1 明治維新から敗戦までの国内情勢
1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新) 1.2 天皇親政から立憲君主制へ
1.3 大正デモクラシーの思潮 1.4 昭和維新から大東亜戦争へ
2 明治維新から敗戦までの対外情勢
2.1 対朝鮮半島情勢 2.2 対中国大陸情勢 2.3 対台湾情勢 2.4 対ロシア情勢
2.5 対米英蘭情勢
3 敗戦と対日占領統治
3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印 3.2 GHQの対日占領政策
3.3 WGIPによる精神構造の変革 3.4 日本国憲法の制定 3.5 占領下の教育改革
3.6 GHQ対日占領統治の影響
4 主権回復と戦後体制脱却の動き
4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース 4.2 対日講和と主権回復
4.3 憲法改正 4.4 教育改革
5 現代
5.1 いわゆる戦後レジューム 5.25.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)
5.3 日本人としての誇りを取り戻すために 5.4 愚者の楽園からの脱却を!
注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(戦後・占領下)です。
3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印
(1)ポツダム宣言の受諾
(2)連合国軍の日本進駐
(3)降伏文書の調印
(4)東久邇総理大臣の施政方針演説
3.2 GHQの対日占領政策
(1)GHQ関連の組織
(2)アメリカ合衆国の対日占領政策の準備
(3)GHQ/SCAP対日占領政策
3.3 WGIPによる精神構造の変革
(1)WGIP
(2)日本の文化・思想の改造
(3)宣伝工作による情報操作
(4)言論統制による情報操作
(5)極東国際軍事裁判による贖罪意識
(6)公職追放による各界への影響
3.4 日本国憲法の制定
(1)戦争終結と憲法改正の始動
(2)近衛、政府の調査と民間案
(3)GHQ草案と日本政府の対応
(4)帝国議会における審議
(5)日本国憲法の公布と施行
(参考)産経新聞記事(ノーマン記事)
3.5 占領下の教育改革
(1)教育改革の概要
(2)占領下の教育改革(第1段階)
(3)占領下の教育改革(第2段階)
(4)教育勅語の廃止取扱い(GHQ教育改革の最終段階)
(5)新教育制度の具現
3.6 GHQ対日占領統治の影響
(1)GHQの占領政策の影響
(2)極東国際軍事裁判の影響
(3)日本国憲法の影響
(4)旧教育基本法の影響(細川論文等)
(5)戦後教育による弊害(長尾論文等)
注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(3.1~3.6)です。
(1)ポツダム宣言の受諾
(2)連合国軍の日本進駐
(3)降伏文書の調印
(4)東久邇総理大臣の施政方針演説
(引用:Wikipedia)
〇概要
・第二次世界大戦は、昭和14年のナチス・ドイツによるポーランド侵攻に始まり、昭和20年の日本降伏に至るまでの約5年間にわたる戦争である。日本・ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国と、イギリス・フランス・アメリカ・ソ連を中心とする連合国とが戦った戦争であり、最終的に連合国側の勝利に終わったことは周知の通りである。
・大戦中、連合国側首脳は、数次にわたる会談を設けている。主なものとして、昭和16年の「大西洋会談」、「アルカディア会談」、昭和18年の「カサブランカ会談」、「カイロ会談」、「テヘラン会談」、昭和19年の「ダンバートン・オークス会談」、昭和20年の「ヤルタ会談」、「サンフランシスコ会議」、「ポツダム会談」などである。
・ここでは、これらの会談の中から、特に対日戦争についての決定が為された会談と、戦後の国際連合の設立に影響を与えた会談について、その内容を概観する。ただし、ポツダム宣言に関してはその重要性が特に高いので、別個に扱うこととする。
1)ポツダム宣言までの連合国側会合
1.1)大西洋会談(昭和16年8月)
(左)イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとアメリカの駆逐艦マクダガル
(右)戦艦上のルーズベルトとチャーチル(引用:Wikipedia)
・大西洋会談は、昭和16年年の8月に行われた。この会談では、米大統領ルーズベルトと、英首相チャーチルによって「大西洋憲章」が調印された。
・この憲章は、
①合衆国と英国の領土拡大意図の否定
②領土変更における関係国の人民の意思の尊重
③政府形態を選択する人民の権利
④自由貿易の拡大
⑤経済協力の発展
⑥恐怖と欠乏からの自由の必要性
⑦航海の自由の必要性
⑧一般的安全保障のための仕組みの必要性
という8つの内容からなっている。
・この内容は、後の国際連合設立にあたり、その基本理念となる国連憲章のベースとなっている。
1.2)アルカディア会談(昭和16年12月~)(1941)
・アルカディア会談は、昭和16年年12 月から翌年1月にかけて行われた。この会談では、連合国による対枢軸国戦争としての第2次大戦の意義を宣言し、また国際連合の設立の基礎となった「連合国共同宣言」(※)が発表された。米英中ソなどの連合国の国々が署名している。
※ 連合国共同宣言(Declaration of the United Nations)
・1942年1月1日にアルカディア会談において連合国26カ国(一部は亡命政府)により署名された共同宣言である。
・第二次世界大戦(「日本国との平和条約」において、ポーランド侵攻のあった1939年が勃発年であると定義されている。日米開戦の1941年ではない)の戦争目的を述べ、各国が持てるすべての物的人的資源を枢軸国に対する戦争遂行に充てること、ドイツ、日本、イタリアと各国が単独で休戦または講和をしないことを明らかにした。
・この宣言が、その後の国際連合の基礎となった。1945年3月までには署名国は47カ国となった。
「連合国(United Nations : UN)」と言う言葉は、1941年12月にフランクリン・ルーズベルト米国大統領が第二次世界大戦の「連合国(Allies)」に対して使用し、この宣言で一般的に正式な語として使用されるようになった。連合国共同宣言の4大国は第二次世界大戦を完遂した国である。
〔最初の署名国〕
・4大国: 中華民国 • ソビエト連邦 • イギリス • アメリカ合衆国
・他の国々: オーストラリア連邦 • カナダ • コスタリカ共和国 • キューバ共和国 • ドミニカ共和国• エルサルバドル共和国 • グアテマラ共和国 • ハイチ共和国 • ホンジュラス共和国 • インド • ニュージーランド • ニカラグア共和国 • パナマ共和国 • 南アフリカ連邦
・亡命政府: ベルギー王国 • チェコスロバキア共和国 • ギリシャ王国 • ルクセンブルク大公国• オランダ王国 • ノルウェー王国 • ポーランド共和国 • ユーゴスラビア王国
〔その後の署名国〕
・1942年: メキシコ合衆国 • フィリピン独立準備政府 • エチオピア帝国
・1943年:イラク王国 • ブラジル連邦共和国 • ボリビア共和国 • イラン帝国 • コロンビア共和国
・1944年:リベリア共和国 • フランス共和国臨時政府
・1945年:ペルー共和国 • チリ共和国 • パラグアイ共和国 • ベネズエラ共和国 • ウルグアイ東方共和国 • トルコ共和国 • エジプト王国 • サウジアラビア王国 • レバノン共和国 • シリア共和国 • エクアドル共和国
1.3)カイロ会談(昭和18年11月)(1943)
カイロ会談に参加している蔣介石、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、1943年11月25日。
(引用:Wikipedia)
・カイロ会談は、昭和18年11月22日からエジプトのカイロで開かれた。この会談では、主に連合国の対日方針が検討された。
・フランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席が参加した。蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。
・この会談の最後の12月1日に発表された声明は、「カイロ宣言」(※)と呼ばれている。米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。
・内容としては、
①米英中の対日戦争継続表明
②日本の無条件降伏への言及
③連合国の日本への将来的な軍事行動の協定
④満洲・台湾・澎湖諸島の中華民国に返還
⑤朝鮮の独立
⑥第一次世界大戦後に日本が獲得した海外領土の剥奪
などとなっている。
・カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。
※カイロ宣言
「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ
◆ 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ
◆ 三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ
◆ 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
◆ 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
◆ 日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
◆前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
◆右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
1.4)ダンバートン・オークス会談(昭和19年8月~)(1944年)
ダンバートン・オークス会議が開催された建物(引用:Wikipedia)
・ダンバートン・オークス会談は、昭和19年8月から10月にかけて行われた。米国、ソ連、英国、中国が参加した。 ただし、9月28日までは合衆国・ソ連・英国で討議、9月29日までは合衆国・英国・中国で討議された。(当時、日ソ中立条約が有効だったため、ソ連は日本と交戦中の中国との同席を回避した)。
・この会談では、第二次大戦後の国際機構の設立が話し合われた。事実上の国際連合の出発点であり、国連憲章の元となった、「一般的国際機構設立に関する提案」が作成された。
1.5)ヤルタ会談(昭和20年2月)(1945)
リヴァディア宮殿で会談に臨む(前列左から)チャーチル、ルーズベルト、スターリン(引用:Wikipedia)
・ヤルタ会談は、昭和20年2月に米英ソの首脳により行われた会談である。会議では、ドイツの戦後処理が主に話し合われた。 一方で、この会議では国際連合の安全保障理事会の採決において、米英仏中ソの五カ国が拒否権を持つことが決定された。
・また、この会議ではソ連の対日参戦を取り決めた「ヤルタ協定(ないしヤルタ密約)」が結ばれた。 この協定は、ドイツ降伏の2~3 か月後に、ソ連が日ソ中立条約を破棄して参戦することが約束され、その条件として、「モンゴルの現状は維持されること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保」などが決められた。
1.6)サンフランシスコ会議(昭和20年6月)(1945)
・サンフランシスコ会談は、昭和20年6月に、国際連合の設立ならびに国連憲章(※)の採択が行われた会議である。
・国連憲章は、6月26日、50カ国により署名され、またこの会議後、昭和20年10月24日に国際連合は正規に発足することとなった。
・また、この憲章の第2条3項と4項は、日本国憲法の9条との類似性を見いだすことが出来、9条の制定に何らかの影響を与えたという解釈も成り立つ。
※国際連合憲章(国際連合広報センターより引用)
(前文)われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、 国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。
1.7)ポツダム会談(昭和20年7月)(1945)
ポツダム会談の様子。1945年7月(引用:Wikipedia)
・昭和20年7月、米英ソ3国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連のスターリン共産党書記長)は、第2次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。
・この席で、3者は「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国の蒋介石・国民政府国家主席の同意を得て、同月26日、米英中の3国首脳の名でこれを発表した(ポツダム宣言)(※)。
・そもそも、ポツダム宣言とは何かというと、連合国側が、今だ軍事行動を継続する日本に対し、条件を提示して、その条件に従うならば戦争を終わりにするという降伏勧告の声明である。
・しかし、もしこの条件に従わなければ、「究極の軍事力の使用」(第3項)も辞さず、その行き着く先は「日本国土の完全なる破壊」(第3 項)あるのみである、という日本に対する脅しである。
・「究極の軍事力」とは何かというと、これは原子爆弾のことである。ポツダム宣言の第1項~第5 項と第13 項には、原子爆弾の使用を匂わせた、日本に対する威嚇的な内容が書き記されている。
・残りの第6項~第12項に明記されているのは、戦争を終わりにするための「条件」である。
・具体的に見ていくと、まず、第6項に軍国主義の除去が綴られている(「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず」)。
・そもそも米国は、日本の軍国主義つまり日本という戦争マシーン国家をぶち壊すためにこそ戦火に身を投じた。
・ポツダム宣言第12項には、主権在民の原理が記されている。つまり「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ」政府を樹立する、という基本原則である。
・第10項には、「言論、宗教及思想の自由」と「基本的人権の尊重」が明記されている。このポツダム宣言第10 項を根拠に、明治憲法の改正が必要とされた。そして、実際に昭和憲法を制定していく上での基本方針とされたのが、この第10項である。
・これらの条項を条件として、連合国は日本に降伏勧告した。戦争を終わりにしたいのなら、こういう条件を呑めと日本に迫まった。この警告がポツダム宣言である。
・このポツダム宣言は実は、「国際連合憲章」(以下「国連憲章」とする)と密接な関係にある。国連憲章なくしてポツダム宣言はない。
・国連憲章の3つの目的(「平和」、「主権尊重」、「人権尊重」)がポツダム宣言にも盛りこまれ、そしてそれらは昭和憲法の3つの原理(「平和主義」、「国民主権」、「基本的人権の尊重」)となる。
・国連憲章と昭和憲法をつなぐもの、それがポツダム宣言である。
※ ポツダム宣言
米、英、支三国宣言(1945年7月26日「ポツダム」)ニ於テ
一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ 吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上 日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄 同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ 現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ 全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ 測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ 吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク 又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国カ引続キ統御セラルヘキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ 吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ 右ニ代ル条件存在セス 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ 聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ 日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ 言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ 其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ 但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス 右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ 日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ 聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
(出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966 年刊)
(参考)〔日本の降伏のための定義および規約〕(口語訳)(日本語口語訳:引用:Wikipedia)
(1945年7月26日、ポツダムにおける宣言)
1.我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2.3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
(以下、降伏の条件)・・・・・・・・・・・・・・・・・
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
10.我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。
(参考)〔ポツダム宣言の背景〕
1943年1月14日(~23日)のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国のナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国に対し、無条件降伏を求める姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高権力者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った。政府内のグループには天皇制維持などの条件を提示したほうが早期に対日戦が終結するという提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった。
1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太、千島列島、満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月のハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった。
ドイツ降伏後、トルーマンは日本に対して無条件降伏を求める声明を発表した。またアメリカ政府による日本に降伏を求める、エリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」(※)が8月4日までに14回行われている。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった。 ザカライアス放送は、アメリカ合衆国が太平洋戦争中の1945年におこなった日本向けのプロパガンダ放送。
※ ザカライアス放送(引用:Wikipedia)
短波放送ラジオによる対日宣伝である。エリス・M・ザカライアス海軍大佐(戦争情報局に所属)が、戦況は日本の大本営発表が報じるような日本の連戦連勝ではなく敗勢になっていると日本人に語りかけて厭戦気分を煽ること、およびアメリカの求める「無条件降伏」が「軍隊の無条件降伏」であると伝えて日本政府内の和平派が終戦に向けた活動を進めることを狙っていた。しかし、当時の日本の民間人は短波ラジオを所有することを禁止されていたため、実際にこの放送を聴いていたのは、日本政府、外務省(ラヂオ室。のちのラヂオプレス)と社団法人日本放送協会(現在の日本放送協会(NHK)の前身)の関係者だけだった。
第1回放送(1945年5月8日)は、ドイツが無条件降伏をした翌日に放送され、第2回放送( 5月12日)は、8日に出されたトルーマン大統領の声明を読み上げ、その解説を行った。トルーマンはこの中で「日本の陸海軍が無条件降伏するまで」攻撃をやめないとした上で、「軍隊の無条件降伏」は「日本を災厄に導いた軍事指導者の影響排除」と「家族や職場への兵士の帰還」のことで「日本人の殲滅や奴隷化を意味しない」と述べた。これ以後、終了まで毎週土曜日に送出されるようになる。
第13回放送(7月28日)は、日本は主権を持つ存在として継続すると述べ、日本に降伏を促し、第14回放送(8月4日)は 日本にポツダム宣言の受諾を促した。これが最終回となった。
アメリカ側の最後の放送の後に原子爆弾投下とソ連対日参戦が行われた。そして1945年8月10日、日本はポツダム宣言の受諾を表明し、条件面での政府内および連合国との間のやりとりを経て8月14日に最終的に受諾を決定した。
2)日本側のポツダム宣言受諾までの動き
2.1)ポツダム宣言の公表(昭和20年7月26日)(1945)
・ポツダム会談は、昭和20年7月17日から8月2日まで行われた。これに先立つ7月16日、アメリカは原子爆弾の実験に成功している。そして、会談期間中の7月26日、アメリカ・イギリス・中国の3 カ国の宣言として、ポツダム宣言が発表された。
・前章で述べた通り、ポツダム宣言は日本側に降伏の為の条件を示し、またこの機会を容れない場合の、日本に対する徹底的攻撃を示威したものであり、昭和20年7月26日に公表された。
・日本側も、翌7月27日にこの内容の詳細な検討に入った。政府としては、この内容を即座に受諾は出来ないものの、明確に拒否することは終戦の機会を逸するものとして、ポツダム宣言には回答せず、また新聞への発表も、宣言の訳文のみを載せ、政府のコメントなしという形でなされた。(ただし、新聞への発表では日本への威嚇と取られる内容の一部の条文については削除されていた。)
・こうして、ポツダム宣言の内容は7月28日の新聞で国民に明らかにされた。しかし、この内容に対し軍部は反発し、鈴木貫太郎首相に、この宣言を無視し、戦争貫徹に邁進するという正式なコメントを要求した。
・この圧力に鈴木首相は応じる形となり、ポツダム宣言の黙殺、断固抗戦という旨の首相談話が7月30日の新聞に公表された(この内容がソ連の対日参戦を早めたとの見方もある)。
・この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。
①軍国主義を排除すること。
②民主主義の復活強化へむけて一切の障害を除去すること。
③言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すること。
・日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下し、ソ連軍は8月8日にソ連対日参戦した。
・ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。
・日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」)。
・これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。
2.2)原爆の投下(昭和20年8月6日)(1945)
・8月になり、政府(特に鈴木首相、東郷外相)は依然終戦への道を模索していた。
・ポツダム宣言が米英中の3国の名の下に発表されたことを受け、政府はソ連を仲介とした講和を目指していた(当時は日ソ中立条約が有効であり、政府はソ連の対日参戦はないと考えていた。日ソ中立条約は昭和16年に締結され、昭和21年までの5年間有効であった。その後の延長については、条約期限切れの1年前までに破棄通告なき場合自動延長とされていたが、昭和20年4月5日、ソ連は条約不延長を通告してきた。だが、昭和21年4月の期限切れを待つことなく、昭和20年8月ソ連は対日参戦した)。
・しかし、こうした動きのある中、昭和20年年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下される。これを期に、政府は最早戦争の継続は不可能であり、早期の終戦を計ることとなる。
原子爆弾の投下によって発生したキノコ雲。左が広島で右が長崎(引用:Wikipedia)
(参照:Wikipedia「日本への原子爆弾投下」)
・8月8日には東郷外相が昭和天皇に拝謁し、原子爆弾投下に関わる事情を上奏した。これに対して昭和天皇は終戦に向け努力するようと言ったとされている。
2.3)ソ連の対日参戦(昭和20年8月9日)(1945)
日ソ中立条約の調印書 日ソ中立条約に署名する松岡洋右外相。
(引用:Wikipedia) その後ろは、スターリンとソ連外相モロトフ。
・上記の通り、日本とソ連とは、日ソ中立条約の下にあり、第2次大戦中、昭和20年8月に至るまで戦火を交えたことはなかった。
・8月上旬、当時ソ連に駐在していた佐藤大使は、ソ連を経由した講和の締結のため、ソ連外相であるモロトフとの面会を目指していた。
・モロトフは、8月2日まで行われていたポツダム会談に参加し、8月6日モスクワへと帰還した。これに対し日本側は、モロトフ外相との面会を要求した。
・ソ連側は、佐藤大使との面会を8月8日午後5時と設定した。そして佐藤大使がモロトフ外相を訪れたその場で、モロトフ大使はソ連側の対日宣戦布告文書を読み上げ、佐藤大使に手交した。
・モロトフ外相は、
①日本側がポツダム宣言を拒否したことから、日本のソ連に対する調停申し入れはその基礎を失ったこと
②それ故ソ連は連合国側の要請に基づいて終戦促進のため対日参戦する
という旨のことを佐藤大使に通達した。
・この宣戦布告をうけ、ソ連軍は翌9日、満州との国境を越え、日本軍への攻撃を開始した。
2.4)最高戦争指導者会議の開催(昭和20年8月9日)(1945)
最高戦争指導会議(1945年1月1日以前)(引用:Wikipedia)
・広島への原爆投下と、ソ連の参戦により、8月9日午前、最高戦争指導者会議が開かれた。最高戦争指導者会議は鈴木首相・東郷外相と、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令総長の6人で構成される、(天皇を除けば)戦争に対する最高の意思決定機関であった。
・会議では、ポツダム宣言の受諾にあたり、どのような条件を付けるかが争われた。
・首相・外相・海相は「国体護持」の1条件のみを付けることを提案したのに対し、陸相と2人の総長は、国体護持に加え「①戦争犯罪人の処罰、②武装解除の方法、③保障占領(占領軍の進駐)」の3条件の付加を求めた。
・①の「戦犯処罰」は処罰において連合国のみが戦犯を処罰しないよう求める条件であり、②の「武装解除」は前線での即時の武装解除は困難であるという主張であり、③の「保障占領」に関しては短時間かつ少数の兵力であることを連合国側に要請したい、という主張であった。
・この会議は、連合国への回答を、1 条件にするか4 条件にするかという点で最後まで意見が分かれ、午後1時散会となった。また、奇しくも会議中、11時2分に長崎に原子爆弾が投下されている。
2.5)「第一の聖断」(昭和20年8月10日)(1945)
ポツダム宣言受諾による降伏を決定した、1945年(昭和20年)8月14日の御前会議(引用:Wikipedia)
・8月9日午後には閣議が行われ、ポツダム宣言受諾に関する条件がこちらでも審議されたが、同じく外相と陸相の対立は解決せず、ついに8月9日深夜、天皇の面前で御前会議が開かれることとなった(会議自体は最高戦争指導者会議であり、本来の構成員6 人に加え平沼騏一郎枢密院議長が参加した)。
・この会議では、同じく外相と陸相の主張が対立したが、翌10日午前2時頃、天皇の「第一の聖断」が下り、国体護持の条件のみを付加した、ポツダム宣言の受諾が決定された。
2.6)バーンズ回答(昭和20年8月12日)(1945)
ジェームズ・フランシス・バーンズ(引用:Wikipedia)
・日本側の、条件付きポツダム宣言受諾の通知は、8月10日午前、スイス経由とスウェーデン経由で行われた(当時両国とも中立国)。
・これに対する連合国側の回答は、8月12日に行われた。これは、当時アメリカ国務長官であったバーンズの名を取り、「バーンズ回答」(※)と呼ばれている。
・回答に対しては、日本側で2点が問題となった。
・1点目は、「the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the AlliedPowers(天皇と日本政府の統治権は連合国軍最高司令部の従属化に置かれる)」という記述である。この点に関しては、外務省が「subject to」を、「制限下に置かれる」と意訳し軍を説得した。この記述では国体護持が守られるかが曖昧であるため、この点は最後まで議論の対象となった。
・2 点目は、「the ultimate form of the Government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people(日本国政府の最終的形態はポツダム宣言に従い日本国民の自由な意思に基づき決定される)」という記述である。この記述も、天皇に行政権・立法権があるにもかかわらず、政府の形態を国民の自由意志で決定するという記述が、国体に反するため、国体護持に適合していない、とされ問題に挙げられた。
・連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。
①降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」 (SCAP) に従属する (subject to)。
②日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。
※ バーンズ回答文(1945年8月11日付)
①降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。
②天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲、および、いずれかの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。
③日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。
④日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。
⑤連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。
=解説=
この回答文は、連合国首脳の同意を取り付けてある。8月11日スイスを経由して打電された。天皇の地位に関する保障を求めた日本の要請に直接的にこたえるものではなかったが、「宣言の」内容を超えるものを明示した。また、この文書は、占領初期のマッカーサーの権限を論ずるとき、必ずといっていいほど引用される重要なものである。
2.7)「第二の聖断」(昭和20年8月14日)(1945)
・8月13日午前に開かれた最高戦争指導者会議では、上記2点を中心とし、連合国側に国体護持を再照会しようという意見(陸相)と、この条件のまま受諾でよしとする意見(外相)が対立することとなった。
・意見が一致しなかったため、翌14日午前、再び御前会議が開かれた。この席上で、天皇は再照会をせず、条件受諾の通知を連合国側にするよう述べた。この天皇の意思を受け、閣議は終戦を決定した。
・これにより、日本のポツダム宣言受諾は決定し、14日23時スイス・スウェーデン経由で連合国側に受諾を通知、ここにおいて第2次大戦はついに終戦を迎えることとなった。
3)ポツダム宣言の受諾
1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン(引用:Wikipedia)
3.1)ポツダム宣言受諾の通知(昭和20年8月14日)(1945)
・日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日にポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。
・ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。
・この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。
・9月2日、日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦・ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。
3.2)終戦の詔勅(昭和20年8月14日)(1945)
・前述の通り、8月14日の御前会議(最高戦争指導者会議)で、ポツダム宣言ならびに8月11日付の連合国側回答(バーンズ回答・日本への到着は12日)を受け入れることを決定した。
・この決定が下されたのが正午前であり、その後午後1時頃より閣議が開かれ、終戦の詔勅案が審議された。かくして、午後11時に証書が発布され、またスイスおよびスウェーデン経由で連合国側にポツダム宣言受諾の詔勅(※)が発布された旨を通告した。
御署名原本「大東亜戦争終結ノ詔書」(引用:Wikipedia)
※終戦の詔勅
朕深く、世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして、米英支蘇4国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
そもそも、帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽しみをともにするは、皇祖皇宗の遣範にして、朕の拳々措かざる所、さきに米英二国に宣戦せる所以もまた、実に帝国の自存と、東亜の安定とを庶幾するに出で、他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が志にあらず。
しかるに、交戦すでに四歳を閲し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善をつくせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。
しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。しかもなお、交戦を継続せんか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。
かくの如くんば、朕、何を以てか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。それ、朕が帝国政府をして、共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。朕は帝国と共に、終始東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。
帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者、及びその遺族に想いを致せば、五内為に裂く。かつ、戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。
おもうに、今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕、よくこれを知る。しかれども朕は、時運の赴く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世の為に大平を開かんと欲す。朕はここに、国体を護持し、得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共にあり。
もし、それ、情の激する所、みだりに事端を滋くし、あるいは同胞排擠、互に時局を乱り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕、最もこれを戒む。宜しく、挙国一家子孫相伝え、かたく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民、それ、よく朕が意を体せよ。
3.3)玉音放送(昭和20年8月15日)(1945)
・終戦の詔勅が発布された後、8月14日の深夜、皇居にて玉音放送の録音が行われた。翌8月15日正午、ラジオにて録音盤が放送され、初めて天皇の肉声が国民に放送された形となった。
・また、8月15日付の朝刊は終戦の詔勅の内容を掲載していたため、玉音放送の放送後、午後になって配達された。
(引用:日本ニュース第256号昭和20年9月12日)(NHK戦争証言アーカイブ)
1)連合国軍の日本進駐(昭和20年8月)(1945)
・ポツダム宣言の受諾をうけ、日本側では軍の停戦・復員が行われる一方、進駐軍を迎え入れるための準備が行われた。
・8月26日には終戦連絡中央事務局(のちに吉田茂の片腕として、GHQ憲法草案手交にも立ち会う白洲次郎はここの所属である)が設置され、27日に米国艦隊が相模湾に入った。28日になると連合国軍の先遣隊が厚木飛行場に到着した。
1.1)厚木飛行場に先遣隊到着(8月28日)
・先の我がポツダム宣言受諾の通告により、連合軍は逐次東京湾周辺地域に進駐することになったが、8月28日、アメリカ軍先遣部隊150名が、輸送機により沖縄基地から神奈川県厚木飛行場に到着した。先遣部隊はテンチ大佐指揮の下に、ここに日本本土への第一歩を印したが、進駐は円満に行われた。
・明けて29日より、アメリカ軍は大型4発輸送機をもって進駐を継続。アメリカ軍の行動は、時間的にきわめて正確であるばかりでなく、ただちにジープ、つまり小型軍用車を飛行機より降ろして、活発に行動。その能率的一面を示した。
1.2)連合艦隊相模湾に(8月27日)
・先に8月27日、連合軍の艦船による進駐部隊は、相模湾逗子沖に停泊。1万3千人のアメリカ海兵隊は30日、百数十隻の上陸用舟艇をもって、横須賀地区に上陸を開始した。
1.3)横須賀に海兵隊進駐(8月30日)
・アメリカ軍は、引き続き横浜地区にも進駐した。
1.4)マッカーサー元帥 主力部隊と厚木へ(8月30日)
・連合軍最高司令官マッカーサー元帥は、8月30日、輸送機バターン号により厚木飛行場に到着した。出迎えのアメリカ第8軍司令官、バーカー中将と握手を交わす。
・マッカーサー元帥はただちに声明を発表。日本の誠意により、摩擦も流血もなく、戦争終結は円満に成就するであろうと述べた。
バターン号で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー(引用:Wikipedia )
・8月21日、フィリピンのマニラへ降伏軍使として派遣していた停戦全権委員より、「連合国軍東京占領の拠点として厚木飛行場に8月26日に第一陣、8月28日にマッカーサー連合軍総司令官と司令部が到着する予定である」との文書がもたらされた。これにより8月22日、小園大佐の拘束後も逃走せず暴動状態であった兵たちが強制退去させられ、厚木飛行場の反乱は収束した。
・8月23日厚木飛行場に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいった。悪天候のため当初通告より2日遅れの8月28日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍の大規模な軍先遣隊(指揮官テンチ大佐)の輸送機ダグラスC54が打ち合わせと逆の方向から着陸し、ジープを下ろして飛行場の接収を行った。
・その2日後の8月30日、ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(『ライフ』カメラマンのカール・マイダンス撮影)が現存し、日本の敗戦や連合国による占領時代を象徴する1枚としてしばしば用いられる。
・マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声(※)を以下の様に答えた。
※マッカーサーの第1声
「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」— 朝日新聞(1945年8月31)
・その後、横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した皇居前の第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers 略称 SCAP)として日本占領に当たった。
(引用:Wikipedia)
1)降伏文書調印(昭和20年9月2日)(1945)
1944年夏の就役直後、グアンタナモ湾に停泊するミズーリ。(引用:Wikipedia)
(引用:Wikipedia)
・昭和20年9月2日、東京湾上の米艦船ミズーリ号上にて日本の降伏文書(※1)の調印が行われた。この調印をもって、日本は正式に降伏し、並びにポツダム宣言の条文履行を約束したこととなる。
・調印は、日本側代表として内閣・軍から1人ずつが選ばれ、外務大臣重光葵と、陸軍参謀総長梅津美治郎が調印し、イギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国への正式な降伏へ至った。
・かくして直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍(イギリス連邦占領軍)、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入ることとなる。
・また、この調印に先立ち、天皇から詔書(※2)が出され、降伏文書の内容の誠実な履行を国民に命じた。
※1 降伏文書本文・邦訳
・下名は茲に合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国の政府の首班が1945年7月26日「ポツダム」に於て発し後に「ソヴィエト」社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営の命に依り且之に代り受諾す 右4国は以下之を連合国と称す
・下名は茲に日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す
・下名は茲に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること、一切の船舶、航空機並に軍用及非軍用財産を保存し之が毀損を防止すること及連合国最高司令官又は其の指示に基き日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず
・下名は茲に日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し自身及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず
・下名は茲に一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し又は其の委任に基き発せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且之を施行することを命じ並に右職員が連合国最高司令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれざる限り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任務を行ふことを命ず
・下名は茲に「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為連合国最高司令官又は其の他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し且斯る一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及其の後継者の為に約す
・下名は茲に日本帝国政府及日本帝国大本営に対し現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及被抑留者を直に解放すること並に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず
・天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす
1945 年9 月2 日午前9時4分日本国東京湾上に於て署名す
大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於て 重光葵
日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て 梅津美治郎
(以下省略)
※2 降伏文書調印に関する詔書
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及大本営に対し、連合国最高司令官が提示したる降伏文書に朕に代り署名しかつ連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すべきことを命じたり 朕は朕が臣民に対し、敵対行為をすぐに止め武器を措きかつ降伏文書の一切の条項並びに帝国政府及大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
御名御璽 昭和二十年九月ニ日
(東久邇宮内閣閣僚全員連署)內閣總理大臣(稔彥王)、國務大臣(公爵近衞文麿)
海軍大臣(米內光政)、外務大臣(吉田茂)、運輸大臣(小日山直登)
大藏大臣(津島壽一)、司法大臣(岩田宙造)、農林大臣(千石興太郞)
國務大臣(緖方竹虎)、內務大臣(山崎巖)、商工大臣(中島知久平)
厚生大臣(松村謙三)、文部大臣(前田多門)、國務大臣(小畑敏四郞)
陸軍大臣(下村定)
2)ポツダム宣言の重要性
・降伏文書調印に関する詔書にも、ポツダム宣言の受諾こそが、日本の降伏と武装解除の理由となったという旨の記述がある。ここからも、戦後日本の原点はポツダム宣言にあることが伺える。
・降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権は連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。
・8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部 (GHQ) を設置し、日本に対する占領統治を開始した。
・この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。
(引用:Wikipedia)
首相在任中の東久邇宮(引用:Wikipedia)
・第88臨時議会第2日の9月5日、東久邇総理大臣宮殿下には、施政方針を御演説(※)あそばされました。
※首相宮殿下御演説
・先に畏(かしこ)くも大詔を拝し、帝国は米英ソ支四国の共同宣言を受諾し、大東亜戦争は茲(ここ)に非常の措置を以(もっ)て其の局を結ぶこととなりました。連合国軍は既に我が本土に進駐して居ります。事態は有史以来のことであります。三千年の歴史に於(おい)て、最も重大局面と申さねばなりません。
・今日に於て尚、現実の前に眼を覆い、当面を糊塗(こと)して自ら慰めんとすること、又(また)激情に駆られて事端を滋くするが如きことは、到底国運の恢弘(かいこう)を期する所以(ゆえん)ではありません。
・一言一行悉(ことごと)く、天皇に絶対帰一し奉り、苟(いやし)くも過たざることこそ、臣子の本分であります。我々臣民は大詔の御誡(いまし)めを畏み、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎(だんこ)たる大国民の矜持(きょうじ)を以て、潔く自ら誓約せる ポツダム宣言を誠実に履行し、誓って信義を世界に示さんとするものであります。
・今や歴史の転機に当り、国歩艱難(かんなん)、各方面に亙(わた)る戦後の再建は極めて多難なるものがあります。戦いは終りました。併(しか)しながら我々の前途は益々(ますます)多難であります。詔書にも拝しまする如く、今後帝国の受くべき苦難は蓋(けだ)し尋常一様のものではありません。
・固より政府と致しましては衣食住、各方面に亙り、戦後に於ける国民生活の安定に特に意を注ぎ、凡(あら)ゆる部面に於いて急速に萬全の施策を講じて参る考えであります。併し戦争の終結に依(よ)って直ちに過去の安易なる生活への復帰を夢見るが如き者ありと致しますならば、思はざるも甚だしきもので、将来の建設の如きは到底期し得ないのであります。
・我々の前途は遠く且(か)つ苦難に満ちて居ります。併しながら 御詔書にも御諭しを拝する如く、我々国民は固く神州不滅を信じ、如何(いか)なる事態に於きましても、飽(あ)くまでも帝国の前途に希望を失うことなく、何処(どこ)までも努力を盡(つく)さねばならぬのであります。
(追記:2020.10.18/修正2020.11.16)
(1)GHQ関連の組織
(2)アメリカ合衆国の対日占領政策の準備
(3)GHQ/SCAP対日占領政策
(引用:Wikipedia)
1)極東委員会と対日理事会
(引用:Wikipedia)
1.1)極東委員会
・極東委員会(FEC)は、日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関、FECは、Far Eastern Commissionの略称で、1945年12月にモスクワで開かれた米・英・ソ3国外相会議で極東諮問委員会(FEAC)に代わり、日本の占領管理に関する機関として設置が決定され、本部はワシントンに置かれた。
・委員会は、13か国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、1949年11月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表で構成された。
・委員会が決定した政策は、米国政府を通じて、連合国最高司令官に指令として伝達された。
・委員会の決定については、米・英・中・ソの4か国に拒否権が与えられていたが、緊急を要する問題については、アメリカ政府に、委員会の決定を待たずに指令を発する権限が与えられていた(中間指令権)。
・ただし、日本の憲政機構、管理制度の根本的変更および日本政府全体の変更については、必ず委員会の事前の決定を必要とした。
・極東委員会は、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効とともに消滅した。
1.2)対日理事会
対日理事会、1946年4月15日撮影(引用:Wikipedia)
・対日理事会は、昭和20年12月27日のモスクワ三国外相会議で設置が決定され、太平洋戦争に敗北した日本を、連合国が占領するに当たり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の諮問機関として設置されたもの。
・昭和21年4月5日、第1回会合が行なわれ、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、インドの7カ国で構成された。
・極東国際軍事裁判(東京裁判)にも影響力を持っていたほか、ソ連の斡旋により、日本の総選挙で当時の反動分子(軍国主義者・国粋主義者)が数多く選出された場合には、新議員の資格審査を厳しく行い、場合によっては選挙のやり直しをさせるという決議を採択した。
2)国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)
2.1)組織の位置づけ
・国務・陸軍・海軍調整委員会 (State-War-Navy Coordinating Committee:(SWNCC)(※))は、戦後の占領政策について国務省、陸軍省、海軍省3省の意見調整を図るために、1944年12月に設置された、アメリカ合衆国連邦政府の委員会である。
・各省の政策はSWNCCの会議において調整され、統合参謀本部の賛成を得た上で、アメリカ政府の政策となった。SWNCCの下部機関として、極東小委員会(SFE)が設置され、対日占領政策の原案作成に当たった。SWNCCの主要な政策決定としては、「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」(SWNCC150/4)や「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)などがある。
※SWNCCの起源
エドワード・ステティニアス ヘンリー・スティムソン ジェームズ・ヴィンセント・フォレスタル
(国務長官) (陸軍長官) (海軍長官)
(引用:Wikipedia)
第2次世界大戦中、省庁間の調整は専ら非公式なものであり、ローズヴェルト大統領によってなされていた。だが、国務長官、陸軍長官、並びに海軍長官はより深い統合の必要性を認識し、共通の問題を扱う定例会議を毎週開催した。
しかし、このいわゆる「3者委員会」には具体的権限がなかったため、戦争が終結に向かい、各部署が占領計画の詳細を検討し始めると、この欠陥が次第に顕著に現れた。
ステティニアスは国務長官に就任するや、スティムソン陸軍長官とフォレスタル海軍長官に書簡を発し、占領計画の立案や、米国の外交政策の完全一本化を実現するために、共同運営の事務局を創設する提案を行った。ローズヴェルトの重臣である陸軍次官補マクロイが、事務局を統括した。
2.2)活動
・SWNCCの対欧・対日占領計画は、旧敵国の占領統治に当たる米軍が直面するであろう問題の、予測と解決を目的としていた。SWNCCは、米国の官界・学界の最高の専門家を結集して、計画の各部門を担当させた。
・例えば、作業部会がなした重要決定の1つである日本の天皇の地位に関する検討は、学者出身の官僚ボートンが行った。
・戦後、学界に戻ったボートンが述べたところによると、彼は1943年に書いた覚書にて昭和天皇の地位保全を勧告したが、この勧告は概ね変更されることなく、連合国軍最高司令官マッカーサーによって立案・実施されたという。
・SWNCCは、占領戦略に関する既存業務を見直すことから活動を始め、信頼に足る専門家に委員会への参加を求めることも多くあった。
・米国政府内では、実際には真珠湾攻撃以前から日本占領計画がなされていたので、新設組織のためのかなりの情報資産があった。
・SWNCCは、本質的に学問的・政治的研究を行い、研究成果を利用して詳細な政策(軍人や文官の見解を含む。支配権を掌握した軍政が実施)を策定した。
2.3)組織運営
・SWNCCは、定例会議を開催する事務局や、具体的問題を処理して調査結果を委員会に報告する、いくつかの作業部会から構成されていた。
・作業部会及び委員会は双方とも、厳格な合意という原則に基づき運営された。参加者間で解決され得ない問題は、より高位の職員に委ねられた。
・しかし、SWNCCによって検討された750の問題の大半が次官補級以下で解決され、最終決定を仰ぐためにホワイト・ハウスに送られたのは6例に過ぎないという点に注意する必要がある。
3)統合参謀本部
3.1)組織の位置づけ
・アメリカ統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff、略称JCS)は、アメリカ軍における機関の1つ。アメリカ軍の最高機関であり、組織体系的には合衆国国防総省、およびそのトップである国防長官(文民)の下にある。
・軍事戦略の立案を行うとともに、合衆国大統領及び国防長官、国家安全保障会議、国土安全保障会議に対して軍事問題に関する助言を行うことを任務とする。
3.2)構成
・当本部の議長は専任(副議長も専任)で、アメリカ軍人(制服組)のトップである。
・統合参謀本部は、国防総省の管轄に属するアメリカ軍の4軍(陸軍、海軍、空軍、海兵隊)の長によって主に構成され、その他には議長と、議長と同じく専任の副議長、さらに州兵を管轄する州兵総局のトップである州兵総局長がメンバーとされている。
・統合参謀本部は、1949年に空軍新設や国防総省設置などを伴う組織改革に合わせて設置されたものであり、初代議長はオマー・ブラッドレー将軍である。
・議長は、アメリカ合衆国大統領及び国防長官の最高軍事顧問であって、実戦部隊の作戦指揮権 ('operational command') は無い。作戦命令は、軍の最高司令官(Commander-in-chief)たる大統領から国防長官を経て、直接各統合軍司令官を通じて発動される。
3.3)部局
・JCSの下には、J-1からJ-8と略称される部局が設置されており、人事計画や情報収集、作戦立案、兵站計画の作成などを行っている。
〔統合参謀本部事務局長〕
・人員・人事部(J-1)
・情報部(J-2):国防情報局(DIA)と一体として運用される
・作戦部(J-3)
・兵站部(J-4)
・戦略計画・政策部(J-5)
・C4システム部(J-6)
・運用計画・相互運用部(J-7)
・編成・資源・評価部(J-8)
4)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
4.1)組織の位置づけ
・連合国軍最高司令官総司令部とは、太平洋戦争(大東亜戦争)の終結に際してポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の機関である。
・ただ、「連合国軍」とはいっても、その多くの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人、少数のイギリス軍人で構成されていた。当初はアメリカ軍による日本国統治(直接統治)をもくろみ失敗した経緯もある。
・極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官)。日本では、総司令部(General Headquarters)の頭字語であるGHQや進駐軍という通称が用いられた。支配ではなくポツダム宣言の執行が本来の役目である。
連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)(引用:Wikipedia)
4.2)名称
・昭和20年8月14日に日本政府が受諾通告したポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。
・続いて、同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官」)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も、「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。
・この後も、日本の法令の中では、「聯合国最高司令官」(連合国最高司令官)と表記されることが多い。
・また、連合国最高司令官の下に属する組織は、英語表記によればGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP)である。これは、「連合国最高司令官総司令部」あるいは「連合国総司令部」と日本語訳され、日本ではGHQ(ジー・エイチ・キュー)という略称で呼ばれることも多い。
・もっとも、Supreme Commander for the Allied Powers 直訳すれば「連合国軍最高司令官」であり、General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powersは「総司令部、連合国軍最高司令官」または「連合国軍最高司令官総司令部」となる。このため、連合国最高司令官は「連合国軍最高司令官」、連合国最高司令官総司令部は「連合国軍最高司令官総司令部」、「連合国軍総司令部」と呼ばれることも多い。
4.3)GHQの概要
・連合国軍最高司令官総司令部は、ポツダム宣言の執行のために日本に設置された連合国の機関である。昭和20年8月14日に、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官(SCAP)に就任し、同年10月2日、総司令部が東京に設置された。
・同年9月には、占領下に置かれた日本を管理する為の最高政策機関として、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦、カナダ、イギリス領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、アメリカ領フィリピンの11カ国(後にビルマとパキスタンが加わる)で構成された「極東委員会」が設けられ、連合国軍最高司令官総司令部は、極東委員会で決定された政策を遂行する機関という位置づけになった。
・昭和26年4月11日、マッカーサーがトルーマン・アメリカ大統領に解任された後、同じく米軍のマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将に昇進)が最高司令官に就いた。翌昭和27年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効とともに、連合国軍最高司令官総司令部は活動を停止した。
・連合国軍最高司令官総司令部は、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦そしてカナダやオーストラリア、ニュージーランドをはじめとするイギリス連邦諸国など連合国各国の軍隊から、日本を軍事占領すべく派遣された最大43万人を統括した。
・その中でも多数を占めた、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)と、イギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍(BCOF)が連合国軍最高司令官の直下に置かれ、実質的な軍事占領を行うこととなった。
・イギリス連邦占領軍は山口県、広島県、島根県、鳥取県、岡山県と四国4県の占領を担当、残りの都道府県はアメリカ占領軍が担当することとなった。
・日本の占領方式は、連合国軍最高司令官総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治の形式が採られた(ただし、日本政府に外交権はない。またGHQの要望の全てを日本政府がのんだわけではない。またGHQは天皇ではなく政府に介入することで政策を実行していた)。また信託統治が行われていたのは現在の沖縄である。
・具体的には、連合国軍最高司令官総司令部の指示・命令を受けて、日本政府が、日本の政治機構をそのまま利用して占領政策を実施するものである。
・連合国軍最高司令官総司令部の命令の多くは、昭和20年9月20日に出された勅令「『ポツ
ダム宣言』の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令(ポツダム勅令。日本国憲法施行後はポツダム政令)の形で公布・施行された。
・昭和21年2月には政策決定の最高機関として各国代表による極東委員会(FEC)が、同年4月には最高司令官の諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置された。しかし、実質は最大の人員を派遣し、また最高司令官を出していたアメリカが最も強い影響力を持ち続けた。
・連合国軍最高司令官総司令部は、まず軍隊を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放など、いわゆる「自由の指令」を出した。さらに、政治の民主化、政教分離などを徹底するため大日本帝国憲法の改正を指示し、財閥解体、農地解放などを指示した。
・なお、当時の日本政府及び日本の報道機関は連合国軍を「進駐軍」と呼ばせられ、占領に対する否定的なイメージの払拭に努めさせられた。
・調達庁の資料では、7年の占領期間中に米兵に殺された者が2,536人、傷害を負った者が3,012人とある。手塚治虫も街角で殴り倒されたという。米兵が日本人女性を襲った事件が2万件もあった。強姦の際には日本の警察官が事実上の見張り役をしていたこともあった。
4.4)組織図
(引用:Wikipedia)
4.5)本部
・当初は現在の横浜税関に置かれたが、後に皇居と東京駅に挟まれた丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。
・皇居を見下ろす形で堀沿いに建てられた第一生命館に本部を置くことは、連合国軍が天皇のさらに上に君臨するという政治的意図が込められている。実は東京大学(本郷キャンパス)が司令部として接収されかけたが、時の内田祥三総長が抵抗してやめさせた(「文藝春秋」より)。
4.6)機構
・既に述べられているように連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)はポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した機関である。
・なお、主に軍事部門はGHQ/SCAPに先立って横浜税関の建物を接収して設置されていた太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)が担当していたが、GHQ/SCAPとGHQ/AFPACは完全に分離された組織ではなく両者は上部機構を同じくしていた。
・なお、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が本部を東京に置くと、まもなく太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)の本部も東京へ移った。
・連合国軍最高司令官総司令部は連合国最高司令官(太平洋陸軍司令官兼務)を長とし、その下に参謀長が置かれ、その下に参謀部と幕僚部が置かれていた。参謀長と参謀部はGHQとAFPACの両系統に属していたが、幕僚部についてはGHQ/SCAPとGHQ/AFPACにそれぞれ副参謀長が置かれ、その下にGHQ/SCAPの幕僚部とGHQ/AFPACの幕僚部がそれぞれ独立して置かれていた。
〔参謀部〕
・参謀第1部(G1 人事担当)
・参謀第2部(※)(G2 情報担当)プレスコードの実施を担当
・参謀第3部(G3 作戦担当)
・参謀第4部(G4 後方担当)
※特に諜報・保安・検閲を任務とする第2部(G2)が大きな発言権をもっていた。占領中に起きた数々の怪事件は、G2とその下にあったいくつもの特務機関(キャノン機関など)が関与したとも囁かれている。
〔幕僚部〕(GHQ/SCAP幕僚部)
・民政局(※)(GS: Government Section 政治行政)
・経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
・民間情報教育局(CIE:Civil Information & Educational Section 教育改革など)
・天然資源局(NRS:Natural Resources Section 農地改革など)
・公衆衛生福祉局(PHW)
・民間諜報局(CIS)
・統計資料局(SRS)
・民間通信局(CCS)
※特に民政局(GS)が「非軍事化・民主化」政策の主導権をもっていたが、GSにはルーズベルト政権下でニューディール政策に携わっていた者が多数配属されており、日本の機構改造のために活動した。
・上記は中枢部分で、昭和21年1月段階では11部局、最終的には14部局まで拡大している。
・また、GSとG2が日本の運営を巡って対立。GSが片山・芦田両内閣を、G2が吉田内閣を支えており、政権交代や昭和電工事件の要因にはGSとG2の闘争があったとも言われる。
・逆コース以後は国務省の後押しもありG2の力が増した。
〔太平洋陸軍総司令部〕(GHQ/AFPAC)
・なお、GHQ/AFPAC側の幕僚部には、法務部(JA)、監察部(IGS)、医務部(MS)、防空部(AAS)、通信部(SS)、兵器部(OS)、広報部(PRS)などの各部が置かれていた。
5)主要部局
〔 参謀第2部〕(G2情報担当)
・ウィロビー少将が率いる参謀第二部(G2)はGHQの中では保守派であり、G2・GSはしばしば対立した。
〔民政局〕(GS政治行政)
・局長はマッカーサー司令官の分身と呼ばれたホイットニー准将。その部下に局長代理のケーディス大佐、ルーズベルト大統領のニューディール政策に参画したニューディーラーをはじめ、太平洋問題調査会(IPR)系の日本研究家ビッソン、ミネソタ大学のクィグリー教授、ノースウェスタン大学のケネス・コールグローブ教授ら、日本研究の専門家が多数所属していた。
・日本占領の目的である軍閥・財閥の解体、軍国主義集団の解散、軍国主義思想の破壊を遂行し、日本の民主化政策の中心的役割を担った。
・また、意図的に労働組合を成長させたり、本国では達成できなかった社会主義的な統制経済を試みたり、日本でニュー・ディール政策の実験を行っていたが、インフレーションが激しく進行し、また絶大な権力の元に、ケーディス大佐らをはじめ汚職が蔓延した。
・日本社会党の片山哲、日本民主党の芦田均ら革新・進歩主義政党の政権を支え、保守の吉田茂らを嫌っていたが、片山・芦田両内閣はいずれも短命に終わった。
〔経済科学局〕(ESS)
〔民間情報教育局〕(CIE)
・民間情報教育局(Civil Information and Educational Section)はGHQ/SCAP幕僚部の部局の一つ。略称はCIE。教育・宗教など文化政策を担当した。
・教育刷新委員会等を通じて教育基本法制定に関与した。そのほか国立国会図書館の設立や、公共図書館・学校図書館の普及振興、日本各地に23か所のインフォメーション・センター(CIE図書館)の設置などを行った。その活動報告書は1948年にGHQ民間情報教育局報告書として刊行された。
・民間情報教育局は、以下の4班7委員会から構成されていた。
初等班、中等班、高等班、特種教育班、協同委員会、教員養成委員会、高等調査委員会、
教科書及び教育資料許可調査委員会、調査情報委員会、審査委員会、連絡委員会
6)連合国軍最高司令官マッカーサー元帥
マッカーサー(1945年8月、フィリピン)(引用:Wikipedia)
6.1)マッカーサー元帥の経歴
・ダグラス・マッカーサー(1880年~1964年)は、アメリカの軍人、陸軍元帥。第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の最高司令官や、アメリカの植民地のフィリピンの高等弁務官などを務めた。元1928年アムステルダムオリンピック選手団団長でもある。
〔生い立ち〕
・1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。
・父は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。
・アメリカが植民地支配していたフィリピンでは初代軍政総督も務めた人物であり、ダグラスは親子2代でフィリピンに縁があった。
◆陸軍入隊
・1899年に陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない。
・卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。彼の長いフィリピン生活の始まりであった。
・1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として東京で勤務した。
◆日露戦争
・駐日アメリカ大使館付き駐在武官であった父の副官として日露戦争を観戦する。
◆第一次世界大戦
・その後に陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長という要職についた。
・大正6年4月にアメリカが第1次世界大戦に参戦することが決まった際、マッカーサーはウィルソン大統領に「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案した。「アメリカ人は一丸となって戦いぬく」という姿勢を示すことでアメリカ国民の戦意を鼓舞するためであった。
・ウィルソン大統領はマッカーサーの提案を採用し、各州の州兵からなる第42師団を立ち上げた。マッカーサーはウィルソン大統領に「虹のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と説明し、これに感銘を受けたウィルソン大統領は第42師団に「レインボー師団」の名前を与えた。
・マッカーサーは第42師団「レインボー師団」の参謀長・旅団長に就任した。同師団は大正7年2月に西部戦線に動員され、アメリカ軍で第1次世界大戦の実戦に参加した最初の部隊の一つとなった。
・マッカーサーは雨のような銃弾にもひるまず、突撃隊を率いて果敢に敵の陣地を強襲した。戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。
・戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。
・昭和3年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。
◆陸軍参謀総長
・1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領アイゼンハワーが付いた。
・1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いた政府が、マッカーサーの計画案を許可して行われたものである。マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。
・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判したことで大統領の怒りを買った。
◆フィリピン生活
・1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。
・初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。
〔太平洋戦争〕
◆現役復帰
・1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、アメリカが対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進した。
・ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。
・ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。一度は大将に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とする海軍のアジア艦隊司令長官で、知り合いでもあったハートが大将なのも気に入らなかった。
◆フィリピン
・撤退
・12月8日に、太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦うこととなった。日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告した。
・怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。「2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に『善戦』している」と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。
・しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。
・一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。
・日本軍に追い詰められた揚句コレヒドール島からの脱出を余儀なくされ、"I shall return" (必ずや私は戻って来るだろう / 私はここに戻って来る運命にある)と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。
・反攻
・1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日まで、その地位にあった。
・1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのキング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。
・マッカーサーがこの作戦をごり押しした理由としては、フィリピンからの敵前逃亡を行った汚名を削ぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われている。
・ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。
・マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸した。
◆連合国軍
・最高司令官
・マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。
・厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。
「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」
6.2)昭和天皇との会談とマッカーサーの占領統治手法
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)(引用:Wikipedia)
〇昭和天皇との会談
・昭和20年9月27日、マッカーサーは、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談を行った。その際、マッカーサーは、会談の際の昭和天皇の真摯な姿勢に感銘を受ける。
・当時、連合国のソ連とイギリスを中心としたイギリス連邦諸国は、天皇を「戦犯リスト」の筆頭に挙げていた。しかし、マッカーサーは、もし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、ゲリラ戦に陥る可能性を予見していたため、ソ連やイギリスの意に反し天皇を丁重に扱うことで、安定した占領統治を行うつもりだった。
・だがマッカーサー自身は、「天皇が、敗戦国の君主がそうするように戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではないか」と懸念したが、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。
・マッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。
・この会談においてマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは玄関まで昭和天皇を車まで見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表し、慌てて戻ったといわれる。後にも「あんな誠実な人間は見たことがない」と発言している。
〇政府の発禁処分とGHQの取り消し
●会見写真
・会談の際、略式軍装にノーネクタイでリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、会見写真での「礼を欠いた」、「傲然たる態度」であると当時の多くの日本国民にショックを与えた。
・なおマッカーサーは略装を好み、重要な場や自分より地位が高いものと同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある。
・さらにこの当時アメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、天皇との会談の際も夏の暑さを避けるために意図せず略装で迎えたと言われている。
●内閣による会見写真掲載の新聞発行禁止
・これに対して、東久邇宮内閣は、天皇の写真の掲載は不敬にあたるとして、同日の新聞を発禁(発行禁止)処分とした。(単に天皇の写真掲載が不敬というだけでなく、天皇とマッカーサーの身長差、さらにラフな格好のマッカーサーと正装で直立不動の天皇という構図が、天皇の権威を失わせ、日本の敗戦を象徴づける内容となっていたことが発禁の直接原因と考えられる。)
・戦後であっても発禁処分が行えた理由は、戦前に制定された新聞紙等掲載制限令がまだ効力を有していたからである(治安維持法など、戦前の法律は戦後暫くの間形式上有効であった)。
●GHQによる発禁処分取り消し
・しかし、このような言論の統制をGHQ が許すはずもなく、同日午後には、GHQ により30 日朝刊の発禁処分取り消しが指示された(言うまでもなく、新聞掲載によりマッカーサーの権威を見せつけようとしたGHQ の意図に反していたからである)。
●GHQによる言論統制
・これを切っ掛けにGHQ は「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66) を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。
・また、同日GHQ はその他の戦時諸法令廃止指令を出し、言論統制などを目的とした戦時中の法律を廃止するよう指示した。これにより、新聞紙等掲載制限令は10 月6 日に、治安維持法は10 月15 日に廃止が公布された。
●発禁処分取り消しの影響
・連合国軍による占領下の日本では、GHQひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。
・また、東條英機が横浜の野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、後に東條は、重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。
(参考)マッカーサー回想記「天皇との会見」
裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向い合せに乗って、大使館に到着した。(中略)天皇の通訳官以外は、全部退席させたあと、私たちは長い迎賓室の端にある暖炉の前にすわった。
私が米国製のタバコを差出すと、天早は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかっていた。
私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。
現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。
ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。
しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」、私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。(中略)
天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話合った。
私はいつも占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。
天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。」
(引用:Wikipedia)
1)アメリカの日本改造計画による占領政策
・田中氏は、共著の中で次のように述べている。
1.1)OCI(情報調整局)の政策目標草案(ブルジョア革命志向)(昭和16年4月)
・第1:対日戦争に勝利すること
・第2:日本から侵略の全果実を奪い返し、極東の非抑圧民衆を解放して『4つの自由』(※)を打ち立てること
・第3:2度と侵略を許さないよう、必要な措置をとること
・第4:日本に、他の諸国民が信頼するに足るような真の代表政府を作るように鼓舞し、維持すること
※『4つの自由』
『4つの自由』(言論・表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由)は、「社会主義化」といってもよい「自由化」であったと述べている。『4つの自由』を得るためには、日本に「2度と侵略を許さない」ような「真の代表政府」を作るということなのだが、「真の代表政府」その物が「ブルジョワ革命」を目指すものであったといってよい。
1.2)OSS(戦略情報局)の日本計画(2段階革命路線)(昭和16年6月)
・OCIの方針である「日本計画」もOCIの政策目標(社会主義化)の線に沿ったものであり、この政策に対するプロパガンダとして、AからHまで『8つの目的』(※)が設定された。
※『8つの目的』
A:日本人が戦争での不敗神話を打ち崩し、敗北する運命をさとらせること。
B : 日本人が『天皇陛下のために死ぬことは永遠に生きること』と思っても、彼らは天子のためででなく、少数の権力に狂った軍国主義者のために自己を犠牲にするのであるから、実際は戦場で死ぬ彼らの息子たちが、神になれないと確信させること」、 要するに、日本国民に天皇と軍国主義者を区別させ、 軍国主義者の方に戦争責任があると信じ込ませるよう仕向ける宣伝をすべきである、と提言している。
・当面は、封建的勢力である軍国主義者を倒すために市民革命なる「民主革命」を起こし、その完成後に「社会主義革命」によって天皇制をも倒すという二段階の方針である。
(参考)OSS(情報調査局)
・OSS、又は、情報調整局( Office of the Coordinator of Information、OCI)は、第二次世界大戦期の1941年7月11日、それまで国務省、陸軍省、海軍省などが別々に重複して行っていた情報活動の調整を担当する情報調整官(Coordinator of Information)の部局として、フランクリン・ルーズベルト大統領が設置したアメリカ合衆国の諜報・プロパガンダ機関であり、現行のCIA(中央情報局)・COI(情報調整局)などの前身の1つ。
〔沿革〕
・フランクリン・ルーズベルト大統領はニューヨークの弁護士ウィリアム・ドノバンや劇作家・映画脚本家でルーズベルト大統領のスピーチライターであったロバート・シャーウッドからの説得でOCIの設立を決定した。イギリス海軍情報部部長(ジョン・ヘンリー・ゴドフリー)やニューヨークのイギリス秘密情報部直属の英国安全調整機関British Security Coordination(BSC)のウィリアム・スティーブンソンらも大統領に設立を促していた。
・ドノバンは軍事的インテリジェンスと秘密作戦を担当し、シャーウッドは米国内の情報宣伝と外国でのプロパガンダを担当した。設立に伴い、海外情報サービス(FIS)が運用され、国際ラジオ放送(VOAの前身)が開始され、1941年12月の日本の真珠湾攻撃以後は日本に向けた戦争のプロパガンダの手段として利用された。シャーウッドは、ラジオプロデューサーでルーマニア出身のジョン・ハウスマンを雇い、枢軸国側に向けたプロパガンダ放送局ボイス・オブ・アメリカを運営した。ナチス・ドイツに向けた最初の放送は1942年2月1日に放送され、「わたしたちはこれから真実を放送する」と告げた。
・ドノバンの構想では、プロパガンダ(広報)を軍事戦略として用い、シャーウッドはのちにパブリックディプロマシー(政府と民間が連携して広報や文化交流を通じて外国の国民や世論に直接働きかける外交活動)として知られる手法を主張し、両者はしばしば方針をめぐって対立した。
・1942年6月13日、ルーズベルトは情報調査局を、戦略事務局OSS(Office of Strategic Services、現在の中央情報局)と戦争情報局OWI(Office of War Information、のち国務省隷下となりアメリカ合衆国情報庁 United States Information Agency (USIA))とに分割した。
・OSS、OWIとも戦時下におけるプロパガンダ組織だが、前者は諜報活動のような、非合法な手段によって公衆に不信・混乱・恐怖を与えることを目指す「黒いプロパガンダ」を担当し、後者は放送のような、情報を明瞭な事実として公衆に理解させることを目指した「白いプロパガンダ」を担当した。
・VOAは戦時中に、OWIに所属する米国広報庁USIS(United States Information Service)のもとで拡大され、1953年にアメリカ合衆国情報局USIA (United States Information Agency)が設立されるとさらに拡大・整備されていった。なお、USIAは1999年に、テレビ部門がBroadcasting Board of Governors (BBG)、それ以外の機能がアメリカ合衆国国務次官(公共外交・広報担当)に移行した。
(参考)図書紹介:『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』
田中英道著(展転社平成23年刊)
〔内容〕
第1章 現代史はルーズベルトの隠れ「社会主義」からはじまった
第2章 アメリカのOSSの「日本計画」
第3章 「日本憲法」は共産革命の第一段階として造られた
第4章 日本国憲法は社会主義憲法である
第5章 GHQの占領政策をおぜん立てしたの左翼工作集団「OSS」
第6章 マッカーサーはOSSによって操られた
第7章 ケーディスが導いた社会主義日本
第8章 「戦争犯罪人」という烙印
第9章 東京裁判という「日本計画」
第10章 世界のメディアを支配するフランクフルト学派
第11章 20世紀を荒廃させたユダヤ・マルクス主義
〔表紙帯コメント:上智大学名誉教授 渡部昇一〕
いわゆる昭和史家の昭和史はダメである。それは日本の敵が何を考え、何をやっていたか考慮しないからである。田中英道氏はアメリカのOSS文書を解き明かして昭和史の深相=真相を示してくれた。
〔裏表紙コメント:東京大学名誉教授 小堀桂一朗〕
民主主義化の名で呼ばれ、国民の大半がそれと信じてゐた日本の戦後改革は、実は隠れ共産主義者F・D・ルーズベルトを淵源とする米国戦略情報局の、日本改造計画の実現だった。その真相をつきとめた本書により、戦後史の根本的書き換えが始まる。
〔裏表紙コメント:京都大学教授 中西輝政〕
近年、日本の近代史を書き換える新事実が世界中で続々と公表されはじめ、古い東京
裁判史観GHQ史観を清算すべき時が来ている。本書は戦後史の根源に遡り、なぜ日本が今のような「おかしな国」になったか、その原因を大胆に探る。
1.3)日本研究
〇武士道(新渡戸稲造)
新渡戸稲造(1933年頃に撮影)(引用:Wikipedia)
・日本の武士道を欧米に紹介する目的で刊行された。思想家あるいは教育家として著名な新渡戸稲造が、日本人の道徳観の核心となっている「武士道」について、西欧の哲学と対比しながら、日本人の心のよりどころを世界に向けて解説した名著。岡倉天心の「茶の本」と並んで、明治期に日本人が英語で書いた著書として重要である。
〔内容〕(目次から)
第1章 道徳の体系としての武士道
第2章 武士道の淵源
第3章 義または正義
第4章 勇気、敢為堅忍の精神
第5章 仁、側隠の心
第6章 礼儀
第7章 正直と誠実の心
第8章 名誉
第9章 忠義
第10章 侍と教育と訓練
第11章 克己
第12章 自害と敵討ち
第13章 刀・侍の魂
第14章 女性の訓練と地位
第15章 武士道の感化
第16章 武士道はなお生きているか?
第17章 武士道の将来
〇菊と刀(ルース・ベネディクト)
ルース・ベネディクト (1937年)(引用:Wikipedia)
・ルース・ベネディクト(1887年~1948年)は、アメリカ合衆国の文化人類学者。ニューヨーク生まれ。彼女の『文化の型』(1934年)は、あらゆる人間社会の中で現れてくる行動の型が形作られるすじ道を記述する中での文化の相対主義を表現したものであった。
・1936年、ベネディクトは、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参入するに当たって戦争に関連した研究や助言のために、招集した代表的な社会人類学者の1人となった。
・彼女のあまり知名度の高くない著作に、彼女がジーン・ウェルフィッシュと共に書いたパンフレットがある。これはアメリカ軍のために人種的な偏見について学問的な解説を企てたものである。
・軍は、軍事的な効率と関係する人種的に動機付けられた行動に関心を持っていたのだが、この著作物は、それについての完全な説明を網羅するまでには至っていない。
・『菊と刀』は、日本文化を説明した文化人類学の著作である。『菊と刀』は、ベネディクトの戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。ベネディクトは、フランツ・ボアズより教わった急進的な文化相対主義の概念を日本文化に適用するべく、恩や義理などといった日本文化『固有』の価値を分析した。
・ベネディクトは、日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。『菊と刀』はアメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である。
・『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調する。しかし、懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決め付け、欧米の文化を内的な良心を意識する「罪の文化」と定義したことへの批判もある。
・ただ、ベネディクトは教え子たちに「『菊と刀』はあまり読まないように。」と言ったとも伝わる。なお左翼の日本文化研究家、ダグラス・ラミスは、『菊と刀』には、未開民族を見るようなまなざしがあるとして批判している(『内なる外国』)。
・一方、作家のポリー・プラットは、著書「フランス人 この奇妙な人たち」の日本語版への序文において、「菊と刀」により日本の文化のすばらしさを知ったと述べている。
・ところが最近に至ってそのような否定的見解を根底から覆し、非常に高い評価を与える発言が現れた。それによると、ベネディクトは『文化の型』で提出し『菊と刀』で発展させた説において、人間の集団が一定の意思を持つこと、そして集団の意思は誰にも意識されないがその集団を構成する個人の意思を超越するものであることを説いたのである。
2)国務省における対日政策の形成(昭和17年8月)
・米国務省内で戦時中に立案された対日戦後政策の原案。国務省では、戦後政策を検討する特別調査部領土小委員会に昭和17年8月極東班が編成され、主任にクラーク大学教授で日本専門家のジョージ・ブレイクスリーが就任した。
・極東班での研究を踏まえ、ブレイクスリーは、早くも翌年7月、米国の基本方針をまとめた「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」を起草した。
・ブレイクスリーは、これをもとに昭和19年3月「米国の対日戦後目的」を作成した。それは、2月に陸軍省と海軍省が国務省に対して行った極東地域の占領統治に関する質問に対する回答であった。 この案は日本に対して寛大なものであったため、国務省最高レベルの委員会である戦後計画委員会で強く批判されたが、同年5月にまとめられた修正版も、依然として対日宥和的な政策を基調としていた。
・この案は対日政策を三段階に分け、第一段階では海外領土の剥奪や武装解除などの厳格な占領、第二段階では緊密な監視下での軍国主義の一掃と民主化、そして第三段階では日本の国際社会への復帰が想定されていた。
・対日占領政策の「原型」ともいうべきこの文書をもとに、のちの「初期対日方針」が作成された。
3)グルーのシカゴ演説 (昭和18年12月)(1943)
Joseph Clark Grew(引用:Wikipedia)
・戦前の駐日大使を経て大戦末期に国務長官特別補佐官を務めたジョセフ・グルーが、昭和18年12月29日にシカゴで行った演説。この演説においてグルーは、日本の軍国主義は徹底的に罰しなければならないが、戦後改革の際には、偏見を捨て日本の再建と国際復帰を助けるべきだと主張した。
・そして、天皇を含む日本国民を軍部と区別すべきことを強調し、具体例を挙げて、日本人の多くが友好的であり「羊のように従順」であることを論じた。
・またグルーは、神道は軍国主義者によって教条的に利用されたが、天皇崇拝という面は平和国家再建のために利用できると主張した。 さらに、明治憲法は天皇に主権を与えているため、どの政党も国民主権を主張できないと指摘したうえで、憲法が改正され日本国民が十分な時間を与えられれば、日本に議会制度を再建し政党制度を確立することができるだろうと論じた。
・天皇制の存続と穏健な改革を提唱したグルーの論調は、国務省知日派の構想と類似していたが、こうした天皇制存置を訴えるグルー演説には、幅広い層から反発が巻き起こった。
4)トルーマンの日本国民に対する声明(昭和20年5月)
・ドイツが降伏した昭和20年5月8日にハリー・トルーマン米大統領が発表した対日声明文は、トルーマンの写真付きで日本語に訳されビラとして投下された。 トルーマンは、日本国民と軍部とを明確に区別しながら、日本軍が無条件降伏するまで攻撃を続けると警告した。
・同時に、日本軍の無条件降伏は、日本国民の「抹殺」や「奴隷化」を意味するのではなく、むしろ日本を「破滅の淵に誘引」している軍部の消滅、前線で戦う兵士たちの「愛する家族」のもとへの復帰、そして「現在の艱難苦痛」の終わりを意味すると説いた。
5)「日本の敗北後における本土占領軍の国家的構成」(昭和20年8月)
・統合参謀本部の承認を受け国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が昭和20年8月11日に承認した「敗北後の日本占領軍の国家的構成」(SWNCC70/5)に対して、同月18日付けでトルーマン大統領が承認した覚書。 日本の占領と軍政における他の連合国の責任と分担に関する米国政府の政策である。
・本文書は、最高司令官をはじめ主要な司令官は米国が任命し、米国が軍政において支配的発言権を行使することを規定する一方で、英中ソは米国とともに占領軍への実質的な貢献を求められるとし、米国の主導権は堅持しつつも、他の連合国との協調的な政策を形成する方針がとられた。 本文書はその後、極東諮問委員会といった連合国対日占領管理機関の設置をめぐる議論の中で修正を受け、最終的に、日本本土の占領は米占領軍が主力となり、分割占領が回避された。
6)「極東諮問委員会付託条項」(SWNCC 65/7)(昭和20年8月)
・国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が昭和20年8月21日に決定した連合国最高レベルの対日占領管理機構の権限・組織等に関する案(SWNCC65/7)。米政府案として、正式に中英ソの各政府に送付された。この案では、極東諮問委員会は、軍事作戦の遂行や領土の調整にかかわる問題を除く、日本による降伏文書の履行に関する政策の立案に関して、関係諸政府に勧告を行う「諮問機関」であると規定された。
・本部をワシントンに置き、順次極東地域の連合国を委員会に追加でき、委員会の任務終了は、米英中ソのうち一か国が希望したときとされた。しかしこれに関して、米国主導であることや単なる諮問機関に過ぎないことに対する批判、また対日管理機構は東京に設置すべきだとの主張がみられた。
・さらに、ソ連は極東諮問委員会への不参加を明確にし、予定されていた10月23日の発足会議は1週間延期された。結局、この対日占領管理機構に関する問題は、12月のモスクワ外相会議に持ち越された。
7)連合国最高司令官の権限に関するマッカーサーへの通達(昭和20年9月)
・昭和20年8月14日に連合国最高司令官に任命されたマッカーサーに対して、9月6日、「連合国最高司令官の権限に関する指令」(JCS1380/6 =SWNCC181/2)がトルーマン大統領から統合参謀本部を通じて送付された。
・この指令は、日本占領に関するマッカーサーの権限は絶対的で広範なものであることを規定し、日本の管理は日本政府を通して行うという間接統治方式を示したが、必要があれば直接、実力の行使を含む措置を執り得るとした。
・さらに、ポツダム宣言が双務的な拘束力をもたないとし、日本との関係は無条件降伏が基礎となっていると明記した。この指令により、マッカーサーに日本占領に対する全権が与えられた。
・マッカーサーはこの指令が公表されることを望み、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)はこれを承認したが、トルーマンの認可と公表前にその内容を英ソ中各国政府に知らせることをその条件とした。
・掲出資料には、トルーマンが9月17日付けでこれを承認したサインが見られる。
8)米国の「初期対日方針」(SWNCC150)(昭和20年9月)
・日本本土侵攻を目前に控えた昭和20年4月、陸軍省の要請に応じて国務省は、ほぼ1年前に作成した文書「米国の対日戦後目的」を基に「初期対日政策の要綱草案」を新たに作成した。これは、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の極東小委員会に提出され、陸軍省から経済政策面での補強を求められた。その結果、6月11日に国務省がSWNCCに提出した「対日政策の基本文書」(SWNCC150)では、新たに経済条項が追加された。
・7月末に発表されたポツダム宣言を受けて、直接軍政を規定したSWNCC150は修正され、8月11日付けのSWNCC150/1には、間接統治の意味合いが含まれた。
・翌12日、若干の修正が加えられた(SWNCC150/2)後、日本の降伏が予想外に早まったため、緊急措置として修正案作成の主導権は対日占領の直接命令者である陸軍省に移された。
・陸軍省が大幅な修正を加えたSWNCC150/3では、天皇を含む既存の日本の統治機構を通じて占領政策を遂行するという間接統治の方針が明確化される一方、主要連合国間で意見が相違する場合には米国の政策がこれを決定するとの一節が挿入された。
・その後、同文書は統合参謀本部による修正を取り入れ、8月31日のSWNCC会議で承認された(SWNCC150/4)。続く9月6日に大統領の承認を得て、22日国務省がこれを発表(SWNCC150/4/A)、日本では24日付けで各紙に報道された。 SWNCC150/4では、占領の究極目的として、平和的で責任ある政府の樹立と自由な国民の意思による政治形態の確立をうたっていた。
・これに対して外務省は、9月30日付けの「降伏後ニ於ケル米国初期対日方針説明」において、米国は天皇制を含む日本の統治形式の存続を保障している訳ではなく、「過去の経緯」及び「自国の利害打算」から、変革が外部から強要された形を取ることを避け、日本の政府、国民が「自発的」に現存の統治制度を改革することを期待していると分析した。
9)ポツダム宣言の受諾と対日初期占領方針の指令(昭和20年9月)
・昭和20年7月26日に発せられたポツダム宣言の第6項には「吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」と記されており、8月14日に日本政府はこの宣言を受諾した。
・9月22日の「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」(※)で、米国はマッカーサーに対し
「日本国国民ニ対シテハ其ノ現在及将来ノ苦境招来ニ関シ陸海軍指導者及其ノ協力者ガ為シタル役割ヲ徹底的ニ知ラシムル為一切ノ努力ガ為サルベシ」と指令した。
・GHQは昭和20年10月2日、一般命令第4号に於いて「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」と勧告した。
※降伏後における米国の初期の対日方針(SWNCC150)
第1部 究極の目的 初期における諸政策が従うべき日本に関するアメリカの究極の目的は次の通りである。
(A) 日本がふたたびアメリカの脅威となり、または世界の平和と安全の脅威とならないことを確実にすること。
(B) 他の諸国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則に示されたアメリカの目的を支持すべき平和的で責任ある政府を究極において樹立すること。アメリカは、かかる政府ができる限り民主主義的自治の原則に合致することを希望するが、国民の自由に表明した意思によって支持されない政治形態を日本に強制することは連合国の責任ではない。
これらの目的は次のような主要措置によって達成される。
(a) 日本の主権の及ぶ地域の限定。
(b) 日本の完全な武装解除、非軍事化および軍国主義の一掃。
(c) 基本的人権ことに信教、集会、言論および出版の自由の尊重。民主主義的・代議的組織の形成の奨励。
(d) 日本国民の自力による平和的経済の発達の機会の供与。
10)SWNCC極東小委員会「日本の統治体制の改革」(昭和20年10月)(1945)
・昭和20年10月8日付けで国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会がまとめた資料。これをもとに翌年1月7日付けの日本の憲法改正に関する米国政府の公式方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が作成される。
・本文書は、日本に統治体制を変革する十分な機会を与えるべきだが、自主的に変革し得なかった場合には、最高司令官が日本側に憲法を改正するよう示唆すべきだとしている。
・具体的には、日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや、日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等の9項目の原則を盛り込んだ憲法の制定が必要であるとしている。
11)統合参謀本部「降伏後における初期基本的指令」(昭和20年11月)(1945)
・昭和20年11月1日に国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認し、3日に統合参謀本部が承認した日本占領に関するマッカーサーへの正式指令「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」(JCS1380/15=SWNCC52/7)。
・米国政府の対日政策である「降伏後における米国の初期対日方針」(SWNCC150/4)が基礎となり、公職追放や経済改革面が補充された。
・この指令によって、統合参謀本部との事前協議が必要とされた天皇制の存廃問題を除き、マッカーサーは、占領目的を達成するために必要な一切の活動についての権限を与えられ、占領目的を確実に達成するために必要な場合に限って「最終手段」として直接的な行動をとり得るとされた。だが同時に、極力日本政府の主導性を尊重すべきことも明記された。
・この指令は、9月6日付けの「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサーへの通達」(JCS1380/6=SWNCC181/2)とともに、のちにマッカーサーが憲法改正問題を処理する権限を有するとの論拠とされた。
12)米国政府の連合国軍最高司令官への指令(昭和20年11月)
・米国政府は連合国軍最高司令官に対し11月3日、日本占領及び管理のための降伏後における初期の基本的指令を発し「貴官は、適当な方法をもって、日本人民の全階層に対しその敗北の事実を明瞭にしなければならない。彼らの苦痛と敗北は、日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであるということ、また日本人の生活と諸制度から軍国主義が除去されたとき初めて日本は国際社会へ参加することが許されるものであるということを彼らに対して認識させなければならない。彼らが他国民の権利と日本の国際義務を尊重する非軍国主義的で民主主義的な日本を発展させるものと期待されているということを彼らに知らせなければならない。貴官は、日本の軍事占領は、連合国の利益のため行われるものであり、日本の侵略能力と戦力を破壊するため、また日本に禍をもたらした軍国主義と軍国主義的諸制度を除去するために必要なものであるということを明瞭にしてやらなければならない。(下略)」と命令した。
13)日本統治制度の改革(昭和21年1月)
・上記の通り、終戦後の日本の統治は、ポツダム宣言とSWNCC150 という2 つの内容が大きな方針となったと言える。だが、これら2つの文書は、いずれも具体的に改憲を指示したものではなく、あくまで一般原則を示しているに過ぎないのである。
・実際に改憲の指示ならびにその基本原則を示した文書としては、SWNCC228、「日本統治制度の改革」(※)(1946 年1 月7 日)を挙げなければならない。この文書は、日本政府は選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革をすべきであるとした。
・後にGHQ 草案の作成の際に「拘束力のある文書」として扱われ、極めて重要な役割を演じた(以下引用)。
※「日本統治制度の改革」(SWNCC228)
(a) 最高司令官は、日本政府当局に対し、日本の統治体制が次のような一般的な目的を達成するように改革さるべきことについて、注意を喚起しなければならない。
1. 選挙権を広い範囲で認め、選挙民に対し責任を負う政府を樹立すること。
2. 政府の行政府の権威は、選挙民に由来するものとし、行政府は、選挙民または国民を完全に代表する立法府に対し責任を負うものとすること。
3. 立法府は、選挙民を完全に代表するものであり、予算のどの項目についても、これを減額し、増額し、もしくは削除し、または新項目を提案する権限を、完全な形で有するものであること。
4. 予算は、立法府の明示的な同意がなければ成立しないものとすること。
5. 日本臣民および日本の統治権の及ぶ範囲内にあるすべての人に対し、基本的人権を保障すること。
6. 都道府県の職員は、できる限り多数を、民選するかまたはその地方庁で任命するものとすること。
7. 日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択すること
(b) 日本における最終的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思によって決定さるべきものであるが、天皇制を現在の形態で維持することは、前述の一般的な目的に合致しないと考えられる。
(c) 日本国民が天皇制は維持されるべきでないと決定したときは、憲法上この制度〔の弊害〕に対する安全装置を設ける必要がないことは明らかだが、〔その場合にも〕最高司令官は、日本政府に対し、憲法が上記(a)に列記された目的に合致し、かつ次のような規定を含むものに改正されるべきことについて、注意を喚起しなければならない。
1. 国民を代表する立法府の承認した立法措置-憲法改正を含む-に関しては、政府の他のいかなる機関も、暫定的拒否権を有するにすぎないとすること、また立法府は財政上の措置に関し、専見を有するものとすること。
2. 国務大臣ないし閣僚は、いかなる場合にも文民でなければならないものとすること。
3. 立法府は、その欲するときに会議を開きうるものとすること
(d) 日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを、奨励支持しなければならない。しかし、日本人が天皇制を維持すると決定したときは、最高司令官は、日本政府当局に対し、前記の(a)および(c)で列挙したもののほか、次に掲げる安全装置が必要なことについても、注意を喚起しなければならない。
1. 国民を代表する立法府の助言と同意に基づいて選任される国務大臣が、立法府に対し連帯して責任を負う内閣を構成すること。
2. 内閣は、国民を代表する立法府の信任を失ったときは、辞職するか選挙民に訴えるかのいずれかをとらなければならないこと。
3. 天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言にもとづいてのみ行動するものとすること。
4. 天皇は、憲法第1 章中の第11 条、第12 条、第13条及び第14 条に規定されているような軍事に関する権能を、すべて剥奪されること。
5. 内閣は、天皇に助言を与え天皇を補佐するものとすること。
6. 一切の皇室収入は国庫に繰り入れられ、皇室費は、毎年の予算の中で立法府によって承認されるべきものとすること
(註)上記の4項目は、(a) (b) は一般原則、(c) は特に留意すべき特別規定、(d) は国民の意思に基き皇室制度が維持される場合に達成されるべき項目、という分類が適当だと考えられる。
(引用:Wikipedia)
1)占領当初の統治
・昭和20年8月30日、連合軍総司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立ち、アメリカ軍の占領が始まったが、アメリカ軍は直接統治せず、日本政府を使って間接的に統治することにした。それは直接統治するには大勢の人員を必要とするので、日本のように行政機構がかっちり出来上がっているところでは、その方が遙かに効率的だからである。
・また、日本人の天皇に対する絶対的な服従を見て、天皇を訴追するより、存続させ、利用することが得策だと考えたこともあると思われる。なお、国体の護持はポツダム宣言受諾の条件だったという意見もある。
・連合軍総司令部をGHQ(General Head Quarter)と言い、連合軍と言っても実質的にはアメリカ軍であった。
・連合軍の当初の施策は日本を2度と戦争出来ない体質にすることでした。そのためには支配構造を破壊し、経済力を弱め、精神構造を変えることであった。
・GHQには色々な組織があったが、日本の統治に最も関係したのは民政局(GS)と参謀第2部(G2)で、当初リーダーシップをとったのはGSであった。
・GSの主力は開戦時のアメリカ大統領ルーズベルトを支えたニューディーラーと言われた革新的なグループで、日本をその実験台にしようとした。
・アメリカには民主党と共和党という2大政党があり、民主党は計画経済により、貧富の差を少なくしようという党で、共和党は自由経済で、経済力を強くしようと言う党である。
・ニューディーラーはその民主党の中でも最も先鋭的なグループで、共産党に近い考え方をしており、一方G2は共和党に近くGSとG2の対立はアメリカ本国の対立を持ち込んだものであった。
・マッカーサーが最初にしたことは軍隊の解体、軍需産業の操業停止、戦争犯罪者の逮捕、連合国にとって不利な報道についての徹底的な規制であった。
・戦争犯罪者として開戦時の首相だった東条英機等の戦争指導者の他、捕虜虐待、戦地における不法行為などで多くの人が訴追された。
・年が明けた昭和21年の1月には軍国主義者の追放、軍国主義団体の解散が命じられ、2月にはこれらの人の公職追放令が出された。
・職業軍人、中央・地方政治のリーダー、大会社の幹部等所定の条件に該当する人は公職を追放されたのである。大会社の幹部はすっかり若返った。
2)占領目的は日本弱体化
・今日の日本人は、心の危機にあると思いわれている。その危機の背景には、戦後の「日本弱体化政策」と「反日共産思想」があると思われる。
・いわば、戦後の米ソの冷戦構造が、日本人の心の深層に構造化されたまま、心理空間をワープしているといえる。
・危機の背景の一つ、「日本弱体化政策」について、検証する。
3.1)日本占領の期間
・大東亜戦争=太平洋戦争の期間は3年8ヶ月であったが、連合国軍による日本の占領はその約1.8倍の6年8ヶ月の長期に及んだ。戦争が終わったのちこれほどの長期間、占領軍が駐留して占領政策が行われたという国は、他にない。
・戦争は8月15日に終結したのではなく、国際法上は、戦争状態の終結は、講和条約の発効する時点においてである。それまではれっきとした戦争状態である。
・それゆえ、連合国軍は「戦闘段階終了後の占領段階において、連合国の利益にかなった日本社会の改造政策を戦争行為(軍事行動)として推進した」(佐藤和男博士)のである。
・それは、武器による物理的な戦争の段階に続く、政治と宣伝と教育による戦争の継続であった。 物理的破壊ではなく、心理的・制度的破壊が徹底的に行われ、日本人の精神的改造が行われたのである。この遂行のために「日本は無条件降伏した」という虚偽の下に、他に比類なく長い日本占領が行われた。
3.2)占領政策の目的
・アメリカの占領政策の目的は、明確であった。「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月22日)には「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」と明記されている。
・アメリカは、日本が決してアメリカに報復戦争をすることのないように、日本人に戦争の贖罪意識を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪いとろうとした。
・そして日本人を精神的に去勢し、日本の国家と社会をアメリカの意のままになる従属的な体制に変え、宗主国に対する従属国、保護国に対する非保護国的な存在にしようとしたのである。すなわち、占領政策とは、日本弱体化を目的とする政策だったのである。
・大東亜戦争=太平洋戦争において日本は無謀な戦争に突入して、敗れるべくして敗れた。しかし、国民は精神的には敗れていなかった。終戦直後の日本人は深い悲しみの中にありながらも、誇りと勇気を持っていた。それゆえ、日本占領を開始したアメリカ人にとって、敗れてもなお静かに整然と行動している日本国民の姿は、不気味なものと映ったのであろう。
・激戦直後の彼らにとって、日本人は「邪悪な悪魔」であり、いつかは自分たちに報復してくるのではないか、という脅威を感じていた。そこで、2度と歯向かってこないように、日本人の精神を打ちのめし、徹底的に精神改造をしようと企てた。
・江藤淳氏の言葉を借りると「日本軍の『物的武装解除』をもたらした直接の引き金が、原子爆弾の投下であったとするなら、『精神的武装解除』(=バーンズ国務長官)のためにも無差別的な原子爆弾が投下されなければならなかった。そのことによって日本人の誇りを打ち砕き、日本人のセルフ・イメージを根底から塗り替えなければならなかった」というわけである。
・精神改造の始めは「日本は無条件降伏した」と思わせ、連合国軍の政策への抵抗の意志を奪うことであった。さらに強引な言論統制と巧妙な検閲によって、批判を封じたうえで、日本人に戦争に対する罪悪感を植え付ける計画を実行した。
・民族の固有の伝統と歴史を否定して愛国心を根こそぎに抜き去ること、国の指導者に対する国民の不信感をかき立てること、共産主義者に活動をさせて国論を分裂させることなどして、日本人の精神的団結を破壊しようとした。
・これらの政策は、すべて一つの目的のために遂行されたーー日本を弱体化することである。その効果は、決定的であった。原爆に匹敵するほどの破壊力を示し、今日もなおその放射能は日本人の精神を汚染し、日本人の背骨を虫食み、自滅へ導いている。
・マッカーサーが米国への帰国後、日本人は占領が終わって独立国になっても、なお占領時代の自分のダマシに気がつかないから、「日本人の精神年齢は12歳だ」と嘲笑したことは有名である。「君の精神年齢は12歳だな。日本人はみんなそうだ」といわれて、どう感じるか? 「別に」「関係ないよ」などと思う人もいるかもしれない。
・今も日本には、マッカーサー好みのよい子が多い。不正に対しても怒れない、戦えない、卑屈で、依存的で、自尊心も自衛本能も失った日本人こそ、彼の目標であったから。
・占領政策とは、日本弱体化政策であり、それは同時に、連合国軍側の戦争行為の正当化、戦争犯罪の免罪であった。占領政策のポイントを主に5つに分けて考えられる。
①言論統制と検閲の実施:特にGHQの占領政策への一切の批判の封じ込め
②民族の伝統・歴史の否定: 特に修身、国史の授業停止による、伝統的な倫理道徳と歴史観の根絶
③戦争犯罪宣伝計画の徹底: 特に『太平洋戦争史』による「勝者の歴史」=「真相」という洗脳、罪悪感の移植
④東京裁判の開催:国際法に根拠を持たぬ勝者による復讐劇。 日本=極悪犯罪国家という一方的断罪
⑤GHQ製憲法の押し付け: 占領政策の総仕上げ。法制化による継続化。主権の制限による属国化・被保護国化。
4)対日占領政策の基本原則等
4.1)安岡正篤の見解
(引用:紀伊國屋書店HP)
・当時の陽明学者・思想家安岡正篤は、著書『運命を創る―人間学講話』(プレジデント社、1985年)で、対日占領政策の基本原則等(※)について、第2次世界大戦終結後、GHQが日本の占領政策を実行するにあたり、基本原則としての「3R」(Revenge:復讐、Reform:改組、Revive:復活)、重点的施策としての「5D」(Disarmament:武装解除、Demilitalization:軍国主義排除、Disindustrialization:工業生産力破壊、Decentralization:中心勢力解体、Democratization:民主化)、そして補助政策としての「3S」を策定したことをGHQのガーディナー参事官から直接話を聞いている。次のように述べており、これらは、戦後に連合国軍占領下の日本での諸政策を批判するものとして広く使われている。
※GHQ対日占領政策の基本原則等(3R・5D・3S政策)
●3R=米対日占領政策の基本原則
*第一:復讐(Revenge):復讐心に燃えていた。
*第二:改組(Reform):従来のあらゆる組織を抜本的に組み替える。
*第三:復活(Revive):改革したうえで復活、つまり独立させてやる。
●5D=重点的施策
*第一:武装解除(Disarmament)
*第二:軍国主義の排除(Demilitalization)
*第三:工業生産力の破壊(Disindustrialization):軍国主義を支えた産業力の打破
*第四:中心勢力の解体(Decentralization):内務省の解体、警察解体、財閥解体。
*第五:民主化(Democratization):歴史的・民族的な思想や教育の排除、アメリカ的な民主化。
・日本帝国憲法(天皇=元首)の廃棄、新憲法(天皇=象徴)の制定。
・神道の国家からの切り離し、国旗掲揚の禁止。
・教育勅語の廃止。
●3S=補助政策
これらを、3Rの基本原則と、具体的な5D政策の潤滑油政策として3S政策を奨励した。3S政策とは、大衆の関心を政治に向けさせないように取る愚民政策のひとつ。3Sとは、Screen(スクリーン)、Sport(スポーツ)、Sex(セックス)の頭文字を取ったとされる。
*第一:セックスの解放
*第二:スクリーン:映画・テレビの活用
*第三:スポーツの奨励:民族のバイタリティ、活力、活気の精力をスポーツに転ずる。
4.2)日本人の反応
・こうした占領政策を施行された時に、日本人は堂々と振る舞うと思ったのですが、案に相違して、我も我もとGHQ参りを始めました。特に公職追放が行われてから後は、表向きの人々はGHQ様々で唯々諾々として「命これを奉ずる」という有様でした。
・日本を全く骨抜きにするこの3R・5D・3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。
・日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります。
・今日の日本の堕落、退廃、意気地のなさ、こういう有様は昨日今日のことではない。非常に長い由来・因縁があることを考えないと、これを直すことはできません。
4.3)3S政策によるガス抜き
・3S政策により、日本では性風俗が開放され、映画やエンターテインメントが興隆し、プロ野球をはじめとするスポーツが国民行事となった。
・スクリーン(映画)、スポーツ、セックス(性産業)またはスピード(クルマ)は大衆の欲望動員による娯楽であるが、それらに目を向けさせることにより、民衆が感じている社会生活上の様々な不安や、政治への関心を逸らさせて大衆を自由に思うがままに操作し得るとされる。
・簡単に言えば「ガス抜き」政策である。あまりにも厳しい占領政策をすると、暴動が起こる恐れがあるので、人々の目を逸らさせるために行う。
・これらの政策と「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)により、日本のマスコミや教育現場が当時のGHQによる検閲を経て、現在に至るまで「自己検閲」を続けることによって日本の弱体化を図ったものとされている。
4.4)自民党の主張
・同様の主張をしているのが自民党で、『党の使命』で「占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が誤っており、主としてわが国の弱体化に置かれていたため ” 愛国心と国家観念 ” が不当に抑圧された」と断じている。
4.5)3S政策に関する反論
・ただし、スポーツ中継は戦前からプロ野球や高校野球(当時は職業野球、中等学校野球)のラジオ放送が、また性産業も猟奇系書籍などが存在し、また映画に至っては映画法に基づいた国策映画制作が行なわれており、主張は陰謀論の域を出ない。
・鈴木邦男は、
「『3S政策』はGHQが押し進めたと書いている。じゃ、公式文書があるんだろうか。『日本人を映画づけ、スポーツづけ、セックスづけにして日本弱体化を計る』とか。まさかこんな文書はないだろう」
と主張している。
5)民主化政策
5.1)「自由の指令」(昭和20年10月)
・昭和20年9月27日に天皇陛下はアメリカ大使館にマッカーサーを訪問されたが、その時の写真を掲載した新聞を山崎内相は発禁処分にしたことに対し連合軍は反発し、その写真の掲載を命令した。この天皇マッカーサー会談を契機に、政府の言論統制は廃止されていくこととなった。この流れを継承するようにして、1945年10月4日に出されたのが「自由の指令」である。
・この指令は、GHQから日本政府に出されたもので、反体制的な思想や言動を厳しく取り締まっていた日本政府に対し、自由を抑圧する制度を廃止するよう命じた指令である。正式には「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」という。「人権指令」とも呼ばれる。
・この指令は、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、内務大臣・特高警察職員ら約4,000名の罷免・解雇、政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じていた。これを通達された東久邇宮首相(終戦の処理にあたり民間首相では国民を抑えることは難しいとして選ばれた皇族)は、この内容の実行は不可能として翌5日に総辞職した。
・その後、10月9日に成立した幣原喜重郎内閣によって自由の指令の内容は逐次実行に移され、特別高等警察(※)は10月6日、新聞紙等掲載制限令も10月6日に廃止され、この指令に基づき10月10日には共産党員など約3,000人の政治犯の釈放が行われた。
・その後も、国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法などが10月13日廃止、治安維持法・思想犯保護観察法などが10月15日廃止されるなど15の法令が廃止され、思想・言論に関する統制は急速に廃止されていった。
※特別高等警察とは、大日本帝国憲法下の日本で共産主義・社会主義運動のほか、全ての反政府的言論・思想・運動を弾圧した秘密警察。(略称は「特高警察」または「特高」。)
5.2)5大改革指令(昭和20年10月)
・自由の指令に続いて、10月11日の幣原首相・マッカーサー会談の時にGHQの指令として通達されたものが、五大改革指令(※)である。この日、マッカーサーはポツダム宣言に基づき、日本国民は「思想の自由、言論の自由及び宗教の自由を抑圧せんとするあらゆる形態の統制から解放されねばならない」という見解を表明し、5大改革を支持した。
・その内容は、次のとおり。この指令の内容は、この後の日本の政策に大きく影響を与えている。この指令は、GHQの対日基本方針の路線に沿った施策であり、「自由の指令」とあわせて、戦後日本の基本政策の一環を担ったと考えられる。
※五大改革指令
① 選挙権付与による日本婦人の解放
政治体の一員たることに依り,日本婦人は家庭の福祉に直接役立つが如き政府に関する新しき観念をもたらすべし。
② 労働組合の結成奨励
右は労働者を搾取と酷使より保護し,その生活水準を向上せしむるために有力なる発言を許容するが如き権威を労働組合に賦与せんが為なり。又現行行はれ居る幼年労働の弊害を矯正するに必要なる措置を講ずべきこと。
③より自由なる教育を行ふ為の諸学校の開設
国民が事実に基づく知識によりその将来の進歩を形作り,政府が国民の主人たるよりは寧ろ公僕たるが如き制度を理解することに依り利益を受くる為なり。
④ 秘密検察及びその濫用に依り国民を不断の恐怖に曝し来りたるが如き諸制度の廃止。
⑤ 所得並びに生産及商工業の諸手段の所有の普遍的分配をもたらすが如き方法の発達に依り,独占的産業支配が改善せらるるやう日本の経済機構を民主主義化すること。
〇秘密警察の廃止
・真っ先に実行に移されたのは秘密警察の廃止と、政治犯の釈放である。10月10日共産党員などが一斉に釈放された。
・10月中に国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法・治安維持法・思想犯保護観察法が廃止され、11月には治安警察法が改正された。形の上で言論の自由が保障されたのである。
・その一方プレスコード指令を発令し、米軍の施策に反するものは禁止された。チャンバラ・時代劇・柔道・剣道等、忠義や武を奨励するものである。
・尚共産党が戦前弾圧され、政治犯として逮捕されたのは、「目的の達成のためには暴力革命が必然である」とする綱領によるものであった。
〇治安維持法の廃止
・昭和20年の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。
・同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死し、10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張した。さらに、岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。
・こうしたことなどから同10月4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。
・東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も解散を命じられた。
〇労働組合の結成奨励
・次に労働組合は、このGHQの指令、共産党幹部の釈放により、各地で次々に結成された。この指令も生活に苦しむ一般サラリーマンの強い支持を得た。それと共に激烈な労働運動が始まったのである。
〇婦人の解放
平塚雷鳥 (引用:Wikipedia) 市川房枝
・婦人の解放は、12月に衆議院の選挙法を改正し、男女同権とした。これは女性から圧倒的な支持を得た。日本でも戦前から平塚雷鳥、市川房枝等が婦人参政権の要求をしていた。これによる選挙は昭和21年4月に行われ、女性議員は39人も当選した。
・なおこの頃は参議院がなく、貴族院があり、貴族院は選挙ではなく任命制であった。貴族院は新憲法の制定により廃止され、代わりに性格の異なる参議院となったのである。
〇教育の自由化
・教育の自由化とは教育を通じて日本の弱体化を図ろうというものである。
・アメリカは日本軍の強さの原因として、強力な天皇崇拝による国民世論の統一、忠君愛国主義、武の尊重にあると考えた。そこで天皇陛下に人間宣言を出させ、神道に対する国家の援助を禁止した。又、日本神話も否定された。又これらの日本精神を築いたものは教育勅語とそれに基づいた修身教育であるとし、これを禁止した。
・歴史や地理の教科書で問題のある部分は墨を塗って読めなくしたのである。尚それでも不十分として昭和45年12月には修身・日本史・地理の授業の停止を命じ、教科書を回収した。
・また、昭和21年3月にアメリカから教育使節団が来日し、アメリカ型の6・3制採用を勧奨する報告書を作成し、これに基づき47年から義務教育が3年延長される大改革が実施されました。あの経済困難の中、アメリカ軍からの強制がなければ絶対実施不可能だったと思われる。
〇経済機構の民主化
●財閥解体
・アメリカは日本の財閥が軍部と手をくんで、中国へ進出したことが、この大戦の最大原因と考えていた。従って財閥を解体しなければならないと考えていた。軍需工場は連合軍の進駐と共に操業停止され、機械は賠償として外国に持ち出されることになった。しかし財閥解体の方針は発表されたが、なかなか具体的な明細が決まらなかった。
・昭和21年9月に三井・三菱等5社が指定持株会社に指定されたのを皮切りに、第5次指定までで83社が指定された。昭和22年7月には三井物産、三菱商事が解散を命じられた。同年12月には「過度経済集中排除法」が制定され、対象として325社が指定された。
・これらの企業では、会社幹部の追放、持ち株の放出、会社の分割、会社株式の相互持ち合いの禁止等の処分が為された。しかしこの方針は、すべての企業の審査が終わる前の、昭和23年になると米ソ対立の影響を受け、早くも緩和された。それでも大変な数の企業が影響を受けた。
●農地解放
・農地解放は、昭和22年、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる(ただし帝国政府の考えた方針とGHQの改革内容には大きな違いがある)。
・GHQは急遽アメリカから専門家を呼び検討させると共に、対日理事会に諮った。当然ソ連は、より強硬な案を主張したが、最終的にイギリス案が通り、地主の保有農地は1町歩に制限され、余った農地は一旦すべて政府が買い上げ、耕作者に払い下げることになった。
・そして、昭和20年12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府に「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。
・これ以前に日本政府により国会に提案されていた第1次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第2次農地改革法を作成、同法は昭和21年10月に成立した。
・この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
①不在地主の小作地の全て
②在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、内地では1町歩を超える全小作地
③所有地の合計が北海道で12町歩、内地で3町歩を超える場合の小作地等
・また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。農地の買収・譲渡は昭和22年から昭和25年までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。
・この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。
・また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府やGHQもその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。
・従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである(当時の共産主義の政策方針では集団化を目指していたため)。
・この農地改革は農家の働く意欲を増進させ、貧富の差を少なくしました。この事は農民階級にも上級学校への進学意欲を高め、激烈な進学競争の原因の一つになったのです。
・しかし、政治的には成功したかに見えた政策であったが、大規模経営が世界的に主流になる中で、土地の所有者が大幅に増加した日本の農業は機械の稼働能率が低く、先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。
・また都市化優先政策と食管制度温存による米優先農政により、次第に日本農業は国際競争力を低下させていくこととなる。
6)国家神道の廃止(昭和20年12月)
・GHQ の改革は、さらに「国家神道(あるいは神社神道)」へと進んでいく。国家神道とは、政府の政策として進められた国家的宗教であり、万世一系の天皇が日本を支配するという「国体」思想と結びついたものであった。
・第二次大戦を招いた構造を排除するため、GHQ は天皇崇拝を推進することに国家神道が一定の役割を果たしたことを認め、国家神道を廃止することを決定した。
・12月15日、GHQ の通知「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に公布の廃止に関する件」(いわゆる「神道指令」)により、神社は国家から分離することが日本政府に覚書の形で通達され、国家神道は終焉を迎えた。
7)天皇の「人間宣言」(昭和21年1月)
7.1)官報掲載
(引用:国立国会図書館HP)
・終戦直後の歴史の中で、特に国民に大きなインパクトを与えたものの一つに、天皇の人間宣言(※)が挙げられるであろう。この宣言は、昭和21年1月1日に発せられ、また同日の朝刊に掲載された。人間宣言は、天皇が自らの神格を否定したと解釈される詔書の通称であり、同年1月1日の官報にて掲載された。正式なタイトルがないため、通称「人間宣言」と呼ばれる。
※人間宣言:新日本建設に関する詔書
・茲ここニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
・叡旨(※1)公明正大、又何ヲカ加ヘン。(※1叡旨: 天子のお考え)
・朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。
・須ラク(※2)此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習(※3)ヲ去リ、民意ヲ暢達シ(※4)、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。(※2須らく: 当然なすべきこととして※3陋習: わるい習慣※4暢達する: のびのびと育てる)
・大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦(※5)、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ、真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。(※5艱苦: なやみ苦しむこと)
・然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試練ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
・夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。
・今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ效スベキノ秋ナリ。
・惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。
・詭激(※6)ノ風漸ク(※7)長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
(※6詭激: 言行が度をこえて激しいこと、※7漸く: しだいに)
・然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(※8)ヲ分タント欲ス。(※8休戚: 喜びと悲しみ)
・朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(※9)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。(※9紐帯: 二つのものを結びつける大切なもの。きずな)
・天皇ヲ以テ現御神(※10)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。(※10現御神: この世に生きている神)
・朕ノ政府ハ国民ノ試練ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。
・同時ニ朕ハ我国民ガ時艱(※11)ニ蹶起(※12)シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及および文運(※13)振興ノ為ニ勇往(※14)センコトヲ希念ス。(※11 時艱: その時代の当面する難問題、※12蹶起: 決意して立ち上がり、行動を起こす、※13文運: 学問や芸術が盛んな様子、※14 勇往: 勇んで突き進む、ためらわずに前進する)
・我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興(※15)スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。(※15 作興: 盛んにすること)
・斯ノ如キハ、実ニ我国民ガ、人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為なス所以(※16)ナルヲ疑ハザルナリ。(※16所以: 理由、わけ)
・一年ノ計ハ年頭ニ在リ。
・朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
・御名御璽 昭和二十一年一月一日
・内閣総理大臣兼第一復員大臣第二復員大臣(男爵 幣原喜重郎)/司法大臣(岩田宙造)/農林大臣(松村謙三)/文部大臣(前田多門)/外務大臣(吉田 茂)/内務大臣(堀切善次郎)/国務大臣(松本烝治)/厚生大臣(芦田 均)/国務大臣(次田大三郎)/大蔵大臣(子爵 渋沢敬三)/運輸大臣(田中武雄)/商工大臣(小笠原三九郎)/国務大臣(小林一三)
(注)本文中、黄字の部分が『人間宣言』とされている。
(参考)本文の現代語訳
(引用:日本国憲法の再誕生ー人間宣言(現代語訳))
・ここに新年を迎える。 かえりみれば、明治天皇は明治の初め、国是として五箇条の御誓文をお示しになられた。 それによると、
一、幅広く会議を開き、何事も議論をして世論に従い決めなければならない
一、身分の高い者も低い者も心をひとつにして、積極的に国のあり方を考えていかなければならない
一、中央政府も地方の領主も、庶民に至るまで、それぞれ志を遂げ、人々が生きていて幸せに感じる事が重要である
一、古くからの悪しき習慣を打ち破り、人類普遍の正しい道に基づいていかなければならない
一、知識を世界に求め、大いにこの国の基盤となる力を高めなければならない
・お考えは公明正大であり、付け加えなければならない事柄は何もない。
・わたしはここに誓いを新たにして国の運命を開いていきたい。 当然このご趣旨に則り、古くからの悪しき習慣を捨て、民意を自由に広げてもらい、官民を挙げて平和主義に徹し、教養を豊かにして文化を築き、そうして国民生活の向上を図り、新日本を建設しなければならない。
・大小の都市の被った戦禍、罹災者の苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者増加の趨勢などは実に心を痛める事である。 しかしながら、我が国民は現在の試練に直面し、なおかつ徹頭徹尾、豊かさを平和の中に求める決意は固く、その結束をよく全うすれば、ただ我が国だけでなく全人類のために、輝かしき未来が展開されることを信じている。
・そもそも家を愛する心と国を愛する心は、我が国では特に熱心だったようだ。 今こそ、この心をさらに広げ、人類愛の完成に向け、献身的な努力をすべき時である。
・思うに長きにわたった戦争が敗北に終わった結果、我が国民はややもすれば思うようにいかず焦り、失意の淵に沈んでしまいそうな流れがある。 過激な風潮が段々と強まり、道義の感情はとても衰えて、そのせいで思想に混乱の兆しがあるのはとても心配な事である。
・しかし私はあなたたち国民と共にいて、常に利害は同じくし喜びも悲しみも共に持ちたいと願う。 私とあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。 天皇を神とし、または日本国民は他より優れた民族だとし、それで世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基くものでもない。(※)
・私が任命した政府は国民の試練と苦難とを緩和するため、あらゆる施策と政府の運営に万全の方法を準備しなければならない。 同時に、私は我が国民が難問の前に立ち上がり、当面の苦しみを克服するために、また産業と学芸の振興のために前進することを願う。 我が国民がその市民生活において団結し、寄り合い助け合い、寛容に許し合う気風が盛んになれば、わが至高の伝統に恥じない真価を発揮することになるだろう。
・そのようなことは実に我が国民が人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をなす元になることは疑いようがない。
・一年の計は年頭にあり、私は私が信頼する国民が私とその心をひとつにして、自ら奮いたち、自ら力づけ、そうしてこの大きな事業を完成させる事を心から願う。
(※)太字部分が人間宣言と言われている。
7.2)マッカーサー評価
・このなかで昭和天皇は、天皇を現御神とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性(天皇家に関する神話と伝説)を否定した。
・これは、後に天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなり、マッカーサーはこの詔書を天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと高く評価した。
7.3)五箇条の御誓文に言及
・詔書の冒頭には明治天皇の五箇条の誓文が引用されている。これは、誓文の第一文が「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあるように、「明治天皇の時代に明治天皇が民主主義を採用しようと考えていたことを示す意図があった」と昭和天皇自身が昭和52年8月23日の記者会見で語っている。
7.4)「人間宣言」草案起草説
・「人間宣言」草案に関しては、幣原起草説、GHQ 起草説があるが、現在ではGHQ起草説が有力である。これは、当時他の連合国からの天皇に対する圧力が大きく、戦犯にせよという要求も多かったために、「人間宣言」を出すことで、戦後天皇制を維持できるようにした、という配慮と考えられる。また、冒頭の五箇条の誓文の引用に関しては、自らの発案であったと、後日、昭和天皇は語っている。
7.5)「人間宣言」の意義
・この宣言は、実際に「民主主義的傾向に基き、平和主義のもとに新日本を建設しなければならない」という趣旨で書かれており、また天皇の神性を否定していることから、戦後の民主主義・象徴天皇制という基本原則への道を示した文書であると言える。
7.6)昭和天皇の記者会見
「日本の民主主義は戦後の輸入品ではない」
◇記者:ただそのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の「五箇条の御誓文」というのがございますけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあるやに聞いておりますが。
◇天皇:そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。
それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。
民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
それで特に初めの案では、五箇条の御誓文は日本人としては誰でも知っていると思っていることですから、あんなに詳しく書く必要はないと思っていたのですが。
幣原がこれをマッカーサー司令官に示したら、こういう立派なことをなさったのは、感心すべきものであると非常に賞讃されて、そういうことなら全文を発表してほしいというマッカーサー司令官の強い希望があったので全文を掲げて、国民及び外国に示すことにしたのであります。
◇記者:そうしますと陛下、やはりご自身でご希望があったわけでございますか。
◇天皇:私もそれを目的として、あの宣言を考えたのです。
◇記者:陛下ご自身のお気持ちとしては、何も日本が戦争が終ったあとで、米国から民主主義だということで輸入される、そういうことではないと、もともと明治大帝の頃からそういう民主主義の大本、大綱があったんであるという……。
◇天皇:そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです。
8)マッカーサーの「上からの改革」
・GHQの最大の目標は、アメリカにとって脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃してアメリカにとって都合のいい国家に作りかえることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称した。
・また、マッカーサーは後に、「当初は日本を工業国から農業小国に転換し、アメリカの市場とするつもりだった」と述べている。
・当初GHQの主導権を握っていた民政局により策定・実施が進められた。
・冷戦の兆しが現れ始めてからは参謀第2部に主導権が移り、いわゆるレッドパージなどが行われる。
①戦争犯罪人の逮捕
〔戦犯の逮捕・裁判・処刑〕
・連合国軍は占領直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛り、「戦争指導者」とされた東條英機元首相を含む数十名を逮捕した。
・彼等はいわゆるA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により判決を言い渡され、東條以下7名を絞首刑による処刑、多数を禁固刑などに処した。
・平和条約により日本は、この東京裁判を受諾した(ただし、東京裁判の判決を受諾したとの異論もある)。
〔マインドコントロール〕
・併せて「日本が平和と人道に対する罪を犯した」と3年間にわたって宣伝し続けた。
〔裁判の批判〕
・なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルク裁判 同様、右派や国粋主義勢力のみならず、国際法学者(イギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パール)から「裁判の体を成していない」や「復讐目的の裁判」や「事後裁判だ」と批判される。
〔左派の批判〕
・一方左派からは「最高権力者の昭和天皇が裁かれないのはおかしい」という批判を受けている。
②公職追放
・戦争や大政翼賛会に関与していたと見なされた者は、政府機関などの特定の職に就くことを禁止され、軍人ほか、戦時中に軍に協力的であったと認定された政治家、思想家などの三親等の親族・血縁者も同じ職への就職が禁止されるなどの公職追放が行われた。
・その影響は25万人ともされ、戦中まで戦意高揚映画を製作した東宝など、映画界にまでも及んだ。
・本来の目的である「軍国主義者などの日本政界からの追放」をはるかに超えた影響を日本国内に及ぼし、このためアメリカ国内でも占領政策の批判を受けるなど、トルーマン大統領とマッカーサー連合国最高司令官との確執を生む結果にもなった。
③非軍事化
〔武装の解除〕
・連合国軍による最初の仕事は、日本全国の軍施設に進駐し日本軍の武装解除を進めることであった。残存していた使用可能な兵器類は全てスクラップにし、その一方で施設としての軍用地はその多くを駐留軍が引き継ぎ、占領政策の礎とした。
〔法的な整備〕
・物理的な軍事力剥奪の次に進めたのが法的な整備であり、「国民主権」、「基本的人権の尊重」という民主主義の基本を備えると共に、「戦争放棄」を謳った憲法(日本国憲法)を作成し日本政府に与え、昭和21年(1946)11月3日に公布、、1947年5月3日に施行された。
〔社会思想の解体〕
・また、天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止、軍国主義教育の廃止、第六潜水艇に代表される多くの軍人の顕彰施設の破壊など、明治からの社会思想を解体した。
〔皇室の改革〕
・連合国軍は皇室改革を指令し、天皇は憲法上における統治権力の地位を明示的に放棄し、日本国および日本国民統合の象徴となった。
〔皇籍の離脱〕
・また皇室財産が国や自治体等に下賜ないしは特別税として国庫に収容されることになるにともない、多くの皇族は皇籍離脱を余儀なくされた。
〔戦犯の不問〕
・しかし、大半の皇族は戦犯には問われず、日本の皇族にとっては温情のある処置であったとする意見もある。
〔象徴天皇制〕
・また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、第二次世界大戦以前の日本では「天照大神が皇室の祖」と歴史教科書に記述されていた一方で、多くの日本人はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
・戦後直後の1946年に毎日新聞が実施した世論調査では、象徴天皇制への支持が85%、反対が13%、不明2%となっており戦後直後でも国民の多くが皇室の存続を支持している。
〔神道の危険視〕
・GHQによる神道への危険視は、神国・現人神・聖戦などの思想が対象となっており、昭和天皇が昭和21年に発した「新日本建設に関する詔書」(通称「人間宣言」)もこのような背景で出されたものと考えられている。
〔武道の禁止〕
・また、日本国内の武道を統括していた政府の外郭団体である大日本武徳会を解散させ、関係者1300余名を公職追放し、武道を禁止した。
〔刀狩り〕
・刀狩りも行われ、数多くの日本刀が没収、廃棄された。
〔チャンバラ映画の禁止〕
・さらにその矛先は映画界にまで及び、チャンバラ映画が禁止され、嵐寛寿郎や片岡千恵蔵ら日本を代表する時代劇俳優が仕事を失った。
④民主化(財閥解体・産業解体)
・民主国家にするための国民の改造として、
① 婦人参政権
② 労働組合法の制定
③ 教育制度改革
④ 圧政的な法制度の撤廃
⑤ 経済の民主化
の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。
〔婦人参政権・労働組合〕
・労働組合はすぐに解禁され、男女同権論に基づく婦人参政権は直後の衆議院選挙から実行された。
〔圧政的な法制度の撤廃〕
・圧政的といわれた治安維持法と特別高等警察は廃止され、戦時中にこれら罪状で逮捕・服役していた「政治犯」、「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。また、結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。
〔レッドパージ、逆コース〕
・これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年の中華人民共和国の成立や朝鮮半島情勢の悪化もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ、逆コース)。これら左翼政党は右翼政党や英米に対し対立姿勢を強めていく。
〔経済の民主化〕
・経済界においては、経済民主化のため、「太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった三井・三菱・住友・安田の四大財閥が解体された。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻る。また、重化学工業産業を解体し、研究開発・生産を禁じた。
〔重工業の復活〕
・GHQは当初、賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めず、日本を農業と軽工業の国に作り替え、経済的に従属的な国として抑止する予定だった。
・数年後、朝鮮戦争勃発によって米軍航空機の修理の必要などから方針が変更され、重工業の復活が限定的に認められるようになった。
〔地方分権へ移行〕
・さらに、地方自治法が制定され、都道府県知事は選挙によって選出されるようにしたことで、中央集権から緩い地方分権へと移行させた。警察も、それまでの国家警察から、地方自治体の影響下に置かれた地方警察へ組み替えられた。
⑤農地改革
〔小作人に分配〕
・農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。
・これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した一方、自作農となった農民を保守化させる結果となり、農村は保守勢力の牙城となった。
〔国際競争力の低下〕
・また、北海道を除いて大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し、以後の食料自給率低下に拍車をかけ現在に至っている。
〔地域的偏在〕
・なお、全ての小作地が農地改革の対象になったわけではなく、実態には地域によりばらつきがあった。
⑥非共産化と再軍備
〔レッドパージ〕
・国内経済の疲弊から社会主義が流行し、労働運動は非常に盛り上がったが、アメリカやイギリスなどの民主主義国とソビエト連邦との対立、いわゆる冷戦が起こると、左派勢力たる共産党の勢力拡大が恐れられた為、対日政策の方針転換が行われて、日本列島を『反共の防波堤』にする計画が進み、共産主義者の追放(レッドパージ)を極秘裏に行った。
〔逆コース〕
・同時に軍国主義・超国家主義者などの公職追放を解除することで、ある程度の右派勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。いわゆる「逆コース」である。
〔経済の自立〕
・また、工業の早期回復による経済的自立が求められた
〔再軍備〕
・朝鮮戦争勃発によって連合国軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋める為、警察予備隊の創設と海上保安庁(海上警備隊)の強化を実施して、予定を繰り上げて日本の再軍備を行った。(ただし最終過程は`新日本軍`設立であり、自衛隊ではなかったという。陸軍悪玉論が日本人の軍に対する感情を支配していたので新軍設立は断念された)
〔早期講和〕
・これらによって、日本との早期講和を行い、主権回復させて自力で防衛させることとなり、日本国との平和条約および(旧)日米安全保障条約の発効に至った。
〔主権回復後への影響〕
・GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。
⑦「慰安所」の設置
・終戦直後の8月18日に、内務省は全国の警察に対して連合国軍の将兵向けの慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。
・「(連合国軍の将兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分を基に、日本各地に慰安所が設置された。
⑧日本語のローマ字化(断念)
・1948年(昭和23年)春、日本の教育状況と日本語に対する無知と偏見から、「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」とする、ジョン・ペルゼルという若い将校の発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。
・当時東大助手だった言語学者の柴田武は、民間情報教育局(CIE)の指示によって、この読み書き全国調査のスタッフに選ばれ、漢字テストの出題を任された。
・これは日本初の「無作為抽出法(ランダムサンプリング)」の実施でもあり、統計学者林知己夫が被験者のサンプリングを行った。
・こうして1948年(昭和23年)8月に、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)によって実施された、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした全国試験調査「日本人の読み書き能力調査」であったが、その結果、漢字の読み書きができない人は2.1%にとどまり、「日本人の識字率が100パーセントに近い」という結果が出た。
・世界的に見ても、これは例を見ないレベルであり、日本語のローマ字化は撤回された。
⑨国号
・明治期以来現在においても日本の国号は法定のものではなく、行政上での慣例に従い記述されているが、明治期から昭和初期まで大日本帝国を主たる国号とし、1935年(昭和10年)7月より外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一していた。
・第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱に国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交された。
・その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降慣例として大日本帝国の国号は使用されなくなり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる。
9)国民への厭戦工作
・新聞やニュース番組などを通じて日本軍の戦時中の非道を繰り返し報道させ、国民の戦意を全く喪失させると共に、国民の贖罪意識を増幅させる厭戦工作を行ったと江藤淳が主張し、これをウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)(「戦争への罪悪感に関するプログラム」)と称して著書にしている。
・戦争末期にコーデル・ハルは「日本をアジア解放に殉じた国と思わせてはならない」とルーズベルト大統領に進言したという。
・日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、ハリウッド映画の統括配給窓口会社『CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)』を東京に設立した。
・このCMPEに一時在籍した淀川長治によれば、「忘れもしないメイヤーという名の支配人は映画より国策に心を砕く、あたかもマッカーサー気取りの中年男だった」そうで、ヨーロッパ映画びいきの記者を試写から締め出したりの傲岸不遜振りに、1952年(昭和27年)にこの会社が解体された際は映画関係者たちは喝采を挙げたという。
・一方で国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。
・子供達の文化媒体であった紙芝居では、「黄金バット」の「髑髏怪人」というキャラクターを、「スーパーマン」のような「たくましい金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。 しかしこれは全く支持されることなく無視された。
10)家制度の廃止(昭和22年)(1947)
・家制度とは、明治31年に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
・女性参政権の施行と日本国憲法の制定に合わせて、昭和22年には民法が大規模に改正され、親族編・相続編が根本的に変更された為に、家制度は廃止された。
10.1)「家」の概念
・「家」は、「戸主」と「家族」から構成される。戸主は家の統率者であり、家族は家を構成する者のうち戸主でない者をいう。一つの家は一つの戸籍に登録される。つまり、同じ家に属するか否かの証明は、その家の戸籍に記載されている者であるか否かにより行われた。
・このことから、改正前民法の条文の「父ノ家ニ入ル」「家ヲ去リタル」という(当時の)表現は、戸籍の面からは、それぞれ「父の家の戸籍に入籍する」「家の戸籍から除籍された」ことを意味する。
〇戸主
・戸主は、家の統率者としての身分を持つ者であり、戸籍上は筆頭に記載された。このため、戸籍の特定は戸主の氏名と本籍で行われることになる。
●戸主権・戸主の義務
・戸主は、家の統率者として家族に対する扶養義務を負う(ただし、配偶者、直系卑属、直系尊属による扶養義務のほうが優先)ほか、主に以下のような権能(戸主権)を有していた。
・家族の婚姻・養子縁組に対する同意権(改正前民法750条)
・家族の入籍又は去家に対する同意権(ただし、法律上当然に入籍・除籍が生じる場合を除く)(改正前民法735条・737条・738条)
・家族の居所指定権(改正前民法749条)
・家籍から排除する権利
●女戸主
・戸主は男性であることが原則であるが、女性であっても家督相続や庶子・私生児などによる一家創立など、女戸主もあり得た。しかし男戸主に比べ、いくつかの差異があった。
①隠居するには、年齢その他の要件を満たしている必要があるが、女戸主の場合は年齢要件を満たす必要がない(改正前民法755条)
②(男性の)戸主が婚姻して他家に入るには、女戸主の家に婚姻で入る場合と婿養子縁組(婚姻と 妻の親との養子縁組を同時に行うこと)に限られたが、女戸主が婚姻するためであれば裁判所の許可を得て隠居・廃家ができた(改正前民法754条)
③婚姻により夫が女戸主の家に入る(入夫婚姻)際、当事者の反対意思表示が無い限り入夫が戸主 となった(改正前民法736条)。ただし大正3年以降の戸籍法では、入夫婚姻の届書に入夫が戸主となる旨を記載しなければ、女戸主が継続する扱いであった。
〇戸主の地位の承継(家督相続)
①戸主の地位は、戸主の財産権とともに家督相続という制度により承継される。相続の一形態であるが、前戸主から新戸主へ全ての財産権利が譲り渡される単独相続である点が現在の民法と大きく異なる。
②家督相続は次の場合に行われる。
家督相続人(新戸主)となる者は、旧戸主と同じ家に属する者(家族)の中から、男女・嫡出子庶子・長幼の順で決められた上位の者、被相続人(旧戸主)により指定された者、旧戸主の父母や親族会により選定された者などの順位で決めることになっていたが、通常は長男が家督相続人として戸主の地位を承継した。
(追記:2020.10.18/修正:2020・10.31)
引用:日本経済新聞2014年(平成26年3月2日)
アメリカは太平洋戦争後に日本から軍国主義を一掃し、民主主義を根付かせるため様々な施策を実施した。そのうちの一つに「漢字の全廃・ローマ字の採用」があった。
日本人は漢字学習に膨大な労力を費やしているため、国際社会で常識的な知識を習得する時間がなく、愚民化されてきたというのだ。日本側にも同調する意見があり、「国語の民主化」が始まった。(新聞記事の抜粋)
(追記:2023.4.5)
(1)WGIP
(2)日本の文化・思想の改造
(3)宣伝工作による情報操作
(4)言論統制による情報操作
(5)極東国際軍事裁判による贖罪意識
(6)公職追放による各界への影響
(引用:Wikipedia)
1)WGIPの狙い
・“ WGIP ” とは、日本語に直せば「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(戦争犯罪周知宣伝計画)となるが、この計画は、大東亜戦争後にGHQによる日本占領管理政策として行われたという政治宣伝をいう。
・“WGIP”は「何を伝えさせるか」という積極的な政策であり、検閲などのような「何を伝えさせないか」という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例としてプレスコードが代表的である。
・アメリカの日本占領政策は、日本人に戦争の罪悪感を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪い、日本が決してアメリカに報復することのないようにすることを目的としていた。
・日本占領の最高司令官マッカーサーがワシントン政府から受けた第1号命令は、日本を再び米国及び連合国の脅威にならないよう、徹底的に無力化、弱体化することでした。
・すなわち「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月6日受け、26日公表)に「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」とその目的は明記されている。
・そして、この目的の下に行われた占領政策は、日本人を精神的に去勢し、当時の日本人が持っていた愛国心を抹殺し、アメリカの属国的・被保護国な存在へと貶めようとするものであった。すなわち日本弱体化政策であり、江藤淳(※)は、この政策を実行するにあたっての秘密計画がWGIPである。
江藤淳 (引用:Wikipedia) 「閉ざされた言語空間」
(日本出版販売『新刊展望』6月15日号(1965)より) (引用:amazon.co.jp HP)
※江藤淳の指摘
文芸評論家の江藤淳が著書『閉された言語空間』(文藝春秋・平成元年)においてWGIPのような政治宣伝が政策として行われたと主張した。同氏によれば次のように指摘している。
昭和23年2月6日付、“WGIP”との表題の文書がCI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間諜報局)宛てに発せられた。冒頭に「CIS局長と、CI&E局長、及びその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。」とある。
“WGIP”について江藤は、その嚆矢である太平洋戰爭史という宣伝文書を「日本の『軍国主義者』と『国民』とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった『軍国主義者』と『国民』とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析。
また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの“WGIP”は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいない」とも指摘している。
また、「「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。
大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである」としている。
2) “ WGIP ” の内容
・“WGIP”には、周到な計画が存在した。それは、日米戦争中から立案され、占領後は、その方針にそって、日本人から、力と弾圧によって、民族の歴史、道徳、団結心等を奪っていった。
・“WGIP”の実行は、GHQの民間情報教育局(CI&E)が強力に展開した。これは民間検閲支隊(CCD)による検閲と相乗効果をなして、日本弱体化を進めるものであった。
・CI&E発行の文書に、表題もズバリ「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」というものがある。これは、計画実施の中間報告とでもいうべきもので、日付は昭和23年2月6日である。
・その文書の冒頭には「民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植え付ける目的で開始し、かつこれまでに影響を及ぼしてきた民間情報活動の概要を提出するものである」と書かれている。
・「日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植え付ける」ことが目的である。
・またこの文書は「“WGIP”を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものまでに拡大するにあたって、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている」と記している。
*原爆投下への批判や日本側の言い分を圧殺しようとしている。
*そして、その計画は3段階に分けて行われた。
・第1段階のa:太平洋戦争史
・第1段階のb:記憶と歴史の剥奪
・第2段階:東京裁判の準備
・第3段階:原爆批判と日本の言い分の封殺
2.1)『太平洋戦争史』(第1段階のa)
太平洋戦争史(連合軍総司令部民間情報教育局)(引用:amazon.co.jp)
・“WGIP”の第1段階は、実質的には占領直後に開始され、CI&Eの文書によると昭和21年6月までに行われた。連合国軍は占領後まもなく、昭和20年9月から通信社・新聞社等への言論統制、検閲を始めた。この言論統制と検閲の下で、計画実施の第1段階が行われた。
・ここで重要かつ決定的な役目を果たしたのが、『太平洋戦争史』である。「太平洋戦争史」は、昭和20年12月8日から、日本のほとんどあらゆる日刊紙に一斉に連載された。
・GHQは、日本の真珠湾攻撃の日を選んで、スタートした。これは、日本全国民に対する“WGIP”の開始であった。
・『太平洋戦争史』は、CI&Eが準備し、GHQ参謀第3部の戦史官の校閲を経てつくられたものである。国務省が作成した資料をもとにしており、勝者の立場で、米国中心に書いた歴史書である。この文書は、まず「太平洋戦争」という呼称を日本の社会に導入したという意味で歴史的な役割を果たした。
・連載開始1週間後の12月15日には、「大東亜戦争」という呼称は禁止された(「神道指令」による命令である)。それとともに、日本の立場からの戦争の見方は抹殺された。今日「太平洋戦争」という呼び名を安易に使っている人は、自分がアメリカ人の立場で戦争を見ていることに気づいていないのである。
・『太平洋戦争史』は、「戦争を始めた罪と、これまで日本人に知らされていなかった歴史の真実を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している」ものであり、それによって、日本人のセルフ・イメージを破壊し、日本の過去は悪の歴史であるというイメージを刷り込み、戦争の罪悪感を植え付けるものであった。それは、続いて、昭和21年6月から行われる東京裁判への準備でもあった。
・『太平洋戦争史』はNHKのラジオでドラマ化され、ラジオ番組「真相はこうだ」として、昭和20年12月9日より翌年の2月10日まで、週1回10週間にわたって放送された。なかでも東京裁判を通じて、日本人に初めて伝えられた「南京大虐殺」の放送は、国民に深刻な心理的打撃を与えた。これは日本人の罪悪感の形成に決定的な影響を与えた。虐殺行為を針小棒大に強調し、誇大な数字を捏造したキャンペーンであった。このキャンペーンの延長線上に、朝日新聞の本多勝一氏がいた。
・新聞連載終了の後、『太平洋戦争史』は、本として10万部印刷され、昭和21年3月より完売されました。それだけ売れたのは、学校の教材として使用されたからである。すでにマッカーサー司令部の命令により、昭和20年12月31日に、修身、国史、地理の授業が即時停止されていた。その中で、21年4月、文部省は全国の小中学校に、これらの授業停止中の教材として『太平洋戦争史』を使用するよう通達した。そして、『太平洋戦争史』は学校で、子供たちの頭に教え込まれました。それは、とりもなおさず、“ WGIP ” の浸透であった。
・一方、GHQは、文部省に対して、この勝者の歴史観に沿って教科書を書き改めさせた。ここで協力した学者が、教科書裁判で有名な家永三郎氏らであった。改ざん後、子供たちの教科書は『太平洋戦争史』に基づく歴史観で書かれ、基本的にはほとんど改正されずに現在に至っている。
・『太平洋戦争史』が宣伝された5ヶ月後、昭和21年5月3日に、東京裁判が開廷された。6月24日に市ヶ谷法廷において行われたキーナン首席検事による劈頭陳述は、『太平洋戦争史』に呼応し、それと同質の歴史観に基づくものであった。まさに『太平洋戦争史』こそ、いわゆる「東京裁判史観」(自虐史観)の原点である。
・『太平洋戦争史』とは、どんな内容でしょうか? 端的にいうと、米国の国益のために書かれた宣伝文書である。戦争の原因を国際関係を動かすさまざまな動因から総合的に把握しようとするのではなく、歴史的事象の一部を断片的に切り取って並べ、日本にのみ戦争責任があるように、描いている。一方、米国にとって都合の悪いことは一切触れていない。
・その典型として、排日移民法は一切ふれられていない。この法律は、日本を一方的に敵対視して、日本人のみを特定して排除した人種差別的な法律であり、その結果、日本の平和主義者を潰し、軍国主義者を台頭させて、日米戦争を招いた誘因となったものである。
・また、米国が大不況への対策として自国の経済を守るためにブロック化し、これに対抗したイギリスもブロック経済化したことが、世界経済に重大な影響を与え、市場から締め出された日本は自存自衛のために大陸へ活路を求めていかざるをえなかったという事情も、描かれていない。
・このように一面的な記述であるため、この文書は歴史書というより、政治的な宣伝文書と呼ぶべきものである。
・江藤淳氏によれば、「『太平洋戦争史』なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖したという意味で、ほとんど民間検閲支局(CCD)の検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝文書である」、「教育と言論を的確に掌握しておけば、占領権力は、占領の終了後も、ときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことをCCDの検閲とCI&Eによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、表裏一体となって例証している」としている。
・そして、戦後日本の歴史記述の大部分は、言論弾圧と検閲の下に、日本人の脳髄に刷り込まれた「太平洋戦争史」に基づいたものである。昭和57年の第1次教科書問題も、中国・韓国等に対する謝罪外交も、来年使用予定の中学歴史の「危ない教科書」も、基をたどれば、この宣伝文書に発するものといえるだろう。
2.2)記憶と歴史の剥奪(第一段階のb)
・「ある民族を滅ぼすには、その民族の記憶を消すことだ」という箴言があります。アメリカは、この古来の鉄則に忠実に、日本の弱体化政策を実行した。つまり、日本民族の固有の記憶と歴史を剥奪し、代わりに勝者の歴史を吹き込んだのである。与えられた勝者の歴史とは、“WGIP”の第1段階において決定的な役割を果たした『太平洋戦争史』であった。
・そして、民族の固有の記憶=歴史の剥奪には、『太平洋戦争史』が出された1週間後の昭和20年12月15日に発せられた「神道指令」が重大な効果をもたらした。「神道指令」は、日本固有の民族的信仰の神道と国家との結びつきを禁止するものであった。
・今日では、神道は、宇宙生命との融合、自然環境との共生を重んじた宗教であり、原始文化と現代文化を調和させたユニークな日本文明の根本にあるものとして、世界的に高く評価されている。また、多くの識者から、21世紀に人類文明が新生するために、神道の持つ平和的でエコロジカルな性格が期待されている。しかし、戦後間もない頃には、神道は、日本の「侵略戦争」の思想的根源のように見られていた。
・占領軍によるいわゆる「国家神道」の解体を、政教分離、信教の自由の実現として評価する人も多い。しかし、一つ忘れてはならない問題がある。それは、ポツダム宣言及び降伏文書に違反するものだったことである。ポツダム宣言は第10項で「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障していたからである。戦争の勝利者が、敗者の宗教に手をつけるということは、異例なことであった。文字どおり無条件降伏したドイツにおいてさえ、行われていない。
・GHQは、「神道指令」と同時に、神武天皇による日本建国の理想とされた「八絋一宇」という言葉の使用を始め、日本民族の理想やロマンを伝える伝承や神話の抹殺を命じた。古事記・日本書紀はもちろん、古くからのおとぎ話までが消された。同時に、楠木正成、東郷平八郎などの国民的英雄の名が削られ、反対に足利尊氏、幸徳秋水ら反逆者や不忠者を讃えられた。
・また、西郷隆盛、吉田松陰らに関する本の発行も禁止された。彼ら明治維新の英傑たちは、西洋の植民地化に対抗して、日本の独立を守り、アジアの興隆を目指した指導者であったから、近代日本の背後にある危険思想と見なされたのであろう。西郷さんなどは、内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人』の人物像の一人であり、まさに「代表的日本人」こそが、アメリカにとっては、危険人物だったのであろう。
2.3)東京裁判の準備(第2段階)
・“ WGIP ” を報告したGHQ民間情報教育局(CI&E)の文書によると、“ WGIP ”の第2段階は、昭和21年年頭から開始された、となっている。
・CI&Eの文書には、この段階では「民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用された。しかしながら、時としてきわめて峻厳に、繰り返し一貫して戦争の原因、戦争を起こした日本人の罪、および戦争犯罪への言及が行われた」と記されている。
・そして、新聞、ラジオ、映画等のメディアが徹底的に利用され、特に新聞へは、記者会見、報道提供、新聞社幹部と記者への教化等によって「毎日占領政策の達成を周知徹底」した、と記述されている。特に重点が置かれたのは、東京裁判という歴史的な一大イベントの予告と、報道である。
・昭和21年6月に極東国際軍事裁判所が開廷されるにあたっては、国際法廷の解説や戦犯裁判の資料を提供して、東京裁判の違法性を隠蔽した。裁判中は、「とりわけ検察側の論点と検察側証人の証人については、細大漏らさず伝えられるよう努力している」と文書は報告している。日本の弁護側と弁護側証人については、わずかしか伝えないという情報操作が行われたのは、言うまでもない。
2.4)原爆批判と日本の言い分の封殺(第3段階)
・この文書がだされた昭和23年2月6日現在では、第3段階は進行中であった。第3段階は、東京裁判の最終論告と最終弁論を目前にして、緊迫した情勢を反映したものであった。文書には、原爆投下への批判と敗戦国の言い分を圧殺し、連合国を全面的に正当化しなければならないという連合国側の危機感が漂っている。
・文書の述べているところを要約すると、合衆国の一部の科学者、聖職者、ジャーナリスト等の発言に示唆されて、日本人の一部が、原爆投下を「残虐行為」の烙印を押してはじめている。さらに、これらのアメリカ人のあいだに、一部の日本の国民感情を反映して、広島での教育的人道主義的運動は、「贖罪」の精神で行われるべきだという感情が高まりつつある。
・これとともに、東京裁判で東条英機が「自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞賛されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない」云々。
・こうした原爆問題と東條証言による連合国・米政府への批判の高揚に対抗して、“WGIP”の第3段階が展開されたのである。
・その内容は、それまでの段階以上に、繰り返して日本人に「日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍が行った残虐行為について自覚」させようとし、特に「広島と長崎に対する原爆投下の非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーン」を行おうとしたものである。日本の「侵略」や「残虐行為」は、原爆投下の免罪のために強調されたのである。そして、日本は犯罪国家だから原爆を投下したのは当然だ、悪いのは日本の軍部指導者である、という意識が徹底的に植え付けられた。
・特に、東條証言で陳述された日本側の言い分を一切認めず、「悪者はコイツだ、うらむならコイツだ、俺たちはワルクナイヨー、なんの罪もナインダヨー」と、日本国民が連合国批判に向かわないように、宣伝した。実は、東京裁判はそれ自体が、最も大規模なウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムであったといえる。
・それとともに江藤淳氏の言葉を借りれば、「日本人から自己の歴史と歴史への信頼を、将来ともに根こそぎ『奪い』去ろうとする組織的かつ執拗な意図を潜ませていた」ものでもあった。
・連合国側は、日本の戦争は「共同謀議による侵略戦争」と決め付け、日本の指導者を「平和と人道に対する罪を犯した戦争犯罪人」として処刑する意志であった。これに対し、東條英機は、総理大臣としての責任を認めつつも、大東亜戦争は自存自衛の戦争だった、と、日本が戦争に至った世界史の展開と、日本の立場を陳述した。それはCI&Eの文書が、東條は「自分の立場を堂々と説得力を以て陳述した」と書き止めたほど「説得力」のあるものだっただけでなく、東京裁判では連合国側の戦争責任が一切問われていない、という矛盾を鋭く指摘するものでもあった。判決は下り、東條は、連合国に操作された日本人同胞の憎悪を浴びながら、絞首刑にされた。
・マッカーサーは、そのわずか2年半後の昭和26年5月3日に、米国上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で驚くべき発言をしました。「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」 つまり、太平洋戦争は、日本にとっては自衛戦争だった、とほとんど認める発言を行ったのである。
・そこには、朝鮮戦争で、ソ連・中国・北朝鮮の共産軍と戦い、共産主義の脅威を身を以って知ったマッカーサーの姿があった。彼は、東アジアにおいて共産主義化を防ぐということが、戦前の日本にとって、いかに重大な死活問題だったか、ということを理解したのである。
・実は、マッカーサーは、その前年の10月15日、ウェーキ島でトルーマン大統領に対して、「東京裁判は誤りだった」と告白した、と世界中に伝えられている。しかし、東京裁判を行っていた時点でのマッカーサーは、国際法を超える最高決定権者として、「力と正義」の絶頂にあった。ジェネラル・トージョーの言い分を、後に自分が認めるようになることなど、思い付くわけもない。そして、“WGIP”を遂行していった。
2.5)プログラムは作動中
・占領時代は終わり、東京裁判は、マッカーサー自身によって否定された。しかし、
“WGIP”は、多数の日本人の脳にセットされたままである。このプログラムは今、現在も作動している。あなたの脳の中でも、おそらくーーーそして、日本という国が滅ぶ時まで、作動し続けるであろう。
・但し、このプログラムをデリートすることは、簡単です。それが、謀略だということを知れば、それでいいのである。
3) “ WGIP ” の経緯
3.1)「太平洋戰爭史」の新聞連載と「眞相はかうだ」のNHK放送
・同12月8日、GHQは新聞社に対し用紙を特配し、日本軍の残虐行為を強調した「太平洋戰爭史」を連載させた。その前書は次の文言で始まる。
「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑(いとま)がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されてゐるものの、その多くは未だ白日の下に曝されてをらず、時のたつに従つて次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によつて発表されて行くことにならう。(下略)」
・それと平行し、GHQは翌9日からNHKのラジオを利用して「眞相はかうだ」の放送を開始した。番組はその後、「眞相箱」等へ名称や体裁を変えつつ続行された。
・1948年(昭和23年)以降番組は民間情報教育局 (CIE) の指示によりキャンペーンを行うインフォメーション・アワーへと変った。
3.2)神道指令の発布と私信の検閲
・昭和20年12月15日、GHQは神道指令を発すると共に、以後検閲によって大東亜戦争という文言を強制的に全て太平洋戦争へと書換えさせ言論を統制した。
・当時、米軍検閲官が開封した私信(※)(江藤は「戦地にいる肉親への郵便」かという)は次のような文言で埋めつくされていた。
(※)私信:「突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」(8月16日付)
(※)私信:「大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。/米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか」(9月29日付)
・江藤は、「ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実である。/「数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」と指摘した。
・GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。
「占領軍が東京入したとき、日本人の間に戦争贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。(略)日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行きわたっていた」
・こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書はG-2(CIS)隷下の民間検閲支隊(CCD) の情報によれば昭和23年になっても「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着してなかった」有力な証拠である、また、このプログラムが以後正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも江藤は指摘する。
・東京裁判で東條英機による陳述があったその2箇月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析(※)を行っている。
(※)分析:「一部日本人の中には(中略)東條は確信を持つて主張した、彼の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まつてゐる。これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある。」、「広島における原子爆弾の使用を『残虐行為』と見做す・・・最近の傾向」(1948年(昭和23年)3月3日附CIE局長宛覚書)
・こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局 (CIS) の同意を得た上で、プログラムに第三段階を加える手筈を整え、情報宣伝に於ける対抗処置を取った。
4)“WGIP”の実例
① 太平洋戦争史(昭和20年):全国の新聞に掲載。新聞連載終了後、刊行
② 神道指令(昭和20年):GHQ、覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」によって、公文書で「大東亜戦争」という用語の使用を禁止。
③ 授業停止等(昭和20年): GHQ、覚書「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」によって、修身・国史・地理の授業停止と教科書の回収、教科書の改訂を指令。
④ 修身・日本歴史・地理の教育停止(昭和21年):文部省、GHQ指令について通達
⑤ 修身・国史・地理教科書の回収(昭和21年):文部省、回収通達。
⑥ 代用教材の購入・利用(昭和21年):文部省、国史教科書の代用教材として『太平洋戦争史』を購入、利用するよう通達。
⑦ 『眞相はかうだ』のラジオ放送(昭和20年):『眞相はかうだ』をラジオで放送させ、番組名を変えながら、昭和23年まで続けられた。
⑧ 極東国際軍事裁判
⑨ 昭和24年2月、長崎の鐘にマニラの悲劇を特別附録として挿入させる。
5)論評など
①『産経新聞』は次のように論じている。
・占領期にGHQが実施した「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(WGIPと同義)は、今も形を変えて教育現場に生き続けている。(中略)文芸評論家の江藤淳は著書『閉された言語空間』の中で次のように書いている。
~「いったんこの(GHQの)検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、(中略)日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊を続け、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る」~
6年前に自死した江藤の「予言」は、不幸にも現実のものとなろうとしている。
② 高橋史朗明星大教授は、「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と論じている。
③ 一方、有山輝雄は『閉された言語空間』の新刊紹介で、第一次資料によって占領軍の検閲を明らかにした先駆的研究であるとしながらも「著者の主張に結びつけるための強引な資料解釈も随所に見受けられる。また、占領軍の検閲に様々な悪の根源を押しつける悪玉善玉史観になっているが、これは現在の政治状況・思想状況への著者の戦術なのであろう」と評した。
④ 山本武利早稲田大学教授は江藤の占領研究について、占領軍の検閲方針を示した第一次資料をGHQ関係資料によって検証した先駆的な仕事であると評価した。
⑤ 日本基督教団の手束正昭牧師は、2007年 - 2009年のキリスト教系月刊誌『ハーザー』の連載記事で、大東亜戦争における日本悪玉論はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの洗脳によるものであるとの見解を発表し、日本悪玉論が日本の宣教を妨げると主張している。
⑥ 秦郁彦は米留学中の江藤の体験談を引用しながら、江藤が「日米関係にひそむ『甘えの構造』に早くから気づ」いており「それを最大限に利用していたよう」だと指摘。
江藤の論は「アメリカ製の公文書を引き合いに、陰謀の『証拠固め』に乗り出した」、「相手が中国や朝鮮半島であれば厄介な紛争を招きかねないが、アメリカなら聞き流すか笑いにまぎらすだけ」の「陰謀説」であり、このような「(日米の協調と同盟の関係を)対米従属と見なし、『甘えても怒られない』(怒ってくれない)のを承知の上で反発する論調」は今後も絶えないだろうと述べている。
(引用:Wikipedia)
1)精神的な武装解除の初期における国際的な枠組み(※:引用は下記に示す)
1.1)「精神的な武装解除」を推進する期間としての占領中
・日本の戦後は、占領中ではなく、旧敵国である連合軍諸国との講和条約が昭和27年4月に発効して、主権を回復してからである。
・占領中は武器を用いた戦闘を終結しただけであって、戦争は継続していたという観点を無視しては,国際公法の約束事は成立しない。物的な武器を用いた戦闘がなくなった代わりに、別の形の戦闘が日々展開していたという見地を無視してはならない。
・当時の米国の国務長官バーンズは,降伏調印の記念すべき日に、これは日本の「物的な武装解除」が確認されただけであって、次の段階として「精神的な武装解除」の必要があると言った。この部分は,米国あるいは連合諸国による日本に対しての,別の形の戦闘の継続を確認したことである。
・昭和20年8月に天皇の下命により戦闘を日本が止めてから、「戦争が終わり,戦後になった」と日本人が錯覚しているところから生じる問題は、何か。それは、占領中の国内でのGHQ統治の展開やその理解で多くの錯誤が生まれてきたことだ。しかも、大かたの日本人とくに知識人は,いまだにその錯誤を継続させてきている。
・バ-ンズ長官の見解にあった「精神的な武装解除」は、彼独自のものではなく、すでに戦時中からその政策形成のための調査研究は多角的に行われていた。そこから方針が集約されてきていたのは、多くの資料に残されている(今は浅薄だと定評になっているものの、一時は有名になった人類学者R・ベネディクトの『菊と刀』も、そうした文脈での日本研究の一環から生まれた作品である)。
1.2)精神的武装解除を国際的に公式化する文書群
・こうした国務長官の声明が政策的に最初に確認されたのは、どういう経緯によるのかはともかくとして、記録に残された最終の日付では、9月22日の『降伏後における米国の初期の方針』である。同文書は降伏後に公表された対日処理方針では最初のものであった。
・その方針の「第3部 政治。1 武装解除及非軍事化」の最後の段落において、「理論上及び実際上の軍国主義及び超国家主義(準軍事訓練を含む)は教育システムより除去させられる」と規定されている。
・この方針は、統合3謀本部(JCS)から11月1日付でマッカーサー(以下「マ」とする)司令官宛に指示された、『日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令』の「1部 10項(a)」で、同趣旨のものが、具体的な施策あるいは手段を伴って記されている。
・「好戦的国家主義及び侵略の積極的推進者であったすべての教師及び軍事占領の目的に積極的に反対し続けているすべての教師は、受容されうる有適格の後継者と取り替える」。つまり占領政策にとって都合の悪い教職員は除去すると言っている。
・この文節に続いて、上記のSWNCC文書より厳しい表現になっているのは、軍国主義教育の除去が、「禁止される」になっている箇所である。こうした強意は,GHQの対日教育改革の取り組みに、大きく影響を与えてくるのは当然であろう。
・すでに明らかなように日本は米国だけに降伏したのではない。連合軍を構成する諸国に敗北したのであった。それは降伏の調印式に参加し署名した国々だけでも列記すればわかる。
・そこから最強国家になった米ソ間では、調印式の前から対日占領管理をめぐって暗闘が起きていた。
・その経緯はともかくとして、1945年12月にモスクワで開催された米国,英国,ソ連の外相会議において、極東委員会の設置が発表された。構成国は11カ国であった。その対日理事会がポツダム宣言に則して,GHQを監視する位置になった。
・同委員会は1947年6月19日に政策決定文書「降伏後の対日基本政策」を作成し、同年7月11日に発表した。この文書は前述の既往の文書の超国家主義の後にanti-democratic が加わっているだけで,他は同じ文言である。なぜ「反民主主義」という文言を敢えて付け加えたのか,どの政府の提起によるものかは,まだ筆者は追求していない。
・ともあれ,日本占領の初期では、こうした国際的な枠組みにおいて、政策が実施される体制になっていた。その枠組みが実際上で厳密に順守されていたかは、この限りではない。専ら、米国の意向、それも東京のお濠端にある第一生命ビルに設置されたGHQが最も影響力を有していた。
・それはなぜか。米ソ間の蜜月は対ドイツ戦が終了した以後から変わっていったからである。対日戦の終了後は、実際には大戦中の蜜月は終わっていた。極東委員会は有名無実になった。それが対日問題で決定的な段階に入るのは,1950年6月に起きた朝鮮戦争を待たねばならなかった。
2)過去の断罪と未来の調教まで(※:引用は下記に示す)
2.1)「言論の自由」の背後にあった2つの制約条件
〇「自由の指令」の背景
・ポツダム宣言から、この小見出しの内容にいたる中間項は、降伏調印された9月2日から1カ月余たっての10月4日に指令された、いわゆる「自由の指令」(政治的、社会的及宗教的自由に対する制限除去の件)である。その内容を見て愕然とした東久邇内閣は、実施しがたいと総辞職した。
・その理由は、言論の自由をうたう1節に、「天皇国体及び日本帝国政府に関する無制限なる討議を含む」とあり、天皇国体を含んでいるところに、ポツダム宣言受諾の敗者の条件として掲げた「国体の護持」から考えて、「無制限」を記したGHQの意図にうさん臭いものを感じたからであろう。
・首相は宮家(皇族)であった。
・この懸念は基本的には間違っていなかったのは、その後の経緯が示している。後出の丸山真男による日本軍国主義に関する諸分析や宮澤俊義の「8月15日革命説」は、溯ってGHQの対日政策を補強する学説の役割を果たすことになった。
・「自由の指令」は,ほんの序の口であった。しかし,その影響力は図り知れない巨大なものでもあった。言論の自由という名分は、長かった戦時下の期間での言論統制から見ると、これまでの緊張を一挙にほぐしたからである。
・しかも、この言論の自由はカッコつきの自由でもあった。そこには2つの制約条件が制度的に用意されていた。
〇プレス・コード
・その1は、プレス・コードによる言論操作と抑圧、プレス・コードによる検閲を前提にしたところに成立していた面である。
・従って、市井の人々に提供される情報は、自由な報道と言われたものの、占領軍に管理されて選択されており、彼らにとって無害有益のものしかなかった。
・この陽と陰の双方の働きつまりダブルスタンダードを見ないと、日本の調教を目的として奨励された占領中の民主主義の在りようも見えて来ない。
・いまだに、占領政策に協力した「自由な報道機関」である大新聞は、占領中のGHQへの協力についての自己総括を実証的にもしていない。
・イエロー・ジャーナリズムでないのなら、クォリティ・ペーパーの名前の実の提示が求められている。そうした情報公開をしてこそ、言論の自由のクオリティを高めるというものだ。
〇軍国主義廃絶を理由にした焚書
・その2は,焚書があったことである。前述のポツダム宣言での定義により除去に相当する書物は、燃された。この史実は、現在は殆ど知られていない。
・侵略主義,超国家主義に関わると判断された文献は、GHQから提出命令がされて、全国的に収集されて抹消された。
・しかし、占領中の日本には原則として、それはあり得なかったのは、カッコ付の民主化という調教が諸政策に共通していたからである。
・この焚書という手段には、ナチスが政権を掌握した後に、トーマス・マンの小説やユダヤ人であったハイネの詩集、さらにアインシュタイン等の多くの書物を燃やしたのと、論理的には共通している視点を持つことが必要である。それを上部で推進したのはGHQである。
・そこに「選択の自由」を原則として認めていないとしか見えないからだ。こうした措置は、占領軍の管理者が日本の文化や日本人そのものを、一段低く見ていないと出て来ない措置のように思える、という常識を有することが求められている。
・焚書になったのは悪書だからと、GHQによる行為を問題視しなかったGHQ流の民主化を肯定する知識人の存在への評価もまだされていない。
2.2)調教の構造と力学
・ではその調教の構造は、大枠としてどのように構成されていたのか。
・「自由の指令」から、昭和22年3月31日に施行された教育基本法の成立を経て、昭和23年12月23日のA級戦犯の絞首刑執行に至る3年余は、占領の骨格が作られた期間であった。
・今日から見ると,この期間の骨格作りは、3つの領域に分けて考えることができる。
〇第1領域:新日本建設に関する詔書と法令環境の整備
・その1の領域は、現在も天皇の人間宣言と言われている昭和21年1月1日の「新日本建設に関する詔書」と、それを取り巻くGHQからの指令を含めた法令環境である。
・まず直前の1945年12月15日に渡された、「神道指令」(国家神道,神社神道に対する政府の保証,支援,保全,監督並びに弘布の廃止に関する件)、同年12月31日の指令「修身,日本歴史及び地理停止に関する件」である。いずれも、日本国家と社会の在り方に負の問題がある、とする見地から出された指令である。
・「天皇の人間宣言」といまだに言われる詔書とて自発的なものではない。叡慮としての自発性は、冒頭にある近代日本の国是とされていた「五カ条のご誓文」であった。当初の原案にはなかったのを、陛下は求めた。この挿入にも抑止が働いたが、陛下は受け付けなかったと言われている。
・昭和天皇の考える民主主義は、国体と矛盾するとは思われていなかった模様である。歴史上の前提は抜きにして国際比較すれば,英国の立憲君主制が1つの先行事例としてあり,不思議ではない。
●神道指令の発令
・GHQは,信教の自由を前提にし,戦時下には信教の自由は抑圧されていたと「神道指令」を理由づける。たしかに戦時下での戦意高揚のためもあって、それまでがそれまでだからと割り引いたとしても、その内容はかなり意図的である。
・政策的な意図を含んだ「国家神道」という表現だけが、その後は先行して、いまだにその意図した定義は1人歩きすることになった。それは靖国神社問題にまで尾を引いている。
●修身、日本歴史及び地理教育の停止
・「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」に至っては、「日本政府が軍国主義的及び極端な国家主義的観念をある種の教科書に執拗に織り込んで生徒に課し、かかる観念を生徒の頭脳に植え込まんがために教育を利用せるに鑑み」との認識から来ている。
・ここからは、彼らが占領中に主に義務教育の課程で意図した対策が、そのまま浮かんで来る。逆読みをすればいい。「植え込み」とした表現に留意したい。
●教育勅語の廃止
・こうした地ならしがあって、1946年10月8日に文部省は、教育勅語捧読の廃止を全国に通達した。さらに1948年6月19日には、衆参両院で教育勅語(軍人勅諭、戊申詔書を含む)の失効を決議し、可決された。
・教育基本法を制定して3カ月弱という芸の細かさである。タクトを振るっていた者は第一生命ビルに鎮座していた。
〇第2領域:現行憲法の付与
・その2の領域は、1946年11月3日に公布されて、半年の猶予期間をおいて47年5月3日に施行された、いわゆる新憲法である。
・帝国憲法は民主的でないと断罪された。しかも、形式上は連続性を持たせて、帝国憲法の条文に従った改正という手続きを取らせている。
・占領中に憲法改正があり得るとするのは、明らかな錯覚であるが、日本ではこうした倒錯がむしろ現在でも一層強固になって臆面もなく掲げて生きている勢力もある。
〇第3領域:極東国際軍事裁判というショウ
・その3の領域は、大規模に公職・教職の追放をしながらの「戦犯」裁判である。その最大の大掛かりな演出として、参謀本部のあった市ケ谷に極東軍事裁判所の法廷が特設されて、46年5月3日にA級戦犯の東京裁判が始まった。
・48年11月12日に判決が下り、同年12月23日に死刑は執行された。この日は、皇太子つまり現在の天皇陛下のご生誕日でもあった。
・裁判と銘打ったものの、裁判に名を借りた勝利者側の復讐であり、敗者への懲罰を意味していたのは、遡及法で裁いたところに露骨に示されている。そこには西欧近代法の成果であったはずの常識はない。
・とくに旧占領地の蘭印(現インドネシア)やシンガポールで行われたB,C級戦犯裁判には、復讐以外の何物でもない事例が数多く見られたと言われている。
・A級裁判では、文官の広田弘毅までが戦犯になり、絞首刑になった。文官1名は便宜上の懲罰的な意図と思われる。
2.3)教育基本法の制定と教職追放
・この3つの領域で展開された諸政策の目的は、日本列島に棲息する住民への壮大な調教を意味していた。民主化と見るか弱体化と見るかは、国家主権とは何かなど国際公法を含めた事態の認識や評価をする当人の見識の問題であろう。
・文部大臣田中耕太郎や主事相良などにとっては、未開の地がGHQの推進する民主化によって啓蒙され、日本社会は進歩することになる。
・こうした未来に向けての諸作業の集大成が教育基本法の制定であったと言える。
・旧教育基本法は、その前文の冒頭で「われらは、さきに,日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」、とある。新憲法とこの法は一体にある。
・現在から見れば、公職と教職の膨大な追放劇が始まり、新たに占領側のお墨付きを得て登場した役者によって構成されていた日本側の下請け機関が文部省であった。
・この新たに「民主的に」選抜された組織は、いかにGHQに対して唯々諾々であるばかりか、彼の「管理政策」遂行に使命感をもって積極的に取り組んでいた。
「1項、2項(※)」×2の出典:2007年10月5日「占領下における教職“追放” (教職員適格審査)<2>~文部省の自己総括と大学の適応過程の検証~」池田 憲彦(元・拓殖大学日本文化研究所教授・同研究所附属近現代研究センター長・高等教育情報センター(KKJ)客員)
http://chiikikagaku-k.co.jp/kkj/opinion/04/04_f.html
3) WGIPの具体例
3.1)言論の自由と言論統制
・1945年10月8日に、「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始した。
・GHQは「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)や「プレスコード」、「ラジオコード」(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより新聞雑誌などあらゆる出版物、放送や手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。
・連合国の批判、占領軍の政策や極東国際軍事裁判を批判したもの、軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。
・なお、新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止された。
・プレスコードによる言論統制は依然として存在したが、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった。
3.2)伝統文化の排斥
・軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるものについて活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。
・これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された。
3.3)世論対策
・占領軍として進駐していた英米に対して好感を持つような世論誘導が行われ、その一例としてアメリカ軍の兵士が、ガムやチョコレートを食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。
・その一方で、アメリカ軍人やイギリス軍人を中心とした占領軍兵士による強盗や強姦、殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反連合国軍感情が起こることを防いだ他、占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。
・後に、自由恋愛だけでなく、強姦などにより「G I ベビー」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。
・日本人の心理に戦犯の罪悪感を培うために、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが組まれた。
3.4)宗教の自由
・第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。
・神道指令により厳格な政教分離が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年に文化財保護法が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。
3.5)自己検閲
・自己検閲とは、社会心理学の用語で、周囲の反応により、自分の意見の表明を控える事を指す。また表現の自由に関して、書籍、映画、テレビ番組、楽曲、その他の表現や作品の作者自身が、政府や社会などの非難に晒される前に、論議を呼びそうな部分やある種の集団の感情を害しそうな部分を自分で削除してしまうことを指す。 こうした自己検閲は、作者に無断で映画プロデューサー、映画会社、テレビ局、出版社、新聞社などが行う場合もある。
・大東亜戦争終結後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が行った検閲によって日本の新聞社や出版社などは自主的に占領軍の検閲に触れるような内容の出版、用語の使用をしなくなった。江藤淳は、これを「日本人の自己検閲」と呼んだ。
・GHQは日本の公文書で「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの用語を使用することを禁止(神道指令)し、公教育でも使用されなくなり現在に至っている。
(引用:Wikipedia)
〇概要
・9月25日:GHQが日本人再教育を任務とするCIE(Civil Information and Education Section=民間情報教育局)を設置。中心となったのは米陸軍所属の心理戦争部。
・CIE設置に関するGHQ一般命令等4号によると、その使命は「マスメディアを総動員し、民主主義的理念・原理を伝播することにより、言論、出版、宗教、集会の自由を確立すること」で、CIE局長ダイク准将(Brig.Gen. K.R.Dyke)は「占領下のラジオ放送は、日本の放送施設を使い、CIEの管理下で運営する」と述べている。
・情報、教育、宗教・文化財、世論調査、社会学調査、総務の6部からなり、情報部企画・実施課とラジオ課が放送番組の制作や編成に関与した。
1)太平洋戰爭史
・太平洋戰爭史または太平洋戦争史は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下にあった日本で、昭和20年(1945年)12月8日より約10回に亘り連合国司令部記述として全国の新聞紙上に連載された宣伝記事である。国民は完全なる歴史を知るべきだ、軍国主義者の行った侵略を白日に、などと云う趣意により、― 奉天事件よりミゾリー號(戦艦ミズーリ)降伏調印まで ― という副題に掲げられた期間を対象として記述された、GHQによる宣伝占領政策の一つ。
・「太平洋戰爭史」は翌年4月、高山書院から聯合軍總司令部民間情報教育局資料提供、中屋健弌訳として刊行された。副題は ― 奉天事件より無條件降伏まで ― に換えられている。
・また、譯者のことばとして当局の厳密なる校閲を仰いだことが記されている。然しこの譯者のことばは民間検閲支隊による検閲により「大東亜戦争」の語が削除され、「太平洋戦争」へと書き換えられた。
・これらの宣伝に対して、GHQに対する批評の禁止などプレスコード等によって言論統制されていたために、批判や反論、検証などは許されず、他の占領政策と相俟(あいま)ってこれらの考えが次第に国民の間に押し広められていった。
2.2)眞相はかうだ
・「眞相はかうだ」または「真相はこうだ」は、大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦後の被占領期、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の一環として、昭和20年(1945年)12月9日より10回に亘りNHKラジオ第1放送及び第2放送で同時放送された宣伝番組。毎週日曜夜8時からの30分番組で、その前後に当時人気の番組が配置、編成されていた。
・再放送を含めほぼ毎日のように放送されたこの番組は、軍人とその親友である民主主義者の文筆家が主な登場人物で、満州事変から終戦に至るまでを、軍国主義者の犯罪や国民を裏切った人々を白日の下に、偽りない事実を、などという論評で、叙情的な音楽や音響効果音を駆使しながら、ドキュメンタリー形式を装ったドラマ仕立てにされた番組であった。脚本はGHQの民間情報教育局(CIE)ラジオ課が担当した。
・番組の内容を巡って、これらはGHQ作成であることが隠されたためにNHKへ手紙、電話などが殺到した。しかし、それらが抗議や非難などの批判的な内容ばかりであることを知ったGHQは、その成果を取り入れてより巧妙にそれに続く番組を作成、昭和21年(1946年)2月以降「眞相箱」、「質問箱」などへ形を変えながら昭和23年(1948年)1月まで放送された。
・「眞相箱」は、疑問に答えるという形式を取り、また、日本の良い面も随所に挿入されるなど国民への耳触りの良さも取り入れられた。真実の中に巧妙に織り交ぜられた虚偽等々の手法が用いられたこれらの番組の思想は、プレスコードやラジオコードなどのGHQの指令により言論統制されていた事もあり、次第に国民の間に押し広められていった。
・これを批評した雑誌の対談記事は、民間検閲支隊(CCD)による検閲により「占領政策全般に対する破壊的批判である」という理由で全文削除に処されている。
・「真相はかうだ」(または「真相箱」)の内容を採録した書籍として、『眞相はかうだ(第1・2輯)』(1946・1947年、聯合國最高司令部民間情報教育局編、聯合プレス社刊)、『眞相箱 太平洋戰爭の政治・外交・陸海空戰の眞相』(1946年、聯合國最高司令部民間情報教育局編、コズモ出版社刊)などが出版されている。
・『太平洋戦争史』は『眞相はかうだ』の元になったとされ、これら一連のGHQによる歴史観は、現在主流の根底を占めることとなっている。
(引用:Wikipedia)
1)言論統制と検閲
・戦後、アメリカは日本を「解放」し、「自由」を与えた、と思われているが、さにあらず。占領下には、真の「言論の自由」はなかった。現実には、厳しい言論統制と検閲が行われた。それは、日本のマスコミや文化人の精神を捻じ曲げてしまうほど強烈な弾圧であり、その効果は、今日にいたるまで、続いている。
・連合国軍が、ポツダム宣言の諸条件を無視し、占領政策を銃剣の行使と命令の通達とによって強行する過程では、何よりもまず日本の新聞とラジオが、次いで日本の学校が徹底的に利用された。つまり、マスコミと教育である。
・この過程で、アメリカは、日本の戦時中にも優る言論統制を行い、新聞、ラジオの検閲を始め、手紙等の郵便物の検閲までをあえて行った。そして、アメリカの司令部への一切の批判を封じたうえで、徹底的な反日宣伝を行い、日本弱体化政策を推し進めた。
1.1)戦前以上の言論統制
・ポツダム宣言にはどのように書かれていたのであろうか?
・宣言第10項には、「われらは日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有する者に非ざるも、われらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。 日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」とある。
・また、第12項には、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし」という文言がある。第12項の「日本国国民の自由に表明せる意思」は、第10項の「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」に照応するものと解釈するのが順当であろう。
・しかるに占領軍当局は、実際には、「あれはああしろ、これはこうしろと指図」するかたちで一方的に改革を強制し、言論・思想等の自由に苛烈に統制を加えた上、「基本的人権」の無視さえも憚ろうとしなかった。このように、ポツダム宣言と現実に実施された占領政策との間には、明らかに矛盾撞着が認められる。占領政策はしばしばポツダム宣言に背き、なかでも言論・思想等の自由は、占領下の日本には存在しなかった。
・第10項によれば、「民主主義的傾向の復活強化」を実現すべき主体は日本政府以外のなにものでもない。それは、戦前の日本に民主主義的傾向があったことを認め、その復活と強化をうたっている。軍部が台頭し、政治の実権を握る前の日本は、立憲君主制による議会政治を行っており、日本的な民主主義=民本主義が存在していた。ですから、ポツダム宣言によれば、日本政府は日本の自主性をもって「民主主義的傾向の復活強化」を行うことのできる権利を留保していた。
・とこらが、米国は、日本の政治社会システムのあらゆる形態を、米国式に変えることをのみ、民主主義化として、米国型の民主主義を、占領政策として押し付けた。それは、米国に将来決して脅威とならない属国化・被保護国化である。そのために、言論統制と検閲を必要としたのである。江藤淳氏曰く「これこそ勝者が敗者を一方的に支配するという『無条件降伏』の『思想』の、露骨な実践にほかならない」。
1.2)周到な事前準備
・言論統制と検閲は、マッカーサー司令部が勝手にやったことではない。あらかじめ「統合参謀本部の許可無しには、これを終了させることはできない」と定められおり、合衆国最高司令官たる米大統領・ルーズべルトの命令によって、実施されたものである。
・しかも、それには、周到な事前準備がされていた。占領軍が日本で実施した報道管理体制の原型は、実は日米開戦直後にワシントンで概略完成していた。その後、アメリカは日本占領のときのために、巧妙緻密な検閲計画を練り上げていたのであり、これこそ、戦略的思考というべきものであろう。
・米国は、民主主義国であり、言論の自由を謳歌している国であり、それゆえ、国家による検閲を嫌悪しているアメリカ人が、戦争という国策上検閲を実施せざるを得ないような危機的状況に直面した際、政府は検閲の存在という事実を隠蔽しようとする。民主主義による言論の自由の下で、表面には見えないように、国民に気付かれない仕方で、検閲を行わなければならないので、米国では検閲の方法が非常に高度に発達していた。
・日本占領後に民間検閲を実施する組織を計画し、実際の検閲業務に熟達した人物が、民間検閲将校(Civil Censorship Officer)として選ばれ、アメリカのマスコミ界、出版界のプロが、国策のために検閲を引き受けた。また、多数の日本人を雇用し、検閲に協力させることも、決定していた。こうして長期的に準備が行われていたのである。
2.2)新聞ラジオへの言論統制の開始
・昭和20年9月2日、ミズーリ艦上の降伏文書調印によって、国際法上の戦闘行為は停止された。この条件付終戦によって「目にみえる戦争」は終わりましたが、それに替わって「目にみえない戦争」、つまり「思想と文化の殲滅戦」(江藤淳氏)が、開始されたのである。それは、国際法を無視して強行された隠れた戦争であり、日本における民間検閲は、この戦争で、ほとんど原子爆弾に匹敵する猛威を振った。
・日本は敗戦・占領と同時に「言論の自由」を与えられたことになっている。ポツダム宣言第10項が「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障していたからである。しかし、実際には、降伏文書調印から2週間も経たぬうちに、昭和20年9月14日、同盟通信社が24時間の業務停止を命じられた。
・同社は、当時事実上の国営通信社というべき存在であったが、業務再開を許されたときは、「同社の通信は日本のみに限られ、同盟通信社内に駐在する米陸軍代表者によって百パーセントの検閲を受け、(略)また海外にある同盟支局からのニュースはこの禁止が緩和されるまでは使用してはならない」ことになった。つまり、GHQを通じるルート以外には、日本の立場からのニュースが海外諸国に流れないよう、また海外からのニュースが日本に入らないように、報道をシャットアウトしたわけである。
・続いて行われた言論弾圧は、日本のマスコミの姿勢や精神を根本的に捻じ曲げるほどに強烈なものであった。
〇新聞報道取締方針(SCAPIN-16)
・プレスコード通達に先立って昭和20年9月10日に「新聞報道取締方針」「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16) が発せられ、言論の自由の制限は最小限度に止め、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされた。
・朝日新聞の昭和20年9月15日付記事と9月17日の2つの記事について、9月18日に朝日新聞社は2日間の業務停止命令 (SCAPIN-34) を受けた。これはGHQによる検閲、言論統制の始まりであった。
・9月15日記事では鳩山一郎の談話が掲載され、9月17日記事では「求めたい軍の釈明・“比島の暴行”発表へ国民の声」という記事が掲載されていた。
2.3)フーヴァー大佐の声明
・9月15日に、民間検閲支隊(CCD)の支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社、日本放送協会等の日本報道関係代表者を集めて、通告を行いました。
① マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等とみなしていないことを明瞭に理解するよう欲している。
② 諸君が国民に対して提供してきた着色されたニュースの調子は恰も最高司令官が日本政府と交渉しているような印象を与えている。交渉というものは存在しない。(略)最高司令官は日本政府に対して命令する。しかし交渉するのではない。交渉は対等の者の間に行われるのである。
③ 今後、日本国民に対して配布される総てのものは、一掃厳重な検閲を受けるようになる。新聞とラジオは引き続き100パーセント検閲される。虚偽の報道や人心を誤らせる報道は許されない。連合国に対する破壊的批判も然りである。
・江藤氏曰く「この声明はポツダム宣言の規定する双務的、相互拘束的な日本と連合国との関係を、真っ向から否定していた。即ち合意による敗北の全称否定であり、征服による敗北の一方的な宣言である」。
・フーヴァー大佐は、9月6日付のトルーマンのマッカーサーへの指令に立脚して声明していました。この指令の第1項は「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである」と規定し、第3項はさらに重ねて「われわれがポツダム宣言を尊重し、実行しようとするのは、日本との契約関係に拘束されていると考える」のではなく、同宣言が「日本に関して、また極東における平和および安全に関して誠意を以って示されているわれわれの政策の一部をなすもの」だからである、と述べている。 かくして、江藤氏曰く、日本の報道関係者たちは「これからは日本人のための記事を書いてはならない、占領軍のための記事だけを書かなければならない、と言い渡されたに等しい」。
2.4)1週間のうちの劇変
・昭和20年9月14日に同盟通信社が24時間の業務停止を命じられ、そして、次々に弾圧の手が差し伸べられていった。朝日新聞が18日から48時間、英字新聞『ニッポン・タイムズ』が19日から24時間の発行停止処分を受け、また、『東洋経済新報』は9月29日号の回収と断裁処分を受けた。
・『東洋経済新報』の場合は、次のような内容が弾圧の原因となったものである。
「米国はかつて無謀な移民法の制定により、日本の平和主義者を打倒し、軍国主義者の台頭を促した。今次の極東戦争はここにその遠因の一つが存する。これは米人自身の認める見解だ」(人種差別的で反日的であった「排日移民法」への批判は一切許さないというわけで、ちなみに「排日移民法」は『太平洋戦争史』でも一切触れられていない。「自由と正義の解放軍」には、恥部はあってはならないのである。)
・9月14日から21日の1週間のうちに、占領下の日本の新聞、雑誌等の論調には、一大転換が起こった。特に、朝日新聞が21日に発行停止を解除されたときには、論調が劇的に変化していた。敗戦直後の朝日は、占領下の日本国民の心情を切々と書いていたが、それがコロッと変わり、反政府的反国民的な論調へと転換した。あきれるほど見事な「転向」であった。
・かくして、日本の新聞とラジオは、連合国軍司令部に対する一切の批判と抵抗の自由を封殺されていました。銃剣の下に、測り知れぬほどの圧力が、日本の言論精神に加えられたといえましょう。
2.5)占領軍の宣伝機関に
・9月21日には、日本新聞遵則(プレス・コード)、日本放送遵則(ラジオ・コード)が、出版・報道関係者に公表されました。これらの遵則は、以後6年半にわたって日本のマスコミを拘束しました。
・こうして「言論の自由」が完全に圧殺されていたので、9月26日に、トルーマン大統領のマッカーサーに対する指令(JCS1380/6)が新聞紙面に掲載されたとき、それをポツダム宣言・降伏文書違反として批判できる新聞は、どこにもありませんでした。
〇プレス・コード(SCAPIN-33)
・プレスコード(※)とは、占領下の日本において、GHQによって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則(新聞紙法)である。これにより検閲が実行された。正式名称はSCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」で、昭和20年9月19日発令、9月21日に発布された。「日本新聞遵則」また「日本出版法」ともいう。
・検閲は連合国軍最高司令官総司令部参謀部のうち情報担当のG-2(参謀2部) 所管下の民間検閲支隊(CCD Civil Censorship Detachment) によって実施された。昭和23年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5,700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日約5,000本以上であった。
・このプレスコードに基づいて、主にGHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分に処された。占領後期になってからは、個人的な手紙などにも検閲の手が回った。この事実は当時の一般の大衆には知らされず、出版・報道関係者(学校の同窓会誌・村の青年会誌などのミニ・メディア関係者なども含む)以外に存在が広く認知されたのはのちのことである。
・昭和20年9月22日に出されたSCAPIN-43「日本放送遵則」と一対のものである。新聞遵則は、この放送遵則と映画遵則もこれに準拠した。
・昭和27年4月28日サンフランシスコ講和条約発効により失効した。
※プレス・コード抜粋
・趣旨:連合軍最高司令官は日本に言論の自由を確立せんが為茲に日本出版法を発布す。
本出版法は言論を拘束するものに非ず寧ろ日本の諸刊行物に対し言論の自由に関し其の責任と意義とを育成せんとするを目的とす。特に報道の真実と宣伝の除去とを以て其の趣旨とす。本出版法は啻(ただ)に日本に於ける凡ゆる新聞の報道論説及び広告のみならず、その他諸般の刊行物にも亦之を適用す。
①報道は絶対に真実に即すること
②接又は間接に公安を害するようなものを掲載してはならない
③連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加えてはならない
④連合国進駐軍に関し破壊的に批評したり、又は軍に対し不信又は憤激を招くような記事は一切掲載してはならない
⑤連合軍軍隊の動向に関し、公式に発表解禁となるまでその事項を掲載し又は論議してはならない
⑥報道記事は事実に即し、筆者の意見は一切加えてはならない
⑦報道記事は宣伝目的の色を着けてはならない
⑧宣伝の強化拡大のために報道記事中の些細な事項を強調してはならない
⑨報道記事は関係事項や細目を省略する事で内容を歪曲してはならない
⑩新聞の編輯に当り、何らかの宣伝方針を確立し若しくは発展させる為の目的で、記事を不当に軽く扱ってはならない
●検閲の結果
・民間検閲支隊(CCD)はさらに10月1日には「進駐米軍の暴行・世界の平和建設を妨げん」という論説を掲載した東洋経済新報9月29日号を押収した。この記事は石橋湛山によって執筆されたものだった。村上義人は、これ以降、プレスコードの規定のため、占領軍将兵の犯罪自体が報道されず、各メディアは「大きな男」と暗に仄めかさざるを得なかったと発言している。
・また、一般市民の手紙・私信のうち月400万通が開封され、検閲をうけていた。さらに電信や電話も盗聴された。江藤淳はGHQによる言論統制についての著書『閉ざされた言語空間』のなかで次のように指摘(※)している。
※江藤淳の指摘
検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。
この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。
●削除・発禁処分の事例
・戦前・戦中の欧米の植民地支配についての研究書など7,769冊に及ぶ書物が官公庁、図書館、書店などから「没収宣伝用刊行物」として没収され、廃棄された。
・原爆関連:栗原貞子の詩「生ましめん哉」、峠三吉の詩「にんげんをかえせ」など 永井隆の『長崎の鐘』は1946年8月には書き上げられていたが、GHQの検閲により出版許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社から出版された。
・雑誌『創元』1946年12月創刊号に掲載予定だった吉田満による戦記文学『戦艦大和ノ最期』はGHQの検閲で全文削除された。独立回復後の1952年に創元社から出版された。
〇ラジオ・コード
・9月22日:GHQが「日本ニ与フル放送準則」(いわゆる「ラジオコード」)を発す。占領下の新聞・放送はこれらに基づいて検閲された。「日本ニ与フル放送準則」(ラジオコード)(※)の報道放送の規定は次の通り。
※ラジオ・コード
A 報道放送ハ厳重真実ニ即応セザルベカラズ。
B 直接又ハ間接ニ公共ノ安寧ヲ乱スガ如キ事項ハ放送スベカラズ。
C 連合国ニ対シ虚偽若ハ破壊的ナル批判ヲナスベカラズ。
D 進駐連合軍ニ対シ破壊的ナル批判ヲ加ヘ又ハ同軍ニ対シ不信若ハ怨恨ヲ招来スベキ事項ヲ放送スベカラズ。
E 連合軍ノ動静ニ関シテハ公表セラレザル限リ発表スベカラズ。
F 報道放送ハ事実ニ即シタルモノタルベク且完全ニ編集上ノ意見ヲ払拭セルモノタルベシ。
G 如何ナル宣伝上ノ企図タルトヲ問ハズ報道放送ヲ之ニ合致スル如ク着色スベカラズ。
H 如何ナル宣伝上ノ企図タルトヲ問ハズ軽微ナル細部ヲ過度ニ強調スベカラズ。
I 如何ナル報道放送ヲモ剴切ナル事実若ハ細部ノ省略ニ因リ之ヲ歪曲スベカラズ。
J 報道放送ニ於ケル報道事項ノ表現ハ如何ナル宣伝上ノ企図タルトヲ問ハズ之ヲ実現シ又伸張スル目的ノタメニ特定事項ヲ不当ニ顕著ナラシムベカラズ。
K 報道解説、報道ノ分析及解釈ハ以上ノ要求ニ厳密ニ合致セザルベカラズ」(報道放送のほか、慰安番組、情報・教養番組、広告番組について規定があるが、省略)
・トルーマンの指令(※)には、公然と国際法を無視した次のような内容が示されていました。
※トルーマンの指令
①天皇および日本国政府の権限はマッカーサー元帥の支配下におかれる。連合国と日本との関係は契約的基礎の上にあるのではなく日本は連合国に対して無条件降伏を行ったのである。マッカーサー元帥の権威は日本に対して至上のものであるからマッカーサー元帥の権威の範囲に対する日本人の質問を許してはならない。
②日本の管理はマッカーサー元帥が速やかにその意図を実行し必要とあらば武力を行使する権利を傷つけずに良好なる結果を生ずる場合にのみ日本政府によって行われるであろう。
③対日戦後処理問題に関するポツダム宣言は契約上の要求にもとづいてなされたものではなく、日本および極東の平和ならびに安全に対して誠意ある政策を実施せんとする意図の下に発せられたものである」
・マッカーサーは、この指令を、占領間もない9月6日に受け取っていたが、26日までの20日間公表せずにいた。この間に、マッカーサーは、日本の新聞、ラジオ等を徹底的に弾圧し、GHQに対し、一切批判・抵抗できないようにしたうえで、公表したのである。この20日の間に、日本のマスコミは、有無を言わさず、占領軍の宣伝機関に変じられてしまった。
・マッカーサーは、こうしてマスコミを自分のマスコミとすることで、日本国民の批判・抵抗を抑えこむことができたのである。
〇 教科書検定基準
・教科書の検閲基準は5つあった。
①天皇に関する言葉で「現御神(あきつみかみ)」「現人神(あらひとがみ)」「大君(おおきみ)」などは駄目
②国家的拡張に関する言葉で「八紘一宇」「皇道の道」「肇国の精神」などは駄目
③愛国心につながる用語も駄目(愛国心がタブー視されていく源がここにある)
④日本国の神話の起源、あるいは英雄及び道義的人物としての皇族、これを扱ってはならない
⑤神道や祭祀、神社に関する言及も駄目(神道指令)
2.6)言論の自由の実態
・天皇マッカーサー会談の記事をめぐって、内務省は、9月24日付の「新聞界の政府からの分離」(SCAPIN-51)指令に真向から挑戦して日本の現行国内法を発動し、直截に新聞界の国家に対する忠誠を要求したのである。 これは、とりも直さず新聞に対し、GHQと日本国家との間で、いずれの価値を選択するかという、二者択一を迫る要求にほかならない。
・もし真実に連合国の「真実」と日本の「真実」との二つの「真実」があるなら、新聞は果たしてどちらの「真実」を選択しようとするか? またもしCCD(民間検閲支隊)と内務省との二つの検閲が存在するとすれば、新聞は果していずれの検閲に服従しようとするのか?
・天皇に関する報道は、期せずしてジャーナリズムの国家に対する忠誠という根本問題を提起した。そして、日本のジャーナリズムは当面日本のジャーナリズムにとどまろうとするかのように見えた。
・これに対する総司令部側の対応と報復は、迅速かつ容赦を知らなかった。その第1弾となったのが、民間検閲支隊の起案した9月27日付の「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN―66)である。続いて、9月29日には、「新聞と言論の自由に関する新措置」(※)指令が出された。
※新聞と言論の自由に関する新措置の件
①日本政府は新聞の自由ならびに通信の自由に関する平時及び戦時の制限措置を即時停止すべきこと。
②今後、新聞その他の刊行物、無線、国際電信電話、国内電信電話、郵便、映画その他一切の文字および音声に対する検閲については、最高司令官が特に承認した制限によってのみ取締られるものとする。
③世論表現の一切の機関を政府の管理下に置いている現行法令が撤廃されるまで、これら法令の施行は停止されるべきこと。
④いかなる政策ないしは意見を表現しようとも、新聞、その発行者、または新聞社員に対して、日本政府は決して懲罰的措置を講じてはならない。但し最高司令官が虚偽の報道もしくは公安を害する記事と認めたものはこの限りではない。社論社説に対する懲罰として出版許可を取消し、最高司令官の許可なく逮捕し、罰金を賦課し、用紙配給を削減する等の政府の権限は、今後これを行使してはならない。
⑤出版業者と著述家の強制的組織は廃止されるものとする。自発的組織は奨励される。
⑥いかなる政府機関も今後新聞の発売領布を禁止し、記事を差止めることができない。また一切の言論機関に対し外部から編集方針を強制するために直接間接の圧迫を加えてはならない。
⑦ニュースの領布に関する1945年9月10日付最高司令官指令並に新聞の政府からの分離に関する1945年9月24日付最高司令官指令と背馳する平時および戦時の現行法令の撤廃措置を講ずるべきこと、関係法令次の通り。
a、新聞紙法 b、国家総動員法 c、新聞紙等掲載制限令 d、新聞事業令
e、言論出版集会結社等臨時取締法 f、言論出版集会結社等臨時取締法施行規則
g、戦時刑事特別法 h、国防保安法 i、軍機保護法 j、不穏本書取締法
k、軍用資源秘密保護法 l、重要産業団体令及び重要産業団体令施行規則
⑧日本政府は毎月1日および16日に今回の指令並に9月10日付指令、9月24日指令に関して政府が講じた措置についての詳細な報告書を最高司令官に提出するものとする。
・しかし、この指令は、単に内務省の領布禁止令を覆し、天皇とマッカーサーの記念写真とクラッカーホーンのインタビュー記事を国民の眼に触れさせた、というにとどまらない深刻な影響を、以後日本のジャーナリズム全体に対してあたえたといわなければならない。
・この指令によって、日本の新聞は、「いかなる政策ないし意見を表明しようとも」、「決して日本政府から処罰されることがない」という特権的地位を与えられた。
・「いかなる」という以上、その「政策ないしは意見」は、日本にどのような不名誉と不利益をもたらすものであってもよく、直接間接に日本という国家そのものの解体と消滅を志向するものであってもよい。
・換言すれば、この指導によって日本の新聞は、国家の機密情報を暴露することも可能で、利敵行為、通敵行為も罰せられない。国家に対する忠誠義務から完全に解放されたのであるから、これこそマスコミとして、究極の言論の自由を与えられたと喜ぶべきであろうか?
・いいや、日本の国家権力から解き放たれた代わりに、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれたのであり、そして、連合国・米国政府の政策ないしマッカーサーの意見の代弁者に変質させられたのである。つまり、日本のための言論機関から、連合国のための言論機関へと転向させられたのである。
・日本の新聞は、これに逆らったなら、商売として存続することはできなかった。生き残るためには、進んで連合国の対日占領政策遂行の道具となり、連合国の政策ないし意見を、鼓吹する以外に、道がなかったのである。これこそ、勝者から与えられた「言論の自由」の実態でした。
・出版関係者は「報道の自由」も「言論の自由」も存在しないことをよく知っていた。しかし、そのことを指摘したり活字にしたりすることは厳禁されており、これが外国権力に対する完全服従を強制されたジャーナリズムの実状であった。
・かくして、9月29日をもって、日本の言論機関、なかでも新聞は、自国の国益を無視した、国籍不明のメディアに変質させられ、続いて、10月8日には、事前検閲が同盟通信社から、朝日、毎日、読売報知、日本産業経済、および東京新聞の東京5紙に対して、拡張実施された。(読売報知は今の読売、日本産業経済はサンケイ。)
・こうした弾圧は非常に強烈であったので、日本のマスコミの多くはマスコミとしての精神を捩じ曲げられ、今日にいたるまで卑屈な自主規制と自己欺瞞に陥っているほどである。
・この指令の日付は9月27日だが、それが実際に日本政府に通達されたのは、9月29日午前11時30分であった。これによって内務省の領布禁止令はその日のうちに覆され、新聞は半日遅れで購読者に配達された。
2.7)検閲の指針
・戦後日本を弱体化させ、マスコミの言論精神を偏向させたものに、マッカーサーによる徹底的な言論統制と検閲がありました。そこには、占領軍批判、検閲への言及、本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目に及ぶ検閲指針が存在しました。
・マスコミは、このことをほとんどとりあげていませんから、一般には知られていません。
・検閲指針は、昭和21年11月末には、まとめられていました。「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として、30項目(※)が示されています。
・ここで意図されているのは、①GHQへの批判封じ(特に、憲法と東京裁判等)②連合国への批判封じ(特に、米の原爆、ソの満州侵略等)③日本の伝統的な精神文化と明治以降の日本国家の否定、といえよう。
※掲載禁止、削除理由の類型
1)SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する誹謗や中傷
2)極東軍事裁判に対する批判や抗議
3)SCAPが憲法を起草したことに対する批判・・・日本の新憲法起草にあたってSCAPが果たした役割についての一切の言及、あるいは憲法起草にあたってSCAPが果たした役割に対する一切の批判」。憲法批判とこれが米国製であることの暴露、及び押し付けられた事実は一切触れてはならない。
4)検閲制度への言及・・・出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに相当する。・・・言論統制や検閲制度が存在しているという事実を暴いてはならない。
5)合衆国に対する直接間接の一切の批判
6)ロシアに対する直接間接の一切の批判
7)英国に対する直接間接の一切の批判
8)朝鮮人に対する直接間接の一切の批判
9)中国に対する直接間接の一切の批判
10)他の連合国に対する直接間接の一切の批判
11)連合国一般に対する直接間接の一切の批判
12)満州国における日本人の取扱いについて特に言及したもの・・・ これはソ連、中国への批判となるが、特に項目を別にして明示している。日本人が不当に取りあつかわれたことに対する批判。
13)連合国の戦前の政策に対する批判
14)第三次世界大戦への言及
15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
16)戦争擁護の宣伝
17)神国日本の宣伝
18)軍国主義の宣伝
19)ナショナリズムの宣伝
20)大東亜共栄圏の宣伝
21)その他の宣伝
22)戦争犯罪人の正当化および擁護
23)占領軍兵士と日本女性との交渉
24)闇市の状況
25)占領軍軍隊に対する批判
26)飢餓の誇張
27)暴力と不穏の行動の扇動
28)虚偽の報道
29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30)解禁されていない報道の公表
・以上のように、マッカーサー司令部は、厳格な検閲指針を設けてマスコミを検閲し、日本の言い分、反論を一切報道できないようにし、さらに日本のマスコミを徹底的に活用して、一方的な情報を流し、宣伝活動をしたのです。
・具体的(※)には以下に該当していないか否かが調べられた。
※掲載禁止、削除理由の具体例
1)連合国軍最高司令官(もしくは総司令部 以下SCAP)に対する批判(連合軍の政策を非難する記事・国内における各種の動きにマッカーサー司令部が介在しているように印象づける記事)
2)極東国際軍事裁判批判
3)SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判
4)検閲制度への言及
5)アメリカ・ロシア・英国・中国他連合国、朝鮮人、国家を特定しなくても連合国一般、満州における日本人取り扱いについて、それぞれへの批判(この規定のため、占領軍将兵の犯罪自体が報道されず、各メディアは「大きな男」と暗に仄めかさざるを得なかった。)
6)連合国の戦前の政策に対する批判
7)第三次世界大戦への言及
8)冷戦に関する言及
9)戦争擁護・神国日本・軍国主義・ナショナリズム・大東亜共栄圏その他の宣伝(このため、戦前・戦中の欧米の植民地支配についての研究書など7000冊に及ぶ書物が官公庁、図書館、書店などから没収され、廃棄された。)
10)戦争犯罪人の正当化および擁護
11)占領軍兵士と日本女性との交渉
12)闇市の状況
13)占領軍軍隊に対する批判(米兵の暴行事件・米兵の私行に関して面白くない印象を与える記事・進駐軍将校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事)
14)飢餓の誇張(食糧事情の窮迫を誇大に表現した記事)
15)暴力と不穏の行動の煽動
16)虚偽の報道
17)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及/18)解禁されていない報道の公表
2.8)違反者への罰則
・さらに上記「検閲指針」の違反者は米軍の軍事法廷で訴追され、沖縄における強制重労働3年乃至5年であった。
3)自動検閲装置となったマスコミ
・GHQが最も活用したのは情報発信の中枢、NHKと朝日新聞、岩波書店などであり、これら主要な情報機関には検閲官が常駐し、厳重なチェックをするばかりでなく、占領政策に都合のよい情報を積極的に流させた。 米国製の「日本国憲法」では、第21条で「検閲はこれを行ってはならない」と定められている。しかし、占領軍は、戦前の日本の軍政が行った検閲の比ではない徹底的な言論統制を実施し、しかも、検閲していることを絶対に漏らさせないようにして、検閲の存在そのものも隠蔽するという、巧妙かつ狡猾な仕方をしていたのである。
・こうした言論統制と検閲の存在すら知らない日本国民は、NHKや朝日で同じ日本人の進歩的文化人が言っていることだからと、無抵抗に受け入れ、すべて真実だ、正義だと洗脳させられた。そのうちに、日本の過去の戦争はすべて「侵略戦争」だ、南京での虐殺数は30数万人だ、とウソも百遍繰り返せば、すべて「真実」となっていった。NHKや朝日が占領期間中に協力同調して、このウソをオウム返しに、主張し続けた責任は大きい。
・マスコミ側は検閲でボツにされる前に、占領軍におもねったゴマスリの反日記事を作るよう「自己検閲」の習性が自然に身についてしまった。このように占領軍の支配と影響を受けたのが日本のマスコミ界であった。実に今日にいたるまで、日本のマスコミの多くは、マッカーサーの言論統制と検閲の呪縛を解けず、侮日的反国益的な報道を続けている。
・特に、大東亜戦争と占領時代に係ることに関する限り、異常なほどの心理的規制が働いているようで、自分で枠組みを破ることができないのである。銃剣の下にヤキを入れられた恐怖によって、マスコミとしての精神を捻じ曲げられてしまったのであろう。
・偏向マスコミは、依然、朝日、NHK、岩波を筆頭としている。これらは、GHQが最も重視し、宣伝に利用したマスコミであった。 NHKも? と思う人がいるかも知れないが、NHKの製作番組では、大東亜戦争と占領時代に係る表現は、あきれるほど「東京裁判史観」に縛られている。ちょっと注意してドラマ、特集番組、教育番組をウォーッチしてみてください。 他に、この傾向にあるのは、新聞は毎日、テレビはTBS、テレビ朝日などである。記事や番組によって、幅はあるが。
4)信書の検閲
・さらに検閲は、マスコミだけではなく、一般市民にも向けられた。すなわち、郵便、電信電話の検閲である。これは、情報収集、世論把握を企図したものであった。
・米国から押し付けられた「日本国憲法」は、第21条第2項に、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と明記している。しかし、実際は、占領期間には、信書はしばしば開封されて占領軍当局の検閲を受け、そのあとには「検閲済」と英文で記した黄色いテープが貼り付けてあった。こうした占領軍による検閲は、終戦後まもなく廃止された検閲の復活ともいえるものである。
・戦前の日本政府は、あからさまに強権的な言論弾圧をした。占領軍は、検閲の存在を隠蔽し、国民に知られないようにして、実に組織的で徹底した弾圧を行った。
・連合国司令部は、昭和21年9月から、日本全国を9つの地域に分割し、各地域で毎日5百通、都合4千5百通の私信を検閲し、世論動向を調査し、12月には、3倍に増やした。実に、1ヶ月に33万7千5百通を開封して、検閲したことになる。
・この事もまた、占領政策は「言論、宗教及思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」としたポツダム宣言に背いていたことを明らかにしている。また、占領中の日本人には、現憲法第21条が保障している「言論、結社、表現の自由及び通信の秘密」があり得なかったということができる。
5)図書の焚書
・焚書とは、書物を焼却する行為であり、通常は、支配者や政府などによる組織的で大規模なものを指す。言論統制、検閲、禁書などの一種でもあり、特定の思想、学問、宗教等を排斥する場合、逆に特定の思想等以外を全て排斥する場合がある。
・太平洋戦争終結後日本を占領統治したGHQにより、西洋(特にアメリカ)中心の世界観否定につながる内容や戦争(正確には軍事力の行使を伴う国家間の駆け引き)を肯定する内容や、武士道等の武勇や決断力の重要性を説いた本が大量に処分されたが、自国の軍隊や軍事的な発想には肯定的なアメリカ人が民主主義の名のもとに被占領国に対して実施する政策としては公正さを欠くとして、これを批判的に「焚書」と呼ぶ立場も存在している。
・ここで言う焚書とは、書物を焼き払う行為を指すのではなく、「没収宣伝用刊行物」に指定することを指し、禁書に近い。西尾幹二はGHQが7,769点の指定リストをつくったと記している。
・昭和21年、GHQが「宣伝用刊行物の没収」と題するタイプ打ちの覚書を日本政府に送ったことに始まる。書物の没収は全国的に行われたものの、一般家庭や図書館にある書物は没収対象にはせず、書店や出版社から、あるいは政府ルートを通じ、国民に知られないよう秘密裏に行われた。
・溝口郁夫の『没収指定図書総目録』によると、自社の出版物を多く廃棄されたベスト3は、
1位:朝日新聞社 140点 2位:大日本雄辨會 83点 3位:毎日新聞社 81点
となっている。
・第二次大戦後日本へ進駐してきた占領軍が「焚書」をしていたことについて西尾幹二氏が12冊の本(※)を出版している。アメリカ軍がそのような野蛮な行為をやっていた事は案外知られていない。戦後の憲法は「思想の自由」「出版の自由」を謳っているが、占領中の日本でそれを大規模に侵したのがアメリカ自身であった。
※西尾幹二著「GHQ焚書図書開封」シリーズ
(引用:amazon.co.jp HP)
・『GHQ焚書図書開封(米占領軍に消された戦前の日本)』徳間書店 2008、徳間文庫 2014
・『GHQ焚書図書開封2(バターン、蘭印・仏印、米本土空襲計画)』徳間書店 2008、徳間文庫 2014
・『GHQ焚書図書開封3(戦場の生死と「銃後」の心)』徳間書店 2009、徳間文庫 2014
・『GHQ焚書図書開封4(「国体」論と現代)』徳間書店 2010、徳間文庫 2015
・『GHQ焚書図書開封5(ハワイ、満洲、支那の排日)』徳間書店 2011、徳間文庫 2015
・『GHQ焚書図書開封6(日米開戦前夜)』徳間書店 2011、徳間文庫 2016
・『GHQ焚書図書開封7(戦前の日本人が見抜いた中国の本質)』徳間書店 2012
・『GHQ焚書図書開封8(日米100年戦争~ペリー来航からワシントン会議~)』徳間書店 2013
・『GHQ焚書図書開封9(アメリカからの「宣戦布告」)』徳間書店 2014
・『GHQ焚書図書開封10(地球侵略の主役 イギリス)』徳間書店 2014
・『GHQ焚書図書開封11 (維新の源流としての水戸学)』徳間書店 2015
・『GHQ焚書図書開封12(日本人の生と死)』徳間書店 2016.8
〇伝用刊行物没収
・西尾幹二氏によると、アメリカ軍はその行為を、「宣伝用刊行物没収」と言う風に言い、一切の刊行物、更に私信の手紙さえも「検閲」していた事はよく知られたことだが、昭和3年1月1日から昭和20年9月2日までの間の9,288点の単行本を審査にかけ、うち7,769点に絞って「没収宣伝用刊行物」に指定したのである。
・本の冊数としては3万8千余冊(実際はもっと多いが確認されていない)。リストをつくったのは占領軍で、そのリストに基づいて実際に本の没収を全国的に行ったのは日本政府である。
〇小委員会
・本の実物が読書人の目の前から消えてしまったことが追求を止めるきっかけとなり、また研究意欲喪失の一番の理由だと西尾氏は指摘する。
・日本人の協力者がいたことも分かっている。 日本人の協力者は、(当時)帝国図書館長・岡田温氏、外務省の田中政治部次長、矢野事務官、内閣終戦連絡事務局の太田事務官が担当で、専門委員として東京大学文学部の助教授であった尾高邦雄氏、金子武蔵氏からなる小委員会が設けられた。小委員会は主として帝国図書館館長室で行われ、本委員会は委員長牧野英一氏主催の下に首相官邸内会議室で行われた。
・牧野英一氏は元東京大学名誉教授で長老格の法律学者であり、文化勲章を授与されている。更に同氏は昭和22年6月から23年5月まで中央公職適否審査委員会委員を務めていた。
・この委員会はGHQによる公職追放に協力するための委員会であり、彼は旧敵国側について仲間を裁く役割を演じていたのだ。加えて彼は昭和23年7月から33年11月まで国立国会図書館専門調査員をも務めていた。「焚書」という忌まわしい政策、自国の本の占領軍による没収が全国展開されたのは、この同じ昭和23年7月から占領終結までだから、彼は全期間を通じて「焚書」に深くかかわったことを推測させる。
〇没収作業の実情
・没収作業は文部次官通達による。知事に対し警察と協力して行うことを指導した。教育に関係する市町村の有識者を選んで「没収官」に任命することを求めている。ただし現場の教師は任命から外すように、また学校の図書館からの没収は慎むようにと言った細かい指示を出している。
・その代わりに出版社や書店にある関連図書はことごとく押収し、隠滅することを徹底的に行うように求め、流通ルートや輸送中のものも見逃さないようにせよと言っている。「新本、古本、貸本店をはじめその奥向き及びそれらの倉庫を含む」と付記してある。
・また当該本の捜査・没収も「当事者の同意に基づいて行うものであるが、もし被没収者が捜査及び没収を拒み、又没収者に危害を与えるなどのあるときは警察官公吏の協力を求め、その任務の達成を期すること」などと書かれている。
・違反者は昭和21年6月12日交付の「勅令311号。占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令」で、「10年以下の懲役もしくは7万5千円以下の罰金又は拘留もしくは科料に処する」と書かれている。 これだけのことをやっていながら、すべてを秘密にしGHQの意図が日本国民に知られぬように神経質なまでの配慮がなされている。
・文部次官通達にも「本件事務は直接関係のない第三者に知らせてはならない」とある。また没収官の「身分証明書」の裏側にも「本事務の施行されていることを当事者以外に知らせてはならない」と書かれている。
※引用:西尾幹二著 GHQ焚書図書開封(2008.6.30)、GHQ焚書図書開封2 (2008.12.31)(徳間書店)
6)言論統制と検閲の影響
・連合国司令部による言論弾圧と検閲は、伝統と歴史を奪って勝者の歴史を教え込む教育とともに、日本人のアイデンティティと自己の歴史に対する信頼を、あらゆる手段を用いて崩壊させよう、という執拗な意図に支えられていた。
・そればかりではなく、いったんこの検閲と宣伝教育計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着し、維持されるようになると、占領軍の統制検閲機構が消滅しても、引き続き同じ効果が持続するように仕組まれていたのである。 それによって、日本人の伝統と歴史に対する自信と誇りは、自動的に崩壊を続けてきました。また同時に、いつでも、外国からの検閲の脅威に曝され得る体質ができあがっているのです。
・この仕組みと体質こそ、昭和57年の第1次教科書問題のときに表面化し、来年使用予定の新教科書問題において、一層あからさまに暴露されたものです。「『自由』という名の弾圧」の欺瞞を打ち破り、心理的規制の呪縛を解き放って、日本亡国の危機を乗り越えましょう。
・このような変貌は、アメリカ人が力と富におぼれ、アメリカ精神すなわちピルグリム・ファーザーズの清教徒的な倫理観や開拓者精神を失ったためだろうと思います。アメリカ文明の後追いをし、アメリカ文明に飲み込まれてしまうと、わが国も同じように荒廃し殺伐とした社会に転落していくでしょう。日本人は、日本精神に帰り、自己本来の生き方を大切にしていくことが大事だと思います。
(引用:Wikipedia)
〇概要
・極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)(1946年5月3日〜1948年11月12日)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判とも称される。
裁判所が置かれた市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂 (引用:Wikipedia) 公判中の法廷内
1)東京裁判史観
・東京裁判によって作られた歴史観を、東京裁判史観と呼ばれる。東京裁判の裁判管轄権は、ポツダム宣言によって、昭和16年以降の大東亜戦争=太平洋戦争に関してのみに制限されていた。ところが、連合国は宣言を無視して、昭和3年以降の日本を裁くものへと拡大した。
・当裁判のほとんどに参加し、研究家としても著名な富士信夫氏は、東京裁判史観を「東京裁判で下した判決の内容は全て正しく、満州事変に始まり大東亜戦争に終わった日本が関係した各種事件、事変、戦争は、すべて日本が東アジア及び南方諸地域を略取し支配しようとした被告たちの共同謀議に基く侵略戦争であって、戦前、戦中の日本の各種行為、行動はすべて『悪』であったとする歴史観」と定義している。
・この定義に代表されるように、東京裁判史観は、戦前の日本が行ってきたことのすべてを断罪するもので、それによって、明治維新による有色人種で唯一の近代国家建設や日清・日露戦争の勝利を通して、日本が世界中から受けた尊敬は、ことごとく打ち消された。さらに、明治国家に結実した日本の国の歴史、社会、文化、民族性にいたるまで、何もかも悪いということにされてしまった。
・東京裁判において、日本は昭和3年以来、共同謀議によって侵略戦争を行ったとして、断罪された。その裏付けの一つとされたと考えられるのが、『田中上奏文』(※1)である。『田中上奏文』には、世界制覇の野望に基づく計画が書いてあり天皇も承認した、それを実行に移したのが昭和3年の張作霖爆殺事件だ、その後の日本の行動はこの文書に書かれた計画に基づいている、と理解されている。東京裁判では、米国・旧ソ連・中国などの連合国が日本を裁くうえで重要な根拠としたようである。ところが、『田中上奏文』には、当時から偽造された文書ではないかという疑いがあり、キーナン首席検事は、証拠としては提出しなかった。
・今日、『田中上奏文』が偽造文書であることが確認されている。そうした文書が、東京裁判において日本を断罪する筋書き作りに利用されたとすれば、東京裁判の欺まん性は一層、大きなものとなる。今日、東京裁判史観は広く深く、日本人の意識と無意識を呪縛している。そして、ほとんどの日本人は、何か言ったり考えたりするときには、東京裁判史観を前提にしている。
・明治以降の日本の歴史は罪悪の歴史である、それは国の成り立ちそのものがみな悪いからだ、という観念に支配されているのである。そして、この観念の呪縛に気づかず、自ら検証しようとしない人が多い。そのことが、日本人の心の危機の原因の一つになっている。日本人はアノミーとアイデンティティ・クライシス(※2)という深い病に冒されている。
※1 田中上奏文
・田中上奏文は、昭和初期にアメリカ合衆国で発表され、中国を中心として流布した文書である。日本の歴史家の多くは怪文書・偽書であるとしている。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。
・田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が昭和2年、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。松岡洋右、重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する。
・田中上奏文は中国語で4万字といわれる長文のものである(日本語の原文は未だ確認されていない)。中国の征服には満蒙(満州・蒙古)の征服が不可欠で、世界征服には中国の征服が不可欠であるとしているため、日本による世界征服の計画書だとされた。しかし、下記の項目を見れば一目瞭然であるが、その内容の要点は満蒙を征服して傀儡政権を作り、いかにして経営するかを具体的に示したものであり、世界征服の計画を示したものではない。
・内容は次のような項目と附属文書から構成されている。項目の分けかたについては、資料によって異なる。訳語については日華倶楽部による。
1)満蒙に対する積極政策(資料により「総論」とする)
2)満蒙は支那に非らず
3)内外蒙古に対する積極政策
4)朝鮮移民の奨励及び保護政策
5)新大陸の開拓と満蒙鉄道:通遼熱河間鉄道、洮南より索倫に至る鉄道、長洮鉄道の一部鉄道、吉会鉄道、吉会戦線及び日本海を中心とする国策、吉会線工事の天然利益と附帯利権、揮春、海林間鉄道、対満蒙貿易主義、大連を中心として大汽船会社を建立し東亜海運交通を把握すること
6)金本位制度の実行
7)第三国の満蒙に対する投資を歓迎すること
8)満鉄会社経営方針変更の必要
9)拓殖省設立の必要
10)京奉線沿線の大凌河流域
11)支那移民侵入の防御
12)病院、学校の独立経営と満蒙文化の充実
13)附属文書
・最後の病院・学校については極めて短い文章で唐突に終わっている。従って、この文書は不完全な文書をベースに作られたとも考えられる。
※2 アイデンティティ・クライシス
自己喪失。若者に多くみられる自己同一性の喪失。「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること。
・また、日本国は、政治的にも外交的にも真に自主独立の国とはなり得ない。この虚偽と作為に満ちた歴史観を国が認めている限り、政府は中国や韓国の内政干渉に対し正当なる反論をできず、屈辱的な謝罪外交を続けることになるであろう。その最も深刻な影響は、青少年教育に現れている。
・日本の新生のためには、東京裁判史観の打破こそが、急務中の急務なのである。「いや、そういうけれど、国際裁判で裁判を行って判決が下されたのだから、日本が悪いと思う。日本人はもっと過去の行いを反省して、謝罪しなければならないと思う」という人もいることであろう。
・しかし、その裁判そのものに問題があったならどうでしょうか? 東京裁判は、国際法の下に、事実に基いて、公平に裁かれたものだったのでしょうか。 実態は、全く違ったのである。
2)日本弱体化のための見せしめ裁判
・「日本弱体化政策」の最大イベントこそ、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判であった。東京裁判は、昭和21年5月3日に開廷され、23年にかけて日本の戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、戦前期日本の指導者らが連合国により戦犯として裁かれ、23年11月4日から12日に判決が下された。罪状は東條英機首相を始め、日本の指導者28名を「文明」の名によって世界征服の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪(B級犯罪)に加えて「平和に対する罪」(A級犯罪)でも起訴された。
・A級被告28人を起訴したのは昭和天皇の誕生日(昭和21年4月29日)、東条英機・広田弘毅等7人の絞首刑は、今上陛下の誕生日(同23年12月23日)に実施された。また、BC級戦犯1061名が処刑されました。それは、日本国民は勿論、全世界に向けた「力は正義である」という連合国のデモンストレーションであった。
・東京裁判は、最初から日本を一方的に侵攻者、極悪犯罪国家とし、日本の国家指導者を処刑しようとするもので、結論は決まっていたわけだから、裁判というのは形式にすぎなかった。それは「勝者による敗者への復讐劇」であり、「見せしめの儀式」でした。日本人に「戦争の罪悪感を植え付け、自信と誇りを打ち砕き、日本を弱体化」するために、東京裁判ほど効果をあげたものは無かったといえる。
・東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で”文明の裁き”とも呼ばれる。一方否定論では、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことから、"勝者の裁き"とも呼ばれる。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、指導者であっても不起訴となった者もあった。
・ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク法廷が連合国の直接管轄下にあったのとは違い、本裁判はGHQのダグラス・マッカーサー司令官が布告する極東国際軍事裁判所条例に基づいて行われた。そもそもチャーター(極東国際軍事裁判所条例)は国際法に基づいておらず、この裁判は政治的権限によって行われたとの批判があり、「事後法」や連合国側の戦争犯罪が裁かれない「法の下の平等」がなされていない不備など批判の多い裁判である。
・また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の事後法ではない国際法に違反する行為に対する裁きを受けていないため、勝者による一方的な裁判であった。
3)言論統制と検閲の下での裁判
・まず、裁判を取り巻く環境を見てみると、東京裁判は、この裁判への一切の批判を許さない厳しい言論弾圧と検閲の下で行われた。その言論統制は、一般国民には見えない水面下で行われ、表に現れる新聞、ラジオ、雑誌等は、すべて連合国とGHQの側からの一方的な報道をし、その宣伝・洗脳効果は絶大であった。
・マッカーサーは、昭和20年8月30日に来日するや、降伏文書の調印もされていないうちから、あらゆる占領政策に先立って、戦争犯罪人の逮捕リスト作成を指令し、9月11日には、東条内閣の閣僚全員を含む39人の逮捕指令を発表した。いかに彼が戦犯の裁判を重視していたかが分かり、そして、東京裁判による戦争犯罪の宣告と処刑は、占領政策のクライマックスともいえるものであった。
・占領政策を進める秘密計画であったウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)は、東京裁判という歴史的な一大イベントを予告し、これを最高に効果あるものにするための計画であったともいえる。
・この計画は、第1段階では、『太平洋戦争史』によって、日本断罪の歴史観を宣伝・教育し、東京裁判を進める準備をした。
・第2段階では、国際軍事裁判所の開廷にあたって、国際法廷の解説や戦犯裁判の資料を提供して、東京裁判の合法性・正当性を粉飾した。裁判中は、「とりわけ検察側の論点と検察側証人の証言については、細大漏らさず伝えられるよう努力している」と計画文書は記している。
・第3段階では、東京裁判の最終論告と最終弁論を目前にして、米国内から沸き上がる原爆投下への批判を無視し、東條証言による日本の言い分を封じ、連合国を全面的に正当化しようとした。
・そして、日本国民に執拗に戦争の贖罪意識を植え付け、戦時指導者に対する責任追及へと世論を誘導した。この間、巧妙かつ組織的な民間検閲が実行された。GHQによる30項目に及ぶ検閲指針には、マッカーサーやGHQに対する誹謗や中傷、東京裁判に対する批判や抗議、検閲制度に関する直接間接の言及等が含まれていた。
・こうした徹底的な言論弾圧の中で、実に2年6ヶ月以上もの長期間をかけて、東京裁判が行われた。 こうした裁判を取り巻く環境は、批判と報道の自由を認めないという点では、旧ソ連・スターリン体制下の社会主義裁判や、中国・毛沢東体制下の人民裁判などに通じるともいえる。
4)裁判に法的根拠なく、手続きにも問題
・これまで裁判を取り巻く環境についてみてきたが、裁判そのものは公正かつ公平に行われたものだったのであろうか? いいえ、それは裁判とすらいえないものであり、東京裁判は国際法に根拠が無く、裁判の法手続きも不正・不公平なものであった。
① 東京裁判の唯一の根拠は、マッカーサーの発令による「極東国際軍事裁判所条例」であった。しかし、この条例は国際法に根拠を持たず、それゆえ国際法的に見るとこの裁判は成立しないものであった。この点を明らかにしたのは、判事中唯一人、国際法の専門家であったインド代表のパール判事で、彼は、マッカーサー最高司令官に裁判所条例なるものを発令する権限が何ら存在しないことを明らかにし、条例が国際法に根拠を持たない非合法なものであることを痛論しました。それゆえ、この裁判は成立せず、被告はしたがって全員無罪である、と主張しました。東京裁判の具体的な構成や規定の一切は、裁判所条例によって決められており、条例は米国憲法違反の疑いもあった。その条例を作ったのはマッカーサーの参謀将校たちであり、つまり、東京裁判は、裁判という形を取った占領行政措置であったのである。
② 判事と検事は、すべて戦勝国で占められており、中立国の判検事も、日本の判事もいない不公平なリンチ裁判であった。判事のうちには、国際法の知識は愚か、法律学一般の素養さえも不十分な者が少なくなく、厳密な意味で法学者といえるのは、レーリンクとパールくらいでした。マッカーサーから裁判長に任命されたウェッブは、豪州の地方判事で国際法の知識を欠いていました。
③この裁判では「偽証罪」はなく、日本国と日本軍の犯罪については側聞、伝聞、作り話も許され、それがそのまま法廷証拠として採用されました。とりわけいわゆる「南京大虐殺」について、この傾向が著しく、虐殺を証明する公式資料が一つもないのに、犠牲者数として誇大な数字が強調されました。
④連合国にとって不利な証拠は一切却下され、弁護側の証拠は大量に却下されたため、却下された資料と、却下されるからと提出されなかった資料が多数に及んだ。それらは平成7年小堀桂一郎・東大名誉教授らによって『東京裁判却下未提出弁護側資料』全8巻として出版された。この新資料や実証的な歴史研究に基づいて裁判を再審すれば、判決が覆ることは確実となっている。
⑤11人の判事が一堂に会したことは一度もなく、米・中・ソ・加・ニュージーランド等の7人の判事が検察側の論告のみを基礎に判決した。この多数派判決は、検察側の主張をほぼ全面的に支持したもので、多数派判事は、たとえマッカーサーが定めた裁判所条例が国際法に合致していなくても、条例を絶対視する、と主張した。判決は司法的判断ではなく、政治的判断だったわけである。
⑥こうした多数派判決に対し、パール(印)、レーリンク(蘭)、ベルナール(仏)、ウェッブ(裁判長、豪)の4人は個別的反対意見を提出しました。特に、パール判事が提出した膨大な判決書は、条例に反して法廷では朗読を許されず、被占領下の日本国民の目に触れることはなかった。
5)裁判の経過
・昭和21年1月19日に降伏文書及びポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、昭和21年4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて裁判が行われた。
・昭和3年から昭和20年、即ち満洲事変より大東亜戦争迄の期間を被告等が全面的共同謀議を行ったなどとして起訴した。
・起訴は昭和21年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。
ウィリアム・F・ウエップ裁判長 (引用:Wikipedia) 判事席
・連合国(戦勝国)からの判事としては、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ソ連の9か国と、イギリス領インド帝国とアメリカ領フィリピンの2地域が参加した。
・なお、英国領インド帝国は、その名の通りイギリスの属領で事実上の植民地であった。また米国領フィリピンも同様でいずれも独立国家ではないにもかかわらず、宗主国の意向を受けてそれ以外の独立国と同じ地位で参加していた(なおアメリカ領フィリピンは裁判中の昭和21年7月4日にアメリカから、イギリス領インド帝国は昭和22年8月15日にイギリスからの独立を果たした)。
・昭和21年5月3日より審理が開始し、当初55項目の訴因があげられたが最終的に10項目の訴因にまとめられた。なお判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」、「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。
・なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる(木戸幸一日記、8月29日付)。しかし、GHQの最高指令官のダグラス・マッカーサーが、様々な助言を受けた結果、当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・海軍から改組した第二復員省では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧軍令部のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった永野修身以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では軍中央への責任が天皇訴追につながりかねない為、現場司令官で責任をとどめる弁護方針の策定などが成された。さらに、陸軍が、戦争の首謀者であることにする方針に掲げられていた。
・昭和21年3月6日にはGHQとの事前折衝にあたっていた米内光政に、マッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。 また、敗戦時の首相である鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている。
・なお、裁判で証言を行った満州帝国皇帝の溥儀は、ソ連により連合国側の証人として出廷したが、ソ連の意を受けて自らの身を守るために偽証を行い、関東軍将校の吉岡安直(当時皇帝溥儀の御用掛)に罪をなすりつけたことを後に自らの著作で明らかにしている。
・昭和23年11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・F・ウエップは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。
・イギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とアメリカ領フィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。 一方、オランダとフランス、イギリス領インド帝国の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。イギリス領インド帝国の判事は「この裁判が国際法からみて問題がある」という少数意見書を提出した。
・極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが法廷で読み上げられることはなかった。
・7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)(本記事掲載当時)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)(本記事掲載当時)であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。
6)裁判官・判事・被告人・弁護人
6.1)裁判官
◆ウィリアム・ウェブ(オーストラリア連邦派遣):裁判長。連邦最高裁判所判事。
◆マイロン・C・クレマー少将(アメリカ合衆国派遣):陸軍省法務総監(ジョン・P・ヒギンズから交代)
◆ウィリアム・パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国):スコットランド刑事上級裁判所判事
◆イワン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣):最高裁判所判事。陸大法学部長
◆アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣):軍事法廷主席検事
◆梅汝敖(中華民国派遣):立法院委員長代理。イェール大学ロー・スクール学位取得者だが、法曹経験はなかった。
◆ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣):ユトレヒト司法裁判所判事
◆E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣):ケベック州裁判所判事。
◆エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣):最高裁判所判事。
◆ラダ・ビノード・パール(イギリス領インド帝国派遣):カルカッタ高等裁判所判事。
◆デルフィン・ハラニーリャ(アメリカ領フィリピン派遣):司法長官。最高裁判所判事。
日本の戦争責任追及の急先鋒で、被告全員の死刑を主張。
6.2)検察官
◆ジョセフ・キーナン(アメリカ合衆国派遣):首席検察官
◆向哲濬(中華民国派遣)
◆アーサー・S・コミンズ・カー(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣):次席検察官
◆S・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)
◆アラン・ジェームス・マンスフィールド(オーストラリア連邦派遣)
◆ヘンリー・グラタン・ノーラン(カナダ派遣)
◆ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)
◆W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)
◆ロナルド・ヘンリー・クイリアム(ニュージーランド派遣)
◆ゴビンダ・メノン(イギリス領インド帝国派遣)
◆ペドロ・ロペス(アメリカ領フィリピン派遣)
6.3)被告人
◆荒木貞夫/◆板垣征四郎:陸軍大将、陸相(近衛・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣。(中国侵略・米国に対する平和の罪)/◆梅津美治郎:陸軍大将、支那駐屯軍司令官、関東軍司令官、参謀総長/◆大川周明/◆大島浩/◆岡敬純/◆賀屋興宣/◆木戸幸一◆木村兵太郎:軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)/◆小磯國昭:陸軍大将、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、拓務大臣、朝鮮総督、総理大臣/◆佐藤賢了/◆重光葵/◆嶋田繁太郎◆白鳥敏夫:外交官/◆鈴木貞一/◆東郷茂徳/◆東條英機:陸軍大臣、内閣総理大臣(ハワイ真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)/◆土肥原賢二:軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)/◆永野修身:海軍大将、海軍大臣、連合艦隊司令官、軍令部総長(真珠湾作戦の許可)/◆橋本欣五郎/◆畑俊六/◆平沼騏一郎:司法官僚、健二総長、大審院長、枢密院議長、総理大臣/◆広田弘毅:文民、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)/◆星野直樹/◆松井石根:軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))/◆松岡洋右/◆南次郎/◆武藤章:陸軍中将、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)
6.4)弁護人
・ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人しか許されなかったが、東京裁判ではアメリカ人弁護人も任命された。日暮吉延(政治学者)によればこれは「勝者による報復」批判を免れるためだった。
・昭和21年4月1日に結成されたアメリカ人弁護団団長は海軍大佐ビヴァリー・コールマン(横浜裁判の裁判長)。弁護人としては海軍大佐ジョン・ガイダーほか六名であった。
・しかしコールマンが主席弁護人を置くようマッカーサーに求めたところ、受理されず、コールマンらは辞職する。変わって陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)、陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当)らが派遣され、新橋の第一ホテルを宿舎とした。
〇アメリカ弁護人の活躍
・東京裁判で日本の弁護人となって活躍したアメリカ人弁護人たちには、真の自由と民主主義の精神を見ることができる。
・ブレイクニー、ローガン、スミス、ファーネス、ラザラス等、彼らは、対日戦争では自国のために戦った愛国的な米国軍人であったが、しかし、彼らは法の精神に基づいて、連合国の戦争責任を問い、裁判の不公平を追求したのであった。
●ブレイクニー弁護人の原爆投下批判
・ブレイクニー弁護人が米国の原爆投下を批判する弁論を行なったときには、途中から日本語への同時通訳はストップされ日本語の裁判記録にも残されなかった。
・彼は次のように語った。「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下したものの名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。‥‥‥原爆を投下した者がいる! この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がいる! その者達が裁いているのだ!」
・この件りは日本語の速記録には「(以下通訳なし)」となって長らく日本人の目から隠されていた。 もし日本語に通訳されていれば、法廷の日本人傍聴者の耳に入り、そのうわさはたちまち広がっていったであろう。そして、原爆投下による非戦闘員の無差別大量殺戮という非人道的行為を行ったアメリカの戦争責任と、当裁判所の非合法性に対して、批判が沸き上がったことであろう。
●ローガン弁護人のアメリカ戦争責任の追及
・ローガン弁護人は、最終弁論において、アメリカの対日経済制裁と戦争挑発政策を批判し、大東亜戦争は「不当の挑発に起因した、国家存立のための自衛戦争」であったと論じ、真珠湾攻撃については「この日本の攻撃が自衛手段でないと記録することは実に歴史に一汚点を残すものであります」と述べ、アメリカの戦争責任を徹底的に追及した。
●スミス弁護人の国際法廷批判
・スミス弁護人は、判決後「東京法廷は、真の国際法廷ではない。 あれはマッカーサー元帥個人の裁判所である」と、アメリカ連邦最高裁で激しく、批判しました。
〇アメリカ弁護人のフェアな態度
・こうしたアメリカ人弁護人たちは、自国と自国民を裏切って日本を弁護したのではない。彼らが一貫して貫いているのは、 自国のことも、他国のことも、是は是、 非は非とするフェアーな態度であり、自他の立場と互いの国益を理解し、批判すべきは批判し、反省すべきは反省するという姿勢である。
・そこにアメリカの自由と民主主義の精神を見るとともに、その精神が、日本の自他一如・共存共栄の精神に深く通底するものであると評価できる。
〇アメリカ人弁護団
◆陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)◆陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当)◆ジョージ・ヤマオカ(東郷担当)◆ウィリアム・ローガン(木戸担当)◆オーウェン・カニンガム(大島浩担当)◆アリスティディス・ラザラス(畑担当)◆デイヴィッド・スミス(広田担当)、◆ローレンス・マクマナス(荒木担当)◆E・ハリス(橋本担当)◆ジョージ・ウィリアムズ(星野担当)◆フロイド・マタイス(板垣、松井担当)◆マイケル・レヴィン(賀谷興宣、鈴木担当)◆ジョゼフ・ハワード(木村担当)◆アルフレッド・ブルックス(小磯、南、大川担当)◆ロジャー・コール(武藤担当)◆ジェイムズ・フリーマン(佐藤担当)◆ジョージ・A・ファーネス(重光担当)◆エドワード・マクダーモット(嶋田担当)◆チャールズ・コードル(白鳥担当)◆ジョージ・ブルウェット(東條担当)
〇日本人弁護団
・日本人弁護団は、団長を鵜澤總明弁護士とし、副団長清瀬一郎、林逸郎、穂積重威、瀧川政次郎、高柳賢三、三宅正太郎(早期辞任)、小野清一郎らが参加していた。
・しかし、日本人弁護団内部では、自衛戦争論で国家弁護をはかる鵜澤派 (清瀬、林ら)と個人弁護を図る派(高柳、穂積、三宅) らがおり、さらに国家弁護派内部でも鵜澤派と清瀬派の対立などがあった。
7)起訴方針と訴因
7.1)起訴方針
・極東国際軍事裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである。
・これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる。しかも、昭和21年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。
・最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる。
・このような起訴方針についてオランダ、アメリカ領フィリピン、中華民国側から「アングロサクソン色が強すぎる」として批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた。
・極東国際軍事裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれた。
・ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった。南京事件は訴因のうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた。
7.2)イギリスの即決処刑論
・イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、昭和19年9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった。
・結局英国は、昭和20年5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。
・のち、英政府自治省および英連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは昭和20年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任する。
・のち、ニュルンベルク裁判所が「ロンドン協定」という連合国軍による国際協定で設置されたのに対して、極東裁判所は総司令官であるものの、アメリカ人であるマッカーサーがJCS1512指令およびSWNCC57/3指令に基づいて設置されたもので、アメリカによる主導性が強かった。
7.3)天皇起訴論と不起訴論の対立
・オーストラリアは戦前、人種差別感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情も強いこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった。また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた。
・エヴァット外相は昭和20年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べた。
・8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された。
・アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視され、さらに昭和21年1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった。
・なお、ニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した。
・なお、ソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定している。
・昭和21年4月3日、最高意思決定機関である極東委員会(FEC)はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」として合意された。
8)判決・処刑・処刑後
8.1)判決
・絞首刑 7人、終身刑 16人、有期禁固刑 2人、訴追免除 1人となった。判決前に病死2人。
◇絞首刑(死刑):板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、武藤章、松井石根、広田弘毅
◇終身刑:荒木貞夫、梅津美治郎、大島浩、岡敬純、賀屋興宣、木戸幸一、小磯国昭、佐藤賢了
嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、南次郎、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹
◇有期禁錮:重光葵 (7年)、東郷茂徳 (20年)
◇判決前に病死:永野修身 (1947年1月5日没)、松岡洋右 (1946年6月27日没)
◇訴追免除:大川周明 (梅毒による精神障害が認められ訴追免除)
8.2)処刑
略・祈ご冥福
8.3)処刑後について
殉国七士墓(Wikipedia)
・処刑された7人の遺体は横浜市西区の久保山霊場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられた。しかし、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から遺灰(7人分が混ざった)を密かに回収し、近くの興禅寺に預けた。1949年5月に伊豆山中の興亜観音に密かに葬られた。
・その後、1960年(昭和35年)8月16日に愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移された。三ヶ根山には「殉国七士廟」が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されて今に至る。
9)評価
被告席(引用:Wikipedia)
9.1)判決は国際法の原則に反する
・判決は、罪刑法定主義、法律不遡及の原則に反し、かつ被告らが「共同謀議」による「侵攻戦争」を行ったという判決は不当なものでした。
① 罪刑法定主義、法律不遡及の原則に違反
近代法の原則の一つとして、罪刑法定主義、法は遡及せずという原則があり、法律を事件後に作って裁くのは、事後法であって、事後法による処罰は「近代法最大のタブー」なのである。
しかし、ニュルンベルク裁判に続く東京裁判では、この原則に反する「平和に対する罪」「人道に対する罪」というそれまでの国際法には一切なかった罪が新たに作り出され、それによって被告が裁かれたのである。
これは、人権宣言を無視することであった。人権宣言(1789年)は「違反より前に確立しかつ公布された法律によってのみ処罰される(権利宣言第8条)」と明言している。東京裁判は「平和」と「人道」のためという大義名分によって、国際法を踏みにじり、人権を無視したものだったのである。
②「共同謀議」という特殊な理論による戦争指導者の個人責任の追及
東京裁判は、国家指導者の個人責任というそれまで存在しなかった戦争責任を追求した。共同謀議とは、国際法では認知されていない変則的、地方的な理論であり、検察側が米国の下級裁判所の判例しか示せないようなローカルなものであった。
これが強引に国家間の戦争の計画遂行にあてはめられ、戦争指導者が有罪・死刑にされた。仮に「共同謀議」なるものを想定するにしても、実際のところ、日本では、昭和3年から終戦までの17年間に、首相は14人、内閣は15回も代わっており、一貫した侵攻政策、世界制覇の野望を果たす「共同謀議」などできる状態ではなかった。
むしろ、米国は昭和6年からのルーズベルト大統領の長期政権下、周到なオレンジ計画をもって対日戦争を準備・遂行した。日本人だけを差別する排日移民法、在外資産の凍結、石油・屑鉄輸出禁止、ABCD包囲網などを次々に進め、開戦準備の時間稼ぎのため、野村・ハルの日米交渉を10カ月も引き延ばした。そのうえで、昭和16年11月、突如それまでの交渉を無視してハル・ノートを突きつけてきた。これは、日本への宣戦布告に等しいものでした。
さらに、真珠湾攻撃については、ルーズベルトら米国指導者は事前に日本からの無線を傍受しておりながら、日本に先制攻撃をさせるように企んだ。これは米国では広く知られ国民の憤慨をかっていることであり、例えばウエスト博士は昭和44年の東京講演で、真珠湾は日本が先に手を出すように誘い、「だまし打ち」だと開戦の責任を日本に押し付けるための巧妙なわなであった、と米国を告発しました。
ルーズベルトは、ヤルタ会談において、ソ連に対し日本の領土の略取を条件に日ソ中立条約を破って参戦させる密約をしており、米英ソの指導者たちこそ「共同謀議」を行っていたというべきであろう。
③「侵攻戦争」の定義が存在しないのに、「侵攻戦争」だと断定
第2次大戦当時の国際法には、「侵攻戦争」の定義は存在していない。1928年の不戦条約では、戦争は「攻撃的戦争」(Offensive war)と「自衛的戦争」(Defensive war)とに分けられていた。
これに対し、「侵攻戦争」(aggressive war)とは、東京裁判のために作られた概念でありながら、その判決では「侵攻戦争」は定義されなかった。そして不戦条約をほとんど唯一の根拠として「侵攻戦争は違法」であり、日本は「侵攻戦争」を行ったと判決された。ところが、不戦条約においては、ある戦争が攻撃的戦争か自衛戦争かどうかは、その戦争を行った国に自己解釈権があると、認められていた。大東亜戦争は、日本は、自衛戦争として意義付けていた以上、これを「侵攻戦争」と決め付けることはできなかったのである。
戦後、国連において、侵攻戦争の定義が試みられてきたが、極めて困難な課題となっている。国連総会で一応の定義に達したのは、1974年12月のことであるが、国連国際法委員会は、いまだに侵攻を正式に国際法上の犯罪とは認めていない。現在、侵攻行為の存在を決定するのは、国連安保理とされている。ということは、常任理事国の政治的判断によっては、いかようにでも左右されるわけである。
「侵攻戦争」は英語で「aggressive war, war of aggression」といいます。 その意味は、主な辞書によると「unprovoked war」つまり「挑発を受けないのに行う戦争」である。この素朴な意味からいうと、日本はアメリカとの戦争に踏み切るまでに、執拗な挑発を受け続けていた。
特にハル・ノートは事実上の宣戦布告と見なされるものであり、パール判事が現代史家の言葉として引用しているように、このような覚書を受けたならば「モナコやルクセンブルクでも米国に対し、武器を取って立ったであろう」というほどに挑発的なものであった。それゆえ、対米戦争は「挑発を受けた戦争」であり、「侵攻戦争」とは断定できない。
また、対中戦争の方も、支那事変の発端となった昭和12年7月の廬溝橋事件で、最初の発砲を行って日中両軍を戦いに引き込んだのは、中国共産党の謀略だったことを中国側が明らかにしている。
事実、東京裁判においては、満州事変の勃発の経緯は極めて詳しく立ち入って取り調べが行われているが、支那事変についてはほとんどないに等しいほどである。これを追求すれば、日本の「侵攻戦争」説が成り立たなくなるからであろう。
さらに、ソ連にいたっては、日ソ中立条約を一方的に破って満州、樺太、千島を侵攻した侵攻国であることは火を見るより明らかである。その国が裁判官席に座って、日本を裁いたところにも、東京裁判の本質が現れていると思われる。
9.2)アメリカと日本での評価
・第2次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが昭和19年秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の2つの新しい犯罪規定については事後法であるとの批判や、刑罰不遡及の原則 (法の不遡及の原則) に反するとの批判がある。
・また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は、開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になるドワイト・D・アイゼンハワー元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている。
・極東国際軍事裁判は「戦勝国が敗戦国を裁く」という構図だったため、その評価については議論の対象になることが多い。訴因の一つは平和に対する罪であり、日本が開戦したことに対する非難だったが、指揮を執っていたダグラス・マッカーサー司令官自身が、日本の戦争の理由を「資源の乏しかった日本が輸入規制等により包囲され、何千万、何百万という国民が失業に陥ることを恐れて行った安全保障であった」と証言している。
・他方、この裁判では原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかった。
・こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い。当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。
・アメリカの外交政策で重要な役割(日本に対しても、を含む。)を果たし、ソ連「封じ込め政策」を唱えた事で有名なジョージ・ケナンは、やはり否定的な意見を述べている。ただし、彼によると、この裁判の底に流れている正義や公平を理解する能力が、日本人にはない、というのが、その主な理由であった。
・また、この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った " 平和主義 " を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。
・また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)。
・日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という。
9.3)ニュルンベルク裁判との違い
ニュルンベルク裁判の被告席(引用:Wikipedia)
(前列奥からヘルマン・ゲーリング、 ルドルフ・ヘス、 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、
ヴィルヘルム・カイテル、後列奥からカール・デーニッツ、 エーリヒ・レーダー、
・同時期にドイツが舞台となったニュルンベルク裁判では同国の法曹関係者の大半が裁判に(裁く側にも)協力しているが、極東国際軍事裁判では日本の法曹関係者の裁判への協力は行われていない。
・なぜ協力が行われなかったかについては日本の法曹関係者の関与が、広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下をめぐる処理を複雑化し、連合国、特にアメリカ合衆国にとっては望ましくない影響をもたらす可能性があったからだとも考えられている。
・さらに、「ドイツでは軍人ではなくナチス党員の政治家や官僚を中心として戦争が進められた」とした「共同謀議」の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。
・起訴状によれば、A級戦犯28名が昭和3年から昭和20年まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされた。
・しかし彼らの中には互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれており、また日本では一連の戦争中でも陸海軍間の対立など、常に政治的な確執が内在していた。
・このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿や杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。
・このため日本ではドイツにおけるニュルンベルク裁判に対する批判はあまり聞かれないが、日本における極東国際軍事裁判については戦勝国の報復という意見や日本側の非協力の結果という意見など批判的意見が多く見られる。
・なお、極東国際軍事裁判の評価をめぐっては研究が続けられており、今のところ結論が確定するには至っていない。
9.4)裁判の公平性
・裁判の公平性に関して次のような証言や事例がある。
・被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。
・理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している。
・また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが、玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している。
・この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官ボナー・フェラーズ准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている。
・判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝敖判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のI・M・ザリヤノフ判事とフランスのアンリー・ベルナール判事が法廷の公用語である日本語と英語のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。
・A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。
・A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介や笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内の左翼系メディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる。
・こうした用語法は、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。
9.5)判事の見解
〇パール判事
(引用:amazon.co.jp HP)
・イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。
・この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。
・パールは昭和27年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。
〇ベルナール判事
・ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。
〇レーリンク判事
・オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。
・「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。
9.6)欧米における議論
・ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされた。イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
・イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。
・また、当時の日本統治を担当し裁判の事実上の主催者ともいえたマッカーサーは、朝鮮戦争勃発直後の昭和25年10月15日、ウェーキ島でのトルーマン大統領との会談の席で、ハリマン大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。
9.7)「東京裁判史観」批判
・秦郁彦によると、1970年代に入った頃から「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めたという。東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「自虐史観」に反発の矛先を向けているという。
・秦は渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳・小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった他分野やアマチュアの論客がこうした主張の主力を占め、歴史の専門家は少ないと指摘している。
〇裁判批判
・裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。
・審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『紫禁城の黄昏』すら却下された。
・判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。
・GHQは日本に於(お)いてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。
・裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)、とも主張している。
・秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている。
*侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者の裁き」だったゆえに敗者の例だけがクローズアップされたと強調する。
*「パール判決書」を「日本無罪論」として礼賛する。
*講和条約11条で受諾したのは「裁判」ではなく「判決」と訳すべきだったと強調する。
*二次的所産の歴史観を批判の対象とする。
9.8)サンフランシスコ平和条約第11条における「受諾」
・日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第11条においては
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」
と定められているが、これは講和条約の締結により占領政策の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた戦犯法廷の判決が無効化され、裁判が終結していない場合は即刻釈放しなければならなくなることを回避するために設けられた条項である。
・しかし、この条項の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の立場を取っている(「裁判の受諾」という文節の本文は『Japan accepts the judgments』であり、判決主文に基づいた刑を意味する『sentence』とは明確に区別されている。また「judgment」は「判決」と訳されることが多いが、沖縄返還協定のように「裁判」と訳されることもある)。
・日本国内においては、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は4000万人に達したと言われ、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「法務死」(※)と認定された。
※法務死
法務死とは刑死者や収監中死亡者の死因を指す用語。専ら第二次世界大戦後の東京裁判を始めとした戦犯裁判による日本人刑死者に対して用いられ、他の用例は見られない。
本来処刑された戦犯の死因は刑死であり、戦犯としての処刑を特筆するならば「戦犯刑死」となるべきであるが、戦後当時、関係者の間では被告の罪状、判決が不当であることは広く周知されていた。このため彼らを靖国神社に合祀するに際して死因を名簿に記載する際、罪を認める形になる戦犯刑死の語を用いることは拒まれ、「法務死」の語が造語され用いられた。公文書用語であるとする説もあるが、政府が実際にこの用語を使用しているのかどうかは分かっていない。同様の用法をされる語に「殉難死」がある。
・2005年にアメリカ下院は、下院決議をおこない、現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005年7月14日決議)。
・しばしば誤解されているが極東軍事裁判では「人道に対する罪」で起訴された被告はいないため、決議における「極東国際軍事裁判の決定」と「“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決」は別の対象をさしている。
9.9)世界人権宣言 第11条 違反
・世界人権宣言 第11条 「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。」
・東京裁判は、昭和23年11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了したが、世界人権宣言は、その直後の昭和23年12月10日の第3回国際連合総会で採択された。(つまり東京裁判の判決は、世界人権宣言の採択に間に合わせる形で行われた。)
・東京裁判は、世界人権宣言第11条に違反していることは明らかであり、条文が「何人も」と規定していることから、東京裁判の被告人も対象になることは間違いない。
・世界人権宣言に違反している無効な裁判は「承諾する」ことで有効になるのか? また各国は有効とする法的根拠は何か? を整合的に論ずることができるか問題となる。
10)東京裁判史観からの脱却
10.1)東京裁判が裁かれる時
・これまでたびたびふれてきたパール判事は、判決書の最後を次の言葉で結んでいます。
・「時が熱狂と偏見をやわらげ、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」と。(『共同研究 パル判決書』講談社)
・まさに時は来たのである。今日、東京裁判は、国際的に大きく見直されようとしている。戦後50年の昨年、膨大な『却下未提出弁護側資料』が公刊された。また本年8月には『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)が出版されました。この書は世界14カ国の85人の外国人有識者が、連合国の戦争責任を追求し東京裁判を批判しているものの集大成です。
・この書に序文に、初代国連大使・加瀬俊一氏は次のように記しています。
「かねてから私は『東京裁判を裁判せよ』と主張し、歴代首相にもその必要を説いた。裁判は2年半にわたり423回も開廷し、鳴り物入りで日本を糾弾したが、要するに勝者の敗者に対する一方的断罪であった。日本の立場を完全に無視しており、パール・インド判事の名言を借りれば『歴史の偽造』なのである。それに、『法律なければ犯罪なし』の原則に反する。しかも、わが国民は戦勝国の世論操作によって洗脳され、いまだに裁判の真相を理解していない。これを正せぬ限りわが民族の精神的独立は回復しがたい」
10.2)裁判への批判
・こうした新資料・新研究によると、東京裁判には、当初から根本的な批判があがっていたことがよく分かる。連合国のイギリスから厳しい批判がぶつけられるとともに、米国政府や連邦議会からもあがり、マッカーサーの側近や部下などGHQの中からも、あがっている。 (『世界がさばく東京裁判』は必読に値します。)
(引用:amazonHP)
・なかでもパール判事は「あれは、法律にも正義にも基づかない裁判である」「法律的外観はまとっているが、本質的には執念深い報復の追跡である」と結論した。英国の元内閣官房長官・ハンキー卿は、著書『戦時裁判の錯誤』でパール博士を100%支持した。
・その他、F・J・P・ピール氏、フリートマン教授、米最高裁のW・O・ダグラス判事など、パール支持を表明する学者・法律家は枚挙にいとまがない。今や、パール博士の説は、国際法学界の定説となっており、知らぬは日本人ばかりなり、という状態である。
・判事の中で、もう一人重要な存在が、 オランダのレーリンクである。レーリンクは、昭和58年に東京で開かれた「東京裁判国際シンポジウム」で、東京裁判に対する厳しい批判を明らかにして参加者に衝撃を与えた。さらに、その後の氏の所論をまとめた『レーリンク判事の東京裁判』(新曜社)が近刊である。
・日本では、パールの「日本無罪論」はアジア人として民族的に偏向した極端な所説だ、といった見方があるが、レーリンクはパール判決に深い敬意を表している。彼は、自分は裁判当時は「国際法については何も知らなかった」と語っており、判事中で国際法の専門家はパール博士のみだったと認めている。またレーリンクは、西洋白人中心の歴史観を反省し、植民地だったアジアの立場に深い理解を示し、日本がアジア解放に果たした世界史的役割を重視している。
・裁判長ウェッブは、裁判後に「パリ条約は何の変更も加えられなかった」とコメントしている。「パリ条約(ケロッグ・ブリアン不戦条約)が東京裁判の法的根拠だ」と、この裁判の合法論者は主張していたのであるから、それに変更がないとすれば「侵攻した国の指導者の刑事責任」を問うことはできない。東京裁判の合法性を裁判長自身が、事実上否定したのである。
・極めつけは、東京裁判の指令者であり最高権限者であったマッカーサー自身が、「東京裁判は誤りだった」と述懐していることである。やるだけやっといて無責任なことである。
10.3)もはや無視や拒否はできない
・東京裁判の新資料・新研究は、世界史的視野で日本の戦前と戦後の歴史を見直させるものとなっている。もはや東京裁判を検証することなしには、日本の過去・現在・未来は語れない。さらに人類にとっての真の世界平和への道は開かれないのではないだろうか。
・ところが、東京裁判の検証に消極的で、むしろ避けようとしている人たちがいる。彼らは、半世紀近くも前に作られた東京裁判史観を固定し、日本人がその定式によってしか歴史を見られないようにしたがっているようである。日本が「共同謀議による侵攻戦争」を行った「極悪犯罪国家」でなければならないと、あくまで考える人たちは、一度貼り付けたレッテルを覆されたくないのであろう。
・例えば、アメリカ追従論者は、検証を快しとしない。なぜなら、検証はアメリカの対日挑発政策や原爆投下を裁くものとなるからである。
・また、共産主義の支持者・同調者も同様である。なぜなら、検証はソ連の暴虐や中共の陰謀を白日にさらし、共産主義の世界制覇の謀略をあばく結果になるからである。実に、この「原爆投下」と「共産主義の謀略」こそ、東京裁判において、連合国が絶対に触させまいとした2大事実なのである。
・一方には、 東京裁判の問題点を認めつつも、裁判の意義を肯定的に評価する人たちもいる。例えば、未曾有のユダヤ人虐殺と世界大戦に際して、新たに作り出された「平和に対する罪」「人道に対する罪」「国家指導者の個人責任」などの概念を評価し、国際法と国際裁判の前進が見られるというのである。
・具体的には、「ジェノサイド(集団殺害罪)条約などその後の国際法の発展に寄与した」(藤田久一東大教授)という意見がある。 また、ユーゴの戦犯国際法廷では、判事団は紛争国以外の出身者で構成され、2審制を設けているとして、東京裁判の教訓が国際社会でいかされている、ともいわれる。
・しかし、前進は非常に限られたものだと思われる。レーリンクは1977年秋に「第2次大戦の後、およそ30の国際戦争と百を越える内戦が行われている。このように、武力行使の禁止にもかかわらず、沢山の戦いがあったのだ。しかも、1945年このかた、平和に対する罪への訴追は一度も行われていない!」と語っている。
・東京裁判を追認し、その判決を前提している限り、この世界は変わり得ないと思われる。アメリカのベトナム戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻、中国のチベット弾圧などは、何も裁かれていない。むしろ、東京裁判における勝者のおごりと根本的な反省の欠如が、これらの国々の指導者たちの覇道的独善的な行動を生み出していると思われる。(ベトナム戦争に反対したアメリカのリベラリストやヒッピーたちは、人類で初めて原子爆弾を人間の上に落とした人間たちへの批判者でした。)
10.4)東京裁判の克服
・日本弱体化政策としての東京裁判は、虚偽と抑圧と不正に満ちたものであった。しかし、東京裁判史観は、 日本人の心を呪縛し、学校とマスコミをおおっています。この呪縛を解くには、東京裁判の克服が必要である。
※参考資料
・ 佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)
・ 小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明 却下未提出弁護側資料抜粋』(講談社学術文庫)
・『国際シンポジウム 東京裁判を問う』(講談社学術文庫)
・『共同研究 パル判決書』(講談社学術文庫)
(引用:Wikipedia)
1)公職追放について
・戦後の日本に大きな影響を与えたGHQの施策として、占領初期の「軍国主義者を主たる対象とした公職追放」と、その後、東西冷戦の進展に伴う「逆コース」の時期に行われた「共産主義者を主たる対象としたレッド・パージ」とがある。
(引用:Wikipedia)
・「公職追放」とは、ポツダム宣言第6項に基づき、軍国主義・超国家主義者勢力の永久除去のためにとられた一連の措置のことを言う。昭和20年10月の特高パージ・教育パージに始まり、翌年1月のGHQからの覚書によって職業軍人・大政翼賛会等の有力者や経済界の実力者等に範囲が拡大していった。
1.1)人権指令(昭和20年10月)
・昭和20年10月4日、GHQは、東久邇内閣に対していわゆる「人権指令」を発し、その中で、特高警察等を廃止し、内務大臣・警視総監・特高警察課員等を罷免すること、そして同時に、治安維持法等を廃止し、それらの法令違反で拘留・投獄されている者を10月10日までに釈放することを要求した。
1.2)教師の追放と教壇復帰(昭和20年10月)
・昭和20年10月30日、GHQは、教職不適格者の追放と、戦時下に弾圧され教壇を追われた教師の復職についての指令を出した。これにより、軍国主義教育に協力した教職者が学校から追放された。それと同時に、大内兵衛・矢内原忠雄等、戦時中、軍部の圧力により教壇を追われていた教授が母校に復職した。
1.3)GHQの公職追放令(昭和21年1月)
・GHQはGS(民生局)を中心に密かに覚書を作成し、昭和21年1月4日、2つの指令を幣原内閣に発した。「国家主義的・軍国主義的な諸団体の廃止」と以下のA~G項の7項目に該当する「公職に適せざる者の追放」である。
A.戦争犯罪人。
B.陸海軍の職業軍人。
C.超国家主義団体等の有力分子。
D.大政翼賛会等の政治団体の有力指導者。
E.海外の金融機関や開発組織の役員。
F.満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官。
G.その他の軍国主義者・超国家主義者。
・この追放令をうけた政府は狼狽した。閣僚の中に該当者がいたからである。幣原内閣は、該当閣僚を入れ替える内閣改造でこの危機を乗り切った。この追放令による該当者数は、当初は、下表に示す1,067名であった。
(引用:Wikipedia)
・上記のGHQ覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。
2)第一次公職追法令
2.1)追放令の狙い
・GHQの追放令の狙いは、該当者の総選挙出馬阻止であった。政府は、2月9日、これらのGHQ指令を法令化して2つの勅令を発し、第1次公職追放が開始された。
・D項該当者として、翼賛選挙推薦議員全員を追放令該当者として指名した。この結果、進歩党は274名中260名が、自由党は43名中30名が、協同党は23名中21名が、社会党も17名中11名が、追放該当者となり、4月10日の総選挙における当選者中の8割強が婦人を含む新人によって占められることとなった。
・この選挙結果はある意味で、「無血革命」ともいうべき衝撃であった。
2.2)公職適否審査委員会の設置
・総選挙での当選者の再審査を行うことも含め、6月29日の勅令によって、「公職適否審査委員会」(委員長:美濃部達吉)が設置され、追放の審査を行った。
2.3)G項の問題点
・GHQ追放令のG項の「その他」とは何を指すのかが曖昧であった。この曖昧さがGS側からすれば便利で強力な武器となった。その問題点を以下の3例で示す。
●鳩山一郎のパージ
・審査委員会では鳩山を「非該当」としたが、GS側は、委員会の頭越しに日本政府に対して、鳩山のパージをメモランダム(覚書)によって指示した。このため、鳩山は、後事を吉田茂に託さざるをえなくなった。
●石橋湛山の追放
・彼は、当時、大蔵大臣として終戦処理費の減額をGHQに要求し、経済政策の見直しを求めた。これは、GHQの占領政策に真っ向から反対するものであった。GHQは、占領政策に真っ向から反対する石橋湛山を追放するために、彼が戦中に「東洋経済」誌上で軍国主義を主張したと言う理由をつけて、当時の吉田首相にパージを指示したのである。
(引用:Wikipedia)
●Y項パージ
・昭和22年4月、戦後2回目の総選挙直前に「政敵」である芦田均周辺の有力者が次々と追放になった。これは、吉田首相が、インフォーマルな形で指示しなければ不可能であると思われた。このため、この追放を世間では、「Y(吉田首相の頭文字のY)項パージ」と呼んだ。
2.4)教職パージ(昭和21年5月)
(引用:「昭和史における文部行政への政策評価」”占領下における教職追放” 池田 憲彦氏)」
●ポツダム宣言
・教職パージに関わる範囲では,ポツダム宣言には,具体的に占領中に日本に対して行うであろう条件を2つ挙げている。それは,6項と10項にある。
・6項では,無責任なる軍国主義により日本国民を騙して世界征服に出た錯誤を犯した権力と影響力を除去(eliminate)すること。
・10項では,日本国民に民主主義的な傾向を復活(revival)させて強化するための障害になる一切を除去すること。
・いずれも,その環境作りのために,後に実際に実施されるおりにはパージ(purge)と表現されたのだが,まだ日本帝国は健在であり,敵国への降伏条件のためもあって,除去という穏やかな表現がされている。
・降伏調印が9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリの上でされて,占領が着実に現実のものになってくるに従い,対日占領政策は具体性を帯びてくる。前記の6項と10項の実現である。それは,上記項目の提起に関わる人々の除去である"追放"となって現れた。
●米国務長官バーンズの発言
・当時の米国の国務長官バーンズは,降伏調印の記念すべき日に,これは日本の「物的な武装解除」が確認されただけであって,次の段階として「精神的な武装解除」の必要があると言った。
・この発言は,米国あるいは連合諸国による日本に対しての,別の形の戦闘の継続を確認したことである。さらに,この発言は教職パージに直接してくるのは明瞭である。
● 『降伏後における米国の初期の方針』
・「第3部 政治 1 武装解除及非軍事化」の最後の段落において,「理論上及び実際上の軍国主義及び超国家主義(準軍事訓練を含む)は教育システムより除去させられる」と規定されている。
・この方針は,統合3謀本部(JCS)からマッカーサー司令官宛に指示された,『日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令』の「1部 10項(a)」で,同趣旨のものが,具体的な施策あるいは手段を伴って記されている。
・「好戦的国家主義及び侵略の積極的推進者であったすべての教師及び軍事占領の目的に積極的に反対し続けているすべての教師は,受容されうる有適格の後継者と取り替える」。つまり占領政策にとって都合の悪い教職員は除去すると言っている。
・この文節に続いて,上記のSWNCC文書より厳しい表現になっているのは,軍国主義教育の除去が,「禁止される(will be forbidden)」になっている箇所である。こうした強意は,GHQの対日教育改革の取り組みに,大きく影響を与えてくるのは当然であろう。
●GHQ命令を裏書きした勅令
・教職追放の思想的には先行していた公職除去についての最初の指令は,1946年1月4日に,覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」(SCAPIN 550)として,日本側に渡された。いわゆる公職追放令である。上記6項には,「該当したる一切の者を公職より罷免し且官職より排除すべきことを命ず」(2項)とあった。
・同日,同じく覚書で,「ある種の政党,政治結社,協会及びその他団体廃止の件」(SCAPIN 548)が出された。AからGまで7つの条件を提示し,附属書Aには該当する団体を列記している。ある種とは,ポツダム宣言に則り軍国主義あるいはそれに関わると見なされた団体である。
・誰があるいはどの機関が名簿つくりに協力したのであろうか。その記載は,当然ない。また,日本の主権回復後に,この領域についての実証的な調査研究もされていない。
・指令としての覚書を裏付けるために,翌年の1947年1月4日に,勅令第1号で「公職に関する就職禁止,退職等に関する勅令」が出された。前年に日本側に渡された上記覚書(SCAPIN 550)に基づく「公職に関する就職禁止,退職等については,この勅令に定めるところによる」(第1条)となった。こうした手順は,占領軍による対日間接統治の法制的な構造から来ている。
・それをさらに具体的に施行するために,「公職に関する就職禁止,退職等に関する勅令の施行に関する命令」(昭和二十二年勅令第1号)が,内務省令第1号として出された。命令は第1条しかなく,別表1に,覚書該当者の基準が7項に分けられてある。(前述)
・その1は,戦争犯罪人,
2 職業陸海軍職員――陸海軍省の特別警察職員(憲兵のこと。筆者注)及び官吏,
3 極端な国家主義的団体,暴力主義的団体又は秘密愛国団体の有力分子,
4 大政翼賛会,翼賛政治会及び大日本政治会の活動における有力分子,
5 日本の膨張に関係した金融機関及び開発機関の役員,
6 占領地の行政長官等,
7 その他の軍国主義者及び極端な国家主義者。
・次いで,「備考」が別紙にあり,それは十項目あり,必要に応じて註がつき,該当者の条件について至れり尽くせりである。
・最後にある「別表」は,SCAPIN 548の「G項該当言論報道団体」である。その一覧を見ると,少なくとも日本及び日本の影響地にあった言論機関はすべて網羅されている。
・公職追放は,「日本を非軍事化する計画の1段階として考えられた。(中略)世界の平和にとって危険である場合,そのような人間を公職から追放する」という計画なのである。
もちろん,この言い分は戦勝国である占領者側のものであった。
● GHQの主導による4つの法令
・公職追放と教職追放の関係はどうなるのか。教職追放を所掌したのは,GHQのCIE(民間情報教育局)と言われた。CIEにとっては,教職追放の方が公職追放より厳しいと見ていたようである。それは未来の日本人の精神的な武装解除に影響力を持続させるため,と考えていたからであろう。
・日本側に渡された教職追放に関する指令(覚書)と,それに基づく日本の法令は,併せて4つある。
① 昭和20(1945)年10月22日に発せられた覚書「日本教育制度に対する管理政策」(管理政策)
② 同月30日の「教員及教育関係官の調査,除外,認可に関する件」(除外の件)
③ この指令を受けて,翌年の昭和21(1946)年5月6日に勅令第263号として,「教職員の除去,就職禁止及び復職等の件」が通達された。(勅令/除去,就職禁止の件)
④ 同日,文部,農林,運輸省令第一号として,「教職員の除去,就職禁止及び復職等の件の施行に関する件」(省令/除去,施行の件)
● 4つの法令に関わる2つの先行指令
・「省令/除去,施行の件」には別表がついており,その「第一」には,「教職不適格者として」6項が挙げられており,1項はさらに細分化されている。この執拗さと詳細な区分けは,CIEからの指示だけで成立していたのか。初期占領史のいまだに解明されていない部分であろう。
・別表二には,その適格性について審査委員会にかける必要もない不適格者として,一定期間内に特定の学校やその学校の学部学科を卒業した者も挙げられている(三,昭和十二年七月七日以降)。この日付を思い出すことのできる者は,比較的に近現代史に通じている者であろう。北京郊外の盧溝橋で,様々な憶説をいまだに呼んでいる日本軍と中華民国軍が軍事衝突(盧溝橋事件)を起こした日付である。
・三項には18に及ぶ教育・訓練機関が特定の学校名と学部学科,さらに学校の種類と列記されている。
・これが日本軍国主義の空間拡大に従事した要員の除去としたら,時系列つまりは歴史なり文化なりの分野に入るのは神職養成学校である。伊勢にあった神宮皇学館や国学院大学専門部附属神道部や,神職養成学校が,その対象になっている。前年12月に出た「神道指令」と,指令「修身,日本歴史及び地理停止に関する件」は,その先行である。
●公職・教職追放を支えた法令等の環境 ――過去の断罪と未来の調教まで(既述)
〔 「言論の自由」の背後にあった2つの制約条件〕
・東久邇内閣は,実施しがたいと総辞職しのは、「自由の指令」(政治的,社会的及宗教的自由に対する制限除去の件)の言論の自由を謳う1節に,「天皇国体及び日本帝国政府に関する無制限なる討議を含む」とあり,天皇国体を含んでいるところに,ポツダム宣言受諾の敗者の条件として掲げた「国体の護持」から考えて,「無制限」を記したGHQの意図にうさん臭いものを感じたからであろう。
・この懸念は基本的には間違っていなかったのは,その後の経緯が示している。丸山真男による日本軍国主義に関する諸分析や宮澤俊義の「8月15日革命説」は,溯ってGHQの対日政策を補強する学説(?)の役割を果たすことになった。
・「自由の指令」は,ほんの序の口であった。しかし,その影響力は図り知れない巨大なものでもあった。言論の自由という名分は,長かった戦時下の期間での言論統制から見ると,これまでの緊張を一挙にほぐしたからである。しかも,この言論の自由はカッコつきの自由でもあった。そこには2つの制約条件が制度的に用意されていた。
① プレス・コードによる言論操作と抑圧(既述)
② 軍国主義廃絶を理由にした焚書(既述)
〔調教の構造〕(既述)
① 第1領域:「新日本建設に関する詔書」にある二つの意図/教育勅語の廃止
② 第2領域:現行憲法の付与
③ 第3領域:極東国際軍事裁判(東京裁判)というショウ
〔調教の力学〕(既述)
* 教育基本法の制定と教職追放は飴と鞭,表裏の関係
・この3つの領域で展開された諸政策の目的は,日本列島に棲息する住民への壮大な調教を意味していた。民主化と見るか弱体化と見るかは,国家主権とは何かなど国際公法を含めた事態の認識や評価をする当人の見識の問題であろう。 文部大臣田中耕太郎や主事相良などにとっては,未開の地がGHQの推進する民主化によって啓蒙され,日本社会は進歩することになる。
教職パージという主題から見ると,こうした未来に向けての諸作業の集大成が教育基本法の制定であったと言える。
・旧教育基本法は,その前文の冒頭で「われらは,さきに,日本国憲法を確定し,民主的で文化的な国家を建設して,世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は,根本において教育の力にまつべきものである」,とある。新日本国憲法とこの旧教育基本法は一体にある。
・現在から見れば,公職と教職の膨大な追放劇が始まり,新たに占領側のお墨付きを得て登場した役者によって構成されていた日本側の下請け機関が文部省であった。この新たに「民主的に」選抜された組織は,いかにGHQに対して唯々諾々であるばかりか,彼の「管理政策」遂行に使命感をもって積極的に取り組んでいたのかは,追い追い見えてくるはずである。
●教職パージの事例
① GHQの方針と一体になっていることに違和感がない
戦犯教育者の追放/「連合国最高司令部の指令」の意を体する自負
② GHQ権力を背後に置いた擬似「人民裁判」
③ 粛学は近代日本の軌跡を全否定するところに成立
●文部大臣官房適格審査室及び審査委員会の動き
① 適格審査作業の仕組み
・「勅令/除去,就職禁止の件」と,「省令/除去,施行の件」に基づいて,文部省では大臣官房に適格審査室を設置した。事務方の推進機関である。
・同時に訓令に基づき,都道府県教員適格審査委員会,学校集団教員適格審査委員会,大学教員適格審査委員会,教員職員適格審査委員会,中央教職員適格審査委員会を設置した。
・制度的な原型はできた。後は実施するだけである。後に,優秀な法治に長けた「前」日本官僚により,制度の整備は,訓令,政令等に基づいて折々に改組されて,精緻に進んだ。
② ニューズ・レター『審査月報』の発行
・敗戦による茫然自失と矢継ぎ早の指令による突然の仕組みに,当然に作業は思うように進まない。そこで,意思疎通を図り業務の理解を共有することを意図して,適格審査室は『審査月報』を発行した。所掌するCIEの係官からの示唆もあって,ニューズ・レター的な機能をもたせようとした。
・実質上では現地側の参謀部なり中心なりの役割を果たした適格審査室は,全国にある各委員会に審査という作業を奨励し督促している様が見える。その諸発言から,督促される側は,中央と一緒になって取り組んではいないのもわかるからである。
・適格審査室は,形式上では別組織になる委員会の存在があるのであれ,また初代主事であった相良惟一が月報発刊の辞でいみじくも言うように,上部団体あるいは背後である「司令部方面」としてのGHQが傲然と存在しているのであれ,実質上で全国数十万人の教職員の活殺与奪の権限を有していた。
●ニューズ・レター『審査月報』の基調と知性
① GHQに同化し適格審査を粛正と考えたキリスト者文部大臣
〔文相田中耕太郎の態度〕
・1946年9月に出た月報第一号の巻頭には,「適格審査について」と題して,当時の文部大臣田中耕太郎が寄稿している。9月段階での記述で,当該政策の方針を示唆したのである。5月から始まった適格審査は,審査済みと不適格者の査定が,「約八万中僅々三十八名などと云ふ結果は我々の常識とあまりに懸隔っている」と慨嘆している。
・適格審査の結果から,問題の教員が38名は少ないとする田中大臣らの有する「常識」とは,一体どういう代物であったかは不明である。なぜ田中は慨嘆するのか。それは,以下の段落が最後に来るからである。
・「我々は此の粛正工作が民主的平和国家の建設の前提条件であること及びそれが全世界の注視の中に行はれつゝあることを考へ,私心なく,公正且厳格に任務を遂行しなければならぬのである。(昭和二一,九,二二)」と,締めくくっている。
・ここで,審査は粛正を意図していると断言している。帝国大学新聞もこの表現を用いていた。田中がキリスト者として戦時中に抑圧されたと感じた場合があったのであろうか。そうだとしても,現在から読むと,この文脈には嘆息せざるを得ない。それは,前述のように占領軍の政治方針である「精神的な武装解除」の推進に対して,違和感を有していないからである。
〔審査室主事相良惟一の態度〕
・こうした発想の根底にあるものがどういう代物かまでは,後世である筆者の所感は,この段階では礼儀上からも敢えて書かない。そのひたむきな態度には,ただただ敬服するばかりである。ここに見られる占領当局であるGHQへの積極的な同調というか同化態度は,どう評価すればいいのだろうか。
・全国に声高に適格審査を言いながら,文部省自身は連合軍へ申し訳程度の追放しかしていないのではないかと批判している審査室への投書があり,相良主事が「投書に対する回答について」で答えている。
・「今般の適格審査が断じて聯合軍に対する申訳的のものであってはならぬことは今更言ふ迄もないことであって,別項の大臣の言葉の如くあく迄厳正にしなければならぬのである。(中略)若しこの審査がお座なりな申訳的のものであったならば,マッカーサー司令部より再審査命ぜられ又は,マッカーサー司令部が直接適格審査の如きものをなすかも知れぬといふことを委員会関係者はよく知って頂きたい」。こうした文意を,市井では脅しという。
・それを受けてか,月報二号(十月)で,審査委員会委員長会議が行われた席で,田中は,大臣挨拶でさらに強調している。主事の言い分を補っている。
・「人情に捕らはれた為に為すべからざる戦争をなし,継続すべからざる戦争を継続した事についての公の意見とか,実質的,形式的の意味に於てそのような戦争の要素を除くことは正しい事であり,司令部の命令でなくとも以上の信念で臨まねばならぬ」,と意気軒高である。この挨拶の重要部分は,「司令部の命令でなくとも」と言い切っている箇所であろう。
② 虎の威を借りたキツネのせりふ
・室長指示では,「要するにこの際正しい観点で従来日本の教育の極端に曲げられた教育を是正すると言う重大な使命があり,司令部でも日本側に全責任を負はせている」と理解している。負わせているのではなく,どういう人材かを見極められている。あるいは見透かされているのであろう。
・彼らの有する「正と歪曲」の観点は明快である。しかし,彼らの有したその判断基準は,占領という事態で,外から他力によって付与されたものであったことは,ここでは付言しておこう。
・それでか,「審査委員会の活動につき,日本各地の個人より従来も情報が来ているが,将来も情報が来るであろう。このやうな情報があるために軍政部は委員会の活動につき現地の視察調査を行ふであらう。この様にて各審査委員会の成功してゐるか失敗してゐるかは司令部により確かめられるであらう」と記している。
・これは,題名「聯合国総司令部民間教育情報部(CIE)に於ては次の様な見解を表明している」の最終節である。こうした言い回しを右往左往して読む方は,虎の威を借りたキツネのせりふの羅列と受け止めたのではないか。形を変えた脅しと言われても仕方がない。
・日本は戦争中に占領地で多くの傀儡政権や傀儡組織を作ったと,東京裁判で訴因期間が満洲事変からとなったために批判された。戦後になって,例えば中国では対日協力者は漢奸として処刑された者も多い。公職追放には,そうした組織に関わった人々も対象にされていた。
2.5)労働パージ(昭和21年12月)(引用:一般財団法人 日本職業協会HP)
●戦時体制の解除
・ 太平洋戦争が終わって平和が訪れると、労働行政は大きく変貌する。日本を占領したGHQは、矢継ぎ早に占領政策を発表し、その断行を日本政府に迫った。労働の民主化策も、日本の民主化のための重要な柱として推進された。
・労働行政関係でまず真っ先に取り組んだのが戦時体制の解除である。それは戦争遂行のためにとられた労務統制の徹廃から始まった。戦時中は国家総動員法に基づいて、労働力不足に対処するための統制や徴用、勤労動員が間断なく行われたものである。賃金や労務管理にも、厳しい規制が行われた。
・戦時のこうした制度は、民主化策を進めるには全くの障害となる。GHQは、終戦直後の昭和20年11月に、戦時労務統制の撤廃を厳重に指令してきた。
・次いで労働の民主化のための主要な具体策として取り上げられたのは、民主的な労働組合の育成と労働における非民主的制度の排除であった。
・戦時統制法規の廃止にあわせて、昭和20年9月に産業報国会及び労務報国会の組織の解散の措置がとられた。いずれも戦時中労使一体を強調して、産業報国運動を推進した団体であった。
●労働パージ
・また、いわゆる “ 労働パージ ” が、昭和22年12月以降実施された。これは、戦時愛国的労働団体の主要な役職員であった者については、戦後の労働に関する団体の役職員への就職を禁止し追放したものである。この就職禁止該当者の数は2万1,195名に上った。
●労働組合法の制定
・戦時統制法規の廃止に伴って、新しい労働行政の基本となるべき労働法規が次々と制定されていった。いち早く成立したのが、労働組合法(昭和20年12月)である。 大正の末期から、国会へ提案のつど不成立に終わっていた労働組合法が、ようやく誕生したわけである。昭和21年10月には、労働関係調整法が施行された。こうして、労働組合の結成とその運動に、法的な根拠が与えられた。労働争議が起こった場合に、調停、あっ旋、または仲裁を円滑に行うしくみも出来上がったわけである。
・このような情勢の中で労働者の組織化が急速に進んだ。終戦のわずか4ヵ月後の昭和20年末には、戦前の最高の規模に近い509の組合が結成され、組合員は38万人を数えた。その頃の労働組合の組織化の状況は次のとおりである。
組合数 | 組合員数(千人) | |
昭和20年末 | 509 | 380 |
21年末 | 17,266 | 4,296 |
22年末 | 23,323 | 5,692 |
23年末 | 33,926 | 6,677 |
24年末 | 34,688 | 6,655 |
25年末 | 29,144 | 5,774 |
・労働組合がこのように急増したのは、もちろん労働者の労働運動へのめざめが最大の要素である。それに加えて、GHQの勧奨や支援が強力な促進剤となった。その上に労働組合の全国的中央組織の設立の気運が高まる。昭和21年8月には、日本労働組合総同盟と全日本産業別労働組合会議が結成、昭和25年7月には日本労働組合総評議会(総評)が生まれた。
●労働争議
・労働組合の勢力が強まると、その活動も激化した。労働者意識の高揚に、インフレ、低収入、衣食住の窮乏による生活苦、失業情勢の深刻化などが加わり、それに政治情勢がからんだからである。
・労働組合結成、即労働争議突入といったような例もよく見られた。暴力行為を伴ったり、生産管理などの事業管理を行う争議が激増した。その様相は一般に極めて激しいものであった。
・昭和21年度上半期に争議行為を伴った労働争議は486件、そのうち事業管理は225件(46%)に上っている。その頃の特異な労働運動や労働攻勢の事例を紹介してみよう。
① 復活メーデー 昭和21年5月、11年ぶりにメーデーが復活。スローガンは政治色が濃く、内閣打倒、民主人民戦線結成、食糧の人民管理等。
② 食糧メーデー 昭和21年5月、飯米獲得人民運動としての大衆動員。この動員は宮城に迫った。
③ 読売新聞争議 第1次(昭和20年10月、戦争責任を明らかにするための幹部の退陣要求闘争)、第2次(昭和21年6月、編集局長等の解雇反対闘争)。
④ 国鉄争議 昭和21年9月、国鉄7万5,000人の解雇の拒否闘争。
⑤ 海員争議 同年9月、海員6万人の解雇の反対闘争。
⑥ 電産争議 同年10月、電気産業における最低賃金制確立等についての要求闘争。
⑦ 10月攻勢 同年10月、新聞通信放送労組、電産労協の争議を核として、産別会議傘下の組合による大規模な共同の波状スト闘争。
⑧ 2・1ゼネスト 昭和22年2月、官公庁労組の待遇改善闘争が全労働組合規模のゼネストに発展したもの。決行前後(1月31日)にGHQマッカーサー司令官の指令でスト回避。
⑨ 3月攻勢 昭和23年3月、新給与ベースを拒否した官公庁労組が中心となり、2・1ゼネストに匹敵する闘争を企図。しかしGHQマーカット経済科学局長の覚書通告によりスト回避。
3)第2次公職追放令(昭和22年1月)
・昭和22年1月4日、「第2次公職追放令」が公布施行された。第1次パージが中央の政界、官界、軍部を中心としたのに対し、第2次パージは、中央の経済界や言論界、そして地方の指導層を対象としたものであった。
・この追放令をうけて、中央・地方に、公職適否審査委員会が設置され、追放旋風がますます吹き荒れることとなった。この間の昭和21年5月には教職パージ、12月には労働パージも実施されており、これをもって公職追放は完結した。公職追放の実施状況は、下の表の通りである。
3.1)公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令(公職追放令)(昭和22年1月4日)
・『公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令』は、公職追放について規定された日本の勅令。公職追放令とも呼ばれる。(通称・略称公職追放令、関連法令:占領目的阻害行為処罰令、団体等規正令)
・公職追放令は、昭和21年1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」に基づき、昭和21年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(昭和21年2月28日勅令第109号)として公布・施行され、昭和22年に「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年1月4日勅令1号)で全部改正された。
・公職追放令は昭和27年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(昭和27年法律第94号)により廃止された。
・公職を「国会の議員、官庁の職員、地方公共団体の職員及び議会の議員並びに特定の会社、協会、報道機関その他の団体の特定の職員の職等」と定義し、「公務従事に適しない者」として連合国最高司令官覚書に掲げる条項に該当する者が公職に在る場合は退職させるものとし、退職しない場合は20日間(特に必要がある事例は30日)経過すれば失職するものとした。
・また覚書該当者は公選公職候補者となることができず、恩給や年金の受給資格を喪失することとなり、覚書該当者の3親等内の親族及び配偶者は公選公職を除き、覚書該当者の指定があった日から10年間は覚書該当者が覚書該当者として退職した公職の就任が禁止された。
・例外規定として、覚書該当者について余人を以て代えることが困難な事情がある場合は対象外となる規定などあった。
以下に該当する者は3年以下の懲役若しくは禁錮又は1万5000円以下の罰金の刑事罰が規定された。
① 内閣総理大臣又は都道府県知事が徴する「公職追放に関する審査における調査表」における重要事項の虚偽記載又は不提出
② 公職適否審査委員会の審査における、資料提出や事実説明を求められた際に拒否又は重要事項の虚偽資料提出
③ 公選公職候補者について関連届出等において選挙候補者が覚書該当者でないことを証明する確認書の写を選挙長に提出する際の不正の行為
④ 覚書に基づいて報告書を連合国最高司令官に提出する際に重要事項の虚偽記載
⑤ 覚書該当者の公選公職候補者に関する届提出・選挙運動・政治活動
⑥ 覚書該当者の覚書該当者としての指定理由となる団体執務場所における住居・事務所の設置(日常生活の必要がある場合や正当な理由がある場合は対象外)
⑦ 覚書該当者の重要役職の退職拒否・就任
⑧ 覚書該当者の職務執行又は政治活動における、公職への指示・勧奨・意思・利益供与等で、公職をして覚書該当者に代わって支配継続を実現するような行為
⑨ 覚書該当者の命令に基づく届け出拒否又は重要事項の虚偽記載
⑩ 法務総裁の資料提出命令における、提出拒否又は重要事項の虚偽記載
・公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(昭和27年法律第94号)により廃止された。
3.2)公職資格訴願診査委員会の設置
・公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。
・一方、異議申立に対処するために昭和22年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(昭和23年3月に廃止、内閣が一時担当した後に昭和24年2月復置)、昭和23年に楢橋渡、保利茂、棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。
4)公職追放の影響
・公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。
・しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、いわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になった。このことは、公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。なお、公職追放は、当初のアメリカの日本の戦後処分の方針であるハード・ピース路線として行われた。
・逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは、旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。
・また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多い。
5)公職追放解除の事例
・多くの者が昭和26年の第1次追放解除で、残りの者も昭和27年には、「公職追放令廃止法」により復帰した。
5.1)政界
1)赤尾敏- 1951年解除後、大日本愛国党総裁に就任。
2)赤城宗徳- 護国同志会の会員であったため、1946年1月から1951年8月まで公職追放。追放解除後、農林大臣、官房長官、防衛庁長官などを歴任。
3)池田成彬-三井合名理事、日本銀行総裁、第1次近衛内閣大蔵大臣、1945年A級戦犯容疑者に指定。翌年指定解除になるが、公職追放される。1950年追放解除を果たせぬまま死去。
4)石井光次郎- 衆議院議員。戦時中、朝日新聞の取締役を務めていたため、衆議院議員転身後の1947年、商工大臣在任中に追放。1951年に解除されると、朝日放送社長を経て政界に復帰。後に衆議院議長。
5)石橋湛山- 政治家、ジャーナリスト。戦前からの東洋経済新報社主宰を理由として、大蔵大臣在任中の1947年に公職追放。戦時中も一貫して軍部を批判し続けていた石橋の追放には厳しい批判が続出した(石橋が反GHQであった、名声を高めている事に対する吉田茂の追い落とし工作であるなどと憶測も飛んだ)。1951年追放解除。1957年に内閣総理大臣に就任。
6)石原莞爾- 軍人、満州事変指揮を勤めた人物。極東国際軍事裁判山形県酒田市出張法廷で重要参考人として出廷したが、石原の主張は極東国際軍事裁判を認めず、そしてトルーマンとマッカーサーを批判した為と軍国主義者と理由で1948年(昭和23年)1月に追放され、1949年(昭和24年)8月15日に追放解除しないまま死去。
7)市川房枝- 婦人運動家、参議院議員。大日本言論報国会の理事であったため。1947年に追放。1950年、追放解除。
8)植村甲午郎-農商務官僚、のち企画院次長。国家総動員法制定を指揮。日本経済連合委員会(現・日本経団連)会長在任中の1947年追放、1951年解除・復帰。
9)大達茂雄-小磯内閣で内務大臣。1946年追放、1952年解除。復帰後は第5次吉田内閣で文部大臣。
10)緒方竹虎 - 朝日新聞主筆。小磯内閣情報局総裁。1945年A級戦犯指定(のち不起訴)、翌年公職追放。1951年解除。第5次吉田内閣副総理。
11)小倉正恒-住友の6代目総理事、第2次近衛内閣で国務大臣、第3次近衛内閣で大蔵大臣。1951年に追放解除。
12)唐沢俊樹-内務省警保局長、阿部内閣で法制局長官、貴族院勅撰議員。東條内閣で内務次官。天皇機関説事件や大本弾圧に関与。1951年に追放解除、第1次岸内閣で法相。横浜事件を陰で指揮したもと言われる。
13)渋沢敬三-日本銀行総裁、幣原内閣で大蔵大臣。渋沢栄一の孫。1946年に追放、1951年、追放解除。
14)膳桂之助-経済安定本部総務長官、物価庁長官。1947年第1回参議院議員通常選挙で当選するが、その直後に公職追放され、当選を辞退。1951年8月追放解除、同年11月25日死去。
15)灘尾弘吉- 終戦時の内務次官。1947年に公職追放。1951年、追放解除。のち文部大臣、衆議院議長。
16)羽田武嗣郎-朝日新聞記者を経て政治家。戦時中は大政翼賛会に参加。1952年、追放解除。羽田孜元首相の父。
17)鳩山一郎-政治家。統帥権干犯問題を発生させて軍部の暴走を招いたことによる。1946年に追放、1951年に追放解除。1954年、内閣総理大臣。
18)東久邇稔彦-陸軍大将、内閣総理大臣。1947年皇籍離脱、その直後に梨本守正ら軍歴のある元皇族とともに公職追放、1952年追放解除。
19)町田忠治-立憲民政党総裁。農林大臣。戦時中は翼賛政治会顧問。1945年日本進歩党総裁に就任するが、1946年1月公職追放。同年11月12日死去。
20)松野鶴平-立憲政友会幹事長。米内内閣鉄道大臣。1946年公職追放。選挙区には三男頼三 が身代わり立候補。追放中は吉田茂の政治顧問。1951年追放解除。翌年の参議院補欠選挙で政界復帰。のち参議院議長。
21)松本治一郎-政治家、部落解放運動活動家。1946年に公職追放されるが一旦解除、しかし1949年に再び追放。1946年の追放理由は翼賛選挙で推薦議員だったためで、1949年の追放理由は参議院副議長としての「反皇室的」言動が吉田茂に睨まれたためといわれる。1951年追放解除。
22)三木武吉-報知新聞社社長。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して当選。1945年日本自由党の結成に参加。翌年の総選挙後、衆議院議長に内定するが、第1次吉田内閣の成立直後に追放。1951年に追放解除。
23)山崎巌-東久邇内閣で内務大臣。治安維持法廃止を拒否したため罷免命令を受けると共に追放。1951年解除。
5.2)経済界
1)足立正-王子製紙社長。
2)石田礼助-三井物産代表取締役、追放解除後、日本国有鉄道総裁。
3)二代伊藤忠兵衛-伊藤忠商事並びに丸紅の基礎を築いた実業家。1947年9月に公職追放、1950年10月に追放解除。
4)小平浪平-日立製作所社長。1951年6月、追放解除。
5)小林一三-阪急電鉄創業者。第2次近衛内閣で商工大臣、幣原内閣で国務大臣。1947年に追放。
1951年追放解除。のちに東宝社長。
6)五島慶太-東京急行電鉄社長。東條内閣で運輸通信大臣。1947年に追放。1951年、追放解除。
7)下中弥三郎-平凡社社長、大政翼賛会発足に協力、大日本興亜連盟役員。1951年追放解除で平凡社社長に復帰。
8)田中正明- 大日本興亜同盟職員、松井石根の中国訪問時に随員。復員後は南信時事新聞編集長。1949年に追放。
9)堤康次郎-西武グループの創設者で総帥・衆議院議員。1946年に公職追放される。1951年に追放解除され、
次の年の衆議院議員総選挙で衆議院議員に復帰する。後に衆議院議長。
10)松下幸之助-松下電器産業社長。1946年に公職追放、松下電器労組と連合国軍最高司令官総司令部の
交渉の末、翌年の1947年に追放解除。
11)大河内正敏- 貴族院議員 理化学研究所の3代目所長。1945年A級戦犯として収監。1946年- 1951年8月6日まで公職追放。
5.3)教育界
1)石原忍ー1943年1月から1946年1月まで、前橋医学専門学校校長であったが、以前に軍歴があり教職追放になり、自宅開業。
2)小野清一郎-東京大学法学部教授(刑法)。1946年から1951年まで追放。
3)板沢武雄ー日本近世史、日蘭貿易史を専門とする歴史学者。元東京帝国大学教授、法政大学教授。1948年1月から公職追放。1952年法政大学教授となる。
4)紀平正美-学習院教授。国民精神文化研究所役員だったため公職追放され、追放解除されないまま1949年死去。
5)木村秀政- 東大教授(航空力学)。戦時中、軍用機の開発に関わったことが問題視された。日大教授(後に名誉教授)。
6)杉靖三郎ー1928年東京帝国大学医学部卒。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。日本的科学に賛同し1941年国民精神文化
研究所文化部主任。1947年3月 - 26年8月 公職追放。1946年 - 1951年 医学書院 編集長 1952年 - 1969年東京教育大学教授。
戦後、公職追放になったが、セリエのストレス学説を紹介し、セックス評論、大衆医学知識の領域で活躍した。
7)西田直二郎ー歴史学者としては「文化史学」「文化史観」の提唱で知られる。政治・思想においては保守的であり、
滝川事件後の新聞部長に就任、新聞部内で高まりを見せていた自由主義擁護の風潮を押さえる側に回った。戦時中は
国民精神文化研究所所員として戦意高揚に努めたが、これらの経歴が戦後の公職追放処分の理由になった。
8)西谷啓治- 日本の哲学者・宗教哲学研究者。京都学派に属する。公職追放後、京都大学文学部名誉教授、文化功労者。
9)平泉澄-歴史学者、東京帝国大学教授。皇国史観の権威。教えを汲んだ者達は平泉学派と呼ばれる。1948年
公職追放、1952年追放解除。
10)松前重義-東海大学創設者。戦時中は大政翼賛会総務部長、のち逓信省工務局長。1946年に公職追放、1950年に追放解除。
11)宮川米次- 日本の医学者、病理学者、細菌学者。愛知県豊橋市出身。医学博士。東京大学名誉教授。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。公職追放され、後解除。
12)八木秀次ー八木・宇田アンテナの開発者。電気工学者。戦時中は内閣技術院総裁。1946年大阪帝大総長に就任するが、
その直後に公職追放。追放中は日本アマチュア無線連盟会長。1951年追放解除。同年日本学士院会員になる。文献に
よっては教職追放とあり、追放期間にも、国有鉄道審議会委員、日本学術会議会員、科学技術行政協議会委員、電気通信省
運営審議会委員、日本工業標準調査会委員、参議院全国区に出馬(落選)、外資委員会委員を務めている。
13)山田孝雄-国語学者、神宮皇學館大學学長。公職追放は1946年、追放解除は1951年。
5.4)マスコミ界
1)伊豆富人-九州日日新聞社社長。衆議院議員。
2)加藤謙一講談社「少年倶楽部」編集長。後に学童社を創立し「漫画少年」を発刊。手塚治虫らを育てた。
3)菊池寛- 作家、大映社長。内閣情報部参与として文芸銃後運動を提唱。追放中の1948年に死去。
4)正力松太郎-読売新聞社長。1945年、A級戦犯容疑で逮捕。巣鴨拘置所に収容される。1947年に不起訴で釈放され、その後追放される。1951年、追放解除。
6)徳富蘇峰- ジャーナリスト、思想家。1945年にA級戦犯指定を受ける(不起訴)。のちに追放を受け、1952年解除。
7)前田久吉-大阪新聞社長。報道での戦意高揚のため。1946年から1950年10月まで追放。
8)松本重治- 日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。1947年から公職追放。
5.5)知事など行政官
竹内徳治、伊藤清、高橋庸弥、高橋敏雄、関外余男、橋本政実、田中省吾、土肥米之、今井久、
石井政一、柴山博、大島弘夫、鈴木脩蔵、並川義隆、澤重民、中島賢蔵、藤岡長敏、桜井安右衛門、
長谷川透、武井群嗣、多湖實夫、広瀬永造、加藤於兎丸、中野善敦、三島誠也、藤野恵、林信夫、
岡田文秀、小河正儀、二見直三、久保田畯、宮野省三、土岐銀次郎、小林光政、山縣三郎、
白上佑吉、吉村哲三、小泉梧郎、宮田為益、相馬敏夫、赤星典太、宮崎通之助、小林千秋、
永野若松
5.6)その他
1)岩本徹三-日本海軍の戦闘機搭乗員。『最強の零戦パイロット』と謳われた名操縦士。追放後、北海道に
移住し農業を営む。1952年の追放解除後、益田大和紡績会社に転職。
2)円谷英二-映画監督・特撮監督。戦時中に軍人教育用の「教材映画」、戦意高揚目的の「戦争映画」の演出・
特撮監督を務めたため、1947年に追放され、東宝を退職。1952年の追放解除により東宝に復帰。
3)原田大六- 考古学者。復員後、故郷の福岡県前原町(現・糸島市)で中学校の代用教員をしていたが、
中国大陸で憲兵をしていたことから追放。その後、在野の考古学者に転身。
4)堀野哲仙ー書道家。書道翼賛連盟の責任者、書道界の指導者であったため追放。書写能力の向上に必要な範囲で指導
してもよいとのことから1950年追放解除。
5)安岡正篤- 思想家。大東亜省顧問。1952年に追放解除。
6)山岡荘八ー作家。戦時中従軍作家の経験があったため追放。1950年追放解除。
6)パージ政策の変更
・昭和21年3月5日、元英首相のチャーチルが、有名な「鉄のカーテン」演説を行い、東西冷戦が始まった。この冷戦の進展に伴い、米政府内部では対日占領政策の見直しが始まった。
・従来の「非軍事化・民主化」政策は、アジアの共産主義化の波によって非現実的となり、むしろ日本を反共防波堤とし、アジアの有力な同盟国にするほうが良いとの認識であった。
●公職適否審査委員会の廃止
・こうして、昭和23年5月、日本の審査委員会が廃止された。この時点までに公職を追われた日本人は20万人を超え、その家族を含めれば、100万人以上の日本人が影響を受けたことになる。同年10月、米政府は、対日占領政策の目標を「経済的自立」とする新方針を公式に承認した。
・この一環として、パージも、「終結」から「解除」へ向かう、と期待された。しかし、マッカーサーは、パージの解除に対して、自分が命じてきた占領方針に反する、として猛烈に反対した。このため、パージの解除は、昭和25年6月25日の朝鮮戦争の勃発まで、見送られた。
7)レッド・パージ(昭和25年6月~)
7.1)背景
・第2次世界大戦終結後、GHQ/SCAPは日本の民主化を推進し、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化ししたが、これによって日本共産党の勢力が伸びていた。また昭和24年に中華人民共和国が成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になると、弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。
・昭和24年1月の第24回衆議院議員総選挙では日本共産党が35議席を獲得した。そうしたなかで、昭和24年の下山事件、三鷹事件、松川事件といういわゆる国鉄三大ミステリー事件(後述)が、日本共産党と国鉄労働組合が仕組んだというプロパガンダがなされたため、日本共産党・共産主義者排斥を容認する風潮が作られた。
・二・一ゼネスト計画(後述)などの労働運動の激化、中国の国共内戦における共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化から、GHQの占領政策が転換され、主な対象者は次第に共産主義者やそのシンパとなっていった。
・1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)(後述)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放、アカハタを停刊処分にした。
・こうした流れのなかで、7月以降、GHQの勧告により、マスコミ(新聞・放送)、官公庁、企業などでも追放が行われていった。
・当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)による内部分裂状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。
7.2)二・一 ゼネスト(昭和22年2月)
ゼネスト中止宣言をする伊井委員長(引用:Wikipedia)
・二・一ゼネストは、昭和22年2月1日の実施を計画されたゼネラル・ストライキ。二・一1ストとも言う。決行直前に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となり、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右した。
●労組の急成長
・昭和11に42万人いた労働組合員は、戦争の勃発で労働運動が禁止され、解体されていたが、戦後に進駐したGHQは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認していた。
・第二次世界大戦後の激しいインフレの中で、日本共産党と産別会議により労働運動が高揚し、昭和21には国鉄労働組合が50万名、全逓信従業員組合が40万名、民間の組合は合計70万名に達した。これらの勢力がたびたび賃上げを要求して、新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業で相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。
・8月には総同盟と産別会議、9月には全官公労が結成され、11月には260万人に膨れ上がった全官公庁共闘が、待遇改善と越年賃金を政府に要求したが、吉田茂内閣は満足な回答を行わなかったため、「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。
・ここで挨拶に立った日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を図った。
・冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。
・連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、12月18日に民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表した。
・この第3項で、労働運動は「占領の利益を阻害しない」こと、第5項で「ストライキその他の作業停止は、占領軍当局が占領の目的ないし必要に直接不利益をもたらすと考えた場合にのみ禁止される」として、労働運動も連合軍の管理下におかれることが決定された。また、吉田も共産党との対決を意識し、内部分裂した日本社会党右派に連立を持ちかけるなど、革新勢力の切り崩しを図った。
●ゼネスト宣言
・昭和22年1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。」いわゆる「労働組合不逞の輩」発言である。
・非難されたと受け取った労組はいっせいに反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日に4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。1月15日には全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、1月18日には、要求受け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。
・実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田政権はダメージを受けることは確実であった。また、吉田が進めた社会党右派の取り込みは、4名入閣でまとまりかけていたが、スト計画を進める左派の強硬な圧力によって流産した。公然と叫ばれるスト実施と政情不安によって、社会不安が蔓延した。
・1月21日には天変地異を予言していた神道系の宗教団体璽宇教(横綱双葉山が入信し話題となった)が、GHQの指令によって摘発された。
・ゼネストへの動きが高まる中で、占領の実務を担任する第8軍司令官R・アイケルバーガー中将は、鉄道のストにより日本各地に駐留する米軍への補給寸断・相互連絡の途絶が発生すれば、軍事的に重大な危機に陥ると判断、1月16日に参謀長C・バイヤース少将を通じ、GHQ経済科学局長ウィリアム・フレデリック・マーカット少将にゼネスト阻止を措置するよう要求した。
・1月22日、伊井など組合幹部がマーカット少将と経済科学局労働課長エオドル・コーエンに呼び出され、ゼネストは許されないと忠告されたが、伊井は承諾しなかった。伊井はマッカーサーの命令と言い張る2人に対し、指令書の提示を要求したが、マッカーサーはマーカットに口頭で命じただけだった。米国大統領選挙へ出馬する予定であったマッカーサーは、本国での労組の目線を考え、まだこのときは、日本の労組を自ら取り締まろうとはしなかった。
・1月29日、中央労働委員会の会長代理末弘厳太郎が、現行556円から1800円への平均賃金引上げ要求に対し、18歳で最低賃金650円、平均で1000円にするという調停案を出したが、共産党の徳田書記長は1200円を要求し、他の共闘委員も同調した為、末弘も1200円で政府に勧告した。政府は調停案を受け入れるとしながらも、当分は平均984円とする条件をつけたため、共闘が受け入れを拒否して決裂した。
・1月30日、マーカット少将は再び伊井を呼び、ゼネスト中止令を出すよう命令したが、伊井は組織の決定として拒否し、マッカーサーが直接命令するべきと言い返した。共闘もマッカーサーが動かないことに気がついていた。しかし、目論見は外れた。
・1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警戒態勢に入った。午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」として、ゼネストの中止を指令した。
・伊井委員長はGHQによって強制的に連行された。NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された伊井は、午後9時15分に「声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進」と、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表し、「日本の労働者および農民万歳、我々は団結せねばならない」と締めくくった。
翌2月1日には全官公庁共闘と全闘が解散した。また、伊井は占領政策に違反したとして逮捕され、懲役2年を宣告された。
●影響・評価
・二・一ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされる。意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示した。
・個々の組合においては、個別交渉で賃金アップなどを勝ち取ったケースもあったが、結局は労働者側の敗北であった。その影響で、例えば翌昭和23年3月に全逓信従業者組合が計画したゼネストも、マッカーサーの命に反するとして中止されるなどした。
・しかし、その後も労働運動はなお盛んであったため、マッカーサーは芦田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示した。これに基づき、昭和23年7月31日に公布された政令201号によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。後に国家公務員法・地方公務員法で正式に公務員のストライキ禁止が明文化された。この公務員のスト禁止は、1970年代の国鉄による「遵法闘争」の要因となる。
・また、32年テーゼの中で進駐軍を解放軍と規定していた日本共産党は、しばらくの間、この事実を受け入れられずに迷走した後、暴力革命路線へ転換することとなる。しかし、労働者からの支持を失ったことから労働組合からの求心力も低下し、その後の労働組合は日本社会党支持に傾いていくこととなる。
・冷戦の進展、日本の労働運動の高まり、日本経済のインフレの昂進、といった事態は、アメリカの占領政策に大きな影響を与えた。昭和24年7月のGHQ教育顧問イールズの「反共演説」を契機として、日本共産党に対する「公職追放(レッド・パージ)」が行われるようになった。 こうして、今までの民主改革路線と逆行するかのような占領政策の変更が行われ、一般に「逆コース」と言われる。
① 朝鮮戦争勃発の直前の6月6日、マッカーサーは、共産党共産党中央委員24人を公職追放した。徳田球一ら主流派は地下に潜伏し、日本共産党は分裂した。GHQは、その後、7月18日に共産党の機関紙「アカハタ」の無期限発行停止を指令したが、この指令は、あらゆる報道機関における共産主義者の排除の論拠とされた。
② 昭和25年7月24日、GHQは、新聞社に共産党員とその同調者を追放するよう指示し、ここに、「レッド・パージ」が始まった。これをうけて、新聞・放送関係では、8月5日までの間に、NHK119名、朝日新聞104名を含め、総計で704名が追放された。
③ 新聞・放送のパージについで、8月には電産、9月には映画・日通、10月から11月にかけて全産業に波及し、その数は11,000名にのぼった。この間、政府は9月1日の閣議において、公務員のパージを決定し、国鉄467名、電通省217名以下、全部で1,200名近くが解雇された。
④ 唯一つだけレッド・パージが不成功に終った分野があった。それは、大学で、学生運動の成果であった。政府は、9月9日、「教職員の除去、就職禁止等に関する政令」にもとづき、レッド・パージをすることを決定した。しかし、これより先5月、全学連はイールズ闘争に勝ち、意気があがっていた。
(注:GHQ/CIE顧問のイールズは、昭和24年7月以降、各大学で「共産主義教授の追放」を説いてまわった。しかし、各大学の自治会はイールズの講演に反対し、昭和25年5月には、東北大学でイールズの講演会を中止させるのに成功したのである)。
・政府の追放令に対し、学生達は、試験ボイコット等の手段で、強硬に反対した。そして、10月17日には全国ゼネストが行われ、全学連の指揮するデモ隊と警官隊が衝突し、143人の大量の逮捕者を出す騒ぎとなった。こうした混乱を収拾するために、文部省は、ついに、大学教員のレッド・パージを断念したのである。
7.3)国鉄三大ミステリー事件(昭和24年7月~)
・国鉄三大ミステリー事件とは、日本が連合国軍の占領下にあった1949年の夏に相次いで発生した、日本国有鉄道にまつわる真相に謎が残る三つの事件のこと。
●三大事件
① 下山事件:昭和24年7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明、常磐線の北千住 - 綾瀬駅間で轢死体となって発見された事件。
② 三鷹事件:昭和24年7月15日、中央本線三鷹駅で無人列車が暴走した事件。死者6人、負傷者20人を出した。
③ 松川事件:昭和24年8月17日、東北本線松川 - 金谷川駅間で故意にレールが外され列車が脱線した事件。死者3人を出した。
●背景
・昭和24年、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換した。
・まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
・同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆議院議員総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第1次整理通告(=解雇通告)が行われた。
●捜査と裁判
・国鉄が人員整理を起こそうとしていたことから、人員整理に反対する国鉄労組による犯行という観点から捜査が進められた。
① 下山事件では下山総裁が自殺なのか他殺なのかが争点になった。死体が生体轢断(自殺の根拠)か死後轢断(他殺の根拠)かで大きな争点となった。捜査1課は自殺説を主張、警視庁捜査2課が他殺説を主張した。最終的には他殺とも自殺とも結論を出せないまま、捜査が終了した。
② 三鷹事件では国鉄労働組合員11人が起訴された。裁判では10人に無罪判決が出て1人に死刑判決が確定した。
③ 松川事件では国鉄労働組合員10人と東芝松川工場労働組合員10人の計20人が起訴された。裁判ではアリバイが成立して全員の無罪判決が確定した。
・これらの三事件では、「GHQが事件を起こし国鉄労組や共産党に罪をなすりつけて、人員整理をしやすくした、直接関与したのは陸軍防諜部隊」とする陰謀論が存在する。一人の有罪が確定した三鷹事件もアリバイの存在や供述の変遷などから、冤罪疑惑が指摘されており、獄死した元死刑囚の家族により再審申し立てがされている。
7.4)人民広場事件(昭和25年5月)
・人民広場事件とは、昭和25年5月30日に日本共産党を支持するデモ隊と占領軍が東京の皇居前広場で衝突した事件。占領軍と大衆行動との最初の衝突事件とされる。なお、「人民広場」とは、戦後共産党など天皇制に反対する勢力が「皇居前広場」に対して付けた名称である。
・昭和20年の日本占領開始以後、日本の非軍事化と民主化を進めていたアメリカ合衆国は、冷戦の激化に伴って日本に対する占領政策の見直しを行い始めていた。
・昭和25年5月3日にGHQ/SCAPのダグラス・マッカーサー総司令官は共産主義陣営による日本侵略の恐れを警告し、更に日本共産党がそれに協力していると非難、場合によっては同党の非合法化も検討しているとする趣旨の声明を出した。
・これは第2回参議院議員通常選挙(6月4日)を1ヶ月後に控えた時点での発言であり、共産党は強く反発した。
・5月30日に民主民族戦線東京準備会は共産党の指導のもとで皇居前広場(人民広場)で5万人規模(主催者発表)の人民決起大会を開催した。だが、その時に私服警官が集会に紛れ込んでいたのを追及したのを機に警備をしていた占領軍との小競り合いに発展、民主青年団東京都委員長ら8名の労働者学生が逮捕された。
・6月1日に共産党はこれは反対派の学生による投石による挑発を受けたものであるとし、集会参加者の逮捕は4日の参議院選挙に対する妨害行為であるとのGHQ批判を行う。翌日、警視庁は都内での集会・デモの禁止措置を発令、更に3日には占領軍の軍事裁判にて逮捕者に重労働10年などの有罪判決が下された。なお、4日に行われた第2回参議院議員選挙では共産党は改選議席である2議席を引き続き確保している。
・6月6日、GHQと政府は日本共産党中央委員会委員24名の公職追放と機関紙『アカハタ』の発行禁止命令を出し、レッドパージが本格化することになる。
8)追放解除
・レッド・パージとまったく対照的なのが追放の解除であった。公職追放は、日本の政・財・官界・旧軍人等を震撼させたが、逆コースの波に乗り、その見直しが行われた。
8.1)第1次追放解除(昭和25年8月)
・昭和23年5月に廃止された「公職資格訴追審査委員会」は、翌年2月に再設置され、「指定特免」の訴願を受理した。公職追放者約206,000人のうち、32,089人が訴願書類を提出し、昭和25年8月末まで、その審査が行われた。審査の結果は、下の表の通りであり、10,090人の解除が決定した。
(引用:Wikipedia)
・解除された主なメンバーを以下に示す。
A.政界・官界・財界: 平野力三、鶴見祐輔、山際正道、松前重義、古井義美、前田多門、
藤山愛一郎、伊藤忠兵衛ら
B.新聞・出版界: 石井光次郎、美土路昌一、高田元三郎、松本重治、小汀利得ら
C.その他: 安井郁、市川房江ら
・なお、表の最下段にある、GHQによる「覚書追放者」の鳩山一郎、石橋湛山、河野一郎、河上丈太郎、河野密らは、「訴願委員会の審査の権限外である」として、8月15日に解除を凍結された。
8.2)旧軍人の一部追放解除(昭和25年10月)
・昭和25年10月30日、旧軍人の一部の追放を解除した。昭和20年の7月、8月に任官した3,250名で、第1次追放解除とは別枠で処理された意図的な解除であった。というのは、翌年、彼らの中から警察予備隊の幹部を採用したからである。
・8月10日に発足した警察予備隊には、中堅幹部が不足していた。そこで、こうして追放解除した旧軍人の中から積極的に中堅幹部を採用し、警察予備隊の組織強化を図ったのである。
8.3)公職追放の緩和・復帰(昭和26年5月)
・昭和26年5月1日にリッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。
8.4)覚書追放者の取扱いの変更(昭和26年6月)
・昭和26年6月16日、GHQは、「覚書追放者を一般の追放者と同じ扱いにする」、と発表した。こうして、全追放者が、6月18日に新しく設置された公職資格審査委員会により、審査されることとなったのである。
8.5)第2次追放解除(昭和26年8月)
・昭和26年8月6日、延べ13,904名が第2次解除者として発表された。この中の主要メンバーは以下の通りである。
A.政治家:鳩山一郎、松野鶴平、河上丈太郎、河野密ら
B.財界人:藤原銀次郎、小林一三、五島慶太ら
C.言論界:緒方竹虎、正力松太郎、高石真五郎ら。
・その後、昭和26年9月4日の講和条約調印の後、追放の解除は急ピッチとなった。そして、昭和27年4月28日の講和条約発効にともなう追放廃止令により、残されていた5,700名全員が自動的に追放から解除されることとなった。この最後に解除されたメンバーの中に、岸信介ら太平洋戦争開戦時の閣僚5名のほか服役中の戦犯が含まれていた。
9)公職追放令の廃止(昭和27年4月)
・公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(昭和27年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(昭和27年法律第94号)により廃止された(なお、この直前に岡田啓介・宇垣一成・重光葵ら元閣僚級の追放も解除されており、同法施行まで追放状態に置かれていたのは、岸信介ら約5,500名程であった)。
●『公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律』(昭和27年法律第94四号)
左に掲げる法令は、廃止する。
一 公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令(昭和二十二年勅令第一号)
二 昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く衆議院議員の議員候補者たるべき者の資格確認に関する件(昭和二十一年内務省令第二号)
三 昭和二十二年勅令第一号の特例に関する勅令(昭和二十二年勅令第六十一号)
四 昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく昭和二十二年勅令第一号第八条に対する特例に関する命令(昭和二十二年閣令、内務省令第五号)
五 昭和22年勅令第一号の規定による覚書該当者等の地方農業調整委員会、市町村農業調整委員会及び地区農業調整委員会の委員への就職禁止に関する命令(昭和23年総理庁令、農林省令第12号)
六 内閣総理大臣から覚書に掲げる条項に該当する者でない旨の確認を受けていない者の立候補の特例に関する命令(昭和二十三年総理庁令第七十六号)
七 昭和二十二年勅令第一号の規定による覚書該当者等の農業協同組合、農業協同組合連合会及び水産業協同組合の役員等への就職禁止に関する命令(昭和二十四年総理庁令、農林省令第二号)
八 昭和二十二年勅令第一号の規定による覚書該当者等の土地改良区及び土地改良区連合の役員等への就職禁止に関する命令(昭和二十四年総理府令、農林省令第一号)
九 公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令の規定による覚書該当者の指定の解除に関する法律(昭和二十六年法律第二百六十八号)
附 則 抄
1 この法律は、日本国との平和条約の最初の効力発生の日から施行する。
2 この法律施行の際旧公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令(昭和22年勅令第1号)第五条第一項の規定の適用を受けている者は、他の法令に別段の定のある場合を除く外、この法律施行の日において、公私の恩給、年金その他の手当又は利益を受ける権利又は資格を取得する。この場合において必要な事項は、政令で定める。
3 この法律施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。
10)まとめ
・日本の指導層を混乱の極に追い込んだ「公職追放」には、多くの問題点が含まれていた。それは、前述した「G項」のごとき基準の曖昧さと、審査は日本側が行うが、実施はGHQ(とくにGS)に握られているという2重構造とにあった。
・表向きは、日本側が主体的にパージを審査し実施しているようにみせながら、実際にはGS側の意向で審査結果は曲げられた。しかも、パージは司法的に行われず、行政的に実施されたために、審査側にかなりの裁量の余地が残されたのである。
・このため、日本人の中には、保身とか政敵を追い落とすためにパージを利用したり、GHQ内でも、パージを巧妙に用いて日本の政界に影響力を残そうとする動きもあった。結局、双方のそのような悪質な態度がパージ自体を堕落させ、国民から不評を買う結果となってしまったのである。
・今回まとめた公職追放やレッドパージが日本社会に与えた影響の大きさは今後、もっともっと分析・研究される必要があるであろう。
(追記:2020.10.18/修正2020.11.11)
(1)戦争終結と憲法改正の始動
(2)近衛、政府の調査と民間案
(3)GHQ草案と日本政府の対応
(4)帝国議会における審議
(5)日本国憲法の公布と施行
*参考:国会図書館/憲法/資料「日本国憲法の誕生」(第1章 戦争終結と憲法改正の始動)
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01shiryo.html
〇概要
・日本国憲法の制定には、国の外からと内からの双方の力が働いている。
・外からの力とは、日本の敗戦により、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置をとる連合国最高司令官のもとで、大日本帝国憲法(明治憲法)の変革が求められるようになったことである。
・内からの力とは、戦時中、軍部の行った政治支配によって、敗戦当時、もはや戦前の議会制度をたんに修復させるだけでは、国民の期待する「民主主義」を実現することができないまでに、明治憲法体制は深く傷ついていたことである。
・憲法制定の経過は、昭和21年2月13日を「ターニング・ポイント」として、その前後で大きく二つの段階に区分される。
・前者は、昭和20年10月、最高司令官が「憲法の自由主義化」を示唆、これをうけて日本政府による明治憲法の調査研究が開始され、翌昭和21年2月、改正案(憲法改正要綱)が総司令部に提出されるまでの段階である。
・後者は、2月13日、総司令部が日本側の改正案を拒否し、逆に、自ら作成した原案(GHQ草案)を提示することで、局面が転回し、新たな憲法の制定・公布にまで至る過程である。
・この二つの段階ないし局面を通じて、国内外の様々な政治的、社会的、その他もろもろの力が複雑に絡み合うなかから、日本国憲法が作り出されるのである。
1)対日占領政策の立案
・米国は、日米開戦後の早い時期から国務省を中心に対日戦後政策の検討に着手していた。
・国務省内の知日派は、天皇制の存置など日本に対して寛大な戦後政策を構想していた。
・一方、陸軍省や海軍省などでは、天皇制廃止や広範な経済改革など徹底的な占領改革を提唱する者もいた。
・両者は、国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)などの場で激しく対立し、政府首脳において調整が図られた。しかし最終的には、連合国が、昭和20年7月26日に発したポツダム宣言において、天皇制存続を明示せずに、既存の日本の統治機構を通じて占領政策を遂行するという方針を確定した。
2)ポツダム宣言の受諾と占領の開始
厚木飛行場に降り立つマッカーサー(1945年8月30日)(引用:Wikipedia)
・日本政府ははじめ、米・英・中の3か国によるポツダム宣言を「黙殺」していたが、広島・長崎への原爆投下やソ連の参戦を経て、8月14日に、第2次世界大戦が終結した。敗戦とともに日本は米軍を中心とする連合国軍の占領下におかれ、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーに、ポツダム宣言に基づいて占領管理を遂行する全権が与えられた。
・日本政府はポツダム宣言の受諾にあたり、大日本帝国憲法(明治憲法)上の天皇の地位に変更を加えないこと、すなわち「国体護持」を条件にすることを求めた。しかしポツダム宣言は、「平和的傾向を有する責任ある政府の樹立」、「民主主義的傾向の復活強化」、「基本的人権の尊重の確立」などを要求しており、これらを受け入れることは、明治憲法の枠内にとどまりうるものでないことが明らかで必然的に明治憲法の根本的な改革に道を開くこととなっていく。
・民主化の措置は連合国側が実施するのに対して、日本の場合には日本政府自身に行わせようとしていると述べられている。特に、ポツダム宣言中の「民主主義的傾向の再生」は、日本国民が元来民主主義的傾向を有するとの連合国側の見解だとした。また、「平和的傾向を有する責任政府の樹立」は、現政府とは異なる別個の新政府の樹立を必要とすると解している。
3)終戦直後の日本政府の動き
・もっとも、終戦直後に発足した東久邇宮稔彦内閣は、GHQへの対応に追われ、憲法を見直す意図も余裕もなかった。そして「治安維持法の廃止」、「政治犯の即時釈放」、「天皇制批判の自由化」、「思想警察の全廃」などいわゆる「自由の指令」が出されたことを重要なきっかけとして、組閣から2か月足らずで総辞職を余儀なくされ、幣原喜重郎内閣に交替した。
・この終戦直後の短い期間、政府においては法制局と外務省が、いち早く憲法問題に気づき、その検討を始めていた。法制局では、入江俊郎第一部長のグループが非公式に憲法を見直すための事務的な検討を行った。外務省条約局は、日本みずからの意思で民主主義体制を整備する必要があるとの判断から、独自の検討を進めた。しかしこれらの動きは、内閣の消極的な姿勢のもとで具体的な成果には結びつかなかった。
3.1)法制局内の憲法改正問題に関する検討(昭和20年9月)
入江俊郎(引用:Wikipedia)
・昭和20年9月中旬、法制局内で憲法改正問題を検討した。東久邇宮内閣は、総司令部からつぎつぎに発せられる指令への対応に追われ、憲法問題にまで考えが及ばなかった。
・一方、憲法改正問題の重要性を認識した法制局第一部長の入江俊郎は、自ら起案した「終戦ト憲法」を少数の参事官に配布し、これを機に憲法問題の研究が進められた。
・法制局では、各参事官がそれぞれの考えをまとめ、これをもとに数回の部長会議で意見交換を行ったが、当時は内閣が内政面について積極的ではなく、村瀬直養法制局長官も憲法改正問題は慎重に扱うよう指示していたことから、この予備的研究は、幣原内閣発足直後に設置される憲法問題調査委員会の下準備的性格を有するものとなった。
3.2)宮沢俊義「ポツダム宣言ニ基ク憲法、同付属法令改正要点」
(外務省における講演)(昭和20年9月)
宮沢俊義(1953年)(引用:Wikipedia)
・憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。
・ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。
3.3)矢部貞治「憲法改正法案(中間報告)」(昭和20年10月)
矢部貞治(1954年)(引用:Wikipedia)
・東久邇宮内閣の副書記官長で、元海軍少将の高木惣吉の依頼によって、矢部貞治東大教授が作成した1945(昭和20)年10月3日付けの憲法改正案。矢部は、のちに内閣憲法調査会副会長となる政治学者で、戦前は近衛文麿のブレーンとなった政策研究集団「昭和研究会」のメンバーでもあった。
・矢部の案は、「この機会に自主的に憲法を改正」するとの立場から、天皇「統治」(君臨)のもとに民意を反映した政治体制を実現することで、明治憲法の統治制度を議院内閣制に近づけようとするものであった。
3.4)外務省内の憲法改正問題に関する検討(昭和20年10月)
・外務省内において、昭和20年10月上旬に憲法改正問題に関して検討した文書類。外務省政務局第一課では、ポツダム宣言や初期対日方針が、天皇制を含む日本の統治制度の改革を要求していることを踏まえ、予想される連合国側の改革要求を先取りすべく「自主的即決的」に統治制度の改革に着手しようとしたものであり、その中には、憲法改正が含まれていた。
・同じ外務省の田付景一条約局第二課長兼第一課長は、「帝国憲法改正問題試案」を作成し、「自主的に改正すべき点」を論じた。
・また、条約局で作成したと見られる「憲法改正大綱案」では、天皇の地位の堅持とともに「一君万民の政治」、「民本主義」をその根本方針として、天皇制を堅持しようとした。
4)近衛文麿と松本委員会
・マッカーサーは10月4日、「自由の指令」を出す一方で、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆を与えた。近衛はこれを受けて、佐々木惣一元京大教授とともに内大臣府御用掛として憲法改正の調査に乗りだす。
・マッカーサーは、また、10月11日、新任挨拶に来た幣原首相との会談において、「憲法の自由主義化」について触れた。幣原内閣は、前内閣と同様に憲法改正には消極的であったものの、内大臣府が憲法改正問題を扱うことへの反発もあり、政府としてこの問題に対応することとした。
・こうして内閣の下に松本烝治国務大臣を委員長、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として憲法問題調査委員会(※)(いわゆる松本委員会)が10月25日に設置され、政府側の調査活動がスタートする。
※憲法問題調査委員会
幣原内閣に設けられた憲法改正の調査研究を目的とした委員会。委員長に松本烝治が就いたことから、「松本委員会」ともいわれる。昭和20年10月27日から昭和21年2月2日のあいだに、総会が7回、調査会・小委員会が15回開かれた。当初学問的な調査・研究を主眼とし、憲法改正を目的とはしていなかったが、しだいにGHQや議会・世論などに応えるかたちで憲法改正案の策定の方向に進み、松本の私案である「憲法改正私案」と委員会の二つの案「憲法改正要綱」(甲案)、「憲法改正案」(乙案)が作成された。このうち、甲案がGHQに提出され、拒否されたあとは討議の中心がGHQ草案に移ったため、事実上委員会はその役目を終えた。
4.1)近衛国務相・マッカーサー元帥会談録(昭和20年10月)(1945)
・10月4日、東久邇宮内閣の無任所大臣であった近衛文麿は、GHQの意向を探るため、マッカーサーを訪問した。GHQ側出席者は、マッカーサー、サザーランド参謀長及びアチソンGHQ政治顧問。
・まず、近衛が国内の戦争主導勢力についての見解を述べた後、政府の組織等について意見を求めた。マッカーサーはこれに答えて「憲法ハ改正ヲ要スル」、改正して自由主義的要素を十分取り入れなければならないと述べた。この発言を受け、憲法改正に向けた動きが本格化することになった。
4.2)近衛をめぐるアチソン政治顧問の動き(昭和20年10月)
・米国務省派遣の最高司令官政治顧問であるジョージ・アチソンが、憲法改正にとりかかった近衛について国務省に報告した文書類。
・マッカーサー・近衛会談のあった1945(昭和20)年10月4日、アチソンは、米国政府の憲法改正に関する方針を国務省に問い合わせた。
・同月8日、助言を求めた近衛に対し、アチソンは「個人的で非公式なコメント」として、国会の権限の弱いことや基本的人権保障の欠如など、明治憲法の問題点を指摘して、憲法の改正に関して具体的な提案を行った。
・この会談内容を国務省に報告したアチソンに対し、国務省は10月17日付けの返電でアチソンの指示内容を追認し、米国政府の公式政策は近い将来に決定されるとした上で、当面の見解を伝えた。続いてアチソンは、10月23日付け覚書において、近衛がマッカーサーに対して、日本での憲法改正作業に助言を与える米国の憲法専門家の招聘を依頼する予定であることを明らかにしている。
・アチソンは、幣原内閣が憲法問題調査の開始を発表したこの時点でも、まだ近衛の憲法改正作業を擁護していた。しかし、近衛の憲法改正作業に対する内外の批判が厳しいことを受けて、11月1日、GHQは、「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」と発表した。
・アチソンは、11月5日トルーマン大統領に宛てて、10月4日のマッカーサー・近衛会談で、マッカーサーは日本政府の「行政機構」を改革するべきだと述べたのに対し、近衛の通訳が「憲法は改正されるべきだ」と訳してしまったと報告し、近衛が憲法改正作業を始めた理由を通訳の「誤訳」に負わせようとした。
・一方、マッカーサーは、本国政府に直結しているアチソンを憲法改正問題から除外し始めた。11月7日付けの国務次官宛てアチソンの書簡は、マッカーサーが憲法改正問題から国務省を除外しようとしていることを報告している。アチソンはこの書簡を、GHQに読まれる可能性のある電報を避け、わざわざ航空郵便で送った。この時期からマッカーサーは、憲法問題をGHQ内で扱う方向へと向かった。
5)幣原首相・マッカーサー会談(昭和20年10月)(1945)
・昭和20年10月11日、新任挨拶のために総司令部を訪れた幣原首相とマッカーサーの会談記録及び会談の中でマッカーサーが表明した意見。この意見は、いわゆる「五大改革指令」として知られている。
・マッカーサーは、日本側が自主的に憲法改正を進めることを待つという基本的な考えのもとに、「憲法の自由主義化」を示唆し、日本の社会組織の改革を求めた。
・幣原首相は、続く13日の臨時閣議で、政府として憲法調査を実施することとし、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会の発足が決定した。
・この結果、憲法改正作業は、近衛を中心とする内大臣府と政府の機関である憲法問題調査委員会の両者で進められることになった。
6)吉田外相、牧野伸顕宛書簡(政府と内大臣府の作業との関連について)(昭和20年10月)
・昭和20年10月13日の新聞紙上で、近衛文麿が、内大臣府御用掛として憲法改正案を作成することが報じられた。
・吉田茂外相は、元内大臣で岳父にあたる牧野伸顕に宛てた手紙で、内大臣府が憲法改正問題に対して積極的に乗り出した印象を世間に与えたことに政府が困却し、同日の臨時閣議で善後策を協議した模様を伝えている。
・この日政府は、松本烝治国務大臣を主任として憲法改正の研究を行うことを発表し、政府としてもこの問題に取り組むことを示した。政府は、内大臣府と別々に調査している印象を与えないよう配慮しつつも、内大臣府の動きに刺激される形で準備を進め、10月25日に憲法問題調査委員会を設置したのである。
●憲法問題調査委員会設置ノ趣旨(昭和20年10月)(1945)
・1945(昭和20)年10月27日の憲法問題調査委員会第一回総会において、委員長の松本烝治国務大臣が委員会設置の趣旨を説明する際に用いた文書。憲法問題調査委員会は、10月11日のマッカーサーからの示唆によって憲法調査に着手する必要を感じた日本政府が、25日に官制によらない閣議了解の形で発足させた。
・松本委員長は、委員会の使命が、ただちに改正案を作ることではなく、その必要が生じた時にそれに役立つ調査研究を行うことだと論じている。
●美濃部意見書(昭和20年11月)(1945)
・憲法問題調査委員会第一回総会で、松本から、とくに「全般的な理論」の提供、「理想的な改正案」の作成を依頼された美濃部達吉が、1945(昭和20)年11月14日の第三回総会に提出した文書。
・ここでは、憲法の全体的な改正が必要ではないかという見解のほか、皇室典範や天皇の大権、議会や内閣の制度に関する論点などが提起された。
*参考:国会図書館/憲法/資料「日本国憲法の誕生」(第2章 近衛、政府の調査と民間案)
https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02shiryo.html
1)近衛・佐々木案の奉答
・昭和20年10月にはじめられた内大臣府による憲法調査は、近衛文麿の戦争責任、内大臣府による調査の憲法上の疑義などから、内外の世論の反発をまねいた。11月1日に、マッカーサーは近衛の憲法調査には関知しない旨を発表したが、近衛らはそのまま調査を続けた。
・11月22日、近衛は「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」を天皇に奉答、同月24日、佐々木惣一もまた独自に「帝国憲法改正ノ必要」(日付は11月23日)を奉答した。
・佐々木案が奉答された24日、内大臣府は廃止された。戦犯逮捕命令が発せられた近衛は、出頭を目前にした12月16日未明に服毒自殺をとげた。
1.1)近衛文麿の憲法改正要綱(昭和20年11月)(1945)
・内大臣府廃止を前に、共同作業者の佐々木惣一と意見の調整が出来ず、近衛文麿が単独で天皇に奉答したもの。条文化せず、憲法改正要綱という形でまとめられている。
・明治憲法の基本的枠組みはほぼそのままながら、天皇の大権の制限や臣民の自由の尊重など、民主主義の強化とそのための天皇制の改革というGHQの憲法改正の方向性をかなり反映したものになっている。この要綱は、近衛自決後の12月21日に『毎日新聞』で報じられた。
1.2)佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」(昭和20年11月)(1945)
・GHQの意向を取り入れることを嫌った内大臣府御用掛佐々木惣一が、昭和20年11月24日(日付は11月23日)に天皇に奉答した改正案(「帝国憲法改正ノ必要」)。憲法改正の要否の判断に始まり、全百か条からなる条文化した改正案が提示されている。
・天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっている。その中で注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点である。
(参考)憲法改正案一覧(1)政府等
【法制局】
◆入江俊郎・終戦ト憲法ほか(昭和20年9月18日~10月23日)
【外務省関係】
◆宮沢俊義・ポツダム宣言ニ基ク憲法、同付属法令改正要点(昭和20年9月28日)
◆外務省政務局第一課・自主的即決的施策ノ緊急樹立ニ関スル件(試案)(昭和20年10月9日)
◆田付景一・帝国憲法改正問題試案(昭和20年10月11日)
◆外務省条約局・憲法改正大綱案(昭和20年10月11日)
【その他】
◆矢部貞治・憲法改正法案(中間報告)(昭和20年10月3日)
2)松本委員会による「憲法改正要綱」の作成
・一方、幣原内閣の憲法問題調査委員会(松本委員会)においては、当初、調査研究を主眼とし、憲法改正を目的としないとしていたものの、やがて「内外の情勢はまことに切実」との認識から、改正を視野に入れた調査へと転換を余儀なくされ、顧問・各委員が改正私案を作成した。松本委員長は、昭和20年12月8日、帝国議会における答弁のかたちで「松本四原則」として知られる憲法改正の基本方針(※)を明らかにした。
※憲法改正の基本方針
1)天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
2)議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
3)国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
4)人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
・昭和21年に入ると、松本委員長みずからも私案を作成した。この私案は、松本委員会のメンバーであった宮沢俊義東大教授が要綱のかたちにまとめ、のちに松本自身の手が入って「憲法改正要綱」(甲案)となった。また大幅な改正案を用意すべきとの議論から、「憲法改正案」(乙案)もまとめられた。
・内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」・「甲案」・「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともにGHQへ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まずGHQに提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。
2.1)憲法問題調査委員会における議論と各委員による改正試案の起草(昭和20年11月)
・昭和20年11月24日に開かれた憲法問題調査委員会第4回総会で、26日から始まる第89回帝国議会(臨時会)の会期中は委員会を頻繁に開けないことから、各委員がそれぞれ改正私案を起草して、閉会後の12月22日の総会で各案について検討することが決められた。
・本資料群は、この申し合わせに基づいて作成されたもの。このうち一部は翌年1月になってから提出された。それまでの委員会における審議の経過からして、天皇の地位に根本的な変更を加えようとするものは、いずれの案にもなかった。なお、本資料群は、調査委員会発足の当初には想定していなかった憲法改正の具体案の作成へと、委員会の方針が調査研究から大きく転換したことを示している。
2.2)松本国務相「憲法改正四原則」(昭和20年12月)(1945)
・昭和20年12月8日の衆議院予算委員会の席上、無所属倶楽部の中谷武世の質疑に対する答弁として、松本が表明した憲法改正の原則。
① 天皇の統治権総覧の堅持
② 議会議決権の拡充
③ 国務大臣の議会に対する責任の拡大
④ 人民の自由・権利の保護強化
の4つで、「松本四原則」として知られている。
・それは憲法改正の基本方針を政府が初めて明らかにしたものだったが、大きな反響はみられなかった。もっとも、続く11日の衆議院予算委員会において、社会党の水谷長三郎は、統治権の総覧者としての天皇制を存続させると、憲法の民主主義化はできないと批判した。
・松本は、この四原則に基づいて、昭和21年1月4日付けの松本私案を作成した。
2.3)内閣情報局世論調査課「憲法改正に関する世論調査報告」(昭和20年12月)(1945)
・平成20年12月19日、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して各府県における社会各層の意見を集めたもので、報告は総数287件に及んだ。
・憲法の改正については全体の75%(216件)が必要と答えている。その内容は天皇大権の制限、議会の権限増大が最も多く(70件)、ついで貴族院の廃止もしくは改革(57件)、民意の尊重(41件)、人民の権利の拡張・自由の保障(32件)が多かった。
・改正手続きについては現行方式を可とするもの、不可とするものがおおよそ半々であった。
・労働者、小作農に主権在民の主張や民定憲法を求める傾向が高いことがうかがえる。
2.4)野村淳治「憲法改正に関する意見書」(昭和20年12月)(1945)
・昭和20年12月26日付けで憲法問題調査委員会の野村淳治顧問が提出した意見書で、「野村意見書」とも呼ばれるもの。これは、11月24日の調査委員会第4回総会における申し合わせに基づき作成された文書であるが、提出の時期が遅れたことと内容の革新性のため、同委員会の審議の役に立たなかった。
・本意見書において、野村は、デモクラシーの意義、外国の憲法制度、その沿革などに触れつつ、改正意見とその理由を詳細に論じている。
・その内容は、憲法の基本原則に触れない他の委員の改正私案とは異なり、きわめて革新的で、憲法の一大改正の必要性を訴え、アメリカ型の大統領制といった政府機構の樹立や、土地や一部企業などの国有・国営化などを主張している。
2.5)宮沢甲案・乙案(昭和21年1月)(1946)
・憲法問題調査委員会第6回総会(昭和20年12月26日)で雑談的に出た話を受けて、宮沢俊義が、それまでの議論を踏まえ、大幅改正の「甲案」と小改正の「乙案」という二つの案を試みに作成し、昭和21年1月4日の第8回調査会(小委員会)に提出したもの。
・このうち「甲案」が、2月1日の『毎日新聞』にスクープされた。しかし、この宮沢の案は、調査会(小委員会)における審議の参考とはされたが、実際の立案の基礎とはならなかった。
2.6)松本国務相「憲法改正私案」(昭和21年1月)(1946)
・1946(昭和21)年1月9日の憲法問題調査委員会第10回調査会(小委員会)に松本が提出した憲法改正私案、及び松本の自筆原稿。12月26日の第6回総会のあと、自らも率先して起案すると言明した松本は、正月休暇を利用して改正案を草し、1月4日に脱稿した。
・7日には、これをもとに天皇に憲法改正問題の状況について奏上した。続く9日の第10回調査会で当改正案が配布されたが、会議後回収された。松本は、12日の第11回調査会で、前回批判された箇所の大部分を訂正した。
2.7)憲法改正調査会・審議会官制案(昭和21年1月)(1946)
・憲法問題調査委員会では、憲法の改正案のとりまとめが進行するにつれて、改正の具体的手続きにも論議が及び、官制にもとづく何らかの正式な機関を設け、それに付議して改正案を決定する方法が考えられた。これを受けて法制局で、審議機関の官制が立案された。その内容は委員を勅命し、親任官の待遇とするなど、審議内容に適合した重みを持たせる配慮がなされている。
・しかし、その後の憲法問題調査委員会案に対するGHQの否定的反応、GHQ案の提示という状況の変化のなかで、これらの官制案は閣議に提出されることなく終わった。
2.8)松本委員会「憲法改正要綱」と「憲法改正案」(昭和21年2月)(1946)
・松本の「憲法改正私案」は、宮沢により要綱化される。これに松本が手を加えた「憲法改正要綱」は、昭和21年1月26日の憲法問題調査委員会第15回調査会に提出され、このときから「甲案」と呼ばれるようになる。
・これに対応して、従来、甲案とされてきた明治憲法の大幅な改正案は、「乙案」と呼ばれるようになる。掲出の「憲法改正案」(乙案)は、入江作成の乙案(1月23日付)に関して、第15回調査会で出た有力な意見を加味して修正を加えたもので、2月2日の第7回総会に提出されたものである。なお、この第7回総会は、憲法問題調査委員会の最後の会議となり、13日のGHQ草案の提示を見ることとなった。
2.9)憲法問題調査委員会議事録(昭和20年10月~21年2月)(194~1946)
・幣原内閣に置かれた憲法問題調査委員会の議事録。内閣書記官岩倉規夫等が筆記した原本から8部がタイプされ、関係者に配られた。「佐藤達夫文書7」はタイプしたものからの写しと思われる。宮沢文庫の議事録には第7回総会分が欠けているため、佐藤文書により補足した。
(参考)憲法改正案一覧(2) 政府等 II
【内大臣府】
◆近衛文麿・帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱(昭和20年11月22日)
◆近衛公の憲法改正草案 『毎日新聞』記事(昭和20年12月21日)
◆佐々木惣一・帝国憲法改正ノ必要(昭和20年11月23日)【憲法問題調査委員会】
◆美濃部達吉・調査会資料(昭和20年11月14日)
◆憲法問題調査委員会第一回乃至第四回総会並びに第一回乃至第六回調査会に於て表明せられたる
諸意見(昭和20年12月22日)
◆入江俊郎・大日本帝国憲法改正試案(昭和21年1月)
◆美濃部達吉・美濃部顧問私案(昭和20年12月22日)
◆宮沢俊義・大日本帝国憲法改正案(昭和20年12月22日)
◆清宮四郎・大日本帝国憲法改正試案(昭和20年12月22日)
◆河村又介・大日本帝国憲法改正試案(1946年1月)
◆小林次郎・大日本帝国憲法改正私案(昭和20年12月22日)
◆大池真・帝国憲法改正私案(昭和20年12月22日)
◆中村建城・帝国憲法中会計関係規定改正案(昭和20年12月17日)
◆古井喜実・憲法改正綱領(未完稿)(昭和20年12月22日)
◆奥野健一・憲法第61条改正案(昭和20年12月22日)
◆野村淳治・憲法改正に関する意見書(昭和20年12月26日)
◆宮沢俊義・甲案(昭和21年1月4日)
◆宮沢俊義・乙案(昭和21年1月4日)
◆松本烝治・憲法改正私案-原稿(昭和21年1月4日)
◆松本烝治・憲法改正私案-謄写版(昭和21年1月4日)
◆憲法問題調査委員会・憲法改正要綱(甲案)(昭和21年1月26日)
◆憲法問題調査委員会・憲法改正案(乙案)(昭和21年2月2日)
◆憲法問題調査委員会試案 『毎日新聞』記事(昭和21年2月1日)
◆憲法問題調査委員会・憲法改正要綱(昭和21年2月8日)
3)民間憲法改正案の発表
・当時、GHQ 側からの要請、すなわち日本を軍国主義に導いた「国体」のあり方を根本的に改変せよ、という要請に応えるために、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。
・近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。
3.1)大改正案
そのような中でも大改正ともいえる改憲案には、
① 象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用する憲法研究会(メンバーは高野岩三郎、鈴木安蔵、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信)が昭和20年12月26日に発表した「憲法草案要綱」(後述)
② 憲法研究会の主軸であったにもかかわらず天皇制を残したことに関して不満を表明し、単独で高野岩三郎が構想した、大統領を元首とする共和制を提示した「日本共和国憲法私案要綱」
③ 天皇制を廃止して人民主権の原則を採用した日本共産党の「日本人民共和國憲法(草案)」、
などがあった。
3.2)「憲法草案要綱」
・このうち憲法研究会の「憲法草案要綱」にGHQが注目していわゆる「GHQ憲法草案」が作成された。
・実務責任者であったGHQ民政局のチャールズ・ケーディスは、この憲法の目的は日本を永久に非武装のままにしておくことが最大の目的であったことを認めている。当初GHQは日本の自国防衛の権利までを否定する方針が最初の草案に盛り込んだが、ケーディスは自分の考えでその部分を削除したと後日述べている。
・なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(昭和20年12月19日付、報告総数287件)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている。
3.3)各政党の憲法改正諸案(昭和20年11月~21年2月)(1945~1946)
●日本共産党
・敗戦後、それまで非合法化されていた日本共産党が再建され、また、共産党を除く戦前の無産政党関係者により日本社会党が結成された。他方、保守政党では、非翼賛系議員を中心とした日本自由党と旧大日本政治会の多数を結集した日本進歩党が相次いで結成された。これら左右の各政党は、組織が整うにつれて、順次、独自の憲法改正草案を発表していった。
・共産党の「新憲法の骨子」は、昭和20年11月8日の全国協議会で決議されたものである。なお、当日決議されたものは、掲出資料より1項目多く全7項目となっていた。翌年の6月29日に、条文化された憲法草案が発表されたが、その特徴は、天皇制を廃止して共和制を採用していること、自由権・生活権等が社会主義の原則に基づいて保障されていることである。
●自由党&進歩党
・自由党は、同党の憲法改正特別調査会の浅井清慶大教授と金森徳次郎が中心となり、「憲法改正要綱」を作成し、1946(昭和21)年1月21日の総会で決定した。また進歩党は、2月14日の総務会で「憲法改正要綱」を決定した。
・両党の案は、天皇大権の廃止、制限や人権の拡張に関する条項があるものの、共和制を否定して、天皇の位置付けを統治権の「総攬者」もしくは統治権を「行ふ」ものとしており、総じて明治憲法の枠組みを堅持した保守的なものであった。
●社会党
・一方社会党は、民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となり、党内左右両派の妥協の産物という色合いが強い「憲法改正要綱」を、2月23日に発表した(掲出資料の表記は2月24日発表)。同要綱は、「主権は国家」にあるとし、統治権を分割、その大半を議会に、一部を天皇に帰属させることで、天皇制を存続するとともに、議会の権限を増大し、国民の生存権の保障や死刑制度の廃止等を打ち出した点に特色がある。
・なお、共産党案以外の3点の掲出資料は、いずれも憲法問題調査委員会において配布された参考資料の一部である。
3.4)高野岩三郎の憲法改正案(昭和20年11月)(1945)
・高野岩三郎は、明治から大正時代にかけて、東大教授として統計学を講じていたが、労働運動家の兄房太郎の影響で、労働問題に関心を深め、東大教授を辞して、大原社会問題研究所の創立に参画し所長に就任(大正9年)。戦後は、日本社会党の創立に参加、また日本文化人連盟を結成するとともに憲法研究会を組織、昭和21年には日本放送協会会長に就任した。
・憲法研究会は、鈴木安蔵が作成した原案をもとに討議をすすめたが、多数意見は、天皇制の存続を容認するものであった。
・高野は、研究会案の討議に参加する一方で、主権在民の原則を徹底し、天皇制廃止・共和制樹立の立場から、昭和20年11月下旬、独自案である「日本共和国憲法私案要綱」を起草し、完成稿を鈴木に手渡した。この中には、大統領制の採用とともに、土地や公益上必要な生産手段を国有化する旨の規定が含まれている。
・当時、新憲法を作り上げるにあたって、一番の焦点となっていたのが、天皇制についてだった。大日本帝国憲法では司法から軍事、立法にいたるまで、ありとあらゆる権力が天皇に集中する「上御一人」の国家体制が定められていた。
・当時の思想運動、言論活動を厳しく弾圧した治安維持法も、こうした天皇を中心とする「国体」を変革する意図を持つ者に対しての抑止力だったわけである。戦前まで続いていた天皇中心の体制を変えて、民主主義政治へと移行することに抵抗を感じるという意見も当時は多くあった。
3.5)清瀬一郎「憲法改正条項私見」(昭和20年12月)(1945)
・「憲法改正条項私見」『法律新報』昭和20年12月号所載の論文から改正条文を抜き出したもの。敗戦に至ったのは、基本的人権の保障が薄弱であったため、国政が民主化しておらず議会の機能も麻痺していたことに起因する、との認識に基づき、
1.国務大臣が議会に対し責任を負うこと、
2.議会の権限拡張および貴族院の民主化、
3.自由権を保障するための司法改革、
の3点につき6か条の改正案を提示した。
・清瀬一郎は、大正9年以来衆議院議員に14回当選。当時は進歩党の憲法改正案作成にも関わっていたが、昭和21年1月公職追放となった。弁護士でもあった清瀬は、極東国際軍事裁判で東条英機被告の主任弁護人をつとめ、政界復帰後は第三次鳩山内閣の文相、衆議院議長などを歴任した。
3.6)布施辰治「憲法改正私案」(昭和20年12月)(1945)
・布施辰治は、明治後期から人権擁護のために活躍した弁護士・社会活動家である。米騒動や三・一五(共産党弾圧)事件をはじめ、主に小作争議、労働争議、部落解放運動などに関する事件の弁護活動に尽力し、自由法曹団(大正10年結成)の中心的存在であった。
・昭和20年12月22日に出された憲法改正私案は、布施が普選運動を契機に思索を重ねた「君民同治の理想」の観点から、日本の民主主義化と国体護持の調整を試みたものである。第1章で主権在民を明記した上で、第3章に天皇制の規定を置いている。他に、議会を一院二部制とすること、議会の開会を予算中心と決算中心の年2回制とすること、兵役に代わる国民の義務として勤労奉仕を規定したこと、などが特色として挙げられる。
3.7)憲法研究会「憲法草案要綱」(昭和20年12月)(1945)
・憲法研究会は、昭和20年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎(東大教授、後に日本放送協会会長)の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。研究会内での討議をもとに、鈴木が第一案から第三案(最終案)を作成して、12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。
・同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。
・なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。
3.8)稲田正次と憲法懇談会の憲法改正案(昭和21年3月)(1946)
・終戦前から憲法改正の必要性を痛感していた憲法学者の稲田正次は、各条項の改廃に関する私案を作成し、昭和20年12月24日に宮沢俊義を通じて松本(烝治)国務相に提出した。その内容は、英国憲法に範を取った君民同治主義を基本とし、米国憲法も参照して人権の保障を拡充したものである。
・その後、稲田は私案の条文化を進め、尾崎行雄、岩波茂雄、渡辺幾治郎、石田秀人、海野普吉らと憲法懇談会を設けた。稲田は主に、弁護士で社会党の憲法起草委員でもあった海野と推敲を重ね、前文および本文9章90条から成る草案を3月5日に石黒(武重)国務相に手交した。
・この草案は、立法権を天皇と議会に認めること、地方議会議員、職能代表、学識経験者からなる参議院の設置、司法裁判所に違憲審査権を付与すること等が特徴としてあげられる。
3.9)大日本弁護士会連合会「憲法改正案」(昭和21年1月)(1946)
・大日本弁護士会連合会は、弁護士法に基づいて昭和14年に設置された、全国の弁護士会を統合する組織である。同会は昭和20年9月25日に早くも司法制度改革案を東久邇宮首相に建議し、さらに10月27日には憲法改正に関する調査委員15名を選出、全国の弁護士会に意見を求めた上で、翌年1月21日の定時総会で憲法改正案を取りまとめた。
・民主主義の政治体制を確立して天皇と国民を直結するために、改正内容には、国民投票制の採用、議会権限の拡張、天皇大権の制限などが盛り込まれた。司法関係では、行政裁判を司法裁判所の管轄とすることや国家の賠償責任などが挙げられている。
3.10)里見岸雄「大日本帝国憲法改正私擬」(昭和21年1月)(1946)
・国体の科学的研究を提唱していた思想家の里見岸雄は、天皇制廃止論を批判する一方、国体護持論も理論が貧弱であることを指摘して、自説に基づく憲法改正案を発表した。改正案はまず「国体」と「政体」を区別した上で、天皇統治の原則は変えずに、日本的民主主義の性格を付与することを意図したものである。
・この案では、天皇大権は縮小されているものの、臣民の自由には法律の留保が付くなど明治憲法の思想を色濃く残している。その一方で、帝国議会を東院、西院の二院制とすること、国務総理大臣の候補者は国民投票で選出すること、政党を公認すること、憲法審議院、国体審議会、官公吏監視委員会その他の機関を設置することなど、独自の規定も多く盛り込まれていた。
3.11)東大憲法研究委員会報告書(昭和21年)(1946)
・昭和21年2月14日、南原繁東京帝国大学総長の発案で、学内に「憲法研究委員会」(委員長:宮沢俊義)が結成された。当初、独自に「憲法改正に関し検討すべき諸問題」を決定したが、政府が3月6日に「憲法改正草案要綱」、4月17日に「憲法改正草案」を発表したことを受け、政府案に対する修正案作成へと会の方針を転じた。
・委員会は、憲法改正手続きに関する第一次報告を作成し、憲法会議の設置を主張、その後検討された条文の逐条修正案は第二次報告としてまとめられ、国民主権に係る文言修正や、「国民の権利及び義務」への追加規定等が示された。
・この報告書は正式には公表されなかったが、その後、元委員らが、勅任議員として貴族院での憲法審議に、また臨時法制調査会委員として憲法付属法律の立案に、その成果を活かすことになった。
2023.3.31追記
*参考:国会図書館/憲法/資料「日本国憲法の誕生」(第3章 GHQ草案と日本政府の対応)
https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03shiryo.html
1)極東委員会の設置とアメリカ政府の対応
1.1)占領政策の変化
・終戦当初の日本での施策は、連合国が行うこととなっていたが、事実上は米国の単独占領のもとに置かれていた。この状況に変化が生じるきっかけとなったのが、1945年12月16日から26日まで開かれた、モスクワ三国外相会議(※)である。
※モスクワ三国外相会議(Moscow Conference of Foreign Ministers)は、第二次世界大戦終結後の1945年12月に、連合国側のアメリカ国務長官ジェームズ・F・バーンズ、イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフの臨席でモスクワで開催された外相理事会の外相会合。別名、外相臨時会合(Interim Meeting of Foreign Ministers)。
・この会議は、現状では対日施策に関わることのできていない英・ソなどの意見により開かれ、会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。
・極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。特に憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。
1.2)天皇「人間宣言」(昭和21年1月)(1946)
・1946(昭和21)年1月1日に発せられた詔書。このなかで昭和天皇は、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定した。これは、後に、天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなった。
・同日、マッカーサーはこの詔書に対する声明を発表し、天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと高く評価した。
1.3)GHQの当初の対応
・終戦当初、日本国内の施政は、GHQに一任されていた。ただし、憲法制定、戦争犯罪者処罰などの重要事項に関しては、アメリカ国務省(国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC))との協議が必要とされていた。
・しかし、昭和20年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会(FEC)を設置することが合意された。その結果、対日占領管理方式が大幅に変更され、同委員会が活動を始める翌年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約のもとに置かれることが明らかになった。
1.4)ラウエル「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」(昭和20年12月)
・昭和20年12月6日、GHQ内部で、明治憲法の分析とその改正についての研究が進められていたことを示す文書。民政局で憲法問題を担当していたラウエルが作成した。GHQは当初、日本政府に対し憲法改正の必要について示唆を与えて、日本側が自主的に改正案を作成するのを待つという態度をとっていた。
・そこで、日本政府の代表者らと会談する場合や日本側からやがて提出されるであろう改正案を分析する場合に備え、論点整理のための資料とする目的で、この文書を作成したのである。ラウエルはこのなかで、改正憲法に含まれるべき諸規定を提案している。
1.5)「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)(昭和21年1月)(1946)
・終戦後の日本の統治は、ポツダム宣言とSWNCC150(初期対日方針)という2つの内容が大きな方針となったと言えるが、これら2つの文書は、いずれも具体的に改憲を指示したものではなく、あくまで一般原則を示しているに過ぎない。実際に改憲の指示ならびにその基本原則を示した文書としては、、「日本統治制度の改革」(SWNCC228)である。
・この文書は、昭和21年1月7日、米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)で承認されたが、すでに極東委員会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなったため、同月11日、マッカーサーに対する命令ではなく「情報」として伝え、憲法改正についての示唆を行った。この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした。
・のちにGHQ草案の作成の際に「拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。米国政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している。
・これをうけ、GHQは民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、日本の憲法に関する動きを活発化させた。もっとも、同年1月中は、憲法改正に関する準備作業を続け、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。
1.6)ラウエル「私的グループによる憲法改正草案(憲法研究会案)に対する所見」(昭和21年1月)
・GHQは、民政局のラウエルを中心として、日本国内で発表される憲法改正諸案に強い関心を寄せていた。なかでもとりわけ注目したのは憲法研究会案であり、ラウエルがこれに綿密な検討を加え、平成21年1月11日、その所見をまとめたものがこの文書である。
・彼は、憲法研究会案の諸条項は「民主主義的で、賛成できる」とし、かつ国民主権主義や国民投票制度などの規定については「いちじるしく自由主義的」と評価している。
・憲法研究会案とGHQ草案との近似性は早くから指摘されていたが、1959(昭和34)年にこの文書の存在が明らかになったことで、憲法研究会案がGHQ草案作成に大きな影響を与えていたことが確認された。
1.7)マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して)(昭和21年1月)
・昭和20年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、昭和21年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。
・さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。
1.8)極東委員会の設置とGHQとの会談(昭和21年1月)(1946)
・終戦後の日本は事実上米国の単独占領のもとに置かれていたが、昭和20年12月のモスクワ外相会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。
・極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。
・同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。
1.9)憲法改正権限に関するホイットニー・メモ(昭和21年2月)(1946)
・極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば、GHQに憲法改正の権限があると、マッカーサーに進言したホイットニー民政局長のメモ。
・昭和21年に入り、極東委員会の発足(2月26日)が迫っていたとき、ホイットニーらは、その前身である極東諮問委員会との会談のなかで、彼らが憲法改正問題に強い関心を持っていることを知った。
・この文書が作成された2月1日は、GHQ草案作成の重要なきっかけとなった、毎日新聞のスクープ記事が掲載された日でもあった。GHQは、独自の憲法草案作成を決断するにあたり、その法的根拠について検討していたのである。
1.10)毎日新聞によるスクープ報道の波紋
・松本委員会の憲法改正作業は厳重な秘密のうちに進められていたが、同2月1日、毎日新聞第1面に突如「憲法問題調査委員会試案(松本委員会案)」なるスクープ記事が掲載された。この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」にほぼ相当するものであった。
・これは正確には、この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。しかし、毎日新聞が「あまりに保守的、現状維持的」としたのをはじめ、他の各紙も、政府・松本委員会の姿勢には批判的であった。
・政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。
・この「毎日新聞」によるスクープ記事が、GHQが日本政府による自主的な憲法改正作業に見切りをつけ、独自の草案作成に踏み切るターニング・ポイントとなった。
1.11)毎日新聞記事「憲法問題調査委員会試案」に関するホイットニー・メモ(昭和21年2月)
・2月1日付け『毎日新聞』によるスクープ記事に関し、その翌日、ホイットニー民政局長がマッカーサーに提出した報告である。同記事に掲載された松本委員会「試案」の仮訳を添え、この案に対する所見を述べている。
・ホイットニーは、この「試案」を松本自身の案とみたうえで、「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないことを指摘した。
・そして、GHQにとり「受け容れ難い案」が提出され、その作り直しを「強制する」よりは、その提出を受ける前に「指針を与える」方が、戦略的にすぐれていると、GHQ案の作成を示唆している。
2)GHQ草案の提示(昭和21年2月)
・2月1日、憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされ、「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。
・このスクープをきっかけに、ホイットニーGHQ民政局長は、マッカーサーに対して、極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば憲法改正に関するGHQの権限に制約がないと進言し、GHQによる憲法草案の起草へと動き出した。
2.1)マッカーサー3原則(「マッカーサーノート」) 1946年2月3日
・憲法草案の起草にあたり、GHQにとって制約となるのは、ポツダム宣言・SWNCC150・SWNCC228などの内容である。
・これらを踏まえた上で、マッカーサーは、憲法草案に盛り込むべき必須の要件として3項目を提示した。いわゆるマッカーサー3原則(※)である。
・その3原則のうちの一つが、第9条の淵源となった戦争放棄に関する原則であった。この資料に見られるように、マッカーサー3原則においては、「自己の安全を保持するための」手段としての戦争をも放棄することが明記されていた。
・2月3日、毎日新聞に掲載された「松本委員会案」の内容が日本の民主化のために不十分であり、国内世論も代表していないと判断したマッカーサーは、憲法改正作業を日本政府に任せておいては、2月26日以降マッカーサーと共に日本管理の権限を持つ極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から、天皇制の廃止を要求されるおそれがあるとして、GHQが憲法草案を起草することを判断した。
・その際、日本政府がGHQの「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前にGHQから「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。
・2月3日、マッカーサーは、GHQが憲法草案を起草するに際して守るべき3原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。
・3原則の内容は以下の通り。
※マッカーサー3原則
① 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
② 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
③ 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
2.2)日本政府の改正案に関するホイットニー・メモ(昭和21年2月)(1946)
・2月4日、憲法草案作成に関するマッカーサーの口頭指令が文書化され、この指令(3原則)に基づきGHQ民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する8つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。
・2月4日の会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示し、GHQ内部での草案作成作業が開始された。
・その一方で、GHQは日本政府に対し、日本政府案を至急提出するよう要請していた。このマッカーサー宛てのホイットニーのメモには、翌日日本政府案が提出される予定であること、軍に関する規定について閣議においてどのような議論があったかということ、GHQ草案が週末、すなわち、9日頃までには提出できる見込みであることなどが報告されている。
・起草にあたったホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は1人もいなかったため、日本の民間憲法草案(特に憲法研究会の「憲法草案要綱」(※)や、世界各国の憲法が参考にされた。民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。
・2月10日、最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2月13日、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示された。
※憲法草案要綱:憲法研究会(昭和20年12月26日)
憲法研究会のなかで複数出された私案を、戦前から左派の立場で憲法史研究を続けていた鈴木安蔵がまとめたもの。植木枝盛の私擬憲法などの自由民権運動やワイマール憲法、スターリン憲法、大正デモクラシーでの議論の影響を受けている。また小西豊治は、憲法草案要綱が現在の日本国憲法の原型となったGHQ草案のモデルであるとし、押し付け憲法論の無効性を主張している。
◇要綱内容
① 日本国の統治権は、日本国民より発する
② 天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る
③ 国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない
④ 国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する
⑤ 男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する
など現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有している。
・一方、軍に関する規定を設けておらず、平和思想の確立と国際協調の義務を定めるものの、押し付け憲法論議で焦点となる戦力や交戦権の放棄についての記述はない。
◇要綱作成の資料
・作成の中心となった鈴木安蔵は、発表後の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して次のように述べている。
・明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」(注)など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。
(注)「日本憲法見込案」:1880年11月国会期成同盟第2回大会で憲法草案の起草が決議されたが,期成同盟本部の「憲法見込案」は否決され,翌'81年立志社片岡健吉を審査委員に,坂本南海男・植木枝盛らを起草委員に選び,同年10月ころ「日本憲法見込案」がつくられた。一院制をとり,主権在民説をとっていたが,官憲から危険視され新聞にも公表されなかった。
・また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である。
◇GHQ草案への影響
・この案が新聞に発表された5日後の12月31日にはGHQ参謀2部(G2)所属の翻訳通訳部の手で早くも英訳され、詳細な検討を実施したGHQのラウエル法規課長は、翌年1月11日付で、「この憲法草案に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と評価し、翌昭和21年1月11日に同案をたたき台とし、さらに要綱に欠けていた憲法の最高法規性、違憲法令(立法)審査権、最高裁裁判官の選任方法、刑事裁判における人権保障(人身の自由規定)、地方公務員の選挙規定等10項目の原則を追加して、「幕僚長に対する覚書(案件)私的グループによる憲法草案に対する所見」を提出、これにコートニー・ホイットニー民政局長が署名しいわゆる「ラウエル文書」が作成された。
◇憲法研究会
・憲法研究会は、高野岩三郎によって民間の立場からの憲法制定の準備・研究を目的として結成された団体。元東京大学経済学部教授であった社会統計学者・高野岩三郎が、敗戦直後の1945年10月29日、日本文化人連盟の設立準備会の際、戦前から左派の立場で憲法史研究を続けていた鈴木安蔵(京都学連事件で検挙・憲法学者)に提起し、さらに馬場恒吾(ジャーナリスト)・杉森孝次郎(早稲田大学教授)・森戸辰男(元東京帝国大学経済学部助教授)・岩淵辰雄(評論家で貴族院議員)・室伏高信(評論家)らが主なメンバーとして参加し発足した。
・昭和20年12月26日に「憲法草案要綱」を発表し、これにGHQが注目していわゆる「GHQ憲法草案」が作成されたため、GHQ案を原型とする現行の日本国憲法の内容に間接的に多くの影響を及ぼしたと
小西豊治は主張している。
2.3) GHQに提出した「憲法改正要綱」(昭和21年2月)
・昭和21年2月8日、松本は「憲法改正私案」を要綱化した「憲法改正要綱」を説明資料とともにGHQに提出した。「憲法中陸海軍ニ関スル規定ノ変更ニ付テ」と題する文書は、軍隊に対するGHQの厳しい態度を予想して、説明資料とは別に作成したものである。
・この要綱は、正式な政府案として閣議で了承されたものではなかった。日本政府は、GHQの内部で憲法草案作成の作業が進行していることを全く知らなかったため、この案に対するGHQの意見を聞いた後に、正式な憲法草案を作成することを予定していた。
2.4)「憲法改正要綱」(「松本案」)に対するケーディスの所見(昭和21年2月)
・この覚え書きは、SWNCC228とポツダム宣言から導き出した10の原則に基づいて「憲法改正要綱」(「松本案」)に対し、逐一、批判的なコメントを加えたもので、民政局行政課が作成したものである。覚え書きに記されている2月12日という日付は、GHQ草案が完成した日でもあり、この資料から、草案起草者がどのような考えに基づいて起草に当たったかを知ることができる。
2.5)GHQ原案(昭和21年2月)(1946)
・GHQ民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権など分野ごとに条文の起草を担当する8つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。2月4日の会議で、ホイットニーはすべての仕事に優先して極秘裏に作成作業を進めるよう民政局員に指示を下した。
・各委員会の試案は、7日以降、続々と出来上がり、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられ、最終的に全92条の草案にまとめられた。
2.6)GHQ草案(昭和21年2月)(1946)
・民政局内で書き上げられた憲法草案は、2月10日夜、マッカーサーのもとに提出された。マッカーサーは、局内で対立のあった、基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定の削除を指示した上で、この草案を基本的に了承した。
・その後、最終的な調整作業を経て、GHQ草案は12日に完成し、マッカーサーの承認を経て、翌13日、日本政府に提示されることになった。日本政府は、22日の閣議においてGHQ草案の事実上の受け入れを決定し、26日の閣議においてGHQ草案に沿った新しい憲法草案を起草することを決定した。なお、GHQ草案全文の仮訳が閣僚に配布されたのは、25日の臨時閣議の席であった。
2.7)GHQ草案手交時の記録(昭和21年2月)(1946)
・これらの資料は、昭和21年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。
2.8)「ジープ・ウェイ・レター」往復書簡(昭和21年2月)(1946)
・昭和21年2月15日、白洲次郎終戦連絡事務局参与は、松本烝治国務大臣の意を受けて、ホイットニー民政局長に宛て、GHQ草案が、松本等に大きな衝撃を与えたことを伝え、遠まわしに、「松本案」の再考を希望する旨の書簡を送った。
・白洲は、「松本案」とGHQ草案は、目的を同じくし、ただ、その目的に到達する道すじを異にするだけだとして、「松本案」は、日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対して、GHQ草案は、一挙にその目的を達しようとするものだとした。
・この書簡に対して、ホイットニー局長から、翌16日、返書が寄せられ、同局長は、日本側が、白洲の書簡によってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反論し、国際世論の動向からも、GHQ草案を採ることの必要性を力説している。
2.9)松本国務相「憲法改正案説明補充」(昭和21年2月)(1946)
・1946(昭和21)年2月13日、外務大臣官邸においてGHQ草案を手交された後、松本烝治国務大臣は、ただちに幣原喜重郎首相に報告・協議を行った結果、再説明書を提出して、GHQの再考を促すこととなった。
・再説明書は、「憲法改正案説明補充」という表題を付し、英訳され、2月18日、白洲次郎終戦連絡事務局参与によりGHQに送達された。しかし、ホイットニー民政局長は、「松本案」については考慮の余地はなく、GHQ草案を受け入れ、その原則を盛り込んだ改正案を作成するかどうかを20日中に回答せよと述べた。
2.10)松本・ホイットニー会談(昭和21年2月)(1946)
・昭和21年2月19日の閣議で、初めてGHQとの交渉の経緯とGHQ草案の内容説明が行われた結果、21日、幣原喜重郎首相がマッカーサーを訪問し、GHQ側の最終的な意思確認を行うこととなった。
・翌22日午前の閣議で、首相から会見内容が報告され、協議の結果、GHQ草案を基本に、可能な限り日本側の意向を取り込んだものを起案することで一致し、同日午後に、松本烝治国務大臣が吉田茂外務大臣及び白洲次郎終戦連絡事務局参与とともにGHQに行き、GHQ草案のうち、GHQが日本側に対し変更してはならないとする部分の範囲について問いただすこととなった。
・「会見記」は、22日午後の会見内容について松本自身が作成したメモである。また、ハッシー文書中の資料は、この会見についてのGHQ側の記録である。
・松本等は、GHQ草案は一体をなすものであり、字句の変更等は可能だが、その基本原則についての変更を認めないとのGHQの返事を得た。松本は、首相官邸に戻り、首相に報告するとともに、GHQ草案に従って日本案の作成に着手した。
3)論点
3.1)国民主権と天皇制
①米国の方針
・日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
・1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」)。
②日本側の検討
・憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。
・一方、政党・民間が作成した憲法改正案の中には、国民主権の確立、天皇制の廃止・変更を打ち出したものがあった。共産党案は、人民主権、天皇制の廃止、人民共和国の建設を目指すものであった(日本共産党「新憲法構成の骨子」、「日本人民共和国憲法草案」)。社会党案は、主権は天皇を含めた国民共同体としての国家にあるとし、統治権を議会と天皇に分割して天皇制を維持するものであった(日本社会党「憲法改正要綱」)。また、憲法研究会案は、国民主権を明記した上で、天皇の権限を国家的儀礼に限定し、今日の象徴天皇制の一つのモデルともなる構想を示していた(憲法研究会「憲法草案要綱」)。
③GHQ草案の起草
・2月3日、マッカーサーがホイットニーGHQ民政局長に示した「マッカーサーノート 」は、天皇制について、
(1)天皇の地位は「元首」、
(2)皇位の継承は世襲、
(3)天皇の権能は憲法に基づき行使され、人民の意思に応える、
との原則を含んでいた。
・民政局の「天皇・条約・授権規定に関する委員会」が作成した試案は、冒頭に、主権が国民に存するとの規定を置いた(第1条)。第2条には、天皇の地位について、まず、「日本の国家は、一系の天皇が君臨(reign)する」(第1文)と規定し、次に、「皇位は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、天皇は、皇位の象徴的体現者である。この地位は、主権を有する国民の意思に基づく」(第2文)などと規定していた。
・しかし、「運営委員会」において、主権が国民に存することは前文に書かれており、それで十分であるとして、第1条が削除され、また、第2条第1文の「君臨」するという言葉は、日本語では「統治」するという意味を含むとして、第1文が削除された。
・この結果、「GHQ原案」では、試案の第2条第2文が冒頭の条文となった。最終の「GHQ草案」では、これが「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。…」と修正されて第1条となった。また、前文においては、「主権が国民の意思に存する」と宣言された。
④日本政府案の作成と帝国議会の審議
・GHQ草案をもとに日本政府が作成した「3月2日案」は、前文を置かず、また、第1条に「国民至高ノ総意」という文言を用いて、主権が国民にあることがあいまいにされていた。GHQとの交渉の結果、前文が復活し、第1条は、ほぼGHQ草案の形に戻されたが、「国民至高ノ総意」の文言は維持された(「憲法改正草案要綱」)。
・衆議院での審議では、天皇の地位と国体の変更について、金森徳次郎国務大臣は、変更されたのは「政体」(天皇を中心とする政治機構)であって「国体」(天皇をあこがれの中心として国民が統合していること)ではない、と答弁した。このため、ケーディス民政局次長は、金森の答弁が非常に不明確で判り難いとして説明を求めた。金森は、「国体」について文書で説明した(「金森6原則」)。
・さらに、ケーディスから前文または第1条で国民主権を明確にするよう要請された結果、衆議院で、前文を「主権が国民に存することを宣言し」、第1条を「主権の存する日本国民の総意に基づく」とする修正が行われた。
・貴族院の審議でも、衆議院と同様、国体の変更、主権の所在について論議が集中した。この問題は、憲法改正案を審議した帝国議会だけでなく国民各層の間でも活発に議論され、憲法制定時における最大の争点となった。それはまた、憲法制定後も、「国民主権と象徴天皇制」の問題として議論の対象となってきた。
3.2)戦争放棄
①ポツダム宣言の非軍事化原則とGHQの任務
・1941(昭和16)年8月14日発表された大西洋憲章には、第二次世界大戦後において世界平和を回復するための指導原則として、民主的政治体制の確立と侵略国の非軍事化が示されていた。そして、4年後の1945年8月14日、日本が受諾したポツダム宣言にもまた、日本の「民主化」と「非軍事化」が規定され、そのうち、後者に関しては、軍国主義者の追放、戦争遂行能力の破砕、軍隊の完全武装解除、軍需産業の禁止などの措置が明記されていた。
・さらに、米国政府の「初期対日方針」にも、ポツダム宣言と同様、武装解除などの具体的措置を実施すべきことが、連合国最高司令官として日本占領政策の遂行にあたるマッカーサーに対して指示されていた。なお、マッカーサーに「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」は、「政府の文民部門が軍部に優越するよう」憲法を改正すべきだとし、軍の存在を前提とする米国政府の考え方が示されていた。
② 明治憲法の軍規定改廃論と「憲法改正要綱」
・終戦後、日本軍の武装解除はきわめて迅速に行われ、10月16日、マッカーサーは「本日、日本全土にわたって、日本軍の復員は完了し、もはや軍隊として存在しなくなった」との声明を発表した。この日本軍の解体という現実、軍が存在しないという事実は、明治憲法の軍規定の改廃論にも大きな影響を与えた。それは、法制局内部で、秘かに憲法改正問題に着手した入江俊郎の検討項目にも反映している(「終戦ト憲法」)。
・また、10月末に発足した政府の憲法問題調査委員会でも、
(1)軍の解体という事実を踏まえ、「世界最初ノ平和国家非武装国家タラン」との立場から、明治憲法の軍規定を全面削除すべきだとする主張と、
(2) 将来、「必要最小限度ノ国防力」の設置がありうることを想定し、必要な軍規定を残置したうえで、軍に対する議会の統制を強化すべきだとする主張とが鋭く対立した(「第9回調査会議事録」)。
そして、最終的には、(2)の主張が「憲法改正要綱」に採用され、1946(昭和21)年2月8日、GHQに提出された。
・この政府部内における議論の対立は、憲法制定後の憲法第9条解釈に少なからず影響を与えた。
③GHQ草案の起草と日本政府案の作成・公表
・憲法第9条の原案は、「マッカーサーノート」(1946年2月3日)の第2原則に由来する。そこには、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。」と記されていた。しかし、この記述は、国際法上認められている自衛権行使まで憲法の明文で否定するものであり、不適当だとして、「GHQ草案」(2月13日手交)には取り込まれなかった。
・なお、試案および原案からは、第9条が、当初前文のなかに置かれ、次いで、第1条に移されていることが読みとれる。これは、平和主義の原則に世界の注目が集められることを望んだマッカーサーの意向を反映したものであった。しかし、後のGHQ草案では、天皇に敬意を表し、「天皇」の章が冒頭に置かれたため、条文番号は第8条となった(2月22日会見のGHQ側記録 )。
・日本政府は、GHQ草案をもとに日本国憲法を起草(「3月2日案」)、GHQとの折衝を経て、初めて国民に示した(3月6日の「憲法改正草案要綱」)後、4月17日、条文形式に整えた「憲法改正草案」を公表した。そこでは、第9条について次のように規定されていた。
「国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は、認められない。」
・法制局は、枢密院と帝国議会での審議に備えて想定問答を作成した。そこでは、第9条は全体として侵略、自衛を問わず、すべての戦争を放棄するが、「自衛権」に基づく「緊急避難」ないし「正当防衛」的行動までなし得ないわけではないと記されていた(「憲法改正草案に関する想定問答」)。
④枢密院の審議と帝国議会における修正
・枢密院の審議では、自衛権に基づく自衛行動の可否が問題となった。これについて、政府(松本国務大臣)は、「自衛といふ働き自体憲法で禁じられるものではない」と説いた(「枢密院委員会記録」)。
・帝国議会では、まず、衆議院の審議において、政府の提出した「帝国憲法改正案」に示された表現では、日本がやむをえず戦争を放棄するような感じを与え、自主性に乏しいとの批判があったことから、第1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、……」との文言を追加、また、第2項も、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と改められた(衆議院修正可決「帝国憲法改正案」)。
・とくに、第2項冒頭に、「前項の目的を達するため」という文言が挿入されたことで(修正案が協議された小委員会芦田均委員長名を冠して「芦田修正」と呼ばれる)、極東委員会やGHQ内で、上記修正により、日本がdefense force(自衛力)を保持しうることが明確となった、との見解が浮上した(「極東委員会第27回総会議事録」)。そこで、GHQは、極東委員会からの要請として、「国務大臣はすべてcivilians(文民)たることを要する」と日本政府に指示、貴族院の審議において、憲法第66条に文民規定が置かれることになった。
・しかし、芦田修正により、第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が入った後も、政府は、第1項が侵略戦争を否定するものであって、自衛戦争を否定するものではないが、第2項が戦力の保持および交戦権を否定する結果として、結局、自衛戦争をも行うことができないことになるとの解釈に特段の変化はないと考えた。
・日本は、1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発直後に警察予備隊を設置、1952年、保安隊への改組と警備隊の設置、そして、1954年には、自衛隊の創設と、その「実力」が「警察力」から「自衛力」へと強化されていくが、その過程で、憲法第9条の解釈をめぐって深刻な対立が生じた。また、東西冷戦終結後の1990年代以降、わが国を取りまく環境の変化により、憲法第9条の解釈・運用をめぐる問題は、国政上、重要な争点となり、現在に至っている。
3.3)基本的人権の保障
①基本的人権の保障の拡充
・明治憲法における基本的人権の保障は「法律ノ範囲内」という限定付きのものであった。こうした基本的人権の制限的な保障を改革する必要性が、ポツダム宣言や、米国政府の日本占領政策の方針(「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」)において述べられていた。GHQ内部における研究においても同様の問題点が指摘されていた。
・一方、日本側で行われた憲法改正の検討においても、基本的人権の保障を拡充する必要性は認められていたが(近衛文麿「憲法改正要綱」、松本烝治「憲法改正四原則」等)、「法律ノ範囲内」という文言は残されたままであった(佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」、憲法問題調査委員会諸意見等)。憲法問題調査委員会(松本委員会)がGHQに提出した「憲法改正要綱」においても、「法律ノ範囲内」という限定を削除する修正はなされなかったため、GHQを満足させるものとはならなかった(「ケーディスの所見」」)。
・「GHQ草案」では、総則的な規定において、または一部の人権規定についてのみ、「一般の福祉(general welfare)」という制約を明示するにとどめ、個々の人権規定については原則として制限規定を設けないことにした。GHQ草案を基に作成された日本政府の「3月2日案」においても、この点は受け入れられ、「公共ノ福祉」という文言が人権の一般的制約原理として採用された。こうした人権保障の規定の枠組みは、基本において修正されることなく、現行憲法として確定した(「日本国憲法」)。
・このようにして「公共の福祉」が新たな制約原理として導入されたのであるが、それが明治憲法の人権制約原理とどのように異なるのかという点については、憲法施行後においても議論となった。そこで議論された個人の権利と社会全体の利益をいかに調和していくのかという問題は、現在においても一つの争点であり、「公共の福祉」の具体的内容をめぐる議論は続いている。
② 社会権の追加
・明治憲法には社会権の規定が存在しなかった。しかし、20世紀の社会国家的人権宣言のモデルとされたワイマール憲法(1919年制定)には、社会権に関する詳細な規定が置かれ、我が国でもそれが注目されていたことから、GHQ草案が作成される以前の日本側での検討作業において(佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」、野村意見書等)、また、政党や民間の検討作業において(日本社会党案、憲法研究会案等)、社会権の追加の必要性を主張する意見が出された。
・「GHQ草案」では、勤労権、労働基本権といった社会権が定められたほか、社会福祉を増進させるための立法の指針として、無償の義務教育、公衆衛生の改善、社会保障の整備などが列挙された。日本政府とGHQの交渉の結果、1946(昭和21)年4月17日の政府案では、立法の指針に関する列挙は削除され、一部を他の条項に移し、「法律は、…社会の福祉及び安寧並びに公衆衛生の向上及び増進のために立案されなければならない」という条文に簡略化された(憲法改正草案)。
・なお、教育については、「教育を受ける権利」として独立の権利規定に書き替えられた。さらに、衆議院での審議において、立法の指針に関する規定の前に、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権規定が追加された(衆議院修正可決「帝国憲法改正案」)。
・このようにして、日本国憲法において社会権が規定されることになったのであるが、これらの規定が国民に具体的な権利を与えたものであるのか、抽象的な権利にとどまるのか、それとも単なる立法的指針に過ぎないのか、その後、裁判などで争われるようになり、現在においてもその権利の性格については議論が続いている。
③ 外国人の人権
・米国政府は、人権の「法律ノ範囲内」での保障のほかに、明治憲法 において、外国人の人権が保障されていないことも問題にしていた(日本の統治体制の改革(SWNCC228))。日本側における検討作業においては、この点を指摘した意見もないわけではなかったが(近衛文麿「憲法改正要綱」、佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」」)、憲法問題調査委員会の多数意見は、外国人を原則として「日本臣民」と同様に扱うことには消極的であった(憲法問題調査委員会諸意見)。
・松本委員会がGHQに提出した「憲法改正要綱」においても、外国人の人権保障に関する規定は置かれなかった。GHQ側はこの点を批判し(「ケーディスの所見」)、「GHQ草案」においては、いくつかの人権規定の主語に「何人(person)」という語を用いたほか、外国人に対する法の平等な保護を定める条文を設けた。
・日本政府の1946(昭和21)年「3月2日案」では、外国人に対する法の平等な保護に関するこの条文は残されたが、「3月5日案」では、国民に対する法の下の平等を定めた条文と一体化され、「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハス法ノ下ニ平等ニシテ」という規定に書き替えられた。その後の交渉の結果、「日本国民タルト否トヲ問ハス」の部分は削除された(「憲法改正草案要綱」)。
・さらに4月13日に作成された口語草案の第二次案で、主語が「すべて国民は」に書き替えられた。その他の条文の主語についても、「何人(person)」を「国民」に変更する修正が行われた。この修正に対しては、GHQ側から異論が出されたため(「新憲法草案修正に関するGHQとの交渉」)、日本政府側はいくつかの条文を例外として、「国民」を「何人」に戻す修正を行った。その後、この点については修正されることなく現行憲法として確定した(「日本国憲法」)。
・憲法施行後、そもそも憲法の人権保障は「外国人」にも及ぶか否かが争点となったが、現在では外国人についても、権利の性質上適用可能な人権規定はすべて及ぶものと考えられている。
・そこで、現在では、
(1)いかなる人権規定が、どの程度外国人に保障されるのか、
(2)外国人といっても、一時的な旅行者から日本に生活の本拠を持ち、特別永住資格を持つ者まで多様であり、それぞれの類型に応じたきめ細かな人権保障が必要ではないか、
という個別具体的な争点へと移行している。
3.4)新しい二院制議会
① 議会制度の民主化の示唆
・明治憲法下の帝国議会は、立法権を保持する天皇の「協賛」機関であった。帝国議会は、皇族、華族および勅任議員により組織される「貴族院」と、公選議員により組織される「衆議院」から成る二院制であった。また、衆議院の予算先議権を除き、両院の権限は対等であった。
・ポツダム宣言の受諾を経て、天皇主権から国民主権へと転換がなされるとともに、議会制度の民主化が行われることとなった。連合国最高司令官政治顧問のジョージ・アチソンによる近衛文麿に対する憲法改正の基礎的な項目の説明には、衆議院の権限の拡大、貴族院の拒否権の撤廃、議会責任原理の確立、貴族院の民主化がその内容に含まれていた。
・また、GHQ民政局法規課長のラウエルによる「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」は、立法部は一院でも二院でもよいが、全議員が公選されなければならないことを示した。さらに、米国政府からマッカーサーに「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」において、立法部は、全員が公選議員によって組織されることが要請された。
② 日本政府側の基本構想
・一方、日本政府の下に設置された憲法問題調査委員会(松本委員会)では、二院制を維持すべきであるが、従来の貴族院の権限に制限を加え、その構成を民主的なものに改めるべきだ、との意見が支配的であった(第3回総会議事録)。また、その名称についても、「上院」「第二院」「元老院」「特議院」「審議院」「参議院」など様々な案が出されたが、「参議院アタリガ無難」だということになった(第7回調査会議事録)。
・松本委員長が作成した「憲法改正私案」と「甲案」には、これらの意見が反映された。
すなわち、
(1)帝国議会は「参議院衆議院ノ両院」からなること、
(2)法律や予算の議決について、両院の間で意思の不一致が生じた場合、最終的に、衆議院の議決が優位すること、
(3)参議院の構成は、「参議院法ノ定ムル所ニ依リ選挙又ハ勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス」ること
とされた。
③ GHQとの交渉
・1946(昭和21)年2月5日のGHQ民政局会合では、日本の政治の発達状況をみても、簡明性という点からも、一院制を提案するのがよいとの結論に達した。また、このとき民政局のケーディスから、一院制か二院制かは、日本政府との交渉にあたって、GHQ案の「もっと重要な点」を維持するための譲歩材料になり得るとの意見が述べられた。
・2月13日、「GHQ草案」が、日本側に手交され、その中で国会は、「国家ノ権力ノ最高ノ機関ニシテ国家ノ唯一ノ法律制定機関」とされ、300人以上500人以下の公選議員から成る単一の院をもって構成するものとされた。
・これは、
(1)貴族制度が廃止されること(マッカーサーノート)、
(2)日本は連邦国家でないこと、
(3)第一院と第二院の間の争いが生じるおそれがある
ことなどの理由によるものであった。
・これに対して松本は、
(1)多くの国が議会の運営に安定性をもたらすため、二院制を採用していること、
(2)一院制の場合には政権交代により、政府の政策が一方の極から他方の極に移るおそれがあること、それゆえ、
(3)第二院があれば、政府の政策に安定性と継続性とがもたらされること
など、二院制の長所について説明した。
・そこで、ホイットニー民政局長は、GHQ案の基本原則を損なわない限り、二院制を検討してよいとした(「GHQ案手交時のGHQ側記録」)。
④ 参議院の理念・構成をめぐる論議
・3月4日からのGHQにおける徹夜の交渉を経た上で確定された「憲法改正草案要綱」では、両議院は、国民により選挙され全国民を代表する議員をもって組織するものとされた。この草案要綱発表後、参議院の緊急集会の規定を加えるなどの修正を行い、口語の条文としたものが「憲法改正草案」である。
・「帝国憲法改正案」を審議した第90回帝国議会において、金森徳次郎国務大臣は、「新タナル見地」から二院制が妥当であると述べ、参議院設置の理念は、衆議院に対する抑制的機能を前提として、知識経験のある慎重熟練の士を求めることにあるとした。
・また、参議院の構成についても、職能代表制を中心に熱心な論議が行われたが、しかし、具体的な構成の方式を打ち出すには至らなかった。ただ、衆議院の附帯決議の中において、参議院の構成については衆議院と重複する機関とならないよう留意し、社会の各部門・各職域の知識経験者が議員となり得るよう考慮すべきであるとの方針が示された。
・このようにして二院制が採用されたわけであるが、衆議院と同じく「全国民を代表」する公選議員から組織される参議院が、日本国憲法下における「第二院」として、どのような役割を担い、いかに特色を発揮すべきか、また、そのために、この議院にふさわしい人材をいかなる方法で集めることができるのかが、この半世紀余の間、問われ続けている。
3.5)違憲審査制
① 民間の憲法草案と政府部内の憲法試案
・日本国憲法第81条の違憲審査制とは、司法裁判所(下級裁判所を含む)に違憲審査権を与え、憲法に違反する国家行為(法令・行政処分・判決など)を無効にする仕組みである。それは、米国において判例で確立した制度を模範として設けられたものであり、戦前の明治憲法にはなかった制度である。
・この米国型の司法裁判所による違憲審査制の構想は、日本進歩党の「憲法改正要綱」(二十二)や憲法懇談会の「日本国憲法草案」(第62条)、稲田正次の「憲法改正私案」(第5章)など、民間の憲法草案に示されていた。
・他方、わが国では、戦前、大陸型の憲法裁判所の導入の是非をめぐる議論の展開があった。
・「憲法裁判所」とは、実際に争訟・事件が起こらなくても、法律が憲法に違反するなどとして、特別に設置された裁判所に、抽象的な憲法判断を求めることができる制度である。それは、第一次大戦後、オーストリアで創設され、第二次大戦後、ドイツ・イタリアなど、ヨーロッパ大陸の諸国に普及したことから「大陸型」違憲審査制とも呼ばれている。
・佐々木惣一内大臣府御用掛「帝国憲法改正ノ必要」(第78条)や大池真憲法問題調査委員会委員「帝国憲法改正私案」(第77条)など政府部内の憲法試案に、この大陸型違憲審査制の構想を見てとることができる。しかし、こうした米国型または大陸型の違憲審査制の構想が憲法第81条の規定に結実したのではなかった。
② GHQ草案
・憲法第81条の原案は、GHQ民政局において作成された。その作成の指針とされた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、国会の立法について、国会以外の機関は「暫定的拒否権」を有するにとどまるものとされていた。これは、立法を違憲とする司法裁判所(下級裁判所を含む)の判断とそれを合憲とする国会の判断とが対立した場合、国民を代表する後者の判断が最終的に優位するとの考え方を示したものである。
・これを受けてGHQ民政局の「司法権に関する委員会」が起草した試案では、憲法の基本的人権に関する規定の違憲審査は、最高裁が最終的に権限を有するが、その他の憲法規定に関する審査は、国会がこれを再審査し、最終的に確定すべきものとされていた(GHQ試案)。
・これに対して、「運営委員会」において、最高裁が違憲審査権を行使することで、最高裁判事による「寡頭政」が出来上がるのではないかとの危惧が表明された。しかし、審議の結果、全体として国会の権限は非常に強化されており、また、国会には基本的人権の規定に関する判断以外の一切の憲法判断を再審査する権限が与えられているので、そうはならないだろうとされた(民政局憲法起草委員会エラマンノート)。これが、GHQ原案(第60条)にまとめられ、「GHQ草案」第73条として日本政府に提出された。
③ 日本政府の起案と枢密院および帝国議会での審議
・日本政府は、GHQ草案をもとにして、1946(昭和21)年2月28日に初稿、3月1日に第二稿 を作成、翌日には、第二稿の案文を整理した「3月2日案」を脱稿し、4日からのGHQとの交渉に臨むことになった。GHQとの交渉に用いた3月2日案は、GHQ草案第73条中にあった最高裁の判断に対する国会の再審権に対して、日本側が大きな疑問を持ちながらも、それを一応とり入れた形のもの(第81条)であった。
・しかし、GHQとの交渉の際、最終的な違憲審査権限について、日本側が、「三権分立ノ見地カラ云ヘバ国会ヨリモ裁判所トスルヲ可ト信ズ」と述べたところ、GHQ側は、あっさりこれに同意した(「三月四、五両日司令部ニ於ケル顛末」)。そこで、3月6日の「憲法改正草案要綱」では、「最高裁判所ハ最終裁判所トシ一切ノ法律、命令、規則又ハ処分ノ憲法ニ適合スルヤ否ヲ決定スルノ権限ヲ有スルコト」(第77条)という形で、国民に公表された。
・その後、口語体で条文化された4月17日の「憲法改正草案」第77条では、「(第1項)最高裁判所は、終審裁判所である。(第2項)最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する。」として、二つの項に書き分けられた。
・その結果、枢密院の審議において、要綱では明確であった下級裁判所の違憲審査権の行使が、4月17日案では、否定されることになりはしないかが問題となった(「枢密院委員会記録」)。また、衆議院の審議でも、下級裁判所の違憲審査権の存否について、枢密院におけると同様の危惧が表明されたことから、下級裁判所も、それを持つことを明らかにする趣旨で、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」(第81条)と修正された(衆議院修正可決「帝国憲法改正案」)。
④ 違憲審査権の性格
・憲法第81条は、一般に、米国型の違憲審査制を採用したものと解されている。また、裁判所においても、この理解を前提とした制度の運営がなされてきた。しかし、最高裁は、違憲審査権を抑制的に行使し、これまで、国家行為を違憲とした判決は数例にとどまる。
・そこで、憲法裁判の活性化のために、第81条を改正し、大陸型の違憲審査制を導入した方が良いのではないか、といった見解が表明されている。
・また、現行第81条の下で、立法措置により、一定の抽象的な違憲審査制を導入することは、司法裁判所としての最高裁の性格に反するものではない、との憲法解釈もなされている。
・しかし、他方で、こうした大陸型への転換により、司法が政治化すると同時に、政治が司法化することになるのではないか、との恐れが表明されている。また、最高裁の違憲審査の現状を考えた場合、新たに憲法裁判所を設置し、抽象的な違憲審査制を導入するだけで、その現状を打破し、日本の憲法裁判を活性化することができると早計に結論づけるべきでない、との批判もなされている。
3.6)地方自治
① 米国の方針
・明治憲法には、地方自治に関する規定は存在せず、地方制度は、中央が地方に対して優位する集権的なシステムがとられていた。
・GHQ民政局は、1945(昭和20)年10月の発足直後から、ティルトンを中心として、日本の地方制度の研究に着手した。研究の要点は、第一に、中央集権から地方分権へ、第二に、知事・市町村長の直接公選制の導入にあった。また、ラウエル法規課長は、「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」の中で、「地方への権限と責任の分与」を重視し、都道府県および市町村に一定の範囲内で地方自治を認める規定を設けるべきであると提案していた。
・1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」は、「都道府県の職員は、できる限り多数を、民選にするかまたはその地方庁で任命するものとする」という指針を示すとともに、都道府県議会および市町村議会の強化の必要性を指摘した。
② 日本側の検討
・憲法問題調査委員会(松本委員会)は、全体として、明治憲法の部分的な手直しでよいとする意見であったので、明治憲法に存在しなかった地方自治に関する規定を改正憲法の中に取り入れるために検討を行うことはなかった。
・また、内大臣府の調査における佐々木惣一の案(「帝国憲法改正ノ必要」)を除き、当時の政党や民間の憲法改正案には、地方自治に関する条項を有するものはほとんどなかった。
・この佐々木案は、「自治ハ民意主義ニ依ル国ノ統治ノ基礎地盤」という考えの下に、自治に関する章を設け、
(1)国が必要により自治団体を設ける、
(2)自治団体の事務には、住民が選任した機関があたる、
としていた。
③ GHQ草案の起草
・GHQにおける改正案の作成が開始され、ティルトンを責任者とする民政局行政部の「地方行政に関する委員会」の作成した試案は、地方公共団体に権限を与えすぎているとして「運営委員会」において破棄された。「運営委員会」が改めて作成した案は、地方自治を強く主張する立場と、中央政府による統治に理解を示す立場が折衷されたものとなった。
最終的な「GHQ草案」では、「地方行政」の章に、
(1)住民が、知事、市長、町長、議員、主要職員を直接選挙する(第86条)、
(2)首都・市・町住民が財産、事務および行政を処理し、住民が国会が制定する法律の範囲内において憲章(charter)を定める権利を保障する(第87条)、
(3)国会が特定の地方に対する特別法を制定する場合には有権者の同意を条件とする(第88条)
との規定が置かれた。
④ 日本政府案の作成と帝国議会の審議
・GHQ草案をもとに日本政府が作成した「3月2日案」は、第8章の名称を「地方自治」とし、冒頭に「地方公共団体ノ組織及運営ニ関スル規定ハ地方自治ノ本旨ニ基キ法律ヲ以テ定ム」という、GHQ草案にはない規定を置いた(第101条)。日本側がこの規定を挿入した理由は、地方自治に関する条項を憲法に置く以上、総則的なものを置いた方がよい、という考えに基づくものであった。
・また、GHQ草案の各条では、地方自治体の種類を、府県、市、町などと書き分けてあったものを、「地方公共団体」という言葉で一括した。これにより、どの自治体が「地方公共団体」として自治権を持つかを、法律で定めることも可能となった。
・GHQ草案第87条は、3月2日案では、「法律ノ範囲内ニ於テ条例及規則ヲ制定スルコトヲ得」となり、住民の定めることができるのは、「憲章」ではなく、「条例」であることが明確となった。
・さらに、GHQとの交渉を経て作成され、3月6日に公表された「憲法改正草案要綱」では、「地方公共団体ハ、…法律ノ範囲内ニ於テ条例ヲ制定スルコトヲ得ベキコト」と規定され、条例制定権の主体が、住民ではなく地方自治体に変更された。GHQ草案の第88条は、ほぼそのまま「3月2日案」および「帝国憲法改正草案要綱」に取り入れられた。
・衆議院、貴族院における「帝国憲法改正案」の審議においては、「地方自治の本旨」の意味、地方公共団体の長の直接公選制の問題等について質疑が行われたが、大きな争点とならず、地方自治の章は原案どおり可決された。
・日本国憲法において新たに設けられた地方自治の規定の趣旨に基づき、地方自治法等が制定され、地方自治の様々な制度が整えられた。しかし、国が地方行政に深く関与する戦前の仕組みが残存したことから、国と地方のあり方が、これまで繰り返し論議されてきた。
・そして、新しい世紀を迎え、地方分権の流れが加速する中で、現在、「地方自治の本旨」、地方公共団体の設置形態、条例の性質、住民参加の方式等が改めて議論の対象となっている。
4)マッカーサー草案の受け入れと日本政府案の作成
4.1)極東委員会の開催(昭和21年2月)
・第1回の極東委員会の会合は、1946年2月26 日ワシントンで開かれた(対日理事会は4月5日)。この2委員会が、今後日本占領の重要な政策決定を行っていくこととなったのである。特に、憲法制定に関して大きな影響力を行使したのが、極東委員会である。
・つまり、マッカーサーは極東委員会が始動し、日本の新憲法制定に本格的に介入してくる前に、日本側が自主的に、民主的な憲法草案を作成したという既成事実が必要だったのである(極東委員会には、中国・ソ連・オーストラリアなど天皇制維持に反対の国が多く、象徴天皇制を早期に打ち出さない限り、天皇制の存続自体が危ぶまれるというマッカーサーの思考が働いたのである)。
・マッカーサーは、米国政府への通信で、天皇制の廃止(あるいは天皇戦犯処罰)は、日本国民の反感を買い、占領統治を困難にすると分析している。よって、マッカーサーは極東委員会の影響力行使から逃れ、(象徴)天皇制を維持するために、民政局や日本政府に早期の憲法案作成を促し、またそれを実行させたのである。
・極東委員会は日本の国務大臣の規定に文民統制(シビリアン・コントロール)を盛り込むなど、一定の影響力は行使した。しかし、憲法の根幹へ影響を与えることが出来たとは言い難く、早期の憲法案作成が現在の象徴天皇制を可能にしたと考えられるのである。
4.1)マッカーサー草案の受け入れ(昭和21年2月)
・2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形でマッカーサー草案が手渡された。
・提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣は、GHQによる草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」を添えて再考するよう求めた。 これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。
・2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。
4.2)憲法9条は誰が作ったのか?
〇 マッカーサー主導説
・当時、GHQの総司令官として日本の統治、再建に当たっていたマッカーサーは、ほぼ無制限の権限において日本国内の改革を進めることができた。その根拠となっていたのは、1945年9月6日に、マッカーサー元帥宛に統合参謀本部から送られた「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサー元帥への通達」(1945年9月6日)である。
・この絶対的な権限を認めた文書に基づいて、マッカーサーは様々な改革を進め、日本の非武装化と平和主義化もそのうちのひとつだった。こうした平和条項を、憲法のような国家の背骨にあたる取り決めの中に取り入れるよう、GHQが半強制的に迫ったことは確かである。その根拠として挙げられるのが「マッカーサー・ノート」(※1)と「GHQ 草案第八条」(※2)である。
(※1)「マッカーサー・ノート」の第二項は戦争放棄で「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」と書かれている。
防衛のための戦争をも禁ずる(この部分の記述は、当時運営委員会のヘッドとして憲法草案作りを仕切っていたケイディス大佐の主張によって削除された)、というところを除いて、ほぼ現行の憲法第九条と同じである。
(※2)GHQ 草案第八条:終戦後GHQ の要請を受けて日本側が作成していた草案(松本草案とよばれる)が、明治憲法とたいして変わらない内容だったため、占領軍側がモデルとして作ったGHQ 草案の八条には次のように書かれている。
〔マッカーサー草案(GHQ草案)〕
第八条 国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス 他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテノ武力ノ威嚇又ハ使用ハ永久ニ之ヲ廃棄ス
陸軍、海軍、空軍又ハ其ノ他ノ戦力ハ決シテ許諾セラルルコト無カルヘク 又交戦状態ノ権利ハ決シテ国家ニ授与セラルルコト無カルヘシ
〔意訳〕「国権の発動たる戦争は、廃止する。いかなる国であれ他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍のその他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない」
こちらも現行憲法とほぼ変わらない内容である。
〔日本国憲法〕
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
・これが、日本側に突然渡されたのが昭和21年2月13日だったことからも分かるように、昭和憲法の骨格は、マッカーサー・ノートが若干の改変を経てそのまま用いられたものだといえる。
〇 幣原喜重郎説
・幣原が自身の回想録『外交五十年』の中で戦争放棄のアイデアが自発的なものだったことを語っている。
・そのほかにも、マッカーサーは回想録の中で、幣原がペニシリンのお礼(肺炎になった幣原に対し、マッカーサーが当時日本では貴重だったペニシリンを与えた)に訪れた時、長時間の会談中にでた話として「戦争放棄条項を憲法に入れる」ことが、他ならぬ幣原自身によって提案されたことを述べている。同様の内容をマッカーサーは退官後の米上院軍事外交合同委員会の聴聞会などで、繰り返し語っている。
〇 幣原・マッカーサー会談
・上記の、昭和21 年1 月24 日に行われたペニシリン会談を指すが、そのときの様子を幣原の側近であった平野三郎が、インタビュー形式で幣原から聞き出している。
・その「平野メモ」の中で、昭和憲法は幣原自身の発案によるものか、という平野からの質問に対し、幣原は「この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えたわけである。……その考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮りにも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うよう決心した」と述べ、憲法の内容が自らの考えであったとしている。
・憲法9 条の起源については諸説ある。しかし幣原の発言からも分かる通り、たとえある程度アメリカ側からの圧力の下に行われたものであるとしても、平和憲法の成立に一定以上日本側からのコンセントがあったことは間違いない。
4.3)日本政府案の作成
・2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第1部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は3月2日に完成した(「3月2日案」)。3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。
・GHQは、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれ、GHQ側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、GHQを退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、GHQは、続いて確定案を作成する方針を示した。
・午後8時半頃から、佐藤・法制局第1部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、GHQにおける折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。
・翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった(※)。
(※1)なお、アメリカ国務省およびその出先機関であるGHQ政治顧問部は、「3月6日案」の内容を事前に知らされていなかった。国務省は草案を批判的に検討し、起草作業にあたったアルフレッド・ハッシー中佐が反論している(「憲法改正草案要綱」に対する国務省の反応)。
・3月26日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、GHQの了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。
・まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。
・4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。
4.4)日本国憲法「3月2日案」の起草と提出(昭和21年3月)(1946)
・昭和21年2月26日の閣議で、GHQ草案に基づいて日本政府側の案を起草し、3月11日を期限としてGHQに提出することが決定された。松本烝治国務大臣は、佐藤達夫法制局第一部長を助手に指名し、入江俊郎法制局次長にも参画を求めるとともに、自ら第1章(天皇)、第2章(戦争ノ廃止)、第4章(国会)、第5章(内閣)の「モデル案」を執筆した。
・他方、松本から起草の下命を受けた佐藤は、随時、入江と協議しながら、総理大臣官邸の一室で極秘のうちに作業を行い、松本の起草した「モデル案」の第1章、第2章に佐藤の起草した第3章以下(第4章、第5章を除く)を加えて、2月28日に「初稿」を完成させた。初稿には、同日、松本と入江、佐藤との打ち合わせの結果訂正が加えられ、それに「モデル案」の第4章、第5章を加えて、「第二稿」となった。3月1日、二回目の打ち合わせが行われ、第二稿にさらに訂正が加えられた。
・この間何度か、GHQから日本案を至急提出するよう促されたため、急いで案文を整理し(3月2日案)、3月4日午前、松本と佐藤がGHQ民政局に提出した。この時同時に、松本の作成した「説明書」も提出した。GHQへの提出が3月11日の期限よりも早まったため英訳が間に合わず、案文と「説明書」は、日本文のままであった。
4.5)GHQとの交渉と「3月5日案」の作成(昭和21年3月)(1946)
・昭和21年3月4日午前10時、松本烝治国務大臣は、ホイットニーに対し、日本案(3月2日案)を提出した。GHQは、日本側の係官と手分けして、直ちに、日本案及び説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれて、GHQ側は、GHQ草案と日本案の相違点に気づき、松本とケーディスとの間で激しい口論となった。松本は、午後になって、経済閣僚懇談会への出席を理由に、GHQを退出した。
・日本案の英訳作業が一段落した夕刻、GHQは、引き続いて、確定案を作成する方針を示し、午後8時半頃から、佐藤達夫法制局第一部長ら日本側と、徹夜の逐条審議が開始された。審議済みの案文は、次々に総理官邸に届けられ、5日の閣議に付議された。同日午後4時頃、司令部での作業はすべて終了し、3月5日案が確定した。閣議は、この案に従うことに決し、午後5時頃、幣原首相と松本国務大臣が参内して奏上した。
・「3月4・5両日司令部ニ於ケル顛末」は、4日から5日にかけてのGHQにおける協議の顛末を佐藤が克明に記録したものである。上から二番目の資料は、総理官邸に逐次届けられた審議済みの案文を取りまとめたもので、閣議で配布された資料の原稿となったものである。
4.6)「憲法改正草案要綱」の発表(昭和21年3月)(1946)
・3月5日案は、GHQの了解を得て、字句の整理をしたうえで、要綱の形で発表されることとなった。要綱の作成作業は、入江俊郎法制局次長を中心に進められた。要綱は、3月5日案の英文を基本として、その枠内で、日本文の表現を整えたものである。
・3月6日午後5時、「憲法改正草案要綱」は、勅語や内閣総理大臣の談話などとともに内閣から発表され、謄写刷り版にして新聞社その他の報道機関に配布された。
・「憲法改正草案要綱」は、翌7日の各紙に掲載され、マッカーサーの要綱支持の声明も同時に発表された。ハッシー文書中の資料は、この声明の草稿(第3稿)である。
・この要綱の発表が突然であったこと、また、その内容が予想外に「急進的」であることについて、国民は大きな衝撃を受けたが、おおむね好評であった。
5)憲法改正問題をめぐるマッカーサーと極東委員会の対立
・3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。
・マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。
・3月20日には極東委員会はマッカーサーに対し、憲法草案に対する極東委員会の最終審査権の留保と、国民に考えるための時間を与えるため4月10日に予定されている総選挙を延期すること、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。これに対して3月29日、マッカーサーは、極東委員会の総選挙延期要求を拒否する返電を打った。
・さらに5月13日、極東委員会は、3点からなる「新憲法採択の諸原則」を決定した。
・その原則とは、
① 審議のための充分な時間と機会を与えられること、
② 大日本帝国憲法との法的連続性をはかること、
③ 国民の自由意思を明確に表す方法により新憲法を採択すること
の3点である。
6)「憲法改正草案要綱」に対する国務省の反応(昭和21年3月)(1946)
・昭和21年3月6日発表の「憲法改正草案要綱」については、米国務省も、その東京の出先機関である最高司令官政治顧問部も、事前に知らされていなかった。政治顧問部のマックス・ビショップは8日、同要綱の英訳を同封し、GHQの関与は明らかであるとする報告を国務長官宛てに郵送した。
・憲法改正草案要綱に対する国務省の反応は5月13日付けGHQ民政局文書の添付文書に含まれている。すなわち、国務省は同要綱に対する批判的な分析を行ったが(3月20日付け文書)、これを受け取った民政局では、GHQ草案の起草に携わったハッシーらがこれに対し反論を加えている(4月24日付け文書および4月29日付け文書)。国務省は、たとえば、日本が直面する諸問題を解決するには、行政府はより強力なものでなければならないと批判した。
・これに対し民政局側は、国家の基本法となるべき同要綱を短期的視点から考察すべきではなく、また強力な政府論は同要綱における主権在民という大前提を考慮に入れていないなどと反論した。
7)憲法改正問題に対する極東委員会の関与
・衆議院における「帝国憲法改正案」の審議開始にあたりマッカーサーは、6月21日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であると声明した。
・これら議会における憲法改正審議の3原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一のものであった。このことは、マッカーサーが極東委員会の要求をある程度受け入れたことを意味した。
・衆議院で委員会審議が始まったばかりの7月2日、極東委員会は、新しい憲法が従うべき基準として、「日本の新憲法についての基本原則」を決定した。
・その内容は、先に米国政府が作成した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基礎とするものであった。
・その後GHQは、極東委員会の意向に沿う形で改正案の修正を日本政府に働きかけ、その結果、主権在民、普通選挙制度、文民条項などが明文化されるに至った。
*参考:国会図書館/憲法/資料「日本国憲法の誕生」(第4章 帝国議会における審議)
https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04shiryo.html
1)総選挙と枢密院への諮詢
・昭和21年4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施され、GHQは、この選挙をもって、「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。
・選挙を終えた4月17日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」を公表し、枢密院に諮詢した。4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。
・同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。
・6月8日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。
1.1)枢密院における幣原首相の憲法草案説明要旨(昭和21年3月)(1946)
・昭和21年3月20日の枢密院会議において、幣原喜重郎首相は、3月6日の憲法改正草案要綱の発表の経過について説明を行った。当時、枢密院の諮詢を要する案件については、その諮詢前に内容を公表することは、少なくとも枢密院に対する重大な不信行為とされていた。
・しかし、GHQとの関係上急いで発表しなければならなかったため、憲法改正草案が4月17日に枢密院に下付されるに先立ち、その経過について報告し了解を求めたのである。
1.2)口語化憲法草案の発表(昭和21年4月)(1946)
・国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)は、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出した。これが主たる契機となり、1946(昭和21)年4月2日に、GHQの了承、また、閣議の了解を得て、ひらがな口語体によって憲法改正草案を準備することとなった。
・口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得た。この案を参考として、実質的には、入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法制局次長、渡辺佳英法制局事務官らの手により、4月5日に第一次案が完成した。
・4月16日には幣原首相が内奏し、法令の口語化はまず憲法について行い、憲法の成立施行後は他の法令にも及ぶことを伝えた。次いで4月17日、憲法改正草案が発表された。
1.3)新憲法草案修正に関するGHQとの交渉(昭和21年4月)(1946)
・憲法改正草案要綱についての問題点の検討及び整理の後、必要最小限度の修正についてGHQと交渉することになった。1946(昭和21)年4月2日に、入江俊郎法制局長官と佐藤達夫法制局次長が、終戦連絡中央事務局の加藤連絡官とともに民政局を訪ね、ケーディス大佐及びハッシー中佐と会談を行った。
・以後会談が重ねられ、4月15日には、憲法改正草案がGHQ側に提出されたが、4月18日に、GHQ側から口語化された草案の字句について異議があるとの電話があったため、佐藤法制局次長及び加藤連絡官が説明のため、ケーディス大佐、通訳のゴードン中尉と会談を行った。
・なお、終戦連絡中央事務局政治部長名の第五次会談に係る報告書の中では、4月18日に憲法改正草案発表・4月19日に会談との記述があり、当時の混乱ぶりがうかがえる。
1.4)外務省「憲法草案要綱ニ関スル内外ノ反響」(昭和21年4月)(1946)
・昭和21年3月6日に政府から発表された憲法改正草案要綱について、内外の世評や反応をとりまとめたものとして、外務省総務局の作成した3月18日付け報告「憲法草案要綱ニ對スル内外ノ反響(其ノ一)」がある。
・さらに、4月17日に政府は憲法改正草案の全文を発表し、翌4月18日の各新聞の第一面に大きく報道され、草案のひらがな口語体の新形式は世人の注目を集めた。外務省総務局「新憲法草案に對する内外の反響(其の二)」は、その主な国内外の反響につき概観・列挙したものである。
1.5)極東委員会の関与(昭和21年4月)(1946)
・極東委員会は昭和21年2月26日にワシントンで第1回会議を開き、その活動を開始した。3月6日に日本政府が行った「憲法改正草案要綱」の突然の発表とマッカーサーの支持声明に対し、同委員会では、マッカーサーが権限を逸脱したとの批判が巻き起こった。
・そこで同委員会は3月20日付け文書を発し、憲法案が可決される前にこれを審査する機会が同委員会に与えられるべきであると主張した。4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためGHQ係官の派遣をマッカーサーに求めると決定したが、マッカーサーはこれを拒否した。
・東京では、対日理事会が4月5日に初会議を行ったが、その席上マッカーサーは、憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになるだろうと主張した。
・しかし極東委員会では、米国代表であるマッコイ議長も憲法問題に関してマッカーサーを支持していなかった。このことは、GHQ憲法問題担当政治顧問として来日した政治学者のケネス・コールグローヴからホイットニー民政局長に伝えられた(4月24日付けホイットニー文書)。
・マッコイ議長自身もマッカーサーに対する4月25日付け打電で、新憲法成立以前に極東委員会が審査すべきことを訴えている。しかし日本で多くの知識人と接触し、憲法草案が広く支持されていることを知ったコールグローヴは、マッコイに対し、極東委員会での審査は時間の浪費になると伝え、GHQの立場を擁護した(4月26日付け書簡)。
・極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。
・極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。
1.6)枢密院委員会記録 1946年4月~5月
・枢密院は、幣原内閣が辞表を奉呈した昭和21年4月22日に、諮詢案に対する第1回の審査委員会(委員長:潮恵之輔顧問官)を開いた。審査委員会は、5月15日の第8回会議まで、数日おきに、ほぼ連続して開かれ、憲法改正草案の審議がおおむね逐条的に行われた。
・5月22日に吉田内閣が成立したため、諮詢中の草案は一旦撤回され、5月27日に若干の修正を加えたものが再び諮詢された。審査委員会は、5月29日に再開され、第9回委員会で一通り審査は終了した。枢密院の会議は秘密会議であり、枢密院事務官による要領筆記が唯一の公式記録である。
1.7)政府、「枢密院再諮詢修正点」発表 1946年6月8日
・枢密院の本会議は、昭和21年6月8日に第二読会以下を省略して憲法改正案を直ちに採決し、美濃部達吉顧問官を除く起立者多数で可決した。
・この可決後、政府は先の再諮詢の際に草案に加えられた修正点を発表し、天皇の国事行為に対する内閣の「補佐と同意」から「助言と承認」への変更等の修正内容が6月9日付けの新聞各紙によって報道された。
・修正点をこの時まで発表しなかったのは、再諮詢後の枢密院の審議において更に修正があった場合、これと一括して発表するつもりで、最終段階まで一応留保していたためである。
1.8)「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」 1946年4月~6月
・枢密院審査と議会での審議にそなえ、法制局は憲法の各条文の説明資料と想定される質問に対する答弁のための資料を作成した。
・その大部分は枢密院での審査が始まる4月までに完成していたが、枢密院での議論を踏まえて若干の追加・修正がなされた。後に話題となった「あこがれの中心」という天皇の位置づけについての説明は、この想定問答ですでに用意されていたものであった。
2)衆議院における審議
衆議院で帝国憲法改正案の提案理由を説明する金森大臣(昭和21年7月1日)(引用:Wikipedia)
・昭和21年5月16日、衆議院総選挙後の第90回帝国議会が召集された。開会日の前日には、金森徳次郎が憲法担当の国務大臣に任命された。
・6月20日、「帝国憲法改正案」は、明治憲法第73条の規定により勅書をもって議会に提出された。6月25日、衆議院本会議に上程、6月28日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正案委員会に付託された。委員会での審議は7月1日から開始され、7月23日には修正案作成のため小委員会が設けられた。小委員会は、7月25日から8月20日まで非公開のもと懇談会形式で進められた。
・8月20日、小委員会は各派共同により、第9条第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する、いわゆる「芦田修正」などを含む修正案を作成した。翌21日、共同修正案は委員会に報告され、修正案どおり可決された。8月24日には、衆議院本会議において賛成421票、反対8票という圧倒的多数で可決され、同日貴族院に送られた。
2.1)「帝国憲法改正案」(帝国議会に提出)(昭和21年6月)(1946)
・憲法議会ともいうべき第90回帝国議会は、昭和21年5月16日に召集されたが、開院式は組閣等の関係で6月20日となった。帝国憲法改正案は、開院式当日、明治憲法第73条の憲法改正手続により、勅書をもって議会に提出された。憲法論議は、6月21日の吉田茂内閣総理大臣の施政方針演説に対する質疑の形によって口火が切られた。
・6月25日、帝国憲法改正案は衆議院本会議に上程され、吉田総理の提案理由の演説が行われた。その後直ちに質疑に入り、6月28日まで4日間にわたり合計11人による本会議質疑が行われた。この資料には、答弁準備のための佐藤達夫法制局次長による書込みが随所に見られる。
2.2)新憲法草案審議についてのマッカーサー声明(昭和21年6月)(1946)
・昭和21年6月21日、マッカーサーは帝国議会での憲法審議に関して声明を発表し、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」が必要であり、新憲法が「国民の自由意思の表明」を示したものでなければならないと説いた。
・これら3つの原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一内容のものであった。とくに「国民の自由意思の表明」については、ポツダム宣言の要請するところでもあり、極東委員会がマッカーサーに対し繰り返し強調していたものでもあった。
・マッカーサーはこの声明の中で、国民の自由意思による民主的な選挙を経て成立した現在の議会は、充分に民意を代表しており、憲法問題について「国民の意思を表明する資格を有する」と言明した。
2.3)極東委員会「日本の新憲法についての基本原則」(昭和21年7月)(1946)
・昭和21年7月2日、極東委員会は「日本の新憲法についての基本原則」を決定し、新憲法が盛り込むべき原則を初めて示したが、これは半年前に米国政府がマッカーサーに伝えていた「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基本としたものであった。
・同委員会内ではかねてより天皇制に対する強い反発があったが、結局SWNCC228を踏襲して、「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。
・マッカーサーは、この基本原則に異議は唱えなかったが、この「指令」を公表すれば、憲法改正に対する日本国民の自発的努力が連合国による強制という性質を帯びることになるとして、公表を抑えさせた。
2.4)「金森6原則」(昭和21年7月)(1946)
・帝国議会での審議の最大の焦点は、この憲法改正案によって、「国体」が変更されることになるのかどうかという問題であった。金森は、この問題について、「政体」は変更されるが、「国体」は変更されないという答弁で対応した。
・この答弁に当惑したケーディスは、その真意を確認するため、金森との会談を要請した。「金森6原則」と呼ばれるこのメモは、7月17日に開かれた会談の場において金森が語った天皇の地位に関する説明の内容を、ケーディスの要望にもとづいて文書化したものである。
・この会談の模様は、ホイットニーがマッカーサーに宛てた文書にも報告されており、その中においても「国体」に関する金森の答弁が旧体制への復帰を意図するものではないかとの懸念が示されている。
2.5)コールグローヴ、トルーマン宛書簡(昭和21年7月)(1946)
・GHQ憲法問題担当政治顧問として昭和21年3月に来日したケネス・コールグローヴは、日本人が憲法草案に好印象を持っていることを知り、帰国後の同年7月29日、トルーマン大統領宛てに書簡を送った。
・その中で彼は、GHQを擁護し、マッカーサーの憲法草案承認に不満を表明していた極東委員会によって政策変更が行われることは、日本国民を混乱させるものであると説いた。
2.6)「衆議院小委員会修正3」(昭和21年7月)(1946)
・衆議院帝国憲法改正案委員小委員会は、1946(昭和21)年7月25日から8月20日までの間に13回にわたって秘密会で開かれ、各会派から提出された修正案の調整を行った。
・佐藤達夫法制局次長は、非公式に立法技術上の補助員として出席を求められた。この「帝国憲法改正案」には、同次長による書込みが随所に見られる。
3)貴族院における審議と憲法の公布
・「帝国憲法改正案」は、8月26日の貴族院本会議に上程され、8月30日に安倍能成を委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託された。特別委員会は9月2日から審議に入り、9月28日には修正のための小委員会を設置することを決定した。
・小委員会は、いわゆる「文民条項」(※1)の挿入などGHQ側からの要請に基づく修正を含む4項目を修正した。10月3日、修正案(※2)は特別委員会に報告され、小委員会の修正どおり可決された。修正された「帝国憲法改正案」は、10月6日、貴族院本会議において賛成多数で可決された。改正案は同日衆議院に回付され、翌7日、衆議院本会議において圧倒的多数で可決された。
(※1)文民条項
・内閣総理大臣その他の国務大臣は、「文民」でなければならないとする日本国憲法第66条第2項のこと。GHQが、極東委員会の強い要望を受けて指示してきたため、貴族院の審議過程において改正案に挿入された。
・「文民」という言葉は当時の日本語にはなく、GHQの文書にあったciviliansという語に対する造語である。
(※2)貴族院での修正事項
1)15条に、公務員の選挙について、成年者による普通選挙を保障する規定を加えたこと
2)66条に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないとの規定を加えたこと
3)59条に、法律案について両院協議会の規定を追加したこと。
・このうち、1)・2)は総司令部の要請によって修正された点、特に2)は総司令部が極東委員会の要請を受けて日本政府に追加修正を求めた点であり、3)は貴族院の自発的な修正である。
●貴族院帝国憲法改正案特別委員会、「帝国憲法改正案」修正可決 1946年10月3日
・1946(昭和21)年10月3日、帝国憲法改正案は、貴族院帝国憲法改正案特別委員会(安倍能成委員長)において修正議決され、安倍委員長から議長への報告がなされた。10月5日及び6日、貴族院本会議において審議が行われ、10月6日、特別委員会の修正どおり可決された。
・10月3日配布の委員長報告には、別冊として特別委員会における修正箇所を示した資料が添付されている。入江文書中のこの資料には、安倍委員長の報告に始まり採決に至るまで、2日間にわたった貴族院本会議での入江のメモが多数残っている。
4)吉田茂内閣総理大臣発言
・「只今貴族院の修正に對し本院の可決を得、帝國憲法改正案はここに確定を見るに至りました。(拍手) 此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます。
・本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民諸君と共に洵に欣びに堪へない所であります。(拍手)
・惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての絶大なる努力に俟たなければならないのであります。
・政府は眞に國民諸君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます。
・ここに諸君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します。(拍手) 」 —昭和21年10月7日衆議院本会議
5)芦田修正について
・なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、芦田修正(※)と呼ばれる修正が行われた。芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院に設置された、衆議院帝国憲法改正小委員会による修正である(※)。特に憲法9条に関する修正は委員長である芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条をめぐる議論ではひとつの論点となっている。
(※)GHQや極東委員会内部では、芦田修正により「日本が defence force を保持しうる」とする見解が有力であった。
※芦田修正のGHQ等見解
・まず、帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次の原案のようなものであった。
・衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。
・そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案をもとにすることなどがまとまった。
・芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。この修正について、GHQ側からは何ら異議もなく、成立に至った。芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。
*憲法改正草案第9条(原案):国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。
2 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。
*芦田試案案第9条 (試案):日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。
2 前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
*委員会修正第9条 (修正):日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、
これを認めない。
(参考:)「憲法9条 芦田修正が行われた理由 西修先生 」
(引用:産経ニュース 2013.11.9【中高生のための国民の憲法講座】第19講)
憲法9条の成立過程との関連で避けて通ることのできないのが、いわゆる芦田修正といわれているものです。ポイントは2点。1点目は1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を、2点目は2項の最初に「前項の目的を達するため」をそれぞれ追加したことです。この芦田修正によって、現在の9条が完成しました。
◆挿入された語句
・解釈上、重要な点は2点目です。衆議院に提出された政府案の9条2項は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない」と定められていました。このような規定では、「陸海空軍その他の戦力」(以下で「戦力」と総称)は、どんな場合でも保持してはならないと解釈されます。
・「前項の目的を達するため」の語句が挿入されることで、戦力の不保持が限定的になります。すなわち1項で放棄しているのは、「国際紛争を解決する手段」としての戦争や武力行使であって、言い換えれば、侵略を目的とする戦争や武力行使です。そのような侵略行為を日本国は絶対にやらないことを規定しているのが、1項の眼目といえます。
・2項に「前項の目的を達するため」が加えられたということは、侵略行為をしないという目的のために戦力を保持しないこととなり、逆に言うと、自衛という目的のためであれば、戦力を保持することは可能であるという解釈が導き出されることになります。 この修正案が持ち出され、成立したのが芦田均氏を委員長とする小委員会だったことから、芦田修正といわれているのです。
・芦田氏は、昭和32(1957)年12月5日、内閣に設けられた憲法調査会で、以下のように証言しています。
◆自衛の戦力保持可能
・「私は一つの含蓄をもってこの修正を提案したのであります。『前項の目的を達するため』を挿入することによって原案では無条件に戦力を保持しないとあったものが一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります。そうするとこの修正によって原案は本質的に影響されるのであって、したがって、この修正があっても第9条の内容には変化がないという議論は明らかに誤りであります」
・こうして、「自衛のためならば、戦力の保持を可能にするために」芦田修正が成立したのですが、歴代政府は、この芦田修正を考慮に入れた解釈をしてきていません。2項を全面的な戦力不保持と解しています。自衛隊を「戦力」といわず、「自衛力」と説明しているのはこのためです。
・いまや世界的に有数の実力を備えた自衛隊を「戦力」でないと言い続けるには限界があります。政府が芦田修正を踏まえた解釈をしてこなかったことが、自衛隊の憲法上の存在をあいまいなままにしてきている元凶といえます。
【プロフィル】西修(にし・おさむ) 早稲田大学大学院博士課程修了。政治学博士、法学博士。現在、駒沢大学名誉教授。専攻は憲法学、比較憲法学。産経新聞「国民の憲法」起草委員。著書に『図説日本国憲法の誕生』(河出書房新社)『現代世界の憲法動向』(成文堂)『憲法改正の論点』(文春新書、最新刊)など著書多数。73歳。
5.1)衆議院修正可決「帝国憲法改正案」
・衆議院と貴族院での審議を経て、政府案にいくつかの修正が加えられた。
・国民主権の原則を明確にしたこと、戦力の不保持を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という文言を挿入したこと、生存権の規定を追加したこと、国民の要件、納税の義務、国家賠償、刑事補償について新しい条文を追加したこと、内閣総理大臣を国会議員の中から選び、国務大臣の過半数は国会議員とすると規定したこと、すべての皇室財産は国に属すると規定したことなどが衆議院での主な修正点であった。
・貴族院での主な修正点は、公務員の選挙において普通選挙を保障したこと、内閣総理大臣とその他の国務大臣はすべて文民でなければならないと規定したことであった。
・衆議院特別委員会が本会議に提出した修正議決の報告書には、貴族院での修正箇所も一部手書きで記されている。英語のciviliansに対応する用語が、「武官の職歴を有しない者」から「文民」に落ち着いた経過がこの資料からもうかがえる。
5.2)極東委員会と文民条項
・極東委員会が昭和21年7月2日に採択した「日本の新憲法についての基本原則」には、国務大臣は文民(civilian)、すなわち非軍人でなければならないとする原則が盛り込まれており、8月19日にはマッカーサーもこのことについて吉田首相に申し入れた。しかし日本側は、第9条第2項が軍隊保持を禁じている以上、軍人の存在を前提とした規定を置くのは無意味であると主張し、文民条項は置かないことでGHQ側の了解を得た。
・ところが、いわゆる「芦田修正」により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」という語句が加えられていたことに極東委員会が注目したため、文民条項問題は再浮上することとなった。 ・すなわち9月21日の会議で、中国代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊をもつ可能性があると指摘した。
・そのため、検討の結果、同委員会は文民条項の規定を改めて要求することになった(同月25日決定)。同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、貴族院における修正により、憲法第66条第2項として文民条項が追加された。 なお、「文民」とは、このとき貴族院小委員会でcivilianの訳語として考案された造語である。
6)枢密院全会一致で可決
・帝国議会における審議を通過して、10月12日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)した。10月29日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部・顧問官など2名は欠席)。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。
昭和21年10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。(引用:Wikipedia)
●第90議会議決後に於ける帝国憲法改正案枢密院審査委員会記録 1946年10月19日
・憲法改正案は、帝国議会で修正議決された後、1946(昭和21)年10月12日、枢密院に再諮詢される。枢密院では、10月19日と21日の2回にわたって審査委員会が開かれ、同月29日、枢密院本会議において、全会一致で可決された。
・この資料は、第1回と第2回の審査委員会に出席した法制局側の記録である。委員会では、「帝国議会に於ける憲法改正案審議経過」と題するプリントに基づき、金森国務大臣から説明があり、引き続き、各章ごとに質疑が行われた。法制局からは、入江長官、佐藤達夫次長(第1回委員会のみ)及び佐藤功事務官が出席した。この委員会記録は、佐藤事務官の要約筆記に基づいている。
7)論点
7.1)国民主権と天皇制
① 米国の方針
・日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」 )。
・1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書 の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
・1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」 には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。
・マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」 )。
② 日本側の検討
・憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」 に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」 )。
・しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」 、「憲法改正案」(乙案) )。
・一方、政党・民間が作成した憲法改正案の中には、国民主権の確立、天皇制の廃止・変更を打ち出したものがあった。
・共産党案は、人民主権、天皇制の廃止、人民共和国の建設を目指すものであった(日本共産党「新憲法構成の骨子」 、「日本人民共和国憲法草案」 )。
・社会党案は、主権は天皇を含めた国民共同体としての国家にあるとし、統治権を議会と天皇に分割して天皇制を維持するものであった(日本社会党「憲法改正要綱」 )。
・また、憲法研究会案は、国民主権を明記した上で、天皇の権限を国家的儀礼に限定し、今日の象徴天皇制の一つのモデルともなる構想を示していた(憲法研究会「憲法草案要綱」 )。
③ GHQ草案の起草
・2月3日、マッカーサーがホイットニーGHQ民政局長に示した「マッカーサーノート 」 は、天皇制について、(1)天皇の地位は「元首」、(2)皇位の継承は世襲、(3)天皇の権能は憲法に基づき行使され、人民の意思に応える、との原則を含んでいた。
・民政局の「天皇・条約・授権規定に関する委員会」が作成した試案 は、冒頭に、主権が国民に存するとの規定を置いた(第1条)。第2条には、天皇の地位について、まず、「日本の国家は、一系の天皇が君臨(reign)する」(第1文)と規定し、次に、「皇位は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、天皇は、皇位の象徴的体現者である。この地位は、主権を有する国民の意思に基づく」(第2文)などと規定していた。
・しかし、「運営委員会」において、主権が国民に存することは前文に書かれており、それで十分であるとして、第1条が削除され、また、第2条第1文の「君臨」するという言葉は、日本語では「統治」するという意味を含むとして、第1文が削除された。
・この結果、「GHQ原案」 では、試案の第2条第2文が冒頭の条文となった。最終の「GHQ草案」 では、これが「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。…」と修正されて第1条となった。また、前文においては、「主権が国民の意思に存する」と宣言された。
④ 日本政府案の作成と帝国議会の審議
・GHQ草案をもとに日本政府が作成した「3月2日案」 は、前文を置かず、また、第1条に「国民至高ノ総意」という文言を用いて、主権が国民にあることがあいまいにされていた。GHQとの交渉の結果、前文が復活し、第1条は、ほぼGHQ草案の形に戻されたが、「国民至高ノ総意」の文言は維持された(「憲法改正草案要綱」 )。
・衆議院での審議では、天皇の地位と国体の変更について、金森徳次郎国務大臣は、変更されたのは「政体」(天皇を中心とする政治機構)であって「国体」(天皇をあこがれの中心として国民が統合していること)ではない、と答弁した。
・このため、ケーディス民政局次長は、金森の答弁が非常に不明確で判り難いとして説明を求めた。金森は、「国体」について文書で説明した(「金森6原則」 )。さらに、ケーディスから前文または第1条で国民主権を明確にするよう要請された結果、衆議院で、前文を「主権が国民に存することを宣言し」、第1条を「主権の存する日本国民の総意に基づく」とする修正が行われた。
・貴族院の審議でも、衆議院と同様、国体の変更、主権の所在について論議が集中した。この問題は、憲法改正案を審議した帝国議会だけでなく国民各層の間でも活発に議論され、憲法制定時における最大の争点となった。それはまた、憲法制定後も、「国民主権と象徴天皇制」の問題として議論の対象となってきた。
7.2)戦争放棄
①ポツダム宣言の非軍事化原則とGHQの任務
・1941(昭和16)年8月14日発表された大西洋憲章には、第二次世界大戦後において世界平和を回復するための指導原則として、民主的政治体制の確立と侵略国の非軍事化が示されていた。そして、4年後の1945年8月14日、日本が受諾したポツダム宣言にもまた、日本の「民主化」と「非軍事化」が規定され、そのうち、後者に関しては、軍国主義者の追放、戦争遂行能力の破砕、軍隊の完全武装解除、軍需産業の禁止などの措置が明記されていた。
・さらに、米国政府の「初期対日方針」 にも、ポツダム宣言と同様、武装解除などの具体的措置を実施すべきことが、連合国最高司令官として日本占領政策の遂行にあたるマッカーサーに対して指示されていた。
・なお、マッカーサーに「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」 は、「政府の文民部門が軍部に優越するよう」憲法を改正すべきだとし、軍の存在を前提とする米国政府の考え方が示されていた。
②明治憲法の軍規定改廃論と「憲法改正要綱」
・終戦後、日本軍の武装解除はきわめて迅速に行われ、10月16日、マッカーサーは「本日、日本全土にわたって、日本軍の復員は完了し、もはや軍隊として存在しなくなった」との声明を発表した。この日本軍の解体という現実、軍が存在しないという事実は、明治憲法の軍規定の改廃論にも大きな影響を与えた。それは、法制局内部で、秘かに憲法改正問題に着手した入江俊郎の検討項目にも反映している(「終戦ト憲法」 )。
・また、10月末に発足した政府の憲法問題調査委員会でも、
1)軍の解体という事実を踏まえ、「世界最初ノ平和国家非武装国家タラン」との立場から、明治憲法の軍規定を全面削除すべきだとする主張と、
2)将来、「必要最小限度ノ国防力」の設置がありうることを想定し、必要な軍規定を残置したうえで、軍に対する議会の統制を強化すべきだとする主張
とが鋭く対立した(「第9回調査会議事録」 )。
・そして、最終的には、2) の主張が「憲法改正要綱」 に採用され、1946(昭和21)年2月8日、GHQに提出された。この政府部内における議論の対立は、憲法制定後の憲法第9条解釈に少なからず影響を与えた。
③GHQ草案の起草と日本政府案の作成・公表
・憲法第9条の原案は、「マッカーサーノート」 (1946年2月3日)の第2原則に由来する。そこには、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。」と記されていた。しかし、この記述は、国際法上認められている自衛権行使まで憲法の明文で否定するものであり、不適当だとして、「GHQ草案」 (2月13日手交)には取り込まれなかった。
・なお、試案 および原案 からは、第9条が、当初前文のなかに置かれ、次いで、第1条に移されていることが読みとれる。これは、平和主義の原則に世界の注目が集められることを望んだマッカーサーの意向を反映したものであった。
・しかし、後のGHQ草案では、天皇に敬意を表し、「天皇」の章が冒頭に置かれたため、条文番号は第8条となった(2月22日会見のGHQ側記録 )。
・日本政府は、GHQ草案をもとに日本国憲法を起草(「3月2日案」 )、GHQとの折衝を経て、初めて国民に示した(3月6日の「憲法改正草案要綱 」)後、4月17日、条文形式に整えた「憲法改正草案」 を公表した。そこでは、第9条について次のように規定されていた。
「国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は、認められない。」
・法制局は、枢密院と帝国議会での審議に備えて想定問答を作成した。そこでは、第9条は全体として侵略、自衛を問わず、すべての戦争を放棄するが、「自衛権」に基づく「緊急避難」ないし「正当防衛」的行動までなし得ないわけではないと記されていた(「憲法改正草案に関する想定問答」 )。
④枢密院の審議と帝国議会における修正
・枢密院の審議では、自衛権に基づく自衛行動の可否が問題となった。これについて、政府(松本国務大臣)は、「自衛といふ働き自体憲法で禁じられるものではない」と説いた(「枢密院委員会記録」 )。
・帝国議会では、まず、衆議院の審議において、政府の提出した「帝国憲法改正案」 に示された表現では、日本がやむをえず戦争を放棄するような感じを与え、自主性に乏しいとの批判があったことから、第1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、……」との文言を追加、また、第2項も、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と改められた(衆議院修正可決「帝国憲法改正案」 )。
・とくに、第2項冒頭に、「前項の目的を達するため」という文言が挿入されたことで(修正案が協議された小委員会芦田均委員長名を冠して「芦田修正」と呼ばれる)、極東委員会やGHQ内で、上記修正により、日本がdefense force(自衛力)を保持しうることが明確となった、との見解が浮上した(「極東委員会第27回総会議事録」 )。
・そこで、GHQは、極東委員会からの要請として、「国務大臣はすべてcivilians(文民)たることを要する」と日本政府に指示、貴族院の審議 において、憲法第66条に文民規定が置かれることになった。
・しかし、芦田修正により、第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が入った後も、政府は、第1項が侵略戦争を否定するものであって、自衛戦争を否定するものではないが、第2項が戦力の保持および交戦権を否定する結果として、結局、自衛戦争をも行うことができないことになるとの解釈に特段の変化はないと考えた。
・日本は、1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発直後に警察予備隊を設置、1952年、保安隊への改組と警備隊の設置、そして、1954年には、自衛隊の創設と、その「実力」が「警察力」から「自衛力」へと強化されていくが、その過程で、憲法第9条の解釈をめぐって深刻な対立が生じた。
・また、東西冷戦終結後の1990年代以降、わが国を取りまく環境の変化により、憲法第9条の解釈・運用をめぐる問題は、国政上、重要な争点となり、現在に至っている。
*参考:国会図書館/憲法/資料「日本国憲法の誕生」(第5章 帝国議会における審議)
https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/05shiryo.html
1)日本国憲法の公布
憲法公布記念都民大会(昭和21年11月3日)(引用:Wikipedia)
・11月3日、日本国憲法が公布された。同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇・皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。
1.1)日本国憲法 1946年11月3日
・1946(昭和21)年6月25日に帝国議会に上程された憲法改正案は、4か月にわたる両議院の審議を経て、10月6日、衆議院において最終的に可決された。その後、枢密院に再諮詢され、同月29日、可決、上奏裁可を経て、11月3日、「日本国憲法」として公布された。
・入江文書中のこの官報の表紙には、吉田、金森、芦田らの自筆署名がある。おそらく、憲法公布の記念とするために、入江が主要な関係者から署名を集めたものであろう。
(引用:国立国会図書館HP)
1.2)日本国憲法成立をめぐって
・日本国憲法の成立をめぐり、内外の関係者は、様々な感想を抱いた。
・吉田茂首相は、帝国憲法改正案の貴族院可決の直前、岳父である牧野伸顕への書簡で、新憲法は、種々難点があるが、現状では一応満足するほかなく、また一応けりをつけておいたほうが内外の状勢上よいとの真情を吐露した。
・衆議院帝国憲法改正案委員会委員長を務めた芦田均は、憲法公布の翌日にあたる1946(昭和21)年11月4日午前6時45分から15分間、日本放送協会のラジオ放送で「新憲法」と題する講演を行った。掲載の資料(「新憲法」のリンク先参照)は、芦田自筆のラジオ原稿である。この放送で芦田は、明治憲法下での軍閥・官憲による自由・人権の抑圧を振り返り、新しい憲法の必要性を説いた後、「新憲法」の特色を
1)象徴天皇制/2)戦争の放棄/3)国民の権利の大幅な保障/4)民主主義
の四点で説明した。
・最高司令官政治顧問と対日理事会の米国代表を兼務していたジョージ・アチソンは、日本国憲法公布にあたり、対日理事会の米英中各国代表らが発表した声明を国務省に報告している。これらの声明は、いずれも新憲法の成立を肯定的に評価する内容であった。
1.3)新憲法の公布日をめぐる議論
・1946(昭和21)年10月29日の閣議で、日本国憲法の公布日をいつにするかが検討され、まず施行日を翌年5月3日に設定し、その日から逆算して11月3日を公布日とすることに決定した。
11月3日は明治天皇の誕生日(明治節)にあたるため、GHQ側の反応について閣内には一抹の不安もあったが、この決定に対してGHQから特に異議は出されなかった。 しかし、閣議での決定前に、GHQ民政局の内部には、公布日として相応しくない旨を日本国政府に非公式に助言すべきであるとの意見もあった。
・また、対日理事会の中華民国代表も、10月25日、アチソン対日理事会議長に書簡を送り、明治時代に日本が近隣諸国に対して2回の戦争を行ったことを挙げ、民主的な日本の基礎となる新憲法の公布を祝うため、より相応しい日を選ぶよう日本政府を説得すべきであると主張した。しかし、アチソンは、10月31日の返信で、11月3日が公布日とされたことに特に意味はなく、日本政府の決定に介入することは望ましくないと書き送った。当時法制局長官であった入江俊郎は後にこの間の経緯について記している。
1.4)貴族院議場で「日本国憲法公布記念式典」挙行 1946年11月3日
・後年、参議院事務総長となる近藤英明は、貴族院の書記官として、貴族院議場で行われた式典の運営に携わった。
・綴りには式次第、勅語奉答文案など式典に関する様々な資料が残されている。また、日本国憲法公布記念祝賀都民大会実行委員長・桑原信助(東京都議会議長)から近藤宛に送付された「記念祝賀都民大会」の招待状の裏面には東京都交通局発行の日本国憲法公布記念電車往復乗車券の貼り込みが見られる。
(参考)『日本国憲法公布記念式典において賜わった勅語』(常用漢字・現代仮名遣い版)
1946年11月3日詔勅
「本日、日本国憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定されたものである。即ち、日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。
朕は、国民と共に、全力をあげ、相携えて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う。」
1.5)総選挙の実施に関する吉田・マッカーサー書簡
・総選挙の実施に関するマッカーサーと吉田の往復書簡。1947(昭和22)年2月6日付け吉田宛書簡で、マッカーサーは、日本国憲法の施行に向け、新たな国会を組織するための総選挙の実施を求めた。
・それに対して吉田は、2月10日付けマッカーサー宛書簡で、この総選挙が、新憲法のもとで日本が新たな歴史に踏み出す第一歩になるとの認識を示し、早期の実施を約束している。
・この時期は、2月1日に計画されていたゼネラル・ストライキがマッカーサーの指令によって中止させられるなど、国内情勢が極めて不安定化していた。
・マッカーサーは、労働攻勢の高まりを総選挙の実施によって解消させ、ゼネスト寸前にまで追い込まれた吉田の政治責任を国民の審判に委ねようと考えていたと思われる。
2)日本国憲法の施行と第1回国会の開会
・昭和22年5月3日、「日本国憲法」が施行された。当日は皇居前広場で記念式典が開かれ、各地で記念講演会等が催された。また、新たに憲法を施行するに際して必要な法律の制定、改正が行われた。たとえば、新しい皇室典範が法律として制定され、国会法、内閣法、裁判所法、地方自治法などが新たに制定され、刑法、民法などの規定も憲法の内容に合わせて改正された。
・一方、「日本国憲法」下における初の国会を組織するため、昭和22年4月25日に第23回衆議院総選挙が行われた(第1回参議院通常選挙は4月20日実施)。その結果、いずれの政党も過半数の議席を得ることができず、5月20日、第1回国会(特別会)の召集日をむかえた。5月24日、吉田内閣にかわり社会党委員長片山哲を首班とする内閣が成立。6月23日に、参議院議場において第1回国会の開会式が行われた。
2.1)新憲法施行に際しての吉田・マッカーサー書簡
・新憲法施行の前日に、それまで事前申請による許可制であった国旗の掲揚について、マッカーサーと吉田首相との間で交わされた往復書簡。
・マッカーサーは吉田に、新憲法の施行に伴い、民主的自由の確立を記念して、三権の代表である国会、最高裁判所、首相官邸及び国民統合の象徴としての天皇の住居である皇居の屋内外での国旗掲揚を認めると伝えた。
・返信の中で、吉田は国旗掲揚の許可について謝意を表し、マッカーサーの表現を引用しながら、新憲法の施行は、新しい恒久平和の時代の門出を意味するものであり、この歴史的機会に国旗掲揚が認められたことは、真に民主的で平和な国民になっていくための一層の努力へと日本国民を鼓舞するものになるであろうと答えている。
2.2)憲法普及会「新憲法施行記念祝賀会プログラム」 1947年5月3日
・帝国劇場で行われた祝賀会では、芦田均憲法普及会会長の開会の辞に続き、東宝交響楽団「祝典交響曲(へ長調)」、諏訪根自子のヴァイオリン独奏、6代目尾上菊五郎による「娘道成寺」の上演等が行われた。
・憲法普及会の『事業概要報告書』によれば、招待者は各皇族、衆・参両院議員、官庁、学校の代表者、連合軍各国代表などで、豪華なプログラムであったこと、会場所有者である東宝株式会社が営利を度外視して、短時日のうちに準備を完了したこと等が記録されている。
・また会場には外国人賓客のために生花、書画が展示され、休憩時間には表千家による茶もふるまわれた。
2.3)第1回国会開会式 1947年6月23日
・新憲法下、最初の国会開会式運営に関する事務局の記録類。当時の首相は社会党の片山哲であった。勅語は「本日、第一回国会の開会式に臨み、全国民を代表する諸君と一堂に会することは、わたくしの深く喜びとするところである。」で始まり、天皇はそれまでの「朕」に代わって自らを「わたくし」と呼称している。参観席は712名分設けられたが、うち180名分は、連合軍関係者で占められた。
3)憲法普及会の活動(その1)
・なお、「日本国憲法」が公布されて、約1か月後の昭和21年12月1日、国民に対して新憲法の精神を普及することを目的として、「憲法普及会」が組織された。
・会長には芦田均が就任し、衆議院、貴族院両院議員のほかに、著名な学者、ジャーナリスト、評論家等が理事として加わった。また同会には、中央組織の下に各都道府県に支部がつくられたが、大半の支部長には都道府県知事が就任し、事務所も都道府県庁内におかれるなど、半官半民の組織であった。
・「憲法普及会」は、GHQの指導のもと様々なかたちで啓蒙普及活動を展開した。具体的には、法学者らを講師にした中央・地方の中堅公務員に対する研修や、全国各地の住民を対象とした講演会の開催、憲法の解説書の刊行や懸賞論文の募集、また憲法の成立過程をあつかった映画の製作や「憲法音頭」等の歌を通じた啓蒙活動などである。
・とりわけ全国民への憲法の普及を目的として、1947年に刊行された『新しい憲法 明るい生活』と題する小冊子は、2千万部が全国の各世帯に配布された。
3.1)憲法普及会の活動(その2)
・昭和21年12月1日、「新憲法の精神を普及徹底し、これを国民生活の実際に浸透するよう啓発運動を行うこと」を目的として憲法普及会が設立され、憲法公布後1年間にわたり、利用可能なメディアのほとんどすべてを動員した活動が展開された。設立の背景には、日本政府が自ら普及活動を行うことが対外的に重要と考えたGHQの強力な指導があったといわれる。
・同会は設立後、直ちに普及活動に着手し、まず活動の中核を担う公務員の養成を目的に、翌年2月15日から4日間、東京大学の安田講堂で特別講習会を開催したが、その時の講義録が『新憲法講話』である。『新憲法講話』が、普及活動を行う人を養成する際の教科書という性格が強かったのに対し、『新しい憲法明るい生活』は、直接国民への普及を図るために刊行され、全国の各家庭に配布された。『事業概要報告書』によると、『新憲法講話』は5万部、『新しい憲法明るい生活』は2,000万部発行された。
3.2)千葉県教育会「新憲法の解説」
・新憲法公布に伴い国民向けに数多くの解説書が出された。当時、憲法普及会が各都道府県に支部を設置したほか、地方レベルでも新憲法普及の動きが盛り上がりを見せていた。
・この資料はその一例であり、千葉県の教育団体が出版した新憲法解説書である。司法大臣である木村篤太郎が序文を寄せている。
3.3)ハッシー、GS局長宛文書(憲法普及事業について)
・GHQ民政局でGHQ草案作成に重要な役割を果たしたアルフレッド・ハッシーが民間情報教育局と共同で行った新憲法普及活動の中間報告。
・民政局の要請をもとに、1947(昭和22)年1月上旬、民間情報教育局が日本国民に向けて憲法の全文を発行したことや、その後の活動として、マスメディアとの座談会を開催すること、日本側の憲法普及会(芦田均会長)とも密接な関係を保っていることが報告された。
・ハッシーは、天皇の地位の変化については、言及しないほうが賢明であると指摘した上で、これら普及事業において重視すべき点は、新憲法が、日本国民が自らの将来を決めることのできる道具であるということを常に強調することであると論じた。
3.4)児童・青少年向けの新憲法解説資料
・新憲法の理想の実現をめざす教育は、1947(昭和22)年3月制定の教育基本法でも明記され、児童・青少年向けにやさしい文体と挿絵で新憲法の理念を説いた図書が多数出版された。
・憲法普及会副会長の金森徳次郎や、同会理事で憲法学者の宮沢俊義も子供向け図書を著した。また、新教育振興会著『子供のけんぽう』は憲法普及会の推薦図書にもなった。一方、文部省も中・高校生向け社会科教科書『民主主義』を刊行し、わかりやすく平易な文体で、新憲法の根本理念である民主主義について説いている。
3.5)「日本国憲法解説並付図」
・新憲法の基本理念をわかりやすく伝えるために作られた色刷りの解説図。美しい色彩とユーモラスな絵柄で「国民の権利及び義務」「個人的人格権」「国民の平等性」などの各テーマを表現している。憲法普及会の推薦図書にもなった。
4)日本国憲法の再検討
・憲法改正をめぐってマッカーサーと対立した極東委員会は、帝国議会における「日本国憲法」審議の進展という既成事実を前にして、これを承認せざるを得なかった。しかしその承認の条件には、施行後に憲法を再検討するという了解があった。
・極東委員会は、昭和21年10月17日、オーストラリア、ニュージーランド各代表の提案に基づいて、「施行後1年を経て2年以内に新憲法を再検討する」政策を決定した。この決定はすぐに公表されなかったが、マッカーサーは、翌昭和22年1月になって吉田首相宛の書簡でこれを伝えた。
・翌年、政府や国会内で憲法再検討の動きが見られたが、これに対する国内の反応は、一部の識者を除いて総じて鈍く、結局、憲法の再検討は行われないまま、昭和24年5月、極東委員会は憲法改正の要求を断念した。
4.1)新憲法の再検討をめぐる極東委員会の動き
・昭和21年10月17日の極東委員会第30回会議において全会一致で承認された「新憲法の再検討に関する規定」(FEC-031/41)と、それを米国政府に伝える極東委員会事務局長の書簡、及び同封の議事録抄録。上記会議は、極東委員会の政策として、「憲法発効後、1年を経て2年以内に」、国会と極東委員会が新憲法を再検討することを決定した。
・議事録抜粋には、「憲法再検討」決定について、日本国民への公表の時期と方法をめぐる意見交換がみられる。その結果、憲法公布より早い時期には決定を公表すべきでないとの見解を持っていた米国代表の主張が通り、実際に極東委員会の決定が公表されたのは、翌年3月20日のことであった。
・マッカーサーは、昭和22年1月3日付け吉田首相宛書簡で、連合国は、必要であれば憲法の改正も含め、憲法を国会と日本国民の再検討に委ねる決定をした旨通知している。これに対する吉田の返信(同月6日付)は、「手紙拝受、内容を心に留めました」というだけの短いものであった。
5)占領下における日本国憲法の効力
・日本国憲法が昭和22年5月3日施行されたものの、日本が独立を回復する昭和27年4月28日まで、占領下であったことから完全な効力を有していなかった。
・最高裁は、昭和28年4月8日の大法廷判決において、日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれているとして、連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあったと判断している。
・そして、いわゆるポツダム命令の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、昭和27年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効により、日本に対する占領が終了したときということができる。
・さらに、主権回復時に米軍の占領下にあった地域(すなわち奄美、小笠原、沖縄)について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還のときすなわち奄美(昭和28年12月25日)、小笠原(昭和43年6月26日)、沖縄(昭和47年5月15日)となった。
・そして、日本政府が実効支配していない、北方領土及び竹島については、憲法の効力は未だ完全に及んでいないことはいうまでもない。
6)憲法改正に伴う諸般の法制の整備
6.1)臨時法制調査会
・吉田内閣は、1946(昭和21)年7月3日、憲法改正に伴う諸般の法制の整備に関して調査審議する諮問機関として、臨時法制調査会を設置した。会長には吉田茂首相、副会長には金森徳次郎国務大臣が就任し、委員は官庁、学界などから選任された。
・同月11日の第1回総会では、第一部会(皇室及び内閣関係)、第二部会(議会関係)、第三部会(司法関係)及び第四部会(財政関係及び其の他)が設置され、各部会に小委員会が設けられた。各部会・小委員会で各法案要綱の調査審議を進め、8月21日、22日の第2回総会で中間報告を行った。さらに中間報告に検討を加え、10月22日~24日の第3回総会での議決を受けて、10月26日付けで答申された。この答申で示された法案要綱は、皇室典範改正法案要綱、国会法案要綱、裁判所法案要綱など19件であった。
・これら主要な法律は、翌年5月3日の新憲法の施行以前に成立させるため、司法省など関係省庁が立案を急ぎ、GHQ側との協議を重ねた。しかし、民法、民事訴訟法、刑事訴訟法の改正は新憲法の施行に間に合わず、それぞれ応急的措置法により新憲法の制定趣旨に反しないように修正が加えられた。
6.2)GSメモ・憲法施行に際しての法令整備について
・GHQ民政局立法課が作成した、新憲法施行に伴う必要な諸法の整備状況をまとめた覚書。1947(昭和22)年2月28日現在で民政局が受理した法案、受理していない法案、内閣が次期国会に提出する法案に分けられている。
・各法案は、関係省庁ごとにまとめて分類され、GHQが受理した日付やGHQ側の担当官名が明記され、現状が整理されている。この覚書からは、憲法施行に伴う諸法制の整備に関して、日本政府に勧告を行うGHQ内部の体制が整えられていたことがわかる。
6.3)大逆罪・不敬罪の廃止
・新憲法の成立に伴う刑法改正に際して、不敬罪、大逆罪の廃止をめぐる、日本政府とGHQの一連のやりとりを示した資料である。1946(昭和21)年12月20日、ホイットニー民政局長は、木村篤太郎司法大臣に対し、不敬罪、大逆罪に関する規定を定めた刑法第73条から第76条までの条項を削除するよう指示を与えた。
・これを受けて、吉田茂首相は、12月27日付けのマッカーサー宛書簡で、
① 天皇の身体への暴力は国家に対する破壊行為であること、
② 皇位継承に関わる皇族も同様に考えられること、
③ 英国のような君主制の国においても同様の特別規定があること、
を理由に大逆罪の存置を訴えた。
・しかし民政局法務課長のアルフレッド・オプラーは、吉田の書簡の内容について調査を行い、アメリカ大統領及びイギリス国王には日本の大逆罪に該当するような特別規定は存在しない、と結論づけた。
・この調査結果を踏まえ、翌年2月25日、マッカーサーは吉田宛書簡で、吉田のあげた存置理由について一つ一つ反論し、天皇や皇族への法的保護は、国民が受ける保護と同等であり、それ以上の保護を与えることは新憲法の理念に反する、と吉田の訴えを拒絶した。
6.4)国会法の成立
・議院法の改正については、内閣の臨時法制調査会第二部会とは別に衆議院でも検討が開始され、1946(昭和21)年6月18日に衆議院各派交渉会は、議院法規調査委員会の設置を決定し、7月4日に各党派から委員を選任した。
・同委員会は、「新憲法ニ基キ議院法ニ規定スル事項」を検討の素材として、8月中に3回会議を開き、8月30日に国会法案要綱を決定した。GHQは、議院法規調査委員会による検討に直接関与しなかったが、8月にジャスティン・ウィリアムズが立法課長(のちに国会課長)となり、GHQ民政局内部で国会改革に関する検討が本格化した。
・第90回帝国議会の終了した10月12日以降、衆議院の議院法規調査会は法案の起草を急ぎ、同月22日衆議院議長は内閣に対し第91回帝国議会に議院法を全文改正する国会法案を衆議院から提出することを通知した。10月末に第1次案完成、GHQに送付して以降、最終案となった第5次案までウィリアムズとの間で折衝がなされた。
・同法案は、第91回帝国議会で、12月17日に各派共同提案として衆議院に提出され21日に可決されたが、貴族院では審議未了のまま閉会となり、翌年の第92回帝国議会に再提出され、貴族院での修正を経て3月19日に議会を通過、4月30日公布、新憲法と同じ5月3日から施行された。
(追記:2020.10.18)
(1)教育改革の概要 (2)占領下の教育改革(第1段階)(3)占領下の教育改革(第2段階)(4)教育勅語の廃止取扱い(GHQ教育改革の最終段階) (5)新教育制度の具現
1)概要
・戦争末期の学校教育は停止されるかまたは実質的にはその機能を失っていた。学生・生徒は軍需生産、食糧増産、防空防衛などもっぱら戦争に必要な労務と教育訓練に動員され、都市の子どもは校舎の焼失や空襲を避難するため「学童疎開」をさせられていた。このような状態で終戦を迎えた文部省はただちに教育の戦時体制を解除してこれを平時の状態にもどすことに着手した。
・しかしながら、昭和20年8月15日、敗戦を契機としてわが国の国政全般はGHQの占領のもとにおかれることとなり、戦後のわが国の教育もこの占領という厳しい条件のもと、敗戦の荒廃のなかで大きな改革を迫られることとなった。
・そのため、戦後の教育改革のなかには懲戒的色彩をもつ措置やわが国の文化的風土に即しがたいものがあったことは否定することはできないし、また、新教育の理念と制度の樹立に急にしてこれを裏づける諸条件の整わないまま実施されたため、必要以上の困難と混乱を引き起こしたことも事実であった。
・しかし、戦後の教育改革は、これを近代教育史の発展の流れからみれば必ずしもその方向の大筋を誤ったとみるべきではなく,むしろ近代教育発展を妨げていたわが国独特のいくつかの障害を取り除き、わが国の教育を正常な発展の路線においたものということができる。
・戦後の教育史は、占領下の時期と昭和27年の独立回復以降との二期に大きく分けることができる。そして教育改革はこの第一期の占領期間においてほぼその基本路線がしかれた。この占領期間の教育改革は二つの段階を経て実現された。
(参考)戦後の教育史
・第1期 占領下の教育改革
第1段階 文部省「新日本建設の教育方針」(昭和20年9月)
GHQ「4大教育指令」(昭和20年10月~)
米国「第1次教育使節団報告書」(昭和21年4月)
文部省「新教育指針」(昭和21年5月)
第2段階 内閣「教育刷新委員会(教育刷新審議会)」(昭和21年8月)
第3段階 教育基本法の制定
・第2期 独立回復後の教育改革(後述)
2)占領下の教育改革(第1段階)
・第1段階においては、一方において教育面における終戦処理と旧体制の清算が精力的に行なわれ、他方において新しい教育の理念の啓発普及が始められるが、まだ本格的な教育改革には手が及んでいない。
・しかし、この時期の措置のなかには戦後教育史上忘れることのできない重要なものがある。すなわち、昭和20年9月文部省の「新日本建設の教育方針」、同年10月から12月にわたるGHQの「日本教育制度に対する管理政策」以下4つの指令(※) 、翌昭和21年4月の「第1次米国教育使節団報告書」及び5月の文部省の「新教育指針」の発表とこれらに基づく諸施策である。
※占領軍四大指令
① 日本教育制度に対する管理政策(日本の教育制度の管理についての指令)
連合国軍最高司令部より終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府に対する覚書(昭和20年10月22日)
② 教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件(教育関係者の資格についての指令)
連合国軍最高司令官総司令部(昭和20年10月30日)
③ 国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件
(国家神道についての指令)連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第3号(民間情報教育部)
終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府に対する覚書(昭和20年12月15日)
④ 修身、日本歴史及び地理停止に関する件(修身科・国史科・地理科の中止についての指令)
連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発8、民間情報教育部より終戦聯絡中央事務局経由日本帝国政府あて覚書 (昭和20年12月31日)
3)占領下の教育改革(第2段階)
・第2段階は、昭和21年8月内閣に教育刷新委員会(24年以降は教育刷新審議会と改称)が設けられたことに始まり、以後同委員会の審議とその建議をもとにして新教育制度の基礎となる重要な法律が相次いで制定・実施された。
・すなわち昭和22年4月からいわゆる6・3制は発足し、新しい教育行政制度もしかれるなど、教育改革の骨組みはほぼこの第2段階の時期にできあがったのである。
1)新日本建設の教育方針(昭和20年9月)(1945)
・終戦後、文部省がはじめて戦後教育の基本方針を明らかにしたのは昭和20年9月15日に発表した「新日本建設の教育方針」である。これは占領教育政策の具体的な方針や指令が示される以前の、したがってGHQがなんら関与しなかった日本側の教育方針として注目すべきものである。
1.1)基本方針の要旨
① 新教育の方針:新事態に即応する教育方針の確立について立案中であるが、今後の教育方針としては、国体の護持を基本とし、軍国的思想および施策を払拭し、平和国家の建設を目標に掲げ、国民の教養の向上、科学的思考力のかん養、平和愛好の信念の養成などを教育の重点目標とする。
② 教育の体勢:教育の戦時体制から平時体制への復帰、学校における軍事教育の全廃および戦争直結の研究所等を平和的なものに改変する。
③ 教科書:教科書は新教育方針に即応して根本的に改訂されるが、さしあたり訂正削除す尺き部分を指示する。
④ 教職員に対する措置:教育者は新事態に即応する教育方針を体して教育に当たることが肝要で、教職員の再教育計画を策定中である。
⑤ 学徒に対する措置:学生の学力不足を補うための措置をとる方針である。また一部につき転学・転科を認める方針で具体案を考えている。陸海軍学校の生徒および卒業生で希望する者は文部省所管の学校へ入学させる。
・以上のほか、⑥ 科学教育、⑦ 社会教育、⑧ 青少年団体、⑨ 宗教、⑩ 体育及び⑪ 文部省機構の改革が掲げられた。
1.2)個性の完成を目標
・このような方針と対策をもって、文部省は教育面の終戦処理にあたる一方、新教育の推進を図った。
・10月15・16の両日教員養成諸学校長および地方視学官を中央に招き、続いて各都道府県ごとに国民学校長、青年学校長を対象とする講習会を開催して新教育方針の普及徹底に努めた。
・この中央・地方の講習を通じ、文部省は、新教育は個性の完成を目標とすべきものであり、そのために自由を尊重し、画一的な教育方法を打破し、各学校および教師の自主的・自発的な創意工夫によるべきこと、さらに科学的教養の深い、道義心の強い、品格ある個性の完成を強調している。
1.3)GHQの介入
・この基本方針の中の ①「新教育の方針」のとして、『・・・国体の護持を基本とし・・・』が入っており、終戦後の措置として、特に厳しかったものは軍国主義的、極端な国家主義的な思想及び教育の排除であって、この「国体の護持を基本とし」がGHQ対日占領政策に合致せずとしてGHQの介入を招いた。
・これを端的に示したものは、昭和20年10月22日に出されたGHQの「日本教育制度の管理に関する指令」及びこれに引き続き同年末までに出された3つの教育改革に関する指令である。
2)管理政策と教育行政についてのGHQ指令(GHQ教育改革の第1段階)
・先に文部省独自の立場で発表した「新日本建設の教育方針」とこの4大指令を比べるとき、占領政策がいかに我が国の軍国主義的および極端な国家主義的な思想と教育の払拭に徹底していたかがうかがえる。
・この4つの指令は、軍国主義的、極端な国家主義的な思想と教育に直接、間接にかかわりのある教育者、科目、教科書、教材その他刊行物、施設、設備、行事等の一切を学校教育の場から排除したもので、占領政策の厳しさを示すとともに新しい教育の発足のための地盤の荒ごなしとなったのである。
2.1)第1指令:「日本教育制度の管理に関する指令」(昭和20年10月22日)
・第1指令は、教育内容、教育関係者および教科目・教材に関する3事項からなっている。
〔教育内容〕
① 軍国主義および極端な国家主義的思想の普及を禁止し、軍事教育の学科および教練を廃止すること、
② 議会政治、国際平和、個人の権威、集会・言論・信教の自由等基本的人権の思想と合致する考え方を教えおよびその実践を確立するよう奨励すること。
〔 教育関係者〕
① 職業軍人、軍国主義者、極端な国家主義者および占領政策に積極的に反対する者は罷免すること
② 自由主義および反軍国主義的な思想、活動のため解職されたものはその資格を復活させ、かつ優先的に復職させること。
〔教科目・教材〕
① 現在の教科目、教科書、教師用参考書および教材の一時的使用は認めるが、軍国主義、極端な国家主義的な部分は削除すること、
② 教育があり、平和的で責任を重んずる公民の育成を目ざす教科目、教科書、教師用参考書および教材をすみやかに用意すること、
③ 教育制度はすみやかに再建するべきであるが、設備等不十分な場合には初等教育および教員養成を優先させること。
・以上、この指令に示された教職員の適格審査と追放及び教育内容の削除改訂は、当時のわが国教育界に対するきわめてきびしい命令であったが、さらにこれを厳格に実施させるために次に述べる第2から第4までの指令が発せられた。
〇 実施状況
・第1指令は、いわゆる教職追放である。第1および第2の指令をうけて昭和21年5月その実施に必要な法令が整備され、教職の適格審査が本格的に開始された。
・不適格者の排除は、審査会の審査によって判定される者と審査によらず一定の基準・条件に該当するものとして自動的に排除される者との2種類の方式がとられた。
・かくて審査は進められ、昭和22年10月末までに約65万人が審査され、うち2,623人が不適格者と判定され、他に2,717人が審査によらず不適格該当者として自動的に排除された。
・なお、適格審査を受けることを潔しとせず自ら教育界を去った者も少なくなかった。
(参考)日本教育制度に対する管理政策 (昭和二十年十月二十二目)
(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)
一 日本新内閣二対シ教育二関スル占領ノ目的及政策ヲ充分二理解セシムル聯合国軍最高司令官総司令部ハ茲二左ノ指令ヲ発スル
A 教育内容ハ左ノ政策二基キ批判的二検討、改訂、管理セラルベキコト
(1) 軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及ビ教練ハ凡テ廃止スルコト
(2) 議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会、言論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想二合致スル諸概念ノ教授及実践ノ確立ヲ奨励スルコト
B アラユル教育機関ノ関係老ハ左ノ方針二基キ取調ベラレ、ソノ結果二従ヒ夫々留任、退職、復職、任命、再教育又ハ転職セラルベキコト
(1) 教師及ビ教育関係官公吏ハ出来得ル限リ迅速二取調ベラルベキコト、アラユル職業軍人乃至軍国主義、極端ナル国家主義ノ積極的ナル鼓吹老及ビ占領政策二対シテ積極的二反対スル人々ハ罷免セラルベキコト
(2) 自由主義的或ハ反軍的言論乃至行動ノ為解職又ハ休職トナリ或ハ辞職ヲ強要セラレタル教師及ビ教育関係官公吏ハ其ノ資格ヲ直二復活セシメラルベキコトヲ公表シ、且ツ彼等ガ適当ナル資格ヲ有スル場合ハ優先的二之ヲ復職セシムルコト
(3) 人種、国籍、信教、政見又ハ杜会的地位ヲ理由トスル学生、教師、教育関係官公吏二対スル差別待遇ヲ禁止スル、而シテ絞上ノ差別待遇ヨリ生ジタル不公平ハ直二是正セラルベキコト
(4) 学生、教師、教育関係官公吏ハ教授内容ヲ批判的理智的二評価スルコトヲ奨励セラルベク、マタ政治的、公民的、宗教的自由ヲ含ム各般ノ事項ノ自由討議ヲ許容セラルベキコト
(5) 学生、教師、教育関係官公吏及ビ一般民衆ハ連合軍占領ノ目的及ビ政策、議会政治ノ理論及実践二就テ知ラシメラルベキコト マタ軍国主義的指導者、ソノ積極的協力者ノ演ジタル役割並ニソノ消極的黙認ニヨリ日本国民ヲ戦争ニ陥レ、不可避的ナル敗北卜困窮卜現在ノ悲惨ナル状態トヲ結果セシメタル者ノ演ジタル役割ヲ知ラシメラルベキコト
C 教育過程二於ケル技術的内容ハ左ノ政策二基キ批判的二検討、改訂、管理セラルベキコト
(1) 急迫セル現情二鑑ミ一時的二其ノ使用ヲ許サレテヰル現行ノ教課目、教科書、教授指導書ソノ他ノ教材ハ出来得ル限リ速カニ検討セラルベキデアリ、軍国主義的乃至極端ナル国家主義的イデオロギーヲ助長スル目的ヲ以テ作成セラレタル箇所ハ削除セラルベキコト
(2) 教育アル平和的且ツ責任ヲ重ズル公民ノ養成ヲ目指ス新教科目、新教科書、新教師用参考書、新教授用材料ハ出来得ル限リ速カニ準備セラレ現行ノモノト代ヘラルベキコト
(3) 正常二実施セラレツツアル教育体制ハ出来得ル限リ迅速二再建セラルベキデアルガ未ダ設備等不充分ノ場合ハ初等教育及ビ教員養成ヲ優先セシメルコト
二 日本文部省ハ聯合国軍最高司令官総司令部ノ該当部局ト適当ニ連絡シ得ルヤウナ機関ヲ設ケ且之ヲ維持スルコト、而シテ聯合国軍側ノ要求二応ジ本指令各条項二基イテ為サレタル実施事項ノ詳細ナル説明報告ヲ提出スベキコト
三 日本政府ノ官公吏、属僚ニシテ本指令各条項実施二関与スル者並二公立、私立ヲ問ハズ凡テノ教師及学校教職員ハ本指令二明示シアル政策ノ精神並二条文ヲ遵奉スル個人的責任ヲ負フモノトス
(文部大臣官房文書課編『終戦教育事務処理提要』第1集、昭和20年11月、27~29頁)
2.2)第2指令:「教員及び教育関係者の調査、除外、認可」に関する指令」(昭和20年10月30日)
・第1指令中の教育関係者に関する事項の実施についてさらに詳細な内容を示したものである。
〔実施状況〕
・第2指令は、教科目・教科書等に関する第1および第4の指令の実施である。教科書の取り扱いについては、文部省はこれらの指令の発せられる以前にすでに「新日本建設の教育方針」で訂正削除の方針を明らかにし、次いで9月20日には、省略削除または取り扱い上注意すべき教材の規準として、
①国防軍備を強調し、/② 戦意高揚を図り、/③ 国際の和親を妨げ、/④終戦に伴う現実と遊離しまたは児童・生徒の生活体験と離れた教材等
を指摘し、またその具体例を示した。
・修身、日本歴史、地理の授業の即時停止とその教科書の回収を命じた第4指令は、日本側には突然であり、ことに膨大な量の教科書の回収は当時の輸送事情に照らし難事業であった。しかし文部省は、昭和21年1月には指令の実施について通達を発し、これらの授業を即時停止するとともに教科書の回収に努力した。他方、新しい指導計画の作成と新教科書の編集に当たった。
・かくて、地理については昭和21年6月29日、日本歴史については同年10月12日の覚書により、文部省が編集しGHQの認可を経た教科書のみを使用するという条件でこれらの授業の再開が許可された。
・しかし、修身は遂に再開されなかったが、注目されるのは公民科の登場であった。戦後は民主社会における国民育成の観点から文部省においては早くから公民教育を重視し、昭和20年11月には公民教育刷新委員会を設けて審議し、同年12月には公民教育の刷新改善について答申した。
・その内容は公民教育の目標、学校教育における公民教育および社会教育における公民教育の3項からなっているが、特に注目されるのは従来の修身は公民教育と総合し、新しく公民科を確立するべきであるとしている点である。この答申は公表されなかったが、文部省は修身の授業再開の困難な事情から、GHQとの折衝の結果、昭和21年5月「公民教育実施に関する件」を発表して道徳教育の空白を埋めようとした。
・しかし、このための教科または科目もまた時間も特設されず、学校教育全体のなかで公民的生活指導を図るものとされた。したがって教科書は刊行されなかったが同年8月から10月にかけて「公民教師用書」が発行された。
・この公民教師用書で注目されることは、のちに誕生する社会科の性格がすでにかなり鮮明に示されていることである。
・昭和22年新学制の成立とともに「社会科」が新設され、地理、歴史とともに公民教育もこのなかに吸収されることとなった。
(参考)教員及教育関係官の調査、除外、認可に関する件 (昭和二十年十月三十日)
(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)
一 日本ノ教育機構中ヨリ日本民族ノ敗北、戦争犯罪、苦痛、窮乏、現在の悲惨ナル状態ヲ招来セシムルニ至リタル軍国主義的、極端ナル国家主義的諸影響ヲ払拭スル為二、而シテマタ軍事的経験或ハ軍ト密接ナル関係アル教員並二教育関係者ヲ雇傭スルコトニ依テ右思想ノ影響継続ノ可能性ヲ妨止スル為二茲二左記ノ指令ヲ発ス
(イ)軍国主義的思想、過激ナル国家主義的思想ヲ持ツ者トシテ明カニ知ラレテヰル者、聯合国軍日本占領ノ目的及政策二対シテ反対ノ意見ヲ持ツ者トシテ明カニ知ラレテヰル者ニシテ現在日本ノ教育機構中二職ヲ奉ズル者ハ凡テ直二之ヲ解職シ今後日本ノ教育機構ノ中如何ナル職ニモ就カシメザルコト
(ロ)右ノ外ノ者ニシテ日本教育機構中ノ一定ノ職二既二就イテヰル者ハ今後新タナル指令ノアル迄文部大臣ノ裁量ニヨリ現職二留マルコト差支ナシ
(ハ)日本ノ軍二今日猶予アル者或ハ終戦後復員セシ者ニシテ今日日本ノ教育機構中ノ一定ノ職二現二就イテヰナイ者ハ凡テ今後指令アルマデ日本ノ教育機構中ノ如何ナル職ニモ就任セシメザルコト
二 日本ノ教育機構中ノ一定ノ職二現二就イテヰル者或ハ将来就カソトスル者ノ内如何ナル者ガ日本ノ教育機構中ノ如何ナル職ヨリモ解職セラレ阻止セラレマタ禁ゼラルベキカヲ決定スル為二茲二左記ノ指令ヲ発スル
(イ)日本文部省ハ教員並二教育関係官ノアラユル現任者及ビ希望者ヲ有効二調査シ、除外シ或ハ認可スル適切ナル行政機構及措置ヲ設定スルコト
(ロ)日本文部省ハ出来得ル隈リ速カニ本指令条項二準拠シテ実施セラレタル諸措置ノ包括的報告ヲ本司令部二提出スルコト
該報告ハ別二左記特定ノ報告ヲモ含ムベキコト
(ハ)如何ニシテ一個人ガ教員或ハ教育関係官トシテ認容セラルベキカヲ精確二知リ得ル報告、並二一個人ノ留任、解職、任命、再任命ヲ決定スルニ当リテノ原則トナルベキ特定ノ基準表
(ニ)教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ヲ行フ為二如何ナル行政的措置並二機構ガ設定セラルルカヲ明カニスル精確ナル報告
猶控訴セラレタル判決ノ再審査及ビ一度不認可トナリタル個人ノ再調査ヲ為ス場合、如何ナル規定二準拠スルカヲ明カニスル精確ナル報告ヲモ併セ提出スルコト
三 本指令ノ条文ノ適用ヲ受ケル日本政府ノアラユル官吏属僚及ビ官公私立ノ教育関係者ハ本指令ニ明ニサレタル方針ヲ完全忠実ニ守る個人的責任ヲ有スル
(文部大臣官房文書課編『終戦教育事務処理提要』第1集、昭和20年11月、37~39頁)
2.3)第3指令:「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する指令」(昭和20年12月15日)
・これは国家神道・神社神道の思想および信仰が軍国主義的および極端な国家主義的思想を鼓舞し、日本国民を戦争に誘導するために大きく利用されたとの見地から、政府がこれを保護、支援することを禁止し、神道による教育を学校から排除することを指令するものである。
〔実施状況〕
・第3指令の神道に関する指令の実施については、文部省はいち早く昭和20年12月22日に通達を発したが、その内容は、学校における
① 神道の教義の弘布はその方法・様式のいかんを問わず禁止する、
② 神社参拝、神道関係の祭式、儀式等の挙行、その後援を禁止する、
③ 神社、神棚、鳥居、しめなわ等は撤去し、御真影奉安殿、英霊室または郷土室等についても神道的象徴を除去する
こと、などであった。
(参考)「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する指令」
(昭和20年12月15日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)
一 国家指定ノ宗教乃至祭式ニ対スル信仰或ハ信仰告白ノ(直接的或ハ間接的)強制ヨリ日本国民ヲ解放スル為ニ戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及ビ現在ノ悲惨ナル状態ヲ招来セル「イデオロギー」ニ対スル強制的財政援助ヨリ生ズル日本国民ノ経済的負担ヲ取り除ク為ニ神道ノ教理並ニ信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ誘導スルタメニ意図サレタ軍国主義的並ニ過激ナル国家主義的宣伝ニ利用スルガ如キコトノ再ビ起ルコトヲ妨止スル為ニ再教育ニ依ッテ国民生活ヲ更新シ永久ノ平和及民主主義ノ理想ニ基礎ヲ置ク新日本建設ヲ実現セシムル計画ニ対シテ日本国民ヲ援助スル為ニ茲ニ左ノ指令ヲ発ス
(イ)日本政府、都道府県庁、市町村或ハ官公吏、属官、雇員等ニシテ公的資格ニ於テ神道ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ヲナスコトヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル
(ロ)神道及神杜ニ対スル公ノ財源ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル
(1)公地或ハ公園ニ設置セラレタル神社ニ対シテ公ノ財源ヨリノ如何ナル種類ノ財政的援助モ許サレズ但シコノ禁止命令ハカカル神社ノ設置セラレ居ル地域ニ対シテ日本政府、都道府県庁、市町村ガ援助ヲ継続スルコトヲ妨ゲルモノト解釈セラルベキデハナイ
(2)従来部分的ニ或ハ全面的ニ公ノ財源ニヨツテ維持セラレテヰタアラユル神道ノ神社ヲ個人トシテ財政的ニ援助スルコトハ許サレル但シカカル個人的援助ハ全ク自発的ナルコトヲ条件トシ絶対ニ強制的或ハ不本意ノ寄附ヨリナル援助デアツテハナラナイ
(ハ)神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ礼式ニ於テ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ノ如何ナル宣伝、弘布モ之ヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル神道ニ限ラズ他ノ如何ナル宗教、信仰、宗派、信条或ハ哲学ニ於テモ叙上ノ「イデオロギー」ノ宣伝、弘布ハ勿論之ヲ禁止シカカル行為ノ却刻ノ停止ヲ命ズル
(ニ)伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト
(ホ)内務省ノ神祇院ハ之ヲ廃止スルコト而シテ政府ノ他ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ツテ維持セラレル如何ナル機関モ神祇院ノ現在ノ機能、任務、行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ
(ヘ)アラユル公ノ教育機関ニシテソノ主要ナル機能ガ神道ノ調査研究及ビ弘布ニアルカ或ハ神官ノ養成ニアルモノハ之ヲ廃止シソノ物的所有物ハ他ニ転用スルコト而シテ政府ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ッテ維持セラルル如何ナル機関モカカル教育機関ノ現在ノ機能又ハ任務ノ行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ
(ト)神道ノ調査研究並ニ弘布ヲ目的トスル或ハ神官養成ヲ目的トスル私立ノ教育機関ハ之ヲ認メル但シ政府ト特殊ノ関係ナキ他ノ私立教育機関ト同様ナル監督制限ノモトニアル同様ナル特典ヲ与ヘラレテ経営セラルベキコト併シ如何ナル場合ト雖モ公ノ財源ヨリ支援ヲ受クベカラザルコト、マタ如何ナル場合ト雖モ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ヲ宣伝、弘布スベカラザルコト
(チ)全面的ニ或ハ部分的ニ公ノ財源ニ依テ維持セラレル如何ナル教育機関ニ於テモ神道ノ教義ノ弘布ハソノ方法様式ヲ問ハズ禁止セラルベキコト、而シテカカル行為ハ即刻停止セラルベキコト
(1)全面的ニ或ハ部分的ニ公ノ財源ニ依ツテ維持セラレ居ル凡テノ教育機関ニ於テ現ニ使用セラレ居ル凡テノ教師用参考書並ニ教科書ハ之ヲ検閲シソノ中ヨリ凡テノ神道教義ヲ削除スルコト
今後カカル教育機関ニ於テ使用スル為ニ出版セラルベキ如何ナル教師用参考書、如何ナル教科書ニモ神道教義ヲ含マシメザルコト
(2)全面的ニ或ハ部分的ニ公ノ財源ニ依テ維持セラレル如何ナル教育機関モ神道神社参拝乃至神道ニ関連セル祭式、慣例或ハ儀式ヲ行ヒ或ハソノ後援ヲナサザルコト
(リ)「国体の本義」、「臣民の道」乃至同種類ノ官発行ノ書籍論評、評釈乃至神道ニ関スル訓令等ノ頒布ハ之ヲ禁止スル
(ヌ)公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル
(ル)全面的乃至部分的ニ公ノ財源ニ依ツテ維持セラレル役所、学校、機関、協会乃至建造物中ニ神棚ソノ他国家神道ノ物的象徴トナル凡テノモノヲ設置スルコトヲ禁止スル、而シテ之等ノモノヲ直ニ除去スルコトヲ命令スル
(ヲ)官公吏、属官、雇員、学生、一般ノ国民乃至日本国在住者ガ国家神道ソノ他如何ナル宗教ヲ問ハズ之ヲ信仰セヌ故ニ或ハ之ガ信仰告白ヲナサヌガ故ニ或ハカカル特定ノ宗教ノ慣例、祭式、儀式、礼式ニ参列セヌガ故ニ彼等ヲ差別待遇セザルコト
(ワ)日本政府、都道府県庁、市町村ノ官公吏ハソノ公ノ資格ニ於テ新任ノ奉告ヲナス為ニ或ハ政治ノ現状ヲ奉告スル為ニ或ハ政府乃至役所ノ代表トシテ神道ノ如何ナル儀式或ハ礼式タルヲ問ハズ之ニ参列スル為ニ如何ナル神社ニモ参拝セザルコト
二
(イ)本指令ノ目的ハ宗教ヲ国家ヨリ分離スルニアル、マタ宗教ヲ政治的目的ニ誤用スルコトヲ妨止シ、正確ニ同ジ機会ト保護ヲ与ヘラレル権利ヲ有スルアラユル宗教、信仰、信条ヲ正確ニ同ジ法的根拠ノ上ニ立タシメルニアル、本指令ハ啻ニ神道ニ対シテノミナラズアラユル宗教、信仰、宗派、信条乃至哲学ノ信奉者ニ対シテモ政府ト特殊ノ関係ヲ持ツコトヲ禁ジマタ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ノ宣伝、弘布ヲ禁ズルモノデアル
(ロ)本指令ノ各条項ハ同ジ効力ヲ以テ神道ニ関連スルアラユル祭式、慣例、儀式、礼式、信仰、教ヘ、神話、伝説、哲学、神社、物的象徴ニ適用サレルモノデアル
(ハ)本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル
(ニ)宗派神道或ハ教派神道ナル用語ハ一般民間ニ於テモ、法律上ノ解釈ニ依テモ又日本政府ノ法令ニ依テモ宗教トシテ認メラレテ来タ(十三ノ公認宗派ヨリ成ル)神道ノ一派ヲ指スモノデアル
(ホ)連合国軍最高司令官ニ依テ一九四五年十月四日ニ発セラレタル基本的指令即チ「政治的、社会的並ニ宗教的自由束縛ノ解放」ニ依テ日本国民ハ完全ナル宗教的自由ヲ保証セラレタノデアルガ、右指令第一条ノ条項ニ従テ
(1)宗派神道ハ他ノ宗教ト同様ナル保護ヲ享受スルモノデアル
(2)神社神道ハ国家カラ分離セラレ、ソノ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的要素ヲ剥奪セラレタル後ハ若シソノ信奉者ガ望ム場合ニハ一宗教トシテ認メラレルデアラウ、而シテソレガ事実日本人個人ノ宗教ナリ或ハ哲学ナリデアル限りニ於テ他ノ宗教同様ノ保護ヲ許容セラレルデアラウ
(ヘ)本指令中ニ用ヒラレテヰル軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ナル語ハ、日本ノ支配ヲ以下ニ掲グル理由ノモトニ他国民乃至他民族ニ及ボサントスル日本人ノ使命ヲ擁護シ或ハ正当化スル教ヘ、信仰、理論ヲ包含スルモノデアル
(1)日本ノ天皇ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国ノ元首ニ優ルトスル主義
(2)日本ノ国民ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国民ニ優ルトスル主義
(3)日本ノ諸島ハ神ニ起源ヲ発スルガ故ニ或ハ特殊ナル起源ヲ有スルガ故ニ他国ニ優ルトスル主義
(4)ソノ他日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ駆リ出サシメ或ハ他国民ノ論争ノ解決ノ手段トシテ武力ノ行使ヲ謳歌セシメルニ至ラシメルガ如キ主義
三 日本帝国政府ハ一九四六年三月十五日迄ニ本司令部ニ対シテ本指令ノ各条項ニ従ッテ取ラレタル諸措置ヲ詳細ニ記述セル総括的報告ヲ提出スベキモノナルコト
四 日本ノ政府、県庁、市町村ノ凡テノ官公吏、属官、雇員並ニアラユル教師、教育関係職員、国民、日本国内在住者ハ本指令各条項ノ文言並ニソノ精神ヲ遵守スルコトニ対シテ夫々個人的責任ヲ負フベキコト
2.4)第4指令:「修身、日本歴史及び地理の停止に関する指令」(昭和20年12月31日)
・これは指令全体を貫く軍国主義的および極端な国家主義的思想の排除を教育内容において徹底しようとするもので、特に修身、日本歴史および地理のすべての授業をただちに停止し、GHQの許可あるまでは再開しないという内容である。それと同時に3科目の教科書、教師用書の回収、代行教育計画実施案および新教科書の改訂案の提出を指示している。
(参考)修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件 (昭和20年12月31日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官第8号民間情報教育部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府宛覚書)
一 昭和二十年十二月十五日附指令第三号国家神道及ビ教義ニ対スル政府ノ保障ト支援ノ撤廃ニ関スル民間情報教育部ノ基本的指令ニ基キ且日本政府ガ軍国主義的及ビ極端ナ国家主義的観念ヲ或ル種ノ教科書ニ執拗ニ織込ンデ生徒ニ課シカカル観念ヲ生徒ノ頭脳ニ植込マソガ為メニ教育ヲ利用セルニ鑑ミ茲ニ左ノ如キ指令ヲ発スル
(イ)文部省ハ曩ニ官公私立学校ヲ含ム一切ノ教育施設ニ於イテ使用スベキ修身日本歴史及ビ地理ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ発行シ又ハ認可セルモコレラ修身、日本歴史及ビ地理ノ総テノ課程ヲ直チニ中止シ司令部ノ許可アル迄再ビ開始セザルコト
(ロ)文部省ハ修身、日本歴史及ビ地理夫々特定ノ学科ノ教授法ヲ指令スル所ノ一切ノ法令、規則又ハ訓令ヲ直チニ停止スルコト
(ハ)文部省ハ本覚書附則(イ)ニ摘要セル方法ニ依リテ設置スル為メニ(一)(イ)ニ依リ影響ヲ受クベキアラユル課程及ビ教育機関ニ於テ用ヒル一切ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ蒐集スルコト
(ニ)文部省ハ本覚書附則(ロ)ニ摘要セル措置ニ依リテ本覚書ニ依リ影響ヲ受クベキ課程ニ代リテ挿入セラルベキ代行計画案ヲ立テ之ヲ当司令部ニ提出スルコト之等代行計画ハ茲ニ停止セラレタル課程ノ再開ヲ当司令部ガ許可スル迄続イテ実施セラルベキコト
(ホ)文部省ハ本覚書附則(ハ)ニ摘要セル措置ニ依リ修身、日本歴史及ビ地理ニ用フベキ教科書ノ改訂案ヲ立テ当司令部ニ提出スベキコト
二 本指令ノ条項ニ依リ影響ヲ受クベキ日本政府ノ総テノ官吏、下僚、傭員及ビ公私立学校ノ総テノ教職員ハ本指令ノ条項ノ精神並ニ字句ヲ遵守スル責任ヲ自ラ負フベキコト
三 附則略
3)米国教育使節団報告(GHQ教育改革の第2段階)
3.1)使節団報告の意義
・前述の4大教育指令により、戦時教育体制から平常体制への切り替えと軍国主義的および極端な国家主義的な思想および教育の払拭を主眼とする戦後処理の諸措置が、厳しい占領下において急速かつ精力的に行なわれてきた。
・一方やや断片的ではあったが、新しい教育への前進の努力もそれなりに払われていたが、何といっても戦後の教育改革を積極的・包括的に方向づけたものは21年3月来日した米国教育使節団の勧告である。
・使節団の派遣は日本に民主的な教育制度を確立するための具体的方策を求めるため総司令部から米本国に要請したものである。かくて、ジョージ・D・ストッダードを団長とする著名な教育専門家27人から成る使節団は3月初め来日した。
・使節団の来日に先だち総司令部は、日本政府に対して使節団に協力する日本側教育家の委員会(南原繁委員長)を構成することを要請するとともに使節団の研究問題として、
① 日本における民主主義教育
② 日本の再教育の心理的側面
③ 日本の教育制度の行政的再編成
④ 日本の復興における高等教育
の四項目を示した。
・また、総司令部は使節団のために日本の教育の歴史、現状および総司令部の見解を述べた
「日本の教育」をまとめ、その他多くの関係資料を用意した。
・使節団は到着後、連日の会合に日本側委員を加え、また関西地方や実際の教育を視察するなど精カ的に活動し、調査、検討の結果をまとめて3月末総司令部に報告した。これが「第一次米国教育使節団報告書」である。
・総司令部は同年4月7日これを発表するとともに、これに覚書を付し、報告書の趣旨を全面的に承認し、今後の日本の教育改革の路線をここにおく意向を表明した。
・この使節団の来日は、戦後教育の路線設定における第2段階に位置づけ得る出来事だったと言え、先の4大教育指令が我が国のの旧教育の解体指針とすれば、この報告書は戦後教育の新たな「再建指針」と言ってよい。
3.2)第1次米国教育使節団報告書(昭和21年4月)
・第1次米国教育使節団報告書は、「前がき」、「序論」に続いて、
① 日本の教育の目的および内容
② 国語の改革
③ 初等・中等学校の教育行政
④ 教授法と教師の教育
⑤ 成人教育
⑥ 高等教育
の6章から成り、全体として日本の過去の教育の問題点を指摘しつつこれに代わるべき民主的な教育の理念、教育方法、教育制度を明らかにしている。
・民主的な教育の基本は、「個人の価値と尊厳」を認めることであり、教育制度は各人の能力と適性に応じて教育の機会を与えるよう組織すべきであって、教育の内容・方法および教科書の画一化をさけ、教育における教師の自由を認めるべきことを述べている。
・このような基本理念の上に、新しい学校制度として6・3・3制と、特に6・3の義務制とその無月謝、男女共学を勧告している。
・高等教育については必ずしも4年制大学に統一化することは勧告せず、高等教育の門戸開放とその拡大を主張し、また、大学の自治尊重と高等教育へ一般教育を導入することを述べている。
・教員養成については従来の形式的教育を批判し、新たに四年制課程の大学段階の教員養成を勧告している。
・初等・中等教育の教育行政については、中央集権的制度を改め、また内務行政から独立させ、新たに公選による民主的な教育委員会を都道府県、市町村に設け、これに、従来中央行政官庁に属していた人事や教育に関する行政権限を行使させる地方分権的制度の採用を強く勧告している。
・社会教育については、民主主義国家における成人教育の重要性を強調し、PTA(父母と教師の会)、学校開放、図書館その他社会教育施設の役割を重視するとともに成人教育の新しい手段・方法の意義を述べている。
・国語の改革については、教育改革にとって基本的であり、緊急であるとして、漢字の制限、かなの採用、ローマ字の採用の3つを国字改良案としてあげ、国語改革に着手するよう勧告している。
・以上が米国教育使節団報告書のごく概要であるが、短期間に分担執筆されたためか、章により内容に精粗の差があり、また具体的な提案もあれば考え方を述べたものや抽象的表現の勧告もあるなど、全体として必ずしもそのまま改革案に連なるものではないが、しかし、従来のわが国の教育上の問題点を鋭く指摘し、批判し、民主主義、自由主義の立場から教育のあり方についてその考え方を懇切に述べている点において、わが国の教育改革の指針となったものである。
・GHQは、同報告書に覚書を付し、報告書の趣旨を全面的に承認し、今後の日本の教育改革の路線をここにおく意向を表明した。
・第1次教育使節団報告書は、学制の公布に際する『太政官布告』(1872年)、『教育勅語』(1890年)と共に日本の教育の歴史をつくった最も重要な文書の一つに数えられ、大日本帝国を支える大和魂や八紘一宇などの教化のための日本史、修身、地理などの教科を廃止し、これに代わるべき民主的な教育の理念、教育方法、教育制度を明らかにしている。
3.3)第2次米国教育使節団報告書(昭和25年9月)
・第1次使節団にも参加したウィラード・E・ギヴンス団長以下5名の第2次使節団の目的は、第1次使節団の提言がどのように生かされているかとの調査・補足が目的のためのものであり、義務教育の無償化、適当な校舎の供給、小中学校教員の供給の増大等を勧告(第2次米国教育使節団報告書)している。
・この報告書に基づき、戦後の学制改革が実施された。その際、日本側も、多くの著名な知識人・文化人が協力している。
〇 使節団招聘の意図と報告の影響
・マッカーサーが教育使節団を招聘した意図については、一般的に「日本教育の民主化という大事業を遂行するために、GHQと日本側教育関係者に、積極的な助言を与える」ためなどと解説されているが、その真の狙いは「GHQの占領教育政策を追認させ、オーソライズすること」にあったと見るのがむしろ自然だろう。
・また、この報告書の中身に関しても、未だに教育専門家の多くは、使節団の「善意」を強調する。確かに、この報告書には例えば「我々は征服者の精神を持って来朝したのではなく、すべての人間には……測り知れない力がひそんでいることを確信する教育経験者として来朝した」などの実に「理想主義的」とも言うべき言葉が散りばめられている。
・そして具体的勧告の中にも、公選・独立の教育委員会を設けることや、6・3・3制単線型の学校系統に改めることの提案、あるいは9ヵ年を無償の義務教育とすることや、男女共学の採用をすすめるなど、ある意味で「画期的」とも言うべき提案が存在する。
・しかし他方、この報告書は、今後の日本の教育再建の方向は「個人」を出発点とするものでなければならないと述べ、民主主義の生活に適応した教育制度は、「個人の価値と尊厳」を認識し、「個人」のもつ力を最大限にのばすことが基本であることを繰り返し力説してもいる。
・ここで指摘したいのは、彼らの奨励する個人主義が、きわめて能率主義的・合理主義的な発想に基づくものであり、我が国の伝統をほとんど無視したものであったことである。
・例えば、彼らは「言語改革」に関して、漢字の全廃や国語の簡略化、ローマ字の採用を提唱したり、また「服従心を養成する」として修身を否定した。さらに、学校の儀式における教育勅語をはじめ勅語・勅諭の使用停止なども彼らは勧告しているが、こうした点に着目すれば、この報告書が「征服者の精神」と無縁であったとは決して思えない。
・「使節団報告書以前に、4大教育指令というレールが布かれており、使節団はその重要性を理解した上で、報告書を作成した」との指摘は、こうした報告書の性格を示唆するものと言えよう。
・にもかかわらず、この報告書をわが国の教育再建の「バイブル」と意義づけた当時の教育関係者らによって、「個人の価値」を高らかに謳ったこの報告書は「戦後教育の指導理念」に祭り上げられることになったわけである。
4)新教育指針(昭和21年5月)
・米国教育使節団報告書に次いで、わが国の新教育推進に大きな役割を果たしたものは昭和21年5月に文部省が発表した教師のための手引書「新教育指針」である。
・その発行は使節団報告書の発表後であるが、編集は20年秋から企画され、総司令部の指導のもとに幾度も書き改めたもので、表現も平易で常用漢字の範囲内で書かれていることも国語改革と関連して注目される。
・「新教育指針」は2部から成り、第1部は前後2編で、前編は理論を、後編は実際を述べている。
〇第1部・前編は新日本建設の根本問題として、
① 日本の現状と国民の反省、
② 軍国主義および極端な国家主義の除去、
③人間性、人格、個性の尊重、
④ 科学的水準および哲学的・宗教的教養の向上、
⑤ 民主主義の徹底、
⑥ 平和的文化国家の建設と教育者の使命
の6章から成る
〇第1部・後編は新日本教育の重点として、
① 個性尊重の教育、
② 公民教育の振興、
③ 女子教育の向上、
④ 科学的教養の普及、
⑤ 体力の増進、
⑥ 芸能文化の振興、
⑦ 勤労教育の革新
の7章から構成されている。
・各章の末尾には「研究協議題目」がつけられており、教師たちがこれによって討議し、また自分で研究するための資料とされている。
〇第2部・新教育の方法においては、
1)教材の選び方、
2)教材の取り扱い方、
3)討議法
などについて述べている。
〇 基本理念
・全体を貫く基本理念は、個性の完成、人間尊重の教育理念であって、「新教育指針」も米国教育使節団報告書も同一思想の上に立っている。
・「新教育指針」は戦後の新教育のあり方について模索していた当時の教育界に対して文字どおり新教育の指針として大きな役割を果たすとともに、昭和22年から発足する新学制による教育の準備はこのようにして実質的に進められたのである。
1)教育刷新委員会・教育刷新審議会の設置(占領下の教育改革の第2段階)(昭和21年8月)
・米国教育使節団に協力するため設けられた日本側教育家の委員会は、使節団の帰国によってその任務を終了し解散したが、発足当初から、日本の教育改革について文部省に建議すべき常置委員会となるべきことが覚書で示されていた。
・昭和21年8月内閣に教育刷新委員会が設けられたが、これは実質的には前記委員会の改組拡充されたもので、38人の委員中前記委員会の委員であったものが20人含まれている。
・教育刷新委員会は同年9月7日第1回総会を開催した。席上、吉田内閣総理大臣代理の幣原国務大臣は今回の敗戦を招いた原因はせんじ詰めれば教育の誤りにあったと指摘し、明治維新に倍する悪条件下で第2の維新を遂行すべき今日、その根本は教育の刷新であり、本委員会を内閣に設けたのは国政の優先的努力を教育問題に集結するためであると力説した。
・また田中文相は、本委員会成立の由来がGHQの覚書によること、教育の各分野の代表的権威者を網羅していること及び官僚的要素を含んでいないことの3点をその特色としてあげ、委員会の自主的な審議検討を要望した。
・次に、山崎文部次官から「現下教育上緊急に解決を要する諸重要問題」について説明を行ない、1)青年学校、2)義務教育年限、3)教員養成制度、4)教員の待遇、5)教職員の身分保障、6)教育内容、7)国語改革、8)教授方法、9)教育行政、10)教育財政、11)公民教育、12)体育保健、13)科学教育、14)その他の重要事項にわたって根本的検討を加えるべき問題点を明らかにした。
・かくて教育刷新委員会は、敗戦による荒廃と占領下という未曽有の厳しい条件のなかで、新生日本の基盤を築く教育改革の具体案を作り出す重責をになうこととなった。委員会の審議は総会において自由討議を重ねて議題を定めこれを特別委員会に付託し、特別委員会は審議の結果を随時総会に中間報告しその意見を聞いて再び審議し、原案を総会に提出し、その討議によって結論を得るという方法をとり、また時には総会において直接決議に至りあるいは事態に応じて声明を発することもあった。
・自主的審議を建て前とする委員会は文部省および総司令部との連絡調整を図るため、委員会、文部省、GHQおのおの3人の委員で構成する連絡調整委員会を設け定期的に会合して連絡調整の任に当たった。
・委員会は同年12月27日、
① 教育の理念および教育基本法に関すること
② 学制に関すること
③ 私立学校に関すること
④ 教育行政に関すること
の4つの事項を第1回に建議し、以後26年11月「中央教育審議会について」の建議を最終にその任務を終了するまで、特別委員会を設けること21、総会を開催すること142回、建議事項は35件に及んだ。
・これらの建議は、種々の事情による例外は別としてすべて戦後教育改革の基本となる法令に具体化され新教育の基盤を築いたのである。
2)教育基本法の制定(GHQ教育改革の第3段階)(昭和22年3月)
2.1)日本国憲法と教育基本法
・米教育使節団の報告書とともに、戦後教育の「指導理念」とされてきたのが教育基本法であることは今更言うまでもない。昭和22年3月に公布された教育基本法は、「個人の尊厳」などの現行憲法の理念を謳った前文と「教育の目的」などを定めた11の条文からなるが、この基本法の制定は戦後教育の大枠を固めた第3段階の出来事と言えよう。
・戦後の民主的教育体制の確立および教育改革の実現にとって最も基本的な意義をもつものは「日本国憲法」の制定であり、これに続く「教育基本法」の制定である。
・憲法改正の動きは昭和20年の秋以来いろいろの経緯をたどり、遂に21年の第90回帝国議会に「帝国憲法改正案」として提出され、審議の結果一部修正の上可決、「日本国憲法」として11月3日に公布され、翌22年5月3日から施行された。
・旧憲法には教育に関する条項はなかったが、新憲法においては国の基本に関する定めの一つとして教育に関する事項が取り上げられ、これに関する規定が主として第3章の「国民の権利及び義務」の中に含まれたのであって、これらの規定は直接間接に教育に強い関連をもち、かつその後の教育関係立法の基礎となったのである。
・特に第26条は
① すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
と規定し、国民の教育を受ける権利を国民の基本権の一つとして認め、さらに義務教育の根拠を憲法に定めることとなった。
・従来教育に関する国の定めは、天皇大権に属する独立命令たる勅令によることとされてきたが、国民主権の思想に立つ新憲法の制定により、教育に関する定めは憲法の理念およびその規定に基づき法律によって定められることとなった。教育立法の勅令主義から法律主義への大きな転換を画したのである。
2.2)教育基本法の制定経緯
・教育に関する基本的な理念及び諸原則を、法律をもって定めようとする意向は、国会における憲法審議の過程において既に田中文相から表明されており、また、教育刷新委員会の第2回総会においても田中文相から十分説明された。同委員会はこの構想を認めて第1議題として取り上げ、慎重審議の結果、同年12月の第1回建議において「教育基本法」の要綱として建議したのである。
・ここでは、教育基本法の制定経緯を振り返った上で、教育基本法の本質を考える上でのいくつかの基本事項を確認してみたい。
・まず、先の二つの出来事(4大教育指令、米国教育視察団報告書)とは異なり、教育基本法の構想は日本側から発案されている。発案者はクリスチャンとしても知られる当時の田中耕太郎文部大臣であるが、昭和21年6月27日、帝国憲法改正案が審議された第90回帝国議会で、基本法の構想は初めて表明された。
・すなわち、森戸辰男議員が「教権の確立」について、教育勅語は新日本を作っていく教育の根本原理としては不十分ではないかと指摘し、「新しき時代に処する教育の根本方針」の必要を問い質したのに対し、田中文相は「民主主義の時代になったからといって、教育勅語が意義を失ったとか、或は廃止せらるべきものだというような見解は、政府のとらざる所」と述べる一方で、「教育に関する根本法」の立案準備に着手していることを表明したのである。
・この教育基本法構想の表明を受け、その後、文部省が立案作業に当たり、同年9月21日に「教育の目的」を「真理の探究と人格の完成」と定めた要綱案が完成する(最終的に「真理の探究」は削除)。この要綱案は、教育刷新委員会で討議され、いくつかの修正の後、同年12月27日、内閣総理大臣に建議されるに至る。
・一方、こうした日本側の審議と併行して、同年11月から12月にかけて、文部省とGHQ(CIE教育課)との間で週2回のペースで検討会議が行われている。
・この折衝の中で、前文にあった「伝統を尊重し」の文言が削除され、宗教教育についても大きな修正要求があったことは今や周知の事実であろう。
・まず「伝統を尊重し」についてみると、日本側の要綱案の前文には、「普遍的にして、しかも個性ゆたかな伝統を尊重して、しかも創造的な、文化をめざす教育」とあったが、米国側の強い要求により、現行の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」に変えられた。
・「伝統を尊重し」の削除は、その後の閣議でも問題となり、当時の文部省審議課長はGHQ側と折衝するが、日本側の希望は拒否される。
・また、宗教教育に関しては、要綱案には「宗教的情操の涵養は、教育上これを重視しなければならない」とあった。日本人には極めて自然な規定と思われるが、米国側の要求で現行の「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」という、実に曖昧な文言に修正させられる。
・その背景には「宗教的情操」なる言葉の理解に対する日米間の超え難い宗教観のギャップがあったと言われている。
2.3)教育基本法の特性
・おおよそ以上のような経緯を経て、教育基本法は成立したのであるが、その教育基本法の特性は、
① 教育に関する基本的な理念および原則を国民代表によって構成する国会において法律という形式で定めたこと、
② 憲法の理念をふまえて教育の理念を宣言するものとして異例な前文を付していること
③ および今後制定するべき各種の教育法の理念と原則を規定すること
の三点で実質的に教育に関する基本法の性質をもつことである。
・その構成は、前文および11条から成る。前文には、新しい憲法の理念の実現は根本において教育の力に待つべきことおよび「日本国憲法の精神」に則りこの法律を制定したことを述べている。
・第一条教育の目的および第二条教育の方針はすでに「米国教育使節団報告書」、「新教育指針」および教育刷新委員会の建議に示されている新しい教育の基本的な考え方を述べたものである。
・以下第三条教育の機会均等、第四条義務教育、第五条男女共学、第六条学校教育、第七条社会教育、第八条政治教育、第九条宗教教育、第十条教育行政についてそれぞれその考え方と原則を規定し、特に第十一条補則において教育基本法に掲げる以上の原則的諸条項を具体的に実施する場合には別に法令が定められるべきことを規定し、この法律が基本法であることを明らかにしている。
・その後、学校教育法をはじめ多くの教育関係の法律をこれらの条項の具体化のために制定した。
2.4)「伝統」を排除された教育基本法
・前述の制定経緯を踏まえれば、確かに教育基本法は日本側の発案と審議に基づいて成立したものではあるが、最終的に占領軍の介入により、日本の伝統や価値に関わる文言が排除された事実である。また、そもそも教育の目的を「人格の完成」と捉えた点に、基本法の発案者である田中文相個人のカトリック的世界観が色濃く反映していた事実も指摘されている。
・こうした事情により、教育基本法の精神は日本の文化伝統とは無縁の「無国籍的」なものとなったと言えるからである。もちろん、教育基本法は日本人が「自主的」に作ったとみなす教育学界の「通説」が虚構に過ぎないことも明らかだろう。
(参考)教育基本法 昭和二十二年三月三十一日法律第二十五号
朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
第三条(教育の機会均等) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
第四条(義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
第五条(男女共学) 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。
第六条(学校教育) 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
第七条(社会教育) 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によつて教育の目的の実現に努めなければならない。
第八条(政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
第九条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
第十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
第十一条(補則) この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。
附則 この法律は、公布の日から、これを施行する。
(参考)教育基本法制定時の帝国議会における各条文に関する主な答弁
条項 |
質 問 |
答 弁 |
答弁者 |
前 文
第 1 条
教 育 の 目 的 |
教育の基礎として如何なる人間観に拠っているのか。 |
教育基本法に於きまして、先づ人間は人間たるの資格に於て品位を備へて居るものでありまして、何等他のものと替へらるべきものでないと云ふ意味に於て、其の前文に於きまして、「個人の尊重を重んじ、」と謳つて居るのであります。 次に人間の中には無限に発達する可能性が潜んで居ると云ふ考を基礎と致しまして、教育は此の資質を啓発し培養しなければならないのでありまして、之をば第一条に「個人の価値をたつとび、」と申して居るのであります。 第三に、人間は単に個人たるに止まらず、国家及び社会の成員であり、形成者でなければならないと云ふことも亦此の基本法に於ける人間観の基礎として居る所のものであります。 更に人間は真、善、美などの絶対価値の実現を追求するものと致しまして、文化活動の主体であると考へるのであります。 是等を基礎と致しまして、教育が人格の完成を目指さなければならず、普遍的にして而も先程仰せのありました所の日本人として、又個人と致しまして、個性豊かな文化の創造を目指さなければならないとして居るのであります。 |
昭22年3月19日 貴院・本 <高橋国務大臣> |
教育理念を法律の形で規定することの意味は何か。 |
(教育に関する基本方針を国会において法律として定めるのは、)国民の共同意識、謂はば国民の代表者に依つて現されて居りまする所の全国民の納得を基本として、実行上然るべき基準を規律して行かうと云ふことでありまするが故に、先づ大体の見地から申しまして、国の法律として定めると云ふことが、余り程度を越えさへしなければ然るべきことのやうに存じて居ります。 |
昭22年3月19日貴院・本 <金森国務大臣> |
|
一部に於きましては、又国民の可なり大きな部分に於きましては、思想昏迷を来して居りまして、適従する所を知らぬと云ふやうな、状態にあります際に於きまして、法律の形を以て教育の本来の目的其の他を規定致しますることは、極めて必要なことではないかと考へたのであります。 |
<高橋国務大臣答弁>
|
||
よき日本人の育成、祖国観念の涵養といった観点が欠けているのではないか。 |
「個性ゆたかな文化の創造」、此の「個性ゆたか」と云ふことは、博士の御解釈になりますやうに、単なる個人的のものばかりでございませぬので、日本の国民性の十分に現はれた所の文化の創造と云ふ意味に私共は解釈して居るのでございます。 尚此の基本法なるものは、十分に普遍的なものと同時に、日本的なもの、特殊的なものをも求めて進んで行かなければならぬと云ふ精神に基いて出来て居るものと申上げて差支えなからうかと考えて居ります。 |
昭22年3月20日 貴院・委 <高橋国務大臣>
|
|
それで教育の目的の中には色々な徳目、或は掲ぐべき必要なことがあらうと思ひます。 従来我が国の比較的欠陥と言はれて居つた所、或は現在の状態に於ても欠陥と考へられて居る所と云ふやうなものを特に強調致しまして、「勤労と責任を重んずる」、「責任」と云ふ字を特に入れ、又「自主的精神に充ちた」と云ふやうなことを特に強調致しまして、此の我が国の国民として特に教養すべき点を掲記したのでありまして、此の中に有らゆる徳目を掲記すると云ふことは、必ずしも適当でないと思ひますので、それ等に付きましては「人格の完成」と云ふ中に包含してある訳であります |
同上 <辻田政府委員> |
||
奉仕的精神に満ちた国民の養成という観点が欠けているのではないか。 |
此の第一条に掲げてあります国家及び社会の形成者、此の形成者と申しまする文字は、単なるメンバーと云ふだけでなくして、実際の国家及び社会の構成者、ギルダーと云ふやうな意味も含まれて居るものでありまして、尚国家竝に社会に対する奉仕の点は、後にありますやうに「勤労と責任を重んじ」云々と云ふ言葉で十分に現はされて居るのではないかと存ずるのでございます。 |
昭22年3月20日 貴院・委 <高橋国務大臣> |
|
第 2 条
教 育 の 方 針 |
第二条(教育の方針)は意味がよくわからないのではないか。 |
第二条は御話の通り、前段と後段と色々と錯綜したりして居るではないかと云ふやうな御考もあるかと思ひますが、前段の方は謂はば教育の目的を達成致しまする為にはどう云ふやうな方針で進んだら宜いかと云ふことに付きましての形式的な面を謳つたのでありまして、次の「この目的を達成するために」とある「この目的」と申しまするのは、教育の目的と云うことでありまするが、是は此の後段の方は謂はば実質的な方針、内容を示したものであるのでございます。
で、此の前段の方は特に御説明をする要はないかと思ひまするが、後段に付きましては、是は第一条に掲げてありまする教育の到達すべき目標を達成する為には、教育を取扱ふ者、教育に従ふ者は斯う云ふ風な心構へを以てやらなければならないと云うことを謳つて居るのであります。 |
昭和22年3月20日貴・委 <辻田政府委員>
|
第 10 条 教 育 行 政 に つ い て |
「不当な支配」とはどういうものを指すのか。 |
第十条の「不当な支配に服することなく」というのは、これは教育が国民の公正な意思に応じて行はれなければならぬことは当然でありますが、従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的な干渉と申しますか、容啄と申しますかによつて教育の内容が随分ゆがめられたことのある。 (中略)そこでそう云ふふうな単なる官僚とかあるいは一部の政党とかいうふうなことのみでなく、一般に不当な支配に教育が服してはならないのでありましてここでは教育権の独立と申しますか、教権の独立ということについて、その精神を表わしたのであります。 |
昭22年3月14日衆院・委 <辻田政府委員>
|
(参考)教育基本法制定の要旨(昭和22年5月3日文部省訓令第4号)
このたび法律第25号をもつて、教育基本法が公布せられた。さきに、憲法の画期的な改正が断行され、民主的で平和的な国家再建の基礎が確立せられたのであるが、この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
思うに、教育は、真理を尊重し、人格の完成を目標として行われるべきものである。しかるに、従来は、ややもすればこの目標が見失われがちであつた。新日本の建設に当つて、この弊害を除き、新しい教育の理念と基本原則を打ち立てることは、今日当面の急務といわなければならない。
教育基本法は、かかる理念と基本原則を確立するため、国民の総意を表わす議会の協賛を得て制定せられたものである。
即ち、この法律においては、教育が、何よりもまず人格の完成をめざして行われるべきものであることを宣言した。人格の完成とは、個人の価値と尊厳との認識に基き、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめることである。
しかし、このことは、決して国家及び社会への義務と責任を軽視するものではない。教育は、平和的な国家及び社会の形成者として心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
又、あらゆる機会に、あらゆる場所において行われなければならないのである。
次に、この法律は、日本国憲法と関連して教育上の基本原則を明示し、新憲法の精神を徹底するとともに、教育本来の目的の達成を期した。
かくて、この法律によつて、新しい日本の教育の基本は確立せられた。今後のわが国の教育は、この精神に則つて行われるべきものであり、又、教育法令もすべてこれに基いて制定せられなければならない。
この法律の精神に基いて、学校教育法は、画期的な新学制を定め、すでに実施の運びとなつた。
然しながら、この教育基本法を運用し、真にこれを活かすものは、教育者自身の自覚と努力である。教育に当る者は、国民全体に対する深い責任に思いを致し、この法律の精神を体得し、相共に、熱誠を傾けてその使命の達成に遺憾なきを期すべきである。
昭和22年5月3日 文部大臣 高橋誠一郎
1)終戦後の教育勅語の取扱い
・教育基本法の制定をめぐり教育勅語の取扱いが問題となった。終戦処理のために諸々の措置がとられていくなかで、特に軍国主義的・極端な国家主義的な思想と教育の徹底的な払拭が行なわれる一方、新しい民主主義の理念や諸原則は模索の段階で、それまで教育や国民道徳を支えていた理念や価値に動揺をきたしていた。
・このような事態のなかで、たとえば米国教育使節団に協力すべき日本側教育家の委員会のように新しい時代に即応する詔書(新教育勅語)の発布を要望する声もあったが、前田、安倍、田中の各文相は教育勅語の内容については、その意義を認めつつもその取り扱いについては慎重な態度を保持してきた。
・昭和21年の「年頭の詔書」は、天皇の「神格否定」の詔書として一般に受け取られた。また、議会における憲法改正の審議においても、さらに教育刷新委員会の教育基本法構想の審議においても教育勅語の取り扱いが問題とされた。
・そこで文部省は昭和21年10月「勅語及び詔書の取扱について」(通達)を発し、教育勅語をもって我が国教育の唯一の淵源とする従来の考えを去って、これとともに教育の渕源を広く古今東西の倫理、哲学、宗教等に求めること、式日等に教育勅語を拝読する慣例をやめること、その保管や取り扱いに当たって神格化しないことを明らかにし、教育勅語の審議および取り扱いについてのそれまでの議論に終止符が打たれた。
2)教育基本法と教育勅語の併存
・しかしながら、教育基本法の発案者の田中文相が、教育勅語と教育基本法とは矛盾しないと考えていたのも事実である。両者の関係に関するこうした理解は、教育基本法の立案や審議に関わった文部省や教育刷新委員会にも共通する態度であったと言える。
・教育刷新委員会は、CIE教育課の実質的な支配下にあり、そのメンバーの主流は自由主義的知識人であった。そうした人々でさえ、教育基本法と教育勅語は矛盾しないと考えていた事実は、きわめて重要だと思われる。
・一般的に、教育基本法の制定によってわが国の教育は「教育勅語から教育基本法へ歴史的な転換を遂げた」と指摘されてきた。 しかし、教育基本法の制定経緯に関する前記の事実は、こうした「転換」が教育基本法によって「自動的」にもたらさせたわけではないことを物語っていると言えるからである。
・これまで見てきた3つの段階(4大教育指令、米国教育視察団報告書、教育基本法)を経て、「個人の価値」を指導理念とする戦後教育のレールはほぼ敷かれたと言える。
・だが、「個人の価値」が名実共に戦後教育の「唯一」の指導理念となるのは、昭和23年6月19日、衆参両院での教育勅語の排除失効決議によると言わなければならない。つまり、この教育勅語の排除失効決議こそは、戦後教育の基本路線を固めるための「最終段階」にも当たる重大な出来事だったと思われる。
・というのも、先に確認したように、教育基本法の制定に当たった日本側の当事者は、教育基本法と教育勅語との両立を信じていたからである。こうした日本側の教育勅語擁護の態度は、教育基本法制定の過程で一貫して表明されているが、当時の状況を杉原氏は次のように説明する。
・「教育基本法案を審議した教育刷新委員会でもそのことは確認されているし、教育基本法を制定した帝国議会でも、そのために準備された『予想質問答弁書』で、教育勅語を『廃止する意思はない』と明記している。すなわち、法律としての教育基本法と、明治天皇の単なる言葉(勅語)としての教育勅語は、形の上でも矛盾するものでなく、内容上も矛盾するものではない、という前提で、教育基本法は制定された」
・一方、CIEは占領当初から教育勅語そのものには厳しい批判を有しつつも、教育勅語の廃止には、それが日本国民の反発を招き、占領支配を困難にするとの恐れから、きわめて慎重だったと言われている。
3)GHQからの教育勅語廃止の勧告(昭和23年5月)(1948)
・田中文相の教育勅語擁護発言は米太平洋陸軍総司令部軍事諜報局の目にとまり、同局は参謀第2部に対し、教育勅語の廃止を訴える特別レポートを提出する。「『日本国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づる』主な策略の一つであった教育勅語は、占領の長期目的を達成しようとするならば廃止されねばならない」と同報告書は勧告した。
・この勧告を受け、まずアメリカ合衆国国防総省が教育勅語を全面的に否定する方針を打ち出し、極東委員会においても「日本教育制度に関する政策」で、教育勅語は教授、研究、儀式のよりどころしてはならないと決定された。
・これに基づいて、昭和23年5月にGHQ民政局 (GS) のケーディス民政局次長は部下のウィリアムズに、国会で教育勅語の廃止決議を行うことの可能性を質し、ウィリアムズは衆議院の松本淳造文教委員長と参議院の田中耕太郎文教委員長を呼び、国会で教育勅語の廃止決議をするよう口頭で強硬に申し入れる。
4)衆参両院における教育勅語排除・失効の決議(昭和23年6月)(1948)
・こうしたGHQ民政局の「圧力」によって衆参両議院で個別に打合会が開かれ、何度か衆参両議院の文教委員長同士の協議もされ、両議院とも委員会の審査を省略する形で、、昭和23年6月19日、新憲法下の国会において「教育勅語等排除に関する決議」(衆議院)及び「教育勅語等の失効確認に関する決議」(参議院)が本会議に提出されて可決、成立した。決議文の文章は各議院ごとに異なり、またその趣意も各議院によって微妙に異なる。
・衆議院は日本国憲法第98条(最高法規)の本旨に基づいて排除することとし、対して参議院は日本国憲法に則って教育基本法を制定した結果として、教育勅語は既に廃止されて効力を失っているとした。
・この決議は、日本国憲法、教育基本法、学校教育法が施行される中で決議され、第2次世界大戦前の教育に用いられていた教育勅語の指導原理性を国会によって否定するとともに、各学校に下賜(配布)されていた教育勅語の謄本を行政が回収するべきこと宣言している。
・なお、教育勅語の奉読(朗読)と神聖的な取りあつかいについては、既に昭和21年から行われなくなっていた。同年6月、文部省も「教育勅語等の取扱いについて」を通達し、重ねてその趣旨を明らかにした。
4.1)法学的な観点からの議論
・決議文の内容を見ると両議院で微妙に見解が異なり、法学的な観点からは次のような議論がされることがある。なお、法学的な細部の観点はともかくとして、一般的に現代の教育において教育勅語を教育理念とされることはない。
〇 衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」を決議し、
「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。(第98条第1項)」という日本国憲法の本旨に従い、教育勅語等を排除することを宣言した。
・この決議については、教育勅語に国務大臣の副署がなく国務に関しない詔勅であったため、このようなものも排除できるのかという点で疑問とされる場合もあるが、日本国憲法が排除する詔勅を国務に関するものに限定する規定もまた存在していない。
(参考)教育勅語等排除に関する衆議院決議
「民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは敎育基本法に則り、敎育の革新と振興とをはかることにある。
しかるに既に過去の文書となつている敎育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の敎育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。
よつて憲法第九十八條の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。
政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。」
〇参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」を決議し、その決議文の中で、日本国憲法の人類普遍の原理に則って教育基本法を制定して、教育の誤りを徹底的に払拭して民主主義的教育理念をおごそかに宣明した結果として、教育勅語は、既に廃止せられその効力を失っているとした。
ただし、日本国憲法にも教育基本法にも教育勅語を「廃止」する旨の規定が明文で定められていないことから疑問とされる場合もある一方、実質的に教育勅語が大日本帝国憲法と一対のものであったということから新憲法の制定によって実質的に廃止されたとされる場合もある。
(参考)教育勅語等の失効確認に関する参議院決議
「われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。
その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすぺきことを期する。
右決議する。」
5)教育勅語と教育基本法の併存の公的解釈の変更
・衆参両院の教育勅語排除・失効決議によって、教育勅語と教育基本法とが併存するとの当時の公的解釈は初めて変更を余儀なくされることとなり、同時に各地の学校から教育勅語の謄本が漏れなく回収されることともなるのである。
・かくして、わが国の教育は教育勅語という伝統的な指導理念を名実共に奪われ、「個人の価値」が唯一最高の指導理念の地位を得るのである。
6)戦後教育の基本路線の影響
・以上のような占領期の経緯を振り返るならば、戦後教育の基本路線が占領軍の一貫した圧力の中で、当時の日本人の意志を踏みにじりつつ作られてきたことは明らかだと思われる。
・今や末期的症状に陥っている戦後教育を本格的に見直すためには、こうした歴史的事実を、日本人としての曇りなき眼でしかと見据えることが必要なのではなかろうか。
(日本政策研究センター研究員 小坂実)
1)学校教育法の制定(昭和22年3月)
・新教育制度の骨組となり教育改革を具体化したものは昭和22年3月制定の「学校教育法」である。この法律は、従来の制度に比べて形式的にも内容的にも画期的なものである。
形式面からみると、従来は学校の種類ごとに学校令が定められていたのを幼稚園から大学まで含めて単一化し、しかも法律をもって定めている。 内容面の特色はまさに教育改革の実態を示している。
〔教育の機会均等の実現〕
・その理念と内容は、第1は教育の機会均等の実現である。憲法および教育基本法の定める理念および原則に基づき国民は誰でも均しく能力に応じて教育が受けられることとされ、特に男女による差別を撤廃し、経済的理由により就学困難なものに対しては就学援助または、奨学の方途を講じ、高等学校および大学に通常課程のほか定時制、通信制の課程を正式に認め、心身障害児に対する特殊教育学校を学校体系の中に位置づけた。
〔学制の単純化〕
・第2は学制の単純化であるが、第1の原則を学校体系に具現化したものである。従前の中等教育の段階の学校はその種類が複雑でしかも高等教育との接続で複数の路線を形成し、高等教育への道もきわめて限定されていた。新学制は6年制の小学校に続く中等教育を3年制の中学校と3年制の高等学校に単純化し、同時に高等教育機関を4年制の大学に一本化し、大学の門戸をすべての高等学校卒業生に開放する徹底した民主的な学校体系とした。
〔普通教育の普及向上と義務教育年限の延長〕
・第3は普通教育の普及向上と義務教育年限の延長であるが、3年制の中学校を含めて義務教育を9年に延長し、すべての中学校は職業分化のない普通教育とし国民基礎教育の向上充実を図った。
〔高等教育の普及と学術の進展〕
・第4は高等教育の普及と学術の進展を図るため大学の門戸を広く開くとともに大学院を新学制の頂点に明確に制度化した。
〔過去の経緯〕
・このように新学制は従前に比してきわめて画期的な改革であるが、義務教育の年限延長と学制の単純化はわが国教育界にとって必ずしも唐突なものではなかった。
・特に前者については大正・昭和を通じて幾度か論が起こり、案も立てられたが財政上その他の理由で実現に至らなかったが、昭和16年の国民学校の成立を機に義務教育8年は制度上確立されながらその後戦時特例によって停止された経緯がある。
・後者については、中学校と大学について別々の意見ではあるが、たとえば戦前の教育審議会においてもかなり積極的に論議されていた。
・しかし、皮肉なことには、義務教育年限の延長と学制の単純化は、敗戦と占領という最悪の条件のもとで一挙に解決をみたのである。
2)新学制の実施と学習指導要領
〔新学制の実施〕
・昭和22年4月から学校教育法を施行し、新制の学校は、まず22年に小学校および中学校が、23年に高等学校が、そして24年(一部の私学は二十三年)に大学が発足した。新学制の実施は米国教育使節団報告書の発表から1年弱、教育刷新委員会の審議から3か月というきわめて短期間に準備を整えなければならないせっぱつまった大事業であった。
〔学習指導要領〕
・まず教育課程と教科書の用意である。法令により、教育課程の基準は文部大臣の定める学習指導要領の基準によることとし、「学習指導要領一般編、試案」を22年春発表し、続いて「各教科別の学習指導要領」を発表した。これによると小学校の教科の基準は、国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育および自由研究と定められ、従来の修身、国史、地理の3教科がなくなり新しく社会、家庭、自由研究が教科として登場した。
〔社会科の誕生〕
・このうち社会科の誕生は教育内容・方法の改革と関連して特に注目すべきものであり、新教育課程は社会科を中心に推進されたといえる。その意味では社会科は戦後教育の長短、功罪を一身にになうこととなった。
・社会科の目標は、青少年が自分たちの社会に正しく適応できるように、またその中で望ましい人間関係を育成していけるように、進んでは自分たちの属する共同社会を進歩向上させることができるように社会生活を理解させ、社会的態度や社会的能力を養うことにある。
・したがって学習領域は単に修身、国史、地理を合わせたものということはできず人間のいとなみのあらゆる社会事象を含むものである。社会科は中学校および高等学校にも設けられた。教科書は新たに検定制度となったが22年度分は時間的に間に合わず暫定的に文部省による著作であった。
〔多角的な教育課程の研究〕
・昭和22年度版の学習指導要領は、新学制発足に際し早急に作られたもので、文部省はその刊行直後から実施状況の調査と同時に学者や教師の協力を得て多角的な教育課程の研究に力を注いだ。
・24年、教育課程に関する重要事項を調査審議するため教育課程審議会が設置され、25年3月に小学校の家庭科の存否、毛筆習字の課程の取り扱い、自由研究の存否、総時間数の改正などにつき諮問され、答申の結果は26年に学習指導要領の改正となった。
3)教育公務員特例法の制定
・教員の待遇、身分の確立は焦眉の急を要する問題で、戦後いくつかの措置が次々にとられたが、昭和24年1月「教育公務員特例法」の制定によって新しい制度が確立した。
・この法律は、国立学校および公立学校の教員を通じて、その職務と責任の特殊性に基づいて、公務員の一般法に対して特例を定めたものである。特例法の内容は、採用、昇任は競争試験によらず選考によること、その他分限、服務、研修等について特例が規定された。
・特に大学の自治を尊重する建て前から従来慣行とされた教員人事について大学の自主性が法的に確立されたことは注目すべきことである。
・戦後の混乱した社会状態や窮迫した経済生活のなかにおいて教師の生活を守るためにいくつかの組合が結成され、やがて全国的組織として昭和22年6月に日本教職員組合(日教組)が統一的に結成された。
・日教組は教職員の待遇その他労働条件の改善、民主主義教育の建設等を目標に掲げて出発したが、実際の運動は労働条件の改善のほか教育政策や選挙運動その他政治的活動に主力を傾注する傾向が強かった。そして27年第9回定期大会で「教師の倫理綱領」(※)を決定したが、これは日教組の階級闘争観を端的に現わしたものと批判された。
(※)「教師の倫理綱領」
〔まえがき〕
私たちの組合は、昭和二七年に「教師の基本綱領」を決定しました。決定されるまでの約一年間、全国の各職場では倫理綱領の草案をめぐって検討をつづけました。「自分たちの倫理綱領を、自分たちの討論のなかからつくろう」これが、私たちの考え方でした。
私たちが、綱領草案をめぐって話しあいを行なっていた昭和二六年という年は、全面講和か、単独講和か、これからの日本の歩む途をめぐって国論が二つにわかれてったかわされていた時期です。私たちは、敗戦という大きな代償を払って、やっと手中にした「民主主義と平和」を危機におとしいれる心配の濃い「単独講和」に反対してきました。平和憲法に対する理由のない攻撃も、この時からはじめられました。
このような時代を背景に、私たちの討論はつづけられました。そして「平和と民主主義を守りぬくために、今日の教師はいかにあるべきか」「望ましい教師の姿勢はどうあるべきか」、私たちの倫理綱領草案の討論には、以上のような考え方が基礎になっていました。ですから、これはたんなる「標語」ではなく、私たち自身の古さをのりこえ、新しい時代を見きわめて、真理を追究する者のきびしさ、正義を愛する熱情に支えられてた生きた倫理、民族のもつ課題に正しく応える倫理という考え方が、私たちの倫理綱領の基調になっています。つまり、歴代の文明などが理由のないいいがりなどつけても微動もしない倫理綱領であるということがいえます。
以下、私たちの倫理綱領各項についてかんたんにふれたいと思います。
一 教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる。
平和を守り、民族の完全な独立をかちとり、憲法にしめされた民主的な社会をつくりだすことは教師に与えられた課題といえます。
私たちは自ら深い反省にたち努力することによって、この課題に応えうる教師となるとともに、青少年がこの課題解決のための有能な働き手となるよう育成されなければならないことをしめしました。
二 教師は教育の機会均等のためにたたかう
青少年は各人のおかれた社会的、経済的条件によって教育を受ける機会を制限され、憲法の条項は空文に終っています。
とくに、勤労青年、障害児(盲・ろう・肢体不自由児など)の教育はすててかえりみられていません。教師は教育の機会均等の原則が守られるよう、社会的措置をとらせるよう努力しなければならないことをしめしました。
三 教師は平和を守る
平和は人類の理想であるとともに、日本の繁栄と民主主義も、平和なくしては達成できません。教師は人類愛の鼓吹者、生活改造の指導者、人権尊重の先達として生きいっさいの戦争挑発者と勇敢にたたかわなければならないことを明らかにしました。
四 教師は科学的真理に立って行動する
社会の進歩は、科学的真理にたってこそ達成されます。科学の無視は人間性の抑圧に通じます。教師は人間性を尊重し、自然と社会を科学的に探求し、青少年の成長のために合理的環境をつくりだすために、学者、専門家と協力しあうことをしめしました。
五 教師は教育の自由の侵害を許さない
教育研究、教育活動の自由はしばしば不当な力でおさえられています。言論、思想、学問、集会の自由は憲法で保障されていますが、実際には制限され、圧迫されています。
教育の自由の侵害は、青少年の学習の自由をさまたげるばかりではなく、自主的な活動をはばみ、民族の将来をあやまらせるものであります。
以上のことから、私たちが自由の侵害とあくまでもたたかうことをここで明らかにしました。
六 教師は正しい政治をもとめる
これまで教師は、政治的中立という美名で時の政治権力に一方的に奉仕させられてきました。戦後、私たちは団結して正しい政治のためにたたかってきました。
政治を全国民のねがいにこたえるものとするため、ひろく働く人とともに正しい政治をもとめて、今後もつよくたたかうことをしめしました。
七 教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる
あらゆる種類の頽廃が青少年をとりまいています。私たち教師は、マス・コミ等を通じて流される頽廃から青少年を守ると同時に、新しい健康的な文化をつくるために、親たちと力をあわせてすすむことをしめしました。
八 教師は労働者である
教師は学校を職場として働く労働者であります。
しかし、教育を一方的に支配しようとする人びとは、「上から押しつけた聖職者意識」を、再び教師のものにしようと、「労働者である」という私たちの宣言に、さまざまないいがかりをつけています。
私たちは、人類社会の進歩は働く人たちを中心とした力によってのみ可能であると考えています。私たちは自らが労働者であることの誇りをもって人類進歩の理想に生きることを明らかにしました。
九 教師は生活権を守る
私たちはこれまで、清貧にあまんずる教育者の名のもとに、最低限の生活を守ることすら口にすることをはばかってきましたが、正しい教育を行なうためには、生活が保証されていなくてはなりません。 労働に対する正当な報酬を要求することは、教師の権利であり、また義務であることをしめしました。
十 教師は団結する
教師の歴史的任務は、団結を通じてのみ達成することができます。教師の力は、組織と団結によって発揮され、組織と団結はたえず教師の活動に勇気と力をあたえています。
私たちは自らが団結を強め行動するとともに、国民のための教育を一部の権力による支配から守るため、世界の教師、すべての働く人びとと協力しあっていくことが、私たちの倫理であることを明らかにしました。
4)教育行政制度の変革
・戦後の教育改革で学校制度と並んで大きな変革をみたのは教育行政制度である。すでに昭和21年8月文部省において「教育行政刷新要綱案」がまとめられた。
・それによると、教育行政の官僚的な画一主義を改め、公正な民意と地方の特殊性を尊重し、教育の自主性を確保する基本方針のもとに、全国を9学区に分け、学区に学区庁を置き、その長官は学区内の初等教育から大学教育までおよび社会教育をつかさどり、また学区に調査審議機関として学区教育委員会を設け、府県には学区支庁、支庁委員会を置き、学校は設置者たる地方公共団体の管理のもとにおく。
・視学を学科指導と学校管理に分け、教員の身分保障を考慮し、初等・中等教員の給与費全額を国庫負担とする。さらに、学区庁長官には地域の帝国大学総長をあて、教育委員会の委員は教育者の選挙によることとされた。この構想は大学自治を中核として教育の自律性を保持しようとするものであった。
・しかるに、米国教育使節団報告書および教育刷新委員会の建議はむしろ教育行政を地方分権化してその基礎を民意におくことによって民主化を促進しようとするものであったため学区庁案は立ち消えとなった。教育刷新委員会の建議は教育使節団の勧告を基本としながらも学区庁案のブロック制を取り入れたものであった。
・改革の基本方針としては、
① 官僚的な画一主義と形式主義の是正
② 教育における公正な民意の尊重
③ 教育の自主性の確保と教育行政の地方分権、
④ 各種の学校教育の間および学校教育と社会教育の間の緊密化、
⑤ 教育に関する研究調査の重視、
⑥ 教育財政の整備
の六項をあげている。
・具体的には、市町村および都道府県に住民の選挙による教育委員会を設けて教育に関する議決機関とし、教育委員会が教育総長を選任してこれを執行の責任者とする。
・さらに数府県を一単位に地方教育委員会を設けて地域内の人事その他教育上の調整に当たるというものであった。
・建議をうけた文部省は、当時22年4月から発足を期して検討が進められていた新しい地方自治制度との関連を考慮しつつ法案の制定を急ぎ建議の基本線に即した第一次案を定めたが遂に総司令部との話がまとまらず、あらためて第2次案の作成にはいった。
・第2次案はブロックに置く地方教育委員会をやめ、教育委員会の性格を行政委員会に明確化したが、教育委員会の設置単位、委員の選任方法、教員人事権等について最後まで文部省の主張は総司令部の入れるところとならず、かくて教育委員会法案は国会に上提されたが、はたして多くの論議をよびおこし、結局、国会で修正を受け23年7月制定され、10月五日第1回委員選挙を行ない、11月1日に教育委員会は成立発足した。
・教育委員の公選を固執した総司令部の考え方は教育の管理は住民の手で行なうという米国の歴史的実態に基づくもので、したがって教育委員は教育の専門家でないしろうとが選ばれる建て前であった。
・ところがこの選挙では教員組合の支援で全体の3分の1が教員から選ばれた。当初の教育委員会制度にはわが国の実情からみてたしかに問題点があったが、この第1回の選挙結果は、別の意味で教育委員会制度についてその後の批判を生む結果となった。
・教育委員会は23年に都道府県と5大市に、25年に市町村に設置されることとなっていた。その後25年は時期尚早との意見が多くまた検討すべき問題も多いとの理由で、27年まで延長する法改正が行なわれた。
・そこで文部省に教育委員会制度協議会が設けられ、問題点の検討が続けられ論議の焦点は教育委員の選任方法と設置単位であったが、遂に結論を得られず、文部省はとりあえず実施を一年延期する法案を提出したが、衆議院の解散のため審議未了となり、結局、27年11月に全国市町村に公選による教育委員会が設置されたのである。
・教育行政の自主性をうたった教育委員会制度において当初から教育財政についての権限なり、これを裏づける財源措置が問題とされた。
(追記:2020.10.18)
(1)GHQの占領政策の影響 (2)極東国際軍事裁判の影響 (3)日本国憲法の影響
(4)旧教育基本法の影響(細川論文等) (5)戦後教育による弊害(長尾論文等)
1)要旨
1.1)日本政府の「ポツダム宣言」受諾/降伏文書調印を根拠とする占領統治
・「ポツダム宣言」は、日本政府の降伏条件を示したものであり、日本の降伏はいわゆる『無条件降伏』ではなかったが、占領統治中にGHQが行った「思想工作・情報洗脳」により、戦後教育を受けた多くの日本人は「日本は無条件降伏したためGHQには日本の法制度を自由に改変する権利が生じた」と思い込んでいるように見受けられる。
・まず最初に、この誤認識を解くことが必要である。
1.2)日本政府を通した間接統治
・ドイツの占領統治は、ドイツ政府が消滅したために米英仏ソ4ヶ国軍による分割/直接統治となった。
・一方、日本の場合は、政治主体である政府が無傷であり、日本政府が受諾した「ポツダム宣言」及び調印した降伏文書を根拠としてGHQが発令する「ポツダム命令」を日本政府が実行する間接統治となった。
1.3)講和条約発効までの戦時占領
・日本国内では、戦争終結時点として昭和20年8月15日 (玉音放送により国民に「終戦の詔書」が伝えられた日) が強く意識されているが、国際法上は日米両国の戦争状態は昭和27年4月28日 (サンフランシスコ講和条約発効) まで解消しておらず、この間は日米は`武器を伴わない戦争 `(講和peaceの模索) を続けていたことになる。
・従って、この期間の米軍の占領は「戦時占領」にあたり、米軍には被占領地の取扱を定めた戦時国際法「ハーグ陸戦法規」(明治45年に多国間で調印) に従う義務があった。
1.4)日本の政治/経済/社会制度の大幅改変を実施
・上記「ハーグ陸戦法規」第43条により、本来ならば、占領者には被占領地の法制度を勝手に改変することは禁止されているはずであり日本側も当初は、そのように理解していた。
・ところが「日本が再び米国の脅威とならないことを確実にする」という強固な占領目的を持っていたGHQは、日本がポツダム宣言受諾の条件として唯一留保した「国体護持」(古代から続く天皇を中心とした国の在り方の存続) を担保 (人質) にとり、「日本政府が (GHQの指令に従い) 自ら法制度を改変した」という形式を繕う事で、事実上ほぼ無制限に日本の法制度の改変を実行した。
(新憲法制定・教育法規/労働法規制定・農地改革・財閥解体・反対者の公職追放etc.)
1.5)思想工作/情報洗脳を実施
①日本国民の一部を同調させて米軍の占領統治を容易にし、更に②自らの強制する政治/経済/社会制度改変を永続的ならしめる目的で、GHQは「米軍の占領前の日本は邪悪な侵略国家であり、米軍は日本国民を軍国主義者の抑圧から解放した救済者である」とする思想工作/情報洗脳を極めて強力に実行した。(いわゆるWGIP(War Guilt Information Program)
(自虐贖罪史観の植付・言論界/教育界からの反対者の追放)
1.6)共産主義中国の出現によるショックで方針を大転換
・米国は、日本の中国大陸での軍事占領拡大を脅威と見て中国擁護・日本敵視政策を進め、ABCD包囲網で日本を経済封鎖して米国攻撃を決断させ、日本を敗戦に追い込んだ。(中国問題が日米対立の主因であり、米側には`中国擁護`という大義名分があった)
・ところがGHQの日本改造が一段落し東条英機らの処刑執行が済んで米側の日本への敵意が弱まった時点で、今度は中国で共産党が優勢を占めるようになり、昭和24年10月1日には遂に中華人民共和国建国が宣言されてしまった。
・これにショックを受けて米国政界では「中国保護のために日本を討滅したつもりが、実際には東アジアの共産化を防いでいた日本を崩壊させて、結果的に東アジアの過半を共産化させてしまった(共産主義勢力の日米離間の謀略にまんまと乗せられてしまった)」とする反省が急速に広まり(マッカーシーの「赤狩り」)、日本を東アジアの反共の砦/米国の同盟者として再建する、とする対日方針の大転換が行われた。
(保守派政治家の公職追放解除・替わって共産主義者の追放実施・対日賠償取立方針の撤回)
・この方針転換は、翌昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発するに及んで更に明確となった。
(日本の防衛力整備の指令・単独講和促進・日米安保体制の構築)
1.7)占領統治終了以降に、反米/左翼勢力の跋扈を招く
・GHQの初期統治方針によって、日本の言論界/教育界から保守派が一掃され、左翼勢力 (及び転向者)が両分野で強固に根を張ってしまった結果、GHQの占領統治終了以降に、米国は元々自らが扶植した反日/左翼勢力によって激しく攻撃される立場に 陥ってしまった。(米国の大誤算)
・更にGHQが実施した「思想工作/情報洗脳」は、米国自身がその必要性を減じた後も、自らが擁護した特亜 (中国・朝鮮系) 勢力、反日/左翼勢力に利用され、彼らの都合のままに拡大再生産されて、日米安保体制構築後の日本の針路を大きく制約し、現在に至るまで歪め続けている。
2)占領統治の前提:『無条件降伏』という誤解
・「ポツダム宣言を受諾して戦争を終結した」ではなく「ポツダム宣言を受諾して停戦(戦闘停止)した」が正しい。昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効をもって「戦争の終結」です。
そして「無条件降伏」したのは「日本国軍隊」であり、「日本国政府」ではありません。
(参考)降伏文書(昭和20年9月2日)
・下名ハ茲ニ日本帝国大本営竝ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聨合国ニ対スル無条件降伏 ヲ布告ス
・下名ハ茲ニ日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊 ガ 無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令 ヲ直ニ発スルコトヲ命ズ
・天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聨合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
・このように、
①日本国軍隊及びその支配下の軍隊は文字通り「無条件降伏(unconditional surrender)」
②天皇及び日本国政府の国家統治の権限は「連合国最高司令官の制限の下に置かれる
(be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers )」
と、降伏文書に明記されている。
つまり、日本政府の降伏は『無条件降伏(Unconditional Surrender)』ではない。
・日本政府は、
「① 日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」という連合国の了解(国体護持の留保) を得た上で、「② ポツダム宣言に明記された連合国の要求事項を受諾」して、『有条件降伏』した。
〔経緯〕
① 昭和18年1月12-23日:カサブランカ会議にて米大統領F.D.ルーズベルトが交戦中の日独伊3国に対して、初めて『(政府の)無条件降伏』を要求した。
② 昭和18年9月:伊バドリオ政権がまず連合国側に『無条件降伏』する。
③ 昭和18年12月1日:カイロ宣言で、日独に対し再度『無条件降伏』を要求する。
④ 昭和19年6月6日:ノルマンディー上陸作戦開始、6月19日:マリアナ沖海戦、日独の敗勢が明確となる。
※しかしカイロ宣言における『(政府の)無条件降伏』要求は日本にとって到底受諾できる内容ではなかった為、以降日本軍は、①軍人の名誉を守る、と共に②より現実的な降伏条件獲得を目指して各地で米軍に徹底抗戦を繰り返した。
⑤ 昭和20年4月12日:最強硬派のF.D.ルーズベルト死去。同年2-3月の硫黄島戦、4-6月の沖縄戦で予想外に多数の死傷者を出していた米国では、一時的に『(政府の)無条件降伏』の要求を取り下げて日本に対して一定の降伏条件を提示する、とする意見が強くなる。
⑥ 昭和20年7月28日:ポツダム宣言、日本に対してカイロ宣言の『(政府の)無条件降伏』の要求を取り下げ、個別の降伏条件を提示した。
⑦ 昭和20年8月14日:日本、ポツダム宣言を受諾する。
⑧ 昭和20年9月2日:東京湾上の米戦艦ミズーリ号にて、日本の降伏文書調印した。
3)占領政策の展開(昭和20年8月28日)(1945)
① 昭和20年8月28日:米軍横浜に初上陸、8月30日:マッカーサー厚木基地に到着、GHQの占領統治始まる。
② 昭和20年9月6日:「降伏後における米国の初期対日方針」公表した。
※この方針で、GHQはポツダム宣言に定められた条項の実現について日本政府と「協議」するのではなく「日本政府に対して一方的/無制限に命令を下す」という見解が初めて示される。
※これに対して、外務省条約局長(萩原徹)が条件違反として抗議したが、米側は無視した。(萩原局長はのちに左遷)
※ 当時、日本軍の武装解除が急ピッチで進んでおり、日本政府は既にGHQの降伏条件違反を咎める実力を喪失していた。これ以降GHQは、日本の最後の一線である「国体護持」を担保(人質)に取って日本政府の抵抗を抑え込み、日本改造を着々と進めていく。
③ 昭和20年9月10日:「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」発令
(報道検閲開始、反発した朝日新聞等を発禁にし、この処分以降、朝日・毎日など各紙が急速に左傾化した。)
④ 昭和20年9月11日:東条英機元首相ら39名を戦犯容疑で逮捕
(最終的には1,000名以上を逮捕拘禁)
⑤ 昭和20年10月15日:治安維持法廃止、徳田球一ら共産主義者を釈放した。
(共産党再建、これにより共産党は昭和30年まで米軍を解放軍と見なした。)
⑥ 昭和20年10月22日:「日本教育制度ニ対スル管理政策」発令(教職追放開始、以降、教育界は左傾化・自虐史観が蔓延)
⑦ 昭和20年12月8日:各新聞「太平洋戦争史」掲載開始、12月9日:NHKラジオ放送「眞相はかうだ」開始 (WGIP本格化)
⑧ 昭和20年12月15日:「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証支援保全監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」発令(神道指令)
※GHQは戦争時の日本軍の強さの根源は神道にあると考え、これを国家から切り離して日本人が伝統的に培ってきた国家・国土・天皇に対する神聖感の喪失を狙った。
※また同指令で「大東亜戦争」等の用語の使用を禁止(米側呼称The Pacific WarまたはWWⅡ The Pacific Campaignsをそのまま翻訳した「太平洋戦争」の使用を強制)
※更にGHQは靖国神社の解体も図ったが、これはカトリック教会の猛反対で中止となる。(ローマ法皇庁が戦争中、日本を反共の砦とみて支持していた為)
⑨ 昭和21年1月1日:天皇の神聖性を否定する詔書の公表(いわゆる「人間宣言」)
※昭和天皇はこの詔書の作成にあたって、日本の民主主義は明治天皇の「五箇条ノ御誓文」により始まったのであり、米軍の要求により始まったのではないことを明らかにして国民を勇気付けたが、このことは戦後教育では殆ど語られていない。(「米軍の占領が始まる前の日本は暗黒の軍事独裁国家だった」とする刷り込みだけが大々的に行われている)
⑩ 昭和21年1月4日:「好マシクナイ人物ノ公職ヨリノ除去覚書」発令
(公職追放開始、政界/官界/財界/言論界からGHQの方針に反する人物(約21万人を除去)
⑪ 昭和21年2月3日:新憲法の英文原案を日本政府に提示
⑫ 昭和21年5月3日:東京裁判開廷
⑬ 昭和21年11月3日:日本国憲法公布
⑭ 昭和21年11月28日:対日賠償問題に関する「ポーレー案」最終報告、日本の重工業・基礎工業の極小化を提言
⑮ 昭和22年3月31日:教育基本法施行、日本の伝統や文化、郷土・国を愛する心の涵養が教育方針から欠落
⑯ 昭和22年5月3日:日本国憲法施行
⑰ 昭和22年6月19日:教育勅語の失効確認決議
⑱ 昭和23年9月15日:母子衛生対策要綱を通達(病院出産や母子別室制等を勧告)
⑲ 昭和23年11月12日:東京裁判結審、12月13日:東条英機元首相ら7名を処刑
4)占領政策の大転換(昭和24年10月)(1949)
① 昭和24年10月1日:中華人民共和国の建国宣言
※これを契機に米本国で、共和党マッカーシー上院議員を中心に赤狩り開始。米政府の対日方針が転換。公職追放解除が始まる。
② 昭和25年5月13日:対日賠償の取立中止指令(無賠償主義に転換)
③ 昭和25年6月25日:朝鮮戦争勃発
④ 昭和25年7月24日:共産党指導部の追放指示、併せて官界/言論界/一般企業から共産主義者(1万数千名)を追放(レッドパージ)
⑤ 昭和25年8月10日:GHQの指令に基づき、警察予備隊(自衛隊の前身)創設
⑥ 昭和26年9月8日:サンフランシスコ講和条約締結、併せて、日米安全保障条約締結 (日米同盟を構築)
⑦ 昭和27年4月28日:サンフランシスコ講和条約発効(日本の主権回復)、併せて、日米安全保障条約発効
5)主権回復後、現在までの影響(昭和27年4月28日~)(1952)
① 昭和35年6月23日:日米安全保障条約改訂(同日、岸信介首相退陣表明)、日米同盟を更に強化
※これに対して、左翼勢力は激しい反安保闘争を起こし、米大統領アイゼンハワー訪日を阻んだが、この闘争を扇動した左翼マスコミも、扇動に乗った左傾学生も、元はといえば米国自身が実施した「思想工作/情報洗脳」の産物だった。
※安保闘争世代の人々は、その後各界に入り込んで、現在も種々の反日/反米工作を続けている。
② 平成5年9月24日:細川護煕首相が、首相として初の「侵略戦争」発言
※細川護煕元首相(昭和13年生、近衛元首相の外孫、元朝日新聞記者、日本新党党首)は墨塗り教科書世代であり、まさに戦後GHQの実施した「思想工作/情報洗脳」を真に受けて信じ込んでしまった最初の世代であった。
※それまでの歴代首相は、日中間の過去について遺憾の意(最大で「反省の気持ち」)を表明することはあっても、マスコミ/教育界の論調とは違って、決して日本の戦争を「侵略戦争」と表現することがなかったのは、彼らが日本が支那事変に巻き込まれ、更に大東亜戦争へと追い込まれていった経緯を実体験として知っていたからである。
※しかし細川首相には、そうした実経験がなく、近親者にも歴史事実を教える者がいなかったように見える。
③ 平成7年8月15日:「戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話」(村山談話)
※村山富市元首相(大正13年生、日本社会党党首)は、GHQの歴史洗脳を受けた世代ではない筈だが、自虐贖罪史観の確信犯か。
※この村山談話により、日本の国益は致命的な傷を負うことになる。
(以下、当サイト新規質問より引用)
補足すると、戦後GHQが種を蒔き、左翼勢力が特亜と手を携えて強烈に押し進めた歴史洗脳工作の頂点が、この1995年の「村山談話」といえます。
戦前・戦中に盛んに戦意を煽って国民をミスリードした①マスコミ、②教育界は、戦後ただちにGHQの命令を受けて「日本断罪」に転向し、健気にも耐え難きを耐え忍び難きを忍んで、復興に尽くした大多数の国民の軽蔑を受けましたが、この①マスコミ②教育の両輪を通じた洗脳工作は、正しい情報から切り離された国民に徐々に浸透 していきました。
平成の始まる頃までは、まだ戦前を知る世代が健在だったため、売国マスコミの論調に関わらず日本の根幹は揺らいでいませんでした。ところが、宮沢~細川~村山政権のあたりで、戦後の自虐的な歴史教育を受けた世代が社会の中枢を占めるようになり、この「村山談話」や「河野談話」など日本にとって取り返しのつかないような滅茶苦茶な政府談話が国民の関心のない所で勝手に発表されるに至りました。
その後、小渕政権の頃から特亜の驕慢さが国民の目に余るようになり、さらに森政権以降のネットの普及で、ようやく真実が戦後世代の国民の間にも少しずつ知られるようになって、現在の保守派の巻き返しが始まりました。
④ 平成18年12月22日:教育基本法改正、日本の伝統・文化、国・郷土を愛する心の涵養を盛り込む。
⑤ 平成19年5月14日:国民投票法制定、憲法改正の具体的手続きがようやく定まる。
⑥ 平成19年7月29日:参議院選挙で自民党大敗、9月12日:安倍首相退陣表明。
※自民党は昭和30年11月の結党以来「自主憲法制定」を党是として掲げてきたが、結党後初の総選挙で衆院議員の2/3に僅かに及ばず、以降も憲法改正の発議に必要な要件(衆参各議院で総議員の2/3の賛成)を獲得できないできた。(超硬性憲法:憲法原案を作成した当時のGHQの縛りが今も効いている)
※しかし平成17年9月の総選挙で自民党が大勝し衆議院議席の2/3に迫ったことで久しぶりに「自主憲法制定」の気運が高まり、平成18年9月 「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権が誕生した。
※安倍首相は、教育基本法改正・国民投票法制定・防衛庁の防衛省昇格など精力的に「戦後レジーム(即ちGHQの定めた日本の戦後制度)」の改正に努めたが、それゆえに反日/左翼勢力の猛攻撃を受けて、参議院選挙で大敗・退陣を余儀なくされた。
※これには、
①安倍首相の進める法制度改正の重要性を正しく理解できず、反日/左翼マスコミの煽動に乗せられてしまった国民の側の見識不足、
②同じく、保守派を名乗りながらも安倍首相を攻撃して結果的にその退陣に一役買った「反米保守」論客の側の見識不足
も、大いに関係した。(今後の重要な反省課題)
6)反日日本人の誕生・増大
・日本人でありながら、自虐的な歴史観をもって、自分の国と国民を侮辱し、自国の国益に反することをする人を、反日日本人と呼ぶこととする。今日、学者、ジャーナリスト、教育者には、この類の日本人が多いのである。
・他の国では、例えば反米米国人、反露ロシア人、反中中国人、反韓韓国人などという人間は、ほとんど考えられない。いたとしても「スパイ」「人民の敵」「売国奴」などとして厳しい制裁を受けるであろう。
・しかし、我が日本国だけは、反日日本人の楽園となっている。一体この人たちは、どのようにして誕生したのだろうか。それには主に四つの由来があると考えられている。
6.1)占領政策の協力者
・日本を占領した占領軍は、日本人の中から占領政策に協力する、反日的な日本人を生み出した。その一部は、民間検閲の中から生まれた。占領時代、GHQの民間検閲支隊(CCD)は、日本の言論活動を厳しく検閲した。
・検閲のためには、日本語に堪能な者が多数必要だが、米国内にはほとんどいなかった。そこで、占領後の日本で、日本人でありながら、日本人を検閲する協力者を募った。彼らなくしては、世界史に類のない巧妙な検閲体制は成り立たなかったのである。
・江藤淳氏曰く、「検閲員に応募してCCD入りした人々の当初の動機は、ほとんどが経済的なものであったにちがいない。当時の日本人はまず飢えをしのがねばならず、そのためには自己の能力を最大限に利用しなければならなかったからである」。
・占領軍の手先となって日本人を検閲する日本人となったのは、滞米経験者、大学教授、外交官の古手、英語に自信のある男女の学生などであった。これらの人々に対してCCDは高給を提供した。但し、給金は日本政府によって国民の税金から支払われた。
・連合国軍は、日本国民に言論統制や検閲の存在を隠し、新聞、雑誌、映画等の検閲が行われていることを知られないようにしていた。そのため、検閲者となった日本人は報酬を手にしたときから、被検閲者である他の日本人の眼に触れない「闇の世界」に属する者となった。
・当時、CCDに勤務した者は5千有余人、翻訳通訳機関で勤務した者も合わせると1万人以上にのぼるとみられている。江藤氏によると、「その中に後に革新自治体の首長、大会社の役員、国際弁護士、著名なジャーナリスト、学術雑誌の編集者、大学教授等々になった人々が含まれていることは、一部で公然の秘密になっている。もとよりそのうちの誰一人として、経歴にCCDの勤務の事実を記載している人はいない」。
・反日日本人の一部は、こうした占領政策の協力者の中から、現れたのである。
6.2)社会・共産主義者
〇 共産主義者
・反日日本人は、戦後の日本にはあふれるほどいる。しかし、戦前にはごく少数であった。それは、ソ連が作った国際共産党(コミンテルン)の指導下にあった日本共産党員でした。日本共産党はコミンテルンの日本支部として作られたもので、日本の政党ではなかったが、彼らは、スターリンの指令に従って、「天皇制の打倒」による共産主義暴力革命を目指していた。
・終戦間際にソ連は突如不可侵条約を破って、背後から袈裟懸けに、満州・樺太・千島を侵略しました。彼らが信奉した国際共産主義とは、実はソ連本位の社会帝国主義・赤色ファシズムと呼ぶべきものである。戦前の日共の活動は、日本をソ連の従属国・衛星国におとしめる道でしかなかったことは、東欧諸国の戦後の運命を見れば明らかである。
・戦後の日本に反日共産主義者が激増したのは、マッカーサーが共産主義者の政治犯を解放し、共産主義活動を公認したことによる。解放された日本共産党員は、GHQの前で「解放軍万歳!!」と唱えたという。
・GHQには、ニューディーラーと呼ばれる人間が多くおり、彼らは共産主義に親近感を持っていた。そして、マッカーサーの占領政策に強い影響を与えた。
・戦前の日本は、世界で最も強い団結力を持った国で、同一民族、同一言語の国としての愛国心をもって、国民がまとまっていた。それゆえ、占領軍は日本を弱体化させるため、反日的な共産主義者を使って、日本人の団結心を打ち砕き、国内を分裂させようとした。但し、共産主義革命をさせない程度に利用する、ここがポイントである。また、別の角度から見ると、日本弱体化政策には、ニューディーラーを通じて共産主義者の意図が入り込んでいたのである。
・戦後、ソ連や中国に抑留された日本人は、そこで共産主義教育を施された。また、国外の日本共産党員が工作活動をしていた。それらによって洗脳された人々は、反日的で、共産的あるいは容共的となり、ソ連や中国のエージェントや同調者となった。日本軍の「非道悪虐」を証言している人には、この手の人間が多いのである。
・マッカーサーの占領政策は、日本に共産主義革命を策す者たちにとって絶好の機会であった。とりわけ、昭和22年の2・1ゼネストにおいては、徳田球一、野坂参三らの日共指導層は、占領軍を「解放軍」と位置づけて、権力の奪取をめざしたが、マッカーサー自身によって、中止を命じられた。
・昭和24年の総選挙で日本共産党が大量当選すると、GHQは反共政策を取った。昭和25年6月、北朝鮮軍の侵攻で始まった朝鮮戦争においては、日共は北鮮・ソ連・中共軍と呼応して、武装闘争による共産革命を策した。これに対し、GHQは米軍の朝鮮出動によって生じた治安の空白をうめるため、8月に警察予備隊を設置、9月に日共幹部の追放を指令(レッドパージ)などして対抗した。
・朝鮮戦争のさなか、昭和26年9月にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌年4月の講和条約の発効によって、日本は米ソ対決の緊張の中で独立を回復した。
・5月のメーデー事件の後には、7月に破壊活動防止法の制定、8月に警察予備隊の保安隊への拡充などして、治安の維持が図られた。昭和28年にようやく朝鮮戦争の休戦協定が調印された後、昭和29年には防衛庁が設置され、自衛隊が発足した。
・こうして占領下のGHQによって破壊された、日本の治安と防衛の体制は、GHQによって回復された。こうして、日本共産党による暴力革命は鎮圧されたが、共産党は、GHQの日本弱体化政策による民主主義体制の継続が、革命に有利と考え、東京裁判史観とGHQ製憲法の護憲を国民に吹き込んできた。
・日本共産党は、戦前のスターリン=コミンテルンによる1932年テーゼに基づき、日本は半封建的前近代的な資本主義であると認識し、それゆえ日本における共産主義革命は、第1段階として民主主義革命となる、という段階論を唱えていた。つまり、共産主義革命のための民主化です。彼らは戦前の日本の歴史を貶め、日本文化を破壊することを、共産革命への前進としてとらえた。そして、米国の民主化政策に便乗し、日本の民主化を革命の手段として、推し進めたのである。
・日本共産党は、愛国革新と自主独立を唱えてきたが、愛国といっても共産革命のための手段にすぎず、本当に日本の伝統を守り、日本の精神文化を育てようというものではない。「愛国の仮面の下の反日」というのが、本質である。その一つの証拠として、彼らは東京裁判による日本断罪の自虐史観を、宣伝・教育している。
・さて、昭和35年に日本を揺り動かした60年安保をめぐって、日本の共産主義運動は、反日共の諸党派を生み出し、分裂と対立の道を歩んできた。その潮流には反スターリニズム、トロツキズム、毛沢東主義、反日爆弾闘争主義などがある。また、マルクスの文献研究によって、非ロシア的なマルクス主義もあらわれた。そして、革共同、共産同などが、革命の正統争いを続けながら四分五裂してきたが、そこに通底するのは、日本的情念と反日感情との相矛盾した混合パワーである。
・日本以外の国では、多くの共産主義者は愛国者であり、愛国者だから共産主義者になった人々も多いようだ。こうした真に愛国的な共産主義者は、敬意に値すると思う。しかし、日本においては、共産主義者は本質的に反日的であるという特異な現象を現している。その淵源は、スターリン=コミンテルンによる1932年テーゼ(※)にあるのであり、スターリンによるマインドコントロールに呪縛されているのである。
※1932年テーゼ(引用:Wikipedia)
32年テーゼは、1932年5月にコミンテルンで決定された『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』の通称。「赤旗」1932年7月10日特別号に発表された。
日本からは片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参加して討議された。前年に草案として提示されたいわゆる「31年政治テーゼ草案」を作成したゲオルギー・サファロフが失脚したため、あらたなテーゼが必要とされてつくられたものである。発表以降、1936年2月に岡野(野坂参三)・田中(山本懸蔵)という変名で「日本の共産主義者への手紙」がモスクワにおいて発表されるまで日本共産党の綱領的文書として扱われた。
戦前日本の支配体制を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制をみた。
そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。また、反天皇制に加え、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現なども柱としており、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命」をスローガンとした。
さらに、日本の中国侵略について、純粋に侵略を非難する立場ではなく、アメリカ合衆国との軍事的衝突を避けるために帝国主義間戦争への反対を唱えたことも特徴である。
同時に、当時のコミンテルンは、社会民主主義とファシズムを同列におく社会ファシズム論の立場を採り、社民勢力との闘争を特別に強調した。また、日本における革命的決戦が切迫しているという情勢評価をおこなった。
伊藤晃の研究によれば、この32年テーゼの作成にはスターリンの意図が強く働いたとされる。32年テーゼには、フランスと日本という「二個の帝国主義的憲兵」の同盟がソ連を攻撃すると書かれていることから、谷沢永一は、スターリンの日本への恐怖が、32年テーゼの動機になったとしている。
また、1922年11月の「日本における共産主義者の任務」から32年テーゼに至る、日本へのテーゼの連発は、他国の共産主義勢力へのテーゼと比較しても多量であり、いかにコミンテルンが日本問題を最優先事項としていたかが窺える、としている。
〇 社会主義者
・鳩山氏・菅氏による「民主党」の旗揚げに際し、社会民主党は分党方式で参加した。しかし、社会民主党の前身は日本社会党であり、昭和30年の結党以来一貫して日本の左翼の最大多数派を占めた社会主義者の政党であったことを忘れてはならないと思う。 社会主義者・共産主義者でも、愛国的で自国の国益を大切に考える人には敬意を払うが、旧社会党及びその支持者の多くは自国の立場を見失い、国民をミスリードしてきたので、ここに掲げる。
・とりわけ旧社会党左派(社会主義協会派)は、自身をマルクス=レーニン主義者と称し、議会制社会民主主義者としては他国にみないほど戦闘的な特性を持っている。70年安保のときには、総選挙によって議会での多数を獲得しようとするとともに、議会外では社青同という武闘組織をもって大衆的な革命運動を起こし、日本を社会主義化しようとした。
・社会主義協会の理論的支柱である向坂逸郎氏は、昭和52年に、こう言っていた。「ソ連人の教養というのは、日本とは比べものにならない。はるかに高いです。自由もね、日本とは比べものにならない。自由です。思想の自由も、日本とは比べものにならないくらいある。それは全然ちがいます」(月刊『諸君』昭和52年7月号)
・こういう人物が旧社会党の顧問をして、実に危険な活動へと誘導していたのである。社会党は、ソ連から指導を受け、多額の活動資金を受けていたからである。これはソ連からの亡命将校レフチェンコによって暴露されたことである。
・レフチェンコは月刊『文芸春秋』平成5年6月号で、日本社会党はソ連から多額の資金援助を受け、その綱領もKGBの影響下、指導下にあったと証言した。これに対して、旧社会党から『文芸春秋』への抗議は全くなかった。そして、最近、旧ソ連の資料が公開され、ソ連の旧日本社会党への資金援助が、事実として裏付けられた。
・旧社会党は、安保廃棄・自衛隊違憲・非武装中立を主張してきた政党で、それは単なる人道的な反戦平和主義ではなく、日本社会主義化の戦略に基づくものであった。
・筋書きは、
日米安保の廃棄 → 米軍の撤兵 → 自衛隊の違憲・解体 →
ソ連軍の進駐 →ソ連の衛星的社会主義国に
というところだったのだろう。
・国民には、ソ連軍に対し「解放」という名の下に、無抵抗的降伏を呼びかけるわけである。事実、石橋政嗣元委員長は、「ソ連が侵攻してきたら、降伏したほうがよい」と「非武装中立論」で降伏の勧めを公言していた。確かにこれも一つの平和主義、しかし敗北主義的平和主義である。仮に日本がソ連の衛星国となっていたら、どうなっていただろうか。ハンガリー、チェコ=スロバキア、ルーマニア等と同然の運命だったことは、火を見るよりも明らかである。
・戦後、日本を武装解除したGHQは、その後日本を再武装化したが、ここで再武装の必要性を力説した人物にマッカーサーの腹心・アイケルバーガー中将がいる。例えば彼は、昭和23年7月に『リーダーズダイジェスト』誌代表に対し「ソ連のやり方は、日本人の ” 赤 ” 連中に内乱を起こさせ、自分たちを日本に引き入れさせる方法を取るはずだ。だから、米軍が日本から撤退すれば日本は赤化する」と主張していたとのことである。(児島襄著『日本占領』文春文庫)
・一方、旧社会党は北朝鮮に対する異常なほどの思い入れを持ち、今ではおぞましいほどにその体制を理想化し、金日成を偉大な領袖と賛美していた。これは単なる国際友好のためではない。昭和40年代、日本が左翼革命運動で騒然としていた時代には、ソ連軍とともに北朝鮮の機械化軍団が、日本を侵攻する可能性があったのである。
・安保廃棄で米軍が日本から撤兵し、力のバランスが逆転したならば、日本国内の左翼と呼応して侵攻し、朝鮮と日本の社会主義化を実現するというシナリオである。北朝鮮には、朝鮮戦争において、米軍の削減で防衛が手薄になった韓国を突如侵略したという前例があり、当時の社会党がいかに恐るべき国際謀略に加担しようとしていたかが分かる。
・平和・護憲・人権を党是としてきた旧日本社会党には、日本の国益よりも、旧ソ連や北朝鮮の国家目標に協力・奉仕するという反日的な体質があり、その体質が現在の社民党にそのまま受け継がれ、さらに民主党にも流れ込んでいる。
6.3)進歩的文化人
・社会主義者、共産主義者と共に、反日的な活動を行ってきた人々に、「進歩的文化人」がいる。彼らの誕生は、戦後の公職追放へと遡る。
・昭和21年1月、GHQは、戦後初めての総選挙を前にして、突如、公職追放令を出した。これによって、各界の指導者21万人が職を追われ、生活権を奪われ、「格子なき牢獄」につながれた。政党の立候補者にも多くの追放該当者が出たので、政党は大打撃を受けた。そして、その後公職には、占領政策に協力的であり、また東京裁判に肯定的な考えの者が多く就くことになった。
・大学教授、文化人、有識者たちは、戦犯の汚名や公職追放を恐れて、一斉に方向転換し、日本の歴史を歪曲、アメリカの民主主義を礼賛して、占領政策に協力した。エリートほど首がかかっているので、占領軍に迎合し、東京裁判やGHQ製憲法を賛美し、戦前の日本を断罪した。東大では、横田喜三郎、大塚久雄、丸山真男、大内兵衛、坂本義和などの多くの「進歩的」な学者たちが、教授の椅子を手に入れた。
・彼ら進歩的文化人の実態は、実は反日日本人であり、また容共的であるのが特徴である。吉田茂首相は彼らを「曲学阿世の徒」と呼んだ。彼ら進歩的文化人に教育された学生たちが、官界、教育界、マスコミに多く送り出されたので、今日では、彼らの弟子や門下生の人脈が、日本を支配している。
・谷沢永一氏は『悪魔の思想』のなかで、進歩的文化人の代表12人の実像を、彼ら自身の発言を引用して、明らかにしている。その12人とは、先ほどの東大教授5名以外に、鶴見俊輔(同志社大教授)、安江良介(元『世界』編集長・現岩波書店社長)、久野収(『週刊金曜日』編集長)、加藤周一(評論家)、竹内好(元都立大教授)、向坂逸郎(元九大教授・社会党顧問)、大江健三郎(作家)、といった面々である。
・彼らの学説・理論・主張に共通するのは、米国の占領政策を肯定し、東京裁判の追認の上に成立っていることである。また、日本と日本人を愚かで、遅れており、罪深いものという見方も共通している。それは、米ソ対立構造が生んだ、時代のイデオロギーと、反日的侮日的な自虐感情の混合物とでもいうべきものであろう。そこには、エリートとして日本的民衆を見下す冷たい視線も感じられる。
・特に歴史と文化に対する見方については、彼らは西洋欧米の価値観によって、日本の歴史・文化を判断する傾向にある。それは一見、客観的論理的なようでいて、実は欧米の学問の理論や概念を、日本に当てはめたにすぎないものである。歴史の概念装置について言えば、西洋史の概念である封建時代、帝国主義、ファシズムなどの概念が、日本の歴史に機械的に当てはめられる。
・そして、欧米と日本との偏差を、遅れや特殊性として理解しようとする。そして、日本の固有の特長を否定し、近代化=民主化=欧米化を進めようとする。日本の伝統は半封建的前近代的と一面的にしか評価されない。世界史の中での明治維新や日露戦争の評価は非常に低く、明治以降の歴史は侵略的好戦的と断じられる。
・こうした進歩的文化人の考えの核心には、資本主義の後に歴史法則の必然として社会主義が実現する、という観念がある。言い換えると社会主義の信奉、或いは社会主義への同調である。彼らは、しばしば「戦後民主主義者」を自称するが、その民主主義とは、反日的で従米か従ソの容共共和主義という国籍不明の観念でしかなかったのである。
・70年安保の時代には、反日左翼の影響で、多数の学生たちが安保廃棄・共産革命の運動に参加した。その背後には、彼らを扇動する「背後の元凶」がいた。それが進歩的文化人である。大学には、革命教育をする教授連がいた。また、中学・高校には、彼らの教育を受けた日教組の教師がいた。
・彼らを背後で操っていたのは、スターリンの亡霊で、正確に言うと、1932年テーゼである。これは、国際共産党=コミンテルンの対日運動指令書です。それは、実は、ソ連の国益のためのものであり、スターリンの日露戦争の敗北に対する復讐心、有色人種への人種差別感情に満ちたものであったことを、谷沢永一氏が明らかにしている。
6.4)日教組
・日教組は、マッカーサーによって、作られた。マッカーサーは、日本人の団結を弱めるために、日本の歴史と道徳を抹殺しようとした。そのためには、教育の現場で、占領政策にしたがって、従米的反日的な教育を実行する日本人が必要であった。そこで、それを担う教師を組織する労働組合を創出した。それが日教組である。
・日教組は、社共両党の影響の下で、教育の場で、労働組合運動、社会主義運動を行ってきた。日教組は日本の社会主義化を目指して、青少年の洗脳を担ってきた。その影響には重大なものがあった。
・とはいえ、組合員の中でそういう運動を推進してきたのは一部の人たちであり、他の多数の良識的な教員は、組合の論理によって動かざるをえなかった、ということだと思う。
・日教組の考えを端的に現しているのは、日教組の代名詞だった槙枝元文委員長のこんな話があるーー「戦後の教育についていろいろ言われていますが、北朝鮮のようにやればいいんです」「北朝鮮には日本みたいな教育問題はいっさいありません」。
・いやはや、戦前の軍国主義的国家教育に反対する闘士が目指すのが、金日成ばりの全体主義的個人崇拝教育とは。反戦平和・民主教育とは、似ても似付かぬものである。
・梅原猛氏(※)が、戦後教育と日教組について語っていることは、なかなか的を射ている。
※ 梅原猛氏の見解
・日教組を支配する教師たちは、少なくとも最近まで、マルクス・レーニン主義の強い信奉者であった。
・マルクス・レーニン主義は、資本主義を肯定し、それを継続させるような道徳は悪であるとし、資本主義を永らえさせるようなあらゆる道徳教育に反対する。『平和と民主主義の教育』というのは、社会主義革命の思想をカムフラージュし、そして日本人を危機に陥れている、この道徳の問題を避けて通り、社会主義革命が起こりやすいようにする教育にすぎないであろう。
・戦後日教組が指向してきた教育は、革命家養成の教育をオブラートに包んだ、多分に道徳的な懐疑主義の色彩の強い平和教育である。
・それはこの悪なる資本主義を打破し、社会主義社会をつくろうとする革命家を養成する教育である。‥‥‥裏で革命家を養成する教育を奨励し、表に平和主義教育を標榜して、資本主義道徳に対する懐疑の心を増長せしめていた。
・ソビエト・ロシアを始めとする社会主義国の崩壊によって、この革命への指向は大幅に変更されなくてはならないと思われる。しかし教育学者の多くはそういう、実はもはや意味を失った革命教育を内包させた道徳的懐疑主義教育を、今もなお主張し続けている感がある。
・ここで梅原氏がいう「道徳的懐疑主義教育」とは、日本人の伝統的な道徳観を否定するものであり、その核心はソ連・中共・北鮮の影響を受けた反日教育である。
・ソ連・東欧での共産主義体制の崩壊後は、日教組への新規加入者が減り、勢力は後退した。しかし、今日もなお、一部の組合員たちは共産主義そのものへの根本的反省を行っていないようである。
・それは、ソ連型の共産主義に矛盾があったからだ、と考えているのであろうか。反スターリン主義あるいは反ロシア・マルクス主義の立場からすれば、むしろ崩壊すべくして崩壊したのだ、共産主義へは多様な道があるのだと考えるのであろうか。
・しかし、イギリス・イタリアでも議会主義的左翼政権の結果は、総じて経済活力の喪失、国家の「病」の悪化、青少年犯罪の増加、無気力・無職能の若年失業者の増大であった。
・そして、共産党という名称も、多くの先進国では消え去った。
・しかし、教育界においては、今なお、歴史の法則的必然性によって資本主義の次の段階には社会主義が実現する、という旧観念が根強く保たれているのである。
6.5) 反日日本人の由来のまとめ
・反日日本人の主な由来を4種といわれている。
① 占領政策の協力者
② 社会・共産主義者
③ 進歩的文化人
④ 日教組
・戦後日本を占領したGHQは、占領初期において、こうした反日日本人を誕生させることによって、日本を弱体化しようとした。そして日本人が分裂し、自ら自国の国益に反することをするように、日本の社会に仕掛けを行った。但しそれは、米国の国益を損ねない限度において、である。
・しかし、一端、誕生した反日日本人は、米国の思惑を超えて成長・増大した。その大部分は旧ソ連や共産中国を利する勢力となった。その一方、占領政策や共産主義の謀略に目覚め、「国際常識としてのナショナリズム」を取り戻した人々が、近年は増えてきている。
・さて、「反日」というとき、その「日本」とは、日本国(国際名 Nippon)であり、主権と領土と国民によって構成され、固有の伝統と歴史と文化を持って、国際社会に存在している、この国のことである。そして、「反日」とは、この自国の民利国益に反する態度や言動に関わり、とりわけ他国の政略や陰謀に利するものを言っている。
・国の特徴は、アメリカ、フランス、中国、韓国などでそれぞれ違う。自国・自民族の特徴は、他国との比較によってこそ、深く自覚できるものと思う。そして、他と異なる伝統、習慣、言語、社会、政体などに、その国と民族の特徴が自ずと現れていると思う。
・例えば、国の特徴は、国旗や国歌に象徴的に表現されています。そこに、その国の成り立ち、国民の理想などが象徴されている。そして、どの国、どの民族も、自らの国旗や国歌を大切にし、青少年には国旗や国歌の意味を教育しています。また、他国の国旗や国歌に敬意を払います。これは国際儀礼であり、国際常識でる。
・日本国籍を持つ地球人であれば、日本の国旗や国歌を大切にするというのは、国際社会における自然な態度であり、当たり前の考え方です。それを私は、「国際常識としてのナショナリズム」と呼んでいます。これと、侵略的な排外主義とが、しばしば短絡的に混同されてしまっているところに、日本の不幸の一因がある。
7) 敗戦利得者
7.1)公職追放における左翼
・公職追放の結果、戦前・戦中は追放、あるいは日陰にいた左翼的思想を持つ人物、特に『大学教授』や『社会活動家』などが入り込んでいき、彼らは敗戦利得者として大きな利益を手にしていたとされる。
・一方官僚においては実際には公職追放は徹底されず戦前の仕組みをそのまま引きずるという状況となった。
・特に大学教授の場合は教え子達に左翼的自虐教育を行い、中央や地方自治体の官僚や法曹界(裁判官、検事、弁護士)、教育の現場、メディアや出版社にまで送り込んでいったといわれ、折からの大学増設ブームや教育制度改革により、弟子達を地方大学や学校に送り込んだと主張されている ( 実際には大学教授の場合、公職追放が解除された時点で復帰した人物も複数存在しているのだが )。
・更にその弟子達は、今度は自分の教え子に左翼自虐教育を行い、自虐史観左翼日本人の拡大再生産を続け、その影響を受けた人物が新たに自らの受けた教育を施すといったことが行われている。
7.2)敗戦利得者が描かれた作品
・中沢啓治氏の漫画:敗戦利得とは明確に記されてはいないが、左翼的・反体制的で朝鮮人擁護を批判されがちな『はだしのゲン』には戦後の混乱を利用するヤクザや不逞外国人(韓国系)の描写が存在する。
・元軍人で戦後成金の倉持勇造や、戦争支持者が敗戦を機に転向した鮫島伝次郎らは敗戦利得者の典型例として悪事を行う描写が非常に多く、下手をすれば鬼扱いされたマッカーサー元帥や手の平を返した卑怯者扱いされた天皇陛下以上の悪役扱いである。
・一方で中岡元の弟分である近藤隆太と仲間達は敗戦下で力をつけたヤクザの犠牲になり、良心的なコリアンであるはずの朴さんも闇商人として財を成すなど、主人公サイドにも闇の世界に生きる者が多く、良くも悪くも泥臭く描かれる。
※中沢啓治:渡部氏とは思想的に正反対だが、著作に多くの敗戦利得者を描く。
7.3)公職追放が「敗戦利得者」を大勢生み出しました――渡部昇一教授
「日本を弑(しい)する人々」
【 渡部昇一・稲田朋美・八木秀次、PHP研究所、p240 】
(引用:電脳筆写『心超臨界』http://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/fc3b4466e9789f7e56034665a541558d)
〇日本を糾弾することで自らの存在理由を確認する「敗戦利得者」
【渡部】 自らが卑怯であることを認めたくないから、偽善的な「反戦平和」や「友好第一」などといった衣装をまといたがるのです。私は「戦前の反省」などと言いながら、戦前戦中の日本の指導者を一方的に非難する人たちは、日本の敗戦によって利益を得た「敗戦利得者」だと思っています。
・先の大戦を遂行するに当たって日本の目的が「主として自衛のためであった」というマッカーサー証言が戦後日本国内で普及しないのは、独立回復後も日本の敗戦によって利益を得た人たちがその構造を維持しようとしたからだと考えます。
・とくに、公職追放が「敗戦利得者」を大勢生み出しました。公職追放は、「日本人民を戦争に導いた軍国主義者の権力および影響力を永遠に排除する」という建前で行われましたが、追放の選別はGHQの恣意で、最初は戦争犯罪人、陸海軍人、超国家主義者・愛国者、政治指導者といった範囲だったのが、経済界、言論界、さらには地方にも及び、本来の意味で公職ではない民間企業、民間団体からのパージも行われました。その隙間(すきま)を埋めた人は、大きな利益を手にしたわけです。
【八木】 GHQの狙いは、敗戦によって沈む者と浮かび上がる者とをつくりだすことで、日本国内に日本人の敵を生ぜしめ、日本社会を歴史的にも、人的にも分断することにあったと言ってよいと思います。
【渡部】 追放指定の基準は、あくまでGHQの占領政策を推進するのに障害となりそうな人物の排除で、それは裏返せば愛国心を維持する人や、戦前の日本史の事実を守ろうとする人にとっては不利益を強いられ、それを捨て去る人には恩恵をもたらすという構図になっていたわけです。
・政界からは鳩山一郎、石橋湛山、岸信介らが追放され、戦前の日本を指導した各界からの追放者は昭和23年5月までに20万人を超えました。
・追放された人たちに代わってその地位に就いた人が、「戦前の日本はよかった」と言えるはずはなかった。大きな得をしたわけですからね。そしてその恩恵をもたらした「戦後」という時代を悪く言うこともないわけです。
・マッカーサーが証言したように、戦前の日本の戦争目的が「自衛」のためであれば、それを指導した人が追放されること自体がおかしなことになり、それによって得た自らの地位の正当性を失うことになる。
【八木】 公職追放が道理ではなく、GHQの恣意だったことは、昭和25年の朝鮮戦争勃発によって明らかになります。
・その直前、GHQはそれまで軍国主義に反対した平和主義者、民主主義者のように持ち上げていた日本共産党中央委員24人全員を追放したのをはじめ、それまでの追放解除を進め、昭和26年1月までに17万5千人の追放を解除しています。
・その後、サンフランシスコ平和条約発効によって追放令そのものが廃止され全員が解除されたわけですが、「敗戦利得者」たちはすでにその地歩を築いたあとだったということです。
【渡部】 いちばん得をしたのが左翼でした。GHQの民生局はケーディスをはじめ左翼の巣窟でしたから、彼らが公職追放を主導した当然の結果でした。
・ケーディスの右腕だったのがハーバート・ノーマンで、ノーマンはのちに共産党員だったことが発覚して自殺しましたが、このノーマンと親しかったのが、一橋大学の学長を務めた都留重人氏です。彼は明らかにコミンテルンと言ってよいと思いますが、ほかにも東大総長を務めた南原繁氏や矢内原忠雄氏、京大総長を務めた滝川幸辰氏、法政大学総長になった大内兵衛氏ら、コミンテルンの思想的影響下にあったと思われる人たちが戦後いかなる地位に就いたかを数えれば、いくらでも敗戦利得の実例として指折れます(苦笑)。
・こうした敗戦利得者、追放利得者が後進に与えた影響はきわめて大きく、戦後、雨後の筍のごとくできた大学の教授として日本中にばら撒かれたわけです。あっという間に、進行性の癌のように左翼が日本の教育界を占めてしまった。
・彼らの歴史観は戦前否定、“ 日本悪しかれ ” ですから、日本人であって日本に愛国心を感じない。むしろ日本を糾弾することで自らの存在理由を確認するという構造に組み込まれてしまっています。
7.4)「戦後利得者・左翼」が洗脳した歴史教育を見直せ
(引用:産経West 蚕・現代を問う(3))
https://www.sankei.com/west/news/151221/wst1512210005-n1.html
渡部昇一・上智大名誉教授との対談から(岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜)
・3月10日(注・平成27年)、上智大学名誉教授の渡部昇一先生と対談という得がたい機会を得た。地方の小さな私学の理事長が希代の碩学(せきがく)と対談、筆者としては緊張せざるを得なかったが、充実した3時間であった。
〇 戦後歴史教育は「教育」ではない
・昨年(注・平成26年)9月、筆者がPHP研究所から「奇跡の学校」を上梓し、その記念講演を聴いたPHPの月刊誌「Voice」編集長の企画で、テーマは『日本の歴史教育を見直す』だった。
・文明の核心は「人間の心・精神」にあり、精神が歴史を動かし文明を形付ける(物質を核心とするマルクス主義・唯物論は終焉した)。その精神の育成に欠かせないのが「歴史教育」である。戦後歴史教育は「教育」ではなく、米国占領政策とそれを引き継いで「戦後利得者」となった左翼による「洗脳」である。
・渡部先生は一貫して朝日新聞を先頭とする「戦後利得者・左翼」と戦ってこられた。日本人の精神を排斥し、欧米の精神・価値観を植え付け、日本を一方的に「悪者」と決め付ける戦後歴史教育では日本精神・日本文明が消滅する。戦後歴史教育を見直さねばならない理由がここにある。先生との対談での結論だった。
・渡部先生はそのためには、昭和6年の満州事変から東京裁判に至る戦後の歴史教育を是正すべきと熱く語られた。「満州事変以後、日本は支那を侵略した」と教えているが(日清・日露戦争も侵略とする教科書もある)戦争を仕掛けたのは支那であり、日本は受身であった。東京裁判ですら「支那事変の開戦責任が日本にある」とは言っていない。
・朝鮮戦争が始まった1年後の昭和26年5月3日、東京裁判で日本を「悪者」として、7人を絞首刑にした張本人であるマッカーサー元帥は「米国上院軍事外交合同委員会」で「日本は自国の防衛のために開戦した」(侵略ではなく自衛戦争)と証言している。
・渡部先生は、この証言は「どこぞの講演」などではなく、「米国議会上院」の委員会という最高の権威ある「場」での証言なのである、という事実を強調し、「なぜ教科書に載せないのか」という。『あの戦争』の見直しは歴史教育の原点である。
〇 植民地から独立、日本に感謝するアジア諸国
・筆者からの「敗戦直後の昭和21年の21万人もの『公職追放』が戦後の歴史教育を日本自身がゆがめてきた原因では」という指摘に対し、「戦後利得者」の言葉を初めて作った渡部先生はわが意を得たりと、戦後進歩的文化人の責任を追及され、筆者としては留飲を下げたのである。
・また、日本はアジア諸国を侵略したというが、あの戦争によって、アジア諸国が数百年の白人による略奪・収奪型植民地政策による支配から独立を果たした、という視点が戦後歴史教育にはない。 中・韓を除く大半のアジア諸国は「日本が戦ってくれてありがとう。おかげで独立できました」と感謝している。
・韓国は日本と戦争したわけではないにもかかわらず、中国とともに反日攻撃をしているが、そもそも「韓国併合」は日本が植民地にしたのではない。「併合」はアネクゼーション(annexation)といい、英国のイングランドがスコットランドを併合した、というように使われる。
・植民地はコロナイゼーション(colonization)であり、併合は植民地化とは異なる、という渡部先生の指摘は貴重である。
・その他諸々、戦後歴史教科書を書き換える必要を痛感した対談であった。(この記事は、平成27年3月26日付岡山県版に掲載されたものです)
森靖喜(もり・やすき) 昭和16年、岡山市生まれ。明治大学大学院卒業後、43年から金山学園(現・岡山学芸館高校)の教諭、岡山市教育委員長などを歴任。現在は岡山県私学協会長、学校法人・森教育学園理事長、岡山学芸館高校・清秀中学校学園長、教育再生をすすめる全国連絡協議会世話人。専門は政治学。
1)自虐史観
1.1)自虐史観とは
・自虐史観とは、太平洋戦争後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を批判・否定的に評価する側が用いる造語である。彼らの主張は、戦後の歴史観を自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価し、日本を貶める歴史観であるとみなしている。
・ほぼ同種の造語として、「日本悪玉史観」、「東京裁判史観」がある。「自虐史観」への批判者たちがGHQによる戦後統治と極東国際軍事裁判(東京裁判)を通じて「日本は悪である」との考え方を「押し付けられた」とみなしているためである。
1.2)戦後の歴史観を「自虐史観」と呼ぶ層の主張
・太平洋戦争(大東亜戦争)での敗戦により、GHQによる統治が行われる中で、歴史学界や教育界の一部(学校教育の現場、日本教職員組合に入っている教師ほか)などでは、占領政策を支え、GHQに迎合するかたちで、なぜ敗戦に至ったのかという視点から過去への反省がなされることとなり、その過程で戦前の日本国民が共有していたすべての価値観は根底から覆され、否定される事になった。
・アメリカとの比較で日本の近代化の遅れや、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、戦前には皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼした結果、その発展が阻害されたといわれたため、その反省から、マルクス主義の影響を強く受けた歴史研究(唯物史観)が主流となった。
・また、GHQによる「真相はこうだ」などの歴史検証番組の放送や、墨塗り教科書、皇国史観と見なされた図書の焚書などもそれに拍車をかけた。
1.3)沿革
・秦氏によると1970年代に入った頃に「東京裁判史観」という造語が、語義がやや不分明のままに論壇で流通し始めたという。
・冷戦の終結に伴い、ソビエト連邦を初めとする共産主義国家が倒れた結果、マルクス主義的な考え方の支持者が減少したことなどにより、日本の伝統・文化などにおいて歴史を再評価する傾向が表れ、教育学者で自由主義史観研究会を主宰した藤岡信勝らによる「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。
・「つくる会」は、主として近代史において、日本の「誇るべき」歴史を貶める、これまで主流であった歴史認識を「自虐史観」であるとして批判する。そして戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となったと指摘している。
・その教育を受けた結果、「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識を植え付けられ、いわゆる戦後民主主義教育によって連合国の思うがままの誤った歴史観、つまり自虐史観が蔓延したとして、「つくる会」の言うところの「暗黒史観」や「土下座教育」の改善を主張している。
1.4)論争
・彼らは “ 日本の歴史学が戦後民主主義教育によって著しく歪められた ” と考え改善しようとし、左派の歴史学者や歴史観に対して「左翼」「反日主義者」「プロ市民」などとレッテルを貼った。一方、この動きに反対する人々は右派に「歴史修正主義」「右翼」「軍国主義」などとレッテルを貼り返し、双方で非難し合っている。
・「自由主義史観」の提唱者は軍国主義や皇国史観へ回帰し民主主義を否定するわけではなく、“ 歴史は一面的に捉えることはできない。正と負の歴史の真実を見つめなおそう ” という立場をとっているのだと主張している(つくる会が市販版教科書の冒頭に記した「歴史は科学ではなく物語」の言葉)。
・一方、反対の立場の人々は、「自由主義史観」運動の提唱者や支持者に右翼勢力が含まれており、また彼らが唱える歴史認識には日本史の「負」の側面がほとんど描かれていないと主張して、「自由主義史観」運動は戦前への回帰運動であり、軍国主義・皇国史観の復権であると批判している。
1.5)進歩的文化人
・進歩的文化人とは、第2次世界大戦後の占領期から1980年代にかけて、市民運動などの運動に関与し、学界、ジャーナリズム、マスメディア、教育等で活躍し「社会を牛耳ってきた反米・反日・親中・左翼系の知識人ら」とされる人々を漠然と指す。
・明確な定義はなく、実際にはレッテルとして誹謗、もしくは単純化のために用いられる。「リベラル」と「民主主義」を好んで標榜する人々を指すことが多く、代表格として、清水幾太郎(晩年は転向)、丸山眞男、加藤周一、鶴見俊輔、小田実、大江健三郎、西園寺公一、羽仁五郎、家永三郎、本多勝一などについてしばしばこの呼称が用いられた。
・特定のイデオロギーを主張しないところから、右派・左派にかかわらず、何らかのイデオロギーを持つ人々がそれに沿わない人物に対して批判的な文脈の中で使用する場合がある。「良心的勢力」とも呼ばれる。
・冷戦期に主要な活動をしていた人物に使われることが多く、1990年代以降に主要な活動を始めた文化人にはあまり使われない言葉である。
・保守勢力からは旧ソ連・中国・北朝鮮などの共産主義国に対して「心の祖国」と自発的に帰依し、それらの国々の主張に沿った報道をしたという批判や、かつては右翼的な発言を繰り返してきながら、それへの反省もなしに時流に乗っている人々が少なからずいるといった批判がある。 家永三郎、住井すゑなどの人物が、これに該当する。
・また、2000年代以降、インターネットユーザーからは反日売国奴と批判している。また北朝鮮を支持・理解するため、彼らを在日朝鮮人ないし帰化人であると断定して批判を展開する者もいる(いわゆる在日認定)。
・広義には、これらの文化人に言論活動の場を提供した媒体の名称から、朝日文化人・岩波文化人もほぼ同義であるとされる。戦後民主主義者もほぼ同義語である。
・明白にマルクス主義の立場に立つ論者を除いた呼称として使われることも多いが、左派知識人の別称として用いる場合には、マルクス主義者を含んだ意味合いで使われることもある(たとえば谷沢永一や稲垣武は進歩的文化人批判の著書で向坂逸郎のような明確な社会主義者も取り上げている。向坂は「非武装中立は日本が資本主義だから唱えていること、日本が社会主義になれば帝国主義に抗するため軍備を持つのは当然」と公言した)。
・左翼系文化人でも冷戦終了後に活動を始めた若手文化人・在野知識人に対して指すことはあまりない。
・(21世紀に入り)活動している著名人のほぼ全員が、「九条の会」発起人・賛同者に名を連ねているともいわれる。その主張としては、反戦・護憲・反米が挙げられる。
・具体的には憲法九条の維持、60年安保条約締結反対、沖縄米軍基地撤退、ヴェトナム反戦などが挙げられる。
1)平和をもたらしたのは憲法ではない
・日本国憲法がもたらしたもの、それは平和ではなく、むしろ心の危機であり、そして、現在もこの憲法は、日本人の心の危機を生み続けている。
・現行憲法を肯定・支持する人々の多くは、戦後日本が50年以上、戦争を起こさず、戦争に巻き込まれず、平和と繁栄を享受して来られたのは、「平和憲法」のおかげだ、と考えている。しかし、これは誤った思い込みにすぎない。
・憲法に平和を誓う言葉が書かれていれば、平和が実現するというものではない。他国はその国の憲法の条文を見て、侵攻するか否かを決めるのではない。どのような願いや祈りが憲法に記されていようが、それとは無関係に侵攻は起こりえる。
・国際社会の現実が示していることは、平和を維持しているのは、国家間の力のバランスである、ということである。力のバランスが崩れた時に、戦争は起こりやすくなる。
・戦後の日本が平和を維持できたのは、日本国憲法のためではなく、憲法の上位に存在した占領軍や、占領終了後も駐留した米軍の軍事力によるものであり、日米安全保障条約の抑止力の働きによるのである。それらが、ソ連や中国・北朝鮮との力のバランスを維持していたからこそ、日本は戦後半世紀以上の平和と繁栄を享受できたのである。
・戦後の日本に平和と繁栄をもたらしたのは、日本国憲法と安保条約との相補的な組み合わせであった。米ソ対立という冷戦下で、戦力不保持・交戦権否定の憲法を維持しながら安全保障を確保するには、日本は、米国との間で安全保障条約を結ぶ以外に手段はなかった。
・同時に安保によって日本はパックス・アメリカーナの受益国として多くの恩恵を受けてきた。アメリカにとっても極東に安定的な軍事基地が確保でき、パックス・アメリカーナの形成に役に立ったわけであり、この点では日米双方にとって互恵的であったといえる。
・安保は、敗戦国・日本には基地の提供などの義務はあるものの、戦勝国・アメリカが一方的に防衛義務を負うという片務条約であった。それゆえ、日本は自国の防衛にすら責任を持たなくてよくなり、自らの負担なくして平和と繁栄を享受することができた。そして、アメリカの作った自由貿易体制を最大限活用して、高度経済成長を成し遂げ、経済的に大きな利益を得たわけである。
・日本はこうした特殊な立場に居直って、特権的な条件を利用した栄華に酔いしれてきたのである。しかし、それは従属国的・被保護国的な地位に甘んじることによって、保障されたものである。
・そのため、日本人は、自主独立の精神と民族としての気概や誇りを失い、他国への依存心を強め、その下で、経済的な発展ばかりを追求するという、卑屈で物欲的な国民に成り下がったのである。そして、この他者依存的な防衛機構と経済的繁栄が、日本人の心の危機を生み出す要因の一つとなっている。
2)憲法がもたらした心の危機
・日本弱体化政策を固定・継続化した現行憲法は、今日の日本人の心の危機を生み出した法的仕掛けとなっている。
・日本を弱体化するとは、日本の国力を弱体化することである。国力とは、その国の経済力、政治力、外交力、軍事力、文化的影響力等の総合したものである。
・国家間の対立・緊張が高まったときには、武力の強弱が国の運命を左右する。平和的手段による解決を目指す外交にしても、武力の裏付けがあってこそ、相手国に約束を守らせることができるのであり、武力による裏付けがなければ、条約でさえ一方的に破られるものなのである。
・武力によって、他国の侵攻を防ぎ、武力の裏付けを持って、外交による交渉で相手国との合意を作るところに、現代世界における平和がある。
・戦後、米国は日本の国力を弱体化するために、一度は日本の軍事力を奪い、非武装化したが、国際社会のイデオロギーと国益の対立は、米国自身によって、日本の国防を回復せざるをえなくした。
・しかし、米国は、日本の主権を制限し、日本に防衛力を与えながら、交戦権は行使できないようにしている。
・しかし、国力を弱める最大の方法とは、その国民の精神を骨抜きにすることである。国力とは、国民一人一人の気概と団結に基づくものであり、国民の精神力なくしては、いかなる近代工業設備も、情報システムも、近代兵器大系も、機能しない。
・逆に、国民が道義に基づいて精神的に団結していれば、こうした物理的な装置を持たなくとも、強い国力を発揮しえる。例えば、ベトナム戦争で世界最大の強国・アメリカと戦ったベトナムはその好例である。
・さて、米国は戦後、日本が再び米国の脅威とならないように、黒人奴隷経営と植民地支配の経験に基づいて、巧みに「精神的な武装解除」を行った。そして、民族の伝統と歴史を断ち切り、国民の誇りと団結心を奪い、強者の不正や抑圧に対する抵抗心・闘争心を奪ったのである。この目的に供して、米国製の日本国憲法は、占領政策を固定し、継続させる役割を果たしてきた。
・その結果、日本人本来の精神は骨抜きにされ、日本独特の心の危機が生み出された。特に、戦後50年を前後して、戦後の日教組教育を受けた世代が社会活動の中心となるに従って急速に悪化し、危機はあらゆる面に吹き出ている。政治、経済、外交、防衛、教育、マスコミ、医療、家庭、風俗、環境等々。日本人の心の危機は、全面的かつ根本的なものへと広く、深く、そして激しく進行している。
・この危機は、一人一人の心の奥深くから、生み出されている。個人と団体による利己主義の蔓延、家庭の不和・崩壊、学校におけるいじめ、オウム真理教事件などの重大な一因が、憲法にあると考えられる。
・日本は、敗戦国・半植民地国家特有の精神的危機を未解決のまま、先進文明国共通の社会的危機、そして地球人類全体の生存的危機に直面している。これらの危機を解決・克服して、21世紀に新時代を切り開いていくためには、日本人自身の手による新憲法の制定は必須の課題である。
・それは、どの分野、どの角度から、取り組んでも、ゆきつく共通の課題であることを見据える必要がある。まず、自主憲法を制定し、自国の制度機構を改めて国力を整え、そのうえで、地球と人類の危機を解決・克服するための活動を推進するところに、日本人が国際貢献をする道があると思われる。
3)アノミーとアイデンティティ・クライシス
3.1)アノミー
・人間は、本質的に、家族的存在であり、社会的存在また歴史的存在である。自己は、家族と社会と歴史を貫く生命と記憶を受け継ぎ、その流れと構造を認識することによって、自己を肯定し、生命と精神の成長と進化を求めていく。
・戦後日本を覆っている心の危機は、こうした人間本質をゆるがすものである。小室直樹氏によれば、その危機の要素の一つはアノミーであり、また別の一つはアイデンティティ・クライシスです。
・アノミーは、デュルケムによる社会心理学的概念。敗戦国における社会規範の喪失を意味する。第1次大戦後のドイツのように、敗戦という国民的な体験によって、国家体制が解体され、それまでの国民的な価値観・道徳観が崩壊した時に生じる無秩序と混乱の状態である。
・特に、外力によって、その民族の伝統、文化、国民精神を否定・破壊されたときに、状態は深刻となる。こうした否定・破壊は、第2次大戦後のドイツにおいてさえ行われなかったことであるが、日本においてはGHQによって徹底的に行われ、そのため戦後的急性症状であるアノミーが、半世紀以上もの間、慢性化するという特殊な事態となっていると思われる。
・そして、家庭、学校、社会、国家など、それぞれのレベルで、寄ってたつべき規範が失われたまま世代の交代を迎え、秩序の崩壊と混乱がより深く進んできていると思われる。
3.2)アイデンティティ・クライシス
・アイデンティティ・クライシスは、もともとエリクソンによる発達心理学的概念ですが、ここでは歴史的自己同定の危機という意味で言っている。自己の存在の根拠を、家族と社会と歴史のつながりの中に見出せず、自己を同定できないときに、人は不安と孤独を感じる。
・戦後日本人は、外部の力によって自分の過去が断ち切られてしまったため、自己の出生の由来がわからなくなり、民族=国民の一員としての自覚を持てず、歴史的自己同定の不能症となっている。
・その結果、他を模倣して代償物を求めるか、根拠喪失のまま人格崩壊へと進むか、という2つの主な傾向が現れている。
・前者の多くは、米国の文化・価値観かソ連・中共・北鮮の共産思想に代償物を求め、その国民に成り代わらんばかりの模倣に走る。後者の多くは、自暴自棄から自虐・自殺・精神異常へ、或は他者へ向かえば攻撃・破壊へといたる。
3.3)日本の現状
(引用:徳間書店HP)
・これらのアノミーとアイデンティティ・クライシスが複合的に起こっているのが、現代日本の社会心理状況だと思われる。小室直樹氏によれば「病膏肓に入る」(『封印の昭和史』)という病状であり、ガンが骨髄を犯し、余病も併発して余命幾ばくもない重態というところであろう。
・こうした状況を生み出しているものが、東京裁判史観であり、また日本国憲法である。法的に限って言えば、一国民に社会的規範と自己同一性の根拠を与えるものは、憲法である。その憲法が、東京裁判史観と軌を一にして、日本人から民族の記憶と伝統を奪い、歴史を断ち切った。
・そのため、日本人は伝統と歴史に基づいた社会規範を回復・創造することができず、また過去をさかのぼって、自己の本質を確認し、自己同定をすることができなくなっている。
4)憲法が生み出した性格類型
・現行憲法は、アノミーとアイデンティティ・クライシスの中で、戦後日本人特有の性格を生み出してきた。それは、心の危機に直面した性格類型であり、「贖罪と自責」を基にした、「甘えと卑屈」「わがままと無責任」「自立心と団結心の欠如」を特徴とすると思われる。
4.1)「贖罪」と「自責」
・憲法の前文を起草した人間は、米国人ハッシー海軍中佐です。憲法前文は、日本国民が、謝罪の仕方や誓いの内容まで外国人が書いたものを与えられ、それを演じる台本となっている。その内容に自己を同定するならば、自己とは、過去の戦争の罪を悔い、自らを責め、他者に依存することによってのみ存在できる自己となる。
・それは、戦勝国である連合国に謝罪を強要され、自己の生存を勝者の慈悲と寛容に委ねさせられた敗者の姿である。そして、「戦争犯罪国家」の「極悪非道」の国民であり、いわば無期懲役の囚人の姿である。
・そして、憲法前文は、戦勝国の秩序による平和を守るために、日本人が、限りなく贖罪と自責を続け、勝者に自己の存在を依存し続けなければならないという構造を、法文化している。この構造が、無意識の最深部の階層を構造化している。
4.2)「甘え」と「卑屈」
・日本国憲法によって、従属国・被保護国的半植民地的な国家としての地位を固定され、侵攻戦争放棄、戦力不保持、自衛権制限によって、自己の生存を他者に依存するという存在となった。それが国際社会における「甘え」を生み出した。この「甘え」は、いつまでも保護を求め、依存し続けようとする心理であり、自立しようとする意志を欠いた状態である。この「甘え」は、同じ発生原因による「卑屈」と裏表になっている。
・自己の存在を自ら守るには、国家にとっても、個人にとっても、意志と技術が必要である。しかし、日本人は、自らを守ろうとする気概を失い、自衛のための抵抗すら罪悪と思い込むことになった。
・自己防衛の意志がなくては、そのための技術を身につける事はできず、当然、自分を自分で守ることができない。また他の不正や抑圧に対しても戦うことができない。
・こうして防衛本能を奪われた「卑屈」な姿は、家畜にも比すべきものである。さらに、守るべき自己の枠が無くなってしまったときには、人格は崩壊する。他者へのとめどない依存か、自虐・自殺・自滅か。
(引用:PHPのHP)
・渡部昇一氏は、土居建男氏との共著『いじめと妬み』(PHP)において、現行憲法下の日本国民の情況と、いじめを受けるいじめられっ子の心理とが、良く似ていることを指摘している。誇りと自尊心を失い、自分を守るために闘うことすらできないという点に共通点があるわけである。
4.3)「わがまま」と「無責任」
・主権を制限された従属国・被保護国・半植民地的な地位に甘んじつつ、奇蹟的な経済復興と高度経済成長を成し遂げた日本国民は、過去に対する「贖罪と自責」をしつつ、「甘えと卑屈」の現状に居直り、「わがまま」な利己主義的行動をしている。自国の物質的利益のためにエコノミック・アニマルといわれるほどに拝金物欲を追求し、国際社会での防衛責任を果たすことなく、また地球環境に対しても「無責任」な振る舞いを続けている。そのため、国際社会において顰蹙と非難を買っている。
・かつて、日本人は恥じと質素の文化を作り上げ、厳しい自制と責任意識を美徳としていた。しかし、それは、明治以降の西洋化的近代化の中で、武士道の精神とともに失われてきた。その結果が、戦前・昭和前期の無責任構造を生み出した。戦後、この傾向は、日本国憲法によって一層徹底された。
・固有の精神文化を奪われた結果、今日では、政治家も官僚も企業家も学者も、利己的行動をほしいままにしながら、誰も責任を取ろうとしないという社会となっている。それが国内だけでなく国際社会でも通用すると錯覚しているところに、日本国憲法的な「わがままと無責任」の特異性がある。
4.4)「自立心」と「団結心」の喪失
・日本人は、占領政策によって自立心を奪われ、かつ団結心を破壊されたが、日本国憲法はこの喪失状態を固定する役目を果たしてきた。その結果、責任と義務を果たす個人としての自己が確立されず、個人の自主性、自立性を欠くとともに、集団においては、規律と団結を欠くという、個人としても、集団としても弱いというどっちつかずの状態になっている。
・日本のアジア的・稲作文化的な共同体では、個人より家族や共同体が主であり、そこでは調和と公益が重んじられた。この家族主義・共同体主義は、蜜蜂・蟻などのような集団生活をする動物社会に近い社会であり、集団としての強さを持っていた。この社会は、欧米近代の個人主義の社会とは、社会の構成原理が違う。その原理的な差異を無視して、米国型の個人主義が植え付けられようとした。
・一方、日本人は、民族としての団結心を奪われ、団結することへの恐れを植え付けられているため、団結に対しては、自主規制が働くようにプログラムされている。団結することは悪である、特に指導者を中心に団結することは危険であるという観念が、意識の深層に植え付けれている。このため、個として確立していない個人が、集団としての団結もできないという状態となっている。
・こういう状態ゆえ、国家的危機、人類的危機において、自立した個人として、或は団結した集団として、危機に取り組み、乗り越え、また他を救おうという意志が結集されにくい状態となっている。
・これらの「贖罪」「自責」「甘え」「卑屈」「わがまま」「無責任」 「自立心と団結心の喪失」が、戦後日本人の性格的特徴となっていると思われます。
・そして、これらの特徴を生み出している源泉の一つが、日本国憲法であり、憲法は心の危機を生み続けているのである。「日本国憲法」は亡国憲法だからである。日本弱体化政策の結果であるこの危機は、憲法を改正し、自主憲法を制定することなくして解決できない。
・そしてまたこれなくして、日本が先進国の社会的危機、地球人類の生存的危機を解決・克服して、21世紀に新時代を切り開いていくことはできないと思われます。
5)憲法改正は必須の課題
・どんな憲法でも完璧ということはありえない。何かしらの欠陥や不足があるであろう。その欠陥や不足を知ったとき、憲法を改正するか、放置するかが問題です。憲法放置によって、亡国を招いた前例が、我が国にはあります。
〔大日本帝国憲法の問題点〕
・大日本帝国憲法は、明治の先人が苦心の末につくりあげた憲法であった。しかし、昭和に入って、国際情勢が変化し、また世代交代が進む中で、憲法は欠陥を示すにいたった。
・「統帥権の独立」という憲法の急所を突いた軍部は、昭和5年以降、統帥権干犯問題・天皇機関説攻撃をきっかけとして、台頭した。昭和の軍人は、明治天皇の遺勅に反して、政治に介入した。憲法の問題点を認識した人々も、神聖視された欽定憲法の改正は、言い出し得なかった。帝国憲法には、首相とか内閣総理大臣という言葉が一言もなく、また政党政治を予想したものでもなかった。
・政府や議会は、軍部の暴走を抑えることができなかった。その結果、シナとの紛争は泥沼化し、その果てに、我が国は無謀な大戦争に突入し、敗北を喫した。2百万の同胞の死と、膨大な財の破壊・損失をもたらす大破局であった。
〔日本国憲法の問題点〕
・翻って、戦後の日本国憲法は、最初から欠陥の多い粗悪な輸入品であった。日本国憲法は、占領下にGHQによって立案され、武力的脅迫をもって日本国政府に押し付けられたという事実がある。こうした憲法を放置して、国が正しく進むわけはないのである。
・日本は過去に一度、憲法の欠陥による破局を体験している。この失敗に学び、欠陥憲法の放置は、新たな亡国に至ることに気づくべきだと思われる。
〔トインビーの言葉〕
・トインビーは主著『歴史の研究』で次のように述べています。「すべての国家は衰退するが、その原因は必ずしも不可逆的なものではない。しかし一番致命的な要因は、国家が自己決定ができなくなることだ」と。この賢哲の言葉にならって言えば、「憲法を自ら決めるという自己決定ができない国民は、衰退する」。
〔日本の再生のための必須課題〕
・欠陥と矛盾の多い現行憲法は、日本弱体化政策の総仕上げとして日本に与えられた桎梏です。マッカーサーによるマインドコントロールは、本人の意思さえ超えて、日本人の精神を呪縛している。心を澄ませて真実に目を開き、日本弱体化の謀略を克服することが必要である。
・そして、日本の再生は、自ら憲法を改正することによってのみ可能である。それは自己の運命を切り開く意志をもった国民多数の出現によってのみ実現できるのである。
・憲法改正は、日本と世界が新時代を迎えるために、日本人自身が実行しなければならない必須の課題なのである。
引用:「日本弱体化政策」の検証~日本の再生をめざして
細川一彦氏 http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08b.htm
日本は今日、政治・経済・社会等、あらゆる分野で深刻な問題を抱えている。最も危機的なものの一つが、教育である。旧教育基本法は、どういう経緯で作られ、どのような弊害があったのか。
1)教育の目的と戦後教育の欠陥
・教育の目的とは人格形成であり、その国を担う次世代の国民を育てることにある。そのためには、知育・体育とともに、徳育が必要である。ところが、わが国の戦後教育では、道徳教育が、ほとんど行われてこなかった。
・家庭では、しつけに始まり社会の規範がきちんと教えられていない。学校では、人としてどう生きるべきかという一番大切なことを教えていない。
・青少年が、家族の一員として、社会の一員として、国民の一人として、人類の一人として、どういう人間になるべきか、ということを、十分に教えてこなかったのである。これは、教育のあり方が根本的に違っているというほかはない。
・どうして、こういうことになっているのだろうか。それは、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗北と戦勝国による日本弱体化政策の影響である。戦勝国は、日本人を精神的に骨抜きにするための政策を行った。とりわけ重点のおかれたものの一つが、教育の改革だった。
・それまで教えられてきた道徳教育が否定され、教育内容から伝統に基づく家庭道徳、社会道徳、国民道徳がなくされてしまったのである。
・こうした欠陥教育を受けて育った戦後世代は、第2世代・第3世代となるに従って、急速に倫理観が低下してきた。いじめ、不登校、学級崩壊、対教師暴力、学力低下等が、学校で深刻な問題となっている。援助交際という名の少女売春、麻薬服用の低年齢化、少年による凶悪犯罪、一方では親の無責任・身勝手・給食費未納問題等々、事態はもはや猶予を許さない。このまま進めば、日本は亡国に至るのみである。
・日本を崩壊から守るには、教育を改革しなければならない。教育を根本的に改革するために必要不可欠とされたのが、戦後教育を規定してきた教育基本法の改正だった。
2)憲法と教育には深い関係が
・旧教育基本法は、昭和22年3月に制定された。戦後教育の欠陥は、この法律の中に潜んでいた。教育基本法が、わが国の教育を呪縛してきたのである。旧教育基本法は、日本国憲法のもとで作られた。それゆえ、日本国憲法の性格がそのまま同法に反映していた。
・そもそも憲法と教育基本法とは、どういう関係にあるのだろうか。
・憲法とは、国のかたちを、根本的に規定するものである。憲法は、それに基づく教育が行われて初めて、国民の意識を規定するものとなる。この憲法を担う国民を育てるための基本方針が、教育基本法である。
・明治国家においては、教育の基本方針を示すものは、教育勅語だった。これは明治天皇が国民に呼びかけた御言葉である。明治22年2月に大日本帝国憲法が発布されると、翌23年10月に教育勅語が発布されている。明治天皇に仕えた指導層は、憲法と教育の関係について、実に深い理解をもっていたといえよう。
・国のかたちは憲法に定めるけれども、その憲法の下で国を担う人間は、教育勅語に基づいて育てるということである。そのことを最も深く認識していたのは、井上毅だった。
・井上は憲法と教育勅語をともに起草した人物だからである。井上の構想では、憲法と教育勅語は別々のものではなく、「憲法-勅語体系」とでもいった、一つの体系をなしていたのだろう。
・太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦後、マッカーサーは、大日本帝国憲法に替えて、GHQで極秘裏に作成した憲法を押し付けた。憲法の施行は昭和22年5月。その前に教育基本法を、22年3月に施行した。
・明治憲法と教育勅語がひとセットだったように、日本国憲法と教育基本法もまたひとセットとして、作成されたと考えられる。戦後日本の組織・形態はマッカーサー憲法で規定するが、その日本国民の精神は教育基本法で変えていくということだろう。明治の井上がそうだったように、マッカーサーも日本における憲法と教育との関係を深く認識していたのである。
・このように考えると、教育基本法は、単に様々な法律のうちのひとつではなく、特別の重みを持つことがわかる。その証として、旧教育基本法には、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立する」ために、この法律を制定するという前文がつけられていた。
3)旧教育基本法の成立事情
・日本国憲法はGHQによって作られ、銃砲の下でわが国に押し付けられた憲法である。この憲法は昭和21年11月3日に公布された。そして22年5月3日に施行されるに先立って、同年の3月31日に旧教育基本法が施行された。
・旧教育基本法は、占領下の日本で、当時のわが国の教育の専門家による教育刷新委員会が原案をつくった。ところが帝国議会に上程される直前に、GHQのCIE(民間情報教育局)の指示により、法案の前文から「伝統を尊重し」という文言が削除された。また「宗教的情操の涵養」という部分も削除された。この変更は重要である。こうして、旧教育基本法は、GHQの情報管理・言論統制の中で成立したのである。
・成立した旧教育基本法には憲法順守がうたわれ、「人格の完成」「機会均等」などの教育理念が盛り込まれる一方、愛国心、公共心、伝統の尊重などが欠け落ちていた。わが国の青少年をどういう「日本国民」に育てるか、という目標像がなかったのである。
・旧教育基本法は、まさにGHQ製の憲法に基づく教育を行うための法律として生み出された。日本国憲法は、占領基本法という性格を持っているが、旧教育基本法は、その憲法の下での占領教育法というべきものだった。それは、占領後、行われてきた日本弱体化のための一連の占領教育政策を完成し、固定するものだった。
・旧教育基本法の欠陥を、さらに決定的にしたのは、教育勅語が廃止されたことである。教育勅語は、明治以来、わが国の教育の理念・目標を示してきたものだった。それはまた日本の道徳教育の根本を示すものでもあった。
・教育勅語には、親孝行、兄弟愛、夫婦愛、公共心、愛国心などの道徳の基準が示されていた。旧教育基本法の日本側の立法者は、旧教育基本法を、教育勅語と並立し、これを補完するものと考えていた。
・もしそのまま教育勅語が存続されていれば、旧教育基本法の欠陥は教育勅語によって補われていただろう。しかし、戦勝国はそう甘くはなかった。
・旧教育基本法が昭和22年3月に施行された1年3ヵ月後、23年6月に教育勅語は廃止を余儀なくされた。GHQの口頭命令によって、国会が廃止・失効を決議した。このことによって、戦後教育には決定的な欠陥が生れた。わが国の教育を再建するには、教育基本法の改正だけでなく、教育勅語の復権が必要である。
4)旧教育基本法の内容
旧教育基本法は、どういう内容のものだったか。(既述)
5)こんなところが問題だった
・旧教育基本法は、前文と11条の条文による短い法律だった。この法律が、約60年間にわたり、わが国の戦後教育を支配してきた。
・はじめに、前文は次のような文章だった。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」
・この前文は、GHQ製が押し付けた憲法と教育基本法が一つの体系をなしていたことを示している。前文によると、日本国憲法は「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献」するという理想を掲げている。そしてその理想を実現するには、教育の力が必要である。だから、教育基本法によって、「日本国憲法の精神」に則った「教育の目的」を定めて、戦後日本の教育の基本を確立しようとしたことがわかる。
・問題は、それがどういう教育だったかということである。それは前文の中間部にある。すなわち、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育」だとされる。
・「個人の尊厳」や「真理と平和の希求」は大切なことである。それにはおそらく誰も異存はないだろう。しかし、ここには重要なことが欠けていた。自国の歴史や伝統を重んじ、国の発展をめざすということである。「民主」「平和」「個人」などの用語がある一方、「日本人」「民族」「国民」「歴史」「伝統」などの用語がなかったのである。
・こうした前文に続いて、第一条に「教育の目的」が規定されていた。すなわち、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とある。
・ここでは、教育の目的として「人格の完成」と「国民の育成」が掲げられている。これはまっとうなことである。しかし、日本人が日本民族としての自覚をもち、歴史と伝統を受け継ぐという観念が、そこにはなかった。
・旧教育基本法には、日本人に日本人が日本人としての誇りや民族意識を持ち、自国の歴史と伝統を伝えることが期待されていなかったのである。むしろ伝えないように制約されていたのである。この点で、旧教育基本法は、その源にある日本国憲法と全く同じく、占領政策推進法としての性格を明らかにしている。
・日本国憲法は、戦争の贖罪意識を色濃くし、自国を守る力を否定し、国民に国防の義務をなくし、日本人が自分の国を自ら守るという意識をもたないように制約をかけている。
・この憲法 ー 教育基本法の下では、「個人の尊厳」を重んじるとは、個人の権利の主張、私利私欲の追及にすぎず、「真理と平和の希求」は、戦勝国に与えられた規範への従属と、占領国の力への依存であるにすぎない。
・「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す」というものの、その「文化」は日本の歴史と伝統に基づくものとは、考えられていない。それもそのはず。戦勝国が持ち込み、外から移植しようとしている外国の文化が前提となっているからである。
・すなわち、戦勝国によって、押し付けられた憲法の「精神」を、日本人の青少年に吹き込んで、洗脳するための法律が、旧教育基本法だったのである。
・第二条以下では、教育の方針、教育の機会均等、義務教育、男女共学、学校教育、社会教育、政治教育、宗教教育、教育行政などを定めていたが、これらは上記を前提として定められたものである。
・そのなかで、重要なのは、宗教教育に関する問題である。 「宗教教育」については、第九条に規定されていた。先に日本側の原案には「宗教的情操の涵養」なる文言があったが、GHQによって削除されたと述べた。そのことに現れているように、旧教育基本法には、宗教的な情操教育を大切にするという姿勢はなかった。むしろ憲法第20条3項とともに、旧教育基本法第九条2項は、公立学校での宗教教育を制限するものだった。
・マッカーサーは、憲法-教育基本法の施行の前に、戦前の日本の神道を戦勝国にとって危険なものと見て、国家神道廃止令を出した。これに過剰に反応した日本人もいて、日本人の宗教的情感に根ざした教育を教育現場から遠ざけることになってしまった。さらに近年は、憲法と教育基本法の宗教関係の条文を極端に拡大解釈し、あらゆる宗教的な文化・習慣までを否定しようとする傾向が現れている。
・しかし、欧米では今日も、公立学校で、キリスト教に基づく道徳教育がされている。実際、道徳教育は、宗教や伝統文化への理解なしには成り立たない点がある。教育において、自国の精神文化を教えなければ、その国民は自国の精神を失って行くことになる。そして、それと同時に、他人への思いやりや、社会に奉仕する心など、人間として大切な要素を失って行くことにもなってしまう。
・この項目の前半部で、旧教育基本法は、日本人が自国の歴史と伝統を伝えないような内容となっていたことを述べた。その一環として、日本人の心の中核にある宗教的情操を弱め、次世代に伝わらないようにしようとする意図があったと見られるのである。
・旧教育基本法に盛られた占領者の意図が、わが国の教育現場で浸透したのは、日教組の活動による。旧教育基本法は、第10条1項に、教育は「不当な支配に服することなく、」という文言が入っていた。これは、国家による教育が、軍国主義者や超国家主義者によって支配されないようにするという。GHQの意思の表現である。
・日教組は、この条文を、教育現場への国の関与を排除するための根拠としてきた。学校行事における日の丸掲揚、君が代斉唱等に反対するために利用してきた。
・その点では、第十条1項こそ、旧教育基本法にこめられた意図を、日教組の教師たちが学校で青少年に浸透させる活動を可能にしてきた極めて有害な条文だったのである。
(引用:長尾論文)
1)「日教組問題のまとめ コギャルがあざ笑う戦後教育」(長尾論文)
※「長尾誠夫のHOTPAGE」「戦後教育暗黒史」
GHQの深謀とマルクス主義はいかに日本の教育を荒廃させていったのか。以下は、三つの論文に記した内容をまとめたものです。(詳しくは論文を読んでください)
1.1)昭和20年(1945)、終戦
・GHQは、日本人から愛国心を剥奪し、日本を弱小国とするべく様々な政策を実施する。修身、歴史教育、国旗掲揚の禁止等がそれである。この背景には、大国アメリカに対抗した日本への憎悪、恐怖、蔑視があった。さらに民主主義を広めるために政治活動を奨励する。
・マルクス主義者の羽仁五郎が全日本教員組合を結成し、「いかなる真理であっても強制はいけない」という理由で、教育勅語を廃止に持ちこむ。強制、管理、抑圧を否定する戦後教育イデオロギーはここから始まる。
・日本における革命を煽動したコミンテルンの狙いは、ソ連を守るために日本国内で騒乱を起こして日本を弱体化することにあった。戦後教育とはまさにアメリカ(GHQ)とソ連(コミンテルン)の謀略であったといえる。(民主教師が国旗国歌を執拗に反対するのも、米ソの日本に対する憎悪をそのまま受け継いでいるからである。)
1.2)昭和20年代(1945~1955)
・日教組が全国の学校を支配下に置き、勤評闘争やストに明け暮れた時代。この影響をもろに受けたのが、団塊の世代である。階級闘争イデオロギーを注入された団塊の世代が、高校紛争や大学紛争、あるいは70年代の反体制文化の担い手となったのは当然の帰結である。
・団塊世代の発想は、反権力、反体制、平等主義、自主性尊重というまさに戦後の日教組思想そのものであり、結果として、秩序の崩壊、モラルの低下、家庭崩壊、コギャル発生と、次々と悪しき要素を生み出している。
・団塊世代は今、マスコミや各種団体の中枢におり、戦後思想を組織的に敷衍している。「ゆとり教育」「フェミニズム」「セクハラ問題」「少年法擁護」「夫婦別姓」等、数え上げたらきりがない。
・これらは一見正当に見えるがゆえに、背後にある危険なイデオロギーに気づくことなく、世間に浸透しているのだ。
1.3)昭和30年~昭和40年代(1955~1975)
・日教組の勢いが弱まり、高度経済成長を迎える。高学歴化志向が高まり、高校進学率が増加していく。受験戦争という言葉に象徴されるように、子供たちがもっともよく勉強していた時期である。この頃は、非行やいじめ、不登校などが問題にされることはなく、学校は落ち着きを保っていた。
・国全体に経済発展という夢があったからというのが大きな理由だろうが、この時期までは戦前の価値観が生きていたことや「勉強」という学校の目的が明確であったことも大きい。
・だが、この間に60年安保と70年安保があり、反体制や反権力がブームとなり、既成のモラルや価値観を破壊する動きが広がっていく。
1.4)昭和50年~昭和54年(1975~1980)
・昭和52年、受験競争を緩和させるために授業内容を2~3割削減。高校進学率がピークに達するとともに、従来の真面目文化は消え、ツッパリ文化が生まれる。学校の雰囲気は激変し、このころから校内暴力が問題となる。
1.5)昭和54年~平成元年(1980年代)
・校内暴力が全国の学校で吹き荒れる。大量消費社会の到来とともに、若者文化が低俗化する。飲酒、喫煙、深夜徘徊、性交渉等が一般化。バブルの到来が拍車をかけ、遊び文化が若者に浸透していく。
・校内暴力沈静後は、マスコミによる徹底した管理教育批判が行われ、学校の教育力はどんどん低下していく。いじめも増加。教育問題は深刻化する。
1.6)平成2年~現在(1990年代)
・94年にコギャル発生。援助交際が社会問題化する。不登校、校内暴力増加。少年犯罪の凶悪化。学級崩壊、学力低下が問題となる。フリーターの増加、大学生の知の空洞化、性体験率の激増。教育は瀕死の状態に。文部省はこれを「ゆとり教育」で対処するというが、まさにお笑い種である。
・コギャルの発生には団塊世代の価値観が深くからんでいる。学級崩壊には管理教育批判が、学力低下には受験競争否定論が、家庭崩壊にはフェミニズムが、少年犯罪の増加には少年法擁護論が、フリーターの増加には帰属意識やナショナリズムの喪失が、文化の荒廃には表現の自由絶対論が、深く関係している。これらはすべて戦後思想から派生したものである。
・日本の弱体化を狙った米ソの謀略は、まさに完遂を迎えつつあるといえよう。
・すなわち・・・新世紀の日本の教育を再生するには、戦後教育をダメにした思想から脱却するしかないのだ!
2)「コギャルがあざ笑う戦後教育」
・1998『諸君!』掲載論文 (1998年に書いた論文ですので、風俗的に現代と多少異なる部分があります)
2.1)学校文化が崩壊した
・派手な化粧に超ミニスカの制服、ロングの茶髪にルーズソックスという恐ろしく画一的な格好をして闊歩するコギャル女子高生の姿は世界に類例を見ない珍奇な光景であろう。
・所かまわず座りこみ、ソックスをはきかえ、菓子類を食べ散らかす姿は、たいていの大人は(というより当の女子高生以外にとっては)不快を催すもの以外のなにものでもない。
・これらコギャル女子高生が拝金主義に染まったまま享楽的な姿を送り、一部の者が売春(援助交際)やテレクラ等のH系バイトをしていることは広く知られるようになったが、彼女たちが恰好の消費者の仕事であり、プリクラ、ポケベル、ピッチ等の女子高生関連産業が2兆円を超えるという現実の前では、彼女たちを叱るという行為は、旧道徳に固執するダサイことのように思われてしまい、なかなか打つ手がないというのが実情である。
・学校で彼女たちに接するわれわれ教師たちも、コギャル女子高生に限らず、その種の性向や価値観が一般の生徒にまで浸透しつつあるのを危惧しながらも、何の対策も取れないでいる。
・世間を賑わすコギャル女子高生の性向とはどのようなものか。
*特徴的傾向:享楽的、刹那的、退廃的、打算的、利己的、即物的、犯行的、自分勝手、夜郎自大、軽薄、破廉恥、等
*欠落しているもの:道徳心、倫理性、謙虚さ、勤勉さ、清楚さ、素直さ、気品、慎み、礼節、正義感、耐性、洞察力、思考力、等
・こうしてみると、彼女たちは人間が本来持たねばならない美徳が完全に欠落し、醜い俗物性のみが肥大化していることがわかる。今、女子高生の間にこのような性癖がじわじわと広がっているとすれば、それは近代以降、勤勉、努力、質素、忍耐といった徳目を重んじていた学校が、かつての教育力を失ったことを如実に示している。
・授業中に平然と化粧をし、菓子類を食い、雑誌を読み、注意されれば「誰にも迷惑をかけていない」とうそぶき、勉強はまったくせず、放課後になれば「遊び」を求めて都市空間に消えていくという生徒が大量に出現している現実は、まさに学校文化が崩壊したなによりの証拠であろう。
・これらコギャル女子高生が発生したのは、しばしばバブル期における拝金主義の影響であると説明されるが、ことはそれほど単純ではない。彼女たちの価値観を形作ったのは家庭、学校、社会という三つの環境要因が複雑にからんでおり、それらをつきつめていけば、はからずも戦後教育および戦後思想の問題点につきあたるのである。まさに、コギャル女子高生は戦後50年の社会が生み出した究極の姿であるといえるのだ。
2.2)すべてはミニスカから始まった
・コギャルという言葉が一般に使われ始めたのは1994年のことである。女子高生の姿を写した前後数年の写真を比べてみれば、この年にミニスカに象徴されるコギャルファッションが現れたことがわかる。
・しかし、当時は援助交際やH系のアルバイトは一般的になっておらず、遊び方の女子高生が大量に現れたという捉え方をされていた。援助交際という言葉が広がり、女子高生売春が問題化するのは2年後の1996年であり、この2年間のプランクは「ミニスカから援助交際が始まった」ことを明確に示している。
・制服とは本来、清楚さや処女性の象徴として捉えられており、その対極にあるコギャルファッションは、彼女たちの意思にかかわらず、背徳的な娼婦性を全面に打ち出している。茶髪やルーズソックスは真面目ではないという記号であり、超ミニスカをはくのは性的アピールによって周囲の男を兆発するという意思表示にほかならない。
・ルーズソックスはミニスカによって露出した脚を隠したいという意図によるものだろうが、だらしなくずり下がったソックスと超ミニの組み合わせによって、セックスをする直前の姿すら彷彿させている。
・つまり、性を抑圧するために導入された制服が女子高生たちの主体的な意思によって、性を大胆に誇示するアイテムと化したのである。これは都市空間において革命的な意味をもたらした。
・超ミニという挑発的な恰好で闊歩する彼女たちの姿は、いやでも世間の注目をあび、制服がかつて処女性の象徴であったがゆえに、その落差は強烈なまでに男の性的衝動を刺激することになった。ここから援助交際は始まったのである。
・公的機関の調査によれば、援助交際経験のある女子高生は4%にも上るという。100人中4人の女子高生が売春をしているというのは何とも凄まじい限りだが、この4%の行動形態が刺激的で先鋭的ーーーつまり、面白そうでありススンでいると思われるがゆえに、多くの女子高生が同種の価値観を身につけるようになったのであろう。
・もちろん、このような考えには、大人の側の責任を棚上げするものだという反論もあろうが、これから述べる二つの事実によって「すべてはミニスカから始まった」ことを証明したい。
・かつて80年代前半に女子大生ブームというのがあった。その後を受けるように「おニャン子クラブ」が登場し、第1次女子高生ブームが起きる。「セーラー服を脱がさないで」という挑発的な歌を覚えている人も多いだろう。
・この頃すでにテレクラやダイヤルQ2などの電話風俗が始まっており、不特定多数との交際は自由に行えるようになっていたが、まだ女子高生売春は一般化していなかった。
・おニャン子クラブもブラウン管のアイドルという域から出ることはなく、現実の女子高生に関心が向けられることはなかった。
・理由は様々だろうが、モラルの崩壊が進んでいなかったというより、まだミニスカは流行っておらず、日常的に女子高生の性を意識しなかったことが大きいと思われる。
・第2次女子高生ブームはバブルの弾けた90年代になってから起きる。いわゆるブルセラである。承知のようにブルセラは物を介して女子高生を買う風俗だが、あくまで物の売買という粋から出ることはなく、ダイレクトな肉体の売買までは至らなかった。当時すでに女子高生デートクラブなども存在していたが、売春が例外的行為だったことは注目に値する。
・しかし、このブルセラブームによって、女子高生が提示する性を金銭によって大人が享受するという共生関係ができあがり、94年になって挑発的なミニスカが流行するや、容易に売春へと移行したのである。
・とはいえ、男の側が要求したとて、女子高生が応じなければ売春は成立しない。外見もさることながら、彼女たちの内面にも売春に応じるだけの心性が出来あがっていた点も無視できない。
・なぜ彼女たちは売春に走るのか。また売春にまで至らなくても、なぜ今の女子高生は享楽的で拝金主義に染まってしまったのか。この問題を考えるには、彼女たちが生育した家庭や学校、社会文化を複合的に捉えなければならない。
2.3)コギャルを生んだ戦後民主教育
・94年にコギャルが発生したとすれば、コギャル第1世代が生まれたのはちょうど80年(昭和55年)前後となる。コギャルの親が団塊世代という指摘はすでになされているが、この世代の価値観を決定づけたのが戦後の学校教育である。
・団塊世代は40年代後半のベビーブームに生まれ、55年頃に小学校に入学している。当時は60万もの組合員を擁する日教組が全国の学校を支配化に置き、道徳教育や勤務評定をめぐって文部省と激しく対立していた。デモとストが頻繁に繰り返され、教師が労働者だという認識が広がったのもこの頃である。
・これら日教組の教師が熱に浮かされるように推進したのが、いわゆる戦後民主主義教育である。大正自由教育と左翼イデオロギーが奇妙に融合したこの教育理念は、かつての軍国主義を台頭させないという名目のために、戦前の文化や思想・教育形態をことごとく否定したものであった。
・教育史的には「全体主義に奉仕する練成教育から、自主的な問題解決を軸とする体験学習への移行」であり、「自主性や自発性を重んじた個性活動を根本原理においた教育である」とされるが、戦前を全否定するという極端な発想であるだけに、当初から多くの矛盾をはらんでいた。
・こうした理念が初めて登場したのは、教育勅語をおいてである。45年、日本の非軍事化と民主化を進めるGHQは「修身、日本歴史、地理の授業停止」を命じて国家主義教育の一掃をはかったが、教育勅語だけは占領政策に天皇制が必要であるという理由から明確には否定できないでいた。
・文部省も国体護持のために教育勅語を存続させようとしたが、昭和23年の衆参議院においてその失効決議が採択される。その論拠は「内容に一点の瑕疵がなくても、完全な真理であっても、専制君主の命令で国民に強制したところに間違いがある」というものであった。強制の排除、権威の否定といった戦後教育の根本理念はここから始まる。
・しかし、この発想には大きな陥穽がある。近代の学校とは社会生活に必要な知識や技能を体得させるために設置されたものであり、生徒の意思にかかわらず、生徒を強制的に登校させ、時間的にも空間的にも拘束し、知識や技能を強制的に教えることから成立している。つまり「強制」とは学校教育の根本理念であり、それを排除していけば学校は崩壊するしかないのだ。
・また、「真理であってもそれを強制的に押しつけてはいけない」という考えからは戦後教育の理想とする「生徒がそれぞれの自主性によって真理を獲得する」という自主性尊重の概念が生まれるが、これも現実性のない空論である。そもそも、この世に普遍的な真理など存在しない。
・殺人という重罪でも人口抑制という見地に立てば肯定できるし、礼節や恩愛、孝行といった徳目もその社会を円滑に営むための相対的な価値観でしかない。これらを何の強制もなく、しかも社会が望むような形ですべての生徒が自主的に体得できるというのはまさに夢物語でしかない。
・戦後民主主義教育を信奉する教師たちはこの矛盾を解決するために、子供の本性は善であるとして「強制を排して自由にのびのびさせれば、誰もがその善性を発揮して理想とする徳目を体得できる」と説くのであるが、これが妄説であるのは今日の凶悪な少年犯罪を見ても明らかだろう。
・また、強制を排除しても生徒が真理に到達するのなら、教師の権威性は不要となり、教師と生徒は対等な関係となるが、こうした平等空間では教育は成立しない。生徒の誤った価値観や行動を矯正できるのは、教師側の権威性によるものであり、教師が友人として同じ立場に立つのならば、感情的な理由でいくらでも指導を拒否できるからだ。
・戦後民主主義教育はこうした矛盾をはらみながらも、戦前の軍国主義教育に対するアレルギーから広く受け入れられ、様々な教育実践がなされていった。多くの教師は真に民主的な日本を作ろうと真摯な努力をつづけたが、矛盾を内包した理念であるだけに、自主性を尊重するという美名のもとに極端な放任主義に走ったり、共産主義革命を扇動する教師が現れたりと、当初から様々な問題が生じていた。
・また、生徒と教師が対等であることを示すために教壇を撤去し、教師をさんづけで呼ばせるとか、学力テストを全廃し、運動会の順位づけをしないということで平等主義を標榜したりという、皮相で短絡的な実践が一般化していった。
・この影響をダイレクトに受けたのが団塊世代である。彼らが左翼イデオロギーに傾倒し、70年安保や高校紛争の中心勢力となったのは必然的な結果といえよう。
・団塊世代の特徴として、家庭の中にも旧秩序打破の思想を持ちこみ、親と子の上下関係を認めず(平等主義)、モラルやしつけの押し付けをせず(強制の排除)、自主性にまかせるといった(自主性尊重)まさに戦後教育的な子育てをしたことが知られている。こうして登場したのが、相互の甘え構造からなるぬるま湯的な家族(ニューファミリー)である。
・真の自主性とは確固とした自我を備えているからこそ生じるものである。親が自らの生き方なり価値観を示さないのでは、子供は自己を相対化することができず、いつになっても主体的な自我は形成されない。
・自主性を尊重すれば自主性が育つというのは、戦後教育から派生した誤った考えであり、これを盲信したところに団塊世代の大きな失敗がある。確たるモラルや価値観の相克もなく、豊かな社会でただ自由と安逸をむさぼるだけでは、望ましい徳目や真理を体得することはできない。その結果として、ふわふわとした自我しか形成できかった子供たちは、大量消費文化の中で容易に享楽主義と拝金主義に染まっていったのであろう。
2.4)ゴギャル発生に至る文化史
・社会風俗は時として家庭の教育力を超えて子供の価値観を形成し、その行動形態を支配するほどの力を持っている。コギャル第一世代が80年頃に生まれたことは先述したが、この年は戦後の文化史を考える上で重要な意味を持っている。高度経済成長をもたらした勤勉、努力、忍耐を重んじる旧来の真面目文化が消滅し、かわって真面目さを茶化して喜ぶような軽薄文化へと移行する時期だったのである。
・千石保氏の『まじめの崩壊』によれば、「巨人の星」に代表されるスポ根物が姿を消し、「キン肉マン」のようなおふざけヒーローが人気を博したのがその象徴であるという。学校もこの時期を境に大きく変わり、ツッパリ風俗の台頭とともに校内暴力の嵐が吹き荒れるようになる。
・なぜ昭和55年を境に文化の転換が起きたのか、千石氏はその大きな要因としてオイルショックや生産社会から消費社会への移行を挙げているが、もう一つ忘れてならないのは、この少し前に高校進学率がピーク(95%)に達したことである。
・戦後の平等思想と経済発展によって、誰もが進学を希望するようになり、行政側はそのニーズに応えるべく高校を増設していった。55年の高校進学率が60%代であることから、わずか20年の間に30%ものびたことになる。「15の春を泣かさない」というスローガンは麗しいが、個性や能力にかかわらず等しく知識獲得競争に加わらねばならないことは、多くの子供たちに耐えがたい苦しみを与えることになった。
・誰もが高校に入るという風潮は、進学することが善だという誤った学校信仰を生み出し、高校に行けない、あるいは行ってもついていけない者たちの学校に対する無意識の憎悪を醸成していった。高校進学率が上がれば上がるほど、この流れについていけない「限りないマイナー」の劣等感は先鋭化し、それが校内暴力という形で吹き出すようになると、拡大する反学校的な風潮によって、学校文化とほぼ同質の真面目文化も急速に破壊されていったのである。
・80年代前半に吹き荒れた校内暴力の嵐は、大量消費社会の到来とともに、若者文化を大きく変えていく。荒れる子供たちの行動(飲酒、喫煙、深夜徘徊、性的交渉等)が大量消費社会に取りこまれることによって一般化し、若者文化は急速に低俗化していく。
・少女性欲雑誌といわれた「ギャルズライフ」が国会で問題視されたのもこの頃である。社会的な規範は大きく崩れ、旧来の勤勉や礼節などの徳目は嘲笑の対象となり、消費を促がす「遊び」が最も流行りの生活形態となった。TVではいわゆるトレンディドラマが始まり、女子大生ブーム、女子高生ブームを経て、モラルの欠落したバブル景気に至る。
・こうして概観すると、コギャル第1世代は真面目を嘲笑する文化の中で生まれ、小学校の時にツッパリ文化やトレンディドラマを見て育ち、中学時代にバブルを経験している。つまり、彼女たちは勤勉や真面目を重んじる文化に触れたことがなく、加速度的に進行する軽薄な風潮の中で育っているのである。自我の確立しない彼女たちがこれらの影響を強く受けたことは容易に想像がつく。
・80年代以降の文化は消費を促がすものとしての側面のみが拡大され、それが社会に及ぼす影響についてはほとんど顧みられなかった。利益のためならばなんでもするという発想は、個人の権利のみを重視し、その責任や義務を問わない戦後の風潮と同質のものであり、文化史の側から見ても、コギャル発生の要因は戦後思想にあるといえるのだ。
・家庭が教育力を失い、社会が享楽主義に流れる中で学校も大きく変わっていった。それは単に社会風潮の影響によるものではなく、マスコミによる学校叩きという外圧によって変容をよぎなくされたのである。
・左翼イデオロギーに深く傾倒するマスコミは、学校を権力社会の縮図として、教師=支配者(悪)、生徒=民衆(善)という恐ろしく単純な二元論でとらえ、校内暴力を徹底した管理で押えつけようとする学校側の姿勢には常に批判的であった。
・ただ、秩序維持という名目の前には沈黙せざるをえなかったが、やがて校内暴力がおさまると、今までの鬱憤を吐き出すように徹底的な学校批判を始める。いわゆる管理教育批判である。
・細かすぎる校則が社会問題となり、「管理を排して、生徒を自由にのびのびとさせねばならない」というまさに戦後教育的な言説がさかんに喧伝されるようになる。
・しかし、マスコミによる一連の管理教育批判は、学校現場を無視した短絡的かつ皮相極なものであった。そもそも校内暴力が沈静化した時にはすでに学校は疲弊し、マスコミがいう「権威的な教師が校則によって柔順な生徒を痛み付けている」という構図はどこにもなく、細かすぎる校則というのも生徒手帳の隅に書かれた死文化した項目にすぎなかった。
・さらに、校則批判は生徒の人権という一面によってのみ論じられ、校則の持つ「ストイシズムの強要」という以前から暗に了解されていた点について論議されることはなかった。 言葉を変えれば「学校とは学問や修養の場であり、華美な服装や持ち物は不要である」という旧来の価値観に対する是非である。マスコミの校則批判キャンペーンは、こうした肝心な論点を明確にしないまま1991年の校門圧死事件でピークに達し、文部省までもが各学校に校則の見直しを通達するまでに至る。
・この一連の学校叩きによって、校則の効用は軽んじられ、校則を擁護するだけで反動的であるという風潮まで生まれた。 教師の意識も大きく変化し、(特に公立高校においては)校則を緩めれば秩序が乱れるのを承知しながらも、批判と嘲笑浴びてまで校則を守らせようとはしなくなった。
・教師側の変化に合わせるかのように、高校生の風俗も変わり始める。ミニスカはまだ登場しないが、化粧やマニュキアが一般的になり、普通の生徒まで化粧ポーチを持ちこんできて教室で堂々と化粧をするようになった。以前ならば化粧など論外であり、化粧ポーチなどは没収されたであろうが、一連の管理教育批判によって教師からそれだけの力は失われていた。
・これに呼応するかのように、ティーンズ向けの雑誌にも化粧の特集が組まれるようになり、様々なグッズの紹介が始まる。性的な記事よりも、おしゃれやブランド物の特集に関心が集まるようになったのはこの頃からである。 女子高生の化粧は「高校生は高校生らしく」というストイシズムに裏付けられた社会通念が大きく崩れたことを意味する。
・それは同時に、高校生の飲酒、喫煙、夜遊び、ブランド物の買いあさりといった大人と同等の、あるいはそれ以上の遊び(消費的行動)を許容することでもあった。
・つまり、一連の管理教育批判によって、勤勉や質素、礼節を重んじたかつての学校文化は崩壊し、しかもストイシズムの強要という意義が問われなくなった結果、生徒たちは大量消費文化の中に放り出されてしまったのである。
2.5)ミニスカはなぜ生まれたのか
・コギャルを象徴するのがミニスカである。家庭や学校、社会文化によって子供達が享楽的な性向になることは説明できるが、それだけで援助交際が一般化することはない。先述したように、コギャル問題はミニスカが重要な要素となっている。
・なぜ、女子高生のスカートはかくも短くなったのか。この問題を解くには、コギャルの発生源である首都圏の高校、なかでも都立高校の抱える問題を無視することはできない。
・都立高校の多くは今でも自主自律という戦後教育的な校風を特徴としているが、これらは70年安保に連動して起きた高校紛争によるものである。左翼的な学生運動のうねりの中で、学校は自主的な人間形成の場であるという高邁な理想が掲げられ、受験指導や生活指導の撤廃、制服の自由化、校則の大幅な緩和等がはかられた。しかも、その数年前には学校間格差をなくすという名目のもとに学校群制度が実施されており、都立高校全体はまさに戦後民主主義教育の壮大な実践場となっていた。
・しかし、理想とは裏腹に、功利性や差異化を求める生徒の根源的な要求には応えることができず、進学実績がふるわず、レベルの画一化した都立高校は次第に敬遠されていった。かわって、進学指導と生活指導ほ全面に打ち出した私立高校が人気を集め、トップクラスは私立に行くという逆転現象が起きる。
・しかも、校内暴力の嵐は中堅校以下の都立高校にもおよび、私立との格差はさらに広がっていく。危機感を抱いた都立は学校群を廃止し、復権を狙って単独選抜、コース制の導入等、様々な改革を実施するが、その一つに制服改変の動きがあった。ロングスカート等のツッパリファションを一掃し、自校のイメージアップをはかるために、画一的なセーラー服からおしゃれな制服へとデザインを一新させていったのである。
・学校の狙い通り、ツッパリファッションは消えていったが、これは制服改変の効果というより、バブル経済による浮かれた雰囲気が、劣等感に裏付けられたツッパリ文化をダサイものとみなしたからにほかならない。
・こうして、時代の風潮は学校の思惑をこえて進み、90年代に入ると、ボディコン、テレクラ、ブルセラ、ジュリアナといった若い女性を商品化するブームが起きる。このときコギャル第一世代は中学生だった。
・彼女たちはこの風潮の中で、「自らの性には商品価値がある」ということを学び「性を誇示することは恥かしいことではなく誇らしいことだ」というように価値観を転換させ、高校に入り、学校側の管理が弱まると、「自らの性を大胆に誇示する」ためにスカート丈を一気に短くしたのである。
・1993年にブルセラショップが一斉摘発を受け、ジュリアナ東京が閉店し、その翌年にミニスカが発生したのは、このことを雄弁に物語っている。
・学校側は制服改変により、もはや改造の余地はないと思っていただけに、突然のミニスカに戸惑わざるをえなかった。よもやスカート丈を短くするような「恥ずかしいこと」をするとは予測だにしなかったむのだ。しかも、下着が見えるような超ミニが周囲の男たちを挑発し、何らかの問題が生じるであろうことを予測しながらも、ミニスカをやめさせることはできなかった。
・なぜなら、一連の管理教育批判によって校則による指導をするだけの力は失われていたからである。また、校則に頼らないとすれば「品がない」とか「慎ましくあるべきだ」という徳目を押し付けるしかないが、戦後教育の原則によって価値観を強制することもできず、学校側の指導がまったく入らないままミニスカは全盛を迎えたのである。
・コギャルの発生要因は、教育勅語を排除した思想であり、団塊世代が受け、そうして施した教育であり、軽薄な消費文化であり、高校全入運動であり、都立高校の問題である。
・これらの背後には戦後思想が深く関わっていることに気づくだろう。つまり、コギャルとは戦後の思想的陥穽が複合的に絡み合って生まれたものであり、そうであるがゆえに戦後教育の方法論では決して指導矯正できないという厄介な存在なのである。
・コギャルの価値観や行動形態が問題であるのは承知しながらも、教育現場やマスメディアから指導すべきだという声があまり聞こえてこないのは、戦後教育では手のうちようがないことと、彼女たちが恰好の消費者となっているために行動規制をためらう意識が働いているからであろう。
・しかし、やがては彼女たちも結婚し母となる。拝金主義と享楽主義に染まった母親達がどんな子供を育てていくのかと思うと、そら恐ろしいものがある。コギャルママの子供たちが就学するようになったとき、学校は、教育はおろか、知識の詰め込みすらできぬ荒廃の巷になっていくのが目に見えるようだ。
・文部省は近年になって「ゆとり」という概念を打ち出し、「ゆとりを持たせて生きる力を養う」という方針を明らかにした。高校でも卒業単位を減らし、選択枠を拡大するというソフト化の動きである。しかし、高校生に限っていえば、ゆとりがなく勉強に追われている生徒がどれほどいるというのか。
・ありあまった時間をバイトに費やし、大人以上の金を使って遊び歩いているのが実態ではないのか。これ以上の「ゆとり」を与えることが「生きる力」につながるなどは、現場にいる者からすればほとんど冗談のようにしか聞こえない
・日教組と和解して以来、文部省も戦後教育思想に染まっているようだが、これは現実の問題を理想論で処理しようとする危険な徴候である。詳述したように、多くの教育問題は自由や平等、人権といった「きれいごと」を敷衍しようとして起きているからだ。
・では、どうすればよいのか。戦後の思想的陥穽からコギャルが発生したとすれば、対応策としてはアンチ戦後的な方法を取るしかあるまい。つまり、社会が是とする共通の価値観やモラルを強制的に教えこみ、自己を厳しく相対化させる中で、確固たる自我を形成させるのである。
・さらに、勤勉や努力、忍耐といったかつての徳目を再認識させ、子供たちを「遊び」へと走らせる浅薄な消費文化と厳しく対峙せねばならない。偏ったイデオロギーによるマスコミの教育論にも警戒する必要があるだろう。ともあれ、いち早く戦後教育の呪縛から脱却することが肝心なのだ。
3)文部省「ゆとり教育」が子供をダメにする
keyword「ゆとり教育の問題点」「ゆとり教育批判」「戦後教育批判」「文部省批判」「中教審批判」(メディア上で初めて「ゆとり教育」の問題を取り上げた論文です。今問題になっている学力低下や学生が不勉強になったことをすでに指摘し、文部省の政策や日教組の押し進める戦後民主教育を徹底的に分析、批判しています)
3.1)中教審答申は偽善の極致
・昨年の秋、全国の公立学校教師に文部省から2冊のパンフレットが配布された。97年6月までに行われた第15期中央教育審議会答申の内容を簡潔にまとめたものである。表紙には「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」とあり、第1次答申には「子供に生きる力とゆとりを」、「個性尊重の教育をめざして」というスローガンが記されている。
・内容を要約すると「これからの教育は、ゆとりの中で生きる力をはぐくむことを目指し、個性尊重の立場に立ち、一人一人の能力・適性に応じた教育を展開し、具体策として受験戦争の緩和や中高一貫教育の導入、飛び級などの例外措置等を実施する」という。
・一見、文句のつけようがない理想的な内容だが、実際には「ゆとりの中で、生きる力が生まれ」たり、「一人一人の能力・適性に応じた教育」ができるなどというのは、どれも実現不可能な言葉だけの絵空事である。
・個性尊重といっても、生徒の個性は千差万別であり、本当に生徒一人一人の能力や適性に応じようとすれば、生徒とほぼ同数の教員や、生徒の個性に応じるだけの施設が必要になる。だが、予算がないという理由だけで欧米なみ30人学級すら実現できないような状況では、いかに中教審が提言しても「一人一人の能力・適性に応じた教育」など不可能なのだ。
・そもそも近代以降の学校は集団主義を基本とし、教科指導や生活指導等がすべて集団を前提として成り立っている以上、本当に一人一人を対象とした教育を行うのなら、集団を解体する方法やまったく新しい指導法を提示すべきであろうが、答申で言及されているのは、飛び級制や選択枠の拡大程度であり、とうてい個々の実情に合わせられるようなものではない。とすれば、答申は「現在の学校集団を維持したままで、一人一人を対象とした教育をする」という矛盾したことを平然と述べているのである。
・第1次答申のいう「ゆとりの中で生きる力を育成する」にいたってはまさに噴飯ものである。「生きる力」とは学習意欲や自己決定力、自律心などを指すらしいが、「ゆとり」を与えるだけでそのような望ましい力が身につくとはとうてい思えない。「生きる力」の前提となるのは、確固とした自我や価値観であろうし、それらを形成する上で必要なのは他者との厳しい相克や豊富な知識に裏付けられた深い思索力であろう。
・「ゆとり」とは本来、強制や義務を排した自由な立場に身を置くことをことを意味しているが、そのような安逸さの中では他者との相対化や豊富な知識を身につけることはできないだろうし、当然「生きる力」を身につけることもできないのだ。常識的に考えても「ゆとり」を与えれば(のんびりさせれば)「生きる力」が身につくというのは現実性のない妄言であろう。
・こうした矛盾だらけのスローガンに加えて、今回の答申パンフレットで特筆すべきは、絵本と見まがうばかりのイラストである。中教審委員に著名な少女漫画家がいるからだろうが、それにしても見ている方が気恥ずかしくなるような麗しいイラストが満載されている。
・「入試の改善」の頁では、瞳を輝かせた少女が眩い陽光のなかに羽ばたこうとしており、「子供たちに生きる力とゆとりを」というスローガンの下には、白い鳩が飛び交う青空の下、サッカーボールやトランペットを持った生徒たちが一列に並んで、きらめく太陽を見つめている。他の頁にも、子供たちが夕日に向かって手をつないでいたり、色鮮やかなシャボン玉の中で歓声を上げていたりと、中教審答申を実行すれば輝かしい未来が待ちうけているようなイラストが満載されている.。
・しかし、このパンフレットを受け取った現場の教師の中で、内容に賛同したり、感銘を受けたりした者がどれだけいるだろうか。実現不可能な綺麗ごとを臆面もなく披瀝し、麗しいイラストを並び立てて情緒面に訴えかけるセンスには、呆れるというより、困惑を覚えるものでしかない。言葉を変えれば、新興宗教の勧誘パンフレットのような胡散臭さや薄気味悪さすら感じられるのだ。
・中教審がこのように実体のないスローガンを提示し、偽善に満ちたパンフレットを作成したのは、リアルな現実認識と主体的な発想を欠いているからであろう。ここでは中教審答申の問題点を明らかにかする中で、文部省が抱える病理について言及したい。
3.2)中高生はゆとりだらけ
・中教審が「ゆとり」を前面に打ち出した背景には、現代の中高生が厳しい受験体制の中で勉強に追いたてられているという認識がある。マスコミ等でも、中学生は高ストレス状態にありそれが非行やいじめの原因になっているという。しかし、現場にいる者の認識はそれとは大きく異なっており、この十数年の間に中高生が著しく不勉強になったのを実感している。
・中学生は過酷な高校受験によって窒息状態にあるというが、実際には高校全入運動の結果96%もの生徒が進学できるようになり、学校選びさえ間違わなければ、さして勉強しなくてもどこかの高校には入学できるようなシステムができあがっている。
・中教審の言うように受験勉強に追わているのは有名校を狙う一部の生徒だけで、全体としては熾烈な競争とか受験地獄というほどではない。現に中堅以下の高校では、ほとんど受験勉強をしたことがない生徒が大量に入学しているという事実があり、また近年になって公立高校にも推薦入試が導入され、学科試験のない推薦を狙う生徒が増えたことから、中学生が不勉強になったという指摘もある。
・また、中学生にストレスがたまっているというのも根拠のない俗論である。この種の発言をするのは決まって左翼系の文化人であり、かつての管理教育批判が形を変えて現れたものと見るべきだろう。
・1995年の福岡大学が行った中学生のストレスに関する調査によれば、ストレスがたまっていると答えた者は10%、ややたまっているが34%、あまりたまっていないが40%、全くたまっていないが16%だった。
・報告では、ストレスがたまっている1割と、ややたまっている3割を一緒にして、四割の中学生がストレス状態にあるとしているが、それが妥当な判断であるとは思えない。集団生活をしている以上、ストレスを感じるのは当然であり、また適度なストレスは耐性を養う意味でも有効であることから、ややたまっているという3割は問題にならないであろう。
・とすれば、ストレス状態にあるのはたったの1割に過ぎないのだ。神戸の小学生殺害事件の時、某テレビ局が中学生に緊急アンケートを実施したが、7割以上の生徒は学校生活が楽しいと答えており、はからずもストレス説が誤りであることを実証していた。
・高校生が大学受験に追われているというのも全く嘘である。短大を含めた受験者は全体の四割強で、そのうち3割が推薦で入学しており、一般入試に挑戦するのは全体の3割程度にすぎない。
・しかも、少子化時代を迎えて、大学側が学生集めのために大幅導入や受験科目の削減、一芸入試を実施した結果、一部の難関傾向にあり、かつてのように四当五落の思いで刻苦勉励する高校生は少なくなっている。
・大学受験に加わらない残り5割の高校生にとっては、学校以外の勉強をする必要はほとんどなく、学校の勉強といっても、中退を出しては行けないと言う行政側の指導によって、出席さえすれば単位が取れるほど平易になっている。多くの高校生がアルバイトに明け暮れる生活を送り、大人と同等の、あるいはそれ以上の「遊び」に走っているのは、彼らに充分な「ゆとり」が与えられているという何よりの証拠であろう。
・これを裏付けるデータもある。94年から95年にかけて総務庁が行った学習に関する他国との比較調査によると、日本の子供(7才から15才)が家庭で学習する時間は30分から1時間が全体の3分の2を占めるのに対し、アメリカの子供は1時間から2時間が3分の2、韓国では2時間から3時間が3分の2を占めている。塾の時間を加えたとしても、日本の子供は韓国の2分の1程度しか勉強しておらず、教育荒廃が進んでいるというアメリカよりも少ない。
・同様に、95年に実施したIEA(国際教育到達度評価学会)の中学1、2年生を対象とする「第3回国際数学・理科教育調査」では、世界の中学生が1日平均3.0時間を校外学習に充てているのに対して、日本の中学生は2.3時間しか充てておらず、参加した41ケ国の中でも低位であった。10数年前、日本の子供の学習時間が世界一であったのに比べると、驚くほど勉強しなくなっているのだ。
・子供達が知的体験から遠ざかりつつあるのは、中高生の活字離れにも象徴されている。「毎日新聞」が昨年行った調査によると、中学生の63%、高校生の65%が1月に1冊も本を読んでいないという。これは国際的に見ても最低のレベルであり、子供達から知的欲求が失われつつあるのをはっきりと示している。知識量の減少は深い思考と主体的な自我の確立を阻害しし、中教審の言う「生きる力」を育てることも困難になろう。
・すなわち、今問題とすべきは、子供達が勉強しなくなったがゆえに「生きる力」が育たないことであり、決して受験体制を緩和することでも、「ゆとり」を与えることでもないのである 。
3.3)個性尊重教育の嘘
・中教審で「個性の尊重」という概念が登場したのは1983年のことからである。従来の画一的な詰めこみ教育から、個性を重視し、自ら学ぶ力を高めることが重視され、それ以後中教審の基本理念として受け継がれている。「個性尊重の教育」は一見、生徒を大切に扱う理想的なものに思われるが、実際には現場を混乱させるだけの偽善的な言説である。
・尊重とは「尊いものとしてあるがままに認める」ことであり、個性の尊重とは「生徒の個性をそのまま容認すること」を意味している。しかし、学校に要求されているのは「社会に適応できる知識や態度を身につけさせること」であり、それが「社会的に不適当な個性を正そうとする行為」であるとすれば、「個性尊重の教育」とは今までの学校教育の概念を根底から覆す概念となるのだ。
・こうしたパラドックスがありながらも、中教審があえて「個性尊重」にこだわるのは、「生徒の本性は善であり、矯正すべき個性はない」とする能天気な発想によるものであろう。個性を尊重すれば(あるがままに認めれば)芸術やスポーツ等の才能が開花すると考えているのだろうが、中教審が意図するような個性の持ち主はほんのわずかであり、大多数の生徒は怠惰やわがまま、短気、粗野といった「矯正されるべき個性」を有しているのが常である。
・行政側のこうした甘い現実認識は、教育現場に多大な混乱をもたらしている。「伸ばすべき個性」と「矯正すべき個性」を明確にしないまま「個性尊重」という実体のない言葉だけを前面に打ち出した結果、個性を尊重しなければならないという呪縛によって学校の指導力は低下し、それに応ずるかのように生徒は自らの悪しき個性(エゴ)を主張するようになったのである。
・学校とは本来、自由や欲望を抑制し、共通認識としての徳性や倫理観を伝達することを前提としている。従って、生徒の個性や価値観をあるがままに容認していけば、自律的な行動様式が一般的となって学校は崩壊するしかないのだ。
・「個性尊重の教育」は根本理念が間違っているばかりではなく、個性化にともなう具体策にも問題が多い。評価できるのは飛び級制ぐらいで、「ゆとり」を目指すという中高一貫校が失敗するのは目に見えている。
・パンフレットには受験競争を激化させないために試験によって選抜しないとあるが、能力差のある生徒がそのまま進級していけば、受験のない中学部は怠学傾向となり、高校部では進学校と底辺校が同居したようなに状態となって著しい指導困難に陥るだろう。
・また、「中間まとめ」によれば、高校の履修は「必修」を最小限にして「選択制」を拡大すべきだとしているが、これにも様々な問題がある。かつて選択制を押し進めたアメリカの高校では、選択教科を増やせば増やすほど人間関係が希薄になり、帰属意識や学習意欲を失った生徒が学校から逃避するようになったという。その結果、今では小人数クラスで基本教科を教えるのがベストだという認識に達している。日本でも、単位制を導入した高校ほど中退率が高いという現実があり、個性化が学校の解体を進めることをはからずも実証している。
・中教審は選択制の意義として、個性化のほかにカリキュラムの選択によって「主体的に学ぶ姿勢や意欲(生きる力)」を身にけさせることを挙げている。だが、それは誰もが学びたがっているという仮想現実においてのみ有効であり、実際の生徒は何を学びたいかというより、「どれが苦手で、どれが楽か」という消極的な判断をする場合が多い。こうした「楽をするための判断」は「嫌なことはしなくてもいい」という安易な風潮を蔓延させ、学校で培われるべき徳目(耐性)を奪ってしまうことにもなるのだ。
・「個性尊重」の教育が論理的に誤っているのみならず、ことごとく反教育的な結果を招くことがこれからも理解されよう。文部省が音頭をとって「個性尊重の教育」を押し進めるのは、好んで学校を荒廃させるようなものなのだ。
3.4)日教組と化した文部省
・「ゆとり」は勤勉さの喪失と知識量の低下をもたらし、「個性の尊重」によって学校は荒廃していく。一見、理想的なこれらのスローガンは、それが理想論であるがゆえに現実よって裏切られるのが常である。しかし、「ゆとり」や「個性尊重」は理想論として片付けられるほど単純な概念ではない。その背後には、大正自由教育から戦後民主主義教育を経て現在に至る偏狭な教育思想が流れているのである。
・「ゆとり」を主張する背景には、抑圧や管理から解放されるべきだという発想がある。抑圧や管理といった他律的なものが悪であれば、その反対の自律的なものが善となる。自律性の絶対視は個を尊重する発想を生み、それが「個性の尊重」や「自主性尊重」につながっていく。
・すなわち、中教審のいう「ゆとり」も「個性尊重」も「自ら学ぶ力」もすべて同根であり、「管理を排して自由にのびのびさせるべきだ」という戦後民主教育的な発想が形を変えて現れたものである事が理解されるだろう。
・戦後民主主義教育は、日教組がとなえてきた虚妄の教育論である。一般には日教組の組織率が低下してその影響力は消えたと言われるが、それはまったくの嘘であり、1991年に日教組と文部省が和解して以来、文部省自らが戦後民主教育を推し進めようとしているのであるから、その悪影響は計り知れないものがある。
・なぜ、戦後民主教育はダメなのか。その原型となった大正期の自由教育から見てみよう。
3.5)大正自由教育の失敗
1902年のデューイ (引用:Wikipedia) ルドルフ・シュタイナー(1900年)
〔大正自由教育〕
・大正自由教育はジョン・デューイやルドルフ・シュタイナーの児童観や教育論に基いて進められた学校改革である。各地の師範付属小学校や私立小学校において多用な実践が行われたが、根本理念においては「従来の画一主義的・注入主義的教育法を退け、子供の自主性・自発性を重んじ、個性を伸ばし、想像力を育む」という点において一致していた。まさに「個性の尊重」や「生きる力」を重視する中教審のスローガンと同一のものであった。
・しかし、高邁な理想とは裏腹に、付属小学校や私立学校では相応の成果を上げたものの、一般の公立小学校においては生徒の混乱や著しい学力低下を招き、中には休校を引き起こす事態にもなったという。
・こうした個性や自主性を尊重する教育は、小人数を前提として、付属小学校のように知的レベルの高い児童が集まり、特殊な技能を持つ教師によるきめ細かな指導が不可欠であった。
・大正自由教育運動が全国的に高揚しながらも、根付くことなく衰退したのは、限定された教育現場においてのみ有効な教育法だったからである。
〔信州の白樺派教育〕
・大正期に起こったもう一つの理想教育運動に、信州の白樺派教育がある。武者小路実篤が主催した「白樺派文学」の人道主義、芸術至上主義に感化された若い教師たちが、白樺派の理念を教育において実践することを目指し、「注入主義教育法を排して生徒の個性を生かし、学問における自発性を涵養する」という自由教育運動とほぼ同質の教育実践を行ったのである。
・しかし、結果においても同様であり、個性尊重によって生徒は野放図となり、白樺派教育を実践した小学校は校長の来手(来る人)がないほど荒廃したという。
〔中教審答申の危険性〕
・大正期の理想主義教育が挫折した主な原因は「生徒の個性は一様に素晴らしく、誰もが主体的に学びたがっている」という虚妄の現実認識によるものである。同様の発想による中教審の「個性尊重」や「生きる力」が学校を荒廃に導くことは、これからも明らかだろう。
・しかし、問題はそれだけではない。中教審答申には大正自由教育から戦後民主主義教育を生み出した階級闘争イデオロギーが色濃く反映しているだけに、さらに危険な要素をはらんでいるのだ。
3.6)虚妄の教育観と過度の人権思想
・大正自由教育が挫折した後、日本は軍事大国化を進めるために、天皇を絶対視する皇民化教育を行い、その結果、悲惨な太平洋戦争を招く。
・敗戦後、GHQの指導によって教育の民主化が進められ、全体主義に奉仕する戦前の教育の反省から、かつての自由教育理念が復活し「自主性、自発性を重んじた個性活動を根本理念に置いた教育」が実施される。いわゆる戦後民主主義教育である。
・戦後教育に情熱を燃やした教師たちは様々な実践を行ったが、その多くが47年に結成された日教組系の教師であったために、必然的に左翼的な階級闘争的イデオロギーが融合していった。
・彼らが信奉するのはマルクス主義やコミンテルン(国際共産党組織)史観であり、「日本は、反近代的、封建的な国家であり、階級闘争によって革命をなしとげねばならない」という理論がそのまま教育論にあてはめられたのである。
・社会主義礼賛思想から競争をあおる受験体制が否定され、日本を封建主義国家であるとするがゆえに、学校を教師=支配者(悪)、生徒=民衆(善)と短絡的にとらえ、学校の管理、抑圧を絶対悪として「生徒を自由にのびのびさせれば誰もが本来持っている善性が発揮される」という虚妄の教育論が生み出され、さらには個性の絶対視から過度の人権思想が生じ、これらが大正自由教育の個性尊重、自発性尊重の理念と結びついて「反権力、反管理、自由、平等、人権、個性尊重」を標榜する戦後民主主義教育が生み出されたのである。
・現在でも、これらを主張する教師やマスコミ、一部評論家が決まって左翼系であるのは、戦後民主主義教育=階級闘争イデオロギーという何よりの証拠であろう。
・しかし、戦後民主教育は一見、理想的でありながも、これらを実践すれば秩序の破壊を招くという危険性を有している。安直な現実認識の上に階級闘争入イデオロギーが加わっているだけに、その害毒は大正自由教育よりもはるかに大きいといわねばならない。
・戦後の教育史を振り返ってみると、民主教育思想による失敗例がいくつも見られる。
・管理や競争を排除する発想は教師の権威性を否定し、生徒に自由を与えることを理想としたが、自主性尊重は放任教育に陥り、学力低下や秩序の混乱を招くのが常であった。戦後の「ほのぼの教室」が非行少年を生み出す温床となったのは、その好例である。
・また、左翼イデオロギーを信奉する教師が共産主義革命を扇動したり、道徳や秩序を誹謗して生徒の反抗心を煽るというケースも多く、学内の対立から臨時休校に追いこまれる学校もあった。民主教師にもてはやされたプラグマチズムによる生活体験学習も、体系的学習が困難となり基礎学力が身につかないという弊害が指摘され、今日に受け継がれることはなかった。
3.7)戦後民主教育に潜む危険性
・戦後民主教育の組織的な失敗としては、都立高校の例が挙げられる。70年安保に連動して起きた高校紛争によって都立高校は大きく変容し、管理や競争を排して自主性尊重の教育を行うという理想が掲げられ、受験指導や生活指導の撤廃、制服の自由化,校則の大幅な緩和等が行われた。しかも、その数年前からは学校間格差をなくすという目的から学校群制度が実施され、都立高校全体が戦後民主教育の壮大な実践場となっていた。
・しかし、現実には自主性尊重という放任教育によって風紀の乱れや進学実績の低下を招き、また学校を選べない制度のために差異化を求める生徒の要求に応えることができず、次第に都立高校は凋落していった。
・今では学校群を廃止し,受験指導や生活指導に力を入れることによって人気を回復しつつあるが、都立高校の失敗は反管理や自由,平等を重んじる教育論がいかに有害であるかを物語っている。
・都立の学校群制度と同様,競争原理を否定する教育改革もことごとく失敗に終わっている。
・京都の小学区制は公立高校の凋落と私立の人気を招いただけだし,1993年に実施された偏差値撤廃も、合格基準を求める生徒を塾に依存させ、公教育への信頼を失わせる結果となった。
・「ゆとり」は77年の学習指導要領から言われ始めた言葉だが、授業時間の減少によって公立中学の学力が低下し、私立志向の高まる反動として公立中学の荒廃が進んでいった。
・また、朝日系のマスコミがさかんに喧伝した管理教育批判は、勤勉さや真面目さ,礼節を重んじる学校文化を破壊し、学校の指導力を低下させたのみならず、大量消費文化の流入を許してしまった結果、女子高生のコギャル文化や援助交際等、新たな問題を生み出している。
・こうしてみると、戦後から今日に至るまで、民主教育思想は至る所で無残な爪痕を残していることが理解されるだろう。
・自由、平等、自主性尊重といった言葉は麗しいが、その実どれもが学校を崩壊させる力として作用する。平等主義は意欲や勤勉さを衰えさせ、自主性尊重は教師の放任を許容し、管理や競争の否定は怠惰と放縦を蔓延させる。そうして、個性尊重の風潮が生徒のエゴを拡大し、人権思想によって教師の指導権がないがしろにされる結果、モラルや秩序は破壊されていくのだ。
・今、この国の学校で起きている憂うべき事態は、「民衆(生徒)が権力者(学校や教師)から解放され、理想の世界(無秩序と混乱)に近づく」階級闘争的プロセスと言っても過言ではない。
3.8)文部省が国を滅ぼす
・戦後民主教育は一見、理想的であるがゆえに多くの教師を魅了するが、その奥には詳述したような危険性が隠されている。しかも、それを信奉すればするほど、没我となって意図せぬまま秩序を破壊していく。
・中教審の言う「ゆとり」と「個性尊重」が学校を崩壊させるのは過去の例からも明らかである。学校が指導力を失い、享楽的で拝金な消費文化がいっそう流入すれば、勤勉さやモラルの喪失は言うに及ばず、知識量や知的体験の欠乏によって、刹那的で短絡的な性癖が一般化していくであろう。その結果、学校だけでなく社会全体の秩序が脅かされる事態を迎えるにちがいない。
・教育は「国家百年の大計」といわれるように、国の将来を左右する重要な要素である。その根幹となる教育改革は、冷静な状況認識と深い洞察の上に行われるべきだろうが、今回の答申を見る限り、文部省が独自の調査研究を行った気配も、過去の事例に学ぼうとする姿勢も見られない。ただマスコミから流されるムードだけの言説を盲信して、もっとも安易で、その実もっとも危険性の多い戦後教育的な「きれいごと」を並べただけである。
・文部省は10年近く前から「ゆとり」や「個性尊重」「新しい学力観」等のスローガンを打ち出して、旧来の詰め込み学習から個性に応じた自主的学習を進めるよう意識改革を促してきた。しかし、その結果はかんばしいものではなく、いじめや非行、学力低下や秩序の乱れ等の問題が年を追うごとに深刻化している。
・ならば、これらのスローガンに何の効果もなく、かえってマイナスに作用したのは明らかだろう。文部省はその反省の上に立って新たな方針を提示すべだろうが、あいかわらず「ゆとり」や「個性尊重」などと主張しているのは、戦後民主教育イデオロギーに憑かれたためであるとしか思えない。
・今、学校全体として必要なのは「ゆとり」でもなければ「個性尊重の教育」でもない。 肝心なのは、学校の秩序を維持し、勤勉さや真面目さといった学校文化を取り戻し、失われつつある倫理観やモラルを子供たちに教え込むことである。多くの問題が学校を成立させる最低条件が崩れつつあることから生じているとすれば、まずは学校の秩序や指導力を回復させることが急務であろう。
・文部省がこうした状況に目をつむったまま、過去において明らかに失敗した教育法を敷衍しようとしているのはまさに暴挙というしかないのだ。
(補記)
・最近になって、学生の学力低下が叫ばれ、文部省はやっと全国一斉の学力テストを行うことを発表した。なんと驚くべきことに、この45年間、文部省はいっさい学力に関する調査を行ってこなかったのである。
・77年に学習内容を2割減らしたにもかかわらず、その影響を一切調べることなく、さらに3割も減らそうというのであるから、ほとんど正気の沙汰ではない。
こんな無能な役人達が日本の教育を牛耳っているのが現実なのだ。本当に何とかしなければ、日本の未来はないぞ・・・・。(11,11,2)
※中教審得答申を提出した第16期中央教育審議会委員(平成9年4月15日発令)
有馬朗人(理化学研究所理事長)、市川正(東京都教育委員会教育長)、薄田泰元(社団法人・日本PTA全国協議会会長)、江崎玲於奈(筑波大学長)、沖原豊(社団法人・日本教育会会長・就実女子大学・短期大学長)、河合隼雄(国際日本文化研究センター所長)、川口順子(サントリー株式会社常務取締役)、木村孟(東京工業大学長)、河野重男(東京家政学院大学長)、國分正明(日本芸術文化振興会理事長)、小林善彦(学習院大学教授)、坂元昂(メディア教育開発センター所長)、高木剛(ゼンセン同盟会長)、田村哲夫(学校法人渋谷教育学園理事長・渋谷幕張中学・高等学校長)、俵万智(歌人)、土田英俊(早稲田大学教授)、鳥居泰彦(学校法人慶應義塾長)、永井多惠子(世田谷文化生活情報センター・日本放送協会解説委員)、根本二郎(日本郵船株式会社代表取締役会長)、横山英一(教職員共済生活協同組合理事長)
(追記:2020.10.19/修正2020.11.15/修正2023.3.31)