事記》袁本杼(武烈紀・継体紀)《日本書紀》男大迹(継体紀)
以上の考察をもとに上宮記逸文の用字法についてその特長を 要約すると次の通りである。
(一)仮名は推古期のそれと一致するものが大部分である。勿論推古期の仮名が以後の記紀万葉等の諸文献にも用いられていることを無視すべきではないが、上宮記逸文の成立年代を推定する上で、右の結果は重要である。
(凡・牟・都・和・希・那・加・都・比・古・賈・麻・(野)・毛・意・富・等・弥・布・遅・波・良・己・斯・知・乎・非・義・伊・自・久・留・尼・汗・汙・利・智・里・阿・余・奴・弥・礼) )
《第二表:仮名が推古朝のそれと一致するもの:略》
(二)推古期の用字に合致せず、記紀万葉等にみられる用字法に合うものは介(ケ、万葉・常陸風土記)、陁(タ、紀)、奴(ノ、正倉院文書、紀)、尼(ニ、紀・万葉・新訳華厳経音義私記)の4字に過ぎない。これとても、奴をヌ、尼をネと訓むものと考えれば、推古期の用字法に合致するのであり、.例外はわずかに介と陁の二字にすぎないことになる。
(三)しかも、推古期の用字法一般からみても特に古いと思われる仮名に都(タ)、希(ケ)、弥(メ)などがある。
以上の諸点からみて、上宮記の仮名遣いの特色を概言ずれば、日本書紀や万葉集よりも明らかに古く、古事記より古い面 さえ認められる之いうことであろう。これは上宮記の成立年代が記紀以前であることを示唆するものではあるまいか。
三 古代史からみた本本批判
(一)若野毛二俣王の母と妻について(要約)
●王の父:応神天皇(上宮記・古事記・日本書紀とも全て一致)
●王の母:(上宮記)弟比売麻和加(涇俣那加都比古の女子)、(古事記)息長真若中比売(咋俣長日子王の女)、(日本書紀)弟媛(河派仲彦の女)
※上宮記と日本書紀は所伝を一にする。
●王の妻:(上宮記)息長麻和加中比売(古事記が王の母とする人物と同名)、(古事記)弟比売(弟日売真若比売)(上宮記や日本書紀が王の母とする人物と同名)、(日本書紀)記述無し
※上宮記と古事記都では、二俣王の生母と妻が入れ替わっている。書紀には王の妻の名は見えないが、いずれにせよ、上宮記のここの所伝は古事記・日本書紀から生じたものでないことだけは確かであろう。(本論者は、「古事記の所伝の方が辻棲は合っているといってよいであろう」としている。)
※次に参考のため上宮記と古事記・日本書紀の所伝をそれぞれ系図に示しておく。(省略)
(二)若野毛二俣王の子女について(要約)
●上宮記:①大郎子(意富々等王)②践坂大中比弥王③田宮中比弥④布遅波良己等布斯郎女
●古事記:①大郎子(意富々杼王)②忍坂之大中津比売命③田井之中比売④田宮之中比売
⑤藤原之琴節郎女⑥取売王⑦沙祢王
※若野毛二俣王の子女につき、上宮記と古事記とが所伝を異にするという事実の他に、上宮記が古事記にもとづいて記事を成したと推測すべき根拠の殆どないことを知ったのである。
※若野毛二俣王とその子女が、近江の息長を中心に越前にまで勢力を及ぼす豪族に成長して行ったことが推察されるのではなかろうか。
※践坂大中比弥ら姉妹が允恭天皇の后妃となったことは、近江の地方豪族と天皇との婚姻の実例であり、五世紀における天皇家の通婚圏が近江をも含めるものであったことがわかる。
(三)大郎子の後裔について(要約)
大郎子の一名意富々等が大ホドで、継体の諱男太迹が小ホドであること、祖と末裔とで大小と対をなした名であることはすでに指摘されているから、ここではあらためて言及しない。
さて大郎子の子孫についてみると、その子は乎非王である。乎非の意味については先に触れた通りであり、甥ということで通称のみ伝えられて、実名は失なわれたものとみられる。
次に、乎非王の子汙斯王について考察しよう。是は日本書紀に彦主人王とある人物で、即ち継体天皇の父であるが、古事記には見えない。
母は牟義都国造の女というから、後の美濃国武儀郡の豪族の出であり、武儀の地は近江の息長とそれ程離れてはいない。勿論、乎非王の本居は不明だが、およそ近江・美濃の間にあったのではなかろうか。そう考えてよければ、その婚姻は近江・美濃あたりの豪族同志の婚姻ということになり、その間に生まれた汙斯王が(恐らく美濃あたりを本居としながらも)近江の高嶋の三尾に別業を持ち(紀)、さらにそこから越前の豪族に求婚した事情も当時の豪族が隣接する国々をその通婚圏としたという想定のもとに理解することができるように思わる。
同様に、大郎子の妻である中斯知命も他に傍証がなく、正体のつかめない人物であるが、写本をみると知が姫を誤った疑がもたれるので、いま仮りにこれを中斯姫命とし「ナカシヒメノミコト」と訓んでみよう。そうすると、すぐに想い出されるのは履中天皇とその妃幡梭皇女との間に生まれた中磯皇女である。中磯皇女は叔父大草香皇子と結婚して眉輪王を生んだが、後、皇子が安康天皇に殺されると、その皇后となった女性である。安康紀には中蒂姫命、雄略即位前紀には中蒂姫皇女、一名長田大娘皇女とも見える。中斯姫命はまさにこの中蒂姫命のことではなかろうか。
(四)布利比弥の系譜について(要約)
さて上宮記で伊久牟尼利比古大王以下は継体天皇の母布利比弥(振姫)の系譜を示したものであること、既に述べた通りである。
伊久牟尼利比古は、垂仁天皇を指すことは、その名からも、また布利比弥がその七世孫であるとの書紀の伝えからも確認される。したがって、その子伊波都久和希が垂仁天皇の皇子石衝別(記)・磐衝別(紀)であること疑を容れない。
上宮記でさらにその子と伝える伊波智和希については確かな傍証に乏しいが、国造本紀に「羽咋国造 泊瀬朝倉朝御世、三尾君祖石撞別命児石城別王、定賜国造」とある石撞別が先の伊波都久和希と同じならば、その子石城別は今問題にしている伊波 智和希と同一人名ではないかとの疑問がもたれるし、景行紀に見える磐城別も同じではないかと考えられて来る。
以下は都奴牟斯まで他に全く傍証がないから、これをどのように判断し、評価するかは、かなり主観に在右されやすい。
最後に布利比弥の母の姓余奴臣について一言しておきたい。余奴を何とよむかが差当り問題であるが、「ヨヌ」「ヨノ」などの訓がまず考えられる。姓こそちがえ、倭漢氏の一族の与努忌寸の与努と同じであろう。
「ヨヌ」「ヨノ」は伊賀国伊賀郡余野郷の地名に最も近く、或はこの地方の豪族かとも考えられる。しかし、伊賀に「ヨノの臣」のあることは他に史料がないばかりか、伊賀郡には伊賀臣が盤据しており、他氏の勢力は介在しえない土地柄のようである。
よって、これを「エヌ」と訓み、江沼(江淳)のこととすれば越前国(後の加賀国)江沼郡の豪族で、国造・大領に任じた江沼臣とみることができる。余(ヨ)がエに転訛する例証はあまりないので、強く主張することはできないが、もし、これが当っているとすれば、江沼は三国に隣接する地方であることからいっても、継体天皇の系譜の考察に一つの光を当てることになるのではなかろうか。
順序が前後したが、終りに若干の補考を記しておく。
垂仁記によれば石衝別は羽咋君・三尾君之祖とあり、国造本紀には加我国造の祖とあり、姓氏録には羽咋公の祖と見える。羽咋は能登の郡名であり、三尾は近江国高島郡の地名で、彦主人王の別業のあったところでもある。加我は加賀で後の加賀国加賀郡に当ることは言うを侯たないであろう。
さらに石衝別の子石城別(=伊波智和希?)については、国造本紀に羽咋国造の祖とあり、景行紀に三尾氏の祖とみえる。いずれにせよ、石衝別・石城別父子の系統は近江から越前(加賀)・能登の地方に分布するに至ったことが、これらの史料から推測されるのである。布利比弥が三国の豪族の出であるという伝承はこの点からみれば、極く自然に認められそうである。
以上、上宮記の文章について、その内容を様々な点から検討して来た。ここで、その結果をまとめてみよう。
(一)若野毛二俣王から継体天皇に至る五代のうち中間の乎非王だけはその存在を傍証し得ない。
(二)伊波都久和希より布利比弥に至る七代のうち、その存在を傍証し得ないのは伊波己里和気・麻和加介、阿加波智、乎波智の四代である。
(三)継体天皇の父系は近江・美濃・越前地方に勢力をばした地方豪族と推測される。
(四)継体天皇の母系は越前(のちの加賀)・能登を主な地盤とする地方豪族の一派と推測される。
(五)美濃・近江地方を背景とする汙斯王と越前の豪族の女布利比弥との結婚は、当時の豪族の通婚圏の大きさからみて不自然ではない。(継体天皇即位以前の諸妃の出身地も、この常識を破るものではない。)
四 上宮記と記紀との関係(むすびにかえて)(抄)
先述の如く、継体天皇を『古事記』に「品太天皇五世孫袁本杼命」とし、『日本書紀』に「男大迹天皇、誉田天皇五世孫、彦主人王之子也」とあり、その五世の系譜を示していないところから、継体の出自を疑い、継体は前王朝を倒して新王朝を樹立した天皇とまで考えられるに至った。
こうなると『上宮記』の記事さえこの疑問を裏付けるものと目されるに至る。弁解すればする程、いよいよ疑われる場合と似ている。記紀に五世孫とだけ見えて、その世系を示していないので、後から造作して古めかしく見せたものだというのが、上宮記の記事に対する大方の批判ではなかったかと思われる。
しかしながら、上宮記の文章は先に見た如く、記紀以後に述作されたというような新しいものでないことは、その用字法からして明瞭である。用字法はどうしても時代の趨勢に拘束されるようで、後から古めかして造るのはかなり難しい業であるし、わざわざ、そこまで気を遣ったと考えなくともよかろう。
ともかく用字法からいえば、継体天皇の世系は記紀編纂以前から上宮記によってわかっていたと考えることができる。わかっていながら、何故記紀本文にそれを記さなかったのかという疑問が出て来ると思うが、答は簡単である。
これまで、天皇の孫が見出されて即位した顕宗・仁賢両天皇の例が特殊なケースとしてあったが、天皇の五世孫という疎遠な皇親が皇統を継承した例はないから、ここは五世代を克明に挙げる煩を避けたと考えればよい。
この場合、日本書紀に系図一巻が添えられた事実を忘れてはなるまい。継体天皇の世系は必ずやこの系図の中に示されたに違いないのであり、上宮記はむしろその参考に供された資料とみるべきであろう。
なお、五世孫が皇親の限界であるという令制の規定から、継体天皇が応神天皇の五世孫であるという記紀の記事が造作されたのではないかと疑う説がある。これについて考えてみよう。
《中途略》
以上、記紀の五世孫の伝えと上宮記に引く系譜との関係を中心に考察を試みたのであるが、継体天皇を応神五世孫とする伝えを疑う根拠はそれ程確かなものとも思われないことがわかった。だからといって上宮記の系譜を信じてよいかどうかは自ら別問題であり、問題は依然未解決というぺきであろう。
しかしながら、上宮記が記紀の記事を補強すべく造作されたものではなく、記紀編纂以前(さらには編纂事業開始以前)に造られたものであることはほぼ疑のないところである。
したがって今後の問題は上宮記述作の動機が何処にあるかということであり、また上宮記どいう名で、聖徳太子関係の記事だけでなく、継体以前の系譜まで記録された理由も明らかにされなければならないし、その上で継体天皇の問題があらためて考え直されなければならないのであろう。
上宮記に関してはまだ考えなければならない問題が残っており、今後の研究が期待されるのである。
(追記:令和3年月1日)
(引用:「古代日本国成立の物語」/継体天皇②(継体天皇の出自)
(引用:福井県史)
血族 妃 出身地
① 仁賢大王の娘 武烈大王の姉・・・ 手白香皇女(たしらかのひめみ)・・・・・・・・・・ 大阪府
② 尾張連草香(おわりのむらじくさか) ・・・ 目子媛(めのこひめ) ・・・・・・・・・・・・・・ 愛知県
③ 三尾角折君(みおのつのおりのきみ) ・・・ 稚子媛(わかこひめ) ・・・・・・・・・・・・・・ 福井県
④ 坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ) ・・広媛(ひろひめ) ・・・・・・・・・・・・・・・ 滋賀県
⑤ 息長真手王(おきながのまてのおおきみ) ・・ 麻績娘子(おみのいらつこ)・・・・・・・・・・・・ 滋賀県
⑥ 茨田連小望(まんだのむらじおもち) ・・・ 関媛(せきひめ)・・・・・・・・・・・ ・・・・ 大阪府
⑦ 三尾君堅楲(みおのきみかたひ) ・・・・ 倭媛(やまとひめ)・・・・・・・・・・・・・・・ 福井県
⑧ 和珥臣河内(わにのおみかわち) ・・・・ 荑媛(はえひめ) ・・・・・・・・・・・・・・・ ・京都府
⑨ 根王(ねのおおきみ) ・・・・・・・・・・広媛(ひろひめ) ・・・・・・・・・・・・・・・・ 岐阜県
※血族・妃の記述、記載順は『日本書紀』による。参考:福井県HP 以下、皇后・妃の記述の参考HP
●継体天皇后妃:http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/kodai/keitai.htm
① 皇后手白香皇女(③大后手白髪命) 緑字:古事記
・出 自:〔古事記〕仁賢天皇の御子・手白髪郎女(大后)
〔日本書紀〕仁賢天皇の娘・手白香皇女(皇后)
・出身地:大阪府
・両 親:〔父〕仁賢天皇 〔母〕春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)(雄略天皇の女)
・同母兄姉
高橋大娘皇女(高木郎女)(たかはしのおおいらつめのひめみこ)朝嬬皇女(財郎女)(あさづまのひめみこ)
樟氷皇女(久須毘郎女)(くすひのひめみこ) 橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)(宣化天皇の皇后)
小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)(武烈天皇) 真稚皇女(真若王)(まわかのひめみこ)
・夫との血縁関係
・再々従兄弟(8親等)・・・母春日大娘の父、雄略帝の母、忍坂大中姫の兄、大郎子の曾孫
・称 号 継体元年(507年):皇后となる(3月5日)
宣化四年(539年):皇太后となる(12月5日)
・所生の皇子女 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)(天国押波流岐広庭命)(欽明天皇)
・陵 墓 手白香皇女衾田陵 ⇒ 西殿塚古墳(奈良県天理市中山町)/宮内庁治定
※ 白石太一郎は、大和古墳群のなかで1基だけ比較的大規模な6世紀代の古墳、西山塚古墳が「手白香皇女衾田陵」ではないかとしている。西山塚古墳の埴輪は、今城塚古墳と同様高槻市の新池遺跡で焼成されたものといわれており、6世紀前半ころの造営で、墳丘長は115メートルの規模を有する。(白石は、継体天皇が、ヤマトの王統につながる手白香皇女の墓をヤマト王権の始祖たちの墓が並ぶ大和古墳群や柳本古墳群のなかに営むことによってみずからの王権の連続性・正統性を主張したものではないかと推測し、継体朝の成立について、これが王朝交替説の説くような王統の断絶を意味するものではないとしている。)(Wikipedia抜粋)
②元妃尾張連草香目子媛(めのこひめ)(②尾張連祖凡妹目子郎女)
・ 出 自:〔古事記〕尾張連の祖の凡連の妹・目子郎女/〔日本書紀〕尾張連草香の娘・目子媛(元妃)
・出身地:愛知県
・両 親:〔父〕尾張連草香(おわりのくさか)
・称 号:継体元年(507年)、継体天皇の妃に冊立される
※書紀は既に没していても天皇の即位後に妃に立てられる書き方をするので、妃になった時に生存していたかどうかは分かりません。
・所生の皇子女 勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)(広国押建金日命)(27代安閑天皇)
檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)(建小広国押楯命)(28代宣化天皇)
・陵 墓 味美二子山古墳(愛知県春日井市二子町)
※ 尾張地方では、後期古墳としては名古屋市熱田区の断夫山古墳に次いで2番目に大きい古墳で、この古墳と断夫山古墳は、墳形や出土品が類似していることから、被葬者は何らかのつながりがあったと思われ、断夫山古墳を尾張連草香の墓、味美二子山古墳を、草香の娘である目子媛の墓とする説もあります。(福井県史抜粋)
③ 三尾角折君妹稚子媛(①三尾君等祖若比売)
・出 自:〔古事記〕三尾君らの祖・若比売/〔日本書紀〕三尾角折君の妹・稚子媛
・出身地:滋賀県又は福井県(福井県史では福井県)
・両 親:〔兄〕三尾角折君
・称 号:継体元年:継体天皇の妃に冊立される
・所生の皇子女:大郎皇子(大郎女) 出雲皇女(出雲郎女)
④坂田大跨王女広媛(⑤坂田大俣王之女黒比売)
・出 自:〔古事記〕坂田大俣王の娘・黒比売/〔日本書紀〕坂田大俣王の娘・広媛
・出身地:滋賀県
・両 親:〔父〕坂田大跨王
・称 号:継体元年:継体天皇の妃に冊立される
・所生の皇子女:神前皇女(神前郎女) 茨田皇女(茨田郎女) 馬来田皇女
※古事記では神前郎女・茨田郎女・白坂活日子郎女・小野郎女を生むとあり、古事記に記載のない茨田関媛の子女と混同が見られます。
※継体天皇が即位のため越前をはなれるさい、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女を斎主として後を託したという伝承が残っています。
⑤息長真手王女麻積娘子(④息長真手王女麻組郎女)
・出 自:〔古事記〕息長真手王の娘・麻組郎女/〔日本書紀〕 息長真手王の娘・麻積娘子
・出身地:滋賀県(近江国)
・両 親:〔父〕息長真手王 〔姉妹〕敏達天皇后 広姫
・称 号:継体元年:継体天皇の妃に冊立される
・所生の皇子女:荳角皇女(佐佐宜郎女)(伊勢斎宮)
⑥茨田連小望女関媛
・出 自:〔古事記〕茨田連小望の娘・関比売/〔日本書紀〕 茨田連小望の娘・関媛
・出身地:大阪府
・両 親:〔父〕茨田連小望
*書紀の注に、或いは茨田連小望の妹とある。古事記に記載なし。
・称 号:継体元年、継体天皇の妃に冊立される
・所生の皇子女 茨田大娘皇女 白坂活日姫皇女 小野稚郎皇女
⑦三尾君堅楲女倭媛(⑥三尾君加多夫之妹倭比売)
・出 自:〔古事記〕三尾君加多夫の妹・倭比売/〔日本書紀〕 三尾君堅楲の娘・倭媛
・出身地:滋賀県(近江国)又は福井県(越前国)(福井県史では福井県)
・両 親:〔父〕三尾君堅楲 *古事記では、三尾君加多夫の妹とある。
・称 号:継体元年、継体天皇の妃に冊立される
・所生の皇子女:大娘子皇女(大郎女) 椀子皇子(丸高王)(三国公の祖) 耳皇子(耳王)
赤姫皇女(赤比売娘女)
⑧和珥臣河内女荑媛(⑦阿倍之波延比売)
・出 自:〔古事記〕阿倍の波延比売/〔日本書紀〕 和珥臣河内の娘・荑媛
・出身地:京都府
・両 親:〔父〕和珥臣河内
・称 号:継体元年、継体天皇の妃に冊立される
・所生の皇子女: 稚綾姫皇女(若屋郎女) 円娘皇女(都夫良娘女) 厚皇子 (阿豆王)
⑨根王女広媛
・出 自:〔古事記〕記述無し/〔日本書紀〕根王の娘・広媛
*所生の皇子女とともに古事記に記載なし。
・出身地:岐阜県
・両 親:〔父〕根王
・称 号 継体元年、継体天皇の妃に冊立される
・所生の皇子女 兎皇子(酒人公の祖) 中皇子(坂田公の祖)
(引用:「おとくに」フォトカルチャーラボ 古代豪族 継体天皇出自考)
引用Webの全文を抜粋させていただきました。
古代豪族を語る時避けて通れない天皇がいる。26代継体天皇である。現在の日本史学界では ” 実在が間違いないとされる最古の天皇(大王)である ” とされている。 これ以降の天皇系譜は一部不確かな点はあるが、ほぼ間違いなく一系の血筋を保って現天皇家まで繋がっているとされている。
継体天皇は、古事記では、応神天皇5世の孫と記され、日本書紀では、応神天皇5世孫の子とされている。 日本書紀では、父:応神天皇5世孫彦主人 母:垂仁天皇7世孫振姫と書かれているだけで応神天皇までの総ての系譜が記されてない。
一方「釈日本紀」(1274~1301)という「卜部兼方」が編纂した ” 現存する最古の日本書紀の注釈書 ” の中に、推古天皇時編纂されたと思われる「上宮記」(「上宮聖徳法王帝説」という類似の名前の本も知られているが内容的に似てはいるが別の本である)という聖徳太子関係の史書を引用した箇所がある。そこに継体天皇の詳しい系図が記されてある(上宮記逸文)。この上宮記なるものは現存してない。
母親「振姫」の垂仁天皇までの系図も記されてある。
これと記紀に記された系図を結びつけ、さらに息長氏系図、天日矛など彦坐王関連の系図を結びつけたのが下記筆者創作系図である。 本稿では継体天皇自身の事績等は出来るだけ省略する。それらは別稿で詳しく記す。本シリーズの「4.古代初期天皇家概論」の中で25代武烈天皇までの人物列伝を記した。
継体天皇の出現に関しては、一般的には、記紀に基づくと、それぞれ表現は若干異なるが、次ぎのように理解されている。
10代崇神天皇から15代応神天皇を経て21代雄略天皇頃まで王統は保たれてきた。雄略天皇は、武力で葛城氏、吉備氏を初めとし多くの有力豪族(天皇家の地位を脅かす恐れのある)を滅ぼし、かつ大王になる資格を有する多くの皇族を殺した。 そのため22代清寧天皇に子供が無く、次ぎの天皇の資格を有する人物がいなくなった。
そこで播磨国に身分を隠して住んでいた23代顕宗天皇、24代仁賢天皇兄弟を見つけてやっと皇統を継ぎ、仁賢天皇の子供25代武烈天皇まできたが、この武烈帝にもまた子供がいなかった。
ここで困ったのは、大王家を支えていた豪族達である。雄略朝の時めぼしい皇統は断絶又は地方に逃げて行方も分からない状態になっていた。庶流の庶流みたいな人物はいたかもしれぬが、それでは大王として人心を得ることは出来ない。
この当時の大王家を支えていた豪族は、葛城氏でもなく、平群氏でもない。新たに大伴氏が台頭してきていた。 大伴氏は元々軍事を司る氏族であったが、21代雄略天皇の親任を得て物部氏、葛城系氏族の他として「大伴室屋」なる人物が「大連」になって歴史上に登場する。 これ以降25代武烈天皇までに葛城氏、平群氏は滅ぼされる訳である。それに貢献したのが大伴氏、物部氏である。
25代武烈天皇の後継大王選びに活躍するのが大伴室屋の子供「大伴金村」である。金村は当時朝廷内の最高実力者とされている。
後継大王として最初に選んだのは、14代仲哀天皇の5世孫とされる丹波にいた「倭彦王」であった。ところが金村等がお迎えに多くの軍勢を引き連れて行った時、倭彦王は自分を殺しにきたものと思い恐れをなして、逃げてしまった(このことからも雄略朝の皇族狩りの凄まじさが窺える)。
次ぎに越前の三国に行き、彦主人王の子である応神天皇の5世孫「男大迹王(おおとのみこと)」に会い、大王になることを要請した。しかし、彼は初め拒否をしたとされる。大伴金村は「物部麁鹿火」らの協力もとりつけ改めて大王に着かれることを懇請したとされる。
その後、507年に河内国の樟葉宮(大阪市枚方市)で即位し継体天皇となった。その後511年に山背国筒城宮(京都府綴喜郡)、518年に山背国弟国宮(京都府長岡京市)に移り、526年大和国磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都した、と言われている。
ところがこの記紀の記述には多くの謎と疑問がある、とされてきた。その中の幾つかを列挙すると
① 継体天皇の出自に関する事項
・記紀で微妙に異なる。応神天皇の5世孫、5世孫の子 。
・そもそも記紀に応神天皇から継体天皇までの系図が記されてない。神世ー神武ー武烈帝まであれほど詳しい系図が記されているのに、何故、肝心の記紀編纂時の天皇家に直結している、継体天皇の出自がぼかされているのか。僅か200年前のことではないか。
・古事記では近江国の豪族出身としてある。日本書紀では、近江国で生まれ越前で育てられ越前から招請されて皇位についた。
・後世に釈日本紀なる本に引用された、上宮記記事の継体天皇関係系図の信憑性。
・前天皇家への入り婿説。婿入前の子供(27代安閑天皇、28代宣化天皇)の皇位継承の正当性。
・新羅からの渡来王族の末裔説。 などなど
②継体天皇の大和入り問題に関する事項
・何故即位後大和に入るのに20年も要したか。大和の有力豪族の賛意を得られない理由は何か。血脈?
・磐余玉穂宮不存在説。
・樟葉宮跡、筒城宮跡は現在比定地あり。弟国宮跡は今日まで確実に比定地は決定されてない。どこか?長岡京市乙訓寺近辺か? など
③継体天皇の後継天皇問題に関する事項。
・27代安閑天皇、28代宣化天皇、29代欽明天皇の2朝併存説。血脈問題?
・継体天皇の死亡年の不確定さ。など
④継体天皇の墓に関する事項
・大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳(宮内庁認定)
・高槻市にある今城塚古墳説。など
*新王朝説、征服王朝説も盛んである。
*神武天皇東征話も継体天皇の大和入りまでの苦労の言い伝えを記紀編纂者等が創作を加え神武天皇紀として書き残したものである。なんて説も幾つかあるらしい。
*筆者は、発掘調査の進展で事実は徐々に解明されるとは思うが、現時点での情報を基に本稿では、継体天皇の出自に的を絞り論考を試みたい。
・併せて神世から50桓武天皇までの直系系図を記紀記述および上宮記を基に作成したので記す。
ここに記された系図は、部分的には総て公知のものである。但しこのようにつなぎ併せると、見たことも無い系図と言える。よって筆者創作系図とした。
①「山背大国淵」という人物は山背国宇治郡大国郷にいた人物で2人の娘を11代垂仁天皇の妃とした。綺戸辺から倭建の妃となり仲哀天皇を産んだ両道入姫と三尾君の始祖といわれる磐衝別(イワツワケ)が生まれた。この流れが北陸、能登などに勢力を張り、26代継体天皇の母「振姫」へと繋がった訳である。但し石城別以降の系図は一般的でなく、上宮記逸文に記されて分かったことである。記紀には記載無い。
② 一方姉の苅幡戸辺は、垂仁天皇の妃であるが、どちらが先かは分からぬ、9代開化天皇の子供「彦坐王」の妃ともなっている。 この彦坐王の別腹の子「丹波道主命」の娘「日葉酢媛」は、11代垂仁天皇の妃となり、12代景行天皇を産んでいる。この景行天皇の子供が倭建であると記紀ともに記してある。これには過去色々な疑問が発せられている。この倭建と前述の両道入媛との間に生まれたのが14代仲哀天皇である。
③ 上記丹波道主命は彦坐王の子供にあらず、という説も根強くある。彦坐王の詳細系図は、またいつか示すが、非常に複雑怪奇で大和・近江・丹波を股に掛けた広域出身の娘を妃としており、20名近い子供をもうけそれぞれがその地の有力者となり後の歴史に関与してくる。どうも2人位の人物の系図を一人に併せたのではないかとの説も多い。
④ 彦坐王のさらに別腹の子「山代大筒城真稚」の流れから息長宿禰が出て、これと「天日矛」の流れを引く葛城高額媛との間に生まれたのが息長帯媛、所謂「神功皇后」である。と記紀は記してある。 これは全くの創作であるとの説、濃厚。勿論この神功皇后と前述の仲哀天皇が結ばれ15代応神天皇が生まれるのである。この神功皇后には実妹「虚空津比売」がおりこれが子供の応神天皇の妃となり生まれたのが、「若野毛二俣王」である。とする系図が残されている。より一般的には倭建の曾孫である「息長真若中媛」と応神天皇との子供が若野毛二俣王でありその妃は真若中媛の妹「真若弟姫」である。とする系図がある。しかし、この系図も怪しげであり余り信用するのもどうかとされている。
⑤ この若野毛二俣王の子供に「意富富等王(太郎子)」、19代允恭天皇の后となった「忍坂大中津媛」がいる。この媛は大物である。21代雄略天皇・20代安康天皇等の母である。兄:意富富等王は、一般的に豪族「息長氏」の始祖とされている。
⑥ 意富富等王以降継体天皇までの系図が記紀に記されてないのである。現在は上宮記逸文を信頼して「乎非王」・「彦主人」・継体天皇と繋がっている(さらに汗斯王なる人物も出てくるが彦主人と同一人物と見なされている)。彦主人王(ヒコウシ王)のことは日本書紀には継体天皇の父として記されている。何故、意富富等王・乎非王の2代を省略したのか? 謎である。
同じ系図に記されている継体天皇の2人の妃、及び敏達天皇の妃の父親である「息長真手王」なる人物の系図も記紀には記されてなかったらしい。息長真手王なる人物は、記紀に記されているし、新制度の姓で最も高貴な真人姓を賜った人物である。この稿としては余談になるが、この息長真手王娘「広媛」と敏達天皇の間に生まれたのが「押坂彦人大兄皇子」でこの流れが蘇我氏の血が全く入ってない数少ない貴種として、蘇我氏滅亡後の政権大王家として、活躍することになるのである。継体天皇と息長真手王は、同じ祖から発生しているのである。
⑦ 継体天皇の母親は、三尾君の流れを引く越国三国の坂中井の高向(現在の福井県丸岡町)にいた豪族であったとされる。 継体天皇の父彦主人は近江国高嶋郡三尾(滋賀県高島郡)の別業にいた息長氏系の豪族であったとされる。
⑧ 記紀で若干記述は異なるが「紀」に従うと、彦主人王は美人として名高かった越前の振媛を嫁としてもらい、近江の地で継体天皇を産んだ。しかし、父は若くして死んだので、母は自分の出所である越前三国に帰ってそこで継体天皇を育てた。成長すると父親の勢力息長氏と母親側の北陸に築いた勢力を基に尾張・琵琶湖・越前・能登にまで及ぶ大豪族になってきた。これを大和の豪族大伴氏等に認められ、大王に推戴された訳で、越前から琵琶湖淀川水系に進出、樟葉で即位した。という説。これが、一般的であろう。
⑨息長氏とはどんな豪族か。これは非常に謎が多い。稿を改めて記したい。
⑩以上で継体天皇の出自に関する現在オーソドックスに解明されている系図解説を終わる。
ここまで述べてきたことからも分かるように、崇神天皇から連綿と皇統を維持してきたと主張している記紀の編纂者等は、継体天皇の擁立に関しては、包み隠さずに応神天皇の5世孫、とりように見れば6世孫を時の朝廷の最大実力者「大伴金村」が擁立せざるをえない程の窮地に追い込まれたことを詳しく記している。しかも容易には大和の旧宮城の地に入れなかったことも。
記紀編纂を命じた天武天皇に直結する祖先大王である。いくらでもカモフラージュは出来たはずなのに。最も重要な祖先である。しかも掛け値なしの実在大王である。これは一体何を意味するのか。古来その出自問題と共に記紀の編纂意図について色々議論されてきた。
*記紀編纂者等は、継体天皇から以降については、天皇家の系譜には絶対なる自信があった。周りの豪族も皆その事実を否定出来ない。継体天皇の出自に関しては詳しく知る者はいない(当時皇族は、6世から先は臣籍降下するのが通例か?)。よって崇神天皇以降色々な形で語り継がれていた王統系譜と継体天皇とを記紀のような形で繋いでも何ら問題ないとしたもので、事実とは関係ないし、受容可能なこととした。天皇には血筋が繋がって無い者がなれる訳がない。としたのだとの説。これは暗に記紀が王朝交替がここであったのだと認めている。との説。
*記紀は当時のエリートが練りに練った物である。敢えて一番大事な人物のありのままをさらけ出すことにより、それ以前のもっともっとややこしい事実を隠し、その正当性を主張する根拠とした。天皇族は他の氏族とは全く異なる天孫族であり、これ以外の氏族は、どんなに実力があろうともこれに替わることは出来ないのである。事実、25代武烈天皇が亡くなった時、誰もが直ぐ分かる形では有力皇族がいなかった。時の実力豪族としては、物部氏、大伴氏などがいた。彼等が自分がこれからは大王であると言うか、前の天皇家に入り婿すれば実力的にはなれるはずである。しかし、事実はそうではなかった。血が薄くなったとはいえ(5世孫)天孫の血を引く皇族人物であったからこそ継体天皇が擁立されたのである。王朝交替なんてとんでもない。王朝を護るために継体天皇が生まれたのである。とする説。
*天皇家が万世一系の血筋であるとしたのは記紀記述によって、藤原不比等の仕組んだ作り話である。これから以降に蘇我氏のように天皇家を脅かす存在が出ては国の安泰ははかれない。とする政治哲学から編み出された思想である。絶対間違いのない継体天皇以降の体制を盤石なものにする国家体制造りの根本理念の一環で行われたものである。との説。
*記紀編纂者らは勿論それ以前に編纂されていた上宮記の内容は知っていた。なのに何故、応神天皇から数代の系譜を省略したのか。これは省略されたのではない。元々存在していた系図ばかりの巻の一部が途中で遺失したため伝わらなかったのである。との説。
*意富富等王の妃「中斯知命」だけその出自が全く不明である。これは現在の我々には理解できない、記紀編纂時では充分理解出来るどうしても隠さなければならない不都合事項があったため、その辺りの記述を敢えてぼかしたのである。との説。
などなど挙げればきりがないほどの諸説が継体天皇出自に関してはある。それもこれも記紀編纂者の仕組んだ罠かもしれませんがね。現在のこの分野の専門家の間では、色々な観点から解析されて、継体天皇は血脈としては薄いが、前王朝である応神ー仁徳王朝に繋がっているとの説が主流。
もう一つの疑問は、何故大和に即位後20年もかかってから入ったのかである。これにも諸説ある。結論的には、大和の継体天皇への最大抵抗勢力と目された葛城氏の影響が、同じ葛城系の蘇我氏の台頭により削がれるまでに時間がかかった。本当に20年もかかったかは疑問あり。蘇我氏が(巨勢氏らと組んで)継体天皇に接近したからだとする説が主流だと思う。この功大により、蘇我氏は稲目の時代に急成長し、大伴氏をけ落とし、ついには継体天皇の子供欽明天皇に2人の娘を妃として送り込み蘇我王国を築くことになった。とする説。
さて、筆者はどう判断しているかである。主に心証的判断事項が多いが以下のようなものである。
継体天皇のお墓論争が賑やかである。宮内庁認定の「茶臼山古墳」と学者等の発掘調査が進んでいる「今城塚古墳」である。大勢は後者の方に傾いているやに見える。いずれにせよ淀川水系の摂津国にあり、他の古代天皇とは全く独立してある。一説によると大きい方の古墳、茶臼山古墳は継体天皇の祖先であり息長氏の祖と言われている意富富等王の墓である。 後継天皇の墓は、その祖先の墓の側に築造されたのだとの説。
息長氏は琵琶湖沿岸だけでなく淀川水系にも木津川水系にも一部和邇氏と重なり合うがその勢力を張っていたとされている。山背国弟国付近もその勢力下に有ったと見て良い。(中村 修)長岡京市にあるこの地方最大規模(全長120m)の前方後円墳である「恵解山古墳」は5世紀前半頃に築造されたこの地方の首長の墓とされている。これも息長氏に関連した人物のものではなかろうか。
継体天皇は記紀によれば518年にこの恵解山古墳の数Km北にあたる乙訓寺付近に弟国宮を造られたとされている(確実な比定地は未だ不明)樟葉宮、筒城宮、弟国宮いずれも息長氏の勢力圏内と考えて良い。
参考事項だが恵解山古墳の主は琵琶湖湖西にある雄琴神社の祭神「今雄宿禰命」の祖先と思われる祖別命(おおじわけ)であるとする説があるそうである。この人物は上記系図の垂仁天皇と苅幡戸辺の子供である。彦坐王とも関係している。息長氏や、三尾君と関係ありそうにも思える。 ただ年代が合わぬのでは。しかし、このような言い伝えが湖西地方に残っていることは無視出来ないし、興味深い。
<筆者の主張>
① 継体天皇は征服王朝ではない。新王朝でもない。交替王朝でもない。ましてや渡来人による王朝でもない。少なくとも15代応神天皇から継がれてきた皇統の延長線にある血族による天皇家継承である。
② 記紀と上宮記は、その編纂時期、目的などが全く異なる。にもかかわらず話の辻褄は合っている。併せて息長真手王についてもはっきりその後の役割が理解出来る。どちらも信憑性はある。と言えるのではないか。
③ 血の薄いことを仁賢天皇の娘「手白香媛」を娶り補おうとしたことは事実であろう。欽明天皇を産み、彼こそ正統なる大王後継者と考えても良い。継体天皇の元々からの妃「尾張目子媛」との間に生まれた27代安閑天皇・28代宣化天皇の正当性が当時から問題にされたことは、記紀記事にも匂わせていることであり、理解できる。
④ 崇神天皇以降この手の天皇擁立は他でも有ったのでは無かろうかと思っている。継体天皇の記事は、逆にそのことを暗示している。継体天皇は絶対に間違いない天皇であるのでその存在を誰も疑わない。これを応神天皇とか、雄略天皇などにこの種の記述をすると天皇家の万世一系なんて誰も信じなくなる(継体天皇の本当のことを記すことにより、過去の正当化を図っている)。
⑤ この大和という非常に狭い地域で有力豪族は限られている。その間での婚姻は通常行われていた。男系で血が繋がるか、女系で繋がるかの違いはあったかも知れぬが一応崇神天皇から継体天皇までは、DNA的には濃くなったり、薄くなったりを繰り返しながら繋がっていることは認めざるをえない(一部存在そのものが怪しい天皇もいるが)。 少なくとも15代応神天皇以降では天皇家は他の血族とは異なる存在であり、この一族に繋がる人物だけが大王になれる。という不文律みたいなものが出来上がっていたのではなかろうか。最大の根拠は古代豪族の動きからそう判断した。
⑥ 物部氏、葛城氏、平群氏、大伴氏、そして蘇我氏など天皇家と並ぶ、いやそれ以上の力を持った時があったと、想像可能な氏族である。しかし、ある一線だけは越えなかった。物部氏の系譜を最も詳しく記した「旧事本紀」は、記紀とは別の視点で記されたものであり、記紀以降に記されたものであるが、記紀との整合が取れている。意識的にそうした可能性大との説もあるが、筆者はこの旧事紀もある真実を反映していると判断する。
⑦息長氏は豪族であるが系図からも分かるように皇族である。この氏族は葛城氏、蘇我氏等と一緒には扱えないように思える(系図上はこれらも皇別氏族)。継体天皇は明らかに息長氏である。しかし、記紀で見る限り、未だ姓はなく王を名乗っている。継体天皇を影で支えた氏族である。
⑧古代豪族である物部氏も大伴氏(この氏族は皇別氏族ではない)も継体天皇前後でその系図に大変化がない。この前後で大きく変化したと思われるのが蘇我氏である。記紀では、葛城氏にその基がある言われているが真の出自は色々疑問があるらしい。平群、巨勢氏らと同族扱いである。いずれも継体天皇の出現により大和から消えた訳ではない。大伴氏は、蘇我氏との勢力争いで暫く表舞台から消えるが。蘇我氏が継体天皇大和入りの際の最大貢献者とされた。
⑨崇神以降徐々に大王家的血族の集約化が行われ、継体で少し薄れたがこれ以降さらに急激に濃厚化が進み、記紀の成立で確固たる天皇家体制が確立したものと考える。継体がそのきっかけを作る引き金的役割を結果的に演じたと考える。
さて上記筆者系図に50代桓武天皇直系系譜(神世ー50桓武)を載せた。これは「記紀」記述に「上宮記」を参考にして記したものである。神世は斜体で示した。なんと天照大神以外は総てその配偶者の記録が残されている。
初代神武天皇ー9代開化天皇までは別として、10代崇神天皇が3世紀末ー4世紀初頭に即位したとして考えてみよう。桓武天皇まで19代である。確かに26代継体天皇だけ突出して前天皇からの血脈が薄くなっている。
桓武天皇は737年生まれである。10代崇神天皇が50才で紀元300年に即位したと仮定すると250年生まれである。487年間で19代目が生まれたことになる。平均で27才で後継者が生まれたことになる。これは合理的範囲である。
戦後天皇家の万世一系の問題に色々の角度より疑義が生じた。 やみくもの思想至上主義的な議論は別として、10代崇神天皇ー26代継体天皇までが論議の対象とされている。いずれも現段階では立証不可能な議論である。 後は天皇の墳墓とされている宮内庁管轄の諸古墳を発掘し検証するしか真実に迫る良い方法は無いと言える。これは言うほど簡単ではない。
〔主な天皇家系譜断絶説〕
イ)イリ王朝:10代崇神天皇、11代垂仁天皇
ロ)タラシ王朝:12代景行天皇、など
ハ)河内王朝:15代応神天皇など
ニ)継体王朝:26代継体天皇以降現在まで
上記系図の派生天皇部分での実在性に関してはさらに多くあるがこれは除外。
●イ)とロ)の間は完全に切れているという説。
●ロ)とハ)の間は完全に切れていると言う説と、九州で成立したタラシ王朝の景行天皇の流れが九州から大和に入り、河内王朝と呼ばれるようになったのだとする説など。
●ハ)とニ)は切れているという説と、切れてはいないと言う説。
これらが組み合わさって複雑多岐である。
ところが、最近では、専門の学者はこの問題について、余り多くを語らない。「継体天皇以前に初代大王はいたことは間違いない。その後何人か大王と呼ばれた人物はいたであろう。これを特定、比定することは困難。血脈云々を語ることはさらに無理。それを解明するのにそんなに歴史意味があるとは思えない。」との姿勢である。
本当にそうであろうか。筆者は天皇家が万世一系かどうかは、一昔前までは、何よりにも勝る重大事項であったことは理解できる。体制維持の死守ライン的事項であると考えたのであろうから。しかし、現在ではそのことよりも、真実はどうであったか、本当にそうだったのか、史実では無かったとすれば、どの時代に誰がどんな目的のためにそうねじ曲げたのか、記紀で初めてそのように仕組まれたのか?(戦後一部学者によりそういわれ現在では漠然とそうかいなと思わされている)。
日本の曙時代はどんな人物がどんな活躍をし、日本の歴史はどう造られたのか、そのためにどんな工夫努力がされたのかを知ることである。 ヨーロッパでも、中国でも、色々の角度から、人類の活躍を探り、解明しようと大変な努力がされている。
この瓦はどこどこの窯でいつ頃造られたもので、どこどこの寺の瓦とこの紋様が一寸異なる、てな類の研究も必要だが、筆者は、この4世紀から6世紀初めまでの謎の時代にメスを入れることこそ、我々日本国家の曙を解明する最重大事項の一つだと思っている。
誰が使命感をもってこの問題に取り組んでいるのでしょうかね。若い研究者の奮起を期待している。筆者は、発掘考古学だけがこの間の歴史を解明してくれるとは思ってない。得てして発掘考古学を専門にしている学者は、「物」の年代鑑定みたいなものに興味の対象が偏り過ぎる。
歴史は人物によって造られたものでもある。その具体的人物名、事象などは記紀を中心とした立派な文献があるではないか。これとの照合が非常に重要である。 勿論蔭では色々勉強し照合をしながらやっていることはある程度分かる。しかし、表だって堂々と上記謎の部分に迫る発表をする歴史学者の少ないことを憂う。発表すると権威ある?老先生方から強い反発があり、それに対抗出来るほど基礎勉強が出来てないのでしょうかね???
戦後直ぐの方が過去の考えに果敢に挑戦する論文の類は多かったのではなかろうか。しかし、もう戦後の唯物史観の亡霊に怯えることも、戦前の皇国史観に惑わされる心配もない。自分の思うことをどんどんオープンにして欲しい。
アマチュア・セミプロの眉唾古代史(書店に氾濫している本の多くはそうであるのでは?)ばかりが氾濫するのも、自由で一面良いが、本当の古代史解明の進歩になってないような気がしている。活力にはなっているかも知れないが。考古学的史料に基づき、歴史的過去の諸文献にも通じた新たな歴史認識を切り開く研究がどんどん出されることを切に望む。
・「日本の歴史」王権誕生 寺沢薫 講談社(2001年)
・「日本の歴史」大王から天皇へ 熊谷公男 講談社(2001年)
・「乙訓の原像」中村修 (株)ビレッジプレス (2004年)
・「日本古代国家の成立と息長氏」大橋信弥 吉川弘文館(1987年) など
(1)越前か近江か (2)継体天皇の父系 (3)息長氏の性格 (4)気比大神
(5)継体天皇の母系 (6)三尾氏と三国氏 (7)三国の意義 (8)二つの三尾氏
(9)皇親か否か
(引用:福井県史)
『日本書紀』(以下『紀』)は、継体天皇の出身地を越前と伝える。しかし『古事記』(以下『記』)は、「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天の下を授け奉りき」と記し、近江の出身と表現している。この食違いについて、まず考察しなければならない。
『紀』も継体天皇(男大迹王)をやはり近江の生まれと記している。オホトの父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだと書かれている。しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。したがって継体天皇は、幼少時から迎えられて天下の主となる成年期まで越前で育ったわけであり、越前を主な地盤とみてよいことになる。
一方、用字的にみてほぼ推古朝の成立とみられ、『紀』に劣らず古い史料と考えられる『上宮記』(『釈日本紀』所引)は『紀』とほぼ同様の説話を伝えている。母の布利比弥命は、三国坂井県・多加牟久村の出身となっており、これも『紀』と大体一致する。したがってオホトの母系を越前にあるとする所伝は、ほぼ信頼してよいものと考えられる。
すなわちオホトは近江の生まれであるが、母の郷里である越前で幼時から成年期に達し、中央に進出したのも越前からであった。したがって『記』『紀』の表現の差は、重点の置き方の相違にほかならないであろう。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/越前か近江か
(引用:福井県史)
まず継体天皇の父系の考察から始めよう。『紀』は彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫とするが、その系譜については何も記さない。また三尾の別業にいたと記すが、その本拠地についてはまったく触れていない。
一方『上宮記』は、継体天皇の父を斯王とし、凡牟都和希王(一般的に応神天皇と考えられる)より四代の系譜を伝えているが、これは『記』の伝える系譜にきわめて近似したものである(図30)。『記』の系譜にはオキナガマワカナカツヒメが登場し、それが息長氏に関連する系譜であることは明らかである。 『記』によれば、図の最後に出てくる大郎子(意富富杼)は、三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君などの祖になっている(各氏族の訓みについては異本・異説が多い)。大郎子は、『上宮記』によると意富富等とも記し、継体天皇の曾祖父にあたる人物である。
(引用:福井県史)
『新撰姓氏録』左京皇別には、「息長真人」の名がみえ、「誉田天皇の皇子稚渟毛二俣王の後なり」と記されている。ワカヌケフタマタ王の子孫ということは、おそらくオホホトの子孫というにほかならないであろう。『新撰姓氏録』はこのあと、山道真人・坂田酒人真人・八多真人の三氏を掲げ、いずれもワカヌケフタマタ王の後と記している。息長氏を含め、これらの四氏はいずれも前掲の系譜にオホホトの子孫として挙げられているものである。系譜上息長氏につながるという意味で息長グループともいうべき諸氏と、継体天皇とは、オホホトという共通の祖先をもっているとも考えられる。それゆえ、継体天皇の父系が、少なくとも息長グループに属する氏族であろうということは、かなりの確実性をもっていうことができよう。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/継体天皇の父系
(引用:福井県史)
息長氏は、オキナガタラシヒメ(神功皇后)によって古代史上有名な氏族であるが、神功皇后の実在性については多くの議論があり、その系譜の古い部分は信頼性に乏しい。しかしオキナガタラシヒメがホムタワケ(応神天皇)の母と位置づけられている伝承は、応神天皇が継体天皇の五世の祖と伝えられているだけに、無視しがたい重みをもっている。
息長氏が史上に確実な姿を現わすのは、息長真手王の娘麻績娘女が継体天皇の妃の一人となり、また同じ息長真手王の娘広姫が敏達天皇(継体天皇の孫)の皇后となってからであろう(ただし同一人物が祖父と孫とにその娘をめあわすなどということはまずありえず、ここには何らかの錯誤あるいは作為がはいっているのであろう)。息長氏はおそらく近江を地盤とした豪族であろうが、突如として敏達天皇の皇后を出しうるはずはなく、それ以前から蓄積した勢力や、皇族との縁故があったはずである。その一端が麻績娘女の伝承として現われているのであろうが、継体天皇自身を息長氏の一族と考えるとき、より明確にこの結びつきを理解することができる。
継体天皇の息長氏出身説は多くの学者によって説かれている(岡田精司「継体天皇の出自とその背景」『日本史研究』一二八など)。息長氏は天武朝に真人姓を与えられている。また皇統系譜についても、『上宮記』において継体天皇の曾祖父とされるオホホトが『記』では息長氏の祖となっている。このように、継体天皇の出身氏族と考えられる息長氏は朝廷において特別の皇親待遇をうけていた。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/息長氏の性格
(引用:福井県史)
さらに継体天皇出現の舞台となった越前から近江にかけて、無視できないのは、応神天皇と角鹿(敦賀)との深い関係を示す説話である(『紀』応神天皇即位前紀、『記』仲哀天皇段)。すなわち即位以前の応神天皇が敦賀に来て、笥飯(気比)大神と名前を交換したことになっている。笥飯大神の名はイササワケ、応神天皇の名はホムタワケであるが、本来、大神はホムタワケ、応神天皇の元の名はイササワケであったのではないかと、『紀』の編者は疑っている。『紀』編纂のころ、この話の真の意味は理解されないようになっていたと思われるが、それにもかかわらず『記』『紀』ともに同じような話が採録されたのは、この説話の起源が古く、捨て去ることができなかったためであろう。名前を交換することは、両者が非常に親密な関係であったことを示している。
気比大神の名イササワケは、新羅の王子天日槍のもたらした神宝の一つ胆狭浅の大刀と関係あるであろうし(『紀』垂仁天皇三年三月条)、天日槍を系譜上の祖とするオキナガタラシヒメが新羅遠征に出かける前に敦賀の笥飯の宮にいたと伝えられていることなどを考えれば、息長氏と気比神とのつながりは否定できない。越前から近江にかけての地域は、応神王朝成立の有力な基盤であったのであり、それが100余年の歳月を隔てて、『記』『紀』ともに応神五世の孫と伝える継体天皇の本拠となったことも、偶然とは考えられないのである。
継体天皇の勢力基盤として、商業活動を重要な要素と考える説もある(岡田前掲論文)。近江地方の古墳群について検討すれば、湖上水運を軸とした交易活動の可能性が考えられる。彦主人王が本拠地ではなく「三尾の別業」にいたと記されている点も、こうした推測を助けるものであろう。本来湖東を地盤とする息長氏が、もし湖西に進出したものとすれば、商業活動のためであるかもしれないし、また滋賀県マキノ町の製鉄遺跡と関連した鉄資源開発のためかもしれない。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/気比大神
『上宮記』の系譜は、継体天皇の母方の祖先を偉久牟尼利比古大王から始めている。イクムネリヒコとは『紀』の活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)をさすのであろう。『上宮記』系譜の第二代は、偉波都久和希である。これは『紀』の磐衝別命、『記』の石衝別王にあたるといえよう。『紀』によれば磐衝別は三尾君の始祖、『記』の石衝別は羽咋君と三尾君の祖と明記されている。イハツクワケを祀る神社として、能登の羽咋神社(石川県羽咋市)、越前の大湊神社(三国町)、近江の水尾神社(滋賀県高島町)などがあり、イハツクワケの子イハチワケを祀る神社に、越前足羽郡の分神社(福井市)があり、振媛の父のヲハチ君を越前坂井郡の高向神社(丸岡町)が祀っている。これらの分布は、イハツクワケを祖とする一族の勢力範囲を語っていよう。おそらくイハツクワケは能登から近江にかけて勢力を張った豪族の始祖であって、系譜上、垂仁天皇に結びつけられたのであろう。そうであるなら『記』にみえる二氏のうち、羽咋氏は明らかに能登の豪族であるから、三国出身の振媛は三尾氏につながる人物であろう。
(引用:福井県史)
この推測をさらに強めるものは、継体天皇の妃のなかに、三尾氏の出身が二人までみられることである(表8)。一人は三尾角折君の妹稚子媛、もう一人は三尾君堅の女倭媛である。初めの稚子媛は、皇后手白香皇女、元妃目子媛の次に記載されるが(『記』では若比売として第一番目)、その所生の皇子が大郎皇子(『記』では大郎子)とされていることから、一番最初の妻だった可能性が強い。この点からも、振媛が三尾氏出身だった可能性が強まる。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/継体天皇の母系
(引用:福井県史)
さてこの三尾氏の本貫は、従来近江と考えられてほとんど疑われなかった。近江高島郡には三尾郷と水尾神社(写真31)があり、かつ彦主人王の別業も三尾にあったと記されていることから、そこに三尾氏も存在したものと考えられてきたのである。
写真31 水尾神社 (引用:福井県史)
三尾氏が越前の豪族であるという見解が広まらなかったのは、越前に三尾という地名が見あたらないためであった。しかし、天平五年(733年)の「山背国愛宕郡某郷計帳」(文五)に「越前国坂井郡水尾郷」の記載があり、『延喜式』の北陸道の駅名のなかに「三尾」が存在している。丹生―朝津―阿味―足羽―三尾の順序からいって、三尾が坂井郡のなかにあったと考えられる。すなわち現在の地名にはみられないが、坂井郡内に三尾または水尾という地名はたしかに存在していた。
三尾君堅楲の娘倭媛の生んだ椀子皇子を三国公の祖と『紀』は記す。三国氏は天武天皇十三年(684年)「真人」の姓を受けて三国真人となり、奈良朝に至っても坂井郡の雄族として活躍している。三国氏の本拠が坂井郡であることは確実であるが、三尾氏は後世まったく姿を消してしまうことになる。したがって、三尾氏が三国氏と名称を変えて存続していったと考えられるわけだが、その根拠を述べる前に、まず三国とは何かを考察しなければならない。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/三尾氏と三国氏
(引用:福井県史)
継体天皇の母振媛は、『紀』では三国の坂中井の高向、『上宮記』では三国坂井県の多加牟久村の出身と記されている。高向(多加牟久村)は、現在の丸岡町の一部をなす旧高椋村に該当しよう。坂中井(坂井県)はおおむね今の坂井郡に相当する地域であろう。三国はそれより広域なのであるから、現在の三国町を指すという見解は誤りである。少なくとも越前の北半くらいを指す広い地域と考えなければならない。
三国については古くから「水国」を意味するとする説と、「三つの国」を指すとの両説があったが、「三つの国」と理解した方が正しいと思われる。継体天皇の時代に坂井郡一帯が「水国」であった証跡はまったくみられないからである。しかしながら「三つの国」がのちの律令制下の郡でいう坂井・足羽・丹生、坂井・大野・足羽、または坂井・江沼・足羽のいずれと考えるべきかは、まだ議論の余地がある。
『上宮記』に「祖にまします三国命」という記載がある。この三国命というのは誰をさしているのか。『上宮記』には「命」のついた人名が、三国命以外に三例あり、いずれも継体天皇の直系尊属の女性ばかりである。先述のように『上宮記』の母系を三尾氏の系譜とみれば、三国命は振媛の母である阿那比売をさしている可能性が強い。アナニヒメは余奴臣の祖であり、余奴は「与野評」と記された墨書土器などからエヌ(江沼)と訓む説が強いので、三国は江沼・坂井・足羽の三郡をさすという説に若干の根拠を与えることになる。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/三国の意義
(引用:福井県史)
いずれにしても振媛の直系尊属のなかに三国命と名のる人物がいたことは確実であり、これは三尾と三国の同族説に重要な論拠を与えるものである。三国氏と三尾氏を同族とすれば、三尾氏からは継体天皇に二人の妃を出しているし、また継体天皇の母振媛も三尾氏出身と考えられるので、三国・三尾氏の同族関係を矛盾なく理解することができる。
残る問題は、『記』『紀』に現われる二つの三尾氏の本貫が、越前か近江かの点である。三尾君堅楲の娘倭媛の子孫が三国氏を名のり、越前坂井郡の雄族となっている点よりみれば、この三尾氏は問題なく越前なのであろう。残る一つ、三尾角折君についてはどうであろうか。
ここで『紀』が「三尾君堅」と「三尾角折君」と微妙な書き方の相違を示していることは看過しがたい。前者は三尾君が氏姓であり、堅楲が名であろう。しかし後者は「三尾角折君」までが氏姓であり、蘇我田口臣とか阿倍引田臣とか史上多くみられる、いわゆる複姓の可能性がある。したがって、三尾角折君の角折は地名とも考えられ、現に足羽川と日野川の合流点近くに角折の地名が残っている。
図31 福井市三尾野・角折付近(引用:福井県史)
この福井市角折町の南約一八キロメートルに同市三尾野町という地名がある。また三尾野の東約三〇キロメートルの福井市脇三ケ町にある分神社の祭神はイハチワケと伝えられる。イハツクワケの子イハチワケは史上著名な存在でないから、後世の付会とは考えにくい。このように越前足羽郡にも三尾氏の存在がおぼろげながらうかがえるので、第二の三尾氏(三尾角折君)の本拠地をここに考えることも可能ではないかと思われる。
二つの三尾氏がともに越前の豪族であるとすれば、近江三尾氏は存在しなかったのであろうか。はっきりその非存在を説く論考もあるが(杉原丈夫「継体天皇出自考」『古代日本海文化』五)、近江にはあるいは後世に進出したとも考えられるのである。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/二つの三尾氏
(引用:福井県史)
以上によって、継体天皇の父系は息長氏(少なくとも息長グループ)、母系は三尾氏の公算が高いと考えられる。一方、応神天皇五世の孫というのは系譜的擬制にすぎず、継体天皇は新王朝の始祖にほかならないとする論者もある。 『紀』が前代の武烈天皇をことさら悪王に仕立てたこと、馬飼の少年が迎えられて天下の主となったオケ・ヲケ兄弟(顕宗・仁賢天皇)の説話を挿入したことなどは、継体王権の正統性を主張するための潤色と考えられるので、継体新王朝説にやや有利とみられる。現段階において、継体天皇の前王朝との血縁の有無を決定することは、史料的に無理であろう。しかし、たとえ『記』『紀』や『上宮記』の記載を信じるとしても、その血縁はきわめて稀薄なもので、あたかも前漢王朝と後漢王朝との関係のように、継体天皇を新王朝の始祖と考える妨げとはならないと考えられる。
引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第二節 継体王権の出現/一 継体天皇の出自/皇親か否か
(引用:うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」)
古代史における継体天皇の出自に係るWebサイトをサーフィンして、引用に示す「うっちゃん先生の『古代史はおもろいで』」というサイトに関係するプログにヒットしました。当プロブの関連URLを紹介します。
なお、「うっちゃん先生」とは、九州古代史研究会を主宰している 内倉武久氏のことで、次の書籍を執筆されています。
(引用:AMAZON・HP)
ブログNO.14 「継体天皇」の御陵は福岡にあった②
ブログNO.15「安閑天皇の都」も北部九州にあった
ブログNO.56『書紀』継体紀のなぞに解決の糸口―「九州年号」記載「入来院家文書」に―
ブログNO.57 継体天皇の都・朝倉が大変だ 一日も早く復興を、新知見の期待も
ブログNO.115 継体紀のなぞと福岡・巨大前方後円墳 「入来院家文書」に解決の糸口
ブログNO.138 「継体天皇」は鏡作り工人袁氏の子孫? その1 都の遺構はすでに出土
ブログNO.139(NO.138「その1」に続く) 継体天皇・袁氏、鉄の加工で権力握る そNEW !
作業中(03.7.8)
最終更新:令和3年7月8日