トップ 近現代史の復習

 ①(戦前・明治) ②(戦前・大・昭) ③(戦前・朝鮮) 

④(戦前・中国)⑤(戦前・台湾) ⑥(戦前・ロシア)⑦(戦前・米英蘭) 

⑧(戦後・占領下) ⑨(戦後・独立後) ⑩(現代)


近現代史の復習⑩(現代)


1 明治維新から敗戦までの国内情勢

 1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新) 1.2 天皇親政から立憲君主制へ

 1.3 大正デモクラシーの思潮 1.4 昭和維新から大東亜戦争へ

2 明治維新から敗戦までの対外情勢

 2.1 対朝鮮半島情勢 2.2 対中国大陸情勢 2.3 対台湾情勢 2.4 対ロシア情勢 

 2.5 対米英蘭情勢

3 敗戦と対日占領統治

 3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印 3.2 GHQの対日占領政策 

 3.3 WGIPによる精神構造の変革 3.4 日本国憲法の制定 3.5 占領下の教育改革 

 3.6 GHQ対日占領統治の影響

4 主権回復と戦後体制脱却の動き

 4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース 4.2 対日講和と主権回復 

 4.3 憲法改正 4.4 教育改革

5 現代

 5.1 いわゆる戦後レジューム 5.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)

 5.3 日本人としての誇りを取り戻すために  5.4 愚者の楽園からの脱却を!

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(現代)です。


5 現代


5.1 いわゆる戦後レジュームについて 

(1)いわゆる戦後レジュームについて/(2)戦後レジュームの正体(その1:国民が知らない反日の実態)/(3)戦後レジュームの正体(その2:日教組・国立国会図書館・日本学術会議)/(4)図書紹介(日本人を狂わせた洗脳工作)

5.2 内閣府世論調査(社会意識・自衛隊・防衛問題)

(1)社会意識に関する世論調査/(2)自衛隊・防衛問題に関する世論調査

5.3 日本人としての誇りを取り戻すために 

(1)自虐史観の呪縛からの解放/(2)憲法改正/(3)教育改革

参考1「世界はどのように大東亜戦争を評価しているか」/参考2「日本の戦争謝罪発言一覧」 

5.4 愚者の楽園からの脱却を!

(1)愚者の楽園からの脱却を!/(2)若泉啓氏について/(3)「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」/(4)若泉啓氏関連コメント等/(5)三島事件

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(5.1~5.4)です。


5.1 いわゆる戦後レジュームについて


(1)いわゆる戦後レジュームについて/(2)戦後レジュームの正体(その1:国民が知らない反日の実態)/(3)戦後レジュームの正体(日教組の活動)/(4)戦後レジュームの正体(その3:国立国会図書館法の改正問題)(5)戦後レジュームの正体(その4:日本学術会議の任命拒否問題)(6)図書紹介(日本人を狂わせた洗脳工作)


(1)いわゆる戦後レジュームについて


(引用:noriokakyou&Wikipedia

目次

はじめに

1)戦後レジュームの実態  

2)各界に残る戦後レジュームの影響 

3)戦後レジュームからの脱却

おわりに


はじめに

 第一次安倍政権(平成18年9月~19年8月)は、「『美しい国』(※1)づくり」「『戦後レジューム』(※2)からの脱却」をスローガンに、歴代自民党政権が成し遂げられなかった「教育基本法・教育3法の改正」(※3)や「防衛庁の省昇格」及「び国民投票法」などを成立させ、いわゆる「普通の国」(※4)を目指したが体調不調等により志半ばで退陣した。 

 

 これまで、ボランティア団体の調査研究「我が国防衛意識の現状と今後の課題」の編纂の一員として、個人的に収集した関連資料「近現代史の復習」を本ホームページに掲載してきたところであるが、その際、「世界価値観調査」(※5)に出会い、その中で日本国民の「自国への誇り」と「国の為に戦う」という意識が他国に比し極端に低いこと、そして、その要因が「戦後レジューム(体制)」による精神的武装解除(※6)の影響であることを認識したところである。 

 

 この体制は、占領統治下でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により構築され、独立回復後もその体制は維持され、特に日本人自身により組織的な精神的武装解除が継続して行われてきたことの影響は大きい。ここでは、GHQがこの武装解除に最も有効と考えていた教育分野と言論分野から「戦後レジューム」が我が国の防衛意識に及ぼした要因を掘り下げてみたい。

 

1)戦後レジュームの実態 

 

     

         ヤルタ会談     (引用:Wikipedia)    ポツダム会談 

 

 GHQは、今次の対日戦争を通じて日本の強靭さに触れ、アジアの植民地や権益を奪い取られたことを恨み、蔑視の対象であった東洋の小国が大国アメリカを敵に回して果敢に戦ったことを恐れ、将来再び米国の脅威とならないよう政治・経済・教育・言論等のあらゆる分野で日本弱体化政策を推進し、特に、日本国民が見せた団結力を恐れ、団結の基になっている皇室・信仰・歴史・文化を破壊し根絶やしにして国民の連帯感が無くなることを「究極の目標」としたといわれている。 

 

 GHQは、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)(※7)とも言われる「極東国際軍事裁判」による戦犯処刑、「公職追放」による保守層の排除、「太平洋戦争史、真相箱」での宣伝工作、「プレス・コード、ラジオ・コード」の言論統制及び「検閲指針」による民間通信の検閲管理により、軍国主義者(日本政府と日本軍)と国民の分断を図り、軍国主義者に戦争責任を転嫁し国民に贖罪意識を刷り込み、軍国主義者の一掃にとどまらず日本人の誇りと自信を打ち砕いた。 

 

 また、日本弱体化を永続させるため、日本国憲法で「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」という価値を尊重する「戦後民主主義」を規定し、教育基本法・刑法・民法等の関連法制を整備し、国会権能の強化及び労働組合・教職員組合等の組織化等、この体制を擁護する「戦後レジューム」の構築のため周到な布石を打った 

 

 GHQは、先ず「教育の自由化」として修身・歴史・地誌等の教育を破棄させるとともに、軍国主義的と判断された図書を「没収宣伝用刊行物」に指定して秘密裏に没収し、同時に戦勝国側史観の「太平洋戦争史」を教科書化し、「教科書検閲の基準」で天皇・国家的拡張・愛国心等につながる用語の使用を禁止した。 

 また、明治時代以降の道徳的規範であった「教育勅語の廃止」(※8)、「個人の尊厳」を最優先した教育基本法(旧)を制定させた。そして、戦後民主主義教育で育った多くの日本人は、憲法の平和主義や基本的人権尊重の影響や教科書において「国民」・「国家」・「我が国」等の用語の使用が制限されたこともあり、市民意識はあるが国民意識がなく外国人参政権付与等に賛成という無国籍的人間に作り上げられてきた。 

 

 また、GHQは「民主化の一環」として社会主義者の活動を許し教員の政治団体や組合結成を奨励し、その結果、日本国憲法と教育基本法の理念普及と階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組等が結成され、教育現場では「教え子を再び戦場に送るな、銃を取らせるな」等のスローガンの下、 日本の国号と天皇・日の丸・君が代への反対運動が行われ、学童や学生に「平和教育」が施され自虐史観が刷り込まれていった。

 

 言論分野では、「公職追放の影響」(※9)「共産主義革命の風評」(※10)もあり、戦後民主主義を信奉する「進歩的文化人」は、マスコミ、論壇や学界等で「国家は戦争をするから悪であり、憲法は国家を縛るものだ」という国家観や「日本は侵略国家だった」とする自虐的な歴史認識を煽ってきた。 

 

 GHQのこれらの施策は戦前の軍国主義を一掃するためというより、愛国心やモラルを剥奪することによって日本人を骨抜きにして日本を弱体化させるためであり、これらの精神的武装解除を受けたことにより、戦後の日本人は、これまでの歴史・伝統・文化及び道徳的価値観から隔絶され、自国に対する誇りと愛国心を失い個人の権利ばかり主張し公に奉仕する意識が希薄になっていった。  

 

2)各界に残る戦後レジュームの影響 

 

   

            朝鮮戦争  (引用:Wikipedia)  レッド・パージ

 

 GHQ発足当初の占領統治は敵愾心も加わり厳しいものであったが冷戦や朝鮮戦争勃発により緩和され、「逆コース」(※11)といわれる反共政策に転換され保守派の公職追放解除がなされ、「レッド・パージ」による共産勢力排除に切り替えられた。 

 

 しかし、それまでの公職追放の影響は甚大で、特に、主要大学で保守派が追放されて革新派が登用され、特に憲法関連の学会等では日本国憲法の正当性を認めるいわゆる「8月革命説」(※12)が主流をなす教育が行われたため、その教え子が全国の教育現場で戦後民主主義教育の担い手となり、偏向した教科書や試験問題を通じて国家観、歴史認識及び倫理観が歪められ、国旗国歌反対、自虐史観、道徳軽視という反日的教育で「非日本人」(※13)の拡大再生産が続いており、一部の都道府県においては今も進行中ともいえる。 

 

 それに加えて、革新派ではないが占領統治下で生活の為にGHQの検閲・諜報・宣伝活動に協力した組織や個人「GHQ協力者」(※14)が、主権回復後も心ならずも「戦後レジューム」に同調しその一翼を担ってきたのではないか、そして現在でもその影響は各界(政界・財界・官界・法曹界・学術界・教育界・言論界・マスコミ界)の中枢にまで及んでいるのではないだろうか。 

 

 言論分野では、「プレス・コード」(※15)等により敗戦後の外地日本人の復員に際しての中国・ソ連等の残虐行為やシベリヤでの奴隷労働等の報道が禁止され戦時中の日本軍の残虐行為ばかりが喧伝されてきた。

 

 また、「没収宣伝用刊行物」(※16のいわゆる焚書による影響により、今でも、戦前の国内外情勢と隔絶させられた状況が続いている。 

 

 また、プレス・コード等とともに出されたGHQ指令「新聞と言論の自由に関する新措置」(昭20.9.27)が「日本よりGHQの正義を優先し、日本の不名誉と不利益、国家の解体と消滅を志向するものでもよく、換言すれば、国家に対する忠誠義務から完全に解放された」(江藤淳氏)というものであり、また、公職追放により保守層の大半が追放されて「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長していたため、啓蒙を果たすべき言論界の主力は、永らく“従軍”慰安婦や南京大虐殺の偏向報道等で日本を貶める論説・報道を流し続けた。 

 

 その影響は国内だけでなく国外にも影響し、特に米国における「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」の採択、「在米反日団体」(※17)による従軍慰安婦像建設等により、在外居住日本人の子供がいじめにあう等の影響が出ている。

 

 現在の言論界においても「報道におけるタブー」(※18)があると云われているが、このプレス・コードによる自己規制や国家に対する「忠誠義務不在の言論空間」(※19もタブーとして残っているかのようである。

  

3)戦後レジュームからの脱却

 第一次安倍内閣により教育基本法等が改正されて「伝統の尊重」や「愛国心の涵養」等が明記され、学習指導要領の改正により歴史教科書の改善や道徳の教科化が図られているが、中・高校における偏向教科書の採択、中国・韓国への贖罪修学旅行の続行等、今なお教育現場では「戦後レジューム」の影響から抜け切れていないところもある。

 

 保守派も教育委員会制度の見直し等の改善を図ってきているが、更に教育現場の実態を把握し、適時適切に世論に訴える等の対応を考えなければならない。 

 

 また、マスコミは「権力の監視機関」ではなく「戦後レジュームの監視機関」とも云われるように、憲法改正論議のタブー化、再軍備反対運動擁護、自虐史観墨守等、言論分野では「戦後レジューム」による言語空間が残っており、特に南京大虐殺否認や靖国参拝推奨等の自虐史観からの脱却を主張する者は国内外のマスコミから「右翼」、「歴史修正主義者」(※20)と指弾される。 

 

 このような世相もあり現在の日本においては国家観、歴史認識や倫理観の異なる政党が乱立し、その公約等(※21)には「外国人参政権付与・二重国籍容認」、「靖国神社問題・恒久平和調査局設置」や「夫婦別姓・人権被害救済」等の日本を更に弱体化させかねないものも含まれている。また、自主憲法制定や自虐史観脱却等を明確に主張する政党が、未だに国政選挙のレベルで国民から受け入れられていないのも現実である。 

 

 これらに対応するには、これらの公約等の実態を広く国民に警鐘を発して阻止するとともに、最終的には「戦後レジューム」の骨幹である日本国憲法(前文、天皇条項、戦争放棄条項、国民の権利・義務条項、緊急事態条項)の改正が必要と思われ、そのためには教育分野及び言論分野における啓蒙活動を通じて憲法改正への世論形成が不可欠であろう。 

 

おわりに 

 「戦後レジューム」は、日米安保体制の下で平和で経済発展した国が築き上げてきた現実があり、多くの国民はこの体制を受容し世論もこれを是としている。

 

 しかし、革新派はもちろん保守派の多くの人も、古き良き国柄・倫理観や家族制度等が根底から変革されて、正常な国家観や歴史認識及び家族愛や愛国心が喪失され個人主義に陥り物質的繁栄を貪るだけのいわゆる「愚者の楽園」(※22)(若泉敬氏)に陥っていることの重大さに気付いていないのではないか。 

 

 現在の日本人が平和で豊かな生活を享受できているのは、今次大戦で国の為に命を賭して戦った先人たちの賜物であり、今、「戦後レジューム」から脱却し精神的武装解除からの呪縛から逃れるため「日本を取り戻す」(安倍政権)ことに手を付けなければ、将来、外国から侵略されたとき、国民が命を賭して国の為に戦う意思がなければ、それこそ「張り子のトラ」という化けの皮がはがれて戦いに勝利することがかなわず、国の独立と安全を確保できない事態となり、我々の子孫に大きな禍根を残すことになろう。 

 

 しかしながら「戦後レジュームからの脱却」は、「GHQが徹底して破壊した『日本軍国主義』の復活」と戦勝国側(一部)の警戒心を呼び起こし中国・韓国の国内外向け対日批判の口実を与えており、特に靖国神社参拝問題への異常なまでのこだわりはその象徴的な現象とも思われ、対外的には適時適切な説明を行う等、慎重な対応も必要であろう。 

 

 第二次安倍政権(平成24年12月以降)が継続し、「日本を取り戻す」がスローガンに掲げられて教育改革が進められ、また政府による「河野談話の検証」の公表や尖閣列島等への中国艦船・航空機の侵入・侵犯への対応が多発し韓国による竹島実効支配の誇示が続き、朝日新聞の “ 従軍 ” 慰安婦記事の取消しもあり安全保障に関する世論も少しずつ変化してきている。

 

 また、民間においても、「GHQ焚書図書開封」(※23)等により近現代史の見直しが進んでおり、教育改革による道徳の教科化により教育勅語「12の徳目」(※24)の再評価の兆しも見られる。 

 これに安倍政権の「戦後レジュームからの脱却」の各種施策が軌道に乗れば、我が国は漸く敗戦後の「精神的武装解除」から立ち直るきっかけがつかめるように思われる。 

 近い将来、より多くの国民に「自国への誇り」を取り戻し「国の為に戦う」という愛国心が育まれることを期待したい。

 

(※1)「美しい国」:「日本国の安倍内閣が国民と共に目ざす」と宣言した国家像で、『活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」 』と定義されている 

 

(※2)「戦後レジーム」:戦後に出来上がった政府の体制や制度。現代の日本では主に、太平洋戦争での日本の降伏後、GHQ下で出来上がった日本国憲法を始めとする法令等を意味する言葉として使われている。第一次安倍内閣は、戦後レジュームに関する野党議員の質問主意書に対する答弁書で「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組み。」と定義している。 

 

(※3)「教育基本法・教育三法の改正」

○教育基本法の改正

 ■ 知・徳・体の調和がとれ、生涯にわたって自己実現を目指す自立した人間

 ■ 公共の精神を尊び、国家・社会の形成に主体的に参画する国民

 ■ 我が国の伝統と文化を基盤として国際社会を生きる日本人の育成 

 

○教育3法の改正

 ■学校教育法の改正(義務教育の目標設定、組織としての学校の力の強化) 

 ■地方教育行政の組織及び運営に関する法律(国・教育委員会の責任の明確化)

 ■教育職員免許法及び教育公務員特例法の改正(教員免許更新制を導入、人事管理を厳格化) 

 

(※4)「普通の国」:安倍総理は、中国の台頭に対抗して、自らの地位を守るため策定した新戦略ドクトリンで、平和主義は受け身であることではなく、軍事的に行動する能力を強化しつつ戦略態勢を強固にし、特に、同盟諸国が我々を必要としている時には対応できる「普通の国」になろうとというメッセージを発出している。安倍総理は、「日本は二流国家でもなければ、二流国家にもならない」と述べている。 

 

(※5)「世界価値観調査」:世界97カ国・地域の研究組織による国際プロジェクトで、世界の異なる国の人々の社会文化的、道徳的、宗教的、政治的価値観の定量調査により、一般の人びとの価値観や意識を比較・分析するものである。平成22年度の調査には、文部科学省の補助金により、東京大学と電通総研が協働で参画した。 

 

(※6)「精神的武装解除」:米国が「日本の精神的武装解除」をめざしていたことは、昭和20年9月2日のバーンズ国務長官の言葉でも明らかになっている。「日本の物的武装解除は目下進捗中であり、われわれはやがて日本の陸海空3軍の払拭と軍事資材、施設の破壊と産業の除去乃至破壊とにより日本の戦争能力を完全に撃滅することが出来るだろう。日本國民に戦争ではなく平和を希望させようとする第2段階の日本國民の『精神的武装解除』はある点で物的武装解除より一層困難である。精神的武装解除は銃剣の行使や命令の通達によって行なわれるのではなく、過去において真理を閉ざしてゐた圧迫的な法律や政策の如き一切の障碍を除去して日本に民主主義の自由な発達を養成することにある。・・・中略・・・聯合国はかくして出現した日本政府が世界平和と安全に貢献するか否かを認定する裁判官の役目をつとめるのだ。われわれは言葉ではなく実際の行動によってこの日本政府を判断するのだ」(「忘れたことと忘れさせられたこと」江藤淳著・文春文庫)

 

(※7)「WGIP」:太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、GHQによる日本占領管理政策の一環として行われたとされる、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画。文芸評論家の江藤淳氏が『閉された言語空間』(1989年)において、この政策の名称がGHQの内部文書に基づくものであると主張し、江藤氏の支持者らが肯定的にこの名称を使用している。

 しかし、この内部文書そのものは江藤氏らによって公開されておらず、実在するかどうか明確ではない。(*)江藤氏は、太平洋戰爭史という宣伝文書を「日本の『軍国主義者』 と 『国民』 とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には無かった 『軍国主義者』 と『国民』 とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析し、また「もしこの 架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、“WGIP”は、所期の目的を達成したといってよい。

 つまり、そのとき、日本における『伝統的秩序破壊』のための、永久革命の図式が成立する。」と述べている。(*)「日本人を狂わせた洗脳計画(WGIP)」(関野通夫著・自由社・2015年刊) でGHQ内部文書が紹介されている。 

 

(※8)「教育勅語の廃止」:マルクス主義者の羽仁五郎が全日本教員組合を結成し、「いかなる真理であっても強制はいけない」という理由で、教育勅語を廃止に持ちこむ。強制、管理、抑圧を否定する戦後教育イデオロギーはここから始まる。 

 

(※9)「公職追放の影響」:“ 日本を弑する人々 ” 稲田朋美・八木秀次・渡部昇一共著):偽善的な「反戦平和」や「友好第一」などといった衣装をまとい、「戦前の反省」などと言いながら、戦前戦中の日本の指導者を一方的に非難する人たちを日本の敗戦によって利益を得た「敗戦利得者」だと思っている。

 特に、公職追放が「敗戦利得者」を大勢生み出し、軍国主義者を永遠に排除するという建前で行われましたが、追放の選別はGHQの恣意で、最初は戦争犯罪人、陸海軍人、超国家主義者・愛国者、政治指導者といった範囲だったのが、経済界、言論界、さらには地方にも及び、本来の意味で公職ではない民間企業、民間団体からのパージも行われました。その隙間を埋めた人は、大きな利益を手にしたわけです。

 GHQの狙いは、敗戦によって沈む者と浮かび上がる者とをつくりだすことで、日本国内に日本人の敵を生ぜしめ、日本社会を歴史的にも、人的にも分断することにあったと言ってよいと思います。

 追放指定の基準は、あくまでGHQの占領政策を推進するのに障害となりそうな人物の排除で、それは裏返せば愛国心を維持する人や、戦前の日本史の事実を守ろうとする人にとっては不利益を強いられ、それを捨て去る人には恩恵をもたらすという構図になっていたわけです。

 追放された人たちに代わってその地位に就いた人が、「戦前の日本はよかった」と言えるはずはなかった。公職追放が道理ではなく、GHQの恣意だったことは、昭和25年の朝鮮戦争勃発によって明らかになります。その直前、GHQはそれまで軍国主義に反対した平和主義者、民主主義者のように持ち上げていた日本共産党中央委員24人全員を追放したのをはじめ、それまでの追放解除を進め、昭和26年1月までに17万5千人の追放を解除しています。

 その後、サンフランシスコ平和条約発効によって追放令そのものが廃止され全員が解除されたわけですが、「敗戦利得者」たちはすでにその地歩を築いたあとだったということです。

 こうした敗戦利得者、追放利得者が後進に与えた影響はきわめて大きく、戦後、雨後の筍のごとくできた大学の教授として日本中にばら撒かれたわけです。あっという間に、進行性の癌のように左翼が日本の教育界を占めてしまった。

 彼らの歴史観は戦前否定、“日本悪しかれ”ですから、日本人であって日本に愛国心を感じない。むしろ日本を糾弾することで自らの存在理由を確認するという構造に組み込まれてしまっています。 

 

(※10)「共産主義革命の風潮」:日本でも占領初期にGHQのなかのニューディーラーたちが共産党や労働組合の肩を持ったために、騒動争議やストライキやデモが頻発し、これが戦後の混乱にさらに拍車をかけていた。日本における革命を煽動したコミンテルンの狙いは、ソ連を守るために日本国内で騒乱を起こして日本を弱体化することにあった。

 戦後教育とはまさにアメリカ(GHQ)とソ連(コミンテルン)の謀略であったといえる。(民主教師が国旗国歌を執拗に反対するのも、米ソの日本に対する憎悪をそのまま受け継いでいるからである)

 

(※11)「逆コース」:戦後日本における、「日本の民主化・非軍事化」に逆行するとされた政治・経済・社会の動きの呼称である。代表的なものは、「2・1ゼネスト中止命令」、「再軍備準備」、「レッド・パージ」、「日本共産党員の逮捕」等がある。 

 

(※12)「八月革命説」:憲法学界では「大日本帝国憲法は天皇を主権者としている憲法である」という説を通説としている。しかし、日本国憲法は、第1条で、国民主権を、定めている。帝国憲法は天皇主権であるから、改正する権利も天皇がもっている。それなのに、日本国憲法は国民が主権を持って制定したことになっている。これらは矛盾している。

 そこで、この矛盾を解くために、憲法学者の宮澤俊義氏により、「八月革命説」が唱えられた。この説は、「昭和20年8月にポツダム宣言が受諾されたことをもって、法的な『革命』が起こったとし、これにより、主権が天皇から国民に移った」とするものである。これにより、憲法学界では、「日本国憲法は正統性がある」とみられているのだ。 

 

(※13)「非日本人」:昭和20年代(1945~1955)、日教組が全国の学校を支配下に置き、勤評闘争やストに明け暮れた時代。この影響をもろに受けたのが、団塊の世代である。階級闘争イデオロギーを注入された団塊の世代が、高校紛争や大学紛争、あるいは70年代の反体制文化の担い手となったのは当然の帰結である。

 団塊世代の発想は、反権力、反体制、平等主義、自主性尊重というまさに戦後の日教組思想そのものであり、結果として、秩序の崩壊、モラルの低下、家庭崩壊、コギャル発生と、次々と悪しき要素を生み出している。

 団塊世代は今、マスコミや各種団体の中枢におり、戦後思想を組織的に敷衍している。「ゆとり教育」「フェミニズム」「セクハラ問題」「少年法擁護」「夫婦別姓」等、数え上げたらきりがない。これらは一見正当に見えるがゆえに、背後にある危険なイデオロギーに気づくことなく、世間に浸透しているのだ。 

 

(※14)「GHQ協力者」:私信等の検閲を秘密裏に行ったGHQ民間検閲支隊は、日本人の大学教職員や学生を含め6千人に上るといわれ、焚書図書の指定には、帝国図書館(現国会図書館)を中心に官学界の多数の教養ある人たちが関与したと云われている。 

 

(※15)「プレス・コード」(削除及び発行禁止対象のカテゴリー:抜粋)

1)アメリカ合衆国への批判/2)ロシア(ソ連邦)への批判/3)英国への批判/4)朝鮮人への批判/5)中国への批判/6)満州における日本人取り扱いについての批判/7)連合国の戦前の政策に対する批判/8)第三次世界大戦への言及/9)冷戦に関する言及/10)大東亜共栄圏の宣伝 

 

(※16)「没収宣伝用刊行物」:GHQの「宣伝刊行物の没収に関する覚書」により昭和3年からの刊行物訳22万件から9299点の単行本が選出され、その中から7769点の単行本が「没収宣伝用刊行物」に指定され、指定された本は、出版社は元より全ての公共ルートから徹底的に調査し、秘密裏に廃棄することとされました。

 この指定に際し、西尾幹二氏は、日本人の協力者がいたと推定しています。帝国図書館長岡田温氏の回想録によれば、外務省主導で小委員会が設けられ、東京大学文学部の教授が専門委員として参画し、帝国図書館内で会議がもたれたとしている。

(引用:「上善如水~念すれば花開くhttp://member.hot-cha.tv/~htc05528/CCP013.html)  

 

(※17)「在米反日団体」(産経 “ 緯度経度 ” 25.8.31:米国にいる日本攻撃の主役:抜粋)

 日本非難を露骨にしたこんな活動を米国内で一貫して進めるのは一体、だれなのか。日本側では単に「韓国ロビー」というだけで、その実態は伝えられない。

 すでに慰安婦碑を建てた東部のニュージャージー州などでの動きを含めて表面に出るのは、ごく少数の韓国系米国人の名と特定地域で旗揚げした「カリフォルニア州韓国系米国人フォーラム(KAFC)」というような新参の団体名だけなのだ。全米規模で機能する韓国系組織の存在は感じられない。そんなことをいぶかっていたら真の主役がやはり顔を出してきた。

 中国系在米反日組織の「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)である。抗日連合会はカリフォルニアやニュージャージーでの慰安婦像などの設置を自己の活動の「最新の前進」として自サイトで公式に発表したのだ。米国各地での慰安婦像の設置を今後も推進すると宣言していた。

 (中途略)

 今森貞夫氏も「地元では、韓国系だけでは組織も活動も希薄で、抗日連合会に扇動され、指導された構図が明白だった」と語る。米国を利用してのこの慰安婦問題は日本への汚辱を世界に、そして日本の後世に、残そうとする意図が露骨である。そんな対日攻撃への備えでは主敵がだれなのかの認定がまず重要だろう。(ワシントン駐在客員特派員 古森義久) 

 

(※18)「報道におけるタブー」:(ウィキペディアでの推測)

1)メディアタブー/2)記者クラブタブー/3)スポンサー・広告代理店タブー/4)芸能プロダクションタブー/5)桜タブー/6)菊タブー/7)荊タブー/8)アーレフタブー/9)鶴タブー/10)在日韓国・朝鮮人タブー/11)中華人民共和国タブー/12)核タブー/13)ナチス・ヒトラー礼賛タブー/14)戦時大統領タブー 

 

(※19)「忠誠義務不在の言論空間」:マディアによる情報工作として「人間の尊重、自由、民主、平和、独立」が声高に叫ばれているが、これは「人間の尊重=個の尊重、全の否定」、「自由=旧道徳からの解放、本能(性)の解放」、「民主=国家権力の排除」、「平和=反戦・不戦思想」、「独立=米帝との提携の排除」により更に日本弱体化を進めようとする世論操作とも思われる。

 

(※20)「歴史修正主義者」:元々、歴史修正主義あるいは修正史観という言葉は、それまで主流的であった歴史観を再検討した上で新たに提示された歴史観を表す言葉であった。

 このような学術的用法に対し、通俗的な用法として、ある特定の歴史家が、反対者の歴史観に対して、否定的な印象を広く一般に植え付けるためのレッテルとして用いることがある。

 この用法による「歴史修正主義」とは、「客観的な歴史学の成果を無視し、都合の良い過去は誇張や捏造したり、悪い過去は過小評価や抹消したりして、自らのイデオロギーに従うように過去を修正するもの」であったり、「既に修正された歴史観の再修正をするもの」という意味で使用される。

 西欧においてホロコースト否認論者たちが自らを「歴史修正主義者」と規定したことから、否定的な言葉として使われるようになった。日本では1990年代後半から、南京大虐殺などの存在を否定する勢力を、それを肯定する側が批判する言葉として使うようになり、これは西欧のホロコースト否認主義の連想が働いたためとも言われている。

 

(※21)「公約等」(一例:民主党INDEX2009:土屋たかゆき元民主党都議)

1)外国人参政権付与法案/2)移民1000万人受入/3)民主党沖縄ビジョン/4)人権擁護法案(人権侵害救済法案)/5)戦時性的強制被害者問題解決促進法案/6)北朝鮮人権法案/7)国連中心主義/8)憲法提言中間報告(国家主権の移譲)/9)国立国会図書館法改正案(自虐史観永久固定化法案)(*)/10)外国人住民基本法

 

(*)9)の補足:(INDEX2009):「今日の日本の平和と繁栄の陰には、先の大戦において内外に多くの犠牲が存在したことを忘れてはなりません。そのことを念頭に、戦後諸課題の解決に取り組みます。北方領土問題を解決して日露平和条約を締結することや、拉致問題を含む諸懸案を解決したうえで日朝国交正常化に取り組むことが重要です。また、国会図書館に恒久平和調査局を設置する国立国会図書館法の改正、シベリア抑留者への未払い賃金問題、慰安婦問題等に引き続き取り組みます。」

 

(調査項目):1)開戦経緯/2)朝鮮人・台湾人の強制連行/3)日本軍の関与による組織的・強制的な性的行為の強制/4)日本軍の生物化学兵器開発・実験・使用・遺棄/5)2~4以外の朝鮮人・台湾人への残虐行為/6)2~5以外の戦争被害/7)わが国の賠償責任

 

(※22)「若泉敬氏」:沖縄返還交渉で佐藤首相の密使としてニクソン政権のキッシンジャー補佐官と交渉した京都産業大学教授で国際政治学者が、その経緯等を表した著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で述べた言葉 

 

(※23)「GHQ焚書図書開封」:評論家の西尾幹二氏は著書の中で「 “戦前の日本を取り戻すことなしに日本の未来はない” 日本は戦争に敗れましたが、「焚書」される理由は全くありません。一国の政治的・思想的・歴史的・文明的・道徳的・軍事的・外交的、そして最後に宗教的な生きる根拠を、多民族から裁かれる理由はないのです。

 日本が戦前・戦中の自分の主張的立場を他人に言われて否定したのは間違いでした。失敗です。『焚書』されて本がなくなってしまったために、戦後を自分でなくて生きている事実にすら気がつかなくなってしまったのです。

 最近の日本及び日本人の情けない姿はみなここに原因があります。自分を取り戻すために、目の前から消されてしまった本を取り戻すことから始めなくてはならないのだと私は考えて、この仕事に立ち上がりました」と述べている。 

 

(※24)「12の徳目」:孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓發、德器成就、公益世務、遵法、義勇  

 

(補足:この私見は、注釈を除き、平成27年4月、ボランティアの機関誌に投稿した際の見解です。

(追記:2020.10.25)


(2) 戦後レジュームの正体 (その1) 国民が知らない反日の実態


(引用: 国民が知らない反日の実態)https://w.atwiki.jp/kolia/pages/610.html

目次

1)マスコミは「権力の監視機関」ではなく「戦後レジームの監視機関」

2)戦後レジームとは、YP体制(ヤルタ・ポツダム体制)のこと 

3)ヤルタ協定(秘密協定含む)

4)ポツダム宣言

5) 戦後民主主義(ポツダム民主主義)の浸透を目的として結成された日教組


 ”保守”に対して “ 反対 ” するのですから、これが “ 革新 ” だと、人々は信じました。

・・・(中略)・・・そうではない、戦後の保守体制そのものが、実はヤルタ・ポツダム体制の上に乗っかっているにすぎず、このヤルタ・ポツダム体制(YP体制)に反対することこそが真の革新なのだ。 

 

1)マスコミは「権力の監視機関」ではなく「戦後レジームの監視機関」 

 多くの人が誤解しているようですが、マスコミは (彼らが自称するような) 「権力の監視機関」なのではなくて、「戦後レジームの監視機関」です。

 

 「戦後レジーム」というと内容がよく分からない言葉になってしまうのですが、これは要するに「YP体制(ヤルタ・ポツダム体制)のことです。

 連合国(米ソ英3国)首脳のヤルタ会談ポツダム会談で決められた 敗戦後の日本の在り方を維持・継続させるお目付け役が、戦後の日本のマスコミです。

 

 安倍元首相(そして麻生前首相)が何故あれ程マスコミに憎まれ叩かれたのか、その理由は、彼らが「戦後レジーム=YP体制」からの脱却を目指したからです。(麻生前首相は安倍元首相ほど明確に表明しませんでしたが、目指す方向は本質的には同じだったはずです)安倍政権・麻生政権が、共にマスコミの猛バッシング世論操作によって倒された今、彼らが脱却を目指した「戦後レジーム=YP体制」とは何か、について纏めておきましょう。 

 

※なお、「YP体制(ヤルタ・ポツダム体制)」で検索を掛けると、「一水会など新右翼系団体の掲げるスローガン」などと出てきます(記入元は共産党など左翼系組織)が、本来は、戦後の日本の政治体制を表わした保守派による造語であり、それが、1970年代に入って新右翼系団体に利用され広まってしまったものです。安倍元首相は、YP体制という用語とその意味を十分に理解していたと思われますが、新右翼系団体のスローガンとなってしまった言葉を使用するのを避け、「戦後レジーム(戦後体制)」という曖昧な言葉を用いたようです。 

 

2)戦後レジームとは、YP体制(ヤルタ・ポツダム体制)のこと 

ヤルタ・ポツダム体制(YP体制):5つの内容

現状(戦後レジーム継続)

 

 

ヤ ル タ

協 定

 

ソ連の対日参戦・千島引渡し密約

ロシアの北方領土占領継続

  

五大国主導による国連秩序の構築

日本は常任理事国になれず・敵国条項も継続

 

 

 

 

 

 

ポツダム宣 言

  

占領憲法(ポツダム憲法)の押し付け

占領憲法継続、「平和憲法を守れ」(憲法9条カルトが跋扈)

  

戦後民主主義(ポツダム民主主義)の押し付け

「戦前の日本は暗黒の非民主主義国家だった」とする自虐的国家観・歴史観継続

    

占領憲法と戦後民主主義の監視機関(マスコミ・日教組etc.)設置

言論界・教育界の左翼占拠継続、世論操作の巧妙化

 

3)ヤルタ協定(秘密協定含む)

・ヤルタ協定は、第二次世界大戦末期の1945年2月、クリミア半島のヤルタで行われた、F.ルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ連)による首脳会談(ヤルタ会談)で妥結された、

① ドイツ及び東欧地域の戦後処理に関する協定

② 連合国のうち五大国(米・ソ・英・仏・中華民国)主導による国連の大枠決定

③ ソ連の対日参戦と日本の領土・権益の取得の合意(※)

のこと。

 

(※)日ソ中立条約がまだ一年以上有効期間があったため、秘密協定とされた。(日本敗戦後の1946年2月にアメリカが公表) 

以下は、 ヤルタ秘密協定の現代語訳

補足説明

 

3大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し且つヨーロッパにおける戦争が終結した後2箇月または3箇月を経て、ソヴィエト連邦が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した。

外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持する。

 

1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、つぎのように回復される。

※以下は「回復」されるソ連(旧ロシア)の領土及び権益

()

樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する。

 

()

大連商港を国際化し、この港におけるソヴィエト連邦の優先的利益を擁護し、また、ソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権を回復する。

 

()

東清鉄道及び大連に出口を提供する南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立して共同に運営する。但し、ソヴィエト連邦の優先的利益を保障し、また、中華民国は、満州における完全な利益を保有するものとする。

 

千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡す 。

※千島列島は「回復」ではなく「引き渡す」⇒ソ連側には正当な領土取得理由がない

 

・前記以外の外蒙古並びに港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を要する。大統領は、スターリン元帥からの通知により、この同意を得るために措置を執る。

・3大国の首班は、ソヴィエト連邦のこれらの要求が日本国の敗北した後に確実に満足されることを合意した。

・ソヴィエト連邦は、中華民国を日本国の束縛から解放する目的で、自国の軍隊によりこれに援助を与えるため、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中華民国との間の友好同盟条約を中華民国政府と締結する用意があることを表明する。

 

4)ポツダム宣言

・ ポツダム宣言は、ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ、中華民国および英国の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日に大日本帝国に対して発した、第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結に関する13条から成る勧告の宣言。

 

・ 宣言を発した各国の名をとって、「米英支ソ四国共同宣言」(大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送の原文)では「米英支蘇」)ともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れについて、駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、併せてラジオ・トウキョウを通じてアナウンス。

 

・ 同年9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で天皇(元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が降伏文書に調印した。 

 

以下は、 ポツダム宣言(全文)の現代語訳

補足説明

1

 われら合衆国大統領、中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣は、われらの数億の国民を代表して協議の上、日本国に対して、今次の戦争を終結する機会を与えることで意見が一致した。

 

2

 合衆国、英帝国及び中華民国の巨大な陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加える態勢を整えた。

 この軍事力は、日本国が抵抗を終止するまで、日本国に対し戦争を遂行しているすべての連合国の決意により支持され、かつ鼓舞されているものである。

 

3

 世界の奮起している自由な人民の力に対する、ドイツ国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものである。

 現在、日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対して適用された場合において、全ドイツ国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰させる力に比べて、測り知れない程度に強大なものである。

 われらの決意に支持されたわれらの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全な壊滅を意味し、また同様に、必然的に日本国本土の完全な破滅を意味する。

 

4

 無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れた、わがままな軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御されるか、又は理性の経路を日本国が踏むべきかを、日本国が決定する時期は、到来した。

 

5

 われらの条件は、以下のとおりである 。われらは、右の条件より離脱することはない。右に代わる条件は存在しない。われらは、遅延を認めない。

※「有条件降伏」の要求であり、「無条件降伏」ではない

6

 われらは、無責任な軍国主義が世界より駆逐されるまでは、平和、安全及に正義の新秩序が生じえないことを主張することによって、日本国国民を欺瞞し、これによって世界征服をしようとした過誤を犯した者の権力及び勢力は、永久に除去されなければならない。

 

7

 このような新秩序が建設され、かつ日本国の戦争遂行能力が破砕されたという確証があるまでは、連合国の指定する日本国領域内の諸地点は、われらがここに指示する基本的目的の達成を確保するため、占領される。

 

8

 カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びにわれらが決定する諸小島に局限される。

 

9

 日本国軍隊は、完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。

 

10

 われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようとする意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。 日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない 。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない。

※戦前の日本にも「民主主義的傾向」が存在したことを連合国側も認めている

11

日本国は、その経済を支持し、かつ公正な実物賠償の取立を可能にするような産業を維持することを許される。

 ただし、日本国が戦争のために再軍備をすることができるような産業は、この限りではない。この目的のため、原料の入手(その支配とはこれを区別する。)は許可される。日本国は、将来、世界貿易関係への参加を許される。

 

12

 前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収する。

 

13

 われらは、日本国政府が直ちに 全日本国軍隊の無条件降伏を宣言 し、かつこの行動における同政府の誠意について適当かつ充分な保障を提供することを同政府に対し要求する。

 これ以外の日本国の選択には、迅速かつ完全な壊滅があるだけである。

※「全日本国軍隊の無条件降伏」を要求⇒「日本政府の無条件降伏」要求ではない

 

■占領憲法(ポツダム憲法)の本領を示す日本国憲法「前文」 

日本国憲法前文

日本国民は、

恒久の平和を祈願し、

人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚する

のであって、

平和を愛する諸国民の

公正と

信義に

 

信頼して、

われらの

安全と

生存を

 

保持しようと決意した。

・このように、「平和を愛する諸国民」以下と「われら(=日本国民)」以下が対句を為している。⇒「平和を愛する諸国民」とは「日本を除く外国の諸国民」のこと。

 

・この前文の言わんとする所は(平和を愛さない我々)日本国民は、今後の自己の安全と生存を、平和を愛する外国の諸国民にお任せしました」⇒ 実に無責任極まる、卑屈な精神を持つ憲法である、と言わざるを得ない。

 

・この前文が、憲法9条:戦争放棄の条文と呼応して、日本国民の自立を阻害しているのは明らかである。 

 

5) 戦後民主主義(ポツダム民主主義)の浸透を目的として結成された日教組

 日本国憲法の精神を、教育を通じて日本国民に浸透させる目的で制定されたのが教育基本法である。(2006年に安倍政権の下で抜本改正済み。但し今後の再改正が憂慮される)

 

 そして、日本国憲法教育基本法の精神を学童・学生に浸透させる目的で結成されたのが日教組であり、その初代代表には、戦前からのマルクス主義歴史学者で、GHQにより獄中から解放された羽仁五郎が選出された。

 

 羽仁は、日教組の組織票により革新系無所属の参院議員に選出され、国会での教育勅語の失効確認決議や、国立国会図書館法の制定を主導した。 

 

 戦後にGHQの指導により制定された法規のうち、この、

①日本国憲法②教育基本法③国立国会図書館法

3法(※)だけは、その法律の精神を謳う前文を持つ。

 

 国立国会図書館法の前文は羽仁五郎が起草しており、同法により設立された国立国会図書館では、秘密裏にGHQ焚書が実行されたことが判明している。

 

 最近の民主党・社民党の国立国会図書館法改正の動きは、このGHQ焚書(アメリカに不利な書物や映像の隠滅工作)に倣って、特亜諸国に不利な書物や映像などの日本中の公共図書館からの排除・隠滅を目的とするものと思われる。

 

〔前文がある法律〕

法 律

前 文

 

日本国憲法

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

 これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

教育基本法(旧)

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

  われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

 

教育基本法(新)

 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。

 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

国立国会

図書館法

国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。

国立国会

図書館法

(改正案)

○改正案(第164回衆第27号平成18523日)

提出者:鳩山由紀夫・近藤昭一・寺田学・横光克彦・石井郁子・吉井英勝

賛成者:略

○改正案「通称:恒久平和調査局設置法案」(後述)

 

※補足:日本学術会議

 日本学術会議法(昭和23年7月1十日 法 律 第121 号 最終改正 :同16年4月14日同 第29号)

 

前文「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」


(3)戦後レジュームの正体(その2:日教組の活動)


(引用:Wikipedia、新聞記事抜粋)

目次

1)概要 2)現状 3)歴史 4)教師の倫理綱領 

5)日教組の関係した活動に関する論議

  5.1)君が代不斉唱 不起立問題  5.2)教育基本法改定反対運動 5.3)ゆとり教育の推進

 5.4)教職員組合の政治活動への批判 5.5)教研集会全体集会の中止

 5.6)日教組系の単組の関係した活動に関する論議

6)批判 

 6.1)中山成彬の発言に関する論争  6.2)自衛官や警察官への職業差別およびその子弟へのいじめ

 6.3)特定の思想と歴史認識

7)日教組と北朝鮮

 7.1)指導者・幹部による北朝鮮礼賛 7.2)主体思想との関連

 7.3)北朝鮮による日本人拉致問題への対応 7.4)北朝鮮および朝鮮総聯の教職員との交流

8)日教組の現状


1)概要

日本教職員組合(略称:日教組)は、日本の教員・学校職員による労働組合の連合体である。教職員組合としては日本最大であり、日本労働組合総連合会(連合)公務公共サービス労働組合協議会(公務労協)教育インターナショナル(EI)に加盟している。また、かつては旧社会党と共産党、2018年現在は立憲民主党および社会民主党の支持団体の一つであり、両党に組織内候補を輩出している。2016年秋時点の組織率は23.6%である。 

 

・現存する日本の教職員組合の中で最も歴史が古く、規模も結成以来一貫して日本最大の教職員組合である。日本国憲法や改正される前の教育基本法の精神を基本に、民主主義教育の推進と教職員の大同団結をめざすとしている。

 

・教職員の待遇改善、地位の向上、教職員定数の改善をはじめとする教育条件の整備などを主な目的として活動している。

 

・2007年の教育基本法改定、教員免許更新制導入に反対する運動など、教育課題に直接関係する活動のほか、政治的な活動も行っており、入学式や卒業式で国旗掲揚及び国歌斉唱を求める文部科学省の指導に対しては、様々な教職員に対する処分の実態などを背景にして「強制」であるとして批判的な立場をとる。

 

・日教組の政治活動が大きな問題となった例としては、日教組系の山梨県教職員組合による政治献金問題や、教職員組合の政治活動問題などがある。

 

・55年体制下では、他の総評系官公労と同じく、社会党を支持する有力労働組合の一つであったが、かつては共産党支持のグループも日教組に属し、共産党支持グループからなる反主流派が約3分の1の勢力を持っていた。1989年の労組再編で共産党支持グループの大多数が日教組を離脱し、全日本教職員組合(全教)を結成。日教組内の反主流派はごく一部を残すのみとなった。

 

・2018年現在では立憲民主党支持が中心であるが、岩手県、大分県など社会民主党を軸に支持するところや、広島県のように新社会党を支援するところもある。

 

・「国立・公立・私立の幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校、大学、高等専門学校、専修学校、各種学校などの教職員で構成する組合と、教育関連団体スタッフによる組合を単位組織とする連合体組織」と、自己規定している。現状では小学校、中学校、高等学校の教職員が組合員の大半を占めている。

 

・文部科学省が毎年10月1日に実施している教職員団体への加入状況調査や、厚生労働省が毎年6月30日に実施している労働組合基礎調査などから、日教組の加入者数(※)が緩やかな減少傾向にあることが明らかになっている。

 

※日教組の組織率最低更新 21.7%、文科省調査(引用:日本経済新聞:2020年3月2日)

 日教組の組織率は、昨年10月1日時点で前年比0.9ポイント減の21.7%と過去最低を更新したことが2日、文部科学省の調査で分かった。調査が始まった1958年の86.3%が最も高く、77年以降は43年連続の低下。日教組以外を含めた教職員団体全体の加入率も1.3ポイント減の32.0%と過去最低で、こちらも44年連続の低下となった。

 

 調査は大学と高専を除く公立学校勤務の常勤教職員約102万6千人に実施し、教職員団体の加入者は約32万8千人だった。このうち、日教組は前年比約7600人減の22万2708人。全日本教職員組合(全教)は約2千人減の3万4541人で組織率3.4%、全日本教職員連盟(全日教連)は約200人減の1万9518人で組織率1.9%だった。

 

 新規採用者の教職員団体への加入率は1.9ポイント減の23.8%。団体別では日教組が1.8ポイント減の18.1%、全教は前年から横ばいの1.1%、全日教連は0.2ポイント減の1.5%だった。〔共同〕 

 

2)現状

・日教組の組織の形態は法人格のない社団権利能力なき社団であり、そのことに起因する活動範囲、権利能力及び財産管理など(団体名義による契約締結及び口座開設並びに登記などができないこと)の問題を改善するために法人格取得への動きがあるが、その実現は現在もなお難航している。ただし、公式ウェブサイトのドメインjtu-net.or.jpは「公益法人」として取得している。

 

・かつては日本の学校教育に大きな影響力を持ち、文部省(現在の文部科学省)が教育行政によるトップダウン方式で均質かつ地域格差のない教育を指向するのに対し、現場の教員がボトムアップ方式で築く柔軟で人間的な教育を唱え、激しく対立した。

 

・その後、1995年(平成7年)に日本教職員組合は文部省(当時)との協調路線(歴史的和解)へと方針転換を表明した。組織内候補として日本民主教育政治連盟(日政連)に所属する議員を推薦して、国会に送り込んでおり、連合に所属する産別の中では、政治的影響力は大きいとされる。

 

・国会議員では衆議院議員に横光克彦・川内博史・本多平直・道下大樹、参議院議員には水岡俊一・那谷屋正義・斎藤嘉隆・鉢呂吉雄がいる。 

 

3)歴史

・第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)は、学校教育の改革政策として「民主化の一環」として1945年12月に教員組合の結成を指令した

 

・既に11月には京都や徳島で教職員組合が結成されていた。12月には全日本教員組合(全教。翌年より「全日本教員組合協議会」)が、また翌年、教員組合全国同盟(教全連)が結成された。

 

・これら2つの組織に大学専門学校教職員組合協議会を加えて、組織を一本化する機運が生まれ、1947年(昭和22年)6月8日に奈良県高市郡(現在の橿原市)橿原神宮外苑で日本教職員組合結成大会が開かれた。大会では、日教組の地位確立教育の民主化民主主義教育の推進を目指すと定めた3つの綱領を採択し、6・3制(小学校6年間・中学校3年間)完全実施・教育復興に向けての取り組みを開始するとした。

日教組結成大会 橿原神宮

 

・1950年6月に北朝鮮が韓国に突如侵攻したことで朝鮮戦争が勃発し、連合国軍最高司令官のマッカーサーは警察予備隊(後の保安隊、現在の陸海空自衛隊)の創設を指令、再軍備に道を開き、日本を「反共の砦」と位置づけた。

 

・また日本政府も連合国軍による占領終了に伴う主権回復(1952年4月28日:日本国との平和条約発効)を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」の導入など、左翼陣営から戦前への「逆コース」といわれる教育政策を志向し始めた。

 

・戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は、1951年1月に開いた中央委員会でスローガン「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」(=非武装中立)を採択し文部省(現・文部科学省)の方針に対立する運動を開始した。

 

・また、1951年11月10日、栃木県日光市で第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催、現在に至っている。その後も、「教師の倫理綱領」を定めて新しい教員の姿を模索する一方、文部大臣(現在の文部科学大臣)と団体交渉を行ってきた。

 

「教育の国家統制」「能力主義教育政策」に反対する立場を取り、1956年(昭和31年)における教育委員会が住民による公選制から首長による任命制に移行することへの反対、1958年(昭和33年)における教員の勤務評定を実施することへの反対、1961年(昭和36年)における日本の全国統一学力テスト実施への反対、1965年(昭和40年)における「歴史教科書問題」をめぐる裁判(家永教科書裁判)の支援などを行った。

 

・1958年6月6日、第17回大会(上ノ山)勤評闘争方針を討議、条件闘争案を否決。6月11日、役員選出問題で休会、7月27日、東京で再開、宮之原書記長を選出した。10月28日、勤評闘争で群馬・高知で10割休暇、12月4日、高知10割休暇、12月5日、小林委員長は闘争反対の父兄に暴行される。

 

・また、同じく「教育の国家統制」に反対する立場から1950年(昭和25年)以降、国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対している(なお、この様な方針を掲げる教職員組合は世界では日本のみである)

 

・国政においては、日教組の政治組織である日本民主教育政治連盟は、1956年の総選挙で日本社会党などから推薦候補20人(うち、日教組組織内候補13人)を当選させ、1956年の参院選では10人を当選させた。

 

・1970年代に入ると、日教組への右翼団体の妨害がエスカレートした。1971年7月22日から佐賀県嬉野町立体育館で行われた第39回定期大会の例では、会場周辺を700人の機動隊が警戒に当たっていたにもかかわらず、右翼側は前日から会場の天井裏に潜伏。大会の開会宣言に合わせて天井から消火剤をまき散らし、19人が逮捕される事件も起きた。

 

・また、1973年大会の会場として確保した群馬県民会館からは、事前に周辺自治会から大会開催に賛同を得ること、会館や住民などへ被害が出た際には日教組が補償することなどの条件が附された。次第に会場の確保は困難となり、利用を拒否される出来事も起きた。

 

・1974年の春闘では、本部委員長をはじめ21人が逮捕され、12都道府県13組合999か所が捜索を受けた。この事件を前後して教師のストライキ実施方法日教組内で対立をもたらした。

 

・また、1980年代の労働戦線統一の論議で社会党系と共産党系が対立し、1989年11月には共産党支持グループが離脱して全日本教職員組合協議会(1991年以降全日本教職員組合、略称:全教)が結成された。こうして日教組を構成していた一部の組合員や単位労働組合(単組)が脱退した。

 

・1994年(平成6年)には、日本社会党路線変更に伴い、それまで社会党を支持していた日本教職員組合も方針を変更し、文部省(現在の文部科学省)と協調路線をとることに決定し、文部省と和解した。

 

・2002年度(平成14年度)から翌年度にかけて施行された文部省告示の学習指導要領では、日本教職員組合がこれまでに取り組んできた「自主的なカリキュラムの編成」運動における「総合学習」の考え方に近いとも考えられる「総合的な学習の時間」が新設された。

 

・時代の変化とともに対立から協調へと変化しており、特に20世紀末から21世紀始めにかけては、日本教職員組合と文部科学省との長期の対立に終止符が打たれたのではないかという捉え方もされている。

 

4)教師の倫理綱領

 (引用:世界大百科事典内の教師の倫理綱領の言及

【教師】より

… 51年の講和条約締結前後から教育政策が転換し,教育基本法体制の空洞化といわれ,それは教員政策にもあらわれた。そのとき日教組は平和と民主主義の教育を守ることの重要性を確認し,1952年の大会で〈教師の倫理綱領〉を決定した。

 それは〈教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる〉に始まる10項目であり,平和の擁護,教育の機会均等の実現,科学的真理に立っての行動,教育の自由の保障などをかかげている。…

 

【日教組】より

  そして,朝鮮戦争下,〈教え子を再び戦場に送るな〉のスローガンをかかげ(1951),サンフランシスコ講和条約が締結される時点で平和四原則を支持し,同時に自主的・民主的教育研究活動を学校や地域,県,全国の各レベルで組織し(1951以降。教研集会),さらに青少年の教育に組織的に責任を負う専門職の団体として〈教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる〉に始まる10項目からなる教師の倫理綱領(※)を決定し(1952),以後相次ぐ政府の〈反動文教政策〉と対決することになる。…

 

〔教師の倫理綱領〕

はじめに

 私たちの組合は、昭和二七年に「教師の基本綱領」を決定しました。決定されるまでの約一年間、全国の各職場では倫理綱領の草案をめぐって検討をつづけました。「自分たちの倫理綱領を、自分たちの討論のなかからつくろう」これが、私たちの考え方でした。

 私たちが、綱領草案をめぐって話しあいを行なっていた昭和二六年という年は、全面講和か、単独講和か、これからの日本の歩む途をめぐって国論が二つにわかれてったかわされていた時期です。

 私たちは、敗戦という大きな代償を払って、やっと手中にした「民主主義と平和」を危機におとしいれる心配の濃い「単独講和」に反対してきました。平和憲法に対する理由のない攻撃も、この時からはじめられました。

  このような時代を背景に、私たちの討論はつづけられました。そして「平和と民主主義を守りぬくために、今日の教師はいかにあるべきか」「望ましい教師の姿勢はどうあるべきか」、私たちの倫理綱領草案の討論には、以上のような考え方が基礎になっていました。

  ですから、これはたんなる「標語」ではなく、私たち自身の古さをのりこえ、新しい時代を見きわめて、真理を追究する者のきびしさ、正義を愛する熱情に支えられてた生きた倫理、民族のもつ課題に正しく応える倫理という考え方が、私たちの倫理綱領の基調になっています。

 つまり、歴代の文明などが理由のないいいがりなどつけても微動もしない倫理綱領であるということがいえます。

 以下、私たちの倫理綱領各項についてかんたんにふれたいと思います。

 

一 教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる。

 平和を守り、民族の完全な独立をかちとり、憲法にしめされた民主的な社会をつくりだすことは教師に与えられた課題といえます。私たちは自ら深い反省にたち努力することによって、この課題に応えうる教師となるとともに、青少年がこの課題解決のための有能な働き手となるよう育成されなければならないことをしめしました。

 

二 教師は教育の機会均等のためにたたかう

 青少年は各人のおかれた社会的、経済的条件によって教育を受ける機会を制限され、憲法の条項は空文に終っています。

 とくに、勤労青年、障害児(盲・ろう・肢体不自由児など)の教育はすててかえりみられていません。教師は教育の機会均等の原則が守られるよう、社会的措置をとらせるよう努力しなければならないことをしめしました。

 

三 教師は平和を守る

 平和は人類の理想であるとともに、日本の繁栄と民主主義も、平和なくしては達成できません。教師は人類愛の鼓吹者、生活改造の指導者、人権尊重の先達として生きいっさいの戦争挑発者と勇敢にたたかわなければならないことを明らかにしました。

 

四 教師は科学的真理に立って行動する

  社会の進歩は、科学的真理にたってこそ達成されます。科学の無視は人間性の抑圧に通じます。教師は人間性を尊重し、自然と社会を科学的に探求し、青少年の成長のために合理的環境をつくりだすために、学者、専門家と協力しあうことをしめしました。 

※注:この項目により、教師は全労働者と団結して階級闘争を勝ち抜くとの観点から、青少年の育成は

「われわれに課された歴史的課題」を解決するためとし、教育現場へのマルクス主義注入に使命感を燃やしたとされる。

 

五 教師は教育の自由の侵害を許さない

 教育研究、教育活動の自由はしばしば不当な力でおさえられています。言論、思想、学問、集会の自由は憲法で保障されていますが、実際には制限され、圧迫されています。

  教育の自由の侵害は、青少年の学習の自由をさまたげるばかりではなく、自主的な活動をはばみ、民族の将来をあやまらせるものであります。

  以上のことから、私たちが自由の侵害とあくまでもたたかうことをここで明らかにしました。

 

六 教師は正しい政治をもとめる

 これまで教師は、政治的中立という美名で時の政治権力に一方的に奉仕させられてきました。戦後、私たちは団結して正しい政治のためにたたかってきました。

 政治を全国民のねがいにこたえるものとするため、ひろく働く人とともに正しい政治をもとめて、今後もつよくたたかうことをしめしました。 

 

七 教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる

 あらゆる種類の頽廃が青少年をとりまいています。私たち教師は、マス・コミ等を通じて流される頽廃から青少年を守ると同時に、新しい健康的な文化をつくるために、親たちと力をあわせてすすむことをしめしました。

 

八 教師は労働者である

 教師は学校を職場として働く労働者であります。

 しかし、教育を一方的に支配しようとする人びとは、「上から押しつけた聖職者意識」を、再び教師のものにしようと、「労働者である」という私たちの宣言に、さまざまないいがかりをつけています。

 私たちは、人類社会の進歩は働く人たちを中心とした力によってのみ可能であると考えています。私たちは自らが労働者であることの誇りをもって人類進歩の理想に生きることを明らかにしました。

 

九 教師は生活権を守る

 私たちはこれまで、清貧にあまんずる教育者の名のもとに、最低限の生活を守ることすら口にすることをはばかってきましたが、正しい教育を行なうためには、生活が保証されていなくてはなりません。

 労働に対する正当な報酬を要求することは、教師の権利であり、また義務であることをしめしました。

 

十 教師は団結する

 教師の歴史的任務は、団結を通じてのみ達成することができます。教師の力は、組織と団結によって発揮され、組織と団結はたえず教師の活動に勇気と力をあたえています。

 私たちは自らが団結を強め行動するとともに、国民のための教育を一部の権力による支配から守るため、世界の教師、すべての働く人びとと協力しあっていくことが、私たちの倫理であることを明らかにしました。 

 

5)日教組の関係した活動に関する論議

・日教組の活動をめぐっては、教育および教育行政のあり方を巡って、しばしば議論の対象となってきた。

5.1)君が代不斉唱 不起立問題

・1996年(平成8年)頃から教育現場において、当時の文部省の通達により日章旗(日の丸)の掲揚と、「君が代」の斉唱の指導が強化された。

 

・日教組などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、「日の丸」の掲揚、「君が代」の斉唱は行わないと主張した。

 

・1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱を求める文部省通達の実施を迫る教育委員会とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

 

・これを一つの契機として「国旗及び国歌に関する法律」が成立した。国会での法案審議の際、政府は「この法を根拠に国旗掲揚・国歌斉唱の強制はしない」と答弁しているが、文部科学省は同法を根拠に教育現場を「指導」しており、国旗掲揚・国歌斉唱を推進する側との対立は続いている。

 

・日教組傘下では、一部の単組で国旗掲揚・国歌斉唱の強制に反対する運動が存在しており、こうした活動を保守派ジャーナリズムがしばしば取り上げるほか、個人の立場で国旗・国歌問題で反対運動に加わる教員について、「日教組の活動」として語られることがある。

 

・一方、多くの地域では、日教組加盟組織がそれらの課題に取り組もうとせず、事実上黙認状態であることに対して、反対を貫けと主張する陣営から強い批判を受けている。

 

5.2)教育基本法改定反対運動

・2006年(平成18年)、安倍内閣は、「国を愛する心」「日本の伝統尊重」を盛り込んだ教育基本法改正案を国会に提出した。日教組はこの法案に強く反対し、国会に教育基本法調査会を設けて慎重審議を求める署名運動を展開、200万筆を集めた。

・また、労働組合・市民団体と共に「教育基本法改悪ストップ!全国集会」とデモを繰り返し開催し、国会前での座り込みなどを行った。また、一部の組合員は、国会前での「ヒューマン・チェーン(人間の鎖)」その他の集会に参加した。

・この集会には全国の多数の組合員が参加したが、授業のある平日に行われていたため批判もあった。この点について日教組は、「集会に参加した組合員は年休を取り、他の教員に補講等を頼んでいる」と説明した。

 

5.3)ゆとり教育の推進

・日教組は、「ゆとり教育」の提唱者であるとされている。

1972年、日教組が「学校5日制」「ゆとりある教育」を提起。

2007年、安倍内閣でゆとり教育の見直しが着手されはじめたが、日教組は、「ゆとり教育を推進すべき」という考えを変えていない。

 

5.4)教職員組合の政治活動への批判

・北海道教職員組合の政治献金問題をきっかけに、自民党などから教職員組合の政治活動に関する批判がなされた。これに対し、2010年3月に行われた日教組の臨時大会において、中村譲委員長は「教職員組合の政治活動が許されないとの議論はまったく誤り」として、日教組の政治活動は正当だと強調した。

 

・また、教員の政治活動に罰則規定を設けるべきだという意見についても、「教育に政治的中立性が求められるのは当然だが、罰則規定を設けるのは、(世界人権宣言などの)国際的な常識などを無視した時代錯誤の考え」と批判した。

 

5.5)教研集会全体集会の中止

2008年2月2日から3日間の日程で開催された第57次教育研究全国集会(全国教研)において、初日の午前中に開催予定だった開会式を兼ねた全体集会が、中止された。1951年にこの集会が開かれるようになってから、初めての出来事であった。

 

・これは、会場として予約していたグランドプリンスホテル新高輪が使用を拒否したためである。会場の予約は2007年3月に行われたが、ホテル側が右翼団体による妨害活動を理由として同年11月に解約を通告した。

 

・日教組側は右翼団体の妨害活動が行われることは事前に知らせていたとして提訴し、裁判所は東京地方裁判所、東京高等裁判所のいずれも解約の無効と、使用させる義務があることを確認する仮処分を決定した。しかし、この仮処分にホテル側は従わなかった。

 

・主要紙は相次いで社説を発表し、言論・集会の自由に関わる問題としてホテル側を厳しく批判したほか、日弁連会長も2月8日、談話を発表し、ホテルの対応を批判した。連合は2月1日付けでホテル側の対応を遺憾とする事務局長談話を発表したほか、2月15日にはプリンスホテル系列の施設を利用しないよう呼びかけることを決めた。

 

・2月18日の衆議院予算委員会における民主党・山井和則委員の質問に対して鳩山邦夫法務大臣が

「ご指摘のあった案件、というような個別の案件については法務大臣としてコメントすることは差し控えたいと思っております。あくまで一般論、あくまで一般論として申し上げればいかなる紛争であれ裁判所が公正な審議を経た上で出した裁判、それを無視してあえてこれに反する行動を取られる当事者がもしいらっしゃるとすれば、法治国家にあるまじき事態であると私は考えております」

と述べ、舛添要一厚生労働大臣は同ホテルが集会参加者の約190室分の予約を取り消したことについて「旅館業法に違反している疑いが濃厚だ」と述べた。

 

・2月21日、港区は旅館業法違反の疑いでホテル側から事情聴取を行った。

 

・2月26日、ホテルの経営陣らが「考えを説明したい」と初めて記者会見に臨んだ。この会見でプリンスホテルの親会社である西武ホールディングスの後藤社長は

「憲法は集会の自由を保障しているが、個人の尊重もうたっている。集会当日と前日には周辺の学校で7,000人が受験に臨んでおり、街宣車が押し寄せたら取り返しのつかぬ事態になった」

と述べ、集会が招く混乱については「予約を受けた時点で調べておくべきだった。反省している」と述べた。

 

・また港区からの事情聴取についてホテル側は「集会と宿泊は一体となっており、共に解約した」と説明した。

 

・4月15日、港区はプリンスホテルの「宿泊拒否」が旅館業法違反にあたるとして口頭による厳重注意を行った。

 

・一連の騒動について、日教組はホテル側に損害賠償として2億9000万円を請求した。2009年7月控訴審で日教組はホテル側から1億2500万円の慰謝料を受け取る判決が得られた。

 

5.6)日教組系の単組の関係した活動に関する論議

・日教組系の単組の活動をめぐっても、しばしば議論の対象となってきた。 

〇ストライキの実施

・日教組は教育行政に関する文部省や教育委員会の決定の多くに反対してきたが、その手段としてストライキを用いることがあった。

 

・近年では、1998年(平成10年)7月10日の東京都教育委員会による管理運営規則改正に反対した都高等学校教職員組合(都高教)と都公立学校教職員組合(東京教組)による時限ストや、2001年(平成13年)3月21日の北海道教職員組合(北教組)による、1971年(昭和46年)に北海道教育委員会と北教組が結んだ労使協定(46協定)の一部削除に反対する時限ストや、2008年(平成20年)1月30日の北教組による、査定昇給制度導入に反対する時限ストなどがあった。

 

・地方公務員である教職員は、地方公務員法第37条により、いかなる争議行為も禁止されている。しかし、教職員の争議行為を一律に禁止すること自体が、日本国憲法第28条に違反するとする反論もある。 

 

〇福岡県の事例「校長着任拒否闘争」

・福岡県高等学校教職員組合(高教組)は、日教組全国一斉ストライキを巡り、県教育委員会と激しく対立し、1968年(昭和43年)県教委が任命する学校長の着任を拒否する校長着任拒否闘争をおこし、50名が懲戒免職などの処分となった。

 

〇山梨県の事例

●「輿石東と山教組の関係について」

・山梨県教職員組合(略称:山教組)は、民主党の輿石東参院幹事長(当時)の2004年夏に行われた第20回参議院議員通常選挙に向けて、校長、教頭を含む小中学校教職員らから組織的に選挙資金を集めたとして、産経新聞に報道された。

 

・産経新聞は、この資金集めが山教組の9つの地域支部や傘下の校長組合、教頭組合を通じ、「カンパ」や「選挙闘争資金」の名目で、山教組の指令により、半強制的に実施されていると報じた。

 

・同紙には複数の教員による「資金は輿石東への政治献金として裏口座でプールされた」という証言が掲載された。

 

・教員組合による選挙資金集めは、教員の政治活動などを禁じた教育公務員特例法に違反する疑いもあるほか、献金には領収書も発行されておらず、政治資金規正法(不記載、虚偽記載)に抵触する可能性も指摘された。

 

山梨県教育委員会は、山教組委員長や校長ら19人を処分したが、文部科学省は再調査を求めた。

 

・また国会でもこの問題が取りあげられ、「法令が禁じた学校での政治活動だ」との追及がなされた。その後、山教組幹部ら2人が政治資金規正法違反で罰金30万円の略式命令を受け、山梨県教育委員会も24人に対し、停職などの懲戒処分を行った。

 

・山教組幹部らは「教育基本法改正を前に狙い撃ちされた」と批判したが、こうした山教組の姿勢には批判の声もあがった。また、全国で日教組の組織率が低下している中、山教組は100%近い組織率を維持している。

 

●「山教組が呼びかけた募金について」

・産経新聞の報道によると、2009年5月に開催された、山梨県教職員組合(山教組)の定期大会で「子どもの学び保障救援カンパ」が採択され、主にあしなが育英会奨学金への寄付を名目として約1億7000万円が集まったが、実際にあしなが育英会に寄付された金額はそのうちの7000万円のみであった。

 

・残りの1億円については日教組が加盟する日本労働組合総連合会(連合)に寄付され、その後連合から日教組に助成金として3750万円が交付されたとされる。。

 

・この報道に対し連合と日教組側は、寄付金の使途は就学支援に限定し、募金の趣旨に沿っているので問題ないとしている(寄付金の連合経由での使用は募金の要項でももとから明記されている)。 

 

〇北海道の事例

●「北海道滝川市でのいじめ調査に対する妨害」

・2005年、滝川市立の小学校にて、小学6年生の女子児童がいじめを苦にして自殺した。(滝川市小6いじめ自殺事件)

 

・この事件について、北海道教育委員会が2006年12月にいじめの実態の調査を実施しようとしたが、北海道教職員組合の執行部は、同組合の21ヶ所の支部に対して調査に協力しないよう指示していたことが報道され、いじめの隠蔽であると批判された。

 

・校長は減給、教頭と当時の担任教諭は訓告となった。法務省札幌法務局も事件について調査した結果、この事件を人権侵害事件であると認定した。

 

●「北海道教職員組合の政治資金規正法違反事件」

・2010年2月15日、北海道教職員組合(北教組)が民主党の小林千代美衆議院議員に対し第45回衆議院議員総選挙の選挙対策費用として1600万円を渡したことに関し札幌地検は政治資金規正法違反容疑で札幌地検が札幌市中央区の北教組本部や小林千代美の選挙対策委員長を務めた北海道教職員組合委員長代理の自宅マンションなど数ヶ所を家宅捜索し、翌3月1日に北海道教職員組合の委員長代理、同書記長、及び会計委員の3人と小林陣営の会計責任者を同法違反の疑いで逮捕した。

 

・なお、同事件に対し北教組は札幌地検に対し「不当な組織弾圧」とした資料を配付しただけで事件への説明は無く、「外部からの問い合わせには一切答えないように」と道内支部に対しかん口令を敷いた。

 

広島県の事例

・日教組は、前述の通り、教育現場での国旗掲揚・国歌斉唱の文部科学省の指導に対して強制だとして強硬に反対してきた。 

 

・1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺した。「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱を求める文部省通達の実施を迫る教育委員会とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかといわれた。

 

・同じ広島県で、2003年(平成15年)3月には、小学校の校長が自殺する事件があった。この校長は広島県尾道市の小学校に勤務し、同県が進めていた民間登用制により着任した元銀行員であった。

 

・自殺の原因としては職場環境の違いによるストレスや就労時間の多さなどが考えられたが、現場教員による「突き上げ」が原因であるとする主張も、県内保守派を中心としてあった。

 

・さらに、広島県は、文部科学省が行った「是正指導」までは広島県教職員組合(広教組)と広島県高等学校教職員組合(広高教組)と部落解放同盟とを中心に、「解放教育運動」の盛んな地域であった。

 

・それは文部科学省の「国旗・国歌強制政策」への反対運動にも結びついていた。この運動について、これに反発する保守派は「教育現場では校長に対する『突き上げ』となっており、それはいじめにも等しい」と主張した。

 

・広島県では1970年(昭和45年)から現在まで12人以上の校長・教育関係者が自殺しており、これらの一部は「解放教育運動の影響は少なからず存在する」とする発言もあった宮沢喜一の国会発言など)

 

・なお、同事件が発生した後、ネット上の一部で広教組が「殺人集団」と誹謗されたり、広教組本部が入っているビルの玄関に銃が撃ち込まれる事件が起きたりもした。

 

〇東京都の事例

 「病休指南」ととられかねない記事の掲載

・産経新聞の記事によると、東京都公立学校教職員組合の機関紙「WEEKLY 東京教組」の2009年12月8日付の紙面に「かしこく病休をとる方法」との見出しがつけられた記事が掲載された。

 

・記事内容は、勤勉手当など手当の休日数による減額割合や、昇給に影響しない休日日数など、組合員が不利にならない最低限度の減額で最大日数の効率的な病休の取り方等、「病休指南」ととらえられかねないものであった。

 

・東京都教育委員会は「教員の病休が深刻な問題となっている状況で、不必要な病休を増長しかねない」として訂正記事の掲載を求めた。東京教組側は記事の意図について、「組合員に病休制度を理解させることにあり、病休を勧めるものではない」とした上で、「真意と異なる見出しを付けたことを反省している」と釈明した。

 

6)批判 

6.1)中山成彬の発言に関する論争 

中山成彬氏(引用:Wikipedia)

 

2008年9月には、国土交通大臣に就任直後の中山成彬(第5・6代の文部科学大臣)が、「(贈収賄事件のあった)大分県の教育委員会のていたらくなんて日教組ですよ。」、「日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる。」、「(日教組が強いから)大分県の学力は低い。」、「日教組は日本のガン」、「解体しなければいけない」などの批判を行った。

 

・日教組や野党だけでなくマスコミや、与党からも批判され、国土交通大臣を辞任する結果となった。

 

・中山は他の発言に関しては訂正や謝罪をしたが、日教組批判については「事実」であり、撤回するつもりはないと語った。

 

*当時大阪府知事であった橋下徹は中山の一連の日教組に対する批判に対し「本質を突いている」と支持の立場をとり日教組を批判した。

 

*朝日新聞は「日教組の活動が強いところは学力が低い」との中山の主張に対して、「そのような関係は見受けられない」と紙面で批判した。

 

*産経新聞は、「日教組の強さを勝手に組織率に置き換えている」と批判した上で、「日教組の組織率の高さと組合運動の強さが正比例しているわけではない。組織率が高くても、イデオロギー色が薄く互助組合のようなところもある。」と、組織率と組合活動の過激が比例しているわけではないとの解説を載せつつ、「日教組が強いとは、質の問題であり、イデオロギー色の強い活動をどれだけしていて、闘争的な組合員がどれだけ全体に影響を持っているかということであり、低学力地域には日教組が強い地域が多い」と反論した。

 

*高崎経済大学教授の八木秀次が、「日教組の強さと、学力には相関関係があり、国民が肌で感じてきたことだ」との意見を述べた。

 

*三重大学教授の奥村晴彦(情報教育)は、産経新聞の記事の根幹の主張である「『参議院比例区での日教組組織内候補者』の得票数が多いところは学力が低いのではないか」という見方に対しては「(学力)上位10県と下位10県の票数÷有権者数の平均」と、「全国学力テストの成績」とのt検定を行ったところ、P値が0.273であることを示し、統計的には有意な差がないとして、中山や産経新聞の主張を否定する考えを表明した。

 

*秋田教職員組合は組織率が高かったが、教育正常化を目的として日教組の傘下から離脱している。八木は組織率の問題ではなく、訪朝して金日成賛美や資金を渡しに行く川上祐司日教組委員長を支持するようなイデオロギーが強い者の割合が問題だと指摘している。

 

・八木は統計や実地調査から実際に日教組傘下の教職員組合の組織率ではなく、ノンポリ教員が疑問を抱く組合費の利用・イデオロギー色が強い活動を組織的に行う組合化が問題だとしている。そういった活動を組織幹部が行ってきたイデオロギーが強い組合ほど定年など組合員高齢化で強制参加圧力が低下すると、過去に教職員間で除け者にされるのを防ぐためだけに加入してた教師らの離脱や新人教師が加入しなくなって余計に組織率低下が加速していると元組合員から話を得ている。

 

特定の政党に関わる政治活動をしていないなど本来の教職員の互助組合に近い福井県教組は8割ほどの高い組織率を維持出来ていることを指摘している。

 減少傾向でも2009年時点でも共産党の指導を受ける全日本教職員組合と日教組を合計すると教職員全体の組織率は4割りを超えている。

 

全日本教職員組合が強い地域は日教組自体の組織率50%未満でもイデオロギー的な教職員組合だと組合の活動から指摘している。そのため、大阪や京都などでは旧社会党系(現民主系)と共産党系が支持者の奪い合いをしてきた過去から傘下組織でも根強い対立が存在していることを明かしている。

 

6.2)自衛官や警察官への職業差別および、その子弟へのいじめ

佐々淳行は自著や産経新聞において、日教組組合員の教師が、警察官と自衛官の子供を立たせて「この子達の親は悪人です!」と吊し上げた事を記している。佐々は激怒してその教師を家庭訪問させたが、教師は反省の弁を述べるでもなく、自民党や自衛隊、警察を非難するばかりであった。

 

・業を煮やした佐々が、教育委員会に訴え出て免職させると言うと、教師は一転して土下座して謝罪し始め、「みんな日教組の指示によるもの」と述べたという。

 

・また、同紙社会部次長・大野敏明は、「自衛隊員の息子として教師から虐めを受け、登校拒否になった」と記している。同じく自衛官の息子だった友人は内申書の評価を下げられており、親の職業を言いたがらない者もいたと語っている。

 

6.3)特定の思想と歴史認識

ジェンダーフリー思想

正論2003年4月号「これは本気だぞ!「男女平等」教育の真の狙いは革命にあり」(本誌小島新一)の記事においても、ジェンダーフリー思想による行き過ぎた男女教育や性教育を批判している(小学四年生が学ぶ「自慰のマナー」や、女子はズボン、男子はスカート等)

 

・日教組加盟の一部単組では、学校において男子を「君」ではなく「さん」付けで呼名することを推進しているが、一部の教師や保護者からは違和感や懸念も示されている。

 

授業における思想・歴史認識の強制

・2012年1月に開催された教研集会では、授業で原子力発電所の危険性を挙げた後、学科ごとに、原発に“賛成”か“反対”かを問う調査を実施した仙台市の高校における事例が報告された。

 

・調査の結果“反対”が少ない学科があったことについて、「教職員の授業における操作的射程は意外と成功しなかった」との報告もなされた。

 

・また、中学校の授業で「百人斬り競争」を歴史的事実として教えていることが報告された。これについて藤岡信勝は、中国のプロパガンダを教えている点で問題であり、学習指導要領にも反すると批判した。

 

・生徒らに「真理」とする組合教師の考えを強制しようとしてること、組合を避ける若い教師らには労働時間で組合に引きつけよう、放課後に質問にくる生徒へは憲法を理由に拒否すべきと述べていることに対して、週刊新潮は「ある見解を子どもたちに強制したら、労働者の権利をかざしてさっさと帰るように教師を導きたいらしい」と批判している。 

 

7)日教組と北朝鮮

・日教組は支持政党である日本社会党朝鮮労働党との関係を強化した1970年代から北朝鮮との連帯を強調し、訪朝団の派遣を積極的に行い、北朝鮮の指導者を賛美してきた。

 

7.1)指導者・幹部による北朝鮮礼賛

・1971年から1983年まで委員長だった槙枝元文は1972年4月の「金日成誕生60周年」に際して訪朝し、同国の教育制度を絶賛した。同年、元総評事務局長の岩井章も北朝鮮における思想教育について感銘を受けたと述べた。

・槙枝は、最も尊敬する人物として金日成をあげ、1991年(平成3年)には北朝鮮から親善勲章第1級を授与されている。日教組のトップとして「金正日総書記誕生60周年祝賀」に参加して、「わたしは訪朝して以降、『世界のなかで尊敬する人は誰ですか』と聞かれると、真っ先に金日成主席の名前をあげることにしています。(中略)主席に直接お会いして、朝鮮人民が心から敬愛し、父とあおぐにふさわしい人であることを確信したからでした」と述べている。

7.2)主体思想との関連

・北朝鮮の公式政治思想である主体思想を信奉する団体日本教職員チュチェ思想研究会全国連絡協議会では日教組関係者が歴代会長職を務めており、2006年には福島県教組委員長、日教組副委員長を歴任した同会の清野和彦会長一行が朝鮮総連中央会館を訪問し、朝鮮総連の徐萬述議長から同会の主催で行われる「日朝友好親善を深めるための第30回全国交流集会」に送られてきた朝鮮対外文化連絡協会名義の祝旗を伝達されている。

 

7.3)北朝鮮による日本人拉致問題への対応

〇日朝首脳会談への評価

・日教組は2002年の日朝首脳会談を受けて「拉致問題を含めた懸案事項については、日本の国民感情からも直ちに納得できるものではないが、日朝の首脳が国交の樹立への交渉再開に合意したことを評価したい」とする声明を発表し、「日本が侵略、植民地支配を行ってきた国々とのあいだで共有できる歴史認識の確立、それらの国々の個々人を含めた戦後補償の実現、アジアの平和共生のための運動を引き続き推進していきたい」とコメントした。

 

拉致問題に対する姿勢

・2003年1月25日から28日にかけて奈良県で開催された第52次教育研究全国集会では、北朝鮮による日本人拉致問題を主題にした報告は皆無で、「北朝鮮の国家犯罪は過去の日本の朝鮮統治で相殺される」とする認識が目立った。

・日朝関係への言及が多い「平和教育」の分科会では、「小泉内閣は拉致問題を最大限利用し、ナショナリズムを煽り立てながら、イラクや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を壊滅しようとしているブッシュに付き従って参戦しようとしている」(東京教組)、「いたずらに拉致問題や不審船問題を取り上げ、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にたいする敵意感を倍増させている。

 

・真相究明・謝罪・補償を訴えることは被害者家族の心情を考えれば当然のことだが、そこで頭をよぎるのは日本の国家が1945年以前におこなった蛮行である。自らの戦争加害の責任を問わずしてほかに何が言えようか」(大分県教組)などの発言があった。

 

・また日教組は、拉致問題を扱った教科書について「北朝鮮敵視」であると批判した。

 

7.4)北朝鮮および朝鮮総聯の教職員との交流

・日教組は2003年度の運動方針に、北朝鮮の官製教職員団体である朝鮮教育文化職業同盟との交流を掲げていた。

 

・日本国内では、朝鮮総聯の傘下団体である在日本朝鮮人教職員同盟(教職同)とも連携しており、交流集会・研究会を共催している。

 

・2007年2月24日に開催された「第8回日本・朝鮮教育シンポジウム」において、日教組の代表は「日教組は嫌がらせから在日朝鮮人生徒を朝鮮学校の教員とともに守っていきたい」と述べた。 

 

8)日教組の現状

※ 産経新聞特集記事:「戦後75年 第7部教育 ④」(2020.11.22)から


(4)戦後レジュームの正体(その3:国立国会図書館法の改正問題)


(引用:Wikipedia)

目次

1)概要 

2)沿革

 2.1)国会図書館の淵源 2.2)国会図書館開館後

3)理念 

4)組織

5)国立国会図書館の特色

 5.1)資料の収集・整理 5.2)書誌データの提供

6)恒久平和調査局設置法

 6.1)概要 6.2)目的 6.3)経緯 6.4)法案の賛否 6.5)関連項目


1)概要

 国立国会図書館は、日本の国会議員調査研究行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条および国立国会図書館法第1条

 

国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。

 

施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。

 

 支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。

 

2)沿革

2.1)国会図書館の淵源

国立国会図書館の淵源は、大日本帝国憲法下の帝国議会各院に置かれていた貴族院図書館衆議院図書館、および文部省に付属していた帝国図書館の3館にある。貴衆各院の図書館は、1891年(明治24年)に設立された各院の図書室を起源としており、また、帝国図書館は1872年(明治5年)に設立された書籍館をその前身とする。

 

・第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法は、国会を唯一の立法機関と定め、国会を構成する衆議院・参議院の両議院は「全国民を代表する選挙された議員」(国会議員)で組織されると定めた。そして、国会が民主的に運営され、国会議員が十分な立法活動を行うためには、国会議員のための調査機関として議会図書館の拡充が必要とされた。このため、日本国憲法の施行とともに施行された国会法(昭和22年法律第79号)130条は「議員の調査研究に資するため、別に定める法律により、国会に国立国会図書館を置く」と定め、あわせて国会図書館法昭和22年法律第84号)を制定した。また、衆議院と参議院の両院に常任委員会のひとつとして「図書館運営委員会」が設置され、図書館の運営に絞った形での審議が行われていた。

 

・これにより、戦前の貴衆両院の図書館を合併した新たな国会図書館の設立が定められたが、この体制では国会議員の調査研究には不十分であるとみられた。そこで、アメリカ合衆国から図書館使節団が招かれ、国会はその意見を取り入れて、翌1948年(昭和23年)国立国会図書館法(昭和23年法律第5号)を制定した(同法の施行に伴い、前述した国会図書館法は廃止)

 

・同法は米国図書館使節団の強い影響下に誕生したため、国立国会図書館は米国議会図書館 (Library of Congress) をモデルとして、議会図書館であると同時に国立図書館(国立中央図書館)の機能も兼ね、国内資料の網羅的収集と整理を目的とした法定納本制度を持つこととされた。

 

2.2)国会図書館開館後

・同法の制定とともに、国立国会図書館の設立準備が進められ、初代館長には憲法学者で日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣だった金森徳次郎が迎えられて、1948年(昭和23年)2月25日に国立国会図書館は発足した。続いて、初代副館長に美学者で尾道市立図書館長だった中井正一が任命され、同年6月5日、赤坂離宮を仮庁舎として、国立国会図書館は正式に開館した。

 

・翌1949年(昭和24年)には、国立国会図書館法の定めた方針に基づき、出版法(明治26年法律第15号。出版法および新聞紙法を廃止する法律(昭和24年法律第95号)により廃止)に基づいて納本された出版物を所蔵していた上野の国立図書館(1947年(昭和22年)に帝国図書館から改称)が統合され、国立国会図書館は名実ともに日本唯一の国立図書館となった。旧帝国図書館の蔵書と施設はそのまま上野に残され、同館は国立国会図書館の支部図書館である支部上野図書館とされた。

 

・なお、衆参両院の常任委員会だった「図書館運営委員会」は第27回衆議院議員総選挙後の1955年(昭和30年)3月18日に廃止され、以後は議院運営委員会の中の小委員会として審議が続けられることになった(後述)。

 

〔1960年代〕

・組織の発足より建設が遅れていた国立国会図書館の本館庁舎は、国立国会図書館法と同時に公布された国立国会図書館建築委員会法(昭和23年法律第6号)に基づいて検討が進められ、国会議事堂の北隣にあった旧ドイツ大使館跡地(東京都千代田区永田町)に建設されることになった。本館庁舎(現在の東京本館)は建築設計競技により前川國男の案が選ばれ、1961年(昭和36年)に第一期工事を完了し、図書が収蔵され始めた。

 

・収蔵された図書は、貴衆両院図書館からの引継書と戦後の収集分からなる赤坂の国会図書館仮本館蔵書が約100万冊、帝国図書館による戦前収集分を基礎とする上野図書館の蔵書が約100万冊であった。ここに、別々の歴史を持つ2館の蔵書は1館に合流し、同年11月1日、国立国会図書館本館は蔵書205万冊をもって開館した。

 

・本館の工事は開館後も続けられ、増築の進捗に伴って旧参謀本部庁舎跡地(現・国会前庭北地区、憲政記念館)の三宅坂仮庁舎に置かれていた国会サービス部門も本館内に移転し、赤坂・上野・三宅坂の3地区に分かれていた国会図書館の機能は最終的な統合をみる。本館は、開館から7年後の1968年(昭和43年)に竣工し、地上6階・地下1階の事務棟と17層の書庫棟からなる施設が完成した。

 

〔1970年代〕

・1970年代には蔵書の順調な増大、閲覧者の増加が進み、本館の施設は早くも手狭になりつつあった。このため本館の北隣に新館が建設されることになり、1986年(昭和61年)に開館した。設計は本館と同じく前川國男が担当した。地上4階・地下8階で広大な地下部分をすべて書庫にあてた新館の完成により、国立国会図書館は全館合計で1,200万冊の図書を収蔵可能な巨大図書館となったが、これも21世紀初頭に所蔵能力の限界に達することが予測された。

 

〔1980年代〕

・このため1980年代以降、第二国立国会図書館を建設する計画が浮上した。第二の国会図書館は増え続ける蔵書を東京本館と分担して保存するとともに、コンピュータ技術の発達に伴う情報通信の発展に対応する情報発信、非来館型サービスに特化した図書館として関西文化学術研究都市に建設されることになり、国立国会図書館関西館として、2002年(平成14年)に開館した。関西館には科学技術関連資料、アジア言語資料、国内博士論文などが移管され、東京本館とともに国立国会図書館の中央館を構成する一角となった。

・また、関西館の開館に前後して、支部上野図書館の施設を改築のうえ、国際子ども図書館として活用する計画が進められた。国際子ども図書館は国立国会図書館の蔵書のうち児童書(おもに18歳未満を対象とする図書館資料)を分担して所蔵する児童書のナショナルセンターとして位置づけられ、2000年(平成12年)に部分開館、2002年(平成14年)に全面開館した。

 

〔21世紀以後の動向〕

・電子図書館事業の拡充に力が注がれる一方、2005年(平成17年)の国立国会図書館法における館長国務大臣待遇規定の削除、2006年(平成18年)の自由民主党行政改革推進本部の国会事務局改革の一環としての独立行政法人化の提言、2007年(平成19年)国会関係者以外からは初めてとなる長尾真(元京都大学総長)の館長任命など、国立国会図書館の組織のあり方をめぐる動きが相次いでいる。2016年(平成28年)にはお茶の水女子大学前学長の羽入佐和子が女性として初めて館長に就任した。

 

・2020年(令和2年)3月4日、COVID-19の流行を受け、東京本館の休館を決定した。当初、休館期間は3月5日-16日までの12日間を予定していたが、6月10日まで延長された。但し、6月11日の再開後はインターネットからの抽選予約制を実施した上で、1日の入館者数を制限して再開している。 

 

3)理念

・国立国会図書館法は、その前文で、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」と、その設立理念を明らかにしている。「真理がわれらを自由にする」とは、図書館が公平に資料を提供していくことで、国民に知る自由を保障し、健全な民主社会を育む礎となっていかねばならないとする、国立国会図書館の基本理念を明らかにしたものであると解釈されている。

 

・国立国会図書館法はアメリカ図書館使節団の原案を基に起草されたといわれているが、この前文は歴史学者で参議院議員の羽仁五郎(当時の参議院図書館運営委員長)が挿入したとされる。「真理がわれらを自由にする」の句は、羽仁五郎がドイツ留学当時、留学先のフライブルク大学の図書館の建物に刻まれていたドイツ語の銘文WAHRHEIT WIRD MAN FREI MACHEN(真理は人を自由にする)」に感銘を受け、これをもとに創案した。さらに、この句は『新約聖書』のギリシア語Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ(真理はあなたたちを自由にする)」(ヨハネによる福音書 8-32)に由来しているともいわれる。

 

・1961年(昭和36年)に開館した国立国会図書館東京本館では、本館2階図書カウンターヒサシ部分金森初代館長の揮毫による「真理がわれらを自由にするの句が大きく刻まれ、この句は多くの人の目に留まるようになるとともに、ひとり国立国会図書館のみならず、図書館一般の原理として理解されるようになった。第二次世界大戦後日本の図書館運動・図書館界の発展において、この句が与えた影響は少なくない。 

 

4)組織

・国立国会図書館は日本の立法府である国会に属する独立した国の機関で、衆議院議長および参議院議長ならびに両議院に置かれる常任委員会である議院運営委員会の監督のもと自立して運営される。図書館の事務を統理する国立国会図書館長は、両議院の議長が、両議院の議院運営委員会と協議の後、国会の承認を得て、これを任命する。

 

・その組織は国立国会図書館法に基づき、中央の図書館支部図書館からなる。また、国立国会図書館連絡調整委員会が置かれる。中央の図書館には、東京・永田町の東京本館と京都府精華町(関西文化学術研究都市)関西館があり、支部図書館のひとつである国際子ども図書館の扱うものを除き、国会図書館の所蔵する各種の資料を分担して保管している。また、国会議事堂内には、中央の図書館に付属する国会分館がある。

 

・支部図書館は、国際子ども図書館、そして行政および司法の各部門におかれる図書館がこれに該当する。このうち国際子ども図書館は、納本制度によって国会図書館に集められた日本国内の出版物や購入・国際交換によりもたらされた日本国外の出版物のうち、18歳未満を読者の主たる対象とする資料の保存・提供を分担しており、その性格は実質的には中央の図書館の分館に近い。

 

・行政および司法の各部門、すなわち各省庁および最高裁判所に置かれる図書館については行政・司法に対するサービスの節で改めて詳しく扱うが、各省庁や裁判所に置かれる付属図書館を制度上国立国会図書館の支部とすることで、日本唯一の国立中央図書館である国立国会図書館と各図書館を一体のネットワークに置いたものである。これらの図書館は、設置主体は各省庁や裁判所であるが、同時に国立国会図書館の支部図書館として、中央の図書館とともに国立国会図書館の組織の一部とされる特別な位置づけにある。

 

・東京と関西の2つの施設に分かれた中央の図書館はおよそ900人の職員を擁しており、業務ごとに部局に細分化されているが、そのうち唯一国立国会図書館法を設置の根拠とする特別な部局として「調査及び立法考査局」がある。調査及び立法考査局は国会に対する図書館奉仕に加えて、衆参両院の常任委員会が必要とする分野に関する高度な調査を行う特別職として置かれる専門調査員を中心に、国会からの要望に応じた調査業務を行っている。

 

5)国立国会図書館の特色

5.1)資料の収集・整理

・世界各国の国立中央図書館は、法律などによって定められた納本制度によって出版者に特定の図書館に出版物を納めることを義務づけ、一国内の出版物を網羅的に収集することを重要な役割としている。

 

・日本の国立中央図書館である国立国会図書館においては、国立国会図書館法が、国内すべての官公庁団体と個人に出版物を国立国会図書館に納本することを義務づけている。納本の対象となる出版物は、図書、小冊子、逐次刊行物(雑誌や新聞、年鑑)楽譜、地図、マイクロフィルム資料、点字資料およびCD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)などである。納本を求められる部数は、官公庁では2部から30部までの複数部であり、民間の出版物は1部である。

 

・納本以外の資料収集手段としては、寄贈・購入や、出版物の国際交換がある。購入を通じては、古書・古典籍など納本の対象とならないものや、百科事典、辞典、年鑑など参考図書としてきわめて利用の多い資料の複本、そして学術研究に有用であると判断され選択された外国資料が収集される。国際交換は、他国の国立図書館・議会図書館に対し、納本制度によって複数部が受け入れられた官公庁出版物をおもに提供することにより、交換で入手の難しい外国の官公庁資料等を収集するのに用いられている。

 

・こうして国立国会図書館に新たに収集された資料は、一件一件についてその書名、著者、出版者、出版年などの個体同定情報が記述された書誌データが作成される。また国立国会図書館の書誌データには同館独自の国立国会図書館分類表(NDLC)によって分類番号がつけられ、国立国会図書館件名標目表(NDLSH)によって件名が付与されて、目録に登録される。現在では目録の大半はオンライン化されており、インターネット上から検索することが可能になっている。

 

・なお、国立国会図書館の蔵書構築など図書館技術に関する運用は、1948年(昭和23年)9月にGHQ民間情報教育局特別顧問ロバート・B・ダウンズ(イリノイ大学図書館長)によって提出された『国立国会図書館における図書整理、文献参考サービスならびに全般的組織に関する報告』(ダウンズ報告)に基づく面が大きい。

 

・図書の整理は、開館当初はダウンズ報告に基づいて、和漢書は日本国内の図書館で一般的な日本十進分類法(NDC)、洋書は世界的に使われるデューイ十進分類法(DDC)によって行われていた。しかし、膨大な蔵書を書架に配架して利用していくうえで十進分類法に不便がみられたため、1960年代に国立国会図書館分類表が考案され、適用されるようになった。

 

・ただし、和図書についてはそれ以降も書誌データには日本十進分類表による分類番号は付与されており、日本十進分類法を日常に利用しているほかの図書館や一般利用者の便にも備えている。

 

5.2)書誌データの提供

納本制度により、国立国会図書館は原則としてすべての出版物が継続的に揃うことになるため、理論的には国会図書館の編成する自館所蔵資料の目録は、日本で出版されたすべての出版物の書誌情報を収めた目録となる。こうして作成された目録に収められる、全国の出版物に関する網羅的な書誌情報を全国書誌といい、国立国会図書館においては毎週一度、その週に納本制度によって受け入れられた資料の書誌情報が『日本全国書誌』としてまとめられている。

 

・『日本全国書誌』はインターネット上で公開されるほか、冊子体で刊行・頒布される。また、電子情報・データベース化したものが『JAPAN/MARC』として頒布され、CD-ROM版やDVD-ROM版でも販売されている。その基本的な機能は、日本において出版された出版物を検索調査する際の総合的・統一的な索引である。

 

・また、各図書館は、自館で所蔵する資料の目録を作成するにあたって、自館で書誌データを作成せずとも、『日本全国書誌』を利用してコピーカタロギング(書誌情報を複製して自館の目録を作成すること)することができる。これには各図書館の目録作成の労力の軽減、および国内各図書館の間での書誌データの共有というメリットがあるが、国立国会図書館の目録の作成には刊行からタイムラグがあり、新刊の検索に向かないことが欠点として指摘されている。これは、ほかの図書館が新規に受け入れて目録化する資料の多くは新刊書であるためである。

 

・このため、公共図書館の多くは『JAPAN/MARC』よりも民間の図書取次会社の作成する書誌データベースを目録作成に用いることが多く、コピーカタロギングのための全国書誌としての役割はあまり活用されていない。

 

・また、国立国会図書館は全国書誌の作成とともに、開館以来『雑誌記事索引』を作成・頒布している。これは国内の主要な雑誌の収録記事を目録化したもので、索引の範囲はおもに学術誌など調査上の利用に対する要求が大きい雑誌に限定されているものの、通常の目録では検索されにくい雑誌記事の目録として貴重なものである。

 

6)恒久平和調査局設置法

6.1)概要

恒久平和調査局設置法案は、日本の法律案。国立国会図書館に恒久平和調査局を設ける法案で、正式名称は「国立国会図書館法の一部を改正する法律案」。

・1999年(平成11年)以降、議員立法として鳩山由紀夫を始めとする数名により衆議院へ4度提出されている。法案の内容や運用方法、制度の必要性などを巡って、賛否両論ある。

 

〇提案主旨(引用:民主党ニュース2006.05.23

戦争の真相究明重視し、恒久平和調査局設置法案を共同提出

・民主党はじめ野党は23日、国立国会図書館法の一部を改正する法律案(通称:恒久平和調査局設置法案)を衆議院に共同提出した。第145通常国会に衆議院に提出して以来、提出は4回目。法案提出は近藤昭一議員が行った。

 

・法案は、先の大戦の事実に対する真相究明について、ドイツ、米国といった諸外国と比べ、日本は真相究明の努力が不十分であったとの観点に立ち、大戦ならびにそれに先立つ一定の時期における歴史的事実について公正中立な立場から調査し、理解を深めることは世界の諸国民との信頼関係の醸成を図り、国際社会における日本の名誉ある地位の保持及び恒久平和の実現に資するとの考えで取りまとめられた。その実現に向けて、国立国会図書館に恒久平和調査局を新たに設置し、戦争の実態調査を行い、結果を国会に報告するという内容が法案には盛り込まれている。

 

・鳩山由紀夫幹事長は、そうした視点で同法案の成立を目指す「恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟(略称:恒久平和議連)」の呼びかけ人として、結成当時から力を尽くしてきた経緯がある。

 

・法案提出後に近藤議員は、小泉政権下で行われてきたアジア外交が行き詰るなかで、この法案の提出は大きな意味を持つとの見方を示した。歴史認識の問題は難しい側面を含んでいるとしながらも近藤議員は、「まず事実を明らかにしようという法案であるから、それを行うことはアジア諸外国の理解が広がることにも繋がっていく。そうしたいと思って、法案を提出した」と語った。

 

〇恒久平和調査局設置法案の概要

●恒久平和調査局の設置

・法案の目的は、「今次の大戦及びこれに先立つ今世紀の一定の時期における惨禍の実態を明らかにすることにより、その実態について我が国民の理解を深め、これを次代に伝えるとともに、アジア地域の諸国民をはじめとする世界の諸国民と我が国民との信頼関係の醸成を図り、もって我が国の国際社会における名誉ある地位の保持及び恒久平和の実現に資するため、国立国会図書館に、恒久平和調査局を置く。」とされている。

 

●恒久平和調査局の業務

・恒久平和調査局は、次に掲げる事項について調査する。

① 今次の大戦に至る過程における我が国の社会経済情勢の変化国際情勢の変化並びに政府及び旧陸海軍における検討の状況その他の今次の大戦の原因の解明に資する事項

 

② 昭和六年九月十八日から昭和二十年九月二日までの期間(以下「戦前戦中期」という。)において政府又は旧陸海軍の直接又は間接の関与により労働者の確保のために旧戸籍法(大正三年法律第二十六号)の規定による本籍を有していた者以外の者に対して行われた徴用その他これに類する行為及びこれらの行為の対象となつた者の就労等の実態に関する事項(強制連行参照)

 

③ 戦前戦中期における旧陸海軍の直接又は間接の関与による女性に対する組織的かつ継続的な性的な行為の強制(以下「性的強制」という。)による被害の実情その他の性的強制の実態に関する事項(慰安婦参照)

 

④ 戦前戦中期における旧陸海軍の直接又は間接の関与により行われた生物兵器及び化学兵器の開発、実験、生産、貯蔵、配備、遺棄、廃棄及び使用の実態に関する事項

 

⑤ 前三号に掲げるもののほか、戦前戦中期において政府又は旧陸海軍の直接又は間接の関与による非人道的行為により旧戸籍法(大正三年法律第二十六号)の規定による本籍を有していた者以外の者の生命、身体又は財産に生じた損害の実態に関する事項

 

⑥ 第二号から前号までに掲げるもののほか、戦前戦中期における戦争の結果、生命、身体又は財産に生じた損害の実態に関する事項

 

⑦ 戦前戦中期における戦争の結果、生命、身体又は財産に生じた損害について当該損害が生じた者に対し我が国がとつた措置及び当該損害に関し我が国が締結した条約その他の国際約束に関する事項

 

6.2)目的

・国立国会図書館法の一部を改正する法律案は、民主党の鳩山由紀夫が呼びかけて結成された超党派の議員連盟『恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟』が1999年8月10日から国会に提出を続けている法案である。

・この法案は国立国会図書館に恒久平和調査局を設置し、日本人を含めた外国人に対する徴用、日本人が外国人を性奴隷にした問題、生物化学兵器の開発など日本の戦争犯罪全般を調査することを目的としている。

 

6.3)経緯

・第145通常国会(1999年)衆議院へ提出→第147国会にて廃案

・第150臨時国会(2000年)衆議院へ再提出→第157国会にて廃案

・第159通常国会(2004年)衆議院へ再提出→第162国会にて廃案

・第164通常国会(2006年)衆議院へ再提出

 

・2008年、民主党のマニフェスト「政策INDEX2008」の冒頭に「戦後処理問題」として「国立国会図書館法改正案(恒久平和調査局設置法案)」の成立を宣言している。

・第171回国会(2009年)で27番「国立国会図書館法の一部を改正する法律案」未了。ただし、43番 「国立国会図書館法の一部を改正する法律案」は成立。

 

6.4)法案の賛否

〇賛成意見

・アジア諸国との真の共生のために必要不可欠。

 

〇反対意見

「恒久平和調査局」という名称はジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する「平和省」「真理省」を彷彿させる。(小説の中では、独裁政権によって「真理」のために歴史が捏造され、「平和」のために戦争が行われている。「真理」や「平和」といった「絶対的正義」の名のもとで、いかに人々が抑圧され、真実が歪められるのかが描かれている。)

 

・結論ありきの「調査」に他ならず、いわゆる自虐史観の永続化を図るものである。

 

6.5)関連項目

戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案

日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法

人権擁護法案

図書館の自由に関する宣言(Wikipedia)(日本図書館協会HP

図書館員の倫理綱領(Wikipedia)(日本図書館協会HP

知る権利 言論の自由 ・自虐史観

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)

親日反民族行為真相糾明委員会 


(5)戦後レジュームの正体(その4:日本学術会議の任命拒否問題)


(引用:Wikipedia)

目次

1)概要 

2)理念 

3)科学者の倫理・規範に関する過去の主な報告・声明

4)科学者の国会が「軍事研究を行わない」と決議 

 4.1)デュアルユース問題 4.2)ラッセル・アインシュタイン宣言

5)軍事的安全保障研究に関する声明

6)日本学術会議会員の任命問題

 6.1)概要 6.2)背景(時系列) 6.3)任命を拒否された会員候補者 6.4)論点

 6.5)見解 6.6)関連新聞記事

7)軍学共同反対連絡会

 7.1)概要 7.2)活動 6.3)現在の役員 


1)概要 

 日本学術会議庁舎(引用:Wikipedia)

 

・日本学術会議は日本の国立アカデミーで、内閣府の特別の機関の一つ(2020年現在)。日本の科学者の内外に対する代表機関であり、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする(日本学術会議法 第2条)

 

・国単位で加盟する国際学術機関の組織構成員(NMO - National Member Organization)でもあり、それらの国際分担金も担う。

 

・学術研究会議を前身とし、学術体制刷新委員会の議論を経て1949年に発足。研究者による直接選挙を実施し、当時は「学者の国会」と呼ばれた。

 

・政府への勧告で多くのセンターや研究所の設立を実現し、原子力研究三原則を提言。南極特別委員会で南極探検にも貢献した。しかし科学技術庁科学技術会議の設立に伴い政府への影響力は低下していき、「政策提言機関として十分力を発揮したのは、1970年代まで」と言われている。

 

・紛糾の末1983年に法改正がなされ、会員選抜登録学術協力団体による推薦に基づく内閣総理大臣の任命に変わる。

 

・さらに日本学術会議不要論も叫ばれる中、中央省庁等改革基本法に端を発する改革過程の末、2004年の法改正で2005年から組織改編。会員はコ・オプテーション方式になり、組織も7部構成から3部構成になって縦割りの打破が図られた。

・政策への提言なども総合科学技術会議と棲み分けられ、一般向けサイエンスカフェも活動に加わった。

 

・一方で国際学術会議など40を超える国際学術団体に日本を代表して加盟しており、各団体の国際分担金も日本学術会議予算で賄われている。国際科学会議(ICSU)(現在の国際学術会議)では14万ドルを支出し世界3位の地位を占め、日本から吉川弘之会長、黒田玲子副会長を輩出した。また、日本学術会議はアジア学術会議をリードし、事務局、事務局長を担っている。

 

2)理念

内閣総理大臣が所轄し、その経費は国の予算で負担されるが、活動は政府から独立して行われる(日本学術会議法 第1章の第1条・第3条)。「科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること」「科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること」を職務としている(同法 第2章の第3条)

 

・1949年(昭和24年)に制定された日本学術会議法の前文には、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」と記されている。

 

・同年1月20日の第1回総会において、吉田茂首相の代理として挨拶を担当した殖田俊吉は、

「その使命の達成のためには、そのときどきの政治的、行政的便宜というようなことの掣肘を受けることのないように、高度の自主性が与えられており、ここに本会議の重要な特色がある」と述べている。

 

・また、同月22日の総会の終わりには、「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」という声明が採択され、そこでは「われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである」と謳われている。

 

3)科学者の倫理・規範に関する過去の主な報告・声明

・1980年(昭和55年)には「科学者憲章について」の声明を、 2006年には「科学者の行動規範について」の声明を、2008年(平成20年)には「日本学術会議憲章」を採択している。

なお、2013年には「科学者の行動規範ー改訂版」を声明している。

 

(引用:日本学術会議HP) 

 

4)科学者の国会が「軍事研究を行わない」と決議 2017年3月24日)

(引用:Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 5 | doi : 10.1038/ndigest.2017.170508)

 ・日本学術会議は、戦後維持してきた軍事研究拒否の声明を継承すると決定した。軍事研究に対する同組織の立場表明は50年ぶりだ。日本の科学者の代表機関である日本学術会議は、2017年3月24日、「軍事目的のための科学研究を行わない」とする過去2回の声明の継承を決定した。

 

・科学者が戦争協力したことへの反省から、同会議は1950年と1967年に戦争と軍事目的の研究を拒否する声明を決議した。1950年の声明は、世界的に有名な「ラッセル・アインシュタイン宣言」より5年早い。科学のあり方と平和への決意を世界に先駆けて示したのだ。だが近年の防衛省による研究助成制度創設などを受け、同会議は安全保障との関わり方を探るために2016年6月から過去の声明の見直しを検討してきた。

 

・学術の健全な発展には、研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が担保される必要がある。だが、特定秘密保護法や、防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度はそれを危うくする。

 

・新声明は、軍事的安全保障研究学問の自由および学術の発展を阻害する懸念があるとし、これを拒否する姿勢を改めて確認した形となった。

 

・加えて、安全保障技術研究推進制度について、「政府による研究への介入が著しく、問題が多い」と述べ、大学などに研究の適切性を審査する制度の設置を望むとした。

 

・なお、声明は通例どおり幹事会で決議されたが、新声明の影響力から4月の総会での採決を求める意見もあった。

 

4.1)デュアルユース問題

・科学や技術には、デュアルユース(軍民両用)可能なものがある。例えば、ロボットや防毒マスクは、軍事だけでなく災害時にも有用だ。一方で、科学や技術が大量破壊兵器へ悪用されてきた過去がある。また、科学者の意図を離れて軍事に転用される可能性もある。

 

・同会議は2013年1月に「科学者の行動規範」を改訂してデュアルユースに関する項目を加えている。

 

・科学者は悪用される可能性を認識し、社会に許容される適切な手段と方法で研究実施と成果公表を行うように、とある。では、「悪用」は何を想定したらよいのだろう。例えば、生命の機能の一端を解明するどんな研究も、将来、大量破壊兵器につながる可能性がないと断定できないのではないだろうか。

 

・科学は善にも悪にも使うことができる故に、それを扱う科学者は特別の責務を負うと、今日のさまざまな科学者憲章の原型である世界科学労働者連盟の科学者憲章に記されている。また、悪用を防ぐために最善を尽くさねばならないとし、具体的に、戦争準備や大量破壊兵器開発の阻止を掲げている。つまり科学者の責務とは、社会の問題を科学で解決し戦争を防ぐことにある、ということではなかろうか。

 

(参考)『防衛技術とデュアルユース( 公益財団法人 未来工学研究所 研究参与 西山 淳一)(日本学術会議主催学術フォーラム 安全保障と学術の関係:日本学術会議の立場)

 

〔内容〕 デュアルユース技術の定義/全地球測位システムGPS/インターネット

 / 弾道ミサイルと宇宙ロケットの比較/福島第一原発事故で使われたロボット(例)

 /ノートパソコン/3Dプリンタ/技術の共通性/関連記事/ まとめ 

 

〔まとめ〕

・技術は常にデュアルユース

  軍事利用と民間利用の間に境界はない/ 各国は安全保障上の役割を理由として研究に政府支 援を実施 

・軍事研究

  軍事とは何か?⇒単に戦闘行為だけではない

  軍事研究とは何か?⇒研究範囲は幅広い

  軍事研究の成果の利用は問題ないのか? 

・研究成果

  悪用されないために何をなすべきか?⇒民生技術の 外国における軍事転用

 

4.2)ラッセル・アインシュタイン宣言

・人類という種の一員として考えてほしい。哲学者バートランド・ラッセルは1955年7月9日、物理学者アルベルト・アインシュタインをはじめとする著名科学者ら計11名の連名で、核兵器廃絶を世界に呼び掛けた。湯川秀樹もその1人だ。

 

・端緒となったのは、1954年のビキニ環礁水爆実験であった。第五福竜丸の乗組員が被曝し、その灰を分析した物理学者の西脇安が、既知の原子爆弾では生じ得ない放射性物質を検出したことを英国の物理学者ジョセフ・ロートブラットに伝えた。ロートブラットは、これが水素の熱核反応を利用した新型の爆弾で、その威力が大都市を破壊するレベルに達していることを突き止め、ラッセルに知らせたのである。大量破壊兵器の開発が進み戦争に使われれば人類は存続できない。危機感を持ったラッセルは、科学者と共同で声明文を作成することを思いつき、アインシュタインに連絡を取ったのだった。

 

ラッセル・アインシュタイン宣言を受け、1957年8月、核兵器廃絶をはじめとする科学と社会の諸問題に取り組む組織「パグウォッシュ会議」が設立される(日本でも物理学者の湯川秀樹と朝永振一郎が中心となり、同年10月に日本パグウォッシュ会議が設立)。同組織は1995年にノーベル平和賞を受賞した。

 

(参考)ラッセル・アインシュタイン宣言(1955)

(引用:日本パグウォッシュ会議HP

 

 人類が直面している悲劇的な情勢の中、科学者による会議を召集し、大量破壊兵器開発によってどれほどの危機に陥るのかを予測し、この草案の精神において決議を討議すべきであると私たちは感じている。

 

 私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、いわば人という種の一員としてである。世界は紛争にみちみちている。そこでは諸々の小規模紛争は、共産主義と反共産主義との巨大な戦いのもとに、隠蔽されているのだ。

 

 政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題に感情を強くゆすぶられている。しかしもしできるならば、皆ににそのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちのだれ一人としてその消滅を望むはずがない 生物学上の種の成員としてのみ反省してもらいたい。

 

 私たちは、一つの陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないようにこころがけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もし皆がこの危機を理解することができれば、ともにそれを回避する望みがあるのだ。

 

 私たちには新たな思考法が必要である。私たちは自らに問いかけることを学ばなくてはならない。それは、私たちが好むいづれかの陣営を軍事的勝利に導く為にとられる手段ではない。というのも、そうした手段はもはや存在しないのである。そうではなく、私たちが自らに問いかけるべき質問は、どんな手段をとれば双方に悲惨な結末をもたらすにちがいない軍事的な争いを防止できるかという問題である。

 

 一般の人々、そして権威ある地位にある多くの人々でさえも、核戦争によって発生する事態を未だ自覚していない。一般の人々はいまでも都市が抹殺されるくらいにしか考えていない。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾が1発で広島を抹殺できたのに対して水爆なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような巨大都市を抹殺できるだろうことは明らかである。

 

 水爆戦争になれば大都市が跡形もなく破壊されてしまうだろうことは疑問の余地がない。しかしこれは、私たちが直面することを余儀なくされている小さな悲惨事の1つである。たとえロンドンやニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても2、3世紀のあいだには世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、とくにビキニの実験以来、核爆弾はこれまでの推測よりもはるかに広範囲にわたって徐々に破壊力を広げるであろうことを知っている。

 

 信頼できる権威ある筋から、現在では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を製造できることが述べられている。もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能をもった粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちとその漁獲物を汚染したのは、この灰であった。そのような死をもたらす放射能をもった粒子がどれほど広く拡散するのかは誰にもわからない。しかし最も権威ある人々は一致して水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水爆が使用されるならば、全面的な死滅がおこる恐れがある。――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊してゆく。

 

 著名な科学者や権威者たちによって軍事戦略上からの多くの警告が発せられている。にもかかわらず、最悪の結果が必ず起こるとは、だれも言おうとしていない。実際彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、そしてだれもそういう結果が実際起こらないとは断言できないということである。この問題についての専門家の見解が彼らの政治上の立場や偏見に少しでも左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになったかぎりでは、それらの見解はただ専門家のそれぞれの知識の範囲にもとづいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しをもっていることがわかった。

 

 さて、ここに私たちが皆に提出する問題、きびしく、恐ろしく、おそらく、そして避けることのできない問題がある――私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。というのは、戦争を廃絶することはあまりにもむずかしいからである。

 

 戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかし、おそらく他のなにものにもまして事態の理解をさまたげているのは、「人類」という言葉が漠然としており、抽象的だと感じられる点にあろう。危険は単にぼんやり感知される人類に対してではなく、自分自身や子どもや孫たちに対して存在するのだが、人々はそれをはっきりと心に描くことがほとんどできないのだ。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら死滅しようとする切迫した危険状態にあるということがほとんどつかめていない。そこで人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争はつづけてもかまわないと思っている。

 

 この希望は幻想である。たとえ水爆を使用しないというどんな協定が平時にむすばれていたとしても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦争が起こるやいなや双方とも水爆の製造にとりかかるであろう。なぜなら、もし一方がそれを製造して他方が製造しないとすれば、それを製造した側はかならず勝利するにちがいないからである。軍備の全面的削減の一環としての核兵器を放棄する協定は、最終的な解決に結びつくわけではないけれども、一定の重要な役割を果たすだろう。第一に、およそ東西間の協定は、緊張の緩和を目指すかぎり、どんなものでも有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行していることが双方に信じられるとすれば、現在双方を神経的な不安状態に落とし入れている真珠湾式の奇襲の恐怖を減らすことになるであろう。それゆえ私たちは、ほんの第一歩には違いないが、そのような協定を歓迎すべきなのである。

 

 大部分の人間は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が何らかの方法で解決され、誰もが――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろうと――、出来うる限りの満足を得られなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望んでいる。

 

 私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

決 議

 私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、つぎの決議に署名するようすすめる。

 

「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。したがってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する。」

 

4.3)関連記事

看過できない、日本学術会議と中国「スパイ」組織との協力覚書 田中秀臣(上武大学教授)

日本人から「学問の自由」を奪ってきた日本学術会議 森  清勇(元星槎大学非常勤講師)

「学問の自由」掲げ、中国に魂売る能天気な科学者 森  清勇(元星槎大学非常勤講師) 

日本学術会議は共産党と反日派の巣窟だった 森  清勇(元星槎大学非常勤講師)

学術会議の圧力に言及 防衛省の制度への応募が禁止に 永田晴紀(北海道大学教授)

 

4.4)関連論文

防衛省資金の問題点について 池内 了(名古屋大学名誉教授)

この国では再び「軍事と学術」が急接近してしまうのか? 杉山 滋郎(北海道大学名誉教授)

 

5)軍事的安全保障研究に関する声明

※軍事的安全保障研究に関する声明   

 

 

6)日本学術会議会員の任命問題

6.1)概要

 日本学術会議会員の任命問題とは、2020年9月、内閣総理大臣の菅義偉が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち一部を任命しなかった問題である。現行の任命制度になった2004年以降、日本学術会議が推薦した候補を政府が任命しなかったのは初めてのことである。

 

6.2)背景(時系列)

・2016年:会員3人が定年を迎えて補充する際、政府は会議側が事前にまとめた推薦案に同意せず、会議側が正式な推薦を見送って欠員が生じた。

 

・2017年:政府の要請で、会議側が交代数105人を超える数の名簿を事前提示。調整の末、会議の推薦通り105人を任命。

 

・2018年:政府は2016年と同様に会議側の推薦案に難色を示して補充が見送られた。

 

・2020年:8月31日 - 日本学術会議の事務局が候補者105人の一覧表を安倍晋三 首相(当時)に提出した。

 

・9月16日 - 安倍晋三首相が退任。菅義偉 自由民主党総裁が第99代内閣総理大臣に任命され菅義偉内閣 が発足。

 

・9月28日 - 内閣府 から日本学術会議の事務局に、任命対象者の名簿が送付される。内閣府は6人を除外し99人を記載していた。

 

・10月1日 - 加藤勝信官房長官 は記者会見で、会員の一部を任命しなかったことを明らかにした。

 

・10月1日 - 99人が会員に任命された。また、梶田隆章 が会長に選出された。

 

・10月2日 - 加藤勝信官房長官は記者会見で、人事を見直す考えがないと述べた。

 

・10月2日 - この問題について国会内で野党合同ヒアリングが開かれた。任命されなかった会員候補の有識者3人も出席し、「内閣にイエスという提言や法解釈しか聞かなくなるのは禍根を残す」「学問の自由に対する暴挙だ」などと主張した。

 

・10月3日 - 日本学術会議は幹事会を開催し、菅首相に対して理由を説明し6人を任命するように求める要望書を決定し、内閣府に送付した。

 

・10月4日 - 立憲民主党 の枝野幸男 代表は除外した行為を「明確な違法行為だと断言する」と強く非難した。そのうえで、「これだけ大きなことをやっておいて、説明責任を果たさないで逃げることはないと期待したい」と述べ、菅義偉首相が国会の閉会中審査で経緯を説明すべきだとの考えを示した。

 

・10月5日 - 菅首相は内閣記者会のインタビューで、任命を拒否した理由を「(日本学術会議の)総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」と説明したが、一方で判断の具体的な理由については明らかにしなかった。

 

・10月7日 - 衆議院 の閉会中審査 が行われ、任命しなかった理由について内閣府は「総合的・俯瞰的」と説明。

 

・10月16日 - 菅首相が日本学術会議の梶田隆章 会長と会談した。梶田会長は、6人の速やかな任命と、任命しなかった理由の説明を求める要望書を首相に渡した。

 

・11月2日 - 衆議院予算委員会で菅首相は、会員の選出方法について「閉鎖的で既得権益のようになっている」と発言した。

 

・12月11日 - 立憲民主党は杉田和博官房副長官が6人の除外を指示したとみられる政府の内部文書を公表した[14]。文書には「外すべき者(副長官から)」と手書きで記されており、その下は黒塗りとなっている。

 

6.3)任命を拒否された会員候補者

  2020年9月に日本学術会議が推薦した新会員候補者のうち任命されなかったのは以下の6人である。6人は安全保障関連法や特定秘密保護法、普天間基地移設問題などで政府の方針に異論を唱えてきたという共通点があるが、菅義偉首相はそれとの関連性を説明してはいない。 

 

*芦名定道 (キリスト教学者・京都大学大学院文学研究科教授)

*宇野重規 (政治学者(政治哲学専攻)・東京大学社会科学研究所教授)

*岡田正則 (法学者・早稲田大学大学院法務研究科教授)

*小澤隆一 (憲法学者・東京慈恵会医科大学教授)

*加藤陽子 (歴史学者・東京大学教授)

*松宮孝明 (法学者・立命館大学法務研究科教授)

 

6.4)論点

〇日本学術会議法の解釈

・日本学術会議法の第7条には、「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」と記載されている。

 

・1983年に会員選定が選挙から推薦制に変更された際、政府は国会答弁で「総理大臣の任命で会員の任命を左右するという事は考えておりません」「任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうに私どもは理解しておりません」「その推薦制もちゃんと歯どめをつけて、ただ形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」「政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」と政府答弁を行っている

 

・また、当時の中曽根康弘首相も国会で「学会やらあるいは学術集団からの推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば」と形式的任命であると答弁している。

 

・更に2004年に会員推薦方法が学会推薦から学術会議が選考推薦するコ・オプテーション方式に変更する法改正がされたが、この法改正に際し、所管の総務省が内閣法制局に提出した法案審査資料の中で「日本学術会議から推薦された会員の候補者につき、内閣総理大臣が任命を拒否することは想定されていない」と明記されている。

 

・一方、内閣府の2018年の文書では、「首相に推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えない」という見解を示していた。2018年当時の会長であった山極寿一は、この文書について「全く知りません。文書があることも聞かされていない」と発言した。

なお、日本学術会議法の解釈を上記1983年政府法解釈から変更したのかという問題については、内閣法制局、加藤官房長官とも「解釈変更ではない」との見解を示している。

 

〇任命しない理由

・任命をしないと判断した理由について、この問題が取り上げられた10月初めの時点では、首相は「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点」から判断したと説明した。その後、26日にNHKの番組に出演した頃から、多様性の重要性を強調するようになった。菅首相は10月28〜30日の国会答弁で「民間出身者や若手が少なく、出身や大学に偏りが見られることを踏まえ、多様性が大事ということを念頭に私が判断した」と述べた。

 

〇メディアで取りざたされる「任命しない理由」

・任命しなかった理由に関しては、菅首相は「総合的・俯瞰的な判断」を繰り返し、個々人の具体的にどこが問題だったのかについては「個々人の問題にお答えすることは差し控える」としている。

 

・そのため、6人が例外なく安保法制や特定秘密保護法、「共謀罪」法案などの安倍政権下の政策に異議を唱えた人物であることから、政権批判を問題視したのではないか、と指摘する声も野党などから上がる。

 

・学術会議の第2部(生命科学)、第3部(理学・工学)のいわゆる理系の分野には一人もおらず、多少なりとも思想に関わらざるを得ない人文科学・社会科学者に偏っていることもこれを補強している。「多様性を重視した」という発言に関しては、6人の中にも女性が1人、東京慈恵会医科大学や立命館大学など、現会員で一人しか所属していないような私立大学の学者も含まれることから矛盾を指摘する声も挙がる。学術会議側はデータを挙げて「多様性に欠けている」という批判に反論した。

 

・学術会議は戦前に科学者が戦争遂行の国策に利用されたことへの反省から1949年に生まれ、いかなる軍事研究にも一貫して反対の姿勢を取り続けてきた。1950年と67年には軍事研究に関して「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」という旨の声明を発表した。

 

・安倍政権下の2017年には、自民党国防部会の強い意向で16年度の3億円から30倍超の110億円へと予算が増大した防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」で、軍事技術への研究協力を学術界に促した。学術会議はそれに対して、「軍事研究を行わない」という過去2回の声明を継承するという声明を改めて出していた。こうした学術会議の安全保障問題に対する消極的な姿勢には、かねて自民党内で強い不満があり、今回の背景になったという。

 

・たとえば、自民党の柴山昌彦幹事長代理は10月25日のNHK番組で、「(学術会議が)軍事研究を行わないという提言を盾に、デュアルユースの研究が進まないとの問題も指摘されている」と発言している。最近は、政府主導で軍事技術の推進につなげるため、政府の「総合科学技術・イノベーション会議」に権限を集中させるべきだとの意見も出ている。

 

・甘利明税調会長は2020年6月の民放番組で「世界はデュアルユース(軍民両用)で、最先端の技術はいつでも軍事転用できる」と発言していた。2020年11月17日には、井上信治科学技術担当相が学術会議に「デュアルユース(軍民両用)」研究を検討するよう伝えたことが明らかになった。任命拒否された6人のうちの一人、芦名定道は「政府は大学で軍事研究を推進したい。それに(学術会議は)明確に反対声明を出した。戦前における学術と戦争の関係への反省に基づいて、今の学術会議ができている」と指摘した。

 

6.5)見解

〇批判

・日本共産党委員長の志位和夫は、推薦された6人が任命されなかったことに関して「学問の自由を脅かす極めて重大な事態」とし、「大問題として追及していく 」と抗議し撤回を求める姿勢を示している。

 

・米国の科学誌『ネイチャー』は、2020年10月6日付けの社説において、研究者と政治家の間にはそれぞれが約束を守るというある程度の信頼が必要であるのに、その信頼の欠如が昨今世界各国で見られ、気候変動の分野では多くの政治家が明確な証拠を無視したり、科学への政治的干渉の傾向がみられたりすることに懸念を示しつつ、昨年、アマゾンの森林破壊が加速したという研究報告をブラジルのジャイール・ボルソナーロ大統領が受け入れることを拒否した事例などと共に、日本の菅義偉首相が政府の科学政策(government science policy)に批判的だった6人の学者の日本学術会議への指名を拒否したとして紹介している。その上で『ネイチャー』は最後に、国家が学術的独立を尊重するという原則は現代の研究を支える基盤の1つで、その侵食は研究と政策立案における質と完全性の基準に重大なリスクをもたらすとしている。

 

橋下徹は、「総理の拒否権は当然あり」とコメントした上で、「ただし上司部下の関係での人事ではないので拒否の理由を説明しなければならない。学問的理由ではなく審議会メンバーのバランスを考慮したのであれば理由はたつが、菅政権の説明が必要」と補足し、政権側には「拒否の理由」を説明する責任があると述べた。

 

学術界からも反応があった。日本物理学会や日本数学会など、自然科学系の93の学会は10月9日、「任命されなかったことに憂慮している。対話による早期の解決が図られることを希望する」という緊急声明を発表した。人文・社会科学分野の310の学会が11月6日(12月2日更新)、「1.日本学術会議が推薦した会員候補者が任命されない理由を説明すること。 2.日本学術会議が推薦した会員候補者のうち、任命されていない方を任命すること。」を強く求める「日本学術会議第25期推薦会員任命拒否に関する 人文・社会科学系学協会共同声明」を発表した。

 

・パリに事務局を置く国際学術会議の会長から11月、日本学術会議の梶田隆章会長あてに、「菅義偉首相による任命拒否が学問の自由に与える影響を深刻にとらえている。科学者の表現の自由が保障され、会員推薦の際に学術上の選択の自由が守られるよう強く支援する」とする手紙が届いた。

 

〇肯定

・一方で、この人事決定を問題ないとする声もあり、6人の任命拒否と学問の自由は関係ないとする意見や、この件をきっかけに今後の学術会議の在り方を議論すべきという意見もある。

 

・国際政治学者の篠田英朗は、「日本学術会議は研究機関ではなく、『学問の自由』とは全く関係がない、むしろ憲法規定を、特定集団の特権を正当化するために濫用することのほうが危険だ」と主張する。また、北海道大学名誉教授の奈良林直は、同大の船の摩擦抵抗を減らす研究が防衛省の安全保障技術研究推進制度に採択されながら、日本学術会議が出した「軍事的安全保障研究に関する声明」による影響を受けて同大が辞退したとした上で 「学術会議は廃止し会員アカデミーに」と主張している。 

 

6.6)関連新聞記事

産経新聞 令和2年11月18日(5面)

産経新聞 令和2年(2020年)11月27日

産経新聞 令和2年11月28日

産経新聞 令和2年11月30日

 

7)軍学共同反対連絡会

(引用:Wikipedia

7.1)概要

・軍学共同反対連絡会は、大学や研究機関における軍事研究(軍学共同)に反対する団体・研究者・市民が参加する連絡会として2016年9月30日に設立された組織である。

 

7.2)活動

1)連絡会は参加団体・個人相互の交流と情報交換を中心に活動

2)連絡会として一致した場合には意見表明・共同行動の提起

3)大学・研究機関への申し入れ

4)声明の発表

5)ニュースレターの配信

6)出版活動

7)各種シンポジウ

 

7.3)現在の役員

〇共同代表

 池内了(名古屋大学名誉教授)香山リカ(立教大学教授)/野田隆三郎(岡山大学名誉教授)

 

〇事務局長

 小寺隆幸(元 京都橘大学教授)

 

〇参加団体(2019年1月現在)

大学の軍事研究に反対する会/軍学共同反対アピール署名の会/「戦争と医」の倫理の検証を進める会/日本科学者会議(全国)/日本私立大学教職員組合連合/東京地区大学教職員組合協議会(都大教)/武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)/地学団体研究会/日本平和委員会/平和と民主主義のための研究団体連絡会議/日本民主法律家協会/民主教育研究所/九条科学者の会/日本科学者会議平和問題研究委員会/日本科学者会議埼玉支部/日本科学者会議茨城支部/新潟大学職員組合/東京一般労働組合東京音楽大学分会/大学問題を考える市民と新潟大学教職員有志の会/京滋私大教連/関西私大教連/九条科学者の会かながわ/集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対する北海道の大学・高専関係者有志アピールの会/筑波研究学園都市研究所・大学関係9条の会/大学での軍事研究に反対する市民緊急行動(略称 軍学共同反対市民の会)/新医協 (新日本医師協会)/慶應義塾大学軍学共同問題研究会/東京私大教連(東京地区私立大学教職員組合連合)/15年戦争と日本の医学医療研究会


(6)図書紹介(日本人を狂わせた洗脳工作)


自由社ブックレット1

日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦

関野通夫著 自由社 2015


〔帯タイトル紹介・表紙〕

洗脳工作WGIPの証拠文書発掘! 

日本の常識は米国の洗脳の成果 憲法9条があれば永遠に平和

アジア諸国に侵略し暴虐を極めた・・・占領軍の巧妙な心理作戦の全貌を始めて暴露 

WGIP = War Guild Information Program

戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画

〔帯タイトル紹介・裏表紙〕

狂気の軍国主義にかられ、無謀な大戦に突入し、米国やアジア諸国にひどい被害をもたらしたー

 日本をはじめ、米中韓などの世界の国々に広く流布した犯罪国家のイメージが、実は占領軍の精密巧妙なな洗脳工作の成果だとしたら・・・大手自動車メーカー関連会社米国法人社長を務めた著者が、GHQの2万5千点の文書から、幻だったWGIPの証拠文書を発掘した!  

日本人を狂わせた洗脳工作(WGIP)/いまなお続く占領軍の心理作戦

〇目次

 加瀬 英明

1 未だ気づかれていない洗脳工作

  日本人を狂わせた根源的なもの/友人作家の慨嘆/工学部系実験屋の習性/不可解な”国連人権

  委員会”/ジュネーブの”4ナイ”反日人士

2 内部文書”WGIP”の発見

   約2万5千点の文書を絞りこむ/”WGIP”とは何か?/WGIPを実施したCIE(民間情報教育局)

3 洗脳と検閲の両面作戦

  表の洗脳・裏の検閲と焚書/日本政府を前面に出した二人羽織/東京裁判というショーウィン

  ドウー/国会はABC級戦犯の遺族に年金を与えた/30項目の報道規制 

4 発見文書から内容を読みとる

  文書〈イ〉【1945年12月21日付】/広範で綿密な作戦/いまなお続く刷り込みの効果/CIEに

  与えられた役割/WGIPが謀略である証拠 

5 CIEと東京裁判の関係

   緊密な連携/表紙原文/メディア工作・文書〈ト〉/民間情報検閲支隊

6 WGIPでCIE(民間情報教育局が懸念したこと)

   原爆投下と東条陳述への懸念/CIEの対応策/文書〈ホ〉【1948年2月8日付】/CIEの手先にされ

  朝日新聞/文書〈ヘ〉【1948年3月3日付】/四大教育指令

7 東京裁判に対するアンチテーゼ

   無罪を主張した人々/マッカーサーも意見を替えた

8 東京裁判における清瀬一郎弁護士の冒頭陳述

  格調高い戦犯無罪論/ナチスと日本の相違/リットン報告書/盧溝橋事件の責任/志那事変の勃発

  日米通商航海条約の破棄/イギリスの認識/真珠湾は奇襲か

あとがき

 

〇序文(抜粋)〔加瀬 英明〕

 アメリカによる占領下で、日本を罪深い国として仕立てる「ウォア・ギルト・インフォメーション・プロ得らむ(WGIP)」が、どのように行われたのであろうか。

 

 マッカ―サー総司令部(GHQ)は昭和20(1945)年9月に日本を占領すると、10月2日に「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪(ウォーギルト)、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」(一般命令第4号)を命じ、日本民族から独立心を奪い、贖罪意識を植え付ける政策が実施された。

 

 この年の12月から、NHKが『真相はか(こ)うだ』(後に『真相箱』)の放送と、全国新聞が『太平洋戦争史』の連載を始め、日本が非道きわまりない国であったことを、全国民に刷り込むことをはかった。

 

 GHQは日本を軍事的に征服したうえで、日本民族から記憶を奪い、精神を破壊して、占領を終了した後も、未来永劫にわたってアメリカの属国としてつくりかえるために、日本に対して全面的に歴史戦を開始した。

 

 9月に早々と報道を厳しく制限するプレスコード(新聞綱領)を定めたのをはじめとして、徹底的な検閲と言論統制、神道指令、公職追放、日本の指導者を捌いた東京裁判、日本国憲法などが、その手段だった。

 

 WGIPは、日本をアメリカに隷属させる計画の柱だった。

 関野通夫氏は本書で、WGIPの全容を、見事に白日の下に曝(さら)している。その過程で、これまで知られていなかった、占領当局の関係文書を発掘している。

 日本は昭和27(1952)年に、対日講和条約が発効して、独立を回復した。日本国民はWGIPによる洗脳工作にかかわらず、まだ多分に正気を保っていた。

 

 その翌年に国会が法改正を行い、戦勝国による不当な軍事裁判によって処刑、獄死、自決された、いわゆる戦争犯罪人を戦死者とみなして、遺族に年金などを支給し、戦犯として刑期ををつとめていた人々の即時釈放を求める決議を、ともに全会一致によって採択した。

 その後、日本は戦争体験が風化するにつれて、正気を失っていった。WGIPが種をまいた自虐史観が、蔓延(はびこ)るようになったのは、売国的な日本人の手によるものである。 

 

〇あとがき(抜粋)〔関野通夫〕

 WGIPは約70年前の話で、今頃なぜそんな古い話をと思われる方もいるかと思います。

 しかし、平成26年の7月にジュネーブで目撃した、国際人権委員会における反日NGOの人たちを見て、WGIPという悪夢が甦りました。私は左翼であっても構わないという姿勢で生きてきました。かってのフランス共産党のように、左翼愛国であれば、保守反日より、ずっとましだと思っているからです。

 

 しかし、WGIPの毒が、当時より、今のほうが効いているようにすら見える現在では、反日は赦せません。ウィキペディアでも、江藤淳氏はその著作で原資料を公開していない、原資料の存在も疑わしいと、原資料の”不存在”を匂わすような記述になっています。

 

 そこで、自分なりの目で確かめてみよう、それには、WGIPの、それも原資料に遡った研究をしてみようという気持ちが、急速に膨らんだのです。

 プロの文筆家や評論家であれば、一冊の本にまとめよう、と考えたかもしれません。

 

 しかし、日本史の抹殺を計った、GHQの悪辣な占領政策とはいえ、70年前の事件ですから、読みやすい形で、一刻も早くお届けすべきだと判断しました。ただし、占領軍の日本人洗脳作戦と、日本人に与えた影響の主要部分は、網羅できたつもりです。

 

 たまたま私は、東京裁判の英文速記録から、同裁判の審理要録をつるための翻訳陣に加わり、清瀬一郎弁護士の冒頭陳述を翻訳する作業をしておりました。その過程で、東京裁判に関わった何人かの言動が、WGIPと対を成すことを発見して、本書に取り込みました。

 

 清瀬弁護士の冒頭陳述は、70年前の聡明な法律家が、同時代の」国際秩序にもとづき、A級戦犯の無罪を論じたものです。いまも通じる、というより、戦勝国によって歪められた日本史を、日本人の目で見直すための、またとない副読本だと思います。

 

 アメリカとの戦争に追い込まれていった、開戦直前の二本の指導者たちの苦悩を代弁する、世界史を踏まえた弁明は、決して声高ではありません。ですが、それは、戦勝国の奢りと野蛮さを、なんとか分からせたいという必死さの裏返しであり、涙なしには読めません。

 

 マッカーサーが占領軍総司令官として日本に乗り込み、日本統治を開始した直後の思想と、アメリカに戻ってから、米議会で行った証言とが、180度変わっているのも、看過してはならない事実です。多くのGHQ関係者が、滞日中に見知った日本人の姿勢や、ソ連・中国・北朝鮮という共産主義国家に隣接するという歴史状況から、日本悪逆という考えを替えたことも見逃せません。

 

 東京裁判のインチキ性や、日本国憲法が戦時国際法違反の非合法なものであることを、私が10歳前後の頃に家庭内教育で口伝えに教えてくれたのは、亡き父です。この自由社ブックレット1号を、父の霊に捧げます。 

(追記:2020.10.25/追記2020.11.1)


5.2 内閣府世論調査(社会意識・自衛隊・防衛問題)


(1)社会意識に関する世論調査*項目番号は世論調査の項目番号に準拠)

 1.国や社会との関わりについて

 (1) 国を愛する気持ちの程度 /(2) 国を愛する気持ちを育てる必要性

  /(3) 社会志向か個人志向か /(4) 社会への貢献意識 ア  社会への貢献内容 

  /(5) 国民全体の利益か個人の利益か

(2)自衛隊・防衛問題に関する世論調査項目番号は世論調査の項目番号に準拠)

 1 自衛隊に関する関心

  (1) 自衛隊に対する関心

 5 防衛についての意識

  (2) 外国から侵略された場合の態度/(3) 国を守るという気持ちの教育の必要性


(1)社会意識に関する世論調査


*世論調査の項目番号に準拠

1.国や社会との関わりについて

(1) 国を愛する気持ちの程度 /(2) 国を愛する気持ちを育てる必要性

 /(3) 社会志向か個人志向か (4) 社会への貢献意識 ア  社会への貢献内容 

 /(5) 国民全体の利益か個人の利益か


出典:内閣府大臣官房政府広報室HP 社会意識に関する世論調査(令和元年度)


社会意識に関する世論調査(令和元年度) 

 1.国や社会との関わりについて

(1) 国を愛する気持ちの程度

 他の人と比べて、「国を愛する」という気持ちは強い方だと思うか聞いたところ、「強い」とする者の割合が51.9%(「非常に強い」14.1%+「どちらかといえば強い」37.8%)、「どちらともいえない(わからない)」と答えた者の割合が39.7%「弱い」とする者の割合が8.5%(「どちらかといえば弱い」6.3%+「非常に弱い(全くない)」2.2%)となっている。

 

 性別に見ると、「強い」とする者の割合は男性で、「どちらともいえない(わからない)」と答えた者の割合は女性で、それぞれ高くなっている。

 年齢別に見ると、「強い」とする者の割合は60歳代、70歳以上で、「どちらともいえない(わからない)」と答えた者の割合は18~29歳から40歳代で、それぞれ高くなっている。

 

 性・年齢別に見ると、「強い」とする者の割合は男性の50歳代から70歳以上、女性の70歳以上で、「どちらともいえない(わからない)」と答えた者の割合は男性の40歳代、女性の18~29歳から50歳代で、それぞれ高くなっている。

 

 図1-1国を愛する気持ちの程度 

 

 図1-2 國を愛する気持ちの程度(時系列)  

 

(2) 国を愛する気持ちを育てる必要性

 今後、国民の間に「国を愛する」という気持ちをもっと育てる必要があると思うか聞いたところ、「そう思う」と答えた者の割合が69.4%「そうは思わない」と答えた者の割合が15.7%、「わからない」と答えた者の割合が14.9%となっている。

 

 前回の調査結果(平成31年2月調査結果をいう。以下同じ。)と比較してみると、「そう思う」(71.3%→69.4%)と答えた者の割合が低下している。

 

 性別に見ると、「そうは思わない」と答えた者の割合は男性で、「わからない」と答えた者の割合は女性で、それぞれ高くなっている。

 

 年齢別に見ると、「そう思う」と答えた者の割合は70歳以上で、「そうは思わない」と答えた者の割合は18~29歳から40歳代で、「わからない」と答えた者の割合は18~29歳で、それぞれ高くなっている。

 

 性・年齢別に見ると、「そう思う」と答えた者の割合は男性の70歳以上、女性の70歳以上で、「そうは思わない」と答えた者の割合は男性の18~29歳から40歳代、女性の18~29歳で、「わからない」と答えた者の割合は女性の18~29歳、30歳代で、それぞれ高くなっている。

図2-1 国を愛する気持ちを育てる必要性

 図2-1 国を愛する気持ちを育てる必要性  

 

図2-2 国を愛する気持ちを育てる必要性(時系列)

 図2-2 國を愛する気持ちを育てる必要性(時系列)  

 

(3) 社会志向か個人志向か

 国民は、「国や社会のことにもっと目を向けるべきだ」という意見と、「個人生活の充実をもっと重視すべきだ」という意見があるが、このうちどちらの意見に近いか聞いたところ、「国や社会のことにもっと目を向けるべきだ」と答えた者の割合が44.8%「個人生活の充実をもっと重視すべきだ」と答えた者の割合が41.1%となっている。なお、「一概にいえない」と答えた者の割合が12.4%となっている。

 

 年齢別に見ると、「個人生活の充実をもっと重視すべきだ」と答えた者の割合は18~29歳から40歳代で高くなっている。

 

 図3-1 社会志向加個人志向か 

 

 図3-2 社会志向か個人志向か(時系列)

 

(4) 社会への貢献意識

 日頃、社会の一員として、何か社会のために役立ちたいと思っているか、それとも、あまりそのようなことは考えていないか聞いたところ、「思っている」と答えた者の割合が63.4%「あまり考えていない」と答えた者の割合が33.6%となっている。

 前回の調査結果と比較してみると、大きな変化は見られない。

 都市規模別に見ると、「思っている」と答えた者の割合は大都市で高くなっている。

 性別に見ると、大きな差異は見られない。

 年齢別に見ると、「思っている」と答えた者の割合は30歳代から50歳代で、「あまり考えていない」と答えた者の割合は70歳以上で、それぞれ高くなっている。

 性・年齢別に見ると、「思っている」と答えた者の割合は男性の30歳代から50歳代、女性の40歳代、50歳代で、「あまり考えていない」と答えた者の割合は男性の70歳以上、女性の70歳以上で、それぞれ高くなっている。 

 

 図4-1 社会への貢献意識 

 

図4-2 社会への貢献意識(時系列)  

 

ア  社会への貢献内容

 日頃、社会の一員として、何か社会のために役立ちたいと「思っている」と答えた者(3,420人)に、何か社会のために役立ちたいと思っているのはどのようなことか聞いたところ、「社会福祉に関する活動(高齢者・障害者・子どもに対する身の回りの世話、介護、食事の提供、保育など)」を挙げた者の割合が36.5%と最も高く、以下、「自然・環境保護に関する活動(環境美化、リサイクル活動、牛乳パックの回収など)」(31.8%)、「町内会などの地域活動(お祝い事や不幸などの手伝い、町内会や自治会などの役員、防犯や防火活動など)」(29.1%)、「自主防災活動や災害援助活動」(26.3%)、「自分の職業を通して」(26.1%)などの順となっている。(複数回答、上位5項目)

 

 前回の調査結果と比較してみると、「自然・環境保護に関する活動」(28.8%→31.8%)を挙げた者の割合が上昇している。

 

 都市規模別に見ると、「社会福祉に関する活動」、「自主防災活動や災害援助活動」を挙げた者の割合は中都市で高くなっている。

 

 性別に見ると、「社会福祉に関する活動」、「自然・環境保護に関する活動」を挙げた者の割合は女性で、「町内会などの地域活動」、「自主防災活動や災害援助活動」、「自分の職業を通して」を挙げた者の割合は男性で、それぞれ高くなっている。

 

 年齢別に見ると、「社会福祉に関する活動」を挙げた者の割合は50歳代、60歳代で、「町内会などの地域活動」を挙げた者の割合は60歳代、70歳以上で、「自主防災活動や災害援助活動」を挙げた者の割合は60歳代で、「自分の職業を通して」を挙げた者の割合は18~29歳から50歳代で、それぞれ高くなっている。 

 

 図5-1 社会への貢献内容 

 

 図5-2 社会への貢献内容(時系列) 

 

(5) 国民全体の利益か個人の利益か

 今後、日本人は、個人の利益よりも国民全体の利益を大切にすべきだと思うか、それとも、国民全体の利益よりも個人個人の利益を大切にすべきだと思うか聞いたところ、「個人の利益よりも国民全体の利益を大切にすべきだ」と答えた者の割合が45.3%「国民全体の利益よりも個人個人の利益を大切にすべきだ」と答えた者の割合が35.2%となっている。なお、「一概にいえない」と答えた者の割合が17.6%となっている。

 前回の調査結果と比較してみると、大きな変化は見られない。

 

 都市規模別に見ると、大きな差異は見られない。

 

 年齢別に見ると、「国民全体の利益よりも個人個人の利益を大切にすべきだ」と答えた者の割合は18~29歳で高くなっている。

 

 性・年齢別に見ると、「個人の利益よりも国民全体の利益を大切にすべきだ」と答えた者の割合は男性の70歳以上で、「国民全体の利益よりも個人個人の利益を大切にすべきだ」と答えた者の割合は男性の18~29歳、30歳代、女性の18~29歳で、それぞれ高くなっている。

 

 図6-1 国民全体の利益か個人の利益か 

 

  図6-2 国民全体の利益か個人の利益か(時系列) 


(2)自衛隊・防衛問題に関する世論調査(抜粋)


項目番号は世論調査の項目番号に準拠

1 自衛隊に関する関心

(1) 自衛隊に対する関心

5 防衛についての意識

(2) 外国から侵略された場合の態度 

(3) 国を守るという気持ちの教育の必要性

出典:内閣府大臣官房政府広報室HP 自衛隊・防衛意識に関する世論調査(平成29年度)


1 自衛隊に関する関心

(1) 自衛隊に対する関心

 自衛隊について関心があるか聞いたところ、「関心がある」とする者の割合が67.8%(「非常に関心がある」14.9%+「ある程度関心がある」52.9%)「関心がない」とする者の割合が31.4%(「あまり関心がない」25.9%+「全く関心がない」5.5%)となっている。

 

 性別に見ると、「関心がある」とする者の割合は男性で、「関心がない」とする者の割合は女性で、それぞれ高くなっている。

 

 年齢別に見ると、「関心がある」とする者の割合は60歳代で、「関心がない」とする者の割合は18~29歳、30歳代で、それぞれ高くなっている。(図1) 

 

 

 

ア 自衛隊に関心がある理由

 自衛隊について「非常に関心がある」、「ある程度関心がある」と答えた者(1,133人)に、その理由を聞いたところ、「日本の平和と独立を守る組織だから」と答えた者の割合が32.2%「国際社会の平和と安全のために活動しているから」と答えた者の割合が18.9%「大規模災害など各種事態への対応などで国民生活に密接なかかわりを持つから」と答えた者の割合が41.7%「マスコミなどで話題になることが多いから」と答えた者の割合が2.5%「国民の税金を使っているから」と答えた者の割合が2.3%「自衛隊は必要ないから」と答えた者の割合が0.9%となっている。

 

 性別に見ると、「日本の平和と独立を守る組織だから」と答えた者の割合は男性で、「大規模災害など各種事態への対応などで国民生活に密接なかかわりを持つから」と答えた者の割合は女性で、それぞれ高くなっている。(図2) 

 

 

イ 自衛隊に関心がない理由

 自衛隊について「あまり関心がない」、「全く関心がない」と答えた者(524人)に、その理由を聞いたところ、「差し迫った軍事的脅威が存在しないから」と答えた者の割合が16.4%「自衛隊は必要ないから」と答えた者の割合が1.9%「自分の生活に関係ないから」と答えた者の割合が39.1%「自衛隊についてよくわからないから」と答えた者の割合が37.6%となっている。

 

 性別に見ると、「差し迫った軍事的脅威が存在しないから」、「自衛隊についてよくわからないから」と答えた者の割合は女性で、「自分の生活に関係ないから」と答えた者の割合は男性で、それぞれ高くなっている。(図3) 

 

図3 自衛隊に関心がない理由

 

5 防衛についての意識

(2) 外国から侵略された場合の態度

 もし日本が外国から侵略された場合、どうするか聞いたところ、「自衛隊に参加して戦う(自衛隊に志願して、自衛官となって戦う)」と答えた者の割合が5.9%、「何らかの方法で自衛隊を支援する自衛隊に志願しないものの、自衛隊の行う作戦などを支援する)」と答えた者の割合が54.6%、「ゲリラ的な抵抗をする(自衛隊には志願や支援しないものの、武力を用いた行動をする)」と答えた者の割合が1.9%、「武力によらない抵抗をする(侵略した外国に対して不服従の態度を取り、協力しない)」と答えた者の割合が19.6%、「一切抵抗しない(侵略した外国の指示に服従し、協力する)」と答えた者の割合が6.6%となっている。なお、「わからない」と答えた者の割合が10.6%となっている。

 

 性別に見ると、「何らかの方法で自衛隊を支援する(自衛隊に志願しないものの、自衛隊の行う作戦などを支援する)」と答えた者の割合は男性で、「武力によらない抵抗をする(侵略した外国に対して不服従の態度を取り、協力しない)」と答えた者の割合は女性で、それぞれ高くなっている。

 

 年齢別に見ると、「武力によらない抵抗をする(侵略した外国に対して不服従の態度を取り、協力しない)」と答えた者の割合は50歳代で高くなっている。(図13)

 

 

(3) 国を守るという気持ちの教育の必要性

 国民が国を守るという気持ちをもっと持つようにするため、教育の場で取り上げる必要があると思うか聞いたところ、「教育の場で取り上げる必要がある」と答えた者の割合が70.4%「教育の場で取り上げる必要はない」と答えた者の割合が22.3%となっている。

 

 都市規模別に見ると、大きな差異は見られない。

 年齢別に見ると、「教育の場で取り上げる必要はない」と答えた者の割合は50歳代で高くなっている。(図14)

 

  


5.3 日本人としての誇りを取り戻すために


(1)自虐史観の呪縛からの解放    (2)憲法改正    (3)教育改革

参考1「世界はどのように大東亜戦争を評価しているか」 参考2「日本の戦争謝罪発言一覧」   


(1)自虐史観の呪縛からの解放


1) 歴史的背景の再認識

 1.1)明治維新から敗戦までの内外情勢 1.2)対日占領政策の実相

2)東京裁判史観の呪縛からの解放

 2.1)東京裁判・日本の弁明・弁護側資料の啓発  2.2)パール判事の日本無罪論の啓発 

 2.3)マッカーサー議会証言の普及 2.4)国内外の要人の発言(後述:参考1、2を参照)

3)戦犯の名誉回復についての啓発 

 3.1)平和条約の戦犯に関する規定 3.2)戦犯の釈放等に関する国会決議の再普及

4)歴史・伝統・文化及び道徳的価値観に関する啓蒙活動

 4.1)歴史・公民教育の改善

 

参考1 世界はどのように大東亜戦争を評価しているか

1 )アメリカ合衆国 

 1.1 )ダグラス・マッカーサー(GHQ総司令官)  

  1.2)ジョイス・C・レブラ博士(米国コロラド大学歴史学部教授)

  1.3)ジョージ・S・カナへレ博士(ハワイ・日本経済協議会事務局長)

 1.4)ハミルトン・フィッシュ(政治家、『悲劇的欺瞞』(Tragic Deception, 1983) ) 

 1.5)ロスロップ・スタッタード(歴史学者)

 1.6) ニミッツ元帥(太平洋艦隊司令長官) 

 1.7)米国戦略爆撃調査団

 1.8) ハリー・S・トルーマン当時大統領 1945年8月19日国内向け声明 

2)イギリス

 2.1) H・G・ウェルズ(SF作家) 2.2) アーノルド・J・トインビー(歴史学者) 

 2.3)スリム中将(イギリス第14軍司令官) 2.4)エリック・ホプスバウ博士(英国ロンドン大学教授)

3)インド

 3.1)ジャワハルラル・ネルー(独立インド初代首相)  3.2)ラダ・クリシュナン 大統領 

 3.3)グラバイ・デサイ(弁護士会会長) 3.4)ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判判事) 

4)インドネシア共和国

 4.1)ブン・トモ元情報相 4.2)アリフィン・ベイ(ナショナル大学日本研究センター所長)

 4.3)アラムシャ陸軍中将(インドネシア大統領特使) 4.4)サンパス将軍(東欧大使歴任)

 4.5)中学校用『社会科学分野・歴史科 第五冊』(インドネシア語)

5)オランダ王国

 5.1)サンティン(アムステルダム市長、現内務大臣)

6)シンガポール共和国

 6.1)ゴー・チョクトン 首相   6.2)リー・クアンユー前首相(現顧問相) 

 6.3)中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』(英語)

7)セイロン国(現スリランカ民主社会主義共和国)

 7.1)J・R・ジャヤワルダナ蔵相(後にスリランカ大統領) 

8 )タイ王国

 8.1)ピブン首相(当時)  8.2)ククリット・プラモード(タイ国元首相)

 8.3)中学校二年生用社会科教育読本『歴史学 タイ2』(タイ語)

9)大韓民国

 9.1)朴鉄柱(韓日文化研究所) 9.2)高等学校用『国史』(下) 9.3)朱耀翰(元国会議員)

10)中華人民共和国

 10.1)毛沢東初代国家主席・中国共産党主席  10.2)初級中学課本『中国歴史』第四冊

 10.3)蒋介石 

11)中華民国(台湾)

 11.1) 高級中学『歴史』第三冊 11.2)許文襲(実業家)

12)朝鮮民主主義人民共和国

 12.1) 高級学校二年用『世界歴史』

13)フランス共和国

 13.1)ベルナール・ミロー(ジャーナリスト)

14)ベトナム社会主義共和国

 14.1) 12年生用『歴史 第一巻』(ベトナム語)

15)マレーシア

 15.1)ガザリー・シャフェー(元外相) 15.2)中学校二年生用『歴史の中のマレー』

 15.3)初級中学校用『歴史 第二冊』

16)ミャンマー連邦

 16.1)反ファシスト人民自由連盟(ビルマ愛国戦線)宣言文 16.2 バ・モウ(ビルマ元首相) 

 16.3)八年生『ビルマ史』

17)モンゴル人民共和国(現モンゴル国)

 17.1)八年生用教科書『モンゴル人民共和国史』

 

参考2 日本の戦争謝罪発言一覧

1)1972年(昭和47年)9月29日 - 田中角栄内閣総理大臣(以下首相) 

2)1982年(昭和57年)8月24日 - 鈴木善幸首相。 

3)1982年8月26日 - 宮澤喜一内閣官房長官 

4)1984年(昭和59年)9月6日 - 昭和天皇陛下  

5)1984年9月7日 - 中曽根康弘首相 

6)1986年(昭和61年)8月14日 - 後藤田正晴内閣官房長官

7)1990年(平成2年)4月18日 - 中山太郎外務大臣。 

8)1990年5月24日 - 明仁天皇陛下  

9)1990年5月25日 - 海部俊樹首相

10)1992年(平成4年)1月16日 - 宮澤喜一首相 

11)1992年1月17日 - 宮澤喜一首相 

12)1992年7月6日 - 加藤紘一内閣官房長官 

13)1993年(平成5年)8月4日 - 河野洋平内閣官房長官

14)1993年8月23日 - 細川護煕首相(日本新党所属) 

15)1993年9月24日 - 細川護煕首相 

16)1994年(平成6年)8月31日 - 村山富市首相(日本社会党所属)

17)1995年(平成7年)6月9日 - 衆議院決議  

18)1995年7月 - 村山富市首相 

19)1995年8月15日 - 村山富市首相  

20)1996年(平成8年)6月23日 - 橋本龍太郎首相 

21)1996年10月8日 - 明仁天皇陛下  

22)1997年(平成9年)8月28日 - 橋本龍太郎首相

23)1997年9月6日 - 橋本龍太郎首相 

24)1998年10月8日 - 小渕恵三首相 

25)1998年11月26日 - 小渕恵三首相 

26)2000年(平成12年)8月17日 - 山崎隆一郎外務報道官 

27)2000年8月30日 - 河野洋平外務大臣 

28)2001年(平成13年)4月3日 - 福田康夫内閣官房長官 

29)2001年9月8日 - 田中眞紀子外務大臣 

30)2001年10月15日 - 小泉純一郎首相 

31)2001年 - 小泉純一郎首相 

32)2002年(平成14年)9月17日 - 小泉純一郎首相

33)2003年(平成15年)8月15日 - 小泉純一郎首相 

34)2005年(平成16年)4月22日 - 小泉純一郎首相 

35)2005年8月15日 - 小泉純一郎首相 

36)2007年(平成19年)4月28日 - 安倍晋三首相 

37)2010年(平成22年)8月10日 - 菅直人首相(民主党所属)

 

参考3 図書紹介『渡部昇一の昭和史』 


 1) 歴史的背景の再認識

1.1)明治維新から敗戦までの内外情勢

・GHQは、先の戦争の責任は、連合軍にあるのではなく、日本国民にあるのではなく、戦争に導いた一部の軍国主義者にあるとして戦犯として軍事法廷で裁き処断し、日本国民と軍国主義者を分離するように誘導した。

 

・しかしながら、明治維新から敗戦に至るまでの歴史的背景を見てみると、必ずしも日本だけに戦争責任があるのではないことは明らかであろう。

 

・戦後、高校時の歴史代教育においては明治維新から敗戦に至る歴史的事実はあまり教えられず、南京大虐殺や従軍慰安婦等の日本軍の残虐行為等の教育のみを強調し、生徒にいわゆる自虐史観を植え付けているようにみられる。

 

・今一度、我々日本国民は、明治維新から敗戦までの歴史的事実を再認識して、先人の苦難を正確に理解し、一時、軍の暴走とみられる事件を起こしたことは反省する必要はあるが、一方的に日本が非難されるいわれはないことを認識し、日本民族としての誇りを取り戻すことが必要である。

 

※参考:「明治維新から敗戦までの内外情勢」の参考事項

 

1.2)対日占領政策の実相

〇 日本占領の期間

戦争の期間は3年8ヶ月であったが、連合国軍による日本の占領は6年8ヶ月の長期に及んでいた。戦争は8月15日に終結したのではなく、講和条約の発効する時点(昭和27年4月28日)までは戦争状態であった。

 

・それゆえ、連合国軍は「戦闘段階終了後の占領段階において、連合国の利益にかなった日本社会の改造政策を戦争行為として推進した」と言われている。

 

・それは、武力等の物理的武装解除に続く、政治と宣伝と教育による戦争の継続であり、精神的武装解除が徹底的に行われ、このために「日本は無条件降伏した」という虚偽の下に、他に比類なく長い日本占領が行われた。

 

〇 占領政策の目的

・占領政策の目的は、「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」とされ、日本が決してアメリカに報復戦争をすることのないように、日本人に戦争の贖罪意識を植え付け、民族の誇り自尊心を奪いとろうとした。

 

・そして日本人を精神的に去勢し、日本の国家と社会をアメリカの意のままになる従属的な体制に変え、宗主国に対する従属国、保護国に対する非保護国的な存在にしようとした。すなわち、占領政策とは、日本弱体化を目的とする政策であったといえる。

 

・この戦争において日本は無謀な戦争に突入して、敗れるべくして敗れた。しかし、国民は精神的には敗れておらず、終戦直後の日本人は深い悲しみの中にありながらも、誇りと勇気を持っていた。それゆえ、日本占領を開始したアメリカ人にとって、敗れてもなお静かに整然と行動している日本国民の姿は、不気味なものと映ったのであろう。

 

・激戦直後の彼らにとって、日本人は「邪悪な悪魔」であり、いつかは自分たちに報復してくるのではないか、という脅威を感じていた。そこで、2度と歯向かってこないように、日本人の精神を打ちのめし、徹底的に精神改造をしようと企てたのであろう。

 

・精神改造の始めは「日本は無条件降伏した」と思わせ、連合国軍の政策への抵抗の意志を奪うことであった。さらに強引な言論統制と巧妙な検閲によって、批判を封じたうえで、日本人に戦争に対する罪悪感を植え付ける計画を実行した。

 

・民族の固有の伝統と歴史を否定して愛国心を根こそぎに抜き去ること、国の指導者に対する国民の不信感をかき立てること、共産主義者に活動をさせて国論を分裂させることなどして、日本人の精神的団結を破壊しようとした。

 

・その効果は決定的で、原爆に匹敵するほどの破壊力を示し、今日もなおその放射能は日本人の精神を汚染し、日本人の背骨を虫食み自滅へ導いているとの識者の見方がある。

 

〇 占領政策の内容

占領政策とは、日本弱体化政策であり、それは同時に、連合国軍側の戦争行為の正当化戦争犯罪の免罪であった。

 

・占領政策のポイントを主に5つに分けて考える識者がいる。

① 言論統制と検閲の実施:特にGHQの占領政策への一切の批判の封じ込め

 

② 民族の伝統・歴史の否定:特に修身、国史の授業停止による、伝統的な倫理道徳と

 歴史観の根絶

 

③ 戦争犯罪宣伝計画の徹底:特に『太平洋戦争史』による「勝者の歴史」=「真相」

 という洗脳、罪悪感の移植

 

④ 東京裁判の開催:国際法に根拠を持たぬ勝者による復讐劇。 日本=極悪犯罪国家という

 一方的断罪

 

⑤ GHQ製憲法の押し付け:占領政策の総仕上げ。法制化による継続化。主権の制限に

 よる属国化・被保護国化。 

 

2)東京裁判史観の呪縛からの解放

 ・この裁判については、外国人からの批判や日本側弁護資料が却下されており、これ等を知ることも後世の日本人にとって必要であり、亦、判決当時もインドのパール判事等がその正当性に疑義を呈しており、また、マッカーサー元帥も米議会において、「日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」と証言している。

 

・また、今日、各方面からこの裁判を見直すべきだとの研究成果が発表されている。これらの成果を活用し、東京裁判史観の呪縛から解放されるように国民を啓蒙する必要があろう。

 

2.1)東京裁判・日本の弁明・弁護側資料の啓発 

・Webサイトには、東京裁判に関わる各種資料が掲載されている。それらの概要とリンク先のURLを紹介する。(リンク先 http://bewithgods.com/hope/japan/a04.html

 

2.1.1)『東京裁判 幻の弁護資料』小堀敬一郎著 筑摩書房 

 

 

(引用:筑摩書房HP

〔概要〕

 東京裁判は、公正な裁判だったのか? 検察官や裁判長の裁量により却下処分にされ、歴史の闇に葬られてしまった膨大な弁護側記録から、清瀬一郎弁護人の冒頭陳述や、マッカーサー、グルー大使等の証言をはじめとする18編を精選。戦争犯罪者として個人を裁くことや、「平和に対する罪」という曖昧な概念をふりかざすことのそもそもの問題点。

 

 日本の戦略をナチスになぞらえることにより、とりわけ知識人層を一部の軍国主義者により騙された被害者側へとまわすことに成功した占領軍側の戦略―。東京裁判の歪曲を鋭く指摘した解説付き。隠された日本の「真実」を明かす、貴重なドキュメント。

 

〔目次〕

第1部(弁護側反証段階の総論):清瀬一郎弁護人 冒頭陳述(総論A)/高柳賢三弁護人 冒頭陳述(総論B)/ローガン弁護人 冒頭陳述

 

第2部(弁護側反証の一般及び個別段階):徳富猪一郎 宣誓供述書)/ワーレン弁護人、岡本(敏)弁護人 冒頭陳述「満洲部門」/米アボツト記者の満洲視察記/ほか

 

第3部(弁護側最終弁論及び付録):ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論「日本は挑発挑戦され自衛に起つた」/米国上院軍事外交合同委員会に於けるマッカーサー証言 

 

 〔主要内容〕

大東亜戦争の真実東京裁判史観、戦後自虐史観をの嘘を暴く)

・東京裁判ではマッカーサー元帥の意思が法理に優先

・5月14日 ブレイクニ弁護士の「爆弾発言」

・南京問題の嘘八百 ~連合国によりスケープゴートにされた日本~

・東京裁判の虚構 ~拒否された日本側証拠と冒頭陳述~

・東京裁判で却下された弁護側資料(第2次上海事変・共産主義批判・ハルノート)

・清瀬一朗弁護人「冒頭陳述」 

・高柳弁護士「冒頭陳述(抜粋)」

・ローガン弁護人「冒頭陳述」

・マッカーサー証言「米上院軍事外交合同委員会」

東條英機宣誓供述書 敗戦の責任は我に在り

 

〔主要発言等〕

① ブレークニン発言(東京裁判1)(引用:一燈照隅/2006年06月08日/東京裁判

 国家の行為である戦争の個人責任を問ふ事は法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるのであって個人に対してではない。個人による戦争行為といふ新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。殺人行為の正当化です。たとひ嫌悪声べぎ行為でむ、,犯罪としての責任は問はれなかつたのです。

 

 キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知してゐる。その国の元首の名前も我々は承知してみる。彼等は殺人罪を意識してゐたか。してはゐまい。我々もさう思ふ。

 それは彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違反なのか。原爆を投下した者がゐる! この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がゐる! その者達が裁いてゐるのだ!

 

 これは、東京裁判の開廷5日目である5月14日にアメリカ人弁護士であるブレイクニー弁護人の発言です。今でこそ知っている人が多いですが、当時は突然日本語の通訳がされなくなり英語の判らない日本人には、そこで何が話されているのか全くわかりませんでした。 それは被告とされた人々も同じでした。裁かれている人間が何を言っているのか知ることが出来ないような裁判です。

 

 ブレイクニーの発言が日本語に訳されていたらどうなったでしょうか。マスコミが書いて国民がこの裁判の欺瞞に気づく事になったかもしれません。それとも検閲によって占領軍が報道を差し止める事をしたかもしれない。しかし、これこそアメリカ自体が東京裁判は公平に裁いているので無い事を表しています。

 

 裁判所条例には、第9条「審理並ニ之ニ関連セル手続ハ英語及ビ被告人ノ国語ヲ以テ行ハルベキモノトス」となっています。日本語に翻訳しないのに、清瀬一郎が抗議の申し立てをしたら、ウエッブ裁判長は「必要な翻訳は出来るだけ早い機会に提供する」とこたえています。しかし、翻訳は裁判が終了しても提供されませんでした。

 ブレイクニー弁護人は次のような発言もしています。(この部分は通訳されています)

「検察側の異議申し立ては、勝った方の殺人は合法的で、敗けた方の殺人は非合法である、という議論のように思える」

 

・裁判長:ウイリアム・F・ウエッブ(オーストラリア) 

・裁判官:ジョン・P・ヒギンス(アメリカ)、パトリック卿(イギリス)、E・スチュワート・マクドウガル(カナダ)、梅汝敖(中華民国)、アンリー・ベルナール(フランス)、バーナード・V・A・ローリング(オランダ)、I・M・ザリヤノフ (ソ連)、エリマ・ハーべー・ノースクロフト(ニュージーランド)、ラドハビノッド・パル(インド)、ハラニーヨ(フィリピン)

 

 インドとフィリピンの裁判官は、最初は入っていませんでした。あまりにも露骨過ぎるので、アジアからの裁判官を加えたようです。

 東京裁判は当事者が裁判官になったのです。しかも、裁判長のウエッブはオーストラリア政府の命令で、ニューギニアにおける日本軍の戦時国際法規違反を調査し、報告書を提出しています。東京裁判でも審理に含まれているので、検察官と裁判官の両方を務めることになります。

 

 すなわち、交通事故を審理している裁判官が、事故を起こした車の会社を訴える別の裁判で、報告書を書いている様なものです。この事からしても単なる復讐のために、裁判という形式を執った事が分かります。

 

②三つの罪状(東京裁判2)(引用:一燈照隅/2006年06月11日/東京裁判

 第5条(人並ニ犯罪ニ関スル管轄)

 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス

 左ニ掲グル一又ハ数個ノ行為ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪トス

 

(イ)平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加

 

(ロ)通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反

 

(ハ)人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為

 上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス

 所謂 A 級戦犯と言われる人達は、平和に対する罪通例の戦争犯罪人道に対する罪で起訴されました。しかし、平和に対する罪人道に対する罪は、ポツダム宣言受諾時点には全く存在しませんでした。つまり、新たに罪を作ってそれ以前の出来事を裁いたわけです。

 これは近代国家に於いては「法の不遡及」と言って、法は成立した時点から過去に遡って起きたことを裁くことをしてはいけない、となっているのです。この事は日本国憲法第39条にも書かれています。

 

清瀬一郎、冒頭陳述朗読禁止文(東京裁判3)(引用:一燈照隅/2006年06月15日/東京裁判

 先日書きました、「三つの罪状(東京裁判2)」に書き方がまずくて分かりにくい部分がありましたので、清瀬一郎の東京裁判における冒頭陳述の一部抜粋を新たに書いてみました。尚、この冒頭陳述部分は裁判で朗読を禁止されました。

 

ポツダム宣言 第5条 吾等ノ條件ハ左ノ如シ  吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル條件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ

 

 ここでもう一つ問題になるのが、占領軍はポツダム宣言を守っていない点です。「右条件より離脱することなかるべし」と書いてあるのに宣言書に書いてないことをしたのです。占領軍は近代国家にあるまじき行為を行ったのです。ポツダム宣言を受諾した時点では、国際法において「人道に対する罪」「平和に対する罪」は存在していませんでした。

 

 当然のこと、ポツダム宣言に書いてある戦争犯罪人とは、戦争で両軍に於いて行われる通常犯罪のことしかあり得ません。有りもしない罪を作って裁いたのです。このようなことは良識有る国家が行うようなことではありません。

 

 もし平和に対する罪、人道に対する罪が問われるなら、日ソ不可侵条約を破り、領土を侵略し、シベリア抑留にて数万人(人数が未だ不確定)もの日本人(朝鮮人も含む)を死なせたソ連こそ問われるべきでしょう。

 

④清瀬一郎冒頭陳述(抜粋)

日本は一九四五年七月二十六日聯合国より申入れたポツダム宣言を受諾し其後降服をしたのであります。本裁判所は此の降服文書の条項に基いて創設せられました。聯合国申出のポツダム宣言を全体的に受諾したりといふ意味に於て無条件に降服したりといふことは誤りではありませんが我々はポツダム宣言それ自身が一の条件であるといふ事を忘れてはなりませぬ。ポツダム宣言はその第五条に「以下が我々(聯合国)の条件である、我々は断じて之を変更することなかるべし」と明言して居ります。

 

 無条件降服といふ文字はポツダム宣言第十三条と降服文書第二項に使用せられて居ります。之はいづれも日本の軍隊に関することでありまして我軍隊は聯合国に無条件に降服すべきことを命じて居るのであります。こゝに無条件降服といふ文字を使用したるがためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪ふのであると解すべきではありませぬ。而して本件に於ては同宣言第十条に於て使用せられた「戦争犯罪」といふ文字の意味が重要な問題となつて居ります。

 

 そこで弁護人は日本側、換言すればポツダム宣言を受諾するに決定した時の日本の責任者が宣言受諾の時此の問題たる字句を如何なる意味に解したかを証明するでありませう。又一九四五年の七月末又は八月初に於て日本並に世界の文明国に於て此文字を一般に如何に解して居つたかといふことを立証する証拠も提出せられます。これに依り国際法に於て用ひられる右語句は「平和に対する罪」「人道に対する罪」を包含しない事が明かとなります。以上は当裁判所が之を設定したる基礎たる憲章中の第五条のA及Cの犯罪につき管轄を有せずとの主張を支持するが為に必要であります。

 

 ポツダム宣言受諾に依り日本は当時現に戦はれつゝあつた太平洋戦争に降服したのであります。降服のときに満洲事件、張鼓峰事件、ノモンハン事件について降服する考へはなかつたのであります。これを証するため満洲事変が昭和十年迄の間には一段落となつたといふ書証、ノモンハン、張鼓峰事件については各々其の当時妥協が成立したといふ証拠、ソ聯と日本との間には一九四一年四月に中立条約が成立したといふ事実を証する書証が提出せられます。中立条約附属の宣言書は最も重要であります。これには其の一部に於て「ソビエツト聯邦は満洲国の領土的保全及び不可侵を尊重し」なる字句があります。ポツダム宣言の解釈及適用につきなほ之に附加した証拠を提出致します。』

 

(参考)ポツダム宣言

十 吾等ハ、日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本國政府ハ、日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。

 

十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從いヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ、聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ。

 

十三 吾等ハ、日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ對ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス。右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。

 

引用:「東京裁判 日本の弁明」(脚下未提出弁護側資料抜粋)小堀桂一郎編

 

東條英機宣誓供述書『敗戦の責任は我にあり』(引用:一燈照隅/2006年06月15日/東京裁判

 本供述書は事柄の性質が複雑かつ重大なるよりして期せずして相当長文となりました。

 ただ私は世界史上長も重大なる時期において、日本国家がいかなる立場にあつたか、また同国の行政司掌の地位に選ばれた者等が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、その権限内において、いかなる政策を樹てかつこれを実施するに努めたかを、この国際的規模における大法廷の判官各位に御了解を請わんがため、各種の困難を克服しつつこれを述べたのであります。かくのごとくすることにより私は太平洋戦争勃発に至るの理由および原因を描写せんとしました。

 

 私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、わが国に取りましては無効かつ惨害をもたらしたところの一九四一年(昭和十六年)十二月八日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、わが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。

 

 なお東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身をも含めて)が、なぜ戦争を欲したのかの理由は他にも多々存在します。これは私の供述の中に含まれております。ただわが国の開戦は最後的手段としてかつ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げます。

 

 満州事変支那事変および大東亜戦争の各場面を通して、その根底に潜む不断の侵略計画ありたりとなす主張にたいしては、私はその荒唐無稽なる事を証するため、最も簡潔なる方法を以てこれを反証せんと試みました。

 

 わが国の基本的かつ不変の行政組織において多数の吏僚中のうち小数者が、長期にわたり、多の内閣を通じて、一定不変の目的を有す共同謀議(この観念は日本には 在しないが)をなしたなどいう事は、理性ある者の到底思考し得ざる事なることがただちに御了解下さるでありましょう。私はなぜに検察側がかかる空想に近き訴追をなさるかを識るに苦しむ者であります。

 

 日本の主張した大東亜政策なるものは、侵略的性格を有するものなる事、これが大東亜戦争開始の計画に追加された事、なおこの政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため、本法廷に多数の証拠が提出せられました。これにたいし私の証言は、この合理にしてかつ自然に発生したる導因の本質を白日のごとく明瞭になしたと信じます。

 

 私はまた国際法と大東亜戦争の開始に関する問題とにつき触れました。また日本における政府と統帥との関係ことに国事に関する天皇の地位に言及しました。私の説明が、私および私の同僚の有罪であるか無罪であるかを御判断下さる上に資する所あらば幸せであります。

 

 終りに臨み--恐らくこれが当法廷の規則の上において許さるる最後の機会でありましょうが--私はここに重ねて申上げます。日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位にあつた官吏の採つた方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。

 

 一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法および法律に定められた手続きに従いこれを処理して行きましたが、ついにわが国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。

 

 当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷したわれわれとしては、国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途でありました。われわれは国家の運命を賭しました。しかして敗れました。しかして眼前に見るがごとき事態を惹起したのであります。

 

 戦争が国際法上より見て正しき戦争であつたか否かの問題と、敗戦の責任いかんとの問題とは、明白に分別のできる二つの異なつた問題であります。

 

 第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題であります。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私はいまだかつてわが国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。

 

 第二の問題は、すなわち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。

 

 右ハ当立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス

 同日於同所  立会人 清瀬一郎

 

宣 誓 書 

良心二従ヒ真実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ  

                              署名捺印 東條英機

 昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於東京、市ヶ谷  供述者 東條英機

 

2.1.2)「東京裁判 日本の弁明」(脚下未提出弁護側資料抜粋)小堀桂一郎編 

 

(引用:講談社BOOK倶楽部HP

〔概要〕

 東京裁判は、はたして公正な裁判ったのだろうか。法廷に提出すべく弁護側が作成、準備したにもかかわらず、裁判長によって却下され、または未提出に終わった厖大な資料が残された。本書は、戦後50年を期してまとめられた、その『東京裁判却下未提出弁護側資料』のうち、もっとも重要な18篇を抜粋したものである。東京裁判を正しく認識し、明日の日本の展望を拓く、現在史研究に必携の史料集。

 

〔内容〕 

1 弁護側反証段階の総論

 1.清瀬一郎弁護人 冒頭陳述(総論A)

 2.高柳賢三弁護人 冒頭陳述(総論B)

 3.ローガン弁護人 冒頭陳述

 

2 弁護側反証の一般及び個別段階

 4.徳富猪一郎 宣誓供述書:「最近代に於ける日本の動向」

 5.ワーレン弁護人、岡本(敏)弁護人 冒頭陳述「満州部門」

 6.米アボット記者の満州視察記/7.ラザラス弁護人 冒頭陳述「支那段階」

 8.オクスフォード大学刊:『1936年の太平洋の諸問題』(抜粋)

 9.在支重光公使発、幣原外相宛:「排日及日貨ボイコットの実状」

 10.ラザラス弁護人 冒頭陳述「対ソ関係」

 11.高橋義次弁護人 冒頭陳述「太平洋段階・総論」

 12 カニンガム弁護人 冒頭陳述:「太平洋段階第1部・三国同盟」

 13.ローガン弁護人 冒頭陳述:「太平洋段階第2部・日本に対する聯合国の圧迫」

 14.ブレークニー弁護人 冒頭陳述:「太平洋段階第3部・日米交渉」

 15.グルー大使発、国務長官宛:「対日経済圧迫では戦争を回避し得ず」

 16.石橋湛山 宣誓供述書、附属文書:「日本の工業化、侵略戦争準備に非ず」

 

3 弁護側最終弁論及び付録

 17 ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論:「日本は挑発挑戦され自衛に起った」

 18 米国上院軍事外交合同委員会に於けるマッカーサー証言

 

2.1.3)「私の見た東京裁判」冨士信夫 

 

            

 (引用:講談社 BOOK倶楽部HP

〔内容の紹介〕 

 東京裁判とは、いったい何だったのだろうか。著者は元海軍少佐。終戦後、第二復員省の戦争裁判関係の事務を処理する大臣官房臨時調査部の法廷係として、東京裁判を傍聴し、概要を調査部に伝える任務をあたえられた。東京裁判の開廷から立証、論告、判決にいたる全審理を傍聴人席から冷静な眼で見守り続けた著者は、当時の克明な観察記録と法廷速記録の引用をもとに、ここに見事にその姿を再現した。東京裁判の真実を明かす必読の書。

 

〔目次〕

1 はじめに

 /1 偶然に関わり合った世紀のドラマ/2 東京裁判とは

2 開廷、罪状認否、裁判所の管轄権を巡る法律論争

 /1 開廷/2 罪状認否/3 裁判所の管轄権を巡る法律論争

3 検察側の立証を追って

 /1 キーナン首席検察官の冒頭陳述/2 「日本の政治及び興論の戦争への編成替」に関する立証

 3 「満州における軍事的侵略」に関する立証/4 「満州国建国事情」に関する立証

 5 「中華民国の他の部分における軍事的侵略」に関する立証 

 6 「南京虐殺事件」に関する立証/7 「日独伊関係」に関する立証

 8 「日ソ関係」に関する立証9 「日英米関係」に関する立証

 10 「戦争法規違反」に関する立証11 被告の個人責任に関する追加立証

4 公訴棄却に関する動議

5 一般問題に関する弁護側立証

 1 清瀬弁護人の冒頭陳述2 一般問題に関する立証3 満州及び満州国に関する立証

 4 中華民国に関する立証5 ソ連に関する立証6 太平洋戦争関係の立証

 /スミス弁護人永久除外 

 

2.1.4)「こうして日本は侵略国にされた」冨士信夫著 

 

(引用:転)

 

〔内容の紹介〕

敗戦国を一方的に断罪し自虐史観の源流となった東京裁判。

公判廷を傍聴した研究の第一人者が16のエピソードでつづるその本質と正体。

 

〔目次〕

①敗戦国の法廷係として見た裁判所

②悔やまれる一部被告の「証言拒否」

③大川周明被告を除外した裁判所の魂胆

④満州国皇帝溥儀は傀儡だったのか

⑤なぜ原爆が「タブー」なのか

⑥ウェッブ裁判長とスミス弁護人の喧嘩

⑦南洋群島軍備をくつがえした若松証言

⑧検察側が利用した「原田日記」の信用度

⑨「南京大虐殺」に見る証拠採用の杜撰さ

⑩日本の誠意が通じなかった「日米交渉」

⑪日本の暗号は誤って解読されていた

⑫わざと最後通告の手交を遅らせたのか

⑬天皇の戦争責任を回避させた東條証言

⑭無通告攻撃を否定した「イカ・スミ」問答

⑮「東京裁判史観」という虚構を作った判決

⑯インド代表パル判事の「日本無罪論」 

 

《著者略歴》

 冨士 信夫(ふじ のぶお)

大正6年、富山県生まれ。昭和13年、海軍兵学校卒業。同14年、海軍練習航空隊飛行学生。同16年、霞ヶ浦航空隊司令承命服務。同19年、海軍少佐。同20年、台湾・第二十九航空戦隊参謀。同21年、第二復員省臨時調査部勤務。以後、法廷係として極東国際軍事裁判(東京裁判)の大部分の審理を傍聴する。同32年、厚生省退職。現在、正論の会顧問、日本世論の会顧問、「昭和の日」推進国民ネットワーク参与。

 

2.2)パール判事の日本無罪論の啓発

 

      

     パール判事の顕彰碑(京都・霊山護国神社) パール判事の顕彰碑(東京・靖国神社内・遊就館前)

 (引用:Wikipedia)

2.2.1)パール判事の経歴等

・パール判事は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任したベンガル人で、ヒンドゥー法を専攻している。

 

・日本では主に、極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。

 

・東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した。

 

・昭和25年10月に再び来日し、約1ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行う。

 

・広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。

 

〔東京裁判判事選任の経緯〕

・2009年に発見されたインド総督官房の公文書によればパールは、1941-43年に、休暇中の裁判官の穴を埋める形で短期間裁判官代行を務めた弁護士であって、インド総督府の認める正式な判事ではなかったが、国内手続きのミスにより代表に選ばれたとされている。

 

2.2.2)東京裁判における主張

・パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。

 

・“ 裁判憲章の「平和に対する罪」、「人道に対する罪」は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない ” という判断によるものである。

 

・なお、「パール判事は親日家故に日本に有利な主張をした」、「反白人のため、欧米に不利な主張をした」という説は事実誤認であり、自身も強くこれを否定している。

 

・事実、パールは意見書の中で、残虐行為などについても、敗戦国の日本やドイツ、戦勝国のアメリカに分け隔てなく批判的見解を述べ、一方の政策への個人的見解を前提とした恣意を強く戒めている。

 

・パール判決書は、裁判官として「東京裁判において、日本を裁く法的地位は存在しない」他、日本を裁く法的根拠は無いという判断であり、パールの主観的な道義的判断や政治的、宗教的思想を主題としたものではない。

 

〔南京事件〕

・南京事件については「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」と、検察の提示した十数万から数十万もの証言や証拠に強い疑問を呈した。

 

・ただし、パールは「宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は、圧倒的である」と、犯罪行為その物は存在したと判断している。

 

・また「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。彼らはたんに誇張されていることを言っているのであり、かつ退却中の中国兵が、 相当数残虐を犯したことを暗示した」として、弁護側の主張を受け入れている。

 

・しかし、それを行った人間は直接の上司と共に既に処罰されている事、「犯罪行為の指示」、「故意の無視」といった事実は見受けられないことなどから、被告に繋がる問題ではないとして残虐事件の責任を問われた松井石根に対しても無罪を宣告している。

 

〔バターン死の行進その他〕

・バターン死の行進については「実に極悪な残虐である。輸送機関もなく、また食糧も入手しえなかったために止むをえなかったという理由でこれを弁護しようと試みられたのである」として、その弁護が事実であったとしても正当化できるものではないとし、「灼熱の太陽下、120キロメートルにわたる9日間の行軍の全期中、約65,000名の米国人およびフィリピン人俘虜は、その警備員によって蹴られ殴打された。病気あるいは疲労のために行進から落後した者は、射殺され、あるいは銃剣で刺された」のであったとして「本官は、このできごとがすこしでも正当化しうるものであるとは考えない。同時に、本官は、これに対してどのようにして現在の被告のうちのだれかに責任を負わすことができるか、理解することができない。これは残虐行為の孤立した一事例である。その責任者は、その生命をもって、償いをさせられたのである。本官は現在の被告のうちのだれも、この事件に関係を持たせることはできない。」とした。

 

・また、アジア太平洋各地で、戦争の全期間を通じて、異なった地域において日本軍により、非戦闘員にたいして行われた残虐行為の事例を示し、「主張された残虐行為の鬼畜のような性格は否定しえない」と述べ、「これらの鬼畜行為の多くのものは、実際行われたのであるということは否定できない」と主張した後、「しかしながら、これらの恐るべき残虐行為を犯したかもしれない人物は、この法廷には現れていない。(…)  現在われわれが考慮しているのは、これらの残虐行為の遂行に、なんら明らかな参加を示していない人々に関する事件である。」とした。

 

〇ホロコーストと原爆投下に関して

・連合国側は、ニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている」と、戦争犯罪人がそれぞれの指令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。

 

2.2.3)ベルト・レーリンク判事への反響

・パールの「公平さ」を訴える考え方に、オランダからのベルト・レーリンク判事も共感し、その影響を受けるようになっていった。また自らの個別意見書の発表も、パールが「反対意見」を公表すると主張した副産物であったとした。

 

「当初からパルは、自分の意見を公表しようと決めていました。思うに、パルは裁判に加わった時から、全被告がどの訴因についても無罪であると自分が判定することになろう、と分かっていたのでしょう。そこで、他の十名の判事の決定には拘束されはしない、と言ったのです。この理由で「反対意見」を認めないとする当初の合意は崩れました。というのも、多数派に与しない判事は、多数派に賛成していると思われるのを避けるため、今や自らの考えを明らかにせざるを得なくなったからです」

 

・パールの個人的立場についてレーリンク判事は次のように語っている。

 

「パールは植民地支配に心底憤慨していました。彼は、ヨーロッパがアジアで行った事、200年前にアジアを征服し、それからずっとそこを支配し君臨し続けた事に強い拘りを持っていました。それが彼の態度でした。従って、アジアをヨーロッパから解放する為の日本の戦争、そして“アジア人のためのアジア”というスローガンは、パールの琴線に触れるものがあったのです。彼は、日本人と共にイギリスと戦うインド軍に属していた事さえあったのです。彼は骨の髄までアジア人でした」

 

2.2.4)評価・批判・影響

・パールは『パール判決書』の中で、「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」と記述している、また「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。」とA.J.ノックの言葉を引用して弁護したベン・ブルース・ブレイクニーの言葉を、そのまま判決書に紹介している。

 

 これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している。

 

〇戦犯被告による歌

・パールの意見書に接し、裁かれた被告が歌を遺している。

東條英機:「百年の 後の世かとぞ 思いしに 今このふみを 眼のあたりに見る」

板垣征四郎:「ふたとせに あまるさばきの 庭のうち このひとふみを 見るぞとうとき」

       「すぐれたる 人のふみ見て 思うかな やみ夜を照らす ともしびのごと」

木村兵太郎:「闇の夜を 照らすひかりの ふみ仰ぎ こころ安けく 逝くぞうれ志き」

※上記で「ふみ」と詠まれているのがパールの意見書のこと。

 

2.2.4)「日本無罪論」

(引用:amazon.co.jp HP)

 

・1952年4月28日、GHQによる発禁終了を待ち、サンフランシスコ条約による主権回復した当日に、田中正明はパール意見書をまとめた『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』を刊行した。これは、編者がパール意見書から1/5ほどを抜粋し、意見書に対する田中のコメントを追加した本である。

 

・この出版に際して自身の意見書を『平和のバイブル』というタイトルで出版するという日本側からの連絡を受けていたが、実際には『日本無罪論』というタイトルが付けられて出版された。この書名に対するパール自身の態度は、時に容認したり時に不満を漏らしたりといった、一定しないものだったともいわれる。田中は以後、パールは「日本無罪論」を述べたと主張し、東京裁判史観への批判を唱えた。

 

・同著によれば東京裁判は国際法ではなく事後法により裁かれた戦勝国によるリンチと変わらない裁判であり、裁判そのものが無効であるという。その他にも、インド独立時の逸話や東京裁判に対する著名人の意見等が巻末に載せられている。

 

・これは東京裁判において起訴されたA級戦犯全員を無罪としたパール判事の判決文を基に編纂された本。・基となった判決文は法に基づいた公正なものとして世界中の多くの法律家より高い評価を受けた。(しかしながら、占領統治下の日本において、その判決文は出版することはおろか、公表することもままならなかった。) 

 

・「日本がどのようにして戦争への道を進んでいったか」、「A級戦犯の意味」、「東京裁判の本質」など、多くの日本人がよく知らぬ日本の近現代史について知るのに絶好の書。

 

〇要点

① 連合国がABCD包囲網による経済封鎖などで共謀して、計画的に日本を追いつめていっていたこと。

 

② 日本は日米開戦を回避するために、平和交渉に向けて懸命に努力していたこと。

 

③ そのために「三国同盟の死文化」、「中国からの撤退」、「仏印における権利放棄」まで譲歩する用意があったこと。

 

④ そうした日本の数々の譲歩に対して、米国はハルノートという日本が絶対に飲めない要求を突きつけたこと。

 

⑤ 日本の攻撃は米国の石油禁輸とハルノートにより予期されており、真珠湾攻撃は米国民を煽動するための宣伝材料として用意された「奇襲」であったこと。

 

⑥ 日本がソ連を通じて降伏の交渉をしようとしていることを知りながら米国が原爆を投下したこと。

 

⑦ ソ連は米国と共謀して日ソ中立条約を破って日本を攻撃したこと。

 

⑧ 東京裁判は戦勝国による国際法を無視した野蛮な復讐劇であり、日本国民を支配しやすくするための占領統治のための宣伝であること。

 

⑨ A級戦犯として極悪人として扱われている人々は、東京裁判という復讐劇を演出するために、その罪状ではなくその知名度という基準で選出された人々であること。

 

⑩ 真に国際平和を築くためには、このような戦勝国による横暴を許さぬ国際秩序の構築が必要なこと。

 

⑪ 歴史は示す。戦争において正義などどこにもないこと。国際社会が未だ強者による横暴のまかり通る無法な世界であること。国民もマスコミもそのような横暴を止めるだけの力を持たぬこと。

 

〇日本の反応

・日本においてマスコミは権力に迎合し、報道の中立性も批判精神も無かった。戦中は軍閥の言うがままの報道をし、戦後は占領軍の言うがままの報道をした。 

 

・そして、国民はといえば、戦中は軍閥を支持し、戦後は占領軍の宣伝を鵜呑みにした。このような宣伝を鵜呑みにしてしまう人々こそが、もっとも戦争に向かって誘導しやすい種類の人間といえよう。

 

・戦争をおこさぬためにも、日本が真に国際貢献をするためにも、我々は日本を東京裁判史観という戦勝国により作られた精神の呪縛から解き放たねばならぬ。

 

・過去の歴史を踏まえ、国際社会において戦勝国の横暴を許さないように行動するのが、日本にできる最大の償いであり国際貢献なのではなかろうか。

 

中島岳志は、田中の『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』が、パール=戦犯を許すという誤った認識を植え付け、戦争肯定論者の宣伝に使われる端緒となったと主張している。

 

・中里成章も田中正明を中心する日本側の言動を批判を展開した。

 

2.2.5)広島訪問 

〇講演「世界に告ぐ」

・パールは1952年11月3日より4日間、「世界連邦アジア会議」の講演のため広島市を訪問した。

 ・4日の講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」など、原爆投下を強く非難した講演では、

「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」、「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」、「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」

として、極めて強く原爆投下を批判した。

 

〇原爆慰霊碑碑文についての発言と碑文論争 

 

原爆死没者慰霊碑(引用:Wikipedia)

 

・5日には広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の碑文にある「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を通訳を通して読んだ後、日本人が日本人に謝っていると判断し「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」との主旨の発言をおこなった。

 

・パールは2度3度と碑文の内容を確かめた後「憤ろしい不審の色」を浮かべて

「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明かにして、"わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ"というのなら肯ける。しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」、「ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常にりっぱな決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか」、「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない」

 

・これを発端として碑文論争が活発化した。この発言を聞いた本照寺の筧義章住職はパールを訪ね「過ちは繰り返しませぬから」に代わる碑文を要望し、パールは「大亜細亜悲願之碑」の文章を執筆した。

 

「激動し変転する歴史の流れの中に 

 道一筋につらなる幾多の人達が万斛の思いを抱いて死んでいった

 しかし 大地深く打ち込まれた悲願は消えない 

 抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ 

 ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って我は進む」

・・・1952年11月5日 ラダビノード・パール

 

※なお前半は筧住職による文であり、後半「抑圧された・・・」以降がパールの文章とする説が存在する。

 

・1970年2月11日に運動団体「原爆慰霊碑を正す会」が発足。広島市が「主語は『世界人類』」と公式見解を示す事態となった。

 

・1983年に主語をトルーマンとする札が慰霊碑に貼り付けられる事件がおこり、広島市は主語はすべての人々とする説明板を設置した。 

 

2.3)マッカーサー議会証言の普及

・マッカーサーは、GHQ最高司令官として、大東亜戦争で日本に勝利した。GHQが日本の占領統治を行っているとき、朝鮮戦争が勃発した。

 

・マッカーサーは、連合国軍(国連軍)総司令官として、北朝鮮・中国と戦った。ソ連の支援を受けた中国の参戦で苦しい攻防となり、マッカーサーは、昭和25年11月中華人民共和国本土への核攻撃を主張した。

 

・トルーマン大統領は、戦争の拡大を恐れ、マッカーサーを解任した。

 

・アメリカに帰国したマッカーサーは、昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で、質問に答え、次のように証言した。

 

「日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。彼らには、綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、錫がなく、ゴムがなく、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では、1,000人から1,200万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」と。

 

〇米国議会上院軍事外交合同委員会で行われた聴聞会の記録

<和訳>第二次世界大戦における対日戦略

 ・ヒッケンルーパー上院議員

「5番目の質問です。赤色中国に関する海と空からの封鎖という貴官の提案は、太平洋において米国が日本に勝利を収めた際の戦略と同じではありませんか。」

 

・マッカーサー将軍

「そうです。太平洋では、米国は日本を迂回しました。そして閉じ込めたのです。

 日本が抱える8,000万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。

 

 潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。いつの頃からか、彼らは労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。

 

 このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働くための対象が必要なことを意味しました。彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。

 

 日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、錫がなく、ゴムがなく、その他にも多くの資源が欠乏しています。

 

 それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では、1,000万人から1,200万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。

 

 したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」

 

・このマッカーサーの証言は、日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障のためだったという見解を明らかにしたものである。

 

〔マッカーサーの見解変更〕

・マッカーサーは連合国軍最高司令官として日本と戦った。また、彼の権限を持って東京裁判が開廷された。東京裁判では、日本が戦った戦争は世界征服を目的とした侵略戦争と断定され、日本の国家指導者は戦争犯罪人として断罪された。

 

・だが、そのマッカーサーは戦後、自分の見解を改め、日本が行った戦争は、大部分が自存自衛のための戦争であったという見方を、米国議会で公言したのである。連合国軍の最高指揮官だった者の証言として、その意味は極めて重い。米国議会での証言の前年、昭和25年10月、マッカーサーは北太平洋西部のウェーク島でトルーマン大統領と会見し、「東京裁判は誤りだった」と告白したとも伝えられる。

 

〔見解変更の要因〕

・マッカーサーの見解の変化は、彼が朝鮮戦争で指揮を執り、北朝鮮軍・中国軍と戦って苦戦し、朝鮮半島を守るためには、背後の満州をも押さえねばならないこと、そしてソ連を中心とする強大な共産主義勢力と戦わねばならないとことを、体験によって知ったことによるだろう。その体験によって、戦前の東アジアにおける日本の立場を理解できるようになったのだろう。

 

〔渡部昇一氏の提言〕

・こうした見方を明確に打ち出し、マッカーサー証言の重大性を世に知らしめたのは、上智大学名誉教授の渡部昇一氏である。日本人は、今なお東京裁判史観に呪縛されている。その呪縛を解くには、マッカーサー証言を理解し、その重大性を知ることが、近道である。

 

・渡部氏は、NHKがマッカーサー証言をテレビの1時間番組で全国放送すれば、日本人の歴史観を一気に変えることができると説いている。NHKの関係者は、ぜひその特集番組を実現してもらいたい。また教科書にマッカーサー証言を掲載し、青少年に大東亜戦争について、複眼的な見方を教えることも必要である。教科書への掲載を進めよう。

 

〔マッカーサー証言の背景〕

・ところで、これはあまり指摘されないことだが、マッカーサーは、日本が戦争を始めたのは主に安全保障のためだと証言した日、すなわち昭和26年5月3日に、「赤色中国に関する海と空からの封鎖」を提案したマッカーサーの作戦について、米国が日本に勝利を収めた際の戦略と同じではないか、と質問されて、回答したものだった。

 

・当時、米国はアジアに出現した共産中国という新たな敵と戦っていた。マッカーサーは、人民解放軍と戦い、その手強さを感じた。彼が、「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ち」「共産主義者を中国において強大にさせたことだ」という考えを、上院軍事外交合同委で披歴したことは、重要である。特に「過去百年間」と言っていることに注意したい。アメリカのペリー提督が黒船で日本に来航したのは、1853年。ほぼそれ以降のことである。

 

・マッカーサーは、アメリカのアジア太平洋政策が誤っており、その結果、シナの共産化を許してしまったと見ていたわけである。フランクリン・ルーズベルトを始め、アメリカの歴代指導者には、シナに親近感を持ち、共産主義に同調する者が少なくなかった。

 

・この間、東アジアにおける共産主義の侵入・伸展を防ぐために、苦心していたのが日本だった。わが国は天皇を国の中心と頂く国家であり、皇室制度を破壊しようとする共産主義を絶対に駆逐しなければならなかった。

 

・わが国を敵視し、決戦へと引き込んだFDRは、こうした日本の立場と共産主義の脅威について、全く理解がなかった。FDRはその甘さ、軽率さをスターリンに利用された。そのため日米は矛を交えることとなった。

 

・アメリカが叩いた日本が敗退すると、その空隙を突いて、ソ連・中国が侵出した。共産主義がアジアで大きく勢力を広げ、アメリカ自身の脅威となったのは、アメリカのアジア太平洋政策の誤りによっている。

 

マッカーサーの証言は、日本においてだけでなく、アメリカにおいても再評価され、次世代教育に生かされるべきものである。 

 

2.4)国内外の要人の発言 (後述:参考1、2を参照)

 参考1:「世界はどのように大東亜戦争を評価しているか」

 参考2:「日本の戦争謝罪発言一覧」

 

3)戦犯の名誉回復についての啓発

3.1)平和条約の戦犯に関する規定

・昭和27年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し日本は独立を回復した。平和条約第11条に戦争犯罪についての規定があり、それは次の通りでる。

 

(参考)平和条約第11条の条文

第11条(戦争犯罪)

 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。 

 これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。

 極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。 

 

3.2)戦犯の釈放等に関する国会決議の再普及

・戦犯の国内での扱いに関して、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、昭和27年5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となった。

 

・これにより1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。

 

3.2.1)国会決議の状況

・昭和27年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、同12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、そして昭和28年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が社会党を含めて圧倒的多数で可決された。

 

・この議決は前年に、戦犯とされた者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の日本国民の署名が集まった事に起因する。

 

・1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」

・1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」

・1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」

・1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

 

3.2.2)刑の執行からの解放

・なお、日本政府はこの法について、刑の執行からの解放を意味すると解し、いわゆるA級戦争犯罪人として極東国際軍事裁判所において有罪判決を受けた者のうち「赦免」された者はいないが、減刑された者は10名(いずれも終身禁錮の判決を受けた者である。)であり、いずれも昭和33年4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑されたものとし、この法律に基づく「赦免」及び「刑の軽減」が判決の効力に及ぼす影響について定めた法令等は存在しないという見解を示している。

 

 サンフランシスコ平和条約第11条の「裁判所に代表者を出した政府」に拒否されたという意味ではない。

 

3.2.3)実質上の名誉回復

・A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年とされた重光葵は恩赦後、衆議院議員に3回当選し、昭和29年に鳩山内閣の副総理・外務大臣となり、日ソ国交回復交渉や国連加盟交渉に取り組み、国連加盟も成し遂げて国連総会に外相として出席、公職引退後(死後)に勲一等を授与された。

 

・終身刑を受けた賀屋興宣は恩赦後、衆議院議員に5回当選し、池田内閣の法務大臣を務め、公職から引退後に叙勲を打診されたが辞退した(日本では有罪が確定した者には叙勲資格がなくなるため、重光と賀屋に対するこの叙勲・叙勲打診は少なくとも叙勲規定の上では彼らが前科者扱いされていないことを意味する)。

 

・A級戦犯被疑者だった岸信介は内閣総理大臣になり、その葬儀は内閣・自由民主党合同葬となっている。

 

・これらにより「日本政府は公式に戦犯の名誉回復がされたとは表明していないが、以上の事実により実質上は名誉回復されている」という意見、また、「戦犯は国際法によって裁かれたもので、国内法上の犯罪者には該当しないため、名誉回復の必要性自体が存在しない(名誉が損なわれていないので、回復する必要がない)」という意見もある。

 

3.2.4)平和条約第11条の解釈

・前述の通り、日本政府はサンフランシスコ講和条約第11条で東京裁判の判決を受諾しているが、これについて「裁判自体と判決は分離して考えるべきで、日本政府が受諾したのは判決の結果(刑の執行)だけであるから、裁判全体、すなわち、法廷における事実認定や判決理由についてまで受諾した訳ではない」という意見もあり、また「赦免を以って名誉回復とするか否かは議論の別れるところだが、他方で、法治国家に於ては法の定める刑の執行が完了した時点で罪人から前科者へと立場が変わるので、刑の執行が既に済んだ者をその後も罪人扱いすること自体が法治国家にそぐわない野蛮な行為である」とする意見がある一方、「東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決をくつがえす新たな国際法廷は開かれていない。

 

・国際社会において「A級戦犯」は今も戦争犯罪人として認識されているが、刑の執行を終了しているので、重光葵や賀屋興宣の事例が実証しているように、すでに非難や糾弾の対象ではなく、法律が定めている全ての権利を回復していると認識され、日本政府も同様の認識である。

 

・故に、戦争犯罪者であるか否かだけを問題とするのなら、彼らの名誉回復は為されていないことになるとする意見もある。

 

(参考)平和条約第11条の解釈

 

〔概要〕各国に承認された外務省訳(条約正文ではない)では第11条の " Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan " を「極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾」と訳した。

 

 外務省は、"Japan accepts the judgments" の箇所を「裁判を受諾」と訳したものの、

通常  " the judgments"「諸判決」と訳すほうが自然ともいえるとして、その文意については議論がされてきた。

 

 「裁判を受諾」では、何を受諾したかについて日本語文として意味が不明瞭なため、その内容が問題となる。

 以下に表で分類する。

 

・" the judgments " を「裁判」と訳すか「諸判決」と訳すかでまず大分類される。

 

・" the judgments " を外務省訳の「裁判」と理解した場合に、その「裁判」の語意を「一連の訴訟手続きそのもの」つまり通常我々が「裁判」として使っている語意で受け取るべきという見解と、「裁判」という言葉は法律用語で「判決」を意味するから「判決」と受け取るべきという見解がある。

 

・通常の意味の「裁判」の意味で受け取るべきと言う見解では、書き下した場合には「裁判を受け入れる」との意となり、「裁判」を判決と受け取るべきと言う見解では書き下した場合には、「結果を受け入れる」との意となる。

 

・" the judgments " をそもそも「諸判決」と訳すべきと理解する者にも、意味において、外務省訳と対立する場合と、そうでない場合がある。

 

・外務省訳の「裁判」を「諸判決」と受け取った場合でも、「結果を受け入れる」と解釈するか、「諸判決を受け入れる」と解釈するかに分かれる。  

 

  ・表1 the judgments 判決か裁判か?

正文

accepts the judgments

外務省訳

裁判

翻訳

「裁判」で正しい

あれはどう訳しても「諸判決」

解釈

「裁判」は一連の訴訟手続き全体

「裁判」は判決を指す

「諸判決」は諸判決

真意

「裁判」を受け入れる

「結果」を受け入れる

「諸判決」を受け入れる

「結果」を受け入れる

 

・そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、昭和30年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。

 そうしてサンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえで減刑による出所が順次、行われることになる。

 

〇第11条の意味と政府答弁

・東京裁判における判決、ないしは、そこにおける事実等の認定をめぐっての解釈に関する争いの中で、この条約の第11条の規定の一部により日本が「東京裁判を受諾」したのだから、その判決ないしは事実認定、ときにはそこから導かれた現在の政治状況等について、日本自身が認めているものと解する主張と、それを否定する主張の対立が見られる。

 

・近年の政府の答弁においては、ジャッジメントの訳語については裁判という訳語が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認されていることから、『これはそういうものとして受け止めるしかない』とした上で、「ジャッジメント」には、

 

『ジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれている』(第162回国会 外交防衛委員会 第13号 平成17年6月2日(木曜日))

 

としている。

 

・これをもって、政府は事実認定等を含めた裁判全体を受諾したのであるから、裁判の対象となった事項について、東京裁判の事実認定等以外の解釈はできない、などの意味で「東京裁判を受諾」したとし、政府もそれを認めている、と解する見解がある。

 

(しかしこれは日本側の付けた訳文に依る近年の解釈のようである。 後述するように、当時それとは別の政府答弁が存在する。 また、通常の法律解釈として、契約とちがって一方的な宣告である裁判において、judgmentを受け入れて刑に服することが、自動的に裁判の基礎や価値観の総てに承認の誓いをすることになるか、などの法理論は未確認である。)

 

・別の解説としては、「1212頁にわたる多数意見の判決文の一部には東京裁判が正当なものであるということを宣言した箇所があり、日本はjudgmentsを具体的には判決文として受け入れたことで、自動的に東京裁判のあり方自体をその後も受け入れたことになる」とも語られる。

 

(当時の時点での日本の理解や翻訳時の事情、また日本が解釈することの位置づけなどの詳細については未確認である。 また、本来judgments=判決文ではない以上、条約として自動的に繋がりうるものか未確認である。又、東京裁判の正当性の宣言の詳細は本項目では未確認である。)

 

・これらに対立する見解もある。例えば、当時の国会で、

 

『第十一條は戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない瀞は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。

 従つて十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております。

 後段は内地において服役しております戦犯につき--(略)--恩赦、釈放、減刑などに関する事柄--(略)』

(昭和26年10月11日の国会答弁、第012回国会 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第2号)

 

とする政府答弁があることから、「独立するから国際法の原則が適用されて東京裁判などは合法的効力を失う、しかし戦犯を釈放しないで量刑を引き継ぐ約束をする、という理解と了解」の元に、日本は条約を批准したのであり、それ以上の意味は発効しないという解釈である。(またこれは、先の第162回国会の外務省答弁への疑いにも通じている。)

 

・言い換えれば、裁判を承諾するとは、裁判が行われたことの合法性を連続させて刑の執行を持続するためであって、日本の歴史認識や歴史事実を学問によらずに裁判と条約で決定したのではない、とする意見である。

(参考:この答弁には続いて、「・・・、現在外地において服役しております約三百五十余名の同胞が・・」とあり、第一段の裁判の承諾によって、彼らが現地で合法的に服役し続けることを示している。)

 

・また補足的なことがらだが、議論のおそらく精神的な部分についての話題として、これらの議論で「独立条件、国際社会との約束」という言葉が使われることに対して、 国際法の原則にない約束が成立していても、後になって、本来の国際法上の独立の権利は損なわれない、とする意見もある。

(2006年時点で、その約束を” 独立条件 ” 'と主張しつつ、条約時のアメリカとの取引の可能性を匂わす傾向が一部の報道にあるが、根拠は不明である。)

 

〇中国・韓国との関係

・第25条によれば、「第21条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益を与えるものではない。」と定め、その第21条には、「この条約の第25条の規定にかかわらず、中国は、第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する」とある。

 

・そのため、ここでの「中国」と「朝鮮」が何を指すとしても、第11条が除外されており、また、両国と終結した平和条約にも特別の言及が見られない以上、中国(中華民国及び中華人民共和国)及び朝鮮(大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国)との関係で、中国・韓国が、東京裁判、そしてその裁判ないし判決の結果について干渉する権利はないとする主張がある。

 

・なお、別に結ばれた中華民国との平和条約(日華平和条約)において、戦争状態の結果生じた問題についてはサンフランシスコ平和条約に準ずるとされている。

 

〇小泉内閣答弁書

・第3次小泉内閣下における民主党の野田佳彦国会対策委員長の質問主意書に対して2005年10月25日に提出した答弁書において、政府は第二次大戦後極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した各級の罪により戦争犯罪人とされた(A級戦犯を含む)軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」とし、

「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる」

とした。

 

・また、戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、判断を避けた。首相の靖国神社参拝に関しては公式参拝(法律が定める首相の職務ではなく政府の行事でもないので法的・政治的には公式参拝ではない)であっても、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、日本国憲法第20条第3項(国の宗教的活動禁止)に抵触しない」との見解を示した。 

 

4)歴史・伝統・文化及び道徳的価値観に関する啓蒙活動

4.1)歴史・公民教育の改善

・戦後60年、日本の教育を規定してきた旧教育基本法は占領下につくられたものだった。それを一字一句直すことなく、来てしまった。その結果、教育において多数の問題が生じている。

 

・教育の基本方針を示す教育基本法に、愛国心・伝統の尊重・公共心が定められていなかったことが大きな要因である。

 

・これではいけないと、ようやく平成18年12月に教育基本法が改正され、国と郷土を愛する態度、伝統の尊重、公共心が盛り込ま、それによって、国に対する誇りを教える教育や、国旗・国歌について教える教育、道徳を教える教育がようやく可能になりつつある。

 

・そして、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」及び「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものである」との条文が新設され、公民教育の基礎が与えられた。


(参考1) 世界はどのように大東亜戦争を評価しているか


大日本帝国を肯定的に評価する世界の著名人の発言一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1 )アメリカ合衆国 

1.1 )ダグラス・マッカーサー(GHQ総司令官) 

マッカーサー(1945年8月、フィリピン)(引用:Wikipedia) 

 日本は、絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産物が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他、実に多くの原料が欠如していたのです。

 もし、これらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障に迫られてのことだったのです。

 (1951年5月3日 米国議会上院の軍事外交合同委員会の答弁にて『東京裁判 日本の弁明』) 

 

 「日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。

 日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。」

 (1951年5月3日・米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

 「いいかね。日本政府は、われわれ占領軍をみくびっている。この国を理解できないよそ者だから、うまく騙せると思っている。天皇を中心としたこれまでの国家体制や指導者を変える必要はないし、いずれは占領軍に甘えながらも、その考えを変えようとしない。

 われわれはなぜ日本と戦ってきたのだ。それはファシズムを吹聴し、人道に背いたこの国を裁くためだ。日本人に過ちを認めさせ、敗北したことを教えなければならん。そのためには日本人が尊敬し、記憶に残している人物を裁くことが先決で最も効果的ではないのかね。それは同時に、日本人が自らの歴史を裁く見本になもなる。」

 (福川粛『ダグラス・マッカサー(アジアの歴史を変えた男)』メディアファクトリー、1993年、50-51頁)

 

 1.2)ジョイス・C・レブラ博士(米国コロラド大学歴史学部教授)

 「大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。

 民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリスオランダは戦後になって思い知ることになるのである。

(中略)

 さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。」

                 (『東南アジアの開放と日本の遺産』秀英書房、256-257頁) 

 

「東京で開かれた極東国際軍事裁判で、打ち出された一つのイメージ、即ち、日本は世界で最も強欲な軍国主義国家の一つであったとする思想は、太平洋の西側で、長い間再検討されないまま放置されていた。公私の資料の入手難が解明を遅らせ、太平洋戦争の幾つかの局面を暗闇に閉じているのが現状である。

 又、日本の歴史家達は、東南アジアに於いて日本が大東亜共栄圏に託した理念、実現の方法等を吟味する事に、今日迄消極的であった。ごく最近になって、アメリカ合衆国の学者は、日本の戦争目的を再検討する事に着手し、これ迄の定説を修正し始めた。

(中略)

 再検討を志すアメリカ合衆国の学者達の意見に依れば、太平洋戦争は、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版では無く、それにもまして西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が、(自国の)存亡に関わる権益を防衛する為の戦いであったのである。

 更にアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として従来は見なされていた、大東亜共栄圏の理念も又再検討されて然るべきである。」 

 (ジョイス・C・レブラ『チャンドラ・ボースと日本』原書房、1969年)

 

1.3)ジョージ・S・カナへレ博士(ハワイ・日本経済協議会事務局長)

「日本占領軍が、インドネシア民族主義の為に行った種々の訓練の中で、最も重要なものの一つは、インドネシアに正規軍及び準軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事であろう。この作業は、特にジャワ、バリ及びスマトラの各島で推し進められた。

 後に、インドネシア独立軍の将校や下士官となった者達は、殆ど全て、及び何万と言う兵士達は、この訓練を経て、軍事技術を身に付け、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に、独立戦争を戦ったのであった。

 もし、この訓練が無かったなら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材が無かったなら、インドネシア独立戦争の行方は違った方向に進んでいたかも知れない。

 こうして、日本の占領は、インドネシアの民族主義勢力を、権力の戸口まで導いた。

(中略)

 (インドネシアの)民族主義者にとって、日本の占領時代は、独立への、単なる序曲以上のものであったかも知れない。」  

 (ジョージ・S・カナへレ『日本軍政とインドネシア独立』鳳出版社、1977年)

 

1.4)ハミルトン・フィッシュ(政治家、『悲劇的欺瞞』(Tragic Deception, 1983) ) 

 

ハミルトン・フィッシュ3世(引用:Wikipedia) 

 

「ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。」                 (名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

1.5)ロスロップ・スタッタード(歴史学者)

「すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。

(中略)

 1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。」

 (ロスロップ・スタッタード『有色人種の勃興』長瀬鳳輔訳、政教社、147, 151頁) 

 

1.6) ニミッツ元帥(太平洋艦隊司令長官)

 

チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア(引用:Wikipedia)

 

「この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!」 

(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

1.7)米国戦略爆撃調査団

「日本の指導部が、国家の存亡に関わる利益の為にと固く信じて、(今次の)戦争を始めた事は明らかである。

 これに対して、アメリカ合衆国は、単に自分達の経済的優位と主義主張を押し付けようとしたのであって、国家の存亡に関わる安全保障の為に戦ったのでは無いと、アメリカ合衆国人は信じていた。」 (米国戦略爆撃調査団団長ニッツからトルーマン米国大統領に提出された報告書、19467月)

 

1.8) ハリー・S・トルーマン当時大統領 1945年8月19日国内向け声明 

 

ハリー・S・トルーマン(引用:Wikipedia)

 

「日本の戦争屋は、すでに降伏しました。彼らは無条件降伏をしました。欧州での勝利の三ヵ月後に、極東の勝利がきました。八年前、日本が開始して太平洋上に悪魔の軍隊をばらまいた侵略戦争は、完全な敗北に終わりました。

 これは独裁者たちが世界の人類を奴隷化し、その文明を破壊し、暗黒と堕落の新しい時代を作ろうとする大きな計画の週末を示すものです。

 今日は地球上の自由の歴史の新しい出発の日であります。世界にわたるわが勝利は、戦う決意に燃えて、男も女も団結して自由への勇気と体力と精神から得られたものです。」 

(ハリー・S・トルーマン『トルーマン回顧録1』加瀬俊一監修、堀江芳孝訳、恒文社、1966年、336頁)

 

2)イギリス

2.1) H・G・ウェルズ(SF作家)

 

ハーバート・ジョージ・ウェルズ(引用:Wikipedia) 

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」                 (名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

2.2) アーノルド・J・トインビー(歴史学者) 

 

アーノルド・ジョゼフ・トインビー(引用:Wikipedia) 

 

「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。

 その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」                        

(英紙『オブザーバー』、1965年10月28日) 

 

「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。

 なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。

 1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。」

                   (毎日新聞、1968年3月22日) 

 

「その後一九四一年には、日本はヒトラーに劣らぬほどの一大錯誤を犯した。一方の戦線では決定的な勝利を得ることに成功していない戦争をまだ抱えているというのに、日本はソヴィエト連邦に対するヒトラーの攻撃と同じくらい自殺的な途方もない侵略行為によって、今や太平洋に広大な新しい戦線を展開し、ここで軍事行動を開始したのであった。

 太平洋地域のイギリスとオランダとフランスの領土を侵すという楽な仕事だけをこの地域でおこなう代わりに、日本はアメリカも攻撃した。日本人が犯したこの最大の愚行は、計画が思い通りにゆかないときにはエスカレーションという反応を見せる思い上がった軍国を待ち伏せている因果応報の、典型的な一例である。」 

(A・J・トインビー『回想録II』山口光朔・増田英夫訳、社会思想社、1970年、63頁)

 

2.3)スリム中将(イギリス第14軍司令官) 

 

ウィリアム・スリム(引用:Wikipedia) 

 

「たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。」「かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。」                      (『敗北から勝利へ』) 

 

2.4)エリック・ホプスバウ博士(英国ロンドン大学教授)

「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」                     (エリック・ホプスバウ『過激な世紀』) 

 

3)インド

3.1)ジャワハルラル・ネルー(独立インド初代首相) 

 

ジャワハルラル・ネルー(引用:Wikipedia) 

 

 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義グループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果をまずさいしょになめたのは朝鮮であった。

・・・日本はその帝国政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった、日本はヴェールでいつわる用意もせずに、大っぴらで漁りまわった。

(略)日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史の中でもまことにいたましい、暗黒な一章だ。

   (ジャワハルラル・ネルー『父が子に語る世界歴史・』みすず書房、1959年)

 

「チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった

・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。」

                          (貝塚茂樹『民族解放の星』講談社、253-254頁)

 

3.2)ラダ・クリシュナン 大統領

 

サルヴパッリー・ラーダークリシュナン(引用:Wikipedia) 

 

「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像も出来なかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。」               (昭和44年日本経済新聞)

 

3.3)グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 「このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。

 私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。

 これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。

 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。」(1946年・デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社) 

 

3.4)ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判判事・法学博士)

 

ラダ・ビノード・パール肖像画(靖国神社内顕彰碑)(引用:Wikipedia) 

 

「 要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3-20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。

・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。

 その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。

 満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。

 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。」

(1952年11月5日・広島高等裁判所での講演、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

※ ハビプル・ラーマン 元インド国民軍大佐

「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。」  

 

4)インドネシア共和国

4.1)ブン・トモ元情報相

「日本軍が米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。

 一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。」

            (昭和32年の来日の際の発言、出典不明)

 

「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。

 それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。

 一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。」              (名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

4.2)アリフィン・ベイ(ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

「 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。

 日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。

 日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。

(中略)

(日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。」                      (『魂を失った日本』未央社、57-65頁)

 

4.3)アラムシャ陸軍中将(インドネシア大統領特使)

 平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。

 その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」

と述べると

「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」、

「どういうことですか?」

「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこはオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」

とアラムシャ陸軍中将は語りました。

(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

 

4.4)サンパス将軍(東欧大使歴任)

「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。

 日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」、

 「平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。

 そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。

 かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」となげいていた。」

(『(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

 

4.5)中学校用『社会科学分野・歴史科 第五冊』(インドネシア語)、マルトノ著、ティガ・スランカイ社、1988年版

「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。

 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。それは、日本がやってきてまもなく、次のような宣伝を展開したからである。

 日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。

 その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」

 「このよな事実を見て、かつて民族主義運動で活躍した指導者たちは、安閑としていたのだろうか。もちろん、そうではなかった。彼らは、民衆の側に立って闘い続け、独立を達成するために民衆の闘争精神を育てたのである。彼らが闘っていた相手は、残酷なことでは非常に名高い日本軍だったから、彼らの行動は大変注意深いものだった。

 民族主義者たちは、表立って日本軍政府と対立しなかった。それは非常に危険であり、闘争を有利にしなかったからである。日本軍は、抵抗する者はだれであろうと、遠慮せずに殺した。」    (越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』265-266, 274頁)

 

※モハメッド・ナチール 元首相

「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」 

 

5)オランダ王国

5.1)サンティン(アムステルダム市長、現内務大臣)

「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。

 今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。

 

 戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。 

 

 あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。何故ならば、あなた方の国の人々は過去の真実の歴史を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみを取り上げ、或いは洗脳されて、悪い事をしたと自分で悪者になっていますが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。

 

 本当は、私共白色人種が悪いのです。百年も二百年も前から、競って武力で東亜諸民族を征服し、自分の領土として勢力下に置いたのです。植民地・属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄権樹立という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。 

 

 即ち、日本軍は戦勝国の全てをアジアから追放して終わったのです。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑む事を止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。                           (1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶、(財)日本国防協会理事の浅井啓之氏が1994年3月24日作成)

 

6)シンガポール共和国

6.1)ゴー・チョクトン 首相 

ゴー・チョクトン/呉作棟(引用:Wikipedia) 

 

「日本軍の占領は残酷なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内にアジアの植民地は全て解放された。」           (「諸君!」1993年7月号)

 

 6.2)リー・クアンユー前首相(現顧問相) 

リー・クアンユー(引用:Wikipedia)

 

 我々はイギリス人を追い出したかった。……イギリスの武力の崩壊を見た後、そして三年半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否したのだ。 

 私と私の同僚の世代は、若い時に第二次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、我々を圧迫したり、いためつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った世代です。

 我々は、自ら治め、自尊心ある国民として誇りをもてる国で、子供達を育てていこう、と決心したのです。   

(岩崎育夫『リー・クアンユー・西洋とアジアのはざまで』岩波書店〈現代アジアの肖像15〉、1996年、44頁)

 

6.3)中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』(英語)中学初級歴史編修委員会編、ロングマン・シンガポール出版社、1985年版

「一二三年間、シンガポールの人びとは平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人びとは戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍が島を占領した三年半の間は、さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。この時期は、日本軍占領時代として知られている。」

 

「シンガポールは昭南島(ショウナントウと発音)、あるいはショーナンアイランドと生を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。しかし、この”光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人びとは日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々をすごした」 (越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』24-25頁) 

 

7)セイロン国(現スリランカ民主社会主義共和国)

7.1)J・R・ジャヤワルダナ蔵相(後にスリランカ大統領) 

 

ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(引用:Wikipedia) 

 

「何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。 

 

 私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローーガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。 

 

 セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。 

 

 我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。 

 

 これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。 

 それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。」

 (1951年9月6日、サンフランシスコ対日平和条約の締結と調印のための会議に於ける演説、スリランカ大使館(東京)資料)

 

※ l・R・ジャヤワルダナ 大統領 

「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。」 

(1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

8 )タイ王国

8.1)ピブン首相(当時) 

プレーク・ピブーンソンクラーム(引用:Wikipedia)

 

 タイ国は伝統ある独立国である。他の出席国のごとき新出現の日本の傀儡国と同席することを潔しとせず。首相自ら出席することは対日屈伏と見られ、統治が困難になる。日本がどうしても出席を強要するならば、臨時議会を開いて自分は辞職する。

(昭和18年の大東亜会議への出席拒否理由)(土門周平『戦う天皇』講談社、1989年)

 

8.2)ククリット・プラモード(タイ国元首相)

 

ククリット・プラモート(引用:Wikipedia)

 

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」

                             (サイアム・ラット紙、12月8日) 

 

8.3)中学校二年生用社会科教育読本『歴史学 タイ2』(タイ語)、教育委員会編、仏暦2523年(1980年)版

「タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。タイ人のグループのなかには、日本と同盟関係をもつという政府の方針に反対するものもあった。

 

 これらの一般民衆グループには、連合国側から遣わされたリーダーがいたものと思われる。セーニー・プラモート駐米大使は明らかにその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイ国はやむえず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により、自由たい運動の手はずを整えている、と説明した。

 

 アメリカ国内の自由タイ運動は、アメリカ政府の支援を得て順調にことを運んでいた。イギリス国内では、スパワトウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分は運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。

 

 アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとり、さまざまな行動を起こした。 例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊行為によって日本の通行を妨害したり、日本兵を拘引したりして連合軍を援助した。」

(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』梨の木舎、1990年、146頁)

 

9)大韓民国

9.1)朴鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳、韓日文化研究所、1967年10月)

 「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」 

 

 「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。

 

 最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。

 

 日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」 

 

 「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。

 

 日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」

(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

9.2)高等学校用『国史』(下)国史編修委員会・一種図書研究開発委員会編、大韓教科書出版、1988年版(教科書)

 こうして軍需工場が建てられ、鉱山が開発されたが、これは日本の戦争目的を遂行するためのものであり、これらは韓半島での収奪を助け、植民地経済への隷属性が増大しただけであった。

 大陸侵略に狂奔した日帝はアメリカとイギリスに対抗し、第二次世界対戦の主要挑発者となった。 日帝は戦争遂行のため総動員令をくだし、韓国での人的および物的収奪を強化するとともに、民族抹殺政策を強行した。

 

(略)日帝はまた、戦争物資を調達するために、食料や各種物資を奪っただけでなく、青年たちを戦線に送るための志願兵制度を実施したが、まもなく徴兵制に切りかえ、日本、中国、インドシナ、太平洋諸島に強制動因した。そのうえさらに、女性たちをも侵略戦争の犠牲にすることをためらわなかった。

(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』106-107頁)

 

9.3)朱耀翰(元国会議員)

「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ? 黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか? しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

                   (『ゴーマニズム宣言第六巻』、232頁)

10)中華人民共和国

10.1)毛沢東初代国家主席・中国共産党主席 

 

毛沢東の公式肖像画(引用:Wikipedia) 

 

 日本軍は実に役立った。中国各地を実際に占領し村々を焼き払うことにより、日本軍は人々を教育し、政治意識の高まりを早めた。共産主義者が率いるゲリラ部隊が隊員をふやし、支配地域を拡大しやすい条件を作ってくれたのだ。毛主席と会う日本人がいま過去について謝罪すると、彼は逆に日本の援助のおかげだと感謝するのである。

  (エドガー・スノー「毛主席会見記」『朝日新聞』昭和40年2月4日朝刊1面)

 

10.2)初級中学課本『中国歴史』第四冊(李隆庚編)(教科書)

 抗日戦争の勝利は、中国人民が帝国主義侵略に反抗しながらも失敗し続けたこの100年来の局面を転換し、植民地人民が残虐な帝国主義国家の侵略を打破する道を築きあげた。中国の抗日戦争は世界の反ファシズム戦争を形成した重要な部分である。抗戦の勝利は、世界の反ファシズム戦争の勝利に重要な貢献をし、全世界の圧迫されている民族と人民の解放闘争に深遠な影響をおよぼした。      (越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)49頁)

 

10.3)蒋介石 

蔣介石の公式肖像画(1948年制作)(引用:Wikipedia) 

 

「ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む」       (名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

11)中華民国(台湾)

11.1) 高級中学『歴史』第三冊、国立編訳館編・刊、1987年(教科書)

 太平洋戦争の勃発後、わが国は十二月九日、正式に日本に宣戦布告した。同時にドイツ、イタリアに対しても宣戦布告。侵略国家と反侵略国家との境界がハッキリした。

(略)

 近代帝国主義国家が勃興して、東アジア各国は日本を除いて、西洋列強の植民地、半植民地となった。日本が戦争を起こし、いわゆる「大東亜共栄圏」を樹立しようとしたのは、中国の植民地にしようとしたばかりでなく、西洋各国の東アジアにおける植民地をも奪おうとしたのである。     (越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』166, 175頁)

 

11.2)許文襲(実業家)

「台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い、日本のそれは良心的な植民地だったのです。」「戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の日本政府は深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です。」                     (蔡焜燦『台湾人と日本精神』)

 

12)朝鮮民主主義人民共和国

12.1) 高級学校二年用『世界歴史』総連中央常任委員会教科書編纂委員会編、学友書房発行、1989年版(教科書)

 アジア制覇の野望を達成しようと早くから画策していた日本帝国主義は、ファッショ・ドイツによりヨーロッパえ戦争がひき起こされると、より活発に動き出した。

 日本帝国主義は、中日戦争も終わらないうちに他の戦争に突入し、アジアの盟主になろうとする野望を実現しようとした。戦争挑発に臨んで、近衛(総理)と東条(陸軍大臣)のような好戦的人物によって政府を組織したが、この近衛政府は、一九四〇年八月、アジア侵略を具体化した「大東亜共栄圏」を公然化した。

 これはひと口にいって、日帝が「アジアはアジアのために」という欺瞞的なスローガンを掲げ、東南アジアを含めた大植民地帝国を創設しようとする、悪辣な侵略計画であった。  日本の反動派は、「大東亜共栄圏」には、朝鮮、中国、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシア、ビルマ、フィリピン、チモール、ソ連の遠東地方などが含まれると主張してはばからなかった。

         (越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』130-131頁)

 

13)フランス共和国

13.1)ベルナール・ミロー(ジャーナリスト)

 

神風(1972年)(ハヤカワ・ノンフィクション)

(引用:amazon.co.jp HP)

 

「これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。」

      (ベルナール・ミロー『神風』内藤一郎訳、早川書房、359頁)

 

14)ベトナム社会主義共和国

14.1) 12年生用『歴史 第一巻』(ベトナム語)教育省編、1984年版

「残虐な略奪行為と侵略の陰謀を隠すとともに、インドシナにおける唯一の支配者の地位に躍り出る準備のため、ファシスト日本は進駐当初から、数多くの邪悪な政策を弄した。

 

 まず、チャン・チョン・キム、グエン・スアン・チューなど、フランス植民地主義になにがしかの不満をもつ知識人や名士、あるいはグエン・テー・ギエップのようなフランスの古いスパイといった連中を秘密裡に集め、次のような親日組織作りの手助けをした。

 

 「大越民正」「大越国社」「越南愛国」「復国」「大越国家連盟」などである。彼らは南部の「カオダイ」や「ホアハオ」といった反仏傾向のある宗教組織も利用した。そして、これらのグループは「越南復興同盟会」という名の親日統一組織に糾合され、日本の傀儡政権の受皿作りをした。 と同時に日本は「大東亜共栄圏」なるペテンを謳い文句にして、彼らの文化や力の「無敵」性を宣伝するため、日本語教材を大量に出版したり、日本語学校を開設したり、展覧会や日本映画の上映会を開いたり、またインドシナと日本の留学生交換を行ったりした。」

 

 「まもなく、日本は古い権力機構を廃止し、親日派のチャン・チョン・キムにベトナムの傀儡政府を作らせ、傀儡のバオダイに国王の名称を与えた。この一派も「愛国・愛民」を装おうとしたが、しだいに無力をさらけだした。実際は、インドシナの旧総督にかわって日本の「最高顧問」がすべての権限を握っていたからだ。

 

 彼らは日本の従順な手先となり、日本がよりいっそう狡猾に、かつより多く、わが人民から搾取することを許した。モミの調達、田畑への麻の強制植えつけなどは依然として行われ、飢餓は一層深刻となった。そのうえに、日本の数限りない残虐行為があった。ベトバックにおけるベトミン根拠地への攻撃、逮捕・殴打・拘禁・銃殺・陵辱・強奪などにより、民衆を恐怖におとしいれた。

 

 こうして、またたくうちに、ファシスト日本の偽りの恩情の姿が明らかとなり、親日傀儡一派の「独立」の仮面がすっかりはがれてしまった。わが人民は日増しに敵国日本を憎み、親日傀儡一派を嫌悪するようになった。」

 「一九四五年の三月九日以後、インドシナ共産党とベトミンは、日本の対仏クーデターが勢力の衰えの徴候であり、日本「解放」のスローガンが絵に描いた餅であり、親日裏切り一味の「独立」スローガンが人殺しの毒まんじゅうであることを、わが人民にくりかえし明らかにした。

 

 党は、ファシスト一味が完全に破綻し、世界中の民主勢力が必ず勝利すると断言した。そして、総蜂起の機会をつかみ祖国の完全独立を獲得するための準備をしよう、党は人民に呼びかけた。

 

 事態は、その判断の正しさを雄弁に証明した。一九四五年五月、ファシスト・ドイツは完全に崩壊した。ファシスト日本は一層孤立を深め、殲滅されるのが近づく、八月八日、ソ連は対日宣戦を布告し、ソ連は怒涛のごとく満州に進行して百万の日本関東軍を掃討した。

 

 そして、八月十三日、日本政府は、降伏を宣言し、さらに八月十五日、同盟国に対する無条件降伏の文書に正式に署名した。東アジアにおける獰猛なファシストが倒れた。インドシナにおけるその狼の子どもらは、すっかり途方に暮れてしまった。インドシナ革命の機は熟した。インドシナ人民の「千年に一度の好機」が到来した。」

(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』梨の木舎、1990年、166-168頁)

 

15)マレーシア

15.1)ガザリー・シャフェー(元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)

「日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3カ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。」 

 

「日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

 

 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。

 現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。

 

 かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。

 

 日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」

(1988年7月19日・於赤坂プリンスホテル、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

「とくに私(ガザリー・シャフェ外相)が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。

 

 「その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか? 日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。

 

 そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。」と昭和63年9月、先の大戦で詫びる日本の政治家を批判した。」

(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

 

15.2)中学校二年生用『歴史の中のマレー』M・タムビラジャー著、連合出版、1988年版

 「日本はマレー人の解放獲得の期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。」

 (越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』63頁)

 

15.3)初級中学校用『歴史 第二冊』マレーシア華文独立中学校統一課程編集委員会編、連合出版有限公司、1980年版

〔要旨〕 

①一九四一年、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。その主要な目的は、一、東南アジアの天然資源を奪い取って対中国作戦を継続すること、二、華僑の中国に対する協力を阻止すること、であった。

 

②一九四二年、イギリス軍司令官パーシバルが日本に降伏し、日本のマラヤ軍事統治が開始された。

 

③日本軍はマラヤにおいて、虐殺、酷使、欺瞞によって中国人を統治した。

 

④日本軍は、捕虜のインド兵士を「インド国民軍」に改編し、日本軍の指揮下においたほか、インド人労働者をタイに送って「死の鉄路」の建設にあたらせた。

 

⑤日本軍は懐柔政策によってマレー人の支持を取りつけた。統治を強固なものにするために、さらにマレー人の民族的感情を挑発して中国人に対抗させた。

 

⑥戦争による破壊と、日本の経済的搾取政策により、日本統治時期のマラヤの経済は衰退し振るわなくなった。

 

⑦アメリカは一九四五年八月、日本の広島、長崎に原子爆弾を投下し、日本はようやく降伏した。

 

⑧中国人は「マラヤを防衛し日本に抵抗する」運動の中で、彼らのマラヤに対する哀惜の念を強めた。マレー人は日本統治の間に民族の政治的覚醒を高めた。

(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』93-94頁)

 

〔ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員〕

「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」

 

〔ザイナル・アビディーン 歴史学者〕

「日本軍政は、東南アジアの中で最も政治的意識が遅れていたマレー人に、その種を播き、成長を促進させ、マラヤにおける民族主義の台頭と発展に、大きな〝触媒″の役割を果たした」

 

16)ミャンマー連邦

16.1)反ファシスト人民自由連盟(ビルマ愛国戦線)宣言文

 われわれビルマの人民は、今や日本のファシストの鉄のかかとのもとに苦しんでいる。われわれの家庭の平和と安全は絶え間ない危険にさらされている。

 われわれは、毎日のように日本の憲兵隊、日本の兵士、日本の商人、そしてかれらの手先によって虐待されている。われわれの財産は没収され、われわれはそれぞれの家庭から追い出されている。

 神聖なわれわれの聖地は、日ごとに侵されつつある。立派なひとたちが、罪人とまるでかわらぬ扱いをうけている。婦人たちの貞節さは犯されている。

 われわれの食料は、日本人に略奪されている。わが国の産物は、なんの価値もない日本の通貨と交換されている。われわれの牛や家畜、われわれの自動車や荷車は徴発されている。わが同胞は、過酷な労働に徴発され、われわれの境遇は、畜生よりもひどいものである」

(矢野暢『タイ・ビルマ現代政治史研究』京都大学東南アジア研究センター、1968年)

 

16.2 バ・モウ(ビルマ元首相、独立宣言より)

 

バー・モウ(引用:Wikipedia) 

 

「約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。

 

 ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。

 

 ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」

(日下公人『一問に百答』PHP研究所)

 

※「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。」

 

 「もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、商機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。」 

                (「ビルマの夜明け」)

 

16.3)八年生『ビルマ史』ビルマ連邦社会主義共和国教育省初等中等教育カリキュラム・教科書委員会編、1987年版

「一九四三年八月、日本は、ビルマに「独立」を供与し、バモオ博士を行政府の長=アディパティに任命した。このアディパティは、内閣総理大臣の役割を果たすものであった。アディパティは各省大臣を任命した。政府のスローガンは、「一つの血、一つの声、一つの命令」であった。 内閣のほかに、アディパティが任命した議員による諮問評議会が設置された。しかしどのような諮問機関が設置されようとも、バモオ博士の率いる政府は、日本軍の命令を実施するだけの政府であった。」

 

 「こうして、日本時代、ビルマの経済は壊滅的な打撃を受けたのである。」

 「着るものもなく、治療するための薬もなく、さまざまな経済的な落ちこみのためにビルマの国民は貧しい生活を強いられた。 しかし、日本人に取りいり、不法なやり方で利得を狙った者たちは潤った。ファシスト日本が支配した時代には、社会にまとまりがなく、教育もほんどなきに等しい状態であったため、道徳や規律は乱れ、人びとの精神も退廃した。」

(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』梨の木舎、1990年、130-132頁)

 

17)モンゴル人民共和国(現モンゴル国)

17.1)八年生用教科書『モンゴル人民共和国史』モンゴル国民教育省教科書・雑誌合同編集局発行、1987年(教科書)

 数十年にわたってわが国の独立を脅かし、モンゴル人民共和国の発展の大きな障害になっていた日本帝国主義を粉砕したことによって、モンゴルの独立を強固なものにし、安全を保障し、そして平時の社会主義建設を推進する平和な時代の幕が開かれた。

(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』79頁)

 

※引用:世界はどのように大東亜戦争を評価しているか (日本会議HP 日本会議の主張 平成20年08月11日 歴史)                             (追記:2020:11:12)


参考2 日本の戦争謝罪発言一覧


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

〔1970年代〕

1)1972年(昭和47年)9月29日 - 田中角栄内閣総理大臣(以下首相)

 

(引用:Wikipedia) 

 

「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。」 ―(田中角栄初訪中時)

              詳細は「日中国交正常化」を参照

 

〔1980年代〕 

2)1982年(昭和57年)8月24日 - 鈴木善幸首相。 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「過去の戦争を通じ、重大な損害を与えた責任を深く痛感している」 「『侵略』という批判もあることは認識する必要がある」 ―(教科書問題での記者会見にて) 

 

3)1982年8月26日 - 宮澤喜一内閣官房長官 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

 「一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において『過去の関係は遺憾であって深く反省している』との認識を、中国については日中共同声明において『過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する』との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。 

 

二、 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。 

 

三、 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。 

 

四、 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。」 

詳細は「第一次教科書問題」および「歴史教科書問題」を参照 

 

4)1984年(昭和59年)9月6日 - 昭和天皇陛下  

 「…今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。」 ―(大韓民国の全斗煥大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会での勅語) 

 

5)1984年9月7日 - 中曽根康弘首相 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

 「貴国および貴国民に多大な困難をもたらした」「深い遺憾の念を覚える」

―(同首相歓迎晩餐会にて) 

 

6)1986年(昭和61年)8月14日 - 後藤田正晴内閣官房長官

「…しかしながら、靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。それは、諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにも副う所以ではない。」 ―(官房長官談話にて)

「靖国神社問題」および「A級戦犯合祀問題」も参照 

 

〔1990年代〕 

7)1990年(平成2年)4月18日 - 中山太郎外務大臣。 

「自分の意思ではなしに、当時の日本政府の意思によってサハリンに強制移住をさせられ就労させられた方々が、戦争の終結とともにかつての祖国に帰れずに、そのまま現地にとどまって暮さざるを得なかったという一つのこの悲劇は、まことにこの方々に対して日本としても心から済まなかったという気持ちを持っております。」 

 

8)1990年5月24日 - 明仁天皇陛下  

「昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません。」

  ―(韓国の盧泰愚大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会での勅語) 

 

9)1990年5月25日 - 海部俊樹首相

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「私は、大統領閣下をお迎えしたこの機会に、過去の一時期,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます。」―(同首相歓迎晩餐会にて) 

 

10)1992年(平成4年)1月16日 - 宮澤喜一首相 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「私たち日本国民は,まずなによりも,過去の一時期,貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し、反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います。」

―(韓国の盧泰愚大統領の二度目の訪日時の晩餐会にて) 

 

11)1992年1月17日 - 宮澤喜一首相 

「我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に,我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。」

詳細は「吉田清治 (文筆家)」「吉見義明」、および「植村隆」を参照

 

12)1992年7月6日 - 加藤紘一内閣官房長官 

「政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未来に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。」 

 

13)1993年(平成5年)8月4日 - 河野洋平内閣官房長官

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」(いわゆる河野談話)

詳細は「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を参照

 

14)1993年8月23日 - 細川護煕首相(日本新党所属) 

「それから四十八年を経て我が国は今や世界で有数の繁栄と平和を享受する国となることができました。それはさきの大戦でのたっとい犠牲の上に築かれたものであり、先輩世代の皆様方の御功績のたまものであったことを決して忘れてはならないと思います。

 我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」 

 

15)1993年9月24日 - 細川護煕首相 

 「私が侵略戦争、侵略行為という表現を用いましたのは、過去の我が国の行為が多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたとの同一の認識を率直に述べたものでございまして、改めて深い反省とおわびの気持ちを表明したものでございます。」 

 

16)1994年(平成6年)8月31日 - 村山富市首相(日本社会党所属)

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。

 私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。 

 

 我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です…いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。 

 

 我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。」

詳細は「平和友好交流計画」および「日中歴史研究センター」を参照

 

17)1995年(平成7年)6月9日 - 衆議院決議  

「また、世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」(いわゆる戦後50年衆院決議) 詳細は「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を参照 

 

18)1995年7月 - 村山富市首相 

「いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います。」

詳細は「女性のためのアジア平和国民基金」を参照

19)1995年8月15日 - 村山富市首相  

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

 私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

 また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。

 これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。」(いわゆる村山談話)    

     詳細は「村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」」を参照

 

20)1996年(平成8年)6月23日 - 橋本龍太郎首相 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありましたし、そうしたことがいかに多くのお国の方々の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります…また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた 問題はないと思います。そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います。」

―(橋本首相の初の訪韓における日韓共同記者会見にて)

 

21)1996年10月8日 - 明仁天皇陛下  

「このような密接な交流の歴史のある反面、一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております。」 ―(韓国の金大中大統領の国賓としての訪日、歓迎宮中晩餐会での勅語)

 

22)1997年(平成9年)8月28日 - 橋本龍太郎首相

「私は、我が国が、歴史の教訓を学び、まさに、『前事を忘れず、後事の戒めとする』という視点が広く国民の中に定着していると確信しております。

 

 私自身も一昨年村山前総理が発表した内閣総理大臣談話、すなわち『植民地支配と侵略によって、多くの国々、取り分けアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた』『歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明』するとの考えと同じ考えを持っています。

 

 この内閣総理大臣談話を決定したとき、私も内閣の一員でございました。日本国内の一部に中国側の感情を刺激しかねない発言があったとしても、日本という国が将来、軍事大国にならず平和国家としての道を歩み続ける決意であることは、我々日本人にとっては、自明なことであると考えます。 

 

 しかしながら、自らに明らかなことではあっても、中国を始めとするアジア諸国に不信が生まれないような努力は弛まなく続けていく必要があります。

 

 昨年来、我が国の安全保障の根幹である日米安全保障体制につきましても、中国側から様々な形で見解が表明されているわけですが、この問題もやはり対話を重ねることにより、中国側の懸念を解いていく努力が不可欠でありますし、現在進めている『指針』見直しの作業も引き続き透明性をもって行ってまいりたいと考えております。

 

 日米安保共同宣言において明確に述べられておりますように、日米両国は、アジア太平洋地域の安定と繁栄にとり中国が肯定的かつ建設的な役割を果たすことが極めて重要であると考えており、この関連で、中国との協力を更に深めていかなければなりません」

詳細は「自衛隊海外派遣」および「自社さ連立政権」を参照

 

23)1997年9月6日 - 橋本龍太郎首相 

「日本政府は、第二次世界大戦敗戦の日から五十周年の1995年、内閣総理大臣談話という形をとりまして、我が国として、過去の日本の行為が中国を含む多くの人々に対し、耐え難い悲しみと苦しみを与えた、これに対して深い反省の気持ちの上に立ち、お詫びを申し上げながら、平和のために力を尽くそうとの決意を発表しました。

 

 私自身がその談話の作成に関わった閣僚の一人です。そしてこれが日本政府の正式な態度である、立場であることを繰り返し申し上げたいと思います。

 そしてこのことは首脳間における論議の中でも、中国側に私も率直に申し上げ、李鵬総理も私の発言に完全に同意すると、そう言って頂きました。」 

 

24)1998年(平成10年)7月15日 - 橋本龍太郎首相 

「我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。

 

 私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います」

 

「我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。

 我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。」 ―(オランダ王国のコック首相への書簡)  詳細は「白馬事件」を参照

 

25)1998年10月8日 - 小渕恵三首相 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。

 

 小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。

 

 金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。」(日韓共同宣言 21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ)          

 詳細は「日韓共同宣言」を参照 

 

26)1998年11月26日 - 小渕恵三首相 

「双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年 8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。

 中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる。」 

 

〔2000年代〕 

27)2000年(平成12年)8月17日 - 山崎隆一郎外務報道官 

「本記事では、日本が第二次大戦中の行為について、中国に対して一度も謝罪をしていないと書かれているが、実際には日本は戦争中の行為について繰り返し謝罪を表明してきている。

 とりわけ、1995年8月に、村山総理(当時)が公式談話を発表し、日本が『植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました』と述べ、『痛切な反省の意』と『心からのお詫びの気持ち』を表明し、また、1998年に、小渕総理(当時)が、日本を公式訪問した江沢民主席に対して、村山談話を再確認している。」 

 

28)2000年8月30日 - 河野洋平外務大臣 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「私は、歴史認識については、戦後50周年に閣議決定を経て発出された村山総理談話で我が国の考え方ははっきりしていると考えています。私も閣僚の一人として、この談話の作成に携わりましたが、これはその後の歴代内閣にも引き継がれ、今や多くの日本人の常識であり、共通の認識であると言えます。」 

 

29)2001年(平成13年)4月3日 - 福田康夫内閣官房長官 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「因みに、我が国政府の歴史に関する基本認識については、戦後50周年の平成7年8月15日に発出された内閣総理大臣談話にあるとおり、我が国は、遠くない過去の一時期、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止め、そのことについて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するというものである。こうした認識は、その後の歴代内閣においても引き継がれてきており、現内閣においても、この点に何ら変わりはない。」 

 

30)2001年9月8日 - 田中眞紀子外務大臣 

「日本は、先の大戦において多くの国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えたことを決して忘れてはおりません。多くの人々が貴重な命を失ったり、傷を負われました。また、元戦争捕虜を含む多くの人々の間に癒しがたい傷跡を残しています。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、1995年の村山内閣総理大臣談話の痛切な反省の意及び心からのお詫びの気持ちをここに再確認いたします。」 

 

31)2001年10月15日 - 小泉純一郎首相 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った。」 

 

32)2001年 - 小泉純一郎首相 

「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。

 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております…。」 

 

33)2002年(平成14年)9月17日 - 小泉純一郎首相

  「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。」詳細は「日朝平壌宣言」を参照 

 

34)2003年(平成15年)8月15日 - 小泉純一郎首相 

「また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに深い反省の念を新たにし、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。」 

 

35)2005年(平成16年)4月22日 - 小泉純一郎首相 

「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

 こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。」

 

36)2005年8月15日 - 小泉純一郎首相 

「また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。

 我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。

 とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。」(いわゆる小泉談話)  

詳細は「小泉内閣総理大臣談話」を参照 

 

37)2007年(平成19年)4月28日 - 安倍晋三首相 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。

 またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した。」

―(日米首脳会談後の記者会見にて) 

 

〔2010年代〕 

38)2010年(平成22年)8月10日 - 菅直人首相(民主党所属) 

 

 (引用:Wikipedia) 

 

「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」 

(追記:2020:11:12)


(2)憲法改正


(引用:Wikipedia)

目次

1)憲法改正手続き 

 1.1)憲法第96条の規定   1.2)「国民投票による過半数」の意義  1.3)修正条項論

  1.4)日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年5月)  1.5)歴史  1.6)法律の概略 

 1.7)批判など  1.8)本法を巡る議論 

2) 憲法改正の主要論点

 2.1)憲法改正の主な論点  2.2)自民党政調会 憲法調査会 憲法改正プロジェクトチーム

 2.3)主な論点の内容

3)日本国憲法第9条の改正意見

 3.1)改正意見 3.2)国際情勢と憲法改正論議  3.3)各党の第9条改正に関する意見

4)各政党の憲法改正案 

 4.1)自由民主党  4.2)立憲民主党(憲法に関する考え方) 4.3)公明党の憲法改正(加憲) 

 4.4)日本維新の会 憲法改正原案  4.5)国民民主党の憲法改正(政策INDEX2019)  

 4.6)日本共産党憲法改正(各分野の政策54) 

 4.7)社会民主党の憲法改正(当面の改憲の論点に関する見解)


1)憲法改正手続き

1.1)憲法第96条の規定  

・日本国憲法 第96条は、日本国憲法第9章「改正」にある唯一の条文で、日本国における憲法の改正手続について規定している。 

 

(参考)日本国憲法第96条

第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。

 

 この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

 

 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。 

 

(参考)大日本帝国憲法第73条

 大日本帝国憲法第73条は、大日帝国憲法の改正手続につき規定したもの。 

 

昭和21年10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。

(引用:Wikipedia)

〔条文〕 

 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス 

 

〔現代風の表記〕

 将来、この憲法の条項を改正する必要があるときは、勅命をもって、議案を帝国議会の議に付さなければならない。

 この場合において、両議院は、各々その総員の三分の二以上が出席するのでなければ、議事を開くことができず、出席議員の三分の二以上の多数を得るのでなければ、改正の議決をすることができない。 

 

〔制定主体に関する議論〕

 日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法を「改正する」形式で行われたため、この条文によって行われた。

 

・日本国憲法は、上諭で「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」として欽定憲法の体裁をとるのに対して、前文では「日本國民は、…ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」として民定憲法の体裁をとる。ここに一見齟齬があるため、憲法の制定主体に関して議論があった。 

 

・日本国憲法の改正手続に関して必要な手続を規定している。通常の法律においては、当該法律の改正方法について論じているものはなく、法律の通常の制定手続の同様の手続をもって改正ないしは廃止がなされる。日本国憲法は、通常の法律の制定に必要な要件よりもその改正に必要な要件を加重しており、いわゆる硬性憲法である。 

 

・大まかに憲法改正に必要な手続は、

①両議院において、それぞれ総議員の3分の2以上による賛成

②国民投票による過半数の賛成

とされている。 

 

・具体的に憲法改正に必要な手続については、法令の規定に委ねられていると解され、2007年に成立した「日本国憲法の改正手続に関する法律」(国民投票法)において詳細が規定されている。

 

・日本国憲法は制定以来、これまでに一度も改正されていない。

 

・なお、日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続を踏まえ、上諭に見られるように天皇の名において公布されているが、日本国憲法の改正手続による場合には、国民の名において、天皇が公布するものとされている。 

 

1.2)「国民投票による過半数」の意義 

・日本国憲法の改正手続に関する法律の審議過程で、日本国憲法96条の「国民投票による過半数の賛成」について、「有権者数の過半数の賛成」か「総投票数の過半数の賛成」か「有効投票数の過半数の賛成」か、どれを指すのか議論あった。

 

・この点、現行憲法制定時の「憲法改正草案要綱」は、日本語原文では「投票ニ於テ其ノ多数ノ賛成」と明確でないものの、その英訳文では「the affirmative vote of a majority of all votes」(総投票の過半数の賛成)と、明確に示されていた。また、現行憲法の英訳文も同じく「the affirmative vote of a majority of all votes」(総投票の過半数の賛成)としている。 

 

・結局、法律では、「有効投票数の過半数」の賛成を以て改正が承認されると定められた。

 

1.3)修正条項論 

・「この憲法と一体を成すものとして」とは、改正条項が「日本国憲法と同じ基本原理の上にたち、同じ形式的効力をもつもの」であることを示すと解されている。アメリカ合衆国憲法と同じ増補の方式(改正後も原条文はそのままにして、修正第1条・修正第2条…と修正条項を増補する方式)を要求する趣旨だという特別の意味は、含まれていないと解される。

 

・また、全部改正についても、憲法改正権の限界を逸脱するものでないかぎり、必ずしも排除されているわけではないと解される。

 

1.4)日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年5月) 

日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年5月18日)は、日本国憲法第96条に基づき、憲法の改正に必要な手続きである国民投票に関して規定する日本の法律。国民投票法と一般に呼称され、他に憲法改正手続法・改憲手続法などの略称がある。 

 

・日本国憲法第96条第1項は、憲法の改正のためには、「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」旨を規定しており、憲法を改正するためには、国会における決議のみならず、国民への提案とその承認の手続を必要とする旨が憲法上規定されている。 

 

・ところが、具体的な手続については憲法上規定されておらず、改正を実現するためには法律により国民投票等に関する規定を定める必要があると考えられた。本法はその規定に関するものである。 

 

1.5)歴史 

〔初期の議論〕 

・日本国憲法は、昭和22年の施行以来、1度も改正されていない。日本国憲法はいわゆる「硬性憲法」であり、その改正には国会での加重要件による決議を経た発議を受けて、国民投票を行う必要がある。

 

・この国民投票に関する法律は制定されてこなかった。

・憲法制定以来、憲法を改正すべきとする意見と、憲法は変えるべきではないとする意見が対立してきた。 

 

・日本国憲法の改正に必要な要件が通常の法律の制定・改正に必要とされる要件よりも加重されているため、一般に日本国憲法を改正する可能性を探ってきた自由民主党がほぼ一貫して与党の地位を得ていたにも関わらず、憲法の改正はなされていない。

 

・そのため、これまでの時代への対応は解釈の変更によりなされてきたとされる。 

 

・過去には昭和28年に自治庁が国民投票法案を作成し、首相一任となるが「内閣が憲法改正の意図を持っていると誤解を招く」とし、閣議決定は見送られた。

 

・自民党主流派が国会対策族を中心に憲法改正に消極的な意見が多かったことは、第2次世界大戦後60年にわたり国民投票法が制定されなかったことも1つの原因である。 

 

 実質的な議論への移行〕 

・俗にいう55年体制が平成5年に崩れ、憲法改正論議自体がイデオロギー対決に利用されることも少なくなり、国民投票法に関する議論はより実質的な点に移った。

 

・平成11年には自由党が憲法改正に向けた国民投票法案を策定するなど、自由民主党以外の政党から憲法改正ないしは国民投票法制定に向けた動きが起こった。 

 

・具体的に、国民投票法での規定が検討された内容としては、投票可能な年齢や公民権停止者を含むかといった有権者の範囲、過半数の賛成が求められる国民投票の母数は、有権者総数なのか有効投票数なのかという問題、メディアに対する規制、改正案の発布から投票までの期間の長さ、改正案に対する一括投票か個別の改正条文案への是非を問うかどうかなどの諸点が挙げられる。 

 

〔成立〕 

・本法は、第164回通常国会で衆議院に提出された与党案の「日本国憲法の改正手続に関する法律案」と、対案として民主党から提出された「日本国憲法の改正及び国政における重要な問題に係る案件の発議手続及び国民投票に関する法律案」の両案を併合する与党提出の修正案が可決されるという成立過程を経た。成立した併合修正案は、衆議院議員保岡興治・船田元・葉梨康弘(以上自民)・赤松正雄(公明)が提出した。 

 

・平成19年4月12日、衆議院憲法調査特別委員会で民主党提出修正案が否決され、与党提出修正案が自民・公明の賛成多数で可決された。翌4月13日に衆議院本会議で可決され、参議院に送られ5月11日に参議院憲法調査特別委員会で可決された。5月14日参議院本会議で可決され成立、5月18日に公布され、一部を除き公布から3年後の2010年5月18日に施行された。 

 

・施行日は公布からちょうど3年後となる平成22年5月18日であるが、一部規定はこれに先行し、施行に必要な政令と総務省令は平成22年5月14日に公布された。

 

1.6)法律の概略 

・具体的な手続きに関しては「日本国憲法の改正手続に関する法律施行令」(平成22年政令第135号)及び「日本国憲法の改正手続に関する法律施行規則」(平成22年総務省令第61号)で規定している。

 

〔対象・投票権者〕 

・国民投票の対象は憲法改正のみに限定(1条) 

 

・投票権者は18歳以上の日本国民(3条)。ただし、18歳以上の者が国政選挙で投票できるように公職選挙法の選挙権の年齢や民法の成人年齢(20歳以上)などの規定について検討し必要な法制上の措置を講じて、18歳以上の者が国政選挙で投票することができるように改正するまでは、国民投票の投票権者も20歳以上とする(附則3条) 

 

・成年被後見人は投票権を有しない(4条)。在外邦人にも投票権はあり(62条)、いわゆる公民権停止を受けた者も投票権者から除外されていない。 

 

〔憲法改正原案〕 

・各院に憲法審査会を設置し、憲法改正原案について審査を行うが、公布後3年間憲法改正原案の発議は凍結する(附則1条、同4条) 

 

・憲法改正原案は、衆議院100名以上、参議院50名以上の議員の賛成で国会に提出できる(国会法第68条の2) 

 

・憲法改正原案の発議は内容において関連する事項ごとに区分して行う(個別発議の原則、国会法第68条の3) 

 

〔憲法審査会〕

・審査会の設置に関する条項は2007年8月の臨時国会召集とともに発効。ただ、憲法審査会規程が衆議院では2009年6月に、参議院では2011年5月まで制定が遅れ、また両院とも委員の選任がされないなどの状態が続いたが、2011年10月21日に両院で憲法審査会が始動した。 

 

〔投票方法〕

・国会発議後は、60-180日間ほどの期間を経た後に国民投票を行う(2条)

国民投票は、憲法改正案ごとに1人1票の投票を行う(47条)

 

・投票用紙(縦書き)にあらかじめ印刷された「賛成」または「反対」の文字(いずれもルビ付き)のどちらかに○をつける方法で投票を実施(57条)

 

・印刷されている「賛成」の文字を二重線を引く等して消した票は反対として扱い、「反対」の文字を二重線で引く等して消した票は賛成として扱う(81条) 

 

〔投票の結果〕

・投票総数(賛成票と反対票の合計。白票等無効票を除く)の過半数の賛成で憲法改正案は成立(126条、98条2項)。最低投票率制度は設けない。 

 

〔無効訴訟〕

・無効訴訟は国民投票の結果の告示から30日以内に東京高裁に投票人が提起することができる(127条)。訴訟を提起しても国民投票の効力は原則停止しない。憲法改正が無効とされることで重大な支障を避けるため緊急の必要があるときは、本案について理由がないと認めるときを除き、憲法改正の効力を全部又は一部を判決確定まで停止することができる(133条) 

 

〔投票運動〕

・選管委員や職員及び国民投票広報協議会事務局員に限定して国民投票運動を禁止する(101条) 

 

・公務員や教育者の、地位を利用した投票運動を禁止(103条)。罰則は設けないが、公務員法上の懲戒処分の対象にはなる。 

 

・公務員の国民投票運動及び意見表明に関する、国家公務員法及び地方公務員法上の政治的行為に対する規制については、賛否の勧誘が不当に制約されないよう法制上の検討を行う(附則11条) 

 

・憲法改正の予備的国民投票については、その実施の有無及びその対象について検討を加える(附則12条) 

 

・テレビ・ラジオによるコマーシャルは投票日の2週間前から禁止(105条)。ただし、罰則を設けない。 

 

・国会において設置される国民投票広報協議会(議席数に応じて会派ごとに割りあてて構成。衆参各院から10名ずつ選任される)が、改正案の要旨(その他、国会審議の経緯などを客観的に記した分かりやすい説明)、賛成意見、反対意見からなる国民投票公報、新聞広告、テレビラジオによる憲法改正案の広報のための放送(政見放送に類似したものでスポットCM等を想定したものではない)を行う(106条・107条) 

 

・この際、賛否については同一のサイズ及び時間を確保する(106条6項・107条5項) 

 

・広報のための新聞広告、広報放送はいずれも国費で行われる。 

 

〔施行期日〕 

・国民投票の実施など主要な規定については公布の日から起算して3年を経過した日(2010年(平成22年)5月18日)から施行するが、憲法審査会に関する部分など一部の規定は公布後の次国会から施行する(附則1条)。

 

1.7)批判など 

・社会民主党は、国民投票法について「戦後60年間、平和国家としての土台となっていた日本国憲法を変える法案」とした上で、「憲法改悪の道へひきずりこむ改憲手続法案は絶対に廃案にすべきである」として、国民投票法の制定そのものを批判する。 

 

・民主党の高木義明国会対策委員長は国民投票法の成立を受けて、「安倍総理のための実績づくりを急いだという印象が拭えない」との認識を示した。このことに関して、自由民主党の中川昭一政調会長は「反対は民主党の党利党略である」と発言した。 

 

・日弁連会長の宇都宮健児は、2010年4月14日、「選挙権を有する者の年齢、成年年齢、公務員の政治的行為に対する制限のいずれについても、いまだ必要な措置が講じられて」いないこと(同法附則3条および同法附則11条)、また成年年齢・最低投票率・テレビ・ラジオの有料広告規制の三点について必要な検討が加えられていないこと(同法附帯決議)、さらに、同連合会が2009年11月8日付の憲法改正手続法の見直しを求める意見書で指摘していた8項目にわたる問題点について、「附則及び附帯決議が求めている検討がほとんどなされておらず、必要な法制上の措置が講じられていない」ことなどを理由に、同法の施行延期を求める会長声明を発表した。

 

1.8)本法を巡る議論 

・投票率要項制定の是非。棄権した者を含む有権者の意思はどこにあるのかについて。 

 

〔一般重要法案国民投票 〕

・欧州諸国の国民投票法は憲法に限らず一般重要法案全般を対象としている。そのため、民主党の枝野幸男らから、「国民の国民投票による意思表示の機会を憲法改正への同意に限定するのはおかしい」という意見が出され、本法案に対する民主党の対案として一般重要法案国民投票法が提起された。 

 

・しかし、参院選直前で自民党が衆参両院で多数を握っていたため、わずかに「一般重要法案国民投票、最低投票率について与野党協議を行う」という付帯決議をつける条件で野党側は妥協せざるをえず、ほぼ与党案の形で可決された。 

 

〔投票率の是非〕 

・日弁連は、平成17年に、「投票率が一定割合に達しない場合には、憲法改正を承認するかどうかについての国民の意思を十分に、かつ正確に反映するものとはいえない」として投票率に関する規定を設けるべきとの意見を発表している。 

 

・これに対し民主党も自民党も、棄権者を含む有権者の意思を無視したものであるとして、それは必要ないというスタンスを取っている。 

 

・日弁連のいうように、例えば、40%以上の投票率(以下は無効)と規定した場合、

 

① 有権者の35%が投票してその8割が賛成票だった場合、有権者全体の28%が賛成したことになるが無効となる。

 

② 有権者の40%が投票して6割が賛成票だった場合、有権者全体の24%の賛成したことになるが有効となる。 

 

・具体的に、有権者を1億人として百分率を除くと、①は有権者3500万人が投票し2800万人の賛成票だったが、投票率規定で無効だった。②は有権者4000万人が投票し2400万人の賛成票だったので、有効だった。この②より①のほうが有権者賛成票の絶対数が多いにも関わらず無効となっている。 

 

・それこそ国民の意思を反映したといえず、そもそも必要性を感じれば投票に行くものであるとし、棄権者は投票にいかない時点で他者に選択を委任しており、問題ではないとしている (棄権と無効票、有効票(賛否)を投じることそれぞれの違いである)。 

 

2)憲法改正の主要論点 

2.1)憲法改正の主な論点 

〔主要な論点〕

・日本での憲法改正をめぐる論点はいくつかある。 

① 戦後間もなくから、天皇の地位を憲法上明確に元首と定めることや、憲法上規定される人権を必要に応じて法令で制限できるようにすべき(「公共の福祉」における外在的制約説採用論)、といった声があった(復古的改憲論) 

 

② 憲法12条改正に関わる論議:上記自民党復古的改憲論者は国民の人権を保護する憲法13条・憲法12条を改正し政府が警察力によって国民の人権を制限したり、私有権を制限する道を開こうとしていた。 

 

③ 国民投票法自民党当初案では個別投票方式ではなく、一括投票方式で様々な条文を一度に改正が可能な制度になっていた。連立相手の公明党まで反対したので一括投票方式には固執しなくなったが、現在の国民投票法でも一括投票方式も可能な条文となっている。 

 

④ 日本国憲法第9条・自衛隊の議論(及びこれに伴う軍事裁判所・憲法裁判所の設置)も、数十年間、憲法改正の主な論点であった。 

 

⑤ 憲法制定当時からの時代が進むにつれて新しいタイプの人権が意識され、裁判所においても一定の新しい人権を解釈にて認めるようになってきた。 

 

⑥ 自民党が衆議院を与党多数で押さえている結党50周年のタイミングで新憲法草案を発表すると、時代が変わってきたので以下のような点で新しい憲法が必要であるという改憲派と、改憲は不要あるいは危険とする護憲派の間で、熾烈な論争になってきている。

 

改憲派と護憲派の論争 

・産業の発達などで生じた問題に対処するための「環境権」や「プライバシー権」など新しい基本的人権の追加 

・民意をより国政に反映するための首相公選制あるいは大統領制の導入 

・中央官庁主導の行政を改善するための道州制の導入 

・衆議院・参議院を並立させている両院制の見直し(参議院の廃止、一院制への移行) 

・私学助成金が違憲となっている状態の解消(ただし、判例によると現状の私学助成は合憲だとされる)

・憲法改正手続きの基準緩和

 

〔その他の意見〕

・その他、今の憲法前文には、日本の歴史・伝統・文化の記述が無いので、歴史・文化・伝統を憲法に明記すべきという意見もある。また、国会が行政を監視する機能を作るないしは強化すべきという意見もある。

 

2.2)自民党政調会 憲法調査会 憲法改正プロジェクトチーム

 

(参考)論点整理(案)(平成16年6月10日)

Ⅰ 総論 

一 新憲法制定にあたっての基本的考え方 

《新憲法が目指すべき国家像について》

・新憲法が目指すべき国家像とは、国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される「品格ある国家」である。新憲法では、基本的に国というものはどういうものであるかをしっかり書き、国と国民の関係をはっきりさせるべきである。そうすることによって、国民の中に自然と「愛国心」が芽生えてくるものと考える。

・諸外国の憲法の規定例を参考にして、わが国が目指すべき社会がどういうものであるか(例えば「公正で活力ある経済活動が行われる社会」など)、その大綱について憲法に明示すべきである。 

 

《21世紀にふさわしい憲法のあり方に関して》

・新憲法は、21世紀の新しい日本にふさわしいものであるとともに、科学技術の進歩、少子高齢化の進展等新たに直面することとなった課題に対応するものでなければならない。同時に、人間の本質である社会性が個人の尊厳を支える「器」であることを踏まえ、家族や共同体が、「公共」の基本をなすものとして、新憲法において重要な位置を占めなければならない。 

 

《わが国の憲法として守るべき価値に関して》

・新憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という三原則など現憲法の良いところ、すなわち人類普遍の価値を発展させつつ、現憲法の制定時に占領政策を優先した結果置き去りにされた歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)や、日本人が元来有してきた道徳心など健全な常識に基づいたものでなければならない。同時に、日本国、日本人のアイデンティティを憲法の中に見出すことができるものでなければならない。 

 

二 主要分野における重要方針 

《安全保障の分野に関して》

・新憲法には、国際情勢の冷徹な分析に基づき、わが国の独立と安全をどのように確保するかという明確なビジョンがなければならない。同時に、新憲法は、わが国が、自由と民主主義という価値を同じくする諸国家と協働して、国際平和に積極的能動的に貢献する国家であることを内外に宣言するようなものでなければならない。

さらに、このような国際平和への貢献を行う際には、他者の生命・尊厳を尊重し、公正な社会の形成に貢献するという「公共」の基本的考え方を国際関係にも広げ、憲法においてどこまで規定すべきかを議論する必要があると考える。 

 

《基本的人権の分野に関して》

・新しい時代に対応する新しい権利をしっかりと書き込むべきである。同時に、権利・自由と表裏一体をなす義務・責任や国の責務についても、共生社会の実現に向けての公と私の役割分担という観点から、新憲法にしっかりと位置づけるべきである。 

 

《統治機構について》

・新憲法には、迅速かつ的確な政策決定及び合理的かつ機動的な政策執行を可能とする統治システムが組み込まれたものでなければならない。また、憲法裁判所制度など憲法の実効性を担保する制度や道州制など国のかたちをなす大きな要素についてこの際明確に位置づけるべきである。 

 

三 今後の議論の方向性 

 憲法を論ずるに当たり、まず、国家とは何であるかについて、わが党の考え方を明らかにし、国民各層の理解を深めていく必要があると思われる。

 次に、憲法の意義を明らかにするべきである。すなわち、これまでは、ともすれば、憲法とは「国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である」ということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、今後、憲法改正を進めるに当たっては、憲法とは、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、「国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール」としての側面を持つものであることをアピールしていくことが重要である。

さらに、このような憲法の法的な側面ばかりではなく、憲法という国の基本法が国民の行為規範として機能し、国民の精神(ものの考え方)に与える影響についても考慮に入れながら、議論を続けていく必要があると考える。 

 

Ⅱ 各論 

一 前 文 

1 共通認識

・現行憲法の前文については、これを全面的に書き換えるものとすることで、異論はなかった。 

 

2 前文に盛り込むべき内容 

・前文に盛り込むべき内容に関する意見は、次のとおりである。 

1)現行憲法の基本原則である「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」は、今後ともこれを堅持していくべきである。ただし、「基本的人権の尊重」については行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要がある。また、「平和主義」についても、現行憲法9条の見直しを反映させ「一国平和主義」の誤りを正すとともに、国を挙げて国際平和を推し進める姿勢を強調するなど修正が必要である。 

 

2)国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される「品格ある国家」を目指すことを盛り込むべきである。 

 

3)わが国の歴史、伝統、文化等を踏まえた「国柄」を盛り込むべきである。 

 

4)環境権や循環型社会の理念(持続可能な社会づくりの観点)などを盛り込むべきである。 

 

5)社会を構成する重要な単位である家族に関する文言を盛り込むべきである。 

 

6)利己主義を排し、「社会連帯、共助」の観点を盛り込むべきである。 

 

7)国を守り、育て、次世代に受け継ぐ、という意味での「継続性」を盛り込むべきである。 

 

3 前文の文章表現 

・前文の文章表現に関する意見は、次のとおりである。 

1)翻訳調の現行の前文の表現を改め、前文の文章は、平易で分かりやすいものとし、模範的な日本語の表現を用いるべきである。 

 

2)一つの文章が冗長にならないようにすべきである。 

 

4 今後の議論の方向性 

・前文に盛り込むべき内容は、憲法の各条章の内容と深く関わるものであり、今後の議論の流れによっては大きく異なることも予想され、現時点でその内容を固める必要はないものと考える。 

・一方、文章表現については、わが国の憲法である以上わが国の言葉で書かれるべきことは当然であるとしても、文体や語彙の選択は、盛り込むべき内容のいかんによって左右されるものであり、内容が固まってから議論の対象とすべきである。 

・したがって、前文の議論は、各条文の議論が進んでから最後に再び行うこととした。 

 

二 天 皇 

1 共通認識

・象徴天皇制については、今後ともこれを維持すべきものであることについては、異論がなかった。 

 

2 改正意見 

・天皇の国事行為その他の公的行為に関する改正意見は、次の通りである。 

1)天皇の国事行為について定める第7条の規定のうち第4号の「国会議員の総選挙を公示すること」は誤りであり、これは「衆議院議員の総選挙及び参議院議員の通常選挙の公示をすること」とすべきである。

 

2)天皇の祭祀等の行為を「公的行為」と位置づける明文の規定を置くべきである。 

 

3 今後の議論の方向性 

・連綿と続く長い歴史を有するわが国において、天皇はわが国の文化・伝統と密接不可分な存在となっているが、現憲法の規定は、そうした点を見過ごし、結果的にわが国の「国柄」を十分に規定していないのではないか、また、天皇の地位の本来的な根拠は、そのような「国柄」にあることを明文規定をもって確認すべきかどうか、天皇を元首として明記すべきかなど、様々な観点から、現憲法を見直す必要があると思われる。

・なお、女帝問題については、皇室典範の改正という観点から今後検討すべき論点であるとの意見が多数を占めた。 

 

三 安全保障 

1 共通認識 

次の点については、大多数の同意が得られた。

・自衛のための戦力の保持を明記すること。 

 

2 安全保障に関し盛り込むべき内容

・安全保障について盛り込むべき内容は、次のとおりである。 

1)個別的・集団的自衛権の行使に関する規定を盛り込むべきである。 

 

2)内閣総理大臣の最高指揮権及びシビリアン・コントロールの原則に関する規定を盛り込むべきである。 

 

3)非常事態全般(有事、治安的緊急事態(テロ、大規模暴動など),自然災害)に関する規定を盛り込むべきである。 

 

4)「人間の安全保障」(積極的な「平和的生存権」)の概念など、国際平和の構築に関する基本的事項を盛り込むべきである。 

 

5)国際協力(国際貢献)に関する規定を盛り込むべきである。 

 

6)集団的安全保障、地域的安全保障に関する規定を盛り込むべきである。 

 

7)食糧安全保障、エネルギー安全保障などに関する規定を盛り込むべきである。 

 

3 今後の議論の方向性 

・21世紀において、わが国は、国力に見合った防衛力を保有し、平和への貢献を行う国家となるべきである。 

 

・こうした観点から、今後は、個別的及び集団的自衛権の行使のルール、集団的安全保障・地域的安全保障における軍事的制裁措置への参加のルール並びに国際的平和維持協力活動への参加のルールはいかにあるべきかを議論しながら、憲法においてどこまで規定すべきかを考える必要がある。 

 

・なお、非常事態については、国民の生命、身体及び財産を危機から救うことが国家の責務であること、その責務を果たすために非常時においてこそ国家権力の円滑な行使が必要であるということを前提に、憲法に明文の規定を設ける方向で議論する必要があると考える。 

 

四 国民の権利及び義務 

1 共通認識 

・時代の変化に対応して新たな権利・新たな義務を規定するとともに、国民の健全な常識感覚から乖離した規定を見直すべきであるということについて、異論はなかった。 

 

2 新しい権利 

・「環境権」&『環境保全義務』、「情報開示請求権」&「プライバシー権」、「生命倫理に関する規定」、「知的財産権の保護」、「犯罪被害者の権利に関する規定」 

 

3 公共の責務(義務)

1)社会連帯・共助の観点からの「公共的な責務」に関する規定を設けるべきである。 

 

2)家族を扶助する義務を設けるべきである。また、国家の責務として家族を保護する規定を設けるべきである。 

 

3)国の防衛及び非常事態における国民の協力義務を設けるべきである。 

 

4 見直すべき規定 

1)政教分離規定(現憲法20条3項)を、わが国の歴史と伝統を踏まえたものにすべきである。 

 

2)「公共の福祉」(現憲法12条、13条、22条、29条)を「公共の利益」あるいは「公益」とすべきである。 

 

3)婚姻・家族における両性平等の規定(現憲法24条)は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。 

 

4)社会権規定において、社会連帯、共助の観点から社会保障制度を支える義務・責務のような規定を置くべきである。 

 

5 今後の議論の方向性 

・この分野における本プロジェクトチーム内の議論の根底にある考え方は、近代憲法が立脚する「個人主義」が戦後のわが国においては正確に理解されず、「利己主義」に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか、ということへの懸念である。 

 

・権利が義務を伴い、自由が責任を伴うことは自明の理であり、われわれとしては、家族・共同体における責務を明確にする方向で、新憲法における規定ぶりを考えていくべきではないか。同時に、科学技術の進歩、少子化・高齢化の進展等の新たな状況に対応した、「新しい人権」についても、積極的に取り込んでいく必要があろう。 

 

・なお、美しい国づくりの観点から、景観を含めた環境保全と私権との調整についても今後の検討課題とする必要があると思われる。また、地方参政権(現憲法93条2項)について明確な規定を置くべきとの意見をふまえ、今後さらに検討を続ける必要がある。 

 

6~10 略 

11 その他 

・以上のほか、次のような事項について、憲法に盛り込むべきであるとの意見があった。

1)領土、大陸棚など:わが国の主権が及ぶ地理的範囲を明確に憲法に規定すべきだとする意見があった。 

 

2)国旗及び国歌:諸外国の憲法の規定例を参考にして、国旗及び国歌に関する規定を憲法に置くべきだとする意見があった。 

 

結 語

・わが党のたゆまぬ努力により、憲法改正のための国民投票は、もはや絵空事ではなくなった。憲法改正の手続法が整備され、国民投票が実現されれば、わが国憲政史上初めてのことになる。

・すなわち、日本国民は初めて主権者として真に憲法を制定する行為を行うことになるのである。 

 

2.3)主な論点の内容

〔天皇の地位〕 

・象徴天皇制のあり方について議論がある。 

 

・第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。 

 

・1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見が一定数存在していたこともあった。 

 

・しかし、2004年の時点で日本共産党が綱領を改正。元首・統治者ということを認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきであるという趣旨に改めており、また憲法(特に第9条や生存権関連規定)改正に反対する立場を堅持していることから、かつてのような強硬な天皇制廃止論は影をひそめているのが現状である。 

 

・また、各種の世論調査では、象徴天皇制の現状維持を主張する意見が大多数となっている。 

 

・現在のところ、象徴天皇制は日本国民の大多数に支持されている制度であると言って差し支えないと思われる。 

 

・ただし、護憲派の中には、天皇制廃止論者もいる(つまりその限りでは改憲派である。厳密には護憲派ではないともされる)。そのため、天皇条項を含めた(あるいは天皇条項に関心のない)護憲派と対立する場面も見られる。 

 

・また、日本を立憲君主制とみなす立場からは、天皇を名実ともに国家の元首と明記するべきだという意見もある。関連して、外国大公使の親授式や国会開会の「おことば」など天皇の国事行為と準国事行為とされている行為についても整理して明記すべきとする意見もある。 

 

〔日本国憲法第9条、自衛隊〕後述 

 

〔公益及び公の秩序〕 

・憲法12条/13条/29条は国民の生命・自由・財産権・幸福追求といった重要な基本的人権の尊重が保証されている条項であり、この条項において示す「公共の福祉」とは、現在の通説(一元的内在制約説)において、人権相互の矛盾衝突を調整するために認められる衡平の原理のこととされている。 

 

・この条文が新憲法案において「公益及び公の秩序に反しない限り」に差し替えられている事に対する論議。 

 

・自民党憲法調査会の趣旨説明としては戦後導入された「個人主義」が(国民に)理解されず利己主義に変じて家族と共同体の破壊につながっているので、そのように変更したい」という説明である。 

 

・一方、法曹関係者からは自民党草案を(大日本帝国憲法・全体主義国憲法と同じ)『外在制約』型人権条項とみなし、「憲法12条・13条自民党案は(表面的には大して違わないよう見えるものの)、実は時の為政者により「公益」「公の秩序」と判断された基準により(国民の生命・身体や言論の自由等の基本的)人権の制約することを可能とするものである。」、「自民党12条、13条改訂案の(一見小さな)文面置き換えは『これが可決されると、政治家が公益・公秩序名目で勝手に国民の人権を制限する事が可能になり、近代民主政の基盤の立憲制が根底から覆りかねない』内容を含んでいる」という警告がなされている。 

 

・現在の日本国憲法では「公共の福祉に反さぬ限り国民の人権は最大限尊重されねばならない」と定めており、人権制限条件である「公共の福祉」の法解釈に論争があったが、現憲法「公共の福祉に反さぬ限り」とは「他人の人権と衝突しない限り」との意味でとの一元的『内在制約』説が支配的である。 

 

〔新しい人権の明記と権利の制約〕 

・日本国憲法において、基本的人権の尊重は三大原則の1つであり、多くの条文が人権の規定に当てられている。 

 

・日本国憲法のうち「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とうたっている第25条の生存権や教育権などの人権に対しては、解釈が分かれている。 

 

1)「政治指針に過ぎず、(たとえば個々の国民が訴訟で生活扶助を要求できるような)直接具体的に与えられた権利ではなく、国の法的義務はない」とする我妻栄のプログラム規定説、 

 

2)そういう具体的権利ではないが抽象的な法的権利であるという鵜飼信成らの抽象的権利説、 

 

3)そういう具体的権利であるとする和田鶴蔵らの具体的権利説。 

・具体的権利を個々に記載するために憲法改正が有効かというと、1、2の立場なら有効、3なら不要ということになろう。 

 

〔国民の義務〕 

・国民の「責任(責務)」として明文改憲すべきであり、納税など従来の義務規定のほかに、新たな人権を明記する一方で権利と衡平する責務規定を設けるべきとの主張がある。また現状のままで良く、詳細は法律によればよいとする立場がある。一方で現行憲法の納税の義務を含め、義務規定の憲法上での明記は最小限にすべきとの主張がある。 

 

〔首相公選制の導入〕 

・現状は、衆議院において最大勢力を占める多数派が選出した者が内閣総理大臣となる仕組みであるが(連立与党を組んでいる場合には第二党の党首の場合もある)、総選挙の結果とは無関係に決まってしまう場合があることを問題視して首相公選制の導入が主張されることがある。 

 

・ただし、「首相公選制」の内容は論者により異なり、実質的な大統領制への転換を目指すべきとする意見、議院内閣制の原理の一部に修正を加えるべきとする意見、政党の党首選挙において一般党員による予備選挙を行うことで実質的な首相公選を目指すべきとする意見などがある。

 

・このうち大統領制のように国民を直接的に選出する制度を採用する案の場合や、議院内閣制の下で憲法に政党条項を加えて衆議院議員総選挙を憲法上も内閣総理大臣選出のための選挙として運用する案をとる場合には憲法改正が必要になる。 

 

〔両院制〕 

・両議院の構成と役割を大きく異なるものにするか、参議院の権限縮小・廃止により一院制を採用するか、など議院の扱いをめぐる議論がある。 

 

・世界では一院制も両院制もあるが、主要な民主先進国は両院制が多い。また通常単一国家では一院制であることが多い。なお、両院制を採っている国でも民選制である代議院とは別の議員選出制度(アメリカ・ドイツ:連邦構成体の代表、イギリス:世襲の貴族、カナダ:政府による任命)を施行していることが多く、日本のように両院の議員がほぼ同じ方法で選挙され、かつ下院が優越している国は皆無である(比較憲法学者の西修曰く、「異質な制度が悪いわけではないが、合理性に欠ける点が問題) 

 

〔軍事裁判所・憲法裁判所の新設〕 

・軍事裁判所(軍法会議)は終戦まで、敵前逃亡や脱走など軍法違反行為を行った兵士を裁く特別裁判所として存在した。最前線の戦場では、裁判官なしのまま、上官による即決裁判で判決、銃殺刑の執行までが行われた時期もあった。 

 

・日本国憲法第76条第2項では「特別裁判所は、これを設置することができない」として禁止された。よって、自衛隊の職種にも軍法会議・軍事裁判を担当し検事・弁護士・判事相当の将校が所属する「法務科」は存在しない。自民党新憲法草案では、「自衛軍」の保持を明記するのと同時に、「軍事裁判所」を置くとしている。しかし、新憲法草案でも「特別裁判所の設置は禁止」とされており、矛盾しているとの指摘がある。 

 

・内閣法制局に憲法解釈を握られている状況を変えるため、最高裁判所と別に「憲法の番人」としての独立機関である「憲法裁判所」の設置が提案されている。憲法裁判所の設置は、衆議院憲法調査会、自民党、民主党でも提案されたが、自民党新憲法草案には採用されなかった。

 

3)日本国憲法第9条の改正意見 

3.1)改正意見 

憲法9条では、戦争放棄戦力の不保持を規定しているが、一方でGHQの意向で再建された軍事力である自衛隊が存在している。 

 

・1945年から1952年の間の日本占領の期間内で1947年頃から、米国の対日政策が初期の「武装解除・再武装阻止」・「民主化の促進」に重点を置いた方針から、「経済復興」・「限定的再軍備」の方針に変換した事は “ 逆コース ” と呼ばれ、指摘されている。その変換は、「反共主義・封じ込め」を唱えたジョージ・ケナンらによる立案とされ、1947年頃からの国共内戦の激化なども、その原因とされる。

 

ジョージ・ケナン(引用:Wikipedia)

 

・自民党、民主党および保守的論客は、現在の憲法9条と自衛隊の存在の間の矛盾を解決するために、戦争放棄を定めた第9条第1項の平和主義の理念は守りながら、第9条第2項を改正して戦力の保持(自衛“隊”から自衛“軍”すなわち国防軍へ)を認めるべきと主張してきた。 

 

・なお政府見解によれば、国家は、急迫不正の侵害から自国を守る権利を有し、かかるいわゆる「個別的自衛権」は、その性質上憲法9条によっても放棄されない。そのために必要最小限の実力を持つことは可能であり、その実力組織に該当するのが、自衛隊である。場合によっては、防衛用核兵器もこの実力に該当する可能性はある、といった説明がされている。この点については非核三原則を参照。 

 

・護憲派は、条文をそのままに自衛隊の行動を控えさせるという立場もあれば、自衛隊を廃止して非武装中立の立場をとるべきだとする意見もある。 

 

・しかし自衛隊を廃止すると国の防衛が一切不可能になってしまうことや、災害時の復旧活動も自衛隊なしでは困難なため、護憲派を含め、この自衛隊を廃止する見解には反対する意見が多数を占める。 

 

・また、「自衛隊が憲法上明記されていないことは、自衛隊は合憲なのか違憲なのか曖昧な状況が続いているので問題である」とする意見も多く、自衛隊を軍隊と明記することが検討されている。 

 

・さらには防衛省が戦前の陸軍のように暴走するのを抑えるため、文民統制を改憲によって強化することも検討されている(現在、日本国憲法第66条第2項に文民条項がある) 

 

・自由民主党のうち1955年の合併前の旧民主党に近い勢力は自衛隊を法理論的にも合法なものにするために、第9条に対する改憲論議を行ってきた。しかし、旧自由党に近い勢力は現状維持を求め、改憲には反対であった。

 

3.2)国際情勢と憲法改正論議 

・1990年、イラクがクウェートに侵攻・占領。これに対し国際社会は猛反発し、アメリカやフランスなどの多国籍軍が、イラク軍と戦ってクウェートから撤退させた(湾岸戦争)。日本は第9条を理由にして軍事行動には参加せず、巨額の財政援助をした。 

 

・しかし国際社会がこれを評価しなかった(もっとも援助の殆どはアメリカに流れていた。典型的対米従属)ことなどから、日本国内では、国際貢献のあり方についての議論がおきた。左派からは財政援助による貢献を評価されるよう理解を求めるべきとの主張もなされたが、結局具体的な活動による貢献・援助を拡大すべきとする主張が主流となった。 

 

・その後、PKO協力法が制定されPKO活動が始まった。自衛隊の海外でのPKO活動は高い評価を受けたが、「憲法違反だ」との主張が根強くあり(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法#適用上の問題点)、そのためPKO活動を完全に合憲とするために憲法を改正すべきという意見が多くある。 

 

・2002年に、小泉純一郎首相の北朝鮮訪問によって、過去に北朝鮮が日本人の拉致を行ってきた事実を認めた事が明らかになると、日本が第9条を掲げていても他国がこれを無視して日本の国民の生命を脅かす行為を防ぐ事は出来ないとする意見が高まり、第9条改正論への追い風となった。 

 

・2004年の始めには、イラクへ人道支援のために自衛隊を派遣した。イラクが戦闘地域であるため、自衛隊のイラク派遣は憲法上問題がある、それ以前に米国などによるイラク戦争は侵略戦争であるから、それに加わることはできないという意見が出た(国連による武力制裁決議はされていない) 

 

・米国が自衛隊を「有志連合」の一員として(つまり通常の軍隊として)扱ったこと、自衛隊が米軍の燃料補給を行ったこと(武器・弾薬については行っていない)も問題視された。 

 

・それ以外にもテロ戦争で流動化した現在の国際情勢においては、テログループなどを対象とした国防・治安維持を想定に入れる必要があり、第二次世界大戦当時の大国の事情で作られた憲法9条はもはや現状にはそぐわない時代遅れの事項とする意見もある。 

 

・このほかには、有事法制との関係で、非常事態における国家緊急権の確立などについての議論がある。 

 

3.3)各党の第9条改正に関する意見

 2012年5月時点での各党の第9条改正に関する意見は次の通りである。 

民主党

不明

「制約された自衛権」の明確化。賛成から反対まで幅広い。

自民党

賛成

改正の上で、集団的自衛権、国防軍の保持を明記。

公明党

反対

改憲の必要なし。

社民党

反対

改憲の必要なし。自衛隊も縮小する。

共産党

反対

憲法を堅持する。

国民新党

賛成

結党以来、自主憲法制定を掲げる。

みんなの党

賛成

自衛権の明確化のために何らかの立法措置が必要。

新党きづな

賛成

軍の保有を明記。

 

4)各政党の憲法改正案 

4.1)自由民主党 

〇日本国憲法改正草案(平成24年4月27日) 

日本国憲法改正草案(現行憲法対照)(自由民主党 平成24年4月27日決定) 

日本国憲法改正草案Q&A(増補版) (同上 憲法改正推進本部 平成25年10月) 

漫画政策パンフレット  (自由民主党 憲法改正推進本部 初版 平成27年4月) 

 

〇憲法改正推進本部条文イメージ(たたき台素案)(平成30年3月26日) 

・我が国が直面する国内外の情勢等に鑑み、まさに今、国民に問うにふさわしいと判断されたテーマいとして、①安全保障に関わる「自衛隊」、②統治機構に関わる「緊急事態」、③一票の較差と地域の民意反映が問われる「合区解消・地方公 共団体」、④国家百年の計たる「教育充実」の4つを取り上げ、優先的な検討項目とした。 

憲法改正に関する議論の状況について (自由民主党 憲法改正推進本部 平成30年3月26日 

憲法改正ビラ 自由民主党 憲法改正推進本部 

マンガでよく分かる~憲法のおはなし~自衛隊明記ってなぁに? (同上 令和元年6月 

自民党憲法改正推進本部作成 改憲案(4 項目) 「Q&A」 徹 底 批 判(改憲問題対策法律家6団体連絡会) 

 

4.2)立憲民主党(憲法に関する考え方)~立憲的憲法論議~(2018.7.19) 

〇 基本姿勢

 「国家権力の正当性の根拠は憲法にあり、あらゆる国家権力は憲法によって制約、拘束される。」という立憲主義を守り回復させる。憲法に関する議論は、立憲主義をより深化・徹底する観点から進める。 

 日本国憲法を一切改定しないという立場は採らない。立憲主義に基づき権力を制約し、国民の権利の拡大に寄与するとの観点から、憲法に限らず、関連法も含め、国民にとって真に必要な改定があるならば、積極的に議論、検討する。 

 いわゆる護憲と改憲の二元論とは異なる、「立憲的憲法論議」を基本スタンスとする。 

 

〇 いわゆる安全保障法制について

 日本国憲法9条は、平和主義の理念に基づき、個別的自衛権の行使を容認する一方、日本が攻撃されていない場合の集団的自衛権行使は認めていない。この解釈は、自衛権行使の限界が明確で、内容的にも適切なものである。また、この解釈は、政府みずからが幾多の国会答弁などを通じて積み重ね、規範性を持つまで定着したものである (いわゆる47年見解。巻末参照)。

 集団的自衛権の一部の行使を容認した閣議決定及び安全保障法制は、憲法違反であり、憲法によって制約される当事者である内閣が、みずから積み重ねてきた解釈を論理的整合性なく変更するものであり、立憲主義に反する。  

 

〇 いわゆる自衛隊加憲論について

 現行の憲法9条を残し、自衛隊を明記する規定を追加することには、以下の理由により反対する。

1 「後法は前法に優越する」という法解釈の基本原則により、9条1項2項の規定が空文化する(※1)。この場合、自衛隊の権限は法律に委ねられ、憲法上は、いわゆるフルスペックの集団的自衛権行使が可能となりかねない。これでは、専守防衛を旨とした平和主義という日本国憲法の基本原理が覆る。 

2 現在の安全保障法制を前提に自衛隊を明記すれば、少なくとも集団的自衛権の一部行使容認を追認することになる。集団的自衛権の行使要件(※2)は、広範かつ曖昧であり、専守防衛を旨とした平和主義という日本国憲法の基本原理に反する。 

3 権力が立憲主義に反しても、事後的に追認することで正当化される前例となり、権力を拘束するという立憲主義そのものが空洞化する。 

 

※1 従前の解釈を維持しようとするならば、明確かつ詳細にそれを明記する必要がある。これは相当大部かつ厳格な規定が必要となる。また、その際には、集団的自衛権一部行使容認という立憲主義違反について、容認する規定とするのか、否定する規定とするのか、明確にされなければならない。

 

※2 我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」という要件 

 

〇 文民統制について

 文民統制(シビリアンコントロール)とは、政治と軍事を分離し、軍事に対する政治の優越を確保すること、その政治が民主主義の原則に基づいていることを基本原則とする。

 国の防衛に関する事務は憲法73条にいう「他の一般行政事務」に属し、内閣は国会に対して連帯して責任を負っているので、立憲的統制の核心は国会による統制である。

 

 ところで、憲法66条2項は特に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」としている(※3)。これは、実力組織はとかく暴走しがちであり、その行使にあたっては、制服組の判断によるのではなく、背広組の判断を優越させる趣旨である。

 

 南スーダンPKOの防衛省の日報に関しては、発見から大臣への報告に1か月も要しているが、このことに限らず、現場からの報告のタイミングがずれれば大臣の適時適切な判断はできなくなるおそれがある。また、イラクの日報では、大臣の指示に従わず、制服組の判断で「存在しない」ことにしていたのであるとすれば、文民条項の趣旨を損ねる。

 

 また、南スーダン日報の開示請求が行われた時から、防衛省が日報の「破棄を確認」し、不開示を決定したのは、南スーダンPKOに参加する自衛隊部隊の派遣延長の是非、安全保障関連法に基づく新任務「駆け付け警護」を付与すべきかどうかが、焦点となっていた時期である。この日報がきちんと公開され、現地情勢が明らかになっていれば、派遣延長や新任務付与の決定にも影響を与えていたはずであり、国会による立憲的統制に対して背を向けるものである。

 

 文民統制に関する憲法上の議論は、自衛隊という実力組織に対する評価の問題もあり、これまで希薄であったことは否定できない。文民統制のあり方について、憲法上の議論の必要性を確認する(※4) 

 

※3 日本国憲法制定時には、憲法にこのような条項を定めた国はなく、閣僚の文民規定を憲法に規定しているのは、現在でも韓国に例を見る程度。

 

※4 ドイツ基本法では、憲法としては極めて詳細なシビリアン・コントロール条項が規定さている。 

 

〇 臨時会召集要求について

 憲法53条後段には、衆議院か参議院のいずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならないとされているが、期限が切られていない。

 

 第194国会は、3ケ月も前に野党が要求していたにもかかわらず放置され、要求テーマに関する審議はまったく行われず、臨時会冒頭での解散が行われた。このような臨時会の召集の仕方は憲法53条後段に基づくものではなく、同条前段の内閣の発意に基づくものとみるべきで(※5)、少数会派の要求を無視した違憲状態の下で解散が行われたと言える(※6)

 

 衆議院総選挙後の特別会は選挙の日から30日以内に召集しなければならないことが憲法54条に規定されており、このバランスからも、臨時会についても期限を記述すべきかどうかについての議論を進める。 

 

※5 政府は要求書送付の日から召集日の前日までの期間は98日間としているが、53条後段の趣旨からすると、要求に応じた審議ができるようになったのは特別会であり、要求書送付日から特別会の召集日(平29.11.1)前日までの期間は実に132日間。

 

※6 臨時会の召集要求書提出後、臨時会の冒頭で解散が行われたのは、第105国会(昭和61年、第2次中曽根康弘内閣)、第137国会(平成8年、第1次橋本龍太郎内閣)についで3回目。 

 

〇 衆議院の解散について

 衆議院の解散については、内閣不信任案の可決あるいは信任案の否決の場合についての規定が69条にあるのみで、実質的な解散権が内閣にあることすら明文で規定されていない。このことから、第2回の解散以来、天皇の国事行為に関する7条を理由に解散が行われている。

 

 解散は、選挙で選ばれている衆議院議員を任期満了前にその任期を終わらせるものである以上、相応の理由が必要なはずで、大義なき解散は許されることではない。しかし実際には、政権は自身に都合のよい時期に自由に解散権を行使できてしまっている。

 

 そもそも議会の解散制度は、君主側が民選議会に対する抑制手段として行使してきたという歴史があり、民主政治の発達とともに解散権の行使は抑制されるようになってきている(※7)。内閣が恣意的にタイミングを選べるような運用は是正されるべきであり、この点についての憲法論議を進める。 

 

※7 イギリスでも、2011年議会任期固定法が成立し、下院の解散を行うことには縛りがかかった。

 

〇 国政調査権について

 憲法62条は、国政調査権を両議院の権能とし、証人の出頭・証言、記録の提出を求めることができるとしている。具体的には、特別の院議決定に基づいて調査特別委員会を設ける方法、常任委員会による調査要求を議長が承認する方法などにより権能が行使される(注8)

 一般に、国政調査権は国会の権能を有効に行使するための補助的手段であると説かれるが(いわゆる補助的権能説)、国会の権能は立法権にとどまらず、予算審議、行政監視など広範に及び、行政国家化した現代において、立憲主義の観点からは議会による行政統制の重要な手段である。

 にもかかわらず、議院内閣制の下では、議会の多数派が内閣を構成することになるので、両院において行政監視のためにこれを行使しようとした場合、多数決原理に基づき、与党が合意しない限りこの権能は発動しえないということになり、実効性に疑問がある。この欠陥を埋めるべく、平成10年に衆議院規則を改正し、予備的調査制度が衆議院において採用された(注9)(衆議院規則56条の2、56条の3、86条の2)。

 しかし、予備的調査制度は委員会による国政調査権の行使とは異なり、強制力を伴うものではない。そもそも国政調査権そのものが多数決原理でよいのかどうかについて(注10)、議論を進める。 

 

※8 森友学園への国有地処分に関する、①財務省決裁文書の国会提出要求は、平成29年3月2日の参議院予算委員会における委員からの提出要求を踏まえ予算委員長より政府に提出要求がなされたものであり(参議院委員会先例により憲法62条に定める国政調査権の行使である国会法第104条による成規の手続を省略して行われたもの)、②会計検査院への検査及び報告要請は、3月6日に参議院から、憲法第62条に基づく国政調査権の行使として国会法第105条の規定に基づきなされたものである。(平成30年3月28日 参議院事務総長答弁)

 

※9 委員会は、審査・調査のため事務局の調査局長・法制局長に対して予備的調査を行い、報告書を提出するよう命じることができる。この場合、議員40名以上の要請で命令を発するよう書面を議長に提出することができる。

 

※10 ドイツ基本法44条では、議員の4分の1の申し立てで主として政府・行政の汚職・不正調査を目的とする調査委員会を設置できるとされている。 

 

〇 知る権利などについて

 基本的人権の中でも、表現の自由は特に重要な人権であるとされている。たとえば、権力の行使に行き過ぎがあったとしても、表現の自由が確保されていればそれを是正することができるからである。すなわち、表現の自由は、説得と投票箱の過程、民主主義のプロセスを担保する重要な人権ということができる。

 

 しかし、表現の自由が民主主義のプロセスにとって有効に機能するためには、その前提として十分な情報に接していることが必要である。不十分な情報や誤った情報に基づいて議論を重ねても、正しい結論を得ることはできない。

 

 南スーダンPKOの防衛省の日報やイラクの日報のように、破棄していたと国会に対して説明されていたものが1年後に「発見」されるようなずさんな公文書管理や、加計学園の問題では、政権に不都合な情報を怪文書扱いしたり、森友学園への国有地処分を巡る事件において、決裁文書の改ざん等により国政調査権が蹂躙されるという議会制民主主義の存立にもかかわる空前の事態が生じた。

 

 公文書管理や情報公開の在り方は、民主主義の前提となる「知る権利」を担保するものである。「知る権利」を回復、充足するため、公文書管理の在り方、電子決裁の推進等について議論を進める。 

 

〇 LGBTの人権、特に同性婚と憲法24条について

 LGBTに関しては、教育の現場や職場をはじめとして、あらゆる場面での差別の解消等、人権の確保・確立が必要である。

 

 ところで、安倍総理は、「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」、「同性婚を認めるために憲法改正を検討すべきか否かは、我が国の家庭のあり方の根幹に関わる問題で、極めて慎重な検討を要する」と述べている(※11)

 

 この点、憲法24条1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とされているため、同性どうしの結婚はできないようにも読める。

 

 しかしこの条文は、結婚相手を強制的に親が決めたり、戸主や親の承諾を必要とする戦前の「家」制度から(※12)、婚姻をするかどうか、婚姻をだれとするかを本人の自由意思に解放する趣旨である。そうだとすると、異性婚は両性の合意のみによって成立することを定めたものと制限的に理解すべきであり、同性婚について禁止する規範ではないと考える(※13)

 

 憲法の学説でも、同性婚については禁止されていないが、これを採用するかどうかは立法裁量であるという考え方が一般的なようである。

 

 しかし、憲法24条2項が「配偶者の選択……婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とし、憲法13条が個人の尊厳と幸福追求の権利を定め、その内実として人格的生存に不可欠な自己決定権が保障されているとの理解の下では、むしろ、同性婚も憲法上の保障を受けるとの解釈も有力に主張されている。この立場に立つと、その法的整備をすることは単なる立法裁量ではなく、立法府としての責務となる。

 

 したがって、憲法24条1項の文理上の疑念を解消するのみならず、憲法上の保障であることを明らかにするとすれば、文言を改めることが望ましいといえる。この点、立法政策の問題ととらえるべきか、憲法上の保障のレベルの問題ととらえるべきかについて、議論を進める。

 

 なお、いずれの立場に立つとしても、同性婚を可能とするよう、法的整備をすることに憲法上の支障はないものと認識する。 

 

※11 2015年2月18日、参議院本会議での答弁。

 

※12 明治民法では、家族の婚姻には戸主の同意が必要であり、一定の年齢(男は30歳、女は25歳)未満の子の婚姻には父母の同意が必要であった。

 

※13 1989年にデンマークで「登録パートナーシップ制度」が採用され、2000年にオランダが同性間の婚姻を容認して以来、同性間の婚姻を容認する国が増加している。ベルギー(2003年)、スペイン(2005年)、カナダ(2005年)、南アフリカ(2006年)、ノルウェー(2008年)、スウェーデン(2009年)、ポルトガル(2010年)、アイスランド(2010年)、アルゼンチン(2010年)、デンマーク(2012年)、ウルグアイ(2013年)、ニュージーランド(2013年)、フランス(2013年)、ブラジル(2013年)、英国(イングランド及びウェールズ)(2013年)、ルクセンブルク(2015年)、アイルランド(2015年)、フィンランド(2017年)、マルタ(2017年)、ドイツ(2017年)、オーストラリア(2017年)など。 

 

〇 高等教育の無償化について

 国際人権規約A規約13条2(b)及び(c)により、中等教育及び高等教育を漸進的に無償とすることが国家の責務とされている。日本政府は長くこの条項を留保していたが、民主党政権下の平成24年9月11日に留保を撤回する旨、国連事務総長に通告した。

 憲法98条2項(※14)は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規」を誠実に遵守することを必要としているので、我が国においては既に「高等教育の漸進的無償化」はすでに国内法上遵守すべき、政府の法的義務となっていると考えられ、憲法改正の対象として議論する意義は見出しがたい。 

 

(参考)経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)第13条2(b)及び(c)

(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。

 

(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。

 

※14 日本国憲法第98条2項

 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 この規定は、総司令部案にも、第90帝国議会に提出された帝国憲法改正案にもなく、衆議院における審議過程で、わが国の主体的判断で立案・成立したものである(佐藤幸治著「日本国憲法論」85頁〔成文堂〕2011年)。

 

〇 国民投票について

 憲法改正は国民の「承認」によって成立するが、承認の要件である「過半数」の意義について、憲法改正国民投票法は「有効投票総数」の過半数としている(※15)

 

 このことに関して、いかに投票率が低くても憲法改正が実現するのは問題であり、「最低投票率」を導入すべきとの意見もある(※16)

 

 しかし、最低投票率の制度には、

①ボイコット運動を誘発する可能性があること(※17)

②専門的・技術的な憲法改正で、必ずしも高い投票率を期待できない場合も存在すること、③最低投票率を満たしたほうが低い民意を反映するという民意のパラドックス(※18)の可能性があることから、制度としての弊害が大きいと考える。

 

 憲法改正の正当性に疑義が生じないようにするのであれば、投票率を問題とするのではなく、絶対得票率について検討されるべきである(※19)

 

 ただしこの場合も、憲法を法律で書き換えることができないはずであるところ、国民投票によって「憲法となるべきとされた規範」を法律で無効としてしまう疑いがある。実際、最低投票率ないし絶対得票率を定めている多くの国で憲法上の根拠条文を置いている(※20)

 

 したがって、絶対得票率を定めるのであれば、憲法96条に明記することが望ましい。

 

 憲法改正国民投票法成立後、大阪市で特別区設置法に基づく住民投票、英国でEU離脱の国民投票が行われ、直接民主制についての新たな知見が形成された。特に、テレビのスポットCMについて、現在の国民投票法の仕組みが適切かどうかについて、検討を行う。

 

 また、引き続き、憲法改正国民投票法の附則の規定に従い、一般的国民投票制度について、その意義及び必要性についての検討を行う。なお、衆議院の解散を制限した場合、総選挙後に国政に関する重大な問題が生じ、任期満了を待たずに国民の意思を問うべき必要が生じた場合、一般的国民投票制度が有効な手段となる余地があり、この観点からの検討も行う。

 

※15 一般に、憲法は強制投票制を採用していないことから、棄権の自由もあるものと考えられ、棄権した者を投票に行って反対票を投じたものと同様に考えることは不合理であり(「有権者総数」は採用しない)、また、無効票をすべて反対票と擬制することは適切でない(「投票者総数」は採用しない)と考えられたからである。

 

※16 「日本国憲法の改正手続に関する法律案に対する附帯決議」(平成19年5月11日参議院日本国憲法に関する調査特別委員会)

 

※17 ボイコット運動が起こっている状況の下では、投票に行くこと自体が「裏切り行為」となり、実質的に投票の秘密(憲法15条4項)が担保されない事態となるおそれがある。

 

※18 たとえば、最低投票率を50%とした場合、45%の投票率で賛成80%の場合、全体の36%の賛成があるにもかかわらず不成立。60%の投票率で賛成50%の場合、全体の30%の賛成で成立。

 

※19  仮に、有権者の半数が投票に行き、その過半数の賛成は必要だと考えたとすると、絶対得票率は25%となる。これに届かないようにしようと、ボイコット運動をしようとしても、75%の有権者に働きかけなければならず、事実上不可能。したがって、ボイコット運動を誘発する可能性は著しく低くなる。

 

※20 憲法に最低投票率を設けている国は韓国、スロバキア、ポーランド、ロシア、セルビア、ウズベキスタン、カザフスタン、ベラルーシ(有権者の50%以上)、コロンビア(有権者の25%以上)、憲法に絶対得票率を設けている国はデンマーク(有権者の40%以上)、ウルグアイ(有権者の35%以上)。これに対し、法律で最低投票率を設けている国はパラグアイ(有権者の51%以上)、絶対得票率を定めている国はウガンダ(有権者の過半数)、ペルー(有権者の30%以上)が散見されるにすぎない。 

 

4.3)公明党の憲法改正(加憲) 

〇 憲法改正について(引用:公明党HP 2016参議院選挙) 

 日本国憲法について、公明党は、戦後日本の平和国家としての基礎になったと高く評価しています。特に、恒久平和主義、基本的人権の尊重、国民主権主義という憲法3原則は、人類が長い時間をかけて獲得してきた普遍的な原則であり、これからもずっと守り続けていくべきだと考えています。

 

 憲法改正に対し、公明党は「加憲」の立場をとっています。「加憲」とは、憲法3原則を守りながら、時代の進展に伴う新しい考え方・価値観を憲法に加えることです。

 

 時代の経過によって、憲法制定当時に想定していなかった事態が生じて、それに対する対処が必要になってきたときに、いわば足らざるを補うという意味で、憲法に規定を加えることもあるというのが「加憲」という考えの基本です。

 

 日本国憲法 第9条第1項、第2項は平和主義を体現した規定であり、これは堅持しなければなりません。ただ、憲法上規定のない自衛隊について、存在や役割を明記したほうがいいという議論もあるようです。昨年、日本国憲法のもとで許される自衛権の限界を、平和安全法制の整備で行なったところです。第9条の改正は必要ないと考えます。

 

 大事なことは、何を守り、何を変えようとするかであり、改正の必要性や具体的なテーマについて、しっかり議論していくことです。「改憲」か「護憲」かという物差しではなく、「改憲のやり方」や、「何を改憲するか」の議論が大事であると考えています。

 

 改正にあたっては、国会で議論を深め、国民と方向性を共有していくことが重要です。その際、大切な点が二つあります。一つ目は「改正ありき」「期限ありき」ではないこと。幅広い民意を集約した結果としての憲法改正でなくてはいけません。もう一つは、与野党を超えた幅広い政党による合意です。国会の中で与野党を問わず、幅広い合意形成の努力をしてまいります。 

 

公明党の憲法改正(公明党の重点政策HP)

 

4.4)日本維新の会 憲法改正原案 (平成 28 年 3 月 24 日)

〇憲法改正項目

 ①教育無償化  ②統治機構改革  ③憲法裁判所 

 

〇[ポイント・新旧対照表・コメント及び参照条文付き新旧対照表] 

日本維新の会 憲法改正原案 

 

4.5)国民民主党の憲法改正(政策INDEX2019) 

〇基本姿勢 

・憲法は、主権者である国民が国を成り立たせるに際し、国家権力の行使について統治機構のあり方を定めた上で一定の権限を与えると同時に、その権限の行使が国民の自由や権利を侵害することのないよう制約を課すものであって、時の権力が自らの倫理観を国民に押しつけるものではないことを確認して、国民とともに憲法の議論を進めます。 

 

・私たちは、日本国憲法が掲げ、戦後70年間にわたり国民が大切に育んできた「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の理念を堅持し、自由と民主主義を基調とした立憲主義を断固として守ります。憲法9条をはじめとする現行憲法の条文について、論理的整合性、法的安定性に欠ける恣意的・便宜的な憲法解釈の変更は許されません。 

 

・その上で、象徴天皇制のもと、「知る権利」を含めた新しい人権、地方自治の保障等を含む統治機構改革など、時代の変化に対応した未来志向の憲法を国民とともに構想していきます。 

 

〇基本的人権 

・基本的人権は、人間が人間として生まれてきたことにより、誰もが当然に享有する権利です。

 

・基本的人権は、他人の基本的人権との衝突を回避するために調整されることはあっても、「公益」や「公の秩序」といった他の価値の後回しにされるものではありません。

 

・この基本原理を踏まえて、環境権、知る権利など新しい人権を憲法にどのように位置付けるのか、議論を深めます。 

 

〇国会 

・統治機構改革を進める中で、国と地方の役割分担、中央機能の役割分担と監視・抑制機能のあり方の議論を深めます。 

 

〇行政 

・国民主権の実効性を高めるため、真の政治主導と内閣主導の実現を目指して、内閣法や国家行政組織法などを見直し、体制を整備します。 

 

〇衆議院の解散権の制限 

・時の政権が解散権を濫用することのないように、内閣総理大臣による衆議院の解散権の制約について議論します。 

 

〇地域主権 

・国と地方の役割を抜本的に見直し、国の役割は、外交、安全保障、社会保障制度やマクロ経済政策等に限定し、住民に身近な行政は地方自治体が担うこととします。 

 

〇平和主義と安全保障 

・国が自衛権を行使できる限界を曖昧にしたまま、憲法9条に自衛隊を明記するべきではありません。海外の紛争に武力をもって介入しない、憲法9条の平和主義の根幹を覆すことは許されません、平和主義を断固として守ります。 

 

〇緊急事態 

・緊急事態に対しては、必要に応じて既存の法制度を見直し、万全な対応ができる体制を構築することとし、基本的人権を尊重した下で緊急事態への対応を行います。 

・緊急事態が生じた場合にあっても、立法府の存在が確保され、国民主権が保障されるよう、国会議員の任期に関する規定のあり方を含め検討します。 

 

〇憲法裁判所 

・政治、行政に恣意的な憲法解釈をさせないために、憲法裁判所の設置検討など違憲審査機能の拡充を図ります。 

 

〇改正手続き 

・憲法の役割は、国家権力の暴走、多数決の横暴などから、国民の自由や、権利を守ることにあります。したがって、憲法の改正にあたっては、丁寧な議論を積み上げ、広範な合意のもとでの成立を目指すべきであり、その発議に衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成を必要とする考え方には合理性があります。 

 

・憲法解釈を恣意的に歪めたり、改正の中身を問うこともなく、改正手続きの要件緩和を先行させることには、立憲主義の本旨に照らして反対です。 

 

・国民投票法を改正します。国民投票運動等の公正な実施を図り、資金力の多寡等による不公正を防止するため、政党等によるスポットCMを禁止するとともに、運動資金の規制強化、インターネット運動の規制(運動主体の表示)、投票日当日の国民投票運動禁止等を行います。国民投票広報協議会による広報活動を充実強化し、憲法改正に関する国民の判断に資する情報提供・環境整備を推進します。また、国政選挙の選挙期間と国民投票の期日等が重ならないようにします。 

 

〇女性天皇、女性宮家 

・象徴天皇制のもと、歴史上例がある女性天皇の即位を法制上可能とします。これまで前例のない女系天皇については慎重に議論を進めます。また、女性皇族が皇族以外の男性と結婚される場合に、皇籍を離脱せず、女性宮家を創設できるよう、皇室典範を改正します。 

 

4.6)日本共産党 憲法改正(各分野の政策54 2019)(2019年6月)

*安倍政権がすすめる9条改悪反対、

*北東アジアの平和と安定の構築、

*憲法の全条項の厳格な実施 

 

〇「安倍9条改憲サヨナラ」の審判を 

・自民党の9条改憲案には、二つの大問題があります。

 

・第一は、戦力不保持と交戦権の否認を掲げた9条2項の後に、「前項の規定は、…自衛の措置をとることを妨げない」としたうえで自衛隊の保持を明記していることです。そうなれば2項の制約が自衛隊に及ばなくなります。2項は「立ち枯れ」「死文化」し、海外での無制限の武力行使が可能となってしまいます。 

 

・第二は、憲法に明記する自衛隊の行動について、「法律で定める」としていることです。ここにも、ときの政府と多数党の一存で、これまで憲法との関係で「できない」とされてきた自衛隊の行動を無制限に拡大できる仕掛けが盛り込まれているのです。 

ー 安倍9条改憲に反対し、断念に追い込みます。 

 

〇安保法制=戦争法の廃止、大軍拡から軍縮への転換を 

・安倍政権が強行した安保法制=戦争法が施行され、「米軍防護」や日米共同訓練がエスカレートし、米国が起こす戦争に自衛隊が参戦する危険が現実に高まっています。トランプ米大統領は、安倍首相とともに海上自衛隊護衛艦で、「われわれ(日米両国)の軍隊は、世界中で一緒に訓練し、活動している」と演説しています。 

 

・安倍政権は昨年末、新「防衛計画の大綱」「中期防衛力整備計画」を策定し、5年間で27兆4700億円もの軍事費を投入する大軍拡路線をしきました。「いずも」型護衛艦にステルス戦闘機F35Bを搭載するための「空母化」や、長距離巡航ミサイルの導入などは、「専守防衛」の建前をかなぐり捨てるものです。しかもこの大軍拡は、トランプ大統領いいなりにF35をはじめ米国製高額兵器を「爆買い」するものとなっています。 

 

・総費用6000億円以上とされる「イージス・アショア」は、北朝鮮からハワイ、グアムなどに向かう弾道ミサイルを監視・迎撃する「米国防衛」のためのものです。しかも防衛省の調査報告書と住民説明で示したデータは誤りで、必要な津波対策も「不要」としていたなどが明らかになりました。「配備ありき」で住民を無視した強引なやり方も言語道断です。 

ー 自衛隊を海外で戦争させる安保法制を廃止します。

ー 米国兵器の「爆買い」、「空母化」などの大軍拡をやめ、軍縮へ転換します。

ー 「イージス・アショア」の配備撤回を求めます。 

 

〇9条を生かした平和外交―「北東アジア平和協力構想」を推進します 

・自民党は、参院選公約で「力強い外交・防衛で、国益を守る」としていますが、アメリカいいなりで自主性のない安倍外交は、「国益を守る」どころか、「八方ふさがり」に陥っています。いま求められるのは、地域と世界の平和に貢献する、憲法9条を生かした外交です。 

 

・日本共産党は、「北東アジア平和協力構想」を提唱しています。その一番のかなめは、東南アジア諸国連合(ASEAN)が結んでいるTAC(友好協力条約)のような仕組みを北東アジアでもつくり、あらゆる紛争問題を平和的な話し合いで解決することを締約国に義務づけることにあります。対話と交渉によって、朝鮮半島の非核化と平和体制の構築をめざす動きが起こっており、「北東アジア平和協力構想」は現実性と重要性を増しています。 

ー 「北東アジア平和協力構想」を推進し、地域と世界の平和に貢献します。 

 

〔北東アジア平和協力構想〕 

①紛争の平和解決のルールを定めた北東アジア規模の「友好協力条約」を締結する。

②北朝鮮問題を「6カ国協議」で解決し、この枠組みを地域の平和と安定の枠組みに発展させる。

③領土問題の外交的解決をめざし、紛争をエスカレートさせない行動規範を結ぶ。

④日本が過去に行った侵略戦争と植民地支配の反省は、不可欠の土台になる。 

 

〇 変えるべきは憲法ではなく、憲法をないがしろにした政治です 

・日本国憲法は、憲法9条という世界で最もすすんだ恒久平和主義の条項をもち、30条にわたるきわめて豊かで先駆的な人権規定が盛り込まれています。変えるべきは憲法でなく、憲法をないがしろにした政治です。世界に誇る日本国憲法の進歩的な諸条項を生かした新しい日本をつくるために力をつくします。 

ー 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざします。

 

4.7)社会民主党の憲法改正(当面の改憲の論点に関する見解)

2017年 7月20日 第48回常任幹事会 社会民主党常任幹事会) 

〇安倍首相のビデオメッセージ

・安倍首相が5月3日の日本国憲法施行70年の記念日に開かれた改憲派のシンポジウムへのビデオ・メッセージや読売新聞のインタビューで、9条に自衛隊を明文で書き込むという考え方や高等教育の無償化について提起し、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と言明しました。これを受け、自民党憲法改正推進本部は体制を強化し、9月に「たたき台」を作成し、公明党などとの協議を経て11月上旬に改憲案をまとめるとしています。 

 

〇具体的な改憲項目

・現在、自民党憲法改正推進本部では、具体的な改憲項目として、

①9条に自衛隊の根拠規定を追加、

②幼児教育から高等教育までの無償化、

③大規模災害時に国会議員の任期を延長する緊急事態条項の創設、

④参議院選挙区の「合区」解消

の4点を柱に論議が進められています。

 

〇社会民主党の政策

・しかし、9条1項、2項を残すとは言っても、自衛隊の明記は大きな矛盾や危険を有しています。また、高等教育の無償化、参議院選挙の「合区」の解消、緊急事態における国会議員の任期の延長は、憲法の条文自体を改正しなくても対応できるものです。 

・本見解を活用し、各地での改憲阻止・活憲運動を一層強化していきましょう。 

 

〔細部:下記リンク参照〕 

1)憲法9条1項、2項を残しつつ、自衛隊の根拠規定を追加することについて

2)幼児教育から高等教育までの無償化について

3)大規模災害時に国会議員の任期を延長する緊急事態条項の創設について

4)参議院の選挙区の合区の解消について

5)憲法の理念や条項を活かす「活憲」運動を進めよう 

 

当面の改憲の論点に関する見解  


(3)教育改革


引用:Wikipedia

目次

1)教育再生への動き 

 1.1)教育再生会議(平成18年10月)  1.2)教育再生懇談会(平成20年2月) 

 1.3)自由民主党教育再生実行本部(平成24年10月) 1.4)教育再生実行会議(平成25年1月) 

2)歴史教育の改善 

 作業中

3)公民教育の改善の動き 

 3.1)公民教育の現状 3.2)学習指導要領 

4)教育勅語の主旨の復活

 4.1)教育勅語の評価 4.2)教育勅語に示す12の徳目 

 4.3)教育勅語の復活に関するオピニオン「教育勅語を復権しよう」(細川論文) 


 〇概要 

・戦後、占領軍が日本弱体化のため最も力を入れたものの一つが教育改革であった。内閣府の世論調査や世界価値観調査の結果を見ても、その影響は大きく、現在の日本人の自国に対する誇りを喪失させている大きな要因と思われる。 

 

・独立回復後、4.4「教育改革」で述べたような教育改革が試みられてきたが、自分の国に誇りを持たせるような効果はなかったように思われる。 

 

・その後、安倍政権になり、戦後レジュームからの脱却というスローガンが掲げられ、特に、教育改革に取り組んできた。ここでは、安倍政権が取り組んできた教育改革の経緯を振り返って見たい。 

 

①教育再生への動き

②歴史教育の改善の動き

③公民教育の改善の動き

④教育勅語の主旨の復活

 

1)教育再生への動き 

1.1)教育再生会議(平成18年10月) 

〇 改正教育基本法と社会総がかりによる教育再生 

・改正教育基本法と社会総がかりによる教育再生の関係を示したい。同法で、社会総がかりによる教育再生の根拠となる条項は、以下の通りである。

・教育再生会議の報告書は、これらの条項を教育改革に適用しようというものだといえる。 

 

(参考)改正教育基本法の根拠条項

(家庭教育)

第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。 

 

2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。 

 

(幼児期の教育)

第十一条 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。 

 

(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)

第十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。 

 

〇教育再生会議の設置 

・教育再生会議(野依良治座長)は、安倍内閣が教育改革(再生)への取組みを強化するため、平成18年10月10日の閣議決定により設置した機関。会議そのものは内閣に、担当室は内閣官房に属した。 

 

・安倍首相は、著書『美しい国へ』で教育に関する所信を公にし、同会議設置の前段階として、平成18年8月29日の日本政策研究センター主催のシンポジウム『緊急シンポジウム・新政権に何を期待するか』で、安倍政権が誕生した場合、首相直属の「教育改革推進会議」(仮称)を設置するとの見通しが表明されていた。 

 

・安倍内閣が平成19年9月に退陣したため、平成20年1月31日に最終報告を提出し解散した。なお、福田内閣はこの後継組織として教育再生懇談会を設置している。 

 

・かつて平成10年6月に、文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会が、「幼児期からの心の教育の在り方について」と題する答申をした。この答申によって、世に「心の教育」の重要性が知られることになった。当時、いじめ、不登校、荒れる学校等が大きな問題になっていた。 

 

・しかし、現場の教員の多くは「心の教育」に積極的でなく、日教組が打ち出したジェンダーフリーや人権教育が推進された。この8年半、教育現場では性差の解消や児童の人権が熱心に教えられる中、いじめ自殺や校内暴力等が増え、教育問題は深刻化している。折角の中教審の答申は生かされなかった。 

 

・その原因の多くは、政治のリーダーシップの弱さにある。平成14年に首相となった小泉純一郎氏は、「米百俵」の逸話を引いて教育改革に意欲を見せるかと思いきや、経済優先の政策や郵政民営化に熱を上げ、教育問題は置き去りにされた。

 

・今回の教育再生会議の報告は、中教審の答申の二の舞にしてはならない。ここ数年でますます悪化した教育を立て直すには、首相の強いリーダーシップと、全国民参加による取り組みが必要であるといわれていた。

 

〇 経緯

① 平成18年10月10日:安倍内閣が設置を閣議決定。委員も決定。 

 

② 同年10月18日~12月21日:第1回~第4回総会「いじめ問題への緊急提言」(教育再生会議有識者委員一同)(平成18年11月29日)

 

③ 改正教育基本法公布・施行(平成18年12月22日)

 

④ 平成19年1月24日:第5回総会(第1次報告内閣提出)第1次報告書「社会総がかりで教育再生を~公教育再生の第1歩~」(平成19年1月19日)「教育委員会の抜本的見直しについて」(第1分科会)(平成19年)

 

⑤ 同年3月29日~4月23日:第6回~第7回総会

 

⑥ 同年6月 1日:第8回総会(第2次報告内閣提出)第2次報告書「社会総がかりで教育再生を・第2次報告~公教育再生に向けた更なる1歩と「教育新時代」のための基盤の再構築~」(平成19年6月1日)「平成20年度概算要求について」(座長・座長代理)(平成19年8月23日) 

 

⑦ 同年 9月12日:安倍晋三、辞意表明。安倍改造内閣退陣 

 

⑧ 同年 9月26日:福田康夫が首相に就任 

 

⑨ 同年10月23日~12月13日:第9回~第10回総会 

 

⑩ 同年12月25日:第11回総会(第3次報告内閣提出)第3次報告「社会総がかりで教育再生を・第3次報告~学校、家庭、地域、企業、団体、メディア、行政が一体となって、全ての子供のために公教育を再生する~」(平成19年12月25日) 

 

⑪ 平成20年1月31日:第12回総会最終報告を福田内閣に提出会議の解散を決定最終報告「社会総がかりで教育再生を・最終報告~教育再生の実効性の担保のために」(平成20年1月31日) 

 

⑫ 同年2月26日:福田内閣が後継の教育再生懇談会の設置を閣議決定。この中で会議の廃止が正式に決まる。 

 

〇 第1次報告要旨(安倍内閣)(平成19年1月24日) 

「社会総がかりで教育再生を~公教育再生の第1歩~」

・教育再生会議は、平成18年10月に発足したが、メンバーには、共産党の機関誌『赤旗』の寄稿者、ジェンダーフリーやフェミニズムの信奉者、ゆとり教育導入時の文部事務次官等がおり、議論を収拾できるのか案じられが、個々の委員から、ゆとり教育の見直し、いじめへの真剣な取り組み等について真剣な発言がなされた。 

 

・平成19年1月24日の教育再生会議第5回総会において、第1次報告「社会総がかりで教育再生を~公教育再生への第一歩~」が安倍首相に提出された。報告は、教育再生のための当面の取り組みとして、「7つの提言」を挙げ、「4つの緊急対応」を要望している。 

 

●第1次報告内容 

・第1次報告書は、「社会総がかりで教育再生を」と題されている。表題は、全体の主旨を端的に示すものである。

 

・この報告の主旨は、「社会総がかりで教育再生を」訴えることにある。特に公教育の再生のために、「教育再生のための当面の取組」として、「7つの提言」と「4つの緊急対応」を挙げて全国民的な参画を求めるのが、この報告の眼目である。 

 

・ところが、この主旨は、報告書の内容に十分表現されているとは言えないとの評価もある。 

 

Ⅰ)第1次報告にあたっての基本的な考え方

・この報告書は、どういう考え方に基づいて作成されたのか。それを述べているのが、「第一次報告に当たっての基本的考え方」という前文である。最初の部分は次の通り。

1 公教育の再生のために 

 ・私たち教育再生会議は、昨年10月の発足以来、我が国の教育の在り方を根本から見直す作業を進めてきました。私たちは、子供たち一人ひとりが充実した学校生活を送り、自ら夢と希望を持ち、未来に向かって多様な可能性を開花させ、充実した人生を送るために必要な力を身に付けて欲しいと思います。 そして、学校教育とともに家庭教育や大人社会全体の取組を通じて、我が国が永年培ってきた倫理観や規範意識を子供たちが確実に身に付け、しっかりとした学力と人格を磨き、幅広い人間性と創造性、健やかな心身をもって、21世紀の世界に大きく羽ばたいて欲しいと願っています。 

 

・また、我が国は、魅力と実力を高め、国際社会から尊敬と信頼を得なければなりません。グローバルな知識基盤社会の到来で、情報や知識の社会的価値の重要性が格段に高まる中、イノベーションを生み出す高度な専門人材や国際的に活躍できるリーダーの養成が急務です。 近未来の我が国と国際社会の情勢を見据え、世界最高水準の教育を達成しなければなりません。 しかし、今日の学校教育は、学力低下や未履修問題、いじめや不登校、校内暴力、学級崩壊、指導力不足の教員、「事なかれ主義」とも言われる学校や教育委員会の責任体制のあいまいさ、高等教育の国際競争力の低迷など、極めて深刻な状況も見られます。

 

・なかでも、今日の学校は、特に、多くの公立学校が、「しっかりと学力を身に付けて欲しい。いじめや校内暴力のない安心して勉強できる学校であって欲しい」といった保護者の切実な願いにきちんと応えているとは言えず、「公教育の機能不全」と言っても過言ではありません。 

 

・また、教育は保護者の経済力にかかわらず、機会の平等が保証されるべきであり、絶対に教育格差を生み出してはいけません。全ての子供たちが学校で、特に公立学校できちんと良い教育が受けられること。このことをしっかりと実現していかなければなりません。 

 

・この文章は、最初に今日の教育がめざすべき目標を述べている。そして、これに対して学校教育の深刻な現状を対比して、公教育が保護者の願いに応えられていない実態を、「公教育の機能不全」という強烈な言葉で言い表している。 

 

・その「機能不全」に陥っている公教育を再生していくに当たり、「社会総がかり」での取り組みを訴えているところに、この報告書の要点がある。 

 

2 「美しい国、日本」を目指して

 ・報告書は、「公教育の機能不全」を指摘し、「社会総がかり」での取り組みを訴えている。その点に直接触れているのが、2の「「美しい国、日本」を目指して」の一節である。

 

・かつて家族や地域社会が持っていた温かい人のつながりが希薄になる中、家族、地域社会、企業、団体、官庁、メディアなどあらゆる層の人々が、自分たちも「教育の当事者」であるという自覚を忘れ、行動を起こさず、非教育的でさえあることが、現在の教育荒廃を招いた大きな原因の一つであると深刻に受け止めています。 

 

・子供は大人の背中を見ながら育ちます。大人一人ひとりが子供の目標となるよう誠実に努力する必要があります。子供の健全な成育に背を向ける身勝手は許されません。今こそ「社会総がかり」で教育を再生しなければなりません。 

 

・ここでは、現在の教育荒廃を招いた大きな原因の一つに、大人が「自分たちも「教育の当事者」であるという自覚を忘れ、行動を起こさず、非教育的でさえある」ことがあることを指摘し、大人が「誠実に努力する」必要があり、「身勝手」は許されないと言い切っている。そのうえで、「今こそ「社会総がかり」で教育を再生しなければなりません。」と呼びかけている。 

 

3 第一次報告に当たって

・「公教育再生への第一歩として、義務教育を中心に初等中等教育に関する基礎学力、規範意識などを当面の課題として焦点を絞り、学校はもとより教育委員会、家庭、地域社会、企業等が緊密に連携しながら、文部科学省はじめ政府も一体となって「社会総がかり」で取り組む方策について提言を行うことにしました。」 

 

・このように、この報告書は、「『社会総がかり』で取り組む方策」について提言するものであることを述べている。 

 

4 今後の検討と迅速な実行

・そして、4の「今後の検討と迅速な実行」では、教育再生のために政府が一丸となって取り組むよう求めるとともに、全国民に対して、以下のように訴えている。

 

 「保護者の皆様をはじめ、全ての国民の皆様におかれても、教育再生は自らの問題であるとともに、地域、社会、国全体の緊急課題であると捉え、勇気と覚悟を持って一緒に取り組んでいただくことを切望します。」 

 

Ⅱ)教育再生のための当面の取り組み

 〔7つの提言〕

 「7つの提言」は、初等中等教育を中心としたものである。高等教育については、第2次報告で提出されるだろう。今回の提言では、7つのうち、1~3は「教育内容の改革」に関するもの。4は「教員の質の向上」、5~6は「教育システムの改革」、7は「「社会総がかり」での全国民的な参画」に関するものとなっている。 

 

「教育内容の改革」に関する提言としては、

1.『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する。

2.学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする。

3.すべての子供に規範を教え、社会人としての基本を徹底する。

の三つが提示されている。 

 

「教員の質の向上」に関しては、

4.あらゆる手だてを総動員し、魅力的で尊敬できる先生を育てる」

 

「教育システムの改革」に関しては、

.保護者や地域の信頼に真に応える学校にする。

6.教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す。

 

「社会総がかり」での全国民的な参画」に関しては、

7.「社会総がかり」で子供の教育にあたる」が提示されている。 

 

・7つの提言は、それぞれ具体的な提言内容を列記し、実現を強く訴えている。方針や姿勢、方策・手段等が混在したまま発表されたのは、それだけ事態が切迫しているからだろう。 

 

〔4つの緊急対応〕

・報告は、提言を迅速かつ確実に実施することを求める。それだけでなく、「4つの緊急対応」として、以下の対応を強く求めている。 

 

(1)暴力など反社会的行動をとる子供に対する毅然たる指導のための法令等で出来ることの断行と、通知等の見直し(いじめ問題対応)【18年度中】 

 

(2)教育職員免許法の改正(教員免許更新制導入)【平成19年通常国会に提出】 

 

(3)地方教育行政の組織及び運営に関する法律の改正(教育委員会制度の抜本改革)【平成19年通常国会に提出】 

 

(4)学校教育法の改正(学習指導要領の改訂及び学校の責任体制の確立のため)【平成19年通常国会に提出】 

 

・緊急対応の(2)(3)(4)の3法の改正点を見ると、教育現場及び地方教育行政における日教組・全教の影響力を除くことが、中心課題であると思う。教育現場における左翼系組合の支配を打ち破るには、校長の権限を発揮する必要がある。副校長主幹の新設は、校長の指導力を補強するためだろう。 

 

・組合の支配は、教育委員会と組合の癒着によって、地方教育行政にも及んでいる。教育委員会への外部評価の導入や人事権の委譲は、教育委員会の本来の機能を回復するものとなるだろう。 

 

・教員の中には、教育専門職としてよりも、左翼活動に熱心なものがいる。教員免許の更新制等の導入は、こうした教員の違法な活動を取りしまるうえでも有効だろう。 

 

〔教育内容の改革〕

1.「ゆとり教育」を見直し、学力を向上する

 ―「塾に頼らなくても学力がつく」、教育格差を絶対生じさせない―

(1)「基礎学力強化プログラム」

  授業時数の 10%増加、基礎・基本の反復・徹底と応用力の育成、薄すぎる教科書の改善  

  ⇒ 学習指導要領改訂

 

(2)全国学力調査を新たにスタート、学力の把握・向上に生かす 

 

(3)伸びる子は伸ばし、理解に時間のかかる子には丁寧にきめ細かな指導を行う

 ⇒ 習熟度別指導の拡充、体力もつける、地域の実情に留意のうえ学校選択制の導入 

 

2.学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする

(1)いじめと校内暴力を絶対に許さない学校をめざし、いじめられている子供を全力で守る。 

 ⇒ いじめ相談体制の抜本的拡充、荒れている学校をなくすため予算・人事・教員定数で支援

 

(2)いじめている子供や暴力を振るう子供には厳しく対処、その行為の愚かさを認識させる。

 ⇒ 出席停止制度を活用し、立ち直りも支援。警察等との連携。いじめの背景を調査し是正

 

(3)暴力など反社会的行動を繰り返す子供に対する毅然たる指導、静かに学習できる環境

 の構築 ⇒ 18年度中に通知等を見直す 

 

3.すべての子供に規範を教え、社会人としての基本を徹底する

(1) 社会人として最低限必要な決まりをきちんと教える

 ⇒ 家庭、学校、地域の責任、学習指導要領に基づく「道徳の時間」の確保と充実、高校での奉仕活動の必修化、大学の9月入学の普及促進

 

(2)父母を愛し、兄弟姉妹を愛し、友を愛そう

 ⇒ 体験活動の充実 

 

〔教員の質向上〕

4.あらゆる手だてを総動員し、魅力的で尊敬できる先生を育てる

(1)社会の多様な分野から優れた人材を積極的かつ大量に採用する

 

(2)頑張っている教員を徹底的に支援し、頑張る教員をすべての子供の前に

 ⇒ メリハリのある給与体系で差をつける、昇進面での優遇、優秀教員の表彰

 

(3)不適格教員は教壇に立たせない。教員養成・採用・研修・評価・分限の一体的改革 

 ⇒ 実効ある教員評価、指導力不足認定や分限の厳格化

 

(4)真に意味のある教員免許更新制の導入  

 

〔教育システムの改革〕

5.保護者や地域の信頼に真に応える学校にする

(1)学校を真に開かれたものにし、保護者、地域に説明責任を果たす 

 

(2)学校の責任体制を確立し、校長を中心に教育に責任を持つ 

  ⇒ 副校長、主幹等の新設

 

(3)優れた民間人を校長などの管理職に、外部から登用する 

 

6.教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す

 ⇒ 教育再生のためには教育委員会の再生が不可欠。その存在意義を原点に立ち返り根本的に見直す 

(1) 教育委員会の問題解決能力が問われている。教育委員会は、地域の教育に全責任を負う機関として、その役割を認識し、透明度を高め、説明責任を果たしつつ、住民や議会による検証を受ける 

 

(2)教育委員会は、いじめ、校内暴力など学校の問題発生に正面から向き合い、危機管理チームを設け、迅速に対応する 

 

(3)文部科学省、都道府県教育委員会、市町村教育委員会、学校の役割分担と責任を明確にし、教育委員会の権限を見直す。学校教職員の人事について、広域人事を担保する制度と合わせて、市町村教育委員会に人事権を極力、委譲する 

 

(4)当面、教育委員会のあるべき姿についての基準や指針を国で定めて公表するとともに、第三者機関による教育委員会の外部評価制度を導入する 

 

(5)小規模市町村の教育委員会に対しては、広域的に事務を処理できるよう教育委員会の統廃合を進める 

 

〔「社会総がかり」での全国民的な参画〕

7.「社会総がかり」で子供の教育にあたる

(1)家庭の対応 -家庭は教育の原点。保護者が率先し、子供にしっかりしつけをする-

 ⇒「家庭の日」を利用しての多世代交流、食育の推進、子育て支援窓口の整備

 

(2)地域社会の対応 -学校を開放し、地域全体で子供を育てる-

 ⇒ 放課後子どもプランの全国展開、地域リーダー(教育コーディネーター)の活用

 

(3)企業の対応 -企業も「仕事と生活の調和(ワークライフバランス)」を実現し、教育に参画する- 

 ⇒学校への課外授業講師の派遣、子供の就業体験等の積極受入れ、休暇制度の改善・充実

 

(4)社会全体の対応 -有害情報から子供を守る-

 ⇒ 家庭自身がチェック、フィルタリングの活用、企業等の自主規制の一層の強化 

 

Ⅲ) 教育再生に向けての今後の検討課題

・教育再生会議としては、今後、以下に例示する項目について、引き続き幅広い視野から教育再生のための検討を進め、5月に第二次報告を取りまとめ、必要な項目について「骨太の方針2007」に反映させます。 

 

1. 教育内容の改革

・初等中等教育の教育内容について、以下の諸点を検討します。

1)学習指導要領の基本的な在り方、科学技術の進展や社会の変化に迅速に対応するための改訂の方法等についての基本的な考え方 

 

2)科学技術・理科離れを防ぎ、学習指導要領を含めた理数系の教育の在り方について、高度な専門家や学会、大学の協力を得て見直すこと、先端知を高校以下の教育内容にも関連付けること 

 

3)小学校における英語教育の在り方、学校における外国語教育の在り方、また対話・意思疎通能力、批判的・論理的思考力、対人関係能力、問題解決能力の養成の在り方 

 

4)高校における履修漏れの再発を防ぐことも踏まえ、高校における教育内容の見直し 

 

5)教育内容の改革に対応した教科書の在り方や、子供の多様な関心や学習意欲に対応し、発展的な学習や自学自習にも十分活用し得る充実した教科書の在り方 

 

6)学習時間と学習リズムの確保の観点から、学校の休日の見直しや、学校週5日制を見直すこと 

 

7)心身の障害、LD、ADHD等の発達障害、虐待や愛着障害など特別な支援を要する子供や、学習に大きな遅れがあるために個別の補充指導を要する子供に対する、きめ細かいニーズに応じた指導・支援の在り方 

 

8)個々の子供の認知と学習スタイルの多様性を踏まえた指導の在り方 

 

9)規律違反を行う子供や学級経営に携わる教員に対する、科学的根拠のある、いじめや暴力行為等の反社会的行為に対する予防的プログラムやマネジメント方法の導入 

 

10)出席停止になった子供を指導し立ち直らせるための教育施設・指導の在り方 

 

11)高校、専修学校、高専等における社会ニーズに即した教育体制の強化 

 

12)職業教育・産業教育の在り方 等 

 

・このほか、高等教育、幼児教育の教育内容についても、下記3.に関連して検討します。 

 

2. 教員の質の向上 

・教員の養成課程、資格、採用、処遇、研修、分限などあらゆる面から教員の質の向上を図るために、以下の諸点を検討します。 

1) 大学の教員養成の充実と事後評価システムの導入(認定取消等の措置の導入)など、大学における教員養成の在り方

 

2) 国家試験化を含めた教員免許制度の在り方

 

3) 教員としての使命感、人間力を十分見極めることを可能とするための採用システムの在り方

 

4) 子供たちへの教育に情熱を注ぐ優れた教員への処遇、顕彰の在り方

 

5) 採用後の教員が、増え続ける知や社会の変化に対応できるよう、教員の継続教育の在り方

 

6) 外国語教育の強化のため、外国人を教員として採用すること 等 

・また、上記1.及び2.に関連し、知の増大と急速な社会変化に対応した教育内容の改革と、それを教えられる教員の養成、確保のため、これらを新しい視点から実現するための、大学での総合的な仕組み(教育院(仮称))について検討します。 

 

3.教育システムの改革 

(1)教育界の責任体制の確立

・基本的な方向性として、学校現場及び市町村教育委員会に対する分権化を最大限、進めるとともに、学校教育における国、地方公共団体、学校(校長)の責任を明確化する必要があります。具体的には、以下の諸点を検討します。 

1) 学校現場や地方の裁量を大幅に拡大するための分権の推進と、国の役割・責任の明確化及び国の責任を担保するための制度、市町村立学校に対する都道府県教育委員会の関与の在り方など、公教育への国や地方の責任・関与の在り方 

 

2) 学校における教育の成果を点検・保証するための修了試験等や、学校・教育委員会などに対する第三者機関等による外部評価・監査システムの在り方 

 

3) 公立学校(校長)の人事、予算、教育内容についての権限の在り方 

 

4) 教員人事に関する校長・市町村教育委員会の権限の拡大、教員の人事異動の在り方など、教員の人事制度の在り方 

 

5) 複数市町村による教育委員会の共同設置、教育委員会と首長との関係、私学行政の在り方など、教育委員会の役割・権限の在り方 

 

6) 教育委員の職務・勤務形態・人数や事務局体制など教育委員会の組織、教育委員・教育長の人選など、教育委員会の組織の在り方 

 

7) 教育委員の役割、位置付けなど、行政委員会としての教育委員会の在り方 

 

8) 教育委員会の事務権限などを首長に委譲する取組の推進をはじめ、教育委員会の存在の見直し等 

 

(2)幼児教育から大学教育まで一貫した教育システムの在り方 

1) 社会のニーズや学習者のニーズ・適性と発達段階、各段階での教育課題を踏まえた柔軟な教育システムの在り方(幼・小・中・高・大の教育システムの見直し) 

 

2) 学習の成果を客観的に評価し、卒業の認定を厳格に行う仕組み 

 

3) 個々の子供の多様な才能を最大限伸ばす教育システムの在り方 

 

4) 在学年数の柔軟化(いわゆる「飛び級」や「留年」)の在り方 

 

5) 情操教育を含めた、就学前の幼児教育の在り方( 発達段階等に応じた多様な奉仕活動、自然体験等を、教育上有効に活かす指導の在り方 等) 

 

(3)多様な教育の在り方 

1) 働き方、学び方の複線化に対応し、多様なチャレンジを何度でも可能とする教育システムの実現のため、複線的な学校制度、生涯学習、専門教育への支援などの在り方 

 

2) 障害児、不登校、被虐待児など、特別な支援を要する子供、外国籍の子供への義務教育を保証する仕組み 

 

3) 得意なものを更に伸ばしたり、苦手なものを時間をかけて克服したりできる、学校外での多様な学習、文化、スポーツ等の活動機会の充実とこれらにかかわる人材育成、学校教育との連携の在り方 

 

4) 各学校や地域が創意工夫を活かし、既存の制度にとらわれず特色ある先駆的な教育に取り組む ことを国として奨励・支援し、その成果を全国の取組に活かしていくための仕組みづくり(「教育特区」) 

 

5) 学校以外の教育施設において義務教育の履行を認める教育選択の在り方 等 

 

(4)高等教育、特に大学院 

1) 高等教育の国際競争力強化のための「プロジェクトX」(※) 

 

※ 日本の教育システムは幼児教育に始まり、6-3-3-4-X制であり、Xについては専門分野により教育の年限、目的、方策は多様である。ここではXの大学院の教育を中心とした高等教育の改革検討プロジェクトを「プロジェクトX」という。 

 

2) 大学の在り方、社会全体への影響、国際競争力など幅広い観点からの、「9月入学」の検討を含めた大学の入学制度の在り方、大学入試の在り方 

 

3) 大学入試などの「入口」重視のみならず卒業認定などの「出口」重視への方向性 

 

4) 再チャレンジのための中途退学者や社会人入学者に相応しいカリキュラムの確立 等 

 

(5)教育環境の整備 

1) 世界最高水準の教育の実現のために必要な教員の数の確保、教員サポート体制の整備、教育施設の整備、奨学金の充実、授業料等の教育費負担の軽減など、教育を「未来のための重点投資」と位置づけた財政基盤の確保 

 

2) 学校、家庭、地域の連携や地域特性に留意の上、学校選択の結果を踏まえ、児童・生徒数や、教育メニュー、経済的負担の軽減などに応じた予算配分(いわゆるバウチャー制度)など教育機関や教員が切磋琢磨する環境の整備 

 

3) 厳しい状況にある困難な課題を抱えた学校に対し特別な支援を行うこと 等 

 

4.「社会総がかり」での全国民的な参画

・家庭、地域、企業、メディアなどの取組の更なる充実のため、以下の諸点を検討します。

1) 「仕事と生活の調和(ワークライフバランス)」や有害情報対策等について実効をあげるための企業、メディア、家庭等の方策 

 

2) 家庭における生活習慣の改善や、乳幼児期の子供の親やこれから親になろうとする人が育児について学ぶ「親学」や親を支援する諸制度の充実などの方策 

 

3) 学校や学校運営協議会、地域で教育や子供の問題に取り組む組織等に対する寄附税制の在り方など、地域ぐるみの取組を推進するための方策 

 

4) 学校外での社会教育、青少年活動、文化・スポーツ活動等の振興と関係機関の連携協力など、子供・青少年の健全育成に係る社会や地域の総合力を高めるための方策 

 

5) 子供の教育と成長発達を保障する観点からの監督・監査機関やこれらを保障するための関係府省の垣根を越えた横断的・具体的な教育・支援内容の充実 等 

 

5.改革の具体的実践の重視

・以上のほか、当会議が取りまとめた「いじめ問題への緊急提言」の実践状況を含め、改革の内容について、具体的な行動計画を策定し迅速に実行し、フォローアップを行う仕組みについても検討します。 

 

〇第5回総会での安倍総理挨拶

・阿部総理大臣は、第5回総会において、次のような挨拶をした。

 

 「教育再生は、私の内閣の最重要課題というだけでなく、現在そして将来の日本にとって最も大切な課題であります。今こそ私達が責任を持って教育再生に取り組まなければなりません。今後、この第1次報告の内容の実現に向けて、内閣をあげて取り組んでいくことをお約束します。

 

 また緊急対応が必要な問題については、いじめ問題の対応は、現行法でできること、出席停止制度の活用や通知等の見直しを早急に詰め、また法律の改正に関しては、三法(学校教育法、地方教育行政法、教育職員免許法)の改正に向け今通常国会において法案を提出し、教育再生について『待ったなし』であるという強い意志を示していきたい」と述べた。 

 

〇報告への対応

・教育改革は、まさに「待ったなし」の課題である。今回出された報告の内容には、現行法ですぐできることと、法律の改正を要することがある。

 

・「4つの緊急対応」のうち、第一の「暴力など反社会的行動をとる子供に対する毅然たる指導のための法令などでできることの断行と、通知などの見直し」は、本年度中つまり3月末までの実施をめざしている。これは、体罰に関する定義の見直しを含むものだ。

 

・また、緊急対応の第2から第4は、教育三法のすみやかな改正を求めるものである。安倍首相は、これを受けて、25日にはじまった通常国会で教育三法改正の実現に意欲を明らかにしている。

 

〇第2次報告要旨(安倍内閣)(平成19年6月1日) 

・「社会総がかりで教育再生を~公教育再生に向けた更なる一歩と『教育新時代』のための基盤の再構築」(平成19年6月1日) 

●はじめに(抜粋)

1.第二次報告のとりまとめに当たって

・第2次報告では、「学力」向上のための「ゆとり教育」見直しの具体策を提言。

 

・今回は、「ゆとり教育見直し」の具体策とともに、「徳育」、「大学・大学院の改革」等に重点を置いて提言。 

 

2.公教育再生のねらい ―「教育新時代に向けて」―

・改正教育基本法を踏まえ、社会総がかりで公教育を再生し、「教育新時代」を切り開いていく。

 

・乳幼児から社会に巣立つまで子供たちの年齢や発達段階に応じ、一貫した教育を切れ目なく行う。

 

・全ての子供に基礎学力と規範意識を身につける機会を保障し、教育格差が固定化されないようにする。

 

・個を重視した教育や地域の特性を活かした教育を推進する。

 

・子供や保護者、社会からの信頼に応えるため、学校現場や教育委員会の責任体制を確立。

 

・特に、重要な課題へ重点を絞ること、「いつの時代も全ての子供が身につけるべきもの」と「多様性や個性の尊重」のバランスをとること、教育界への信頼を保つこと、現場教員をはじめ教育関係者、そして国民一人ひとりの皆様との協働という視点に立つことを重視しました。 

 

3.目指す人間像 ―子供たちに身につけて欲しい力―

・高い学力と規範意識を身につけ、知・情・意・体、すなわち、学力、情操、意欲、体力の調和の取れた徳のある人間に成長すること。一人ひとりが夢や希望を持ち、社会で自立して生きていくために必要な基礎的な力をしっかり身につけた人になることを望んでいます。子供たち一人ひとりがその可能性を最大限伸ばし、開花させ、幸せな人生を送れるようにする。

 

・グローバルな大競争時代に必要な最先端の「知」を生み出し、イノベーションを起こせる人材の育成や、国際社会で活躍できるリーダーを育成する。このような人を育成するため、就学前から大学院までの年齢段階を視野に入れ、以下のような力を身につけることが必要だと考えます。 

 

第一に、学びの基礎となる、基本的生活習慣、学習習慣、読書習慣、体力 

 

第二に、基礎的・基本的な知識・技能、知的好奇心、豊かな情操、学ぶ意欲・態度、忍耐力、チャレンジ精神 

 

第三に、基礎・基本を応用し、課題を発見。自ら考え、判断・解決する能力、志、公共 

 

第四に、それらを実社会や職業生活で生かしていくための行動力、協調性、コミュニケーション能力、思考力、創造力、リーダーシップ 

 

第五に、イノベーションを生み出すための高度な独創性、専門性、国際性 

 

●具体策 

I) 学力向上にあらゆる手立てで取り組む――ゆとり教育見直しの具体策 

・第一次報告で提言した「ゆとり教育」見直しの具体策として、授業時数の増加の方策や魅力ある授業、教員の質の向上、学校の機動的対応や創意工夫を支援する具体策を提言している。 

(ゆとり教育見直しの具体策)

提言1 授業時数10%増の具体策

【夏休み等の活用、朝の15分授業、40分授業にして7時間目の実施など弾力的な授業時間設定、必要に応じ土曜日の授業も可能にする】 

 

提言2 全ての子供にとって分かりやすく、魅力ある授業にする

【教科書の分量を増やし質を高める、主権者教育など社会の要請に対応した教育内容・教科再編、全教室でITを授業に活用、「教育院」構想、全ての子供一人ひとりに応じた教育】 

 

提言3 教員の質を高める、子供と向き合う時間を大幅に増やす

【社会人採用のための特別免許状の活用促進、授業内容改善のための教員研修の充実、教員評価を踏まえたメリハリある教員給与体系の実現、教員の事務負担軽減】 

 

提言4 学校が抱える課題に機動的に対処する

【学校の危機管理体制の整備、学校問題解決支援チームの創設、学校、教育委員会の説明責任、全国学力調査の結果を徹底的に検証・活用し、教員定数や予算面で支援】 

 

提言5 学校現場の創意工夫による取組を支援する

【学級編制基準の弾力化や習熟度別指導の拡充、学校選択制を広げる、教材開発など教員のチームによる取組】 

 

II) 心と体――調和のとれた人間形成を目指す 

・いじめや犯罪の低年齢化など子供を取り巻く現状を踏まえると、全ての子供たちが社会の規範意識や公共心を身につけ、心と体の調和の取れた人間になることが重要です。 

・学校と地域が連携しながら徳育を実施し、自然体験や職業体験を行うことで、子供たちは、命の尊さや自己・他者の理解、自己肯定感、働くことの意義、さらには社会の中での自分の役割を実感できるようになります。 

・親子の確かな絆を育む家庭教育や就学前の教育の役割は重要であり、子供の成長とともに親も共に学び、育児を通じて子供がいる喜びを感じるとともに、地域の子供を地域ぐるみで育むことが重要です。 

(心と体)

提言1 全ての子供たちに高い規範意識を身につけさせる

【徳育を教科化し、現在の「道徳の時間」よりも指導内容、教材を充実させる】 

 

提言2 様々な体験活動を通じ、子供たちの社会性、感性を養い、視野を広げる

【全ての子供に自然体験(小学校で1週間)、社会体験(中学校で1週間)、奉仕活動(高等学校で必修化)を】 

 

提言3 親の学びと子育てを応援する社会へ

【学校と家庭、地域の協力による徳育推進、家庭教育支援や育児相談の充実、科学的知見の積極的な情報提供、幼児教育の充実、有害情報対策】 

 

提言4 地域ぐるみの教育再生に向けた拠点をつくる

【「放課後子どもプラン」の全国での完全実施、学校運営協議会の指定促進】 

 

提言5 社会総がかりでの教育再生のためのネットワークをつくる

【校長、教育委員会の意識改革、コーディネーターの養成・確保】 

 

III)地域、世界に貢献する大学・大学院の再生:略 

 

IV )「教育新時代」にふさわしい財政基盤の在り方:略 

 

●第3次報告に向けての検討課題

・教育再生会議では、今後「教育新時代」にふさわしい「社会総がかりの教育再生」の在り方について、12月の第三次報告に向けて、更に検討を進めることとします。

 

・その際、今回の第二次報告の取りまとめに向けた検討の中で、引き続き検討することとされた次に例示する事項を含め、検討を行うこととします。 

 

(検討課題)

1)学校、教育委員会の第三者評価制度

2)教員養成、教員採用など教員の資質向上

3)6-3-3-4制の在り方

4)「教育院(仮称)」構想

5)小学校での英語教育の在り方

6)省庁総がかりで、子供の教育と成長発達を保障する体制の在り方

7)教育バウチャー制

8)学校の適正配置など、効率的な予算配分の在り方

9)育児支援や幼児教育の在り方

10)大学入試の抜本的改革

11)大学学部教育の在り方 、大学・大学院の教育と研究の在り方、及び財政支援の在り方 

 

〇第3次報告要旨(福田内閣)(平成19年12月25日 

 『社会総がかりで教育再生を』~「~学校、家庭、地域、企業、団体、メディア、行政が一体となって、全ての子供のために公教育を再生する~」 

 

●はじめに 

・基本的な考え方:-社会総がかりで、「自立して生きる力」と「共に生きる心」を育むー

教育に求められることは、子供たち一人ひとりの能力を伸ばし、将来に夢や希望をもって、社会を自立して生きる力を育てるとともに、他者に対する思いやりや優しさを持ち、人、社会、自然と共に生きる心を育むことです。このことは如何なる時代にも変わらぬ本質であり、「自立と共生」は、教育再生の重要な方向性と考えます。 

 

・また、教育再生により全ての子供たちに基礎学力と規範意識を身につける機会を保障し、格差を固定させないことは極めて重要です。そのような基盤があってこそ、子供たちが「自立と共生」の大切さを理解し、個の確立と他との絆やつながりの形成が可能となります。

 

・教育再生には、学校のみならず、家庭、地域、企業、団体、行政、メディアなどあらゆる立場の人々が「教育の当事者」であることを自覚し、社会総がかりで愛情を持って取り組むことを強く訴えたい。 

 

●第3次報告の重点 

 -現場が切磋琢磨し、全ての子供の立場に立った教育再生を― 

・第三次報告では、これまでの報告においては十分取り上げることができなかった事項について新たに提言を行うとともに、学力向上、徳育、体育、大学・大学院改革、学校や教育委員会の責任体制など、既にこれまでの報告で示した方向性を更に具体化するための方策を示しています。 

 

・教育再生の原点は、「事なかれ主義」や「悪平等」と批判される状況を排し、真に保護者、子供に信頼される公教育の確立にあります。そのためにはまず、誰が何をすべきか、責任の所在を明らかにしたうえで、責任ある運営を行いうる体制を確立し、情報公開と客観的評価により説明責任を果たす仕組みの構築が不可欠です。 

 

・このような改革を通じて、子供たち、若者が明日に希望をもち、保護者、国民の皆さんが安心して子育てや次世代の育成にあたることのできる、「希望と安心」の教育を実現することができると確信します。 

 

●七つの柱

「七つの柱」とされた報告書の内容は以下の通りである。

  (7つの柱)

1. 学力の向上に徹底的に取り組む ~未来を切り拓く学力の育成~

1)全国学力調査、PISA調査の結果を徹底的に検証し、学力向上に取り組む

2)「6-3-3-4制」を弾力化する

3)英語教育を抜本的に改革する、今の時代に求められる教育を充実させる

4)「大学発教育支援コンソーシアム」の推進により新しい教育モデルを創出し、実証する 

 

2. 徳育と体育で、健全な子供を育てる ~子供たちに感動を与える教育を~

1)徳育を「教科」とし、感動を与える教科書を作る

2)運動・食育・生活習慣が一体となった体力向上とスポーツの振興を図る

3)体験活動により子供の心と体を育てる 

 

3. 大学・大学院の抜本的な改革 ~世界トップレベルの大学・大学院を作る~

1)大学・大学院教育の充実と、成績評価の厳格化により、卒業者の質を担保する

2)国立大学法人は、学部の壁を破り、学長リーダーシップによる徹底したマネジメント改革を自ら進める

3)「国際化」「地域再生」に貢献する大学を目指す

4)大学・大学院を適正に評価するとともに、高等教育への投資を充実させる 

 

4. 学校の責任体制の確立  ~頑張る校長、教員を徹底的に応援する~

1)学校のマネジメント改革を行い、校長がリーダーシップを発揮できるようにする

2)子供の教育に専念できるよう教員を応援する 

 

5. 現場の自主性を活かすシステムの構築 ~情報を公開し、現場の切磋琢磨を促し、努力する学校に報いる~

1)学校の情報を公開し、保護者、地域の評価、参加により、学校の質を向上する

2)適正な競争原理の導入により、学校の質を高める

3)多様な分野の優れた社会人等から教員を大量に採用し、学校を活性化させる

4)教員養成を抜本的に改革する

5)学校の適正配置を進め、教育効果を高める 

 

6.社会総がかりでの子供、若者、家庭への支援~青少年を健全に育成する仕組みと環境を~

1)子供、若者、家庭に対し、教育、福祉、警察、労働、法務等の連携システムを作り、総合的に支援する

2)有害情報から子供を守るため、全ての子供の携帯電話にフィルタリングを設定する

3)幼児教育を充実する、子育て家庭、親の学びを地域で支援する

 

7. 教育再生の着実な実行

1)動き出す教育再生

2)教育再生の実効性の担保、フォローアップ 

 

〇 最終報告(福田内閣)(平成20年1月31日)

『社会総がかりで教育再生を(最終報告)』~教育再生の実効性の担保のために~ 

・内容的には新提言の追加なし。第1次から第3次までの報告に盛り込まれた事項について「すべて具体的に実行されてこそ初めて意味を持つ」と政府に具体的取り組みを求めたのみ。 

 

●はじめに

・教育再生の原点は、保護者はもとより、国民、社会全体から信頼され、期待される教育の実現です。教育再生会議の委員の議論の結晶が、第1次から第3次までの報告です。国民一人ひとりがあらゆる場を通じて、教育再生に参画することをお願いしたいと思います。

 

・これまで「臨時教育審議会」、「教育改革国民会議」を通じ、日本の教育制度の根幹に関る改革が提言されてきましたが、それらの提言は十分教育現場に反映されているとは言い難い状況にあります。 

 

・教育は国家百年の大計です。知・徳・体のバランスのとれた教育環境が整備され、健やかな子供が育まれることは国民の願いです。特に、最近の社会状況に鑑み、学校教育における徳育の充実が不可欠です。

 

・さらに、「知」の大競争がグローバルに進む時代にあって、今、直ちに教育を抜本的に改革しなければ、日本はこの厳しい国際競争から取り残される恐れがあります。

 

・効率化を徹底しながら、メリハリを付けて教育再生に真に必要な予算について財源を確保し、投資を行う必要があります。 

 

●提言の実現に向けての主項目

・教育再生のための課題は多岐にわたります。私たちは、教育内容の改革、教員の質の向上、教育システムの改革、社会総がかりでの国民的参画、改革の具体的実践の重視を柱として、21世紀における我が国の教育を再生していく上で重要と考える事項に絞って提言を行ってきました。これら第一次報告から第三次報告までの提言は、全て具体的に実行されてこそ初めて意味を持ちます。

 

・提言を実行するための具体的な動きが国、地方公共団体、学校、家庭、地域社会、企業等、社会全体で始まることが大切で、これらの取組をフォローアップしていくことが求められます。その中で主な項目を挙げれば、次の通りです 

 

(1)教育内容

(心身ともに健やかな徳のある人間を育てる

1)徳育を「教科」として充実させ、自分を見つめ、他を思いやり、感性豊かな心を育てるとともに人間として必要な規範意識を学校でしっかり身に付けさせる。

2)家庭、地域、学校が協力して「社会総がかり」で、心身ともに健やかな徳のある人間を育てる。

3)体育を通じて身体を鍛え、健やかな心を育む。

4)「いじめ」、「暴力」を絶対に許さない、安心して学べる規律ある教室にする。

5)体験活動、スポーツ、芸術文化活動に積極的に取り組み、幼児教育を重視し、楽しく充実した学校生活を送れるようにするとともに、ボランティアや奉仕活動を充実し、人、自然、社会、世界と共に生きる心を育てる。 

 

(学力の向上に徹底的に取り組む)

1)「ゆとり教育」を見直し、授業時数を増加する。夏休みや土曜日の活用など弾力的な時間設定で基礎学力の向上を図る。

2)教科書の内容を充実させ、発展学習や補充学習に役立つものとする。伸びる子は伸ばし、理解に時間のかかる子供には丁寧に教える。学習指導要領を随時見直す。

3)英語教育を抜本的に改革するため、小学校から英語教育の指導を可能とし、中学校・高校・大学の英語教育の抜本的充実を図る。

4)子供たちの学習へのモティベーションを高めるため、分かりやすく魅力のある授業を工夫する。宿題・テストの活用、朝の読書活動、優れた先輩・社会人・大学教授などの授業を導入し「学習意欲」「学習習慣」を育てる。

5)「画一主義」、「形式主義」を改め、子供たち一人ひとりの可能性を最大限伸ばす。

6)大学と教育委員会等のネットワークである「大学発教育支援コンソーシアム」を推進し、大学の英知を学校教育の改善に活かす。 

 

(2)教育現場

1)一人ひとりの子供の能力を最大限伸ばし、卒業後にこの学校で学んで良かったと心から思える学校づくりを目指す。

2)「閉鎖性」、「隠蔽主義」を排し、地域や保護者に出来るだけ情報を公開し、多様な人材が学校に関わり改革を支援できるようにする。

3)「悪平等」を排し、教育現場の切磋琢磨を促し、頑張る学校、教員を支援する。

4)「責任体制」を確立し、危機管理を徹底するとともに、校長を中心としたマネジメント体制を構築

5)文部科学省と教育委員会は学校を信頼し、各学校の前向きの改革・改善の努力を積極的に支援する。 

 

(3)教育支援システム

1)「責任と権限」を明確にし、国、教育委員会、学校の役割分担を引き続き見直す。

2)「事なかれ主義」を改め、教育委員会は、地域に対する説明責任を全うし、学校の課題に機動的に対応する。

3)行政の「縦割り」を打破し、教育、福祉、警察、労働、法務等関連するすべての分野の行政が協力して総合的に青少年の健全育成を図る。 

 

(4)大学・大学院改革  

 

(5)社会総がかり

1)国民一人ひとりが「当事者意識」をもって、学校、家庭、地域、企業、団体、メディア、行政などあらゆる主体がそれぞれの役割を自覚し、教育再生に積極的に参画する。

 

2)それぞれが「連携」を図り、責務を果たすことによって、以上のような教育再生を実現する。 

 

〔提言項目〕

・報告書本文の「別添」で、これまでの報告における提言のうち以下の項目の速やかな実施・検討を求めている。(フォローアップのためのチェックリスト)

 

A.直ちに実施に取りかかるべき事項 

①徳育と体育の充実

1)徳育の充実(「新たな枠組み」による教科化、多様な教科書・教材)

2)体験活動の推進(小学校での自然体験・農山漁村体験、中学校での社会体験、高等学校での奉仕活動)

3)いじめ問題への対応(反社会的行動を繰り返す子供への毅然とした指導など)

4)体力の向上、学校給食を通じた食育 

 

②学力の向上

1)ゆとり教育の見直し、学力向上の具体策(全国学力・学習状況調査の結果検証、授業時間の増、学習指導要領の弾力化、教科書の質量充実、習熟度別・少人数指導、特別支援教育体制の強化など)

2)小学校の専科教員の配置(理科、算数、体育、芸術など)

3)英語教育、理科教育の抜本的改革 

 

③教員の質の向上

1)教員免許更新制、教員評価、指導力不足認定、分限の厳格化、メリハリある教員給与(部活動手当の引上げ、副校長、主幹教諭の処遇など)

2)社会人等の大量採用(特別免許状、特別非常勤講師により、今後5年間で2割以上を目標に)③IT化、共同事務処理など教員の事務負担の軽減 

 

④教育システムの改革

1)学校の責任体制(副校長、主幹教諭等の配置、校長裁量経費、教員の公募制など校長の裁量・権限の拡大や任期の延長、優れた民間人の校長等への登用、組合との関係の是正)

2)現場の自主性を活かすシステム(学校の情報公開、第三者評価、「学校選択制と児童生徒数を勘案した予算配分による学校改善システム」)

3)学校の適正配置の推進

4)教育委員会の改革(いじめ対応、情報公開、住民、議会による検証、小規模市町村教育委員会の広域化など)

5)学校問題解決支援チームの5年以内の全国設置

6)公教育費マップ(地方交付税措置されている図書費、教材費、IT整備費、放課後子どもプラン実施費などの地方における措置状況)の作成・公表

7)「大学発教育支援コンソーシアム」構想の推進 

 

⑤大学・大学院の改革

1)大学教育の質の保証(卒業認定の厳格化)

2)国際化を通じた大学・大学院改革(9月入学の大幅促進、英語による授業の大幅増加(当面30%を目指す))

3)世界トップレベルの大学院教育(国内外に開かれた入学者選抜、コースワーク、大学院への早期入学、大学院生への経済的支援)

4)国立大学法人の更なる改革(国立大学・学部の再編統合、学長選考などマネジメント改革、学部の壁を越えた教育体制)

5)地方の大学教育の充実(国公私を通じたコンソーシアム、大学院研究科等の共同設置)# 大学・大学院の適正な評価と高等教育への投資の充実(基盤的経費の確実な措置、競争的資金の拡充、評価に基づく重点的な配分、大学の自助努力を可能とするシステム) 

 

⑥社会総がかりでの対応

1)家庭・地域・学校の連携の強化(放課後子どもプランの全国での完全実施、学校支援地域本部の全国展開、親の学び)

2)俗悪番組、出版物、ゲームの有害情報に対するメディアやスポンサー企業の自粛・自主規制

3)ワーク・ライフ・バランスの促進に向けた環境作り

4)社会総がかりでのネットワークの形成 

 

B.検討を開始すべき事項

①徳育と体育の充実

1)国のスポーツ振興策の在り方(スポーツ庁の創設など) 

 

②学力の向上

1)「6-3-3-4制」の弾力化(小中一貫校、飛び級の検討、大学への飛び入学の促進など) 

 

③教員の質の向上

1)メリハリある教員給与体系の実現(教職調整額の見直し)

2)教員養成の抜本的な改革 

 

④教育システムの改革

1)広域人事の担保と市町村教育委員会への人事権の委譲 

 

⑤大学・大学院の改革

1)大学全入時代の大学入試の在り方 

 

⑥社会総がかりでの対応

1)子供、若者、家庭に対する教育・福祉・警察・労働・法務等の連携による総合支援

2)携帯電話のフィルタリング義務付け

3)幼教育の充実(幼児教育の無償化) 

 

1.2)教育再生懇談会(平成20年2月) 

・教育再生懇談会は、平成20年2月26日に福田康夫内閣によって設置された内閣直属の教育に関する諮問会議である。鳩山由紀夫内閣発足後の平成21年11月17日廃止。 

 

〇設立

・安倍内閣が設置し、平成20年1月31日に解散した教育再生会議の後継の組織である。

・教育再生会議がその解散時に提出した「最終報告」には次のような文言がある。

 

・教育再生会議の役割はこの最終報告で終了した。 今後、最も重要なことはこれまで報告書で提言した事項の制度化・仕組みづくりを進め、具体的な教育現場での改革に如何に結びつけるか、提言の実現とフォローアップである。 

 

・また、第1次から第3次報告が提言に終わることなく、教育再生が現実のものとなるよう、国、地方公共団体、学校等における実施状況を評価し、実効性を担保するため新たな会議を内閣に設けることが極めて重要である。これを受ける形で、平成20年2月26日の閣議決定で本懇談会が設置された。決定ではその趣旨を次のように述べる。 

 

「活力ある日本、世界に貢献する日本を支えるのは人である。社会が大きく変化する時代にあって、明日の日本を担う若者を育てるためには、学校のみならず、家庭、地域、行政が一体となって、不断に教育の改革に取り組んでいく必要がある。このため、21世紀にふさわしい教育の在り方について議論するとともに、教育再生会議の提言のフォローアップを行うため、教育再生懇談会を開催する。」 

 

〇沿革

1)平成20年1月31日 - 前身の「教育再生会議」が最終報告を提出して解散

2)平成20年2月26日 - 教育再生懇談会の設置を閣議決定

3)平成20年5月26日 - 「小中学生には携帯電話機を持たせない」「小学校3年生から英語を必修化」「小中高の英語教員にはTOEIC受験義務化」などの提言を盛り込んだ第一次報告書を提出。

4)平成21年3月11日 - 新たな構成員を加えることが発表された。

5)以後休眠。

6)平成21年11月17日廃止。 

 

1.3)自由民主党教育再生実行本部(平成24年10月)

「国と郷土を愛する」、政策で誇りある日本の再生急ぐ

・わが党は、重要課題と位置付ける経済再生と教育再生への取り組みを強化するため、日本経済再生本部と教育再生実行本部を立ち上げた。党則83条に基づく総裁直属の機関として設置し、全党的な議論を行う。

・わが党は、政策面で行き詰まりを見せる民主党政権に終止符を打ち、具体的な対策を提示することによって誇りある日本の再生を急ぐ。 

 

〇総選挙の政権公約への反映 

●教育再生実行本部での安倍晋三総裁の挨拶 

・平成24年10月23日、教育再生実行本部の初会合の冒頭挨拶で「(安倍内閣の下で)教育基本法を全面改正し『我が国と郷土を愛する態度を養う』などの教育目標を定めたが、この精神は教育現場に生かされていない」と述べ、教育改革を停滞させた民主党政権を批判した。

 

・さらに、道半ばとなっている安倍内閣の教育改革を成し遂げる決意を表明した。 同本部は「基本政策」、「いじめ問題対策」、「教科書検定・採択改革」、「大学教育の強化」、「教育委員会制度改革」の分科会を設置。各分科会で週1、2回の会議を開き、専門的な議論を積み重ねた上で11月中に中間報告をまとめる方針。

 

・「安倍カラー」の一つとして次期総選挙の政権公約に反映させる。 

 

●自民が掲げる教育分野の政権公約

1)学制「6・3・3・4」の見直し

2)教科書検定基準の改善

3)いじめ防止対策基本法の制定

4)首長が任命する教育長を教育委員会の責任者とするなどの教委制度改革

5)教員の政治的中立の徹底

6)青少年健全育成基本法の制定

7)幼児教育の無償化

8)高校在学中に何度も挑戦できる達成度テスト創設

9)大学の秋入学を促進 

 

〇教育再生実行本部 各分科会中間取りまとめ(要点)

・教育再生実行本部の記者会見(公開日: 2012年11月20日 | 投稿者: 下村博文)

・教育再生実行本部では中間取りまとめを行い、本日記者会見を行い発表した。

・5つの分科会でそれぞれ取りまとめをしたが、1枚のペーパーにまとめると以下の通りであり、政権奪還をできたらすぐ着手すべき内容が整理されたと考えている。 

 

1)子供の成長に応じた柔軟な教育システムへ(基本政策分科会)

・現在の単線型でなく、多様な選択肢(複線型)を可能とするため、6・3・3・4制の見直しにより、「平成の学制大改革」を行う。

・5歳児教育を幼稚園の活用を含め、義務教育化する。 

 

2)大学入試の抜本改革(大学教育の強化分科会)

・高校在学中も何度も挑戦できる達成度テストの創設などを行い、大学入試を大幅に変える。 

 

3)大学の質・量両面の充実・強化(大学教育の強化分科会)

・「大学力」は国力そのものであり、大学教育の見直しや、質・量ともに世界トップレベルの大学強化などを行う。 

 

4)ギャップターム、9月入学の促進(大学教育の強化分科会)

・高校卒業から入学までのギャップターム(半年間)などを活用した大学生の体験活動の必修化や、学生の体験活動の評価・単位化を行う。 

 

5)形骸化している教育委員会の抜本的な見直し(教育委員会制度改革分科会)

・いじめ問題でも露呈した現行の無責任な教育行政システムを是正するため、首長が議会の同意を得て任命する『常勤』の『教育長』を、教育委員会の責任者とするなど、教育委員会制度を抜本改革する。 

 

6)国が公教育の最終的な責任を果たす(教育委員会制度改革分科会)

いじめの隠ぺいなど、地方教育行政において、法令に違反している、あるいは児童生徒の『教育を受ける権利』を著しく侵害するおそれのある場合、公教育の最終責任者たる国が責任を果たせるよう改革する。 

 

7)『いじめ防止対策基本法』の制定(いじめ問題対策分科会)

今すぐできる対応策(いじめと犯罪の峻別、道徳教育の徹底、出席停止処分など)を断行するとともに、政権奪還後に、直ちに『いじめ防止対策基本法』を成立させ、統合的ないじめ対策を行う。 

 

8)いじめ対策に取り組む自治体を支援(いじめ問題対策分科会)

『いじめ防止対策基本法』を制定することにより、各自治体のいじめ防止対策について、国が財政面などでの支援を行う際の強力な裏付けとする。 

 

9)子供たちに日本の伝統文化に誇りを持てる教科書を(教科書検定・採択改革分科会)

『教育基本法』が改正され、新しい学習指導要領が定められたが、いまだに自虐史観や偏向した記述の教科書が多い。子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる教科書で学べるよう、『教科書検定基準』を抜本的に改善する。あわせて、「近隣諸国条項」も見直す。 

 

10)世界のリーダーとなる日本人を育成できる、力ある教師を養成(基本政策分科会)

「教師インターンシップ」を導入するなど、教師力向上のための改革を行う。 

 

※政権再交代 「教育再生」 標的は教育委員会(毎日新聞 2012年12月25日 東京朝刊)

・自民党の安倍晋三総裁は「教育再生」にこだわりを見せている。いじめ問題などの対応を巡って「十分に機能しなかった」として教育委員会制度の改革を政権公約に盛り込み、教科書検定基準の見直しも掲げている。これらは06〜07年の前政権時にやり残した課題だ。 

 

・安倍総裁は前政権時に首相の私的諮問機関「教育再生会議」を設けた。ノーベル賞受賞者の野依良治理化学研究所理事長を座長に、1年3カ月の議論を重ね、「愛国心」を盛り込んだ教育基本法改正や「ゆとり教育からの脱却」を目指した学習指導要領の改定を実行した。だが思い描いた教育改革は道半ばで終わった。 

 

・「子供の命を守り、未来を守るのは政治の最大の責任だ」。衆院選翌日の記者会見で安倍総裁は教育再生にかける思いを表現した。 

・前政権時、児童・生徒の命にかかわる場合は、文部科学相が教育委員会に対し法令違反の是正指示ができるよう地方教育行政法を改正した。国の関与を強める内容だ。だが、全国でいじめ自殺が相次いだ今年を含め、是正の指示は一度も出されていない。

 

・安倍総裁は記者会見で「なぜ(発動されない)か真剣な反省をしないといけない」と不満を見せた。 

 

・教育委員会制度の改革は、民主党もマニフェストに掲げたが、成果を残せなかった。教育委員会制度の改定には国が3分の1、地方が3分の2を負担する義務教育費など国と地方自治体の関係も議論する必要がある。

 

・また、文科省が進めてきた地方分権に逆行する恐れもあり簡単ではないのだ。 

 

・自民党の教育分野の公約は「教育再生実行本部」がまとめた。本部長の下村博文衆院議員は前安倍政権の官房副長官。五つある分科会の座長は、教育再生会議メンバーだった義家弘介参院議員(当時)らが務めた。 

 

・下村氏や義家氏が口をそろえるのが「教員の政治的行為の制限に罰則を設ける」法改正だ。教育委員会改革の背後には、教員を管理する教育委員会への不満も見える。 

 

・安倍総裁はアジア諸国に配慮した教科書検定の「近隣諸国条項」の見直しも公約に掲げる。

 

・昨年、下村氏との月刊誌の対談で「(前政権時に)学習指導要領も変えたが、日本の伝統文化や皇室に対する敬意をはぐくむと書いてあるにもかかわらず、教科書会社は逆行する教科書を作り始めている。危機感を強く持っている」と不満を示す。 

 

・教育改革の根幹は「子供たちのためになるかどうか」が唯一の物差しだ。安倍総裁が目指す「教育再生」は子供たちをどの方向に導こうとしているのか。 

 

1.4)教育再生実行会議(平成25年1月) 

〇「教育再生実行本部」⇒「教育再生実行会議」

・安倍晋三首相が本気で「いじめ対策」に乗り出した。直属の「教育再生実行本部」(仮称)を1月中旬にも設置する方針を固めたのだ。以前の安倍内閣で設置した「教育再生会議」を事実上復活させて、官邸主導での教育改革を目指すという。 

 

・再生本部には、安倍首相と、菅義偉官房長官、下村博文文部科学相ら閣僚に加え、学識経験者や経済人ら十数人がメンバーとなる見通しで、月2回程度の本部会合を開催する方向。

 

・いじめ問題への対応強化や教育委員会制度の在り方見直しをはじめ、「6・3・3・4」の学制改革や、大学の9月入学促進、教科書検定基準の「改善」といったテーマについても検討し、提言をまとめる方針だ。 

 

〇教育再生実行会議 民間有識者15人を発表 < 2013年1月10日>

・政府は10日、安倍首相が官邸に立ち上げる「教育再生実行会議」のメンバーに内定した民間の有識者15人を発表した。座長には早稲田大の鎌田薫総長をあてる。

 

・教育再生実行会議は、第1次安倍内閣が2006年に設置した教育再生会議の後継という位置づけ。 

 

・安倍首相のブレーンで「新しい歴史教科書をつくる会」元会長の八木秀次・高崎経済大教授や、保守系の論客として知られる作家の曽野綾子氏を起用。河野達信氏は日本教職員組合(日教組、約26万9千人)に対抗する保守系教職員団体、全日本教職員連盟(約2万1千人)の委員長を務めている。 

 

・教育再生実行会議は、安倍政権の看板政策の一つである「教育再生」の実施に向けて、首相自らが諮問する会議で、今後、月に約2回のペースで話し合い、いじめ対策や教育委員会制度の抜本的改革、6334制の見直しを含む学校制度改革などについて、政策提言をまとめることになる。

 

 再来週にも、1回目の会合を行う予定。

【委員】

1 鎌田薫 (早大総長)[教育再生実行会議] 委員は 訴訟・仲裁・仲介のベテラン

2 佃 和夫(三菱重工業㈱会長) [教育再生実行会議] 委員と安倍総理

3 大竹美喜(アフラック最高顧問) [教育再生実行会議] 委員は アジアのスター

4 尾﨑正直(高知県知事)【高知県】知事とEMグループ

5 貝ノ瀬滋(東京都三鷹市教育委員会委員長) [教育再生実行会議] 委員は 【夢育】提唱者

6 加戸守行(前愛媛県知事) [教育再生実行会議] 委員と 日本工業新聞社・倫理法人会

7 蒲島郁夫(熊本県知事) [教育再生実行会議] 委員は 安倍総理の相談役

8 川合真紀(東大教授)( [教育再生実行会議] 委員  夫: 川合知二氏

9 河野達信(全日本教職員連盟委員長) [教育再生実行会議] 委員と教育行政

10 佐々木喜一(成基コミュニティグループ代表) [教育再生実行会議] 委員は 塾の猛烈経営者

11 鈴木高弘(専修大付属高校長) [教育再生実行会議] 委員は [親学] 仲間

12 曽野綾子 [教育再生実行会議] 委員 

13 武田美保(スポーツコメンテーター) [教育再生実行会議] 委員は [特任]教授   夫: 鈴木英敬氏

14 八木秀次(高崎経済大学教授) [教育再生実行会議] 委員 = 教科書改善

15 山内昌之(東大名誉教授) [教育再生実行会議] 委員とフジTV・三菱・読売新聞  

 

   

教育再生実行会議で挨拶をする安倍総理(総理官邸ホームページから) 

 

・平成25年1月24日、安倍総理は総理大臣官邸で、教育再生実行会議を開催し、次のような挨拶をしました。

 

  (安倍総理挨拶)

・教育再生は経済再生と並ぶ、日本国の最重要課題であります。もちろん、安倍政権にとりましても最重要課題であります。

 

・「強い日本」を取り戻していくためには、日本の将来を担っていく子供たちの教育を再生することは不可欠でございます。教育再生の最終的な大目標は、世界のトップレベルの学力と規範意識を身に付ける機会を保障していくことであります。 

 

・第1次安倍内閣においては、約60年ぶりに教育基本法を改正し、教育の目標として、「豊かな情操と道徳心を培うこと」、「伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する態度を養うこと」などを明確に規定をいたしました。

 

・また、教育再生会議においては、社会総がかりで教育再生に係るための方策を議論し、改正教育基本法を実現するための学校教育法など「教育三法」の成立や約40年ぶりの全国学力学習状況調査の実施などを結実させたところでございます。 

 

・しかしながら、その後の教育現場は残念ながら、改正教育基本法の理念が実現したとは言えない状況にあります。いじめ・体罰に起因して子供の尊い命が絶たれるなど痛ましい事案は断じて繰り返してはならないと思います。

 

・私は教育再生に取り組む決意を新たにして、第2次安倍内閣において、下村文部科学大臣に教育再生担当大臣を兼務させ、内閣を挙げて教育再生に取り組む体制を整えたところでございます。 

・私が主催する教育再生実行会議では、教育再生の実行を強力に皆様と共に進めていきたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

2)歴史教育の改善

  作業中

 

3)公民教育の改善の動き 

3.1)公民教育の現状(引用:Wikipedia) 

 公民教育とは、高等学校における教科「公民」についての教育活動・内容などの総称。 中学校における社会科教育における公民的分野(政治・経済・社会問題などを扱う)との関連が強く、広義にはこれらの内容も含まれる。 

 

〇 概要 

 学習指導要領によれば、公民教育の目標公民的資質の形成とされている。高等学校においては現代社会政治・経済倫理の3つの教科が定められており、「現代社会」または「政治・経済」と「倫理」のどちらかを履修しなければならない。多くの高等学校では、「現代社会」を1年次に履修する形がとられている。 

 ただし、多くの高等学校ではこれらの分野は軽視され、専任の教諭がいなかったり、必要最低限度の授業しか行われなかったりしている。このことは、大学入試でこれらの科目を要求する大学・学部が少数であることと関連している。 

 

〇 公民教育の内容 

 公民教育における教育内容を大まかに分けると、次のようなものになる(但し以下の区分は、教育行政や諸学会において明示された区分ではない)。 

政治領域 = 国際政治も含まれる。また関連領域として法も扱われる。

経済領域 = 国際経済も含まれる。また関連領域として金融や流通も扱われる。

倫理領域 = 哲学・倫理学の内容。また科学技術についても触れられることがある。

社会領域 = 現代社会の諸問題(特に青年期の問題)を扱う。 

 これ等のこれらの内容のうち、「現代社会」ではすべてを網羅的に、「政治・経済」では政治領域経済領域を中心に、「倫理」では倫理領域社会領域を中心に扱う。 

 

〇 教員養成に関する課題 

 日本で高等学校「公民」の教員免許を取得する際には、教育職員免許法施行規則第五条に基づき、次の内容を含む科目を規定単位数以上(それぞれ2単位以上)履修する必要がある。2010年2月現在、中学校「社会」・高等学校「公民」の教員免許は教員養成系や社会科学系の多くの大学・学部(通信教育を含む)で取得可能である。 

 

政治学(国際政治を含む)または法律学(特に憲法学。国際法を含む)

経済学(国際経済を含む)または社会学

哲学、倫理学、宗教学、心理学

公民科教育学(中学校の場合は社会科教育学) 

 教育職員免許法施行規則の規定から、公民教育が取り扱うべき分野全てを履修していなくても教員免許は取得可能である。公民教育で取り扱うべき学問領域が多岐にわたるためか、免許取得可能な大学・学部が他の教科以上に多いが、他方で教科「公民」の高等学校での需要は(特に大学受験にかかわって)あまり高くない。よって、免許取得者の多さと高等学校での需要の低さから教員採用試験でも高倍率になりやすく、複数免許(特に「地理歴史」)の免許取得が事実上必須となる。 

 なお、中学校「社会」の免許取得のためには、公民教育が扱う分野以外に日本史、外国史(西洋史、東洋史)、地理学の単位を各2単位ずつ履修する必要がある。 

 

3.2)学習指導要領

高等学校学習指導要領解説 公民編(平成21年12月 (平成26年1月 一部改訂) 文部科学省)

第1章 総 説

第1節 改訂の趣旨

1改訂の経緯 /2改訂の趣旨 /3改訂の要点 

 

第2節 公民科の目標

 広い視野に立って,現代の社会について主体的に考察させ,理解を深めさせるとともに,人 間としての在り方生き方についての自覚を育て,平和で民主的な国家・社会の有為な形成者と して必要な公民としての資質を養う。 

 

第3節 公民科の科目編成

  現 代 社 会 2 単 位   倫 理 2 単 位  政治・経済 2 単 位

 

第2章 各科目

第1節 現代社会

1 科目の性格と目標 

〔目標〕人間の尊重と科学的な探究の精神に基づいて,広い視野に立って,現代の社会と人間につい ての理解を深めさせ,現代社会の基本的な問題について主体的に考察し公正に判断するととも に自ら人間としての在り方生き方について考察する力の基礎を養い,良識ある公民として必要 な能力と態度を育てる。 

 

2 内容とその取扱い

(1) 私たちの生きる社会

現代社会における諸課題を扱う中で,社会の在り方を考察する基盤として,幸福,正義,公 正などについて理解させるとともに,現代社会に対する関心を高め,いかに生きるかを主体的 に考察することの大切さを自覚させる。

 

(2) 現代社会と人間としての在り方生き方

現代社会について,倫理,社会,文化,政治,法,経済,国際社会など多様な角度から理解 させるとともに,自己とのかかわりに着目して,現代社会に生きる人間としての在り方生き方 について考察させる。 

 

(3) 共に生きる社会を目指して

持続可能な社会の形成に参画するという観点から課題を探究する活動を通して,現代社会に 対する理解を深めさせるとともに,現代に生きる人間としての在り方生き方について考察を深 めさせる。  

 

3 指導計画の作成と指導上の配慮事項(略) 

第2節

1 科目の性格と目標

〔目標〕人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念に基づいて,青年期における自己形成と人間として い の在り方生き方について理解と思索を深めさせるとともに,人格の形成に努める実践的意欲を 高め,他者と共に生きる主体としての自己の確立を促し,良識ある公民として必要な能力と態 20 度を育てる。 

 

2 内容とその取扱い

(1) 現代に生きる自己の課題

 自らの体験や悩みを振り返ることを通して,青年期の意義と課題を理解させ,豊かな自己 形成に向けて,他者と共に生きる自己の生き方について考えさせるとともに,自己の生き方 が現代の倫理的課題と結び付いていることをとらえさせる。

 

(2) 人間としての在り方生き方

 自己の生きる課題とのかかわりにおいて,先哲の基本的な考え方を手掛かりとして,人間の 存在や価値について思索を深めさせる。

(3) 現代と倫理

 現代に生きる人間の倫理的課題について思索を深めさせ,自己の生き方の確立を促すととも に,よりよい国家・社会を形成し,国際社会に主体的に貢献しようとする人間としての在り方 生き方について自覚を深めさせる。 

 

3 指導計画の作成と指導上の配慮事項(略) 

 

第3節 治・経済

1 科目の性格と目標

 広い視野に立って,民主主義の本質に関する理解を深めさせ,現代における政治,経済,国 際関係などについて客観的に理解させるとともに,それらに関する諸課題について主体的に考 35 察させ,公正な判断力を養い,良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。 

 

2 内容とその取扱い

(1) 現代の政治

 現代の日本の政治及び国際政治の動向について関心を高め,基本的人権と議会制民主主義を 尊重し擁護することの意義を理解させるとともに,民主政治の本質について把握させ,政治に ついての基本的な見方や考え方を身に付けさせる。

 

(2) 現代の経済

 現代の日本経済及び世界経済の動向について関心を高め,日本経済のグローバル化をはじめ とする経済生活の変化,現代経済の仕組みや機能について理解させるとともに,その特質を把 15 握させ,経済についての基本的な見方や考え方を身に付けさせる。

 

(3) 現代社会の諸課題

 政治や経済などに関する基本的な理解を踏まえ,持続可能な社会の形成が求められる現代社 会の諸課題を探究する活動を通して,望ましい解決の在り方について考察を深めさせる。 

 

3 指導計画の作成と指導上の配慮事項(略) 

 

第3章 各科目にわたる内容の取扱い 

1 情報の活用と作業的,体験的な学習(第3款の1) 

  各科目の指導に当たっては,次の事項に配慮するものとする。

(1) 情報を主体的に活用する学習活動を重視するとともに,作業的,体験的な学習を取り入れ るよう配慮すること。そのため,各種の統計,年鑑,白書,新聞,読み物,地図その他の資 料を収集,選択し,それらを読み取り解釈すること,観察,見学及び調査・研究したことを 10 発表したり報告書にまとめたりすることなど様々な学習活動を取り入れること。

 

(2) 資料の収集,処理や発表などに当たっては,コンピュータや情報通信ネットワークなどを 積極的に活用するとともに,生徒が主体的に情報手段を活用できるようにすること。その際, 情報モラルの指導にも留意すること。 

 

2 政治及び宗教に関する事項の取扱い

 内容の指導に当たっては,教育基本法第14条及び第15条の規定に基づき,適切に行うよう 特に慎重に配慮して,政治及び宗教に関する教育を行うものとする。 

 

3 総則関連事項 

(1)道徳教育との関連(第1章第1款の2)

 学校における道徳教育は,生徒が自己探求自己実現に努め国家・社会の一員としての自  覚に基づき行為しうる発達の段階にあることを考慮し、人間としての在り方生き方に関する教育を学校の教育活動全体を通じて行うことにより,その充実を図るものとし,各教科に属する科目総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて,適切な指導を行わな ければならない。

 

 道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重  の精神生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生か い し,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に 努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のあ ひら る日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。

 

 道徳教育を進めるに当たっては,特に,道徳的実践力を高めるとともに,自他の生命を尊 重する精神自律の精神及び社会連帯の精神並びに義務を果たし責任を重んずる態度及び人 権を尊重し差別のないよりよい社会を実現しようとする態度を養うための指導が適切に行わ れるよう配慮しなければならない。 

 

(2) 学校設定科目(第1章第2款の4)

 学校においては,地域,学校及び生徒の実態,学科の特色等に応じ,特色ある教育課程の編成に資するよう,上記2及び3の表に掲げる教科について,これらに属する科目以外の科 目(以下「学校設定科目」という。)を設けることができる。

 この場合において,学校設定科目の名称,目標,内容,単位数等については,その科目の属する教科の目標に基づき,各学校の定めるところによるものとする。  

 

(3)言語活動の充実(第1章第5款の5の(1))

 各教科・科目等の指導に当たっては,生徒の思考,判断力,表現力等をはぐくむ観点か ら,基礎的・基本的な知識及び技能の活用を図る学習活動を重視するとともに,言語に対す る関心や理解を深め,言語に関する能力の育成を図る上で必要な言語環境を整え,生徒の言 語活動を充実すること。

 

(参考資料) 我が国における「国連持続可能な開発のための教育の10年」実施計画(略) 

 

4)教育勅語の主旨の復活

4.1)教育勅語の評価 

・教育勅語は、正式には教育ニ関スル勅語といい、明治23年に発表された、第2次世界大戦前の日本の教育の根幹となった勅語である。儒教道徳を元にしたことが記載されている。 

 

〇 肯定的評価

*日本の伝統的道徳観が込められており、一種の模範となるものがあってもいいのではないか 

 

〇 否定的評価

*第2次世界大戦末期に過剰な神聖化がなされた経緯もあり、思想や良心の自由を否定している。 

 

*軍人の規律を説く軍人勅諭と同列のものであり、軍事教育や軍国主義につながる。占領統治時代に連合国軍によって廃止されたのはこの理由から。 

 

*教育の根本に天皇中心の国体思想を据えたこと自体が問題である。

 

「教育勅語の基本的趣旨は、その冒頭における、天照大神に起源する(皇祖)歴代皇統(皇宗)の徳治と臣民全体のそれへの終始変わらぬ忠誠の関係、つまり皇国史観により捉えられる君臣関係を軸とする国家構成原理、すなわち『国体』にこそ、日本の教育の淵源が存すると規定したところにある。」

との意見がある。 

 

*また、教育勅語に示されている徳目は「歴史的にこの国の民衆の間に形成されてきた通俗道徳項目に過ぎない」として、重要なのはそれらの徳目が「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に構造づけられていたこと、すなわち、「日本における道徳は、すべて天皇制の発展に寄与してこそ、はじめて意味を持つということになっていた」ことであるとの指摘もある。 

 

4.2)教育勅語に示す12の徳目 

・教育勅語には、道徳項目が主に12個示され、12の特目などと呼ぶ。 

(12の徳目)

1)親に孝養をつくしましょう(孝行)

2)兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)

3)夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)

4)友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)

5)自分の言動をつつしみましょう(謙遜)

6)広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)

7)勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)

8)知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)

9)人格の向上につとめましょう(徳器成就)

10)広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)

11)法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)

12)正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)  

 

4.3)教育勅語の復活に関するオピニオン「教育勅語を復権しよう」(細川論文)

            2002.12.7  http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm

 <目次>

第1章 教育と心の再生のために

第2章 教育勅語が発布された理由

第3章 立案された過程

第4章 教育勅語を読んでみよう

第5章 教育勅語の構成と内容

第6章 発布してどうだったか

第7章 教育勅語が廃止された事情

第8章 廃止に法的効力があるかは疑問

第9章 教育勅語を否定したがために

第10章 教育勅語の復権を 

 

第1章 教育と心の再生のために 

・わが国では戦後、道徳教育が、ほとんど行われてきませんでした。大東亜戦争の敗北と戦勝国による日本弱体化政策の影響です。そのため戦後世代は倫理観が低下し、今日ではいじめ、不登校、学級崩壊等が深刻な問題となっています。 事態を改めるには、教育を改革しなければなりません。そして、道徳教育を復活、推進しなければなりません。そのためには、戦後教育を規定している教育基本法を改正するとともに、わが国の教育の理念・目標を示した教育勅語の復権が必要です。

 

・戦前のわが国には、伝統に基づく道徳教育が行われていました。子供の心に規範意識をはぐくむものがありました。それが教育勅語です。教育勅語は、明治23年に明治天皇より賜ったお言葉であり、わが国の教育の理念・目標が説かれています。そして、戦前は、教育勅語の示す理念・目標の下に、教育が行われていました。その核となったのが、修身と呼ばれた道徳教育です。 

 

・しかし、戦後GHQによって教育勅語は廃止を余儀なくされてしまいました。そして、そのまま捨てて顧みられずにいます。このことが、今日の教育危機や青少年の心の荒廃の一つの重要な原因となっているのです。このまま、教育勅語を忘れ去っていると、日本の教育は益々荒廃し、日本人の心はいよいよ頽廃し、ひいては日本が亡国に至る恐れがあります。日本の教育と日本人の心の再生のためには、教育勅語の再評価と復権が必要です。 

 

第2章 教育勅語が発布された理由 

・どうして、教育勅語というものが、発布されることになったのでしょうか。

 

・明治維新後、西洋列強の脅威の中で独立を維持するため、日本は西洋の文化を積極的に採り入れ、自国の近代化を推し進めました。文明開化・富国強兵・殖産興業が目標とされました。 

 

・こうしたなかで、明治5年5月、学制が発布され、近代国民を創出する教育が開始されました。「一般人民邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」との趣旨に基づいて発布された学制は、国民すべてが学校教育を受けることを目指しました。江戸時代に発達していた寺子屋教育を下に、全国的に近代的な学校教育が急速に普及しました。 

 

・学制の主眼は「学問は身に立つるの財本」とする功利主義的学問観に立つ実用的な教育でした。こうして始まった近代教育は、西洋文明を模倣することに急なあまり、自国の学問をないがしろにしていました。とりわけ道徳教育を軽視していました。学制と同時に定められた「小学教則」において、修身の時間は最も下位に置かれました。その教科書もほとんどが欧米の道徳・法律書の類を翻訳したものでした。 

 

・明治天皇は西洋模倣の教育を深刻に憂慮し、明治11年に教学刷新についての示唆を与えました。これは後に「教学大旨」としてまとめられました。その内容は、道徳あるいは仁義忠孝を主に学び、その上で知識才芸を究め、それによって人道をつくすことが柱となっています。さらに同15年には、侍講の元田永孚に命じて、幼児のための教訓書である「幼学綱要」を編ませました。

 

・しかし、世は鹿鳴館の舞踏会に象徴される欧化主義の時代でした。思想界、教育界の混迷は収まらず、道徳教育に関する課題はそのままとなっていました。

 

・勅語煥発の直接のきっかけは、明治19年10月、明治天皇の東京帝国大学行幸でした。天皇の行幸ならびに明治天皇の教育観を、元田が記録したのが「聖諭記」です。当時のわが国の指導者たちは、まず軍事技術で欧米に追いつかなければならないと考えていました。産学が一体になって技術革新に取組む必要があり、日本の大学が理工系を中心とするようになっていました。 

 

・明治天皇は、大学の何もかもが西洋一辺倒になっていることにひどく驚きを感じました。これでは、日本の歴史、伝統、文化、精神が吹き飛んでしまう。西欧の科学教育のみでは人材を作ることができない。道徳を基礎として、その上で西欧の科学を学ぶようにしなければ、真の人材を育成できないーーこう憂えた明治天皇は、これからの教育のよりどころとなるものが必要だと考えました。

 

・また、一方、明治23年に地方長官会議で、知育の一方のみ進んで徳育が進まないことを憂える知事たちから、徳育の教えを確立してほしいとの建議が内閣に対して出されました。要望の理由としては、当時の教育界には欧米の「豪傑」を理想としたり、欧米崇拝、伝統無視の風潮が強くなっていました。特に洋行帰りで西洋かぶれになった学士会の影響が地方や学生にまで及んでいました。

 

・そこで、地方長官たちは、教育のこの状態は日本の将来のために良くないとして、徳育の基本方針を立てることを提案したのです。こうした国民からの要望に応える必要もありました。 

 

第3章 立案された過程 

・教育勅語の最初の草案を書いたのは、中村正直でした。これは天・神などの宗教的概念を使い、西欧思想に基づく中村流の哲学理論によって道徳の根源を明らかにするという性格をもっていました。これは多くの問題点が指摘されて事実上廃案となりました。 

 

・中村に代わって起草に携わったのが、当時法制局長官だった井上毅です。井上は草案作成に当たり、7つの前提条件を立てました。

1)まず、今日の立憲主義に従えば、君主は臣民の良心の自由に干渉してはなりません。

2)そこで教育の方向を示す勅語は、「政事上之命令」ではなく、

3)「社会上之君主の著作公告」として発せられるべきであるという原則を示しました。

4)その上で、宗教上の争いを引き起こす可能性のある「天を敬い、神を尊ぶ」のような語を使用しないこと、

5)必ず激しい論争を招く「幽遠深微なる哲学上の理論」にわたるのを避けること、

6)天皇の真意ではなく時の政治家の示唆によるものと受け取られるような「政治上之臭味」を帯びないこと、

7)「漢学の口吻と洋風の気習」を吐露しないこと

等を、前提条件として挙げました。 

 

・井上はこれらの前提条件の下に教育勅語を起草しました。これに、彼と同郷(熊本藩)の儒学者・元田永孚が協力して草案を作りました。天皇からもいくつか要望が出され、さらに修正が加えられました。そして明治23年10月30日に発布されました。 

 

・元田が井上の意見を尊重したので、井上の基本方針は最後まで貫徹されました。それは、法律と異なり大臣の副署がないこと、天・神などの用語を使わないこと等に表われています。

 

・しかし、勅語の発布形式は井上の構想と異なり、天皇が首相・文相を宮中に召して親しく勅語を下され、文相は直ちに全国に発布するという形となりました。 

 

第4章~第6章 略 

 

第7章 教育勅語が廃止された事情 

・ところが、大東亜戦争の敗戦によって、わが国は外圧によって、教育勅語を失うこととなりました。米国を中心とする連合国は、わが国を占領し、占領政策を行いました。占領政策の目的の一つは、彼らに対する日本の「脅威」の除去にありました。GHQは、日本を弱体化するために、軍事的な武装解除だけではなく、日本人の「精神的な武装解除」を行おうとしました。

 

・そこで重視されたものの一つが、教育でした。GHQは、わが国の教育を改変するため、多方面に渡る政策を相次いで強行しました。彼らは戦前の教育から「軍国主義」また「超国家主義」を取り除こうとしたのです。そこで難題となったのが、教育勅語でした。 

 

・注意したいことは、GHQの幹部は、教育勅語それ自体は何ら悪いところはないと考えていたことです。内容よりも、戦前のわが国で行われていた勅語の解釈や運用を問題としたのです。 

 

・GHQの民間情報教育局(CIE)の教育課長H・G・ヘンダーソンは「非常に家族主義的であることを除いて、勅語それ自体は悪いところはない」と考えました。問題は勅語が「軍国主義的狂信的愛国主義者」によって悪用されたことであり、「御真影」(天皇の写真)の前で行われる「勅語奉読の儀式」は、「天皇の神格性の観念を説くのに役だった」から「少なくともその悪影響を除去したかった」と、考えたのです。 

 

・しかし、ヘンダーソンは、勅語の廃止を直接命じることは「天皇に対する侮辱であり、ゆえに、日本人が百人おれば、95人が個人的侮辱とみなすだろう」と懸念していました。そこで、ヘンダーソンは勅語の超国家主義的解釈については、最終的にはそのような解釈を公的に否定する「日本側からの権威ある声明」を得ることを目指しました。それに応える形で昭和21年1月1日に発せられたのが、いわゆる天皇の「人間宣言」です。 

 

・わが国の政府は、教育勅語を何らかの形で維持することを希望していました。昭和21年7月、田中耕太郎文相は議会で教育勅語擁護論を表明しました。このことにより、CIEと文部省との間で折衝が重ねられました。その結果、10月8日に、文部省が各学校にあてて、次のような通牒を発することで、一応の決着が図られました。 

 

・通牒は、

1)教育勅語を我が国教育の唯一の淵源とする従来の考えを改め、古今東西の倫理・哲学・宗教などにも求める、

2)式日などに行ってきた勅語奉読を止める、

3)勅語・詔書の謄本などは従来同様に学校で保管するが、それらを神格化するような取り扱いはしない、

というものです。 

 

・CIEとしてはこれでほぼ満足し、これ以上深入りしないという姿勢を示しました。これで決着がつけば、わが国は、教育勅語に関する戦時中の極端な傾向を改めたうえで、本来の内容を戦後の教育に生かしていくことができたはずです。ところが、戦前のわが国のあり方を何もかも悪いものとみなす米国務省は、教育勅語を全面禁止とすることを決定しました。また、日本占領の最高機関として連合国で構成する極東委員会も、同主旨の指令を発しました。

 

・GHQの内部で、この方針を忠実に実行しようとしたのが、民政局(GS)でした。民政局は、日本占領において内政一般を所掌しており、教育を管轄するCIEとは別の部署です。GSはCIEの権限を侵さずに実を得る巧妙な方法を考えました。国会で教育勅語の廃止を決議させるという方法です。

 

・国会課長のJ・ウイリアムスは衆参両院の文教委員長を呼び、教育勅語の廃止決議を行うよう口頭で命令しました。当時は占領下です。銃砲の下での圧力に屈し、昭和23年6月19日、衆議院は「教育勅語等排除に関する決議」を行い、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行いました。こうして教育勅語事実上、廃止されるに至りました。 

 

第8章 廃止に法的効力があるかは疑問 

・教育勅語が廃止される前に、昭和22年3月、戦後教育を規定することになる教育基本法が制定されました。教育基本法の制定にあたり、わが国の政府は、教育基本法は教育勅語を否定して制定するものではないと考えていました。道徳としての教育勅語としての教育基本法セットとしてとらえていたのです。 

 

・しかし、国会決議によって教育勅語が廃止されたことにより、教育勅語と教育基本法を補完的なものとする政府文部省の公的見解が、否定されてしまったのです。明星大学の高橋史朗教授は、昭和56年にアメリカで発見した占領文書などを研究し、このことによる問題点を明らかにしました。 

 

・教育基本法の立法者意思は、教育勅語を否定していませんでした。当時の高橋誠一郎文相は、「教育勅語とこの教育基本法との間には、矛盾と称すべきものはないのではないかと考えておる」「決してこれに盛られている思想が全然誤っており、これに代わる新しいものをもってするという考えはもって」いないと答弁しています。しかし、GHQ民政局の口頭命令によって強要され、国会決議にて教育勅語は廃止されたのです。 

 

・しかし、この国会決議が有効なものかどうかには、問題がある、と高橋教授は指摘していす。そもそも教育勅語は、起草者の井上毅が「政事上ノ命令ト区別シテ社会上ノ君主ノ著作公告」として起草したものでした。当時、天皇の詔勅には大臣の副署がつけられて、法律となりました。しかし、井上の構想に基づいて、教育勅語には副署がつけられませんでした。法律ではなく、教育に対する天皇からの呼びかけという形をとったからです。それゆえ、教育勅語は「社会上ノ君主ノ著作公告」という性格のものであり、法的効力をもつものではありません。 

 

・GHQ製の戦後憲法は、第98条第1項に、「この憲法は,国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない」と定めています。しかし、教育勅語は、この条規に反する詔勅には該当しないものだったのです。高橋氏によれば、「教育勅語は天皇の御言葉であって法的な詔勅ではなく、国会決議で排除することはできない」のです。 

 

第9章 教育勅語を否定したがために 

・戦後日本の教育は、日本国憲法と教育基本法の下で行われてきました。そして、教育勅語は、廃止されたまま顧みられずにきました。その結果、明治天皇がおそれたことが起こっています。繰り返しになりますが、教育勅語は、西洋文明の摂取に急ぐあまりに、伝統的な道徳を軽視していた風潮に対して、わが国の教育の根本となる理念・目標を打ち出したものでした。 

 

・それゆえ、教育勅語を否定すれば、必然的に、学校教育から伝統に基づく道徳が欠落し、西欧の模倣追従となります。同時に、家庭での教育も指針を失ってしまいます。学校で家庭で道徳的な価値観が喪失され、物事の判断基準が見失われます。まさにそれが、戦後日本において起こったのです。 

 

・日本国憲法には、日本の歴史・伝統・精神を守ろうという姿勢がありません。また、教育基本法は日本国憲法の下での教育を定めたものですから、愛国心・公共心の育成伝統の尊重祖先への敬愛自衛心の涵養などが盛られていません。その空隙に教え込まれたのは、外国の思想でした。アメリカ型の民主主義であり、旧ソ連型の共産主義であり、また中国・朝鮮の反日思想です。こうして日本人は、日本の心を失い、独自の精神文化を失ってゆくことになりました。 

 

・そして、日本人は経済的な復興と繁栄を追求するなかで、物質的な豊かさは得たものの精神的な高邁さを失ってしまいました。欲望の開放自由の拡大と錯覚したような、品性のない国民に成り下がってしまったのです。 

 

・教育勅語という支柱をなくした教育が、戦後50年以上も続けられたことによって、教育には甚大な影響が出ています。将来を担う青少年の退廃、堕落は、底知れぬ深刻さを示しています。また、家庭が崩壊に向かい、社会は混乱し、国家の溶解が進んでいます。このまま精神的な支柱を見失っていれば、わが国は、亡国の道を歩むでしょう。 

 

第10章 教育勅語の復権を 

・戦前の教育がすべてよかったわけではありません。欠陥もあれば、ゆき過ぎもあったでしょう。しかし、その中の良いものもすべて否定してしまっては、精神的な低下が起こるのは当然です。 

 

・教育勅語には、何千年もかかって培われてきた日本独自の道徳が結晶しているからです。そえゆえ、教育勅語の再評価と復権を行い、その内容のうち、現代に生かせることは、生かしていくべきなのです。 

 

・ただし、教育勅語の復権だけで充分なのではありません。21世紀において、大きな危機を乗り越えるためには、さらに深く、日本精神の真髄を学ぶことが必要です。またそれによって真の教育改革を実現でき、また新しい日本を築いていくことが初めて可能となるのです。 


参考3 図書紹介『渡部昇一の昭和史』


 (引用:WAC株式会社)

序章 さらば、亡国史観 - 東京裁判が抹殺した「日本の言い分」

 いつまで誤りつづけるのか日本 /戦後処理は解決済みの問題だ

 /最大の問題は「反日的日本人」 /東京裁判の実態は復習の儀式

 /石原将軍いない京裁判 /「勝者の言い分」だけが残った

 /ペリーから始まる日本近代史 

 

第1章 近代日本「奇跡」の源泉 - かくて日本の独立は保たれた

 1 世界史から見た明治維新

  白人支配に屈しなかった唯一のアジア国 /西洋文明の力を知っていた幕末日本

  /万次郎を”発見”した島津斉彬/  

 2 明治の指導者たちの決断

  國づくりのビジョンを求めて /西洋を「見た」ことの重要性

  /欧化政策以外に道はない /怖いのは南下するロシア /朝鮮近代化の期待

  /”大西郷”の存在と征韓論 /西郷の理想とは何であったのか

  /内政問題であった征韓論 /物量の差で薩摩軍は敗れた

  /忘れられた西南戦争の戦訓 

 3 明治憲法制定の意義と瑕疵

  明治憲法制定の最大の理由 /不平等条約解消への必死の努力

  /なぜプロイセン憲法が手本になったか 

  /明治憲法には「首相」も「内閣」もなかった /致命傷は”不磨の大典”

  /実質上の憲法だった「教育勅語」 /貞永以来の二重法制国家

  /生き残る唯一の道、富国強兵・殖産興業 /明治の指導者は”気概の人”たちだった 

 

第2章 日清・日露戦争の世界史的意義 - 「祖国防衛戦争」の意義

 1 朝鮮戦争を助けた日清戦争の義

  福沢諭吉は熱烈な「憂国の士」だった/日清戦争は「余計な戦争」か

  /福沢が援助した朝鮮の開国は/日清戦争は朝鮮の独立を助ける義戦

  /コリア史上初の「帝国」誕生 

 2 世界の日本認識を変えた日英同盟

  三国干渉の理不尽 

  /コリアの伝統「事大主義」とロシア /ロシアによる「元寇」の悪夢

  /欧米社会に充満していた弱肉強食 /世界を驚かせた日英同盟

  /きっかけは義和団の乱 /日本認識を変えたイギリス

  /日英同盟を潰したアメリカの陰謀 

 3 大帝国ロシアになぜ勝利できたか

  開戦の前提にあった高度な外交センス /ロシアの革命勢力を支援した日本軍人

  /勝利を決定した二つの新技術 /下瀬火薬、大艦巨砲時代を開く

  /コサック騎兵に対する「逆転の発想」 /機関銃を初めて実戦で使用

  /常識破りの二万人夜襲作戦 /乃木希典「悪評」の誤り

  /「腹を括れるか」がリーダーの条件 /日本型エリートは何と困った連中か

  /脚気を根絶した海軍の大実験 /陸軍軍医局と森林太郎の犯罪 

 4 日韓併合にまつわる誤解と真実

  植民地としての台湾の場合 /大きな負担となった韓国併合

  /伊藤博文を暗殺した安重根の過ち /併合を進めた日韓同祖論

  /日本のカミと朝鮮のカミ /”内鮮一体”を掲げた日本の理想

  /”歴史慣れ”を「していなかった日本 /結果論からの全否定の誤り

  /戦後補償は”無知”の産物 /誤解と無知の従軍慰安婦問題

  /「パンドラの箱」を開けるな 

 

第3章 なぜ「太平洋戦争」に至ったか - 浮上した両翼の「社会主義」思想

 1 日本を追い詰めたアメリカの脅し

  シナ大陸切取り競争に参入したアメリカ /フロンティアは太平洋の西にあり

  /「清貧が勝って不幸を招く」典型例 /恐怖と増悪が育てた拝日運動

  /拝日移民法が対米感情を逆転させた /日本を追い詰めたアメリカの脅迫 

 2 社会主義礼賛を生んだ「大国の罪」

  ファッショ化は米英が引き金を引いた /浮上した統制経済=社会主義思想

  /ヒトラーとスターリンは”双子の兄弟” /社会主義的経済政策は覚醒剤効果

  /「天皇制の廃止」に恐怖した日本人 /治安維持法は「民衆弾圧の道具」だったか

  /死刑になった共産党員はいない /治安維持法の評価には公正な認識が不可欠だ 

 3 「天皇を戴く社会主義」の台頭

  天皇を戴く社会主義者 /右翼社会主義に飛びついた青年将校 /自由経済への攻撃

  /「クリーンな政治」の恐るべき終着点 /軍部と軌を一にした新官僚

  /「経済版の参謀本部」企画院設立 /今なお残る統制経済政策 

 

第4章 東京裁判史観の大いなる罪 - 歪曲された史実、日本の誤謬

 1 「民族の自決」満州建国の真実

  関東軍暴走の責任は誰にあるのか /居留民保護は”侵略”ではない

  /満州建国には正統な根拠がある /日本の保護を求めた溥儀の意志

  /日本の”大義”とは何か /「五族協和」の理想 

 2 シナ事変勃発の隠された真相

  統帥権の呪縛/盧溝橋事件は中国共産党の陰謀だ /抹殺された通州邦人虐殺事件

  /「誤爆原因説」の真っ赤な嘘 /蒋介石の謀略、第二次上海事変 

 3 作られた「南京大虐殺」の幻

  慎重を期した南京攻略 /突如出現した「南京大虐殺」説

  /なぜ戦後まで報道されなかったか /なぜ中国政府ですら抗議しなかったか

  /いかにしたら「大虐殺」が可能だったか /なぜ1か月後に人口が五万人も増えたか

  /「大虐殺」説の”種火”の真相 /中国兵の集団的不法行為 /掃討戦も「虐殺」か

  /投降兵を殺害したか /捕虜虐待の反日プロパガンダ /便衣隊狩りをねじ曲げる

  /謝罪外交という国賊的行為 /蒋介石が犯した罪 /原爆と無差別爆撃という大虐殺 

 4 日本外交が犯した二つの大罪

  チャーチルが描いたシナリオ「日米開戦」 /マイナス・イメージは真珠湾に始まる

  /「奇襲攻撃」にした外交官の大罪 /誰一人責任を取らなかった体質 

  /省益あって国益なし /」日米交渉には致命的な判断ミスがある

  /陪審員も”皆の衆”制度 /アメリカ型民主主義の本質

  /蒋介石の巧妙的確な対米アプローチ /いまだに教訓を学ばない対米外交 

人種差別の世界を叩き潰した日本 - あとがきにかえて 

追記:2020:1:7


5.4 愚者の楽園からの脱却を!


(1)愚者の楽園からの脱却を! (2)若泉啓氏について

(3)「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」 (4)若泉啓氏関連コメント等 (5)三島事件


(1)愚者の楽園からの脱却を!


(引用:noriokakyouの私見 平成27年2月3日)

〇愚者の楽園からの脱却を! (私見)

 「愚者の楽園」、この言葉は、佐藤首相の密使として沖縄返還に貢献した大学教授若泉敬氏が、平成6年5月、日米首脳会談(昭和44年11月)で交わされた「秘密合意議事録」(核の再持込み・繊維交渉での譲歩)(以下、「密約」)を公表した著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(以下、「他策」)で述べたものである。 

 「他策」公刊以降、歴代政権は「密約」の存在を否定し続けてきた。

  しかし、一昨年、政権交代により密約の再検証が行われ、「密約」原本の存在が判明したこともあり、平成22年3月有識者委員会は、「必ずしも密約とは言えない」と結論付けながら、この交渉に人生を捧げた密使「若泉氏」の存在と「他策」の正確性を認め、報告書の末尾では「若泉―キッシンジャールートが開かれたことは大いに評価できる。」とした。 

 

〔密使役と執筆〕

 若泉氏は、昭和5年、私の義兄と同郷の福井県今立郡服間村横住(現越前市)の生まれで、福井師範学校から東京大学法学部に進み、保安研修所(現防衛研究所)を経て、京都産業大学教授に就任しており、沖縄返還交渉では、安全保障・核戦略分野の国際政治学者として、「戦争で失った領土を武力によらずに取り戻す」という史上類のない難しい仕事に情熱を注ぎ、英米留学中の人脈を生かし、ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官を相手に密使役を務めた。 

 同氏は返還交渉後、現実政治に関与せず学研生活に戻っていたが、昭和55年以降、郷土近くの鯖江市に帰郷して大学の講義や来訪外国要人の接遇を除き縁者とも没交渉の隠棲生活を貫き、「他策」の執筆活動に専念した。 

 

〔公開の心境〕

 若泉氏は、当初「密約」について「墓場までの沈黙」を誓っていたが、後藤氏(後述)によれば、公開の心境を、「沖縄に対する贖罪意識」、「愚者の楽園と化したという憂国の念」、「研究者としての記録の提供」、「国会発言を通じて愚者の楽園と堕した日本の魂に点火し得る可能性」と述べている。

 若泉氏は、将来、米国情報公開法による機密解除が行われることを考慮し、永い遅疑逡巡の末、「国家機密(密約)の暴露」による国事犯として訴追され、「天下の法廷(国会)の証言台」に立つことも覚悟して公表に至ったと述べている。 

 

〔黙殺と英語版〕

 発刊後、羽田首相をはじめ歴代首相・外相は、その禁忌性ゆえに「密約」の存在を否定し続け、大田沖縄県知事から問合せがあったほかは国会喚問等もなく世の中から黙殺された。

 若泉氏は深く失望し、平成6年6月23日、「自責の念と結果責任を取り自栽する」との遺書をしたため沖縄戦没者墓苑に詣でたが思いとどまり、日米関係の現状や沖縄の基地問題を世界に伝えたいとの最後の望みを懸け、平成8年3月、末期がんの苦痛に堪え与那国島にて英語版序文を書きあげている。

 その中では、郷土生れの幕末の志士「橋本左内」や歌人「橘曙覧」にふれながら、「この著作とそこに流れる私の志が日本人の魂に点火し得る可能性に期待する」としている。

 同氏は、平成8年7月27日、自宅において英語版発刊関係書類に署名した直後に水杯で服毒自殺し、義兄と同じ総山墓園(鯖江市)の地球儀を模した墓に夫妻で眠っている。

 同氏の訃報に接し、侍従を通じ今上陛下から弔意が伝えられたという。 

    

(引用:「若泉先生のお墓参り」(さばえ大好きキキのプログ 2011年2月22日)) 

 

〔「他策」での遺言〕

 当時の産経新聞(佐伯記者)(平8年8月)によれば、「若泉敬氏の遺言」として、 

 一つ目は「日本の精神的退廃に対する鋭い警告」であり、生前、自己の訃報記事に跋文(後書き)の一節「敗戦後半世紀間の日本は、『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果、変わることなき鎖国心理の中でいわば“愚者の楽園”と化し、精神的、道義的、文化的に“根無し草”に堕してしまったのではないだろうか」を添えて内外報道陣に送るよう指示していたという。跋文では、日本の前途を憂慮し、新渡戸稲造著の『武士道』を行動指針として、この精神的荒廃を救うよう提唱している。 

 二つ目は「日米同盟関係の再検討と再定義」が必要であるとし、その大前提として「まず日本人が毅然とした自主独立の精神を以て日本の理念と国家利益を普遍的な言葉と気概をもって米国はもとより、アジアと全世界に提示することから始めなければならないと信じている」と述べている。 

 しかし「他策」が発刊されたにも拘わらず、同氏の志や遺言も、歴史の闇の奥深くに置き去りにされようとしていた。 

 

〔「他策」の復活〕

 外務省の密約再検証が契機となり、平成21年10月に文芸春秋刊「他策」が復刻、平成22年1月に岩波書店刊「沖縄核密約を背負って―若泉敬の生涯」(早大後藤乾一教授)が発刊、同年3月には「週刊朝日(19日号&26日号)」で「密約検証結果外伝若泉敬」が連載、そして同年6月にはNHKスペシャルで「密使若泉敬:沖縄返還の代償」が取り上げられた。 

 最近では、平成23年1月、文春新書「評伝 若泉敬―愛国の密使」(帝大森田吉彦講師著)が出版され、同年2月にはTBSシリーズ “ 激動の昭和 ” にて「総理の密使‐核密約42年目の真実」が放映された。これらにより「他策」が歴史の闇の奥深くから再び世の中に姿を現し、私は、同氏の志や遺言が多くの国民に理解されることを期待している。 

 

〔日本の現状〕

 私は、一つ目の警告について、敗戦後のGHQ占領政策に端を発した精神的な武装解除によりこれまでの歴史認識・伝統文化・道徳的価値観が否定され、「教え子を再び戦場に送るな⇒戦争する国家・軍隊に反対」という戦後教育が組織的かつ継続的に行われたことにより、多くの国民から健全な国家観や愛国心が喪失させられ、その影響は、あらゆる分野の中枢にも及んでいるのではないか。 

 二つ目の日米安保の再定義について、若泉氏は、平成8年4月の橋本・クリントン首脳会談で「日米安保共同宣言-21世紀に向けた同盟」が発表されたことに歓喜したという。

 また、同氏の思想は愛弟子の外務省首脳にも受け継がれ、麻生外相(平成18年11月)の「価値の外交」&「自由と繁栄の弧」というビジョン発表につながったといれている。 

 しかし、現在、北方領土・竹島・尖閣諸島の領土問題で安全保障上の懸念が生じる中、普天間移転問題等で日米同盟に揺らぎが出ていると思われるが、国民の危機意識は必ずしも高くない。

 これらを勘案すれば、日本は未だ、若泉氏がいう「愚者の楽園」にとどまっているのではないかと危惧している。 

 

〔楽園からの脱却〕

 若泉氏は、「愚者の楽園」からの再起復興には、「自らの国の安全は第一義的には自らの手で、自らの犠牲で守りぬくという意識」をもつべし、その前提には「自国の国家目的・理念の自覚と忠誠、自主独立の精神」がなければならないとの信念をもっていた。 

 そして、同氏は、新渡戸氏が『武士道』で訴えた「衣食足って礼節を知り、義・勇・仁・誠・忠・名誉・克己」といった普遍的な徳目に裏打ちされた「再独立の完成」と「自由自尊の顕現」を、今後の日本と日本人に期待するとしていた。 

 また、グローバルな根源的危機(戦争)に対処する力は「各民族固有の文化の中にある」とし、国防問題でも皇室を守ることを中心として日本人が団結しなければ実効性を失うとしている。 

 私は、同氏の遺言を真摯にとらえる必要があると思うが、考えてみれば、多くの国民の国防意識は、戦後教育の影響も有り、現憲法の精神に沿った「平和主義」&「安保他国依存」になっている。 

 「愚者の楽園」から脱却するためには、独立国としての理念の確立と物心両面に亘る国防体制が構築できるような憲法に改正することが不可欠のように思う。そのための環境整備の一環として、多くの人に「他策」や関連図書に触れてほしいと念願するものである。

 

※この私見は、ボランティア組織の機関誌に投降したものです。


(2)若泉啓氏について


〇若泉啓氏について 

〔若泉啓氏を取り上げた経緯〕

 若泉氏は、私のふるさと福井県越前市(旧今立郡福間村)の出身で、私の義兄(長姉の配偶者)が若泉氏と同郷で関係があるとのことで、若泉啓氏の著作『トインビーとの対話―未来を生きる』を紹介されたことがきっかけである。その後、ボランティア活動での投稿の機会があり、同氏の他策ナカリシヲ信ゼムト欲スを購入し、『愚者の楽園』という同氏の警告に関心を持ったところです。

 

(引用:amazonHP) 

 

・若泉 敬(1930年(昭和5年)3月29日 – 1996年(平成8年)7月27日)は、日本の国際政治学者。沖縄返還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たしたとされる人物。 

 

1)生涯 

1.1)出自・前半生

・福井県今立郡服間村(現越前市横住)で、父・齊と母・マツエの長男として生まれる。服間尋常小学校卒業後、福井青年師範学校に進学し、後に妻となる根谷ひなをと出会う。 

 

・1949年(昭和24年)福井青年師範学校本科を卒業し、明治大学政治経済学部政治学科に進学するが、1年後の1950年(昭和25年)、東京大学文科一類を受験し合格。在学中、矢崎新二岩崎寛弥佐々淳行粕谷一希福留民夫、池田富士夫などと親交を深め、学生研究会土曜会のメンバーとして活動し、芦田均などの政治家や大山岩雄などの言論人の知遇を得る。 

 

・1952年(昭和27年)に国連アジア学生会議の日本代表としてインドとビルマを訪問し、このときの体験をもとに大林健一の筆名で『独立インドの理想と現実』と題する小冊子にまとめて刊行した。 

 

・1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業後、佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。 

 

・1957年(昭和32年)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了。 

 

・1960年(昭和35年)、米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)に留学。客員研究員として滞在中、マイク・マンスフィールドディーン・アチソンウォルター・リップマンウォルト・ロストウらと面識を持つ。 

 

・1961年(昭和36年)より防衛庁防衛研究所 (当時:防衛研修所) 所員。 

 

・1966年(昭和41年)、創立に貢献した京都産業大学より法学部教授として招聘され、同大学の世界問題研究所所員を兼任し、1970年から1980年まで同研究所所長。 

 

1.2)佐藤首相の密使 

・1966年頃から、面識のあった愛知揆一の紹介で時の首相・佐藤栄作に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。 

 

・翌1967年(昭和42年)、自由民主党幹事長・福田赳夫を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。若泉と会ったのはアメリカ国家安全保障会議スタッフのモートン・ハルペリンであった。ハルペリンは沖縄返還交渉の方針を決めた国家安全保障覚書13号の起草者であった。 

 

・「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年(昭和44年)9月30日、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーより、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された(なお、密使としての活動で、若泉はコードネーム「ヨシダ」、キッシンジャーは「ジョーンズ」を用いた) 

 

・同年11月10日 - 11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、11月21日に発せられた佐藤=ニクソン共同声明で、3年後の沖縄返還が決定されることとなった。 

 

・なお若泉は極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。同書によれば、佐藤とニクソンは、ウエストウイング・オーバルルーム隣の「書斎」で、二人きりになって署名したという(この覚書は佐藤により持ち去られ、のち2009年(平成21年)に本人宅で発見された)。 

 

1.3)後半生 

・その後は現実政治に関与することなく、学究生活に戻った。1970年(昭和45年)から1980年(昭和55年)まで京都産業大学世界問題研究所所長。 

 

・その間、アーノルド・J・トインビーの京都訪問・講演の実現に尽力し、京都産業大学の知名度を高めることに貢献した。 トインビーとの出会いは、後に『トインビーとの対話―未来を生きる』と題する著作に結実する。 

 

・また1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)まで中央教育審議会臨時委員を務めた。 

 

・核時代における日本の平和外交・安全保障政策のあり方についてビジョンを構築し、『中央公論』などの論壇誌でその主張を提示していた。米国の国際問題評論誌『フォーリン・ポリシー』の編集顧問も務めた。 

 

・1980年、東京から故郷・福井に居を移し、中央政界や論壇から距離を置くようになる。1992年(平成4年)の京都産業大学退職時には退職金全額を世界問題研究所に寄付し、同研究所ではこれをもとに「若泉敬記念基金」を設立した。 

 

・1994年(平成6年)、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の上梓後、6月23日付で沖縄県知事・大田昌秀宛に「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁します」とする遺書を送り、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。 

 

・その後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996年(平成8年)7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。 

 

・なお、若泉が「密使」を務めていた時期、学生だった谷内は若泉に師事していた。 若泉の自殺の報を聞いた大田昌秀は「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」とコメントしている。 

 

・死後には日本国内で非武装や日本国憲法第9条の自衛隊も違憲という解釈などあった中で、「自主独立」と「能動的国益」と言われる自らの判断で日本の国益に沿って動くという強烈な意識があった外交官だっため、あらゆる交渉で憲法のため安全保障をアメリカに依存する中で日本寄りの成果をあげたという評価もある。 

 

1.4)死後 

・2002年(平成14年)、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版がハワイ大学出版局から公刊された。また『正論』2006年9月号に、英語版序文の原稿が掲載されている。 

 

・核持ち込みについての密約は、信夫隆司が2002年(平成14年)までに機密指定が解除された米政府公文書から、密約を裏付ける文書を発見した。 

 

・キッシンジャーからニクソンへのメモで、日米間の密約を示す「共同声明の秘密の覚書」の存在に触れ、覚書が「核問題」に関するものであることを明らかにしている。 

 

・日本側での所在は長らく確認されず、日本の政府・外務省は密約の存在を否定していたが、2009年12月に佐藤栄作の遺品にこの密約と見られる「合意議事録」が存在し、遺族が保管していたことが報道された。 

 

・また、2010年(平成22年)3月9日、鳩山政権になってから、外務大臣・岡田克也の命令で、核密約があったか否かを調査してきた有識者委員会(座長:東京大学教授・北岡伸一)は、正式に(広義の)核密約があった旨の調査結果を報告した。

 

・これを受け政府(鳩山内閣)、外務省(岡田外相)はこれまでの、自民党政権および新生党政権下での、公式にはなかったとされてきた見解を改めた。 

 

・ただし、日本国政府が認めたのは初めてであるが、関係者の間では密約はあったというのは半ば常識化されていた。たとえば、この有識者委員会の座長を務めた北岡は、その著書『自民党――政権党の38年』(読売新聞社、1995年)の佐藤内閣の沖縄返還をめぐる記述において、若泉の『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を紹介し、若泉によれば「密約があったという」と記述している。 

 

・2012年に琉球朝日放送(QAB)報道制作局長の具志堅勝也が刊行した著書『星条旗と日の丸の狭間で-証言記録 沖縄返還と核密約』についての書評のなかで大田昌秀はあらためて若泉を「同教授は一見柔和に見えるけど、芯は古武士の風格を備えた人物で、その行為は、他の追随を許さない誠実な人柄による」と評している。

2)著書等

2.1)著作

1)『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』 文藝春秋、1994年5月/改訂版2009年10月、新装版2011年2月

 ●The Best Course Available: A Personal Account of the Secret U.S.-Japan Okinawa Reversion

  Negotiations, edited by John Swenson - Wright (Honolulu: University of Hawaii Press, 2002)

   ISBN 0-8248-2146-7

2)『トインビーとの対話 未来を生きる』 毎日新聞社、1971年/講談社文庫、1982年 

 

2.2)主な関連論文

1)「中国の核武装と日本の安全保障」『中央公論』1966年2月号

2)「核軍縮平和外交の提唱」『中央公論』1967年3月号 

 

2.3)若泉に関する研究・評伝

1)西口和成「沖縄返還と核軍縮-国際政治学者 若泉敬の志」(2006年、京都産業大学所蔵)

2)森田吉彦『評伝・若泉敬-愛国の密使』(2011年1月、文藝春秋〈文春新書〉)

3)「評伝・若泉敬」(『諸君!』、2008年10月号~09年4月号での全7回連載を補正加筆)

4)後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って-若泉敬の生涯』(2010年1月、岩波書店)

5)信夫隆司『若泉敬と日米密約―沖縄返還と繊維交渉をめぐる密使外交』(2012年3月、日本評論社)

6)NHKスペシャル取材班『沖縄返還の代償-核と基地 密使・若泉敬の苦悩』(2012年5月、光文社)

7)具志堅勝也『星条旗と日の丸の狭間で-証言記録 沖縄返還と核密約』(2012年5月、芙蓉書房出版) 

 

2.4)若泉に関する放送番組

1)「NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第7回 沖縄返還 日米の密約 (NHK、1995年10月7日放送)

2)密使 若泉敬 沖縄返還の代償」(NHK、2010年6月19日放送、7月31日再放送 2010年度文化庁芸術祭大賞)

3)総理の密使~核密約42年目の真実~」(TBSテレビ、2011年2月21日放送)

 4)ドラマ・ドキュメンタリー「シリーズ 激動の昭和」(第4弾、ドラマパート)では、三上博史が若泉を演じた。


(3)『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』


『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』若泉 敬【著】文藝春秋(1994/05発売) 

 

 

 単行本 他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 若泉敬    定価:本体2,718円+税    発売日:1994年05月

日米間の最高機密「核」協定

四半世紀の重い沈黙を破って、いま初めて明らかにされる沖縄返還日米首脳秘密交渉の舞台裏!

(引用:文藝春秋BOOKS 

 

1)内容説明(引用:紀伊国屋書店HP) 

・両国外務当局者をすべてはずし、ホワイトハウス大統領執務室に隣接する小部屋で、極秘裏に交わされた沖縄返還・日米首脳交渉「秘密合意議事録」とは何か。戦後史の空白部分の核心を衝く稀有の証言。 

 

2)目 次

第1章 “孤独なる闘い”の始まり 

第2章 「沖縄が還るまで戦後は終らない」

第3章 隠密のホワイトハウス訪問

第4章 1967年日米首脳会談

第5章 幕間の1968年

第6章 ニクソン政権への移行期

第7章 総理の“核抜き”裁断

第8章 佐藤総理・岸元首相とニクソン大統領

第9章 “政治的ホットライン”の開設

第10章 “西部ホワイトハウス”サンクレメンテへの旅

第11章 沖縄の核、そして繊維

第12章 ニクソン大統領の“最後通牒”

第13章 佐藤首相の対案を携えて

第14章 ホワイトハウスでの極秘折衝

第15章 キッシンジャー補佐官と合作した脚本

第16章 核抜き、本土並み、72年返還

第17章 絡みつく繊維

第18章 「後世史家の批評にまつのみ」

第19章 歴史の闇の奥深く 

 

3)出版社内容情報 

・日米間の最高機密「核」協定

・四半世紀の重い沈黙を破って、いま初めて明らかにされる沖縄返還日米首脳秘密交渉の舞台裏! 


(4)若泉啓氏関連著作/コメント等


 

1)『「沖縄核密約」を背負って-若泉敬の生涯』後藤乾一(岩波書店)(2010.03.09)

 

 

 

・ 2009年12月22日、沖縄核密約文書の原本を故佐藤栄作首相の遺族が保管しているニュースが大きく報じられた。その「密約」の「黒子」を演じたのが、若泉敬(本名「たかし」、外国人には「けい」で知られる)であった。本書は、無告の民や歴史の脇役を通して、時代や社会の本質に迫る研究書で知られる後藤乾一の新刊である。個人的にも大学1年生の時から交流があり、「密約」を明かした遺著の「最初の読み手」(?)となった著者が、「若泉氏との『墓場までの沈黙』の約束を反古にする形」で出版したものである。 

 

・本書の概要は、表紙見返しにある。「一九六七年から七二年にかけ、佐藤首相の特命を帯びてロストウ、キッシンジャー補佐官と沖縄返還に関わる「核密約」交渉に当った若き国際政治学者・若泉敬(1930-1996)。 

 

・彼は1994年に著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を公刊し、国家機密の守秘義務を犯すことを承知で、有事核再持ち込みについての「秘密合意議事録」作成の全容を告白する。 

 

・晩年は核持ち込みという〝代償〟を強いた沖縄への自責の念から、末期ガンの病軀をおして沖縄への慰霊の旅を重ね、仏門に帰依し、蔵書を焼き、家族と義絶する。

 

・若泉はなぜ密命を受任し、凄絶な生涯をたどらなければならなかったのか。現代史家が活写する、ある「国際的日本人」の同時代史」。 

 

・著者は、先行研究における若泉敬像をつぎの3つに大別し、類型化している。 

 「第一は、若泉を私利私益を顧みず、沖縄返還交渉という重要な外交課題に一身を擲(なげう)った「国士」として位置づける、またより積極的には「神話化」する立場である。 

 

 第二はそれと対照的に、戦後日米関係を畸形(きけい)的なものとした数々の密約の内、もっとも重大な一つに深く関与し、従属的「日米同盟」を民間の立場から補完的に支えてきた親米派知識人の典型とみる見方である。 

 

 そして第三は、そうした正負の評価は別にして、日米関係、ひいては国際関係における知識人の果たした役割の事例として、若泉を位置づける立場である」。

 

・著者は、これら3類型を参考にしながらも、「いずれの立場にも軸足を置くことなく、「後期戦中派」知識人の一人である国際政治学者若泉敬の思想的、学問的、政治的足跡を辿りながら、その人間像と彼の生きた同時代史を、著者なりに描いてみたいとのささやかな思いから執筆」した。そして、「若泉敬という人物についての「価値的評価」は努めて避けることを心掛けた」。 

 

・陸奥宗光の回想録『蹇蹇録』(けんけんろく)の一節をタイトルとした畢生(ひつせい)の著は、1980年50歳のときに故郷福井に「隠棲(いんせい)」してから94年の出版までの決意を、「筆硯(ひつけん)を焼く」をいうことばであらわした。 

 

・しかし、若泉は「公刊から死去までの二年二ヵ月の間、二つの深い思いに苛まれ続けた」。 

「第一は、「国事犯」として告訴されることを覚悟しつつ、「国家機密(密約)」を明るみに出すことを通して彼が訴えた〝信念〟が、理解されなかったとの絶望的なともいえる思いである」。 

 

「第二は、近現代史上「本土」との関係でさまざまな負荷を背負わされてきた沖縄とその地に住まう人々に対する、若泉の贖罪(しよくざい)意識のよりいっそうの先鋭化である」。 

 

・若泉は、那覇から定期購読で取り寄せていた沖縄二大紙を読み続け、「施政権返還は、沖縄にとって良かったのか」を問い続けた。そして、1985年那覇で弁護士としての仕事を終えた最愛の妻は、その途次心臓発作を起こし、6月23日の「沖縄慰霊の日」に急逝した。55歳であった。 

 

・沖縄での戦跡めぐりをしたことのある者ならわかるが、多くの人が亡くなった地下壕やガマ(洞窟)に入ると異様な気配を感じる。 

 

・晩年の若泉が、沖縄への慰霊に旅にこだわり、「国立沖縄戦没者墓苑において自裁」する決意にいたった理由は、沖縄の歴史と現状を知っている者なら、容易に想像できるだろう。 

 

・著作公刊から死去までの2年余、「歴代政権は「秘密合意議事録」の存在自体を否定し」続けた。若泉の最後の願いは、英訳版の出版であった。その序文を死去5ヵ月前から沖縄最南端の与那国島で書き、英訳本刊行の契約が完了した直後に青酸カリで「自裁」した。 

 

・「若泉敬という人物についての「価値的評価」は努めて避けることを心掛けた」著者の姿勢は正しかっただろう。そして、「ただ『歴史の闇の奥深く』に若泉を〝置き去り〟にしてしまうことは、現代日本にとって大きな損失であるとの思いは、筆者の中に牢固 (ろうこ) としてある」というのも、よくわかる。 

 

・いまになって「他策」があったかどうかを問うことは、あまり意味がないだろう。沖縄の現実に眼を向け、状況を改善する努力をすることが、残された者のつとめだろう。そのとき、「若泉の生涯を通して、その凄絶な晩年の謎に迫る」本書は、その「つとめ」の意味をよりいっそう理解させるものになる。

 

2)『評伝  若泉敬  -  愛国の密使』 

 

文春新書 愛国の密使 評伝 若泉敬 森田吉彦 定価:本体900円+税 発売日:2011年01月20日

(引用文藝春秋 BOOKS 

沖縄返還時に結ばれた「核の密約」の舞台裏

佐藤栄作の「密使」として沖縄返還交渉を進める中で密かに結ばれた「核の密約」。

新たな資料と証言により謎に満ちたその生涯に迫る 

 

 ◇愛国者の悲劇の生涯 書評『評伝 若泉敬――愛国の密使』 (森田吉彦 著)

文: 中西 輝政 (京都大学教授)

(引用:文藝春秋BOOKS 2011.01.20 書評

戦後日本の歴史の側道には、愛国者の哀しき墓標が延々と連なっている。 

 

・その大半は、戦後日本の主役であるはずの、しかし愛国の志を抱いたが故に「哀しき墓標」を背負わされて眠る知識人たちである。なぜなら、世界には「愛国無罪」を国是とする国もある中で、戦後のこの国では、愛国はまさに有罪以外の何ものでもなかったからだ。 

 

・しかし、国際政治学者・若泉敬の墓標には、ひときわ深い哀しみの風情が感じられるのは、筆者が同じ分野の学者として思うに、三島由紀夫江藤淳など戦後の知識人愛国者の多くは文学や文芸評論という確固たる発言の基盤を擁して愛国を説くことが出来たが、戦後のこの国では国際政治学者であり同時に愛国者であることは、殆ど自己撞着的な矛盾とジレンマを背負って生きることを意味するからである。 

 

・本書は、その悲劇をまさに一身に体現して生きた「愛国の国際政治学者」若泉敬の、詳細な評伝である。しかしそれは、普通の評伝のスタイルからは少々、かけ離れている。そもそも、今日、「若泉敬」という人物について、わざわざ一冊を割いて評伝をものする必要はどこにあるのか。その名は、偶々、一昨年の政権交代によって「沖縄核密約」問題が世の注目を浴びることがなかったら、すでに遠く忘れ去られた名であったかも知れない。 

 

・たしかに若泉は、その死の二年前(平成六年)、長い沈黙を破って、沖縄返還交渉において自らが果した「密使」の役割について、あえて世に問う著作(『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文藝春秋)を出していた。しかし、平成日本の、およそ国の大事に関わる全ての事柄への、「心神喪失」と評してよいような、部厚い無関心・無感覚の壁は、若泉の、その必死の――あるいは決死の――問いかけにも、何の反応も示さず、十五年後の政権交代で外相となった岡田某による児戯に類する「密約暴露」があるまでは、冷たく黙殺し続けたのであった。 

 

・それは若泉の最後のメッセージが、詰るところ、国防の自立と戦後の亡国日本からの再生を訴えるものであったからであろう。そして二年後の若泉の死(平成八年)は、戦後の多くの愛国派知識人のそれと同じように、憤死そのものであった。 

 

・しかし若泉の憤死に、三島や江藤らのそれと比べ一層の哀傷を(私――筆者が)感じるのは、彼がかつて「現実主義」を掲げた国際政治学者であったからである。本書がその随所において卓抜の考察をしているように、国際政治におけるリアリズムと日本語の「現実主義」との間には、殆ど対極的とも言ってよい、隔絶した意味空間の相違が横たわっている。 

 

・にも拘らず、若泉や、本書において第一の脇役となって登場する高坂正堯、さらには “ 仮免許 ” のまま日本国の総理大臣となって尖閣・北方領土をめぐる失態外交を繰り返す菅直人が「現実主義を教わった師」と仰ぐ永井陽之助らの国際政治学や日本外交論が、「現実主義」と称されたことに、今日にまで続く戦後日本の悲劇と混迷の源があった。

 

◇書評『評伝 若泉敬――愛国の密使』 宮崎正弘

  民主党が密約と騒いだ件の当事者に関する本である。宮崎正弘のメルマガから引用。

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成23年1月22日(土曜日)参通巻第3204号 

(引用:2011.01.22 Saturday name : kajikablog)

*「現代の橋本左内」と機密漏洩テロリストを一緒には論じられない。

*「若泉敬」の愛国が蘇る力作、その保守思想家にして行動者への思い入れ。

・若泉敬――懐かしい名前である。

・「愛国の密使」という副題もなかなか考え抜かれている、と思った。

 

・沖縄返還の密使として日本外交の舞台裏で大活躍した若泉は、国士でもあり、伝統保守主義でありながら、歴史家アーノルド・トインビーの文明論にも惹かれ、国際的な視野にたって、外交安全保障分野では数々の論文を書き残した。若き頃から『中央公論』などで大活躍だった。

 

・中西輝政が書いている。「若泉敬が沖縄返還交渉で『密使』として活躍したあの時代、この国全体が無邪気な希望に満ちていた」と。 

 

・そうだ。「無邪気な希望」が日本に満ちていた、あの時代。評者(宮崎)も何回か、若泉の謦咳に直接、接することがあった。そのことは拙著にも書いた。 

・したがってこの場面を重複したくないと考えて、本書を読み進むと、この著者も「あの時代」のことを次のように書いている。 

 

「若泉自身は学生運動に同情的であったようである。遡る1968年6月15日には、若泉が森田必勝らの全日本学生国防会議結成集会にかけつけ、高坂正堯とともに記念講演を行うという一幕もあった。取材陣の耳目を集めたのは、作家三島由起夫の万歳三唱と、今村均元陸軍大将の祝辞であった。

 靖国神社を出て乃木神社へ到るデモ、『暴力革命を許すな』『全学連打倒』のプラカードなどを目の当たりにして、若泉も、かつての自分の姿を重ね合わせつつ時代は変わると意を強くしたかもしれない」(175p) 

 

・あの時代、すでに若泉の名は華々しく、同時に高坂の名も高く、しかし最も有名だったのは三島由紀夫であり、集会の報道で若泉の講演内容に触れたメディアは殆ど無かった。 

 

・当該のイベントに三島をかつぎだしてきたのは森田必勝であり、若泉は先輩の矢野潤が交渉し(岩畦豪雄を通じて)、評者はその日、高坂正堯を担当した。今村大将の交渉には矢野先輩と同席した。若泉はデモの時間にはほかの場所へ移動しており、著者の描写は実際にはなかった。後日、説明には行ったが。 

 

・さて若泉に関しても個人的なことは拙著新刊『ウィキリークスでここまで分かった世界の裏情勢』(2月2日発売)に一章を割いて、情報戦争のテロリスト=ジュリアン・アサンジと若泉の憂国の士とを対比した。 

 

・まさに若泉が『現代の橋本左内』であるとすれば、アサンジは世界政治を揺さぶったアナーキスト崩れ、比較してはいけないレベルである。 

 

・本書は若泉敬に心酔する若き国際政治学者が周到に執拗に、じつに長い月日をかけて多くの資料を渉(わた)り、あまつさえ生存する関係者に夥しくインタビューを重ねて仕上がった労作、その思い入れには脱帽である。 

 

・通読しつつ、わすれていた事実、様々な出来事を時系列に思い出させてくれた。若泉が東大時代、反共の学生運動を展開していたこと。その時の仲間が佐々淳行であり、飯島清であったこと。恩師に矢部貞吉がいたこと。 

 

・聞いた記憶がある。若泉が防衛研修所から京都産業大学へ移り、その東京事務所を舞台としていたのは、じつは衆議院議員への出馬準備だった。この知られざる事実にもすこし触れている。熊谷太三郎平泉渉らが、当時、福井県の政治家だった。 

 

・若泉は佐藤栄作、福田赳夫直系だったが、なぜか選挙区事情からか、中曽根が割り込んできたことは、本書では叙述がないが、或る晩、若泉を料亭に誘って上座に座らせ、中曽根派から出馬をといわれたことを、じつは若泉自身から聞いたことがある。突如、そのことも思い出した。評者は、この間、毎月一度、若泉事務所に書類データ整理のアルバイトに通っていた。 

 

・しかし本書に拠ってはじめて知ったことが多い。まずは若泉が小林秀雄保田與重郎といった文藝人脈にも恵まれていたこと。国士といわれた末次一郎とは深い繋がりがあったこと。マンスフィールドとは、若泉が米国留学時代からの知り合いであったこと ( 本書の裏表紙は彼と地球儀を前にした写真だ) 

 

・若泉の弟子筋が谷内正太郎、若泉をもっとも尊敬した政治家は小泉純一郎。小泉は福井の若泉の墓をひそかに詣でていた事実も初耳だ。 

 

・1957年のロンドン留学は藤川一秋(当時参議院議員で実業家)が世話をしたこと。 伊勢神宮の初参りはトインビーに誘われてのことだったという逸話も初めて知った。 

 

・ところで本書は若泉の最後の自裁手段には言及していない。末次一郎が『崇高にして壮絶な戦死』と若泉の人生を評した。遺作となった『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の英訳版契約のあと若泉は忽然と他界した。 

 

・「その報は速やかに宮中にも届き、侍従を通じて天皇から弔意が伝えられた」(278p)。 

 

・じつは最後の英訳版の契約に福井の自宅へ行っていたのは堤堯(元文春編集長、現在評論家)で、自宅を辞去し、その三十分後に若泉が急逝したことを知ったのは帰京してからだったという話を堤本人からも聞いたことがある。 

 

・しかし堤は『WILL』連載の「或る編集者のオディッセイ」のなかで、若泉の最後が「青酸カリによる自決という説もある」と曖昧にして筆を擱いている。 

 

・それはともかく味わい深い力作、密使の役割、機密文書の意味についても熟慮を促してくれる。

 

3)石原慎太郎 核保有に関する覚書  (引用:「日本よ産経新聞」2010.12.6) 

 

石原慎太郎氏 

 

・敗戦後二十七年たって沖縄返還交渉が行われていた際、核兵器の扱いについての議論がかまびすしかった。当時の佐藤内閣は、核は持たず、造らず、持ちこませずという非核三原則を標榜してことに臨んでいたが、一方返還交渉に並行して日米間で繊維問題について摩擦が高まり、アメリカの高圧的な姿勢に反発が高まっていた。 

 

・そうした状況の中で毎日新聞の日本の核保有に関する世論調査が行われ、保有を是とする者35%、非とする者36%という際どい結果が出た。 

 

・現在、尖閣諸島で中国による強引な侵犯が起こり、政府の醜態不始末が露呈して国民の間に強い危機感が台頭してきている今、国土への侵犯や経済への収奪沈滞の中で、それは所詮国力の差によるものと自覚し、国力とはとどのつまり軍事力、それも核の保有非保有による格差と覚れば、日本の核保有に関して国民はいかなる姿勢を示すのだろうか。 

 

・この日本は、間近な周囲を中国、ロシア、北朝鮮という、いずれも日本に対して険悪な姿勢を示している国に囲まれ、その日本を守ると称しているアメリカは国力の衰退がはなはだしい。そのアメリカはこと尖閣の問題に関して、国務長官は安保をかざして乗り出すとはいうが、その下の実務担当の高官は穏便に解決せよと圧力をかけてき、あの体たらくとなった。国家の安危に関してこんなに危うい状況におかれ、じりじりと被害を被りつつある国家は今世界に他に例がない。 

 

・しかしあてがいぶちの平和の毒に飼いならされたこの国の国民の意識は、自らの犠牲努力で自らを守るという意識を今後どれほど抱き得るのだろうか。その判断のよすがになり得る、先人の思いがけぬ試みと努力について最近知らされたものだが。 

 

・今年の春に死去した元外務次官の村田良平氏がその死の直前自らの死を意識してとの前置きで語った、1969年日本がドイツと協力し核を開発保有しようという史実の意味は今日的にも大きいと思う。沖縄返還交渉はその三年後に行われたが、その以前の佐藤政権は一方で実はそうした試みをしてい、佐藤総理は当時のジョンソン大統領に、日本は核を持つ意思があると伝えていた。その根拠は、アメリカの日本に対する核の抑止に関する根本的な疑義だったろう。 

 

・私はワシントンでの返還交渉に、竹下登議員と二人だけ総理の許可を得て非公式に随行したが、それを聞いて、親友だった沖縄の返還交渉に総理の密使として活躍していた若泉敬がその帰りに是非ともアメリカの核戦略基地であるNORAD(ノース・アメリカン・エア・ディフェンス)とSAC(ストラテジック・エア・コマンド)を視察してくるようにと建言してくれた。                   ◇

 

・その結果NORADを見て、水爆は開発されていたがそれを運ぶ手立ては大陸間弾道弾しかなかった当時(未だ原潜に搭載するサブロックなどは開発前だった)NORADの警備機能はその名の通り日本には及んでおらぬが故に、アメリカの核戦略での抑止力は日本のためにはあり得ないと確信させられた。

 

 私がそういったら、案内してくれた司令官は、当たり前だろう、日本はここから遠すぎソヴィエトはそちらに近すぎる、他の政治家が何を言っているか知らぬが現実はお前のいう通りだ。

 

 なぜ日本は自分で核を持とうとしないのだと逆に諭された。私に視察を建言してくれた若泉も視察の口添えをしてくれた佐藤総理も、実はそれを知ってのことだったのだと今になって覚らされた。 

 

・東ドイツ問題のあるドイツは日本の提案に応じ切れなかったが、その後日本とは全く逆に、ブラント外相時代アメリカを強く説得してドイツにこそ核兵器を持ちこまさせその引き金を引く権利を保障させた。この現実感覚の違いをどう受け止めるか。 

 

・歴史について、もし何々だったら、ああしていたらと想定して計るのは詮ないことだが、しかしわずか四十年前の日本の政府の思惑がもし実現していたら、北朝鮮による多大な数の同胞の誘拐拉致はありえなかったろうし、今日の中国によるやくざまがいの領土侵犯もあり得なかったろうし、ロシアに奪われた北方領土についての関わりも違ったものになり得ていたに違いない。今日の世界の外交問題はすべて国力、つまり軍事力、つまり核の保有非保有を背景に左右されているのだ。という実はありきたりな現実を、我々は直視しなおす必要があるのではなかろうか。 

 

・アメリカの中国に対する意識は、自国の衰弱に沿って微妙に変わりつつある。過去にアメリカが画期的な試みとして、原潜にミサイルの代わりに搭載した巡航ミサイル、中国が最も嫌がる戦略兵器をなぜかアメリカは最近廃棄すると発表した。二国の間にどんな取引があったものか。これについての日本側の反応があまりに鈍いとアメリカの識者は慨嘆しているのだが。 

 

・今日の世界情勢の中で、核兵器は実際に使用されることはまずあり得まい。がなお、それを持つ持たぬが一国の運命を左右もしかねぬというのが、現実なのだ。 

 

・若泉敬が存命中、二人してフランスの実存主義の哲学者レイモン・アロンと会食したことがある。その時話題が核に及んでアロンが、世界で唯一の核被爆国の日本がいまだに核を保有しない訳が分からぬと指摘し、日本にはどうやらドゴールの如き誇り高き指導者がいないようだといわれ、返す言葉がなかった。 

 

・広島、長崎への核投下で殺戮された三十万の同胞は、非核のセンチメントのままにこの国が中国の属領となり、あのチベットのようにその文化伝統も否定されてもなお浮かばれるというのだろうか。

 

4)吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草 

沖縄と若泉敬① [2007年07月03日(火)]

 

       

           若泉敬京都産業大学教授(当時)  末次一郎新樹会代表幹事(当時) 

 

・沖縄の宮古島市を2ヵ月ぶりに訪れた。晴天に恵まれ、滄海に幻惑されそうになった。宿泊したホテルには、ロビーに100冊程度の本が並んでいたが、そこに、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋社)が、観光関係の多い他の本とはいささか異質な感じに置かれていたことに、私はすくなからぬ驚きを感じた。 

 

・著者の若泉敬先生には、生前、多いにご指導いただいたし、特に、わが師・末次一郎と若泉先生は、沖縄返還問題に取り組むにあたって、まさにタッグマッチを組んだ盟友であった。

 亡くなって10年を超えたが、今でも、何人もの研究者が若泉先生について語ってくれと、しばしば私のところにやってくる。 

 

・そして、その人たちが共通に魅かれるのは「国士・若泉」であり、「国士・末次」であり、二人の実像と沖縄返還交渉の実態に迫りたいということ、またその評価をきちんとしたいということのようだ。 

 

・私が若泉先生について語るよりも、ここは末次自身が、自ら率いた政策研究団体新樹会の機関紙月刊「新樹」に書いた追悼記を転載して、みなさまのご理解をえることがより重要かと思い、数回に分けてご紹介したい。 

 

・なお、若泉先生は、谷内正太郎外務事務次官を学生時代から自宅に置いて指導した人でもある。 

 

・また、末次の交友関係については、『温故創新』(※)の題で文藝春秋社から刊行されていることを申し添えたい。 

 

〇若泉啓という人②[2007年7月4日(水)] 

※「『温故創新』-戦後に挑戦―心に残る人びと」(末次一郎著 2002年刊 文藝春秋) 

 

 

 〔作品紹介〕

***戦後の日本を作ってきた人々との出会いと別れ***

 青少年育成から日ソ交渉、沖縄返還などに尽力してきた著者が、師友とあおぐ人々との出会いやエピソード、終焉を心をこめて綴る 

〔担当編集者より〕

 敗戦後の青少年育成、沖縄・北方領土返還交渉など、日本の再生に力を注ぎ、「最後の国士」と言われた著者が、その活動の中で出会った師友三十五人の死に際して綴った追悼文集です。

 ネール、岸信介、井深大、茅誠司、安岡正篤、土光敏夫、屋良朝苗など、祖国再建に身を捧げてきた人びとの人間性やエピソードには心うたれるものがあります。著者自身も昨年の夏、惜しまれつつ他界しました。本書は著者が現在を生きる人たちに残した遺言であり、戦後史研究の貴重な資料でもあります。(ST) 

 

・1996年7月の若泉敬先生の逝去に際し、同先生の盟友であり、わが師である末次一郎の書いたものを転載する。その2回目。 この項さらに続く。 

 

・大学も辞めて鯖江に籠った彼は、ほとんど東京に出て来なかった。先年、奥様を亡くした後はまるで仙人のような生活に入り、もっぱらあの大作の著述に取り組んだ。そのために会う機会は非常に少なく、いつも電話の長話で語らってきた。 

 

・しかし、このところ2回会った。1度は共通の友人の計らいで、昨年11月に伊豆の山荘で焼肉をつつきながらの語らいだった。翌朝の私の予定のために同泊することはできなかったが、その時の彼は如何にも元気そうで、病気が逃げ出したのではと思うほどであった。 

 

・2度目は彼の強い希望で久々にわが家を訪れてくれた時である。 

 

・この4月20日のことだったが、鯖江から介添えしてくれた鰐淵信一氏と、大学以来の彼の心友であり、新樹会の幹事でもある福留民夫氏が同席してくれた。軽い昼食の後早速話合いをはじめたが、語らいは深夜までつづいた。殊の外彼が喜んでくれたのは、若い頃の彼がわが家でよく食事をした時の彼の好物を覚えていた家内が、昔の味を用意してくれたことだった。彼は如何にも美味しそうに食欲を見せて驚かせてくれた。 

 

・その後主治医の反対にも拘らず、彼は6月23日の沖縄県追悼式に参列した。帰郷した直後に電話で長話をしたが、死を覚悟して出かけて勤めを果たしたという昂ぶりのためか、ひびきのあるとても元気な声をはね返らせていた。 

 

・10日ほど前に、沖縄の米軍基地問題で話合った時も、長い対話だったのに疲れも見せずに意見を述べてくれた。6月の訪沖で現場の状況を知っているだけに、彼の提言には迫力があった。 

 

・そんなことがあったからなのか、去る7月24日、留守中の私に鰐淵氏を通じて突然若泉氏からの依頼が飛び込んできた。2年前の大作の英訳がすすんでいるが、翻訳にあたった人々を顕彰したいので、「蹇蹇録賞」を揮毫して欲しいということだった。軸の用意はできているからとして、寸法を指定して、彼らしい文章が添えてあった。 

 

・慌ただしい日程の中だったが、彼がわざわざ頼んできたのにはそれなりの理由もあろうと考えて、北海道出張の前夜おそく書き上げて送った。賞状の日付は7月27日だったが、後で聞いたところでは、この日無事に授賞し終えて、約3時間後に息絶えたとのことだった。 

・彼の最後の仕事を手伝えたことになるが、これがいささかの供養となったら嬉しい。

 「沖縄問題の解決を」、「この国の将来を頼む」、「しっかりした政治家を育てろ」、「首相に帝王学を」。彼がいつもくり返してきた言葉であるが、私への遺言と受け止めている。                              (平成8年8月1日)

〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃

*崇高にして壮絶な戦死 沖縄問題にのめりこんで 

・「沖縄返還にかかわって、佐藤首相の密使として活躍した」として話題になった若泉敬氏が、7月27日(平成8年)午後、福井県鯖江市の自宅で永眠された。がん性腹膜だった由だが、享年66歳の若さだった。深い親交を重ねてきて、ひたすら回復を祈り続けてきただけに、悲しみも大きい。 

 

・悲報を知ったのは北海道の出張先だった。ついに恐れていた日が来たという思いであったが、しかし全身の力が抜ける思いだった。北海道での予定があったからというだけでなく、私がすぐにも鯖江に駆けつけようとしなかったのには理由がある。 

 

・何かにつけて頑なに自分流を通してきた若泉氏は、肝臓を病んでいたこともあって2年前には遺書をしたためていた。その中に、没後のことについては、①葬儀、告別式は行わず、②弔問者は一切受け付けず、玄関前で帰って貰う、などがあり、格別親しく交わってきた私にさえ、くどい程に約束を強いてきたからである。私は札幌の宿で毛筆をもって心を込めて彼への弔辞を書き、ファックスするにとどめた。そうすることが、頑固者の彼への礼と信じたからであった。 

 

・若泉氏との出会いは旧く45年余前になる。私はすでに日本健青会を組織して青年運動に汗を流していたが、東大駒場の学生であった彼は、仲間たちと共に、学園を荒す共産分子と必死に闘っていた。ある先輩の紹介で訪ねてくれたのが彼とその仲間たちであった。以来この交友はひとときも切れずに続いてきた。 

 

・東大を卒えて自ら進んで防衛研修所に入った時も、ロンドン大学に留学した時も、やがて京都産業大学の創立に参加して教授となり、さらに東京に大学付属の世界問題研究所を設立した時にも、いつも相談に与からせてもらった。 

 

・彼は2年前に沖縄返還交渉の裏の歴史を綴った『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)という大著を世に出したが、そもそも彼に沖縄問題を結びつけたのは私だった。私が既に沖縄返還運動に取り組み、頻繁に沖縄を往来していたことを知っていた彼が、国際政治の専門家として基地の島沖縄に関心を持ちはじめたからであった。これをきっかけに彼は沖縄問題にのめり込んだが、逆に私が返還交渉のためにたびたび渡米するようになった時には、彼がその豊かなアメリカの人脈を辿って紹介してくれるなど、便宜を図ってくれた。そのおかげで、私は存分に飛び廻ることができた。 

 

・若い時から何事によらず思いつめる若泉氏は、神経を細やかに磨いて精進につとめた。天才的なひらめきというより、自分にきびしくコツコツと努力をつみ上げる人であったが、念頭には常にこの国の命運のことがあるという、正に国士であった。 

 

・したがって沖縄についても訪れるたびに沖縄の歴史に踏み込み、さらに大戦末期の沖縄戦と、そのために斃れていった沖縄の人々の魂を自らのものとして受け止めるまで、のめり込んでいた。 

 

・彼が肝臓障害を訴えたのは20年も前のことであったろうが、恐らく沖縄問題で思いつめて取り組んだ心労と無関係ではあるまい。彼のそうした姿から多くのことを教えられたが、今その1つひとつを反芻しながら感慨誠に深いものがある。                       (つづく) 

 

*若泉敬先生の逝去の際に書いた末次一郎の文を続ける。遺言はもう1つある。

・6月20日に作成された「遺言公正証書」には、家屋その他の財産の処分要領を指示している。 

 

・第1条では、遺言の本旨として16年前に東京から居を移したこの鯖江の家が、少なからず外国の賓客を迎えて国際理解を深めてきたことを回想した上で、この敷地や家屋が「人類の魂や心の救済の場として活用され、とりわけ国際交流による相互理解を深める場所、もしくは国内外の有為な人材の国際関係の研究及び教育を支援する場所など、広義の国際交流に活用されることを念願」すると書かれている。 

 

・第2条では、この趣旨で事を運ぶ受遺者として故人が最も信頼していた鰐淵信一氏を指名した上で、土地、建物の明細を標記し、これらの寄贈先として、福井県、鯖江市、今立町、国際交流団体などを細やかに例示している。 

 

・圧巻は第9条である。 若泉氏は長男若泉耕君及び次男核君に対して「遺言者が果たした国家的使命及び広義の国際的交流に生涯献身した志と熱意を理解しこれに賛同したうえ、相続の放棄及び両名の有する本件不動産時分の無償譲渡等の対応により、遺言者の遺志の実現に協力することを強く期待し、かつ要請する」と述べている。 

 

・加えて、「このことは、亡妻ひなを(両名の母)が存命であれば、遺言者の意向に賛同するであろうことを念頭におき、遺言者や母の遺産に依存することなく、毅然とした自立独立の精神をもって自らの人生を切り開いてゆくことを真摯に愛情を込めて希望する」とある。 

 

・また、この不動産を活用するに際して遺言者の名を冠してはならぬとした上で、親族、友人の方々は遺言者の意志が実現されるよう協力して欲しいとも訴えている。如何にも彼らしい遺言である。 

 

・遺言の最後には、参考のために1980年以来この若泉邸を訪れ、あるいは宿泊してくれた外国の要人として、マンスフィールド米国大使 ポリャンスキー・ソ連大使 ブリー東独大使 コータッチ英国大使 ブレッヒ西独大使 ベンヨハナン・イスラエル大使 その他の各国大使名が列記され、故人の交流の広さと強さがうかがえる。 

 

・以上が、2つの遺言書の要旨であるが、正に国士として若泉氏の面目躍如たるものがある。 

 

・常に死を覚悟して、常在戦場の心意気で身辺の整理につとめてきた風格がにじみ出ている。 

 

・すべてを整え終えた上で、故人にとっては「こころのふるさと」というべき沖縄に旅立ち、6月23日の追悼式に参列している。文字どおり死を覚悟しての旅であり、そこに彼の必死の心意気と美学とを感じとる。 

 

・11年前に逝かれた令夫人の心と共に、2人のご令息に対しては、自力で「自らの人生を切り開け」と訓えている。 

 

・こうして新たな旅立ちへの万端の準備を整え終えた若泉氏は、最後の仕事として、名著『他策ナカリシヲ信ゼムと欲ス』の英訳のための翻訳者との協議、契約を取りまとめた。 

その数時間後に、彼は従容として旅立ったのである。見事なものである。 

 

・私はこれを、「崇高にして壮絶な戦死」として受け止めている。

(平成8年9月1日)

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・

 ・若泉先生の遺言は多少時間がかかったが、昨年春をもってすべてこの原則で実行された。

   合掌。

 わが師・末次一郎には、若泉敬先生の逝去に際し、もうひとつ書いたものがある。

 「国士の風格、正に躍如―若泉氏の遺言から」である。

以下にご紹介しておきたい。

 ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜ 

・敬愛してやまなかった若泉氏がついに斃れた。如何にも強靭な精神力で病いと闘ってきた姿を知っていただけに、いずれは悲しい日が訪れると覚悟はしていたが、誠に惜しまれてならない。 それにしても、没後次第に明らかになった“覚悟の死”への見事な対処ぶりを知って、私は若泉氏への畏敬の念いをいっそう深めている。 

 

・若泉氏は、2つの「遺言」を整えていた。 1つは、死に伴う当面の取り運びについての

極めて的確、明快な指示である。曰く、旅先で死んでも遺体は簡素な棺に収め、速やかに火葬すべし。(最後の沖縄行が念頭にあったのだろう)

 

・通夜、告別式、葬儀などの儀式を行ってはならず、法名不要、祭壇を設置してはならぬ。 

 

・すべての弔問者の自宅への立ち入りを拒絶し、門外に記帳所を設けて記帳のみ。香典、供花、供物はすべて辞退すること。 

 

・ただし弔問者には、遺言執行者の礼状、故人自らがしたためた「感謝寸言」及び故人がかつてトインビー博士と対談した『トインビーとの対話―未来を生きる』(文庫本)を渡すこと、などとその指示は微細をつくしている。 

 

・「感謝寸言」というのは、「この世を去るにあたって」として故人自らの謝意を述べているが、11年前に逝かれた愛妻ひなを夫人の時の礼状も同封されていた。 

 

・実に見事な気くばりである。(つづく) 

 

・某新聞社の中堅記者であるA氏から「なぜ急に若泉敬先生のことを書き出したのか」というご質問をいただいた。 

 

・先月(6月)17日付の東京新聞トップ記事(時事通信の配信記事)として、日本大学の信夫隆司教授が、「有事には沖縄に核を持ち込みうる」という日米密約の資料を米国の公文書館で見出し、それは「若泉証言と一致している」旨の記事が出ていたからである。

 

・信夫教授は私を含む若泉先生ゆかりの人々を丹念に訪ね歩き、先生の実像と役割を調査・研究しておられる方である。 

・まず記事をご紹介する。

☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 ・1969年の沖縄返還交渉時に佐藤栄作首相の密使となって核持ち込みに関する日米密約を仕組んだ若泉敬氏(元京都産業大学教授、故人)の著作「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文藝春秋刊)を裏付ける資料が、米国立公文書館で16日までに発見された。 

 

・同氏とキッシンジャー大統領補佐官(当時)の通話記録89点などで、内容は著作の記述と一致する。この発見は、核密約の存在を暴露した若泉氏の記述の正確さが米側資料により裏付けられたことを意味する。 

 

・「密約はなかった」との姿勢を崩さない日本政府は苦しい立場に立たされそうだ。通話記録を発見したのは日本大学の信夫隆司教授。沖縄返還は69年11月19日の佐藤首相とニクソン大統領による日米首脳会談で決まったが、首相の密使となった若泉氏はこの会談に向けて「ヨシダ」という偽名を使って米側責任者のキッシンジャー補佐官と接触、密約を準備した。 

 

・若泉氏の著作によると、キッシンジャー氏との通話では盗聴の危険を避けるため、核問題を指すときは「項目1」、核持ち込みを定める秘密の合意議事録は「小部屋」などと暗号を決めた。 

 

・今回、信夫教授が発見した通話記録のうち、例えば同年11月15日の会話には「項目1」や「小部屋」などの単語が頻出。「有事には核兵器を沖縄に持ち込める」という合意議事録に両首脳がサインするための極秘の手続きについて語った会話の内容も、著作の記述とほぼ一致する。 

 

・また、若泉氏はキッシンジャー氏にあてて何通もメモを書いたことも著作で紹介しているが、同教授はこの一部も発見。 核秘密合意の必要性を示唆した1969年7月18日付のメモは、肝心の部分が黒塗りで非開示にされているほかは、若泉氏が著作で紹介した通りの内容になっている。 

 

・これらのメモは、独自に米政府の公開文書を集めている「アメリカ合衆国対日政策文書集成」(柏書房)にも先月収録された。11月の通話記録などは公文書館で閲覧可能だ。 

 

・若泉氏によると、核持ち込みの合意議事録は1969年11月、佐藤首相とニクソン大統領が署名したとされるが、実物は公開されていない。 

 

・若泉氏は極秘の交渉経過を記録した「他策」を1994年に発表、その後マスコミのインタビューなどに一切応ぜず、1996年に他界した。 

 

・私は沖縄県宮古島市から2日に戻ったが、宿泊した東急リゾートホテルのロビーには、この「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」が、かなりの人々に読まれた形で、陳列されている。 

 

・記事の内容はあまりに機微に触れるので、ここで中身にコメントすることはしないが、米ソ冷戦の真っ最中という当時、この種の密約が行われていてもなんら不思議はない。まして、「持たず、作らず、持ち込ませず」という「核兵器に関する3原則」が確立される以前の話である。 ただ、私は政策として「持たず、作らず」を掲げることには大賛成だが、どこかで「持ち込ませず」が、今日の世界情勢を考える上で妥当な政策的選択か、しかと議論する必要があろうと思う。 

 

・昨年2度、米海軍第7艦隊母港である横須賀の基地で、旗艦「ブルーリッジ」や空母を視察した。核兵器の格納庫も外から見た。「この中に大事なものが入ってるよね」とそれまで冗談を言い合っていた水兵に声をかけた。答えは、「われわれにとって重要なものが入ってます」。そこで、私がくすっと笑うと、「You know everithing well.(lあなたワケ知りの人ね)。空気ですよ」。 判断はご自由に。  

 

5)沖縄密約をあっさり認めた前外務事務次官(天木直人のブログ) 

 投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 11 月 17 日 21:54:28: twUjz/PjYItws 

 

・発売中の月刊文芸春秋12月号に、「死ぬまでに絶対読みたい本」という特集記事があって、「読書家」52人が推奨する本がリストアップされている。 

 

・この種のアンケートを見ていつも思うのだが、読書家ではない私は、それら著名人、有識者らが勧めるそのほとんどを読んだ事がない。 

 

・そして、根っから天邪鬼な私は、読んだことがない本であっても、人が絶対に読みたいなどと言うと、とたんに読む気にならないのだ。 

・そんなムダ話をするために、このブログを書いているのではもちろんない。 

 

・52人の読書家の中に谷内正太郎前外務事務次官の名前があった。

 その谷内前外務事務次官が、「死ぬまでに絶対読んでおけ」と勧めている本が、若泉敬氏(元京都産業大学教授)の「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文芸春秋社)という本である。この事は極めて重大な意味を持つ。 

 

・明治の外務大臣陸奥宗光の著書の中の言葉を題名に使ったという若泉氏のこの著書は、いうまでもなく、佐藤首相の密使として沖縄密約にかかわった自らの行動を告白した衝撃の書である。しかも、その著書が刊行された後に沖縄県民に与えた衝撃を悔いて、「責任の重さを痛感して自決する」という遺書を書き残していた事まで、のちに明らかになっている。 

 

・その若泉敬氏の著書を、谷内前外務事務次官は次のように絶賛しているのだ。 

 

 「永い遅疑逡巡の末」書かれた本書は、もちろん単なる回顧録ではない。有事の核持込を示唆する秘密合意議事録について、最後まで「守秘義務」を守るか、真実を明らかにして

「天下の法廷の証人台」に立つか。「二つの良心」の間で揺れた結果がこの本なのである。

 

 氏は、後者の道を選択した。重大な関心を払うであろう国会が著者を証人喚問した際は、包み隠さず真情を吐露するつもりであった。しかし、「愚者の楽園」と化した戦後日本は、本書に対し当惑ともつかぬ奇妙な沈黙をもって答え、国会からも沙汰はなかった。

 

 そう書いた後、谷内氏は外務省に入ったばかりの若かりし頃若泉宅に居候し、驥尾に付していた事を明らかにした上で、「若泉敬、死シテ朽チズ」と氏の言動を称えているのである。 

 

・これは凄い告白だ。

 外務官僚のトップにあった者が、沖縄密約の存在を認めたのみならず、それしか策がなかったと、若泉氏の言動を称えているのだ。それを国会で証言する覚悟をした若泉氏の勇気ある決断を活かさなかった国民や国会を愚者と言っているのだ。 

 

・そうであるならば、なぜ外務事務次官の時に、沖縄密約の存在を認め、国会で堂々とその政策の正しさを主張しなかったのか。 

 

・沖縄密約など一切なかったとして、西山太吉氏の訴えは、今もなお政府、外務省、裁判所に一蹴されたままだ。沖縄密約漏洩事件でその半生を失った西山さんをここまで苦しめる理由は、もはやどこにもない。 

 

・その事を前外務事務次官は文芸春秋12月号で認めたと言う事である。  

 

6)谷内正太郎・政府代表が語る「核再持ち込みの密約はあった」2009.6.3週刊朝日)         (週刊朝日 2009年05月22日号掲載) 2009年5月13日(水)配信

 

・ 北方領土をめぐる発言が波紋を広げている谷内(やち)正太郎・政府代表が、今度は1972年の沖縄返還をめぐり重大な発言をした。「核の再持ち込み密約はあった」。5月15日に沖縄が復帰から38年目を迎える直前、本誌にそう語った。じつは、この返還交渉をまとめたのは、「密使」として動いた谷内氏の恩師だった。その知られざる秘話とは──。 

 

火種はまだ、くすぶっている。

 

〈私は3・5島でもいいのではないかと考えている。(中略)択捉島の面積がすごく大きく、面積を折半すると3島プラス択捉の20~25%ぐらいになる。折半すると(3・5島は)実質は4島返還になるんです〉 

 

・毎日新聞4月17日付朝刊に載った政府代表の谷内正太郎(65)のインタビューである。前外務事務次官で、首相の麻生太郎が外相時代に「自由と繁栄の弧」構想を打ち出したときからのブレーンだ。内閣支持率が低迷する今年1月、首相の「特使」に起用された。 

 

・その谷内が、政府が原則とする「4島返還論」ではなく「3・5島返還論」を容認する発言をしたため、波紋が広がった。外相の中曽根弘文が「厳重注意」したものの収まらず、4月28日の衆院本会議では、麻生も火消しに追われた。5月11日に来日するロシアのプーチン首相とのトップ会談にも影を落とす。 

 

・北の島々を取り戻す途中でつまずいた谷内が師と仰ぐのは、南の島を取り戻す立役者となった男だ。沖縄返還交渉でアメリカ側から「ニンジャ」と呼ばれた、元京都産業大教授の故若泉敬(けい)。首相の佐藤栄作が難航する交渉を打開するために起用した「密使」だった。 

 

・1967年夏、若泉は佐藤に会う。かねて知り合いだった自民党幹事長の福田赳夫に引き合わされた。前年、米国防長官マクナマラとの単独会見記を月刊誌「中央公論」に発表するなど、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)の客員所員として培った米政権中枢との太い人脈を見込まれた。

 

〈この1967年9月29日で、私の第一の人生は終り、第二の人生が始まったようなものであった〉(若泉著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』) 

 

・若泉は家族にさえ察知されないよう隠密に行動する。孤独な闘いが始まったのは、37歳の秋だった。 

 

・2カ月後の11月、佐藤・ジョンソン会談で両首脳は「両3年以内の沖縄返還」に合意し、敗戦後アメリカが握ってきた沖縄の施政権が72年までに日本に返されることが決まった。

 

・その後、返還交渉の焦点となったのが核の問題だった。

 http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/1.htm 

 

・被爆国である日本には核アレルギーが強く、日本側は沖縄返還時にそれまで貯蔵されていた「核の撤去」を求めた。一方、ベトナム戦争を戦っていたアメリカ側は、基地を自由に使用できることのほかに「緊急時の核の再持ち込みと通過の権利」を要求した。 

 

・そこで、若泉と米側の交渉窓口となった米大統領補佐官キッシンジャーは、

〈日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう〉との一文を盛り込むことで合意にこぎつけた。 

 

・つまり、日本側は事前協議が行われなければ、日米安保条約の定める「重要な装備の変更」はないものととらえ、「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れることができる。一方、アメリカ側も「遅滞なく必要をみたす」との言質を取ることで、有事には核を持ち込めるというわけだ。これが「核密約」のからくりである。 

 

・ニクソンとの首脳会談まで1カ月を切った69年10月23日、若泉は佐藤を前に、

「私は佐藤栄作個人のためにやるのではありません。あなたが、日本国の総理大臣だから、やらせていただくのです」と覚悟を伝え、決断を迫った。

 

・「一国の宰相にふさわしい聡明な決断をされ、歴史に責任を負っていただかないと困ります」 

 

・ただ、密約が外に漏れれば交渉が台無しになる。若泉とキッシンジャー、ふたりの「密使」が描いたシナリオは次のようなものだった。

 

・会談の最後に、ニクソンが佐藤に大統領執務室の隣にある小部屋で美術品を鑑賞することを提案する。ふたりだけで小部屋に入り、核問題に関する秘密の合意議事録にサインする。署名はイニシャルのみで、それぞれ1通ずつ保持する──。 

 

・しかし、実際には、ニクソンがフルネームで署名したため、佐藤もそれに倣ったという。 

 

・若泉が、こうした核再持ち込みの密約について明かしたのは1994年。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)と題した600ページを超える大著を発表し、交渉過程を詳細に綴った。69年に秘密合意議事録を交わしてから25年後。ちょうどアメリカが情報公開法により開示を定めた期限が訪れる年だった。 

 

・谷内は昨年暮れ、月刊誌「文藝春秋」(08年12月号)の「死ぬまでに絶対読みたい本」という特集で、この一冊を挙げた。

 

〈「守秘義務」を守るか、真実を明らかにして「天下の法廷の証人台」に立つか。「二つの良心」の間で揺れた結果がこの本なのである〉

 

・単なる本の紹介とはいえ、谷内みずからが「核再持ち込みの密約」を認めているに等しい。 

・谷内にあらためてたずねると、こんな答えが返ってきた。

 

・「私は、若泉さんの人柄をよく知っています。武士道を尊び、誠実さを貫き通した。あれだけ詳細な記述を残して嘘をつく理由もないし、嘘をつく人でもない」

 

  だから、と続ける。「核の再持ち込み密約はあった、と私は思います」

 

・05年から3年間、外務事務次官を務め、政府代表でもある谷内が、政府・外務省が一貫して否定し続けてきた日米間の密約を初めて認めたことになる。

 

・「若泉さんが願ったのは、対米依存、対米追随の外交から脱するためにも、日本でも正面から安全保障をめぐる議論を始めることだった。それは現在の日本にもなお、当てはまるのではないでしょうか」

 

・谷内が若泉に初めて出会ったのは、いまから40年以上前、東大生だったころにさかのぼる。当時、参加していた「土曜会」という大学横断の読書サークルにOBとして顔を出していたのが、防衛庁防衛研修所教官の若泉だった。その後、谷内は大学院に進み、京都産業大世界問題研究所(東京・千駄ケ谷)に移った若泉のもとで新聞切り抜きのアルバイトを続けた。 

 

・まもなく、学者ではなく外交官の道を選ぶことを決め、1969年に外務省に入省。独身寮の抽選に漏れたあと、偶然、出会った若泉から下宿先を紹介される。

 それはほかでもない、東京・荻窪の若泉邸だった。1年ほど居候している間、若泉は内外を飛び回りながら、「国事に奔走している」とだけ語っていたという。それが沖縄返還交渉だったと谷内が知るのは、四半世紀後に出た『他策ナカリシヲ~』によってだった。 

 

・本の冒頭には「宣誓」と題して、こう書かれている。

〈永い遅疑逡巡の末、/心重い筆を執り遅遅として綴った一篇の物語を、/いまここに公にせんとする。/歴史の一齣(ひとこま)への私の証言をなさんがためである。(略)何事も隠さず/付け加えず/偽りを述べない〉 

 

・若泉と親交のあった弁護士の田宮甫(はじめ)(75)はこう振り返る。

 「本が出版されれば国会に証人として呼ばれるだろうと、若泉先生は覚悟していました。だから、証人喚問のときは付添人になってくれと依頼されていたのです」

 

 だが、長い葛藤を越えて国を思うがゆえに投じた一石は事実上、黙殺された。それどころか、首相の羽田孜は、「密約はありません」 と否定し、外務省も「存在しない」との立場を崩さなかった。

 

 若泉は失望し、祖国を「愚者の楽園」と称するようになる。福井県鯖江市の自宅「無畏無為庵(むいむいあん)」に引きこもり、表舞台から姿を消した。 

 

・出版から1カ月ほどたった「沖縄慰霊の日」の6月23日、若泉は喪服姿で沖縄・摩文仁(まぶに)の丘を訪れた。約18万人の遺骨が納められた国立沖縄戦没者墓苑の碑の前で正座し、『他策ナカリシヲ~』を花とともに供え、手を合わせた。そのまま頭を垂れたまま動かない。 

 

・後ろで見守っていた田宮には、喪服の左内ポケットに短刀らしきものが忍ばせてあるように見えた。世話役として同行していた福井県商工会議所連合会専務理事の鰐渕信一(61)は、ただならぬ雰囲気にも、若泉が沖縄の土を血で汚すようなことはしないだろうと思っていた。 

 

・30分ほどして若泉の肩が下がると、張り詰めた空気が緩んだ。

・じつは、若泉は事前に「歎願状」と題した文章をしたためていた。

 

〈拙著の公刊によって沖縄県民の皆様に新たな御不安、御心痛、御憤怒を惹き起した事実を切々自覚しつつ、一九六九年日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い「結果責任」を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します〉

 

 宛名は「沖縄県の皆様」と「大田昌秀知事、関係各位殿」とあった。 

 

・沖縄の「核抜き・本土並み」返還は、核の再持ち込みについて密約を結んででもアメリカ側に保証しなければ実現できなかった。しかし、その後の沖縄は基地の負担と計り知れない犠牲を強いられてきた。

 

 かつて、沖縄戦で約8千人を指揮した大田実・海軍少将が自決する直前、海軍次官へ宛てた電報で、《(沖縄)県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ》 と訴えた言葉を裏切るような現実が続いている。若泉には、そのことへの懺悔の思いがあった。 

 

・ところがなぜか、歎願状は自宅の金庫に置き忘れていた。理由は定かではないが、若泉はこう語っていたという。 

 

 「墓前で、英霊と対話するなかで(自殺を)思いとどまった。英訳版を出すことで、世界に日米関係の現状と沖縄の基地問題を知ってもらいたいと考え直したのです」

 みずからの命を絶つ代わり、英訳版の出版を決めたのだ。

 

 そのために動いたのは、現役外務官僚の谷内だった。英ケンブリッジ大教授を翻訳者に選び、ハワイ大学からの出版をとりつけた。 

 

・2年後、若泉は与那国島に渡り、英訳版の序文を書き上げる。しかし、すい臓がんに侵され、すでに告げられた「余命」をすぎてい

 

・その直前、若泉は谷内を伊勢神宮参りに誘っている。谷内はロサンゼルス総領事への転勤を目前に控えていた。

 

 「きょうの主役はあなただから」

 

 境内に続く参道で、谷内に先を歩くよううながした。参拝をすませると、名古屋駅の新幹線ホームまで見送った。若泉はあらたまって居住まいを正すと、こう言った。

 「どうか、この国をよろしくお願いしますよ」 谷内が乗り込んだ新幹線がホームの先に消えるまで、若泉は合掌したまま頭を下げていた。 

 

・そして、96年7月27日。

 

・若泉は鯖江市の自宅に5人を招いた。谷内のほかに、著作権継承者に指名された世話役の鰐渕、遺言執行者である弁護士の田宮、文藝春秋の担当編集者と翻訳者である英国人教授である。

 

 5人は2階の居間の大きなテーブルで若泉を囲むように座った。すると、A4判で7ぺージに及ぶ英文の出版に関する取り決め文書が差し出された。冒頭には「合意議事録(覚書)」と印字されている。 

 

・〈若泉敬にとって英訳版著作の公刊が本日この“集まり”によって保証確認された以上、最早志半ばにして斃(たお)れるのはあり得ないと深い安堵を覚えている〉

 死をほのめかすかのような文章の末尾に、全員が署名した。若泉はおだやかな笑みを見せた。まもなく、鰐渕と田宮をのぞき、谷内たちは帰っていった。 

 

・若泉はベッドに横になると、冷蔵庫から「屋久島の水」を取ってこさせた。乾杯のため、自分のコップにも少しだけ注ぐ。

 

「これは長生きする水なんですよ」

 

 3人がコップに口をつけた直後だった。若泉は突然、嘔吐し、全身を激しく痙攣させた。押さえても止まらない。秘かに用意していた青酸カリを水で流し込んだのだ。摩文仁の丘で思いとどまってから2年、若泉は言葉どおり「自裁」した。

 しかし、66歳の最期はメディアには「がん性腹膜炎」と発表された。 

 

・谷内が訃報を知ったのは、東京の自宅に戻ってからだった。覚悟していたので驚かなかったという。その足で福井にとんぼ返りした。 

 

・9年後の05年1月、谷内は外務事務次官に就任する。さらに半年後、アメリカ国立公文書館が機密指定を解いた公文書が公開された。

 

〈沖縄返還後の米国の核持ち込みと繊維問題に関する秘密交渉〉

 

 1969年11月12日付と13日付の大統領へのメモで、日米首脳会談に先立って、大統領補佐官のキッシンジャーが首脳会談の進め方を説明する資料としてニクソンに渡したものだった。

 

〈返還後の沖縄への核兵器持ち込みと繊維問題に関する秘密の日米合意に基づき、佐藤首相とあなた(ニクソン大統領)は次のような戦略をとる〉

 

 核の再持ち込みが明記されていた。日本大学の信夫(しのぶ)隆司教授(日米外交史)が07年夏に見つけ、メディアでも報じられた。このときも、外務省は「密約はない」との見解を繰り返した。そのトップは、ほかならぬ谷内だった。 

 

・谷内はいま、こう語る。

「首相官邸や外務省内もすべて調べてみたのですが、該当する文書は見つかりませんでした。証拠となる文書が日本側にはない以上、公式に『あった』とは言えません」

 ただ、「谷内個人としては、密約は100%あったと思っている」と重ねて語った。 

 

・佐藤・ニクソンが署名した密約文書はどこに消えたのか。若泉は『他策ナカリシヲ~』の中に、こう記している。

 

〈「ところで総理、“小部屋の紙”(日米秘密合意議事録)のことですが、あの取り扱いだけはくれぐれも注意して下さい」と、総理の眼をぐっと見つめる私に、「うん。君、あれはちゃんと処置したよ」と、総理は心なしか表情を弛めて言った〉

 

・日米首脳会談の1週間後のやりとりだ。佐藤のいう「処置した」の意味は定かでない。ただ、首相秘書官だった楠田實は生前、「紙は残していない」と共同通信のインタビューに答えている。

 いずれにせよ、日米同盟の根幹にかかわる文書を日本側は手元に保管していない。それどころか、密約の存在が歴代政権に引き継がれてさえいないことになる。 

 

・「仮に文書があったとしても、密約がいまも有効かどうかは疑わしい。4人しか知らない約束がその後の政権も拘束するかといえば、答えはNOでしょう。いまや死証文です」

 谷内はそう語り、密約の実効性には疑問を投げかけた。 

 

・返還から2年後の1974年、佐藤は日本人初の「ノーベル平和賞」を受けている。「日中戦争になれば、米国が核による報復をすることを期待している」(65年)、「非核三原則はナンセンス」(69年)などと発言していたことが米公文書で明らかになるのは後のことだ。密約についても問われることはなかった。 

 

・日本が第2次世界大戦で失った領土を、ベトナム戦争まっただなかのアメリカから外交というテーブル越しに取り戻すのは、確かに容易なことではなかっただろう。 

 

・しかし、その沖縄返還は有事の際の核の再持ち込みを含め、米軍基地の自由使用を保証することによって実現した。

 

・元沖縄県知事の大田昌秀(83)は、「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」と話す。 

 

・沖縄返還から37年。 これまでに明らかになったのは核の再持ち込みの密約だけではない。協定に書かれていない、土地の原状回復補償費400万ドル(当時約12億円)の肩代わりをはじめ、総額6億ドルを超える対米支出のカラクリも解き明かされている。しかし、政府は説明責任も果たさず、いまだに「密約はない」と繰り返すばかりである。 

 

・「これで民主主義国家といえるのだろうか。まして、政治家は責任をとっただろうか」 、大田はそう問いかける。 

 

・若泉は生前、沖縄の土に埋もれたままの遺骨収集に加わった際、案内役に「ヨシダ」と名乗ったという。それは密使として動いていたときのコードネームだった。若泉の死後、遺灰は遺言に沿って摩文仁の丘の沖に撒かれた。フォームの終わり 

 

7)高坂正尭と若泉敬の現実政治 ― 2009/06/22 02:32 (引用:園田義明めも。)  

 

<引用開始>↓

発信箱:幻の「悪人」論=伊藤智永(外信部) 

 高坂正尭執筆「佐藤栄作論--政治の世界における悪人の効用」。

 日の目を見なかったこんな長期連載のプランが1970年代にあったと聞いて、思わずうなった。  

・休刊した月刊誌「諸君!」の名編集者だった東真史氏が企画。佐藤の自民党総裁4選で、まんまと一杯食わされた前尾繁三郎元衆院議長に取材も始めていたが、立ち消えになったという。惜しい。  

 

・今でこそ戦後の偉人とされる吉田茂も、60年安保のころまでは、世論に耳を傾けない対米追従のワンマンとしてすこぶる不人気だった。評価を一変させたのが、高坂氏の名著「宰相吉田茂」だ。  

 

・佐藤は今も往年の吉田以上に人気がない。自由党幹事長の時、疑獄事件での逮捕を指揮権発動で免れ、沖縄返還は総裁選でライバルへの対抗上公約したのがきっかけだった。中国が核実験を行うと米国に日本の核武装の可能性をちらつかせつつ、国会では非核三原則を表明。しかも沖縄への「核持ち込み」密約を結び、猛烈な集票工作でノーベル平和賞まで勝ち取った。 

 

・「保守政権にすり寄るタカ派御用学者」との陰口にもめげず、佐藤ブレーンであり続けた高坂氏なら、この「悪人」ぶりを現実政治に不可避な「効用」として、どう得心させてくれただろうか。  

 

・高坂氏は、佐藤を「政治的悪人」と好感する半面、例えば田中角栄は全く評価しなかった。政治の「悪」は、庶民感覚や道徳倫理の「悪」とは別モノというわけだ。  

 

・一体、政治指導者の大衆人気ほど当てにならない物差しもないだろう。最近は「嫌われ者」で名高い明治の元勲・山県有朋の再評価も始まっている。マニフェストに「悪」の数値は載っていない。

↑<引用終了>

 

・高坂正尭から吉田茂、佐藤栄作という現実政治の系譜をたどるセンスはお見事。  しかし、山県有朋の名前を出すのはいかがなものかと。 山県再評価は重要だが、高坂が取り上げる対象とは思えない。  

 

・佐藤が65年の初訪米で日本核武装の可能性をちらつかせて米国の「核の傘」の保障を求めたのは事実。64年10月に中国の原爆実験が成功。 64年12月29日のライシャワー駐日米大使との会談で「仏大使は、中共(中華人民共和国)が核武装を行っているのだから、日本も核武装すべきだと言ったので、日本はそのような問題でフランスの指図は受けないと言っておいた」と思わせぶりに語る。 

 

 また、訪米中の1月13日に行われたマクナマラ国防長官との会談でも、「日本は技術的にはもちろん核爆弾を作れないことはないが、ドゴールのような考え方は採らない」と語り、ここでもまたフランスを引き合いに出した。 

 

 さらに中国と戦争になった場合には「米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と踏み込み、先制使用も含めた核の即時報復まで要請。 

 

 沖縄返還交渉において佐藤の秘密個人特使として核持ち込み密約にかかわったのは若泉敬。 若泉の交渉相手はヘンリー・キッシンジャー(当時国家安全保障問題担当大統領補佐官)。キッシンジャーこそが一貫して日本の核武装に懸念を抱いてきた人物。 この点でキッシンジャーは今でも使える存在。 

・高坂や若泉が生きていたら、「今こそ世界の中心で日本核武装を叫ぼう」と呼びかけていたかもしれない。

日本人の多くは「核の傘」も見て見ぬふり。 

その上で、偽善者たちはわけのわからない観念的平和論を振りかざす。 

そんな人たちに仏僧を伴って沖縄へ陳謝の旅に出た若泉のことを伝えておきたい。 

<新渡戸につながる二つの若泉敬関連記事引用> 

沖縄返還で対米秘密交渉 若泉敬氏の遺書 日本の精神的退廃に警告 

/佐伯浩明  1996/08/09産経新聞夕刊

 

・昭和四十四年の沖縄返還交渉で佐藤栄作首相の密使として対米秘密交渉にあたり、交渉の成功を側面から導いた若泉敬元京都産業大学教授が先月二十七日、すい臓がんのために福井県鯖江市の自宅で死去した。六十六歳だった。  

 

・アトランタ五輪報道の陰に隠れて若泉氏の訃報記事はささやかなものだったが、私はここで、平成六年五月に若泉氏が出版した、秘密交渉の経過をつづった著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文芸春秋)の跋文(奥書き)と、このほど入手した英語版用の序文に書かれたメッセージについて書いてみたい。死を覚悟した氏が祖国の道義心の再興を願って書いた真剣なる提言が込められているからだ。  

▽…▽…▽ 

・若泉氏は、昭和五年福井県今立町の生まれ。維新の志士、橋本左内を尊敬し、東大法学部を卒業すると防衛研修所の前身の保安庁保安研修所に入った。ロンドン大学大学院に留学、米ジョンズホプキンス大学高等国際問題研究所、米ウッドロー・ウィルソン国際学術研究所などで安全保障研究を重ねてきた。氏は敗戦前の福井師範の学生時代、米軍のB29の爆撃で福井市が焦土と化すのを見て「世界平和の建設を目指す」と誓った。  

 

・ただ、歴史の複雑さを知る若泉氏は観念的平和論を排した。それは同氏が「常に考えられないことと考えたくないことをもあえて考え抜く知的勇気と思考の柔軟性を失ってはならない」と、自著に書いたことからもうかがえる。  

 

・さてその提言だが、一つは日本の精神的退廃に対する鋭い警告である。若泉氏が自己の訃報記事に跋文のその一節を添えて内外報道陣に送るよう、生前、指示していたところに訴えの切なることが読み取れる。 

 

《敗戦後半世紀間の日本は「戦後復興」の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果、変わることなき鎖国心理の中でいわば“愚者の楽園”と化し、精神的、道義的、文化的に“根無し草”に堕してしまったのではないだろうか》 

 

・オウム事件。ヘアヌードとセックス記事のはんらん。一国平和主義。エゴイズムの横行-若泉氏は「日本は腐っている」とまで述べ前途を憂慮し、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造の著書『武士道』を行動指針として、この精神的荒廃を救うよう提唱している。 

 

・『武士道』。《そこには、衣食足って礼節を知り、義、勇、仁、誠、忠、名誉、克己といった普遍的な徳目が時空を超えて静かな輝きを放ち続けている…その不滅の光りの中に、戦陣に散り戦火に倒れた尊い犠牲者たちが、同胞に希って止まない「再独立の完成」と「自由自尊の顕現」を観るのである》(跋文より)  

▽…▽…▽ 

・二つ目のメッセージは、日米同盟関係の再検討と再定義だった。  

 

 《敗戦と占領以来米国軍隊がそのまま居座る形で、今日までいわば惰性で維持されてきた日米安保条約を中核とする日米友好協力関係を、国際社会の現状と展望のなかで徹底的に再検討し、長期的かつ基本的な両国それぞれの利益と理念に基づいて再定義することは不可避であり、双方にとって望ましくかつ有意義なことであろう。…その作業の大前提として私はまず日本人が毅然とした自主独立の精神を以て日本の理念と国家利益を普遍的な言葉と気概をもって米国はもとより、アジアと全世界に提示することから始めなければならないと信じている》(英語版の序文より)  

 

・歴史家のトインビー氏と対話したこともある若泉氏は三つ目に、飢餓のまん延、貧富の拡大、環境汚染、難民の激増、テロリズム、麻薬-と宇宙船地球号が抱えた問題に及び、「英語版の序文」では宇宙船地球号を構築する哲学と原理の構築と、戦争放棄に向けた世界の連帯行動を訴えた。  

 

・福井師範学校の同期生で同氏の最期を看取った斉藤孝斉藤病院院長と、若泉氏の遺言執行者代表者の田宮甫弁護士は「若泉先生はすい臓がんで余命が少ないことを知り、この跋文を書き、さらに今年三月、日本最西端の沖縄・与邦国島で残る命を燃やして英語版の序文を遺書として書きあげられた」という。若泉氏の絶命はその英語版出版の確認書を田宮氏らと交わしたまさにその当日だった。  

 

・沖縄返還の秘密交渉を通し「緊急事の核兵器の再持ち込みについての合意議事録」の作成に携わった若泉氏はその仕事の禁忌性ゆえに、沖縄復帰後、鯖江市での逼塞の生活を貫いた。若泉氏の思索は最期には宗教的高みにまで達した感を受けるが、この命をかけた提言に答えることは後に続く者の責務だと考える。 

 

*沖縄返還交渉時の秘話* トインビー博士の歴史観に学ぶ。 國弘正雄 

http://www.nagano-cci.or.jp/tayori/642/ts_642.html  

― 國弘さんは大歴史家トインビー博士と親交がございましたね。トインビーさんはキリスト教国でありながら東洋思想を尊重し、造詣も大変深かったですね。  

 

・國弘 名著『歴史の研究』の翻訳刊行をとりまとめた電力の鬼・松永安左ヱ門さんとトインビーさんの対話を通訳したことがあります。その時のテーマは何か。鎌倉仏教なんです。トインビー氏はハイヤー・レリジョン(高等宗教)に熱心でした。とりわけ鎌倉仏教に。私も関心がありましたから、浄土教、禅についてかなりしゃべったんですよ。

 

 そうしたらね、忘れないんですが、トインビーさんは「イエース」「イエース」とじっと聞いてくださった。英語圏では人の話を聞くとき、「イエス」なんて言いません。トインビーさんだけは例外でした。それから、それで、どうして……と話し相手を誘う。  

 

― トインビーさんはどんなメッセージを? 膨大でしょうが、例えばエピソードは何かございますか?  

 

・國弘 沖縄返還時、佐藤栄作政権の「密使」役を務めた若泉敬さん(故人、元京都産業大学教授)を思い出します。右翼、政治ゴロ、ナショナリスト……そんなレッテルを貼られる面もあった人物です。

 

 彼は佐藤栄作、僕は三木武夫。言ってみればタカ派とハト派。もうそこで対立しているんですが、同じ昭和五年生まれ。価値観が全然逆のようなんですが、気が合うところがあってね。

 

 最後に彼は沖縄へ行くんです。沖縄県民への陳謝の旅でした。有事の際の核導入という密約を押しつけてしまったという贖罪、それが最後の旅でした。仏僧を伴って。

 できないことです。帰ってきて、パッと死んじゃった。あの人の中にあるひたむきなもの、真摯なものには心惹かれました。その精神性は、トインビーさんのおかげだと僕は思っているの。  

 

― それは、どんなことですか?  

 

・國弘 若泉さんとトインビーさんが毎日新聞で対談をするわけです。その中で、例えば「日本は憲法九条を絶対捨ててはいけません」とトインビーさんが言う。

 「おそらく捨てたくなるでしょう、誰もついてはこないということで、孤立した思いを抱くでしょう。しかしこの九条だけは絶対将来を見据えている」ということを切々と若泉さんに説くのです。

 僕の勝手な推測ですが、あのとき若泉敬は衝撃を受けたのだと思う。平和主義、憲法九条……今では時代遅れと思われることが、じつは長い歴史の物差しから見たら、一番先頭を行っている、と若泉さんがきっとわかったのでしょう。  

― トインビーさんは東洋思想をとても重んじていましたね。  

・國弘 キリスト教圏に生まれたことはハンディだったとまで記述されています。伊勢神宮に伴ったとき、古神道への深い畏敬の念を示しました。和歌山の海岸で魚介類の養殖場を見たとき、こういう面で日本は世界に貢献して欲しい、と書いてますよ。まさに冒頭の小林翁の「赤十字国家」論と通じるじゃないですか。 

 

8)密使 若泉敬 沖縄返還の代償(2010年6月20日 (日)) 

・昨日19日土曜日のNHKスペシャル「沖縄返還密使・若泉敬 日米外交戦の舞台裏」には、本当に感動した。いま、この番組のことを思い出すだけで、涙が出てくる。 

 

・若泉氏の沖縄に向き合う思いは、終始一貫して、全く打算のない「良かれ」と思ってものだったと信じる。その清らかな意思で「他策ナカリシ」と妥協し密約した「沖縄返還」だったが、最初から密約ありきの交渉だった。 

 

・当時、アメリカは、核ミサイルをどこからでも発射できる用意をしつつあった。沖縄に核を置き続ける必要がなくなっていた。「沖縄返還」交渉においてのアメリカの狙いは、沖縄に核を置き続けることではなく、満足のいく合意があれば核の撤去はする用意があった。「核の撤去」は、日本の軍事基地を、台湾、ベトナムとの関係で自由に使用できることを希望するために、交渉カードに使われたものだった。アメリカは、唯一の被爆国の反核感情を計算に入れて交渉に臨んでいたのだ。 

 

・アメリカの狙いは、「日本の軍事基地を、台湾、ベトナムとの関係で自由に使用できること」にあり、「核の再持ち込み」にあった。 

 

<佐藤栄作氏の死後、官邸から持ち帰った執務机の中から発見された合意文書> 

 

米側:ニクソン大統領

 我々の共同声明にあるように、沖縄の施政権が実際に日本に返還されるまでに、沖縄からすべての核兵器を撤去するのが米国政府の意図である。それ以降は、共同声明で述べているように、日米安全保障条約、および関連する諸取り決めが沖縄に適用される。 

 

 しかし、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負う国際的責任を効果的に遂行するため重大な緊急事態に際して米国政府は日本政府との事前協議の上、沖縄に核兵器を再び持ち込み、通過させる権利が必要となるだろう。米国政府は好意的な回答を期待する。米国政府はまた、現存の核兵器貯蔵地である沖縄の嘉手納、那覇、辺野古、ナイキ・ハーキュリーズ基地をいつでも使用できるよう維持し、重大な緊急事態の際に活用することが必要となる。 

 

日本側:佐藤栄作首相

 日本政府は、大統領が上で述べた重大な緊急事態に際し、米国政府が必要とすることを理解し、そのような事前協議が行われた場合、遅滞なくこれらの必要を満たすだろう。大統領と首相は、この議事録を2通作成し、大統領と首相官邸にのみ保管し、米大統領と日本国首相との間でのみ、最大の注意を払って極秘に取り扱うべきものとすることで合意した。 

 

 アメリカは、置き続ける必要がなくなった「核」の撤去を交渉カードとして切り、この合意で、得たいものすべてを手に入れた。比して、日本政府は、アメリカの条件すべてを飲み、勝ち取ったと思ったものはカードだったわけで、何も勝ち取っていない。しかも、日本政府が、この交渉で最も重要と考えていたのは、「大統領と首相は、この議事録を2通作成し、大統領と首相官邸にのみ保管し、米大統領と日本国首相との間でのみ、最大の注意を払って極秘に取り扱うべきものとする」というところにあったと思われる。事実、若泉は、佐藤首相に、文書の取り扱いについて注意を促している。 

 

・若泉は交渉にあたって、ホワイトハウスにいる友人モートン・ハルペリンに、「核を撤去できるか」と尋ねる。モートンは、ある条件が必要と伝える。アメリカ政府が核の再持ち込みを求めるとき、日本がそれを認めることを秘密の了解事項としておかないと軍部と議会を説得できないと。 

 

・ということは、そもそも、この秘密合意文書は、アメリカにおいては全く秘密ではなかったということではないかと私は思うけど。 

 

・アメリカ側は、強硬な姿勢を変えず、核抜きを可能とするのは、唯一「核再持ち込み」を密約する場合であるとした。若泉は、佐藤栄作が打ち出していた非核三原則の中、苦しい交渉を迫られ、これが不可避な現実なのだとの結論に至る。密約を結ぶよう佐藤に進言する。キッシンジャーと協議を重ねた。ニクソンと佐藤とで密約を結ばせ、返還合意をした。 

 

・若泉は、「他策なかりし」と苦しい思いして密約を進言し、沖縄密約が合意されることになった。

 

・密約は、1969(昭和44)年11月の日米首脳会談の最後に大統領執務室に隣接する小部屋でかわされた。1972(昭和47)年5月15日本土復帰の際には、日米合同委員会が開催され、日米両国は沖縄県における米軍基地の嘉手納、普天間、88か所のほとんどが期限を定めず使えるという取り決めがなされた。日米合同委員会の合意議事録は秘密事項とされ、公にされなかったが、1997年に公表された。内容は、こちら。 

 

・アメリカは、アジアでの戦争のために日本の基地をより自由に使うことを密約で外交的に勝ち取ったが、さらに返還当日に日米合同委員会で沖縄の無期限自由使用を確認しているということだと思う。 

 

・沖縄返還によって、これが現在まで続く基地利用となった。 

・1974年12月、佐藤栄作は、非核三原則制定を評価され、「ノーベル平和賞」を受ける。

 この佐藤栄作のノーベル平和賞受賞をめぐっては、「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」との批判がある。 

 

・平和賞を選考するノルウェーのノーベル賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と述べたという。 

 

・若林は、佐藤の自宅を訪れ、佐藤の日記閲覧を申し出る。

・11月6日に注目した。が、書かれているのは、「沖縄や、2,3の連中が、余の激励にやってくる」。これだけ。認識の違いを痛感する。 

 

・やがて、若泉氏は、中央政界と距離を置き、表舞台から姿を消す。沖縄復帰20周年 東京で日米の政府関係者が集まり記念式典を開いた。若泉はこの時12年ぶりに公の場に姿を現した。

 

・合わせて開かれた沖縄返還会議に出席。その席で、機密解除された機密文書NSDN13号が開示さる。若泉は、この戦略の全貌を初めて知り愕然とした。たびたびの会談で、その感触すらつかめなかった。日本政府の誰ひとりとして正確には知らなかった。若泉がかかわった返還交渉によって、アメリカは望むものすべてを得ていた。 

 

・密約までして果たした沖縄返還であったが、結果的に、沖縄の基地の固定化を招くことになった。自ら果たした役割に疑問を持ち始めた若泉は、何を考えどう行動したのか。友人あての手紙から浮かび上がる。

 

・大学時代から40年代の友人福留氏によると、あれから沖縄へ鎮魂の旅をした。大きな決断を迫られているように感じた。基地の固定化を招いた責任は自分にもあるのではないと、何度も沖縄を訪れる。最も戦闘が激しかった沖縄南部。 おびただし数の遺骨が散乱。戦後生き残った連中が初めて立てた魂魄の塔。 唯一、住民を巻き込む戦闘の場だった。 見たのは、本土のために一方的に負担を背負わされている沖縄の姿だった。 

 

・沖縄へ行くたびに感じる。平和を享受しながら、沖縄へ目を向けようとしない本土のことを、「愚者の楽園」という。やがて、沖縄交渉のすべてを批判を覚悟にすべてを明かすことにした。 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋, 1994年/新装版, 2009年)を発表する。 

 

・編集者にあてた手紙に、そろそろ時効だからと、そろそろ語ろうとはしたくないとある。 歴史へのささやかな意志。著書出版で国会へ呼ばれることを覚悟していた。日本国全体で問題視するだろうと期待していた。日本の安全保障について議論が高まるのではないか、それによって、日本の人々が問題意識を持つのではないかと。 

 

・しかし、当時外務省は、密約はなかったと真っ向から否定。元外務事務次官、斎藤邦彦は、もう済んだ問題だと。とにかく、沖縄が核抜き本土並みで帰ってきた。外務省全体として同じ感じ方だと。国会でも当時の秘密交渉について問題にすることもなく、社会も関心を持たなかった。 

 

・無視黙殺された現状。政治家、官僚、学者、その他みんな逃げてしまった。 福井に住む友人は、「失意失望です。形の上では私の昔やった仕事を公表しただけで終わってしまうのか、そういうことではなかったんだ。日本国民の目を覚ます、どんな立場、これから日本をどうすればいいのか、真剣に考えてほしかったんだ。なんでこうなんだろうか」と。 

 

・若泉が著書を発表した翌年、沖縄では、12歳の少女がアメリカ海兵隊兵士に拉致され暴行を受ける。基地に対する沖縄の怒りは頂点に達した。若泉が切り抜いていた新聞記事。自宅の書斎で見つかる。 若泉は、沖縄の地元紙を毎日取り寄せ、人々の怒りを感じ取ろうとしていた。 

 

・一向に変わらない基地の負担。自責の念は深まる。沖縄慰霊の日の6月23日、戦没墓苑でたたずむ姿があった。 沖縄の人々に対する責任を繰り返し口にしていた。 本当に本土復帰してみなさんよかったんでしょうかという思いがあった。沖縄に来て、町の人によく問いかけておられた。 

 

・返還をしたから自分のしたことは終わったのだというような気はなかった。 そして重い責任を沖縄の現状に結果責任を感じておられたのだろう。 末期のがんに侵されていた。余命わずか。死期が迫る中、沖縄に対する自らの責任の取り方を考えていた。 

 

・沖縄県の皆様/太田昌秀知事あての手紙を書き、歴史に対して自分が負っている結果責任を取り自ら命を絶つ。 手紙は関係者を通じて太田さんの手元に届く。 

 

・太田さん:申し訳ないという思いがひしひしと伝わってくる。日本の政治家にそういう人は一人もいなかった。 

 

・1996年7月11日 友人は、最後に立ち会う。 著書を海外でも出版するため関係者を自宅に招く。午後2時20分 周りの人に冷たい水を進め、若泉も飲む。突然、何かを口に含む。 自然な死に方ではなくて、自らが選ばれた死だという風に友人は思っていると。 

 

・その解放は日本の独立を完成する。本土復帰を訴える沖縄の女性の写真。アメリカの統治の下、日の丸を掲げて立つ女性。「小指の痛みを全身の痛みと感じてほしい」との言葉がある。 この写真が、30年私の書斎にあり、心の支えだったと。 

 

・他の方法がなかったと密約までして返還を果たした。沖縄の人に尽くしたと思ったが、沖縄返還から、38年、基地は残り、沖縄は今も負担を追い続けております。沖縄返還とは何だったのか。その代償を誰が払うのか。若泉の問いは私たちに突きつけられています。と、NHKは結んだ。 

 

・太田元知事もおっしゃっているが、若泉氏ほど、沖縄について一生懸命に考えた人がかつていただろうか? 私たちは、本当に平和を享受しながら、沖縄へ目を向けようとしない「愚者の楽園」に住んでいる。

 

・「愚者の楽園」の民主党政権は、負担軽減をと口先では言っているが、していることは、負担の拡大である。しかも、アメリカと組んで強権的にすら見える。  

9)「手嶋龍一オフィシャルサイト若泉敬が自裁してまで〝愚者の楽園〟に伝えたかったこと」より

 ― 2010/08/14 10:53 (引用:園田義明めも

 将来の外交ビジョンもなく ただ「密約」を暴いた罪  

・日本国民の中には国際社会の中で生きていくための知恵のようなものがある。建前は建前としてあるので、核持ち込みをあからさまに認めるわけにはいかないけれど、でも、実際にはあるかもしれないと思わせるほうが良いのではないかという現実感覚です。  

 

・渡辺利夫拓殖大学長が「外交の狡知」とおっしゃっていたけれど、日本人はそうした実利的な感覚を持った国民なのです。→ 決して属国などではない。卑屈になるな。(園田)  

 

・凡庸なメディアとさして変わらない低い視点からパンドラの箱を開けてしまったのが真相でしょう。 国民から外交を委ねられているという崇高な使命感は伝わってきません。 

 

・日米同盟では、アメリカは極東や日本の安全を保障する条約上の義務を負う一方で、日本は基地を米国軍に提供することで、バランスが保たれています。民主党政権は、この非対称な同盟の本質について洞察を欠いていた。 

 

・これからお話しする若泉さんにとって、安全保障は生涯をかけたテーマでありました。安全保障と言うものは、究極の国家のレゾンデートル(存在意義)です。その最も重要なことについて深く理解している人に国家の指導者になっていただきたい。こんないい加減であいまいな姿勢で、この問題に取り組まれたことは、日本国民にとって極めて不幸なことだと思います。 

 

・しかし、沖縄返還後の日本の現状は、〝愚者の楽園〟と呼ばなければならない惨状を呈しつつある。眼前の日本のありさまに絶望していった。「結果責任」というよりは、深い絶望が彼を自裁に誘っていったように思います。  

 

・国際政治の大きな舵取りを超大国アメリカに委ねてしまったことで、自ら主体的に国際秩序の形成に関わる意思を磨滅させていった。これこそ、同盟につきまとう、まさしく影だったのです。若泉さんが人並みすぐれて鋭敏だったのは、同盟に密かに兆す影を自覚するその感性でした。  

 

・海外に在勤していた私は、若泉さんから長文の手紙を幾度もいただきましたが、愚者の楽園に安住する日本の人々をなんとか覚醒させたいという思いが綴られていました。 

 

・明確な敵なき時代の同盟のあり方を構想すべきでしょう。敵を旧ソ連から中国に置き換える安易な発想では、確かな解は得られません。→これについては実利的な感覚から今はまだ中国の脅威を利用すべきだと思う。(園田)  

 

<関連記事> 

沖縄核密約は米国の罠だったのか 

若泉敬が自裁してまで〝愚者の楽園〟に伝えたかったこと 対談 

谷内正太郎/前外務事務次官 

手嶋龍一/外交ジャーナリスト・作家  

http://www.ryuichiteshima.com/review/review_okinawa.htm 

 

〇手島(竜一)流「書物のススメ」(2009年10月)

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス〈新装版〉』(若泉敬 著)解説 

新装版に寄せて 

 書斎の窓から見わたす庭は荒れて寂寥の感が漂っていた。主を喪って久しく膨大な蔵書を手に取る者もいなかったのだろう。この国の行く末に思いを残しつつ逝った人の形見に蔵書を持ち帰ってほしい―。そんな申し出に、迷わず『石光真清の手記』の愛蔵本をいただいた。随所に付箋がつけられ、繰り返して読みこんだ跡が窺えた。 

 

 書庫の主は、沖縄返還交渉にあたって、時の総理、佐藤栄作の密使をつとめた若泉敬。戦火が極東に及んだ時には、沖縄へ核兵器の再持ち込みを認める―。東京・ワシントンを極秘裡に往き来しながら「秘密合意議事録」を取りまとめた若き国際政治学者だった。コードネームは「ヨシダ」。密約の存在を知っていたのはたった四人だった。日本側は佐藤栄作と若泉敬、アメリカ側は大統領リチャード・ニクソンと国家安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーだ。 

 

 佐藤政権は、「核抜き本土並み」で沖縄返還を公約として掲げ、対するニクソン政権は、ベトナム戦争が激しさを増すなか、極東の策源地、沖縄の基地を自由に使用したいと譲らない。日米の交渉は苛烈を極め、双方の主張は平行線のまま交わらない。この平行線があえて交わったと見せたのが「秘密合意議事録」だった。 

 

 いま新らたに誕生した民主党政権は、核を巡る日米密約の全貌を明らかにすると国民に約束している。だが沖縄への核兵器の再持ち込みに関する限り、その全貌は本書に書き尽くされている。密約を裏付ける文書も整い、米側の公開文書とも符合して矛盾点はない。

若泉敬はこの密約交渉をやり遂げて沖縄が日本に還ってくると郷里の福井県鯖江に隠棲してしまった。そして再び世に出ようとはしなかった。一切の沈黙を守り通して国家の機密を墓場まで持っていくつもりだった。だが沖縄返還から日が経つにつれ、祖国の姿がしだいに愚者の楽園と映るようになっていく。日米同盟に安易に身を委ねて安逸をむさぼり、アメリカの核の傘に身を寄せて、自国の安全保障を真摯に考えることをやめてしまった経済大国への憤りを抑えがたかったのだろう。 

 

 いまこそ密約のすべてを明らかにし、主権国家が持つべき矜持を忘れ果てた日本に覚醒を促したい―。かくして、密約の全貌を白日のもとに曝した本書の前身、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』が一九九四年に公刊された。日清戦争の後、三国干渉に遭って譲歩を余儀なくされた陸奥宗光の『騫々碌』の一節から採って標題とした。それは現代日本への諫言の書でもあった。 

 

 本書はおのが死を視野に収めて書き継がれた。若泉敬は国家の機密を公にした結果責任をとって、この書を刊行した後沖縄の忠魂碑前で命を絶つ覚悟だった。その決意が堅いことを知っていた私は、せめて英語版を世にだすまでと説得した。そんな日々のなか、若泉が心の拠り所としたのが『石光真清の手記』だった。誕生間もない明治国家を列強のなかで生き延びさせるため、露探と蔑まれた対露諜報員に身をやつした明治の武人に自らの境遇を重ね合わせたのだろう。そして二年後、月下美人が咲く南海の孤島で英語版の序文を書きあげた後、毒杯をあおって自裁した。 

 

 四人が交わした密約は果たして必要だったのか―。こう冷徹に見立てることもできるだろう。一九六九年の「佐藤・ニクソン共同声明」は、沖縄返還に当たっては米側の核政策を損なわないと述べ、行間に有事の核持ち込みを滲ませている。

 

 ニクソンとキッシンジャーは、若泉との折衝で、その行間を敢えて埋めるよう求めてきた。米側は、大統領選挙の公約だった繊維製品の自主規制を佐藤政権に呑ませるため、密約を存分に利用したのだった。そして若泉はこころならずも繊維を巡る日米の密約にも巻き込まれていく。

 

 その秘密合意や交渉メモも保存していた。だが自裁にあたって、その全てを焼却したと本人から聞かされた。それは、沖縄の密約とは異なり、忌むべき合意だったのだろう。だが日米関係の文脈からは、庭で燃やされた資料こそ貴重だった。日米が同盟の契りを結び、それを維持していくことが、どれほどに苛烈なものか、それを後世に伝えるまたとない材料だったからだ。 

 

 密約は不可避だったのか。この問いに答えが出なくとも、新しい形で刊行された本書の価値はいささかも減じない。二十一世紀の太平洋同盟を担う若い世代は、本書から安全保障が直面する本質を掴み取り、太平洋の波を穏やかならしめてほしい。

10)TBSドラマ「シリーズ激動の昭和:『総理の密使』~核密約42年目の真実~

2011年2月21日(月)よる 9:00から

 沖縄返還を巡る「総理の密使」を三上博史が熱演!! 

 

・昭和史のさまざまな局面をドラマとドキュメンタリーを融合させて番組化し、好評を博しているTBS「シリーズ激動の昭和」。今回その第4弾となる『シリーズ激動の昭和 総理の密使~核密約42年目の真実~』を2月21日(月)よる9:00~11:09にお送りする。 

 

・沖縄返還を巡るアメリカとの交渉に奔走した「総理の密使」若泉(わかいずみ)敬(けい)役を実力派俳優の三上博史が演じる。 

 

・昭和44(1969)年、日米首脳会談にて決定した沖縄返還。時の総理、佐藤榮作は「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則をかかげ、「核抜き」での沖縄返還に成功し、のちにノーベル平和賞を受賞するなど世界的な評価を受ける。 

 

・ところが、実は日米政府の間で、「有事に際しては、沖縄への核兵器の再持ち込みを認める」という秘密合意文書を交わしていたのだ!非核三原則の「持ち込ませず」に反するこの「密約」は通常の外交ルートではなく、総理の命を受けたひとりの「密使」、若泉敬という人物によって結ばれたものだった。 

 

・若泉は、新進気鋭の国際政治学者だったが、「戦争によって失った領土を、武力によらず取り戻す」という史上類のない難しい仕事に情熱を注ぎ、人脈を駆使して、交渉を妥結へと持ち込む。そして、秘密交渉を担った若泉と、彼の結んだ"密約"の存在は、人知れず歴史の中に消えていくはずだった。 

 

・しかし、返還から22年後、若泉は沖縄返還交渉の裏舞台と「密約」について書いた著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版し、返還の「闇の歴史」を明らかにする。墓場まで持っていくはずだった秘密を、彼はなぜ暴露したのか? 

 

・この番組では、沖縄返還の秘密交渉の裏に隠された「若泉敬」という人物の高揚と苦悩、彼が背負っていた時代をドラマとドキュメンタリーで丁寧に描いていく。戦後の「闇の歴史」を明らかにする『総理の密使~核密約42年目の真実~』に乞うご期待!! 

 

〔ドラマのあらすじ〕 

・昭和42年(1967)、自民党・佐藤政権は「沖縄返還」を公約に掲げ、国内世論はこの問題で沸騰していた。「戦争に負けても、外交で勝つ」。国際政治学者・若泉敬(三上博史)は、尊敬する吉田茂元総理の言葉を引き、東大の後輩でのちに外務官僚となる谷内正太郎(眞島秀和)に、沖縄返還で日本外交の力が試されると説く。 

 

・若泉は親交のあった自民党幹事長・福田赳夫を介して、佐藤榮作総理(津川雅彦)と密会。返還交渉について、秘密の特使=密使の仕事を依頼される。

 間近に迫った日米首脳会談で、返還時期のメドだけでもつけたい佐藤総理。彼は、「ベトナム戦争の最中に、その前線基地となっている沖縄をアメリカが返すはずがない」と動きの鈍い外務省ルートとは別の突破口を求めていたのだ。 

 

・単身ワシントンに向かった若泉は、時のジョンソン大統領の側近に働きかけ、「2~3年以内に返還時期のメドを付ける」との合意に成功する。しかし、肝心のジョンソン大統領が次期大統領選に不出馬。交渉は振り出しに戻ってしまった。2年後、後継のニクソン大統領との首脳会談を前に、再び若泉は、佐藤総理から密使の仕事を依頼される。今回は、「国際政治の怪物」と呼ばれたキッシンジャー補佐官が相手だ。 

 

・ホワイトハウスに乗り込んだ若泉は、キッシンジャーと二人だけの秘密交渉を開始。「核抜き、1972年の返還」と引き替えに、キッシンジャーが突きつけてきたのは、「有事の際の沖縄への核再持ち込み」と「繊維交渉での日本側の譲歩」というふたつの秘密の合意=密約だった。

ばれたら政権が吹っ飛びかねない「爆弾」であったが、「沖縄を取り戻すためには、やむを得ない代償」と思い定めた若泉は、佐藤総理を説得し続けた。昭和44年(1969)11月、ついに沖縄返還が決まった日米首脳会談。ホワイトハウスの小部屋で、密かに合意文書が取り交わされる。それは、若泉、佐藤、ニクソン、キッシンジャーの4人しか知らないものだった。

役目を終えた若泉は、佐藤総理に「私のことはすべて忘れてください」と語り、交渉における自らと"密約"の存在を封印する。 

・昭和47年(1972)5月15日、沖縄の本土復帰、そして、昭和49年(1974)年、佐藤榮作がノーベル平和賞を受賞する。

 

・しかし、一方、繊維交渉は進まず、日米関係は最悪の状態に。専門外の経済交渉に巻き込まれ、板ばさみとなった若泉は心身共に疲弊していく。さらに、返還後も変わらない沖縄の基地負担の現実に、自らの「結果責任」を痛感した若泉は、50歳にして故郷・福井への隠棲を決意。沖縄返還交渉の真実を明かすため、長い執筆活動に入った。 

 

・そんな若泉を支え続けたのが、弁護士の妻・ひなを(加藤貴子)。だが、5年後、ひなをは急死。さらに若泉本人もすい臓がんであることを告知される。そんな中、若泉は太平洋戦争での遺骨収集のため沖縄へ向かった。

 

・そして1994年の沖縄本土復帰記念日に、ついに著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」が出版される。600ページ以上もある分厚い本は、沖縄返還交渉の裏舞台と"密約"について詳細を究めたものだった。 

 

・「長く密約の存在を否定し続けてきた日本政府は、どう対応するのか」、マスコミは騒然となった。国会への証人喚問も覚悟していた若泉敬。公の場で語り、沖縄への「結果責任」をとると同時に、外交戦略なきニッポンへ警鐘を鳴らす意図があったのだが・・・・・・ 

 

〔ドキュメンタリーパート〕

・1996年に死去した若泉について、内外の関係者多数に取材し、貴重な証言をもとに、秘密交渉の軌跡とその人物と想いを描く。 

 

・返還前、沖縄に配備されていた1200発以上の核兵器。ベールに包まれていた「核抜き前のオキナワ」の姿を、米軍関係者の証言を元に追跡し、「核の時代に、核なき日本はどう向き合えばいいのか」という若泉が持ち続けた危機意識と、その行動を読み解く。 

 

〔ひとこと〕 制作プロデューサー・島田喜広

・アメリカや中国との関係をめぐり日本の安全保障が真剣に問われている今だからこそ、およそ40年前、命がけでこの問題に取り組んだ若泉氏の生き様を多くの視聴者に知ってもらいたいと思い、この番組を制作しました。 

 

・三上さんのシャープでストイックなイメージがそのまま若泉氏のイメージに重なり主演をお願いしましたが、三上さんは番組の趣旨に賛同し、資料も読み込んで役に向かい、結果、生前の若泉氏を知る関係者が「本人のようだ」と驚くくらい、生き生きと演じてくれました。 

 

〔出演者〕

・若泉敬:三上博史 若泉ひなを:加藤貴子 谷内正太郎:眞島秀和 佐藤榮作:津川雅彦 

 

〔スタッフ〕

制作プロデューサー:島田喜広 番組プロデューサー:堤慶太 総合演出:金富隆

脚本:渡邉睦月 ドラマプロデューサー:三城真一 ドラマ演出:北川雅一 


(5)三島事件


(引用:Wikipedia) 

※掲載の主旨 

 本年(令和2年:2020)、産経新聞が戦後75周年の特集記事(令和2年11月24日~26日)の一環として、昭和45年11月25日に、作家・三島由紀夫が「盾の会」メンバーと伴に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の本館ベランダから駐屯地所在隊員に決起を促し、その後、東部方面総監室に於いて自決したいわゆる三島事件から50周年の節目に当たるになることから特集記事として取り上げた。 

 

 この事件当時、出張先の勤務場所でのテレビ中継でこの事件を知り、三島由紀夫のように有名な作家が、何故このようなことを興したのか、不思議に思っていましたが、強烈な印象が残ったことを覚えています。 

 

 今回、産経新聞の特集記事を読んで、三島事件のことをWikipediaで確認したところですが、当時は知らなかった事象が明らかになり、いわゆる三島事件での三島氏の気持ちは、若泉氏が著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で強調した「憂国の念」とも通じるところがあるのではないかと思います。三島事件について、関係者のご冥福を祈りつつ、Wikipedia記事の抜粋と産経新聞から関連記事のスクラップを掲載することにしたものです。

 序) 概要 

 三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。 

 

 この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家の起こした異例な行動に一様に驚きを示した。警視庁が2016年に実施した「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート投票において三島事件は第29位となった(警視庁職員だけの投票では第52位) 

 

1) 経緯 

1.1) 総監を訪問し拘束 

・1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門(四谷門)を通過し、東部方面総監部二階の総監室正面玄関に到着。出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された 

 

・この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった 

 

・応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した。 

 

・ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた。 

 

・三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。 

 

・三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。この時、11時5分頃であった。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。 

 

・それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した。古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にさるぐつわを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた。 

 

・総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て観音開きドア)に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。

 

1.2) 幕僚らと乱闘 

・お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治3佐が、総監室の物音に気づき、その報告を受けた原勇1佐が廊下に出て、正面入口の擦りガラスの窓(一片のセロハンテープが貼られ、少し透明に近づけてある)から室内を窺うと、益田総監の後ろに楯の会隊員たちが立っていた。総監がマッサージでも受けているかのように見えたが、動きが不自然なため、中に入ろうとすると鍵が閉まっていた。

 

・原1佐がドアに体当たりし、隙間が2、30センチできた。室内から「来るな、来るな」と森田必勝が叫び声を挙げ、ドア下から要求書が差し出された。それに目を通した原1佐らはすぐに行政副長・山崎皎陸将補(53歳)と防衛副長・吉松秀信1佐(50歳)に、「三島らが総監室を占拠し、総監を監禁した」と報告。幕僚らに非常呼集をかけ、沢本3佐の部下が警務隊に連絡した。 

 

・総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、すぐさま三島は日本刀・“関孫六”で背中などを斬りつけ、続いて木刀を持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した。この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという。この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った。時刻は11時20分頃であった。 

 

・彼ら5人を退散させている間に、さらに幕僚副長室側から、清野不二雄1佐(50歳)、高橋清2佐(43歳)、寺尾克美3佐(41歳)、水田栄二郎1尉、菊地義文3曹、吉松秀信1佐、山崎皎陸将補の7人が次々と突入してきた。副長の吉松1佐が、「何をするんだ。話し合おうではないか」と言うが乱闘は続き、古賀浩靖は小テーブルや椅子を投げつけ、小川正洋は特殊警棒で応戦した。 

 

・森田も短刀で応戦するが、逆に短刀をもぎ取られた。三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した寺尾3佐、高橋2佐に斬りつけた。総監を見張っていた小賀に、清野1佐が灰皿を投げつけると、三島が斬りかかった。清野1佐は、地球儀を投げて応戦するが躓いて転倒。山崎陸将補も斬りつけられ、幕僚らは総監の安全も考え、一旦退散することにした。 

 

・この乱闘により自衛隊員8人が負傷したが、中でも最も重傷だったのは、右肘部、左掌背部切創による全治12週間の中村菫正2佐だった。三島の刀を玩具だと思って左手でもぎ取ろうとしたため掌の腱を切った中村2佐は、左手の握力を失う後遺症が残った。しかし中村2佐は、三島に対して「まったく恨みはありません」と語り、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」と述懐している 

 

・11時22分、東部方面総監室から警視庁指令室に110番が入り、11時25分には、警視庁公安部公安第一課が警備局長室を臨時本部にして関係機関に連絡し、120名の機動隊員を市ヶ谷駐屯地に向けて出動させた。室外に退散した幕僚らは三島と話し合うため11時30分頃、廊下から総監室の窓ガラスを割った。最初に顔を出した功刀松男1佐が額を切られた。吉松1佐が窓ごしに三島を説得するが、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と、最初に森田がドア下から廊下に差し出したものと同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた。 

 

*要求書には主に

(一)11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合せしめること。 

 

(二)左記次第の演説を静聴すること。
 (イ)三島の演説(檄の撒布)
 (ロ)参加学生の名乗り
 (ハ)楯の会の残余会員に対する三島の訓示 

 

(三)楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。 

 

(四)11時30分より13時10分にいたる2時間の間、一切の攻撃妨害を行はざること。一切の攻撃妨害が行はれざる限り、当方よりは一切攻撃せず。 

 

(五)右条件が完全に遵守せられて2時間を経過したときは、総監の身柄は安全に引渡す。その形式は、2名以上の護衛を当方より附し、拘束状態のまま(自決防止のため)、本館正面玄関に於て引渡す。 

 

(六)右条件が守られず、あるいは守られざる惧れあるときは、三島は直ちに総監を殺害して自決する。  

 

などと書かれてあった。 

 

・幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることを決め、11時34分頃に吉松1佐が三島に、「自衛官を集めることにした」と告げた。三島は「君は何者だ。どんな権限があるのか」と質問し、吉松1佐が「防衛副長で現場の最高責任者である」と名乗ると、三島は少し安心した表情となり腕時計を見てから、「12時までに集めろ」と言った。 

 

・その間、三島は森田に命じ、益田総監にも要求書の書面を読み聞かせた。手の痺れた益田総監は、細引を少し緩めてもらった。総監は、何故こんなことをするのか、自衛隊や私が憎いのか、演説なら内容によっては私が代わりに話すなどと説得すると、三島は総監に檄文のような話をして、自衛隊も総監も憎いのではない、妨害しなければ殺さないと告げ、「きょうは自衛隊に最大の刺戟を与えて奮起を促すために来た」と言った。 

 

・なお、三島が総監室で恩賜煙草を吸ったかどうかは不明であるが、「現場で煙草を吸うくらいの時間はあるだろう」と、他の荷物と一緒に、園遊会で貰った恩賜煙草もアタッシュケースに入れるように前々日にメンバーに渡していたという。 

 

・11時40分、市ヶ谷駐屯地の部隊内に「業務に支障がないものは本館玄関前に集合して下さい」というマイク放送がなされ、その後も放送が繰り返された。 

 

・11時46分、警視庁は三島ら全員について逮捕を指令した。駐屯地内には、パトカー、警務隊の白いジープが次々と猛スピードで入って来ていた。この頃、すでにテレビやラジオも事件の第一報を伝えていた。 

 

1.3) バルコニーで演説 

・部隊内放送を聞いた自衛官約800から1000名が、続々と駆け足で本館正面玄関前の前庭に集まり出した。中にはすでに食堂で昼食を食べ始め、それを中断して来た者もあった。彼らの中では、「暴徒が乱入して、人が斬られた」「総監が人質に取られた」「赤軍派が来たんじゃないか」「三島由紀夫もいるのか」などと情報が錯綜していた。 

 

・11時55分頃、鉢巻に白手袋を着けた森田必勝と小川正洋が、「檄」を多数撒布し、要求項目を墨書きした垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らした。自衛官2人がジャンプして垂れ幕を引きずり下そうとしたが、届かなかった。前庭には、ジュラルミンの盾を持った機動隊員や、新聞社やテレビなど報道陣の車も集まっていた。 

 

・なお当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった。不穏な状況を知って動揺する会員らと警察・自衛隊との間で小競り合いが起こり、ピストルで制止された。 

 

・正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀・“関孫六”の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った[注釈 5]。日本刀が見えたのは一瞬のことだった。三島の頭には、七生報國(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた。右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた。 

 

・「三島だ」「何だあれは」「ばかやろう」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めた。〈日本を守る〉ための〈建軍の本義〉に立ち返れという憲法改正の決起を促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった。上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミのヘリコプターが騒音を出し、何台も旋回していた。 

 

 おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略) 

 おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。  — 三島由紀夫、バルコニーにて 

 

・自衛官たちは一斉に、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした。「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」と野次が飛ぶと、すかさず三島はそれに答えて、「抵抗したからだ」と凄まじい気迫でやり返した。 

 

・その場にいたK陸曹(原典でも匿名)は、うるさい野次に舌打ちし、「絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語り、いったん号令をかけて集合させたなら、きちんと部隊別に整列して聴くべきだったのではないかとしている。 

 

・三島は、〈諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか〉と叫び、10秒ほど沈黙して待ったが、相変わらず自衛官らは、「気違い」「そんなのいるもんか」と罵声を浴びせた。予想を越えた怒号の激しさやヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりもかなり少なく、わずか10分ほどで切り上げられた。三島が演説を早めに切り上げたのは、機動隊が一階に突入したのを見たからだとも推測されている。 

 

・演説を終えた三島は、最後に森田と共に皇居に向って、〈天皇陛下万歳!〉を三唱した。その時も、「ひきずり降ろせ」「銃で撃て」などの野次で、ほとんども聞き取れないほどだった。この日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、現職においてはどちらかといえば三島の想定した「武士」ではない隊員らであった。 

 

・三島は神風連(敬神党)の精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、マイクを使用していなかった。マイクや拡声器を使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった。三島は林房雄との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、神風連が西洋文明に対抗するため、電線の下をくぐる時は白扇を頭に乗せたことや、彼らがあえて日本刀だけで戦った魂の意味を語っていた。 

 

・ちなみに、三島の演説をテレビで見ていた作家の野上弥生子は、もしも自分が母親だったら「(マイクを)その場に走って届けに行ってやりたかった」と語っていたという。水木しげるは、『コミック昭和史』第8巻(1989年)で、当時の自衛官が演説を聴かなかったことについて、「三島由紀夫が武士道を強調しながら自衛隊員に相手にされなかったのは自衛隊員も豊かな日本で個人主義享楽主義の傾向になっていたからだろう」としている。

 

・事前に三島の連絡を受け、当日朝、11時に市ヶ谷会館に来るように指定されていたサンデー毎日記者・徳岡孝夫とNHK記者・伊達宗克は、楯の会会員・田中健一を介して三島の手紙と檄文、5人の写真などが入った封書を渡されていた。それは万が一、警察から檄文が没収され、事件が隠蔽された時のことを惧れて託されたものだった。徳岡はそれを靴下の内側に隠してバルコニー前まで走り、演説を聞いていた。 

 

・前庭に駆けつけたテレビ関係者などは、野次や騒音で演説はほとんど聞こえなかったと証言しているが、徳岡孝夫は、「聞く耳さえあれば聞こえた」「なぜ、もう少し心を静かにして聞かなかったのだろう」とし、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。 

 

・なお、この演説の全容を録音できたのは文化放送だけだった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や報道ヘリコプターの騒音の中、〈それでも武士か〉と自衛官たちに向けて怒号を発する三島の声を良好に録音することに成功し、スクープとなったという。文化放送報道部監修『スクープ音声が伝えた戦後ニッポン』(2005年、新潮社)の付属CDでこの演説の肉声を聴くことができる。

  

1.4) 割腹自決へ 

・12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。 

 

・三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。 

 

・割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。 

 

・左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。 

 

・介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。最後に小賀が、三島の握っていた短刀を使い首の皮を胴体から切り離した。その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。 

 

・続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた。 

 

・3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。総監が、「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。 

 

・12時20分過ぎ、総監室正面入口から小川と古賀が総監を両脇から支え、小賀が日本刀・関孫六を持って廊下に出て来た。3人は総監を吉松1佐に引き渡し、日本刀も預け、その場で牛込警察署員に現行犯逮捕された。警察の温情からか3人に手錠はかけられなかった。群がる報道陣の待ち受ける正面玄関からパトカーで連行されて行く時、何人かの自衛官が3人の頭を殴ったため、警察官が「ばかやろう、何をするか」と一喝して制した。 

 

・12時23分、総監室内に入った署長が2名の死亡を確認した。「君は三島由紀夫と親しいのだろ?すぐ行って説得してやめさせろ」と土田國保警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長・佐々淳行が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している。 

 

・人質となった総監はその後、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った。 

 

・現場の押収品の中に、辞世の句が書かれた短冊が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった。 

 

 益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜   — 三島由紀夫

 散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐  — 三島由紀夫 

 今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは — 森田必勝

 火と燃ゆる 大和心を はるかなる 大みこころの 見そなはすまで  — 小賀正義 

 雲をらび しら雪さやぐ 富士の根の 歌の心ぞ もののふの道    — 小川正洋

 獅子となり 虎となりても 国のため ますらをぶりも 神のまにまに — 古賀浩靖 

 

・三島由紀夫(本名・平岡公威)は享年45。森田必勝は享年25、自分の名を「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという。 

 

1.5) 当日の余波 

・市ヶ谷会館の中で、警察官や機動隊の監視下に置かれていた楯の会会員30人中、森田と同じ班の者たちは事件を知って動揺し、「(現場に)行かせろ」と激しく抵抗して3名が公務執行妨害で逮捕された。会館に残された会員たちは、任意同行を求められ、整列して「君が代」を斉唱した後、四谷署に連れて行かれた。 

 

・12時30分過ぎ、総監部内に設けられた記者会見場では、開口一番、2人が自決した模様と伝える警視庁の係官と、矢継ぎ早に生死を質問する新聞記者たちとの興奮したやり取りが交わされ始めた。2人の首がはねられたことを初めて知った記者たちの間からは、うめき声が洩れ、どよめきが広がった。 

 

・吉松1佐も記者たちの前で一部始終を説明した。切腹、介錯という信じがたい状況を記者たちは何度も確認し、「つまり首と胴が離れたんですか」と1人が大声で叫ぶように質問すると、吉松1佐はそのままオウム返しで肯定した。もはや聞くべきことがなくなった記者たちはそれぞれ足早に外へ散っていった。 

 

・多方面で活躍し、ノーベル文学賞候補としても知られていた著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決の衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報で流され、街では号外が配られた。番組は急遽、特別番組に変更され、文化人など識者の電話による討論なども行われた。市ヶ谷駐屯地の前には、9つあまりの右翼団体が続々と押し寄せた。 

 

・12時30分から防衛庁で記者会見を開いた中曽根康弘防衛庁長官は、事件を「非常に遺憾な事態」とし、三島の行動を「迷惑千万」「民主的秩序を破壊する」ものと批判した。 

 

・官邸でニュースを知った佐藤栄作首相も記者団に囲まれ、「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」とコメントした。両人はそれまで、三島の自衛隊体験入隊を自衛隊PRの好材料として好意的に見ていたが、事件後は政治家としての立場で発言した。 

 

・なお、佐藤首相はこの日の日記に「(事件を起こした)この連中は楯の会三島由紀夫その他ときいて驚くのみ。気が狂ったとしか考へられぬ。詳報を受けて愈々判らぬ事ばかり。(中略)立派な死に方だが、場所と方法は許されぬ。惜しい人だが、乱暴はなんといっても許されぬ」と困惑している旨を書き残している。 

 

・一方、中曽根は後に『私の履歴書』「私は、これは美学上の事件でも芸術的な殉教でもなく、時代への憤死であり、思想上の諌死だったのだろうと思った。が、菜根譚にあるように『操守は厳明なるべく、しかも激烈なるべからず』であり、個人的な感慨にふけっているときではなかった」としている。 

 

・釈放された益田総監が自衛官たちの前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いた。その場で取材していた東京新聞の記者は、その光景になんとも我慢できないものを感じたとし、その「軍隊」らしくない集団の態度への違和感を新聞コラムに綴った。

 

 三島の自決に対する追悼ではもちろんない。民主主義に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。いってみれば、暴漢の監禁から脱出してきた“社長”へのねぎらいであり、サラリーマンの団結心といったところだろうか。

残された隊員へ、マイクで指示が出た。「みなさんは勤務に服してください。どうぞ、そうしてください」と哀願調、隊員はいっこうに立ち去りそうもない。(中略)はからずも露呈した自衛隊のサラリーマン的結束と無秩序状態。— 東京新聞コラム(昭和45年11月25日) 

 

・テレビの正午のニュースで息子の事件を知り注視していた三島の父・平岡梓は、速報のテロップで流れた「介錯」「死亡」の字を「介抱」と見間違え、なぜ介抱されたのに死んだのだろうと医者を恨み動転していた。そのうち、外出先で事態を知った母・倭文重や妻・瑤子が緊急帰宅し、一家は「青天の霹靂」の混乱状態となった。 

 

・13時20分頃、三島と親しい川端康成が総監部に駆けつけたが、警察の現場検証中で総監室には近づけなかった。呆然と憔悴した面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「ただ驚くばかりです。こんなことは想像もしなかった――もったいない死に方をしたものです」と答えた。石原慎太郎(当時参議院議員)も現場を訪れたが、入室はしなかったという。 

 

・14時、警視庁は牛込警察署内に、「楯の会自衛隊侵入不法監禁割腹自殺事件特別捜査本部」を設置した。自衛隊の最高幹部の1人は、「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ」とこの日の感想を結んだ。 

 

・演説を見ていたK 陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語り、幕僚3佐のTも、「まさか、死ぬとは! すごいショックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べた。 

 

・17時15分、三島と森田の首は検視のため一つずつビニール袋に入れられ、胴体は柩に収められて、市ヶ谷駐屯地を出て牛込署に移送され、遺体は署内に安置された。署には民族派学生たち右翼団体が弔問に訪れ、仮の祭壇が設けられたが、すぐに撤去された。 

 

・22時過ぎ、警視庁は三島邸や森田のアパートの家宅捜索を開始し、三島の家は、翌日の午前4時頃まで捜索された。三島邸の閉ざされた門の前の路上には、多くの報道陣が密集し、その後方には、三島ファンの女学生が肩を抱き合い泣く姿が見られ、詰襟の学生服を着た民族派学生の一団が直立不動の姿勢で頬を濡らし、嗚咽をこらえて長い時間立っていたという。 

 

1.6) 検視・物証・逮捕容疑 

・翌日の11月26日の午前11時20分から13時25分まで、慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、三島の遺体を斎藤銀次郎教授、森田の遺体を船尾忠孝教授が解剖執刀した。その検視によると、2人の死因は、「頸部割創による離断」で、以下の所見となった。 

 

*三島由紀夫:頸部は3回は切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長163センチ。45歳だが30歳代の発達した若々しい筋肉。脳の重さ1440グラム。血液A型。 

 

*森田必勝:第3頸椎と第4頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷、そこから右へ5.4センチの浅い切創、ヘソの右5センチに切創。右肩に0.5センチの小さな傷。身長167センチ。若いきれいな体。

— 解剖所見(昭和45年11月26日)

 

・三島は、小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったという。また一太刀が顎に当たり大臼歯が砕け、舌を噛み切ろうとしていたとされる。介錯に使われた日本刀・関孫六は、警察の検分によると、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、関孫六の贈り主である渋谷の大盛堂書店社長・舩坂弘が牛込警察署で確認した。 

 

・刀剣鑑定の専門家・渡部真吾樹は、この刀の刀紋は「三本杉」でなく、「互の目乱れ」だとし、刀の地もかなり柔らかく、関孫六の鍛え方とは違うと鑑定した。他にも、この刀が本物の関孫六ではないとする専門家の断言や、刀の出所調査もあり、三島が贋物をつかまされていたという説は根強くある。 

 

・小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の所持品には、三島が3名に渡した「命令書」と現金3万円ずつ(弁護士費用)、特殊警棒各自1本ずつ、登山ナイフなどがあった。小賀への命令書には主に、以下の文言が書かれてあった。 

 

 君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。

 今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。 

 三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。

 三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘せよ。  — 三島由紀夫「命令書」 

 

・小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、嘱託殺人、不法監禁、傷害、暴力行為、建造物侵入、銃刀法違反の6つの容疑で、11月27日に送検され、その後12月17日に、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪で起訴された。 

 

2) 事件後 

2.1) 各所の反響・論調 

2.1.1) 自衛隊・防衛庁 

・事件翌日11月26日の総監室の前には、誰がたむけたのか菊の花束がそっと置かれていたが、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。その後、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁をあわてさせたという。 

 

・三島と対談したことのある防衛大学校長・猪木正道は、三島の「檄」を、「公共の秩序を守るための治安出動を公共の秩序を破壊するためのクーデターに転化する不逞の思想であり、これほど自衛隊を侮辱する考え方はない」と批判した。 

 

・その後、三島と楯の会が体験入隊していた陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地には、第2中隊隊舎前に追悼碑がひっそりと建立された。碑には、深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれた。 

 

・警察が、三島と知り合った自衛隊の若い幹部に事情聴取すると、三島に共鳴し真剣に日本の防衛問題を考えている者が予想以上に多かったという。楯の会にゲリラ戦略の講義などをしていた山本舜勝1佐も事情聴取されたが、警察当局は事件を単なる暴徒乱入事件という形で処理する方針となっていたため、山本1佐は法廷までは呼ばれなかった。 

 

・12月22日、東部方面総監・益田兼利陸将が事件の全責任をとって辞職した。この際、益田総監と中曽根康弘防衛庁長官が談判したが、その時の記録テープには、中曽根が「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから…」(これは退職金計算の基礎額を増やし、退職金を増やすという意味)と打診していたくだりがあるとされる。 

 

・三島事件の被害者の1人である寺尾克美3佐は、このテープを聞いて「腸が煮えくり」かえり、それまで尊敬していた中曽根を、「こういう男かと嘆かわしく思った」としている。 

 

・事件から3年後の1973年(昭和48年)秋から、自衛官用の服務の宣誓文に「日本国憲法及び法令を遵守し」という文言を防衛庁内局が挿入した。この文言は、それまで国家公務員(警察官他)の宣誓文だけに書かれ、自衛官の宣誓文に「憲法遵守」を入れるのは躊躇されていたが(憲法第9条を素読すれば自衛隊の存在が違憲と捉えることが可能なため)、三島事件で自衛隊が全くの安全人畜無害な組織であることが明瞭となったため(誰1人としてこの文言を入れても将校が反抗しないと判断したため)、挿入することになった。

 

2.1.2) 新聞社説・海外 

・事件に対する主要な新聞各紙の論調は、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、がほぼ一様に、当日の中曽根康弘防衛庁長官や佐藤栄作首相のコメントを踏襲するような論調で、三島の行動を、狂気の暴走と捉え、反民主主義的な行動は断じて許されないという主旨のものであった。 

 

・アメリカのクリスチャン・サイエンス・モニターの社説は、「三島の自決を日本軍国主義復活のきざしとみなすことはむずかしい。それにもかかわらず、三島自決の意味はよく検討するに値するほど重大である」と論じ、イギリスのフィナンシャル・タイムズは、「たとえ気違いだろうと正気だろうと、彼(三島)の示した手本は、日本の少数の若者たちにとって、現在、将来を通じ、強い影響力を持つことになるだろう」とした。

 

・ドイツのディ・ヴェルトは、「詩人精神の純粋さに殉じてハラキリを行う」と報じた。フランスのレクスプレスは、「憂うべき日本の現状を昔に戻せと唱えて割腹した」と報じ、ル・モンドは、「三島の自刃は偽善を告発するためのものである」と論じた。オーストラリアのフィナンシャル・レビューは、「三島の死を、日本に多い超国家主義や暴力団と結びつけるのは、単に三島に対する誤解のみならず、近代日本に対する誤解でもある」として、「伝統的文化と近代社会の間にある構造的な相剋の中に、真の美を追求し、死にまで至った彼の悲劇は、彼自身の作品のように完璧な域にまで構成されている」と論じた。 

 

ワシントンからは、「軍国主義復活の恐れ」ロンドンからは「右翼を刺激することが心配」パリからは「知名人の行動に驚き」といった打電だった。 

 

ヘンリー・ミラーは、「三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」と問いかけ、以下のように語った。 

 

 かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。

 あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。(中略)彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。— ヘンリー・ミラー「特別寄稿」 

 

ヘンリー・スコット・ストークスは、三島を「日本人のうちでは最も重要な人物」とし、それまで自民党の幹部たちが私的な場所でだけ意見交換していた国防問題・政治論争のすべてを、敢然として「公開の席に持ちだした」ことで注目に値するとして、なぜ、それが今まで日本の職業政治家たちに出来なかったのかと指摘した。 

 

(日本は)国防の問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である――を、認識できる人はほとんどあるまい。(中略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。

 三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、注意を喚起したのである。

— ヘンリー・スコット・ストークス「ミシマは偉大だったか」

 

エドワード・G・サイデンステッカーは、新聞記者らから「三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか」と問われ、直感的に「ノー」と答えた理由を以下のようにコメントした。

 

 たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい国家意識の守護神と目されるだろう。いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。三島の生涯はある意味でシュバイツァー的生涯だった。

  — エドワード・G・サイデンステッカー「時事評論」

2.1.3) 新左翼 

・三島と討論会を行なったことのある東大全共闘は、駒場キャンパスで「三島由紀夫追悼」の垂れ幕で弔意を示し、京都大学などでも、「悼 三島由紀夫割腹」の垂れ幕で追悼した。 

 

・京都大学パルチザン指揮者の滝田修は、「われわれ左翼の思想的敗退です。あそこまでからだを張れる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転したね。新左翼の側にも何人もの"三島"を作られねばならん」とコメントした。 

・新左翼有力党派の幹部は、三島と自分たちの違いを強調し、「われわれは三島の“死の美学”に対して、“生の哲学”でいきます。死ねば何かができるというものではないですから。でも死ぬことを避けるというのではありませんよ。われわれが死ぬときは、殺されて死ぬのです」と語った。 

 

2.1.4) 作家・文化人 

・三島と近しかった友人や同じ思想の系譜に連なる作家や評論家らは、三島事件の意味を「諌死」と捉えた。三島と異なる思想傾向の作家らも、三島が思想を超え、公平な審美眼で文芸批評をしていたことに対する畏敬の念から、現場での川端康成のコメントのように、その稀有な才能の喪失を純粋に惜しむ声が多かった。 

 

・その一方、あくまでも思想的反対や反天皇の姿勢から、三島の行動を「錯誤の愚行」と批判する山田宗睦などの評論家や、軍国主義化を警戒する野間宏のような、当時の「戦後文化人」の一般的意見を反映するものも多かった。 

 

司馬遼太郎は、三島の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、三島の死は文学論のカテゴリーに留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反対し、野次った自衛官たちの大衆感覚の方を正常で健康なものとした。 

 

柴田翔は、「直感的にナルシズムを感じて腹が立った」「若い人たち、特に新左翼の人たちには、動揺などしないでほしい。死の哲学による自己破壊が大事なのか、人間として生き続けることが大事なのか、自分の原理がどちらにあるのか、互いによく踏みとどまって考えなければならない時だろう」と語った。

 

中野重治は、「佐藤も中曽根も、こんどの『楯の会』を前髪でつかんだ」とし、三島事件を「狂気」化することにより、逆に自衛隊が合理的理性的なもの、市民的常識に違反しない非暴力集団かのような印象を社会に喧伝する機会として政治家が利用したと批判した。 

 

小林秀雄は、「右翼といふやうな党派性は、あの人(三島)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれる」とし、事件について様々な「講釈」を垂れ批判する人間には、「事件を抽象的事件として感受し直知する事」が容易でないとした。

 

・実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。事件が、わが国の歴史とか伝統とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。さうでなければ、どうして確かに他人であり、孤独でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。 

 

村松剛は、作家としての地位も家族にも恵まれ、生きていれば、いずれノーベル文学賞を受賞する可能性が大いにあった三島が、その全てを押し切って行動した意義を、「〈昭和元禄〉への死を以てする警告」とし、林房雄も追悼集会で、三島が、自衛隊を本来の「名誉ある国軍」に帰れと呼びかけ、「死をもって反省を促した」諌死だとした。 

 

橋川文三は、三島の戦前からの精神史を踏まえた上で、三島の「狂い死」を、高山彦九郎、神風連、横山安武、相沢三郎や、「無名のテロリスト」の朝日平吾や中岡艮一と同じように位置づけた。

 

・少年時代の三島に影響を与えた保田與重郎は、「森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらにかなしい」、「三島氏は人を殺さず、自分が死ぬことに精魂をこらす精密の段どりをつけたのである」と哀悼し以下のように語った。 

 

 怖れた者は狂と云ひ、不安の者は暴といひ、またゆきづまりといひ、壁に頭を自らうちつけたものといつたりしてゐる。想像や比較を絶した事件として、国中のみならず世界に怖ろしい血なまぐさい衝動を与へた点、近来の歴史上類例がない。

 その特異を識別することは怖れをともなふ故に、それを無意識にさけて、政論的類型的に判断する者は、特異のふくんでゐる創造性や未来性や革命性に恐れる、現状の自己保全に処世してゐる者らである。創造性以下のことばは、イデオロギーや所謂思想と無縁の人の生命の威力そのものである。                ー 保田與重郎「天の時雨」 

 

高橋和巳は、三島と思想的立場は違いながらも、「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」、「もし三島由紀夫氏の霊にして耳あるなら、聞け。高橋和巳が〈醢をくつがえして哭いている〉その声を」と哀悼した。武田泰淳は、「私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません」とコメントし、大岡昇平は、「ほかにやり方はなかったものか。……なぜこの才能が破壊されねばならなかったのか」と無念さを表明した。 

 

中井英夫は、三島の死を短絡的に異常者扱いする風潮を批判し、「ただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか」と嘆いた。森茉莉は、「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい」として、以下のように語った。 

 

 現在、日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。(中略)滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か? このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。

— 森茉莉「気ちがいはどっち?」

 

石川淳は、天皇思想の三島が、「武士」という強い観念を持って剣術を始め、陽明学という行動哲学を持ったことが決定的であり、「ムダを承知」の死への跳躍となったのは、楯の会という「集団の組織」の一員となり「錬成の形式」を取ったことが大きいとし、「もはやたかが思想とはいえない。すでにして、思想は信念であって、組織は微小にしても、ともかく現実にはたらきかける力であった」と捉え、「わたしもまた発するにことばなく、感動に深く沈むばかりである」と追悼した。 

 

吉本隆明は、三島と同じ戦中戦後を通った世代の人間として、事件の衝撃を自身への問いとして語った。 

 

 三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力をもっている。

 この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの〈檄文〉や〈辞世〉の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの〈醒めた計算〉の仕方等々の奇妙なアマルガムが、衝撃に色彩をあたえている。

 そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。〈どこまで本気なのかね〉。つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。

 この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答は一瞬〈おまえはなにをしてきたのか!〉と迫るだけの力をわたしに対してもっている。

                         — 吉本隆明「暫定的メモ」

 

磯田光一は、三島事件は、死後に浴びせられる様々な罵詈雑言や批判を知った上の行為であり、「戦後」という「ストイシズムを失った現実社会そのものに、徹底した復讐をすること」だったとし、三島にとって天皇とは、「存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものか」で、「“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョン」だと捉えた。 

 

 たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという根拠にはなりえない。

 また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。

 それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、 それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。— 磯田光一「太陽神と鉄の悪意」 

 

谷口雅春(生長の家創始者)は、明治憲法復元を唱え、その著書『占領憲法下の日本』において、三島に序文の寄稿を依頼している。また、事件に参加した古賀浩靖と小賀正義が生長の家の会員であり、三島が事件直前の11月22日 (谷口雅春の誕生日に当たる) に谷口宅と教団本部に会いたい旨の電話を入れている。面会が叶わず「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺言を残したとされる。

 

 谷口は後に『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』を上梓し「この谷口だけは死のあの行為の意義を知っていてくれるだろうと、決行を伴にした青年たちに遺言のように言われたことを考えると、三島氏のあの自刃が如何なる精神的過程で行われ、如何なる意義をもつものであるかについて、私が理解し得ただけのことを三島氏の霊前に献げて、氏の霊の満足を願うことが私に負わされた義務のような気もするのである」と述べ、三島の自刃がクーデターではなく、後世の人々の為の自決であり、吉田松陰の処刑された日 (旧暦の10月27日は西暦の11月25日に当たる)に合わせて計画したものであると語っている。 

 

2.2) 葬儀・記念碑・裁判など 

・事件翌日の11月26日、慶応義塾大学病院で解剖を終えた2遺体は、首と胴体をきれいに縫合された。午後3時前に死体安置室において、三島の遺体は弟・千之に引き渡され、森田の遺体は兄・治に引き渡された。森田の方は、そのまますぐに渋谷区代々木の火葬場で荼毘に付された。弟の死顔は、安らかに眠っているようだったと治は述懐している。 

 

・15時30分過ぎ、病院からパトカーの先導で三島の遺体が自宅へ運ばれた。父・梓は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、楯の会の制服が着せられ軍刀が胸のあたりでしっかり握りしめられ、遺体の顔もまるで生きているようであった。これは警察官たちが、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだった。 

 

・密葬には親族のほか、川端康成、伊沢甲子麿、村松剛、松浦竹夫、大岡昇平、石原慎太郎、村上兵衛、堤清二、増田貴光、徳岡孝夫などが弔問に訪れた。三島邸の庭のアポロンの立像の脚元には、30本あまりの真紅の薔薇が外から投げ入れられていた。愛用の原稿用紙と万年筆が棺に納められ、16時過ぎに出棺となった。その時に母・倭文重は指で柩の顔のあたりを撫でて、「公威さん、さようなら」と言った。三島の遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で18時10分に荼毘に付された。 

 

・森田の通夜も18時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。森田の戒名は「慈照院釈真徹必勝居士」。この時に、三島が楯の会会員一同へ宛てた遺書が皆に回し読みされた。三重県四日市市の実家での通夜は、翌日11月27日、葬儀は11月28日にカトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、16時頃に納骨された。三島家からは弟・千之が出席した。 

 

・11月30日、三島の自宅で初七日の法要が営まれた。三島は両親への遺言に、「自分の葬式は必ず神式で、ただし平岡家としての式は仏式でもよい」としていた。戒名については「必ず〈武〉の字を入れてもらいたい。〈文〉の字は不要である」と遺言していたが、遺族は「文人として育って来たのだから」という思いで、〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることし、「彰武院文鑑公威居士」となった。 

 

・12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋の豊島公会堂で行われた。これが後に毎年恒例となる「憂国忌」の母胎である。司会は川内康範と藤島泰輔、実行委員は日本学生同盟などの民族派学生で、集まった人々は3000人以上となった(主催者発表は5000人)。会場に入りきれず、近くの中池袋公園にも人が集まった。 

 

・翌年1971年(昭和46年)1月12日、平岡家で49日の法要が営まれた。大阪のサンケイホールでは、林房雄ら10名を発起人とした「三島由紀夫氏を偲ぶつどひ」が催され、約2,000人が集まった。1月13日は、負傷した自衛官たちへ三島夫人・瑤子がお詫びの挨拶回りに来た。 

 

・1月14日、三島の誕生日でもあるこの日、府中市多磨霊園の平岡家墓地(10区1種13側32番)に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めたのではないかという説もある。 

 

・1月24日、13時から築地本願寺で葬儀、告別式が営まれた。喪主は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成、司会は村松剛。三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人ら、そして一般参列者のうち先着180名が列席した。安達瞳子のデザイン制作により、黒のスポーツシャツ姿の三島の遺影を中心に、黒布の背景に白菊で作った大小7個の花玉が飾られた簡素な祭壇が設けられた。 

 

・弔辞は舟橋聖一(持病のため途中から北条誠が代読)、武田泰淳、細江英公、佐藤亮一、村松英子、伊沢甲子麿、藤井浩明、出光佐三の8名が読んだ。演劇界を代表した村松英子は嗚咽しながら弔辞を読んでいた。 

 

 先生が身をもって虚空に描き出された灼熱の、そして清らかな光を前にしては、すべてのことばが、むなしく感じられ、私はただ茫然と佇む思いです。私にとってかけがえのない師だった先生、先生の血潮は、絢爛と燃える夕映えの虹のように、日本の汚れた空を染め上げたのです。(中略)

 いたわりを、それと見せないように、いたわって下さるのが、先生でした。燃えたぎる情熱と冷徹な知性とを、同時に兼ねそなえることの可能性を、示して下さったのが先生でした。明晰な炎は、つねに私たちを導く光でした。(中略)先生が身をもって點じられたあの美しい炎は、永久に消えることなく、先生を愛惜し敬慕する人たちの頭上に、燃えつづけることでしょう。ふつつかな私も、その輝きに忠実を誓うひとりでございます。どうかそういう私たちをお見守り下さいますように。    — 村松英子「弔辞」 

 

・他の参列者は、藤島泰輔、篠山紀信、横尾忠則、黛敏郎、芥川比呂志、五味康祐、中村伸郎、野坂昭如、井上靖、中山正敏、徳岡孝夫などがいた。イギリスのBBC放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを辞退した。当時の首相佐藤栄作の寛子夫人も、ヘリコプターに乗り変装してでも参列したいと申し出ていたが、極左勢力が式場を襲うという噂が飛び交っていたため警備上の問題で実現しなかった。 

 

・臨時の看護施設やトイレットカーが配備され、私服・制服警察官100人、機動隊50人、ガードマン46人が警備に当たる中、8200人以上の一般客が会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけた。中には、「追悼三島由紀夫」ののぼり旗を立てて名古屋から会社ぐるみでかけつけた団体もあり、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。 

 

・1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた。碑には、「」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれた。 

 

・2月11日、三島の本籍地の兵庫県加古川市志方町の八幡神社境内で、地元の生長の家(現生長の家本流運動)の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。 

 

・2月28日、楯の会の解散式が西日暮里の神道禊大教会で行われ、瑤子夫人と75名の会員が出席した。瑤子夫人の実家の杉山家が神道と関係が深く、神道禊大教会と縁があったため、解散式の場所となった。倉持清が「声明」を読み、〈蹶起と共に、楯の会は解散されます〉という三島の遺言の内容を伝えて解散宣言をした。三島が各班長らに渡し、皇居の済寧館に預けられていた日本刀は、瑤子夫人のはからいで、それぞれ班長に形見として渡された。 

 

・3月23日、「楯の会事件」第1回公判が東京地方裁判所の701号法廷で開かれた。3被告の家族らと平岡梓、瑤子、遺言執行人の斎藤直一弁護士が傍聴した。裁判長は櫛淵理。陪席裁判官は石井義明、本井文夫。検事は石井和男、小山利男。主任弁護人は草鹿浅之介。弁護人は野村佐太男、酒井亨、林利男、江尻平八郎、大越譲であった。 

 

・第7回公判日の2日後の7月7日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3被告が保釈となった。犯罪事実を認め、証拠隠滅や逃亡の恐れがないため、17時に東京拘置所を出所した3人は瑤子夫人に出迎えられ、19時から赤坂プリンスホテルで記者会見を行なった。 

 

・9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づいた。翌日の9月21日、立花家石材店の人が納骨室を開けたところ、遺骨が壷ごと紛失しているのを発見し、府中警察署に届け出た。盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままで、一緒に入れられていた葉巻も元の状態であった。 

 

・11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子(平岡瑤子)。生前、三島が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載された。同日、平岡家では神式の一年祭を丸の内パレスホテルで行なった。 

 

・1972年(昭和47年)4月27日、これまで17回の公判までに、中曽根康弘、村松剛、黛敏郎など多彩な人物が証人に立った「楯の会事件」裁判の第18回最終公判が開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名に懲役4年の実刑判決が下された。罪名は、「監禁致傷、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、傷害、職務強要、嘱託殺人」となった。

 

・判決文の最後は「被告人らは宜しく、『学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る』べきことを銘記し、事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する」と締めくくられていた 

 

・3人が刑期を終えて出所してから、元楯の会会員たちによる三島・森田の慰霊祭が始まった。出所した古賀が国学院大学で神道を学んだ後、鶴見神社で神主の資格を取り、3人で慰霊している所に元会員が集まるようになり、毎年慰霊祭が行われるようになった。その後、元会員と平岡家との連絡機関として「三島森田事務所」が出来た。 

 

・1975年(昭和50年)3月29日、三島と親交があり三島事件に強い共感を示していた村上一郎が、自宅で日本刀により自害した。 

 

・1977年(昭和52年)3月3日、元楯の会会員・伊藤好雄(1期生)と西尾俊一(4期生)が参加した経団連襲撃事件が起こった。瑤子夫人の説得により投降し終結した。 

 

・1980年(昭和55年)8月9日、三島が仲人を引き受けていた楯の会会員・倉持清(現・本多清)に宛てた遺書の全文が、朝日新聞で紹介された。同年11月24日、山本舜勝、元楯の会有志らにより「三島由紀夫烈士及び森田必勝烈士慰霊の十年祭」が市ヶ谷の私学会館で開催された。 

 

3)三島由紀夫と自衛隊 

3.1)昭和41年 

・1965年(昭和40年)頃から自衛隊体験入隊希望を口にするようになっていた三島は、「昭和元禄」の真っ只中の1966年(昭和41年)6月に短編『英霊の聲』を発表。8月に長編『奔馬』の取材のために奈良県の大神神社を訪れ、その足で広島県江田島の海上自衛隊第一術科学校などを見学。教育参考館で特攻隊員の遺書を読んだ。その後熊本県に渡り神風連のゆかりの地(新開大神宮、桜山神社など)を取材して10万円の日本刀を購入する。 

 

・三島は秋頃から民兵組織の構想を練り始め、10月頃から防衛庁へ自衛隊体験入隊希望を打診したが断られ、橋渡しを毎日新聞社常務の狩野近雄に依頼し、防衛庁事務次官・三輪良雄や元陸将・藤原岩市などと接触して口利きを求めた。 

 

・12月19日、小沢開策から民族派雑誌の創刊準備をしている青年の話を聞いた林房雄の紹介で、万代潔(平泉澄門人で明治学院大学卒)が三島宅を訪ねて来た。また同月には、舩坂弘著『英霊の絶叫』(12月10日刊)の序文を書いた礼として、舩坂から日本刀・関孫六を寄贈されていた。

 

3.2) 昭和42年

・1967年(昭和42年)1月5日に民族派月刊雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、11日に編集長・中辻和彦(平泉澄門人で明治学院大学卒)と副編集長・万代潔の両人が揃って、寄稿依頼のために三島宅を訪問した。三島は無償で同誌に寄稿することにし、2人は3日に1度の割で三島を訪ねた。 

 

・三島は2人の青年に、「『英霊の聲』を書いてから、俺には磯部一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ」と真剣な顔で言い、ある時は日本刀を抜いて、「刀というものは鑑賞するものではない。生きているものだ。この生きた刀によって、60年安保における知識人の欺瞞をえぐらなければならない」とも言った。 

 

・1月27日には、万代らと同じ平泉澄の門人で『論争ジャーナル』のスタッフをしている日本学生同盟(日学同)の持丸博(早稲田大学生)も三島宅を訪問し、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した。 

 

・この頃三島は、新潮社の担当編集者の小島喜久江に、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と語ったという。2月28日には、川端康成、石川淳、安部公房と連名で、中共の文化大革命に抗議する声明の記者会見を行なった。 

 

・3月、三島の自衛隊体験入隊許可が下り(1、2週間ごとに一時帰宅するという条件付)、4月12日から5月27日までの46日間、単身で体験入隊する。本名の「平岡公威」で入隊した三島は先ず、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校隊付となった。4月19日に離校後、陸上自衛隊富士学校に赴き、山中踏破、山中湖露営などを体験後、富士学校幹部上級課程(AOC)に属し、菊地勝夫1尉の指導を受けた。 

 

・その4月中旬か下旬頃、三島は藤原岩市から「若手自衛官幹部の生活ぶりを見せましょう」と娘婿・冨澤暉の借家を案内され、数日後冨澤とその同期生5人ほどと会食した。その席で三島は、学生デモ隊を警察力だけで抑えきれなくなった際の自衛隊治安出動時を利用し政権をこちら(自衛隊側)のものにしようと、共に行動を促す自身のクーデター案を述べたが、冨澤は「そんな非合法なことはやりません」と答えた。その時三島は冨澤らに対し「倶に天を戴かず」といった顔色になったという。5月11日以降は、レンジャー課程に所属した後、習志野第一空挺団に移動し、基礎訓練(降下訓練を除く)を体験した。 

 

・論争ジャーナル組、日学同の学生たちが、「自分たちも自衛隊体験入隊したい」との意向を示した。三島は民兵組織の立ち上げを本格的に企図し、持丸博を通じて、早稲田大学国防部(4月に結成)からの選抜協力を要請した。こうして、論争ジャーナル組、日学同と三島の三者関係が徐々に出来上がった。 

 

・6月19日、六本木の喫茶店「ヴィクトリア」で行われた早稲田大学国防部代表との会見で、三島と森田必勝(早稲田大学教育学部、日学同)は初めて顔を会わせ、早大国防部の自衛隊体験入隊の日程を決めた。 

 

・7月2日から1週間、早大国防部13名が自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊。森田はその時の感想を、「それにしても自衛官の中で、大型免許をとるためだとか、転職が有利だとか言っている連中のサラリーマン化現象は何とかならないのか」と綴り、自衛隊員が「憲法について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げた。 

 

・8月、三島は国土防衛隊中核体となる青年を養成する具体的計画を固め、自衛隊体験入隊を定期的に実施するため、9月9日に、陸上自衛隊の重松恵三と面談した。9月26日、インドに行くため羽田を出発した三島は、若い頃からの知り合いで、香港に赴任していた警視庁の佐々淳行と啓徳空港で落ち合い、「このままでは日本はダメになる。ソ連にやられる。極左に天下をとられる。自衛隊ではダメだ。警察もダメだ。闘う愛国グループをつくらなければいけない。自分は国軍をつくりたい。日本に戻ったら一緒に手を組んでやろう」と訴えたが、佐々は、三島にオピニオンリーダーとして警備体制強化に協力してほしいと言って、私兵創設の考えを制した。 

 

・10月、三島は小説『暁の寺』の取材で訪れたインドで、5日にインディラ・ガンディー首相、ザーキル・フセイン大統領、陸軍大佐と面会し、中共の脅威に対する日本の国防意識の欠如について危機感を抱く。 

 

 中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。             — 三島由紀夫「インドの印象」

 

・帰国後の11月、三島は、論争ジャーナルのメンバーと民兵組織「祖国防衛隊」の試案を討議し、祖国防衛隊構想パンフレットを作成し始めた。12月5日には、航空自衛隊百里基地からF-104戦闘機に試乗した。12月末、祖国防衛隊構想パンフレットを、元上司・藤原岩市から見せられた陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝1佐が、藤原の仲介で三島と会食した。 

 

・巷でノーベル文学賞候補と騒がれている三島に対し、「文士でいらっしゃるあなたは、やはり書くことに専念すべきであり、書くことを通してでも、あなたの目的は達せられるのではありませんか」と問う山本1佐に、三島は「もう書くことは捨てました。ノーベル賞なんかには、これっぽちの興味もありませんよ」と、じっと目を見据えてきっぱりと答えた。 

 

・この瞬間、山本1佐は背筋にピリリと火花が走り、「これは本気なのだ」と確信し、三島と一緒にやれると思ったと同時に、この人には大言壮語してはならぬと感じた。持丸博によると、三島は山本と会ってひどく興奮し、「あの人は都市ゲリラの専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえも一緒に会おう」と言ったという。 

 

・この頃、「祖国防衛隊」構想に全面的に賛同する論争ジャーナル組と、その「急進主義的色彩」と三島の私兵的なイメージに難色を示す日学同(斉藤英俊、宮崎正弘)との間に亀裂が生じ始め、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉らが日学同を除籍となり、論争ジャーナル組に合流した。持丸は三島と共に、雑誌『論争ジャーナル』の副編集長となった。 

 

3.3) 昭和43年 

・1968年(昭和43年)2月25日、銀座8丁目4-2の小鍛冶ビルの育誠社内の論争ジャーナル事務所において、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉ら11名が血盟状を作成。「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」と三島が墨で大書し、各人が小指を剃刀で切って集めた血で署名し、三島は本名で“平岡公威”と記した。 

 

・その時に三島は、「血書しても紙は吹けば飛ぶようなものだ。しかし、ここで約束したことは永遠に生きる。みんなでこの血を呑みほそう」と、先ず自分が呑もうとして、「おい、この中で病気のある奴は手をあげろ」と皆を大笑いさせてから、全員で呑み合った。血には固まらないようにを入れていた。 

 

・3月1日から1か月、持丸博を学生長とする論争ジャーナル組が、三島と陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地へ自衛隊体験入隊。直前に中央大学の5名がスト解除で参加できなくなり、持丸は日学同の矢野潤に代員の応援を求めた。これに応じて森田必勝が1週間遅れで入隊した。春休み帰省中にスキーで右足を骨折して治療中だったにもかかわらず、苦しい訓練に参加し頑張る森田の姿に三島は感心し注目した。 

 

・3月30日、体験入隊が無事終了し、主任教官や隊員と「男の涙」の別れをした森田ら学生一行は貸し切りバスで大田区南馬込の三島邸に向い、慰労会の夕食に招かれた。1期生となった森田は三島への礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と速達で書き送った。それに対し三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あの一言には参った」と森田に告げた。森田はこの頃、北方領土返還運動などに尽力していた。 

 

・三島は、祖国防衛隊構想に政財界の協力を得るため、与良ヱに相談していたが、この頃から持丸博を通じ、桜田武(日本経営者団体連盟代表常任理事)らへの接触を始め、初面談を持った。しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じて説得をすることをアドバイスされ、3月18日、三輪良雄にその旨を伝えた。 

 

・4月上旬、堤清二の手配により、五十嵐九十九(ドゴールの制服担当)のデザインした制服が完成したのを祝し、三島は論争ジャーナル組から成る祖国防衛隊隊員らと共にその制服で青梅市の愛宕神社を参拝し、満開の桜吹雪の下で記念写真を撮った。 

 

・同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、藤原岩市と四者面談した。桜田は前回より理解を示し、民兵組織を「体験入隊同好会」という無難な名称にするように指示し、中核隊員のみを無名称で置いて「祖国防衛隊」の任務とすることで合意した。この頃、早稲田大学の校内には、「体験入隊募集」の看板が設置されるなど広く人材を求め、応募してきた学生を持丸が一次面接試験した。 

 

・5月から、山本舜勝1佐による祖国防衛隊の中核要員への集中講義、訓練支援が開始され、27日には、北朝鮮工作員と思しき遺体が秋田県能代市の浜浅内に漂流した「能代事件」(1963年4月)が扱われた。この事件が何かの圧力で単なる密入国事件として処理され、うやむやのままとなったことを知った三島は、溺死体の写真をじっと見つめた後、「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」と激昂したという。 

 

・6月1日、三島と中核要員は山本1佐の指導の下、市中で対ゲリラ戦略の総合演習(張り込み、潜入、尾行、変装など)を行なった。労務者に成りすまして任務をこなし、誰にも見破られないように山谷の玉姫公園までたどり着いた三島の疲れ果てた真剣な姿に、山本1佐は深い感動を覚えたという。同月15日、「全日本学生国防会議」が結成され、森田必勝が初代議長に就任。三島は森田のため、この結成大会で祝辞を述べ万歳三唱し、デモの時もタクシーで随伴し、窓から森田を激励した。 

 

・7月25日、学生らを引率した第2回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、8月23日まで行われた。この時に伊藤邦典の紹介で小賀正義と古賀浩靖(共に神奈川大学生、全国学生協議会)が参加し、2期生となった。 

 

・一方、桜田武(日経連)からの支援協力が結局は中途半端な形で、バカにされたことから(最終的に桜田は、「君、私兵など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという)、三島のプライドはひどく傷つき、民兵組織を全て自費で賄うことにした。 

 

・組織規模を縮小せざるをえなくなった祖国防衛隊は、隊の名称を万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は」と、歌人・橘曙覧の「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」に2首にちなんだ「楯の会」と変えた。10月5日に虎ノ門の国立教育会館で三島と初代学生長・持丸博、中核会員約50名が「楯の会」の正式結成式が行われ、ある新聞がこれをスクープして伝えた。 

 

・10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員、山本1佐と陸上自衛隊調査学校の学生らは、新左翼デモ(新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リーダーが誰かなどを調査した。 

 

・火炎瓶の黒煙や催涙ガスが充満する中、三島は目を真っ赤に充血させながら身じろぎもせずに機動隊と全学連の攻防戦を見つめていた。場所を銀座に移動し、交番の屋根の上から、石が飛び交う激しい市街戦を見ている三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、すぐ隣にいた山本1佐は気づいた。この日、六本木の防衛庁にも新左翼の社学同が突入しようとし、機動隊が猛烈な放水で応戦するが正門は突破されてしまった。 

 

・新左翼の暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、その時に楯の会が斬り込み隊として自衛隊の手が及ばないところを加勢し、それに乗じて自衛隊国軍化・憲法9条改正を超法規的に実現する計画を構想し始めた。この日の昼過ぎ、赤坂に設営していた拠点に一旦引き揚げた時、山本1佐が持参のウィスキーを三島に勧めると、「えっ、なんですか。この事態に酒とは!」と憤然と席を立ち去ったという。

 

・騒乱の続く夜、会員たちを拠点に集結させた三島は、この日の総括の会をここで持ちたいと山本1佐に願い出た。まさに今こそ決起行動に出るべきと主張し詰め寄る会員もいたが、まだ治安出動はないと見込んだ山本1佐は演習会の解散を進言し、落胆した三島は会員たちを国立劇場へ移動させていった。 

 

 治安出動イコール政治条件と私は考へても間違ひないと思ふ。でありますから、「撤兵しないぞ」と言はれたら、どんな政権もかなふ政権はないんです。だから、「ぢや、おまへ、撤兵するにはどうしたらいいんだ。撤兵してもらふにはどうしたらいいんだ」。

 「憲法を改正して軍隊を認めなさい」と言つちやへばそれまでだ。これは何もクーデターしなくてもできちやふ。私は悪いことを唆すんぢやないけれども(笑)、それくらゐの腹がなければ、自衛隊のゼネラルといふものはこれからやつていけないと私は思つてる。

 だから、遠くのはうから遠巻きにして世論を動かさう、なんていふことを考へるよりも、本当のチャンスが来たときにグッと政治的な手を打てるゼネラルがゐないといかんな。

       — 三島由紀夫「素人防衛論」(防衛大学校での講演)

 

・11月10日、東大全共闘に軟禁されている文学部部長の林健太郎の解放を求めて、三島は阿川弘之と共に東大に赴き、林との面会を求めるが全共闘に拒絶されて叶わなかった(林健太郎監禁事件)。 

 

・12月21日の山本1佐によるゲリラ戦の講義の時、三島は、「ゲリラとは、(人を欺く)弱者の戦術ではないですか?」と疑問を投げかけた。講義の休憩中、森田必勝は山本1佐に、「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と訊ねたという。山本1佐は、「死ぬ覚悟がなければ人は殺せない。私にはまだ真の敵が見えていない」と答えた。 

 

・12月末、三島邸に楯の会の中核会員と山本1佐らが集まり、楯の会と綜合警備保障株式会社や猟友会との連携計画が模索された。やがて話題が間接侵略などに及び、「あなたは一体いつ起つのか」という主旨で三島に問われた山本1佐が、暴徒が皇居に乱入して天皇が侮辱された時と、治安出動の際だという主旨で答えると、「その時は、あなたのもとで、中隊長をやらせてもらいます」と三島が哄笑して言ったという。 

 

・三島は、山本1佐やそれに繋がる旧陸軍関係者や政府高官との接触を通じ、治安出動の可能性の感触を得て、以下のようなクーデター計画を構想していた。 

 治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(山本1佐)の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。

 

 このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。— 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」 

 

3.4) 昭和44年 

・1969年(昭和44年)1月18日、反日本共産党系の新左翼学生らが東京大学安田講堂を占拠する東大安田講堂事件が起きた。19日、警視庁機動隊と学生らとの攻防戦を見ていた三島は、新左翼が時計台から飛び降り自決して共産主義と日本主義が結びつくことを防ぐため、「ヘリコプターで催眠ガスを撒いて眠らせてくれ」と警視庁に電話を入れた。 

 

・しかし、三島の危惧は無用の老婆心となり、予想に反し誰も命を賭けるような意欲のある東大生などいなかった。三島は、あっけなく投降する全共闘に安堵すると同時に失望し、最終的には自分たちとは価値観が違うことを悟って軽蔑するようになった。 

 

・2月1日、論争ジャーナル組と日学同との架け橋役であった森田必勝が、日学同よりも論争ジャーナル組側に完全に傾き、小川正洋(明治学院大学法学部)、野田隆史、田中健一、鶴見友昭、西尾俊一の5名と共に日学同を除籍となった[注釈 21]。この6名は新宿区十二社(西新宿4丁目)にあるアパート小林荘をたまり場としていたため「十二社グループ」と呼ばれ、テロルも辞さない一匹狼の集団であった。 

 

・2月19日から23日まで、山本舜勝1佐の指導の下、板橋区の松月院で合宿し、楯の会の特別訓練が行われた。暖房もない厳寒の本堂で、夜は寝袋、食事は持参の缶詰という過酷な状況の中、皆が寝静まった後、三島は白い息を吐きながら机に向かって執筆活動もしていたという。その後ろ姿を見た山本1佐は、「私はこの人となら死んでもいい」と思った。 

 

・2月25日、山本1佐の旧陸軍時代の同期生で三無事件の協力者であった自衛隊員Mを交えて、山本宅で三島との会談があった。Mは三島の『反革命宣言』の思想に大いに共鳴していたが、〈有効性は問題ではない〉という部分についてだけは、「行動する以上勝たなければ意味がない」と反論し、敵に優る武器(戦車、ミサイル)など、具体的な手段の有効性が第一だと論じた。 

 

・それに対して三島は、「それでは問題のたて方がまるで違うんだ」と、先ず「文化を守る」という目標意識の重要性、「日本刀」で戦うことの比喩的意義を説き、「実際に、自らの命を賭けて斬り死にすること、その行為があとにつづく者をまた作り出すんだ」と、自らは安全地帯の発射ボタン一つで大量殺戮をする物質的近代武力意識への反論を返した。

 

 われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめるからである。

 自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」といふ遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。      — 三島由紀夫「反革命宣言」 

 

・3月1日から、学生を引率した第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で29日まで行われた。この第3回体験入隊で、小川正洋が参加して3期生となった。9日から15日には、体験入隊経験者(会員)を対象とする上級のリフレッシャーコースの訓練も行われ、「玩具の兵隊さん」と世間から呼ばれていた楯の会の実態は、自衛隊の将校も驚くほど精鋭にされていった。

 

・ヘンリー・スコット=ストークスはこの体験入隊を取材し、ロンドンの『ザ・タイムズ』に記事掲載した。ストークスがリフレッシャーコースの森田必勝に、「なぜ楯の会に入ったのか」と問うと、「三島に随いていこうと思った。……三島は天皇とつながっているから」と答えた。 

 

・4月13日、ストークスの記事を読んだロンドンのテムズ・テレビが、市ヶ谷会館での楯の会の4月例会の取材に来て、訓練の様子を撮影した。三島は、ストークスや、テムズ・テレビのレポーター・ピーター・テーラーを自宅に招いた。 

 

・4月28日の沖縄デーの日、三島と山本1佐は、新左翼全学連のゲリラ活動や激しい渦巻きデモを視察した。その後、三島は山本1佐を皇居に面する国立劇場に連れて行き、エレベーターで舞台下の奈落を案内し、「奈落は、私の信頼する友人が管理しています。いつでもお使い下さい」と言った。同月には、『自衛隊二分論』を発表した 

 

・三島は、体験入隊の訓練中に知り合った若い自衛隊幹部の中に協力者を見つけ出そうとしていたが、三島に同調する幹部もこの時期に出始めていた。その中の1人は、山本1佐の真意が解らないと三島が漏らす言葉を聞き、山本1佐に「もし、あなたの心が変わったのなら、われわれも黙っておりませんから、どうかそのつもりでいてください!」と電話して来る者もあった。 

 

・防衛大学校を卒業した将校とも交流を求め、親交を深めようとしていた三島に対する防衛庁内局の圧力が、この春頃から様々なかたちであり、楯の会の訓練の規制がはめられるようになって来ていた。官民一体となった行動の模索をしていた三島の自衛隊内部への苛立ちが次第に強まり、表向きは自衛隊の内部批判はしなかったが、楯の会の会員の間では内局への罵倒が繰り返された。 

 

・5月11日、港区愛宕の青松寺(三島の祖父・平岡定太郎の菩提寺)境内の精進料理・醍醐で、三島と山本1佐ら自衛隊幹部が会食し、新左翼の解放区闘争や国防問題の情勢を分析した。この時、三島はボーガンの訓練をする適切な場所はないか訊ねたという。5月13日、三島は、東大教養学部教室で開催された全共闘との討論会に出席し、新左翼学生らと激論を交わした(詳細は討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争を参照)。

 

・5月から三島は、楯の会の幹部級の7、8名にも居合を習わせ始め、9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田敏夫、勝又武校、原昭弘、小川正洋、小賀正義)に日本刀を渡し、斬り込み可能の「決死隊」を作った。5月23日、山本1佐の下、楯の会会員100名の特別訓練の初日。26日まで訓練が行われた。この少し前、三島は伊沢甲子麿の仲介で、山本1佐と共に保利茂官房長官と会った。 

 

・6月下旬、三島と山本1佐と部下5名の自衛官が山の上ホテルのレストランの個室で会食した。三島は、楯の会の皇居死守の具体的な実行動の計画について話し、「すでに決死隊を作っている」と山本1佐に決断を迫った。5名の自衛官らは三島に賛同したが、山本1佐は、「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と制して賛同しなかった。 

 

・自衛官らが、「臆病者! あなたはわれわれを裏切るのか!」と山本1佐に詰め寄るのを三島が制止した。沈黙の後、三島は義憤を抑えた面持で、「皇居突入、死守」など三ヶ条が書かれた紙を灰皿の上で燃やした。次の訓練の試案を山本1佐が話し終えた後、三島は総理官邸での演習計画を提案するが、自衛隊に批判的なマスコミの目を恐れた山本1佐はすぐに「それは駄目です」と断った。7月、山本1佐が陸上自衛隊調査学校副校長に昇格し、次第に楯の会の指導協力に費やす時間がなくなっていった。 

 

・この初夏の頃、何人かの将校幹部(陸将)と三島の間で企図されていたクーデター計画が闇に葬られることになった。将校幹部らは米軍とパイプがあり、アメリカ側の了解を得て、自衛隊国軍化に向けた治安出動を行うはずであったが、キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めアメリカが親中路線に転換したため(米中和解計画)、日本国軍化が認められない状況となった。 

 

・7月26日から、学生と会員を引率した第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で8月23日まで行われた。この頃から、楯の会の主要古参会員の中辻和彦、万代潔らと三島との間の齟齬が表面化。三島の意に反して、金銭感覚や女性関係がルーズだった中辻が財政難の論争ジャーナルの資金源を田中清玄に求めたことが決定的な亀裂となり、8月下旬に、中辻、万代ら数名が楯の会を退会した。 

 

・10月12日、楯の会の10月例会で持丸博(初代学生長)も正式退会となった。中辻と親しい持丸は、どちらの側に付くか迷ったあげく、論争ジャーナルの編集と楯の会の活動の両方を辞めることに決めた。三島は、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と何度も説得して引き留めたが、持丸はそれを辞退した。 

 

・持丸の代わりに森田必勝が楯の会の学生長となり、論争ジャーナル編集部内に置いていた楯の会事務所も森田の住むアパートに移転した。持丸は、会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約していた。大事な右腕だった持丸を失った三島は山本1佐に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。 

 

・10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員は昨年と同様に、左翼デモ(10.21国際反戦デー闘争)の状況を確認するが、新左翼は機動隊に簡単に鎮圧された。もはや自衛隊の治安出動と斬り込み隊・楯の会の出る幕はなく、憲法改正と自衛隊国軍化への道がないことを認識した。 

 

警察と自衛隊との相違を明確化するため、政府(防衛庁)はこのチャンスにあえて自衛隊を治安出動すべきであると考えていた三島にとって、失望感と憤慨は大きかった。三島は新宿の街を歩きながら、「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と独り言を繰り返し、自暴自棄になったように「だめだよ、これでは」と叫んだという。 

 

・三島と家族ぐるみの付き合いがあったとする佐々淳行によれば、このときの視察は「(三島に)マスコミの場で機動隊の応援をしていただくようお願いせよ」との上司の指示を受けた佐々の計らいによるものであったが、戻ってきた三島は「もう僕らの出番はないよ。機動隊員たちは皆、白い歯を見せながら余裕綽々過激派を捌いている。僕らの出番を奪ってしまった佐々さん、貴方を恨みますよ」と述べた。佐々は「もうゲバ闘争は終りです。貴方も文学の世界に戻られては如何ですか」と説得したが、以後両者の間で音信は途絶えた。 

 

・10月31日、三島宅で行われた楯の会班長会議で、10・21が不発に終わったことで今後の計画をどうするかが討議された。森田は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し、憲法改正を発議させたらどうだろうか」と提案するが、武器の調達の問題や、国会会期中などで実行困難と三島は返答した。 

 

・11月3日の15時から、国立劇場屋上で、陸上自衛隊富士学校前校長・碇井準三元陸将を観閲者に迎えて、楯の会結成一周年パレードが行われた。演奏は陸上自衛隊富士学校音楽隊。女優の村松英子や倍賞美津子が花束を贈呈した。同劇場2階大食堂でのパーティーでは、藤原岩市元陸将、三輪良雄元防衛事務次官が祝辞を述べ、三島が挨拶した。

 

 単に、軍隊的行動であるが故に嫌悪する、戦後の風潮は私は非常にある意味で偽善であると思ってきたわけであります。ここで、私は決して軍国主義とか、ファシズムとかという意味ではなしに、日本人が市民生活のなかに、自然に軍隊教養を持っていつでも銃を持って立ちあがれる、外的な侵入に際しても銃をとって立ちあがれるだけの、訓練をへた人間が青年のなかに一人でも多くならなければいかん、そこではじめて我々にも自信をもって文化ないし、思想を自分のなかで養い、育てることができるんだと思ったことが、楯の会をつくった動機であります。      — 三島由紀夫「楯の会1周年挨拶」 

 

・11月16日、新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争が行われるが、再び機動隊に簡単に鎮圧され自衛隊の治安出動は完全に絶望的となった。11月28日、三島は山本1佐を招いて自宅で「最終的計画案」の討議を開くが、山本1佐から具体策が得られず終わった。12月8日から4日間、三島は北朝鮮武装ゲリラに対する軍事事情視察のために韓国に行った。 

 

・12月22日、三島と楯の会は、陸上自衛隊習志野駐屯地で例会を開き、空挺団で落下傘降下の予備訓練を行なった。訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説いた。これに基づいて、 阿部勉(1期生)を班長とする「憲法改正草案研究会」が楯の会内に組織されることが決まり、毎週水曜日の夜に3時間討議会を実施することとなった。 

 

・12月1日に三島は、翌年正月に発表する村上一郎との対談で、現下の自衛隊には、二・二六事件のような革命を起こせる体制はなく、1佐以上の将校でなければ何も起こせない状態だと語っていた。 

 

3.5) 昭和45年 

・1970年(昭和45年)正月、山本舜勝1佐や楯の会会員たちが集まった三島邸での新年会で、民間防衛の話に及んだ際、三島が何気なく、「自衛隊に刃を向けることもあり得るでしょうね」と発した。 

 

・1月末、三島は昨年12月に訪韓した際に世話になった韓国陸軍の元少将Rと山本舜勝1佐とを招いて会食。Rの辞去後、三島が山本1佐に、「(クーデターを)やりますか!」と問うが、山本1佐は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答した。この頃三島は、山本1佐が「硬骨」と評価している自衛隊将校と接触していた。 

 

・3月1日、学生と会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、28日まで行われた。この頃から、森田必勝(学生長、第1班班長)と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同月、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟いた。 

 

・3月末に突然、三島は和服姿で錦袋に入れた日本刀を携えて山本1佐宅を訪問した。山本1佐は日本刀の話題を出さないようにしていたが、三島がその刀を自分に提供して決意を促すつもりのような気がした。帰り際に三島は、「山本1佐は冷たいですな」と言い、「やるなら制服のうちに頼みますよ」と山本1佐は返した。 

 

・4月3日、三島は千代田区内幸町1-1の帝国ホテルのコーヒーショップにおいて小賀正義(第5班班長)に、最後まで行動を共にする意志があるかを訊ね、小賀は承諾した。4月10日、三島は自宅に招いた小川正洋(第7班班長)にも、「最終行動」に参加する意志があるかどうか打診し、小川も小賀同様に沈思黙考の末に承諾した。 

 

・4月下旬、11年前の1959年(昭和34年)から毎号読んでいた『蓮田善明とその死』(小高根二郎著)が3月刊行されたため、三島はそれを携え山本1佐宅を訪問し、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。5月、「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第1回「新憲法における『日本』の欠落」を三島は配布した。 

 

・5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋の3名が集まった。楯の会と自衛隊が共に武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴えるという「最良の方法」を討議するが、具体的な方法はまだ模索中であった。6月2日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、4日まで行なった。この回は食糧を支給されず不眠不休で青木ヶ原樹海を行軍する過酷な訓練だった。 

 

・6月13日、三島、森田、小賀、小川の4名が港区赤坂葵町3番地(現・虎ノ門2丁目10-4)のホテルオークラ821号室に集合。これまで接触してきた自衛隊将校らにはもう期待できないことを悟り、自分たちだけで実行する具体的な計画を練った。 

 

・三島は、自衛隊の弾薬庫を占拠して武器を確保し爆破すると脅す、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させて、国会占拠・憲法改正を議決させる計画を提案した。討議の結果、東部方面総監を拘束する方法を取ることにし、楯の会2周年記念パレードに総監を招いて、その際に拘束する案などが検討された。 

 

・6月21日、三島ら4名は、千代田区駿河台1丁目1番地の山の上ホテル206号室に集合。三島から、市ヶ谷駐屯地内のヘリポートを楯の会の体育訓練場所として借用できる許可を得ることに成功した旨が報告された。そして、総監室がヘリポートから遠いため、拘束相手を32連隊長・宮田朋幸1佐に変更することが提案され、全員が賛同した。 

 

・7月5日、三島ら4名は、山の上ホテル207号室に集合。決行日を11月の楯の会例会日にすることに決め、例会後のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に武器の日本刀を積んで32連隊長室に赴き、宮田連隊長を監禁する手順を決定した。 

 

・同月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に、防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根防衛庁長官はそれを閣僚会議で佐藤栄作首相に提出しなかった。 

 

・7月11日、小賀は三島から渡された現金20万円で中古の41年式白塗りトヨタ・コロナを久下木モータースから購入した。7月下旬、三島ら4名は、千代田区紀尾井町4番地のホテルニューオータニのプールで、決起を共にする楯の会メンバーをもう1人増やすことにし、誰にするか相談した。この夏、三島は3名それぞれに8万円を渡し、北海道に慰安旅行させた。 

 

・この頃、三重県四日市市に帰省した森田は、旧知の上田茂に、「三島由紀夫に会って自分の考え方が理論化できた。だから三島をひとりで死なせるわけにはいかん」と言った。8月28日、再びホテルニューオータニのプールに集まった三島ら4名は、古賀浩靖(第5班副班長)を仲間に加えることを決定した。 

 

・9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、森田と小賀は新宿区西新宿3丁目8-1の深夜スナック「パークサイド」に古賀を誘い、「最終計画」を説明して賛同を得た。2人から、「三島先生と生死をともにできるか」と問われ、「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれた古賀は、楯の会に入会した時からその覚悟ができていたため承諾し、同志に加えてくれたことを感謝した。 

 

・9月9日、三島は銀座4丁目のフランス料理店に古賀を招き、計画の具体案を聞かせ、決行日は11月25日だと語った。三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」、「ここまで来たら、地獄の三丁目だよ」と言った。 

 

・9月10日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを12日まで行なった。9月15日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は、千葉県野田市の興風館で行われた戸隠流忍法演武会(忍者大会)を見物し、帰途に墨田区両国 1丁目10-2のイノシシ料理店「ももんじ屋」で会食して同志的結束を固めた。 

 

・この頃、三島は約4年近く世話になった陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の機関紙に感謝の言葉と複雑な心境を綴った。 

 

 ここでは終始温かく迎へられ、利害関係の何もからまない真の人情と信頼を以つて遇され、娑婆ではついに味はふことのない男の涙といふものを味はつた。私にとつてはここだけが日本であつた。娑婆の日本の喪つたものの悉くがここにあつた。日本の男の世界の厳しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の運命を気づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運命について憂へた。(中略)ここは私の鍛錬の場所でもあり、思索の場所でもあつた。

 私は、ここで自己放棄の尊さと厳しさを教へられ、思想と行為の一体化を、精神と肉体の綜合のきびしい本道を教へられた。(中略)歴代連隊長を始め、滝ヶ原分とん地の方々のすべてに、私は感謝の一語あるのみである。

 同時に、二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみを馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた自分自身の、ほとんど狂熱的心情を自らあはれみもするのである。     — 三島由紀夫「滝ヶ原分屯地は第二の我が家」

 

・9月にヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会に招かれた三島は、食事後に暗い面持ちで、日本から精神的伝統が失われ物質主義がはびこってしまったと言い、「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」という不思議な喩え話をした[注釈 25]。三島は時々予言めいたことを突然発することがあり、春頃にも茶の間で父・梓に日本の未来を案ずる言葉を言っていた。 

 

 ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜は茶の間で、「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭越しに中国に接触しますよ、日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。わが友台湾はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう。日本は東洋の孤児となって、やがて人買い商人の商品に転落するのではないでしょうか。いまや日本の将来を託するに足るのは、実に十代の若者の他はないのです」と申しました。

 これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、銀座で食事中にまったく同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。  — 平岡梓「伜・三島由紀夫」

 

・9月25日、三島ら5名は、新宿3丁目17番地の伊勢丹会館後楽園サウナに集合。三島は楯の会例会の招集方法を変更することを提案し、特に11月の例会は、自衛隊関係者を近親や親戚に持つ者を除いた隊員に三島が直接連絡することを決め、就職や結婚が決まっている者も除いた。10月初め、死ぬ前に故郷の北海道の山河を見ておきたいと言う古賀のため、三島は旅費の半額1万円を与えた。 

 

・10月2日、三島ら5名は、銀座2丁目6-9の中華料理店「第一楼」に集合。11月の楯の会例会を午前11時に開いて、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練を開始後、三島と小賀が葬儀参列を理由に退席して、日本刀を車に搬入する手筈で32連隊長を拘束するという具体的手順を決定した。 

 

・その行動の際、ありのままを報道してもらえる信頼できる記者2名を予めパレスホテルに待機させておき、一緒に車に同乗させ、32連隊隊舎前の車中で待たせることも同時に決定した。10月9日、北海道旅行中の古賀を除いた4名が「第一楼」に再び集合し、計画を再確認した。 

 

・10月17日、三島は持丸博を自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に作成した血盟状を持って来てほしいと頼み、著名した者の多くが脱退したので焼却したい旨を伝えた。10月19日、三島ら5名は10月例会の後、千代田区麹町1丁目4番地の東条会館で、楯の会の制服を着用して記念撮影を行なった。

 

・10月23日、都内の火葬場や給電指令所で楯の会の演習を行なった。この演習前に市ヶ谷私学会館に集合した会員の前で、黒板に「coup d'État(クーデター)」と無言で書いた三島は、都市機能をマヒさせるための具体的な場所を示した。会員たちは、いよいよ楯の会全員でのクーデターが始まるのだと思ったという。この訓練後、三島は夜1人で、山本1佐宅を訪ねた。この日の訪問を山本1佐は、「赤垣源蔵徳利の別れ」のようなものだったのではないかと回想している。 

 

・10月27日、血盟状を、持丸とともに劇団浪曼劇場の庭で焼却した。しかし、持丸はこれを渡す前に、血盟状のコピーを内密にとっておいた。焼却後、港区六本木の「アマンド」でコーヒーを飲みながら三島は持丸に、「お前がやめた後、会の性格が変わったよ。これから(来年から)は会のかたちを変えようと思う。お前も、会のことはよく知っているので、外部からひとつ応援してくれよ」と言ったという。 

 

・11月3日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は「アマンド」で待ち合わせ、六本木4丁目5-3のサウナ「ミスティー」に集合。檄文と要求項目の原案を検討した。この時、全員自決するという計画を三島は止めさせ、「死ぬことはやさしく、生きることはむずかしい。これに堪えなければならない」と小賀、小川、古賀の3名に命じた。 

 

・三島は、「今まで死ぬ覚悟でやってきてくれた、その気持は嬉しく思う。しかし、生きて連隊長を護衛し、連隊長を自決させないように連れて行く任務も誰かがやらなければならない。その任務を古賀、小賀、小川の3人に頼む、森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言った。 

 

・森田は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)あの世で魂はひとつになるんだ」と言った。三島は前日の11月2日、銀座の「浜作」に森田を呼び出し、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と自決を止めるように説得していた。 

 

・しかし森田は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切った。その後、小賀、小川、古賀の3名も、「お前も一緒に生きて先生の精神を継ごう」と説得し、三島も森田が自決を思い止まることを期待したが、森田の決心は揺るがなかった。 

 

・11月4日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、6日まで行なった。会員たちは、この時に鉄道爆破の訓練を受け、爆弾の設置方法などを教わった。実際に線路を爆破して、爆音と共に線路が粉々になるのを見学した。 

 

・訓練終了後、三島ら5名は、御殿場市内の御殿場館別館で開かれた慰労会で、他の会員や自衛隊員らと密かに別離を惜しみ、三島は全員に正座をして酒をついで廻って、「唐獅子牡丹」を歌い、森田は小学唱歌「花」と「加藤隼戦闘隊」、小賀は「白い花の咲く頃」、小川は「昭和維新の歌」「知床旅情」を歌い、古賀は特攻隊員の詩を朗読した。 

 

・11月10日、森田、小賀、小川、古賀の4名は、菊地勝夫1等陸尉との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、32連隊隊舎前を下見して駐車場所を確認した。11月12日、森田、小川、小賀の3名は、東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」を見学。その夜、スナック「パークサイド」で、小川は森田から介錯を依頼されて承諾した。 

 

・11月14日、三島ら5名は、サウナ「ミスティー」に集合。32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者・伊達宗克とサンデー毎日記者・徳岡孝夫にし、檄文と記念写真を決起当日に渡す主旨の説明が三島からなされ、5名で檄文の原案を検討した。 

 

・11月19日、三島ら5名は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室に集合。32連隊長を拘束した後の自衛隊の集合までの時間や、三島の演説などの時間配分を打ち合わせした。森田が「要求が通らない場合は連隊長を殺しても良いか」と訊ねると、「無傷で返さなければならない」と三島は答えた。その後、スナック「パークサイド」で、古賀は森田から、「俺の介錯をしてくれるのは最大の友情だよ」と言われた。 

 

・11月21日、決行当日の11月25日に32連隊長の在室の有無を確認するため、森田が三島の著書『行動学入門』を届けることを口実に市ヶ谷駐屯地に赴くと、当日に宮田朋幸32連隊長が不在であることが判明した。三島ら5名は、中華「第一楼」に集合。森田の報告を受け協議の結果、拘束相手を、東部方面総監に変更することに決定した。三島はすぐに益田兼利東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつけた。 

 

・同日と翌11月22日、森田ら4名は三島から4千円を受け取り、新宿ステーションビルなどにおいて、ロープ、バリケード構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用のキャラコ布、気つけ用のブランデー、水筒などを購入した。夜、小賀は横浜市内を森田とドライブ中、「三島の介錯ができない時は頼む」と森田から依頼されて承諾した。 

 

・11月23日、三島ら5名は、千代田区丸の内1丁目1番地のパレスホテル519号室に集合。決起の最終準備(垂れ幕、檄文、鉢巻、辞世の句など)と、一連の行動の予行演習を行なった。辞世の句は「うまくなくてもいい、自由奔放に書け」と三島は言った。翌11月24日も、三島ら5名はパレスホテルに集合。再度の予行演習をし、前日と合わせて約8回練習を行なった。 

 

・同日の昼14時頃、三島は徳岡孝夫と伊達宗克に、「明日午前11時に腕章とカメラを持ってくること、明日午前10時にまた連絡する」という主旨の電話をし、15時頃には、新潮社の担当編集者・小島喜久江に明日朝10時30分に『天人五衰』の原稿を自宅に取りに来るように電話を入れた。 

 

・夕方16時頃から、三島ら5名は、新橋2丁目15-7の料亭「末げん」の奥の間(五番八畳)で鳥鍋料理の「わ」のコース(1人15,000円)とビール7本で別れの会食をした。18時頃、お店の豊さん(赤間百合子)がお酌をしようとすると、三島は自分でビールをつぎ、最後の乾杯をした。 

 

・食事中は明日の決起のことは話さず、映画女優や三島が映画『人斬り』で共演した俳優の勝新太郎の話などの雑談をした。三島は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思っていたがなんともない。結局センチメンタルになるのは我々を見た第三者なんだろうな」と言った。 

 

・食事が終わった20時頃、一同は店を出て、小賀の運転する車で帰宅。車中三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言った。また、もしも総監室に入る前に自衛隊員らに察知され捕まった場合は、5人全員で舌を噛んで死ぬしかないとも話した。 

 

・大田区南馬込4丁目32-8の自宅に帰宅した三島は、22時頃に自宅敷地内の両親宅に就寝の挨拶に行き、父親から煙草の吸い過ぎをたしなめられた。森田は西新宿4丁目32-12の小林荘8号室の下宿に帰宅後、同居する楯の会会員の田中健一を誘って、近くの食堂「三枝」に行き、例会の市ヶ谷会館で徳岡孝夫と伊達宗克に渡すべき封書2通を託した。 

 

・小川と古賀は、小賀の戸塚1丁目498番地の大早館の下宿に宿泊した。その際に3人は介錯のことを話し合い、小川は、剣道経験豊富な小賀に、森田の介錯ができない場合の代わりを依頼し、小賀は承諾した。しかし3人の間では、介錯は予定者が実行できない時には、三島、森田を問わずに、残りの誰かが介錯するという意思であった。 

 

・11月25日、小賀ら3名は午前7時に起床。古賀は森田に「起こしてくれ」と頼まれていたため、森田の下宿の廊下にあるピンク電話を鳴らした。3名は、朝食は取らず、目立たぬように制服の上からコートやカーディガンを羽織って、制帽はビニールの買物袋に入れ、午前8時50分頃、小賀の運転するコロナに同乗し下宿を出発した。 

 

・森田は7時に起床し、9時頃、新宿西口公園付近の西口ランプ入口で、コロナでやって来た小賀ら3名と合流した。一行は三島邸に向い、荏原ランプを出て、三島邸近くの第二京浜国道を曲がったあたりのガソリンスタンドに立ち寄って洗車。その間に各人故郷の家族への別れの手紙を投函した。 

 

・三島は8時に起床し、コップ一杯の水だけを飲み、お手伝いさんに小島喜久江に渡す小説原稿を預けた。10時頃、徳岡孝夫と伊達宗克に電話を入れ、市ヶ谷会館に午前11時に来るように指定し、田中か倉田という者が案内すると伝えた。小賀の運転するコロナに同乗した一行が10時13分頃に三島邸に到着した。 

 

・三島は玄関に迎えに来た小賀に、小川、古賀ら3名宛ての封筒入りの命令書と現金3万円ずつを手渡し、車中で読むように命じた。軍刀仕様にした日本刀・関孫六と革製アタッシュケースを提げ、車までゆっくりと歩いた三島は、「命令書はしかと判ったか」と助手席に乗り込み、「命令書を読んだな、おれの命令は絶対だぞ」、「あと3時間ぐらいで死ぬなんて考えられんな」などと言った。 

 

・一行を乗せたコロナは自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。秋晴れの空の下、白いコロナは環状7号線に出て、第二京浜国道に入り、品川から中原街道を経て、荏原ランプから高速道路2号線に乗った。10時40分頃、コロナは飯倉ランプで高速を降りた。 

 

・赤坂から青山を経て神宮外苑前に出たが、まだ時間が早かったため外苑を2周した。この時、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の“唐獅子牡丹”といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」と言った。古賀は、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ、4人も合唱した。歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述している。 

 

・権田原坂から、右に赤坂離宮、左に明治記念館を見て進行し、学習院初等科校舎近くに一時停車した時、「我が母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と三島は言った。コロナは四谷見附の交差点を直進し、靖国通りを突っ切り、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門に入っていった。  

 

4) 決起に至った要因 

・自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島は最初の単身自衛隊体験入隊直後の1967年(昭和42年)5月27日の時点では、〈いまの段階では憲法改正は必要ではないといふ考へに傾いてゐます〉と公けのインタビュー向けには応えながらも、以下のように述べている。 

 

 私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。(中略)

 政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきりわけてPRすることである。たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制のなかにはいる、どういうときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかという“限界”をはっきりさせることです。   — 三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」

 

 ・さらに三島は、〈いまの制度がそうさせるのか、陛下のお気持がそうさせるのか知らないが、外国使臣を羽田で迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊の儀仗を避けられるということを聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました〉とも述べている。 

 

・また1967年(昭和42年)11月の福田恆存との対談では、高坂正堯の憲法への苦心を尊重しながらも、自分は憲法に対して〈現実主義の立場に立ちたい〉が、〈現状肯定主義〉ではあってはならないと思うとし、このまま日本国憲法第9条を改正しないまま〈解釈〉〈縄抜け〉するという論理的なトリックに三島は疑問を呈しつつ、〈ぼくはもっと憲法を軽蔑している〉と述べ、憲法改正への法的手続(国会の三分の二と、過半数の国民投票という二段構え)のハードルの高さに言及しながら、憲法第9条がクーデターでしか変えられないと語っている。 

 

・このように、日本国憲法第9条の第2項がある限り、自衛隊は〈違憲の存在〉でしかないと見ていた三島は、『檄文』や『問題提起』のなかで、自民党の第9条第2項に対する解釈や、共産党や社会党が日米安保破棄を標榜しつつも第9条護憲を堅持するという矛盾姿勢を、〈日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因〉をなしているものと見て、両者の国体をないがしろにする姿勢を批判している。 

 

・演説の中でも、自衛官らに、〈諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ〉と絶叫し、ばらまいた『檄文』のなかで〈生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ〉と訴えた。 

 

・三島の自決の決心に影響を与えた動因の一つには、自決前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決もあった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において、〈私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である〉と記しており、この青年の至誠と壮絶な死が三島の出処進退に及ぼしていた心情が看取されている。 

 

・三島の自殺には様々な側面から諸説が挙げられ、その要因の一つとして、三島が少年時代にレイモン・ラディゲの夭折に憧れていたことなどや、『豊饒の海』で副主人公・本多の老醜を描いていることなどから、自身の「老い」への忌避が推察される向きもある。

 新潮社の担当編集者だった小島千加子によると、『豊饒の海』執筆中に「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と三島が言っていたことがあるとされる。

 

・また月刊誌『中央公論』の編集長であった粕谷一希によると、三島は、「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったとされ(なお、三島と荷風とは系図上では遠戚関係にある)、その一方で、「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという。 

 

・しかし、三島の老いへの考えは一面的ではなく、〈自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう〉とも述べており、〈室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へられないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる〉とも語っている。小島千加子にも以前には、「川端康成、佐藤春夫などは、年をとって精神の美しさが滲み出て来た良い例」とも言っていたという。 

 

・1969年(昭和44年)3月の第3回自衛隊体験入隊時の学生と雑談でも、「由紀夫」という名前は若すぎる名前だから、年を取ったらシェークスピア(沙吉比亜)の尊称の「沙翁」にあやかって「雪翁」にするつもりだと言い、「えっ、先生は若くして死ぬんじゃないんですか」と学生が驚いて質問すると、三島は苦虫を噛み潰したような渋い表情に変わって横を向いてしまったという。このことから、44歳の時点では、作品外の実人生では長生きするつもりだったとも見られている。 

 

・なお、三島にはヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対する憧れがあることがエッセイなどから散見され、それも要因の一つに数えられる。三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して新聞に発表した文章で、〈西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と述べている。また、『行動学入門』のなかでは、以下のように語っている。 

 

かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになつた。(中略)会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか?

 現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。 青年たちは、自分らがかつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。

                          — 三島由紀夫「行動学入門」 

 

・そして、壮絶な死に美を見出すという傾向は、平田弘史の時代物劇画を好きだと語っていることなどからうかがえ、切腹に対する官能的な嗜好やこだわりも、自身が映画制作した小説『憂国』や、榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』から看取される。

 

・切腹について三島と語り合ったことのある中康弘通は、切腹に興味を持つ傾向の人々は男女問わず、「切腹の持つ精神的伝統、すなわち儀式的厳粛と崇高な自己犠牲の悲愴美を、思春期の心に刻みつけて以来、条件反射のように、愛と死の両極を結ぶ媒体として、切腹の意義を把握している」とし、そういった人々でも、自殺に切腹を選ぶ人はあっても、「切腹したいから自殺する人は、まず無い」と解説している。 

 

・なお、三島は1970年(昭和45年)7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得てゐない約束』というエッセイを寄稿し、その中で、自身の戦後25年の〈空虚〉を振り返り、それを〈鼻をつまみながら通りすぎた〉とし、以下のようにその時代について語っている。

 

 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。

 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。

    — 三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」 

 

・三島はその戦後民主主義を否定しつつも〈そこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる〉と告白し、多くの作品を積み重ねても、自身にとっては〈排泄物を積み重ねたのと同じ〉で、〈その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない〉として最後の一節では以下のような訣別を表明している。この文章は、実質的な遺書の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。 

 

 二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。— 三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」

 

・ちなみに、三島が決起の時点ですでに死を決意していたことは、事件前の9月に「楯の会」メンバーの古賀浩靖に向かって、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたことから明らかで、8月には「諌死」という漢字の読みを「kanshi」とノート片に書いて、ヘンリー・スコット・ストークスに渡していることなどから、自決がクーデターの実行ではなく、「諫死」(自ら死ぬことによって目上の者をいさめること)の意味合いであったことがうかがえる。 

 

・林房雄は、三島が林との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、政治家たちは詩人や文学者が予見したことを、何十年も過ぎてからやっと気がつくと言ったことに触れながら、「三島君とその青年同志の諌死は、〈平和憲法〉と〈経済大国〉という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しくあるべき日本という国を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、破滅の淵への地すべりを起させている〈精神的老人たち〉の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である」と述べている。 

 

・また、三島の自決への要因の一つとして欠かせないものには、三島の少年期における文学の師であり、精神的支柱の一人でもあった蓮田善明が敗戦に際し、国体護持を念じてピストル自決をとげたことの影響がある。1945年(昭和20年)8月19日、戦地のジョホールバルで蓮田は、中条豊馬大佐が軍旗の決別式で天皇を愚弄した発言(敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた)に憤怒し、大佐を射殺し自身も自害した。三島は翌年11月17日に成城学園素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた。 

 

・三島と同じ戦中世代であり知人であった吉田満は、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは、「戦争に死に遅れた」事実に胚胎しているとし、終戦の時、満20歳であった三島を鑑みて、次のように考察している。 

 

 出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。(中略)

 われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。(中略)戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

              — 吉田満「三島由紀夫の苦悩」

 

・1992年4月から1994年1月までの1年8か月日本に滞在していたというインド人ビジネスマンのM.K.シャルマは、三島の行動について、「彼(三島)は小説家としてこの世でありとあらゆる栄光を手に入れたが、戦時に自分が〈兵隊にならなかった〉というコンプレックスから逃れることはできなかった。兵役を逃れたことは男児としての証明に欠けるだけでなく、彼にとって、民族の一人としての資格に欠けることだったのだろう。この劣等感は、名声を手に入れれば入れるほど、彼の心に強く自嘲の念を与えたのにちがいない」と述べている。 

杉山隆男は、三島が滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に寄せた一文の中で自分のことを、〈自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた〉と言っていたことに触れつつ、「じっさい〈知りすぎた〉三島は、『檄』にも書きとめた通り、〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう」と述べ、杉山自身も実際に体験して悟った自衛隊観と重ねて以下のように分析している。

 

 隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようがないのである。(中略)

 私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。

— 杉山隆男「『兵士』になれなかった三島由紀夫」

 

舟橋聖一は、三島の死を「憤りの死」だとし、その死の意味について、「――わたしは思う。表現力の極限は死につながることを――。表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、ペンを擲って死ぬほかはない」という見解を示した。 

 

島田雅彦は、三島が『文化防衛論』のような論文を書き、そうした「イデオロギーを支えるべく言葉の伽藍」を小説において創作しながら、その一方で「サブカルチャーの帝王としてのポジション」を作っていった理由は、安保反対左翼全盛の時代にイデオロギーをストレートに出しても全面的に支持が得られるはずもないため、民主主義的に支持を取りつけなければならなかったからだと考察し、それは「戦後民主主義の守護神」という位置を占めるようになった「戦後の天皇そのものの隠喩」を、三島自らが体現しようとしたのではないかと述べている。

 

 そしてそのやり方は、石原慎太郎のように文学者が政治にかかわるという方向ではないが、「一人で三島党みたいなものの勢力を伸ばしていく手口」であり、三島の意識の中でイデオロギーと「有機的に矛盾なく結びついていたのかもしれないという意味での政治」なのだと論じている。 

 

・また島田は、今日の文学が、「この日本を変えるとか、日本の政治を変えるという政治的な野心」から遠く離れてしまったことに触れつつ、以下のような見解を述べている。 

 

 今の時点の後学で、三島のやったことをとらえ直そうとすれば、もともとは政治に敗北したもののジャンルであるとも言われていた文学に深くコミットしながら、しかしそれでも、文学サイドから政治への逆転さよならホームラン的コミット、文学の革命が社会の革命になるということをどこかで信じていたのではないか。

 むろんそれは非常に難しい。かつての自由民権運動の担い手たちや、大正デモクラシーの担い手たち、共産主義運動にコミットした文学者たちが抱いていた理想主義は持ち得なかったかもしれないけれども、苦い現実認識を伴いつつ、過去の文学者と政治のかかわり方の一変形を三島に認めるのは可能かもしれない。 

                    — 島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」

 

田中美代子は、三島が遺稿『壮年の狂気』の中で、〈現代一般の政治家・実業家・知識人はそれほど正気であり、それほど児戯から遠くにゐるだらうか〉と「三無事件」に触れながら反問し、〈狂気の問題提起は、正気だと思つてゐる人間の狂気をあばくところにある〉と記していたことを挙げながら、「実際〈檄〉の指摘する沖縄問題もいまだに解決をみず、現憲法はいわばゴルディウスの結び目であり、三島事件は、内外の情勢に照らし、改憲の不可能を見極めた故に、自ら〈文化〉を体現しつつ、〈政治〉と刺違えた象徴的行動だった」と考察している。 

 

磯田光一は、三島のなかに、「戦後の安定した社会のなかで風化をつづける文化状況への反発、戦後国家のはんでいる矛盾への挑戦」があり、それが「時代の価値観に逆行する道を行く動因の一つ」になったと述べている。そして、その小説家の生涯がたとえ「三島由紀夫」という名の「仮面劇」であったとしても、「その仮面のそなえていた妥協を知らない歩み」は、三島が唱えた政治思想の評価に多くの批判や問題が残されているにせよ、「その芸術上の豊かな達成とともに、人間の精神的価値を証明しようとする誠実な試みの一つであった」として、「自身の行為を時代へのアンチテーゼと意識していた三島は、その評価をのこされた人びとにゆだねたのである」としている。 

 

・死後46年経った2017年(平成29年)1月に初公表されたジョン・ベスターとの対談(自死の9か月前の1970年2月19日に実施)で三島は、〈死がね、自分の中に完全にフィックスしたのはね、自分の肉体ができてからだと思うんです。(中略)死の位置が肉体の外から中に入ってきたような気がする〉、〈平和憲法です。あれが偽善のもとです。(中略)憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と自身の死生観や文学や憲法について触れ、行動については自身を〈ピエロ〉に喩え、後世に理解を委ねるかのような以下の発言をしている。 

 

 僕がやっていることが写真に出ます。あるいは、週刊誌で紹介されます。それはその段階においてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということを幾ら説明しても、僕をバカだと思った人はバカだと思い続けます。(中略)ですから、僕は、スタンダールじゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が分かりにくいんだ、という自信があるんです。(中略)

 僕が死んでね、50年か100年たつとね、「ああ、わかった」という人がいるかもしれない。それでも構わない。生きているというのは、人間はみんな何らかの意味でピエロです。これは免れない。佐藤首相でもやっぱり一種のピエロですね。生きている人間がピエロでないということはあり得ないですね。

人間がピエロというのは、ある意味で芝居をやらなくちゃ生きていけない。(ジョン・ベスターの問い)

芝居をやらなきゃ生きていけないのは、きっと神様が我々を人形に扱っているわけでしょう。我々は人生で一つの役割を、puppet play(パペット・プレー)を強いられているんですね。           — 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)

 

5) 裁判での陳述など 

・生き残った3人への公訴は、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要など刑事訴訟法の枠内の外形的なものに留まり、改憲論議については、法廷自体意見を左右し、支援団体(全国学協、日本青年協議会、11・25義挙正当裁判要求闘争実行委員会など)が三島の論文『問題提起』を提出したにもかかわらず、弁護団も「現行憲法の批判は司法裁判所の関与するところではない」として証拠物件とはしなかった。 

 

*大越護弁護人は最終弁論で、「国家のためにする緊急救助の法理」の適用を主張したが、櫛淵理裁判長は、「国家公共機関の有効な公的活動を期待しえないだけの緊急な事態が存在していたとは到底認められない」として被告らは懲役4年の実刑となった。なお、被告らの裁判中の陳述などは以下のものである。 

 

小賀正義

「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。先生(三島)からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。憲法は占領軍が英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。(中略)日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。

 

 三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死がいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。われわれは軍国主義者ではない。永遠に続くべき日本の天皇の地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」 「天皇の地位は、天皇が御存在するが故に、歴史的に天皇なのであって、大統領や議員を選ぶように多数決で決まるものではないのです。

 

 菊は菊であるからこそ菊なのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様に、天皇を選挙やそれに類するもので否定することはできないのです。

 

 それなのに(国民の)『総意に基づく』とあるのは現行憲法が西洋の民主概念を誤って天皇に当てはめ、天皇が国民と対立するヨーロッパの暴君のように描き出したアメリカ占領軍の日本弱化の企みです。

 

 それ故、現行憲法を真に日本人と自覚するならば黙って見過ごすわけにはできないはずです。三島先生と森田大兄の自決は、この失われつつある大義のために行なった至純にして至高、至尊な自己犠牲の最高の行為であります。

 

 『死』は文化であるといった三島先生の言葉は、このことを指していたのではないかと思います」 

小川正洋

 「自衛隊が治安出動するまでの空白を埋めるのが、楯の会の目的だった。国がみずからの手で日本の文化と伝統を伝え、国を守るのを憲法で保障するのは当然である」

 「三島先生の『右翼は理論でなく心情だ』という言葉はとてもうれしいものでした。自分は他の人から比べれば勉強も足りないし、活動経験も少ない。しかし、日本を思う気持だけは誰にも負けないつもりだ。

 

 三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。

 

(中略)楯の会の例会を通じ、先生は『左翼と右翼との違いは“天皇と死”しかないのだ』とよく説明されました。『左翼は積み重ね方式だが我々は違う。我々はぎりぎりの戦いをするしかない。後世は信じても未来は信じるな。未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。それが神風特攻隊の行動原理“あとに続く者ありと信ず”の思想だ。

 

(中略)武士道とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後だと思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ』と教えてくださいました。

(中略)私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」 

 

古賀浩靖

・「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。

 

(中略)その傾向をさらに推し進めると、日本の歴史、文化、伝統を破壊する恐れがある。 

 

(中略)この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。現憲法はマッカーサーのサーベルの下でつくられたもので、サンフランシスコ条約で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった」 

 

・「現実には、日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」 

 

・「狂気、気違い沙汰といわれたかもしれないが、いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。最後に話合ったとき、『いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう、社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない、われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう』と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった」 

 

*大越護弁護人

「まれにみる鋭敏な頭脳の持主である三島の脳裏には、この美しい日本が、ガラガラと音をたてて崩れてゆく姿が、捉えられていたに違いない。三島の畢生の大作『豊饒の海』これと同名の月の海は、その名の華麗さに似ず、死の海であり、廃墟の世界である。これと同様、三島の脳裏には、経済的には益々豊かになる日本が、精神的には月の海のように荒廃してしまうのが映っていた。

 

 われわれは、その危機の一つを最近、連合赤軍の事件で示された。あの事件こそ、道義が根底から失われていることを、最も端的に示すものである。

 

 三島の親友である村松剛は、その著書『三島由紀夫―その生と死』に、『日本人は繁栄のぬるま湯につかり、氏の頼みとしていた自衛隊も、当にはならなかった。

 

 どうしたらこの事態を動かし得るか、氏は死をもって諌める道を選んだ』と書いている。こうして、三島と森田は、割腹自決をし、社会を覚醒させようとした」

 

6) 三島の遺書 

・三島が楯の会会員・倉持清(1期生、第2班班長)に宛てた遺書は、事件の日の夜に、瑤子夫人から倉持清に手渡された。倉持は、決起した会員4名同様に三島から信頼されていた人物であった。 

 

・三島は倉持から仲人を依頼され快諾していたために、〈蹶起と死の破滅の道へ導くこと〉

、〈許婚者を裏切つて貴兄だけを行動させること〉は不可能だったことを伝え、人生を生きてもらいたいことを遺言した。

 

 小生の小さな蹶起は、それこそ考へに考へた末であり、あらゆる条件を参酌して、唯一の活路を見出したものでした。活路は同時に明確な死を予定してゐました。あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした。それだけに人選は厳密を極め、ごくごく少人数で、できるだけ犠牲を少なくすることを考へるほかはありませんでした。

 小生としても楯の会会員と共に義のために起つことをどんなに念願し、どんなに夢みたことでせう。しかし、状況はすでにそれを不可能にしてゐましたし、さうなつた以上、非参加者には何も知らせぬことが情である、と考へたのです。小生は決して貴兄らを裏切つたとは思つてをりません。(中略)どうか小生の気持を汲んで、今後、就職し、結婚し、汪洋たる人生の波を抜手を切つて進みながら、貴兄が真の理想を忘れずに成長されることを念願します。— 三島由紀夫「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月) 

 

・この倉持への封書と共に同封されていた楯の会会員一同宛ての遺書は、事件翌日11月26日に代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた森田必勝の通夜の席で、皆に回し読みされた。これを読んだ会員たちは、残された者への三島の思いやりが伝わってきたと回想している。 

 

 たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会会員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。

 

(中略)革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真価は全国民の目前に証明される筈であつた。

 しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。

 

(中略)日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。

 一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。              — 三島由紀夫「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月)

 

7) その他 

・三島は自決1週間前の11月18日夜に、大田区南馬込の自宅で古林尚による1時間余りの対談インタビューに応じた。この時、話題が楯の会に及ぶと〈いまにわかります〉と2、3度繰り返し、古林が『豊饒の海』の次の今後の予定を聞くと、〈いまのところ、次のプランは何もないんです〉と語った。 

 

・古林はこの日のことを振り返り、三島が、「ほんとうに、なんにも、予定がない」と言った時の顔を、「あれほど淋しそうな顔を、私はみたことがない」と語り、三島が「敗戦より妹の死のほうが、ショックだったと書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。どうしていいのかわからなかった」とも言っていたと回想している。 

 

・事件に参加した古賀浩靖の父親は事件当時、「生長の家」本部の講師をし、古賀自身も入信していた。出所後に古賀に会ったという元楯の会の会員の伊藤邦典が、「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、古賀はただ掌を上に向けて、何かの重さ(三島と森田の首の重さ)を持つようにしてじっとそれを見詰めていただけだったという。 

 

・1984年(昭和59年)に発刊された写真週刊誌『フライデー』創刊号の「14年目に発見された衝撃写真―自決の重みをいま」に、三島の生首のアップ写真が掲載されたことを受け、未亡人・平岡瑤子が講談社に強硬抗議、出版が差し止められた。このことにつき平岡瑤子は、同年末に行われた伊達宗克徳岡孝夫によるインタビューで、「フォト・ジャーナリズムのこのたびの行為は、(江戸時代の)晒し首です。晒し首は死刑以上の刑罰であることを、あの雑誌の編集に携った人々は、ご存じなのでしょうか」と述べた。 

 

・市谷記念館でツアーガイドをしていた女性によると、東部方面総監室(旧陸軍大臣室)から天皇陛下の御休憩所(旧便殿の間)に向かって両部屋の前の廊下を移動して行く三島と森田必勝の霊と思われる「黒い影」を見たことがあるという。 

 

・1949年(昭和24年)に発生した弘前大学教授夫人殺人事件では、三島事件に影響を受けて1971年(昭和46年)に真犯人が名乗り出たため、冤罪で懲役囚になっていた人物は、後に再審が開かれ無罪判決となった。 

 

・俳優の高倉健が三島事件に触発され、三島の映画を製作する予定だったという。高倉健と親しかった横尾忠則によると、具体的プランも煮詰まり、高倉健はロサンゼルスへ何度も渡航していたとされ、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんの霊が高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と横尾は述懐している。

 

・ ところが土壇場で瑤子未亡人の了解が得られず映画製作を断念せざるを得なくなくなった。仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、多磨霊園に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「カメラを持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」と言ったという。


(参考)産経新聞特集記事 三島由紀夫


※産経新聞 令和2年(2020年)11月24日~26日

産経新聞 令和2年(2020年)11月27日(金曜日)

産経新聞 令和2年(2020)12月13日(7面)


産経新聞 令和2年(2020)12月13日(7面)


(追記:2020・11.2/修正2020.11.18/追加2020.11.27/修正2023.3.15/修正2023.4.6)