1 明治維新から敗戦までの国内情勢
1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新) 1.2 天皇親政から立憲君主制へ
1.3 大正デモクラシーの思潮 1.4 昭和維新から大東亜戦争へ
2 明治維新から敗戦までの対外情勢
2.1 対朝鮮半島情勢 2.2 対中国大陸情勢 2.3 対台湾情勢 2.4 対ロシア情勢
2.5 対米英蘭情勢
3 敗戦と対日占領統治
3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印 3.2 GHQの対日占領政策
3.3 WGIPによる精神構造の変革 3.4 日本国憲法の制定 3.5 占領下の教育改革
3.6 GHQ対日占領統治の影響
4 主権回復と戦後体制脱却の動き
4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース 4.2 対日講和と主権回復
4.3 憲法改正 4.4 教育改革
5 現代
5.1 いわゆる戦後レジューム 5.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)
5.3 日本人としての誇りを取り戻すために 5.4 愚者の楽園からの脱却を!
注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(戦前・米英蘭)です。
2.1 対朝鮮半島情勢
(1)征韓論/(2)江華島事件/(3)壬午事変/(4)甲申事変
/(5)甲午農民戦争(東学党の乱)/(6)乙未事変/(7)韓国保護国化・韓国併合
/(8)三・一独立運動/(9)韓国併合での主要な施策
/(10)日韓基本条約による諸問題の清算/(11)条約締結後も繰り返される対日請求
/(12)竹島問題
2.2 対中国大陸情勢
(1)日清戦争/(2)北清事変(義和団の乱)/(3)青島の戦い/(4)膠州湾租借地
/(5)対華21カ条要求/(6)五・四運動/(7)万県事件/(8)南京事件/(9)山東出兵
/(10)済南事件/(11)満州事変/(12)華北分離作戦/(13)北支事変
/(14)通州事件/(15)第2次上海事変/(16)南京攻略戦・(参考)南京事件論争
/(17)徐州会戦・(参考)黄河決壊事件/(18)武漢作戦/(19)広東作戦
/(20)大陸打通作戦/(21)敗戦後の復員事情/(22)小山克事件/(23)通化事件
/(24)根本中将の撤退作戦/(25)戦後中国の論点/(26)尖閣諸島問題
2.3 対台湾情勢
(1)台湾の歴史/(2)日本統治時代の台湾/(3)台湾抗日運動
/(4)主要な日台間事件・事案/(5)戦前の主要な施策
/(6)戦後に秘匿されてきた主要事案
2.4 対ロシア情勢
(1)幕末・明治維新から日露戦争まで /(2)日露戦争/ (3)シベリア出兵
/ (4)尼港事件/(5)ノモンハン事件 /(6)ソ連対日宣戦布告/ (7)シベリア抑留
/(8)北方領土/(9)戦後ロシア(旧ソ連)の論点
2.5 対米英蘭情勢
(1)第二次世界大戦の概要/(2)大東亜戦争の背景/(3)ABCD対日包囲網
/(4)仏印進駐/(5)宣戦布告と開戦/(6)日本軍の攻勢/(7)戦局の転換期
/(8)連合軍の反攻/(9)戦争末期/(10)大東亜戦争の終戦
注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(2.5)です。
(1)第二次世界大戦の概要/(2)大東亜戦争の背景/(3)ABCD対日包囲網
/(4)仏印進駐/(5)宣戦布告と開戦/(6)日本軍の攻勢/(7)戦局の転換期
/(8)連合軍の反攻/(9)戦争末期/(10)大東亜戦争の終戦
1)大政翼賛会の結成
・日中戦争(支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)に、資源局と企画庁を統合した企画院が設置され、満州国の運営で功績を挙げた岸信介ら「革新官僚」が登用された。
・また近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年(昭和15年)10月には、大政翼賛会が結成され、既成政党は呼応して解党した。
・大政翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争から第二次世界大戦(太平洋戦争)の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われる。総裁は首相が兼任し、初代総裁には近衛が就任した。
・当初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局及び23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。
・しかしその後、部内では主導権争いが頻発し、また1941年(昭和16年)には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループは退陣、内務省及び警察主導の行政補助機関にすぎないものとなっていった。
2)太平洋戦争(大東亜戦争)前夜
(左)「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書はドイツ、イタリアとの日独伊三国防共協定を宣伝している
(中左)ドイツ総統府でアドルフ・ヒトラーとの会談に臨む松岡洋右
(中右)同盟締結を記念してベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)
(引用:Wikipedia) (右)1941年、サイゴン市内の日本軍
・三国同盟の締結や仏印進駐によって、日本とアメリカ合衆国・イギリス・オランダとの関係は悪化し、戦争中の中華民国を含め物資の入手が困難な状況に陥った(ABCD包囲網)。
・日本では、従来陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、北進論は国境線をめぐり紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘を行った際にソビエト連邦軍に大敗したことにより頓挫していた。
(左)北進論 1.北樺太と沿海州へ 2.外蒙古とバイカル方面へ 3.イルクーツクへ 4.中央シベリアへ
(引用:Wikipedai) (右)南進論実行時のアジア(1937-42年)
張鼓峰事件戦闘図(引用:Wikipedia)ノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士
・日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし軍の強硬姿勢もあり交渉は難航し、国務長官コーデル・ハルより日本のすべての植民地を返還する事などを要求する交渉案を提示され(通称ハル・ノート)、これを事実上の最後通牒と解釈した日本は対英米蘭開戦を決定した。
・こうして太平洋戦争(大東亜戦争)が始まり、日本も枢軸国の一員として第二次世界大戦に参戦するに至った。
3)連合国側に宣戦布告と国内体制の整備
大日本帝国海軍艦隊の航跡図 炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機 大日本帝国海軍攻撃隊の侵入経路図
(引用:Wikipedia)
・1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、日本は真珠湾の米軍基地(真珠湾攻撃)及び東南アジアのイギリスとオランダの植民地も攻撃し、連合国側に対し宣戦布告した。
・しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六は一年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われる。
・開戦当初、日本軍は今でこそ一般的な航空母艦の艦載機を主力とする航空機を巧みに使用した新しい戦法を用いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって活動中の戦艦を沈めるなど、アメリカ軍、イギリス軍、オランダ軍を相手に連戦連勝を収め、日本国民はこの緒戦の大勝利に酔いしれた。
・1942年(昭和17年)に、東條内閣は翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。
・更に町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視にさらされることとなった。
4)大東亜共同宣言の発表
(左)大東亜会議に参加した各国首脳(帝国議事堂前にて記念撮影)。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース (右)大東亜結集国民大会
(引用:Wikipedia)
・当時、日本の石油備蓄量がわずか2年分であったことから、南方の石油天然資源の確保は日本の至上命令であった。当時、東南アジアは欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本に協力する動きもあったが、日本の強圧的な占領政策により、現地の反発は次第に大きくなっていった。
・日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年(昭和18年)10月に、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。
5)ミッドウェー海戦の敗北
(左)ミッドウェー島。手前は飛行場のあるイースタン島。奥は飛行艇基地のあるサンド島。(中左)ミッドウェー海戦 戦闘の経過(中右)炎上するミッドウェー基地。友永雷撃隊の攻撃により、空母ヨークタウンの左舷に2本目の魚雷が命中した瞬間。
(引用:Wikipedia)
・ミッドウェー海戦を皮切りにアメリカはこれまでの劣勢を巻き返し、日本にとって次第に戦況は傾いていった。この海戦で日本は最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を失い、開戦以来の大敗北となった。しかし国民には偽りの戦況が伝えられ、日本国民は負けていることを知らされていなかった。
赤城 加賀 蒼龍 飛龍
(引用:Wikipedia)
・このころすでに、展望もないまま数百万の大軍を広大な大陸に送り込んでいた中国戦線での消耗も激しかった。 また、最重要資源となっていた石油も、制海権を失うことで日本本国への輸送が困難となり、次第に備蓄は底をついていった。
・兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカ合衆国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年(昭和20年)に解散して、国民義勇隊に改組された。
6)日本への空襲・原爆投下
・1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落(サイパンの戦い)し、このことで日本本土は連日のように空襲に晒され、1945年(昭和20年)3月10日には、無差別爆撃により民間人8万人以上が死亡し、焼失家屋は約27万8千戸、東京の3分の1以上の面積(40平方km)に至る惨劇となった東京大空襲が行なわれた。
・日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。
・翌1945年(昭和20年)7月26日に、連合国は日本の降伏を求めるポツダム宣言を発表するが、日本政府は「黙殺」の態度をとった。アメリカ軍によって世界初の原子爆弾実戦使用として広島市と長崎市への原子爆弾投下が行われ、両市は壊滅し数十万人の民間人が死亡したほか、重い後遺症に苦しむ多数の被爆者を生んだ。
7)対ソ和平工作とポツダム宣言の受諾
(左)リヴァディア宮殿で会談に臨む(左から)英国のチャーチル首相、米国のルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長
(右)ポツダム会談の様子。写真には、クレメント・アトリー、アーネスト・ベヴィン、ヴャチェスラフ・モロトフ、ヨシフ・スターリン、ウィリアム・リーヒ、ジェームズ・F・バーンズ及びハリー・S・トルーマンを含む。(引用:Wikipedia)
・戦争の継続が困難となった日本は、中立条約を結んでいたソビエト連邦の仲介での和平工作を行ったが失敗した。ソ連はヤルタ会談での密約、連合国の申し合わせに従って日本に宣戦布告し、満州国に侵攻した。主力を中国戦線に送り込んでいた関東軍は突然の侵攻に総崩れとなり、満州国は崩壊した。
・原爆投下とソ連参戦を受け、日本政府は御前会議において降伏を決定し、ポツダム宣言を受諾する旨を連合国に通告した(8月14日)。翌8月15日正午、昭和天皇の肉声(録音)によるラジオ放送(玉音放送)により降伏の事実は日本国民に伝えられた。
御前会議(8月14日午前11時/日本標準時) (引用:Wikipedia )終戦の詔書の国務大臣署名欄(8月14日)
・降伏文書の調印は、1945年(昭和20年)9月2日に、東京湾上のアメリカ海軍戦艦ミズーリ号にて行われた。
8)敗戦後の中国残留孤児とシベリア抑留
・その後、日本人の引き揚げは困難を極め、多数の日本人移住者が存在した満州国においては中国残留孤児問題が生じた。
・ソビエトによってシベリアに抑留されるもの、中国の国共内戦では中国共産党軍や中国国民政府軍に参軍させられたり、強制労働を強いられ、多くの日本人が虐殺される通化事件のような悲劇も起きた。
9)東南アジア独立運動への参加
・一方、自らベトナム独立戦争やインドネシア独立戦争に身を投じるものもいた。
(引用:Wikipedia)
1)日中戦争の長期化
・昭和12年に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。
・しかし、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、二・二六事件以後から行われるようになった軍部による政治干渉、蘆溝橋事件、大紅門事件をきっかけとする中国大陸における陸軍の暴走、それに呼応して起きた郎坊事件、広安門事件、通州事件、第2次上海事変により在中邦人の安全が脅かされる事態になる。
・この結果、政府は軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展する。
・日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。
・国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。
・一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうして日中戦争の戦線は伸び未曽有の長期戦に陥っていた。
・劣勢にあった中華民国の指導者の蒋介石は、国際世論(欧米世論)を味方につけ、支援を引き出すために、国民党中央宣伝部国際宣伝処を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。
・その結果、ニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し日中戦争を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになり、中国大陸に権益を持つ国々は中国からの撤兵を日本に求めた。
2)三国同盟の締結
・1940年(昭和15年)7月22日、第2次近衛内閣が成立し、組閣後4日目の7月26日閣議で「基本国策要綱」を、翌27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。
・一方、大日本帝国政府は昭和15年9月27日にナチス・ドイツ政府や、イタリア王国政府と日独伊三国軍事同盟を締結して国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、日米関係は一層悪化した。
・これを受け日米開戦が論じられるが政府と海軍の一部には慎重論も強い一方で陸軍は主戦派が多かった。日本軍は対中国・対ソ連に兵力を集中させ身動きできない状況にあったため、米国は日本に対し強硬姿勢を示すようになる。
・日本と中国は共にアメリカに物資を依存して戦争を行っていた。この時点で日本は石油の6割以上をアメリカから輸入していたため、アメリカなしではそもそも日中戦争の遂行は不可能な状況であった。
3)第2次欧州戦線の勃発と欧米の情勢
・1939年(昭和14年)、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国が連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。
・一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。
・翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定を成立させた。
・しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第1次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。
・ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にもかかわらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入できない状況にあった。
・もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年(昭和18年)7月以降になるとみていた。
・1941年4月の米英の統合会議では対独戦のあとに、対日戦に入ることが決定された。
4)タイ王国による南部仏印侵攻
・1940年(昭和15年)11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、昭和16年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。
5)日米交渉の決裂と南進論の活発化
・米国は対日情報戦略を強化し、1940年(昭和15年)9月には日本側(外務省・海軍)が使用していた暗号解読機(97式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。
・一方日本は、1940年(昭和15年)、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナ北部に進駐し、「援蒋仏印ルート」を遮断したが、新たにビルマを経由する「援蒋ビルマルート」が作られた。
(左)日本との戦争宣言に調印を終えたフランクリン・ルーズベルト大統領と幕僚達(1941年12月8日撮影)
(右)米国立暗号博物館97式欧文印刷機部品 (引用:Wikipedia)
・1941年(昭和16年)、駐米大使野村吉三郎のもとに陸軍省軍事課長であった岩畔豪雄が渡米、民間人井川忠雄らとともに、アメリカ国務長官コーデル・ハルを交えて秘密交渉による日米関係改善が模索された。
・日米の軍人と民間人によって策定された「日米諒解案」では、日本軍の中国撤退、アメリカは満州国を承認する、汪兆銘政権を中国政府として認定する、ホノルルにおける日米首脳会談実現などが示唆されていたが、ハルはその内容があまりにも日本に有利であることに反発。諒解案を基礎に交渉する前提として4原則、
① 全ての国家の領土保全と主権尊重、
② 他国に対する内政不干渉、
③ 通商上の機会均等を含む平等原則、
④ 平和的手段により変更される場合を除き太平洋の現状維持
を日本が受け入れることを求めた。
・しかし野村大使は4原則を日本政府に伝達せず、日本側は諒解案だけをアメリカの公式提案と誤認してしまう。
・この日米の認識の齟齬が、その後の交渉を混乱させ、破綻に導く大きな要因となった。6月22日に独ソが開戦すると、三国同盟の対米圧力が減少しアメリカはさらなる譲歩を求めるようになる。
6)開戦を決意(4回の御前会議)
〔仏印進駐等決定の御前会議〕
・その後も日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を続けたが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」(対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月7日からは満州に向けて内地から兵員の大移送が開始されると共に、7月28日にはフランス領インドシナ南部へもフランス政府との合意に基づき進駐を実施した。
〔日本本土空襲〕
・一方、アメリカは、7月18日、アメリカ陸軍長官・海軍長官からルーズベルト大統領に中国からアメリカ人が操縦する150機の爆撃機で9月から10月にかけて東京・大阪・京都・横浜・神戸を奇襲爆撃で焼き払う作戦計画が提出され、大統領による承認がなされる。7月21日には、中国戦線に派兵していたフライングタイガース隊を核とした日本本土への先制攻撃作成(J.B.No.355)が大統領、海軍長官、陸軍長官らの署名のもと認可された。
〔在米日本資産を凍結と経済制裁〕
・さらに7月25日には在米日本資産を凍結(ハーバート・フーバー前大統領はドイツと戦争するために日本を戦争に引きずり込もうとするものであったとしている)、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した。
・この制裁は1940年の日米通商航海条約の破棄からはじまり、最初は航空用燃料の停止、北部進駐に伴う鉄類の停止、そして陸軍と外務省による同盟締結に伴い、必要物資の3割を占めていた蘭印との交渉が決裂し、国内物資の困窮が強まっていった(特に航空用燃料の欠乏が激しく、アメリカによる働きによって蘭印交渉でも航空燃料は要求量の1/4しか確保できず、決裂の原因となった)。
〔必要物資の禁輸措置〕
・また、40年から41年にかけて民間会社を通じ、必要物資の開拓を進めたが、アメリカ政府の干渉によって契約までたどり着かない上、仏印への和平進駐及び満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。
・当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蒋介石軍から守っていた。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。
・対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。
・一方、連合国側は8月25日にイギリスとソビエトは共同してイラン進駐を行っているがこれに対しては欧米列強の非難はなかった。
〔帝国国策遂行要領審議の御前会議〕
・9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。
〔日米首脳会談の要請〕
・近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
1941年10月18日発足の東條内閣(引用:Wikipedia)
〔近衛内閣の総辞職〕
・戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衞内閣は総辞職する。
〔東條内閣組閣と開戦準備の御前会議〕
・後継の東條内閣は18日に成立し、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて「帝国国策遂行要領」を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。
〔南方作戦の編成と戦闘序列の発令〕
・11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。
・同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。海軍は、11月26日に真珠湾攻撃部隊をハワイへ向けて出港させた。
〔日米最終交渉とハルノート〕
・11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村大使はコーデル・ハル国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けたこともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む交渉案、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。米国は満州国を承認していないため、満州国からも軍を撤退させる事を意味する。
・後の東京裁判の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーが、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と日本を弁護している程極めて強硬な内容であった。東京裁判の判事であったラダ・ビノード・パールも後に引用している。アメリカ海軍は同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対し無制限潜水艦作戦を発令した。
〔開戦決定の御前会議〕
・交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。
(引用:Wikipedia)
1)ABCD対日包囲網
・ABCD包囲網は、1941年(昭和16年)に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。
・「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)の頭文字を並べたものである。
・経済制裁そのものは強制外交手段のひとつであり、武力使用(交戦)による強制外交と同様に外交上の敵対行為と見なされる。
2)アメリカの対日経済封鎖
・アメリカは日露戦争以降、中国東北部及びロシアシベリア権益について日本と対立と協調を繰り返してきたが、日本は満州善後条約や満州協約、北京議定書・日清追加通商航海条約、対華21カ条要求における2条約13交換公文などを根拠に「宣戦布告せず交戦する技術」を進化させてきたのに対し、アメリカが採用した宣戦布告せず経済制裁する技術が対日経済封鎖である。
・アメリカは日本と開戦しておらず、国際連盟が対日経済制裁を決定する(昭和13年9月30日)以前には公然と経済制裁によって対中協力をおこなうことはできない。
・また国際連盟に参加していないため国際連盟と協調行動をとり対日経済制裁に参加する国際法上の、あるいはアメリカ国内法上の根拠がない、とくに日米はともに不戦条約締約国でありアメリカ側からの対日宣戦と受け取られかねない国家実行はアメリカ上院の許容するところではなかった(宣戦布告はアメリカ上院の権限)。欧州で大戦が勃発(昭和14年9月3日英仏対独宣戦布告)して以降もアメリカは外交上中立を維持し9月5日に中立宣言を発布していた。
・アメリカは満州事変の発生、とくにルーズベルトが大統領に就任した昭和8年3月以降、対日貿易を制限する根拠となる法令を成立させてきた。これは直接的には1929年から発生した世界恐慌を乗り切るための経済ブロック政策としての面があり、関税・輸出品目統制・金融機関への窓口指導・制限品目への監視体制などである。貿易は原則自由から制限許可制となっており、戦略物資はアメリカからの輸出を原則禁止としたうえで除外国リストから日本(あるいはドイツなど)を慎重に除去するだけでよかった。
・ルーズベルトは昭和8年には修正対敵通商法を成立させており、この法律は国家が戦争状態にあるとき、議会の承認なく重要な法律や政令を実行に移すことを可能にしたものであるが、ルーズベルトは恐慌の発生を国家の戦争状態とし昭和8年銀行法 (大統領令6102のちグラス=スティーガル法) の通達を発するなどすでに議会から (平和裏の) 非常時権限を一部獲得していた。
・昭和15年の日米通商航海条約失効以降は、アメリカ側が輸出入に関して制限をかけても日本に対抗手段がない状態となった。
・さらに対敵通商法の適用国となればアメリカの民間人がある国(日本人)と自由に、あるいは第三国を経由して交易をおこなうことを制限する完全許可制となり、対敵通商法の適用を匂わせることで日本に対する「市場封鎖」圧力を加えることができた。
・当時は金本位制であり日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店(横浜正金銀行)には1億ドルの金融資産があった。対敵通商法は敵性資産の没収を規定しており返還はされない性質のものだった。
・1920年代後半、第二次北伐やそれにともなう山東出兵、済南事件などをうけ、中華民国蒋介石政権は大衆を動員した政治運動として日貨排斥運動を展開しており、1928年5月14日には上海反抗日軍暴行委員会が組織され対日経済絶交を宣言していた。
・アメリカ政府が、上院の許容する外交権限の範囲で、上院の前提とする国際条約と国際法の範囲内において、国内法を使用してイギリス・オランダを含め東アジアの欧米植民ブロックから日本を締め出すためには、議会や(アメリカ大統領には議会への法案提出権は無い)大衆への説得、慎重で精密な法の構成と運用が必要であった。
3)対日経済封鎖の経緯
・昭和12年10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」
・昭和14年7月 日米通商航海条約破棄を通告
・昭和14年12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。
・昭和15年1月 日米通商航海条約失効
・昭和15年6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
・昭和15年7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
・昭和15年7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
・昭和15年8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
・昭和15年8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
・昭和15年9月 屑鉄の全面禁輸
・昭和15年12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
・昭和16年6月 石油の輸出許可制
・昭和16年7月 日本の在米資産凍結令
・昭和16年8月 石油の対日全面禁輸
4)対日経済制裁の経過
〔米国の対日経済制裁論の台頭〕
・1930年代半ば、世界はヴェルサイユ体制の存続をめぐって枢軸国(伊独日)・自由主義国(英米仏)・共産主義国(ソ連)の3陣営が次第に対立を深める。
・日本は1937年から中華民国と日中戦争(支那事変)を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件などの日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に野心があったアメリカでは人種差別的意識もあって対日経済制裁論が台頭してきた。
〔日米通商航海条約の廃棄〕
・そして近衛内閣が昭和13年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。
・1940年1月に条約は失効し、アメリカは屑鉄・航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主に高オクタン価ガソリンとエンジンオイル)や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。
・アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫がなされ、地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。
〔北部仏印進駐と日独伊三国軍事同盟締結〕
・1940年9月、イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本は親独のヴィシーフランスとの条約締結の元仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。
〔屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止と石油輸入交渉の頓挫〕
・この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への進出など日本の拡大政策を牽制するという名目の元、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印(オランダ領東インド)と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941年6月に交渉を打ち切った。
・この交渉で鍵となったのが航空機用燃料の量で、アメリカの圧力によって蘭印側は、日本が求めた量の1/4に留められた。当時の日本では航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけていた(日蘭会商)。4月に、アメリカ・イギリス・オランダの三国は、軍事参謀会議を開き、アジアにおける対日政策について協議した。
〔油田・鉱山の民間ルート開発の断念〕
・海軍などでは三井物産などの民間商社を通じ、ブラジルやアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、1941年には、民間ルートでの開拓を断念した。
〔南部仏印進駐と対日資産の凍結等〕
・7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁という名目のもと、対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。
〔対日石油輸出全面禁止〕
・日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。
・これらの対日経済制裁の影響について、英国首相のウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」。と論評している。
(引用:Wikipedia)
1)北部仏印進駐
・1940年(昭和15年)9月、日中戦争により日本と交戦中の中華民国の蒋介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助ルート、いわゆる援蒋ルートを、インドシナ半島において遮断する目的で行われた。
・この進駐は、第2次世界大戦でフランスがドイツに降伏した結果、昭和15年7月に成立したフランスの親ドイツ政権であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果で、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。
・しかし、参謀本部第1部長富永恭次少将の強引な指示の下に進駐を開始した9月23日からの数日間、ドンダン要塞など各地で、ヴィシー政権の決定を受け入れず、日本軍の進駐に反対する一部のフランス軍との間で戦闘が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。
・この日本軍による一連の行動は、当時、タイを除く東南アジアのほとんどの地域を植民地として領有していたイギリスやアメリカ、オランダなどの警戒と反発を招いた。
・実際に、当時ドイツと戦争状態にあり、ヴィシー政権を「親独傀儡政権」とみなし承認していなかったイギリスのほか、ヴィシー政権を承認していたアメリカも日本軍の進駐を「正当な交渉結果」とは認めず、対抗手段として英領ビルマにルートを建設することで、蒋介石への援助を続けた。
・また進駐直後に、日本がイギリスと戦争状態にあったドイツとイタリアとの間に日独伊三国軍事同盟を締結したことによって、日本は、イギリスとその同盟国であるアメリカと完全な敵対関係に立つ。
・アメリカはただちに屑鉄の対日禁輸を決定し、翌昭和16年に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。また蒋介石政権へは資金・物資両面から多大な援助を行った。
・なお進駐後のインドシナでは統治権はフランス側に残され、フランス軍と日本軍の共同警備の形態がとられた。日本軍は、軍事協定にもとづいてフランス側から提供された飛行場を拠点とし、中華民国南部への空襲を開始した。
・またこの北部仏印進駐は、仏印との間で領土問題を抱えていた東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国をも刺激し、同年11月のタイ・仏印紛争勃発のきっかけとなった。
2)南部仏印進駐
・昭和16年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐が決定し(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)、日本軍はヴィシー政権の許可を得て7月28日に仏印南部への進駐を開始した。
・南仏印進出は、政治的駆け引きの一端で、
①米国が新たに開設した援蒋ルート(ビルマルート)を仏印・シャム軸を通じ牽制すること、
②米英蘭が戦争を決意し南仏印に強固な拠点が築かれた場合、日本が戦争完遂のための物資を確保するために東南アジアへ進出することが不可能になることを恐れ、
保険的な意味合いで実施された。
・これに対して英米は、進駐が行われた場合には貿易制限を強化することを宣言していたが、無視して強行された。結果として、在英米蘭の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、アメリカの対日石油禁輸などの強力な制裁が発動され、これは日本側の予想を上回るものとなった。
・一方、8月25日には、イギリス、ソビエトはイラン帝国に侵攻したが(イラン進駐)、アメリカはレンドリース法を継続するなどして、イギリス、ソビエトを支援している。
・その後、日本とアメリカ合衆国は外交交渉を重ねたが、アメリカが提出したハル・ノートを日本政府が受け入れることができず、開戦へ向かうこととなった。12月8日に日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し、ここに大東亜戦争が勃発することとなる。
・太平洋戦争開始後も、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。もっとも、仏軍が日本に対して攻撃しないように念のための処置として、フランス駐留軍の軍備は制限され、主要海軍艦艇の武装解除などが行われている。
3)日米交渉と対英米蘭戦争へ
・9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に、甲案・乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。
・しかしアメリカは、イギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。
・これは、暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると考えた日本政府は、開戦も止むなしと判断した。
・なお、日本側が乙案を最終提案と考えており、交渉終了の目安を11月末程度と考えていたことは、暗号解読と交渉の経過により、米国側にも知られており、知った上で、穏健案は破棄され、厳しい内容のハルノートが提示された。
・太平洋戦争は、第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国(日本)など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、イギリス帝国、オランダなど)の戦争である。
・太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、日本と米英の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた日中戦争(支那事変、日華事変。以下は日中戦争で記載)も包括する戦争となった。
(引用:Wikipedia)
1)日本の奇襲攻撃
(引用:Wikipedia )
1.1)マレー作戦
・日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分に上陸し海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。
1.2)真珠湾攻撃
・続いて日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃(真珠湾攻撃)も、日本時間12月8日午前1時30分 (ハワイ時間12月7日午前7時) に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。
2 宣戦布告
2.1)対米宣戦布告
・日本時間12月8日月曜日午前4時20分 (ワシントン時間12月7日午後2時20分) に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りを通告する「対米覚書」を手交した。午前3時 (ワシントン時間12月7日午後1時) に手交することが決まっていたが、タイピングに手間取り、真珠湾攻撃後の手交となった。
・なお、この覚書には戦争をうかがわせる記述が無く、「宣戦布告無しのだまし討ち」であるとアメリカ大統領が議会で発言している。
・また、日本側でも宣戦布告と受け取られない事を懸念して修正を求める声もあったが、外務大臣が無修正で押し切っている。
2.2)対英蘭宣戦布告
・なお、日本はイギリスに対して開戦に先立つ宣戦布告は行っておらず、対英開戦後の12月8日の朝7時半になってロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡したものの、これは正式な宣戦布告ではなかった。同日に、オランダは日本に宣戦布告した。
3)暗号解読
・公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。
・対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略である」とする真珠湾攻撃陰謀説の根拠となっている。
4)特殊潜航艇の領海侵犯
・また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、領海侵犯した国籍不明(実際は日本海軍所属)の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。
5) 米国のヨーロッパ戦線への正式参加
・第31代大統領ハーバート・フーヴァーが、太平洋戦争は対独参戦の口実を欲しがっていたルーズベルト大統領の願望だったと述べている。
・真珠湾攻撃やマレー作戦などにより、日本がアメリカやイギリスの連合国との間に開戦したことを受けて、12月10日に中華民国が日本に対し正式に宣戦布告し、12月11日には日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。
(引用:Wikipedia)
1)仏印進駐
日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)(引用:Wikipedia)
・昭和15年9月以降日本軍は仏印進駐を行なっており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。
2)マレー作戦と真珠湾攻撃
・昭和16年12月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島のコタバルと、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラの陸軍部隊の上陸(マレー作戦の開始)と、同日行なわれた日本海軍によるハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、フィリピンへの空爆、香港への攻撃開始、12月10日のイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。
・しかし、アジアの独立国で友好関係にあったタイの合意を得る前に日本軍が国境を越えて軍事侵攻したことに最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りを買った。
マレー半島に上陸した日本陸軍(引用:Wikipedia)
・なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。
真珠湾攻撃に向かう零式艦上戦闘機(引用:Wikipedia)
・日本海軍は、真珠湾を拠点とするアメリカ太平洋艦隊に対して戦艦8隻を撃沈破するなどの大戦果を挙げたものの、第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦(艦載機を含む)を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。
・また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合国軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。
・また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。
日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)(引用:Wikipedia)
・しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。
・また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。
2)マレー沖海戦
日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス(引用:Wikipedia)
・一方、真珠湾攻撃の2日後(1941年12月10日)に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認し、チャーチルの強い希望でこの地域での戦闘の抑止力として配備されていたイギリス海軍の、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスは、日本海軍(第22航空戦隊)の双発の陸上爆撃機(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな雷撃爆撃によりあっけなく撃沈された。
・なお、これは史上初の行動中の戦艦に対して航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈(他には日本海軍の戦艦大和と戦艦武蔵のみ)となり、戦艦に存在するとされた潜在的な抑止力は大いに低下したとされる。
・なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また太平洋戦域では、戦艦と空母の艦隊の中での役割(攻撃主体と艦隊護衛)が入れ替わるきっかけとなった。
3)シンガポール・マレー半島全域・香港・フィリピンの奪取
・この後、日本軍は、連合国軍の拠点(植民地)であるマレー半島、フィリピン、などにおいてイギリス軍・アメリカ軍の連合国軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。
・しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。
(左)ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵 (中)日本海軍の伊一二一型潜水艦
(右)降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将
(引用:Wikipedia)
4)タイ王国の参戦と対オランダ開戦
・前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、翌1942年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。
・1942年の1月には、日本が宣戦を保留していたオランダとも開戦。ボルネオ島(カリマンタン島)、ジャワ島とスマトラ島にも侵攻を開始した。
5)潜水艦による米本土攻撃
・ 1942年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。
・続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。
・しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
爆撃を受ける空母ハーミーズ(引用:Wikipedia)
6)東南アジア地域の制圧
・日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。
・まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。
・また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。
・また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。
・また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。
(左)日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士 (右)サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令(引用:Wikipedia)
7)インド洋への進出
・同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。
・これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニ港まで撤退することになる。
・なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツへと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。
・この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランスが統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。
・この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。
8)米豪遮断作戦(FS作戦)
・第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本軍は足止めされ、戦争資源を消耗してゆくことになる。
珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン(引用:Wikipedia)
・1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。
・この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。
(引用:Wikipedia)
1)ミッドウェー海戦の敗北
ミッドウェー海戦で急降下爆撃機と戦闘を繰り広げる日本海軍の空母飛龍(引用:Wikipedia)
・4月、アメリカのアメリカ海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定するが、その直後に空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受ける。
・6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく多くの艦載機を失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。
2)日米の空母増産
・ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母ですぐ戦場に移動できるのは瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画され大鳳、雲龍、天城、葛城を筆頭に信濃や伊吹などの建造を行なうが、艦載機・搭乗員・燃料の不足により開戦時に匹敵するような能力の機動部隊運用は終戦時まで困難なままであった。
・対するアメリカは、終戦までにエセックス級空母を14隻建造している。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する。
3)アメリカ本土空襲
・アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機などによりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、森林火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。
・なお、アメリカ政府は、ミッドウェー海戦において勝利を収めたものの、国民感情に悪影響を及ぼさないために、この初の本土空襲の事実を公開しなかった。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。
・また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
4)ガダルカナル島の戦い
ガダルカナル島でのアメリカ海兵隊(引用:Wikipedia)
・ミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達したが、ミッドウェー海戦により日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は一時的に拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。
・8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、日本軍が建設し、完成間近であった飛行場を占領した。
・これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米豪両軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。
5)第1次・第2次ソロモン海戦
・同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本海軍の攻撃で、アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかったが、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。
伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプ(引用:Wikipedia)
6)南太平洋海戦
・10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の大型空母ホーネットを撃沈、大型空母エンタープライズを大破させた。
・先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が皆無という危機的状況へ陥った。
・日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。
・それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。
7)第3次ソロモン海戦
・しかしその後行われた第3次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。
8)ガダルカナル島から撤退
・1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となり、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。
・半年にも及ぶ消耗戦により、日米豪両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘は両軍拮抗したまま続く。
山本五十六連合艦隊司令長官(引用:Wikipedia)
9)山本連合艦隊司令長官の戦死
・1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した。
・しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。
・しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
10)アッツ島の戦い(玉砕)
・1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。
11)南太平洋戦線での航空持久戦
・その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での趨勢は最早決していたため、戦況には大きな影響を与えなかった。
・また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって南太平洋戦線での最大基地であるラバウルは孤立化し始めるものの、周辺の島々が占領され補給が途絶えた中、自給自足の生活を行いつつ連日連合軍と航空戦を展開し、終戦まで持ちこたえた。
(引用:Wikipedia)
1)連合軍の反攻作戦
太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)(引用:Wikipedia)
・米統合参謀本部の作成した「日本撃滅戦略計画」では、
1)封鎖、特に東インド諸島地域の油田およびその他の戦略物資を運ぶ日本側補給路の切断
2)日本の諸都市への継続的な空襲
3)日本本土への上陸
によって日本を撃滅できると想定していた。
・開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半から戦略計画に基づき反攻作戦を本格化させた。
南西太平洋地域軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」に対して、米海軍部は一歩ずつ制空権を確保しながらでなければ前進できないとし「オレンジ計画(アメリカ海軍の対日戦争シミュレーション)」をなぞろうとした。
結局ニミッツ海軍大将の中部太平洋地域軍がマーシャル諸島からマリアナ諸島を経て、マッカーサー陸軍大将の南西太平洋地域軍がソロモン諸島、ニューギニアを経てフィリッピンへと侵攻する「太平洋横断:望楼(ウオッチタワー)作戦」が1943年に主軸作戦として発動された。その手始めに43年11月20日の南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。
2)大東亜共栄圏の結束の誇示
大東亜会議に参加した各国首脳(引用:Wikipedia)
・同月に日本の東條英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。
3)日本と連合軍の力関係の逆転
・この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。
4)インパール攻略作戦の頓挫
・ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。1944年3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。
・スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。
・しかし、補給線を軽視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。
・同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
5)大陸打通作戦の開始
・5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。
・作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。
・6月からは中華民国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
6) 絶対国防圏の設定
・連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。
東條首相と閣僚(引用:Wikipedia)
7)マリアナ沖海戦
・しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍機動部隊はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こす。
・日本機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃したものの、圧倒的な工業力を基に空母を多数竣工させていたアメリカ側は15隻もの空母を基幹とし、更に日本の倍近い艦船を護衛につけるという磐石ぶりであった。
・航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫することとなる。旗艦であった大鳳以下空母3隻、その他多くの艦載機と熟練搭乗員を失った日本機動部隊は文字どおり壊滅した。
・しかし、戦艦部隊はほぼ無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
サイパンに上陸するアメリカ兵(引用:Wikipedia)
8)サイパン島等の玉砕と本土空襲
・陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕し、多くの非戦闘員も自決した。続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。
・このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃圏内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。太平洋上の最重要地点であるサイパン島を失った影響は大きく、攻勢のための布石は完全に無力化した。
9)風船爆弾による米本土攻撃
・これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発には時間がかかった。
・そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。・しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。
・また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。
レイテ沖海戦から始まった特攻。(引用:Wikipedia)
写真は護衛空母ホワイト・プレインズに突入する零戦52型
10) 倒閣運動と東條内閣総辞職
・各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。
・それだけでなく、近衞文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。
・しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
(左)レイテ沖海戦で日本機の攻撃を受け沈没するアメリカ空母プリンストン(右)アメリカ軍の攻撃を受け
沈没しつつある空母瑞鶴。降旗する軍艦旗に対し乗組員全員が最敬礼している(10月25日14時14分沈没)
(引用:Wikipedia)
11)戦略物資の枯渇
・この頃日本は、前年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。
・しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すら困難な状況であった。
12)レイテ沖海戦と フィリピンでの敗戦
・10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。
・日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。
・この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、まだ多くの空母や戦艦が残存していたものの、組織的な作戦能力は喪失した。
・また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。
・レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
(引用:Wikipedia)
1)攻撃目標を台湾から沖縄に変更
・1944年8月グアム島をほぼ制圧し終えた頃、アメリカ太平洋艦隊司令部では9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は海軍が全艦隊への補給能力の限界に達していることや日本本土への影響力行使の観点から意味がないと判断していた。このため次の攻撃目標は台湾ではなく海軍部内では沖縄とされた。
2)フィリピン喪失と資源の安全輸送能力の喪失
・フィリピン・レイテ島やミンドロ島における戦いに勝利を収め、1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要衝であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。
3)日本本土への戦略爆撃
焼夷弾を投下するアメリカ軍のボーイングB-29戦略爆撃機(Wikipedia)
・レイテ攻略により、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり台湾攻略の戦略的な価値は更に下がったが、政治的に国民的英雄となっていた米陸軍のマッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、攻略方針について統合参謀本部で米海軍と陸軍は対立してしまった。
・しかし、1944年6月の八幡空襲を皮切りにした「日本本土への継続的な爆撃」は中国大陸成都基地からの散発的な空爆に代わって、11月のグアム島やサイパン島・テニアン島の基地整備にともなうボーイングB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始により、統合参謀長会議でヘンリー・アーノルド陸軍大将(硫黄島攻略提唱当時)が日本本土への戦略爆撃をより効果的にできるように硫黄島の攻略を唱えたために、ついに海軍側の主張する沖縄上陸とその前提の硫黄島攻略がアメリカ軍全体の基本戦略となった。
4)ソ連の対日参戦密約(ヤルタ協定)
・1944年の10月14日にルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を促した。同12月14日にスターリンは武器の提供と樺太南部や千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。
・また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした。
・翌1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。
・会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについても話された。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた(ヤルタ協定)。
5)硫黄島の戦い
硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT 硫黄島で戦死した栗林忠道中将
(引用:Wikipedia)
・沖縄上陸に先駆けて1945年2月19日から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。アメリカ海軍の強力な部隊に援護された米海兵隊と、島を要塞化した日本陸海軍守備隊との間で激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した。
・最終的に日本は東京都の一部硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。
・この結果、北マリアナ諸島から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。日本軍は高射砲の配備を進めたほか、B-29を撃墜するための新型ジェット戦闘機「橘花」や「震電」などの新型迎撃機の開発を進めることになるが終戦までに相当数を配備するに至らず、高高度での戦闘に対応していない既存の戦闘機で迎撃を行うものの、高高度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を迎撃するのに苦労した。
6)精密爆撃から無差別爆撃へ
・1945年3月10日には国際法違反である無差別爆撃である東京大空襲が行われ、一夜にして10万人の命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、ヘイウッド・ハンセル准将からカーチス・ルメイ少将がB29で編成された第21爆撃集団の司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。
・併せて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪、名古屋、神戸、静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭や釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。
・また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、イギリス軍も加えて度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。
・迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北と空襲による生産低下で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は輸送機や練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策を編み出していた英米軍に対し戦果は上がらなくなった。
7)満州国への空襲
・この頃、満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、1944年6月に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。
8)ビルマ国軍の反日運動
・また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。
・3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を駆逐した。
9)ドイツ降伏とソ連軍の極東へ移動
沖縄沖で日本海軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母「HMSヴィクトリアス」
(引用:Wikipedia) 沖縄の宜野湾付近に展開するアメリカ兵
・その後、5月7日にドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙していくことになる。
・とりわけ、まだ日本との間に不可侵条約を結んだままであったソ連はドイツ敗北で日本侵攻を目指して兵力を極東へ移動させた。
・このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったが、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。
・一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
・日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介の可能性を探った。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。
10)沖縄戦
沖縄沖で日本海軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母「HMSヴィクトリアス」
(引用:Wikipedia) 沖縄の宜野湾付近に展開するアメリカ兵
・アメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は日本上陸の前提として沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。
・なお、沖縄戦は降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃により、連合軍側は予定よりやや遅れたものの6月23日までに戦域の大半を占領するに至り、いよいよ日本本土上陸を目指すことになる。
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)(引用:Wikipedia)
・また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である世界最大の戦艦大和も4月7日に撃沈され、残存する戦艦の長門や榛名、日向、伊勢なども燃料の枯渇から行動できず、防空砲台として英米軍機の攻撃にさらされるだけであった。
11)特攻作戦
・一方で特攻兵器の「震洋」や回天・海龍などが生産され各地に基地が設営された。作戦用航空機も陸海軍機と併せると1万機以上の航空機が残存し本土決戦用に特攻機とその支援機として温存され、一部を除いてB29などへの防空戦には参加しなかった。
・この頃には、日本軍の制空権や制海権はほぼ消失し、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対して基本的な操縦訓練を終えたパイロットが操縦する特攻機による攻撃が残された主な攻撃手段となり、連合軍艦艇に深刻な被害を与えるなどしたものの日本軍の軍事的な敗北は明らかであった。
12)ポツダム宣言の発表
・この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦に合わせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画された。1945年7月26日に連合国によりポツダム宣言が発表される。
広島に投下された原子爆弾のきのこ雲 原子爆弾で破壊された長崎の浦上天主堂
(引用:Wikipedia)
(引用:Wikipedia)
1)原子爆弾の投下
・アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による犠牲者を減らすためと、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人に併せ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。
・なお、軍部は昭和天皇に原爆開発を禁じられたにもかかわらず開発を試みたが、日本の原子爆弾開発は基礎研究の域を出なかった。
2)ソ連軍の満州国侵攻
・その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。
・また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。
・逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。
3)ポツダム宣言の受諾を表明
・8月9日の御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結のことを口にした。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍と違って陸軍は、降伏を回避しようとしたので議論は混乱した。
・しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、議論は収束した。8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。
・なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
4)停戦と武装解除
(左)降伏文書調印に関する詔書 (中)降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官(右)降伏文書に署名するマッカーサー元帥。
(引用:Wikipedia)
・翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
5)停戦後のソ連の攻撃継続
・しかし、少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島列島・満州国への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃で撃沈破されている(三船殉難事件)。
・また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。
6)日本占領部隊の到着
・その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。
7)降伏文書への調印
7.1)戦艦ミズーリにおける降伏文書への調印
・9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の下、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
7.2)東南アジアにおける降伏文書調印
(左)降伏文書(左中)9月8日に降伏する神田中将
(右中)9月12日に降伏するシンガポール部隊。(右)9月13日に降伏する第18軍司令官(安達中将)
(引用:Wikipedia)
(左)9月15日に降伏するティモール島部隊 (左中)9月23日に武器を引き渡す第52師団の歩兵
(右中)10月3日に第48師団が降伏した。(左) 英軍に降伏する第7方面軍司令官(板垣征四郎大将)
(引用:Wikipedia)
8)降伏後の日本兵
8.1)欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動
・しかし、歯舞諸島へソ連軍が上陸したのは9月4日である。また、沖縄や南洋諸島においては、局所的な戦闘が散発的に続けられた。
・海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、日本の南方軍が締結したラングーン協定(※)に基づいて欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者が出た。
※ラングーン協定:連合国軍の占領部隊が到着するまでの治安維持は、8月26日に結ばれたラングーンでの連合国軍東南アジア司令部(英語版)と日本の南方軍の協定に基づき、日本軍が責任を負うものとされていた。進駐してきた連合国軍の兵力は微弱で、日本軍からの治安任務交代はゆっくりとしか進まなかった。なお、ラングーン協定では、日本軍は連合国軍の少将以上の命令には厳格かつ迅速に従うものとされており、必要に応じて日本軍に治安戦闘を命じる法的根拠とされた。
8.2)スマラン事件
8.2.1)概要
・スマラン事件とは、第二次世界大戦直後の1945年10月15日から10月19日にかけてジャワ島スマランで起きた、日本軍とインドネシア独立派の間の武力衝突事件である。日本軍が保有する武器の引き渡しを巡って対立が生じ、インドネシア側民兵が拘束した日本の民間人多数を処刑、日本軍が戦闘の末にインドネシア側を制圧した。インドネシア側に1,000〜2,000人、日本側にも民間人を含め200人以上の死者・行方不明者が出た。インドネシアでは五日間戦争として知られる。
8.2.2)背景
〇日本の敗戦
・オランダ領東インド(蘭印)は、太平洋戦争初期に日本軍が占領した後、日本の統治下にあった。蘭印の中心地であるジャワ島には停戦前の連合国軍の上陸は無かった。インドネシアの独立準備は進められていたものの、実現していなかった。
・1945年8月に太平洋戦争が日本の敗戦に終わると、蘭印ジャワ島駐屯の日本軍も連合国軍によって武装解除されることになった。イギリス軍を主体とした連合国軍のジャワ島進駐は、9月8日に捕虜救護要員がジャカルタ着、9月15日に4隻のイギリス艦隊が入港、9月25日に先遣隊がジャカルタ上陸と徐々に行われた。
・連合国軍の占領部隊が到着するまでの治安維持は、8月26日に結ばれたラングーンでの連合国軍東南アジア司令部と日本の南方軍の協定(ラングーン協定)に基づき、日本軍が責任を負うものとされていた。進駐してきた連合国軍の兵力は微弱で、日本軍からの治安任務交代はゆっくりとしか進まなかった。
・なお、ラングーン協定では、日本軍は連合国軍の少将以上の命令には厳格かつ迅速に従うものとされており、必要に応じて日本軍に治安戦闘を命じる法的根拠とされた。
〇インドネシアの武器引き渡し要求
・一方、8月17日にインドネシア独立宣言を発表したインドネシアの独立派は、予想されるオランダとの戦争に備えるために、日本軍に対して武器の引き渡しを要求した。しかし、日本軍はこの要求を拒んだ。また、日本の第7方面軍司令部は、インドネシア人から成る郷土防衛義勇軍や兵補(日本軍の補助戦闘員)を解散させ、武器も回収するよう8月18日には命じていた。連合国軍からも、現地人の武器携帯を禁止することなどが命令されていた。
・インドネシア独立派の日本軍に対する要求は次第に激しくなった。9月には日本軍の小部隊や倉庫を襲撃して武器の強奪を狙う者もあらわれた。連合国軍の進駐が進むにつれ、焦ったインドネシア側の行為はさらに過激化した。ジャワ島の日本軍第16軍司令官は、指揮下部隊に武器の使用を禁止する命令を発していたため、各部隊は対応に苦慮した。
・東部ジャワのスラバヤでは、板挟みとなって困った日本軍東部防衛隊司令官らが、連合国軍が武器を引き取るよう求めた。これを受けてオランダ海軍のフェーエル大佐は、10月3日に日本の提案に同意した。ところが、フェーエル大佐は、以後の治安維持は現地人警察に委ねるとしたため、東部ジャワの日本軍の所有武器の大半を独立派が入手する結果となった。
・スラバヤでの引渡許可を先例に、インドネシア独立派は他の地域の日本軍にも同様の引き渡しを求めた。
・ジャワ西部のバンドンでは多数の住民が武装して集結し、日本軍の憲兵隊や自動車部隊、飛行場を襲撃したが、10月10日に日本軍西部防衛隊が鎮圧。日本兵3人とインドネシア人十数人が死亡した。インドネシアでは、この戦闘が以後の武力衝突の発端であるとしている。
・このほか、同じくジャワ西部のガルーで工場の警備をしていた日本兵42人が無抵抗のまま全員殺害される事件や、竹下海軍大佐一行86人がブカシで拉致殺害される事件も起きた。竹下大佐らの事件ではスカルノ大統領署名の通行許可証を携帯していたが、武器提供を拒んできたことを理由に殺害されている。
〇スマランの状況
・ジャワ中部のスマランには、戦時中に南方軍幹部候補生隊が置かれ、終戦時にはスンダ列島からマレー半島へ移動中の部隊を中心に約600人が滞留していた。マゲラン(スマラン南方50km)の中部防衛隊司令部(司令官:中村淳次少将)の管下にあり、スマラン現地では城戸進一郎少佐が指揮を執っていた。なお、スマラン南方には外国人収容所があり、約3万人のオランダ系民間人が居住していた。
・スマラン方面への連合国軍部隊の到着は遅く、10月中旬になっても日本軍がそのまま治安責任を負っていた。
・中部ジャワでも武器引き渡し要求や治安の悪化は他の地域と同じであった。10月5日には、ジョグジャカルタ市で日本軍駐屯部隊300人が、武装した独立派の攻撃を受けている。ジョグジャカルタの日本軍は一旦応戦したものの、翌朝、日本の民間人100人とともに投降した。武装解除された日本人は以後4か月間投獄されて、赤痢と栄養失調で多数が死亡した。
・スマランでは10月3日に現地独立派住民の代表者が城戸少佐を訪ね、治安回復に用いるためとして武器の引き渡しを求めた。城戸少佐は若干の武器を貸与名目で引き渡したが、状況は改善しなかった。同日夜には飛行場の弾薬が略奪された。
・日本が連合軍に敗れてからインドネシア共産党はスマランで武装集団を組み、共産党下の独立を目論んでいた。この共産党過激派によって「日本軍は連合軍の手先となって、インドネシアの独立を妨げる敵だ」「日本人は水道に毒を入れた」などのデマが広がっていた。
8.2.3)経過
・10月12日、インドネシア独立派の群衆がスマランの日本軍駐屯地を訪れ、再び武器の引き渡しを求めたが、城戸少佐は拒絶した。14日早朝には武装したインドネシア人の一団が日本軍駐屯地を訪れ、再び武器引き渡しを要求したが、これも日本側は拒絶した。
・この間、スマランやマゲラン周辺の治安は急速に悪化した。10月12日には建設中のスマラン製鉄所にいた日本人作業員や軍人ら339人が、人民治安団(BKR)指揮下の現地人警察隊により拘束され、市内の施設に監禁された。同月13日には市内各地で、市民や赤十字関係者などの外国人・混血人の拘束が始まった。日本の民間人や、市内に下宿していた日本軍人も拘束の対象となった。日本人を含め約2,000人の外国人がブル女子刑務所に監禁された。
・マゲラン駐屯日本軍も包囲され、司令官の中村少将が応戦を禁じたため、武器を強奪され、中部防衛隊司令部は全員拉致された。また、マゲラン憲兵隊の10人は殺害された。共産党過激派は日本軍が反撃できないことを知って武器を奪い、日本の民間人を殺害し、防衛司令官の邸を襲撃して旅団長を監禁し日本海軍将兵らを拉致した。
・拘束を免れたスマランの日本人市民は、日本軍駐屯地に避難した。10月14日夜には、監禁されていたスマラン製鉄所関係者が、見張りの現地人警官を撲殺して脱出した。この際に、日本側も13名が射殺された。
・10月14日夜、外国人の拘束・殺害、マゲラン司令部の制圧などを知った城戸少佐は、武力行使を決断した。15日午前3時30分を期して、日本軍部隊は、スマラン市内のインドネシア側武装勢力に対して攻撃を開始した。5日間に渡って続いた戦闘では、装備及び練度に勝る日本軍がインドネシア側を圧倒し、19日までに市内は日本軍の制圧下となった。この間、18日(戦史叢書によれば19日)にはイギリス軍がスマランに上陸したが、治安任務の引き継ぎは行われず、戦闘にも加わらなかった。
・10月19日、日本軍とインドネシア人民治安団の間で停戦協定が結ばれた。
8.2.4)結果
・スマラン事件は、ジャワ島における武器引き渡しを巡る争乱としては最大の惨劇となった。戦闘の結果、インドネシア側は1,000〜2,000人が死亡したとも言われる。日本軍は28人が戦死、15人が行方不明となった。
・また、ブル刑務所に監禁中の日本人は149人が殺害され、30人が行方不明となっている。同じ刑務所に監禁されていたオランダ系などの市民900人は日本軍による救出が間に合ったため死者は出ていない。なお、ブル刑務所で殺害された日本の民間人の1人は、インドネシアの独立を称える遺書を血で壁に書き残していたと言われる。
・寺垣俊雄司令官は「大義に死す」と血書しており、他の日本人も死ぬ間際に壁に血書し「インドネシア独立万歳」「インドネシアの独立に光栄あれ」(「バハギャ インドネシア ムルデカ」というインドネシア語で)や、「天皇陛下万歳」という血文字を残していた。さすがにその血文字はインドネシア側に非常な感動を与えたため、その後に記念として保存されることとなった。
・もっとも、インドネシア側では、公式には独立闘争期の一紛争という程度の評価しか与えられていない。インドネシア共和国国軍の戦史にも一文の記述があるだけだという。1999年の指導要領に基づくインドネシアの高校生向け歴史教科書の一冊には、武器引き渡しを巡って起きた「日本軍と青年の激しい戦い」の一例として、「10月14日から19日まで5日間続いた」と記載されている。この時期の日本軍との衝突の全般的な評価としては、最終的に主権が確立できたので無駄な犠牲ではなかったと評している。
8.2.5)その後
・停戦が成っても周辺地域の治安は完全には回復せず、10月19日にはカリウング(スマラン西方50km)の王子製紙工場が襲撃されて、従業員53人が殺害された。そのほかの殺人や暴行事件も何件か起きている。
・マゲラン方面の外国人収容所を救出するため、連合国軍は城戸少佐に出撃を命じ、10月25日に、スマランの日本軍部隊はイギリス軍砲兵とともにマゲランへ侵攻した。日英合同軍はインドネシア側の人民治安軍(TKR)などと交戦しつつ前進し、29日までにマゲラン収容所を保護下に置いた。11月2日には停戦協定が結ばれたが、蘭印政府軍が活動するなどの協定違反があったとしてインドネシア側が攻撃を再開し、20日頃には再び戦闘が始まってしまった。最終的にはマゲランの収容者はスマランを経由してジャワ島外へ移送されている。
・ジャワ島で終戦後、1947年の復員完了までに日本人が出した死者は、戦死562人、自殺60人、病死・事故死456人の計1078人に上る。そのうち多くはスマラン事件同様の武器引き渡しを巡る紛争に起因するものであった。武器引き渡しを巡る戦傷者も330人出ている。連合国軍によって日本軍に課された治安戦闘任務のような危険な使役は、既述のようにラングーン協定に基づくとされる。しかし、日本軍が「降伏軍人」と称しても実質的に捕虜の地位にあったことにかんがみると、捕虜虐待にあたる重大かつ明白な戦時国際法違反であるとの指摘がある。
・一連の騒乱の過程で、ジャワ島の旧日本軍武器のうち小銃類4万丁などがインドネシア独立派の手に渡った。スラバヤなどで正規に引き渡されたもののほか、強奪されたものや、密かに日本軍が横流ししたものなどがある。一説にはジャワ島の旧日本軍の所有兵器全体の2/3から3/4を独立派が入手したと言われる。これらはイギリス軍とのスラバヤの戦いなどで主要な武器として使用されることになった。
8.3)残留日本兵
・残留日本兵とは、第二次世界大戦の終結に伴う現地除隊ののちも日本へ帰国せずに現地に残留した旧日本軍の将兵を指す。
8.3.1)概要
アジアや太平洋の各地に駐留した旧日本軍将兵は1945年8月の終戦により現地で武装解除、除隊処分とされ、日本政府の引き上げ船などで日本へ帰国し復員した。しかし、その一方で様々な事情から連合国軍の占領下におかれた日本に戻らず、現地での残留や戦闘の継続を選んだ将兵も多数存在した。
①終戦を知らされず、あるいは信じず 現地で潜伏し作戦行動を継続したもの。
②第二次世界大戦後、欧米諸国の植民地に戻ったアジアの各地で勃興した独立運動に身を投じたもの。
③市街地への空襲や原子爆弾による日本本土の惨状を伝え聞き、家族の生存や帰国後の生活を絶望視したり、復員船は撃沈されるというデマを信じたもの
④日本で戦犯として裁かれることを恐れたもの。
⑤現地語の話者である、あるいは土地勘や地縁があり、復員するよりも現地社会で生きていくことを望み、残留したもの。
⑥技師やビジネスマンとしての才覚を買われ、現地政府に招聘を受ける、或いは半強制的に現地に留め置かれる[4] 形で残留したもの。
・その他、多くの理由により日本本土への帰国を断念し、現地にて生活基盤を築くことになった。
・大阪経済法科大学で教鞭の傍ら研究・執筆活動を行っている林英一は、残留日本兵の総数は各国合計で約1万人であったとしている。2021年現在、確認ができる中での世界の残留日本兵は帰国もしくは現地での死去が原因で数が大幅に減少しており未だに残留を続けている人物はほぼ皆無に等しい状態である。
8.3.2) 蘭印(インドネシア)
・第二次世界大戦終結後、スカルノが独立宣言をしたにも拘らず、旧宗主国のオランダが再植民地化を試みイギリスなどの支援を受けてインドネシア独立戦争が勃発したインドネシアでは、日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導をするとともに、自ら戦闘に加わるなどした。独立戦争の終結後、インドネシアでは多くの元日本兵が独立戦争への功績を讃えて叙勲されている。インドネシア残留日本兵は記録の上では総勢で903人とされている。
・インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たした。元残留日本兵は、毎年行われるインドネシアの独立式典にも呼ばれているが、死亡したり、高齢で体調が悪化したりなどで参加者は減っていき、2014年の式典には1人も参加できなかった。
・2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が94歳で死去した。小野は、行方不明者を除くと、最後の残留日本兵とされていたがロシアの田中明男氏が発見され歴史は塗り替えられた。これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡もしくは帰国したとされる。小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、棺にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地に埋葬された。
8.3.3)仏印(ベトナム)
・フランスの植民地支配下に戻ったベトナムでは、700人から800人の日本兵が残留 するとともに航空機や戦車をはじめとした兵器が残され、ベトナム独立戦争中の1946年に設立されたクァンガイ陸軍中学などいくつかの軍事学校で旧日本陸軍将校・下士官による軍事教育が行われた。ベトナム独立戦争に参加して戦死した旧日本兵には、烈士墓地に顕彰されているものもいる。日本に帰国した日本兵の一部には後にベトナムから勲章を授与された者もいる。また日越貿易会や日本ベトナム友好協会などの団体を設立し両国の友好関係を続ける。
・フランス領インドシナの構成国であったラオスやカンボジアでも残留日本兵は存在したが、ベトナムに比べればその数は僅かであるとされている。
8.3.4)マリアナ諸島
・第一次世界大戦後、日本の委任統治領となった北マリアナ諸島サイパン島北方のアナタハン島に駐在していた軍人や民間人数十人が、終戦後にアメリカ軍から拡声器で終戦の通告を受けたものの、それを信じずそのまま自給自足の生活を続け、またその後、彼らの存在を忘れたアメリカ軍はそのまま放置した。後に島に残った1人の女性を巡り残留者同士で殺し合った後、1950年6月と1951年6月にアメリカ軍に救出されるまで在留を続けた(アナタハンの女王事件)。
8.2.5)マラヤ(マレーシア・シンガポール)
・マラヤ共産党(マラヤ人民抗日軍)による英国(マラヤ連合)に対する独立闘争に共感したものや、捕虜収容所から脱走したものを中心に、約200-400名が残留日本兵となった。マラヤ共産党やマラヤ民族解放軍に参戦したこれらの残留日本兵の闘争記録は、インドネシア独立戦争に参加したものの記録と比較して、体系だった研究や資料が成された例が乏しく、その実態は明らかになっていない事も多い。
8.3.5)タイ・ビルマ
・インパール作戦の激戦地であった泰緬国境地帯には、敗走中に部隊から落伍、或いは逃亡し行方不明となった末に現地に定住したり、『ビルマの竪琴』の水島上等兵のように戦友の慰霊の為に現地に留まる形で残留日本兵が約1,000名発生した。これらの残留日本兵の記録は、2009年に松林要樹によりドキュメンタリー映画「花と兵隊」にて取り上げられたが、同年1月26日に藤田松吉、10月26日に中野弥一郎が相次いで逝去したことで、同国の残留日本兵は一人もいなくなった。
・中野を題材とした著作、『帰還せず 残留日本兵六〇年目の証言』を著した青沼陽一郎によれば、青沼が2005年時点で取材したアジア各国の14人の残留日本兵は、2014年にインドネシアで小野が逝去した段階で生存者が一人もいなくなったという。
8.4)インドネシア独立戦争(抜粋)
〇概要
・インドネシア独立戦争は、日本が第二次世界大戦で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)。1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になった。
・より狭義には、1947年7月21日と1948年12月19日の2度にわたって、オランダ軍がインドネシア共和国に軍事侵攻した結果生じた大規模な軍事衝突を指し、オランダ側ではこの自国の軍事行動を「警察行動」と呼称している。しかし一般的には、インドネシア共和国とオランダ軍との軍事衝突だけでなく、東インドに進駐したイギリス軍とインドネシアの武装組織との武力衝突、インドネシア共和国内での反乱事件や政治闘争、そして軍事衝突とほぼ並行して進められたオランダや国際連合との外交交渉など、インドネシアの独立へ向けての一連の政治過程を総称して「インドネシア独立戦争」という。
・また、植民地時代や日本軍政期には旧東インド領の各地で、伝統的な領主層や貴族層が為政者によって特権を保護されてきたが、独立宣言後にインドネシア人の急進的な青年層や武装勢力によって、これらの者の地位や特権を剥奪する社会革命の動きがみられた。こうした動きも含めて、一連の事象を「インドネシア(八月)革命」ともいう。
・結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。現在も同日を記念して祝祭日としており、ジャカルタを中心に祝賀される。
〇日本人とインドネシア独立戦争
・日本軍の敗北から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1,078人を数え、この人数は日本軍の蘭印侵攻時の戦死255名、負傷702名を上回るものだった。この死者数は、武器・弾薬譲渡をめぐる独立派からの襲撃によるもの(陸輸総局勤務の婦女子を含む70名余りの無抵抗の日本兵が殺害された)や、連合国側の進駐軍が現地の治安確保のために日本軍部隊に出動を命じて戦闘になったこと、などによるものだった。一方で、独立派が武器を奪っていくのを、現地日本人が見てみぬふりをする形で、穏便に解決すると同時に、旧日本軍が独立派に事実上武器を譲渡するような例もあった。
・また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人がいた。彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍[注釈 12]の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる。
・これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じており、日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいては日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして、対応に苦慮した。インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちであった。
・独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。
・1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。
市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ
・その石碑が東京青松寺に建てられている。
・1987年の訪日の際、アラムシャ第三副首相は、日本占領時に創設されたPETAでの人材育成に感謝し、連合軍に敗戦後もインドネシアに残留し独立戦争に参加した日本兵らについても語っている。
日本軍の軍政は良かった。…行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。…(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。…経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。数百年来インドネシアに住む、数百万の中国人の大部分はオランダ側に加担して、インドネシア軍に銃を向けた。— アラムシャ第三副首相、1987年
・またスハルトは、1988年8月17日の独立記念日に、インドネシア独立に尽力した金子智一・稲嶺一郎の2名の日本人に国家最高の栄誉「ナラリア勲章(独立名誉勲章)」を授与している。それ以前には、1976年に前田精、その後に高杉晋一、清水斉、小笠公詔の4名が既に受章していた。
・「インドネシアと日本軍政」についての研究は、1950年代から欧米諸国ではじめられ、日本軍政がインドネシア社会に大きな政治的インパクトを与え、現地のナショナリズムを刺激し、脱植民地化を加速させたとの評価が一般的となった。
・ジョージ・S・カナヘレは著書『日本軍政とインドネシア独立』の中で、「日本軍政は、インドネシア語の公用化を徹底させたが、このことを通し、インドネシアは国民的自覚の連帯意識を強化せしめることができた」とし、以下のように分析している。
日本軍政は、オランダ時代には知らなかった広い地域の大衆をインドネシアという国家形態に組織した。…日本軍政は、ジャワ、バリ、スマトラに、現地人による常備軍(ペタ)を設けて訓練した。オランダ復帰に抵抗して闘ったこの革命軍将校と数万の兵士の組織と訓練、そして日本軍があたえた大量の兵器なしに、インドネシア革命はあり得なかった。— ジョージ・S・カナヘレ『日本軍政とインドネシア独立』
8.5)ベトナム独立戦争(抜粋)
8.5.1)概要
・第一次インドシナ戦争は、1946年から1954年にベトナム民主共和国の独立をめぐってフランスとの間で戦われた戦争。単にインドシナ戦争と呼んだ場合、これを指す事が多い。
8.5.2)日本軍憲兵隊
・8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部部隊や軍人はベトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したり、武器の引渡しを拒否した部隊との間では小競り合いが発生した。事態を憂慮した第38軍とインドシナ植民地行政当局は、フランス本国より国家憲兵隊が到着するまでの間、日本軍憲兵隊による取り締まりを実施させた。
8.5.3)ベトミンへの日本人志願兵
・日本人志願兵は約600名に上るとされており、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始めとする高級将校から兵卒にいたるまでの多くの志願兵が独立運動に参加していた。日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っていた。ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人であった。30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されていることが確認されている。
8.5.4)士官学校とインドシナ残留日本兵
・ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった。
・もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で校長は中国共産党のグエン・ソンだが、教官は元日本軍の士官や下士官であった。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。
・また井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた[51][52]。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる。また、武器は中国共産党から提供されたが、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多かった。中国軍の武器は自動小銃だった。
(追記:2020.10.13/修正2020.11.2/修正2020.11.4/項目整理2021.4.26)